930 :
最近荒れているように見えるが?:04/05/22 12:42
>>927 >>926のレスを読みましたが、
特に礼儀を逸しているように見えないのですが?
あなたの方が高圧的かと?
あと、北条のことを書いてないのもいただけない様に見えるが、
俺の思い込みかな?
謙信は関東へ何しに来ているんだ?
何か成果はあったのかな?
931 :
日本@名無史さん:04/05/22 13:36
>>930 >謙信は関東へ何しに来ているんだ?
権威を失ったとはいえ、関東管領職。
義を重んじ、関東管領の威信を回復するべく、
関東へ出兵しちゃわるい?
略奪のため
威信回復も出来て無いしなぁ・・。
934 :
日本@名無史さん:04/05/22 21:09
>>930 越後国内を治めるために何らかの権威に
すがろうとしたんじゃないかな。
一般的に義を重んじたといっているけど
それだけじゃないと思うんだよね、当然だけど。
関東管領の威信回復なんか二の次だと思ふ。
935 :
日本@名無史さん:04/05/22 21:17
ちと、話が変わるが、江戸時代も北条家が大名家として存続し、明治まで健在だったことは、このスレに来るようなお前らなら全員知っているよな。
936 :
日本@名無史さん:04/05/22 21:21
明治までですか?
今は存続していないんですか?
今も確か狭山系の北条氏の末裔さんはいるよ。
墓参りには余り来ないけどね。
何処か忘れたけど北条氏の宝物などが
公開された時にセレモニーっぽいのに参加してた
>>935 何の疑いも持たず「きたじょう」と読んで
「北条毛利家は大名として存在してたのか!?」
と思ってしまった。
……ここを何のスレだと思ってるんだ……
>>935 子どもの頃は遊園地という認識しかなかった。
941 :
日本@名無史さん:04/05/23 02:00
秀吉に滅ぼされた北条家も、陶晴賢に滅ぼされた大内家も、斎藤道三に滅ぼされた土岐家も、江戸時代大名家として存続しました。
ただし、大内家は「山口」姓を名乗りました。
氏直も信玄の血が流れてるんでしょ
どうして信玄の子孫はバカばかりなの?
943 :
日本@名無史さん:04/05/23 02:29
>>941 江戸大名の土岐家はもともと菅沼氏。もっともその前は明智氏。
同じく山口氏も自称大内裔。根拠は無い。
体調が悪いのでぅぃらぅホスィのぅ〜
前々から思ってたんだけど、そのぅぃらぅってなに?
〔純正生薬製剤 家伝霊薬 透頂香(とうちんこう) ういらう〕 〜以下説明書による
概歴
祖先は 、元の順宋に仕へ大医院となり礼部員外郎といふ役であったが明が元を滅ぼすと二朝に
仕へる事を恥じて日本に帰化して陳外郎と称した。其の子宋奇が後小松天皇の御代足利義満の
命に応じて明国に使いして家宝の「霊宝丹」を伝えた。効能顕著であったから、朝廷、将軍家をはじめ
皆之を珍重した。これにより時の帝より「透頂香」の名を賜った。透頂香は時とともに益々霊薬の名高く
陳外郎の薬と申すところか此薬を外郎「ういろう」とも呼んだのである。上 述のごとく、五代目が早雲に
招かれて小田原に来住し「八棟造」の家屋と共に小田原の名物として有名になった。
又歌舞伎十八番の「外郎」としても十辺舎一九の弥次喜多膝栗毛によっても遍く知られる処である。
「ういろう」は日本で最古の歴史を持つ薬である。
特徴(一部抜粋)
純正生薬製剤であるから副作用、習慣性がない。慢性病・胃腸・心臓・気管・乗り物酔い・感冒・食中毒等
その他広汎な薬効を有する。長年経っても変質する事なく遠路の地に携帯するに便利。
旧東海道 道草ハイクより抜粋
小田原評定で小田原の名を汚した北条
地元では知名度では名古屋に負け
毒にも薬にもならないし、うまくもなんともない
グニャグニャな外郎の名を借り
すげさんでいます。
小田原市役所市制便りより抜粋
いや、小田原市が恥ずべきは
小田原評定でもういろうでもなく、
あ の 動 物 園 だ
949 :
日本@名無史さん:04/05/24 22:52
小田原は昔から地震が多い。
950 :
日本@名無史さん:04/05/30 18:36
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|_ _| L]\| .| \. ̄ ̄| | | | ̄ ̄./ ...|_| |_|
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|__,| \r'' |___|ヽ,.r.・:,".\ ∨ /・:`)"`). /□ ./□
・., \ー'"\ ;・\,,.r─''"゙゙`‐-、/ r''⌒`/ ,--、・// .//,..
・''"⌒ヽ、 {"∴ \ r''`"r、r-'''`ヽ、,, `) /''"⌒r''"`` /r''"
,,.-\. /■\ ∧∧ ∧_∧ ∧∧ ∧_∧ -、,,_
.",.r''" (´∀`∩) (*゚ー゚) ( ´∀` ) (゚Д゚,,) (・∀・ ) `・
(つ 丿 とと ./ ⊂ つ(| つ ( つ
( ヽノ 〜 / / ∧ \ | 〜 .| ト、 \
あんなに狭いとこに入れられた象さんがかわいそう
ゾウたんは1度ノイローゼになったでつ
>>897 関宿は当時の河川流通の要(江戸湾=大日川=古利根川と銚子沖=現利根川の集結地)
鎌倉街道も近くを通っていて、陸路にも申し分ない。
>>904 当時の渡は妻沼(=長井)にあったから、上野に出るのにも問題ない。
関宿に首府があれば、由良や佐野への牽制にもなる。
信長は安土に居城を移した後、武田氏に東美濃を攻め取られているから
安土遷都と徳川との同盟は関係ないよ。
長政が生きてるうち、北近江が浅井朝倉の勢力圏だった間の安土遷都はどう考えても無理
鈴鹿ルートじゃ大軍動かせないからね。資質なんか関係ない。
954 :
日本@名無史さん:04/06/03 23:24
保守age
ぅぃらぅ ドゾー(・∀・)つ∴
956 :
日本@名無史さん:04/06/12 15:02
小田原開城まだー?
>>956 あと一ヶ月ばかしあとですよ、我慢しなさい。
そろそろ白装束を着た片目の奴が来るからそれでも見てニヤニヤしてなさい。
>>953 鎌倉街道って、街道はそれだけじゃないだろ。
東海道・甲州街道・鎌倉街道など四方へのびる陸運に
江戸湾の海運、北部関東への河川流通が集中している。
また前線からそれなりに近く、かつ行政に差し支えないほど離れている江戸の方が
首府としては最適だと思うが・・・。
ていうか、結局移転しなかったんだからもうよくね?
胃が痛いのでぅぃらぅで落ち着きたいところですなぁ
960 :
日本@名無史さん:04/06/23 00:06
>>924 どっちも通説ばかりで、
最新の研究が入ってないのが不満。
足利茶々丸が甲斐へ逃げて
そこで滅ぼされたことや、
早雲の没年が88歳ではないことは
ほとんどわかってきているんだが。
961 :
日本@名無史さん:04/06/23 17:07
>>961 >足利茶々丸が甲斐へ逃げてそこで滅ぼされたことや……
えっこれは知らなかった! 詳しく教えてください!
甲斐の誰を頼ってどこいらへ逃れたのですか?
甲斐で茶々丸を滅ぼしたのは、宗瑞が兵を率いて甲斐に攻め入ったのですか?
それとも葛山か小山田あたりでしょうか?
年月はいつ頃でしょうか?
質問君ですみませんが、お願いします。
963 :
日本@名無史さん:04/06/24 20:34
>>961 茶々丸については、家永遵嗣教授が
論文「室町幕府将軍権力の研究」で
発表した研究結果としては、茶々丸は
伊豆を脱出して山内上杉顕定と武田信縄
(甲斐の国主で信玄の祖父)に保護され、
武蔵の西部(はっきりした居住地は不明
だが、おそらく八王子の近辺)、ついで
甲斐郡内に住んでここから伊豆国内の
反早雲勢力(狩野道一、関戸吉信など)
らを糾合して巻き返す機会を窺っていた
ことが明らかになった。この間、早雲は
両上杉氏の対立において扇谷上杉定正、
その死後は養子の朝良に従っており、
山内上杉顕定が茶々丸を保護、支援
したのもそれによって扇谷方の重要な
戦力である早雲の勢力を削ごうとした
ものだろう。また、今川氏親と武田信縄
も国境でしばしば衝突しており、信縄も
氏親の後見人的な存在だった早雲を
叩こうとしたのであろう。早雲は明応七年
八月に甲斐に侵攻して茶々丸を攻め
滅ぼし、これによって伊豆の反早雲勢力
は旗頭を失って滅ぼされるか降って
早雲の伊豆侵攻は足かけ6年目に
ようやく平定させた。
化に入った。
964 :
日本@名無史さん:04/06/24 20:42
詳しく言うと、武田信縄は父の信昌、
弟の油川信恵と対立して甲斐に内乱
があり、氏親と早雲は信昌、信恵を
支持していた。信縄の南下政策を
警戒したためだと思われる。
また、早雲の伊豆侵攻は彼の野心に
よるものではなく、明応の政変と連動
した一種のクーデターであることも論証
されている。つまり、京の足利義澄、
細川政元、伊勢貞宗(早雲の母方の従兄弟
で政所執事)によるクーデターと呼応し、
義澄の異父兄茶々丸を滅ぼしてしまおう
というものだったのである。
茶々丸は義澄の生母円満院と同母弟
潤童子を殺害して堀越御所を乗っ取って
おり、義澄にとってこれは母と弟の復讐
だったのである。
この論文は非常に面白いので、
早雲とその時代に興味がある方は
一読をお奨めする。東大の図書館か、
国立国会図書館にあるよ。
>>963-964 961ではないけどthx。
早雲の伊豆侵攻については一度このスレで上がってた気がするな。
966 :
日本@名無史さん:04/06/28 21:51
廃墟スポット 天神山城主(秩父郡長瀞町岩田)
>>963-964 >山内上杉顕定が茶々丸を保護、支援したのもそれによって扇谷方の重要な
>戦力である早雲の勢力を削ごうとしたものだろう。
早雲が堀越御所を攻撃した時点では、早雲はあくまで今川家中の
駿河守護代格の立場の人間であり、扇谷方の重要な戦力とはいえなかったのでは。
また堀越公方足利政知が京から下向して来たのは、山内上杉と対立した
関東公方→古河公方足利成氏の代わりの公方として、山内上杉が幕府に請うて
迎え奉り、自分の分国である伊豆に住まわせていたものであるから、
茶々丸を庇護するのは当然のことと思われ。
茶々丸は大森または三浦の許に逃げたという説は聞いたことあったけど、
ピンとこなかったので漏れ的には堀越で討たれてましたが、
甲斐の郡内に変更します(?)
963さん、ありがとうございました。
968 :
日本@名無史さん:04/06/30 19:33
戦国北條氏少し調べてますが、時々「差別」の問題に遭遇したりしますね。
歴史研究では当たり前のことなんでしょうが。
最近はそっち系のほうが中心になってしまった。
皆さんはどうですか?
>>968 そんな物にぶち当たった覚えはないが具体的にどんな差別?
970 :
日本@名無史さん:04/07/01 10:49
969に同意。抽象的な表現は混乱を惹起する虞がある。
具体的な史料を明示し、説明を求める。
971 :
日本@名無史さん:04/07/02 22:09
>>967 963だけど、
たしかに堀越御所を攻撃した時点では
君の言うとおり、今川家の守護代、もしくは
後見人的な立場だし、早雲の代はずっと
そうだった。
ただ、早雲は攻撃の直後ぐらいには
すでに扇谷上杉定正に好を通じており、
扇谷方の援軍として高見原の戦いでも
出兵している。ちなみに高見原の戦いは
明応三年(1494)だよ。さらに、山内
上杉顕定は明応五年(1496)には
弟の上杉房能らと共に相模に侵攻して
早雲ら扇谷方と合戦して早雲の弟
弥次郎らが戦死している。
茶々丸が殺されたのは明応七年
(1497)七月だから、これらの点からも、
早雲が今川家との関係とは別に、
関東では扇谷方としての活動を
していたことは明らか。
もちろん、君の言うとおりの深い関係が
堀越公方家と山内上杉の間にはあった
から、敵の敵を味方にしようという
意図から、早雲と扇谷が手を組んだ
んだろうね。
今川本家は関東の方には全く関与せず?
973 :
名無しさん@お馬で人生アウト:04/07/03 03:55
>>972 それ以前は
関東で騒乱があると、幕府の命令で
今川が関東へ出兵していた。
信濃の小笠原、越後の上杉(山内の分家)
と共に、幕府が関東公方への監視役と
いう役割を負わせ、そのおかげで中央にと
隔絶して当主が京都へ行く必要がよほどの
ことがない限りなかった。
おかげで斯波や一色や山名や京極のように
没落しなかったんだけどね。
だから今川と関東の縁は深いんだが、
今川氏親は関東のことは早雲に任せっきり
にしていた感じ。でも、立河原の戦いには
早雲と共に氏親も扇谷方に参戦している。
氏親自身が関東に出兵したのはその1回
だけで、以後今川家が関東に出兵したことは
なかったと思う。今川と北条が揉めていた
のは駿河東部(興国寺城などを含む
河東地域のこと)であることがほとんどだったし。
974 :
日本@名無史さん:04/07/03 10:56
>>969,970
知ってるくせに。とぼけちゃって。
次スレどうする?
タイトルの「早雲」はもういいんじゃないかってきがするけど、何を語るか。
通史的なもの、一門、家臣、外様衆、政治制度、、、まあ俺はロムるつもりだけど
そういう意味では、本城移動の話は面白かった。とおり一辺倒にならない話のネタがほしいね。
次のスレでは小机城について
一スレ使って徹底的に語ろう。
水軍についても知りたい。
後北条家総合とかそんなんじゃいかんのかい?
いいんじゃない、ただネタが欲しい。