【後北条】小田原びいき【五代記】

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1無名武将@お腹せっぷく
小田原城を拠点に関東に覇を唱えた後北条氏について語るスレです
2無名武将@お腹せっぷく:04/03/13 16:02
執権執権
「ひいき」で語るのはやめとけ。
何で北条って名前にできたの?
5無名武将@お腹せっぷく:04/03/13 16:29
北条が来たじょー
6無名武将@お腹せっぷく:04/03/13 16:43
相模鎌倉を押さえたからと言って安直に源姓を名乗るんじゃなくて敢えて北条を
名乗るところが渋いね。 なんか謙虚っぽいし。
謙虚ワラタ
8日本史男:04/03/13 16:52
別に謙虚でもないと思うが・・・・
だって事実上鎌倉幕府の最高権力者だった北条を名乗ってるんだから
9無名武将@お腹せっぷく:04/03/13 16:59
でも鎌倉幕府の最高権力者というよりは権力の簒奪者みたいなダークな
イメージが無いか? 執権北条氏って。
10日本史男:04/03/13 17:35
>>9
時政、義時に関しては言える。

ただ、泰時など後世の評価の高い人物も多いのも事実。
どの道いえるのは他国からやってきたよそ者がそれなりのネームバリュー
を求めて改姓したのだけはたしかだが。
11無名武将@お腹せっぷく:04/03/13 17:53
両上杉の求心力は関東でどれほどのものだったのだろう?
関東管領の当時の実力のほどを知りたい。
氏綱公が北条の末裔の後家さんをめっけてきたから
13無名武将@お腹せっぷく:04/03/13 19:23
北条って何で秀吉の滅ぼされたんですかね?
同じように戦った島津や長宗我部は残されたのに。
>>13
四国・九州の平定を終え、いちおうは後背地の危険性が減った事もそう。
それ以前から秀吉は北条との交渉を重ねていたけど、上洛要請には
氏規を遣わすだけでのらりくらりだし、おまけに内部では抗戦派とその
反対意見を主張する者とで割れてしまって国論が定まらないし。
それに真田がらみの領土問題で武力行使にいたってしまう外交感覚の
鈍さが祟ったんだと思うけど。

交渉以前の秀吉は、北条を滅ぼす気はなかったと思えるし。
15無名武将@お腹せっぷく:04/03/14 22:58
>>13
天下統一総仕上げのための見せしめでは?
真田がらみの領土問題(名胡桃城事件)は秀吉の謀略の説もあるくらいだし。
kuso
↑それは三方が原における家康の専売特許です。

>>14
どうだろう、どのみち200石強の
それも秀吉に好意的でない大名をそのままにしておくとは考えにくい。
いずれいちゃもんつけて転封か減封されそうかと。
18無名武将@お腹せっぷく:04/03/16 16:53
糞スレあげ
19無名武将@お腹せっぷく:04/03/16 17:19
島津と違って北条が潰されたのは無駄な篭城して無為に時間をかけさせたことが
秀吉の心象を悪くしたのと果敢に出撃して箱根や甲信の国境山岳地で迎激戦を展開するなどの
気概を見せなかったから見くびられたのかもね。
20無名武将@お腹せっぷく:04/03/16 17:45
>>19
浅はかな見解だ。
篭城だろうが迎撃戦だろうが戦った時点で気概を見せたには違いない。
やっぱりバブル的膨張の島津、長宗我部と違い関八州に支配権をほぼ確立していた
北条氏は潰さねば後々厄介なことになると秀吉は考えたのではないか。
>>20
横槍だが
野戦と篭城とでは全然気概が違うだろ。
浅はかなのはそっちだな。
22無名武将@お腹せっぷく:04/03/16 18:13
>>19
あほか。
篭城か野戦かで家を残すか取り潰すかなんて決めるわけあるか。
>>22
島津厨はそう信じて止まないんだよ。
24無名武将@お腹せっぷく:04/03/16 18:27
>>20
島津の拡大がバブル的とか言ってる時点でバカ。
あれは強力な底力があって初めて成し得た爆発的拡張と言うべきだ。
島津とか伊達のような旧家は何代にも渡って血縁やら地縁やら何やらで
土地にしっかり根付いてしまっていたせいで、秀吉としても手を出し難
かったんだろうけれども、北条の支配はまだせいぜい百年程度でしょ。
根がまだ浅かったから簡単に潰されたってのも北条改易の一因だと思うん
だけどな。
26無名武将@お腹せっぷく:04/03/16 20:32
>>24
爆発的拡張と言うより爆発的膨張。
いわば風船玉。秀吉軍の針の一突きでたちまちしぼんじゃったしね(W
27無名武将@お腹せっぷく:04/03/16 21:30
一回戦は勝ったじゃん。 針の一突きほどもろいとは言えないだろ。
島津は勢力圏は爆発的に広がっていたけど、
領国化できていたのはせいぜい肥後まで。
四国勢の足並みがそろわなかった戸次川以外はメタメタだし、脆弱なのは否めない。
29無名武将@お腹せっぷく:04/03/16 23:30
島津の話は他でしろ
家康がオレンジをプレゼントしたら勘違いして橙を送り返してきたって話本当なの?
31無名武将@お腹せっぷく:04/03/16 23:42
贈答品の話も他でしろ
32無名武将@お腹せっぷく:04/03/16 23:47
後北条の話で間違いないと思われ<31
ただ、オレンジじゃなく別の柑橘類だったと思う。
真偽の程はわからないが、氏政の凡庸さをあらわすエピソードかと。
そういえば、同じような話で湯漬けのヤツも…四代目、南無(´人`;)
33無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 00:03
氏政ってホントにバカだよな。 親父の遺産で弱小勢力相手に大軍押し立てて
領土広げただけだしな。 でも自分はいつも後方支援ばっかりしてたから
細かい事務処理みたいなのは得意だったのかもな。 
でもひょっとしたら何にもできないからいつも居残りしてたのかな。
領国経営にしてもどうせ評定衆に任せっきりだろ?
せめて中央の情勢くらい知っとけよな。 調べさせりゃいい事じゃん。
でもそれくらいの情報は入ってたと思うんだがな。
結局それらを聞いてても戦えば勝てると思ったんだろうな。 
どこをどう考えれば勝てるという結論になるのかが俺にとっては北条家に関する
最大の謎だな。 天狗になってたのかな。
34無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 00:09
でも、後北条家で最大版図を築いたのは彼。
優秀な家臣や弟達(氏照、氏邦etc)に支えられて、勢力を拡大したこと自体は評価するに値するのかも?
むしろ、頭首の優秀さ云々に関らず、勢力拡大可能だった”北条家”というシステムがすごかったのかも。
まぁ、そのシステムが時代の流れに合わなかったせいで取り潰されたワケだが…(;´Д`)
35無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 00:15
氏政って日本の歴史上、「つまらない事で大きなものを失った人」トップ10に
入るだろうな。
36無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 00:19
他の9人をあげるとしたら?
話はそれそうだが、是非聞いてみたいw
37無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 00:28
適当に言った事だから・・・・難しいな。
例えば、まあ信長でしょ。 謀殺なら別だけど。
乃木大将も、私物ではないけどツマラン意地でいっぱい死なせたよね。
源頼朝もなんかねえ、勝ったけど、落馬して死んだから幕府乗っ取られるし。
意外と淀君なんかも関が原の時、ほんのチョッと上手い事やれば西軍勝てたのに。

逆に徳川慶喜とか本田宗一郎なんかは偉大な考えで大きなものを手放した人だね。
38無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 00:41
<<37
なかなかいい人選だね。
特に、最後の人は妙に納得…というか昭和のジャパニーズドリームな人?(謎
とりあえず、氏政がつまらないコトで大きなものを失った人物筆頭になるのは間違いないか(笑
39無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 01:07
凡庸な氏政…
でも、某野望歴史シュミレーションゲームではマズマズな評価が下りてる罠。
妥当なのかねぇ? 
天翔記あたりなら鍛え上げればかなりの能力になったんだが…
大局は誤ったけど、それなりに仕事してるからねえ。
41無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 01:13
どんな仕事したの?
42無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 01:17
>>41
ちょっと前だけど、34を見てくれ
本人の業績というか、北条家自体の業績だがな。
43無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 01:25
>>42
でも、錯覚かもしれないけど、俺もあれくらいならできるような気がするんだ。
要は余計な口を挟まなければいいんだろ?
44無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 01:45
たしかにw
エピソード等から察するに、本人自体の才覚(機転とか決断力etc...)云々はお察しくださいってトコロ(´・ω・`)
要は、優秀だった先代が残してくれた遺構を活用できたか否かって所で彼の評価を定めるべきかと。
活用出来た分だけ、氏政はそこそこの素養はあった…と考えてみていいのでは?
というか、それまでの三代が優秀すぎて比べることが酷ですよ〜
名将と呼ばれる当主を輩出しすぎ…(;´Д`)
あとは、吉良城の楽市とか、多方面作戦をするときの全軍の統率・後方支援とか。
武勇なら第二次国府台合戦の初日とか。

ぶっちゃけ、氏政は武将・官僚として優れてる必要は無いだろ。
ようは適材適所に人を配するのが彼の仕事なわけだから。
46無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 01:54
適材適所に人材配置で納得
それが出来たからこそ、当時の北条家は勢力拡大ができたんだからねぇ。
でも、猪俣たんを配置しちゃったのが命とr(げふげふ
って、それは氏邦か。
47無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 09:50
八王子城いった人いる?幽霊出た?
48無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 10:14
北条氏政はまぁ時代の趨勢を読み切れなかった。そして氏規などの穏健派を馬鹿にし強硬な氏照などを採用した。まさに百聞は一見にしかずをしていないとこうなるという例
そんなことを言ったら
織田末期に事を構えた毛利・上杉、豊臣に征伐された長宗我部も島津も同じ穴の狢。

地方の覇者が中央と矛を交えるのはある程度はしょうがない。
50無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 14:06
やっぱり当時の地方には中央の情勢って思いのほか伝わってなかったのかもね。
家康だって兵力で倍の秀吉と戦ったんだから。 それで勝ったから島津・北条らも
勝てると思ったのかもね。
でも家康も勇気あるよな。 俺ならすぐ臣従するだろうな。
>>50
秀吉の四国征伐を想起した。
長宗我部の一領具足に対し、中央軍は装備も兵制も先進化されていたわけで。
三方から数万の大軍で進入され、質量で圧倒され、四国の覇者といえども
ほとんど相手にならなったのも、やはり中央勢力の実力を正確に認識して
いなかった証左に思える。

逆に毛利などは、信長存命時から安国寺恵瓊が中央との接触を経ていたし、
なにより当時の恵瓊自身が京に在住していた事もあって、はやくから中央軍の
本質を熟知していたみたい。
そのためか、毛利が秀吉に臣従した際には、外交交渉は有名だろうけど、
毛利家中の国論の統一にも大きく寄与していたらしい。
もっとも、中央状勢に疎い強硬派からは非難をうけたようだけど。

島津や北条もそれに類するところは多いけど、家康の場合は明らかに事情が
異なるはず。
戦争ではあるけど、間接的ではなく完璧な政略・政治の延長だろうから。
52無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 16:01
氏規なんかはその目で中央情勢を見てきた口だから、現実が見えたんだろう。
氏政も氏照も、どちらも中央まで出張ったことなんてなかったから、仕方ないのかも。
思い起こせば、織豊政権に刃向かった大名で本人自ら中央情勢視察を行った大名なんて
家康や大友宗麟、宇喜多秀家(秀吉の養子に潜り込めた?)等、数える程しかいないもんねぇ。
自分の目で、織田なり豊臣なりの権勢を直で見ることがなかったために、会戦してもなんとかなると思えちゃったのか?
ただ、征伐された後の長曾我部や島津なんかの立ち回りに比べると、氏政は…(ー人-)ナム
さっさと降伏していれば相模一国くらいは安堵されたかもしれないのに…北条ファンとして(´・ω・`)ショボーン
53無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 16:03
謙信と互角に戦えたのはウジ康だけですか?プ
54無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 16:18
一領具足は所詮、中途半端な兵農分離だからねぇ(´・ω・`)
元親が四国を統一したのが遅すぎたし。四国統一から半年も経たずに、秀吉に攻め込まれたんでしょ?
伊達政宗と同様、遅すぎた登場が故の悲劇かも。

毛利の強硬派と和平派、それぞれ元春と隆景の兄弟が代表格ってのがおもしろいねぇ。
やっぱり剛より柔の方が先見の明がある、とw
子供で比べると、広家のほうがアレなんですが…

<<51
むしろ、小牧長久手は中央vs中央の戦いでは?
実質は秀吉vs家康だけど、名分上では織田秀信と信雄の戦いだし…
飛騨方面で陽動をかけた佐々成政も、織田家臣。やっぱり、中央vs中央、織田家中の内部分裂な気がするぞ。
柴田勝家亡きあと、織田家中の反秀吉派が家康に泣きついてきたのを利用して、家康自身が天下を伺おうとした…
って考え方も、あるにはある?
55無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 16:19
<<53
甲州びいきな人々に殴り飛ばされるぞw
>>52
宗麟は秀吉に逆らってないっしょ
逆に秀吉に助け求めたのね
この間の正月時代劇でも書かれていたエピソードです

北条は長宗我部や島津と比べると場所が悪かったというか
西国の上記2大名は来る朝鮮出兵でこき使うために温存されたように思われ
東国の北条はいるだけ目障りなのであぼーんされる他無かったように思われ
57無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 17:17
>北条は長宗我部や島津と比べると場所が悪かったというか
西国の上記2大名は来る朝鮮出兵でこき使うために温存されたように思われ
東国の北条はいるだけ目障りなのであぼーんされる他無かったように思われ

あ〜、それは気付かなかった! でもおおいに有り得るね。 あいつらが残ってれば
朝鮮出兵はスゴク楽になるはずだ。

ところで秀吉VS家康だけど。 世間の認識では好カードみたいになってるけど、
俺はどうしても素直にそう思えない。 それも家康の判断自体に。
戦う前の両者を比べたらやっぱり秀吉が圧倒的じゃん。 それに明智、柴田を神速の用兵で
倒した直後だし、秀吉は十分に野戦に強いというイメージがあったと思うんだよ。
なのに信雄程度が味方に付いたからといって迷わず対決を決めた家康の考えって
どうなってたんだろう?
58無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 17:57
>>57
秀吉への評価が不十分だったからでは?
戦後、秀吉への態度の変化も秀吉自身の実力を再評価した…と取れる。
また、当時は、秀吉包囲網みたいなのが形成されていたこともあってそれなりに自信はあったと思われ。
信雄にしても尾張伊勢100万石近い領国を持っていた&ポスト信長の大儀名分としては十分だった、で盟友としての価値は十二分にあったはず。
まぁ当の信雄本人が、話題の氏政たん以上に凡愚で小牧長久手戦で折角、家康が優位(局地戦だけど)に戦局を進めていたのに、
勝手に秀吉と和議を結んじゃって…しかも、その後改易っしょ?
凡人が歴史の表舞台に立つ喜劇を見せてくれて、中々後世の人間を楽しませてくれますが(謎
59無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 18:06
>>56
そうだね。
宗麟本人自ら、秀吉の九州征伐を促しに行った→そして彼の権勢をその目で見た…と書きたかったんだけどw
コトバ足らずですみませ〜んヽ(´ー`)ノ
宗麟自身が、先見の明があったのを強調したかったのよw

ついでに、宇喜多秀家も逆らってないねぇ。
むしろ、親父の直家が進んで秀吉に取り入ったのが功を奏し、息子が出世?
直家、してやったり…だったんだろうなぁ。
宇喜多領の処断云々で秀吉が信長の怒りを買いましたが。

っと、また後北条から話が脱線しとる(;´Д`)
しかし、小田原の役を招いた氏政を
救いようのない愚将とみるか、地方の代表勢力の一角としてやむを得ない行動か
判断するには他地方のことも語る必要はあるよ
ただ、あまりにも脱線しすぎている気もするけど(;´Д`)

>宗麟自身が、先見の明があったのを
溺れる者藁をもつかむって感じだと思う。
しかし、大友家だけでは島津に対抗出来ないと判断するあたり
宗麟は冷静だな。
>>宗麟自身が、先見の明があったのを
>溺れる者藁をもつかむって感じだと思う。
・・・だよね。「先見の明があった」というのとは違うんじゃないかな。
>しかし、大友家だけでは島津に対抗出来ないと判断するあたり
>宗麟は冷静だな。
というか、対抗できないほど領土削られてから泣きつきに行ってたような。
よく手遅れにならなかったなあ、と言う気がします。
まあ、大友家も結局その後難癖つけられて改易だから。
なにしろ息子が北条氏政どころじゃない馬(ry
62無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 21:25
<<61
そこが宗麟の評価が分かれるところですな。
名将だったのか迷将だったのか…
耳川で大敗した後、大友家臣たちは隠居していた宗麟に復帰を求めたそうだから…
義統、南無(-人ー;) とりあえず親子比較では 義鎮>義統 の図式はゆるぎないねw
というか、息子のほうは影が薄すぎw
大友改易前に病没できただけ、宗麟は幸せだったかもねぇ。
斜陽の大友家は高橋招運&宗茂養父子の武勇をもってしても覆せなかったんだよね…゚・(ノД`)
氏政が小田原で籠ったのは、伊達政宗が後詰に来てくれるという見込みもあったからではないの?
氏政が先代に及びもつかない凡将なのは間違いないと思うけど、それくらいの計算はしてたはず。
まあ、結局それも甘かったわけだが
後詰めの期待もしていたと思う。
でも、長期戦に持ち込んで財政的に負担をかけさせて撤兵させるという
北条の伝統的内線防御に自信を持っていたんでしょう。
いくら制海権を握って後方の安全を確保していても、20万を養うのは負担が大きい。
現地調達でも兵が多すぎて限度がある。
北条の誤算は大規模な別働隊に支城網を壊滅させられた事だと思うけど、どうだろう。
65無名武将@お腹せっぷく:04/03/18 01:08
>>64
北条の最大の誤算というか、認識がだめだったところは昔ながらの篭城戦をすれば秀吉を跳ね返せると思っていたことだろ。
支城をあそこまで大規模に落とされたのは初めてだろうけど、
なんといっても中央集権体制が確立された秀吉政権が全国各地から物資を収集、
それによって得た圧倒的な物量で北条勢を包囲、あるいは殲滅すると。
現地調達なんかしてないのよ。中世から近世へと移行しつつの過程で出来た商業網の大々的な活用で得ている。
これによって当時、上方から現場(この場合、関東ね)に物資を大量に輸送、販売することで商人たちはかなりの利益をあげたらしい。
例をあげれば、朝鮮出兵の米搬出の場合だと米相場の安い畿内などから米相場が跳ね上がっている九州に輸送
そして得た差額分が莫大な利益として商人の手に入る、金がものすごい量で動くから経済効果も馬鹿でかいと。
いわば、秀吉版バブル経済か。
要は、北条などは秀吉の敵でさえなかったってことさ。
実際、小田原城で戦闘なんて行われてないっしょ。秀吉は包囲しただけで勝ち、またお金もガボガボ儲かったわけで。
戦争=儲かるって図式があったんだろうね…
それを朝鮮でまでやっちゃったから、大変なことに…(´・ω・`)
そんな輸送と浪費を乱発、さらには生産者である男子を兵として送り出せば国力が大いに疲弊するであろうことぐらい、予測がつきそうなものだが。
66無名武将@お腹せっぷく:04/03/18 01:11
支城に対しては鬼のように攻めまくりながら小田原城に対しては徹底した兵糧攻めに
子供のころは萎えた気分になりながらも、これが大人のやり方なんだなと妙に納得した
記憶がある。
もし5万人が篭る小田原城に20万余の豊臣軍が力攻めを続けたら落ちたかな?
落ちないだろうな。 それ以前に秀吉の求心力がガタ落ちだろうけど。
力攻めする必要がなかったから20万しか集めなかったんだよ。
力攻めするんだったらもっと兵力をかき集めていたと思われ。
68無名武将@お腹せっぷく:04/03/18 01:41
秀吉は力攻めなんて滅多にしないからw
水攻めや兵糧攻めで飢えた人を見るのが好きなんですよ(謎
三木の干殺しと鳥取の渇殺しだったっけ?記憶があいまいで…

支城を攻めたといえば、忍城なんてすごかったんじゃないっけ?
城主不在の状態で石田三成に水攻めにされたが、それすらも撥ね退けて小田原開城後も抵抗し続けたっていう…
69無名武将@お腹せっぷく:04/03/18 01:58
力攻めする気は元から無かったろうけど、20万程度の兵力が動員できる限界
だったというのもあるだろうね。 配下の大名も面従腹背のやつらが多いだろうから
30万、40万の動員はさすがに無理だろう。
そう考えるとあの当時の小田原城は力攻めでは落とし様が無い城ということになるから
ある意味、城としては究極に行き着いたものといえるな。
いや、朝鮮戦役の予定があったので動員は控え目にしたという話だ。
71無名武将@お腹せっぷく:04/03/18 02:19
なんにしろ、信玄・謙信すらも落とせなかった城を正攻法で攻撃しようなんて考えはなかったはず。
そもそも、小田原征伐〜九州仕置きは秀吉政権の権威を誇示するためのデモンストレーションだったんだから
死人を無駄に出す必要はなかったわけで…その点、<<70で出ている説は生々しいねぇ
>>65
えと、小田原で戦闘は行われていますが・・・
例えば、三浦浄心が北条五代記で自分の小田原城での戦争体験を書いてるし。

あと、商人はもうけても全体が疲弊していくだろ。
一説によれば秀吉陣営もかつかつだったとか言う話もある位だし。
また、支城は陥落しまくって逝くけれど、
下田城や山中城が粘った場合、そう簡単に輸送も出来なくなるし。
>>64
当初の北条家では、中央軍の侵攻に先んじて、甲信越への出撃策が
北条氏邦を筆頭に提案されていた。

真田や上杉といった大名家を同時侵攻で各個に撃破し、そこで有利な条件で
和睦交渉に持ち込めるだけの戦果を得ようという算段であったらしい。
ここで、>>64の言うような伊達の後巻きを得れば、ほぼ万全だという見解で
あったものの、周知の如く、松田らの提案が採られて出撃策は斥けられた
と聞いてる。

これだけをみればわからんでもないけど、長久手で局地的勝利を得た家康が
秀吉傘下に入った時期とは中央の状勢が全く異なり、既にそんな御都合的な
展開は望めようもない状況であった事を、どうも北条家首脳部は認識しては
いなかったみたい。

要するに北条家の最大の誤算は、防衛戦略に問題があったわけではなく、
杜撰で稚拙な外交の末に開戦に踏み切った事。
>>65の言うように、この時期の経済効果が凄まじかったのも事実。
>>72
>下田城や山中城が粘った場合、そう簡単に輸送も出来なくなるし。

たしかに……。

秀吉との戦いでは、西部戦線の要である箱根峠の侵攻口にある山中城が
僅か一日で陥落して、これで防衛戦略は完全に破綻したように思われる。
南北に点在する支城網は領土の深さでカバーできるけど、西部では箱根峠を
抜かれると、小田原城まではあっという間だからね。

>>70
>控え目

というか、東方の大名ほど軍役を重くして、中央や西国の諸大名に課した
軍役をかなり少なくしたみたいだね。
無論、朝鮮を視野に入れてたんだと思う。
なんかアンカーが逆になってる人がいるな。

ところで、北条氏政の二度がけ汁の飯のエピソードって
確か毛利元就と毛利輝元のバージョンもあったと、どこかのサイトで見た事あるんだが・・・
実際本当にあったエピソードなのかな?
なんか氏政はこの手のエピソードがいくらなんでも多すぎる様に思うが。
しかも名将(氏康・信玄・家康ら)が氏政は暗愚と決めつけるパターンの物ばかり。
76無名武将@お腹せっぷく:04/03/18 17:35
氏規を後継ぎにしときゃよかったんだ。
>>76
はいはい。ゲームでそう選択しましょうね。
>>75
二度がけ汁の飯も刈ったばかりの米を飯にして食べようとしたのも、多分創作。
小田原評定なんて事実とは全然違う意味で残ってるしね。
おっしゃるとおり、二度がけ汁の飯エピソードは毛利バージョンもある。
後釜である徳川(幕府)の治世を正当化させるための、政治宣伝に使った線が濃厚だと思う。
氏康が幼少時に鉄砲の轟音に恐怖した話も、たしか創作だった気が。
そうなのか?それは初耳だ。
何気にあのエピソードが好きなだけに残念だ。
81無名武将@お腹せっぷく:04/03/18 22:47
ところで早雲の出生年って1432年が一般的だけど、
1456年説もあるらしいね。
つーか氏直も凡愚ってわけでは無かったみたいだね。
回りが慎重すぎただけで。
83無名武将@お腹せっぷく:04/03/19 00:06
山中城は大きく期待を裏切ってくれたよな。 障子堀とか使って当時最新の防御機構を持った
しかも北条領の最重要防御拠点のくせに一日で陥落かよ。
俺にとっては北条攻略戦における最大の疑問だ。
いったいどんな戦いだったんだ?
84無名武将@お腹せっぷく:04/03/19 00:09
物量が全てだった…としかシラネw
>>83
端的に言えば>84が全て。想定以上兵力で押し切られた。
確か、二万五千なら普通に耐えられる筈だったんだが、7万じゃな・・・。
8685:04/03/19 00:52
あれだけの説明ではなんなので補足、つか蛇足?

山中城は、その手のサイトを調べてもらえればわかりますが、
大きく本丸を中核にする地区と、岱崎出丸の地区と二つに分かれます。
本丸地区の弱点は東海道筋である南側でそれを補う為に岱崎出丸がある訳ですが、
いきなり岱崎出丸が落ち、丸裸になった三の丸が落ち・・・ 後はご想像にお任せします。
とはいっても、北条もやられっぱなしだった訳ではなく、
秀吉の信任厚い一柳直末を戦場の露にして、秀吉を嘆かせてます。
いちおう、>>86に補足させてもらう。

>>83
山中城には、当初は松田康秀が城将として配置されていたところを、
戦力不足ということで、北条綱成の孫で氏繁の次男である、玉縄城主
北条氏勝や間宮康俊のほか、朝倉、行方、池田、山中、推津らを加勢
として送り込んでおり、四〜五千ほどの城兵が篭もっていた模様。

攻城軍の方は、豊臣秀次を大将とし、中村一氏、堀尾吉晴、山内一豊、
一柳直末ら、秀吉の子飼いで構成されていて、兵力は三万五千、五万、
七万あたりと聞いているけど、最低でも七〜九倍もの戦力差があった。

戦闘は午前十時頃に始まり、まず>>86の言うように、山中城の急所で
東海道脇を扼すかたちで西方に突き出た岱崎出丸が僅か二時間で陥落。
それでも序盤では城方も健闘し、>>86にあるように一柳直末を討ち取っては
いるものの、夕方には山中城そのものが陥落し、城主・松田康秀をはじめ
間宮康俊ら主だった将のほとんどが戦死し、かろうじて北条氏勝ら玉縄衆が
僅かに脱出して玉縄城へ敗走らしい。

>障子堀とか使って当時最新の防御機構を持った

とあるように、山中城は豊臣軍侵攻の実に一ヶ月前まで補強工事が続け
られていやうえ、北条方の膨大な支城群のなかでも城兵の数では最多で
あったものの、やはり、陥落の要因は圧倒的な兵力差、の一言。
この山中城を抜かれると、小田原城までの距離は20qに満たない。
数日後には箱根峠のもう一方の命綱である足柄城も陥落し、このことから
いかに西部戦線の防衛が重要で尚且つあっけなかったかがわかる。
一門や重臣のふがいなさに対して中堅や陪臣の奮闘が目立つ悲惨な籠城戦でした
>>88
それをいっちゃあおしまひ……
忍城の成田夫人を筆頭に玉砕した八王子城や岩槻城など
居残り組の結束の強さは見上げたもの

つーか松田ぁぁーーーあ!!
オンドゥルルラギッタンディスカー!!
>>88
北条氏規の韮山城を忘れてくれるなヽ(`Д´)ノ
>>91
韮山城の征討軍は徳川軍が主力となっていて、攻城戦でもあからさまに
手心が加えられてる。
秀吉の方でも、家康と氏規の友誼や氏規自身が反戦派であった事情を
組んでか、他の征討軍諸将へほど督戦していないようだし。
93無名武将@お腹せっぷく:04/03/19 17:27
それにしても一日で落ちた城なんて結果論的に言えば無意味に近かったな。
5千くらいの戦力ならただの山のてっぺんに陣取ってても一日くらいならどんな大軍でも
足止めできそうだし。
おいおい、12〜14.5倍の兵力相手になんだからさ・・・。
95無名武将@お腹せっぷく:04/03/19 18:31
まあ山のてっぺんだから素通りされるかも知れんが、それにしてもだ。
96無名武将@お腹せっぷく:04/03/19 22:52
結局中部以南の全ての大名が傘下の秀吉陣に、たかだか関東圏内のみの北条家が刃向かったのが
運の尽きだったんだね゚・(ノД`)
北条家、哀れなり〜
北条家に猛将がいなくなったからいけないんだよ
一つ皆に聞きたい。


どこらへんが小田原びいきなのだ?
専用スレくらい良い思いをしてもよさそうなのに、これが現実か。
99無名武将@お腹せっぷく:04/03/20 00:49
>>98
ファンスレかと思いきや・・・
氏政を話の中心にするからこーなる。
最初の三代について語ったほうがいい話が出てくるのでは?
ファンからも叩かれるのか氏政、アワレなり
しかし北条五代で一番好きだからちょっと寂しい。

小田原びいきの話が出来そうな前三代中心に語りますか・・・。
101無名武将@お腹せっぷく:04/03/20 04:52
でも全土を挙げての戦国史上最大最後の戦いを演じることができたんだ。
しかも最高責任者の命と引き換えに城兵を飢餓に苦しませる事無く潔く滅亡を選んだ。
まさに、名誉の極みではないか。

武田なんかとは訳が違う。  
102無名武将@お腹せっぷく:04/03/20 07:28
後北条といえば両上杉と里見ははずせないわけだが・・・未だに出てきませんな。

しかし話は変わるが関東管領の権威ってのはすごいね。
河越の夜戦の時といい、謙信襲来の時といい、あっという間に十万強の軍勢が集結する。
関東武士にとってよほど特別なものなのだろうか?
のぶやぼで最高クラスの評価を貰う当主が3人続いた後だから
並の能力でも並以下の評価になっちゃうんだろうな>氏政
氏康は彼を前線で鍛え抜こうとかしなかったのかな

>>97
絶対的なエピソードが足りないだけじゃない?
逆に言えば武田家はこれでもかと言うほどエピソードが満載だから
ああなってるんだろし
>>103
氏康が健在なときは結構つれ回していたっぽいけど。
有名なところでは国府台や三増峠に出陣してる、
もっとも三増峠には間に合わなかったけど。
>>97
北条家にも猛将はいますが何か?
豊臣軍の侵攻に際しても、果敢に抵抗して玉砕した城には、
勇士は山ほどいましたが何か?
創世PUKでも北条早雲のシナリオ出ないみたいね
かっくし
師岡将景・朝倉能登守・間宮康俊・中山家範・「赤鬼」松田康郷・土岐頼春(他国衆だが)
好きな将をざっとあげただけだが、良将はこれ以外にも山と居る。
結局、北条の将が知られていないのは
北条(に限らずだが)の知名度の低さとエピソードの少なさが原因にすぎない。
>>107
中山家範を挙げるなら、共に奮戦して散った、狩野一庵をお忘れなく。
中山・狩野の戦いぶりはそうとう凄まじかったみたいで、戦後、その子息が
家康に取り立てられてるね。

他にも、妹尾下総や片岡源太左衛門、鈴木大学などなど、多くの勇者が
いるんだけど、やはり知名度は低いのかね。
妹尾下総なんかは本多忠勝の嫡子とも戦ってるみたい。

もっとも、>>107>>108に挙げた人物は、陪臣クラスの将というよりは「士」
という位置付けになってしまうけど。
狩野一庵もいいが、近藤綱秀もいいな、総じて八王子籠城組はカコイイ。

何を持って「将」とするかだが、城主・城代・家老クラスは「将」でいいんじゃね?
狩野一庵は八王子籠城組のトップ、土岐頼春だって一族を率いる当主。
間宮・師岡・中山・朝倉・近藤なども規模は小さいとはいえ部隊の指揮者なんだから。
>>109
すまん。
実は自分で書いておいて、>>108の書き方だと全員を「陪臣クラス」として
しまってる感じで失敗だと痛感。

にしても、「これぞ板東武者」ってな感じで勇ましい連中ばかりだ。
寝返った不届き者も数多くいるのが辛いとこだが……。
スレタイと>>98-101あたりに沿った進行がしたくとも、でてくる話題といえば
どうしても、豊臣軍との戦い〜御家滅亡、がメインになってしまうね……。

つうことで、そこから離れた小ネタを少し。

西国の雄・毛利家では安国寺恵瓊という僧が有名だろうけど、北条家にも
板部岡江雪という僧がいるのは有名なんではないだろうか。
この江雪、弘治年間初頭には既に北条家奉行のひとりとして活躍しており、
外交でも武田や徳川、豊臣との折衝にあたってる。
氏規が上洛しているのは有名だろうけど、実は江雪も、真田との領土問題で
上洛していたりする。

ゲームでは一貫して「板部岡江雪」の名で登場しているけど、元は田中姓で
改姓したのは氏政の代で、しかも出家したのも永禄年間末期だったりする。
ついでながら、伊豆諸島の江戸時代の流刑地で有名な八丈島、これを統治
していたのが、この江雪だったりする。
発見されたのが早雲の時代らしく、江雪自身も伊豆の下田の生まれとか。

しかも、北条家が御家滅亡の憂目に遭って後もしぶとく生き残り、秀吉の
お伽衆、徳川時代には旗本として家が存続したというから、なんか凄い。
ということで弘治年間から逆算すると、かなり長命みたい。
嘘か真か知らないが、
執権北条家の流れなんだね >江雪

ていうか、関ヶ原の裏工作にも携わっていると言うのは本当かね?
江雪は甲陽軍艦のせいで損してるのかなあ

猛将なら清水&大藤親子も忘れちゃイヤン
また少し、小ネタ。

現代でも一級史料として有名な、「北条氏御領役帳」。
これが正式に制定されたのは、御周知とは思うけど、氏政の代。
といっても、家督継承間もない頃で、氏康がまだ健在で影響力も大きい
だろうから、草案の大部分は氏康の代に出来上がっていて、あえて氏政の
事績としようとした氏康の配慮かもしれないが。
ついでに所領貫高の筆頭は、当然かもしれないけど北条幻庵。
重臣筆頭と目される松田憲秀もはるか及ばなかったらしい。

話は変わって、とかく評判の悪い氏政だけど、家士や兵卒には優しい一面が
みられるのも確か。
戦功のあった者への行賞も気前がよく、吝嗇といわれた家康とは大違い。
また、長期の対陣の末に和睦が成った際など、敵の撤収を山頂から俯瞰しよう
とした家臣に対し、追撃の誤解をあたえるとして戒めるなど、細かい配慮も
ないわけではないらしい。


……つうか、他にもっと詳しい方、いないの?
成り上がりも四代目ともなると名門の風格が出てくるんだな。
家康は、厳密には違うけど事実上は一代で成り上がったようなもんだし。
>>115
たしかに、関東で他家との動員力が隔絶するのも氏康〜氏政の代だね。

第二次国府台合戦も、当主が氏政に変わってから。
この勝利で安房の脅威が払拭され、しかも江戸の有力な在地豪族の
太田氏を駆逐することに成功してる。
江戸衆筆頭といえば遠山氏が挙がるけど、確固とした支配基盤が構築
されたのはこれ以降のようだね。
上野や上・下総への進出も果たしているし、中央情勢への対応云々を
抜きにすれば、氏政は、地方の覇者としてそれなりの当主だったとは思うん
だけどな。
成り上がりっていうけど、
早雲(伊勢盛時)が幕府の申次衆として政権に関わっていたってのが最近の定説。

はっきりいって、家康なんかよりも
伊勢氏のほうが家格が全然上。
……ということで、詳しそうな>>117、このスレで存分に北条家を
語ってやってつかあさい。
119無名武将@お腹せっぷく:04/03/23 02:16
氏政、大人気だな。
北条一の猛将を五代を俯瞰して選抜すると誰?やっぱり綱成?
「勝った!勝った!」と叫びながら敵陣に突入したという北条綱成
自己暗示でパワーアップしてたんかい?w
122無名武将@お腹せっぷく:04/03/23 03:04
なんかこのスレ、北条の話をしたくて仕方ない人が一人で頑張ってる気がする。
だがそれがいい
>>122
すまん。それ、きっと自分。
不当な扱いや評価に終始している対象ほど、陽の目を見せてあげたくて……。
>>120
氏照を推す。
そんな馬鹿な、と思われるだろうが。
ここで甲斐御前を押してみようか
http://news5.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1080132354/
もしも「伊豆北条市」だったらなー・・・
128無名武将@お腹せっぷく:04/03/25 01:52
>>127は後北条関係じゃないじゃんかYO!と突っ込み。

猛将といえば、やっぱり綱成…かねぇ。
一番、華々しい合戦…というか北条家のハイライト?
寡兵で大群を撃破したときに最も大活躍した人間…だからね。
川越野戦の兵力差…オソルベシ(;´Д`)
8000対50000だっけ?資料が手元にないので詳しい人、よろしかったら教えてください〜
河越夜戦の後詰め勢8000は氏康の指揮下で、夜襲時は氏康自らの切り込み。
綱成は朝倉能登守・師岡山城守ら兵3000と共に河越城に籠城中。
上杉勢の数は、諸説あるが85000。
だが、これは頭の隅に置いといたほうがいい。

河越野戦は無かったせんが濃厚。
「○○はなかった」って言い出すやつはどこにでもいる。

河越夜戦は裏付けとなる史料が乏しいというのは聞いたことあるけどさ。
>130
資料が乏しいし、書いてあってもそれぞれに記述がバラバラ(日時・場所や夜襲か否かなど)。
特に、比較的良質な資料で夜戦と断言しているのは喜連川判鑑だけ。
また、あれだけの規模の合戦なのに感状が偽造一通のみ。

何度かの河越城近辺で起こった戦いが一日に、一カ所にまとめられたって説が有力。

まぁ、信用するかしないかは任せますが。
ttp://www.alpha-net.ne.jp/users2/kwg1840/yasen3.html#kankassen
ふむ。実際行われたか否か…分からない、か。
北条家の歴史のなかでも一番カコイイところなんだけどねぇ。
資料が少ないってのが致命的ですなぁ

となると、北条側が時間節約のために敵の首をとることを禁じたって話は川越夜戦の辻褄合わせをするためのデマか?
ファンとしての言い分でなんだが、なんとも寂しい話じゃのう(´・ω・`)
第二次国府台合戦ですら、二回の戦いを二日にまとめられたって説があるしね。
しかし、国府台合戦と河越夜戦は後北条でも特に見せ所なのに(´・ω・`)
いいのいいの長期的展望で領国を拡大するというのが後期の後北条のやり方ですよ
故に人気が無いわけだが(´・ω・`)
戦術的勝利よりも戦略的・外交的勝利の方が比重が重いよね。
でもそれって凄く人の目に留まらないやり方だよな(´・ω・`)
よく言えば堅実、悪く言えば地味。
よって、後期後北条は目立った(華々しい)合戦もないと。
武田、上杉と関東に力をもっていた勢力は減退し、ほぼ北条の独断場だったから仕方ないといえば仕方ないが…。
北関東弱小連合&佐竹が積極的に北条と争っていたら、もうちょいファンが増えたかもね〜(謎
目下の敵、武田・上杉の驚異を排して、徳川と結んだことで
危ない橋を渡る必要もなく関東制覇へ乗り出せたからね。
里見も屈服に近い和睦を結んじゃってるし。
北関東連合(暴走族みたい)も積極的に下手に戦ったら即滅亡くらいわかってただろうし。
故に、独壇場、それがいいんじゃないか!

伊達政宗じゃないけど、あと10年豊臣秀吉の小田原征伐が遅れていたら・・・
北条といえば養子縁組によるお家乗っ取り政策、つーのもなんかなあ・・・
でもあれだけ一族がいても皆仲が良いのはいいことだ
でも、元就の両川のっとり政策はあんなに大々的に激賛されているのをみてると…
なんだ、この格差は!ヽ(`Д´)ノ

景虎以外にも、氏照や氏邦もお家乗っ取りのために養子に出してるのだが。
マイナーなのか。かなり悔しいですなぁ(´・ω・`)
養子縁組によるお家乗っ取り政策は常套手段でしょう。
長宗我部→香曾我部・吉良、武田→諏訪、織田→神戸・北畠・・・

ただ、両川マンセー、他はシラネってのはあんまりだと思う。
武田が破約して駿河に侵攻した際、形式的に氏真を養子として
駿河の領有権を主張した、って話がなかった?
たしか氏直が氏真の養子になった
しかし名目だけとはいえ嫡男を養子に出したら
北条の家名はどうなってもいいんかと小一時間ry
地道な外交、堅実な戦略、アットホームな一族。
それがいいんです。
144無名武将@お腹せっぷく:04/03/26 19:53
>>142
て言うか何の臆面もなく「北条」を名乗ってるくらいだし…
実際、本家が今川の名をを継いで、
「北条」の名は一族の誰かに継がせても構わなかったのかも。
長尾>上杉みたいにそうなってもおかしくなかったのかね
ネックは氏直がまだ当主ではなかったことと
なにより甲相同盟の復活か
>>142
いいんだよ。駿河切り取ったら
どうせすぐに北條に戻すんだから。

大石氏照とか藤田氏邦みたいに
サラっと何事もなかったかのように
ありがちだ。(w
でも「今川」はネームバリューあるから、ことによると?
となったら養父氏真くんはやっぱ毒殺ですか(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
>>148
蹴鞠に火薬入れてドカン!です。
蹴鞠テロキター(謎
でも、氏真dは幽閉くらいじゃね?
北畠の某氏のよーに、病死一年前くらいで開h(ry
生かしておいても、あんまり害はなさそうだし。
むしろ、蹴鞠を各地の大名や公家に見せる回遊の旅を支援してやればいい。
もちろん、蹴鞠を見せるだけでなく情報収集・外交のパイプ構築など裏でやらせれば( ゚Д゚)ウマー
>>151
それが一番実用的だよなぁ。
歩き巫女みたいに使えば良いんだしねぇ。
今川と同じく娘の嫁ぎ先の古河公方は
一生幽閉されたんだっけ(途中で戻された?)
藤田なんちゃら違って名家は軽々しく殺せないか
上杉憲政の息子はバッサリ斬ってるけど
山内上杉は敵だったからね。
同盟者だった今川や利用価値のある古河公方とは事情が違う。
氏康に息子を殺された上杉憲政が
御館の乱では氏康の息子を支援して殺されるというのもああ無情
>>146
氏邦はずーっと藤田ですよ。。。。

でも、氏直の養子は姓が「平氏」から「源氏」ですね。
苗字は北條や今川でなくとも、相模(北條時行)や伊豆(源頼朝)などでもww
>>155
支援というか…
乱時にたまたま景虎の館に滞在中していて
そのことを弁明をするために景勝にもとにいったら誅殺された…って話では?
憲政は死ぬまで、その暗愚さを発揮してたと。
氏政ドコロジャナイネ!ヽ(´ー`)ノ
家来筋の長尾に頭を下げて家名を守った憲政
関東の覇者の矜持をもって家を潰した氏政
武士の生き様としてどちらが上なのだろうか・・・
>>158
忘れるな、憲政は自分の祖父(といっても父親の義理の親だが)の仇に頭を下げたことを。
どちらも風の前に舞った存在だが、塵と桜ほどの差があると思うが。
為景たんが修羅の道を逝きすぎた結果です。
主君筋二人を殺害…下克上気質が高すぎやね(;´Д`)
後北条三大if
1、憲政を越後に逃さなければ・・・
2、景虎が上杉を継いでいたら・・・
3、名胡桃を攻めなければ・・・
>>161
名胡桃よりも富士川で迎撃していれば・・・

もう少し長く篭城していたら・・・もありえるぞ
三増峠で氏政隊が間に合っていたら、とか
徳川戦で氏直の策が容れられていたら、もある
氏康がもうちょ・・・・・・・




ごめん、なんでもない
じゃあ、氏政がもうちょっと早く死んでいたらどうなった?
氏直は親豊臣派だし、(未知数な部分が多いけど)開明的っぽいし。
突然だが俺は現在、玉縄城の支配領域に住んでいるわけだが
(その前は足軽衆・大谷帯刀屋敷そば、さらにその前は玉縄城下)

この中で旧・北条領居住、もしくは出身者はどのぐらいいる?


…いや、やっぱり北条好きは、南関東人が多いような気がして
ノシ

大石(氏照)氏管轄下、南埼玉居住。だから八王子衆びいきです。
もちろん扇谷上杉氏も好きだけど。
前どっかに書いたんだけど、ガキの頃遊んでた空地の一角が
旧興国寺城跡だと知ったのは大分後になってからだった
興国寺城跡か…遊べるトコロなら比較的恵まれてるんじゃ?
漏れの地元なんて、城の石垣の上に県庁が建ってる罠
まぁ、当時の厩橋城は利根川に流されてるから、直接の関係は薄いんだが…。

よって、微妙に後期北条領?の上州在住者。北条も好きだが上杉、武田も好きと。
どっちつかずの小豪族割拠地なんで、察してください(謎
ちなみに某頭○字Dの最新刊で、微妙に石垣がでていた…ような?
関西人だけど北条好きですyp

この辺はあれだな、豪族が支配していた土地みたいだ・・。
171無名武将@お腹せっぷく:04/04/03 01:18
箱根に遊びに行って以来の小田原びいきです。
今年ももうすぐ北条五代祭りですね。
氏康公は中風でなければとかよく思いません?晩年の公は精彩を欠いてますよね。
公の病状日記とか興味あるんだけど、誰かもってないよねw
ボクは世田谷区に住んでいます。
だから吉良氏朝が好きです。
北条なんか吉良のけらいだと思います。
なのに北条は調子に乗りすぎです。
五代祭りか・・・一回行ったけどあんま覚えてないや
ちゃんと五色備えで出てくるんだっけ
>>169
上州人なら里見に肩入れしなきゃ。彼等は榛名町出身ですよ。

…このスレでは敵方だけど。
五代祭の氏照は八王子市長が努めることになってるの?
177無名武将@お腹せっぷく:04/04/05 09:49
アマゾンで歴史群像のムックを注文したら配送は
一ヶ月後て・・・

北条への興味が維持されるか心配・・・
>>177
それは妄想と信長の野望とこのスレで維持するように。

でも配送が一ヶ月後なら本屋なり古本屋なり巡った方が早そうだ・・・
>>169
ふむ、里見か…ざいz(ry
このネタも既に過去のものに…

ところで、里見はなんで小田原征伐に遅参したの?
仇敵を倒す絶好の機会…と捉えて、むしろ津軽や所沢並の足の早さで秀吉の下へはせ参じて不自然じゃない気がするんだが…
まぁ、前者2家は無駄に早すぎるんだが…
>>178
注文を確定してから確認したからビビったよ
>>179
又聞きで恐縮だが、里見は当時北条とは従属というか同盟というかそんな関係にあったので
義理立てしたとか何とか。
ところで、所沢って誰?
>>179
いよいよ宿敵だった北条を倒せるってんで狂喜して、三崎水軍と戦いたいわ、
鎌倉にも上陸してみたいわ、なんてやりたいことが多すぎてつい我を忘れて大暴れ。
で、気付いてみれば、あれ?遅刻してるじゃんw

>>181
>所沢

戸沢のことだろ?多分。少なくともダイオキシンは関係ないと思う。
所沢盛安・・・西武のバーゲンみたいだな
184179:04/04/07 21:57
いってるとおり、所沢→戸沢で脳内変換ヨロ。
そういえば当の戸沢、参陣したのはいいが歴代戸沢家屈指の猛将だった当主の盛安が小田原役で夭折したんだよね…御愁傷様です。

>>189の言うとおり、北条とは従属同盟のようなものを結んでいたはずではあるが
仇敵に従属同盟を結ばされた、という形式であった以上それを義理立てする必要はないのではないかと思ったのだが…
とりあえず結局は北条を見限った里見とちがい、従属同盟という形ののまま最後まで北条と運命を共にしたという千葉家に乾杯!(謎
185179:04/04/07 22:04
189じゃなくて、181でせた。板汚しスマソ。まさか、未来のレスに俺は反応したのか?(;´Д`)

って、>>182がいいこと言ってるじゃん。
>181-185
じゃ、間をとって
家老A「よっしゃ、今こそ積年の恨みを晴らすとき(・∀・)アヒャ!!」
家老B「幾らなんでも節操なさすぎだろ、一応様子見を・・・」
家老A「( ゚Д゚)ハァ?、寝ぼけてんじゃねーよこのヴァカ」
家老B「馬鹿っていった方が馬鹿なんだぞこのチンカスが」
・・・・

って感じでどうだ?w
>>184
ついでに何を血迷ったか、この期に及んで北条氏に味方する
小山氏にも乾杯!
千葉氏は非常に滑稽だよな。
いつのまにか重臣共が勝手に北条家臣になっていやがるw
で、それを抑えようとした主君は暗殺。見事な下克上で後継ぎは幽閉、
更には北条家の養子が・…まっ、イイか。乾杯!

でも自称無敗の謙信軍を破ったりもしてるんだよなあ>千葉氏
上杉里見連合軍撃破?おのれ、さすがは昌胤やりおるわ(謎
あれは知恵入道臼井浄三と鬼孫太郎松田康郷の功績
・・・って軍記物読みすぎ?
おお、赤鬼康郷か。
軍記物といわれようが、あれはカコ(・∀・)イイ!!
ま、日本史上に於ける千葉氏の著名なエピソードっつったら、
敗走した頼朝を保護したってことくらいだろ?
戦国時代に入るころには、勢力がすっかり衰退している…なんてお決まりのパタン。
まぁ、上杉相手に華々しい活躍をしたってことだけでも儲けものっしょ。
北条家の手駒としてもそれなりに役にはたったんだし、な。
千葉氏勇名age
195無名武将@お腹せっぷく:04/04/14 13:02
sageてしまった…
196無名武将@お腹せっぷく:04/04/14 19:27
北条って言ったら箱根殿でしょやっぱり!!!
そういえばちょっと前に話題に出てたけど、北条水軍って強かったの?
武田家臣時代の岡部某が圧倒的兵力差を撥ね退けて、北条側を敗走せしめたって聞いたことがあるんだが…
北条水軍って基本的に傭兵だろ
傭兵ったって雇うたびに強さが違うわけでもないでしょ。
強かったの?弱かったの?
新式の水軍を編成してからは 北条>里見
それ以前は 里見<北条
201無名武将@お腹せっぷく:04/04/18 15:04
>>200
ビフォー・アフターで同じじゃねーかw
ま、周到な準備は必要だって事ですよ。
その準備をする国力差が最終的な優劣を決めた訳でしょう。
浮島の戦い(天正11)では清水・梶原・富永・山角のメンツで
武田水軍(岡部・向井・小浜・伊丹)を破ってるらしいから
兵は水物ってことで
天正11には武田は滅亡してるはずだが
駿河沖の水軍のことを「武田水軍」って呼んでるの?
205無名武将@お腹せっぷく:04/05/01 20:37
>>203
ttp://www2.harimaya.com/hozyo/sen_masa.html
↑のを参考してみると、それらしきものは天正8年と書いてあるから203のは誤植じゃね?
206無名武将@お腹せっぷく:04/05/16 11:05
age
梶原景宗ってなんかすごいね
紀州からどういう伝手で招かれたんだろう?
208氏規:04/05/17 08:08
みなさん、4代目当主選挙にこのワタクシに清き一票を!!
北条を潰しません!!無くしません!!兄ではこの先は暗いですよ!!
氏規が継いでいたら氏政よりかは徳川とも仲よかっただろうし
秀吉に喧嘩吹っかけなかっただろうに・・・
兄を蔑ろにする氏規なんて見たくない。
>>92
遅レスだが韮山城攻略にあたったのは織田信雄や
蒲生氏郷、福島正則、蜂須賀家政ら。
家康は降伏勧告の使者を出しただけ。
調べたらそうみたいだ。すまんかった。
織田信雄ってよっぽど無能なんだねえ
214無名武将@お腹せっぷく:04/05/21 04:48
氏康乙
215五色備え:04/05/21 09:10
北条綱成・・・・(゚∀゚)
多目元忠・・・・(・∀・)
富永直勝・・・・(`・ω・´)
北条綱高・・・・('A`)
笠原綱信・・・・(-_-)

どうも・・・アレだな

216無名武将@お腹せっぷく:04/05/21 12:40
217無名武将@お腹せっぷく:04/05/28 23:10
    __           λ__λ
    |  |<オダワラ〜♪∠___\ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  / ̄ ̄ ̄ヽ        │´∀`│< おだわらおだわらおだわら
  ( 冫、   )     ∠ ̄Λ ̄Λ ̄\\__________
  ( `     )       │V V │
  ヽ___ノ      ∠ ̄Λ ̄/\\
    |  |        │V_|且|  ___
     ̄ ̄        /┼┼┼|≡|\(゚Д゚)  )ヲタ藁
                      / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\∩∧ ∧   | ・ U      |  <  おだわらだぞう〜
いくぞ〜おだわら! >(´∀`)/  | |ι         |つ  \________
________/ |   〈  U||  ̄ ̄ ||
              / /\_」
>>217
ワラタ
219無名武将@お腹せっぷく:04/06/13 20:04
age
220無名武将@お腹せっぷく:04/06/18 19:44
相当、放置されてるな。
ところで、幻庵が嫁に出る姪だか何かに書き残した掟書きみたいなのがあった気がするんだが、
一体どうゆ内容だったんだ?
221無名武将@お腹せっぷく:04/06/18 22:12
 
222無名武将@お腹せっぷく:04/06/19 03:24
隙あらば夫を殺す
夜の四十八手
(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
>220
「戦国の城(上)関東編 学研」の世田谷城に二十四箇条からなる内容の一部分の要約が載っている。
内容はダンナを「おやかた」と呼びなさいとか、風俗慣習について書いてある。
(´,_ゝ`)
227無名武将@お腹せっぷく:04/06/26 18:32
幻庵といえば北条家中の重鎮であり、箱根権現別当
だった時期もあったことから、宗教界においても
大きな力をもっていた。風魔一党の本拠地が箱根
だったことを考えると、この組織も幻庵の配下だった
のかも知れない。
228無名武将@お腹せっぷく:04/06/27 13:36
コーエーももっと幻庵の能力あげろよな〜
政治とか知謀とかは結構優遇されてるでしょ。

武でも弓術の達人だったよな >幻庵
でも、パッとした戦歴無いんだよなー。
国府台で血なまぐさいこともしてるんじゃなかったっけ?
早雲の実子なんだから、采配も悪くはなかったと脳内補完。
231無名武将@お腹せっぷく:04/06/30 00:39
上野で最初に謙信と対戦したのが幻庵。
平井城に篭ってよく防いだが、場内で疫病が
はやりだしたため撤退。
北条一族ってお家騒動一件もなかったのかね。
無いっぽいね。
四方ほとんどが敵だから、
内輪もめしている暇が無いってのも一つの要素だろうけどね。
お家騒動というのは、得てして家臣間の対立が仮託されている。
新興の大名家で、根深い対立構造や厄介な既得権益を持った家臣が
育ってなかったという要素もあるのでは?
あとは、評定のおかげかもね。
評定を頻繁に行って意見を刷り寄せていたから、
問題が発生しても大きくならない内にある程度処理できていたのかも知れない。
決定的に対立した対豊臣以外は、上手く機能していたようだし。
内輪もめじゃないけど、駿河葛山氏は早雲の子が養子に入ったんだよね
同盟破綻時に武田方に付いたのは、どんな事情があったんだろうか