正史を読んでない人が、正史を読解しちゃんと理解した人に質問し
正史を読み解いた知者の知恵を借りるスレッドです。
基本的な質問は、『○○(人物や戦争の名称)って正史ではどう書いてありますか?』
とか
『演義にある○○って正史にもあるんですか?』
って感じで分かりやすく尋ねましょう。
優しくて大人の正史を読み解いた人がそれに答えてくれる事でしょう。
アンチ正史厨及び、正史を読んでないことを馬鹿にする正史厨お断り
良スレになることを期待する
3 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 12:12
漏れが気付いた正史と演義の違いは袁熙の字だな。
演義の本では顕奕と書いてあったが、正史(ちくま)では顕突だった。
正史と演義の違いではなく、ただどちらかの本が間違いえているだけかもしれん。
もしそうだったらスマソ。
4 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 12:14
アンチ正史厨ってのは正史読み尽くした人間のことを指すんだが・・
こんな昔の話
現代に生きる俺たちにとっては
両方共おとぎ話と変わらんよ
6 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 12:19
>>5 あなたみたいか考え方(いわゆる中立)の人にこそ最近の正史派と演義厨の争い
を裁判してもらいたい。
俺は嫌だな
三国志に愛がある人に裁いてもらいたい
ちくまの人に聞きたいけど、後漢や晋のは載ってないの?
>>8はもちろん三国志演義などにでてくる人達のことね
>>1 おいおいおい……ほんとに立てたのかよ………
荀ケ
13 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 12:52
正史で実際にあったとされる一騎打ちを教える!
>>13 関羽と顔良
と、いっても一騎打ちと呼べるかどうか分からないけどな
関羽が自分で顔良を斬ってる
15 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 12:58
正史ではあまり一騎打ちに関する事柄はのってない(実際にそんなにはなかったと思われる)が
珍しく張飛・馬超や孫策・タイシジ(漢字めんどくさい)は一騎打ちした模様
>>3 漏れは三国志読みじゃなくて、演義やら他の小説も読んだことはないんだが、さらっと検索してみると、
三国志魏書の注の典略では「顯奕」とし、演義でも「顯奕」とするが、
後漢書では「顯雍」として、さらに「熙」と「雍」が対応する字であるから「奕」は誤りであるとしている。
「顯突」はどこにもひっかからなかった。ちくましっかりしろ。
17 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 13:01
馬超と閻行も一騎打ちに近い
18 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 13:03
という事で正史読んだ人に聞いてみたい。
劉備の荊州以前の戦績ってどの位記述が残ってるの?
どの程度の戦力でどんな戦力を率いた誰と戦って結果がどうなったのか教えてください。
正史に詳しい偉い人。
20 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 13:13
22 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 13:39
23 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 14:12
>>21 馬超が曹操に負けて漢中に滞在していた際、
張魯が劉璋の援軍として入蜀している劉備軍と対決
んで、張魯の援軍として馬超は参軍
つまり、
>>15にある馬超・張飛はありえず、
>>21の指摘は正しく、
>>23が説明してくれた部分は「演義」での戦い、という事だね。
>>15の孫策とタイシジはいちおう正史にもあったかな
>>11 サンクス
司馬系でないのかよ・・・それでは諸葛亮後が無い日本の三国私小説みたいだな
あー、いや、そういうコトではなくて、司馬一族は皇族だから
その系譜は次の正史に書かれるの。
曹操が後漢書に載らないのと同じ。
>>19 スウ靖に従い黄巾討伐○→安喜の尉、後棄官。
毋丘毅と共に黄巾討伐○→下密の丞、後棄官。
高唐の尉→高唐の令の時、賊軍(黄巾?)に敗れる●→公孫サンの下に逃亡。
公孫サンの別部司馬として対袁紹戦(?)にてたびたび戦功○→平原の令代行、後に相に。陶謙の救援のため徐州入り、豫州の刺史に。陶謙の死後、徐州を支配。
袁術の侵攻を阻み○?対峙する。→曹操の上表により鎮東将軍・宜城亭侯に。
(その最中、呂布の侵攻を受け下ヒを失陥。これは劉備の敗戦に入れるべきか?)
散り散りになった軍を何とか集め袁術と戦うも敗戦●
楊奉・韓センを撃破○
一度は和睦するも再び呂布の攻撃を受け敗走●→曹操の庇護下に。徐州の牧。
呂布を攻撃するも高順に打ち破られる●
曹操が呂布を打ち破る→曹操の上表を受け左将軍に。
袁術迎撃のため徐州へ向かう途中に袁術病死、そのまま徐州入り。
劉岱・王忠を破る○もその後曹操自らの出陣を招き逃走●→袁紹の庇護下に。
袁紹の別働隊として許の周辺を荒らすも曹仁のために敗走●
袁紹のもとを離脱し汝南入り。蔡陽を撃破○
曹操の侵攻を受け荊州入り●?
夏侯惇・于禁の侵攻を撃破○
以上、荊州入りまでの略歴。
漏れもあるかもしれないがまあ勝ったり負けたりと言ったところか。
ただ敗れたのは大体においていずれも一流部将に対してであったことを割り引いて考えれば、劉備の部将としての能力は中の上くらいといえるのではないかな?
しかし逆に言えばこの程度の能力と実績でもって、後にとにもかくにも三国の一角を占めることになる蜀の皇帝となってしまうところが劉備の凄みとも言える。
普通ならとっくに死んでるか、あきらめて誰かの下について落ち着いてるだろうにと思う。
29 :
名無し武将@お腹せっぷく:04/06/17 14:57
>>28 >普通ならとっくに死んでるか、あきらめて誰かの下について落ち着いてるだろうにと思う。
うんうん。そうだね。
誰の風下にも立たねえぞという気概が劉備にはあったように思う。
やっぱり英雄だったんだろうね。
30 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 15:13
このスレいいよ!良スレだよ!
演義派が質問して、正史派が答える、なんとも平和だ。
まあ、卑屈になれとはいわないけど、他スレでもこんな感じで穏やかに会話できるといいな。
司馬仲達氏の伝は太宗の晋書に載ってるぞ。
仲達そのものの伝はないけど、他の伝から仲達の記述は相当拾えるよね
>>26 純粋に魏臣で晋代には歿してる司馬朗だけは、『三国志』の方で「魏書」の
中で「伝」を立てられてるよ。
34 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 16:32
ちくまの正史には司馬系は司馬朗だけしか載ってないんですか
正史買って勉強しようと思ったんだけど
なんか別スレで徳間から出てる英雄伝とかなんとかには司馬系載ってたって
見かけた事あるんだけど、誰か知ってる人いたら教えて下さい
正史っていうのは要するに、魏書呉書蜀書のみっつを刺すんでしょうか?
司馬朗以外の司馬系の伝はなんて本に記載されてるんですか?
とりあえず日本語訳があって「これらをひととおり読んどけ」っていうのがあったら教えてください!
>正史っていうのは
中国の紀伝体で書かれた歴史書。特に「史記」を初めとする歴史書二十四史をさす。
これに「新元史」を加えたものを二十五史とよぶ。
>司馬朗以外の司馬系の伝はなんて本に記載されてる
晋書。全訳なし。
唐の太宗による『晋書』、中華書局が出してるやつな。
これに司馬は載ってる。
だが、昔俺が読んだ時、和訳は見つけられんかった。
自ら怪しげな訳を捻り出して、血反吐吐いた苦い経験有り。
今は訳出てるんかな?
訳は今人で探せ
現行『晋書』は普通「房玄齢らの撰」って言わないかなあ。確かに太宗は宣帝紀・武帝紀・
陸機伝・王義之伝の論贊(伝の最後の総括コメント)を書いてはいるから、太宗御製と言う
コト自体は間違ってはいないが。
訳は徳間書店の「三国志英傑伝」・明徳出版社の「晋書」あたりに一部の抄訳があるくらい
ではないかね。ネット上で訳文を公開しているところもあるけど、訳者のレベルはまちまち
なので十分眉にツバつけた上で自己責任のもと利用すべきだね。
>>38 すまん、そう言えば最近の論文引用ではそう書いてるのが多かったな・・・。
・・・年がバレそうでガタガタ(((( ;゚д゚)))ブルブル
40 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 18:59
こんないいスレはうまれてはじめてみたよ
41 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 19:38
孔明は史実では演義で言われるほどの「超スゴイ人」じゃなかったとしても当時からある種の「神格化された存在」だったとか
孔明亡きあとも蜀が存命したのは劉禅の政治手腕などではなく
実は魏が「孔明タンがいなくなったからこれで無茶しても桶」って事で蜀を攻めなかっただけで、
後にあっさりと魏に下ってしまう事になったり
その辺りも語って下さい
語ると終わりが無いので、
聞きたいことは簡潔に、質問事項としてまとめてから訊いてください。
『後漢書』や『晋書』『資治通鑑』にまで言及してしまうときりがないけど、
>>35の
>中国の紀伝体で書かれた歴史書。特に「史記」を初めとする歴史書二十四史をさす。
>これに「新元史」を加えたものを二十五史とよぶ。
これくらいはテンプレしてもよさそう。
便宜上「正史」と呼称してるけど、厳密には『三国志』だものね。
44 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 20:22
逆に正史しらない人に質問してもよいか?
演義しかしらぬ人は誰が最強かっていう話題になると必ず呂布を挙げると思う。
そこで、正史では関羽が…などというと、やたら批判されるんだよね。
スレ立てた人が正史論でもいいっていってるのにですよ。
まあ、呂布が最強じゃないとは言い切れないけど、なんでそこまであの極悪人を
かばおうとするのかが知りたい。なぜ?
>>44 それは一部の過激派の仕業
正史では呂布が絶対最強じゃないのは話に聞いている
ただ関羽が最強で、呂布は本当は雑魚とか大した事無いって話は納得がいかない。
同じスレを見てたかは分からないけど、関羽最強、呂布は雑魚って言い切ってた人がいた。
>>44 それは俺も不思議に思ってた。
だが、呂布を極悪人とは思わないし、関羽が最強とも俺は思わんな。
もともと、最強なんて決められない問題を論じようとするのが片腹痛い。
ちなみに、その時スレをたてた>>1はいたのかい?
立て逃げして、スレの流れが演義ってことになっていた、ということも有り得る。
>>44 スレによるんじゃないか?
完全に史実に基づいてるスレなら構わないけど、
はっきりしてないスレでは呂布は十分最強候補の一人になるだろう
実際正史でも呂布は十分強い
軍を率いてはどうかは知らないが、騎馬を率いて敵陣に切り込む・・・という単純極まりない戦法で滅法強かった
>>45 >関羽最強、呂布は雑魚って言い切ってた人
それはおかしいな
正史でだって関羽は穴があるし、呂布も十分強い
とはいえ、議論スレだったらそういう意見を叩き台にして話しを広げられると嬉しいな
>>46 子供が「スタローンとバンダムはどっちが強いの?」っていうレベルの「最強」だったら
呂布も関羽も候補になりうるな
まあ史実の関羽って負け戦ばっかりだしな。
呂布と比べる事自体が失礼。
49 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 20:49
>>45-46 ご意見有難うございます。確かに呂布が雑魚というのは納得いきませんし、
その方は呂布に何か深い恨みでもあるんじゃないですかね。
演義では呂布が最強と決められますが、正史では決められませんよね。
記述からだいたい誰が強かったということはわかりますが、
最強を決めるとなると、意見が分かれますよね。
ちなみに関羽が強いのでは?という考えは個人の意見ですので、
関羽ではなく○○が…という方は気を悪くなさらないでくださいね。
呂布なんて郭相手の一騎討ちで殺せなかったじゃん
関羽は顔良を軽く討ち取ってるんだぜ
>>50 おいおいおい!ストーップ!
ここは、だからそんな不毛な議論を交わす場じゃないぜ!
52 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 20:53
>>48 そういう幼稚な意見はやめましょうよ。
個人的武勇の話ですからね、関羽も十分誰が最強か?という議論の候補に挙がる
器でしょう。
53 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 20:55
質問です
官渡の戦いのときのエン軍と曹軍の兵力は、それぞれどの程度だったんでしょう。
赤壁はだいたい分かるんですが、官渡について詳しく説明されてるものを
あまり読んだことが無いもので・・・
>>50 そもそも史実だけで言うなら一騎打ちなんざほとんど存在しないぞ。
あの呂布も一騎打ちらしき記述は全く存在しない。
そこで軍を率いての強さってことになるが、こりゃ明らかに呂布だな。
関羽の場合、自分の率いた軍の勝敗は勝ちよりもむしろ負けばっかだぞ。
楽進に負けるわ徐晃に負けるわ満寵に負けるわ呂蒙に負けるわ…、
数少ない勝ち戦である対于禁戦も洪水という僥倖に恵まれたものだったしね。
56 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 21:01
>>53 赤壁の戦いというのは正史だとかなり簡略化されていますよ。
ていうか全然違うものですよ。曹操と劉備の戦いです。
孫権は合肥方面からせめ、劉備は荊州方面で戦うというものでしたからね。
ちなみに劉備が勝利していますよ。
官渡はよく覚えてません。すみません。
>>53 一応袁紹軍11万8000に対し曹操軍1万となっているが、誇張が入りすぎて信用ならない。
いくら戦力を分散させなければならない立場だからといって、
当時の曹操軍の国力や兵制を考えればたった1万というのは考えがたい数字だしね。
58 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 21:09
>>54 軍を率いての勝敗なら、がぜんすごいのは曹仁ですよね。
ちくまですが、曹仁伝で敗戦は一度もありませんからね。
まあ、記述が無いだけかもしれませんけど、曹仁が名将だということに
変りはないでしょう。
>>58 曹仁は普通に周瑜に負けてる。ちくまにもちゃんと記述あるよ。
まずは紀伝体の読み方を覚えよう。そいつの列伝読んだだけじゃそいつの事は理解できんぞ。
…まあ戦の勝敗なんてのは戦略レベルである程度決まっているし、
戦術レベルの事を論ずるにしても、戦を始める前の戦力比はどれほどだったか、
勝ったこと自体よりもどのようにして勝ったか、
その勝利によって得たものは何か、という事が重要だと思うんだけどね。
60 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 21:25
>>59 ご指摘どうも。私もまだまだですね。
でも、けして今までうぬぼれてたわけではないので、誤解しないでくださいね。
んでは、マターリ次にいってみましょうか〜
>>60 >>59が指摘してくれてるように、紀伝体の形式を採った場合、本人の
名誉を損ねる事績は抑えて記される事が多いよ。
63 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 21:30
なんていうか、だんだん落ち着いて話ができるようになってきたね。
会話の仕方だけでここまで平和になるとは思わなんだ。
遼来々は知ってるが、甘寧の百騎突撃はマジで実現したのか教えろやゴルァ!!
65 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 21:35
その聞き方では答えられん
66 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 21:36
>>53 袁紹伝では「精鋭の兵10万、騎兵1万」。他に8千胡騎がいたそうだから11万8000。
曹操曰く「キ州だけで30万はいける」とのことだかから妥当な数字だろうね。
曹操軍は1万に満たないと書かれているが、
>>57氏の言うように、眉唾物。
裴松之がかなり疑っている。
徐コウらの別働隊が出ている記述があちこちで見られるし
鳥巣襲撃では曹操自身が5千率いて出て、官渡本営も守備隊があった。
67 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 21:37
>>57 >>66 ありがとうございます
袁紹側はだいたい想像できるけど曹操側はよく分からないってことなんですね
>>64 L -‐ '´  ̄ `ヽ- 、 〉
/ ヽ\ /
// / / ヽヽ ヽ〈
ヽ、レ! { ム-t ハ li 、 i i }ト、
ハN | lヽ八l ヽjハVヽ、i j/ l !
/ハ. l ヽk== , r= 、ノルl lL」
ヽN、ハ l ┌‐┐ ゙l ノl l
ヽトjヽ、 ヽ_ノ ノ//レ′
r777777777tノ` ー r ´フ/′
j´ニゝ l|ヽ _/`\
〈 ‐ 知ってるが lト、 / 〃ゝ、
〈、ネ.. .lF V=="/ イl.
ト |お前の態度がとニヽ二/ l
ヽ.|l. 〈ー- ! `ヽ.
|l気に入らない lトニ、_ノ ヾ、
|l__________l| \ ソ
70 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 21:43
>>69 知ってるなら聞くなよ…。しかも可愛い絵描くなよ…。
>>64 甘寧伝とその注の江表伝にその記述がある。
みんな、
>>64のmail覧を承知のうえで冷たくしてるの?
調子にのってすまんかったです。
俺は遼来々については、一応知ってるつもりなんだけど、
甘寧が精鋭100騎で突っ込んでいって、一人も欠けることなく帰参した。
ってのは本当なんですか?
質問です、
光栄三国志は、演義と正史のどちらを元にしているんでしょうか?
今度]が出るそうなんで買おうかと思っているんですが
演義だけしか知らなくても楽しめますか?
76 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 21:48
>>74 基本的に演義ベース
ただ、最近は正史も尊重されてきている
演義で強かった武将は強いまま
演義で弱いけど、正史では強い武将はそこそこ強くなってる
たぶん演義しか知らなくても十分楽しめると思われる
正史にしか出てこない武将とかも出てくるけど本当に一部だし、
劉備軍団が弱くなってたり、マイナー武将が最強になってたりはしないから安心しる
>正史っていうのは
>中国の紀伝体で書かれた歴史書。
おれがオリジナル三国志を書いても正史?
つまり 俺正史VS陳寿正史
俺様「正史では、蜀が天下統一してるよ」
貴方「はぁ?ソースは?」
俺様「俺正史」
これでいいの?
また、正史とは書き方の問題で、資治通鑑こそ真実でも構わないというのなら、
正史に正しさを求めている人はどうするの?
>>73 本文、江表伝ともに「一人も欠けることなく」との記述はない。
だが、孫権が「曹操には張遼がいるが、俺には甘寧がいる」みたいなことは
江表伝で言っている。
80 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 21:52
>>73 一人も欠けることなく、は記述がどこにもないが100人余りというのは書かれている。
ただ、甘寧伝ではこの件の後に合肥の戦いが書かれているから
時系列的に言えば合肥の前らしい。
>>76-77 ありがとうございます。
正史にしか出てこない武将がいたら、それはそれで興味が湧いてきそうです。
82 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 21:56
>>73 その部分の原文だ。頑張って解読しるw
寧乃選手下健児百余人、径詣曹公営下、
使抜鹿角、[足兪]塁入営、斬得数十級。
北軍驚[馬亥]鼓譟、挙火如星、寧已還入営、作鼓吹、称万歳。
>>78 あなたが書いたとしてもそれは「野史」
国の正式な歴史の記録とみとめられているのが正史
正式に認められるからには、捏造とか歪曲を極力排除しようとする
職人肌の歴史家はね
まあ権力者に媚びへつらう歴史家もいるんだけど・・・
>>84 原則で言えば、野史だろうが空想だろうが、書き方で「正史」であり、
また歴代王朝に認められたのは「公認」という意味で、正しさとも違うんじゃない?
86 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 22:04
>>83 解読してやろう。
むしろ、今日は権利モノを売ってたほうがよかったのだ。
CR全盛の時期、ミルキーバー、コンティニュー、そのほか諸々の3回権利モノは姿を消した。
今はただ、懐かしき我が青春のミサイルなど、一発台の復活を祈るのみだ。ジークジオン。
つか、
>>78みたいな言葉の揚げ足とって喜んでるヤシを
真面目に相手したら荒れるだけだと思うが
>>85 >中国の紀伝体で書かれた歴史書
が、正史ってわけじゃないよ
これは「三国志(正史)とは 中国の紀伝体で書かれた歴史書」って言ってるわけで
確かに史書の信頼度ってのは重要な問題だ
実際、唐とか元の正史はあまり信用が置けるものではないし
で、陳寿の三国志に関してはそれなりに信用できるらしい
陳寿が孫権嫌いだとか、呉関係の記述の大部分が呉による記録を参照にしてるとか
そういう問題はあるかもしれないけれど、「おおむね信用できる」らしい
で、「ここはおかしいんじゃないか?」とか正史の誤りを指摘するために、野史を利用したりする
【外史】
国家や政府が正式に記したものではなく、民間で書かれた歴史書。野史。
>>88 素朴な疑問なので、揚げ足取りに聞こえるかもしれないが、気のせいだ。
だって素朴だろ?
92 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 22:12
>>88 ハァ?こっちは真面目に聞いてんのに荒らし扱いかよ。
よっぽど凄い頭してんだなあんたらw
このスレは
「どこまでも真面目に質問し」
「どこまでも真面目に答える」
スレを目指せば良いじゃないか
例えどんな質問にも懇切丁寧に答えてこそ
正史を読んだ意味もあるというものではないか
94 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 22:15
>>92 まあ、相手にしないのも可哀想ですけど、
そのくらいは自分で少し考えればわかりませんか?
>>93 ぶっちゃけこのスレの書き込み全部がネタだと思ってた。
喧嘩腰はやめようよ。
知識は役に立ってこそだ。
真剣に質問し、真剣に答えるためにこのスレはたったんだろ。
>長谷川氏によれば、偽史とは『信頼できない論拠(例:史料批判が不十分な史料、事実誤認、全く
>の想像)を基に、非学問的な方法論によって組み立てられた、虚構の歴史』とされています。
中国人は歴史の記録に命を賭けるからな いい意味でも悪い意味でも
信頼できる歴史書も十分残ってると思うぞ
つまり正史「大日本史」紀伝体。(国家公認かどうかは知らんが)
野史「信長公記」「太閤記」編年体。
しかし三国志においては、古すぎて数が少ない(かどうかは知らないが)のと、
王朝公認ってのはまぁ本気度でもあるし、歴史には力入っている国なので、
陳寿三国志は信用できるはず。他にいいのもないし。
ということですか?
資治通鑑というのも立派みたいだし(編年体)、しかし蜀が正統らしい、
中身の細かいところって違ってきたりするの?
諸葛亮がスーパー軍師に書かれているとか、登園の誓いが出てくるとか、そんな大きな違い。
隋書経籍志を見れば分かるとおり、そもそもの意味は「正史」=「紀伝体の歴史書」。
今日に所謂「正史」とは「国家に承認された」という条件のつく狭義の「正史」。
ただスタイルとして紀伝体をとっても、内容が妄想ならそれはもはや史書ではないのでは。
102 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 22:21
>>92 それは正史を読んだか読んでないかということは関係ないのでは?
でも、そういう意見でもまじめに質問してるのなら答えるべきですね。
あなたが書いたのは正史とは呼べませんよ。
真相はもう、誰にも分からない・・・。
歴史解釈、それはただ推測に過ぎないのだ。
だが、それでも、歴史家は、考古学者は、調べずにはいられない。
そこには確かに、その時代に生きた人々の「想い」があるからだ。
公認つーか、前王朝の歴史を編纂するってのは、
その直後に建った後王朝の権利であり、後王朝の正当性を主張する意味があったんだよ。
つまり、正史編纂は欠かすことのできない国家的事業だったわけ。
だから正史に気合は凄い入ってるはず。
んで、中国における伝統的編纂方法が紀伝体だったってこと。
106 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 22:28
>>103 でも、暇が無いという理由で正史を読まない方がここで、断片的に正史の
情報を知るくらいなら、ここに来る時間を正史を読むことに使えばいいのでは…。
まあ、知ろうという熱意が大切ですよね。すみませんでした。気にせんでください
では、マターリ質問&回答で。
次にいってみましょうか〜
正史の編纂が国家プロジェクトになったのは唐代からかな。それ以前は個人が作って
国家が後追い承認。
109 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 22:31
誰だよ勝手に司会やってんのは
スレ違いな質問かもしれませんが良いですか?
演義だと二十万の大軍とかあっさりでてきますが、
当時の生産力とか食料の輸送手段だとかを考えるとそんな大軍は擁するのは難しいと思います
実際のところ魏、呉、蜀はどの程度の兵力を要していたんでしょう?
常備兵という意味でも、外征の際に動員した兵力でも構いませんので
111 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 22:35
>>109 まあまあ、いいではないですか。
誰に迷惑掛けるわけでもないし、逆にいい雰囲気作り出してると思うよ。
112 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 22:36
では質問。「遼来々」って言葉の出典はどこでしょうか。
正史(含む裴松之注)ではなく、もっと後の時代の記述になるのでしょうか?
古参の人たちが頑張ってるんだね
適当に数えてたんだろ。
考えてもみろ。
1〜200000まで数えるなんて無理。
適当な数字を出しているだけだ。
115 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 22:39
>>110 魏では257年に、諸葛誕討伐に26万の兵力を動員しました。
蜀は、劉禅降伏時に10万2千の武装兵を擁していたとあります。
>>110 当時の戸籍数から推測すると蜀が3万程度になるらしい
もっとも当時は混乱していたから、実際は戸籍よりも多くの人間がいたと考えるべきだろう
>>116の蜀の武装兵の数は結構妥当かもしれない
>>110 蜀は滅亡時、>帶甲將士十萬二千
呉は滅亡時、>兵二十三萬
だったそうです
>>116 魏が得た蜀の図籍のデータだな
ただ、「将士十万二千、吏四万」と併記してるから
必ずしも武装兵とは言えんかも
広く軍務関係者って意味でないかな?
「軍事サイドの人員102000、行政サイドの人員40000」って感じで
121 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 22:49
83を自動翻訳にかけてみたんですが、
カモシカって出てきました。
カモシカって正史に出てくるんですか?
123 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 22:51
>>112 栄来々がいつのまにか変化して遼来々になったという伝説があるのは皆ご存知であろう。
125 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 22:52
K道栄さいっこーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!1
127 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 22:53
>>124 すまそ。ではこれから覚えてくださいね。
129 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 22:56
>>128 そうでしたね。すみません。でも一つ言いたいのは123と125が別人だと
いうことです。私は123です。
>>121 ネタだと思うがワラタ
鹿角
現代中国語=漢方薬の一種。カモシカの角
だったんだな。俺も言われて調べて初めて知った
寧乃ち手下の健兒百餘人を選び、徑ちに曹公の營下に詣り、
鹿角を拔かしめ、塁を踰へて營に入り、斬りて数十級を得たり。
北軍驚駭して鼓譟し、火を舉ぐること星の如くなるも、寧已に
還りて營に入り、鼓吹を作し、萬歳を稱せり。
甘寧はそこで手下の健児百人あまりを選び、まっすぐに曹公の陣営にゆくと、
逆茂木を抜かせ、土塁を超えて陣営へ入り、敵を斬り数十の首級を得た。
北軍(=曹操軍)は驚きあわてて騒ぎたて、灯火がまるで星のように掲げられたが、
甘寧はすでに帰還して自陣営に入っており、鼓を打ち笛を吹き、万歳を唱えた。
どんなに真面目に答えても、
スレを良い方向にと思っても、
所詮、厨の前に、この程度が限界か・・・。
なんで、このスレがたったのかを、分かってくれないんだかなぁ・・・
>>132 お前みたいなのがいるからだろ。
いちいち厨に絡むな。
134 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 23:05
>>132-134 真の自治とは、絡まないでスレの流れ通りに進める事ですよ。
質問です
中国では正史と演義どちらが一般的ですか?
英雄を祭ったりしているようですが、それはやはり正史の活躍からきているんでしょうか?
中国では、演義がポピュラーだったはず。
>>136 なるほど、演義の方がポピュラーなんですね。
英雄像は正史と演義どちらを元に作られたんでしょうか?
中国では庶民の文化と教養人の文化が全く別物で発達したらしいんで
庶民には演義の元になった口伝が事実と信じられていたという話。
>>137 ごめん、それはよくわからん。
ただ、俺がいた雲南の方とかでは、街中で演義の紙芝居とかやってたし、
やっぱり演義の方が親しまれ、読まれてると言う点で、
演義を元に作られてるかと・・・思う。
何より、長上を敬う儒教の感覚が長い下地を織り成す土地だし、
孝行者が英雄視されるのかも。
すまん、もっと詳しいやつがその内答えてくれると思う。
関帝廟に周倉が祭られていることから考えても演義が基準だろう
張飛と曹操が縁戚って記事がつい最近麗麗と出たあたりまだ正史は浸透していないと思われる
町中の子供たちはわがまま勝手で、親たちは手を焼いていた。そのたびにお金を与えて
昔話を聞かせにやっていた。その講釈で三国時代のことを話すときになって、子供たちは
劉玄徳が負けるのを聞くと眉をしかめて涙を流すものがいた。また曹操が負けるのを
聞くと大喜びしていた。(蘇軾『東坡志林』)
143 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/18 02:19
橋玄の曹操評で、「治世の能臣、乱世の英雄」と「治世の姦賊、乱世の英雄」と
二種類あったような気がするんですが、どっちが正しいんでしょう。
そして
>>141はどういう意味?
>>142 それは宋だよね。
唐の李商隠という詩人が書いた詩「驕児詩」に「張飛の髭をあざけり、トウ艾の吃を笑う」
っていう文がある。かなり早くから下々の民衆に三国志が普及してたって事の証拠の一つ。
ちなみに歴史書なんてのは今も昔も普通の人は読まない。
当然演義が普及してるよん。
>>143 張飛の妻に夏候淵の娘がいる。
夏候淵と曹操は親戚なので張飛とも親戚になるといえる。
張飛は中国で人気のある登場人物なので、
名の知れた人物すら正史における基本的なことを知られていないということは浸透していないいうことかと
資治通鑑をも読んだ人はいませんか?
読んだ人は正史三国志と主な違いなどがあれば教えてください
>>100だけど
>>143 『世説新語』識鑒篇では橋玄の言として「亂世之英雄、治世之姦賊」
『後漢書』許劭伝では許劭(許子将)の言として「清平之姦賊、亂世之英雄」
『魏書』武帝紀の引く孫盛の『異同雑語』は許子将の言として「治世之能臣、亂世之姦雄」
『世説新語』と『後漢書』許劭伝はほぼ同じ内容であるが、『世説新語』の劉孝標注はこの
言を真実ではないとしており、盧弼『三国志集解』は、建安七年に太牢をもって橋玄を
祀らせたという武帝紀の記述から、「姦雄」と評された人間をわざわざ祀るはずはなく、
劉孝標は正しい(つまり、『世説』は誤り)としている。
孫盛の『異同雑語』については、胡玉縉は、孫盛の仕えた晋は魏の国祚を継承しており、
そのため真実を忌避して書きかえたのであり、『後漢書』許劭伝の言の方が正しいという。
以上より、『後漢書』許劭傳の「清平之姦賊、亂世之英雄」が正しいと思われる。
>>145 >>147 ありがとう。勉強になりました。
乱世でも「「亂世之英雄、治世之姦賊」」評は喜ばれなかったんですね。
こんな硬質のレスを頂いたのは初めてでした……( ´∀`)
149 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/18 17:44
何曼の娘の名前を教えてください。
東晋の皇帝には遺言で孔明のごとくせよって言ってるのですが
もうこの時代でも彼は名将扱いだったのでしょうかね・・・
三国時代以外の質問もしてよろしいでしょうか?
春秋・戦国時代の八大将軍(?)を教えてくれませんか?
>>151 戦国七雄の七雄を人と誤解してたりしてな
>>151 ん?春秋戦国スレは役に立たなさそうでこっちに来たのか?
まーいーや。茶でも飲んでけ
>>150 たぶんそれは「息子(劉禅)の出来が悪いならお前が皇帝になれ」という
劉備の遺言を受けても、生涯臣下として仕えた、ということから
「お前も孔明のごとく仕えよ」ということだと思われる
その遺言の相手は当時の最大実力者だし(名前は失念 王導の一族だったハズ)
実際、諸葛亮の評価は低くなかっただろうけどね
名将としてだったのか、名宰相としてだったのか、忠臣としてだったのかは分からない
後世に至るにつれ孔明は神格化されていくけど
155 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/18 20:04
質問されてないが、諸葛亮は演義ほど圧倒的な強さじゃないぞ。
機略が苦手だったらしい。
演義では、武力においては呂布が最強、智謀においては諸葛亮とはっきり
誰がみてもあきらかだったが、演義の先入観を捨てて読めば、なんか呂布より
関羽の方が強いような気がするし、諸葛亮も臣下として素晴しい忠臣という
ような感じがした。まあ、正史は誰が最強とかはっきり決まってないから
読む人によって感じ方が違うだろうね。そう思わん人は個人の意見として
流してくれ。
>>154 これだろ↓
>桓温の場合は、簡文帝の遺命として、「王導や諸葛亮のようにせよ」と言われてますから、
>どんなに実権を握っていても、あくまで皇帝を守り立てた忠義心を見習え、ということでしょう。
苻堅の王猛に対する扱いは、玄徳の孔明に対する扱いのようであった。およそ一世紀後の話。
>>150 それは東晋の簡文帝と大司馬桓温のエピソードですな。桓温は帝位を狙う実力者、簡文帝は
五十を過ぎてから、禅譲要員として桓温によって立てられた人物。
『晋書』王坦之伝によれば、簡文帝は臨終の際、大司馬桓温に「周公居攝の故事」に拠れ、と
詔するつもりでした。周公旦は周の成王幼少のため摂政として即位していますから、つまりは
「司馬氏に代わって帝位に就け」ってことですわな。ところが侍中であった王坦之が入ってきて、
詔書を破棄してしまいます。「天下,儻來之運,卿何所嫌!」(天下なぞは偶然の運だから、
卿が拒否してもどうにもならない)という帝を、坦之は「天下,宣元之天下,陛下何得專之!」
(この天下は宣帝・元帝が開いた天下なのだから、陛下が勝手に人にやってよいものですか!)
と一喝し、帝は詔書を改めます。
『晋書』桓温伝によると、最終的な遺詔は「家國事一稟之於公,如諸葛武侯、王丞相故事.」
(国家の一切は公に任せる、諸葛亮・王導のようにせよ)。実際に即位した周公旦ではなく、
臣節を貫いた諸葛・王の故事に倣え、ってことで、簒奪の意図に釘をさされた格好になり、
まもなく桓温は死んでしまい、晋室はもう半世紀ほど続いちゃうわけです。
以上より、このエピソードで諸葛亮が引き合いに出されたのは「名宰相」「有能な軍師」として
ではなく、「幼主を守って臣節を貫いた」という点に注目されてのことであったわけです。
>>154,156のいうとおりですな。
>>158 ただ、名宰相という評価はあったんじゃないでしょうか?
凡愚で実直なだけという評価なら、見習えという例にはならないと思うんですけど。
そのあたりはどうなんでしょう?
凡愚で実直なだけ=乃木希典=軍神
>>159 もちろんそういう評価はあったでしょう。マイナス評価の人物をわざわざ遺詔で引き合いに
出す事は考えにくいですしね。ただ、このケースでは単に「名宰相」だというだけで引き合い
に出されたわけではない事も明らかでしょう。だって周公旦に代って出されてるわけですよ?
三国鼎立後(劉備死後)、結局ケイ州はどんな風に分けられたんですか?
まぁ簡単に言えば襄陽ら辺は魏、江陵以南ら辺は呉だね。
てかこれって別に正史でもなかったりするが。
ダメだしスマソ
いや、単に演義だと土地の取り合いが良く分からなかっただけで
ありがとうございました
司馬炎も諸葛亮を高く評価していたはず
>>166 諸葛亮というか、陳寿の『諸葛氏集』を評価していたんだね。
その流れで孔明自身への評価も高まったのでしょう。
正史に限らず、解らない事は何でも質問するみたいになったな
正史読んでる奴も質問してやがるな
自分で調べい
ちくま文庫の蜀書一冊しか持ってない。
「魏・呉書」を購入していない(したくない)諸事情があるとふまえたうえでだけど、
紀伝体である以上、「蜀書」のみではとてもカバーしきれないよ。
なんで裴松之は注をつけようと思い立ったんだろう。
てゆうか他の歴史書とか正史も大抵は誰かが注を付ける
ものなのか?
>>172 >なんで裴松之は注をつけようと思い立ったんだろう。
南朝宋の文帝の命令。「良史なれど簡略に過ぎる」という『三国志』の評価の故かと。
>てゆうか他の歴史書とか正史も大抵は誰かが注を付ける ものなのか?
そういうもの。『史記』には所謂「三家注」(南朝宋の裴駰の「集解」・唐の司馬貞の「索隠」、
唐の張守節の「正義」)、『漢書』には唐の顏師古の注、『後漢書』には唐の章懐太子李賢の
注がある。
図書館で、はじめてちくま正史を読んだ
蜀書の短さに驚いた
175 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/19 11:50
単純な疑問
>>174でも言うように蜀書って短いのは
当時の蜀には史官がいなかったからなんでしょ?
ではその蜀書はどうやって書いたの?
当時はまだ蜀書のもとになる資料がいっぱいあったって事なのかな?
176 :
タケノコ@/ ゚w゚ヽ萌え ◆KL7bg/mFCE :04/06/19 11:53
史官がいなかった、と言うか……
天変地異関係とかを記録する官がいなかったんですよ。
当時天変地異とかは政治が悪いから起きるものだと思われていたから
結構重要なファクターなんですけど、それがなかった。
だから短くなっている。
魏とか呉とかには手足が無い肉の塊のような生き物の話とか
頭が飛ぶ妖怪とか諸葛恪の妖怪退治みたいな話があるんですけどね。
>>175 ?
残ってた史料が少なかったから記述が少ないんだよ?わかってる?
178 :
タケノコ@/ ゚w゚ヽ萌え ◆KL7bg/mFCE :04/06/19 11:56
だから重要な史料を残す部署が一個欠けてましたよって話をしていますが。
無論それがすべてではないけど。
例えば人口の把握とかも蜀はうまくいってなかったみたいだし。
>>175 陳寿は蜀に仕えていたからな。。。
やっぱりそれだけ資料を集めやすかったんじゃなかろうか。
当時の人と直に会うこともあったろうし。
益部耆旧伝なんかも書いてるしな。
諸葛亮の詩が残ってないのがおかしい。
質問に答えてくださってどもです。
東呉の管仲とまで言われた王導と孔明が一緒にでてるのは
演技もないこの時代でも孔明はなかなかの評価されてると思っていいようですね。
182 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/19 15:24
歴史書に名が残るってだけでもすごいよな。
俺の名前なんて・・・フッ。真面目に勉強しよ。
183 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/19 15:29
>>182 その意気やよし!だが、歴史書に名を残す方法は勉強を真面目にすること
だけではないことを忘れずに
>>182 初級:電話帳
中級:テレビ(犯罪は駄目)
上級:新聞(犯罪は駄目)
最終:歴史書・教科書
こんな感じで目標たてたら?
>>182 少し上にあがってる桓温ていう人物は
「男子たるもの、美名を後世に伝えることができなければ
醜名でもよし、万年ののちまでも名を残さねばならぬ」
なんて言ってるものすごい野心家もいるよ。
どっかにあった天皇殺したら教科書にのる?
ってスレたてた1みたいな奴だけど。
父祖の名を辱めず、って考えはないのかねぇ…
188 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/19 15:39
>>186 別に他の人に聞いてもよかったんだけど、ちょうど見かけたから貴方に聞きます。
香具師とはいったいなんて読むのかね?
>
>>188 俺は186ではないが「やし」
「奴」→「ヤツ」→「ヤシ」→変換したら「香具師」
190 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/19 15:47
191 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/19 15:50
便乗して
「m9」とはなんだ?
物知らずでごめん、誰かご教授されたし。
193 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/19 15:52
指さしだな。まずは2典で検索どぞ
195 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/19 15:53
ほほぅなるほど。
そうなのか、知らんかった。一つ利口になったぞ!ども!
196 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/19 16:19
最近は雰囲気がいいな。
皆かくあるべし!
人はこれを馴れ合いというのかもしれんが、
荒れてる板の中にこんなスレがあってもいいじゃないか
で、俺は正史読んだことないのだけれど、
趙雲って実際のところどの程度の武将だったの?
たいした武将じゃなかったとか聞くけれど、
それだったら何故演義であそこまで活躍してるのかも分からないし
詳しい人居たら教えてください
演技での活躍が華々しすぎるため叩かれているだけで
人材不足な蜀の将軍の中では正史にも五本の指に数えられるくらい有能な方。(魏延は反乱起こしたので
ただいわゆる魏の五将軍に比べると見劣りするのは仕方が無い
高堂隆って人は姓が高堂で名が隆なんだよね。
なんか日本人みたいな名前だ。たかし君。
しかしこの時代二字姓は度々見かけるのに二字名は本当に少ないね。
名前は一文字、と決まってたんだよ。前漢だか新だか、前時代でな。
その後、その決まりは無くなったんだが、習慣として名前は一字ってのが残った。
・・・記憶が曖昧だ。すまん。誰か補足頼みます。
>>197 関・張・馬・黄とまとめて伝が立てられているけれど、彼らに比べて官位の面では格落ち
なのは事実。実際趙雲伝は一番最後だし。劉備が漢中王となったとき(219)、四人は
それぞれ
関羽:前将軍 張飛:右将軍 馬超:左将軍 黄忠:後将軍
に任ぜられているけど、趙雲は成都平定後に翊軍将軍となったもののここでの昇格なし。
ちなみに魏延はこのとき督漢中・鎮遠将軍・漢中太守となっている。終わりを全うすれば
関張馬黄「魏」趙伝になってたろうね。
伝で注目すべきエピソードは長坂で後主と甘夫人を救った事(それにしたって事実のみを
あっさり書いているだけ)、建興六年の北伐に従軍して敗戦して降格させられた事ぐらい。
文章量的には黄忠伝(これもあっさり)と大差ない。
ただ、裴松之が『趙雲別伝』なる書物から多くのエピソードを引用し、伝の本文をはるかに
しのいでいるといったありさまなので、演義でお話を膨らませやすかった、ってことなんで
しょうね。
趙雲をヨイショしたのは同郷のよしみでってやつだろ?
趙雲別伝って当時の同人本でしょ?
出典が明らかでないことは確かだ
>>202 羅貫中自身の出身地があやふやなんで同郷のよしみっていうのは俗説だろう
>>200 周の時代には二字の名前などなかった。
だから禁止じゃ。
おそらく影響は三国末ぐらいまで。
羅貫中の出身は山西の太原といわれているね。これはあくまで本籍であって、当人は
浙江の銭塘・江西の廬陵の出身であるという説もあってはっきりした事は分からないが。
でも趙雲は「常山真定の人」だから、太原とは直線距離で200キロほど離れているので
「同郷」というには苦しいんでないかな。
羅貫中・・・何故かキナ臭い匂いがする
羅貫中の無名時代、特に施耐庵に弟子入りする前の
羅貫中を知る方、詳しく教えてください
演義(横山漫画からですが)で諸葛亮が、魏延には反骨の相があるから殺せと言う場面がありますが
正史でも同じ様な場面はあったのでしょうか?
初対面の相手に対して「こいつは頭の形がおかしいから反乱起こすんじゃね?殺しちまえ」
みたいなこと言われたらそこの陣営で戦う気無くすと思うんですが・・・
>>209 羅貫中が施耐庵の弟子、というのも数ある説のなかのひとつで
詳しいことはほとんどわかっていないのが実状です
>>210 ありません
>>210 反骨の相っていうか、
頭にこぶがあってそれが反骨というそうな
だから演義で言うような「人相」じゃないよ
213 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/19 20:30
首の後ろだっけ???
とにかく相じゃないのは確か
ちょっと調べてみますね
215 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/19 20:34
正史には、諸葛亮が魏延を嫌ったという記述は無いはず
魏延は諸葛亮を臆病者だと思っていたようだが(第一次北伐の献策とかで)
ごめん、、、ちょっと酔っぱらってて分からない
けど、
>>216が言うように魏延を嫌ってたとか、演義でいうような
兵権を争うような確執は蜀書には見られない
長安を一直線に狙う奇襲作戦は提案してた模様
多分、孔明と魏延の不仲ってのは演義だけの脚色
反骨ってのはコブで、もしかしたら
>>213が言うように首の後ろ
っていうか、後頭部だったかも知れないけど
たしか、頭にコブがある っていうような記載しかなかったように思います
誰か補足頼む
つまり魏延を嫌ったのは羅貫中だったということか
>>210 魏延伝では、「魏延字文長、義陽人也。以部曲隨先主入蜀」とあり、入蜀前から劉備に
従っていたことがわかるのみで、その経緯については不明です。反骨の相うんぬんは
諸葛亮死後の楊儀との対立をより盛り上げるための伏線として挿入された創作エピソード
なのでしょう。
>>212 手元の村上知行訳でも「魏延のうしろあたまには反骨のとがりがみえる。」となってますな。
演義が「人相」ってのはどっかで勘違いしてますぞ。
>>210 後に魏延が反乱を起こしたため演義では諸葛亮を引き立てるために後付したのかも。
正史の魏延は劉備から高い評価を受け
その信頼は誰もが張飛が命じられると予想していた漢中の守りを魏延に任すほどだった。
ただ諸葛亮の死後、漢中から撤退する際に以前から仲が悪かった楊儀と方針をめぐって争いになり
皆が楊儀を支持したため反乱と判断され兵が逃げ去り馬岱に殺された。
演義原文では「魏延腦後有反骨」という書き方やね
なるほど・・・演義のような場面はなかったんですね。
反骨っていうのは人相学のような物ではなかったと・・・
諸葛亮に先見の明有り、という演義の脚色ということでもあるんですねぇ。
どうもありがとうございました。
>>219 勘違いごめんよ 補足スマソ
けど「反骨の相」の「相」っていうのは人相の事かと勘違いしてたけど違うの?
実は、通俗演義は読んだ事ないんだ
演義では神がかり的な存在の孔明はパッと魏延を見た瞬間に「こいつはいつか謀反を起こす」てな暗示?
かなって思ったんだけどさ
こういうのもあるぞ
こっそう ―さう 【骨相】
(1)人間のからだの骨組み。骨格。
(2)人間の骨格に表れた相。
こっそう-がく ―さう― 【骨相学】
頭部の骨相をみて、その人の性格・運命を判断する占い。性相学。骨相論。観相学。フレノロジー
正史にみる孔明は清廉潔白な人の典型だけど(人物評しかり
魏延はと言えば人を寄せ付けないとっつきにくい人だったようなので
相性が悪かったのかな〜っと羅 貫中は想像して話を膨らませたんでしょうな
>>223 >けど「反骨の相」の「相」っていうのは人相の事かと勘違いしてたけど違うの?
相は「もののかたち」ってことだから、この場合の「相」が骨相である、ってことでしょう。
>演義では神がかり的な存在の孔明はパッと魏延を見た瞬間に「こいつはいつか謀反を起こす」てな暗示?
>>220も指摘しているとおり、
正史:諸葛亮死後に魏延と楊儀が対立し、楊儀の命を受けた馬岱が魏延を斬り殺した
演義:諸葛亮死後に魏延が謀叛し、生前それを予測していた諸葛亮の残した密計により
魏延に同調したと見せかけた馬岱が魏延を斬り殺した
と、諸葛亮を持ち上げ、話を面白くする脚色がなされているので、伏線として「諸葛亮は魏延が
反乱を起こすことをあらかじめ見抜いていた」というエピソードをどこかに入れておかないと
いけなかったということですな。
227 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/20 01:50
いい感じの流れだな(・∀・)!!
三顧の礼は「あった説」「なかった説」があるらしいのですが詳しい人がいたら教えて下さい
「ない」とは言いきれないが、正史にはそういう話は見られない
桃園の誓いもしかり
ただ、出師の表でそれらしい事にさらっと触れているので「?」な訳だが。
普通は、劉備の立場、ほとんど無名だった当時の孔明の名声を考えると
孔明のほうから出向いて行ったと考えられているみたいです
普通はあったと考えられています
>>229 > 「ない」とは言いきれないが、正史にはそういう話は見られない
ちゃんと諸葛亮伝に「その結果、先主は諸葛亮を訪れ、およそ三度の訪問のあげく、やっと会えた」という記述があります。
出師の表が諸葛亮・陳寿その他の捏造でない限り「三顧の礼」はあった可能性の方が高いと思うが?
本伝中の、これを膨らませて「三顧の礼」にしたんだろうな、という部分は以下のとおり。
『蜀書』諸葛亮伝
時先主屯新野。徐庶見先主、先主器之、謂先主曰:「諸葛孔明者、臥龍也、將軍豈願見之乎?」
先主曰:「君與倶來。」庶曰:「此人可就見、不可屈致也。將軍宜枉駕顧之。」由是先主遂詣
亮、凡三往、乃見。
当時先主(劉備)は新野に駐屯していた。徐庶は先主と会い、先主は彼を才器であると思った。
(徐庶は)先主にいった。「諸葛孔明は、臥龍であります。将軍はどうして訪問してお会いになら
ないのですか?」先主は「君が一緒につれてきてくれ。」徐庶は「この人は訪問すれば会うこと
はできますが、無理やりつれてくることはできません。将軍がまげてご訪問されるのがよいで
しょう。」こうして先主は諸葛亮を訪問し、都合三回訪問して、とうとう会見した。
~~~~~~~~~~~~~~
同上 「出師の表」
先帝不以臣卑鄙、猥自枉屈、三顧臣於草廬之中、諮臣以當世之事、
先帝(劉備)は臣を身分卑しきものとしないで、自ら身を屈し、三回も臣を草廬の中にご訪問
くださり、臣に当世の事情を諮問されました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
裴松之は『魏略』を引いて、
劉備が樊城に駐屯しているところへ、諸葛亮がやってきた。劉備は見知らぬ若造が来たので
書生あしらいをし、髦牛の尾をひねりながら話を聞いた。
諸葛亮は巧妙に劉備を会話に引き込み、無戸籍者を戸籍に編入して軍勢を増やす策を献じ、
その策を実行したところうまくいったので上客の礼で諸葛亮を遇した。
という説を紹介し、『九州春秋』もまた同様である、といっている。これはつまり「三顧の礼」は
なかったとする説ですな。
しかし、その後で、「臣松之おもえらく」としてコメントをつけ、「出師の表」に劉備が三回訪問した
とあるのだから、諸葛亮が劉備を訪問したのでないことは明らか、と言っています。
よって、
・劉備は諸葛亮を三回訪問した、ということは正史に記述がある
・演義はそこを膨らませて「三顧の礼」エピソードにしたてあげた。
三回もってのは単に「何度も何度も」という意味かもしれないな
劉備が諸葛亮を訪問したのは確からしいけど、
演義のように三度目でやっと会えた、というようなことではなく、
何度か訪問して話をした結果仕えるようになった、ということかな?
236 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/20 10:42
>>234 吉川三国志では戸籍のエピソードを脚色し、孔明が劉備に仕えてからの話として利用しているね。
政治話としてありえそうな話だし、仕官後にあったなのかも。
羅貫中=施耐庵 説なんてのもあるよ。
羅貫中=複数の作家からなる とかね。
とかく、羅貫中については謎が多いというか、なんにもわかってない。
まあ、文学史的に小説や講談がかなり低い位置におかれていた
時代だから。
それだけに、高い自由度の中で正史にある「歴史的事実」の結果を
いじることなく、はみだすことなく人物像を描くことができている。
「孔明三顧」について、個人的に思うこと…
なぜ皆、「幕下に加わってほしくて三顧した」って決め付けるのだろう?
その頃は相談役というか政治顧問的存在だったんじゃないか?
正史を素直に読めば、単に政治相談に行ったようにしか書いてないと思うが
逆にその頃の劉備には、
必要に応じて話を意見をうかがう顧問文化人が結構いたのでは?
正式に配下になるのは、交友が深まった後ってことでは。
ぶっちゃけ最初は孔明の方から会いに行ったというのもアリなのでは?
出師表のあのくだりは単に
「自分ごときを政治顧問として重んじて、何度も意見を聞きに来てくれた」
って意味にも取れると思う。
先行研究を踏まえてるわけじゃないので
素人意見だったらスルーしてくれ
まず中国において「三」という数には特別な意味があるのも事実。
もっともわかりやすいところでいえば、「三度辞して後に享ける」
というところがある。
ほかにもいろいろと意味があるんだけど、「三顧の礼」に関していえば
>>235の言うような意味合いか、諸葛亮が先主の高徳を喧伝する意味
合いを含ませた誇張かもしれないね。
いい感じだなぁ、煽り合い無しの議論がこんなにいい物だとは知らなかった
質問です
演義では槍や戟、鉄鞭などが出てきますが
正史で特別な武器を使っていたと記述がある武将はいるのでしょうか?
賀斉伝の注釈に引かれている「抱朴子」に賀斉が反乱を討伐した際、
叛徒のなかに「禁術」を使うものがいて刀や弓が無力化されたので、
やむなく棍棒を使って倒した。という記述がある。
質問とちょっと違うか。。。
実際に話された内容って、新野の屯所で聞かれたらまずいんでない?
だから何度も草廬に訪問して謀議した、と。
それに出師の表のは、そういう事実があったという記述ではなくて、
謙遜のために引いたものだし(たしか)。
三国志の伝の該当部分は出師の表から取材してるんじゃないかと思ってみたり。
>>240 典韋伝に
「典韋は好んで大きな双戟と長刀などを持っていた」
とある。別に特別な武器ってわけでもないけど。
正史だと特別に名前の付いた武器というのはあんまり
見かけない。三国志でおなじみの武器のほとんどは
羅貫中のセンスに依る部分が大きいね。
武将に特定の武器を持たせることによって、それぞれの
武将に個性が出てるから、俺は好きだな。
太平御覧に変な記事見つけた
「限三部司馬皆限力挙二百斤以上、全駆司馬取便大戟、由基司馬取能挽一石七斗以上弓。」
どうも当時は大戟とか巨大兵器が珍重されて、扱える人間は専門技術者だったようですな
・・・乱戦でさほど役に立つとは思えないんだけど
>>240 特別なものでは、典韋の八十斤(約18kg)の双戟くらいしか……。
詳しい方が他にいたら、自分も教えてほしいです。
当時、槍は得物としては使用されておらず、主流は戟、次いで矛。
剣は刀の性能と生産効率に及ばず、剣は儀礼・装飾等に、戦場での
普及率は刀の方が高い。
当時の製造技術では、「演義」に登場するような華麗な装飾の施された
武器は製造できなかったんじゃないかな。
それでも曹操や諸葛亮は名剣を製造していたみたいで、曹操の五振りの
百辟刀とか、諸葛亮が製造させた三千の神刀とかはあるようだよ。
他に、221年に蜀で造られた刀が八つあり、それぞれ、劉備、劉禅、劉理
劉永、諸葛亮、関羽、張飛、趙雲に与えられたとかあるけど、関羽は死歿
してるし劉備の子は幼年だし、どうにも眉唾っぽい。
ただ、武器の性能では三国でも蜀が最良だったとも聞くけど。
247 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/22 15:26
関羽の武器名が『冷豓鋸』なのは演義だけですか?
248 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/22 15:29
『豔』だった。すみません
249 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/22 19:22
正史読者じゃなくてもいいんだけど、誰かヌルポの意味教えてくれませんか?
できるだけ詳しくお願いします。
スレがヌルい時言うんだろ
するとガッされる
元々の語源はプログラマ板で(ry
252 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/22 19:57
>>251 よく「〜ぽ」とか言う人いますけど、そういう人が
ヌルいぽ→ヌルポ
って事ですか?
っていうかスレ違いだから止めとけ
255 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/22 20:04
256 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/22 20:08
>>254 ありがとうございました。とても参考になりました。
スレ違いの質問してご迷惑おかけしました。
初心者板いくか2典な。
>247
演義だけです。正史三国志には関羽が持っていた武器の記載が無く、
南北朝時代の野史『古今刀剣録』に「万人敵」という二本の刀を持っていたことが
書かれています。
259 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/23 22:03
質問です
呂布とカクシが一騎打ちしたって本当ですか?
260 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/23 22:37
但し、双方名乗りをあげて、いざ尋常に勝負!
という日本的一騎討ちかどうかは不明。
厳密には呂布伝の注釈に引かれてる「英雄記」によると。だね
263 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/24 01:18
>>83 甘寧は精鋭100人余りを選び、曹操の陣営まで行き
鹿角を抜いてバリケードを超えて営に入り、数十人の首級を上げた。
魏軍は驚いて大騒ぎし、無数のたいまつを上げたが、甘寧は既に自陣にもどっており、楽器を鳴らし、万歳を唱えた。
最後よくわかんねぇ。
百人で数十の首級って、サボってる奴おるやんけ。
甘寧が一人で数十人とは読めないのでしょうかがかしょうか
にげた者や ごかくに打ち合ってきた者がいたとは
かんがえられませんか
がかしょうかって一人なんですか二人なんですか
いえ、文の読みとして「斬得数十級」の主格が
甘寧一人なのか精鋭100人かどちらかというもんだいです。
がかしょうかは俄何焼戈さんのことです
遼来々ってなんすか?
張遼キタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━!!
ってコト。
遼来々って出典なに?
どうして、ちょっと来た、みたいな表現になってるんだろう。
到とか至でなく。
「来々」を「ちょっと来た」って訳すのかw
漢語を現代北京語で強引に解釈しないように
「"ちょっと来た"だけで泣く」
というのでも張遼の凄みは伝わるなw
おまいら、ちくまの正史四巻を買ったのだが、
マイナー人物が多すぎて読む気が失せる・・・。
ここが我慢のしどころなのか?
満寵とかケ艾とか鍾会ならまだしも・・・誰だよこいつ!みたいな奴らも多いし。
東夷伝は読んでて楽しかったが。。。
>>272 そのマイナーどころを知っていく悦び
っつーかメジャーな奴等なんて知ってること多いから
それこそ読まなくてもいいかがするが
274 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/24 19:40
マイナーかどうかの違いは羅貫中が演義に使ったかどうかだからな。
ま、演義に使われてもタダの斬られ役だったりする場合が多いから、
たとえマイナーであっても正史に埋もれてる方が当人にとって幸せかもしれん。
正直読んでて一番つらかったの文帝紀
まあえてして帝紀は総論的に出来事を記述していくだけだからあまり面白くはない。
まして文帝紀は皇帝即位の上奏文がハンパじゃない長さだしね。
文帝紀から明元郭皇后伝までばっさりスルーしました。
>>276 武帝紀は面白かったけどなぁ。。。
あとは、三少帝紀も。
魏の没落の姿が描かれるの(・∀・)イイ!!
>>278 そりゃ初代は創業エピソードがあるからねえ。裴注も曹操ちょっといい話をたくさん拾ってるし。
>>272 ちくまの正史四巻つったら華佗伝、管輅伝などが記載されてる方技伝第二十九が
あるじゃねーか。あれは読み物としてはかなり面白いぞ。
281 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/25 01:42
>>278 三少帝紀のなかでも高貴郷公記が良かった。
皇帝殺害事件における司馬氏の事後処理の苦労と
陳寿の微妙な書き方&注が面白い。
それじゃ、今から読んでみることにします。
面白いかなぁ。。。
正史は季漢輔臣賛がサイコーだろ。
おバカなマイナー武将祭り
陳到―「名声は常に趙雲に次した」
嘘つけ!知らんぞお前なんかw
良スレ発見!
>>280 「後漢書」方術伝の華佗伝も面白かったよ。
治療するときの「あんたは何年後に再発しますよ」って予言が全部当たっててありえねーとか思ったりして。
三国志の華佗伝はまた違う感じなんだろうか。読んでみたいなあ。
272さん、感想待ってます。
ちなみに曹操が華佗を殺したのは、曹操に仕えてた華佗が
妻が病気だとウソついて郷里に帰ってしまったからだと書いてあるのも演義厨には新鮮だった。
華佗が曹操に健康法として勧めたのが「お屠蘇」の起源
>>286 ( ・∀・)つ〃∩ ヘェーヘェーヘェー
華佗は日本の古代系のテキストを読んでも
逸話として出てきたりするんだけど
俺が見掛けるのはなぜかエロ大魔王な記事ばかりで…
289 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/27 01:47
医者がエロいのは昔から変わってないって事だね
1960年代の学界で華佗ペルシャ人説と言うのが
真面目に主張されたことがあったなあ。そういえば
それは今となっては「チンギスハン=義経」なみに信憑性がない説ですか?
すいません、赤兎馬って実際にいたんですか?
いたのなら、何歳まで生きたんでしょう?
歴史の表舞台に出てから
消えるまで期間だけでも教えてください。
>>292 いちお、魏書呂布伝に赤兔の名は見えます。
袁紹の命で張燕を討った件にです。
なお「人中の呂布、馬中の赤兔」は曹瞞伝に見える話。
ただ小説やマンガなどに見られるように、赤兔が呂布専用馬だとか
生涯愛用したかとか、そこまではわかりません。
何せ、上記以外で赤兔のことは語られてませんから。
ただ、わざわざ書いてある以上、呂布の乗馬は良馬だと評判だったのかもしれません。
赤兔(赤いウサギ)は中国におけるいくつかある瑞兆の一つみたいなもんですが、
赤兔馬が「赤兔馬」という固有名詞で呼ばれたのか、
赤くて早い馬という意味でそう書いてあるだけなのかとか、書いてて疑問に思いました。
赤いウサギか……
アトランティスとなんか関係あるのかな?
孟獲夫妻の乗ってる馬も赤兎馬ッスね。
現在のトルクメニスタン共和国原産のアハルテケという種が、
赤兎馬の特徴に最も近いのではないかと言われている。
真相はわからんですけども。
赤兎馬の関連でよく出てくる汗血馬とはなんですか?
>>296 かいつまんでいうと、西漢の武帝が、大宛国の名馬である汗血馬を欲した
ところ、大宛国が漢の遣使を殺してしまい、これによって大宛遠征が始まり、
戦果として持ち帰られた、という感じ。
漢の使者が殺されたのは、使者の方に非礼があったためだったと思う。
名馬の名前で、よく「赤○○」とかあるが、この赤は馬の色ではなく、
汗血馬の出す血の色ではなかろうか?
299 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/30 19:30
史実で特に「仲が悪かった」などと記されている武将って居ますか?
魏延とヨウギは知ってるんですが
他にもいたら教えてください
ぱっと思いつくのは張遼・楽進・李典かな。
「楽進・李典・張遼はいずれも平素から仲がよくなかったので」(李典伝)
あとずっとというわけではなかったけど周瑜と程普。
「程普は、自分がいささか年長であるところから、しばしば周瑜を侮辱した」(周瑜伝注)
他にも結構あったと思う。
カクトとシンパイ?だっけ
上辺では喧嘩してたけど奇妙な友情でお互いに案に認め合っていたという
うろ覚えでスマソ
この良スレになんとかネタを投入したくてw
302 :
無名武将@お腹せっぷく:04/06/30 21:09
>>299 甘寧とリョウ統。宴席で二人とも武器をもって踊りだし、ヤバイと感じた
呂蒙が盾もって間に入った話もある。
小説だと後に甘寧がリョウ統の命を救って仲直りしているが、
史実では孫権が二人を離して赴任させたのみ。
>>292 赤兔(赤いウサギ)は中国におけるいくつかある瑞兆の一つみたいなもんですが
初めてきいたが?出典があればキボン。
赤兎=ロバって意味でも存在する
>>299 夏侯覇と郭淮。
従兄弟の夏侯玄に代わって仲の悪い郭淮が征西将軍に就任したため、
極度の不安にかられた夏侯覇は蜀に亡命した。
>>297-298 結果的に三国志から離れた話題にも関わらずご回答陳謝。
=赤兎馬(?)と書いてあるものをよく見掛けたので。
それにしても昔の中国は馬がよく絡んできますね。
大漢和辞典で馬の付く漢字を見てみてもすごいなあと思います。
(゚д゚)ウマー
凌統伝では凌操は流れ矢に当たって死んだ事になってる。
甘寧に殺されたために遺恨が生じて〜という
>>302が引いているエピソードは
裴注の引用する『呉書』に掲載されたもの。
>>303 宋書に「赤兔は王者の徳が盛んなれば至る」とあります。
エピソードとしては、北斉高祖の高歓が仲間らと狩りに出た際、赤兔が現れています。
ここで高歓がいずれ皇帝に(実際には子の代でですけど)なり、
その仲間たちも高位に昇ることを示唆する話に続きます。
こちらの出典は北史、北斉書です。
他に出ているかどうかまでは、調べれば出てくるかもしれませんが…
とりあえず宋書では符瑞の一項目となってます。
>>309 うお。どうも。
そこまでは目通してないよ。君すげえ
進唐書にも白狼、赤兔を上瑞と為し…蒼烏と朱雁を中瑞と為し…
ってあるね。
312 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/02 15:21
どうでもいいんだけど、
>>309・
>>311の赤兔と、
赤兎ってどっちが正しいの?
それとも、どっちでもいいの?
314 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/02 17:38
>>313 やっぱりそうなの?
でも、赤兔って書いてる人三国志系に関して詳しそうだけに、あれが間違い
にも見えん。
そういう言い方もあるのではないかと思ってみたが、無いか?
>>313 そうでもないぞ
後漢書呂布伝の章懐注で全く同じ文章引いてるが
そこでは「赤菟」←(草+兔。化けてたらスマソ)になってる
>>315 それってもうだめぽって意味だったっけ。。。
それとも終わりって意味だったかな・・・。
忘れてしまった・・・
『公羊伝』・『穀梁伝』における『春秋』の経文が、魯哀公十四年(481B.C.)の「西狩獲麟」で
終わっているから、臨終・絶筆のことを「獲麟」という。
ちなみに『左氏伝』では、『春秋』の経文は哀公十六年の「孔丘卒」で終わっている。
劉賢、ケイ道栄、鞏志、鮑隆、陳応、楊齢などいなかった
320 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/03 14:32
>>299 魯粛と張昭なんてのもありますね
張昭は孫権や虞翻とも仲が悪かったようですし
徐盛と蔣欽みたいのもそうかな
張昭と孫権は一体なんなんだろうな。
門を埋めたりとかの大喧嘩の所、大爆笑した
322 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/03 23:17
喧嘩するほど仲が良い
・・・んな訳ないな孫権と張昭は
厨房は基本的に人間が駄目っぽい
グッド…なかなかおもしろいスレだ
孫権は虎狩りとかしてたみたいだしな
やっぱり孫堅の息子で孫策の弟よのぉ
まあ、おふざけとは言えロバにあんなことする人間ですから…
ああいう過ぎた悪ノリ見てると「ホントに人心掌握うまいんか?」って思っちゃうな
孫権と曹丕の陰険合戦〜
曹丕にしたら、孫権の厨房っぷりにはお手上げだろう。
孫権の晩年は・・・
前半は名君
いい人材がいて暴走を食い止められてたとも言えるが
蜀の文官で呉との友好をとりもってた人物って名前なんだっけ?
もうお互い年老いたんで会うのも最後かも知れないって服をあげて
涙した って話
ちくまのが手元にないので誰かおながい
曹丕もたいがい厨
>>321 孫策や太后から孫権の補佐を依頼されたことに対する
責任感が異様なまでに強かったんじゃないかな。
習サク歯からも「こんなの人に仕えるものの態度じゃねーよ」
って言われているけど、張昭にとっては臣下の道よりも大事なものがあったと。
あの豪快な大喧嘩は個人的に好きなエピソードだったりする
>>321 公孫度と手を組んだから怒って出仕しなくなったんだっケ?
335 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/04 00:24
>>334 公孫淵だったような。
しかし結局使者を斬られて張昭に謝りに行く厨房
(だったと思う。今手元にないんでスマソ)
337 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/04 01:47
孫権(呉)と邪馬台国との関係を詳しく知りたいです。
孫権は部下を遼東や高句麗や夷州や亶州や交趾や九真に派遣してるらしいし、
現在日本に呉服だの呉音だの伝わってて残ってるぐらいだから、
もし邪馬台国が九州に存在していたなら、呉の人間が普通に邪馬台国を訪れてて
卑弥呼に接触を試みててもおかしくないと思うので・・・
呉音の意味が違う。
>>337 正史に明確な記載は何もない、とだけ言っとく
まー確かに夷州亶州の記事とかはあるけど
憶測を膨らませて「意外日本史」や「意外三国志」を
こしらえるのはやめた方がいい
呉服は『雄略紀』十四年に中国から織物が伝来して「漢織・呉織」の職を置いた記事があって
一応起源ってことになってる。
雄略帝が倭王を称したのは478年(『南斉書』倭国伝)が定説
これをさらに250年前に置ける確かな論証があれば文句はない
呉音が伝来したのは奈良時代かそれ以前。
500年さかのぼれるとは思えない
そもそも呉音は仏教を中心とした漢字文化と一緒に伝わってる
漢字音だけが理由もなく伝来したりはしない
孫呉から邪馬台国に漢字文化が大量に流入して
卑弥呼が漢詩をバンバン作ってたって証拠があるならばよし
以上、必要以上に論証してみました
赤烏元年の銅鏡なんてあった気がする。
少なくとも年号は知っていた?
呉から贈られたと思しき璧かなんかが南九州のどっかで発掘されたみたいなことを聞いたことがある。
うろ覚えだが。
レスありがとうございます。
>>340 赤烏元年=西暦238年ですね。ある程度判ります。
>>339 丁寧な論証ありがとうございます。とても参考になります。
自分の考えでは、当時の呉は日本(倭)、特に九州に
ある程度の影響を与えていたのではないかと思います。
それは、孫権が夷州、亶州に遠征させてたのと、
その頃の吉野ヶ里遺跡が何故か海側からの攻撃に備えるような形で
作られている事と何かしら因果関係が有ったのが感じられるし、
>>340さん、
>>341さんの御指摘のとおり、呉の物と思われる遺物が
発見されている事から、呉は九州にある程度の影響があったと思います。
しかし魏志倭人伝を読む限り、呉と邪馬台国には直接影響が感じられないです。
もし邪馬台国が九州に有るのならば、呉が亶州(種子島)に遠征した時に
後の百済国滅亡や元寇の時と同じレベルの最重要警戒態勢になってもおかしくないのに、
魏志倭人伝を読む限り、邪馬台国は狗奴国と争ってたぐらいしか
争乱に巻き込まれている状況が感じられないので・・・
自分が出した結論は、邪馬台国は九州〜畿内に勢力有ったが本拠地は畿内に在り、
呉と邪馬台国との間に緩衝地帯が存在し、邪馬台国は呉の
直接的影響は受けてなかったのではないかと思います。
(間接的脅威は受けていて、後に邪馬台国は魏と親交を結ぶ事になった。)
スレ違いで「意外日本史」や「意外三国志」以上の妄想の
長駄文をカキコしてスミマセン。
異論、反論等のレスは謙虚に受け止め、検証し直してみたいと思います。
それにしても、陳寿には「魏志倭人伝」だけでなく、
「呉志倭人伝」みたいな文献も後世に残してほしかった・・・
陳寿「呉は倭国と関係ねえし、呉志倭人伝なんか無理。」
羅貫中「そのネタ貰った」
今期の種子島の発掘調査報告書を某大学が製作中
出たら問い合わせてみ
ラジャ〜
>>342 こちらこそ丁寧なレスどうも。
あなたの見解は分かりました。
…思うことはイロイロあるけど、
スレ違いになるんで心に留めときます
一つだけ言うと、文献資料をあなたの仮説の論拠としたいなら
史書や記紀は最低限自分で当たって原文の記述を確かめておきましょうね
それを怠って想像のみに情熱を注ぐと「呉服は三国の呉から伝わったから呉服なんだ」
という珍説が生まれるわけですので
話が反れるけど、むかーし読んだ「マンガ日本の歴史・卑弥呼」では
魏の力を借りた卑弥呼に対し、敵国は呉認定の倭国を名乗ってた。
今思うと編集者は暴走した三国志ファンだったのだろうか。
劉備に賄賂を要求した督郵を張飛が縛り上げて鞭でしばいたというのは
正史では劉備がやったという記述がされているというのを
どこかのサイトで見たのですが本当ですか?
>>349 正しくは先主伝の裴松之注が引用している『典略』という書物にある記述ね。伝の本文にはない。
>>347 レスありがとうございます。
>>339さんの御指摘を参考に、もっともっと勉強していきたいと思います。
スレ違いの珍説にわざわざお付き合い頂いてありがとうございました。
352 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/05 19:23
先主伝の本文にもありますな。
どちらも賄賂を要求されて、ではなく面会を拒絶されて、ですが。
つまり劉備が自分の名を売り込もうとして面会要求したけど断られて、
逆切れして暴行したってことですか。
監察に来てるのに面会断る必然性がない
賄賂渡さないから断ったとみてもおかしくはないな
まぁ、到着したばかりで疲れてたーとかかもしれんが
まあ当時の劉備はヤクザだし
先主伝本文では「督郵以公事到縣」とあって、その目的が劉備の監察にあったのかどうかは
よくわかりません。劉備が面会を申し入れた理由も不明です。
裴注引く「典略」では、軍功によって県に任ぜられた者を淘汰する詔が下り、そのために督郵が
県に来て、劉備は督郵をもともと知っていたので面会を申し入れたが、仮病を使われたので
恨みに思った、ということになっています。
上の命令で嫌々官職を剥奪するのに劉備の顔を見ると不憫になるので、敢えて会わなかった
しかし、劉備勘違い逆ギレとか
まあいつまでも田舎の県尉でくすぶってってもどうしようもないし
まあ正史には簡素に結果だけしか書かれてものもあるけど
なにかしら省かれてるドラマがあったのかもね
そういう空想で史料を読むのもまた楽しい
「まあ」ばっかりのレス(・A・)イクナイ!!
362 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/05 20:42
あらまあ
ままあ
かんとりーまあむ
まあまあ、そこらへんで。
おまいら、所で近所の本屋にとうとう正史三国志が無くなった。。。
これからは一冊一冊取り寄せねばならないのか?
三四週間って、そりゃないだろう?
アマゾンとかで買えなんて言わないでくれ。。。
367 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/05 21:33
>>366 言わないでくれって言われてもその理由がわからん。
パソコンがありインターネットもできるのならアマゾンがいいのでは?
注文してから着くまで結構早いぞ。
それともアマゾンで注文できない重大な理由でも?
>>367 インターネットに理解のない親が駄目だ駄目だと・・・
スマン、まだ俺は工房なんだ。。。
クロネコという手もある
>>368 ネットにつなげるなら、esブックスで注文してセブンイレブン受け取りに汁。
申し込み作業以外は全くネットを通してないからアマゾンより敷居が低い。
親にはコンビニでの書籍取り寄せと説明すれば、若干隠蔽してるが嘘はない。
>>369>>370 サンクス!
これからはそれでやるかな。。。
まぁ、すでに一冊は注文してしまったし、途中で断るのも
店に悪い気がするからな。。。
レスありがとうございます。
吉川と横山と三国志新聞しか読んだことなかったんで。
要するに劉備が逆切れしたということなんですね。
がんばって正史読んでみよう。
劉備は正史で「先主」とか呼ばれてますが、
呉の君主たちは何と呼ばれているのでしょうか?
堅 策 權 亮 休 皓
呼び捨てだよな
そこが所謂陳寿の蜀びいきの一つ
>>376 でも実際に主君だったわけだからいいんじゃないすか?
晋に仕える者として、皇帝を僭称した劉家を特別扱いしてはいかんだろう。
漢に仕えた司馬遷も項羽を特別扱いしてる。特に問題はない
項羽は特別扱いか?
劉備が特別扱いというのは、「同じく皇帝を僭称した呉と比べて」だから
381 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/06 19:57
三国時代の人たちって、クロマニョン人から毛を剃ったような人たちなんですか?
ウホウホ言いながら石槍で戦ってたとか
>>381 そうです、捏造が好きな中国人は後になってから正史として勝手に記録を作りました。
本当のその時代の人間は原始人と大差ありません。
いかに戦争というものが(皮肉にも)文明を発達させるかが分かるな
>>380 蜀と呉は公平でないといけいない
という理由もないだろ
>>388 別に駄目だって言ってないよ
単に陳寿が蜀を贔屓してるって言ってるだけ
まあ純粋な歴史家としては公平であってほしいけどさ
昔の史書って歴史書であり、個人の創作物だから仕方ないんじゃない
まぁ、国家事業としての正史編纂は唐になってからだしねぇ。
そもそも史家は平等公平に語ろうなんて考えてまへん。
むしろ「差別化」されなきゃいかんってのが伝統的歴史観。
例えば君主が死んだ場合でも
君主の資格がない香具師は「薨」という単語を使わず「死」と記述してみたり
正統でない皇帝はオクリナでなくイミナで呼ばれたり
要するに、史書の記述は全て史家の国家観や道徳観のフィルターで再構成されたもので
史書を学ぶってのは、まさにそこを読んで自らの道徳観を深めることなのでやす
「平等公平」にしか書けない史家は、逆に分析能力を持たない低脳でしかない。
昔の歴史観が今の歴史研究と合わないからって
陳寿を責めるのはちょっと気の毒。
春秋の筆法って椰子かな
最古のプロパガンダ
劉巴はなぜ張飛を無視しますか
身分差別
397 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/07 23:28
>>395 高潔、媚びないというよりも、劉巴の狭量さを示すエピソードにしか思えない。
古い話題で申し訳ないのですが
>>89 >で、陳寿の三国志に関してはそれなりに信用できるらしい
>陳寿が孫権嫌いだとか、呉関係の記述の大部分が呉による記録を参照にしてるとか
>そういう問題はあるかもしれないけれど、「おおむね信用できる」らしい
>呉関係の記述の大部分が呉による記録を参照にして
いるから、つまり三国志の信用性が低下している、と読み取ってしまったのですが、
この解釈が間違っていなければ、その理由を分かりやすく教えてください。
そもそも韋昭らの記した呉書の信用性が低いのか、陳寿が孫権を嫌いなゆえに
呉書以外の書物を調べることもなく著しているため、信用が低いということなのか。
過ぎた話を蒸し返すようで申し訳ないです。
>>398 陳寿は蜀出身だから蜀についてはかなり詳しい資料が手に入るし、
後に晋に仕えているから魏晋の資料も十分手に入る
呉は敵国だったから、戦後、呉の資料をそのまま使うしかなかった、と
まあだいたいどんな史書だって、元にした資料はあるわけで
質問
結局蜀の軍事最高責任者は諸葛でいいの?
素人の諸葛がリゲンやギエンの軍事に口を出してきたって事?
劉備の遺言ではリゲンが軍事の最高責任者だよね
>>400 総理大臣が防衛庁長官に指示を出すみたいなノリじゃないかと。
諸葛は最終的に前線で指揮取ってたんでしょ
総理大臣だからって周りの人はいい気はしなかったはずなのに
というかよく仕切れたよな諸葛は内政と政治に関しては評判聞くけど
軍事に関してはまるっきし駄目って話なのに
それで歴戦の兵どもを抑えられたのかねえ
あとリゲンとギエンの死に方って演技と同じく裏切りと罪人あつかいなの?
403 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/08 10:23
>>402 李厳も魏延も正史では「身から出たさび」グループのところに書かれている。
李厳は第四次北伐で兵糧補給で嘘ついて失脚
魏延は諸葛死後に揉めて、結局反乱を起こしてしまい戦闘を挑むも
何平に「公(諸葛)の体がまだ冷たくならないうちに、お前らはどうしてこんなことを平気でするんだ」
と怒鳴りつけられ兵士が戦意喪失。馬岱に追撃され死亡。
まあ魏延は結構同情の余地があるけどな
魏延が不忠、というのは不当な評価だと思っていいのかな?
>>402 > 軍事に関してはまるっきし駄目って話
そんな話は初耳だ
どう考えても諸葛亮は戦下手だろ
まるっきり駄目という話は聞いた事がないな。
基本に忠実で臨機応変な策略は苦手、博打はやらない、くらいじゃ
なかったか。
北伐自体が博打くさい
ぶはっ
だろうな
正史ではリゲンは失脚しただけ?
その兵糧補給の件って
諸葛が軍事で幅を利かせ始めて
おもしろくないから嫌がらせしたみたいな感じ?
諸葛の対抗がホウセイぐらいしかしらんし
ホウセイがいなくなってから全く勝てなかったから
おいらの中では全く駄目なんだけど言い過ぎか?
国内をまとめた政治手腕と内政能力は超一流だけど
他は人並みで だけど軍事に口出して蜀の軍事を弱体化させた人だと思ってるんだけど
間違ってる?
俺も政治家としては諸葛亮はいいと思うが、
こと軍事に関しては、駄目だったと思う。
>>415 ダメでもないんじゃないかと思うけど。
良く兵をまとめ撤退戦を上手く行ったり、戦意を高揚したりはしてるみたいだし
一部将や軍官僚としてなら一流の仲間入り位はできるんじゃない?
負けないことをすてて勝ちにいけないから、名将には程遠いだろうケド。
よく兵をまとめって・・・魏延が泣くぞ
>>417 戦歴の浅い初期北伐頃ではなく、晩年の話ね。
第1次北伐の頃は殆ど初陣に近い状態だったわけでしょ?
桟道を超えて進軍する軍をよくまとめてるじゃん
直接の戦闘で負けというのも陳倉くらい?
武都、陰平は攻略してるし
キ山では勝利し、張コウも討ち取ってる
曹真の蜀征伐軍も大雨に降られなかったら、漢中に孤立全滅な感じもする
晩年もこみでさ
諸葛亮の戦の仕方って教科書準拠で頑張ります!
みたいな感じがしてしかたないんだが・・・俺だけ?
>>418 建安18年(213)、張飛・趙雲らを率い長江をさかのぼり手分けして郡県を平定、章武3年(225)には南征しことごとく平定。
諸葛の戦の詳しいことはあまり知らんけど
戦略的に意味のある戦いだったの?
いつの間にか演義準拠で話してる奴が紛れ込んでないか?
>>423 というかちょっとだけ正史にかぶれた演義卒業した気になってる厨という希ガス
まともな質問のできない、する気も無いのか、演義厨も来なくていいよ
そして誰もいなくなった。
・・・って俺ってば火に油注ぐような発言してどーすんだー!!
火花散らさず仲良く穏便にいこうよ。
>>1を読み返して流れを正そうぜ。
うわーん。・゚・(ノД`)・゚・。おれのこの発言全てが煽りっぽく見える!
そして徐々に迫る休憩終了・・・。アワワ。
み、みんな仲良く・・・な?な?
429 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/08 12:50
>>405 いいと思う。
「楊儀らを除きたい&蜀での自分の地位をもっと高めたい」という希望は
自分がこれからも蜀の臣であることを前提に考えていたのだから、
不忠じゃないよね。魏に下ることを考えてもいなかったみたいだし。
陳寿も「反逆したわけではない」と弁護している。
ただ、もう少し上手くやればよかったのにってところかな。
諸葛亮死後の蜀軍の魏延に対しての行動は、ひどいけどね。
430 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/08 13:05
>>429さんこんにちは。
ド素人からの質問なのですが、魏延は諸葛亮が死んだ途端に
楊儀らに袋叩きにされて死んだ、という事なのでしょうか?
という事は、魏延は諸葛亮の信頼が厚く、楊儀らに妬まれていて、
それで諸葛亮がいなくなると周りに嵌められて殺されたのでしょうか?
諸葛亮が生きていた間だけその身が安泰だった理由が分かりません。
なぜ諸葛亮には魏延を殺せず、楊儀らには殺せたのでしょうか?
ご意見お聞かせ下さい。これから出掛けますので返信は遅くなります。
単純な話、諸葛亮が死んだ後の後継者争いに
真っ先に破れたのが魏延、って感じがしてならないのだが。
その後も内輪揉め結構続くし。
>>430 まったくもってタイプが違うが、
信長を孔明とすれば、秀吉を楊儀、柴田勝家を魏延と思うと分かりやすいのでは。
孔明からすれば、どちらも頼もしい幕僚だったとのだと思うよ。
演義では孔明はやけに魏延を殺したがっているけど、実際はそんなことは全くなかったと思う。
魏延自身は孔明を「臆病者だ」と思ってた 嫌いってわけではないのだろうけど
楊儀と魏延はかなり仲が悪かったみたいだけど
しかし、自分が死んだあとに魏延を従えられるような将がいないとも思ってはいただろう
かといって、魏延を軍の指揮官に据えれば、長安強襲をやる
これは孔明の意図した事とは違うし、それなら排除するかくらいに思っててもおかしくはないんじゃない?
そういう議論はスレ違いだろ
>>430 こんにちは。
諸葛亮自身が元気な時に魏延に対する悪意の記述がない点からいっても、
自分の生きている間は排除する気はなかったのだと思います。
「殺せず」というよりも
>>432さんの言うように殺す気がなかったのでしょうね。
諸葛亮死後にあっさり殺されたのは、味方の撤退を妨害するは
戦を挑むはで、何平に怒鳴られたように人心が離れるような行動をとったからでしょう。
問題は何故そこまで魏延が追い詰められたということになりますが・・・
・全軍撤退という大事な作戦を決める席に魏延がいない
・そもそも「諸葛亮の死→全軍撤退」という考えが前提になっている
・魏延に楊儀の指揮を受けさせる
など、魏延のプライドを傷つけるような考えの首謀者は、他ならぬ諸葛亮。
自分が生きているうちは除く気はなく能力を生かそうとしていたが、
死んだら火種になりそうな人間は排除しようと考えていた可能性がありますね。
まあ裏付ける証拠みたいなのは無いので
憶測の域はでないな・・・
史書の記述を信用すれば、諸葛亮自体にはなんの思惑も無く、
楊儀と魏延が諸葛亮死後の後継者争いをして、暴走しすぎた魏延が人心を失って負けた
といったところか
魏延を擁護するなら、彼は裏切り者でも不忠者でもなんでもない
本当に裏切りものならあっさり魏に寝返っただろうから
信憑性は薄いものの、諸葛亮が実は後継に魏延を指名したが、楊儀がそれを恐れて謀反人に仕立て上げたって説まであるくらいだしな・・・
「史伝諸葛〜」という本に孔明が書いた「カイ子書」という本が出てくるんですが、三国志自体に、その本の名前や内容があるのでしょうか?
>諸葛の対抗がホウセイぐらいしかしらんし
ホウセイがいなくなってから全く勝てなかったから
おいらの中では全く駄目なんだけど言い過ぎか?
言いすぎ。先ず前提からして違う。
諸葛亮の対抗馬は法正より李厳(劉備が
劉禅の後見を依頼したのが諸葛と李)。
法正は蜀郡太守→尚書令で孔明と張り合えるほどの
勢力は無いし人望も無い。劉備は能力を買っていたようだが、
さほど優れた人物とは言いがたい。魏にはざらにいる程度の人物。
それから法正没後も諸葛亮は南征などで
勝利を収めている。
>>438 「[言戒]子篇」のことね
それ、信用するな
正史にも載ってないし、もちろん文選にも太平御覧にもない。
陳寿の諸葛亮集の目録にも全くない
つい最近、孔明の子孫が住んでる村が発見されて、
そこに残されていたという極め付きの怪しい文書。
誡子篇
子孫と言えば、数年前に赤壁メモリアルと称して
孔明や周瑜の子孫が一同に会したそうな。
曹操の子孫は呼んだけどこなかったらしい。
法正って蜀の豪族の代表みたいな感じだったんでしょ
劉備への影響力を競う事を考えたら
ライバルって考えてもいいような
スレ違いですから、ホントお願いですから、他所でやってくれませんかね?
431さん、432さん、433さん、434さん、435さん、436(429)さん、437さん。
レス本当にありがとうございます。こんなに回答が頂けるなんてとても嬉しいです。
435さんのおっしゃる通り、もう少し質問の仕方を工夫するべきでした。
流れを議論に持っていくような真似をしてしまい申し訳ないです。
皆さんのご意見をうかがって、またいろいろな考えが頭に浮かんだのですが、
私見を書くことは確かにここの主旨にはそぐわないので、別の機会に、然るべき場所で発言したいと思います。
ではまた引き続き通常どおりの進行でお願いいたします。
もう一度改めてお礼させて下さい。皆さん本当にありがとうございました。
>>447 イキロ
知識ない人間が質問するのがスレの前提なんだから
キニスンナ
問題は史実三割、憶測七割で変な議論始めた連中だから
>>441・442さんありがとうございました。
あやしい代物なんですね…
あやうく、書いてあったという内容を座右の名にするとこでした。
>449
子供を誡めるのじゃなくって、妹の子供を誡めるって文のほうなら
御覧とかに載ってる。
こっちを座右の銘するというのは如何
よく確認せず書き込んじまった
×座右の銘する
○座右の銘にする
陸遜って負け戦があるらしいですけど、詳しく教えてくれませんか?
>>450 それ、かなり好き
特に「若志不強毅、意不慷慨、徒碌碌滞于俗」の一節がいい。
孔明の肉声が聞こえるよう
まさに彼は「碌碌」と魏臣としてチンケな出世を求めるより
無謀だと分かっていても「慷慨」の心を持って
辺境から魏と戦い続けたわけで
>>452 満寵の守る合肥を攻撃して、これを落とせず撤退したことがある。
負けたというか、勝てなかった戦いはこれくらいかな。
あれだな
負けない戦いをする孔明
勝てる時にだけ出撃する陸遜
孔明も魏や呉の立場だったら、勝てる時にしか出撃しなさそう。
魏の立場ならそもそも孔明自身が戦をしないだろうな
確かにそうだ。
459 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/11 20:48
それはそうだ
勝てるときにだけ戦うってのは孫子の大原則みたいなもんだしな。。。
>>460 世の中には戦わない時点で負けになる戦いも存在するからねぇ
>>461 そういう状況に追い込まれた時点で負けなんだよな・・・
そういう意味では蜀は既に負けていたのかもしれない
>>462 じゃあ、まだ曹操と差がなかった時代に遡って張飛の徐州失陥が蜀というか劉備陣営の
敗北原因だね。
それがなかったら、関張呂の3本柱で軍師陳登の元曹操を破り中原に覇を唱えてたかも
ありえねぇ。絶対にありえない。
>>463 陳羣もいるぞw
諸葛亮は兄に従って呉かな
>>463 真面目な話をすれば、張飛の徐州失陥が無くても
いずれは徐州を失うか、誰かの元に膝を屈するしかなかったろう。
やっぱり蜀が辛い状況に追い込まれたのはケイ州失陥のあたりだろうな・・・
荊州を失って、中原への足ががりがなくなって、引きこもりになってしまったんだっけ。
別に守勢一辺倒になどなっていないと思うけど?
いい加減、スレ違いに気づけ
ということで、スレの主旨にたちかえるわけですが
正史に赤兎馬以外に、名前のある名馬ってでてきますか?
ないです
赤兎馬が呼称だったのか、すぐれた馬をそう言うのかも不明
三国時代は茶褐色の馬は少なかったし
そういう馬は競馬で言うサラブレッド扱いを受けていたんではないでしょうか
>>472 名前はないけど孫堅の馬は孫堅の命を救った
>>473 >ないです
おいおい。武帝紀建安二年の段を嫁
注に引く魏書になんか載ってるぞ
476 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/12 23:09
>>472 絶影、的ロは陳寿の記述にはないけど、注には名前がありますね。
ただし、孫盛は的ロが活躍した檀溪のエピソード自体を疑っています。
名馬かどうかの記述はないけれど、
呉にも、孫権によって名前のようなものをつけられて、
そののち、いろいろあって家臣に下賜された驢馬が一頭。
∧瑾∧
_/ミ∧| ´ `;| これは、いじめですか?
(_・ ( A ハ
⊥`7 ミ( )√ヽ
|諸|( ∪ ))ノ
|葛| ||^||⌒(||(|
|子| '' '' '' ''
|瑜|
 ̄
「諸葛恪の父、諸葛瑾は、おもながな顔立ちで、ロバに似ていた」
「孫権は一頭のロバを引き入れさせた。
(そのロバにかけられていた)長札の面には『諸葛子瑜』と書かれてあった」
(呉書十九、諸葛恪伝)
吉川三国志に孫策の馬が出てこなかったか?
五花馬とかいうの。
厨は正史にあらず
の前提で意見させて頂いた
諸説あげるとキリがないので。
あながち間違いとも思えない
>>479 なるほど。了解
まあただ、ここまで正史と注が一体化してるわけだから
正史本文に載ってないから「正史に一切記述はない。以上」
で口を閉ざすのは寂しくはないか?って思っただけね
なんで、あまり気にせんといて下さい
>>480 いや、オレもすまんね
「こういうと突っ込まれるかも」って思いながら書いた
これって所謂釣りなのかなw
注は参考にする文献によっては信憑性に欠けるし
まあ、そんな事逝ってたらキリがないよね
当時生きてた人間でも内情に詳しい人はごくわずかだったはずだし
注の扱いは難しいので次スレではテンプレが必要かもしれないですね。
私も安易に「孫盛」って書いたけど、スレの主旨を考えると突然名前出してもしょうがないし。
注の由来と、代表的な引用書物名と著者名あたりはいるのかも。
今日図書館でちくま正史を流し読みしたんですよ
で、気になったのは正史って武将の生没年って書いてないの?
なんか黄忠のどこが老将なのかが分からなかった
>>483 生没年とか出生地、字は全ての正史を通して、必ず載っているとは限りません。
生没年に関しては、没年と享年が載っている場合、そこから逆算して推測。
または列伝の内容から、どの事件が起きた時に何歳くらいだったかと判断する。
時歳〜、の記述から逆算。
などの方法を採ることができる場合もあります。
しかも、これらが正確とは限らないので、年齢に拘るならさらに調査が必要となります。
黄忠は列伝の記述量がもの凄く少ない人で、劉表麾下に入る前の経歴がさっぱりなので、
ちょっと年齢を判断するのは無理かと。
関羽が「終不与老兵同列」と言っているので、老兵の意味が「年寄り」で良いのなら、
関羽よりも一世代以上、上の世代なのでしょう。
>>483 このスレだから敢えて言わせてもらいます。
「武将」って括りは恥ずかしいだけだよ。
たいていはゲームの影響が強いせいだろうけど、事績が純粋に軍事のみの人物
ばかりじゃないし、その逆も然り。
七士や七賢などはほぼ文人といえるし、動乱期の官制は完全な分業化がされても
いないので、安易に武官や文官という括り方もそれほど正確とはいえないだろうし、
軍師なんてのは論外。
武人、知識人、(公卿)士大夫、とりあえず妥当なものはあるけど、たいていは人物
の方がいいんじゃないかと思います。
>>485 いいじゃないか、別に三戦板なんだから。
その手のツッコミは「諸葛亮孔明」はおかしい「諸葛孔明」にすべきだ、
と同じく見飽きた。
まあ言いたいことは十分分かるけど、
>「武将」って括りは恥ずかしいだけだよ
こういう物言いが反発を呼んでる気がする。
漢字の表記が当時と違うだとかいっそのこと全部漢語で会話しろとかの屁理屈と同じだね。
>>486 うーーん……「別に三戦板なんだから」っていわれると、せっかく存在する
この特殊なスレの意義がかなり薄れる感じ。
>「諸葛亮孔明」はおかしい「諸葛孔明」にすべきだ
とは明らかに別儀の問題だよ。
煽りっぽく感じたら、それは謝るしかないですけど。
個人的には武将とかは萎える
そういう人って演義と正史をまぜこぜにしてる人に多いように思うから
けど、別に規制せずに個人の自由に任せたらよいかと
間違いでない範囲においては
どうも俺の書き込みのせいで揉めたのか・・・
いや、俺も「武将」って言葉の意味は知ってる
ただ、パっと思いつく言葉が無くて「武将」って使った
「人物の生没年」でも良かったけど、なんかしっくりしなかったから
>>490 「人物」でいいと思うよ。一番的確で無難。
>>490 「武将」でいいよ、気にすんな。
この場合は黄忠の名前を出しているわけだし、問題ない。
たとえば「孟宗っていう武将が・・・」なんて書き込みにはツッコミもありだと思うけどね。
>>483 というか、図書館にちくま正史があるなんて羨ましいな。おい。
>>493 大学の図書館だけどね
さすがに後漢書はなかった
俺の大学にも揃ってたけど
いつも貸し出し中で実物見たことなかった
15年以上前の話だけれど、俺の高校には世説新語、
文選、資治通鑑、文心雕龍等、中国物が色々あったよ。
でも肝心の三国志に呉書が無かった。
呉書がキモなのに!
>>490 揚げ足取りはスルーしとけ
相手にするだけ無駄
図書館でもちくまって置いてあるところってなかなか少ないよね
おれ、ちくま本持ってるからどうでもいいんだけど
いい図書館かどうか見分ける基準として、
ちくま正史置いてるかどうかをまずチェックします
ちくま置いてる図書館はまず品揃えはばっちりですよ
ただ、万人向けじゃないって事かも知れないけどね
新しいのばっかりじゃなくっていい本の品揃えに余裕があって、
かつ少数の熱心な読書家の存在も見逃してないっていう感じかな
新釈漢文大系で三国志出して欲しいなぁ
>>500 「史記」であの分量ってのを思うと、全て揃えると凄まじい価格になりそう。
といいつつ、出たら俺は即買いするんだろうけど……。
平凡社がんがれ
ごめん、中国古典文学大系と間違えた
新釈は和泉書院だ
新釈は明治書院だっつーの。
>いい図書館かどうか見分ける基準として、
>ちくま正史置いてるかどうかをまずチェックします
>ちくま置いてる図書館はまず品揃えはばっちりですよ
ヲタク向けの本が揃ってるのを
いい図書館と呼んでいいのか…
ちくまじゃないにしろ、正史も置いてない図書館は良い図書館とは言い難い
>>506 そんなこともないけどね。
ちくま正史は文庫だから入れたくない図書館も多かろう。(文庫は長持ちしない)
それよりおめーら、史書以外の名著も読めよ。
文庫の前にハードカバーのも出てたよ。
俺の大学の図書館にはちくま正史はなかったけど、原書みたいのがありますた
手書きの字のやつ
和刻本正史
>>510 それだー
死ぬほど読みづらかったけど呉書のいくつかだけ頑張って読んだ
正直なとこ、無理せず評点本読んだ方がラクだ。
読み込めば字の間違いや句読点の打ち間違いにも気付けるし。
評点本に慣れると白文が読めなくなるという感覚はわからんな。
めんどくせえ感を我慢できる忍耐力の問題じゃねえかと。
無いもんはしょうがないけどね。
質問します。
程cは一度引退して田舎に引っ込み、それからまた公職に復帰したというのを
聞いたんですが、ほんとでしょうか? また、ほんとなら引退や復帰の理由は
記録に残っているんでしょうか?
よろしくお願いします。
「満足を知るものは恥辱を受けなくてすむ」とか
言って引退を表明した話か?
復帰の理由は、性格悪い者どうし曹丕と気が合ったからだな。
>>516 ごめん、妄想。
でも曹丕が曹操よりも程cを高く評価していたのはホントっぽい。
孟達が好きだったり、よくわからんな、曹丕は
カクの事も信頼してたみたいだし。
やっぱり腹黒そうなのがいいんだろか?
曹否ってものすごく陰険で他人には厳しいイメージがある
切れ者とは不思議とは思えない
もちろん、暗君ってのともほど遠いけど
曹操のように革新をするというより
資産にのっかって好き勝手ふるまったような感じを受ける事がある
厳しい営業部長って感じ
俺は逆に、曹操よりも切れ者って気がする。
ただし、暗い方向にだけど。
私は痔のほうが切れ者ですが何か?
もはや正史知識のスレッドでもなんでもねーw
曹操が避けてた朱霊もね>曹丕重用
曹丕スレになりますた
しかし曹丕って陰険だな。
正史にあれだけ陰険さが記述されるってのはすげぇ。
いじわるで殺した人間は数知れず。張繍、于禁、夏侯尚etc...
曹丕の非情性なら、清貧で実直な名士層の伝の方が詳しいかもな。
とにかく好悪の差が激しい。
いちど怨みを覚えた場合、自分に非があっても復讐(それも己の地位にモノを
いわせた手段で)していくし、逆に曹休のように愛顧する相手への対応なんかは
驚くほど別人みたい。
法正とならいいコンビだね
確かに
法正が出世して殺しまくった香具師らって
ほとんどつまらない私怨だったんだろうか
親の敵とかなら気持ちも分からんでもないけど
>>525 同意
兄を殺したヤツはともかく、曹洪に対しては完全いいがかりだからなー。
でも末の弟に対してはまるで別人なんだよね、対応が。
于禁のイメージが悪いのも曹丕のせい
于禁は普通に嫌われ者だろう
黄権と比べると于禁は嫌われてるよ。
似たもの同士なのに
于禁は融通利かない性質で今までに何人も犠牲にしてる割に
我が身可愛さで生き残ったからな。筋が通っていない。
筋を通して生きている黄権と一緒にすべきでない。
でもさあ、労わった直後にorzな絵をしかも墓の前だぞ?
陰湿過ぎ
なんとか候ってのも酷いよ子桓ちゃん
>>534 正直、大昔の話とは思えないくらい洗練された意地悪だよな。
黄権じゃなくて孟達と比べた方がいいかな
孫権も曹丕に負けず劣らずのDQNエピソード持ちだったりするけど
DQNベクトルは全然違う方向を向いてるのが面白い。
厨房は優良な家臣も殺しまくってるからな
曹丕は精神的にネチネチ虐めるタイプだな
孫権は趣味の延長で家臣を殺すことはないからな。
孫権のDQNっぷりはカラッと笑えるレベルで留まってる。
実際に殺してるのは小生意気なインテリであって、これは曹操も同じ。
どこの国も二代目はDQNばかりか…
カラっと笑えるか?
驢馬とか小学生じゃないんだからさー
大の大人同士だぜー
しかも「もう呑めません」とか言ったら水ぶっ掛けられるんだぞ?
心の中で張公マンセーですよ
>>525 >正史にあれだけ陰険さが記述されるってのはすげぇ。
三国志編纂の時期から、魏は遠い昔の話ではないし、
特別に政策的に魏を貶める、または賛美する必要も無かった、
というのもあるのかも。
ある意味、非常に人間的な記録が残ったかと。
本気で隠蔽されると、全く立証できない状態になるんですよ。
隋の楊雄、唐の李建成なんて、もうどうしようかって感じ。
>>542 でも「酔った時に言ったことはナシでおながいします」とか言ってるぜ。
かわいいもんじゃねーか。
孫晧なんて凄いぞ。
酔っ払ってぶっ倒れたヤツを演技じゃないかと疑って外に出して、
そいつが無理を押して戻ってきたら「騙したな!」といって死刑。
>>544 王蕃だな。
虞翻は本当に酔ったふりしてるからなぁ。
おまけに孫権も、曹操も孔融殺したじゃ〜んとかほざいてるし。
国や君臣を問わずDQNだらけだった頃は丸くおさまってたってことか。
虞翻は融通の利かない頭が固い学者
ヤツが辺境に飛ばされたのは自業自得
首切られないだけマシ
融通は確かに利かないが
頭は固くないよ。
服喪期間中なのに喪服を脱ぎ捨てて役所に入ったりしてるし
>>547 逆にそれが頭が固いという印象もありけり
于禁に対した態度にしても
中国の小人の典型って感じがする
細かい事にこだわって、物事を正したい みたいな
結局は自分だけの誰からも賛同が得られない大義なのに
価値観の相違だな
問題は孫策に心酔してた文官連中が孫権をナメていたことであって、虞翻の性質自体はあんまり関係ない。
あと、
>>548は妄言だな。
虞翻は張昭ともやりあってる所がなかったっけ?
ともかく呉ってなんだか…
>>551 だがそれがいい
諸葛瑾などがどれだけ誠実だったかわかるよ
>>552 他の連中だって誠実だよ!
DQNだけど。
>>553 虞翻も曹操の誘い断ってるんだよね
いい奴なんだか、やな奴なんだが
わからないけど、好きだよ虞翻
そこで呉の蒙ちゃんですよ
阿蒙タンは誠実だが、甘寧との料理番争奪バトルを考えるとやはりDQN。
孔融の「酒の害を理由に禁令を出すならなぜ女で国を滅ぼすからと結婚を禁じないのか」、の台詞。
これは前後関係から屯田で食料確保を優先するため無くても飢えない酒の生産を制限したのを邪推
された、と解釈しているのだがこれでいいのか?
>>酒の害を理由に禁令を出すならなぜ女で国を滅ぼすからと結婚を禁じないのか
簡雍も似たようなことを言ってたよな
劉備が酒の製造を国営にしようとしたら、
酒好きの簡雍に止められたとか。
簡雍の言い分の方が面白いけどな。あんまりお上品とはいえないが…
>>560 そのエピソードだけで簡擁の人柄がわかるね
簡雍の冗談が解る劉備でよかった
董卓辺りだったら本当に実行してそうだもんな>男女処刑
何かに元ネタありそうだね>酒とセックス
そう考えると簡雍はけっこうな教養人だったのかも。
酒色というくらいだから、常識だったんじゃないのか?
溺れるってことであ常識だろうが
それを皮肉にして諌める形式の事を言ってるんだ
オレが思うに
簡擁たんは酒好きで禁酒されるのがキツかったんで
もっともらしい事を言ったんじゃないかな とか適当に逝ってみる
実際はどんな人物だったか分からないけどね
目上の人なんかにでもあまり遠慮とかしなかったみたいだね
zatudansure
とりあえずスレタイは完全崩壊してるので
演義話・無双話でもOKだよね?
無双話はダメ。
572 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/19 17:11
質問が全然来ないのもまた結構なことではないですか。
漏れは演義しは読んだことないのですが
正史の黄忠って、演義のよりも年齢がかなり若いってのはほんとなのでしょうか
>>483当たりの質問でも答えられてるけど、
特に年齢を断定できる要素は無い。
ただ関羽が、自分と黄忠が同列に扱われたときに黄忠のことを「老兵」と呼んでる。
成るほど、有り難う御座いました
質問が全然来ないようなので質問。
張遼の祖先として聶壱が紹介されているが、
聶を張と改姓したのは張遼の時と読むべきなんだろうか。
それとも張遼の祖先の時なのか。。。
でも張遼の兄は張姓で表記されてたから・・・
個人的に張遼が改姓したんだと思います
聶壱は前漢武帝の時代の人物。
匈奴の単于を甘言でだまして匈奴軍をおびき出そうとしたけど
単于が漢の伏兵に気づいてあわてて撤退したそうな。
『漢書』韓安国伝に載ってます。
張遼の出身地の雁門郡を含めた并州は、漢末の動乱でグチャグチャになって
建安20年に新興郡が建てられるまで、ほぼ匈奴に荒らされ放題だったみたいです。
(高幹が支配してたのは太原郡と上党郡くらい。雁門郡はもっと北です)
聶壱の事跡から言って匈奴に恨まれてるんだろうけど
先祖の代までは漢の領内にいれば安全だったのでは。
張遼の時代に匈奴がガンガン侵入して来て、
匈奴に恨まれそうなご先祖様を持ってる張遼があわてて改姓したってのが妥当かと
>>577さんに便乗して
三国志に関する質問というより古代中国の習俗的な質問になってしまうけど
史書に名前が残るほどの祖先を持った人が改姓するのは
困難な事ではないんでしょうか?
張遼の場合は姓を賜ったとか言った場合の改姓でもなさそうですし。
580 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/20 18:12
蜀が魏に帰順した際、呉は蜀に兵を派遣してるけど霍弋や羅憲に阻止されたと言う記述に関してなんですが、この時蜀の旧地を寸土も奪えなかったのでしょうか?
またこの時魏に降伏するのを良しとせず徹底抗戦の意向で呉に帰順した人はいないのでしょうか?
わかる人、ご教授ください。
>>580 呉蜀の国境である永安を羅憲が守っていて、呉はそこに派兵するも結局勝利できず、
蜀の領土を寸土も奪えていないはず。
あと、霍弋は南中にいただけで、呉とは戦ってない。
晋の時代になってから、交趾(今のハノイ)、九真、日南(今のダナン辺りか?)まで遠征に行き、
それら三郡を平定したけどね。
>>581 お早いお答えありがとうございます。
霍弋の件は勘違いでしたか。
あとちょっと地理に疎くて永安・巴東以東にも蜀の領地があったと思っていましたが、夷陵後はそこが対呉の最前線になってたのですね。
今更ながら蜀はかなり厳しい状況だったことを思い知りました。国土的に。
>>579 詳しくはわからんけど、改姓の話はけっこうよく出てくるよね。
先祖がどうであれ名家として土着してない限りは改姓しても支障はなかったんじゃない?
>>578 『史記』にもあるよね。
俺は『史記』を読む方が先だったから、「張遼伝」を読んで驚いたよ。
>>579 危難を避けるための改姓は珍しくもないよ。
耿→簡雍 氏→是儀 棘→棗祗
長生→関羽 ??→寥化
チョイ質問、
近所の図書館は演義しかおいてないので曹操の子供たち(何アンや曹真含む)の詳しい
資料がないの。昴、丕、彰、植、熊、仲以外の兄弟の話がワカラン。
特に曹丕を父親だと思っていた末の男子、誰か教えて!
>>587 曹丕のことを親だと思っていたのは曹幹のことだね。
魏志曹幹伝に引く魏略によれば
曹操が死ぬときに曹丕に対して「この子は三歳で母を失い五歳で父を失う。だからお前に頼んだよ」って遺言。
以降曹丕は幹を可愛がり、他の弟より重んじた。幹は幼かったので曹丕の事をいつも「阿翁」と呼んだ。
曹丕は「私は君の兄なんだよ」と言った。曹丕は幹を哀れんでこのようなことが有るたびに涙を流した。
ってあるね。他の弟については面倒だから省略。
もし根気が有るようなら漢和辞典を右手に↓
http://www.sinica.edu.tw/ftms-bin/ftmsw3の二十五史→三国志→魏書→巻二十で原文に当たれるよ
>>588 正史を読んで大幅に下がった曹丕の評価がおまいのおかげで
ちょと上がった。
まだその部分は読んでなかったしね。。。
曹幹のその後はどうなったんだろ?
年齢からして、天寿を全うすれば晋の時代まで生きれそうだし。
曹丕はホントよくわからない人だよね。
自分の奥さんを見せびらかしたり。
594 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/21 12:05
羅貫中って天才だね。
これらをこのようなエンターテイメントにまとめあげた
説三分は無視ですか?
語り物と小説の違いを分かってない御仁がいるようだ
>>595 594でも596でもありませんが、何ですかそれ?教えて下さい。
民間の講談のことじゃない?>説三分
596=正史厨の見本
ここの人が「正史厨」という時どうやら悔しさがいっぱいのようだ
ここは優しく教えてあげるスレだから
違うと思うのなら教えてあげたらいいのに。
もともと質問スレだから悔しいとかの問題じゃない
まあすぐに○○厨というのもどうかと思うけどね
>>597 「説三分」とは『三国志演義』の元ネタとされる民間の講談。
陳寿の『三国志』から『演義』というエンターテイメントに至る過程には語り物の存在があり、
羅貫中という一人の創作者にその功績のすべてを帰すのは誤りである、と
>>595は言いたいのだろう。
ゲーテの『ファウスト』なんかでもそうだが、民俗学をかじると天才にケチをつけたくなるものらしい。
>>603 お答えいただきありがとうございます。
書き込んでから「あ、しまった!」と思ったのですが、質問する前に自分で調べるべきでしたね。
聞いた事もない言葉だったのでつい面倒くさがってしまいました。今度から気を付けます。
張飛を主人公にした「三国平話」なんてのもなかった?
正史を読んでて孫盛の註が非常にうざく感じるのだが。。。
あの腐れ儒者はどうにかならんのかと。。。
暴れん坊張飛主人公で、孔明が道士みたいなやつだっけ?
小学校の図書館にあったのを読んだ希ガス
それには同意。
特に人物に対する評価はなんつーか歴史家の評価じゃないな。
まさしく腐れ儒者って感じだ。
そんなあなたは、ぜひ『資治通鑑』を読んでみよう。
三国時代の人物の細かい言動について
よくもまーここまで、というくらいグダグダグダグダと論賛をつけてます。
昔の人はヒマだったのだろう。
司馬光は新法と旧法の争いで干されてた時期があるからな
612 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/22 23:10
大将軍と大司馬の違いを教えてくれ
ヨウ素液につけると紫色に変わるのが大司馬
大司馬ってのは文官のトップの一人で大将軍ってのが武官のトップじゃなかったっけ?
どっちも軍官で三公の上。魏では東方で呉に当ったのが大司馬、西方で蜀に当ったのが
大将軍という分担だったみたいだね。(曹植伝)
曹真は大将軍から大司馬に昇進しているから、大司馬のほうが上なのかな。
私の記憶が確かならば…
大司馬は漢武帝期に新設で、当時、大将軍であった衛青と驃騎将軍の霍去病が同時に与えられた。
この事からも大司馬の方が格上と思われる
なんつーか、霍去病を衛青と同等に取り立てたいがために設置されたぽい
大司馬って三公の一人と違うの?
司馬=大司馬=太尉じゃなかったっけ?
正史には、各国の戦力みたいなのって記述あるの?あるなら220年辺りではどんぐらいはなれてたんですかね?携帯からでスマソ
620 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/23 07:04
>618
正史じゃないが・・・。
魏・・・州 12州 人口4,432,891人 常備軍・・・60万以上 官吏・・・2万人以上。
呉・・・州 4州 人口2,300,000人 常備軍・・・23万 官吏・・・3万2千人。
蜀・・・州 1州 人口 940,000人 常備軍・・・10万4千 官吏・・・4万
※荊・揚は魏・呉両者とも領有。
もっとも強大な魏の官吏が一番少ない。領域の広さが行政効率を上げてんだろうな。
蜀の場合、1州しか領域がないのに、国・州両方の官を置かなきゃならんと言う矛盾からか官吏が異様に多い。
後漢では700万人弱の人口があった益州が、
100万人きってんだもんなー。
戸籍把握人口の減少=国力の減少に直結でしょ?
ありがとうございました。やっぱ三国っつってもかなり開きはあったんだな〜。人材面にしかり
>>620 その数字の出所は分かるんだが、それぞれの調査年がバラバラだから同列においての
比較はいかがなものかなあ。
あと魏の官吏は中央政府のみの数だと思う。
>>620 >>623に続いて言わせてもらうと、常備軍というのもおかしい。
あくまでも最大動員力に過ぎないし、数字上の兵力。
「帯甲将士」って表現だったかな。
人口の一割が常備軍だったら国が破綻する。
たとえ魏であっても特別有利でない限り20万以上の兵を出すことは稀だし、
30万以上の遠征軍なんか出したら国家の経済が破綻する。
>>626 そもそも蜀を攻めるにしろ呉を攻めるにしろ、20万もの兵は必要ない。
628 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/23 13:59
「将軍」とよばれたのは、○○将軍の官職を戴いていた人物だけですか?
尉や督などの武官は「将軍」とは呼ばれなかったのでしょうか?
また、曹仁配下時代の牛金のような将軍位に無かった武官は、なんと呼ばれていたんですか?
>>627 「必要ない」とまではいえないと思うよ。
蜀を征伐する場合、問題は兵力よりは兵站の維持。
険阻な地形を楯に防衛された場合、攻勢側は主要な侵攻路がほぼ限定されるため、
継続的な兵力投入を求められる。
逆に呉は東西に防衛線が長いため、その弱点を衝いて複数の侵攻口へ同時攻勢を
しかけるのが望ましく、そのためには大兵力を必要とする。
280年の侵攻は豊富な資源と兵力を用いて成功したし、逆に272年の歩闡の叛乱では
戦域がほぼ荊州南郡に限定されたため戦果をあげられなかったとみるべき。
>>628 >「将軍」とよばれたのは、○○将軍の官職を戴いていた人物だけですか?
そう。
>尉や督などの武官は「将軍」とは呼ばれなかったのでしょうか?
校尉であれば、「姓+校尉」でよいし、都督であれば「姓+督」で問題ない。
督であって将軍位を兼任している場合、より格上の官職が優先されると思う。
>また、曹仁配下時代の牛金のような将軍位に無かった武官は、なんと呼ばれて
>いたんですか
将軍の属官には司馬や軍監・参軍、それに編成上、○督、牙門将、それに部曲を
束ねる将などがいるので、おのおの「姓+官名」で呼ばれる。
>>629 蜀にはたとえ数十万の兵を差し向けても漢中でごった煮状態になるだけ。
呉については、280年の大侵攻はありえねーっス。
あれはだって、もし失敗したら国家財政破綻してたでしょ。
>>631 それは曹真の興勢の戦役などがそうであって、鍾会の侵攻計画を忘れてない?
鍾会は子午道と陰平・武都の三方へ侵攻軍を派遣していて、これは分進合撃の戦略。
曹真は単調に侵攻路を一本にしたため、漢中盆地で赤坂・興勢らの諸囲に阻まれて
手詰まりをおこしたんだから。
280年の大侵攻は危険性もあったけど、北方の脅威もいちおうは払拭した時期で、
呉も郭馬の叛乱がおきていたりで、時期をみても妥当ではあったと思うよ。
>>632 興勢の役は曹爽だろう。曹真も侵攻路は一本だったけどね。
分進合撃を立案したのは鍾会だけだし、ケ艾の尽力があったにせよ、
それを成功させたのはやはり凄いな。
>>633 >興勢の役は曹爽だろう
ああすまない。仰るとおりだ。
人口や兵士数だけが全てか。
食糧生産力に全く触れないのはわざとか?
>>635 じゃあ…魏でいうと、文帝〜明帝の治世期などには、住民の移殖とそれにともなう
租税の免除、渠の新設など、多くの生産力向上と食料確保に力を注いでるよ。
ケ艾の「済河論」は伊達じゃないし、淮北から洛陽にいたる中原には魏の屯営と
邸閣が満ちていたともいう。
四川盆地と同等の範囲から挙がる租税を数年も免除しておいて蜀の北伐にも
抗しえる魏の底力は端倪すべからざるってとこじゃない?
屯田の収入ってちゃんと魏の国庫に収まってたの?
魏晋南北朝通史とかにはだいぶ横領されていたみたいに書いてあるけど
ちなみに袁紹、袁術の最大時の頃の戦力はどれくらい?
袁術は最大時じゃなくて皇帝を自称した頃の戦力でもいいや
あーでも敗者だからそんな詳しいデータとか存在しないのかな
639 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/24 21:02
中国文学科教員 問題言動集(1)
N.S教授・・・・・授業中に、
「人間は働かなくても生きていける」
「(自分のことを棚にあげて)中国語学科の学生は
常識が無さ過ぎる」
「一般教養など必要ない」
「セクハラというものはその行為を行う本人に
悪意が無ければセクハラには当たらない」
「大学教授は世間を知らなくて当然だ」
etc迷言多数
H.T教授・・・・・授業中に当時の総理大臣の暴言を擁護した。
数年前まで、
「中国のことなんか本だけ読んでいれば全部分かる。
だからわざわざ中国まで行く必要などない」
と豪語していたはずなのに、
大学の仕事で実際に中国に行った途端に、
「本に書かれている中国と実際の中国は全く違う。
だから皆もできるだけ早いうちに実際の中国を
観ておいたほうがいい」
と主張を180度転換させた。
試験を受けなかった学生に「B」評価を与えた。
640 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/24 21:13
中国文学科教員 問題言動集(2)
W.Y助教授・・・・同じく授業中に、
「第123代天皇は精神異常者」
「N.K(D大名誉教授)、F.N(T大教授)、
H.I(N大教授)、I.S(作家・都知事)、
K.Y(妄想漫画家)は人間の屑」
Y.Y助教授・・・・退学願を提出した学生に、
「私の言う通りに行動すれば、君の主張が
通るように私が裏で話をつけておいてあげよう」
という内容の取引を持ち掛けた。
以上のように、中国文学科はキ○ガイ教員の巣窟です。
これから大○文化に入学・編入を考えている皆さんは、
中国文学科にだけは絶対に出願をしないようにして下さい。
>>639 またそのコピペかよ…
中文の学生ってほんっと質が低いな
孫策の子供って誰がいるのか教えて欲しいんですが。
>>642 陸遜の妻は孫策の娘だと聞いた事があります。
>>642 孫紹。地味。
その子供(つまり孫策の孫)の孫奉は立派な人物だったらしいが、
孫晧にあらぬ嫌疑をかけられて殺されてしまいましたとさ。
646 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/24 22:21
今、陳瞬臣の諸葛孔明読んでるんだけど、
これは正史と演技どっちに近いの?
ありがとうございます、名前がわかったんで調べました
1男3女だったんですね、
嫁いだ先が陸遜 朱紀 顧邵 ってもろ政略結婚やね
650 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/26 10:50
>>632 それ以前に呉の内部はもうボロボロだったから、官民一体国全体挙げての組織的抵抗はないと見ていたのでは。
妄想というか
>>646 中学の頃に読んだが、自分には合わなかった。もう一回言うよ、自分にはね。
確か諸葛亮の妹の名前が「諸葛鈴」で、あろうことか○○の妻になる設定だったような。
ところで正史には諸葛亮の妹については名前なり、誰に嫁いだなり、記録はあるんですか?
コ公子山民,亦有令名,娶諸葛孔明小[女弟]←こんな字
鈴という名前は記録に無いので勝手につけたと、どこかに書いていた
>>654 早速のお答えありがとうございます。上の文には嫁いだ人物の名も書かれているんでしょうか?
「玄徳の公子の『山民』が娶った」と読めばいいんですか?すみませんバカなもんで。
>>655 >>654は、「ホウ徳公の子の山民、また令名あり、諸葛孔明の小姉を娶った。」
徳公と山民は名前。
小説なんだから創作、脚色する分には面白くなるなら一向に構わない。
だけど大抵の三国志の創作物は「三国志演義」のさらなる二次創作でしか
ないケースが多く、世界観、人物の性格付けも演義と同じものばっかりだ。
例えるなら司馬遼太郎の「燃えよ剣」の人物像を元に新撰組の小説を書くような
ものか。(こういうケースって結構あると思う)
蒼天航路なんかは正史からエピソードをいくつか拾ってきてはいるけど、
中身は演義の世界観をかなり使っている気がするな。
陳瞬臣の作品は演義色が少なく「陳瞬臣の」創作っていう感じがする。
日本の三国志は吉川英治が完成させた感がある。
と思うのは俺だけ?
>>658 いや、君だけじゃない。
読み継がれるに足る三国志を完成させたのが吉川英治、という気さえする。
>1939:吉川英治「三国志」
>1959:中華書局「三国志」
>1968:柴田錬三郎「柴錬三国志」
>1974:陳舜臣「秘本三国志」
>1977:筑摩書房「三国志」
>1987:三好徹「興亡三国志」
>1997:北方謙三「三国志」
>2001:宮城谷昌光「三国志」
誤三国志は?
>>657 いーじゃん。何に準拠してようが
どっちにしろオハナシなんだから。
演義のイメージに沿っといたほうが受け入れられやすいのは確かだし
ぶっちゃけ「正史準拠」で面白い小説を読んだことがない
「演義の誤ったイメージを払拭する」ってだけで自己満足してる希ガス
どだい、羅貫中を超えるエンターテイメントを一から再構築できるわけないんだよw
おれは
>>657に納得する部分は多いな。
特に二次創作ってくだりが。
でも吉川三国志だけは別格だと俺も思う。
なにしろ演義より吉川のが面白いしな
吉川のほうが日本人向けだからな。
そういう問題でもないと思うが…
吉川は歴史小説より、演義は講談よりという気がする。
もちろん孔明死後があるのは嬉しいけどさ。
同じ演義の二次創作でも初めて日本で二次創作を出したというのと、その後も二次創作から抜け出せないというのは意味が違うと思う。
陳瞬臣の秘本三国志はオリジナルの三国志小説といっていいものでオリジナルだけに評価は分かれると思う。私は曹操に負けず劣らない
野心家な劉備がとっても(・∀・)イイ!ので気にいってますが五斗米道がやたらクローズアップされてることを嫌がる人はいそう。
俺は演義準拠で面白いと感じた小説はひとつもなかった。
横山三国志の後で正史に直行したせいもあるんだろうけど。
んなもんだから、
>>657にはけっこう同意できる。
>>671 吉川版を読んだのって近年になってからなんよ。
出版当時の時代背景とか三国志の知名度や研究の程度なんかを念頭において
読むと、あぁ、良くできてるなー、って納得できる部分が多いというか、読み手を
引き込む書き方されてるな、って素直に評価できたよ。
ただしあくまでも読んだのが近年だったから、理屈ぬきに楽しめたか、といえば
そうでもなかった。
もっと昔に出会えてればよかったんだろうね。
近年だろうが何だろうが普通に一大傑作だけどな
まあ、歴史好きか小説好きかで評価は分かれるところだろう
吉川は歴史小説家というより上質な大衆小説家という気がする。
選んでいる対象が歴史物だから歴史小説家ということになるのだろう。
吉川英治文学賞はどういう基準で選んでるか知らないけど
大概の受賞作は読んで物語が面白いという点で名を冠している点で
合致しているように思う。
>>674 上質すぎて「大衆」と冠するのに気が引けるほどだ。
作家の立場としてはディケンズやデュマに近いと思う。
吉川は確かに偉大な小説家だが、
スレ違いの悪寒だ。
確かに三国志も宮本武蔵も面白いがな。
俺は海音寺氏が好きだったんだがあの人
三国志の正史の紹介を書く前に亡くなってるんだよね・・・
残念。
そういえば孔明ってよく
管仲、簫何と同じくらい政治に優れてたって表現されるけど
やっぱすごい?軍事のはなしはべつとして。
孔明自身が管仲、簫何に自分を例えていた
管仲っていうよりどっちかっていうと元々は簫何タイプ?
>>677 海音寺潮五郎であれば、『中国英傑伝‐上・下』を薦める。
秦末〜漢と春秋〜戦国初期を、かなりわかりやすく、そして面白く書いた良書。
>>678 比していたのは管仲と楽毅じゃない?
>>679 あ、そうだったかも
ただ、孔明を評価するのに管仲とも楽毅とも比べる対象が違うように思った
681 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/28 16:47
混乱しているようだが
「管仲と楽毅」というのは、諸葛亮自身が目標とする人物として記録に残っている人名で、
「管仲と蕭何」というのは、後に陳寿が諸葛亮の内治手腕を褒め称える際に引用してきた人名。
ageてしまった、スマソ
>>630 その辺りの記述はどこに記されているのでしょうか?
三国時代付近の文献に残っているのでしょうか?
出土文物からの情報でしょうか?
情報をお持ちでしたら、出典もお教えいただけるとありがたいです。
よろしくお願いします。
>>683 スレタイに沿った適切な質問だな。
つーか、ソースもろくに示さずに、うろ覚えの正史知識をひけらかし合うだけの連中に一言言ってやってくれ
「言ってやってくれ」って、他人任せだな、ヲイ。
大変遅くなってしまいましたが
>>656さん、お答えいただきありがとうございました。
正史で甘寧が劉ショウに敗れたとの記述があるという話を耳にしたのですが、
その戦いの詳しい状況等教えて頂けないでしょうか。
>>679 実は読んでたりします。
孔明って杜甫が蜀相を読むくらい魅力あるから
演技なんかでなかったからかなり好きになってる人が多いと思う。
ところで幾度にもよる北伐を支えた力はやっぱ孔明の功績かな・・・?
>>687 『蜀書』の「劉二牧伝」に注として引かれた『英雄記』の記述に劉璋が劉焉の後を継いだとき反逆したが勝利を得られず荊州に逃走したとある。
この時の反逆は甘寧が単独あるいは首魁となってのものではなく他の反逆に呼応してのもの。
戦闘などの詳細については不明。
あと微妙に違う記述ではあるが『呉書』の「甘寧伝」の注にも以前蜀郡の丞であったがやがて官を捨てて故郷に戻った旨記されている。
甘寧よりの見方をすれば劉璋率いる軍勢に敗れたわけではなく途中で利あらずと見てとっとと逃げ出したというところかな?
>>689 のちの呉将の李異も確か反乱に参加していた様な気ガス。
甘寧持論の蜀攻略もここら辺から来てるんだろうね。
>>689-690 回答ありがとうございます。なるほど、そういう事でしたか。
甘寧結構好きなんで、劉璋ごとき(失礼)に敗れていたらちょっとショボーンだったんですが
納得できました。
692 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/30 13:01
司徒、司空、大尉と役職がありましたが具体的にどういった役割なのでしょうか?
スレ違いかな(´Д`;)
>150
最初は劉備の遺言のように、不才ならば君自ら取る可しって書いたのを
諸葛丞相の如くせよ、と書き改めたんじゃなかったっけな。
>>692 大尉 軍事
司徒 内政
司空 土木
違ったらすまん
696 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/30 15:28
>>692 司徒は民政、教化を掌し、司空は土木を掌し、大尉は軍事を掌します。三国志の頃には有名無実化していたそうですが
>>692 三公については、職掌はおのおの、
太尉 軍政
司徒 民政
司空 土木
が主なところで、序列も上ほどやや高い感じ。
それと、よく誤解・誤記されやすいのだけど、”大”尉ではなく、”太”尉が正しい。
それから、三国志の時代でいうと、曹操によって従来の三公制が廃され、
丞相
御史大夫
の丞相制が復活しています。
これは三公制が三権分立であるとすれば、より丞相に権限が集中されたかたち。
御史大夫の職掌は基本的には民政となってもいるけど、曹操の場合、ほぼ三公の
職掌の過半を掌握していたともみれる。
いうまでもなく、皇帝にとって都合がいいのは、己が傀儡化しやすい丞相制よりも、
三者が掣肘しあえる三公制の方になる。
長くなってもうしわけないけど、極々簡単に纏めるとこんな感じかと。
おまいら、正史を読んでて思ったんだが・・・
役職と爵位はわかる。
だが、将軍の扱いはどうしたらいいんだ・・・
称号とどっかに書いてあった気がするのだが・・・
八巻見ろよ
将軍位は役職とかじゃなくって
ハク付けるためのオプションみたいなのと思ってたけど違うの?
雑号将軍はな
>>701 いや、その通りだよ
ただ、将軍位で秩禄が決まるからハク付けってわけでもない
要するに「官位」と「役職」の違いですな
現代日本の武官でもそうでしょ?
ある武官が「一佐」と「北部方面軍第2師団長」って二つの肩書き持ってたら
「一佐」が官位で、給料や軍内での普遍的な階級が決まり
「北部方面軍第2師団長」は役職で、実際の仕事の内容を決める
「安東将軍」「都督予州諸軍事」って二つ肩書きある武将も同じことです
>>701 将軍号と将軍位の違いを言ってるのかな?
「位」は一品・二品……というように秩禄が決まるから、
>>703の言うことで
間違いないよ。
「号」といのは、それまでは戦時において臨時で任命されていたところが、
動乱期は必然的に戦争の頻度があがるうえ将軍級の人材も増えてきて、
必然的に将軍号の不足が生じてくる。
そのため定員数一名であるために対応できなくなり、盪魏とか安漢とか殄呉
などとというように三国のいずれかにしか存在しないようなある種の独創性を
もった、あきらかに箔や印象の高い将軍号を設けていくというわけ。
ただし、雑号・偏・卑といった将軍は定員数に制限がないけど、これは最も
下位の将軍号ということ。
将軍号というのは役職のことで将軍位っていのは官位のことですか?
将軍号=役職
将軍位=役職にプラスされる肩書き???
>>705 んー、そういうわけでもない
分かりにくいんで実例挙げてみよっか
204年、夏侯惇は「建武将軍」であり「河南尹」でした。
彼の「役職」はというと河南尹です。
日々、郡長官として税収報告にハンコ押したりしてたんです。
「建武将軍」として日々の仕事があるわけじゃありません
ところが、この年曹操は河北征伐に出陣して
夏侯惇も一軍を率いて従軍してます。
「建武将軍」って師団長クラスの「官位」を持ってますから
例えばいきなり5000の兵を預けられても問題なく指揮出来るんです
配下の中隊長や大隊長達は武官としての官位の高い彼に逆らえない。
この時だけは夏侯惇は「建武将軍」になって戦うわけです。
武秩が分かりにくいのは、決まった組織編制がなくて
軍役のたびに組織されるからかも。
上の夏侯惇みたいに、将軍のくせに軍役のない時は行政官してる例もあるし。
武官の仕事は軍事と治安維持で軍隊と警察の任務を兼任していたからな。
戦国の世なら武官のウェイトが重くなって文官の仕事も兼任してもおかしくない。
郡内で大規模反乱が起きたら速やかに鎮圧せねばならないが、
軍事に暗いものが知事だったら対応が遅くなって取り返しがつかなくなるかもしれん。
>>684 はじめてこのスレに来たが・・・・・・同意。
>正史を読んでない人が、正史を読解しちゃんと理解した人に質問し
>正史を読み解いた知者の知恵を借りるスレッドです。
って全然違うぢゃんw
知者を自任して答えてるならその根拠となる記述を書こうよ。
>>689とか素敵。
いくら詳しく書いてあっても、根拠がない
>>630とかは全然信頼できない。
姓+校尉・姓+将軍の用例なら三国志内にもあるけど、督とかもそうなんかね
>>709 >いくら詳しく書いてあっても、根拠がない
>>630とかは全然信頼できない。
その根拠が正しいものかどうかはどうやって判断するんだろうな。自分で調べるの?
まあ
>>689みたいに出典書いておけばそれで問題無しだけど。
だから出典書けってことだべ?
いや、そうじゃなくて・・・。
出典示すことに意味あるのかなぁ・・・ってさ。
そりゃあるだろ。
なんか、訊くだけのやつや文句いうだけのやつもいるんだけど……
学術板じゃないから出典まで明記する義務は感じないなぁ。
ただ明記してあると何かと便利ではないかと思う。
ケチつけもガードできるw
そうかねえ。「正史読者に質問」がスレのコンセプトなんだから、できる限り出典を明示するのが
親切だと思うけどねえ。
まあそうだけど、まさしく
>>716の言うとおり義務は無いわけで。
出典書いてないからってケチをつけるのもおかしいわけで。
ケチをつけるなら内容にケチつけろということで。
あと質問するからにはお礼くらいはしたらどうかと。これも義務ではなくマナーの問題だけど。
別に礼はされてもされなくてもいいよ。
こっちだって気まぐれに近い気分で答えてるだろ。
ただ礼をされると、玄人さんのスレ離れが防げるかと思うが。
質問するだけして、消えていく輩には
「所詮アホだし仕方ないか」と思うだけ。
一応、出典は姓+将軍=『曰:「張将軍,国家名将〜』
姓+校尉=『曰:「夷狄不識文字,故校尉閻柔保我於天子.我與素利為・,往年攻撃之,而田校尉助素利〜』
それをいうなら張郃伝・鮮卑伝からの引用である事を明示しなきゃ。
ゴメソ
騒ぎの元凶の684だが…
全ていちいち出典を書けって言いたかったわけじゃないよ。
ただあまりに主観的評価オンリーの発言が多すぎたからさ。
このスレで誰それは残忍だとか主張するなら、
せめて正史からソースと具体的事績をあげたらどうだ?と
でなきゃ、いくら自分が正史知ってて発言してるつもりでも
傍から見て、横山三国志読んだだけの知ったかぶりと同レベルにしか見えないぞ、と
呼称に関しての話題が挙がってるようなので、お呼びじゃないかもしれないけど……
まず、『礼記』‐「曲礼」の中に
「男子二十冠而字 父前子名 君前臣名 女子許嫁 笄而字」
とあるように、男は二十歳で加冠を迎えて成人し、そこで字をもち、父や主君の前で
は名を用い、他では字を用いるのが一般的で、女は結婚すると笄を用いて字をもつ、
という仕来りになってます。
ちなみに女は十五歳で成人し、命名に際しては国名・日月干支名・人目に触れない傷や
病名・山川名などは用いるな、というのが一般的ですが、命名に際しての仕来りは時代
が下るにつれてあまり守られなくなっていますし、皇帝の名なども避諱の慣習から、
用いれないようになってます。
『三国志』でいうと、有名どころでは、「呉書」を編纂した韋昭の名が司馬昭に遠慮して
韋曜になってたり、西漢の文帝の名が「恒」であるため「恒山」から「常山」へと地名が
変わったり、西漢の武帝の名が「徹」である事から、「徹侯」から「列侯」へと名称が変更
されたり、というアレです。
長くてすいません。分けますた。
また、字といっても安易に口にするのは礼に背き、「司馬朗伝」でも、
「九歳 人有道其父字者 朗曰「慢人親者 不敬其親者也」 客謝之」
と、僅か九歳の司馬朗に、父・司馬防の字を口にした客が嗜められて謝っている様に、
それなりの名声や地位にある人間に対しては、憚る事が通例のようです。
たとえば、劉備の「劉豫州」や「左将軍」、曹操の「丞相」という呼称が有名な様に、主君
の名を口にせず、主君に対しては「臣○」というように名で答えるようになっていますが、
これは多くの上表文などから伺い知れると思われます。
三国志の時代に限らず、「贊拜不名」「入朝不趨」「剣履上殿」という様に、君主に対して
名乗らずに済む事が特権とされている様に、中国では名を口にする事が如何に忌まれ
ていたかがわかると思います。
いちおう出典・典拠なども載せましたが、詳しい方からの厳しいツッコミは覚悟してます。
かなり大まかでしょうが、長くてすいませんでした。
>中国では名を口にする事が如何に忌まれ
>ていたかがわかると思います。
「当時の」、ですね。
後、唐代には
孟浩然、字も浩然 とか
李白、字は太白 とか
三国志の時代にはいみ名と同様の意味をもつ文字を用いたり、長幼をあらわしたり
が多いですよね。しかし、唐代のこの詩人のあざなでは、
「名前を口にすることを」を回避できなくなっています。
つまり、唐代にはこの「禁忌」とそれに伴う風習の意味が、変わってきています。
>>726 ああ……すいません。
誤解をあたえる書き方になってました。つっこんでいただき感謝します。
常林伝の冒頭と合わせて考えると子どもの前でその父の字を口にするのは無礼に当たるようだけど
>名声や地位にある人間に対しては、憚る
とまで言えるんだろうか?
>>728 あー。
>>725の「名声や地位にある人〜」の一文は、
高島俊男『三国志縦横談』に文章そのまんま載ってるよ
生かじりの知識と思われ
>>729 >高島俊男『三国志縦横談』
初めて見たんですが。
煽り半分のレスではなくて、それなりに根拠でも示していただけた方が
こういったスレである以上、有意義だと思いますよ。
粗を探して叩くスレじゃないでしょ?
関羽が文ペイに負けたから戦術レベルでも大した事がないという評価を聞いたんですが
それは、どういう戦い(どちらが攻撃側?)で、どの位の被害(利なしとみて引いたか
壊滅的打撃を受けたか)であったんでしょうか?
関羽の軍事能力の低さの例であるなら、多数で少数に野戦でボロ負けくらいしたのかとも
思いますが、事実はいかがなものでしょうか?
仮に、小規模の軍で手薄だと予想したところをついてみたら、文ペイが意外に手ごわくて
引いたという事なら、プラスを取れないだけでマイナス評価に繋がらない内容だと思うの
で教えてください。
文聘伝の記述によると、
1.楽進とともに尋口で関羽を討ち、戦功により延寿亭侯に進められ、討逆将軍を加えられた。
2.関羽の輜重を漢津で攻撃した。
3.関羽の船を荊城で焼いた。
とある。2.3.はともかく、1.は封侯・官位の沙汰があったということはそれなりの勝利なのだ
ろうけれど詳細は不明。楽進伝に「関羽・蘇非らを攻めて敗走させた」とあるのがそれでしょう。
ちなみに関羽伝には文聘との交戦の記録はなし。武帝紀・先主伝もざっと見たけどやっぱりないね。
楽進とともに、ってことは関羽の北上とは関係ないのか・・・。
いつ頃の話なんだろう?
>>732 ありがとうございます。正面きって戦ってボロ負けしたような感じというよりは、
迎撃に成功したって感じですかね。
趙雲別伝って誰が書いたものなんでしょうか?
どこまで信用できるものなんでしょうか?
趙雲別伝が信用できないというのはどこのウンコが言い出したことなんですか?
>>736 記録の信憑性を疑うのは当然だと思うが
>>734はどの程度の信憑性があるのかを問うてるのだし。
人
(__) ウンコはなんにも言わないけれど
(__)
(,,・∀・) ウンコのきもちはよくわかる
( O┬O
◎-ヽJ┴◎
>>738 いや、
>>734にケチつけたわけじゃないのだ。
なぜ趙雲別伝だけが「信憑性に欠ける」とよく言われるのかなと思って。
諸葛亮は戦争下手、性名字は連記しない、などと並んで正史の常識扱いされてる気がする。
単に内容が微妙にアレだからじゃないの?
英雄記なんかよりはずっとマシだろうけど
もっと信用の薄い文献なんて他にもあるけどね
「信憑性に欠ける」からこそ正史から外されたんでしょ?
本当だったら喜んで入れると思うがな・・・蜀書は只でさえ資料が少ないのに。
>>735 作者は不明。書かれた時期も不明。
陳寿の時代になかったのか、それとも彼の判断でスルーしたのかも不明。
信頼度に関しては、この文献を引っ張り出した裴松之も言及せず。
そもそも、どの書物が信用できるかなんてなぜ分かるん?
裴注に引いてる書物のほとんどは散逸してるし
分かっても著者と巻数くらい。
裴松之がデタラメ扱いしてる文献を信用できんというならわかるんだけどね。
趙雲別伝の場合、「正史の趙雲は凄くない、演義の創作」という気持ちが先にあって、
後付けとして別伝の信憑性を問うているんじゃないかという気がする。
>>745 裴松之が批判している物や
他の本と記事を比較して明らかな相違がある物は考慮の対象にはなるだろう。
譜叙みたいに身内が書いたものも注意する必要はあると思う。
>>746 いちおう全ての書物の信憑性を疑う擬古派ってのもあるけどね。
やっぱ内容だろ?陳寿の本文ではあれだけあっさりしてる
趙雲が、別伝では大活躍。多少の創作が入ってるんじゃないかと疑うのは当然。
>>742 推測に過ぎないが、話題に上がるだけ批判を受けるから何度も否定されてるように感じるだけな気もする。
おいらは文学畑なので、
書かれてる事から記録者の意図や記述に対する思い入れとその背景なんかが
掴み取れれば充分なわけで、事実かどうかは二の次に考えてしまう。
もちろん、歴史的に事実かどうかを大前提として考える文学研究者も多いだろう。
裴松之で言えば、彼は趙雲に並々ならぬ思い入れがあり
その思い入れを裴松之の中に作らせた当時の伝承なり記録なりがあるんだろうな、と。
ただ、注は注でしかないという前提もあります。
引用の頻度でいえば孫資別傳のほうが上だろう。
孫資のは書いたの子孫だね。信用度とかどう考える?
その家系の中では脈々と受け継がれている裏エピソードが
書かれている場合もあるかもしれないし、子孫が先祖を良く
見せるためにやや作り変えられたエピソードを載せてることも
あるかもしれない。
その文献をどの程度信用するかは個々人の自由だな、研究するんでもない限り。
ただ趙雲別伝に関しては、個人の判断以前に疑ってかからないとアホみたいな変な風潮がある。
だから内容がアレだからだろ・・・。
なんか盛り上がってきたな。
だが初心者は盛り下がってきたな。
内容がアレな文献は他にいくらでもあるんだよな。
趙雲別伝の「アレ」の内容を具体的に分析すると「演義そのまま」。
正史は演義と違ってなくちゃなくちゃならんのだろうか。
>>757 それはあるね。演義と比べようとする傾向は強い。
裴松之がケチつけるのは本伝との整合性が取れないものとか、
より信頼性の高い文献と内容が食い違っているものとか。
たとえば魏延伝に引く魏略と本文を比較して魏略を誤りとするのは理に適っている。
しかもこのウソっぽい挿話を注に引くことで魏延の複雑な立場がより解りやすくなる。
なんでその注があるかまで考えないと陳寿の本文が簡潔である理由が理解できない。
結局
>>683の問いには誰も答えてないのか・・・
俺も調べてるんだがワカンネ
とりあえず後漢書と三国志には「姓+督」はイネカッタ
関係ないけど「督〜諸軍事」とかに萌えるぜ。
>>724 直接関係ないけど、
呼称に関して
武帝紀に「征西将軍曹侯之墓」なんてのがあったっけ。
侯爵は「姓+侯」で呼ばれるんだな。
ちなみにちくまは間違って曹公になってたw
呼称っつーか、当時の会話資料自体えらく少ないからな。
正史や裴注の呼称は信用ならんよ。呉側の資料のはずなのに曹操を曹公と称してたりするから、実際の呼称からかなり改竄されてるはず。
本当に結論出したいんなら、魏晋の上奏文や文章を一通り検討した上での話でしょ
正史の一言一句を捕まえての議論は意味がない希ガス
>>762 なるほどー。
あと竹簡とかも役にたつのかね。兵卒レベルの名前とかたくさんあった希ガス
>>763 他にも、たとえば督漢中に任じられた魏延に対し、劉備は「卿」という呼称を
用いてる。
これはおそらく公式の場での呼称だと思うけど、君主といえど、高位高階の
臣を安易に姓名で呼んだりはしないということだろうね。
漢和辞典によると
【卿】
二人称の代名詞。@君が臣をよぶ。A同じ爵位の者、、または爵位の下の者をよぶ。
B夫婦間でたがいをよぶ「卿卿」C姓にそえる尊称。先生。「荀卿」
766 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/06 20:48
一尺を約22.5cmとか言ってる馬鹿がいるんだが、30cmだよな?
後漢から魏にかけての一尺は23〜24cmでしょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
周ユ(漢字でない)が
「なぜ天はこの世に私と言うものを生みながら
孔明のような者まで生まれさせたのだ」って言って死んだのは
演義の創作ですか?
正史の周瑜をみる限り、諸葛亮に嫉妬を抱くような
器の小さい人間には見えないな
772 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/06 22:50
同意。
まあ中国人だからなんかそれぽいことを言われても
日本人に比べると違和感はないな。
こんな奴見つけたんだが、正史三国志には出てきてないよな?
胡昭 162〜250
潁川郡出身。字は孔明。袁紹の招聘を拒否し、曹操の招聘には
応じたが国家無用の人物であると致仕を願って許され、
陸渾山中に居を構えた。孫狼が乱を起して一帯を劫掠したとき、
胡昭の徳を慕って陸渾は避けたという。のち宜陽に移住し、
正始年間にたびたび推挙されて250年に招聘されたが、
没した直後だった。隷書の名手とされる。
字が孔明なのがgood。
>>774 管寧伝の附伝としてだが立伝されているようだが。かなりの文量割いて
そうだったか、すまんね
正史に載っていない三国志のキャラを探すのは、そう容易じゃない。
まずネットじゃ見付からないし、見付かったとすれば「正史非登場」が明記されてるだろうな。
容易に関羽配下の周倉が見つかりますがなにか?
文脈から考えてもらえばわかるが、実在の人物の話
正史に載っていない、だと難しいが、三国志に載っていない、なら李儒タンがいるぜ
孟琰 建寧の人で、孟獲と同時期に蜀軍に捕まった。後に輔漢将軍となる。
>>774 「曹操が孔明を用いようとした」というネタは、こっちの孔明ではないかという話があったな。
783 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/07 06:45
>>779 横やりいれてすまんがちょっと待て、周倉が実在しないってことの根拠は?正史に出てこない、ってことだと思うんだが。
>>783 馬元義って当時流行らなくなって(王莽の禁以後)いた2字名だったのかな?
>>784 民間伝承のなかで作られていったキャラクター
正史に載ってないからだけではなく、
演義だとか民間伝承の研究からそう分かってる。
>>781 お、その人物を知ってる人がいて嬉しい。
北伐に従軍していたような記憶がある。
788 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/07 10:50
>>784 モデルになった人物はいたかもしれないし、もしかしたら実在した可能性も1.38%ぐらいは
あるが、現時点での研究者の共通認識は
>>786の言うとおり、ということだ
>>784 > 横やりいれてすまんがちょっと待て、周倉が実在しないってことの根拠は?
悪魔の証明。
>>777 実在を証明すると認定できる出典かどうか、を定義しないとな。
演義、平話は抜きとして、花関索伝なんかはどうなんだろう。
あれなんかも平話の類と見て出典にはなりえん気もするけど。
>>789 史書のたぐいでなければ無視していいんでない?
>>790 なるほど。三国志以外で史書で三国時代の人物か。って難しいな。
国家に関わるような人物は三国志に載ってるし、関わってないような人は史書にも載らぬし。
まあ、国家に関わってなくても載ってる人はいるけどな。
正史に直接関係ないんですが、正史読破した人の考え方で聞きたいことがあります。
法正って、結構諸葛亮とそりが合わないと思うんですけど、
もし諸葛亮死後まで生きてたら、扱いにくいから魏延みたいに策略で殺されてたでしょうか?
また、魏延が、諸葛亮生前に死んでたら、法正みたいに無難な記述がされてたでしょうか?
>>793 生きてる間も手に負えなかった、ってことですか?
劉備死後、だったら冷戦はありえますよね。
795 :
ワンダラーズフロムイース:04/08/07 12:06
>>791 新語とか華陽国志辺りから出てこないかな?
まあ出土史料を見れば食料番の小役人の名前が出てきたりもするけど。
>>796 「三国志正史に未掲載の人物 ○○ 食料番」
とか書かれたらそれはそれでおもろいけど、リアクションに困るな。
>>791 もともと「演義に出てて三国志正史に出てない人物」では?
演義にも正史にもいない人物語りだしたら
ハタから見てて全くつまんないマニアック自慢になるとオモ
士謙とか康僧会とか坊さん関係は正史には出てこないよな。たしか
>>799 イエス。
『高僧伝』と『真誥』は激しく狙い目
>>792 法正と諸葛亮はそりが合わなかったと思うが、
お互いにその才能を認め合ってたようなので、
張遼と李典の件みたいにうまく国事をこなせていたと思う。
>>801 そうか。正直スマンカッタ
だが
>>798で本当に言いたかったのは、
むしろ2行目以降なんだが、、、
まいいや。気にせず続けてくれ
資治通鑑とかには載ってないのか?
そういうのは
おもしろいか、おもしろくないかは個人の価値観の問題だ
>>794 劉備死後の冷戦は有りうると思う。
諸葛亮が超法規的措置も交えて法正とうまくやっていたのが、
果たして長く続くかどうか。
もともと蜀人ではない法正にはバックもないし、
李厳のような死に方しているような気がする。
>806
そうだよな。
法正は劉備との繋がりだけで権力者の地位にあった訳で、劉備が死ねば・・・。
その点、諸葛亮は劉備(&法正)の留守中にせっせと益州に影響力を広げてたからな。
808 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/07 20:53
>>804 資治通鑑は歴史書としての評価はともかく、三国志より千年後の書物だから…。
>資治通鑑とかには載ってないのか?
>そういうのは
一次史料に載っていないことが
一次史料を整理配列しただけの二次史料に載ってると思ってる厨がいるスレはここですか?
>>809 違います。よそを当たってくださいましね。m(_ _)m
>>809 でも現存していない史料からの引用があったりはしないの?
あれって正史からしか引用してないんだっけ?
>>809 「一次史料を整理配列しただけの二次史料」には載ってないだろうな。
正史にはキョウイの記述はあまりなく、大した人物じゃなかったと知人に聞いたのですが、マジですか?非常にショックなのですが。ちなみに横山しか読んだことないぺーぺーです
正史にはキョウイの記述はあまりなく、大した人物じゃなかったと知人に聞いたのですが、マジですか?非常にショックなのですが。ちなみに横山しか読んだことないぺーぺーです
815 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 00:26
あーっ連投すんません
>>814 姜維は正史でも凄い。記述も多い。
ただ、純粋な軍人(の割りに権力が大きすぎる)として書かれている。
諸葛亮の後継者、という感じではない。
演義よりショボくてショックを受けるということはないと思う。
むしろ別の魅力が加味されて余計に好きになったりするかも。
>>814 夏侯淵程度の人物。
蜀に人がいないがゆえに主役級になっているだけ。
でも、彼なりにがんばったからOK。
胆が大きかったと後世に伝えられてるのは姜維とルイ14世ぐらいなものか
みなさんどーもです。いやーっイメージ崩れなくてよかた。これからほら吹きヤローボコボコにしてきまつ
>>817 夏侯淵程度って十分重要人物のような気もするが。
そういや今週の蒼天は夏侯淵の最期だったなあ。
>>814 まあ姜維についての評価は賛否両論あるから・・・。
とりえあずその知人に対しては「うんうんそうだね」と聞き流しておくが吉。
>>821 確かに軍事面では頑張ったかもしれないけど領土増えたわけでもないし
内政軽視してたみたいだから国力が減衰したって意見もあるよ。
質問は記述量の多少と重要度についてで評価云々は関係ないだろう。
後半の「たいした人物じゃない」ってのが評価云々に関わってくるのでは
無駄に国力を消費させたから蜀の人民の恨みをかわなかったっけ?
>>819 「キョウイの記述はあまりなく」が否定されただけで、まだイメージが崩れなかったかどうかはわからんぞ。
演義みたく諸葛亮の後継者ではないし、演義のイメージよりは勇猛よりの人物だしな。
>>826 勇猛よりの人物と書くと語弊があるな・・・賎しくも士人であるし。
やっぱ通う酷使だよな
まあ、正史厨は
「演義のイメージは間違ってる」
とケチをつけるのがアイデンティティだからな
>>814はこのスレの発言こそ聞き流しとくべきだと思われ
中央研究院で資治通鑑や華陽国志とかが読めるときと読めないときがあるのはなんで?
アンチ正史はお呼びじゃないよ
>>831 その言葉は正確でない
俺はアンチ正史でなくてアンチ正史厨ね
明らかに正史を読み込んでないのに
知った顔で人物評する連中が嫌いなのでお間違いなく
>>832 ずいぶん知ったような口をきいてるが、
キョウイの人物像をきちんと
>>814に説明していない以上
お前の意見こそただの厨だぞ。
あらためて聞くが、あなたが正史から読み解いたキョウイの人物像とはどんなものですか?
>>821で良いだろ。
史家の間でも賛否両論ある人物なんだから。
それぞれが見解を示さなけりゃ賛否も糞もないわな
どちらか一方を聞き流すってのが正しい判断か?
少なくとも
>>814は意見を聞き流していいと思うぞ。
正しいも何もそういう議論に関係ない人間は。
どうして議論に無関係なのかわからんがね
>>814はそんな喧喧諤諤の下らない議論とは関係ないだろ。少なくとも今のところは、だ。
>>814はいろいろな意見を取り入れようとしてるじゃないか
知人はこう言ってますが、本当ですか?他の意見はありませんか?ってことだろ
賛否両論の中から一つの見解を拾うってのは議論に参加することだろうに
いや、俺は
>>814にそういうことをせずに聞き流すことを薦めてるんだが・・・。
まあ意見を聞くのは構わないが、少なくともその知人の言は聞き流しておけ、と。
その知人の意見を聞き流さねばならない根拠は?
様々な意見の中からどれを選ぶか、その判断は
>>814がすべきだろ?
根拠もなくその意見を聞き流せってのはどうかと思う
俺の「聞き流せ」っていう意見を選ぶかどうかも
>>814が判断すべきことだろ?
姜維についての議論なんか揉めるに決まってるんだから、
揉め事をさけたいなら聞き流しておけって言いたかったんだが。
>>844 その通り。どの意見を選択するかは
>>814が判断すべきこと
それが分かってればいいんだよ
議論に無関係とか、聞き流せなんて言うから分かってないのかと思っただけ
あー
>>844の言いたいことが良く分からんが
ようは、リアルでその友人に姜維の評価について反論しても、
揉めるだけだから聞き流しておけってことか?
自分の好きにしろ、ってことだろ
>832はアンチ「正史厨」なのか「アンチ正史」厨なのか
もうやめろよ
>>840 × 喧喧諤諤
○ 侃侃諤諤
or
○ 喧喧囂囂
喧喧諤諤ってIMEで一発で出るぞ
なんだ?罠か?
>>851 よくある誤用は罠としてIMEに仕組まれてる
カンカンガクガクとケンケンゴウゴウは日本語に普通にあって、
ケンケンガクガクはIMEオリジナルってことね
IMEって怪しいよな、将軍様の名前が一発で出たり・・・
金正日
本当だ・・・ちょっとびっくり
IMEの製造に韓国からんでるから、大統領の名前はあらかた出る。
のてう 盧泰愚
とかね。
まそれはさておき。
これから
>>814がどうするのかが楽しみ。
俺は姜維好き。そんだけ。
856 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/11 18:27
金賢姫
は変換できなかったな
李舜臣もでる
おれも姜維好きだな。結果的にだが最後の悪足掻きで蜀攻略の功労者を巻き添えにしたのがイイ。
蜀を再興しようとしたって話が残っている所をみると姜維も民の評判は悪くなかったんじゃないかって気がする。
まあよ、好き嫌いの話をしたって仕方あるまい
860 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/11 21:14
正史高いから蜀書だけ買った
俺は頑張って一ヶ月に一冊ずつ買ってるよ・・・
ようやく呉書・・・あと三巻か・・・
しかし、読むペースが買うペースに追いつかなくなってきた・・・
積んでいる正史が一冊・・・マズい。
劉備は正史だと野盗同然の悪党のように描かれている部分があると聞いたのですが本当ですか?
演技の周倉と正史の関羽配下の方の呂布について教えてください。
名前が一緒で紛らわしいせいか、演技では呂布の存在は消されているため、もしかして呂布が周倉のモデルなんじゃないかなあと思ったのですが。
>>862 陶謙に身を寄せる時に
「飢民数千人を略奪して得た」と書いてある
野盗同然じゃなくて野盗そのものだろ
とりあえずおまいらキャバクラでもいって遊んで請い
略奪して財を得たと言うなら分かるけど、
飢民を得たなら戸籍に編入とかじゃないの?
人間として扱うなら、それでもいいかもな。
基本がごろつき共の頭目だからなあ>劉備
遊戸だったのを戸籍に入れるというのは誰でもやってるじゃん
蛮族討って戸籍入れるとかも同じだしさ
特にひどい話でもなかろうに
>>870 >>864は「飢民数千人を略奪して(戦利品を)得た」と解釈したんじゃないか?
人を得る、って感覚は現代人にはわかりにくいから仕方ないと思うけど。
劉備はごろつき同然なのに、何故かそれほど批難されてない。
つーか反論するならせめて原文あたれよ、おまいらw
文脈からして、明らかに強制的に自分の部曲にしちゃってるよ。戸籍に編入って話ではないようだ
俺の訳文が悪かったかもな。スマソ
それこそ「人徳」のなせる技だろう
劉備が支配下におかれる前の”飢民”がどんな食糧事情だったのか、
そして劉備に強制徴兵された後の”飢民"の食糧事情はどうなったのか、
この2点を考えてみてもいいかもな。
曹公征徐州,徐州牧陶謙遣使告急於田楷,楷興先主倶救之。
時先主自有兵千余人及幽州烏丸雑胡騎,又略得餓民数千人。
ここだな。ちくま訳では「曹公が徐州を征討すると、徐州の
牧陶謙は使者を送って田楷に危急を告げてきたので、田楷は
先主とともに陶謙を救援した。このとき先主は私兵千人あま
りと、幽州の烏丸族に属する諸部族の騎兵をかかえていたが、
さらに餓えた民衆数千人をむりやり配下にくみ入れた。」とある。
ってか関係ないけど、烏丸の兵って何時どこで得たのだろか…
>烏丸の兵
公孫サンと陶謙は袁術側の勢力。武帝紀の袁紹・袁術の本格抗争開始の辺の
記述は、このつながりを示唆している。
で、田楷は公孫サンの配下。劉備も同様だったわけで、この度の陶謙救援は
同派の救援を公孫サンに命じられたからでもある。
というわけで公孫サン絡みで与えられたんでしょう。
略には「奪う。攻め取る」というようなニュアンスもあるけど、
「ことごとく」「おおよそ」の意味もありまして。
餓民とは「奪う」ような対象なのか、と考えると疑問。
シニカで検索してみたが、餓民を略した例は他になかった。
従う意志のない数千の人間を連れ回すのはちょっと無理ぽいし。
つまり見かけた餓民を「ことごとく」連れてきた、ということでは。
もっとも喜んでついてきたのかどうかは知らないけど。
漢和辞典だと「ことごとく」という意味は載せてないようだ
のてう→盧泰愚 きむじょんいる→金正日
きむいるそん→金日成 きんにっせい→金日成
ろてう→呂手于 きんせいにち→近世に値
きむひょんひ→きむひょン皮 りせいけい→李成桂
本当だ、なんかおもしろこわいね。
略は副詞だと英語のalmostに近いニュアンスだから
意味合いが違うと思うよ
略が動詞で得を結果補語で読むのが順当でしょう
「略奪してその結果得た」と
もしかしたら
「非戦闘員だろうがとにかく組み入れて数を増やす」のが劉備流だったのかも
実際後年にそれやって、長坂でひどい目にあってるし
長坂のは煙幕代わりに使ったんじゃないの?
ちなみに「略」は「治」(おさめる)や「行」(いく)、「征伐」といった意味もある。
だが「略得」とした場合、妻子やら姫やらを奪ったとかそんな用例しかない。
まあ略奪だろうな。
そうか、公孫サンならもっててもおかしくないか。
サンクス。
>880
>881
民心が離れては逃げ延びても国が興せないから、じゃないのか?
いくらなんでも戦闘員として組み込むのは無理だろ。少なくとも長坂では。
劉巴は諸葛亮にも劉備にも絶賛されてますが、そんなに凄いんですか?
劉巴伝を読んだんですが、他の伝がまだなので、よくわかりません。
劉備伝では「劉備は嫌ってたけど、高官につけた」ってありますが、
嫌う理由は曹操の方に行ったからですよね?
「図解雑学 諸葛孔明」って本には「諸葛亮が、劉備政権に対抗するために無理を言って組み込んだ」みたいに書かれてますが、
劉巴伝を読む限りでは、
劉備は「あいつは最初に俺のところに来なかった。ムカつくわ」
みたいに思ってるだけで、才能は買ってるように思えるんですが。
既出かと思ってスレッド内検索してみたら、
>>395>>397が引っかかったんですが、
なぜ
>>395はゲー帝風ですか
>>887 はて?
劉備が劉巴を嫌ったのは、傲慢で傍若無人な性格でしょ?
張飛をコケにしたエピソードに代表されるような。
才能についてはよく判らない。
蜀書では他人から評価されてても、実際の功績が記述からすっぽり抜けてる場合が多い。
劉巴もそのひとり。
>>887 嫌ってた、という記述は、ちくまの五巻、P51
「劉巴は昔から恨みに思っていた人物であったけれども、これらの人々をすべて高官につけ」
って部分です。これは、劉璋が降伏した時の記述なので、張飛が家に泊まりに行く前の話かと。
劉巴伝には
「先主が江南に出奔したとき、荊・楚の士人たちは、雲のごとく彼につき従ったが、劉巴は北方曹公の元へ赴いた。
〜中略〜
まもなく先主が益州を平定すると、劉巴は前の罪を陳謝したが、先主は咎めなかった」
とあるので、そのことだと思ってたんですが。
質問よいですか?
字(あざな)ってどんな身分の人(いわゆる平民や奴婢)でも
持ってたんでしょうか。
それともある程度限られた人だけ?
正史の質問じゃないなコレ…スマソ
>>889 たしか典偉字無しのはず。
そのかわり悪来があだ名。
>>890 記載がなかっただけじゃない?
「字はない」という記述は見受けられなかった。
>>889 なぜ字というものが必要なのかというと、当時の中国人が
名=親から授かったもの=身内以外の人間から呼ばれることは無礼極まりない
と、考えていたから。
だから、アカの他人との交流をしなければならない官僚や武官は、成人した際に字をつけるのである。
しかし、基本的に親族内にしか生活基盤を持たない農民や、字どころか歴とした名すら与えられなかったであろう奴婢に、
字の存在意義があったかどうかはいかがわしい。
ただし、字は大体において自分でつけるものであるから、平民出身でも(徐庶のように)学識を積んで名士と交わるような人物ならば、
自分自身でつけていたであろう。
>>892 楚の茶王こと馬殷も黄巣の乱で自立した群雄の軍に加入して
中級指揮官になった時に付けたくらいだもんな>字
蒋介石みたいに字が有名になりすぎて
本名で全く呼ばれないのもかわいそうだが
項籍なんかもそうだよね
許子将もこっちの名で呼ばれてるよな。
以前中国人に字聞いたら無いと言われました。
武帝紀の注に「金[示韋]、字は徳[示韋]」っていう人が出てくるんだが、
名と字で同じ字使ってるけどいいの?
>>726で言っているように唐代にはそういうのもあったみたいだけど。
>>898 武帝紀注では
>三輔決録注曰時有京兆金禕字コ禕
『後漢書』孝献帝紀の注では
>三輔決録[注]曰時有京兆金禕字コ偉
おそらく後者が正しいんでないのかな。
900 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/21 10:38
>>898 あの金旋の息子なのにコーエーに出してもらえない。
>>901 正史に「関羽配下の呂布」なんていたっけ?
さ、次いってみよか
臧洪の簡単なプロフィール木棒。
最近興味あるんだが、ネットで探してもあんま記述が無い。
その辺のマイナー武将を紹介しているサイトがあったら押して欲しい。
>>901 関羽の将。五原郡の呂布とは別人。
建安二十四年(二一九)、関羽は樊城で曹仁を包囲したとき、
別働隊として郟の城下に部将を派遣した《満寵伝》。
呂布はその別働隊の指揮官であった《夏侯惇伝集解》。
しかし曹操は徐晃を派遣して関羽を撃破する一方《徐晃・関羽伝》、
自ら軍勢を率いて郟県の摩陂において呂布軍を撃破した《夏侯惇伝》。
やられキャラじゃん。さ、おまいも臧洪について教えれ。
>>905 関羽 v.s. 徐晃
呂布 v.s. 曹操
自ら率いた、ってのはそれなりに要注意だった、ってわけじゃあないの?
呂布は衍字とする説もあるから筑摩訳では省いたとか
地理的な問題じゃなかろうか
>>904 >臧洪
> 字は子源、広陵郡射陽の人。広陵太守張超に見込まれて功曹となり、
>董卓が首都洛陽を制圧すると、張超に決起を促した。のち袁紹に取り立
>てられて青州刺史、東郡太守となった。張超軍が曹操に包囲されたとき、
>袁紹に軍勢を借りて救援にかけつけようとしたが聞き入れられず、張超
>軍は全滅した。それを恨んで袁紹と敵対したすえ、殺された。
結局は夏侯惇伝の本文のこの文章をどう解するか、ということだね。
>(建安)二十四年、太祖軍撃破呂布軍于摩陂
五原九原の呂布は建安三年に死んでいるので、ここでの呂布は誰?ってことになる。
『三國志集解』の該当部分を読んでみると、引用されている殆どの説は衍文か「関羽」の誤り
であろうとしており、盧弼自身も「撃破呂布軍」の五字が衍字であるとしている。ちくま訳は
この盧弼自身の説を採っているわけやね。
>>905は『集解』が呂布二人説を採用しているかのような書きぶりだけど、二人説は盧弼が
引用した謝鍾英の説であって、しかも盧弼自身は他に証拠もないとしてこの説には否定
的なスタンスを取っているね。
全然関係ないんだけど『三國志集解』が手元で読める環境、すごいっすね。
その道の方かな。
全国に千人ほどでもいるかな。
このスレの住人・ROMには、俺も含め最低10人はいそうだが。
>>905>>910 おお、ありがとう。
呂布自身、存在説と存在して無い説があるのか。
ちなみに演技の周倉はいつ死ぬのでしたっけ。
個人的には存在していたと思いたいなあ。
周倉と結びつけるのはやっぱり無理があるだろうとは思うけど。
呂布が実は生きていて、関羽に匿っていて貰っていた→ケイ州の隠し玉(だからケイ州は手薄だった)→曹操生きてると知って自身で撃つ
というのは流石に妄想あふれまくりですな。
千どころじゃないんでないかな。中国書専門店で藝文印書館の影印本が五、六千円も出せば
すぐ買えるわけだし。
知り合いの台湾書本屋のオヤジは「大学の新学期に良く売れるヨ」と言っていたけど。
だがぶっちゃけ、
買ったはいいが影印本を読破する情熱がなくて
コレクターズアイテムとしてホコリかぶってるのも多いんじゃないか?
…俺の華陽国志みたいに
>>914 周倉は関羽と共に呂蒙に処刑されている(219年)。
あれ、自決したのは吉川のオリジナルか
将関公父子首級招安。王甫、周倉大驚,急登城視之,果関公父子首級也。王甫大叫一聲,墮城而死。周倉自刎而亡。
演義って白話文の印象あったが
>>919とか見るとえらく文語に近いな
いや、演義120回本の77回によれば自殺。
麦城の守備を王甫とともに担当するが、呉軍より関羽の首を示して降服を迫られ、王甫は
飛び降り自殺、周倉は自刎して死亡。
やっぱり死に方は違いますが、時間的にはそんなに離れてるわけではないんですね。
色々分かって胸のつっかえが取れました。
教えてくださった方々ありがとうございます。
どなたか教えて下さい。
>>321にある
張昭と孫権の門を埋める大喧嘩。
その詳しい説明をキボンヌ!
924 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/23 01:58
age
>>923 まあ要するに
孫権公孫淵に使いを送ろうとする→昭反対する→権怒る→昭曰く「あんたのかーちゃんが俺にあんたの事を任せたんだよ」→
二人とも泣く→でも昭の言う事に従わない→昭キレて引きこもり→権キレて昭の家の門を土で封印→昭も内側から封印→
昭の言う事当たって外交失敗→権謝る→昭無視→権家の前まで行って呼び出そうとする→昭仮病して無視→
権キレて昭の家の門を燃やす→昭家に篭る→権、昭の焼死を恐れて火を消す→昭の子昭を無理やり外出させる→権一緒に帰る
ワラタ
コメディだな。
>>926 詳しく説明してくれてありがとうございますヽ(´ー`)ノ
昭曰く「あんたの(ry・・・」の後に、二人とも泣くのに笑ったw
他にも、孫権DQNエピソードありましたら教えて頂きたいのですが
皆さま、よろしくお願いします
厨房は武勇伝とか聞かないけど兄や父にも劣らず血の気が多い
っていうより酒乱だったであろう事は確か
酒に酔って臣下に水をかけて酔いつぶれるまで飲めと強要したり
酔いつぶれてるフリをした虞翻を斬り殺そうとしたりした
酒飲むと変わる人って大抵、普段の生活では抑圧される立場にあって
ストレスたまってる場合が多いから孫権もそうとう神経使ってたんだろうなw
>>929 申し訳無いが詳細キボンヌ!
>>930 スレを見たら曹否と険悪云々ってあったのですが
それってどんなのなんでしょうか?
>>930 恐ろしい主君ですねw
虞翻は、どうやって逃げたんだろうw
そのかわりに虞翻は僻地に飛ばされますたw
まあ虞翻の場合は日頃の言動に厨房もキレキレになっちゃったみたいだけどね
しかし厨房は「酒飲んだときは漏れの命令には従わなくていいです」って逝ってたのが
可愛いと言えば可愛いよな
>>931 孫策が呂範をあずからせた事があった。孫権は、そのころまだ年が若く、密かに呂範の元に行き金をせびったが
呂範は孫策の許しを求め、自分勝手に金をあたえる事をしなかった。この時、呂範は孫権の怨みをかっていた
孫権が陽羨県の長の役目をつとめていた時。、公金を私用に使っていたが、功曹の周谷は孫権のために帳簿を書き加えた
孫権はこの時、周谷の行為を喜んだが、呉を治めると呂範は忠誠な人物として重く信任を受け、
周谷は任用しなかった(呂範伝)
>>935 金を貸してくれなかったという理由で曹洪を冷遇した曹丕といい好対称ですね
孫権VS曹丕DQN対決10番勝負ができそうなのがコワイ
>>936 いやぁ、たぶん孫権VS曹丕DQN対決では孫権が圧勝だと思う。
曹丕は陰湿で陰険な男だけど、少なくとも暴君では無かったから、
孫権の酒乱には勝てんと思う。
凄く面白いなぁw
皆凄いよ。
孫権=陽DQN
曹丕=陰DQN
二人が力を合わせれば……完全無欠DQNさ
でもそんなDQN孫権が好きだ
晩年は除いてな
無難にまとめた二代目
どっちも戦が下手
どっちも次男だったりするんだよな。
943 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/23 12:49
チョンの正史では孔明も朝鮮人と言うのは本当でつか?
義経はジンギスカンと言っているアホがいるのは本当だ。
キリストの墓は青森にあるんだよな、確か。
947 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/23 18:23
>>945 アレって日本を西洋に認めさせる為に考えたんだよな。
小国の精一杯の知恵ってヤツかな。
そして今でも同じ事を(ry
でも高木彬光の小説読んで
歴史にはまった私には
なんかそれはちょっと心の底で信じたい説だ
きっかけになったのは結構だが
歴史にはまったなら
せめて彼の無知を見抜けるくらい知識を身につけよう。
邪馬台国ネタとかひどかった
論理レベルはキリストの墓以下です。
ムハマンドや釈迦の墓はないのかね
結局、日本人は西洋史以外知らないという頭の悪い事実が残るだけだ
モーゼの墓が能登半島にあるのなら知ってる
>>937 曹丕は笑える行状が少ないからね。于禁いじめかとか陰湿なのが多すぎる。
それにしても張昭伝は孫権DQNエピソード連発で笑える。
なんだかんだいって孫権が張昭にできたことは
喧嘩したり嫌味言ったり与えた待遇が低すぎる程度で
流罪や死罪とか決定的なことがないから、
読む方もどこか笑い飛ばせるのかもしれない。
曹丕の笑えるエピソードってーと葬式にロバの鳴き声の真似とか、
はるばる遠征してきたのに徐盛のトンデモ策にいっぱい喰わされたとか
位しかぱっと思い浮かばんな。(ってか後者は笑いごとじゃないか…
ロバといば・・・・・
諸葛瑾も笑いの種にされてるよ
張昭の家に放火したのは笑っていいのだろうか。
孫皓みるとやっぱDQNの血を引いてるなーと思う
>→昭の子昭を無理やり外出させる→
→昭の子昭を担ぎ上げて外に連れてくる
の方が笑える
>>955 張飛が諸葛亮の庵に火をつけようとしたのと同レベル
軍師将軍の諸葛亮の家に実際に火をつけてみせたら、
張飛も同レベルになれるだろう。正直笑えないが…
曹丕って一旦嫌悪の情が沸いてしまうととたんに冷酷になるけど、
幼馴染とか、親を亡くした子供に対しては極端に人情深くなる。
きっとB型なんだろうな・・・
次スレはいらんよな
うん。いらない
語り足りない奴は「正史準拠で人物評論をするスレ」を立てて続きを語ればいい
964 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/24 23:03
>>964 王粲が亡くなったときだから文帝だろ。親父じゃない。
966 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/24 23:33
王粲が死んだのは曹操の死の3年前だろう、「世説新語」あたりがソースじゃなかったか?
>>966 王粲 ロバ
王粲 驢馬
でググったところ、曹丕しか出てこなかったな。
世説新語読んでないからわかんね。
>傷逝第十七:一:
>王仲宣好驢鳴.既葬,文帝臨其喪,顧語同遊曰:「王好驢鳴,可各作一聲以送之.」赴客皆一作驢鳴.
正解
>>960 その「親を無くした子供」の話ってなんだっけ?
たしか歳の離れた弟じゃなかったっけ?
972 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/25 01:28
>>894 蒋介石の本名って?
新武将で蒋介石を出しているもので…。
974 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/25 01:58
「王粲の耳はロバの耳」って有名な話じゃん
>>974 なあ、これっておもろいの?
三戦の笑いのレベルってこんなもんなん?
いやもっとすごいはずだ
まだ力を出し切ってないんだ
レベル低いっつうか、良くも悪くも頭の固い人が多いかもわからんね。
孫仲謀並みの悪ノリができればいいんだけど。
>>977 いや
>>974は頭が固いとか柔軟性とかそういう次元じゃなくて笑いのセンスがないだけだと思うよ。
>>978 別に974を指して言った訳じゃないんだが。
975の三戦板住人へのイメージ発言から派生したまで。
なんというか…974のレス自体が話題の柔軟性に欠け…
スマソ
×974のレス自体が
○979のレス自体が
もうやだー
979って俺じゃないかよ。
後は察してくれ。
そうなのか。
俺も柔軟性が足りなかったようだ。
>971
曹操死後、曹操の子供で一番小さい子供を曹丕がひきとったんじゃなかった?
でそいつが曹丕に「父上」って言ったから
父親の顔も知らない子を憐れに思って
「私はお前の兄なのだよ」って泣いた話かと。
うろおぼえスマソ
でもこれって正史に載ってるっけ
ログ読んでて思ったこと。
頭のいい人の作ったギャグはつまらなかったなぁ。以前トリビアで見たけど。
「頭の良い人」ってのは定義上少数。
更にその中でギャグが面白い人となるともっと少なくなるからな。
_,,. -‐‐‐‐‐- 、
lヽ ヽ ヽヽヽ ヽ
ノ::::゙、 ヽヽヽヽ ゙、
ヘ:::::::::;;: -‐''''""( )1
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i!f !::::: ゙、i
i!ゝ!:::: ‐/リ
i::/:、 :::、 /''ii'V
ハ::::‐-、_"''il|バ''
ショカツリョウ
諸葛亮 曰く、
ほかに することは ないのですか?
ない
では、そちにこのスレを1000まで埋めるように命ずる。
ナ ゝ ナ ゝ / 十_" ー;=‐ |! |!
cト cト /^、_ノ | 、.__ つ (.__  ̄ ̄ ̄ ̄ ・ ・
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/ U ヽ \ / / U ヽ
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γ⌒ヽ
_ て/ )
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/ ! , ⌒ く
! ノー< ヽ
/  ̄ヽ ,、 ヽ !
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`ー ' ヽ__ ノ
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`ーl \____/ ノ
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ヽ \ , イ
\ `L__,, -‐'´ |
\ ノ \ ! キュムキュム
`'ー--‐'′ \__,ノ
このスレほど、正史派とそれ以外の人たちが和気藹々としたスレは見たことないよ!
今までありがとう!
それは同意
不毛な叩きあいのないスレは楽しかった
ただ、後半は自己満足的な正史談義で終始したが
やはり適度に「正史厨」呼ばわりされてブレーキがかからないとダメらしいw
994に同意のありがとう。
これからもオモシロエピソードをどんどん教えてくださると嬉しい。
次スレは?
いらない
有志が立てれ
1000 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/28 01:11
1000なら讀賣優勝ならず。
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。