1 :
無名武将@お腹せっぷく:
日常使う言葉の中で武将っぽい漢字に架空の列伝をつけて人物記にしていくスレ。
あて字もシモもダメとは言わないがヒネリの利いたものにすること。(※フリガナ必須)
-----------------------------------------------------
[初代1の良例]
馬刺(バサシ)???〜228
魏の将。馬超の従兄弟。渭水の戦いで曹操に敗れた後、
曹操軍に降伏、馬超と袂を分かった。
諸葛亮の陳倉攻めの際、赫昭を矢の雨から守って戦死した
-----------------------------------------------------
[まとめサイト(by痴岱さん)]
http://s3p.net/~channel2/sansen/naduke/ 自分で記録するもよし、記録官の裸岱さん他ボランティア登録士に任せるもよし。
ネタがカブりたくない人はチェックしておこう。
前スレ:三国志武将っぽい漢字を武将にするスレ
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1088150424/
シモはローカルルール違反だろ
>一、やおい・エロ・下品などは【PINKちゃんねる】でお願い申し候。※21歳未満立ち入り禁止
3 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/10 20:36:30
3
4 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/10 21:06:51
4ね、ヲタ糞ども
5 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/10 21:07:29
5くろーさん
6 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/10 21:08:33
馬刺
まいうーー
7 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/10 21:09:56
イチロー(伊知郎)
安打正常位
8 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/10 21:10:34
パンチ左党
9 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/10 21:11:46
犯猪パンチョ
キョチョのホモダチ
10 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/10 21:12:18
金太万キンタマン
キンタマン、ワラタWW
麹蔵(キクゾウ)生没年不詳
袁紹の武将・麹義の弟。字は林家(リンケ)。麹義が袁紹に処刑されると(正史)
、曹操陣営に走った。弁舌が巧みで宴会では小話をよく披露した。初代スレ60
の人語を解した馬・円楽とは朋友になった。
武将としても活躍し、潼関の戦いでは関中十部の1人馬玩と一騎打ちを演じた。
その際、馬玩の槍に鎧の胸板を突かれてしまい重傷を負ったが踏みとどまり、そ
の後の戦局好転に大きく貢献したという。その時の麹蔵の
「いやん馬玩、うふーん、そこはお乳なの♪」
というセリフは、負傷しながらもこの余裕と、敵味方に絶賛された。
献帝から絹の座布団を褒美に賜ったという。引退後は初代スレ63の羅面
(ラーメン)の元で修行し、自分の店を出したという。その評判は…。
※訳者注:なぜかここまでで伝が途切れてしまっていた。
なお、正史には登場しない。
>>1殿、乙です!
大槻(オオツキ) ???〜220
魏の将。「富良妻(プラヅマ)」という、
今で言う電気のような物を用いた兵器を考案するなどしたが、実用化されることは無かった。
赤壁の戦いで風向きが変わった時も、いち早くこれに気付き、
「これは撫螺棲摩のせいだ!」と断言、無視された。
220年の春、大槻富良妻研究所に押し入った悪漢に頭部を殴られ、
割れた眼鏡が脳に突き刺さり、非業の死を遂げた。
14 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/10 22:58:02
尾田英(ビデンエイ) 字一郎(イチロウ) 生没年不詳
史書・邪運腐の一繋(ワンピース)の作者
独特の文章で見るものをひきつけた。
たとえば、献帝の禅譲シーンでは
暴政・傀儡・乱世かつて凡帝の全てを手に入れた男
”陳留王”献帝・劉協
彼の禅譲際にはなった一言は魏蜀呉を戦場に駆り立てた。
「漢の玉璽か?欲しけりゃくれてやるぜ・・・探してみろ皇帝の印をそこにおいてきた。」
世は三国時代を迎える-------
といった感じで、曹操が魏王になることを希望するシーンでは
漢の魏王にオレはなる!!
といったところ。
あまりにも、洒落が過ぎたために演義・正史ともに記録から抹消された。
>>1殿、あらためて乙でございます。
このスレからご参加の皆さん、記録官の裸岱と申します。
50レス毎に武将を勢力別にまとめたり、時折トピックスなども掲載させて
いただいている者です。
また、
>>1にもある通り、痴岱さんのまとめサイトへのボランティア登録もさ
せていただいてます。本スレにカキコから丸1日以上まとめサイトに登録が
ない場合は、登録を代行しております。なお、
@名前・字にふりがながない場合はこちらで適当にふってしまいます。
A本スレで1行35文字以内にしていただくと、まとめサイトでもズレ
ないで登録できます。
Bあくまでボランティアでしておりますので、荒らしと判断したもの・あま
りに差別的、不快感を催す内容の武将は登録致しません。
以上ご不満があれば、ご自分でご登録くださるようお願い致します。
また、登録して欲しくない場合、登録後修正・追加して欲しい場合はお
っしゃってください。登録せず、また記録板のほうにであれば修正・追
加はそれがしの余裕があればなるべく致します。m(_ _)m
護岸(ゴガン) 生没年不詳
益州・雲陽の人。劉焉に仕えた。
計算や設計に能力を発揮した土木技術者で、とくに治水工事に手腕を発揮した。
「護岸工事」といえば、「土台のしっかりした立派な工事」の意味である。
自らの設計ミスで長江の堤防が破れて多くの被害が出たのを恥じ、
毒を飲んで自殺したと伝えられる。
正史には登場しないが、土木護岸技術者の間で神として崇められた。
三峡ダム建設について、雲陽にある彼の廟を水没させるとして
中国建設部内で相当な悶着があったと言われている。
裸岱殿、痴岱殿、いつも乙です。
------------------------------
魏平(ギヘイ) 生没年不詳
魏の火付盗賊改の都尉。
彼の果敢かつ猛烈な仕事振りによって、洛陽から盗賊は一掃された。
本名は張谷川(チョウコクセン)、字は平蔵(ヘイゾウ)というのだが、
「魏に平蔵あり」と言われる間に「魏平」と呼ばれるようになり、本人も改名した。
しかし、正史には登場しない。
民国の池波(チハ)が書いた『魏平犯科帳』はベストセラーになり、
先年も中国中央電子台でドラマ化されて大人気だった。
>>17 ありがとうございます。魏平で鬼平とはうまいですな。同名の魏の武将で、孔明の
北伐の際に賈栩・魏平というコンビが登場します。
※みなさん、前スレに801〜850のまとめを記載しました。残り3レスですぞ。
埋めたてにご協力ください。じゃないと、それがし、それがし、…1000ゲトズサー
しちゃいますぞw
しちゃってクダサレ!
20 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/11 18:08:50
前スレみたけど乙武が登録されないのがワラタ(^o^
21 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/11 18:22:28
呉服(ゴフク) 字は問屋
呉郡の人。罪を犯したので姓を出身地にちなんで呉姓にした。
後、孫策からの招聘があったが断り、呉の水路を利用した輸送業の商人として生涯をおくった。
子孫は事業を拡大して海運業も展開したがある日、船で遠く夷州まで行ったが途中、船が難破してその後消息不明。
聖女(マドンナ)
生没年不明
字は(裸羅梅ララバイ)
魏の歌姫
曹操が寝苦しい夜に、たびたび呼ばれ琴を奏でながら子守歌を歌う。
「さぁ〜眠りなさい、疲れきった、からだをぉー…」出だしの一節で曹操は深い眠りについたと言う。
関羽の首が送られてきた際にも聖女を呼んで、深い眠りについたが、曹操は二度と目を覚ます事はなかった。その後、聖女は行方不明となる。もち正史には登場しない。
注※ネタ元は岩崎ひろみの「聖女たちのララバイ」
黄聞(コウモン) ???〜???
字は三登(ミト)。後漢末期〜三国時代に活躍した歴史学者。
中国の歴史を体系的に纏めた「大天漢史」を編纂を開始した。
若い頃は洛陽でも名の通った不良であったが、青年になると一転学問に目覚める。
晩年に弟子の阿坂(アサカ)と左々(ササ)らと諸国を漫遊し、現地調査や資料収集などに没頭した。
余談だが、後世、その逸話を元に一行が各地の悪党を退治する講談が流行したとかなんとか。
24 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/11 19:21:56
月極(ゲッキョク) 189-240
月氏の子孫で蜀の富豪。諸葛亮が木牛・流馬を発明した際、
その置き場所に所有する土地を差し出し、この功で『駐車丞』の称号を貰う。
彼が亡くなった後もその子孫はその土地に馬などを預かることで収入を得、
20世紀に入ってからは車を預かるようになり、
その名を冠した駐車場を日本全土に広めていった。
>>24 うまい!『駐車丞』ワロタ。ちゃんと月氏や孔明ともからめているしね。
現在まで繁栄しているとは、月氏やるなあw
26 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/11 21:53:37
25は辛口か甘口?
27 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/11 21:57:13
キクゾウが今んとこトップだな、たぶん前スレの岬くんか滝の作者だろう?その類い稀な機転、ただ者じゃねーな
28 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/11 21:58:31
ただキクゾウに関しては、「いやんバカーン、そこはお乳なの、あはーん」が正解かと
伊達(イタツ) 生没年不詳
字は政宗。伊籍の一族。
幼い頃に片目を失い、それを気にして屋敷に篭もっていたが、「春秋」を
読み、そこに記されている楚の共王(※)に感動した事から一念発起し、
文武に優れた名将に成長する。
伊籍に従って蜀に入り、漢再興に尽力するも、力及ばず蜀漢は滅亡。
無常を感じた伊達は、騒然とする成都を後にし、東海に向かったという。
その後の消息は不明であるが、一説には、倭国に辿り着き、その子孫は
東国で繁栄したといわれる。
豪放磊落、かつ、繊細さを併せ持った彼は、戦場にあってはその人ありと
謳われた勇将であり、殿中にあっては幅広い交友関係を持ちいくつもの詩
篇をものした文人でもあったが、東海に向かう際に自らの事跡を完全に
消し去ったという。
そのため、正史にも演義にも登場しない。
>29
ただ、「黒ずくめの甲冑をまとった隻眼の名将」というのは民間伝説として
細々と伝わっていたらしく、遥か後、唐末の独眼龍・李克用はその顰に倣い
自軍の軍装を黒ずくめにしたという。
(民明書房「隻眼有名人大全」より)
※楚の共王
春秋五覇として知られる荘王の子。エン【焉β】陵の戦いで片目を負傷
するが、なおも勇敢に戦い続けた。
この戦いの敗北により楚は覇権を失ったが、それによって著しく国力を
減衰させる事はなかった様であるから、内政面ではなかなかの君主で
あった。
その死に際し、エン【焉β】陵のの敗戦を理由に自らの諡を悪いものに
せよと遺言したが、臣下は敢えて「共」というまずまずの諡にしたという。
ネタ元は…言わずもがな、ですね。
31 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/12 09:51:18
わかりずらい武将はネタ元を解説すべし!ですねWW
皆さん、ご覧になりましたか?痴岱さんのまとめサイトの表紙がリニューアル
されていますぞ。前スレ1さんの馬刺殿が、馬刺殿が…。
また、名前入力と決定ボタンクリックで能力値決定ゲーム(?)ができますぞ。
さて、まとめサイトに前スレ851〜1000までのまとめを記載しました。
なお、初代スレ1〜1000までの勢力別人数は以下の通りとなりました。
-----------------------------------------------------------
前漢:2人
後漢:32人(女性1人)
魏:109人 (女性4人)※>760 不如氏(フジョシ)は1人でカウントしました
呉:87人 (女性7人)
蜀:94人 (女性2人)
南蛮:31人
群雄関係:59人(女性5人)
宗教勢力:19人(女性1人)
異民族:19人(女性1人)
在野:7人
西普:7人
所属不明:67人(女性1人)
その他:62人 (女性4人、人以外含む)※926安田大左貸は1人でカウントしました
――――――――――――――――――――――――――――――
合計:595人(女性26人、人以外含む)
33 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/12 19:47:35
暴走族(ボウソウゾク)
蜀に出没した若者達の集団名。
木牛や流馬を旗や竹槍などで飾り、ドラを鳴らしながら夜の街を徘徊し、
迷惑行為を繰り返した。住民は彼らを楊鬼(ヤンキ)と呼び忌み嫌った。
亜種として、桟道を暴走する楼倫愚(ロウリング)族、城壁の周りを暴走する
流宇烈斗(ルウレツト)族の存在が確認されている。
※刑死張二十四史より
34 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/12 20:17:27
>>33補伝
当時の蜀の高官は彼らを利用して魏を内部から混乱させようと目論み、
桟道を渡らせ魏へ送り込む途中、亡き馬刺の子、馬鯨(ばげい)に看破され復讐を込めた突撃により、
帰還できた暴走族は全体の三分の一だった。
35 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/12 20:45:22
麹門 生没年不詳
字は亜成(アナル)
涼州の出で麹義の親類という。同じく袁紹に仕えた。
公孫サンとの戦いで、敵兵の槍を尻に受け負傷したが、
槍の刺さったまま奮戦し、癖になったらしく以来戦いの際には
何か尻に挟まっていないと戦えなくなったという。
演義には登場しない。
36 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/12 21:01:42
麹千代(キクチヨ) ?〜197
字は三船(サンセン)。
河北の出身で麹義の一族と名乗ったが、実は一族ではなく、農民出身だったらしい。
韓兵衛(カンベエ)ら他の六人の士とともに黒澤(コクタク)村で流賊と戦い、戦死した。
正史には登場しないが、彼らの登場する『七侍記』は中国二十四大奇書の一つに数えられている。
37 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/12 22:34:15
仏酒(ブツシュ) ?〜?
字は娘痔(ジョウジ)。演義では樹煮亞(ジュニア)。
蜀の知将で劉備にその能力を認められ笑無武威栄(エムブイエイ)の称号を得る。
長坂の戦いに参加しようとするが落馬。
その後、関羽らとともに襄陽を守備するがひそかに呂蒙と通じ傅士仁らを裏切らせる。
しかし呂蒙と密会した直後、靭帯を損傷したと嘘の報告をし都、成都に戻る。
関羽が死亡した後、呉からもどってきた傅士仁・糜芳に一方的に罪をきせ斬首する。
さらに部下に張飛の暗殺を実行させる。
そしてその部下をも斬首させ口封じさせこの事件は呉によるものと報告する。
張飛、そして関羽の死を口実に打倒呉を唱え、劉備に呉侵攻を決意させる。
しかし蜀の敗戦後、諸葛亮に次々に謀略を暴かれ、遠流に処せられアラビアの現地住民に殺害される。
馬券(バケン) ?〜
字は外礼。出自には諸説あるが、馬騰の一族という説が有力。
黄巾の乱で朱儁配下として活躍するも、朱儁の失脚と共に中央から追放。
董卓勢力に身を寄せ、呂布の下に配属され、呂布滅亡まで戦に外交に活躍する。
呂布滅亡の時は折良く袁術の下に使節として赴いていたため一命を取り留める。
その袁術も滅び、袁紹の下に身を寄せるも、袁一族も滅亡。
馬騰の下に身を寄せ、馬超の挙兵に従軍するが、敗走、その後行方知れずとなる。
ちなみに、「外れ馬券を買う」は彼の生涯を皮肉る諺であったようだ。
39 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/13 01:07:33
藤原(トウゲン)
字は拓海(タクカイ)
>>33の楼倫愚族の中での伝説的存在。
彼の駆る木牛「八六式」は旧式ではあったが、他のどの木牛よりも速かった。
後に好敵手であった高橋涼(コウキョウリョウ)高橋啓(コウキョウケイ)兄弟と共に
「泥(デイ)」と呼ばれる部隊を結成し
>>34の記述にある魏攻略に参加したが、
その後の消息は不明である。
おまいらアフォだろw
曹康(ソウコウ) 生没年不詳
呉に仕えた武将。貧困の中から身を起こした苦労人であった。
孫権の馬揃えに駿馬を準備できず困っていたところ、
妻がヘソクリをはたいて名馬を買わせたエピソードで有名。
「曹康の妻」という言葉はここから来ている。
樊盒(ハンゴウ) ?〜239
蜀に仕えた武将。字は缶布(キャンプ)。前漢の功臣・樊カイの末裔と伝える。
戦場では「樊盒推参!」と野営地を襲撃し、またたく間に炊き立てご飯の山を築き上げたと言う。
すぐに湯気を立てて怒っては頭を押さえつけられるというコミカルな役どころで、
合宿(ガッシュク)の戦いでは落馬してひっくり返ったところを棒で叩かれ、放置されてしまった。
正史には登場しない。『キャンプのしおり』参照のこと。
夏休(カキュウ) ?〜206
字は厨房で黄巾の将。前スレ505と混同されるようだが、別人。
熊の毛皮がトレードマーク。黄巾の乱平定後は河北で山賊に身をやつした。
雪深い冬は山に籠もり、夏になると村々を襲い、田畑を荒らし、民を大いに困らせた。
公孫賛や袁紹らから度々征伐軍を向けられるが、
「釣り」と呼ばれる陽動と伏兵のコンビネーション戦法で尽く撃退する。
しかし206年、曹操によって征討された。
当初から彼の存在は疑問視され、彼が行ったとされる略奪行為は領主達の自作自演との説もある。
>>35 まだそのネタがあったねw 麹義も急に一族増えてあの世で苦笑してそう。
>>38 最後の1行ウマー!
>>41 コンパクトに時事ネタ、イイネ。曹一族にしなかったのもイイ!
>>42 ウ、ウマー!
>またたく間に炊き立てご飯の山を築き
って食ってたご飯吹いたろ!!禿藁。…良ネタごち!
まとめサイトで馬刺がコーエー三国志の武将になってるなw
突撃、奇襲、槍衾、攻城と、使える能力持ってるし。
ところで、まとめサイトで武将の名前を入れて能力決定するのをやってみた。
直接的杉 武力92 知力61 魅力69 (総合222)だった。結構強いね。
愛液 武力30 知力39 魅力3 (総合72) ・・・弱!
李下(リカ) 188〜249
呉に仕えた文臣。
晩年の孫権は猜疑心が深くなり、恐怖政治をしいた。
直立不動であることが求められる儀式の最中、
李下は冠がずれてしまったが、ここで冠を直すと「異心ある者」として粛清されかねない。
疑われるような行為をしてはならないと、李下は冠がずれたまま儀式に参列しつづけた。
この故事に基づく「李下、冠を正さず」(無用に疑われるようなことをしない)は、
いつしか「李下に冠を正さず」と言い習わされるようになった。
47 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/13 22:20:55
リカ?意味プー。くんな禿げ
48 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/13 23:19:00
李下に冠を正さず
スモモの木の下で冠をかぶりなおそうとして手を上げると、
実を盗むのかと疑われるから、そこでは直すべきではないという意の、
人から疑いをかけられるような行いは避ける
べきであるということのたとえ。
49 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/14 00:01:16
曹繰 猛徳 ?〜221
魏の将
曹操の影武者を勤めた。
彼は曹操とは違いどちらかといえば、知略より武が勝っていた。
霞萌関の戦いで曹操の身代わりに魏延の矢を食らって歯が折れたという。
曹操は彼をいたわって温州みかんを送ったが、途中で佐慈に奪われて・・・
最終的には佐慈を斬ったときの幻覚から発狂して死んだ。
園田(エンデン)
字は光慶。三国志の編纂・注釈をしたが、
夏侯惇が周瑜に一騎打ちで負けたり、曹操が米の中に潜んで城の中に侵入するなど事実を無視しすぎたため、闇に葬られた。
52 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/14 20:31:35
リカとかイラン。ヲタかえれ
秦-泰奏(シン-タイソウ)202〜?
姜維の実家の西に三軒隣の家の裏の家に住んでいた幼馴染み。
幼くして彼と共に武芸に励み、鉄球、縄、軟鞭、輪、棍の腕では
姜維をも上回る腕も持つに至る。
孔明の北伐の1年前に、突如自分の技を極めるために失踪、
俗世間と縁を切って技を芸術の域にまで高める。
後、山を降りたところを旧友姜維の招きを受け、蜀へ身を寄せるが、
そこで劉禅に伴奏つきの剣舞見せた際に(使用したのは錘と伝わる)
その美しい動きと数々の華麗な技を彼に気に入られ、近侍となる。
蜀滅亡後も魏、晋にその芸術的剣舞を珍重され、一大流派を開くに至った。
現在行われている新体操は彼の芸術的武術を伝えるものという説があるが
真相は明らかになってはいない。
正史には登場しないが「駒根知(こんこんち)」という文献には登場する。
だが、「駒根知」自体が後世の創作という説が有力なため、
実在を疑う論者も多い。
崎陽軒(キ ヨウケン)198〜?
蜀将として孔明の南蛮制圧に同行する。
凱旋の途中、横浜水にさしかかると暗雲に覆われ風波荒れ狂って渡ることができない。
土地の人はこの河には鬼神が住み69人の頭をはねて供物祭祀を行なわねば静まらぬという。
しかし、濾水渡河の際にで殆ど材料を使い果たした蜀陣営には、1人分相当の材料しかなかった。
頭を悩ます孔明に対し、崎陽軒は、
「饅頭ノ大小拘ル事莫レ、小人ノ頭ト言ヘバ、天モ頷カン。」
と諭し、饅頭1人分の材料で69人分の小饅頭を作り、焼売と名付けて祭り河に投げ込んだ。
すると嵐は一層激しさを増し、遂には崎陽軒が竜巻に巻き込まれ、天高く飛んでいったという。
その後の崎陽軒の消息は不明ではあるが、晋書に倭国の屋台商人に同名の人物の存在が記されている。
55 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/14 21:52:49
炎通王(エンツオウ)
赤兎馬の子
毛並の赤さや気性の荒さ、脚の速さは赤兎馬の3倍であったという。
甲高いいななき声は衛駆増趨吐(エグゾースト)と言い、ある時
そのいななき声で近くにいた12騎の人間を落馬させたために、
後に12騎倒の衛駆増趨吐と呼ばれるようになった。
その名は広くひびき渡り、その雄姿は後年自動車のエンブレムになっ
たとかならなかったとか
もちろん正史にはでてこない。
伊達政宗(イタチマサムネ)
政宗は字。
>>29とは別人。涼州の独眼竜と言われた英傑。馬騰に
降伏した。
一説によると、島○紳助はCMでこの伊達(イタチ)と伊達政宗を混同
していたのだともいう。だとすると、粋な勘違いをしたものである。
あのCMの父親は実はマニアックに博識だったといえよう。
57 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/14 23:32:55
張勲(チョウクン)
袁術の部将。大将軍に任命されるが、曹操に大敗する。
しかしその約1800年後日本のプロ野球で日本名「張本勲」として3000本安打を打つなど
輝かしい功績を残す。
(じじつ張本勲氏は朝鮮の人で朝鮮名でも張勲です。)
昏我利亭(コンガリテイ)
字は把魯間(パロマ)。商人である。
前スレ
>>132の山下の軍を裏から支援したという。
山下の軍の活躍と共に自分の商品を売りさばこうとしたが、
山下の軍が敗北を続け、そこからの収益はほとんどなかったという。
ちなみに、山下の軍が戦うときは常に把魯間、昏我利亭の文字が見え、
山下の軍が火計に逢ったときは彼の旗のせいにされたという。
>>54の崎陽軒もまた山下の軍を支援したという話もあるが、これはよく伝わっていない。
59 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/15 22:10:24
あー意味不明ばっかじゃん!張本イサオとかいらんし、パクリはあるし、なんや山下って馬鹿か?出なおせ
謀夫羅(ボウフラ) 生没年不詳
南匈奴王の一族で、於夫羅(オフラ)・呼廚泉(コチュウセン)の弟といわれる。
生来不良の質で澱みを好み、他人に寄生して生きた。
中国語で「謀夫羅野郎」といえば他人の生き血を吸って肥え太るゲスな輩の代名詞である。
長じて兄たちと袂をわかって「夏(カ)」と称する王朝を立て、
若い娘の尻を追っかけてご乱行の限りを尽したとも、
怒った民衆に燻し殺されたとも言われる。
民間説話では有名な人物であるが、正史には登場しない。
61 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/16 00:02:14
于王汰亜琳虞(ウォ――タ――rrrリンッッッnnグッ!!!)
滑舌良い呉の女性弁士。勇ましく張昭らと孔明に論戦をふっかけ敗れた。
王汰が名。亜琳虞が字。
糜厳 早染(ビゲン ソウセン)142〜???
劉備の旗上げの頃からの配下の武将。
糜竺の親類という説が強いが詳細は不明。
年老いても常に前線で戦い続け、黄忠、厳顔と並んで三老虎と呼ばれた。
戦場では老人と侮られるのを嫌い、必ず髪を黒く染めて出陣したという。
なお、正史には登場しない
>>62 前スレ65で「美厳 早染」という呉の整髪士を作成した者です。
しまった、糜竺の糜の字がありましたね。では美厳が糜厳殿の髪
を染めてあげたということで…w
羅枇(ラヴィ) ?〜263
蜀末期の臣、羅憲の弟。字は成賀(セガ)。至誠の臣であったと評される。
独特の歌を歌う才能があって劉禅に気に入られ、そば近くに仕えた。
『蜀志塵芥集』には、
「羅枇、能ク琵琶ヲ携ヘ謡ヲ唄フ。
其ノ謡、他ニ類ヲ見ズ、人ヲシテ忘我ノ境ニ至ラシムル者ナリ。
謡ニ曰ク、濡濡寧寧濡濡寧能、濡濡寧寧濡濡寧能。後主、共ニ唄フ。」とある。
これだけならばただの佞臣であるが、羅枇は
劉禅のそば近くに仕えたことを幸いに、しばしば厳しい諫言をした。
根は剛直な人だったようだが、柔軟な発想のできる人だったらしい。
しかし案の定黄皓らに疎まれ、結局左遷されてしまった。
蜀滅亡の際、諸葛瞻に従って綿竹で魏軍と戦い、戦死を遂げる。
最後の言葉は、
「君のためなら死ねる!」
であったというが、正史には載っていない。
蔡玉(サイタマ) 生没年不詳
蔡ヨウの娘、蔡文姫の姉。
妹は聡明で知られたが、姉は能天気で知られる。
妹とともに匈奴に連れ去られたが、じきに送り返された。
匈奴の地で見た踊りを元に舞踊をはじめたというが、
そのパフォーマンスがいかなるものであったか、
今日のわれわれは推測することも出来ない。
安班万(アンパンマン) ?-225
蜀の将と言われるが、その前半生は謎に包まれている。
諸葛亮の南征に従軍し、持ち前の剛力で大いに武名を轟かせる。
木鹿大王との戦いで猛獣により胸に致命傷となる傷を負ってしまう。
しかし籐甲軍との戦いで苦戦する味方を助ける為に取るものも取らず出撃し、
籐甲軍の猛攻を「安殴打!」と叫び徒手空拳でで食い止めるものの、仁王立ちのまま力つきた。
帰国の時、孔明が氾濫する河を沈めるために作った饅頭は、
彼の活躍を偲び、彼の顔に模して作ったという。
誰か投稿してやれよ〜(藁)
接骨院(????~1570)
駿河・今川義元の側室。出家前の名は腰痛姫とあるが定かではない。
義元の上京に危険を感じ、出陣前に自分を乗せた輿を門前にとどまらせて義元を困らせるなど胆の座った女性で、家臣などは「遠州の鬼姫」とあだなし恐れたという。
今川義元が桶狭間で敗れ戦死すると出家、尼僧となり接骨院を名乗った。
亡夫の遺骨を拾い集めてつなぎ合わせ、生涯をその守護に捧げた。
三国志じゃねぇし。
圃楚貴 菓豆粉(カズコ) 180〜300年
荊州公安の人。幼き日に洛陽に移り住み学問に励んだが董卓の洛陽焼討から逃れ襄陽
に逃れる。その後司馬徽門下として青春期を過ごす。男に口説かれては騙されるなど悲しい
時期を過ごしたが、兵法から天文、占いまで学び尽くすと各地を流浪。
その時に立ち寄った許昌で、人殺しの罪をかぶせられ投獄され処刑されそうになったとき
に左慈に救われ峨眉山に引きこもり、秘伝六星占術を会得した。そこで15年荒行に耐えた
菓豆粉は下山後再び各地を流浪。人間の性格、宿命、運命などを「ズバリ言うわよ」の決まり
文句で次々に的中させたことから遠近で名を広めた。
220年曹操に密かに召しだされた時、
「残念ながら大王の命数は終わりを告げております。死後から15年は安泰が保てますが
その後は内部から崩れてゆく定めにございます。子々孫々によくよくご賢察するよう御忠告
なさればその倍魏国の安泰は望めます。」
曹操がなぜ長く続かないと聞くと
「原因は太子様の身近にございます、しかしそれを改めると逆に国は10年持つかわかりま
せん。」
このやり取りは菓豆粉が司馬家の簒奪を予言していたものであり、みごと的中した。
その後諸葛孔明にも
「あなたは当代一の英傑にございますがたびたび人材登用に失敗がございます。崇高な
目的を早く遂げようとしますと必ず失敗します。日々冷静に考え焦らなければ必ず事は大勢
するでしょう。」
しかし菓豆粉はあまりにも自分の占いが当たりすぎるのを危惧し再び峨眉山に行き120年
という長い人生を過ごした。その後日本の地で六星占術で人気沸騰中だが、あのお方とは何
の接点も無い。
尚正史には名を記されてないが、一説では陳寿の元に一度赴き、「私の名は決して触れな
いよう」と頼み込んだという。今は架空の人物であると学者の間で論争を巻き起こしている。
伍朗任(ゴロウニン) 生没年不詳
呉の臣。207年、孫権の命を受けて南海を測量中、交州の士燮に捕らえられた。
孫権は報復として交州商人の高田屋(コウデンオク)を拿捕。
これが有名な「伍朗任事件」である。
事件は高田屋の尽力もあって解決し、伍朗任は帰国。
孫権の呉と士燮政権の間で対話の気運が生まれ、
以後士燮は孫権に従属しつつ半自立的な政権を維持することになった。
羊杜(ヨウド)生没年不詳
字は卵光(ランコウ)。西晋の武将。羊[示古]と杜預の妹との間に生まれた。
両親の寵愛を受け、厳選された食事と適度な運動、よく管理された館環
境の元、丹精こめて育てられた。将来を期待されたが、呉征討戦で敵将
の大斧に二つに割られて戦死。字は陳紀(チンキ)とする説もある。
正史には登場しない。
75 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/16 22:51:16
巨根(キョコン) 198〜221
字は極太(ゴクブト) 魏将
とにかくその体躯の大きさ・黒さで有名。
歴戦の猛者であったが、よくふにゃふにゃしていたとも伝えられる。
なお、正史には登場しない。
76 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/16 22:54:52
卵巣(ランソウ) 200〜245
名著「精子」を残した精巣の愛弟子のひとり。
「卵子」の作者としてもその名を残す。
内容は語るまでもない。
77 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/16 23:01:15
手満(テマン) 219〜267
字は愛撫(アイブ) 呉将
一騎打ちに秀でており、いろんな意味で必ず相手を昇天させていたという。
武器は持たず、男らしく常に素手で勝負していたと伝えられている。
なお、正史には登場しない。
78 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/16 23:08:29
倍武(バイブ) 189〜224
字は礼太(レータ) 魏の文官
文官の割りには落ち着きがなく、常にそわそわ震えていたという。
その動きはうぃ〜んという怪音を伴い、円運動だったと伝わる。
なお、正史には登場しない。
79 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/16 23:17:25
乳首(チクビ) 201〜255
魏将「乳輪」の弟。
兄を超える異常な感受性の持ち主であったとされる。
なんでもかんでも鵜呑みにしたため、泣き寝入りすることが多かったという。
なお、正史には登場しない。
>>77 生没年からすると、享年48歳。性技48手を意識してか?w
81 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/16 23:25:33
運個(ウンコ) 222〜260
字は鰤鰤(ブリブリ) 魏将
戦場ではよく戦い、とにかく泥まみれのように汚れていたと言う。
ただ、独特のにおいが強烈で、蝿ばかりがたかっていたため部下はあまり近寄らなかったと言う。
なお、正史には登場しない。
82 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/16 23:26:51
83 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/16 23:34:24
痔(ジ) 177〜203
仙人。
かすみを喰らい、山の頂きに座し、始終微動だにしなかったという。
動かなかったのではなく、動けなかったとのではないか、という説もある。
なお、正史には登場しない。
84 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/16 23:53:44
淫乱(インラン)140〜188
黄巾賊の将。
臆病者で官軍の攻撃を受けるたびに激しくもだえていたと言う。
結局なんの役にも立たず、斬首された。
なお、正史には登場しない。
85 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/16 23:58:48
怒比喩(ドピュ) 194〜230
「魔羅」配下の「射精」の片腕として活躍。
常に先陣を切って、勢いよく陣を飛び出していったという。
白い鎧を身にまとっていたことで有名。
「精子」に登場。
86 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/17 00:00:19
だんだん書き込んでてむなしくなってきたw
87 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/17 00:08:09
競塩(セルシオ) ?〜?
DQN(ドキュン)という武将が乗っていたとされる駄馬。
足が短く、真っ黒で、疾駆する音も非常にうるさかったという。
何の威圧感もなく、赤兎馬の正反対の位置付けで有名。
かぶらないようにまとめサイトは必読だな。
そろそろネタも尽きてきたように見える・・・
特に下ネタ。
尹禁(インキン)
尹黙の従弟。初陣で傷を負い、華陀に治療されるまで常にその傷が疼いたという。
伍五壱(ゴゴイチ) 生没年不詳
関西(カンセイ)の人。字は蓬莱(ホウライ)。馬騰に仕えた武将。
棒術に優れ、愛洲缶挺(アイスキャンデイ)と号する棒を愛用した。
大好物の饅頭(マントウ)があるときと無いときのやる気の落差が激しかったという。
正史には載っていない。知名度も多分関西に限られる。
羊羹(ヨウカン)生没年不詳
羊祜の叔父。曹操配下。味のある人として知られていたが、
優柔不断でくねくねとした物腰のため、使者として呂布の元に出向いたさいに
その態度に呂布に激昂され斬られる。
張面(チョウメン) 生没年不詳
張飛の従兄弟で、その縁で劉備旗揚げ当時から仕え、官吏として優秀だった。
荒っぽいことはさっぱりだが、マメな人物で些細なことでも手記を書き続けた。
「几張面」や「玄徳の帳簿」と二つ名を付けられ、地味に賞賛された。
陳寿が三国志を編纂した際に、彼の手記が多いに役に立ったとも。
93 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/17 21:16:11
哀留惇(アイルトン)
字は瀬那(セナ)魏の本田(ホンデン)
が作り上げた精鋭騎馬隊「馬鞍連(マクラレン)」の連隊長を努める。
数々の武勲を立てるが、惨鞠乃(サンマリノ)の戦いで戦死した。
「惇兄」と呼ばれてたかどうかは不明。
黄仁 殷升(コウジン インショウ) 生没年不詳
黄忠の兄で黄家の長男
武勇に優れ黄巾討伐で大きな勲を上げたが
官の乱れに嘆き隠居した。
剣の達人といわれその武勇は黄家の八升と呼ばれた。
黄義 周升(コウギ シュウショウ) 生没年不詳
黄忠の二つ上の兄で黄家の次男
兄と同じで武勇に優れていた。
董卓征伐戦でさまざまな勲を立てた。
彼は槍の達人だったといわれる
黄礼 秦升(コウレイ シンショウ) 生没年不詳
黄忠のひとつ上の兄で黄家の三男
彼もまた武勇に優れた。
曹操に仕え呂布討伐で勲を立てた。
彼は戟の達人だったといわれている。
黄信 晋升(コウシン シンショウ) 生没年不詳
黄忠の弟で黄家の五男
彼も兄弟と同じく武勇に優れていた。
孫策に仕えて呉郡平定に大きな勲を立てた。
彼は手斧の達人だったという。
黄悌 隋升(コウテイ ズイショウ) 生没年不詳
黄忠の二つ下の弟で黄家の六男
彼は黄忠に正宇rとも劣らない武勇を持っていた。
孫権に仕えて合肥の戦いで大きな勲を立てる。
彼は黄忠直伝の薙刀を習得したという。
黄孝 唐升(コウコウ トウショウ) 生没年不詳
黄忠の末弟で黄家の末子
末子ながらも武勇はすさまじいものだったという。
劉備に仕えて夷陵の戦いで逃げる劉備を救出したという。
彼は弓ではなく弩が得意だったそうだ。
黄家の八升とは・・・
黄忠の兄弟がみな武勇に優れているだけでなく人間性もすばらしかったと出
こう称した。
黄仁は仁徳に溢れ。
黄義は義に篤く。
黄礼は礼儀正しく。
黄忠は忠義を持ち。
黄信は人から信じられ。
黄悌は弟のように従順に仕え。
黄孝は親孝行だったという。
王武烈(オムレツ) 卵焼(ランショウ) 200〜234
魏の料理人
曹操、曹丕、曹叡に仕えた。
彼の作った卵料理があまりにも旨かったために
曹叡が大量の卵を彼に送って作らせ、自分と一緒に食べたという。
五丈原で孔明が死んだと聞いてうれしさのあまり、手元が狂って
作りかけの卵料理が顔に直撃してやけどを負い、それが元で死去。
正史・演義にはのっていないが料理本には載っている。
>>94-100 力作!!名と字の両方で攻めましたか。
前スレの司馬の十達・呉の六松に続き、黄家の八升誕生!
>>94-100 GJ!
『黄氏家伝(槃瓠本)』では黄礼と黄忠の間にもう一人兄がいると記載されている。
それと、七男が黄孝(隋升)、末っ子(八男)が黄悌(唐升)となっている。
古い記録で異本も多いらしく、史料間で混乱があるのかもしれないが、参考までに。
黄智(コウチ) 楚升(ソショウ) 生没年不詳
黄忠のひとつ上の兄、黄家の四男。
彼も兄弟と同じく武勇に優れており、劉璋に仕えて軍功が多かった。
彼は鞭の達人であったといわれている。
兄弟同様人間性に優れていたばかりか、随一の智略の持ち主で、
益州を占拠しようとする劉備を散々苦しめた。
そのため、劉備が主役の演義では「ずる賢い人物」という描き方がされてしまった。
後世彼が「黄家の八升」から除外して記録されることがあるのも、「狡知の人」という誤解ゆえである。
104 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/18 08:33:03
青心 生没年不詳
後漢の詩人
従来にはなかった奔放な詩の形態やその内容は当時の若者を熱狂さ
せ、若きの日の曹操や劉備にも大きな影響を与えたという。
しかし、その詩は過激で秩序を乱す危険なものとされ、詩を詠唱す
ることを禁止された。
このため、失意の青心は隠遁したという。
「我欲土武鼠如美」で始まる詩「鈴打鈴打」は、曹操が飛び跳ねながら
詠唱したというエピソードが残されている。
あとは「臨兵闘者階陣列在前」くらいだな。
誰か作ってや。
墓済惇(ボストン) 茶会事件(チャカイジケン) 生没年不詳
揚州の人
呉の外交官
英国より茶を輸入していたが、値段の引き上げなどをしている現状を見かねて
加人の服装をして茶の輸入現場に潜入し、全てのお茶を海に捨てた。
人々は腐りきった茶輸入の者どもをよくぞ打ち負かしてくれたと賞賛したが
孫権の飲むお茶まで捨ててしまったので孫権に死刑にされた。
1500年後の米国ボストンにても同じような事件が勃発した。
天海(天海) 152〜205
後漢の将
もともとは明智光秀(メイチコウシュウ)
暴虐の主君織田信長(シキデンシンチョウ)を本能寺にて焼き殺したが
謀反の罪で追われる身になった。
羽柴秀吉(ウサイシュウキツ)や柴田勝家(サイデンショウケ)、丹羽長秀(タンウチョウシュウ)等の攻撃をかいくぐり
山奥に潜み期を待った。
徳川家康(トクセンカコウ)が大勢力を築き上げた際天海と名乗った。
その後、中核を成す。
彼の死後、勝海舟(ショウカイシュウ)、西郷隆盛(セイキョウリュウセイ)などによって
潰された。
正史演義には記述はないが、倭国史には乗っている。
108 :
80:04/09/18 12:03:17
>>75-86 なにはともあれw乙!
あんたけっこうマメなのな。一人一人生没年と締めの言葉入れたり、
>>85「精子」を引用したりw
>>79 >なんでもかんでも鵜呑みにしたため、泣き寝入りすることが多かったという。
これ、なんか元ネタあるの?
>>76 @士宮(シキュウ)生没年不詳
字は疼句(ウズク)。交州の半独立勢力・士燮の従姉。
「卵子」に登場する。
A羊水(ヨウスイ)生没年不詳
字は井上(セイジョウ)。西晋の従軍看護婦。
>>74羊土の妹。よくモノマネ
された。母性愛にあふれ、包容力があり、敵の負傷兵までよく手当てし
たという。
「卵子」に登場する。
王猛烈(オーモウレツゥ)生没年不詳
字は門楼(モンロウ)。
>>101王武烈の妹(ということにさせてくださいw)。
兄の大火傷を逆恨みし、撤退する蜀軍を王一族の私兵だけで追撃した。
その時たまたま殿軍だった姜維に風変を起こされ(強風の多い山間の地形を
利用しただけだったという)、まとっていた戦衣がめくり上がり、下着が丸
見えになってしまった。その時発した一言、「もうれつっっっ!」はその年
の魏の流行語大賞に選ばれた。
口元の黒子が色っぽかったという。
なお、正史には登場しないが、「中国史に残る女性100選」には必ず選ばれた
という。
杉浦(サンホ)
呉の将。諡は忠。長嶋(前スレ>405)とは友人にあたる(注一)。
弓の名手として知られ、任地の南海において、「行蛇主鹵(アンダスロ)」と
呼ばれる弓術を駆使し、数々の武勲を挙げる(注二)。
魏との戦いにおいて、一人で敵の九割以上を倒すという大戦果を挙げた
事もある(注三)。
同僚の名将・野村(前スレ899の野村とは別人)とのコンビは当時最強と
謳われた(注四)。
彼の引退後、郭馬が叛乱を起こす。その際、「杉浦・野村なき今、交州は
我が手中にあるも同然」と言ったとされるが、呉の滅亡により資料が散逸
した為、詳細は不明である。
>110続き
注一:
杉浦と長嶋は、太学において同窓で、ともに名を知られていた。
もともとは、長嶋が呉に仕官しようと誘ったのだが、直前になって気が
変わり、魏に仕官する。
杉浦も魏に仕官するのでは…と呉人が疑心暗鬼に駆られるのに対し、
杉浦は、「某がかの様に見えまするか」と言い、そのまま呉に仕官したと
いう。
(「豪弓列伝」より抜粋)
注二:
杉浦の弓術は、世に「行蛇主鹵(アンダスロ)」として知られる。しかし、本人
は「我が弓術は采弩主鹵(サイドスロ:弩を采【と】り、敵の主を奪う)」である
と語っていた。
(「行蛇主鹵評伝」より抜粋)
注三:
これ以前においては、呉はしばしば魏に破れており、呉主は激しい屈辱感
に駆られていた。杉浦の活躍によって自信を取り戻した呉主は、「そなたに
よって、我は男子たる矜持を取り戻した」と絶賛したという。
(「豪弓列伝」より抜粋)
注四:
杉浦が弓術に秀でていたにの対し、野村は打撃戦と攻城戦(攻守両方)
に秀でていた。杉浦の放つ矢が討ち漏らした敵を、野村が完膚なきまで
に叩きのめすのである。
この為、二人がいる頃の南海は一度も敵に蹂躙される事がなかったので
あるが、目立つ手柄は悉く杉浦のものになった為、野村は内心不満で
あったという。
(「豪弓列伝」より抜粋)
元ネタは…ホ−クスの名投手であった、故・杉浦忠氏です。
112 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/18 19:57:33
キモメンが増えてきたぞ。糞スレ化してきたな。
マニアックな知識を必要とするものは
その筋の板に「○○を三国志の武将(歴史上の人物)にするスレ」を立てたほうが
投稿して楽しむ香具師にも読んで楽しむ香具師にもに平和かと思われ。
-----
節介(セッカイ) 生没年不詳
余渓(ヨケイ)の人。字は婆心(バシン)。
「呉に老婆心あり」と言われた諫臣。
呉の人々に、無駄そうなアドバイスや細かい間違いの指摘を行った。
何玲 雷嵩(カレーライス) 204〜234
呉の料理人
魏の王武烈、蜀の桂逵とならんで名料理人と称された。
彼の作る料理は、漢方薬もびっくりするほどの多種多様なスパイスがブレンドされている。
その料理の旨さに孫権に重く用いられて、孫権と一緒に食事を取ることを許されたという。
234年、合肥新城を攻めたときに敵将白志忠(ホワイトシチュー)が何玲の料理はウンコに似ているといわれた
怒りによって血圧が急上昇して脳の血管が千切れて死亡。
孫権は深くそれを悲しんだという。
正史演義に記述はないが料理本には載っている
白志忠(ホワイトシチュー) 栗忌(クリーム) 194〜234
魏の料理人
白志忠の料理は、野菜と肉を牛乳と秘伝の粉末によって作られて
素朴ながらも甘すぎない彼の料理はたちまち評判になった。
曹丕、曹叡にも気に入られて宮廷の料理長になった。
234年合肥新城に調理を指導に来た白志忠は呉軍侵攻の報を聞いて
何玲と邂逅し、そのときに「貴公の料理はにおいもいいし味もいいが如何せん、色がウンコではないか」
と罵ったら、何玲はあっさり死んでしまった。
その後、孫権に捕らえられて死刑になったが、処刑寸前まで何玲の料理をウンコと酷評し続けた。
あまりにも、下品な性格のためにどこにも載せてもらえなかったが
料理本には載っている
胡椒(コショウ) 生没年不詳
漢末の伝説的な料理人。字は少々(ショウショウ)。
胡車児の従兄と伝えられるが定かではない。
もともと塩の密売人で、黄巾の乱に参加し、敵を戦闘不能に陥らせる妖術を使ったともいわれる。
以後各地を放浪。どこからともなく調理場にあらわれ、
わずか一手間で見違えるほど締まった味の料理に仕上げたという。
彼自身が大きく取り扱われることはないが、料理本のあちこちに名を残している。
桂逵(ケーキ) 趙孤(チョコ) 170〜234
蜀の料理人
当時希少な砂糖をふんだんに使った料理を作っていた。
霊帝→董卓→劉備と仕え先を変えた経歴を持つ。
五丈原にて孔明死すと聞いて驚きのあまり作りかけの菓子の中に頭を突っ込んだまま
二度と立ち上がらなかったという
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
このしらせを聞いた劉禅は前にもまして無気力になったという。
正史演義共に出展なし
料理本には定番のように載っている
張啓遠(ハリケエン) 生没年不詳
字は愛晩(アイバン)。「黒旋風」と呼ばれて恐れられた南海の海賊。
米州荒浜に上陸して大きな爪あとを残した。
覇平(パフェ) 舊津(フルツ) 生没年不明
後漢の料理人
南国の果物をふんだんにつかった彼の料理は贅沢を好む
十常侍に気に入られて宮廷の料理長にまで出世した。
袁紹による十常侍掃討戦で行方不明
その後彼を見たのもはいない。
正史演義には何もなしだが、料理本には載っている
紀無遅(キムチ)
韓玄に仕えた。字は白菜(ハクサイ)。韓家に欠かせな料理人であった。
武将としても優れ、多くの敵を辛い目にあわせた。
が、魏延にあっさり平らげられた。
郭鼎儀(カクテギ)
紀無遅の義弟。字は大根(ダイコン)。
四角四面の男だったが、一瞬で魏延に平らげられてしまった。
113殿、貴重なアドバイス、有難うございます。
司馬為(シバイ)
字は演義。司馬懿の一族とされるが、詳細は不明。
司馬懿と容貌が瓜二つであった事から、彼の影武者の如き存在となる。
有能かつ剛毅な人であったとされ、孟達討伐や公孫淵討伐を指揮したの
は、実は彼ではないかといわれている。
また、曹爽に対するク−デタ−決行の前に、曹爽派の李勝が司馬懿の
迫真の演技に引っかかった事は知られているが、実は、司馬懿は既に
老衰しており(→李勝がみた司馬懿の姿は演技ではなく実際の姿)、彼が
代わりにその指揮を振るったとの説もある。
この事は、当然ながら司馬氏にとっての最高機密であった為、司馬懿が
この世を去ると、彼もまた、闇に葬られたという。
当然ながら、正史にも演義にも登場しない。
甘懇(カンコン) 生没年不詳
字は装彩(ソウサイ)。甘寧の一族か?
始め劉表に、劉表が没すると劉宗に従い曹操に仕えた。
深い教養と知性に裏付けされた穏やかさを兼ね備えた人物であったようだ。
催事や祭事、婚儀や葬儀などを任せると誰もが納得の演出をしたといわれ、
曹操をして「儀礼、よろしく事を進めんと欲すなら、万事甘懇に任せよ」と賞賛された。
晩年は魏にあって、公の儀式から私事の宴会や冠婚葬祭を依頼されたというが、
正史、演義共に彼の名は見られず、ただ口伝だけが細々と伝えられるだけである。
警報(ケイホウ) ?〜?
蜀の天文を読む下級官吏と伝わる。
正史ではその活躍を見ないが、三國志の芝居を行った際、
アドリブで劉備のピンチに登場し、ド派手な活躍を決める。
その活躍があまりにも目覚しかったため、これを見ていた子供から
主役がピンチになると『警報出てこい』コールが起きた。
そのため、当初は登場予定のなかった警報が舞台に出演るようになり、
警報が出るたびに子供たちは喜んだと言う。
しかし羅貫中はこの警報のあまりにも非常識な活躍っぷりに、
『三國志演義』を書くときには彼を完全に無視したという。
瀏備 元徳(リュウビ ゲントク) 180〜223
劉備の影武者
名前も容姿も劉備に非常に似ていた。
劉備の代わりに夷陵の戦いに出陣して、陸遜の火計に遭い敗走
白帝城に逃げ込むも敗戦したことによる心労で死亡
それを劉備はひどく悲しんだという。
しかし、史書の手違いで瀏備でなく劉備が死んだことになっているのは
陳寿の凡ミスだと考えられる。
孫權 仲某(ソンケン チュウボウ) 183〜253
呉の孫権の影武者
孫權の影武者となるべく、目の色を変えたりひげを染めたりと
涙ぐましい努力をしたと書かれている。
赤壁の前に孔明とあったのも孫權、合肥の戦いに出て小師橋を飛騎したのも彼である。
晩年、陸遜といさかいを起こして幽閉して獄死させた。
しかし、本物の孫権は陸遜とは理想的な君主らしい。
彼のやったこと全てが孫権のやったことになっているのでもっとましな行動をしてほしかった。
魚塚(ウォッカ) 生没年不詳
魏の将
大の酒好きだったという
寒い地域に生まれた彼は酒が人の体を温めることを発見した。
彼は、さまざまな研究を重ねた末に、老酒よりも強い酒を完成させた。
その酒を一口飲むだけで、体内が爆発したように暑くなるという。
これによって、北方の魏軍は大いに助かったという。
そこから、北へ北へと伝えられていき露西亜で華を咲かせたという。
127 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/19 23:31:18
影武者?タコ前にでてるだろ出直せ!
128 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/19 23:31:57
低能書き込み禁止
129 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 02:27:24
闍奇威(じゃきい)
字 致淵→成隆
呉の孫権に仕えた。
海賊、湖賊の征伐に大きな功蹟を残したが、赤壁、夷陵の戦いといった
対外的な戦に参加していないため正史に登場していない。
配下の左孟範(さもうはん)、愈鵡彪(ゆんひょう)を率いて、呉を
荒らしていた最大の海賊泥狗于叡(でいくうえい)を鋭の計を用いて
討ち取ったという。この後に字を成隆に変えた。
(元ねたはプロジェクトA)
130 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 03:05:32
徐毛(じょもう)
字は呈発、停髪とするものもあり。魏の部将。徐晃の一族か。
蜀将・黄蓋の矢を頭に受けるが、彼の頭はその矢をも跳ね返したと
伝説にいう。潼関の戦で風邪をひき、死す。
毛根(モウコン) 218〜269
毛カイの孫。魏、ついで晋に仕えた。
涼州黒頭郡の太守として辺境に赴任し、
年々勢力を増す北方遊牧民族に睨みを利かせた。
優れた武人であったとともに、植林や利水事業など内政面でも治績を上げた。
毛根死後、黒頭郡は鮮卑禿髪部の急速な侵入を受けて荒廃し、放棄された。
毛根さえ健在であれば再生も可能であったものを、と都人士は嘆いたという。
王道(オウドウ) ?〜263
蜀末期の将。字は英雄(エイユウ)。関羽の再来とも呼ばれた。
義侠心に篤い人情家にして、すぐれた判断力と包容力を持った名将であり、
戦場を勇猛果敢に駆け巡って、劣勢をひっくり返すこと度々、
同僚や部下達から多大な信頼を得た。
まっすぐな正義感を持つ清廉潔白な人物として知られ、不正とは断固として戦った。
宮廷の女子にモテモテではあったが不器用で、
幼馴染(美人だが料理下手)との愛を貫いた。
黄皓らに疎まれながらも変わらぬ忠義を尽くし、
滅び行く蜀に殉じたのも、さすが王道である。
楊偽は「季漢功尊賛」で「友情、努力、勝利の人であった」と評している。
具志堅(グシケン) 生没年不詳
呉の武将。字は用高(ヨウコウ)。
少飛城を押し寄せる魏の大群から13度にわたって防衛したことは、
彼の愛用した「冠鷲の兜」とともに語り草となっている。
陳寿の『三国志』には記載がないが、朴晋愚の『暦志』に名を残している。
陳倉(チンソウ) ?〜229
魏の武将。字は伯道。太原の人。
228年の蜀による第二次北伐の際、わずか数千の兵で要衝・カク昭城の守備に当たり、
雲梯・衝車や穴攻など孔明が繰り出す攻城術をことごとく打ち破った。
陳倉の戦いぶりは有名であるが、正史に伝は立てられていない。
135 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 08:16:33
陳倉?どこがおもろいのか?つまらん。おまんはO型やろ?
ジャッキーはネタ元を書いているのがすばらしい。が見なくてもわかった!おまんはB型だろ?
意味不明のヤツほどネタ元書いてない、なぜキモヲタがあるまるのか
あるまるのか・・・・・
137 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 08:24:30
∩___∩ |
| ノ\ ヽ |
/ ●゛ ● | |
| ∪ ( _●_) ミ j
彡、 |∪| | J
/ ∩ノ ⊃ ヽ
( \ / _ノ | |
.\ “ /__| |
\ /___ /
諸葛菜(ショカツサイ) 生没年不詳
字は大根(ダイコン)。華蕪(カブ)とする説もある。
諸葛亮の族弟で、蜀軍の兵站をまかなった。
一説によると、孔明が出陣先で儲けた隠し子だとも言う。
正史には登場しないが、彼に関する記述は吉川三国志の掉尾を飾っている。
139 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 12:55:27
趙雲(チョウウン)
実の字は子臭(コクサイ)
趙雲の本名。彼の体臭、口臭は凄まじく、長坂では、敵軍の中を一騎で
駆け抜けたが、悪臭の凄まじさに敵兵は、1人も近寄れなかったという。
これを見た劉備は
「子臭は是一身糞なり」
と感嘆したが、その彼も趙雲の悪臭を極度に嫌い、重用しようとはせず、
趙雲は煩悶の末、ひっそりと死んだ、と伝えられる。
正史・演義共に、過剰に美化されている。
140 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 13:10:55
司馬遼(シバリョウ)
字は太郎(タイロウ)
司馬懿の一族らしいが、詳細は不明。
張遼の活躍に感激して、太史慈にあやかりたいと思い、
また王朗の弁説に感化されて、こう名乗るようになったらしい。
実際にはただの凡愚であったが、講談師としては有名であった。
書記官となったが事実を曲げて執筆する虚言癖があり、
そのため曹操の怒りを買い殺されたが、後の大衆文学の潮流に
与えた影響は大きい。
正史、演義、共に全く著述がないが
ムック本『司馬遼太郎がわかる』などに登場する
とりあえず影武者は一辺倒になるからやめれ。
あと、このスレは三国志武将っぽい漢字を武将にするスレだ、なんだ?
パフェだのホワイトシチューだのウォッカって。おいこれカキコした奴、
てめぇ三国志読んだことねぇだろ。くだんねぇ駄文づらづら載っけてんじゃねぇよ。
142 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 14:06:40
呂包(りょほう)
呂蒙の兄 弟の呂蒙は学問を修め、魯粛を「呉下の阿蒙にあらず」
と感嘆させたが、怠け者の呂包は「阿包は阿呆なり」と魯粛を落胆
させたという。
米俵(ベイヒョウ) 生没年不詳
魏の謀臣。常人には思いつかない独創的な策を献じ、曹操の覇業に貢献した。
呂布との戦いの中で発揮された大胆不敵な米俵の計略は伝説的である。
正史には登場しない。園田三国志で大活躍する。
以心(イシン)
字は伝心。漢王朝末期の官吏だが、後に曹操麾下に転向した。
他人の心情を窺知をする事に長け、人当たりの良い人物と評判であったが、
曹操からは「人の顔色ばかり窺い甘言を吐く俗物」と嫌われ、閑職につけられた。
当然、正史・演義共に彼の名は記されていない。
杵流馬(ショリュウバ) 生没年不詳
蜀の臣。兵站の天才。諸葛亮の配下で戦略物資の運搬任務を支えた。
彼がいなかったならば、大規模な北伐は不可能であったろう。
彼の名が「木牛流馬」と書き間違えられたのが彼の不幸の始まりである。
顔醜(ガンシュウ)
袁紹の近衛兵部隊の総称
顔良の食客。
名前の通りみな顔が同じなためにこういわれた。
しかし、同じ顔の人間が目の前にそれも何人もいるのを毎日毎日見続けていたので
袁紹は気が狂ってしまったので田豊や沮授を獄死させたりしたといわれる。
官渡の敗戦後、曹操に捕らえられたが同じ顔がそろっている気味悪さに
処刑された。
(醜とは「同じ」という意味で使われていたらしい)
文良(ブンリョウ) 180〜220
魏の文官
もとは文醜の弟というコネクションで袁紹に重用された
文醜とは違い政治に優れていて、袁紹でも右に立つものはいないくらいの
政治手腕を持っていて人当たりがよく人望を大いに集めた。
袁紹の死後曹操に降り屯田制の提案をしたのは彼といわれていたが
そのことを記録した紙を陳寿が間違えて厠で使ってしまったので
記録には残っていないし、陳寿もそのことに気づかなかった。
148 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 20:44:54
是矛崇(ぜむす)
字 盆度
曹操の謀臣。単独で他国や戦陣に潜入し数多くの情報もたらし、曹操の覇業
影で支えたといわれている。武芸に秀でていただけでなく、房中術にも長け
有力者の子女を篭絡して情報を得ていたといわれている。
潜入するときは庶雲や魯者という偽名を使うことがあった。
死後、曹丕より零令漆候(漆は七と表記する史書もある)と謚を追贈された。
陳寿は彼の存在を疑問視して記録しなかったようである。
素朴な疑問だが、
当て字ですらないオリジナル武将はありなのか?
150 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 21:22:55
オチがあれば納得するんじゃ
151 :
雪だるま ◆HMt0KNamnQ :04/09/20 21:32:04
雲 國斎
152 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 21:58:00
オチすら、おもろーない
153 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 22:01:09
越智苦笑(オチクショウ)
おまんらのオチには、まったく苦笑いさせられるわ。おまえの力など、その程度のものか!
フワォー
154 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 22:02:40
ケーーン
基督(キリスト) 家酢(イエス) 生没年不詳
胡出身の者
中国にやって来るやいなやまったく新しい宗教を作った。
彼の名にあやかって基督教と呼ばれたが、あまり受け入れられなかった。
最終的には、曹操に呉瑠呉陀の丘で死刑にされた。
魔法滅徒(マホメット) 生没年不詳
南蛮の宗教の指導者
荒亞という神を祭る宗教を開いた。
しかし、彼の死後信徒達は暴走して黄巾賊もびっくりの略奪横行を始めた。
また、彼奴らは火薬を体中に仕込んで敵に突撃する戦法を好んだという。
158 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 22:21:01
>155
すべて、きさんの仕業か?名前を当て字、オチも当て字。非常に悪い例だな。
マホメットも論ずるに価せず
159 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 22:21:39
雪だるま最悪
160 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 22:23:42
裸岱どうすんだ?こんな糞武将?荒らしよりタチ悪いな
161 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/20 22:25:40
でたぁ!まさにヲタ系!
ヒィー!
雪だるま?
祖相(ソソウ) 生没年不詳
呉の将。祖茂の子。命を捨て孫堅を救った父の功により、
孫策によって騎都尉に抜擢される。過って孫策に酒を掛けてしまい
激怒した孫策によって謹慎を命じられた。
粗相の語源であるとかないとか。
頭蓋骨(ズガイコツ) ?〜227
兀突骨の配下で八骨(ハッコツ)とい呼ばれているうちの1人。
彼は、兀突骨の頭となって働いたという。
また、守りが堅く大将を守るように囲んでいる布陣は彼なりの守り方だろうと思われる。
しかし、兀突骨と共に焼死した。
軟骨(ナンコツ) ?〜227
兀突骨の配下の1人
八骨のうちの1人
諸将への連絡を主な仕事としていた。
彼のおかげで諸将の動きがスムーズに動けたといっても過言ではない。
彼もまた兀突骨と共に焼死
背骨(ハイコツ) ?〜227
兀突骨の配下の1人で八骨の1人でもある。
八骨のリーダー頭蓋骨をサポートする役目と
他の八骨に指示する役目もあった。
彼もほか同様に焼死
肋骨(ロッコツ) ?〜227
兀突骨配下である八骨の1人
彼の仕事は兀突骨のボディーガードという重要な役目だった。
しかし、地味で目立たなかったが役に立っていたことを兀突骨いわく
「鶏肋のような奴だ」とのこと。
彼も兀突骨のあとを追うようにして焼死
腕骨(ワンコツ) ?〜227
兀突骨の配下8集こと八骨の1人
力が強く魏延を追い払ったという怪力持ち主。
兀突骨の腕となって働いたという。
そのような経緯から兀突骨の信頼は絶大だった。
しかし、彼の運命もそこまで、兀突骨と共に計略に掛かり焼死
大腿骨(ダイタイコツ) ?〜227
八骨のうちの1人
足の速きこと風の如し、蹴りの凄まじさ泰山も砕くであろうと
諸葛亮から恐れられた猛将
奇襲を得意として趙雲、魏延を散々に苦しめた。
また、頑固な性格でよほどのことがない限り折れることはないと言われていた。
しかし、兀突骨には従順な彼は兀突骨と共に計略によって焼死
白骨(ハッコツ) ?〜226
八骨の1人だが、戦いを前に無念にも死んでしまった悲劇の将。
なぜ死んだのかは不明だが、一説によると孟獲が入る真っ白い温泉が湧出しなくなったので
そこらへんの湧き水を沸かして白く色付けしていたことが発覚したため孟獲の不評を買って死刑になった。
一説によるとかれは、シラホネとも読むらしい。
白骨温泉の経営者でもあった。
豚骨(トンコツ) ?〜227
八骨の1人
料理が非常に上手で兀突骨からお墨付きをもらえた。
彼の作る料理は濃厚な味ながらもアッサリしているために大人気であった。
料理人として最後を迎えたかっただろうが、兀突骨とともに焼死した。
彼の慰霊碑には豚骨が山ほど積んであるという。
毅竜(キリュウ) 164〜221
後漢の将
たくさんの財力によって出世した香具師の1人だが、彼は有能だったこともあり
丞相になった。
こうして、世に名高き丞相(ジョウショウ)毅竜(キリュウ)がここに現れた。
甘象(かんぞう) 字はない 生没年、ともに不明
建業にあった酒屋の長男。
彼自身は、病弱の身であったが、探求心旺盛で、酒への様々な改良を続けていた。
そして、彼が14歳の頃に、米を使った醸造酒の先駆けとなるものを作る。
だが、その酒は設備等の関係上、とても高価であった為、
とても一般に広まるようなものではなかった。
このままでは、この酒が無駄になると考えた甘象は、
その店の馴染みであった関沢にその酒を安値で献上する。
アルコール度が高く、美味いこの酒は瞬く間に呉の王宮に広まり、
甘象は酒丞(しゅじょう)という官位に取り立てられる。
また、甘象と親交の深かった関沢は、赤壁での工作の際、
惑わさんが為に曹操にもこの酒を献上したといわれる。
その酒の虜となった曹操は、表向きは二喬、
裏ではこの酒という理由で赤壁の戦いを始めたとさえいわれる。
だが、それより、数年後、元々、病弱の身の上、酒の試飲をし過ぎたがために、
命を落としそうになる。
孫権は、名医・華佗を呼び、治療にあたらせるも効果は薄く、結果、彼は死亡する。
また余談ではあるが、華佗は自身の書、「青嚢書」にて、
彼がもっとも病んでいたとされる器官に、彼の名を付けたともいわれる。
彼の遺言は、「適度なる酒は、どのような薬も敵わず、されど、過ぎたるものはすべて害なり。」
であったという。
これが、後に「酒は百薬の長」の語源となる。
正史、演義、共に姿が見えないが、わずかな民間伝承と、酒好きの間での口伝にのみ登場。
ただ、この伝承自体がかなり信憑性が低いことから、
酔っぱらいによって、噂にかなり尾ひれがついたものと考えられる。
謝罪(シャザイ) 酢曼(スマン) 生没年不詳
謝雄の従兄弟
北伐に乗り出していったが、王双に謝雄が斬られて彼のほうに向かってくるのを見て
彼は、土下座して謝ったという。
その勲が実ってどうにか逃げ出すことに成功したが孔明にとがめられて
自殺したという。
あまりに哀れな最後のためと孔明のイメージダウンにつながるために
存在を抹消された。
雷鳴(ライメイ) 生没年不詳
雷銅の弟
ひたすらに声がでかく、雷が鳴っていてもその音を掻き消すほどだったという。
劉備は彼に会う時には机を用意したという。
そして、劉備が「ここで君と余・・・」と言った瞬間、雷鳴のくしゃみに驚いて机の下にもぐったことがあるそうだ。
そのことが原因で、劉備と不仲になってそのまま歴史の狭間に埋没していったのだった。
176 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 00:13:35
なんの祭りか
進行早いなw
ネタ作者は語らず、ただ投下するのみ。
文春(ブンシュン) 生没年不詳
文聘の従兄。劉表、ついで曹操に仕えた文臣。
字は藝秋(ゲイシュウ)、号は直木(チョクボク)。
洛陽郊外・芥川(カイセン)の直木亭は文芸サロンとして高名で、多くの文士が出入りした。
彼のお墨付きを得るのが文壇の登竜門とされた。
程期(テイキ) 生没年不詳
字は余金(ヨキン)。冀州平原の人。後漢末の商人。
庶民から五銖銭を預かり、その銭を必要な人に融資、利子を得るという方法で巨万の富を得た。
しかし黄巾の乱によって、融資した金が戻ってこなくなり、庶民に金を返すことが
できなくなった。怒った庶民によって撲殺されかけたが、十常侍に多額の賂を贈っていたので、
彼は官軍に助け出され、庶民は逆に死罪となった。彼は豪邸に住み天寿を全うした。
陳寿曰、世はなんと不平等なことよ。
181 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 01:09:54
つまらんネタを投下されても…
禿髪多機能(トクハツタキノウ) ?〜263
禿髪樹機能の兄。鮮卑禿髪部の族長。
禿髪フラッシュ、禿髪ビームなどさまざまな機能で魏や晋を苦しめた。
正史には登場しないが、『珍・三国無双3』に登場して一部で人気が上昇した。
全米(ゼンベイ) 188〜260
呉将。全ソウの一族。
感情表現が極端で、しばしば泣いたり震撼したりした。
これには大げさに過ぎるという声や、いかにも紋切り型の表現だとの指摘もある。
正史には登場しない。
又吉(ユウキツ)
字は家簾(イエス)。後漢中頃の高級官吏。
若かりし頃はごくごく普通の若者であったが、
やがて自らを唯一神と称し、皇位簒奪を企むも露見、処刑された。
又吉の乱は、しかし皇子や皇帝の愛妾をも巻き込んでいたため、事実は闇に葬られた。
ひっそりと伝えられた、彼の宗教による政権奪取の構想は張角に影響を与えたという。
186 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/21 19:51:35
イエスでたばっかじゃん!帰れハナクソ、てか働け
なんかバリバリ進んでますな。最近本業が忙しく、なかなかまとめサイトに
登録できません。申し訳ないです。ご自分で登録されない方は、明日あさっ
てあたり、それがし時間とれそうなので、登録しておきます。m(_ _)m
>>160 ご心配痛み入ります。それがしはあくまでボランティア登録士の一人ですので、
私がよほど不快に感じたもの、その他ふさわしくないと判断してもの以外は
、登録する方針でやっております。
今まで言わなかったが
まとめサイトにもコメントなしで項目だけ作ってる荒らしがいる
新開 拓希 望
ガディ馬鹿(なぜか読みがネットチュウドクになっている)
ひさちゃ
の3つ(上2項ずつの計5つ)
もちろんスレにも一切出てきてない
これらが登録されたのは文句言い出した奴が出始めた前後
新規登録は☆がつくからすぐわかるんだけどね
190 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/22 05:37:30
裸岱、ちがうわ!こんなペポ武将も登録すんのかぁ?
へぼかどうかの審査は拒否ってことでしょ。確かに好き嫌いで言ったら切り捨てすぎちゃうだろう。
そこはネタのクオリティに関らず体裁が守られてたら掲載だろう。駄作と良作の線引きは明らかなように見えて
人によってバラバラなんだよ。
192 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/22 11:58:13
クオリティーどころか。駄作を連呼する下策士め
>>188 ありがとうございます。なかなか手が回らず、すいません。
ご指摘の項目は本スレとは無関係ですので削除致しました。
なお、まとめサイトは痴岱さんが提供してくださったもので
あり、不適当な項目の削除に関しては私裸岱も痴岱さんから
許可をいただいていることをお伝えしておきます。
>>190,191
登録に関しての私の考えは191さんとまったく同じです。191さん、大
変わかりやすく、私が回答するよりよかったと思います。ありがとう
ございます。
以降の同様のご指摘に関する回答もこのレスをもって代えさせていた
だきます。m(_ _)m
現在140まで登録しました。
>>141 141殿ではありませんが、参考までに。意外な漢字も三国志登場人物にはい
るものですね。調べてみましたところ、
白→白寿:諸葛亮の後出師の表(後世の創作ともいわれる)の記述に登場
する人物。趙雲含めてこの時期までに、こんなに武将が死んだ
んですよっていう部分に名のみの登場武将です。
魚→魚豢:魏の史学者。「典略」「魏略」などの三国志の資料となるものを著
した人物です。
覚醒剤(タシロ) 字は毛駄目歩(モウダメポ) ?〜219年
正史、演義では登場しないが魏略にわずかに記載がある。かつて数人の学芸団として
各地を流浪したが脱退。その後死夢羅(シムラ)と共に爺様婆様で魏の人を笑いの渦に。
しかし夏候惇の娘のケツを下から除いて投獄。罪を許されたがすぐに夏候惇の入浴中
を覗いた罪で再び投獄。またその時薬物反応が出たが役人に賄賂で救ってもらった。
それから数年、馬で人を引きまたまた投獄されまたまたまた釈放されると、数ヵ月後に
愛人と馬を並べて進んでいる途中に銃刀法違反で捕まり、またまたまたまた薬物で御用。
その後二度と日の光を浴びることなく病死。後に曹操から毒侯に報じられた。
185までまとめサイトに登録致しました。
※157はふさわしくないと判断し、登録致しませんでした。
>>194 誤) 141殿ではありませんが、
正)
>>115殿(白志忠)、
>>126殿(魚塚)ではありませんが
でした。すいません。
<<159 雪だるまってなに?
<<159 雪だるまってなに?
<<159 雪だるまってなに?
<<159 雪だるまってなに?
<<159 雪だるまってなに?
<<159 雪だるまってなに?
<<159 雪だるまってなに?
<<159 雪だるまってなに?
<<159 雪だるまってなに?
198 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/23 10:27:43
武宇(ぶう)生没年不詳
亜望離児尼という異民族の出身。特殊な弧の字に湾曲した短剣を投げつけ
敵をしとめたという。これを避けても武宇の手元に戻ってくるため敵はお
おいに恐れたという。
後に孫権に仕え瑪爛(めらん)という字をもらう。
199 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/23 15:40:59
雪達磨(ユキダルマ)
?ー?
呉の武将
火計に弱い。孔明の火計の策に掛かり、溶けるように死亡した。
200 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/23 15:45:56
雪臥先(ユキガセン)
?ー?
呉の武将
雪の中に石を入れ固く丸めて敵に投げる戦法をとっていた。相手はたかが雪だと思い、無抵抗のまま、隠された石に深手をおわされる。
201 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/23 15:47:23
雪紗織(ユキサオリ)
歌が上手なエロいヤツ
202 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/24 11:07:42
衛妖妃(エイヨウヒ)???〜204
前スレ<<447鍋恒の妃。
美貌をもって知られ、球の国の公妃として政治にも口出しするようになっ
た。あるとき桐生郡で名声の高い壱馬(イチバ)という青年を考廉に推挙し
、球の国の人材にとり込もうと目論んだ。
しかし、壱馬は他の群雄も招聘に動いており、焦った衛妖妃は200萬とい
う大金と己が肉体を餌に執拗に壱馬を誘惑した。壱馬は悩んだが、衛妖妃
の魅惑には抗しきれず関係をもってしまう。その後後悔して思いなおした
壱馬は、友人の顧-魏手(コギッテ)に託して200萬を球の国に返還させた。
しかし、この一件が明るみに出て評判を落した壱馬は逼塞を余儀なくされ
た。一方衛妖妃はその後もしばらく羽振りを聞かせ、その悪声は鍋恒の失
脚の遠因になったという。衛妖妃の名は、この年の球の国の流行語大賞に
選ばれたとか。
なお、正史には登場しないが、「球界志」の最大の汚点の1つとされた。
[余談]
>諸武将達の叛乱とファンによる一揆で、球公を失脚させられる。
↑
前スレ447の作者のこの部分、当たったね。おめでとう!
顔料(ガンリョウ) ???-???
河北の出身と伝えられ、顔良の兄弟あるいは一族であるという。
始め袁紹に仕えるも、武略も政略もさっぱり。
しだいに政治への興味を無くし、趣味であった絵に没頭した。
彼の絵は評判が高く、特にその独特にして斬新な色使いは時代を超えて絶賛された。
しかし彼の作品は戦災で失われ、今はただ色あせた模写が数点残るのみである。
204 :
記録官・裸岱:04/09/25 21:08:35
皆さん、乙でございます!
その[二]スレの1〜100までのまとめを、まとめサイトの記録板にUPしました。
まとめサイトができましたので、本スレでは今後100レスごと程度に勢力別人数の
まとめのみUP、ということにさせていただこうと存じます。m(_ _)m
初代スレ1〜1000プラスその[二]スレ1〜100の勢力別人数は以下の通りとなりました。
-------------------------------------------------------
前漢:2人
後漢:32人(女性1人)
魏:121人 (女性5人)
呉:92人 (女性8人)
蜀:113人 (女性2人)※ >33-34 暴走族(ボウソウゾク)は1人でカウントしました
南蛮:32人
群雄関係:64人(女性5人)
宗教勢力:21人(女性1人)
異民族:20人(女性1人)
在野:7人
西普:9人
所属不明:72人(女性2人)
その他:71人 (女性6人、人以外含む)
――――――――――――――――――――――――――――――
合計:656人(女性31人、人以外含む)
※蜀が113人と大きく呉を引き離し、魏に迫る勢いでござる。正史で
の恨み(?)を晴らすかのごとくw
風信(フウシン) 和名はヒヤシンス
生没年本名ともに不詳。魏の人で九品中正法に反対し、
品格によらない人材育成論について著述した風信子を著した。
その育成方法の多彩さから、やはり花壇,鉢植え,水耕など
いろいろな育て方がある花の名として採用された。
また日本の大名松浦氏の祖ともされており、一族の亜弥が
祖先を称える楽曲名に風信子を採用したことでも有名である。
206 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/26 19:52:51
>>205 >日本の大名松浦氏の祖
???松浦がなぜ?…ってそこに松浦亜弥かよw
ワロタ
207 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/26 22:14:04
なんだ?意味わかんね。
陳列(チンレツ)
生没年不詳にして字も不詳
陳到の一族
文官で、書物を並べることに秀でていた。
夏侯湖(カコウコ) 生没年不詳
夏侯家の者
短気な性格で火山の如しと言われた。
肛門に水がたまる病気で死去
夏侯地(カコウチ) 生没年不詳
夏侯家の一族
文官で、耕作に秀でていた。
なんでも、農業に適する土地を見つけることに関しては
右に出るものはないといわれ、屯田制に役立った。
管理(カンリ) 生没年不詳
魏の文官
春秋時代の菅仲の子孫
兵糧・書物・軍費の管理において
優れた功績を残した。
朱印(シュイン) 生没年不詳
呉の文官
朱治の一族
真っ赤なインクのハンコを使っていたといわれている。
また、朱肉という兄弟がいて、二人三脚で書類の検査を行ったという。
女陰(ジョイン) 生没年不詳
孫権の妾
孫権に口淫をしたりなどサービスをしたため彼の愛妾となる。
皇帝になったあとも、それを続けていた。
孫権曰く「上の口まさに締まりよき女陰なり」とのこと
孫豹(ソンヒョウ) 234〜300
晋の武将
元々は孫表だったが、劉豹・曹豹の存在を知り
孫豹と名前を変えた。
それだけしか記述がないので書きようがない。
そうとうな酒乱だったという。
禰武威泥(デイブイデイ)
乱世の人物評論家
姓は禰で名は武字が威泥
禰衡の一族
彼は見るものを正確に映し出すと評判だった。
また、義兄弟の鮒霊弥(プレイヤ)と共に評価した。
白色(ハクショク) 生没年不詳
曹操の妾
戦国時代の名将白起の末裔
透き通るような白い色で曹操の一番の愛妾となった。
曹操は卞夫人の後を彼女にしようとしたが
彼女が拒否したために諦めたという。
非常にやさしく聡明で、もし正室だったら曹丕もやさしかったと思われる。
班行動(ハンコウドウ) 生没年不詳
後漢の将
班彪の子孫ということもあって、文才が高く宮廷内でももてはやされた。
彼は、行動する場合は何人かの班に分かれて行動すると効率が良いということを提案した。
これの進言の成功が功を奏し、出世を遂げるも後漢の腐敗に頭を悩ませて下野した。
呂律(ロレツ) 生没年不詳
呉の将
呂蒙の一族
これといって、取り柄はないが言葉が聞きやすいということから
文書読みの係りに抜擢されて、これを天職として死ぬまで続けた。
彼は変わった癖があって、文書を読むときにはグルグル回って読んでいたことから
うまくよめないことを「呂律が回らない」というようになった。
柑橘(カンキツ) 檸檬(レモン)生没年不詳
呉の将
甘寧と呂蒙にあこがれていたので、彼らの名前を取って
寧蒙だったが、書類のミスで木偏が入り檸檬になった。
あるべきスレに戻りつつある
魯魚(ロギョ)
字は章草。
劉表配下で外交使節にと、軍政にと活躍した有能な文官。
顔立ちやしぐさ、風采が魯粛と似ていたため、よく間違われた。
赤壁直前、魯粛が劉備の元に訪れたとき、
劉備も魯魚が来たもの勘違いし、「魯魚章草の誤り」と弁解したという。
簡兄弟
簡雍の4人の子。、諸葛亮のもとで実務官僚として活躍した。
シンプルでわかりやすい行政を心がけ、
改革を旗印にし、歳出削減と出師費用捻出に貢献した。
功績は諸葛亮に帰しているためか、簡兄弟の伝はなく、このため各人の
字や生没年等は不詳。しかし兄弟それぞれの名は行政の分野を超え、
後世のあらゆる場面で応用されている。名と行政改革成果は以下のとおり
簡単 カンタン 単純で理解や扱いが容易なものとなるよう改革した。
簡易 カンイ 手軽でたやすいものとなるよう改革した。
簡略 カンリャク 繁雑なことは省き、手みじかなものとなるよう改革した。
簡便 カンベ ン取り扱いが便利で、手っ取り早いものとなるよう改革した。
凌霄花 (リョウショウカ また ノウゼンカズラ とも言う)
凌統の娘。婦人向け漢方薬を作ったと伝えられており、
その材料に用いたノウゼンカズラは漢字では彼女の名前が当てられている。
224 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/27 21:58:13
ちょっと目を離すとヲタが散乱するなぁ。働け
吾務(ゴム)
字は札句(サック)。吾粲の一族ともいわれるが、詳細は不明。
吾粲は下級官吏から頭角を現し、高位に登ったが、彼はその縁に頼る
ことなく、ある武術を編み出し、活躍したとされる。
その武術は「素巾(スキン)」と呼ばれる。
伝えられるところによると、この様なものであったらしい。
1 巨大な撥水性の布(樹脂の一種を塗布していたらしい)で相手を包む。
2 吾務が、何やら怪しげな動きをしつつ、素巾を撫でる。
3 吾務が合図をすると、素巾が一瞬膨張し、やがて萎む。と同時に、素
巾の下から大量の液体(何かは不明)が流れ出る。
4 素巾に包まれた相手は陶酔した様な状態になり、戦闘不能に陥る。
5 そこを攻撃すし、易々と討ち取る。
その武術が特に威力を発揮したのは、対南蛮戦であった。「精子」に登場
する南蛮四十八傑も、彼の素巾の術に翻弄され、大敗を喫したという。
ただ、その武術は余りにも体力を消耗するためか、彼は老境に入っても
子に恵まれなかった。その為、引退後は養生し、子作りに励んだという。
念願叶って子が生まれたかどうかは、定かではない。
「ゴム」「サック」「スキン」。この場合、みな同じニュアンスで使ってます…。
226 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/28 21:48:01
朴訥単于(ぼくとつぜんう) ?〜?
鳥丸の首長 その素朴な人柄のため曹操の征伐を受けることはなかった。
227 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/28 22:03:56
関傑箋(かんけつせん)
蜀の武将。関平の子。関羽の孫。
劉ジン(劉禅の五子)に同意し、抵抗をもくろんだが聞き入られず、劉ジンが昭烈祀で自害したのを聞いて、自身も関羽の墓の前で自害する。
228 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/28 22:05:37
和田瓚(ワデンサン)が好き
伊碗(イワン)
伊籍の弟。
士官等に興味を持たず畑を耕す日々を過ごしていたところ
ある時悪い道士から軍才と商才を授けられる。
頭の悪かった彼はその価値が判らず兄の伊籍に全て渡してしまう。
伊籍はその才を持って劉備に仕えたが結局大成せずに死んだ。
伊碗は兄の死後も畑を耕し続け平穏な人生を送ったとされる。
正史には登場しないが、ロシアに彼の逸話を元にした話が伝わっている。
230 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/29 00:15:24
徐行(ジョコウ)
字は運転(ウンテン)徐晃の甥。
当時速さを追求するあまり、無謀な突出が多かった魏軍を、
適度な進軍速度に押さえる事に生涯を捧げた人物。
彼の名声は後世まで伝わり、危険な道路では彼の名前を掲げて、
車の速度を落すよう呼びかけるようになった。
231 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/29 18:14:32
半分の武将はチンカス以下だなぁ。馬鹿丸出しちゅんねん。このたこなすか
232 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/30 00:54:01
重曹
やつは、はじけてた。そして散った。
233 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/30 10:42:38
>>232 たまにはこんなのもいいと思う。単純でおもろい。
けどまあ、はじけっぷりを魏の何晏と比較するとか、散りざまを
描写するとかすると、らしくなってよりよいと思うのだが。
でも記述を加えていくと232の持ち味が薄まるから、いかに最小限
の演出補足で抑えるかが鍵となるのでは……な―――んて真面目に
解説しちゃったりしてな。
234 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/30 19:12:59
糞尿
やつは臭かった。それは空よりも広く、海よりも深い臭さだた
235 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/30 23:06:07
↑最強だなWW
236 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/01 00:25:59
やっぱべんきでしょう 曹操軍にべんきってやついる おっと?
卞當 (ベントウ)
蜀の軍糧官。軍糧を容器に入れて携え、遠征先で食べられるよう
改良した功績で世に記憶された。後には彼の改良軍糧や
外出先への携行のみならず、外出先や会議の席などで、
取り寄せて食べる食事までを彼の名を以って呼ぶようになった。
なお現代日本語においては卞は弁、當は当と書くのが通例のため、
弁当と表現されている。また台湾においては便當であるが、
これは同時代の卞喜・卞所・卞費の一族の名が用便を連想させるため
便の字が当てられていることがあるため、卞當にも流用されたものと思われる。
簡素 (カンソ)
>>222の簡兄弟の一族で簡雍の庶子とも縁者ともいう。
やはり蜀で簡兄弟と同じく文官実務官僚となり、
むだがなく質素な行政を行ったことで、後世において
同様の行為については名を以って呼ばれることになる。
簡兄弟と異なり、奢侈好みの後主劉禅に嫌われ失脚した。
関関 同立 (カンカン ドウリツ)
姓は関 名も関 字は同立
韓遂に従った文人で、関西では並ぶものなしといわれた知者。
のち曹操が関西を平定したのちは野に下り私学を興した。
その名は日本の関西地方での私学の雄を指すものとして
今に伝わっている。
>>240 なお今日でも一部の学舎では音が逆転し、関関立同とも伝わっている。
朱鷺 (シュロ)
呉の朱治の子。大帝孫権の命で、衛温・諸葛直とともに
夷州亶州に人狩りに赴いたが帰還しなかった。
衛温らは亶州にはたどり着けなかったが、
朱鷺は到着したとされ、日本書記にその名が登場している。
また日本においては、朱鷺を「トキ」と訓読するのが通例である。
法律 (ホウリツ) 199〜263
法正の庶子で法審(ホウシン 前スレ789-790)の兄。正史に記述なく、
蜀では空位の司徒、ないし唐代の職位であるはずの大理であった
など、後代の司法にかかわる地位が混入した逸話が伝えられている。
犯罪とそれ対する刑罰は、既存の法によってのみ問われるとし、
『法律なくして犯罪なし』『法律なくして刑罰なし』と称され、
後世で罪刑法定主義の祖とされる。
馬謖の街亭での敗戦責任を問うたのも伝承では彼とされ、
諸葛亮といえど、その法運用の前には涙を流して斬らざるをえなかった。
蜀滅亡とともにその事跡が散逸し、さらに法審が弟であるため
陳壽に対し記述排除を要請したことが惜しまれる。(法審の記述を参照)
244 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/01 21:03:27
楽天(ガクテン)
?ー?
魏の武将?
楽進の隠し子
家の裏山で来る日もライバルの演奏怒阿(ライブドア)と戦っていた。
245 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/01 21:22:33
許瀦(きょちょ)?ー?
字 伯戒
虎痴の兄、老若男女の見境のない好色で、大食漢であったため
「虎恥」と呼ばれた。
一説によると西遊記の猪八戒のモデルといわれている。
246 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/02 00:02:28
毛沢東(モウタクトウ) 1893-1976
字は潤之。湖南省湘潭県の出身。革命指導者・政治家。
中華ソヴィエト臨時政府(瑞金政府)主席(在任 1931-1934)・
同延安政府主席(在任 1934-1949)・中華人民共和国国家主席(在任 1949-1959)。
1921年、上海に於いて、陳独秀・李大サ等と共に中国共産党創立に参加し、
湖南代表として第1次中共全国大会に出席。
1924年、第1次国共合作(国民党と共産党の連合)が成立すると、
共産党中央委員を始めとする重要ポストを兼任。
1927年、国民党左派との連携による武漢政府樹立に伴い、中共中央農民部長に就任。
5ヶ月後、国共が分裂すると、農民軍3千人を引き連れて江西省井崗山に入り、
朱徳軍と合流して「井崗山ソヴィエト区」を樹立。
1931年、江西省瑞金を首都に「中華ソヴィエト臨時政府」を樹立すると、自ら主席に就任した。
その後、大西遷(1934-1936)を敢行し、陝西省延安に遷都すると共に、党の指導権を掌握した。
その後、支那事変(日中戦争)・国共内戦を経て、1949年、北京を首都に中華人民共和国が成立すると
自ら国家主席に就任、新中国に「紅い皇帝」として君臨した。
その後、1958年の「大躍進政策」失敗の責を取って国家主席を劉少奇に譲ったが、
ソ連型社会主義を標榜する劉少奇・小平等の実権派に対抗して、1963年には農村社会主義教育運動、
1966年には文化大革命(文革)を展開。1969年、実権派を失脚させ、毛・林彪体制を確立。
その後、1971年の林彪による政変をも粉砕し、1976年の死に至る迄、
革命第一世代の最高指導者として、赤化支那に君臨し続けた。
>>246のどこが「三国武将っぽい漢字」で「武将」になってるの?
>>247 ネタ元として職人に改造してほしいんじゃない?
249 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/02 09:55:34
魯沈(ろちん) ?〜192
字 壇統台
董卓の配下 疑り深い性格で「疑魯沈」と呼ばれ恐れられた。
彼から疑われた政敵は、彼の考案した特殊な器具で次々と粛清されたが、
董卓の死後、王允の手により自ら考案した器具でその生涯を終える。
邪須湖(じゃすこ)?〜?
曹操旗揚げから従軍、エンショウとの戦いのさなか病死イオングループ総帥
辛酸 シンサン
辛評の庶子。父辛評の一族が審配に処刑されたことで復讐を誓ったが、
袁尚の信任厚い審配を倒す機会などはなく、人々になめられていた。
のちに曹操が冀州を完全占領したさいに敵討ちは叶うが、
その時に辛酸は父の敵に対し、子としての心のうちを明らかにし、
話を伝え聞いた辛酸をなめていた人々は、大いに恥じることとなった。
この故事から、つらい思いをや大いに苦労していたことをさして、
辛酸をなめる、と言われるようになった。
祖先 ソセン
後漢符宝郎祖弼の父で、祖弼に儒学を授け、曹丕配下の横暴
にも負けず、漢朝に忠節を全うし玉璽を守るよう諭した。
結果祖弼は曹洪に斬られることになるが、子に対し教えと忠節の
すべてを全うさせたとして、儒教においての理想の父親像となった。
この故事から、祖先を敬うこと、が儒教の最高の徳目となった。
向日葵 ショウジツキ
向寵の子。キク科の一年草で種は食用になり油もとれる
有用な植物を発見し、自らの名を花の名に留めた。
また日本で彼のことはヒマワリと訓で呼ぶ。
郭公 (カッコウ)
字は閑古。郭図の庶子で袁氏滅亡後曹操に降る。
唯一鳥の鳴き声の物まねが巧みであったといい、
魏においては鶏鳴狗盗の類と軽んじられつつも、
才を愛する曹操からはそれなりの地位を与えられ、
特に鳴き声が似ていたカッコウには、郭公の名と字がつけられた。
また鳥のカッコウは字の閑古を用いて「閑古鳥」とも書き、
郭公の物まねが実は下手で、聞く人もなく閑散となる様子から、
「閑古鳥が鳴く」という表現に用いられている。
毛唐 モウトウ
字は唐人 魏の毛カイ(王介)の庶子だが、
不老不死の仙薬を得て明末清初まで存命したため、
「やい毛唐人、うぬらが耳はどこに付いて何と聞く」
近松門左衛門の浄瑠璃劇国性爺合戦にも登場している。
孫之手 ソンシシュ
呉王の宗族。手の届かない背中などを掻くのが器用で、
用いた道具である一方の端を曲げて手先の形に作った
5、60センチメートルの棒を、孫之手ないし孫の手と呼び
後代に名を残した。
張形 チョウケイ
張松の子。
水牛の角や鼈甲(べつこう)などで陰茎の形に作った道具を作成し、
戦死者による未亡人の多かった後漢末の女性に販売し巨万の富を
築いたが、風紀を乱すものとして父の張松ともども劉璋に処刑された。
張松が劉備に通じて処刑されたとするのは演義の創作である。
後に作成した淫具そのものの隠語が、彼の名張方(ハリカタ)となった。
×張方
○張形
259 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/06 20:17:17
まったく廃れたなこのスレ
さっと思いつくのはある程度出たのだろう。
これからが正念場。
前スレよく見ろよ糞ドモ
前スレもこんな感じだったぜ
黄犬 (コウケン)
字は契約。蜀から魏に降った黄権(コウケン)の異母弟。
兵卒を酷使したことで知られ、勤務条件や待遇に
関することを口にしたものは死罪、としていた。
夷陵の戦いで兄の黄権とはぐれ、兵卒に叛乱を起こされ殴殺された。
その名である黄犬契約は、労働組合への不加入、
または労働組合からの脱退を条件とする雇用契約を
さす言葉、として現在に至っている。
いろいろやろうぜ
いのちだいじに
>まったり行こうぜ
じゅもんつかうな
>>263 ありがd♪お茶ドゾー。
⊃ 旦~~
>>263 いろいろやろうぜ
いのちだいじに
まったり行こうぜ
じゅもんつかうな
>めいめいさせろ
温泉 オンセン
魏の涼州刺史温恢の一族で、高温の湧き水を探す
ことに長けていた。また入浴を始めたのも彼である。
人前で裸を晒すのを恥じる中国人には受け入れられず、
史書へは記載されなかった。
杜撰 トセン
西晋の将杜預の兄。病床の羊[示+古]から、
呉を滅亡させる出兵の総司令官に任命されるが、
準備から用兵に至るまでのすべてがいい加減であり、
自分の名前すらトセンではなく「ズサン」と発音する始末であった。
見かねた司馬炎が弟の杜預と交代させ、「破竹の勢い」で
呉を破ったため、兄弟で故事成語の好対照を成している。
閻魔 エンマ
閻圃の弟で、張魯のもとで五斗米道での司法官。亡者の罪にも
判決を下すので、漢中の人民にとっての畏怖の対象になった。
同時期に仏僧が伝えたインド神話の祖霊の王と合体し、
閻魔大王のモデルとなった。
閻魔大王が仏教の話でありながら、中国の道服を着ているのは、
閻魔がモデルとなったためである。
スレ違いだが
三国市の武将の名前を辞書に入れてたら
今日の彼女は紀霊だった。
って変換されたよ。
この前は李恢に苦しむになったし。
メールとか文書の時気をつけないとな・・・
>>269 俺もそうなった(笑) ちょっと詳しいやり方忘れちゃったけどIMEの設定を固有名詞優先にしないようにすれば解決するよ。
結構色んなときに出てくるからそのままだとやっかい。
>269
今日の彼女は関羽と渡り合えそうだった
敵将李恢に苦しむ
273 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/09 14:12:22
>>273 三国 史 ミクニ フミト
IMEで変換可能
馬鹿 (バロク) ?〜234
蜀の馬岱の子。馬岱とともに諸葛亮の指示で魏延の下につく。
しかし馬鹿は魏延に心酔してしまい、諸葛亮の死後
指示を忘れ魏延に従って叛乱し、彼とともに刑死した。
馬岱が愚息を嘆いて「この馬鹿」と叫んだことで、
愚かな人や行為をさす言葉として、後世に名を残した。
なぜ鹿をシカと読むかは諸説あり定かではない。
馬鹿は、「バカ」って読みで前スレにいたので
>>275の扱いは任せます。
審正南五子
審配の5人の子はみな優れていた
審査 シンサ は調査に優れ
審議 シンギ は可否決定に優れ
審判 シンパン は即断に優れ
審美 シンビ は美醜判断に優れ
審問 シンモン は問いただすことに優れていた
278 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/10 11:05:32
六法で何か作ってもらいたい
279 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/10 11:57:38
劉麻(りゅうま)
字は獲凝(かくぎょう)。劉表の兄。孫堅を殺す計を考えたのは彼。
孫策が弔い合戦にやってきた時、劉ヨウの陣にいたが、蒋欽と周泰の火計から
逃れられず、焼死。
>>278 用語集などネタ元を拾ってみたが意外と少ない。
当て字ではなく実際に姓にありそうな語頭で探すと
法・商・審・連くらいしか見当たらずほとんど既出。
一応作ってみた
文民 (ブンミン) ?〜265
字は統制 魏の文聘の子。司馬仲達配下の軍による政治への
介入から、魏の政治の独立を守ることに生涯を費やした。
その志は近代国家で生かされ、政府の指揮のもと
職業軍人である軍隊の最高指揮官は、非軍人を
置かれなければならないという原則に名を残した。
憲法66条2
内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。
ごめん名前の278は間違いです
孫豹(ソンヒョウ) 生没年不詳
字は不明
呉の孫権の庶子
お世辞にも、優秀とはいえなかったので歴史に埋没したが
とくに、ことを荒立てるとかもせず、孫権以後の皇帝でも忘れ去られていたが
余生をノホホンと過ごせたから幸運だったりする。孫権の次に長生きをしたという。
曹豹・劉豹・孫豹を会わせて、「同姓英傑の三豹」と呼ばれた。
手帳(シュチョウ)
魏の曹操の側近。記録付けなどは彼が全て行っていた。
赤壁の戦いにて 記録と共に燃え尽きた。
285 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/12 17:15:15
蜂琶恵(ハチベエ)
字は鬱雁(ウッカリ)。
泥棒をやっていて 合肥の城に盗みに入ったところ
張遼に捕まってしまう。しかし 張遼は彼を兵として自分に仕えさせた。
彼の戦場での働きは目覚しく、曹操や夏候惇の危ういところを幾度も救っている。
武将に昇格してからも 部下を思いやり 自分が受けた褒美を与えたり
部下が戦死したときは手厚く葬ったりしていた。
そして戦場で仲間をかばって討ち取られた。
彼は大食いだったなどの記録が残されている。
286 :
278 :04/10/12 21:48:42
王新田(オオニタ)
王新田は字。名は篤史(アツシ)。
どんな攻撃にも耐え たとえすぐ後ろで爆発しようが火で炙られようが
不死鳥よりも強い生命力で全ての戦場で生き残ってきた。
元は魏に仕えていた。自分で国を建てようとしたが 魏からの攻撃により挫折。
魏から国外追放を受けた。そして彼は海へ旅に出たという。
その後 彼の姿は日本でも見られた。
昔と全く変わりない姿で 戦場に立っていたという。
一番新しい戦いは「電流激闘」。
陸奥からやってきた官位の高い忍者と死闘を繰り広げた。
道程(ドウテイ)
字は不明。別名「智恵理威(チェリー)」君主 孫堅〜孫索〜孫権
彼は知、武勇に非常に優れており 軍師として魏の侵攻を食い止め
武将として一つの戦場で200人斬りを達成する。
そして 「童(ワラベ)」という国を建国するが 彼の一代で滅んでしまう。
理由は後継ぎがおらず 結果的に劉備へと吸収された。
彼は何故か女性とは肉体を重ねることがなかった。
道程の容姿については 史上で全く触れられていない。
童は記録をつけていなかった為 史上には残っていない。
しかし その勢いは中国全土を揺るがす程のものだったとか。
289 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/12 22:29:04
何運(かうん)
字 達駆
董卓の配下 牛を馬のように乗りこなす「乱暴留義従」を率いて異民族
平定に活躍した。董卓の死後、馬の合わない呂布の許を離れ牛賊になる
も曹操に帰順する。
戦場で荒れた大地を耕す何運たちを見て、韓浩は屯田制を制定するヒ
ントを得たという。
配下に伊往他、未宇羅、禰亜(字 部路)がいる。
290 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/15 15:34:40
阿怒蛮巣(あどばんす)
字 下夢慕井(げむぼい)
阿会ロ南の長兄。父親とともに孟獲に殺された。
291 :
yapp:04/10/15 16:31:05
___ _
/ __劉_ヽ /  ̄  ̄ \
| | /, −、, -、l /、 ヽ
| _| -| ・|< || |・ |―-、 |
, ―-、 (6 _ー っ-´、} q -´ 二 ヽ |
| -⊂) \ ヽ_  ̄ ̄ノノ ノ_ ー | |
| ̄ ̄|/ (_ ∧ ̄ / 、 \ \. ̄` | /
ヽ ` ,.|  ̄ | | O===== |
`− ´ | | _| / |
| (t ) / / |
「凄い無残だね!!ドラ0モン!!」
「でもお前詳しく知ってるのか?」
衛生(エイセイ)
字は汗里(かんり)。諸葛亮の南征に同行した文官。正史には名前が出てこない。
朶思大王頼りの四つ毒泉で苦しむ蜀軍は、孟節により解毒の泉の存在を知る。
しかし衛生は「泉をそのまま飲むのは衛生上よろしくない」とそのままの解毒泉を利用する事を諫める。
そして水を煮てから飲むように指示するも、患者の数が多すぎ、解毒水が間に合わない。
「このままでは重症患者は死んでしまいます」と部下はそのまま泉を利用するよう提案したが、
「それは衛生上よろしくない」の一言で片付ける。
そして煮た水が間に合わなくなり、とうとう患者が死に始めた。
それでも衛生は「そのまま飲んでは衛生上よろしくない」と言いつづけた。
こうした事件により、患者の兵士に怨まれ、陣中で暗殺されてしまった。
陳情 (チンジョウ) ?〜263
晋の陳寿の兄。蜀で劉禅に上奏文を読み上げる官であった。
政務に飽いていた劉禅も、陳情がある限りはなんらかの処置は
していたと伝えられており、蜀の滅亡時には、賄賂は黄皓
実際の奏上は陳情に頼るというありさまであった。
後世その名は、その問題についての決定権をもっている
上位の者に実情を説明すること。特に、議会や関係官庁に
実情を述べて、善処を要請することをさす言葉となった。
陳寿の兄であるゆえか、三国志の記述から排除されている。
皆さん、乙です。
その[二]スレ 1〜200までで
初代スレ1〜1000プラスその[二]スレ1〜100の勢力別人数は以下の通りとなりました。
-------------------------------------------------------
前漢:2人
後漢:37人(女性1人)
魏:136人 (女性5人)
呉:106人 (女性8人)
蜀:121人 (女性2人)
南蛮:40人
群雄関係:69人(女性6人)
宗教勢力:24人(女性1人)
異民族:21人(女性1人)
在野:8人
西晋:11人
所属不明:72人(女性2人)
その他:73人 (女性6人、人以外含む)
―――――――――――――――――――――――――――――
合計:720人(女性33人、人以外含む)
※700人を越えましたな。光栄三国志シリーズで最多登場武将数は何人なんで
しょう。抜きましたかな。
※その二スレの100〜200のまとめを記録板にUPしました。
>>276 登録致しました。読みが違いますし、内容も明らかに別人物ですからね。
叔父甥の関係になるんですなw
>>294 ×→1〜100の勢力別人数は
○→1〜200の勢力別人数は
スマソです。
田電 田豊の長男。いかりや長介
田水 田豊の次男。井戸採掘班
田火 田豊の三男。風呂、炊事担当
田地 田豊の四男。穴掘り
田毒 田豊の五男。毒舌No1
田光 田豊の六男。TEPCO光
これら合わせて田家の六凡
甘譚(かんたん)
字は娩裡(べんり)。甘寧の長男。
夷陵の戦いで沙摩河を倒し、父の敵を取る。
合肥で魏軍にとらわれ、降服を進められたがうけず自刎する。
凌狸(りょうり)
字は碁範(ごはん)。凌統の長兄。甘譚と仲がいい。
合肥で甘譚が自刎したと聞き、敵陣に突入して果てる。(黄河に身を投げたとの説もある)
冠(こう)一族
冠呈(こうてい) 字は高射(こうしゃ)。冠封(劉封)の父。冠封が小さい頃に病死。
冠夫人(こうふじん) 名、字ともに不詳。冠封(劉封)の母。冠洪(黄洪)を生んだ時に死亡。
冠封(こうほう) 劉封のこと。劉備の養子になる前は劉泌に預けられていた。関羽を裏切ったため処刑された。
冠洪(こうこう) 字は台楽(だいがく)。冠封(劉封)の弟。兄と逸れてしまい呉に向かう。黄蓋に見出され黄蓋の養子となる。夷陵の戦いで戦死。
298 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/16 13:50:02
>>297(自己レス)
冠洪(こうこう)は黄蓋の養子にされた時、黄姓になり、黄洪となった。
299 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/16 14:37:39
是武(ぜぶ)
字 羅篇(らぺん)
公孫讃の配下 白馬に黒の縦じま又は黒馬に白の縦じまを塗った
縞馬義従を率いた。
>※700人を越えましたな。
正直作成するときに、読みの重複や宛て字系の字違いを
検索しづらくなってきたよ。
できたら当て字系とシモと実際の言葉を分けてほしい
三国のように単語熟語国 当て字国 シモ国とかにね。
偽 ギ 三国魏の別名
将の名は実在の単語熟語だが、将の伝が
偽作創作である人物で構成されている国。 例:馬刺
誤 ゴ 三国呉の別名
将の名は当て字であり、将の伝も
誤字である人物で構成されている国。 例:麹蔵
色 ショク 三国蜀の別名
将の名が排泄物や生殖器にかかわる字で、将の伝は
色物である人物で構成されている国。 例:糞尿
>>300 確かに多くなりましたね。せっかくのご意見ながら、それがしはまとめサイトに
関しては、登録の代行と荒らしのカキコの削除くらいしかできませぬ。まとめサイト
提供者の痴岱さんにもなかなか大変な作業なのではないでしょうか。あくまで
善意で提供してくれたまとめサイトですので、それがしからも無理にはお願い
致しかねます。ご容赦を。
>>294でも触れましたが、同名でも内容が別人物とわかればそれがしは登録して
おります。とはいえ、馬鹿(バカ)・馬鹿(バロク)のような場合は検索の際、思
いつきにくいですよね。どうしましょうか。
まあ、めったに同字異読なだけで内容もほぼ重複、という武将は生じにくいと思
いますので、ざっと検索してだぶってないと思ったら、カキコなさってよいと個人的
には思いますが。他の方はいかがでしょうか?
当て字系か列伝偽作かは分けてほしい気がする
パッと見てなかなかワカラン時があるから
六法【ロッポウ】
法正の一族でとりわけ優秀だった6人。
前スレ789-790の法審および
法規 法正の弟。成都の治安維持に貢献した。
法曹界 法規の子。刑法・民法に精通していた。
法事 法正の従兄。劉備の葬儀を取り仕切った。
法術 法正の子。道士。民の病を癒して信仰を集めた。
法則 法正の次男。あらゆる自然現象を理論的に説明した。
の5人を総称していう。
費用 ヒヨウ
費[示韋]の父。
諸葛亮が南征・北伐をはじめとして、あらゆる場面に
費用が必要であることを劉禅に奏し、華美を戒めたことで有名。
306 :
痴岱:04/10/16 19:09:24
おおぅ。新案が。
分類するというのはこういった感じでしょうか?
http://s3p.net/~channel2/sansen/naduke/index2.html 場所はそれほど労なく作れますが、データの振り分けはできませんので1からまた700人分分類しながら登録するというのは難しいのではないかと思うのですが。
私は設置時に400件くらい登録するのにしばらくマウス持ちたくないほど手が痛くなっちゃいましたので、
登録し直して下さいともするとも中々言えません。
分類のアイデアはすばらしいですので一応分類版のスペースは置いておきます。
もし登録が進められて現行版に追いついたら、まとめサイトのTOPを分類版に差し替えるように致します。
・・・・・・丸投げ御免です。
>>304から一人
法則(ホウソク)
法正一族「六法」の一人。呉-魏と仕える。
主に水上での戦い、火計、落石など 自然の力が作用するものに優れていた。
彼の知識が詰まった「自然現象事記」を著す。
合肥にて甘寧の夜襲により死亡。
あれだったら他に誰か考えてー。
猪突(チョトツ) 171〜222
字は猛進(モウシン)蜀に仕える。
とにかく敵陣突破が得意で、虎牢関にて初陣。
成都を制圧するのに大きく貢献する。
猪突が突っ込んだ後には 何人足りとも立っていられなかった。
しかし 夷陵の戦いで自分の子供を矢から守るために戦死。
猪突の死後、彼が戦場に現れると敵兵は戦わずして逃げ出した、という伝説が作られた。
>>306 痴岱さん、お元気そうで何よりです。うわ、対応早っっ!!!さすがですね。
お疲れ様です。表紙の色分けが紀霊もとい、きれいですね。
せっかくですから、どなたか新しい人物録のほうの記録官やりませんか?
それがしは正直これ以上は無理ポです。記録板も100遅れな状態ですので
(スマソです)・・・。
痴岱さん、ありがとうございました。
於朝(おちょう)字は無し
於夫羅の妹とされる絶世の美女。
その上、女性であることを忘れさせるほどの知勇兼備の士。
彼女は、丸みを帯びた石を、取っての付いた薄い鉄の板
(今でいうフライパンのようなもの)に当て、
敵将を討ち取るという、独特の戦法をとった。
また、彼女は兄からの褒美として、当時ではとてつもない値段を誇った
金粉を貰い、西の異邦人の真似をしようと髪にまぶし、
縦状の筒をその髪にくくりつけ、「楯呂瑠(たてろる)」という名の
奇異な髪型をしていたといわれる。
さらに、己の美貌、健康に敏感であった彼女は、ほんの一時期だが、
己の名前を冠した内蔵に効くという健康飲料を、匈奴内の各戸に配ったという。
その味、成果のほどは全く不明であるのだが・・・
魏との親交のため、曹操の子に嫁いだと言われる。
元ネタは言わずとわかるでしょう。
「色」の国がえげつないことになりそうだな
松竹(ショウチク) 207〜262
蜀の文官。字は芸能(ゲイノウ)
黄皓の指示を受け、劉禅に娯楽を教える。
然しながら、酒や女性といった娯楽ではなく、
あくまで純粋に劉禅を楽しませたようである。
その方法は基本的に配下の文官2名を
劉禅の前に立たせ、様々な話をさせたようである。
後に劉禅が洛陽に軟禁され、
「蜀に居た頃より楽しい」
と発言したときも、
「でも、松竹の話は面白かった」
と付け加えたという。
良幹(ヨシモト) ?〜228
魏の文官。字は国府驍(コウギョウ)
松竹と同じようなことをしていたが、彼の影響力は中華全土にまで広まった。
そして卑弥呼が魏に使いをよこしたときに日本にも伝えられた。
曹操は良幹のために娯楽(遊びではない)を教えるための堂を作る。
良幹はそこから多くの娯楽人(遊び人ではない)を輩出し、後世にも影響を与えた。
なお、魏志倭人伝には記録されていない。
愛灸(アイキュウ) ?〜277
軍師として活躍。字は無い。
蜀に仕えていたがあまりにも突出した頭脳を孔明に妬まれ
蜀から追放される。その後、魏の楽進の部下として仕えるが、その頭脳で魏の軍師に。
合肥の戦いで 張遼軍を指揮し、少勢ながら 10万の呉軍と戦い大勝、呉軍を撤退させた。
しかし 後に司馬懿も出てくるため曹操はどちらの軍師を使うか迷い
愛灸と司馬懿の意見も合わないためお互い対立してしまう。
曹操は知能を文学などで競わせ魏臣の審査で勝った者を軍師とし、負けたものを国外追放ということにした。
結果は愛灸が勝ったが、自ら身を引いたため司馬懿が軍師となった。
なお、国を去るとき「私のことは一切記録をつけないでください」と申し出たため、史上に愛灸という名前は残っていない。
しかし曹操は愛灸の名を残そうとした。そして遣唐使の時代で日本に伝わり、世界にも広まっていった。
現在は駄洒落でIQとなり、知能の指数として語られることになった。
スマソ
×蜀
○呉
これで人気投票とかしたら面白そうだな
317 :
痴岱:04/10/18 20:50:02
318 :
痴岱:04/10/18 21:03:18
俺的に当て字=色物という感じなのだが・・・
というか 全部いろも(ry
権寧(ケンネイ) 160〜234
蜀将。字は無い。
幼齢にして初陣し、黄巾の乱にて実力を認められ、劉備に仕える。
虎牢関で呂布と一騎討ちをするが、負傷、そのまま戦場を離れ
何時の間にか軍と離れてしまう。
そして各地を放浪し、戦場を見つけては参加し、大きな戦果をあげた。
長坂の戦いにて大暴れしているところを劉備が見つけ 再び臣下として仕える。
成都制圧〜夷陵の戦いまでに数々の戦果をあげる。
年老いてからも宛らの活躍を見せる。
五丈原の戦いで司馬懿の策略にはまり50騎100兵に囲まれ 善戦するも討ち取られる。
あ、痴岱さん乙です
ここのまとめサイト秀逸だなw
特にトップのコーエー三国志の列伝みたいな形、面白杉
胡散 ウサン
胡車児の弟。宛城で張繍が曹操を殺害しようと企てたさい、
宴席で酔いつぶれていた典韋だが、胡散の様子が
おかしかったことを思い出し正気に返った。結果自らは
立ち往生するが、曹操を脱出させることには成功した。
この故事から、なんとなく怪しくて油断できない、疑わしい
という様子のことを「胡散臭い」というようになったといわれる。
ただ姓の読みがコではなくウであるため、
真偽のほどについてはまさに胡散臭いものとなっている。
陶片 トウヘン
字は追放 後漢徐州刺史陶謙の子
陶氏と代わりうる僭主(せんしゅ)の出現を防ぐため、
危険人物を市民の秘密投票で追放する制度を導入した。
陶謙の死後劉備、呂布、車冑、再び劉備と徐州を追われる
人物が続くのは、陶片による秘密投票の結果
市民に追出されたためである。
325 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/19 15:26:18
杜埼(とき)
字は静禁(せいきん)。呉の杜襲の息子。
詳しいシナリオは皆無だが、夷陵の戦いで殺されたらしい。
「時は金なり」をかけてみた(時→杜埼、なり→成→静、金(かね)→金(きん)→禁)
kotinn
327 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/20 08:19:41
うんこうぜーぞ
328 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/20 12:21:31
このスレ面白い・・・w笑える・・・w
>>287のオオニタってww
夷馳楼 イチロウ ?〜?
匈奴の将。
馬上で華麗に棍を操り、奇襲的な単騎駆けを得意とした。
袁術の中原侵攻に連携し曹操軍と戦うものの大敗。
敗走する軍の中で一人奮戦し、262人の敵兵を討ち取ったといわれている。
また弓術にも長けており、遠く離れた敵将を一矢で射抜いては
「その矢まるで光の如し」と敵兵をも感嘆させた。
その武勇から「騎狼」と称され恐れられていたが、
その独特の戦術の有効性を疑問視する者も多く、中には
「実際は大した将ではない。『騎狼』などと呼んで恐れるのは誤りだ」
とのことから「誤騎狼(ゴキロウ)」と呼び蔑む者もいた。
330 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/20 19:54:45
>>287さんの レスをコピーして友人に コウエイの人気ゲーム「三国無双3」の
隠しキャラと称して 「王新田 篤史(アツシ)」をメールで送ったら
オオニタという武将がいると信じ込み 真剣に探してました。
なので、先ほど急いで ウソであることを伝えました。そしたら、
「オオニタって、もっともらしい武将の名前だから信じた」と言ってました。
本当に信じるとは思わなかった・・・!
栄養飛 エイヨウヒ ?〜200(?)
字は一場(イチジョウ)
群雄割拠の時代を駆け抜けた猛将。
その、ひじを大きくせり出して引く弓の威力は恐ろしく、
各国主もこぞって陣営に加えようとしたと言う。
だが、栄耀飛が君主を決めようとするたびに、国主が謎の死を遂げた。
結局どの群雄も陣営に加えることは諦めた。
その後は異国に渡ったと書いた書物もあるが、定かではない。
没年が200年ということのみ、民間伝承で伝わっている。
脇(わっきー)生没年不詳
本名は脇田 字は寧人(ねいじん)
罰則規定(現代では“ペナルティ”と読む)として英(後述、ひでと読む)
と二人で、自らは「呆」として人々を笑わせることにいそしんでいた。
得意な洒落は「符如牟片」(ぷにょんぺん)であったとされる。
ある日、許昌の街頭で活動していたところ、まだ若かった曹操に呼び止められ、
「汝の芸は私の知っているどの道化よりも、奇抜で愉快じゃ。
どうだ? 私が後押しするから、今からちと私の言うことを始めてみぬか。」といわれた。
その企画は、許昌周辺の都市である、阿市(あいち)魏府(ぎふ)魅会(みえ)の
三カ所を道中、人々としりとりをし言われたところへ行きつつ
前述の三カ所をすべて、徒歩で巡るというものだった。
このころは知名度が低く、売れていなかった脇田は、相方をほっといて二つ返事で始めた。
だが、企画は困難を極め、阿市、魏府はすぐに完了、魅会だけがどうしても出ない。
誰かが魅会の末酒(まつさか)と言ってくれるまでに、約三年の月日がかかった。
その後、その事を聞いた曹操に英とともに、宮廷道化として招かれ、
一世を風靡する。
ある時、曹操が珍しく無理な遠征を考えた際、
周りの賢臣が止めるのも聞かずに、実行に移しかけるも、
脇田が
「このような遠征は無理でございます、なぜなら、
私はほかの誰よりも一般兵卒の徒歩の苦しみを知っております。
殿もお聞きのはずです、私がどれだけあの際に苦しんだかを。」
と言い、曹操は思いとどまったという逸話がある。
演義、正史ともに登場しないが、正史の異書とされる「漫才伝」の中に
「罰則規定」伝、そして「脇田徒興行」伝がたてられている。
英(ひで)生没年不詳
前述の「罰則規定」の突込を担当していた。
特技は「跳蹴突込」であった。
脇が、一人で曹操の話に乗ってしまった際には、
旅の合間に、数回姿を現す。
あまりの独特な性格故に、時には脇田に置き去りにされるということもあった。
脇田が曹操に取り立てられた際も、脇田にくっついていき、
以前と同じように突込をし続けた。
だが、やはり曹操にも少々煙たがられたらしい。
ある日、耿紀、韋晃らが反乱を起こした際に、
寝返ろうとするものを片っ端から蹴り飛ばし、兵士たちを
叱咤し、寝返りを防止した。
これ以来、脇田を凌ぐほどに曹操に気に入られ、
「漫才伝」に「罰則規定」伝のほか、「英」伝がたてられた。
元ネタはお笑いコンビ、ペナルティ、
「脇田徒興行」はCBCテレビの「ノブナガ」という番組の一コーナーです。
(つい最近ゴールしました。)
誤から偽への国替えキボソな武将
みんな辞書引くか検索可能だし
案内板 郭公 侃侃諤諤 関関同立 公孫樹 諸葛菜 曹達 張形 張三 李四
馬鹿 不沈 聖女 凌霄花 魯肉 文福 朴訥(単于)
【簡兄弟】(簡単 簡易 簡略 簡便) 【審正南五子】(審査 審議 審判 審美 審問)
335 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/23 22:37:22
洪科(こうか)
字 顧螺(こら)
後漢末の方士
泡が出る漆黒の甘水を魏王に献じたとある。
妻は弊附(へぷ)氏
>>335 始め???、漆黒の甘水で(!)、妻の弊氏で禿藁www
最近で最高のHit!!!だたーよ♪
GJ!
前スレ今スレで、良かった武将に一票を入れてみたい気分。
前スレの真理雄に一票
339 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/30 14:08:09
姓:葱[ネギ] 字:丸[マル] ???〜???
元は劉備軍配家。劉備が皇帝と謁見する際側近として出向いたが、いきなり「ども!」と暴言を発す。
その態度に帝の怒りをかい、追放される。その後、孫権軍の元に仕官、
荊州返還を劉備に求める際、使者として参った。しかし「てか」「まじで」などの
暴言を又も発し諸葛亮に斬られる。陳寿は正史には彼のことを「厨房」としか
書いておらず、演義にすらその名前は見られない。
嶽(タケ)
字は饒華(ユタカ)蜀の武将。
非常に馬術に優れており、必ず戦場一番乗りだった。
単騎駆けなど、大それたことはできないが持ち前の馬術で戦場で生き延び、「疾風の嶽」と称えられた。
武器として使用していたものは今でいう鞭らしきものであったとされている。
341 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/02 00:27:33
歩郁(ほいく)
字 幼智
魏の儒学者
戦や政で忙しい武将や文官の子どもの養育や教育をしたという。
弟子は金陀(きんだ)(字 臥傳)
張参(チョウサン) ?〜220年頃
張参(チョウサン)。字は長市(チョウイチ)で、青州の出身というが定かではない。
道理風(どりふ・・・節度あるあらくれ者の意)とよばれた五人組のリーダー。
「額は出て、目が異様に大きく、唇が厚く、人前に姿を現すだけで相手を威圧させた」と書かれるほど容貌が悪い人物だったようだが、
その実像はまったくの逆で、きわめて人情に厚いうえに面倒見もよく常に人心を捕らえたという。
スワシンジという異民族風の名前の馬を乗り回していたとされ、その馬の高笑いとともに現われる道理風の面々は、
敵味方いずれからも親しまれていたと伝えられる。
張参は、最初から劉備の黄巾族討伐軍に参加した古参中の古参だが、当時は兵士の一人だった流れ者の傭兵に過ぎなかった。
それ以前は、後に曹操軍の中で活躍した鈍器軽手徒(どんきかるてと)の武将らと一緒に闘っていたという説が有力である。
劉備の討伐軍の中で、後に行動を共にする黄爺(コウジ)、武羽(ブウ)、安雷忠(アンライチュウ)、何陶舎(カトウシャ)といった豪傑と出会う。
討伐軍解散後、上記の仲間と徐州に行き、用心棒家業をしていたが、ここで再び劉備と出会い、以降行動を共にするようになる。
その後、劉備の新野駐屯時代に安雷忠が病没。かわりにその甥にあたる朱武兼(シムケン)が加わったとされる。
張参は計略にも優れ、突然建物が倒れたり、屋根から水が吹き出したり、あげくは大爆発で敵をふっ飛ばすなど、
敵勢力の50%をその場で壊滅に追い込んでしまう秘技は、『全員集合の計』と呼ばれ、編纂もされたが、
いまだ再現できた者はおらず、その才能はもはや伝説となっている。
また、道理風にボロボロにされ、もう笑うしかない様子を『道理風の大爆笑』というが、これも既に当時から慣用句になっていたようだ。
張参の没年は不明だが、民間伝承によれば、張参は晩年出家し、猿と豚と河童と禿を連れて天竺に旅立ったという。
343 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/02 23:53:56
傍若無人(ボウジャクブジン)???〜???
崑崙山で修行を積んだ仙人。幻術と武術を極め、各群雄は彼を求めたが、
ついに誰にも仕えず、各地を放浪した。仕官を断られた各群雄は
その力は恐れ、多くの兵を彼の討伐のために費やしたが返り討ちにあい、
戦闘の後に彼の周りには誰も生きていなかった。
このことから、「傍若無人」とは回りに人がいないこと、転じて
回りに人がいないような振る舞いをする様を表すようになった。
麻革(オガワ) ?〜?
字は猶乎(ナオヤ)麻革が武器を使うことは滅多に無く
主に肉弾戦で戦っていたとされている。
相手を投げ飛ばすのが得意で
「恵簾Z王(エステイオウ」は敵を震え上がらせた。
とある言葉を流行らせたことがあるらしい。
芽呂済(めろす)170〜230
字は波子麗(はしれい)。王允の養子。朝鮮の義兄。妹が董卓か呂布と結婚すると聞いて任地である朧西から洛陽に行こうとするが、自分のかわりがいないので友人の芹塗手薄(せりぬてうす)にかわりをしてもらった。結局洛陽で呂布に殺された。
346 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/04 22:08:46
烈阿画像(レアガゾウ)
えろいやつ。ひたすらエロいやつ。
347 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/04 22:25:08
田代(タシロ)?〜?
字は真刺死(マサシ)。
知らぬ者が居ないほどの有名な遊び人だったが、ふとある時に
女湯をのぞき、それが発覚。
有名人のゆえにたちまちその噂がひろがり、ついには
牢に入れられてしまう。
その後、改心したかに見えたが女と歩いている所を不信
に思った役人に呼び止められた。
一緒にいた女が民間では禁止されている薬を持っていた為、
彼も同罪とみなされまたもや牢獄に入れられてしまう。
後に人々はその滑稽さに大笑いをしたと言う。
348 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/05 18:45:25
349 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/05 18:53:57
誤爆(ゴバク) ?〜222
字は不明。
初陣のとき違う戦場に間違って現れた。
皆は不審に思うが、誤爆は恥ずかしそうに帰って行ったという。
その後も戦場間違いをしては恥ずかしそうに去る誤爆はいつも通り間違って戦場に現れた。
馬鹿として有名になっっていた誤爆だが このときは間違いを認めなかったので討ち取られた。
正史には登場しない。
351 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/06 22:13:00
華枢斗(かすうと)
字 羅騰(らとう)
宦官であったが、容姿端麗の美声の持ち主であった。
曹操は、自作の詩を作るたびに、華枢斗に詠唱させていた。
しかし病で声が出せなくなり、自ら命を絶った。
曹操は嘆き悲しんだいう。
劉王(リュウオウ) 190?〜278?
元蜀の武将。字は不明。
口からは火を吹き、腕を振りかざせば強い寒風が吹き、腕を振り下ろせば雷が落ちたという。
妖術を使いこなすことで 中華全土に渡り名を馳せた。
その後 暗という国を立て、今度は悪党として中華全土を震え上がらせた。
部下に城や街を襲わせるなどして悪の限りを尽くした。
しかし 英雄、魯融(ロト)に討たれた。
353 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/07 03:27:34
ドラクエか。懐かしいな。
355 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/10 23:35:09
翻汰(ファンタ)?−?
字 ?
呉の人 赤子のとき蓮の葉の上に残されていたので、
幼少の頃は於蓮児(オレンジ)と呼ばれていた。
成長して美周郎に勝るとも劣らない美丈夫であったので
虞麗夫(グレイプ)と呼ばれていたとどの史書にも記載
されているが、字については史書が書かれた時代、地方
によって異なっているため定かではない。
俺は麗文(れもん)が好きだった
緑竜(ヨッシー)
真理雄の愛馬だったとされている。
相手を飲み込んだり火を吹いたり空を飛んだりもしていた。
しかし とても臆病でもあったとされている。
赤青黄の色のもいたらしい。
358 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/12 01:12:21
関係 カンケイ
蜀末の人。関羽との血縁は実際は不明であるものの、
ことあるごとに本人が関羽の縁者であることを強張した
蜀滅亡時にこの主張が仇となり[广+龍]会に殺された。
この後、物事の間に何らかのかかわりがあることや、
相互のかかわり具合について、彼の名を以って呼ぶようになった。
359 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/12 01:19:40
辛子 シンシ 和名でカラシ
辛評の一族で魏に仕えた。
芥子の種子を粉末にして黄色で辛みがある粉末を作成し、
兵糧に添えることで兵士の食欲と士気を高めた。
また練って香辛料とし、薬用にも使われ、漢方薬として彼の名を
日本ではそのまま用いたとされる。
360 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/12 01:35:54
羊頭 ヨウトウ
字は狗肉。西晋恵帝皇后羊氏の縁者。
見かけだけりっぱで、内容がともなわないことを羊頭狗肉という。
この言葉は、店先に羊の頭をぶら下げておいて客を店に引きつけ、
実際には犬(狗)の肉を売りつけるという話からできた。
人物としての羊頭もまた、皇后の一族として権勢を誇り
将軍となりその軍装は華美を極めたが、実際の戦闘では
匈奴劉淵の軍勢にまったく歯が立たず、
羊頭狗肉を地で行くものとして例示されている。
狗彩(クサイ)169-223
字は於米我(オメガ)。西方の宣教師でアラブ系の顔付きをしていたという。
布教のため諸国を放浪中に魏国へたどり着く。
聖書の「私は始まりであり終りであるαでありΩである」の一節をよく好んだという
魏帝・曹丕に、妻の陰部が異様に臭い事の解決法を問われたが
妻の臭さも含め全てを愛することが神の教えである。
と、説いたため曹丕の怒りを買い処刑される
現在、女性器が臭い事をオメガというが
その由来はこの人物から来ているというのが定説である
余談ではあるが故クサイ氏の名はここから来ているのは言うまでもない
兆周(チョウシュウ) 177〜?
字は利黄(リキ)。呉の武将。
武器は斧を使っていた。
一時期 呉を離れて放浪の旅に出ていたが、赤壁にて孫権と再開、再び呉に。
非常に優れた斧使いだったが、彼が一番恐れられていたのが
己の肉体の腕を突き出し相手の喉めがけ突進する「利黄螺吏阿斗(リキラリアット)」。
食らえば体が宙に舞い そのまま一回転するほどの威力だったらしい。
乾史(ホシ) 生没年不明
魏の武将。字は碑愉午(ヒュウマ)
幼少の頃から魏将の父・壱綴(イッテツ)に戦闘の英才教育を受け、
自分の力で魏将となった。親友・盤(バン)は皮肉にも呉へ。
乾史の戦法は独特で、丸い石を敵目掛けてもの凄く速く投げつけるものだった(左腕で)。
その活躍を認められ右将軍に任命された。
しかし、武器で防御されるようになってしまい、乾史の地位は格下げになってゆく。
そこで 大利意愚慕苧瑠(ダイリーグボール)なる技を編み出す。
それは参号+右壱号と4種類ある。
壱号は敵の武器に向かって曲がり、武器を壊してしまう。しかし、ライバル・塙堅(ハナガタ)に破られてしまう。
弐号は石が消え、敵は防御のしようがなくなってしまうもの。だが、これは苧厨摩(オズマ)に見破られる。
参号は軌道が実に緩やかで武器で跳ね返しようにも石がまるで避けるかのように曲がり、直撃してしまう技。
これは打破法が難解であったため、次々と敵将を討ち取ってきた。だが、石を投げるということで酷使されてきた肩が痛み始め
親友である盤を討ち取ったことを最後に石を投げられなくなり、武将をやめる。
しかし、曹操が右腕がまだあるだろう、ということで再び魏将となる。
そして乾史は右腕で大利意愚慕苧瑠右壱号を編み出す。
これは、石が分身し、参号のような弱点もなく、弐号のように晴れの日にしか投げられないということもなく
壱号のように力で押しても打ち破れなかった。
乾史の記述は右壱号までで途絶えている。
因みに参号の弱点は力を抜いて打つこと。バントでも桶だった。
でもホームランが打てないから(ry
まぁ かなり前のことだからあんま覚えてないけどw
364 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/14 18:00:48
前スレは激しく名スレだな。(まじで腹がよじれる)
どなた様も一読をお勧めするよ。
まとめサイトにあるべな。
下ネタがスキだった。
もうほとんどのシモネタの言葉が武将化されているがw
シモネタ尽きるほど使うなよなおまいら
>>367 いや!まだある!日本語だけでなく英語とかの俗語を使えばいいんだ!!
>>367 ガンガレ。ちなみに穴瑠とかもガイシュツだからなw
>>370 従来のまとめサイトのトラブルですが、痴岱さんが直してくれました!
ありがとうございます。
>>363まで登録済ませました。
372 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/18 23:53:10
まじで人気投票やろうぜ。
その場合国別にしてくれ。
当て字+強力なエピソードの武将が圧倒的有利そうだし。
スレ本来の趣旨だと思う単語から生まれた武将(馬刺なんか)が
浮かばれないよ。
放尿とかなw
韻圃(インポ)
字は不明。
黄巾の乱で波才を破り宛の太守となる。
虎牢関で呂布軍と対峙。
しかし韻圃は呂布の眼光に腰が抜け斬られる。
その後呂布は「韻圃はいざとなると立つ事も出来ない軟弱野郎だ」と大笑いしたらしい。
瓦斯(ガス)生没年不明
瓦斯は字。名は都市(トシ)。弟に冨魯汎(プロパン)がいる。蜀の武将。
知将として活躍した。
瓦斯の戦法は一酸化炭素で相手を中毒にし殺すという地味なものだったが
篭城している敵に対して絶大な効果を発揮した。
しかし とある戦場にて火計で殺された。
そのときには凄まじい衝撃があったとか。
紅葉茎(アキバケイ)?〜208?
魏将。字は醜汚多(キモオタ)覗きの趣味があり、董卓の旗本であった当時、
貂蝉タソ(;´Д`)ハァハァと庭先で手淫中、呂布に発見され精子の境をさ迷う。
董卓の死後、曹操に仕官するが疎んじられる。
しかし、官渡の戦で敵に萌えキャラを馬鹿にされ、
絵紙を丸めた閃光宝剣(ビイムサアベル)を手に短騎突撃。
その時の異常な発汗から毒ガスが発生。
敵兵は瞬く間に死に絶え、一騎当千の働きをし曹操から腐将軍に任ざれるが
赤壁の戦で火計により自らの毒ガスに引火。
翌日、焦げた人形を握り締めた将の死体が発見されたと言う(呉伝)
曹朔蒙 (ソウ サクモウ)
魏の将。字は策願(サクガン)曹操旗揚げから付き従い各地を転戦。
赤壁での敗戦で散り散りになった将兵を探し集め、莫大な恩賞を得る。
一時戦線を離れ(田舎のK札所長)の任に就く
野盗征伐などで民衆からは厚い支持を得た。
赤壁の活躍を買われ一軍を預かる将として再び曹操の元へ。
陽平関からの出陣した際、功を焦り味方を集めようとして独断で動き
蜀軍に囲まれ自害した。
だれか()のなかに適当な田舎&官職キボン…
顰蹙(ヒンシュク)168〜???
蜀将。常に諸葛亮の下で働いてきた。
諸葛亮の二度目の北伐敢行のとき諸葛亮の策を無視し敗れた為、斬られた。
司摩(しま)
字は興策(こうさく)。後漢王朝に仕え、堅実な仕事ぶりで出世を重ねていく。
のちに宋の文人・弘兼憲史(こうけんけんし)が
「武将司摩興策」「左将軍司摩興策」「車騎将軍司摩興策」などといった
彼の人生を描いた作品を記し、官人達に広く読み親しまれる。
費旋(ヒセン)
京兆郡の出身。字は華仲(カチュウ)。
同郷の金旋と幼い頃から親交を結んだ。
金旋が武陵太守に封じられると、その幕僚となり民政に尽力した。
劉備の武陵侵攻の際、金旋と共に城外で張飛軍を迎え撃ったが
力及ばず敗れ、包囲される。
張飛は費旋に、金旋が城内の裏切りによって殺された事を伝え、
降って劉備に忠誠を尽くすよう呼びかける。
費旋は悲しみ、自ら首を刎ねて死んだ。
費旋の死を聞いた劉備は、
「嗚呼、費華仲、元機へ忠!」
と、その人物を惜しんだという。
正史、演義ともに登場しない。
朴念仁
はじめ袁紹に仕えたがご機嫌取りが出来なかったために放逐された。
その後も多くの勢力に所属したが、無愛想な性格が災いして幾度となく
追放された。最後に同郷の尼陀を頼るが出自がばれることを
恐れた尼陀の刺客によって殺された。
↑読みはボクネンジンね。あと元ネタは辞書。
林通勝(リンツウショウ) 生没年不詳
字は秀貞(シュウテイ)。曹操の命により曹丕の側近くに仕えた。
曹丕に失望して曹植を擁立しようと画策したが失敗、一度は許されたが、
のちに功績がないとして追放されたという。その後の消息は不明。
確か光栄の武将ファイルにも登場していたはずなのだが。
郭子剣(カクシケン) 生没年不詳
袁紹に仕えた武将。「鬼の爪」と言われる武器を用いて武功があったという。
女中と恋仲になった、友人と死闘を繰り広げた、袁紹を暗殺した、遼東に旅立ったなど
さまざまなエピソードが伝えられている。
正史には登場せず、民間伝承における創作ではないかともいわれる。
台湾の作家・周平(シュウヘイ)が彼を主人公に書いた武侠小説には日本語訳がある。
最近では中国・香港合作で田洋次(デンヨウジ)監督が映画化した。
人民解放軍を動員した集団戦闘シーンと華麗なワイヤーアクションが見もの。
里見(リケン) 176〜233
并州に割拠した群雄。春秋時代の晋の名臣・里克の末裔と称する。
国府台(コクフダイ)で二度にわたって曹操と戦うなど小勢力ながらがんばったが、
正史には登場しない。
里見の名はむしろ、中国三十六大奇書の一つに数えられる『八犬伝』で知られている。
明代の馬琴(バキン)によるこの小説は広く人口に膾炙し、人形劇にもなった。
陜西省館山市には里見の居城が復元されているが、中は『八犬伝』の資料館である。
俄津(ガッツ)
西域(バスクの民との説も)出身の魏将。字は石松。
その名は遠くローマ帝国の拳奴界のチャンプとして君臨し、
平民の身分を許されたのを機会に漢に渡り、
あてもなく放浪中に日銭を稼ぐため拳闘興業を始めるが、
その豪傑ぶりを見込まれ推挙される。楽進の旗本として先陣を切り武功をあげるが
何といっても特筆すべきは、戟や剣を持たず拳甲で戦場を駆け抜けた剛腕であろう。
彼の特技は俗に『幻の右』と呼ばれた左ストレートであり、
虎を一突きに仕留めたとか、龍をバナナと間違え喰ったとか武勇伝の枚挙に暇が無い。
また、現地の言葉に慣れないためかは定かではないが「サムタイム時々」「OK牧場」等の名言も残した。
偏将軍まで昇るが高齢を理由に退き、大道芸の世界に身を投じ持ち前のキャラで人気を博す。
また、文人としても自らの経験を著し広く読み親しまれたという。
張英社
呉郡の張英が興した漫文を書く者を中華から集めて
それを編纂した。
書物の名は、跳躍(ジャンプ)という。
代表的な書き手は、尾田栄一郎(ビデンエイ イチロウ)の海賊演義(ワンピース)
岸本斉史(ガンボン セイシ)の倭国忍者(ナルト)
小畑健(ショウバタケン)の死帳簿(デスノート)
秋元治(シュウゲンチ)の倭国亀派出所記(こち亀)
久保帯人(キュウボ タイジン)の死神演義(ブリーチ)
河下水希(ガゲ スイキ)の真中好色記(イチゴ100%)
荒木飛呂彦(コウボクヒ リョゲン)の徐庶奇妙冒険(ジョジョの奇妙な冒険)
武論尊(ブロンソン)の北斗拳戦記(北斗の拳)
などである。
中華で最も人民に慕われた
>>389 サンクス
>>388 紛失していた資料が見つかったので至急追加する。
鳥山明(チョウザンメイ)の龍玉演義(ドラゴンボール)
許斐剛(キョイゴウ)の庭球王子(テニスの王子様)
矢吹健太郎(シスイケン タイロウ)の黒猫(ブラックキャット)
島袋光年(トウタイコウネン)の援交依打切(世紀末リーダー伝たけし)
梅澤春人(バイタクシュンジン)の男(ボーイ)、破壊(無頼男)、無敵未成年様(ソードブレイカー)
>>390 ちなみに、島袋光年は若い女子とみだらな行為をしたために
トカゲの尻尾のごとくやめさせられたという。
また、矢吹健太郎は盗作疑惑が絶えなかったという。
群雄割拠だった黄金期のろくでなしやダイや冨樫某やターちゃんはスルーですか。そうですか。
>>390 俺の手持ちの資料だと
和月伸宏(ワヅキ シンコウ)の流侠伝(るろうに剣心)
冨樫義博(トゲン ギハク)の壬位(レベルE)とかもあるんだが、
もしかして変な資料を掴まされたのかorz
394 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/30 02:25:43
>>390 自分の手持ちの資料にはこんなのがあります。
稲田浩司(イナデン コウシ)の大大冒険(ダイの大冒険)
桂正和(ケイ セイワ)の好色遺伝子(DNA2)、影女性(SHADOW LADY)
北条司(ホウジョウ シ)の美人姉妹猫目記(キャッツアイ)、都市狩人(シティーハンター)
光原伸(コウゲン シン)の奇妙世界(アウターゾーン)
高橋陽一(コウハシ ヨウイチ)の蹴球翼(キャプテン翼)
温熱卵(オンネツ ラン)の筋肉男(キン肉マン)
鳥山明(チョウザン メイ)の医者霰(Dr.スランプ)
井上雄彦(イジョウ ユウヒコ)の赤髪籠球(スラムダンク)
俺の所には
角丸(カクガン)の猿の物語を描いた猿猿猿(モンモンモン)や、
名馬翠王号の活躍する翠的牧場王(マキバオー)や生還蟲(サバイビー)なんかがあったな。
やめろ
ここをジャンプスレにする気ですかおまいらは
397 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/30 04:38:42
>>390 俺はこんなのもってるぞ。
森田政則(リンデン マサノリ)の不良霊歌(ろくでなしブルース)、甲子園少年(ROOKIES)
徳弘正也(トクヒロ ショウヤ)の森林王者(ジャングルの王者ターちゃん)
臼多京介(ウスタ キョウスケ)の絶好調勝君(すごいよマサルさん)、笛吹虎(ピューと吹くジャガー)
岡野剛(オカノ ゴウ)の未確認少年外道(未確認少年ゲドー)、地獄教師鵺野(地獄先生ぬーべー)
隆慶一郎(リュウ ケイイチロウ)原哲夫(ゲン テツオ)の慶次物語(花の慶次)
新沢基栄(シンザワ キエイ)の奇面高校生(ハイスクール奇面組)
松本泉(マツモト セン)の気分的橙道(きまぐれオレンジロード)
江川達也(エセン タツヤ)の魔法少年樽流斗(まじかる☆タルるートくん)
蒲生洋(ガモウ ヒロシ)の幸運英雄(とっても!ラッキーマン)
ただ中国語っぽく変換するだけなのはどうかと。
>尾田栄一郎(ビデンエイ イチロウ)の海賊演義(ワンピース)
>河下水希(ガゲ スイキ)の真中好色記(イチゴ100%)
>和月伸宏(ワヅキ シンコウ)の流侠伝(るろうに剣心)
辺りは上手いと思うが。
高覧社
魏の高覧が興した興した漫文を書く者を中華から集めて
それを編纂した。
書物の名は、魔臥人(マガジン)という。
上条明峰(ジョウジョウ ミョウホウ)の侍凶(SAMURAI DEEPER KYO)
野中英次(ヤチュウエイジ)の黒魔亭高校(魁!クロマティ高校)
赤松健(セキショウケン)の魔法先生葱魔(魔法先生ネギマ!)
天樹征丸(テンジュセイガン)の倭国事件簿(金田一一の事件簿)
手塚治虫(シュツカジチュウ)の神医活躍記(ブラックジャック)
藤沢通(トウタクトオル)の暴力教師暴走記(GTO)
などがある。
子供よりも、大人向けらしい。
また、各地の美人に局部のみを布で隠した
愚羅美亜(グラビア)と呼ばれる絵を乗せることで有名
400 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/30 16:11:01
>>399 自分のところで資料が見つかりました。
安童夕馬(アンドウユウバ)と朝基正(チョウキマサシ)の国光出世記(クニミツの政)、摩訶不思議少年(サイコメトラーEIJI)
瀬尾公治(セオコウジ)の気丈高飛少女(涼風)、萌籠球(CROSS OVER)
森川丈治(シンセンジョウジ)の死闘拳闘記(はじめの一歩)
板橋正広(イタバシマサヒロ)と玉越博幸(ギョクコシハッコウ)の少年恋愛記(BOYS BE)
加瀬敦(カセアツシ)の変化不良少年(カメレオン)
ブラックジャックはチャンピオンだろ
>>399-
>>400 何 いきなりマガジンの話始めちゃってんの?
大体 お前らはこのスレをどうしようというんだ?
はっきり言ってうざいよ
光秀同。
俺の好きな漫画家でてねーし
皆さん、乙です。遅まきながら300レスまでのまとめを、まとめサイトの記録板にUPしま
した。
初代スレ1〜1000プラスその[二]スレ1〜300の勢力別人数は以下の通りとなりました。
-------------------------------------------------------
前漢:2人
後漢:34人(女性1人)
魏:136人 (女性6人)
呉:108人 (女性10人)
蜀:127人 (女性2人)
南蛮:32人
群雄関係:82人(女性5人)
宗教勢力:21人(女性1人)
異民族:20人(女性1人)
在野:7人
西晋:11人
所属不明:75人(女性2人)
その他:71人 (女性6人、人以外含む)
―――――――――――――――――――――――――――――
合計:726人(女性34人、人以外含む)
※
>>388-400は、このスレの趣旨から外れ、単に実在の人物を音読みしただけ
ですので、まとめサイトに登録は私は致しません。登録したい場合はご自分で
願います。以降同様の投稿も原則同様に対処させていただきます。m(_ _)m
405 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/02 20:45:04
羅敏熊(ラ・ビンユウ) 180-?
蜀の将として若き頃から活躍した。戦功よりも
むしろ愛妻家の鑑として世間に名を知られて
いた。
ある時出陣に際して妻(姓氏不詳)が羅敏熊の
出陣を制した。社会的成功を取るか、愛に生き
るかは彼にとって難しい選択ではなかった。結
局、妻の言葉に従い出陣せずに何処かに去り
二人仲良く末永く暮らしたと伝えられている。
馬場(ババ) 178-208
曹操に仕えた。馬超の叔父。
博望坡の戦いで夏候惇に追従した。
諸葛亮の策で壊滅状態に追い込まれ
夏候惇が逃げるまで奮戦し、討ち取られた。
元ネタは競馬場の状態を表す言葉であり人名ではありません
皆さん、乙です。400レスまでのまとめを、まとめサイトの記録板にUPしました。
初代スレ1〜1000プラスその[二]スレ1〜400の勢力別人数は以下の通りとなりました。
-------------------------------------------------------
前漢:2人
後漢:36人(女性1人)
魏:150人 (女性6人)
呉:112人 (女性10人)
蜀:139人 (女性2人)
南蛮:32人
群雄関係:90人(女性5人)
宗教勢力:21人(女性1人)
異民族:23人(女性2人)
在野:8人
西晋:12人
所属不明:80人(女性2人)
その他:76人 (女性6人、人以外含む)
―――――――――――――――――――――――――――――
合計:781人(女性35人、人以外含む)
記録官さん乙。
蒟蒻(コンニャク)???〜218
字は不明。羊羹の親戚と言われる女性。
羊羹とは違い味は無く嫁にも行けず娼婦として生活していた。
しかしある日遠征中の呂布に夜伽を命じられ出向くと
3秒で呂布が果ててしまうほどの名器の持ち主だった。
その後数々の独身の君主の相手を務め、皆から愛されたという。
現代でも独身の男性に愛されているらしいが定かではない。
なお和食には登場する。
裸体(ラタイ)178〜222?
蜀将。元の名は羅岱といったが黄巾の乱の後、改名した。
馬超に従兄弟にならないか、と言われるも断った。
関羽、張飛の死後、車騎将軍になる。
劉備に忠義を尽くし、劉備が死ぬと怒り狂ったように僅か100の兵で魏に突撃した。
その後の記述はない。
片栗粉(ヘンクリコ) ???〜220
字は越楠(エックス)
>>409蒟蒻と一・二を争うほどの天下の名器の持ち主
あの関羽でさえ2秒で果てたなどのさまざまな逸話が残っている
ほどだったという。
その後も独身の君主の相手を務め、皆から愛されたという。
現代では一店舗の片栗粉が売り切れるほどの人気だという。
なお、中華料理に登場する
醤油(ショウユ) 生没年不明
呉に仕えた。孫権に大事にされた。
武勇・知識において優れていた。
が、醤油が孫権に気に入られた理由は戦の時など
兵糧に変わった味が付く液体を作る技術を持っていたからだという。
今では餃子には欠かせない調味料の名前となって残っている。
于活(うかつ)
于吉仙人の従弟で若くから于吉に心酔し師事する。
しかし無茶な布教活動が孫策の逆鱗に触れ、斬首される。
それがやがて師・于吉の死を招いた事から、
計画性のない愚行を「于活」と呼ぶようになり、現在の「迂闊」の語源となる。
沙摩阿(さまあ)
蜀の武将で沙摩柯と共に劉備に帰順する。
軍議中に本来の趣旨から話題が少しでも逸れるといつも、
「○○かよ!!」と大声で叫んでいたという。
戦ではもっぱら突っ込み戦法を得意としていたが、
夷陵の戦いで沙摩柯と間違えられ甘寧に斬られる。
刑子惟(ケイシイ) 生没年不詳
号は高峰(コウホウ)。三国時代の医師。
同時代の華陀のような天才的技術のエピソードはないが、
人の心をつかむのに長けていたといわれ、
病んだ者たちはみな笑顔で診療所を出たという説話が残っている。
おそらく、今日で言うカウンセラーのような医師だったのだろう。
『医事漫談』五十編を著わし、夫婦生活の正しい知識を人民に伝えたというが、
内容は残念ながら今日に伝わっていない。
馬義維(マギイ) 生没年不詳
字は司郎(シロウ)。三国時代の道士。
気の向くままにさまざまな陣営を渡り歩き、幻術を披露した。
呉に仕えていた際に加わった夷陵の戦いで
魏軍の縦縞の旗を一瞬のうちに横縞にしたことで知られる。
鮑瑠(ホウル) ???〜216
>>409と
>>411と彼女で
中華三大名器と呼ばれた。
あの曹操のお気に入りといわれている。
その後も独身の君主の相手を務め、皆から愛されたという。
現代では彼女の仲間も売られている。
なお、オトナの玩具屋にに売られている。
潼瑠(ドウル) ???〜214
>>417と二人で名器二瑠と呼ばれている。
どのようなプレイでも楽々こなせたらしい。
その後も独身の君主の相手を務め、皆から愛されたという。
現代では彼女の仲間も売られている。
なお、オトナの玩具屋にに売られている。
陳茎童(チンケイドウ) 生没年不詳
董昭の下男で曹操暗殺計画を企てていたことを曹操に密告した秦慶童
の従兄弟
醜男で、気色が悪いのでついでに曹操に殺された
彼のミイラと記録が発見された。
分析した所,真性包茎だった上に、童貞とのこと。
420 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/09 01:15:40
上毛(アゲ)???−???
魏の文官。優秀な秘書官だったが、儒者でもあった彼は
曹操の儒者弾圧を批判し投獄される。曹操は彼の才を惜しみ
儒を捨てることを条件に許し、彼もそれに答え心機一転、
その文才を惜しみなく発揮して曹操を補佐し続け士大夫にまで上り詰めた。
今日のネット社会では「アゲ」と言いながら
スレを最上部まで持っていく行為は、
一度は投獄されつつも再び身を立てた彼の名が語源となっている。
左毛(サゲ) 生没年不詳。
字は進行。魏の吏僚で上毛とならんで魏の二毛と称された。
黙々とあらゆる任を的確にこなす様は派手さはないものの堅実そのもの。
昇進の沙汰も断り続け、現場一筋を貫いた。
422 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/09 22:52:52
>>420 なんかそれっぽいってゆうかもっともらしいなw
上毛てみる
>>422 お前には是非左毛てもらいたいと思ったね
阪神党(はんしんとう)
黄巾の残党によって結成された山賊集団。
185年に吉田(きつでん)を頭領として、蘭泥馬亜主(らんでいばあす)、
掛布(けいふ)、岡田(おかでん)ら猛将を駆使し猛威をふるい、「西の猛虎」と畏怖された。
しかしその後は相次ぐ頭領の交替で組織が弱体化したことから、「虎痴」と呼ばれた。
202年に元・中日(ちゅうじつ)党の星野(せいや)が頭領となり、
日公党から片岡(へんこう)広島党から金本(きんぽん)、
檻楠党から阿李亜主(ありあす)などといった猛将を集め、組織を強化。
翌203年に再び猛威をふるい、曹操を脅かす。
しかし星野が病没し、翌年から岡田が組織を率いるが統率がとれず、曹操軍によって征伐される。
義侠心に富む猛将達を多く抱えていたことから、一部で熱狂的な人気を誇っていた。
党員は黄色と黒の縞模様の布を頭に巻き、
「六甲颪颯爽、駆黄天日輪、青春覇気麗、輝我名阪神」と唱えていたとか。
425 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/11 09:36:49
>>424 せめて星野は「隠遁」にしてほしい・・・。
星野殺すなよ
雷穏(ライオン) ?〜263
雷銅の孫。剛勇の士として知られる。警護官として劉禅に仕えた。
いつでもどこでも主君に付き従う愚直なまでの勤勉さから、
「おはようからおやすみまで暮らしを見つめる雷穏」ということばに名を残している。
ただし、劉禅はずいぶん煙たがったらしい。
蜀滅亡時、自刃。劉禅の身辺を守るべき側近の、最初で最後の任務放棄だった。
楽譜(ガクフ) 生没年不明
魏将。楽進の義兄。
曹操の旗揚げ当時から付き合い、各地を転戦。
合肥の戦いで張遼と一緒に孫権軍を退け、定軍山では200の敵兵から曹操を守った。
街亭で魏延、姜維を相手に奮戦するが その時の傷が元で数年後に死亡。
尹祖慈曼(いそじまん)
蜀将。姓は尹、名は祖、字は慈曼。
元は海賊だったが後に劉備に帰順。
戦では呉班と併せて用いる事によってその実力を発揮した。
高所(コウショ)
袁家に仕えた。高覧の義兄弟。弓に優れていた。
虎牢関の戦いのときは董卓軍にいたが袁紹と一騎討ちをしたが負け、袁紹に服従した。
白馬や官度でやぐらの上にいる弓兵を次々に射落としたため高所恐怖症という言葉を使われるようになった。
が、今は日本語として日本で使われている。
>>430 よりによって袁紹と一騎打ちやって負けるなんてとんだザコ武将だね(プゲラプオス
司馬多(しばた)
字は恭兵。魏将。若かりし頃は勇猛ぶりから
盟友の舘浩(たちひろし)と共に「虻内(あぶない)将軍」と呼ばれた。
しかし壮年期を迎えると軍議で無謀な献策を繰り返す事が多く、
陣営から孤立する事が多くなったことから
「刃乱(はみだし)将軍・情熱系」と呼ばれるようになった。
勃華(ぽっか)と呼ばれる銘柄の豆茶を愛飲していたという。
司馬漬(しばづけ)
蜀将。呉班のお供を務め、
>>429の尹祖慈曼らと共に「食将」と呼ばれた。
野菜を調味料などに漬けて長期保存する技術を伝え、
これによって蜀は長期に渡る戦を優位に進めることができたという。
435 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/17 18:46:05
波平(ハヘイ)???−219
後漢末の将。黄巾の乱鎮圧のため各地で転戦、尽力した。
癇癪持ちで、ことあるごとに養子の何津於(カツオ)を叱咤、時に罵倒した。
帝室の退廃を憂うが故の諫言も帝には聞き入れられず、
逆に宦官などに疎まれて辺境の反乱鎮圧など前線に遠ざけられた。
黄巾討伐が一段落し洛陽に帰還すると、実娘の沙座慧(サザエ)の
夫・馬須於(マスオ)に家督を譲り隠居した。
まとめサイト見たら
>>435の波平かぶっていました。
申し訳ござらぬ…。んー。スルーしといてくらはい…。
まとめサイトにボランティアで登録している人は
恐れ入りやすがスルー推奨にてお願い申し上げますル。
胡椒(コショウ)
西方の出身の将。馬騰の配下として韓遂らと戦った。
良き将であり、戦には欠かせなく最後を締める存在であった。
彼が近づくと何故かよくくしゃみが出たという話が世説新語に記載されている。
また、肉料理が得意であったという。
彼の子孫が後年、その業により西洋から求められる人材として知られるようになった。
彼の子孫を捜すために大航海時代が到来したというのが学者達の定説である。
438 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/18 00:32:11
悲露屍(ひろし)
南部出身の将。諸国を旅しながら、町の女衆と話すのが得意だった。その特技を曹操に気に入られ、魏に仕官した。
女を口説いても、全て曹操のものとなったため生涯独身だったという。
普段は「('A`)ヒロシです・・・俺の兜がありません!」などと自虐的な芸で、宴会時に周囲に気に入られたため、武官に出世した。
戦の合間に陣中を盛り上げていたが、だんだん士気の低下に繋がる発言が多くなったため斬首された。
最後の言葉は「('A`)ヒロシです・・・ヒロシです・・・ヒロシです・・・」だった。
景気(ケイキ) 生没年不詳
蜀将。乗りに乗ってる時は、十や二十の城を根こそぎ落とす勢いがありながら、
一旦負け癖がつくと連戦連敗。調子の浮き沈みの激しい武将だった。
その豪快さゆえか、彼は庶民の圧倒的な人気を得ており、
蜀の人々にとって、彼の活躍の話題が日常の挨拶代わりになっていたという。
いわく、「どうだい、近頃の景気は?」「いや、さっぱりだねえ」。
波田陽区???〜205?
在野の士。曹操に招かれて厚遇されるが
あら捜しばかりしていたために色んな人の怒りを買う。
205年あたりから忽然と姿をくらますが切腹して果てたとも
暗殺を悟ったとも単に売れなくなっただけとも言われる。
演義では彼のネタは全て禰衡の言ったことになっている。残念!!
糜矩(ビク) 字は塗瑠(トル) 生没年不詳
糜竺・糜芳兄弟の遠縁、洛陽の人と伝えられる。
後漢に代々死刑執行人として仕えた山遜(サンソン、字は沙瑠瑠[シャルル]、杏里[アンリ]と号す)のもとで働いていた。
192年、王允・呂布によって董卓とその一族が誅殺された際、董卓に連坐した蔡ヨウを処刑したが、
民衆の見ている前でウケを狙おうと胴から離れた蔡ヨウの頬を平手打ち。ウケ狙いどころか民衆は皆黙ってしまった上に
上司である山遜に目撃され、「てめぇはクビだ!」と殴られ、死刑執行人を解雇された。
各地を転々とした後、曹操軍の一兵卒となるが、赤壁の戦いの直前、長江で釣りをしていた曹操を小隊長と勘違いし
曹操が釣り上げた魚を「お前と同じチビだ」と言って殴られたため糜矩も殴り返して曹操を長江に落とした。(なお、この時
糜矩は酔っぱらっていた)
殴った相手が曹操であったことに気づいた糜矩は軍船の一室に隠れたが、この事を知った夏侯惇と許チョに発見され、
許チョに取り押さえられた上に夏侯惇に蹴られた挙げ句、孫権軍への最後通告の使者となるよう命じられる。
使者となり、孫権軍の総大将・周瑜のもとへ赴き、最後通告をした上で孫権・周瑜を罵倒。激怒した周瑜に殺されかけるが、
魯粛の取りなしで半殺しで済む。
曹操が暗殺者に襲われた際、他の近衛兵が身を挺して曹操を護ったのに対し、糜矩は曹操を盾にしたため曹操に足蹴にされた。
最後通告の任務を終え、陣地へ帰る途中、崖の上からの曹操の立ち小便を「光栄です」と言って受け止めたのは余談である。
元ネタ:長谷川哲也「ナポレオン 獅子の時代」
アウステルリッツでナポレオンは勝ち、赤壁で曹操は負けたけど、ナポレオン=曹操=チビということでご勘弁をw
典型(てんけい)
典韋の弟。型破りだった兄とは対称的に基本に忠実な戦ぶりで
兄と共に曹操の信頼を得ていた。
宛城で張繍軍の襲撃を受けて、曹操を逃がすために兄と共に討ち死にした。
曹操はこれを深く悲しみ、彼の名を後世にまで残すよう、
物事の基準となる事象を「典型」と呼んだ。
巴于瑠(ハウル) 生没年不詳
魏の武将。司馬仲達の部下で武器の開発に従事した。
演義では、蜀軍を悩ます空中機動要塞「動城」を設計したことになっている。
「動城」が実際にどのようなものであったか今日ではっきりしないが、
「木牛・流馬」同様、一種の輸送手段ではないかと推測される。
顔役(ガンヤク) ?〜255
顔良の一族。一説に庶子。
顔良の戦死・袁紹の没落により一族は離散。顔役は貧困の中で不良の徒と交わった。
任侠の世界を実力でのし上がり、塩の密売ルートを押えて、地下経済を牛耳った。
オモテの世界の覇は三国によって争いが続けられていたが、
ウラの世界は顔役によって制覇されていたと講釈師は伝える。
時代の負のエネルギーを体現した黒社会のヒーローであった。
日本で裏社会の実力者を「かおやく」と呼ぶようになったのも、彼の名に因む。
445を朴って
文壇(ブンダン) ?〜?
文醜の一族。一説に庶子
文醜の戦死・袁紹の没落により一族は離散。文壇は貧困の中で作家と交わった。
文芸の世界を批評でのし上がり、出版ルートを押えて、文芸を牛耳った。
現実の世界の覇は三国によって争いが続けられていたが、
文章表現の世界は文壇によって制覇されていたと講釈師は伝える。
時代のエネルギーを表現する文芸社会のヒーローであった。
文筆活動をしている人たちの社会を「文壇」と呼ぶようになったのも、彼の名に因む。
牛蒡 (ゴボウ)
牛金の子で魏の軍糧手配を担当。
漢方薬および食料として利用したキク科の大形二年草に自らの名を留めた。
呂宋(リョソウ)
呉で衛温・諸葛直・朱鷺
>>242 らとともに夷州亶州に人狩りに向かい、
呂宋の乗る船がフィリピンのルソン島を発見し
漢字表記では彼の名があてられた。
449 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/21 08:36:30
雷同 付和(フワライドウ)
姓は雷 名は同 字は付和。雷薄の一族で蜀の雷同とは同姓同名の別人。
怪力無双であり諸方の太守から引く手あまたであったが定見がなく、
雷薄の意思でともに袁術に仕えて能力を活かすことなくともに滅亡する。
転じて、自分でしっかりした考えがなく、他人の意見にすぐ同調
してしまう様子をさして「付和雷同」というようになった。
暗刻(アンコ)
蜀将。三人の義兄弟の総称。それぞれ名、字は不明。
三人いなければ本来の力を発揮できない情けない武将であった。
夷陵で石兵八陣に布陣し、敵を撹乱させたが三人とも陸遜に斬られる。
後に麻雀で使われている言葉となった。
厳正(げんせい)字は土行 生194〜没246
厳顔の長男、蜀で司徒 兼 司直(裁判官のようなもの・・・のはずですが、間違っていたら訂正お願いします)
をしていた。
何事も公平に裁き、人々を差別しなかったために、劉備時代は皆から好かれた。
しかし主が劉禅になると、宦官から疎まれる。
実直故に、黄皓の甥が不正を犯した際に、
厳罰を下したために、讒言をうけ、死罪となる。
紘金(こうきん)字を無首(むしゅ)生174〜没不明
元は黄巾党党首だったが張角に場を奪われ呉郡に逃げた。
董卓軍→呂布軍→袁紹軍→曹操軍→劉備軍と経て太史慈と一緒に孫策に仕える。
張遼(呂布軍時代)・関羽(曹操軍時代)とは杯を交わしていた。
後に赤壁・合肥・夷陵の戦いで20万の兵を1人で散らしたと言う。
三国閉幕までは生きた後は義経と改名して日本に渡ったと言われている。
その後は分からない。
厳密(げんみつ)字は金行 生196〜没246
厳顔の次男、彼の言うことは常に細かく、孔明、姜維の北伐の際に
軍師として参戦し、綿密な計画を立てた。
そのおかげで、何万人もの兵士が無意味な死から助けられたという。
しかし、兄・厳正が訴えられた際に弟、厳粛(後述)と共に助命を請うが、
祈り届かず、同罪として連座、死罪を受ける。
厳守(げんしゅ)字は水行 生196〜没242
厳顔の三男、何事にも期限を守り、約束を破らぬ忠義の人として知られていた。
孔明北伐の際の、兵糧以外の軍需物資を担当、
当然のごとく、期限は守られたために蜀軍は、武器に困らず戦えたという。
しかし、孔明没後、姜維と折り合いがあわず意気消沈、
そのまま病没してしまった。
その後に、姜維が剣関に籠もった際に、
「厳守がいれば、この折れた剣も、代わりの剣が来よう。
この連弩も矢を放とう。 されど、彼は既に亡い。」
と己の先見の明の無さを嘆いたという。
厳粛(げんしゅく)字は木行 生200〜没246
厳顔の四男、常に身の回りを正し、
質素を好んでいた彼は
武勇の気はそこそこであったものの、兵法に通じ、
六韜三書を諳んじたという。
彼は孔明の北伐には参加しなかったものの、
先帝、劉備の戦いによく参加し、様々な功績を挙げた。
長兄、厳正が讒言を受けた際に、厳密と共に死罪に遭う。
(詳しくは厳密の項を参照)
厳然(げんぜん)字は火行 生203〜没223
厳顔の五男、五兄弟の中でもっとも優れていたとされる。
彼はプライドが高く、誰にも媚びることなく、
かつ父の力を使うこともなくして、蜀の中を宮中を
弱冠足らずにして渡り歩いたという。
ある時、プライドの高さからか、荊州の関羽ともめ事を起こし、
関羽は彼を呼びつけた。
関羽は己の力を誇示し、彼を震え上がらせようとしたが
彼は臆することなく、堂々毅然たる態度で、関羽と会話したという。
それをみて関羽は劉備に
「弟、羽、申し上げる。
厳然こそ我らの次の猛将、そして知将。
重用して、経験を積ませるが吉なり。」
という手紙を送っている。
だが、その手紙が仇となったか、はたまた、恩人関羽を弔うために焦ったか、
彼は夷陵の戦いで劉備が白帝城に逃げ込む際に殿をつとめ、戦死した。
厳家の五行
厳正、厳密、厳守、厳粛、厳然の五兄弟をあわせて
「厳家の五行」という。
この五人はその功績から民間にも讃えられ、様々な論評が残されている。
その論評は、
厳正は、清く正しく、大地の土の如く広き心を持ち、
厳密は、事細やかにして綿密、金の如くその成果は価値があり、
厳守は、忠実にして、約を破らず、水の如く滑らかに事を進め、
厳粛は、おごそかにして、己を律し、木の如く飾らぬ自然なるままで、
厳然は、誇り高くして、火の如く猛々しくも、げに早く燃え尽きぬ。
司馬昭も「孔明がいても、蜀は持たなかったであろう。
しかし、五行が生き延びていたならば
我らの覇業もどうなっていたか分かるまい。」と称したという。
田治(だち)生没年不詳
字は妻と書いて「ワイフ」と読む。
袁紹に仕えた彼は、醜悪であったために、生涯妻を娶ることが出来なかった。
そのため、己を慰めるために、女性の形を模した人形を作る。
この人形は非常に精巧で、女性器の造りが一品で只ならぬ快感をもよおし、
どんな猛者ですらも、その人形の前にはうなだれたという。
女性を知らぬ彼が、なぜそんなものを作れたのかは不明。
また、彼の死語、彼の名を取り、その人形に名が付けられたが、
現代でも、大人のおもちゃ屋などでその人形の姿が見られる。
田豊と同姓だが、血縁関係にはない。
名前(半角片仮名で読み仮名)
1行空けて
ここから説明
無双の辞典のパクリなんだからこれでな
461 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/27 00:00:49
オレは実は信長の野望の武将辞典のイメージだな。
御託(ゴタク)
字は連立。青州の人。幼い頃から学問に励んでいたが、生来の性格の悪さで
あまり人には良く思われていなかった。後に曹操に仕え、外交の使者として
働いていたものの、外交に赴いた場所で武官の怒りを買い、斬り殺された。
卑猥(ヒワイ) 生没年不明
卑衍の一族であると思われる。
劉備亡き後の蜀の副軍師として活躍した。馬謖、関興の師。
戦場で自ら剣を持って戦うこともあった。
冷静で人を見る目があり、戦況に臨機応変に対応できた。
街亭で馬謖を止められなかったことを恥じ自害。
卑猥が生きていれば魏延は造反しなかったと言われている。
萬子(マン ) 210〜263
字は不明 蜀の女武将
18歳のとき、諸葛亮によって見出された。
諸葛亮の北伐、姜維の北伐に参加した。
ときに、性技を用いては諸葛亮や魏延など北伐の主要メンバーの息子を慰めたという。
ときに、自ら性交をしては自慢の名器で数分と持たずに果てさせたという。
また、彼女の戦いぶりは女とは思えないほどの類まれなる怪力で、敵を寄せ付けなかった。
263年、諸葛亮の息子諸葛瞻とともに、綿竹関で善戦及ばず果てた。
決して降伏せずに、体中傷だらけになって死んだその姿には敵兵からさえも賞賛されたという。
彼女は常に首から9つの象牙細工をつけた首飾りをしていた。
「一萬」「二萬」「三萬」「四萬」「五萬」「六萬」「八萬」「九萬」と彫られた象牙飾りだった。
その後、彼女のように潔く散るという意味を込めて、麻雀の牌に萬子がつくられたという。
しかし、のちの学者たちは「マンズ」か「マンコ」で大議論が起こったために、今でも「マン 」と読まれている。
調味(チョウミ) 生没年不明
字は料。旅の料理人。その料理は人を病みつきにするほどといわれ、
彼の調合する薬味は人々の中で伝説になるほど。
新野にて劉備と出会い深い感銘を受け以後劉備と共に行く。
入蜀後成都にて料亭を弟子二人と開く。その料亭には劉備達も訪れたという。
彼と弟子二人は自らの料理により長命を保ったらしい。
なお、諸葛亮が考案した饅頭は彼がそのレシピを作成したという。
香辛(コウシン) 生没年不詳
調味の弟子。益州の料理を愛し、改良を加えていった。現在の四川料理には
彼の影響が残っているらしい。性格は明るく、悪戯好きな一面もあった。
長坂での戦いの後趙雲に全て肝で構成された肝料理を振る舞ったというが、
定かではない。
甘露(カンロ) 生没年不詳
調味の弟子。医者を志していたが調味と出会い、「体を治すには食を改めるべし」
と悟り、調味の弟子となる。食事療法に通じ、病に伏した劉備の料理を担当したという。
その後も諸葛亮の妻である黄氏に栄養価の高い料理を教えたりと影ながら有能な人物。
甘党(カントウ) 生没年不明
呉将。甘寧の従兄弟。
甘寧と共に海賊をやり、後に黄祖に仕えた。
海賊あがりということで甘寧を疎遠していた黄祖だが
甘党には何故か甘かった。
甘寧が黄祖を殺した際に呉に帰順。
夷陵の戦い後、行軍中に魏に降った黄権に襲われ斬られた。
こんにちは。私事で恐縮ですが、最近引っ越しまして新居にまだADSLが通っており
ません。年明け一週間後くらいになる予定です。今はインターネットカフェからカキコしていま
す。
そのため痴岱さんのまとめサイトへの登録はそれ以降になります。早く登録したい方は
お手数ですが、ご自分でお願い致します。
>>408 ううっ、ありがとうございます。
>>435-436 わかりました。でも登録してもいいですよ。実をいうと初代(?)波平は私の作品
なので(笑)。内容が違うから同名異人ということで。もしやっぱり登録したかっ
たらおっしゃってください。
>痴岱さん
まとめサイトや関連ページの表紙がたまに一部リニューアルされてますね。お疲れ様です。
全登録ページの一騎討ちの両雄、動いてますね。すごいなあ。
それでは皆さん、よいお年を!
目録大王(モクロクダイオウ) 生没年不詳
木鹿大王の血縁と思われるが詳細は不明。劉備が漢中を制圧した頃
劉備に対し様々な南蛮の物品を献上した。これにより蜀は南へも目を向け始め、
南征のきっかけとなった。彼自身は猛獲らに見つかることを恐れたため
蜀に隠れ住み書物には掲載されていない。
彼が劉備に対し物品を献上した際、書にそれらの物品の名称、使用用途、その他
様々なことを記し諸葛亮へ物品と一緒に献上したため今日では彼の名を取って
「目録」という言葉が使われている。
満湖 ?〜216
魏の参謀。満潮の従兄弟。
合肥の戦いで本陣到着後に呉軍と対峙状態になったところを
満湖が孫権のもとへ赴き、呉軍を退かせる事に成功する。
翌年病死。今は日本の湖の名前になった。
472 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/01 13:27:43
峨陶(ガトウ) 生没年不詳
字 琳倶(リング)魏の文官、北伐で鹵獲した蜀の元戎を改良し、
「馬留陥(バルカン)」という回転式連弩を考案したといわれる。
主電源(シュデンゲン)1875−1934
中国共産党創立者の一人。
孫文と交友があり主に国民党との折衝を担当した。
農民に支持を伸ばす毛沢東と折り合いが悪く、
政敵である彼を毛沢東は謀殺。
その後、国民党との連絡手段である彼を失った共産党は
国民党の包囲攻撃を受け、華北まで長征する(大西遷)。
>>471 満潮って誰?
満湖じゃなくて曼湖だろ。
お、マジだ誤字だ
×満潮
○満寵
477 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/03 23:39:03
「色」がえらいことになってるなw
袁徐(エンジョ) 生没年不明
袁家一門の出で、女性。
知略に優れており、絶世の美女と謳われた。
初期に袁術の下に身を寄せていたが呆れて呉に仕える。
呉を攻めるにあたって軍団長に任命され、その一軍で劉ヨウを苦しめた。
その功が認められ副軍師になる。
副軍師ということで、孫策や周瑜に近づく事が多くなったため
二喬に嫉まれ、暗殺されそうになり、呉から逃げた。
その後、各地を放浪していたときに魏蜀から仕官を勧められるが断り
最後は袁徐に従う者と共に独自の勢力を築き上げた。
財政面で困る事は一切なかったという。
丁寧(テイネイ) 生没年不詳
呉の武将、丁奉の遠縁との説もあるが、生没年、出身地共に不明。
魏との対峙中、敵の夜襲にあった折、
いちいち服を着替え、脱いだ服を折りたたむなどして対応が遅れた為孫権の怒りをかう。
一時は斬首を命じられるが、丁奉が庇った為軍を追放される。
軍を出るときも挨拶を忘れずに礼儀正しくした。
丁重(テイチョウ) 生没年不詳
呉の武将、丁奉の遠縁との説もあるが、生没年、出身地共に不明。
一生官に官に就かず、僧や仙人を訪ねては日を暮らしていた。
孫権や、丁奉の誘いも丁重に断っていたが、
追い返すとわかっていながらも使者も丁重に扱ったという面もある。
態度は丁重だったが、生活水準は低調だったらしい。
今日は寒いね
482 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/08 03:14:21
個人的には南蛮武将の壊れっぷりがすきだなw
483 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/08 12:01:59
金環食 (キンカンショク)
南蛮第一洞主金環三結の子。父の死後蜀に降り
諸葛亮に南蛮流の天文観察を伝えた。
日食ののさい月が太陽の中央を覆い、黒い月の周りに
太陽の光球が輪のように見える現象が起きることを予告し、
自らの名を残した。
介護(カイゴ) 生没年不詳
司馬懿の部下。春秋時代の介子推の末裔である。
李勝が司馬懿の様子を伺いに来た際、ボケた司馬懿の世話(をする芝居)をしていた。
その後も司馬一族の権力掌握の陰でいろいろ活躍をしていたと思われるが、
歴史の表で伝えられることは少ない。
鄭重(テイチョウ) ?〜260
蜀の臣。丁重(
>>480)と同一人物説もあるがはっきりしない。
劉禅の時代に宮廷の公的な宴会を司る職にあり、外交使節や大事な客人を鄭重におもてなしした。
驚異的な記憶力と気配りのある宴会運営により、いくたびか蜀の外交的危機を救ったという。
サービス業の神として崇拝の対象になり、後年「鄭王」と呼ばれるようになった。
横浜の関帝廟の裏にも、かつては小規模ながら独立した鄭王廟があった。
建物は横浜大空襲によって消失し、現在、鄭重は関帝廟に合祀されている。
平日の昼下がり、横浜の関帝廟を観察してみよう。
きっちりした服装で背筋を伸ばし、マナー正しく関帝廟に通う人がいるはずだ。
かれらは鄭重に敬意を表するホテルマンやウエイターなのである。
車落(シャレ)
字は怎韋(サムイ)。魏の将。車胄の一族。極寒の風を起こせる妖術が使えた。
諸葛亮の北伐に対抗すべく司馬懿に従軍し、要衝を堅固に守り
度々蜀の軍勢を破り、「人壁砦」の異名を取った。
諸葛亮に「北に車落有り」とまで言われた。
しかし、諸葛亮に論戦を挑まれ、一蹴され憤死。
諸葛亮が耳栓をしていたからとも、言が冴え渡ってしまい妖術が発動しなかったとも言われている。
>>485 でも、郭循が費ネ韋を殺すのは止められなかったわけか(プゲラ
つーか費イは姜維にとって障害だったわけだから見逃したってことでFA
崑牡懿(コンボイ) 生没年不詳
蜀の将。字は不詳。出身は倭国とも胡ともいわれる。
身体を変形させ馬車や木牛流馬などに化ける妖術に長けた「蔡馬刀論(サイバトロン)」部隊を率いる。
策を練ることが下手で、「私にいい考えがある」と軽略を用い大損害を与えた事もしばしば。
しかし徳の高い人物であった為、恨まれる事は無かったという。
魏の痲駕 杜論(メガ-トロン)率いる「死刀論」(デストロン)との因縁は深く、幾度と無く戦うも決着がつかなかった。
三国が形成される遥か以前からこの因縁は続いていたともいわれるが、定かではない。
北伐において、崑牡懿は痲駕と相打ちとなり、
代々伝わる宝である英知の結晶、『魔斗律玖珠』(マトリクス)を副将である趙馬虞茄 南伐(ウルトラマグナス-ナンバーツー)に託し果てた。
『魔斗律玖珠』は天下に平安をもたらすとされるが、趙馬虞茄はこの力を使う事ができず死刀論に八つ裂きにされてしまう。
しかし、一兵卒に過ぎなかった発杜 魯出舛(ホット-ロデマス)が力の解放に成功し、天下を襲った未曾有の危機を救った。
その後、魯出舛は別人のように老け込んでしまったという。
ちなみに正史には登場しない。
山田(ヤマダ) ?〜?
南蛮の将
孟獲配下の養蜂に仕えた。
蜂使いで、蜀軍を苦しめたが
魏延に切られあっけない最期を遂げた。
養蜂(ヨウホウ) ?〜?
南蛮の将
山田の上司にあたる。
楊鋒の血縁関係らしいが定かではない。
山田と同じく蜂を使い蜀軍を苦しめたが
張嶷にバッサリと切られた。
場之(ジョウノ) ?〜?
南蛮の将
山田と同じく養蜂に仕えた。
蜂で蜀軍を苦しめるも
趙雲と出会い頭に切られた。
蜂蜜製品(ハチミツセイヒン) ?〜?
南蛮の将
孟獲配下の養蜂に仕えた。
他の三人とは違い
蜂蜜を使った製品で、南蛮軍を癒した。
しかし、諸葛亮の罠にかかり死んだ。
陳胡(チンコ) 生没年不明
蜀の臣。もと劉璋配下。
劉備入蜀のとき早期に降ったが
同僚の張任に劉備に降るように説得をするが
聞いてもらえなかった。その直後
「私は人一人説得出来ない愚かな者」と言いだし
処断しろと言い出すが諸葛亮に諌められる。
その義理堅さを評価され尚書令に任ぜられる。
時たま頑固であった。忠堅郎。
そうか?
金科(キンカ) 生没年不詳
字は玉条。後漢末期の下級官僚。
平時は冴えない仕事ぶりで昼行灯とまで言われていたが、
十常侍の乱や董卓の遷都などの混乱に乗じ
漢の宝物の品々の一部をこっそり自家に持ち込み、
時には己の腕を、時には家族を犠牲にしても守り抜いた。
後日曹操の元に身を寄せ、安全を確保した献帝に
国家の宝が流出する事を憂いた旨を説明、
全ての品を自家に持ち込んだままの状態で返却した。
一部から非難の声があがったものの、帝や曹操からは賞賛された。
この事から何をおいても守り抜く事を金科玉条と言うようになったという。
>>499 うは、気付かなかったorz
そうか金科玉条だと、金玉条になるのか・・・
色入りだな・・・w
皆さん、乙です。500レスまでのまとめを、まとめサイトの記録板にUPしました。
初代スレ1〜1000プラスその[二]スレ1〜500の勢力別人数は以下の通りとなりました。
-------------------------------------------------------
前漢:2人
後漢:36人(女性1人)
魏:166人 (女性6人)
呉:117人 (女性10人)
蜀:156人 (女性3人) ※
>>450暗刻は1武将として扱いました
南蛮:33人
群雄関係:97人(女性6人)
宗教勢力:22人(女性1人) ※
>>424阪神党は1つとして扱いました
異民族:23人(女性2人)
在野:10人
西晋:12人
所属不明:80人(女性2人)
その他:87人 (女性10人、人以外含む)
―――――――――――――――――――――――――――――
合計:781人(女性35人、人以外含む)
>>502 修正。後漢は37人(女性1人)、合計841人(女性41人、人以外含む)でした。
すいません。
504 :
痴岱:05/01/15 14:53:29
いつもながら、きめ細かな分類乙です。
>>504 おお痴岱さん、ありがとうございます。500突破しましたね。
ついでに再訂正。
>>503合計は842人でした。スマソ。
女性ってあるがどうせどれも名器とかなんだろうw
記録乙
尹輝(インてる) ?〜?
劉璋、劉備に仕えた文官。計算に秀でていたといわれる。
派手な活躍こそ無いが、劉備の頭脳と呼ばれた。
蜀の行政が万事滞りなく進むことに対して、
劉備が「わが国には尹輝が入ってるからな」と誉めたという。
現在も四川省の一部では「尹輝入ってる」と書いた紙を門に張り出し、
魔よけとする風習が残っている。
共済(キョウサイ) 生没年不詳
魏に仕えた武将。
万一の事故や災害、戦死に備える互助組合の制度を提案した。
魏で普及したこの相互扶助の制度は、兵士や民の心を大いに安んじたという。
屯田を提案した棗祗・韓浩とともに、魏の安定をもたらした功労者であるといえよう。
509 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/16 01:59:39
杜成(トセイ) 生没年不詳
孫堅と同郷の人 乙杜成(オットセイ)と呼ばれていて泳ぎが得意であった。
同じく水泳の得意な弟の杜度(トド)ともに孫堅の海賊退治に手を貸したと
いわれる。
510 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/16 12:49:19
このスレも2スレ目後半か・・・
結構ネタって尽きないもんだね。
511 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/16 13:12:42
呂理(リョリ)
字は幼耳
呂蒙の異母弟。領内の13歳未満の女子を囲い領民から憎まれた。
呂蒙の死後、夷陵の戦いに従軍を命ぜられるが少女と淫乱な遊びにふけり軍務を怠った。
このため、孫権の不興をかい庶民に落とされた上で交州に流された。
今でも中国南部では少女性愛者をりょり、ろりなどと呼ばれる。
また、近年呂理のものと見られる墓が発見された。中の遺体の保存状態は良好で、血液型はB型であった。
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
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/ ヽ
l::::::::: | <なぜにB型…
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ヽ:::::::::::::::::::. \/ ノ
尹昂(インコウ) 178〜216
魏の臣。
赤壁の戦いで連環の計、苦肉の計を見抜き
曹操を諌めるが、袁術の縁者であった為、投獄された。
敗戦後参謀として取り立てられ、賈詡に「郭嘉に引けをとらぬ」と評された。
後、合肥の軍師となる。孫権の軍勢が攻め寄せた際、張遼に策を授け、翌年死亡。
曹丕の代に「乱侯」に封ぜられた。
色が増えてきたな・・・w
雛嘉意(スカイ) 170〜234
魏の臣。
字を杜郎(トロ)という。
空を飛ぶことを夢見て半世紀
実験に実験を重ねつつも失敗し大怪我を負ってきた。
そして、64歳のある日、落下して死んだ。
夢を追い続けてきた哀れな男の末路だった。
彼を称して、空のことを雛嘉の意志としてスカイと呼ぶようになった。
また、飛ぶために体を軽くするために、自らの糞便を食したという。
その様子を称して雛嘉杜郎(スカトロ)と呼ぶようになったという。
ギャーッハッハッハ!
色行きけってーい!!
ギャーッハッハッハ!
血厨(チヲタ) 生没年未詳
益州に住む医師。生物の血液の中に現在で言う血液型の存在を発見し、
それを人の性格・能力と関連付けて分析した。
彼の著作は多くの民の支持を受けたが「根拠の無い噂を流して
益州を混乱に陥れた」という罪状で法正に処刑された。
法正を血液型で差別した事を蒸し返されたからとも言われる。
現在では彼の遺骨から彼がAB型であったことが分かっており
「AB型が天才肌である」という彼の仮説は自己を売り込むための
詭弁ではないかと言われているが真実は不明。
現在でも血液型と性格・能力との関連を説くと「血ヲタ」と蔑称されるのは
彼の名前が2ちゃんで広まったからである。
出展―英学館刊「血液型緒話」より
皆さん、お疲れ様です。
>>506 ありがとうございます。
>名器とか
そうですw
>>510 まったくです。皆さんよく思いつきますね。
519 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/23 09:56:07
郭清 (カクセイ)
郭図の一族とされ、袁紹衰亡後野に下り華陀の弟子となった。
華陀が悪性の腫瘍を取り除く手術をした際、
郭清は周辺の節をすべて切り取ったことで再発を防いだとされている。
現在のがん手術時に、転移の有無に関わらず癌の根治・予防のために
周辺のリンパ節をすべて切除することがあるが、
郭清はこの行為を行っていたと推定されており、
漢代に行われていた偉業を称え、リンパ節切除術を郭清と呼んでいる。
520 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/23 10:13:21
魯魚 亥豕 (ロギョ ガイシ)
>>221の魯魚章草と同時代人で、
名前のみならず顔立ちやしぐさ、風采まで
章草と似ていたためよく間違われた。
章草に対抗してか、魯魚亥豕の誤りと言われた。
521 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/23 10:22:41
周旋 (シュウセン)
周 [王兪]の一族で、彼を孫策に仕えるよう斡旋した。
のちには魯粛ほか呉の礎となる若手人材を
次々に孫氏に対しての仲立ちと世話をしたとされる。
この手腕の巧みさを嘉して、売買や雇用などの交渉で仲に立って
世話をすることや、事をなすため立ちまわることを周旋と呼ぶようになった。
韓流(カンリュウ)
魏の勇将。元呉の将。韓当の従弟。
孫堅の旗揚げ当時から付き添った。
孫堅が死後、孫策が後継ぎとなり、和睦の使者を斬ったり
韓流が尊敬していた于吉を斬ったところで見限り、魏に降る。
降る際、韓当に諌められるが傷を負わせ、逃亡。
後に韓流を討たんとばかりに韓当・程普・黄蓋の軍勢が攻め寄せるが
たった2000騎でこれを撃退する。
その活躍は許靖も絶賛する程で、城下で韓流ブームとなった。
様々な弟子を持ち、四天王と呼ばれる者達も輩出している。
裴勇俊(ハイユウシュン)
魏の名将。裴元紹の孫。
曹操配下の韓流四天王の一人
決して美しいとはいえないが、その甘いマスクで
多くの中年の女性の心をつかんだ。
彼の行くところ人が集まり
あるときはけが人も出たという。
また、壮絶な修行の末に見違えるような
筋肉を得たという。
彼を主人公にした”冬独奏曲”は大ブームを巻き起こし
韓流ブームの一角を担ったという。
高知(コウチ)
字は明徳、高順の甥。幼少から文武に優れていたが病に罹り出仕はせず。
高順の死を伝え聞き、都を落ち野に下り、田舎で小さな塾を開く。
塾には優秀な生徒が集まり数多くの人材を輩出し、
その地方で行なわれた大会で7年連続で代表になったと言う記録も残っている。
その塾は高知の名を取り明徳義塾と呼ばれるようになる。
横綱の朝青龍が彼を尊敬し、彼の名を貰った事はあまりに有名である。
雷霧(らいむ)
呉の文人。音楽に合わせて語るように吟ぜられる詩に定評があり、
特に押韻の絶妙さにおいては時の建安七士をも凌ぐとも言われた。
社会を風刺した詩が多く、孫権を罵倒する詩を吟じた為に捕らえられ、斬首される。
のちに彼の弟子らが西洋に逃れ、その様式を「楽付(らっぷ)」として伝えたとされる。
526 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/26 12:46:19
珍々(ちん々)
満々(まん々)の恋人
二袋(ニタイ)
呉の臣。雷霧の弟子の一人。
雷霧が斬られた後、孫権を殺そうと企むが露見し、斬首されそうになるが
曹丕によって魏に移され、西洋に渡らせてもらった。
治部良(ジブラ)
後漢の臣。
後漢王朝や時勢を批判する詩を作っていた。
その効果か、黄巾賊が蜂起し、各地は戦国乱世となった。
それからか、元祖大平道と言われたりもした。
薊田武紗印(ケイダブシャイン)と於葦済(オアシス)の3人で
琴愚魏錚(キングギドラ)として行動していたこともある。
糜維(ビイ)???〜280
字は臥汰(ガタ)
糜芳の子。自己中心的で義理に欠ける不忠の臣。
関羽に自分の性格を咎められたことを恨みに思い、関羽攻撃の際にビ芳らに裏切りをするように炊き付けた。
呉に逃亡したが、衣料の戦いの時に蜀軍を恐れる余り蜀に降伏した。
自分は諸葛亮に匹敵する才を持つと思いこんで自分の地位に不満を抱き、北伐の際には食料の運搬を怠る。
そして食料運搬の失敗を李厳に全て押しつけた。
しばらく彼の足跡は不明となるが、ハイショウシの注によれば
呉に仕え、呉討伐の際に長江を塞ぐ鉄鎖の情報を王シュンに提供して晋の臣として取りたてられるも、
戦勝の宴をドタキャンした上に逆ギレで司馬炎を誹謗中傷したために斬られた。
馬威武(ばいぶ)
字は不明。前漢中期の人。
馬援の遠祖である馬可羅が武帝暗殺未遂事件を起こした際に連座して殺されるはずであった。
しかし、器用な手先を生かして男根の形をした玩具を衛皇后に献上したため殺されずに済んだ。
以来、漢の後宮では成人女性用玩具を馬威武と呼ぶようになった。
馬畔(バクロ)
魏、蜀漢と仕えた臣。当陽県南郡の人。
馬日亭の縁者であり、馬騰の縁者であった。
そのため、馬騰が殺された際、共に長安を攻めた。
しかし、夏侯淵の軍に囲まれ降伏。
曹操の側近として国事を任された。
諸葛亮の第一次北伐の際に蜀に戻る。
曹丕を始めとする魏将の生活や魏の実態等を諸葛亮に伝えた。
馬車馬(バシャウマ) ?〜259
魏の将。財政・訴訟など内政面で重要な職務を与えられるとともに
第一線の武将としても評価され、蜀・遼東・匈奴・呉などとの合戦に従軍。
加えて曹一族と司馬一族との争いの渦中で魏帝室のために奔走し、ついに過労死した。
「馬車馬のように働く」という故事成語に名を残す。
馬並(バヘイ) 生没年不詳
蜀の将。字も出生地も不明だが、巨根であることが知られ、
劉禅は戦国時代・秦のロウアイの再来と称え、長信侯に封じた。
転じて「馬並」は巨根そのものを指す隠語になった。
顔車(ガンシャ)
後漢末の方士。青州の出身で孔子の高弟であった顔回の末裔とも。
顔に液体をかけて祈祷する呪術を行い、民衆の信仰を集めた。
馬鈴薯(バレイショ) 生没年不明
郝昭の妻。
陳倉城の防衛の際、じゃが芋の栽培に努め
兵糧が尽きないようにし、守りきるのに貢献した。
536 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/28 18:32:37
于鈍(ウドン)?〜208
于禁の弟。元は軍中の小吏であり、「白面の長面」等と呼ばれた。
于禁について従軍した際に本陣に忍び込んだ間諜を捕らえ武将として取り立てられる。
類希なる長鞭の使い手であり、敵の手を狙って武器を奪い、敵将を生け捕りにする事を得意とした。
この為彼は「手打ち于鈍」と呼ばれ多いに恐れられたという。
馬義奈(バギナ)
蜀将。馬騰の縁者で元黄巾賊。
黄巾の乱後、裴元紹と共に山賊をやっていた。
周倉と共に劉備に仕える。
長坂で劉備の妻と阿斗を趙雲の到着まで守った。
関羽が死ぬと軍を率いて呂蒙軍に突撃。
呂蒙を捕らえるのに貢献する。その後、夷陵の戦いで殿軍を務め、戦死。
「漢の大将が呉の犬に降るものか」と言ったのは馬義奈ではないかと言われている。
馬力 バリキ
字は鹿力 馬騰の一族で[广龍]徳と怪力を争ったとされ、
その運動量は一頭の馬に等しかったという。
この伝承から現在まで仕事率の単位としてその名が伝わっている。
馬脚 バキャク
蜀将。馬良の一族で諸葛亮の北伐に同行した。
街亭において馬謖の指示で、魏軍の包囲を弱めるため
四方より遊撃としてゲリラ戦を仕掛けていたが、その意を読んだ
司馬仲達に「馬脚をあらわしたな」と笑われたとされる。
このことから隠していたことが明らかになる。
化けの皮がはがれるの意味で馬脚の名は後世に記憶された。
馬主(バヌシ)
于吉・左慈に並ぶと言われる仙人。
馬の扱い、育て方、調教の極意を知っている。
的廬・赤兎馬・絶影・大宛馬等など数多くの名馬を育てた。
温歩(ヌルポ)
呂布の部下で武勇の士だが、兵を率いる才は無かったようだ。
自己顕示欲が強く、戦場のあちらこちらに現れては「温歩!」と自分を主張していた。
しかし、戦場のあちらこちらに現れると言うことは、当然持ち場を勝手に離れての事なので、
即座に呂布にガッと殴られ、持ち場に連れ戻されたという。
殺されることが無かったのは彼の腕が惜しまれたと言うよりは、
彼がいない方が彼の部隊がよく働くので、生暖かい眼差しを向けられていただけのようだ。
主義(シュギ) 180〜220
魏の思想家。
若くしてその才能を大いに賞賛されていたが
官につくこともなかったが、その代わりに
未来の人材の育成に力を入れていた。
彼の門下生は、個性的な人材が多く、
思想の違いからいさかいも多くあった。
しかし、223年に曹丕の漢朝の簒奪を批判して捕らえられ、
死刑になってしまった。
彼は死ぬ前までも「恐怖政治は長く続かぬ、
いつか民心はなれて自らの身を滅ぼすであろう。」
と叫んで罵倒していた。
主義と門下生の思想は多くの人に受け入れられた。
さらに、門下生たちは自分の思想を広げるべく中華全土に散らばり活動した。
中には、彼らを神のように敬う人々もいて、その思想を忠実に実行するようになった。
そのことから、行動や考え方の基点となることを、主義と門下生の名前を取って
○○主義と呼ぶようになった。
門下生目録
民主・・・国家の主権は君主ではなく民にあると唱えた。
共産・・・財産は共有して不平等のない社会が理想と唱えた。
自由・・・個人の自由を重んじて国家の干渉を排するべきと唱えた。
個人・・・社会や国家よりも個人の自由を重んずるべきと唱えた。
社会・・・生産手段を共有して階級対立のない社会を作るべきと唱えた。
資本・・・自由に生産活動を行って利益を追及する社会体制にするべきと唱えた。
うわっ、また訳わからん厨房が出てきた。
紺戸(コンド)
字は宇務(ウム)。魏の将。
元陶謙配下で、反董卓連合に参加した。
冷静に戦局を見ることができ、的確な行動ができた。
曹丕が甄姫を妻に迎えると避妊用具として
異国の地から伝わったという伸びのいいものを教えた。
尹蒙(インモウ)
劉璋配下。
反董卓連合に鮑信配下としてシ巴水関に一番乗りを果たした。
華雄の軍を撃退し、呂布との一騎討ちを優位に進めるが
高順に阻まれ討ち取るには至らなかった。
鮑信の勢力が滅ぶと劉循に誘われ劉璋に帰順。
劉備の入蜀の際、張任に弓で龐統を射殺す事と
劉循に劉備の陣図を伝え守備につき、共に1年近く守った。
降伏後、右車騎将軍に任ぜられた。
三郭
魏の郭泰源(かくたいげん)は先発隊をよく務め、死後、「急侯」と綽名された。
蜀の郭源治(かくげんじ)はしばしば劉備を救援し、
長坂の戦いでは曹操軍の追撃をよく抑えた。
呉の郭李(かくり・字を建夫)は元は黄祖配下として甘寧らと共に活躍、
しかし呉に帰順してからは前評判以上の活躍はできなかった。
三者とも石つぶてを投げて敵にぶつける戦法を得意としており、
霹靂車開発のヒントになったという。
節分(セツブン)
字は子福(シフク)呉の武将、合肥において孫権が張遼の奇襲を受けた際。
近衛兵であった節分は奮戦し、武器を使い果たした後も、携帯食であった炒り豆を投げつけ
一時的に張遼を後退させ、孫権の脱出を助けた。
その戦で節分は戦死するが、孫権は彼の業績を讃え皇帝に即位した後に彼の命日である2月3日に
「張遼は逃げた、節分は我々の心にいる」という願いを込め「鬼は外、福は内」と言いながら豆を投げた。
この風習は彼の名前を取り「節分の日」として今の私達にまで受け継がれている
ん、節分は日本だけの文化じゃhぐあえお;ggたssが
雷安(ライアン) 生没年不詳
「出身地は馬騰ランド」
「身分は王宮戦士」
「勇者殿を探している」
等、謎の発言を繰り返しながら
自らの仕えるべき主君を探して各地を放浪していた武将。
乱戦の中にあっても一目でわかるような桃色の甲冑に身を包み、
見たことも無いような形に髭を整えていたという。
また、妖術によって軽い怪我を瞬時に治療する力を持った
異形の怪物を従えていたとも言われている。
結局、国内に勇者を見出せず、異国へと旅立っていった。
正史にも演義にも登場しないが、
「竜王征伐記第四巻−導かれし者たち−」
に登場するとかしないとか。
何某(かぼう)
魏の臣。政治、軍事、あらゆる事に非凡な才能を発揮したが、
逆に器用貧乏だったために存在感が薄く、生涯、曹操や臣下達はおろか、
兄である何晏にすら名前を覚えてもらえなかった。
>>549 主旨とはだいぶ違うが俺的に大ヒット。古き良き時代を思い出すよ。
何年前のことだろうな・・・
あの頃はファミコンが主流か?
あれ、仲間になる順が逆なのな。
雷安二等兵にはなかなか会えずにやきもきしたよ。
刑道脈(けいどうみゃく)
刑道栄の弟。兄に従軍して劉備軍と戦うが、張飛に斬られ、鮮血を噴き出して倒れる。
これに対し刑道栄軍は「刑道脈を斬られたか!?」と慌てふためき、敗北を喫したという。
周瑠(シュウル)???〜184
後漢の思想家。
シュールな言動が精神的な豊かさをもたらす、
という教えを広めようとした。
しかし知名度、カリスマ性ともに太平道に遠く及ばず、
全く広まることなく消えていった。
黄巾の乱に巻き込まれて命を落とす。
文通(ブンツウ)
文醜の弟、袁紹の配下。前線に向かう兄といつも文通をしていた。
兄が殺された際、返信が来なかったので兄に嫌われたと思い投身自殺した。
馬子(バシ)
蜀の将。馬超の従弟(正史では従兄で)質素倹約の人。
馬超・韓遂と共に曹操軍を潼関に迎える。
離間の策にかかった韓遂が曹操に降ると自らも降った。
馬超が長安に攻め込んだ際に反旗を翻し夏侯淵軍を敗走に追いやる。
しかし、再び出撃した夏侯淵に敗走。後に蜀に帰順。
関羽が襄陽にいるときに軍馬が足りなくなると劉備に軍馬を要請。
輸送役を頼まれ、1000頭の軍馬を見事に操り無事届けた。
そのことから、馬を牽く人のことを馬子と言うようになり、
成都に戻ったときに劉備から恩賞として豪華な服を賜ったことから
馬子にも衣装というようになった。
陳疋(チンゲ) 164〜197
呉の武将。
虎牢関で敗走する孫堅の護衛をした。
劉表との戦いで孫堅が死ぬと主に殉じて敵軍に突撃、戦死した。
股間の毛が濃かったという。
陳皮(チンピ) 生没年不詳
温州の人で、孫権に仕えた医師・料理人である。
いわゆる武将としての活躍はないが、東洋医学史上重要な人物である。
柑橘類のある部分を乾燥・熟成させるとのどの痛みや痰を止めたり、
健胃・整腸作用があったり、食欲不振などに効いたりすることを知り、
その手法の改良につとめた。この薬材は、現在も彼の名を冠して称される。
糜爛(ビラン)193〜261
蜀漢の臣。糜竺の族子。もとの名は闌。
略奪中の曹操軍に家を焼かれ父を失い、
その際に負った火傷で、
背中にただれたような痕が残ったことから、
また、恨みを忘れぬようにとの想いから名を改めた。
父が糜芳と不仲であったため、
糜芳らとは距離を置いていたが
父の死後、糜竺を頼って劉備に仕える。
糜竺を師と慕い勉学に励み、
内政・外交面で才能を開花させる。
糜竺の死後、後継に推薦され、
空位となった衛尉に任ぜられた。
68歳まで蜀に尽くしてきたが、
心労から胃潰瘍を発症し、
惜しまれながらこの世を去る
周章(シュウショウ)???〜222
呉の武将。落ち着きがなくいつも慌てふためいていた。
夷陵の戦いの出陣前に陸遜から、
「その態度が部下を不安にさせる」と指摘され、
めずらしく強気で出陣した。
しかし蜀軍の勢いを見て、徐々に不安になり、
案の定うろたえているところを張苞に斬られた。
そんなあわてんぼうの彼の名は、
大いにあわてふためくことを意味する熟語、
「周章狼狽」として現代に残っている。
562 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/06 07:31:51
王蓮治(オレンジ)字は恋詩(れんじ)。生没年は不祥。
曹植の友人で詩歌の天才だったと言われる。有名なものに「花」や「露古呂証(ロコローション)」などが存在する。当時の若い詩人達の先駆けとして活躍した。
正史にも演義にも一切記述はない。
>>562 倒錯偽作を厭わなかった作風を嫌って、
史書への記述が排除されたという説がある。
どう考えてもオレンジレンジは押韻が下手だと思う
あれでロックのつもりなのか?
王苺七(オウバイシツ) 10О−157
偽の玉璽で勝手に王朝を開いた。舌毒祖(べろどくそ)。
字は腸菌。何故か臣民からは慕われ、「大腸菌」と呼ばれた。
しかし疫病により国が壊滅。再興を目論むが成らず。
晩年は農民として過ごし、好んでカイワレ大根を作った。
読み方が苦しすぎる人物。
簾派霧(スパム) 生没年不詳
呉の謀臣。字は瞑瑠。
大量の偽手紙によって敵軍を情報混乱に陥れよ、
と献策したところ大成功。
すばらしい功績を上げるが、
癖の強い人間であったため、
一部の臣からは
煮ても焼いても食えない奴といわれた。
メカ沢(メカザワ) 生没年不詳
呉の謀臣。明らかにメカだが、
陸遜が指摘するまで誰も気がつかなかった。
メカであることが発覚した後も、
「それはそれでよいのでは?」
と自然に受け入れられ、
孫呉の滅亡まで孫氏に仕え続けた。
基本能力は[門敢]沢(かんたく)と同等。
呉李羅(ゴリラ) 生没年不詳
呉の猛将。無口な奴だと誰もが思っていたが、
その正体はゴリラであったという。
しかし、正体が判明した後も特にどうと言うことなかった。
なんというか、マイペースな類人猿。
口車(コウシャ)
元後漢の臣で魏・蜀・魏と仕えた。
弁舌達者で、進言や讒言等をよくした。
そのため、毋丘倹、諸葛誕、公孫淵、魏延などが反乱を起こした。
魏の滅亡寸前に司馬懿の病気は演技で兵を起こして司馬一族を滅ぼすように進言するが
聞き入られず魏は滅亡。後に捕らえられ司馬師に斬られた。
その次の月に司馬師は病死した。
>>568 んで、呉李羅呉李羅呉李羅とかいうナカーマがいるんだよな。
関越(カンエツ) ???〜217
劉備配下の将。関羽の族弟。
長坂撤退後に劉備に合流、以後行動を共にする。
知勇兼備の名将で、地味ながら堅実な働きを見せた。
漢中争奪戦において、孤立した張飛の撤退を援護、
脱出させることに成功するが、自身は曹洪らに捕われる。
降伏するよう説得されるが断固拒否、自刃して果てた。
関所(カンショ)
蜀漢の将。関平の弟。
関平が関羽の養子になると劉備に出仕した。
のち、関羽が荊州の守備につくと襄陽と新野の境を守備した。
傅士仁が呉に降るのを知り、激怒し斬りかかるが呂蒙の策にかかり潘璋に斬られた。
関門(カンモン)
劉備の徐州時代からの配下。
曹操暗殺計画露見によって攻められた際、県境を守る。
寡兵ながら善戦するが本隊敗走と関羽が降伏したため袁紹に身をよせた。
関羽に劉備は袁紹の所にいると密偵を送り、千里行の関羽を迎えた。
劉備は荊州牧になると、江夏の守備についた。
赤壁の戦いで敗走する曹操軍を追撃し大功を挙げた。
劉璋攻めのときに劉循を急襲するが法正に読まれており、張任に射殺された。
関税(カンゼイ)
関羽の族子
関羽の系統に似ず、文官が似合う男で
戦場に出て剣を振るうことをしなかった。
劉備に登用され、他国からの交易品が蜀の工業に
影響を与えないために高い税金をかけた。
これにより、蜀の工業は守られたという。
工業侍従者は関税をあがめたという。
関東(カントウ)
呉の将。兄弟に関西がいる。
揚州の異民族平定で功績を挙げた。
孫楙の代に会稽太守になるが
孫楙暗殺計画が露見し、処刑された。
関西(カンサイ)
>>575関東の弟
呉の文官。
独特の口調と雰囲気が特徴
金にがめつく、意地汚い。
孫権に直言したりもした。
関東の計画に乗ったが露見し
最後は関東と一緒に処刑された。
東北(トウホク)
>>575-
>>576関東・関西の一族との説がある。
魏に仕えた将。地理に詳しく、袁一族を攻めるときに全軍権を任されていた。
後、北海太守、譙都督にまでなるが、曹丕の横暴に嫌気がさし
公孫淵と共に反乱、鎮圧軍との戦いの中で戦死した。
石川(セキカワ)
魏の将。石苞の弟。鍾会の蜀漢討伐軍に従軍した。
漢中攻防戦で孤立した鍾会を単騎で救い出す。
その功から鍾会より牙門将に任ぜられる。
曹髦が殺された後、参内を命ぜられるが拒否し、魏への忠誠を示した。
晩年は雍州で門下生を集った。東晋を滅ぼした松井もその一人。
司馬句(シバク) ?〜276
魏将。司馬朗の子。
父親や叔父に似ず常に前線に出ていた勇将。
鎮南副大将軍として杜預に従軍。呉軍を蹴散らした。
司馬師が晋王になると驃騎将軍に任命された。
乱暴な性格で部下に鞭罰などをよくした。
そのため謀反にあい、1人で奮戦するが戦死した。
黄道(コウドウ)
蜀の臣。天文に深く通じており、天を見ては劉禅に献策をした。
李厳が補給に失敗した際、責任を問われ更迭される。
後、劉禅を見限った黄道は甥・黄皓を劉禅の元に
間違った献策だけをするようにと言い含め仕えさせた。
黄皓はその任を全うし処刑された。
愛地(アイチ)
字は球博(キュウハク)。呉に仕えた武将。
呉の山越政策の一環として、中華のすぐれた文明と科学技術を山越に誇示するために、
技術の粋を集めた城、海上(カイショ)城を建設した。
一部の山越部族はこれに激しく抵抗たが、愛地は硬軟取り混ぜて対応し、
茂離増(モリゾウ)・乞古魯(キツコロ)率いる山越部族を帰順させることに成功した。
伍鵜管(ゴウカン)
呉の将。吾彦の従兄。
晋の侵攻を吾彦から聞き造船所に奇襲、大被害を与えた。
王濬らが攻めてくると建業に二枚壁の城を築き迎撃、杜預・田続の軍を破った。
孫晧が降伏してもなお抵抗を続けた。
しかし、衝車によって城は陥落、降伏した。
583 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/17 12:44:53
尿路(ニョウロ)199−254
字は結石。太平道の流れをくむ民間信仰「尿道」の開祖。
北に逃れた黄巾党を吸収し、漢帝国に叛きつづけた。
官軍の水攻めを予見して大きな石でこれを防ぐなど、
神憑り的な用兵で、曹操をも苦しめた。
宋朗(ソウロウ) 158〜219
曹操配下の猛将。曹操の旗揚げ当時から付き添った。
関羽に樊城を包囲された際、曹仁と共に守り切った。
その後捕らえられた于禁の救出をしようと関羽相手に奮戦するが斬られた。
余り体力が無かった方なので過労死という説がある。
南遷都(ナンセント)
字は麗空(レア)。南蛮の有力部族の南知多(ナンチタ)ともう一つの部族長の娘美浜(ミハマ)の子である。
呉の支配下にあった。
彼は南方で昔から呉の支配を嫌い、独立をもくろんでいた。
ある時、呉の孫権は国家政策として彼の故郷の近くに巨大な港を作ることを決める。
これを乗っ取り、独立して発展をしようと考えた南遷都は、彼の父と母の部族を統合させ、
自分の名をそのまま国名とし、南遷都麗空として独立を宣言する。
しかし、民に名前がダサいと散々罵られ、この件がかなり強行的なものであったため、
反乱が起き、呉軍が出向く前に彼は民に殺された。
関係ない話ではあるが、この故事と似たようなことが後代、東方の島国で起こっているという。
阿蛭(アビル)
劉禅の側室で寵愛されていた。
宴の席上で国の物資を集団で、再三横領していたことを面白半分で暴露。
もちろん大問題になり、処罰を求める声が官民の区別無く、日増しに高まっていった。
ついには、一片に1000人の名と血判が記された刷礼(スレ)と呼ばれる連判状が
数日で50枚近くも献じられ、処罰を迫った。
劉禅や宦官が処罰に消極的であったが、さすがに庇いきれなくなり十十御所に幽閉した。
ちなみに、刷礼は世界最古の署名運動であったという。
劉雷太(りゅうらいたい)
呉の猛将。元は魏の将だったが徐晃と諍いを起こし呉に亡命。
その後、呉軍屈指の部隊・七曲部隊に配属され勇猛ぶりを発揮。
呉では李讃と名乗っていたことから、「呉李讃」(ごりさん)とあだ名され、
力押しの一手のみで攻める戦法は「呉李押し」と呼ばれた。
豪胆な性格で部下や呉の民からの信頼も厚かったが、夷陵の戦いで流れ矢に当たり殉職。
丁度(テイド)
呉の将。丁封の弟。
幼い頃から聡明で孫権に愛された。
孫[糸林]が実権を握ると1度目の孫[糸林]暗殺計画に参画した。
が、情報が漏れると処刑されそうになるが間者を斬り殺し落ち延びた。
丁奉の2度目の孫[糸林]暗殺計画に参画、成功させた。
胡散(コサン)
魏の将。
嘘つきであり、不衛生であったため曹丕に粛清された。
今ではうそ臭いことを胡散臭いと言う。
劉知周(リュウチシュウ)
楼桑村の劉一族の廟を預かる長老。通称・御前様。
いつもふらふらしている玄徳に説教をしたり、
心に残る指針をさずけたりした。
591 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 00:53:44
程度(テイド)
魏の臣。程cの甥。
赤壁の戦いの前、程昱が曹操から参謀役を命じられた際程昱は
「水上での戦いは私より甥の程度の方が適任です」と推薦し、曹操は
「そうか、なら参謀はその程度にする」と言った。
592 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/05 21:29:05
羅針盤(ラシンバン)
呉の将。水軍都督。
海賊討伐で大功を挙げる。
229年蜀漢の北伐に呼応して北上
偽の楼や関を築いて魏軍を散々に打ち破った。
233年建業の守備をしていたが過労が重なり病死。
羅貫中の先祖と言われている。
東芝(トウシ)
生没年:172〜234
魏の将で数々の手柄を立てている。
発明家だったらしく数々の小道具を作ってる。
残念ながらその殆どは不明、
最後は、五丈原にて諸葛亮の奇襲により死亡。
死の間際に「我、死すとも魏は死せず!」と言ったのは有名。
馬呉恩(バゴオン)
字は焼側。蜀将馬忠の一族で李厳と親交が深かった。
後に李厳とともに庶民に落とされた。
その後、漢中の城内で飯店を営み、茹でた麺にたれを
絡めたものと茹で汁で作った白湯を出したところ評判と
なり世に「馬呉恩焼側麺付白湯」としてその名を顕した
ことが蜀の稗史に見えるが、正史には記されていない。
郤団(ゲキダン)
字は獨吏(ヒトリ)。蜀の将で郤正の弟。
北伐に従軍し、疲弊した兵を笑わすなどして士気を高める役目を負った。
涪丘(フク) 204〜220
字は丞子(ジョウシ)。魏の将。
幼年の頃に虎を射殺し熊を斬り殺した。
そのことから曹操に「人中に呂布あらば人外に涪丘ありよ」と評された。
しかし戦場に出る前に死んでしまった。
司馬楽(シバラク)
魏の将。黄巾討伐の際に曹操に従軍し、活躍。
その後は全くと言っていい程音沙汰がなかったが、
なんと司馬一族のクーデターに巻き込まれて斬首されたと記載されている。
司馬楽と名乗る人物が2人いたのではないかいう説もある。
598 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 23:13:25
ここのまとめサイトいつ見てもすごいな。
その労力をもっと社会のために・・・は言いっこなしだなw
599 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 23:35:28
増健
600げt
黄疸(コウダン) ???〜278
蜀の武将。黄権が魏に降った後にもうけた子。
元は魏の武将であったが物資輸送の任務を与えられた際に、
数人の部下と共に蜀へ亡命。
計画が漏洩していたため激しい追撃を受けるが、
天才的な指揮力で部隊を動かし、
部下も物資も殆ど失うことなく逃げ切ることに成功。
無事蜀に迎えられる。
亡命直後にはその才能を発揮し活躍を見せたものの、
後に黄皓に疎まれ、前線から退くこととなる。
晩年は酒に溺れ、肝臓の病で命を落とした。
呂風(リョフウ)
呂岱の子。
晋の征伐軍が押し寄せると伍延と共に出撃する。
伍延が殺されると建業まで引き返した。
建業で抵抗を続け孫晧が降伏してもなお抵抗を続けた。
三年に渡って抵抗を続けたが蝗の災害で兵糧が尽き降伏。列侯に封ぜられた。
洪水を利用した兵法を用いた。清潔好きな人。
楊換満
皆さん、乙です!
初代スレ1〜1000プラスその[二]スレ1〜600の勢力別人数は以下の通りとなりました。
-------------------------------------------------------
前漢:3人
後漢:39人(女性1人)
魏:189人 (女性6人)
呉:137人 (女性10人)
蜀:172人 (女性4人)
南蛮:34人
群雄関係:105人(女性6人)
宗教勢力:23人(女性1人) ※
>>424阪神党は1つとして扱いました
異民族:23人(女性2人)
在野:11人
西晋:12人
所属不明:81人(女性2人)
その他:103人 (女性10人、人以外含む)
―――――――――――――――――――――――――――――
合計:842人(女性41人、人以外含む)
>痴態さんへ
最近PCがアボーンして、私書箱のURLが不明になりました。差し支えなけ
れば、また全武将サイトの記録板にでもURLを掲載していただけませんか?
お手数ですが、よろしくお願いいたします。
>>604 すいません。修正です。合計など。
初代スレ1〜1000プラスその[二]スレ1〜600の勢力別人数は以下の通りとなりました。
-------------------------------------------------------
前漢:3人
後漢:39人(女性1人)
魏:189人 (女性6人)
呉:137人 (女性10人)
蜀:172人 (女性4人)
南蛮:34人
群雄関係:105人(女性6人)
宗教勢力:23人(女性1人)
異民族:23人(女性2人)
在野:11人
西晋:12人
所属不明:81人(女性2人)
その他:103人 (女性10人、人以外含む)
―――――――――――――――――――――――――――――
合計:932人(女性42人、人以外含む)
>痴態さんへ
最近PCがアボーンして、私書箱のURLが不明になりました。差し支えなけ
れば、また全武将サイトの記録板にでもURLを掲載していただけませんか?
お手数ですが、よろしくお願いいたします。
うーむ
流石に皆ネタ切れか?
面倒になっただけか?
ネタ切れ。
思いつけば書いているけど。
608 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 13:37:35
たくさんあるが三国志武将っぽくないしなあ。
強姦(キョウカン) 167〜217
陰平蛮武将・強端の甥。
曹洪らと漢中を守っていたが
病気にかかって死んだ。
強端に粛清されたという説もある。
610 :
志村剣:黄帝生年紀年4716/04/01(金) 18:41:58
かつて曹操がほしがっていたと言う伝説の宝刀
だが、この剣を手に入れた所持者は、背後からの暗殺により、次々に亡くなっていった。
「うしろ!うしろ!」と暗殺前にきずいた者が叫んでも聞こえないのかしらないが、暗殺されている。
611 :
無名武将@お腹せっぷく:黄帝生年紀年4716/04/01(金) 18:45:14
下等茶(カトウチャ)
劉備が母に買ってあげた安物の茶
わらじ売りの劉備には高かった。わらじ82足分だといわれている
紀文(キブン) ?〜?
字は班辺 初め袁術に仕え、後曹操に下る。
赤壁の戦いで江南の魚により体調を崩す魏兵が続出したため、
魚をすりつぶし焼く製造法を発明した。
万戸(マンコ)?〜?
字は淫乱 初め董卓につかえていたが、一日に一回は董卓に強姦されていたが、
董卓亡き後、蜀に下る。しかし、蜀に使えた時に、劉備から
「使い古しはいらぬ」
といわれ、手淫しながら自害した
馬羯(バケツ) ?〜?
字は理礼。魏の武将。襄陽郡の人。
曹仁の配下として樊城に篭城した際、水攻めにより兵糧庫に迫った水を兜で汲出し城の窮地を救う
雛覇(スウハ) ?〜?
字は薫何(クンカ)。交州蒼梧郡の人。
呉巨の配下として呉軍と戦う。嗅覚が獣並に優れていたと言う。
210年、歩隲が交州に侵入したとき、敵の火計を匂いで察知し夜襲をかけこれを撃破する。
その後もたびたび呉の策を匂いで見ぬくが、呉巨が殺されたため逃亡。
地元の人々は彼の嗅覚にあやかろうと、よい匂いをかぐ時には
「雛覇雛覇薫何薫何(スーハスーハクンカクンカ)」と名を2回唱えるという
蔡均(サイキン) ?〜220
曹操配下の将。元は荊州の豪族で蔡瑁の弟。
劉jが降伏すると曹操に仕えた。
周瑜の策で兄を処刑しようとしたのを諌めたが容れられなかった。
赤壁の後、華容で劉備の追撃を受けた際、本隊の殿を任せられた。
江陵を攻めた際に毒矢を以って周瑜を射撃した。
後、襄陽を守っていたが関羽が攻めてきた際に捕らえられ処刑された。
毒を塗った矢を得意としたという。
「敵将、討ち取ったりー。」
馬岱、黄悌(
>>98)を撃破!
なんやねんこのガキ
619 :
ぷぷぷ:2005/04/05(火) 18:47:43
万里男(マリオ)
字は万里
万里を行く体力を持つことから万里男となづけられた
地味な双子の弟を持つ
7歳
しかし、それ以外何も分かってはいない
胡椒(コショウ)
胡車児の子。
500斤の荷を背負って数十里歩んだという話を聞いて
自分も真似してみるが60里目にて死亡した。
車団吉(シャダンキツ) 生没年不詳
後漢末の文人で、「漫画道場七子」の一人。河南尹の人。
元来は坤東五十五党(コントゴジュウゴトウ)という海賊の配下であったが
著名な文士、富永(フエイ)にその才を見出されに漫画道場にて文筆活動へ
土管(ドカン)と富永の論戦の脇で川島(チョクビ)、衛馬(エバ)らとともに補伝の編纂につとめた
その後は各地の駅を途中下車で放浪し、土地の内情を探る任についたとされる。
【漫画道場七子】
建安文学と並び賞されるこの時代の文化的革新、画による史書の作成「漫画」を始めた集団の一つ
跳書、邪運腐などにも大きな影響を及ぼしている…かどうかは定かではない
紙数の割りに内容がない、進歩的杉等の理由で儒者による批判を受け漫画は廃れた
「簿殷紀」では 武昭 土管 富永 車団吉 川島 衛馬 森祐子を七子としている
関与(カンヨ) 228〜263
蜀の将。関索の子。
黄皓にでっち上げの連判状で処刑されそうになったとき
「私はそんな事に関わってなどいない」などと抗弁し無実を証明した。
鍾会・鄧艾らの蜀漢征伐が始まると諸葛瞻らと綿竹関で抗戦
諸葛瞻が援軍を待たずに飛び出して戦死すると張遵らと突撃、鄧艾のいる所まで到達したが果てた。
臧魔(ゾウマ)
異民族の王で自らを「大魔王」と称す。
中華全土に永遠の夜をもたらし、鋭い眼光からは凍てつく波動を放ったという。
配下の魔王・馬羅茂主(バラモス)らを裏から操り、漢王朝の支配を企てるが、
勇者・魯徒(ロト)と劉一族に伝わる「光の玉」の力によって征伐された。
田和(デンワ)
殴州 辺瑠郡 鐘県の人。字は通信。若いころから才知に優れさまざまな発明をした。
現在の「糸でんわ」にあたる物を発明した事でも有名。当時は小さな木の中身をくり
貫いた物を使用していた。その功績により野部流賞(ノベルショウ)という宝珠を貰う。
関心(カンシン)233〜263
蜀の将。関索の子。関与の弟。
幼い頃から兵法を学び、いろいろな事に興味を持っていた。
成人したころにはその智謀は蜀国内随一とされ、讃えられた。
蜀滅亡時にその智謀を恐れた鍾会に殺害された
劉氷(リュウヒョウ)150〜227
字は北海。
後漢の荊州刺史、劉表の異母弟。号は流氷先生。
今のロシアにあたる地域を訪遊した時に水に浮かぶ氷をみて
「私もまた、流れる氷でありたい」と言ったとされる
阿糜瑠(アビル) ?〜235
南蛮の武将。孟穫らと諸葛亮に帰順する。
しかし定例の評定でうっかりと強盗の経験談を得意気に語ったために諸葛亮によって庶民に落とされる。
それを恨んで、諸葛亮の死後に蜀に復帰を試みるが姜維に一喝され自害した。
王様(オウヨウ) 184〜230
蜀臣。始皇帝の子孫と言われていた。
卓越した政治手腕を持っており「魏にさえ比肩する者はおらぬ」と評された。
第三次北伐の際に魏延に従軍し軍略面を務めた。
祁山のときに参軍を務めて略陽で張郃を討ったが流れ矢に当たり戦死した。
王太子(オウタイシ) 205〜277
蜀の臣。王様の子。名門王家の嫡男として父の王様に可愛がられた。
そのためにわがままな性格で周囲を困らせた。
しかし父が戦死すると今までの性格と変わり、嫡男としての威厳を見せ、劉禅の側近として活躍した。
蜀滅亡後は晋に仕えた。
覇尚封(ハショウフウ) 240〜280
晋の名将。奇襲戦法に長け、掃討戦を得意とする。
呉討伐に王濬配下として従軍。崩れ掛かった呉軍を一気に切り裂き壊滅させた。
この戦いで覇尚封は矢傷を受け、この傷が元で病死した。
夏侯物(カコウブツ) ?〜284
魏の臣。夏侯尚の族子。
司馬懿がクーデターを起こした際に仮病で曹爽を油断させるように進言した。
司馬昭が権勢を奮ってた頃、司馬昭に召集されて諸葛誕に代わり司空になるように言われたが拒否し
「大将軍にならなってやる。魏に政権を取り戻すのだ」と罵り
怒りを買い処刑されそうになるが司馬懿や司馬孚に信任されており、周りからの反対もあり死罪は免れた。
265年に曹奐が廃されるが、司馬孚と共に曹奐に仕え続けた。死後、司馬炎から加侯と謚された。
このスレって地名とか官職、故事はだめなの?
武将っぽければいいんじゃないか?
ただ、それっぽくネタをつくるのはムズイけどな
戦国武将っぽいのはダメかいな。
新聞にコレ(
http://www.kohzansha.com/)の広告が載るたびに気になる。
寺門興隆 てらかどおきたか ?〜1555
大内家家臣。周防寺門城主・寺門隆職の子。宗右衛門、住職、隆盛。
幼少の折に仏門に入ったが、兄の死により還俗して家督を継ぐ。
寺社奉行として、寺院の人事・所領問題など複雑な問題を解きほぐし、
その調整につとめた。性格は温和で思索に富んでいたという。
1555年、厳島の戦いで戦死。
一応、スレタイが「三国志武将っぽい」だから、反対しておく。
が、他の住人が好意的なら良いんじゃない?
まとめサイトには載らんと思う
連璽(レンジ) 生没年不詳
蜀に仕え、冷蔵(前スレ214)とともに兵站を担当した。
前線にあって、すみやかに暖かい食事を提供することに心を配り、
武将や兵士達の絶大な信頼を受けた。
孔明が死したとき、彼の机の上には次のような置手紙があったという。
「糧秣は冷蔵の庫の中にあり、連璽に陳して食せよ」。
北伐を陰で支えた能臣である。
>>638 一瞬オレンヂレンヂのことかと思った僕は負け組
文化(ブンカ) 155〜222
曹操の腹臣。文欽の叔父。
孟徳新書を張松に笑われた際に
「古の故人に学んでの兵法なのだ」と言ったが
「過去に拘っては乱世を切り抜けられない。」と一蹴された。
642 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/17(日) 04:31:41
三国っぽい道具や武器の名前も面白い。当て字ばかりだがW
カトウチャ
>>638 >連璽に陳して食せよ
ヤマタノワロチwww
連璽さん、今日もありがとう。チーン♪
閻行(エンコウ) 202〜268
魏の将。涼州の閻行とは別人。
曹叡の命で呉軍を迎撃、張球と共に諸葛瑾の船を火攻めにし陸遜を撤退させた。
敗走する呉軍を追撃して大損害を与え、その功で征西将軍になる。
鍾会の蜀漢討伐に従軍し蜀を滅ぼした。
貧しい女性に金を与えていたので民から「閻公」と慕われた。
晋建国後、司馬炎から奄侯と謚された。
尹蘭(インラン) 155〜220
後漢の名士。元は清流派の一人であった。
曹節らが清流派誅殺を始めた頃に名前を偽って崋山に隠れる。
白馬の戦いの後、曹操が訪れ、今後の事を占ってほしいと言われ
「川の流れる大きな原にて1匹の虎が1匹の狐の降伏により狐の群れを全滅す」
と言い曹操を喜ばせた。後に予言どおりになったため曹操に召し出され
後漢の光禄大夫になるように言われたが固辞、隠者生活を楽しんだ。
646 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/20(水) 18:22:04
松平の剣(マツダイラノケン)
祝宴などで剣の舞を踊る際に、松の木を平らに削って剣にみせかけて作られた小道具。
主君の前では真剣で舞うことはタブーとされており、よく松平をもちいた。
特に南蛮では舞が盛んにおこなわれ、サンバのリズムで松平の剣の、剣の舞を舞うことを、松剣サンバと言ったとか、言わないとか。なを精子には記述はない
姓は高 名は層 字は雲
150〜220
風のように素早く攻め、山のように固く城を守った。
これ以外殆ど不明。
通達(ツウタツ) ?〜280
呉の武将、海賊の出身で長江を往来する伝令将校として活躍したと伝えられる。
晋を迎え撃ち敗れた張悌に撤退を促したが逆に張悌の言を聞き留まることを決意
ともに戦死した。
通知、通告らの弟がいたが、皆正史、演義には登場しない
姓は高 名は積 字は雲
154〜223
とても頭のいい勇将。
酒場で高層雲と知り合い、字が同じ事をいいことに意気投合した。
そして曹操の下に行き家臣にしてもらった。
たびたび活躍したという。
すごいな。
解説が拙い。稚拙。
張長(チョウチョウ) 133〜192
後漢の名士。清流派。
張奐が追放されると第二次党錮事件で罪を問われ包囲されるが私兵を以って斬り抜け張奐を頼って落ち延びる。
曹節の死を期に偽名で王朝に復帰。黄巾の乱の際、皇甫嵩の参軍を務め活躍した。
後、董卓が皇甫嵩を召集した際に董卓を討つように進言したが容れられなかった。
王允の董卓暗殺計画に参加し手はずを整えた。
その後、長安に押し寄せた李カクに処刑された。
私兵の兵達からは「班長」と呼ばれていたという。
姓は笥呈(ステイ)名は阿洞(アドウ)字は不明 ?〜201
呉の説客。孫策が死亡し、後を継いだ孫権は、長江流域の川賊を征伐するために精を出した。
その際、降伏勧告を行っていたのが笥呈阿洞である。
順調に進んでいた勧告であったが、川賊の怒りに触れ、彼は捕虜の身となってしまう。
初の失敗であったが、孫権は怒り狂い、救出を拒否。
息子である笥呈羅洞は、孫権に「父を助けるために、私に2000の水軍をお貸しください!」と進言するも、
「説客は言わば主の手紙。他人に送った手紙を取り戻す者がどこにいる!」と取り下げる。
救出が遅れた阿洞は、斬首され、死体は船に乗せられ長江に流されたという。
その有様をみた国民は「孫権様は川賊さえ討伐できないのか」と、噂しあった。
姓は笥呈(ステイ)名は羅洞(ラドウ)字は公成 187〜245
川賊に殺された阿洞の息子。説客で知に優れていた父に対し、文武両道であったと記されている。
孫権は阿洞が殺された際に立った噂により激怒、息子である羅洞も打ち首にするように命じたが、
他の重臣に諌められ取りやめる。しかし、怒りが治まらない孫権は、羅洞を平民に落としてしまう。
羅洞は「我が父の汚名は、我が武勇で晴らす。」と誓い、姓を生まれ故郷である翻陽から一字取り、翻。名を父から取り、
翻(ホン) 阿洞(アドウ)と改名した。
その後、見事仇である川族の頭目を討ち取り、孫権に対し「我が父の汚名は、これにより返上いたします」と、川賊の首を捧げたという。
孫権は大変反省し「一通の手紙は戻ってこなかったが、それに勝る物が返ってきたわ。」と、将軍に取り立てた。
245年、流れ矢による負傷がもとで病死。
薄影(ハクエイ) 字は陰参 ???〜???
劉璋の配下。人物見の許劭曰く「この者、奇襲・伏兵に優れたるも、その功正しく評価されず」とされた。
法正・張松らの謀略により劉備の蜀獲りが始まると、真っ先に劉備陣への奇襲を行い、兵糧・武具などを数度に渡り焼き討ちした。
が、劉備軍は兵士の不始末と認識し、未来永劫、薄影の所業であることが解らなかったという。また、劉璋側もこの奇襲に気付いておらず、薄影は不満を漏らしたという。
劉備、成都入場の際、王累と共に城門にぶら下がり、死去。だが、これは民話で語り継がれている話で、蜀史によると
「王累が城門で死亡した際、共に死亡した将軍らしき者がいるも、誰一人その人物を知らなかった」と記されている。
後、劉備が蜀を治め、蜀に所属する将軍の名を一人一人読み上げた際、薄影の名が挙がったが、既に死亡しているため返事が返ることは無かった。
諸葛亮は「新しき国造りの時に、参内もしないとは何事か!すぐに探して参れ!」と怒りをあらわにしたという。
3つ共長すぎたかな・・・こんなもんでいいんでしょうか?
姓と名を分ける必要なし
字は下に
雷牙(ライガ)
曹操配下の将。関羽千里行の際に双子の兄と共に河惨奴羅(カサンドラ)の鬼哭関を守るが、関羽に敗れる。
その後、人質に捕われていた弟を関羽に救出してもらった恩に報い、
劉備の元へ続く道を確保するために夏候惇軍が放った投石を兄と共に受け止め、支えながら死亡した。
と呼ばれるその地には兄弟をまつった石像が建てられているが、
どちらが雷牙なのかは未だにわかっていない。
波安登(ハート) 160〜220
関羽配下の秘書令。もと黄巾賊で波才の甥とされる。
千里行中の関羽に廖化と共に仕官をするが断られる。
徒歩で関羽を追い、ついに汝南で仕官を認められる。
後に関羽と江陵に赴き守備をする。
麦城で関羽を逃がすために「南斗真拳」と称し素手で何人も呉兵を殴り殺した。
関羽敗死の報が届くと王累は呉の兵に殺される事より自決を選んだが波安登は
「大丈夫たるもの戦場で死ぬ」として突撃。呉兵を次々と殴り殺しついには包囲を突破した。
どうすればいいのかわからなくなり自殺してしまった。
張液(チョウエキ) 188〜263
蜀漢の将。張翼の族子。
もとは劉璋配下で劉備が攻めてきた際、別働隊を1年に渡り防いだ。
劉備に帰順した後、表面張力を発見するが戦略的には何の役にも立たないと判断、発表しなかった。
蜀漢滅亡後魏に降り列侯に封ぜられる。姜維・鍾会と反乱を謀るが共々殺された。
張力(チョウリョク) 生没年不詳
後漢朝廷に仕えた忠義の文臣。
文芝館(ブンシカン)という私塾を開設し、曹操の横暴に抗議した。
巨大な権力を向こうにまわし、よく同志たちをまとめた。
ここから「表面張力」という故事成語が生まれたのは有名である。
楊偽は『季漢功尊賛』で「文芝館の力を丸く凝集させた」と述べている。
わー♪「なーるほどザ・中華!復活特番」で優勝したのれーす♪
@ノハ@ ∋oノハヽo∈
( ‘∀‘) ( ´D`) <馬騰しゃまー!狄道⇔巴里の旅行券も勝ち取ったれすよー♪
WM(ダブルエム)=馬騰妾ペア
陳粕(チンカス)
正史の著者 陳寿の本名。
諸葛亮 孔明に父 陳式の首を刎ねられ、その事を怨みに思い、
正史に蜀の悪口と魏のヨイショを書いた、賢人。
赤兎(せきと)
全身が赤く、頭から尻まで一丈。足から頭まで八尺、一日に千里を走り、
山河を越えること平地のごとしという名将。
呂布を見方にしようとした董卓の命で、
説客の李粛につれられ、呂布の将となる。
呂布が処刑された後は曹操のもとに置かれ、一時曹操に降った関羽に属する。
その後は関羽に属し続けたが、関羽が呉に捕われる際、
赤兎も熊手などで足をからめられ、倒された。
関羽の処刑後、呉の馬忠にあたえられたが、
秣を食わなくなり、数日のうちに死んだ。
呉爆(ゴバク)
時々現れては関係のないことを言うというおっちょこちょいな蜀の武将。
質の悪いことに悪意は無く、単純に発言をする場を間違えているだけで、
そのまま逃げることもあるが、素直に謝ることも多いので憎まれることは少なかった。
詳しくは
>>660-661
>>664 ごめん、俺がほぼ似てるのを過去に書いた・・・
( @u@ ) <しばらくレスせんかったのう
>袁術殿----------------------------------------------------------------
>>81 (
>>20さて例の計画じゃが・・・。まだ他に同志に加わってくれそうな者はおるかな?)
(`Д´)ノシ
>>180 (`Д´)<ワシが必ずや漢を復興してみせるぞ
------------------------------------------------------------------------
工エエェェ(@u@ ) ェェエエ工工 ( ´д)ヒソ(´д`)ヒソ(д` ) (; ‘ .‘)ヒソ(‘ .‘)ヒソ(‘ .‘ ;)
>>321 皇叔、目を病まれたか。ワシも老眼が・・・しかし曹操のように老眼鏡まではせんでも大
丈夫ですわい。いつ天の時が来てもいいように、ご自愛召されよ
>>666 もうなんと言っていいか・・・orz ごめんなさい!
2度とないように、このスレお気に入りからは消します。
す、すいません。
伍貌(ゴバク) 148〜200?
後漢の臣。曹操に仕え、宮廷内のことを任された。
曹操暗殺計画が露見し、董承らが処断されると参画していた劉備を攻撃するように進言した。
対袁紹のときに、兵糧庫を探して焼き討ちするように進言した。
そして許攸の投降により兵糧庫の場所がわかると即座に攻めたが
誤って敵本陣に突っ込んでしまった。そして高覧に斬られた。
新声社(シンセイシャ)???〜???
芸雌塗などを編纂していたが字が汚く誤植が多すぎたことで有名。
最期は生活苦で人知れず餓死。
田中(デンチュウ) 189〜210
後漢の士。
官職に就かず、日がな一日
ブラブラとして遊んでいた。
名士とよく交わり、親交を深めた。
21歳にして孝廉に推挙させられ、参内する途中
乗った馬車が壁に突っ込み非業の死を遂げる。
小林(ショウリン) 泰剛(タイゴウ) 181〜205
後漢の名士。
豪商の家に生まれ何一つ不自由なくすごす。
その容姿端麗さから塾において「王子」と尊称された。
深く文学に詳しく、凡人なら引くような分野にも手を伸ばす意欲を持つ。
数人の女性を妾として囲っていて、忠誠の証として首輪を付けさせた。
しかし、欲にとらわれた1人が領主に讒言したために、無実の罪で逮捕でされた。
その後彼を知るものはいない。
時々ネタかよw
小林薫(しょうりんくん)
後漢の名士。
>>671の小林とは関係が無い。
大人を惑わす悪しき幼女を討ち取り、どぶに捨てる。
その勇猛な行動は、宅間(タクカン)の再来とまで言わせた。
高橋(コウキョウ) 179〜210
後漢の文官。
幼い頃より、英才教育を受けた。
凡人にはその才は計り知れなかった。
参内する途中、乗った馬車が壁に突っ込み
非業の死を遂げる。
この事故は多くの名士を殺す結果となった。
羅・地黄(ラ ジオ)
黄巾の乱に参加した下級官吏。
卓越した修辞センスを保持し、各地に配した弁舌スタッフ網を利用した広報戦略を考案した。
誰にでも理解しやすく教義を伝え、多くの民を乱に引き込んだ。
黄巾の乱が集束すると、戦争責任者の一人として斬罪になった。
676 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/22(日) 01:49:54
謝成(シャセイ) 177〜235
魏の将。郭淮の主簿として諸葛亮と何度も交戦した。
度々功績を挙げて帰ってくるので明帝や司馬懿にも信任された。
決して功績を威張ることは無かったが讒言を受け処刑された。
下品であったため粛清されたという説もある。
677 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/22(日) 09:18:12
喝(カーツ)
おこってばかりの魏の不精
678 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/22(日) 09:26:25
美亜野万(ピアノマン)
長江のほとりに突然あらわれた記録喪失の男
だが琴を弾けば、その琴の腕は中の下ぐらいだった
列沙判朶(レツサパンダ) 生没年不詳
蜀の奥地に住んでいた、チベット系と思われる民族の部族長。
圧倒的な勢力を誇る同族の大熊猫(ダイユウビョウ)の下風に立たされ、
長らく屈従の時を送ってきたが、205年5月、ついに立ち上がった。
>>680 >205年5月、ついに立ち上がった。
ウマス!ワロス!
うまく3行にまとめたね!GJ!
時々ネタばっかだなw
だがそれもいい
684 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/25(水) 06:52:31
時事妬(ジジネタ)
?ー?
呉の文官
幼少の頃より学問が好きでよく学び、その才は二国の神童とまで言われた。
17歳の頃に呉に仕官する。世の中の動きや情報よく観察し先を見通す才もすぐれていたが、一方では体が弱く、運動嫌いで足腰は弱く若くして年寄りみたいだった。以来、呉では、年寄りみたいな人を時事、ジジーと言うようになった。
ジジーの語源である
685 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/25(水) 13:44:02
呉儀(ゴギ)
魏の文官。呉質の妹。曹爽の腹心。
少帝の命を受け、卑弥呼に詔書を授けんが為邪馬台国に渡る。
しかし、倭国における曹氏の影響力を恐れた司馬懿の上奏によって
急遽洛陽に呼び戻される。
その後は匈奴との交渉の任務に就いたという。
686 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/26(木) 21:49:39
脱線故(ダッセンコ)
?〜?
字は事
孔明配下の武将。
若くして孔明が発明した木牛流馬の運搬任務にあたる。
が…経験が浅く、なお且つ、人材不足などで激務となり、おのずと木牛流馬の高速化が進んだ為、五丈原の本陣手前の右カーブを曲がり切れずに本陣へ突っ込む失態を犯し、木牛の下敷きになり死去。
>686
それは流石に不謹慎だろ・・・・
公孫茂(こうそんも) 174〜199
公孫越の長子。父が袁紹により殺害されるや、その復讐の念からか常に味方の先陣として活躍。
易京の戦いでは、援軍として駆け付けた黒山賊を率い袁紹軍を急襲。
袁紹軍本陣に攻め入るも、敵将蒋義渠との一騎討ちの末、真っ向から斬って落とされた。
架空武将だけどダメかな?
>>688です。日常使う言葉ですね!失礼しやした!
だけど、上手く出来たと思ったんだけどなぁ…
兎鵡耶蒸燻(とむやむくん)
南蛮王孟獲の甥。
諸葛亮の南征に屈した叔父に代わり南蛮を支配しようとし反乱を起こす。
しかし、孟獲との七度の戦に敗れ南蛮を追われる。
後に南方の異民族を従え、多夷国を建国。
特に、優れた食文化は周辺諸国に影響を与える。
693 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/27(金) 06:15:14
そんなことより無双4OPの趙雲の顔についてるのは汚れなんです
陶東(トウトウ)
演義にのみ登場する人物。東陶とも記される。
沂水関の副将で、卞喜ともども関羽に殺された。
許昌(キョショウ)
許攸の一族とも言われる。少年時代の曹操(阿瞞)の無二の親友であった。
ある日阿瞞少年は無茶な冒険をして、山賊に追いかけられた。
許昌は阿瞞を逃がすために山賊たちの前に立ちふさがり、むごたらしく殺された。
阿瞞少年は自分の無謀な行いで親友を死なせたことを深く悲しんだという。
後年、曹操は自らの国の都に親友の名をつけた。
そういえば許晶って武将がいたな
何原(カゲン)
字は美代子(ビダイシ)。
蜀の将。
北伐の際、司馬句(
>>579 )の守る城を攻めようとしたが、
なかなか堅牢な城でだったので、やぐらを建てさせ、
そこから、とてつもない声量と迫力で、音楽を流しつつ銅鑼を叩きながら、
「引越し!引越し!」とリズミカルに叫んだ。
そこで偶然、司馬句を発見したため、「引越し!引越し!さっさと引越し!司馬句ぞ!!」と叫び、
その迫力に、司馬句は恐れおののいた。
しかしその後、魏の援軍が到着し、捕らえられた。
何は「河」の書き間違えでは無いか、という説もある。
何某(カボウ) 160〜223
魏の将。字は其他(キタ)。「某」は実名。予州沛国の人。
曹操の旗揚げの際から付き従った股肱の将。鎮東将軍まで登った。
戦場にあっては勇猛果敢にして縦横無尽、平時も太守として治績をあげ、
多士済済の魏陣営の中であまたの名台詞を吐いてはいるのだが、
いかんせん名前が悪く存在感が皆無である。
699 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/29(日) 07:20:55
ヨジョウ・ハーン
?ー?
ミコスリ=ハーンの一族。
モンゴル帝国、最後の皇帝。かつての繁栄は見る影もなく衰えをはじめた帝国は崩壊寸前、皇帝とは名ばかりで、その生活は、とても肩身が狭い城も狭い生活だった。のち司馬炎に攻め込まれる。
>>699 1k風呂なしトイレ共同ワロスwwwwwwww
イイよイイよー♪
左利(サリ)生没年不詳
字は衛里(エリ)
後漢の人 幼少より音楽の才に恵まれ、協律都尉となる。
曹操(阿瞞)の音楽の師とも言われる。ライバルであった
孟通(モウツ)を毒殺したという讒言により、その地位を
追われ不遇の生涯を送った。
イマイチだけど作ってみた
ちくしょう・・・
>>663読んで朝っぱらから爆笑しちまった
梅武 生没年不明
殷時代の武将。
崇侯虎の家臣であった。周との戦いで一騎討ちをしたが勝負がつかず、
両軍入り乱れての戦いになり、あえなく討ち死にした。
区牌(オウパイ) 169〜234
孫策に仕えていたが粗暴さと無謀さに呆れて曹操に降った。
曹操に降った後、郭嘉が孫策がつまらない者によって死ぬと予言したときに
「やつは誰かの食客によって最後を遂げる。」と付け足したという。
そしてその予言通りに許貢の食客によって孫策は死んだ。
これを曹操は「山から地を見下ろしているようだ」と評した。
官渡・荊州制圧で功績を挙げ軍師に任命される。
234年、五丈原で諸葛亮が死ぬとこれを追撃して殲滅するべきだと司馬懿に進言するが
慎重な司馬懿は一部隊で追撃しろと言うだけだった。
止む無く単隊で追撃し王平・魏延と激戦を繰り広げるが王平に真っ二つに斬られた。
明帝は二つの山に片割れずつ埋葬したという。
梅干(バイカン)142〜224
24歳の時に官人試験を三回受けたが全部だめで諦める。
38歳の頃、太平道が動き始めたため入門(?)する。
42歳の時、太平道が挙兵したため副将として参加する。
太平道が負けたため予州で山賊となる。
荊州の劉表に仕官する。その頃、梅を干した保存食を発明する。
劉表が死去する。このとき隠居する。
裴成功(ハイセイコウ)
蜀の武将。顔は馬のように長く、足も馬並みに速かった。
劉備に仕官してからは戦で破竹の10連勝を果たすが、
優駿の戦いで魏の竹邦布(チクホウフ)に敗れてからは
互いを好敵手と認め、何度も競い合った。
正史には登場しないが、彼が退役する際に贈られたという
「鎖羅馬裴成功」なる詩文が現在まで残されている。
707 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/24(金) 22:15:18
kage
【帰ってきた】〜官職市場〜【仕官者募集】スレ主の 霊帝 ◆OU/VvbI9MY です。
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1119453380/ 迷える子羊ども・・・、出てこいや!!!!!!!!!!!!!!!
出てこい、出て濃い、出て濃い、出て濃い、デテコイ!。
(仕官者募集厨) (仕官者募集厨)
実は賢い無双厨大歓迎〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
無双厨はいい官職にツケタゲル
(仕官者募集厨) (仕官者募集厨)
まってま〜〜〜〜〜〜〜〜〜@5
ついでに晒し上げい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
709 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/25(土) 01:26:24
孔歪顔神(クワイガンジン)
蜀の武将。名刀、雷斗星馬(ライトセイバー)の使い手。
会飛想土湾(エピソード1)の戦いで魏の暗黒蒙流(ダースモール)に敗れる。
孔歪顔神の弟子の一人の穴金(アナキン)が後に有名な武将暗黒米堕(ダースベイダー)となる。
毛布[もう・ふ]
?〜208
代県の生まれ、鮮卑族の血を引く彼はエン紹と公孫サンの間で起きた争いでは公孫サン側に着き、全身を毛皮で覆った独特の騎馬隊を率いたびたびエン紹軍を苦しめた。
最期はエン紹配下の猛将・顔良と一騎打ちし、数十合に渡る名勝負を演じるが惜しくも破れるが顔良はこの強敵の死をひどく惜しんだと言う。
>>709 巧い
毛姓(毛カイ)も布名(呂布)もいるし、実在したかもな
713 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/26(日) 04:23:21
>>712 でも200年に死んでるはずの顔良に208年に殺されてるわけだが
顔良は赤壁で大暴れしたそうな
明太子(みんたいし)
本名は孫明、孫権の子で呉の太子。後継者争いに巻き込まれて廃位され憤死。
国民の人気は高かったらしく、彼が好んで食べていた鱈の卵巣の漬物が、
彼の名をとって明太子と呼ばれ、今日まで伝えられている。
満足(マンソク) 188〜255
満寵の族子。
張遼死後に合肥に駐屯して攻めてきた呉軍を何度も撃退した。
その功績で驃騎将軍の位と弘農侯が用意されたが
「今の地位で充分です。」と断ったという。
このことから謙虚な姿勢をとる事を満足するというようになったが
現在では転じて満ち足りるなどのような使われ方をするようになった。
717 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/05(火) 20:12:35
あげ
【蹇瑾(ケンキン)】→【紀瑾(キキン)】
後漢末期の文官。
十常侍の一人蹇碩の一族で一族の蹇碩の背景の下財力を蓄えた。
その財力を当初は時の有力者に賄賂として送り官位を上ったが、ある時洛中で薬代を出せない貧者に施した事がキッカケとなり貧困の農民や病人を支援した。
この支援は多岐に渡って施され蹇瑾は世間の評判を得た。
しかし一族の出世頭であって蹇碩が何進によって謀殺。
この事件で強力なバックを失った蹇瑾は落葉から脱出。
このとき彼が支援した人々が各所各所で彼をかくまり彼を追っ手から守った。
彼はこの協力に感激し脱出地で彼の評判を知っていた名族紀氏に婿入りし【紀瑾(キキン)】ト名乗った。
その後は紀氏の地盤で地域の民を安寧に導き平和の中で没した。
と参加AGE
719 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/05(火) 21:19:28
楽天(ガクテン)
荊州の大富豪。来舞度亞と争い勝ち、
東北楽天黄金鷲を作り上げたが、経営不振。
楽蘭(ガクラン)
後漢末期の将。荊州の出身。
当初は郷里の長沙郡で県の尉を務めていたが太守の推挙により中央に進んだ。
当時の中央は外戚や宦官、清流・濁流が入り乱れ混迷していた。
楽蘭はその中で清流派の李膺らの派閥の元に入り、虎賁中朗将にのぼった。
楽蘭は太学生向けに軍服をもとにした征服を作り党人の連帯を高めた。
しかし宦官勢力との対立が激化し166年に党錮の禁が起こると官職追放を受けて郷里の長沙郡へ帰郷した。
その後郷里で青年以上を対象として儒学を教えたが169年の第二次党錮の禁で処刑された。
後に彼が蕩尽向けに作った制服が彼の名前から『学蘭』と呼ばれるようになった。
蕩尽→党人。
同じ箇所の党人→太学生。
このほうがわかりですね。
722 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/11(月) 16:04:51
田舎(デンシャ) ?〜231
田豫の子。
漢中に劉備が侵攻した際、下弁を奪い撃退した。
再び劉備が定軍山に侵攻すると、張郃と共に防衛するが敗走
夏侯淵の送った兵により長安に帰還。
街亭で馬謖を大いに討ち破り、更に安定を取り返した。
230年、首陽で郭淮に従って魏延軍と戦うが郭淮が敗れたために敗走。
翌年、諸葛亮が祁山に軍を動かすと司馬懿らと防衛。
撤退する諸葛亮を司馬懿の無理な命令で追撃し張郃が陣没すると撤退。
司馬懿に張郃が死んだ責任を問われ讒言により処刑された。
723 :
諸葛玄人 ◆uUpznhPIvk :2005/07/11(月) 16:14:47
久々 良スレ
724 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/11(月) 17:35:35
武雲(ブーン) ?〜?
希代の名将、武安国の嫡男。実は片腕を斬られて二日後に死んでいた父の敵:呂布を討つために
孔融配下となるが、その呂布との一騎撃ちの際に崖に追い詰められ、逃げ場を失った彼は
両腕を広げ大空へと飛び立った。父親と同じく、その後の消息は不明。
演義にのみ登場する。
725 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/11(月) 18:41:21
魏胡(ギコ) ?〜?
呂布配下の将、魏続の愛娘。幼い頃より闊達・明晰で親に似ず美しく、将来を有望視されていた。
しかし、元服の儀式の際、主である呂布のさり気ないボケに対して満面の笑みで
「逝ってヨシ♪」
と言ってしまった為に呂布の怒りをかい、処刑されて自分が逝ってしまう。
娘が殺された為に魏続は呂布を恨み、後の反乱の火種となる。
nanndanekonokanntigai
お馬はポコポコ
age
729 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/03(水) 02:28:25
あげ
巴道芸(ハドーゲイ) 生没年不詳
字は普翁(フオー)。孔明の側近くに仕えた異色の将。
黒尽くめの革の鎧に身を包み、奇声を発して自己の存在を誇示したという。
孔明が司馬懿に簪を送りつけた際の使者が巴道芸。
非常に挑発的な行為だったが、司馬懿はよく耐えた。
731 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/15(月) 21:32:10
あげげ
732 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/15(月) 22:09:42
夊谺(スイカ) ?〜235
字は紆黐袤(うりぼう)陸遜配下の将。策を共に考え、陸遜を助けた。頭も良く、諸葛亮の石兵八陣の際も陸遜を助けたと言われている。大変頭の冴えた将だと言われている。
733 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/16(火) 05:03:47
陳歩
734 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/16(火) 05:59:10
王女服(オウショフク)生没年不詳
孫権の妹・孫尚香の侍女の一人。
特に尚香の服の管理を担当していた。
尚香が息子と呉へ帰国しようとした時に連れ戻そうとした趙雲に船上で射殺された。
737 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/18(木) 00:03:39
阿柘(オタク) 189?〜264
董卓最後の子。
元は董柘(トウタク)という名。
董卓亡き後は母や数人の親類と青州でひっそりと過ごす。
少年期に母と町を訪れた際、町で見かけた女の画に惹かれ、以後周囲を気にせず画を買いあさる日々を送る。
それがきっかけで董家から勘当されたが、その世界の仲間から親しみを込めて阿柘と呼ばれるようになる。
だが結局は父親似の運命で皆から嫌われ、仲間も離れていってしまう。
その後も画を求めて南に渡ったが、南蛮の都で不審者として捕えられて処刑される。
人々は言った、「哀れ阿柘の一生は…」と。
※青州で見つかった『青州女画会一覧』から。真偽は謎。
ただ、その中には諸葛孔明と思われる記述があったため、作者の配慮により歴史の表舞台には登場しない。
>>738補足
阿柘に関しては諸説あるが、今のところ738が最有力。
他には元々南蛮人で南蛮にある女画を書く集団の長だったという説や、はるばるシルクロードを渡って来たローマ人だという説がある。
だがどれも資料が少なく決定打はない。
ただ古代中国の人にとってもオタクは異様な存在だったようだ。
挙げ
741 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/25(木) 19:26:36
馬朗 バロウ
鹿尹 カイン
馬家の一人、ホウトクと一緒に魏に降った。
その後漢中に配属されたがその後の消息は不明
742 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/26(金) 01:21:55
743 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/26(金) 04:15:31
大三元(ダイサンゲン)・・・生没年不詳
魏に仕えた猛将。3万2千(一説には4万8千)の軍隊を一瞬にして壊滅せしめたという。
敵方の将兵は彼が近づいていると知っただけで一目散に逃げ出した。
744 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/26(金) 04:36:05
国士無双(コクシムソウ)・・・182‐219
魏の将・初任で荊州を守って居たところに関羽が攻めてきて迎撃に出、関平の軍を抑えていたが、軍中からでてきた、関平を一騎討ちでたじろかせもう少しのところで援軍にきた周倉に二人がかりで攻撃され討たれた。
745 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/26(金) 04:47:46
孫黄(ソンコウ)・・・生没不明
孫乾の従兄弟・孫乾とは違い武官として動いた。
なんと呂布軍の高順の軍を兵術で抑えたという。
その後も地味ながら敵の名将を兵術で抑え続けた。
北伐にも行き蜀崩壊まで戦ったようだが兄とはあまり年は放れていなかったようだ。
それと、敗走する軍の殿を何度もした猛将と言う説もある。
746 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/26(金) 05:40:26
無能(ムノウ)200‐275
蜀の将・名とは逆に多種多用であったが、ほとんど家の修理や猪狩り、蛇退治など乱世には必要ないモノだったが、諸葛亮に「真、治世の良臣なり。」と言われたそうだ。
しかし、蜀崩壊後は民になり人々の役にたったとかたたなかったとか。
>>1 >三国志武将っぽい漢字を武将にするスレ
漢字を三国志武将っぽくするスレ
じゃないのか。
748 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/26(金) 10:49:17
満固(マンコ)153〜196
字は銘器(メイキ)公孫讚配下の将。
公孫讚の幼馴染で旗揚げ当時から従軍していた。
界境の戦いで袁紹配下の猛将・陳固(チンコ)字:童貞(ドウテイ)を討ち取る(狩る)功績を残す。
しかし、その後の烏丸族討伐において謎の将・何騰(カトウ)字不詳によって昇天(イカ)され壮絶な最期を遂げた。
言い伝えによると、夜、公孫讚が満固のもとを訪れることがしばしばあったという。
750 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/27(土) 19:04:18
牛譚(ギュウタン)生没年不詳
曹仁配下の部隊長である牛金の弟で、兄とともに戦った。
曹操は荊州を平定すると曹仁を江陵の守りに配置した。
呉の周瑜は数万の兵を率いて江陵を攻めた。
数千の兵で構成された先鋒部隊が到着すると、曹仁は牛金に牛譚と三百の兵を率いさせ、これに当たらせた。
牛金と牛譚は奮戦したが、周瑜軍に包囲されてしまう。
包囲された後、牛金に放たれた矢を牛譚は自ら体を張って止める。
その後、曹仁が包囲網に突入して牛金と牛譚を救った。
戦いの後、牛譚はその矢傷がもとで病に倒れ、逝去した。
牛金は「牛譚こそ真の将であり、私の誇れる弟である。」と、牛譚の死を悼むとともに、その功績を讃えた。
諡として叙々苑侯という名を与えられた。
751 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/27(土) 19:47:19
糜茗(ビミョウ)
糜芳の一族の一人。
以下不詳。
754 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 15:52:28
過疎hage
田中 義剛[デンチュウ ギイゴウ]
生没年不詳
魏の武将
陀圧[ダアツ]将軍、所条路[ショジョウジ]の副官で、よく前線に駆り出されていた。
ある日の任務中、見晴らしのいい丘を発見する。
その見晴らしのよさを『華中全見也(中華まる見え)』と称し、
特捜部という小屋を立て、所条路とともに警護にあたる。
晩年になり、老いを感じた自分に嫌気が差して下野。
華北で牛牧をしていたという噂があるが真実は定かではない。
正史、演戯には登場しないが、
毎週月曜の黄金時間に、日本テレビを回すと出てくる時がある。
所条路 目点[ショジョウジ モクテン]
生没年不詳
魏の武将
弓を獲物とする武将。
矢を放つだけでもその姿は雄々しかったため、
『陀圧[ダアツ]将軍』なる位を曹操から承る。
針金を曲げ、中心に焦点が合うように仕込んだ
目金[モクキン]と言われる、現代におけるスコープを発明したとされている。
また、殿を任されることもあり、撤退戦にも長けていたとされる。
このことから曹操は「守るも攻めるも使い勝手のいい奴だ」と重宝していたらしい。
晩年、山桜花[ヤマオウカ]なる文官に『陀圧が旅にでる』と言い残し下野する。
その後各地で所条路なる人物が村々を訪問し、
『我第一村民発見也』と叫ぶ姿が目撃されるが、正史、演戯には記述が無い。
英和[エイワ]。
字、典才[テンザイ]という。
魏の文官 ?〜271
金髪であったとされ、生まれは西方であるとされる。
若いころから語学に長け、師である大修館(タイシュウカン)の推挙により
魏軍に登用され、地方部族との交渉人となる。
その後、いろいろな部族の扱う言語を纏め上げ、部族交渉に尽力する。
英和は『展才英和自伝』として息子の英作文[エイサクブン]に
自身の編纂ノウハウを詰めた自伝の保管を頼むが、
ライバルの田師[デンシ]の刺客に自伝を奪われてしまう。
憤りを感じた英和は司馬炎に直々に抗議に行くが取り扱ってもらえず、
田示の謀略により英和は処刑されてしまう。
その後、ノウハウを得た田示はさらに改良を重ね
よりわかりやすく編纂を行った『田師自書[デンシジショ]』を朝廷に献上する。
しかし、東晋崩壊の時期に『田師自書』は行方知れずになってしまう。
一説では生き残った英和の子孫が書物が書物殿を焼き討ちしたとされる。
残念ながら英和一族、田師一族ともに正史、演戯に記述はない。
現代において『ジーニアス』なる英和辞典が存在するが関係性は無いと思われる。
新吾 嵩価[シンゴ スウカ]
?〜234
魏の武将。倭の国から渡ってきたとされる一族の末裔。
荊州が曹操に襲われたときに両親と妹を殺される。
劉備が来たおかげで家族が殺されたと思い、打倒蜀を志す。
とある撤退戦において、獅子奮迅の活躍を見せ、
決死隊の部下達に『不劣光』(劣勢ではない、光があるのだ)と言わしめた。
最初は曹叡の信頼厚く、武官として頭角を現していたが、
蜀の武官である黄等[コウトウ]の妻の叔母である千晶[センショウ]の謀略により、
曹叡からの信頼を徐々に失っていく。
最期は五条原において黄等に「本気勝負。新嵩価勝利不可也」と罵られ、
出て行ったところを伏兵に狙い撃ちにされ絶命する。
正史、演戯には出てこない。
禰倶 篤価[デイグ アツカ]
?〜?
曹操配下の武将。
弓を得意とする武将であったが。
倶霊刀と呼ばれる薙刀を用い活躍したところから
『倶霊刀の禰篤価』と称される。
于禁とともに従軍するが、関羽に降伏する。
捕虜期間に侍従の羽生氏に惚れてしまい蜀に投降する。
幾度となく彼女を口説き、お互いに認め合う仲まで発展するが、
羽生氏は戦死した夫を忘れられず、結局禰倶は振られてしまう。
その後も蜀に尽くすが、下野。
再び魏に戻り友人の郁策[イクサク]の副官を務めたとも、
中華を巡り、食文化を学んだともいわれている。
正史、演戯にも登場しないが、
チャーハンは卵を先に入れて作るとよく馴染む。
路江 奈洲[ジコウ ナス]
生没年不詳
曹操配下の武将
同僚の螺久那[ラシュウナ]、明瀬[ミョウセ]とともに、
阿牟種なる馬に乗り、『阿牟乗り』と呼ばれる。
この阿牟種とは素早く、一撃離脱を得意とする馬だった。
青龍刀を獲物とし、3人の中で切込み的な役割を果たした。
戦場では常に『我決行也』と気合を込めて突貫していく様を、
暴れるとともに敵に苦を与えると込めて『暴打多苦』と呼んだ。
また、阿牟乗りと呼ばれ、
費吾笥[ヒアス]、刈穂折[カルホセツ]、呉摩[ゴマ]、仁流義[ジンリュウギ]、沙々[ササ]は
上の3人と纏めて『純真阿牟乗将』と呼ばれたらしい。
官都の戦いにおいて袁紹軍に応戦するが、苦戦を強いられ、
その後彼らは散り散りになってしまう。
半世紀以上経ったころ、諸葛誕が反乱を起こした際に
晋の武将、魯謝[ロシェイ]、荊継[ケイケイ]が阿牟種の馬を見たという噂があった。
残念ながら正史、演戯共に登場しない上に、
阿牟種なる馬が存在していたか定かではない。
ちなみに、フランス語で『行くぜ!!』はアロンジィーと言う。
定規(ジョウギ)???〜222
字は物差(モノサシ)。
魏の将。物の長さをはかるのを得意とし、 数々の武将の身長を正確に記録したが、
背が小さい事がコンプレックスだった曹操に疎まれ、失意のまま病死した。
死後、遺体は同僚の消護謨(ケシゴム)の手によって机の下に弾き飛ばされ行方不明となった。
馬場(ババ) 生没年不明
西涼の精鋭騎兵を率いていた猛将。身の丈10尺はあった巨漢。
その大きな足で西涼一の猛将・閻行をも追い詰めたという。
764 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/10(土) 22:27:52
電柱(デンチュウ) 生没年不明
呉の将。
背丈は一丈二尺を超える長身でありながら、がりがりに痩せたアバラの浮いた体と
朴訥とした性格のために子供たちにもバカにされ、犬には小便をかけられた。
鳥好きでスズメを肩に乗せているところを、しばしば目撃されている。
義兄弟に物干竿という武将がいる。
765 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/10(土) 22:32:01
電球(デンキュウ) 生没年不明
蜀の文官。
小柄で丸顔。肌は白玉の様に白かったと言われる
また、元来明るい性格であり周囲の人物からも好かれていたらしい。
766 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/10(土) 22:45:55
電報(デンポウ) 生没年不明
魏の宦官。
よくも悪くもおしゃべり好きで、たびたび曹操にたしなめられた。
喋るのを止められた電報は今度は手紙をそこかしこに贈りつけるようになった。
しかし、学のない電報の手紙は非常に読みづらく、また内容に実の無いものが多かった。
最後はしつこい手紙に怒った張遼に斬られ、死亡した。
>たびたび曹操にたしなめられた。
ごめん まったくもって理解できない
うがああああああああああああああああああ
どこコピーしてんだよおれえええええええええええええ
お前のが理解できないぞ
771 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/15(木) 06:29:07
わけわかんねー事書いてスレとめてんじゃネーヨ!
772 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/15(木) 08:39:50
陳鉾(ちんぽこ) 69−?
陳一族の出身。矛を使う事に優れている。
不謹慎(フキンシン) 185-208
不謹は姓、慎は名。字は尊大(ソンダイ)。魏将。
我流ながら武芸に秀でていたものの、学問にはまるで興味がなく、口の悪さで知られた。
また、場の空気を読めない性格で、仲間の将からもしばしば白眼視された。
赤壁の戦いの際、本陣にて「この戦は惨敗だろう」と思わず口走り、激昂した曹操に斬られた。
空気は読めずとも、一歩先を読む力を有していたのかもしれない。
774 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 13:27:08
盛り上がらないな
黄桜(コウオウ) 生没年不詳
蜀の武将。字は河童(カドウ)。
旗揚げの頃より劉備に仕えるが、戦の中で
劉備を守って大きな傷を受ける。
命は取り留めたものの、武将として働くことはできず、
体力的な限界から、敗戦を続ける劉備軍に
ついて行くことができなくなり劉備の下を離れることとなる。
陣容、物資ともに厳しい状況にもかかわらず、
劉備は火の車の軍資金から黄桜への感謝の意として
彼の去り際に僅かながら礼の金を与えた。
黄桜はこれに感謝し、故郷に帰った後、
経営に苦しんでいた親族の酒蔵に、持ち帰った金を預けるかわりに、
いくらかの酒を補給物資として劉備に届けるよう頼んだ。
届いた酒は大変美味で、張飛をはじめとする将達を大変喜ばせたという。
これによって名声を得た黄桜たちの酒蔵は経営を持ちなおし、
黄桜の酒は現代にまで生き残っている。
王延(オウエン) 生没不詳
字は頑張(ガンバ)
各地で応援を繰り返した名将
黄巾の乱では程遠志、虎牢関では武安国、
官渡では高幹を、赤壁では陳武と孫朗など
応援する相手を間違い続けた。
八王の乱では、陸機を応援していたそうだ。
ってことは100歳以上生きたのかwwwwwwwっうぇうぇうぇうぇうぇwwwww
山田(サンデン) ?〜263
字は太郎。山濤の一族。怪力の持ち主で
棍棒を振り回せば敵の首が100里飛ぶと評された。
劉備軍を漢中の南、下弁にて防ぎ大功を挙げた事から
「留下弁(ドカベン)」とあだ名された。
晩年は司馬昭に留め置かれ洛陽で過ごしていたが
姜維と鍾会の反乱に巻き込まれ殺された。
779 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/06(木) 22:07:58
ほぅ、みごとに糞スレ化したのぅ
KUじゃない
KAだ馬鹿
781 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/07(金) 18:56:34
ほぅタコが住み着いたからか
782 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/07(金) 19:34:51
破産(ハサン)生没不詳
字は終了。曹叡と親しく、大資産家であったが曹叡の子、曹操挙兵の際に全財産のほとんどを提供し貧しい生活を送る。その後曹叡のもとに身を寄せるが、曹叡没後、巻き添えを避けるために曹操のもとへ逃げるが曹操の怒を買い国を追われる。
( ゚Д゚)ポカーン
784 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/07(金) 21:17:26
会除遜(エジソン) 生没不詳
字は発明。曹操に仕えた科学者。様々な発明をして曹操を喜ばせたが、
戦には何の役にも立たない発明をしていたのであまり重用されなかった。
彼の残した発明の中の竹の節を利用した器二つの間に糸を
まっすぐ張ると、少し離れた所でも会話ができる「糸伝話」は
おおいに曹操を喜ばせ、一族は曹操のお墨付きを貰った。
が、やはり戦では全く役に立たなかった。
高達(コウタツ)?〜198
字は不詳。呂布配下高順の子。
白銀の鎧を身に着けて戦場で暴れる様から、「白い悪魔」と呼ばれる。
後に、下ヒ陥落に及んで戦死。
その亡骸は頭と左腕が無く、右手で剣を握り締めていたという。
尚、正史・演義に記述は見られない。
阿蘇山(アソザン)
阿会喃の子。
父親が殺されると孟獲を捕らえて諸葛亮に引き渡した。
その後、蜀に仕え北伐にて大功を挙げ「蜀漢活火山」と称された。
馬謖が山頂に布陣するとものすごい熱を発し蒸発してしまった。
787 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/09(日) 04:28:10
呂離婚(ロリコン)
?ー?
字はω
呉の武人。とっても、小さい女の子が好きだった…
半端でぶんなげます、すみません
馬義(バギ)
字は十字(クロス)
馬氏一族の末席にその名を連ねる。
馬超が曹操との戦で敗走する時に単身で殿を勤め、
二刀流で真空のように敵を切り殺し続けるも、壮絶な最後をとげる。
一説によれば、同一グループの敵に100前後のダメージを与える猛将であったらしい。
789 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/13(木) 14:23:27
ハメハメハ大王
南蛮の奥深く伝説の大王。孔明が南蛮平定に出向き戦いをいどんだが、雨が振っていたので免戦の札をかかげ、かたくなに戦いをさけた。のちにハワイへと逃亡する。
790 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 01:42:06
田代(デンヨ)
袁紹の謀臣、田豊の甥。袁譚に仕官すると頭角を現し
袁譚のよき後見人となり、袁紹からの信任も厚かった。
しかし袁譚の側室の部屋に忍び込もうとした疑いにより
追放されたという。
791 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 12:15:54
留年(りゅうねん)
字・退学
曹操配下の将
袁紹との対決が初陣
はじめ、勇んで顔良に打ってかかるが、不利になり撤退
その後、ブンシュウに戦いを挑むがまたも撤退
更に張合に今までの恥を削がんと斬りかかるが、またも撤退
その後の劉備との戦いでいつの間にか居なくなっていた。
>>788 馬義は実在するよ
記憶では馬良の息子だったきが
793 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 12:38:40
延髄(えんずい)
字:切理(ぎり)
黄巾賊の将
官軍相手に必殺の『延髄切り』をお見舞いし活躍する。
義勇軍だった関羽にも200合打ち合うなど武勇を見せるが、
翌日、延髄切りを避けられ、弱点の延髄に一太刀喰らった為、
戦死した。得意だった延髄切りはプロレスラーがよく真似している。
794 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 12:54:33
200合って、強すぎ
795 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 13:45:19
彩麗
姜維の妹で、大変可愛らしくいい娘だと評判だったが、ある日不倫相手の孫権と愛の逃避行で呉に降臨。
甘寧に惚れられ、孫権に内緒で付き合い、そして黄蓋に求婚されたが断る。
後に彩麗は孫堅に「燭へ帰りたまえ。」と言われるが、甘寧の子供を妊娠している事が発覚、孫権にばれる。
彩麗は孫家に追い詰められ自殺で世を去った。
後に曹丕に貢いでいた事と趙雲のセフレであったが発覚、本当に付き合っていた者はとうに亡くなっていた。
そして隠れ腐女子という事実も発覚した。
796 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 15:14:49
【弐知楊】ニチヤン(200-200年代末頃?)
字は伝わっていない
一説には姓が「弐」字が「知楊」とも言われている
南陽に生まれるが赤壁の大敗のどさくさに巻き込まれて洛陽に移る
幼い頃よりその文才を評価する声は高かったが、やがてそれを鼻にかける様になって疎んじられる
年端もいかないくせに酒屋に入っては勝手に詩を書いて、礼代わりの飲食をせびっていたために「厨房」と呼ばれるようになる
更に弐知楊は酒屋で泥酔して嘔吐することが多く、汚物の処理にそのときに詩を書き残した紙を使うことが多かったため、
弐知楊の書いた詩は「便所落書」と呼ばれて軽んじられた
この様に若き頃は疎んじられ、狂人として評判だった弐知楊だが
曹叡の即位時に気まぐれで蜀の脅威を綴った落書が劉曄の目に留まり、官吏として大抜擢される
当初は今まで通りの放言が目立っていた弐知楊であったが司馬懿失脚を機に大人しく真面目になる
後に司馬懿が復権した際に弐知楊の変わりように驚いたと伝えられる
しかし、諸葛亮の死後、暴政を続ける曹叡を見限って野に下り、再び洛中で自由に物を書いて暮らすようになる
そこにはかつて厨房、便所落書と呼ばれた弐知楊の姿は無かった
弐知楊は時に世を風刺し批判する詩を書き綴っていたが、曹叡に目を付けられて捕縛されそうになる
これを機に弐知楊は歴史の表舞台から姿を消すが、弐知楊の影響を色濃く受け、その詩の音をよしとする者は
「弐知楊音良」(ニチヤンネラ)と呼ばれて全国に広まった
200年代末頃の作と思われる弐知楊辞世の詩と思われるものが後に発見されるが、果たして本当に弐知楊の作かどうかは未だに不明である
御宅【オタク】
字は「萌えー」
200〜222(適当)
洛陽の武人、蜀の兵士になって諸葛亮の陳倉攻めの際ブラクラにかかってしまい
戦士した。。。
798 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 16:28:15
冷房(レイボウ) ?〜222年
劉璋配下であった冷包の従兄弟
劉備の征蜀の際には当初ラク城外の冷包陣内に幕僚として参加していたが、
夜襲を受けた際に単騎落ち延びて身を隠す
呉懿が劉備に降った際に彼の進言により取り立てられて活躍する
薙刀の使い手として知られ、彼の振り回す薙刀の風の冷たさもあいまって、
側で見るものは「あれが我が身に振りかかったら・・・」と胆を冷やしたという
夷陵の戦いにも行軍し、先陣を務めた
陸遜の火計にはまった後も孤軍奮闘するが戦死する
799 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 16:53:30
調布(チョウフ) 159〜208
元は予州の豪商の息子であったが黄巾の乱の折に気まぐれで義勇軍を結成する
劉備軍とは完全に対極にあり、真新しい装備と素晴らしい軍馬を揃えてはいたが士気は著しく低かった
黄巾の乱鎮圧後もそのまま私兵として雇い続けていて豪族を気取っていた
私兵たちには予州田園に太守以上の立派な邸宅を用意してその権勢を誇っていたという
曹操の呉征伐の折に曹操に取り入って従軍するが赤壁の戦いで死亡する
ガキくさいのが混ざってます
801 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/20(木) 21:40:55
史郎(シロウ)171〜244
字は佐野
元は漢室において将校を代々務めていた家柄であったが曹操の台頭に伴い曹操幕下となる
元来、史郎自身には思想的なものや今後の読みがあったわけではなく、
女傑であった史郎の母の野氏の意向を反映したものと思われる
野氏は名誉欲が凄まじく、とにかく史家の存続と家名向上だけを考えており、
漢室の側近と言う由緒を捨てても曹操の今後にかけたのであろう(結果的にこの読みは正しかった)
だが、この様な女傑の下で指示を与えられ、守られて育った史郎は非常に決断力に乏しく臆病であった
出陣の折には必ず野氏が馬車に乗って同行し、実際の指揮は殆ど部下が執っていた
曹操からすれば取るに足らない人材でいつ放逐してもおかしくなかったのだが、
野氏の名誉欲を利用してとことんまでに史家の財力を引き出してやろうと目論んでいたのである
しかし、史家の財力は衰えることを知らず、また野氏も健在で220年には曹操が先に病没してしまった
だが、曹操の死を見届けるかのように野氏も死去し、その後何もできない史郎は史家を一気に没落させた
曹叡の代になると捨扶持をもらって荊州に移住し、その日暮らしを続けて244年に老衰で死去した
曹操、曹丕、曹叡、曹芳と魏4代に仕えた割には全くと言っていいほど華の無い人生であった
史家が次に歴史の表舞台に出て来るのは800年以上も後、悪政に立ち向かう1人の好漢としてである
沙亭庵(サティアン)?〜217
心理党の将。武陵蛮、沙摩珂の兄。
日頃から弟とは折が合わず、放浪の旅に出る。
たまたま訪れた漢中で、心理党首領の(前スレ
>>446)王牟に出会い入信、その将となる。
信者が日頃から修行するまとまった場所が必要だ、と提言し、
漢中郊外の上九一色(イーチュウイーシキ)村に大規模な施設群を建造した。
これらは彼の功績をたたえて、そのまま彼の名でよばれた。
(前スレ
>>446)左燐(サリン) はここで修行し、傘一本の技を磨いたという。
青山(セイザン)160〜216
心理党の論客。字は吉伸(キッシン)。もとは後漢の臣で、最年少で登用されたので有名であった。
漢室の威厳が弱体したと見るが否や、下野。論客として心理党に迎え入れられる。
魏の侵攻時に鐘ヨウと舌戦し、見事完敗。そのことを恥じ、自刎した。
横山(オウザン)155〜216
字は昭二(ショウジ)。人を弁護することを生業としていた。
ある日、王牟が曹操に捕らえられたと聞き、弁護に向かう。
しかし、曹操に面会できるはずがなく、「之、馬鹿者!」などと
暴言を吐いたため、その場で処刑された。
803 :
paoro:2005/11/07(月) 18:39:58
鍾寧 (ショウネイ)196〜234
魏の将で鍾会の兄。
冷静な弟の鍾会とは違い、熱血的で、戦では必ずといっていいほど戦功を挙げていた。
しかし、戦術面で鍾会より劣るところがあり、戦では重用されなかった。
ある日、鍾会が戦で討ち死にしたと聞いた鍾寧は皆が寝静まっている間に自害したという。
804 :
paoro:2005/11/13(日) 19:07:49
田盛(デンセイ)?〜?
在野の武将。田豊の義理の従兄弟。掴み所のない性格からか名声は高い。
昼間には女達の暇つぶし相手として「いいとも」という集会を開いていた。
実は田盛は仮名で盛田が正しいと言う説もあるが一般的には田盛と呼ばれている。
伝射男(デンシャオトコ)?〜?
本来の名前は解明できていないが熱斗での偽名が一般的。
都市の掲示板にて自分の恋愛を語っていた。
以前から掲示板に書き込んでいた者に感動を齎し、その掲示板を見た曹植は小説にしたと言う。
現在では作り話という説が多発しており現在では一切不明の事実である。
807 :
名無しのスメアゴル:2005/11/14(月) 19:44:14
衛壬禰武(エミネム)184〜?
黄巾党の狂気の羅通派(ラッパ)ここで言う羅通派とは忍者のそれとは違う。
主に、羅通派という暴言を巧みに話す技術で、陣営を保守する武将を動かし
た。五十千吐(50セント)・氷箱(アイスキューブ)など、それに値する一派がいたと
かいないとか・・。表向きにはあまり知られてない。
気性は極めて荒く、蛮族である疑いもある。
ちなみに、張飛のようなキレ具合で、張飛ぐらいならすぐに挑発に
のってしまう。
黄巾党に関しては、まだまだ、知られてない特殊な技術を持つものがいるが、
正史では語られてない。
808 :
名無しのスメアゴル:2005/11/14(月) 19:53:49
邪魔如何(ジャマイカン)?〜?
字は駄尼勘(ダニカン)。
沙魔柯の遠い従兄弟である、弓の使い手。
実は、名馬の荒烈鬼惨堵吏亜(アレキサンドリア)を所持していた。
基本的に後方支援をしていたが、気が弱いという噂もあった。
最後は、部下の矢懺(ヤザン)に裏切られて殺されてしまう。
馬李恩(マリオ)?〜?
南蛮族。インドから到来したと言う。
優れた脚力を持ち人気の高い英雄として南蛮では有名であった。
現在では日本に到来し任天堂という会社に務めている。
寿命は定かでないが永遠の26歳らしい。
また双子の弟の類慈という武将が存在して、馬李恩よりも脚力が高かったという。
しかし類慈は字で正式には馬李恩 類慈という武将という事がアメリカで判明された。
しかし馬李恩と氏名が被る為、現在では類慈を一般的に呼ばれている。
810 :
名無しのスメアゴル:2005/11/14(月) 22:05:29
酢縫火(スヌーピー)?〜?
元官軍の犬。
生息地は、新野城のどこか。
仮説では、玄徳の次に群集に愛されたとあるがこれは、演技での
話であって、史実では群集がなにか失敗するにつけて、嘲笑などの
悪態をついている。
類似したもので、奴流火(ドルーピー)という、同族もいた。
どちらも犬なのに、「ヒッヒヒorシシシッ(かもしれない)」と笑う。
封神演技から実在したらしいので、仙人なのかもしれない。
現代にも尚語りつがれている。
811 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/17(木) 13:06:52
このスレまだ生きてたんだな。
一年間、板ごとご無沙汰してたんだが
懐かしいな。
清原(せいげん)《続》
念願の魏の曹操配下にり、同郷の桑田(そうでん)との再会を果たしたものの、孫権の元で甘やかされた
結果、郎党を組み、周囲からその威圧的な態度が恐れられる。しかし、争いに関しては、在野の武人、猪
木(ちょぼく)の平手打ちで涙目になったり、敵武将、星野(せいや)に首をつかまれて動けなくなったりと
情けない話ばかりが伝えられている。
特に当時魏にとって脅威だった匈奴に対しては、挑発されても身動きできず、仲間の到着でようやく暴れ
だす始末で、まるで戦果を挙げないことに激怒した曹操によって最後は仲間の元木(げんぼく)ら共々斬
首されたというが、追放されただけで、他国からの使者を待ちながら寂しい晩年を過ごしたと言う説もある。
盗塚愛(哀) ?〜?
本名不詳。魏の詩人。若くしてその才能を認められ,曹操の主催する詩作サロンに参加。当初は孔融、
陳琳らと共に「建安の七子」に数えられ、その詩が碑に刻まれたりしていたが、詩の剽窃が発覚し、追放
された。
激怒した曹操によって、碑の詩文は削除され、「盗ミヲ愛セシ哀レナルモノノ碑」の意味の自作の詩を刻み
道端の塚に放置したことから、人々はその名も伝わっていない詩人を「盗塚愛」または「盗塚哀」と呼んだ。
814 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/03(土) 17:47:23
あれから1年かぁ、あの頃は優れた武将ばかり。今は糞スレ化したかぁ。キモヲタが書き込みしてるのが原因だなぁ。
まとめや馬・もいないみたいだし。
ここで生まれた一番の武将はミコスリハーンとヨジョウハーンだな
だからって寒いレスでスレの流れをを止めなくても…
816 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/19(月) 13:05:26
ここで一回ageよう
817 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/19(月) 18:51:00
文鎮(伯墨)(182〜?)
劉表の書記官。
魏臣文聘とは従兄弟である
劉表死後劉(王宗)が曹操に降伏する旨を伝えた矢先
自らの腕を斬り落とし腕を重しに、鮮血を墨とし諌言状を書き上げた。
諌言状を目の前で劉(王宗)に破り捨てられ主君の目の前で、洗わず放っておいたカチカチの筆で喉を一突し自害する。その亡骸は鉄の塊のように重く10人掛りでも運べなかった。
劉(王宗)らが城を曹操に引き渡す時曹操の目に止まり、曹操がすすり泣く文聘に経緯を聞き、いたく感動した曹操は文鎮の忠義を褒め称える詩を書き上げると文鎮の亡骸の下に挟んだ。
すると文鎮の亡骸は微笑み瞬くまに赤く錆びながら朽ていった。
この事から文書を書くときに使う錘を文鎮と称し後世の人はその忠義を誉め称えた。
いまでも鉄塊と化した腕が残っている。
818 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/19(月) 19:04:43
悩利(のり)
東方高句麗族の首領と言われる。最初は魏に服属していたが、そのやり
方に不満を持ち、「お金をくれないと呉に降る」と駄々をこねる。のち
金鉄、雄吏糞など怨みを持った近臣達に殺された。
怒成土(ドナルド)?〜?
字は幕怒成土。
東洋の人間であり倭国、中華と渡り歩いてきた将。
各地を彷徨い異色の食べ物「飯婆牙」を主にし、商売を営んでいた。
また子供好きであり子供の客には俸禄として玩具を贈呈したりもした。
店が建物の中で行われる程繁盛すると入り口に自分の銅像を置いて客を引き寄せた。
しかしこの銅像の動きが逆効果となり抜家土という偽者が出現。銅像の動きにコメン
トをつけ「お前等表に出ろ」の言葉で一部では反響を促した。
また夏亜練流と言う武将とも対峙しており現在でも商品性で競い合っている。
820 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/19(月) 19:13:58
高 蛇美躯(こう だみく) ?〜285
晋の司馬炎の寵姫。高蛇美躯はもともと肉屋の娘だったが、その天性の
歌唱力とエロティシズムで一時的に洛陽中の話題となり、噂を聞いた晋
武帝・司馬炎が後宮に入れる。しかし、睦言をおこなった翌日に化粧の
取れた高蛇美躯を司馬炎が見て愕然、一夜で宮中から追放された。
821 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/19(月) 19:39:04
紀 母(き も)
字は覇羅。関斉郡檀尻の人。袁術の武将・紀霊とは同族と言われる。太
い木の棒を振り回し、相手を威嚇して蹴散らす。その男としての勢いが
凄いことから「番長(番長とは遊侠的な存在の者を指す)」とあだ名が
つけられた。のち公金を使い込み、発覚を恐れて東羌太守・許仁のもと
を出奔。その後は黄巾賊に参加し、江東一帯を荒らしまわるが、心の師
でもあった王義の説得により改心。出身地である関斉郡の太守となるが
住民に圧政をしき、叛乱が続発。都に送られ、曹操に処刑された。
822 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/19(月) 22:27:15
Z武(いつ ぶ) ?-189
字は伍体。後漢末期の学者。生まれつき腕と足が無かったが、母親・Z母の献
身的な助けを借りながら都に遊学に出て、鄭玄に学ぶ。のち、董卓が洛陽近郊
の村を襲った時の混乱の中で殺された。『伍体不満』『伍体不満・続』などの
著書がある。
823 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/19(月) 22:54:36
阿寧巴(あねは)
南蛮・孟獲配下の謀士。蜀軍迎撃のために、城を急造するよう孟獲に命令され
たが、軍費を抑えるために築城設計手法を偽造。内部告発者により発覚し、怒
った孟獲に処刑された。近代に入って考古学者が阿寧巴の墓を確認したところ、
黒山羊の毛髪を頭にかぶっていることが確認された。三国時代にかつらが流通
していた可能性が高い。
琳矩(りんく)
伝記にのみ記されている将。一説の伝記「時の笛」では精霊の一人であったが
本当は普通の人間であったり、剣を抜いて成人になり異民族下流斗の頭領と対
決し、世界を救ったりした。また伝記「風の指揮棒」では海に沈んだ中華大陸
を救う為海を横断し、様々な冒険を巡った。これらの伝記には必ず是瑠駄とい
う女性が手助けをした事から「是瑠駄の伝説」と名付けられた。一説では是瑠
駄本人が手がけたという情報もある。また最近でも是瑠駄の伝説が見つかり解
読をしている。近々GCに写しゲームとして発売する予定だ。
存備(ぞんび) 字は符拝(ふはい)
劉備が蜀漢を興しても従わなかった一部の豪族達は連合を作り、
反抗を繰り返した。その反乱軍のリーダー的存在。
胡瓜と毒蛙と河豚を調合した粉末を敵兵に振りかけ、自在に操る妖術を使う。
だが解毒剤を諸葛亮に作られ、最後は火攻めにより討伐された。
丘傑紀(きゅうけつき) 字は編福(へんぷく)
存備の部下。残虐な性格で、殺した敵兵の生き血をすすると近隣より恐れられた。
中国奥地の大蝙蝠を操り、自在に空を飛ぶ能力を持つ。
その機動力で主に斥候として活躍したが、諸葛亮の「十字の陣」の前に敗走、
最後は趙雲に木の杭を打たれ殺された。
未異羅(みいら) 字は鳳泰(ほうたい)
元南蛮の将と伝わる、存備の部下。
細長い白布に呪符を刻み、相手を縛り殺す妖術を使う。
存備と一緒に火攻めで死んだとされる。
朗仁(ろうじん)字は不明
存備配下の猛将。主に夜襲を得意とし、月明かりだけで正確に敵の陣を殲滅した。
特に満月の晩に大活躍をしたことから
「満月の夜は警備を増やすべし」と諸葛亮も書簡を送ったという。
暦を読んだ諸葛亮は新月の夜に朗仁の本陣を急襲、
魏延が銀の小太刀で朗仁を討った、とある。
826 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/21(水) 14:02:46
金本(きん ほん) ?〜?
字は知憲(ちけん)。朝鮮族の首領。魏に朝貢して高句麗都尉に任ぜられる。
魏の正始年間、自ら「兄貴」(魏国の兄、という意味)と称して、魏の統治に
反旗を翻した。のち、毌丘倹の討伐を受けて逃亡した。
827 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/22(木) 16:44:53
彌苦打哩汗(みくだりかん)?-204
匈奴族の王。袁尚に呼応して曹操に対抗した。のち、妻に三下り半(離婚届け)
を突き付けられ、息子二人も妻に連れ去られた。曹操の武将・張遼と戦い戦死
した。
828 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/22(木) 17:05:35
辛 壱朗(しん いちろう)
字は冷婦。京兆の人。酒に酔わせて数十人もの女性を犯したため、許昌中の人
に畏れられた。のちある女性の告発で官憲に逮捕され、二十九歳で処刑され、
恥侯と諡(おくりな)された。
<魏・辛壱朗伝>
829 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/22(木) 23:07:56
流班(るぱん)
生没年不明。盗賊という。曹操が「例え何でも盗む流班でも、わしの心までは
盗めまい」と荀ケに語った記述が見られる。
<魏・武帝紀>
司魯汰(シロタ) 字 正影(セイエイ)
おそらく司馬氏の亜種と思われる伝説の武人
上半身は褐色で筋骨隆々とした姿だが
下半身は変化がないと言う異形の姿を持つ。
七日七晩眠ることなく鍋の前に立ち続け
銅斌具昆蘇明羹(ドーピングコンソメスープ)を用いた
究極にして至高の武術:護司禍安(ゴシカァン)の創始者
しかし、仙人・寧于老(ネウロ)を切ろうとしたところ、返り討ちに遭った
和司王(ワシオ) 字正勝(セイショウ)
仙人の弟子の一人
しかし、自分の住む「巣」の中心に
自分がいないと我慢できない性格なので
師を殺し、自分が仙人になろうとした人
本性を表すと、酸輿や鳳凰もかくやと思うような
鳥となり、見えない細い線でもって首をはねんとする
しかし、仙人・寧于老に鉄塊を鼻にぶつけられて
鼻が折れたため力を失い
苦永栄(クエエェェ)と叫び去っていった。
その言葉には、苦心を重ね長き栄誉を掴むという彼の意思が込められていた
賀羅覇度(ガラハド)
念願の氷剣(アイスソード)を手に入れたが
殺してでも奪い取ると考えた男によって
殺されてしまった。
その一部始終が載っている碑がある。
ガラハド 「ねんがんの アイスソードをてにいれたぞ!」
:そう かんけいないね
メ几
→ :木又してでも うばいとる
:ゆずってくれ たのむ!!
ガラハド 「な なにをする きさまらー!」
833 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/26(月) 18:22:59
押尾学(おう びがく) ?-?
後漢末期の色事師。号は御塩(おしお)先生。独特のユーモアあるセンスと話
で曹操にいたく気にいられた。本人は若い頃、500〜600人の手下を集めて関東
(関東は函谷関より東という意味)連合という徒党を組んでいた過去があると
語ったという。
夏侯惇の武将・牽音(けん おん)の妾・田亜希(でん あき)と一緒に逃亡
したまま行方不明になった。
834 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/27(火) 07:21:33
連蛇(レンダ) 魂母(コンボ)(合わせて言う場合は、連魂母(レンコンボ))
呂布の配下の将、そして高順の副将
個人の能力は低かったようだが、統率は呂布陣営で一番、禁酒令で兵が乱れた時でもこの者の配下は乱れなかった。
常に援護に回り、自分には大功が来なかった。
最後は、高順が張飛との一騎討ちをした際、高順の不利と見て援護に行った際、数合打ち合った後に張飛に斬られた。
835 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/28(水) 18:53:21
孫正義(そん せいぎ)
字は蕃九。孫氏の末裔と自称した。貧民から一代で財を成し、霊帝の時代に官
位が売りに出された時、大金を使って呉郡太守の地位を買った。頭が禿げてい
て、鷹のような顔付きをしていたことから「禿鷹(とくよう)」とあだ名され
た。江東の孫家に金銭面で多大な協力したため、死後に哀亭王の爵位を追贈さ
れた。
<呉・孫正義伝>
836 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/28(水) 21:10:16
満褚(まん ちょ)
魏の光勲禄・満寵の庶子。呉音での発音が女性器を意味したため、曹丕に「御
満褚」と揶揄されたという。
<魏・満寵伝>
837 :
摂狗巣:2005/12/28(水) 21:31:08
Д
839 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 00:18:57
黄 蕨篤(こう けつあつ)
蜀の五虎大将・黄忠の息子。父亡き後、軍を引き継ぎ、多くの戦いで活躍。
酒癖が悪く、劉禅を「このボンクラ息子!」と言って殴り飛ばしたという
豪の者。
840 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 12:53:52
陰毛(いん もう)
巴蜀の人。劉璋の部下。劉備が益州に侵攻してきたころ劉璋の使者として劉備
のもとに事の次第を問いただしに出向いたが、劉備に追い返された。
<蜀・先主伝>
841 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/30(金) 01:19:39
曹須桓(そう すかん) 185?〜267?
曹操の一族。曹操の甥である曹安民の兄弟か。若い頃から曹操に付き従い各地
を転戦した。のちに宛城の戦いで曹安民が曹操を守って死ぬと、曹操に我が子
同然に可愛がられ、曹丕・曹真・曹休らと一緒に育てられた。曹操死後、帝位
に就いた曹丕に蜀・呉ニ方面出兵作戦を立案したが、司馬懿・賈逵・陳羣ら並
み居る参謀に総すかんをくらった。この事件ののち隠居したが、曹叡の代にな
ると再び仕官を勧められ。だが「自分はその器ではない」と断り、八十余歳で
死ぬまで隠者の生活をした。
842 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/30(金) 01:43:00
鬱打死王(うつだしおう) ?〜228?
鮮卑族の王。生来、心身共に不健康な体であり、精神的な病気に悩まされた。
謀反の兆しあり、と魏に疑われたために一層懊悩するようになり、一歩も自室
から出なくなった。のちに首をくくって自殺したという。
843 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/30(金) 08:20:30
美貴茶(ミキティー)
?〜?
魏の武将
女性ながら『必殺・4回転斬り』を口実に曹操に仕えるも肝心な時に必殺はでなかった。
一部の噂では最初から4回転なるものは出来ないじゃ?とか罵倒されるも、一部のミキティー信者に支持され赤壁の戦いで先鋒を命じられるも必殺はでなかった。同戦いにてコウガイの船と岸壁にはさまれ没する。
844 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/08(日) 19:07:41
スペルマ―ン
生没不明
蒙古帝国ミコスリハーンとそうぜつな戦いに敗れ、魏へと落ち延びた。華陀?カダに巡り合い医者を志したが、許猪の赤子を盗まれ罰されることになる、以後消息不明
木仙・モクセン(これは諸葛亮が仮につけた名前)
実名などは不明
諸葛亮が兵糧の輸送の問題解消のために木牛流馬を考えだしたが、それを作るのに必要な木が無く困っていた際
突如、北から現れ諸葛亮に人目につかないような山奥の森を教えた老人
その後老人は森の中に消えた。
一説では、樊城水攻めの際、関羽が船の材料の木を探してる際にも現れたらしい、ちなみにこの時は南東からきたとされる。
中尾(チュウビ)172〜?
字は芳広(ホウコウ)。曹操の旗揚げに応じ配下となった。矛の扱いに優れ、楽進・干禁らに匹敵する武勇を誇ったと言う。
烏丸征伐に参加し、一騎打ちで数多の頭目を討ち取っていった。その最中、飛輪虞と言う頭目から一騎打ちを
申し込まれた際に何を思ったか飛輪虞に口づけをし、激怒した飛輪虞に殴り飛ばされ意識不明の重体になった。
その後の詳細は記述が無く不明。郭嘉と共に許昌に搬送されたと言う説がある。
なお、口づけを表す「チュウ」と言う言葉は中尾の姓から取ったと言われている。
847 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/20(金) 21:24:58
保利柄刎(ホリエモン)160〜?
字は来武恕亞(ライブドア)曹操の挙兵時代に配下となる。曹操が魏公になる時に応じて、自分
も職位を上げようと計画し実行成功し、一流の文官となる、だが、司馬懿の時代になると、
不正が見つかって官職を取り上げられ并州に隠居される。その後の事は不明
849 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/22(日) 00:52:13
飛雄(ヒユウ)
151〜209
字は座亜、沛国の人
曹操と同郷で、才を認められ家臣の列に加えられた
主に築城や造船に携わっていたという
参謀の郭嘉は「飛雄は仕事は確かに速いが、手を抜いているのでは・・・」
と飛雄に対し疑いの目を向けていたため、曹操に重用しないように進言していた
しかし、呉への南下作戦に際し、曹操は郭嘉の言を守らず、飛雄に造船を命じている
赤壁の敗戦後、飛雄が軍船の強度を偽装していたことが発覚したため、
飛雄は呉への逃亡を図るが、寿春で追っ手に捕まり斬首される
後に曹操は「郭嘉がいれば(飛雄を重用しないだろうから)赤壁の敗戦はなかった」と嘆いた
850 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/22(日) 03:01:23
黄獎 (おうしょう)
生没年不詳で伝説の料理人。 関西(かんせい)では有名な料理人で彼の作る餃子は人々の舌を唸らせた。
彼は餃子を一日百万個作り卵を一日に十万個使う等で有名だった。
史記、演義共に名はのっていない。
851 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/22(日) 03:17:04
韋權(イカリ)
生没共に不明
書記、晋世紀畫鑁乂貍肆(エバンゲリヨン)の主人公。
字は晋璽(シンジ)
内気で内向的な主人公が人型汎用ロボ畫鑁乂貍肆に乗り使徒と戦うと言う書記。
多くの於倬(オタク)を魅了する。
追記
於倬とは知識人階級の一派で、世俗と関わりを断ち書・画の寵愛した。政治や学問に参加しなかったため清流派に嫌われた。
853 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 06:47:35
…
854 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 10:56:24
855 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 11:42:52
少々喬(しょうしょうきょう)
あの美人姉妹、大喬小喬に妹がいた!少々喬は小喬の双子の妹である。
小喬と少々喬は顔は良く似ていたが、スポットライトを浴びていたのはいつもドジばっかりの小喬だった。
そんな少々喬は密かに周瑜に思いを寄せていた。「周瑜様の為なら私は何もいらない」そう心の底から思えた。
また、周瑜も「生涯を共にする女はあいつしかいない」そう心の中で思っていた。
そんなある日、偶然に2人はばったり会い、周瑜は今しかないと思い少々喬に愛の告白をする。
「周瑜様…私…」「何も言うな…小喬よ」「え!」
そう、周瑜は本当は小喬の事が好きだった。小喬と少々喬の顔が似ていた為に、少々喬の事を小喬だと思っていたのだ。
「周瑜様…私は少々喬でございます!」「小喬…何を言い出すんだ」
「思いを寄せる女性の顔もわからないのですか!」少々喬の目からは大粒の涙がこぼれる。
周瑜が少々喬の涙をぬぐおうと手を差しのばすと少々喬は周瑜の手をはらい走っていった。
「あぁ…周瑜様…神様!なぜこんな仕打ちを…!」少々喬は首を切り自殺した。
その後、周瑜と小喬は結ばれ、若くして死んだ少々喬の事は時が過ぎていくと共に忘れさられていった。
856 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 11:57:27
857 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 12:28:26
項目(コウモク)(179-234)
楚の人。魏に使えた能吏。
行政文書の整理にあたって、
まとまりをもつ内容ごとに一定の基準で小分けすることを提案し、
その功で中書監に任ぜられた。
現代の文書整理においても、彼の考案した方法は用いられている。
858 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 13:02:39
診察(しんさつ)?〜?
蜀で諸葛亮の片腕とまで言われた男。
月英の虎戦車の提案を現実にした。
859 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 13:14:04
孫 胡椒(ソン コショウ) ?〜?
孫堅の娘。孫策、孫権、孫尚香の妹。
とにかくめんどくさがり屋で戦にはほとんど出ていない。
しかし、孫家始まって以来の強さで「孫呉の最終兵器」と言われていた。
860 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 13:19:11
江諾民(コウダクミン) 生没年不詳
三国時代に名を残した歌姫。
古代に伝わる歌曲、「宮廷覇」を改作して
「宮廷覇・二」と題した曲にて名を挙げた。
その歌はもとより、妖艶な立ち居振る舞いに
よっても民衆を魅了し、「妖艶可憐」と評された。
なお、一部には前中国国家主席・江沢民の先祖ではないかと言う説もあるが、
中国共産党は一貫して否定を続けている。
861 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 13:24:18
相互(ソウゴ) 183〜245
呉の四代目大都督、陸遜を尊敬していた。
陸遜から武を学び、戦には度々出陣していた。
皇太子問題で孫権の激鱗に触れ、憤死に追い込まれた陸遜は
姿を消し、相互も消えた。
862 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 13:31:21
運賃表(ウンチンヒョウ) 字は速安(ソクアン)
219年、関羽が荊州において魏の曹仁、呉の呂蒙と戦いの時に随行し、
呂蒙に捕まり関羽と共に切られた際、同じく捕まり関平の右隣に座らされた男。
863 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 13:37:29
毛布(もうふ) 詳細不明。 呂布の親戚。
864 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 13:45:22
京王(ケイオウ)
魏の王族の一人。弱体だった魏の王族にあっては稀な、
聡明な王であった故に司馬氏によって記録が抹消され、
現代には名前すら残っていない。
王族でありながら自ら内政を行い、中でも交通路の整備に力を尽くしたと言う。
配下に恵まれたことでも知られるが、やはり記録が乏しく、
飛田給(ヒデンキュウ)・調布(チョウフ)・高尾(コウビ)・初台(ショダイ)等の名が伝わる程度である。
しかし特に高名な八人の王子は「京王八王子」として知られ、
司馬氏の配下、晋熟(シンジュク)と通じて司馬氏に打撃を与えた。
また、同じく聡明で交通路の整備に力を入れた
仲王・宣(チュウオウ・セン)とは好敵手の関係にあったという。
867 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 14:00:33
徐行(ジョコウ) 字 安全(アンゼン) ?〜227
徐晃の馬代わりとなり、戦場を駆け抜けた。
そのスピードはとてもゆっくりで、とても安心して乗れる、立派な徐晃の馬になる。
868 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 14:04:14
呂晃(リョコウ) 180頃〜?
後漢期から三国時代にかけて活躍した武将で、呂布の子である。
幼き頃は裏切りを繰り返し、各地を転戦する呂布に付き従い
中国各地を点々とする羽目になった彼だが、
子供ながら呂晃はそれを苦にもせず、
むしろ各所の名所や都市を見回ることを好んだと言う。
呂布配下の将や民衆が暇をしている時には
見て回った事物の話をして楽しませ、
「人中の呂布、馬中の赤兎、休暇中の呂晃」と評された。
869 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 14:16:48
脅威(きょうい) ?〜264
あまりにも美形なその顔立ちから字は楽斗(がくと)となった。
三度の飯よりも水面に映った自分の顔を見るのが好きだった。
脅威の必殺技は「悪魔の瞳」
脅威の瞳を見たものは必ず彼の虜になってしまう恐ろしい技。
870 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 14:26:05
拝啓(ハイケイ) 170〜
蜀の地で戦場に必要不可欠の馬の世話をしていた。
戦にも出る事はなく、陰の貢献者として歴史に名を残す。
871 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 14:32:19
名前:喫煙(キツエン) 字:病原(ビョウゲン)
187年から曹丕の身の回りの世話をしていた。
曹丕に武を教えていたのは喫煙であるとの噂もある。
知力も武力も申し分ない喫煙であったが
司馬懿の戦略に口を出し、激怒した司馬懿が魏から喫煙を追放した。
872 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 14:33:34
873 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 14:55:54
標準(ヒョウジュン) 生没年不詳
魏が攻め込んで来て6歳で家も家族も失った所を呂蒙に拾われる。
以後、呉の人間として成長していく。
呂蒙のもとで知、武を学んでいく。
しかし、戦場には出させてもらえなかったりと、呂蒙に不信を抱き
衰弱死した。
874 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 20:46:28
出我和(デガワ) 生没年不詳、黄巾賊
黄巾賊一万の大将、しかし、劉備の義勇軍にぶつかり戦闘、劉備に撃ちかかるが張飛に邪魔され斬られた。
その後、将を失った黄巾賊はそのまま劉備の部下になった。
劉備はその事に対して
「出我和がでしゃばらなければ我々は志半ばで死んでいただろう。アイツが馬鹿で良かった。」
と、言ったという。
875 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/26(木) 11:04:46
伝言(デンゴン) 明白(メイハク) 生没年不詳
魏のスパイとして呉に潜り込んだ。
赤壁の戦いの際、諸葛亮と周瑜の会話を盗み
魏に情報を持って帰るときに、前から伝言に不信を抱いていた寵統により殺される。
もし彼が魏に情報を持って帰っていたら、赤壁の戦いは成功しなかった。
876 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/26(木) 11:15:17
仲介(チュウカイ) 170〜
女である仲介だが、戦に出たく、男になりすまし、呉の太史慈の軍に入る。
しかし、力の差で戦死する。
877 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/26(木) 13:42:35
速達(ソクタツ) 179〜251
司馬懿仲達の2個下の弟。司馬練速達(シバレンソクタツ)。
司馬懿ほど頭は良くなかったが、人並み以上の知力があった。
しかし、司馬家の子孫繁栄の為、速達は蜀に移り、幸せな暮らしをする。
878 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/27(金) 20:17:07
あげ
汚物(オブツ)170?〜?
水計に弱い
唐揚(トウヨウ)
騎虎(キコ 1966〜)
天皇家第二皇太子夫人。
朝鮮からの渡来人である宰相・小泉(ショウセン 1942〜2006)が創価学会と結び
後継者男子のいない第一皇太子に禅譲を迫った平成道鏡事件を
自らが懐妊することで防いだことはあまりにも有名。
第一皇太子夫人と違い容姿端麗で勤勉であったため国民の人気も高かったという。
武力を用いずに政治犯を失脚させることを「騎虎呑狼(キコドンロウ)」というのは
平成道鏡事件に由来する故事成語である。
882 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 17:25:01
さげ
魔沙胡(マサコ)
皇太子正室。祖父の江頭豊(コウズトウ)が河川に毒薬を流し込んで
領民1千余を殺害した水俣事件の首謀者の一人であることから
周囲に反対されたが、皇太子の強い要望により婚姻が実現する。
第一子を流産した後女子をもうけるが、その後全く子宝に恵まれず
皇室断絶の危機を招いたのは水俣事件の死者の祟りとも言われる。
また、魔沙胡自身も公務を欠席した日に皇居内で馬を乗り回すなど
乱行が目立ち次第に国民の信頼を失っていく。
小泉による皇位簒奪事件を秋篠宮妃が止めたことで皇居内での地位は没落。
その後発狂し表舞台から姿を消す。
884 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 19:33:42
張勲→張本勲
初めて知った。
885 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 23:16:33
劉 瀬章(リュウ セショウ) 1911〜1972
もと南海軍(現・福岡ソフトバンクホークス)の投手。
本牧中学、法政大学卒業後の1938年の秋のシーズンに入団。
1939年に8勝12敗を挙げ、将来を嘱望されたが、第二次世界大戦勃発により
1940年に引退。
1942年に中国に帰り、戦後は天津で野球チームのコーチを務めた。
通算成績は64試合登板、10勝22敗、防御率2.79。
三国志の劉家との関係は不明。
なお「プロ野球三国志」では相手にデッドボールを与えても笑みを
絶やさなかったという。
886 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 01:16:38
司馬桓(シバカン)231〜325 西晋時代の青州の牧で字は和平(ワヘイ)。
司馬炎のはとこであるが、生まれてから人を一度も殴ったことがないと言う逸話が
あるくらい根っからの平和主義者であり、ほとんどの一族から
戦力にならないことからあまり良く見られなかったが、あまり税を課さなかった
うえよく散歩の際によく知り合いの住民と井戸端会議に没頭するくらい
親しい人柄だったため民からは絶大な信頼を得ていた。
八王の乱の時はしばらく様子をうかがっていたが、292年の春に約30万人の
市民を引き連れて東国の倭(日本)に亡命、今の大阪府藤井寺市にあたる地で
暮らしたが、後に人柄に見込まれて応神天皇、仁徳天皇のご意見番として
手腕を振るった。
後に関西弁で「人を殴らない」と言う意味の「しばかん」という言葉は
司馬桓からきているという。
887 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 11:27:50
司馬欒(シバラン)201〜293 魏の武将であり、青州の牧を務めた。
字は快法(カイホウ)。身長は7尺5寸(約227p)の巨漢だったらしい。
司馬桓の父で、魏の丞相府の主簿を務めた司馬朗の息子であるという。
初めは中東大将軍の曹真に仕え、228年の諸葛亮の第二次北伐、230年の
漢中攻略戦では度々曹真の危機を救った。
武将であるが、人を斬り殺すことに対してかなり抵抗を持ち、
自ら編み出した護身を主にする拳法「馬端救(バタンキュー)拳」を駆使し、
武器は棍棒と素手で敵をなぎ倒したという。
後に青州の牧に就任、名前通り市民を束縛するような政治は一切行わず、
むしろ対等に生活を助け合うために市民の意見を聞く為のアンケート制度である
「人民意言聞制度」を施行、また州内に110ヶ所もの講堂を建設した。
また著書で「自由とは何ぞや」「臣民の知恵」「政の基盤」等を作成し、
息子の司馬桓、司馬健に人民の大切さを教えた。
63歳で青州の牧を退職し、司馬桓に譲った。
その後、八王の乱の時に息子と共に292年の春に倭(日本)に逃亡、翌年の
初秋に92年の人生に幕を閉じた。
888 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 12:01:19
司馬健(シバケン)233〜314 西晋時代、青州の済南公を務めた。
司馬欒の次男で、司馬桓の弟。字は仲直(チュウチョク)。
初めは司馬昭に仕え、主に陣営の守備を務めるなど地味ながら
任務を全うした。
兄とは相当仲が良かったようで、後に済南公に封じられ、
助言、政策の手助けなどをしたりと、兄のプレーンとなって働いた。
父、兄同様に八王の乱の際は郡の人口の7割に当たる市民を引き連れて
東の倭(日本)に亡命した。
亡命後は兄と共に、応神天皇の元に仕えた。
劉夷児(ルイージ)134〜?
劉備の義叔父。字は類似(ルイジ)
後漢王朝の文官で、側近とはいかないが
優秀な文才により重用された。
中々の美顔により巷でもうわさされていた。
しかし164年、三十歳の時。
その美しさにより
匈奴の者に拉致される。
そのとき義兄の馬李於(マリオ)に救出されるがそれはまた別の話。
890 :
889:2006/02/11(土) 12:33:25
あ、もうマリオっていたね・・・
失礼。
891 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 13:14:54
袁丈(エンジョウ)235〜322西晋時代の司馬欒、司馬桓の部将。
字は瀑初(バクハツ)。
冀州の一都市である臨し(現・山東省し博市)出身で一般市民の子として
生まれたのだが、正体は後漢末の南陽太守であり、後に成国皇帝になった
袁術公路の孫であるという。
身長は8尺3寸(約251p)、体重50貫(約187.5s)のズバ抜けた
体格の持ち主で普段は明朗かつ温厚なのだが、かなり短気で一度怒るとその名の通り
誰も手が着けられないくらいの暴れぶりを見せた。
青州の牧司馬欒にその勇猛さを見いだされ、初めは一兵卒だったが遜色無い
活躍を見せ、司馬欒麾下の部将にまで登りつめたが、年を追うごとに
政治や歴史、人民についてを追求するようになり、短気さがなくなっていった。
八王の乱の時は青州で攻防戦を展開し、司馬欒一家を亡命させる道を開き、
袁丈自信も配下全員と共に頃合をはかって脱出した。
その後は倭(日本)で平凡な生活を送ったという。
892 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 13:59:50
曹石(ソウセキ)
曹操晩年の庶子。はじめ松山府の太守に任ぜられるが、
同輩に渾名を付け嘲弄する、政務を放棄して温泉に遊ぶ、
など傍若無人の振る舞い多く、魏国内で諸将の反感を買う。
側近の山嵐(サンラン)が司馬懿に冤罪を掛けられて追放されたことに憤り、
司馬懿に鶏卵をぶつけた末に出奔、蜀に走ったが、
その直情径行の性格は孔明にも用いられず、
木牛流馬の技師として生涯を終える。
重い胃病の末病死したとも、親友の想い人と結婚したことを気に病んで自殺したとも言われる。
その文才は曹植を凌ぐとも言われたが作品は今に伝わっていない。
893 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 14:06:58
劉朽(リュウキュウ)300〜380 字は斯佐(シサ)。
西晋時代末期の山陽公・劉秋の息子で、後漢最後の皇帝である
献帝(劉協)の昆孫に当たる。
309年に匈奴(漢)の劉淵配下の武将・汲桑に攻め込まれ、父の
劉秋は殺害されたが、劉朽は臣下の機転により辛うじて難を逃れ、
海で交趾(今のベトナム北部)に逃れるはずだったが、嵐により
今の日本の沖縄本島に漂着した。そこで島民と暮らすことになり
秦の始皇帝の配下だった徐福と同様に中国の文化を教え、島の
文化発展に貢献した。
劉朽の没後、島民はその偉業をたたえ、沖縄の地を「琉球」とした。
また、沖縄の守り神である「シーサー」は彼の字が由来だと
言われている。
カタカナ当て字、読み替え漢字すり替え、
オリジナル等面白くないからやめてくれ。
そのまま、というところに妙味があるのだ。
895 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 14:53:58
>>894 ならどうやればいいのか教えてくれないかな?
姓は積 名は乱 字は雷姪
生没年188〜241
荊州の南陽郡の人
18歳の時、劉表に仕官するが劉表がなくなるまで下っ端役人だった。
劉表の没後に部隊長になる。なんとこの後の大戦でも彼の部下は一人も死んでいないのだがこの話は飛ばします。
のちの魏王が南下した時、主君とともに降服した彼はさらに烏林まで従軍する。
『赤壁の戦い』と銘打たれたこの戦いで負けた彼は南陽まで逃げて、さらに襄陽に進軍する。
このときにやっと曹孟徳の眼にとまった彼はなんと太守に任命される。
この人のなにがそこまで昇進させたのか不明だが、おそらくその武勇だろうと考えられる。
彼はいつも「私がいれば1000人力だ」とか「私こそが万夫不当の豪傑だ」と言っていたが多分嘘ではない。
彼と戦った、もしくは戦いを見た者は「あんなに強い武将は見たことない」といっていた事からその武は本物だ。
239年に中朗将に任じられたが、241年 病気のため亡くなった。
897 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 16:03:28
更木(こうぼく) 生没年未詳 蜀の輔国大将軍。
字は剣八(けんぱち)。
隻眼で顔は骨張っており、かなりの強面。
粗暴で戦いを生き甲斐にしている男であり、斬られても決して
倒れなかったという。しかし反面、部下を非常に大切にしたらしい。
6度目の南征の時の相手である兀突骨と互角に一騎打ちを展開し、諸葛亮に
討滅のきっかけを作った。
以後も戦いでは盛んに先鋒を切り、大活躍した。
没後は尸魂界(ソウル・ソサエティ)で護廷十三隊第十一番隊隊長を務めている。
モデルはご存じ久保帯人原作の「BLEACH」のキャラ
更木剣八です。ちょっと説明不足ですいやせん。
898 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 16:12:09
>>895 >>1みたいなのだけにしろって意味じゃまいか?
やりたい様にやればいいと思うがね
>>897 ネタの自己解説はいただけないな
899 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 16:17:20
おいおい、他もばらした者がいるだろうが。
その人たちにも言わんか。
900 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 16:22:01
>>898 その通りだ!!自分たちの考えたようにやればいいと
思うぞ!!
901 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 16:22:20
上がってたから何となく
>>1と最新の数レス読んだだけで
ログ追う気もなれんからそんなんシラネ
典範(テンパン) 生没年不詳
曹魏歴代の皇帝の側近くに仕えた忠臣。典韋の一族と伝えられる。
長老格の宮中政治家として、帝位の継承が穏やかに進むように奔走した。
実権を握った司馬一族は、傀儡皇帝の擁立のためにはじめは彼を利用したが、
典範は曹氏以外に皇位が渡るようなことは絶対に認めなかったために激しく対立。
傀儡でしかない皇室と、皇室を守る頑固な典範をどうするかという「皇室・典範問題」が
魏の末年に司馬一族が集まって会議する際にもっとも紛糾した課題であったという。
晋が建国されたとき、魏の皇室に殉じたとも伝えられるが、定かではない。
903 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 19:12:25
司馬異 196〜?
字は延欺
水鏡先生こと司馬徽の息子。
容姿は少々美麗であったが素朴な雰囲気を持ち、
とても広い音域と優れた観察眼を持っていたため主に暗殺を得意としていた。
後に魏の司馬為と出会い、共に司馬懿の影武者を務める。
かの五丈原に影武者として出陣した彼であったが、
孔明の木像に騙された事を知った彼は自分の本当の声で孔明を詠い頓死したとされる。
当然ながら正史にも演義にも登場しない。
904 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 19:24:18
呂風(リョフ) 生没年不詳
字は泡泉
優れた知略を持ち内政に従事した宦官。
素晴らしい活躍を示していたが、
董卓の「呂布と間違えそうで面倒」との発言により
逆さ吊りにされ大釜の中へ。
後に他の宦官たちは理不尽な理由で死んだ彼を想い、
人の体温より少し温かいくらいの湯に浸かったと言われる。
呂風が逆さ吊りにされいていたことからこの弔いの儀を"風呂"と呼ぶようになっていった。
正史、演義ともに登場しない。
905 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 19:24:38
田青(でんせい)164〜237 後漢末の袁紹の部将。字は道赤(どうせき)。
田豊の遠い親戚で、文醜、顔良と共に勇猛だったが、反面非常に短気で
怒るときに「ちゃんわ ちょんわー!!」と変な言葉を叫びながら暴れる。
官渡の戦いで特殊部隊「華之王円団」(はなのおうえんだん)を編成するが、
隊長の田青がつまらぬ事で激怒した事と曹操がその乱れたところ奇襲したために
あっさり壊滅された。田青は曹操に捕らえられ、まさに「団のめんぼく丸つぶれ」
状態だったが、その後曹操に処刑されると思いきや、優遇されて曹操の元で
戦った。
906 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 22:54:24
司馬連(シバレン)200〜289 字は石保(シャクホウ)。魏の武将で、後に
幽州の牧を務めた。魏の丞相府で主簿を務めた司馬朗の長男で、司馬欒の兄。
初めは鎮南将軍である曹休の元で、次に同族の司馬師に仕えた。
曹休の頃は明帝(曹叡)の命により呉の征伐である石亭の侵攻では呉の将軍周魴の
偽りの投降により夜襲をかけられて大敗したが、司馬連が事前に想定して仕掛けて
おいたゲリラ戦用の罠(草の輪、落とし穴、マッドゾーン=泥濘地帯など)により、
呉の大軍はまともにそれらのトラップに掛かり、曹休を無事逃がすことに成功した。
曹休は「もし誰かが事前に危機を想定しておくことがなかったら私は生きて帰れな
かっただろう。あの男はそれをやってのけたから非常に大した者だ」と言い、彼を
褒め称えた。
また司馬連は人を殺めることを極端に嫌い、司馬師に仕えていた頃、諸葛恪軍の
兵糧攻めの時に彼は「敵とはいえ飢え死にさせるのは可哀想だ」と言い、敵兵に
投降を条件にこっそりと食糧を与えたという。
幽州の牧に就任した頃は人民と共に生活することを考え、就任記念、建国記念の
他に季節ごとの祭日を制定し、また納税をしやすくする為、しきりに税の変動を
行い、市民の信頼を集めた。
907 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 23:08:59
慈英尊(じえいそん)生没年未詳 字は金曜で、蜀の武将。
更木同様、どんなに斬られてもダウンしないという威丈夫な
男で、第6次南征時は更木とともに兀突骨に立ち向かった。
普段から仮面をかぶり、無口なため、味方からも不気味に
思われることがあった。
その後の活躍は不明で正史には記載されていない。
908 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 23:36:50
糜山鎮(ビザンチン)217〜292 字は丈碧(ジョウヘキ)蜀の幕僚で
糜竺の従兄弟。特に建築に長けていた。蜀に侵攻してきた魏軍に対抗すべく
成都の城壁を二重三重に設計するように劉禅に提案したものの受け入られ
なかった。
それどころか各地で蜀軍が抗戦しているにもかかわらず降伏したことに憤慨
し、蜀滅亡後はかつての仲間との縁を絶ち、設計事務所を建てて建築に手腕を
振るった。
909 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 23:48:31
孟鹿大王(もうろくだいおう)161〜243
木鹿大王の遠縁にあたり、名前通り若い頃から顔が老けていたらしい。
今のベトナム南部に住んでいたが、特に戦などをしなかった。
しかし農業には非常に興味を持っていたようで、特に米作を推進して
いたらしいが、詳細は不明。
910 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 03:38:35
辞意仁(じいに)165〜237
字は唖主(あす)魏に仕え、卓越した頭脳と
知識を持っていたことから曹沖の教育係なども
やっていたようだ。西方事情に詳しく、中華に入ってくる
西域の言語を翻訳し、後にその一つ一つの意味・文法・用法を載せた書を
編纂したという。彼の活動は西域にも伝わり、その頭脳と
を称え、後に「天才」は「genius」(ジーニアス)と
呼ばれるようになり、彼が古代ラテン語の解説書をまとめた
功績を称え、公用語が英語となった今でも辞書には
「ジーニアス」の名が付けられ、多くの家庭で愛用されている。
911 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 04:04:45
猛人具(もうにんぐ)
>>399 が刊行していた書物。どうやら官人向けだったようだ。
魔臥人(まがじん)と比べより社会的、現実的な漫文が
多く、広く親しまれたようだ。
言語の違い等から作者名は紹介できないが、主な作品は
通勤女進化論(OL進化論)、看護士葵(N’sあおい)
黄金之国(じぱんぐ)、料理親父(クッキングパパ)
東大受験奮闘記(ドラゴン桜)、芸能界奮闘記(はるか17)
宮本武蔵伝(バガボンド)、電気王(エレキング)など。
912 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 04:12:39
司馬楽(シバラク)233〜314 魏、西晋の幕僚で、
字は安静(アンセイ)。司馬師の息子。
官職こそ幕僚だが、生まれつき虚弱体質のため目立った活躍は
見られなかった。
5歳の時に宿痾(今の肺結核)にかかり、辛うじて一命を取り留めたものの
そこから数々の病に冒され続けるという人生を歩む羽目になった。
しかし、そのような運命を辿ったからこその賜物なのか彼は人の100倍も
医学に精通し、かなりの数の病人に治療法をアドバイスして治したという。
その為彼は人から「華陀の生まれ変わりだ!!」と言われたが、「華陀殿の
方が上ですよ。何故ならあの方は手術で幾多もの人々を治したのだから。」
と言ってすました。
とはいえ幼少から大病を患い、その後も病魔と闘った彼は自らもその
治療法を持ち出して80歳まで生きたのだからかなりの医学者と言える。
八王の乱の際は国外へ亡命し、当時ローマ帝国領であったエジプトの
アレキサンドリアまで逃げ延びたという。
このスレッド面白いね。
最高だよ。次回このコーナーを
作る予定は?
914 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 21:42:31
確かに。
どうしますか?
915 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 18:47:28
916 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 20:25:32
一部の貴木綿
917 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 22:17:52
そんな事言うなら貴方、何か考えて下さい。
「気持ち悪い」と言う言葉を安易に言うのは
やめていただきませんか?
>>911 「蒼天航路(そうてんこうろ)」がない…w
919 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/14(火) 18:01:52
>>918 ありゃりゃ、そういやそうだ。あと「嗚呼播磨灘外伝 勲」
(ああ播磨灘外伝ISAO)も無いな。でもあれ威武人具(イブニング)の
ほうだったかな?
920 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/14(火) 22:50:31
921 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/15(水) 22:22:20
袁積凱(エンセキガイ)168〜250 字は臨内(リンナイ)で袁紹の部将、
後に曹操、張遼の部将として活躍した。
袁紹の従兄弟に当たり、どんなに強い相手でも立ち向かうほどの実力が
あり、袁紹軍の戦法を務めていたが、次第に優柔不断な色を見せる袁紹と
不和になり、官渡の戦いでは早くも曹操に投降、以降は曹操に付き従った。
207年に烏丸を討伐し、袁紹の息子の袁尚、袁熙の首を挙げたときは
さすがに涙を流したが、「袁家を相続させる」ことを誓い、更に悲しみを乗り
越えるためか戦では終始先鋒を取った。208年の赤壁の戦いでは逃げ延びる曹操の
手助けをし、215年の合肥では張遼と共に敵陣をうち破った。
張遼の没後は冀州・渤海の太守を務め、市民に飢饉対策として豆類や芋類等の
穀物を栽培することを推進、贅沢せずに市民と同じ生活基準で暮らすことを
やり通した。
ちなみに袁積凱は料理が得意で、常に焼き物や煮込み料理に対しての火加減に
かなりこだわりを持っていたという。
そろそろネタが尽きてきたのだろうか?勢いが無くなってきたような
気がするぞ。
923 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/15(水) 23:52:21
檄擢(ゲキテキ)179〜262 字は完道(カンドウ)
呉の武将で檄烈(次スレ
>>19)の従兄弟。
終始、勇将で名高い黄蓋に付き従った。
赤壁の戦い前では文官の張昭と共に曹操に臣従する方に回っていたが
徹底抗戦が決まるとすぐに黄蓋に付き従い、火攻め隊の先頭に立った。
しかし、目立ったところはその時のみで、以降は地味な働きしか
しなくなり、名前通り劇的な場面を作ることはなかった。
目立つと言うところでは檄烈より劣っていたが、慎重に生活を送って
いたため、83歳に亡くなるまで人生を全うした。
924 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/16(木) 02:09:38
夏侯厳(カコウガン)生年不明〜271 字は奮嘉(フンカ)。
夏侯惇の弟である夏侯廉の息子で、魏の鎮北将軍で後に青州・渤海の太守を務めた。
かなり短気だが一方で義理人情に厚く、物事に対して慎重に考える
性格だったという。
蜀軍の第一次北伐で、魏の勇将だった姜維が蜀に下ると、以降の蜀の北伐では
常に中心として陣頭に立ち、魏軍の危機を救った。
250年に江陵で総大将として呉軍を撃破したが、その翌年、青州・渤海の
太守に任命された。
本人が「これ以上血で血を争うことに嫌気を指した」と言ったのがその理由
らしいが詳細は不明。
青州の牧司馬欒(
>>887)とは仲が良く、身分に関係なくよく談笑しながら
酒を酌み交わしていたという。
925 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/16(木) 02:31:13
滋賀県(シガケン) 生没年未詳 字は膳所(ゼンショ)。
揚州・建業出身で主に漁業を営んでいた。
229年に巣湖近くに移り住み、鮒の養殖を始めた。
水質管理から餌の善し悪しなどを細かくチェックし、常に良質の
鮒を育て、孫権から「巣湖にいる滋賀県の鮒は美味だ」と言わしめた。
それ以来、人々は「巣湖=鮒」というイメージを持ったという。
友達(ユウタツ)175〜247 字は内造(ナイゾウ)
呉の武将で檄烈(次スレ
>>19)の配下。
予州陳国武平県出身。少年時代は学問がかなり長けていたが、
極度の引っ込み思案でなかなか友達を作ることが出来なかった。
しかし17歳の時、同郷で同じ学舎に通っていた檄烈に「休日、一緒に遊びに
行こう」と言われて大いに感動、以来檄烈に付き従い、武将になってからは
檄烈のフォロー役として活躍した。また、臣従関係とはいえ生涯「阿烈、阿達
(檄烈君、友達君と言う意味)」の関係だったという。
228年の石亭の戦いで檄烈が重傷を負ったときは一人で檄烈を背負って本陣に
戻り、自分に科せられた任務を放棄し、3日3晩手当てをしたという。
その時の総大将だった陸遜は呉軍の勝利は確実であったことを自認し、
また2人の関係がどれ程のものかを十分に知っていたため友達を咎めることは
無かった。檄烈が一線退いた後は偏将軍に任命され、常に敵の監視を行った。
247年に他界したがそれを知った檄烈は「生涯最高の友であった。今すぐにでも
後を追ってあの世で酒を酌み交わして語り合いたいものだ」と呟いたという。
友達のモデルについては「激烈バカ」11巻を参照。
友達のモデルについては「激烈バカ」11巻を参照。
↓訂正です。
正しくは
「友達のモデルについては「激烈バカ」10巻を参照。」
です。
間違えたことをお詫び申し上げます。
防厳(ボウガン)175〜253 字は明忠(メイチュウ)で蜀の武将。
荊州巴郡江州県出身で、弓の名手。一度ねらった標的はほとんど外さな
かったという。
かつては荊州の牧だった劉璋の部将だったが、劉璋が劉備に降伏してからは
劉備に仕えた。劉備はこの将が弓の名手と聞き、ある日防厳に「この長さ1尺
(約30p)の槇100本を1町(約109m)離れたところで一回も外さずに
射てみよ」と命じた。防厳はそれを言われたとおり一回も外さず見事に100本
の槇を射抜いた。劉備はそれに驚き、「我、『ゲイ』(古代の中国に存在したと
言われている伝説の弓の名手で、夏王朝の王である堯の命により民を苦しめていた
10個の太陽のうち9個を射落とした)を得たり!!」と叫び、大いに喜んだと
いう。
長板の戦いでは馬に乗りながら追ってくる曹操軍に矢を放ち、的確に精鋭兵を次々
と倒して劉備の逃亡の手助けをした。以後も戦いにおいて弓部隊の隊長として活躍、
第4次北伐では木門道で魏軍の張こうの部隊を壊滅させた。
また彼は、引き金を引いて矢を発射させる兵器も編み出しており、後年この兵器の
名前は「ボウガン」と名付けられた。
譲魯(ジョウロ)生没年未詳 字は蛇盤(ジャバン)。
呉の武将で、主に水軍を甘寧と共に率いた。
赤壁では緒戦を的確な指示で勝利に導くなど、水上での戦いでは
実力を発揮したが、陸上では関羽に襄陽を占領されたときはすぐに撤退したり、
226年の襄陽の戦いで司馬懿の策にあっさりかかる等、からっきし振るわず、
孫権は「あの男が陸上でも実力を奮ってくれたらよいのだが・・・。何故陸地に
限って弱いんだ?」と常々嘆いていたという。
230年頃まで存在していたらしく、それ以降は不明。その為か正史には存在
していない。
禅渥仙人(ゼンアクセンニン)168〜244 遼東で人民に「本当の善悪と
いうものは何なのか」を教え回っていた道士で、于吉仙人みたいに超人的な力は
ないが「善き行いをすればするほどそれは自分に対しての褒美の如く返ってくるが、
悪しき行いはすればするほどそれは自分に対しての刑罰の如く返ってくる」という
一見当たり前な言葉を人々に説き回っていた。
大抵の人はやはり当たり前のように聞き流すことが多かったが、過去に悪行を行って
いた人などにとっては骨身に染みたようで、支持する人もまた意外に多かったようで
あったらしい。
遼東は魏の領地だったため、曹操は初めこの仙人を警戒していたが「理にかなった事
を言っている」と認め、教えを広めることを許可した。
931 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/18(土) 19:50:17
今更ながらですが、
>>897の「更木」の追記です。
身長は1丈1寸(約306p)体重55貫(約206.2s)、
生没年は182〜279年です。
932 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/18(土) 22:19:18
祁侑(キユウ)179〜213 字は秦杯(シンパイ)。呉の幕僚で
揚州・長沙出身。女性と見間違うほどの美貌を持っているがれっきとした男性。
実力はあるが別に対したことが無い事でも心配する性格で、それが為に
幕僚として奮うことはなかった。しかもその性格のためかなりストレスがたまり、
34歳の若さで他界。
ある日、天気が大荒れとなり凄まじい雷雨が轟いたときに祁侑が「天が崩れて
しまう!!」と叫んだ。孫権はそれを聞き、「そんなことあるものか!!」と
笑いながら言ったという。
以来、彼の名は「余計な心配をすること」と言う意味の言葉になった。
金八先生(キンパチセンセイ)?〜? 字は不明 孟獲の配下
金環三結の弟。
武官で人情に篤く、叱咤激励を得意とする。
色との南蛮夷平定戦の時、兄と共に奮戦。
しかし彼は魑魅魍魎か何かに憑かれたのか、急に馬を飛び降り
だだっぴろい平原の上に立ち、自分の名前を叫んだあとそれに呼応するかのように色軍に囲まれ討たれてしまったという。
正史には登場しない。
ちょっと三国志から離れます。
激頓単于(ゲキトツゼンウ)紀元前73〜紀元後13 東匈奴の単于。
紀元前36年に呼韓邪単于の軍の切り込み隊長として
西匈奴を討滅、再び匈奴を統一する事に貢献した。
呼韓邪単于の退位後は単于に就いた。この頃から鮮卑の力が強くなってきた
ことにより、抑制するためによく鮮卑の討伐に出ていた。また漢(前漢)とは
友好関係を保ち、自国の維持にも抜かりなくまとめていた。
性格は短気かつ直情型で若い頃は度々親や友人と衝突することがあり、また乗馬
では派手に乗り回しては所々でぶつかるなど身体的にも精神的にも「激突」を繰り
返していたという。
935 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/19(日) 22:30:24
芳陶(ホウトウ)160頃〜236 字は牟飾(ムショク)。
吟遊詩人。
揚州・建安の油問屋の息子として生まれたが成人になっても仕事をしなかったため
親から勘当され、各地を放浪した。
しかし、それでも定職につかず、詩を詠み歩き、代表作が「労働歌」「日々職務」
「生為就職」と、主に働く人々についてを綴った詩が多かった。
236年に薊(現・北京市)で没した。
936 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/20(月) 06:08:29
>933ワロスW
937 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/20(月) 21:24:30
景伐(ケイバツ)165〜240 字は執皓(シッコウ)で、
荊州の裁判官を務めていた。
正義感が非常に強く、「泥棒をした者には財産の半分を没収させる」、「大した理由
もなく人を平手で一発でも殴った者は杖で百叩きにする」など、ちょっとした罪
でも重い罰を下し、罪の意識を認めさせたという。
初めは荊州の刺史・劉表に仕え、後に荊州を平定した劉備にその正義感を
見込まれて廷尉監に任命された。また、政治家にも厳しく処罰するなどその
的確な判定ぶりが評判を呼び、人から「景伐先生」と崇められたという。
938 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/20(月) 21:30:56
緒参(オサーン)184〜263 字は不明
各地を渡り歩いた、傾奇者。晩年はあまりにも肥満になった為、最期は農民に豚の間違われて食われて死亡。
939 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/20(月) 21:43:01
小早川(ショウサセン)200〜263 字は秀秋(シュウシュウ)
劉備の隠し子。長坂の戦いの時、置き去りにされた劉禅の双子の兄。
趙雲に気がつかれず、救出されなかった。しかしそのご、農民達に大切にされ、
222年の蜀の東征の折に20歳で蜀に帰還。劉禅の弟ということを聞かされて、
後継者の立場を望む。しかし、今更どうのもならないという意見が多く、失敗。
234年、北伐に従軍するが、諸葛亮が死ぬと、蜀への帰還中に謀反。楊儀、費偉などを殺し、
軍を乗っ取る。そして、成都へ進軍し、劉禅を殺す。これにより、望みがかなった。しかし、
その隙に魏が侵攻し、滅ぶ。その後は魏で安楽公となり楽しく暮らす。
なかなかの力作が揃ってきたな
大抵の周りは「つまらん」と思うだろうが
まともな人物記もいいもんだ
これからもこのコーナーが続くことを願います
>>939 ありゃ戦国時代の武将だな。
確かに優柔不断な部分が劉禅と似てる。
けど双子の兄なら本当の名前は何というんだ?
942 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/20(月) 23:45:20
原西(ゲンサイ)185〜275 字は敬幸(ケイコウ)
藤本(トウホン)184〜273 字は敏史(ビンシ)
ともに揚州・会稽出身。
旅の喜劇役者で人を笑わせることに生き甲斐を感じていた。22歳の時、
喜劇役者としての二人組「藤原」を結成、各地を放浪して原西が呆気
(ボケ)役、藤本が突込(ツッコミ)役の小咄を披露し、たちまち人気を
博した。
その人気を聞いた呉の皇帝・孫権はちょうど首都建業に巡業で来ていた
藤原を宮廷に招き入れ、一興小咄をするように命じた。藤原は皇帝の前で
全力投球で小咄を披露し、孫権を笑わせることに成功した。
しかし、更に孫権は「二人の小咄は面白かった。すまぬが今度は各々単独で
面白いことをしてくれぬか?」といわれたのである。
当惑した藤原だったが、「反対すれば厳罰に処される」と思い、まず原西が
自慢のネタである「歩久鎮 歩久鎮〜♪」等を披露した。結果、孫権を笑わ
せることが出来たが、続く藤本がすべってしまい、しかも怒って「うぉい!
ウけてへんやないか!!」と思わず暴言を吐いてしまったのである。しかし
慌てた原西が「すんまへん!!本当はこのコはやったら出来る子なんです」
と言ってフォローし、孫権も了承したためこの場をやり過ごすことが出来た。
その後、孫権は二人に金銀財宝がたくさん入った豪華な贈り物を与えたが、
原西だけには「髪の毛が薄くなってきている」ということで「増毛促進剤」を
更に贈ったという。
以後も藤原は晩年まで喜劇を一線で活躍し、人は彼らを「笑いの道を一直線に
疾走する戦車」と言い、尊敬の念を払ったという。
943 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/21(火) 00:00:06
>>942の追記です。
「歩久鎮 歩久鎮〜♪」は「ポクチン ポクチン〜♪」という意味です。
はいはい芸人芸人
945 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/21(火) 00:20:02
>>942 普段はテレビでよくいじられている「FUJIWARA」だけど、
こうして人物記にすると風情があっていいね。
946 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/21(火) 00:24:18
原西が孫権に育毛剤をもらったところは「ワハハー!!」もの
だったな。
947 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/21(火) 00:56:14
948 :
http:// 125x103x4x212.ap125.ftth.ucom.ne.jp.2ch.net/:2006/02/21(火) 01:17:07
money
南天(ナンテン)213〜282 字は喉飴(コウシ)。
并州・太原出身。
元々医学者だったが、華北で流感が大流行したとき、人々を助けるべく
数種類の薬草と漢方薬を飴と一緒に練り込んだものを提供したところ
効果が抜群、しかも子供もちゃんと服用してくれるためこの飴の薬は
大好評だった。
以来、南天はそれをきっかけに薬の商売を始め、「常盤薬品(ジョウバン
ヤクヒン)を創立した。
949 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/21(火) 22:58:22
私も
>>947と同様、今更ながら
>>67の「安班万(アンパンマン)」に
笑いました。特に「『安殴打!』と叫び徒手空拳でで食い止める」と言う
ところですね。
普通に「アンパンチ!」と書けばいいものをうまく漢字に変えたところにツボが
はまりました。
果たしてこれほど面白いものが今後現れるかどうか楽しみです。
950 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/21(火) 23:59:10
白菜(ハクサイ)213〜301 字は万能(バンノウ)。
魏、西晋の武将、後に徐州・瑯邪の太守となる。
容貌は平凡ながら肌はかなり白かったという。
徐州・瑯邪出身で、初めは司馬昭に仕え、続いて司馬望に仕えた。
目立った活躍はなかったが、蜀の姜維を相手に長安でねばり強い
戦いを見せるなど脇役としての働きは絶大だった。
瑯邪の太守になってからは鍋物(カブツ)、唐辛子(トウシンシ)、
豆板醤(トウバンショウ)、漬物(シブツ)と言った優れた人材を
登用し、善政を敷いた。
951 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/22(水) 01:38:26
松竹(ショウチク)175〜268 字は尚香(ショウコウ)。
呉の幕僚で、揚州・建業の国際貿易商の御曹司として生まれた。
容貌はかなり肌が白く、周瑜に劣らぬ位すらりと背の高い美男子で、性格は一片の
陰が見あたらないほど天真爛漫で好奇心が強く、反面争いごとを嫌い、相手が一度
謝っただけで許してしまうというくらい心が広かった。その為か生涯戦場へ赴くこと
は3度しかなかった(ちなみに同じく呉の幕僚である諸葛瑾も戦場へは生涯で3度
しか赴いていない)。
初めは父親と共に家業を継いでいたが、194年の夏、江東に戻ってきた孫策に出
会い、孫策に「天下を取りたいんだ。その為には今、君の力が必要としているのだ。
一緒に来てくれないか」と頼まれ、初めは「そんな・・・。私には無理ですよ」と
断っていたが、度重なる孫策の依頼に根負けし、仕えることを決意した。なお、
その年は後に孫策と無二の仲となる周瑜も加わっている。
200年に孫策は旧呉郡の太守・許貢の手に掛かって25歳の若さで亡くなったが、
松竹は君主が孫権、孫亮、孫休と変わっても幕僚として仕え続け、亡くなる3年前に
隠居した。
彼は貿易商の息子と言うことで主に財務を任され、国庫の管理を厳しく見張って
いたが、合肥の戦い、赤壁の戦い、夷陵の戦い、濡須口の戦い、襄陽侵攻、石亭
の戦い等々、戦費は必ず自腹を切って出したという。また、得意分野の貿易では
ローマ、ペルシャ、インドなど各国の高級輸入品の額をある程度下げてくれる
まで首を縦に振らない値切り戦法を使い、安価で上等な製品を中国にもたらすよう
に貢献し、孫権も「松竹は我が呉の宝だ!!」といって大いに信頼したのだった。
後に揚州・九江の太守を兼任した。
没後は長年の功績を称え「弘海侯」(「広く海外を手にした者」の意味らしい)と
いう謚を授けられた。
ちなみに彼のモデルはアニメ「わがまま☆フェアリー ミルモでポン!」の松竹香
(まつたけ かおる)です。字は孫権の妹の孫尚香をもじらせて使いました。
いよいよ950番台を突破したぞ!!
>>950は確かに白菜は美味で名脇役という感じがするな。
しかもキムチの材料である唐辛子と豆板醤か。あと海老と林檎も
いたら良かったな。
>>951は凄く長いこと書いたもんだな。彼はこのキャラのファンなのか?
まとめサイト落ちてないか?
曹然(ソウネン)185〜? 字は子栄(シエイ)
曹丕の従兄弟、呉の学者で僧侶。
幼い頃から平和を愛していた為、曹操の跡継ぎ候補から外れていた。
従軍経験も皆無で、儒教思想を若者に教えていたが曹丕が皇帝に即位すると疎まれる。
元々争いを嫌う曹然は呉に逃亡、また曹姓であるにも関わらず寛容に受け入れた孫権に感服する。
軍事面での大きな功績はないものの242年に徳烈将軍(雑号将軍)になる等、異例の大出世を果たす。
政治の場においては太子太傅の諸葛恪の補佐をした。また諸葛恪死後は抹殺を恐れ交州に逃亡する。
交州に逃げた後、耳にしていた仏教の教えを学び、これに感嘆。早速民衆に教えを広めた。
また戦争の儚さ、争いの醜さを説き民衆は血潮に塗れさせてはならない。と熱弁。信者を増やした。
没年は不明だが、数千、数万の民衆に惜しまれて熱病で没したという。
後の呉国討伐では信者らが長江を三途の川と定め、それを渡り曹然の許に向かったと言う。
晋軍は労せずこれらのほとんどを斬り捨てた一方、呉の結束力を内心恐れたという。
後、日本の鎌倉時代の僧侶で浄土宗の開祖である法然は曹然に強い関心を抱いており
自らの房号に然の字を入れたというが詳細は不明である。
祝詞(ノリト) ?〜? 字は不明
祝融の弟で帯来洞主の兄。
祝融とずっとズッコンバッコンしてたら性病にかかり死亡。
956 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/22(水) 19:16:05
>>954 「三国志武将っぽい漢字を武将にするスレ[三]」に同じものが
出てますよ。気を付けて下さい。
>>956 あっ、自分は三のと同一人物です、紛らわしくてスマソ。
958 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/22(水) 20:46:55
伊庵(イアン)174〜255 字は爽府(ソープ)。
呉の武将で、蜀の武将であり、幕僚としても活躍した伊籍の従兄弟。
容貌は笑っているような顔つきで飄々とし、明朗な性格で部下を大事にしていた
という。
初めは甘寧に、後にかん(門に敢)沢に終始仕えた。
武器が変わっており、先にナイフ型の刃物をつけた「憶斗羽守(オクトパス)」と
いう鞭を振り回して複数の敵を倒したという。また同様の武器で何本も分かれて
いる「憶斗羽守 弐」という武器も扱っていた。
非常に速く泳げるために水上戦にかなり強く、赤壁の戦いでは同僚の北島
(ホクトウ)と500人の兵と共に緒戦と総攻撃の時に武器を携えて泳いで
曹操軍の船を襲撃し、曹操軍に大打撃を与え、勝利に導いた。
以後も戦いで活躍し、かん沢没後は交州・南海公に封じられ、松竹(
>>951)と
共に海洋交易に力を入れた。
255年に他界。没後、「海竜侯」と謚された。
彼のモデルは水泳のイアン・ソープ選手とアニメ「メルヘヴン」に出てくる
「イアン」というキャラクターです。文に出てきた「オクトパス」というのは
後者の方の「イアン」が持っている「ウェポンアーム」といわれる武器の一種の
名前です。
959 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/22(水) 21:03:34
北島(ホクトウ)174〜252 字は康介(コウカイ)。
呉の武将で、水泳の達人。前述の伊庵(
>>958)と共に赤壁の戦いで泳いでの
奇襲攻撃に活躍、成功して引き上げたとき、思わず「チョー気持ちいい!!」
と叫んだらしい。
以後も水上戦のスペシャリストとして活躍、50歳の時に交州・合浦公に
封じられ、海上交通の発展に貢献した。
没後、「嵐起侯」と謚された。
960 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/22(水) 21:18:26
>>954に質問です。
この「曹然」という人物のモデルは誰ですか?
961 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/23(木) 02:30:13
松明(ショウメイ)200〜287 字は光煌(コウコウ)。
呉の太傅で、松竹(
>>951)の一人息子で、容貌は肌が白く美男子。その為、父から
かなり可愛がられて育ったという。
父親譲りの平和主義者で明るく温厚な性格で、初めは武将として陸遜に仕え、夷陵の
戦いでは重傷の蜀軍兵の手当をするなどをして劉備、曹操から「是非、我々の手元に
置いておきたい男だ」と言われるほど敵からも一目置かれていた。
後に内政に携わり、農耕、交易の発展と減税を積極的に敢行、また資源コストの削減
を目的に無駄にゴミを出さぬ資源節約政策を行い、「枝切れ、葉っぱでも役に立たせる
ものに変える魔術師のような男」といわれた。
ほぼ同世代の諸葛恪と共に呉の政治の中心を担う形として活躍したが、松明は諸葛恪の
ように積極的に出ることがなかったが、周りから非常に慕われていた。49歳の時に
交州・日南の太守に任命され、ここでは父同様に海洋交易の発展、米作の普及に力を
入れた。諸葛恪が失脚してからも引き続き歴代の君主に仕えたが、最後の皇帝・孫晧
の暴虐ぶりに嫌気をさし、隠居した父松竹に相談したところ、「それほど嫌ならば、
他人がおかしいと思っても自分にとって正しいと思う方向に進んでみなさい」と
言われ、西晋に掛け込み、呉の現状を司馬炎に報告した。それが為に呉は西晋に
攻め込まれて滅亡したという。
西晋になってからは交州の牧に任命され、87歳で亡くなるまで政務にいそしんだ。
没後、「正徳侯」と謚された。
彼の名の意味は松明(たいまつ)のように明るく燃え、人が進む道を照らすことで、
字は燃えて輝く意味の「煌々」という言葉をもじりました。
962 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/23(木) 02:59:18
馬力(バリキ) 211〜?
魏に村を焼かれ、家族を失った可哀相な子だったが
曹操に敗れて逃げていた馬超に拾われる。
昔から力持ちだった馬力は、時に馬超の馬代わりとなったこともあり
「お前は馬のような力の持ち主だ。今日から馬力と名乗れ」と言われ
馬力となった。
字は風走(フウソウ)。馬力が走れば風も走る。
963 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/23(木) 03:02:46
>>962 馬力 追記
その後、馬超が蜀に仕えた為馬力も蜀に仕える。
だが、夷陵で戦死。
964 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/23(木) 05:09:58
宇氣(ウキ)175〜264 字は光洋(コウヨウ)。
呉の幕僚で、松竹(
>>951)とは幼なじみ。
揚州・建業出身で、父は松竹の父が経営する国際貿易商の取り締まりを務めていた。
容貌はインテリジェンスのように見えるが、気取るような事は一切せず、常にどんな
人でも明るくつきあうことを身上としていた。しかし、金銭に対しては非常に執着心が
強かったという。
財務関係に長けていて、松竹と共に孫策に仕え、松竹同様に国庫の管理を担当した。
行ったことといえば、金銭を5%の利子を上積みして返す上で貸借する「労働金貸借制」
と言う金利政策、つまり「サラ金」に似た方法を導入し、各都市に両替商を設置して
国庫の安定を図った(しかもこの政策は「働きたいけど金銭が無くて困り、その元手
となる金銭が欲しい者だけに与える」と言う政策で、「遊ぶためだけに金を使う」者に
対しては厳しくチェックした上で断りを入れていたという)。
当初は「踏み倒される恐れがある」と言うことで反対されたが、試しに実施した
ところ、意外にも好評で、金銭に困った人々にとっては相当の救いの手となった。
その後宇氣は交州・交趾の太守に任命され、現地の作物(椰子、米、玉葱など)、
海産物の収穫増加に務めた。
没後、「増金侯」と謚された。
彼のモデルはアニメ「まぶらほ」に出てくる「浮氣光洋」(うき みつひろ)と
いうキャラクターです。
彼はブルジョアを憎む反面、金銭に対しては非常に執着心を持ち、学校内で
「金貸し」をやっていたとされています。
965 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/23(木) 19:37:48
966 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/23(木) 21:49:59
むっかー
968 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/23(木) 22:40:21
>>967 すいません。横柄なところが出てしまいました。
お詫び申し上げます。
969 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/23(木) 23:35:51
宇桜(ウオウ)201〜283 字は佐欧(サオウ)で、呉の幕僚。
宇氣(
>>964)の息子で、性格はかなり慌ただしく、じっとするのが嫌いな
傾向があるが、仕事に対しては的確にこなすと言われ、孫権から重宝されて
いた。父の金利政策に反対する人々をそれぞれまわっては一生懸命に説得し、
「君がそれほどまで言うのなら君の父上の考えに賛同するよ」と言わせる
など、父・宇氣が「この子がいなかったら今の私はここまで出世していなかっ
ただろう」と懐述したくらい父のプレーンとして任務をつとめた。
松明(
>>961)とは非常に仲が良く、また2世コンビとしても強力で、「人の
体に例えるなら頭が松明、手足が宇桜」と言われ、政策を松明が考え、実施、
公布は宇桜が常に踏み切っていた。
後に交州・蒼梧の太守を務め、米、麦等の農作物と魚介類の養殖の推進に力を
入れた。
没後、「頼盤侯」と謚された。
彼の名前、字の由来は四字熟語の「右往左往」から来ています。
花井(カセイ)173〜264 字は春樹(シュンジュ)
雍州の刺史・王経の部将をつとめた花永の叔父にあたる。
身長は7尺5寸(約227p)と大柄で、あらゆる武術、学問を幼少の頃から常に
たしなみ、性格は冷静で正義感の塊のような至って真面目な男で、ちょっとした
不正でも許さないという感じを醸し出していた。
魏の武将で、24歳に曹操に仕えて以来、常にしんがりを務めた。
下丕β(かひ)の戦いでは「裏切り」で名高い呂布の軍を猛烈に突進し、
250人もの兵を悉く吹き飛ばしたという。曹操はこの勇猛さに驚き、
「不正、悪行の征伐に花井あり」と言って称えたという。
赤壁の戦いでは逃げる曹操を身を挺して匿い、追走する劉備軍にわずか7名の兵を
率いて必死の抵抗をし、後ろから敵兵に頸動脈を斬られるなどの瀕死の重傷を負ったが、
実際は傷が脈をかすかに逸れていたために助かったという。
南郡の攻防戦では周瑜の計略に引っかかって包囲された曹仁の軍を出来るだけ逃がす
ようにするためにここでもわずか28名もの兵で見事な後退戦を展開し、呉軍の追撃を
堰き止めるなど、魏にとって必要不可欠な武将として活躍した。
合肥の戦いでも張遼と共に出兵し、冷越(次スレ
>>27)、班虞(次スレ
>>48)と共に
10万もの孫権軍を撃退し、猛将としての存在を知らしめた。
後に鎮南将軍、参謀役に徹し、外交としても呉の幕僚の宇氣(
>>964)や松竹(
>>951)そして
諸葛瑾と度々密接をして友好関係を保たせるためなど侵攻防止の安全策を練っていた。
また、冀州・鉅鹿の太守をも兼任で務め、都市構成の改善などに奮った。
264年に91歳の高齢で他界、没後は「義剛侯」と謚を与えられた。
彼のモデルは週間少年マガジンで現在連載中であり、今春アニメとしては第2弾で
放映されることになった「School Rumble」の「花井春樹」(はない はるき)
です。
「イアン」、「浮氣光洋」、「花井春樹」。
確かこの三人の声役は川田紳司さんだったな。
川田さんのファンだからこの三人を出すことを狙っていたのかな?投稿者は。
972 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/25(土) 15:08:06
川田紳司さんが好きならあと深夜でやっているアニメ
「LEMON ANGER PROJECT」に出ている「片桐仁」という人物も入れるか?
どうする?あれも川田さんが役をつとめてるぞ
973 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/25(土) 15:49:42
974 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/25(土) 15:51:53
>>972 では入れましょう。
片桐(ヘントウ)177〜259 字は仁義(ジンギ)。
幽州・薊出身。
性格は厳格そのものだが、勇猛果敢で字の通り仁義を尊び、正義感が強く、
部下を人の100倍も大事にしたという。
魏の武将で24歳の時に曹操に仕え、続いて生涯花井(
>>970)の部将として
尽力をつくした。
目立った活躍はないが「将来の魏を背負う武将を造りあげる」目的で配下の兵
約5万人を徹底的に鍛え上げ、配下兵から「鬼軍曹」と言われた。その結果、
蜀の北伐、公孫淵の謀反、遼水の戦い(次スレ
>>24、
>>25)では見事な精鋭ぶりを
発揮、地味ながら勝利に貢献した。
259年に没するまでその役目を果たし、没後は「鋭育侯」と謚された。
>>960 曹植と朱然という無理矢理な・・・
スマソ、出直してくる。ζ≪カエレ!! λλλλλ.....
976 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/27(月) 18:47:43
>>975 >>960の者です。分かりました。
かなり詳細かつ立派なエピソードなので
実際にあったような感じがしました。
私からは以上です。ありがとうございました。
977 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/27(月) 20:42:14
勃起
弱々しい姿をしているが
興奮すると呂布をも超える力を発揮する。
放浪の勇者
λスマソ
暖炉(ダンロ)173〜225
遥か西の国からやって来た少女。彼女の近くに寄ると何故か温かくなる。
そのため寒国での戦では必ず従軍させられる羽目になるため南国へ逃亡。
979 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/28(火) 00:13:40
典仁(テンジン)158〜251 字は泰造(タイゾウ)で、魏の武将。
冀州・清河国出身。怪力の武将・典韋の従兄弟で、身長は8尺3寸
(約251p)、体重45貫(約169s)の巨漢。性格は体に似合わず
温和で情に厚く、些細な事でも感動するくらい涙もろい。ただ、学問には
興味を示さず、またあまり考えもなしに行動に移ってはしょっちゅう失敗
することが唯一の欠点だった。
幼少の頃から護身として人を投げる「柔術」という武術をたしなみ、25歳
の頃に曹操に従軍、黄巾賊の討伐に活躍したのだが、この時、一切武器を
使わずに向かってくる敵兵を悉く投げ飛ばし、大いに恐れさせた。これを見た
曹操は大変驚き、「典韋の他にもう一人の悪来がいた」と言葉を漏らしたと
いう。それ以来、典仁は必要不可欠な武将として戦場に赴くことが多く
なるが、控えめな部分がある所為か地位はあまり上がることがなく、都尉、
校尉に就任したのも許ネ者が昇格したあとで、常に許ネ者の後にいた。許ネ者
没後はこれまた許ネ者の後を継ぐかのように武衛将軍を務め、近衛兵を指揮する
事になったが、この時は自らが長く励んでいた「柔術」を取り入れ、近衛兵
のみならず諸兵の強化に臨んだ。
また、年を追うごとに若い頃興味を示さなかった学問に励むようになり、特に
どこから聞いたのかローマ、ペルシャなどの西洋の事情、文化や哲学について
学ぶことに没頭するようになっていった。65歳の時に冀州・清河国の太守を
務め、主にローマ帝国並みに公共の浴場や広場などを建設したり、道路交通の
拡張に大きく乗り出し、冀州の発展に捧げた。251年に逝去し、「道理侯」
と謚を与えられた。
ちなみに彼は子供が非常に好きで、家では忙しくどんなに夜遅く帰宅しても常に
よく子供の遊び相手をしていたという。
980 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/28(火) 00:15:51
>>979の追記です。
彼のモデルは3年前に放映されていたアニメ「グリーン グリーン」に出て
きた「天神泰三」(てんじん たいぞう)というキャラです。彼は薩摩弁を使い、
性格は文中に出てきたとおり温和で些細なことでも感動するくらい涙もろく、
反面勉強が全く出来ず、すぐ人のことを信じ切ってしまうほどの馬鹿のうえ
生粋のロリコンという者でした。彼には「バッチグー」、「一番星」という
名前の同級生の仲間がおり、常に女子達にちょっかいを出すような行為に出
ていたため「3バカトリオ」といわれていました。深夜アニメのためエッチな
ところが多かったのですが彼だけ純朴で面白かったため本文に出しました。
かなり長くなってしまい申し訳ありません。以上です。
981 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/28(火) 00:31:27
>>978、
>>977 初期の頃の「三国志武将っぽい漢字を武将にするスレ」を彷彿と
させるものでいいと思います。
楚良(ソリョウ)175〜261 字は佐允(サイン)
呉の武将で揚州・京口出身。剣術が得意でしかも二刀流を駆使して敵を倒すため
「蟷螂の楚良」と恐れられていた。最高位は偏将軍。
身長は7尺5寸(約227p)、体重は25貫(約94s)の長身痩躯で
容貌は左の頬に切り傷の痕があり、今でいう「ヤクザのチンピラ」風の顔つきで、
性格は剽軽かつ軽薄であり、軽々しい発言が多かったが部下を人の何倍も大事にする
という優しい一面をもっており、孫権は「軽々しいところは頂けなかったが裏がなく、
思いやりがあって何よりも頼もしく感じた」と大いに信頼を寄せていた。また酒宴では
必ず何か芸を披露し、大いに盛り上がらせていたという。
初めは周瑜、後に丁奉に仕えており、特に丁奉とは仲が良かったといわれている。
赤壁の戦いでは伊庵(
>>958)、北島(
>>959)と共に泳いでの奇襲作戦に参加、濡須
口でも雷雨で混乱した魏軍に「蜂の襲撃」という対岸、水中からの奇襲作戦で撤退
させるなどゲリラ戦法をよく使っていた。その為「楚良はどこから攻撃してくるのか
分からなくて厄介だ」といわれて敵軍、特に魏を悩ませていた。
晩年は交州・九真の太守を務め、海上交通の中継点としての発展にいそしんだ。
261年に他界。「蟷螂侯」と謚された。
モデルは3,4年ぐらい前に放映されていたアニメ「.hack//SIGN」の「楚良」
(そら)というキャラクターです。「ウィキペディア」によると、
『ばみょん、CHUBA!等妙な口癖が個性的な、実は小学校四年生というキャラ。非常に
キャラのレベルは高く、素早く銀漢を瞬殺してしまう位の強さだが、クリムには三度目の
戦いで破れた。子供と見抜かれる事を非常に嫌う。面白い事が大好きだが、それに
傾きすぎている内にモルガナを裏切ろうとした結果、意識不明にされてしまう。その
後は小説「ZERO」でスケイスと一体化しアウラを追討する存在として彷徨い、最終的に
はゲーム、絶対包囲で助かったようだ。司と友達にもなれたらしい』
と書かれていました。私はこのアニメを見た当初から「このキャラは悪そうだが、後に
味方になりそうな気がする」と思い、逆に好意を持ち、今回本文に出しました。
またしても長くなって申し訳ございません。以上です。
ここのコーナー、アニメキャラが多くなってきたな
まあ、面白いから別に構わないけどね
次は誰だろ?