晋の武将を数値化しよう

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>彼らとは関係のない周氏の出身

周泰とかですか?もし周泰の子孫が晋書に登場してたら、解説キボンヌ。
周魴?
謝玄(シャゲン) 343〜388

字は幼度、謝奕の子で謝安の甥。東晋の前鋒都督、都督徐兗青司冀幽并七州諸軍事、康樂県公。
若年より謝安らから期待を寄せられ、後に北府軍の長官となり戦力を再編強化する。
前秦の攻勢をたびたび撃破し、淝水(ヒスイ)の戦い(383年)の勝利の立役者となった。
引き続き前秦の崩壊に乗じて河南一帯を回復し河北の一部にまで軍を進めたが、
朝廷の方針転換により戦線を後退し、また叛乱により占領地を失う。
失意のうちに病となり、望んで会稽内吏に退き、死去した。

政治 6 「経国の才略あり」と称された…が実績は不明
政略 7 人の才をよく見抜き用いた 
戦闘 9 数の劣勢をものともせず果敢に前秦軍に挑む
戦略 10 用兵に長け一時的ながら失地を大幅に回復する
人徳 7 過度の栄達を望まず慎み深く身を処した
忠誠 8 叔父の任用に応え軍事的危機を救った

叔父の謝安による謝玄の北府軍への登用は情実人事と見られかねなかったが、
謝氏のライバルである郗超(チチョウ)は謝安の卓見と謝玄の才能を賞賛した。
事実、謝玄によって北府軍は再編成され東晋最強をうたわれる精鋭軍団となり、
麾下の勇将をよく用いて前秦軍に対し多くの勝利を重ねることになるのだった。

なお、詩人の謝霊運は謝玄の孫にあたる。
>>338
周泰の子孫はなおさら消息不明です。
三国志呉書の彼の伝に登場する範囲で打ち止めのようで、
晋書にそれとわかる人物は登場していません。

とはいえ甘卓(甘寧の曾孫)のように三国志に記述のないところで系譜が繋がっている例もあり、
この時代に人知れず周泰の子孫が登場していないとは言い切れません。
せめて出身地(本籍地)がわかれば調べようがあるのですが、
周慮のようにいきなり名前だけ出て来ても確認する術がないのです。

>>339
周魴は周處の父親ですね。
ちなみに名前の似ている周訪はまた別の人物ですが、彼の父祖も呉に仕えていました。
周浚は魏から西晋に仕えた人物です。


ここで桓温リメイクいきます。

桓温(カンオン) 312〜373

字は元子、桓彝の子。
東晋の丞相、録尚書事、大司馬、侍中、揚州牧、平北将軍、使持節都督中外諸軍事、徐兗二州刺史、南郡公。
蘇峻の叛乱軍に殺された父の仇を討って名を挙げ、公主を娶り西府に仕えその長官となる。
弱体化していた蜀の成漢を討って滅ぼし、北伐に失敗したライバルの殷浩を失脚させる。
自ら軍を率いて前秦に対する北伐を成功させ洛陽への遷都を議したが容れられなかった。
内外の大権を統べ政治の改革を断行するものの、再度の北伐で前燕に敗れ威信の低下を招く。
挽回策として廃帝を行い、以後は簒奪に向けて露骨なアプローチを繰り返したが、
謝安や王坦之の政治工作の前に野望を果たすことかなわず病没した。

政治 9 七つの政治改革や土断を敢行した
政略 8 廃帝まで行うが簒奪にはあと一歩届かず
戦闘 9 自ら軍を率いて勇戦し勝利を重ねた
戦略 9 討蜀を成し遂げ、北伐でも一定の戦果を挙げた
人徳 4 豪放だが衆望は得られなかった
忠誠 2 簒奪への野望を隠そうとはしなかった

軍事指揮官として有能で、北伐戦では敗北を喫したものの戦績は悪くはない。
政治面でもその指導力を発揮し、“庚戌の土断”を敢行したことは特筆に価する。
ただその露骨過ぎる野心は周囲を警戒させるに十分で、
たとえば在野の賢人・王猛の仕官を得ることはできなかった。
権勢を背景に帝位を目指したが、有力な協賛者もなく却って忠臣を結束させ、
かといって非常の手段に訴えるでもなく禅譲の手続きにこだわり続けるなど、
強引ながら至らない点があったことは確かである。その点では、>>140氏の評価
「巨大な才能と中途半端な倫理観を持った人物」とは実に言い得て妙だといえる。

なお名の“温”は、彼が生まれたとき温嶠(>>310)に将来を嘱望されたことに由来する。
また、桓温の台頭は郭璞(>>274)によって予言されていたともいわれる。
343無名武将@お腹せっぷく:04/07/08 23:44
リメイク乙!
桓沖(カンチュウ) 328〜384

字は幼子、桓彝の末子で桓温の末弟。
東晋の車騎将軍、使持節都督荊江梁寧益交廣七州諸軍事、荊州刺史、豊城公。
桓温の征戦に従って功を挙げ、司令官職を歴任する。
桓温の死後は一族をまとめて謝安に協力し、前秦の攻勢に立ち向かった。

政治 7 桓温のサポート役、また各地の州刺史を務めた
政略 8 桓氏をまとめて謝安に協力し混乱を防いだ
戦闘 7 軍歴長く各地で戦功を立てる
戦略 8 将の統率に優れ司令官の大任を果たす 
人徳 8 性倹素にして謙虚に士を愛す
忠誠 9 かつての恩義を忘れず、また朝廷に尽くした

桓温の弟の中では最も有能で、期待に背かずその才をよく発揮した。
桓温の死後なおも強勢を誇る桓氏を引き続き軍の要職に任じた謝安の英断と、
それに応えて一族をまとめた桓沖の統率力が前秦との全面対決を可能にしたともいえる。

幼い頃に困窮のあまり口減らしのために他家で養われることとなったが、
長じて後その養父と再会した時にはかつての恩に厚く報いたという。
蘇峻と謝安こいつきぼん羽
蘇峻(ソシュン) ?〜328

字は子高、蘇模の子。東晋の散騎常侍、冠軍将軍、使持節、歴陽太守(内吏)、邵陵公。
はじめ郡の主簿となるが、のちに衆望を得て塢主となり東晋王朝の傘下に入る。
王敦の叛乱討伐に功を挙げその勢力を増大させるが次第に驕溢となっていった。
庾亮(ユリョウ)が彼を朝廷の官に招こうとしたところ、
軍権と切り離されることに身の危険を感じて叛乱に及ぶことになる。
祖約(祖逖の弟)も同調した叛乱軍は首都建康を焼いて江東、江西各地を劫略し、
成帝(司馬衍)の身柄を確保して親党を取り立て、蘇峻は自らを驃騎将軍、録尚書事とした。
これに対し庾亮、温嶠(オンキョウ)、郗鑒(チカン)、陶侃らが連合して討伐にあたることになり、
蘇峻もしばしば戦勝をおさめたが温嶠との戦いにおいて寡兵で突出したところを討ち取られた。

政治 5 才学あり郡吏を務めた
政略 5 朝政を掌握するも軌道に乗せるまでの才はなかった 
戦闘 8 勇猛をもって知られた
戦略 7 討伐軍を相手に勇戦した
人徳 4 当初は人望があったが次第に驕った
忠誠 4 功成り名を立てたことで野心が募った

蘇峻のように独自の軍集団を抱えた塢主勢力をいかに御するかは東晋王朝の課題だったが、
王導の寛容策に対抗して庾亮が行った強硬策が裏目に出た形となった。
自衛のために決起した蘇峻だがその暴虐さは支持を得られず乱戦に散り、
残党は弟の蘇逸を立て抵抗するが敗れて祖約は石勒のもとに奔った。

この乱ののち東晋の国内はひとまずの安定を取り戻し、体制を再編する時期に入ってゆく。
蘇峻軍の大略奪により建康の宮殿は焼けて官庫の財は悉く消費され尽くしたため
戦後に遷都論が起こったが、王導の主張により沙汰止みとなった。
郗鑒(チカン) 269〜339

字は道徽、後漢末の御史大夫郗慮(チリョ)の玄孫。東晋の太尉、南昌県公。
はじめは晴耕雨読の日々を送り、八王の乱には関わろうとしなかった。
中原の大乱にあって推されて塢主となり、東晋に属して兗州刺史となる。
祖逖死後の石勒の圧迫により淮南に退き、王敦の乱には与せず明帝(司馬紹)に従った。
明帝臨終の際には遺詔を授かり、成帝(司馬衍)を支えて蘇峻の乱を討伐する。
その後も京口あるいは廣陵に駐屯して北面の守りにつきつつ三公を歴任した。

政治 8 学識深く三公の地位にまで昇る
政略 8 塢主としてまた朝臣として諸人を導いた
戦闘 7 叛乱討伐に各地を転戦した
戦略 8 北府の基礎を築き帝都を守護した
人徳 9 儒者として名声高く重んじられた
忠誠 8 晋朝を奉じて忠誠を尽くした

中原の混乱を受けて東晋に身を寄せた塢勢力は次第に淘汰されていったが、
郗鑒はその統率力と忠節によって勝ち残った。
彼の率いていた流民集団は京口・廣陵付近に移住駐屯し、軍団として組織化された。
それは「北府」と呼ばれるようになり、陶侃が基礎を築いた「西府」と並んで
東晋王朝を支える二大勢力となってゆく。
チカンはアカン!
庾亮(ユリョウ) 289〜340

字は元規、庾琛(ユシン)の子。
東晋の司空、征西将軍、使持節都督江豫益梁雍交廣七州諸軍事、都亭侯。
魏朝以来の名族で、庾亮もまた風格あり老荘の談に優れ評判となった。
はじめ司馬睿に仕え、妹が明帝(司馬紹)の皇后となり外戚として国事にあたる。
華軼、王敦の討伐に功を挙げ、続く成帝(司馬衍)の代においても枢機にあずかった。
しかし法に厳しく反発を招き、蘇峻を背かせるに至る。
大敗すること数度にして陶侃らの助力を得てようやく鎮圧に成功し、
その後は陶侃没後に西府の長となって北伐を企図するが本格的実行を前にして病死した。

政治 7 法を用いて王導の寛容策に対抗した
政略 6 意欲には溢れるが厳格さが禍を招いた
戦闘 6 蘇峻には大敗を喫するがなんとか挽回
戦略 7 司令官として一応の才能は有していた
人徳 5 風格があったが人気は今一つ
忠誠 9 帝室のためによかれと思って行動したが…

王導の寛容策はおおむねにおいて成功を収めたが、綱紀の乱れも少なくはなかった。
それを憂いた陶侃や庾亮は王導の排斥を企てたが、郗鑒に反対され思いとどまったという。
しかし政治方針において対立があったとはいえ少なくとも庾亮は帝室に忠実であり、
国内を整備しつつ北伐へ向けた準備を整えていった。
結局彼をはじめとして庾氏による北伐の実行はならなかったが、
やがて西府を継承した桓温がその成果を手にすることになるのだった。
名スレage
庾冰(ユヒョウ) 296-344
字は季堅、庾琛(ユシン)の子で庾亮の弟。
東晋の車騎将軍、仮節都督江荊寧益梁交廣七州豫州之四郡軍事、領江州刺史、都郷侯。
兄弟らとともに名声高く、長兄の庾亮からは一家の宝と称された。
華軼(カイツ)討伐に功を挙げ、蘇峻の乱では一旦敗北するも兵を集めて京師奪還に功を挙げる。
その後は王導に対抗しつつ兄から西府を継承したが、中央召還を前にして病死した。

政治 7 王導の後任として責務を果たした
政略 7 兄の方針を継承したが大過なく治まった
戦闘 7 蘇峻の乱討伐で健闘した 
戦略 7 方面軍司令官を務める
人徳 8 清廉で倹約を旨とした
忠誠 8 私欲に薄く朝廷に尽くした

庾兄弟には有為の人材が揃って(全員がそうというわけではなかったが)おり、
歴史を動かすには至らないまでも国家の枢機に当たってよくその任を果たした。
本質的に人格者であったのに加え、外戚という立場を意識してかしばしば
加冠進爵を辞してもおり、進退には気を配っていたようである。
東晋末期になると二字名が出てくるのか
二字名は数は少ないけど昔からいますね

趙無恤
張孟談(これは字の可能性があるが)
霍去病
etc

二字名が一般的になってきたのは北朝の影響だと思うんですけど
どうなんでしょう?
二字名は春秋戦国から前漢ではふつうにあったようだが、王莽の時代に禁止されてる。
で、その影響なのか後漢から三国時代では極端に少なくなり、東晋あたりからまた増えている。
355無名武将@お腹せっぷく:04/07/23 21:17
二字名でも特に〜之という名が流行り出す。
これに関する考察があったと思うが忘れた。
王義之とか。


三国時代では郭攸之がいるけど。
諱の字が重なることを絶対的なまでにタブー視していた風潮のなかで、
「之」の字は平気で使われまくっていたことにはきっと理由があるんだろうね。
○子の子とかと一緒か
庾翼(ユヨク) 305-345
字は稚恭、庾琛(ユシン)の末子で庾亮、庾冰らの末弟。
東晋の征西将軍、持節都督江荊司梁雍益寧七州諸軍事、江州刺史、都亭侯。
蘇峻の乱鎮圧に参加したのを皮切りに内外の官を歴任し、
兄から西府を継承し北伐を目論んだが軍の足並みが揃わず局地的な勝利に止まる。
なおも外征を試みるが41歳の若さで病没した。

政治 8 地道な政績を積み重ねた
政略 7 やや強引ではあるが北伐事業を牽引した
戦闘 7 局地戦ではそこそこの勝率をあげる
戦略 7 大規模な北伐を計画したが不完全燃焼
人徳 7 軍民双方から信望を得ていた
忠誠 8 積極策で東晋の威光回復を目指した

西府の長となった庾兄弟はいずれも北伐を企図したが、なかなか実現には至らなかった。
彼らが次々と壮年にして世を去ったこともその一因であったが、
蓄えられた力は庾翼にも評価された桓温が継承し、やがて成功を収めることになる。
庾翼の死をもって庾氏の全盛期は終焉を迎え、
以降は中堅クラスの官僚の家系として埋もれてゆくのだった。
紀瞻(キセン) 253〜324?

字は子遠、呉の尚書令紀亮の孫。東晋の散騎常侍、驃騎将軍、臨湘県侯。
呉の滅亡後は晋朝の地方官に出仕するが志を得られず帰郷し、顧栄らと行動を共にして陳敏を討つ。
のちに朝廷に召されて顧栄、陸玩らと共に洛陽に赴くが、永嘉の大乱を目の当たりにして南帰を図る。
司馬越の意を受けた裴盾の追っ手から逃れ、昼夜兼行で揚州にたどり着いた。
その後は司馬睿に仕えて東晋の重臣となり、叛乱討伐や石勒との戦いに功を挙げる。
帝からの信頼も篤く股肱の臣として重用されたが、王敦の乱鎮圧後に病死した。

政治 8 侍中、尚書として有益な建言を多数行った
政略 7 明帝からは社稷の臣の第一と信頼された
戦闘 6 具体的な内容は不明だが戦果は少なくない
戦略 7 周馥、華軼、石勒、王含らを討ち勝利を収めた
人徳 8 物静かで教養もあり信望も厚かった
忠誠 8 帝からその忠烈を嘉された

文武の才を兼ね、また教養ある文章家でもあった。
呉王朝では代々高官を務めた家柄だったが、江南出身者の例に漏れず西晋王朝での立身は果たせなかった。
晋朝が南遷し江南士人の力を必要とするようになるとそれに応じて力を尽くした。
東晋王朝成立期の功臣の一人だといえる。
賀循(ガジュン) 260〜319

字は彦先、呉の中書令賀邵の子で賀斉の曾孫。東晋の太常、開府儀同三司。
父が孫晧に殺されたために家族ごと流刑になっていたが、呉の滅亡で会稽に帰る。
地方官として召されて治績を挙げ、一時西晋の朝廷に入るが石冰の乱討伐のため再び江南に帰った。
陳敏の乱ではその招きを断り、のちに司馬睿の麾下に入り死去した顧栄の後任として参謀役を務め、
成立直後の東晋王朝の諸制度を定めるのに大きく貢献した。

政治 8 東晋王朝の祭礼を初めとする諸制度を定めた
政略 8 顧栄の後任として司馬睿をよく補佐し信任を得た
戦闘 3 実戦経験は不明
戦略 5 華軼討伐に何らかの形で功を挙げた
人徳 8 清貧で慎み深く当世の儒宗(儒学の大家)と称された
忠誠 8 死の間際まで朝廷に仕えた

東晋王朝成立期に活躍した江南系士人の一人。

あるとき、賀循は司馬睿と対談していて呉の時代の話となった。
司馬睿がふと「孫晧は焼けた鋸で賀という者の首を切ったそうだが、誰のことだったかな」と尋ねたが、
賀循が答える前にそれが賀循の父の賀邵のことだったと思い出した。
賀循は「父は無道に遭い、私にとってその痛みは深く、お答えできなかったのです」と涙を流したので、
司馬睿は己を深く恥じて三日の間引きこもってしまったという。
薛兼(セツケン) ?〜322

字は令長、呉の光禄勲薛瑩の子で薛綜の孫。東晋の太常、散騎常侍、安陽郷侯。
若き日には紀瞻、閔鴻、顧栄、賀循らとともに「五儁」と号した。
洛陽に入って張華に認められ、司馬越から転じて司馬睿に仕える。
太子(のちの明帝・司馬紹)少傅となり、祖父より三代続けて太子の傅役を務めたと賞賛された。

政治 8 官僚として累進し、丹楊尹や尚書まで務めた
政略 7 太子の傅役として信任を得た
戦闘 2 実戦には関わらず
戦略 4 強いて言えば参軍などの経験があるくらい
人徳 7 若い頃から名声があった
忠誠 7 朝廷によく仕えその死を悼まれた

祖父、父は呉で、当人は東晋でと三代に渡って太子の傅役を務めた珍しい家系だが、
それはすなわち帝室からの信頼の篤さを示しているとも言える。
(ただし父の薛瑩は一時期孫晧から不興を買っていた)
明帝・司馬紹は太子時代から薛兼に指導を受けていたが、
即位してこれからもというときに薛兼を失った。彼を悼んだ詔書は哀惜に満ちている。
周訪(シュウホウ) 260〜320

字は士達、呉の左中郎将周敏の子で威遠将軍周纂の孫。
東晋の安南将軍、持節都督梁州諸軍、梁州刺史、尋陽県侯。
はじめ県吏となり、陶侃と親交を結んでその子陶瞻に自分の娘を嫁がせた。
のちに司馬睿に仕えて将として各地を転戦し、
華軼、杜弢(トトウ)、杜曾、第五猗(ダイゴイ)らの叛乱を次々に平定した。
王敦と対立しつつも北伐を企図していたが、果たせずに死去した。

政治 7 農業を奨励するなど行政にも手腕を発揮
政略 7 野心家の王敦を抑え得る存在感を持っていた
戦闘 9 実戦指揮官として勇戦を重ねる
戦略 8 司令官としても優秀で北伐まで視野に入れていた
人徳 8 謙虚にして威風あり士衆から心服された
忠誠 8 成立期の東晋朝廷を軍事面で支えた

彼の伝には戦歴が詳細に記録されている。戦術レベルでの勇武機略もさることながら
大局的な戦略眼も持ち合わせており、『中興の名将』の名は伊達ではない。
荊州の混乱を鎮めて襄陽に駐屯し、のちに叛乱を起こすことになる王敦も
彼の存命中は事を起こすことはできなかった。
周訪の側でも王敦を掣肘しつつ中原回復を目指すなど朝廷への忠心はあつく、
その死は元帝・司馬睿をいたく嘆かせたという。

余談ながら、周訪は戦闘中に矢を受けて前歯が(上下とも)折れてしまっていた。
fumuu
365無名武将@お腹せっぷく:04/08/12 21:03
王遜(オウソン) ?〜323

字は邵伯、魏興の人。東晋の散騎常侍、安南将軍、仮節、寧州刺史、南蛮校尉、褒中県公。
各地の地方官を歴任し、310年に寧州刺史として南中地方に赴く。
綱紀を粛正して州を平定し、蜀(成漢)の李雄と度々戦ったが、堂狼(地名)での大勝後に
追撃を徹底しなかった部下を激しく責めた際に、怒りの余り死去してしまった。

政治 7 荒廃した南中地方を復興させた
政略 7 綱紀の粛正に辣腕を振るった
戦闘 6 武威を用いるのに躊躇いはなかった
戦略 7 諸夷(異民族)を討って州を平定
人徳 4 威をもって人を制した
忠誠 7 地方に出ながらも朝廷への帰属意識を忘れなかった

益州の大部分はテイ族が建てた成漢に征服されていたが、
寧州の置かれた南中地方はこの時期まだ流動的な情勢にあった。
王遜はこの地方に赴任し統括者として一定の治績を挙げたが、
対抗者を誅殺することもしばしばで、嗜虐的な傾向があったのかもしれない。
戦勝を収めたにもかかわらず、追撃が不徹底だったという理由で部下を鞭打ち、
「怒髪が冠を裂く」と表現されたほどの激しい怒り様も異常だが、
おそらくはそれが原因で死んでしまったというのも凄まじい。
蔡豹(サイホウ) 269〜320

字は士宣、陳留圉城の人。後漢末の大学者蔡邕(サイヨウ)の同族の末裔。
東晋の建威将軍、徐州刺史。
気幹あり、地方官を歴任して徐州刺史に昇る。
しきりに反覆して石勒に通じた徐龕(ジョガン)を討伐したが、
諸将の足並みが揃わず石虎に敗北しその責を負わされ誅殺された。

政治 7 地方官として治績を挙げた
政略 5 同僚との連携を欠いた
戦闘 6 見敵必戦の意志は強かったが…
戦略 5 戦績は今ひとつ振るわず
人徳 7 士衆からの支持は高かった
忠誠 7 忠誠が空回りした悲劇

かつて祖逖の部下だった際には軽んじられていたが、
蔡豹が才幹によって昇進し刺史として同列に並ぶと祖逖は己の不明を恥じたという。
徐龕討伐に際しては、確かに石虎に敗北したのは蔡豹の軍だったのだが、
それに至るまでには同僚の明らかなサボタージュがあった。
朝廷は他の指揮官を更迭してただ一人戦意旺盛だった彼に指揮を委ねたが、
敗北したとはいえ誅殺され、遺骸を首都にて晒されるという最期は悲劇的だった。
徐州では多くの人々が彼の死を悼んだという。
羊鑒(ヨウカン) ?〜330ごろ?

字は景期、太山の人。匈奴中郎将羊済の子で羊祜(ヨウコ)とは同族にあたる。
東晋の豊城県公、光禄勲。
内外の官僚を歴任した後、徐龕(ジョガン)討伐の征討都督となる。
しかし戦果があがらず罷免され処刑されかけたが、朝廷の縁戚ということで助命された。
その後廷臣として復帰し、蘇峻の乱討伐に参加したのち死去した。

政治 6 実績は不明だがそれなりの官を歴任
政略 4 徐州での地縁を期待されたが成果なし
戦闘 2 著しく戦意に欠けた
戦略 2 将帥の才にあらずと評された
人徳 5 可もなく不可もなし
忠誠 6 コネにぶら下がって生き延びた

徐龕討伐に際して、王導は徐州に地縁がある羊鑒の起用に太鼓判を押したが、
郗鑒(チカン)は彼に将才がないことを見抜いており当初から反対していた。
果たして討伐は失敗したが助命され、その後も浮き沈みしつつ身を全うした。
誅殺された蔡豹と命運を分けたのはひとえに帝室との縁戚関係のお蔭だった。
368無名武将@お腹せっぷく:04/08/14 02:03
あげておくか?
 劉胤(リュウイン) 281〜329

字は承胤、東莱掖の人。漢の斉王劉肥の末裔。
東晋の平南将軍、仮節都督江州諸軍事、領江州刺史、豊城子。
容姿に優れ衆望があり、永嘉の大乱を避けて幽州の王浚のもとに赴く。
王浚の敗北後は冀州に割拠する邵續(ショウショク)に仕え、司馬睿への帰服を説いた。
のちに江南へと渡り予章太守として治績を上げ、病死した温嶠(オンキョウ)の職務を引き継いだが、
富貴を得て次第に驕り政務を放棄したため弾劾を受けて免官となり、郭黙に殺害された。

政治 6 それなりの吏才はあった模様
政略 6→3 時には卓見を見せたが最後は私欲に溺れた
戦闘 5 蘇峻の乱討伐などに参加 
戦略 5 温嶠の後任となるが実力は定かではない
人徳 6 若い頃は人望厚く名声が高かった
忠誠 6→4 忠義の心も富貴の前には敗れたか

若年期と晩年で評価の異なる人物。
当初は人望もあり時勢を見据えた発言も見られたが、
江州を預かることになった際には、群臣から口を揃えてその任にあらずと反対を受けている。
その危惧は現実のものとなったわけだが、時の流れや環境が人を変えるのか、
また彼の人間としての本質がどこにあったのかはにわかには判じがたいものがある。
 桓宣(カンセン) ?〜344

譙(ショウ)国銍(チツ)の人。父は桓弼。
東晋の平北将軍、持節都督司雍梁三州諸軍事、梁州刺史、竟陵公。
司馬睿に仕え、王含の配下として豫州方面の塢主勢力を手懐け祖逖を助けた。
のちに祖約(祖逖の弟)の麾下となり、蘇峻の乱に際して祖約が呼応して蜂起した際には
討伐軍に転じる。このとき数千家を率いて南方に移住した。
その後は温嶠(オンキョウ)、劉胤の麾下を経て西府に属し、後趙から襄陽を奪取し駐屯する。
十数年間に渡って同地をよく治めまた後趙の攻勢を退け続けたが、
庾翼(ユヨク)の北伐の先鋒を務めるも敗戦し、左遷され憤死した。

政治 7 農業を奨励し、綱紀を確立した
政略 7 各地を転々としつつ自己の勢力を保った。外交にも長ける
戦闘 9 自ら軍を率いて後趙軍をしばしば破った
戦略 8 祖逖、周訪に次ぐと称された
人徳 8 よく人心を得た
忠誠 7 対後趙の最前線を長年にわたって支え続けた

同姓の桓温の氏族とは本籍が同郡でも県が異なるが、何らかの関係があった可能性はある。
人生の多くを後趙との戦いに費やし、祖逖、周訪に次ぐと称された軍才を発揮した。
一方で政治の才もあり、塢主勢力との外交や襄陽の統治にも優れた成績を挙げている。
 桓伊(カンイン) ?〜380年代後半?

字は叔夏、桓景の子で桓宣の族子にあたる。
東晋の右軍将軍、仮節都督江州荊州十郡豫州四郡軍事、江州刺史、永脩県公。
武幹あり、参軍職を歴任する。
前秦の苻堅の南征に備えて前線に赴き、肥水での勝利に貢献する。
豫州、江州刺史として各地をよく治め、護軍将軍に転じて死去した。

政治 7 豫州、江州にて治績を挙げる
政略 7 大功に驕ることなく身を処した
戦闘 7 武幹あり
戦略 7 前秦との戦いに功を挙げる
人徳 8 性謙素にしてよく人から慕われた
忠誠 8 帝の御前で廷臣の対立を憂えた

文武の才を兼ね、慎み深く人望もあった。
音楽にも優れて江南第一と称せられ、笛や箏の名手として帝にも聞こえていた。
朝廷への忠義もあつく、司馬道子と王國寶が対立した際には
御前での宴席においてその現状と憂いを詩に乗せて歌い上げ、
孝武帝(司馬曜)や謝安を感じ入らせたという。

また弟の桓不才にも将略があり、孫恩の討伐に活躍した。
 朱伺(シュシ) 250年代?〜317ごろ

字は仲文、江夏郡安陸の人。西晋の廣威将軍、領竟陵内史、亭侯。
はじめ呉将陶丹(陶侃の父)の給吏となり、呉の滅亡後に江夏にうつる。
武勇に優れ、張昌、陳敏、杜弢(トトウ)らの叛乱討伐に力戦した。
さらに荊州方面を転戦したが、杜曾との戦いでの負傷が悪化して死去した。

政治 2 「書を知らず」とあり、実務能力は…?
政略 4 政治的駆け引きは苦手だが筋は通す
戦闘 9 歩、騎、弩、水とそれぞれの戦術で勇戦
戦略 6 おもに戦術レベルの軍務にとどまった
人徳 5 木訥だがけして悪人ではない
忠誠 7 賊に屈しようとしなかった

腕っ節だけで生き抜いてきた生粋の武人。
木訥で、学問の素養を持たず、軍官には就いたが
士大夫に対しても礼を取って名を名乗るだけだったという。

あるとき異民族の襲来に際し軍議が開かれていたが、彼だけは無言だった。
太守が「朱将軍はなぜ何も言わないのか?」と尋ねると、
「皆は舌で賊を討つつもりのようだが、自分はただ力でやってみせるだけだ」
と答えたという。
また「前後に賊軍を迎えた場合、その両方に勝つにはどうするか?」との問いには
「ただ堪え忍ぶだけだ。敵は堪えられないが、自分にはできる。そうして勝つ」と答えた。
どことなく、高倉健の姿を彷彿とさせないでもない。
年老いてもなお自ら弩をひいて戦う気概を持ち、
戦傷を負いながらも最期まで軍中にあり続けた。
 毛寶(モウホウ) ?〜339

字は碩眞、滎陽(ケイヨウ)郡陽武の人。
東晋の征虜将軍、監揚州之江西諸軍事、豫州刺史、州陵県開国侯。
王敦によって登用され、その死後は温嶠(オンキョウ)の参軍となる。
蘇峻の乱においては参謀の任をよく果たして勝利に貢献した。
その後西府の庾亮(ユリョウ)の麾下に転じ、郭黙を討ち後趙と戦うが、
石虎の軍に攻められて邾(チュ)城が陥落した際、脱出時に溺死してしまった。

政治 6 臨湘令、江夏相や豫州刺史を歴任するが実績は不明
政略 8 陶侃との駆け引きを征する
戦闘 7 実戦指揮官としても成果を挙げる
戦略 7 参謀として的確な助言を行う
人徳 6 適度な人格者
忠誠 7 各々の任務を忠実に果たした

東晋序盤を支えた中堅軍人の一人で、参謀の才に優れた。
蘇峻の乱では扱いの難しい陶侃との折衝という大役を果たしたことが特筆される。
邾城の戦いでは城の守りの堅さを楽観視した庾亮が増援を送ろうとしなかったのが災いした。
毛寶戦死の報を受け、庾亮は病を発し死に至ったという。

毛寶が武昌に駐屯していたころ、市場で四、五寸の白亀を買った兵士がいた。
彼はその亀をしばらく育てて川に放した。
のちに邾城が陥落した際にその兵士は軍装のまま川に身を投じたが、
いまや五、六尺に成長したその亀に助けられて岸まで辿り着き難を逃れたという逸話が伝わっている。
374無名武将@お腹せっぷく:04/08/24 23:41
劉頌はどう?
>>374
こんなのでどう?

 劉頌(リュウショウ) ?〜300

字は子雅、漢の廣陵王劉胥の後裔で劉觀の子。西晋の光禄大夫。
各地の地方官を歴任して善政を敷き、朝廷にあっては
公正な裁きと豊かな学識をもって政績を挙げ名声を博した。
恵帝の時代には朝廷の重鎮として司馬倫一党の専政に抵抗したが、
名誉職に祭り上げられほどなくして病死した。

政治 9 末端の地方行政から国家制度の議論まで多岐に渡り活躍
政略 8 剛直さを忌避されながらも身を全うした
戦闘 2 実戦には程遠い
戦略 3 軍事方面には関わらず
人徳 9 民情に通じ、公正さを慕われた 
忠誠 9 正道を説き良識派の意地を貫いた

西晋武帝から恵帝の時代にかけての能臣。
政治の才は多岐にわたり、国家に益するところ大であった。
その公正さは前漢の名臣・張釋之になぞらえられたという。
しかし清談が流行し退廃の風潮強いこの時代においては
彼のような剛直な能吏は忌避される傾向にあった。
朝政を壟断していた孫秀らにとっては目の上の瘤だったが、
劉頌は張華らに匹敵する名声を得ていたため手出しはできなかった。

ちなみに劉頌をこのレベルで評価すると、
>>159の張華も少しかさ上げしたいところではある。

なお、魏臣陳矯に娘を嫁がせたものの陳矯も本来劉氏の出身であったため
同姓不婚の原則を犯すとして物議を醸したと伝わるが、
劉頌より陳矯の方が活動時期が古いなど矛盾が生じるように思われる。
376無名武将@お腹せっぷく:04/09/04 14:04
 劉遐(リュウカ) ?〜326

字は正長、冀州廣平郡易陽の人。東晋の散騎常侍、北中郎将、使持節監淮北諸軍事、徐州刺史、泉陵公。
武勇に優れて冀州では張飛・関羽に比され、また人望もあり塢主となった。
のち東晋朝廷に属して徐州での周撫の叛乱を鎮圧し、徐龕(ジョガン)討伐の功で兗州刺史となる。
王敦の乱に呼応してその兄の王含が挙兵した際に都へ赴き、蘇峻らと共に鎮圧に当たる。
その功により泉陵公に封じられ淮陰に駐屯したが数年後に死去した。

政治 6 州刺史を歴任したが治績は不明
政略 6 塢の勢力をまとめ東晋に帰順した
戦闘 10 張飛・関羽に比されたということで敢えて強調してみた
戦略 7 高級指揮官としては過不足ない経歴
人徳 7 塢主として支持を受けていた
忠誠 8 忠節を朝廷から表彰された

東晋初期に北部軍団を率いて石勒の後趙と戦った将帥のひとり。
性果毅にして弓馬をよくし、開豁勇壮な人物で冀州ローカルながら張飛や関羽にたとえられた。
この時期には「驍勇=張飛、関羽」というイメージが成立していたのが興味深い。
軍事指揮官としては格別抜きん出ていたわけでもないようだが、
各地を転戦して東晋朝廷に貢献した。
王含討伐の大勢が決した後に追撃戦を行った際、勝ちに乗じて兵に略奪を行わせたために
温嶠(オンキョウ)に叱責され陳謝したというエピソードが伝わる。
彼の死後、朝廷はその軍団を解体再編しようとしたが、
部下はそれを嫌い遺児の劉肇を立てて叛乱に及んだ。
乱は郭黙らに討伐され、劉肇は爵位のみを継承して次の宋朝まで細々と続いたという。

また劉遐の妻も武勇に優れ、夫が石虎の軍に包囲されたことがあったが
彼女は数騎で万を数える後趙軍に突入して劉遐を救い出したという。
劉遐死後の叛乱の企てを止めたが容れられず、隙を見て武器に火を放ち焼き尽くした。
乱の鎮圧後は子らと共に建康に移住した。
377無名武将@お腹せっぷく:04/09/12 23:17:54
 鄧嶽(トウガク) ?〜340年代前半?

字は伯山、豫州陳郡の人。東晋の平南将軍、仮節都督交廣寧三州諸軍事、廣州刺史、宜城県伯。
もとの諱を「岳」といったが康帝・司馬岳の諱を犯すため「嶽」と改め、ついで「岱」と名乗った。
若い頃から将才があり、王敦の参軍となる。
ついで従事中郎、西陽太守と転じ、王敦が挙兵した際にはその兄の王含にやむなく従う。
乱の鎮圧後は一時蛮王・向蠶(ショウサン)のもとに身を寄せていたが、赦免により帰国して休職に復した。
蘇峻の乱に際しては温嶠(オンキョウ)の命により難を避け、その後陶侃の指揮下で郭黙を討った。
続いて廣州に赴任し、336年には南中の夜郎を討つ。また339年には蜀を討ち、霍彪(霍弋の孫)を捕らえた。
その後数年のうちに死去したと思われる。

政治 6 太守、刺史を務めるが実績は不明
政略 6 自発的な目立った行動は見られない 
戦闘 6 実戦指揮官としてはそこそこか
戦略 8 上級指揮官としての実績にあつい
人徳 7 志気平厚で正邪の別を知る
忠誠 8 帝からその忠誠を保証された

将帥の才略ありとうたわれた有能な司令官。
王敦の故吏であった関係上その挙兵に従ったが帝室でもその事情は諒解されていて、
周撫らとともに名指しで罪を免じられており首謀者たちとは別格の扱いを受けていた。
復帰後も各地で活躍し、戦略レベルでの用兵に才を発揮した。
弟の鄧逸(トウイツ)も武勇に優れ、兄の死後その地位を継承した。
378無名武将@お腹せっぷく:04/09/14 14:17:19
郗超、王恭をリクエストしていいですか?
379無名武将@お腹せっぷく:04/09/16 00:51:13
>>378
とりあえずこんなので如何かしら?

 郗超(チチョウ) 336〜377

字は景興、郗愔(チイン)の子で郗鑒(チカン)の孫。東晋の司徒左長史。
桓温の参軍となって各地の征戦に従軍し、腹心として重きをなす。
北伐の失敗を挽回すべく桓温に廃帝を進言しその後押しをした。
当時の高官である謝安らと肩を並べるほどに羽振りを利かせたが、
母の死で服喪のために職を退き、在野のまま42才で父に先だって死去した。

政治 6 行政官としては履歴も実績もそこそこか
政略 8 桓温の腹心として謀議に参与する
戦闘 3 実戦での記録は見えない
戦略 6 実戦指揮官ではなく参謀としての経歴を有する
人徳 7 施し好きでよく人と交わった
忠誠 4 桓温の野心を後押しした

祖父、父と北府の長を務めた家柄だったが、自身は当初より桓温の腹心として行動した。
謝安と王坦之が桓温のもとを訪れたとき、郗超は帳の裏で会話を盗み聞きしていたが、
風が吹いて帳がまくれ、姿が露わになってしまった。
謝安は「郗超殿は文字通りの“入幕の賓”(機密に与る参謀)だな」と皮肉を込めて笑ったという。

また父の郗愔とは公私に渡り対立することが多く、
信仰の相違(父は天師道、自身は仏道)を初めとして
父が貯め込んだ財貨を一日にして施し尽くしてしまったり、
帝室に忠実だった父に比して自身は桓氏の党として重きをなすなど様々な確執があった。
彼の死後、桓温との謀議を記した書が見つかり父を激怒させたともいう。

一方で貴賤を問わず交友関係は広く、仏僧の支遁とは互いに認め合う関係であり、
清談を得意とするなど貴族としての嗜みに通じていた。
また、祖父より三代続いた書の名手でもあった。
380無名武将@お腹せっぷく:04/09/23 19:38:31
 王恭(オウキョウ) ?〜398

字は孝伯、王蘊(オウウン)の子で、孝武帝・司馬曜の皇后となった王法慧の兄。
東晋の輔国将軍、仮節都督青兗幽并冀五州諸軍事、青兗二州刺史。
名門・太原王氏の出身で、当初は朝廷の官を歴任して丹楊尹、中書令にまで昇る。
外戚ということで重用され、北府の軍団長に就任するが後燕に敗れるなど振るわなかった。
安帝が即位して王國寶らの専権が甚だしくなると、ついに挙兵して彼らの排除を図る。
この時は司馬道子(>>322)が王國寶を処断したために兵を収めたが、
翌398年には譙(ショウ)王・司馬尚之誅伐を掲げて再度挙兵する。
王恭を盟主に桓玄(>>327)、殷仲堪、庾楷(ユカイ)ら各地の刺史が連合したが足並みが揃わず、
麾下の劉牢之が司馬元顯(>>323)の工作に乗って寝返り、王恭は捕らえられて建康で斬首された。

政治 7 丹楊尹、中書令などそこそこの官に至る
政略 5 精力的に活動したが詰めが甘かった
戦闘 2 実戦は劉牢之ら部下任せ
戦略 3 北府軍の長としてはいささかお粗末
人徳 6 良くも悪くも貴族然としていた
忠誠 9 「君側の奸」を除こうと努力はしたが…

東晋末期に活動した貴族政治家。名門としてのプライドが高く、
起家(初めて出仕すること)の官が“役不足”だとして就任を拒否したりした。
彼は貴族としては評判が高く、容姿にすぐれ交友関係も華やかだった。
しかし仏教を篤く信仰するあまりに寺の建立のために民衆を徴発したので恨みを買い、
北府では善政を敷いたが下々の者との間には隔たりが大きかったという。
朝廷の乱れに対しては何度も諫言を繰り返しついには武力矯正に及ぶことになるが、
筋金入りの貴族である王恭と叩き上げの軍人かつ稀代の梟雄である劉牢之では
精神構造が基本的に異なっており、彼を御し得なかったことが文字通り命取りとなった。
貴族による社会支配体制が変質・崩壊を始めた時代の流れの中で、
彼は最初期の犠牲者の一人であったともいえる。

なお彼が目の敵にした王國寶は遠く遡れば同族にあたるが、
系統が分かれてから七代一世紀半ほどの時代を経ており、血縁は薄くなっていた。
381無名武将@お腹せっぷく:04/09/23 19:41:42
ちなみに王恭は太原郡晋陽を本籍とする王氏の一族で、
王昶、王渾(>>113)父子や王沈(>>39)、王浚(>>297)父子、
また王坦之(>>319、王國寶の父)や
それ以外にも多くの人物を輩出した晋朝でも有数の名門。
382無名武将@お腹せっぷく:04/09/24 02:11:39
>379,380

リクエストにお答えいただき、ありがとうございます。
司馬道子親子、王恭、劉牢之、桓玄あたりは、マイナーながら意外とキャラ立ちする人物で、
興味を引かれます。特に司馬道子の悪評の実像は、どうもよくわからないなあ。
単に欲が深く、気の小さい、無定見な貴人だったのか?
元顕の方は生意気なクソガキというイメージでそんなに間違っていないと思うんですがね。
383無名武将@お腹せっぷく:04/09/25 09:48:43
そういえば劉牢之がまだでしたね。東晋末期のゴタゴタも、
なかなかインパクトのある人物が揃っていて興味深いものがあります。

司馬道子ですが、やはり
>欲が深く、気の小さい、無定見な貴人だった
というのがまずあるでしょうね。
ただの宗室だったならばまだしも、
皇弟、皇叔として国政を預かる立場にあったのが致命的で、
遊びにかまけていたかと思えば
謝安を排斥するなど余計なことまでしてくれたり。

歴史の概説書を読むと、
「司馬道子は微賤の人々を取り立てて売官を盛んに行い
貴族支配による社会構造を変質させてしまった」とあります。
当人は好き放題やっていただけでしょうけど、
社会へ与えた悪影響は大きかったのでしょうね。
彼の行った乱脈政治が社会不安を惹起して、
後の孫恩・盧循の乱への遠因となった、という見方ができたりするのでしょうか?

司馬元顯については同感です。
バイタリティは確かにあったんですけどねぇ…
384無名武将@お腹せっぷく:04/09/25 09:59:39
おいおい、三国志の時代から逸脱してるだろ
世界史板でやれよ

世界史
http://academy3.2ch.net/whis/
ゲームサロン
http://game8.2ch.net/gsaloon/
難民
http://etc3.2ch.net/nanmin/
なんでもあり
http://tmp4.2ch.net/mog2/
385無名武将@お腹せっぷく:04/09/25 17:53:30
「微賤の人々を取り立てて売官を盛んに行い
貴族支配による社会構造を変質させてしまった」
まさにこの部分なんですがね。
売官うんぬんの部分を除けば、例えば信長とか頼朝と同じでしょ。
定見が有ったか無かったかの差なのか。
それとも道子悪玉説は、既得権益層から見た偏見に過ぎないのか。
そもそも貴族支配は六朝時代の社会停滞の主因とする専門家が多いようだし・・・。
386無名武将@お腹せっぷく:04/09/25 22:30:18
なるほど… 道子悪玉説については
さすがに既得権益層からの偏見だけではないのではないかとは思うのですが、
私は晋書ぐらいしか史料がないのでこれ以上は判断しかねますね。
「信長や頼朝と同じ」という点についても浅学な私には比較の対象が掴みがたいので、
さすがに世界史板の東晋か五胡十六国あるいは六朝スレの方が
有益な意見が聞けると思います。
387無名武将@お腹せっぷく
司馬越は?