たまには諸葛亮のことをけなしてみよう

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924無名武将@お腹せっぷく:2005/05/04(水) 23:34:57
>923
丞相府の形態を残す理由が見つからないと思うよ。
向朗の「行丞相事」が何時の頃からかは不明だけど、おそらく238年頃で、238年ないし239年には蔣琬が開府しているわけだから。
儀礼的な分野での「丞相」の代わり、って言う役割はあっても「丞相府」は開府の権限があって初めて開かれるものだから、形態を留めるってのは無理があると思う。

諸葛亮の右将軍・行丞相事は開府の権限を得ているものが降格してなったモノで、向朗の場合と官職的には同等程度だろうけど、おそらく臨時的なモノで実質的な意味で全く違うからね。

諸葛亮死去直後の234年(年度)は諸葛亮死去の残務処理で丞相府は主無しで残ってたろうけど。
925無名武将@お腹せっぷく:2005/05/05(木) 01:47:22
主無しの状態で残務処理がいつまで続いたかが問題だと思うんだが。
一個人が開いた幕府の権限が朝廷より弱ければ解体はたやすいだろうが、
諸葛亮の丞相府は実質的に朝廷を上回っていた。
だから李厳にそこまでするなら九錫を受けろとまで言われたんだし。
その丞相府の特質は北伐のための軍事政権だろ。
当然、漢中には相当数の兵力があったわけで、魏の侵攻を阻止するためにある程度の
兵力は必要でも、それが成都を凌駕していれば反逆されかねない怖れだってある。
実際にするかしないかではなく、それだけの脅威があるという意味でね。
解体するにしても、丞相府に属していた人間を朝廷に戻すのに、
下手に組み込めば、丞相府の頃より権限が減らされたものが不満を抱いたりするだろう。
楊儀などまさにその典型じゃないか?
まして、漢中の丞相府は北伐のための軍事政権なのだからそう簡単に兵権は手放さないだろう?
そういう危険な組織に急激に手をつけるより、現状だけ維持して徐々に朝廷に組み込んでいった方が安全じゃないだろうか。
「丞相府の形態を残す理由」については、自分はそう考えている。
残す必要があったんではなく解体できなかったんだろうと。

何も蜀が滅びるまで丞相府が健在だったとは思っていないし、言ってもいない。
形式面で言うなら、238年の蒋エンの開府とともに消えた可能性のほうが高い。
が、それは外面が大将軍(大司馬)府に変わっただけで、
その本質は北伐のための軍事政権に変わりはないんじゃないかな。
926無名武将@お腹せっぷく:2005/05/05(木) 09:53:56
>>908
・出兵準備のため涪に駐留中に、蔣琬が病にかかった、
もしくは持病が悪化し、246年この策の実行を見ずに病没した。

>>908にこういう説もあるよ。と、ここに書き記しておこう。
927926:2005/05/05(木) 10:35:05
>>909
>漢中をほったらかしにしたまま軍を成都のほうにかえしました
蔣琬の病が重くなったため、との解釈もできる・・・けど魏を攻めるチャンスなのに
蔣琬が病だってだけで引き返すんだろうか?
総司令官が病に倒れたための兵の士気の喪失とか、権限とかの問題?わからん

>北伐が中止されたのは241年の10月に費イが漢中にやってきて。
この文からだと費褘も反対派のように受け取れるけど、(おれだけかもしれんが)
たしか費褘と姜維も計画立案者だったはず。
費褘に今後のことを相談するために漢中に呼んだのでは?

まあ反対派も多数いただろうけど、蔣琬・費褘などの権力を持っている人が計画したのに
「成都からの圧力によって」ってのがどんなもんなのか解んないので聞いてみました。
928無名武将@お腹せっぷく:2005/05/05(木) 21:59:49
>>927
流れとしてはこんな感じだと思う

蒋琬が漢中に駐屯し上庸を狙う
    ↓
成都で反対派が大多数を占め費褘、姜維が劉禅の意思(漢水下り反対)を伝える為、漢中へ
    ↓
費褘、姜維らと協議し目標を河右に変更、漢水下りは頓挫し漢中から涪へ引き返す

費褘、姜維も含め反対派だったと思われる。
>>908の根拠は蒋琬の上奏だと思うが実際に呉が兵を動かしているからこの時に体調を崩したのかもしれない。
929無名武将@お腹せっぷく:2005/05/05(木) 22:34:25
>925
丞相府が朝廷の力を凌駕していた、と言うより蜀漢そのものだった、と言う方が適切では?
223年に後主が即位して以来、開府されているので、北伐のみの軍事政権とまでは言えない。
蜀漢が益州一州のみの小国のため、権限を集中する方が効率が良いと言う部分が大きいのではないかな。

北伐中は6,7万前後の兵力が漢中に駐屯していただろうし、蔣琬の時も同様だとは思うけど、後の興勢の役の時は漢中駐屯軍は3万に満たず、費禕が涪より主力を率いてる。
だから、漢中の兵力が平時に成都を凌駕していた事は無いはず。
楊儀の場合は諸葛亮の後継者を自負していたのが、後輩(と思ってる)蔣琬に抜かれた為に不満を持ったのであって、丞相府の権限云々では無いでしょう。
その他の人物については、正史に諸葛亮没後に不平・不満を持ったとする記述も無く、行間を読みすぎでしょう。
大体の人物は諸葛亮没後、昇進していますし。

漢中の丞相府と言うけど、開府の権限を持った人物が漢中に居なければ漢中に丞相府が残るはずもなく、その辺りの理解がちょっと・・・・。
形式面でも、235年の春人事で蔣琬が大将軍になってます。これは諸葛亮時代からの大幅な刷新で、この人事をもって、諸葛亮の丞相府は解体、あるいは消滅したと考えた方が自然です。
諸葛亮の死去直後は蔣琬が尚書令・益州刺史・行都護となって国務を総理しており、この間(大将軍になるまで)は諸葛亮時代の残務処理のための一時的な国務処理を行っていたのでしょう。
首相代理みたいな感じかな。
930無名武将@お腹せっぷく:2005/05/06(金) 00:25:51
結局コイツの策略って、ほとんどが五虎大将軍クラスの猛将がいないと成り立たないヤツばっかでしょ?
4番バッターを集めないと何も出来ない某野球チームを連想しちゃうよね

で、自分がスカウトしてきた奴は自意識過剰ワンマンプレーの馬謖タンと戦争大好き経費垂れ流しの姜維タンですか?
931無名武将@お腹せっぷく:2005/05/06(金) 00:52:22
>929
>丞相府が朝廷の力を凌駕していた、と言うより蜀漢そのものだった、と言う方が適切では?

実質はそうだが、形式上は諸葛亮は一国の丞相にすぎない。
それを蜀漢そのものといってしまっている時点で、朝廷の力を凌駕していることになるだろう。
権力を一点に集中させたのは、蜀のような小国でも北伐に耐えられるようにするためだよ。
ただ普通に運営するだけならそもそもあんな独裁をしく必要もない。
北伐のための軍事政権と言って差し支えないと思うんだが?

漢中の兵力に関しては、蒋エンが238年に開府を許され、翌年大司馬に昇進したことでその府に取り込まれたんだろう。王平や姜維が蒋エンの府内に入っている。その姜維が242年に一軍を涪に移動させている。
その時点で漢中軍自体は3万になったんじゃないか?
244年の魏の侵攻時、この涪の諸軍が動いたとあるから、本来は漢中の防衛軍だったんだろう。

>形式面でも、235年の春人事で蔣琬が大将軍になってます。これは諸葛亮時代からの大幅な刷新

これは蜀漢が丞相制から大将軍制に変わったといっているのでいいのかな?
だとしたら、なおさら蒋エンが大将軍になったあとも、向朗が「行丞相事」についているのがおかしいんじゃないか?
これが238年に皇后を任命するために臨時に置かれた職だとしても、なぜわざわざ丞相代行である必要があったんだ?宮中行事を丞相が必ず取り仕切る決まりなどないだろう。

大将軍性と丞相性を並立させていたのだとしたら、蒋エンの大将軍就任をもって丞相府は完全に消滅したとは言い切れないと思うが。
932無名武将@お腹せっぷく:2005/05/06(金) 05:42:27
>>930
話題の流を読もう
それだけでスルーされる率が減るよ
933無名武将@お腹せっぷく:2005/05/06(金) 19:40:38
>231
戦乱期の国家なんてのは、どこも軍事政権であって、蜀漢だけが特別って訳では無いよ。
それでも魏は中原国家であって、統一王朝に近い部分もあったけど。

漢中には漢中都督が居って、その指揮下兵力が3万未満な訳ですよ。
で、北伐時以外は漢中都督がほぼ存在しています。
都督・魏延→諸葛亮の北伐→蔣琬の出征→都督・王平→費禕→都督・胡済って感じ。
蔣琬が大司馬府を開くまでは漢中都督として呉懿がいますから、その指揮下の兵力も3万未満でしょう。
北伐を中止したのに、6,7万からの兵力を漢中に駐留させ続けるのは蜀漢の国力からして厳しいでしょうし。
大軍の駐留と言うのは戦時のみでなく、存在するだけで資源・資金を大量に費消するのです。

また、涪に居たのは蜀漢軍主力であって、漢中駐留と決まってる訳ではない。
北伐でもする時は当然、漢中に居るだろうけどね。

向朗が左将軍のまま、行丞相事として、宮中儀礼を行い、国務全般は蔣琬が行うと言う事ではないですか。
諸葛亮の時も宮中儀礼は、本来なら三公のトップとして行政全般を見るはずの許靖が行っていた様に。

向朗が行丞相事に何故なっかの理由は不明ですが、劉禅の立太子・呉氏の皇后任命には諸葛亮が丞相として使者の任にあたってますから、慣例になっていたのかもしれません。
諸王の劉永・劉理は若干格下の司徒の許靖が勤めてますし。
蜀漢の場合、丞相職は諸葛亮以外に居らず、かなりの特別扱いの様です。
皇太子・皇后の任命と言う国家儀礼の重要事では丞相の格式が必要と考えていたのではないでしょうか?

934933:2005/05/06(金) 19:45:40
今まで述べた理由から、向朗の行丞相事任命は皇太子・皇后任命のための臨時的措置と考えます。
だとすれば、238年頃の任命ですよね?
そうなると自ずと蔣琬の大将軍就任に伴い、蜀漢政府が刷新され諸葛亮時代の丞相府も廃止になったと思います。
並立制ってのは不自然でしょう。

長々、申し訳ありません。
935魏延の中の人:2005/05/06(金) 20:15:32
諸葛亮は三国志界の三振王です(藁)
936無名武将@お腹せっぷく:2005/05/07(土) 02:28:32
冷静になってスレ読み返してみたよ。
自分は途中から話の筋がずれてしまっていた。
諸葛亮が漢中に置いた丞相府と北伐のための兵力は楊儀が成都に戻してるんだから
漢中に残っているはずはないよな。
漢中に丞相府が残っていたとする論考は完全に自分の間違いだ。スマンかった。


問題は成都に戻った連中が238年の蒋エンの開府までどういう状態になっていたかだよな。
諸葛亮死後に楊儀が中軍師、費イが後軍師・ケ芝が前軍師になっているから、
まだ、235年までは丞相府が存在していただろう事は推測できる。
925の楊儀の件はそういう意味でも大間違いだな。ヤツは丞相府の所属のままだ。スマン。

その後、楊儀が失脚して蒋エンが大将軍に就き、費イは尚書令になるわけだから
中軍師と後軍師はなくなるが、ケ芝は督江州になるまで前軍師だったのだら、
ケ芝が江州に赴くまでは確実に丞相府は健在だったと見ていいと思う。

そういう意味で、向朗の行丞相事は諸葛亮の死の直後についたものと自分は考えるな。
皇后任命には丞相クラスの格が必要だから臨時に置いたとするなら、
それだけ特殊な任命を向朗伝にも劉禅伝にも全く触れないのは不自然だと思う。
937無名武将@お腹せっぷく:2005/05/07(土) 10:35:36
>936
ケ芝が督江州になったのが何時だか明確では無いけど、諸葛亮の死後「ほどなく」ってあるから蔣琬が大将軍になった235年頃でしょう。
なら235年春に蔣琬が大将軍になった段階で丞相府は廃止されてたと思うけど。
諸葛亮の死後も残務処理的のためケ芝・楊儀・費禕らが丞相府の幕僚を兼ねてたんだろうけど。
ただそれも、235年の春人事で刷新されて終了したと。

皇后・皇太子の任命には国家儀礼として丞相の格式や持節が必要だったようだけど、あくまで臨時措置である場合(一時的で期間限定の場合)は正史に記載されない模様。
諸葛亮の場合、丞相・仮節だけども、皇后・皇太子の任命に際しては使持節になってる。
でも、先主伝等には使持節になったとは記載されてないよね?
向朗の場合も、あくまで左将軍(正史で明記)であって、皇后・皇太子の任命のため、臨時に行丞相事・使持節になったとする方が自然ですよ。
皇后・皇太子の任命の時の一瞬、行丞相事・使持節だったと。

938魏延の中の人:2005/05/07(土) 15:45:20
周瑜の死を察知してニヤリと笑う孔明冷酷過ぎ(演義限定の話だけど)
939董ちゃん:2005/05/07(土) 16:28:55
たしかに魏延って別ルートのしかも後方支援的な布石だったから明らかに軽視してないか?
馬ショクより軽視するとはどうゆうことだねちみ。
940魏延の中の人:2005/05/07(土) 19:28:24
>>939
後方支援は決して価値の低いものでは無いが、孔明がそれを命じると
なんか評価が低く感じるから不思議だ。
李厳には或いはそういう心情があったやもしれん。
941無名武将@お腹せっぷく:2005/05/07(土) 19:34:55
ショウカを第一の功としたのは劉邦だがあれはかなり特殊な事例だぞ
942魏延の中の人:2005/05/07(土) 19:46:09
>>941
曹操もジュンイクの後方支援の功績を誉めておるぞ
943無名武将@お腹せっぷく:2005/05/07(土) 20:56:06
>937
使持節はそもそも使者の役目だろ。
皇后・皇太子任命のために一時的に置かれたのは当たり前だと思うんだが?
それと丞相代理を同一に見るのはちょっと無理があると思うぞ。
それに諸葛亮が丞相に任命された時の官だろう?
本来の職にあたる丞相を記して、一時官の使持節を書かないのはおかしなことじゃない。
向朗の行丞相時も左将軍任命と同時なら同じ事が言えると思う。
が、わざわざ、途中で任命しておいて書かないのはやはり不自然だよ。

234年から235年までに丞相府内で人事が移動しているのなら
丞相の代理が置かれたとしてもなんら不自然じゃないだろう。
諸葛亮死直後の官職も位的には蒋エンの尚書令が3品
費イ・楊儀・ケ芝の軍師職が5品、呉壱の車騎将軍が2品なのに対し
向朗の特進は三公(1品)の下、驃騎将軍(2品)より上に置かれている。
諸葛亮死後の主だった人物より幾段か高く実権は存在しない位を授けているのには
それなりの理由があったんじゃないかな。
まして、実質的にはもう政権から離れていた人物をわざわざ表に戻しているわけだから。

丞相府を現状より大きくさせずに徐々に解体していくにはいい位置・人物だと思うぞ。

というか、いい加減スレ違いになってきているな。
>1スマン。
944魏延の中の人:2005/05/07(土) 21:05:42
>>943
ちょっと位諸葛をけなしてくれよ
945無名武将@お腹せっぷく:2005/05/07(土) 21:12:07
諸葛亮は大陸に大乱をもたらした張本人だぞ
天下三分はのちに、約300年間も
天下二分となってたんだからな
その間、何人が犠牲になったことだろうか。。。

たまにはこんな見方もいいんじゃ。。。
946ニセクロ:2005/05/07(土) 21:24:04
ここまで凄い読みごたえあった。おまいら大好きだ。
そこでおまいらが勘違いしていると思われる点を一個指摘したい。

丞 相 府 は 成 都 に あ っ た の で は ?

諸葛亮が死んで魏延と楊儀の争いが成都に聞こえてきたとき、
後主劉禅は侍中の董允と丞相「留府」長史の蒋エンに相談してる。
蒋エンは成都にいたと思われるのだから丞相府は成都にあったろう。

蒋エン伝でも227年に諸葛亮が漢中に駐留したとき、
蒋エンは丞相府の留守を長史の張エイと共に預かっているから、
北伐の最初のときから丞相府は成都にあったと考えられる。

つまり諸葛亮の丞相府はあくまでも成都にあったままで、
諸葛亮は北伐にあたって必要な属官を引きつれて出征、
残りの属官は成都の丞相府で丞相留府長史に統率されて
政務をこなしていたのだろう。
947魏延の中の人:2005/05/07(土) 21:24:29
>>945
諸葛・・・。恐ろしい男・・・。
948946:2005/05/07(土) 21:45:32
それで、成都政権と漢中府のように二重政権のような様相を帯びてくるのは、
恐らく蒋エンの時代からではないか?
諸葛亮ほど権力を集中できたわけでない蒋エンの開府が許されると、
政務は成都の朝廷(尚書令)が、軍務は蒋エンの府が行うという
一種の役割分担のようなものができたのだろう。
加えて蒋エンはフに主力を移すまで漢中で軍務を仕切っていたのだから
蒋エンの府は238年から漢中にあったということになる。
949無名武将@お腹せっぷく:2005/05/07(土) 22:29:24
第一の手柄とはしてないだろ。
950無名武将@お腹せっぷく:2005/05/07(土) 22:38:25
諸葛の肖像画なんか見るとパタリロに似てる
951魏延の中の人:2005/05/08(日) 00:02:26
そろそろ誰か次スレ立ててくれ。スレタイは
「蜀で一番不細工な顔をした部将は誰?」
でよろしく。
952にいと:2005/05/08(日) 00:05:16
阿醜ちゃんで〜す
953董ちゃん:2005/05/08(日) 00:07:28
諸葛亮は実際、軍事的な手腕に乏しいと考えるものですが皆さんはどうですか?
954魏延の中の人:2005/05/08(日) 00:09:06
>>953
ここはそういう趣旨のことを語るスレだ。どんどん書き込んでくだされ。
955無名武将@お腹せっぷく:2005/05/08(日) 06:23:03
いや、スレ的には理論的な批判のみならず
感情的あるいは偏向資料がソースの一方的人格攻撃もありかと。

まあ俺は諸葛亮はあんまり好きでもないがものすごく嫌いってほどでもない。
しかしそれにしても演義での虚弱体質の天才美形周瑜への苛めは悪辣非道すぎ。
羅漢中は諸葛亮マンセー過ぎて逆に諸葛亮を貶めてるのか
それとも天が二物も三物も与えた感じの周瑜へのやっかみだったのか。

ところで話は飛ぶんだが昨今の夏候惇凡将論などを見るに付け
俺は後方支援という作業はいい加減もうちょと見直されていいと思うんだが。
956無名武将@お腹せっぷく:2005/05/08(日) 08:38:50
凡将だが非凡な能力の持ち主
これでいいだろ
957無名武将@お腹せっぷく:2005/05/08(日) 14:05:20
>>953
しっかりスレタイに「けなしてみよう」って入ってるからね。
958魏延の中の人:2005/05/08(日) 14:15:06
次スレのスレタイは
「諸葛亮-ウンコして馬謖を斬る」で誰か立ててくれ。
959無名武将@お腹せっぷく:2005/05/08(日) 20:07:46
キセル諸葛JR西日本を走らす
960魏延の中の人:2005/05/08(日) 22:26:00
誰か「民明書房風に三国志を語るスレ」立ててくれ。
そいつを次スレにしようや。
961無名武将@お腹せっぷく:2005/05/09(月) 07:11:46
>943
諸葛亮が死去して、次の執権も内定(蔣琬)している段階で、わざわざ廃止される部署の、しかも代理を置くってのはどうかと。
ケ芝・楊儀・費禕らは、元々丞相府の幕僚かそれに近い存在で残務処理のための異動でしょ。
その流れからすれば、向朗が234年の段階で行丞相事になる必要性は全く無い。

それと、もし234年の段階で行丞相事になってたとしたら、特進は正史に明記されているのに、より重要性の高い方が記載されない、って方が変。
丞相府の解体事態、235年春でしょ?
なら徐々って感じでないでしょう。翌年春に解体されてれば。


962無名武将@お腹せっぷく:2005/05/09(月) 14:45:33
>944
だな。
自分が貶すべき点は「諸葛亮がちゃんと後継者に引継ぎを行わなかったこと」だよ。

>946
漢中に丞相府全てが移動していたという論点は明かに自分の間違いだよな。
ただ、丞相長史を基点に考えるなら、丞相府は成都にある蒋エンを中心とした内政側の府と
漢中にある楊儀を中心とした外征側の府に分かれていたと見る事はできないだろうか?

>961
トップのいなくなった部署に代理を置くのは当然のことだと思うが。
廃止される部署だから丞相ではなく代理にしたんだろう。
ただ、行丞相事はそれ単体では職務を行う事はできても位を保証する官ではない。
諸葛亮が就いていた時には彼の官位はあくまで右将軍だった。
だから、趙雲などは諸葛亮に合わせて官位を下げられている。
向朗の場合、彼の官位を保証するのは左将軍であり「特進」。行丞相事は職務にあたると自分は考える。
だから、同時に就いたものならば、記されていなくても不自然ではないと思うんだが。

>丞相府の解体事態、235年春でしょ?
向朗のことを議論するのはそれを議論するためだろう。
235年に丞相府が解体されている事がわかりきっていれば、
向朗が行丞相事に就いたのが234年か238年か議論する必要もない。
963無名武将@お腹せっぷく:2005/05/09(月) 18:41:08
>962
諸葛亮死去後の234年の、特に蔣琬が尚書令・益州刺史になった段階で諸葛亮の後任は蔣琬と言う事が確定した訳で、翌春に大規模な人事刷新が予想される状況下で、廃止が予定されている部署の代理を置くのは不自然ですよ。
それが元々その部署のNo.2的な人物が就くならある程度理解出来るけど、まったく全く関与していなかった人物が就任するってのはどうかと。
それに、諸葛亮没後に特別な職務である行丞相事を置くような状況だったか。
234年以降、向朗がずっと行丞相事であったなら、向朗伝や後主伝に明記されていておかしくない。
臨時で皇后・皇太子任命に際して、極端な話、任命に要する日にちのみの官であったから、正史に記載が無かったのでは無いか、と言う事です。

以上の点から向朗の行丞相事は238年の一時的なものだろうと。
仮に234年に行丞相事になっていたとしても、上記のことから、諸葛亮の幕府は解体されているか235年には廃止され、向朗の行丞相事とは関連性はなかったのではないか、と言う意見です。

>946
丞相府は成都にも残ってた、と言うべきかな。
ただ、蔣琬時代以降、二重政権的かどうかは微妙では?
後主伝には蔣琬・費禕共に外地にあったが、重要な問題では諮問を受けた、とあるから蔣琬時代は蔣琬の意向が尊重されていたのではないかな。
自分の考えでは、蔣琬時代は蔣琬・費禕の連立政権のようなものだったと考える。
ただ、あくまでも蔣琬主導のね。
費禕は尚書令になった段階で蔣琬の後継がはっきりしている訳だから、蔣琬と権力争いをする必要も無いだろう。
外征派・蔣琬、守勢派・費禕と言う反論が出るだろうが、費禕が一概に守勢派とは言えない。
蔣琬・費禕共に基本的には積極的では無いが、機会が有れば外征も可ってスタンスだろう。
964無名武将@お腹せっぷく:2005/05/11(水) 23:04:21
千里の戦を興さんと請うて、その勇武を示そうとした。秦蜀の者は惰弱で、
魏軍の勇猛に及ぶべくもない。魏軍が平坦な道を楽々と進むことができる
一方、秦蜀の軍は険しい道にてこずらされる。このような状態で戦って功を
争うわけで、どちらに利が有るかは明らかである。それにもかかわらず、
退却し、守りを固めて立て篭もり、鉾を交えようとしない。敵が生きては目
の前の敵を恐れて前進せず、敵が死しては敵の偽計を懸念してなおも逃げた。
これが良将の道にかなうといえようか。
965魏延の中の人:2005/05/14(土) 22:11:42
966無名武将@お腹せっぷく:2005/05/19(木) 22:54:38
浮上
967無名武将@お腹せっぷく:2005/05/21(土) 16:31:32
nas
968無名武将@お腹せっぷく:2005/05/26(木) 08:12:40
日が経ちすぎたんで963氏が見ているかわからんが、次スレも立ったし書いとく

>諸葛亮死去後の234年の、特に蔣琬が尚書令・益州刺史になった段階で諸葛亮の後任は
>蔣琬と言う事が確定した訳で、翌春に大規模な人事刷新が予想される状況下で、
>廃止が予定されている部署の代理を置くのは不自然ですよ。

同時期の人事で楊儀は長史から中軍師、費イは司馬から後軍師に移っている。
これは官位的に見れば丞相府内の昇進人事になる。
廃止が予定されている部署で蜀の代表格のうち二人がその部署内での官位を上げているなら
事後処理のために代理が置かれることもそれほど不自然ではないと自分は考える。

>それが元々その部署のNo.2的な人物が就くならある程度理解出来るけど、
>まったく全く関与していなかった人物が就任するってのはどうかと

向朗は楊儀・蒋エンより先に丞相長史に就いている。
丞相長史は初代の王連と最初の諸葛亮の北伐で留府長史になった張裔は
234年の時点で既に死去している。
丞相府の長官経験者はこの時点で、楊儀・蒋エン・向朗だけになる。
楊儀伝にある諸葛亮の生前の言葉からして、諸葛亮の後継者候補としては長史の楊儀と蒋エンが上がっていた事が予想される。
蒋エンが諸葛亮亡き後の蜀をまとめていく上で、楊儀は下手に権限を与えたら自分に取って代わられる危険がある。
だから、代理を置くなら丞相長史として丞相府を取りまとめた事があり、
蒋エンのライバルになる可能性の低い向朗だったんだろう。
969963:2005/05/31(火) 19:18:44
>968
費禕・楊儀等の丞相府内での人事異動は、残務処理のための措置と言う意味合いが強い。
確かに軍師職の前任者は魏延・劉淡等で高位者が就いているけど、それはあくまで、魏延等の個人の格であって、軍師職が高位だった訳では無いでしょう。
つまり、昇進人事ではないですよ、と。

向朗自身は北伐当初まで丞相長史ではあったけど、その後更迭されて政治向きの事には携わってなかったのは正史に明記されてるから書いたんだけどね。

970968:2005/05/31(火) 22:52:36
>969
遅レスだったのに、レスありがとう。

で、軍師職が高位かどうかはどこを基点に見るかの問題だと思う。
国全体で大臣クラスと比較すれば必ずしも高官ではないが
丞相府の中で長史・司馬と比べれば軍師の方が官位は上だろう。
楊儀と費イは丞相府の長史・司馬から丞相府の中軍師・後軍師になったわけだから
昇進人事といって差し支えないと思うんだが。

向朗に関しては、自分はNO,2を行丞相事に付ける方が危険だと思うからこそ
彼が出てきた事に意味があると考えている。
No,2だから行丞相事になれたんではなく、丞相府を運営した経験を持ちつつ
実権からは離れていた人物だから(蒋エンのライバルになるという危険性が低いために)
就任できたんじゃないかと。
971963:2005/06/03(金) 06:49:03
>970
費禕・楊儀に関しては「昇進」と言う記述はないんだよね。任命された、ってだけで。
ケ芝の場合、前将軍に昇進してるから、併せて「昇進」って記述だけど。

前にも書いたけど、丞相府の官位以外の階級が高い魏延・劉淡が就任したため、結果的に席次が長史等より上になっただけかと。
例えば、費禕も司馬になってたけど、前任者は魏延。
費禕が司馬になった事で鎮北将軍の時の魏延と同格だった訳では無いでしょう。

諸葛亮の指名、益州刺史・尚書令・行都護就任って事で他者がライバルになる可能性はほぼ無いと思うけど。
逆に、行丞相なぞを設置した場合、蔣琬の後継路線があやふやな感じになるかもしれん。
対外的な部分でね。
972無名武将@お腹せっぷく:2005/06/05(日) 02:53:29
自分は中軍師・後軍師と長史・司馬に関してはちくまの巻末に添えられている
官職表の品序列が軍師(5品)、長史・司馬(6品)となってることから
長史・司馬より軍師の方が官位は上だと判断した。
蜀は後漢の制度を引き継いでるから、魏の制度である九品で判断するのは
あまり正確じゃないとは思うんだが、6品から5品に職が移ってるのは
昇進に入るんじゃないか?

それと、比較の対象が楊儀・費イと魏延・劉淡なのがよくわからんのだが。
比較するなら長史・司馬と中軍師・後軍師ではどちらが上かであって
魏延・劉淡がもともと高官だっただけで軍師職は長史・司馬に比べて大した官じゃない
というのは比べる基準が違うんじゃないか?
973963
>972
ちくまのは官職表は詳しいけども、ちょっと合点がいかないトコも多いかと。
幕府の属僚に関して言うと、長吏が筆頭になるのでは?
例えば、劉備が左将軍府を開いた時、名目上筆頭臣僚の許靖が長史でしょう。
九品が影響しているであろう、ちくまの官職表は参考程度かと。


俺が言いたいのは、軍師の職務に就いた人物(劉淡・魏延)が高官であったから、結果的に軍師職も高官に見えてしまうのでは?と言う事です。

私見を言わせてもらえば、軍師職は閑職だったのかな、と。
劉淡の場合は当に定員を満たすのみだし、魏延の場合も破格の出世を遂げた将軍を丞相府に留めるための措置って感が強い。
楊儀も拗ねてますけどね。ケ芝・費禕は昇進あるいは後の展望が開けてたろうから不満は無かったのでしょうが。

許靖の例をとれば、長史の方が軍師よか上だし、実務内容を状況から察すると閑職のようだから、軍師に移るのは昇進とは言えないのではないかな。