1 :
無名武将@お腹せっぷく:
まだやんの?
3 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/27 01:23:06
4 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/27 01:24:19
■■■名将定義ランク 将才、名声、国への貢献度■■■
1位 劉備
2位 諸葛亮
3位 関羽
4位 魏延
5位 姜維
6位 張飛
7位 王平
8位 黄忠
9位 張ギョク
10位 趙雲
ついに暫定順位でますた!!!!!!!
これ以上はループです。以後能力基準にうつりましょう。
5 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/27 01:27:59
このスレから見だしたんだけど
孔明って、「将」なの?
政治家としては歴史上に屹立するとは思うけど
>>1 乙。
もう大抵の話は出尽くしたし、
同じ話の繰り返しになるばかりだろうから
長いこといる住人にはつまらないだろうけど、
スレがあることに意義があるって方向で。
>4
10位の趙雲はろくに議論も無いまま
「趙雲ファンへの配慮」とやらで決定されてたと思うんだけど
話題が無いなら、そのへんなんとかしてみない?
十分議論はされてたと思うが……
そうだったか?
姜維と魏延の怒濤の議論が終わった後
うやむのまま、決定されて終了した気がする
十分議論したような気もするが、なあなあで済ませてしまった気もする。
しかしながら、前スレ以外はdat落ちしてるから確かめようが無い。
誰かが保存してれば確かめられるんだがなあ。
趙雲なら演義と正史の違いからダメポって空気だったけど、
大群を率いたり、総大将として華々しい戦功こそないけど、
必要不可欠な、縁の下の力持ち的な小回りの利く名バイプレイヤーだってことで、
改めて見直されてランクインされたんじゃなかったっけか。
うん
でもあの時のスレの雰囲気は生暖かかった
>13
たしかに。
なんていうか、趙雲ファンが来て妄想で一方的に持ち上げて
「それの根拠は何だ」って討論する間も無く終了に至った感じだった。
>>14 それこそ妄想だ
趙雲否定側も結局趙雲に代わりうる将を挙げれなかったから
とりあえずは、と趙雲が落ち着いたんじゃないか。
一方的に趙雲ファンが悪いような言い方はやめてくれ。
名将と呼ぶかどうかはともかく、関張馬黄とならんで伝を立てられてる位だし
蜀の内部での評価が、晩節を汚したとされる魏延と姜維当たりを除けば別格に
高かったんじゃないの?
>>16 贈諡が極端に少なかった蜀で諡をもらった数少ない将軍なので、
蜀内部での名声は相当に高かったのでしょうね。
蜀で立伝されてる将軍は、一発屋や政治家的側面のほうが強かった人ばかり。
立伝されて無い将軍は記録が少なすぎて評価のしようが無いです。
まあ、もともと妄想スレだし。
あ、俺は好きよ。蜀のマイナー武将が話せるのって数少ないし。
俺は、黄忠>趙雲、がほぼ確定してるのにも疑問を感じるけどな。
趙雲の贈諡は他と違って、劉禅に拠る所が大きいと思いますよ。
すまん、今更だがランクイン趙雲は別伝ありの香具師?
別伝が存在するという事実を踏まえての評価だ
別伝を完全に信用するわけでもないし、全てを切り捨てるわけでも無い。
趙雲別伝は信憑性は高いと考えていいと思う。
趙雲は戦歴も長く劉備にも親任されてよく建議している。
黄忠は劉備に仕えた期間は趙雲に劣るが、益州侵攻や漢中争奪戦で活躍しているな。
劉備漢中王即位に当っては大抜擢され後将軍に栄転している。
この際、趙雲のランクは関張馬黄に劣っている。
自分は黄忠≦趙雲だと考える。
>>23 別伝の趙雲は古参・有能・功績多大。
これを完全に信用するとしたら、野戦司令官組では関羽・張飛に次ぐ地位にいてもおかしくない条件が揃っているのに、
どうして新参の魏延・黄忠に位階で追い抜かれてしまったのか理解しにくいです。
基本的に劉備の人事はちゃんとしてるので、功績があって報われないと言うことは考えにくいのですが。
同じように野戦で叩き上げた魏延・黄忠より位階が低かったのは、
戦功や能力の点で彼らより劣っていると見なされていたからなのではないかと言う気がします。
だから、別伝は信憑性が低いと思っています。
さっきの23ですが・・・
とにかく、蜀の人物は謎に満ちた人が多いからね。
「季漢輔臣賛」だけでは補いきれない所が相当あるな。
趙雲はやはり、功績は低いのか。
劉備死後の老将といえば、趙雲・魏延にも関わらず、
席次では魏延・李厳・劉琰・袁リン・呉懿に遅れをとっている。
>>24 魏延・黄忠と趙雲では畑が違うんだよ。
趙雲は主に後詰めだったり遊軍だったり伏兵だったり
別働隊としての地味だけど確実性が求められる物。
特に魏延・黄忠は新参だから大きな戦果を挙げたら
子飼の便利屋よりは大げさに労ってやらないとだろうしさ。
まあ趙雲を贔屓してるわけじゃないけど、
そこまでダメだとも思えない。
>>25 三国時代に入ると軍事一筋の軍人より、政治の才も併せ持っている軍人が高い位階にいることが多かったので、
ほとんど軍事一筋の趙雲より、政治の才もある李厳の方が高位になるのは普通のことだと思います。
呉懿は劉備の姻戚、しかも旧劉璋勢力から劉備勢力に移った野戦司令官の中でも最高位の人物でもあるので、
政治的配慮から高位にいたと思われます。
劉琰は古参のわりに功労が無かったので劉備時代は郡太守止まりでしたが、
諸葛亮時代になるといきなり九卿の一つである衛尉に昇進し、
その後も特筆すべき功績が無いのに累進しました。
大した功績も無く、実務に携わったわけでもない彼が
どうして諸葛亮時代になっていきなり重臣に列したのか、実のところ良く分かりません。
諸葛亮に最も寵愛されたのは劉琰なんじゃないかと思いたくなるぐらいの出世ぶりです。
袁綝は潁川の人なので相当な古参だと思われますが、記録が少ないので分かりません。
高位高官に昇るには、氏族に影響力が無い人物では無理。
趙雲は軍事的能力は高かったが、豪族階級ではなく、周辺に対する影響力は小さい(と言うより無い)。
そんな人物が最終的に、鎮東将軍まで昇ったのはある意味厚遇とも言える。
魏延にしても、蜀漢の体制が整い出した頃からの活躍と言うことで、征西大将軍まで昇り階級的には厚遇され、途中に漢中都督と言う重職にも就いているが、結局は「前線の軍人」に留まる。
王平にしても同様。
それに対して、呉懿は劉備の外戚である事も大きいが、後漢末期の中央政府高官であった、呉匡(呉班の父)の一族であることから、益州居住の豪族階級(特に陳留方面から移住してきた連中)に対する影響力もある。
劉琰に関しては宗室と言う点も大きいと思う。蜀漢の皇室は藩屏が極端に少ないから、劉姓と言うだけでも大きいのではないか?
特に諸葛亮時代は漢室復興のための北伐が中心課題であったことから重要性は増す。しかも、劉琰は劉備に親愛されていたため、より厚遇されたのだろう。
宗室であり、先代の側近というのは引き立てざる得ない。
もし、馬超が北伐時代に生きていたら、諸葛亮・馬超・李厳・魏延の四人と
同姓の劉琰・外戚の呉懿・呉班とかが事を諮っていたかもしれないな。
馬超がいるだけで
ぐっとヨウ州進出が現実味をおびるような気がするな
なにしろ実際にそこで戦ったわけだからな
まあそれを狙ってあれだけ高位の将軍職に就けたわけだしな。
馬超の能力はどれぐらいの物なんだろう?
名声が有るから実力もそれなりに有るのだろう。
名声は実力だよ
>>33 > 名声は実力だよ
ある意味ではそう。
豪族の離合集散に関わる。
軍事的能力も高かったろうしね
>>28 >高位高官に昇るには、氏族に影響力が無い人物では無理。
>趙雲は軍事的能力は高かったが、豪族階級ではなく、周辺に対する影響力は小さい(と言うより無い)。
>そんな人物が最終的に、鎮東将軍まで昇ったのはある意味厚遇とも言える。
趙雲が豪族であったかどうかは史書に記述がないので、良く分かりません。
彼が軍歴をスタートした漢末は基本的に豪族か、寒門でも上から特に信頼された人物しか官職に就けない時代でした。
身分の低い人物が功労を積み重ねて高位に就くには、時間が少なすぎました。
趙雲が最初に仕官した公孫瓚から特に信頼されていたという記述も無いし、
劉備軍に移籍してからは身辺護衛を任されてますので、
公孫瓚陣営に居た頃も、国相という重臣クラスの地位にあった劉備と交流し、
信頼を得る機会を持てる程度の地位にはあったと思われます。
兵士や一士官あがりでは面会することすらかなわないので、
おそらく、数百人規模の兵を指揮するぐらいのポストにはいたのでしょう。
真定の小豪族出身だったのではないかと、個人的には思っています。
いくら豪族でもよほど大勢力か、名声が高くないと出世の種にならないし、
小豪族出身の軍人などいくらでもいますから、鎮東将軍まで昇ったのは十分に出世した部類に入ると思いますが。
>魏延・王平
政治に影響力を持てる地位にまで昇れる人は豪族でも滅多にいないし、
この二人クラスの位階まで昇れる豪族も滅多にいないので、
『「前線の軍人」に留まる』と限界があったように考える必要は無いと思いますが。
>劉琰
彼は名字が同じだったから劉備に親近感を持たれたと言うだけの人です。
三国志で血筋がある程度はっきりしてる人物の場合は、本伝か注に
「○○の曽祖父は××の官位にあった」とか、「○○は××の後裔である」と必ず記述されています。
彼の伝にはそういう記述が無いので、彼が漢皇室の末裔である可能性は限りなく低いのではないでしょうか。
>>32 彼は勇敢な武将でしたが、本質的には韓遂と同じような種類の人物だったのではないかと想像しています。
つまり、軍事能力より他勢力や異民族を動かす政治力で勝負するタイプだったのではないかと。
>>38 魏も馬超が敗走した後、随分と涼州の統治に苦労しただろうな。
>36
だから、趙雲は「厚遇」されてるって書いたけど。
豪族階級と書いたけど、名士階級と書いた方がよかったかな。ともあれ、名士・豪族階級に影響力が無かったのは確かでしょう。
私的には、劉備も以前に就任してた鎮東将軍に叙せられた、ってのは相当な厚遇だと思います。
魏延・王平に関しては上手く伝えられない。
漢中都督は重職だけど、前線の指揮官に過ぎないと言う意味です。
ライ降都督や江州(永安)都督との違いかな。漢中都督は軍人でも勤まるが、江州都督等は軍人じゃ無理だろう。
つまり、魏延・王平は中央政府に入って政権中枢で活躍出きる立場ではなかったと言う意味。
劉琰については、漢室の血筋かどうかはこの際無意味では?
劉備自身もかなり怪しい中で劉性で古参、劉備の側近、ってだけで、買いだったのでしょう、諸葛亮としては。
逆に言えば、劉備の親愛する側近の「劉」氏がいい加減な立場の人物では困ったのかもしれない。
結果的にはお荷物になったけど。
41 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/01 00:19:02
劉琰と陳群って同じ時期に劉備の従事となって40年位して
死んでいる。同じ位名声があったのかも。
しかし、6・70歳にもなって前線に立ち、美人の奥さんっ
て、元気な人っだったんだろうな。
おいおい
陳ショクの直系の孫と、ただの劉備のお友達とを同列にするなよな
43 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/01 18:51:18
同じ位名声があったのかもって、従事に任命された当時について
の妄想。
理由は、劉備が当時予州に、知り合いがいなくて、他人の評価や
紹介で任命したと思うこと。
40年後も現役ということは、若くして州の高官に任命されたと
思う所から。
別伝は空城の計とか論外
そんな事より、黄忠伝に注釈が無いのが気になった。資料なさ過ぎだろ。
>公孫サンは、役人の子弟で優秀な者を見掛けると、
>必ず圧迫して彼等を困窮な状態に陥れた。
>ある人が訳を尋ねると、彼は「彼等を取り立てて富貴にしてやっても、
>彼等は自分の社会的立場から当然就くべき地位に就いたまでだと考え、
>私の優遇に対して決して感謝などしないだろう」と答えたと言う。
>この様な考えは、当時社会的評価に基づいてそれなりの社会的発言力を持っていた名士を
>認めず拒否する事を意味し、
>それはそれで独断的な君主権の確立には役立つが、
>逆にその集団存在の社会性が極めて危弱になる。
>>40 >趙雲
ちょっと言葉の定義が違ってたみたいですね。
でも、蜀の高官のほとんどが、氏族の勢力だけで出世できるとは思えない小豪族の出身と思われる人ですので
(官職に就いたり、名声の高かった父祖の記録が無い。あったとしても低い官位。
または「大豪族である」という記述が無い点から判断)
氏族の影響力が無くても栄達することは可能でした。
蜀の場合は氏族の力や個人の名声より、弱小氏族が寄り集まって形成された人脈が
出世に影響したような印象を受けます。
有力氏族で無いと栄達できないような書き方をされたので、つい反発してしまいました。
趙雲が軍事一筋で鎮東将軍の高位に昇ったのが相当な栄達であるというのは、同意見です。
>魏延・王平
政治の才が無ければ、中央政府に入って政権中枢で活躍する立場になりたくてもなりようがないですね。
>劉琰
軍事の才も政治の才もなく、劉備に親愛されながら郡太守に留められた人物を
いきなり九卿まで引き立て、実務に関与しないのに車騎将軍まで累進させることによる
政治的効果が良く分からないです。
劉なんてありふれた名字だし、御伽衆の一人でしかなかった彼の何が「買い」なんでしょうか?
>>41 >劉琰と陳群って同じ時期に劉備の従事となって40年位して
>死んでいる。同じ位名声があったのかも。
陳羣も劉琰も当時官位に就いておらず、官歴も無かったから、州の従事に登用されたのでしょう。
あと、陳羣は従事の筆頭である別駕なので、普通の従事だった劉琰よりちょっとだけ格上ですね。
>しかし、6・70歳にもなって前線に立ち、美人の奥さんっ
>て、元気な人っだったんだろうな。
この人は栄位を歴任していますが、実務は担当していないので、ほとんど名誉職です。
あと、蜀にはケ芝、張翼、宗預、廖化など相当な高齢でも軍務を担当している将軍が何人もいますので、
あまり驚くことでもないと思います。
>>43 劉琰が陳羣クラスの名士なら、必ずそういう記述が残ってたと思います。
名声が高いかどうかは、この時代では重要なその人物の属性と考えられていましたから。
そういう記述が無いと言うことは、わざわざ特筆する必要が無いぐらいの家柄と名声だが、
普通に州郡の従事になれるぐらいの家柄と名声だったのではないでしょうか?
あと、官位に就いていない名士や豪族の子弟は、
若くても最初から州や郡の高官から官歴をスタートさせる場合が多いです。
例えば魏の満寵は官職に就いた父祖の名前は記載されておらず、高い名声があったという記述もないのに、
18歳で郡の督郵になって、その後兗州牧となった曹操の従事になっています。
この人は242年まで生きているので、従事になったのも相当若い頃だったと思われます。
これは特に若い例でしょうが、若い豪族の子弟が州郡の高官になるのは普通のことなのです。
劉備政権自体、有力豪族が少ないから、全体として弱小豪族連合の印象が強いのかもしれない。
特に荊州系統の人材のほとんどが中小豪族階級ってのもあるでしょう。
逆に言えば、全く門地が無い(あるいは不明)、またはあったとしても影響力を発揮できない立場(出身地の関係で)であるのに趙雲は実力のみで昇進したのは乱世であるにせよ、相当有能な軍人だったとも思います。
魏延・王平は、政治能力に関しては発揮したくとも発揮出きる立場出なかったのでしょう。
蜀漢政権内における役割の違いと言ったらいいのでしょうか?
豪族階級・・・安全保障も含めた中央・地方の行政職 寒門・・・・軍事(特に出世したければ)って感じかな。
劉琰が厚遇された理由については劉備に親愛された側近で古参の同姓、しかないですね。
劉備死後に昇進したのは、最古参であった点、能力主義の劉備の死ではないでしょうか?
劉備生存中は劉備の存在自体が漢室の藩屏を主張できましたが、劉備死後のそれはかなり薄くなる。
なまじ有能でなく、実務に就けなければ宣伝にはなる、ってトコでしょう。
それでも劉備時代も実態が伴ったかはともかく、2千石の太守でもあり、劉備逝去前後に劉琰より席次が上の人材が亡くなってる事から、李平の次と言う立場だったのでは?
人事において、年功序列も秩序を維持するためには必要で、年功序列人事があることで、抜擢人事も生きる、と言う部分もあります。
劉琰の処遇は年功序列の面がもっとも強かったと思います。
ちょっと趙雲白眉に過ぎねーか?
なんか、また生暖かい雰囲気が…
益州の有力氏族と繋がりを持つ人間は
軍事的に重要なポストにつけるのは危険という見方は無いかな?
だからこそ、趙雲のようなニュートラルな位置の人間が重用されたんだと思う。
軍事一筋で鎮東将軍の高位に昇ったというより、
比較的古参で、益州荊州人士とは派閥の繋がりが薄く、
本人の性質的に諸葛亮に厚遇されたからこその出世だという考え。
54 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/02 21:33:28
>53
政治にしろ、軍事にしろ有力氏族ばかりに隔たると、当然だが豪族の力が強くなり過ぎて政権の求心力が低下する。
しかし、あまり排すると、統治に支障をきたす。と言うか、蜀漢のような地方政権は有力氏族の協力が無ければ成り立たない。
趙雲、魏延等は実力もさることながら、豪族連中との均衡を図ると言う意味で昇進した部分もあるでしょうね。
蜀漢を統治する上で政権中枢は、その辺りはバランスを常に考えて行ってたと思います。
魏延のような寒門が軍事を独占していた、と言う訳ではなく(彼らが出世するには軍事しかありませんが)益州、特に蜀郡では相当有力な豪族出身である張翼などは軍事部門で最高位に昇進してます。
趙雲に関しては、同じ巻の関・張・馬・黄らと比べるとかなり地味ですが、同列に記載されてるあたり、蜀漢後期の人々には実力者(実務においての)と考えられていたのではないでしょうか?
魏延と趙雲の官位については、同等だったと思います。
魏延が漢中平定後、鎮遠将軍になりますが、趙雲は益州平定事にク軍将軍です。これは、双方共雑号将軍であり同等と言えます。
劉備即位事(221年)、魏延は鎮北将軍になりますが、223年の間違いでは無いか?と考えます。抜擢されて鎮遠将軍になったのが219年であり、2年で昇進と言うのが早すぎると思います。
注目したいのが、夷陵の役の時、黄権が江北諸軍の指揮を任された際、鎮北将軍に任命されている点です。
二人の鎮北将軍がいたとも考えられず、魏延の鎮北将軍就任は223年の後主即位の時と考える訳です。
だとすると、223年の段階で、趙雲(征南将軍・永昌亭侯)、魏延(鎮北将軍・都亭侯)となりほぼ同等となります。
上は54です。失礼しました。
史書の記載形態と、当時の評価はあまり関係無いでしょう。
>57
趙雲の評価と魏延との官位について、リンクさせるつもりはありませんでした。
誤解を招く書き込みで申し訳ありません。
>56 については、魏延の鎮北将軍就任が221年ではなく、223年であり、ならば趙雲と魏延は同等の官位であったのではないか?と言う趣旨です。
59 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/03 07:45:26
趙雲って赤壁後の南荊州平定の後、
桂陽太守になってるよね。
別伝の記事だったと思うけど。
この時期、確保してる郡は限られている、
呉との境界地、また呉に属したばかり(210年)の交州と接している、
などなど、この時期の桂陽太守は重要な任務だったと思うけど。
あと武官じゃないけど、寥立が20代で長沙太守になってるね。
これも支配してる郡の数を考えると異例の抜擢。
ちょっとだけ黄忠の話題出していい?
黄忠ってさぁ、劉表配下のときに奴の甥の劉磐ってのと一緒に長沙のユウ県を守備してるじゃん。
そういえば長沙太守張羨が劉表に対して反乱起こして鎮圧されたんだけど、
これって黄忠が鎮圧したんじゃないのかな?
>>60 黄忠が討伐したら伝に記載されると思うが。まして功績に値するのだし。
郡が反乱してるのだから、県も呼応してる場合もある。攸県がどう行動したかは不明だが。
黄忠が功績を立てて名を上げていたら、文聘やかいえつみたいに
荊州降伏後に曹操にお持ち帰りされてただろうな。
63 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/03 14:36:30
>>59 この時期って、南郡(江陵、公安)、長沙、桂陽、武陵、零陵ぐらいだっけ、
支配してる郡は。
64 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/03 21:08:30
文聘も劉表時代がない訳で、功績があったとしても載らない
ことはあると思う。俺は北方で対曹操戦で戦っていてもおか
しくないと思う。
甥がいるんだぜ。攸県は反乱してないだろ。
功績をたてたから中郎将になったんちゃう?っていっても大将というより一武将としての戦功だろうが。
んで、反乱再発防止のために駐屯してたとか。
馬超も幼年期の記述はあんま無いな。
韓遂といがみあってたころから壮健な奴だなどと噂されているんだから、
この頃に武功の一つもありそうなもんだが...。
蜀書(蜀志)の巻の分け方って共通項があるのでしょうか?
とりあえず、自分の推測では
1→蜀が出来る直前の支配者
2→建国時の皇帝
3→滅亡時の皇帝
4→皇帝の身内
5→蜀唯一の宰相
6→建国に貢献した将軍
7→蜀の参謀
8→建国に貢献した文官
9→???
10→ロクでもない最後な人達
11→???
12→???
13→???
14→中後期の蜀を支えた人達
15→???+おまけ
特に列伝の人物は、どういう仕分けをしているのか自分でもサッパリです
>>66 とりあえず12は学者だな。これははっきりしてる。
13は各地の平定に功があった武官。黄権はちょっと微妙だけど。
9は名士層の文官かな、でも、8と根本的な違いはないな。
黄権と霍峻は入れ替えた方が、俺としてはしっくりくるかも
>>69 その魏略の記事の信憑性ってどうなの?
半殺しと言うのもちょっと疑問。
原文はわからないけど訳だけ読めば単に優勢な場面があっただけと解すことも可能だし。
71 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/07 00:23:21
いや、半殺しというのは間違ってないと思うぞ。
ただ魏略は信憑性の高いのも、突飛なのも多いしなあ
>>70 魏略はほぼ同時代の資料なので、生々しい描写が多い代わりに、
一歩引いた冷静な視点に欠けるという欠点があります。
「行嘗刺超,矛折,因以折矛撾超項,幾殺之」
こちらが注に引用された魏略の原文。
殺されそうだったことは伺えますね。
孫盛あたりは、裴松之がつっこみを入れるために
わざわざ引用してるような感じだ
黄忠の伝は注がないな
本文中でも勇猛さは三軍随一だったとたたえられてる割には。
>>74 もともと、蜀に関する書物が少ないからね。
第一、蜀の伝に立てられている人物は皆、魏・呉の人たちに比べ格段に
記述量が違うからね。
それで馬超は大怪我を負い半死半生になったの?
それともそのまま行けば殺されるかもしれなかったような勢いだったの?
その原文からだとどっちの解釈の方が自然?
>>76違いがよくわからん
自力で何とか追っ払ったか、味方が助けに来てくれたかしたんだろう
ていうか諸侯と連合したとき、よく皆そんな醜聞のある人間を総大将にしたな
郭援のときの活躍っぷりで皆見直したのか?
まだ弱輩だったから、許容範囲だったんじゃないか?
郭援の時の功績のと
異民族とのパイプは大きいんだろうと思う。
正史における馬超の異民族とのつながりの深さを考えると、
KOEI三国志の馬超の政治と魅力の能力値はもっと上げてほしいね
>>74 張曼成が反乱したとき、
朱儁の討伐軍に黄忠がいた可能性がる
南陽は彼の本籍の郡だからな
黄忠の前半生が知りたい
今更だが、蜀には史官がいなかったんだからどうしようもないな。
蜀出身の陳寿だから個人的に聞いた話を基にして、
なんとか、蜀志を書けたというレベル。
というか、陳寿がいなかったら、魏の反将列伝に劉備と関羽だけ
載って終わりだったかも知れん。
その意味では陳寿の功績は蜀臣のNo,1だな。
孔明以上かもな。
81 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/07 21:18:39
・・・・・・。
>>80 孔明以上というのは言いすぎだが、彼の功績は大きい。
ただし、晋の臣下としてだが。
蜀の史官っていつから置かれたの?
結局滅亡したときもいなかったんじゃないか?
>>84 いや蜀書のどっかに史官の誰それという記述があったはずなんだけどね。
だから建国から滅亡までの間、一切置かれなかったということはなかったはず、だと思う。
だから後半の武将、馬忠・張嶷なんかは記述が多いのか
まぁ張嶷は陳寿が直接見知ってた人物だから、記述が多くて当たり前か
益部鰭旧伝って逸亡文献なんだっけ?あと益部鰭旧雑記とは違うの?
そういえば元劉璋配下の連中も、劉璋統治時代の事跡って少ないな
>>79 肥厨か?肥は糞だ。ゲームより史実考察の方が楽しいと勧めておく。
実際の人間関係に於いて魅力とは相対的なものだし、
政治力の定義も、肥は考え込んでない。
戦略眼と交渉能力と事務処理能力を一緒くたにしてしまっている。
相性なんてステータスもあるしw
そもそも統率/武力/知力/政治/魅力etcの区分で良いのか?
史実をシミュレートできるわけが無いから、期待する方が阿呆。
肥(というよりゲームは)ゲームとして面白いかどうかで行くしかない。
…中国史に失礼の無い程度にな。
>86
「益部耆旧伝」は今では散逸してしまっているはず。
「益部耆旧雑記」に関しては陳寿の著書かどうかはハッキリ明言できないと思う。
裴松之は「益部耆旧伝」の最初の引用の部分のみに著者名(陳寿)を記して、「益部耆旧雑記」の方では記していないので
おそらく「益部耆旧伝」の一部ではないかとされている(ちくま文庫の巻末の文献解説なんかはそう書いている)
ただ、陳寿が蜀書本文で全く同名の「益部耆旧伝」の著者として陳術という人物を挙げているので
もしかしたら、この人物の著書なのかもしれない。
なんにしてもハッキリした事がわからない・・・・・ゴメン。
ちょっとKOEIの話題出したぐらいで、何で厨扱いされなきゃいかんのだ
91 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/08 22:48:49
age玉ボンバー!
92 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/08 23:05:18
そういうことよりむしろ魏の後継王朝に認められるように書こうと思ったら
勢い蜀の部分は割愛せざるを得なかったというのが真相だろう。
でも、その頃既に蜀で何が起こっていたのか晋ではわからなくなっていた
わけで、やっぱり各論併記でその豊富な資料を是非残して欲しかったな。
だから、10点満点で7止まりだと思う。
93 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/09 12:02:21
>>92 正史三国志は陳寿が晋の命令で書いたわけじゃないぞ。
彼の晋での仕事は史官ではなく、人物評定だ。
正史は彼の個人的な本。
もし、晋の国家事業として正史が編纂された場合はおそらく魏書だけで
蜀書、呉書は書かれなかった可能性が高い。
陳寿が蜀の出身だからこそ、魏を正統としながらも、
独立国として蜀書、おまけとして呉書も書いたんだよ。
まあときの支配者である司馬氏に多少は遠慮したかもしれないがね……
それでも正史編纂が国家事業になる晋代以降よりは
王朝の意志による曲筆は少ないんじゃないだろうか
>>92 四川の地方政権と中原の政権では、文化活動の規模が違うから、
残った文献の数も違っていたのではないでしょうか?
蜀書の末尾に季漢輔臣賛を長々と引用したのは、
元々蜀臣の記録があまり残っていなかったからで、
それを補完するためだったのだと思います。
蜀書は陳寿と近い時代の人の伝は詳細なのに、
遠い時代になるにつれて記述が乏しくなっていくので、
単純に資料が足りなかっただけで、書けるものならたくさん書きたかったのではないかと思います。
しかし見せた時点で自主検定で割愛していたという説はあるがな。
やはり筆禍になることは回避されてあると言うのは一介の文人にとっては
当然のことだろう。まして孔明マンセーってあからさまだしw
97 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/13 21:00:32
>>95 季漢輔臣賛のなかで、陳寿は蜀書のなかに伝を書くに値する
人物だが資料が無く書かなかったと言っているしね。
漢晋春秋に載せられてる、
諸葛亮が司馬懿を231年に撃ち破ったという記事はどうだろう?
誇張があるかもしれんが、まったく信憑性が無いとは思えない
戦術的に勝利と言える結果を残したことならあるけど、
大局的にはな…
>>98 それ、原文だとあくまで部下の将軍同士の戦いだったらしいが。
晋書宣帝記だと逆に魏軍の勝利だったと書いてあるんだよね。
どちらにせよ、99の言うとうり死者3千ぐらいじゃたいした
戦いじゃないだろ。
>>100 諸々の文献と合わせると、どっちが正しいんだろう?
晋書は正史だけど信憑性がFuck'inだし、
漢晋春秋はそもそも正史じゃない。
>>部下の将軍同士
まぁそうだけど、「行け」と指図したのは諸葛亮なんだし、彼の功績でもあると思う。
逆に「ここは戦うな」なんて言ったら大敗してるかもしれんし。
手足を使うのは脳といいますか...。
漢晋春秋の著者も蜀漢臣下の子孫であるので、割引く必要があるが、魏書&晋書も司馬家に対する遠慮が大きいだろうな。
その辺考えると、231年の祁山の役は局地戦において蜀漢軍圧勝(戦死者3千でも、それが兜首だし)、全体的には最終的に蜀漢軍を追い返したので(撤退に追い込んだ)魏(司馬懿)勝利と言うことでしょう。
漢晋春秋も魏(晋)書も、お互い都合の良い部分だけ取り上げたんじゃないかな。
魏が最も戦果を水増しする傾向にあるようだし。
>>102 魏書はともかく、晋書は司馬家に対する遠慮は皆無なんだけどな。
何しろ、唐の編纂だしな。
シバイにしても正史の本紀の筆頭に来る人物にしては、人格面は
評価してない。
勝ち負けってのは戦略課題の達成によってなるものだから。
age
107 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/17 10:22:06
実数なら大変な戦闘だけどな>死者3000
普通に大敗だよな
死者だけで3000もあるんだから、圧勝と言っても良いと思う。
魏にしてみれば、崩壊に至らないギリギリの損害だったろう。
WWUや中東戦争を見ても、軍が戦闘中止に至った時の損害率は平均で10%を超えない。
実際、2割や3割にまで損害率が高まれば、軍が崩壊して壊滅的打撃を受けてもおかしくないと思う。
蜀のその後を大きく左右した段谷においてさえ、魏の詔勅を基にしてもその死者は数千だしね。
110 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/23 22:24:14
夷陵で、中堅・若手の損失がなければ、
蜀に未来はあったのだろうか・・・
将来、魏延クラスの武将に育ったであろう
中堅・若手って誰がいたんだろう??
その辺詳しい人、教えてください。
夷陵の戦い近辺で記述のある連中とか
実際、結局そこで死んで育たなかった以上
歴史に名を残すこともできていない。
そういうのを調べるのは無理だと思う。
112 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/23 22:35:03
>111
確かに言われてみればそのとおりですね。
活躍してない人の記録が残ってるわけないか。
実際、夷陵の損失がなければ、
もっと蜀は持ちこたえれたんじゃあないかと
ふと思ったわけです。
あわよくば、北伐も成功・・・それは無理か。
でも、劉備・張飛 etcも死んでないし・・・
失った主な人材は、劉備を筆頭に
馬良・黄権・馮習・程畿・張南・沙摩柯辺りか
馬良・黄権の損失が痛いな。馮習・程畿・張南・沙摩柯などの能力は
未知数だが、馬良は孔明亡き後または、存命中から実力を発揮すると思われる。
黄権も老将が亡き後の北伐で重きを成していったと思われる。
程畿は劉璋時代、江陽太守。
また劉備が入ってきてからは従事祭酒に任じられてる
十分に活躍の可能性があったのではなかろうか
馮習もなかなかだな
夷陵では呉班と一緒に李異を破ってるし
大督に任命されてるからな
生き残ればそこそこ行けたかもしれんね
>>110 夷陵で戦没した人物には、劉備の入蜀に従軍した荊州系の人物が多いから、
後の蜀軍を構成するにあたっての益・荊州派の比重で偏重をきたしたように
思う。
それから、実質的な損失でいえば、夷陵で中堅層以上の将官を多く失って
人材の層が薄れたことで、戦術・部隊レベルでの柔軟性が多分に低下して
しまい、厳然とした指揮系統の一元化をはからざるをえなくなり、想定外の
状況下での効果的な戦果・対応を望めなくなった可能性がある。
そのために厳粛きわまりない軍紀により、各将の恣意的な行動をより大きく
制限せざるをえなくなったという想像はできる。
現代の軍隊でもそうだけど、頂点だけが優秀では、戦術レベル殊に局地的な
状況での柔軟で迅速な対応が望めなくなり、万機が総司令官の優劣如何で
決しかねない危険性を生む事がある……と言うのが自分の中での夷陵での
損失と後々への影響になるかな。 長くてすまないけどね。
>>117 いろいろ参考になります。ありがとうございます。
私はもっと簡単にしか考えてなかったんですが、
劉備が諸葛亮等の諫めを聞いて、夷陵の戦いを起こさなかったら、
北伐はある程度成功(涼州一体を制圧)して、その後も
面白くなっていたんじゃないかと考えてました。
夷陵での損失があっても、街停での馬ショクの失策がなければ、
涼州一体の制圧も可能だったわけで、夷陵がなければ、
街停は黄権あたりに任せて、成功していたんじゃないかと・・・
ま、全部タラレバのifの世界ですが。
119 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/24 01:42:58
法正は?
劉備より先に死んで良かったんじゃないの
>馬ショクの失策
これがどーもハッキリしない
別に「山に登るな」みたいな話は諸葛亮から出ていない訳だし、
街停は場所がハッキリしないし……
>>118 夷陵で諸葛亮が諌めたかどうかは定かでない。
街亭の時には魏延・呉壱もいた。
当時のロウ山周辺は森林地帯で、大軍が行軍可能なルートは限られてたそうで
山に登ったにせよ、何にせよ、やっぱ馬謖は口先だったという事じゃない?
王平は追撃を止めてるわけだし
まあ、涼州なんて、後漢時代に放棄の構想が出たくらい
魏にとってどうでもいい場所だもんな。
北伐を成功のシュミレートするには、まず長安をどう落とす
かということから始めないと。
実際には長安にたどり着くことさえできなかったんだけどね。
実際は五丈原の戦いなんて、やってる本人達は天下分け目の決戦だ
なんて全然思ってなかったんだろうなあ。魏にとっては大きな国境紛争
みたいなもんだった。
軍事の最高責任者が出てきてんだから大事に決まってる
対蜀方面で、曹真を継いで軍権を握った司馬懿が権力を増大させて、後に4代目が魏を滅ぼした。
まあ、間接的に相打ち?
諸葛亮の北伐の目的が関中奪取であったとして(攻勢防御じゃないとして)も、北伐初期での長安奪取&維持は難しいだろう。
おそらく、諸葛亮の考えは(真面目な北伐だとして)、初期のキャンペーンで隴西方面をガッチリ確保して涼州と魏・本国を分断する。
その後、魏・中央が隴西の最奪取、涼州との連絡路の確保に侵攻してくれば、こっちのモノ。防衛の方が兵力的に劣る蜀漢としては行いやすいだろうし。
逆に魏が隴西、涼州を見捨てるならば、蜀漢の勢力扶植はより容易になるしね。
どちらにしろ、隴西方面での勢力基盤が確固たるモノになれば、関中における魏の統治も揺らぐだろうし、そうなれば長安以西を確保出来るチャンスも来るだろう。
そんなトコじゃないかな。
まあ孔明という御仁、戦略能力は太公望、張良に匹敵したかも知れないけど、軍事の才能は
とうてい韓信や孫子、曹操には及ばなかったから、戦術的大敗を喫して蜀に逃げ帰った可能
性が高いと思われる。それで済めばよし、もしかしたらそのまま蜀も滅亡した公算も大。
それと、夷陵の戦いも、よくよく考えれば実は回避しがたい物であったとも思われる。関羽を斬
った呉を放置は出来ず、さりとて和睦と言っても本当に呉が南郡を返すつもりがあったかという
とはなはだ疑問。それでは関羽は斬られ損であり、多分演義の脚色も大だと思う。
だから、スキあらばと蜀を狙う呉を魏が利用して、主力が関中に出てしまった留守を呉に襲撃さ
せるというオプションもある。呉に大義名分など無い、ただの夜盗の親方だからね。
涼州は交易ルートとしては重要だ。
なんたってシルクロードを抑えることができる。
そして蜀では生糸の生産を奨励していた。
゙
蜀が涼州を確保すれば絹の独占販売が可能となり、これを国営とする。
さすれば蜀には莫大な富がもたらされるだろう。
これにより蜀の財政には余裕が生じ、金のかかる全軍の重装備化が達成できる。
更に遊牧民族から軍馬を大量買い込む事も容易だ。
涼州を確保することにより蜀漢軍の戦闘力は格段に増大できるだろう。
南蛮討伐も交易ルートの確保が一つの理由
馬超を外交官として使えなかったのは痛かったと思う
追加。
蜀漢が隴西を確保している場合、魏が最奪取に動くと、魏側は建前では自領の防衛と言う事になるが、実質的には隴西方面への遠征になり、かなりの負担になる。
ほっておくと、蜀漢が隴西を足がかりに関中周辺に圧力を増大させる。
第一次北伐が街亭で失敗しなければ、魏側は相当なジレンマに陥る事になる。
馬超がもうちょい長生きしてりゃな
135 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/12 23:41:37
馬岱じゃだめか・・・
馬岱は生きてても、あまり活躍出来なかった所を見ると
異民族とのコネは「馬氏」としてのものではなくて、
馬超の独自ルートでのコネクションだったんだろうな。
遊牧民族はカリスマに依存するから
カリスマというよりも、馬超って、馬騰と姜人の間の子じゃなかったっけ?
だから、姜との繋がりがあったんだと思うのだが。
馬超が長生きしてると魏延なんて出る幕なかったかもね。
漢中は馬超にまかせるほうが、姜とのつながりや、
魏への威圧感があってうまくいくと思うし。
139 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/18 05:42:51
ついでだからあげとこ。
魏延は劉備の子飼いだから別の意味で重要
馬超はかっての一方の雄であり、扱いにくい
馬超は生きてても名誉職で飼い殺し+羌族とのパイプ役ぐらいだろうな。
某小説のようになるとは言わないけど、その経歴からちょっと危なっかしいし、
他の五虎将のように動かすことは難しいと思う。
第一次北伐のときに生きてたら、総大将として涼州方面に進出して、
その地方を治めるようになったかも知れないが…。
魏延は馬超がまだピンピンしてたころから
漢中太守に抜擢されてたし、馬超の存命はあまり関係ないんじゃないかな。
仮に太守等に取り立てられなくても、軍事能力が高いから捨て置かれることはないはず。
142 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/18 08:11:45
魏延は劉備には高い評価されていたけど、最大の理解者の劉備が亡くなったあとは散々だったな。
劉備にかわれていたゆえだと思う。いわば軍閥の頭みたいになってたんでは?劉備自体が軍閥みたいなものだったんだ。
そうなると当然、諸葛亮が目指す国家体制とは対立する存在になる。死ぬ間際に暗殺を命じたのは、その辺が動機だろうと思う。
国家体制というより士大夫かそうでないか
皇帝にとっては魏延のような子飼いこそ増やしたい
しかし、子飼いの悲しさは皇帝の死がそのまま没落
魏延は関羽・張飛型の人間で劉備との相性は抜群なんだが、
諸葛亮の求める人材とは異なったため、対立を起こした、と。
生まれてくる時期が遅かったな。
おいおい、魏延は劉備の死後も十分評価されてたし重用されてもいたろ。
諸葛亮とも意見の対立はあったがちゃんと従ってたし李厳のような落ち度もない。
これで劉備の死後散々だったとはとても言えない。
諸葛亮死後、魏延が政争に敗れたのも劉備の子飼いだったからじゃなく魏延の性格の問題。
張任がおとなしく劉備に下っていれば、
李厳以上に期待できただろうに・・・
法正の性格が悪くても、益州での存在価値の高さを
考えれば、劉備・諸葛亮も目をつむるしかなかった。
張任についても、同様のことが言えたんじゃあないか?
たとえどれだけ諸葛亮が荊州士人を重用したとしても、
はずせない益州士人もいるわけだし。
張任ってそこまで大物だった記述ってあったっけ?
>>148 先主伝に注として引用されてる「益部耆旧雑記」によれば代々貧しい家柄の出だが認められ州の従事となったそうだ。
人物は評価されていたが、その時点ではまだ大物と呼べるほどではなかったみたい。
150 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/18 21:59:39
魏延と孔明は軍事面での対立はあったが、感情的にこじれた対立はなかっただろう。
もし、そこまで問題があれば漢中なんて最前線に置いておけるわけが無い。
>>143 暗殺を命じたってそれは演義の創作だ。
孔明は魏延を重用してたし、
戦略面での方針で意見の対立したことがあるってだけで、
特に嫌ってたわけでもなかったはず。
ただ魏延の性格に問題があったことは確かだけど。
諸葛亮という理解者なきあとの魏延は滅びるしかない
魏延の性格も酷いけど、対立してた楊儀もな…。
そりゃ諸葛亮も孫権に同情されるわけだ。
楊義も劉備の子飼いだったな
やっぱ劉備じゃないと扱いきれないってことだな
柳隠ってもっと出世してもいいような人材だよね
張疑と同じで寒門の出だったのかな。
>>154 諸葛亮も使いこなしてはいた。
でもその後に彼らを制御できる人物がいなかった。
>138
正確にはクォーター。祖母が羌族。
だから、馬岱の父親が異母兄弟だったりでもしなければ、
馬岱もクォーターとして羌族の血を引いているかもしれん。
でもって、
混血というだけで、異民族との繋がりをもてる程簡単な外交では無いと思うよ。
何かしらの手腕やカリスマ性の方が重要だと思う。
>>156 使いこなしてたというより保護してたって感じ
>馬超
馬騰が入朝した後はその勢力を引き継いで、
曹操との戦いでは韓遂とともに関中の群小軍閥を糾合。
敗北後も再起して、魏の涼州刺史韋康を殺しています。
名声やコネの他に、その辺の政治手腕も買われてたんじゃないんでしょうか。
だから、馬岱には馬超の代わりは務まらなかったと。
>魏延
諸葛亮時代も、順調に栄達してます。
官位だけを見ると征西大将軍で、軍部での地位は、
託孤の臣である驃騎将軍李厳、何一つ功績が無いのに出世した奇跡の人車騎将軍劉エンに次ぐ第三位ですが、
爵位を見ると南鄭侯に封じられており、都郷侯の上二人を上回っています。
叩き上げの軍人、しかも性格に相当問題があるにもかかわらず、
これだけの地位に昇っているのですから、冷遇されたとは言えないと思います。
>楊儀
関羽の功曹から、劉備の側近に引き立てられて、劉備が漢中王になると尚書になってますね。
実は劉備時代から国政に関与する大臣だった人物です。
その後、劉巴に嫌われて左遷されますが、諸葛亮に拾われて幕府入りして長史となります。
丞相府の権限の大きさを考えると、その筆頭たる長史も大臣と言って良い地位でしょう。
諸葛亮も劉備のように彼を重用してはいたのだと思います。
しかし、尚書と綏軍将軍・丞相長史では、どっちが重い地位なのか微妙ですね。
>>160 おつかれさま!
>何一つ功績が無いのに出世した奇跡の人車騎将軍劉エン
ハゲワラ
わかってても、こう書かれると……
功績が伝えられていない
くらいにしといてやれよ
姜維の北伐についてだが
段谷の戦いでは湖済がこなくてまけたように書かれているが
湖済はその後お咎めとかなかったのかな?
普通なら死罪でもおかしくないと思うが
>>163 胡済は諸葛亮にも評価されてた古株で高位にあったから姜維といえども処罰しにくかったんじゃないかな。
>>163 段谷の敗戦の後、258年に姜維は成都へ帰還してるけど、この年、朝廷での
実力者である侍中尚書令の陳祗が歿して、姜維が大将軍に復帰してる。
陳祗は黄皓とも繋がりが強い人物で、前線に駐留する事が多くて国政への
携わりが深くない姜維にしてみれば、陳祗が歿して自身も大将軍に復位した
この期に督漢中の胡済を貶降させようと考えたのかも。
たしかにこの後、胡済は漢寿まで退けられてるし、漢中は監軍の王含や護軍の
蒋斌といった姜維寄りの人物によって固められてるし、朝廷での顕官にも姜維と
親しい人物が就いてる。
しかもこの258年から数年間は北伐も途絶えていて、確証はないけどある程度の
実権を握った姜維が次の北伐にむけて国内に目を向けてたんじゃないかな……と。
167 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/22 18:03:58
どなたか、糜竺について詳しく教えて頂けませんでしょうか
糜竺 字は子仲
劉備のパトロン
温厚誠実だが人を統率することは苦手
弟の降伏で発狂して死
169 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/22 18:59:24
>何一つ功績が無いのに出世した奇跡の人車騎将軍劉エン
って劉[王炎]だっけ?字は間違ってるかもしんないけど、
詳細キボンヌ。
>弟の降伏で発狂して死
そんな記述あったっけ?
>>171 麋竺は恥と怒りのために発病し、一年余りでなくなった。(麋竺伝より)
173 :
永遠の青 ◆pkFA3D428. :04/12/23 05:25:55
>>169 >名前
その字で正しいです。
>略歴
魯の人。劉備が予州刺史か予州牧だった頃に、予州従事として配下に加わった。
劉備と名字が同じで、風流で談論がたくみだったので側近として寵愛された。
益州平定後は固陵郡太守に任命される。
その後は劉備が死ぬまで特に何をしたとか、昇進したとか言う記録は無い。
劉禅が即位するといきなり都郷侯に封じられ、衛尉・中軍師・後将軍に任命され、
中都護・光録勲李厳に次ぐ地位とされた。
一介の郡太守がどんな理由で、こんな破格の昇進を遂げたのかは不明。
その後車騎将軍に昇進したが、これも理由不明。
国政には関与せず、管轄下の兵も千人程度。いつ諸葛亮の側で議論に参加するだけだった。
その車・衣服・食事は贅を尽くし、音楽に通じた使用人(音楽家)を何十人も雇っていた。
北伐中に魏延とトタブルは起こして暴言を吐いたために諸葛亮に責められ、都に帰された。
ただし、官位を削られることはなかった。
その後、劉禅と自分の夫人の浮気を疑い、夫人に激しい暴力を振るった後に離婚したため、
夫人に告訴されて公開処刑された。
>>167 徐州の大富豪。州牧陶謙の別駕(筆頭副官)だったが、その死後は遺言を受けて、
新たに州牧となった劉備に仕えた。
徐州が呂布に乗っ取られると、私財を投げ打って劉備を援助。
劉備が曹操の下に亡命した時も従い、曹操からは「忠節で文武両道の人物」と評価され、
エイ郡太守の官位を授けられている。注の曹公集載公表によると、当時の麋竺は偏将軍だったらしい。
偏将軍は一州牧の配下としては最高級の官位だが、
劉備に任命されたのか、曹操に任命されたのかは不明。
しかし、曹操の家臣にはならずに、官を捨てて劉備に随従。
劉備が劉表に身を寄せる際には事前交渉を担当して、左将軍従事中郎となった。
益州平定後は安漢将軍に任命され、諸葛亮よりも高い席次にいた。
温厚篤実な人格者で弓術と馬術に長けていたが、
人を統御するのは不得手で、軍を指揮したことは無かった。
それでも他の臣下とは比べ物にならないほどの高待遇を受けた。
弟の南郡太守麋芳が裏切ると、自分を縄で縛って出頭して処罰を求めたが、
劉備は「兄弟の罪に連座する必要は無い」と諭して、元通りの厚遇を続けた。
しかし、麋竺は弟の裏切りに対する憤りが高じて病気になり、死亡した。
>>173,174
麋竺や劉エンの伝なんて短いんだからそこまで解説してやる必要ないよ。
だがビ竺ゲットこそ劉備最大の成功
麋竺は徐州以後のパトロン兼相談役だよな。
>>174 凄い人ですね。その評価からするとコーエーの文官オンリー評価は不適切ですね。
統率は低くても武力は多少高めの方が良さそうな。
ちょっとデータ弄るかな。
麋家は三代に渡って「弓術と馬術に長けていた」って史書に書かれてるからなぁ
『捜神記』でいえば登場するにも数少ない蜀の人間なんだけど、
さすがに永遠の青さんも紹介するまでもないと思ったのかな
以前に胡斉の事が出てきたのでちょっと調べてみた。
といっても蜀書からピックアップしただけだが……
間違ってるところもあるかもしれないので修正よろしく。
胡斉、字は偉度。義陽の人。
初め諸葛亮の主簿。諸葛亮没後(234)、中典軍・成陽亭侯。さらに中監軍・前将軍となり、248年(王平がこの年死んでるので)には督漢中となる。
(督漢中の歴史:219年魏延→234年呉懿→237年王平→248年胡斉)
その後、仮節・エン州刺史に昇進。
256年、鎮西将軍の時(いつ就任したかは不明。督漢中となった時か?)、姜維と上ケイで落ち合う約束したが果たせず、姜維はケ艾にうち破られる。
258年、懲罰人事として?漢中から漢寿まで引き下がらせられる。代わりに王含が楽城、ショウ斌が漢城の守備に。エン州刺史は宗預に。
259年、右驃騎将軍に昇進(この年右驃騎将軍が設立されたので)
263年、蜀滅亡。この時、生き残ってたかどうか不明。
最末期、大将軍姜維、右大将軍閻宇に続いて軍部第三位か四位。(驃騎将軍or左驃騎将軍が不明なので)
ちなみにその下に左右車騎将軍の張翼と廖化がいる。
軍事的にはこれと言えるような軍功はない。
しかし董和伝に、その諫言をもって崔州平・徐庶・董和らとともに諸葛亮に賞されたという記録があり、
董允伝には董允の元に董恢が訪ねてきた時、費イ・胡斉と一緒だったという記録もある。(時期的には費イが尚書令だったとあるので238年頃?)
政治的に蜀の中枢部と太いパイプを持っており蜀の重鎮であったことが伺える。
>>182 蜀の政権下で、義陽出身者はそれなりの官に昇ってる人が多いのも事実。
魏延、ケ芝、董厥、来敏とか、有名どころが多いけど、たいていは能力で
認められた人物だけど……胡済の場合は縁故も影響してたかも。
ただ中監軍や鎮西将軍といえば軍でもけして閑職ではないし、ケ芝や姜維と
いった人が就いてるから、能力もそれなりにあったと想像したくもなる。
なんにせよ蜀書の記述が乏しすぎる事が問題なんだけど。
劉[ミ炎]ほど無能ではないとは思うけど……
>>183 なんか誤解させてしまったようですが胡斉が軍事的に無能だったというつもりはないです。
ポカは上ケイの一件くらいであとは無難にこなせるだけの能力はあったと思います。
ただ他を圧するような軍功もあるわけでなし上ケイのポカの数年後に特に理由も見当たらないのに昇進してるのはやはり軍事能力以外の要因が大きいのではないかなあということです。
まあ伝が立ってないので詳しいこともわかりませんから断言できる筋合いのものではないですがね。
胡済って二人説もあるんじゃなかったっけ。
186 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/25 01:05:36
>185
右驃騎将軍と、上ケイの鎮西大将軍な。
両方ともかなりの高官だから多分、同一人物だよ。
胡済の能力は諸葛亮が評価したくらいしかないが、蜀漢中・後期の将領は野戦の将軍と言うよりも、軍官僚的な人材が多い。
多分、諸葛亮の好む系統なんだろうが。
諸葛亮の晩年も野戦の将領と言うと魏延くらいしか著名な人物はいないし。
蜀漢末期に前線指揮に関して姜維が台頭するのも無理はないね。
姜維は243年に鎮西大将軍・涼州刺史となり247年には衛将軍に昇進してるから、
胡斉が鎮西(大)将軍になったのはその頃かな?
それとも翌年の248年には督漢中の王平が亡くなり胡斉がその後を継いだと思われるからそっちかな?
188 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/25 10:53:37
まあ曹操がやったほどの実力本位の武官登用は誰にでも出来るわけではないし、
有力者が武官もやるという後漢以来の悪習は、外部勢力の孔明には易々と廃止出
来るものでもないからな。
曹操は唯才主義をとれたけど、呉や蜀は世襲制がどうしても続いたってこと?
>>190 結局、魏だってあんまり変わらなかったけどな。その辺は。
主義と実際に実行できたかどうかは別物なわけで
九品が公正に行われていた時期ってどれくらいなのかね
193 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/25 14:04:42
まあ曹操の時代は能力主義を徹底的に貫かないと生き残れなかったからな。
こと軍事については劉章や劉表が前線で実権を持たされることはあり得なかった。
猿昭クラスでも難しかっただろう。
194 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/25 20:07:26
>>194 廖化に関して言えば正史を読む限り二人説など入る余地はないと思える。
おそらく演義の黄巾賊出身というのを絡めた場合のみ生まれる妄想に近いものだと思う。
胡斉は正史には上ケイの敗戦絡みでのみ現れ、その時の官職は鎮西(大)将軍。
しかし董和伝の注には胡斉の略歴が引かれているがそこには鎮西(大)将軍という官職は書かれてない。
おそらくその辺りで二人説が出たのではないだろうか?
廖化はある程度の年齢が史書にもあるし、二人説は完全に演義の産物だね
>>186 後期の魏でも、名士出身の官僚将軍が増えています。
呉は世襲軍閥出身の将軍が多いですね。
体制が固まってくると、野戦で叩き上げた武人が
腕一本で高位に昇る余地は少なくなるみたいです。
>>188 曹操も完全に実力本位で登用していたわけじゃないですよ。
方面軍を任せたのは血族将軍ばかりだったし、
山陽李氏のような世襲軍閥、李通や臧霸のような軍閥にも、
最初からそれなりの官位を与えています。
逆に叩き上げの軍人は、低い地位からスタートして、
長い年月をかけて高位に昇っています。
曹操陣営の武官人事も、他の陣営と同じように、
血族と「最初から軍勢を用意してきた人」が重んじられていたと思います。
>>193 能力だけで叩き上げた人も、結局は「血族や名士の中の有能な人」の下で働かざるを得ませんでした。
能力のみで首脳クラスまで至ったのは車騎将軍張コウぐらいのものではないのでしょうか。
曹操の人材登用は能力主義と言うより、血族の信頼度と名士の安定度を重視した主義であったと思います。
軍人の優先順位は血族>名士>軍閥>叩き上げ。
能力重視なら、全部イコールになると思うのですが。
軍事に関しては、劉璋も劉表も州牧の地位を得る前は朝廷の文官です。
文官として用いるべき人材であり、なんであなたが軍事の人材として彼らを挙げたのか理解に苦しみます。
袁紹は河北平定戦では自ら軍を指揮して結構勝っているので、
その名声=社会的兵力、豪族としての手持ちの兵力を考えると、
最初から曹操に仕官していたら、かなりいい地位まで行けたような気がします。
王平の昇進なんか能力主義以外の何者でもないしな。
あと輔匡や劉ヨウなんかもそうじゃないかな。
劉備の入蜀に付き従ってそれぞれ右将軍、後将軍まで上がってる。
陳到も征西将軍まで上がってる。
これらも抜擢とまでは言えないかもしれないが長年の軍功に大して十分以上に報いた人事とは言えるのではないだろうか?
王平は寧ろ「そこそこ使えて」「背景に派閥を持っていなくて」「字とか読めないから派閥の興味がないみたいだし」な点も加味されてるんじゃないか?
荊州閥からしてみたら、軍事を益州系で占められている中、自分達のいいなりになる駒が軍部で結構な位置にいるんだぜ?
取り立てて使うのがベストでしょう
>>201 王平は諸葛亮の北伐でたびたび功を上げ手堅い用兵を見せてるし、諸葛亮没後は呉懿の副将として漢中に留まり太守を務めていた。
呉懿没後、王平が督漢中に任命されたのはまず第一にその能力と経験によるものだと思うぞ。
加味と言ってる
>>203 何に対して加味なの?
それと何故、王平が荊州閥の言いなりになると言い切れる?
なんか先に自分の結論があって特に根拠もなく述べてるような気がするが?
>>200 輔匡は武功で昇進した人のようですね。
劉ヨウは詳しい資料がないので、何とも言いがたいです。
武勲で昇進したのか、軍官僚としての能力で昇進したのかさえ分かりません。
二人とも蜀入りに従って、平定後に郡太守になっていますから、
荊州時代から高い地位にいて、順当に昇進して行ったのでしょう。
陳到も順当な昇進っぽいです。
>王平
街亭での奮戦で裨将軍から、討寇将軍に抜擢されて一軍を預かるようになりました。
その後は諸葛亮の忠実な武将として活躍。
分派行動を起こした魏延を粛清し、その後も武勲を挙げています。
彼には買われるだけの能力もあったし、変な自己主張も無かったので、
抜擢後も一発屋で終わらずに順調に昇進できたのではないでしょうか。
自己主張が無くて能力が高く、しかも最高権力者の覚えが良い軍人は、
どんな体制にあっても栄達します。
>軍事に関しては、劉璋も劉表も州牧の地位を得る前は朝廷の文官です。
文官として用いるべき人材であり、なんであなたが軍事の人材として彼らを挙げたのか理解に苦しみます
だからそういう太守連中でも曹操麾下では任されることはあり得ないって話。言ってることは違わない・・・?
それに、曹操も血族と仕官した時期重視と言っておられますが、そうかなあ?中途仕官者も多いし、軍師なら
敵だったヤシでもすぐ用いたりしてるし。
>>206 > それに、曹操も血族と仕官した時期重視と言っておられますが、そうかなあ?中途仕官者も多いし、軍師なら
> 敵だったヤシでもすぐ用いたりしてるし。
他の人だってやってるよ。
なんか曹操だけを特別視してない?
曹操だけが徹底的に実力主義を貫いて他の陣営はまったく出来なかったみたいな固定観念がないか?
>>183 > 蜀の政権下で、義陽出身者はそれなりの官に昇ってる人が多いのも事実。
義陽出身といえば蜀末期には諸葛瞻とともに政務を担っていた董厥や樊建もそうだね。
その経歴も胡斉を含めて諸葛亮閥と言ってもいいかもしれないくらい。
ただ同じ諸葛亮閥の中で姜維が一人浮いてるのはやはり出身が大きくモノを言ってるのかな?
軍務畑の姜維・胡斉、政務畑の董厥・樊建に分かれても良さそうだけどどうも違うようだし。
>>207 俺も思った。
謀漫画の影響なのか、曹操が能力主義に徹してるとかん違いしてる
人が増えた気がする。
>>205 楊戯の季漢輔臣賛で輔匡と劉ヨウは一くくりにされてるからその経歴もほぼ似てるんじゃないかな?
>>206 >だからそういう太守連中でも曹操麾下では任されることはあり得ないって話。言ってることは違わない・・・?
違います。まず、劉表について。
彼は天下を狙う英雄としては失格ですが、
荊州の治政を預かる荊州牧としては、満点に近い業績を上げています。
土着勢力(小軍閥)が跋扈する荊州北部に単身で赴任して、
大豪族と結んだ後に、策略を用いて土着勢力を平定しています。
そして、長江南部の大勢力である長沙太守張羨・張懌親子との対決に勝利し、
荊州の動乱を平定しています。
その後は州内の治安を向上させ、経済政策にも力を入れたため、
中原や関中から流民が流入し、荊州の人口は激増しました。
その中には学者も多く含まれていたので、劉表は彼らを手厚く保護し、
学問振興にも力を入れました。
一兵も帯びずに無法状態の州に赴任して、大豪族を支持を素早く取り付けて平定したばかりか、
治安の安定と豊かな経済を民衆に提供し、流民を保護し、文化政策に力を入れる。
一州を預かる州牧として、これほど優れた人物はどれほどいるのでしょうか?
彼と同等の能力の人物が曹操配下にいたら、曹操は喜んで任用するのではないでしょうか?
反乱平定と高い内政能力を合わせ持った貴重な人材ではありませんか。
>>206 次に劉璋について。
劉璋は益州入りする前は後漢の奉車都尉。天子の侍従官でした。
それ以前の官歴は不明ですが、彼の年齢を考えるとそんなに低くない地位です。
官僚としてはそこそこの人物だったんでしょう。
劉表と比べると統治能力は欠けてましたが、
自分の無能のせいで起きた混乱にも真摯に対応しようとしたり、
酒食にふけらなかったりと、
職務に忠実であろうとした人物ではあったようです。
あまり有能ではなくとも、精勤する。
こういう人物には大きな責任の伴う仕事は任せられませんが、
細かい仕事を任せるにはちょうど良いです。
すべてのポストを有能で真面目な人物で埋める事が出来ない以上、
有能でなくとも真面目な人物もそれなりに任用する必要があるのです。
>>206 >それに、曹操も血族と仕官した時期重視と言っておられますが、そうかなあ?
ついでに名士と軍閥重視も付け加えてください。
>そうかなあ?中途仕官者も多いし、軍師なら敵だったヤシでもすぐ用いたりしてるし。
劉備陣営は、荊州と益州で集めた中途仕官者だらけです。
軍師と言うか、ブレーンにも許靖、劉巴、董和といった敵陣営だった人間をすぐ用いています。
孫権陣営は、もともとが小さかったので、孫策以来の家臣だけじゃなくて、
北方から亡命してきた人物や、孫策時代は仕官しようとしなかった揚州人士、
降伏した武将など中途仕官者だらけです。
敵陣営から降った人物の中には、名将甘寧、太常(呉では事実上の副宰相)潘濬らがいます。
また、孫策の代には旧劉ヨウ配下や旧王朗配下の人材を多数吸収しています。
劉ヨウの息子劉基は、孫権の厚い信頼を受け、平尚書事と言う宰相クラスの地位に至っています。
袁紹陣営は、韓馥から冀州を奪った直後に、その別駕(副官)だった沮授の見識を見込んで、
監軍(総司令官)に取り立てて、軍事を統括させています。
また、韓馥の司馬張コウを校尉に昇進させています。
その他にも、自分が新たに支配した州の人材や降将を取り立てた例は数知れません。
陶升のように、黒山賊だったのに取り立てられた人物もいたほどです。
どの勢力でも、降将や新領土の有能な人材を中途採用することは普通にやっていました。
そうしないと、新たに広がった領土を統治する文官や、増えた軍勢を指揮する将官が不足するからです。
なぜ曹操だけがクローズアップされるのか、理解できません。
>>208 出身より、考え方がものを言っているのではないでしょうか。
諸葛瞻・董厥・樊建ラインは馴れ合い政治をしていたようです。
また、諸葛瞻と董厥は非戦派だったらしく、姜維更迭を考えていたようです。
姜維が旧諸葛亮派の中で浮いてたのは、
宰相級の人物の中で彼一人が強硬な主戦派だったからではないでしょうか。
センちゃんを取り上げてあげたのは姜維くんじゃん
216 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/27 07:54:00
じゃあ青氏の伝に従えば曹操も当時の平均的な君主で凡庸きわまりない男に
すぎないわけか・・・・・。
>>216 特別扱いするなって事じゃないの?
相対的に優れていたのであって、
絶対的じゃなかった。人間だもんな
>>216 なんでそう極端な捕らえ方をするかなあ?
要はそういった中でも曹操は人材に対する扱い方が一歩も二歩も抜きん出ていたということでしょ?
さらにいうと劉備、孫権、袁紹
それぞれ優れた君主だったってことでもある
というか、当時いきなり純粋な能力本位の登用なんか行ったら
それこそ体制が崩れそうな気がするんだが。
ちと閻宇の経歴をまとめてみた。
閻宇
字は文平。南郡の人。
前半生の経歴は不明。
250年代前半、馬忠・張表の後に督來降につく。業績は良好。しかし、評価では馬忠に及ばなかったようである。
259年に右大将軍に昇進、巴東に都督として赴任。
その頃、呉では政治的な混乱が生じそれに乗じて魏が侵入してくることを恐れた呉の朱績の要請で魏への牽制を目的として白帝城の守備を強化。
262年、黄皓と通じるなど中央政府の覚えもよく、諸葛瞻・董厥らの支持もあり姜維に替わって大将軍にという動きもあったようだ。
263年、魏が攻めて来ると成都に召還された。
残ってる記録を見る限り軍官僚としての色が強く実戦に際しての軍事能力は不明。
その経歴を見る限りにおいては中央政府とのパイプが非常に太い胡斉以上の高位に就けてるのはちょっと不思議。
軍務での失点がない分、最後に胡斉をちょっと逆転したのか、それともなにか他にも要因があるのか?
>>221 もしかしたら、劉備に従って入蜀した荊州軍人の生き残りなのでは無いでしょうか?
長年の年功で築き上げた軍元老としての地位の他に、
來降都督でだいぶポイント稼いで、荊州閥軍人として最高の地位に昇り詰めたと。
南郡出身ならそれもありうる。
または賄賂とか
>>222 そうかもしれませんね。
だとしたらかなりいい年齢で同じような経歴の宗預や廖化といい勝負ですね。
ただ彼らよりも最終的に上にいけたのは中央政府との結びつきの強さの違いですかね?
宗預は諸葛瞻に頭を下げなかったなど煙たがられていたようだし、廖化は軍務畑。
閻宇は彼らよりも、悪い言い方だが、取り入り方がうまかったと言えるのかもしれませんね。
>>225 末期の蜀政権を動かしてたのって、諸葛瞻の他、董厥や樊建といった
閻宇と同じ荊州出身者だからね。
姜維らの外征に携わってた連中とは一線を画してたから、ある意味では
順当人事で、政権中枢の彼らに都合のいい人選だった、とも思う。
徹底抗戦はするが攻勢には出ない派=荊州閥。
場合によっては降伏してもかまわん派=益州閥。
大雑把に分けるとこんな感じ?
姜維の浮きっぷりは凄いな……
228 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/27 23:28:33
閻宇は、もしかしたら夷陵の役の時の巴西太守・閻芝の親族かもしれんね。
完全な妄想なんだが。
>>228 閻芝は後出師の表(信憑性はいまいちだが)に亡くなった惜しむべき将として趙雲らとともに出てくるので、
想像(妄想)をたくましくすればあるいは劉備の入蜀にしたがってきた将なのかも知れない。
ほとんど根拠ないけどね。
>>228 さらに妄想をたくましくすれば、閻芝は閻宇の別名かもしれませんね。
後出師の表を無視すれば、の話ですが。
>>230 李厳追放の上表文にでてくる行参軍・建義将軍閻晏はなんか関係ないですかねえ?
順番的にも胡斉の次に署名があるので関係があると面白いのですが……
232 :
228:04/12/29 00:11:51
>229
劉備在世事に重要な郡の太守は概ね荊州組なんで閻芝はそうかもしれんね。
>230
後出師の表自体怪しいけど、諸葛亮の没後に改名したのかも。
妄想もすさまじいが。
>231
閻晏は無名だけど、諸葛亮の幕府入りしてるくらいだから、なんかしらのコースに乗ってたのかもね。
例えば、閻芝系統の荊州組とか。
王平なんぞ、街亭で大功立てた割りに李厳の件の上表には名前が出ないのと比べると、才能・実績はともかく、ある程度のエリートかもしれん。
まぁ、すべて妄想なんだけども。
233 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/29 21:35:26
出身地とかが判明すれば同族かどうかとか分かるのだろうが…。
呉懿
字は子遠。陳留の人。
劉焉に従い蜀入り。
劉備が蜀に侵攻してくるとフに派遣され劉会・冷苞・張任・ケ賢らとともに抵抗するが防ぎきれなかった。
張任などその後緜竹・ラクまで後退し抵抗した者もいたが、呉懿はどうやらフで降伏したようだ。
劉備が蜀を平定すると護軍・討逆将軍に任じられる。
劉璋の姻戚でもあることから蜀の重鎮であると認識されたのだろうか?妹が劉備夫人となるなど重用された。
劉備が帝位につくと関中都督に任じられる。ここでいう関中は後の梓潼郡辺り?
魏延とともに魏への備えという役割を担ったようだ。
第一次北伐の頃には魏延と並んで経験に富んだ将軍として当時の人々に認識されていた。
230年には魏延とともに南安に侵入、魏将費瑶を撃破するという功績を上げる。
これを受け左将軍に昇進、高陽郷侯に封じられる。領荊州刺史。
同じ時期魏延が使持節・前軍師・征西大将軍・領涼州刺史・南鄭侯なので魏延の方がややランクが上か?
(侯>郷侯>亭侯?)
234年、督漢中・車騎将軍・仮節・雍州刺史に任じられ、済陽侯に封じられた。
(使持節>仮節?)
237年、死去。
皇室の姻戚でありながら、対魏のほぼ最前線に当たりよくその任にたえた。軍事能力も高いものがあったのであろう。
諸葛亮や魏延の影に隠れがちだが彼もまた蜀を支えた有能な武将であったといえよう。
呉班
字は元雄。呉懿の族弟。父の呉匡は後漢末期の大将軍何進の属官だった。
214年、劉備が蜀を支配すると臣従(呉懿と同時か?)、領軍に任命される。
221年、夷陵の戦役では馮習と共に呉将の李異らを打ち破る活躍を見せる。
この時、緒戦において囮を任されるあたり劉備の信任も厚かったと思われる。
230年頃、後将軍に昇進。
231年の李厳追放の上表には督後部・後将軍・安楽亭侯臣呉班とある。
231年、諸葛亮の北伐に従軍、鹵城での戦闘では魏延・高翔らとともに司馬懿軍を大いに破る。
その後、特に記述がないが最終的には驃騎将軍まで上がり、緜竹侯に封じられたとある。
ここからは推測になるが237年に呉懿がなくなると車騎将軍になり、
驃騎将軍になったのは243年(この年ケ芝が車騎将軍になってる)ではあるまいか?
呉懿の妹が劉備の夫人となるなど皇室とのつながりも大きいのだろうが、
その人となりは男伊達で知られると言う記述もあり戦歴からうかがえるように将帥としてもなかなか有能だったようだ。
呉懿ともども伝が立っていないことが惜しまれる将である。
推測も交えて伝が立ってない二人についてまとめてみた。
なんか間違ってたりしてるところがあったら指摘よろしく。
236 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/30 20:43:37
>234=235
呉懿に関して、関中都督は長安周辺の関中を指すものでしょう。
名目的な官職では?
漢王朝の後継を自認する蜀漢は自国領域外の地方の官職も臣下に授けてますから。
また、呉班の驃騎将軍就任は呉懿と同時でしょう。
呉懿が左将軍の時に後将軍でしたから。
正史に呉懿の次に位置する、とありますから、席次は呉懿の方が上でしょうけど。
>>236 呉懿に関しては後に領雍州刺史にも任じられてることもあるし督関中の関中は長安かなあとも思ったんだけどね。
ただ先主伝に蜀入りの時、葭萌から関中に入ったという記述も見られるので違うかなと思い直した。
その辺りに関城という地名もあるみたいだし。でもやっぱり素直に長安かな?
呉班が驃騎将軍に就いた時期だけど、生半可な知識かもしれないが、驃騎将軍>車騎将軍なので呉懿在世中はありえないんじゃないかなあ?
呉懿が死んで呉班が車騎将軍につきその後に驃騎将軍に昇進したという流れの方が自然だと思うけどどうだろう?
呉懿は237年死去。で、ケ芝が車騎将軍に就いたのが243年。数年の空白がある。
その間、別に空位でもいいんだけど、そこに呉班をはめ込んだ方が奇麗じゃない?w
238 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/30 21:43:44
>237
通常は驃騎>車騎なんだけど、ほとんど同格と考えて良いと思う。
その上、蜀漢の場合、その辺りがかなりいい加減なんだよね。
例えば、一般的には征四方将軍の方が格上のはずだけど、蜀漢の場合、鎮四方将軍の方が上っぽい。
その辺を考えると呉懿・呉班の左・後将軍就任時期がほぼ同時だった事を考えると驃騎・車騎の就任も同時期だったと思う。
>>238 四鎮>四征 になった理由って、かつて劉備が鎮東将軍だったからかな?
240 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/30 22:18:07
>>238 >例えば、一般的には征四方将軍の方が格上のはずだけど、蜀漢の場合、鎮四方将軍の方が上っぽい。
何を根拠に言ってるんだ?
>>238 将軍位に関しては確かに必ずしも厳格に適用されていたわけではない。
ただ李厳、劉エンの前例を見ても、その直前の呉懿と呉班の差を見ても、
ここであえて呉班を呉懿の上位に持ってくるのは、たとえ厳格に適用されてたわけではなかったとしても、
やはり不自然だと思うよ。
243 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/30 22:23:52
>>242 蜀の国家状況を考えれば、外征は南蛮地方しか成功していないから、
その方角の地方の前線駐屯とか叛乱鎮圧とかを理由に、「鎮x」のほうが
蜀に多いのは当たり前なんだけどね。
蜀の四征四鎮四方の関係は微妙だね。
趙雲=征南将軍→鎮東将軍
魏延=鎮北将軍→征西将軍(大)
輔匡=鎮南将軍→右将軍
姜維=征南将軍→鎮東将軍(大)
張翼=征西将軍(大)→鎮南将軍(大)
宗預=後将軍→征西将軍(大)
などなど。
まあ時期が違うということもあるのだろうけど、
これらの間に明確な上下はないと見ていいんだろうか?
ただ楊戯の季漢輔臣賛をみると四征>四鎮>四方という序列も見てとれるところもあるから簡単には断じえないけど。
例:趙雲=征南、輔匡=鎮南など。
245 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/31 00:57:44
>>244 何か根本的なところを勘違いしているようだな。
東西南北の問題もあって、単純に征>鎮がなりたつのは同じ方角の場合で
例えば東>北で鎮東>征北だったり、国家によっては「重要な方角」が違ったりもするし、
大が付く場合は鎮x大>征xだったり、同じ方角で征x>鎮xだが付加される
官職や権限(督x諸軍事、録尚書事、刺史、牧、太守etc)とかによっては
征x>鎮x+付加官職・権限だったりもする。
また、各官位は前将軍は九品官人法に基づくが、功績によっては官職はそのままで
その人に与えられる品位だけアップ(ex:前将軍は三品だが功績により官職はそのままで
二品にアップ)したり、前述の付加されるものによっても変わることもある。
四征>四鎮というルールは、官位のルール上、間違いなく正しいものだ。
でも単純に四征・四鎮の官職だけを比べても意味がない。
比べるなら、その人に付加されている全ての官職・権限・品位などを
全部出さなきゃ意味がない。
そもそも、四征・四鎮・四安・四平は、"前後左右"将軍などと違って、
その人の事跡(ex:西の敵地を征服した→征西、国内の東の要衝に駐屯し敵に備えた→鎮東)
にあったものでなくてはならない。
だから、北で何もやったこともない人に征北・鎮北・安北・平北将軍に
なることはなく、だからこそ品位のみのアップや別の官職・権限など付加して
席次を調整する。
四征>四鎮という基本ルールは正しいものであり、曖昧なものではない。
ただ単にそれに加えて運用する補足ルールがあるだけのことだ。
そして、史書にはその時点でその人が正規の肩書き以外に、どんな席次にあり
付加された官職・権限がどうであったかまで書いていないだけである。
蜀では九品官人法が施行されてないのでは
247 :
238:04/12/31 01:39:32
>241
おそらく、驃騎・車騎等の官職はほぼ同等であり、(大・驃騎・車騎・衛は四将軍と一くくりにされてるし)席次はその人物の格によって決まってたのではないかな?
このあたりは
>>245氏の言葉を借りるようですが。
呉懿・呉班の230年頃〜234年までの官職は左・後将軍。
これは同等ですが、封爵や加官を見れば呉懿の方が上。
まぁ、一番の原因は蜀漢の職制がいい加減な部分が大きいですが。
222年頃は鎮北将軍が2名とか。
>>247 驃騎・車騎が同等なんてありえない。
そもそも蜀漢の職制がいい加減って、何を根拠にいってるんだ?
蜀は、漢の正当な後継者を売り物として後漢の官職をそのまま引き継いでいる。
よって、基本的には魏と同じであり、驃騎>車騎である。
>248
だな
録尚書事とか見てもわかるように
後漢蜀が強いな。つっても兼任職の色が強いけど
将軍位には明確な上下があるが、実際の運用においては情実やその他の官位の絡みもあり将軍位の上下のみでは判断できない。
まあ、当たり前といえば当たり前かもね。
>>247 > 222年頃は鎮北将軍が2名とか。
これはおそらく黄権と魏延のことを言ってると思うが、魏延の鎮北将軍就任は夷陵の戦役後(つまり黄権のあと)だと思うよ。
魏延伝には「先主が帝位を称すると鎮北将軍に昇進した」とあるけど、これは同時にと取ることはないんじゃないかな?
他の人の例でもこのような表現を直ちにとか同時にととるとちょっと疑問になるところもあるのでこれは陳寿の記述の問題だと思う。
最後の一文は自分の誤解だったので取り消します。ごめんなさい。
252 :
238:04/12/31 13:20:27
>248
だから「ほぼ同等」と書いてるでしょ。
基本的には驃騎の方が上なんだろうけど、前後左右将軍と大・驃騎・車騎・衛将軍との間のような、明らかな差は無いと言うこと。
例えれば、前後左右は大将で、衛将軍以上は元帥みたいなね。
同じ階級のなかでランクの上下はあったろうけど、就任する人物しだいでは席次は逆転する程度の差ではなかったか、と言うことです。
>>252 言いたいことはわからんでもない。
が、呉懿と呉班の場合、呉班を呉懿の上にあえて持ってくるという理由がない。
不自然であることは変わりない。
ケ方
字は孔山。南郡の人。
おそらく赤壁後に劉備に臣従、入蜀に従う。
荊州の従事ということらしいので直接劉備の補佐にも当たっていたのだろうか?
劉備の蜀平定後はケン為郡の属国都尉としてケン為太守の李厳を補佐。
その後、朱提太守となる。朱提はケン為郡のすぐ南、南蛮への入り口と言っていいかも。
そしておそらく業績が良好であったのであろう、選抜されて安遠将軍・ライ降都督になる。
ライ降都督というのはいわば対南蛮の現場責任者。
その後継者は李恢、張翼、馬忠、張表、閻宇、霍弋(霍弋は副弐都督)という錚々たる面々。
ケ方も軍事・政治能力に関して高い評価を得ていたのであろう。
楊戯の季漢輔臣賛において
「難局に直面してうろたえず、少数をもって多数を防ぎ、異域において鎮撫の仕事を無事につとめた」
讃えられたのは伊達じゃないはず。
章武二年(222)死去。李恢伝によると章武元年(221)。
官職や役職に対しては不勉強なので間違っててもご容赦。
汶山太守・安遠将軍の王嗣も劉禅の時代から出仕したが、羌族をよく統治して
姜維の北伐に馬や食糧を輸送して功績があったな。
最後は戦死したが、成都に近い汶山郡で羌族を統制していたからこそ、
成都の防衛ができたと思う。
資料が少なかったようで、季漢輔臣賛のみに記載される。
>>254 219年に魏延が督漢中・鎮遠将軍に任命されてる。
ケ方がライ降都督・安遠将軍に任命されたのも同じ時期だったのかな?
北(対魏)の魏延、南(対南蛮)のケ方。
そんな感じだったのかも。北の魏延の方が重要視されたのだろうけど。
>>255 ビン山太守といえば陳震や何祗もそうだね。他にもいるか知らんけど。
蜀郡にせっしてるからか、王嗣も含めてどちらかというと文官よりの人材が多いね。
ゲーム的分類で気がひけるけどw
当時の太守職は決して行政だけじゃないからなぁ。
まして、蜀なんかは北伐してるから食糧・兵馬・武器の調達といろいろ
忙しいな。まれに軍を率いる事もあるし。
259 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/04 22:20:22
>>258 三国成立後の太守の任務は、郡内の行政・軍事・徴税・徴兵。
郡内の叛乱とかだったら、郡の常備兵を率いて鎮圧などを行う。
また中央派遣軍がその地方・方面に来た場合は、これに対する兵站・支援なども担う。
自分の郡と違う方面へは行かない。
行く場合は、「xx将軍」など将軍職を兼務している人だけ。
高翔
魏書に出てくる高詳とおそらく同一人物。ちなみに蜀書には記述がなく注にしか名前が出てこない。
219年、劉備の関中侵攻の際、本隊が定軍山に向かった後陽平を守備していたが曹真に撃破される。(曹真伝、高詳)
228年、第1次北伐時、街亭の戦いにおいて列柳城を守っていたが郭淮に撃破される。(郭淮伝、高詳)
231年、第4次北伐において魏延・呉班らとともに司馬懿を打ち破る。
督前部・右将軍・玄郷侯。郷侯である分、亭侯の呉班よりやや上?
(同じ時期の四方将軍としては呉懿>高翔>呉班>袁リン?)
撃破されまくってる割には重用されている?
記録には残ってないがそれなりの活躍があったのか?
それとも有力な基盤を持つ豪族だったのか?
魏書にその名前が出てくることを考えると蜀内でも有力な人物と見られていたのかもしれない。
なにしろ夏侯淵を斬った黄忠ですら出てこないのだ。
でも同じく撃ち破られた呉蘭は出てくるけどw
ところで呉蘭って呉懿や呉班の同族の可能性あるの?
261 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/05 03:40:22
>>260 同族じゃない可能性のほうが低いぐらいだ。
ちなみに呉蘭とくれば雷銅は、雷薄の同族で劉備が荊州南部奪取後に帰順した雷緒の一族ではないか
といわれている。
また、高翔は益州牧劉璋配下の名将として知られている高沛の一族といわれている。
262 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/05 21:11:47
>261
袁リンは李厳の件の上表だと、劉淡・魏延の次なんで、上表上の序列では呉懿の上になるんだよね。
華陽国志だと高翔とセットで扱われてるから高翔と同格かも。
出身は豫州・頴川だから、汝陰出身の袁一族とも繋がりがあったかも。
>261
高翔と高沛はともに南陽だからね。
高翔は督前部・右将軍だから、蜀漢では軍事に通じてる人物だったのかもね。
最終的には(不明)大将軍か。
高沛が劉備に降伏してくれていたら、高沛・高翔セットできたのになあ・・・
>>261 なるほど。
雷同の件はちょっと前に別スレでも上がってたけど、そういった一族のつながりって面白いね。
ところで高沛に関してだけど三国志には劉璋配下の名将と簡単に書かれてるだけなのでよくわからないけど、
その事跡は華陽国志なり後漢書なりになんか記述あるのかな?
>>262 謎の武将袁リンは豫州時代からの古株?
袁リンの前将軍は劉エンよりランクはだいぶ下がるけど単なる名誉職っぽいし。
265 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/06 02:23:29
>>261 高沛
字は伯建 南陽の人
劉焉に従って益州に入り、別部司馬となって東州の兵を率いた。
劉璋の時代に趙イを撃破し、その武勇は軍中第一であった。
揚威中郎将となって白水県令楊懐とともに白水に駐屯し、
広漢諸軍を監督したが、先主に斬られた。
>234
>(使持節>仮節?)
Yes.
267 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/06 18:41:36
>264
袁リンが古株かどうかは不明。
ただ、豫州出身なんで劉備が豫州にいた頃に随従してても不思議じゃぁない。
袁リンの最終的な官位は諸葛亮没後に征西大将軍だから、結構優遇されてると思う。
もし、豫州時代の古株だったとして、劉淡との差は年齢的なものか「姓」の差かもね。
劉淡の場合、劉備と同姓だった、ってのも大きいから。
268 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/06 22:54:32
中国における研究では、劉琰は劉備より漢皇室に近く筋目もハッキリした人物であり、
それゆえに豫州においてももともと盛名があり、劉備もまたその血筋ゆえに賓客として
優遇したそうです。
劉備陣営の中では、簡雍と同じような立場にあって、劉備のお側衆として接待役などを
勤めたといわれています。
また彼の死には異聞があり、胡氏を欲した劉禅および劉禅のご機嫌取りを行う側近たちが
劉琰が胡氏を殴ったのを知って、胡氏を唆して劉琰を告訴させ処刑したうえで
晴れて独身となった胡氏を後宮に入れたそうです。
269 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/07 03:22:26
>>268 (゚∀゚)ホホウ、劉禅もなかなかやるな!
そういえば、劉禅が政務にやる気を見せるのって劉琰裁判だけなんだよね。
そういう事情があったからか、逆に珍しくやる気を見せたからそういうウワサが出たのか・・・
ちなみに問題の美人・胡氏は胡済の出身かなぁ?
>>267 袁リンは征西大将軍まで上がったのですか!?
すると魏延の後釜ということになるのかな?
238年ごろには張翼が就いてるから死亡もこの頃?
>>262 > 高翔は督前部・右将軍だから、蜀漢では軍事に通じてる人物だったのかもね。
督前部といえば高翔の前には魏延が就いてたみたいですからね。
そう言っていいのかもしれません。
ところで督○部って役割的にはどのようなものなのでしょうか?
督という字がついてるのでぼんやりとは想像できるのですが、それが正しいのかどうかはわかりません。
>>269 豫州時代からの妻では無いと思う。
劉備が豫州刺史だったのは190年代後半だからそこから220年代まで
30年位だな。女性が30年も美を保つのは厳しいものがある。
劉禅が年上好みだったら別だが・・・
>>272 劉備が豫州にいたのは196年から198年。
で件の事件がおきたのは234年だから35年以上だね。
妻にしたのが15,6くらいだとしても50歳以上だな。
劉禅は234年には28歳。まさにペタジーニだな。
まあその可能性は低いがw
274 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/08 21:26:37
むこうは、年寄りが孫娘みたいな女を妻や妾にするから、若い女性でしょう。
でも、最初の正室は死んじゃって2番目か3番目の正室だろうな。
胡氏は豫州で娶ったってわけでもないんだから…
230年ぐらいに15歳の胡氏をGETしたとかって可能性のが高いかと。
まあでも風潮的に年上人妻が人気があった時代らしいから、
そっちの線もありえないではないよなw
276 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 00:42:10
>>271 前軍(先鋒軍ではなく、本軍の前衛部隊)を統括する役割。
同時に本営の軍議に参加し、主将(諸葛亮)の相談にのる立場。
本軍進撃時はその先頭を切り、主将の命によってはその部隊を率いて遊撃したり、
手薄なところへ援軍として向かったりもする。
>>276 ご教授感謝。
遠征軍において参謀と指揮の両方を期待されていたという理解で間違いないのかな?
ところで李厳罷免の上表文に劉巴の名前が出てるけれどあれはあの劉巴とは別人ですよね?
ただ征南将軍の官職が姜維と被ってるなどちょっとよくわからないところもあったりして謎だ。
278 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/10 10:33:55
>277
>>遠征軍において参謀と指揮の両方を期待されていたという理解で間違いないのかな?
ちょっと違うと思うよ。
先鋒軍の指揮官ってのは正しいと思うけど、主将の相談役と言うのは参謀幕僚とは違う。
右将軍と言う立場上、軍議には当然参加だけどね。
劉巴は尚書令になった劉巴とは別人ですね。
征南将軍がかぶってるのは、何故かは不明。姜維は征西将軍って記録もある。
どちらにしろ、同様な将軍号を持つ人物が二名いる事になるので、この辺りに蜀漢の官職のいい加減さが・・・。
279 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/10 13:34:52
>>278 >どちらにしろ、同様な将軍号を持つ人物が二名いる事になるので、この辺りに蜀漢の官職のいい加減さが・・・。
官職の上下は、関羽の場合のように様々な問題を引き起こします。
後漢末期の混乱期の王朝ならともかく、小さいながらも安定した政権を
築いている状況で、いい加減な官職の運用などはありえず、
@註に採用された史料、あるいは正史およびその註を書き写して後世に残っていた
史料が間違っている
A蜀は四征の定員が複数
のどちらかなだけです。
ましてや、後漢末期でさえも自称・地方有力が勝手に指名した場合を除けば、
朝廷から正規に任命される定員1名の官職に複数の人間がいた例はありません。
また、蜀が四征の定員を複数にしていたとは考えにくいので99%@でしょう。
280 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/10 17:22:21
伊籍殿…
伊籍殿…
伊籍殿… ?
>>279 おっしゃるとおり間違いでしょうね。
裴松之なら史料の誤りに気づき訂正しそうなので、正史&註を書き写す人が
間違えて後世に残した可能性(あるいはちくまの誤植)が高いと思います。
間違えているのは、官職か人名のどちらか
劉巴と似ており、李厳免職期に生きており、四征
劉邕(字は南和)のことじゃないかなあ?
書きかけでカキコしてしまったうえにレス番を間違えました。
以下修正
>>279 おっしゃるとおり間違いでしょうね。
裴松之なら史料の誤りに気づき訂正しそうなので、正史&註を書き写す人が
間違えて後世に残した可能性(あるいはちくまの誤植)が高いと思います。
間違えているのは、官職か人名のどちらかですが、後者ではないかと思います。
劉巴と似ており、李厳免職期に生きており、四征将軍にも就いた可能性がある
人物としては、 劉邕(字は南和)のことじゃないかなあ?という気がします。
最終的には、監軍・後将軍・関内侯にのぼりました。
征南(二品)→後将軍(三品)だと下がったようにもみえますが、追加される
官職や諸侯としての格によっても席次は上下し、単純に将軍位のみで席次が
決まるわけでもないので、こういう例は他にもあります。
劉ヨウか。
ヨウの字と巴は似てますからね。というか「巴」はヨウの字の一部ですし。
さらにいえば季漢輔臣賛みると建興年間に監軍・後将軍にまで昇ったとあるからそうなのかもしれないですね。
征南将軍についてはどうかわからないですけど。
>>284 > 征南(二品)→後将軍(三品)
蜀でもそうだったのかな?
>>286 魏や後漢・蜀漢の官位・職制はほぼ同じと見ていいと思います。
(むしろ違うと考えるほうが困難)
有名な人物が就任することで、後世にその官職の扱いがアップすることはありますが、
後漢→魏・蜀漢の短い流れにおいて、それを変更させるほど、すごい人物も出ていませんし。
>>287 魏が官制変えてなかった?
漢=四方>四征、四鎮→魏=四征、四鎮>四方っていう風に。
>>287 それは、後漢じゃなくて前漢の制度じゃないですかね(私もうろ覚えですが)。
まあどちらにせよ、個人的に李厳追放の表にある「劉巴」は「劉巴」じゃなくて
「劉邕」だと思っています。
しかし、こういった人名や時期、制度の誤りの訂正や研究、こまごました歴史事象の追加のような
地道で正道の歴史研究が中国の大学などで行われているのに、そういったものは日本に紹介されず、
過去の「中国史の大家」の過去の研究の焼き直しや、やたらに異説を唱えて目立とうとする
中堅・若手の研究家、フィクションとしての小説などばかりがはびこる日本の三国志研究の状況は
残念ですよねえ。
だれか中国語に詳しくて時間のある人が、中国の大学・大学院の三国志研究の成果を翻訳してくれたり
みんなの疑問をそれらの文献で調べてくれるとありがたいのですが・・・
>>288 正しい
劉備は鎮東将軍から左将軍に昇進している
292 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/10 22:17:40
武官官職
魏:一品=漢:万石
なし
魏:二品=漢:万石
大将軍、驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍、
中軍大将軍、上軍大将軍、鎮軍大将軍、撫軍大将軍、南中大将軍、輔国大将軍、
四征将軍または四征大将軍(征東将軍、征南将軍、征西将軍、征北将軍)
四鎮将軍または四鎮大将軍(鎮東将軍、鎮南将軍、鎮西将軍、鎮北将軍)
魏:三品=漢:中二千石
四安将軍(安東将軍、安南将軍、安西将軍、安北将軍)
四平将軍(平東将軍、平南将軍、平西将軍、平北将軍)
四方将軍(前将軍、後将軍、左将軍、右将軍)
上にいくほど偉いが、官位+付随する官職(刺史とか監軍とか督x州諸軍事)
+侯位(関内侯など)+実際の食邑の大きさにくわえて、
その人の血筋(皇族・王族、名族・豪族、それ以外)とかが組み合わさるので
必ずしもそのとおりでなく魏においても蜀漢においても柔軟に運用したらしいよ
蜀も制度を漢に合わせたり、一部は魏にあわせたりしたらしい
台湾人の友達が言ってました
なるほどなるほど
年末年始、正史風三国志系のスレが低調だったので、書き込む人が増えてうれしいですね
295 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/10 23:19:44
>>294 たぶん品位+将軍の官職名を後漢の俸禄とあわせた一覧ってことでしょ。
後漢では、最初の頃は四征・四鎮とかも雑号将軍。
末期に近づくとわりと魏の制度に近い意味合いで使われるようになる。
蜀では
四征・鎮大将軍>四方将軍>四征・鎮将軍
ではないかな?
234で上げられてる呉懿の関中都督は長安じゃなくて漢中と梓潼の境目辺りじゃないかな?
蜀末期、関城を守っていた傅僉も督関中だったみたいだし。
298 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/12 03:37:41
>>297 実際の土地とは無関係な名誉職的なものもけっこうあるから、あんまりこだわらなくて
いいんじゃない?
実際、蜀には兗州刺史とか徐州刺史とか幽州刺史とかもいたわけだし。
>>298 >実際、蜀には兗州刺史とか徐州刺史とか幽州刺史とかもいたわけだし。
あれって、呉との魏分配同盟に基づく刺史の配置だよね?
魏にとっては片腹痛い事だが
>>299 現在の中国にも台湾に関する役職が名目上とはいえあるというし、そういうモンじゃない?
南宋では首都臨安府をあくまで行在としたそうだし。
>>300 台湾にも、ごく最近まで台湾省長がいたよ。
正確に言えば、中華民国における台湾は、
中華民国台湾省と言う扱いらしい。
蜀で言う益州牧と同じだな。
自分たちは本来は全土を支配する正統政権であって、
益州などその一部に過ぎんと言う考え方だ。
302 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/13 08:24:21
魏には、益州牧とかなかったのかな?
戦国時代の〜守とかと同レベルか
こんな事を聞くのは恥ずかしいんですが、実際、趙雲は目だった活躍をしてないんでしょうか?
正史読んだ事ないのでお願いします。あと、正史は図書館とかにおいてありますか?それとも
自分で買った方がいいんでしょうか?質問ばかりですみませんがお願いします。
>>304 ちくま文庫1冊1,500円、計8冊で12,000円。
読みたいなら買っとけ。
ただいっぺんに買う必要はないので読みたいところからぽつぽつと買ってけばさして負担にはならないだろう。
8巻には索引とか年表とか官職表などが載ってるので早めに買うといいかも。
趙雲の活躍に関しては、
・長坂坡で阿斗を守る。
・劉備の蜀入りの増援として諸葛亮らとともに西上。蜀の東方、南方の郡県を平定。
・第一次北伐においてケ芝とともに囮役を見事務める。
が正史に記述がある。
他の活躍に関しては注として引用されてる「別伝」にほとんど載ってる。
演義のオリジナルは夷陵の戦役で朱然を討つ、第一次北伐での夏侯楙関連・姜維と一騎打ちくらいかな?
あと関興や張苞がらみ、南蛮征伐での活躍もそうか。
ただ南蛮征伐に関しては当時征南将軍・永昌亭侯だったから従軍くらいはしたかも。
趙雲と云えば、空城計だと思うが
空城計は・・パクリか_l ̄l○
>>306 空城の計は相手に疑心を抱かせてそこを突くというのは三国志において何箇所かに見られる戦法。
もちろん実際に趙雲が行ったかどうかはわからんが、誰かのパクリとかいうようなものでもない。
>>306 >>307 別伝によれば、漢中争奪戦の際に曹操の進撃に対して「空城計」を行い
曹操が疑心に駆られて撤退する所を攻撃して大勝利を収め、劉備から「一身都是膽也」と賞されたとある。
まあ別伝なんで多少誇張してあると思うけどな。
ただ、別伝だからって全く無かった事を捏造するって事は無いよ。
>>290 まあ、日本で歴史学的に三国志研究をしてる人って少ないからね。
中国文学研究では定評のあるD大学所属のW教授が
「三国志研究の最前線」って題の講演で
「今現在も研究してる三国時代の研究者は、日本には五人もいません。だから私程度でも第一人者と言ってもらえますw」
てなこと言ってたな。
>>308 >まあ別伝なんで多少誇張してあると思うけどな。
>ただ、別伝だからって全く無かった事を捏造するって事は無いよ。
趙雲別伝て出所もよく分からないんじゃなかったっけ?
正史本文ですら矛盾してる記述があるし、注で引かれてる書なんて捏造とか誤記が大量にある。
何でこんな風に言い切れるんだろう?
どうも趙雲の事になると、特に「空城計」なんかは必死に否定する奴がでてくるな。
俺も趙雲の過大評価はうんざりしてるけど、逆に過少すぎる評価や「別伝」だの
「現実性の希薄さ」なんかで否定してる様な輩も多い感じ。
>>310 別伝については最近色々研究されてるんだよ。
「別伝」という形態の史書が、シナ史においてこの時代にしか存在しない点とか含めて。
まあ、俺もそれを専門で研究してるわけじゃなくて
>>309のW先生に色々教えてもらっただけなんだがね。
で、W先生の結論としては
>>308の最後2行とのこと。
>>305 レスありがとうございます!とりあえず8巻買って来ようと思います。
まぁ、趙雲は本伝だけ読んでもそれなりに優秀だよな。確かに地味ではあるけども。
>311
「空城計」だけは、ちょっと荒唐無稽過ぎる印象だからなぁ。
あと、趙雲の正当評価というものがあまり語られないため、
何をもって過大評価、過少評価とされるのかもわからないかも。
このスレでランク付けしてた時も
大して語られる事無く「趙雲ファンへの配慮」としてテキトーに10位に置かれたし。
趙雲の評価がどういう位置なのか、総体評価で検討しようって人はおらんでしょうか?
趙雲は伏兵や後詰中心だったり、
寡兵の遊軍として細かい仕事をすることがほとんどだから、
他の将とは畑そのものが違うんだよな。
演義のような大きな戦功はないけども、
こういう任務を確実にこなしていった事実は重いと思う。
いざという時に頼りになる始末屋って感じで。
後詰や別働隊を任されるってのはそれだけ信任が厚いって事だしな
総大将を任されるほどに信任があるわけではないが、
後詰を頼まれるくらいには信任されてる。
やはり地味。だがそれがいい。
趙雲にしかできない仕事って感じな物があったんだろうなと想像。
戦闘指揮もできるボディーガードなんてどう評価するんだ?
>>319 暴走した君主を諫める
これができるなんて最高だ
結局止めさせることはできなかったけどな・・・
>>320 ボディガードをやっていたのは、流浪の状態で信頼して劉備が自分の身を任せることが
できる部将が関羽・張飛をのぞけば、趙雲ぐらいしかいなかったから。
実際、劉備が荊州南部の土地を手に入れ人員が充実した後は、すぐに一部隊の将として
活躍している。
もともと義勇兵部隊の指揮官として公孫サンの下におり、戦闘指揮官のほうが本職。
地味だけど、仕事人って感じでいいね。
夷陵出兵については、重臣の多くがお諌めしてる。
入蜀時の「邸宅は国が安定してから」についても、以前このスレで
「せっかく大義名分を失わずに蜀を譲り受けた劉備&首脳陣が
わざわざ国民の反感を買うような報賞政策を打ち出すわけが無い」でFAになった。
「なんだかわからないけど、きっと趙雲は凄かった」っていう切り口から語るなよ。
これが趙雲の過大評価ってやつか…。
>>324 > 「せっかく大義名分を失わずに蜀を譲り受けた劉備&首脳陣が
> わざわざ国民の反感を買うような報賞政策を打ち出すわけが無い」
趣旨がよくわからんFAだが、そのことと趙雲が諫言したことは別に矛盾しないよ。
別に別伝が事実だといってるわけではないけどな。
別伝に記載されてる通りの諫言があったとしても、発言自体の意義が薄い。
趙雲にしか出来ない事でも何でも無いんじゃないかと。
趙雲のソツの無さを「パーフェクト、完璧!」と言う奴がいるから
過大評価が加速するんだろうな。
彼はあくまで「平均点」だと思うんだが。
>>326 趙雲がどういう人だったかはわかる。
それは重要なことだと思うがな。
>>327 劉備が蜀を平定したとき、趙雲は翊軍将軍に任じられている。
「翊」には「助ける」とか「慎む」などの意がある。
主役ではないが軍を陰から支えるという趙雲にふさわしい、まさにいぶし銀な号だ。
>>324 正史註に「劉備&首脳陣が打ち出した」などという記述は全くない。
正史註にあるのは、益州が平定されたあとに成都の内外の土地や田畑を
諸将に分け与えようという「意見がなされた」ことに趙雲が反対し、
劉備がこれに従ったという記述。
つまり、劉備や諸葛亮が「土地を分け与えよう!」と決めたわけでなく、
誰かがそういう意見を具申したことに対し、趙雲が反対意見を具申し、
劉備がこれを卓見として取り上げたということだ。
それに「国民の反感を買うような報賞政策」というのも変。
勝者がその分け前に預かるのは当たり前の時代で「反感を買う」というほど
非常識なことではないし、その論功賞の規模も益州を分け取りしようという
大掛かりなものではなく、劉璋ら追放・死亡した豪族の持ち物と推測される
成都城内外の荘園に過ぎない。
だから、この程度の論功賞を求める意見が長らく流浪し、自分たちの土地を
持てなかった劉備政権内で出たとしても当然であり、また国民の反感を買うほどの
ものでなく、それを趙雲は敢えて押しとどめることによって、国民に
新政権の仁愛を示し人心の掌握を図るとともに、益州を手に入れたことによる
政権内の気のゆるみや浮かれ気分の引き締めを図った優れた献策をしたと
解釈するのが普通の見方。
正史の列伝の構成の意味や、裴松之註の意義といった正史解釈の基本中の基本が
>>324、325、326は理解できていない。
陳寿が趙雲・黄忠を灌嬰・夏侯嬰といった漢の功臣に例え、関羽や馬超といった
中原に名を馳せた人物といっしょに列伝を立てていること、裴松之が
優れた事跡、特記すべき事項としてわざわざ註で取り上げていることは、
趙雲が非凡な人物であったことをあからさまに示している。
光栄厨のように趙雲を超人としてマンセーする必要は全くないが、正史を
知ったかぶりするために、敢えて正史や裴松之註の内容を自己流に歪めて
拡大解釈するのは「正史を知らない正史"厨"」と呼ばれても仕方がない。
> 中原に名を馳せた人物といっしょに列伝を立てていること、裴松之が
> 優れた事跡、特記すべき事項としてわざわざ註で取り上げていることは
正史の列伝の構成には不自然な点も多い。
裴松之注の意義が分かってないのは喪前のほうだと思うぞ。
趙雲が非凡な人物であったのは同意だが。
別伝の真偽なんて分かりようが無いんだから
信じたい奴が信じて、信じたくない奴は信じなければいい、それだけの事。
>>332 > 別伝の真偽なんて分かりようが無いんだから
> 信じたい奴が信じて、信じたくない奴は信じなければいい、それだけの事。
別伝の信用性については最近のレス
>>308>>312で興味深い見解が出ている。
基本的に
>>330の見解は、裴注の意義を含めて、極めて妥当であろう。
>>312のW先生の結論てのは趙雲別伝に対してのことなのか
別伝全般に対してのことなのか、別伝は唐の時代の書物にもなかったっけ?
なんか新たな資料でも見つかったのか?
裴松之注はわざわざ取り上げるという趣旨のものではない。
陳寿が載せなかった話をひたすら載せる。その上で矛盾があれば精査を行うだけ。
>>334 俺が「趙雲別伝」の信憑性について尋ねたら
別伝という形態の史書の性格についても言及してくれた。
>別伝は唐の時代の書物にもなかったっけ?
スマン、俺にはそれは判らん。
ただ別伝というのは、魏晋南北朝期に集中して成立してるらしい。
>>335 dクス
別伝で共通した書き方みたいなのがあったという事ですか。
その先生には是非研究を続けてもらってちゃんとした正史解説本みたいのを書いて欲しい。
でも三国志の研究って予算もらえるのかな?
335=333=330=312なのかな?
俺の頭が悪いのか、話そのものからは、別伝の信憑性自体は謎のままなんだが…
「W先生がそう言ったから」とか、「信憑性以外の別伝研究話」以外にの角度から
もうちょっと説明してくれないか?
微妙にずれた論点で煙にまかれてる気持ちだ。
>330
>関羽や馬超といった 中原に名を馳せた人物といっしょに列伝を立てていること
いっしょに列伝をたてられたからといって、イコール同格とまでは思って無いよな?
>>330 劉備の蜀入りは「勝者」の振るまいを「当然」の事として行えるものでも無いっしょ。
その上で思ったんだけど、
このスレで以前出てた結論ってのは、330氏の意見に近く
荊州-益州で劉備軍に加わった兵が報賞を求め
上層部の人間には、その声を押さえづらいという状況で
報賞を求める兵に対して、趙雲は反対した。…でFAだったはず。
ただ、この事を
「主君をお諌めする事が出来る」や「優れた献策をした」ととるか、
「趙雲の人間性を計る指針」として受け取るかの違いは大きいよね。
趙雲の発言は極めて妥当だけど、
それは、劉備陣営自体の方策を反映させている言葉であり
即物的に報賞を求める兵に対しての牽制の言葉であるわけで、
「主君をお諌めする事が出来る」や「優れた献策をした」とは
受け取れないってのが俺の考え。
だから、己の立場を理解した上で、上の人間がやりやすいように
臨機応変に振る舞えるって事で非常に優秀な人物だとは思ってます。
ここまで来ると別伝がどうとか
真実はどうとかってより、
読み手の受け取り方次第だよな。
>340
結局はそうなるんだろうな。
でも、戦略や外交や政治については、実績が無いから
ゼロとして採点するしか無いし、
重責ある立場の他者と比較して、実績を評価すると、
別伝の内容を踏まえた上でもやっぱり中堅的な人物だと思う。
343 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 00:03:57
「諸葛亮の死後に権力独占を図った楊儀ら士大夫派エリートに対し、魏延文長が兵士たちに決起を呼びかけた言葉」
我々は一人の英雄を失った。しかし、これは敗北を意味するのか?否!始まりなのだ!
魏に比べ、我が蜀の国力は30分の1以下である。にもかかわらず今日まで戦い抜いてこられたのは何故か?
諸君!我が蜀漢帝国の戦争目的が正義だからだ。これは諸君らが一番知っている。
我々は中原を追われ、辺境の益州移民者にさせられた。
そして、一握りの荊州エリートらが漢中にまで膨れ上がった蜀漢を支配して20余年、
益州に住む我々が自由を要求して何度踏みにじられたか。
蜀漢帝国の掲げる人類一人一人の自由のための戦いを神が見捨てるはずはない。
私の弟!諸君らが愛してくれた諸葛亮は死んだ。何故だ!?
(●w●)「坊やだからさ」
新しい時代の覇権を選ばれた国民が得るは、歴史の必然である。
ならば、我らは襟を正し、この戦局を打開しなければならぬ。
我々は過酷な漢中を屯田によって生活の場としながらも共に苦悩し、錬磨して今日の文化を築き上げてきた。
かつて、昭烈皇帝は人類の革新は蜀漢の民たる我々から始まると言った。
しかしながら荊州エリートのモグラ共は、自分たちが人類の支配権を有すると増長し我々に抗戦する。
諸君の父も、子もその士大夫どもの無思慮な抵抗の前に死んでいったのだ!
この悲しみも怒りも忘れてはならない!それを諸葛亮は死をもって我々に示してくれた!
我々は今、この怒りを結集し、連邦軍に叩きつけて、初めて真の勝利を得ることができる。
この勝利こそ、戦死者全てへの最大の慰めとなる。
国民よ立て!悲しみを怒りに変えて、立てよ!国民よ!
我ら蜀漢帝国臣民こそ選ばれた民であることを忘れないでほしいのだ。
優良種である我らこそ人類を救い得るのである。万歳大蜀漢!
三国志裴松之註「魏延外伝」より
>>342 中堅の意味とは何ぞ?
>>330も書いているが、陳寿は「蜀における趙雲・黄忠」の位置づけの
喩えとして「前漢における灌嬰・夏侯嬰」を挙げている。
灌嬰・夏侯嬰を「中堅」だなんて言ったら笑われるぞ。
ちなみに正史で誤まったことを書くと、後世の歴史家に突っ込まれまくる
ことになる。
それは魏書で買詡の列伝の立て方に裴松之が突っ込んでいるのが良い例。
同列に扱うのがふさわしくない人物をひとつにして関張馬黄趙伝を立てたり、
喩えを間違っていたら、後世(といっても古代中国)のキモオタたちに
叩かれまくることになる。
よって
>>338や
>>342の意見はおかしい。
>341
「W先生がそう言ったから」とか、
「信憑性とは無関係な別伝研究話」以外の角度からの
別伝の信憑性は説明してくれないかい?
どうも、論点がすり変わってる感があるよ。
>344
>後世(といっても古代中国)のキモオタたちに
>叩かれまくることになる。
この一言でうっちゃる気かよw
>>344 近い時期に仕えたと推測され、
ほぼ同等の官位に昇った陳到、袁綝の伝が残っていないことを考えると、
やはり趙雲は蜀の古参将官の中では、頭一つ抜けた存在だったんだろうな。
>344
陳寿の喩えに納得するに足る記述が、趙雲伝には無いって事だろ
喩えとして前漢の名将や立て役者の名前を挙げるのはポピュラーな手法だが
その喩えが実際の実績で考えても正当であるかはまた別問題。
喩え一つで人物の評価が決定する程安易な事でも無いと思うんだが。
べつに趙雲は好きじゃないけど、一部の人が
何でそこまで趙雲を低く見ようとするのかが良く分からん。
仕事や功績は細かい物が多かったかもしれないけど、
非常に有能で欠かせない人物であったことは確かだろ。
344.347
とりあえず機種依存文字はやめてくれないか…。
「袁& # 3 2 1 5 7 ;」とか表示されちまうんだ。
>>350 これだからマカーは巨チン呼ばわりされるんだ
↓読めないだろ?
_gadad
>349
別に趙雲は嫌いじゃないけど、
なぜそこまで、趙雲を持ち上げようとするのかが良くわからんよ。
…というか、趙雲を持ち上げる人間の、妄想準拠による「趙雲マンセー」が
今だに広く浸透してるので、ここらで定位置を探してみたいってのが本音かな。
低く見ようとするつもりは無いし、凄く有能であるというのはわかる。
ただ、人格の素晴しさまでをも、能力の素晴しさとイコールで結び付ける人が多いのが
やはりいただけないわけだ。
351
そんな誉めないでくれよ。
てか、マジ読めません…orz
ネタとしてならともかく、
ここは一応討議スレっつー事で、少数派にも一つ御配慮いただけると有り難い。
>348
その手の喩えって、基本的には格上を引き合いに出すものだしな。
>>351 マカーだけど、最近のはそれぐらいなら読めるんだよ。
ただコード文字の方は無理だけどな。
>>344 趙雲の時代に生きてない後世の人間なら正確な情報はわからないから
間違えてても必ず叩ける訳ではないけどな
>344
中堅って言葉が、そんなに気に触ったかな?
だとしたら申し訳無い。
独自の戦略は見せた事が無い、
政治、外交についてもノータッチ。節という事で、
総司令官的位置の人間では無く、野戦司令官
死刑の権限も与えられていなかったという事で、
その地位の範疇でしか語れないだろうという意味も含めての「中堅」という言葉ね。
漠然としすぎてたから、あまり不用意に使うべき言葉では無かったな…。
で、灌嬰・夏侯嬰の喩えについては>348に同意。
陳寿の評を絶対とするならば、討議自体不要になっちまうよ。
>>357 エースじゃなかったけど、主力だったってところでいいんじゃ?
「15勝はできないけど、調子が良かったら二桁勝利はいけますよ。
リリーフでも20セーブポイントは叩き出せるかもしれません」
なポジションなんじゃないかと。
『季漢輔臣賛』に趙雲の事跡とかは載ってないの?
正史に無い蜀将についても載ってるあれと照合してみたら少しはわかるかも
>>360 載ってるよ。「重厚。精鋭を指揮し、猛将として活躍した」とだけしか書かれて無いけどね。
現代に置き換えてみると
趙雲の役割って師団長レベルまでなんだよね。
方面総監や陸幕長といったレベルの役割を果たした事はないんだよな。
無論、師団長としては超優秀だと思うが。
それに東部方面総監というべき永安都督に陳到が就いてることも考えると
漢中都督レベルの格は趙雲にあったと思う。
ちょい余談だが、趙雲って俺の中じゃ宮崎繁三郎とイメージがダブるんだなあ。
なかなかすごい人なんで、ヒマある人はググってみてくれ。
うぉ、編集途中の文章投稿してた。
こりゃ恥ずかしいな…
■>357の一部を念のため訂正
趙雲は、総司令官的位置の人間では無く、野戦司令官的な立場である。
独自の戦略は見せた事が無い、 政治、外交についてもノータッチ。
死刑の権限も与えられていなかったという事で、
その地位の範疇でしか語れないだろうという意味も含めての「中堅」という言葉ね。
漠然としすぎてたから、あまり不用意に使うべき言葉では無かったな…。
>362
劉備の人事が不当さを感じないものだけに、
漢中都督レベルの格があった趙雲が、実際は漢中都督になれなかったというのが
かえって欠点に見えるのが難点だな…。
宮崎繁三郎。ちょっと調べてみたけどカコイイな。
現代の軍事方面はほぼ無知なんで、勉強してみたくなった。
>>362 そうだねえ。趙雲は軍歴は長いし、官爵も高いけど、
都督号を帯びたことは無いんだよね。
もちろん、大軍を率いた経験も無い。
勲章をいっぱい持ってる陸軍中将・師団長ってイメージだなあ。
>それに東部方面総監というべき永安都督に陳到が就いてることも考えると
>漢中都督レベルの格は趙雲にあったと思う。
さすがにそれは無理があるんじゃないか…。
戦場での勇名は趙雲≧陳到っぽいけど、
外交折衝の能力や、軍政能力の差で、陳到は都督になれたんじゃなかろうか。
都督は勇将ってだけでなれるもんでもないからな。
>ちょい余談だが、趙雲って俺の中じゃ宮崎繁三郎とイメージがダブるんだなあ。
宮崎繁三郎は、むしろ羅憲かなあ…。
亡国の名将ってイメージがある。
>>364 劉備が手元から離したくなかったと見ることもできるよ。
(ま、あくまでもそうも考えられるって話だけどね)
>366
なんだ、その不自然な寵愛妄想はw
>366
昔たまには趙雲を誉めようスレで、
「劉備が信頼出来たのは趙雲だけ!」
「趙雲の仕事が出来る程の人物は、他にいないからな。」
「趙雲は優秀な人物だから、手元からはなせないんだ」
みたいなレスが飛び交ったのを思い出した。
妄想も程々にな…
>>365 『季漢輔臣賛』とそれに補足した陳寿の記述からすると
趙雲と陳到は同じタイプの武将だと思うけどな。
ただ、ここで言った「格」ってのは「名声・位階」的な意味で、能力の事じゃないよ。
趙雲に漢中都督が務まったかどうかを考えると・・・
対人関係に難ありで、おそらく下級軍人からの叩き上げであろう魏延が務まったんだから、
趙雲にできそうな感じもするけどな。
ただ大局的な軍の進退・運用に関しては、確かに未知数だからねえ・・・
>>365 陳到は督永安とはいえ中都護の李厳の与力みたいなもの。
後の督永安とは性質が違うと思うよ。
もちろん対呉最前線であるから重要な責務ではあったろうが外交折衝などはあまり求められはしなかったと思う。
>>367 >>368 単純に妄想って言うわけでもないんだがな。
陳寿の記述でも「(趙雲・陳到は)倶ニ忠勇ヲ以テ称セラル」とあるんで
趙雲と陳到は「劉備親衛隊」的なイメージが当時からあったんだと思う。
あと、彼らのように純粋に戦闘力のある戦力は手元に置いときたいと思うぞ。
(曹操における許チョや虎豹騎のように)
逆に政治力や戦略能力のある将軍をこそ遠方の州に置くという考え方だってある。
>>369 魏延はたぶん、大局的な軍の進退・運用に才能があったんじゃないかな?
北伐でも別軍を率いて一番多く勝ってるのは魏延だし。
武勇と閲歴だけで漢中都督が出来るなら、
劉備は魏延じゃなくて、張飛を選んでるだろ?
忠義と武勇があるからと言って、親衛隊とも限らん。
先鋒かも知れんぞ?これも命がけだから、忠義と武勇の両方が無いと務まらん。
>369
魏延を「対人関係に難あり」と断定した上で、
魏延にも出来たんだから趙雲にも出来るだろうっていう語りは
あまりにも乱暴すぎ無いか?
趙雲っていうと品行方正な甘寧って印象が強いな。
寡兵で無敵、みたいな。
まあ甘寧みたいな戦略的思想は持ち合わせてないけどさ。
>>372 趙雲は荊州入りまでは劉備の親衛隊みたいなものだったと思うよ。
初め主騎だし長坂坡で任された任務をみればその蓋然性は高い。
ただ荊州入り直後には外に出され諸葛亮に付けられたみたい。
当時、諸葛亮は三郡(零陵・桂陽・長沙)を任されていたけど、
そこは新領土ということもあり信頼できる武将が必要だった。
そこでその一人として趙雲が付けられた。
その為、黄忠や魏延のような出世コースから外れたという流れだったんじゃないかな?
ただ別伝のように桂陽太守だったかどうかはちょっと怪しいと思うが。
>>372 >>373 俺が言ってるのは
あくまで「出来る」であって「適任だ」と言ってるわけじゃないぞ。
> 武勇と閲歴だけで漢中都督が出来るなら、
> 劉備は魏延じゃなくて、張飛を選んでるだろ?
おいおい、張飛は武勇と閲歴だけの将じゃないぞ。
どうも演義のせいで「頭の悪い乱暴者」のイメージが強いが
史料上では、魏の五大将軍である張コウに完勝して、
周囲から漢中都督就任間違いなしと(つまりそれだけの戦略能力・政治力があると)思われてた人物だぞ。
> 忠義と武勇があるからと言って、親衛隊とも限らん。
シナの史書ってのは一言一句に気を遣って書かれてることを考えた方がいい。
なぜ彼らを評価する言葉として「忠勇」と言う文字を使ったか。
無論、彼らが常に親衛隊的存在だったとは言わない。
しかし、劉備や周囲がそういうイメージを持っていた事は確かだ。
張飛は戦術や政治力も持ってたな。
武門の出で叩き上げながら、
劉禅に娘出して外戚に収まる辺りなかなかのやり手。
>>376 >政治力
張飛に政治力が無いとは言わん。
宜都太守・巴西太守を歴任し、最終的には司隷校尉に至ってるから、
行政能力は少なくとも趙雲よりはあるんだろう。
>軍才
張コウは名将だが、張飛に敗れた当時は漢中方面軍司令官の夏侯淵配下の別軍の将に過ぎん。
張飛の作戦能力は別軍の将としては一流だが、その上に立つ方面軍司令官としては、
魏延の方がより適任だと劉備は評価したんじゃないか?
>>374 俺も趙雲の戦略思想は平凡だと思う。
夷陵の戦い前の劉備への諫言を読んでそう思った。
あれは総司令官の視点よりも、前線指揮官の視点を重視してるように感じた。
>376
だから、その「出来る」って断定が乱暴だっての。
対極的な軍略を見せた事が無い人物を指して
その能力が必要な地位を勤める事が出来るだろうという予想をしだしたらキリが無い。
>379
ドウーイ。
あそこで荊州を奪回しとかないと、国家的な軍略としては進退極まる所だからな。
正論ではあるけど、戦略としてみると手詰まりになる方策だと思う。
趙雲は職業軍人で常に最前線って感じ。
ところで趙雲が中護軍に就いた時の中領軍って誰?
>>380 あの当時の督漢中にどの程度の能力が必要だったのかなんて、判断するのは難しいぞ。
どうも、現代的な思考法をしていて困る。
あの当時は能力のみならず閲歴・格・名声・政治的立場なども役職の如何に影響したわけだからな。
それらを総合的に考えた場合、趙雲が督漢中に就任する事もありえないことではないと言ってるのだ。
(これも魏延のそれと同程度の大抜擢だろうが)
一応、能力的な面から見ても、第一次北伐の手腕から考えて
一部隊の侵攻に対しては、十分漢中守備を果たせるだけの能力はあるだろう。
ただ魏軍の総力を挙げての侵攻に対して、王平ほどの冴えを見せられるかは確かに疑問だ。
>384
魏延でもなれたから、趙雲でも…というのは、
「出自による後ろ楯が無い、叩き上げの人間でも着任出来た」
という理由によるものだろうけど
そ理由だけをもって、「○○でも勤まったはず」と語る事に意味は無いよ。
>>386 意味が無いってのは?
それに議論のネタは
趙雲に漢中都督レベルの格があるかないか、だと思ったけど?
>384
閲歴・格・名声・政治的立場などの役職が同等だとしたら
その上で選ばれた魏延は能力をかわれていたと見るのが妥当じゃないか?
「趙雲は漢中都督になるだけの、立場的条件を揃えていたが
漢中都督には着任出来無かった。」
この前提から導き出される答えは、
少々乱暴な言い方になるが、
「当時の趙雲の能力評価は低かった」
(少なくとも漢中都督となれる程の能力は認められていない)
という事になる。
>387
> 趙雲に漢中都督レベルの格があるかないか
そういう主題での議論だったのか。
だとしたら、趙雲もあるし、張飛もあるし、馬超もある。
能力や状況を抜きにした抜擢の可能性なら、
益州軍閥の人間以外の重臣なら、誰にでもあったんじゃないか?
>>389 馬超は政治立場的に難しいだろう。
少なくとも諸葛亮には心底からは信用されてないし。
>390
だから「格」だけで可能性を考えた場合だべ。
馬超を漢中都督にしたら、そこで独立されかねん。
恐くて出来たもんじゃない。
ただ、単純に「格」としては有り得る地位だと。
「格」とはまたあやふやな言い方だが、将軍号で言えば趙雲のほうがわずかに上。
劉備が蜀を平定したとき魏延は牙門将軍に昇進してるが、趙雲は牙門将軍から翊軍将軍に昇進してるからね。
ただ魏はあくまで抜擢であり「格」が十分だったとはいえず、それより少し上の趙雲でも「格」が十分だったとは思えない。
「格」でいうなら張飛並みでないときついんじゃないか?
>392
全文マルっと同意。
単純に「格」(地位の高さ)で言ったら張飛か馬超あたりだろうな
>392
魏延の抜擢を根拠とした上での「格」らしいよ('A`)
魏延の抜擢は「格」に拠るものではなく、能力や状況だから
「閲歴・格・名声・政治的立場なども役職の如何に影響した」として
「趙雲でもなれる」って話をする事自体が荒唐無稽じゃなかろうかー。
本来、漢中の都督となるための敷居は>392の言う通り
もっとずっと高い所にある。
軍事畑に限定した上で「格」で相応しい人材というなら馬超か黄忠くらいじゃないか?
黄忠を後将軍にするだけでなく漢中都督にまでした日にゃ
髭が憤死するな
趙雲はそんな大層な役割よりも、
細かくどさ回りしてたり
現場で堅実に実務をやってるのに向いてたんだろ。
どう考えても都市を治めたり
一軍を統率するような仕事には向いてなさそうに思える。
趙雲は大将というより部将。
任務遂行能力は折り紙付きのな。
格とか比べても畑違いだと思う。
>>348,
>>357 おいおい、じゃあ正史(三国志のことだけじゃなく全ての正史)に書かれている人は、
全員がその官職やその正史評価にふさわしい事跡が全て書かれているとでもいうのか?
正史列伝(三国志のことだけじゃない)を、現代人が読むノンフィクション偉人伝
じゃないんだぞ。
それに「喩えが実際の実績で考えても正当であるかはまた別問題」って、おまえ
「正史」の価値分かってないだろ。
今のように書物が氾濫している時代じゃないし国の定めた書である以上、同時代、
そしてそれ以降の人間のありとあらゆるチェックの目にさらされ批評され、
内容が正しくない場合には、2ちゃんで「プ、バカじゃねーの」と書かれるぐらいじゃ
すまない批判を浴びて、自分の名前が生前そして死後もずっと泥にまみれることに
なるんだぞ。
>>398 何を興奮してるんかわからんが、実際に陳寿は裴松之に批判されてるのだが?
今更2ちゃんねらごときが
新たな発見や解釈が出来るような物じゃないことは確かだな。
まあ読み手次第ってとこもあるだろうけど。
何だコイツ…
急に凄いのが降臨したな。
流石にもう話すのも面倒になってきた…
とりあえず次いこう、次。
それともまだ趙雲いっとく?
404 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 08:04:15
>>362、
>>365 >方面総監や陸幕長といったレベルの役割を果たした事はないんだよな。
趙雲が歴任した征南将軍も鎮東将軍は方面軍指揮官ですよ。
趙雲は、放浪期の劉備軍のときから、つねに劉備に近い位置をずっと守備し続けた
人物であり、建興元年に与えられた中護軍の職からもわかるとおり、劉備の東征の
直後も劉備の護衛を務めつつ、対呉・対魏(上庸・新城)方面軍の総指揮官
であり、成都の最終防衛ラインとして主に江州に位置しました。
だから、方面総監を果たしたことがないというのは間違っています。
ただ、本来が劉備の中軍指揮官であるため、「方面」指揮官とはまた別の役割を
になっており、たまたま劉備の晩年が「東南部に偏った」状況だったので、それに
合わせて東南部も担当したわけです。
関張馬黄趙全員健在の頃は、
前線が北西部(漢中):魏延など、東南部(荊州):関羽など、
第2線(巴西〜江州〜巴東)):張飛など
中軍・遊軍など:馬超、黄忠、趙雲など
という成都を中心にした同心円状の構成であり、劉備東征直後は
前線が北西部(漢中):魏延など、東南部(巴東):李厳など
第2線(巴西〜江州〜巴東):趙雲、陳到など
中軍・遊軍など:etc
また、もし東征に反対していなければ、劉備の「親征」であることから間違いなく
それに趙雲も随行することになっていたでしょう。
先鋒:張飛、中軍:趙雲、江北別働部隊:黄権、後衛:李厳というのが、
当時の官職・配置状況からみて本来あったであろう部隊編成なんでしょうね。
廖立は劉備に気に入られ長沙太守や巴郡太守を歴任、諸葛亮にもホウ統と並ぶ良才と評された人物。
後主が即位した時には侍中より長水校尉に任じられた。
このことは本人的には不満だったようだがそれでも高位にあると諸葛亮に批判されてる。
これを考えると同じ時期に近衛では序列的に上である中護軍に任じられた趙雲はやはり高い評価を受けてるといえるのではないか?
406 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 08:11:23
>>399 だからそれぐらい厳しいので、逆に趙雲の列伝の立て方や記述に裴松之に
批判されてないことからみても
「趙雲に対する高い評価(関張馬と同列にならぶのにふさわしい人物、
役割的には灌嬰・夏侯嬰=中軍指揮官・護衛・遊軍)は正しい。
>>348,
>>357の主張はおかしい」
と
>>398はいっているのだと思います
>>404 ちょっとまて。なんか勘違いしてるぞ。
趙雲が中護軍に任じられた建興元年は後主の即位した年だ。
劉備在世中は翊軍将軍でしかない。
あと江州の件は別伝の記述だが、当時は費観が巴郡太守・江州都督として任じられていた。
それを単なる翊軍将軍にすぎない趙雲が彼らを統率していたとは考えづらい。
>>407 書きわすれ。
当時というのは夷陵の戦役当時ね。
中護軍の時代のことじゃないです。
あと劉備の後詰めとして江州まで来てたというのはあったかもしれないが、
巴一体を統括していたという可能性は低い。
また趙雲は中護軍・征南将軍・永昌亭侯にもなったが、だからといって南蛮方面を担当したかというとそれもない。
南蛮方面はライ降都督の李恢が軍事関係を統括していたから。
結論としては趙雲が実際に方面軍(あるいはそれに類したもの)を統括していた可能性はほとんどない。
あと馬超は劉備に臣従した後は、いつまでか定かではないが、臨沮(襄陽郡の南部にある益州からの出口に当たる地域)を治めていたという記述があるので遊軍ではなかったと思うよ。
>>404 基本的に都督号を帯びてない将軍は、
四征・四鎮将軍だろうが、方面司令官じゃないんだけどなあ…。
もっかい史書を読み直してくれ。
410 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 09:08:54
>>407-408 いや勘違いしてないよ。
趙雲が中護軍になったのは建興元年って、私も書いてますけど?
(ちなみに建興元年は5月からであり、4月までは章武三年、つまり劉備の晩年です)
突然に中護軍になったわけでなくそれまでずっと中軍で劉備に近い位置におり、
そういった役割を果たしてきたからこそ中護軍という職を改めて与えられている
わけでしょ。
それに江州の件は、劉備の晩年が「東南部に偏った」からと書いてます。
別に東部全部を指揮していたわけじゃなく、同時期(劉備晩年、劉禅即位直後〜)に
東部方面には李厳(中都護・仮節・光禄勲)、陳到(護軍・永安都督・征西将軍)、
費観(巴郡太守・江州都督・振威将軍)、趙雲(中護軍・征南将軍)がひしめいており、
これは、劉備が永安にとどまったため、東征の本来の後衛・敗残部隊・劉備の中軍/親衛隊
江州常駐軍などが混在したいびつな状態になっているからです。
その後、227年以前に鎮東将軍になっていることから(費観の死もこの時期と推測されて
います)、東部方面の軍権を統括する立場にのぼったのは間違いありません。
そして、曹真との戦いがはじまると趙雲は前線、李厳は漢中へ出動しており、また呉との
和睦も終わっているため、李豊が江州都督になっています。
李豊が都督になっていることからみて、陳到もこの時期に没したのでしょう。
>>410 華陽国志には、劉備が永安に入って以来、左将軍楊畿が永安の守りにあたったと書いてあるのだが、
それは無視ですか?
おお まだ このスレあったのか 【感動】
>>410 中央軍の遠征に従っていただけで地方の軍政に関与してたわけではありません。
その権能もありません。
また劉備没後に趙雲が巴地方を含めて地方を統治していたという形跡もまったくありません。
東部方面は趙雲在世中は中都護の李厳が仕切っていました。
江州督も費観(219-222)→李福(223-226)→李厳(226-230)→李福(230-234)です。
ちょっとズレがあるかもしれませんが、趙雲の入る隙間はありません。
あるとすれば李厳のところですが仮に李厳のところに趙雲をいれてもそれは李厳の監督下にいるに過ぎません。
それに227年には諸葛亮に従って漢中に赴いています。
趙雲が方面司令軍を統括したという可能性はほとんどありません。
それと陳到は永安都督であって江州都督ではありません。
江州は巴郡、永安は巴西軍に属します。
事実関係にだいぶ誤認があると思います。
>>413 訂正。
> 江州督も費観(219-222)→李福(223-226)→李厳(226-230)→李福(230-234)です。
↓
> 江州督も費観(219-222)→李福(223-226)→李厳(226-230)→李豊(230-234?)です。
あと李豊は234年以降も罷免された形跡がないので江州都督についていたかもしれません。
>>414 更に訂正。
ケ芝が諸葛亮没後間もなく江州都督になったらしいですから李豊は235年か236年くらいまでかもしれません。
>>413 また訂正。
永安は巴西郡ではなく巴東郡でした。
たびたびごめん。
417 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/15 10:03:05
>>408 >あと馬超は劉備に臣従した後は、いつまでか定かではないが、臨沮(襄陽郡の南部にある益州からの出口に当たる地域)を治めていたという記述があるので遊軍ではなかったと思うよ。
「中軍・遊軍など」って書いてますよ。
臨沮の件は単なる形だけの領地としてあたえただけで、実際には赴任はしてないでしょう。
関羽の絡みで裴松之が書いている通り、馬超と関羽は接触がなく、そんな近くに
同時期にいたのなら挨拶なしってもの考えにくいです。
馬超は、味方でありながら劉備政権から警戒される立場にあったので、本来の「得意分野」
である北西に常駐はありえないでしょうし、彭ヨウが赴任前に挨拶にいっていることからも
基本的に成都詰めなんでしょうね。
>>411 そんな細かいことまで書ききれないですよw
それが正しいなら、李厳・陳到たちといっしょに永安に常駐してたんでしょうね。
劉璋配下の名将として知られた楊懐、張魯配下の漢中の武将楊任・楊帛(白)・楊昂、
楊洪・楊儀・楊顒・楊戯と、益州には楊氏が多いですね。
>>413 > 江州督も費観(219-222)→李福(223-226)→李厳(226-230)→李豊(230-234?)です。
李厳が事実上の東部方面の最高指揮官であったのは間違いないですが、
223年に中都護になって以来、仮節・光禄勲、驃騎将軍などを歴任しましたが
肩書きのうえで江州督になったことってありましたっけ?
>それと陳到は永安都督であって江州都督ではありません。
陳到が江州都督なんてどっか書きましたっけ?
>>417 > 陳到が江州都督なんてどっか書きましたっけ?
410の最後の2行
> 和睦も終わっているため、李豊が江州都督になっています。
> 李豊が都督になっていることからみて、陳到もこの時期に没したのでしょう。
李豊が江州都督になったことと陳到の永安都督は別の話なのに関連付けてるからごっちゃに考えてるのかと思っただけ。
> 李厳が事実上の東部方面の最高指揮官であったのは間違いないですが、
> 223年に中都護になって以来、仮節・光禄勲、驃騎将軍などを歴任しましたが
> 肩書きのうえで江州督になったことってありましたっけ?
肩書きの上ではなってないけど226年に永安から江州に陣営を下げており、
230年に李厳が永安から漢中へと移動させられた時に江州都督に李豊が任じられているので
その期間江州の督も兼ねていたかと推測しました。
ですがあくまで推測ですので413においてこの期間に趙雲が任じられた可能性は、少ないですが、あるかもと書きました。
>>417 > 関羽の絡みで裴松之が書いている通り、馬超と関羽は接触がなく、そんな近くに
> 同時期にいたのなら挨拶なしってもの考えにくいです。
手紙の件は蜀が劉備により平定されてまもなくのことであり、その時期に新参者の馬超のことについて関羽が手紙でたずねてもおかしいとは思えません。
仮にすでに馬超が臨沮に赴任してきてたとしてもさほど時間の経ってない時期ですからありえないというほどのことでもありません。
また、裴松之が批判したのは「山陽公載記」の馬超が劉備に臣従した時、関羽と張飛がその傍に侍していたという記事に対してであります。
馬超が臨沮に赴任した(=その後関羽と面識があったかもしれない)ということを否定するものではありません。
どうも江州都督経験者について誤解があるようだな。
まず費観は年代は不詳だが、劉備時代に江州都督となり建興元年以降に死んでる。
おそらく李厳がその後任(華陽国志には建興四年に「督江州」とある)。
李豊は江州都督ではなく江州都督督軍。これは李厳が漢中に移動した後の留守居役で
李厳が罷免されると同時に従事中郎に移されている。(華陽国志に記述)
李厳の後任が李福で(華陽国志に記述)建興十二年前まで務めたと思われる。
つまり
> 江州督も費観(219-222)→李福(223-226)→李厳(226-230)→李豊(230-234?)です。
の典拠と思われる『諸葛亮孔明』(渡邉義浩)の巻末にある「蜀漢政権枢要官の人的構成」の「江州都督」の項には誤りがあるということ。
>>420 誤解じゃなくて諸説だろ。
李厳については
華陽国志
建興元(223):中護軍・仮節・光禄勲
建興四(226):永安都護・督江州
建興八(230):中都護・江州都護・驃騎将軍(李豊を江州キ督)
華陽国志
章武三(223):中都護
建興元(223):中都護・都郷侯・仮節・光禄勲
建興四(226):中都護・前将軍
建興八(230):中都護・驃騎将軍(李豊を江州キ督督軍)
>>417と
>>418は主に正史に従って会話していると思われ、君は華陽国志をメインに話をしている。
でも華陽国志をメインにしておきながら、
>李豊は江州都督ではなく江州都督督軍
などと突然正史ベースに話が変わっていて、混乱しているのは君のほうだと思われ。
華陽国志は「八年・・・(中略)・・・亮乃加厳中キ護。以厳子豐為江州キ督」
と李豊を「江州都督」にしており、「江州都督督軍」としているのは正史。
訂正
>李厳については
> 華陽国志
> 建興元(223):中護軍・仮節・光禄勲
> 建興四(226):永安都護・督江州
> 建興八(230):中都護・江州都護・驃騎将軍(李豊を江州キ督)
> 正史(←★華陽国志★)
> 章武三(223):中都護
> 建興元(223):中都護・都郷侯・仮節・光禄勲
> 建興四(226):中都護・前将軍
> 建興八(230):中都護・驃騎将軍(李豊を江州キ督督軍)
>>420 たしかに李豊は江州都督督軍でしたね。
また注に引かれた諸葛亮の言に「解任されたとはいえ今は中郎参軍の官にあって軍府にいる」とありますから
李厳の罷免と同時に李豊も江州都督督軍も解任されてたみたいですね。
見落としてました。
あと李福は李厳の後任でしたか。
武功で危篤におちいった諸葛亮を見舞いに行ったときには既に入朝してたのだろうと推測したので
江州都督はもっと前、当てはまるのは費観と李厳の間の時期かと思ったのですが違ったようですね。
三国志だけでは限界があるなあ。
> 江州督も費観(219-222)→李福(223-226)→李厳(226-230)→李豊(230-234?)です。
これは三国志からの帰納であって『諸葛亮孔明』(渡邉義浩)とやらを典拠としたわけではないです。
未読ですから。
少ない情報から何とか綺麗に片付けようとした場合に陥り易いパターンなのでしょうね。反省。
まあいずれにしろ趙雲が江州都督となった可能性は低いと思いますがどうでしょう?
>>421 古代のように史料の少ない時代を考察するには、史料を総合的複合的に検討しなければならない。
だからAの史料を用いて、Bの史料を全く用いないと言う手法では、得られるものは少ない。
ある部分は正史を用い、ある部分は華陽国志のような地方史を、
両者がバッティングする時は、史料の来歴、前後の状況などから、総合的に選択・構成
というように検討する姿勢が必要だ。
その結果として、あのような解釈になった。
>>423 > これは三国志からの帰納であって『諸葛亮孔明』(渡邉義浩)とやらを典拠としたわけではないです。
> 未読ですから。
ありゃ、それは失礼。
> 少ない情報から何とか綺麗に片付けようとした場合に陥り易いパターンなのでしょうね。反省。
確かに正史だけでは色々と限界があります。
蜀に関しては幸いに『華陽国志』が現存していますので、入手されてはいかがでしょうか。
(版本の関係等、色々と検討が必要な部分も多いですが)
> まあいずれにしろ趙雲が江州都督となった可能性は低いと思いますがどうでしょう?
私もそう思います。
>>424 10年前に知り合いの中国の大学生のところへ遊びに言ったとき、その大学で出している論文集を見せてもらったが
>>410が書いているように、当時は劉備の呉討伐軍の名残と地方常駐軍と皇帝劉備と副王都・永安の護衛守備隊が
混在した混乱期にあり、その後整理されて諸葛亮の南伐・北伐という流れの中で
趙雲が
・形の上では李厳の下だが、最古参でもあり実力もあるので、事実上の東部方面軍の先任将軍として
そのほかの諸将の取りまとめを行っている
・呉討伐軍の解体と蜀東部方面軍への再編成・軍事訓練の総括
・北伐時は前線に出るため、指揮権を李厳へ返却
李厳が
軍事:名目的には東部方面の最高指揮官だが、主に兵站と軍政面担当(物資の集積、流通路の確保、拠点の整備など)
趙雲が北伐に出た後は名実ともに蜀の防御・後衛軍の指揮官
政治:副丞相的な役回り(諸葛亮の補佐、留守の丞相代行、対呉外交の地ならしなど)
というそれぞれの役割を果たしているという研究論文を教えてもらったことがあるよ。
李厳が永安or江州にあって政治と兵站や軍政を司り、趙雲を最上位とする将軍・校尉ら職業軍人が半自律的に軍を動かし、
呉討伐軍の解体 → 蜀東部方面軍への再編成・駐屯 → 南伐・北伐兵の選抜と派遣、場合によっては自らが指揮
という組織構造だったとのこと。
まあ、たしかに李厳に政治も軍事も全部やれというのは大変すぎる。
そういう意味では、正規に趙雲は方面軍司令官には着任していないというのは正しいが
鎮東将軍、そして最古参の武将として諸将のとりまとめをしていたという意味では
方面軍司令官とも言えなくもない、という感じだろうか。
>>425 別に煽るわけじゃないが。
中国の大学生って?
中国の大学に通ってた中国人?
中国の大学に留学してた日本人?
それとも論文集を見たと言ってるところをみると日本の大学っぽいから、
日本の大学に通ってる中国人留学生?
なんかそもそもの議論がおかしいぞ、ここの人たち。
>>357以降、「趙雲は都督じゃないから政治力や行政・外交能力がない、
指揮能力がない、中堅にすぎない」的な馬鹿げた議論を延々やってる。
それなら魏の張遼・楽進・于禁・張郃・徐晃たちで「督」になれたのは、
張郃が臨時任官しただけだが、「これらの武将たちが都督青州諸軍事となった
臧霸よりも下」と言うのだろうか?
蜀で諡号を贈られた武将としては、関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲・夏侯覇
(文官で諸葛亮、蔣琬、費禕、法正、龐統、陳祗)だけという事実、
正史において上将として列伝を関羽・張飛・馬超らとともに立てられた事実
だけでも、趙雲が(演義の内容は別として)非凡ですぐれた能力の持ち主
であったこを証明するのに十分なはずなのに、
「督xxじゃないから大したことない」なんて木を見て森をみない人多すぎ。
>>428 「督でないから大したことない」
「諡号を贈られたから優れている」
この両者の論法は同じなんだが…
如何なる論法を用いようと、当人の勝手だが…
ダブルスタンダードは(・A ・) イクナイ!
>>428 都督云々は、趙雲に諸将を統括する司令官的な能力があったかどうかの議論で出てきたんだろ。
非凡で優れた能力の持ち主だって事は大体の奴が同意してる。
関羽・張飛・馬超と共に伝が立てられている=司令官としての能力あり
なんて考えるとしたら、それこそ早計過ぎると思うがな。
>>429 ダブルスタンダードじゃないと思われ。
諡号は基本的に優れた人物にしか贈られない(皇帝の寵愛の深い人物という特例もたまにはあるが)。
それに対し、都督は
>>428があげるように張遼たちの例もあるし、中央常備軍に指揮官は都督になる
機会が少ない(趙雲は基本的に蜀中央軍の指揮官の一人)といったTPOによって
優れていても都督になれない例はいくらでも存在する。
評価基準として同列に語れるものではないでしょ。
>>430 司令官的な能力って何?
そんなこといえば、関羽・張飛・馬超はみんなその能力の欠如ゆえに失敗したから、
蜀の5大将はみんな司令官向きじゃないなw
魏延は督漢中だがしょせん守備隊長であって、その配下も上級将軍は全くいないし
叛乱は失敗したし、誰も味方してくれなかったし、やはり司令官能力無しw
そして魏の5大将も正式な「督」じゃないから司令官むきじゃないなw
それがこのスレの結論。
なんか1年に5回は、正史厨が演義厨に自分の正史通ぶりを誇示せんがためか「趙雲は大したことない」と
こき下ろす議論を三戦板でやってる気がする。
そろそろ飽きたし、次のやついこうぜ。
ちょうど話題に出ていたということで李厳あたりで。
>>432 俺だって蜀の五大将が司令官向きだなんて思ってない。
それに、今の趙雲の議論にだって俺は参加してない。
司令官と言う言葉を使った俺も悪かったかもしれんが、この議論を見る限り、
趙雲に1軍の指揮官としてだけでなく、諸将の上に立ち、統括する能力があったのかを議論してたように見えた。
その上で
>>428のレスがあったから、伝の立て方で判断するのは早計だと言ったまで。
>>428 おかしいのはあんた。
別に趙雲は大したことないなんていってる人はいないよ。
ただ単に司令官的立場に立ったことないからその辺の能力は未知だと言ってるに過ぎない。
「督xxじゃないから大したことない」と言ってるのではなく、
「そういった立場になったことはないけど優秀だ。きっとうまく出来たに違いない」
と言う人に対してそれは妄想に過ぎないと指摘してるだけ。
>>431 はいはい。偉いね。
>431
>(皇帝の寵愛の深い人物という特例もたまにはあるが)。
趙雲の場合、まさにその要素が多分に入っているケースだと思うが。
>434
その通り。
>432
>魏延は督漢中だがしょせん守備隊長であって、その配下も上級将軍は全くいないし
>叛乱は失敗したし、誰も味方してくれなかったし、やはり司令官能力無しw
君にスレッド7の540氏の討議を読ませてあげたいな。
基本的に魏延は叛乱では無い、さんざん言われてる通り政争に負けただけ。
司令官能力は十二分にあるよ。
とりあえず、安易に他の人物をこき下ろすのを止めれ。
趙雲をどの分野においても優秀だったという風に完璧超人扱いしない人間は正史厨扱いか。
やれやれ。
ところで、「正史厨」って悪口になるのか?
>>439 厨と呼ばれて良い気分になる奴はまずいないだろうから、悪口になるんじゃないかな。
>>439 使い方にもよるが、
> 正史厨が演義厨に自分の正史通ぶりを誇示せんがためか「趙雲は大したことない」と
> こき下ろす議論を三戦板でやってる気がする。
こんなのは悪意があって言ってる以外の何者でもないだろ。
確かに悪口として使っているな。
しかし、歴史を語る上では史料(玉石混合あるだろうが)のみを用いる。
小説(演義、講談)は使わない。
というのは誉めるとか貶すとか以前の当然の姿勢なんだがなあ。
正史を読み立ての人間が、演義しか知らない人間に偉そうに振る舞ったり
間違った解釈や、浅い認識をふりかざして議論に突入するのが正史厨だろ。
すなわち、慎重に吟味せずに魏延を貶してしまうような
>432自身のような人物こそ正史厨ってこった。
厨の定義はまぁいいとして。
趙雲を中堅と称するのに語弊があるなら
なんて言えばいいんだろう。
なんか上手い言葉みつからないのでスッキリしない。
現場監督?前線指揮官?
趙雲は「職人」とか?
>>444 「名指揮官」「前線の良将」「前線指揮の鬼」
・・・いまいち良いフレーズが出てこねえなあw
「槍一筋」
「前線の良将」って所じゃないかな。
陳到将軍よりも偉い人
なんか、なんでもアリになってきてるな。
「武人」ってのに妙に納得。
政治とか戦略とかよりも、
今目の前にある問題と、自分の良心や信念を最優先する傾向が見えるし。
そこが趙雲の美点であり、逆に督xxの地位につけなかった理由でもある気がする。
(なんて言ったらまた荒れるかな…不用意な発言だったら申し訳無い。)
許猪が都督にならなかったのと同じと思えば…
>>444=
>>453 武官の多くが「武人」と呼んでおかしくないでしょ
そもそも、なんで無理やり呼び方を考えなきゃいけないの?
>455
中堅という呼称に対する異義があった事と、
ここまでの話題の経緯を踏まえた上で、なんて表現が適切なのかって
雑談してた事にそこまで噛み付くなよ。
蛇足ながら噛み付き返すが
まず「武官」って表現自体適切じゃないし、
一般的に「武官」と呼ばれる軍事を主体に統括する人物でも
政治や外交に秀でている人物や、戦略に秀でている人物、
局地的戦術が得意な人物と千差万別。
例えば馬超なんかは異民族や軍閥をまとめあげる、政治外交の手腕に秀でた人物だし
魏延は諸葛亮の持久戦否定論に応じて独自の戦略プランを提示出来る人物だったりもする。
(立場的には軍師にあたる)
そうやって、人物の系統を考えた上で、呼称を考えるのも面白い話題だと思うんだが
何がそこまで不愉快なんだ?
>>453 武人っていうと意味が広すぎるから武士じゃないか?
>>456 >例えば馬超なんかは異民族や軍閥をまとめあげる、政治外交の手腕に秀でた人物だし
「馬超が政治外交手腕がすぐれている」なんて初耳。
馬騰の影響力・名声と韓遂の力の元で活動していただけで、馬超の政治外交手腕を裏付ける記述は正史にはないと
思うが(むしろそれを否定する記述はあるけどね)。
あの程度の記述で「政治手腕に秀でた人物」になれるのなら、いまホットな話題wの趙雲の場合、註を除いた
正史の記述ベースでいくと
(1)のちに征南将軍に任官する根拠となった益州攻略時の洛水ルートを使った荊州水軍を率いた別働隊の指揮
(2)第1次北伐時の別働隊を率いて、曹真の大軍に対して斜谷道でけん制活動
から、「一軍を率いて単独行動をとることに優れたエキスパート」になってしまうぞ。
>458
長安占拠-潼関の大戦までは、「馬騰の影響力・名声と韓遂の力の元」とも言えようが
潼関敗走後にも単独で異民族の元に潜伏し、
その後異民族を統率し、隴上の郡県までをも呼応させたのは、
馬超の政治、外交能力に他ならない。
ついでに言うと、従兄弟である馬岱が羌族対策で重用されなかった点や
魏の馬遵(馬援の子孫)が羌族との外交で特筆すべき成果を挙げてない点から、
馬超の異民族とのパイプは、馬騰の影響力や名門馬援の末裔という事とは無関係な
馬超個人のコネクションであるという事がわかる。
で、今ホットな趙雲については正史の記述ベースでいう(1)、(2)共に異論は無いよ
別働隊指揮や、一軍を率いて単独行動をとることについては
実に優れたエキスパートだと思う。
>>456 こっちは趙雲を「武官」と表現すべきだなんていってないわけだし、「武人」も
いろんなタイプがありすぎてひとつじゃない。
そもそも馬超や魏延の例を挙げているが、彼らは「武官」の中には入るが
「武人」の中に入らないとでもいうのか?
それにケンカ腰なのはそっちだろ。
「どう呼ぶべきかなどと言いながら『武人』なんて曖昧な呼び方で無理やり
趙雲を総括する必要はないでしょ?」とちょっと質問してみただけなのに、
なんでいちいちつっかかって来るんだ?
一言であらわしたければ、諡号の「順平侯」でいいだろ。
>485
何をもって
「馬超の政治外交手腕を否定する記述がある」としてるか不明だ。
俺が読む限り、そう受け取れる記述は無いんだけどなぁ。
(1)(2)には俺も異論無し。
ていうか、ここ数日の一連の趙雲を語ってる人間で
そこを否定する奴は少ないと思うんだけど。(別伝自体の是非は別だが)
>>460 >「どう呼ぶべきかなどと言いながら『武人』なんて曖昧な呼び方で無理やり
>趙雲を総括する必要はないでしょ?」
そう言いたかったなら455は言葉足らず過ぎるだろ。
>460
俺のレスは
>「なんで無理やり呼び方を考えなきゃいけないの?」
に対しての回答のつもりであって、
>「どう呼ぶべきかなどと言いながら『武人』なんて曖昧な呼び方で
>無理やり趙雲を総括する必要はないでしょ?」
なんていう書かれても無い質問への答えじゃない。
話をすり替えないでくれ。
「武人」て呼称自体に賛同した覚えは無いから
その角度から否定されても困る。
単語自体の意味としては「武人=軍人」だから
もちろん「武人」て言葉自体には馬超も魏延も入るわな。
(-_-)童貞キモオタ同士なんだから仲良くやれや
>>465 ネタと思うが、一応返しとくと俺は妻・子(嫁の腹の中でまだ生まれてないけど)持ちw
じゃあ、訂正w
童貞も非童貞も同じキモオタなんだから仲良くやれや
同じ三国志オタなのに、匿名掲示板だと心理的にどうしても書き込みが
攻撃的になるんだよなあ
もっと気楽に行こうぜ
>464
脳内のイコールと、脳内の質問には、さすがに対応しかねるよ。
俺のレスを喧嘩腰と言う前に、自分の言葉足らずを見直してくれ。
>455のレスも俺には、話題を強制終了させたいケンカ腰のレスに見えたぞ。
全ての火種は趙雲別伝→羅漢中の流れの中から…
470 :
455:05/01/15 23:03:50
しつこいなあ
>455のレスも俺には、話題を強制終了させたいケンカ腰のレスに見えたぞ。
まさにそれこそ、おまえの脳内の問題だろ
お前もな。
あーあー。なんじゃこりゃ('A`)
とりあえず、趙雲の話は433や434あたりで終結かね。
馬超の話題ってランキングの時も除外されてたし、興味あるんだけど
蜀将としての話題にならないからスレ違いかな?
横やりだが「バラバラの軍閥を一つにまとめ上げた」
これだけでも政治力とか外交力、まあ武人としての影響力全てを含めて
ある程度の能力を持っていたと判断できると思う。
武名だけではこれは出来ないよ。
馬超は活躍期間が短いし、西涼では失敗し五斗米にも拒否され行き場がなくて
私兵も一族もほとんど失って蜀を頼ってきたし、
劉備政権側もその名声を利用しただけで客将として待遇しているようで、
蜀将としては評価しにくいよね。
まあ馬超の名声が成都陥落を早めた功績はあるけど。
・張魯客将時代に「二人で祝うことができようか」と胸を叩き血を吐かんばかりに悲嘆にくれた
・西涼での敗北のため一族を誅滅され、さらに蜀に移籍後、曹操の命で張魯に子の馬秋を殺され、妻を閻圃に奪われた
・彭ヨウ伝での「流浪の末帰順したので自分の身について危惧の念をもっていた」という描写
・47歳と若いとは言わないまでも、老年に達する前に死亡
・死に際に言い残した言葉が「一族が全滅したので、生き残りの馬岱さえなんとかしてくれれば言い残すことはない」
から感じられる馬超の後半の人生って、セリフに悲惨な話が多く、蜀政権に「裏切るのではないか」と思われているんじゃないかとびくびくして精彩に欠け、
どちらかといえば哀れな感じがするよね。
ちなみに馬超は母親かなんかを韓遂に殺害されており
いわば仇敵の間柄。
しかし対曹操のために馬超から歩み寄り仇敵とも手を結んだ。
この我慢はそこいらの人物には出来ないことだと思う。
かといって馬超を手放しにはたたえられないけどね。
たしかに彼は悲劇の将としか言いようのない人生を送っているw
家族を省みみず曹操に喧嘩売りつづけた男か
劉ショウが降伏したのってとばっちりが恐k(ry
>475
ビクビクしているっていうより、涼州にいた頃から、
曹操が送った官位を拒否したり、
離間の計で韓遂と離別したりと、
何かと疑い深い気質が見えかくれしている感があるぽ。
蜀将としては、活躍の舞台が整う前に死去っていうのが勿体無い限りだ。
>>477 家族や一族を慮って、領地領民を放棄するわけにはいかないだろ。
反曹の戦いは、一応あの辺りの人間+異民族の支持を得ていたわけだし。
>>479 反曹というより、あの辺の連中は漢の時代からしょっちゅう叛乱を起こしているので
中央集権主義があわない、独立して部族ごとに自分の縄張りを納める地方分権派といえる。
しょせん馬超は「お山の大将」タイプで、どっかの政府に仕えるって感じじゃないがゆえに
兵力・一族を失って一介の素浪人になってしまうとダメダメな人なんだろうね。
張魯や劉備の政権の中でも窮屈でしょうがなかったに違いない。
>>479 省みてないよ。都にいた親爺とか弟とか無視して挙兵してるのだから。
おかげで一族は捕らえられ、敗戦後に処刑された。
まあ「人の下につけない」
「権威に敵対心を持つ」
まさにアウトローの典型だわな。
多少能力があるが故に逆に幸せな人生は無理ぽ。
>>482 その台詞、正鵠だとおもうが、
ほぼ劉備に当てはまるんだよなw
>>483 「権威に敵対心を持つ」は違うだろー
建前だったにせよ、漢をマンセーし続けた皇叔なんだから
>480
反曹ではなく、反中央政権なんだよな。
基本的に関西や江南などの地方の人間は、中央からは格下とみられているし
(その油断から董卓の対等も早急に防げ無かった)
少数民族を内包している地域になると、文化や政治理念も違ってくるから
関西で独立したいってのが馬超(+西涼軍閥とその地域の住民)の本音だろうな。
それを「お山の大将」と考えるか、
「文化圏の異なる民族の独立運動の先導者」と取るかで、
馬超の認識はかなり違ってくるだろうね。
>481
だから、曹操が関西に向けての兵を出しているのに、
一族を省みて反曹の戦を取り止めて、領地や領民放棄するわけにはいかないだろ。
一個人の心情で、あっさり曹操に降るような政治力ゼロの人間では無かったって事だよ。
>>484 あからさまに漢マンセーを唱えたのは荊州以降。諸葛亮なんぞは「曹操と対抗する
ために、漢朝復興を旗印にすべし」なんていっている。はっきり言って、反曹操の
ための看板にすぎない。
だいたい本気で漢朝復興を目指していたのなら、遺言で「お前が変わりに皇帝になれ」
なんて言うわけがない。(中国における王朝とは皇帝の姓による。体制が全く変化なく
とも、皇帝が劉姓から諸葛姓に変わればそれは別王朝。)
487 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/16 00:48:00
>>486 車冑をぶっ殺したときから、漢マンセーとなえてますが・・・
>482
>「人の下につけない」
>「権威に敵対心を持つ」
なんていうのは、漫画や小説などでの誇張した設定みたいなもんで
正史中の馬超の記述自体からは、読み取れないよ。
>>485 涼州が内包していた「羌族」なんかは、
前漢の時代より、弾圧&迫害されていたわけで、
「文化圏の異なる民族の独立運動の先導者」ではあると思う。
そして、言い方は悪いけど、
馬超の性質を一言で言うなら「カリスマテロリスト」なんだよな。
馬超が好きな奴ってのは(俺もそうw)
巨大な相手をものともせずにぶち当たってく姿になんかこう
現実離れしてるけどなんか現代にも当てはまりそうな共感を覚えるんだよな
それがある程度いい線いくので期待させる。
でも頭の中では敗北するのわかっているという・・
本人は破滅思考ではなかったのかもしれないがその性質からして完全に破滅型w
三国志の人物の中でもとりわけその行動が反曹に一貫しているので
とてもドラマティック。しかも錦でかっこいいしw
彼が主人公のアンハッピーエンドの映画を是非見てみたいですw
馬超は呂布と似てるな。
>>488 正史から読み取れないというのは短絡的すぎ
なにも正史に「彼は人の下につくのが嫌いでした」
なんて書いてなくてもその行動を追っていくことで
その性質を見極めるのが歴史を紐解くって事でしょ。
カリスマテロリストという表現は言い得て妙ではあるが
歴史というのは勝てば官軍負ければ賊軍なわけで
テロリストも時代が変われば民族解放の英雄なわけだし
>489
そういう語りは馬超スレでどうぞー。
というか、是非行ってやってくれ。頼む。
後半生が無残で泣ける >馬超
がむしゃらにひたすらに戦い続けて、気がついてみたら
自分のせいで一族もほぼ全滅。
さすがに堪えたんだろうな・・・
47歳で死んだのもすでに生命エネルギーを完全燃焼させた
せいかもしれん。蜀将としての彼はほとんど抜け殻状態
だったんじゃないだろうか。
>>485 中国、特に儒教の影響の強い後漢という社会で、一族とりわけ父親を省みないという
のは明らかにマイナス、誉められる事ではないのだが。
だからこそ演義では、挙兵と父の処刑の時系列を入れ替えることによって馬超の行動
を正当化させ、正義の劉備陣営に参加する資格を与えた(でないと、劉備は不孝者を
受け入れたヤツということになってしまう)。
そこか演義のうまさなわけだ。
しかし、正史のビターさが年を取ると堪らなく口に合ってくる。
>491
もちろん、事蹟を追って性質を見極める事は重用だと思うけど、
それをしても、「人の下につけない」 「権威に敵対心を持つ」 という気質を
特筆すべき程は読み取れないわけですよ。
冀城を占拠した時に、自称した地位も「征西将軍」と、
漢王朝自体には倣ってるわけだし。
当然、馬超の身分相応な自意識による
「人の下につくのが嫌い」という感覚は持ち合わせているだろうけど
特別アウトローだったという様子は読み取れないなぁ…と。
馬援の子孫という意地があったのかも
って曹操も一応曹参の末裔か
>>494 中央からはなれた涼州地域にまで、
儒教精神が浸透していたとは考え難いから
それでも馬超が支持されていたのは、
地域による倫理観の違いというものじゃないかな。
(西方や北方の少数民族は、子供が家督を受け継いだ瞬間、
親を捨てる権利を持つ風習もある)
その儒教倫理をもって、馬超の挙兵を「否」だと結論づけてしまうなら、
現代人の討議は意味を為さないよね。
>>498 しかし、演義の成立時期は、儒教精神がまかり通るまっただ中だからな。
客の好みに合わせる脚色が行われるのは至極まっとうかと。
>494
多分、ここで議論してる人達は全員
演義が儒教倫理を配慮しての時系列入れ替えなんてのはわかってるよ。
>496
まあ「権威に敵対心をもつ」の権威はややずれてるかもね。
強い者というかなんというか・・
アウトローって言葉にあんまこだわらないでね
彼の行動が主流である者に叛逆しているという
意味でのアウトローという表現だから。なにも無法者といってるわけではないよw
ちなみに馬超の墓なんだけど定軍山でなく成都の近くが本物らしい。
とするとすでに蜀入りした後は完全に引退してたのかもね
もしくは廃人・・
>>499 あ、いや。
演義の脚色は当然だと思うし。
当時の儒教倫理観で「否」とされてしまうのは仕方無いと思ってます。
ただ、現代日本の討議において、儒教という特殊な倫理を引き合いに出して
歴史人物の言動をマイナスとするのは無意味な事じゃないかと思うわけです。
(それだったら、陳寿の評でFAになってしまうし)
この時代儒教的観念は主流ではあるが
乱世でもある時代背景的に全てではないでしょう
むしろ群雄達は儒教をある時は口実に使ったりと巧く利用していたと思う
>>498 一応言っとくと、馬騰は羌族の血を引き、馬騰・馬超に付き従った部族もほとんど羌族。
羌族に親を捨てる風習はないよ。
>>501 馬超は最近の小説や漫画で、過度にアウトロー的DQNとして扱われてるから
神経過敏になりすぎてたかも。
いや、熱くなって申し訳無い…。
成都にある馬超の墓は、たしか蜀軍の療養所だった土地に作られてるらしいね。
成都の墓が本物とされる理由として、
「馬超は病気になってから前線を退いてそこで、療養していた」
って話を聞いた事があるよ。
やはり、蜀将としては量るのが難しいですな。
あはは
羌族に親を捨てる風習はない
そりゃないでしょうw
でも部族間の小競り合いの続く中で
誰それを人質に取られた
それを犠牲にして攻撃したなんてのは日常茶飯事。
儒教の観念の強い中原より目的を達する手段を選ばない気風は
あったと思われる
>>504 了解してます。
羌だけじゃなく、テイにもそんな風習は無いです。
地域や民族によって倫理観は千差万別という一例のつもりで挙げたんだけど、
紛らわしい蛇足でしたね。すんません。
>>506 >>でも部族間の小競り合いの続く中で
>>誰それを人質に取られた
>>それを犠牲にして攻撃したなんてのは日常茶飯事。
結局自分の想像で語るんだな
別にいいけど
>>502 「親不孝」が人物評価でマイナスを受ける時代で、「親不孝」な行動を取る人物が、
「政治的能力が云々」とはとてもいえないと思うのだが。
(人物に対する批判は、そのまま政治的不利益に繋がる。)
曹操の征西を受け入れたら、
涼州の住民は今まで通りに暮らせないだろうし、
異民族に至っては「生産力」扱いが基本だから、
部族は解体されて、戦争のための奴隷か、長安活性化のための奴隷行き。
そんな状況下で、儒教理念と現実的理由による蜂起のどちらを優先させるかといったら
そりゃ後者をとるのが妥当だよな。
馬超も一通りの教養は受けてるはずだから、「親不孝」がどう評価されるかも解るはず。
その上の不可解な行動に正史では疑問符が浮かぶんだよな。
>509
でも、馬超は結局、
「親不孝」という評価による「政治的不利益」は無く、民意を掴んでいる。
当時「不利益」が無い事については、政治力云々を推し量る材料にはならないよ。
>>506 >それを犠牲にして攻撃したなんてのは日常茶飯事
それは別に民族と関係なく行われていることでしょ。
羌族は、一族の結束は固い民族。
狄や匈奴、あるいは同じ西涼の氐と勘違いしてないか?
馬超も、正史および註の言動は一族をうしなったことへの深い嘆きを示している。
よって「親兄弟妻子を省みない民族出身だから」というのではなく、馬超個人の
短絡的で後先を省みず状況をわきまえない性格の問題だろう。
>506
自分の想像じゃないよ
馬超と韓遂の関係から当時の羌の部族間の関係などよく読み取れる。
しかしながら想像なくして歴史は語れないよ。
とこんなこというと2チャンネル定番の切り返しが来そうだなw
むしろ馬超は、挙兵にあたって韓遂を説得する際
「私は親を捨てるから、あなたも子を捨てて下さい」
と決意を見せるための"ウリ"にしている。
「親不孝」というのが、世間(中央)からどう評価されるかは、
当然わかっているだろうから、
この発言には「親不孝という謗りを受け入れてまで、挙兵する自分」を演出して
他の人間を、引くに引けなくさせる意味があると思う。
それを演出というのはあまりに意地悪。。
>>510 でもその蜂起自体が曹操の思惑通りと取れなくもない。
これを期に関中・涼州の反政府勢力の掃討が始まり、
数年後にはすっかり平定されてしまったわけだし。
結局どうしようもなかったのかな。
>513
だからなんで、馬超の嘆きを
「短絡的で後先を省みず状況をわきまえない性格」という一点に
起因させるかなー。
>515でも言われているように。
馬超は挙兵するにあたり親や一族を失う事はすでに念頭にある。
「短絡的で後先を省みず状況をわきまえない性格」と批判するなら
その根拠を提示してくれ
馬超は法家っぽい思想で動いた形跡がちらほら見受けられるよな。
実利に適った考え方は涼州の民を治めるにもふさわしいし…
気性が真っ直ぐそうな馬超の「親不孝な行い」にはその辺の理由もあるのかも。
>517
蒼天行路じゃあるまいしw
>516
馬超が演出のための演技でしていたと言う気は無いけど、
当時韓遂は配下の閻行の勧めもあって、曹操側になびこうとしていた。
それを馬超のこの一言で釘をさせたわけだから、
この言葉には、それぐらいの意味はあると思うよ。
まぁ、意地悪な意味のつもりで言ったんじゃないんで勘弁してくれ。
>520
君はさっきから蒼天行路に逆に影響された発言が多いように思うぞ
蒼天航路を嫌うあまりに(笑
>517
どちらにせよ、関中、涼州は平定されてしまうだろうな。
馬超がどうこうとか、曹操の思惑とか別として
生産力や人口自体に絶対的な差があるし、これはもうどうしようも無い。
>>513 馬超は都にいる親族の事は覚悟していただろう。
馬超を嘆息させたのはもっと予想外のこと、すなわち
のちの楊阜の反乱による妻子の死ではないだろうか。
正史に載ってる嘆きはむしろこっちの方だろう。
>517
自分がどうしたかを考えたら先に親は殺さないだろうよ…
曹操は自分が特別であると自負していただろうけど
キ○ガイとは夢にも思ってなかっただろうから。
曹操の失敗はいつも自分が上等であるがゆえだからな。
馬超の挙兵を支持した語りの人間だけでも、かなりの人数いると思うんだが
俺は、どのレスした人物と同一視されてるんだろう…
頼むから、馬超を語るにあたって少数民族を話題に出す事そのものが
蒼天行路的とか言わないでくれよ。
こんなに馬超について話題が出てくるとは…
馬超ってやっぱ人気なんだな。
まあでも馬超が蜀将としては語りにくいという点については皆一致してるぽ
馬超の墓が定軍山であるならば入蜀後もある程度軍事に関わっていたと想像されるし
成都近辺であるならば一線を退いていたと推測されやすい。
成都近辺である公算が強いので馬超は蜀の客将だわな。
>>519 >馬超は法家っぽい思想で動いた形跡がちらほら見受けられる
良かったら詳しく教えてくれないかな
ツッコミじゃなくて、純粋に興味がある。
「実利に適った考え方」っていうのは
たしかに、馬超の行動のあらゆる所から感じとれると思う。
(唯一疑問なのは、なぜ楊阜を殺しておかなかったという点ぐらい。)
>>528 一線を退いた時期ってのも不明だから、なんとも言えないけどな…。
蜀将としては評価が出来ないってのは、もう仕方無いぽ。
せっかく趙雲での罵倒合戦が終わったと終わったら、また険悪にムードに。
どうして「俺はこう思う」「それはxxxだから違うと思う」と普通にしゃべらず
相手を嘲り罵り揚げ足をとるような話し方しかできないんだろう。
歴史上の人物をあれこれ批評するわりに、自分はどうなんだって感じの
人間しかいないのが三戦板・・・
険悪ムードって程でも無いじゃん。
普通に読んでて面白かったよ。
>>532 自分も勢いにはビビったけど、結構興味深く読ませてもらったクチ
馬超って結構深いもんなんだな・・・
法家思想というより儒教の足かせが少なかったから
結果的に実利主義になったんじゃないかな
そして曹操を破った後のこととかも(仮定ですが)あまり考えてないから
自分の行動原理が中原でどう評価されるかとかも考えていない。
これは董卓にも似たような面があってそこが落とし穴になったと思う。
ちょっと蒼天くさいかな
でも純粋な漢人以外の勢力はみなそこに共通点を持っていると思うよ
>>529 代表格のひとりは韓非子タソ、照らし合わせばなんとなくわかるのでは。
冷酷非情と評されたりするけど乱世を生き抜くのに役立つ「支配」についての思想。
馬超が法家???
法家は、中央集権的で国の定める法を重んじ、信償必罰の思想だよ?
中央政権にたびたび叛く遊牧民的性格の馬騰・馬超に法家思想などありえないのでは。
>>534 やっぱり政治的にどうこうは言えないような。
ところで、馬超が劉備に降ってから羌族に働きかけ、実際に羌族がその要請に応えた
ことってあるんですか?
>534
=535かな?(違ってたら申し訳無い)
そっか、実益主義って事か。納得。
曹操を破った後については考えて無いにも同意。
というか、馬超は和睦として土地の割譲と人質求めてるぐらいだから、
曹操を破るつもりは無く、天下統一どころか、中原進出する気も無さそうだと思う。
そして、韓非子の説明thx。
今丁度、慌ててググってた所だったw
今度ゆっくり調べて調べてみるよ。
興味深い話をありがとう。
>>537 漢中攻防戦では、地元の羌族が道案内や曹操軍の後方撹乱をやってる。
>537
正史の記述には無いな。
馬超がコネクションを持っていたであろう地域とは分団されていたから無理ぽ
漢中確保して、さぁこれからという時に病気して死去。
>539
あったんか…_| ̄|○
やべ、認識足りて無かった。
>>537 漢中争奪に活躍したのは張飛・黄忠らだし、北伐以前に死んだのでほとんど
蜀では何の役目もしてない。
客将として虚名を響かせつつ何もせずに終わった。
また、馬超が勢いを盛り返して自立したりすれば危険なので、劉備たちも
馬超を活用しなかっただろうしね。
>537
曹操を破った後の事云々に関しては
>538の言う通り
>馬超は和睦として土地の割譲と人質求めてるぐらいだから、
>曹操を破るつもりは無く、天下統一どころか、中原進出する気も無い
って事だろうと。
長安以西の独立を目指してるだけで
曹操を破る事までは考えていないが。
だからといって政治的能力が無いというのは違うよ。
>536
おいおい、古人の思想なんだからそのまま当てはめて使ったりしないだろw
しかしこの時代の人間って頭のいいやつほど把握し難いよな。
曹操とか孫権とか小利口で色々詰め込んでる分、人間性がはっきりしない。
多少の学と人生経験のおかげか劉備も結構やり手だしな。
>>542 前の方で馬超が治めてた臨沮について襄陽郡の臨沮といってしまったけれども
下弁の属する武都郡にも沮県というのがあるのでここでいう臨沮とはその周辺のことだったかもしれない。
武帝記に下弁に駐屯してる張飛・馬超・呉蘭らを曹洪に命じて討伐させたとあるからむしろその可能性の方が高いかも。
だとすればやはり姜族相手に何らかの折衝を任されていたのでは?
∧_∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)/< 水鏡先生!
_ / / / \ 吉野家と松屋
\⊂ノ ̄ ̄ ̄ ̄\ \ どっての牛金がおいしいですか?
||\ \ \_______________
||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
.|| ||
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 牛金といえば司馬懿に暗殺されたあと、シシビシオにされたのが牛丼の由来なんだよね・・・
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚ ,, )
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|| ̄ ̄水鏡 ̄ ̄||/ ::||
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| でも牛歩戦術は牛輔が始めたわけじゃないよ
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
んがー ) zzz
__∧∧⌒ヽ_
/ ⊂(-д-,,)⊃ ./||
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|| ̄ ̄水鏡 ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
凄いレス進んでるなー。
てか、趙雲の「別働隊指揮のエキスパート」とか
馬超の「特筆すべきは武勇じゃなくて、政治力」とかって
最近は、ごく当たり前で基本的な認識になってると思ってたけど、
そうでも無かったんだな。
釣り乙
馬超に政治性が(呂布のように)全くなかったとは言わない。関中十部などの豪族達を
まとめて挙兵したことや(これは韓遂のちからも大きかったと思うが)、蜀での身の処
し方などをみればそれは判る。しかしこれは通常レベルであって、特筆すべき政治外交
の実績は見られないんだよな。
馬超の死後に蜀から羌族への働きかけがなかったのは、馬超個人の存在というより、夏侯
淵の軍事行動や張既の施政によって羌族が曹氏になびいた結果じゃないかね。
逆に言うと、羌族は馬氏と馬超を見限った(ロクに勝っていないのだから無理もない判断
だが)。
姜維って将軍としての能力に長じていただけでなく武勇も優れていたんだな。
蜀再興が失敗して鐘会ともども殺されるが、そのとき62歳でありながら敵兵を6人も斬殺している。
俺も馬超好きだが特筆すべきほどの政治力があったとは思わないな。
まあ武名とあわせてそれなりの影響力を持っていただろうなという程度。
>>551 学者の家柄とかなら完全に文官だけど、士大夫・豪族の家系なら文官でも「たしなみ・教養」
として弓や剣、馬などの武芸は一通りこなす。
「文>武」の国なので、中国の上級軍官・将軍は士大夫がおおく、武芸・腕自慢の豪傑・職業
軍人は少ない。
それでも軍官が勤まるのは、兵略などの勉強をしているからだけじゃなく、弓馬の道も一通り
こなせるから。
分かりやすい例としては、水滸伝の智多星・呉用が最初の登場シーンで鎖鎌のような武器をもって
現れたように、梁山泊の英雄の一人という設定があったにせよ、あの書生の呉学究ですら
武芸を身に付けているシーン。
三国志正史でも麋竺が弓馬を得意としたという記述や潘濬が剣で奸臣呂壱を殺そうとつけねらった
例が出ている。
姜維も官吏の子なので、そういったものを一通り受けているし、そういうのが性にあった人は
単なる教養以上に鍛えるだろう。
つまり「文>武」は、単にそれだけじゃなくて「文武両道の士大夫>武だけの豪傑・職業軍人」
ということでもある。
だから、劉巴が「軍人と仲良くする気はない」と張飛を蔑すんだり、馬謖が文字も読めない
王平の諌めをバカにして聞きに入れなかったりする。
>>550 上の方のレス読んでるかい?
関中の豪族達については韓遂の影響力も大きいだろうが、
曹操側になびこうとしていた韓遂を押し止めたのは馬超である。
そして肝心なのは、一度戦に敗れた後も、
異民族の居住地に潜伏し再び彼等を煽動出来た事。
一度敗北し、軍閥の連合も霧散したにもかかわらず
再起出来る手腕を「通常レベル」とは言わないよ。
>>552 武名についてこそ特筆すべき点は無い。
記述から読み取れる個人の武名は、郭援討伐ぐらい。
>>552 同意。
馬超の場合は、漢においても名門であり羌族の血も引いているということで
漢人・異民族の入り乱れて生活している涼州では、それなりの血筋による
ブランド力がある。
それに父馬騰の仁義に篤い人柄が周囲の人たちをひきつけていたので、
「あの馬騰の息子」というところも大きかった。
馬超自身は、その後の戦いで露呈しているように大した政治力はなかった。
ただ、「強い人間を尊敬する」という非漢人的な価値観ゆえに馬超個人の
能力が魅力になっていた部分はある。
>555
父馬騰の仁義に篤い人柄って、それ妄想じゃないか?
反董卓連合に加担したと思えば、あっさり董卓に寝返り、
李[イ寉]に私心を通わせようとして拒否られて戦したり
韓遂と内輪モメしたり。
馬超を否定したいがあまりに、父親を美化しようとしてないか?
>555
藻前さんは、取りあえず過去レス読んでみてから語れ。
血筋によるブランド力の是非も
馬超の政治力についても、さんざん語られている。
提示された考察や、すでに出た結論を無視してまでループさせるな。
馬騰って若い頃は山で薪拾って売って生計たてていた劉備のような貧乏人で、
戦で戦功たてて出世したのでは。
名門とか血筋ってなに?
>558
「馬援 馬騰」でググってみれ。
>>557 >>555ではないが、過去レスのどこに馬超の政治力を議論の余地もなく証明するものが?
すでに出た結論ってなーに?
自分のカキコを「このスレの結論」にしようとしてないか?
>560
そもそも、555の否定の切り口はこうだ
馬超の羌族に対しての影響力は政治力では無く下記の3点によるもの。
1. 馬援の末裔という血筋によるブランド力
2.父馬騰の仁義に篤い人柄
3.馬超自身の武勇
だが、1については>459で言われる通り
>従兄弟である馬岱が羌族対策で重用されなかった点や
> 魏の馬遵(馬援の子孫)が羌族との外交で特筆すべき成果を挙げてない点から、
>馬超の異民族とのパイプは、馬騰の影響力や名門馬援の末裔という事とは無関係な
>馬超個人のコネクションであるという事がわかる。
という納得出来る回答があるし、
2については、
親を見殺しにする戦を起こした上で、
親の人徳に依存した再起が出来るというのは考え難い。
3については、>554の言うように
馬超自身の武勇の記述というのは大変少なく
具体的にわかるのは郭援討伐ぐらいしか無い。
逆に、一騎討ちで閻行に負けたという記述もあるため
馬超が武名によってのみ外交を押し進めていたと解釈するのは難しい。
このように3つとも穴が多い解釈な上に、3に至っては妄想準拠に近いため
「馬超について特筆すべきは、武勇じゃなくて政治力である」という
他者の意見を曲げる程の物では無い。
なんだか漠然と
「馬超は政治力なんてねーんだよヽ(`Д´)ノ」
「馬超は武勇が凄いんだよヽ(`Д´)ノ」
って言われてもなー…。
普通に考えて「異民族との外交によるコネクション=政治力」
ってのが妥当な見解じゃねーの?
それを、別のものに理由付けするのって、無理があるように思えるんだけど。
血筋と親の人徳だけで異民族懐柔出来たら、
曹操も苦労しないわな。
まあ政治力って言っても行政とか事務能力のことではなく、
劉備みたいな政治的立ち回り、人心掌握術での能力だしな。
みんなわかってると思うけど。
だけど完全に人心を掌握しきれたわけではなく、裏切りを出したり
詰めに欠けることがあるのは確か。
楊阜はなー…。
馬超の政治力を認めていても、
あそこだけは、どうして殺しておかなかったんだと思うよ。
まぁ、結果がすべてわかってる現代だから言える事だけど。
>>565 元は馬超が元太守を処刑したことが発端なのだから、
この場合は楊阜の生死ではなく馬超本人の政治というか統治が失敗したってことだろ。
>>561 ジサクジエンで自分の意見を押し付けたいのか、その人の意見に心酔しているのかは
知らないけど、その意見は万人を納得させるものじゃない。
俺は別に自分の意見が正しいというつもりはサラサラないし、それらの意見にも一理
あるのは認めるけど、自分の意見/自分の気に入った意見で結論出して議論を禁止する
のは納得いかないね(罵倒合戦になっているのを止めるのならともかく)。
ループ禁止なら、そもそも三戦板の意味がないでしょ?
>>561(続き)
俺は
>>555じゃないけどその意見をベースにいくつか反論するなら
(1)については、馬騰の血筋だけじゃなく馬騰個人の魅力でできたコネクションとその軍閥を、
馬超はそっくりひきついだだけで自分で作ったわけじゃないことを全く無視している。
正史註にも、馬騰が軍閥を作り、その後は前将軍・仮節として異民族防御を行い士人を厚遇し
賢者を引き立て民衆の命を救ったので三輔は安定し、人々は馬騰を敬愛したとある。
馬騰が引退し、何十年も賭けて作り上げたその軍閥とコネクションを馬超に引き継いだのは、
馬超が叛乱を起こすほんの3年前だ。
つまり馬超の勢力は、馬超が作り上げたのではなく馬騰のものであることは明らか。
>>459の「馬騰の影響力はまったく無関係」というのは完全な間違い。
(2)については、マスコミがある時代じゃないのだから、父が殺された理由をすっとばして
「あの父が曹操に殺された」と馬超が触れ回れば、それで済む。
(3)については、正史に楊阜が「馬超は韓信・黥布のような武勇をもち・・」と評しており、
劉璋も馬超が劉備についたことを知って成都を開城している。
関羽伝にも註ではなく正史の記述に、関羽が馬超の武名を気にしていた話や、それに対して
諸葛亮が「武勇は人並みはずれ、一代の傑物であり、黥布や彭越のともがらである」と答えている。
ほかにも曹操たちが苦戦した記述が正史にたくさんあるのに、それは全く無視ですか?
妄想どころか、いくらでも正史から馬超の武勇についての記述は見つけられる。
それに武名だけで外交を推し進めたなんて
>>555は書いてないのに、自分の結論に読む人を
むりやり誤誘しようとしてる。
と、いくらでも君の主張がボロボロの穴だらけだと指摘できるぞ。
>父が殺された理由をすっとばして
>「あの父が曹操に殺された」と馬超が触れ回れば、
それがある意味政治的立ち回りであり、人心掌握術じゃないのか?
>>568 基本的に賛成だが(2)はいただけない……。
と思ったが、後に諸葛亮が「献帝が曹否に殺されたから我が君が帝位に就く」
とか大嘘ぶっこいてるんだよな。
不可能でもないのね。
政治力というものをどう取るかという点で
「馬超は政治力有るよ派」と「馬超は政治力無いよ派」に
歪みが出来てる気がするんだけど、
まず政治力の定義がはっきりしない事には 話が噛み合いそうに無いんじゃないか?
572 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/16 21:10:12
たしかに言われてみれば、馬超の軍閥は馬騰が作ったもんだし、ほかの
軍閥・異民族とのコネも馬騰が長年築いてきたもの。
馬騰が衛尉になって引退したのは建安13年で馬超が蜂起したのは16年だし、
正史にも、馬超を偏将軍に任じて馬騰の部下を掌握させたとある。
>>554=
>>561 >>552や
>>555、
>>560も別に「馬超に全く政治力なし」と言ってる訳じゃなく
政治以外の部分が大きいし、何を持って政治力というのかという問題もある。
あの時代であの土地なら、武勇や名声、兵力も「政治力」のうちだしな。
ただ、君の主張する「馬超については特筆すべきは武力じゃなく政治力」ってのは
やっぱりムリありすぎだと思うぞ。
「俺は演義厨や光栄厨の『錦馬超』など認めん!なぜなら正史を知っているからだ!」
と異説を立てることで正史通ぶりを誇示したいのかもしれない。
だが、ここの住人の多くが単なる演義厨ではなく正史をふまえた上で「馬超はやっぱり
武勇の人」と言ってるわけだし、それに正史の本筋を無視して都合のいいとこだけ
かき集めて異説を立てて、他の人を納得させるのはムリ。
陳寿は関張黄馬趙伝最後にこう書いている。
「馬超は武力と猛勇をたのんで、その一族を滅亡に導いたのは残念なことである」
異説で、古人の言葉や正史を否定するのはむりじゃないかな。
書きたい人が書きたいことを書き(罵詈雑言はなしで)、仲良くループしようよ。
そもそも、この蜀将スレはパート9ですよw
(σ・∀・)σ いま
>>571と
>>572がイイコト言った
政治力とはなんぞや?
それにしたって同趣旨のスレも乱立しているのに、ループなしに蜀書と演義だけでパート9はムリっぽ
・政治的立ち回り、人心掌握術はある。
涼州軍閥をまとめあげ、曹操側に走りそうだった韓遂の引き止め。
潼関敗走後の再起より。
・馬騰の影響力もある
>568の(1)
・武勇も、他者の評価という形で見える。
>568の(2)
俺はぶっちゃけ全部あると思うんだが。
どれが立ったら、どれが倒れるって理屈にはなんないだろ?
>>574 行政能力、統治術はないな。
再起後に馬超に味方したかつての同盟者(軍閥)もロクにいやしないし。
>>575 つまり、最初の決起時は馬騰以来のコネで従ったが、
次の再決起時では馬超本人に呼応した勢力はなかったと。
俺は昨日「馬超は政治力あるよ」派で書き込みしたんだけど、
武勇や名声を用いて、自勢力に都合良く動いてもらえるよう
他者に働きかけるのは「政治」じゃないのか?
>>577 働きかけた後が悪い。
事を起させることは勢いや策略でどうにもできるが、集まった連中を取りまとめ
「続ける」には純粋な政治力が必要。
馬超にはこれがなかったな。韓遂と離反させられたり、楊阜ら士大夫連中に一斉に
背かれたり。
潼関の敗走の時点で、馬騰のコネクションと思われる
従来の協力者は散り散りになっているだけに
そこからの再起は馬超個人の政治的立ち回りと
人心掌握術によるものだろうと思うよ。
そういった意味での「政治力」はかなりある。
「統治術」に関しては冀城の一件を見る限り無さそう。
「行政」に関しては未知数かな。
政治力って言葉は広すぎるから、難しいな。
>>578 楊阜たちに背かれたのも、「父親を捨てた」馬超に対する不信があったのではなかろうか。
士大夫連中からすれば、親不孝者を上に戴くなんて肯けないものがあるだろうし。
逆に馬超は、自分の政治力(影響力)を過信していた気がするな。
楊阜に関しては、降伏した韋康を処刑しておいて、
楊阜を心服させるなんて、普通じゃ出来ない事だし。
でも、自分の過去の経緯から「出来るはず」と思い込んでいた。と。
周倉?〜?
記載なし
>580
父親云々は、もう別次元の問題だと思うよ。
楊阜達からしてみれば、親不幸以前に馬超は「反乱者」であり
誅殺されてしかるべき存在なんだから。
だからこそ、「なぜ楊阜達を生かしておいた」って思うんだけど
隴上の郡県までは呼応させる政治力(影響力)があっただけに、
「こいつらも後ろ楯につけよう」ってなハラがあったんだろうな…
やっぱり、政治力は’あった’と思うけど、
’特筆されるほど際立って優れていた’とは思えないよなあ。
むしろ背かれまくっているし。
>584
楊阜は背かれたというより、「従わせられなかった」だけかと。
魏の人間を心服させるのは、いかになんでも無理だったんだろう
>>585 涼州、擁州の人間も心服させていないのだが、馬超は。
>>578 韓遂については、
和睦の条件も拒否され、戦の状況も傾いている中
馬超が疑惑を持つのは仕方の無い事だと思う俺は、
贔屓が過ぎるんだろうか。
韓遂は叛服常ならない所があるし
元々曹操側に傾いていたわけで、
むしろここで韓遂を疑わないとしたら、
それこそ馬超は思考能力に欠ける所があると思えてしまうよ。
>586
涼州、擁州の人間て楊秋あたりの事?
>>587 つまるところ、馬超には韓遂を自陣営に留める「政治力」がなかったと。
政治力の定義も定まって無いけど
「武名」の定義も捉え方が随分違わないか?
「武人としての誉れ。武勇の名誉」という意味では
郭援討伐ぐらいしか無い上に、閻行に敗北している事で精細を欠く印象。
「軍事力」による名声に関しては、曹操との交戦の記録に見て取れる。
武名武勇と、武力というのは全く意味が違うから、
なぁなぁにしとくと、混乱しちゃうよ。
>>589 飛躍させて結論づけないでくれ…
結果的に韓遂は馬超を裏切ったわけでは無く、
最終的な合戦までは共にあったよ。
藻前様方、政治力が特筆されるほど際立って優れていた将っていうのを
どの人物あたりを基準としてるのかもズレていませんか?
曹操のような大国の行政を動かす政治力とくらべると( ´_ゝ`)フーンとなるのは当然だし
将では無く、安定した基盤で働ける政治畑の人間と比べても、
やはりアラが見えてしまうわけで、
"特筆されるほど際立って優れていた"わけでは無い。
しかしながら、
馬超の政治力は「軍事総司令官」レベルにおいては十二分に活用出来ているわけだし。
蜀将内では貴重な、政治的立ち回りが可能な総司令官級武将として
"特筆されるほど際立って優れていた"とも言える。
…といった所じゃないかな?
ランキングの時は荒れる事も多かったけど
ああいう風に比較対象がはっきりしてた方が、話はしやすいのかもなぁ…
まあ関羽よりは上だろうな
>593
そういう事は言わんでくれ('A`)
頼むっての。
>>590=
>>561かな?
>>568、
>>572に散々指摘されたじゃん。
正史の記述で自分の主張に都合の悪いところは全く無視ですか。
楊阜:「馬超は韓信・黥布のような武勇をもっている」
劉璋:馬超が到来したとたん、びびって成都を開城
関羽:関羽が馬超の武名の高さにライバル意識
諸葛亮:「武勇は人並みはずれ、一代の傑物であり、黥布や彭越のともがらである」
陳寿:「馬超は武力と猛勇をたのんで、その一族を滅亡に導いたのは残念なことである」
もしかして、ゲームのやりすぎや演義の読みすぎで、武将の名声=一騎打ち能力と
勘違いしていないか?
軍団・勢力を率いて戦う能力によって馳せる名声もある。
呂布や張燕の名声が、個人的な能力と戦闘指揮能力、率いる騎馬軍団の強さを全て
ミックスしたものであるのと同じこと。
馬超の武勲のほとんどは、オヤジと韓遂の内輪もめで立てたから、
正史では具体的な記述が少ないという説を出してみる。
>592
あー、そんな感じかもな。
でもランキングとするにしても、
馬超はやはり比べ難い位置だろ
>595
何でもイコールでくくらんでくれ。
「武名」という単語そのものは「武人としての誉れ。武勇の名誉」って意味だから
「武力」とでも称するのが、混乱無くて良いんじゃないの?って指摘だよ。
なんでそこから、ゲームのやりすぎだの演義の読み過ぎだのと
言われなくちゃならないんだよ。
たしかに、軍司令官としては及第以上のレベルですね。
負けたのも、相手が悪いと言えるし。
だからこそ、劉備や諸葛亮は使いづらかったろうなあ。ヘタに大軍預けるわけにも
いかないという気持ちは判るが、結果持ち腐れにしてしまった。
馬超は素直に曹操にそのまま従っていれば幸福な人生を送れたような気がする。
(涼州における利権は大幅に削られただろうが)
>>596 単純に史料の少なさもあるんでしょう。
蜀にとって外様であるうえに、蜀書をみてわかるとおり蜀そのものが史官がいないせいで
史料が少ない。
「関羽・張飛は万人に敵する」と敵国からも評価された関張にしても、その内容はほとんどない。
じゃあ、関羽・張飛が大したことない人物だったかというと、そうしたわずかに記載されている
評価から「きっとスゴかったんだろうな」とうかがい知ることはできる。
趙雲みたいにその武勇の内容が正史註メインならともかく、馬超の武勇を高く評価した内容は
正史にいくらでもあるのに、なぜ「馬超の武勇・武名は大したことない。それよりも政治力がすごい」
みたいな強引な説を立てなくても、普通に「すごいやつだったんだ」と
素直に理解すりゃいいのにね。
まあこの板は元々歴史ゲー厨隔離板なんだけどな
>599
漢中戦でも軍は預けてるし
北伐とかでは使う気はあったんじゃないかな。(その前に死去したけど)
どちらにせよ、
成都と離れた所で領地と軍を管轄させられないってのが厳しい所か…
馬超の武勇の評価への反論も無いっぽいし
軍事総司令官レベルの政治力は認められるみたいだし
このへんでFAしてくれれば、馬超ファンとしては願ったり叶ったりなのだが……
駄目カナー(´・д・`)
604 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 00:40:07
この地方の漢人・異民族はたびたび反乱を起こし、反中央政権みたいな風土がすでにある。
実際、先零羌・北宮伯玉・辺章・王国・宋建・伊健妓妾・治元多・成公英etc.と
挙げるのにキリがないし、馬騰も反乱を起こしたし、韓遂だって馬超脱落後も羌族・胡族数万人を
集めて反乱をまた起こしている。
つまり、もともとそういう土地・風土なのであり、反乱を起こして兵を集めることに、
大した政治力など必要ないと推測できる。
てか、馬超は夏候淵を破ったことがあるよね。何故か馬超伝にはその記述がないが。
>>603 逆に言うと、一割拠勢力の棟梁としては疑問視されるわけだ。
ホントに、曹操に司令官として使われるのが一番だったと思う。
そもそも、馬超はなんだって曹操と戦うことになったんだ?
>>604 そういう観点もあるね
毎度毎度いろんな奴が数万規模の反乱起こし、負けても懲りずに逃げてはまた起こしている土地で、
「反曹操軍を糾合した」「また反乱を起こした」=「特筆すべきは政治力!政治力がすごい!」
とか言うのもおかしな気がしないでもない
>>603 特に馬超をボロクソに批判している人はいないから大丈夫
「馬超について特筆すべきは、武勇じゃなくて政治力である」と一人で粘着主張し続けている人が
いるから、「そりゃ違うだろ!」って突っ込んでるだけだと思われ
>604
例に挙げられた叛乱とは規模が全く違うよね
「反中央政権」ていうプロパガンを有効活用し
幾度となく叛乱を起こす事の出来たのも、評価されるべき韓遂の能力だと思うし
その事を大した事無いと一蹴するかどうかは
人それぞれの価値観に拠る所が大きいんじゃないかな?
>>606 >>604があげた連中全員に、中央政府に反乱しなきゃいけない必然性があったかと言えば
そうじゃない香具師もけっこういる。
もちろん酷吏に反抗した奴もいるし、自分の欲望のためにやった奴もいる。
そういった土地柄ゆえに、馬超も軍閥のオーナーとして中央政府からの管理・徴税を嫌って
自治独立を求めたのだろう。
プロパガンは
「プロパガンダ」のミスタイプ。恥ずかしいので一応訂正
つーか馬超よりも韓遂の方だろ。
よくもあれだけ敗れても敗れても毎回人を集めて挙兵できたよな。
でも毎度鎮圧されるのは戦争が下手だったのか
集めた兵が弱かったのか・・・
馬超について特筆すべきは、武勇じゃなくて政治力である
馬超について特筆すべきは、武勇じゃなくて政治力である
馬超について特筆すべきは、武勇じゃなくて政治力である
馬超について特筆すべきは、武勇じゃなくて政治力である
馬超について特筆すべきは、武勇じゃなくて政治力である
馬超について特筆すべきは、武勇じゃなくて政治力である
馬超について特筆すべきは、武勇じゃなくて政治力である
馬超について特筆すべきは、武勇じゃなくて政治力である
馬超について特筆すべきは、武勇じゃなくて政治力である
馬超について特筆すべきは、武勇じゃなくて政治力である
馬超について特筆すべきは、武勇じゃなくて政治力である
馬超について特筆すべきは、武勇じゃなくて政治力である
馬超について特筆すべきは、武勇じゃなくて政治力である
>610
曹操は武装豪族は解体していったから、
管理・徴税よりも、
解体・取り込みを恐れて自治独立を求めたんじゃないかな。
管理・徴税で地方自治が約束されるなら、
叛乱はおこさずとも、今まで通りで問題無いわけだし。
>>613 それはもうみんなに否定されちゃっただろ
今は、「じゃあ馬超の実力はどんなもんよ?」って流れだ
「馬超について特筆すべきは、武勇じゃなくて政治力である」なんつって、
即論破された負け犬だけど、
素直に謝りを認めるんで、色々な人とイコールで結んだり
粘着扱いするのは勘弁してくれ。
俺も普通に馬超ファンだから馬超の武勇が認められるのは嬉しいよ。
ただ、馬超が蜂起出来たのは「武勇」と「親の財産」の賜物だってのには
どうしても異義申し立てをしたかっただけなんだ。
論破されて「あちゃー」と思って以降は、
興味深く流れを読ませてもらってたんで
自分の発した言葉がコピペ荒らしの素材にまでされると、申し訳無くなってくる。
正直スマンかった。
>>616 まあ気にするな。
自分の過ちを認めただけでも、馬超より偉いw
ところで、馬超の武名の高さを関羽が気にして諸葛亮に問い合わせ、諸葛亮が
「張飛と同レベル、あんたにゃ負ける(関羽>馬超=張飛)」とお世辞を言った
というのが正史の関羽伝に出ているが実際のところ、どうなんだろうね?
馬超の強さは涼州ローカルなので、武将としてのトータルの能力は関羽のほうが
やっぱり上なのかなあ?
>>616 まぁ、なんつーかアレだ。
(・∀・)イキロ
619 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 01:18:28
>>617 オレも「関羽>馬超」という点には諸葛亮(のおべんちゃら)に同意だな。
でも「馬超=張飛」ではなく「馬超>張飛」だと思う。
> 自分の過ちを認めただけでも、馬超より偉いw
馬超は「一族が誅殺され」って言ってるぐらいだから
一応自分の過ち認めてるぞw
馬超の行動自体、過ちと取るかどうかは考えが分れる所だろうけど
>>617 私は逆に、馬超が上だとみる。武将としてならね。
ただ、当時の名声はやはり中原では関羽だったろうな。
関羽には外交のミスと部下からの裏切りを出すという司令官としては
致命的な失策をおこなっているので。
正直、話題になった政治性という点では関羽はどうしようもなく落第だと思う。
>617
ここであえて
馬超は曹操を前線に引っ張り出したという実績を元に
「馬超>関羽」だと言ってみる。
時期と状況の問題があるから、なんとも言えないかなー
>>621 内部崩壊なら馬超も一緒の様な・・・
関羽の勢いに、曹操たちが遷都まで検討したから関羽>馬超に一票
おれも
>>617と同じく馬超の強さはローカルなもので、応用がきかない気がする
ついでに、武将としての実績なら
関羽<張飛
だと思う
そっか、関羽は遷都の検討があるもんな。
(^_^*)関羽のほうがアレは大きいと思う
魏側からの評価も「名将は関羽だけ」だもんねぇ(劉ヨウ伝)
俺は
張飛>関羽>馬超
かな
馬超なだけに,馬並みに長そうd(うわー
630 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 01:35:38
>>626 ((((;゚Д゚)))ガクガクブルブル
ここは、オヤジマニアの集まるホモすれですか?
馬超は方々に流転してるだけに、
頭を下げるべき所と、強気に出るべき所は弁えてるだろう。
外交においては関羽よりこなせるんじゃないか?
魏にも警戒される人物だし、
周瑜も馬氏勢力と同盟結ぼうという発案してるぐらいだから
呉でも一応認知度は高いため、名声も申し分無い
でも、関羽と同じポストを与えたら独立される危険性があるので
使 い よ う が 無 い ぽ
632 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 01:39:36
じゃあ、おれは髭親父より錦馬超に抱かれたい
俺は錦馬超を抱きたい
ウキンを捕まえホウトクをぶっころしたカンウの勝ち。
じゃあ、まぁ
そういう事で。
お前等、随分なげやりだなw
638 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 22:01:40
_、 _ ╋
( ∀`)┃ オマイラ、蜀将で
|.`ー┐∂ 友達にしたいの誰よ?
|: | | ┃
|: ~| | ┃
ノ::::...ノ | ┃
639 :
魏延の中の人:05/01/17 22:17:46
自分の身分が士大夫だったら張飛と付き合いたいかな(笑)
あ、関羽はパスね。彼が上司になったら転属願出す。
俺は張嶷かな
642 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 22:49:35
>>640 関羽は下に優しく上に反抗的
張飛は上を尊敬し下に冷酷
上司にするなら関羽、部下にするなら張飛
でも俺は簡雍と酒を飲みたい
643 :
たまには趙雲を誉める:05/01/17 22:55:58
趙雲子竜に決まってんだろ!
644 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/17 22:57:40
>>642 関羽は兵たちは慈しんだが同僚や部下の士大夫たちはつらくあたった。
張飛は士大夫は尊んだが兵たちは酷に扱った。
と、正史にはあるが。
上司にするなら馬忠だな。やっぱ。
>>642>>646 この場合の上下というのは、関・張からみての上下ではなく、
社会身分の上下ですな。
そもそも後者の意味だったら、二人の上となったら劉備くらいしかいなくなる。
「劉備に反抗的な関羽」?????
>>648 間違い。前者ね「関・張からみての上下」
650 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/18 07:30:15
_ ∩
( ゚∀゚)彡 そうひょう!そうひょう!
⊂彡
>>644 現代人が性名字で呼ぶことになんの不都合があるのか?
そら当時の人がそう呼んだら変だが(文書ではよくにあるけど)、お前は当時を生きていたのか?
趙将軍もしくは順平侯と呼べ
順平って現代日本でも普通にありそうな名前だな
前の方で趙雲が中護軍の時の中領軍は誰?という質問があったけど向チョウがなってるね。
ただし228年の北伐に当たっての事であるけど。
あと第一次北伐において囮役を務めた趙雲とケ芝、この時どちらが序列が上だったのだろう?
中護軍・鎮東将軍・永昌亭侯趙雲、中監軍・揚武将軍ケ芝。
一概には言えないのだろうが、太守を歴任し尚書ともなったケ芝の方がわずかに上な気がしないでもない。
実戦経験豊富な趙雲をケ芝の補佐に付けたという形ととらえるのは間違い?
ただ趙雲伝にはこの記事があり、ケ芝伝にはないこと。
諸葛亮伝には趙雲とケ芝という風に趙雲の名が先に来てること。
この二つからみてやはり趙雲の方が上というか主将を任されていたのか?
655 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/18 19:24:19
>654
明らかに趙雲の方が上でしょ。
同じ雑号将軍でも、鎮東は格が上。
趙雲が当事、中護軍だったかは不明だしね。
それに、爵位も趙雲は永昌亭侯だけど、ケ芝は封じられてない。
>>655 蜀漢は後漢の官職を引き継いでいるといっても、後漢末期のものを引き継いでいるので
実質は魏とほぼ同じ。
鎮東は雑号扱いじゃない。
趙雲のほうが上なのは同意。
ただそうすると、ケ芝は降格したのか?
>>656 でも中護軍より中監軍の方が上じゃなかった?
あと蜀でどうであったかはわからんが、尚書が三品であるのに対して中護軍は四品。
ほぼ純然たる武官である趙雲と比べると軍部における重みではともかく全体的にはケ芝の方が序列は上であったと見ることも出来る。
>>657 中監軍って、二十台で死んだ関興と同じ官位。
揚武将軍はただの雑号将軍。
丞相長史だの、丞相司馬だの丞相軍師だのを加官されてないところを見ると、
諸葛亮の腹心でもない。劉備時代に尚書だった事を考えると、完全な左遷人事だな。
同じような経歴の持ち主としては楊儀がいるが、
こいつの場合は丞相長史も兼任していて、
諸葛亮の腹心扱いなので、表向きの官位よりずっと実権が大きい。
ケ芝は人格に難ありだったらしいな
>>658 中護軍は近衛司令官。監軍は監察官。
中護軍の方が職としては重い。
>>654〜
>>658 そこら辺については石井仁氏の詳細な研究があるんじゃなかったけか。
「諸葛亮・北伐軍団の組織と編制について―蜀漢における軍府の発展形態」とか。
読んだ事ないけど(<オイ)
暇があったら調べられるんだがな〜
自分の論文でテンパってて、そんな余裕ない・・・
>>660 > 中監軍って、二十台で死んだ関興と同じ官位。
関興は侍中・中監軍。侍中は結構高位よ?
それと将軍号は軍を率いる時の為だけに帯びておく場合もあるので将軍号の上下だけで判断は出来ない。
他の官職との兼ね合いで判断する必要がある。
なんかで中監軍>中護軍というのをみた記憶があるのだが、誰かはっきりとしたことを知ってる人いませんか?
>>661 部下には優しかったが、傲慢で感情的だったので、
みんなに敬遠されてて、最高権力者の費イもケ芝を恐がっていた。
世間の人々を軽蔑しきっていて、姜維以外の人とはうまく付き合えなかったらしい。
宗預に嫌味を言って、逆にやり込められた記録も残っている。
情実人事が幅を利かしてる蜀で、よく車騎将軍まで昇進できたな…。
なんで姜維だけは尊敬してたんだろうな?
>>420 >李豊は江州都督ではなく江州都督督軍。これは李厳が漢中に移動した後の留守居役で
>李厳が罷免されると同時に従事中郎に移されている。(華陽国志に記述)
遅レスだが、都督と督軍はほぼ同義。
督軍制度は漢時代からの名残であり、三国初期は都督制度と併用されたが、後に都督制度に統一。
よって華陽国志の「李豊:江州キ督」と正史の「李豊:江州キ督督軍」は同じもの。
鄧芝ってそんなDQNだったのか。
よく孫権を説得できたな。
またまた遅レスだが、三国時代には地方軍(太守や刺史に属する)と中央軍があり、中央軍には都や皇帝を守る中軍と
戦時編成で地方に派遣される外軍の二種類があり、都督が管轄するのは外軍。
中軍には国によって違うが、領軍、護軍などがあり、中護軍の趙雲は都(成都や劉備滞在時の永安)にあって
護軍を統括する司令官(=都督と同格)である。
よって、一部の人間が唱えた「趙雲は都督になる能力がなかった」は間違いで立派な一軍の司令官であり、
外軍ではなく中軍なのは過去から劉備の身近に位置し親衛隊的な役回りを任されて来た実績があるため。
都督と違って中領軍に政治力はいらないのでは?と勘違いしている人もいるようだが、権謀術数や
エゴ、プライドの渦巻く宮中や都にあっては別の政治力・外交能力が必要であり、皇帝の身を守る
その重要さ・大変さは地方の都督と変わらない。
ましてや魏の都督が刺史や牧を兼務して軍事(中央派遣の外軍と州郡付属の地方軍)と行政の一体化を
図っているのと異なり、蜀は基本的に牧・刺史・太守を兼務せず、それらは別に置かれて地方行政と
地方軍を司ったので、権限は魏の都督よりは軽い。
>>668 ケ芝は裏表が無くて、思ったことは口に出さずにいられない性格だったらしい。
孫権と最初に会った時は、
「魏と組んだら、いずれ追い詰められて攻められますよ。
そしたらうちも長江を降って攻め入りますから、呉は滅びますね」と脅して、
孫権を説き伏せている。
孫権が「魏を滅ぼしたら、うちと君のところで天下を二分したら愉快だなあ」と言ったら、
「魏が滅んだら、今度はうちと呉の戦争が始まりますよ」と答えて、
孫権を大笑いさせてる。
非常識なまでの正直さが蜀の朝廷ではうざがられたが、
変わった奴が好きな孫権には喜ばれたんだと思う。
>>664 >なんかで中監軍>中護軍というのをみた記憶があるのだが、誰かはっきりとしたことを知ってる人いませんか?
難しいところだな。
=とも<とも>とも言える。
監軍は目付け役、監察官、MP、近代のナチスや共産主義国の政治将校的な役割などをはたすもので、直轄の兵は
持っているがその兵力は少ない。
鐘会らに付けられた監軍の衛瓘が、鐘会・ケ艾らを取り締まる形で彼らを倒したのが、その職務の典型。
本来なら兵力の大きい中護軍、中領軍のほうが実質的な権限は大きいが、中監軍はその役割を生かして彼らを誣告し
陥れることもできるので、その任についた人物によって重要性も変わってくる。
老中が部下ではあるが、徳川将軍に老中らの不行状を直接訴える権限をもった大目付を恐れたのと同じ。
だが
>>655が指摘するとおり、ケ芝は爵位をもっていないし、諸葛亮の李厳罷免の上奏文に連名している順番でも
征西(大がついているが)の魏延や前後左右の四方将軍よりも下の地位であることは間違いない。
「中監軍?中護軍」がどうであれ、趙雲は鎮東将軍で亭侯であり、なんといっても北伐に参加した将軍の中でも
最古参であり、斜谷道のおとり軍を率いて諸葛亮とともにその敗戦の責任をとったことからも、趙雲は当時の
蜀軍の将軍たちのトップにいたことは明らか(下位の将軍が、上位の将軍をさしおいて丞相とともに責任を
とるような僭越行為はありえない)である。
席次において「趙雲>>ケ芝」であると判断してよい。
>>671 > 下位の将軍が、上位の将軍をさしおいて丞相とともに責任をとるような僭越行為はありえない
ああ確かにそうだね。
王平を除く街亭組以外で降格したと明記されてるのは諸葛亮と趙雲だけ。
趙雲は諸葛亮と並んで一方の責任者だったと見るのが妥当かもね。
ケ芝は斜谷道の作戦のときまでに、実戦経験というものを積んでいたのかな?
古参で経験豊かな趙雲につけられたのは、軍師としてというより人材育成の
意味合いが強かったんじゃないだろうか。
>>673 史書に載ってる限りでは、あれが初陣。
劉備が益州を平定する前から、益州にいたので、
益州入りの時には従軍していない。
起用されてからはずっと文官畑を歩いてて、従軍した形跡が無い。
どうして北伐に連れてったんだろうね。
実務能力は証明済みなんだから、ずっと文官として使っても良かったのに。
よく考えると不思議な人事だ。
>人材育成
県令・太守だった時代のケ芝は、厳格で公正だったそうだ。
将軍になってからも、兵卒をいたわり、軍規をきっちりさせてた。
諸葛亮は野武士軍団より、規律正しい精鋭部隊を好むタイプだから、
軍規を徹底させられる指揮官を育てたくて、
厳正なケ芝を軍部に引っ張ったのかもしれない。
どういう考えで北伐の頃に四十過ぎてて、
若手とは言いがたいケ芝を育てようと思ったのかは不明だが。
それほど人手が足りなかったとか?
しかし、ケ芝は成功したからいいけど、もし失敗していたらまた諸葛亮の非難材料
になっていたんだろうな
>>675 馬謖の抜擢でミソをつけたけど、諸葛亮の人材を見る目はすごいと思うよ。
例えば姜維。
魏では特に高位でなかった姜維をいきなり奉義将軍に任じ当陽亭侯に封じてる。
これだけなら降将を厚遇することによる政治的効果を狙ったものととれなくもないが、
わずか3年後には李厳罷免の上表にも署名できるほど中枢に食い込んでる。
>>676 諸葛亮在世中は特に武勲無いんだけどね。
凄い出世ぶりだよね。
姜維登用は孔明の才能を見る目が確かなことを示してはいるが
逆に人物眼の無さも露呈している。
>>678 どういう意味?
才能を見る目が確かだという事と人物眼の無さという、
相反する2つの事が姜維登用から分かるって事か?
>>679 前線指揮官として使うつもりなら、人物眼は確か。
将来的に軍の総指揮権を与えるつもりでいたなら、人物眼は良くない。
なんか勘違いしている人が多いが、ケ芝は士大夫階級の人なので「文武両道」が当たり前。
もちろん、ここでいう「武」は教養・趣味としての弓馬や剣と学問としての兵略の両方(特に後者)。
蔣琬だって、後方支援の兵站業務や丞相府の事務処理ばかりで、直接兵を率いたことがないが
諸葛亮の死後は大将軍となって漢中に駐留し、自ら兵を率いて北伐の機会を狙っている。
学者の家系でもないかぎり、当時の文官の多くは基本的には「文武両道」である。
また、ケ芝は太守を経験しているので(実際に直接指揮したかどうかは別として)地方軍の
指揮官も務めたことになる。
また、当時の尚書は内政外交だけでなく、人によっては軍事も担当する(後の兵部尚書)。
ただし、軍略は心得ていても実際に軍勢を率いて前線に立つ経験がないため、
老練な趙雲につけることで、軍隊の制御や兵を前進後退する呼吸をケ芝に実地で
学ばせたのだろう。
>>680 自分は姜維の総司令官としての適正がそこまで低いとも思えないが。
責められるとすれば、中央政府との信頼関係を完全に失してしまった事くらいだと思う。
それだけでも十分不適格だと言えるのかも知れないけど。
>>677 姜維は諸葛亮在世中は軍政家だったしな。
その後も政治家として出世してる。
軍事面に進出したのはわりと後の方なんだよな。
演義ではずっと武将っぽい感じだったから意外だった。
>>682 軍事能力だけを見たら、かなり有能だと思う。
だが、軍事的冒険を好みすぎるという一点において不適格だ。
>>684 好みすぎると言う程でもないんじゃないだろうか?
姜維が強引なまでに勝ちに行ったのは、256年の祁山進攻戦くらいなものだと思う。
他は、出兵はしても無理に勝利しようとせず、直接的な被害を出す前に撤退してる。
686 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/19 22:20:08
>685
蜀漢内では偉大な存在である、諸葛亮の北伐を越えるペースで外征するって事自体が冒険的かと。
たしかに出兵はしても無理に勝利しようとしなかったこともあるが
出兵自体を無理にしちゃってるからなあ
諸葛亮は姜維を軍事的・政治的な後継者に据えた訳でも無いんだし、
別に人物眼の無さを露呈してる訳では無いんでは。
単なる1武将としては有能みたいだし。
姜維を出世させたのはショウエンでしょ
自分が成都に詰めている間、漢中を抑えさせるために
よく言われる北伐のペースだが、諸葛亮を超えてたか?
姜維 253年、254年、255年、256年、257年、262年 計6回
*姜維の出兵パターンから考えていずれも夏と思われる
諸葛亮 228年春、228年冬、229年春、231年2月、234年2月 計5回
ペース自体はさほど変わらないと思う。
単に戦後の立て直しに諸葛亮より時間が掛かったってだけだと思う。
段谷で大敗したのに一年後には無理にね...
孔明なら少なくともそんな無茶はしないよな
>>691 257年と262年の出兵は、大敗したからこそのものだとも思うけどね。
陳祗を筆頭とした北伐に懐疑的な面々への牽制や、自身の保身を目的としたね。
そういう事に軍勢を用いるというのは批判されて然るべき事だとは思うが。
もういいよ・・その話は。
苦しいだけだって..
なあみんな、俺はそんなことより
>>651の頭の方が不安なんだが……
いや全然
当時の人間にそう呼べば失礼にあたるけどそこまで目くじら立てて怒るほどのことでも
あと歴史書でさえ姓名字で書いてるものも時々あるし別にそれ程変ではないよ
珍しいけど
「蜀将としての夏侯覇」ってどんなもんでしょう?
蜀への貢献度としては、夏侯覇>>>馬超だよね!
馬超は戦功こそほとんどないけど、貢献度は高いと思うがね。
劉璋の降伏とかあるし、
馬超が劉備についたってことで劉備にも箔が付いたし。
つーか夏侯覇って何したっけ。
夏侯覇に具体的な戦功は無かったような。
姜維が北伐に毎回連れてったって事しか分からんな。
699 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/20 20:42:42
夏侯覇はどういう想いで、父を殺した国のために働いていたのだろう
700 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/20 21:39:22
どうして、呉に亡命しなかったんだろう?
夏侯覇の任地って蜀戦線だったよな。
結局、父親の仇を取るよりも保身に走った訳だな。
702 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/20 22:04:05
>700
隴西に駐屯してる時に叛乱起こして失敗したんだから、呉には行けないだろ。
>>702 呉末期の征西将軍劉嵩(魏からの亡命者)の亡命直前の官位は酒泉太守。
>>702 夏侯覇は反乱起こしたの?
曹爽が失脚したので危機感を覚え蜀に亡命しただけじゃないのか?
>>704 正確には、一族で上司の夏侯玄が中央に召還されて、
新たに仲の悪い郭淮が上司になったので、不安になって逃げた。
706 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/21 00:04:03
ヘタレか・・・
司馬氏の専横を嫌ってたのもあるし、
曹爽派だったから仕方ないっちゃ仕方ないかと。
さすがに夏侯覇じゃ語れないよなあ
>>707 しかし、曹爽派は中央にいた最高幹部が消され、
出鎮してた夏侯玄は最高幹部だったのに左遷されただけで済んだ。
中堅以下の連中は魯芝、楊綜、賈充、裴秀のように助かったのが大半だから、
早まりすぎたといえば早まりすぎたかもしれない。
特に魯芝、楊綜は「曹爽に謀反を勧めた」と弾劾されたのに、
許されてかなり栄達している。
早まったってことはない。
曹爽は殺されたんだし、ほかに武闘派といえば夏侯覇だけ。
うかうかしていれば、中央に召還させられ兵権を奪われた後で殺されてしまう。
結局、5年後には夏侯玄も殺されたわけだし、6年後には毋丘倹・文欽、
8年後には諸葛誕が反乱を起こし、11年後には主君の曹髦までが殺された。
夏侯覇はそれらの人に先駆けただけのこと。
亀レスで悪いんだけど
>>669はあれでFAなのかな?
蜀が夏侯覇をもっとうまく使えてればなあ。
魏の皇族なんだから、いっそ「蜀漢の中の国である魏」の魏公とか大将軍ぐらいに任命してやればよかったのに。
713 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/21 06:32:17
夏侯覇には、蜀においてどの程度の権限があったの?
張翼・廖化らと同格?
>>713 将軍位だけでいえば張翼・廖化より上。
また姜維に従って戦役にも参加してるから単なる名誉職ではなかった。
ただ独自でなんらか出来るほどの権限はなかったと思う。
能力的にも張翼よりはずっと上だな
716 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/21 07:52:02
,,、r''''" ゙゙̄`''ー .、
,rニ,_ ミ| ヽ./~~`ヽヽ.
,;" `-、,/ ゙!,゙'i,
,:i' _ ----、`i, ゙i,
,l 'l 、 | ,r-ッ---r゙i, ゙i,
l, i' 、_,,,.-ッ'フ,)tr'"===='" ゙i ,ト.、
>>777 ゙t,'i `'フ",:"!, ` |' i l 敢えて言うとカスである。
r' i, ''" : ! _ ゙ir'r l,
|ヾi ゙' i;:. ヽ ゙'| ,!
゙i, ! ! ~;; ___, ,、ノ
゙i, ,,; -''"~,、 ,/ |
`" ト、 " ` / |
| 'ヽ. .| / .|
| ゙i,ヽ._ l __,,./ .|
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| ゙l'" __゙ヽj | ー' '''''''7 `ニ' ゙i,_、___
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,,,,r:、ヽ、ヽ-''"l !ヽ,,,、-'""_,、-'''' ゙'ヽ、r"
__,,,...-フ/~__ ヽ二二,,、--'"_,,、-'"
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717 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/21 07:56:12
夏侯覇は、どんな死に方をしたの?
演義みたいに討死?
>>698 669についてだけど、
前の方で論議されていた話題の指す「都督」は「督漢中」で、
漢中都督兼、漢中太守である魏延のポストの事だよ。
だから、「趙雲には着任する能力を証明する材料が無い」って否定されてたわけであって
669の言う「一部の人間が唱えた」が上の方での論議なら、
話題そのものがズレちゃってるんじゃないかと推測。
で、「中護軍」自体についてだけど、
宮中の守りをしているという点で政治的意味合いは強いのかもしれないけど
そもそも中軍というものが中央により直轄される軍隊だから
政治力・外交能力が必要な事象まで、中護軍の趙雲の能力に依存する事は考え難い。
だから、中護軍という役職についたという一点で、
政治力・外交能力までをも評価するのは、ちょっと無理があると思う。
趙雲子龍の字について教えて下さい。
子竜だが何か
夏侯覇は亡命後も
>>698 もう都督・趙雲ネタはいらねー。
だいたい国土が広い魏と違って、他国のいわゆる「都督」クラスのポストが漢中(対魏)と江州(対呉)の二つと、後はせいぜい南方の三つしかなくて、
そのポストが適任者でうまっているのに「都督になったから偉い、なれなかったら能力がない」論は無意味。
>「都督になったから偉い、なれなかったら能力がない」論
そんな話題じゃないだろ
|__∩
|エ)・) ダレモイナイ・・・イッパツゲイスルナライマノウチ・・・
|⊂丿
.∩_∩
( ・(エ)・) < セーノ♪
(\_i i_ノ
(_( ̄)_)
.∩_∩
( ・(エ)・) < クマネチ !!
(_( )_)
(_( ̄)_)
.∩_∩
(;・(エ)・) < ・・・・・・
(_( )_)
(_( ̄)_)
|彡
|彡 サッ
|彡
/⌒ヽ
/ ´_ゝ`)すいません、ちょっと通りますよ・・・
| /
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U .U
___________
──┬───┬───┐i
;' :; ||
;. ;. ||
:; ∩_∩.;. ||
;: (・(ェ)・,,).;. || サビシイナ
⊂ つ. 、 ||
:; / , ./__;:.ヽ ||
''(_ハ_)''''''''' ||
..::::::::::::.. ム>
.:::::::::::::.:. .:::
_____
∧_∧ /
( ´Д`) <変身モナー!!
⊂ ⊃ \_____
〔=○=〕
| | |
(__)_)
∧_∧
( ´Д`)
⊂ ⊃
〔=◎=〕 ジュウィイン
| | |
(__)_)
____________
∧_∧ /
( 0V0) <仮面ライダーモナー参上だモナ!!
と つ \____________
〔=◎=〕
| | |
(__)_)
>>348 日本の人口は9900万人。総人口は1億3000万人。
この比率はだいたいの先進国で同じなんで、
同盟の有権者数は約100億人と推定される。
500万票を、日本の政治に換算すると5万票。
ド田舎の一選挙区に集中すれば、勝敗の決め手になるかもしれないって程度の票。
二箇所以上に散ってたら、ほぼ死票。
何の誤爆だよw
>>720,723
終わった議論を蒸し返してすまんかった。
でも勉強になったよ、dクス
古
734 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/24 18:21:18
ほしゅ
クマ可愛いよクマー。
736 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/26 04:16:03
>>735 はっちゃけはっちゃけ!
俺、曹熊!
でも蜀将じゃないクマ。
,─────ー、
/ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ ヽ
/ ̄/ヽ ̄ ̄ ̄ヽ | つ
|/ |∩|  ̄ ̄ ̄ ノ__ \
彡 (~● ̄) ミ > > )
| ● ● | ( ( i
⊂ヽ_____つ \_\_つ
737 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/27 07:23:38
費禕は後継者としていかがなもんだろう?
>>715 遅レスだが何故そんなこと言い切れる?
建言などを見る限り魏時代も特に功のない夏侯覇よりもむしろ張翼の方が有能だと思うが?
>>737 実務能力、危機管理能力は一流。
ただし、臭いものには蓋をしてごまかすと言う、
よく言えば老獪な、悪く言えば弱腰な所があった。
>>738 夏侯覇は魏にいた時は郭淮と一緒に姜維を撃退してるぞ。
それなりに働ける将だ。(もちろん夏侯覇>張翼ではないけど)
流れを読まずにカキコ
廖化
字は元倹。元の名は淳。魏書では惇につくる。
襄陽郡の人で関羽の主簿を務めていたが、荊州が陥落すると呉に降った。
劉備が夷陵の戦役をおこすと老母を連れて呉を出奔し帰参、宜都太守に任じられ一軍を率いる。
劉備没後、丞相参軍に。
223年、茂才に推挙されたショウエンが劉ヨウ・陰化・ホウ延・廖化に譲ったという記述がある。
後に督広武(広武は陰平郡に所属)に任じられるとあり、魏書には陰平太守ともあるので兼務だったのかも知れない。
魏書の記述により少なくとも238年〜248年の間はそうであったようだ。
中途の詳細は不明な点も多いが、最終的には右車騎将軍・仮節・領ヘイ州刺史・中郷侯まで昇る。
同時に左車騎将軍となった張翼がその前は征西大将軍であったことを考えると廖化もそれ以前は四征四鎮将軍クラスの将軍位を持っていたかもしれない。
鎮西将軍が胡斉であったので王平の後の鎮北将軍あたりの。
苛烈な人物として知られるが姜維を諌めるなどの冷静な面も持ち合わせてる。
238年、魏の守善羌侯宕蕈(魏についてた羌族?)の陣営を攻撃。郭淮の派遣した武将を撃破する。
248年、羌族の反乱に乗じ姜維とともに魏領に侵攻、要害を守り郭淮に抵抗するも利有らず撤退。
263年、鐘会らが侵攻してくると姜維の援軍として沓中へ向かうも諸葛諸の侵攻の知らせを聞き陰平で防御のために留まる。
(この時は既に陰平太守・督広武からは外れて中央にいたと思われる)
一月後、ケ艾に撃破され退却してきた姜維と合流。
鐘会が関城を抜いたという知らせを聞くと漢寿まで引き返すと董厥・張翼らと合流し、さらに剣閣まで引き退き鐘会の大軍を防ぐがケ艾の進軍により成都が陥落した為降伏。
翌264年、洛陽に向かう途中病没。宗預伝によると261年には70歳を超えていたらしい。享年75歳前後。
演義では黄巾賊の生き残りとされてるがその可能性は低いと思われる。
経歴から見て事務処理能力も買われてるようで、単に私の認識不足だっただけかもしれないが、意外と士大夫層の出身だったのかも知れない。
>>740 魏に居た頃の功としては、隴西に駐屯して部下を手厚く待遇し、
異民族を慰撫して、甚だ人心を得た事。
それと、247年に郭淮の指揮下で羌族の大反乱を鎮圧し、
これに呼応して攻め込んできた姜維を撤退させた事があげられる。
張翼ほど事跡は多くないが、それなりに有能な将軍ではあったようだ。
>>741 意外どころか、思いっきり士大夫層の人じゃないの?
前将軍の主簿か、襄陽太守の主簿かは知らんが、
どちらにせよ主簿は文官職だ。
叩き上げの軍人じゃなくて、士大夫が就く仕事。
茂才の資格を蒋エンが譲ろうとしたあたりからも、
廖化はある程度家柄と名声のあった士大夫であることが伺われる。
廖化、関羽のパトロン説
>>742 夏侯覇について
いや、むしろ夏侯淵以来の世襲的職務として、西方の異民族対策および対蜀の前線で活躍し、
皇族の一人としても夏侯玄ほどではないが名声があったので、張翼よりは実績ははるかに
多いと思われる。
ただ、魏→蜀に移り、しかも司馬氏に対立した存在であるがゆえに、まともに立伝して
もらえなかっただけのこと。
廖化について
楚地方にいた廖氏に属し、廖立は武陵郡の廖氏、廖化は襄陽郡は廖氏の出身。
年齢的にも二人はほぼ同じぐらいだと言われている。
廖立が、曹操漢中侵攻直前にあった呉との荊州領土争いで呂蒙にあっさり長沙を
追っ払われて成都へ逃げたのに対し、
廖化は関羽とともに呉と戦い、捕虜になりつつも蜀で働くことを望んで呉から
逃げた。
呉の手から逃げた人物という点でも共通しているが、その逃げた動機と逃げ方の
違いが、才能だけなら上であった廖立を凌いだ理由。
伝に記載がなくても功績が大きいとする根拠は
職務が世襲であろうということだけ?
>>745 魏の最激務地域は、西方の国々や異民族との通商を行いつつ、時に反乱を異民族を鎮圧・慰撫し、
なおかつ度々侵攻してくる蜀を撃退する雍州・涼州地域。
魏も単に功臣の子供だからという理由で、能力のない人間にそんな場所を任せるほど
優れた人間がいない国じゃないと思われ。
夏侯楙…
夏侯楙は優れた人間だよ
軍事以外は
氏真公はサッカーもお上手。東海のファンタジスタだ!
751 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/30 12:39:56
楙ってモウ?ボ?
ボウとも読めね?
中国名の日本語読みってどこまで厳密なルールがあるんだろう?
無いよ、好きにルビふっていいはず。
カコウジュンもカコウトンも、どちらも正しい。
好きにルビ振っていいんじゃなく、日本語の読みで漢字を読んでるのな
漢音で読むのが原則じゃなかった?
曹植はソウチでもソウショクでもいいらしいけど
でもやっぱ通りがいい方使うよな
ソウチとかエンスイとか言っても普通の三国志ファンは「ハァ?」だろ
カンワ
ホウショウ
チョウゴウ
ラクシン
コク
ロフ
…だったら嫌!!!
今どきカコウジュンなんてよんでるのは吉川三国志くらい
横光もな。
…って、そろそろスレ違いの予感なので、蜀将の話でもしないか?
じゃ関索について
花関索伝
呂蒙と陸遜を討ったので名将
…史実どころか演義準拠ですら無いな
765 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/05 18:25:45
>>760 カコウジュンは萌え系美少女です。
カコウトンはその父。
あまりログ読んでないけど
このスレでは関羽の評価はどんな感じ?
意見が真っ二つ
名声で兵士が奮い立ち、敵が恐れるのでので名将とする精神論第一の大日本帝国陸軍タイプと
将としては功績が無いどころか大負けのので名将ではないとする海軍タイプがいる
ただ部隊長としての関羽の評価は白馬の一件もあり非常に高い
俺的には神様になった関羽は三国志最強
その海軍タイプが「名将」と認めるのは、いったい誰なんだろうね。
勝敗は兵家の常だし、関羽の場合、連携作戦をとるはずだった蜀政府の動きの
鈍さの問題もある。
そもそも「功績」ってなんだろう。
ゲームのやりすぎで将軍の功績は戦争だけと思ってないだろうか?
ほかの連中が蜀に入ったあと、独りで荊州を維持し続けただけでも十分功績に
値すると思うが。
正史を読んだ人の中に「オレは正史通だ」ということを誇示したくて、演義で
活躍するキャラ(諸葛亮、関張馬黄趙など)をバッシングし、演義で地味系キャラを
マンセーする人がいるが、史実・フィクションを踏まえても「名将」と定評がある
人物を、ちょっとばかり正史を読んだだけの知識で異説を主張するのも
どうなのかと思うな。
というか将軍なんだから功績は戦争によってのみ成り立つ
夏候惇が魏の名将スレで語られないのはそのため
そして戦争は戦場だけで行われるものではない
あと「連携作戦をとるはずだった」という確実な証拠は存在しない
もし関羽が動いたら即本部も連動すべきという意味で言っているのなら
それこそゲームのやりすぎ
そんなに連動が取れるなら荊州に司令官など必要ない
「独りで荊州を維持し続けた」ことは結構評価されている
ただ士人層との確執も認められているのでその統治にもケチはつく
さらにこの維持には魏対劉備陣営という状況ではなく呉も加わっているため
各国ともに手を出しにくかったことは考慮しておかねばならないだろう
さらにスレの流れも見えていないのではないだろうか
諸葛亮は将軍としてもかなりの高評価されているし
張飛をバッシングしているのはどちらかというと関羽ファンではないだろうか
張飛は正史でも活躍しており過去には張飛が関羽より上に置くべきという意見もあった
>>769 維持とは簡単に言えば
「現状を保ち続けること」
劉備が入蜀を果たした途端、速攻で三郡を奪われた関羽が
「荊州を維持し続けた」とは片腹痛い。
まして入蜀開始が213年で江陵陥落が219年、たった6〜7年程度。
関羽の北上は、本国との連携であるはずがない。
まず史書に関羽北上に際して、本国の動向の記述がない。
上庸や後方の麋芳等との連携すらとれてないのに、さらに難度の高い本国と連携など考えられない。
また本国(劉備)による軍事行動ならば、上庸や後方の麋芳等も積極的に動くはず。
さらに劉備は一年半に及ぶ漢中攻防の後なので、大規模軍事行動がとれたと考えにくい。
以上の理由から関羽の北上は、関羽の独断と考える。
勝敗は兵家の常ですか…便利な言葉ですな。
この言を以て救済されたいと願う将帥は、きっと関羽だけではないでしょうな。
なんかいつのまにやら禁断の爆弾が投下されたようだな・・・・
荊州時代には楽進や文聘に押されてる。
赤壁時の曹仁攻めでも別働隊を率いていたが李通に撃破られてるようだし。
まあ、楽進や文聘らは有能な将だからしょうがないといえばしょうがないけど。
やはり兵を率いて勝利したという記述がないのは弱いな。
ただ勇猛な部隊長としては魏の連中にも評価されてるから、劉備の指揮下では猛将としてかなり活躍したであろうことは想像に難くない。
スター選手必ずしも名監督ならず ってことだな
関羽自身は万夫不当と称される程の兵だったとしても指揮能力はあんまりなかった、と
姜維よりマシ
そこで姜維を出すなよ
そもそも
>>766が全てを承知の上での釣りにしか見えないぜ
というかこのスレの暫定順位では関羽3位になってたんだな
ここは名将スレじゃなく蜀将スレだからか
ならば蜀の夏候惇的な扱いで3位も納得できる
あまりログ読んでないけど
このスレでは姜維の評価はどんな感じ?
以降NGワード「あまりログ読んでないけど」
あまりログ読んでないけど
魏延のランクが高すぎ
あまりログ読んでないけど
蜀将スレのレベル低すぎ
あまりログ読んでないけど
家の鍵開けっ放しで来て鬱
劉備>>(勝利という越えられない壁)>>諸葛亮>>(総司令官という越えられない壁)>>張飛>>姜維>>関羽>>
>>(方面軍司令官という超えられない壁)>>魏延>>王平>>黄忠>>馬忠>>(司令官という越えられない壁)>>趙雲
あまりログ読んでないけど
糞スレっぽいね
>>771 あの時代に三国がひしめく最もホットな係争地を6〜7年維持しただけでも十分すごいと思うぞ。
当時の平均寿命が50ぐらいとすれば、評価に十分な期間だ。
与えられた幕僚のレベルを考えると驚異的。
それに、例え関羽の傲慢さ故にビホウと仲が悪かったにせよ、ビホウや士仁が戦わずして呉に降らなければ、
あそこまでの状況にならなかったわけで、それを全て関羽のせいにするのは無理があるんじゃないか。
関羽・荊州行政府と地方軍幹部・本国政府三者の連帯責任だろ。
>>788 劉備の入蜀開始が213年。呉が三郡を奪ったのは215年。
関羽が維持できたのは、たったの2年です。
6〜7年は関羽が一州を失うのにかかった年月です。
また幕僚には潘濬がおり、まるで幕僚レベルが低いと言わんばかりなのは如何でしょう?
それに麋芳らが戦わずと言うが、戦うための兵士は、
呂蒙の計略にかかった関羽が北へ連れて行っているのですが…
全てを関羽の責任とは言いませんが、責任が一番重いのは関羽に違いありません。
少なくとも、勝敗は兵家の常なんてのは、ちゃんちゃら可笑しいです
急に賑やかになったなw
関羽って張飛以下だね
そもそも蜀の五将は都督・使持節・仮節が少ないことをみても、魏や呉に将のレベルが
劣っていることは明らかです。
それだけの大権を与える前にみんな死んじゃったもんね。
>>789 潘濬(や同じく一緒に降った郝普)が、その後、そこそこ呉で出世したからといってどうだというの?
降った人間を厚遇するのは三国共通であり、潘濬が呉の侵攻に対して何も手を打てず、どんなに恥じた
様子を見せたところでそのまま降ったのは事実。
逆に、潘濬やその他の幕僚があなたの言うとおりスゴイ優れた幕僚なら、それらの人物が揃いも揃って
防ぐどころか何も出来ないぐらいに呉の侵攻がすごかったとしたら、関羽に手のうちようがなかった
としてもしょうがないことを逆に証明することになるだけだと思うが。
それにあなたの論理の根本的な勘違いを指摘すれば、潘濬は関羽の幕僚などではないよ。
魏のように都督が州の行政と外軍(州・郡の地方軍)を統括する制度を蜀は取っておらず、関羽は
内軍(内外軍、中央派遣軍)指揮官として、荊州の行政・軍事を担当する潘濬・士仁・麋芳ら「同僚」に
「協力を要請」することはできても、魏の都督のように「管轄区に命令」する完全な「指揮権」はない。
だからこそ、潘濬・麋芳らは関羽の「限りなく命令に近い要請」を「上司でもないくせにうるせぇ」と
不愉快に感じ、関羽と仲が悪かった。
荊州失陥の一因である、蜀の制度の曖昧さが理解できていないと思われ。
>呂蒙の計略にかかった関羽が北へ連れて行っているのですが…
それは演義や小説。
麋芳らは、軍資を供給するだけで州や郡の地方軍の兵を送るなどの全面的な援助はしていない。
>少なくとも、勝敗は兵家の常なんてのは、ちゃんちゃら可笑しいです
オレは
>>787だが
>>669じゃないよ。
そもそも蜀将に関しては魏に比べて正史の記述が少なすぎるのが難しいとこだよね。
魏将なら海賊退治程度のことまで書かれているから、戦歴を語るに事欠かないけど、
関羽なんて名将と言われながら、その名声を得ることになった経歴について全く記述がないし。
正史は魏を正統とする王朝に採用された史書であるってことを念頭において、
「史実」ではこうであるが「事実」ではないって割り切るのが正解でしょ。
>>792の言う節の件は、国家・軍の規模が魏呉に比べて小さすぎるってだけで、
将才には関係ないでしょ。不必要な権限を濫発するのは乱れのもとだし。
>>792 そういう反応が、
>>769が言う単に正史の字面だけ見て知ったかぶりの正史厨的な反応ではないかと思われ。
そもそも、蜀は魏の後追いという形で劉備が王→皇帝となっており、まさにその過程で五将は次々と
死亡したので、使持節・仮節といったものを受けた将軍が少ないのは当たり前。
ましてや、節や都督は国土の広い魏や長江を挟んで魏と接するため、防衛拠点の多い呉では当然の職務。
でも蜀は、漢中と荊州、それをつなぐ江州、南方ぐらいしか、都督を必要とせず、しかも漢中と荊州については
その地の獲得と喪失が入れ替わりといってよく、南方が特殊な場所であることを考えれば、蜀における都督の
存在は非常に限定されており、関張馬黄趙のなかで経験者が関羽しかいないのは当然。
魏呉に比べて優れている/いないの問題ではなく、地理的条件と国家形成のタイミングの問題。
正史には「関羽は傲慢な性格だったため南郡太守麋芳・将軍士仁の恨みを買っていた」と端的に書いてあるだけなので、個人として傲慢だったのか職分の上から独善的だったのか判断しにくいしね
>>794 どうも思いこみの激しい方のようですね。
なるほど私が潘濬を幕僚扱いしたことは、こちらに非があります。
しかし
>関羽は 内軍(内外軍、中央派遣軍)指揮官として、
>荊州の行政・軍事を担当する潘濬・士仁・麋芳ら「同僚」に
>「協力を要請」することはできても、魏の都督のように「管轄区に命令」する完全な「指揮権」はない。
この部分はいかがなモノでしょう?
あなたにお聞きしたいのですが、董督荊州事とは如何なる役職なのでしょうか?
あなたは董督荊州事は荊州の軍事に指揮権はないと仰る上、
関羽が荊州の兵の多くを北上させた(指揮権があった)という事実を無視するというわけですね。
>だからこそ、潘濬・麋芳らは関羽の「限りなく命令に近い要請」を「上司でもないくせにうるせぇ」と
>不愉快に感じ、関羽と仲が悪かった。
また、このような妄想は何を根拠にしているのですか?
私は無学にも、このようなことを記した史書を拝見したことはありません。
宜しければ、論拠となった資料をお教えください。
あと潘濬は、呉で副丞相とも言うべき太常にまでなっている上、
呂岱伝には、荊州の文書を預かっていたとあります。
中央の要職をつとめながら、荊州の政治の中枢にも携わっていたのです。
>>794対して、つっこみ忘れ
季漢輔臣賛に、麋芳と士仁は関羽に属した書かれていたと記憶しているが、
これは私の記憶違いなのでしょうかね?
>>799 おいおい、思い込みが激しいのはあなたのほうですね。
「完全な指揮権がなく、その曖昧さが蜀の制度の問題」といっているわけで軍事の指揮権はないと言って
ないでしょ。
ここで書き間違えを訂正しておくが、中央軍=内軍、地方軍=外軍という書き方をしているが、
中央軍=内軍(趙雲が督していた中護軍など)、外軍(関羽が督していた荊州軍など)、とそれとは別に
地方の太守・刺史/牧らが督していた地方軍(つまり麋芳は太守として南郡の郡兵の指揮官でもある)
の3つがある。
それを訂正したうえで改めて言うけど、関羽は荊州駐留郡(外軍)の指揮官、そして刺史を兼任していない
都督は太守や刺史の管理下にある地方軍については統括指揮権は非常に曖昧である。
史料は昔に読んだだけで具体的な書名はおぼえていないが、そのあたりの事情にちょっとだけ触れている
サイトをググってみると
http://www.geocities.jp/fukura1234/rekisi/heiseisi.htmがあるので勉強してみたら?
>あと潘濬は、呉で副丞相とも言うべき太常にまでなっている上、
太常は名目はどうであれ、三国時代の魏・呉・蜀いずれにおいても権限として副丞相などではありません。
それにその後の潘濬の事跡がどうであれ、荊州陥落時に何の役にもたっていないことの説明にはならないし、
潘濬が優れていたとするなら、その優れていた人物ですら何も出来ずに傍観していた荊州陥落の責任を
関羽一人に問うのはいよいよムリだということへの反論にもなっていないんですが?
>>800 季漢輔臣賛の原文は知らないけど、筑摩の翻訳ではそうなってますね。
翻訳が正しいとしても、それは楊戯のとらえ方にもよることでしょ。
蜀の軍事制度上は、刺史を兼任しない都督に地方軍の絶対的指揮権はないのは事実。
まったくないとは言わない。
そこがさっきから言っている蜀の曖昧なところ。
「関羽が荊州の兵の多くを北上させた」というあなたの主張について言えば、
正史の文面で引用するなら関羽伝に「麋芳と傅士仁は軍資を供給するだけで全力をあげて援助することはなかった」
とありますよ。
軍資に兵は含まれないし、麋芳らの地方軍の兵を関羽が根こそぎ引き抜いていったわけじゃないのは、この文面からも
明らかですな。
何度も言うが、地方軍と中央派遣軍(関羽の場合、派遣されたというより置いていかれたわけだけど)は別物。
794の議論の目標がちっともわからん
もちろん相手も相手で微妙だが…
幕僚のレベルが高かろうが低かろうが
幕僚の進言を無視した等でない限り関羽に全部の責任を問うのは無理
ただ決定するのは関羽なんで将才に疑問符が付くのは当然
あと潘濬を「降った人間を厚遇」とか言ってる時点で
蜀以外の事も少しは調べてねと言いたい
まったりやろうぜ。
そもそも「名将」なんて個人の主観にとるもので、定義がないのに口論しても
しょうがなかんべぇ。
名将観のが違う人には、張遼だろうが周瑜・陸遜だろうが名将じゃないわけで。
オレ個人でいけば、劇的な軍事シーンを演出できれば名将に入れてもいい気がする。
魏の「名将」于禁と龐悳を撃破し、その北侵が魏政府を震撼させ、魏・呉二カ国
共同でしとめたという点で関羽は「名将」に入れたいな。
「名将」=「大規模軍事行動を督戦して常勝」であるとかにしちゃうと、
張遼なんて前線の合肥のみの守将にすぎず、陳倉をまもった郝昭と同レベルだし、
楽進・徐晃は大規模軍事の単独トップに立っていないし、于禁は「名将じゃない
関羽w」に敗れ、張郃は「軍事があまり得意じゃない諸葛亮」に殺されたので
「魏のメジャー五将には名将が存在しない」と言い方も出来てしまう。
>>769の言う通り、「名将の定義とはなんぞや?」で各個人の思う主観の話に
陥ってしまうわけで、正史・演義合わせた平均的な名将観の世間相場として
「関羽は(おそらく)名将」という異論を唱えるなら、自分の考える名将の
定義とその武将の名前を挙げればいいんじゃないか?
>>801 お前、呉書読んだことある?
丞相が孫邵だった時の太常は顧雍。孫邵が死ぬと、丞相に昇進している。
尚書令陳化は太常兼任。
滕胤は孫権が病床に就くと、会稽太守から太常に任じられて、後事を託されている。
孫亮の外戚全尚は、太常と衛将軍を兼任し、録尚書事。
願譚は太常・平尚書事。
濮陽興は太常と衛将軍を兼任し、平軍国事。
太常で宰相格の人物がこんなにいる。
少なくとも、呉の太常は宰相クラスの地位だ。
>>801 あと、降った人間を厚遇って名目で高い官位についた例としては、
魏の車騎将軍黄権、車騎将軍孫壱、驃騎将軍孫秀、
蜀の車騎将軍夏侯覇らがいるが、
こいつらは降る前から高官だった上に、
降った後は地位に相応しい仕事はしていない。
他人の伝にもほとんど名前が出てこない名誉職。
それに比べて、潘濬は低い地位で降った後に、昇進して太常に至っているし、
実務もこなし、荊州に配置された宰相とも言うべき役割だった。
他人の伝にも名前にたくさん出ていて、
彼の活動が活発で、影響力も大きかったことが察せられる。
それを「降った者を優遇」と言う次元でしか見れないとは、
>>801は呉書を読まずに、三国志の正史サイトをいくつか読んだ程度の知識で
書き込みをしているとしか思えない。
>>803 よーするに、どっちも価値観が違うから永遠にかみ合わず、お互いの
言葉尻を捕らえて延々とケンカになるわけよ。
>>794は制度面でのスキルで相手を上回っているものの、主張を納得
させるとこまで行かない知識厨だし、
口論の相手のほうは潘濬粘着マンセーぶりからして「演義で評価が低く
正史で高い人物大好き」な典型的な正史厨。
そのうえ、
>>769や
>>804の言うとおり共通理解として「名将とは?」が
ないのでどんどん本筋から離れていってる。
ちなみに
>>794も書き方からして「呉書潘濬伝」を当然ふまえたうえで
ああいう書きかたしてるんでしょ。
潘濬が呉の荊州侵攻に対して何も出来なかったのは事実わけだし、
大した事績のない郝普だって廷尉になっているので、三国時代によくある
降将への厚遇制度が潘濬の出世のバックボーンにあったのは事実。
で、俺の意見としては「xxxは名将か否か」を争うより、「xxxに
名将・雄将・勇将・猛将・賢将・凡将・愚将・・・などの様々な称号を
おくるなら何がふさわしいか」のほうが、ケンカにならずにすむのではない?
関羽について言えば雄将だわさ。
808 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/07 22:14:54
関羽の荊州失陥は、劉備の集団がきちっとした組織を確立する過程の極初期の段階で起こった、って部分がかなり重要だ、ってコトだね。
794氏のおっしゃるとおり、関羽の指揮権が荊州の軍・政全てなのか、軍事全般なのか、それとも軍事部分でも荊州駐留軍(外軍)のみなのか、と言う部分で曖昧だし。
当事の状況が実際に曖昧だったとすれば、関羽自身は荊州の総責任者を自認し、潘濬・麋芳らは関羽が上席であることを認めつつも命令される立場ではないと思っている・・・。
そういった状況では荊州失陥は免れないでしょうね。
だからと言って、あの時期に荊州駐留軍の大部分を率いて外征する必要があったとは思いませんが。
>>805 その例はどうかと思うぞ。
呉は豪族政権ゆえに見かけ上の官職よりも実質がものを言うわけで、
例に挙がっている人物は全部呉で有力な豪族だし、太常よりも
その兼務する職のほうが実権のある職じゃん。
それに呉で無名のまま消えていった太常もいくらでもいるわけだしさー。
いい加減、潘濬にこだわるの止めたら?
反論として苦しいよ。
>>794も呉書をふまえての意見だろうし、じゃあその潘濬が荊州陥落時に
何をしていたのか OR そのスーパー潘濬ですら何も出来なかったのだから
関羽の責任を問うのはムリという突っ込みには、話逸らしたままじゃん。
ちゃっちゃと『名将』の定義をきめようぜ
>>809 つーかさ、あんた当時文官の潘濬になにをしろとw
だいたい荊州陥落だって関羽の北上が原因なわけで
>>807 俺は
>>794の制度面での知識は怪しいと思う。
魏の制度は、概ね同意だが、これは史料から伺えること。
しかし蜀の制度は史料から、彼の言うほどはっきりしない。
関羽生存時はなおさらね。
それなのに季漢輔臣賛に対して
>翻訳が正しいとしても、それは楊戯のとらえ方にもよることでしょ。
>蜀の軍事制度上は、刺史を兼任しない都督に地方軍の絶対的指揮権はないのは事実。
なんて言っている。
これはもう、史料を提示して貰うしかないと思う。
『呂布は名将か』と同じ議論の繰り返しだなw
814 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/07 22:28:46
>>809 お前、呉書読んだ?
陳化は汝南の人、滕胤は北海の人、濮陽興は陳留の人。
みんながみんな呉の豪族ではないわけですが。
さて、どんな反論を用意してくれるのかな?
名将の定義に関しては
夏候惇を名将として良いのなら関羽も名将だと思う
戦略・戦術面での大きな功績がなくても
組織が成り立っていくのに必要な重鎮であった将軍を名将と言うのなら
はっきり言って自分はこういうのが名将だとは思わない
名将じゃなくても功臣だと思う
あと
>>813 呂布は軍を率いて勝っている
関羽は部隊を率いてしか勝っていない
この議論を同一視するのはおかしいと思う
817 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/07 22:37:05
>812
蜀漢の場合、複数の州を確保していた時期(蜀漢建国前だけど)は、刺史ないし州牧は劉備が保持してるし、建国後は益州のみだから、刺史と都督の関係って整理のしようが無いかもね。
それでも劉備が健在だった時期の荊州における指揮・命令系統の曖昧さは>794氏の言う通り指摘できるとは思うよ。
本来、州刺史or牧が持つべき権限は劉備が持っていっちゃって、関羽にどの程度権限委譲がなされてたかは不明だからね。
襄陽太守・督荊州事だと、襄陽の軍・政と荊州方面の軍司令官ってトコだけど。ただ、節を持ってるんだよねぇ・・・。
関羽が節を与えられた時期って、その北上戦を仕掛けた時じゃなかったか?
だとしたら中央が最低でも追認した作戦ということになるが
記憶違いだったらスンマソ
>>817 いや曖昧なら、
>蜀の軍事制度上は、刺史を兼任しない都督に地方軍の絶対的指揮権はないのは事実。
なんて断言しないと思う。
少なくとも中央研究院の季漢輔臣賛には
糜 芳 字 子 方 , 東 海 人 也 , 為 南 郡 太 守 . 士 仁 字 君 義 , 廣 陽 人 也 , 為 將 軍 , 住 公 安 , 統 屬 關 羽
とある。統べるとまである。史料から考えるに、どう考えても麋芳と士仁は関羽指揮下。
少なくとも
>>794が史料を提示するまでは信用できないと思う。
それに
>>794の
>潘濬・麋芳らは関羽の「限りなく命令に近い要請」を「上司でもないくせにうるせぇ」と不愉快に感じ、関羽と仲が悪かった。
といったカキコなど明らかに史料不明の怪しいカキコが多すぎる。
>>794に告げる。早く史料を提示せよ。
>>818 いや節だけでない。鉞も加えられている。
つまり関羽が独断できるともいえる。
820 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/07 23:03:10
>819
>794氏は断言しちゃってるねぇ・・、そういえば。
季漢輔臣賛では関羽の指揮下ですね、確かに。
ただ、官職的に士仁はともかく、麋芳は関羽と同格の南郡太守で、(と言うか、実際に確保している地域の太守と言う点で上?どうだろ?)
完全な上下関係かどうか季漢輔臣賛の通りに思えないのですよ。まぁ、この辺は麋芳の心理的な部分に負うとこも大きいので何とも言いようがありませんが。
督荊州事の指揮権が本来州刺史or牧の管轄下の郡太守の上にも及ぶのか。
>>820 > 督荊州事の指揮権が本来州刺史or牧の管轄下の郡太守の上にも及ぶのか。
まあ法制的にも整備されてはいなかっただろうが、関羽としては間違いなくそのつもりだったろうな。
>>819 「ちゃんちゃら可笑しいです」「
>>794に告げる。早く史料を提示せよ。」
とか粘着質で相手にからむような書き方が、いかにもタクっぽいなぁ・・・
論議するなら、そんなケンカ腰にならんでも、もうちょっとマッタリできないか?
2chでのオタクの議論は、すぐに議論じゃなくて殺伐とした口論になるから
ヤダなあ。
>>794は
>>801で史料名はわからんと言っているのにどーしようもないじゃん。
一応、
>>801のあげているサイトに「内軍・外軍・地方軍があり、地方軍は
太守などの地方行政官に属している」「蜀の都督は一般に刺史を兼任しない」
といった似たようなことは説明はあるわけだし。
それに
>>794の軍事制度の説明は事実で、それをベースに説明した関羽と麋芳の
話は明らかにそれをベースにした推測でしょうが。
それに「史料を提示せよ」って判っててわざと揚げ足取りするところが、
オタク同士のケンカの悪いところだよ。
>つまり関羽が独断できるともいえる。
独断なんてないでしょ。
鉞節が意味するのは勝手に戦争起こしてもいいってことじゃなく、当然ながら
中央政府の大きな軍事方針・目標のもとに動くが、現地での采配・人事刑罰は
独断を許すってことで、大方針そのものを決めたり戦争を起こす権限を与えた
ものじゃないと思われ。
>>822 殺伐としてこそ三戦板
揚げ足取りと粘着攻撃こそ三戦板
マッタリしたければ世界史板にでも逝け
824 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/07 23:32:59
>822
>>つまり関羽が独断できるともいえる。
独断なんてないでしょ。
鉞節が意味するのは勝手に戦争起こしてもいいってことじゃなく、当然ながら
中央政府の大きな軍事方針・目標のもとに動くが、現地での采配・人事刑罰は
独断を許すってことで、大方針そのものを決めたり戦争を起こす権限を与えた
ものじゃないと思われ。
鉞節の意味はそう言う事でしょうね。
当事、蜀漢中枢は国家制度の確立に重きを置いていたようだから、関羽に戦争を指示したとも思えないから、関羽の独断でしょうかね。
だとすると、関羽は鉞節の授与、あるいは自身の立場を荊州の事に関して独断で行えると思ってた可能性が高いですね。
大きな勘違いだった事になるなぁ。
>>820 ええ、蜀の官制はあまりに不明すぎます。
>>820さんのご指摘である南郡太守には引っかかるところがありますね。
麋芳は外戚でもあるし、徐州時代からの劉備家臣ですから、
完全な上下とはいえないかもしれないですね。
ただ関羽北上時には、関羽は節と鉞を持っているので戦時下では指揮下だったとするのが、
現存する史料からは妥当と思うのです。
>>822 事実というのなら史料をどうぞw
かのサイトは史料ではないのよ。
俺は季漢輔臣賛を提示して、
>>794に対して疑問を記したのだから、
>>794(もしくは君)は少なくとも季漢輔臣賛と同等の史料を提示すべき。
議論というのは根拠を示したもん勝ち。
君は根拠も無しに、持論をぶちあげるのが議論とでも思っていたの?
蜀書は、その記述の少なさから魏書や呉書以上に史料を重視すべきと思うのです。
その記述の少なさから、いやでも行間を読まなければならないし、
魏書や呉書を虱潰しに読み解く必要もあります。
だからこそ行間を繋ぐ記述は、明確に提示すべきと考えるのです。
>>823 そんなこと言わないで、ひさしぶりに賑やかになったんだからマッタリしましょうぞ。
俺はしんどいので見学だが。
(;0w0)うー頭くらくらする。
インフルエンザにゃ気をつけろ>おまえら。
>>827 おいおい、馴れ合いモードに入るなよ腰抜け
2chなんだから、構わずもっと罵れ
楽しくヲチしてる人間の興をそぐな
キミたちレベルの低い議論をさせたらまさに
水を得た魚ですね
もの凄いスピードのスレの進行です
レベルの高い
>>829様から一発ガツンとかましてやってください。
ウム出迎えご苦労
よろしい。何から語ろうか?
まずは挨拶がわりに周倉を正史レベルで語ってあげてもいいがどうか?
ウムあれは異常だ 終了
というか将のスレでは全て異常な空気を察している
これは何かの前触れであるといっておこう
いい方が気に食わん
丁寧に頼まれれば決着をつける龍の一声を与えてやってもいいだろう
皆さん熱く語ってますね。私も三国志が好きで、演義から入ったもんだから
当然、蜀ひいき派です。
でも、いくら有名な書や物語が残っていようと所詮1800年も前の事を、あの
大きな中華大陸の事実を事細かく、現実通り記述されてるわけもなく、記述
した人もそれぞれの思考(中華思想、仏教、道教等)のもとに書いたのだから
今の我々が人物評価したとこで、それはすべて憶測にすぎないと思う。
現代の事項を200年後に書いて、その書物を2000年後に読んで判断するの
とは訳が違うと思うよ。
昔、昔の英雄伝説として受け止めるのが一番良くないかな?
諸三戦板の名無しの代表者、諸三戦板のコテハンの上に立つ御方、
三戦板における神の代理人、三国志演義と三国志正史、戦国時代、
信長の野望シリーズ、三国志シリーズ等光栄のゲームに関連する各スレと
それに書き込むコテと名無しの諸レスの支配者である
>>829様。
いと高くいと光り輝ける威光と、森羅万象を知り尽くしたもう叡智にて、
我ら地を這う哀れな民に、議論の決着を付けるレスを賜りくださいますよう、
あえて死を犯して、十万跪百万叩頭の礼を捧げ、お願いいたします。
>>839 それを言ったら討議スレそのものの意味が無い。
こうやって議論を交わすのも愉しみの一つだし
煽りは無視して続けてくれんかと思う。
>>842 ハゲド。
自分は、関羽の事よく知らないんで、読んでて楽しいっつーか、
興味深いですよ。
「蜀の都督は一般に刺史を兼任しない」 についてだけど、
例えば魏延なんかは「漢中都督に任命されると同時に、漢中太守を兼務させた」と
わざわざ別個に任命している記述があるわけで、
関羽と麋芳の関係がどうであったかまではなんともいえないけど、
制度的には「蜀の都督は兼務させられ無い限り、
自動的に兼任するものでは無いと読み取れると思ってみた。
844 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/08 07:39:53
>843
郡守と州刺史or牧との違い、国家制度が確立した前後の違い(あるいは複数州の有無)はあるけど、蜀漢の場合、都督と地方トップを分けてる例もあるね。
諸葛亮死後の漢中人事も都督・呉懿、太守・王平か。後に王平は兼務してるけど。
魏延・王平は任地での勤務が長いから、都督兼太守が通常なのかもしれないけどね。
まあそれ以前に218年の関羽に呼応した侯音の反乱が魏の注意を
荊州に向けさせる一つの陽動であり、
その直後、劉備が漢中を攻略するのに成功したわけで
劉備と関羽の連携が存在したことを示しているけどな
>>843 蜀では例が少ない魏の都督制に近い都督だよね。
魏延は、のちに涼州刺史(名目だけで実質は漢中太守)になっており、
また同様に呉懿が督漢中・雍州刺史、王平が漢中太守兼務になったこと
からも、漢中は最前線ゆえに行政・軍事が一体となった軍政状態にあった
ことがわかる。
屯田兵や多くの異民族がいたことも、行政・軍事一体化の原因のひとつ。
同じく異民族対策の必要だった南方にも、李恢などが都督兼太守・刺史
として軍政を敷いている。
江州は一応同盟国の呉と接する場所なので、都督はいたけど刺史兼務
じゃなかった。
だから、実際に江州都督の李厳が全権を求めて巴州刺史兼務にしてくれと
諸葛亮に要求したりしている。
>>794・796あたりが言っているのが、そのあたりの蜀の軍事制度について
ことなんだろう。
この蜀の、権限をもった都督を抑制する仕組みは蜀の地理的条件もある
のだろうが、諸葛亮ら文官が軍権と土地を両方握る強大な内部勢力が
生まれることを防ぎ権限を分散させたかったので、牧設置以前の漢の制度を
真似たと勘ぐってみることもできるね。
>>846 蜀は侵入経路は少ないから、大きな権限をもつ現地駐留軍司令官はそう沢山必要ないもんな。
国がちっちゃいから、李厳なんかが刺史兼都督になってしまうと強大な実力者として
国政を左右しかねないし。
廖化は漏れ的に好きな武将なんですが。
誰も指摘しないので指摘するけど…
>>801のここは間違いだよ
>関羽は荊州駐留郡(外軍)の指揮官、そして刺史を兼任していない
>都督は太守や刺史の管理下にある地方軍については統括指揮権は非常に曖昧である。
なぜなら軍事においての権限は、魏晋では都督>刺史が明白であり、
蜀においても刺史でない都督>太守は明らかで、刺史でない都督にも太守に対する指揮権があります。
これは魏書や晋書、蜀書の記述でも明白ですよ。
郭淮伝と陳泰伝の記事によると、涼雍諸軍事の郭淮に雍州刺史の陳泰が従っているし、
王渾伝では、揚州諸軍事の王渾に揚州刺史の應綽が従っているし
王渾伝と周浚伝では、揚州諸軍事の王渾に揚州刺史の周浚が従っている。
杜預伝では、荊州諸軍事の杜預に襄陽太守周奇が従っている。
また蜀書でも馬忠伝と張嶷伝において、ライ降都督の馬忠が越スイ太守の張嶷を従えております。
蜀においても刺史でない都督>太守の例は関羽のみではありません。
そもそも都督は、その掌握する地方の軍権を預かるのに対し、
刺史は、預かる地域の統治を主に職務とする。
刺史を兼任しなくとも、都督の軍事上の権限は変わらない。
それ故に
>刺史を兼任していない
都督は太守や刺史の管理下にある地方軍については統括指揮権は非常に曖昧である。
とは、何を根拠に刺史を兼任しない都督の権限が曖昧と主張しているのか理解できない。
結局のところ蜀の軍制が曖昧というのは、蜀が軍制が曖昧という特徴を持っているのでなく
ただ単に蜀がまだ出来て間もないから整ってなかったといえるんじゃないか?
だから「俺の方が偉いんですよキミ」「いーや俺が偉いに決まってんだろうがボケ」
みたいな混乱があって命令系統に問題があったってことかと。
督というのはそもそも戦争時の軍権を持つ者という成り立ちがあり、それが常に置かれるように
なって出来た地位なのでいわば臨時職。この軍権がその地域の平常時の軍権を持つ太守・刺史と衝突しやすいのは
当然で、その権利の衝突を避けるために都督兼太守・刺史という形が取られた。
だが都督と刺史を兼任するということはその権利がほとんど制限されないものになるので、時と場合によってその権力
を弱めるために「オマエは今回は都督のみだよ」みたいな制限があったってこと。
中央からすると権力の分散を計ってるわけだ。
>>849 間違ってるのは君だよ。
全然命令権がないとかそんなことは801は言ってない。
過去ログをちゃんと読みましょう。
ましてや都督制度がはっきりしている魏を例に出してどうすんだか。
>>852 いいかげん根拠を示したらどうなんだ。
正直、推論はもう飽きた。
>>刺史を兼任していない
>都督は太守や刺史の管理下にある地方軍については統括指揮権は非常に曖昧である。
これの根拠。
>>794が史料に基づく根拠を示したら、それで解決じゃん。
>>853 横やりすまんが
刺史を兼任していない
都督は太守や刺史の管理下にある地方軍については統括指揮権は非常に曖昧である
これに関しては史料になくとも普通に頭使えばわかりそうなもんだ
太守が平常時の軍権を持っているが都督は戦争時にそれに優先して軍権を持つという
成り立ちから権力のバランス自体が曖昧でお互いの権利は相反する部分がある
魏はすでに法制度が充実してたからそれら権力の区分けが出来ていた
蜀はまだそれらの区分けが曖昧だった(ひょっとしたらずーっと曖昧だったかも)
この二つの権力は区分けがしっかりしないと曖昧になりやすいというのは
頭使えばわかるでしょ
これを具体的に示す史料は確認していないが
>>846の「江州都督の李厳が全権を要求している」
というところが一つの根拠になるんじゃないかな
もし都督であれば権力の行使に不都合ないのであればわざわざ全権を要求はしない
といえるからね
ただこれどこに書いてあんのかわからんのだが・・
>>854 李厳は江州都督じゃなくて中都護として東方方面の軍事全般を仕切ってたんじゃないのか?
あと李厳は巴州の刺史にしてくれと要求したが、イコール東方の全権を握っていなかったとは思えないな。
ちょっと読み違いもあるかもしれんが、督永安の陳到、巴郡太守の輔匡らが護軍として李厳の指揮下にあったみたいだし。
中都護は実質的には大都督と同等な上に仮節は持っているわけで
それが、権限に不都合が一切無いのに、
巴州の刺史にしてくれと要求したとしたら、かなり不自然だとは思うわけだが…
誰か詳しい人、補完か補足か訂正してくれー
>>853 いい加減に証拠を示せって、なんで俺に言うんだ?
書き込みからして、過去ログでみんなにからんでいた人だと思うが
>>801以降、似たようなことをしてきたのに、また話を蒸し返して
なんなんだかなあ。
だいたい「証拠」ってなんだ?
>>801の挙げていたサイトにもそういった内容が書かれているし、
>>846や
>>854を読んで納得しないのであれば、相手が何を出しても
「推論だ」で片付けることが出来るし、逆にそれを否定する「証拠」を
そっちも全然出してないわけだろ。
これまで出た話やサイトの内容を読んで、外軍の都督に刺史を兼任させる
ことで、地方の行政官に対し絶対的命令権を持たすことが出来るが
そうでない場合は、優位にはあって命令に近い要請は出せても
命令系統における「上司」ではないというのは俺的に十分納得できる話だ。
第1営業部(中央軍)と第2営業部(地方官)があったとして、
第1営業部長(都督) >> 第2営業係長(太守)だが、かといって
全面的に命令することができるかといえばそうじゃない。
だから第1営業部長(都督)兼第2営業課長(刺史)にして、地方官の
命令系統上でも絶対権をもたすってことだろ。
季漢輔臣賛の「統屬關羽」自体も、広い意味で指揮下ととれても
関羽>麋芳という立場上の、意味合いもあるし、直轄かどううかはまた別だべさ。
関羽(都督)の実際の権限についての、証拠とするには不明瞭だと思ってみる。
…で、この話って大本は
「荊州を失ったか原因を、関羽1人を起因とするのは正しいか否か」
だったと思うんだけど、そちらはどうなんだい?
権限の話が一区切りついたら、そっちも語ってくれー
>>855、
>>856 >>407〜で似たような議論がすでに出てるぞ。
それに東方の軍事は江州都督のほう。
中都護は本来中央に属する官職で、永安に劉備が長期滞在し永安に出張政府が
できたため、そこにいただけで別に蜀の東方面を管理する官職じゃない。
誰かが特定の地方における全権を握ることは、軍閥を生むため危険。
そのため
>>846が言っているように、軍政の必要性がある場合にだけ、
都督に刺史として地方行政官をやらせているのは、名誉職を除く蜀の刺史
就任者(魏延、呉懿、李恢など)をみればわかる。
都督が刺史を兼任しない場合は、管轄区の地方行政官(太守、州の官僚)よりは
上位にはあるが絶対的な権限はなく、刺史を付加された場合にその都督は
地方行政官に対しても絶対的な優位をもつようなシステムなんだろう。
李厳も最前線・漢中の後備軍兼対呉防備の江州駐留軍の指揮官としてだけではなく、
その地域に対する絶対的権限が欲しくて巴州刺史の地位を求め、諸葛亮は
李厳が地方軍閥化することを恐れてそれを拒んだのだと思われ。
蜀将としての諸葛亮はどうなんだろう。
荊州に十分対策せず、これを失い
北伐は慎重・漸進主義でなんの成果もなく、
廖立を褒めては失敗し
李厳を褒めては失敗し
馬謖を褒めては失敗し
ちまちましたことまで人任せに出来ず、部下に注意されるような神経質な小心者
しょせんは上の下の人で、徐庶や石韜の魏における地位を見ても判るとおり
魏にいたら陳羣・鐘繇・王朗レベルの人物で、荀ケや司馬懿のようには
なれなかったのではないだろうか。
しょせんは鳥なき島の蝙蝠?
861 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/09 07:15:53
>860
三国時代を通しての名将とは言えないだろうけど、蜀漢の人物としては名将だろうな。
北伐の時、魏の明帝が司馬懿に対して「君じゃなきゃ対応できない」って言わせてるくらいだし。
>>859 > それに東方の軍事は江州都督のほう。
宗預や羅憲は永安都督(巴東)として赴任してた。
別に江州都督のみが東方の責任者であったわけではないようだ。
> 都督に刺史として地方行政官をやらせているのは、名誉職を除く蜀の刺史
> 就任者(魏延、呉懿、李恢など)をみればわかる。
蜀の刺史就任者は全部名誉職だよ。
益州しかないんだから。
あと関羽の時と時代は違うが黄皓に睨まれて巴東太守に左遷された羅憲は巴東に都督として赴任していた閻宇の下に付けられてるから一般に地方都督は地方太守に命令権はあったんじゃない?
>>856 >蜀はまだそれらの区分けが曖昧だった
曖昧だったという証明をして欲しいんだけど
これが李厳の記事。
移 屯 江 州 , 留 護 軍 陳 到 駐 永 安 , 皆 統 屬 嚴
皆 統 屬ともありますね。
少なくとも陳到等、江州や永安の諸軍は、皆、李厳が統べたことになっとる。
>>857 >命令系統における「上司」ではないというのは俺的に十分納得できる話だ。
第1営業部(中央軍)と第2営業部(地方官)があったとして、
第1営業部長(都督) >> 第2営業係長(太守)だが、かといって
全面的に命令することができるかといえばそうじゃない。
だから第1営業部長(都督)兼第2営業課長(刺史)にして、地方官の
命令系統上でも絶対権をもたすってことだろ。
はぁ、根拠のない史料的裏付けのない
>>794が書き込んだけの事なのに…
だいたい、三國志のどの記述を読んで、
>>857は上記ような判断をしたのだろう
俺は、
>>794の書き込みを読んでから史料を当たったけど、
刺史を兼任しないがため、軍事的権限が曖昧だったととれる記述は見あたらなかったよ。
>>849にあるとおり刺史でない都督の馬忠が太守の張嶷を率いたとの記述はあったがな
一方は史料より根拠を提示しているのに、一方は史料からの根拠は無しってのは可笑しいんじゃねーの
それとも史料的裏付けはないのに主張してるだけ?
ごめんなさい
>>856氏
>>854と打つつもりだったのですが間違えました。
>>856氏にではなく
>>854氏へのレスです。
あと
>>846氏に聞きたいのだが
>巴州刺史兼務にしてくれと諸葛亮に要求したりしている。
この内容の記述は、どの史料に記されてるのだろう?
俺は三國志から見つけられなかったよ。
もしかして華陽国志?
横槍ですまんが、華陽国志だと次の記事だろうか。
特に州刺史云々では無いような気がするけども。
[劉後主志]
(建興八年春) 嚴初求以五郡為巴州。
>>865 ありがとう
自分も今、確認しました
李厳伝にも、諸葛亮の上表にあったよ
而 求 以 五 郡 為 巴 州 刺 史
とありました。
李厳のヤロー、益州から五郡を切って一州としてって欲張りすぎだろw
徐庶の右中郎将・御史中丞ってそんなに低い官職か?
>>867 んなことないよ。
御史台は官吏の監督、監察などを司っており、弾劾する権利もあったはず。
御史中丞は、そのトップ御史大夫の次官だったと記憶してる。
もともと御史大夫が御史台の長だったが、黄初元年に司空と改められる事により、
御史中丞が御史台の長官となった…はず…
自分でも確かめてみるけど…誰か確認してください
あれだろ?
ポマイラって高い官職=掌握している軍の数だろ?
関羽の名声が異様に高い理由は何よ?
魏と呉と国境が接してて暴力的だから
名だたる敵将ぶった切ったからだろ
おまいらエロいな
>>867 蜀においては孔明が何でもかんでもやっちゃって
それほど機能を果たしてない官爵だったからでしょう
呉もあまり高そうには思えないけど
875 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/09 16:21:53
>>867 御史中丞は九品官人法では四品職。州刺史などと同格。
だが、魏の御史中丞は官吏の弾劾を行うだけあって、わりと出世コース。
一丁上がりのポストじゃなくて、今後どんどん上を狙う奴が就任するポスト。
例を挙げると、魏の有名どころで御史中丞経験してるのは、
司馬懿、魯芝、鮑、鐘ヨウ、鐘毓、杜恕、陳グン、徐宣、崔林、諸葛誕。
この中で栄達できなかったのは、御史中丞在任中に処刑された鮑と、
うざがられて幽州刺史に転出させられた後、失脚した杜恕ぐらい。
司馬懿・鐘ヨウは太傅、魯芝は鎮東将軍、鐘毓は後将軍、陳グン・崔林は司空、
徐宣は尚書左僕射、諸葛誕は征東大将軍。
しかも、年代が諸葛亮のやや上、初仕官から10数年で死亡、
(黄初年代に魏に仕官し、大和年間に諸葛亮が消息を知り、その数年後に死んだので、仕官年数は15年前後か?)、
家柄が低かった、などの事情を考えると、かなりのスピード出世。
曹芳の時代まで生きてたら、どう間違っても九卿。
うまくしたら、三公や尚書令あたり狙えたかも知れんポジション。
>>875 >御史中丞在任中に処刑された鮑
何で処刑されたのー?
>>876 曹丕を厳しく諌めて恨まれてた。
おかげで罰金刑で済むミスに対し、強引に死刑判決下された。
この時、「罰金刑で十分です」と言った官吏に対する曹丕の怒りっぷりは超理不尽。
「お前らも逮捕だ!」とわめき、重臣六人連名の上奏も聞き入れず、死刑執行。
スマソ。ちゃんと鮑伝読んだら、治書執法に左遷された後で処刑されたらしい。
御史中丞在任中ってのは間違いだった。
ちなみに左遷されたのも、曹丕を諌めて怒らせたから。
魏みたいに人材・名士・豪族などが数多いるのにそこまで行けたということはかなりの
才能があったと思っていいのね>徐庶
>>879 そう。
孔明はもうちょっと上にいけると思ってたみたいだけどな。
それで魏の人材の厚さは凄いとため息付いたってわけ。
魏略には徐庶伝ってあんだっけ?
蜀の名将はとりあえず大黒できまりだろ
魏に降って蜀滅亡戦に魏将として参加した句安って、句扶の子?
同族なのはたしからしいのだが。
884 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/11 00:24:46
⊂(゚Д゚⊂⌒`ツ≡≡≡
>>883 >同族なのはたしからしいのだが。
残念ながら確かではない
集解にも華陽国志にも血縁関係を示す記載は何もない
そもそも句安の籍貫地が分からないので、句扶と同族であるかすら疑わしい
ソースが分からんので何とも言えんけど
「同じ苗字で蜀に仕えたんだから当然同族だんべ」って感じの単なる憶測でないの?
でもそれは危険だよ
現代日本だって、イナカ行けば同じ苗字はあふれてるけど
それだけで親戚だ子供だって決めつけられないでしょ?
>>881 ある。ただし、魏略では本名の徐福の名で立伝されている。
厳幹・李義・張既・游楚・梁習・趙儼・裴潛・韓宣・黄朗と同じ巻に収録されている。
ほとんどがエリートコースから微妙に外れていたけど、
能力と品行でのし上がって行ったメンツがほとんどなんで、
徐庶もそういう人物として同時代人に認識されてたらしい。
(魏略を書いた魚豢は魏の郎中)
おお、趙儼と一緒か
>>886 ただ句氏は巴西郡漢昌県の豪族(句扶もその出身)で、
三国志中に他に句姓の人物が登場しないこと、
句安が将軍として蜀侵攻に従軍したこと、等を考え合わせると、
同族である可能性は高い。
>>889 ああ、予想通りソース無しの憶測か
同族……ああ、まあそうかもしれませんね
可能性はあるでしょうね。はい。
>>890 ん?確かに推測だが、十分史料に基づいた見解だぞ。
史学的には、こういうのを「ソース無しの憶測」とは言わん。
>>886=890
自分が憶測で他者を否定しておきながら、
良くそんな大上段から他者の論を一蹴出来るなw
具体的な記載が無い事は、賛否共に「可能性」から推論していくしか無いわけで、
後は、その可能性をどれだけ高められるかが要点だろ。
>>890 そういう不愉快な書き方はやめなよ。
ましてや「同族でない」も推測でしかなく、同じ推測としては「同族ではないか」と
考えるに十分な根拠はいくらでもあるし、書き方からして
>>889と
>>883は別人でしょ。
>>890に言わせると、雷緒・雷薄・雷銅も、郭嘉・郭図も、
陶{王黄}陶濬・陶侃も、朱治・朱然・朱積・施朔も、みんな全くの赤の他人なんだろうよ。
ソース(史料)を前提に仮定を構築し、推測するのはかまわない、というより、
しなければ学問にならない。一切の推測も不可となれば、史料の羅列にしか過ぎ
なくなるからだ。
もちろんよほどの根拠がなければ断定は避けるべきだが、
>>889 は別に断定して
いないし。
否定されるのは、前提自体を推測、仮定で構築して、その上にさらに推測を加えること。
まさに屋上屋の空中楼閣。
2chでもどこで、
>>892 のように「どうして自分はダメであいつはいいんだ!ズルイ!」
と言うのがいるが、そいつらはこの点がわかっていない。こんなの、大学で論文出したら
一発で不可だ。
>>896 どうやったら892を
「どうして自分はダメであいつはいいんだ!ズルイ!」と読み取れるんだ?
898 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/11 20:55:38
句扶と句安は同族である可能性がある、って程度でないかな。
せめて同郡の出身だったら可能性が高いと言えるかもしれないけど。
同郡でも県が違う可能性も高いからねぇ。
>>886=
>>890の、推測を認めず自分が常に正しく他人を見下したような書き方からして、
ちょっと前の議論でもみんなに注意されてた正史厨の
>>789と同一人物じゃないかな。
ここはみんなで楽しく話し合いをする場。
だれかの間違いを正すにせよ、その人の意見に反論・否定するにせよ、不愉快にならない
書き方でやろうよ。
900 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/11 21:33:51
902 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 18:54:53
劉備の将才について語ってくれ
破った将を見てると悪くはないと思うよ。
むしろかなり戦上手。
夷陵では負け過ぎたが。
黄巾や部隊同士の戦など、少数の人間で構成された奴等相手にはやたらと強かったが、
自分の率いる人数が多くなったら、途端に鈍重になって戦いの速度を欠いた感がある。
劉備が軍を率いて戦う時、大抵の場合一年以上の長丁場になってるしなぁ。
部将としては優秀、総大将としては決め手に欠けるって印象。
906 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 20:55:42
負けても立て直しが利くところも優れていると思う。
たった一度の敗戦で滅亡する武将も多いのだから…。
その点、負け方が上手く
引き際がいいってことだろうな。
漢高祖の風ありとは良く言ったもんだ。
>>904 その評だと曹操っぽいな
劉備は正攻法という感じ
人材鑑識眼はたいしたものだと思うよ
多分、曹操に次ぐ
人選でミスったのって孔明を重用したことぐらいじゃね?
孔明の重用がミスとか
孔明の重用はミスじゃないだろ
諸葛亮との関係がなかったら皇帝にはなれなかったからな
諸葛亮以外のコネ持ち士人が劉備になびくなんてまず考えられないし
>>912 意味がわからん。
諸葛亮なんて荊州サロンでも変人扱いで、ほとんどの人が相手にしていなかった人物。
大したコネなんて持ってません。
914 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/13 00:16:14
>913
馬氏、向氏、習氏等12氏の諸葛亮系の士大夫は劉備政権入りしてるから、十分なコネじゃないかな。
変人と言うよか、司馬徽系のグループが劉表政権に距離を置いていた、ってのが実情かと。
その司馬徽に対して、劉表が政権入りを何度か懇願してるから、司馬徽グループも一目置かれてたと思われる。
915 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/13 00:20:32
孔明の後は内政荘園ヒイ、軍事ギエンで良かったのに
容疑みたいな小物を重用してた孔明はアホだね
>915
終わりが悪かった香具師は実際以上に悪く描かれるものだから…
まぁそんなこと言っちゃどーしようもなくなるのだけども
どっちにしろよくも悪くも事なかれ主義的なトコがある蒋エン・費イじゃ魏延を御することは出来んかったろうな
>>916 費イは諸葛亮の存命中は魏延・楊儀の調停役として活躍していた。
「仕事に支障がなかったのはことは費イのお陰である」と
正史にも書いてある。
事なかれはヒイだけだろ
でもアイツは
>>917にあるように、部下としては必須の存在
919 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/13 00:55:22
>915
内政・軍事って分ける事自体が不可能なんだけどな。
>>914 それらの荊州士大夫が劉備についたのは、劉備という君主の魅力。
赤壁時の活躍は演義の中だけで、諸葛亮はその時点でなにもしていない。
なんで、いつのまにか「それらの人が従ったのは諸葛亮のおかげ」ってことになってるの?
単に地元民として、よく知っている地元の有名な人物たちに「劉備につけ」って声をかけたのが
いつのまに諸葛亮「系」というコネクションの存在になったんだ?
荊州閥ができるのは、諸葛亮が出世してからのことだろ。
それに諸葛亮が「自分を管仲・楽毅クラスの人間」と称し、それをみんなが認めず司馬徽のサロンからも
孤立していたことは正史にも書かれている。
司馬徽グループがどうとか関係ない。
演義の読みすぎ。
実際、司馬徽グループの連中って曹操に仕えているしな。
>>920 そういう君は『三国政権の構造と「名士」』(渡邉義浩)を読んで
出直してきなさい。
これからの三国志研究のスタンダードになる力作だ。
>>922 俺も
>>920に賛成だな
劉備に仕えるかどうかの決め手はあくまで劉備にある。
その時点の孔明は単に仲介役に過ぎん。
孔明に才能があれば、それは同時にカリスマ性を持つわけで
孔明ほどの人物が仕えるほどの人物ならおれもという思考も当然ありえると思うが
実際、孔明が役に立ったかどうかは別にして>923みたいな考えはおかしい
>>924 劉備に仕える前の諸葛亮に名声なんてないぞ。むしろ>920 の言うように、周囲から
相手にされていなかった。親交があったのは徐庶と石コウくらいだが、この二人も
司馬キのサロンでは疎外されていたことは正史の記述の通り。
才能はともかく、まず、出仕前の諸葛亮にカリスマや人望、広いコネがあったという
根拠を挙げてくれ。はっきり言って、正史にはその逆の記述しかないのだが。
>>925 実際、孔明が役に立ったかどうかは別にしてと言ってるだろ?
本当に頭のかわいそうな人だな
>>926 なんか変だよ、キミの話。
>>920・
>>923・
>>925の話は基本的に正しい。
使える相手は主君。
よって主君を見て、選んだと考えるのは正しい。
ましてや正史にあるとおり、当時において諸葛亮は「俺ってビッグ」と称する
傲慢な変人でわずかな人間が認めていたに過ぎない。
しかも
・才能があれば、それは同時にカリスマ性を持つわけで
→おいおいカリスマ性って何?光栄ゲームのやりすぎですか?
しかも友達ほとんどいなくてカリスマですか?
・孔明ほどの人物が仕えるほどの人物ならおれもという思考も当然ありえる
→だから、当時の孔明はそんなに認められた人物じゃない
よって誰も「孔明ほどの人物」などとは考えない
と全くの想像がキミの中でいつのまにやら既成事実となってるぞ。
とりあえずマターリ、な。
カリスマ的な人間は皆、友達なんていないだろ。
930 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/13 10:04:27
諸葛亮にコネがあった根拠か。
習氏は妹か姉が嫁いでること。ホウ氏もそうだな。
向朗の一族は向朗が諸葛亮の友人、と言うコネ。
そんな辺りかね。
劉表に仕官してた連中(向朗もだが)は劉表在世中は劉備に仕官することは出来ないだろうけど、劉表在世中に無官だった連中はそういった拘束は無い。
なら劉備の新野時代に仕官しても良いわけだけど、そうでないのは、単純に劉備の君主としての魅力だけで仕官したって事じゃないでしょ。
コネってのは立場とともに成長していくもんだ
たとえば変人で有名な人物がなんか重要(メジャー)な仕事
をしたとする
するとその昔の変人ぶりを知ってる人は
「あーあのアホかーへーいまそんなことやってんの」
となりただ単に知ってるという程度の関係が一気に親密に成りうる
要はその手のサロンに出入りしていたという事が大事
こういうことは大学卒業後によくあったりする
とかいって孔明を弁護してみる・・
どちらにせよ、彼らがしたことは紹介であり、それ以降は当人どうしの問題ってことでしょ。
例えば、ジュンイクや陳群に紹介された人物は、きっかけはどうであれ、最終的には
曹操をみて、「彼に仕えよう」と決断するわけでしょう?
逆にいえば、紹介されても気に入らなければでていく。ジュンイクや郭嘉などは、
最初は袁紹に紹介されたが、蹴って曹操に仕えている。
それから
>>931 はあると思う。つまり、実質荊州南部を支配した劉備仕えよう
としてもツテがない→そういえば昔司馬キのサロンに出入りしていた諸葛亮が
劉備に仕えていたな→たいして親しくなかったけど、同じOB(?)だ、話も通じ
易いだろう、紹介してもらおう。
諸葛亮としても、新参の劉備陣営の中に、自分の紹介(恩)で仕えるようになった
人物たち、つまり諸葛亮派閥が出来る事はメリットがある。
>>926 は、孔明にカリスマがあって、荊州人士が惹かれてくる
といいつつ、その孔明のカリスマを否定されて、根拠をあげろと言われると
「頭がかわいそう」と人格攻撃
934 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/13 14:47:20
>>913 劉備に仕える以前に名声が全く無ければ、黄氏との結婚もないと思われるのだが。
黄氏は一応、荊州劉表政権の重鎮である蔡i(ボウ)の姪だろう。
むしろ諸葛氏自体の名声・縁故が重要だったかも
兄は既に呉の重鎮だし
仕えない事で高まる名声というのもある。
隠遁的清流派気骨の士の名声ね。
仕えるまで名声を充電しておく。
>>936 だから、その名声が諸葛亮には無かったんだってば。
あなたの言うように、無官でも名声が高い人はいる。司馬キとか黄承彦、ホウ徳公
なんて連中のように。しかし諸葛亮には正史の記述を見る限りはそういったものは
ない。
劉備に仕えるまでニート。
学生時代に奇人だけど頭は良いっていう評判で、諸葛家自体がある程度瑾の功績で
有名だったことと、同門の同級生が順当に出世していったから、
「そういえば諸葛さんとこの弟さんは変わってるよ。バカか大器かわかんないけど」
みたいな風評だったんじゃない? 名声が高いというニュアンスとはちょっと違う。
後は仕官後の出世で、
>>931みたいな展開だったんじゃないかな。
>>937の言うように俗世を離れた賢者というのとはちょっと違うでしょ。
同時代に同じくらいの立場の人はいっぱいいて、その後功績を残さなかった人物は
名が残ってないということでは?
三顧の礼は正史の伝にもある
これは徐庶が劉備から尋ねるように勧めたのだから
諸葛亮の名声というより徐庶への信頼からか?
どちらにしろ、民政家・兵站統括者としての諸葛亮は確かに埋もれた逸材だったわけだが
>>938 おおむね同意だがニートって言葉が微妙にひっかかる
当時の気風として、俗世と距離を置いた立場の有志が
清談する者として社会からある種の敬意を払われた背景からすると
>>937の「俗世を離れた賢者」というとちょっと言い過ぎだが
それに近い捉え方はできると思う
ニートって就労意欲も学習意欲もない人間を指す言葉なので
引き篭もりとは言え勉学に勤しみ時期を待っている人間をニーとするのはおかしい
これは全くのでたらめである
>>940 当時の気風として、俗世と距離を置いた立場の有志が
清談する者として社会からある種の敬意を払われた
一つ言うと、これはもう少しあと。儒教が衰退し、玄学(道教)が広まった魏晋・六朝
から。諸葛亮の頃は、個人的に隠棲をよしとして世俗から離れる者はそれなりにいたが、
社会の風潮として尊ぶようになるのはまだ先。
ただ、ニートという言葉は否定するのはわかる。それだと、黄巾の乱の後、昇進の辞令
を無視して官職を捨てて故郷に引っ込んだ曹操もニートになってしまう。
諸葛亮の場合、書によっては「自ら売り込みにいった」なんて記述もあることだし、
少しでも自分を高く売りつけるために機を狙っていた、とか想像してみてもまあいいかも。
悪くみれば、「下積みなんてやりたくない」とか考えていたのかもしれんがな。
軍師中郎将にいきなり任官してたっけ?劉備幕下に入った孔明
>>942 清談自体は魏後期からだが後漢からすでに人物の地域での評判
を知る論議として世から一歩距離をおいた有識者の談義が
敬意を表される地盤はあった
人物評が中心だけどね
>>944 そういう人物評によって具体的に人材が登用されたりするようになると、あえて野にこもり自分が批評されるのを狙う
いってみればエセ隠者も結構いたんじゃなかろうかね。孔明は狙いまくって隠遁したエセ隠者だと思う。
>>945 孔明の場合は領主となった父親が住民の叛乱で殺されてる訳で。
市井の馬鹿どもと馴れ合うことが嫌になったと言うのは別に不思議な事ではない。
孔明の場合、立身出世のための打算というよりも身の処世だと思う。
>いってみればエセ隠者も結構いたんじゃなかろうかね
つ竹林の七賢
そういうのは晋代になって増えたね。自分を売る為というよりは保身の為だが
>>946 こらこら。殺されたのは「育ててくれた叔父さん」ですよ。
重箱のすみをつついて悦に浸る香具師ハケーン
間違いを指摘されたことがそんなに悔しかったのか?
951 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/15 00:17:38
新スレの季節
季節の新スレ
今日の新スレ
今月の新スレ
957 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/15 22:12:14
あげ
もう新スレはいらんだろ。
似たようなスレがあるし、ネタ切れでループしてるから。
スレを見る全ての人が以前のやり取りを知ってたり
過去ログを読んでるとは限らないんだし、
とりあえずスレはあってもいいとは思う。
本当に需要がなかったら落ちてくっしょ。
新スレ希望。
このスレでも一応新しい話題も出てるし、
ループとされてる話題も、結論出ないままうやむやだったりするし。
ワリと良スレだと思うんで、続けて欲しい。
970踏んだ人、新スレヨロ。
ある意味、隔離スレだからな。無いよりはあった方がいいかな。
ここでの結論を万能視する厨がうざいのだがなんとかならんか
次スレたてるならテンプレかなにかで対処きぼんぬ
>ここでの結論を万能視
たとえば、どんな結論だ?
むしろ俺の結論がこのスレの結論である。
>たとえば、どんな結論だ?
個別ではなく、過去ログすべての議論や暫定評価のこと
まぁ、このスレでの結論をもって
●●>>>□□とか断じられるのはウザイわな。
蜀の人物の戦争における実力功績を討議するスレ。
とりあえずただの煽り合いは抜きの方向で。
※このスレで出た見解や結論については、
あくまでもこのスレ内の結論であって、絶対的な答えではありません。
…とでも書いておくか?
なんか、小学生への注意みたいだけど。
>>966 このスレの議論を根拠にして人物の上下を論じてる奴ってそんなにいるかな?
俺はうざいと感じるほどは見かけないが。
いや、俺も見た事無いけど、場所によっては、居るのかなーって。
自分のブクマしてるスレに、そんなの湧いたらさぞかし嫌だろうと思うし。
アホみたいな配慮でも、しとくにこした事は無いかな…と。
まぁ、スレ建てする人にお任せするよ。
見たことも無い事態に思いをはせ、それに憂慮し対策を練る。
故人はそれを杞憂と言い表した。
>>967、
>>968 スレの主旨がもともと人物の上下を論じているわけだが。
> 1 :無名武将@お腹せっぷく :04/10/27 01:19:21
> 蜀の人物の戦争における実力功績を討議するスレ。
> とりあえずただの煽り合いは抜きの方向で。
:(略)
> 姉妹スレ及び暫定順位は
>>2-5辺り
> 4 :無名武将@お腹せっぷく :04/10/27 01:24:19
> ■■■名将定義ランク 将才、名声、国への貢献度■■■
> 1位 劉備
> 2位 諸葛亮
> 3位 関羽
> 4位 魏延
> 5位 姜維
> 6位 張飛
> 7位 王平
> 8位 黄忠
> 9位 張ギョク
> 10位 趙雲
> ついに暫定順位でますた!!!!!!!
> これ以上はループです。以後能力基準にうつりましょう。
最近ここが盛り上がらないせいで呉スレにまで関羽は名将とか書き込むヤツが湧いてきた
どうかここで順位の話をさせてやってくれ
ここは、正史を読んだだけの人が、正史に比べ演義での活躍が目立つ諸葛亮・関羽・趙雲をバッシングし、
馬忠・張ギョクをマンセーして、それに対する反論・疑問は「正史の本文に書いていないことは史実じゃない。推測でものを言うな!」と、
自分がいかに正史に詳しいかを誇示する場所だよね?
ぶっちゃけ諸葛亮はかなりマンセー
趙雲もそこそこ
記述がない関羽が名将として語られないのは当然
魏の夏候惇の件もあるし、いい加減将軍として関羽を語るのをやめれば
関羽がマンセーされる日も遠くないと思うのだが
正史だけじゃなくて、季漢輔臣賛の記載もけっこう重視されてるが
それに対する反論・疑問は「正史の本文に書いていないことは史実じゃない。推測でものを言うな!」と、
この一文を読むに、
>>974が哀れで仕方がないよ。・゚・(ノД`)・゚・。
そんなに推測で人物を語りたかったのか…と
哀れな
>>974のために、次スレたてるなら演義ありにしてはどうだろう
>>976 >>971のようなタイプ。
「名将とは何か」も定義せずに、(演義・正史取り混ぜて)一般的に「関羽は名将」といわれている世間相場に
異論を唱え、自分の定義こそが絶対であるかのようにとなえる、いわゆる「正史本文=史実/それ以外=空想」厨とかね。
もう蜀将系スレはほかに複数あるし、新説はなくループしかしないから新スレはいらないでしょ。
何か言いたい人は、2CHビューワー使って過去ログ読めば自分の言いたいことと同じ書き込みをいくらでも見つけることが
できるわけだし。
世間相場の根拠は演義
演義はフィクション
別に根拠がしっかりしてて名将というのなら別に異論はでないと思うが
要するに作り話と史実を勝手に脳内でごっちゃにしてる香具師が文句つけてるだけか
このスレに史料による根拠を求められたら逃走した関羽擁護者がいたなぁ
「常に俺は俺は正しい」と自分の主観を客観・一般論・絶対評価と勘違いしている香具師は正史厨に多いね。
特にもともと光栄厨・演義厨だった香具師ほど、正史を読んだとたんに正史厨になりやすい。
そして、正史厨と正史通な人は違うのだが、正史厨ほど自分は後者だと思っている。
まあ、オタだから自己中心なのはしょうがないんだけどね(´∀`)
>>982 そんな人物は確かにいるね。
でも根拠のない推測ばかり語る関羽厨よりはマシだろうね(・∀・)
>>980 過去レス読む限り、「関羽は俺的に名将にいれてもいいんじゃないか?」派は、個人的な
名将観を提示した上で演義ではなく正史を根拠に「名将でもいいんじゃないの?」と
言っているのに対し、否定派は「じゃあ名将とは何か?じゃあ誰をもって名将と言うのか」の
問いは無視して、ひたすらヒステリックに「関羽は名将じゃない」を繰り返している。
「名将」なんて主観や好みに過ぎず、人によっては「項羽も山本五十六もウキンも名将」
と定義するかもしれない。
肯定派が演義と史実を混同しているわけじゃなく、否定派が主観と客観を混同しているだけに
読めたな。
演義はフィクションという当然の事実すら認められないのなら
演義専門のスレいけば?
>>984 ……真性ですか?
過去レス読む限り、「関羽は俺的に名将にいれてもいいんじゃないか?」派は、個人的な
名将観を提示した上で演義ではなく正史を根拠に「名将でもいいんじゃないの?」と
この理屈なら関羽のみならず、どんな人物でも名将だよw
ようは関羽ないし自身の推薦する人物が、名将の範疇に含まれるよう定義付ければよいのだから…
関羽厨は…こんな屁理屈まで持ち出さねばならないのか…
991 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/17 17:59:40
関羽は本軍なきあとの荊州を7年間守った。
顔良・于禁という2人の武将を倒した。
中原に気脈を通じた者が多数おり、軍事行動の度に蜂起させて魏を揺るがせた。
水軍も率いることができるユーティリティープレーヤー。
以上の点から名将として間違いない。
992 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/17 18:01:40
では張飛は名将ではないと?
また姜維厨がうじうじわいてきてるわけね
しつこいネー
1000
1000
997 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/17 18:18:38
1001
1002
999 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/17 18:23:14
999
黄忠1004
1001 :
1001:
立 新 / ,、r'";;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`';,、 ,r';;r" _ノ と 何
て し L_ /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;\ ,';;/ ) 申 と
ね い //;;/´ `' 、;;;;;;;;,,l;;' /ヽ す 1000
ば ス /.,';/ ヽ;;;;,l;L_ .,,、,--ュ、 ';;;;;;;;;i か を
い レ l |;|┌--‐フ ┌----、、 |;ヾr''‐ヽ, ,、ィ'r-‐''''''‐ヽ ';;;;;;く !! 超
か ッ i |l ~~__´ 、 ``'__''''┘ |;;;;;l rO:、; ´ ィ○ヽ 'i;;;;;厶, え
ん ド l _|. <,,O,> 〉 <,,O,,> |;;;;;| `'''"/ `'''''"´ !;;;;;;;;ヽ た
の を ._ゝ'|. / 、 |; ,' / 、 |;;;;;;;;;;;;;レ、⌒Y⌒ヽ
う 「 | | ( ) .ソ l ,:' _ ヽ .|;;;;;;;//-'ノ
ヽヽ | _,ニ ニ,,,,,_ ', ゞ,' '"'` '" i;;;;;i, `' /
⌒レ'⌒ヽ厂 ̄ `| ,、ィ-‐''__'''‐-`,、 '' .', i、-----.、 `''"i`'''l
人_,、ノL_,iノ! . ', :i゙''''''''''`l' ` _人__人ノ_ヽ ヾ゙゙゙゙ニニ'\ ,' ト、,
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