1 :
無名武将@お腹せっぷく:
2
3 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/31 23:52:07
2げと
4 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/01 00:31:38
徳川は卑猥極まりない理由(言いがかり)で攻めて、
徳川は卑猥極まりない戦術(秀吉の戯言)で勝った。
どこらへんがどう卑劣極まりないのか述べないと始まらない
攻められたくなかったら、家康や秀忠が将軍職に就いたのを機に膝を折れば良かったのに。
負けたくなかったら、大坂方も謀略を巡らせれば良かったのに。
世の中きれい事だけで生きていけません。
トータル的に卑劣
8 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/01 02:26:32
結局普通のスレタイになったのね
9 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/01 02:29:18
>>6 膝を屈しても謀略を巡らせても、多勢に無勢。
大坂方は明らかに勝ち目がない。
弱いもの虐めとばかりに大坂を攻める家康のやり方が卑劣
10 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/01 04:26:37
関ケ原後、秀よりは家康と一緒に暮らせばよかったんだよ。
一緒に鷹野やったりw
却下?
そうですか・・・
11 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/01 05:03:22
いや、関ケ原後だったら清正や正則、浅野あたりと秀頼を頻繁に会わせ、馬をせめたり、剣術などの武道を通じて親交を深めたほうがよい。
淀はめったに諸将と会わせようとしなかった(神格化&暗殺防止?)。
清正ですら、二条城会見まで数回、しかも上座から遠く離れた位置でしかみたことがなかったというではないか。
しかもこの方法をとれば、秀頼の人格形成にもいい影響を与えるに違いない。
清正や正則に育てられたら、いやが上でも勇ましい男に成長するはずだ。
>>9 それが卑劣なら豊臣政権の存在そのものが卑劣だよな。
>多勢の弱い者虐め
じゃあ秀吉が寡兵で九州征伐したり
家康が寡兵で大坂攻めすりゃよかったのか?
14 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/01 09:54:20
家康は豊臣があくまで徳川配下の一大名として収まってくれたら、
滅ぼしたりはしなかったろうよ。
小和田先生も子供向けの学習漫画の「徳川家康」という本の解説でそう言ってる。
その部分抜粋
○子ちゃん「家康は賢い人だっと思うけど、豊臣家に難癖つけて滅ぼしたのは好きになれないわ」
小和田先生「はっはっは、そう思われても仕方ないけど、家康はあくまで豊臣家が
徳川の家来としておとなしくしてくれたら滅ぼす気はなかったと思いますよ。」
15 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/01 10:06:10
そうかなあ、やっぱ難癖つけてぶっ殺しそうな気がするんだが。
16 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/01 10:08:02
子供の○子ちゃんが「豊臣家を滅ぼしたのは好きになれないわ」なんていうもんかね?
事実だとしたらその女の子、末恐ろしいな。
豊臣家の凋落、悲哀の部分を事前に熟知した上での発言ということになるからな。
てゆーか本の構成上、都合のいい質問を創作しただろw
伊達政宗が今井宗薫へ宛てた手紙「観心寺文書」
おおよそわたし達の願いは秀頼様がご幼少の間は江戸か伏見で内府様のお側においておとなしく
成人したならば、その時はどのようにでも家康様のご判断次第でお取立てもできるであろう。
いかに太閤秀吉の嫡男であっても日本の国政を執り行うべき器の人でないと家康が判断したなら
ば、二、三ヶ国の国を与えればよい。このまま大坂に置いていたならば機会を得て、世のいたずら者
がでてきて秀頼様を主人と仰いで担ぎだし謀反を起こしかねない。その者たちのために何もご存知
ない秀頼様が腹を切らなければならなくなり、そうなれば太閤様の亡魂も浮かばれますまい
18 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/01 13:55:12
二条城会見のさい
秀頼が愚純の振りをすれば
少しは豊家が長続きしたかも
会見の際の秀頼はボッーとして、十分愚鈍だったと思うが・・・
でも実際、二条城会見はどのように行なわれたかは、文献でしか伺いしれない。
たぶん真相は以下の通りだったろう。
秀頼「おう!江戸の爺!こたびの会見を楽しみにしておったぞ!大儀である!
ところで江戸の施政はうまくいっておるか?ふんふん、そうか!爺も年なのだからあまり無理するな。
まあ、関東の仕置はそちにまかせよう。上方は余に任せい!なあに、心配無用じゃ!余もいつまでも子供ではないぞ、はっはは!
余は爺のような家臣をもって果報この上なし!これからも両家、共に栄えようぞ!はっはは!」
家康「・・・(潰す・・・!)」
たぶんこれが手切れの原因だったんだね。
>>19 二条城会見の際
秀頼は堂堂とした立派な振る舞いをし
家康はそれを見て、危機感を持ったらしいですよ。
まあ、必死になって媚びへつらえば滅ぼされずにすんだ可能性もなくはないわな。
しかし、豊臣家として残るのは無理だ「豊臣」は天下人の姓というイメージが強すぎる。
まずは返上し羽柴にもどる。話はそれからだ。
羽柴は元々丹羽と柴田の歓心をかうために名乗った姓だから
今度は徳平とか松川にすればいい
あるいは木下まで戻って、
頑張って、松平姓を与えられるまでになれば当確だね。
素直に恭順すれば、松平姓は貰えると思う。
何せ、家康の孫婿な訳だし。
それこそ国替えや人質の件を自ら申し出るくらい、素直に恭順すれば。
淀は「秀頼命」と見せかけて、じつはそうではない。彼女の感覚からいって
秀忠将軍宣下の祝いに上洛せよと言われたら「秀頼の刺して自分も死ぬ」といいかねない。
彼女は「権力」が欲しいのだ。権力を欲する為に他の男と不義まで犯して「秀吉の子」を生んだ。
正室のねねにしても子が欲しかった。彼女は生まず女ではなく、いたって正常。しかし他の男と寝てまで
子が欲しかったわけではない。
平侍出身の女の方が名家の女より節操を守ったということである。
話を戻すが、秀頼はたとえ一介の大名に落ちてもいいと言った所で、淀は許さないだろう。
素直に恭順するのは、淀を刺してからだな。
少し落ち着け。
しかし、後半はほぼ同意。
結局、あの欲ボケ女を何とかしないと豊家安泰はないか。
>>27 不義の子かどうかわからないのにそんなに熱くなるな。
ほんとに秀吉の子かもしれないし。
別に淀の味方というわけではないが、捏造された史書を鵜呑みにして騒ぐほうが恥ずかしいよ。浅はかだなあ、と。
北政所=善、淀=悪という図式はわかりやすいが正しいとは言えない。
徳川に反抗した淀は悪く書かれるし、徳川についた北政所は史書でも良く書かれるのだよ。
どちらも豊家のために力を尽くそうとしたのは事実だけど。
また、一概に淀を滅亡の根源にするのは如何なものかと。
淀が権力が欲しかったに違いないという押し付けは、豊家の滅亡はそのせいだとこじつけて満足しているとしか思えない。
たとえ淀を殺したとて豊家は滅亡していただろう。浪人を集める以前に国替えしてもまた難癖つけられてどんどん領地を削られるだろうし、浪人が集まってしまってから殺したとしても戦モードの浪人は「はいそうですか」と引き下がれるはずもなく。
そもそも世継に恵まれなかった豊臣家は徳川に乗っ取られる運命だったように思える。
一人の女の生死で豊家安泰とか言っている香具師の気が知れない。
しかし、殺すのはともかく黙らせて置かなければならないのは間違いあるまいよ。
徳川への完全な臣従が絶対の生き残り条件である以上、
それに異論を挟ませるわけにはいかない。
それだけで安泰とは言えないが、そのための必須の条件の一つだ。
>>29 しかし、側室があんなにたくさんいて、
子を産んだのが淀殿一人しかいないってーのはおかしいくない?
普通にかんがえても、あれは秀吉の子じゃあないかと。
命令・・・1 淀殿を暗殺する
命令・・・2 大野を暗殺する
命令・・・3 片桐を暗殺する
親徳川路線でいくなら片桐は殺しちゃまずいかと。
命令・・・3 浪人衆を大坂に入れない
みんな論点が違うから話がかみ合わないのだよ。
つまり大坂の陣を語るに2つの考えがあって、
@大坂の陣で豊臣政権の復活、幕府軍の壊走ができるかどうか。
A大坂の陣で豊臣家は滅ぶにしても、家康の首をはねることができるかどうか。
恭順派は「@は無理だ、できっこない。」といっているのだろう?それはわかる。
ではAについてはどうだろうか?これも難しいか?
Aについてなんて何の興味もないし考えたこともない。
そんな事して豊臣家にとってなんか意味あるの?
>>34 B媚びへつらってでも大坂の陣を回避
↑これで大体の人のレスが噛み合うよ。
Aについては、家康の首だけ取ってどうしろと?
秀忠とセットでなければ、効果は薄い。
37 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/02 21:32:27
それよりも
>>4の「卑猥きわまりない」というのが気になる
どんなエロいことしたんですか?
どーせ皆殺しポ。
徳川の関が原以降の政策て、成り上がり者許すまじだもん。
39 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/02 22:47:27
たしかに夏の陣はAのようなもんだな。
40 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/02 22:50:38
たしかに・・・どこが「卑猥」なのか答えろ、にげんじゃね!
41 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/02 22:51:57
卑猥の部分説明せい。
でないと出禁。いいね?
家康は許してくれる。
秀頼を豊臣家を最後まで残そうとしたもん。
光輝の徳川家康読めばわかる。
43 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/02 22:59:06
44 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/02 23:02:38
卑怯と卑猥の区別がつかない厨房晒しage
そうそう、家康は許してくれる。
秀頼を豊臣家を最後まで残そうとしたもん。
山路愛山の徳川家康読めばわかる。
家康は許してくれる。
秀頼を豊臣家を最後まで残そうとしたもん。
隆慶一郎の影武者徳川(ry
漫画を挙げることでしか「助命ありえねーw」と言えないのね
冗談抜きで、途中までは家康は豊臣を潰すつもりはなかった気がする。
しかし、途中から何が何でもぶっつぶそうとする意気込みを感じる。
>>48 最初からそんなもの感じさせたら豊臣恩顧が黙っていないだろ。
徳川の権威が固まってから徐々に本心をあらわにしたんだよ。
最初に滅ぼす気がなかったなら、
自身の政権がより強固なものになれば、なおさら滅ぼす必要がなくなるのが普通だろうし。
>>47 助命がありえないなんて当然のことだから、
そうとでもしなければネタにもならないでしょう。
卑猥スレと聞き及び馳せ参じました
冬の陣で完全降伏しても秀頼個人は責任取るために腹切りだろうなぁ
53 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/03 16:08:34
家康ってさ、貴種に弱いよね。
三河の名家の吉良家を幕府の祭司にしたり、
関ケ原で向背定まらぬ佐竹、中央突破した島津も改易にならなかった理由は様々あるだろうが、
根底には鎌倉幕府以来の名族という意識が家康にあったのではないか?
上杉家など会津征伐の標的だったわけだから、改易でないと筋が通らない。
しかし家康の中では謙信以来の名家。しかも武田に圧迫を受けていた時期、信長以外に初めて同盟を組んだ相手が上杉謙信であったことも重要なポイントか。
当時、天地の開きがあった両家であるが、意外にも謙信は快く同盟承諾してくれた印象が鮮烈に残っていたのではないか。
とにかく百姓の成り上がりの豊臣家など、名家ごのみの家康が残すわけねーだろ。
54 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/03 16:15:50
佐竹・島津・上杉・毛利と。
確かに名家だわ。
武田も復活させてるし・・・。
豊臣恩顧は、織田上がりだから、みんな格が無い。
長宗我部も・・・・。
あっ、大友だけ名家なのにつぶれてる。
家康は謙信から三方ヶ原の敗戦を慰める手紙を貰ったり
鷹狩りという趣味が共通してたりと上杉には個人的な感情もあったかもね
56 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/03 17:08:51
毛利は名家とは言えないと思うけど、
大内とか尼子とか山名とか赤松の方がよっぽど・・・
57 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/03 17:22:17
毛利は、元をただせば、大江の何某だろ。
江戸時代でも、唯一朝廷への献金を認められていた大名。
貴族・学者の出なんだよね。
毛利は吉川広家騙してつぶそうとしたし
んなもんどこまでほんとだかわからんだろ。
60 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/03 18:49:07
>>54 大友は高家として復活している。
復活していないのは所少弐、大内、河野など西日本に多い
そりゃ西日本は外様の領地だからな。
関ケ原三年後すぐに正則と清正が反旗翻せば、幕府軍に勝てたのだよ。
( ´,_ゝ`)プッ
・・・え?
燃料不発・・・m(__)m
66 :
新燃料:04/11/05 00:19:49
清正や正則が家臣の生活など顧みない性格なら、幕府軍と戦ったのに!
清正や正則が時局が読めず、領土欲がなければ幕府軍と戦ったのに!
68 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/11 17:20:06
士気をageろー!!
69 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/11 18:32:19
おーーー!!
70 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/11 21:26:33
仮の話もし夏の陣で幸村が家康を討ち取って秀忠も戦死したらどうなった
だろう?
誰かが後を継ぐ
再び戦乱の世に
そして民は塗炭の苦しみにあえぐことになる
喜ぶのは野望をもった一部の大名だけ
73 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/12 01:12:53
本能寺みたいに二代続けて死ぬと家臣が幼君を祭り上げて、実権握るだろ。
問題は徳川家臣の誰が握るかかと。
ただ家康のセコさでみんな身代ひくいからなあ。
榊原家でも10万石ぐらい?
74 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/12 04:49:47
おまえらふかしこきおちゃんやなぁ
コキ麿ちゃん
彡三ニ三ミミミ-、 / ヾ:::::\
xX'' `YY"゙ミ、 / \:::::::\ .
彡" ミ. ミ| |::::::::|,.
|::::|∪ ミ ミ| _-=≡彡 ミ≡==- 、 |:;;;;;;/
,=ミ/ =三ミ j i=三ミ| | | <・>| ̄ ̄| <・> |─´ / \.
| 、====| <・> |=|<・> | | ヽ__/ \__/ >∂/..
| '| ーー" 丶--'.j / /( )\ |___/'
ヽ| 、 /`^ー^、 | | / ⌒`´⌒ \ ) |
| ""| ∠二>i / .| │ i|;|
|\ --- / ( \/ ̄ヽ/\_丿 /||
/|\`ー-、__,_ノ \ 、 \ ̄ ̄ ̄/ヽ / /
-ー'/ |. \_/ / \___\ |  ̄ ̄ ̄ // //\
ツマンネ
78 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/12 08:01:44
>>70 家臣の所領の大きさは関係なし。
まだあの時点では徳川家そのものに求心力があるから、織田や豊臣と違って
「御家の為に・・・」という家臣はいくらでも集まる。
問題は本多派、土井などの新官僚派、大久保党などの派閥争いと、
秀忠の弟たちを選ぶか秀忠の子を選ぶかの本流・庶流争い。
最終的に誰かが有力になれば、徳川家はそれで固まるだろうし、
他の大名の出番はない。
>>78 大坂の陣当時だと、
大久保党・本多派は没落してないか?
秀忠の弟たちもあまり問題はないと思う。
他の大名の出番がないというのも、ほぼ同意。政宗みたいなのは、まあ例外と考えて。
一番の問題は、忠長かと。
正純対土井かな?
弟たちって確か家光とどっこいどっこいか年下だったし、
それを担ぐということもないでしょう。
今更、忠輝ってことにもならないだろうし。
ありえるのはやはり忠長ですね。
家康・秀忠がそろって無くなった場合、
江与が江戸城の淀になりそうな予感w
大坂の陣の時なんて、すでに家康が家光を秀忠の次の後継として決定して、
それを家臣にも表明していた。
いまさら後継者争いなんておこらないだろう。
まぁ、重臣たちの勢力争いくらいは起きるだろうが、それとて豊臣を潰してからじゃないかな。
83 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/13 11:25:58
酒井雅楽頭だっけ?下馬将軍の異名をもつ。
三河武士も代が進めば、あのように皇族将軍を迎えようとする怪しい輩が出てくるもんだ。
家康・秀忠立てつづけ死ねば、家光ですんなり落ち着くとは限るまいよ。
それにしても今一つな燃料だ
家康はデブヲタのはしり
デブはデブだが、マッチョデブだからな、家康は。
87 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/14 18:51:06
士気をageろー!
ホカロン入れろー!
ははは!連戦連勝!
今月末に発売される学習研究社の歴史群像ノベルの新刊に大坂の陣を題材にしたものがでますよ。
内容は以下の通りです。
反 大坂の陣(1) 吉本健二著
学習研究社・11月30日・893円・ISBN:4054026427
慶長19年12月。豊臣家潰しのため大坂城を包囲した家康だが、その堅牢さに和睦策をとるが、講和直前に淀君が砲撃で急死した。
淀君が死んだだけでどれぐらい歴史がかわるのでしょうか。
私が読んだ本によると、大坂冬の陣で大坂方が和睦の応じたのは淀君の意向というよりも火薬の不足が原因だと聞いていますが、本当のところはどうなのでしょうか。
もし冬の陣が続いても歴史が変わったりするのででしょうか。
皆さんのご意見、お聞かせください。
89 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/26 17:48:43
し・き・を・・・・・・・age・ろー!!!!!!!!!!!!!!
90 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/26 19:00:47
>>88 淀いなかったら秀頼が家臣の命を惜しみ
降伏して家臣になってた予感がしまする。
大野がどこまで権力あったか知らないけど・・
91 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/26 19:01:31
うーん
92 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/26 20:09:58
冬の陣を続けても淀殿がいなくなっても負けるよ。味方してくれる大名は
いないし、連絡も絶たれているから兵料がなくなっていずれあぼーん。
その前に弾薬が枯渇してあぼん。
結局のところ取り潰されるよ。
陰険狸親父が見過ごすとは思えない。
>>90 淀が死んだら大野も死ぬんじゃない?
>>88 とりあえず買ってみるけど・・・
そのタイミングで死んでもつらいよなあ。
開戦前にいない、ってのなら別だけど。
篭城策よか幸村や又兵衛が提案した京都まで出張る案が通った場合の仮想が面白そう
昌幸が生き延びてれば、多少は面白くなったのかも。
昌幸が家康の天敵、ってのはその時代でも知られていたのなら、
かなり面白く引っ掻き回してくれてそう。
幸村や又兵衛がいくら頑張っても無駄な戦死者を増やすだけだよ
97 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/29 17:26:18
番兵:その刀見せてくれや。
山伏:犬払いのナマクラでござれば・・・
番兵:いいからみせろやい!ぐい!
山伏:ああ!
番兵:(おお!すばらしい業物!欲しい!こいつを殺せばワシのものか!)・・・しねい!ドシュ!
山伏:うげッ!!バタ!
治長:おーい、幸村殿はどこじゃ?・・ああ!!おまえ幸村殿を斬ったな?!
番兵:あわわわ・・・えーい!おまえも死ねい!!
治長:ぎゃああああ!!
完
>>90 家康に服従しても次の代までにお取潰し
だいたいさー、降伏しようとしても出来ないよ。浪人衆が引き下がるまい。
だから大坂の陣が始まる前に降伏する必要があったのさ。
理想は家康もしくは秀忠の征夷大将軍就任時、遅くとも二条城会見までに。
>>99 無理だろー、それは。今まで臣下だったものが突然牙を向いてきて、それに対して「はいそうですか」って素直に従えるか?
織田信秀は素直に従ったがな。
信秀に出来て、秀頼に出来ない訳を聞こうか?
信秀?
103 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/01 17:26:01
げひひ!こいつ秀信とかんちがいしてらあwwwwwwwww
信長の息子にも信秀ってのがいるぞ、爺さんと同じ名前になったやつが
105 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/05 01:15:16
兄弟多すぎてワカンネ
106 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/05 02:51:39
秀頼が臣下の礼さえとれば
家康があの年で必死に豊家潰す理由無かった
誰の目に見ても天下は明らかに徳川の物だし
豊臣恩顧の武将なんか殆ど残ってない
あとは浪人勢が期待残すような大坂城は
無力化して徳川城代でも入れれば
後はもう歯向かいようがない
107 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/05 02:53:31
豊臣の兵士は返り血でいっぱい。
108 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/05 03:00:32
慶次は・・・
test
たしか福島正則がまだいたはず。
いいじゃないの
どうせ元々織田家から簒奪したモンなんだから
盗ったものを盗られただけ
112 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/05 03:44:22
つか秀吉が天下取ったのってすごいよな
113 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/05 21:29:04
天下取ったら誰でも凄い
114 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/09 00:21:44
淀マダムの期待あげ
天下を盗った秀吉を操った淀もある意味すごい。裏太閤だな。
116 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/09 11:51:07
加藤が何故熊本城を築いたか考えるんだ
秀頼を入城させて最後の抵抗をするためだ。あれほどの城なら中々潰せない
その前に死んじゃったけど
117 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/09 13:37:32
城ひとつで勝ち目あるか?
熊本城で清正と秀頼自刃なら、清正のただの自己満足だろ。
ただ自分を忠義を名さしめるためにさ。
熊本城と秀頼は無関係
じゃあ熊本城ってなによ?
戦乱も終わったのに馬鹿でかい堅城造る必要性なんかあったの?
それこそ清正のただの自己満足だろ。
120 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/13 16:40:42
豊臣家が残ってる限り何かあるのわかってたことでしょ。
現に大坂の陣起こってるし。
徳川が豊臣家を潰そうとすれば加藤は立ち上がるわけよ
そのときのために熊本城を天下一の堅城にしたんだろ
九州中国の大名が攻めてくるだろうからね
大坂に入城する気だったのか、熊本に立てこもる気だったのか
それはわかんないけど(死んじゃったからね)
有事の際に備えてたのは熊本城を見ればわかる
自己満足ではないよ。
将来を考えて作った意味のある城
121 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/13 17:15:21
冬の陣の前に秀頼が貴族化して、京都に屋敷でもたてて移り住めば
見逃してもらえたかな・・・領地は近畿で十万石くらいで。
そしたら秀頼が大坂城出た時点で待ってましたとばかりに公家諸法度発布して、
それを基に難癖つけて没落させるだろ。
そもそも大坂の役自体、朝廷―豊臣ラインを潰す意味合いも持ってたんだから、
形が武家であれ公家であれ朝廷に近いところに豊家の存在を許すわけがない。
123 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/13 17:32:07
とりあえず降伏しても秀頼切腹が免れる可能性は低いぞ・・・
124 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/13 20:46:05
切腹なんて!
ひどい!
主筋ですぞ!
家康公は最後まで助命を望んでた!
孫娘お千の婿ですよ!
秀頼の息子は斬首にしたがな。
>>115 淀は愚かな女だな。
1605年5月の秀忠の将軍就任に際し、秀頼の上洛を促された淀は
徹底的に拒否。どうしても上洛せよと言うなら「親子共々自害する」
とまで言い張った。(この辺が実に浅はかなわけだが)
この時、家康はそれ以上要求することはなかったが、その目は笑って
いなかったろう。
128 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/13 21:13:46
切腹はないだろ!
痛いですよ!腹がっ!
家康も自分が切腹したことないのに、よく二十一歳の青年にそんな酷いこと命じますね!
自分が命じられたら、どーすんだ!ちゅーのっ!
>>128 誤解だ、命じてなんかいない。
ただ秀頼が隠れていた小屋に向かって、火縄銃をぶっ放して、
自分の置かれた状況を正しく知らせてあげただけだ。
>129
おまい、いい官僚になれるぞ
131 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/16 01:27:32
そういえば、備前島に兵力配置しておかないのは何故?
国崩しで砲撃される事もなかっただろうし。
もともと三成さんの屋敷なら、城内でしょう?
134 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/18 23:08:30
大野治房・治胤は岡山口で徳川秀忠を4度襲った。
治房は戦後行方不明。1649年にも幕府は捜索している。
治胤は堺の町を焼き払ったことで戦後火あぶりで処刑される。黒焦げになりな
がら平然と笑い、検視人に殴りかかる最期だった。
家康も治房が天下を狙える可能性もあることを示唆している。
ある意味、真田より無気味な男たちだ。
>平然と笑い
おかしくなっただけだろう
大野一族がいなければ、
もう少し良い滅び方をしたのでは‥
つーか大野は豊家にとって癌でしかない
下手な浪人集よりよっぽど忠義心溢れてたろうに酷い扱いだ
忠義に実力が伴っていればな
治房は別に酷評されるほどでないんでね?
何か秀頼が大阪城を脱出して木下家から五千石もらってマターリ暮らしたって聞いたんだが。
まさかとは思うが一応検証してくれないかな?
単なる民間伝承
酒癖が悪かったとか具体的な話が残ってるんでまさかとは思わせるがね
前に豊臣秀吉の本の最後のほうにちょっとだけ乗ってたね。本当に木下家5000石減ってるのか?
しかし、もし本当なら一人くらいは末裔がいるはず。
秀頼の本当の父親も分かるかもしれないんだがなぁ・・・。
144 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/27 18:58:20
後藤又兵衛や木村重成や薄田兼相のうち誰かが生きてたら最終決戦で家康も秀忠
もどうなってたかわからんかったはずだ。
>>144 そんなもん何とでも言えるわな。
本多忠勝や榊原康政や井伊直政が生きて参戦してたら
徳川のボロ勝ちだったかもしれない。
と言ってるのと同レベル。
みんな満身創痍で死んだイメージがあるからな、
そのifは食指が動かない。
まぁ遊軍に指揮官がいれば多少はマシだったろうが、徳川親子を討つのは無理だったと思われ。
>>145 本多や榊原は生きてたとしてももうヨボヨボでさすがに辛いだろ
井伊は大坂の陣まで生きてれば歳もまだ五十代だし譜代家臣筆頭だし
徳川方もあんな苦戦することはなかったろうに
というか家康はどうやっても秀頼殺す気だったよな。
恐らく大坂陣以前にいくら恭順しても無駄。
多分、寿命が近くなったらやっぱり心配になって殺すよ。
関ヶ原で律義者の仮面は脱いじゃったし、天下一の実力者だからな。遠慮も要らん。
なんかループしている気がするが、
>>149 それはどうだろう。
確かに二条城会見以降は何が何でも殺そうとしていると思うが、
家康或いは秀忠が将軍になった時点で
大坂を出て、淀を人質に出して、諸大名の前で頭を垂れるほど
従順な姿勢を見せていたらあえて潰さないと思うけどな。
151 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/27 23:25:42
>>150さんは甘い!
そんな男じゃない!あの狸は!
冬厨が来ましたね
154 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/29 00:46:39
みてきたわけじゃないけど!
たぬきはやな奴だと自分おもうんすよ!
家康は「初めに結論ありき」の人だと!
だから「潰す」と決めてから色々策略はりめぐらしただとおもうんすよ!
内府違ひの条々でもわかるように、サルが死んだ途端にあれだけ無茶できる人間が、秀よりの一命のことなんて眼中ないと自分おもうんすよ!
あいつ、本当ひどい奴でがすよ!
根拠のない「思う」はイラネ
それと情に捕らわれすぎれば為政者として失格。
家康は必要な悪事を淡々とこなしている、
少なくとも権力にかこつけて悪行三昧していた秀吉よりはな。
156 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/29 14:43:56
>>149 関ヶ原の時点では家康の方に大義名分はあるんじゃないの?大坂はアレだが
秀頼を殺す必要性が『ある』と考えればどんなに恭順しても殺しただろうね
逆に殺す必要性が『無い』って判断したら三成の息子みたいに生かされてたと思う
そのへんは旧豊臣家臣団の対応で判断したんじゃないだろうか
そう考えると加藤なんかも余計なことしちゃったのかもしんない。
157 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/05 16:15:51
徳川の旗本の腰抜けぶりは面白い。
家康の旗本は真田見て逃げるは、秀忠の旗本も逃げて、黒田長政に助けられて
るもんなぁ。万一、大野兄弟に首獲られたら笑い者だったに違いない。
158 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/07 00:59:07
数世紀後に上野の山に立てこもった彰義隊の人数&構成人員は?と言われれば納得
159 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/16 15:22:21
宇喜多秀家は大坂の陣に参戦できる可能性はほとんどなかったのか?
それとも大野治長が関ヶ原で宇喜多を攻めたことも影響してるのか?
160 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/16 19:06:30
八丈島からどうやって抜け出すのだ?
明石は勝てばキリスト教の解禁と宇喜田の赦免を約束されたから入城している。
でもいつだったかの大坂の陣の結論は「泳げよ宇喜多w」だったな
あったな、そんな話もw
慶長14年、関ヶ原の勝者家康は天下統一の仕上げとして豊臣に戦を仕掛ける
太閤秀吉がその力を全て込めた居城大坂城
そこにはかっての栄光を取り戻すため、豊臣のため多くの浪人、武将が集まっていた
かっては土佐22万石の主 長曾我部盛親
秀忠3万を足止めした昌幸の子 真田信繁
宇喜多家57万石の筆頭家老であった 明石全登
黒田家では1万6千石を拝領した男 後藤基次
豊臣へ為、1千石をなげうち馳せんじた 毛利勝永
豊臣家臣筆頭大野治長の弟 大野治房
秀頼の乳兄弟、弱冠22の美男子 木村重成
かれら七将の他、薄田兼相、塙直之等の歴戦の強者達
しかし、大坂城の最高権力者は秀頼の母淀とその取り巻き達であり、七将らの発言力は弱かった
又、この七将達も思惑はそれぞれ。真に豊臣の為に戦うは毛利、木村、大野くらいか…
その時、浪人で溢れかえる大坂城の人だかりを掻き分けて本丸に向かう男が一人
全身に水を滴らせ、息も絶え絶えだが、眼光鋭く人々は気押され、彼のために自然と道が出来ていた
しかし、一介の城兵を城内に入れるわけにはいかぬと彼を遮る門番。しかし、そのずぶ濡れの男は一喝した
その頃、殿中では真田、後藤らの野戦出兵策は退けられ、籠城と戦いの方針は決まっていた
「真田殿、後藤殿の策を取れば勝てようものを……」
歴戦の武将達はこの大坂城の首脳陣を嘆くと共に、彼等を押さえ、七将すら束ねる強い指導力と実績を持つ男が居れば…と思わずにはいられない
初めはそれを、秀吉の遺児、秀頼に期待したものだが、もはや望むべくもない…そんな時だった
――バタン!!
ふすまを開き、ずんずんと上座に進む男。それはさっき、大坂城に現れたずぶ濡れの男だった
「何者ぞ!!」
叫んだのは若き秀頼の忠臣、木村重成
しかし、彼の後ろの淀殿や治長、いや、彼らだけでなく後藤や真田ですらその顔に驚きを浮かべ、ただ呆然とその闖入者の顔を見ていた
「殿……」
明石全登がようやくといった感じで放った言葉に、重成を初め、その場に居た武将達は皆、驚きの声をあげた
「宇喜多備前中納言八郎秀家、豊臣家の御危機を聞き、八丈島より 泳 い で 参 っ た !!!」
秀吉に実の子、いやそれ以上の愛情を受け育ち、豊臣政権の五大老であった男が再び豊臣の為に戦うため帰った来た…
164 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 05:54:26
>>163 最 高 だ ぜ!!!!163!!!
おもわず宇喜多age!!
>>156 >秀頼を殺す必要性が『ある』と考えればどんなに恭順しても殺しただろうね
>逆に殺す必要性が『無い』って判断したら三成の息子みたいに生かされてたと思う
殺す必要性が『無い』って・・・。いくらなんでも三成の息子と一緒にされちゃ困るよ。
相手は太閤の跡継ぎですよ?その存在自体が殺す必要性120%
いくら力が無くても太閤の跡継ぎってだけで最初から殺す予定だろ。
>>163 宇喜多泳いで参戦。いいね。
宇喜多別に好きじゃなかったけど好きになったよ。
>>163の創作とはわかっていながらも熱いものを感じる。
大坂から水軍で救出作戦。
167 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 09:37:18
ほんとになあ・・泳いで来てくれたら宇喜多レジェンドが出来ただろうに
∩
*゚ ヮ゚ノ彡 宇喜多!
⊂彡 宇喜多!!
ついでに江戸から福島正則を拉致
それは逆効果だ
いや、福島の家臣が大きな酒樽の中に秀家を押し込んで、大坂まで持っていけばよかったんだよ!!!
どーでもいい流れになってまいった
>>171 名案だな!秀家が酒樽のなかから登場。
でもそれだと
泳 い で 参 っ た
ではなくなってしまう・・・。
明石全登を探すため、明石狩りが行なわれたそうだが
そんなに大物だったの?
毛利・真田・大野に比べて活躍したとも思えないんだが
175 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 20:34:09
>>174 明石狩りってなんだか食べ物みたいだな。
大坂残党狩りは徹底してたから活躍して無くても捕獲対象になるのでは?
176 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 23:38:26
関ケ原と大坂の陣、両方とも逃げ切った明石は神!
奴は「強制離脱」のスキルがあると見た!w
バテレンの魔術
神隠し
明石は行方不明のまま?
180 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/18 08:42:03
全登の奴、たぶん海を渡ったな。八丈島?
殿、泳 い で 参 っ た!!
明石の部隊って絵巻にもあるけど、当時の軍装からすると、かなり異色だよね。
天草四郎は海の上を歩いたという。
当然、明石も。
184 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/19 00:26:00
秀家が大坂の陣総大将になる小説あったな。
すげえ駄作だったが。
>>185 秀家が総大将になってもオツムの問題が。
>>185 その小説では秀家はどうやって大坂城に入城してたか書き込みキボン
どうでもいいが秀家から57万石の家格取ったら何が残るんだ
秀吉の最も愛した義理の息子
八丈島
193 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/21 21:58:21
団右衛門が敵に撃たれた!
ダン、ダン、ダダダダーン!!
直家父ちゃん甘やかしたんだろうな
他に心から信用できる人間なんていなかったんだろうし
甘やかしたのは秀吉
秀家九歳で亡くなっているから、直家に教育を問うのはちょっと。
秀吉に養育して貰って恩義を感じたはいいが、
豊臣家への責任感ばかり先行して実力がついてこなかったのはな…
秀吉は洗脳には成功したが教育には失敗したな。
秀家といい秀秋といい…
養子にも恵まれていないのか豊臣家
甘やかしたのは坂崎出羽守の親父。
199 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/22 15:49:23
でも秀家はよく生きたよ。八丈島でな。
かしこきこと、正しいことがすべてじゃない。
強いものに従うばかりじゃない。
愚かなるも 凛として美しいところが秀家にはある。
八丈島といって連想するのが秀家
という逸話を作っただけ素晴らしい
戦国ヲタだけだと思う
俺含む
漏れなんて台風情報のたびに秀家思い出しちゃう
205 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/24 18:52:23
それにしても方広寺の鐘銘の難癖はあまりにもヒドい。
天海、崇伝、林信勝の3人衆こそ「曲学阿世の徒」だ。
その点妙心寺の長老はエラい。はっきりと清韓の弁明を支持したからな。
当時の京都では妙心寺の長老をほめる歌だったか何かが流行したそうだ。
そういえば京都の大物本阿弥光悦は大坂の陣の始まる直前に豊臣氏から預かっていた刀剣類を大坂城に返却すると称して借りていたよりはるかに多くの武器を大坂城に提供したらしい。
また、大坂城が陥落した後も徳川のところに戦勝祝いの挨拶にも行かなかったらしい。
207 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/25 17:32:26
宇喜多秀家クラスはともかく大物が入城したり、どこかで蜂起したりとかしなかったのかな。
208 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/25 17:37:52
蜂起はあったかしらんが、僕的には総大将は大野道犬斎で決まりかと。
209 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/25 18:20:02
家康というか徳川家は天皇まで標的にしようとしていたように思うが、どうなんだろ。
「東照大権現」なんて天照大神の東版だし、本気で考えていたのかな。
平将門じゃないんだから・・・
>>209 あれ?
神号は朝廷側から案が提出されたのではなかったか?
東照、東方、威霊、日本の四つが。
東照で徳川の野心が云々ってのは勘ぐりすぎだと思う。
213 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/26 13:16:03
徳川の賊は豊国社を破壊した。これは日本の伝統から外れる。
徳川の賊は島原の乱では殲滅した。これも日本の伝統から外れる。
徳川こそ儒教に染まった漢族の手先である。
by敬神党
214 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/26 21:24:01
大野4兄弟の父親って名前すらでてこないけど何者なのか?
それから秀頼の父親はやはり秀吉だろ。大野治長や石田三成がそんな大それた
ことやるかな?
>>205-206 マジレスだけど昔の日本人って言葉のあやだけで
ゲン担ぎみたいな事よくするから本当に当時の人間から見て無茶苦茶なのかよくワカンネ
216 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/26 21:47:32
家康は天下泰平の世の中にし、万人に幸せを与えようとした
類まれなる英雄
大 友 の 陣
218 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/27 00:11:33
高 坂 の 陣
220 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/27 13:31:58
家康は神
>>213 耳川の宗麟の行動は?
里見義堯が鎌倉で悪さした件は?
廃仏毀釈は?
撫で切りは?
八王子城で皆殺しを命じたのは誰だっけ?
いやー、日本の伝統ってスバラシイ
222 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/27 19:36:00
チョンはき・え・ろ!
223 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/27 21:27:56
家康はうんこもらし
明石は神
225 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/28 00:02:42
うんこ漏らすだけで天下とれたらいいやな
明石はタコ
227 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/28 13:22:20
クソたらして幕府を開き、てんぷらの食いすぎで腹をこわして死んだ。
アフォだな。
by ニセ敬神党
三方が原の大敗(糞漏らしの俗説も生まれるほど)後の自分の姿を絵に書かせて、常に傍において教訓としていた家康
恥や失敗をバネにするぐらいの根性と貪欲さがなければ天下は取れないね
229 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/28 14:46:13
くそ康は死ぬ直前、側近に「わしが死んだあと秀忠のことをよろしく頼む。」と言ったらしい。
劉備のほうが立派だ。
by エセ敬神党
>>229 わが命旦夕(たんせき)に迫るといへども、将軍斯(か)くおはしませば、天下のこと心安し、されども将軍の政道その理にかなわず億兆の民、艱難(かんなん)することあらんには、たれにても其の任に代らるべし、
天下は一人の天下に非(あら)ず天下は天下の天下なり、たとへ他人天下の政務をとりたりとも四海安穏(しかいあんのん)にして万人その仁恵を蒙らばもとより、家康が本意にしていささかもうらみに思うことなし
(元和二年・家康遺言)
嘘は良くないな
231 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/28 15:32:30
東照宮、家康を神としている神社一覧どこかないか?
徳川の子孫が100以上あると本に書いてた。
232 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/28 15:36:08
徳川を死においやったてんぷらはエラい。
くそ康の神社を見下ろす場所に神として祭ろう。
by ニセ敬神党2
>>229 福島正則を呼んで、
約束を破ってしまったから謀反を起こして秀忠を倒して貰って結構、
決して恨まない。
というような事を言ったらしい。
234 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/29 02:55:38
>>232 家康のおかげで天下安寧になったのは事実なんだが。
殺伐としたところに秀家登場@八丈島
うんこネタ大好きな消防に嫌われるならむしろ嬉しいものだろう
一応マジレスしておくが家康の死因はてんぷらじゃない。
死んだのはてんぷら食ってから三ヶ月も後なので食中毒なら不自然すぎ。
症状からして胃癌で死んだという説が有力。
238 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/30 15:06:55
大坂の陣で旗本が逃げて家康はショックをうけて気落ちしたのかな。
逆だろ、
大坂の陣が終わって気が抜けたんだろ。
目の上のコブが取れたからね
241 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/31 13:49:37
家康の神社なら上野に2つくらいあったぞ。あと芝のあたりにもあるんじゃねえかな。
オレはいつも唾吐きかけてるけどね。
242 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/31 13:51:00
あと本人じゃないが、伝通院という寺が文京区にあって、あそこに家康の親類の墓があるらしい。
蹴り入れとくか?
>>11 > 清正ですら、二条城会見まで数回、しかも上座から遠く離れた位置でしかみたことがなかった
それが事実なら、秀吉の子でないことがばれるのを恐れたのかもしれんな。
秀吉の子でもそうでなかったとしても
世継ぎとして認められたのだから顔が似てないのがばれたっていいんだよ。
秀吉が秀頼でOK出したんだから無問題。
>>244 日本はそんなドライな感覚じゃあないと思うぞ。
いや、出自がしっかりしているなら養子でもOKだが、
実は他人の子なんてケースは受け入れがたいだろう。
ドライもなにも権力者がいいといってるのだから。
主君が黒といったら白いものも黒になる。
絶対権力者が生きているうちはな。
意外に大義というか、筋を通すことは重要ですよ。
>>246 権力者が実子でないと知っていて、それを公にし、
それでも後継者だと言ったならそれも通るかもしれないが、
実子だと思っていたから後継者としたが実は違ったとなれば、
話は全然違ってくるよ。
秀吉が秀頼は自分の実子だ、だから自分の後継者だと言っていたなら、
その前提条件である実子かどうかが揺らげば、
当然その正当性は揺らぐ、そういう疑惑が出るのはかなり致命的。
250 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/03 15:36:19
>>248 別にいんでねえかい。
中国なんぞ今でも岳飛の墓前の秦檜の像に唾吐くらしいからな。
日本人が淡白なだけだよ。
中国人と一緒になっちゃおしまいだろう。
>>250 たしか今は岳飛が悪者扱いされてるんじゃなかったか?
253 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/03 17:48:03
日本でも会津の連中は今だに反長州で市長同士が会ったとき握手もしなかったらしい。
100年前も400年前もいっしょだよ。
254 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/03 17:57:19
255 :
◆flash..1IQ :05/02/03 18:08:05
記念火気庫ヽ( ´∀`)ノ ボッ
>>242 241はどこだかわからんが、242の伝通院にも連絡いれておくからな。いいな。
>>249 秀吉がしんでから実子じゃない説が浮上したわけじゃないと思われ。
生前から疑惑はあったけどそれを踏まえて秀吉がおkしたのではないの?
259 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/03 18:34:01
で、万が一の為に危険の芽を次々に摘んでいったと。
秀秋を養子に出したり、秀次を殺したり。
261 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/03 18:47:47
262 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/03 19:08:23
警察へおくったメールが戻ってきたわけだが。どうなってんだ?
どうせ通報とか口だけだろがクズ
だいたいなんの罪になるんだよwwwwwww
264 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/03 19:48:13
>>263 いや送ったがそのまま戻ってきた。
おそらく向こうのメールボックスが満杯だったんだろ。
すいてることを見計らって再度送るつもりだ。以上。
265 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/03 19:51:53
警察にメールする内容を決めるスレはここですか?
あ、それ俺ん所に届いたやつだ。
わけわからんから拒否っといた。
アドレスしっかり調べような。
>>260 なにはともあれ秀頼ときめっちゃったもんだから、不安定な基盤の上にある秀頼以外の芽は早急に摘む必要があったとか。
もし秀吉が長生きして、成人した秀頼が自分ににてないと気づいたとしても跡継ぎは跡継ぎだと思っただろう。秀頼似の家臣はヌッ殺されるかもしれんが。
270 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/04 13:00:27
中国人の執念深さは見習う必要があるね。
いや執念深いんではなく、教育が悪いんだよ。
教育も悪いけど、性根が歪んでるんだよ
>>258 そんなわけありえないだろう。
間男されましたって証拠みたいな物を、
本物の身内をぶち殺してまで目立つ地位に押し上げるわけがない。
>>273秀吉は、好きな女の子なら自分の子だと信じたわけですよ
大坂の陣スレになぜ中国人の話題が
>>274 まあ、そう考えるのが普通だわな。
だから、自分の子ではないかもしれないという疑惑を踏まえて、
それでも跡継ぎとして立てたなんてことはありえない。
全然ありえなくないだろ、ほかに実子がいるわけじゃないんだから。
既に関白にまで就けた本物の身内はいたがね。
そいつをわざわざぶち殺してまで、
自分自身でさえ己の実子ではないと疑っていたような者を跡継ぎにするかね?
秀次の排除は豊臣政権の屋台骨を揺るがしたんだぞ?
というか、
秀吉は秀頼が自分の子ではないかもしれないと疑っていたが、
それを踏まえた上で後継者としたなんていう発想はそもそも何を根拠に出てきたの?
>>258ちょっと説明してくれ。
身内と実子じゃまるで違うだろ。
そんな事も分からないもんかね。
おまえが分かってないと思われ。
>>279 実子ならね。当然秀吉は秀頼を実子だと思っていたから、
秀次を退けてまで自分の後継者にしたというのが自然な解釈だと思う。
ところが、
実子ではないかもとの疑惑があったが、それでもそれを踏まえて後継者にしたのだ、
などという珍説が出てきたので訝しがっているところ。
282 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/08 17:07:13
あげ
283 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/22 21:03:57
秀頼自害のとき毛利勝永がいたのが救いだった。
284 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/22 22:10:42
大坂の陣の後豊臣方で行方不明なのは明石全登。ほかには?
大野治房も死んでなくて行方不明の説もあるが。
285 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/23 00:15:43
ゆっきーがいるだろ
>284
仙石宗也も行方不明だな。子供は捕まって殺されたが、当人はどこへ消えたのやら。
287 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/23 00:46:47
島左近や大谷吉継のような武将はこの戦でなくすには惜しい
288 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/23 00:50:25
287
あ、関ヶ原だった。スレ間違えた
>>281 田村なんたらっていう歴史研究家が秀吉の書状の研究をしてたら、秀吉が秀頼は実子じゃないことを知っていたかのような手紙を見つけたって。
もしそんな疑惑もってたとしたら淀殿と大野治長は処刑されてると思うから99%秀頼を実子だと思ってたんじゃね?
本当に秀吉の子かもしれないし。似てない親子もいるからな。
292 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/12 23:34:10
大岩祐夢先生、最終決戦で活躍してくれたら。
293 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/13 00:57:02
冬の陣の時、毛利、島津、加藤(九州)、福島はどうしてました?
たしか島津は嵐で着陣できず、福島は息子が出陣(着陣はしたの?)だったような・・・
後、夏の陣はなぜ西国大名は参戦してないの? 着陣する前に終戦?
マニアな方、教えて下さい。
294 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/21(月) 22:00:55
秀頼が戦いに出てきて戦死したら家康はもっと悪者になってたな。
秀頼、190cmの巨体といわれるが。
斎藤義龍も2Mちかくで、加藤清正も190cm以上ともいわれる。
プロレスラー並みだね。
295 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/21(月) 22:34:46
毛利・福島は息子が出陣、正則は江戸にいますた。
296 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 00:29:38
基本的に全員参加。
若干名の「嵐のために渡海出来ず」とか理由をつけて参加しなかった大名はいたけどね。
それも別に豊臣に日和っていたわけではなく、単なる感傷と思われ。
福島正則のみは江戸で押し込めにあってたが。息子が参加した。
297 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 00:48:36
>>294 義龍、秀頼がそんな長身であった確かな証拠はない。
誇張されている可能性が高い。
それと清正は鎧などから解析して170cmを超える程度だったと解析されてる。
平均身長160にも満たない当時としては巨漢だけどね。
復活してきたな、このスレ。
299 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 01:15:00
>>294 義龍、秀頼がそんなデカかったたしかな証拠はない。
デカかったとしても誇張されてるだろう。
清正も鎧からして175cm程度と推測されてる。
平均身長160もなかった当時としては巨漢だ。
300 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 01:33:46
300
301 :
>>293:2005/03/22(火) 02:45:09
>>295 >>296 サンクス!
福島の息子や家臣団はどんな心境だったんだろう・・・ 「隙あらば秀頼に馳走致さん!」
そんな甘くないか・・・
ちなみに夏の陣に西国大名不参加はすぐ終わっちゃたからっていう認識でよい?
>>平均身長160もなかった当時
ソース希望
303 :
293:2005/03/22(火) 03:00:48
>>295 >>296 サンクス!
福島の息子や家臣団ってどんな心境だったんだろう・・ 「隙あらば秀頼公に馳走致さん!」
んなわけないか・・
ちなみに夏の陣に西国大名不参加は、すぐにおわちゃったからっていう認識でよい?
304 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 03:21:12
305 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 03:43:24
>>301 >>303 そうだよ。
いわゆる豊臣恩顧大名も福島正則を除いては二代、三代に替わってて、
豊臣に対してなんら特別な感情は持っていず、ただ腐れ縁を邪魔に思ってただけ。
福島家も正則はともかく家臣や息子は豊臣をなんとも思ってなかっただろうね。
306 :
293:2005/03/22(火) 04:17:15
古田織部 増田長盛が夏の陣のあと切腹してるけど
具体的には彼等は何をしたの?
関ヶ原後に家康の意図に気付いた福島とか馬鹿すぎ。
308 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 06:52:29
>>306 増田 息子が大阪方につく不手際。
古田 講談などでは大阪方と組んで徳川軍を挟撃して天下取りなんて言われてるけど、
実際は単にモタモタして出陣が遅れたのを徳川に疑われただけ。
>>307 家康とて、はじめから何が何でも豊家滅亡というわけではなかっただろう。
淀君が秀頼の秀忠将軍就任の挨拶を拒否するなどの強硬策を取ったりして抵抗したり、
加藤清正、浅野親子など自分よりずっと若い豊臣恩顧武将がコロコロ死んでやりやすくなったなど、
いろんな要因が積み重なって豊臣滅亡になっただけ。
310 :
可児 ◆aSDVKRrj9Y :2005/03/22(火) 07:24:08
>>309 家康は秀忠将軍位就任の挨拶に秀頼はこないことを見越して、あえて言ったんじゃない?
まあ、淀が騒がずとも、もと筆頭大老の息子のために秀頼自ら下向するなんて、大坂方からすれば笑止なわけで、
可児としても
>>309の徳川厨ぶりに笑止なわけでWWWWWWWWW
>>310 >まあ、淀が騒がずとも、もと筆頭大老の息子のために秀頼自ら下向するなんて、
大坂方からすれば笑止なわけで
知恵が足りないからね。大坂方は。
312 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 08:05:42
素直に現実を見つめ、徳川配下の一大名として生きる道を選べばそれだけ済んだ事。
もっとも、ただの外様大名でも鬼のように取り潰されていくなかで生き残るのは、
そりゃあ難しかったと思うがね。這いつくばって床なめるくらいの低姿勢を示さないと。
314 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 12:19:12
しかし大坂にはうなるほどの金があったんだろ?
文無し状態なら徳川家に卑屈なまでに恭順したのだろうけど、
徳川幕府成立時点では、豊臣家のほうがずば抜けてお金持ちだったんでしょ?
いまいち従う気にはなれん罠。
ならば、滅ぶしかない。
いやなら金は全部徳川へ献金だね。
316 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 13:42:17
なんであんな狸にため込んだ金をやんなきゃいけないんだよ!
家康死ね!秀忠死ね!正信しね!正純しね!勝重死ね!
金を徳川に献金して、
淀殿と重臣をを人質に出して、
江戸に下向して諸大名の前で頭を垂れて、
大坂城を出て、国替えに応じれば生き残れたかもな。
>>316 全員故人ですが・・・?
318 :
316:2005/03/22(火) 14:16:01
福島なんか、わざわざ江戸に押し込めておく必要あったのか。
たとえ大坂方に加わったとしてもたいした戦力にはなるまい。
320 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 19:17:57
>>319 勿論、勝敗は左右しなかったけど、
若干、徳川方の損害は増えただろう。
とにかく少しでも大阪方の戦力は添いでおくべきだしな。
もっとも、仮に福島が自由の身でも今更、大阪方として戦うという事はありえなかったろう。
せいぜい「自分は病気の身」とか口実つけて参戦しなかった程度。
>>319 万万が一それが呼び水になって、
豊臣につく者が出ることを警戒したのではないかね。
豊臣に忠誠を感じてはいなくとも、
徳川に不満を持っていた者はいなくはなかっただろうし。
家康は慎重な人間だったし、
豊臣家は石高はたかが65万石と言っても、
浪人だけで10万人もの兵が集まってしまうほどの影響力があったのだから、
警戒し過ぎるということはないだろう。
322 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 20:36:04
>>321 当時の大名の中で不満なんか持ってる大名は毛利くらいだろう。
島津もすでに和解してたし、
江戸期の大名=勝ち組と言って差し支えなし。
わざわざ豊臣に組する危険を犯す必要なし。
>>322 だからこそ、万万が一と言っているのだよ。
まあ、上杉とかも不満はあっただろうが、
豊臣につこうとまではしないだろうしね。
325 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 20:56:35
>>324 上杉が仮に大阪なんかにつこうとしたらね
周りの最上やら伊達やら蒲生やらにボコボコにされるね。
なんか当時の状態って農民束縛に使われた五人組制度に良く似ている。
お互いを監視させあって農民を逃亡させないようにするあれね。
326 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 21:42:48
歴史小説(城塞だったかな?)で夏の陣で浅野勢の裏切りと錯覚し
関東勢おおいに混乱する。 とかいうのみたんだけど、実際に浅野勢が家康の本陣に
突入してたらかなりおもしろくない?
という事はif小説になっちゃうけど、福島正則「今は徳川の世、新恩に報いたく候」
幕府官僚「方々いかがいたす?」 他「正則は裏切るのではないか?」 他「否、まさか正則でもそこまで時勢に疎くあるまい。」
他「冬の陣のおりにも大坂に馳せ参じた大名は皆無じゃ。」 他「正則も徳川の世では肩身が狭く手柄をたてたいのじゃろう。」
正信「大御所、豊臣恩顧の正則でさえ率先して、大坂をせめる。これを世間にみせつけてはいかがか?」
家康「・・・。 正信!正則に伝えよ。出陣の儀あい許す。急ぎ国許に帰り大坂に参陣せよ。」
安芸広島49万8千石、福島右近衛権少将正則 当時、世間曰く歴戦の強者、戦国きっての闘将、日本最強の軍団と評す。
その正則が1万5千の大軍を率いて粛々と大坂へ進軍す。
福島勢は着陣後は得に目立つことは無く、黙々と家康の命令に従う。
そして、運命の日、五月七日
関東勢は徳川恩顧の大名達が先陣を争い意気揚々と大坂城に突撃を開始。 福島勢は蚊帳の外である。
「あぁ 太閤殿下これでよろしゅうござるか・・。」 正則「皆の者覚悟はよいか! 我、いま人がましい姿をしていられるのもこれひとえに太閤殿下のおかげ
今、大恩ある豊臣家に報いんば二度と人の道あるかればじ!」 「両御所の首をとって秀頼公に献上せん!」
正則「めざすは家康の本陣じゃ! みなのもの死ねや! 突撃ぃぃ!」
>>326 外様でも最も優遇されてる浅野が裏切るわけないじゃん。
幸長がいるのならともかく。
>>327 しかし徳川勢は信じてしまった為に真田の罠にはまった。
329 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 21:59:04
>>327 浅野勢が街道を移動するのを松平忠直勢が裏切りと勘違いしたんだってー
330 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 23:45:34
誰もツッコまないから
>>326の続き
家康本陣 ド・ド・ド・ド・ドォォォォ わあぁぁぁ
伝令「御注進!御注進!」 「福島正則変心! まっすぐこちらに向かっておりますぅぅ」
家康「何?まさか・・・」 重臣達「な・なんと・・」
伝令「申し上げます。お味方大混乱、敵は総攻撃に移った模様」
重臣「味方はほとんど前線にでており、御本陣は手薄ここはいったんお立ち退きくだされませ。」
家康「なんともろいことか・・ 勝ちは目の前ではないか・・。」
正信「大御所、まだ負けと決まったわけではござらん。 ここは旗本に防がせ、大御所は安全な場所へ。 敵の勢いを止めれば
数はまだまだ我等が優位、疲れればたちまち崩れさるは必定。」
「よしここはおぬしに任す。 将軍家に伝えよ戦はまだ終わってはおらぬ。 ただちにわしの救援にかけつけるべし」
「後それから松平忠直、井伊直孝にも伝えよ。 大坂いきおいづくも一時の事にすぎず。 一度いきおいを止めれば、後は息切れじゃ。よって今の戦線を維持し
味方の総崩れをふせげ!」
重臣「駕籠じゃ 駕籠をもて〜」
関東勢大混乱、大坂方勢いづく そして家康本陣離脱。
>>330 続きはチラシの裏で、それが嫌なら余所でやれ。
他人の自慰なんて見たくもない。
333 :
可児 ◆aSDVKRrj9Y :2005/03/23(水) 14:41:14
ほんとだよ!そんなん糞スレ覚悟!スレでやってくれよ!
てか、あのスレ最近めっきりなんだよ〜(T_T)
なんたがいって盛り上げてくれよ!!
家康としても、上方で人気のある豊臣家は潰さなくて済むなら、潰さなかったろうな。
ただ、大阪城、莫大な財産、60万余石の領主と言う立場は放置は出来ない。
出来れば、高家筆頭って感じで江戸在府、上方居住なら、完全に公家になってくれ、って感じじゃないかな。
公家にしても、豊家は永代太政大臣って感じで、朝廷内の徳川幕府の代理人のような立場で。
徳川将軍家より官位が高いなんて、幕府が承知せんだろう。
永代太政大臣なんて藤原氏からも反発が起こりそう。
御三家と同等の中納言・大納言がせいぜいじゃないかな。
>335
太政大臣よか関白ってほうが良いか。
少なくとも、豊臣家は貴族社会上、諸大臣家以上の家格はあったから(秀吉:関白・太政大臣、秀次:関白・左大臣、秀頼:右大臣)、完全に公家になれば、納言って事は無いと思うよ。
あくまでも徳川幕府と協調していったらの場合だけど。
337 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/24(木) 17:26:26
豊臣家は摂河泉の所領と大坂城を放棄。 幕府、諸大名には一切関与しない。
そのかわり、京で1万石ほどの所領と代々関白職の継承、武家の棟梁は徳川
公家の筆頭は豊臣家。
こんな条件だったら家康は許してくれないかな?
338 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/24(木) 18:23:52
あのう公家の筆頭なんかにして豊臣と天皇が同調したらどうするんですか( ´,_ゝ`)ぷっ
元天下人と天皇の影響力で反徳川の大名や浪人を募れば数万を超える大勢力となって一戦起こりかねませんよ?
例えそれで連合軍が負けても天皇を蔑ろにしたりしたら徳川は逆賊にされますよね?
代々関白職の継承って有力な公家連中が黙ってませんよ
大阪の陣は豊臣から権力を奪う為の戦いなのにそれで豊臣に権力与えて何になるんですか?
仮に豊臣を許すとすれば豊臣を名乗る事を許さずに農民以下に引き下げるとか
一族のうち幼い子供以外抹殺してそれをどっかの養子にしたり出家させたり
良くて千石程度の領土や低い官位を与えられたお飾りとして生き抜くか
とりあえず
>>337みたいな優良待遇はありえない
ちなみに家康が許すとも当然思えないが
前にも出ていたが、高家筆頭なら可能だと思う。
とは言っても大坂と所領を幕府に明け渡し、金銀を献上、
人質(淀)を出す、江戸まで下向して諸大名の前で臣下の礼をとる
の四つを秀忠が将軍職に就任する前までにやらないときついかもな。
摂関家も軍事力・経済力の亡くなった豊臣家に高位を譲るほど馬鹿じゃないでそw
大政奉還しとけ
342 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/24(木) 19:39:00
>>338〜341
豊臣家が生き残る方法で一番名誉が保たれる方法って何かある?
あと1611年に二条城で家康との会見の当時に豊臣家が挙兵したら
加藤清正、福島正則、浅野幸長あたりは味方してくれたと思う?
>338
代々の関白と言うか、豊臣家の嫡流が関白職に就ける段階になれば(つまり徳川家の代理人として働ける状態)、基本的に関白になれる位置と言う事です。
その間は以前からの摂関家が就任すれば良いでしょう。
秀頼自身は実質的な天下人と言う立場だった事があるでしょうか?
当事の人々の感覚では、家康が関ヶ原に勝利し、大坂城西の丸に入った段階で、家康の事を天下様、と呼んでいた、と言う記録もあります。
そして、豊臣恩顧の大名家も早々に徳川家に臣従しました。
豊臣家が大坂城(および財貨)と60万余石の領地を放棄すれば直轄の軍事力は保持できません。そして経済力も。
そんな状況で、藩祖は内心反徳川だったとしても、代替わりを始めている大名家が徳川幕府に反するとはとても思えません。大名家の存続>豊臣家の天下でしょうから。
朝廷が豊臣家に好意的であったとしても、基本的に有力者側につくスタンスであって、豊臣家に好意以上の対応は行わないでしょう。
>340
摂関家のみで朝廷の官位がきまる状況ではありません。豊臣家が徳川幕府の代理人のような立場であれば、幕府の意向があれば逆らえないのでは?
そりゃ、抵抗はあるでしょうが、秀吉・秀次と関白就任を認めている訳ですから(しかも秀頼自身は右大臣)、形式上、問題が無い訳です。
豊臣家を公家のようにして天皇家との交渉役にするなんてのは100%完全にありえない。
絶対にない。
徳川幕府は他の大名家が朝廷と接触することを極端に嫌った。
幕府の正当性が征夷大将軍という朝廷に与えられた位に依存している以上、
それを覆すことが可能な朝廷と、
自分たちに敵対する可能性がある大名家が接触するのは危険すぎるからだ。
実際、明治維新はそういう形で起こされた。
そのような重要な朝廷との交渉役にわざわざ、
旧主家などという徳川にとって微妙な存在をあてがうのは狂気の沙汰。
百害あって一利なし。家康が突然発狂でもしない限りありえない。
>>343 先に豊臣家を存続させるという結論ありきで、
徳川にとっていかなる利益があるからそのようなことをするのか、
その全く説明がないようですが?
>>334 人気があることは、むしろ潰さなければならない理由にしかならないが。
>344、345
豊臣家が徳川将軍のように、ずっと関白職を独占する訳でもなく、摂関家の中で比較第一位と言う立場です。
天皇の意向は過少評価できませんが、天皇の意向だけで朝廷は動くものではありません。天皇との交渉と言うより、朝廷と言うべきでしょう。
また、当事の朝廷に政権担当者になる気があったでしょうか?
豊臣家を厚遇すれば、徳川家と距離のある豊臣恩顧の外様大名も板ばさみにならず、素直に徳川家に臣従できるでしょうし、豊臣家に世俗的権勢が無ければ、豊臣恩顧の諸大名に対し、無用な猜疑をかけなくて済むでしょう。
将来的に所領の大きい外様大名の処分は必要としても、幕府が安定するまでは、混乱の要素(戦争の可能性)は排除したいでしょうから。
また、豊臣家も秀頼時代は秀吉の影が付きまとうかもしれませんが、公家化の方向であれば、将来的には上級公家の一家になるだけであって、代を重ねる程無害化か期待出きる訳です。
しかも、公家から徳川家に嫁いだ例はあっても、徳川家の血が公家に入った例は少ないと思います(天皇家は秀忠の娘が嫁いでますが)。
秀頼に千姫が嫁いでますから、将来有力公家に徳川家の血が入る可能性もある訳です。
つまり、当面の幕府体制の安定のために利益があれば(豊臣家がある程度素直に徳川幕府に従う場合)、存続させると言うのもあるのではないか、と言う事です。
あと、人気があるから潰さなきゃ、との事ですが、
確かに理由と成り得ます。
しかし、豊臣家が世俗領主の権勢を捨てると言う選択をしたのに、それでも潰す、となるとどうでしょう?
豊臣恩顧の外様大名の反発がかなり大きくなるんではないでしょうか?豊臣恩顧の外様大名以外のものにも悪い影響がでるでしょうし。
人気がある上、大坂城と言う要地も手放さない、財力も当面は豊富、60万余石の領地もある、その上徳川家に従わない、じゃ潰すしか無いでしょうが。
>>346 だから、「朝廷」との交渉は重要事項で、
それによりにもよって豊臣家を使うなんてのはありえないの。
だいたい、豊臣家への恩との間で板ばさみになる、
或いは豊臣家が存続すれば、素直に徳川に臣従するなんていう、
豊臣家にも恩を感じている、ような外様大名は徳川を絶対視していない点で、
それだけで徳川にとっては危険。疑うどころか、その段階で取り潰しの対象だし、
そのような大名家がいて、その上豊臣家に権威が残っているなどという状況は、
決して認められない。
>348
朝廷との交渉役と言うのは、自分でもどうかと思いつつ書いてるけどね。
しかし豊臣恩顧大名に関しては、豊臣家が世俗的権勢さえ持たずに存続してくれれば、徳川幕府への反発を和らげるでしょう。
また徳川幕府も将来、豊臣恩顧の大名家を潰すにしても、幕府の体制が安定し、幕府が絶対的な権威・権力を持つまでは無用な混乱は避けたいでしょう。
>>349 幕府が絶対的な権威・権力を持つまではとのことだが、
権威の中枢、その根源とも言える朝廷に豊臣を近づけるなどということは、
その妨げにしかならないのだが?
徳川幕府の存続にとって、
誰かに徳川討伐の大義名分を与えないというのは極めて重要なことであり、
そういう大義名分を与えることが出来るものとしては、
疑いようもなく朝廷が最有力な存在なわけだ。
だからこそ、幕府は朝廷の掌握に全力を上げた、
繰り返すが幕末にはそのような幕府による朝廷の掌握が外れたことにより、
明治維新となってしまった。
そのような、微妙な存在である朝廷内部に有力貴族として、
自身を怨んでいる可能性が高いかつての主君の家を送り込むなぞというのは、
正に狂気の沙汰。
仮に豊臣が本心から徳川のために貴族として朝廷内で働きたいと思っても、
そんなことは信用できない。朝廷に近づけるだけでもありえない。
徳川幕府はより安定的に政権を存続させる為に、
実力のみならず、権威でも最有力なものになろうとしていた。
これ以前以後の日本の歴史を見ればそれが重要なことなのは明らかだ。
その状況で、唯でさえ元主君ということで煙たい存在である豊臣家を、
貴族、それも関白になれるような有力貴族などという、
高い権威のある存在にするなどというのは、幕府の目的の全く反対のことで、
到底許容できるものではない。
仮に豊臣家の世俗的権力と引き換えでも、徳川家にとってさほど割りのいい話ではないし、
権威も権力もないただの大名だの、お伽衆みたいな存在になるというならともかく、
そんな条件をつけてまで豊臣家を存続させてやる義理は徳川にはない。
元は家臣なんだから、義理くらいはあるような気もするが。
しかし、徳川にはそんな事をするメリットもなければ、そんな意思も当然ないわな。
>350
権威といってもね、当時の朝廷は、ほとんど権威なかったんですよ。
上方、それも京くらい。
朝廷に残ってたのは官位授与権・年号制定権くらい。
これも諸大名に幕府が直接言い渡して、その日から通用したし、朝廷にも事後報告のみ。大名家も官位の事を「名」って呼んでてあんまり重要視してない。
元号も形式上、幕府・朝廷別々に検討し、朝・幕統一採用。
そんな朝廷になんら権力の無い豊臣家が近づいても妨げにはならんでしょ。
355 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/24(木) 23:03:02
|∀・)ミタヨー
で、豊臣方に大坂の陣(特に冬)の時、勝てるとしたら、どんな感じだろ?
357 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/24(木) 23:05:56
>>354 それは違う。いくら武家社会といっても、朝廷の力は非常に大きく、公家と婚約でもしたら大変な地位と名誉を得られるし、公家のお偉いさんがやめろと言ったら、何が何でも和解しなければならなかったんだ。
そうじゃないと、天皇なんて潰されてるだろ。
>>354 >諸大名に幕府が直接言い渡して、その日から通用したし、朝廷にも事後報告のみ。
だから、注意してそういう風にしていたのではないか。
朝廷が諸大名に勝手に官位授与なんてされては幕府としてはたまったものではない。
征夷大将軍も朝廷からおくられた位に過ぎず、
幕府の正当性が認められるのも少なくとも建前上は朝廷の権威による。
この建前上はってのがどの程度重要かは日本の歴史を見れば明らか、
無論、最終的に建前は建前であってもね。
359 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/25(金) 00:43:16
>>354 妨げにはならんでしょという所から潰さなきゃ。事が起きてからじゃ遅い
徳川幕府は成立の過程までで多くの被害者、敵を作ってるわけでそういうとこには細心の注意を払わねばならない
何度もいわれてるがその被害者のリーダーである豊臣を生かしておいてロクな事はない
平氏も情をかけて生かしてやった頼朝に滅ぼされてる過去の歴史があるわけで
>>356 無理ではないだろうが限りなく無理。例え勝っても物量の差で負ける
清正、幸長、昌幸他豊臣恩恵が生きて豊臣派ならば勝率5%は上がる
だが結局淀とかのキチ外が権力を貪る限り勝てない
>>354 そういう状況が、
幕府が朝廷を掌握していた状況というのですよ。
中でも官位授与、特に武家へのそれを幕府が管理するなんていうのは、
鎌倉以来の幕府の権威保持の基本中の基本。
それだけしっかり幕府が管理しなければならない。
そこに、徳川に恨みを抱く(と思われる)豊臣を入れるなんてのは全く無茶苦茶。
掌握がしっかり出来ていた、だからそれを疎かにしてもいいなんてのは、
本末転倒というか、論理の破綻。
>>354 まったく逆、もし何の権威もなくどうでも良かったなら、
官位も年号も朝廷に勝手にやらせるはず。
むしろ勝手にやられては困るので完全に管理していた。
362 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/25(金) 01:13:52
大坂夏の陣の最後の決戦で家康、秀忠の両方が討ち死にして
城方が勝っちゃったらその後どうなるの?
家光が継ぐ。少しは重臣の権力争いが起こるかもしれんがそれに
豊臣がつけこむなど無理
364 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/25(金) 01:45:07
>>363 じゃあ結局、どんな事が起きようと秀頼天下人返り咲き!
なんてないのね。
もしくは大坂方がなぜか現代兵器を装備するしかないのね。
自衛隊はもういい
>>359 清正は晩年、「豊臣と徳川の恩の板挟みで辛い、早く死んでしまえたらなあ・・・」と嘆いているからな。
大坂方に加わるかは微妙かも。
>>364 天下は一人で治めるものではないからな。
統治に長けた人材と官僚機構が必要だが、
そのどちらも、しかも量・質ともに大坂方には欠けている。
関ヶ原で豊臣政権の基盤は無くなったも同然。
367 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/25(金) 06:31:22
>>356 豊臣が勝てたとしても
あくまで戦術的勝利止まり。
どう考えても後が続かない。
368 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/25(金) 13:52:03
大阪を強引にでも勝たせるなら家康、秀忠、家光、忠輝、義直、頼宣、頼房が同時期に死ぬくらいの
ミラクルが不可欠。その上で豊臣恩恵が生き永らえ豊臣に味方し15万を超える兵と大量の兵器
豊臣家の5人以上の血族。これだけあっても確実に豊臣が勝てるとも言い切れない
369 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/25(金) 14:07:47
豊臣家弱わすw
所詮は運次第さ
まあ家康が天下取れたのは家康以上の人間が全員死んだから
頭の悪い生徒が「あと20人殺せば俺このクラスで一番なのに」
っていうのが実現した様なもの
ラッキーだな、家康…
運も実力の内と言うけど家康の場合は健康管理に気を使っていたから長生きしたのは運以外の要素もあると言えばあるんだろうけどね。
どっちにしても秀頼は素直に一徳川大名として恭順の意を示せなかったのが痛い。
373 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/25(金) 14:57:10
家康が参加した有名な戦
◎ 桶狭間
◎ 三方ヶ原
◎ 越前の退き口
◎ 姉川
◎ 長篠
◎ 天王山
◎ 小牧長久手
◎ 小田原の陣
◎ 関ケ原
◎ 大坂の陣
大坂の陣の時に彼の履歴書みてみるとやっぱ別格か!!
おき付きかとも思うが釣りを一ついれてry
秀頼が参加した有名な戦
勝負になんねw
375 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/25(金) 16:10:30
秀頼・・・orz
おお神よ、何故よなたはこの豊臣秀頼を生んでおきながら
何故あの徳川家康まで生んだしまったのだ!!
・・・・・なんて思ってたんだろう
何も考えずに女中の尻を追い回していた可能性の方が高いようなw
378 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/25(金) 17:33:35
秀頼って繁殖能力だけは秀吉超えてなかった?
380 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/25(金) 19:44:51
>>379 秀吉の実子って
秀勝、鶴松、秀頼だっけ?
381 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/25(金) 20:48:36
寿命の差があるじゃろが
鶴松が長生きしたら豊臣ってどうなったんだろな
鶴松と秀長が死んだ辺りで秀吉が狂ったわけでもしや朝鮮出兵もなくなったかもしれない
利家とか清正の手ですくすく育てば期待できそうだが秀吉は子育て苦手っぽいしな・・・
383 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/25(金) 21:56:14
秀吉→悟空
利家→ピッコロでつね。
384 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/25(金) 22:00:14
>>372 当時の医学レベルでは健康管理にいくら気を使っても
75みたいな高齢まで生きられる保証はなかったのだから、
やはり運の要素も大きい。
今川義元、武田信玄、織田信長、織田信忠、豊臣秀長、豊臣秀次、豊臣秀吉、前田利家などが先に死んでラッキーだろう。
他に羽柴秀勝(実子?)、羽柴秀勝(信長五男)、浅井長政、蜂須賀小六、竹中半兵衛、
明智光秀、柴田勝家、織田信孝、小早川隆景、豊臣鶴松、加藤清正、浅野長政、浅野幸長が
先に死んだのもラッキー。
100円で買った宝クジで3億当たった感じ
「当たるわけねえよ」とか思って気づいてたら当たっちゃった・・・・・
なんてわけあるわボケ狸が('A`)
>>384 実際、家康は一度病気で死にかけているしな。
ただ運だけではなく、
その運を活かすだけの能力があったとは思うぞ。
387 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/25(金) 22:27:07
家康が秀吉より先に死んでたら、温厚で義理堅い武将って事になってたんだろね。
ちなみにその後、徳川家は秀吉により解体??
388 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/25(金) 22:29:41
>>387 まあ、100万石程度には確実に落とされてただろうね
百万石減封という事は旧領三カ国か。だが理由もなく五大老の領土は削れないだろ
何か理由(一揆多発による責任とか謀反の噂など)をつければ問題なさそうだが
妄想だが五大老制から七大老制にする事で領土を整えるとかもありかな
390 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 00:58:59
家康が関東に移封の時一応
135万石→256万石に大加増だけど、うれしかったの?
それともクソ!って感じだったの?
391 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 01:02:08
おそらくギャンブル気分だったんだと
開拓に成功すれば所領倍で天下に敵なしの超大大名
しかし失敗すれば旧領以下の小領に押し込められたり下手すりゃ切腹も有得る
おそらく家康の人生においての重要な曲がり角だったはず
392 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 01:06:45
そのへんが隣の阿呆ボンボンはわかってなかったんだなw
出先で転封って言われたら城にこもるわけにもいかんし
393 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 01:12:22
家康やその家臣団は豊臣家に対して恩なんて感じてたのかな。
これっぽっちの忠誠心もなかったのかなあ。
個人的にはまったく無かったように思えるんだが・・
「豊臣家?はあ?ぺっ!」って
394 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 01:14:08
正則は何だかんだ言って、大阪の陣に出陣している件について。
395 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 01:17:17
正直世の中の流れに則った感じ
396 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 01:24:52
>>395 まさに奸臣の鏡。
人の風上にも置けぬ。
裏切り者の恩知らず。ひとでなし。人の皮をかぶった野獣。とは奴の事。
私憤に身を任せ、狸の罠にまんまとはまる凡俗。
最後には自分の保身を選んだ卑怯者。
『時代だから』などと今の若造のような言い訳をした凡愚。
縛られて無抵抗な三成を長時間ののしった挙句、一言で一蹴された馬鹿。
397 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 01:33:13
>>394 してないよ。してるのは息子だけ。
本人は江戸で押し込め。
398 :
可児 ◆aSDVKRrj9Y :2005/03/26(土) 02:14:28
主君への数々罵倒!ゆるせぬわ!
>>393 家康とその家臣団に、豊家に対する忠誠心なんてあるわけないじゃん。
徳川家は秀吉の軍事力・経済力に屈服させられて家臣になったわけで、
そんな奴らがなんで心の底から秀吉に忠誠を尽くすのか。
血の気の多い三河武士の中には、
「秀吉? ハア? 俺ら長久手で勝ってるんだぜ?」
って考えてる奴も多かったんじゃないかな。
400 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 02:35:56
豊臣家としてはやっぱり、朝鮮の役や秀次切腹の前に
難癖つけて家康滅ぼすべきだったな・・・
>>400 そのへんは、やはり秀吉が天下統一を急ぎすぎた結果かな・・・と思う。
もっとじっくり、敵対要素をひとつひとつ潰していくべきだったと思うな。
でもそれには時間も費用も、大変な労力が必要とされる。
でも秀吉はそれをやらなかった。
自分に臣従さえしてくれれば、本領安堵はとりあえず認めた。
その結果、巨大な外様大名が乱立し、結局は豊家政権崩壊へ繋がったんでないかな。
秀吉は天下取りを急ぎすぎたんだよ。
農民出身の秀吉の出世欲は凄まじかったんだろうと思う。
その辺が、スタート時にハンディを背負った成り上がり武将の限界かな・・・と思う。
402 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 06:57:35
>>399 長久手ねえ。
あれは池田恒興の別動隊を破っただけだし。
あんまり勝利を意識はしてないだろう。
それを言えば榊原隊も堀隊に痛撃、食わされてるし。
>>402 あれだけの兵力差があれば引き分けでも上等
そこを戦術的勝利にもってったんだから、得意気になるのも当然
堀も頑張ったが、森長可も死んでるし、一門で恥晒す奴はいるし
秀吉が直々に率いた部隊が負けなければ秀吉の負けではないって考えはおかしい
秀吉が家康に色々と遠慮しなければならなかった最大の原因は、
小牧・長久手で戦力差で圧倒していながら勝てなかったことでしょ。
特に長久手での敗戦は痛烈だったわけで。
家康自身、秀吉と諸侯の前で長久手の勝利を自慢してるしな。
406 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 13:55:18
そうかな?
所詮は局地戦で別動隊を本軍で敗ったものであって、秀吉本隊を負かしたわけではない
一族の恥じ晒しは置いとくとして、池田も森も秀吉と同格の大名で、それらが血気に逸って家康の裏をかいて進軍し、逆に討たれたってことでしょ
秀吉が戦で負けたわけではない
>>406 は?池田も森も秀吉と同格?
どこの別世界の話ですか?
>406
戦術的には負けていないが、戦略的には目的完遂出来ず(外交力でカバーしたけど)。
対して、
家康は戦術的には秀吉よりポイントが上、戦略的にもまあまあ納得のいく結果。
どっちも完勝してはいないが、家康の優勢の引き分けって所だと思うぞ。
>>408 話がかみ合っていないような。
406は長久手での戦闘のことを言ってるんだと思うよ。
それに対して君は、小牧・長久手の合戦全体のことを言ってるような。
以下、長久手での局地戦について。
池田も森も未だ完全な臣従関係ではないが、れっきとした秀吉の傘下の武将。
部下である彼らの提案にGOサインを出したのは、総大将である秀吉なんだから、
やはりこれは秀吉の敗北というべきだろう。
まあこの秀吉の決断には、同情すべき余地もあるんだけどね。
池田や森は、秀吉の元上司であり同僚だった武将だから。
410 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 14:27:15
>>407 言葉が足りなかったな
池田にも森にもそれくらいの自負があったってこと
元は同じ織田の将校なわけだし
でなければ秀吉に直訴までして岡崎攻めさせろ何て言えたもんじゃない
秀吉だってまだ完全にそれら織田の旧臣をまとめあげていたわけではないからこそ突っぱねることも出来ず、結局は押しきられる形になって恥じ晒し者を付けて渋々了承したでしょ
それを言いたかったのさ
>>408 なるほどな、引き分けってなら解る気がする
ただ家康が有利とは思えない
最終的には外交力が物を言うんだから五分ってとこじゃね?
最終的には家康を屈服させ上洛させたんだから秀吉の戦略的勝利ととるか、
秀吉でさえ手がつけられない大大名となった家康の優勢ととるか、
この見解の違いかな。
豊臣に臣従した後の徳川の待遇は長久手の戦いがあってこその物
そう考えるとやはり徳川の勝利では?
ただ秀吉は徳川との戦いだけ専念してればよかったわけじゃないから
あえて家康との決着をつけずに、それ以外の場所ですべて勝利する
道を選んだんじゃない?
長久手の戦いの敗戦につながった三河侵攻策は秀吉の発案だろ?
池田のだろ
それは秀吉の失敗をごまかす為の捏造と聞いたが?
賤ヶ岳の戦いの段階で丹羽長秀に対してさえ完全にリーダーシップをとっている秀吉が、
何で今更池田あたりに気を使わなければならない?
仮に発案が池田でも、
秀吉が反対しきれずしぶしぶ了承したなんて弱い立場であるはずがない。
三河侵攻策を進言したのは池田恒興だよ。
秀吉はその案には否定的だったが、恒興にヘソを曲げられることを恐れたため
却下できず、しぶしぶ承知した。
この頃の秀吉は、織田家出身の武将を完全に服従させるまでには至っておらず、
自分に協力してもらうために、機嫌をとったり遠慮したりしなければならなかった。
とはいえ、秀吉に敗戦の責任なしとは言えないが。
理由は何であれ、OKしたのは事実だからして。監督者責任ってやつだ。
別の視点から見れば、
池田・森・秀次への攻撃に徳川本隊が動いた段階で、
秀吉がそれを察知し、秀吉本隊が小牧山に攻めかかれば、
状況的に完全な秀吉軍の勝利だったわけで。
秀吉に気づかれることなく本隊を動かし、
敵の別働隊を壊滅せしめた家康にどうしても軍配が上がるわな。
あくまで戦術的には。
秀吉が池田を味方に引き入れる際に約束した恩賞が美濃一国。
秀吉としては、池田の失策を引き出して、恩賞の減額を謀りたい
ところだろ。
>>417 でも家康には地理的なアドバンテージがあるからな
420 :
可児 ◆aSDVKRrj9Y :2005/03/27(日) 01:15:28
もう、受け売り司馬厨ども黙れよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwうっさいよWWWWWW
―糸冬 了―
421 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/27(日) 02:22:47
>>415 そんなソースもない事、堂々と主張されてもね。
だいたい池田は秀吉に匹敵するくらいの大物だったしさ。
422 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/27(日) 02:29:53
なんにせよ家康は秀吉を完全に打ち負かす気などなく、戦術的勝利の後で有利な条件で講和というのが目的だろう。
ただ、それが「秀吉配下になる」という所までやられるとは予想してなかったかもしれないけどね。
そういう意味では秀吉の政略勝ち。
家康は確かに腹に一物の武将だけど、何もかも見通せたわけではない。
少なくとも秀吉が存命している限りは秀吉配下であり彼が天下が取る事はできないと確定した戦いでもあるから、
痛い部分もあったろう。
家康は「自分が天下を取れたのは運である」と言っている。
本人がそう言ってるんだから間違いないだろうね。
424 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/27(日) 02:38:51
そりゃあそうだろう。人質同然の身から今川義元の横死で旧領復旧だけでも奇跡ものだよ。
同盟国の信長があんなに出世して天下目前に死んだ事も運がいい。気付けば実力No1だからな。
425 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/27(日) 09:14:28
実力がNo.1ってのより、やっぱり255万石の大領主だってことが多きと思う
仮に家康が暗愚だったとしても、生きてさえいれば広大な領地を背景に天下を取れるような気がする
426 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/27(日) 09:40:53
天下統一の後、秀吉は家康の事どう思ってたんだろ?
海外出征するしそんなに気にしない? それともいつか取り潰す気かな?
信頼してた? 畏怖してた?
天下人と当代きっての実力者の人間関係っておもしろいね。
>>419 決戦地は尾張だろう?
家康よりも秀吉や池田の方にとって地元じゃあないか?
>>425 250万石ももちろん大きかったと思うが、
「徳川家康」のネームバリューも大きかったと思うぞ。
実は佐々のような自爆を狙った
431 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 00:57:08
織田信雄が家康の旧領にすんなり移ってたら関ヶ原は家康ボロ勝ちか?
>>425 そのIFはおかしいだろ、家康は秀頼みたいに生まれた時から
大領主だったわけじゃないんだから、人質時代からここまで来たこと自体が
運も含めて家康の実力だろ、秀忠に255万石ポンと渡して天下とれるかっていうなら微妙だが
433 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 01:44:14
遠駿三に甲斐南信濃135万石 信雄
関八州256万石 家康
結城秀康 10万石
あぶねえ〜
信雄は小田原征伐で生き残っても、朝鮮征伐に行きたくないとか言い出したり、
秀次事件に連座とかで没落しそうな気がするなw
435 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 02:29:21
信雄はそういった星の下に産まれたんだよ
それも運だ
その点、家康は幸運の持ち主だな
秀吉が死んだ時点で、自分に対抗しうる国力を持ってる奴が居なかっただけな希ガス
将としての能力なんて運に物言わせてるところがあるから、言われてる程高くはないと思う
同じ身代を持ってれば、黒田や伊達が天下取れたと妄想してみる
436 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 02:51:08
>>433 家康は関八州を支配してない。
常陸には佐竹、安房には里見、その他もろもろで
家康の関東の諸領は220万石で
あとは駿河、三河、近江、山城などにちょこちょこと飛び地を与えられて計250万石。
あと秀吉の所領は220万石。
それに加えて各地の金山・銀山や堺・博多などの貿易権も握り徳川家よりは総収入は多かった。
だが、問題は大阪付近の領地以外は各地に分散していた事だ。
これ自体は江戸時代の徳川家の天領と変わらないが
問題は豊臣の被官が管理したのではなく
各地の大名に預けて、そこから年貢を提出させる方式だったという事。
秀吉が存命していた頃はその威光で各地の大名もちゃんと年貢を提出していたが
秀吉が死んでしまうと、家康の介入もあり大阪城近辺以外の所領は皆、各地の大名に取られてしまった。
437 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 03:00:34
あと江戸時代の徳川家は800万石とかいうが、それは微妙。
それはあくまで徳川宗家に加え譜代・親藩を全て併せた数字。
そんな事言えば、豊臣家にも譜代・親藩はあった。
親藩は宇喜多、小早川、豊臣秀長、木下家など。
譜代は黒田、竹中、蒲生、蜂須賀、浅野、加藤、福島ら七本槍など山崎の戦い以前から秀吉に従っていた者がそうと言える。
しかし彼らは徳川家と譜代のような結び付きの強さはなかった。
秀吉が死ぬとたちまち独自の行動を取りはじめてしまった。
>>435 石橋を叩いて渡る性格の家康を『運に物言わせてるところがあるから』
なんて評するお前の気が知れない
439 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 03:11:26
そもそも豊臣家は厳密には滅亡してないからな。
二つ残った木下家(秀吉が遠縁の親戚に継がせた)が「豊臣」の名字を大阪の陣以降も名乗る事を許されてるし。
440 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 03:19:04
>>428 そりゃちょっと違うだろう。
家康が天下取れたのは大きな目で見れば運の要素も大きい。
無論、その運を逃さずに長い年月をかけて天下を取ったのはたいしたものだが。
>>438 石橋を叩いて渡る性格なんて見てきた様に言い切るお前の気が知れない
単なる臆病なだけかも知れず、たまたま良い方向にいっただけかもしんない
442 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 09:22:37
運も実力の内と言うし、その巡ってきたチャンスを活かすことが出来る家康は十分凄い人物だ
が、天下を取れたのは運が良かったのがデカいってのは否めない
結局、家康に抗す事ができる人物が上方周辺に大禄を持ってなかったに過ぎない
そりゃあ、信長だって秀吉だった運の要素は大きいからなあ。
同じくらいは運だったと思うぞ。
しかし、家康が豊臣政権内で圧倒的な立場を築いたのは、
戦術的に秀吉に勝ったという実績によるのだから、
実力の方も疑いないがね。
444 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 11:56:56
そりゃそうさ、実力がない者に天下が取れるわけない
だが家康が信長・秀吉の二人とは全然違うと思う
信長はほとんど0に近いとこから始めて天下人になり、秀吉も信長の後を継ぐような形とはいえ実力で諸候を斬り従えた
家康はそれらが死んだ後に図々しくも乗っかったように思える
家康の最大のラッキーは信長・秀吉と同時代に産まれたことだろう
>>444 それだったら、秀吉も織田家を乗っ取っただけでしょ。
それにさえ成功してしまえば、他の残敵なんてそれほどたいしたことはない。
既に織田家は圧倒的に強力な存在になっていたのだから。
446 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 12:41:20
いやいや、柴田だっていたし何より他でもない家康が居たっしょ
丹羽や信孝・信雄だって居るし、毛利だって居る
東は上杉に北条だって居る以上、秀吉と家康が同じ条件とは言えないだろ
>>444 信長を天下人までいかせたのは家康の労力によるとこも大きいけどな。
秀吉のほうがはるかに楽している。
448 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 12:50:03
449 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 12:52:32
>>447 労力というかただ単に利用されただけだろ
450 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 13:31:26
秀吉は武将になるまでの労力もかかってるから楽とはいえん
天下取りに乗り出してからは早かったけど
信長が本能寺の変で横死しなかったとしても、
秀吉並のスピード天下統一が達成できたとは到底思えない
本願寺攻略するのに十年もかかってるし
清濁併せ持った秀吉だから諸侯も渋々ながら従った
「織田がつき羽柴がこねし天下餅、座りしままに食うは徳川」
少し時代が下って江戸時代の狂歌だけど、
当時から家康は前者二人よりもずっと狡猾で、
ただ長生きしただけで天下を獲ったと庶民から見られていたみたいです
453 :
452:2005/03/28(月) 13:46:14
ただ長生きしただけってのは変だから、
「家康の覇業は信長や秀吉の天下統一よりずっと楽だった」
と見られてたって言った方が正確かもしれないけど
でも家康は「長生きすることが天下を取る上で一番大切なことだ!」って思ってたんじゃないの?
手段を選ばない狡猾さも、その点を含めて考えればやっぱり家康は天才だったんだなぁと思う。
ぶっちゃけ秀吉も家康もスタートラインを考えれば恵まれてるとはいいがたいが
結局天下を取った人物なんて他人からは幸運、強運って言われちゃうもんなんだろ
>>452 それは現行の政権に対する皮肉の意味が大きいだろ
何の行動も起こさない奴に限って
過去に遡って都合のいい歴史を妄想する
457 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 16:14:04
秀吉も家康も日本史上有数の大偉人だけど家康は天才って感じはしないな
努力の人、忍耐の人ってイメージ
まあこれは小説などのメディアによる印象が大きいと思うが
ていうか大坂の陣のスレなのにやっぱり秀吉と家康の人物比較になっちゃうのね
459 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 16:33:31
>>458 別にいいんでね?
大阪の陣=豊臣VS徳川なんだから明らかなスレ違いって訳でもないし、特に議論するネタも無いから問題ねえべよ?
460 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 16:42:09
家康が運だけの男なら関ヶ原で誰も東軍に寝返りはせんはなw
西軍大将の毛利ですら西軍に勝気なしと動いた訳で。
思っている以上に当時の家康は強かった。
西軍の事実上の総大将が光成なら家康につくわな
家康が運だけの男とは誰も言ってないと思うが
まあ信長没後光秀・勝家・家康とライバルたちと戦い抜いて天下を獲った秀吉と比べて、
家康はライバルと雌雄を決するよりも相手が死ぬのを待っていただけ、みたいな見方も出来ないでもない
関ヶ原でも実際の相手は豊臣家でも毛利でも上杉でもなくたかが20万石の大名の三成だもんな
三成には悪いが格落ち感が否めない
自分一人ならどちらに付くも自由だが、
一族や家臣の事を考えれば、より強きに付きたくなるからな。
足並みの揃わない三成主導の西軍と、
石高・名声・実力共に天下の第一人者である家康率いる東軍なら、
東軍に合力したくなるってものよ、毛利ですらな。
結局、家康に対抗できる秀吉或いは利家存命中に家康をどうにか出来なかった時点で
徳川が天下を持っていく可能性がとても高い訳で。
その上関ヶ原で豊臣の官僚機構は消滅、
代替わりで豊臣恩顧の大名が居なくなり、大坂の陣ではもうどうしようもないな。
464 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 17:41:55
大阪の陣は家康が強引に進めたとはいえ、豊臣方の自業自得。
家康を殺る気が無いならおとなしく大阪城を出てればよかった。
しかもどうせやるなら加藤、浅野等が存命のうちに何とか・・
>>464 加藤や浅野が死んだから家康が豊臣家を潰しにかかったんだろ
大坂の役のきっかけとなった方広寺鐘銘事件が1614年の夏だかんね
二人が存命なら家康もこんな強引な手法をとらなかったろう
466 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 17:52:04
運だけの男と言われて平安初期の某初代征夷大将軍を思い出した俺は負け組
>>465 むしろ潰すために邪魔な加藤や浅野を消したと思うのだが。
立て続けに豊臣恩顧の大名がばたばたと死んでいるのは不自然。
じゃあ何故福島正則、ひいては秀頼本人を殺さなかったのか?
特に秀頼にはまだ嫡子がいなかったので、秀頼急逝なら豊臣家は存続できなかったはず
(当時国松の存在はまだ一般には明らかにされてなかった)
江戸時代初期から広く言われてた説だね>加藤清正暗殺
さしたる根拠も無かったはずだが、いかにもありそうな話だとしてまことしやかに囁かれた
あの家康ならやりかねない、ってのが当時の民衆の偽らざる心境だろうし、
そう思われても仕方ないことを家康は豊臣家に対してしてきた
>468
1614 仙石秀久、死去
も追加してほしい。
>>467 家康だってその後すぐ死んでるんだから
単にギリギリまで待ったと見るのが妥当では?
>>468 豊臣一門にして七本槍筆頭の福島正則様が健在じゃないですか
476 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 19:52:57
>>454 だからあ。
いくら健康に気をつけても、
当時の医学水準で100%、75くんだりまで生きられる保証なんてないだろうが?
当時どころか現在でも無理。現代の日本でも70前に死ぬ人なんて随分いる。
結核菌に感染すればそれまで。
癌になればそれまでだろ。
>>437 >あと江戸時代の徳川家は800万石とかいうが、それは微妙。
>それはあくまで徳川宗家に加え譜代・親藩を全て併せた数字。
いや、天領と旗本知行地を合わせただけで700万石ありますが。
それに御三家を加えるだけでゆうに800万石超えちゃう。
親藩は他にもたくさんいるし、
彦根井伊家を筆頭とする譜代大名領も当然百万石以上だよ。
江戸幕府が磐石だったのは、
全国3000万石のうち、幕府だけでじつに4分の1までを領有していたから。
それに親藩・譜代を加えれば、ちょっとやそっと外様が連合しても勝てっこない。
親藩・譜代も含めてたった800万石じゃ、こうはならんよ。
478 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 20:02:18
>>468 池田輝政は家康の娘婿で完璧に徳川の味方。
田中吉政も別に豊臣恩顧ではない、むしろ三成恩顧でその三成すら自分のために裏切ってる。
仙石も完璧に徳川恩顧だし。織田信包も豊臣恩顧ではない。
浅野親子は早くから徳川に味方してるし、
二条城の会見で秀頼を守ったというのは事実ではない。
単に家康の命令で秀頼・淀君を説得しただけ。幸長が淀君を説得する時に「秀頼は私が守る」とか発言したかもしれんが。
加藤清正も以前から体調は優れてなかったし、
ついでに言うと前田利長も豊臣と付き合いはあったが、徳川に従って前田家を守ろうという意識の方が強かった。
そも30後半で死んだ池田と浅野幸長以外はすべて当時の寿命としては相応くらいの年齢で死んだのだが。
秀吉存命時の豊臣家の領土ってどれくらいだったっけ?
確か摂津・和泉・河内・近江を中心に200万石強くらいだったと思うが、
それに小早川家や福島・加藤・石田などの親藩・譜代を含めて400万石足りないくらいか
関ヶ原直前の家康が既に250万石の実力を持ってることを考えると、
やはり多少他の条件が良くても豊臣家の政権維持は難しかったかもしれない
諸侯の寄り集まりの連立政権だから仕方ないと言えば仕方ないが、秀吉も頭が痛かったろうに
480 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 20:29:05
>>479 でもさ。関ヶ原での徳川の勝因は
本来、豊臣に近い七本槍や前田、黒田、浅野、田中、堀尾、蜂須賀、池田、丹羽、蒲生を味方に付ける事ができたからだろう。
彼らが反徳川なら家康は天下取れなかったぞ。
福島がころっと騙されて演説なんかしなかったらな。
>>479 豊臣については>436。
・一族(計105.8万石)
宇喜多秀家:57.4万石
小早川秀秋:35.7万石(西軍→東軍)
木下勝俊:6.2万石
木下延俊:2.5万石(東軍)
木下利房:2万石
木下重堅:2万石
・五奉行(計56.4万石)
浅野幸長:16万石(東軍)
石田三成:19.4万石
増田長盛:20万石(西軍だが東軍に情報を漏洩し続ける)
長束正家:5万石
前田玄以:5万石(中立)
・その他の豊臣恩顧(107.7万石)
福島正則:20万石(東軍)
加藤清正:25万石(東軍)
加藤嘉明:10万石(東軍)
小西行長:20万石
蜂須賀至鎮:17.7万石(東軍)
大谷吉継:5万石
他に黒田や仙石、田中吉政、池田輝正らをどうするかで変わるだろうが、
直轄領込みで600〜700万位はあるかもな。
それでも宇喜多秀家以外の五大老+伊達・島津で匹敵してしまう。
483 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 20:57:45
>>462 なにも戦場で戦うだけが戦いではないよ。戦争は政略の一部でしかない。
家康が待っていたのは、秀吉の死で豊臣政権は一気に弱体化するという
計算があったからであって、その選択は間違っていなかったわけだ。
逆に言えば、自分のカリスマがなければ維持できない政治体制にした
秀吉のミスだといっていい。
運ということ言えば、運の無い香具師は名将ではない。名将は皆、運が
いい。ただし、家康について言えば、運がいい以上に不運に強い。通常
の武将なら、運が回ってくる前にこらえきれずに滅亡しただろうな。
484 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 21:02:32
>>480 秀吉恩顧の武将が一枚岩だったら、どうがんばっても家康に勝ち目はないよ。
切り崩しが可能だったから勝負に出たんだし。もし、豊臣家に隙がなければ、
家康は豊臣家の名臣として振舞ったろうな。
485 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 21:10:26
秀頼が大阪から逃げ伸びたとしたならどの大名が匿っただろうか?
>>486 島津に秀頼が落ちのびた伝説かあるね。
あとは福島、前田くらいかな。
無理だろうけど、
それよりも講談みたいに海外脱出の方が現実味がある。
>>482 増田って奴は不思議だね。
俺が思うに彼は
豊臣への忠誠と家を守るために徳川につきたい、
という二つの心がせめぎあって
どっちつかずの行動をしてしまったんだと思う。
488 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 21:26:30
489 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 21:33:01
息子もよくわからんな
なぜ突然大阪城にはいっちゃったのか
>>488 増田の場合はちょっと感じが違ってたんだよな。
491 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 21:42:31
>>482 細かいことだけど小出秀政や青木一重も一門だよ
あと恩顧だと堀尾・生駒・中村・山内や丹波・播磨の小大名群とか
まあ実際は東海道筋なんかはみんな矛先が反転したけどw
492 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 21:51:26
493 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 21:57:39
一矩(秀以)だったスマソ
494 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 22:24:28
冬の陣の時、秀頼自身が京都まで出張って、朝廷に無理やりにでも、徳川討伐や、徳川家から将軍職解任の勅許を出させてたりしたら、どうなってたかね?
妄想ですまんが。
497 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 22:43:45
出ない。終了
引き篭もりに秀頼には無理な話か。
>>497 実に正論だが
>>496の為にも答えよう
仮に勅許が出ても家康は気にしないかそれをダシに豊臣征伐に向かう
それで豊臣政権アボーン&天皇や公家への引き締め強化にかかるだろう
てか秀頼が京になんかいったら家康の手の者に殺されかねんな( ´,_ゝ`)
朝廷も馬鹿じゃない。
負けるとわかってる戦に加担するはずがない。
501 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 23:05:45
>>500 でも義経に頼朝追討令を出したんだよね。
502 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 23:08:23
そういうのは朝廷に直接利害があった時代の話でしょ
承久の乱とかもだけど
「一族や部下、今までの功績で得た領土を守るために」
関ヶ原で家康側に付いた豊臣恩顧の大名は大坂の役後結構改易されてるよね
福島正則なんかどういう思いで改易の知らせを聞いたんだろうかね
「こんなことなら大坂城に入場して華々しく散りたかった」とは思わなかったんだろうか
>>446 清洲会議の時点で既に情勢は圧倒的に秀吉有利になっていたと思うが?
というか、その驚くほど短期間に主流派となってしまったこと自体が、
驚嘆すべき秀吉の手腕な訳だが。
で、家康はその秀吉とはまた違う方法で、
豊臣政権内の最有力者、それも圧倒的な最有力者になり、結果天下を取った。
これはまあ、能力の優劣というよりも得意分野の違いってものだろう。
もちろん、信長の後継者争いの段階では、総合的に見れば、
秀吉の方が家康よりも一枚も二枚も上手だったのは疑いないが。
トリップがばれたので変更します。
可児◆aSDVKrj9Yから上記になりました。
今後ともよろしくネ!
(^O^)/仲良くネ
508 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 15:12:51
>>496のゆってるの見た事あるよ。
大坂方の先鋒がまず京都所司代を強襲、その後、秀頼が宮中に参内し関白宣下をうける。
そして、諸大名に檄を飛ばし、宇治瀬田の橋を落とし関ー西国の連絡を遮断。
↑
こんな事する能力が大坂にあっただろうか・・・
509 :
可児@元文学従事 ◆R.hU2KhlIc :2005/03/29(火) 15:18:45
能力はあるけど度胸がないWWWWWWWWWWWWWWWW
510 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 15:27:18
511 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 15:30:13
512 :
可児@元文学従事 ◆R.hU2KhlIc :2005/03/29(火) 15:46:45
ハロー効果
同じ内容の論でも、三流大卒と東大卒が語るのでは全く第三者の評価が変わること。
例
真田昌幸「瀬田の橋を落とし、東西の連絡を断つ!これで勝ったも同然!」→\(^O^)/ヤター!
真田幸村「瀬田の橋を落とし、東西の連絡を断つのです!これで勝ったも同然です!」→(;^_^A ハイハイ
よって無理、見れません。
513 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 16:01:53
無念じゃ・・・
橋を落としても結局報を届ける事ができるんだが( ´,_ゝ`)
515 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 17:06:44
司馬懿「兵法の知らぬ奴は黙っておれ!」
>>512 立花宗茂が関が原の敗報を聞いて大阪に向かう途中で西軍が瀬田の大橋を
落とそうとしているのを見て「民が難儀するだけだから止めとけ」って止めてたなw
517 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 18:44:03
>>516 それが事実なら、宗虎の罪は重い。
民が難儀する前、自分たちが難儀するわな。
橋を切って、宗虎が大坂退去すれば、完全な宣戦布告なわけで煮え切らない輝元も、敗残兵集めて大坂籠城したかもわからんし。
×宗虎 ○宗茂だぞ
あの、西軍に勝利して士気も高い東軍相手に下手に戦いなんて起こしてどうすんだ?
既に戦場で西軍の勇士は多数死んでるし三成もこん時は行方不明で西軍なんてガタガタ
これ以上ヘタに戦っても天下を握った徳川の前には死人を増やすだけ
そもそも輝元に大阪篭城なんてできませんw
やったとしても三成の身元を助け秀頼、淀をなだめ戦争を承諾させ、物資を早急に城内に運び
敗残兵及び自軍の兵に現状を事細かに知らせ合戦準備を取り、豊臣派の大名に登城を要請する
ため交渉しそれが確実に来るよう手を尽くしてとかなんたらかんたら・・・
これを一日か二日でやる事が条件。豊臣派はまだ結構生きてるから大阪の陣の時よりはやり易い
家康が気づき兵を挙げられたらその時点でもう無理ポ
519 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 19:37:11
>>505 抵抗しなかったからね。
福島が改易された時、全く抵抗しなかったため、
それ以降、幕府から改易された大名は抵抗しないのが慣習になってしまった。
変なとこで福島は幕府に忠誠を働いてしまったもんだ。
それで福島の家臣が改易の時に立派なふるまいをしたため、その時、仕官先を失った家臣も全員、再就職できたのだが、
皮肉にも福島家はその後も難癖をつけられ続けて四万五千石→二万石→二千石にされてしまったのは無惨。
>>517 このことは家康からは高く評価されて「立花は剛なれど仁あり」と言われたそうだ
その後大阪城での決戦を主張しながら聞き入れられず結局改易されたんだけど、
大阪の役では徳川秀忠のアドバイザーになってるからなあ
ホント不思議な武将だよ宗茂は
>>518 当の宗茂自身は大坂で戦う気満々だったんだがね。
>>517 ろう城なんてよっぽど結束力がないと成功しないが、それは寄せ集めの西軍にはない。
>>520 宗茂としては「関ヶ原敗戦での改易で太閤から頂いた恩義はお返し申した。
後は内府殿から頂いた恩義を忠勤にてお返しするのみ!」
って感じだったんじゃないか。
多少煮え切らないにしても、自分が改易になって苦労をかけたのに、それでも自分のそばにいてくれた家臣たちを、
また放浪させるわけにはいかないだろ。
・・・と、宗茂オタの俺はそう考える。
>>522 更に言えば、篭城したところで援軍なんて来ないしな
525 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 23:23:08
家康が死ぬまで篭城すれば展開かわったかもよ。
和睦しない限り無敵の城だったのに惜しい。
>>518 秀吉の存命時から平時より大坂城には莫大な兵糧・武器が常備されてたと聞くが
関ヶ原で三成憎しの一念で徳川方についた豊臣恩顧の大名も、いざ秀頼が立て籠もってる
大坂城を攻めるとなると強く抵抗するのは間違いない
家康にとっては関ヶ原本戦以上に西軍との和睦に心を砕いたはずだ
むしろ毛利を脅して戦わずに大坂城を退去させた家康の智謀を褒めるべき
>>524 中国には毛利、四国には長宗我部、九州には島津の本隊が丸々残ってるよ
さすがに上杉は伊達や最上のせいで動けないだろうが
>>525 だから何度もいわれてるように大阪の陣の時点で家康が死のうと秀忠が死のうと
意味無いっての!!徳川、松平の血族が全滅でもしない限り豊臣に勝ち目はない!
528 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 23:34:26
少なくとも豊臣が健在のうちは徳川の天下になっていないぜ。
石山戦争みたいに10年続く戦争になっても変わらないと思うかい?
なぜ家康があそこまで執拗に潰そうとしたか考えれば分かる。
自分が死ぬまでに豊臣を何とかしないと秀忠じゃ不安だったからだ。
源平合戦の事例もあるしな。
>>526 毛利はわからなくもないけど
長宗我部、島津は援軍にはいかないと思う
>>527 今のは、大坂の陣の時点の話ではなくて、
関ヶ原の後西軍が籠城したらどうか?
という話だから。
531 :
527:2005/03/29(火) 23:51:38
本当だ_| ̄|○
えー大阪城に篭城したなら本当数年でも耐えられる可能性は十分あるな
問題は武器や兵糧の輸送の問題だが
532 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 23:52:48
>>528 別に絶対的に滅ぼす必要はなかったと家康は考えてただろう。
あくまで徳川配下の一家臣として収まってくれれば満足したというか、
豊臣が徹底的に恭順している場合はゴリ押しに潰す事は無理だったろう。
まあ豊臣が大阪城を出て大和、伊勢あたりに転封させる事ができれば、十分だったんじゃない。
>>532 十分駄目じゃね?人質江戸に送らせて豊臣性剥奪、石高も数千石〜一万石が妥当
「秀頼がおとなしく家康に臣従すれば豊臣家は滅びなかった」
と言う人がいるけど自分はそれも疑わしいと思う
豊臣家滅亡後の豊国神社破棄と神号停止といった処置を見ると、
どっちにしろ家康にとって、豊臣家は地上から消えなければならなかった存在だったはず
豊臣家が形だけでも存続する間家康は簒奪者の謗りを免れないからね
>>533 でもさ
>>532の対豊臣対策は家康自身の考えだぞ。
少なくとも秀忠将軍就任挨拶拒否事件までは
家康はこういう寛大な措置でいこうとしてた。
そもそも家康は拒否事件までは本多とか対豊臣強硬派の意見から豊富を庇ってたんだぞ。
「豊臣を滅ぼすのは忍びない」と
家康が豊臣家を滅亡寸前まで庇ったってのも徳川側の、
それも江戸時代に入ってからの資料しかないからな
ぶっちゃけ疑わしいと見てる
タヌキ親父の方向性は豊臣滅亡オンリーだろ。
ただ自分に平伏して一大名の地位に納まるなら助けてやっても良いってだけじゃね?
もちろんそんな事はプライド高い豊臣にはできないだろうが ハッハッハが本心
>>535 歴史は勝者によって、いくらでも好きなように作り変えられるからね
正直なとこ、信憑性にかけるよ
まあ家康の新田源氏の傍流だとか、家康が滅亡前まで豊家を庇ってたとか
そういう改竄も後世の歴史学者の真摯な研究で明らかになってるしな
「真理は時の娘、権力は娘にあらず」ということだ
当時の寿命や医学レベルからいって
家康が清政や幸長より長生きできるという保証もなかったがな。
滅亡まで庇っていたとか滅ぼす気満々だったなんて俺達にわかるわけないだろ。
どっちも根拠もなく断言するなよ。
ただ、初めから滅ぼす事を念頭に置いていたのならちょっとゆっくり過ぎだと思う。
自分も高齢でいつ死ぬかもわからないのに関ヶ原以後15年も掛けていたのはなあ。
関ヶ原後すぐに動こうとしても
対豊臣となると動かない武将が多いでしょ
>>541 確かに家康本人で無い以上断定はできないが、状況証拠ってのがあるからね
現在では家康は最初から豊臣家を滅ぼすつもりだったって見方が主流なんじゃないの?
544 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 02:04:18
しかしどんだけ議論しても大名が冬夏の両陣で、一人も駆けつけなかったなんて・・・
話がもりあがらんね・・
せめて正則ぐらいが参戦して暴れてくれたら・・
古田織部がいただろう!
と、言わずもがなの挙げ足を取りつつ・・・オヤスマナイト・・・(-_-)zz
546 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 02:15:51
でも怪しい奴いるでしょ
佐野道可とか山川・北川コンビとか
南部十左衛門…は違うか
>>どっちも根拠もなく断言するなよ。
お前は歴史から物を学ぶ力が無いのか?大阪の陣で豊臣は滅亡。指揮したのは家康。
家康が豊臣潰しに動いていた事実にこれ以上の根拠を求める奴は池沼
>>542 だから当時の医学で何で自分が15年も生きられるとわかるわけ?
ましてや自分より遥かに年下の豊臣恩顧武将よりも長く生きられるなんてわかるわけがない。
>>543 家康が最初から何が何でも豊臣を滅ぼす気だったという説の方が古くさい説なんだが。
なにが「現在は」だ。
>>547 アホかお前。
人の心の中なんてどうしようがわかるわけないだろ。
ましてや400年も前の男の頭の中なんて絶対断言できる根拠も証拠もない。
家康が最初から何が何でも豊臣を滅ぼす気だったか、成り行きでそうしたのかは誰にも断言できない。
ただ関ヶ原から15年も経ってから豊臣を滅ぼした事。
千姫嫁入りや伏見城の会見など豊臣家問題をソフトランディングさせようとする努力の痕跡が見られる
事などから俺は後者の「成り行き」説を支持してるんだよ。
>>548 「伏見城」じゃなくて「二条城」の間違いだろ(プッ)?
千姫嫁入りは秀吉生前からの遺言に従って、
二条城の会見は加藤清正らの斡旋によるもの
いずれも家康から能動的に動いたとする根拠に乏しい
後出来れば「家康が最初から何が何でも豊臣を滅ぼす気だったという説の方が古くさい説」
の根拠もよろしく
意味不明だな・・・
勝てないかもしれないのに仕掛けるわけ無いじゃん
結局、家康は「柔軟」だったんだと思う。
豊臣に関してもいろんな処置や成り行きを考えていただろう。
ただその柔軟さが結果的に豊臣完全滅亡になったというだけの話しだろうね。
単純に秀忠将軍就任祝いに秀頼がやってきたり、国替えに応じるだけでも状況は大きく変わったし、
そうなると家康もゴリ押しに豊臣を潰すわけにもいかないんだよ。
先に言っとくけど池宮彰太郎の小説とか歴史群像の駄文とか
NHKの歴史番組でそう言ってたから、とかは勘弁な
名前のパチモン度が上がってるぞ
554 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 03:11:06
>>549 伏見城だけはミスった。単なる勘違いだ。
で「家康が何が何でも豊臣を滅ぼす気だった」なんてのは
立川文庫とか古くさい講談話しに昔から嫌という程出てくる大昔からあった説なんだよ。
それともお前はこの説が現代人が出した新しい説でとでも思ってるのか?
確かに古い説だろうが新しい説だろうが、それは決定打にならないけどね。
>>552 もっとも歴史群像やNHKの歴史番組の方が
あんたの推測よりは根拠があると思うが。
>>549 初めから滅ぼす気なら、
千姫を嫁がせたり、二条城会見に応じる必要はないと思うが。
決定的に態度を顕わすよりは、どちらでも転べるようにしたという方が納得できる、551の言うように。
その後、従順に膝を折るならよし、史実通り膝を屈さぬならばその時は・・・、と。
ただギリギリまでは待っていた様に感じる。
やはり十五年は長いよ。
>>556 確か家康は夏の陣の前までは健康状態が悪くて床に伏せる事が多かったらしい。
福島正則が「大阪の陣は三年遅すぎ三年早すぎた」と論評してる。
三年早ければ加藤清正が生きてた。
三年遅ければ家康が死んでた。
微妙な時期に豊臣を都合良く滅ぼせる状態がやってきたという事だね。
>>557 どうだろう、二条城会見前後なら、
幕府が本腰を入れれば、清正・政則らの内心はどうあれ渋々従いそうな気がするけれど。
「豊臣と徳川の恩の板挟みで辛い、さっさと死んでしまいたい」のような趣旨の発言を清正はしているし。
彼らも一人で生きている訳ではないからな、
一族や家臣の事を考えると迂闊に大坂方にはつけない。
>>554 真田十勇士など立川文庫に代表される大坂の陣の講談の普及は大正時代に入ってから
江戸時代の「愚かな秀頼を救おうと何度も手を差し伸べたが相手が言うことを聞かないので
しょうがなく豊臣家を滅ぼした情け深い権現様」といった解釈よりもずっと「新しい」よ
まあ山岡荘八の歴史小説と比べると幾分「古い」感じがするかもしれないけどね
まあ煽りはこのくらいにして、「家康は最初から豊臣家を滅ぼすつもりはなかった」と主張するなら
一体どの時点で家康は豊臣家を滅ぼそうと決意したと思う?
方向寺の鐘銘に難癖をつけ、大坂方との約を違えて内堀まで埋め立て、大坂城を焼き払い、
豊国神社の神号を停止しといて「ついかっとなって(豊臣家を)滅ぼした、そんなつもりじゃなかった」
ってのはさすがに通じないと思う
司馬遼太郎は二条城での会見での秀頼の偉容を恐れて、と書いてるが所詮は文学作品だしね
関ヶ原の領地替え後ですぐに大規模な戦の準備ができると思ってる奴はアホ。
成り行きで大阪を10年ただ放置したわけじぇねえって。
戦の大義名分も作らなくてはならないし、しかも篭城されるとかなりまずいから
一旦講和させて外堀を埋めて叩くってのも綿密な準備の上だろうな。
清正が生きてたら生きてたで別の手段もあったろうよ。手際のよさはさすが家康。
大坂の役の直接の原因となった方広寺鐘銘事件なんて
お世辞にも「大義名分」と言えないほど強引だけどな。
あの事件を見ると「家康は寛容にも寿命ギリギリまで秀頼の臣従を待った」という説が嘘臭く思えるのもわかる。
「本当はまだ色々下準備が必要だったけど自分が死にそうだから強引にかねてからの計画を実行した」風に見える。
>>560-561 何度も言うが人生50年の当時で
なんで関ヶ原の時点で59だった家康がそれから15年も生きられると計算できるんだよ。
15年どころか5年以内死んだかもしれないのに。
家康が最初から豊臣を滅ぼすつもりで15年、準備して滅ぼしたと強弁する奴の理論はそこで破綻している。
>>559 秀忠将軍就任の挨拶を豊臣が拒否した時点だろうね。
563 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 06:29:13
>>558 それ以前に清正がいれば二条城の会見のように
秀忠の将軍就任挨拶を淀君や大野に説得して
成功させるだろうよ。
淀君は加藤の事は信頼してたからね。
そうすれば豊臣滅ぼすのは難しくなる。
564 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 06:50:00
別に議論したり自分の主張を行うのは一向に構わないのだが、
何で自分の主張と対立する意見の持ち主を馬鹿にしたような言動を取るんだろう。
2chとはいえ気分悪いわ。
家康が最初から豊臣を滅ぼすつもりだったかそうでないかは人によって意見が割れてるし、
対立意見の人間をアホ呼ばわりできる程、確定的証拠もないんだが。
なら「私はこう思います」で十分だと思うが。
家康は同時代に類を見ない、むしろ現代でもやや異常と思えるほどの健康マニアだったわけだが
紫雪(風邪薬)銀液丹(丹)八味丸(精力剤)万病円(寄生虫)蘇合円(下痢)六味湯(日射病、熱射病)
上記の薬を自分で調合して定期的に服用し、また老いてからも日頃から鷹狩や川狩に出かけた
また大大名として豊臣政権で重きを成すようになってからも麦飯や野菜のたくさん入った味噌汁といった
質素な食事を摂るように心がけてきた
家康が当時としては珍しいくらい長生きしたのは明らかに上記の家康の努力の賜物
「家康が加藤清正ら豊臣恩顧の武将よりも長生きしたのはたまたま」なんて聞いたら家康も怒るだろうよ
まあ家康からしてみれば暴飲暴食が当たり前、
女遊びで梅毒に罹患した加藤清正より長生きしたのはむしろ当たり前といった感じかね
567 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 07:35:25
>>565 当時の医学では癌だの結核だの盲腸だの治らない延命すらできない病も多い。
家康の健康術も長生きする確率を高めはしても確実に長生きできるとも限らない。
しかも同世代の秀吉や利家ならまだしも
豊臣恩顧はずっと年下。浅野幸長なんて37で死んでる。
>>566 加藤の梅毒は信用性に欠ける説があるだけ、
それに彼が「暴飲暴食」だったという話しも初めて聞いたが。
むしろ徳川と豊臣の板挟みでストレスが溜まってた方がよっぽど健康に悪かったかも。
加藤は二乗城の会見を成功したあと、城に戻って「やっと太閣の御恩を果たすことが出来た」と号泣したそうだが、
二乗城の会見の実現に奔走して精も根も尽き果てた印象がある。
それで安心して死んでしまったようだ。
二条城の会見こそ彼の一世一代の晴舞台でそれ以降の事は考えられなかったのか。
やはり家康と比べるとスケールが小さい男だ。
>>562 秀忠将軍就任の挨拶を豊臣家が拒否した時から
豊臣家滅亡を計画していたってのはこれまた随分期の長い話だな
秀忠の将軍就任は1605年、関ヶ原のわずか五年後で大坂の役まで十年ある
「家康が最初から豊臣を滅ぼすつもりで15年、準備して滅ぼした」のが不自然で
10年の準備なら不自然じゃないのか
1598 豊臣秀吉死去
1599 前田利家死去
1600 関ヶ原の合戦
1602 家康、秀頼・淀殿親子に方広寺の再建を強く薦めるが、年末に火事で焼失
1603 徳川家康、征夷大将軍に就任。同時に豊臣家への年始の挨拶をやめる
二ヵ月後、秀吉とのかねてよりの約束であった秀頼と千姫の祝言が行われる
1605 徳川秀忠、二代目将軍に就任。秀頼に祝賀の挨拶に参加せよと命令するが拒否される
同時に豊臣秀頼右大臣に昇進
1607 豊臣秀頼 右大臣を罷免
1609 豊臣秀頼、再び方広寺の再建に取り掛かる
1611 徳川家康、豊臣秀頼と二条城で会見
浅野長政、死去
加藤清正、死去
1613 浅野幸政、死去
池田輝政、死去
1614 7月、方向寺鐘銘事件
11月、大阪冬の陣
12月22日、和睦
1615 大阪夏の陣
豊臣家滅亡
>>544 一応、七手組の伊東というのは備中で一万石を領有する大名だが。
>>562 豊臣の滅亡に15年かけたんじゃなくて15年かかったんだろ。
家康の寿命云々は別の話。できる事をしなかったとできなかったは違うだろ。
少なくとも1607年に駿府へ移動する頃までは大名の統制で手一杯だったろうな。
藤堂高虎に指揮をさせ、主に西国大名に負担を強いて江戸城の天下普請をおこなったり
豊臣への備えに名古屋城を加藤、福島等に普請させたり、伊達、加藤等有力大名との婚姻を
進めて豊臣を孤立させたり。
武家諸法度・禁中並公家諸法度の発布もしたり、小早川など外様の改易も行っていた。
徳川政権を磐石にしつつ豊臣の力を削いでた15年なのは間違いないな。
例え家康が死んでも、この時点で秀頼につく奴はいないんじゃね?大名の懐は火の車だろ。
家康は自分の代で無理に豊臣を潰す必要がなかったから先に幕府権力向上を図ったわけ
天下は既に徳川家の物であり、いわば徳川にとって豊臣はあってないような物
幕府の力が増せば勝手に豊臣家は力を落としていくから、幕府が安泰になるまでほっといただけ
で準備が整った頃もまだ自分が生きていた為、家康が潰しにかかった。
家康が豊臣を潰す気は最初なかったなんていうが、最初から大有りだから関ヶ原が起きた
仮にも元主家を倒して天下を取ったんで、「徳川家は主家を貶めた逆賊」なんてなったらたまらない
豊臣家にはどの道滅びるか潰されるかしか選択肢はなかった
577 :
可児@元文学従事 ◆R.hU2KhlIc :2005/03/30(水) 12:23:41
>>574の意見が全てだな、勝負あったわ!!
>>562はコチコチの糞石頭WWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
WWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
WWWWWWWWWWWWWWWぎゃひWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
やべ可児の意見がまともに聞こえてくる・・・
こんな自分は末期でしょうか?
579 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 13:00:07
>>574 家康の想定の中に豊臣家の滅亡があったのは明確だが、基本的には
恭順を狙っていたと考える方が順当だよ。
そもそも、天下を持っている側としては、大阪の陣ほどやりたくない
戦いはない。勝っても手に入るのは70万石程度であって、経済的に
も割にあわないし、なにしろ、もう徳川の支配体制が固まりつつある
のに戦争という不可抗力が発生しやすいことを起こすのは得策ではな
い。かつて家康が秀吉にしたように恭順の姿勢を示せば、わざわざ
戦を起こすようなことはしないよ。
>>579 むしろ「何故大阪方は恭順しなかったのか」が気になる。
淀殿が頑として恭順を拒んだってのは少し考えにくいのだが。
581 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 13:19:23
恭順はできないでしょ。秀忠に平伏してる一大名の秀頼が想像できん。
かつての家臣の子に仕えるのはかなり屈辱だと思うぜ。とはいえ武士道云々なんてこの頃はないか。
それに恭順すれば助けるなんて言うのは口実だと思うな。俺はここまでやったんだぞっていう徳川のアピール?
そして滅亡させると。この場合領地を取ると言うより豊臣の名を潰すって感じか。
582 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 13:28:37
>>580 なんとかなるって甘くみていたんでしょ。
時勢は二人のTOPを許さないのに、いわば名誉会長みたいな感じで
特別待遇が維持されるだろうとでも思ってたんじゃない。
完全に敵対しないんだったら、実力の一切は放棄しないといけないん
だけど、大阪城から出ようとしなかったし。
>>581 恭順すれば助けるだろ。完全にあなたの配下になりますっていって、
天下を狙う実力を放棄すれば、豊臣系の大名だって納得するし、波風
立たずに収められる。家康の無理をしない性格からいえば、これが
最善のシナリオとして考えていたとしても不思議じゃない。
だが、その反面として恭順しない可能性も考えていたのは確か。いざ
となったら、実力で滅亡させる用意はしてたろ。いわば、天秤の両方
の重りみたいなもんだ。時勢の流れが見えない豊臣家が実力排除の方
に重りを乗せてしまったんだよ。
>>かつて家康が秀吉にしたように恭順の姿勢を示せば、わざわざ
戦を起こすようなことはしないよ。
だからこそ豊家を滅亡させなきゃ安心できないわな。
いや、秀吉に恭順した家康とはまた状況が違う。
秀吉に恭順した家康は天下でも有数の大大名で、
劣勢の中で秀吉と互角に戦った実績があり、家臣の層も厚い。
対して秀頼は60万石とはいえ徳川とは大きく溝が開いている上、
行政・軍事で秀頼に実績なんて無いし、天下を狙える質量の家臣団が存在しない。
国替え・人質・豊姓返上、秀吉の残した財を徳川に提出すれば
織田秀信くらいには飼えたと思われるが。
585 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 14:14:08
というか、家康のように徳天下を覆すだけの実力を保持したままの恭順
なんて家康が認めない。最もよい待遇でも織田秀信程度だな。最低でも
大阪からの退去と蓄えていた金銀の提出、人質の提出は必須。どっかで
10万石程度の大名として、常に江戸詰めという待遇が落としどころだ
ろう。ただし、位階だけは大納言くらいにはなれるとして。
そういう実力のない名誉職みたいな地位を受け入れないのであれば、
家康は滅亡させる気だったということだと思う。
586 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 14:18:31
豊臣を担いで天下を狙う輩が現れる可能性が非常に高いから
大名として残すのは無理。
高家や御伽衆のような扱いで残すならありかな。
大阪の陣当時の不安要素って、毛利、福島、松平忠直、忠輝くらい?
前田、上杉、黒田、伊達、島津あたりはもうすっかり牙を抜かれた感じ。
大阪の陣があと3年長引いたとしても・・
588 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 15:15:32
秀吉でも信孝以外は嫡孫の秀信も含めて全員助けた。
しかも信孝ですら信雄の強要で殺したらしい。
別に秀信同様、秀頼も力さえそげばOKだろ。
589 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 15:16:55
まあ淀君さえいなければ
豊臣を完全に滅ぼさなくても済む道はあったろう。
淀のおかげで豊臣を潰せました
ふむ、仮に豊臣が生き残れるとして、
その条件は
1.大坂退去
2.減封(10万石くらい?)
3.江戸在府
4.高家・御伽衆に収まる
5.人質提出
6.秀吉の遺財の提出
7.豊臣姓返上
と。今まで出てきた中では。
10万石も厳しい。改易された諸大名のように最終的に数千石にされるかも
高家といっても天皇に会ったり交渉したりは出来ないだろう
公家とかをある程度束ねたりそれなりの官位が与えられるくらい
それだけ豊臣方が譲歩すればいくら家康といえども強硬に豊臣家を滅ぼすことはなさそうだが・・・
例え大坂の陣がなくて秀頼が地方の中大名に納まったとしても福島や加藤みたいに
さっさと取り潰された可能性が高いと見る
秀頼に秀忠時代の大名改易乱発を生き残る能力はなさそう
594 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 18:03:37
なんか「家康は何が何でも豊臣潰すつもりだった説」を唱えてる奴って、
ようするに単なる推論を語ってるだけなのに断言しすぎなんだよ。
「豊臣が徳川に屈するのが想像できない」とか自分の想いばかり語ってるからな。
実際に「豊臣が徳川に徹底的に譲歩したのに潰された」とかいう史実が残ってるならともかく、
現実は淀君の強硬姿勢の挙げ句に潰されてるんだからね。
それなのに勝手に想像を繰り広げて断言するのはどうかと。
しかし基本に戻ると、鐘名事件が・・・なにがなんでも潰しにかかってんだろ?
その時点ではな。
じゃあ「どの時点」で家康が豊臣潰す気になったのかはっきりしてもらおうか
598 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 18:33:27
結果的に力尽くで潰したんだからいつ決意したかなんてどうでもいい
幕府が豊臣家を存続させた場合、織田家と同じような待遇ではないかな。官位は高め、石高は最小限の上、各地に点在。
2,3万石与えても、本領をどっかに1万5千石、あとは各地に数千石とかで。
ほとんど本領に帰る必要が無いくらい封じて、ほとんど江戸在府。
>599 の最後の行は
ほとんど本領に帰る必要が無いほど近くに封じて、です。
>>597 あのな、当事者でもないのに断言できるかよ。
当事者以外、当時に生きた人間だってわからない事柄だろうに。
個人的な推論では、
家康将軍宣下、秀忠将軍宣下、二条城会見、豊臣恩顧が相次いで死、
の各事象で徐々に豊臣追討に傾いていった、と見ているが。
>>598 点だけ見て、線を見ないのか。
大和1万石領有で京に屋敷を持つ公家さんにするとか>秀頼
>>601 「当事者でもないのに断言できるかよ」
そう言い切ってしまったら歴史を語ることの意味など無いな
歴史とは所詮遺跡や文書などの数少ない状況証拠から
「誰が何時何処で何をどうしたか」を推測するもんだ
個人的推測を抜きで歴史を語れる人間なんぞ地上に存在しない
ていうか散々論破されてるのに見苦しいんだよ
m9(^Д^)プギャー
>>575 レスの文意には全面的に同意なんだが細かいことで一つ
武家諸法度と禁中並公家諸法度の制定は1615年で大坂の陣直後
605 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 19:44:37
>>603 はあ、その論旨こそ破綻してるぜ。
家康がどういうつもりだったかは現代人には推測するしかない。
つーか、人の頭の中まではわからない。
>>603 推測はしてるのだが?
あと、具体的に何処で論破されているか挙げてみてくれる?
607 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 19:47:16
>>603 論破なんかされてないよ。
君がそう強弁しているだけ。
そんな事言うんなら
家康が豊臣を最初から滅ぼすつもりだったとかいう理屈の
絶対100%間違いない証拠とやらを提出してみろ。
>>608 606と601は俺だが、後は別人。
つか、お前が論破されたと言い張っているのだから、
その証拠を挙げるのはそっちだろ。
610 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 19:53:09
>>608 それは詭弁で反論してるだけ、
論破などされてない。
こうやって荒れていくんだよなぁ・・・
こういう考え方もあるくらいにしときゃいいものを
なんで屈服させたがるのかねぇ
じゃあ
>>609=
>>606=
>>601ということで
後は全部
>>610なのかね
>>609へ
正直悪かった
自分は昨日から同一人物がしつこく同じ話をくりかえしてるものと思ってた
別に606のレス自体に論理の破綻はないよ
>>610 じゃああんたが他のレス書いた人かね
自分のレスに返されたレス全てが詭弁だと言い切る神経には恐れ入った
562のレスには570と574がそれぞれ別のアプローチから反論してるし、
家康の寿命云々については565が詳しい
ていうか言われるまで家康がどれだけ健康に気を配ってたか知らなかったんじゃないかね?
613 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 20:07:04
>>612 家康が健康マニアだって事くらい知ってるよ。
だけど、いくら健康維持に頑張ろうと死ぬ時は死ぬだろ。
ましてや昔の医療レベルではな。
だいたい漢法や東洋医学は現代では批判されてる部分も多いんだぞ。
例えば水銀を薬に使うとかさ。
針とか灸も果たして効果あるのか疑問視されてる。
614 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 20:11:14
「粗食が体に良い」なんてのも一面でしかない。
確かに暴飲暴食は問題あるが、
ちゃんと必要な栄養素は取らないとね
「武士は一汁一菜」とか言うがタンパク質やカルシウムをキチンと取れてるか疑問。
昔の栄養学なんてちゃちなもので「米があらゆる栄養素を含む最高の食品」なんて思われてたからね。
615 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 20:14:37
漢方使ってる奴なんて中国人の作ったものよく信用できるなと思うよ
口にするものは中国製はやばいよ昔も今も
616 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 20:23:46
滅ぼすよ派
├初めから滅ぼす気満々だったよ(強硬派)
├準備を整えていたんだよ(積極慎重派)
│└寿命が来そうだったから強引に滅ぼしたよ(狸も歳だから派)
└機会が訪れるのを待っていたんだよ(消極慎重派)
滅ぼさないよ派
├豊臣の出方次第でどっちでもいいよ(折束派)
│└徐々に追討に傾いていったよ(シーソー派)
└ギリギリまで待っていたんだよ(穏健派)
617 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 20:31:01
>>615 日本で古来から作られた薬品もおかしなのが多いよ。
「熊の胃」なんて胃病に効く科学的根拠はないだろうな。
単に熊という強い動物の胃をのめば腹痛が治るだろうみたいな迷信から生まれた薬だろ。
618 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 20:32:49
魚の目を食えば眼病が治るとか
ヤツメウナギは目に良いとか一杯ある。
619 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 20:40:23
家康は、当初豊臣家を「制外の家」として別格扱いしていた。
豊臣の出方によっては、吉良家、織田家のような高家として存続させる
つもりでいた。つまり、スタンスは「滅ぼさないよ派」(折束派)にあった
といえるわな。
>>617 胃腸薬の熊の胃って熊の胃で出来てるわけじゃないぞ。
621 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 20:54:07
>>620 違う!!
現在、発売されている「熊の胃」という薬は
確かに「熊の胃」というのは名称だけで単なる薬物で出来た胃腸薬だけど。
昔は本当の熊の胃を乾燥させて小さく切っただけの物が胃薬として用いられてたんだよ。
>>619 むしろ、別格の家として扱ったというのが逆に怪しいと思うがね。
確かに、豊臣家が豊臣姓まで返上して、
極普通の明白な一家臣、お伽衆的存在かあるいは普通の中小大名になるなら、
生き延びさせてやるという可能性もあったと思うが。
いかなる意味であれ「特別な存在」として存続しまうのは徳川家にとって危険すぎる。
今後何かあったときに反徳川の旗頭になりかねないから。
つまり、家康が豊臣家を特別な存在として扱っていた間は、
いずれは存続させないようにするつもりだったか、
あるいは、少なくとも段階的に「特別」なものではなくしていくつもりだったと言える。
しかし、豊家には、片桐くらいしか現実が見えるヤツが居なかったのかね?
淀君にしたって、織田家の転落をその目で見てんだからさ。
「もう徳川の天下です。後は家名存続を」って。
当時の寿命を根拠に、滅ぼすのに時間をかけすぎだから、
滅ぼす気はなかったと言っている者がいるようだが、
それは論にならないだろう。
別に家康は何が何でも自分が生きているうちに豊臣を滅ぼす必要があったわけではない。
自身の存命中に出来うる限り豊臣滅亡の筋道を立てておいて、
もしなかばで自身が死んでしまったなら、続きは次代に託すという考え方もある。
仮に家康がどうしても自分が生きているうちに豊臣との決着を望んだのなら、
人間50年という時代だからこそ、あせってすぐにも実行に移さなければ間に合わないおそれが高くなる。
しかし、そのようなことをして十分な準備をせずに行動し失敗しては元も子もない。
いつ死ぬか分からないからこそ、自分が生きているうちには出来ることを出来る限りやっておく、
それが最も堅実だ。そして史実では準備が整った段階で、
家康が存命だったので、結果的に家康自身の手で滅ぼすことになったとみるべきだろう。
で、豊臣家存続の可能性だが、確かにそれはゼロではなかったと思うが、
家康の側から積極的にそのように動いた様子がないので、
家康自身にはそういうつもりはなかった。
ただし、豊臣のほうから頭を垂れて徹底的に臣従してくるなら、
滅ぼさないでおくという可能性もあった。程度のものではないだろうか。
おまいら、サッカー見てなかったの?
>>624様、長々とご苦労様です。
はっきり言って、最後の五行以外は仮定の上に仮定を重ねた論なので、
あまり説得力はないかと・・・。
いや、俺も寿命のみを根拠とする意見には否定的だけどさ。
それから、
>家康の側から積極的にそのように動いた様子がないので、
>家康自身にはそういうつもりはなかった。
片桐且元を通じて、豊家生存のために色々な条件を出してるよ。
それをことごとく蹴ったのは淀殿。
家康は、豊家を徳川政権内に取り込むことを当初の目標としていたが、
豊家が予想以上に反発してきたので、「バカだなコイツら」と内心ほくそ笑みつつ
方針転換したと、そういう風に俺は考えてる。
>>625 まあ、寿命が全く根拠にならないってとこだけ分かってもらえればそれでよいですよ。
しかし、且元のに条件出したのっで方広寺の事件の後では?
あの段階ではさすがに滅ぼす気満々だったと思うぞ。
その気がなくてはあんな事件を起こさないでしょう。
いや寿命の件に関しては「全く」根拠にならないではないだろう。
「ある程度」は根拠になるが完璧ではないという意だ。
>>627 いや、それは全く根拠にはならないよ。
寿命云々はあくまでも家康が自分の寿命が来る前に豊臣打倒をしなければならないと思っていた、
という仮定が前提になっている。で、無論その前提に根拠はないから、
仮定に仮定を重ねたものとしか言いようがない。
まあ、その「ある程度」というのが、
仮定に仮定を重ねた推論程度、という意味ならその通りだろうが。
>>628 「全く」というのは100%だから間違いだろうが。
なにはともあれ史実では家康は自分の存命中にやや急いだ様子で豊臣を滅ぼしている以上、
寿命の件はある程度の根拠はあるだろう。
630 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 22:49:53
やはり加藤清正の死が大きかったのかも。
それまでは無難にやってきたのに、
突然、理不尽な要求を大阪につきつけるようになって、
急ぎ足で豊臣を滅ぼしてるし。
>>629 そりゃあ、最後の段階では普通急ぐでしょ。準備の段階とは話が違う。
まあ、準備にじっくり時間をかけたから、あたかもそれを根拠に、
最初から滅ぼす気だったというような私の言い方は、確かにおかしかったと思う。
しかし、当時の寿命を考えれば、家康の年齢なら和睦にしろ滅ぼすにしろ、
次代を見越して行うのが普通だ。家康にはちゃんとした後継ぎがいるし、
和戦どちらをとるにしろ、あせってはろくなことにならない。
つまり、ゆっくりと時間をかけて事に当たったということは、
家康の真意がどのようなものであったとしても至極当たり前のことで、
どちらの考えに対しても有利な条件にはならない、要するにどちらの考えに対しても、
全く根拠にならない。
632 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 23:03:06
個人的には清正と昌幸でも生きてれば少しは違ったんじゃないかなとオモマス(´・ω・`)
豊臣恩恵のリーダー格と家康を2度も負かした男。もちろん戦が起きちゃえば結果は決まってますが
>>630 清正は秀吉にとても可愛がら、まさしく豊臣恩恵を絵に描いたような男
彼され死んでしまえばこの世に豊臣恩恵から認められ、かつ秀頼や淀を言い包められる者は皆無
その頃には豊臣恩恵はバタバタ死に絶えもはや豊臣の崩壊は確実となった
いくら正則が頑張っても限界があるし、何よりこいつこそが豊臣崩壊の道を作ったんだし
633 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 23:06:46
>>631 はあ、譲歩しない人だ。
俺は「全く」という部分にだけ納得できず、ツッコミを入れているのだがなあ。
なんだかディベートみたいなノリになってきた。
まあ、俺も屈服しないが、
あんたが頑として譲歩しないのなら
>>611も言っている通り
徹底的に討論して相手を屈服させるまでやめないという考えはアレだから、まあいいさ。
ただ「家康は自分が死んだ場合、後継者に豊臣滅亡をまかせる気だった」という意見も仮定でしかないんだけどね。
>>633 だから、その意見は私も既におろしてしているでしょ?
で、あせらずにじっくり取り組むのは当たり前のことである、
だから、そのような当たり前のことを家康がしたからといって、
それは家康の真意を推測する根拠にはならない。
この部分には何の問題もないと思うが?
豊臣を滅ぼす気かどうかは何時頃からか?から考えていけばいいんでないでしょうか?
>>623 豊臣の有能な臣って三成とか大谷刑部とか宇喜多秀家とか・・・
関ヶ原は実質豊臣vs徳川だったからな。家康の野望に気付いていた人物は1600年にみんな消えた。
残ったのは・・
大野治長かな?
ていうか豊臣家の人間でも淀殿と秀頼以外の人間はほとんど現実が見えてたんじゃないの?
城に入った浪人たちでも家康を倒して再び豊臣の天下に、なんて奴は少なかったと思うが
全てを淀の所為にしてるけど秀頼って1593年生まれだから、1610年あたりではもう成人だわな。
比べちゃ可哀想だけど、謙信なんて15歳で初陣で戦果をあげて、僅か19歳で実力で越後国主を継いでるんだがな・・
どちらにせよ母親に指図される歳でもなかろうに。秀頼は滅びくして滅びたんだろうね。
640 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 00:50:05
秀頼がやれたことって何かあったのか?
641 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 00:56:41
うぬらに一言いいたい!
当時は「大阪」ではなく「大坂」 「坂じゃ!」 「大坂城とかけ!」
せれでも武士か!
ちなみに秀頼千姫婚礼の折に正則等が語らい西国大名が秀頼に聖書をさしだしたのはまことか?
642 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 00:59:08
聖書→誓書じゃ
643 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 01:06:10
>>638 例えば長宗我部盛親が「戦勝の暁には土佐一国を」と申し出ており
勝ちはあったと思ってたっぽい。
夏の陣の時、10万いた浪人が敗北確実になった冬の陣では5万にまで減ったとこ見ると、
夏の陣の時は豊臣に組みして領地奪還をと考えてた浪人も多かったんじゃない?
>>641 それなら「淀君」ではなく「淀殿」と書かなくては
645 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 01:11:31
付け加えると家康を倒して豊臣の天下まではいかなくても、
ある程度、勝利して豊臣から領地貰おうと考えてた浪人は多いみたいだね。
大阪に来た浪人の多くは関ヶ原で負けて領地を没収されたり、どこかの家を追い出されたり、キリシタンだったりして、
徳川政権で食っていけない連中が主に集まった。
後藤又兵衛のみ少し特殊で主人の黒田長政と喧嘩して
後藤を召し抱えたい家にクレーム入れて仕官させないようにしてたんだね。
言い方は悪いが、人生の再起を賭けた負け犬10万か>大坂方の浪人
ていうか冬の陣の時点で勝利が絶望的なのに5万もの浪人が大坂城に留まったのが凄いな
なんか鬼気迫るものがある
>>639 生まれてからほとんど外の世界を知らず、教育も侍女らの手でされて可愛がられてきたお坊ちゃまだから仕方ないんで無い?
長宗我部盛親には土佐の旧臣も多数、参加した。
山内家を出奔して馳せ参じる者も多かった。
単に山内家で下士として差別されたからというのもあるだろうけどね。
戦後、盛親の子供や孫は全員、斬られたが、
山内家は何故か盛親に組した土佐の武士たちには寛大でかなり帰参したという。
大坂に入場した浪人で動機がわからないのが真田くらいなんだよね。
あとは領地を失ったとか徳川に対する恨みとかだいたい納得できるんだけど。
自分の持ち場では徳川に勝利していること。
父、昌幸が類まれなる嫌家康派であること。
やはり月並みだが、このまま九度山で朽ち果てるのは嫌だという点。
他家は赦されているのに、一向に九度山に閉じ込められていることに対する憎悪。
そんなところか・・・
651 :
可児@元文学従事 ◆R.hU2KhlIc :2005/03/31(木) 02:32:20
あと九度山生活は退屈であったわけで、父と会って話すことと言えば、天下が荒れた場合の軍略話やら上田城の武勇伝やら、
とにかく徳川をぎゃふんと言わせる方策ばかり練っていたのでは?
実現するかしないか別として・・まあ半ば本気でそんな物騒な話を恒常的に父と話していたとしたら、大坂につくのはあたり前だったのかも。
毛利勝永にしても、はやく赦免してれば大坂に奔らなかったかもしれない。たしか勝永の親父は家康に材木やらなんやら貸した恩があったっけ?(ソースは忘れた。てか自信ない)
まあ、家康も勝永があれほどてこずる男とは思わず無視してたんだろうけど。
西軍将士の土地を取り上げて配分し直さないと
徳川の世は来なかったんだし、
食いっぱぐれて大坂についてしまう武士は
必ず出るよ。どうしても。
653 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 06:08:28
>>645〜
>>652 浪人共が秀頼をかついで謀反を起こすだろうことは、幕府や東軍側諸大名間では十分お見
通しだったといえる。(政宗の『観心寺文書』が1601年時点)。家康も然り。
だからこそ、家康は出来る限り豊臣を格式のある高家として残す道を探っていたともいえる。
豊臣滅亡が「必然」「既定路線」というのは歴史を結果から見ればそう見えるだけで、
徳川−豊臣とも、その将来にはさまざまな「選択肢」があった。
それをぶちこわしたのは、時代の流れが見えない淀君(あえて「君」と書く)や大野らの側近
だということだ。
そりゃあ選択肢は沢山あったが、
徳川にとっては潰してしまった方が一番都合がいいのは間違いない。
>>646 減らしたのは大坂方。烏合の衆を精鋭部隊にするためにいかがわしい
連中や寝返ったりスパイをしそうなヤツを一斉に解雇したから。
そういえば家康は大坂城落城後に当時7歳の秀頼の遺児国松を捕らえ市中引き回しの上斬首してるな
方広寺鐘銘事件に始まり和約を違えての大坂城内堀埋め立て、
少年国松の処刑、戦後の豊国神社の神号停止と大坂の陣は陰惨な印象をぬぐいきれない
ある意味現代にまで残る家康の悪評を決定付けた戦いだったと言える
657 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 12:58:17
いつまでも天下人気取りの豊臣家。徳川を甘く見たツケと代償は高価だったね。
658 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 13:00:42
>>656 大坂の陣での家康の行動でこれはひどいいってレベルのものは一つもないよ。
鐘銘事件に関しては、開戦に当たっての口実の作りでしかなく、こんなのい
つだって強引なものだ。戦国時代なら面倒なことせずに、問答無用で攻め込
んでいるよ。
国松処刑については、あくまでも現代の感覚だよ。こういう場合男の子は
殺すのが武門の習いだし。平氏が痛い目にあったように復讐するからね。
家康が殺したのは男だけだよ。(悪逆っていうんなら、秀吉がやった秀次
妻妾幼児全員惨殺の方がはるかにひどい)
豊国廟にしたって、後世に残す場合の方がむしろ稀だろ。別に墓を暴いて
慰霊をできなくしたわけでなく、単に神号を取っただけのことだし。
外堀に関しては埋められる方がバカだ。
大坂の陣での家康が不評なのには、幾つかの原因があると思うんだが、
その一つに、相手のレベルが非常に低すぎたってのがあげられる。
例えば、プロ野球に小学生が出てきたみたいなもんだな。家康が投げる
内角の剛速球にビビって泣き出すのをみて観客は「可哀想」だという
わけだ。でも、そこはプロの試合なんだよな。
659 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 15:13:34
>>653 家康があえて豊臣滅亡の流れにしたんだろ。
淀からの使者には家康直々に面会して慰留し、使者としてきた片桐且元には本多正純にあたらせ現実的な妥協案を出す。
みたいに豊臣内部に不和を生ませたりね。
とはいえ豊臣滅亡の淀の果たした役割はでかいかな。
大仏殿の再建を家康に勧められて資金を浪費したり、大坂の陣の際に堀を埋める条件をのんだり。
わざとか?
まあ淀には猿に両親と義父を殺された恨みがあるからな・・・。
豊臣を滅ぼすために泣く泣くその身を犠牲にし、復讐を貫徹した。
なんて訳ないな。
>>659 淀の一番の罪は、大坂城から北の政所を追い出した事。
これで豊臣子飼いの将ですら離れたから。
662 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 15:40:45
>>659 敵に対して内部から切り崩すなんて当たり前の戦術だよ。
それだけで滅亡させようとしていたとはいえない。
家康としては、最初のうちは豊臣家の恭順と滅亡との両者を想定に入れていたはず。
ただ、その後の流れの中で滅亡しか方法がなくなった。多分、その決意が決定的に
なったのは、二条城の会見の後だろうな。家康に拝謁に来たってことは臣従するって
表明のはずなんだが、会見後の秀頼の態度はそういうものからはかけ離れていたわ
けだから。どうやら、これはダメだと思ったんだろ。
>>661 北の政所が大坂城に健在だったなら、福島正則がだまってなかったのは間違いないな。
鐘銘事件については、あれは言いがかりではなく当時の習慣としては文句つけるのがむしろ当然であるとする説もあるよ。
>>658 >別に墓を暴いて 慰霊をできなくしたわけでなく、単に神号を取っただけのことだし
いや、普通に秀吉の墓を暴いてますが・・・
徳川幕府は秀吉の墓の参拝を禁止して慰霊も出来なくしてますが・・・
>外堀に関しては埋められる方がバカだ
家康は外堀だけじゃなく内堀まで埋めたんですが(正確には二の丸の外堀だが)・・・
>国松処刑については、あくまでも現代の感覚だよ
敵対国の成人男子を殺すのは当たり前だが、幼児まで殺すのは明らかに異常ですが・・・
まあ秀吉の関白秀次一族に対する仕打ちと同じと言うのは同意
あれで豊臣家を見捨てた大名も少なくない(最上家とか)
なにはともあれ知ったか乙
>>665 お前も知ったかだな。男の子でも殺すのは普通だし。
内堀まで埋められるのがバカだって言われているんだろうに。
>>665 >敵対国の成人男子を殺すのは当たり前だが、幼児まで殺すのは明らかに異常ですが・・・
んにゃ、成人男子だろうが元服前だろうが容赦ない。
北条氏康が龍若丸を殺したのも、陶晴賢が義尊を殺したのも当時の感覚では当たり前。
>家康は外堀だけじゃなく内堀まで埋めたんですが(正確には二の丸の外堀だが)・・・
そこまで含めて、埋められる方が阿呆。
秀吉の墓に関しては弁護はしない。
とりあえず、煽るのはやめとけ。
煽られた奴以上に煽った奴が低く見られるだけだから。
国松に関しては当時の公家が同情的な日記を書いてるよ
公家は現実を見てないから。
というと語弊があるが、
血なまぐさい世界で生きてきた武士を初めとする民と
ぬくぬくとは言わないまでもそう言った世界とはあまり関わらない公家とでは
感じ方は違うだろうな。
「ある出来事が当時の価値観に照らし合わせてどうだったか」というのは現在から推し量るのは少し難しいな。
国松に関しては当時としてもやや残酷な印象を残したが、「戦国の世ではよくあること」で倫理的にはぎりぎりセーフかね。
それに家康は千姫・高台院の助命を受け入れて国松を助けるつもりだったと言う説もある。
大坂城の和約を反故にしての内堀埋め立ては自分的にはアウトだな。
これで家康を擁護して淀だけを非難するのは「鍵をかけ忘れた家に泥棒が入ったのは家主の責任、泥棒は悪くない」みたいなもんだ。
淀が馬鹿なのは疑いようがない事実だが自分は和約違反の家康を弁護するつもりにはなれん。
豊国神社破棄は弁護しない。というか弁護できない。
まあ
>>665は
>>667の言うとおり煽り口調を止めることだな。
いくら良いことを書いていても荒らしと見られるだけでまともに意見を受けてとってもらえないぞ。
671 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 19:49:51
>>670 >大坂城の和約を反故にしての内堀埋め立ては自分的にはアウトだな。
戦国の論理では和議など「紙切れ」ほどの効力しかないよ。まして相手が老獪な家康では。
毛利輝元なども、関ヶ原後、さんざんコケにされてるわけで、騙される方が悪いとしかいい
ようがない。家康からすれば、大坂方のあまりの素直さに苦笑したことだろう。
阿茶の局、本田正純、板倉重昌など、交渉したメンツも大坂方とは役者からして違うしね。
2ちゃんねらーは歴史の敗者に厳しいな。
「騙された淀が悪い」というのはもちろんわかるが
「騙した家康はもっと悪い」というのが普通の感性だろ。
「戦国の論理では」と言うが戦国時代でも和約違反は決して褒められたもんじゃなかったぞ。
和約違反をしようが勝てばそれでよし。要するにタイミング、実力などと相談しなきゃ
家康は既にあの時天下を手中に治め平和の世を築こうとしていた
それなのにその流れに賛同しない豊臣家は排除する。それは当然
家康がいったように国替えでも人質でも受ければよかった。それを拒否して滅ぼされたら
家康が悪者なんておかし杉。むしろ天下に混乱をもたらした豊臣が悪者
和議や約束ってのは双方に価値があるから成り立つの。実力に差があるならそれは「謀略」という
きれい事を言って戦乱を長引かせ、人的物的損害を増やすのと、
人的物的損失を抑えるために短期決戦を臨み、策を練るのと、
どっちがいいか、という話だと思うぞ。
俺は後者を支持する。
なんか変な人がこのスレにずっと居座ってんな
豊臣家に価値が無いなんて誰が決めたんだ?
「和議や約束ってのは双方に価値があるから成り立つ」なんて理論も初耳
『駿府記』や『本光国師日記』によると、講和条件は本丸のみを残して二の丸、三の丸は破却とあるようなので、
あながち家康の違約とは言えないのでは?
>>676 それって二の丸・三の丸の「障壁」撤去のことと勘違いなされてるのでは?
大坂冬の陣の和睦条件は三の丸の外堀埋め立て+二の丸・三の丸の障壁撤去だったというのは
『駿府記』だけじゃなく『大坂御陣覚書』にも記されてるよ(『本光国師日記』はよく知らないけど)
また、『駿府記』『大坂御陣覚書』『元寛日記』いずれの資料でも
豊臣方が家康の違約を激しく非難したと書かれている
以上の事実から、違約の是非はともかくとして家康が豊臣家との和睦条件を破ったのは間違いない
>>672 勝者ルーズベルトは軍ヲタその他に叩かれまくってるよ。
>>677 二の丸三の丸の破却は、豊臣方によって行われることになっていたが、
徳川の方で破却してしまった。その点が違約だと言うだけで、
二の丸三の丸の破却自体はもともとの和睦条件だよ。
>>679 「二の丸三の丸の破却は、豊臣方によって行われることになっていたが、 徳川の方で破却してしまった」
その時点で既に違約じゃん
あと和睦条件の中に二の丸の外堀を埋めるなんて条項はどの史料にも見られないが
>>680 いや、だから、その点は確かに違約だって。
そういやそうだね、たしかに
>>680にも違約って書いてある
ちゃんと読んでなかった、スマン
じゃあ
>>676はどういう点が違約じゃなかったって言ってるんだろう?
別にどうあっても自分の意見のみ固執するという気はなく、
ただ単純に家康に本当に違約があったのかどうか知りたいので、
ご意見ありがとうございました。
あと、一応、その前段階の『大坂冬陣記』に
「母儀出て質となるか、然らざれば堀をうずめ壁を壊ちて平城となるに、これあるか」
とありまして、これを見ると全部の堀を埋め立てるという意味にとったほうがいいのではと思ったところでした。
それと、大坂城の地図を見ると、外堀を埋められて二の丸三の丸を壊されては、
本丸と内堀が残っていても軍事的にはさほどのことではないように思えましたもので、
大坂方が「内堀までは及ばないから太刀打ちできる」と考えたとすると、
そうとう甘いのではないかと思ったのですが。
684 :
無名武将@お腹せっぷく:黄帝生年紀年4716/04/01(金) 00:47:23
>>672 講談や司馬遼史観、度の過ぎる判官贔屓に対する反発でしょ
面白おかしくするための豊臣=善、徳川=悪という脚色が
一般に浸透しすぎてる、まぁ、ここでは少数派だろうが。
家康にとっての「冬の陣講和の目的」とは何か? 無論、
「難攻不落の大坂城の完全な無力化と軍事的な価値をゼロにすること」
に尽きる。大坂方は「和睦」「和議」と勘違いしていたようだが、実は完全な
「謀略」「罠」だったわけだ。(この辺りの状況認識が、大砲に怯えて交渉を
焦った淀等にはできなかったようだ)
慶長19年時の家康は力攻めで大坂城を落城することなど割に合わないと判断し、
被害を最小限にして戦争を終結させる腹でいた。双方の実力が拮抗したもとで
結ばれた対等な「和睦」「講和」ではないこと。これを大坂方がわかっていたか
どうか。家康の本当の目的(大坂城の軍事的無力化)を見抜けなかった大坂方が
甘いといわれても仕方あるまい。違約と騒いでも後の祭り。
686 :
可児@元文学従事 ◆R.hU2KhlIc :黄帝生年紀年4716/04/01(金) 01:25:13
>>684 >ここでは少数派だろうが。
↑
いや、皆、三戦板デビューした頃は純粋な大坂方だったはず。
しかし、それを表明しようものなら、板の悪質な先輩たちに「真田厨うざい」とか「真田厨キモイ」とか叩かれまくり、
すっかり、性格がゆがんでしまい、まるでお師匠を失った皇帝サウザーのように、
こんなに悲しいなら!こんなに悲しいなら!判官贔屓などいらぬ!!
とそれ以降はすっかり悪い先輩とともに大坂方叩きを展開してる。
かれらの論は特徴的で、
一、どうあがいても家康さまには、かないません。
二、家康は秀頼を助けようとしてた。しかし秀頼は自らその機会を潰した。
三、とにかく大坂は勝てない!勝てない!勝てない!
というわけで本来、大坂方ファンが多いのです。
この板が人間を荒ませているのです。
>>685-686 レスの内容は読んでないが、日付の黄帝生年紀年ってなんだ?
ひろゆきの新しい冗談か?
>>687 四月馬鹿。
> 基本:皇紀
> イスラム情勢:ヒジュラ太陽暦
> 創価・公明 神社仏閣:仏暦
> ハングル:檀君暦
> 東亜+ 中国 三国志・戦国:黄帝誕生暦
> 極東 ニダー:主体暦
> 日本史板:慶長
> 中東+:ユダヤ暦
> 旧シャア:宇宙世紀
> 新シャア:コズミック・イラ
> 世界史:エジプト暦
> 懐かし系板:昭和
> 考古学板:太陰太陽暦
「戦国」だけなら元亀とか天正とかのが良いんだけどな〜
心情として豊臣の方が好きでも、事象は冷徹に見つめる。
これが正しいあり方だろ。
690 :
無名武将@お腹せっぷく:黄帝生年紀年4716/04/01(金) 01:55:23
>>674 徳川にとってこの戦が長引けば長引くほど都合が悪い。初めから長期戦のつもりはさらさら無かったかと。
人件費や諸費用の問題も当然あるだろうが、相手が豊臣秀頼っていうのが最大のネック。
691 :
無名武将@お腹せっぷく:黄帝生年紀年4716/04/01(金) 02:10:28
毛利勝永も真田とはいかなくても、もう少し評価が高くてもいいと思う
んだけどね。明石全登は、あの後脱出して、田舎の農村で細々と
暮らしたか、もしくは海外へ行ったか、秀家に会いに八丈島まで行ったの
かもね。
細川忠興の次男が、何故か大阪方に参戦していたな。
692 :
無名武将@お腹せっぷく:黄帝生年紀年4716/04/01(金) 05:52:53
>>683 いつだって時代の流れや状況を読めるのは、極一部の権力者と識者のみだろうよ。
華氏911を観てつくづく思う。
わけの分からないうちに侵略を受けたイラク(豊臣)に、ありもしない核兵器を理由に無理やり攻めたブッシュ(家康)。
悪のレッテルを貼られたフセイン(秀頼)。
数年経ってようやくブッシュ(家康)のきな臭さに気付き始めてちゃ、俺も淀を馬鹿にする資格は無い。
歴史を語るとき常に注意しなければいけないのは、
歴史が過去の出来事の集積である以上、現代を生きる我々が結果を既に知ってることだな
結果を既に知ってるがゆえに、何も知らずに必死で生きていた
当時の人間たちが時に非常に愚かしく見えることもある
「家康を信じて和約を受け入れた淀君が馬鹿なんだよ」
「時代の流れを読めずに家康に逆らった豊臣家こそ悪」
確かにその通りかもしれないが、どちらもあまりに一方的過ぎる見方だな
現代という高台から過去を見下ろして過去の人間を軽蔑してなんになるのかね
694 :
無名武将@お腹せっぷく:黄帝生年紀年4716/04/01(金) 15:05:14
≫693 今も昔も立場をわきまえない人が全部をブチ壊してしまう?秀頼の判断で崩壊したなら仕方ないが淀がシャシャリ出たから話にならない。大阪の陣ほど情けない話はない。生前秀吉と家康の高度な駆け引きや石田の関ヶ原、真田など勇士の存在も淀ひとりいたために全部がパァ。
まあ全部とはいわんが7割強は淀の責任といえる
相手が家康だった事や秀吉が子宝に恵まれなかった事、福島正則らが騙された事などがあるが
それだけなら豊臣滅亡はなかったといえる
・秀頼をヘタレにした
・諸将の意見を取り入れない独裁的な姿勢
・徳川の謀略なども考えず諸事に対処している
・世の流れも考えず権力に溺れ豊臣を滅ぼした
大雑把に淀の批判される点はこれくらいか?
>>・秀頼をヘタレにした
秀頼の教育は本人の資質もあるから一概には言えない。
現代であっても高学歴がそのまま有能な人材か?と言われるとそうじゃないだろ。
>>・諸将の意見を取り入れない独裁的な姿勢
諸将の意見とは?責めるなら大野兄弟や片桐も一緒にしないと片手落ちだな。
>>・徳川の謀略なども考えず諸事に対処している
大仏殿の件なら、秀吉存命時代からの工事だからあながち謀略に乗せられたともいえない。
>>・世の流れも考えず権力に溺れ豊臣を滅ぼした
北政所を大坂城から追い出したのは弁護の仕様がないな。
秀頼のおかげで大坂城内では権力絶大だが、一歩外へ出れば何の後ろ盾も無い元側室に過ぎない。
秀頼を失う事と大坂城を出ることに恐れてたらしいね。
秀頼の教育は傅役である片桐且元の責任だろ
こんなしょっぱい人物を傅役に選んでしまった秀吉の責任ともいえる
歴史を後からどうこう言うのは簡単だが、もう少しマシな人材はいなかったのかね・・・
>>697 マシな人材は15年前に死に絶えましたが何か?
やっぱり大坂の陣は正解だったような気がする。
もし徳川家に臣従したとしても最終的に2000-3000石に減封されてしまうと思う。
福島家とかの豊臣恩顧大名の行く末を見ればわかる。
そうなったらみじめだね。やっぱり合戦しかなかったんだよ。
従って家を残すか、
負けて名を残すか、か。
>699
その辺は価値観の差だと思うよ。
2,3000石って言えば旗本では大身だから、家名存続できたから良しって考えも出きる。
かつて関白を出した家ってなら高家でも格式は高いだろうからね。
天正キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
日本人らしい理念だね。
>>699>>700>>701 だがそれで豊臣の名じゃなくてわずかな可能性にかけた香具師(真田、明石など)の名しか
残らなかったなww豊臣は汚名を残し、勇士は名を残し、徳川は平和を残したっところか
勇敢に戦って名を残そう何て木っ端武者がやればいいよ。
秀頼の役目は這い蹲ってでも豊臣の血を残す事だと思うけどな。
勇敢に戦って名を残すのもいいが、
その裏で主家が滅亡することにより路頭に迷う家臣もいるわけでな。
大名っていうのは、そういう責任も果たす必要があったわけで、
大坂方に味方しなかった豊臣恩顧の武将を責めまくるのも
可哀想と言えば可哀想だ。
>>703 汚名を残したのは豊臣家だけじゃなく家康もだな
家康ほど現在の日本で嫌われてる武将はいない
その理由の大部分が大坂の陣の家康の振る舞いによるもの
>>706 そんなことはないよ。
山岡荘八の小説が影響しているのか知らんが、
中高年層には家康ファンはかなりいるよ。
特に経営者に人気が高いようだ。
>>707 もちろんファンも多いことは知ってるよ
けどその反面家康を嫌ってる人もたくさんいると言うこと
家康が主人公以外の小説・映画・漫画では大抵家康は悪人として描かれてるしね
嫌われると言うことは知名度の裏返しでもある
偏ってるなぁ、工藤章興ですかあんたは。
別に自分個人としては家康は好きでも嫌いでもないが、
家康が明治以降維新政府の反徳川史観や江戸時代における神格化への反発から
一般に悪役として認識されるようになった、ってのは常識でしょ
真田幸村を主役にした講談や司馬遼太郎の小説が果たした影響も看過できないしね
ていうか工藤章興って誰?
711 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184/04/02(土) 03:17:27
講談の人物評をいつまでも信じ込んでる奴もいないだろ
712 :
可児@元文学従事 ◆R.hU2KhlIc :黄天当立184/04/02(土) 03:42:07
経営者に家康が受けているとすれば、
それは家康の「虚像」が受けているといわざるを得ないな。
「経営者」とは思うにお金をうまく運用し、右から左に流しては莫大な利潤を得る、というようないわば練金術的手腕が必要かと。
彼は秀次事件で連座されそうになった細川氏に金を貸した時は岡崎時代から使わずにとっていた金を貸したというではないか。
吝嗇も経営者の条件かもしれんが、彼の場合はただの蓄財家にしかみえないwwwwwwwwwwwwwwwwwww
山崎の合戦の時の秀吉みたいにor関ケ原時の黒田如水みたいに、
「ここが金の使いどころや!」とばかりに私財なげうって賭ける投機的性格の方が経営者に受けると思うが・・・
やはりバブルは痛かったか・・・いまの世相はやはり家康が受けるのか・・・
家康ファンは家康が一般大衆から嫌われてるという事実をどうしても認めたくないらしいな。
自分の好きな武将が他人にどう思われてようがそんなのどうだっていいじゃん。
誰が何と言おうが最終的な勝利者は家康なんだし、多少の批判は笑って済ませるくらいの度量が欲しいね。
家康なら例え後世の人間がいくら非難しようが「所詮は下郎、相手にするまでもないわ」って感じでスルーするだろう。
715 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184/04/02(土) 05:24:12
>>714 >家康ファンは家康が一般大衆から嫌われてるという事実をどうしても認めたくないらしいな
「嫌われている」というより敬して遠ざけられるタイプだろう。頼朝同様、華やかさにかける玄人好みの
大政治家という側面が強いしね。おこちゃまにはその魅力がなかなか理解できない。
玄人気取りの人キタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━ !!!
717 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184/04/02(土) 05:25:34
>>712 >「ここが金の使いどころや!」とばかりに私財なげうって賭ける投機的性格
これこそバブルだろう?
もしくは戦後間もない頃から朝鮮戦争バブルの時代、今のITバブルとかもな。
そもそも徳川家康なんてのは昔ながらの経営者のファンの方が多いだろう。
まぁ大体、家康の吝嗇がただの蓄財家にしか見えない時点で、君、歪んでるよ。
大坂方が好きなのはわかるが、もう少し視野を広く持とうよ。
>>714 家康ファンだが、一般大衆に人気がないのは十分わかってるよw
でも男だからね。
自分の好きな物を一方的にけなされれば反論したくなる気持ちもある。
しかも事実だけならともかく、妄想まで混じればなおさら。
それにいいこと言ってるとは思うけど、なぜ「家康ファン」だけに言っているのかが不思議。
豊臣ファンだって誰が何と言おうが一般人気は絶対的なんだから、多少の批判は笑って済ませたっていいだろ?
上一行が無かったら、俺だって君のことはスルーもしただろう。
718 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184/04/02(土) 05:43:46
>>713 >特に地方版関が原や独立行動を起こす大名の考察はかなり鋭いと思
奥州関ヶ原の部分は爆笑の連続だったな。
摺上原の再現よろしく突然「上杉方に有利な風が吹いて」上杉軍の圧勝。
ありえね〜(笑)
719 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184/04/02(土) 07:53:10
>>697 だから、教育が良ければ誰でも優秀になるとは限らないだろうが。
残念ながら人間は生まれつき能力の差があるというのは存在する。
家康嫌いの人の意見はよく分かったが、
これ以上やるならアンチスレで。
いい加減うんざり。
じっちゃんの名にかけて!
家康ファン→先祖が東軍だった。
アンチ家康ファン→先祖が西軍だった。
これでFA? てか、謎はすべて解けた!!
722 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184/04/02(土) 10:02:27
うざ
>>719 自分は秀頼が生まれつき暗愚であったとは到底思えないな
二条城での会見では家康も「かしこき人」と秀頼を評したと伝わってるし
(もっとも狸親父のことだからありのままに受け取ることは出来ないが)
そもそも生まれつき能力の低い人間を何とか一人前にするのも「教育」だろ
秀頼の資質はともかく、彼の受けた教育に問題があったのは明らか
家康が嫌われているって、
そりゃあ、信長や秀吉を嫌っている者がいるのと同じでしょう。
別にそんな際立ったものがあるわけではない。
好む者もいれば嫌う者もいる、それは当たり前。
問題は、
>>706の
>家康ほど現在の日本で嫌われてる武将はいない
この発言がアホ過ぎただけ。
726 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184/04/02(土) 12:51:52
自分の好みを世間の常識とか言って拡大解釈するタイプなんだろうな
海音寺潮五郎
「家康は日本の英雄中最も評判の悪い人である。が、彼の伝記をすこしくわしく調べた人は皆好きになる。
しろうと好きはしないが、くろうと好きのする人物と言えよう。奥行きが深いのである。」
徳富蘇峰
「徳川時代の御用学者が、如何に頌徳表を家康に上(たてまつ)るも、
徳川恩顧の大名旗本共が、東照宮とか、大権現とか、神と尊び、仏と崇(うやま)ふも、
一般民衆は家康を以て、先人の功を盗み、据え膳を喰うてをる僥倖漢と見做している。」
北島正元
「近ごろ、家康ブームということばがよくきかれる。
日本史上、もっとも傑出した大政治家のひとりでありながら、
『狸おやじ』といわれて人気すこぶるふるわない家康が、
これで新しく見直されるということになれば、けっこうなことである。」
いずれも家康に対して好意的な文化人たちだが、
「家康は嫌われ者」ということをしっかり認識してその上で家康のことを弁護してますが。
「家康が嫌われてない」って人は何を根拠に嫌われてないっていうのかね。
>>726こそが「自分の好みを世間の常識とか言って拡大解釈するタイプ」なんじゃないの?
728 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184/04/02(土) 13:19:08
729 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184/04/02(土) 13:21:47
>>727 で、これがこの3人の主観以外の何に見えるの?
徳富蘇峰の家康観はイタイね。いつの時代の「一般民衆」なのやら。
徳富蘇峰の意見は全然弁護してるように見えないが…
>>727を主観というのがわからないな。
三人とも単に「家康が一般大衆に人気が無い」と書いてるだけだが。
それ以上の何が必要なの?
でも石田のみっちゃんなんかも評価されるようになったのは
最近だって話も聞くよね
徳富蘇峰に関して
>>727の文章の後に
「併し此れは家康に取りては、全くの冤罪だ。」と家康弁護が続く
歴史が続き物である以上
>先人の功を盗み
ってのはあたらないな
信長だって信秀のあとを受け継いでるわけだし
「家康を嫌ってる人もいる、好きな人もいる」
ってだけの話じゃん
「日本中で嫌われてる」かどうかというのはアンケートでもとってみないことにはわからない
普通好きなものに関してアンケートは採るが、嫌いなものに関しては滅多にアンケートをとらないからね。
「嫌いな戦国武将ベスト10」とかアンケートがあればこの下らない論争にも決着がつくだろうけど。
>>733 石田三成は江戸時代からそれなりに評価されてるよ。
徳川光圀の大日本史では敵ながら天晴れな忠臣で、世の侍はかくあるべしという評価を下してる。
三成が奸臣呼ばわりされるのは江戸中期から。
家康は嫌いなランキング3位ぐらいで好きランキングも4位ぐらいと見た
(戦国オタだけなら話は変わるだろうが)
大坂の陣について言えば信長の延暦寺焼き討ちと同じで仕方がなかったことだと思う。
誰が悪かったかといえば後継者をほっぽり出して死んだ秀吉が悪い
たとえ無能と言われてても秀次を残しておけば関が原以降の状況が変わった可能性がある
秀次は秀吉と直接血は繋がってないからね
もし秀次が秀頼誕生後も秀吉の嗣子だったとしても、
秀吉死後に秀次擁立派と秀頼擁立派との内紛があるのは大体予測できる
多少形は違うだろうが、関ヶ原は避けれないと思う
>>727 徳富蘇峰は石田三成のこともこれほど悪く言われた者はいない、
と言っているだろう。
紹介する人物の評について極端な言い方をするのは良くあることだぞ。
だいたい、
「世間一般では評判が悪いが私は高く評価している」
って言い方は、言葉の上でのただの修飾法の一つに過ぎないぞ。
そんなものいちいち真に受けてどうする。
必死だな
まあ、不用意な発言をしてしまうと、取り繕うのが大変だからな。
小説家だの歴史家だののちょっとした言葉まで引用して、
全くご苦労なことだ。
もう家康の人気の話はみんなうんざりしてるんだけど・・・
なんで空気読めずに無理やり続けようとするかね
徳富蘇峰を引用に出すのは気をつけた方がいい。
家康や石田三成はもとより、淀についても「これほど悪風聞をきたした
女性もいない」といった「前振り」をとりあえず書くから。
で、しかるに、…とくる。
これは
>>740氏のいうように蘇峰特有の文学的な修辞だから。
誰かの人物評価がそんなに重要かい?
そんなもの好き嫌いの延長に過ぎない。ほかのスレでやってくれよ。
>>734 あなたがうんざりしたのは分かったが、他はそうでもないんだろう。
まあ、馬鹿を発見すれば徹底的に叩こうとするのは、
一部のネラーの習性みたいなものだからな。
あまりにも馬鹿な発言をした
>>706を怨むしかないな。
あと、ほっとけばとっくに沈静化しただろうに、
無茶苦茶な話で擁護した
>>727を。
まあ、ほっとけばそのうち治まるよ。
あるいは他のネタフリをすればすぐそっちに話題はずれるだろう。
徳富蘇峰の「家康ほど嫌われた武将はいない」ってのが文学的修辞法なら
>>706もその一種じゃないの?
俺には家康を叩かれた家康ヲタが暴れてるようにしか見えん
まともなネラーは馬鹿な書き込みを見たらとりあえず釣りだと思ってスルーしまつ
何だかよくわからないけど
>>706は家康ファンの心の傷に触れたようですね
749 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/02(土) 16:02:22
とりあえず自分のレスに自分で返答するの見てて恥ずかしいから辞めてくれ・・
751 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/02(土) 17:41:44
権現様のなんと偉大なることよ。
真田・毛利の猛攻に徳川の旗本が逃げまくった以外はな。
権現様はわが三河武士こそ誇りであるとおっしゃたらしいが。
752 :
751:黄天当立184年,2005/04/02(土) 17:45:37
真田・毛利に大野治房(推定、当時34,5歳)の猛攻も付け加える。
>>747 全くその通り、
だから最初の言葉のあやだから、みたいな感じで言っておけば良かったんだが、
変に理屈をつけて正当化しようとするから話が面倒になってしまうんだよね。
>>751 棺桶に片足つっこんだ状態で大坂まで
上がってきた執念は素直に尊敬できると思うんだが
自分より若い三傑達が死んで十年前なら誰でも知ってた武器の使い方とかを
周りの若造に直々に説明したりもしてたり、年取っても楽できてない所は面白い
二十代の秀頼はママンと引きこもって最後まで出陣しなかったってのに
755 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/02(土) 23:53:01
>>723 その「秀頼を賢い人物である」と言っているのが家康だけなんだよね。
家康の豊臣を滅ぼすための嘘か、あるいは豊臣を恐れるあまりの恐怖心から出た評価としか思えない。
756 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/03(日) 00:01:28
>>751 命知らずの三河武士は過去の話し。
当時の徳川の武士はもはやお坊ちゃん集団でしかなかったから。
でも家康自身は最後まで戦人であり続けたぞ
某ゲームでも1600年を越えたあたりから優秀な家臣がどんどん死んで
二線級の若手を使わざるをえない状況になると家康の歯がゆさがわかるw
三戦板で某ゲームなどとわざわざごまかすとは小心ですな。
759 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/03(日) 02:36:08
三戦板は事実上の光栄板だし。
そもそ誕生の成り行きからして、
ゲーム厨隔離のためにできた板だしさ。
>>756 というよりは全体的にベテラン層がいなくなり始めたのだと思う。
関ヶ原初陣だった奴でも14年もブランクが開いているから新兵と変わらないし、
小田原の役以前に戦場をかけずり回っていた層は50、下手したら60にもなろうかという感じだものな。
結局は総大将の差。夏の陣の家康は3日分の手弁当のみで乗り込んできた。
狼(百戦錬磨の家康)に率いられた羊の群れ(実戦経験に乏しい新兵)と
羊(軍事経験ゼロの秀頼)に率いられた野犬の群れ(浪人衆)との戦い。
実質率いていたのは大野や真田などの歴戦の武将
>>761 なんかその言い回しに既視感が・・・
司馬遼太郎の小説に同じような一節があった気がする
764 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/03(日) 08:43:17
大野や真田って歴戦かなぁ?
765 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/03(日) 09:20:35
総大将の差は冬の陣のほうが遙かに大きく結果に出てると思う。
>>763 戦闘経験は真田は二回目、
大野は関ヶ原にもいたらしいが戦闘参加までしたかどうかは知らない。
まあ、したとしてもやはり二回目だろうね。
>>766 どの真田のことだ?
信繁のことなら二回ぽっちじゃないぞ
>>767 おや?関ヶ原の時の上田城の戦いが初陣ではなかったかね?
>>768 第一次上田城の攻防戦には出陣していない初陣は秀吉の小田原攻め。
長期間に渡った小田原攻めで複数回出撃して戦闘経験をつんでいる。
>>768 よく見たら第二次上田城の攻防戦のことか。もう少しまえに初陣してるのは常識だとおもうが?
>>769 あの時期って人質として京にいたんじゃあないの?
>>766 大野は宇喜多の家臣高地団衛門を一騎打ちで倒しているだろ。
どちらにせよ大野も真田も歴戦と言うほどでもない
大坂方の武将で浪人達からも一目置かれてたのは後藤又兵衛ぐらいかね
九州征伐・豊前一揆・朝鮮出兵・関ヶ原の戦い等黒田家の主だった戦いの
ほとんどに参加し、しかもいずれの戦いでも戦功を挙げてる
大坂浪人だってそのへんの事情は同じじゃないの?
オサーンばかりだったってわけじゃないだろうし
777 :
脱肛仮面:黄天当立184年,2005/04/03(日) 13:21:18
信繁タンは信濃の小競り合い等に度々出陣してるから歴戦だよ。
大野だって長浜時代の秀吉の一兵卒として
779 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/03(日) 19:54:37
方々、歴戦の強者は城方では、又兵衛くらいでは?
幸村、明石、毛利、七手組らもいくらか場数を踏んでるとし
百歩ゆずって、大野兄弟等も勇者だとしても、勝負にならんだろ?
だって彼等大軍の指揮なんてした事ないし、なんせ相手は
桶狭間、姉川、三方ヶ原、長篠、勝頼討伐戦、小牧長久手、小田原の陣に関ヶ原
有名なだけでもこれだけの場数踏んでる家康ですが何か?
又兵衛ですら、万単位の大軍の総指揮はしたことあったけか?
とりあえず家康他歴戦の猛者の前には又兵衛だろうが信繁だろうが差がありすぎ
家康”他”?
他 ?
家康の他に歴戦の猛者が何処に?
藤堂タン伊達タン。
三河武士では大久保彦左衛門忠教タン?
少なくとも豊臣派より戦場経験が多い香具師は少なくはないだろ
>>783 彦左は歴戦かもしれんが指揮官としてはどうやろ?
藤堂レベルでいいならいっぱいいるな
上杉とか佐竹とか立花とか丹羽とか細川とか
譜代だと安藤兄弟とか酒井家次、酒井重忠とか
こまかいとこだと宇喜多の旧臣系とか上田宗箇とか前田や越前の家臣いっぱい
さすがに家康以上はいない
三好政勝ぐらいじゃない?
>>783 藤堂はせいぜい2千人くらいしか率いたことないし、伊達は万単位の
兵力率いて連戦連敗。摺上原のみは勝てたが、少数の相手に大苦戦。
歴戦の勇者というにはほど遠いかと。
朝鮮行ってない奴ばっか
本当にひさびさ〜に戦ったんだろうな、徳川も伊達も藤堂も
アンチ伊達がいい加減ウザイ
万単位の兵を率いて連戦連敗?詳しく述べてもらおう
確実に15年のブランクはあるからな。
多分島津以外は、そしてその島津は大坂の陣には参加していないし。
万単位の兵を率いて連戦連敗しながら芦名を滅ぼすなんてなかなかできないよw
>伊達は万単位の兵力率いて連戦連敗。
>>787はただのアホだよ。まさか、関ヶ原以降の1600年9月〜1601年4月までの上杉とのチンケな小競り合い
を言っているのか…。(尤も上杉の「勝った」だの「陣幕取った」だのの類の話は、ただの自己申告だが)
(アンチ伊達には悔しいだろうが)大坂の役の頃の伊達政宗は、家康に次ぐ大実力者だよ。
徳川、豊臣双方から奥羽の重鎮として認められている。
実際、慶長19年10月16年、小山まで来ていた政宗に対して、追いつめられた豊臣秀頼が、
東西の調停を政宗に斡旋依頼をしているしね。
また徳川幕府からこの時点でも「謀反」やら何やらで相当警戒されていたことも、伺える。
(有馬豊氏宛伊達政宗書状がそれを示す)
>>786 大坂方には三好政康も参戦してるね
天王寺・岡山合戦で討ち死にしたと伝わってるが、
事実なら当時政康は87歳・・・
現代では寝たきりでもおかしくない年齢だ
政勝も96歳の天寿を全うしてるし三好家の人間の長寿はすごいな
794 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/04(月) 09:11:23
>>793 高齢者は、具合いが悪い(寝たきりなど)人と、そうでない人の落差が物凄く激しいよ。
俺の知り合いに、今年米寿の人がいるが、ものすごい元気だよ。
雨が降らない限り山で仕事をし、喫茶店でコーヒー飲んで、そこのウェイトレスや若い女性客を口説いたりするんだよ。
まぁ、その人も中国戦線で戦った後、インパール作戦に行って生き残ったという歴戦の強者だがな。
4月4日になったのにまだ黄天当立のままかえ
796 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/04(月) 12:33:19
>>793 あの兄弟だけが異常w
他はわりと早死に(戦死も多いけど)
むやみにwつけるとネタにしか見えんから注意汁
799 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/04(月) 18:51:50
家康ダントツすぎ〜
秀頼カクヘンするしかねぇぇ〜
土佐の出来人のように〜
800 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/04(月) 18:57:27
800!
801 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/04(月) 20:56:53
最終決戦の突撃で男をあげた大野治房。これがなかったら、ただの虚勢を
張るだけの男と思われてただけに、男をあげさせてしまった将軍徳川秀忠
も勝ったとはいえ形無しだね。
秀吉も毛利勝信・勝永親子を大大名にすればよかったのに。福島・加藤よ
りも忠誠心あるし。とはいえ、勝永はあっぱれな武将だよ。
>>801 馬鹿だなァ
毛利親子が大大名だったら大坂方に付くわけないだろ
逆に福島・加藤が毛利親子の地位だったら
大坂の陣では豊臣の一部将として奮戦したあげく討ち死にをとげて
あっぱれな忠臣ってことになっただろう
毛利親子は家康に恩を売ってたのに西軍についたからな
大身でも大坂に付きそうだ
804 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/05(火) 07:13:50
大名があからさまに大坂に味方できる状況ではないだろ。
徳川の治世はすでに秀吉の治世よりも長いし、徳川家と諸大名では力の差が隔絶してるし。
妻子は江戸に詰めてるし。
浪人と違って、家臣とその家族さらには領民を抱える大名。 大大名になればなるほど個人的な
感情や賭けで行動できないだろう。
史実においても、あからさまに秀頼に味方した大名は皆無。
>>802が述べてるように、毛利親子が大大名で、どれだけ忠誠心があっても秀頼に加勢したであろうか・・・
逆に、正則等が浪人であれば一角千金や忠誠心で、秀頼に味方した可能性は非常に高いのではないか・・・
片桐且元、大野治長、毛利勝永、福島正則加藤清正・・・ はたして誰が一番忠誠心があったのであろうか・・・
個人的には関ヶ原での三成等が一番、豊臣家に忠実だったと思うのだが。
少なくとも正則等も、大坂の陣で大活躍した又兵衛、幸村よりは個人的忠誠心は上だったのでは?
805 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 13:40:05
大名個人が「よし!俺はこの家をなげうってでも大坂につく!」と言い出したとしても
家臣は家臣で家があるから「あんた勝手にいけば?」ってことになるだろうな
気が狂ったと思われて強制的に隠居させられそう
807 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 14:08:05
大軍を率いるという意味で【一番】大阪方で格上なのは長そかべです。
実際福島なんかは江戸に留め置かれてる訳だが
>>804 それでも大坂に駆けつけるのが勝永クオリティ
810 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 18:07:57
>>805 その大名にそこまでの覚悟があれば、家臣がついて行かなくても単身で入城すればいい。
それだけでその大名の大胆さは諸国に響き渡り、その勇敢さ、または愚かさが後世まで語り継がれる。
語り継がれて何になる?とこの糞スレの住人に批判がきそうだが、
『もはや家が滅びても構わぬ』と考えているなら、残るものは『名』しかないだろ・・・
まっ、家康に媚売っても改易された馬鹿もいたしな
名前が残るだけマシだよな
812 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 18:51:15
たぶん、だが・・・
もし大坂に単身で入城した馬鹿大名がいたとしたら、終戦後、家康は命までとらないだろう。
理由はふたつある。
ひとつはこの時期の家康は非常に懐古的、感傷的になっている。質実剛健の三河武士も孫の代になると、流行にかぶれ、なまくらな弱兵に成り下がっている。
また大名はみな猫のようにおとなしく保身の第一が常態化している。
戦国の生き残りはもはや自分ひとりになってしまい、いまの武士の気風をにがにがしく思っているフシがある。
そんなところで、単身入城というそんな大胆かつ豪快なニュースを家康が聞けば、敵ながら『天晴れな奴よ!』と思ったのではないだろうか。
ふたつめは、理由というか、事実。
関ケ原の小山会議の折り、西軍につく、と申し入れた武将は田丸直昌ただひとりだった。
小山会議のような一番大事な場面(むろん会議後だが)での敵対表明は極刑モノだ。しかし戦後、家康は彼の命までとらなかった。
要するに田丸の行動は家康の心奥底に眠る『美徳』に一致したものだったに相違ない。
813 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 18:52:51
聞いたのか家康に…氏ね
あのう・・・じゃあ自分に逆らった勇士達を斬ったのはなんでですか( ´,_ゝ`)
てか戦がなくなる泰平の世で質実剛健な三河武士なんていた方が迷惑
保身を考えるヘタレがあふれようと、徳川の世が続けば万々歳だろ
815 :
家康:2005/04/05(火) 19:02:10
>>812の言うとおりでござるわ!よくぞ、わしの本心を読んでくれた!礼をいうぞ!
あと
>>813は増上寺の山門に晒しクビね。
816 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 19:04:40
>>803 ドリームすぎ
>>812 それもドリームすぎ
単身、秀頼につく馬鹿大名がいたら説伏すら許されず打ち首がハリツケ。
そもそも田丸は単に中立を宣言しただけで西軍についたわけではない。
それに彼は秀頼への忠誠のために中立を宣言したのではなく、単なる保身のため。
結果的には東軍が勝って、中立宣言したのにもかかわらず所領を没収されたのだが。
817 :
家康:2005/04/05(火) 19:07:06
たしかにヘタレばかりのが治めやすい。しかし、武士の気概を忘れて欲しくない、というなんともアンビバレンスなぜいたくな悩みなんじゃよ。ぐふ!
818 :
812:2005/04/05(火) 19:07:40
説伏は切腹だった。
それで訂正だけではなんなので追加するが、
だいたい家康は息子が大阪城にはいったというだけで増田長盛を切腹させ、
出陣に手間取ってバタバタしたという理由だけで、古田織部を殺しているのだが。
819 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 19:10:58
長宗我部盛親は別に大阪に入ってない、息子たちまで捕らえて全員、切腹もしくは打ち首。
後藤又兵衛もあちこちで家族が殺され、ある娘など夫ともども成敗されたという。
家康がさかんに残念がったのは木村重成。
ホモっ気があまりない家康も彼にはひかれたようだ。
軍勢ひきつれて入城なら処刑。
単身入城なら(●´ー`)って感じで遠島。
>>819 確かイケメンだったんだっけ?かなりうろ覚えだが
822 :
家康:2005/04/05(火) 19:21:15
盛親や後藤は失うものなく入城だろ?当時は家父長制度だから当主と嫡子以外は人じゃない。だから殺すことも見せしめとしてOK!
国捨てて、単身入城をした大名を評価します!
でも捕まえたら殺すんだろ古狸さんよ('A`)
824 :
家康:2005/04/05(火) 19:24:24
・・・まあね。
質実剛健の三河武士も孫の代になると、流行にかぶれ、なまくらな弱兵に成り下がっている。
上記
>>812の文章は嘘。
松平忠直が得た首級は、東軍トータル1万4千6百二十九の内、
3千七百五十の凄まじさだ。
827 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 20:31:22
そんな首が一日で取れるものか。
銃火器の差だろ、夏の陣はもはや大坂方に火縄や玉薬は尽きかけていた。
828 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 21:17:47
>>826 弱体化していたのは旗本だろうな
越前や前田なんかは歴戦の渡り奉公人みたいなのも多かった
>>828 越前って地方の名前だよ。それとも自分が無知なだけなのか
徳川忠直が越前を領しその軍勢が越前勢と呼ばれていたことを知らない?
知らない。一応公共の場なんだし大衆が分かるように表現してくれる事を望む
833 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 21:37:39
大阪方の兵はもはや帰る場所もない連中が死に場所を求めて残ってただけ、
つまり、集団自殺みたいなものだし。
あと、大阪の陣が終わったあとも、徳川は大阪から逃げた兵を狩り続け、
一日に数百という落ち武者を捕らえて河原で打ち首にし続けたという。
この落ち武者狩りはきびしく大阪落城から2年も続けられた。
834 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 21:41:39
>>816 毛利、上杉、佐竹といった中立もしくは消極的西軍だった大名が所領を1/3程度に減らされて存続しているのに
中立を宣言している田丸が全所領没収なのはむしろ厳罰。
家康の田丸に対する怒りがわかる。
とはいえ家康も中立にすぎない田丸を殺す口実もなかったし、やむおえない。
>>832 それは正論だが、
だったらいきなり相手を無知呼ばわりするのは控えたほうが良いと思うぞ。
今回のように自分の方が無知って可能性もあるからね。
まあ、あなたが
>>829と同一人物ならの話だが。
いや田丸は小身代、
上杉、毛利と次元が違う。
>>836 だとしても西軍についたのならともかく
中立の大名を殺す口実がない。
>>829は相手に無知とは言っていない。自分に問い掛けただけ。よく嫁。
>>837 まるでわかってない。
こういう天下分け目の合戦で中立は許されるわけねーだろ!勝者がどちらになっても潰される運命。当たり前のこと言わすなよw
>>838のレスは可児@元文学従事の提供でお送りいたしましたW
842 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 22:43:31
>>839 そんなこたあ、わかってる。
ただ殺すまでは無理だと言っただけ。
まるで田丸を殺さなかったというだけで家康が寛大だったとか
田丸の行動に感動していたとかいう意見に反論しただけ。
843 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 23:13:58
>>832 要は無知な自分に合わせてくれってだけじゃん
なにが大衆だ
844 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 23:17:38
田丸の話になってるが、
彼は氏郷の妹婿だってのもあるかもな
蒲生は東軍でかつ徳川の姻戚なわけで
とりなしがあったら多めに見ざるをえんでしょ
845 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 23:39:01
だから大目でも何でもないだろうが。
普通なら中立だし四万石の所領を半分か1/4くらいに改易するくらいだろうけど、
全所領没収だから苛烈な処置といっても良いだろう。
846 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/06(水) 00:47:12
上でも誰かが言ってるけど中立なんてのは存在しないの
847 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/06(水) 00:49:28
>>846 そうかもしれんが、
田丸の場合は自分で「中立を宣言する」と言って出てったんだからな。
>847
その話は創作で、実際はずっと自領にいたらしいが。
宣言するだけで通用するなら戦国時代を渡るのも楽なもんだな
何でもそうだが事後処理の差だな。
中立とは言っても、それは田丸の言い分であって、家康が承認したのではない。
家康からすれば、豊臣家の筆頭大老として上杉討伐に赴いたが、その際、反乱が起きてしまった。
豊臣政権に反抗したものであり、当然、どの大名も家康に味方しなければならないのに
田丸は味方しなかった。
と、こう言われるのがオチ。弁明難しいと思うぞ。
そうだよ!一連の事件の弁明すらしなかった田丸美寿々を見習えってんだWWWWWWWWWWWWWWWW
>>833 落ち武者狩りは元和9年(1623)頃まで続いた。実に執念深い。
853 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/06(水) 08:11:31
田丸の話しはともかく、
元は
>>812の
もしも加藤清正や福島正則が単身、大阪城に入っても
家康は「あっぱれじゃ」と許したという戯れ言から始まってるんだぞ。
それで、その証拠というのが「関ヶ原で田丸を殺さなかったから」というものだ。
なんか二重三重に間違ってると思うんだが。
すいません・・・戯言いってWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
だって!田丸好きなんだもん!文句ある?
夏の陣まで残ってて助かったの結構いるな
岡部則綱、伊東長次(七手組)、丹羽正安(長重の甥)、箸尾高春、樋口雅兼、
長岡興季、槇島重利、蒔田政行 、宮本武蔵、村上高国(義清の孫)、山川賢信、
湯浅正寿(有楽の孫)、渡辺守(糺の子)、和久是信(宗是の子)、織田昌澄(信澄の子)、
北川宣勝、喜多長能、金春重勝、長曾我部康豊
宮本武蔵は大坂の陣では徳川方についたとの説もあるけどね
『大坂御陣人数附覚』という史料では水野勝成軍に従軍して戦功があったとされてるが、
自分はその史料を読んだこともないし、信頼すべき史料かどうかもわからない
>>856 別にどっちでもいいよ
どっちだったところで現在の我々になんの影響もないし
馬鹿か
859 :
板垣平松:2005/04/06(水) 18:47:07
>>857 いや影響はあった。
もし武蔵が東軍についていたら、今頃、
>>857はIT長者になって、人臣位を極めていたはず。
しかし西軍に武蔵がついてしまったため、大きく歴史が変化し、この過疎板にせっせとカキコするキモオタ専業ニートになってしまっている。
かえすがえすも残念じゃわい・・・
んなアホなww
861 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/06(水) 19:31:54
>>856 もしも、宮本武蔵が東軍についていたら幻滅もはなはだしいな。
保身・体制ベッタリの俗物男。しかも、よりにもよって水野勝成軍とは(w
大坂浪人にどの面下げて斬りかかったのだろうか。ま、嘘だとは思うが。
>>861 なにをいまさら・・・。
武蔵は終生、体制側に憧れていたわけで・・・
剣で身を立て、末は一国一城の主になりたかった。いや、そこまでいかなくても侍大将ぐらいにはなりたかったのだろう。
遺体に甲冑を着せ、葬れと遺言したことでもわかる。
彼ほどの俗物はいないさ。
>>861 武蔵が何を思って大坂方についたと思っているんだ?
まさか義とか?
多くの香具師を斬れる方を選んだだけ
865 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/06(水) 22:36:34
>>855 夏の陣まで残ってて、冬の陣で逃げた奴は案外には寛大だった。
866 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/06(水) 22:37:20
「冬の陣の前には逃げた奴」には寛大だってことね。
>>861 宮本武蔵は大坂の陣ではばりばりの東軍だぞ。
もっと勉強しろ無知。
>冬の陣の前
じゃ戦始まってないじゃん
冬の陣で夏の陣だろ>順番
>>865 おいおいなんだこいつは?
最近馬鹿がふえたなぁ。
宮本武蔵は大坂の陣では徳川につきました。
冬の陣の次が夏の陣です。
これらは全て常識です。
871 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/06(水) 22:46:03
>>870 確証あるの? 宮本武蔵ググったら「?」だらけだが。
慶長19年(1614) 31歳 大坂冬の陣に参戦?
元和元年(1615) 32歳 大坂夏の陣に大坂方で参戦(小笠原家客分として?)
>>871 グーグルなんぞなんのソースになるんだ?馬鹿かおまえは。
873 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/06(水) 23:00:25
>>870 >宮本武蔵は大坂の陣では徳川につきました。
まずはソース出せや。低脳チンカスw話はそれからだ。(w
>>873 ほれ、無知がww
「水野勝成大坂陣人数覚」
>「水野勝成大坂陣人数覚」
隅々まで調べて濃いよビッグマウス無知やろうぎゃっはははああ
関ヶ原で東軍側だった武蔵が大坂の陣で大坂方につくとは考えにくいがな。
>>876 関が原では西軍宇喜多隊の一兵卒として参加していますが何か?
ていうか
>>856で既にソースは出てるじゃん
ちょっと前の書き込みも見れないのかね
関ヶ原・大坂役に参戦したってのは、どれも定かではないんだよね
>>878 馬鹿か、おまえは?
>>856はザルだらけだろうが。
「説もある」「あったとされている」?
ソース以前の曖昧な憶測(wで断定するなよ。低脳w
881 :
可児@元文学従事 ◆R.hU2KhlIc :2005/04/07(木) 08:16:30
>>880は荒らし。
とにかく、さっきから初歩的な間違い発言を確信犯でほざきつづけ、スレの調子を狂わせている。
>>865 >>876 このふたつは釣り以外の何物でもない。
とにかく荒らしはいけないことだからやめてください。
とりあえずこのスレにくる奴はほとんど真面目な奴(私も含めて)ばかりだから、釣りに気付かず、丁寧に答えてしまうんで、
>>880はこのスレに来ないでください。
>>871 大坂夏の陣で小笠原が大坂方につくわけないだろ
権之丞かよ
武蔵が小笠原の客分になるのは50ぐらいのときで、
20年ちかくなにやってたのかわかってない
東軍で武功があったなら、なぜ仕官しなかった(できなかった)のかが謎
まあ、独自の哲学で剣の道を極めていたのだ!と言うと聞こえはいいが、
武「芸者」は目立ってナンボなので大坂にいたのかもしれない
883 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/07(木) 18:55:43
てか武蔵が数千人斬りゃ豊臣が勝てた
水野勝成といえば、阿倍野では明石勢の精鋭に大分痛めつけられているわけだが。
885 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/07(木) 20:17:04
大坂の陣で関東勢で討ち死にした武将で一番の大身は本多忠朝でよかった?
>881
小説レベルの知識で釣り認定ご苦労さん。でも無知丸出しだから止めた方がイイよ。
>)84
逆だろ。
明石勢を散々討ち取ったのが水野勝成勢だ。
888 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/07(木) 21:30:39
>>885 小笠原(8万石)じゃない?
忠朝は5万石
小笠原家は気の毒だったよなぁ。
当主と嫡子が戦死だっけ?次男だか三男は無事だったようだが。
>>887 明石勢はわずか300人だったが、東軍の越前兵を痛撃。崩れた越後勢左翼が水野隊に
混入して大混乱に陥り、勝成は一時指揮不能状態になっている。
最後は、勝成が逆襲に出て、明石勢は敗北するが。
891 :
可児@元文学従事 ◆R.hU2KhlIc :2005/04/08(金) 18:38:09
1600年家康『豊臣家の為!秀頼様の御為に逆賊・三成を討つ!』
↓
↓
1615年家康『豊臣家は浪人衆を雇い、幕府に対して謀反を起こそうとしておる!逆賊・秀頼を討つ!』
秀頼『m9(^Д^)プギャー』
>>891 朝廷からの権威付けで、立場逆転してるので無問題
朝廷からの権威付けと言っても家康は別に秀頼を討てとの勅命を賜ったわけではなくね?
家康は後水尾天皇に豊臣家討伐の綸旨を賜ろうとしたが、
天皇が徳川嫌いの豊臣贔屓で断固として断ったらしいね
秀頼と家康の官位・官職を考えませう
895 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/08(金) 22:55:55
夏の陣の時の大坂方って健闘してるね。
>>895 どこがどう健闘したか言ってくんない?
そういう漠然としたネタ振りが一番、うちらスレ住人として困るんだよねー。( ̄〜 ̄)ξ
いや、大坂の陣の時点では秀頼と家康の官位は同格だろ
家康(右大臣)=秀頼(右大臣)≧秀忠(内大臣・征夷大将軍)
(ただし、秀頼は慶長十二年に右大臣職を辞す)
結局のところ儒教の大義名分論で言うと
大坂の陣って家康の武力による主家簒奪(放伐)に過ぎない
当初の目論見どおり朝廷から家康に豊臣家追討の綸旨が出ていれば
家康も方広寺の鐘銘なんぞでいちゃもんをつけずに済んだはず
家康は征夷大将軍
家康を征夷大将軍に任命したのは天子様
征夷大将軍に逆らう豊臣家は大逆を犯しているのだ
900 :
899:2005/04/09(土) 05:54:24
あ、あくまでも”建前”の話だからね
ムキにならないでね
建前にもなってないよ
そんな理屈がまかり通るなら
秀頼は右大臣
秀頼を右大臣に任命したのは天子様
右大臣に逆らう家康は大逆を犯してるのだ
という理屈も成り立つことになる
そもそも律令階級では右大臣>>征夷大将軍でしょ
所詮家康の豊臣家簒奪の正当性の根拠になってるのは家康の強大な武力だけ
勅命を賜って義経を討った頼朝のように、朝廷に掛け合って豊臣家討伐の勅命を賜ることもできたはずだが、
家康はそれをしなかった(もしくは後水尾天皇の反対にあってできなかった)
ただ、力ある者が世を治めるというのが当たり前の時代において、幕府の武力は天下を治めるのに十分すぎる根拠だったとは思う
個人的に大義名分論を振りかざす江戸時代の朱子学の徒が、
大坂の陣における家康の主家簒奪をどう描写してるのかが興味深い
徳川光圀なんかはそのへんの矛盾に気づいていたのではと思うけど、立場的にあまり公にはできなかったみたいだ
豊臣家が武家である以上、征夷大将軍の支配下に組み込まれるわけだから、
形式的には1603年の時点で豊臣家は将軍家の傘下に入ることになるんじゃない?
>>901 秀頼はすぐに右大臣辞めてるぞ
あとスレの流れをみると元々言いだしっぺの898が「大義名分」とかいってるがそれは違う
あとから来たものが出世して追い抜いたようなものだ
へんな例えだが軍隊で中尉と少尉の関係だったのが、少尉のほうが出世して大尉になったら
中尉の方はそれまで一方に命令を下す立場だったのから、逆に命令に従う立場にならねばならないわけで
結局どちらが先か後かの話に過ぎないだろ、つまり単に順番が織田→豊臣→徳川だっただけ
>>898のいってることは単なる感情論であって、「大義名分」ではない、強いていえば「理」をもって家康を批判してるだけ
確かに家康に理はなかったかもしれないが、大義名分はあった
905 :
可児@元文学従事 ◆R.hU2KhlIc :2005/04/09(土) 11:26:26
>>904 中尉、大尉の例はふさわしくない。階級を引き上げるのは第三者の『軍首脳部』だからなぁ
それにひきかえこの場合、家康を内大臣まで引き上げたのは、
『豊 臣 家(当事者)』 で す か らWWWWWWWWWWWWやっぱWWWWWWWW纂奪WWWだろーがよWWWWWWW
かの信長も、主の義昭の命までトラナカタ!
曹操も献帝の命まではトラナカタ!
でも、家康は・・・
秀頼を跡形もなく 灰 塵 にしてますからWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWMWWWWW纂奪WWWWWWWWWですよWWWWWW絶対にWWWWWWWWW
可児は放置で。
まあ可児本人もわかってやっている節があるからな。
生暖かく見守るに賛成。
908 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/09(土) 17:36:45
>>903 変な話に聞こえるかもしれないが、そもそも「豊臣家」は武家じゃないからね
豊臣家の創始者である羽柴秀吉は紛れも無く武士だったが、
信長・家康のように譜代の家臣を持たない秀吉が天下の諸侯に号令するときに
用いた権威は、武家の棟梁の称号である征夷大将軍ではなく、
朝廷に代表される公家社会の頂点に位置する関白の称号だったのは周知の通り
(秀吉は自分自身を藤原氏の末裔であると称していた)
律令階級で征夷大将軍より圧倒的な高位にある関白の称号&藤原氏の血統が
豊臣家の権威の基盤である以上、豊臣家は征夷大将軍の命令など受けないし、受ける必要もない
ならないのではなく、なれなかったんだがな。
それと関白の世襲を家康に妨げられてしまった以上、権威は消失している。
また朝廷は既に俗世とは乖離した存在であって、
官職官位による権威の+αはあっても、それだけでは十分な権威も権力も無い。
秀吉の頃は権威も権力もあった上でのだめ押しの関白で、
その豊臣家のそもそもの権威と権力の基盤は、
秀吉の実力と豊臣家の国力と諸侯の支持。
この三つが失われれば、首座の地位から転落するは必定。
ヲイヲイ、藤原氏を称していたのは、末裔じゃなくて
関白相論の際に近衛前久の融子になり藤原長者になって関白に就任したんだろ
その際に新姓賜って藤原から豊臣では?
藤原の血統を使ったのは関白就任の為だけにしか見えんけど
911 :
908:2005/04/09(土) 18:58:39
>>909 その通り
豊臣家の悲劇はそういう現実を受け入れられず、
関白であった秀吉の嗣子である秀頼に家康を含む諸侯が従うのが
当たり前だと勘違いしたこと、結局はそれだけだと自分は思う
ただ淀殿は鎌倉時代の宮将軍と北条家執政の関係のように、豊臣家自体に政治の実権が伴わなくても
最大の実力者で実際の統治者である家康が豊臣家に一定の敬意を払えばそれでいいや、と思ってた節もある
家康がそういう歪な権力の二重構造を許すような男でなかったことが最大の誤算だった
912 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/09(土) 20:10:47
>>905 おまえのいうとりだなWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
WWWWWWW
Ww
WWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWw
WWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
913 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/09(土) 20:11:17
可児にむかついちゃったんでこのまま居座るよWWWWWWWWWWWWWWW
WWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
WWWWWWWWWWWWWWWWWW
914 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/10(日) 02:33:16
秀頼右大臣罷免って見たんだが・・・
辞職か辞めさせられたのどっち?
理由とかも知っている人おすえて。
>>914 自分で辞めたようです
理由は秀頼でないとわからない
一説には家康父子への当てつけだとか
>>904 「大義名分」
@人として、また臣民として守るべきことがら。A何か事をするにあたっての根拠。やましくない口実。(大辞林参照)
近年の日本語では「大義名分」の意味がAの意味で使われることが多いけど、
朱子学の「大義名分論」では本来@の意味
豊臣家の臣下であった家康が主家を攻撃し、主人である秀頼を自刃させるのは明らかに簒奪行為
家康が儒教倫理的に簒奪者の謗りを免れるには、豊臣家より上位の存在である朝廷の勅命を賜ることで、
@の「臣民として守るべきことがら」を形式的に満たす必要があったが、家康はそれをしなかった、ということ
まあもともと朱子学の大義名分論自体現実認識できない人たちの恣意的な論理に過ぎないから気にする必要は無いともいえる
事実家康は気にしなかった
豊臣家の臣下であった徳川(過去形)と
豊臣家の臣下である徳川(現在形)とでは話が違う
1615年の時点で徳川将軍家は豊臣家の臣下であったのか?
答えはイエスだな
1615年の時点でも間違いなく徳川家は豊臣家の臣下だった
1603年の家康将軍就任以来回数は確かに減ったものの、
徳川家は豊臣家への年始の挨拶を行っていた
家康の征夷大将軍就任によって家康と豊臣家は対等(もしくは家康の方が上位)になったと主張する人もいるが、
この一件だけで豊臣家と徳川家の主従関係は明らか
919 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/10(日) 06:57:16
確かに形だけだね。
まあ家康自身秀吉存命中から豊臣家のことを主家だと思ったことなど一度もないだろ。
ただ秀吉の方が強大だったから臣従するという「形」をとってただけ。
関ヶ原の合戦後でも、家康の将軍就任後でも、家康は「形だけ」豊臣家に臣従する振りしてただけ。
そう意味で豊臣家と家康の力関係の変化に関わらず、1586年から1615年までずっと家康は豊臣家の臣下だった。
大坂の陣はそういう矛盾を解決するための戦だったとも言える。
それだけ豊臣家をたててあげようと気を遣っていたということだな
秀頼が右大臣を辞したのも秀忠が将軍を継いだことが気にいらないからという当てつけだろう
天下は徳川のもの、しかし豊臣もそれなりに遇してやろうとしたのに、それすら不満で受け付けない
とんでもない我儘というか時流が読めないというか・・・
まあ織田信孝をさらに愚かにしたようなものだな
徳川はむしろ十五年もよく我慢したよ
922 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/10(日) 07:19:24
>1615年までずっと家康は豊臣家の臣下だった
それは無い、片や将軍家
そしてもう一方は大阪付近を領地とする一大名に過ぎない、他の大名との違いは単に先代が関白であったというだけ
>>921 なんかあんたのレス、むかつきますねW
てか、あの家康が気を遣うわけねーだろ!
それなりに遇しつづけたのは周りに対する配慮だろ?
なにせ『秀頼様の御為』を大義名分に天下を取った以上、その直後からいきなり豊臣家を邪険にしたら、他大名達の失望、混乱を招く恐れがある。
だから真綿でクビを絞めるようにゆっくりゆっくり、初めはそれなりに遇しつづけた。
で、もって1615年にはもう気を遣う必要はなくなったので、秀頼を灰にしたんだろ。
924 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/10(日) 11:31:54
なんかあんたのレス、むかつきますねW
>>926 荒しを放置できないのを放置できないのも荒し。
荒らしを放置できない荒らしを放置できない荒らしを放置できないのも荒らしです。
929 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/10(日) 16:50:31
コラ! どこかの国のように一方通行な話し方をするな!
大坂からも年賀拝礼の使者が駿府に行ってるわ。 あと課役も幕府に命じられてるわ。 拒否ったけど。
ようするに、幕府は政権移譲済 豊臣家はいまだ家康は大老。 その認識の誤差が一番の大坂の陣の要因だろ。
>>929 大坂からの年賀の使者は豊臣家当主の秀頼自身が行ったわけじゃないでしょ
そうでない限り家康が征夷大将軍になった後も自身が年始の挨拶に行ったのと同一視できない
家康も将軍に任命された後は自ら年始に赴くことを止めている筈だが…。
江戸や駿府からわざわざ大坂くんだりまで年賀の挨拶に行くわけないでしょ。
そんなことしたら、豊臣家の方が上だということを自ら認めることになるんだから。
逆に秀忠の将軍宣下の際には、秀頼に挨拶に来いと言ってる。
大坂方はそれを拒絶したけど。
信雄は転封を拒んで領地を没収された、
織田は豊臣の主家であったにもかかわらず、この一件で秀吉を酷いというよりも、信雄が愚かだと思う人の方が多いだろう
秀頼も同じ事じゃないの?
秀吉は信雄を殺すまではしなかったっていうのは無しな
2度にわたる戦いの結果だし、秀頼も最後は自害だし家康も最後に秀頼が投降したら殺すことはなかっただろう
あと、国松は殺してるから秀頼も殺してただろうってのも無しな
私生児のガキなんていう枝葉末節にこだわるのは意味無いし
933 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/10(日) 17:57:39
秀吉が信雄にした仕打ちは許せるのでございます。
でも家康が秀頼にした仕打ちは許せないのでございます。
キャラの違いでございます。
信雄っていうか信孝じゃないの?
家康にとっての秀頼との関係に近いのは
まあ例え同じことをしてても違う人間がするだけで大分印象が違うもんだ
家康は「狸親父」のイメージのせいで明らかに損してる
狸親父のイメージは秀吉死後の行動からだと思ふ
936 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/10(日) 19:30:43
鬼畜度でいえば「殺生関白」>>「狸親父」なんだが。
いや鬼畜はその殺生関白を殺した秀吉だろ
本人だけでなく子供だの妻だの妾だのを30人以上もまとめて首を刎ねたんだぞ
おまけに利休を死なせた理由は一体何なんだよ?
大徳寺の門の上に自身の像を置いたからだと?
方広寺の鐘の文字のいちゃもんと何ら変わらないだろ
しかも何の軍事力を持ってるわけでも無い、何の脅威になるわけでもない茶人を
気に入らないから、生意気だから殺すって・・・ 暴虐の極みだな
>>937 殺生関白を殺した秀吉だろ
殺生関白=秀吉ですが?
939 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/10(日) 20:22:32
えぇ〜!?殺生関白とは秀次が付けられた(と言われた)あだ名でしょ?
940 :
938:2005/04/10(日) 20:24:21
だな。勘違いだったわ(-_-;)。
941 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/10(日) 20:31:38
信雄は秀吉の主君じゃないでしょ
主筋なのは秀信
だから秀頼もあれぐらいで我慢しとけば30ぐらいまでは生きられたと思われ
>>932 信雄の時と決定的に違うのは、方広寺での一件だろう。
開戦の口実は完全に言い掛かりだからな。
>>932 私生児のガキだからこそ、
生かしておいてやってもよかったんじゃあないかい?
>>937 利休って今でいえば人間国宝だろ。そんな香具師殺したらそりゃ批判バンバンだね
彼の茶の力で人とのパイプを築いたりできたものをもったいない・・・と妄想してみる
秀吉が利休に切腹を命じた理由って現在でも不明で、
歴史学者の論争の種なんだけどね
大徳寺云々はそのなかの有力な説の一つに過ぎない
946 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/11(月) 01:47:36
利休の弟子も殺してなかったっけ?
秀吉って大物ぶってるイメージあるけどたまに手の平返すよな
信長のように年中血を見てるようなのが利休殺してもそれほど問題にもならなかったろうな
秀吉のように明確な理由もなく人殺しするからこんなに批判される
利休は当時秀長と共に豊臣とのパイプとして位置づけられ、殺す価値など微塵もなかった
それを容易く切り捨てる辺りマジで精神病でもかかってたとしか思えない
短命政権(源、豊臣など)は自ら頚を絞め自ら滅んでいくという特徴がある
源氏は義経他一族を殺しまくるし、豊臣も養子、諸大名のパイプなどを容赦無く捨ててる
948 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/11(月) 06:14:20
病んでたんだよきっと。
ほら、彼(秀ちゃん)は色々コンプあったでしょ
949 :
可児@元文学従事 ◆R.hU2KhlIc :2005/04/11(月) 08:21:38
利休は茶器の鑑定とかするんでしょ?
奴が『これは、名物だ』といえば、どんな茶器でも値段が超跳ね上がるんでしょ?
奴はその特権を利用し、色々あこぎなことやってきたんじゃねーのWWW
(^ー^)b マチガイナイ!
秀吉が利休を殺した理由として
・茶に対する価値観の違い(両者が使った茶室を見れば一目瞭然)
・彼の茶の和をもち有力者と連携される事を恐れた
・利休より豊臣の内情が漏れる事を恐れた
・大徳寺の木像建築問題
・高級な茶器を売りさばき財を成したから(秀吉は自分以外の金持ちが嫌いな傾向有り)
・彼の影響でブランド化した茶業界?での貿易独占を狙った(要するに
>>949が言ってる事)
・ただ単に用済みになった。或いは嫌いになった
ま、利休も切腹したとき69歳だし何もせずともじきに死んだろうな
951 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/11(月) 09:33:36
>>932 殺しただろ。
とはいえ確かに投降されたら殺しにくいから降伏できないように追い詰めて切腹させたんだろうね。
もっとも投降しても適当に毒殺でもしただろうけど。
952 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/11(月) 10:22:56
>>950 朝鮮出兵に反対したからとか、彼とキリシタンの繋がりとか、
彼の娘を妾に出すのを拒否したとから(実際、利久の娘は蛇責めにされて殺されてる)とか、
いろいろな話しがあるね。
俺が思うに高度な政治的判断とかは関係なく、
単に何かくだらない感情のもつれから殺したんじゃないかと思う。
当時の秀吉はおかしかったし、町人の分際で天下人の自分に意見する利久に立腹したんだろう。
ただ秀吉が利久を殺した事をのちに後悔したのは確からしく供養するような事をしてる。
953 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/11(月) 10:46:04
>>949 利久が茶器の目利きに不正をしたかどうかは現代ではわからないが、
彼の目利きで面目を潰された大名は居ただろうね。
自分が高額はたいて購入した高級茶器を「我がOO家の家宝でござる」とか言って
利久に見せて「これは何の価値もない二束三文の品ですな」とか言われてしまったら面目丸潰れだろう。
そういう事で恨みを持たれる事はあったろうね。
案外、真相は秀吉御自慢の名物茶器を利久に見せて「あきまへんな」とか言われたので
カッとなって切腹させたというところかも。
954 :
952 953:2005/04/11(月) 10:53:08
利久でなかった利休ね。
955 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/11(月) 12:05:44
>>930 お馬鹿ぁ〜 秀頼自身も行ってないが、家康秀忠も1603年以降、秀頼に頭を下げた事はないの!!
俺が当時見てきたわけじゃないけど、それは許せ!
あと、秀頼と信雄は比較にならないと思うのだが・・・
秀頼が家康に忠誠を誓う誓書を出した事はないが、信雄は天皇行幸のおり、天皇とその補佐である
関白秀吉に対して、忠誠を誓う誓書だしてなかったっけ?? おすえてエロイ人!!
>>954 なんた、仙台で牛タン食い過ぎですからwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
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957 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/11(月) 12:29:32
>>952 それより蛇責めってなんだよ蛇責めって
ググッっても石田三成が利休の娘を蛇責めにしたとしか書いて無いぞ
どんな責めか詳しく教えてくれ
気になってしょうがないぞ
958 :
可児@元文学従事 ◆R.hU2KhlIc :2005/04/11(月) 12:33:47
959 :
無名武将@お腹せっぷく:
>>947 秀吉に理由の無い殺戮が多いのは確かだよな。
信孝は天下取り最大のライバルだからしかたないとしても、その両親
とかもあっさり殺しているし、秀次一家惨殺とかするし、小早川秀秋や加藤清正
も一時危なかった。
その点が、頼朝、信長、家康と違うところだろうな。
義経を殺したのは、それが明らかに必要だったからで、そもそも、朝廷から
の独立運動をしてるのに、その首班の弟が朝廷側に寝返ったら、敵として殺
す以外に選択肢はほとんどないし。
信長は残虐だと言われているが、その大量殺戮の多くは作戦上の理由だった
り、宗教勢力の武装解除のためだったりする。家康もそうで関が原の後実行者
を処刑したり、いつまで経っても時勢を理解できない秀頼を滅ぼしはしたが、
必要最低限に押さえている。