1 :
無名武将@お腹せっぷく :
04/09/28 10:00:04 天才軍師?内政官?稀代の英雄?凡人? ここは諸葛亮という人物の実像に迫るスレです。 正史、演義、はたまた伝承などあらゆる面から考察します。 なぜ今語られるような人物像ができあがったのか? 天下三分のその後のビジョンは? 後継者問題は予測していなかったのか? その他様々な問題を議論します。 まずは天下三分のその後についてから皆さんの ご意見を聞かせてください。個人的には天下三分から全土統一は 考えていなかったと推察します。 では。
2ゲト
3 :
無名武将@お腹せっぷく :04/09/28 10:15:06
3
5 :
無名武将@お腹せっぷく :04/09/28 10:44:53
孔明の北伐は決して天下統一のためではない。ましてや長安を獲ろう などと考えるはずもない。北伐は、魏が本格的に蜀を攻めてくる前に その拠点となるであろう、漢中以北の一帯を確保しておこうというもの。 つまりは防衛なのだ。蜀の丞相になった孔明にできたことはひとつだけ、 圧倒的強者である魏の攻撃をなんとかかわし、蜀の命数を一年でもいい から延ばすことだけ。
6 :
無名武将@お腹せっぷく :04/09/28 11:06:41
白い大男
でもさ、出師の表には先帝の意向うんたら〜ってあるよね? ようするに漢朝の復興を体裁的には目指してたわけでしょ? 事実第一次から通じて北伐ルートには長期戦や輸送路を考えてキザンを選んでいた 訳だし、その先に長安、洛陽は見据えてたんじゃないの? 漢中・荊州と進んで北方を分裂して西涼を抑えるとかそんな方針もありなんじゃ?
ここって
>>4 の次スレなのか?
だいぶ語り尽くした感もあるのだが……
でも実際は何者なんだろうな 気象学に通じてたとか、演義だと結構オカルトにも手ェ出すでしょ? 横山の寿命伸ばすお祈り(呪い?)ってなんか出典あるのか? 会いてえな、本人に。 「で、実際んとこどうなの?」って。
と言いつつも蝋燭を倒す俺
「ああ!なんてことを!」
12 :
無名武将@お腹せっぷく :04/09/28 19:05:23
矢を魏から奪った時の策には脱帽、普通に天才だろ
13 :
無名武将@お腹せっぷく :04/09/28 20:53:35
>>12 たぶん釣なんだろうけど、真面目に答えると、
それは、正史にある孫権の故事を下敷きにした創作です。
でも演義って空城の計にしてもこの矢の話にしても
大局とはなんの関係も無いところで無意味に孔明の
天才ぶりを書いてるな。
自分の名声をも利用してたしね
そうなんだよね、演義の孔明ってかなり余計な知恵働かせているんだよね。 かなり「手紙」で人殺してるし。
周瑜筆殺とか王朗とか、あれはあれで話としては面白くもあるんだが、 とりあえずひでーよなw 演義は蜀が善玉っぽく書かれているのに、孔明だけやたらと手口が悪玉 参謀っぽくて浮いてる気がする。なんなんだ……? 贔屓の引き倒しっぽ。
17 :
無名武将@お腹せっぷく :04/09/29 21:38:52
18 :
無名武将@お腹せっぷく :04/09/30 10:26:45
>>12 矢集めは創作だし、正史では諸葛亮は赤壁の戦い以後に劉備の配下になっている。
弓集めは、アレがもし火矢だったら、確実に死んでたよ。まさに机上の策
孔明の功罪… @長坂では関羽を連れて劉備から逃走。曹操が怖くて逃げたのかw A赤壁…実は何もやっていない孔明だったりする。正史では。 B魏延を毛嫌い。しかしホウ統(くぅ〜自宅のパソコンなら漢字出るのに)は魏延を愛用。結果漢中太守にまで昇格。 C博望破の戦いで活躍したのは孔明ではありません。正史では。(孔明が仲間になる前) D夷陵の戦いでは戦闘回避、成都に引きこもる。結果劉備病死。 Eその前は関羽をケイシュウで見殺し。天才と呼ばれるならこれくらいの結果は読めるはずだ。ケイシュウ一国より関羽一人の方がよほど重い。 F孟達愛用…関羽を裏切った孟達だが、今度は魏を裏切り洛陽を強襲すると報告があった時、孔明は大喜び!宴会までする始末。魏延より孟達の方が信用できるのか?孔明よ? G相次ぐ遠征、そして国の荒廃。孔明が何度も北伐を決行したおかげで、国は疲弊。十分な戦力を得られないまま北伐を繰り返す。 HGの結果、姜維が真似をしてしまい、蜀は崩壊 I実は南蛮征伐は嘘で張ギョクの伝説をパクっただけであるw まだまだあるが今日はこのくらいで勘弁してやろう。
20 :
無名武将@お腹せっぷく :04/09/30 11:33:05
>>15 だから、陳寿が言っているじゃん、「臨機に弱いって」
理論はあっても勝負どころでいい策が出ないところは山下大輔に似ている。
>>20 孔明は机上の空論っていう言葉がピッタリ。だから同類の馬ショクとも気が合う。
ちなみに岡田も無策
22 :
無名武将@お腹せっぷく :04/09/30 11:51:41
要するに孔明レベルの参謀は魏に沢山いた。と言う訳で司馬懿の方が天才だったと
そういうことだ
■誠実・清廉潔白 ■高身長・顔は白いたまのよう ■嫁が不細工・セックスレス 真面目なのが取り柄です。 でも正直このスレいらないよな。
孔明が大器でないのはわかったが、じゃあなんで中国では三顧堂やら 博物館やら、衣冠祀やらができるまでの人気者になったんですか? 確かに正史を紐解くとたいした功績にあたるでもなく、むしろ粗さが目立つ。 孔明が演義通りの仁者だとすると逆につじつまが合わない事件が多々見受けられる。 それは劉備にしてもそうだが、なぜ孔明なんだろう。 孔明が書いたという兵法二十四遍て演義の創作? どんなことが書かれていたんだろう。 情報提供求む。
>孔明が演義通りの仁者だとすると逆につじつまが合わない事件が多々見受けられる どれ?
っていうか演義の孔明って仁者? そういうは劉備の担当に思えるが。
諸葛亮は、お堅い忠臣以外の何ものでもない。 徹して厳しく、恐い。 でもそこがいい。
29 :
無名武将@お腹せっぷく :04/09/30 12:49:28
諸葛亮はAB型と予測
孔明は演義によって仕立て上げられた英雄なだけで、正史から見れば一回の政治家に過ぎない。それが圧倒的な人材不足のため、軍師になったのだ。 軍略が苦手という孔明の一般的な考え方が演義によって完璧に消されているのが悲しい話だ。 小泉総理のように口先だけで有名になったのだろう。
32 :
諸葛亮 :04/09/30 16:09:10
これが真実だ。 武力52 統率32 知力81 魅力63 政治82
演義で知った「スーパー軍師孔明」 ↓ あれ? 陳寿があんまりいいこと書いてないよ ↓ 大したことないじゃん孔明なんて みたいなタイプが多いのかもわからんね どうかと思う
政治力はもっと高くてもいいかな?92位で… 知力は79が限界。 義理・・・6 野望・・・15 相性・・・120 冷静・・・3 勇猛・・・5 マスクデータなんかもつけてみたw
>>26 軍法に厳しい孔明も幾度かの軍法違反を見逃している。(法正他)法正伝より
入蜀後益州出身の人間を何人も登用しながら、派閥色の強い文官などは冷遇している。
中国の博物館に行った時のこと、当時の魏との国境近くの農村が焼き払われた
との話を聞いた。戦闘においての火攻めによる延焼らしい。
残念ながらソースはないが。
37 :
無名武将@お腹せっぷく :04/10/01 10:56:33
@長坂では関羽を連れて劉備から逃走。曹操が怖くて逃げたのかw >荊州の名士で故劉表の親戚である孔明以外に荊州兵を掻き集められる人材がいなかった。 A赤壁…実は何もやっていない孔明だったりする。正史では。 >呉軍の都督が独力で戦うって決めてたから仕方が無い。勝手に手を出した方が問題になる。 B魏延を毛嫌い。しかしホウ統(くぅ〜自宅のパソコンなら漢字出るのに)は魏延を愛用。結果漢中太守にまで昇格。 >孔明もかなり魏延を重用してるが。あと漢中太守に抜擢したのは劉備でホウ統はとっくに故人。 C博望破の戦いで活躍したのは孔明ではありません。正史では。(孔明が仲間になる前) >それならそもそも孔明の功罪に数える必要は無い。 D夷陵の戦いでは戦闘回避、成都に引きこもる。結果劉備病死。 >成都の留守を命じられているので夷陵まで出兵するのは命令違反。というか謀反。 Eその前は関羽をケイシュウで見殺し。天才と呼ばれるならこれくらいの結果は読めるはずだ。ケイシュウ一国より関羽一人の方がよほど重い。 >あれは関羽の自爆。江陵と成都は離れすぎてて関羽の裁量に任せるしかなかった。あと一郡(の半分)より一部将の命の方が重いなんてありえない。 F孟達愛用…関羽を裏切った孟達だが、今度は魏を裏切り洛陽を強襲すると報告があった時、孔明は大喜び!宴会までする始末。魏延より孟達の方が信用できるのか?孔明よ? >上庸・漢中からの同時出兵によるニ方面作戦は蜀漢にとって空前絶後の大チャンス。成功確立も長安強襲なんてギャンブルとは比べ物にならない。 G相次ぐ遠征、そして国の荒廃。孔明が何度も北伐を決行したおかげで、国は疲弊。十分な戦力を得られないまま北伐を繰り返す。 >持久戦+軍屯で深刻なまでの疲弊ではなかった。姜維みたいに国力以上の軍勢を掻き集めてた訳じゃないし睨み合いに終始するケースも多かった。 HGの結果、姜維が真似をしてしまい、蜀は崩壊 >上にも書いたが孔明と姜維じゃ北伐方針が全く違う。 I実は南蛮征伐は嘘で張ギョクの伝説をパクっただけであるw >これも孔明の功罪ではない。文句なら演義の作者に言え。
なんというか…ここまでくると
>>19 の恥ずかしさが浮き彫りになってる気が
いや、
>>37 のツッコミも正確とはいい難いけどさ
でもまぁ、横光を読んでて、カコウトン軍3万を瞬殺したときはスゲーと思ったね。 ハクボウハ→赤壁→ケイシュウ南部平定→蜀侵略→イリョウでの石兵八陣 までは、こいつがいれば劉備軍無敵じゃん、なんて思ってた。 孟達寝返りの時にシバイにしてやられてから、段々と大したことなくなっていったな。
>>39 いや、演義に限っては孔明は死ぬ間際まで凄かったと思うが
・孟達
・馬ショク
・李厳
・貪官汚吏
・雨
・司馬イの兜を取って大喜びのリョウ化
・不平タラタラの魏延
・あっさり撤退する呉軍
と世界中がグルになって孔明の足を引っ張ってるイメージだ
>益州出身の人間を何人も登用しながら、派閥色の強い文官などは冷遇 益州の人間を何人も登用するのは当たり前だし 派閥色の強い文官を嫌がったとしてもおかしくないんじゃねーの
ここは賛否両論スレなので、孔明支持派も意見を聞かせてください。 今日の孔明像が出来上がるまでには何かしら理由もあると思うのです。 他国宰相にはなかった特別なものがあっても不思議ではないと思います。 単に劉備、関羽などの人気キャラの影響で蜀=正義ではなかったのではないかと。 また議題にも上がっていましたが法正に劣る才能であったとか、地位は法正より 低かったとか。この意見を覆すような新事実?!正史にのっていないような伝承 でも構いません、今の孔明像を形成する起因がしりたいのです。
誘導ありがとう。入ってみたら戦国・奴隷スレになっていました。orz
奥さんがブサイクだったって本当?
46 :
無名武将@お腹せっぷく :04/10/01 12:19:16
まぁ何だかんだ言ってもさ、魏を乗っ取る布石を敷いた司馬懿の方が天才。孔明は発明家であり内政官だな。有能な軍略家ではなかろうよ。
らしいよ。でも写真があるわけじゃねえからなあ。 インド人だって説は本当?
マジ
49 :
無名武将@お腹せっぷく :04/10/01 16:28:50
そらインド人もびっくりだな
50 :
無名武将@お腹せっぷく :04/10/01 19:59:00
>>18 向かってくる船に火矢を打てなんていう愚か者が敵武将だったら曹操倒すのどれだけ楽だったか・・・。
51 :
無名武将@お腹せっぷく :04/10/02 01:02:31
自陣に向かってくる船に、火矢を射かけるなんて、ただの自殺行為だな。
饅頭ネタは演技の創作?
重複スレ 削除依頼を出しておくように
>>4 に速やかに移行してください
54 :
無名武将@お腹せっぷく :04/10/02 12:40:25
53 張飛が断酒するぐらい無理
演義孔明の外見のイメージって羅貫中が劉基をモチーフに作り出したんでしょ? 本当は張飛みたいなやつかもしれない。
黒くて大きくて・・・
>>59 白いから。
大きいけど白いから。
悔しいけど笑っちゃったから。
俺の負けだから。
許してだめぽ。
61 :
無名武将@お腹せっぷく :04/10/04 18:37:27
>>58 劉基が「今孔明」と呼ばれていたのは事実。
だが、57みたいなことはない。
羅貫中が劉基から格好を拝借したのも本当ですよ。
とりあえず、劉基は凄いと。 今孔明・・・竹中半兵衛?
63 そりゃ日本での話だな でもウケタから逝ってヨシ (; ´Д`)
歴史に名を残して現代でもこれだけ名が通ってるんだから、 希代の英雄でいいと思うけどな。 演義の誇張で広まってる分も大いにあるだろうけど、 それだって身の無い人物だったらないわけだしさ。
66 :
衝撃!日本に孔明の子孫が居た! :04/10/06 19:12:48
松本賢一(まつもとけんいち)昭和45年(1970年)12月2日生まれ(ドラミちゃんと同じ誕生日♪)
http://www.rakuten.ne.jp/gold/kankokunori/matsumoto.html 1970年 兵庫県尼崎市に在日韓国人三世として生まれる。
が、本人は未だに韓国に行ったことがないし、興味もなく、バリバリの大阪人だと思っている。
1995年 阪神大震災で、ボロボロのマンションが半壊しさらにボロボロに。
親子共々、5時46分には仕事をしていたため、事なきを得たが、全壊に近い半壊のため、
小学校で半年間の避難所生活を送る。配給があったため、ご飯代が浮いて大助かり。
そんな時期に、大学から学費納入を迫られ、学生課に抗議(ケンカ?)しにいく。
「関西学院大学では被災者は学費免除やのに、この大学は被災者から金取るんか!」と
猛烈な抗議の末、特例中の特例で学費が半額になる。(それでも半額かい!)
兵庫県、尼崎市などからの義捐金を集めて、学費納入。
いま、帰化申請中なんです。
日本で暮らしていこうとすると、やっぱり日本籍の方が便利なので。
いま33歳だから、人生の半分を韓国籍で、残りを日本籍で暮らすことになりそうですね。
ナニジンとかって考え方は自分の中に存在しないから、日本籍ですって言われてもピンと来ないなぁ(笑) 』
『日本籍になってまずしたいことは・・・なんだろう。やっぱり選挙に行くことかな。
僕ら、税金払っているのに選挙権ないもんね。大半の日本人が知らないんだけど。
投票したい人がいなかったら、投票用紙に「マツモトケンイチ」って書こうかな(笑)
僕のおばあちゃんは大陸から日本に強制連行で日本に来たんですが、名前が「諸葛李順」っていうんですよ。つまりおおもとは三国志に出てくる、天才軍師、諸葛亮孔明で、僕はその子孫みたいです。
歴史に名を残すご先祖様がいらっしゃるけど、こんなバケラッタな僕で良いのかなっておもっちゃいますけどね(笑)
【楽天市場】リーさんのパリパリ韓国のり
http://www.rakuten.co.jp/kankokunori/owner.html 合資会社リーフード
http://www.rakuten.ne.jp/gold/kankokunori/index.html
>>66 読んだけど、多少(苦笑?)笑ったというころは
『ドラミちゃんと同じ誕生日♪』
ってところだけだな。
まぁはっきりいってスルーして無問題。ってかスレ違いか?
まず、諸葛亮は有能な軍略家であったかということを探るのは、ちょっと難しいな なぜなら、諸葛亮がかなりのハンデを背負っていたからだ。 @ 蜀と魏の国力・兵力の差(国力も言うに及ばず、兵力は10倍以上の差があった) A 人材の違い(蜀と魏では、優秀な人材の数に差がありすぎる) B 「攻め」と「守り」では「守り」のほうが有利 C 彼の戦法(「勝つ」ことよりも「負けない戦」を心懸け、何事にも慎重に事を運んだ) これらの点を踏まえると、 簡単に、「戦があまりうまくなかった男」だけで割り切れないと思う・・・
軍略家としても十分に有能だろ。 ただ超一流ではないだけでさ。
高島俊男の『三国志きらめく群像』読んでショック受けた。 今まで孔明に好意的なものばっかり読んでたってのもあるけど、毒効き過ぎ。 孔明は自給自足の晴耕雨読生活をしてたと思ってたのに(ノД`)
>>71 盲目的諸葛亮ヲタだが、その本でショックは受けなかった。
むしろ自然だと思ったし、もっと孔明が好きになったよ。
>>72 孔明の出自が怪しくて、劉表のところに仕官しようにも出来なくて、
妥協の結果うらぶれてる劉備に仕えたのだろうってあたりはどうですか?
モレは最初に読んだ本の孔明像を長年暖めてきたのですが、
諸葛氏は山東の名族で、後に「蜀はその龍を得、呉はその虎を得、…」という言葉も
名族である故にそれぞれの国で仕官して高い地位に昇ることができたのだろう、って評込みで覚えたし、
就職難学生のような孔明像はちょっと受け入れがたいものが……
それはさておき孔明は劉表に仕官しようにもできなかったというのは実際どうなんでしょう。
一応地元の名士が縁談を持ち込むくらいの評判があり、
黄承彦の娘を貰ったことで劉表にコネもあったと思われますが。
やっぱり自分の意志で仕官せずにいたというのが本当ではあるまいか。
74 :
無名武将@お腹せっぷく :04/11/06 03:09:00
出自の真実がわからなければ、なんとでも言えるじゃん
>>73 72じゃないけど、私もああいう孔明像もアリだと思う。
名族ってのがホントでも、彼らくらいの名族ならごまんといただろうし、それ以上の名族でも仕官
をしなかった人もしたくてもできなかった人もいただろう。政権が安定
してきた三国時代ならともかく、孔明が玄徳に仕えた時点ではそれほど
一族の名だけで仕官するのは難しかったと思われ。
ってか、名族だったから高い評価を得たって方が失礼な話だし。多少の
名族ってのは必要条件であって十分条件ではないから…
劉表に仕えなかったのは叔父玄の死に方も多少関係があるかもだけど、
少なくとも、劉備に仕えた以上はそこで頑張ろうとしてたんだから、
その方が生き方として肯定できる。
蔡氏の邸宅は蔡洲のほとりにあり、家屋の造りは非常に立派で四方の垣根はみな青石でできていた。 まげを結った婢妾は数百人もおり、田地は別に四・五十ヶ所もあった。 後漢末期、蔡氏一門のうちでも蔡諷がもっとも勢力があり、彼の姉は大尉張温に嫁ぎ、 長女は黄承彦の妻となり、末女は劉表の後妻となった。 蔡瑁は末女の弟である。蔡瑁は豪壮な性格で自尊心が強かったという《劉表伝集解》。 >>73 劉表伝にあるとおり黄承彦の嫁は蔡諷の長女とあるから その黄承彦と蔡諷の長女との間に生まれた黄月英を嫁に迎えたのだから 蔡一族とは縁者になるのだから仕官を望めば劉表勢力で大きな力を持つ 蔡瑁にでも頼めば仕官できたと思う。 やはりなにか考えがあって仕官はしなかったのだと自分も思う。
何よりも肩書きを重視する時代なんだし、 地方役人ぐらいなら名族ってだけでなれるはずだったと思うが… そりゃ勢いのある勢力で高官に取り立てられるには、 それなりに中身も必要だろうけどさ。
名付け方から考えて諸葛珪の子ではない (珪・瑾のグループと、格下の別グループである玄・亮を混同して、誤りを記載) ↓ 家柄重視の時代に家の後ろ楯がないので就職難 だから、「27でやっと見つけた就職先が地方のどさ回り集団(劉備配下) というのも納得がいく」という話だった気がするけど、 「諸葛珪の子じゃない」あたりを詳しく書いてる文献って他にないの? 教えてエロい人。
瑾と亮は腹違いの兄弟ってだけじゃなかったの?
主要人物の系図 「横山光輝 三国志辞典」より 諸葛氏系図 諸葛豊 │ │ 〜〜〜 〜〜〜 │ ┌────┤ │ │ 諸葛玄 諸葛珪 │ ┌────┼──────────┐ │ │ │ │ │ │ 諸葛誕 諸葛均 諸葛亮 諸葛瑾 │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │┌────────┤ 諸葛[ 青見] 諸葛瞻││ │ │ │ ││ 諸葛恪 │ ┌───┤ 諸葛喬 │ │ │ 諸葛恢 諸葛京 諸葛尚
>>78 名づけ方から言って諸葛珪の子ではない、までは
言ってないでしょ。あてにならない、というだけで。
「演義その他の俗説の通り、諸葛珪の実子が諸葛亮・諸葛瑾・諸葛均である、というのは
中国の慣習上、親子で偏旁を揃えることは考えにくいため、
諸葛珪と諸葛瑾が親子である可能性はかなり低い。
むしろ、諸葛珪と諸葛瑾が同世代の人間で、
諸葛亮と諸葛均はそれより下の別世代と考えたほうが自然である」
要するに、
古代中国おける人脈図はあんまりあてにならない、
少なくとも現代日本人の感覚で捉えてしまうと大間違いを犯す、
ということが言いたいのだと思われ。
諸葛亮の家系について学術的な見地で検討している和書は、
「きらめく群像」以外オレは知らないなー。むしろあれば知りたい。
中国の学者とかの論文ならあるんだろうけど。
>>80 そりゃ演義の家系図だ。
劉備も演義準拠なら立派に漢王朝の血統とつながってしまう。
あーそうか。 >諸葛珪と諸葛瑾が親子である可能性はかなり低い >諸葛珪と諸葛瑾が同世代の人間 ということは諸葛瑾は諸葛亮の実兄じゃないかもしれないというわけで、 それをその本で読んだ時ちょっとびっくりした。 諸葛亮の家系について書かれた文献は日本じゃなかなか見つからないか。 出自が謎なだけあって、諸葛亮は実在しなかった説をとなえてる人っているよね? どんな論拠があるんだろう。また教えてエロい人。
「きらめく〜」は面白いけど信憑性には欠ける、という話を聞くんだが 本当のとこはどうなのか…まあ、俺は未読なんだが。
とりあえず何でも疑ってかかる電波な人なんじゃないだろうか。 トンデモ本も結構多いし、本を鵜呑みにするのも危険な悪寒。
オレは和書として入手できる範囲の本としては 「きらめく群像」はいい本だと思うよ。 「きらめく群像」を参考資料として三国志の本を書いてる人もいるぐらいだからね。 信憑性に欠けるというのは、 昔歴史板あった正史三国志書籍スレで 珍説が多い、という批評を下した香具師がいて、 それが定説になったから。 冷静に過去ログ読んでみると分かると思うけど、 勘違い&先走って珍説扱いしてる香具師も多いよ。 確かにちょっとやり過ぎなとこもあるかなー、とは思うけど、 それならと言って、他にマトモな正史解説本があるわけでもないんだよねー。
諸葛珪の字、子貢と諸葛瑾の字、子瑜の文字の一致からも親子ではないのでは ないかと言われてるね。共通文字を親子で入れて良いのは「之」って字だけだ とか…ちょっと、ソースが不確かなんだが… (それで陳舜臣なんかは珪の字を君貢としてる) なんか、瑾・亮の非兄弟説と言えば、影の旋律を思い出すなぁ。 しかし、素直に正史を読むと、やっぱ瑾が叔父だとかは考えにくいんだが、 そこは感覚の違いなのか。
>>86 説としてはおもしろいけど、親と子で偏旁を共有することは
実のところ珍しくないし、(曹操と曹拠とかほかに沢山例はある)
有力な説というわけではないみたいだね。
まあ、字が子貢であるならその可能性も捨てきれない。
まあ、、諸葛瑾が蜀と通じているのではないか、と
散々疑われている描写があるのを見るに、
腹違いの兄弟、もしくはそれなりに近い
近親関係にあったとみるのが自然だと思う。
もっとも、このあたりは中国の風習によほど通じていないと
なんともいえないけど。
三国志の時代に限って言えば、敵味方に別れて争っている一族って
(劉家や袁家の内乱のような主体的な立場という意味ではなく、
日本の真田一族みたいな、あくまでな家臣的な立場で)
諸葛氏のほかにあまり例がないからねぇ・・・。
南蛮征伐で孔明の功績というと、卑水で高定元の軍勢を大破してその首を斬ったことかな。 華陽国志の記述だが、普通に軍才はあったと思うな。 朱褒は結局もとの太守の職におさまったわけだが、その後はどうなったんだろ?
>>87 >>敵味方に別れて争っている
他には荀ケと荀ェの兄弟とかかな。
ホウ悳、ホウ柔
91 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/04 09:55:08
92 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/08 01:05:47
93 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/08 16:39:15
孔明はあくまで政治家であって、軍略については有能とは言えない。 まず、赤壁での同盟締結。これは軍略というより政略であり、赤壁で魏が大敗したのは周瑜の功績+疫病。 また対蜀戦では龐統が軍師に選ばれるあたりは、劉備もその辺りのことは熟知していたのだろう。 またその同盟も完全瓦解し、蜀の要である関羽を失うことになった、関羽一人を失うことは荊州一国を失うより大きい。 その後の馬謖の起用や寝返り魔人孟達への過信等、見るに絶えない戦術の数々… 一戦一戦では確かに強いかもしれないが、長期的戦略となると孔明より明らかに司馬懿の方が上である。(一戦一戦とはいえ陳倉では孔明の新兵器を悉く郝昭に根絶やしにされたが…) 孔明は将の少なさを嘆いていたが、対する司馬懿も大した将軍は連れていなかった。 (蜀・魏延、趙雲、王平、姜維、廖化 魏・張郃、郭淮 普通に考えれば蜀の方がいい人材を連れている。そのほかにも張嶷等も名将である) ただ孔明が生きている間は、いくら北伐を繰り返そうとも、国が疲弊することは少なかった。これは孔明の治世の上手さであり、姜維には全く無かった部分である。 孔明の治世があって始めて蜀は北伐を行えたのである。そうして考えれば、孔明に龐統がいれば魏を相手にでも十分互角に渡り合えたろう。
とても楽しい電波をありがとう
『泣き虫弱虫諸葛孔明』読んで以来 あのイメージで固定されてしまった…
97 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/09 17:06:40
>92 八陣って何?すごいんだけど?マジ、その話しらなかったわ!孔明は兵法書とか書いてるのか? 演義の超人ぷりにあこがれたが、実物はたいしたことなかったかな、とも思ったが。やっぱすごいのね。
軍略が下手って、少ない戦力で善戦してるし 兵力の消耗線になるのはきっちり避けてる。 名将は撤退時期を誤らないというしな。 一番とか最強とか言うつもりは無いが 十二分に有能だと思うぞ。 というか正史を読んでも充分に有能というか あんなにページを割かれているのに、正史でもヘタレって んじゃ誰が有能なんだ?
>>92 八陣って諸葛亮集に載ってるん?
○○○の兵法って昔の有名人に仮託した後世の作が殆んどだし(六韜・三略)、
うさんくさいのよね。
まあ、演義をはじめ吉川、横山はあまりに神に描かれすぎててちと引く。 文長が気の毒。
軍事面比較 諸葛亮 ○若くして君主に認められる ○君主が生きている時は主に統治面で活躍 ○君主が氏んでからは若い君主を立てて軍権を握る ○防衛戦で活躍(勝因は長雨 ○北へ攻めて幾つかの城を落とす ○夷狄討伐で活躍 ○最終的に戦場で氏、目的を達し得ず(北伐 周瑜 ○若くして君主に認められる ○君主が生きている時は主に統治面で活躍 ○君主が氏んでからは若い君主を立てて軍権を握る ○防衛戦で活躍(勝因は疫病 ○北へ攻めて幾つかの城を落とす ○最終的に戦場で氏、目的を達し得ず(益州 陸遜 ○若くして君主に認められる ○防衛戦で活躍(勝因は敵司令官のミスと曹丕が指摘 ○夷狄討伐で活躍
102 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/09 18:51:01
諸葛亮は劉備が死ぬまで軍を率いた事がないと思っている人が多いが益州攻略の時、群県の平定に功績を上げている、ちゃんと正史にも載っている
いやいや、もしかしたら孔明はかなり開きなおってたかもしれんぞ。劉備とかにも「ごめん軍事はまじ無理いやマジで。鳳雛がいますからそちらで。」みたいな感じで。
104 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/09 20:00:09
戦略面においては、三国鼎立の献策からわかるように的を得ていたと 思う。でもその後、荊州を失ったり、結果的に北伐にも失敗したところ を見ると、大軍を率いるには少々役不足だったのかも。27歳で出仕して その後軍を率いた経験があまりなかったからしょうがないかな。魏延あ たりが率いてたら案外関中までいけてたかも?
それで長安を守りきれずにズルズルと後退 魏が余勢をかって益州侵攻、戦力を立て直せず 呉に亡命
>>101 諸葛亮・周瑜
> 君主が氏んでからは若い君主を立てて軍権を握る
これは何の事?
> 北へ攻めて幾つかの城を落とす
周瑜は占領にも成功
諸葛亮
> 防衛戦で活躍(勝因は長雨
諸葛亮は活躍していない
周瑜
夷狄討伐、劉表攻めでの活躍も加えるべきでは?
陸遜
統治面で活躍、荊州奪取、石亭も加えるべきでは?
>>106 ○孫策の氏、劉備の氏の後、軍権を握っている
○諸葛亮も幾つか占領している
○諸葛亮の活躍が無いと断言する理由をキボン。防衛の司令官なのは間違いないが
○じゃあ加えて下さい。
○軍事面比較なので
諸葛亮 ×敗戦が多い これでいんじゃね?
勝敗は兵家の常と。 負け方が次ぎに繋げられる負け方だし 大敗しなきゃ大丈夫なんじゃないの?
>>106 のいうように比較するならって話ね。
街亭の敗戦は結局挽回できなかったし。
それから曹真のときは兵を交えたという記述がなかったような。
陸遜は魏を攻めないヘタレ
>>111 何度か攻めてるよ。
大きな成果は上げられてないけど。
陸遜、周瑜といった呉の面々は山越討伐とかが表に出てないからな・・・
>>112 大きな成果を挙げられなかったのは諸葛亮も同じなのにな・・・
(まあ諸葛亮は魏の寸土を幾許か掠め取ったりはしたが)
115 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/10 03:13:53
陳瞬臣さんの「諸葛孔明」はこのスレ的にどう? あの小説ではむしろ政治家・軍政家としては有能だが 軍指揮官としては仲達の方が上、と描かれていたけど
>>115 そんなもんでしょ。
ただ軍指揮官としても全然無能ではなく、
むしろ結構優れてる方だと思う。
ただそれよりも上手が何人かいた程度。
ちょいと違う方面の話になりますが、 以前どこかのサイトで、唐の有名な詩人が作った、孔明を称える詩というのを見たことがあります。 孔明の志は宇宙よりも広く知られているとか何とかというやつ。 唐の時代ということは演義が成立するよりもずっと前なわけで、 つまり、演義の作者の方針以前に、「孔明は偉人だ」という認識と伝説が 中国人の間に定着してたのかなと思ったのですが、 このあたりわかる方おられますでしょうか。
118 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/10 19:25:09
李白の歌やったっけ
三国時代当時から神格化されてる
120 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/10 19:44:09
関羽よりも?
>>117 ちくまの解説かなんかに、陳寿が正史を書き上げた直後に諸葛亮への評価に
対して批判が上がった、という話が載ってる。馬ショクの罪に陳寿の父が連座し
たから諸葛亮を不当に評価しているというもの。だから
>>119 のいうとおりだと
思う。
>>120 関羽が神になったのはもっと後だったはず。演義の前か後かは分からないけど。
>>121 >馬ショクの罪に陳寿の父が連座したから諸葛亮を不当に評価しているというもの。
これって当時からあったんだ?
どっかの教授が憶測だけで語ってる珍説だって聞いたけど。
123 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/10 20:42:42
>117 諸葛亮の死去半世紀後くらいの肯定的評価では、晋の名将・羊コの叔母が彼を評して「諸葛亮の亜」と言ってるし、彼の好敵手・陸抗も「楽毅・諸葛亮といえども、彼以上では無い」と言ってる。 晋の武帝も諸葛亮の人となりを聞いて「彼が今、私を輔すけたなら、今日の苦労は苦労はないだろうに」と言ってる。 神格化はともかく、三国時代末期では「偉人」って事で定着してたようだね。
幸村の過大評価といっしょで 「孔明は凄い→その孔明に勝った陛下のお爺ちゃんはもっと凄い!」 ってのもあるんじゃないのか? いや、神格化の理由って意味ではね
どうも諸葛亮に対して否定的な連中って、軍事での乏しい戦果にばかり 言及してるのが多過ぎない?
というか、皆、演義のスーパー軍師諸葛亮孔明を否定しているのだと思うが。
反動が強すぎるんだよ。 なんだよ「政治家だから」という決まり文句 んなこと言い始めたら曹操も政治家だ。
>>127 >>128 と似てるんだが、皆統治面では評価してると思うよ。
個人的には南方統治は微妙だけど・・・
貴方のいう否定的な連中だって諸葛亮を無能とか並の人物とかいってるわけでは
ないと思う(中にはいるけどそれは反論するなり、放置するなり)。
逆に正史系のスレでスーパー孔明が出てくることもよくあるし。
軍事面でも、戦略的には完遂することはできなかったけど、 戦術面ではなかなかの物だと思うけどな。 ただ国力差があり過ぎたし、相手も悪かった。 李厳とか馬謖とか、足引っ張ったやつもいたし。 まあ人材活用に対する鑑識眼が甘かったってことで、 点数下がってるんだろうけど。
軍事面と統治面で、鑑識眼がえらく異なるよな。
>>なんだよ「政治家だから」という決まり文句 >>んなこと言い始めたら曹操も政治家だ。 軍事屋としては曹操と孔明では比較にならない。 曹操のほうが遥かに上。 別に孔明に反感を持っているわけでもなんでもなく、 公平に見て、「有能な政治家ですね」といってるだけでしょ。 少なくとも無能な人だとは誰も思ってないし、誰も否定してない。 あと、大局的には孔明の対魏戦略はベターだったと思うよ。 そもそも蜀と魏では喧嘩にならないぐらい国力が違うわけで、 それは孔明の北伐の矛先を見ると明らかだし、 (キ山とか長安とまるで反対の方向に行っちゃったりしてるし) 彼の目的が専守防衛であったことは間違いないと思う。 オレが思うに、 「とりあえずいっきに潰されないよう足場を固めておいて、 時期を待つ」というのが孔明の本音の目的だったんだろうと思う。
本音も何も陵中策の時から、西方を固めて変事を待つというものじゃん
まあ何事も足場固めてからってのは基本中の基本だけどな。 まず涼州に矛先向けたのだって、足場固めるためだし。 遠征軍では勝てないから、例え勝ってもその後の維持が無理だから、 無茶しない範囲で、長安攻撃するための足場を築こうとしてただけっしょ。 国力差あり過ぎるから致し方ないと思う。
136 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/11 10:49:21
漢室復興を避けて南方に勢力拡大というのは視野になかったのか?中原を目指すしかなかったのか?
中原(特に長安・洛陽)を奪還しなければ、漢室復興とは言えん。 もともと蜀の地は中原奪還の足場に過ぎない。
亡命政権のつもりが、根付いちゃったと。
荊・益の二州を支配下に置いていれば、荊州から洛陽などの中原のど真ん中に 楔を打ち込む事も可能だったし、益州からは山脈を越えて涼州・京兆を制圧し、 西域との交流を深めて魏を河北に押し込む、もしくは滅亡させる可能性も出てくる
140 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/11 11:15:11
>>124 孔明が晋朝の「建国神話」のいいネタされたというのは事実だと思う。
もっとも、孔明が無能であったらそんな神話の材料にもなりようがないが。
141 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/11 11:16:38
やっぱ根本が政治家なんだろうな。 長安を落としても十分に守りきれないと考えたから落とさず、 まぁココは落とせないと読んだのかもしれんが。 北伐による経済的負担はあっても、本国に敵を踏み入れさせた事はないわけだし。 やっぱそこはスゴイと思うよ。 司馬懿だって最後は勝ったが端っこを一時的に取られたし。 軍略に政治を絡めすぎたんだと思う。 マジで孔明がもっと軍師的だったら北伐で涼・擁州ぐらい獲ってた気もするが。
>>141 「三国志」って、勅命による国家事業だったっけ?
そもそも神のごとき孔明像なんて正史にあったかしらん。
144 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/11 11:43:35
軍師○×比較 諸葛亮 ○丞相としての政治手腕 ○赤壁での呉軍同盟 ○劉禅擁護 ×孟達、馬謖への過信(人物を見る目が乏しい) ×呉の関係悪化による荊州撤退+関羽戦死 ×長期的軍略戦術では浅慮 陸遜 ○関羽への油断戦術 ○夷稜での大勝 ○石亭での戦略 ○提督としての軍事面だけでなく、政治面での貢献 ×孫権の跡継ぎ問題での失策 ×魏を恐れる上での消極戦法 司馬懿 ○長期的戦術の上手さ+芝居上手w ○関羽包囲網 ○自分の地位を築く戦術 ○大軍を指揮できる ×野心が大きすぎる ×短期的戦術では孔明に勝てない+孔明を恐れる上での慎重戦術 周瑜 ○君主を補佐する軍略 ○赤壁大勝 ○水軍への貢献 ×疑心暗鬼な部分 ×陸上だと滅法弱い 龐統 ○三国鼎立案(具体的発案は龐統)○魏延、黄忠といった新参の武将に活躍の場を与える ○人材育成戦術 ○長期的戦術の巧みさ ×短期的戦術に少々浅慮 ×太りすぎw ×参謀なので仕方ないが、冷酷な戦術も…
郭嘉 ○長期的戦術及び予知に関して驚異的的中率 ○君主を安心させる助言手腕 ○時勢を的確に読む助言 ○あくまで参謀として分をわきまえる ×風体が悪い+酒癖も悪い ×病弱体質 荀ケ ○郭嘉に同じく長期的戦術の上手さ ○敵をよく知る戦術 ○贔屓無しの的確な人材派遣 ○参謀、政治家としても一流 ×魏公即位問題での発言及び態度 賈詡 ○短期的戦略では右に出るもの無し ○参謀としても軍略家としても一流 ○曹丕への世継ぎ後押し ○身を退く時の上手さ ×時勢とはいえ君主をコロコロ変える。×政治的発言は少ない。 姜維 ○武勇は少しある ×執拗な北伐で内政を省みない ×短期的でも長期的でも戦略下手 ×あっさり降伏、その後謀反という義理のなさ
>>144 to145
なんだか演義と正史がごっちゃだな。
あ、正史というよりは史実解釈ね。
>>144 > ×孟達、馬謖への過信(人物を見る目が乏しい)
これは言いすぎだろ。
孟達の件はうまくいけば儲け者くらいの感覚だろ。
まあ、たしかにちょっと入れ込んだ感はあったかもしれんが、この件で蜀に被害が出たわけではない。
馬謖の件は弁護の余地は無いが、この一件で人材を見る目が乏しいと言うのは言いすぎ。
それ以外の人材配置に関してはほぼ問題ないし。
大体曹操や劉備にだって人材配置に失敗した例はある。
> ×呉の関係悪化による荊州撤退+関羽戦死
これは関羽や劉備の責任。
> ×長期的軍略戦術では浅慮
どこが?
っていうか孔明以外についてもなんだかなあと言うような評価だな……
150 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/11 12:38:46
>>144 >諸葛亮
>×呉の関係悪化による荊州撤退+関羽戦死
当時の諸葛亮は荊州問題をヤリクリするようなポストではなかった。
当時の荊州は関羽に一任されていたため、荊州陥落は関羽自身の失策。
>司馬懿
>×短期的戦術では孔明に勝てない+孔明を恐れる上での慎重戦術
短期的戦術で孔明を敗れなかったことは確かに減点要素かもしれないが、
そのために慎重戦術をとったことは失点でもなんでもなく、逆に司馬懿の戦略眼を立証するものかと。
当時諸葛亮に直接対決で勝利を収めることが出来る将軍は魏にはおらず、
五丈原においても諸葛亮の布陣が完璧であったことは司馬懿自身が認めており、
もし直接対決に移行していたら魏軍は大敗し、対蜀戦線は下手をすれば崩壊していた。
また、魏はこの時点では蜀軍を大敗させることを必ずしも必要とはしておらず、
自軍に損害が出ぬまま相手を撤退させることが理想的であった。
それを見事に成し遂げられたのは、度重なる挑発に耐え抜いた司馬懿の慎重さの賜物かと。
内政官に戦略やら外交とかの責任を負わせるのは無理があるだろ。
三国志の史実に関して考えるときに、 まず念頭に置くべきことは、 三国時代も唐も明も清も中華民国も中華人民共和国も、 同じ歴史の土俵にあること。 冷静に考えて三国時代だけ突然変異的にIQの高い神算鬼謀の人間が ごろごろ生まれたとかそういうことはまず考えられない。 予言者的に物事を予知した人間が三国志には異常に出てくるけど、 そういうのをいちいち全部真に受けるのはどうかと思う。 第一、今の世の中を見渡してそんな人って殆どいないでしょ? 古代中国における歴史書・正史っていうのは、 歴史を記録するが目的ではなくて、道徳の教科書にすることが第一だから、 いいことは過剰に書かれて悪いことは過剰にかかれるのが通例だし、 人間の発言だって歴史家があとで勝手に付け足したもの。 テレビも何にもない時代に、何十年前の何千キロも離れた土地の人間の 密談の内容なんか正確に残っているわけがない。 だから、まあ大体こんな感じのこんな考えの人だったんですね、程度に割り引いて考えておけば 間違いはないと思う。
陸遜 ×魏を恐れる上での消極戦法 これなんかもなぁ・・・w 読み物から離れろよってな。
154 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/11 12:58:32
呉は江南での自立が主政策だろう。
>>144-145 御粗末すぎていちいちつっこんでると日が暮れそうな意見だね。
小説片手にまとめた意見だってのはよくわかったよ。
とりあえず、燃料投下乙。
156 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/11 13:26:39
>>152 お前は「三国志」そのものを否定してしまっている
というか、そんなことは百も承知だが、イチイチ気にしていると歴史を酒の肴に語るというようなことが出来なくなってしまう。
ここは論文を発表しあう場所じゃないんだ。
歴史に残る叙事詩「三国志」及び「三国志演義」について語る場なんだから、そんなことを気にするな。
> 予言者的に物事を予知した人間が三国志には異常に出てくるけど こういう人間は三国志、中国に限らず世界中に出てくる。 真に受けてる香具師なんて殆どいないとおもうぞ。 でもアメリカでは聖書の記述が歴史的事実だと思ってる香具師が大勢いるらしいが・・・
孟達に関しては態度を決めかねてるから、孔明が魏へ反乱情報をリークしたんじゃなかったっけ まぁ、それをしなかったところで、先に司馬懿が察知しちゃいそうだけど
何故、孟達をいれて李厳をいれないのか
諸葛亮が持ち上げられる事で周瑜やらが貶められてるってのはちょっと・・・ね。やりすぎちゃうかラカンチューと。 張嶷とか馬忠なんて南蛮平定の話そっくり持っていかれてるし。
みんな! いいか、孔明はイチローなんだよ! 本人は凄いけど、所属している集団は(略 そんなことを薄々感じている奴は、ちょいと孔明に疑問を感じるのさ。
>>164 そうなんだよなー。
なんで劉備なんかについていったのか疑問。
まさか本気で漢王朝の系譜に連なる人間だと思っていたわけでもないだろうし・・・。
荊州にいた時点での劉備は
散々負けまくってる流浪のヘボ集団の頭でしかないわけで、
あのまま消えていたら李カク・郭氾と大差ないぞ。
ま、よほどウマがあったんだろうけど・・・。
メジャーに行って埋もれるぐらいなら、 日本球団でスターになる道を選んだんだろう。 あと孔明は徐州の虐殺当時にあの辺にいて、 曹操に反感持ってたんじゃなかったっけ。
167 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/12 00:50:21
>>164 イチローと違うのは・・・監督とGMを兼任していて、たまにマウンドにも登るというところかな・・・
>>166 それなら兄貴を頼って呉にいけばよかったじゃん。
>>168 戦乱では、血筋を絶やさないために一族が分かれて仕える、ということもあるそうだが。
荀氏も最初は別々に仕えていたし。
兄も最初から成功が約束されてたわけじゃないしな
>>168 孔明が弟や妹と母親と一緒に荊州の親戚を頼って落ち延びていった時には、
兄貴は洛陽の太学から江東へと別々の生活をしてたわけで、
そのまま荊州に落ち着いた時に、馬が合う劉備に出会ったんだしさ。
172 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/12 18:08:04
もしかしたら劉備が徐州牧だった事が関係あったりして
173 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/12 18:31:00
曹操の下には多くの幕僚がいて、いまさら仕えたところで 大役は回ってこない。出世もまずできない。それならいちかばちか 劉備の下で身を立てる方が得策。って考えがあったと思うね。実際 学友で孔明自身高く評価していた徐庶なんか大して出世しなかったし。
>>173 だから徐庶は出世してるって。
孔明がもっと高見を目指していたということなら分かるけど。
自ら菅仲、楽毀の様になりたいと言ってるじゃん 曹操の元ではそれは絶対にあり得ない、曹操が自分で何でも出来ちゃうから
177 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/13 10:12:09
伊籍、馬良、徐庶、霍峻、向朗ら名士をして流亡の旅団に身を投じさせ、 張松、法正、孟達ら識者をして、たかだか荊州半群の主に祖国の乗っ取りを促せさせた 劉備の器量も考慮に入れるべきかと。
>>177 それらが不思議なのは諸葛亮が入ってからなんだよな
劉備の魅力もさることながら、それらを会わせてきっかけを作ったのは
諸葛亮達なんだろうな。
>>178 馬良らはともかく、
伊籍、徐庶が劉備軍団に投じたのは諸葛亮以前だぞ。
180 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/13 15:34:27
議論に参加しに来たよ で、おれ何したらいい?
181 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/13 15:52:56
諸葛亮はもともと地方豪族。曹操についたら中原の亮より格の高い家柄の 名族の陰に隠れて立身がそれほど望めない。それよりは劉備についたほうが よいと考えても不思議はない。あるいは、諸葛一族の中で、一族の全滅を 避けるために、兄弟がばらばらに群雄に仕えるという手を取ったのかもしれない。 なんにせよ、諸葛亮の真面目は個人としての能力よりはむしろ名族としての 血統にこそあったと思われる。
実際問題、荊州の人材の中で諸葛家ってどれほど格式が高かったんだ?
孔明の諸葛家って、もとは徐州でしょ? 孔明個人が、司馬キ門下で名をあげたことと、嫁が蔡氏に繋がる縁から注目された のであって、一族としての諸葛家は荊州で力をもっていたわけではない。
若いうちから天才の名を欲しい儘にし、「臥龍」「伏龍」ともてはやされ、 名族の家の娘をもらって権力者ともコネができたのに、仕官もせずにプー太郎。 曹操だろうが、劉表だろうが、孫権だろうが、仕官したいと言えば裸足の迎えが来る人材。 で、三十近くになってようやく仕官したと思ったら、その相手が劉備。
185 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/13 18:15:21
というか、「諸葛」という姓自体、中国では珍しい二字の姓で、これはもともと 「葛」という姓の諸族が統一氏族として振舞ったものだという説がある。 いずれにせよ、孔明は曹操配下に比べるとさほどの有力豪族とも思えないが、 流寓していた劉備にとってはともかく「名族」と称しうる一族の子弟を召し抱える ことで自らの信用というか、求心力を高める効果があったのかもしれない。 ただ、正史以前に書かれた『魏略』という歴史書には、「孔明は劉備に 仕官しようとしたが、劉備は孔明の名を知らず、居候としての扱いしかしなかった」 とある。これによれば、諸葛孔明は名族としての血統ではなく、自らの才覚 によって丞相という地位に上り詰めたことになるが......
>>185 『魏略』は魏の史書だからな。
諸葛亮が敗れ憤死した、とか書いてあるし。どこまで信用できるか。
孔明が売り込みに行ったのか劉備が迎えに行ったのか、どっちなんだろうね 実際のところ
188 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/13 18:56:57
>>187 まあ、正史と魏略のどちらを信用するかってことだ。
個人的には魏略の方が本当っぽいと思うけど。
本当に劉備が人材を欲していたら迎えに行っただろう。 これは諸葛亮だけの問題ではなく、若造ですら才能が有れば 頭を下げて迎えますという格好のアピールになるので。 だから私は劉備が迎えに行ったと思っている。
亮より始めよ、といったところか。 ・最初に孔明が訪ねてきて、後に正式に劉備が迎えにきた ・劉備の招致の後に、孔明が荷物まとめて出向いてきた ッて感じで、案外真ん中をとったあたりが事実だった可能性もなきにしも。
191 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/13 19:45:10
徐庶が劉備に孔明を推薦して、徐庶のスカウトに孔明が応じたという経緯だったのでは? 劉備サイドからの働きかけもあっただろうが、孔明自身も何らかの工作を徐庶を通じてやっていたのではないか?
ふと思ったんだが、呉への使者としてトウシを抜擢したのは 孔明にとってプラス評価になるのでしょうか。 個人的にはいい人選だと思いますが。
>>193 プラスでしょうね。とにかく、孔明は内治に関してはその手腕も人材を見る目も文句
なしなんですよ(人によっては南蛮統治を挙げるかもしれんが)。
内政だけに関わっていれば問答無用で名臣なんだが、軍事にも関わったおかげで色々と
つっつかれることになる(同時代に、政軍両面に手腕を発揮して国を興した建て直した
人物達がいて、比較されてしまうからね)
>>195 説明に納得。それで軍事面での人選の失敗(誰とはいいませんが)が
やたらと叩かれるわけですね。
>>196 軍事面での人選の失敗って言ったて具体的には馬謖ぐらいでしょ?
他にいる?
(まあ馬謖の人選ミスはでかすぎるっちゃあでかすぎるがw)
198 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/13 21:35:55
仕官したたった一年後に28歳で長さ等3郡 の管理を任されるんだから、有能な官吏だっ たのは間違いない。ただし、 そこに孔明個人の能力以外の要素、 つまり家柄が重視されていた 可能性はある。孔明の先祖の諸葛豊は司隷 校尉で、超一流の家系ではないが、一流の 部類に入る。実際、諸葛一族は孔明の丞相を 筆頭にキンの大将軍、誕の司空等、三国のいず れでも要職を占めた。晋代、さらに南朝でも 太常や州刺史などのちいについている。 劉備は孔明の個人的能力よりも諸葛一族 としての後援を期待していたのかも。
どの辺を縦読みするのか
201 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/13 22:12:14
>>197 李厳を補給の総指揮者に据えたのは諸葛亮だけど…。これも一つの軍事面の
人材配置ミスじゃないのかな。
まあ費イなんかの才能は見抜いていたし、全然人をみる目が無い訳じゃない
とは思うけど。
李厳の件まで諸葛亮の責任にするのは酷というものだよ。 李厳は諸葛亮とともに劉備に後事を託された人物だし、特に落ち度の無い段階で諸葛亮がどうこうできるような人間ではないし。 責められるべきは自分のミスを嘘でごまかそうとした李厳だと思うがな。 あるいは強いて言えば劉備の責任だよ。
203 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/13 22:27:24
まあ荊州派閥と益州派閥両方に顔が利く大物だからねえ。
そういや他スレで劉備に軍事を託されたのは李厳という話が 出てたけど実際はどうなんだろう
>>204 李厳伝ではそうみたい。
以下、引用(ちくまのやつ)
「三年(二二三)、先主の病気は重くなり、李厳は諸葛亮とともに幼少の後主を補佐するよう遺詔をうけ、李厳は中都護となって、内外の軍事を統括し、永安に留まって鎮撫にあたれと命じられた」
205の補足。 226年に前将軍だから名実ともに軍事のトップというわけではなかったみたい。
>>206 逆に言うと、劉備から「軍事を統括しろ」と遺言された人物が、劉備死後に軍事のトップ
に立っていなかったのは何か理由があるのか?
永安方面のって事じゃないの?
つまり、対呉限定ってこと? それにしては、対魏である北伐の兵站を担ったり、対呉の外交にもロクに与って いないというのが。
孔明が大司馬になったのって何時だっけ?
劉備が益州を治めたのと同時くらいか? 214−5年辺り
>>208 それと外交権は任されていないって事じゃないの?
その方面の内政権と軍事権を劉備から指名されたと。
北伐は国家事業だから有能な人は部署が違っても参加させると思うが。
兵站は重要でNo2が任せられる地位だと思う。
213 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/14 22:23:16
李厳の中都護は、劉備在世時は呉に対策だろう。 諸葛亮時代、特に北伐時は国内の守備、つまり治安関係が主になる。呉に対する部分も永安都督の上位に置かれた、って点で当然ある。 北伐の時は江州に駐屯してた訳だが、江州は呉に対応出きると共に、南方へも目を光らせることの出きる場所。 で、北伐時代の李厳の職務はこんな感じか。 1.国内守備 2.北伐の後方勤務 3.対呉監視 4.南方への警戒
ナンバー2にふさわしい激務だな。 なんであんなことしたんだろ。
215 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/15 01:20:47
ナンバー1になりたかったんじゃない
もともと特別なオンリー1なのにね
>>213 > 李厳の中都護は、劉備在世時は呉に対策だろう。
> 諸葛亮時代、特に北伐時は国内の守備、つまり治安関係が主になる。呉に対する部分も永安都督の上位に置かれた、って点で当然ある。
李厳が中都護になったのは、殆ど劉備の死と同時と考えていいのでは?
その後で呉と同盟を結ぶわけだが、その後も永安に留まってる。
もし、李厳が内外の軍事を統括する存在だったとすればこの時点で
敵国である魏に備えるため中央に戻っても(戻されても)おかしくないのだが・・・・
218 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/16 00:11:23
>217 李厳の中都護就任は、劉備が重態になった時だが、「永安に留まり、内外の軍事を統括せよ」ってのは劉備の遺詔であるので、劉備の意思だろう。 で、李厳が江州に遷るのは226年の北伐人事に際してだが、劉備の逝去直後は呉と同盟関係にないから、永安で警戒する必要がある。 北伐直前まで江州に遷らなかったのは、前年に南方征伐を行っており、南夷の叛乱に呉が深く関与していた事実を考えると、同盟して日が浅いこともあり呉との国境を空けられる状態ではない。 魏の存在が大きいが、呉も後主即位事まで戦争状態であり、幼年の後主即位直後、呉に対して油断出来ないだろう。 それと「内外の軍事」だが、外は当然、呉だが、「内」は恐らく夷陵の敗戦直後で永安周辺での叛乱を警戒したのではないかな。 李厳は太守時代にもいくつかの叛乱鎮圧に実績がある。敗戦直後は人心も動揺するから、その辺りの用心かもしれない。 永安に留まったのは、決して李厳が軽視されていたからではないよ。
>>218 魏への備えとしては魏延がいたからってのもあるんじゃない?
220 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/16 03:12:12
>>18 かなりおそレスだが
矢集めを実行した武将がいる
あんしのらんの時の張巡
さらにそれを応用したりもした
孔明をまつった廟にある出師の表は 岳飛が書いたものらしい だから、そのころから英雄視されてたんだろうな
英雄、というのもあるだろうけれども、 ・北からの強大な敵に対抗 ・主君と祖国への絶対の忠誠 という点で、自分と重ね合わせたんだろうな。
諸葛亮登用の時は 劉備視点から諸葛亮はどっちかと言えばただの若造 諸葛亮からすれば劉備はただの流浪の軍団の頭領 劉備はこれまでの経験で名族とのつながりがどうしても必要だと感じ 諸葛亮は管夷吾のように興国の名臣として成り上がりたく 2人の思惑が合致したところで劉備を諸葛亮が訪ね自分を売り込み そして形式的な三顧の礼で諸葛亮を迎え入れた と言うのが実情なんじゃないかと考えている
224 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/16 20:53:34
>223 前半は同意。三顧の礼は後世の作り話だろ
>>224 出師の表。
演義のような三顧の礼はともかく、劉備自ら辞を低くして諸葛亮を迎えに行ったというのはありえないことではないと思う。
逆に言えば皆無ではないが珍しい事例だったのでその処遇に感激した諸葛亮が劉備にあそこまで忠誠を尽くしたのかもしれない。
ようするに、流浪の集団のうだつの上がらない頭領である劉備が、 プー状態で、仕官もおぼつかない孔明を 「どうせ無職なんだし、うちで少し働いてみない?」と何回か誘っただけの話でしょ? 三顧の「三」というのは何回か行ったという程度の意味で、 本当に三回いったという意味ではないようだし。
比喩表現なんではないかね? 周公や信陵君のように、先帝は人材を重んじる人であった。そして自分は先帝に 期待されているのだ。 って感じに。
229 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/16 23:19:05
それにしても諸葛亮が軍権を握れた理由って何故なんだろう?? 益州攻略の際少しは軍功があったようだけど。それ以外に特に軍事面で 実力を発揮したような形跡はないし。 入蜀した際には軍師将軍の位だったから、とりあえずは軍権を握る立場には いたみたいだけど。政治面では功績は取り上げられてるけど。 やっぱり中国では文官のほうが武官に比べて地位が高かったみたいだし。 特に軍事的能力が高いから軍権を与えられたってわけじゃないのかな? 結果論(まあ全てそうだけど)だけどやっぱり経験豊富な魏延あたりが指揮官 として北伐に望んだほうが良かったのでは?? まあ運良く長安陥落できたとしても維持できたとは思えないけど。 どの道一か八かならその方が面白かったと思う。 諸葛亮の狙いが、よく言われる攻めることによって、国を守るっていうことなら わかるけど。でもどの道、国力差ありすぎていつかは滅亡ってわかってたはずだし。 なんか論点ずれてきたな… スマソ
>>226 違う
正史にちゃんと諸葛亮から劉備に売り込んだと書いてある
誘ったんじゃなくて願って仕えたんだよ
>>230 正史にはそんな記述は無いよ。
裴松之が引いた注にあるが、裴松之は引用した上でその記事を批判してる。
今正史手許にないんでウロ覚えなんだが、 孔明と親しくしてた徐庶が、こっちから出向かないとダメですよ、と言ってる ところをみると、やはり劉備の方から訪ねていったのではないかと思うのだけどなぁ
233 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/17 15:48:38
>229 諸葛亮は荊州の名士サロンで声望があったん じゃないの。家系も悪くないし、容姿も よかったらしいから。劉備としては荊州閥を 統率する為に亮を重用せざるをえなかった んだろうと思う。
234 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/17 16:55:26
劉備が尻尾を編んでる話? 孔明から売り込み説がデフォの人って珍しい。それも正史で。
論点ずれてきたな…
とりあえず、
>>231 が正しい。
237 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/18 00:07:15
諸葛亮が自ら売り込んだとあるのは 正史ではなくギ略。後世になればなるほど 亮の評価が高くなるのは南朝文化人が自らと ショク漢を同じ亡命政権として感情移入した のと亮が彼等と同じ陰逸君子出身で カンガンに対立していたからだろう
話題とずれるが、渡邊精一の分厚い諸葛孔明本って、買いですかね? 孔明の履歴や、書き物、古今の孔明を詠んだ詩や評を載せてるやつ。
240 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/18 20:25:48
マジレスすると、買うな。読んだことないが
奥さんはロボコンで大活躍
>>229 南征からと思われ。
当時叛いた西南夷を討つ(政治的)実力者として諸葛亮と李厳が考えられた。
誰かを派遣するやり方もあったが、丞相として諸葛亮が自分で戦争指導を行い、
その直接指導によって南征を(一応)成功裏に収めた。
自分が出張らず誰かを派遣して南征させていたのなら、
諸葛亮が軍事に関する権限を強く掌握できていたかどうかは分からない。
まぁ私見だけどね。
>>229 諸葛亮と魏延とで比べるなら、総司令官は諸葛亮が相応しい。
彼の北伐を検討すると、想定されている戦域の広さ、視点の高さ、
考えられた作戦に垣間見えるイマジネーションの豊かさなどに大変驚かされる。
その割りに成果がしょぼいが、それは敵に対峙したときに決戦に踏み込もうという勇気が足りなかったから。
それだけは魏延にあって諸葛亮に無かった、足りなかった点だろうと思う。
244 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/20 23:20:09
>>243 確かに総司令官としては諸葛亮が相応しいとは思う。というか他に適役は
見当たらない。
ただ戦略面においては諸葛亮の方向性に大きな間違いは無かったと思うが、
戦術面でそれを活かせる武官があまりにも少なかったっていうのが不運だった
ように思う。張良はいたけど韓信がいなかったみたいな…。
>>244 なんか微妙に勘違いしてる気がする。
諸葛亮はまさにその韓信の役割もはたしてた。
そしてその指揮の下、第一次北伐時の馬謖以外致命的なミスをした指揮官もいない。
諸葛亮の戦略を活かせる指揮官がいなかったんじゃなく、諸葛亮を超える戦略を立てられる人材こそいなかったんだと思うぞ。
それとも諸葛亮は実行した以上の戦略を構想してたが、それを委ねられるだけの人材がいなかったということを言いたいのかな?
>>244 ,245
というか、張飛・趙雲を随えての益州入りや南征、最初の北伐と比べて
あとになれば成るほど諸葛亮は部下に一軍を任せて遠くへ分遣すると言う
諸葛亮本来の作戦スタイルを矮小化させていっているわけで、
作戦運用においてどんどん部下を信用しなくなっている姿が見えてくる
司馬懿と初対陣したときなどは本当に自分の目に見える範囲、
容易に連絡つけられる範囲でのみ部隊を分遣しているのが分かるし、
最後の五丈原にいたっては、ほぼ全軍がひとまとまりになって持久しつづけた。
(それだけに自分の死によって中断したあの最後の北伐で、彼が彼本来の
スタイルで作戦を展開したらどうなったかにはすごく興味が引かれるが。)
俺は人材が不在だったのではなく、
諸葛亮は部下に分遣する軍を任せられなくなっていたんじゃないかと思う。
(鞭打ち50の刑さえも自分でやらねば気が済まなかったというエピソードなど、
諸葛亮はなんらかの強迫神経症に罹ってたんじゃないかと勘繰りたくなるくらいで、
そのエピソードもこうした「軍を部下に任せられなくなっていた」って印象を
補強してくれると思う。)
>>246 ただでさえ人数的に不利なのにその上兵力を分散させるのは愚策のような気がする。
郡レベルの戦いでは結構部下を派遣して任せたりしてたみたい。
そういった戦いと国を挙げての北伐レベルの戦いでは同列に扱えないと思う。
もちろん諸葛亮の性格も無視できないとは思うけど。
>>246 諸葛亮は鞭打ち50の罰を自分で与えたわけじゃないっしょ。
その位の刑以上の刑になると、自分で裁量しないと気がすまなかったという話じゃないの?
罰を与えるのはそういう役職の奴だと思ってた……。
248だが、スマン。まさかそういう意味じゃないよな。 >鞭打ち50の刑さえも自分でやらねば気が済まなかった 読み間違えた。
250 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/21 12:57:04
>>239 立ち読みで読んだ限りではいい! 資料集としてはかなりのもの。
>>248 そうそう、248って言いたかった。フォローthx
>>247 兵力の分散即ち愚策という考えはイクナイ!
軍事は力の分散と集中、それからそれをどれだけ早く効率的に
あるいは効果的に行うかという運動って要素の3つから成り立つ。
力を分散するのは概ね3つに要約される、つまり
1.相手にこちらの力をどこに集中させるか読ませない擬装
2.相手の力を分散させるための釣り(クマー!
3.兵站を効率的効果的に行うための負荷の軽減
だ
五丈原での諸葛亮は状況が膠着してからは1〜3の分散を一度も使わなかった。
これだと五丈原でごちゃっと固まってる蜀軍に対して
魏軍も彼等にべったり張り付いておなじようにごちゃっと固まってればいい。
守る司馬懿にとっては非常にやりやすいわけよ。
司馬懿が一番やりたくなかったのは動いている蜀軍への対処。
諸葛亮の作戦を読み誤れば岐山での敗戦が再演されることになる。
諸葛亮が関わった作戦についてだが、どれも大きなものばかりだよ。
劉備について初っ端から(益州攻め)歴戦の張飛、趙雲を使ってる。
しかもホームではなくアウェーの戦いばかり。
よく国を滅ぼさなかったものだと感心するよ。
最後。
諸葛亮が動くのに慎重なのは、何も彼の性格ばかりでもない。
北伐で諸葛亮が率いた蜀軍は連ドを主要打撃力としていたとされる。
ということは、機動には不利な性格の軍ということだ。
動いている状態でどの程度効果ある攻撃を行えるか不安だったのだろう。
>>252 機動力を生かした戦略は苦手だったのかな?
地理的要因もあるのかもしれないけど。
>>252 言っている事には概ね同意なんだけど、五丈原での諸葛亮は無為無策
だったわけじゃないのでは?
司馬懿を決戦に誘引ないし強要するための手段をかなり講じていているし。
渭水北岸・五丈原西部・五丈原前面への派兵などは、どれも魏軍の誘引と
主要交通路の確保が目的なのがわかるし(司馬懿や郭淮には悉く通用
しなかったけど)
兵站に関しても、第二次での枯渇や第三次での李厳の怠慢を顧みてか、
事前に侵攻口である斜谷の入口に邸閣を設けて食料を集積して、長期戦への
備えを整えてるし。
五丈原の戦いこそ、蜀軍は兵站に対する懸念が最も低かったはず。
>>246 =252
張飛・趙雲を随えて、使ってるというのは違うでしょ。
兵力を分散できたのは数で勝っていたからと考えますがいかがでしょう。
>>253 機動力を生かした戦術は漢中周辺だと山がちでやりにくかった
だから軍制を自分なりに整える時点で諸葛亮は軽視したんじゃなかろうか
機動力を生かした電撃戦は曹魏の十八番だし
相手の得意技で張り合ってもその方向で一日の長のある敵の方が有利だからそう漢が得るのは妥当だと思う
それと機動力に勝る相手と戦う時は火力を高くすると有利ってのは現代にも通じる考え方
諸葛亮ってのは卓越した戦術眼を持ってたんだろうと思うよ
まあ三国志の時代に機動力には火力って考え方が浸透してたんだとしたらそうでもないだろうけど
姜維は機動力や分散を駆使して奮闘したが相手が悪かったな。
258 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/25 01:30:09
>243=252 司馬懿が恐れてたのは、単に機動する、あるいは分進する蜀軍ではなくて、蜀軍が東進した場合でないかな。 つまり、蜀漢軍のキャンペーン全体が東進するモノの場合怖い、と。 漢中から斜谷ルートだと、関中側出口がすぐに河川で、機動の余地が少ない。あったとしても、斜谷ルートとある程度察知すれば、機動可能な場所を押さえる事も魏側は容易だろう。 大胆な計画を立てられる将領なら別だが、諸葛亮の性格上、危険な作戦は立てないだろうな。
>>252 少し気になったんだけど、諸葛亮の軍が自分から動くのに不利な軍だったというのは
ちょっと強引すぎないかい?俺の中では、諸葛亮が恐れていたのは、
あくまで長期戦を強いられ、そのために補給の面で多大な負担を強いられる陣地戦だと思ってる。
野戦にさえ引きずり出せば諸葛亮の勝率は恐ろしく高いからね。
あと、火力に偏っていて機動力に欠けた軍ってのはどうかと。
確かに諸葛亮の長距離弩兵と連弩兵のコンビネーション戦術が強力な火力と
なっていたのは認めるけど、歩兵騎兵に関しても彼は虎歩、虎騎、無当などの
精鋭部隊を編成しているし、「将苑」を見ても、諸葛亮が火力以外にも、
部隊編成のコツとして、歩兵騎兵弩兵それぞれをバランスよく編成するべき
といった旨のことが書かれている。また、仮に例の八陣が使われていたとすれば、
唐の天才将軍李靖の考察によれば、各部隊の連携と正奇を柔軟に使い分ける
タイプの陣形ということで、彼の六花の陣もこれを参考にしたと言う話だ。
もちろん、騎兵戦力で魏の方が上回っていたというのは分かってるけど、
諸葛亮の軍が火力に偏っていて機動力、柔軟性に欠けた軍というのは
ちょっと物事を単純化して考えすぎと思う。
あくまでそれぞれの兵科を有機的に柔軟に動かすことが彼の教義であり、
その手段として八陣があった(まあなかったかもしれんが)と思ってるんだがどうよ。
>>259 俺もそう思える部分がけっこうある。
諸葛亮の軍事行動は少なくとも第一次の北伐までは比較的広範な戦域で
作戦を展開してたりする。
機動性に乏しさがみえるようになり戦域を局限するようになるのは、投機的な
作戦をほぼ排除するようになった第二次以降で、南征などでもそれなりに
柔軟性のある作戦を展開してるはずだし。
五丈原に関していえば、兵站の懸念がかなり解消されたため、ある程度の
長期戦も可能だった事も原因じゃないかなと。
>>260 五丈原の屯田策も、歴史群像シリーズの三国志下巻にある考察によれば
それによって兵站問題を解決できるほどうまくいかなかったらしいよ。
詳しい考察は本書を参照してもらいたいところだが、
五丈原の土地事情と四川系の作物のその土地への適応性、
また屯田の具体的成果の記述の欠乏などから、
それほど成果がなかったものとする考察をしている。
五丈原でも諸葛亮は途中から司馬懿を短期決戦を狙える会戦に引きずり出そうと
躍起になってるし、そう考えれば兵站面は屯田によって解決されるものではなかった、
というこの考察もある程度納得いくかなと。
>>261 俺が言ってる食糧事情は、斜谷から五丈原にかけての兵站線のこと。
斜谷入口に邸閣を設けて食料を集積し、更に桟道を補修してる。
いくらなんでも現地での屯田で賄えきれるわけはないはずだから。
>>262 ああ、なるほど了解。該当箇所を失念してて慌てて資料見たよ。スマヌ。
しかし、実際それで食糧問題がどれほど解決したのかってのは興味深いね。
王沈の『魏書』だと死ぬ間際に食糧切れの様相を見せていたってことになってるけど…。
まあ、まがりなりにもあの大軍で3ヶ月以上駐留できたってことは、
それなりには食糧は用意できていたんだろうけどさ。
264 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/26 20:28:37
>>259 そんなに勝率高いか?
戦歴自体がそんなに無いんじゃないの?
>>264 俺の記憶では、自ら指揮した野戦では魏軍に一度も負けてなかったはずだけど。
陳倉で兵糧が足りなくなって退却したときには、調子ぶっこいて追撃してきた
王双を見事なまでに打ち破ってるし、第四次遠征ではキ山で司馬懿の軍と
直接激突した際にはこれを撃退し(同時に張コウ軍を王平が撃退している)、
また、その後に兵糧が尽きて退却する際にも、追撃してきた張コウ軍を完膚なきにまで
打ち破っている。
まあ、陣地戦の失敗でも、対郭淮戦のように先んじた要地の確保に失敗して
長期戦を嫌って戦略的転回をしたり、カク昭戦のように兵糧が足りなくなって
退却とかそんなんばっかで、別に陣地戦が弱いとも思えないけどね。
266 :
魏延の中の人 :04/12/26 21:29:32
>>265 意地悪な見方をすれば「兵糧不足」を補う作戦が立てられなかった
とも言える。
だからこそ「長安奇襲案」がそれなりに評価される訳だが・・・。
退却戦が上手だったのは弩の使い方が上手だったからでしょう? 弩が生かせない攻城戦はさほど得意じゃなかったんだろうなぁ 本質的に守将タイプに見える
268 :
無名武将@お腹せっぷく :04/12/27 23:22:31
>266 そりゃ結果論だな。 魏延の「長安奇襲案」は第一次北伐の前で、第一次北伐は街亭の敗北が無ければ、隴西地方の確保、涼州と魏・本国との分断が出来た可能性が高い。 それだけ、実現性の高い作戦計画であり、準備も周到だったわけで、第一次に関しては兵站面の心配は少なかったはず。 逆に準備に準備を重ねたのに失敗した第一次北伐のツケの回収のため、兵站面の準備も不十分なまま、その後の北伐を続けた可能性もある。 最後の五丈原の役は、焦りからの出兵としか思えないしね。
会戦に訴えて大逆転を狙うも相手が応じないってのは ポエニ戦争時のハンニバルと状況的に似てるね。決断力の点では冒険的 すぎるほどのハンニバルと慎重な諸葛亮じゃかなり差があるけど、自分を厳しく 律していた(そのことで下の人間の信頼を得ていた)という点で共通するように思える。
>>253 (局地的な点での)機動力については分からないが
諸葛亮の作戦の本質や醍醐味は戦略的規模での大運動戦にこそ
あるわけで、苦手ということはないかと。
地理的要因については、諸葛亮は立案する作戦の多くで
よく考慮している節が見られる。(例外が陳倉を急攻したこと)
五丈原での最後の北伐もなぜ五丈原(斜谷経由での出征)だったのか、
よく考えた上でのことだったように見える。
>>254 失敬。どうも印象だけで話してしまったようだ。
ただ無為無策だったとは思ってない。
彼が司馬懿を釣ろうとした派遣部隊の規模が分からないので、
きちんとしたことは言えないが司馬懿を釣るためには
エサが小さすぎたのではないか?ということがある。
もしそうだとしたら、マクロな視点で見ると、
蜀軍の殆どが五丈原で動かないまま小部隊だけが
こまごま動いているという状況であったわけで、
>>246 や
>>252 での互いに動かない布陣に終始した
という印象になる。
(郭淮伝では蜀軍が多数来襲したとあるけれど、
そもそも郭淮の部隊規模が分からないので、
実数の推測ができない。)
兵站については力の分散=愚策という考えはよくない
ということを説明するためのものなので。
五丈原の戦いこそ蜀軍の兵站に対する懸念が最も低かった
というのは同意。
ここからは蛇足だけどこの斜谷一本の兵站線で十分だった
というのが良し悪しで、蜀も魏もそれが分かってるから
蜀軍はここをがっちり押さえて動かない、
魏は相手ががっちり抑えてあるから相手の兵站を脅かして
撤退に追い込もうという動きもしない、
そんな状況の一因にもなっている。
>>255 あの益州入りの作戦は諸葛亮が立案したと思しいからそう書いた。
兵力の分散の肯否について言うと、諸葛亮は必ずしも数で勝って無くても、
必要性があれば複数の部隊を分けて使う将帥だよ。
最初の北伐などは最終的に魏側が蜀よりも大軍になるのが
分かっていたうえでのあの作戦だから。
>>256 機動力を軽視してはいないと思う。
機動力を重視した場合、対策は二つに分かれる。
機動力にどう磨きをかけようとするか、相手の機動力にどう対処しようとするか。
諸葛亮は後者と思う。
>>機動力に勝る相手には火力を高くする
これは何も諸葛亮ばかりではない。
匈奴や烏丸と接していた冀州は弩兵で天下に有名だった。
このことは(異民族の)騎兵に対抗するには弩兵であたる
というのが漢代のコンセンサスだったことを示唆している。
諸葛亮が凄いのは技術開発でその弩の能力を桁違いに引き上げたところ。
この連弩は蜀軍最高機密だったと思える節がある。
魏側の伝である馬均伝に当時の権力者曹爽側から
馬均が諸葛亮の連弩を見せられて「これってどうよ?」
と言われた話が出ているのがそれ。
曹爽の漢中出兵の際に初めてこの連弩が鹵獲され、
魏側に持ち込まれたのだろう。
(或いは諸葛亮の死に伴って蜀軍が撤退した際に残された
兵器の中にあったのかもしれんが。
しかしまぁそうだとするならその機密が司馬懿ではなく
曹爽側から馬均に流れてくるってのが一寸ね。)
273 :
無名武将@お腹せっぷく :05/01/05 15:48:01
諸葛亮資集
諸葛亮の評価は、真偽含めてあやしいとこいっぱいあるけど、 「劉備亡き後北伐を敢行。結果、五丈原の陣中で没した。」 という事実だけで俺は好きかな。 なんか死に場所探してるっぽくて。
275 :
無名武将@お腹せっぷく :05/01/14 17:11:53
祁山悲愁の風更けて 陣雲暗し五丈原 零露の文は繁くして 草枯れ馬は肥ゆれども 蜀軍の旗ひかりなく 鼓角の音もいましずか 丞相病あつかりき 丞相病あつかりき 四海の波瀾おさまらで 民は苦しみ天は泣き いつかは見なん太平の 心のどけき春の夢 群雄たちてことごとく 中原鹿をあらそうも たれか王者の師を学ぶ 丞相病あつかりき
高き尊きたぐひなき 「悲運」を君よ天に謝せ 青史の照らし見るところ 管仲楽毅たそや彼れ 伊呂の伯仲眺むれば 「万古の霄の一羽毛」 千仭翔くる鳳の影 草盧にありて龍と臥し 四海に出でて龍と飛ぶ 千載の末今も尚 名はかんばしき諸葛亮
この詩は好きだが、↓この辺が昭和維新の歌にそっくり。 三上がぱくったのかな? 其隆中の別天地 空のあなたを眺むれば 大盜競ほひはびこりて あらびて榮華さながらに 風の枯葉掃ふごと 治亂興亡おもほへば 世は一局の棊なりけり 明主の知遇身に受けて 三顧の恩にゆくりなく 立ちも出でけむ舊草廬 嗚呼鳳遂に衰へて 今に楚狂の歌もあれ 人生意氣に感じては 成否をたれかあげつらふ ちなみに昭和維新の歌(三上卓・作)の類似箇所(ほかにもあり) ああ人栄え国亡ぶ 盲たる民世に躍る 治乱興亡夢に似て 世は一局の碁なりけり 功名)何ぞ夢の跡 消えざるものはただ誠 人生意気に感じては 成否を誰かあげつらう
パクりっていうか、本歌取りみたいなもんかと思うのだが。
279 :
無名武将@お腹せっぷく :05/01/18 21:48:39
ほしゅ
280 :
無名武将@お腹せっぷく :05/01/18 22:30:44
ときに諸葛亮の軍才は三国で例えるとどのレベルかな? 否定派の言うように無能・若しくは凡才レベルか、 はたまた天才とまではいかないが、一級の用兵家だった?
>>280 諸葛亮の軍才は間違いなく一級品だと思うよ。
足りなかったのはリスクを恐れない豪胆さくらいのものだと思う。
名将はリスクに挑戦する際に、公算の大小ではなく必要性によって決断するが、
諸葛亮は公算の大小を考えすぎるあまり結局機を逃してしまったのかと。
ただ第一次北伐においては、名将の条件を完全に満たしていたとも思う。
だからこそ馬謖の失敗が悔やまれるのだが。
魏延や姜維はそういう勇気を持っていたが、他の点では諸葛亮に及ばなかったんだと思う。
一級品というのは同意だが、陸遜や司馬懿と比べるとチョイ劣るような気がする。
>>280 戦術レベルの指揮に徹するなら、十分に名将と呼ばれて良いレベルだったと思う。
戦略家としては慎重な面が強いので、四征・四鎮将軍として国境の都督を務め、
防戦に徹したなら、それなりに活躍できただろう。
魏で言えば、王凌に相当すると思う。
戦略家としては、自分の得意なスタイルに
敵将を引きずり込む能力を持つ司馬懿、陸遜より一段下だな。
>>285 その陸遜が諸葛亮のメル友で、司馬懿(&その一族)が諸葛亮を認めているのは何故?
(ソースは諸葛亮集と三国志正史)
当方、三国志の登場人物には能力値以外の謎パワーが潜んでそうなところに
魅せられた三国志ラブ(正史も演義もキワモノもOK)で、冷静比較論は苦手な
んだが……判らんのですよ、その辺が。
後世の人間がどんな理屈を付けて貶めても何故か盛り返す>諸葛亮の魅力
>>286 >その陸遜が諸葛亮のメル友で、司馬懿(&その一族)が諸葛亮を認めているのは何故?
別に人間は誰もが自分並みの人間と仲良くするわけではない。
諸葛亮ほどの将才があれば、陸遜・司馬懿より劣っていたとしても、
一人の将として見るなら、十分に賞賛するに値する水準に達している。
また、統治者としての才、清廉な人格も合わせて、高く評価されてるんだろう。
諸葛亮は稀代の名将って事でいいと思うよ と言うか自分が指揮した会戦で負けた事はほとんどないんじゃないかな 戦略目標は全然果たせてないし狙いも正直なので徐々に相手に付き合ってもらえなくなるけど 立案、実行どっちも出来る人間だけど両方同時にするのは無理な人って事で 誰でもいいからしっかりと補佐する人間さえいれば北伐の結果も変わっていたかも ただまあ人の話を聞かないってのは諸葛亮の能力の一部なので結局高望みか
>>287 即レス心底多謝です。
現在、貴殿の論を以て納得しようと真剣に試みております。
ですが、判り急ぐと唯でさえ(当方がアホなために)多い見落としが更に増えそう
なので、お時間を頂けますか?
諸葛亮の魅力には、才を越え、時を越えて人心を動かす力があるように思えるため、
そこに引っかかるものを感じております(でなければ、貴殿も私もここにはおりますまい)。
ここさえクリアできればOKなのですが、できないのです……
>>283 まあでも情勢や国力差を考えると
無理もなかったと思うぞ。
負けたら国が滅亡するような賭けは出来ないっしょ。
>>286 >その陸遜が諸葛亮のメル友で、司馬懿(&その一族)が諸葛亮を認めているのは何故?
陸遜や司馬懿みたいに、優秀な政治家であり軍権を掌握しているような輩にとって諸葛亮はかけがえの無い好敵手だからねぇ。
国力差があるにもかかわらず、簡単には打ち破ることができず、凡将が采配する局地戦ではよく負かされてしまう優秀な相手。
かといって、都を脅かすほどの脅威ではないんだよね 諸葛亮は。
陸遜や司馬懿にとっては
「わてらを司令官にしとかないと諸葛亮の率いる蜀に負けてもしりまへんで」と主張することでしか
自分たちのレゾンデートルを確保できない
諸葛亮を称えれば称えるほど、自分の権勢も拡大していくんだよ
皇帝にとって、優秀すぎる部下は粛清の対象でしかないからね 宦官ならまた別だけど
結局、諸葛亮亡き後。陸遜は忠義があったから孫権に物故ろされてしまうし、司馬懿はそれらを見越して帝位簒奪を遂行していくしね。
>>291 氏、そして
>>287 氏
貴重なご意見痛み入ります。
諸説を伺いながら再考しましたところ、当方、司馬懿が真面目に仕官し、献策し、
「共に太平の世を築かん」
と考えていた君主は曹丕だけだったのでは?と勘ぐっていたようです。
(以下、当方の妄想です)
司馬懿は若かりし頃、世の乱れを愁いていたとの記述もあり、太平を望んでいたことは確か
だったろうと思います。
なのに曹操の代では半ば強引に仕官させられて図書館ヒッキー、曹叡の代になってからは
「諸葛亮が出て来たからなんとかしろ」との主命を受けたので出陣しました的な部分があり
積極的に戦おうとしているように思えない部分も無きにしも非ずです。
それが良策なのも確かで諸葛亮も苦戦を免れてはいませんが、手抜きをしている風に見える
場合も見受けられ、諸葛亮を打ち滅ぼそうとしていたようには思われないんです。
(司馬懿以外の将に関しては保証の限りではありません、念のため)
忠義を尽くせぬ君主よりは心惹かれる好敵手の方に軍配を上げたくなる気持ちが司馬懿に
あったとしてもおかしくはないと思えるので、この当時の諸葛亮の心を理解していた数少な
い一人であったように感じられてなりません。
私は司馬懿の将として申し分なき優秀さよりも、そんな度量の大きさに感服しているらしく
そちらに目が行きがちになります。
(妄想終)
陸遜については、 「家兄も歳を取りました。しかもその長男の恪は才気に走りすぎて気性も荒いので重く 用いない方が良いと思います。今、彼は兵糧管理の任に付いているとのことですが、 兵糧管理は軍の要ですから、私は遠く成都におりましても心配しております。 どうぞご主君に奏上し、彼を他所の任へ付かせるようご進言下さい」とか書き送っているので、 「好敵手にこんな書簡、普通書くかなぁ……?」 と、やはり不思議な気がするんです。 (陸遜がどんな返書を諸葛亮へ送ったのかも本当は読みたいと思っています。 諸葛亮のこのヨミは、後々大当たりになりますから、陸遜が気付かないとも思えないため) スレの趣旨を元へ戻しますが、今のような諸葛亮像が出来上がったのは、やはり白髪三千丈 のお国柄で、メダカのような些細な話が鯉のぼりより大きくなる傾向があり、諸葛亮を敬慕する 民衆が大風呂敷を広げまくったことも関係して来ると思います。 これは、演義の諸葛亮も相当なものですが、民間伝承の方が更に輪をかけてトンデモな話が 盛り沢山なことからの推測してみました。
>>293 その読みの通りだと思うよ。
今から1800年もの昔に、
個人が個人に宛てたの手紙の内容なんかいちいち把握できるはずもない。
会話の内容なんか尚更だ。
会話とか手紙の内容を歴史家が作文するのは古代中国史の伝統だしね。
ま、ありえないとは言わないけど、話半分に捉えておけば間違いないと思うよ。
実際のところは、「孔明が恪についてあぶない奴と薄々思っていた」、
という程度のことなんじゃないのかな。
>>293 ついでに言えば、陳寿自身が熱烈な諸葛亮信者。
自ら諸葛亮集を編集しているし、
武帝(司馬懿の孫)の前で堂々と
「諸葛亮は管仲や蕭何に匹敵する偉大な人物ですが、
王子城父や韓信みたいな名将が居なかった。
だから司馬懿に勝てなくて、大義をまっとうできなかったんですよ」と言ってのけてる。
つまり、陳寿の諸葛亮評価は「名臣であって名将にあらず」ということでつね
>>296 陳寿が軍人諸葛亮よりも、政治家諸葛亮を評価しているのは確かだろう。
だが、諸葛亮が軍人としても非凡な才能をもっていたことは、歴史書を読めば一目瞭然。
彼に足りなかったものは、軍人としての能力よりも、劣勢を奇術のように一変できる策略と、
それを実行する決断力。
本人自らが、賢人劉巴を評して「帷幄に籌策を巡らすことでは、私は劉巴に遠く及ばない。
ドラムを打ち鳴らして陣頭指揮を執り、雑兵を鼓舞することであったら、なにか意見も出来るのであるが。」
といっていることからも、軍隊指揮官としての自負心はかなり高かったことが読み取れる。
>>297 諸葛亮は指揮能力は高かった。
だが、王子城父と韓信には、指揮能力だけでなく、
策略をめぐらす能力と、実行する決断力も兼ね備えていた。
思うに陳寿は、諸葛亮に臨機応変の策略を巡らす能力が無かったこと、
指揮能力と策略を兼ね備えた名将と組めなかったことを、
残念に思っていたんじゃないだろうか。
>>299 曹操でも十分すぎるが、
もっと身近なところでは法正と、[广龍]統がいた。
最も、法正と諸葛亮はまったく別派閥で、ハタケも違えばウマも合わなかったようだが、
同門の兄弟子で、一つの目標に対して必勝の策を二通り提示できるなど臨機応変の
判断が出来た[广龍]統が早死にせずに諸葛亮のバックアップに回っていれば、
もうすこし北伐の成果も違っていたのでは。
>>300 二人とも参謀専門の人なのがネック。
できたら、実戦指揮と策略の両方が出来る人がいい。
302 :
無名武将@お腹せっぷく :05/01/26 19:40:23
もう少し国力差がなくて、優秀な手足となる部下がいればってとこなんだろうな。
>>303 「手足となる優秀な部下がいなかった」ってことはないだろう。
むしろ、それは充実していたと思う。
>>301 実践指揮は諸葛亮で十分いけるんだよ。
もちろん韓信級のがいれば、諸葛亮は(体力面を考えても)後方支援に専念してもらったほうが良いが、
諸葛亮は三国時代でも有数の軍指揮官なんだし、
>>297 もいっている通り、本人も自信があったようだし。
>>304 そうか?
陳寿だって配下に名将がいなかったことを惜しんでるぞ。
まあ言うことを忠実に守ってくれる良将は多かったかもしれないけどさ。
劉備が生きていれば自分が韓信になっていたんじゃまいか。
>>304 高祖の臣下に例えると、諸葛亮配下には、
曹参・周勃・樊カイ・レキ商・夏侯嬰・灌嬰のような戦術レベルの良将や、
張蒼・周昌・レキ食其・陸賈のような優秀な文官はいても、
韓信・彭越のように戦局を引っ繰り返す策略のある、戦略レベルの名将がいなかったんだろうね。
主軍の元から離れて指揮統率できる司令官格の将がいなかったってことかな?
存命中、姜維はまだ軍務にあまり携わってなかったし、 大物は魏延ぐらいしかいなかったしね…。
>>308-309 孫権には、周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜と、そういったタイプの名将が多くいた・・・
なのに江南に引きこもりっぱなしだったのは惜しいなぁ。
曹操でさえ夏侯淵レベルのしかいなかったわけだし。
>>311 引き篭もりになったのは結果論。
何度も魏領に攻め入ってるが撃退されてただけ。
それだけの能力というか国力しかなかった。
過大評価しすぎ。
対蜀の指揮官が司馬懿で対呉の指揮官が満寵ってのが全てを物語っている気もするな。 無論、満寵が弱いとは言わないけど、やはり司馬懿に比べれば落ちる。
>>313 満寵舐め過ぎ。
司馬懿だって何度か荊州攻めに参加してるが成果は芳しくない。
満寵舐め過ぎってなんかエロいな
>>311 夏侯淵レベルしか?
三国志だけでなく、後漢および晋時代における西北羌族の行動とその対応を見てから
いってくれ。
前後の時代にあれだけ暴れていた羌族が、魏代にはおとなしかったのは何故だ?
夏侯淵クラスしかってなあ。 逆に夏侯淵より上のクラスを見付けることの方が難しいのに。
>>317 だからそれが曹操陣営の限界だったんだろ。
たしかに夏侯淵は優れた将軍だが、地方政権と戦って戦死なんてのは最悪の結果だ。
一地方軍を任されるというのは君主がもう一人出来たようなもので、
これが戦死するなんてのは、その地方の国王が戦死したのに等しい。一将軍の戦死とは意味が違う。
この関係は劉備と関羽においても言及することが出来るが。
将軍夏侯淵と司令官夏侯淵と言う評価基準の違いだろ 将軍夏侯淵は超優秀 司令官夏侯淵は低評価
>>318 だったら孫氏陣営の限界はもっと前にあるな。
孫権自身の戦下手も更に足を引っ張る。
>>318 劉備陣営なんてナンバー2の関羽があのザマだし、当人は夷陵でアレだし。
所詮その程度が劉備陣営の限界ってことね。
だから三国ともに統一には至らなかったんだろ
>>322 そういうことだな。
中途半端な人材が百花繚乱した時代ということか・・・・。
>>323 まあ、あれだ。
韓信・岑彭・李靖・曹彬・速不台・徐達のうち一人が曹操に仕えてたら、
天下は容易に定まっただろうよ。
>>318 中国を統一した王朝の開祖には、
四川レベルの地方政権程度なら一人で余裕で征服しちゃう将軍が、
だいたい何人か仕えてるもんだよな。
野心が無い&脇が甘くない曹操みたいな奴ら。
傑出した人材があまりいなかったというのもあるけど、 逆に相手にもそこそこの人物が揃っていたということでもあるよな。
うーむ、タナカヨシキを思いだしてしまった 「乱世というと人材が輩出したような感があるが、逆に見ると 天下を統一できるほどの人材がいなかったとなる」 歴史の推移を個人のみに集約させた、乱暴な意見だとは思うが
>>326 世が乱れると、治世だったら埋もれてしまうような乱世の雄がガンガン頭角を現すだけのこと。
だから、そこそこの人材が揃ってるように見える。
乱世が長引くのは、チャンピオンが出ないまま、乱世の雄のバトルロイヤルがダラダラ続いてる状態。
長引かずに天下統一されるのは、チャンピオン級の乱世の雄が現れて、バトルロイヤルを制した状態。
>>327 田中芳樹の中国史方面の発言はまったく信用できないが、
その発言だけにはうなづいた。
>>328 チャンピオン級の乱世の雄とやらが一人しか現れないという前提ならその論理は正しいけどね
二人以上現れたらどうなる?乱世が続くだろ?
>>327 の田中某の発言は結果から当然のことを言ってるに過ぎない
ただし天下を統一できるほどの人材>乱世の人材という式は成り立たない
まあその人の本読んだ事ないからどういう意味で使ってるのかは分からんが・・・
まぁ「チャンピオンが三人現れてしまったのが三国時代」と言えなくもないが、 「三国志」なんて仰々しいものが正史の題になっていなかったら、 劉備も孫権も、公孫述や張士誠クラスの地方勢力と同一視されてたと思うよ。 (極貧の孫呉を張呉国と同一視は出来ないが) やっぱり乱世の英雄だったら、どんなに強敵がいても統一できるべきだと思う。 劉邦は項羽を短期間で倒したんだしさ・・・
チャンピオン(=乱世の覇者)とその部下達はだけが有能、失敗したら その陣営はダメなやつらばかり、なんて無茶苦茶だなおい。 それなら、春秋戦国期の名将たちも、「その程度」か? 魏晋南北朝や五代十国の君主や将たちもか? 抗金名将や、モンゴルに対抗した南宋の将たちは? 逆に言えば、天下を統一した勢力は「その程度」の連中に苦戦したり時には負けたり 妥協したりしたのか?
>>331 >失敗したら その陣営はダメなやつらばかり
誰がそんなこと言った?
感情的にならずに、冷静に一字一句読み直してみな。
「天下統一の才能がある人材はなかった」とはいっているが
(考えてみれば、統一出来てないんだから当たり前だが)、
「天下統一できなかったトコのヤツラはダメなヤツばっか」とは誰も言ってないぞ。
>それなら、春秋戦国期の名将たちも、「その程度」か?
>魏晋南北朝や五代十国の君主や将たちもか?
>抗金名将や、モンゴルに対抗した南宋の将たちは?
わざわざカッコで括ってある『「その程度」』が どの程度なのかは知らんが、
統一できなかったら「統一できない程度」
頑張って抵抗したけど結局滅ぼされたんなら「頑張ったけど及ばなかった程度」
だろ?
もちろん統一できたんなら「中国を統一できる程度」になるわけだ(w
それと、ここに春秋戦国時代を出すのはお門違いだな。
当時と三国時代、及びそれ以降の時代では国家構造が根本的に違うから。
趙や楚、斉を「統一できなかった国」とは呼ぶことができない。
だったら後漢末期の曹操と、曹操が改革した結果国家構造が変わった後の国を もって天下を統一した司馬氏を比較するのも出来ないよな。
>>333 後漢から魏にかけての曹操の改革が、秦による中国統一よりも(或いは同等に)
国家体制に影響があったとは思えません。
とはいえ、単に私の知識不足である可能性も大いにありますので、
よろしければ「曹操が改革した結果」、どのように国家構造が変わってしてしまったのか教えてもらいたいです。
というより、曹操が成し遂げた、始皇帝レベルの改革内容が知りたいものです。
全く、こんなときは自分の無知が嫌になってしまいますよ
>333 とは別人で、曹操の改革も詳しくはないけど、 歴史学の上では後漢までを古代。三国以降を中世とみなしている。 つまり、それくらいの社会の変動があったのでは?
>>335 ですからその「それくらいの社会の変動」というのがよく分からないのです。
具体的に、誰が、どのようなことを実施したから、今までのどんな国家体制が、
それ以降どのように変容してしまったのかが知りたいのです。
>>336 とりあえず漢初漢末魏晋それぞれの官位と役割調べてくれば?
人に聞いてないで図書館でも行って来い
知識不足で無知だって自覚してるんだからそのくらいの労力は惜しむんじゃないぞ
それまではたくさんの自立した小農民(一家で自分の土地を耕して自活してる)を皇帝が支配してたけど、 主に後漢から三国にかけて、借金や戦乱などで土地を捨てた農民が豪族の荘園で農奴となっていく。 豪族の多くはその財力で政界進出し、代々官僚として政治を支配していく。 三国時代の戦乱で土地を失う農民が増え、農奴になる者や、奴隷同然の兵士に成り下がっていく。 軍も、漢では基本は徴兵制だったが、徴兵しり農民が上に書いたように減っていく(荘園の農奴は対象にできない)ので、 軍事力が弱体化していく。(だから異民族や反乱に対して分が悪い) で、三国時代は豪族が自分の保護下の農民(奴隷)を兵士として使ったり、 国も同じように流民を兵士として使い、 しかも身分を固定して代々兵士から抜け出せないようにして軍事力を維持しようとしていく。 こうして豪族(貴族)と農奴や兵の身分が固定化していく。 国家体制も、皇帝の支配力が弱体化して貴族と軍閥に操られるという時代になっていく。
曹操があと10才若かったらな。
曹操があと10若かったら一族の武将はついてこない
じゃあ曹操の寿命があと10年長かったらな。
むしろ、曹ヒ、曹叡の寿命があと10年あれば…
曹ヒが+20
344 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/09 12:12:13
ほしゅ
局地的な戦術レベルでの敗戦が無い孔明が軍事的に大した事無いなんて 言われるのが理解出来ない。 相手も一線級が揃ってるのに。
戦術は上手かったが戦略眼がない孔明 使われて伸びるタイプが使う側に回って国を衰退させたわけだな
孔明について戦略眼が無いなどというおまいは見る眼が無い
348 :
ヾ(o・ω・o)ノ" :05/02/11 17:20:49
個人的にはどの辺が戦略眼がないか聞きたいな。 俺は孔明は戦略眼も戦術眼も申し分ないレベルだと思っているのでね。 まあ、第一次北伐の戦略のスケールの大きさに較べれば、 それ以降の北伐はちょっと落ちる気もするけど。
349 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/11 19:40:45
>>345 局地的には強いけど、戦果をおさめられてないって事なんだろうな
でもそれは状況が悪すぎだし、一概には言えないような。
軍事的にも三国時代屈指の才能だよね。
局地戦なら曹操にも勝てるんじゃない?
戦術ってそんなに優れていたか? 正直、張コウを討ち取った例くらいしか思い浮かばないんだが。 (これはこれで大きな功績だけど) しかし、戦術の勝利を戦略の勝利に結びつけることが出来なかった時点で、 軍司令官として駄目だったとしか評価できないのだが。
曹操には、官渡で圧倒的な不利を覆して勝利を収めた実績がある。 当時の状況からして仕方なかった、とする孔明弁護もあるが、ともかく 孔明にはそういう実績はない。 なにをもって曹操にも(局地的にであれ)勝てると言うんだ?
352 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/11 20:50:12
>350 戦術的成功の積み重ねが、即戦略的成功に繋がる訳では無いと思うが。 じゃぁ諸葛亮の戦略はと言うと、第一次北伐に関しては全体的な国力の差を隴西地域で作戦を展開する事で当面(北伐中)の戦力均衡、あるいは蜀漢優勢と言う状況に持って行ってる。 この点だけでも戦略家として十分優れていると思うけど。
>>352 戦略家は、戦略目的を達成するために戦術の勝利を望む。
>351 の例で言えば、戦術的に張コウを討ち取る功を挙げても、それによって
北伐の戦略目的が達成できていないのなら戦略的には成功とは言えない。
つまり、諸葛亮は戦術的に勝利は治めても戦略的には失敗している。
作戦が優れていても、実行できなければ机上の案。
354 :
ヾ(o・ω・o)ノ" :05/02/11 21:54:12
戦略を結果論だけで語るってのはどうかと思うのだけど。 第一次北伐に関していえば、孟達の謀叛と斜谷経由の陽動出撃で的を絞らせず、 さらに、要害の街亭にて敵援軍を一定時間食い止め、涼州と長安方面の連絡線を断ち、 その間に涼州を制圧してしまうというのがこの北伐の作戦だったわけだけど、 作戦全体を見る限りでは少なくとも俺にはこの作戦の大局的な非はほとんど見当たらないし、 当時の街亭は大規模な森林地帯であり、狭い道を通るしか通行手段はなく、 大軍の展開、特に騎兵戦力の展開には不利で、長期戦を見込める戦地。 これほどスケールの大きい作戦を立案することだけを考えても、 充分な戦略的才能の持主だったと思う。 結果として実際に曹真は諸葛亮の作戦にかかって、主力はビの防禦に主力を向けて、 非主力部隊の張郃が涼州に向かっているわけだし、 馬謖が命令を遵守して手堅く守っていれば、連絡線を断たれた涼州軍の鎮圧は 時間の問題だし、涼州の制圧は成功していたと思う。 涼州自体、西域貿易や精兵確保の観点を考えても戦略的に美味しい土地だし、 後の北周王朝が関中涼州蜀だけで頑張ってたことを考えても、 面白い状況になったのではないかなあと。 さすがに部下の命令無視まで戦略立案の才能に含めるのは可哀相だろ。
355 :
352 :05/02/11 22:32:59
>353 張コウを戦死させた件に関しては、すでに第三次(武都・陰平、陽ケイの役を除く)北伐自体が撤退と言う状況であり、張コウの生死で状況の変化が起きる可能性は非常に低く、この件だけを取り上げて戦略云々するのはどうかと思うけど。 個々の戦闘を取り上げて、戦略を論ずるのはどうかと。 ただ、実際に第三次北伐が撤退(失敗)した以上、戦略的失敗であると言うのは同意。 私見を言わせてもらうと、第一次北伐が街亭の(馬謖の)失敗以外があまりにも見事なので、それ以降のキャンペーンは状況の悪化(魏の応戦体制の整備等)に伴い、無理があったのかなぁ、と思う。
なによりも三国志の作者である陳寿が、 「孔明は戦術家ではなく政治家ですた」といっているのがデカい。 我々が何をどう考えたところで、 マトモな資料のない三国時代のこと、 所詮机上の空論、砂上の楼閣の域を出ない。 事実関係だってあやふや極まりないわけだし。 蜀びいきの陳寿がそういう評価を下しており、 特に戦術家として優れていたという評価が見受けられない以上、 そういうもんだったと考えるのが一番素直。 そもそも八陣図のような脳内軍事ゲームもどきの陣形を 大真面目に作っている時点で戦術家としては大したことない人だったことは明らか。 ただ、政治家であったがゆえ、 引き際のバランス感覚を失わず、 後日の姜維のような無茶は決してしなかったことは 評価されていいと思うけどね。
>>349 が孔明が曹操に勝てると思った根拠を知りたい。
>>354 人材配置まで含めての戦略立案だよ。
馬謖の命令無視は諸葛亮の戦略想定外だったのだろうが、
少なくともこの馬謖の失態による敗北は不可避なものではない。
劉備による馬謖評、そして大役を任せるにはまだ経験不足であったこと、
これらの要素をふまえて、諸葛亮がもう少しだけ慎重に人事を考えれば
十分回避可能なものだったと俺は見ている。
不運だとは思うが、まだ人災の範囲。
そのミスで非常に重要な戦いを落とし、以降の目標達成を困難にして
しまったわけで、少ないチャンスをものにして不利な状況から逆転勝利を
狙うための戦略立案担当?としては十分とはいえない。
優秀ではあるけど。
しかし安能の三国演義では北伐の専守防衛さがやたらと強調されてるな。 豪族連合体をまとめる為に領地が獲得できるという幻想を与え続ける為の戦争(少なくとも第二次以降は)という解釈。 この考えに則ると魏延の強攻策は本気で魏を妥当するという観点なら正しいが北伐の真意を理解できていないという事になるな。 そして第一次の失敗の時点で諸葛亮は局地的な勝利はあっても最終的には勝つつもりの無い戦争を延々と続けていく決意を固めた事になるのか? そりゃあ心労が溜まりもするな。
360 :
ヾ(o・ω・o)ノ" :05/02/11 23:26:30
>>358 街亭のは大役ではあることに変わりないんだけど、役割的にはそれほど難しくない
戦だと思うんだよね。恐らく諸葛亮は、責任重大だが基本的な兵法を理解している
将が命令どおり動けば全く問題ないだろう、的な考えだったんだろうと思う。
だから、経験不足の馬謖でも問題なくこなせるんだろうと思ったんじゃないかな。
俺は問題は馬謖の場合、経験不足ではなく強すぎた功名心と本人の才能への過信を
諸葛亮が計算していなかった故ではないかと思っている。
馬謖が山頂に陣取ったのは、恐らく時間稼ぎではなく、
自分なら敵を撃滅することもできる、と思ったからなのではないかな?
まあ結果的に重大なミスとなったが、諸葛亮の戦略眼を大きくマイナスするものではないと思う。
稀代の戦略家であり、類まれな人物鑑識眼を持っていたとされる曹操でさえ、
漢中の夏侯淵の例のような人選ミスはやっているわけだしね。
諸葛亮が三国時代屈指の名将であったことには変わりないと思うのだがどうか。
(個人的には将軍としてだけの才能なら諸葛亮は司馬懿と同等レベル、陸遜より上の評価)
曹操は隙が多いからな。敗戦も目立つし。 その分、劇的な勝利があるわけで。 諸葛亮はとにかく負けない事に重点を絞り過ぎた感がある。 劉備の国を何としても潰したくなかったんだろうな、なんて思う。
>>360 じゃあ、あの当時の四征将軍級将軍で、
誰を漢中に置いたら、曹操は漢中確保できたよ?
ぶっちゃけ、曹操本人じゃなきゃ、劉備本隊には対抗できなかったんじゃないか?
363 :
ヾ(o・ω・o)ノ" :05/02/11 23:47:55
>>362 漢中は無理に確保する必要はないんじゃない?
つーか移住その他の件を考えても、そもそも曹操が当時漢中をどうしても確保すると
考えていたとは思えないのだけど。必要があれば放棄すべき地と考えていたと思う。
それに対して、自身が見敵必戦的な性格を戒めていた夏侯淵を起用する
というのは純粋に人選だけ考えれば明らかに人選ミスだろ。
東のような体制にする手だってなかったわけじゃないし。
まあ、夏侯淵に涼州平定を任せてああいった功績を挙げた以上、
政治的配慮を考えれば、多少は仕方ない話ではあるのだけどね。
馬謖の件も政治的配慮の部分は全くなかったわけじゃないと思うな。
漢中に夏侯淵を置いたのは 荊州に関羽を置いた理由と同じ
>>360 諸葛亮は、(当人には)勝算ありとみて北伐を繰り返したんではないの?
それが(その時その時に理由があったんだろうけど)ことごとく失敗しているのに、
その時代屈指の名将とはとても言えないとおもうのだが。
才能だったらもしかしたらあったのかもしれないが、実現できなかったのなら結局
変わらない。
それから、劣勢の蜀を率いて善戦したというのも確かにたいしたものだが、同じく
劣勢でありながら勝利した曹操や周瑜のような人物に比肩するとはやはり言えない
と思う。
>>365 同じ劣勢でも程度や状況はちがうわけで。
367 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/12 00:11:47
周瑜も司馬イも主に防衛戦で活躍しただけだからなあ。 攻める場合にはいずれもイマイチだよ。 曹操だけじゃん?攻めて強かったのは。
368 :
ヾ(o・ω・o)ノ" :05/02/12 00:28:58
>>365 諸葛亮の北伐の失敗って第一次以外は全部補給のような気がするんだけど。
それは曹操や周瑜の劣勢とは違う独特の事情。同類に考えるのは何か違うと思うな。
諸葛亮もそれを分かってて解決手段は講じてるけど、結局根本的な解決には至らなかった。
そもそも北伐自体が蜀漢王朝の国是であり存在意義で、
逆賊魏の討伐が至上目的なんだから、やらないでのほほんという訳にはいかない。
前にも書いたけど、戦略戦術を結果論だけで語るのはどうかと思うよ。
最終的な目的達成が結果的にできなかった場合、名将でないとしたら、
世界史上屈指の名将とされるハンニバルが名将と言われる理由がなくなる。
諸葛亮の戦略戦術に問題がある、才能がないというのであれば、
どの辺がまずかったとかそういうのをしっかり指摘すべきだと思う。
そんな事無い。緒戦はボロ負けってのが案外多いぞ。
才能がないとは言わない。しかし、実現できなければ名将とは言えない。 どれほど作戦がすぐれていていも、実行力がないのであればどうにもならない。 諸葛亮が単なる前線の一司令官なら作戦指揮だけをとやかく言えばいいが、一勢力 の総司令官であれば、補給だの人事だのも含めて全てがその責任になる。 解決手段を講じても、解決できなければそれは失敗。 私は諸葛亮が無能だったとは言わない。しかし総司令官としては全く実績を挙げて いない人物を曹操に匹敵するだとかその時代有数の名将だとか言うのなら、それこそ 根拠が知りたい。 だいたい、補給がどうこうとか特別な事情があったとか言い訳はしても、結局諸葛亮 はその事情を解決改善できなかったということだろうに。 諸葛亮を、この時代有数の政治家とするのなら賛成だが。
才能も何も北伐の時点で戦術的に諸葛亮に勝利出来る人材は、魏にいなかったじゃん。 戦略的な事を語るなら別としても、上記の事実だけでも「何の実績も無い」とは 言えないと思う。
諸葛亮の立てた戦略は史書を読む限りかなりの有効性を持っていた ことはわかる。そして、曹操、周瑜、司馬懿らもそれぞれ優れた状況判断力、 作戦能力を有していたことも史書から読み取れる。 どちらが優れているかなど単純に比較できることではないし、 「曹操が諸葛亮の立場で北伐を行ったら、どれほどの有効な戦略を立てられたか」 などと考えることもナンセンス。
373 :
ヾ(o・ω・o)ノ" :05/02/12 01:15:17
>>370 局地戦の野戦では張郃、司馬懿など魏の一線級の将達に勝利し、
一度も敗戦することがなかったわけだが、それでも実績がない、と?
実行力が伴わないってのも、言うなら、どの辺がどう実行力が伴ってないのか説明できる?
貴方のいう実行力が何なのか分からないけど。
あと、その言い分だと、最終的な結果で全てを判断しているようだけど、
軍事学における名将愚将の評価の基準は、勝った戦の数でなく、
与えられた状況でどう戦ったかということ。
軍事的考察なしに軍事的才能の有無なんて語れないよ正直。
結果も判断材料の一つではあるが、結果一つでもどのような状況下での結果かということも重要。
正直、結果だけで全て語るんなら、人海戦術で押し潰したのも、
戦略的戦術的な妙を発揮した戦も全て同列に語ることになるよ。
それがどれだけおかしいことかわかるでしょ?
あと、諸葛亮が「この時代有数の政治家」っていうけど、
どのようにどう優れていたか説明できないと話にならないよ。
>>371 陳倉では曹真に進撃先を見破られて
すごすごと逃げ帰ってますけど。
>>373 陳寿の評に「名相であるが、軍略には長けていなかった」と繰り返し書いてある。
それでもう十分じゃないの?
生前の孔明と関わりがあった人の証言なわけだしw
ハンニバルにしろ、織田信長にしろ、ナポレオンにしろ、
「名将」とは常識を打ち破った戦術・戦略を持って名を馳せた人のことを指すわけだ。
孔明は少なくとも歴史のターニングポイントになるような
戦果はまったく残していないわけで、その時点で「名将」とは言いがたい。
王双とか張コウを殺しただけで「歴史に残る名将」と評価するのはいかがなものかとw
自分に出来ないことは出来ないと的確に判断し、
大やけどをしないあたりは「良将」として評価していいと思うけどね。
結局、孔明は自分自身の軍略家としての能力の限界を知っており、
自分の能力の範囲内で出来ることを無理せずこなしていた、
ということだと思う。
歴史に残るほどの戦果をあげなかった諸葛亮の軍事的才能は どの程度かを考察するのがスレの趣旨であって、歴史に残る戦果をあげなかったから 軍事的には凡庸とするのではそもそも話の次元が違う。一種の詭弁だな。 陳寿の弁を強調するのはともかく、陳寿が言ったから間違い無い、なんてのも 同じく話にならないよ。
諸葛亮は名将に違いはないよ。 歴史的な名将とまでは言えないレベルってだけで。 結局勝てなかったし志は遂げられなかったけど、 情勢などを鑑みればそれでも十二分に評価に値すると思う。 魏に攻勢を仕掛け行く行くは勝とうなんてあの国力差じゃ出来なくて当然。 蜀を潰さないようにあれだけやれただけでもすごいことかと。 歴史的名将となると、これをひっくり返すんだろうけどな。
>>374 陳寿評を捏造すんなっつーの。
陳寿評を取り上げるなら、一度くらい原文読んでから来い。
「然連年動衆未能成功蓋應變將略非其所長歟」
要するに「私が思うに、臨機応変の戦略指揮はその得意とする所ではなかったのだろう」
あくまで「臨機応変」が得意ではなかったとしており(それも推量)
「軍略に長けてなかった」とはどこにも言っておらん。
378 :
圭破龍文 :05/02/12 07:03:29
>>362 その意見には半分同意。張遼と同等の将才を持った名将がもう一人いれば良かったのかも知れないけど。ただし騎兵が主力の曹魏にとって、どの将帥が行っても漢中という土地は確保しにくい土地だったと思うけど。
諸葛亮について。
正史の「応変の将略はその長ずる所にあらざるか」というのはあまりにも過少評価だと思われ。
六対一とも八対一とも言える国力の差、蜀の桟道をはじめとする補給面の悪条件、そういう状況のなかで
あれだけの軍事行動を維持できたというだけでもその将才は非凡であるといっていいと思う。
さらに野戦においては北伐全体を通じて街亭以外で負けてない。
司馬懿の引きこもり戦術ってのは将軍としての自尊心をかなぐり捨てた上での異常な戦術だから、
あれを打ち破るのは誰でも容易じゃなかったのでは?
北方三国志では、第五次北伐でこの司馬懿の戦術を逆用して魏軍主力との決戦を経ずに
擁州西部を実効支配しようとしたという説が載ってるけど、あれは完全な創作なのかな?
実際の話ならかなり有効な方策だと思うのだけど。
諸葛亮って満寵と比べるとどうなの?上?下?
380 :
圭破龍文 :05/02/12 07:41:46
>>379 満寵よりは上でしょ。諸葛亮は蜀軍全体の軍事行動を全部統括していた司令官。満寵は合肥方面の防衛戦の一司令官。比較の対象にする方がおかしいのではないかな。
しかも諸葛亮は政治家としては正史でも折り紙付きの評価をされている人。満寵の政治的業績とかきいたことないからその点でも比較する方がおかしいと思う。
>>380 満寵の政治的業績
・山陽郡の督郵となり、私兵を擁して民衆を苦しめていた李朔らを処罰する。
・高平県令代理となり、汚職をはたらいていた督郵張苞を逮捕する。
・許都の令となり、犯罪を犯した揚武中郎将・諫議大夫曹洪の食客を逮捕。
曹洪が送った助命嘆願書を無視。曹洪は曹操を動かして釈放させようとしたが、
満寵はその動きに気付いて、すぐに処刑した。
権力者曹洪の威光をものともせぬ厳正な対応を、曹操は大いに喜んだ。
・許都の令として、曹操の陰謀で訴追された元太尉楊彪の取り調べを担当。
今をときめく名士にして朝廷の重鎮たる尚書令荀ケ・少府孔融らの
「取調べに手心を加えるように」と言う要請を蹴って、厳正な取調べを行い、
楊彪が無実であることを明らかにし、
曹操に阿らず、荀ケ・孔融ら名士の権威にも屈しない公正さを見せた。
・汝南太守となって、袁紹派の反乱を平定した後、降伏した人々を就農させた。
・前将軍・豫州刺史として豫州を治め、汝南の民衆や兵士の心を掴んだ。
その人気の高さは、満寵が揚州に転任すると、先を争って揚州に移住しようとする者が群を成すほどであった。
>>379 満寵は荊州・揚州方面における対呉防衛戦で活躍。
孫権自ら率いる大軍をしばしば伏兵で破り、陸遜の廬江侵攻をも阻止。
戦略眼にも優れ、敵軍の侵攻方向をあらかじめ予測して備えを固めたり、
敵将の偽降を見破ったり、合肥新城を築いて揚州の防衛体制を強化したりしている。
臨機応変の対応を得意とし、戦場では奇策を多用。政治工作を見破る能力もある。
とにかく使える作戦の引き出しが多く、博打的な作戦も持久作戦も得意なので、
正攻法と政治工作を併用する諸葛亮には、司馬懿以上にやりにくい相手かも知れない。
馬謖の負けっぷりが豪快すぎたためにうやむやになっているけど、 街亭の戦い自体はどの程度の勝ちが見込める戦だったのだろうか? 誰が行ったにしても張合βは厳しい相手だし、肝心な両軍の兵力がわからん。
384 :
圭破龍文 :05/02/12 10:44:04
>>380 ご教授ありがとう。満寵ってけっこうすごい人だったのね。
>>378 異常な戦術だった、とか状況からしかたないとか、それは言い訳ですよ。
そもそも、遠征軍に対して守備を固め、軍の撃破ではく退却を促すなんて異常でも
なんでもない、紀元前から世界中にある戦術だが。
司馬イの目的は侵攻してきた蜀軍を追い返すこと。実際に戦って撃破しようと、
戦わなくても兵糧切れを狙うのも戦術の一つ。司馬イは後者を選択して目的を
達成した。
諸葛亮の目的は、どこまで考えていたかは不明だが最終的には魏の打倒。目前と
しては擁州の確保くらいか?そのためには魏軍を打ち破り城を落さなければならない。
そして、五度にわたる北伐で一度も成功しなかった(落しても維持は出来なかった)。
つまり、諸葛亮は戦術でも司馬イに勝っていない。
他の人も言っているけど、諸葛亮が無能だとは誰も言っていない。ただ、「時代を
代表する名将だ」とは言えない、と言っているのだと思うが。
司令官としても戦術家としても、諸葛亮より満寵が上だな。
387 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/12 11:47:12
陳寿の評が中途半端だった気もするね。あれを読むと陳寿が 「結果を出せなかった→原因は臨機応変の作戦が得意でなかったことオンリー」 と短絡的に捉えていたように思える。 しかし諸葛氏集目録の上奏文だと、兵数や敵将の質や立場が書かれているし 奇策が苦手というのも一つの弱点として書かれているようにみえる。 このあたり、訳文しか知らないので原文分かる人でおかしいと思ったら突っ込み頼む。
>>383 馬謖の任務は、諸葛亮の本軍が来るまで、街亭を確保しておくこと。
時間さえ稼げれば、諸葛亮の本軍が後詰に来るはずだったので、
別に張郃軍を撃破する必要はなかった。
砦に篭って時間を稼ぎ、本軍の到着を待つだけで良かった。
張郃は巴西攻防戦で張飛に、江陵攻防戦で朱然に粘り勝ちされた経歴があるんで、
一流の将なら諸葛亮本軍到着までは、街亭で粘れたと思われ。
>>384 すまないが、何かを決め付けるようなことを書くなら、
せめて基本資料ぐらいは、ちゃんと読んでおいて欲しい。
漏れが説明したことは、全部満寵伝に載ってることだ。
第一次北伐の敗戦が馬謖に全責任があると言われるのは少し腑に落ちない なぁ。 街亭でも山頂に布陣しても全然持ちこたえられない相手に山から降りたら お話にならないでしょ? 持久戦で山頂に陣取るなんて当たり前すぎる戦術だし。 涼州の動揺は重大事だから連絡線の街亭に魏は徹底攻撃するに決まってるし、 寡兵で食い止めろは無茶な要求では? そして皇帝の親征軍が後詰として出陣し魏は万全の体勢、馬謖の働き如何に よらず敗戦は必至だったと思うけど。
なんでみんな
>>356 のDQN発言をスルーしてんの?陳寿そんなこと言ってないし。
みんな心が広くて見ぬフリ?
>>390 なぜかって?
それはこのスレの住人が
>>390 のようなあまりにDQNな発言を、
スルーしようと言う良識を持っているからさ。
>>389 馬謖は大軍を与っていたようだけど・・・
ただ諸葛亮の指示というのが具体的に分からないからなんとも言えん。
まさか山に登ったら水源がなくなるから登るななんて指示を出したとは思えないし。
馬謖がどれほどもちこたえたればよかったのかも分からない。
水源をとられてもしばらくはもちこたえられそうだし
本当に大軍を率いていたなら取り返すことも出来たと思うのだが。
カクと比べるとどうなの?
山での篭城っていうのは城壁内に閉じこもるような篭城と違って地形 を使って積極的に迎撃するはずだよね? 日本の山城での篭城も篭城側は必ず撃って出て敵を撃退するものだったし。 それがなすすべなく囲まれたのは圧倒的な数の差があったとしか・・・
>>374 の捏造事件に見られるように、聞きかじりと妄想だけで論議する人間を納得させるのが如何に困難か・・・
孔明の北伐もここまで困難ではなかったに違いないw
諸葛亮は名将ではない。なぜなら補給の問題を解決できず、北伐という悲願を達成できなかったからだ。 ナポレオンは名将ではない。なぜならロシアとの戦いで兵站を維持できず、目的を達成できなかったからだ。 ハンニバルは名将ではない。なぜならローマの都に攻め入って戦局を覆すことを企図したが、結局果たすことは出来なかったからだ。 織田信長は名将ではない。なぜなら人事掌握に失敗し、天下布武という大望を実現できずに倒れたからだ。
>>394 山には城は無く布陣しただけらしい
山の下には塞があったらしい
山の上に布陣したせいで水路を失ったらしい
でも王平の軍は頑張ってるから水不足はそこまで深刻ではなかったのかも
諸葛亮がどういう指示を出したのかは分からない
馬謖はその指示に背き自身が出す指示はダメダメだったらしい
馬謖は大軍を率いてたらしい
馬謖はその敗戦と命令違反で処刑されたらしい
ここから導き出される結論は馬謖のミス+力負け?
>>396 そいつらと同列に語るのはさすがに気が引ける
399 :
ヾ(o・ω・o)ノ" :05/02/12 16:36:44
まあ他が突っ込んでるので、これ以上突っ込むのは無粋だけど、
一応残りに突っ込んでおこうか。
>>374 >陳倉では曹真に進撃先を見破られてすごすごと逃げ帰ってますけど。
進撃先を数パターン予測しておくのは防衛計画を考える上で当たり前。
しかも、たった1000しか守っていなかったことを考えれば、
諸葛亮が陳倉に来るという確信があったとはとても思えないな。
>ハンニバルにしろ、織田信長にしろ、ナポレオンにしろ、
「名将」とは常識を打ち破った戦術・戦略を持って名を馳せた人のことを指すわけだ。
貴方の常識を打ち破った戦術・戦略の基準が分からないので、
どのように、どの辺が常識を打ち破っているのかご説明願いたいな。
曹操や司馬懿などを名将とするならそっちもね。
あとは陳寿評を読み間違っていること以外でも、実際に戦った司馬懿の
諸葛亮評とか全く無視してるってのも公平じゃないよね…。
ちなみに、無理して反論しなくてもいいよ。
400 :
ヾ(o・ω・o)ノ" :05/02/12 16:39:09
>>389 当時の街亭は上にも書いたように大森林地帯で、狭い道を通るしか通行手段はなく、
大軍の展開は不可能だった。別に山に登らなくても長期戦は期待できる状況だったみたいよ。
401 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/12 17:18:35
>>397 馬謖の処刑された理由もよくわからない。
法を遵守した結果死刑らしいけど、敗戦や命令違反が死刑って
そもそもそんな法があっていいのだろうか。
> 結論は馬謖のミス+力負け?
俺もそんな気がする。
現代人の感覚で法を語るな、馬鹿
403 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/12 17:30:43
命令違反は極刑に値するだろ
404 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/12 17:31:49
>>396 細かい指摘すれば全部あれだが、
とりあえずハンニバルのところが完全に間違ってるよ
麦を踏んだら死刑 農民から物を取ったら死刑 そんな法があっていいのだろうか、とか言うのか
406 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/12 17:33:45
ifレベルでしか歴史を知らない三戦厨房には良くあることだ。 三戦住人にまともな答えを求めようとするのが土台無理。
>>401 敗戦で処刑なら酷刑だが、軍令違反で処刑は普通だぞ。孫武のエピソード他、主将
の命令を絶対とするのは軍法の初歩だ。
それから、蜀志によれば馬稷には敗戦後、呉に亡命しようとしたという記述がある。
ただ負けただけならともかく、命令違反で自分のみならず全軍を敗戦に追い込んで
おいて、責任から逃げて逃亡しようとすればそりゃ極刑以外になかろうよ。
泣いて馬稷を斬るというが、諸葛亮が泣いたのは馬稷の情けない振る舞いと、そんな
馬稷を見抜けず重用した自分の人を鑑る目の無さを嘆いたんじゃないかね。
408 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/12 17:50:53
,、_,、 l ゚(・)゚l クマ−! lづ"/) .l/),,) l^r─'^、 キ' ゚r。;゚ ミ クマー─! 〈_つ ∀,、ヽ | ,、 く (_ノ し′) ) ヽ_) n_____n ノ ' ヽ i ● ●l、 クマ───! ,メ、. (__●.) ヾ. ∠ニつ .じ' /ソ | / | /`> .> U ヽ__∩___∩ | ノ ヽ / ● ● | クマ────!! | ( _●_) ミ 彡、 |∪| 、`\ / __ ヽノ /´> ) (___) / (_/ | つ / | /\ \ | / ) ) ∪ ( \ \_)
409 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/12 18:12:02
謹って馬面だよね?弟は?
馬面
軍令違反と言うけど当時の戦では現場の指揮官の独自の判断で動かないと いけない場面のほうが多かったのでは。 結局、結果責任を問われての処刑だと思う。
412 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/12 20:28:31
>>411 細部はそうだけど、事前に大将から指示されていたことを完全に無視して
独断行動をとって敗戦は思いっきり極刑ものの軍令違反だろ。
結果がマシだったとしても、プラマイゼロか軽い罪ぐらいにはなると思う。
>>412 どういう内容の命令違反だったのか、全く不明なのが困るところ。
書物に残せないような内容だったのだろうか。
>>413 馬謖配下の将軍張休・李盛は処刑。将軍黄襲らは免職。
馬謖の逃亡を黙認した丞相長史向朗は免職処分。
普通の敗戦で、ここまで重い処分はしない。
きつい処分でも、敗戦責任者のうち、何人かが左遷される程度。
大将の指示に従ったうえでの敗戦だったら、精々罰金とか降格くらいだよな 前からのレスを見ると、どうも根本史料を知らないような気がする、この人
>>414 サンクス。向朗の件はともかく、1行目のは忘れていた。
命令違反の謎を「山に登ること」で解決した演義はシンプルで物語としては良いな。
>>415 命令違反で負けても、節度ある君主・宰相なら免官で済ますよな。
三国時代の将軍が処刑されるのは、政争に負けるか、最高権力者がDQN過ぎる場合がほとんど。
処分があまりに厳しすぎるんで、
街亭では全軍ぐるみの大失態があったんじゃないかと思われ。
>>417 蜀にとっては、というか孔明としては、
許しがたい負けだったんじゃないか?街亭は。
孔明の極力の無理・損失を避けたひたすらに慎重な対魏戦略を見るに、
何度負けてもリカバーの効く魏とは違い、
貧乏国蜀にとっては、一回の敗戦も
許しがたいことだったんじゃないかと思う。
孔明が敗死でもしたらそれこそ終わりだからな。
よって、命令違反かました上、大負けして国を危うくしたということで
厳罰を科した、と。
>>418 そうは言っても、人材不足の蜀で将軍を何人も処刑・免職しちゃったら、
ますます人材難がひどくなるぞ。
将官は簡単に育つもんじゃないからな。
420 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/12 22:58:44
>418 同意。 私見だけど、諸葛亮の馬謖への信任ぶりを見ると、北伐の全戦略に関与していたと思うのが自然で、街亭での基本的な作戦行動(魏軍を拘束する程度で良いって事)は当然熟知してる訳で、華々しい戦果は必要ない。 それなのにあの結果ってのが、重罪になったんじゃないかと思う。
>>418 そのリスクを承知の上で、放置できることではないと諸葛亮は判断したんでしょう。
彼は、明らかに政治家としては法家ですから。
むしろ諸葛亮の態度を責めるのなら、馬稷よりも李厳を処刑しなかったことだと思う。
習鑿歯や
>>419 ではないが、馬謖に雪辱の機会があってもなあと思う素人の俺。
>>419 命令違反で敗戦し、しかも責任を逃れて逃亡する人材を許容して抱え込むのとどっちが大変か。
常識があれば判るよな?
馬謖の逃亡って詳細がわからないのよね・・・ なぜ本人の伝に記載がないのか。
陳寿のスタンスだよ。本人の伝には不利な事を書かず、他のとこで暴露するの。 結構有名な話よ
馬謖は、「伊達に兵法書沢山読破してるわけじゃない。 ここは一発坂落しかまして魏に一泡吹かせてやって、それからちゃんと陣取ろう」 ぐらいの軽い気持ちで山頂に陣取ったんじゃないかと思う。 演義そのまんまの発想だけど、実際のところそんな感じだったんじゃないかな。 しかし、孔明も孔明で、馬謖のような実戦経験皆無に近い人間に、 周囲の反対を押し切ってこんな大役を任せるあたり、 はっきり言ってかなり素人くさいミスだよな。 玄人の軍人ならまず絶対やらない。 もしかしたら、この街亭の敗北のショックから、 以降の(慎重な)北伐の姿勢へと繋がっていったのかもしれないね。 こりゃ下手なことはしないほうがいいな、という・・・。 このときの出征は、おとり部隊を使ってみたりと、 どうもそれ以降の北伐と比べてトリッキーなことをやろうとしていた印象がある。
>>425 陳寿に限らず、明までの中国の史書はみんなそうだよ。
「正しい歴史を記録する」ことよりも、、
「王朝の正当性の立証」&「道徳の教科書」を作るのが
正史作成の大目的だから。
>>423 勘違いするな。馬謖は逃亡かましたから自己責任だ。
オレは張休・李盛・黄襲らを惜しんでるんだ。
>>421 李厳と廖立が同じ処分てのもおかしいと思う
>>426 >>420 にもあるように一次は馬謖が関わっているから。
南征時の記述からも、むしろ馬謖主導であったとおもわれる。
以後の戦略の変質、馬謖の抜擢と処刑、陳寿の評はすべてこのため。
こんな電波はどうですか?
431 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/12 23:51:15
>426 最初の馬謖のトコは概ね同意。 諸葛亮にしてみりゃ、一番信任する幕僚に重要地点の指揮を任せる、って意味からすれば当然の人事だったのかもね。 あと、第一次北伐は別にトリッキーではないよw 魏と蜀漢の戦力差を埋めるために、魏が兵站等の問題で関中盆地より兵力を展開できない隴西に作戦を指向するのは当然だし、さらに隴西への増援第一陣になる可能性の高い、長安駐留部隊を引きつけるため、おとり部隊を派遣する、ってのも常套だろう。 例になるか分からんけど、有名な第二次欧州戦におけるドイツの対仏戦で、アルデンヌ通過を隠蔽するために常套のベルギー方面を主攻に見せかけたみたいにね。 趙雲の行軍ルートも漢中から関中への主要ルートだったからね。
ところで、河山集って翻訳されてる?
隴西死守の殊勲を立てたのに、後世に名を知られていない游楚が哀れでならない。
434 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/13 00:02:32
>433 游楚の宮中での舞い上がりっぷりが俺は好きだ。
>>431 戦術としては全然トリッキーだとは思わないけどね。
その後の孔明の行動から比較すると、彼にしてはトリッキーかな、と。
もっとも一回目以降の北伐は記載がいたって不備で、
戦術的に何をどうやったのかさっぱり分からないわけだけど。
補給が続かなくて帰ったとかばっかりだし。
436 :
431 :05/02/13 00:33:37
>426=431 自分が書いたのは戦略の範疇で戦術ではないよ。もしかして「北伐戦術」ってモノがあると思ってるのかな? だとすると話がかみ合わないと思う。 第一次北伐は魏の油断もあり、諸葛亮の戦略が優れたものになって、街亭の失敗が無ければ隴西以西は蜀漢のものになってた可能性が高いほど。 それくらい魏側にとっては危機だったため、それ以降は蜀漢対策を構築して行ったため、手も足も出せず、出撃〜撤退を繰り返したと思われる。 個々の戦闘(戦術場面)では蜀漢が圧倒する場面もあったと思うけど。 逆に言えば、蜀漢が圧倒した戦闘(戦術場面)は魏にとってどうでも良い戦闘であったと言える。 食料不足で帰ってくれれば良いわけだから。
437 :
431 :05/02/13 00:34:27
失礼。 >426=435でした。
>>436 悪いね。戦術と戦略を昏倒して使っていた。
申し訳ない。
あと、一応戦略的には全部の北伐について記載はあるか。
戦術についてはあんまりないけどね。
>>第一次北伐は魏の油断もあり、諸葛亮の戦略が優れたものになって、
>>街亭の失敗が無ければ隴西以西は蜀漢のものになってた可能性が高いほど。
>>それくらい魏側にとっては危機だったため、
>>それ以降は蜀漢対策を構築して行ったため、手も足も出せず、出撃〜撤退を繰り返したと思われる。
確かにね。「魏略」の記載からもそういう感じはする。
魏は最初蜀を気にかけていなくて、情報収集すらマトモにしていなかったというか・・・。
三郡が寝返ったのも、純粋に蜀の力を恐れてのことではなく、
「蜀の山奥からわけのわからん連中が大軍を率いてくるらしいぞ!」的なショックからの
発作的行動だったみたいだしね。
それ以降、孔明が来たからといって寝返る連中は皆無なわけだし。
全てを一人でこなしていた事に凄さがあるんじゃないのか? 知らんけど。
440 :
431 :05/02/13 10:31:56
>426=438 戦術に関した記述は詳細なものの方が少ないからねぇ。 比較的詳細なのが第三次北伐の祁山の戦いくらいかな(漢晋春秋だけど)。 これだって、司馬懿が諸葛亮本体に向かい、張コウが祁山南麓の王平に当たらせた、って程度。 三郡の寝返りは諸葛亮が漢中に駐留した頃からなんらかの工作を行ってたのではないかな? でないと、漢中進駐してから出撃するまで、まるまる1年も滞在してた事になる。この間、魏の中枢でも警戒感も出てきてるし、ゆっくり過ぎるような気がする。 準備期間にしても長すぎる感じがするから、孟達の件もあるけど、隴西に対する様々な工作を行ってたと見れるんじゃないかな。 それ以降は魏の統制も強化されただろうから寝返り工作が成功する余地もなかったんでしょうね。
遺族は過労死で労災認定を求めたんだろうか
442 :
ヾ(o・ω・o)ノ" :05/02/13 16:31:29
>>440 涼州への事前工作については後主伝の裴松之注にそれらしき話があるよ。
ちくまの訳から引用すると、
「涼州にいる諸国の王はそれぞれ月支・康居の蛮侯支富・康植ら二十余人を派遣して
指図を受けさせ、大軍が北方に出陣した時には、兵馬を率い、
戈を振るって先駆けせんと望んでいる」
とある。恐らくこれ以外の各県の有力者にも工作はしていただろうね。
まあ郡太守への工作は行っていなかったみたいで、
諸葛亮が来たと聞いて、天水太守の馬遵は慌てて上邽に籠城したり、
南安太守に至っては東に逃げ出したりしてるみたいだけど。
443 :
ヾ(o・ω・o)ノ" :05/02/13 16:45:56
あと、個人的な意見だけど、諸葛亮の立場って何となくハンニバルにかぶるんだよね。 司馬懿をファビウス・マクシムスといえば、ハンニバルを知っている方には分かってもらえるだろうか。
>>443 いいたいことは判るが、侵入してきた遠征軍相手に、持久戦に持ち込んで疲弊を待つ
ってのは古今東西にある戦略だから、単純にあてはめることもできないのでは。
あと、司馬懿は諸葛亮と直接対峙した前線司令官だから、立場的にはクラウディウス
・マルケルスじゃね?(用いた戦法はファビウスだが)
445 :
ヾ(o・ω・o)ノ" :05/02/13 17:20:40
>>444 まあ単純に当てはめることはできないのは確かだけど、
司馬懿は諸葛亮に野戦を仕掛けた際にはいつも負けてるってのが
その辺の関係に近いかなと思ったんだよね。
諸葛亮が必死に会戦を誘う中、司馬懿が何をされようと決して応じなかった辺りとかね。
そろそろ諸葛亮と周倉の比較をしませんか? 周倉のココがすごい 水中でホウトクをぼこぼこにする (普通の人間だったら息が続きめせんもんね、人間の身体的脆弱性を的確に利用した周倉の万里を捉える戦術眼にはなぽれおんも真っ青ですよね!!) はい、どんどん挙げていってください
つまんない
>>445 野戦を仕掛けると必ず負けている?演義にはともかく、正史にそんな記述あったか?
せいぜい、追撃を命令して張コウが討たれたくらいでは。
450 :
ヾ(o・ω・o)ノ" :05/02/13 20:13:10
>>445 祁山で諸葛亮本隊に仕掛けたとき(上で
>>440 が言ってる奴ね)も負けてるし、
五丈原で諸葛亮が武功水に橋をかけようとしたのを邪魔しようとしたときも失敗している。
少なくとも司馬懿は諸葛亮に一度も野戦で勝った事はないよ。
451 :
ヾ(o・ω・o)ノ" :05/02/13 20:15:17
453 :
ヾ(o・ω・o)ノ" :05/02/13 20:45:33
>>452 宣帝紀の立場の問題や将であった張郃の戦死という客観的事実、
史書としての晋書の評価の低さ、三国志の史書としての評価etc.から、
魏軍の敗戦であると解釈する方が適当であると解釈した。
晋書の記述が正しい!ってどうしても主張したいなら俺にはもう何も言うことはないけど。
>>453 本文には諸葛亮が魏を破ったと書いてあるわけではないから魏の敗戦とはいえないのでは?
455 :
ヾ(o・ω・o)ノ" :05/02/13 21:11:48
>>454 あのさあ、単に思考停止してるのかどうしても魏が勝ったことにしたいのか知らんけど、
追撃軍の将の戦死が意味する事を少しは考えてみたら?
それでも分からないって言うんなら改めて説明する。
>>455 俺が知っているかぎりの話だが軍の将を殺したとしても
その記述以外に破とか敗の字がついているから疑問に思ったのだが・・・
あと上の人とは別。
>>450 これって、司馬懿と諸葛亮が直接軍を率いてぶつかったんですかね?
そうでない限り、局地戦で魏軍(の武将)が蜀軍(の武将)に負けた、とは言える
けど、司馬懿が諸葛亮に負けたとはいえないのでは?
>>457 そうだと思う
司馬懿は張コウを別軍として蜀軍本陣を挟み撃ちにしようとしたが、諸葛亮は王平を派遣して張コウ軍を防ぐ一方で司馬懿本隊と激突。魏延・呉懿などの隊でこれを撃破している
いわゆる第四次北伐の時だね
459 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/13 21:32:58
蒼天已死 黄夫当立 歳在甲子 天下大吉
460 :
ヾ(o・ω・o)ノ" :05/02/13 21:34:52
>>456 まあ確かに具体的にはそう書いていないね。
ただ、追撃軍の大将、それも張郃という魏の名将が戦死するほどであった
というからには、余程の事がないと考えられない。
また、仮に戦果の数が蜀より魏の方が多少上回っていたとしても、
将の戦死の有無では大違い。しかもそれが張郃だと考えると、
やはり魏の敗戦としたほうが妥当だと思う。
そもそも、晋書の言うように、捕虜や斬られた兵が数万も出たんだったら、
蜀という国家にもう少しダメージを与えていてもいいはずだしね。
>>457 まあ君がどうしてもあら捜ししたいのはよく分かったけど、
軍事学とか将というものをもう少し勉強してからいらっしゃいね。
461 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/13 21:39:52
皆さん詳しいですね。大学とかで勉強されたのですか?それとも独学ですか?
>>460 なんか贔屓の引き倒しのような気がするんだよなあ・・・。
オレも晋書が正しいとは思っていないけどさ・・・。
あくまで例えばだけど、
張コウを討ち取った、というといろいろなシチュエーションが考えられるわけじゃん。
演義みたいに「高台かなんかに大量に兵を伏せておいて、
ザーッと矢を射掛けて倒すのも討ち取った」だし、
「追撃戦で蜀軍をボコボコにしている最中に、
蜀の兵の何人かがちょろっと討った矢が運悪く当たって死んだ」でも討ち取った、なわけだ。
オレの個人的な意見だけど、
張コウを討ち取ったのはそんなに華々しく討ち取ったわけじゃないのでは、と思うんだよな。
もしそうならば、もっともっと派手に書いてもいいはずなんだよ。
「諸葛亮は魏軍の追手が来るのを見破り(こういうことを書き足すのが中国古代史書のミソw)、
高台に兵を伏せ、いっせいに矢を射かけて張コウを討ち取り、その他多数の首級をあげた」
とかさ。
北伐全般に言えることだけど、>>ヾ(o・ω・o)ノ"がいうほど孔明が圧倒していたのなら、
孔明びいきの陳寿ならもっと華々しく書いていると思うし、
わざわざ「臨機応変の軍略に乏しかった」なんて随所に書く必要なんかないと思うんだよ。
単に「孔明は強かった」で完結するんだよな。
ちなみにオレ455ではない。あしからず。
張コウを討ち取ったのは退却戦の最中 つまり肝心の進攻戦が頓挫した後だからな 戦術的には金星でも、戦略的にはその前の時点で既に敗北には違いない そして張コウは魏屈指の名将ではあったが、それを失ったから魏が揺らぐ、というほど重要人物でもない(いわゆる叩き上げで、自前で豊富な兵力を持った豪族でもなかったし)
司馬懿と諸葛亮のどちらが勝ったか、ならそりゃ司馬懿だ。
なぜなら、司馬懿は目的を達成(蜀軍を追い返し領土を守る)したのにたいし、
諸葛亮(魏軍の撃破、領土を得る)は達成していないから。
二人の総司令官という立場からすれば、局地戦の細かい戦いでどちらが勝っても
負けても大局に影響を与えなければ意味がない。
張コウの戦死についていえば、それはたしかに戦術的には諸葛亮の大勝利と言えるが
それによって戦略目的も達成していないことをみれば、やはり局地戦としかいいようがない。
さらに言えば、戦術としては追撃した張コウが負けたのであって、司馬懿が負けたとは
言えんでしょう。(このへんは言葉遊びに近いが)
それと、
>>458 って演義じゃないか?正史にここまで詳しく描写されていたっけ?
466 :
ヾ(o・ω・o)ノ" :05/02/13 21:53:08
>>462 まあ確かに張郃軍を華々しく打ち破ったわけではないかもしれないね。
ただ、言ってしまえば張郃という其の軍の大将ともあろう者に矢が命中して
死に至ってしまうという状態であったということも忘れてはならない。
そう考えると、最低でも蜀の劣勢だったとしても、晋書に書かれるような圧倒的なもので
あることはありえないし、それなりに拮抗した戦いであると思うんだよね。
そもそも、部隊の大将が戦死した時点でまともな戦の継続も不可能だし。
臨機応変の軍略に乏しいとかその辺の慎重さについては司馬懿も指摘している事だし、
実際そういうところがあると伝わっていた部分はあると思う。
まあ俺は陳寿じゃないから陳寿の完全な意図なんて分からないけど、
戦略とか見ていても諸葛亮は実際慎重派で石橋を叩いて渡る的な性格ではあったと思う。
467 :
ヾ(o・ω・o)ノ" :05/02/13 21:56:28
>>465 まあ俺は司馬懿が諸葛亮に局地戦の野戦を仕掛けた時は一度も勝っていない、
としか言ってないのでね。戦略的に言えば明らかに司馬懿の勝利だと思うよ。
>>458 については王平伝の裴松之注とかその辺参照。
468 :
ヾ(o・ω・o)ノ" :05/02/13 21:59:08
すまん、
>>467 なのは諸葛亮伝の裴松之注と王平伝が混じってた。
とりあえずその辺見てみて。
>>462 陳寿は(孔明びいきとはいえ)司馬氏に不利なことはそうはっきりと書くわけにもいかない
事情があるんじゃないかな
魏略は伏兵って書いているし華々しいものではなかっただろうね。 関ヶ原で島津が井伊直政に大怪我させたみたいなもんかなと思っている。 しかし、金星には変わらないのだから仕留めた軍の将の名が伝わっていないのは残念。 蜀側としても誇れることなのだから、きちんと資料に残して欲しかった。
471 :
431 :05/02/13 23:07:51
張コウの戦死に関して言うと、張コウは追撃に反対だったが、それを司馬懿が無理強いして追撃させたのではなかったっけ? 敗退する敵でなく、自主的に撤退する敵を追撃するのは危険、と言うことは司馬懿も十分承知してたはず。 うがった見方をすると、自身よか実戦経験が豊富で、良かれ悪しかれ色々進言する張コウがウザかったんで、あえて死地に追いやった、と言う見方も出きる。 ただ単純にこの段階での大規模戦役の指揮に対する司馬懿の経験不足からの失敗かもしれんけど。
>>470 多くの将が戦に参加している中、仮に平均的にみな仕事をこなし、
他と比べて抜きんでた働きをした将が誰もいなかったならば、
「誰が張コウを討ち取ったのか」なんて断定もできないから、
そういう場合は将の名前は記述されないだろうな。
「諸葛亮率いる蜀軍が討ち取った」としか書けない。
>>471 『魏略』だとそうなってるね
反対したけど司馬イの命令で追撃して、伏兵の弓矢に当たってそれが致命傷になった
>>470 もし名前が残ってたら、演義では夏侯淵ヌッ殺した黄忠みたいな
大躍進を遂げたかもしれないのにね・・・
張コウを討ったといっても 遠くから浴びせ掛けた矢が当たっただけで 首を取ったわけじゃないから特定人の手柄にはしにくかったんじゃ?
何にしろ敵の目の前から退却するのは難しい事には違いないだろ つか、退却する孔明に追い打ちかけてもろくな目に遭わない
477 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/14 00:03:36
>476 諸葛亮、司馬懿に関しては、両者がある意味互いにの軍事的識見を信頼しあってた、って部分があるんだろうね。 張コウの追撃の件は張コウ自身が指摘している通り、本来なら行うべきじゃないものなんで、イレギュラー的なものでしょう。 蜀漢軍は迎撃の準備は当然してあったでしょうけど。 例になるかは分からんけど、野球で言えばコントロールの良い投手に対して、ぶつけられる心配は無いみたいなね。 逆に好打者ほどノーコン投手の方が困惑するような。 この状況の撤退で(自軍は当然対応をした上で撤退するので)敵は追撃しないだろうと言うような、変な意味の信頼かな。
張コウの戦死そのものは魏の屋台骨を揺るがすようなものでは無かったが、辛毘伝の注を見る限り明帝らはかなりの衝撃を受けている。
>>471 張コウの戦死に関して司馬懿の謀略が入ってるというのは邪推の部類に入ると思う。
諸葛亮への追撃戦は危険だが好機と判断した結果であり、それが裏目に出てしまったというのが一番蓋然性が高いと思うがどうだろう?
ただ追撃戦自体はそれなりに効果を上げたと思われるので必ずしも裏目とも言い切れない感じだが。
司馬懿は守りを固めただけなのになぜそんなに評価が高いの? それなりの頭があれば誰でもできる気がするのですが。
晋書に出てくる魏の戦果は魏の報告書に依拠してると思われるが 当時、魏の戦果は十倍に水増しされて、朝廷に報告されるのが通例であった。 これを頭に入れて議論した方が良いように思う。
まあ実際誰でも良かったんだけど実行して結果を出した人物が たまたま司馬懿でそれが記録に残ったというだけの話だよ。
>>482 それって国淵伝の「公式文書では賊を撃破したときは一を十と
計算するのが習慣だったが云々」って奴だろ。これは魏建国前のことだ。
それのみで「魏では常に戦果十倍増し」で、
「晋書に出てくる魏の戦果は魏の報告書に依拠してるはず」だから
「晋書の戦果も十倍増し」とは
随分と飛躍があるように感じるが。
しかもそれがその頃(後漢末期)行われていた習慣であり、
魏がその後も行っていた可能性を言うなら
当然蜀、呉でも行われていた可能性だってあるわけで。
>>485 > しかもそれがその頃(後漢末期)行われていた習慣であり、
> 魏がその後も行っていた可能性を言うなら
> 当然蜀、呉でも行われていた可能性だってあるわけで。
それこそ論の飛躍。
毋丘倹伝にも魏に水増し傾向があった旨が書かれており、
国淵伝の内容の時期(建安16年)の曹操政権と魏の継続性を考えれば、
魏建国後もその習慣は残ったと考えるべき。
また晋書の性格上、
おそらく当該記事は、司馬懿を賞揚する史料に依拠したと見るべきでもある。
これに対し蜀書をはじめとする蜀関係の史料には、
その種の傾向が存在したとの記述は無い。
あくまで史料によってのみ、歴史上の推論は構築する事が出来るのである。
ナゲーヨ 二行にまとめろ
2行じゃ論じれないよ
489 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/15 16:51:55
\
490 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/15 23:35:46
482がいいこといった!
491 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/15 23:46:39
大軍を統率して守りを固めるのって簡単じゃないよ 籠城してるわけじゃないんだから
魏どころか黄巾の乱の時からそうですよ<戦果10倍水増し報告が通例
493 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/16 02:25:34
そういえば 三国志の選択科目とった時 大学の先生が言ってた。 文献の数字は、10倍で書いてることが多いって 記憶あいまいだけど 兵力とか、あと人口とかだっけなぁ。
あの人不足の時代に1万を斬首とかありえないしな。
1000人でもありえないよ
官渡後、袁紹軍の捕虜を殺したってのは?
1万の兵で数万の捕虜を生き埋めだっけか あれも水増しじゃないの
どこの記述でも 死者や捕虜の数字はどれも10倍と考えた方がいいよ。
>>498 なるほど。じゃあ100倍と考えた方がいいな。
どうだろう 結果的に袁紹側も曹操側も兵糧不足に陥ってたのだし 食うものが無くなれば虐殺はじめて共食いしだすお国柄だしねぇ 今でもチベットではホロfhgpoiqwp
蜀の実情がどうなったかは別にして 結局の所、諸葛亮孔明は後世に偉大な人物として名を残した そういった点で言えば評価するべきものだぞ 孔明の行動はそういう視点で見ればよくわかる 自分の後世の名声のために蜀を利用したにすぎない 過去において立派だと言われる行為をよくしたりな 一方では魏に勝つため戦ってるが もう一方では自分から蜀の衰退を導いてる 矛盾だらけだよあの人は 孔明がいなかったら新撰組ももっとまともな組織だったのにな
衰退、ねえ。
503 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/19 12:54:20
実像のお話じゃなく、個人個人の理想の人物像を語りあってる、素人さんのスレって ここですか
そうですよ
自称玄人であらせられる503御大様のご意見も拝聴致したき所存ですな。 素人としてはねw
そういう無駄な煽り合いは スレ住人としては甚だ迷惑なんだが。
507 :
ヾ(o・ω・o)ノ" :05/02/19 23:41:52
>>501 ちょうどスレの流れもよくないし、よかったらどの辺が衰退を導いたと思っているのか
是非論を振るってくれ。
508 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/19 23:45:05
人口減った。
509 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/19 23:57:28
蜀のか?
510 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/20 08:39:28
諸葛亮って司馬懿だけじゃなく曹真にすら勝つことができなかった男だよ
511 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/20 17:42:51
>510 曹真もかなりの将領だけどね。
512 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/20 18:57:53
>>505 とりあえず、私は三国志専門、諸葛亮像について卒論で書いて、大学院に行きました。
みたければ、卒論のコピーあげるけど。
513 :
ヾ(o・ω・o)ノ" :05/02/20 19:13:42
>>512 能書きは分かったから早く意見を書いてくれ。
514 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/20 19:15:27
>>512 そんな馬鹿な話が聞きたいんじゃなくて、専門知識があるなら
それをしっかり文章として書いてこそだと思うよ?
「私は○○の大学で専門で〜」「証明出来ます」なんて言われても困る。
その程度の事はわかるよね?
割り込みしながら下らん質問を・・・ 劉備って自分の死後を諸葛亮だけに任せたのか? それとも諸葛亮=内政 李厳=軍事なのか?
516 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/20 20:41:36
517 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/20 21:12:59
>516 ちょっと極端じゃないかな。 そういった見方も出きる、って程度だと思うよ。細かく調べてはあるけどね。
518 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/20 21:20:30
>515 国政全般を諸葛亮に、対呉戦争直後(休戦状態?)であるから、対呉防衛(永安方面)を主な任務に李厳。 で、席次がNo.1諸葛亮、No.2李厳って事じゃないかな。
>>516 前半部分は納得だけど、後半の荊州問題や孔明の事とかが納得できなかった。
異説だからまだ信じられないという気持ちが自分にあるのかそれとも愚説なのか・・・
520 :
ヾ(o・ω・o)ノ" :05/02/20 21:25:54
>>516 ちょろっと読んでみたが、孔明が儒教的正義を掲げる政治家ってのはちょっと違うと思ったんだな。
そのリンク先の人には是非韓非子を読んでもらいたい。
孔明って、政治的な姿勢は明らかに曹操と同じで法家だものねえ
>>520 リンク先では諸葛亮は政治家としては法家主義者だが、
イメージ戦略として儒教的正義を喧伝してると言っているから、
儒教的な政治家という意味で言ってるのではないのでは?
523 :
ヾ(o・ω・o)ノ" :05/02/21 00:33:34
よっぽど根に持ってるみたいね。
「儒教的正義を掲げる政治家」って部分は俺はただ原文を引用しただけなのだけどなあ。
まあいずれにせよ、
>>522 も韓非子しっかり読むことをお薦めする。
罪刑法定主義だけが「法家」の概念じゃないよ。
君主への絶対的忠誠って意味ではむしろ法家のほうが儒家より上だと思うね。
面白い部分も多い現代視点で展開されているコラムですね。 でも『三国志の迷宮』(山口久和著)に出てくる「誠実のマキャベリズム論」の方が、 孔明批判を含むの評としてはしっくり来ました、私見ですが。
>>519 同じく後半は首を傾げた。
なんか演義に毒され過ぎているような気がする。
妄想の果てに決めつけた仮定が多過ぎ。
正史蜀書の孔明はそんな突飛な想像はしづらいくらいに地味だと思うんだが……。
始めから書いてる本人も妄想だとわかってやってるだろ、これ
劉備が戦下手と言うのもおかしいし劉表に信用されてなかったわけでもない むしろ劉表は入れ込んでると思われても不思議じゃない位の待遇でもの凄く重要な新野を任せてる この筆者大丈夫か?
529 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/21 10:18:16
前半も呉が帰属?したばかりの劉備一党だけに蜀攻略をまかすのは独立してくれと言っているようなもんだ。 こんな大仕事いくらなんでも誰か本国の有力部将をつけるだろう。程譜とか。
530 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/21 17:13:00
軍事面では曹操は天才、孔明は大した事ないって書いてあるけど、幕下にいる ブレーンの質が全然違うんじゃない? 孔明のもとにも曹操のような優秀なブレーンが勢揃いしていたら決して劣らぬ、 もといさらに大きな戦果あげてたかもしれない。 むしろ曹操が孔明と同じ状況で、北伐を行っていたらどうなったか。。。 優秀なブレーン達が挙げてくる献策を取り上げて実行していくのと(誤解ないように 言っておくけど、それらを適時に実行する曹操の判断力、決断実行力などは 素晴らしいし、自分だけで立案したものもあるだろう)、統べて自分で企画立案している 状態の人間を同一に評価するのはどうかと。。。。
>>530 マジレスすると、孔明に曹操みたいな人材活用が出来たとは思えない
三国志登場人物の誰の魅力も理解できなかった人っぽい雰囲気だね>この人 ネタとしては面白いがそれだけだな
533 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/21 21:17:48
軍事に李厳・魏延、軍師に馬ショクとか言ってる時点で、時代状況を理解して無いような気がする。
534 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/21 21:29:38
王平と馬ショクってどっちが地位高いんだろ?もちろん街亭を任される 直前の話ね。
535 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/21 21:36:32
>534 比べ物にならないくらい馬ショクが上。 士官学校優卒の本営高級幕僚が馬ショク。中卒(あるいは無学?)で叩き上げの部隊長が王平。 だいいち、街亭の主将は馬ショクで、王平はその指揮下の部隊長だからねぇ。
参軍と牙門将軍か。一見すると畑違いなのがもろわかり
>>530 んじゃよぅ
人物鑑識眼に定評ある劉備はなんで孔明を積極的に軍事面で使用しなかったの?
538 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/22 06:02:05
>>537 んじゃよぅ
人物鑑識眼に定評ある劉備はなんで孔明を積極的に軍事面で使用しなかったの?
それは何を指して言ってるの?あと鑑識眼のある劉備が推した李厳とか、荊州を
任された関羽とかは、どう説明してくれんのかな?劉備だって神じゃないんだし、
すべて鑑識基準とかはおかしい。
>>536 [
机上の策士と戦場の叩き上げ武将では戦地においてはどっちが使えるかは
はっきりと分かるがな。
街亭の防備は王平でも問題無しってな訳でもなさそうだが・・・
趙雲等が曹真を陽動してる間に諸葛亮はどっから長安に進出する予定だったっけ?
街亭は防御拠点だっけ?
>>539 最終的には街亭に全軍終結する予定。
馬謖の任務は、諸葛亮が到着するまで、
砦にこもって街亭を確保すること。
しかしながら、関中より隴西に至る道は、隴山を越え街亭を通るルートの他に、渭水に沿って隴関を通るルートもある。 しかも後者の方が主要街道という事を考えると、全軍で街亭に集結するというのは考えにくいような。
街亭はそのまま抑えておいて、本体は別ルートでもいんじゃない 張コウの補給線も遮断出来るし
543 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/24 19:23:35
>>514 そう?
人それぞれだと思うけどな。
ここに書き込んだから、自分の諸葛亮像を語らないといけないという決まりはどこにあるんだ?
そんなのないじゃん。
それに俺は、一言も俺自身の諸葛亮像は絶対だとか書いていないんだし。
正直にいうと、実像という言葉をかるがしく使われているから、釣ってみただけ
あくまでもここは2チャンネル。
釣り目的で釣る奴もいるんだからむきになんないでくれ。
最後に今のところ、渡邉氏の諸葛亮像が有力視されているが(不本意だがな、ご存知かもしれんが名士の本質をよく分析しているためこれはなかなか否定できないんだよね)
俺としては、宮川氏、或いは上谷氏の説が好きなんだけどな。
544 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/25 03:15:44
>>539 街亭の防備は王平でも問題無しってな訳でもなさそうだが・・・
だから、それは極めて重要のわりに、簡単な任務だ。
そういう任務を馬謖にやらせて点数を稼げさせて、
将来の昇進や、軍部での発言権とかを睨んでいるわけ。
馬謖ほどの人物も分かっているはずだ。
思えば、それも毛沢東と同じミスを犯した。
毛沢東が自分の息子を朝鮮戦争の戦場に送ったのも、
軍事キャリアを作るためだった。
当時の司令官であった彭徳懐も分かっていて、彼を後方に置いた。
が、アメリカの空襲に会って死亡した(これも彭の失脚の元とも言われているが、
真偽は定かでない)。もし無事に生還できたら、軍部の要職を任せただろうと思う。
蜀ほど複雑な政権で、自分の気に入る人を抜擢するのも結構難しいと思う。
その後馬謖を切ったのも、自分の職位を右将軍にしたのも、反発を防ぐため
だと思う。
512 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 05/02/20 18:57:53
>>505 とりあえず、私は三国志専門、諸葛亮像について卒論で書いて、大学院に行きました。
みたければ、卒論のコピーあげるけど。
みたければ、卒論のコピーあげるけど。
みたければ、卒論のコピーあげるけど。
みたければ、卒論のコピーあげるけど。
みたければ、卒論のコピーあげるけど。
みたければ、卒論のコピーあげるけど。
みたければ、卒論のコピーあげるけど。
みたければ、卒論のコピーあげるけど。
546 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/25 19:17:54
>>545 何が言いたいの?
言いたいことがあれば、はっきり言ったほうがいいよ。
社会では通じないよ。
>>544 得点稼ぎの場としては大任過ぎたな。適当に太守職でも歴任してればよかったんだろうけど
孔明としては軍才のある補佐、又は後継者が欲しかったんだろうな。
特に自身の様な官僚型で荊州出身の者を。
>>546 上の方でも卒論ウプれって言われてるのが読めないのか?
脳内卒論だろ。放置汁
550 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/25 22:38:31
>>544 地の利があるとはいえ魏の大軍を少数の兵で守らないといけないのに
簡単な任務とは・・・。
あるいは最初から馬謖を切りたかったとか
552 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/25 23:53:24
544です。 いや、重要性のわりに簡単って孔明が考えいているって私は言いたかった。 無論だれでもやれることではないし、予定通りやっても必ず守りきれるとも 考えていない。そんなものなら点数稼ぎにならないと思う。 馬謖の能力、重要度、難しさのバランスを斟酌して、 それなりに美味しい任務だと孔明が考えているかもしれない。 前二項目は別として、難しさに関して、 恐らく孔明であっても知り尽くすことができない。 街亭の実際の守備状態、魏兵の実際の攻め込んでくる時の状態も、 馬謖と王平ら実際見た人しか分からない。 結局馬謖は孔明の案を放棄したが、王平は拘る。 このあたり結果論として、馬謖が失敗した。 私は馬謖がまったく無能とは思わないから、或いは孔明が考えている以上に、 実際の戦況が厳しかったと思う。何せ孔明自身もそんなに戦上手ではない。
553 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/26 00:22:14
諸葛一族ってみんな頭いいけど、戦下手が多くない?w 瑾 亮 恪 誕 瞻
机上の空論なら亮と恪は有能
誕は空気読めなかっただけじゃ。
556 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/26 00:49:33
そう言いきれる>554は天才。
諸葛亮は戦は十分に上手いと思うけど。
諸葛亮は臨機応変の戦は下手だったが軍の組織作りが優れていた。 信賞必罰の徹底、新兵器の導入etc だからまともに戦うと強いが予想外の事態には軍を立て直せずすぐ退却するハメに。 司馬懿がまともに戦うのを極力避けたのはそれが理由として大きい。 それと馬謖は諸葛亮の弟子でもなんでもなく対等かもしくは諸葛亮が師事する立場。 家柄と名声と学がずば抜けており論客としての理論武装によって諸葛亮のアドバイザー 的立場にあったと思う。 北伐の一連の戦略自体、馬謖の意見を中心に練られ最も重要な街亭を馬謖が守備することにより 馬謖のこの作戦での重要性が保たれ、結果ボロが出た。 なんちゃって。
どうでもいいけど、陳寿は 臨機応変の軍略には長じていなかったのではないか、 と書いてるだけだぞ。 下手だったとも言ってないし、得意ではなかったのではと言ってるだけで、 しかもそれも断定はしてない形でだ。
>>559 北伐の流れが計画はいいが不測の事態に対応しきれないのを裏付けてるだろ。
ここで流れ矢で亡くなられた方ですよ!
562 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/26 10:11:41
>>559 まず『臨機応変の軍略』は戦においては、極めて重要なものだ。
それが得意でなかったら、戦に向いているとは思えない。
また、肝心なのは、しばしば提起されている孔明の本伝のこの論評は確かに
曖昧なところがあるが、陳寿が中心とする人たちが編纂した『諸葛亮集』
で、彼ははっきりと、『亮は古えの蕭何、菅仲の仲間である。将軍としての才略は長ずるところでなかった』
と述べているのは結構見逃されている。
ただ、軍事は所詮政治の延長線にあるものだと思うので、
優れた政治家である孔明は、それなりに広義的な軍略も上手いと思う。
けど結局彼はあくまでも政治家だから、実戦などにおいて、不測の事態には対応しきれない
部分は、やはり一番のアキレス腱だと思う。
563 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/26 17:33:46
>562 同意。 軍事的良識はしっかりしてたんだとは思う。 だから、補給を非常に気にしているのだし、北伐で国政を破綻させる事もない。 ただ、軍事と言うのは大モルトケも言うように「臨機応変の体系」だあるなら、そのあたりが不得手では軍事的に成功しないでしょうね。
でも戦術面では諸葛亮の将才は かなり評価できると思うけどな。
戦術面って、諸葛亮が自身で部隊を率いて勝った例というと?
孔明の戦術って正面からの叩き合いに持って行くことだろ
諸葛亮は弩を工夫したと言われてるからな 正面からの叩き合いなら、当然飛び道具を浴びせられる機会が多い
568 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/26 22:15:26
>564 諸葛亮の目が届く範囲での局地戦では強いね、漢晋春秋の記述をとると。 でも、結局正面からの押し合いに終始してて、広範囲に敵を崩壊させると言う事に繋げられない。 正面の押し合いに勝利しても、後退した敵は策源地方面に退却する事で勢力を回復する事になる。 諸葛亮の場合、敵を策源地方面に追いやる段階にも持って行ってないけどね。 前線の陣地に篭られたらお手上げと言う状態で。
569 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/26 22:17:08
待て。 諸葛亮って、もしかして、 卑弥呼?
>>568 でもあの状況と国力差を考えると
必勝パターンである正攻法で少しずつ切り取るしかなかったしな。
賭けに出て負けたらそれこそ国の存続にも関わるし。
正面決戦なら、上手くいけば敵部隊壊滅できるからな 拠点効力だと1つ1つしらみ潰しになっちゃうし
拠点攻略
573 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/26 22:34:09
>570 いや、賭けに出ろと言うのでないよ。 例えばだけど、祁山の戦いの際、諸葛亮と司馬懿が対峙した訳だけど、主力同士が対峙してる間に別働隊を派遣するとかね。 蜀漢側が別働隊を派遣すれば、魏側は主力を別働隊に向かわせるか、自軍も軍を分けるか、ほっておくか、と言う事になる。 主力を動かせば、篭るという基本戦略を放棄しなきゃならんし、分派すれば対峙中の蜀軍とのバランスが崩れる。ほっておくのは問題外。 少なくともこう着状態は崩せる。 そう言った柔軟性があればな、ってね。 まぁ、諸葛亮の性格上、別働隊を派遣するのは難しいかもしれね。
そういう重要な任務を任せられるほどの将がいなかったのかもな。 お任せ趙雲あたりが生きてりゃもうちょい戦術に幅も出たかなあ。
575 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/26 22:42:25
>571 正面決戦で敵軍を壊滅させるのは難しいんだよ。特に兵力規模が数万単位になるとね。 戦史上、正面決戦で敵軍壊滅ってされてるのは、大抵包囲・殲滅戦って事になるんだけど、包囲するにも別働隊の派遣が必要。 包囲するまでのは機動戦って事になるんで、結局柔軟な指揮が必要になっちゃうんだよね。
576 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/26 22:48:52
>574 別働隊は魏延でどうかな、と思うんだけどね。 祁山の役前年に郭准に勝利してるし。 でも、祁山の役じゃ相手は張コウになるのかな。 そうなると厳しいかもね。
孔明(反骨の相につき没)
国力・戦力で劣勢下にあるなら、尚のこと野戦で敵主力軍の壊滅を達成しな ければならないわけだけど、諸葛亮の軍略は正面戦闘で勝利は得るものの、 戦術・用兵に柔軟性と機動性が欠けてるために決定的な打撃をあたえるまでに 至らないから、どれだけ勝利しても局地的な勝利にしかならず、戦局の大勢を 左右するまでの戦術的ひいては戦略的勝利に帰結させられない。 諸葛亮の場合、敵主力軍に決戦を強要できないと、局地的な勝利を積み重ね て地道に敵拠点を潰しつつ面を拡大させるといった、最も堅実ではあろうけど 時間を費やす戦略になってしまい、否が応でも兵站との戦いになるし。
それって、結局相手や状況の変化に対応できていないってことじゃね
孔明以外に戦場に立って大軍を指揮できる奴が悉く早世しちまったってことか
まあでもそこまでダメダメさんだったら こんなに局地的戦闘で勝利はしないだろうさ。 でも確か1回大勝したことなかったっけ?
582 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/27 00:35:41
>581 ダメと言ってる訳ではなく、狭い戦域での指揮では優秀だけど、それが戦略的優位に結びつけられない、って事だと思うよ。
583 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/27 00:51:42
韓信みたいなもんか
それに魏の司令官が曹真や司馬懿といった有能な人物であったという事と、 国力差を踏まえた為だろうけど投機的な作戦を排除してしまって正攻法に 終始せざるをえなかったという事も、北伐が大勢にはなんら影響を及ぼさな かった原因だとは思うね。 でもそれは諸葛亮の軍事的な才能の不足で片付けるにはいささか酷で、 当時の魏蜀間の優劣を鑑みれば、最良ではないにしても最善の軍略であった のかもとは思う。 魏延の強襲策を採用するとか司令官を諸葛亮以外の人物に変更したからと いって、結果が劇的に変わったとは俺は思わないから。
十数万の敵を相手よりかなり少ない兵力で、 正面決戦の野戦で相手を壊滅状態に追い込むなんて、 相手がよっぽどの馬鹿をやらない限りは無理。 こんな無理な命題を元に、諸葛亮は臨機応変な戦略は下手、とか無理がある。 むしろ毎度毎度の速やかな撤退を見るに、まだ臨機応変な方だと思える。
でも賢明だったらそもそも勝ち目の薄すぎる遠征なんかしないだろ
でも守りに入ってたら魏に蜀討伐の準備期間と機会を与えるだけ。 まあ極々僅かながら勝算はあったんだろうけどね。 街亭が痛すぎた。
589 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/27 01:12:17
>584 正攻法云々って言うより、膠着状態に陥った時に、柔軟性が少ないと思うんだよ。 あくまでも柔軟性であって、魏延の策を用いろとか博打を打てと言う事じゃぁない。 まぁ、相手が曹真や司馬懿ってのは大変だろうけどね。 >585 諸葛亮の北伐は五丈原以外、隴西方面へ作戦を指向する事で兵力を戦域的には有利(あるいは五分)に持って行ってるんだよ。 だから、逆に隴西方面で行動してる限り、隴西を確保すると言う戦略的勝利の可能性はある。 野戦で魏軍を壊滅させなくてもね。
>>587 でも魏が一番大規模な軍事行動を計画したのは北伐の間でしょ?
あんなに毎年のように出兵しなくてもよかったとは思う
孔明はもし魏にいたなら優位な兵力においてほぼ立案した戦略通り蜀、呉 に対して一歩一歩追いつめるやり方で優位な展開に持っていけると思う。 でもどうだろうなー ちょっと計画とずれると総崩れしそうな気もしないでもない。
どうなんだろうな 大兵力で圧力をかけてくる孔明ってすげー嫌らしそう
逆に足枷なしでやったらへたれてたりしてな
確実に負けない戦をするタイプだろうから、 堅実かつ嫌らしいやり方になりそうだよな。
2倍の兵を持つ孔明と正面からやりたい人、手を挙げてー
596 :
猛獲 :05/02/27 04:36:43
ノシ
>>591 正直、孔明が魏の将軍だったら陽平関をえんえん包囲して撤退とか不毛な
事やりそうな気がしてならないんですが。
少なくともトウガイのような事は決して為しえないと思う。
魏に孔明がいたら自分は内政に勤め政戦両略の建策と調整、戦場は別の有能な将にってやるんじゃないか
>>598 俺もそう思うし、普通に考えてもそうでしょ。
諸葛亮が実権を掌握した当時の蜀の国情が諸葛亮を前線の司令官にさせた
理由でもあるわけだし、だいいち蜀の様な人材寡少傾向にあって供給源も大きく
制限された地でなく、中原に割拠する魏の様な大国であれば人材は豊富なうえ
職掌も細分化されてて、諸葛亮であれば荀ケや陳羣、晋初の張華の様な立場
で才能を発揮してるだろうさ。
>>597 の様な三軍ないし一軍の将の様な例は蜀にあればこそであって、諸葛亮
の様な人材は本来なら国政の枢機にあって朝議に加わってるのが普通なんじゃ
ないかな。
▲ ▲ __ \ ヽ、 / / ヽ ` ̄\_ \ `ー一'´ < `ー-、,_ \ / _ノ' 'ヽ、_ヽ > / / -=・-, 、-=・-、 / / / ●⌒) ・_・)⌒● \ \ /▲ ┃トョェェイ┃ l > > /▲ l ┃ヽニソ┃ ノ \ \l ヽ ヽ ┗━┛ l > ノ ヽ、__) (_ノ  ̄`\ ) < `'r,_c〈 ──r,_c<
>>599 それは無理じゃないかな?
魏はどんどん門閥化していってるし・・
徐庶が父など後ろ盾が無かった為中枢に関われなかったと同じことになるんじゃない?
諸葛亮の才能は認めるけどさl
お遊びの妄想に細かく言っても意味ないだろ 無粋だなー
トウ艾には当然なれないだろうし、孔明が重視する人材の傾向からして トウ艾を見いだす人にもならなそう。 軍政の強化には成功しそうだが戦略自体を任せるといつまでたっても結果でなそう。 裏方に徹するといい仕事しそう。
劉備は正解ということね
ところで孔明が実権を握って以降、次々と他の重臣達を処刑・降格・追放 した事に対する批判的な意見は全然聞かないですよね。 蜀をまとめる上でやむなしだったのでしょうか? 私はこれには批判的なのですが、超雲伝で第一回北伐で曹真に敗れた責で 超雲が降格された記述までありますがさすがにやり過ぎじゃないのかと。
殆ど自業自得だしな。 趙雲に関しても敗戦の責任をとっただけだろう、 諸葛亮自身も降格してるし、そんなに批判する程ではないと思う。
孔明は政争がやたら強い。 これぐらいの強さがないと様々な勢力背景がある蜀(しかも自身は外様) をまとめきれなかったとするとまあ仕方ないのかも。 これも力を発揮するのに必要な能力ではある。
トウ艾は三国志の時代でも特筆に価する天才だろ、 戦術面でトウ艾にはなれない、ってのはそんなに−にはならんと思う。 鐘会も蜀攻めで攻めあぐねいてた。 そんなトウ艾でも、作戦の成功は蜀側が馬鹿やった所が大きいけど。
>>605 趙雲のはそんなに気にならなかったけど
劉封を讒言で処刑した事
李厳と廖立が同じ処分な事が納得いかない
劉封のような劉備の養子で功績も大きかった重臣でも一度の失態?で処刑 されてしまうあたりが蜀の余裕の無さと言うか。 それにあれは完全に関羽の失態で上庸から動けないのはしょうがないよね。
劉封は劉備死後を考えてお家騒動の目を早いうちに摘んだって聞いた事が…。 蜀の余裕云々ってより
>>610 蜀の余裕のなさ云々は全く関係ないと思われ・・
その意見に到達する論理がさっぱりわからんw
余裕がないならむしろ処刑しないだろ・・
劉封は2度失態してますよ
614 :
周瑜 :05/02/28 23:27:28
天は何故この世に周瑜を生んでおきながら、孔明まで生まれさせたのだ。
615 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/28 23:37:38
諸葛亮は、志は遠大であるが、機を見るに敏でない。 謀計に優れるが、決断力に乏しい。 戦術に長けるが、正攻法しかとることができない。
孔明勝率は1割
617 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/01 03:53:37
私は孔明の軍事における才能をそれなりに高く評価しているが、 曹操など真の名将に及ばないと思う。 しかし実戦より軍隊の整備のほうがずっと上だが、 軍隊を作ることも立派な軍事才能。 勝っていないから上手くないって言うのも些か問題がある。 そもそも天下三分の策を練るとき、『荊州領有』、『呉蜀の強固な同盟』、 『魏の内乱』、『上将が軍隊を率いる』(韓信のような大軍団実戦向けの司令官)という 四つの条件も出されていた。 実際の状況はどうだったのか。 関羽が無くなった時点で連鎖的に要件が消えていって、 魏を滅ぼして天下を狙うことは現実性がほとんどなくなった。 恐らく孔明の狙いはまず攻撃的な防御、 そして国成り立つの大義名分を蜀の人に示すことである。 次に、西涼の軍事力、人口を吸収する。蜀建国以後、北伐を名目で、 西涼より大勢の人口を蜀に移住して、軍隊に補充したのも事実。 更に、もし万が一魏に内乱が起こる場合、速やかに進撃し、できるだけ 実利、実地を得て領土を拡張する。天運とかに恵まれるとき、もしかして 滅ぼすこともできるかもしれない と孔明は計算しているだろう。 私はこの方案は優れていると思う。 だから戦略において孔明は三国においてもずば抜けている。 しかし戦術においてそんなに上手くないし、何より彼はその戦略を公言できない。 だから部下も揉めているし、後継者たちも真意を理解できずに本当に正攻法で 魏を挑んでいた。恐らく彼は真意を自分が指名した政治に関わる二人に言ったが、 軍部の人間に言わなかったと思う。 長文ごめん。
618 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/01 10:15:44
>>615 は司馬懿の諸葛亮評だが、でも司馬懿は諸葛亮のことを高く評価していたと思う。
(軍事才能についてはあまり評価してなかったっぽいけど)
そうでなかったら、息子の司馬昭が劉禅を評して「こんな君主ではたとえ諸葛亮でも
国を長く保つことはできなかっただろう云々」などと言うはずがない。
諸葛亮は仮に蜀に自分以上の軍才を持つ人材がいたとしてもうまく使いこなせなかったような気がする。 なんというか自分以上の才を持つ人材を使いこなせる才または安心して任せてしまうような性格に欠けてる感じ。
司馬懿は陣地構築をべた褒めしていたな。
621 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/01 12:33:56
孔明は頑固な政治職人かもね
でも、それもイメージでしかないけど
623 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/01 12:50:01
俺と孔明が戦したら何分ぐらいで負けるんだろう?
街亭の大敗…その原因である山頂布陣。 あれ、実は孔明の失敗じゃないかと思う。 いかに孔明といえど神じゃない。ミスぐらいするだろう。 そして馬謖の評判からして山頂布陣という痛恨のミスを ぶっぱなしたのは不自然。 となると…実際は孔明の失敗だったが、 孔明=間違いのない神軍師 という偶像を崩さないために 馬謖があえて罪を被ったのではないか。 そうでなければミスをした部下を斬るのに泣く必要はない。
>>624 馬謖は敗戦後に逃げてる。
多分魏に亡命するつもりだったんだろうが。
あれほど諸葛亮に愛された身分でありながら亡命を考えるということは、
やはり顔を合わせ難いほどの(死刑確実の)大ポカをやってしまったということなんだろう。
馬謖の処刑原因は、敗北じゃなく判決待ちの間の逃亡って説もあるな でもそれだとあまりに情けないから、厳罰の例として宣伝したと 向郎伝とかがその元か
推測だが、 馬ショクはやたらプライドガ高かった。 逃亡は、街亭の失敗で自分の輝かしい将来が閉ざされる事が嫌だったからかもしれない。
628 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/01 17:08:20
泣いてバショクを斬ったのも謀略 なくほど惜しまなきゃケイシュウ組が怒るでしょ
速攻で馬謖を処刑しなきゃ自分の評判が落ちるからじゃないか? 愛弟子を処刑せざるをえなかった孔明可哀想みたいに世論に思わせるためとか 時間が経つと何を言い出すか分からんし
ホントは自分の責任なのに馬謖になすりつけた。 それを隠すために惜しんでる演出をしてみせた。
>>630 ロバート・デ・ニーロ並の迫真の演技だったとおもわれ。
632 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/01 19:55:41
馬謖の逃亡から死罪については
>>626 の言うのが原因か、街亭での敗北に際して、自分の指揮下の諸軍を置き去りにして、さっさと自分と幕僚だけで逃げ出したかのどっちかだろうな。
どっちにしろ、死罪になっても仕方ないだろうけど。
街亭での敗戦は経験不足から、高地の方が有利と判断したんだろうね。
でもそもそも「山頂に配置してはならないといってたら案の定山頂に配置し それが原因で敗走した」って話自体が出来すぎで嘘くさい。 一番責任が大きいのは馬謖に任せた孔明だろ。 馬謖の死罪についてはそうだなーやはり逃亡の罪がいちばん大きいだろうな。 敗戦はどの将にも必ずあるからそれが理由で死罪はちょいとおかしい。
>>633 > でもそもそも「山頂に配置してはならないといってたら案の定山頂に配置し
> それが原因で敗走した」って話自体が出来すぎで嘘くさい。
それは演義
635 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/01 20:18:26
>633 詳細は不明だが、「山の上に布陣してはならない」と言う指示ではなく、山麓にあった要害(砦)に拠って防ぐと言う指示だったようだね。 諸葛亮に以前から信任されてた馬謖は、北伐全体の戦略に関与していたと考えても不自然じゃないだろう。 当然、街亭での作戦指揮もあらかじめ馬謖自身も関与して策定していただろうから、それを独断で変えて大敗北を喫したら処罰は当然重くなると思うけど。 想定通りに戦って負けたのなら、作戦構想全体の失敗、と言う事でそんなに重い処罰にはならんだろうけど。
結局、孔明が無能なのが悪い
>>635 作戦をその場の状況に応じて変化させることをホントに罪(死罪)としてしまうのなら
孔明の罪の裁量はこの時代としてはおかしい気がする。
逆に現代の軍律と比べると似てるとこもあるのでもの凄い進みすぎてるとも見れるかな。
638 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/01 20:51:41
>637 作戦をその場の状況に応じて変化させる、ってのは理想だけど、実際に戦場で作戦を変更する、ってのは相当な経験と手腕を必要とする。 諸葛亮の性格を考えると、街亭の地理等の情報を踏まえて綿密な作戦構想を練ったと思われる。 それを独断で変更する、と言うのは相当責任が重いと思う。勝てれば大手柄だろうけど、負けた場合「将は外に出れば君命にも従わない」のだから、この時代でも仕方ない、とは言えないよね。 実際、全軍総退却って言う大敗北だし。
639 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/01 20:59:18
つづき。 それと、以前にも書いたけど、第一次北伐は、かなり順調に進んでて、街亭で一ヶ月程度魏軍を拘束できれば隴西は蜀漢が押さえられた可能性が高い。 魏の隴西太守・ユウソの言葉からも、それが伺える。 馬謖が作戦の全体構想に参与していたとするなら、その辺も当然頭に入ってたハズで、独断で作戦を変更し全軍総退却に追い込まれるような大敗北を喫した場合、その責任は街亭の敗北のみならず、北伐敗戦の第一次的責任を負う事になっても仕方ないだろう。 馬謖を街亭の指揮官に任命した諸葛亮の責任を当然あるけどね。 諸葛亮の賞罰に関する姿勢は現代の感覚に似てるかもしれないね。
>>638 >>諸葛亮の性格を考えると
ってところが孔明の特殊性を表してると思うんだよね。
まだこの時代の作戦遂行の手順は通信手段も限定されるので
(無線で作戦変更の許可を求めるわけにもいかない)
およその作戦を決めた後は将の裁量に委ねる場合が多いと思うので。
それを1-10まで計画してしまう(全て計画通り行くはずもないのに)
という。
641 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/01 21:16:08
諸葛亮は1軍を率いる将軍としては、司馬懿や孫策、陸遜などには及ばない。 政治手腕はあの時代では群を抜いているだろうが、軍事面はそこそこというところか。 ●第一次北伐について 魏延が子午道を通って長安を急襲する案を提示したが、諸葛亮は一方的にそれを退けた。 この魏延の案には採用する余地はあったと思う。 ●第二次北伐について ここは諸葛亮の臨機応変の乏しさが如実に現れている。 陳倉を攻めたのが司馬懿だったら、孫策だったら、関羽だったら、陸遜だったら落としていただろう。 はたまた、豊臣秀吉でも落としていただろう。 城攻めに次ぐ城攻め、無駄に損耗していく戦力。すぐには来ない救援軍が駆けつけるまで飽きもせず城攻め城攻め。 本来はどの程度の将軍だったか知れない郝昭を名さしめることになった。 ●第五次北伐(五丈原)について 終始司馬懿ペース。しきりに司馬懿を挑発し短期決戦に持ち込もうとするが、司馬懿は乗りはしない。 司馬懿は守勢に徹し慎重。持久戦に持ち込み自壊するのを待っている。 ここも諸葛亮は方針を転換することも無く司馬懿の思うがままににらみ合いに徹していた。 相手が慎重なら慎重なりの、守勢なら守勢なりの穴がある。ここを臨機応変に衝けなかった。 官渡の戦いの前の袁紹が慎重になっていたばかりに曹操に先手を取られいったというのに。 ●以上のことから、陳寿のいうとおり、諸葛亮の兵法には臨機応変に掛けている部分があると思います。 しかし政治手腕に関しては前述の通り抜群です。 大規模な軍事行動を5回もやってのけて、少しも国力を傾けることはなかった。 これは陸遜にも、その息子の陸抗にもできなかったと思います。
>640 その辺りが諸葛亮の「応変の将略に短」ってトコでしょうね。 ただ、およその作戦と言っても、現代同様、想定戦域の地理等の情報は十分に集めるでしょうし、総司令部・前線、共に共通の戦略目標を達成するため、ある程度詳細な作戦構想は存在したと思います。 将に委ねる、と言っても「ここで戦うから行ってこい。その後は任せる」と言う訳ではないでしょう。 科学的手段の発達は大きいですが、基本的な部分においては同じでしょうし。 街亭に関しては、山麓の要害に篭って魏軍を拘束する、って言う戦略目標を達成出来たと思います。 後の蜀漢・魏とは逆の立場で良いのだから。
>641 力作だけど・・・。 ・魏延の件については、夏侯モは逃げるのか?曹真に替わってたら?長安に到達できるか?長安を奪取できるのか?維持できるのか? ・陳倉の件は、司馬懿以下なら、なぜ落とせるのか? ・五丈原の件は、諸葛亮が方針転換するとしたら、どんな方針か?守勢の穴とは何か? このあたりの解説が無いと結果論に聞こえ、説得力に欠ける。
馬謖の処罰に関して現代の感覚ってどのあたりが? 軍令違反は死罪、なんて孫武のエピソードでも示すとおり、古代からの軍律ですよ。 ただ、近代以前は司令官の軍権が完全に確立されていない場合が多く、そのため主権者 (国王・司令官)とその部下の間で権力による綱引きが行われた結果、軍法の掟が遂行 されない場合が多々生じた(例・李厳の助命)。 話は変わるが、普通敗戦で死罪はない。精々降格や罰金など。馬謖の場合は、敗戦よりも 軍令違反と逃亡がその理由でしょう(というか、ここまでやらかした部下を処罰しない or できなかったら、諸葛亮の政治姿勢あるいはその権力のありようが問われることになる)。
>>643 まあ陳倉はまともにいっても落ちにくいんじゃなかろうか。
韓信は失われた桟道の建設には時間がかかると油断する陳倉に対して
獣道を通って速攻をかけ見事にこれを落とした。
とても孔明に真似できる戦術ではないかと。
ただし
>>641 の挙げた司馬懿以下の将でもこれが出来る将はいるかいないか微妙。
646 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/01 21:48:56
クリントンがチェス苦手ってのと同じじゃない? 軍事下手は。
>>642 僅か60年前の戦争でも地図が不備で予定通りの作戦がとれなかったりしています
だから、
孔明の命令を覆さざるを得ないような机上の理論と実地の現状の乖離があったのではないかと
例えば、山麓の要害は使える状況になかったとかね
馬謖を手柄をあせったとか経験不足とか薄っぺらい評価の人物にしてしまうと
じゃあ、その馬謖に期待してた孔明の眼は節穴?
>>644 まあそれはそうなんだが将の自由裁量による作戦の遂行がどこまでが自由裁量で
どこからが軍令違反かこの時代には通信手段が限られてるから曖昧なのでは?ということ。
たとえば作戦ではAの予定だったが敵はBの方向から攻めてきた。
このまま作戦通りAの方針で行けば不利は明か。伝令により判断を仰ぐ時間もない。
無線もないので即判断を仰げない。そこで将が自分の判断で作戦を変更する。
この変更が果たして軍令違反といえるのか言えないのか。
馬謖の判断が間違ったのは明らかだと思うが、
作戦変更自体を軍令違反とすると将が状況によって判断する裁量自体が否なのかと。
孔明は組織論にこだわりすぎてこれを否としたが、
命令伝達の技術的にこれは無理があったんじゃないかと思うわけです。
649 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/01 21:55:04
>>643 漢中は占拠しているのだから、子午道に陣を構えても孤立することは無い。
それに別に長安を急襲する必要は無い。しきりに長安に対して急襲すると匂わせるだけでも充分。
長安にしてみれば近くに敵陣があるだけでもかなりの脅威。
自ずと魏の注意は長安に向くのでその隙に涼州に本命の主力を展開してじりじり押し上げていく。
こうなると涼州方面へも迎撃のための戦力を割かねばならず、長安の守備戦力もやはり削られる。
この時に呉の陸遜に呼応させて進撃させればより効果がある。
陳倉は、先に挙げた人物は少なくとも諸葛亮よりは臨機応変の兵法を持っていると思われるから。
特に陸遜は水際立った撤退作戦などその兵法は確実に諸葛亮の上を行く。
五丈原は、司馬懿が守勢に納まって留まっているなら動かせばいい。
守勢になっていると攻勢になったとき勢いは凄まじいが、攻めの先手は打てない。
迂回すると見せかけるだの、諦めて撤退を装うだの、やり方はいくらでもある。
方針転換というより臨機応変にすれば守勢も崩せるってこと。
司馬懿が公孫淵を攻めたときのように。
動かせばいい、で動いてくれるなら誰も苦労せんと思うが、 相手は司馬懿だぞ、公孫淵なんかとは格が違う。
>>644 しかしそのエピソードは「将は外にあれば、君命をうけざることあり」であるわけで。
これを応用したとも言える。
>>649 長安に対する牽制は諸葛亮もやってる。
それに呉は蜀に対してそんなに都合よく動いてはくれん。
曹真の命令で防衛を強化されてる陳倉を、しかもわずか十数日では
誰がやっても多分無理だろ。
>>650 動かざるを得ない状況を作り出せばいい
相手の後方を遮断するなんてのはメジャーな手だね
俺が司令官なら第一次北伐なら勝利できた。と言ってみるテスティング それ以降はさすがの俺でも無理ぽ
655 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/01 22:16:50
>>652 では、子午道に魏延が1万の精鋭の陣を構えたか。
呉も実際に動いてくれなくても動くかもしれないという懸念を魏に与えるだけでもいいし。
陳倉の城を無理に落とそうとしなくてもいいし。糧道を断って飢え死にさせるのもいい。
陸抗が自ら築いた西稜城を包囲した時の離れ業は見事だし。
話がずれそうなので、こういう臨機応変さが諸葛亮には無い。
馬謖の処刑の理由が逃亡だと思ってる人って張休、李盛も逃亡したと考えてるのかな? 逃亡の記述は向朗伝にしかないし前後関係も明確ではない 普通に読めば命令違反と敗戦の罪で処刑されたと読めると思うのだが
>647 地図が不足するような状況ってのは悪例であって、軍事見識があれば、そのような事態にはならないと思います。 地図の精度等に関しては難しいですが(最新の地図かなど)。 >643でも書きましたが、北伐の全体構想の中で街亭で魏軍を拘束するのは規定路線であるとするならば、当然、山麓の城塞の状況も把握していたと考えられます。 つまり、遭遇戦でない場合、想定戦域の調査は行っているので、山麓の城塞が使えない状況ではなかったのではないか、と。 経験不足は誰しもあることだし、功名にはやるのも同様でしょう。そうだからと言って、薄っぺらな人間だと断じるのはいかがなものでしょうか? ただ、何度も書きますが、街亭の指揮官を馬謖にしたのは大きな間違いだと思いますが。
>>655 一方に兵を割けば、一方が減る、
それに魏は別に魏延をまともに相手にしなくてもいいので、
長安に篭っておけば魏延の軍の兵糧が尽きて終わり。
呉の対する備えは別に存在してる、動くかもしれない、
程度では蜀の戦線に影響は無いし、その程度の懸念普通に持ってるだろ。
真っ当な城は10日程度で飢え死にはしない。
>649 >>漢中は占拠しているのだから、子午道に陣を構えても孤立することは無い。 それに別に長安を急襲する必要は無い。しきりに長安に対して急襲すると匂わせるだけでも充分。 長安にしてみれば近くに敵陣があるだけでもかなりの脅威。 自ずと魏の注意は長安に向くのでその隙に涼州に本命の主力を展開してじりじり押し上げていく。 こうなると涼州方面へも迎撃のための戦力を割かねばならず、長安の守備戦力もやはり削られる。 この時に呉の陸遜に呼応させて進撃させればより効果がある 第一次北伐はおおむね↑と同じような構想だけど。指揮官が趙雲で、子午道でも無いけど。
>649 陳倉の場合、諸葛亮より兵法が上なら落とせる、ってのは何を根拠にいってるのかな? 諸葛亮より、臨機応変の兵法家だから落とせる、ってのは短絡かと。 おそらく>649=655だと思うけど、諸葛亮軍自体の糧食の蓄えが多くても20日前後。 それしか無いのに城を包囲してたって、自軍の糧食が底をつくだけだし、敵の援軍も到着しちゃうでしょ。
>>653 後方を遮断するって、五丈原は相手のホームグラウンドで、
東に長安、西には涼州があるから無理だろ。
しかも眼前の敵より少ない兵力を更に割いて、
撤退・補給が困難な、まだまだ敵兵が居る相手の領土に単独で送り出すのか、
ほぼ自殺行為だね。
>>656 敗戦で死刑がやりすぎ。しかも重用してたのに。
こういう例が皆無とはいわないが多くはない。
命令違反に関してはどこからが命令違反でどこからが自由裁量か曖昧。
詳しくは
>>648 参照
逃亡は完全に軍律違反なので法に厳しい孔明ならあり得る。
663 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/01 22:42:32
>>658 長安を本当に攻める必要は無いといっても、状況によっては攻めてもいい。
魏延は孤立はしてないんだから、少なくとも兵糧なんかは届くから好機が来るまで鋭気を養える。
魏延をほおっておいて長安にこもれば涼州の主力は簡単に五丈原以西まで到達する。
陳倉は、10日程度で飢えはしないのは分かってるけど、陸抗が西稜城を攻めた時のようにやられたらどうしようもない。
>>649 第一次北伐じゃ子午道急襲案を一方的に退けて長安とは逆方向へ全軍迂回した。
664 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/01 22:44:20
>>661 後方遮断ってのはただ、「動かさざるを得ない状況を作る」ってのの
ただの一例じゃないの?
>649 あ〜、あと五丈原。 五丈原の時、諸葛亮も陽動は試みてるんだよ。廖化をイ水北岸に回そうとしたり。 ただ、五丈原周辺は山と河に挟まれてる上に、魏軍も河の南岸に布陣したため、機動の余地が少ない。 主力を動かした場合、近くに布陣する敵軍に察知される可能性が高く、非常に危険。 また、諦めて撤退を装ったとしても、魏軍の基本戦略は「篭って敵が帰国するのを待つ」だから、大規模な追撃を行ってくれる可能性は低い。 諸葛亮の軍事的才能の限界は、五丈原に布陣した段階で、比較的安全だが、戦略の幅が非常に狭くなる、って点を指摘した方が良いと思う。
>>664 だからね、国力の差や相手に地の利があり過ぎて、
動かざる得ない状況なんてのが、殆ど有り得ない訳だよ。
しかも防御を固めてるのは名将司馬懿。
いやまあ孔明に臨機応変の軍事の才がないことは皆認めてるんじゃないかな・・ かといって総合的に見て孔明に軍事の才そのものがないという事にはならない ということも含めて。
668 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/01 22:51:26
>>660 「糧食の蓄えが多くても20日前後」
どこの情報筋?
669 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/01 22:55:12
五丈原に関しては、孔明が寿命が短いという点もあって焦りもあったんじゃないかな。
だから、時間が掛かる謀略やその他の方法より、短期決戦をしたかったと。
>>666 動かざるを得ない状況じゃなくても、守りに油断を作らせることはできないかな?
670 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/01 22:57:07
>>641 ageまくって暴れすぎw
それはそうと司馬懿だったら、孫策だったら、陸遜だったら
はわかるが「関羽だったら」って微妙、、
672 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/01 23:02:59
「臨機応変の兵法家だから落とせる」 というより、臨機応変のきく兵法家なら、防御の固い城を無理して攻めようとはしない。 どうせ千人たらずの勢力なんだし、見過ごして後背を衝こうと攻めてきても返り討ちにできる。
>668 詳細に載ってないけど、正史に張コウが陳倉に派遣される時「諸葛亮の糧食は10日くらい」と発言してる。 それと、第一次北伐が春で、陳倉攻めが同年冬って点。 張コウの発言前に陳倉を攻めていて、張コウ到着前に撤退してるので、張コウ軍の移動時間等を考慮し、228年冬に出撃、同年内に撤退、って事を考えると20日くらいかと。 当然、陳倉に滞在している間だけの糧食量だけど。
>>663 魏延は携帯食糧のみで、かなりの強行軍で長安に到達する、
という作戦だから、食糧がそんな簡単に届けば苦労は無い。
それに別に諸葛亮の時もキ山辺りまで進出してるし。
西稜の時とは状況が違うし、10日程度の城攻めなんてさして効果は無いだろう。
>>662 そこら辺の理屈は分かるのだが王平伝を読むと
王平が処罰を免れたのは馬謖を諌めたことや最後で踏ん張ったことが理由
一方で処罰された将軍たちはその逆であったのではと感じる
諸葛亮伝など街亭、馬謖の処刑の記述がある伝では逃亡のことは一切触れられていない
もし将軍が3人も逃亡したとなればかなりの大事だがその割には史書はほとんど沈黙している
張休、李盛は逃げたと思いますか?
>>672 背後を突かれるより、補給路を脅かされるのが怖いと思う。
蜀の軍勢は補給路を断たれるとマジで全滅の可能性がある。
そのまま進軍するなら、兵を分けて陳倉を数千の兵で囲みつつ、本隊は進軍するという方法はあるな。 蜀征討戦で鍾会がやったように。
>>677 兵力が少ない蜀がやれば自殺行為だと思う、
鍾会は圧倒的な戦力で、しかも蜀が足並みを揃えてないからこそだろう。
>>666 国力の差があっても戦場での兵力差を縮めたり逆転させることはできるだろ
奇襲とか補給の限界とか情報戦とかで
それをしないで劣勢のまま、地の利のないところで、正攻方で正面から攻撃かけたら
どんな名将、名軍団でも勝てるわけ無いだろ
孔明は現場の指揮官じゃなくて戦略おったてる司令官なんだから
戦う以前に勝てる状況を作るべきで
孔明はむしろ、この方面に才があったんじゃなかったっけ?
第一次北伐は可能性あるけど
それ以降って何らかの勝算あって出兵してんの?
それとも姜維と同じく、政治的理由からの出兵なの?
国力の差とか地の利とか言われても
こちらから戦い仕掛けてるのに言い訳にならないのですよ
>>675 季漢輔臣賛だと張休は孔明死後も生きてるぽい。
あるいは同名の別人か。
李盛に関してはその他史料をみつけられないが
王平伝で張休は死刑になったはずなのに蒋エン(当て字かも)
が大将軍の時に出てくることからもうわけわからんですよ・・
この二人に関しては判断が迷うところ。
>>680 >季漢輔臣賛だと張休は孔明死後も生きてるぽい。
こちらは初見でした
結局考察するにしても資料が足りないという感じですね
dクス
>>679 諸葛亮の目的でよく言われてるのが攻勢的防御ってやつだな。
まあ諸葛亮の色々やってるが、それでも限界があるって事だろう、
戦う以前に勝てる状況、なんて完全に作れるもんでも無い、
特に大国を相手にする場合にはな。
結局その後数十年はどの名将も三国体制を崩せず、
蜀と呉の滅亡が内部崩壊から始まってるし、1人の人間の限界だろう。
陳寿は馬謖の処断について何か隠したがっているような気がする・・
>>682 でも曹真の作戦は北伐の寸隙をついたものだよ
むしろ魏の攻撃を誘引してしまったような気がするんだが・・・
北伐前から魏はひたすら呉を攻めてたし
>>683 馬ショクと一緒になって逃げたのが自分の縁故だったのかもな。
>>684 ショウエン ヒイの時代を考えると攻勢的防御なんて必要無いと思うのだが、というか攻勢防御にしても
あそこまで連年兵をだすことは無いだろうに
陳寿の親父
攻勢防御なんてただのこじつけ 普通に魏の領土を切り取り、あわよくば長安まで攻め込みたかっただけ
>>684 北伐前から魏はひたすら呉を攻めてたとしても、蜀の存在を忘れる訳は無いだろう、
呉のばかり魏の相手をさせておけば呉がヤバイし、もしかしたらまた魏と結ぶかもしれん、
三国体制維持の為というのもあるだろう。
とはいえ、始めの北伐はかなり本気であったとは思うし、
負けない事が第一だけども、諸葛亮の遠征は領土を獲れるなら獲ってしまおうというものではあると思う。
>>686 蔣琬も費禕も漢中に駐屯したり、姜維を動かしたりしてる。
蔣琬なんかは上庸に攻め込もうとしたりしてたし。
それでも魏に攻め込まれたりしてるけど。
攻撃に出ないで引きこもっていた時期もあったが魏はそれほど攻めて来たりしてないし、攻勢防御より 漢中で防御のほうが経済的だろうけどな、諸葛亮の北伐は無駄に国力を消耗させただけだな、国を傾けることは 無いにしても
関係ないが漢中盆地の周りって熊とか虎とかパンダっていたのかなー?
>691 589>諸葛亮の北伐は五丈原以外、隴西方面へ作戦を指向する事で兵力を戦域的には有利(あるいは五分)に持って行ってるんだよ。 だから、逆に隴西方面で行動してる限り、隴西を確保すると言う戦略的勝利の可能性はある。 野戦で魏軍を壊滅させなくてもね。 こう言うのも読んでみて。
連年の出兵は呉蜀同盟の維持のための派兵
>>692 パンダは三国時代はまだ見つかっていないよ
>>693 それは第一次だけじゃないか
>隴西方面で行動してる限り、隴西を確保すると言う戦略的勝利の可能性はある。
って乱暴杉
隴西への根回しとか、少なくとも魏に対する戦術的勝利とか必要
でも一定期間守りきれば直接戦闘をしなくても戦略的勝利を得られる魏と
自ら補給という時間制限をつけて、その時間内に一定以上の戦術的勝利を得れば
隴西を確保する可能性が生じ、洛陽への足がかりが作れる蜀
とじゃあ、蜀の勝利条件厳しすぎ
第一次は逆兵糧攻めという感じで緩い勝利条件なんだけどさ
>>696 ええ!?
陝西と四川はパンダの生息地だからいたけど見つかってないということか。
漢中の周りというのはパンダの存在に気がつかないほど未開発ということなんだなあ・・
>>697 隴西への根回しはしてただろ
だから戦いもなく3郡が下ったわけで
それになんだか忘れたがどっかに書いてあった内応の約束
>>696 パンダの頭骨は前漢の藩太后の墓で発見されている。
まあ珍獣として捕獲される機会はまれながらあったんじゃないかな。
>697 少なくとも、第一次北伐には成功の可能性が随分あった、と言う事です。 そういった部分を省略して「北伐は無駄。漢中守ってた方が経済的」って言う意見は乱暴かと。 >>でも一定期間守りきれば直接戦闘をしなくても戦略的勝利を得られる魏と 自ら補給という時間制限をつけて、その時間内に一定以上の戦術的勝利を得れば 隴西を確保する可能性が生じ、洛陽への足がかりが作れる蜀 とじゃあ、蜀の勝利条件厳しすぎ 第一次は逆兵糧攻めという感じで緩い勝利条件なんだけどさ 第一次に関しては、直接戦闘に訴えて、勝利を欲したのは魏側でしょう。 蜀漢側は街亭で、後の魏軍のように篭ってれば隴西は確保出来たのですから。 その後の北伐と違い、第一次北伐は準備期間も長く、補給面での不安も少なかったようですし。 逆に魏側(張コウ軍)は急遽、長躯派遣された部隊で規模も大きい。蜀軍に対して早急に勝利を収めないと、策源地の長安からの距離を考えると兵站面が心配になる。 その上、蜀軍を破らなければ隴西〜涼州東南部は降伏してしまう可能性が高かったのですから。 その後の北伐に関係しては無理してるな、とは思いますが。
たしかに第一次北伐はかなり可能性があった だけどこれって馬謖の献策によるところが大きかったわけだよね その馬謖を、不慣れな前線での指揮に当てて 失敗したら、経緯は良く分からないけど処刑 お得意のライバル潰し?
子飼いの武将に実戦経験積ませて軍内で実力を示させてやろうとしたら、 馬謖が功を焦っただけ
>>703 ライバル潰しと言うよりは自分の失脚を防いだって感じかと。
>703 以前にも書きましたが、諸葛亮に信任されていた馬謖が北伐の全体構想から深く関与していたとすると、当然街亭の重要性や、情報についても理解していたハズです。 諸葛亮からすれば、全作戦に関与し深く理解している(ハズの)、信任する幕僚・馬謖に要地・街亭の指揮を任せるのは自然な人事だったのかもしれません。 その結果が、独断で作戦変更→全軍総崩れの大敗北→逃亡では処分もやむ得ないでしょうね。
707 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/06 12:53:49
夷陵の戦いに孔明が赴かなかったのは疑問。個人的な見解では 劉備がいくら諫めても自分の意見を取り入れないので「好きにしろ」の感が あったんだと思う。まともな軍師もなしに軟弱&決断力0&兵法知識0の劉備を 単身で行かせるとは考えられないからな。 それで懲らしめてやろうとでも思ってた気がする。孔明とて人間だからな。
>>707 単に孔明に軍事の才能無しと劉備に見なされていただけでは・・・・
孔明より後から参加したホウ統を軍師にしてホウ統が戦死すると次は寝返った
ばかりの法正を重用だし。
その当時諸葛亮はずっと兵糧担当だったんでしょ。 組織のトップが戦場に出て、NO2が本拠地で兵糧や軍備の確保するのなんて どこにでも見られる形じゃないか? 諸葛亮の軍事的才能の問題ではないと思うけど
皇帝と丞相が一緒に国を空けるのは異常な事だし、 益州侵攻の際は諸葛亮も軍を率いてきてる。 それに諸葛亮はやっぱり政治の人だし、軍を率いさすのは勿体無い。
内政は人口大減少の当時特に重要だったんでしょうね。 当時の国力が呉>>>蜀というのは反対する人はいないと思います。 一方、後漢時代の戸籍調査を見ると呉の領土のうち荊州を除いた人口は 500万人程、益州は700万、曹操支配下の南陽を除く荊州人口が400万弱。 やはり孫策からの内政の安定の効果が国力の差に響いていると思います。 それで言えば漢中の張魯等は演義では小悪党ですが、後漢末の調査で人口 30万人にも満たない漢中を治めて劉璋・曹操に対抗した手腕は大したもの だと思います、曹操にも褒められる訳だなと。
713 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/07 13:21:57
用は劉備は無能だと言うことさ。最初は結構優しい奴だったんだろうが 権力を手にするうちに変わって行ったんだろうな。 元からお人よししか能がない劉備がそれを失ったら終わるわな。 曹操だって晩年はただの権力馬鹿だったし。董卓より酷い。 孫権も然り。やはり権力者は晩年すぐ退くべきだよ。
714 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/07 20:43:51
>曹操だって晩年はただの権力馬鹿だったし。董卓より酷い。 それはない。 曹操の遺書を読んだことある?
>>714 あれは歴史家があとで都合よくつけたした創作です
716 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/08 03:29:53
>>715 其の考えもやや過ぎてしまった。
ほとんどの歴史人物の発言は、歴史家の腕の見所だけど、
帝王相将の重要文書までまったく残されてないと思うの?
まして、曹操ほど地位に上った人物の遺書が100年も伝わらないと思う?
彼が作った詩も、散文も今日まで沢山残されたし。
何より、曹操の文章には独特な風格がある。魯迅に『文章改革の祖師』”(『魏晋文風
及び文章と薬、酒との関係』)とも讃えられている。
『設使国家無有孤不知当幾人称帝幾人称王』などの文は、古来『気勢雄大、人格坦蕩』、
魏武じゃなければ言える台詞ではないと指摘されてきた。
どこかに潜んでいる政権とは違って、魏は当時政治、文化の中心にある。
しかも『魏武以相王之尊雅愛詩章』(『文心雕龍·時序』)のため、建安文学は
中国文学史上においても極めて重要な時期で、その中心人物である曹操の文書も
当然沢山残されている。
何もかも『創作』って決め付けるのは、客観とは言い切れない。
717 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/08 08:17:31
文学センスがあるのと権力馬鹿は別だと思うが。 董卓=権力馬鹿&能無し 曹操=権力馬鹿&文学的センスあり
718 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/08 09:14:54
老いは感じたけど、権力馬鹿とは思わないなあ。 ちょっと曹操や劉備に不利なのは、世の中が乱れたのが 結構彼らが年をとってからなんだよね
40からの手習いみたいなもんだよな 35からの賊討伐
720 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/08 10:18:01
勿論、曹操の若かりし時は有能だったがな。歳を重ねるごとに 周りの意見は聞き入れないし、ああ見えて結構戦に負けてるしな。 三国鼎立くらいの時に曹操・劉備が30歳くらいだったら最高なんだが。
曹操=権力馬鹿×→政治オタ+軍事オタ+文学青年
曹操伝には諸葛亮の名前が一切でてこないって 聞いたんですけどなんでですか?
>>722 諸葛亮が対魏の最前線に出てくるのは曹操死後だからな。
特に不思議とも思えんが?
それにそもそも曹操伝じゃなく武帝紀な。
赤壁の時、孔明の計略で曹操を逃がしたふしがあるらしい。 本当だったらすごい。
>>723 そうだったんですか。
でも曹操が諸葛亮をしらないなんてありえなかった
だろうから、特別記す事がなかったんだろうか。
ん〜読んでみたいなあ。
>>725 曹操にとっては諸葛亮は直接には絡んでこないからね。
漢中争奪戦の時も諸葛亮は成都を守ってたし
だって、諸葛亮が世に出てから曹操と劉備ってほとんど接触がないのだもの。 赤壁はあくまで曹操と孫氏政権の戦い。劉備は脇で傍観して勝敗が決まってから 曹仁と周瑜の対陣をよそに土地を占領した(後に呉の人が劉備を嫌った理由が よくわかる)。 その後の曹操の軍事行動は西(関西、涼州方面)と東(対呉)で、その間に益州 を獲った劉備とようやっと対陣したのが漢中。しかしこの漢中戦を指導したのは 法正で、諸葛亮は>726 のとおり。
>>727 > 赤壁はあくまで曹操と孫氏政権の戦い。劉備は脇で傍観して勝敗が決まってから
> 曹仁と周瑜の対陣をよそに土地を占領した(後に呉の人が劉備を嫌った理由が
> よくわかる)。
赤壁に関しては武帝紀においてはあくまで対劉備なんだよね。
劉備を追って南下して劉備と戦って敗れた、とw
それと対曹仁戦に関してだが劉備もちゃんと参戦してるよ。
別に傍観してたわけじゃない。
劉備と戦って破れた?武帝紀どころか演義にだってなかったと思うが。 曹仁戦に参戦というのも演義ならまだしも正史じゃ初耳だ。
華陽道での追撃じゃないか?
>>729 武帝紀での赤壁の記述は
>>728 であってるよ
まあ実際は曹操対孫権で劉備は孫権軍の一部みたいな扱いだったんだろうが
曹仁戦に参戦というのは劉備自身のことなのかな?
南郡にまでは達してるから間違いじゃないかもしれないけど
あとは註を信じるかどうかだけど
正史の本文で退路を断とうとしたのは関羽であることから
呉録の記述はちょっとあやしいと感じる
武帝紀の註に 「劉備は自分と同じくらいの英傑だけど策略を思いつくのが遅い」 と曹操が言ったと書いてあったな
でも物語としては美しいじゃないか そして漢中を争い稀代2人の英雄の戦いが今ここに! ってな感じで漢中争奪戦やればたまらんな
ここが亮スレなの忘れてた
>>722 北伐するまで諸葛亮の名前は(と言うか劉備、関張の名前くらいしか)魏の人には知られていなかった模様
劉備亡き後に蜀は安全牌だと思ってたのに諸葛亮が北伐してきて超ビビッタ
みたいな記述がどっかにあった
>>731 > 曹仁戦に参戦というのは劉備自身のことなのかな?
李通伝を読む限り劉備は周瑜とともに江陵を包囲、関羽は別働隊として動いていた。
決して江陵戦をまったく無視して自勢力を広げることだけに専念していたわけではない。
ただ周瑜の指揮下にあったわけではないし、主力ではなかったことから記述が少ないだけと見るのが妥当だと思う。
737 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/09 07:09:04
>735 劉備の益州平定後〜漢中奪取までの頃から、ボチボチ魏にも名前が知れて来た模様。 劉ヨウが「(前略)諸葛亮は治国に明らかで宰相たり、関羽・張飛は勇三軍に冠として将軍たり云々」 って言ってる。この頃、劉備陣営を代表する人物の1人、って評価されてたっぽい。
>>732 ちょっとは褒めとかないと存命中に滅ぼせなかった自分が無能に見えちゃうからな。
739 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/09 20:28:03
その時歴史が動いた 「激闘!三国志(1)中国の大地を駆ける英雄たち劉備と孔明・知略の大逆転へ」 その時歴史が動いた◇群雄割拠の中国三国時代を描いた「三国志」の真相を、 現地調査と最新の研究から探る1回目。劉備と諸葛孔明が出会った「三顧の礼」から、 三国志最大の逆転劇となった「赤壁の戦い」までをたどる。最強の敵、 曹操に歯が立たず流浪の武将となっていた劉備は、 三顧の礼によって天才とうたわれた孔明を軍師に得た。 曹操に次ぐ実力を持っていた孫権と連合した劉備は、 長江(揚子江)流域の赤壁で曹操軍と激突。圧倒的戦力を誇る曹操軍に対し、 孔明は方術を使って風の向きを変え、大逆転したと伝えられている。 これまで作り話と思われてきたその逸話は、近年の科学調査により 実際に起こるという可能性が出てきている。 3月9日(水)21:15〜21:58 NHK総合 Gコード(809880)
740 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/09 20:32:25
科学調査なんて聞くと、どっかの糞スレみたいだなw
もうこの番組は信用しない
面白そうだな。 あと30分だし、見てみよう。
演義を小説とわかっていながら引用しまくり 劉備以下を民のためと決まり文句で美化 だめだこりゃ>その時歴史が〜
>>744 歴史番組じゃないからな
なんか孔明を称えるのに必死でワラタ
せっかく今三国志の正史が見直されたりしてるのに全然だめだなこりゃ
747 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/09 22:00:49
演義の意外な史実性の高さが明らかになった瞬間でした
もっと歴史的な始点でやってくれれば面白かったのにな
荊州に関する三国の動きを扱って欲しかったなあ
正史だけだとやっぱりインパクト不足ということなのかな・・・ 呉ヲタもへこんだだろうけど正史孔明ヲタの漏れもかなりへこんだorz
科学調査って・・・昔から言われてる事じゃねーか もっと大胆ウンコ仮説でいいから、演義とは違うことやってくれんかな
752 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/10 00:47:51
映像だけはかっこよかったな、映像だけは
劉備、関羽、張飛、孔明、曹操、孫権、 しか人の名前が出てなかったな。 まあこの手の番組は三国志なんて知らない一般人向けの物だし、 そういう視点から見れば取っ付きやすくて解りやすい物だと思った。
今日のその時歴史が動いた はどうでした? 見逃した・・
蜀メインで大筋だけってとこ。 あとは諸葛亮の子孫が暮らす村の紹介とか。
756 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/20 20:15:31
ほしゅ
どっかで見たんだが 諸葛一族が三国に散らばって仕えてることから、 実は諸葛一族がそれぞれ結託連携して三国鼎立の状態に持ち込んだ云々。とかいう話。 真偽はどうあれ、面白い視点だと思った。 劉備は諸葛一族によって勢力の一端となったんじゃないかとか。
その話ムチャありすぎ 三戦板でもいったら叩かれるのに ここだと持っとたたかれるかもよ
759 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/20 21:39:08
統一しようとする司馬一族と三国鼎立しようとする諸葛一族の対決になるわけですな
760 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/20 22:18:04
なるほど、諸葛一族が戦下手だったのはワザとだったんだねw
>>757 その話で諸葛一族が三国鼎立を目指した動機は何なんだ?
762 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/20 22:26:04
>761 諸葛一族程度の二流氏族でも、三国鼎立状態なら各国でもトップに立てる。
>>各国でもトップに立てる 立ててないし
>>757 独裁権を握った諸葛亮はともかく、
並み居る高官の中の一人でしかなく、
国家の意思決定に決定的な役割を果たしたわけでもない諸葛瑾、諸葛誕が、
どうやって三国鼎立を演出するんだね?
ついでに言うと、諸葛誕が尚書郎(エリートコースの一番最初の官)になったのは曹丕時代。
曹操の時代は、地位が低かったし、勢力も無かった。
諸葛誕が勢力を持ち始めるのは、曹叡の時代に夏侯玄のグループとつるむようになってからだ。
そんな立場の奴が、三国鼎立を演出するんだ?
電波を飛ばすのはたいがいにしとけ。
>>758 あの・・・此処三戦板なんだけど・・・。
766 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/20 23:07:27
馬謖が宮刑になっていたら。蜀はどうなっていた? 中常侍になっていただろうか?黄皓は台頭出来なかった。
767 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/21 00:14:39
泣いて馬糞を斬るって、全然泣いてないじゃん
「諸葛氏が三国に仕えているのは、もしかして 一族滅亡を防ぐために分散した?」 というのはどこかで読んだ。 変な話と思うが。
769 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/21 00:34:29
孔明は、ぼちぼち軍事もこなせる政治屋さん。
というより、本来政治屋さんなのに 零細企業に就職した悲しさか、お茶酌から戦争まで こなさなければならなかった哀れな専務さん。
諸葛亮の場合、軍政から軍令、作戦計画、通常の指揮等は一級なんだけど、計画外に敵が現れたりすると、慌てて一時撤退しちゃうような感じ。 よく言えば慎重、悪く言えば臆病。 慌てて撤退するにしても、敵に付け入る隙を見せずに完璧な撤退を行うような感じ。 性格の部分が大きいのだけど、状況の変化を好機と捉えるタイプでなかったんだろね。
しょうがないさ。 蜀の国力考えたら派手に躓いたらもう立ち上がれないからね。 まあでも相手が仲達だけに正史は過小評価はあっても過大評価は無いんじゃないかと思う。
政治家としては天才レベルって解釈でいいの? 簫何レベルという評が本当なら大したものだが。 北伐は常に兵糧に悩まされ続ける結果だったけどもし彼が後方にいて 他に任せられる程の奴がいたら戦況は大分違ったとか。
>773 天才かどうかはわからんけど、政治家としては当事、最高の部類の人材でしょう。 北伐の兵站問題も、第一次北伐は問題無かったようだから、諸葛亮の計画通りに進捗すれば問題に成らなかったかも。 諸葛亮が後方に控えるカタチってのは、つまり劉備がいて、法正のような人材が劉備にくっついていられるような状況だけだろうね。
775 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/03/21(月) 11:38:05
o 。 ______o O 。 。 ° 。 ○ o ○ / ィ ○ o ○ o /ニニニ)⌒ヽ o o (・∀・ )__ ) ○ 。 ○ /○ ○) /|,. o O o 。 o o ∠∠______∠_/ / ○ o .|/ |_/ ○ 。 o O 。 o O / ̄ ̄ ̄/ ̄ o 。 。 ノ / o O o o y y_ノ) y y__ノ) 。 o ○ o (゚Д゚ ) (゚Д゚ ) つ o ° o 。 。 o ∪-∪'"~ ∪-∪'"~ 。 。 o °o 。 __ _ 。 __ _ o o__ _ ° __ .|ロロ|/ \ ____..|ロロ|/ \ __ |ロロ| __. / \ _|田|_|ロロ|_| ロロ|_|田|.|ロロ|_| ロロ|_|田|.|ロロ|_|田|._| ロロ|_
776 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/03/21(月) 11:42:27
諸葛亮は文官としては世界一だろうな。 医療の戦いで全滅ともいえる敗北をし、国は無謀な軍事のせいで疲弊しきり、各地では反乱が相次いだ。 このとき蜀は滅びるのが当然だった。しかし、諸葛亮は蜀を見事に再興させた。 こんな政治手腕を持った人間は、世界広しといえど彼だけだろう・・・。 ただ、軍事的な才能はからっきしだけど・・・。
>>776 >ただ、軍事的な才能はからっきしだけど・・・。
ちゃんとこのスレ読んだか?
馬超・張飛・黄忠の誰かが生きてたら、彼らが総大将になったんかなぁ 張飛の軍才は疑うべくもなく、 馬超はそれに加えて羌族の支援も受けられる(漢中のときはテイ族も扇動しなかったっけ?) 黄忠は大将としての活躍は無いが、まぁ戦績自体は蜀の中ではトップクラスだろ ↑のは多少褒めすぎてっけど、 少なくとも劉備時代既に前後左右将軍だった彼らが軍を率いる可能性は高かったんじゃないだろうか? 劉禅時代には、張飛は車騎将軍、馬超は驃騎将軍だったワケだし
馬超にやらせるのはちょっと怖いんじゃねーの?
馬超は本伝に記述が無いだけで、結構戦績は良いぜ 郭援討伐は、『戦略』では馬超の功績とされてるし、『典略』でも活躍が描かれてる 劉雄鳴を蹴散らし、楊阜にも負けたとはいえ多大な死者を出させた 夏侯淵にも勝ってるし(その後負けたけど)、曹操も死に掛けてる 人材不足の蜀じゃ貴重な戦力だろ まぁ知力・性格に少々不安はあるな 魏延あたりと一緒にガンガン強攻策を進めちゃいそうだな
戦績よりも、外様という立場が怖いんじゃないの? それに丞相である諸葛亮が総大将になるのはほぼ間違い無いと思う。
馬超はホウヨウに反乱に誘われた経緯があるしな
断っているとはいえ、周りの目は厳しかったろうな
>>781 張飛であっても諸葛亮が総大将になるのかな?
文官は人材が多かったので 諸葛亮一人の功績みたいに書いてるのは違和感がある
政治家といっても才能にはいろいろあると思うが、軍政や軍制立法などでは優れていたかもしれないが人事面ではそれほど優れてないみたいだ また実務処理もヒイのほうが上だろう、権力の掌握は見事だと思う 実際の農政とかは優れていたかよく分からないし
>781 張飛が存命でも、漢中に諸葛亮が出張ような状況だと、前線指揮はともかく、全体の総指揮は諸葛亮だろうね。
786 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/03/22(火) 11:55:42
孫権「あなたの父上と叔父上では、どちらが賢いであろう?」 諸葛恪は「父です。仕えるべきところを知っておりますが、叔父にはそれが分か りません。」
単なるヨイショにも聞こえるな、それ。
軍略でいえば 田中芳樹の小説で南北朝時代のやつがあるけど、それにのってる 陳慶之(チンケイシ)変換間違ってたらスンマソって人は わずか7千の兵で長安を占領、一ヶ月維持してたよ。 てもとにその本がないからかなり曖昧に書いてるけど、実際、天才といえる のはこのくらいでないとあかんのでは? 誰かソース知ってたらあとがきしてくれ
789 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/03/22(火) 12:28:53
田中を持ち出すとは釣りとしか思えないね
田中って釣りなの?
>>788 しばいを天才とするならそれは成り立たない。
誰かわかりやすく諸葛亮の戦績を載せてくれ 正史本伝に記載されてるだけじゃないんだろ?(華陽国志とか)
>>792 南蛮征伐のときに高定を屠ったってのはあるね<華陽国志
・蜀入り後詰め 張飛・趙雲らと手分けして巴郡、江陽郡、ケン為郡といった成都の東方、南方を平定。 ・南方平定 一応半年ほどで平定。 ・5度に渡る北伐 1回目、馬謖が街亭で敗れた為戦線が破綻、撤退。 2回目、陳倉を抜けず撤退。撤退戦で王双撃破。 3回目、陳式を派遣し武都・陰平の2郡を獲得。一応、諸葛亮自身も郭淮を牽制したりしてる。 4回目、局地戦で司馬懿を破るも兵糧切れで撤退。撤退戦において張コウを撃破。 5回目、司馬懿と対峙中に病死。 大雑把に言うとこんな感じかな?
/ | | | | | | | |ー | l ー- l /⌒ヽ | | l l l l | | | 0 | | l | ー- | l⌒) - l | -‐| | | | 丿 | /⌒ヽ | | | | |ノ l | ヽ l _! | !__,! ‐ 一 | l ヽ、 /⌒ヽ l ‐ \ |, ノ⌒) () l 〉-‐ l l〉 )ヽ、 ヽノ (ノO (ノ (つ ヽ、 | ノ) | / 人 ヽ、 (⌒) ヽノ (ノ | l ヽ、\, )丿 / ノ/ o l ヽ ノ \,/ / (ノ () ヽ l \ / / (⌒ヽ | ヽ、 / / l しノ | ヽ、 / / | l ヽ、 l / ヽ、 | / ヽ l /
孟獲を七度破った話もあるんじゃなかったっけ?>華陽国志
戦った七つの場所もすべて記載されていたって聞いたが。
漢晋春秋だけだと信用ならんが華陽国志に載ってるとなると...。
>>450 で言われてる武功水に橋をかけようとして、
妨害しようとした魏軍と戦ったってのは、どの史書に記載されてる?
797 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/03/22(火) 22:38:48
要は丸ごと諸葛亮を認めちまえってことだ!!
798 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/03/23(水) 15:08:31
諸葛亮は文官を見る目はあると思うぜ
まあ、基本的に無双厨だろうが正史厨だろうが、三国志以外のことは 完全スルー。 他の時代にはもっと凄いのがごろごろしているのに・・・
>>799 言っている意味がよくわからんが...
三国志オタが三国志以外のことをスルーして何か不都合でも?
蜀が滅亡する時に孔明の息子が親父の人形を前線に出して 魏軍がびびったっていうのあるじゃないですか。 これって正史ですか?
>>801 正史にそんな話は無い。
孔明の息子は普通に戦って、普通に戦死してる。
あーでもその話はなんか俺も聞いた事があるぞ 正史だったかどうかは知らんが。
それは漢晋春秋だな しかも五丈原から撤退するときの話だ 横光でいうと、「げーーっ!!孔明!!」のところだ
>>804 「漢晋春秋」には人形の話はない。
少なくとも諸葛亮伝に引かれてる部分にはない。
ただ演義等で孔明の人形ネタは諸葛瞻の時もあったような気がする。
>>805 すまん、漢晋春秋では、撤退中に軍を反転させたら司馬懿が逃げたって話だったな
ちなみにそのときの司馬懿のセリフが宣帝紀にそのまま引用されてたな
>そのときの司馬懿のセリフが宣帝紀にそのまま引用されてたな 「げーーっ!!孔明!!」
>>796 すまん、実はそれ二次資料からの転載なんだ。
「三国志軍事ガイド」っていう新紀元社の本。それの参考文献には、
現地のもの含め厖大な史書資料が載ってるので、多分そのうちのどれか。
少なくとも手元にある明徳出版の華陽国志抄訳、諸葛孔明語録、
晋書の宣帝紀あたりには見当たらなかったなあ。
正史では、その橋を架けた原因である虎歩監の孟エンがそもそも出てこないし。
(この人は華陽国志には出てくる)
>>796 ,810
虎歩監の孟エンのことは再編された「諸葛亮集」の上事表に出てる。元ネタは太平御覧巻73。
『臣が先ず虎歩監の孟エンを遣わして武功水の東に拠らせたところ、
司馬懿は渭水が漲ったのに因ると、以て二十日にわたり騎兵万人を出すと、
孟エンの営に来攻した。
臣は竹の橋を作らせるとともに、水(武功水)を越えて之を(敵の騎兵を)射た。
橋が成ると(敵は)馳せて去った。』
あと水経注の注に諸葛亮集からの引用文が結構載ってるらしい。
>>811 なるほど、太平御覧や諸葛亮集の原文には目を通した事がなかったので知らなかった。
ありがとう。
814 :
811 :2005/03/24(木) 23:46:50
>>813 『三国志軍事ガイド』、いい本だよね。
これを書いた篠田耕一さんや有坂純さんとか拾って使うヤシはおらんのかねって思うよ。
道端に拳大のダイヤが転がってるのに、誰もきづかず通り過ぎてるって印象がする。
>>814 有坂純さんは学研M文庫の世界戦史で定軍山の戦いの考察してた方だよね?
あの人の考察は本当に読んでいてお見事だと思った。
よく調べてあるし、軍事学にもかなり造詣が深い方のテキストだなあという印象。
個人的には有坂さんに北伐の検証やってもらいたいなあとは思う。
816 :
811 :2005/03/25(金) 00:20:37
>>815 コーエーが篠田さんを拾って「三国志戦争大全」みたいなの出して、
NHKが有坂さんを拾って「その時歴史が動いた」をメークすれば最高なんだけどね。
817 :
796 :2005/03/25(金) 01:25:59
皆さんトンクス 『臣』ってのは諸葛亮自身のことか 多少誇張表現が入ってるだろうから、実際襲撃してきたのは数千なんだろうな 橋の造営中に数万が押し寄せてきたら、正直戦いにならんだろうし
水経注って地理の書物だよね? どんなふうに諸葛亮のことばが引用されてるの? 「ここは要害だから攻め込まないほうが良い」とか?
819 :
811 :2005/03/25(金) 12:27:07
>>817 必ずしもそうとは言えない。万かどうかは微妙だが、それに近いんでないかい?
諸葛亮の施政はぶっちゃけ吝嗇。(小国の蜀で魏に戦いを挑んでいたため)
誇張すればそれに見合う賞与を与えなければならないのでやらない。
李厳に開府を許さなかったのとか、幕府付きの吏僚へ払う賃金を節したかったからだろう。
蜀書で司馬懿に勝ったときの獲物の内容とかやたら細かかった。
橋の造営中に万騎押し寄せたのではなく、武功水の東に築いた塁に敵が押し寄せた。
武功水が増水して西側の諸葛亮本軍との連携が断たれたため司馬懿が攻め潰しに来たわけ。
司馬懿はこんな風に勝ちに来たときは優勢な戦力で嵩にかかって攻めるパターンを採る。
だから万騎と言うのはほぼ実数に近いんじゃないかい?
救援にきた諸葛亮は武功水の西から東へ橋をかけるにあたって、対岸から雨あられと弩射した
そうして司馬懿の部隊を寄せ付けずに架橋に成功したってことだろう。
820 :
811 :2005/03/25(金) 12:37:25
>>818 そう。だから地勢の説明での引用。
【祁山表】
祁山は沮縣を去ること五百里,民は万戸を有す。其の丘墟を嘱せば,信に殷を為している矣。
(@『水経注』巻二十「漾水」での注。)
【歩シツに与えし書】
僕は軍を前にすすめ五丈原に在る。(五丈)原は武功の西十里に在る。馬冢が武功の東十余里に在り,高勢を有しているため,之を攻めること便ぜず,以って留るを是とする耳。
※この馬冢に司馬懿が陣を構えたっぽい。
(@『水経注』巻十八の「渭水」にある注)
【兄の諸葛瑾に与えたもので趙雲が赤崖の閣道を焼いたことについての書】
前に趙子龍が軍を退いたとき,以って北の閣道となっていた赤崖を焼き壊しました。
谷に縁ること一百余里,其の閣の梁は一頭が山腹に入り,
其の一頭が柱となって水中に於いて立っています。
今水が大いなるうえ而して急であるため,柱を安んずるを得ず,
此は其の窮極であって,彊いる可からざるものでした也。
(@『水経注』巻二十七「沔水」の項目にある注)
821 :
811 :2005/03/25(金) 12:40:36
【兄の諸葛瑾に与えたもので大水があって赤崖の橋閣が悉く壊れたことを言っている書】 (この)頃大水が暴出し,赤崖以南は,橋閣が悉く壊れました。 時に趙子龍とケ伯苗は,一戍に赤崖で屯田させ,一戍に赤崖口で屯田させていましたが, 但だ伯苗と崖に縁るを得ただけだったと相聞く而已です。 (同上) 【兄の諸葛瑾に与えたもので綏陽小谷を治めさせようとしてると言っている書 綏陽小谷が有ります,山崖は絶重で,谿水が縦横しており,行軍に用いるには難しいのですが、そうは雖も, 昔邏候が往来したことがあって,要道は人を通しているようです。 今前軍を使わして此の道を斫<はつ>り治めさせ,以って陳倉に向かわしめば, 以って賊の勢いを扳連させ,兵を分けて東に行かせること<者>を得させないようにすることができるでしょう也 (@『水経注』巻十七「渭水」の項目にある注) こんな感じ
>>【兄の諸葛瑾に与えたもので趙雲が赤崖の閣道を焼いたことについての書】 これは箕谷から撤退したときのこと? 曹真に相当追撃くらったんだろうな よく被害を抑えて撤退できたもんだ >>【兄の諸葛瑾に与えたもので大水があって赤崖の橋閣が悉く壊れたことを言っている書】 三行目がよくわからん この二人がコンビ組んでるってことは、箕谷からの撤退後の話?
諸葛亮集って再編されてたのか! 念のため聞くけど、諸葛孔明全集ではないよね?>あの子孫がまとめたってやつ 歴史的価値のあるものを蔑ろにする中国で、こんな奇跡が起こるとは!すげぇっ!!
824 :
796 :2005/03/25(金) 21:30:17
七縦七禽の話は華陽国志にはなかったよスマン... 集解に場所が載ってたのね 諸葛亮集読んでみたいなぁ...
諸葛喬は諸葛亮の養子となっている これってホント?
826 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/03/25(金) 22:37:06
晋書の信用性は低いんじゃなかったっけ
>>827 信用性はかなり低いね
書かれた時代がかなり後だしソースが小説だったりするときがある
宣帝紀自体は破綻するほどの記述はなかったと思う
それにしても司馬懿も何が悲しくて自分の紀であんなにけなされなきゃいけないんだ
不憫過ぎる
>>827 『晋書』の信用性は低いんじゃないかな
唐代の成立だし
引用も怪しい・・・
『後漢書』もちょっと怪しいけどね
>>828 宣帝紀も大分怪しい所あるよ、
祁山の戦いなんて張コウの事は書いて無いし、
捕虜と斬られた者とは数万にのぼる大勝利となってる。
五丈原も諸葛亮が十数万率いてる事になってるし、
彗星が諸葛亮の砦に堕ちたので、諸葛亮が必ず敗れることであろう事を知り、
諸葛亮の背後を奇襲したとか。
大体蜀が数万の死者なんて出したら二度と立ち上がれねぇって 『三国志』を書いたときには、司馬懿のミスとか記載できなかったんだろうなぁ
司馬懿は孔明のことを尊敬していて、蜀軍の布陣を見て孔明のことを「天下の奇才」と言ったり、 死ぬ間際でも「あの世では孔明殿にゆっくりと教えを乞いたいものだ」と願っていた。
>>825 蜀志諸葛亮伝を10回読めば良いと思うよ
もしくはググれ
張郃の記述がないのは撰者がなんらかの判断をしたんじゃないかな? 武帝紀の赤壁で周瑜の名前が出なかったりするのとかはある 数に関していえば晋書というよりあの国では誇張表現は日常茶飯事だから 他の国でも普通に行われてるけど史記にも普通には信じられないような数字は出てくる 迷信みたいなのを信じて行動するのは三国志にも一杯あるでしょ 破綻していないというのは三国志や他の資料と比べ明らかに矛盾してるような記述はないんじゃないかってこと そんなに多くの資料を見てるわけじゃないのであるのかもしれないけど
『晋書』の成立自体が 『三国志』に比べてかなり後代だからねぇ・・・ 漢文もややっこしい文体だし
837 :
835 :2005/03/25(金) 23:55:18
あっ一応付け足すと別に宣帝紀が正しいといってるわけではないよ
>>834 「天下の奇才」と言ったのは事実でしょう。
司馬懿は敵のことでも素直に認める度量があったんだね。
宣帝紀で司馬懿が何らかの失敗を犯してる箇所ってある?
>>834 司馬懿が「天下奇才」って言ったのは間違いないっぽい
『三国志』にも『晋書』にも書いてた
晋書は三国志を引用しただけかもしれんが
張郃って伏兵を用いて撃破したんだよな やっぱ諸葛亮の「待ち」の戦術は凄いなぁ
街亭がうまくいっていれば、諸葛亮の才を見れる機会も 増えていただろうに・・・ 馬謖め!
正史をかじり始めた頃、そこもう何度も見たよ >彼が述べる「兵要」にしろ「軍令」にしろ、その内容は実行し易い常識的なものに過ぎず、 んなもん実行し易い方が良いに決まってんだろうが! 自分で言ってて実行できなかったら、それこそ机上の空論だっつーの!
馬謖が直接命令に違えたんじゃなく、 部下の行動を抑えきれなかったんじゃないか? だから部下(李休とか)は死刑になった んで、馬謖は逃亡しようとしたから首を切られた
>>846 あれも司馬懿の言い訳で、どうとでもとれるからなぁ
やっぱ晋書は司馬懿の失敗事跡は載っけてないね、不自然すぎるほどに
司馬懿の悪口はめっさ書いてるけど
諸葛亮に日本サッカーを率いさせたかった...
負けちゃったね・・・
>>842 のサイトの
>江戸幕府の御用金が幕末に赤城山中に隠され、
しかもそれが諸葛亮の兵法に基づいて埋蔵されていると
って書いてるけどこれなんなの?
> 次いで、『太平御覽』巻二百九十一に引用する『漢表伝』(東晋の袁希之)には、 >「丞相亮、軍を出して祁連山を囲み、始めて木牛を以て糧を運ぶ。魏の司馬宣王・張コウ祁連山を救ふ。 >夏六月、亮、糧尽き、軍還りて青封の木門に至る。コウ之を追ふ。亮、軍を駐して大樹の皮を削り、 >題して曰く、張コウ此の樹の下に死すと。予め兵をして道を夾み数千の強弩を以て之に備へしむ。 >コウ果たして自ら見るに、千弩倶に発し、コウを射て死す。」 と伝えている。 >この話は、諸葛亮の逸話でも何でもない。元ネタは『史記』巻六十五孫ピン伝に伝える、 >孫ピンがホウ涓を射殺した故事であり、古の兵法家の話を剽窃して作り上げた全くのパクリ話である。 木門道に兵を伏せて射殺したのは事実だろうに 大概の兵法書を読んでるであろう諸葛亮が、古の戦法を真似してても不自然じゃない 何で自信タップリに作り話なんて言えるんだ?
>>850 なんだろね、それ
ちょっと調べてみたがわからん・・・
八卦陣に基づくってヤツかも。中国の諸葛鎮も八卦陣を基に集落を作ってるって話だし。
へーーーーー知らんかった
>>848 たぶん、戦術的にはガチガチの守備戦術でプレスかけまくりだろうなあ
あと先発の人選や選手交代の時期とかに問題あるかもな。
でも今、日本を率いてる人が夏侯楙クラスだからな。
比べるまでもないが。
>>856 と同意権
諸葛亮が率いたらトルシエ時代のフラット3に似た戦術使うと思う
今日本を率いてるのは夏侯楙じゃないだろ 神とまで言われたプレイを見せた人間が指揮をすると微妙なだけだ こんな武将いたよな 自分で戦う分には強いけど指揮はあんまり上手くない そうヒゲ親父だ
859 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/03/26(土) 08:03:43
涼州騎馬軍団を失った馬超などもはや大した役には立たない。 どんな武将も自分の手足となって働いてくれる精鋭部隊を失ったら 終わったようなものさ。
そういや曹操晩年に北方兵を率いていたのは于禁だったな・・・
861 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/03/26(土) 13:18:38
上杉謙信の車掛りの陣は、考案したのは諸葛亮じゃなかったっけ?
>>858 長嶋監督もな
ああいった天才肌の人たちは努力の過程をあまり知らないから、
いざ他人に教えようってときになると上手く教えられない
長嶋は教えるの上手いよ ただ欲張りで全試合勝ちに行くから戦力配分下手で途中で躓く
つまり、上手い下手のまえに戦略が無いってことですかい?
呂布みたいだな>長嶋
当然のことながら長嶋は監督としてはあまりよくない。 巨人で唯一最下位に導いたり、10何連敗といったワースト記録のほとんどが長嶋 毎年30億円以上の補強して(先発投手とHPバッターばかり取る)バランスを考えないし 選手は怪我をするまで酷使するし、適切な場所に選手をおかず失敗する あまりの酷さにオーナーにおまえはピッチャー交代やローティションなど投手の事に口が出せなくなってしまった。 個人的には長嶋好きなんだけど監督として見た場合あまり好きにならない。 逆に1個人としてノムさんは嫌いだが監督としてならノムさんは素晴らしいと思う。 で・・このスレ諸葛亮スレですよね・・
>>866 五行目の文がおかしなことに...
諸葛亮と龐統って仲良かったんかな?
諸葛亮が龐統を賞讃している事跡はるが、二人が仲良かったとは書いてないし
仲悪かったよ。 ホウ統は出生した諸葛亮を妬んでたし 諸葛亮はホウ統の実力を恐れてたし。 だからホウ統は実質諸葛亮に謀殺されたんだよ。
龐統は諸葛亮が生まれた頃から妬んでたワケですか
孔明してから1時間以上赤壁か五丈原なら神
馬謖暴走
演義での神活躍にだまされ、正史見てショボーンした漏れ でもこのスレ見てると、諸葛亮ってやっぱ凄い人物だったと改めて認識したよ
戦術かとしては凡庸。 しかし、政治家としては世界史史上1番。これから先も彼を超える政治家は現れないと思う。 日本の政治家に見習って欲しい!!!
良いこと言っているけど、このスレの流れを完全に無視してないかい?
875 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/03/27(日) 21:37:45
諸葛亮は内政・軍政手腕では、この時代屈指の人物。 異民族対策で少々ミソを付けたかな。 南中が完全に平定されたのは、馬忠の時代だし。 戦場での強さでも、まあ一流と言って良い。 特に撤退戦に強いというのは、ポイント高い。 戦略面でも、下準備の点は一流。 ただ、あまりに用心深すぎてバクチを打てなかったのと、 不測の事態に弱かった(予想以上に陳倉の守りが固かった時の対応など)のが、 失敗の原因だろうな。
しかし、撤退戦に強いというのは一軍の将としては重宝だが、司令官としては 余り意味をなさないような。
>>876 撤退戦に強いというよりは野戦に強いといった方が良いかも。
時たま出てくる訳のわからん国力比って誰が言い出したんだ? GNPでも算出されてんのか? 文献に残る口数なら、蜀滅亡時で魏450万、蜀100万だぜ 河北のが生産制に優れると言っても、27:2とか阿呆みたいな数値は出ないと思うんだが
880 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/03/28(月) 00:50:47
蜀は天府の土地じゃなかったのか? よく南征が資源集めのためって意見聞くけど、 実際反乱起こされたから討伐しに行ったんじゃないのか? 資源が潤ったってのは副次的なもんだべ? 実際、蜀と魏はどんだけ国力に差があったんだ? 人材で見れば、天と地ほどの差があるだろうが
>>880 蜀は蜀内だけで完結してれば十分に肥沃ってことなんじゃないの?
蜀と魏全体の平均で言えばどちらが上かは断言できないが総合的には圧倒的に劣るだろう。
>>880 蜀、つまり四川盆地は農業生産でいえばかなり低い土地だという話を聞いたことがある。
理由は「蜀犬日に吠ゆ」という諺にもあるほど霧が濃く日照量が低いこと。
>>882 蜀は戦国時代に秦の蜀郡太守の李冰が灌漑システムを整備して以来、
農業生産面ではかなり豊かだったと俺は聞くけど。
華陽国志にも、李冰の灌漑事業以来、
「よく肥えた田野が千里も広がり、物産に富んだ海の如き陸地だと号した」
「人を養うための食物生産が非常に豊かになった」
などの記述があることからも、農業生産に乏しい土地とは考えにくいと思う。
話が変わるし、ここで聞くべきなのかも分からないが、曹真の蜀征伐において、 司馬懿は西城から山を切り開き、水路と陸路を通って沔水を遡り云々とあるが、 この時、「新豊県を攻略した」という記述も見えるんだが、 新豊県は魏の領内、長安の北東にあったんだから、攻略するというのはおかしいような。 そもそも漢中に向かってるのに新豊県に向かう事自体おかしいと思うんだが。
>>879 晋が統一したときに屯田兵を解散さしたら1800万に人口になってた。
魏は450万人でなくて実際は1000万人くらいいたのでという話もある
>>884 その案は陳グンに却下されたんじゃなかったけ
888 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/03/28(月) 07:50:04
>>885 というか、中国の戸籍による人口統計ほどあてにならないものはない。
戸籍は政府が把握してる生産力ということで、当てにしていんじゃない? 屯田や兵戸は別管理だったのかはしらんが
蜀はそのまま領内を平穏に保っていれば、豊かなレベルであった でも魏を攻めるという劉備政権の立場からすれば、とてもじゃないがそれでも物資が足りなかった ということか
魏だって蜀を攻めるだけでかなりの負担を財政に課してると思う 今のアメリカ強いけどイラク戦争するだけで財政的には青息吐息なのと一緒じゃないかな 戦争なんかやってたら金がいくらあっても足りない
で、孔明死亡後は、蜀の本格的な北伐がしばらく無かったから、 防衛費に使ってた分を宮殿の造営費に... まぁ曹叡の精神破綻は複雑な家庭環境も一因だったろうから、 ちょっと可哀想だとは思うけど
蜀はそもそも、蜀漢と言うほど漢を意識した王朝であり 漢王朝の再興を旗印にしていた。 孔明がいなければ、 漢→後漢→×漢王朝廃止→魏王朝 となっていた筈が、 漢→後漢→蜀漢成立(三国時代)となっただけで、 一国の軍師に過ぎない孔明としては、もう十分な成果だったのじゃないのか? これ以上の蜀が全土統一とかの妄想は歴史的にもそうだけど、 人智を越えた話になって期待しすぎだと思う。
>>892 曹叡の宮殿の造営なんかは諸葛亮没後の翌年。
しかもその前年に地震があり宮殿に被害があったようだから、その改修にすぎない。
もっともそれが行き過ぎたというのは事実のようだが。
だから
> で、孔明死亡後は、蜀の本格的な北伐がしばらく無かったから、
> 防衛費に使ってた分を宮殿の造営費に...
というのはちょっと違うっぽい。
ご指摘dクス!
当時蜀は自称漢帝国だった 意識したんじゃなくて漢帝国の後継(自称) だから別に諸葛亮は満足していないと思うぞ
>>879 人口比=国力比という考え方はありえない。
例えば人口増加率なんかを取ってみても、ネズミ算式に差が生じていく。
まして経済なら付加価値等もろもろ考慮すると、
人口で4.5倍もの差があるのならとんでもない国力差があると考えるべき。
まして機械も何もない、人間が唯一の生産手段だった時代だからね。
蜀が魏よりも生産技術等で明らかに勝っていたのなら話はまた別だが、
実態はどう考えてもその逆だったろうし、
27:2というのもそれほど滅茶苦茶な数値でもない。
まあ、人口比の二乗=国力比ぐらいに思えばいいんじゃないかと思う。
ノ::::゙、 ヽヽヽヽ ゙、 ヘ::::::: -‐''''""( )1 ゙、::::::-‐'""" ̄"'i :V;;|| '~ニ=ッ, r='| i!f !:: ゙、i i!ゝ!:: ‐/リ i::/:、:::、 /''ii'V / \"''il|バ'' ィ'''フ''''=、r'"~ ヽ、-=\li/i,, `ヽr''"`ヽ、ヽ、 ,r'"´ ノ" )=、.,_ゝニノ,,..ィ'"´i ヽ、 ( ノ ´ ̄ `Y"´ i ) __,,.. レ _,,,,、 j、、 r''ヽ. ,.ィ'''i" J ,,.ィ'"~ `'ヲ''ー-、ノ、 ヽ、 / ,,.イ')'" 人 ,,l、 ノt ) `ヽヽ / / / `ゝ、. 人 . ,,イ jt、 ヽ i f , ノ /、 `ー--;::-ニ"_,ゝ=---‐''" ノ ヽ、 ヽ t、、 )' f ノ ヽ、 r 、 f" `i´ ̄` Y `ヽ / ゝ-,ヲ''' ) . ( ,.ィ''ーr"~ ヽj ミi ! j' | / ,r" ft ノ、,ノ ヽ, `i 、〉、.__,人,___,..イ、,i" j'' ( ,ノ j ( t、 l i ヽf Y ,j,. ,/ ) ,.イ´ ノ fヽ ヽ、 l l ヽ、 .| ノ ,. / ,.イ '"ノ ノ t i l、. t l 、j`ー‐‐'`ー="レ' j' // / ,/
899 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/03/29(火) 12:41:33
>>889 ただし、その全人口に対する王朝権力側の把握力は統一王朝の最盛期でも5割を越えた事の方が珍しかったと言われている。
その点では
>>888 は正論。
900 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/03/29(火) 12:51:36
三国とも、兵は普通の戸籍とは別カウントだったりしたんじゃないかと 豪族の私兵とか特に 戸籍上の人口がそのまま兵力差、国力差になるとも限らないのがあの時代
>>900 んな訳ないでしょ
そんな理論述べてたら蜀が天下統一してたかもしれないのにw
蜀は圧倒的に兵力不足なんだよ 北伐にも10万少々しか出せなかったのが現状。勿論兵力不足は人口不足による物
そんな事言わなくても分かるかw
蜀は人口不足しているのは周知のとおり 国家が普通だったら破綻したレベルまで徴兵してる状態でも何とかやりくりしてた諸葛亮は凄いな しかしそれが原因で博打を打てなかったと言うのは皮肉だ
結局、漢朝再興の戦略として三国鼎立を唱え 見事それを実現させた点までは凄かったが そこから先、その国力差を埋めるまでには至らなかったんだよな。 今更だけど荊州を失ったのは返す返すも痛い出来事だった。 荊州から漢中までを維持した上で 本来諸葛亮が描いてた戦略ってのはどんなものだったのか 観てみたかった気がする。
906 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/03/29(火) 15:44:41
>>905 魏国や呉国から蜀に攻め込むルートって荊州と漢中の2ルートだけなの?
南中は除いて
>>902 北伐に蜀の総兵力出したら国が破綻するってば
第五次は正史によると総兵力で行ったらしい
誰の伝?
>>908 漢中の兵は手をつけてないので総兵力ではないが
大衆を悉く、って諸葛亮伝にあるね。 最低限の守備隊以外、連れてける兵隊はほとんど、って感じかね。
あせってたんだろうな 自分の死期が近いってのわかってたんじゃなかろうか
結果が出ないから焦ってたんでしょ で、頑張りすぎて過労死
何老師
がんばったからって結果が出るわけではないのはいつの世も同じ やはり運だろ
そもそも国力が違いすぎるからなあ。 大きな結果が出てないから仲達に軍事で劣るかってのは判断しがたい。 姜維みたくやるたびに国力すり減らしてるようでもないし 確かに攻める姿勢見せんとあっという間に攻め込まれるもの。
>>905 荊州があれば魏延の子午谷から行くルートも使えたかもしれないね。
荊州取られた誤算は呉が魏と手を結んだ事自体なのか
漢中平定の隙にそれを行われた事なのか…。
>>916 諸葛亮は戦略から軍政に始まって、
作戦立案実行とほとんど自分でこなして、
尚かつ直接対決には滅法強いときてるからな。
司馬懿は戦略的に諸葛亮及び北伐を退けたけども、
それは作戦勝ちの感は否めない気もする。絶対的な国力差もあるし。
もちろんそれは大変な功績だとは思うけどね。
つーか司馬懿は直接対決で戦術的に諸葛亮の軍を打ち破ってはないしなあ。
少なくとも魏の首脳陣は諸葛亮を怖れていた。 北伐に熱心だからという理由もあるだろうが 的確な戦略判断を怖れていたとしか思えない。 諸葛亮が死ぬと司馬懿は前線から戻されるし 皇帝は趣味に走る。
>>908 『晋書』でも十万余とあるし、実質、蜀の精鋭の殆どを投入したと想像しても
間違いじゃなさそう。
晋書の記述は信用ならんって
まぁ完璧推測だが、5万ぐらいじゃないのか?
対呉、対南中の備えや漢中守備の兵も必要なんだし
>>919 よ、
>>894 で指摘されたこともちゃんと考慮に入れてやってくれ
>晋書の記述は信用ならんって 晋書の信用性が高くない部分が多いのは周知の事実。 とはいえこの一言で全てを片付けるやつが多いのもまた問題。 この手の手合いほど、蜀に史官は存在しない、とか、中国の史書は 数字が十倍、とか頭から信じきってそうで怖い。
そもそも2000年近く前の話なんだから正しい証拠なんて出るわけねえ。 少なくとも陳寿も晋の人間である以上司馬家を美化して書かざるをえないのは確か。
正しい正しくないは兎も角晋書の史料としての信用度は低いって事
記録に残ってる蜀漢の「帯甲将士」が10万ちょい。で吏員が4万。 帯甲将士の意味を全軍ととるか、中央軍のみで地方軍を含めていないのか、予備役みたいなのを含めていて曖昧な数字なのかが問題だね。 夷陵の役の時、5万前後を動員してるから、北伐でも5万程度は最低動員していたんじゃないかな。 推測の域を出ないけど、五丈原は正史からも相当無理をしている様なので、10万前後かと思う。
>この手の手合いほど、蜀に史官は存在しない、とか、中国の史書は
>数字が十倍、とか頭から信じきってそうで怖い。
お前が
>>921 とかを、はなっからそういう人間なんだと決めつけていそうで怖い
...なんて言われんのはお前も嫌だろ?
議論してるときに、他人の人格・内面等を攻撃すんのはやめれ
殺した数は10倍で問題ないよ
927 名前: 無名武将@お腹せっぷく [sage] 投稿日: 2005/03/31(木) 01:50:04 殺した数は10倍で問題ないよ
篠田氏は、孔明の北伐時は動員兵力15万くらいあったと推測してる 孔明死後は逃亡兵が増え、姜維の惨敗で兵が減ったと
>929 逃亡兵は諸葛亮の生前も多かったらしいよ。 中国の研究者によると、蜀漢の最大動員兵力は14万前後、北伐、特に五丈原の時は10万出征し4万を国内に残した、としてるね。
孔明死後は民衆にも諦めムードみたいのがあったのかな
>931 民衆は迷惑に思ってただけじゃないの?戦争ってのは。 まぁ、諸葛亮の北伐に限った事でないけど。
>>929 その人はどういう論拠でそう言っとるの?
>>931 費イが姜維を諌める言葉を見る限り、
蜀の内部ではもうダメポ感はあったようだな。
劉禅が晩年酒色に耽ったのも、
一説によるとそのためと言われることもあるそうな。
他板は皇紀だったけど、ここは違うのね
タイムマシンと翻訳こんにゃくがればなぁ。 本人に直接聞けるのに。
そんなもんあったら、龐統が戦死するところまで遡って歴史を変えたるわ
そして未然にタイムパトロール隊に捕まるわけですね
ドラえもん助けて
21エモンが助ける
ボンが助けたら、ホウ統は助かっても歴史は変わらない
942 :
無名武将@お腹せっぷく :黄天当立184/04/02(土) 01:57:55
ほしゅ
943 :
無名武将@お腹せっぷく :黄天当立184/04/02(土) 13:41:24
>>940 21エモンにタイムマシンは関係ないだろう。
むしろキテレツ?
実際北伐時の諸葛亮の権限ってどれだけあったのですか? 充分蜀をのっとれるぐらいの権力がありそうなんですが・・
>>944 乗っ取りもやろうと思えば簡単だったろうな。
実際劉備から「劉禅が暗愚だったらお前が君主やれ」って言われていたし。
まぁ劉備があそこで誠意見せなかったら本当に乗っ取っていたかもしれんが・・・
>944 蜀漢の全ての権限っと言って良いと思うよ。 乗っ取ろうと思えば出来たろうね。本人に、その気が無かっただけじゃない? No.2の李厳に「王号を称されたら?」って言われてるし。
蜀は傀儡政権だしな。
と言うかそこで諸葛亮が簒奪したり王号を名乗ったりするとそれはそれで蜀崩壊の危機 漢王朝最高するからさ、って言いながら漢を名乗ってるお陰で結構得してるので そのアドバンテージを自分から捨てることはないだろう
諸葛亮の官位・職責は223年の段階で、 丞相・仮節・録尚書事・領益州牧・開府(張飛の死後に司隷校尉を兼任してたけど、そのまま兼任したかは不明)。 多分、死去するまで一時的に降格した以外はずっとかな。 丞相・録尚書事は中央政府の行政系統の最高責任者、ってトコか。 益州牧を領した事で、蜀漢の全版図である益州の行政・軍事の最高責任者と言う事になる。 開府の権限を与えられると、幕僚の任免権を与えられるから、兼任している官職の人事権を得られる。 仮節を持つ事で、軍令違反者を独断で処分できる権限を持つ事になる。 司隷校尉は首都圏の治安行政の責任者で、実質的には首都圏の行政長官。 蜀漢の場合、実質「首都圏=益州」だから益州牧を領した事で自然消滅かね。
蜀は仮に傀儡政権だとしても、 トップが権力に固執せず上手く行った稀なパターンだろうな。 まあ諸葛亮は政敵排除も良くやってたけども。
二行目と三行目、矛盾してないか?
無駄な権力誇示とか専横がなかったということでは
劉禅が担当してたのは司祭だけで あとは全部諸葛亮ってことか・・
劉禅な、暗君だとは思わないけど、もうちょっとしっかりしてほしかったな まぁ奸臣を信任するのはずっと後の話だから、諸葛亮のスレの話にゃそぐわないか?
諸葛亮存命中と蜀滅亡時だと劉禅も雲泥の差だよな
姜維を信任したのは確かに問題だった 本人は真面目に蜀漢の未来のために粉骨砕身しているつもりだったんだろうが 実態は無理な出兵と負け戦で寿命を縮めさせただけ…
劉禅と張嶷のやりとりって好きだ あれ見る限りじゃ良い君主なんだけどな
959 :
無名武将@お腹せっぷく :黄天当立184年,2005/04/03(日) 16:41:29
そろそろ次スレですね
○○○ ○(・ω●)○ dデライオン ○○○ .c(,_uuノ
>952 五度の北伐自体が無駄な権力誇示なんじゃ・・・
>>961 北伐は権力を維持することが目的ではないからそれは当たらないと思われ。
北伐しないと蜀は滅んだからね
965 :
無名武将@お腹せっぷく :黄天当立184年,2005/04/04(月) 12:36:41
諸葛亮存命時〜姜維失脚直前までの劉禅は、信任がどうとかじゃなくて傀儡というんだよ 献帝と曹操の関係と同様で、劉禅には選択の余地は事実上なかった
流れ読んでないけど、正史主観でいけば五丈原で孔明が死んだことって蜀にとって是か非かというと 良かったんじゃないかと思います。ちょっと語らせていただきます。 ちょうど今で言うと魏と蜀の国力差が人の住める領土で5倍、人口で約3倍になるわけです。 日本とアメリカ、とまでは行かなくても数字だけで見ればあまり勝ち目の無い戦いなわけです。もちろん魏は 呉と蜀を同時に相手にしてるわけで純粋に数字だけで判断は出来ませんし、それは現代の戦争でも同義です。 ただ、現代の戦争と圧倒的に違うのは現代の戦争は外交手段の一つで、戦争をしつつ、和議を図るスタイルが 一般的ですが、孔明北伐に関しては純粋に短期的には長安攻略、長期的には魏の滅亡という「戦争のための戦争」 を展開するわけでそれ自体が外交目的となっており、和議を図る余地が全くありません。ゆえにその間魏に対して 施せる戦略は計略、戦法のみでした。 そこで、当初の国力差を跳ね返して人材不足の中223年〜234年(237?)の11年もの間北伐を行い、時には有利にさえ 進めた諸葛亮という人そのものはやはり政治的、軍事的に天才ではなかったかと思うのです。 但し、蜀にとって、この北伐が有意義なものであったか、というとやはり疑問符なのです。誰がどう見ても勝ち目の 無い戦争に対し、5回も繰り返してしまったことは大きな国力消耗であったでしょう。 一方で蜀「漢」を名乗ってしまった以上、中原の回復は国是でもあり、孔明としてはせざるを得なかったのではないか、 という見方も出来ます。いずれにしても、劉関張亡き後、孔明の独裁政権化を止められる人間は他にいなかったのでしょう。 軍部の大御所趙雲子龍はバリバリの孔明派ですし、魏延は趙雲より地位が低いですから。
967 :
長文スマソ :黄天当立184年,2005/04/04(月) 22:06:41
そこで、蜀漢後主劉禅の話をしますと、私は彼が暗愚だったとも傀儡だったとも考えていません。彼は自分の意思で孔明の 北伐を支持していたように感じます。その証拠に、彼は何度か成都から勅令で孔明を呼び戻しています。傀儡であればできない芸当です。 中原の回復という夢とその重大性を彼はしっかり理解していたのではないでしょうか。 故に姜維の北伐を支持したのではないかと思うのです。さて、姜維亡き後、北伐反対派の費イ、蒋エンのもとでしばらく蜀は国力の回復に 努めるわけで、この行為は孔明の独裁政権の崩壊と彼の影響力が以下に大きかったかを物語っています。(現に上記二人とも大義名分の ために攻めるフリだけはしています)しかし、上記の二人が相次いで亡くなるとそこで登場するのが前出の姜維伯約です。 彼の評価は僕の中では低いです。姜維の北伐には漢の再興ですとか、そういう意思が感じられない。むしろ孔明と同等の箔を求めた というか、そういうもののために孔明ほどの戦略もなくまさに消耗戦を繰り返し、国力を無駄に消費し、挙句逆に追い詰められ剣閣に立て篭もって 自滅を待った無能な武将にしか見えないのです。現に20年かけて蓄えた富はあっという間に食いつぶしています。
968 :
長文スマソ :黄天当立184年,2005/04/04(月) 22:07:30
そんな中、劉禅は前線の姜維のために全国力を注いで、剣閣を支援するわけです。しかし、全く予想していなかった山岳ルートから攻めてきた ケ艾により、戦力も兵糧も無い成都は降伏を余儀なくされるわけです。これは情けない行為でもなんでもなく劉禅は最近の評価通り、蜀国民の ことを考えれば至極当然であったでしょう。責任は山岳ルートからの侵攻を全く視野に入れず、かつ斥候すら放たなかった軍事担当者、 大将軍姜維にあったといえます。さらに彼にはその後剣閣で鍾会と無計画な反乱未遂を起こしてどさくさにまぎれて死ぬというおまけまで付いてきます。 一国の軍事担当者としては全く無能!柄に合わない仕事をするとこうなるという好例です。 結論ですが、孔明は天才。しかし、北伐は失敗ということでいかがでしょうか。と、いうか結論だけ見ると何にも面白くないですねorz
マジレスすると孔明が死ぬ以前は劉備の古くからのハイ化が多く 別に独裁政権化を止められる人間は他にいなかったのではないし 劉備(諸葛亮)の考えに同調してた武将もいた
姜維は無能、ね………。 まぁ、熱意は伝わってくるけど、少しは史料にも目を向けてみては?
>966〜968 魏延は趙雲より階級は、やや上くらいですよ。226年の北伐人事でやっと趙雲が追いついた感じ。 それと、北伐中、諸葛亮は成都に帰ってません。まぁ、劉禅が諸葛亮を支持してたのは同意ですが。
>>968 晋書で仲達が何を明帝に進言しどんな土木事業をやったか少し調べるといいかもね
>>968 蜀降伏の最大要因は、姜維の軍事的才能の有無ではなく、
姜維と中央との信頼関係の崩壊だと思うよ。
むしろ姜維は軍事的には有能だよ
>>966 趙雲 魏延
益州攻略時 翊軍将軍 牙門将軍
漢中王即位 昇進せず 鎮遠将軍・督漢中
蜀建国 中護軍・征南将軍・永昌亭侯 鎮北将軍(昇進)
劉備死後 鎮東将軍(昇進) 督前部・丞相司馬・都亭侯・涼州刺史(加官)
最終官位 鎮軍将軍(降格) 仮節・征西大将軍・前軍師・南鄭侯
ちなみに将軍号の格式は鎮遠将軍>翊軍将軍。
また、魏延はずっと漢中の駐屯軍を指揮しており、
諸葛亮が漢中に駐屯すると、督前部・丞相司馬を加えられて、その副将格となっている。
北伐の実質的な総司令部は丞相府であったので、主力を担った指揮官・幕僚は、
宿将であっても「督○部」「行○軍」「丞相○○」「○軍師」など、
丞相府の官位を加えられているが、
趙雲は丞相府の官位を加えられていない。
漢中方面の総司令官で、北伐では諸葛亮の副将であった魏延と、
将軍号こそ高いものの、一方面を任されたり、
丞相府で重要な役目にあったわけでもない趙雲では、
明らかに魏延の方が地位は高い。
長文を書くのは結構だが、もう少し史書を読み込んでからにしてもらいたい。
>974 ほとんど同意なんだけど、鎮遠と翊軍って同格くらいじゃないかな? 鎮北と翊軍なら鎮北の方が結構上だと思うけど。 ちょこっと修正すると 219年、魏延:督漢中・鎮遠、 趙雲:翊軍 221年、魏延:督漢中・鎮北、 趙雲: 〃 223年、魏延:督漢中・鎮北・都亭侯、 趙雲:中護軍・征南・永昌亭侯 226年、魏延:督前部・丞相司馬・涼州刺史・鎮北、趙雲:鎮東 228年、魏延: 〃 趙雲:鎮軍 229年、魏延: 〃 趙雲:死去 230年、魏延:前軍師・征西大・仮節・南鄭侯
900台に突入しているのも関わらず、 スレの浪費を考えず、 だらだらと史書を無視した長文を書きつづった >966は、実は姜維(>966脳内補正済み)
ケ艾が山脈越えして来た時点ではまだ綿竹関と洛城があって、 綿竹関で孔明の息子が率いる部隊が最後の決戦をしているよね。 名前の残る武将は全員討死にという三国志で他に例を見ない戦い。 最後は名臣達の二世が悉く、まさに玉砕して命運尽きるのだが。 なぜ綿竹決戦はこうも知名度低いのか_| ̄|○
綿竹は既に残党狩りの趣があるからあんまり面白くない と言うか剣閣に蜀の兵はほぼ全部いて綿竹決戦の時成都に居たのは文官だけっぽい 勝ってたら面白いけど負けてるからただの蜀の終末示すだけで面白くない
>>978 この時、召還された閻宇の軍は何してたんだろ?
1.諸葛贍の軍に編入された。
2.成都に向かってる途中で、綿竹決戦には間に合わなかった。
どっちだろ?
2
緜竹関の戦いのメンツ 諸葛瞻 諸葛亮の子。衛将軍。戦死。 諸葛尚 諸葛瞻の子。戦死。 張遵 張苞の子。尚書。戦死。 黄崇 黄権の子。尚書郎。戦死。 李球 李恢の弟。羽林右部督。戦死。 他にいるかな?
>>979 中央軍、それも近衛というべき羽林右部督の李球が派遣されていた事から
考えて、閻宇の戦力は投入されていなかった(もしくは戦力が不足していた)と
想像する方が現実性は高いかと。
必死すぎる煽り乙です
成都は無血開城じゃなくて反抗する手立てがなかったと考える方が妥当だな
緜竹ってみんな初陣か、おめでてーな
>>986 経験者はほとんど剣閣で鐘会と対峙してたからね。
これが逆の布陣だったら、案外ケ艾は緜竹で防がれ、鐘会は剣閣を抜いてたということもあったかもね。
緜竹の指揮官が張翼だったら状況が違ったのかな?
>988 ケ艾相手じゃ、どうにもならんのじゃないか? 張翼は野戦指揮官ってより、官僚・参謀タイプの軍人だし。
要害を占めるのを遅らせて結局防衛に失敗 インテリはこれだから…
姜維が諸葛緒から逃げ切って剣閣を固めたのは 想定外の出来事だったしな。
>>981 指揮官ことごとく戦死ってすごい強烈だね…。
綿竹決戦は指揮官戦死しまくってる以前に指揮を受ける兵士がほとんどいなかった説
>>993 一度はケ忠と師簒の軍を撃退してるんだが…。
撃退ってよりはまだ反抗できるのかと驚いて引いただけじゃない?
残ってた中軍は精鋭だったの? それとも予備役みたいな奴の寄せ集め?
次スレ立ったの? 避難所は?
999
1000 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/04/07(木) 01:26:09
1000取れたら、望みは全部かなう。
1001 :
1001 :
Over 1000 Thread 立 新 / ,、r'";;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`';,、 ,r';;r" _ノ と 何
て し L_ /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;\ ,';;/ ) 申 と
ね い //;;/´ `' 、;;;;;;;;,,l;;' /ヽ す 1000
ば ス /.,';/ ヽ;;;;,l;L_ .,,、,--ュ、 ';;;;;;;;;i か を
い レ l |;|┌--‐フ ┌----、、 |;ヾr''‐ヽ, ,、ィ'r-‐''''''‐ヽ ';;;;;;く !! 超
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