なんとなくたててみました。
一条・安芸・本宗・西園寺
3 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/06 15:27
三国志一辺倒だった僕ですが、『信長・覇王伝』(SFC)を
180円で購入(笑)いまさら日本史を勉強中です。
さっそくですが、『黒瀬城』って、現在のドコですか?
宇和島城の事・・・では無いですよね。(当時は丸串城…ですかね)
地元(←宇和島)の者なので、なんとなく気になってます。
どなたか教えてください。
いきなりこんなド田舎な話でスマソ。
管道長
5 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/06 16:57
>>3 国鉄予讃線卯之町駅の南にある標高350mの山頂にある。戦国時代以前は西園寺氏の本城は松葉城だった。
南北朝時代から室町時代にかけて、敵対したのは、喜多郡の宇都宮氏であり、中予の河野氏、讃岐の細川氏などである。
戦国時代の脅威は、豊後の大友氏であり、国境を捜する土佐の一条氏、長宗我部氏であった。
6 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/06 17:02
>>3 1236年、西園寺氏に宇和郡が与えられた。以来、西園寺氏は松葉城に居城していた。
黒瀬城は戦国時代に南伊予の喜多郡を除く宇和郡全域にわたって君臨した西園寺氏の本城である。
1572年、黒瀬城主になったのが西園寺公広である。大友宗麟はその縁につながる上佐の一条氏を
公広が攻めたというので大挙して黒瀬城を攻めた。戦況は西園寺氏に利なく公広は和を請った。
四国に戦国大名などいませんが?
妄想もたいがいにしてください。
9 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:04/07/11 09:15
糞スレアゲ
良スレあげ
長曽我部がもし十年早く四国を統一していたら次の目標はどれだろ?
1 九州 2 中国 3 上方
瀬戸内制海権 とか言ってみる
>>14 無理じゃない?
長曾我部にも淡路の水軍はついたけど、毛利水軍や伊予の河野水軍もいるし。
もう一度言います。
四国に戦国大名などいません。
17 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/13 13:25
>>16 君の腐った戦国大名定義なんて誰も興味ないから w
伊予の名将、土居清良
>>17 いや、まあ待て待て。
俺は
>>16から意見を聞きたい。
この場合、どう呼べばいいのだろう。
長曽我部って水軍保有してたの?
小田原の役では水軍率いて出陣したと聞いたことあるんだけど
元親、小牧長久手で徳川に着いたのに、なんで盛親は大阪方に着いたんですか?
元親が徳川と組んだのは秀吉包囲網の一環。
盛親が大坂方に付いたって関ヶ原?大坂の陣のこと?
両方でしょ
>>20 たしか淡路の管や野崎とかいった水軍衆が味方についてたはず。
盛親はほんとは東軍入りたかったみたいだが
26 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/15 08:50
どいつも〜〜
こいつも〜〜
馬鹿ばかり〜〜
27 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/15 08:51
28 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/05 00:10
白地に詳しい方よろしく
29 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/05 03:32
歴史に関する知識が信長登場以降に偏った光栄厨坊には、四国なんて長宗我部元親か
しか
目に入らないんだろうなあ。
細川管領家の中心勢力として、室町時代は中央政権を運営してきた武将・官僚たちを
輩出した土地なんだけどね。
細川四天王の香川・香西・安富・奈良とか、寒川・羽床などは応仁の乱当時は
メジャーネームだったんだが・・・
30 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/05 07:25
一条以外の土佐・西四国・東四国の3つに分断されているからな。
大西が伊予で討たれた事と三島水軍くらいかな。
age
32 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 11:53
一応ここ三戦板だしな
>>29 不満あるなら史板にスレ立ててそっちでやってねw
34 :
見届人 ◆wBMJacV/86 :04/08/09 13:43
>>29 そのメジャーネームな方々の中に「戦国大名」はいないんじゃないかな。
せいぜい有力な領主程度の香川香西。それも活躍は畿内であって
四国の戦国大名とは言い難い。羽床氏なら四国での活躍はあっても被官クラス。
無学な俺たちが知らない四国の「戦国大名」とやらを教えていただきたいものだが。
あ、長宗我部と西園寺以外で。
36 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 15:29
>>34 夏厨率があがっているので、スキルが高い(or 高そう)な書き込みを書くと
バッシングされますよ。
ほかのスレでも同じ傾向。
37 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 16:03
>>34 >>29ではないが、四国人としてひとこと。
いますよ。
香西、香川、安富はそのまま国人から大名になってますね。
三好や毛利、長宗我部などと結んだりはしたけど、一応独立した大名。
羽床は香西氏に属していて、最終的には分かれたけど秀吉のために一掃されました。
奈良・寒川はよくわからない。
安易な戦国関連の雑誌やコーエーのゲームだと、讃岐も阿波もひとつの勢力で塗りつぶされちゃってるけど、
海野とか一宮とか大西とか結構沢山いる。
昔ながらの管領制度がよく守られてきたので、細川讃岐屋形のもとに大同団結し、続いて三好・長宗我部と
大きな勢力の波に振り回されただけで国人大名・戦国大名はいたのですよ。
また、四国では土地を秀吉系新大名に取り上げられた結果、どこの馬の骨ともしれない領主に仕えるのを
良しとせず、家臣を帰農させそれにやしなってもらった人がかなりいたようです。
そして、そのまま庄屋になるか、ただの農民になるか、滅亡していったわけですね。
昔なら、新領主はその土地の由緒ある武門の家柄を探し出して、家名が絶えないようにしたのですが、
秀吉の作った新大名たちは、そういった慣わしを知らない身分の低い成り上がりが多く、讃岐・伊予は
そのためかなりの家名が絶えたようです。
阿波は、蜂須賀氏がそれなりに召し出して家臣としたため、いくつかの家名が続くことができました。
「南海治乱記」を書いた香西成資も、その名の通り香西氏の末裔で、「そういうことをしたから
自分の豊臣・羽柴の家名もあっさり絶えてしまったのだ」と秀吉にかなり恨みを込めて書いています。
香川信景(????)〜(1586)
【官位】:刑部大輔、中務少輔 【別称】:元景
雨霧城主で西讃岐屈指の豪族。先祖は相模国香川庄を領した鎌倉権五郎景政で細川氏と共に讃岐に入部した。
細川氏に属すが臨機応変に安芸毛利氏や中央の織田氏とも手を結び信長から偏倚をうけ信景と改名。
1579年頃から、長宗我部氏の讃岐侵攻が本格化。家老の香川山城守、河田七郎兵衛、河田弥太郎、三野菊右衛門
の四人を二人ずつ土佐に送るというを条件を受け入れ降伏、元親次男の親和を養子に迎えた。
香川氏の降伏後讃岐の豪族達は次々に長宗我部氏に降伏する。秀吉の四国征伐後土佐に逃れ、豊後戸次川合戦で
討ち死にした。
--------------------------------------------------------------------------------
香西佳清(????)〜(????)
【官位】:伊賀守 ■妻:羽床伊豆守女
讃岐の名門豪族で羽床氏一族、細川氏に属し三好に抵抗した香西氏十八代当主で勝賀城主。
八歳で家督を継ぐが攝津福島城で篭城中に病により失明、「盲目の宗可」と呼ばれる。妻は羽床伊豆守の女。
長宗我部の讃岐侵攻に降伏する。ほどなく秀吉の四国征伐が起こり藤尾城に篭ってこれを迎え撃つが黒田官兵衛の
前に敗北。
--------------------------------------------------------------------------------
斎藤頼政(????)〜(????)
【官位】:下総守
香川氏に属し、阿波池田と丸亀を結ぶ要地、藤ノ目城を守備する。元親の讃岐攻略により縁者の大西上野介の
執成しで孫を人質として降伏、桑名、浜田等一千が城内に入城する。その後香川氏の反撃で城を奪われ
藤ノ目城には新目弾正が入城するが、元親が再度侵攻し斎藤下総守は城主に復帰する。
その後大西上野介と共に香川氏攻略に活躍した。
--------------------------------------------------------------------------------
羽床資載(????)〜(1583)
【官位】:伊豆守 ■子:羽床弥三郎資吉
羽床城主で細川氏に属した中讃岐の豪族。長宗我部氏の讃岐侵攻に強固に抵抗し一度奪われた藤ノ目城奪回に参戦。
また自らの羽床城を長宗我部軍に包囲されるも降伏しなかった。香川氏の呼びかけに応じて長宗我部氏に降伏する。
十河城攻略の陣中で病没。
明坂元光(????)〜(????)
【通称】:掃部
伊予宇都宮氏家老職。主家宇都宮氏は河野に敵対して備後に追放される。その後明坂氏は土佐長宗我部氏を頼って
土佐に落ち、森氏の支配する和田に所領を得る。明坂氏が具足を埋めたといわれる具足林という林が残る。
--------------------------------------------------------------------------------
石川通清(????)〜(1584)
【官位】:備中守 【幼名】:虎千代 ■子:石川備中守勝重、石川虎千代丸。
伊予高峠城主。通清は河野氏からの分家であったが、いち早く三好に通じ、河野氏の討伐軍とも戦った。
天正十年に長宗我部に降伏し、金子氏、妻鳥氏らと共に長宗我部の伊予七人衆の一人として河野氏と境を接した。
天正十二年に没し、子の虎千代丸は四国征伐で八歳の大将として近藤長門守の後見のもと戦った。
--------------------------------------------------------------------------------
大野直之(????)〜(????)
【別称】:菅田直之
河野傘下の宇都宮氏家老であったが、主家が一条氏に組して謀反を起こし追放され、河野に属して地蔵獄城主となった。
しかし、大野氏は宇都宮豊綱の娘婿であり、加えて、八幡森、鍛治森、二城の城主、佐久間安房守との仲たがいから
河野氏に背いて長宗我部家の援兵を乞う。長宗我部の援兵により佐久間氏を打ち滅ぼして旧佐久間領を支配した。
その後、この侵攻に危機を感じた河野氏の要請をうけ小早川軍八千(一万とも)に攻められる。
援軍の波川清宗千二百が来援するも小早川の工作により和睦が成立し波川清宗は退却。直之は捕らえられ兄直昌に
預けられるが出奔。その後長宗我部家の援兵を借りて地蔵獄城主に復帰。
金子元宅(????)〜(1585)
【官位】:備後守 【別称】:伝兵衛 ■父:金子元成 ■子:金子弥右衛門宅明、昆沙寿丸、金子助十郎元宅、馬場勘介
長宗我部の伊予七人衆の一人で伊予金子城主。金子氏は武蔵国入間郡金子郷より興る。1578年長宗我部氏に降る。
その後は元親の伊予攻略の東予に置ける中心人物となり滝本寺栄音を通じて元親と連絡を取り合い、伊予攻略に尽力した。
四国征伐では、「約を変じ強きにつくは男子の道に非ず」と言って、弟元春を金子城代とし、自らは高尾城に篭り、
長宗我部氏の援兵高野義充率いる弐百の兵と共に征伐軍毛利輝元と抗戦した。元宅はよく戦ったが最後には金子軍の
生存者がわずか十三名となり自決。子息昆沙寿丸は元親に引き取られ岡豊城下の滝本村に居住する、
そこは現在も金子の地名が残る。
--------------------------------------------------------------------------------
北之川親安(????)〜(1580)
【官位】:左衛門太夫、式部卿 ■父:北之川経安 ■妻:波川玄蕃女 ■子:北川正親、紀宗親
西園寺十五将の一人で本姓は紀氏、父経安の後を継ぎ、式部卿を称して三滝城を居城とした。
長宗我部氏の伊予進行が本格化すると元親の娘婿波川玄蕃の息女を側室に迎える。だが、玄蕃が元親に謀叛を起こすと、
その関係から疑惑をかけられ、起請文を提出するが「謀反加担は明白なのに起請文を寄越したからには起請の罰が
与えられる」という口実に元親に攻められて三滝城は落城、親安は討死した。
長男正親は岡豊にて斬殺され、次男は土佐に落ちて庄屋紀家の祖となった。
--------------------------------------------------------------------------------
黒川元春(????)〜(????)
【官位】:肥前守 ■子:黒川対馬守通俊 ■養子:黒川美濃守通博
長宗我部元秀の次男。兄国親と不和になり出奔。享禄初年、伊予に来て黒川山城守道矩と兄弟の縁を結び、
長宗我部の姓を捨て黒川肥前守元春と称し、剣山城を築いて城主となった。
中森城の能勢越前、松尾城の松本豊後守を討ち、周辺の城主は元春に属した。天文年間、高外木城の石川氏と争うが
勝敗は決しなかった。元春の嫡男対馬守通俊は天文二十二年大野紀伊守利直に与力して、戎能備前守通森を攻めて敗死。
あとを正岡右近大夫通純の次男美濃守通博が継いだ。
有瀬右京進(????)〜(????)
【官位】:右京進
阿波有瀬名の豪族で、三好、豊永などと共に阿波小笠原氏より出た豪族。三好氏の勝瑞の乱で高名し、土佐岩原の
加増を受けたといわれる。有瀬氏は隣郷の豊永氏とは同族であるが、領地争いを繰り返していたようである。
しかし、土佐中部の長宗我部氏に豊永氏が降伏したあと程なく有瀬氏もその傘下に入った。天正二年には既に
長宗我部旗下に属している。
--------------------------------------------------------------------------------
一宮成助(????)〜(1582)
【官位】:長門守 ■:妻 三好元長娘
阿波一宮城主。阿波小笠原氏、三好等とは同族で細川氏に属す。細川氏の有力者である三好義賢の死後に、
三好長治が篠原長房を攻め滅ぼした事をきっかけに守護細川真之を立て反三好勢力の旗手となる。
ちょうどその頃に土佐を統一した長宗我部氏を頼り阿波の三好勢力と戦った。長宗我部氏の阿波侵攻の先導役となる。
長宗我部氏の阿波支配が確立すると一宮城の支城である夷山城におびき出され謀殺された。
--------------------------------------------------------------------------------
大西頼包(????)〜(????)
【官位】:上野介、豊前守 【法名】:道誉 ■:父 大西出雲守元高 ■:子 大西山城守頼春、大西義武、大西頼渡
阿波西部の要害白地城主大西覚養の後継ぎで阿波轟城主。大西氏の降伏後人質となり岡豊に来る。しかし大西覚養は
三好氏の働きかけで再び長宗我部氏に背いてしまった。元親は人質の上野介を殺さず長宗我部家臣として阿波陣の
先陣を任す。上野介は久武親信と共に阿波へ進撃し、吉野川沿いの諸城を次々に落とし、一気に重清城までを
支配下に収めた。また、西讃岐攻略の先陣も努め、元親の四国平定に尽力した。
菅達長(????)〜(1614)
【通称】:平右衛門 ■子:菅三郎兵衛、菅仁三郎、菅右衛門八
淡路国の豪族。毛利氏に仕えていたが、天正十一年に香宗我部親秦を通じて長宗我部家と結ぶ。
翌年には一千の兵を率いて、根来救援に向かうが利あらず撤退。その後秀吉に降伏し、四国征伐の後に伊予一万五千石
の領主。小田原征伐、朝鮮の役にも秀吉水軍として従軍。関ヶ原では西軍に属し、浪人。後、藤堂高虎に五千石で仕える。
しかし、大阪の陣の時、堀埋め立て工事の最中に藤堂高虎より切腹を申し付けられた。
--------------------------------------------------------------------------------
新開実綱(????)〜(1582)
【官位】:遠江守 【別称】:忠之、道善
入道して道善。阿波細川氏に属した有力豪族で富岡城主。一宮長門守らと共に反三好長治勢力の中心人物となり
土佐勢を阿波に侵攻させた。しかし阿波への長宗我部氏の侵入により阿波国内は益々混乱。
長宗我部方の東条氏などを攻めて権力奪回をはかるも阿波は中富川合戦の後長宗我部氏が支配し、新開氏も長宗我部氏に属した。
しかし元親は阿波旧勢力の有力者である新開道善を阿波の古刹、丈六寺に呼び出し謀殺。丈六寺にはその時の回廊についた
血の板を貼った血天井が残っている。
--------------------------------------------------------------------------------
武田信顕 (????)〜(????)
【官位】:上野亮
甲斐武田の家臣であったが、阿波脇城に流れて城主となったといわれる。天正七年に長宗我部氏に降伏し、同年十二月には、
脇城征伐に来た三好軍を迎え撃ち、全滅させた。しかし、三好笑岩の説得工作により、天正十年に再び三好に帰順する。
--------------------------------------------------------------------------------
土居重兵衛尉(????)〜(????)
長宗我部の阿波侵攻により降伏。「十二町衆」に組み入れられ、阿波各地五十六ヶ所に合計八町四反四十五代の給地を得る。
江村孫左衛門の組与力として配備された。
東条実光(????)〜(1585)
【通称】:関兵衛 ■父:東条信綱 ■妻:久武内蔵助女
甲斐源氏の出自を持つ阿波の豪族で元親の阿波侵攻により、弟、東条唯(只)右衛門を人質に出し降伏した。
四国征伐では木津城を守備するが、秀長軍にいた叔父の東条紀伊守の説得により戦わずに土佐に退却する。
帰国後元親の命により切腹。妻は久武内蔵助の女で元親の養女。
--------------------------------------------------------------------------------
多田元次(????)〜(????)
【官位】:筑後守 ■子:吉成五郎右衛門、多田弥八郎正次
始めに阿波の細川持隆に従えた武将。吉成五郎右衛門の父。多田氏は清和源氏、摂津河度郡多田庄より出た家で
細川氏に従う。阿波の反三好長治勢力に付き、一宮、日和佐、新開氏らと共に結託、反抗した。後に土佐長宗我部家臣となる。
--------------------------------------------------------------------------------
畠山之照(????)〜(1582)
【官位】:石見守 【別称】:仁木六郎 ■父:細川真之 ■養父:畠山高政
細川真之の子。母は仁木伊賀守の娘。懐妊七ヶ月のとき、真之は妻の叔父である仁木左衛門のもとへ落ち延びさせた。
生まれた子は仁木六郎名乗り、成人して畠山高政の養子となり、畠山石見守之照と改名した。之照は祖父持隆・父真之の
仇である三好氏を滅ぼすため、長宗我部氏に合力して中富川の合戦に従軍した。のちに元親の悪逆に愛想をつかして離反。
天正十年、長宗我部勢に襲われ上大野城で死んだ。
三好康俊(????)〜(????)
【官位】:式部少輔 【幼名】:徳太郎 ■父:三好康長(笑岩)
父康長が畿内で工作中に阿波勝瑞城主として長宗我部に対抗する。しかし、その攻勢に耐え切れず、家老矢野駿河守、
森飛騨守、三好越後守を謀殺して一度は服属。元親は香宗我部親秦を使者にし織田家に三好式部少輔降伏を報告し、
康長との友好を依頼した。しかし、三好笑岩、西園寺公広らは工作を続け、織田信長は四国征伐を決意。その先陣として
三好笑岩が阿波に侵入すると式部少輔は反旗を翻す。
結局織田信長の死で四国征伐は中止となり、式部少輔は阿波岩倉城にて長宗我部軍に敗北。
--------------------------------------------------------------------------------
吉井行康(????)〜(????)
【官位】:左衛門太夫 【通称】:左平衛 ■子:吉井康爲
阿波吉井城主。吉井家は多田氏と姻戚関係にあり、共に細川持隆を攻め殺し、その室大形殿を奪った。
持隆の子、細川真之を奉じて土佐長宗我部氏とも連携して三好長治、十河存保と争うがその途中で死去した。
子は土佐に落ちのびる。
--------------------------------------------------------------------------------
吉成五郎右衛門(????)〜(????)
■父:多田元次
多田筑後守の長男。父と共に長宗我部氏に属す。始め多田与四郎元平と名乗り、一時和泉にいたが土佐に来て母方の
姓吉成氏に改める。長宗我部水軍の実力者となり戸次川への出兵に際し、軍隊や兵糧の輸送を命ぜられ、船舶や船頭、
水夫の徴用に尽力した。その代償として公示免除の恩典を与えられている。のちに安芸郡津呂に領地を与えられ、山内の
土佐入封に伴い、港の案内を担当、そのまま従えた。
日和佐肥前守(????)〜(????)
【官位】:肥前守、和泉守
阿波日和佐の土豪。阿波の反三好長治勢力に属し、一宮長門守らと共に守護細川真之を立て阿波に長宗我部家を呼び入れた。
のちに長宗我部の侵攻に会い降伏。
--------------------------------------------------------------------------------
日和佐権頭(????)〜(????)
【別称】:新次郎、安信、浜五郎兵衛 ■子:浜左近衛門、浜長兵衛、日和佐庄兵衛、宥英
後に出家して安信。日和佐肥前守の弟で兄と共に長宗我部家に臣従する。四国征伐後浪人し大阪へ向かうが
土佐一国に封じられていた長宗我部の招きに応じて土佐に向かう。長宗我部家滅亡後は浜五郎兵衛と名乗り山内氏より
赤岡の庄屋を仰せつかった。晩年には蜂須賀家政の招きにより庄屋役を長男、左近衛門にゆずって日和佐に帰還する。
左近衛門の家は後に断絶するが、次男の長兵衛が残り代々庄屋役を務めた。また三男、庄兵衛は父と共に阿波に向い
日和佐家を継いだ。四男は宥英と名乗って出家し、楽王寺の住職をしたあと、五台山竹林寺の住職となった。
47 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/11 03:52
なんじゃこりゃ
48 :
無名武将@お腹せっぶく:04/08/11 06:40
何処からのコピペ?
49 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/18 20:41
age
50 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/02 01:11
onisogooooo
一条以外の土佐・西四国・東四国の3つに分断されているからな。
大西が伊予で討たれた事と三島水軍くらいかな。
52 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/10 02:55:03
なんか国人・大名・戦国大名等々の定義を知らない人ばかりだね
スレタイを「四国の諸勢力を語る」とかに脳内補正汁!
阿波の中村氏、阿佐氏などの平氏ゆかりの武家もいるよ〜
名主レベルは武家とわ言わんだろう
56 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/16 02:29:13
盲目だった奴と、やたらと剛勇を誇った人の詳細plz.
>>55 阿佐氏は蜂須賀家の禄を受け取って生活していた武家ですよ
58 :
無名武将@お腹せっぷく:04/10/16 19:46:00
戦国最強の悪女といえば、細川持隆の側室の少々将だが、
義賢や実子の長治が死に、三好が衰えた後は、長曽我部元親の側室になったというが、
その後の消息は如何に??
>>12 2
四国統一ってことは河野を滅ぼしてるから、毛利とは敵対関係になっているはず。
つか、10年も前だと統一は無理。毛利&河野を相手に勝機のない戦いするほど馬鹿じゃない。
>>57 でも祖谷でいえば喜多家なんかは大きな武家屋敷だけど
阿佐家は典型的な農家の造りだっていうよね
十河や河野の末裔を名乗る家系は徳島にもたくさんあるが
十河の方は十川(そがわ)を名乗る場合が多いし
河野の方も「こうの」ではなく「かわの」と読み、川野(かわの)を名乗る場合もある
>>60阿佐家はかなり落ちぶれたからな。戦国、江戸の負け組のさいたるもの
と言っていい
いづれにしても保守だな
64 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/04 09:29:49
どれ、なんで一条家が土佐に下向したのか、しかも中村に住んだのか、オサーン
にもわかるように説明してくれよ。
あと土佐にはなんであんなヘンテコな名字の豪族が多いのかも。
65 :
無名武将@お腹せっぷく:04/11/04 19:36:07
>>64 一条氏は自家の荘園である幡多荘に応仁の乱を避けるのと領地を守るためでつ。
西園寺氏も時代は違いますが同じく自分の領地へ下ってきたのです。
変な苗字といいますが、苗字由来は地名とか取ったりしてますし、理由は
分かりません。高知県人にとっては結構いるから別に珍しいとも思ってない
です。
北海道もアイヌ人が呼ぶ地名に音読みの漢字当てはめただけだしな
そのまま地名を苗字にしたら変だな
>>66 音威子府 源五郎 景政 (おといねっぷ げんごろう かげまさ)
長万部 藤五郎 成実 (おしゃまんべ とうごろう しげざね)
入交 太郎右衛門 重信 (いりまじり たろうえもん しげのぶ)
倶知安 太郎左衛門 英龍 (くっちゃん たろうざえもん ひでたつ)
・・・かっこいいじゃん。
草枯らす霜また今朝の日に消えて
報いのほどは遂にのがれず
保守カキコ
三好実休の辞世か・・・
ほしゅ
72 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/14 16:53:07
河野について詳しくしりたいのだが 詳しい人いますか?海賊だったってほんと?その後どうなったんだろう?
73 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/14 17:09:26
あげ
河野は秀吉にやられた後、安芸ににとばされてるよ。
海賊は村上水軍や来島水軍、村上水軍(大島)で、河野自身は
海賊ではなかったらしい。実際に愛媛の島々を回ってみると
厳島合戦以降は河野にはほとんど水軍はついていなかったらしい。
来島水軍もほぼ独立状態で、河野家は丸裸。
河野家は鎌倉時代から続く家系だけどこのころには小領主に成り下がってたらしい。
長曾我部に攻められたときろくに抵抗できなかったのも家中分裂してたから。
パパ通直以前からかなり不安定だったからそれを暫く耐え、毛利の侵攻にも
うまくやり過ごした通宣は結構有能だったのかもね。
>>72 検索した方が早いと何故思えないのか聞かせてくれ
>>74 国人連合的な面を持ってるとはいえ小領主という程弱小でもない
それに能島、来島両氏も独立色が強かったといっても叛いた訳でもないし
それ以外に忽那氏等河野の支配下にあったのもいたから丸裸って訳でもない
長宗我部の侵攻にしたって何だかんだで結局秀吉の手が伸びるまで凌いだ訳だし
まあ、結局内紛でグダグダになっていたには違いないが
後通直は通宣の父親ではない
78 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/14 18:25:49
74、76、Thanks。徳川政権下から幕末にかけてはわかりますか?携帯しかないので検索の仕方がわからず
すみません。
追加、訂正
能島の方は厳島以来毛利より(ただし河野も毛利と同盟、以降親毛利)
来島は1582年に離反して織田方へ
小早川侵攻時に再興を前提に降伏、しかし秀吉に認められず所領没収
>>77 晴通(通政)、通宣は本家と対立していた分家(予州家)の通存の子
余談だが通宣には石川通昌という兄もいる
ついでに言えば通直(伊予守)は河野通吉の子
>>78 江戸期まで持たなかった
>>80なるほど!ありがとう。じゃ俺は落ちるわノシ
82 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/14 18:45:01
80Thanks そっか…うちの先祖は特にこれといった活躍もなかったんだね…どうりでゲームでも弱い筈だよ…クスン。
このスレ・・・長曽我部ファンしか居ないの?
>>82 まあ、歴史は勝者によって作られるものであって
敗者は引き立て役にでもなれなければでもなければ酷い扱いされるからな。
実際大内、大友、細川(三好)、長宗我部等有力大名に囲まれていた以上
無能ならさくっと滅んでいるはずだしそこら辺
>>74の言う通りだろう。
ゲームとかする時はちょっと位贔屓目に見てやってもいいんじゃない?
俺は十河ファン。鬼十河マンセー!存保も鬼十河と呼ぶ!(司馬)
86 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/14 19:14:21
84Thanks! 全国に散った河野一族!御家再興のためにがんばろーぜ!
信長の野望の平岡氏の扱いは悪いよなあ
出てくる河野家臣は大概三島水軍からばっかり
平岡房実すら出てこないこともあるし
風雲録では名前間違えられてた上に無能で早死
まあ、河野一門でも通直2人に通宣たまに通政が出る位だから
仕方ないのかもしれないが
88 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/14 19:54:56
他に名のある家臣はいなかったのかなぁ…?明日、墓参り行きます…。ひぃじいさんのだけど。
89 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/14 20:12:39
美濃の稲葉氏も河野一族だっけ
90 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/14 20:27:40
91 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/14 20:44:47
↑セフレいらない もっと強い武将で天下統一。
>>89 一柳氏もそうだよな。
意外と江戸時代に河野一門が元気なわけで。
93 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/14 21:28:15
武門としては、ぱっとしなかったようですね。海賊で悪さばかりしてたから今ばちがあたってツキが無いのかと…
播磨の三木氏も河野の末だな
通字が「通」なら大体そうな気がする
>>93 この時代の海賊は今で言う「水軍」辺りで強盗の事を指す訳では無い
95 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/14 22:10:57
↑倭寇とは違うの?
↑日本史勉強し直せ
97 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/14 22:32:48
日本史は真実なんか?
真実などは分からない。あるのは真実とされている物だけだ。
99 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/14 22:51:42
アンタ カッコイイよ!
100 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/14 22:53:40
そして華麗に100
102 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/14 23:23:32
ドレイク船長みたいなもんだよ
海上交通を支配して友好大名には物資の補給
や流通面で恩恵を与える一方で軍事的な保護
を受ける。敵対大名には逆に海上交通を妨害
して海賊行為をする
103 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/14 23:30:38
結局海賊な訳で…中國人とかにも略奪とかして襲ってた感じがするが…
>103
や、だから中国や朝鮮沿海の和冦と
瀬戸内の海賊(水軍)つーのはいちおう別モンだって。
ひょっとしたらやさぐれて明を嵐に逝った○島村上の裔がいるかもしれんが
>>103 倭寇と水軍についてもっと勉強したほうがいい。
倭寇についての知識もメチャメチャだし。
107 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/15 08:29:06
大陸側の資料にはどう書かれてるんだろな?もしそうだとしても都合の悪い事はわざわざ残さないだろな。
>>107 倭寇は直接関係ないので他所でやってくれ
110 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/15 10:18:38
「倭冠は中国人七割日本人三割」自体中国の
資料なんだが……
というか板違いうざい
倭寇と言えば海部氏
こっちは貿易を営んでたとか
112 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/15 17:59:30
ああ、結構謎だよね<海部氏
113 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/15 20:19:21
だからこの時代は商人と海賊の区別なんて
ないんだって
海に利権を持ってる連中=海賊≠バイキング
でいいのかな?
>>114 バイキングも交易とかやってるからその喩えは×
ちゅーかお前らちったあスレタイに沿った話をしる
>114
関料さえ払えば(敵対関係でもなきゃ)水先案内してくれるのが相場よ。
>113
アゲナキャイイノニ・・・
117 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/20 07:57:19
age
みなさんに質問あるのですが・・・
長宗我部が四国を統一して四国全土から兵士動員したら何万人ぐらい動員できそうですか?
仮にもっと早く四国が統一できてたら今度はどっちの方向に領土拡大しにいったのか気になります。
動員兵力しだいでは・・・
119 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/20 09:46:06
無論、上洛。三好家を阿波から駆逐した時点で京を目指さざるを得ないでしょ。動員数は10万ぐらいじゃないでしょうか?
ってか、もっと早い時期なら三好家全盛期だ罠
三好の勢力が衰えたからこその阿波進出だったわけで
まあ、三好実休と長宗我部元親の直接対決は面白かったかも
そもそも元親は四国統一は出来てないよね?
10万の動員?あたま悪すぎ
四国全部でどう考えても1万5〜6千
>>119 まあ5万あったらいいところじゃないかな
土佐だけで2万近く動員できたのは農夫とか全部かり出したからでしょ?
阿波、讃岐、伊予全部あわせて3万はきついと思うがなあ・・・
>>123
>124
農兵に臨時雇いも入れれば・・つっても精々(土佐もコミで)3万じゃねーの、とはおもう;:
ただでさえ平野が狭くて米とれないのに
あんまり動員かけたら国人の一揆が続発しそうだよ
>>125 不思議なんだけど米が取れない地形なら海洋民族化して国を挙げて周辺が海なんだから
魚取り巻くって加工して保存食とかにして周辺の国々に輸出して貿易したらいいのにね。
米とか金に替えれるし。
昔は周辺の国と仲が悪かったのかな?四国の国々って。
>>126高知に行くと分かると思うけど山が隔てていて今でも
国道だけで行こうとするとかなりきつい。
当時、高速も整備された道もないのに陸路の運搬は無理でしょ。
室戸岬なんかは昔から漁港の役目をしていたみたいだけど
黒潮に乗ってくる鰹なんかを膨大に捕れるほど大規模でも
無かったようだ。シイラなんかは漁師しか口にしなかったようだし・・・
貿易どころじゃなかったんじゃないかな?
川魚は保存があまり効かないしね。
阿波、讃岐は上方思考が強くて京と交流があったらしい。
戦国時代以前も結構下ってきた人がいたみたいだし・・・
伊予については詳しくしらね
愛媛県人カモン!
>>127 >陸路の運搬は無理でしょ。
だから豊富な木材を利用して大型船作って海路を貿易するわけですよ。
瀬戸内海から太平洋、名古屋から九州ぐらいまで海は続いてますから。
せっかくまわりが海なんだから塩とか名産にしたらいいのにね。
海水蒸発させて作る。
とにかく国を挙げて船を量産だね。
だから大規模な漁港がなかったんだよ。
塩田をつくるほどの干潟なんかもないし。船を作ってくりだすにしても商品がない。
>>129 なければ作ればいいだけの話。
国単位の話しなんだし。
132 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/21 00:13:43
ってか、総力挙げて畿内目指したら・・・
北から毛利、西から大友、そして西園寺や河野や三好の残党が
もしゃもしゃ沸いてくる予感。
>>132そういやなっち(長逸)とかって阿波にいたんだよね?
>>131 当時の大名は農民を支配して年貢取り立てるだけで国全体で収益上げるとか新しい事業起こそうとか考えてなかったのかな?
飢饉とかいずれ来るんだから新しい食料自給方法とか普段から考えておくべきなのに。
>>134 当時の大名っていったってせいぜい地方領主レベルがいるだけで統一的な支配者などいなかったんだからムリだろ?
>>130 作ればいいっても今と違って当時の技術では漁港に向かない地形が多いからね。
台風の通り道で、太平洋に面してる分、瀬戸内と違って波も荒く巨大な港を作るには不向きだった。
当時の造船技術や航行技術では大規模な漁港をつくっても割に合わない。
徳川や毛利(両川込み)でも10万なんて大軍は動員できないよ。
動員兵力は2万弱だろうね。四国空っぽ覚悟なら2万5千〜3万はいけそう。
小田原攻めの北条みたく戦力無視の総動員ならもっと集められるだろうがただの烏合の衆で兵糧の無駄。
>仮にもっと早く四国が統一できてたら今度はどっちの方向に領土拡大しにいったのか気になります。
>>59で結論でてるっぽいが
毛利が河野の援軍として伊予に3万超える大軍送り込んだりしてるからな、早期の四国統一は無理じゃね。
毛利は四国そのものには興味なさそうだが、瀬戸内の利権を護る上で従属してる河野を見殺しにはしないだろうし。
となると統一できだとしても歴史どおり織田の中国攻めで毛利が四国に手が回らなくなって以降だろね。
四国統一はあきらめて毛利島津と手を結んで毛利島津との小競り合いや竜造寺の台頭で没落しつつあった大友の所領を狙うのが良さそう。
>>119 四国で動員10万って、本能寺前の信長なら100万、日本全体で500万は動員できそうな勢いだなw
四国全体でせいぜい2万超がいいとこ。
三戦板らしいっちゃらしいが、まさにゲーム感覚
太閤検地を元に万石250人と考えるならば、二万〜三万。
防衛戦争なら五万くらいはなんとか捻出できるかもね。
四国全部合わせても百万に届かないのが実状だからな。
詳しい人に訊きたいんだけど、それじゃあ中富川の合戦で長曾我部軍の
動員した戦力って、二万もいなかったってこと?
むかし、なにかの本で中富川の合戦の長曾我部軍は二万ほどとあった
ような気がしたのですが……
>>141 はっきり言っておく。
どの随筆・軍記・日記においても軍の数はまったくあてにならない。
それが一級史料だとしてもだ。とりあえず
>>119なんて論外。
四国から攻め込む一国目が問題だな・・・
四国全体で2-3万しか動員できないなら守りきれないから。
ゲームなら攻め込んで獲得→あらいざらい略奪して即撤退→周辺国が占領→即攻撃の繰り返しで(゚д゚)ウマーなんだけどねw
中富川合戦当時の長曾我部なんて、土佐と阿波・讃岐・伊予の一部ぐらいしか勢力圏がなくて
土佐にしても一条家臣筆頭という立場で、他の大名みたいな強力な統治出来てる訳じゃなし…
5万どころか、1万5千あってもいい方だと思われ
>>141 中富川の合戦時には北伊予や讃岐の一部を除く四国の大半を持ってたから、総動員なら2万くらい動員できたんじゃね。
恐らく、実質は1万5千超くらいだろうけど
そもそも軍を興した時点で兵数を詐称するくらいだからな、
公称四万、実数二万五千とかな。
遅レスだが
>>80氏
>晴通(通政)、通宣は本家と対立していた分家(予州家)の通存の子
足利義晴が大友義鑑に通直と晴通の対立を仲裁するよう依頼した際に
『河野父子不会の段』『河野父子不会の事』という文言が見えるので、
通直と晴通・通宣は実の親子だった可能性もあるそうです。
つまり、本家と分家(予州家)の対立ではなく、
通直の女婿として急速に権力を強めた来島通康
その通康の勢力を利用して分国支配を進めようとするパパ通直
VS
来島氏の勢力伸張に危機感を抱く旧臣勢力
旧臣勢力に担ぎ出された息子晴通
という形だったのではなかろうかと。
まあ、全部本の受け売りですが(藁
これも遅レスだが
>>127氏
>伊予については詳しくしらね
>愛媛県人カモン!
東・中予を支配していた河野氏は、南北朝期末頃から
細川氏と対立してましたし、実際に侵攻されたこともあ
ります。その際に周防の大内氏の支援を受けたりしま
したが、大内義興・義隆の頃には大内包囲網に参加、
後に講和したりもしています。
また、大友氏から室を迎えたり(弾正少弼通直の頃?)、
毛利元就の孫娘を迎えたり(刑部少輔通宣の頃?・牛
福丸通直の母)と、政治的な視点はどうしても瀬戸内
方面に向いていたようです。
そもそも、この地域は近畿←→九州を結ぶ海運の要衝
ですし、地理的にも分断されてますけどね。
一方で、南予の諸勢力と一条氏の間で婚姻や養子関
係が結ばれていたようです。
が、当然長宗我部氏とは対立したでしょうから、126氏が
想定してるような、国を挙げての貿易なんぞは行われよ
うはなかったでしょう。
これまた、ほとんど本の受け売りですが(藁
149 :
訂正:04/12/23 01:09:10
>>148 ×
そもそも、この地域は近畿←→九州を結ぶ海運の要衝
ですし、地理的にも分断されてますけどね。
○
そもそも、この地域は近畿←→九州を結ぶ海運の要衝
ですし、土佐とは地理的にも分断されてますけどね。
その本のは少なくともメジャーな説では無さそうだが
あと刑部少輔通宣は左京太夫の間違いだろ
>141-142
長曽我部は戦国末まで野兵が主だしごく短期+本拠の近所であれば
2万弱ぐらい(サバよんでる分も当然あるやろうけど)イケルんではないか?
しかし何年かに一度で押さえておかないと
朝鮮出兵でボロボロに疲弊した豊臣家(体制)と同じになるわなー
船で貿易というのは当然にやってたろうけど、
千石船で遠方まで回漕して〜というのは幕藩体制の整った後の話だから
瀬戸内(毛利や大内領とか)・近畿・九州でやりとりはふつうにあったろう
>150
それをいうなら刑部大輔の間違いだろだろ?
刑部大輔と左京太夫を名乗ってるのは知ってるが、刑部少輔も名乗ってたのか?
官位からすると刑部大輔(正五位下)→左京太夫(正五位上)が後年?
>>152 刑部大輔だったら弾正少弼通直の親の方になるだろ
>>150,152氏
すみません、左京大夫の間違いでした。
弾正少弼通直の父・通直が刑部大輔だったのと
二重に勘違いしてました。
あと
>その本のは少なくともメジャーな説では無さそうだが
私も、昨日買ってきた『伊予河野氏と中世瀬戸内世界』
という本で初めて見たので、思いきりマイナーだと思わ
れます(笑)
ただ、晴通が死亡したと思われる時期以降文書の発給
主体が通直に戻っていること、来島通康の存在感が通
直期よりもむしろ通宣期に増大していること等、従来の
説では説明しづらいことも多いようです。
155 :
訂正:04/12/23 17:37:29
>>154 ×弾正少弼通直の父・通直
○弾正少弼通直の父・通宣
もうグダグダ。
逝ってきます・・・
156 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/25 21:26:59
専門的過ぎてついてイケネ
157 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/26 01:09:09
河野一族で幕末までに特別目立った活動した人っているんですかね?
158 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/26 01:18:56
>>151元親の四国統一の過程で相当ひどい徴兵をされてた
と言う話を聞いたことある
事実なら四国統一したとしても上方へ出兵は無理だと思う
159 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/26 01:35:04
160 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/26 12:39:30
↑ありがとう 親切に感謝!
161 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/27 10:22:39
132 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:04/12/21 00:13:43
ってか、総力挙げて畿内目指したら・・・
北から毛利、西から大友、そして西園寺や河野や三好の残党が
もしゃもしゃ沸いてくる予感。
で、FA。
162 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/27 11:29:29
>>157 河野はどっちかといえば、安土桃山以前に活躍してたんだけどね。
ちなみに水軍という立場上、飛び道具をよく使うので、河野氏配下から鉄砲名人が
多く出て、伊予流・河野流として各地で活躍。
雑賀・根来鉄砲衆ほどメジャーじゃないのが残念。
河野水軍は元コウの時も頑張ってたよね。
何気に伸びてるねこのスレ。
河野通有だね。
166 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/29 11:43:44
ここのスレは親切なヒトが沢山いていいっすね。
他の所は自分で調べろとか意地悪なヒトが多くて…
>>166 2chに限らずBBSでは質問は(内容にもよるが)嫌われる行為だからな
教えてくれる=親切、教えてくれない=意地悪
なんて発想してるなら匿名掲示板使うにはまだ早い
ログを調べる癖と、ググる癖を身につけないときついだろうな。
あと質問するなら具体的にするよう心がけるとか。
問う方もそれなりの配慮をしないと、
質問された方も嫌がらせか?と思うこともある。
まー、それはそれ。
169 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/29 18:53:43
ログってなんですか?
ググるってGoogleの検索サイトの事であってますよね?
>>169 ログってのはここで書き込まれた内容のことだ。
まーあれだ、君がこの板でどんな質問をしてきたのかしらんが、
「今日は何月何日ですか?」
「日本の首都はどこですか?」
みたいな聞くまでもない質問をしまくる奴は、
アホだと思われるか嫌みを言ってると受け取られるか、
二つにひとつ。
仮に厨房用の板と言っても一応歴史板なんだから、
最低限の知識は自分で調べるものだ。
でないと、上記のような感想を持たれるのは仕方ない。
自分の責任。
171 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/29 19:18:32
無知ですみませんでした…以後 気をつけます。
ありがとうございました。
しっこくしっこく!
いや、本当にお前等優しいな
優しいってかネタが無いからな
祖谷の〜かずら橋ゃあ〜ゆーらゆーらー
176 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/30 23:24:58
もう語る事もないんじゃないか?マイナーすぎて
山内一豊放送まで残ってたら祭り敢行
>177
アレが始まるまで残ってたらスレ爆撃するよ。
179 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/31 12:55:43
河野氏は四国征伐の時にさっさと寝返らなかったのでしょうか?
毛利に伊予を渡す密約があったからでしょうか、えろい人教えて下さい。
180 :
無名武将@お腹せっぷく:04/12/31 19:08:29
質問したらウザがられるから、自分で調べたほうがいいぜ
181 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/01 15:56:45
長宗我部に攻められて降伏後、今度は秀吉軍とあまりの事態の変転振りについていけなかっただけでは?
今は長宗我部に降伏していなかったとする説が有力らしいがな
結局毛利に降伏したのには間違いないが確かに抗戦したかは分からん
長宗我部元親の伊予侵攻に対して、河野氏は
毛利氏(特に小早川氏)に支援してもらっていますし、
フロイスの「日本史」に河野通直と思われる人物が
小早川の親戚で、四国征伐の際にも戦の準備をし
ていなかったので道後に留まることを許されたと書
かれているそうです。
というか、牛福丸通直が惣領になって以降、河野氏
と小早川氏が一体化していったという説をとなえる
研究家もいるくらいの状況です。
密約や降伏ではなく、小早川氏の一部になっていっ
たと言ったほうが正しいような気がします。
184 :
180:05/01/04 17:51:41
レスサンクスです。
独立した大名としては残してもらえなかった訳ですね。何かの本で秀吉と
毛利側とで伊予は毛利に割譲するという説を読んだ事がありましたし、
河野が降伏していないなら四国征伐の時に攻めれば大名として小さくても
残れたはずなのにと疑問におもったのです。
確かに宇都宮や西園寺も滅ぼされましたね。
>184
西園寺公広は戸田勝隆に謀殺させたようですし、
東予の金子元宅も処断されています。
河野通直についても、
1・近世には生害説が伝えられていと
2・「予陽河野家譜」の記述に大きな矛盾がある
3・西園寺氏の謀殺のきっかけとなる大洲城呼出
が毛利輝元によってなされたが、通直が竹原
に移ったのも輝元の勧めによる
などから、病死ではなく秀吉の命で殺されたのと
考える研究家もいるようです。
もともと秀吉は伊予を『四国九州のかなめ所』と重
視していましたし、伊予の大名や豪族を残しておく
意思などなかったのだと思います。
まあなんだかんだいって四国って戦国で一番レベル低い地域じゃね。
信長も言ってるし。毛利と島津が本気で進出したら一年もかからずに平定されるんじゃね
飛騨とにてるな。
本当に出来るならやってるだろうという事も分からないのか
と、マジレスしなきゃならないのか?
他地域の覇者が本気で四国平定する気なら簡単だろ
ただ彼らにとって四国はあまりに利に乏しい地域だっただけ
利に乏しい地だというのは確かだが、簡単に攻略できるというのはどうかな?
四国に大軍を上陸させるための船・食料を揃えるだけでも一苦労だと思うし、
それに上陸できる場所も限られているから、待ち受ける方が圧倒的に有利。
秀吉のように多方面から攻めるには毛利・島津程度の勢力じゃ無理だろう。
村上水軍等の海賊衆の協力があれば毛利は可能だろう。
島津も九州制覇したならば難しい問題じゃないだろ
>>191 前提が必要ならその時点で危うくなっていると思うが
第一毛利にしろ島津にしろホイホイ動ける状態じゃない
本気出せばなんてコーエーゲー的発想にしか過ぎないな
>>190 島津はともかく毛利はいけるんじゃねーか?
>四国に大軍を上陸させるための船
瀬戸内の水軍が支配下にいるし。
>それに上陸できる場所も限られているから、待ち受ける方が圧倒的に有利。
実態的には、伊予は毛利の支配化にあったわけだし。
現に、秀吉の命で輝元が隆景に3万5千の大軍与えて四国征伐に参加してるわけだしな。
>>194 それは長宗我部以外に敵がいないから三万五千も動かせたわけで…
本能寺以前じゃ無理っしょ
>>194 九州での竜造寺台頭後〜信長の中国攻めまでの間
動ける敵はいるか?
実際は毛利は領土拡大の道ではなく、周辺を従属させ国境線の策定に勤しんだ訳だが。、
>>196 四国は魅力ないからだろ。
手に入れた領土の広さによる防備に対して利益が薄い。
毛利にとっては、北部九州と博多の利権のほうが、はるかに上
>四国は魅力ないからだろ。
だからこそ長宗我部なんかがのうのうとできたわけだが
逆に長宗我部が中国・九州に投げ出されても短期滅亡が関の山。
事実、元親の子供は九州で死んでるしなw
186は仙石秀久
仙石なんぞと一緒にすんな。そもそも四国単独スレが立つこと自体わからん。劣化中国・九州じゃん
四国を馬鹿にするな〜日本人の30人に1人は四国人なんだぞ
よいではござらんか、202氏。
戦国時代と限定すれば、四国が見劣りするのは事実
なんだし。三戦板ではこんな扱いでも、いた仕方ない。
ま、あくまでも”戦国時代と限定すれば”だけど。
>>201 気に入らなければスレを除かなければ良いのに。
これだから仙石は・・・
ぱっとしないのは事実だと思うが
186は言ってる事の程度があまりにも低すぎる
まあ、もうすぐ冬休みも終わりますので・・・
まあまあ、よく釣れたところでまとめにいくぞ。ぶっちゃけ俺にとって四国はどうでもいいんだ。四国の地位なんてさw
逆に博多のような莫大な利益を生むような港もなく貿易の利薄く、地理的に四国を通らなければ中国・九州に行けないわけでもない。戦国の避暑地みたいな孤島であったこそ現代に長曽我部や十河や河野なんだ語れるわけじゃない。それでいいじゃない。
まあ俺が言いたいのは四国のことも話すのもいいけどさたまには九州や中国・畿内の武将たちの事も忘れないでください・・・・・・・・・・。
それじゃあ俺は巣に帰るわお前らが暇になったらまた戻ってくるからな。じゃノシ
ttp://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1090153067/ ちなみに
>>207は
>>186じゃないからさあしからず
>209
>地理的に四国を通らなければ中国・九州に行けないわけでもない。
いや、室町期の畿内←→九州の旅を見ると、中国→四国→中国→四国…
という行程が多い。
確かに一見すれば四国を通らなくてもよさそうだが、それは瀬戸内の海運
を低評価しすぎ。源平の昔から、瀬戸内地域は西国統治のために重視さ
れている。
そして、それ故にこそ伊予が細川・大内・大友等の争奪地と化して河野氏
が勢力を伸張できなかった一因でもあるのだが。
>>209 自ら釣り宣言するのは釣りをした内には入らんぞ
そもそも主張している内容と釣りの内容が変わらんじゃないか
このおばかさん
巣に帰った者がなんだが、
>>210いっているのは瀬戸内海の事だろ。
つまり四国というより海の道としての瀬戸内海を指し四国をそのまま指すものではない、それについていえば瀬戸内海沿岸およびその島々は重要であるが四国内陸部はウェイトが低いな。
四国が海運すべて握っているわけでもないし中国地方にもウェイトが有っただけに四国を絶対視できない。
>>211最初からメル欄でつり宣言してたから。じゃあね
釣ったつもりでホイホイ釣られてるんだから世話無いわな
>212
>四国が海運すべて握っているわけでもないし
瀬戸内の海運を握っていたのは三島村上氏だが、
その内因島村上氏はかなり早い段階で勢力が衰
えたと言われている。
残る能島・来島だけど…両方とも四国側だね。
まあ、それを踏まえて
>瀬戸内海沿岸およびその島々は重要であるが
と書いているんだろうが、能島・来島両村上氏に
影響力がある河野氏の存在は無視できないわけ
で。その河野氏を見るとき、重臣であり、山岳地域
を支配していた平岡氏も無視できないとなると、
まあ、どうでもいいってことはないやね。
>四国を絶対視できない
いや、上のほうでもぱっとしないとか書いている
人もいるように、誰も絶対視はしてないと思う。
ここが四国を語る場所だから、四国の話をしてる
だけで。
島津のスレに行けば、島津の話をするんじゃね?
216 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/08 13:10:40
>>209 >逆に博多のような莫大な利益を生むような港もなく貿易の利薄く、
土佐は日本貿易の中継港として、江戸や京都、大坂さえも書き込まれていない
当時の海外の地図にも地名が出ている
>戦国の避暑地みたいな孤島であったこそ現代に長曽我部や十河や河野なんだ語れるわけじゃない。
室町〜戦国初期を通して、細川管領家のもとに政治の中心で活躍してきたのは四国人なんだけど?
信長の野望で歴史を勉強した奴は、信長誕生以降しか知らないんだろうな。
>土佐は日本貿易の中継港
江戸までは土佐沖のルートってなかったと記憶してるが、ソースは何?
219 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/08 21:06:58
∧_∧
(゚∀゚ )ー┐ しつこくしっこく!
しヽ し′
彡 > 彡)
/ / /
(_(__)
∧_∧
┌ー( ゚∀゚)しっこくしっこく!
丶J /J
( ミ < ミ
丶 丶 丶
(__)_)
>>218 thx
地図そのものは知ってるんで、極東だけが拡大されたやつって教科書か資料に載ってた記憶があったんで
>土佐は日本貿易の中継港
というソースはどこからなのかと
>>221 thx。なるほど、勉強になりますな。
日本を目指す南蛮船は鹿児島、土佐辺りに漂着することが多かったから地図に載ったと聞いてたんで。
多くの南蛮船は鹿児島や土佐で日本国内の情報を仕入れて大大名のいる国を目指したから他の都市は必要なかったんだろうな。
乱世だから、山口の大内氏みたいに数年後に行っても誰もいなかったなんてこと多そうだし。
首都たる京が載ってないのは腑に落ちないが、南蛮人は天皇を日本の王とは思ってなかったってことか?
それとも、天皇は無位無官の異人には会ってくれないし、荒廃してて、行く価値がなかったからだろうか?
図中のcooが京とも思えなくもないが、cooって何。
しかし、あの地図はどう見ても四国は日本じゃないような書きかただ…。
223 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/09 14:07:08
cooってコンビニ
>222
興味本位で調べたので、ついでに。
218の地図は、サイト(大阪大学付属図書館)側の説明書きに
オルテリウスの世界地図を簡略したものとある。で、
ttp://record.museum.kyushu-u.ac.jp/asia2/con01b.jpg が、オルテリウス世界地図の日本部分を拡大したもの。
上部のBANDOVMIAが坂東、その下にOsaquo(大坂?)があ
ります。さらにその下のMeacoが都なんでしょうけど。
で、山口あたりにBungo(豊後)があるので、本州と九州がくっ
ついてると思いきや、南方の島にCangaxuma(鹿児島?)もあ
り、なんか謎に満ちてる気が。
まあ、上記のサイトには他の古地図もあるけど、四国の地名
が土佐だけというのはあるが、日本の地名が土佐だけという
のは無さそう。218の地図にしても、オルテリウスの地図を見
た後で見ると、豊後や鹿児島が確認できるし。
225 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/10 11:32:20
>>185 一体化というよりは「伊予は毛利(小早川)領国」という認識が豊臣・毛利(小早川)間で既に出来ていたのだと思う。
従って、河野氏の事は豊臣政権から見れば陪臣扱いでその処置は小早川隆景の家中の問題扱いされていたのでは?
(東国の伊達氏が留守・国分領を接収し、佐竹氏が江戸氏や大掾氏を滅ぼしたみたいに)
>225氏
牛福丸通直の権力は毛利家から嫁いできた生母
や妻、その縁者による所が大きかったので、おっし
ゃるとおりに「伊予は小早川領」という認識が豊臣
方にあったのでしょう。
ただ、通直の最後に関してですが、小早川隆景が
九州に呼び寄せようと使者を出したものの、通直ら
はすでに竹原に渡っており、行き違いになっていま
す。
このことから、河野氏の処断については、小早川
隆景の知らないところで進められたと考えられま
す。
また、朝鮮出兵のおり、名護屋へ向う豊臣秀吉を
河野遺臣団が襲撃しようとしたが失敗したという伝
承があるそうです。
かりに小早川家中の問題で処断されたのであれば
秀吉を襲撃する理由がありません。
あくまでも伝承ですので鵜呑みにするわけにはい
きませんが、河野通直は秀吉によって謀殺された、
もしくはそう信じられていたと考える余地はあるかと
思います。
227 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/18 23:09:05
三好age
>216
>室町〜戦国初期を通して、細川管領家のもとに政治の中心で活躍してきたのは四国人
阿波は現在以上に摂津・和泉・河内にゃ近いつー感覚だったみたいだもんね。
その中から京を掌握したヤツが暫定的なバクーフの権勢者になる、と
ちなみにここはIDが出ないので≫186をアボンヌできなくて不便だ
230 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/20 00:14:35
昔は日本全国均等に田舎だったから四国だって侮れないよな
むしろ上に上げられてるように水運や貿易の関係で重要だったし
阿波や淡路は畿内に影響力があった
つか昔の重要拠点といわれてた所が今行くと…って経験戦国オタならあるよな?
江戸時代に城下町にならなかったところは特に
あるな。
関宿なんてまさにそれだ。
232 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/22 11:45:32
>>231 水路メインの交通の点での重要地なんてのは大抵そうだな
川の流れが変わってたりetc
233 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/22 20:59:43
今日中に三好ネタが出なければ切腹する。
234 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/23 11:36:44
論文で、大坂中心だった江戸時代には酒田に近い山形の方が経済的には仙台より上だったという話読んでびっくりした。
だから、仙台は日本鉄道の仙台延伸で新都・東京との関係を強化をはかったって。
235 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/23 12:24:39
237 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/25 19:33:50
なんでおまえらって仙石の事毛嫌いしてるの?光秀や三成みたいに歴史を変えたわけでもないのに・・・・・・
いや変えただろ。
少なくとも長曾我部家の運命は大きく変わった。
仙石氏ね。
>237
保身のために四国の大名家をボロボロにしたんだから。
本人はいわゆる悪党とはちがうセコいだけの小物だけど、
四国の在地民から恨まれるのは仕方ないぞ ・・まあ屑は屑ってことだよ
>238
三好・十河一党も決定的に衰運へと向かったよ・・・嗚呼戸次川・・・
三好笑岩ってなんで大名になれなかったの?
信長が信だから
243 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/26 21:08:53
いや、秀次の養い親になってるし、
十河は一応残った事を考えると、豊臣政権下で独立してもいいんじゃないかと
本家は畿内も阿波も滅んでるし
246 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/30 11:39:55
むしろ、徳川の結城秀康と同じケースで豊臣家の一部として吸収されてしまったのでは?
247 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/30 13:02:20
鳥のいない島の蝙
248 :
無名武将@お腹せっぷく:05/01/30 15:45:59
名家小笠原家の血筋だし、たしかに秀次後見の有力者として優遇されても不思議でない立場だよな
どうにもこうにも三好家にとっては本能寺の変が痛かった
報を受けた笑岩が兵を引いた後
三好家は土佐方(長宗我部+阿波国内の細川派)の攻勢の前に
有力武将の殆どを失ってしまった
笑岩の息子・徳太郎(岩倉城主)も戦死した
秀吉の四国征伐の後には十河存保しか残っていなかったのが実情
後継者も地盤も失った老将笑岩が大名になれるはずもない
三好伊三って信長に追い散らされてから大阪の陣までなにやってたの?
三好義興に左京大夫義資という子供が居たようだが、詳細キボーン。
安芸國虎
253 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/16 15:31:44
長曽我部家の家紋がかっこいい
254 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/17 08:43:10
三好家ってどういう風に滅んだの?長慶死後からよくわからん・・・
内乱の果てに、幾つかは滅亡、幾つかは細々生き残る。
256 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/20 21:24:47
>>249 笑岩と在保も関係良くなかったんじゃなかった?
長治の死後、勝瑞に在保を迎えた重臣が徳太郎に殺されたはず。
257 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/22 05:34:25
香川氏が移住しなかったら、今の香川県は何と呼ばれていたのだろう?
香川郡に移住したから香川氏を名乗ったのでは?
259 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/22 11:21:31
>>241,
>>244 三好笑岩の家は三好秀次が当主の三好家として、立派に大名になってるだろボケ。
笑岩は当主を秀次に譲って「隠居」の身分だから、秀吉政権下の大名にはなってないだけだ。
>>254 秀吉の旗本。
>>258 なに寝ぼけたこと言ってるんだよ、香川はもともと東国の姓だボケ。
香川氏は相模国高座郡香川発祥の桓武平氏。
香川氏が移住したから、讃岐国に香川という地名ができたんじゃい。
260 :
259:05/02/22 11:23:18
>>259 おやおや
香川氏の出自など知ったことではないが
讃岐の香川郡は古代からの歴史ある地名ですよ
262 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/22 16:47:55
263 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/22 16:53:07
今、蜂須賀家政の代(天正から文禄あたり)の蜂須賀家の家臣を調べておる者です。
とはいえ、何を見れば分かるかも分からない状態。
ようやく武家事紀にあると知っても、
図書館は年度末の整理時期で使用できず。
蜂須賀家の家老クラスの家臣について、
お知りの方がいれば、お助けくだされ。
>>264 止めとけ止めとけ
そんなことしても一銭にもならん
徒労じゃないか
>265
金の問題じゃないんだ。
どなたか知らないかな。ホームページがあれば、教えてください。
結局259がいっちゃんボケだっつう話でした
>>266 図書館に行けば阿波史、徳島県史があるから読んでみほ。
至鎮あたりから詳しく書いてるから。そのところだけコピーしても2百円くらいで済む
>268
市立の図書館になく、県立は整理時期で手に出来ず。また、県立は遠い、、、
>>261,
>>262,
>>263,
>>267 それらのサイトには、東国の香川氏が香川郡に移住したと書いているだけで、
香川郡がもともと存在していた地名とは書いていないぞ?
香川氏移住後に香川郡とよばれるようになった土地のことを、旧地名に代わって
書いているだけかもしれない。
香川氏の香川が東国の地名であるという点ではどれも一致しているが、
香川郡が、香川氏移住以前から香川郡だったという証拠は全然提示されていない。
香川氏が細川氏被官として讃岐に至ったのは確かなので、足利幕府ができて
細川氏が四国へ入る以前から、讃岐に香川という地名があったかどうかの
証拠を中世以前の書物や地図から引用して提示すべきじゃないか?
香川氏に与えられた土地がたまたま香川郡でした、ってのは出来すぎ。
むしろ、香川氏の土地になったので香川郡となったと考えるほうが自然じゃないか?
>>271 「和名類聚抄」に既に香川郡の地名があるらしいけど?
>>272 きっと、もうその頃には香川氏が移住していたんだよ。間違いない!
>>271 なるほど、陸奥伊達郡も平泉藤原氏滅亡後に伊達氏に与えられたから伊達郡になったし、
石川郡も石川氏に与えられたから石川郡になったし、田村郡も田村氏に与えられたから
田村郡になったんですね!
大変勉強になりました。ありがとうございます。
ぼくも
>>271さんを応援しますのでがんばってください!
>>271 そうだね
きっと東国の香川氏は有史以前に讃岐に移住したのかも知れないね
県教委の模試から。
香川県の香川の由来について、正しいものを次の中から選びなさい。
1さぬきの小麦で作られたうんどんという香りが流れることでついた。
2「か」という字に似たオリーブの葉のよいにおいから香川とついた。
3昔あった樺の木が川に映ってよいにおいを運んでくれることからついた。
4讃岐山脈から流れる川が、春になるとよいにおいを運んでくれることからついた。
5川に香をたいて、田に水を入れなければならないほど水に困っていたことからついた。
香川氏と香川県の由来は関係ない模様。答えは知らんが5っぽい?
と香川に縁も所縁もない漏れが言ってみる。
5が答えなら、香川氏とは関係なく香川という地名があってもおかしくないと思われ。
>>276 おそらく3。
もっともそういう説があるというレベルみたいだけど。
>>278 答えは3だった。
香川=水不足のイメージで5に飛びついたよ。漏れは香川で教員にはなれないようだなw
>262
>香川氏は初め、細川氏に従って香川郡にいたとする説も
これから考えると、いなかった可能性もあるにもかかわらず、香川郡が存在してるってことは香川郡が香川氏とは関係なく以前からあったのではと読めなくもない。
>>279 平安末期編纂の「和名類聚抄」に「香川郡」の地名が載ってるわけだから、
南北朝時代に香川氏が住み着いたので地名が香川となったということはほぼありえない。
強弁すれば不可能ではないが。
つーことは、香川氏とは関係なく存在してた香川郡の由来は
3.昔あった樺の木が川に映ってよいにおいを運んでくれることからついた。
ってことか?と香川に縁も所縁もない漏れが言ってみる。
>>282 地名起源なんてのは後付けも多いけどね。
というか、日本の場合、地名を自分の苗字にするのであって、人名をもとに
地名を変えたりする例は無かったはずだが。
苗字?
>284
>274ではそういうことあったといってるぞ?
>川に香をたいて、田に水を入れなければならない
これって山鹿流かなんかの技?
マニアックだな…
>288
愛媛でポン●ュースを畑の肥料につかうというウワサは聞いたことがあるが。
徳島でポ●リスエットを〜(ry
292 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/25 13:36:31
相模国には名字から地名がついた例がいっぱいあるからな。
三浦や和田など
>>293 本気でいってるのなら勉強だか調査だかやりなおせ
295 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 05:34:17
海上自衛隊の河野幕僚長も河野氏出身
伊予河野氏衰退してからの方が元気な気がするな
江戸〜明治〜今にかけて
297 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 07:48:36
十河存保は讃岐に2万石もってたけど、存保が遺言で「関白に目通りさせて十河家を継がせろ」と
家臣に言い残した十河家の跡継ぎの仙千代って、讃岐一国支配を企む生駒氏に暗殺され、
それで十河存英も放浪する羽目になったんだっけ?
生駒氏と仙千代の事件に詳しい方、教えてチョ。
ちなみに、三好義継の子・義兼の子孫っているんですねえ。
香川県観音寺市の伊吹島の島民は三好姓が多く、その祖先が三好義継の子・中務少輔義兼で
母は足利義昭の妹・寧姫であることが「観音寺市誌」にも公式認定されているそうです。
http://www6.ocn.ne.jp/~kmiyoshi/page008.html
298 :
297:05/02/28 08:04:13
訂正
仙千代→千松丸
天正17年7月に15歳で毒殺されたようです。
> 子供千松丸は幼少だったので生駒親正が預かり養い、九州平定の後、召し連れて
> 秀吉公に拝喝した。
> 秀吉公は存保の事を語り、「知行はどれほどくれてやるのだ」と聞いた。
> 「まだ童形なので鼻紙代として三千石を与えます」と、答えたところ「存保の子に
> 三千石とは誠に鼻紙代じゃな」と、不服そうに言った。
> その時、生駒親正の甥で大塚釆女も相伴した。釆女は十四歳、千松丸十三歳であった。
> 秀吉公は二人をよく見比べ、釆女には何も言わなかったが、千松丸には父にも
> 劣らないと褒め、早く大人になれと賜った。 哀れに思う気持ちが現れていたという。
> しかし、国に帰りまもなく、千松丸は毒殺された。勿論、釆女方の仕業だとは
> 取りざたされた。
> 存保の後が絶えるので、香川民部少輔、羽床弥三郎や安富肥前守などの後より
> 立てようとの動きもあったが、千松丸が早世したのは十河一家の不幸だけではない
> と人々は惜しんだ。
> 山田郡は神櫛王の譜代の臣であり、千松丸の死を悲しんで小唄を作り
> ”命すつるも子ゆえにすたれ、けなげなれとよ、千松丸”と、奴婢に至るまでも
> 歌って涙を流したものである。
> 十河の郭外に浄土寺があり、存保、千松丸の位牌を安置し領民が祭ったと言う。
「西讃府志」香川景全
http://www.library.pref.kagawa.jp/kgwlib_doc/local/local_2055-08.html
299 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 08:16:22
へー、三好義継の子孫っていたのか。
徳島には十河存保の子孫を名乗る家があるけど
十河存英が浪人時代を阿波で過ごしたとかなのだろうか
蜂須賀氏の家臣になった阿波三好一族を頼って、そこで過ごしたのか
あるいは十河存英の戦死後に、その妻子が阿波に下ったのか・・・
また、そう名乗っているけど、十河は十河でも三好系十河の子孫ではなく、
本来の十河氏の庶流の子孫が、十河家当主であり最も有名な十河氏である存保を
自分の先祖の代表者として名前を出しているだけかも。
303 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 14:54:43
話は変わるが司馬の書く盛親ってかっこよすぎないか?
JRAの調教師に河野通文という先生がおられるのだが、
河野氏の末なのだろうか?
出生地・愛媛、出身地・岐阜などと、それらしいプロフィ
ールなのだが。
>>305 河野家の通名は「通」という字
関係ないけど俺の親友の河野も「通」っていう字が名前に入ってる
その調教師の方の名前は意識して付けられた名前の可能性も高い
307 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 22:04:53
いきなりだが、河野を支えた武将として大野直昌を、西園寺を支えた武将として土居清良を挙げたいがどうか?
311 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 18:18:36
312 :
307です:05/03/08 22:28:42
>>312 平岡房実は、大野直昌の母方の祖父です。
平岡氏は、房実の頃から急速に河野氏内部で勢力を拡
大し、来島通康死後は側近として権力を握るようになりま
す。
また、房実は能島武吉の次男にも娘を嫁がせています。
大野氏が直昌以前はしばしば河野氏と敵対していたこと
や、もともと独立的だった能島村上氏が、戦国期末に河
野・毛利体制に組み込まれていくことを考えると、晩年の
河野氏は、平岡氏の婚姻ネットワークに支えられた面も
あると言えるかもしれません。
>>311 上記のように直昌以前の大野氏は河野氏から半自立して
いる部分もありますし、そもそも直之は宇都宮豊綱の婿とし
て信任されていましたから、河野家臣というよりは宇都宮
家臣という性格が強かったように思います。
そういった視点から見れば、直之の行動を単純に謀反・反
乱と考えるのは早計ではないでしょうか?
河野家当主の弾正少弼通直って本当子供いなかったの?
漏れの親戚の家は弾正少弼通直が先祖らしくて
苗字も河野で天正6年に通直の子供が四国から落ちてきた
という伝説が残っている。
しかもその家の墓には通直と父通宣の戒名が刻まれているから
信憑性はあると思うんだけど詳しく調べようとネットで検索したら
「通直には子供がなく云々」となっていて…orz
どなたか通直に詳しい方いませんか?
>>314 従来の説では、予州家の晴通・左京大夫通宣が
弾正少弼通直の跡を継いだと言われてきましたが、
最近は二人とも弾正少弼通直の実子だという説が
主流のようです。
また、、来島通康が弾正少弼通直の庶子だったと
主張する研究者もいるくらいですし、他に実子がい
ても不思議ではないと思います。
316 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/13 23:06:19
317 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/15 15:43:56
>>313 大野氏って織田と松平(徳川)の中間にいた水野氏みたいなもの?
河野氏とか地味すぎてつまらんな
日本史に殆ど関与してないだろ
河野氏出身の一遍上人は鎌倉後期〜戦国前期まで多大な影響を与えてる。
320 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/15 16:54:55
小学校低学年の時読んだ「とさのむかしばなし」にこんな話があった。
県東部の安芸市に伝わる話で、
「むかし、この土地をおさめていた殿様がいました。ある時、もっと西
の土地をおさめていた領主が攻めてきて、戦いになりました。殿様はゆう
かんに戦いましたが、使っていた井戸に毒を入れられるなどして戦えなく
なり、こうさんすることになりました。殿様は腹を切ることになり、長年
乗ってきた馬と一緒にお寺へむかいました。
寺へ向かうとちゅう、かしこい馬はご主人様のみによからぬことが起こるの
を感じたのでしょうか。すこしずつ歩くのが遅くなり、ついにはたたいても声
をかけても一歩も前に進まなくなりました。殿様は歩かない馬に腹を立てて、
ついに馬を殺してしまいました。そしてそのままお寺まで歩いていったそうです。
それ以来、このあたりでは、悲しそうな顔をした馬の幽霊が出るようになったので
じもとのひとびとは、これを手厚くまつって、お供え物を欠かさなかったそうです。
むかしまっこうさるまっこう」
これを読んだときは、西の領主というのはなんとひどい奴だろうと思った者です。
井戸に毒を入れるなんて・・・と。
まあ、あの人だったんですね。
無駄な殺生をするとんでもない殿様だな
井戸の毒も実力で負けたの認めたくないから自作自演したんだろ
むしゃくしゃしてやった。
馬ならなんでも良かった。
今は反省している
>>317 私は水野氏の実態を知らないので、なんとも言えないです。
大野氏は足利将軍家から直接領地を給付されていますので、
そもそもは河野氏の被官ではなかった可能性もあります。
もっとも、河野氏が土佐勢の侵入に対処するために大野氏を
久万地方に置いたのも間違いはなさそうなので、河野氏や宇
都宮氏の影響は受けていたでしょうが。
戦国期に至って、浮穴郡の直昌は河野氏に、喜多郡の直之
は宇都宮氏に、それぞれ随うようになったのでは、と考えてお
ります。
>>318 河野氏が歴史に現れるのは平安末の源平期ですが、
源平合戦に於いて河野氏が果たした役割は少なくない
ですよ。
戦後、西国領主としてはめずらしく地頭に補任されてい
ますし、守護職こそ与えられませんでしたが、守護に準
ずる独立した存在と認識されていました。
西国の土着勢力としては異例のこの待遇は、河野氏が
いちはやく源氏方につき、大きな功績を挙げたからだと
考えられています。
その後、承久の乱で通信が後鳥羽院側にたちましたが、
吾妻鏡には「一方の張本」と書かれており、河野氏討伐
のために薩摩の御家人まで動員しようとしたほど、伊予
に於ける反乱は大規模だったようです。
少なくとも、通信が活動した平安末〜鎌倉初期の河野氏
は、派手な歴史を有していると思います。
日本史への関与度合で言えば、来島村上氏の
厳島合戦への参陣が挙げられるでしょう。
後に長宗我部氏が伊予へ侵入した時、毛利元就
が「来島恩おくり」「来島合力」と称して河野氏へ
援軍を送っていますが、これは厳島合戦に来島
村上氏が来援したことに関するものと思われます。
それほど、来島水軍の来援は大きい意味を持って
いたわけですが、来島水軍の動向に河野氏惣領の
意向が反映されていないとは考えられないこと、そ
の後の毛利氏が日本史に及ぼした影響を考えれば、
間接的ではあっても、河野氏が日本史を左右したと
言えなくもなさそうです。