晋の武将を数値化しよう

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1無名武将@お腹せっぷく
前スレは激しく攻撃されて死んだが・・・
今度こそまともに。
2無名武将@お腹せっぷく:04/03/05 19:41
孔明ですよ!
2get
>>3
プッ
5無名武将@お腹せっぷく:04/03/05 19:43
>>1は顔だけホウトウ
6無名武将@お腹せっぷく:04/03/05 19:43
数値化厨キター

7無名武将@お腹せっぷく:04/03/05 19:45
じゃ、まず司馬懿から・・・

政治 8
政略 9
戦闘 4
戦略 8
人徳 6
忠誠 6

こんなもんでどうじゃ?
8無名武将@お腹せっぷく:04/03/05 19:45
>>1は背だけ曹操
僕の肛門も数値化され(r
10無名武将@お腹せっぷく:04/03/05 19:49
司馬師

政治 7
政略 8
戦闘 5
戦略 7
人徳 6
忠誠 4

>>7
何点満点だ?
司馬倫
政治 7
政略 6
戦闘 4
戦略 8
人徳 3
忠誠 1
13無名武将@お腹せっぷく:04/03/05 19:52
戦闘力5

            ゴミが


南風
政治 4
政略 7
戦闘 1
戦略 7
人徳 1
忠誠 0
15無名武将@お腹せっぷく:04/03/05 19:56
>>11
10点満点

司馬昭

政治 7
政略 9
戦闘 4
戦略 7
人徳 5
忠誠 3

      ,,,,、                 _,,,,,,,,、 .,,,,,,,,,,iiiiillliii,, 
  ..iiiiiiiiillllllllllii:     .,,,,,,,,,,、      lliiiiill!!!llllll!  ゙llllll゙゙゙゙,,,lllllll:  
  'lllllll` .lllllll゙.,,,,,iiiiiiiillllllll!!!!!       llllll,,,iiillllll   .lllllllll!!!!llllll! 
   llllllliiiiillllll: ゙゙゙゙゙゙゙゙llllllii:            llllll゙゙゙゙lllllli   illllll,,,,,,illlllll:  
  .lllllll゙゙゙゙llllll|    lllllll″           lllllliiiilll!!゙°  ゙!lll!!!゙゙゙lllllll:  
  .lllllll,,iiilllllll    .lllllll         lllll!!゙゙°          llllll| 
  ,lllll!!!!゙lllllll:    lllllll         llllll          lllllll 
  .llllll゜  lllllll    :llllll:  ,,,,,,,_     llllll:           llllll| 
 ,illl!° .lllllll,,,,,iiiiiiiiillllllllllllllllllllllli、    llllll|             :lllllli、 
.,,ill!°.iliiiiillllll゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙ ̄           lllllll|        ,,,,,,_.lllllll、
.゙゙°  ゙゙!llll!°             '!lllll!        ゙゙!llllllllllll:  
      ``                ``         ゙゙!lll!゙  


17無名武将@お腹せっぷく:04/03/05 20:06
司馬炎

政治 7
政略 8
戦闘 6
戦略 7
人徳 8
忠誠 7
インフレーション
19無名武将@お腹せっぷく:04/03/05 20:39
司馬炎

政治 7 課田法とか占田法の制定他 その後の国政の混乱を
     考慮してこんなもん
政略 8 人材登用に見るべき所あり
戦闘 6 何となく司馬一族の中では武力高そう
戦略 7 呉平定の時期を誤らず ホントは6くらいでもいいが
人徳 8 禅譲を混乱無く達成 残酷な話はあまりない
忠誠 7 普通に義に篤そう
>>1
”武将”? せめて人物だろ。
ゲーム厨が叩かれる所以だと気づけよ……
没問題
22無名武将@お腹せっぷく:04/03/05 21:06
>>20
前スレのタイトルだからいいの。
つか、数値化自体ゲーム感覚だし。

司馬衷

政治 2 一応、司馬炎の出題に及第の答えを書けた
政略 1 何でもいいなり
戦闘 1 馬には乗れた?
戦略 1 ま、無理だろう
人徳 2 人は良さそうだが・・・
忠誠 4 意志薄弱
>>22
それは南風たんが教えたから
桓玄

政治 6
政略 8
戦闘 9
戦略 8
人徳 7
忠誠 3
25無名武将@お腹せっぷく:04/03/05 22:31
>>1に聞きたいんだが、数値化してどうすんの?
君のオナニーなんか誰もみたくないんだよ?
君は数値化したのをみて悦に入ってるようだが・・・
彼女でも見つけてみてはどうかね?
26公明:04/03/05 22:34
公明ですよ!
27無名武将@お腹せっぷく:04/03/05 22:37
>>25
君もやってみたら?
結構面白いかもよ。

賈充

政治 8 晋律を定めるなどまずまず
政略 7 司馬昭の懐刀として画策
戦闘 3 ま、武力はないでしょ
戦略 5 一応、父は優秀だから
人徳 3 どう見ても性格悪い
忠誠 5 司馬氏にとっては忠臣
28無名武将@お腹せっぷく:04/03/05 22:40
クズスレ
29無名武将@お腹せっぷく:04/03/05 23:03
荀勗

政治 8 晋律を定める
政略 7 保身上手
戦闘 2 根っからの文官の家柄
戦略 4 絵とか音楽は好きだけど・・・
人徳 6 普通
忠誠 7 まずまず
糞スレあげんな
31無名武将@お腹せっぷく:04/03/05 23:39
>>30
前スレでもそんな事言ってたな・・・
王導

政治 9
政略 10
戦闘 3
戦略 4
人徳 8
忠誠 9
33無名武将@お腹せっぷく:04/03/06 01:38
桓温や劉裕は?
>>33
ネタスレなんだからお前がやれっつーか別に誰でもいいんだけどね
どこがネタスレなんだよ。1のオナニースレはマジ勘弁
俺に言わせりゃ「オナニースレ」とか言いながらこのスレに粘着してる
お前も同類にしか見えないけどな
俺を貶したところでこのスレが1のオナニースレである事は変わりは無い
司馬エイ

統率:66  性格:温和
戦闘:50  思考:中原回復
政治:80
智謀:67
魅力:81
39無名武将@お腹せっぷく:04/03/07 00:38
>>37

だから何?

王沈

政治 7 一応政治家として名声あり
政略 6 保身は巧み
戦闘 2 一応、対呉戦で働く
戦略 4 人並み
人徳 5 晋の元勲となった
忠誠 4 主君を売ったのは・・・
キモイスレダナ
41無名武将@お腹せっぷく:04/03/07 21:59
>>1ガンガレ!

晋書に掲載してる人物全員数値化すれ!
>>40
ガンガレ!

お前の粘着だけでこのスレを1000まで伸ばしてくれ!
【王導】
統率:66 性格:寛容
戦闘:38 思考:王佐−中原回復
智謀:88
政治:95
魅力:90

【王敦】
統率:88 性格:出世
戦闘:82 思考:覇権−王位略奪
智謀:63
政治:38
魅力:76

【郭撲】
統率:42 性格:温和
戦闘:21 思考:隠遁−隠棲
智謀:80 特殊技能:易筮
政治:74
魅力:73
こういうすれっどはげーむいたにたてようね
45無名武将@お腹せっぷく:04/03/08 16:53
何曾

政治 6 一応晋の丞相になった
政略 6 それなりに
戦闘 2 苦手そう
戦略 3 軍事は?
人徳 4 欲深そう
忠誠 5 普通
【先軫】

政治 8 初代宰相
政略 7 覇権を守るため楚や秦と敵対する
戦闘 8 若い頃暴れん坊で有名だった
戦略 10 楚・秦を討ち、新興国を一躍覇権国家に成さしめた
人徳 7 礼法を尊んだ
忠誠 9 長く厳しい放浪生活に従い重耳を支えた
47無名武将@お腹せっぷく:04/03/08 21:45
どうせなら列伝とか、特技(騎突とか外交とか)も付けてくれると
ありがたいな

晋代はあんまり詳しくないので
>>46ワロタ。そうだよね。東晋じゃなくて晋だもんね。じゃあさ、重耳や狐突、狐偃、狐毛、趙衰、郭偃、介推、士会、里克などもやってよ。
49無名武将@お腹せっぷく:04/03/09 01:07
>>47
略歴程度は載せたいが、いちいち晋書読むのは大変・・・

石苞 字仲容 晋の大司馬となる。

政治 5 それなり
政略 6 司馬懿に信頼される
戦闘 6 そこそこ強い?
戦略 7 有能そう
人徳 7 美貌の持ち主
忠誠 8 義理堅そう
数字はいいから列伝きぼん
【荀息】

晋の献公(詭諸)の重臣。曲沃と翼に分裂していた晋の統一のために政治
・軍事に奔走する。後、驪姫による混乱が極まると、反驪姫派の大夫里克
に謀反に協力するよう薦められるが、義に背くことを躊躇い里克らと袂を
分かった。以後、驪姫派筆頭と目され、献公が他界すると遺言通り驪姫の
子奚斉を太子に立てるが、時期を伺い、準備を万端整えていた反驪姫派に
よって討たれる。「晋公室」に忠義を貫いた姿は、後世忠臣として知られる。
>>51おぉ!荀息できたか!どうせなら唇滅びて歯寒しの逸話も載せようよ。
【里克】

晋の大夫。恭太子(申生)の太傅。驪姫の姦計にのせられた父詭諸に自害するよう
申生が命じられると、亡命を薦める。しかし、「孝」を重んじる申生を説得するこ
とは困難であった。申生は自害し、奚斉が太子に立てられると、いよいよ驪姫を恨
むようになる。驪姫を討つべく画策し献公(詭諸)が死亡するや、驪姫・奚斉はじ
め、それに加担した者を一掃し、亡命公子夷吾を秦から迎える。ところが、夷吾が
晋君として立つと、郤氏らの謀略によって奚斉や荀息を殺したことを咎められ自殺
に追い込まれる。夷吾の忘恩の性質を見誤ったことは悲運であったろう。
>>52
「唇亡歯寒」ですね?
記憶がスッ飛んでました。ごめんなさい〜。
>>54そうですそうです。滅びてではなくて亡びてでしたね。僕も新釈漢読み直して思いだそうっと。宮城谷の重耳でもいいけど。あと、できれば能力もお願いします。その時は是非三国志基準で!
三国の武将で魏以外の出身で晋に仕えて活躍した武将っているの?
>>46
>初代宰相
全然違うと思うけど?

>>51
晋唯一の「大司空」となっている部分が欠けてる。
58無名武将@お腹せっぷく:04/03/09 12:52
>>56
陳寿
陸機
陸雲
顧栄
など・・・

春秋時代の話は専用スレで頼む。
>>58うん。ちょーしこいてごめんね。東晋の武将だよね
60無名武将@お腹せっぷく:04/03/09 15:16
石苞が信頼されたのは司馬懿にじゃなくて司馬師だね。
>>58
ありがとう。
だから、糞スレを自演で盛り上げるな
63無名武将@お腹せっぷく:04/03/10 02:17
司馬孚

字叔達 司馬懿の弟。晋の太宰となる。

政治 7 司馬懿の弟だけに
政略 6 悪巧みは苦手か?
戦闘 4 未知数
戦略 5 普通
人徳 8 司馬兄弟では一番長者
忠誠 9 最後まで魏の忠臣であろうとした
64無名武将@お腹せっぷく:04/03/10 02:19
がんばれage
このすれで読んでよかったと思えるレスは>>37だけだった
>57
大司空は筍息じゃなくて『士い』(士会の祖父)じゃないかな。
>>66
たしかに。
でも士イが士会の祖父って確かな確証は無いよ。
士氏の家系は不明瞭な部分も少なからずある。
6866:04/03/10 17:26
>67
世界史板にもいる人ですかね。

以前、世界史板の春秋戦国スレでこのことは議論になった
ことがありますね。
スレ違いとはいえ、春秋の晋のレスの方がおもしろいな。
うむ。
春秋時代は学ぶべきものが多い。
71無名武将@お腹せっぷく:04/03/11 00:06
まぁでも、東晋も悪くないだろ。

なぜageる?
ということは五代十国時代でも・・・
五代十国、五胡十六国、十二国記、なんでもウェルカム。
十二国記に「晋」ってあんのかい?
>>68
そういえばそんな議論があった気がする。
そんなわけで、士穀が士会の兄という完全な確証も無いはず。
もっとも、士イが祖父で士穀が兄、という結論がいちばんしっくりくる
みたいだけど。
77無名武将@お腹せっぷく:04/03/11 14:17
司馬望

字子初 司馬孚の子。大司馬となる。

政治 4 どっちかというと軍人
政略 5 普通
戦闘 5 普通
戦略 6 王リョウの乱を平定
人徳 4 ケチらしい
忠誠 6 父が義人なので
78無名武将@お腹せっぷく:04/03/11 15:46
王祥

字休徴 晋の太保となる。孝行で知られる。

政治 7 三公を歴任
政略 6 あまり権謀は得意じゃなさそう
戦闘 2 苦手か
戦略 3 軍事は興味なさそう
人徳 9 人徳だけで三公に登った感じ
忠誠 8 義理堅い
79無名武将@お腹せっぷく:04/03/12 01:38


字景倩 荀ケの子。三公を歴任する。

政治 8 有能
政略 6 日和見派らしい
戦闘 2 文の人
戦略 5 一応父の能力考慮
人徳 7 温和
忠誠 6 普通
80無名武将@お腹せっぷく:04/03/12 14:34
age
>>1

字 塵屑 池沼で、精神病院に入院中

政治 0 無能
政略 0 無能
戦闘 0 ゴキブリ
戦略 0 チンカス並み
人徳 0 友達が一人も居ない
忠誠 0 信じる人もいない、孤独人
>>79父の能力考慮ってさ…。あんま関係無くない?その方面では目立たなかったから記述がないんでしょ。二代目って何かと注目されるから功績をたてるチャンスは沢山あったはず。能力さえあれば活躍したと思う。
能力は遺伝しますよ?
競馬とかやってる人なら分かると思いますが。

馬でなくても人でも同じです。
アメリカでは精子バンクがあって、科学者などの精子が高額で取引されてるようです。
>>83あ、そうか。でもコピー人間じゃないんだから100%似たりはしないでしょ。同じような能力を持った夫婦だったらあるかもしんないけど。まぁ文才は受け継いでいるわけだし、父の最大の特徴を受け継ぐとは限らないし
8583:04/03/12 22:00
>>84
い、いや本気にされるとw
むしろ煽られるの希望だった
>>85あらら、そうだったん?嫌だなぁ我ながら恥ずかしい。
新の武将を数値化しよう。
>>87
誰がいるんだ?
王もう しかしらんぞ
荘尤とか王邑とか但欽とか色々
あと劉玄や王郎や呂母とか
名将馬援だって、一時的には新の将だったんちゃう?
91無名武将@お腹せっぷく:04/03/13 19:09
裴秀

字季彦 裴潜の子。司空に登る。

政治 9 かなり有能
政略 7 有能
戦闘 3 戦闘は?
戦略 5 諸葛誕平定に貢献
人徳 7 こんなもん
忠誠 7 こんなもん
>>89
全員しらん。列伝たのむよ
93無名武将@お腹せっぷく:04/03/13 22:43
陳騫

字休淵 陳矯の子。知謀で知られ、大将軍となる。

政治 5 それなりに
政略 7 知略あり
戦闘 7 大将軍となるからには・・・
戦略 7 対呉戦闘に活躍
人徳 7 それなりに
忠誠 7 普通に忠義
シンの武将を数値化しよう

【ハート伝】
統率 84 戦闘 91 智謀 66 政治 43 人徳 29
南斗六聖拳の将シンの重臣。天下無双の豪傑。
その巨躯のわりに小心なきらいがある。普段は温和な人柄だが、自分の血液をみる
と過度に興奮してしまい付近にいる者を無差別に攻撃する悪癖をもつ。ある時酒場
で談笑していた際、割れた湯飲みの破片で手を負傷したことで、発作が始まり、手
始めに酒場の親父を殴り殺すと、諌止に努めた兵卒らを殺しはじめ、正気に戻るま
で手がつけられなかったという。そういう性質も戦場ではことのほか役に立ち、主
シンには重用された。シンを暗殺しに来た七つの傷の刺客によって、酒に酔ったと
ころを襲われ、主シンを護ることもかなわず、落命してしまった。
95無名武将@お腹せっぷく:04/03/14 21:37
羊コ

字叔子 対呉司令官として活躍。

政治 8 民情に通じる
政略 6 政争は苦手
戦闘 7 有能
戦略 8 的確な対呉戦略
人徳 9 敵にも恩を施す
忠誠 9 仁義に篤い
>>86お前…頭良いのか悪いのか微妙だな。
97無名武将@お腹せっぷく:04/03/16 17:12
おいおい、>>1よ。もっとがんばれ。
あげておくよ
98無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 23:13
おいおい、>>1よ。もっとがんばれ。
今日もあげておくよ
99無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 23:23
唐揚げ〜 おいしく作るなら モミモミ〜(モミモミ〜) モミモミ〜(モミモミ〜)

唐揚げ〜 おいしく作るなら モミモミ〜(モミモミ〜) モミモミ〜(モミモミ〜)
100無名武将@お腹せっぷく:04/03/18 19:13
>>1はもう気が済んだんじゃない?オナニー終ってすっきりなんでしょ
能力を数値化してオナニーみたいな一言つけるだけのスレ
しかも、熱心に書いてるのは1だけ どうしようもないスレ
>>100
ちがうだろ。
もうオカズがなくて、こくにこけないんだろ。
>>1
もうわかっただろ?
誰も君のクソスレなんて興味がないってことを。
これにこりたら、もう数値化スレなんてたてるんじゃないぞ?
104無名武将@お腹せっぷく:04/03/18 23:12
地味に荒らされてるな。
じき復活するから・・・
105無名武将@お腹せっぷく:04/03/18 23:57
荒らしを根絶するために、まずこの板荒らしスレをなくそう!
>>104
まだやんのかよ。

んまぁ、ともかくがんばれw
107無名武将@お腹せっぷく:04/03/19 15:32
杜預

字元凱 羊コの後任として呉を平定。

政治 8 代々有能
政略 8 優秀
戦闘 3 直接戦闘は苦手
戦略 9 呉を困難なく平定
人徳 7 民衆に杜父と呼ばれる
忠誠 7 普通に忠臣

一言
王済を馬癖、和キョウを銭癖、自らを左伝癖と称した。
つか、一日一人じゃなくて、5人くらいあげてくれよ。
半分の3人でもいいし。

109無名武将@お腹せっぷく:04/03/19 23:55
王濬

字士治 益州刺史 建業を落として孫皓を捕らえる。

政治 6 刺史としては有能
政略 6 政争は苦手
戦闘 7 果断
戦略 8 羊コにその実力を見込まれる
人徳 5 傲慢で評判を落とす
忠誠 6 忠臣とはいえない

一言
美貌の持ち主だったが、傲慢な性格のお陰で度々讒言を受ける。
呉を滅ぼした時は七十を越えていた。
>>1に少しばかり訊ねたいのだが、何の史料に拠って書いてる?
『晋書』?
自分がやりたいだけなので質問は受け付けないんだよ」。このスレ立て荒らし野郎は
112無名武将@お腹せっぷく:04/03/20 21:34
>>110
当然晋書。
113無名武将@お腹せっぷく:04/03/20 21:47
王渾

字玄沖 王昶の子。呉討伐に参戦。司徒に登る。

政治 7 そこそこ有能
政略 8 保身・謀略ともに得意
戦闘 4 一応呉平定に貢献
戦略 6 王濬に先を越される
人徳 5 能力は買われていた
忠誠 6 それなり

一言
王濬を讒言して高官につけぬようにした事により譏りを受ける。
あらしに負けないでがんばってください!
晋書訳せるのですか?
>>112>>113

それだったら、もう少し、各人物の解説を加えてもいいんじゃない?
自分はところどころしか読んでないから。
117無名武将@お腹せっぷく:04/03/21 12:03
>>114
うん。
>>115
訳というか意味を取る程度。
>>116
じゃ、少しずつね。
118無名武将@お腹せっぷく:04/03/21 18:14
衛カン

字伯玉 蜀討伐に参加。司空・太保に登る。八王の乱で血祭りに・・・

政治 7 有能
政略 8 謀略は得意
戦闘 4 直接戦闘は?
戦略 7 有能
人徳 6 陰険な面あり
忠誠 6 裏がありそう

一言
衛カンがケ艾を殺したと聞いた杜預はいい死に方を
しないだろうと予見。
書の名人として知られる。
>>118
椅子フェチも入れといてくれ。

征蜀ん時の手並みはけっこう鮮やかだと思う。
>>113
王渾の戦闘、戦略は王濬に勝るとも劣らないと思うよ
呉の薛瑩、魯淑が十万を号する大軍で攻め寄せた際、淮水を渡って薛瑩を撃退したし
皖をせめて戦果を挙げたし
呉伐の際は、周浚らを率いて尋陽を攻め落としたし
さらに周浚らを派遣して、呉の主力である丞相張悌、大将軍孫震らが率いる数万を破っている

将棋で言うなら王を取ったのは王濬だが、詰みの一手は王渾によるもの、と言ってのいい思う
>>120
そう!それくらいの列伝がいいっす。
おねがいします
122無名武将@お腹せっぷく:04/03/21 19:11
>>120
王渾の前半生は武人だね。
戦闘はもうちょい上げてもいいかも。
王濬の鉄鎖を焼き切るような鮮やかな計略があれば
戦略ももうちょい評価できる。
123無名武将@お腹せっぷく:04/03/22 00:30
山濤

字巨源 竹林七賢の一人。司徒に登る。

政治 7 政務に通じる
政略 8 人材登用に活躍
戦闘 2 多分弱い
戦略 6 学ばずして孫呉と言葉が一致
人徳 8 温厚
忠誠 8 義理堅い

一言
呉平定の後、軍備を解かぬように主張した。
その後、内乱・反乱が各地で起こったが軍備が無かった
為に抑える事はできなかった。
黙々とやる様はある意味職人だなw
山巨源に与して交わりを絶つ書
126115=一騎:04/03/22 10:51
>>117
それでしたらお願いがあります。
羊コ伝、王濬伝の訳を教えて頂けないでしょうか?
私は下記のスレにいた者なのですが、羊コ伝、王濬伝がなかなか訳せなくて困っております。
恥を承知でお願い致します。

ttp://hobby.2ch.net/warhis/kako/1062/10621/1062163984.html
>>126
あぁ、「正史準拠」などと謳いながら、武力の議論になると荒れる一方の
不毛極まりないあのスレね……。
>>127
そのスレもこのスレも不毛(ry
129無名武将@お腹せっぷく:04/03/22 17:47
>>126
訳せといわれても・・・
王濬の事績を解説してるサイトならあると思う。
www.sinica.edu.tw/ftms-bin/ftmsw3?ukey=1462485056&path=/6.3.12.3.1
ここが読めれば何が書いてあるのかは大体分かるよ。
どうしても分からない所は書いてくれれば分かる範囲で回答するけど。
>>126
つか、半年間経ってまだ訳せんのかい。
131無名武将@お腹せっぷく:04/03/22 19:21
司馬攸

字大猷 司馬炎の弟 大司馬となる。孝心で知られる。

政治 8 有能と思われる
政略 6 謀略は苦手か
戦闘 3 強くはない
戦略 5 争い事は苦手か
人徳 9 臣下を度々感嘆させる
忠誠 8 義に厚い

一言
荀勗・馮タンの追従を退けた為に讒言を受けて憂死する。
子は斉王司馬冏。
>>130
便乗してる別人だろ
133無名武将@お腹せっぷく:04/03/23 03:19
楊駿

字文長 司馬炎の皇后の父。外戚として専権を振るい
賈皇后に殺される。

政治 4 政治家としての実績なし
政略 5 陰謀は好き
戦闘 3 一応軍職にはついてる
戦略 3 あっけなく殺される
人徳 3 人望なし
忠誠 4 奸臣っぽいので

一言
臨晋侯とされたが、臨晋は楊彪の父楊賜の受けた封地であり、
おそらくはその子孫と思われる。
>>132
半年前のスレ持ち出して便乗するか?
スレ住人が騙って復活させようとしてるのかもしれんが・・・。
別人なら荒れるだけだからスレ立てるなよ、と忠告しておく。
135無名武将@お腹せっぷく:04/03/23 20:00
李胤

字宣伯 清廉さで知られ、司徒に登る。

政治 7 静簡を尊ぶ
政略 6 政争に巻き込まれず
戦闘 4 武官も歴任
戦略 6 関中諸軍事とされる
人徳 8 孝行の名あり
忠誠 9 一徹者

一言
祖父李敏は公孫度に仕官を迫られ海上に逃れる。
荀勗・馮タン.司馬冏
もお願いします。

それと、できればルビ振って欲しいです。(難しそうな人物だけでも)
読めないっす。
荀勗は>>29
桓温・劉裕あたりもプリーズ
139無名武将@お腹せっぷく:04/03/25 00:23
馮タン

字少冑 司馬炎の寵臣。賈充・荀勗の親友。讒言を得意とする。

政治 5 得意とは言えない
政略 7 追従と讒言はお手の物
戦闘 5 一応武官
戦略 4 目立った戦績なし
人徳 5 性格は極悪だが・・・
忠誠 6 仲間の結束は堅い

一言
司馬攸・張華が讒言の餌食に。
賈皇后を才色絶世と言って司馬炎に勧め皇后に立てさせる。
140無名武将@お腹せっぷく:04/03/25 12:42
>138
桓温

政治 7 具体的な治績はないが、桓温が権力を握っている間に
      国力が落ちたという話もない
政略 7 西府軍に続いて殷浩を失脚させることで北府軍も掌握
戦闘 8 少数の兵を率いて成漢を滅ぼす
戦略 8 成漢を滅ぼし、一時的に洛陽を奪還する。前燕討伐は失敗
人徳 3 在野の賢人、王猛(後の前秦の宰相)を登用しようとしたが
      断られた
忠誠 3 皇位簒奪のため謀略を駆使するが結局失敗

皇位簒奪のためにいろいろやったが、東晋の国力を低下させるようなことは
なく、(前燕討伐は失敗したけど)寧ろ最盛期を導いたような気する

一言
忠臣でも名臣でもなく、決して凡臣ではなく奸臣ともいいきれず。
巨大な才能と中途半端な倫理観を持った人物だと思う。
141無名武将@お腹せっぷく:04/03/26 01:01
鄭袤(ていぼう)

字林叔 鄭泰の子。人材登用に活躍して司空に登る。

政治 8 有能
政略 8 人を見る目あり
戦闘 3 文官
戦略 5 毋丘倹への対応を司馬昭に進言
人徳 8 人望あり
忠誠 7 あまり思い詰めない性格?

一言
許允・魯芝・王基・劉毅・劉寔・程咸・ユ峻らを推挙。
毋丘倹・文欽の欠点を看破するなど人を見る明で知られる。
司馬冏こいつは?

読めないがw
143無名武将@お腹せっぷく:04/03/27 21:58
鄭沖

字文和 魏で三公を歴任、晋の太傅となる。

政治 7 政治家というよりは儒家
政略 6 特に優れた政策無し
戦闘 1 明らかに苦手そう
戦略 3 軍事は苦手
人徳 8 曹爽派だったのに三公に登る
忠誠 6 時代の波に逆らわず

一言
何晏らと論語集解を編纂。鄭袤とは同姓で同郡同県の出身
だが寒微の出と記されている。
144無名武将@お腹せっぷく:04/03/27 22:17
司馬冏(しばけい)

字景治 八王の一人。司馬攸の子。司馬倫を倒して政権を握るが
専横を憤った司馬乂らに殺される。

政治 3 善政なし
政略 4 司馬倫を誅す
戦闘 6 それなりかも
戦略 3 兵権を持ちながらあっさり殺される
人徳 6 死後の評価は低くない
忠誠 7 父譲りの義心はあった

一言
若い頃は仁恵ありと評されたが、政権を取った途端暴君化。
実際は自分の身を守るためには人を平気で殺す性格だった。
劉寔
こいつもよろ
146無名武将@お腹せっぷく:04/03/30 02:04
お疲れなので連休

今度は八王シリーズやります。
147無名武将@お腹せっぷく:04/03/30 10:25
加護ちゃんは起こりますよ!
148無名武将@お腹せっぷく:04/03/30 14:52
司馬亮

字子翼 司馬懿の子。八王の一人。汝南王。楚王司馬イと対立して
殺される。

政治 3 過酷な法を設ける
政略 3 無策にして敗れる
戦闘 4 武官だが敗戦多し
戦略 4 一応父の英才教育を受けたはずだが・・・
人徳 5 度々免官される
忠誠 6 意外に義理堅いかも

一言
名はライバル孔明と同名だがまともに戦に勝った試しはない。
司馬イの部下に顔中をズタズタにされ殺された。
149無名武将@お腹せっぷく:04/03/30 14:55
父のライバルね。
150無名武将@お腹せっぷく:04/04/01 02:17
>78

王祥は、司馬氏の簒奪に異を唱えながら、晋になってからますます出世している
ところからして、けっこう世渡り上手だったんではないかと思われ。
孝行伝説も自分がプロパガンダしたのではと勘繰るのは穿ち過ぎか。
151無名武将@お腹せっぷく:04/04/01 20:56
司馬イ

字彦度 司馬炎の子。八王の一人で楚王。
司馬亮・衛カンを殺すが賈皇后に謀られ殺される。

政治 4 施しを好む反面厳しい面も
政略 5 策謀の名手衛カンをあっさり葬る
戦闘 5 それなりに勇武
戦略 4 実戦経験が不足
人徳 5 部下には慕われる
忠誠 5 よくわからん。

一言
衛カン・司馬亮を倒せたのは賈皇后が手を貸した為だが、
自分も賈皇后に邪魔者とされていた事に気づかなかった。
152無名武将@お腹せっぷく:04/04/01 20:57
>>150
三公はほとんど名誉職だからね。
実権はそんなにないし・・・
氷を割って魚を捕ろうとしたんだっけ?
作り話とは思えないけど。
羊祜,字叔子,泰山南城人也
衛瓘,字伯玉,河河東安邑人也
楚隱王瑋,字彦度,武帝第五子也


154無名武将@お腹せっぷく:04/04/03 21:44
司馬倫

字子彝 司馬懿の子。亮の弟。八王の一人で趙王。
賈皇后を打倒して政権を握り遂に皇帝となるが、
司馬冏らに敗れて自殺させられる。

政治 2 無学無才
政略 4 賈皇后を倒したのは見事だが
戦闘 3 弱い
戦略 3 苦手
人徳 3 悪人
忠誠 3 信用できない

一言
司馬懿の子の中で最も愚劣。
何かの間違いで賈皇后を倒し、皇帝にまでなってしまった。
155無名武将@お腹せっぷく:04/04/05 21:55
司馬乂(がい)

字士度 司馬炎の六男。八王の一人で長沙王。
才力絶倫と称される。司馬冏を打倒して太尉に登ったが、
司馬越に謀られて殺される。

政治 5 それなりに
政略 5 司馬越の企みを見抜けず
戦闘 8 かなり勇猛
戦略 6 果断で知られる
人徳 8 士卒の信頼は厚い
忠誠 8 王室に忠義

一言
八王の中では一番まとも。
最後はあぶり殺しという一番悲惨な死を遂げる。
156無名武将@お腹せっぷく:04/04/05 23:49
八王おわったら、劉寔 こいつよろ
司馬駿

字子臧 司馬懿の子。亮の弟。扶風王。
幼年より才能を嘱望され、長じては政戦両略に活躍。
斉王司馬攸の左遷を諫めて容れられず憂死した。

政治 6 農政など実務に励んだ
政略 5 可もなく不可もなし?
戦闘 7 実戦での軍功多し
戦略 7 課された任務は十二分に果たした
人徳 8 威恩あり、孝心もあつい
忠誠 9 帝室の重鎮として通すべきスジは通す

帝室の藩屏としては理想的な役割を果たした。
いま少し余命があれば司馬炎没後の混乱に影響を与えられたかもしれない。
158無名武将@お腹せっぷく:04/04/07 02:03
劉寔(しょく)

字子真 管輅の友人。博学で知られ、清行により太傅に登る。

政治 7 政治家というよりは学者か
政略 8 先見の明あり
戦闘 3 一応軍職にも就く
戦略 5 それなりに
人徳 8 王室に尊重される
忠誠 8 苦難の中王室を支える

一言
ケ艾・鍾会の征蜀の際に二人は帰らぬだろうと予言。
年九十一で大往生。
張華

字は茂先 恵帝の代に司空となり政府首班を務めたが司馬倫に殺された。

政治 9 実務に優れ内外の官を歴任し治績を挙げた
政略 8 政府首班としての舵取りを称された(ただし自身が左遷されたこともある)
戦闘 2 幽州での軍務経験はあるが実戦の経験はない
戦略 8 廷臣としてただ一人呉討伐に強硬に賛成
人徳 8 人材登用に長け、異民族をよく従え、賈皇后からも尊重され、非業の死を惜しまれた
忠義 8 帝室に忠誠を尽くし、つねに正道を通した

博識で政務に通じ、多くの有用な人材を見いだし、著作家としても名高い。
賈皇后から委ねられた国政を裴[危頁](ハイキ、裴秀の子)とともによく導いたが、
結局は朝廷の混乱に巻き込まれて命運を断たれることになった。

>>159
ほんと、張華は
晋にとっての蕭何・荀ケに値する人物だったのになぁ・・・

コーエーの評価は低すぎだろ。
161無名武将@お腹せっぷく:04/04/08 21:46
>>160
そうそう。晋代の武将をもうちょっと強めに
見てくれてもいいと思うんだけどねぇ・・・。
北条早雲から徳川光圀までをフォローしてる信長と違って、
三国志はあくまで、三国時代がベースだからね

だれか作家が西晋滅亡までをフォローした三国志の小説を書いて、それがヒットでもしないかぎり、
コーエーの評価もかわらんでしょ
周處(236-297)

字は子隠、呉の周魴の子。呉からその滅亡後は晋に仕える。
才能はあったが権力者を容赦なく弾劾したので忌避され、
齊萬年の叛乱討伐に際し寡兵での戦闘を強要されて戦死。

政治 7 辺地の慰撫、訴訟の決裁、綱紀の粛正に才を発揮
政略 3 容赦ない弾劾は正しいが賢い生き方ではなかった
戦闘 7 寡兵にて追いつめられてからの奮戦が光る
戦略 6 掣肘を解かれたならば実力発揮の可能性ありとの証言も
人徳 3 若い頃は嫌われ者だった。のち心を入れ替えたが剛直さが命取りに
忠誠 7 忠誠心がかえって敵を作るタイプ

旧江南系の名士は晋朝中央において何かと風当たりが強かったが、
彼の場合は少なからず自業自得であるともいえる。
ちなみに著作を残しており、『風土記』は当時の風俗を伝える史料となった。
また彼の墓が発見され、副葬品のアルミニウム合金がオーパーツだと話題になったが、
どうやら後の時代に盗掘された際に混入したらしい銀製品だったとか。
164無名武将@お腹せっぷく:04/04/09 22:19
司馬穎

字章度 司馬炎の十六男。八王の一人で成都王。
司馬乂を排除して丞相・皇太弟となる。
一度は皇帝並の権力を持つも帝を手放した為に
追討され殺される。

政治 2 政治には疎い
政略 3 細かい事は部下任せ
戦闘 6 それなりに勇敢
戦略 3 部下任せ
人徳 8 敦厚な性格で人に慕われる
忠誠 7 裏切りとかはあまりなさそう

一言
容貌は美しかったが頭は良くなかった。
陸機・陸雲の主人でもあり、部下は優秀だった。
165無名武将@お腹せっぷく:04/04/09 22:25
司馬穎・周處

ってなんて読むんですか?
厨房には難しすぎます。
166無名武将@お腹せっぷく:04/04/09 22:29
司馬えいと周しょ

處は処。
167672:04/04/10 19:15
おお、張華と周處がのっている。漏れはこの二人が好きなのよ。

ちなみに、張華が推薦・絶賛した人物には、
劉聡(前趙皇帝・劉淵の子)・慕容カイ(前燕の基礎を作る)
・張軌(前涼の基礎を作る)・陶侃(東晋期の名将)・陳寿(三国志の著者)
などがいる。これでもほんの一部で、晋書を探すともっといたりする。
すごい人物鑑識眼だと思う。
それでいて、自分の門を叩いた人間は、ひとつでも長所があれば登用した
っていうから、情味もある人物だったろうなあ、と勝手に考えてる。
159氏の評価、もうちょっと読んでみたいですなあ。

周處は陸雲と会って一念発起、勉学にいそしんだというエピソードが
書かれてますねえ。あと、呉滅亡時に王渾に皮肉を返したりとか。
この人が、西晋期は呉人でもっとも出世したようにも思えるけど。

なんだかんだ言って、王渾って名臣だと思うんだけどなあ。
匈奴の劉淵を晋王朝の役に立てようと努力したし、風当たりの強い呉の
遺臣たちの後ろ盾になったりしたのに、どうして奸臣あつかいされたんだろ。
王衍(オウエン) 256-311

字は夷甫、王戎の従弟。眉目秀麗にして清談に通じ、中央政界で栄達し三公を歴任する。
しかし政事に関心を持たず、晋朝の瓦解を目の当たりにしながらその責務を全く果たさなかった。
後に石勒に捕らわれるが「こんにちの情勢は私の責任ではない」と開き直り、周囲を呆れさせる。
結局、刀に血塗る価値も無しということで土塀の下敷きにされて殺された。

政治 2 基礎的な能力はあったらしいがやる気が皆無
政略 1 宰相としての責任を放棄
戦闘 2 実は一度だけ総司令官として石勒軍を破ったことがある(自身が戦ったわけではないだろうが)
戦略 1 とにかく他人任せ他人頼り
人徳 5 けして悪人ではなく、清談家としての名声は高かったが…
忠誠 3 裏切り者ではないが宰相としての無責任さは異常

この時期の清談は成立期から変質しつつあったが、世俗に対する韜晦から現実逃避へと堕した最悪の見本。
他人が羨むほどの世俗的出世を果たしながら当の本人に全くやる気がないのが皮肉ではあったが、
それによって天下が被った惨禍はただごとではなかった。石勒いわく「天下破壊、正是君罪」。
一方で清談家としては洒落たエピソードもあり、良くも悪くもネタには尽きない人物。
169無名武将@お腹せっぷく:04/04/11 21:11
司馬ギョウ

字文裁 司馬孚の孫。八王の一人で河間王。
恵帝を長安に連行。権力を握るが司馬越に
帝を奪われ力を失い、後に殺される。

政治 5 清名あり
政略 6 それなりに策謀家
戦闘 5 平均レベル
戦略 5 平均レベル
人徳 6 士を愛す
忠誠 5 普通

一言
八王の中では一番地味。
帝を手放した事が敗因となった。
170無名武将@お腹せっぷく:04/04/11 21:16
字は文載だった。
もう、なんかね、みんな最後は殺されてますよね、この時代。
172無名武将@お腹せっぷく:04/04/12 00:20
こんだけ混乱すれば匈奴も反乱起こしたくなるわな。
173無名武将@お腹せっぷく:04/04/13 23:53
司馬越

字元超 司馬懿の弟司馬馗の孫。八王の一人で東海王。
巧みな謀略で政敵を一人一人排除。八王の乱に勝ち残る。
覇道を行おうとしたが、国内の混乱を招いて憂死する。

政治 5 民の事は念頭になさげ
政略 8 政敵をことごとく葬る
戦闘 4 弱くはない
戦略 6 それなり
人徳 6 それなり
忠誠 4 信用おけない

一言
八王の中で唯一殺されずに終わる。
長い混乱を鎮めた功績は認めるが・・・評価は難しい
174無名武将@お腹せっぷく:04/04/14 23:49
司馬亮 司馬懿の子
司馬倫 司馬懿の子
司馬イ 司馬炎の子
司馬乂 司馬炎の子
司馬穎 司馬炎の子
司馬冏 司馬攸の子
司馬ギョウ 司馬孚の孫
司馬越 司馬馗の孫

こうしてみるとホント醜い骨肉の争いだな・・・
王導のご近所さんの諸葛恢は?
諸葛家は何気に驢馬と関わりが深いな。
176無名武将@お腹せっぷく:04/04/15 23:16
賈皇后

恵帝の皇后。賈充の娘で、名は南風。
嫉妬深い性格で帝に怖れられる。
策謀により司馬亮・楊駿・衛カンらを倒したが、
司馬倫らに殺される。

政治 4 無能ではないだろうが・・・
政略 7 悪知恵が働く
戦闘 3 自ら人を殺してる
戦略 4 意外に巧みだったりして
人徳 2 極悪
忠誠 2 やばい

一言
ある意味呂后を凌ぐ猛女。
部屋に連れ込んだ少年に青黒い顔と言われるなど
容貌は歴代皇后の中で最低レベル。
177無名武将@お腹せっぷく:04/04/17 23:37
賈謐(かひつ)

字長深。賈充の娘の子。賈充の後継ぎとされる。
名門の子弟を集めて二十四友を形成。
権力を恃んで帝室を物とも思わず、遂に賈皇后とともに殺される。

政治 5 浮華の士なので低めに
政略 7 派閥形成は得意
戦闘 3 ダメそう
戦略 4 不明
人徳 7 それなりに人望あり
忠誠 3 帝室を物とも思わず

一言
権勢を誇った割には官は侍中に止まる。
二十四友には左思・潘岳・陸雲などの高名な文人がいた。
178無名武将@お腹せっぷく:04/04/24 22:57
裴キ

字逸民 裴秀の子。博学で知られる。
賈氏の縁戚。楊駿打倒に協力。
司馬イツを守り立てようとして失敗。
最後は趙王倫に殺される。

政治 8 父譲りで有能
政略 7 司馬倫に殺されたのが・・・
戦闘 4 実戦経験が不足
戦略 6 潜在能力は高い
人徳 7 それなりに
忠誠 7 忠諫の士

一言
何晏・阮籍ら清談の徒を非難して崇有論を著す。
三十四歳で殺されたが、長生きしていれば父を凌ぐ
名宰相になっていたはず。 
>168
王衍は時代を達観した天才。
凡人には彼の才は所詮分からないのだ。
まっとうな知者であった石勒には理解できなかったというべきか、
空恐ろしさから殺してしまったのかもしれない。
かくいう私も昔はアホだと思っていましたけど
雰囲気とか印象のみで日本の歴史に無理矢理当てはめると

三国志→戦国時代
西晋→南北朝時代

て感じがする
政治の混乱ぐあいが
181無名武将@お腹せっぷく:04/04/28 23:14
石崇

字季倫。石苞の子。
司馬炎に重用される。豪奢で知られ、王ガイと贅を争う。
愛妾の緑珠が司馬倫の部下孫秀に見初められ、その所望を
断った事を恨まれ殺される。

政治 4 無能ではないが貪欲
政略 7 才覚はある
戦闘 4 一応父は大司馬
戦略 5 実戦経験が不足
人徳 5 才子だが貪欲傲慢
忠誠 4 忠臣とはいえない

一言
贅沢話などエピソードは豊富。
思えば功臣の子を甘やかした司馬炎は晋の滅亡を早めたかも・・・
182無名武将@お腹せっぷく:04/05/01 19:03
王ト

字君夫 王粛の子。
外戚として高官を歴任。楊駿打倒に協力して
公に封じられる。
石崇と贅沢を争い、死後醜と謚される。

政治 3 民の事は眼中になし
政略 6 一応混乱の中で生を全う
戦闘 4 武官を歴任しているが・・・
戦略 4 文官の家柄
人徳 3 醜と謚されるようでは・・・
忠誠 4 忠臣とはいえない

一言
石崇とは元は仲が良かったらしい。
183無名武将@お腹せっぷく:04/05/01 21:04
そもそも279年のシナリオがあればいいのに
184無名武将@お腹せっぷく:04/05/02 22:58
司馬イツ

字熙祖 司馬衷の長男。
幼い頃から聡明で司馬炎に愛される。
賈皇后の実子でなかった為に迫害され、騙されて太子を廃される。
最後は司馬倫の策略に乗せられた賈皇后に殺される。

政治 7 有能だったが才能を発揮する事は無かった
政略 7 賈皇后の憎しみをかわすので精一杯
戦闘 5 剛毅な人柄であった
戦略 5 判断材料なし
人徳 8 高い名声あり
忠誠 7 父に疑われて太子を廃される

一言
有能な三代目になるはずが、賈皇后の為に悲惨な最期を遂げる。
幼い頃に司馬懿に似ているといわれていた。
185無名武将@お腹せっぷく:04/05/02 23:16
これは・・・実に勉強になるスレだな。三戦板とくに、三国史好きは必須ですね
186無名武将@お腹せっぷく:04/05/02 23:19
このスレに文句つけている無知ウザイな
羅尚(ラショウ) ?〜304ごろ

字は敬之、羅式の子。叔父は羅憲。
早くに父を喪い、羅憲に養われる。
晋に出仕し、王戎の参軍として呉討伐に参加した。
のちに益州刺史となり、侵入してきた氐族の李特を討ち取る。
その跡を継いだ李雄と引き続き対峙するが急逝した。

政治 5 私欲のためには腕を振るった
政略 6 ある意味で要領がよい
戦闘 7 実戦経験・戦果は割とある
戦略 6 益州ではそれなりの功を立てる
人徳 2 貪欲で佞人を好んだ
忠誠 4 氐族撃滅には力を尽くしたが…

軍事的才能はそれなりものを有していたらしい。
しかし私欲を好む性格は相当評判が悪く、当局サイドであるにもかかわらず
蜀の人からは「蜀賊(当時益州は混乱していた)の方がまだマシ」と言われた。
彼の死後益州は李雄の手に陥ち、
以後半世紀に渡って異民族の支配下に置かれることになる。
188無名武将@お腹せっぷく:04/05/04 19:59
何劭

字敬祖 何曾の子。博学で知られる。
司馬炎と少年の頃から親しく、司馬炎の即位後も
常に側に侍る。
飄々とした人柄で中央の混乱を生き抜き太宰に登る。

政治 6 無能ではないが無為の人
政略 7 政争に関わらず
戦闘 2 根っから文官
戦略 3 軍事は興味なし
人徳 6 人に憎まれる事は少なかった
忠誠 6 マイペース

一言
父譲りの美食家で食事は皇帝の物より豪華だといわれる。
王弼の伝を記すなど老荘の徒であった。
189無名武将@お腹せっぷく:04/05/05 10:42
シナリオ1…220年
シナリオ2…227年
シナリオ3…234年
シナリオ4…239年
シナリオ5…252年
シナリオ6…257年
シナリオ7…263年
シナリオ8…266年
シナリオ9…279年
これぞ本当の三国志
190無名武将@お腹せっぷく:04/05/05 20:19
呂布とか曹操のファンが憤死するぞ
191無名武将@お腹せっぷく:04/05/05 20:52
>>190
関羽や孫策や魯粛もな
八王の乱シナリオを希望する
でも正直いって、建安年間が舞台のシナリオって飽きてる。
せめて諸葛亮歿後のシナリオを充実してほしくはある。
あとは蜀滅亡後から呉滅亡の間のシナリオなんかが気になる。
光栄が和訳されていない晋書からキャラを出したり説明書いたりが出来ないので不可能。
いっそ後漢勃興とか南北朝とかも
米が無く民が飢えているという言葉を受けて、
ならどうして彼らは肉を食べないのだと言ったのは誰でしたっけ?
197犬童知遠 ◆tmc8JAPANo :04/05/06 03:21
三國志IXだと、「234年 第五次北伐と諸葛亮の死」の後は
いきなりもう「263年 剣閣攻防と蜀の滅亡」が来ちゃうのか。
(IXに限らず、シリーズ通してこんな感じだとは思うが。)

主に蜀にスポットを当ててるから、「公孫淵討伐」やら
「司馬懿のクーデター」やら「毋丘倹&諸葛誕の反乱」
やらの時期がスッポリ抜けちゃってるんだよなぁ・・・。

>>193
>せめて諸葛亮歿後のシナリオを充実してほしくはある。
>あとは蜀滅亡後から呉滅亡の間のシナリオなんかが気になる。

238年 公孫淵討伐〜明帝曹叡歿
249年 司馬懿のクーデター(曹爽誅殺)
251年 王淩の反乱未遂〜司馬懿歿
254年 前廃帝曹芳廃位〜毋丘倹の反乱〜司馬師歿
257年 諸葛誕の反乱
260年 後廃帝曹髦謀殺
263年 蜀滅亡
265年 司馬昭歿〜晋成立
270年 涼州で禿髪樹機能率いる鮮卑の反乱(〜279年)
280年 呉滅亡

主な事件の年表は大体こんな感じか。
魏晋中心に挙げたけど、蜀・呉に目を移すと、呉では孫和派
と孫覇派の対立が激化して、それに巻き込まれるような形で
張休と陸遜が死去、蜀では蒋琬と董允が没して、いよいよ黄
皓の権力が増大してきた245年なんかが、新シナリオの候補
に挙がるかも。
198犬童知遠 ◆tmc8JAPANo :04/05/06 05:35
>>192
>八王の乱シナリオを希望する

290年 武帝炎歿、恵帝衷即位。
291年 賈皇后、楊駿・汝南王亮・衛瓘・楚王瑋を相次いで謀殺。
296年 【氐族の斉万年が関中で反乱(〜299年)】
300年 賈皇后、愍懐太子遹を謀殺。趙王倫・斉王冏、賈皇后を誅殺。
301年 趙王、帝位を簒奪。斉王・成都王穎・河間王顒、挙兵して趙王を誅殺。
    【張軌、涼州刺史となる。巴氐族の李特が流民を率いて蜀で反乱】
302年 斉王、専権を振るう。長沙王乂・成都王・河間王、挙兵して斉王を誅殺。
303年 成都王・河間王・東海王越、挙兵して長沙王を謀殺。
    【義陽蛮の張昌が荊州で反乱(〜304年)】
304年 幽州刺史王浚、鄴を攻め、成都王を河間王の下に敗走させる。
    【劉淵、鄴から脱出し、離石で「漢王」と称して自立(漢-前趙の成立)】
    【李特の子の李雄、成都で「成都王」と称して自立(成漢の成立)】
306年 幽州刺史王浚・東海王、長安を攻め陥とし、成都王・河間王を破る。
    八王の乱終結。東海王、恵帝を毒殺し、懐帝熾即位。

八王の乱に直接関係の無い異民族関係のトピックは【】で括っときました。
短期間の内に勢力地図が目まぐるしく変わりまくりだから、ゲーム化したら
きっと三国志初期(後漢末期)並みに面白くなるかも・・・と思っていたり。
>>197
おお、それなら270年と280年の間に、「歩闡の叛乱」を入れてもいいね。
>>196
晋の恵帝(司馬衷)
201無名武将@お腹せっぷく:04/05/07 11:04
諸葛亮死後のシナリオの扱いに苦慮するのは、蜀はまあいい。魏と呉だ。
魏は実権が司馬一族に握られていたということになるので、曹一族を君主として確定するのかどうかが微妙になるからじゃないか?
呉も、孫皓はなんとかなるが、孫亮・孫休の代は孫峻・孫チンをどう扱うかが難しい
202無名武将@お腹せっぷく:04/05/07 11:49
三国志Zのときのシステムだと対応できたが、あれでは今一つ面白みに欠ける
203無名武将@お腹せっぷく:04/05/07 12:16
>>198
データ容量を考えろ!
>198
ほぼ武将数増やすだけだから余裕じゃない?

むしろ人数が少なすぎて後漢末期のシナリオと同じシステムではゲーム化し難いんじゃ。
205無名武将@お腹せっぷく:04/05/07 12:49
もっともっと増やせ!
206無名武将@お腹せっぷく:04/05/07 13:02
正史に記載されている人物をかき集めればなんとかなる。
だって、実際その時期だけ人物が少なかったわけでも無いし
>>206
正史というか、『三国志』と『晋書』な。
あとは『資治通鑑』も必要だろうけど、今の肥には無理だろうな。
208無名武将@お腹せっぷく:04/05/07 13:06
シナリオと武将は増やした方がいいな。
シナリオは党錮の禁ぐらいから東晋成立ぐらいまで、
最低20個ぐらいシナリオ有ってもいいな。
武将数は最低でもトータルで2000人以上は欲しい。
変にグラフィックでデータ容量を費やすより、
システムや操作性を追及した方がいいと思う。
もちろん晋の武将もどんどん入れてほしい。
石勒ぐらいの世代までゲームに入れたら、後漢末期のシナリオと
同じシステムでも十分楽しめるんじゃないかな。
209無名武将@お腹せっぷく:04/05/07 13:07
>>208
コストが高すぎる。一部の変態的マニア以外は買わない
210208:04/05/07 13:18
>>209
PUKでこれくらい追求してもいいと思うが。
211無名武将@お腹せっぷく:04/05/07 13:37
東晋成立までなら、220〜317年までにするとか
212無名武将@お腹せっぷく:04/05/07 13:52
>>208
グラフィックは無用だよね
>党錮の禁

どうやってゲーム上に表現するんだ?
214無名武将@お腹せっぷく:04/05/07 16:18
拘禁の蘭でさえ無理があるのに
いまの糞肥にまともなシステムなんぞもとめても無理だって
216無名武将@お腹せっぷく:04/05/07 16:29
清流派(在野の名士)と濁流派(宦官)の争いか?
いや、人間と禽獣の争いだろう。
218無名武将@お腹せっぷく:04/05/07 17:06
勝利条件がわからない
219勝利条件:04/05/07 17:09
宦官皆殺し
いっそヨーロッパユニバーサリスで西暦160年頃から始まるシナリオ作ればいいのかも・・・
221無名武将@お腹せっぷく:04/05/08 21:51
>>220
データ容量を考えろ!
222無名武将@お腹せっぷく:04/05/08 22:22
>>197
それでも240年代は249年の司馬懿のクーデター以外はあまり大きな変化がない
223無名武将@お腹せっぷく:04/05/08 22:33
公孫淵・諸葛誕の反乱と呉滅亡は入れてほしいような気もする。
呉滅亡の呉などまともな人いないかもしれないが。
党錮の禁

ある年数が来ると勝手に発動して一斉に清流派の文官が使えなくなる。
そのイベントが起こるまでずっと内政してなきゃならないのか?
>>225
豪族の統制や治安維持、国内の反乱の鎮圧、辺境の平定などをえんえんとやるw
227無名武将@お腹せっぷく:04/05/11 05:28
王戎

字濬沖 幽州刺史王雄の孫。王衍の従兄。
若い頃から阮籍・ケイ康らと交わり名を知られる。
呉討伐で手柄を立て、その後は中央の高官を歴任。
しぶとく八王の乱の中を生き抜く。
竹林の七賢の一人。

政治 7 特に優れた業績はない 守銭奴
政略 9 先見の明に優れる
戦闘 5 弱くはない
戦略 7 実は有能
人徳 7 良くも悪くも有名人
忠誠 7 常人には量りがたい

一言
西晋の高官らしくエピソードが豊富。
戦闘の最中でも懼れる色もなく飄々としていたという。
というかまだゴミ>>1はおなぬーしてましたか。はよしね
滕脩(トウシュウ) ?〜288

字は顯先。はじめ呉に仕え、のち晋に降る。
政治、軍事双方に才を発揮し、南方統治を任された。

政治 7 廣州での治績あり
政略 6 目立った功績はないが廣州をよく治めた
戦闘 6 将帥としての経歴を持つ
戦略 6 郭馬の乱討伐の顛末が不明だが…
人徳 7 威恵甚だ有りと評された
忠誠 7 仕える相手にはそれぞれ尽くした

なまじ演義にチョイ役で出てしまったために
コーエーの三國志IXではザコ文官扱いされてしまったが、
実際は水準以上の才能を持っていたようだ。
また、ヒゲの長いエビの存在を信じようとしなかったが、
現物を見せられて自分の誤りを改めたというお茶目なエピソードを持つ。
滕胤の親族?
>>230
滕脩は南陽は西鄂の人。
滕胤は北海は劇の人。
本籍が違うから、親族ではないということになる。
232無名武将@お腹せっぷく:04/05/20 00:28
王済

字武子 王渾の子。晋の公主を娶る。優れた才能を持ったが
傲慢な性格であった。老荘の徒で、馬を好んだ。

政治 7 特に優れた話は無い。金儲けは上手い。
政略 7 生きていれば大物になったろうが若死に
戦闘 8 有力絶倫と称される 弓の名手
戦略 7 意外に有能そう
人徳 6 性格に難あり
忠誠 4 帝にも屈せず

司馬炎の客となっていた孫皓に「臣下の顔の皮を好んで剥いだのは
何故か」と尋ね、「君に対して無礼な者にそうしたのです。」と
やり返されたのは賈充でなくこの人。
あと、人乳で蒸した饅頭を司馬炎に食べさせ不快にさせた話でも有名。
馬隆(バリュウ) 230年代?〜290年代?

字は孝興。涼州方面での対異民族戦争に大功を立てる。
その後も同地にあって睨みを効かせた。

政治 5 目立った業績はないが太守のキャリアは長い
政略 6 司馬炎に直言する器量を持つ
戦闘 9 羌、鮮卑に対する戦果は絶大
戦略 8 先見の明と実戦での機転を兼ね備える
人徳 7 隴右にて威信を震う
忠義 8 令狐愚に尽くしたエピソードを持つ

実戦指揮官としてはこの時代においてトップクラスの実力を持ち、
晋朝を悩ませた異民族を撃破して涼州を回復するなど貢献度は高かった。
若き日には、令狐愚がその死後に叛乱未遂が発覚し遺体を暴かれ晒されていたところ、
馬隆が敢えて丁重に葬り喪に服したとして賛美されたこともあった。
234無名武将@お腹せっぷく:04/05/21 23:06
左思

字太沖 三都賦(魏都賦・蜀都賦・呉都賦)の作者として
知られる。文才により認められ、秘書郎となる。
張華もその才能を深く認めた。
賈謐二十四友の一人となったが、賈謐が殺されると隠棲して
著述に勤しんだ。

政治 5 政治の経験はほとんどない
政略 6 それなりに頭は回りそう
戦闘 2 人に石を投げられたという話が・・・
戦略 4 軍事には疎いか
人徳 5 容貌は悪かった
忠誠 7 二君に仕えず

一言
都の人間は争って三都賦を書き写したという。
「洛陽に紙価高し」のエピソードは非常に有名。
これはいい遅筆で有名な人ですね
236無名武将@お腹せっぷく:04/05/23 11:26
何気にこのスレは好きだったりする。
何劭 なんてよむの?かしゅう?
かしょう
238無名武将@お腹せっぷく:04/05/30 01:01
胡奮(コフン) ?〜288

字は玄威。胡遵の子。
遼東の公孫淵討伐を皮切りに呉平定戦まで各地を転戦して功績を重ねる。
娘は司馬炎の妃のひとりとなった。

政治 5 具体的な治績はない
政略 7 娘を通じて帝室と良好な関係を築いた
戦闘 8 各地で戦功を重ねる
戦略 7 司令官クラスの地位を歴任
人徳 7 辺境では特に威恵があった
忠義 7 当人も一族も揃って司馬氏に貢献

魏末から晋初にかけての各地の戦場においてその名が見られる。
父以来の武門の家柄ながら、娘を後宮に入れる辺りは抜け目がない。

ちなみに呉討伐戦において杜預の名言「破竹の勢い」を引き出すことになる
持久戦を主張する台詞を発したのがこの胡奮だとされているが、
晋書杜預伝に見るそのやり取りにおいては胡奮の名は見えない。
(発言者の具体名が記されていない)
前半部分(〜100)の人物評が簡潔すぎなので
もう一度詳しくリメイクしなおして欲しいと
無責任にも主張してみる。
240無名武将@お腹せっぷく:04/05/31 00:35
陸機

字士衡 陸遜の孫。陸抗の子。陸雲の兄。
文人として知られる。
成都王司馬穎麾下の将軍となったが、長沙王司馬乂
の軍勢に敗れる。司馬穎の寵姫孟玖の讒言により
殺された。

政治 6 どちらかというと軍人
政略 7 下らぬ人物の讒言により殺される
戦闘 6 天下分け目の決戦に敗れる
戦略 6 祖父・父に比べると数段劣る
人徳 8 文人として天下に名を知られる
忠誠 7 友人の賈謐を討つ側に回り譏りを受ける

一言
孫皓・楊駿・司馬晏・司馬冏と、仕えた主人が次々に
不幸な末路を辿る。
主君を上手く補佐できなかった所に限界があるか。
三代に渡り将軍となるのは道家の忌む所とされた。
241無名武将@お腹せっぷく:04/05/31 22:51
賈謐 カクの一族か?
カクの一族は賈疋
>>241
賈謐は賈充の娘である賈午と韓壽の間に生まれた子。
韓壽は、魏の大臣を務めた韓曁の曾孫。

で、賈謐とカクの間に血縁関係はない。
賈疋(カヒツ) ?〜312

字は彦度。カクの曾孫。
永嘉年間に雍州を転戦し、司馬ギョウ(後の愍帝)を迎える。
驃騎将軍・雍州刺史となるがその直後に同方面で戦死した。

政治 5 太守レベルの能力
政略 5 大局的な行動は特にない
戦闘 7 匈奴の劉曜らを破る
戦略 6 雍州方面で戦功を上げる
人徳 7 その死を痛惜された
忠誠 7 晋朝復興を己の任とした

晋朝が転覆した“永嘉の乱”において活躍し、その名を残した。
最終的には戦死したが、それなりの軍才を発揮している。
>>241
カクじゃなくてカキな…
>>239
↓こんな感じ?

司馬懿(シバイ) 179〜251

字は仲達。司馬防の次男で「司馬八達」のひとり。
曹操の脅迫まがいの招聘を受け出仕し、曹丕、曹叡と歴代皇帝から重用された。
続く曹芳の代には一時逼塞を余儀なくされるが、
政敵の曹爽一党を倒して名実共に魏の第一人者となった。

政治 9 農業振興、水利事業に力を注いだ
政略 10 公は国家運営、私は地盤確保に才を発揮
戦闘 8 攻勢、防御、速攻、持久と各戦術に長ける
戦略 9 各地の戦線で大局的な判断を誤らず
人徳 5 猜疑心が強く、また大量殺戮を厭わなかった
忠誠 7 魏朝に対しては貢献するところ大だった

彼の魏朝簒奪の意思については賛否両論がある。
また「張コウに蜀軍の追撃を強いて戦死させた」という『魏略』の説をもって
軍事能力にマイナス査定とする見解もなくはないが、
総合的に見れば時代を代表する用兵家といえるだろう。
247無名武将@お腹せっぷく:04/06/02 22:35
>>246
戦闘は一応部隊を率いた時の戦闘能力としてます。
戦術面は戦略に入れてます。
じゃないと猛将の存在感が薄れるので・・・
248246:04/06/02 23:05
>>247
言わんとするところはだいたい掴めました。

そうすると「戦略」の項目名は改めたほうがいいかも。
字面の上で戦術と戦略が一緒の項目になっているのには抵抗が…
「用兵」などどうでしょうか。
249無名武将@お腹せっぷく:04/06/02 23:27
戦略=軍略という事で・・・
光栄準拠の「内政」「外交」「武力」「統率」「魅力」「忠誠」でいいのでは。
251無名武将@お腹せっぷく:04/06/02 23:45
政略は外交だけじゃなく、策謀・保身・工作の能力も含まれてます。
戦略もただ兵を統率するだけでなく、大局的な戦略、戦術・計略、
築城・徴兵・輸送などの軍事に関する能力一般と考えます。
252246:04/06/03 02:09
この細かい定義をしだすと際限がないですね。

元々私も>>251氏のようなカテゴライズを意識していたので、
改めて、これに沿って考えてみようかと。
>>239
もれも同意。

司馬倫
政治 7
政略 6
戦闘 4
戦略 8
人徳 3
忠誠 1

確かにこれじゃあな・・
なに?って感じだ。
司馬倫に関しては>>154があるからいいっしょ。
こっち(154)の評価は妥当だと思う。
司馬倫つながりということで…

孫秀(ソンシュウ) ?〜301

字は俊忠。琅邪の人。後に本籍を趙に移す。
(呉の孫匡の孫で晋に亡命した人物とは別人)
司馬倫の腹心として小吏から中書監(中書令とも)にまで昇るが、
司馬冏らの起義軍に殺害された。

政治 4 吏才はあったかも
政略 7 策謀・姦計・追従に辣腕を振るう
戦闘 1 実戦はあてにならない
戦略 2 ただ中原に混乱を招いたのみ
人徳 1 侫人にして私欲を貪り、私怨による粛清も行った
忠誠 3 司馬倫とは一蓮托生

無能な司馬倫の一連の暴挙は実質的に
この孫秀のコントロールによるものだった。
ある意味では時代を動かしたともいえるが、
結局は成した悪事に値する末路を辿った。
「中心藏之,何日忘之.」(・∀・)イイ!!
257無名武将@お腹せっぷく:04/06/05 21:50
>>255
分かりやすい。
どんどん書き込みしてくれい。

石苞とか、その辺も。
石苞(セキホウ) ?〜273(272とも)

字は仲容。晋の大司馬。
淮南方面の司令官を勤めた。

政治 7 農政に造詣が深い
政略 6 謀反の嫌疑(冤罪)を辛うじて切り抜ける
戦闘 7 諸葛誕討伐などで戦功を挙げる
戦略 7 淮南地方をよく守った
人徳 5 素行は問題があったが公人としては合格点
忠誠 7 讒言に屈することなく帝室に尽くした

司馬懿には「好色薄行」を忌避されたが、
司馬師はその才略を買って弁護した。
過去に叛乱が続発した淮南方面をよく守ったが、
讒言により討伐を受ける寸前の窮地に陥ったこともある。
部下の建策に従い嫌疑は晴れたが、当人は怨まず朝廷に尽くした。
259無名武将@お腹せっぷく:04/06/07 00:14
陸雲

字士龍 陸機の弟。
兄の文才には敵わなかったが持論は
勝っていた。
兄と同じく司馬晏・司馬穎に仕え、
兄が讒言により殺されると、連座して
殺された。

政治 8 優れた行政家
政略 8 優秀な人材を登用
戦闘 5 武官というより文官
戦略 6 血筋は優秀
人徳 8 兄とともに二龍と呼ばれる
忠誠 7 普通に忠臣

一言
笑い癖があり、水に映った自分の喪服姿を
見て笑い転げ、転落して危うく溺れかけたという。
>>1
州泰は、晋代にも事績のある人物だったっけ?
261無名武将@お腹せっぷく:04/06/08 00:25
司馬晏・司馬穎の二人も頼むぜ。
司馬穎は>>164を。

司馬晏(シバアン) 281-311

字は平度。司馬炎の子。呉王に封じられる。愍帝の父。
八王の乱において各地を転戦し、朝廷で大官を歴任する。
病の身をおしてよく仕えたが、洛陽陥落の際に劉曜に殺された。

政治 2 才能は常人にも劣ったらしい
政略 2 地位に見合う実績に乏しい
戦闘 4 八王の乱で実戦経験はある
戦略 3 太尉、大将軍を歴任したが…
人徳 6 慎み深い性格だった
忠誠 7 司馬倫に対抗した

人臣としては破格の履歴をたどったが、才能は普通の人にも劣り、
司馬炎の諸子の中では最も劣ると評された。
それでも、失敗にこそ終わったものの兄の司馬允と共に
司馬倫打倒の挙兵に及ぶなど気骨の片鱗を見せたこともある。
また若いころから病に冒されており、
後には参内することもままならないほど悪化していたという。
文俶(ブンシュク) 238-291

名は淑とも、また鴦とも。文欽の子。
父に従い司馬氏に反旗を翻すがのちに帰順。
晋代には涼州での異民族討伐に大功を挙げるが、
恵帝即位直後の混乱の中で謀殺された。

政治 3 特記事項なし
政略 4 不運な最期を遂げる
戦闘 9 勇は三軍に冠する
戦略 8 指揮官としても大成
人徳 5 特記事項なし
忠誠 6 この点では父に似なかったようだ

若き日に寿春で見せた豪勇は三国志演義でも印象的だが、
後には当代屈指の実戦指揮官として大成した。
父を巡る因縁が思わぬところで再燃し、謀殺された(※)のは不運だった。

※東安王・司馬繇の母方の祖父である諸葛誕は文俶の父・文欽を殺しており、
文俶の存在がまた災いを成すのではないかと勘繰った司馬繇が
無実の罪を着せて文俶を三族もろとも誅殺してしまった。
司馬衷・荀・南風のリメイクキボン。

勉強になりますぜー
書き手の方おつ!
荀顗(ジュンギ)?〜274

字は景倩。荀彧の第六子。魏の司空、晋の太尉。
朝廷の高官を歴任し、晋王朝の基礎固めに貢献した。

政治 8 晋の礼を定める
政略 6 司馬氏台頭に貢献する
戦闘 2 実戦経験はない
戦略 5 参謀役や太尉の経験もあるが基本的には文治の人
人徳 7 孝心篤い人格者
忠誠 6 日和見の気があった

学識があり、司馬氏のブレーンとして貢献した。
人格者でもあったが、直言することなく日和見に流れたのが玉に瑕か。
ここだけの話、実は賈南風の后妃冊立に賛成をとなえたことがある。

…あ、>>79と評価が一緒だ。
ここは賢者が集まるスレですね。
司馬衷(シバチュウ) 259〜306

字は正度、司馬炎の子。恵帝。
立太子以前からその資質を危惧されていたが、
賈氏一党の猛プッシュと司馬炎の親バカのお陰で皇太子の座を保つ。
いざ即位してみるとやはり前評判を裏切ることはなかった。
朝政の乱れは天下にまで及び、八王の乱では宗室の実力者達に担ぎまわされ、
一時的ながら廃位や逃避行の憂き目を見た後に食中毒で死んだ。
あるいは東海王・司馬越に暗殺されたとも。

八王の乱の「蕩陰の戦い」で身を捨てて彼の命を守った
ケイ昭にまつわるエピソードは印象的だが、その一方で
「このカエルは誰のために鳴くのか」「肉糜食べればいいじゃん」発言は
彼の器量を示すエピソードとして後世に伝わっている。

数値化は…>>22でいいでしょう。
こんな司馬衷の活躍は「共に苦難を乗り越えていくスレ」でどうぞ。
268267:04/06/10 01:04
スマヌ

>>267
×ケイ昭
○ケイ紹
蕩陰で司馬衷をかばって死んだのはケイ紹(嵆紹)だった。

ちなみに嵆紹の父が嵆康、祖父が嵆昭とつながっている。
賈南風(カナンプウ) 246〜300

>>176を参照でいいよね。(>>14もあるけど)

補足するとすれば、張華と裴頠に国政を委ねたという
その件に限定するならば卓見だったといえるだろう。
なまじ知恵が回る分、主体的に行動しまくって天下を乱したことについては
弁護の余地もないのだが。
270無名武将@お腹せっぷく:04/06/18 22:00
曹志

字允恭 曹植の子。魏の済北王。
優れた才能を持ち、父に将来を嘱望され、
司馬炎にも高く評価される。
斉王司馬攸の藩国行きに反対して免官される。
母の死を悼んで精神に異常を来して死んだ。

政治 5 政治にはあまり興味を示さず
政略 6 才能の割に活躍せず
戦闘 7 騎射に優れる
戦略 4 実戦経験無し
人徳 7 魏の王族の中では最も有名
忠誠 7 斉王の不遇に父曹植の姿を重ねる

一言
魏の時代も晋の時代もその才能を生かせず、
狩猟や詩文で鬱憤を紛らわしていた。
271無名武将@お腹せっぷく:04/06/20 23:00
【王導】


【王敦】

【郭撲】

この3人のリメイクもキボン。
がんばれ職人さん
王導(オウドウ) 276〜339

字は茂弘、王覧の孫で王裁の子。東晋の三公を歴任しのちに丞相。
司馬睿が江南に地盤を固めるのに貢献し、以後代々の皇帝に忠節を尽くした。

政治 9 長期的な視野を持ち柔軟な政策を行った
政略 10 内憂外患を巧みに切り抜けた手腕は見事
戦闘 4 戦果は不明ながら一応実戦指揮も行った
戦略 8 大局的なレベルで論じるならば有能
人徳 9 質素で慎み深く徳望をもって慕われた
忠誠 9 あくまで朝廷に忠義を尽くした

内外に多くの問題を抱えた東晋王朝設立期において見事な舵取り役を果たした。
江南における司馬氏の基盤確保のために旧孫呉系の士人に協力を仰ぎつつ、
中原系士人優位のヒエラルキーへと巧みに再編してゆくしたたかさも持ち合わせる。
従兄の王敦の叛乱に際しては敢えて朝廷を守護する立場を貫き、
外戚の庾亮との摩擦も宥和をもって共存をはかった。
混乱を乗り切り江南の地に安定をもたらした名宰相といえるだろう。
王敦(オウトン) 266〜324

字は處仲、王覧の孫で王基(※魏末の将軍である字伯輿とは別人)の子。大将軍。
司馬睿の江南入りに際し軍事方面で貢献し、不服従勢力や叛乱軍を討つ。
王氏一門の絶大な功績が却って疎んじられ始めたことに対抗して挙兵し、
復権を目指して武力で朝廷を掌握したが、その際に士大夫を多く粛清した。
また一門与党をひきたて利を貪り、悪い意味での権臣の典型となる。
名目的には朝廷の第一人者となるも都を離れ根拠地に身を置いたため、
抵抗勢力の糾合を許し明帝の討伐令に対し再度挙兵するが病死した。

政治 5 洛陽時代には文官職を経験
政略 8 強引かつ恣意的ではあるが国政を左右した
戦闘 7 江南各地を転戦
戦略 8 戦巧者というより動員力、組織力で圧倒
人徳 3 若き日の貴公子も晩年には変貌した
忠誠 2 最終的には帝位をも窺う

若い頃は才知あふれ、粗野な面もあるが清談も嗜む名門の貴公子だった。
司馬睿の基盤確立に貢献した頃までは慎み深い一面も見せていたが、
大権と強兵を擁して貴顕を従えた辺りからおかしくなり始めた。
かつて自らが抑圧した江南系豪族の武力を巧みに取り込んだが、
一方で麾下においた彼らの無軌道を抑えるでもなく助長した面もある。
郭璞(カクハク) 276〜324

字は景純、郭瑗の子。尚書郎、のち王敦の記室参軍。
各種の学問に通じ、中でも詩賦、天文、卜筮に抜きん出ていた。
東晋王朝に仕えて多くの有益な建言をなしたが、王敦の二度目の挙兵を諌めて処刑された。

政治 7 政治向きの建言も多い
政略 8 卜筮の能力はここで評価か
戦闘 1 戦争には向かない
戦略 3 軍事関連の事跡は特にない
人徳 5 奔放でやや至らぬ点もある
忠誠 7 王敦への諫言に卜筮以上のものがあったか…?

当代有数の文化人であり、著作も多かった。
王敦に殺害されたのは巡り合わせが悪かったが、その際のやり取りは印象深い。

病身の王敦が挙兵を前に尋ねた。「私の命はあとどれくらいか?」
郭璞答えて、「もし事を起こせば、禍は必ずすぐに訪れましょう。
 もし武昌(王敦の根拠地)に帰るならば、お命はいかほどまでかは解りません」
王敦は激怒した。「ならばそなたの命はいつまでだ?」
郭璞「今日の日中には尽きましょう」
王敦は彼の自らの命運さえ見透かしたかのような言葉に更に怒りを覚え、斬首を命じたという。

余談ながら、彼が注釈を加えた『山海経』は一種のトンデモ本ではあるが、実に面白い。
平凡社ライブラリーから訳本が出ているので一読をお勧めする。
銭鳳(センホウ)  ?〜324 字は世儀
沈充(シンジュウ) ?〜324 字は士居

ともに呉興(かつての呉郡の一部)の人。王敦の参謀兼腹心。
銭鳳は、310年に呉興で乱を起こした銭璯の一族か?
沈充は、川勝義雄『魏晋南北朝』によれば呉興郡武康の豪族だが、
周處の家系と同じく武功で成り上がったために伝統的名声を持たず、
万単位の兵を動員できる大豪族でありながら
士大夫のヒエラルキーにおいては下位に甘んじていたという。

先に王敦に仕えた沈充が同郷の銭鳳を推薦し、ともに謀議に参与した。
朝廷を掌握した王敦の庇護下でほしいままに振舞う。
再度の挙兵では王敦の死後も戦闘を続行したが討伐軍に敗北し、
銭鳳は周光に討たれ、沈充はもと部下の呉儒に殺された。
なお、沈充の子の沈勁(シンケイ)がのちに父の敵を討って家名を再興した。

銭鳳、沈充ともに十分な記録は残っていないが、
銭鳳は朝廷側からも王敦の参謀筆頭格と見られており、
一方で沈充は“兵書を好み郷里に雄豪をもって聞こえた”とある。
また彼らは総じて“凶険驕恣”と称されたという。

    銭 沈
政治 5 3
政略 7 5
戦闘 5 7
戦略 6 6
人徳 3 3
忠誠 4 4

アバウトだがこんな辺りだろうか。
276無名武将@お腹せっぷく:04/06/22 21:00
王導って政略10・・・か?

他に比類する人物がいないと思うので10でもいいかな・・・
278272:04/06/23 17:20
百点満点で100にはならないだろうけど、
十段階評価では他の人物と差をつけるという意味でも
敢えて10にしてみた次第。過大評価だったかな?
そろそろ、晋代最高の著名人
書聖・王義之
を評価しとくれ
【先軫】羊コ 陳騫のリメイクキボン

王羲之(オウギシ) 307?〜365?(諸説あり)

字は逸少、王曠(王導の従弟)の子。書聖と称された。
名門・琅邪王氏の一員として官途に就き、地方官や軍官を歴任する。
後に官を辞して山野に遊び、また書の名手として不朽の業績を為した。

政治 7 地方官として会稽の地をよく治めた
政略 8 多くの人々にアドバイスを送る
戦闘 4 将軍にもなったが実戦の記録はない
戦略 7 北伐に関して多くの進言を行う(大局的な面で)
人徳 7 よく人と交わり尽くした
忠誠 7 遁世を望む一方で国政には関心を抱き続けた

書家として比類のない名声と実績を有し、その才は諸子にもそれぞれ受け継がれた。
自身は官を辞して野に下ったが、その後まで国政、なかんずく北伐に関しては
一方ならぬ関心を抱いて事ある毎に助言を送り続けた。
陳騫(チンケン) 212〜292

字は休淵、陳矯の次男。西晋の大司馬。
軍事指揮官として各地を転戦し、大将軍にまで昇る。
その後も高位の官職を歴任し、司馬炎の顧問を務めた。

政治 7 太守から尚書まで務める
政略 7 したたかで、かつ人を見る目もある
戦闘 7 実戦指揮官としても有能
戦略 8 各地で活躍
人徳 4 礼を守らず、また司馬氏に取り入った
忠誠 7 司馬氏には忠実を通り越してへつらう

度量のある一面も見せたが、司馬氏への取り入りぶりは世間から非難された。
しかしおかげで司馬炎の信頼厚く、なかなか引退させてもらえなかったという。
軍人としては有能で、蜀軍の北伐迎撃、諸葛誕の叛乱鎮圧、呉領への侵攻など戦功は多い。
胡烈や牽弘が刺史の任には堪えないことを予見して諫言したこともある。
羊祜(ヨウコ) 221〜278

字は叔子、羊衜(ヨウドウ)の子。晋の征南大将軍。
魏朝末期になってようやく出仕し、廷臣、参謀として司馬氏に協力する。
晋朝が成立すると荊州に出て、治績を挙げつつ討呉の機を窺う。
幾度となく討呉を主張するが慎重派が多数を占める朝廷では容れられず、
杜預に後事を託して病死した。

各数値と評価は>>95を参照。

西陵を巡る陸抗との戦いでは常に相手に一歩ずつ先んじられた結果となったが、
羊祜自身も有数の軍略家であることは確かであり、長期的な戦略では卓見を示した。
荊州の統治手腕も見事であり、死後に立てられた顕彰の碑文を読んで泣かぬ者はなく、
杜預によって「堕涙の碑」と名づけられたという。
なお司馬氏とは縁戚関係にあり、一門もまた栄えた。
>>280
ゴメン、先軫は無理ですわ_| ̄|●
>>284
あなたならできるわ。
陶璜(トウコウ) ?〜290年代?

字は世英、呉の交州刺史陶基の子。交州刺史、冠軍将軍。
呉に仕えて交州方面で活躍。のちに晋に降り、引き続き同地を治めた。

政治 7 南方統治のエキスパート
政略 8 不服住民までもよく手懐ける
戦闘 7 晋軍を撃破
戦略 7 交阯攻防戦での用兵が光る
人徳 8 民衆によく慕われた
忠誠 7 孫呉、西晋ともに尽くした

つごう三十年に渡って南方統治に携わり、
父より数えて四世五人の交州刺史を輩出することになる。
なお、280年に晋の討伐軍を迎撃に向かったものの
一夜にして部下に逃げられたという陶濬は弟にあたる。
吾彦(ゴゲン) ?〜310年代?

字は士則。呉の建平太守、のち晋の交州刺史、大長秋。
陸抗に見出され、建平太守として晋軍の包囲戦を戦い抜く。
晋に降ってからは各地の地方官を歴任し、交州を治めた。

政治 7 各地の地方官を務めて治績を挙げる
政略 7 余人を納得させる正論を説く
戦闘 8 武勇に優れる
戦略 7 建平防衛戦や交州平定に戦功あり
人徳 7 各地で威恩著しい
忠誠 8 呉を最後まで見捨てず、また晋朝にも貢献した

猛獣と格闘し、膂力絶倫とも称される一方で内政官としても有能で、
また孫晧や司馬炎にも憚ることなく直言したという。
寒門の出身のため、同郷の陸機・陸雲兄弟から侮られたこともあった。
288無名武将@お腹せっぷく:04/06/26 10:52
司馬師・司馬昭・司馬倫・司馬炎のリメイクもキボン。
羅憲(ラケン) ?〜270
字は令則、もと蜀の巴東太守。
文武に優れたが左遷されて巴東太守となり蜀の滅亡を迎える。
郡の動揺を抑え、火事場泥棒を目論んだ呉軍の包囲を耐え抜く。
その後晋に降り、巴東監軍などを務めた。

政治 7 文才があり、外交にも優れる
政略 7 旧蜀の士人を推薦するパイプ役を果たした
戦闘 7 おそらく一度だけの実戦で才を発揮
戦略 7 包囲戦の中で遊撃も行う
人徳 8 人格者であり、人をよく遇した
忠誠 8 司馬炎直々にその忠誠を称された

蜀滅亡時の永安攻防戦が印象的だが、
その後旧蜀の士人を晋朝に推挙したのも特筆すべき点だろう。
甥の羅尚は>>187を参照。
張光(チョウコウ) 259〜313

字は景武、晋の梁州刺史、材官将軍。
討呉戦、関中での対異民族戦、河間王との戦い、
揚州の陳敏の乱討伐、漢中での叛乱軍との戦いと戦歴を重ねる。
最後は漢中で叛徒王如の余党に包囲され、進退窮まって憤死した。

政治 4 刺史としての手腕は未知数
政略 4 駆け引きは好まず
戦闘 7 実戦指揮官として経験が豊富 
戦略 7 戦術レベルの用兵に長ける 
人徳 7 率直にものを言うタイプ
忠誠 7 義憤に死す

河間王・司馬顒を討つべく戦った際には進言が受け入れられず敗北したが、
「私の策が上官に受け入れられなかったから今日のあなたの勝利があるのです」
と言ってのけ司馬顒を却って感心させたというエピソードも持つ。
贈賄工作を嫌うなど己の正義を貫いたがどこか融通の効かない感がある。
劉弘からは「南楚の秀士」と称せられたこともあり、
その死は各方面から悲しまれ、惜しまれたという。
趙誘(チョウユウ) ?〜317

字は元孫、晋の廣武将軍、武昌太守。
趙王司馬倫への挙兵を上官に説くが容れられず一時官を退く。
のちに王敦の招きで将軍となり、司馬睿に従わなかった華軼を討つ。
続いて叛徒杜弢(トトウ)を討った功で諸侯に列し、武昌太守となる。
さらに杜曾討伐に朝廷から派遣された第五猗(ダイゴイ)が叛乱軍に合流すると、
これを討つべく出撃するが僚将とともに戦没した。

政治 5 州の主簿や太守も務める
政略 6 対司馬倫の策を練る
戦闘 7 動乱の荊州でよく戦った
戦略 6 将軍としては合格点
人徳 5 特記事項なし
忠誠 7 朝廷のために善戦した

立伝されいくつかの固有のエピソードを持つが、
将軍としての力量に限っては特に傑出しているというわけでもない。
彼と同等の力を有する将軍は数多くいたと思われる。
司馬師(シバシ) 208〜255

字は子元、司馬懿の長男。魏の大将軍、録尚書事。のちに景帝と追贈。
父の死後その跡を継ぎ、魏朝の第一人者として振舞う。
夏侯玄らのクーデター未遂を弾圧し魏帝曹芳を廃したが、
それに反感を抱いた毋丘倹の叛乱鎮圧の直後に病死した。

政治 7 内政官として下積み
政略 8 降りかかる火の粉を払う
戦闘 5 淮南戦役で文欽、文俶父子を撃破
戦略 7 最高司令官として実戦を指揮する
人徳 5 敵役に終始 
忠誠 4 廃帝はさすがに…

彼の代は権力者としての地位がいまだ磐石ではなく
基盤固めの段階にあり、そのさなかに世を去った。
そのため反動勢力の弾圧に終始した形となり、
さらには廃帝が決定打となって
「敵役」に見られがちなのもやむなしといったところだろうか。
司馬昭(シバショウ) 211〜265

字は子上、司馬懿の次男。魏の大将軍、録尚書事、のち相国、晋王。文帝と追贈。
兄に実子がなかったためにその後継者となり、
諸葛誕の乱、魏帝曹髦の逆クーデター鎮圧を経てその地位を磐石のものとする。
蜀を滅ぼしてその功で晋王となり、禅譲(簒奪)のお膳立てを整えたところで死去。

政治 8 新しい諸制度を模索する
政略 9 位人臣を極め事実上魏朝の幕を引く
戦闘 5 羌族討伐に戦功あり
戦略 8 関中、淮南での戦闘を指揮し、さらに蜀を滅ぼす
人徳 5 酷薄で意地悪な面も見える
忠誠 4 簒奪への道も時流のなせる業か

「司馬昭の心は道行く人でも知っている」とその野心を諷されたが、
既に各方面に司馬氏のシンパが定着しており作り上げた時流に乗る形となった。
魏帝曹髦による逆クーデターに際しては自衛のためとはいえ弑逆を行い、
使嗾犯である腹心・賈充を庇うために実行犯の成済兄弟に罪をかぶせるなど
ヒールとしての一面も持つ。

職人さま おつ!
司馬炎(シバエン) 236〜290
字は安世、司馬昭の子。晋の武帝。
父の死後晋王を継承し、ついで魏から禅譲を受けて晋王朝を開く。
当初は精力的に政務を執り行い、呉を滅ぼして三国を統一した。
しかしその後は酒色に耽り、後代への禍根を残して世を去った。

政治 7(4)当初は自身も直接政務を行うが統一後はなおざり
政略 8(3)人材を良く用い新政策を採用したが統一後は(ry
戦闘 3 将軍位にはついたが実戦経験まるでなし
戦略 6(4)中華統一は達成するがその後の軍備縮小は結果的にマイナス
人徳 8 度量があり、後半生においても暴君にはならなかった
忠誠 7 他人の忠義をよく理解し、評価した
(※カッコ内は三国統一後の評価)

晋王朝のスタートダッシュに際して儀礼、律令、官制、税制などの刷新に
ゴーサインを出した為政者としての手腕は評価に値する。
しかし三国を統一した時点で政治への意欲を減退させ、
統一国家の基礎固めを怠ったことは大きな減点となるだろう。
軍備の大幅縮小や皇太子問題など当時から問題点が指摘されていたにもかかわらず
改めることはなく、結果的に大きな負の遺産を残すことになった。
では改めて。

司馬倫(シバリン) ?〜301

字は子彝、司馬懿の第九男(末子)。趙王。
はじめ賈皇后に取り入り、転じて一党を排除したのち帝位を簒奪する。
すぐに司馬冏、司馬顒、司馬穎による討伐を受け、
退位した後に自殺させられた。

政治 2 学無く、書を知らず、オカルトに頼る
政略 4 孫秀におんぶにだっこ
戦闘 3 地位に反して戦歴には乏しい
戦略 2 異民族への対応を誤り、また三王起義戦で惨敗
人徳 3 私欲に耽り、小人を重用した
忠誠 2 朝廷を乱し簒奪まで行った

彼が即位した際に登用されたにわか諸侯は粗製濫造された冠を被ったので
心ある人からは「狗の尻尾」と揶揄された。
短期間とはいえ簒奪を行ったこともあり悪人扱いされているが、
それ以前からも悪評は絶えなかったらしい。
最期には孫秀に責任をなすりつけるという絵に描いたような悪人の末路を辿った。 
王浚(オウシュン) 252〜314

字は彭祖、王沈(>>39)の子。晋の侍中、大司馬、幽州牧、博陵公。
各地の地方官を歴任した後に幽州に拠点を定める。
鮮卑段部と同盟して八王の乱に介入し一時は冀州にまで勢力を広げたが、
石勒の偽降に敗れて捕らえられ、殺害された。

政治 4 苛政搾取を重ねて民衆が逃亡した
政略 7 朝政に介入しつつ自立した行動をとる
戦闘 7 烏丸突騎を配下に持つ
戦略 7 混乱する華北の地に割拠した
人徳 3 諌める者をことごとく殺した
忠誠 4 最終的には自立僭号を目論んだ 

永嘉の乱で混乱した華北地方に事実上の群雄として割拠したが、
一方で晋の朝政にも首を突っ込みまた官爵も頻繁に上昇した。
同じ晋将の劉琨をも破って一大勢力を築いたが、
次第に暴虐が激しくなる一方で石勒を侮りそれが命取りとなった。
劉琨(リュウコン) 271〜318

字は越石、劉蕃の子。晋の侍中、太尉、都督、并州刺史、廣武侯。
当初は文官として名を馳せ、賈謐らの「二十四友」に名を連ねる。
八王の乱ではじめ司馬倫に与するも特別に許され、司馬越の麾下に入る。
後に并州刺史となり、晋陽を拠点に定め鮮卑拓跋部と結ぶ。
王浚や石勒との決戦に大敗して勢力を失い幽州の鮮卑段部に身を寄せるが、
離間策にかかった段匹テイ(ダンヒツテイ)によって殺されてしまった。

政治 7 荒廃した晋陽を復興させた
政略 5 駆け引きにおいてしばしば敗れる
戦闘 8 人口の激減した并州で奮戦した
戦略 7 善戦するが肝心な局面において敗北が重なる
人徳 6 人気はあったが気ままな性質を抑えられなかった
忠誠 9 晋室への忠誠を貫く

孤立した并州でよく戦い晋の忠臣として称えられたが、
ここ一番での敗戦が重なり并州の脆弱な地盤を蝕んでいった。
忠臣を廃して匈奴の侵攻を引き起こしたり、
鮮卑拓跋部との同盟の見返りに晋陽への進出を許すなど政略上のミスも重なり、
ひとかどの英雄としては至らない面があったことは否めない。

なお中山王劉勝の末裔とされ、劉備の遠い遠い同族ということになる。
またライバル祖逖との競争心は「先鞭をつける」の故事の由来となった。
“祖生の吾に先んじて鞭を著(つ)けんことを恐る”
(祖逖が俺より先に手柄を立てはしないかそれが気がかりだ)
祖逖(ソテキ) 266〜321
字は士稚、祖武の子。東晋の鎮西将軍、豫州刺史。
華北范陽の名族で、劉琨とは馴染みの仲だった。
八王の乱に際して諸王から招かれるが一時出仕したのみで関わりを避ける。
中原が大混乱に陥ると「塢主(行主)」として集団を率い江南の司馬睿を頼った。
そこから後趙に対して北伐を行い、ほぼ独力で淮水以北黄河以南の地を回復する。
しかし東晋朝廷が派遣した戴淵が何の苦労もなく上役に収まり、
また朝廷に内紛が絶えず北伐が進展しようもないのを憤って病死した。

政治 8 産業を興し民情を安定させた
政略 9 割拠した諸勢力をあるいは討ち、あるいは味方につける
戦闘 9 猛将石虎らの後趙軍をたびたび破る
戦略 9 朝廷の援助が乏しい中で黄河以南を回復する
人徳 9 部下を愛し、民衆からも威徳を慕われた
忠誠 10 中原回復に全てを懸ける

江南に身を寄せた際には部下の略奪を黙認するようなところもあったが、
「この人を主人を仰げるのなら死んでも悔いはない」と言わせる魅力を持ち、
(事実そう言った同盟軍の将がいたがその主人の怒りを買って殺されてしまった)
優れた実行力で部下だけでなく占領地からも絶大な支持を得た。
東晋王朝としては外注丸投げの仕事が思わぬ大成果を挙げた形だが、
自身の地盤固めが済んでいない内はその成果を生かせようもなかった。
祖逖の死後、河南の地は再び後趙に帰することとなる。

さすがにこれは数値が高すぎたかもしれない。
石勒ってなんか聞いたことある。
数値化おながいします。既出か?

晋の人ではないけど関わり深いので・・・

石勒 274〜333
字は世龍 後趙の明帝 

五胡のひとつ羯族の出身。西晋を滅ぼした(劉)漢に仕えて
東海王司馬越の葬列の軍を襲い壊滅させる大功を挙げる。
漢の実力者、劉曜(後に前趙を建国)とは不和であり
そのため独立し後趙を建国。前趙を滅ぼし華北をほぼ統一する。

政治 8 君子営と呼ばれる漢族の学者集団を作り、助言に従い朝政した
政略 7 文盲であったが側近に史記を読ませ過去から学ぶ姿勢を持っていた
戦闘 9 前趙の大軍に洛陽が包囲された際には急襲して劉曜を捕らえる
戦略 9 西晋に壊滅的な打撃を与え、またライバルの前趙を滅ぼす
人徳 8 節義ある敵には降伏後にも厚礼をもってあたった
忠誠 3 漢から独立した

東晋の祖逖の北伐には悩まされ、幽州にある祖逖の先祖の墓を
修復し、また祖逖の軍から降伏してきた武将を斬り不忠の臣として
首を送り返し、その敵意を和らげようとしたエピソードがある。
桓玄 羊コ 陳騫もリメイクきぼん。

>>301に援護射撃。

張賓(チョウヒン) ?〜320年代初頭?
字は孟孫、張瑤の子。石勒の謀臣。後趙の大執法、濮陽侯。
石勒が冀州を平定した際その人物を見こんで仕官し、
漢人顧問団「君子営」の一員として謀主を務める。
政戦各方面においてよく助言し石勒の信頼厚く、「右侯」と尊称されたが、
石勒が趙王として自立してしばらく後に死去し、石勒を大いに嘆かせた。

政治 8 後趙の朝政を統括した
政略 9 石勒のブレーンとして活躍
戦闘 2 直接戦うことはなかった
戦略 8 戦略的見地に立った助言を送る
人徳 8 慎み深く、下士ともよく交わる
忠誠 8 石勒を"共に大事をなす人物”として尽くした

石勒の関東制覇には漢人知識人の協力が大きな要因の一つとなったが、
張賓はその中でも功績、信頼において筆頭に位置していた。
彼の死に際して石勒は「天は吾が事を成さざらんと欲するか!」と嘆き、
代わりとなるべき人物が得られないのを涙したという。
劉弘(リュウコウ) 236〜306

字は和季、劉靖の子。祖父は劉馥。
西晋の侍中、車騎将軍、使持節都督荊州諸軍事、荊州刺史、開府儀同三司、宣城公。
司馬炎とは幼馴染で、張華にも重んじられ、幽州に出て治績を挙げる。
八王の乱の余波で混乱する荊州に入り、叛乱軍を討伐して安定をもたらした。

政治 8 農業を振興し、刑を寛容にし税を軽減した
政略 8 朝廷との折衝、外交、人材登用に優れる
戦闘 7 軍事能力の真価は戦略レベルでより発揮されたと思われる
戦略 8 麾下の将をよく用いて荊州の反抗勢力をことごとく平定した
人徳 9 公私を混同せず、民衆からは親のように慕われた
忠誠 9 自立を進言した者を斬ってまでも晋朝を奉じ続けた

彼の治世下において荊州は安寧を取り戻し、民衆から慕われた。
人物を見る目に長けていたエピソードも多く、
名地方官として父祖をも凌ぐほどの業績を残している。
陶侃(トウカン) 259-334

字は士行、呉将陶丹の子。荊蛮の血をひくともいう。
東晋の侍中、太尉、使持節都督荊江雍梁交広益寧八州諸軍事、荊江二州刺史、長沙郡公。
貧困の中で張華に認められ、劉弘の配下として荊州を転戦する。
累進して長官職を歴任し、王敦、蘇峻の叛乱平定に協力する。
のちに「西府」を形成して朝廷とは微妙な関係を保ちつつ荊州を治めた。

政治 9 実務能力に裏打ちされた治績を挙げる
政略 9 したたかな駆け引きで重鎮としての地位を全うした
戦闘 8 敗戦も少なくないが実戦指揮官として最終的な勝率は高い
戦略 9 長年に渡って軍を指揮し叛乱鎮圧から侵攻戦までこなす
人徳 9 謹厳を旨とし、明敏で決断力に富み民から慕われた
忠誠 6 かなりの野心家である一方晋の臣として己を律した

彼の治下は「落し物を拾って私物化する者はいない」ほどよく治まっていた。
軍功も著しくその力が何度となく東晋朝廷を救ったが、
蘇峻討伐への参加を渋るなど一筋縄ではいかない面もあった。
あと一歩で天に昇り損ねた夢を戒めとして野心を抑えていたという逸話もあり、
中原回復を志す人格者としての一面と合わせて複雑な性格の持ち主だったようだ。
306305:04/07/01 01:53
>>305
やはり陶侃の政治は8にとどめた方が妥当か。
地方行政官としては極めて有能だったけれど、
目新しい制度を興したりしたわけでもないし…
>目新しい制度を興したりした

それは10で。かなり良く治めてたんだから、9のままでいいと思う。
まだ名前が挙がっていない有名どころ

顧栄
顧秘
周?[王己]
司馬道子
司馬元顕
謝安
謝玄
桓沖
王坦之
殷浩
309305:04/07/01 19:15
>>307
アドバイス感謝。これからも気付いた点があったらよろしくお願いします。

>>308
出来る範囲で善処を…

温嶠(オンキョウ) 288〜329

字は太慎、温憺の子で温恢の曾孫。
東晋の驃騎将軍、散騎常侍、開府儀同三司、始安郡公。
はじめ劉琨に仕えて石勒と戦うが、司馬睿に皇帝即位を勧進する使者として江南に赴き、
劉琨が殺されたため同地に留まり東晋王朝に仕える。
明帝(司馬紹)に皇太子時代から仕え、即位後も側近として重用される。
王敦、蘇峻の乱討伐に際しては主力の一翼を担ったが、42歳の若さで病死した。

政治 8 廷臣としても地方官としても有能
政略 8 理をもって人を説き、またはかりごとにも通じる
戦闘 7 自ら軍を率いてよく戦う
戦略 8 戦歴豊富で、蘇峻の乱討伐では戦略の中核を担った
人徳 7 些細な礼節には拘らない半面、純真で物言いに鄙しさはなかった
忠誠 9 身を賭して晋朝に仕える

東晋序盤の混乱期において、若いながらも重鎮の一人として活躍した。
劉琨の使者として江南に渡ったことが大きく運命を変えることになったが、
その際母を北方に置き去りにした形となり、その死後も葬ることができなかった。
そのため孝にもとるとして郷品(昇進可能官位の上限を定める)が据え置かれ、
より高位の官職に任じるごとに皇帝が詔を発することになったという。
殷浩(インコウ) ?〜356

字は淵原、殷羨の子。東晋のもと仮節都督揚豫徐兗青五州軍事、中軍将軍。
若年より清談をもって知られ、絶大な支持を得る。
時の権力者からしばしば招かれるも応じずにいたが、
実力者桓温の対抗馬として満を持して登場し北伐の任に就く。
しかし度重なる敗戦のため桓温によって庶人に落とされ、
復帰のチャンスもふいにしてそのまま没した。

政治 4 目立った成果は江西の開墾ぐらい
政略 2 世俗で生きるには向かない
戦闘 3 戦下手
戦略 3 なまじやる気を出すが悉く裏目に
人徳 8 貴公子の風あり清談家としての人気は高かった
忠誠 5 長らく出仕せず

当初は清談家として大人気であり政府からはひっぱりだこで、
「淵原起たずば蒼生をいかんせん」(あんたがやらなきゃ天下はどうなる!)と期待されていた。
庾翼は彼を王衍(>>168)になぞらえたが果たしてその類に近く、
帰服した羌族の姚襄を前燕に奔らせ、北伐では敗北を重ねる結果となった。
失脚後は「咄咄怪事」(ぶっちゃけありえなーい)とのみ空に書きつつ日々を過ごしていたが、
桓温が再登用の手紙をよこすと喜んで返書をしたためた。
誤りがあってはと数十度も文箱を開け閉めして中身を確かめた挙句、
空のまま箱を送るという大ボケをかましてしまい、今度こそ桓温に見限られたのだった。
周玘(シュウキ) 258〜313?

字は宣佩、周處(>>163)の子。西晋の行建威将軍、呉興太守、烏程県侯。
父の性格を受け継ぎ、州に招かれ出仕する。
石冰の乱では郷里を挙げてこれを討ち、平定に貢献する。
陳敏の乱でははじめこれに加わるが後に見限って討伐軍に転じた。
呉人銭璯(センカイ)の乱を平定して司馬睿から篤く賞せられたが、
北来の士人が幅を利かせ自らは軽んじられるのに堪えきれず憤死した。

政治 6 呉興の地に寧謐をもたらした
政略 7 江南士人を糾合し、周氏を興隆させた
戦闘 7 水陸によく戦い叛乱軍を討つ
戦略 7 江南を三たび平定した
人徳 7 威恵あり皆から敬愛された
忠誠 5 朝廷への忠誠というより郷土愛

父亡き後の周氏を率いて江南有数の実力を蓄えたが、
それに比してヒエラルキーにおける序列が低く抑えられたことに反発を覚えていた。
ついに挙兵に至る直前に無念の憤死を遂げたが、
子の周勰(シュウキョウ)は遺言に従って蜂起する。
しかし既に周氏は王導らの切り崩し工作によって内部分裂を起こしており、
叛乱はあっけなく鎮圧されてしまう。残った周氏ものちに王敦に討たれ、
強盛を誇った陽羨周氏は急速に衰退してゆくことになる。
顧栄(コエイ) ?〜312

字は彦先、顧穆(一名顧裕)の子で顧雍の孫。西晋の散騎常侍、安東将軍司馬、嘉興伯。
はじめ呉に仕えるがその滅亡後は洛陽に入り、陸機、陸雲兄弟とともに「三俊」と号される。
八王の乱では諸王に仕えるもその志を得ず、江南に還る。
陳敏の乱(305〜307)においては一時それに荷担するが先行きを危ぶみ、
僚友らとこぞって討伐軍に身を転じた。
後に司馬睿の幕僚となり、江南士人を数多く推挙した。

政治 7 江南に還りようやくその才を発揮
政略 8 幾多の危機を切り抜ける
戦闘 4 陳敏の乱では自ら戦った
戦略 7 司馬睿の参謀役を務める
人徳 8 江南での人望はあつい
忠誠 6 主を変えつつ身の活かしどころを選ぶ

陸機、陸雲兄弟亡き後は、この顧栄が名声において江南士人の筆頭にあったと思われる。
司馬睿政権とは利害が一致し、勢力地盤を提供する引き換えに僚友らに仕官の途を確保した。
江南諸豪族は彼を中心によくまとまっていたがその死後は巧妙な政略により分断され、
北来士人優位の構造に再構成されてゆくことになる。

なお、司馬倫の与党として連座しかけたとき、かつて"あぶり肉”を分け与えた同僚が
一飯の恩に報いるために顧栄を救出してくれたことがあったという。
>>313
>かつて"あぶり肉"を分け与えた同僚が

あれ、同僚じゃなくて肉の取り分け係じゃなかったっけか。
宴会で客に取り分けつつも喰いたそうな顔をしてるのを、
「いつも肉を扱ってるのに、ついぞ口に入ることがないの
では辛かろう」って言って、自分の肉を分けてやったの。
確か《世説新語》だったかに載ってた話だよね?
315313:04/07/02 01:18
>>314
その通りでした。指摘感謝。
"同僚”ってのは一緒に宴会をやってた仲間のことでしたね。

このネタは晋書顧栄伝にも載っているけど、
『世説新語』の記事の方がエピソードとしてよく纏まっていました。
たしか、助けてくれた相手に顧栄が感謝するシーンまで入ってましたよね。
糞スレから名スレへ・・って感じだな。
>>1は神
317311:04/07/03 09:37
>>311訂正
殷浩のあざなは「淵源」でした。
顧秘(コヒ) ?〜310年代前半

顧雍の一族である顧悌の子。西晋の交州刺史。
文武に才幹あり、吾彦の没後に後任として交州刺史を務める。
…これぐらいしか調べられなかったので、子の顧衆を。

顧衆(コシュウ) 274〜346

字は長始、顧秘の子。東晋の尚書僕射、鄱陽県伯。
東晋の朝廷に仕え、蘇峻の叛乱討伐に大功を挙げる。
その後も内外の官を歴任し、高い信頼を受けた。

政治 7 地方官から朝廷の大官まで務める
政略 7 王敦にも屈せず、また人間関係も良好
戦闘 7 実戦指揮官として勇戦
戦略 7 各地を転戦し武官も歴任
人徳 8 孝にあつく人望が高い
忠誠 7 東晋朝廷に貢献

郷里の声望を担い、三呉の名族顧氏の底力を見せた。
朝廷からの信頼も厚かったが、地位を貪ることなく身を処した。
仏教をあつく信仰していたという。
王坦之(オウタンシ) 330〜375

字は文度、王述の子。魏臣王昶の玄孫にあたる。
東晋の北中郎将、徐兗二州刺史、藍田県侯。
代々晋朝に仕えた家柄で、謝安とともに皇帝を補佐する。
桓温の簒奪を阻止し、死の間際まで朝廷を憂い尽くした。

政治 7 中書令、丹楊尹などを務める
政略 8 謝安とともに桓温を制する
戦闘 3 喧嘩事は苦手
戦略 5 軍務の実績は不詳 
人徳 8 風格あり、よく人を諌めた 
忠誠 9 東晋王朝簒奪の危機を救う

簡文帝がその崩御に際して桓温に禅譲を仄めかす遺詔をしたためたが、
王坦之はこれを破り捨てると内容を書き改めさせた。
後に桓温が乗りこんで来た際には、謝安が終始平然として応じたのに対して
王坦之は汗だくになり笏をさかさまに持つ態でややミソをつけたが、
その後もさらに禅譲を迫る桓温を謝安とともに凌ぎきった。
晋書に甘寧とかの子孫いるみたいですが、その列伝もキボン
甘卓(カンタク) ?〜322

字は季思、呉の太子太傅甘昌の子で甘寧の曾孫。
東晋の鎮南大将軍、侍中、都督荊梁二州諸軍事、荊州牧、梁州刺史、于湖侯。
呉の滅亡後は野に下るが州に招かれて再び出仕し、
呉王司馬晏に仕えて石冰の乱(303〜304)を討つ。
陳敏の乱にはいったん与するが顧栄の説得で討伐軍に転じた。
江南に渡ってきた司馬睿に仕えて各地を転戦し梁州刺史として襄陽に駐屯するが、
王敦の蜂起に同心しなかったために暗殺された。

政治 7 善政を敷いた
政略 4 優柔不断が命取りに
戦闘 7 苦戦しながらも多くの敵を撃破
戦略 7 各地を転戦し功を立てる
人徳 7 外柔内剛にして民を慈しむ
忠誠 6 いまひとつ煮え切らない

戦功多く為政者としても資質を発揮したが、優柔不断さが命運を分けた。
王敦の乱ではその背後を衝ける戦力を有していたにもかかわらず
逡巡するうちに討伐の機を逸し、軍をかえし襄陽に引きこもってしまう。
兵を分散して備えを怠り、王敦の教唆をうけた襄陽太守周慮に暗殺されてしまった。
司馬道子(シバドウシ) 364〜402

字も同じく道子。簡文帝の子。会稽王、侍中、太傅。
謝安の死後執政となるが、小人を重用し酒色に耽り朝政を大いに乱す。
やがて政務を子の司馬元顯に委ねて遊び暮らし、
孫恩や桓玄の叛乱に対して為す所がなかった。
最後は桓玄に毒殺された。

政治 1 酒色に耽り政務を放擲
政略 2 人事権を濫用し小人が成り上がる
戦闘 1 軍才なし
戦略 2 叛乱に対して打つ手なし
人徳 4 酣縦にして不孝
忠誠 3 朝廷の威光を失墜させた

国政を担う彼が重用した人物は王國寶(王坦之の子だが悪評高い)や
彼に取り入って成り上がった下層の人々であり、後者は各地で重用されて
貴族制に立脚していた東晋の社会構造を揺るがすことになった。
東晋王朝滅亡の事実上の引金を引いたといえる。
司馬元顯(シバゲンケン) 382〜402

司馬道子の子。会稽王世子、侍中、驃騎大将軍、開府儀同三司、征討大都督、都督十八州諸軍事。
十六歳にして父と対立した北府の長である王恭を討たんと起ち、
その後諸事に無気力な父が酔いつぶれた隙に実権を掌握した。
強引な徴発を行い孫恩の叛乱を引き起こし、それに乗じようとした桓玄の討伐を目論むが
麾下の劉牢之の寝返りで破れ、桓玄に殺された。

政治 3 「楽属」の徴発で孫恩の乱を引き起こす
政略 4 諌めを聴かず判断を誤る
戦闘 5 性格を加味してこのくらい
戦略 4 しばしば兵を動かすが利あらず
人徳 3 性苛烈で次第におごる
忠誠 5 私欲は薄いようだが権勢欲は旺盛

当初は聡明にして士気果鋭と目されたが、若さゆえかしばしば暴走した。
万事やる気のない父に代わって大権を担ったが、極度の混乱期においては
桓玄や劉牢之といった怪物を相手にするには力不足だった。
324無名武将@お腹せっぷく:04/07/04 23:21
何かしばらく休んでたらものすごい勢いで数値化がされてるな。
ゲンケンタソは恐ろしいガキだな。現代に生まれたらすごい人物になったろうに
326無名武将@お腹せっぷく :04/07/05 19:05
ここは演義読むより面白いスレだな
桓玄(カンゲン) 369〜404

字は敬道、桓温の末子。東晋の相国、楚王、簒位してのち武悼皇帝と偽諡。
異相にしてまた才識もあったが、桓温の子ということで警戒されていた。
荊州刺史殷仲堪に重用され天下の混乱に乗じて台頭し、
司馬道子父子を討ち一族与党を配して朝廷の実権を握る。
ついには安帝に禅譲させて楚帝となるが、劉裕らの決起によりわずか半年後に敗死した。

政治 5 目立った政績はない
政略 7 簒奪は果たすがそれ止まり
戦闘 7 好戦的 
戦略 7 大兵を動かし大勢力を築く      
人徳 3 次第に粗暴になり人心を失う
忠誠 1 帝位簒奪に全力を尽くす

父が果たせなかった帝位簒奪を成し遂げたが、
桓温は謝安と王坦之という能臣を相手取るもあと一歩及ばなかったのに対し、
桓玄は朝廷に彼を阻止しうる人材がなかったがゆえの勝利と見ることもできる。
政略の才に関しては父の方が上回っていたのではないだろうか。
>>140氏は桓温の政略を7と評価しているが私見では8をつけたいところ)

桓玄も即位した当初こそは政治の刷新を期待されたが、遊興に耽り一気に信望を損なう。
簒奪を達成するまでは執拗なまでの熱意を見せたものの、
いざ成ってみれば政治のビジョンもなくその身を食いつぶした。
簒奪そのものが目的だったとうがった見方をするのは小説的に過ぎるだろうが、
新しい時代を開くだけの器量は持ち合わせていなかったといえる。
328INDEX:04/07/06 18:20
【ア】
殷浩(インコウ)>311 衛カン(エイカン)>118 王衍(オウエン)>168 王ト(オウガイ)>182
王羲之(オウギシ)>281 王渾(オウコン)>113 王済(オウサイ)>232 王戎(オウジュウ)>227
王浚(オウシュン)>297 王濬(オウシュン)>109 王祥(オウショウ)>78 王沈(オウシン)>39
王坦之(オウタンシ)>319 王導(オウドウ)>272 王敦(オウトン)>273 温キョウ(オンキョウ)>310

【カ】
郭璞(カクハク)>274 賈充(カジュウ)>27 何劭(カショウ)>188 何曾(カソウ)>45
賈南風(カナンプウ)>176 賈疋(カヒツ)>244 賈謐(カヒツ)>177 桓温(カンオン)>140
桓玄(カンゲン)>327 甘卓(カンタク)>321 顧栄(コエイ)>313 吾彦(ゴゲン)>287
顧衆(コシュウ)>318 顧秘(コヒ)>318 胡奮(コフン)>238

【サ】
左思(サシ)>234 山濤(サントウ)>123 司馬晏(シバアン)>262 司馬イ(シバイ)>151
司馬懿(シバイ)>246 司馬イツ(シバイツ)>184 司馬穎(シバエイ)>164
司馬越(シバエツ)>173 司馬炎(シバエン)>19>295 司馬乂(シバガイ)>155
司馬ギョウ(シバギョウ)>169 司馬冏(シバケイ)>144 司馬元顯(シバゲンケン)>323
司馬師(シバシ)>292 司馬駿(シバシュン)>157 司馬昭(シバショウ)>293
司馬衷(シバチュウ)>22>267 司馬道子(シバドウシ)>322 司馬孚(シバフ)>63
司馬望(シバボウ)>77 司馬攸(シバユウ)>131 司馬亮(シバリョウ)>148
司馬倫(シバリン)>154>296 周キ(シュウキ)>312 周處(シュウショ)>163
荀(ジュンギ)>79>265 荀勗(ジュンキョク)>29 沈充(シンジュウ)>275 石崇(セキスウ)>181
石苞(セキホウ)>48>258 石勒(セキロク)>301 銭鳳(センホウ)>275 曹志(ソウシ)>270
祖逖(ソテキ)>299 孫秀(ソンシュウ)>255
329INDEX:04/07/06 18:21
【タ】
張華(チョウカ)>159 張光(チョウコウ)>290 張賓(チョウヒン)>303 趙誘(チョウユウ)>291
陳騫(チンケン)>93>282 鄭沖(テイチュウ)>143 鄭袤(テイボウ)>141 陶侃(トウカン)>305
陶コウ(トウコウ)>286 滕脩(トウシュウ)>229 杜預(ドヨ)>107

【ハ】
裴キ(ハイキ)>178 裴秀(ハイシュウ)>91 馬隆(バリュウ)>233 馮タン(フウタン)>139
文俶(ブンシュク)>263

【ヤ】
羊コ(ヨウコ)>95>283 楊駿(ヨウシュン)>133

【ラ】
羅憲(ラケン)>270 羅尚(ラショウ)>187 李胤(リイン)>135 陸雲(リクウン)>259
陸機(リクキ)>240 劉弘(リュウコウ)>304 劉コン(リュウコン)>298 劉寔(リュウショク)>158
330INDEX:04/07/06 18:26
とりあえず索引を作ってみました(アイウエオ順です)
現在92人です(春秋時代の晋は除きました)
乙鰈
乙。結構な量になったねえ・・・
まとめ氏おつ。そしてさらに追加を…

謝安(シャアン) 320-385

字は安石、謝裒(シャホウ)の子。
東晋の太保、開府儀同三司、衛将軍、大都督揚江荊司豫徐兗青冀幽并寧益雍梁十五州諸軍事、建昌県公。
長らく在野にあって王羲之などと交流を深めていたが、
四十歳を過ぎて出仕し、桓温の部下を経て朝廷に入る。
王坦之らと共に桓温の簒奪を阻止した後は宰相として寛容策により内外をよく治め、
前秦の侵攻を撃退することに成功する。
しかし司馬道子の排斥を受けて広陵に移り、北伐を企図するがまもなく世を去った。

政治 9 桓温の革新政治(土断など)からは後退するが着実な成果を重ねた
政略 9 桓温の簒奪を阻止し、桓氏と謝氏を巧みに登用
戦闘 3 自身が戦ったことはない
戦略 8 前秦の侵攻に戦略面で挑む
人徳 10 悠然として人間的魅力に富む
忠誠 9 内外の危機を切り抜け帝室を守護した

隠棲していた頃には彼もまた「安石出でずば蒼生いかにせん」といわれたが、
殷浩(>>311)とは比較にならない程の才略を有していた。
宰相としては王導(>>272)に比せられたが、
貴族間の勢力を巧みに調整して安定をもたらした手腕は評価に値する。
また、文雅においては王導にも勝ると評判だったという。

淝水(ヒスイ)の戦い(383年)の勝報が届いた際には平然と碁を打ちつづけたが、
内心では勝利に大喜びだったので客人を送り出した後にゲタの歯が折れたものの
それに気付かなかい程だったという逸話も残されている。
周慮もおねがいします。
周ゆ関係か!?

335吉宗:04/07/07 02:34
武田信玄

政治 8 すべりが◎
政略 5 まんなっか
戦闘 10 30連
戦略 5 目押しができない
人徳 1 まんなっか
忠誠 1 撤去済み

どこがおもしろいのかわからない、6打って13000枚
出ました。サイコーです
336700:04/07/07 17:29
700
>>334
周慮といいますと、甘卓を暗殺した襄陽太守のことでしょうか。
だとするならば、申し訳ありませんが残念ながらこれ以上のことは分かりません。
他に目立った記録があるわけでもなさそうですし…(史料を片っ端から読めばあるいは?)
少なくとも、晋書に独立した伝が立てられているわけではないです。
彼はおそらく、歴史上でもこの場面においてのみ名を残した人物なのではないでしょうか。

というわけで、出自に関しても不明です。
周ゆ=周瑜とするならば、この時代に彼の子孫と目される著名な人物はいないようです。
この時代では周處、周訪、周浚といった人物の家系が江南で栄えていましたので、
周慮もあるいはこのいずれかの一族だったのかもしれません。
(ただし、上記三人の系図に周慮の名はありません)
もちろん、彼らとは関係のない周氏の出身である可能性もあります。
>彼らとは関係のない周氏の出身

周泰とかですか?もし周泰の子孫が晋書に登場してたら、解説キボンヌ。
周魴?
謝玄(シャゲン) 343〜388

字は幼度、謝奕の子で謝安の甥。東晋の前鋒都督、都督徐兗青司冀幽并七州諸軍事、康樂県公。
若年より謝安らから期待を寄せられ、後に北府軍の長官となり戦力を再編強化する。
前秦の攻勢をたびたび撃破し、淝水(ヒスイ)の戦い(383年)の勝利の立役者となった。
引き続き前秦の崩壊に乗じて河南一帯を回復し河北の一部にまで軍を進めたが、
朝廷の方針転換により戦線を後退し、また叛乱により占領地を失う。
失意のうちに病となり、望んで会稽内吏に退き、死去した。

政治 6 「経国の才略あり」と称された…が実績は不明
政略 7 人の才をよく見抜き用いた 
戦闘 9 数の劣勢をものともせず果敢に前秦軍に挑む
戦略 10 用兵に長け一時的ながら失地を大幅に回復する
人徳 7 過度の栄達を望まず慎み深く身を処した
忠誠 8 叔父の任用に応え軍事的危機を救った

叔父の謝安による謝玄の北府軍への登用は情実人事と見られかねなかったが、
謝氏のライバルである郗超(チチョウ)は謝安の卓見と謝玄の才能を賞賛した。
事実、謝玄によって北府軍は再編成され東晋最強をうたわれる精鋭軍団となり、
麾下の勇将をよく用いて前秦軍に対し多くの勝利を重ねることになるのだった。

なお、詩人の謝霊運は謝玄の孫にあたる。
>>338
周泰の子孫はなおさら消息不明です。
三国志呉書の彼の伝に登場する範囲で打ち止めのようで、
晋書にそれとわかる人物は登場していません。

とはいえ甘卓(甘寧の曾孫)のように三国志に記述のないところで系譜が繋がっている例もあり、
この時代に人知れず周泰の子孫が登場していないとは言い切れません。
せめて出身地(本籍地)がわかれば調べようがあるのですが、
周慮のようにいきなり名前だけ出て来ても確認する術がないのです。

>>339
周魴は周處の父親ですね。
ちなみに名前の似ている周訪はまた別の人物ですが、彼の父祖も呉に仕えていました。
周浚は魏から西晋に仕えた人物です。


ここで桓温リメイクいきます。

桓温(カンオン) 312〜373

字は元子、桓彝の子。
東晋の丞相、録尚書事、大司馬、侍中、揚州牧、平北将軍、使持節都督中外諸軍事、徐兗二州刺史、南郡公。
蘇峻の叛乱軍に殺された父の仇を討って名を挙げ、公主を娶り西府に仕えその長官となる。
弱体化していた蜀の成漢を討って滅ぼし、北伐に失敗したライバルの殷浩を失脚させる。
自ら軍を率いて前秦に対する北伐を成功させ洛陽への遷都を議したが容れられなかった。
内外の大権を統べ政治の改革を断行するものの、再度の北伐で前燕に敗れ威信の低下を招く。
挽回策として廃帝を行い、以後は簒奪に向けて露骨なアプローチを繰り返したが、
謝安や王坦之の政治工作の前に野望を果たすことかなわず病没した。

政治 9 七つの政治改革や土断を敢行した
政略 8 廃帝まで行うが簒奪にはあと一歩届かず
戦闘 9 自ら軍を率いて勇戦し勝利を重ねた
戦略 9 討蜀を成し遂げ、北伐でも一定の戦果を挙げた
人徳 4 豪放だが衆望は得られなかった
忠誠 2 簒奪への野望を隠そうとはしなかった

軍事指揮官として有能で、北伐戦では敗北を喫したものの戦績は悪くはない。
政治面でもその指導力を発揮し、“庚戌の土断”を敢行したことは特筆に価する。
ただその露骨過ぎる野心は周囲を警戒させるに十分で、
たとえば在野の賢人・王猛の仕官を得ることはできなかった。
権勢を背景に帝位を目指したが、有力な協賛者もなく却って忠臣を結束させ、
かといって非常の手段に訴えるでもなく禅譲の手続きにこだわり続けるなど、
強引ながら至らない点があったことは確かである。その点では、>>140氏の評価
「巨大な才能と中途半端な倫理観を持った人物」とは実に言い得て妙だといえる。

なお名の“温”は、彼が生まれたとき温嶠(>>310)に将来を嘱望されたことに由来する。
また、桓温の台頭は郭璞(>>274)によって予言されていたともいわれる。
343無名武将@お腹せっぷく:04/07/08 23:44
リメイク乙!
桓沖(カンチュウ) 328〜384

字は幼子、桓彝の末子で桓温の末弟。
東晋の車騎将軍、使持節都督荊江梁寧益交廣七州諸軍事、荊州刺史、豊城公。
桓温の征戦に従って功を挙げ、司令官職を歴任する。
桓温の死後は一族をまとめて謝安に協力し、前秦の攻勢に立ち向かった。

政治 7 桓温のサポート役、また各地の州刺史を務めた
政略 8 桓氏をまとめて謝安に協力し混乱を防いだ
戦闘 7 軍歴長く各地で戦功を立てる
戦略 8 将の統率に優れ司令官の大任を果たす 
人徳 8 性倹素にして謙虚に士を愛す
忠誠 9 かつての恩義を忘れず、また朝廷に尽くした

桓温の弟の中では最も有能で、期待に背かずその才をよく発揮した。
桓温の死後なおも強勢を誇る桓氏を引き続き軍の要職に任じた謝安の英断と、
それに応えて一族をまとめた桓沖の統率力が前秦との全面対決を可能にしたともいえる。

幼い頃に困窮のあまり口減らしのために他家で養われることとなったが、
長じて後その養父と再会した時にはかつての恩に厚く報いたという。
蘇峻と謝安こいつきぼん羽
蘇峻(ソシュン) ?〜328

字は子高、蘇模の子。東晋の散騎常侍、冠軍将軍、使持節、歴陽太守(内吏)、邵陵公。
はじめ郡の主簿となるが、のちに衆望を得て塢主となり東晋王朝の傘下に入る。
王敦の叛乱討伐に功を挙げその勢力を増大させるが次第に驕溢となっていった。
庾亮(ユリョウ)が彼を朝廷の官に招こうとしたところ、
軍権と切り離されることに身の危険を感じて叛乱に及ぶことになる。
祖約(祖逖の弟)も同調した叛乱軍は首都建康を焼いて江東、江西各地を劫略し、
成帝(司馬衍)の身柄を確保して親党を取り立て、蘇峻は自らを驃騎将軍、録尚書事とした。
これに対し庾亮、温嶠(オンキョウ)、郗鑒(チカン)、陶侃らが連合して討伐にあたることになり、
蘇峻もしばしば戦勝をおさめたが温嶠との戦いにおいて寡兵で突出したところを討ち取られた。

政治 5 才学あり郡吏を務めた
政略 5 朝政を掌握するも軌道に乗せるまでの才はなかった 
戦闘 8 勇猛をもって知られた
戦略 7 討伐軍を相手に勇戦した
人徳 4 当初は人望があったが次第に驕った
忠誠 4 功成り名を立てたことで野心が募った

蘇峻のように独自の軍集団を抱えた塢主勢力をいかに御するかは東晋王朝の課題だったが、
王導の寛容策に対抗して庾亮が行った強硬策が裏目に出た形となった。
自衛のために決起した蘇峻だがその暴虐さは支持を得られず乱戦に散り、
残党は弟の蘇逸を立て抵抗するが敗れて祖約は石勒のもとに奔った。

この乱ののち東晋の国内はひとまずの安定を取り戻し、体制を再編する時期に入ってゆく。
蘇峻軍の大略奪により建康の宮殿は焼けて官庫の財は悉く消費され尽くしたため
戦後に遷都論が起こったが、王導の主張により沙汰止みとなった。
郗鑒(チカン) 269〜339

字は道徽、後漢末の御史大夫郗慮(チリョ)の玄孫。東晋の太尉、南昌県公。
はじめは晴耕雨読の日々を送り、八王の乱には関わろうとしなかった。
中原の大乱にあって推されて塢主となり、東晋に属して兗州刺史となる。
祖逖死後の石勒の圧迫により淮南に退き、王敦の乱には与せず明帝(司馬紹)に従った。
明帝臨終の際には遺詔を授かり、成帝(司馬衍)を支えて蘇峻の乱を討伐する。
その後も京口あるいは廣陵に駐屯して北面の守りにつきつつ三公を歴任した。

政治 8 学識深く三公の地位にまで昇る
政略 8 塢主としてまた朝臣として諸人を導いた
戦闘 7 叛乱討伐に各地を転戦した
戦略 8 北府の基礎を築き帝都を守護した
人徳 9 儒者として名声高く重んじられた
忠誠 8 晋朝を奉じて忠誠を尽くした

中原の混乱を受けて東晋に身を寄せた塢勢力は次第に淘汰されていったが、
郗鑒はその統率力と忠節によって勝ち残った。
彼の率いていた流民集団は京口・廣陵付近に移住駐屯し、軍団として組織化された。
それは「北府」と呼ばれるようになり、陶侃が基礎を築いた「西府」と並んで
東晋王朝を支える二大勢力となってゆく。
チカンはアカン!
庾亮(ユリョウ) 289〜340

字は元規、庾琛(ユシン)の子。
東晋の司空、征西将軍、使持節都督江豫益梁雍交廣七州諸軍事、都亭侯。
魏朝以来の名族で、庾亮もまた風格あり老荘の談に優れ評判となった。
はじめ司馬睿に仕え、妹が明帝(司馬紹)の皇后となり外戚として国事にあたる。
華軼、王敦の討伐に功を挙げ、続く成帝(司馬衍)の代においても枢機にあずかった。
しかし法に厳しく反発を招き、蘇峻を背かせるに至る。
大敗すること数度にして陶侃らの助力を得てようやく鎮圧に成功し、
その後は陶侃没後に西府の長となって北伐を企図するが本格的実行を前にして病死した。

政治 7 法を用いて王導の寛容策に対抗した
政略 6 意欲には溢れるが厳格さが禍を招いた
戦闘 6 蘇峻には大敗を喫するがなんとか挽回
戦略 7 司令官として一応の才能は有していた
人徳 5 風格があったが人気は今一つ
忠誠 9 帝室のためによかれと思って行動したが…

王導の寛容策はおおむねにおいて成功を収めたが、綱紀の乱れも少なくはなかった。
それを憂いた陶侃や庾亮は王導の排斥を企てたが、郗鑒に反対され思いとどまったという。
しかし政治方針において対立があったとはいえ少なくとも庾亮は帝室に忠実であり、
国内を整備しつつ北伐へ向けた準備を整えていった。
結局彼をはじめとして庾氏による北伐の実行はならなかったが、
やがて西府を継承した桓温がその成果を手にすることになるのだった。
名スレage
庾冰(ユヒョウ) 296-344
字は季堅、庾琛(ユシン)の子で庾亮の弟。
東晋の車騎将軍、仮節都督江荊寧益梁交廣七州豫州之四郡軍事、領江州刺史、都郷侯。
兄弟らとともに名声高く、長兄の庾亮からは一家の宝と称された。
華軼(カイツ)討伐に功を挙げ、蘇峻の乱では一旦敗北するも兵を集めて京師奪還に功を挙げる。
その後は王導に対抗しつつ兄から西府を継承したが、中央召還を前にして病死した。

政治 7 王導の後任として責務を果たした
政略 7 兄の方針を継承したが大過なく治まった
戦闘 7 蘇峻の乱討伐で健闘した 
戦略 7 方面軍司令官を務める
人徳 8 清廉で倹約を旨とした
忠誠 8 私欲に薄く朝廷に尽くした

庾兄弟には有為の人材が揃って(全員がそうというわけではなかったが)おり、
歴史を動かすには至らないまでも国家の枢機に当たってよくその任を果たした。
本質的に人格者であったのに加え、外戚という立場を意識してかしばしば
加冠進爵を辞してもおり、進退には気を配っていたようである。
東晋末期になると二字名が出てくるのか
二字名は数は少ないけど昔からいますね

趙無恤
張孟談(これは字の可能性があるが)
霍去病
etc

二字名が一般的になってきたのは北朝の影響だと思うんですけど
どうなんでしょう?
二字名は春秋戦国から前漢ではふつうにあったようだが、王莽の時代に禁止されてる。
で、その影響なのか後漢から三国時代では極端に少なくなり、東晋あたりからまた増えている。
355無名武将@お腹せっぷく:04/07/23 21:17
二字名でも特に〜之という名が流行り出す。
これに関する考察があったと思うが忘れた。
王義之とか。


三国時代では郭攸之がいるけど。
諱の字が重なることを絶対的なまでにタブー視していた風潮のなかで、
「之」の字は平気で使われまくっていたことにはきっと理由があるんだろうね。
○子の子とかと一緒か
庾翼(ユヨク) 305-345
字は稚恭、庾琛(ユシン)の末子で庾亮、庾冰らの末弟。
東晋の征西将軍、持節都督江荊司梁雍益寧七州諸軍事、江州刺史、都亭侯。
蘇峻の乱鎮圧に参加したのを皮切りに内外の官を歴任し、
兄から西府を継承し北伐を目論んだが軍の足並みが揃わず局地的な勝利に止まる。
なおも外征を試みるが41歳の若さで病没した。

政治 8 地道な政績を積み重ねた
政略 7 やや強引ではあるが北伐事業を牽引した
戦闘 7 局地戦ではそこそこの勝率をあげる
戦略 7 大規模な北伐を計画したが不完全燃焼
人徳 7 軍民双方から信望を得ていた
忠誠 8 積極策で東晋の威光回復を目指した

西府の長となった庾兄弟はいずれも北伐を企図したが、なかなか実現には至らなかった。
彼らが次々と壮年にして世を去ったこともその一因であったが、
蓄えられた力は庾翼にも評価された桓温が継承し、やがて成功を収めることになる。
庾翼の死をもって庾氏の全盛期は終焉を迎え、
以降は中堅クラスの官僚の家系として埋もれてゆくのだった。
紀瞻(キセン) 253〜324?

字は子遠、呉の尚書令紀亮の孫。東晋の散騎常侍、驃騎将軍、臨湘県侯。
呉の滅亡後は晋朝の地方官に出仕するが志を得られず帰郷し、顧栄らと行動を共にして陳敏を討つ。
のちに朝廷に召されて顧栄、陸玩らと共に洛陽に赴くが、永嘉の大乱を目の当たりにして南帰を図る。
司馬越の意を受けた裴盾の追っ手から逃れ、昼夜兼行で揚州にたどり着いた。
その後は司馬睿に仕えて東晋の重臣となり、叛乱討伐や石勒との戦いに功を挙げる。
帝からの信頼も篤く股肱の臣として重用されたが、王敦の乱鎮圧後に病死した。

政治 8 侍中、尚書として有益な建言を多数行った
政略 7 明帝からは社稷の臣の第一と信頼された
戦闘 6 具体的な内容は不明だが戦果は少なくない
戦略 7 周馥、華軼、石勒、王含らを討ち勝利を収めた
人徳 8 物静かで教養もあり信望も厚かった
忠誠 8 帝からその忠烈を嘉された

文武の才を兼ね、また教養ある文章家でもあった。
呉王朝では代々高官を務めた家柄だったが、江南出身者の例に漏れず西晋王朝での立身は果たせなかった。
晋朝が南遷し江南士人の力を必要とするようになるとそれに応じて力を尽くした。
東晋王朝成立期の功臣の一人だといえる。
賀循(ガジュン) 260〜319

字は彦先、呉の中書令賀邵の子で賀斉の曾孫。東晋の太常、開府儀同三司。
父が孫晧に殺されたために家族ごと流刑になっていたが、呉の滅亡で会稽に帰る。
地方官として召されて治績を挙げ、一時西晋の朝廷に入るが石冰の乱討伐のため再び江南に帰った。
陳敏の乱ではその招きを断り、のちに司馬睿の麾下に入り死去した顧栄の後任として参謀役を務め、
成立直後の東晋王朝の諸制度を定めるのに大きく貢献した。

政治 8 東晋王朝の祭礼を初めとする諸制度を定めた
政略 8 顧栄の後任として司馬睿をよく補佐し信任を得た
戦闘 3 実戦経験は不明
戦略 5 華軼討伐に何らかの形で功を挙げた
人徳 8 清貧で慎み深く当世の儒宗(儒学の大家)と称された
忠誠 8 死の間際まで朝廷に仕えた

東晋王朝成立期に活躍した江南系士人の一人。

あるとき、賀循は司馬睿と対談していて呉の時代の話となった。
司馬睿がふと「孫晧は焼けた鋸で賀という者の首を切ったそうだが、誰のことだったかな」と尋ねたが、
賀循が答える前にそれが賀循の父の賀邵のことだったと思い出した。
賀循は「父は無道に遭い、私にとってその痛みは深く、お答えできなかったのです」と涙を流したので、
司馬睿は己を深く恥じて三日の間引きこもってしまったという。
薛兼(セツケン) ?〜322

字は令長、呉の光禄勲薛瑩の子で薛綜の孫。東晋の太常、散騎常侍、安陽郷侯。
若き日には紀瞻、閔鴻、顧栄、賀循らとともに「五儁」と号した。
洛陽に入って張華に認められ、司馬越から転じて司馬睿に仕える。
太子(のちの明帝・司馬紹)少傅となり、祖父より三代続けて太子の傅役を務めたと賞賛された。

政治 8 官僚として累進し、丹楊尹や尚書まで務めた
政略 7 太子の傅役として信任を得た
戦闘 2 実戦には関わらず
戦略 4 強いて言えば参軍などの経験があるくらい
人徳 7 若い頃から名声があった
忠誠 7 朝廷によく仕えその死を悼まれた

祖父、父は呉で、当人は東晋でと三代に渡って太子の傅役を務めた珍しい家系だが、
それはすなわち帝室からの信頼の篤さを示しているとも言える。
(ただし父の薛瑩は一時期孫晧から不興を買っていた)
明帝・司馬紹は太子時代から薛兼に指導を受けていたが、
即位してこれからもというときに薛兼を失った。彼を悼んだ詔書は哀惜に満ちている。
周訪(シュウホウ) 260〜320

字は士達、呉の左中郎将周敏の子で威遠将軍周纂の孫。
東晋の安南将軍、持節都督梁州諸軍、梁州刺史、尋陽県侯。
はじめ県吏となり、陶侃と親交を結んでその子陶瞻に自分の娘を嫁がせた。
のちに司馬睿に仕えて将として各地を転戦し、
華軼、杜弢(トトウ)、杜曾、第五猗(ダイゴイ)らの叛乱を次々に平定した。
王敦と対立しつつも北伐を企図していたが、果たせずに死去した。

政治 7 農業を奨励するなど行政にも手腕を発揮
政略 7 野心家の王敦を抑え得る存在感を持っていた
戦闘 9 実戦指揮官として勇戦を重ねる
戦略 8 司令官としても優秀で北伐まで視野に入れていた
人徳 8 謙虚にして威風あり士衆から心服された
忠誠 8 成立期の東晋朝廷を軍事面で支えた

彼の伝には戦歴が詳細に記録されている。戦術レベルでの勇武機略もさることながら
大局的な戦略眼も持ち合わせており、『中興の名将』の名は伊達ではない。
荊州の混乱を鎮めて襄陽に駐屯し、のちに叛乱を起こすことになる王敦も
彼の存命中は事を起こすことはできなかった。
周訪の側でも王敦を掣肘しつつ中原回復を目指すなど朝廷への忠心はあつく、
その死は元帝・司馬睿をいたく嘆かせたという。

余談ながら、周訪は戦闘中に矢を受けて前歯が(上下とも)折れてしまっていた。
fumuu
365無名武将@お腹せっぷく:04/08/12 21:03
王遜(オウソン) ?〜323

字は邵伯、魏興の人。東晋の散騎常侍、安南将軍、仮節、寧州刺史、南蛮校尉、褒中県公。
各地の地方官を歴任し、310年に寧州刺史として南中地方に赴く。
綱紀を粛正して州を平定し、蜀(成漢)の李雄と度々戦ったが、堂狼(地名)での大勝後に
追撃を徹底しなかった部下を激しく責めた際に、怒りの余り死去してしまった。

政治 7 荒廃した南中地方を復興させた
政略 7 綱紀の粛正に辣腕を振るった
戦闘 6 武威を用いるのに躊躇いはなかった
戦略 7 諸夷(異民族)を討って州を平定
人徳 4 威をもって人を制した
忠誠 7 地方に出ながらも朝廷への帰属意識を忘れなかった

益州の大部分はテイ族が建てた成漢に征服されていたが、
寧州の置かれた南中地方はこの時期まだ流動的な情勢にあった。
王遜はこの地方に赴任し統括者として一定の治績を挙げたが、
対抗者を誅殺することもしばしばで、嗜虐的な傾向があったのかもしれない。
戦勝を収めたにもかかわらず、追撃が不徹底だったという理由で部下を鞭打ち、
「怒髪が冠を裂く」と表現されたほどの激しい怒り様も異常だが、
おそらくはそれが原因で死んでしまったというのも凄まじい。
蔡豹(サイホウ) 269〜320

字は士宣、陳留圉城の人。後漢末の大学者蔡邕(サイヨウ)の同族の末裔。
東晋の建威将軍、徐州刺史。
気幹あり、地方官を歴任して徐州刺史に昇る。
しきりに反覆して石勒に通じた徐龕(ジョガン)を討伐したが、
諸将の足並みが揃わず石虎に敗北しその責を負わされ誅殺された。

政治 7 地方官として治績を挙げた
政略 5 同僚との連携を欠いた
戦闘 6 見敵必戦の意志は強かったが…
戦略 5 戦績は今ひとつ振るわず
人徳 7 士衆からの支持は高かった
忠誠 7 忠誠が空回りした悲劇

かつて祖逖の部下だった際には軽んじられていたが、
蔡豹が才幹によって昇進し刺史として同列に並ぶと祖逖は己の不明を恥じたという。
徐龕討伐に際しては、確かに石虎に敗北したのは蔡豹の軍だったのだが、
それに至るまでには同僚の明らかなサボタージュがあった。
朝廷は他の指揮官を更迭してただ一人戦意旺盛だった彼に指揮を委ねたが、
敗北したとはいえ誅殺され、遺骸を首都にて晒されるという最期は悲劇的だった。
徐州では多くの人々が彼の死を悼んだという。
羊鑒(ヨウカン) ?〜330ごろ?

字は景期、太山の人。匈奴中郎将羊済の子で羊祜(ヨウコ)とは同族にあたる。
東晋の豊城県公、光禄勲。
内外の官僚を歴任した後、徐龕(ジョガン)討伐の征討都督となる。
しかし戦果があがらず罷免され処刑されかけたが、朝廷の縁戚ということで助命された。
その後廷臣として復帰し、蘇峻の乱討伐に参加したのち死去した。

政治 6 実績は不明だがそれなりの官を歴任
政略 4 徐州での地縁を期待されたが成果なし
戦闘 2 著しく戦意に欠けた
戦略 2 将帥の才にあらずと評された
人徳 5 可もなく不可もなし
忠誠 6 コネにぶら下がって生き延びた

徐龕討伐に際して、王導は徐州に地縁がある羊鑒の起用に太鼓判を押したが、
郗鑒(チカン)は彼に将才がないことを見抜いており当初から反対していた。
果たして討伐は失敗したが助命され、その後も浮き沈みしつつ身を全うした。
誅殺された蔡豹と命運を分けたのはひとえに帝室との縁戚関係のお蔭だった。
368無名武将@お腹せっぷく:04/08/14 02:03
あげておくか?
 劉胤(リュウイン) 281〜329

字は承胤、東莱掖の人。漢の斉王劉肥の末裔。
東晋の平南将軍、仮節都督江州諸軍事、領江州刺史、豊城子。
容姿に優れ衆望があり、永嘉の大乱を避けて幽州の王浚のもとに赴く。
王浚の敗北後は冀州に割拠する邵續(ショウショク)に仕え、司馬睿への帰服を説いた。
のちに江南へと渡り予章太守として治績を上げ、病死した温嶠(オンキョウ)の職務を引き継いだが、
富貴を得て次第に驕り政務を放棄したため弾劾を受けて免官となり、郭黙に殺害された。

政治 6 それなりの吏才はあった模様
政略 6→3 時には卓見を見せたが最後は私欲に溺れた
戦闘 5 蘇峻の乱討伐などに参加 
戦略 5 温嶠の後任となるが実力は定かではない
人徳 6 若い頃は人望厚く名声が高かった
忠誠 6→4 忠義の心も富貴の前には敗れたか

若年期と晩年で評価の異なる人物。
当初は人望もあり時勢を見据えた発言も見られたが、
江州を預かることになった際には、群臣から口を揃えてその任にあらずと反対を受けている。
その危惧は現実のものとなったわけだが、時の流れや環境が人を変えるのか、
また彼の人間としての本質がどこにあったのかはにわかには判じがたいものがある。
 桓宣(カンセン) ?〜344

譙(ショウ)国銍(チツ)の人。父は桓弼。
東晋の平北将軍、持節都督司雍梁三州諸軍事、梁州刺史、竟陵公。
司馬睿に仕え、王含の配下として豫州方面の塢主勢力を手懐け祖逖を助けた。
のちに祖約(祖逖の弟)の麾下となり、蘇峻の乱に際して祖約が呼応して蜂起した際には
討伐軍に転じる。このとき数千家を率いて南方に移住した。
その後は温嶠(オンキョウ)、劉胤の麾下を経て西府に属し、後趙から襄陽を奪取し駐屯する。
十数年間に渡って同地をよく治めまた後趙の攻勢を退け続けたが、
庾翼(ユヨク)の北伐の先鋒を務めるも敗戦し、左遷され憤死した。

政治 7 農業を奨励し、綱紀を確立した
政略 7 各地を転々としつつ自己の勢力を保った。外交にも長ける
戦闘 9 自ら軍を率いて後趙軍をしばしば破った
戦略 8 祖逖、周訪に次ぐと称された
人徳 8 よく人心を得た
忠誠 7 対後趙の最前線を長年にわたって支え続けた

同姓の桓温の氏族とは本籍が同郡でも県が異なるが、何らかの関係があった可能性はある。
人生の多くを後趙との戦いに費やし、祖逖、周訪に次ぐと称された軍才を発揮した。
一方で政治の才もあり、塢主勢力との外交や襄陽の統治にも優れた成績を挙げている。
 桓伊(カンイン) ?〜380年代後半?

字は叔夏、桓景の子で桓宣の族子にあたる。
東晋の右軍将軍、仮節都督江州荊州十郡豫州四郡軍事、江州刺史、永脩県公。
武幹あり、参軍職を歴任する。
前秦の苻堅の南征に備えて前線に赴き、肥水での勝利に貢献する。
豫州、江州刺史として各地をよく治め、護軍将軍に転じて死去した。

政治 7 豫州、江州にて治績を挙げる
政略 7 大功に驕ることなく身を処した
戦闘 7 武幹あり
戦略 7 前秦との戦いに功を挙げる
人徳 8 性謙素にしてよく人から慕われた
忠誠 8 帝の御前で廷臣の対立を憂えた

文武の才を兼ね、慎み深く人望もあった。
音楽にも優れて江南第一と称せられ、笛や箏の名手として帝にも聞こえていた。
朝廷への忠義もあつく、司馬道子と王國寶が対立した際には
御前での宴席においてその現状と憂いを詩に乗せて歌い上げ、
孝武帝(司馬曜)や謝安を感じ入らせたという。

また弟の桓不才にも将略があり、孫恩の討伐に活躍した。
 朱伺(シュシ) 250年代?〜317ごろ

字は仲文、江夏郡安陸の人。西晋の廣威将軍、領竟陵内史、亭侯。
はじめ呉将陶丹(陶侃の父)の給吏となり、呉の滅亡後に江夏にうつる。
武勇に優れ、張昌、陳敏、杜弢(トトウ)らの叛乱討伐に力戦した。
さらに荊州方面を転戦したが、杜曾との戦いでの負傷が悪化して死去した。

政治 2 「書を知らず」とあり、実務能力は…?
政略 4 政治的駆け引きは苦手だが筋は通す
戦闘 9 歩、騎、弩、水とそれぞれの戦術で勇戦
戦略 6 おもに戦術レベルの軍務にとどまった
人徳 5 木訥だがけして悪人ではない
忠誠 7 賊に屈しようとしなかった

腕っ節だけで生き抜いてきた生粋の武人。
木訥で、学問の素養を持たず、軍官には就いたが
士大夫に対しても礼を取って名を名乗るだけだったという。

あるとき異民族の襲来に際し軍議が開かれていたが、彼だけは無言だった。
太守が「朱将軍はなぜ何も言わないのか?」と尋ねると、
「皆は舌で賊を討つつもりのようだが、自分はただ力でやってみせるだけだ」
と答えたという。
また「前後に賊軍を迎えた場合、その両方に勝つにはどうするか?」との問いには
「ただ堪え忍ぶだけだ。敵は堪えられないが、自分にはできる。そうして勝つ」と答えた。
どことなく、高倉健の姿を彷彿とさせないでもない。
年老いてもなお自ら弩をひいて戦う気概を持ち、
戦傷を負いながらも最期まで軍中にあり続けた。
 毛寶(モウホウ) ?〜339

字は碩眞、滎陽(ケイヨウ)郡陽武の人。
東晋の征虜将軍、監揚州之江西諸軍事、豫州刺史、州陵県開国侯。
王敦によって登用され、その死後は温嶠(オンキョウ)の参軍となる。
蘇峻の乱においては参謀の任をよく果たして勝利に貢献した。
その後西府の庾亮(ユリョウ)の麾下に転じ、郭黙を討ち後趙と戦うが、
石虎の軍に攻められて邾(チュ)城が陥落した際、脱出時に溺死してしまった。

政治 6 臨湘令、江夏相や豫州刺史を歴任するが実績は不明
政略 8 陶侃との駆け引きを征する
戦闘 7 実戦指揮官としても成果を挙げる
戦略 7 参謀として的確な助言を行う
人徳 6 適度な人格者
忠誠 7 各々の任務を忠実に果たした

東晋序盤を支えた中堅軍人の一人で、参謀の才に優れた。
蘇峻の乱では扱いの難しい陶侃との折衝という大役を果たしたことが特筆される。
邾城の戦いでは城の守りの堅さを楽観視した庾亮が増援を送ろうとしなかったのが災いした。
毛寶戦死の報を受け、庾亮は病を発し死に至ったという。

毛寶が武昌に駐屯していたころ、市場で四、五寸の白亀を買った兵士がいた。
彼はその亀をしばらく育てて川に放した。
のちに邾城が陥落した際にその兵士は軍装のまま川に身を投じたが、
いまや五、六尺に成長したその亀に助けられて岸まで辿り着き難を逃れたという逸話が伝わっている。
374無名武将@お腹せっぷく:04/08/24 23:41
劉頌はどう?
>>374
こんなのでどう?

 劉頌(リュウショウ) ?〜300

字は子雅、漢の廣陵王劉胥の後裔で劉觀の子。西晋の光禄大夫。
各地の地方官を歴任して善政を敷き、朝廷にあっては
公正な裁きと豊かな学識をもって政績を挙げ名声を博した。
恵帝の時代には朝廷の重鎮として司馬倫一党の専政に抵抗したが、
名誉職に祭り上げられほどなくして病死した。

政治 9 末端の地方行政から国家制度の議論まで多岐に渡り活躍
政略 8 剛直さを忌避されながらも身を全うした
戦闘 2 実戦には程遠い
戦略 3 軍事方面には関わらず
人徳 9 民情に通じ、公正さを慕われた 
忠誠 9 正道を説き良識派の意地を貫いた

西晋武帝から恵帝の時代にかけての能臣。
政治の才は多岐にわたり、国家に益するところ大であった。
その公正さは前漢の名臣・張釋之になぞらえられたという。
しかし清談が流行し退廃の風潮強いこの時代においては
彼のような剛直な能吏は忌避される傾向にあった。
朝政を壟断していた孫秀らにとっては目の上の瘤だったが、
劉頌は張華らに匹敵する名声を得ていたため手出しはできなかった。

ちなみに劉頌をこのレベルで評価すると、
>>159の張華も少しかさ上げしたいところではある。

なお、魏臣陳矯に娘を嫁がせたものの陳矯も本来劉氏の出身であったため
同姓不婚の原則を犯すとして物議を醸したと伝わるが、
劉頌より陳矯の方が活動時期が古いなど矛盾が生じるように思われる。
376無名武将@お腹せっぷく:04/09/04 14:04
 劉遐(リュウカ) ?〜326

字は正長、冀州廣平郡易陽の人。東晋の散騎常侍、北中郎将、使持節監淮北諸軍事、徐州刺史、泉陵公。
武勇に優れて冀州では張飛・関羽に比され、また人望もあり塢主となった。
のち東晋朝廷に属して徐州での周撫の叛乱を鎮圧し、徐龕(ジョガン)討伐の功で兗州刺史となる。
王敦の乱に呼応してその兄の王含が挙兵した際に都へ赴き、蘇峻らと共に鎮圧に当たる。
その功により泉陵公に封じられ淮陰に駐屯したが数年後に死去した。

政治 6 州刺史を歴任したが治績は不明
政略 6 塢の勢力をまとめ東晋に帰順した
戦闘 10 張飛・関羽に比されたということで敢えて強調してみた
戦略 7 高級指揮官としては過不足ない経歴
人徳 7 塢主として支持を受けていた
忠誠 8 忠節を朝廷から表彰された

東晋初期に北部軍団を率いて石勒の後趙と戦った将帥のひとり。
性果毅にして弓馬をよくし、開豁勇壮な人物で冀州ローカルながら張飛や関羽にたとえられた。
この時期には「驍勇=張飛、関羽」というイメージが成立していたのが興味深い。
軍事指揮官としては格別抜きん出ていたわけでもないようだが、
各地を転戦して東晋朝廷に貢献した。
王含討伐の大勢が決した後に追撃戦を行った際、勝ちに乗じて兵に略奪を行わせたために
温嶠(オンキョウ)に叱責され陳謝したというエピソードが伝わる。
彼の死後、朝廷はその軍団を解体再編しようとしたが、
部下はそれを嫌い遺児の劉肇を立てて叛乱に及んだ。
乱は郭黙らに討伐され、劉肇は爵位のみを継承して次の宋朝まで細々と続いたという。

また劉遐の妻も武勇に優れ、夫が石虎の軍に包囲されたことがあったが
彼女は数騎で万を数える後趙軍に突入して劉遐を救い出したという。
劉遐死後の叛乱の企てを止めたが容れられず、隙を見て武器に火を放ち焼き尽くした。
乱の鎮圧後は子らと共に建康に移住した。
377無名武将@お腹せっぷく:04/09/12 23:17:54
 鄧嶽(トウガク) ?〜340年代前半?

字は伯山、豫州陳郡の人。東晋の平南将軍、仮節都督交廣寧三州諸軍事、廣州刺史、宜城県伯。
もとの諱を「岳」といったが康帝・司馬岳の諱を犯すため「嶽」と改め、ついで「岱」と名乗った。
若い頃から将才があり、王敦の参軍となる。
ついで従事中郎、西陽太守と転じ、王敦が挙兵した際にはその兄の王含にやむなく従う。
乱の鎮圧後は一時蛮王・向蠶(ショウサン)のもとに身を寄せていたが、赦免により帰国して休職に復した。
蘇峻の乱に際しては温嶠(オンキョウ)の命により難を避け、その後陶侃の指揮下で郭黙を討った。
続いて廣州に赴任し、336年には南中の夜郎を討つ。また339年には蜀を討ち、霍彪(霍弋の孫)を捕らえた。
その後数年のうちに死去したと思われる。

政治 6 太守、刺史を務めるが実績は不明
政略 6 自発的な目立った行動は見られない 
戦闘 6 実戦指揮官としてはそこそこか
戦略 8 上級指揮官としての実績にあつい
人徳 7 志気平厚で正邪の別を知る
忠誠 8 帝からその忠誠を保証された

将帥の才略ありとうたわれた有能な司令官。
王敦の故吏であった関係上その挙兵に従ったが帝室でもその事情は諒解されていて、
周撫らとともに名指しで罪を免じられており首謀者たちとは別格の扱いを受けていた。
復帰後も各地で活躍し、戦略レベルでの用兵に才を発揮した。
弟の鄧逸(トウイツ)も武勇に優れ、兄の死後その地位を継承した。
378無名武将@お腹せっぷく:04/09/14 14:17:19
郗超、王恭をリクエストしていいですか?
379無名武将@お腹せっぷく:04/09/16 00:51:13
>>378
とりあえずこんなので如何かしら?

 郗超(チチョウ) 336〜377

字は景興、郗愔(チイン)の子で郗鑒(チカン)の孫。東晋の司徒左長史。
桓温の参軍となって各地の征戦に従軍し、腹心として重きをなす。
北伐の失敗を挽回すべく桓温に廃帝を進言しその後押しをした。
当時の高官である謝安らと肩を並べるほどに羽振りを利かせたが、
母の死で服喪のために職を退き、在野のまま42才で父に先だって死去した。

政治 6 行政官としては履歴も実績もそこそこか
政略 8 桓温の腹心として謀議に参与する
戦闘 3 実戦での記録は見えない
戦略 6 実戦指揮官ではなく参謀としての経歴を有する
人徳 7 施し好きでよく人と交わった
忠誠 4 桓温の野心を後押しした

祖父、父と北府の長を務めた家柄だったが、自身は当初より桓温の腹心として行動した。
謝安と王坦之が桓温のもとを訪れたとき、郗超は帳の裏で会話を盗み聞きしていたが、
風が吹いて帳がまくれ、姿が露わになってしまった。
謝安は「郗超殿は文字通りの“入幕の賓”(機密に与る参謀)だな」と皮肉を込めて笑ったという。

また父の郗愔とは公私に渡り対立することが多く、
信仰の相違(父は天師道、自身は仏道)を初めとして
父が貯め込んだ財貨を一日にして施し尽くしてしまったり、
帝室に忠実だった父に比して自身は桓氏の党として重きをなすなど様々な確執があった。
彼の死後、桓温との謀議を記した書が見つかり父を激怒させたともいう。

一方で貴賤を問わず交友関係は広く、仏僧の支遁とは互いに認め合う関係であり、
清談を得意とするなど貴族としての嗜みに通じていた。
また、祖父より三代続いた書の名手でもあった。
380無名武将@お腹せっぷく:04/09/23 19:38:31
 王恭(オウキョウ) ?〜398

字は孝伯、王蘊(オウウン)の子で、孝武帝・司馬曜の皇后となった王法慧の兄。
東晋の輔国将軍、仮節都督青兗幽并冀五州諸軍事、青兗二州刺史。
名門・太原王氏の出身で、当初は朝廷の官を歴任して丹楊尹、中書令にまで昇る。
外戚ということで重用され、北府の軍団長に就任するが後燕に敗れるなど振るわなかった。
安帝が即位して王國寶らの専権が甚だしくなると、ついに挙兵して彼らの排除を図る。
この時は司馬道子(>>322)が王國寶を処断したために兵を収めたが、
翌398年には譙(ショウ)王・司馬尚之誅伐を掲げて再度挙兵する。
王恭を盟主に桓玄(>>327)、殷仲堪、庾楷(ユカイ)ら各地の刺史が連合したが足並みが揃わず、
麾下の劉牢之が司馬元顯(>>323)の工作に乗って寝返り、王恭は捕らえられて建康で斬首された。

政治 7 丹楊尹、中書令などそこそこの官に至る
政略 5 精力的に活動したが詰めが甘かった
戦闘 2 実戦は劉牢之ら部下任せ
戦略 3 北府軍の長としてはいささかお粗末
人徳 6 良くも悪くも貴族然としていた
忠誠 9 「君側の奸」を除こうと努力はしたが…

東晋末期に活動した貴族政治家。名門としてのプライドが高く、
起家(初めて出仕すること)の官が“役不足”だとして就任を拒否したりした。
彼は貴族としては評判が高く、容姿にすぐれ交友関係も華やかだった。
しかし仏教を篤く信仰するあまりに寺の建立のために民衆を徴発したので恨みを買い、
北府では善政を敷いたが下々の者との間には隔たりが大きかったという。
朝廷の乱れに対しては何度も諫言を繰り返しついには武力矯正に及ぶことになるが、
筋金入りの貴族である王恭と叩き上げの軍人かつ稀代の梟雄である劉牢之では
精神構造が基本的に異なっており、彼を御し得なかったことが文字通り命取りとなった。
貴族による社会支配体制が変質・崩壊を始めた時代の流れの中で、
彼は最初期の犠牲者の一人であったともいえる。

なお彼が目の敵にした王國寶は遠く遡れば同族にあたるが、
系統が分かれてから七代一世紀半ほどの時代を経ており、血縁は薄くなっていた。
381無名武将@お腹せっぷく:04/09/23 19:41:42
ちなみに王恭は太原郡晋陽を本籍とする王氏の一族で、
王昶、王渾(>>113)父子や王沈(>>39)、王浚(>>297)父子、
また王坦之(>>319、王國寶の父)や
それ以外にも多くの人物を輩出した晋朝でも有数の名門。
382無名武将@お腹せっぷく:04/09/24 02:11:39
>379,380

リクエストにお答えいただき、ありがとうございます。
司馬道子親子、王恭、劉牢之、桓玄あたりは、マイナーながら意外とキャラ立ちする人物で、
興味を引かれます。特に司馬道子の悪評の実像は、どうもよくわからないなあ。
単に欲が深く、気の小さい、無定見な貴人だったのか?
元顕の方は生意気なクソガキというイメージでそんなに間違っていないと思うんですがね。
383無名武将@お腹せっぷく:04/09/25 09:48:43
そういえば劉牢之がまだでしたね。東晋末期のゴタゴタも、
なかなかインパクトのある人物が揃っていて興味深いものがあります。

司馬道子ですが、やはり
>欲が深く、気の小さい、無定見な貴人だった
というのがまずあるでしょうね。
ただの宗室だったならばまだしも、
皇弟、皇叔として国政を預かる立場にあったのが致命的で、
遊びにかまけていたかと思えば
謝安を排斥するなど余計なことまでしてくれたり。

歴史の概説書を読むと、
「司馬道子は微賤の人々を取り立てて売官を盛んに行い
貴族支配による社会構造を変質させてしまった」とあります。
当人は好き放題やっていただけでしょうけど、
社会へ与えた悪影響は大きかったのでしょうね。
彼の行った乱脈政治が社会不安を惹起して、
後の孫恩・盧循の乱への遠因となった、という見方ができたりするのでしょうか?

司馬元顯については同感です。
バイタリティは確かにあったんですけどねぇ…
384無名武将@お腹せっぷく:04/09/25 09:59:39
おいおい、三国志の時代から逸脱してるだろ
世界史板でやれよ

世界史
http://academy3.2ch.net/whis/
ゲームサロン
http://game8.2ch.net/gsaloon/
難民
http://etc3.2ch.net/nanmin/
なんでもあり
http://tmp4.2ch.net/mog2/
385無名武将@お腹せっぷく:04/09/25 17:53:30
「微賤の人々を取り立てて売官を盛んに行い
貴族支配による社会構造を変質させてしまった」
まさにこの部分なんですがね。
売官うんぬんの部分を除けば、例えば信長とか頼朝と同じでしょ。
定見が有ったか無かったかの差なのか。
それとも道子悪玉説は、既得権益層から見た偏見に過ぎないのか。
そもそも貴族支配は六朝時代の社会停滞の主因とする専門家が多いようだし・・・。
386無名武将@お腹せっぷく:04/09/25 22:30:18
なるほど… 道子悪玉説については
さすがに既得権益層からの偏見だけではないのではないかとは思うのですが、
私は晋書ぐらいしか史料がないのでこれ以上は判断しかねますね。
「信長や頼朝と同じ」という点についても浅学な私には比較の対象が掴みがたいので、
さすがに世界史板の東晋か五胡十六国あるいは六朝スレの方が
有益な意見が聞けると思います。
387無名武将@お腹せっぷく
司馬越は?