>劉禅がそれらに対して無力であったことは事実ですが、彼は何もできなかっただけで
>直接滅亡の原因
救援要請の無視も失点には入らないの?
>伝を読めば劉禅も酷いと思うぞ。それに贅沢やったのは劉禅も同じ。
伝を読む限り、何としても劉エンを消したくて無理やりこじつけたような気がします。
あと、劉禅は奢侈で国を傾けたわけでも無いし、親政もしています。
劉エンの場合は仕事もしないのに、奢侈をしているから良くないのです。
言いたいことはよく判るんだが、劉エンだって国費を使い込んで奢侈で国を傾けてはないよな?
なのに処刑されなきゃならなかったのか?第一処刑の理由は佞臣だからじゃないだろ?
>黄皓は良くて劉エンが悪かった理由が不明だと思うが。
黄皓を重用したのが良いことだったとは思いませんが、
劉エンが高い地位にあるのも別の意味で良いことだとは思いません。
同意だが漏れが言いたいのは、本当に人物眼が優れてて処分をしたんなら、
両方とも処分するものじゃないか?という疑問な。
>>913 王猛は佞臣じゃないだろ。
楊素の伝も全部読んだか?とても佞臣とは云えないぞ
>>942 あれは立派な失点だと思います。ただ、あの戦役を乗り切ったところで蜀の亡国は避けられなかったとも思います。
>言いたいことはよく判るんだが、劉エンだって国費を使い込んで奢侈で国を傾けてはないよな?
働きが無いのに奢侈というのは、目障りだった理由の一つということで。
>なのに処刑されなきゃならなかったのか?第一処刑の理由は佞臣だからじゃないだろ?
予州時代の劉備に仕え、峻厳な諸葛亮の時代に生き抜くどころか栄達し、
保身に長じていると思われる劉エンを消すには、
ムチャなこじつけで処刑するしか無かったのかなあ、と思います。
>同意だが漏れが言いたいのは、本当に人物眼が優れてて処分をしたんなら、
>両方とも処分するものじゃないか?という疑問な。
人物眼はある程度優れていたが、もしかしたら晩年に曇ったのかもしれませんね。
あるいは宰相クラスにロクな人物がおらず、誰を信用して良いか分からない状況で、
信頼していた陳祗との取次ぎ役をしていた黄皓がまだマシに見えたのかもしれません。
蜀滅亡後にゲキ正を登用するのが遅かったことを嘆いたエピソードなどもありますので、
完全に曇っていたわけでは無いと思いますが。
>>944 概ね同意。
なんかスレタイと違う話題を延延続けすぎた気がするので、この辺で手打ちと行きましょう。
長々とお相手感謝する。
>>943 だからぁ、俺は佞臣とは言ってないって
名君と呼ばれた君主が信頼した家臣にはアクの強い、少々問題の人物もいたって言ってるんだよ
諸葛亮だって
ある意味あくの強いというか、偏りのある人間だとも言えるしね
皇帝に必要な能力って、人事を円滑にする能力かもな
唐や宋は派閥争いで国力傾けたし
劉禅も、もう少し積極的に北伐派とその反対派との間を取り持てばよかったんだろうけど
ちょっと人が良すぎて、強気に出れない感じなんだよなぁ
西洋だが
ピョートル大帝みたいに創業者的な後継者もいるわけで・・・
まぁ中国にそれは似合わないかな
>>939 >劉禅がそれらに対して無力であったことは事実ですが、彼は何もできなかっただけで
言葉の定義の問題だね。漏れはこういうのが暗君だと思ってた。
>直接滅亡の原因になったわけでもなく、積極的に臣下や民衆を害したわけでもないので、
ちなみにこういうのは暴君だと思ってた。特に後半。
>>947 ある意味じゃなくても
選り好みの激しい人間だったっしょ。
それでもみんなから好かれてた武候
953 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/23 09:34:52
その辺が偉大な点か。恐れかつ愛されるって結構すごいよな。
954 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/23 11:22:04
>>933 王猛が死んだ後だろう、肥水の戦い。
そこまで王猛のせいって…それじゃ今川義元が桶狭間で負けたのは太原雪斎のせいなのか?
>>933は列伝未読の知ったかな罠w
それに釣られる954も・・・
956 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/23 17:05:44
朱序のせいで肥水に負けたと書いてるじゃん
朱序が降ったのは王猛が死んだ後だぞ
>>933は何がいいたいのか全く意味不明だ
そろそろ次スレよろ
だから、符堅の部下として王猛と朱序を出してんの
>又、肥水の戦いに置いて、
百万の大軍を擁しながら、先鋒を任せた降将朱序の裏切りにあい、八万の東晋に惨敗
そのまま前秦滅亡のきっかけをつくる。
この部分の主語は王猛ではなく、符堅
朱序については分かったが
王猛についてはさっぱり分からん。
王猛はどっちかといえば符堅の氏族冷遇に対して注意を促してなかったか?
でも、氏族からは嫌われていた
ある意味、嫌われ役に徹していたのかも知れない
ところで、もっとう「蜀将」の話ではないんだが……次スレどうする?
>>960 既に論旨が破綻してるのは明白だろ。人の間違いをいつまでも追及するなよ。
ということで次スレヨロ
963 :
加藤邦迦 ◆B5eyX7Nn8Y :04/10/25 01:28:08
しかし、蜀の官僚制度って謎が多いなあ・・・。
後漢のように、三公や丞相制みたいな形としてハッキリしないし。
時系列で三公や車騎、驃騎将軍等を時系列で見たいものですが・・・
964 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/25 16:07:01
丞相は孔明が死んだ後、設置されなかった筈。
蒋琬以後はいくつかの要職を兼務する形で丞相の職掌を行っていたはず。
丞相・・・・諸葛亮のみ(221〜234)行丞相・・・向朗のみ(238?〜247)
大司馬・・・蔣琬のみ(239〜246)
大将軍・・・蔣琬(235〜239)費禕(243〜253)姜維(256・258〜263) 右大将軍・・・閻宇(256?〜263)
車騎将軍・・張飛(221〜221)劉淡(230〜234)呉懿(234〜237)ケ芝(243〜251)夏侯覇(253?〜?) 左右車騎将軍・・張翼、廖化(258〜263)
驃騎将軍・・馬超(221〜222)李厳(230〜231)呉班(234〜?) 右驃騎将軍・・・胡済(258?〜263)
衛将軍・・・姜維(247〜256)諸葛贍(258?〜263)
前後左右将軍・・・(劉備即位前219〜221)関羽(219)黄忠(219〜220)馬超・張飛(219〜221)
前将軍・・・(即位後)李厳(226〜230)袁リン(230〜234)ケ芝(234〜243)胡済(244?〜249?)
後将軍・・・( 〃 )劉淡(226〜230)呉班(230〜34)張表(249?〜?)姜維(256〜257)
左将軍・・・( 〃 )呉懿(230〜234)向朗(234?〜247)句扶(?)郭循(?〜253?)
右将軍・・・( 〃 )高翔(230〜234)
>965
訂正:諸葛贍→(261〜263)
録尚書事・・・諸葛亮(221〜234)蔣琬(235〜242?)費禕(242〜253)姜維(242〜?)
平尚書事・・・諸葛贍・董蕨(261〜263)
尚書令・・・・法正(219〜220:劉備即位前)劉巴(220〜222)李厳(222〜226)陳震(226〜234)蔣琬(234〜235)費禕(235〜242)董允(242〜246)呂ガイ(246〜251)陳祇(251〜258)董蕨(258〜261)ハン建(261〜263)
尚書僕謝・・・李福(233〜238)ヨウチュウ(238〜242)董蕨(242〜258)
蒋エンの計画はブラフ。
それで国論や戦力の維持、跳ね上がりのガス抜きを図った。流石である。
勿論キョウイの派兵は局地的戦略としては有効だが、それで北伐を云々するのは不可能だし、
漢水下りも、奇策にしても余りにも無理がありすぎる。
要するに全てはポーズだったということ。
まあ蒋エンなら、関羽・張飛クラスの司令官や聡明な軍師が複数いる、魏の内紛が大きくなっ
ている、呉と共同作戦を取れるなど、戦機が十分に熟していれば、北伐も考えたとは思うが。
関羽・張飛クラスの司令官や聡明な軍師??
>>969 まて、関羽〜は司令官クラスまでで、
聡明な軍師まではかかっていないだろ。
もちろん、司令官としては何とも・・・だが<関張
ふたりとも有能な幕僚の進言を入れられるかどうかだな
野戦司令官としては有能だろ。もちろん魏延やキョウ維もいたが、やや小粒なのと、ネームバリューがない。
要は存在自体が戦略となりうるような武人ということが言いたかった。
漢水下りで問題なのは、退路が川を遡る道しかなく、作戦失敗時に撤退が困難だという事くらいだと思うが。
当時の魏が、漢水を下っての急襲に対して考えが及んで無なかったなら
魏興・上庸郡の攻略も決して無理ではなかったのではないだろうか?
魏の荊州方面軍は、呉に対する備えもあるから積極的には動けないだろうし。
孟達が秭帰から北上し、漢中から劉封が漢水を下って魏興・上庸・新城郡を攻めた時は攻略できたしね。
あの辺りを押さえられれば荊州侵攻の橋頭堡を築いた事にもなると思うし。
あと、漢水下りが中止になった後の涼州侵攻計画は、蔣琬ではなく姜維の意見を中心に纏められたものだと思う。
蔣琬自身は東方侵攻に一縷の望みを見出していたが、群臣の反対や持病の悪化で断念。
仕方なく姜維の主張していた涼州侵攻計画を代替案として纏め上げた、と自分は見ているが。
>>967 姜維の録尚書事就任は、衛将軍就任と同時期の247年だと思いますよ。
馬忠の場合は、興勢の役での費禕の漢中出征に伴い、臨時で就任してたんじゃなかったっけ?
>>965さん
書いていただいてありがとうございました。
>973,974
その通りですね、指摘ありがとう。
追加ですが、右将軍・・・諸葛亮(228〜229) 輔匡(234〜?)
後将軍・・・・・・・宗預 (251?〜256?) 劉ヨウ(234?〜?)
私見ですが、夏侯覇も蜀漢に降伏した際、魏の時と同様に右将軍になったかもしれないと考えます。
>976
どういたしまして。
978 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/26 12:33:53
>>972 蒋琬案は
@自分が荊州人だからという心理的なもの
A荊州は魏と呉が二分している状態なのでそこで戦争を起こせば、嫌でも呉は立たざるを得ないという発想
では?
蒋琬は楊儀ら他の有力候補を差し置いて孔明の後継者に指名された事から、「北伐の成功」が孔明への最大の恩返しと考えていた。
だが、同時に孔明と比べて自分に才能が劣るという自覚もあったので慎重かつ万全な体制で北伐を行おうとした。
その産物が漢水下りだと思う。
>>978 漢水下りは慎重とは逆方向のベクトルを持ってると思うが?
980 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/26 17:32:57
>929
というか「名君」と言ってる人は1人もいないと思うのだが?
皇帝なんて実際普通でもいいわけよ。
例えば企業で言えば社長は2タイプある。
大企業の社長=万能である必要無し。人材登用は極めて重要
中小企業の社長=唯我独尊。スーパーマン。オールラウンド。
求められる資質が違う。
ただ中小の国なのに大企業資質だったのが致命的。
>>980 終った話題を蒸し返す前にもう一回レス読み返して来いハゲ
蔣琬の漢中出征は、遼東の公孫氏の叛乱と、それに伴う呉の魏に対する積極的な姿勢、魏帝の病状などからだろう。
呉が荊州北部を永続的に確保出来るようであれば、蜀漢も上庸地方を確保していく事も出来る。
魏が襄陽一帯を保持している状況で上庸方面に手を出せば、強力な反撃をくらうのは確実で、上陽奪取どころか遠征軍壊滅なんて事もありうる。
238年の段階で蜀漢が積極的に攻勢に出る事はなく、あくまでも呉の攻勢が成功するのであれば、それに乗じる、と言う程度だろう。
蔣琬伝の後主の詔勅も「呉と連携し・・云々」とあるのはその証左だろう。
呉と直接連携するには漢水が地理的(距離的)に容易なことから、選ばれただけだろう。
しかし、蜀漢朝廷は「川下り」と言う作戦に対する、夷陵の役のトラウマから反対論が多数に上ったものと思われる。
その上、蔣琬は任官以来、後方支援業務がほとんどで前線勤務は全くない。蔣琬の軍事手腕に対する疑問も多かった事だろう。
蜀漢内における軍事の巨頭である劉備、諸葛亮が成功していない以上、明らかにその両者より劣る(と思われる)蔣琬の作戦行動を支持できないのはある意味当然かもしれない。
誰か次スレ立てないの〜?
985踏んだ人ヨロシコ
当時の荊州諸軍事は夏侯儒で、駐屯地は恐らく宛。
宛から上庸まで直線距離にして250kmだから、行軍距離は300kmは優に越えるだろう。
そうなると早くても上庸到達に2週間は掛かるな。
蜀の方は山間部の急流を下っていくから時間は掛からないだろう。
その時間差を利用してどこまでできるかが問題だな。
夏侯儒の実力がどの程度かは分からないが、配下には王昶もいたしな。
甘く見る事は出来ないだろう。
では、次スレ立ててきます。
>>985 夏侯儒は曹操時代からの軍歴を誇るベテラン軍人です。
征南将軍だった時に呉の朱然に包囲された樊城を救援に行きましたが、
兵力が少なかったので一ヶ月あまり示威行動だけして、
中央からの援軍が到着すると、一緒になって包囲を打ち破りました。
援軍が来るまで戦わなかったせいで臆病者と評されて解任されましたが、
手持ちの兵力に乏しくて、相手の指揮官は名将朱然。
勝てる見込みが無いのに攻勢に出るのは、愚将のすることです。
夏侯儒の軍事能力を示すエピソードはこれだけですが、
少なくとも常識的な判断のできる将であったと思われます。
戦争を指揮した経験の乏しい蔣琬が相手をするには厳しかったのではないでしょうか?
漢水下りにしても北伐にしても、総大将は蔣琬が務めるのだろうが指揮を執るのは姜維か王平になるんじゃないかな?
五丈原からの撤退でも、漢晋春秋の記録を信じるなら、実際に撤退の指揮を執ったのは楊儀ではなく姜維みたいだし。
王平は漢中の守りで外せないかも知れない
すると、姜維、句扶、張翼、リョ化か……
姜維の機動力が生かせるかな?句扶の実体が分かるかな?
姜維は蔣琬の軍事顧問のような役割を担ってたと思う。
北伐の計画立案にも大きく関与してたようだし、
蔣琬が大司馬になるとすぐさまその司馬に任じられたしね。
そう考えると、漢水下りも姜維指揮のもと行われるように思える。
漢水の急流を下るのは非常な難事
しかも、上庸は第一次北征に齟齬を来した曰く付きの土地であり、一時的に占領しても、かつてと同じように
司馬一族が出てきたらそれまで。
少なくとも参謀達は間違いなくそれを意識しただろう。そしてそのときに、果たして漢水を遡上して撤退が可能
か、更に漢中まで追撃は無いのか?昭烈皇帝の敗北の時は、白帝城以西は追撃困難だったが・・・・・。
せいぜい山賊が留守に気勢を上げる程度の事で乏しい蜀の国力を失わせるにはやはり余りにも労多くして益
少なすぎる作戦だと思われる。