【御所様】足利一門総合スレッド【公方様】

このエントリーをはてなブックマークに追加
1無名武将@お腹せっぷく
応仁の乱以降、ひたすら名門意識と権威にすがりついて戦国期〜
安土桃山期〜江戸期を生き抜いた足利一門。
その栄光?の歴史を嫡流、庶流を問わず、足利義康以降に分派し
た細川、畠山、斯波家なども交えて幅広く語り合いましょう。

●前スレ●
足利将軍家総合スレ
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1062302088/
●関連スレ●
名門シリーズ2−第三の管領・畠山家
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1067465743/
14代将軍・足利義栄について語ろう。
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1069480929/
>>2
「進水式」が済んだようなので始めますか。
4無名武将@お腹せっぷく:03/11/26 05:49
まずは小弓御所あたりからマターリと・・・
>>4
足利義明(小弓御所)は一度は出家して空然と名乗ったものの、政氏、高基に
叛旗を翻して還俗し、古河公方乗っ取りを企図してが失敗。そのため陸奥国を
放浪することになったが、そのあたりが彼の気性を表している。
第1次国府台の戦いでの敗死から、猪突猛進型で強気が過ぎる?人物という
評価が主流だが、一方で「近代無双の名将にて、公方の御跡を継ぎたまふべ
き人」という評もあるらしい・・・
とはいえ、後にこの人の子孫(嶋子、国朝、頼氏)によって御家再興がなり、さ
らには敵対していた古河公方(実際には北条家滅亡と共に零落し、氏姫が鴻
巣御所に残るばかりだった)を併呑する形で喜連川家となったのは皮肉といえ
ば皮肉。
それもこれも第1次国府台の戦いで敗れた後、義明の遺児・頼純と2人の姫を
伴って安房に逃れた里見義堯の功績?とも言えるわけだが・・・
なお、義明の2人の姫は、上杉憲寛(足利高基の子・晴直)室と、里見義弘室。
里見義弘と姫(青岳尼)の婚姻は、義明の死により破談となる。姫は故あって
鎌倉で尼僧となり、青岳尼と名乗っていたが、姫のことを諦められない義弘は
海路鎌倉に侵攻、姫を奪って安房に連れ帰って還俗させ正室にしたという。
一方、上杉憲寛室は嫡子・義勝を産んでいる。憲寛は上杉憲政に追われて古
河に戻り、足利晴直と名を改めるが、後に真里谷武田氏の招きに応じて下総
国宮原に移り住む。徳川家が関東に移封となると義勝は嫡子・義照と共に家
康に謁見し、知行1140石を与えられて家康に仕える。義照の代に宮原姓を称
するようになり、高家に列せられて子孫は明治維新まで家名を保っている。

それにしても義明、青岳尼、喜連川頼氏と「還俗」に縁のある家系だな・・・
7無名武将@お腹せっぷく:03/11/26 08:04
>>1
乙津彼
8無名武将@お腹せっぷく:03/11/26 11:40
そういえば、足利義嗣の家系の人っていたっけ?
9無名武将@お腹せっぷく:03/11/26 12:34
三国志が好きなら以下のサイトの五丈原に票を入れるべきです。
http://kaga226.hp.infoseek.co.jp/cgi-bin/enq/enq.cgi
10無名武将@お腹せっぷく:03/11/26 20:36
>>8
  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
 │                                      │
 │          おしえてあげないよ。  ジャン!         │
 │                                      │
  \_________________________/
        V                V              V

     _,∩_         _,∩_           _,∩_
    (_____)ゝ、     (_____)    y     (_____)
    / :: :: :: ヽ 〉     /-‐:: ::‐-ヽ /       / :: :: :: ヽ
   _./ (・ )ll(・ ) ∨     _/  0) i! 0) ∨      _/ ( ・)i!(・ ) ゙、_
 // :: :: ∈ゝ :: ::ヽ   // ::  ‐-‐ :: ヽ    //  :: ー一 :: ヽ\
. ゝ/:: :: ::  :: :: ::ヽ  ゝ/ :: ::  ::  :: :: ヽ   ゝ/ :: ::  ::  :: :: ヽく
   ̄ ̄ | ̄ ̄ | ̄ ̄     ̄ ̄ | ̄ ̄ | ̄ ̄     ̄ ̄ | ̄ ̄ | ̄ ̄
       |     |             |     |             |     |
    ⊂!     !つ        ⊂!     !つ        ⊂!     !つ


11無名武将@お腹せっぷく:03/11/26 20:44
>>8

それは、あの時代を語ろうとすると・・・

トランプのジョーカーに近いのです。
12無名武将@お腹せっぷく:03/11/26 21:09
>>6
青岳尼は義明死後、北条に捕まり鎌倉で強制的に尼にさせられたって
話もなかったっけ?
13無名武将@お腹せっぷく:03/11/26 21:24
>>11
何でですか?
14無名武将@お腹せっぷく:03/11/26 22:35
実は鎌倉公方(関東)の脅威があったから中央の有力守護は将軍を中心に
結束していたという説がある。永享の乱、結城合戦で関東の脅威が
なくなったから赤松満祐が躊躇なく義教を殺害できたという
15無名武将@お腹せっぷく:03/11/26 23:10
>>14
え、そうなの?
確かに赤松は馬鹿でもなさそうだし、突然将軍を殺すには何かあるとは思うけどね。
16無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 05:33
>>14
それはないんじゃないの?
永亨の乱だって今川氏出馬で一気にかたが付いたし。
鎌倉府なんてその程度のもの。
鎌倉は満兼の代ですでに内部分裂していたような気がするが…
18無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 09:03
やっぱり南北朝の後という事もあって国をまとめるのが難しかったんだろうね。
室町を開いたといっても朝廷問題が残っていたからね?
19無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 10:56
喜連川存続のために水戸藩が一役買ったというが・・・
水戸って御三家で権力が最下位じゃなかったっけ?
20無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 11:56
だれか、石橋、渋川、仁木などの二線級一族に関して教えてくれ。
21無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 17:03
>>16
鎌倉府から足利成氏を追い落としたのも今川だったりする
あの時は確か今川範忠じゃなかったかな?

>>19
徳川家は詐称とはいえ新田の系譜。
したがって、水戸徳川家が『大日本史』を編纂するにあたって足利家を悪者扱い
せざるを得ず、徳川光圀が事前に喜連川家にお断わりを入れ、
「もし喜連川家が立ち行かなくなるような事態になった場合、水戸徳川家が可能
な限りフォローします」
と約束したらしい。
それゆえ幕末に御家断絶の危機に見舞われた際、水戸徳川家から縄氏が養子
に入って事なきを得たそうな。
22無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 17:20
>>20
まずはググッてくれや
23無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 18:57
>>21
いや、水戸藩がそんなに幕府のお取りつぶしの取り消しを頼めるほど権力があったんですか?
って事だったんですけど・・・ちなみ喜連川家なんて大した事ないのに断る必要もないと思いませんか?
24無名武将@お腹せっぷく:03/11/27 22:46
>>23
改易の撤回を求めたわけじゃないだろ。
無嗣断絶の危機にあった喜連川家に養子を入れ、それにともなう支度金で財政的
な支援を併せて行ったということが、どれだけの権力を必要とするんだ?
末期養子の制約も緩和されている時世では珍しいことではないだろ。

>喜連川家なんて大した事ない
喜連川家は基氏系とはいえ足利家の嫡流。政治力も経済力もないが、名門という
点で言えば本来、徳川家より上だろ。席順も御三家に継ぐわけだし。
『大日本史』の編纂は幕命を帯びていた部分もあり、水戸藩のみの事業ではない。
そこに徳川家の正統性を求めるとすれば、悪役になっていただいた喜連川家に後
難が降りかかれば、それなりの便宜を図るのは至極自然な流れ。
25無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 09:06
>>24
なるほど、参考になりました。
まあ、水戸が御三家扱いされたのは吉宗以降からだけどな
27無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 10:15
>>26
え!?
28無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 19:22
>>12
義明死後、小弓家は崩壊状態だったから一種の口減らしだろう。
30無名武将@お腹せっぷく:03/11/28 21:26
一番マシな公方って何処だろうね?
平島かな?
>>27
最初御三家とは、将軍家・尾張家・紀伊家のことだった。
その後、駿河家・甲府家・館林家などが御三家に出入りしたが、水戸家はいつも蚊帳の外。
吉宗の代くらいになってようやく御三家並に扱われるようになった。

スレ違いスマソ
この板読んで、喜連川系と阿波公方系の子孫はいまだに存在してることが分かったんだけど
義昭以降の本家はどうなっちゃったの?
33無名武将@お腹せっぷく:03/11/29 08:14
>>32
会津藩士とかの、地方藩士にされて落ちぶれた。
確か会津藩士は義昭の次男だったかな・・・?
34無名武将@お腹せっぷく:03/11/29 18:24
そういえば、鎌倉公方の建物ってどこにあったの?
現在の鎌倉のどのあたりですか?
35無名武将@お腹せっぷく:03/11/29 18:35
足利銀行どうよ?
やっぱり足利と関係あるの?
36郎党A:03/11/29 19:20
>>35
今、足利銀行は大変な事に・・・
37無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 00:07
>>36
でも国有化だろ?
生き延びられてよかったじゃん
38郎党A:03/11/30 00:19
>>37
私のメインバンク・・・足利カコイーと名前で決めた。。
>>34
どの時代の公方かによる
40無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 02:07
足利高山以外に義在、義喬という子がいたらしい。
義在の子孫は薩摩藩士、義喬の子孫は会津藩士になったらしい。
41無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 09:32
>>39
じゃあ尊氏の次男が鎌倉に入ったときは何処にあったんですか?
42無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 15:59
Kyoto Shimbun 2003.03.26 News
--------------------------------------------------------------------------------
 足利家27代当主 納骨法要
 等持院 30日一族集まり
 足利尊氏直系の足利家27代当主で、全国足利氏ゆかりの会(会長・吉谷宗夫足利市長)の特別顧問を務めてきた足利進悟さんが、今年1月8日に京都市左京区で亡くなり、納骨法要が30日午前11時から、京都市北区等持院北町、等持院本堂で営まれる。

 足利進悟さんは室町幕府12代将軍義晴の弟義維の子孫で、阿波公方家13代当主に当たる。郵政省に勤め、退職後も日赤京都府支部奉仕団委員会委員長として日赤活動などに奉仕し藍綬褒章を受けた。1月8日に急性心不全で死去、95歳だった。

 葬儀は近親者のみで行われたが、納骨法要は全国の尊氏ゆかりの寺院や市町村などでつくる同会や、出身の中央大学学員会、足利一族などにも出席を求め、足利家の墓のある等持院で営まれる。喪主は九州保健福祉大教授で長男の義弘さん。

43無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 20:43


あしかが、よろしくぅ〜♪



国営化・・・。
44無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 20:44
>>42

>喪主は九州保健福祉大教授で長男の義弘さん。

つまり今現在、九州下向中、と?

尊氏アゲイン。
45無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 20:46
◎7254最新情報◎
http://homepage3.nifty.com/hot-hot/7254.html
46無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 22:41
おい、嫡流スレ!もっとがんばれ!
何と言っても、義教だよ!義教!
彼の人生の略歴を載せると・・・
・クジビキで将軍に決められ
・義宣では「世を忍ぶ」になるので義教に改め
・カルガモの親子を見物していて暗殺された

義教マンセー!
48無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 23:22
>>47
しかしその籤は細工がしてあった罠。
49無名武将@お腹せっぷく:03/11/30 23:36
足利義弘・・・何となくそれっぽい名前だね。
カンビュセスの籤
Σ( ̄∇ ̄|||
ヘンリーおじさんよ、やさしい人だった……
[焙煎チンピク] 本能寺援交 1582-06-01 信長 49才 光秀・・やめて、、、.mpg
53無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 12:47
>>47-48
赤松満祐の義教殺害はどうも男色に起因しているらしい。
満祐は過去に、義持の寵童だった庶流の赤松持貞に所領を奪われかけたことが
ある。この時は何とか回避できたが、将軍職を継いだ義教が持貞の甥・貞村と男
色関係にあったため、巷では「義教が満祐の所領を取り上げ、貞村に与える」とい
う噂が広まり、疑心暗鬼に陥った満祐が凶行に及んだとされる。
54無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 13:00
赤松満祐は義教殺害後、足利直冬の子・冬氏を擁立して義尊と名乗らせたものの
敢え無く鎮圧され、義尊は殺害されたとも、逃亡したとも言われている。
なお、冬氏には絶海中津禅師の弟子になった乾珍という子がいたらしいが、詳しい
ことは不明。
55無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 13:13
名門もなにも、鎌倉時代から名門で北条家と代々縁戚関係に
あったんだが……
56無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 13:15
>>55
へぇ〜そうなんだ。
57無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 13:28
三河に分家がたくさんあって、その中で吉良庄に住んでいたのが吉良家、
今川庄に住んでいたのが今川家。今川義元が駿河から大軍を動かせたのも
今川なら幕府再建に十分な資格があったからこそ。
吉良家はその後高家となって小領主ながら別格扱いを受けた。
吉良上野介のことは皆さんご承知のとおり。
58無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 13:29
>>57
ひょっとして綱吉の吉良家へのお咎めなしはそれが理由?
59無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 13:55
>>57
足利家の分家が吉良家、そのまた分家が今川家というのが正しいんじゃないの?
>>54
足利直冬は尊氏側室・越前局の所生。
直義の養子となったことで歴史の表舞台に現れ、長門探題就任(1349年)や高師
直討伐(1350年)、鎮西探題就任(1351年)といった事蹟があるほか、一時は九州
でかなりの勢力を誇っていたのだが・・・
その子・冬氏ともなると生没年も不明とあり、びみょ〜度が一気にUP・・・
61無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 14:05
>>59
足利泰氏の庶兄・長氏(1211〜1290)が吉良家の祖であり、その長氏の庶子・国氏
(1243〜1282)が今川家の祖。
したがって血流としては足利家>吉良家>今川家ということになる。
62無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 15:10
>>55
関東屈指の清和源氏の名門だけに執権・北条家としても取り込んで
おきたかったんじゃない?
ちなみに後北条家も古河公方・足利晴氏、義氏にそれぞれ娘を送り
込んでいるなw
まあ、北条違いではあるが・・・
63無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 15:39
足利義晴女は三好義継に嫁したが、義継が殺害されると松永久秀の側室
になったらしい。
将軍家の姫君ながら、将軍家自体に権力がなければそういう末路もあった
ということだな。
>>42
>足利一族などにも出席を求め・・・
何か凄いことになってるなw
ということは、古河公方系の喜連川足利家や宮原家の末裔さん、さらには薩摩藩士・
永山家(義昭庶子・義在子孫)や会津藩士・坂本家(義昭庶子・義喬子孫)の末裔さん
たちが顔を揃え、しまいには一門の斯波家、細川家、畠山家、吉良家、今川家などの
現当主さんたちまでが参列するってことか???
65無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 17:46


ちゃんとその頃にわかっていれば・・・

このスレからも使者を立てたのに・・・


雑兵代表として
66無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 19:14
足利家の嫡流は、鎌倉・古河公方の流れを汲む喜連川家(維新後、足利に復姓)だと
思うが、そのあたりの対応ってどうだったんだろうな。
まあ、今さら宗家もクソもないんだろうが・・・
ちなみに喜連川家は明治維新後、華族(子爵)に列せられたが、阿波足利家(その頃
には京に戻っていたらしいが)は八方手を尽くしたが華族になれなかったらしい。

似たような話だが、近年、武田信玄次男・海野信親(龍芳)系と七男・信清系のどちら
が武田宗家に相応しいかという検証が行われ、武田家滅亡後も毎年、武田家先祖の
ために法要を営んでいた信親系の子孫の方が相応しい、ということになったそうな。
67無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 19:41
今川は没落したのでは?
68無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 21:08
>>67
戦国大名としてはね。
69無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 22:14
今度の葬式に朝倉さんいくかなぁ?
70無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 22:31
>>67
江戸幕府では高家に列せられ、範以が今川家を相続し、高久が品川家を興
している。
なお、今川家と東条吉良家は幾重もの婚姻を結んでおり、吉良義定(義安嫡
子)の正室は今川氏真女、吉良義弥(義定嫡子)の正室は今川範以女。
また、今川範以の正室は吉良義安女。
71無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 22:36
足利銀行・・・いかにも破綻しそうな名前だ
72無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 22:38
なお、吉良家について補足しておくと・・・
長氏(足利義氏長庶子)以降の吉良家の血脈だが、
長氏―満氏―貞義―満義―満貞と連なり、ここで満貞の弟・尊義から枝分かれ
して東条吉良家が興っている。
また、>>61にある通り、満氏の弟・国氏から今川家が興っている。
以後は満貞―俊氏―義尚―(義信)―義元―義堯―義郷―義昭(義郷弟)と血
脈を保つが、義昭が三河一向一揆戦で徳川(松平)家康に敗れて逃亡したため
滅亡。
一方、枝分かれした東条吉良家だが、
尊義―朝氏―持長―持助―義藤―義春―持清―持広と血脈を保ち、宗家から
義安(義郷弟/1536〜1569年)が養子に入る。
以後は義安―義定―義弥―義冬と連なり、『忠臣蔵』でお馴染みの上野介義央
に至ることになる。
73無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 22:41
さらに補足だが、吉良義央の正室は上杉定勝女・三姫。
したがって、義央の子・綱憲は定勝外孫として上杉家に入ったことになる。
その縁により義央の3人の娘はいずれも綱憲の養女となっている。
吉良家は赤穂事件により義周(綱憲の子)の代で改易となるが、義央の弟たち
が東条家として命脈を保っていたが・・・
東条義叔―冬貞(義叔弟)―義武(柘植兄正の子)―義孚(柘植影正の子)
東条義孝―冬重(義叔弟/御書院番)
の系譜が存在したが、義孝―冬重系は断絶、義叔―冬貞系も柘植家から養子
を迎えるなどしているため直系の血脈は絶えている。
なお、義孚の時代(1732年)に吉良復姓を許され、義孚、義勝、義渡が御書院
番を務めている。
>>68
明治に断絶したのでは?
>>72-73
長文乙。参考にもなるよ
75無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 22:52
>>72-73
吉良義弥の庶子・岡山弥清(?〜1670年)の正室は品川高久(氏真庶子)女
であり、弥清の子・氏堯が今川直房(範以嫡子)の養子となっている。
どこまでも絡み合う今川家と東条吉良家・・・

>>68
今川家は明治時代に無嗣断絶したようだね。
ならば庶流の品川家の方はどうなんだろうか?
76無名武将@お腹せっぷく:03/12/01 22:58
>>71
御上のおかげで生き長らえるあたりが足利って感じだなw
>>70
氏真にはもう2人男子がいる
西尾家を興した安信と出家して僧籍に入った澄存
78無名武将@お腹せっぷく:03/12/02 00:01
>>53
足利義教の正室・宗子と側室・重子は揃って日野重光の女なので、姉妹食い
をやってのけたことになる・・・(;´Д`)ハァハァ
なお、義勝、義政、義視の3兄弟は日野重子を、堀越公方・政知のみが少弁
殿(斎藤朝日氏)を母としている。
義教の場合、重子や少弁殿以外にも側室がいたとされるだけに、35歳で還
俗とやや遅めの女色デビューだったわりには、その後の継嗣量産はかなりの
急ピッチで行われたようだ。これに加えて男色にも余念がなかったわけだが、
こちらの方は天台座主時代の「経験」がものを言ったのかも知れない。
79無名武将@お腹せっぷく:03/12/02 02:58
>>34
鎌倉時代より足利氏の居館は浄妙寺(鎌倉市浄妙寺)の隣に置かれており、
室町時代に鎌倉府が置かれると、そのまま御所として使用されたという。
地図については
ttp://www.kamakura-burabura.com/hpbtmp2.gif
を参照。
>>78
義教には系図上では義勝、政知、義政、義観、義視、義永、義堯と
けっこうな数の男子がいたらしい。
おそらく義観、義永、義堯は早世したか、義視と同様出家し、その
まま還俗する機会がないまま終わったんだろうな。
公方門跡寺院てどれくらいあったの?
>>76
後100年位はw
83無名武将@お腹せっぷく:03/12/02 14:34
>>80
足利清晃(義澄)は天竜寺香厳院の喝食(=稚児)だった。
ということは、お偉い坊さんの身の回りの世話をしながら、夜になれば下半身
のお世話もしていたと。
将軍の甥と××すること自体が恐れ多い話だが、ましてやその喝食が将軍に
なってしまったわけで・・・お相手の坊さんも大変だったろうねw
84無名武将@お腹せっぷく:03/12/02 17:14
茶々丸に殺害されたとされる異母弟・潤童子は尊卑分脈、系図纂要の何れにも
記されていない・・・謎だ・・・
85無名武将@お腹せっぷく:03/12/05 01:11
足利義嗣の子孫というだけで「?」が付いてしまうが・・・
1418年に足利義持が弟・義嗣を殺害した際、義嗣の遺児・嗣俊が越前に逃れ、鞍谷
に居館を設けたという。
嗣俊は朝倉氏の庇護を受け、鞍谷御所に居住し、後年、鞍谷に改姓する。
嗣俊の孫・嗣知の妻は朝倉貞景の娘で、その娘は朝倉義景の後室・小宰相局となっ
たとされる。
嗣知は1573年に朝倉軍が敗れた疋田口で戦死し、鞍谷家は1575年に織田信長が
越前一向一揆を討滅した際に滅亡している。
まあ、足利家の血筋らしい「びみょ〜」な存在感は相変わらずということで・・・
86無名武将@お腹せっぷく:03/12/05 03:40
義景の正室は細川晴元女だったが早世。次いで近衛前久妹(近衛殿)が正室
となったが子ができず、小宰相の局が側室となった。
小宰相の局は義景の寵愛を受け、嫡子・阿君丸と2人の姫をもうけたが、近衛
殿の嫉妬と確執がひどかったために近衛殿は離縁される。
永禄4年(1561年)に小宰相の局が病没し、さらに永禄11年(1568年)には阿
君丸が早世したことで、義景は武将としての気力を殺がれてしまい、以後、そ
の悲しみを癒すかのように小少将を溺愛したという。
なお、小宰相の局が所生の姫が後に本願寺法主・教如に嫁している。
小宰相の局の父・鞍谷嗣友(嗣知?)は、讒言により明智光秀を朝倉家から
追った人物とも言われているが、鞍谷御所に関する最近の調査では嗣俊(嗣
友祖父)を足利義嗣の子ではなく、朝倉に擁立された斯波義俊の子とする説
の方が有力らしい。
>>86
足利義嗣の子ではなくても、斯波氏が足利一門である以上、スレ違い
にはならない・・・
いやはや裾野が広いねw
88無名武将@お腹せっぷく:03/12/05 23:53
なにせ一門ですからw
>>87-88
このオールラウンドなまでの間口の広さは某スレを思い起こさせる・・・
ひょっとして住人が重なっていたりして?
90無名武将@お腹せっぷく:03/12/06 03:18
>>88
「一門総合スレ」にして正解ということかなw

>>89
ギスギスと「板違いだ!!」などと不粋なことを言わず、三戦板っぽく歴史の断片を
切り取れば良いこと。
必然的にあるべき方向に向くということじゃない?
まぁ、三戦は必然のない状態が必然だからな。
92無名武将@お腹せっぷく:03/12/06 04:27
>>85
斯波氏の家督争い(東軍・義敏VS西軍・義廉)では、当初西軍だった朝倉、
甲斐、織田の各守護代が離反したことで義廉軍は崩壊の憂き目に遭うこと
になったが、後に越前支配を巡って守護の斯波義敏・義良父子と対立した
朝倉氏景が、対抗手段として零落していた義廉の子・義俊を越前守護に迎
えたことが鞍谷御所の発祥ということらしい。(義俊は氏景の甥にあたる)
当然、将軍・義政や斯波義敏・義良父子にしてみれば非公認の守護だった
が、もはや義敏軍の主力だった甲斐氏は没落し、織田氏にも越前に攻め込
む余力がなかったため、義俊・氏景による越前支配は半ば既成事実化され
ることになったようだ。
93無名武将@お腹せっぷく:03/12/06 12:57
>>85
>嗣知は1573年に朝倉軍が敗れた疋田口で戦死し、鞍谷家は1575年に織田信長が
>越前一向一揆を討滅した際に滅亡している。
実際には一向一揆軍に敗れて逃走し、佐々成政が入国した際に完全に所領を
失ったということらしいね
>>85
荒らしが酷くてまともな住人が去った、朝倉スレ残党ですこんにちは。

その鞍谷氏(鞍谷御所)は、最近は朝倉の旧主である斯波氏絡み
であろう(=足利義嗣系じゃねーだろ)説がちょっと有力です。

http://okhome.fc2web.com/castle/takefu/kuratani.html
この御所のすぐ裏山には、もの凄くこじんまりした山城があり、
(というか御所の付属施設(物見場)と言ってもいいぐらい。)その名を
「武衛山城」と言います。

武衛=斯波武衛家・・・?


一乗谷には住んでないんですよ<鞍谷御所
でも街中でもなく。

よくわからないでしょうが、御所はこの辺にあります。
http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=35.52.46.598&el=136.14.53.457&la=0&sc=5&CE.x=221&CE.y=251
画面左寄りに、現在の国道&高速道が見えます。
旧北陸街道はさらに左です。
なので一軒辺鄙に見えます。実際今行くと、大変田舎です。が実は・・・
その御所あたりの左下にある「牧谷越え」という峠、そこを南北に通る道が「朝倉街道」です。
(朝倉街道は、一乗谷を貫いて国北部〜国南部敦賀への直線軍事道路・”棒道”と思ってください)
地図の上のほうをクリックして、二度ほど画面を北上してください。”一乗谷”です。
つまり、鞍谷御所は「朝倉街道のすぐ脇」であり、左方向の「越前国府・旧都武生」と、奥越方面への
山越え道、その二つの交差点に当たります。

ちなみに、信長統治後の「府中三人衆」のうち、不破と前田は府中(武生)市街に城(屋敷)を構えてい
ますが、佐々成政のみは郊外に城を構築しています。
http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/komaru.htm
ここです。近いでしょう?
http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=35.52.57.948&el=136.14.35.447&la=0&sc=5&CE.x=209&CE.y=219
この地点が、当時はいかに要衝であったか、ということがわかります。

ちなみに前述のサイト中の鳥居は「継体天皇」を祭ったものであり、そしてこの土地は古代より
「味真野」と呼ばれ、万葉集でのかの中臣宅守の流刑(左遷)地です。

>>93
佐々が来た頃に御所から発給された書状が、最後の消息らしいです・・・。
96無名武将@お腹せっぷく:03/12/06 23:54
幸手一色家もそうだけど、足利義嗣の子孫と言われている筋は疑問符を
通り越して否定できるものばかりだね。
97無名武将@お腹せっぷく:03/12/07 00:21
幸手一色の場合は足利義量の子孫なんて説も・・・w
>>94
まあ、鞍谷御所自体が武衛家への対抗策だけに、そういう名称にすることで国内的に
守護としての正当化を狙った可能性はあるよね。
99無名武将@お腹せっぷく:03/12/07 04:17
斯波義敏の子孫もかなりのびみょ〜度でしょ。
義敏の子・義良は、越前の朝倉孝景・氏景父子と交戦するも苦戦し、文明15年
(1483年)に越前守護代を朝倉氏、遠江守護代を甲斐氏、尾張守護代を織田氏
とする和議が結ばれると尾張に移り、結果、鞍谷御所を擁する氏景に越前入国
を阻まれる形で本拠地・越前を失うことになった。
義良の子・義達は、遠江を今川氏親に侵略され、永正12年(1515年)の戦いで
今川軍により捕縛され、恭順の意を示して剃髪することで清洲に送り返されると
いう大失態を演じている。
義達の子・義統は、織田信友に擁立されていたが、信長に通じたため信友に殺
害された。
義統の子・義銀は、信長を頼って信友と交戦するが、後に信長と対立。吉良氏
や石橋氏と結んで抵抗したため追放され、以後は流浪の生涯を送り、義敏の系
譜はここで滅亡する。
代を重ねるごとに越前、遠江、尾張と剥ぎ取られ、将軍家にも等しい家格が災い
してか江戸期に再興されることもなく・・・
100無名武将@お腹せっぷく:03/12/07 04:18
ついでに100!
101無名武将@お腹せっぷく:03/12/07 05:25
以後は流浪の生涯を送り、義敏の系譜はここで滅亡する


うそくせ〜
絶対「私が慰めてあげる」とかいう女がいて子供がいたぜ、間違いない
子供なんてすぐ出来るものですよ

>子供なんてすぐ出来るものですよ

豊太閤殿下に言ってやれよ、、、

103無名武将@お腹せっぷく:03/12/07 10:27
>>99,101
のぶやぼに出てくる義銀の息子は、実在の人物なのか?
苗字が違うから詐称の可能性もあるが。
こいつのことか? 義銀の子ではなく、弟だが。
ttp://www2s.biglobe.ne.jp/~gokuh/ghp/busho/oda_011.htm
105無名武将@お腹せっぷく:03/12/07 13:53
●斯波義銀(津川義近)の子としては・・・
親行(?〜1615年) 豊臣秀吉馬廻/秀頼家臣1400石、大坂の陣で自刃。
近光(?〜?)―近朝
近良(?〜?)
近昌(?〜?)
●斯波義銀(津川義近)の弟としては・・・
謙入(?〜1593年) 蜂屋謙入。義冬死後、秀吉に仕えるが小田原の陣で不興を買う。
義冬(?〜1584年) 織田信雄の家老。秀吉の策謀により殺害される。
長秀(?〜1593年) 毛利秀頼。信長、秀吉に仕え、信濃・伊那郡10万石を領す。
             (※死後、女婿の京極忠知に所領の9割を奪われたとか)

一応、こんなところらしい。
津川義近(=斯波義銀)は追放後、泉州堺に蟄居。畠山高政より扶助を受けた後に
信長、秀吉に仕え、小田原の陣において伊達政宗の参陣を勧めて成功するも、北条
氏政の助命を勧めて不興を買い、追放されたという。
信長の野望でプレイするときには、津川義冬、毛利秀頼を厚遇しませう。
106無名武将@お腹せっぷく:03/12/07 14:04
>>102
ワロタ!!!
107無名武将@お腹せっぷく:03/12/07 15:48
津川義近を斯波義銀の弟とする説もあるでしょ
108無名武将@お腹せっぷく:03/12/07 16:30
http://www.cgi-game.com/sangoku/index.cgi
↑三国志NET

http://amigo.mail.goo.ne.jp/freemail/index.ghtml
↑フリーメールはこちらから

神空国への仕官お待ちしております
毛利秀頼て斯波だったのか・・・
>斯波親行 大坂の陣で自刃

哀しすぎ。


>伊達政宗の参陣を勧めて成功する
ヤッター!御家再興!

>北条氏政の助命を勧めて不興を買い、追放
ガーン・・・

面白人生だなぁ。
結局、残ってないって事かな。
ところでこの一家の「津川」「毛利」「蜂屋」ってのはどっから来たの?


>>105
>津川義冬、毛利秀頼を厚遇しませう。
苗字が変えられるならね。拝名・一字与える、がもっと気軽にできるといいのに。
111無名武将@お腹せっぷく:03/12/07 19:56
>>110
斯波義統が織田彦五郎・坂井大膳に殺害された際、清洲城から秀頼を救出したのが
信長の家臣・毛利十郎。
桶狭間で今川義元を討ち取った毛利新介の近親者と思われる。
秀頼はその後、毛利十郎に養育されたか、あるいは十郎の養子になるなどして毛利
姓を称するようになったのでは?
112無名武将@お腹せっぷく:03/12/07 23:59
毛利秀頼の娘婿である京極高知は1593年、舅・秀頼の死没に伴い、遺領のうち9万石
を分知され、信濃飯田10万石を領することになる。
(ほぼ乗っ取られたと言っても良いね)
後年、関ヶ原の合戦の功により丹後宮津12.3万石に加増。高知は遺領を嫡子、庶子た
ちに分知した結果・・・

●宮津藩/7.8万石
高広―高国(改易)―高規(旗本)
高広は眼病により早期に隠居し、高国に家督を譲るが、後に高国の暴政を幕府に
訴えた結果、宮津藩は改易。高国は南部家にお預けの身となる。
高国室(高規生母)は伊達政宗女。
高国嫡子・高規が旗本(知行2千石)に取り立てられ、子孫は高家に。
●田辺藩/3.5万石
高三―高道―高盛(但馬豊岡藩)―高住―高栄…
高三は高知三男。高門(高盛弟/旗本)への分知があり3.3万石。
但馬豊岡へ移封後、2度減封となり1.5万石で維新を迎える。
●峯山藩/1.3万石
高通(養子)―高供(丹後峯山)
京極高通は朽木宣綱の二男として生まれ、高知の養子として秀忠の小姓を務めた。
義父・高知より1万石を分知され、それまでの所領と併せ1.3万石を領し、丹後峯山に
陣屋を構えた。
●交代寄合・京極(田中)氏/0.1万石
満吉―高稙―高久(京極復姓)…
高知六男・満吉を祖とし田中姓を称して交代寄合、後に書院番士に列し1000石を領
した。高久の時に京極姓に復する。

に分派している。
ここまで来るともはや斯波氏とはほぼ関係がない話になるのだが・・・
113無名武将@お腹せっぷく:03/12/08 00:45
斯波氏(津川氏)から枝分かれした家系に牧氏がある。
牧長義の父は斯波義統の弟・津川義長。織田信秀が古渡城から末森城に移った
際に、小林城を築き、4千石を領した。正室は織田信定女、岡田時常女。
長義の子・長清の正室は織田信長女。元亀元年に長清が死没すると小林城は廃
城となるが、義長の曾孫・長勝(長義弟・長治の嫡孫)は伊勢大河内城攻め、武田
攻めにて戦功があり、後年、徳川家康に仕え、慶長15年には名古屋の検地・縄張
りを担当している。
京極=佐々木=道誉=足利尊氏盟友(臣下?)という繋がりでどうにか・・・

だめ?
・・・・・・・・・・・・・どこまで深層に沈むんだ?一門スレ
116無名武将@お腹せっぷく:03/12/08 01:15
>>105
義近の子に辰珍が抜けてるな。
義近の二男とされる辰珍は細川忠利に客臣として迎えられ、1250石を
与えられている。
後に700石を津田三十郎に分知し、残る550石を甥・辰房に相続させて
いるが、三十郎は、織田信包の孫にあたる人物で、母は義近女(辰珍
の妹)であるから、辰珍と三十郎は伯父と甥の関係ということになる。
この結果、家禄は津田三十郎が1000石、津川辰珍が550石となったば
かりか、両家は家屋敷まで交換したという。
117無名武将@お腹せっぷく:03/12/08 01:31
一門と言いつつ末端に末端に向かってますなw
近頃じゃあ足利の「あ」の字も出なくなってるような…
118無名武将@お腹せっぷく:03/12/08 02:13
斯波って奥が深いなぁ・・・
義敏と家督を争い、応仁の乱の一因になった義廉は渋川義鏡の子だけど、渋川の祖・義顕
は斯波氏の祖・家氏と同じく足利泰氏の子。2人は同母(北条朝時女)兄弟らしい。
ちなみに泰氏の嫡子・頼氏の生母は北条時氏女。
大河の『北条時宗』で原田美枝子が演じていた桔梗は、名越時章の妹という設定だったので
北条朝時の女・・・つーことは家氏、義顕の母なのか???
>>118
>斯波って奥が深いなぁ・・・

と、同時に詳しく調べるとわけわからん部分が多い。
所詮、ジリ貧滅亡組なので資料も伝記も・・・。

それがこの板の「名門スレ」のパート2に選ばれなかった理由かと。
>>119
同意。
将軍家と同格のお家柄というわりには、訳分からん資料ばっか
そろそろ本筋に戻ってみた方が良くないか?
誰か「燃料」投下してくれないかな
そういえば子供が三人とも○○王って名乗ってた家があったな・・・・
なんで王にしたんだろ?
さて、姫神様に願いをの話題で占拠するか。
123無名武将@お腹せっぷく:03/12/09 05:52
>>121

「腐っても皇統」の主張では?


安寿と厨子王って例もあるし。例にならんか。

124無名武将@お腹せっぷく:03/12/09 14:18
>>118
渋川氏の系譜と辿っていくと板倉勝重に行き着くんだよね。

(足利)泰氏−(渋川)義顕−義春−貞頼−義季−直頼−義行−満頼−義俊−義鏡−
義尭−(板倉)頼重−好重−勝重

と繋がるらしい。
渋川氏は足利泰氏の子・義顕が渋川姓を称したことに始まり、以後、足利一門として遇
されて、貞頼女は足利直義室、義季女は足利義詮室となっている。
義顕から数えて6代目にあたる義行は1365年、九州探題斯に任命されたが、南朝勢力
が強いため九州に入ることができなかった。後に九州探題・今川了俊の後任として義行
の子・満頼が下向したが、少弐氏・千葉氏・菊池氏などの在地勢力に阻まれ、その権力
は弱体だった。
九州探題の職は満頼−義俊と継承されたが、義俊が少弐満貞によって博多を追われて
肥前に逃れ、その勢力は急速に衰えることになり、以後、名目上の探題職は満直(満頼
甥)−教直−尹繁と継承されたものの実権はなく、尹繁の子・義長が肥前・綾部朝日山
城を大内氏に攻められて滅亡している。
義俊の子・義鏡は1457年に関東探題に任命され、蕨城に入り、関東管領・上杉氏と共に
古河公方・足利成氏と抗争を繰り広げるが及ばず、和議を結んでいる。
義鏡の子・義堯は岩槻城落城後、北条氏の麾下に入ることになり、義堯の子・義基は15
67年に里見氏との戦いで戦死している。
義堯から枝分かれした頼重(義基弟?)が板倉姓を称し、三河国額田郡小美村に住して
深溝松平家に属したと言われている。
125無名武将@お腹せっぷく:03/12/09 15:10
>>124
補足になるが、義鏡の子・義堯は、満頼の弟・義長の孫にあたる。
義鏡の子・義廉が斯波義健の養嗣子に入ったために、渋川氏の跡目を相続した。
126無名武将@お腹せっぷく:03/12/09 16:05
榊原康政も仁木氏ではなかったっけ?
127無名武将@お腹せっぷく:03/12/09 18:12
>>126
足利義康―義清―義実―実国と続き、実国が三河国額田郡仁木に移り住んで
仁木姓を称し、
実国―義俊―義継―師義―義勝―義長―満長―満将―教将―貞長−利長と
続き、利長が榊原姓を称したという説ね。
一方で、藤原秀郷の後裔・佐藤氏の一流が伊勢に下って神官となり、さらにその
一流が一志郡榊原に移り住んで榊原姓を称したという説もある。
128無名武将@お腹せっぷく:03/12/09 18:42
俺の名字は「もものい」
129無名武将@お腹せっぷく:03/12/09 20:48
もものい・・・ということは桃井直常の桃井かい?
桃井(もものい)氏の祖は足利義兼の子・四郎義胤。その曾孫が南北朝期に活躍した直常。
足利家(尊氏以降)で幼名に「王」が付くのは

千寿王………足利義詮
春王…………足利義満
亀王丸………足利義晴、足利政氏、足利高基
金王丸………足利氏満、足利満兼、喜連川恵氏
幸王丸………足利持氏
春王丸………足利持氏の子
安王丸………足利持氏の子
永寿王丸……足利成氏
梅千代王丸…足利義氏、喜連川義親
竜王丸………喜連川頼氏
戌王丸………喜連川氏春、喜連川氏連

義詮、義満以外では「○王丸」になってるわな。
131無名武将@お腹せっぷく:03/12/09 22:51
あと数日で12月14日。
『忠臣蔵』を見ながらつくづく思うが、吉良様にはホントお気の毒な展開に仕上がってますな。
精神的におかしかった内匠頭に松の廊下でいきなり斬りつけられ、挙句に赤穂の田舎侍に
因縁つけられ、そのうえ屋敷に殴り込まれて首を取られ・・・
名族中の名族である吉良様に対してあまりにも無礼というか非礼というか・・・じゃない?
132無名武将@お腹せっぷく:03/12/10 00:41
浅野内匠頭って過去にも接待饗応役をやった経験があるし、儀式作法なんて
そう頻繁に変更、刷新されるものじゃないから、普通なら家臣があれこれメモっ
ているはずなんだけどね・・・
もしそうでなけりゃあ、吉良さんに「この田舎侍めっ!」と罵られても文句言えな
いわな。
それに作法を教えるべき吉良さんがそれを教えず、浅野内匠頭がトチッてたら
吉良さんの責任問題になっちゃうわけだし。
133無名武将@お腹せっぷく:03/12/10 01:02
じじいを殺り損ねたうえ切腹させられ家も潰された浅野はバカ丸出し
134無名武将@お腹せっぷく:03/12/10 02:58
松の廊下での刃傷沙汰を聞きつけて目付・多門伝八郎が現場に到着したとき、
吉良上野介は白書院桜之間近くの板縁で同じ高家の品川豊前守伊氏、畠山
下総守義寧に介抱されていたとか。
普段何気なく『忠臣蔵』を見ていたが、実は吉良、品川(今川庶流)、畠山の名
族たちが一同に介していたわけね・・・
135無名武将@お腹せっぷく:03/12/10 05:55
喜連川公方のプチ幕府?に対抗してるのか?
ttp://rekimin.hp.infoseek.co.jp/Prospect/html/KubouKanbungaku.htm
より引用。
>華山の弟子として、平島公方の家臣に、武衛頼雄、高橋言守、荒川為考、板東設、
>上杉頼竜、細川家則などの名が残っている。公方の家族として、義根の弟、義豊
>(号君王)、義恭(号君敬)の外に、兄、義智の未亡人が、琴和と号して漢詩を作り、
>「麗澤詩集」「日本詩選」などにその作品が載っている。琴和の侍女で小川という者
>の詩が「阿波詩壇」に残っている。この当時公方家は、詩人一家の観があった。そ
>の他、華山に師事し、栖龍閣に出入した詩人として、大仁錦水、山内半下、高橋赤
>水、富本済仲、僧才玄、僧浄本、小松島の服部彦豊などがある。

困窮を極める平島公方に家臣ハケーン!!!
「武衛頼雄」「高橋言守」「荒川為考」「板東設」「上杉頼竜」「細川家則」だって・・・
な〜んか前スレに登場した喜連川公方にも、“それらしき”人物の名があったが、
平島公方にも“それらしき”人物がいたということか。
しかも武衛(斯波)に上杉、細川ときたよw
忠臣蔵事件当時の高家肝煎りは吉良以外に畠山義里・大沢基恒など
他の高家には土岐・今川・上杉・蒔田(世田谷吉良)・能登畠山・織田・由良・
畠山(管領家)・日野・六角・大友・横瀬(由良)・京極・武田など名族みっちり
137無名武将@お腹せっぷく:03/12/10 10:31
>>136
細かいところ突っ込むけど、畠山義里って能登畠山家じゃない?
確か畠山(上条)政繁━義真━義里と繋がっているはず。
138無名武将@お腹せっぷく:03/12/10 13:15
畠山勝王ってのがいるが
139無名武将@お腹せっぷく:03/12/10 16:46
>>135
阿波公方は阿波を支配する蜂須賀家に所領(3000貫)を奪われ、僅か
100石の捨扶持しか与えられていなかったわけで、その割には儒者の
島津華山を招聘したり、武衛だの細川だの家臣を抱えていたり、奥方
には侍女がいたり、けっこうな暮らし向きというか・・・
僅かな禄と蝮除けの「阿州足利家」の御札、それにお得意の漢文学で
そんなに暮らせるものなんか?と思ってしまう
140無名武将@お腹せっぷく:03/12/10 21:36

139

阿波公方関係は義栄スレでお願いね。
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1069480929

141無名武将@お腹せっぷく:03/12/10 23:28
>>140
足利一門だから阿波もいれるっしょ
なんかこのスレと向こうのスレって義教時代の関東公方と将軍家の仲と
似ている気がするw
142無名武将@お腹せっぷく:03/12/11 00:28
なんか色いろあるが、結局今は、みんな足利自動車教習所しか知らないだろ?
合宿の免許でしかお世話になってないが、名前だけ残ってれば上等、東武線沿線民w
143無名武将@お腹せっぷく:03/12/11 04:02
>>130
足利義尚も春王。
ちなみに、春王は鎌倉時代の足利家の当主の幼名にも度々現れる。
足利家で最初に春王を幼名にしたのは、鎌倉初期の足利義兼。
144無名武将@お腹せっぷく:03/12/11 04:05
吉良義安の母は、松平清康の娘。
145無名武将@お腹せっぷく:03/12/11 04:27
細川幽斎の実家の三淵氏は義満の子孫ともいわれるけどどう?

本姓は藤原氏らしいけど。
146無名武将@お腹せっぷく:03/12/11 06:20
>>130
今川義元のオヤジも幼名は竜王丸だったような。
147無名武将@お腹せっぷく:03/12/11 11:09
>>140
ここは「足利一門総合」と銘打っているので阿波公方も包括して
いいんじゃないの?
対して向こうは「義栄を語る」でしょ。
ユニバーシティとカレッジの違いみたいなもの。
148無名武将@お腹せっぷく:03/12/11 11:27
>>135
義栄スレにコピペされてる。
まあ、あっちもネタがないのは分かるが、スレ立てた時点で分かりきってたことなのに。

>>141
煽る気はないけど(煽ってる?)足利スレとしてはこちらが嫡流でしょw
前スレ以来の譜代の住人としてはちょっとね・・・
149無名武将@お腹せっぷく:03/12/11 11:39
>>134
松の廊下で刃傷沙汰が起こったのが元禄14年(1701年)3月14日。
この年の1月11日、幕府が任命した朝賀使には吉良上野介義央、接待役には畠山下総守
基玄、大友近江守義孝、品川豊前守伊氏の名があるね。
基玄は畠山高政の弟・政尚の曾孫にあたる人物。
基玄は翌15年12月15日、赤穂の浪士たちが吉良邸を襲撃した後、老中・稲葉丹後守の
命により上杉邸に派遣され、血気にはやる上杉綱憲を諫めている。
地味ながらけっこう重要な役回りを演じてたりするのね・・・
150149:03/12/11 11:41
負傷した吉良上野介を品川伊氏と共に介抱したとされる畠山義寧も同じく高家だが、こちら
は畠山(上条)政繁の三男・下総守義真を祖としており、家禄は3120石。
介抱繋がり?なのかどうかは知らないが、義寧の女は今川範高(品川伊氏の子)室になっ
ている。
ちなみに義真の兄・長員は下総・常陸国内にて1490石を与えられ、旗本に取り立てられて
いる。
151無名武将@お腹せっぷく:03/12/11 13:41
足利一門とはあまり関係がないのでsageネタかも知れないが・・・
>>149に出てくる大友義孝は大友吉統の孫。
吉統改易後、嫡子の義乗は家康に預けられるが、後に常陸・筑波郡3千石と
武蔵・牛込3百石を与えられて再興し、会津征伐にも参加している。
義乗没後、義親が家督を継承するが、無嗣のまま1619年に病没したために
断絶。
義孝の父・松野正照(吉統庶子)は吉統改易後、細川忠興に預けられていた
が、大友家断絶後に義孝が取り立てられ、1千石を与えられて再興、その際
に高家に列している。
義親室が今川範以の娘なので辛うじてセーフ?
大友は頼朝公の隠し子で(ry
>>152
それはかなり眉唾…という以前の話っしょ
154無名武将@お腹せっぷく:03/12/11 22:51
>>152
言うだけなら誰にもできるでしょ・・・頼朝のご落胤伝説。
要は真に受けないことか?
大友氏は秀郷流も名乗っているね。
156無名武将@お腹せっぷく:03/12/11 23:38
>>152-153
頼朝のご落胤であっても、頼朝自身がこのスレで言うところの「足利一門」
ではないからねw
まあ、元を辿れば同じではあるが・・・
157無名武将@お腹せっぷく:03/12/12 01:53
>>152
んなら島津も・・・
152だけど

>>153-157
そんなに真に受けないでくれ(笑)辛い。

159無名武将@お腹せっぷく:03/12/12 15:37
斯波銀行
160無名武将@お腹せっぷく:03/12/12 18:37
総合スレッドなので、阿波公方ネタながら敢えてこちらで。
>>139
「上屋形」細川氏、三好氏に続き、長宗我部氏も阿波公方を保護し、所領
を安堵しているよね。
長宗我部氏と阿波公方の接点としては、天正5年(1577年)8月に長宗我
部元親が足利義助に駿馬「細矢」を贈ったという記録があり、元親が阿波
に侵攻する際、義助はこれに協力する手筈になっていたという。
といっても、義助が軍事的に協力できるはずもないので、以後、義助を政
治的・軍事的に援助する見返りとして、阿波領有のお墨付きを貰うという
ことだったのだろうか。
また、織田信長が本能寺で横死し、辛くも危機を脱した直後の天正10年
(1582年)8月にも、元親は義助に駿馬「小鋸」を贈っている。
元親はこの直後に十河存保を降し、9月には勝瑞城、10月には岩倉城を
攻略して阿波併合を成し遂げている。
この時点では政敵?・足利義昭はすでに京を追われ、毛利氏の庇護を受
けて鞆に仮幕府を設けている状態であり、義助にしてみれば勢力を拡大
しつつあった長宗我部氏を頼り、再起を期そうという腹積もりだったのだろ
う。元親にしても、信長横死後の政治的混乱期の中で、阿波公方に利用
価値が「ある」と踏んでいたのかも知れない。
161160:03/12/12 18:52
長宗我部氏が秀吉に屈して阿波を失うと、新領主として入国した蜂須賀
氏によって所領を取り上げられ、しかも第4代・義次以降は平島姓を強要
されるという屈辱的な処遇を受けることになったわけだが・・・
見方を変えれば、所領については蜂須賀氏の収入増のためになされた
としても、平島姓の強要は徳川幕藩体制下においてなされた政策であり、
土着的権威としての阿波公方・足利家の影響力が依然、無視できない
ものであった可能性が高い。
>>160-161
義栄スレの住人がコピペしていきそうなネタだな・・・
163無名武将@お腹せっぷく:03/12/12 20:02
>>159
「しば信用金庫」ならあるぞ
164無名武将@お腹せっぷく:03/12/12 21:40
>>160
信長の死後、実質的後継者が足利家の誰かをかつぎあげて
第二次室町幕府(実質的後継者は将軍補佐という形で実権を握る)
を再建するという可能性も十分あったからね。
どんな田舎に飛ばされていても足利は足利ということか。
165無名武将@お腹せっぷく:03/12/12 22:04
阿波公方と言えば蝮よけの御札。
蝮よけの御札には「阿州足利家」と書かれ、そのうえに「清和源氏之印」という
朱印が押されていた。
ttp://www.museum.comet.go.jp/hasegawa/gazou/mamushi.gif
第4代の義次(1596〜1680年)の時代に、居館の煤払いをしていたら床下から
蝮の死骸が大量に出てきたことがきっかけらしい。
阿波国内で流行し、徳島藩が禁止令を出すほど信仰されたとか。
時期的にどうかわからないが、徳島藩から無理やり平島姓を名乗らされたのも、
阿波の民衆の間で蝮よけの御札が大流行して、足利家が久方ぶりに注目を集
めて信仰対象になったせいかも知れないね。
徳島藩は民衆からあまり支持されていなかったらしいし。
166無名武将@お腹せっぷく:03/12/12 23:42
第9代・義根は漢文学の世界ではそれなりに高名だったようだが、蜂須賀家による屈辱的
な冷遇に耐えられず、1805年に阿波を退去して京に移り住み、足利姓に改姓することにな
るのだが、それにしても気が長い話だよね。
蜂須賀家が阿波に入ったのが1585年。220年後になって「まろは京へ戻るぞ!!!」だもの・・・
遅すぎるってのw
京に戻った義根はそれ以後、等持院など縁の深い寺院から援助を受けながら暮らしたよう
だが、「まろは足利家の末流じゃ!!!」と騒いだところで身分は浪人。
明治維新後、古河足利家の末裔・喜連川家が足利姓に改姓し、華族(子爵)に列せられた
のに、阿波足利家の末裔は華族どころか士族にもなれず、平民籍に編入されることになっ
てしまい・・・む、むごい・・・
第11代・義孝は岩倉具視に華族への昇格を訴えたが果たせず、それ以後も関係筋を通じ
て請願したが実現することはなかった。
その理由としては・・・
@南朝を正統とする明治政府の方針と合わなかった
A家柄華族の増設に否定的な意見が多かった
というが、喜連川家のように徳川家から「朝敵の末裔」として扱われながら、江戸期を通じ
て所領を安堵され、並の大名以上の家格を与えられて、維新後も子爵となった家柄もある
のに・・・
その点からするとどうやらA>>>@なのかも知れない。
167無名武将@お腹せっぷく:03/12/13 00:57
>>160
駿馬って・・・信長の野望なら「逃亡」の特技を取得してるところだなw
まあ、公方様だから逃げることくらいしかすることはないんだが・・・
168無名武将@お腹せっぷく:03/12/13 04:59
>>160
1336年に新田・楠木軍に敗れて西国に逃れた足利尊氏が、光厳上皇から
「新田軍を討て!」との院宣を受けたのが備後国鞆の小松寺。
これにより多くの味方を得た尊氏は後醍醐天皇方の軍勢を打ち破って政権
を打ち立てた。
織田信長に追われた足利義昭が鞆に辿り着いたのは1578年。
鞆幕府を開府して反攻を期したものの、豊臣秀吉の天下統一によって1588
年に鞆幕府を閉鎖し、朝廷に将軍職を返上している。
足利将軍家は「鞆に興り、鞆に滅んだ」ということか・・・
169無名武将@お腹せっぷく:03/12/13 17:33
>>168
足利義昭の鞆幕府だが、最近の研究では「毛利氏の庇護の下、ミニ幕府(このスレ
ではプチ幕府?)ともいうべき機構と家臣団、経済力を有していた」とする説があるら
しいよ。
当時の世論的にも政治的混乱に乗じて義昭が幕府を再興するのでは?という見方が
あったらしいしね。
鞆幕府、阿波公方、喜連川公方・・・なんかプチ幕府の宝庫だねw
170無名武将@お腹せっぷく:03/12/13 18:05
堺公方もお忘れなく
都よりも避難所が充実した足利幕府…
172無名武将@お腹せっぷく:03/12/13 18:36
>>135
漢詩のお弟子さんたちに「きみは細川ね」「きみは武衛ね」「きみは上杉ね」
ともっともらしい名前(ペンネーム?)を名乗らせただけじゃないの?
100石の捨扶持とマムシ除けの札だけで養えないっしょ、そんな大人数。
173無名武将@お腹せっぷく:03/12/13 21:21
室町将軍って本当に武家の棟梁かぁ?
大半が公家将軍だろうw
>>63
公卿の子女ですら幼時に父母に死なれたら女房になりかねない。
>>69
参列しなかったら織田さんに叱られちゃいます。
175無名武将@お腹せっぷく:03/12/13 22:45
足利義嗣の子孫は鞍谷氏でいいのかな?
176無名武将@お腹せっぷく:03/12/14 01:22
>>175
・・・過去レス読みなよ・・・このスレだけでもいいからさ・・・
177無名武将@お腹せっぷく:03/12/14 01:23
>>173

お前って
この世の人間を「理系」と「文系」に分けなきゃ
気がすまんタイプだろ?
>>177
体育会系にも分けてますがなにか?
179無名武将@お腹せっぷく:03/12/14 04:07
>>170
足利義維を奉じた細川晴元と阿波国人&摂津国人が泉州堺に樹立した
暫定政権。
将軍・義晴を京から遁走させておきながら、その後も京周辺で細川高国
軍らと交戦を繰り返し、六角・朝倉軍に京を制圧されるなどしたため入京
できず、将軍宣下を受けないまま(左馬頭には叙任)1527〜1532年の5
年間にわたり畿内を支配した特異な政権でもある。
180179:03/12/14 04:12
堺公方府は義維を頂点(実際には傀儡だが・・・)に、管領や奉公人、山
城守護代、山城郡代を配置するなど、幕府に近い政権機構を持ち、細川
晴元を管領として、阿波国人衆と摂津国人衆たちによる連合政権を形作
っていた。
1531年に天王寺の戦いで細川高国を討つと、阿波国人の三好元長と摂
津国人衆が対立するようになり、義維は元長を、晴元は摂津国人衆を支
持して政権は分裂。翌1532年、晴元は一向一揆軍の助力を得て元長を
自害させたため、後ろ盾を失った義維は阿波に亡命することになる。
181無名武将@お腹せっぷく:03/12/14 04:40
>>175
たいした数のレスがあるわけじゃないんだからさぁ…
以下は過去レスからの引用。

85 :無名武将@お腹せっぷく :03/12/05 01:11
足利義嗣の子孫というだけで「?」が付いてしまうが・・・
1418年に足利義持が弟・義嗣を殺害した際、義嗣の遺児・嗣俊が越前に逃れ、鞍谷
に居館を設けたという。
嗣俊は朝倉氏の庇護を受け、鞍谷御所に居住し、後年、鞍谷に改姓する。
嗣俊の孫・嗣知の妻は朝倉貞景の娘で、その娘は朝倉義景の後室・小宰相局となっ
たとされる。
嗣知は1573年に朝倉軍が敗れた疋田口で戦死し、鞍谷家は1575年に織田信長が
越前一向一揆を討滅した際に滅亡している。
まあ、足利家の血筋らしい「びみょ〜」な存在感は相変わらずということで・・・

86 :無名武将@お腹せっぷく :03/12/05 03:40
義景の正室は細川晴元女だったが早世。次いで近衛前久妹(近衛殿)が正室
となったが子ができず、小宰相の局が側室となった。
小宰相の局は義景の寵愛を受け、嫡子・阿君丸と2人の姫をもうけたが、近衛
殿の嫉妬と確執がひどかったために近衛殿は離縁される。
永禄4年(1561年)に小宰相の局が病没し、さらに永禄11年(1568年)には阿
君丸が早世したことで、義景は武将としての気力を殺がれてしまい、以後、そ
の悲しみを癒すかのように小少将を溺愛したという。
なお、小宰相の局が所生の姫が後に本願寺法主・教如に嫁している。
小宰相の局の父・鞍谷嗣友(嗣知?)は、讒言により明智光秀を朝倉家から
追った人物とも言われているが、鞍谷御所に関する最近の調査では嗣俊(嗣
友祖父)を足利義嗣の子ではなく、朝倉に擁立された斯波義俊の子とする説
の方が有力らしい。
182無名武将@お腹せっぷく:03/12/14 04:42
>>175
続けて引用。

92 :無名武将@お腹せっぷく :03/12/06 04:27
>>85
斯波氏の家督争い(東軍・義敏VS西軍・義廉)では、当初西軍だった朝倉、
甲斐、織田の各守護代が離反したことで義廉軍は崩壊の憂き目に遭うこと
になったが、後に越前支配を巡って守護の斯波義敏・義良父子と対立した
朝倉氏景が、対抗手段として零落していた義廉の子・義俊を越前守護に迎
えたことが鞍谷御所の発祥ということらしい。(義俊は氏景の甥にあたる)
当然、将軍・義政や斯波義敏・義良父子にしてみれば非公認の守護だった
が、もはや義敏軍の主力だった甲斐氏は没落し、織田氏にも越前に攻め込
む余力がなかったため、義俊・氏景による越前支配は半ば既成事実化され
ることになったようだ。

93 :無名武将@お腹せっぷく :03/12/06 12:57
>>85
>嗣知は1573年に朝倉軍が敗れた疋田口で戦死し、鞍谷家は1575年に織田信長が
>越前一向一揆を討滅した際に滅亡している。
実際には一向一揆軍に敗れて逃走し、佐々成政が入国した際に完全に所領を
失ったということらしいね
183無名武将@お腹せっぷく:03/12/14 04:45
>>175
こうなったらさらに引用。

94 :無名武将@お腹せっぷく :03/12/06 23:10
>>85
荒らしが酷くてまともな住人が去った、朝倉スレ残党ですこんにちは。

その鞍谷氏(鞍谷御所)は、最近は朝倉の旧主である斯波氏絡み
であろう(=足利義嗣系じゃねーだろ)説がちょっと有力です。

http://okhome.fc2web.com/castle/takefu/kuratani.html
この御所のすぐ裏山には、もの凄くこじんまりした山城があり、
(というか御所の付属施設(物見場)と言ってもいいぐらい。)その名を
「武衛山城」と言います。

武衛=斯波武衛家・・・?
184181(=182&183):03/12/14 04:49
な〜んかループと過去レス引用だけで1000到達も夢ではなさそうだな。
まあ、足利一門総合スレだからネタには事欠かんだろうがw
大友の出番ですか?
おいおい・・・大友って足利一門か?
187無名武将@お腹せっぷく:03/12/14 12:01
>>185-186
思いっきり藤原秀郷の子孫なんですが・・・ってこれもループ?
188無名武将@お腹せっぷく:03/12/14 12:04
源氏の将軍家総合スレ(徳川は除外)の方がいいんじゃない?
>>188
徳川は新田系(詐称であることは重々承知)なのでそもそも
対象外なんですが・・・
鎌倉将軍家も基本的には対象外なんですが・・・
190無名武将@お腹せっぷく:03/12/14 12:15
名家大名は?
とりあえず、盛り上がれば何でもいいよ
192無名武将@お腹せっぷく:03/12/14 14:11
>>188
>>190
早速、次スレ案か?
だったら「源氏将軍スレ」なり「名家大名スレ」を立てたらどうだ?
このスレの場合、「足利将軍家総合スレ」から「足利一門総合スレ」に発展した経緯が
あるから、あくまで「足利」の冠は外すべきじゃないと思う。
193無名武将@お腹せっぷく:03/12/14 14:25
>>149-151
足利一門の高家今川家&品川家に触れておかねば。
今川氏真には嫡男・範以のほかに高久(品川家)、安信(西尾家)、
澄存(僧侶)と女子(吉良義定室)がいる。
範以が今川家を相続したが氏真に先んじて没したため、嫡男・直房
が家督を相続。この直房のときに奥高家に任ぜられている。
範以には直房のほか以庸(西尾家)と女子2人(大友義親室、吉良
義弥室)がおり、今川家と吉良家は親子2代で婚姻を重ねたことに
なる。
直房は後嗣が早世したため、岡山弥清(吉良義弥二男)の子・氏堯
(母は品川高久女)を養子に迎えているが、氏堯にも後嗣がなかっ
たため、品川高寛(高久二男)の子・氏睦を養子に迎えている。続く
氏睦にも後嗣がなく、今度は品川伊氏の子・範高、範主を相次いで
養子に迎えることになる。
以後、今川家は範主−範彦(範主嫡男)−義泰(範主二男)−義彰
−義用と続くが、義泰の正室は足利嫡流・喜連川茂氏の女。
茂氏の父・氏春は、宮原家からの養子であるが、宮原家もまた足利
晴直(足利晴氏弟)を祖とする名家だったりする。
高家今川家を辿っていくと吉良家(岡山家)や品川家、喜連川家とい
う具合に複雑な婚姻、養子縁組を繰り返していた様子が伺える。
194無名武将@お腹せっぷく:03/12/14 15:03
絡まってるよなぁ・・・
195無名武将@お腹せっぷく:03/12/14 17:10
今日は赤穂浪士の討ち入りの日
吉良様にしてみりゃあいい迷惑だった日というか、厄日というか・・・
おかげで改易だしね
196無名武将@お腹せっぷく:03/12/14 17:22
吉良が改易された事実ってあるのか?
197無名武将@お腹せっぷく:03/12/14 17:46
>>196
赤穂事件後に吉良家は改易されている。
改易後、上野介の養嗣子・義周は信濃高島藩主・諏訪忠虎の下に
お預けになり、配流の身のまま宝永3年(1706年)に病死したため
吉良本家は断絶している。
ちなみに内匠頭の弟・大学長広は、宝永6年(1709年)の綱吉死去
に伴う大赦令により、翌年には旗本に復帰している。
知行は500石。
諏訪氏にも清和源氏説があるらしい
源経基の子・満快の後裔らしいが・・・胡散くせぇ〜w
199無名武将@お腹せっぷく:03/12/14 18:28
>>196-197
義央は1702年赤穂浪士に殺害され、養子義周はその処置の不備により
断絶、義央の弟義叔は東条氏を称したが、義孚の時吉良氏に復姓。
今川家の庶流・品川家からはこんな人材も出ている。
品川高久の孫・重治(高如嫡子/1642〜1685)は、母が能見松平家・勝隆の養女だっ
たことから勝隆の養嗣子となり、佐貫藩1万5千石の藩主となる。
重治は奏者番、寺社奉行と順調に出世コースを歩んだが、1684年に将軍・綱吉の勘気
を受けて改易、陸奥会津藩にお預けの身となった。
綱吉は感情の起伏の激しく、要職者でも些細な理由で処罰されることが多かったらしく、
重治処断の理由は不明。
なお、嫡子・勝秀は赦免され、子孫が5百石の旗本に取り立てられている。勝秀の跡目
を継いだ勝文は、今川範主(1698〜1728)の庶子。
なんか話が江戸期に偏っているが…
>>199
東条義叔(義央弟)=義武(実父:柘植兄正)=吉良義孚(実父:柘植影正)
と2代にわたり養子が入っているので、血縁的には切れている。
202無名武将@お腹せっぷく:03/12/14 18:54
>>201
三百諸侯と旗本御家人で、当初の血縁が切れずに続いている家を探す方が難題。
203無名武将@お腹せっぷく:03/12/14 18:55
>>197
高家を改易するっていうのは当時でもよほどのことがない限り
できない処断だったようだね。
204無名武将@お腹せっぷく:03/12/14 18:57
>>202
そりゃそうだわな
その点、阿波公方家はけっこう長続きしたみたいね、系図的には。
最近、当主さんが亡くなって養子が入ったらしいけど。
206無名武将@お腹せっぷく:03/12/14 19:04
義栄スレが書き込めなくなってる・・・
これってどういうこと?

14代将軍・足利義栄について語ろう。
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1069480929/129
>129 :停止しました。。。 :停止
>真・スレッドストッパー。。。( ̄ー ̄)ニヤリッ
>>206
重複スレッドだと言う一部の香具師の野次を管理人が間に受けたんだな。

まあ、確かにここからのコピペ多かったから仕方ないと思うが。
>>207
内容を全く検討していない、ってことなんでしょうね。
ついでに、無知であると。
あのスレはあのスレで、ものすごく存在価値があったのに。
>>207
管理人に通報した香具師がいたってことかい?
>>208
義栄という時点でネタ詰まりは予測できた。
もう少し範囲を広げて「阿波公方スレッド」にすれば生き長らえたものを・・・
いや、結局は重複と見なされたかな?
211無名武将@お腹せっぷく:03/12/14 20:43
>>210
あるいは「堺公方&阿波公方を語る!!!」でも良かったかもな。
まあ、何を今さら・・・なのだが。
212無名武将@お腹せっぷく:03/12/14 22:01

義栄スレ、阿波公方スレとして復活してます。
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1071404950/l50
>>208
ログ持ってるから、俺にとって存在価値は欠片も無いな。
214無名武将@お腹せっぷく:03/12/15 05:43
>>212
早速息切れのようで・・・新スレw
「一門総合スレ」の存在を無視されちゃあ、たまったモンじゃない。
阿波公方だろうが何だろうが、ぜ〜んぶこっちでネタ振ってやる。
コピペすんなよ!!!
215無名武将@お腹せっぷく:03/12/15 08:15
それにしても語られないね…堀越公方。
前スレ以来、古河公方(→喜連川公方)の話題が多くて、堀越公方の話題が少ない
のはなぜ???
まあ、政知−茶々丸の2代で滅んだせいなんだろうが…
216無名武将@お腹せっぷく:03/12/15 09:47
茶々丸って成人してるのになんでいつまでも茶々丸って幼名風なんだろ?
217無名武将@お腹せっぷく:03/12/15 10:55
>>216
家督相続トラブルの渦中にあって元服が許されなかったからでは?
事実、政知が死んだときには牢に閉じ込められていたわけで。
218無名武将@お腹せっぷく:03/12/15 10:55
>>217
あ、そうだったの。ありがと
堀越公方の存在価値は、古河公方との対立により関東擾乱を演出したことに
尽きるわけだが・・・
それと政知の遺児・義高(=義澄)が日野富子&細川政元に担がれ、富子ら
と不仲になった義稙の後釜に据えられて第11代将軍になり、以後、義晴、義
輝、義栄、義昭と彼の血筋の子孫が将軍になったこと・・・なんだろうな。
220無名武将@お腹せっぷく:03/12/15 23:50
最終的には滅ぼしたはずの基氏の子孫(鎌倉・古河公方系)が嫡流。
嘉吉の乱で義教が殺害されていなければ、安王丸、春王丸に続いて
永寿王丸(成氏)も殺されていたんだろうが・・・
221無名武将@お腹せっぷく:03/12/16 00:28
清晃が潤童子と同じく足利茶々丸に殺されていたら…(((((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
222無名武将@お腹せっぷく:03/12/16 03:10
>>220
その場合、堀越公方の存在も・・・消えるのか?
223無名武将@お腹せっぷく:03/12/16 10:32
『将軍の星』(徳間書店)収録の「前髪公方」はなかなか面白い。
所詮、小説ではあるんだけどね。
>>221
どうなるの?
>>224
義澄以降の系譜がぜ〜んぶ消えてなくなる
【義晴系】義晴━義輝=義昭
【義維系】義維━義栄=義助
がこの世に存在しなかったと。
226無名武将@お腹せっぷく:03/12/16 11:03
誰か茶々丸を元服させてやれよぉ・・・
1491年の時点で15〜16歳だったとして、1493年に殺されたとすると
17〜18歳だろ。
普通だったらとっくに元服してるはず。
お殿様に気に入られていつまでも元服できないままの小姓じゃないんだ
からさ・・・
故人だからもう遅いけどね
228無名武将@お腹せっぷく:03/12/16 12:08
延徳3年(1491年)に起こった豆州騒動では、茶々丸が重臣と激しく対立したた
めに伊豆国内が混乱に陥った。この機を逃さず、今川氏親から兵を借りた伊勢
長氏が同年、茶々丸を討ち、堀越公方を滅ぼしたことになっている。
だが、>>84にもあるように・・・
(1)潤童子は「続群書類従」「尊卑分脈」「系図纂要」にいずれにもその記載が
 ない。
また、
(2)通説では伊勢長氏が伊豆に侵攻し、堀越公方を滅亡させたのは延徳3年
  (1491年)となっているが、それ以後も伊豆・武蔵・甲斐で茶々丸が行動し
  ていた記録があり、最近の調査では、伊勢長氏による伊豆侵攻を明応2年
  (1493年)とする説が有力になっている。
(3)明応3〜4年(1495〜1496年)頃の伊豆国内における伊勢長氏の発給文
  書からも、事態が収束していない様子が伺える。
など、謎めいた部分が多い。
229無名武将@お腹せっぷく:03/12/16 13:26
>>228
伊勢長氏って伊勢新九朗=北条早雲のこと?
>>229
YES。
備中出自説によれば「盛時」らしいが。
ちなみに彼自身が北条早雲と名乗ったことはなく、北条姓への改姓は
氏綱の時代のこと。
また早雲は号ではなく庵名で、宗瑞が号になる。
したがって伊勢宗瑞が正しい。
盛時の方じゃないのか?
伊勢盛時の名前で、兄貴あてに伊豆の状況に関して出した手紙が見つかっているようだし。
232無名武将@お腹せっぷく:03/12/16 19:23
室町幕府「茶々丸の堀越公方家相続は認めない」
古河公方「そもそも堀越公方の存在を認めない」
扇谷上杉「伊豆は宿敵・山内上杉の領国」
駿河今川「隣国の不安要因を取り除きたい」

以上のように、伊勢宗瑞の伊豆侵攻は、各当事者の利害が偶然にも微妙に一致していた絶妙のタイミングに行われた。
>>231
ttp://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/9078/reki-ise.html
より抜粋。
>●伊勢宗瑞の花押からわかること
>花押にも、いくつかのパターンがあり、宗瑞の花押の場合は、裏返し花押といわれ、
>文字を裏返しにしたものといわれる
>この花押を裏返しにしてみると、「長」の草書体の変形したものといえる。また、「氏」
>の草書体の特長をもふまえており、宗瑞の俗名「長氏」の草書体を合成したものが、
>花押の原形となったらしい
>◆参考文献 佐藤進一著『花押を読む』

長享元年(1487)頃に盛時から長氏に改めたという説もあるみたいだね。
ちょうど小鹿範満を討って興国寺城主になった頃というが・・・
234無名武将@お腹せっぷく:03/12/16 19:44
明応4年(1495年)に小田原城を奇襲したのが、扇谷上杉から山内上杉に鞍替えした
大森氏の勢力を西相模から排除するため・・・とすると、この時点では依然、茶々丸は
存命していたことになる。
したがって茶々丸が死んだのは、宗瑞が伊豆を完全平定した明応7年(1498年)とす
るのが正しいようだ。
235無名武将@お腹せっぷく:03/12/16 20:03
>>232
そうそう。
豆州騒乱にはいくつもの対立軸が絡んでるよね。
叛乱によって足利茶々丸が第2代堀越公方になったことで、扇谷上杉氏は
政知派に、山内上杉氏は茶々丸派について対立。
一方、今川氏は小鹿範満が茶々丸派と繋がっていたので、範満を排撃した
伊勢宗瑞と今川氏親は当然、扇谷上杉氏と関係を強め、政知派に。
また、中央では細川政元がクーデターを起こして将軍・義稙を追放し、茶々
丸の弟・義高(=義澄)を擁立。したがって、義高は仇敵・茶々丸の堀越公
方と相容れるはずが無い。
また、甲斐武田氏も信昌と信縄が対立。信昌が政知派、信縄が茶々丸派
につき、今川氏は信昌を支援する形で内訌に介入していた。
1493年の宗瑞の豆州侵攻にはこういった政治的な背景があった。
しかし、茶々丸は1493年には死んでおらず、信縄を頼って国外に逃亡、以
後、山内上杉氏&信縄の庇護を受け、抗争を続けている。
236無名武将@お腹せっぷく:03/12/16 20:09
延徳3年の時点で茶々丸15〜16歳とすると、明応7年の時点では
22〜23歳・・・


それでも茶々丸かよ・・・逆にキモい・・・
237無名武将@お腹せっぷく:03/12/16 22:09
>>236
でも、なんか足利的って感じだな
喜連川マニア垂涎の的だな。
http://page4.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/d22499162
239無名武将@お腹せっぷく:03/12/17 00:56
>>238
>知人の足利家{先祖は鎌倉公方だったそうです。}の某分家の末裔
・・・・足利家の分家???
240239:03/12/17 00:57
し、しまった・・・>>238に早速反応してしまった・・・
ということは俺、喜連川マニアか???
241無名武将@お腹せっぷく:03/12/17 01:22
>>238
「丸に二つ引両」を用いているのは、足利家(末流・喜連川家)とそこから
分派した細川、畠山、斯波、吉良、今川、瀬名、堀越、仁木、上野、最上、
山名・・・と数が多いからな・・・
でも、古河足利家から分派した宮原家(足利晴直系)は「丸に二つ引両」
じゃないんだよね。
特定は極めて難しい・・・
242無名武将@お腹せっぷく:03/12/17 01:30
>>241
「先祖は鎌倉公方」と書いてあるぞ
243241:03/12/17 01:34
>>242
あっ・・・・・
遠山の金さんも二つ引両だね
245無名武将@お腹せっぷく:03/12/17 02:22
鎌倉公方の分家かぁ・・・
すぐに出てくるのは蔭山広氏(持氏七男)と足利晴直(高基次男)なんだけどね。
246無名武将@お腹せっぷく:03/12/17 02:41
宮原家の家紋は「菊」「五七の桐」「丸に二引葉菊」だからな・・・
247無名武将@お腹せっぷく:03/12/17 12:35
篠川・稲村御所の可能性はないのか?
248無名武将@お腹せっぷく:03/12/17 12:41
地方御所っていくつあるんだ?いったい
249無名武将@お腹せっぷく:03/12/17 13:02
>>248
「鎌倉御所」「稲村御所」「篠川御所」「堀越御所」「古河御所」「小弓御所」
「喜連川御所」「鴻巣御所」「堺御所」「阿波(平島)御所」「鞆御所(鞆幕府)」
それとかなり怪しい「鞍谷御所」など・・・
>>249
鞍谷御所は足利義嗣の子孫という説があるが、実際には斯波義廉の子孫
という説が有力。
251無名武将@お腹せっぷく:03/12/17 16:22
見たところ相当新しそうだな。いつ頃作られたんだ?
>>251
鎧のこと?
和紙に包んであったって書いてあるよ。
戦後だとは思うけどね。見たところ。
>>250
このスレの過去ログぐらい嫁
255無名武将@お腹せっぷく:03/12/17 23:24
過去ログを念入りにチェックする香具師の方が珍しいんじゃねえの?
256無名武将@お腹せっぷく:03/12/17 23:56
ちなみに名門である細川京兆家は、江戸期は秋田家の家老として存続している。
勝元−政元=澄元−晴元−昭元−頼範
>>255
読まない厨を正当化しないでください!
都落ちさせますよ!?
258無名武将@お腹せっぷく:03/12/18 18:47
昭元の娘は秋田実季室。
豊臣秀頼の家臣(小姓頭/5千石)として大坂の陣にも参戦し、徳川軍
と戦った頼範が秋田家に仕官できたのは、その縁故を抜きに考えられな
いでしょ。
ちなみに昭元と一緒に落書き犯として捕まった斯波義銀(津川義近)の
子・親行も豊臣家臣。親行は馬印奉行を務めていたが、夏の陣で戦死
してる。
259無名武将@お腹せっぷく:03/12/18 18:49
>>256

その屈辱に良く耐えましたね。
260無名武将@お腹せっぷく:03/12/18 22:41
>>258
コネと家柄で難局を乗り切った好例だね。
261無名武将@お腹せっぷく:03/12/18 23:20
>>259
そのうち慣れたんじゃない?
262無名武将@お腹せっぷく:03/12/18 23:29
>>257
都落ちは足利将軍家の得意技だし
263無名武将@お腹せっぷく:03/12/18 23:53
生涯、都落ちを経験せず、尚且つ天寿を全うした足利将軍は?
264無名武将@お腹せっぷく:03/12/19 00:29
尊氏、義詮は京を南朝に奪回されてるし、義満は暗殺の可能性が・・・
義勝は落馬事故、義量と義尚は酒色に耽っての早世・・・
義稙以降は必ず都落ちを経験してるので・・・義持、義政くらい?
265無名武将@お腹せっぷく:03/12/19 05:49
将軍追放なんて日常茶飯事だっただけに、民衆なんかは
「またかいな・・・」
という感じだったんでないの?
義昭が追放されたくらいで幕府が滅亡したなんて誰も思ってなかったんでないの?
266無名武将@お腹せっぷく:03/12/19 08:22
民衆どころか朝廷も「いつまた戻ってくるやも知れぬし・・・」と思っていたのでは?
200年余の歴史がある足利政権だから、そう簡単に将軍職の剥奪ができるはずもない。
賎民出身の秀吉が関白に就任した後、正親町天皇が豊臣の新姓創始を許したのも、見
方を変えれば従来の政治秩序の外に置きたかったからでは?
足利家は在京こそしていないけど政治秩序の内側、豊臣家は臣民最高位と言いながら
政治秩序の外側に置き、いつでも政治秩序が回復できるようにしていたのでは?
だからこそ、あえて朝廷側から将軍職を剥奪するようなことはしなかったと。
267無名武将@お腹せっぷく:03/12/19 14:52
足利義勝の死因には「落馬」説と「赤痢」説があるな
>>267
聞いた事ない香具師だな・・・
だれ?
269無名武将@お腹せっぷく:03/12/19 15:06
>>268
本気で言ってのか・・・・・・・・・・・・・???
一応、第7代将軍なんだけどな
270咲一門:03/12/19 15:30
5代将軍、足利義量に、子孫が、いるなんて、冗談かと、思った・・。どの、系図を、みても、正室なし。、享年19歳。なのに・・・・・・。
271無名武将@お腹せっぷく:03/12/19 15:35
正室がいないからって子孫がいないとは言い切れないからね
でも、義嗣、義量の子孫説って何か疑わしさを伴うよな
272無名武将@お腹せっぷく:03/12/19 22:52
>>266
本能寺の変に朝廷黒幕説がいまだに出てくるのもそのあたりが
原因かもね。
信長は晩年には全くそういう権威を顧みなくなってるから。
>>272
でも織田家って信秀の代から朝廷に熱心な心がけじゃなかった?
274無名武将@お腹せっぷく:03/12/20 12:08
>>273
守護代の家老に過ぎなかった信秀だが、経済力は守護、守護代を凌ぐものがあった
わけで、経済支援によって朝廷とのパイプを強化することで、自身の尾張における政
治的発言力を高めてこうとしたわけでしょ。
>>270
あのバカ殿の酒乱ぶりには、親父の義持もかなり呆れていたらしい。
癇癪持ちとはいえ、まだ義教みたいな気概のある人間のほうが息子としては良かったのでは。
(義持と義教は兄弟仲もそこそこ良かったらしい)
周囲の人間にしてみれば、こんな義量のようなバカに奥さんがいようがいまいが、どうでもいいって感じだったんじゃない?
それより鎌倉の動向のほうがよっぽど重要だったしね。
276無名武将@お腹せっぷく:03/12/20 12:44
>>275
足利持氏が「クジ引きだ〜ぁ!!?なら俺にやらせろってんだよ!!!」と言いたくなる
のも分かる気がするが・・・
だが、義円(=義教)の将軍就任については出来レースだったって話もあるよな
277無名武将@お腹せっぷく:03/12/20 13:19
最終的には持氏の系譜が嫡流だからな
278無名武将@お腹せっぷく:03/12/20 13:36
やはり義教の肖像画って石橋蓮司にダブるんだよな・・・
279無名武将@お腹せっぷく:03/12/20 14:44
>>277
持氏の子・蔭山広氏の子孫には、徳川頼宣・頼房兄弟の母・蔭山殿(お万の方)がいるな。
ガイシュツかも知れんが・・・
280無名武将@お腹せっぷく:03/12/20 18:47
>>276
くじ引きでは義持の4人の弟が対象になったが、それぞれに細川、畠山、山名など有力
守護が支援者となっていたという事情がそうさせたというね。
普通だと「くじ引き将軍」とナメてかかるところだが、義教はコンプレックスを感じて恐怖政
治を行いながらも、一方では岩清水八幡宮の「神託」という形で選ばれたため、「神に選
ばれた将軍」を自負するところがあったらしい。
そのためか義教は古代に用いられていた「盟神探湯」を復活させ、訴訟でも神の判断で
裁くことが多かったいう。
くかたちねぇ。ほう
282無名武将@お腹せっぷく:03/12/20 19:10
283無名武将@お腹せっぷく:03/12/20 19:44
>>280
まじ・・・・・?
盟神探湯って罪人がこの熱湯に手を入れれば手は焼け爛れるってやつでしょ?
284無名武将@お腹せっぷく:03/12/20 21:09
>>283
火傷の具合を比べて軽い方が勝訴とかそんなやつ
285無名武将@お腹せっぷく:03/12/20 21:28
嘉吉の乱の記録としては、伏見宮貞成親王の『看聞日記』が知られているが、
それによると、赤松満祐・教康一党の反逆に際して、管領以下の守護、側近
たちは惨殺された義教を捨て置いてサッサと逃げ出したという。
「管領・細川讃州、一色五郎、赤松伊豆等ハ逃走、其ノ外ノ人々ハ右往左往
逃散シ、御前ニ於テ腹切ル人無シ。(略)未練謂フ量リ無シ」
「所詮、赤松討タル可キ御企露顕ノ間、遮ツテ討チ申スト云々。自業自得果、
力無キ事カ。将軍、此ノ如キ犬死、古来其ノ例ヲ聞カザル事ナリ」
とあるように、親王は供奉していた管領や守護、側近たちの不甲斐なさを嘆く
一方で義教の死を「自業自得だ!」「犬死じゃん!」と喜んでいたりもする。
286ムコーニン ◆WHIZrDS2LY :03/12/21 00:23

NEWSの内博貴(ジャニーズ)には北畠顕家の守護霊がついているらしいぞ・・・
>>286
ゴクミじゃないのか?
288でらえもん調査局ヽ(`Д´)ノ ◆CJMS06S/xs :03/12/21 07:31
屈強な柔道部員に便所で
「お前にだけ俺のムケチン見せてやるよ お前にだけな 誰にも言うなよ」
ってムケチン見せられた時恐怖で震え上がった
>>285
義教は勤皇家だったけど、公家は厳しく統制してたからね。
赤松伊豆とは男色関係にあった赤松貞村・・・「彼」が斬られたのに逃げちゃったのか?
ホモ将軍って何人いる?
292無名武将@お腹せっぷく:03/12/21 13:44
>>291
ホモ将軍という表現は適切じゃないだろな。
基本的には女性との生殖活動をしながら、同時に恋愛としての男色を楽しむという
ことだろ。
ちなみに義満と世阿弥、義持と赤松持貞はけっこう有名。
特に後者は、本家の赤松満祐が所領を危うく失いかけるほどで、持貞と義持側室
との密通が発覚し、持貞が処罰されたことで事なきを得たが、かなり際どい状況だ
ったようだ。
293無名武将@お腹せっぷく:03/12/21 14:18
義尚、義澄、義輝なども両刀だったらしい
義昭に至っては信長から文句言われるほどお盛んだったとか
294無名武将@お腹せっぷく:03/12/22 00:32
信長が義昭に突きつけた5ヶ条の条書だったか、17ヶ条の異見書だったかで
「男色を慎むように!」という内容のものがあったはず
将軍様にしてみれば「たしなみ」みたいなものだし。
296無名武将@お腹せっぷく:03/12/22 00:45
すくなくとも信長にいわれる筋合いはないよな



297無名武将@お腹せっぷく:03/12/22 00:57
「オメ〜はパトロンいなけりゃあ何もできねえんだから少しは遠慮しろや!ゴルァ!」
ということかな?
298無名武将@お腹せっぷく:03/12/22 01:24
しかし、利用するだけ利用して無嗣廃絶に追い込むなら、むしろ美童を抱かせてた方が
良くないか?
逆に側室を持たせないとか。
男色は、結束が固くなるか風紀が乱れるか、の諸刃の剣

前者・・・信玄&高坂等
後者・・・芦名
300無名武将@お腹せっぷく:03/12/22 04:01
>>294
17ヶ条の方じゃないの?
ttp://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shincho9.html
「御宿直に召し寄せておられる若衆に扶持を加えたいと思われたなら、当座当座で
与えてやるものは何なりとあるのに、あるいは代官職を仰付け、あるいは非分の公
事を起こさせる。これでは天下の非難を浴びることは避けられない」
というやつ。
男色をするなとは言ってないし、むしろ義昭の若衆に対する処遇にケチをつけてる
格好だね。
301無名武将@お腹せっぷく:03/12/22 04:15
ほかにもこんなものが・・・

一、他国より御礼があって金銀を進上してきたのを隠匿し、御用にも立てようとしない。
  一体何の御為か。
一、昨年夏幕府の御城米を売却して金銀に換えてしまわれたが、公方様が商売をなさ
  れるなど古今に聞いたことがない。当節は倉に兵糧が満ちあふれている状態こそ外
  聞もよいというのに、そのような次第となったことを知り驚き入っている。
一、諸事につき御欲が深くあらせられる。理非も外聞も気にかけられぬ公方様と世間に
  伝わっている。ために何も知らぬ土民百姓までが悪御所と呼んでいるとのことである。
  普光院義教殿がそのように呼ばれたと伝えられているが、それならば格別な事であ
  る。何故そのような陰口を言われるのかをよく考え、御分別を働かせていただきたい。

強欲将軍が転じて貧乏将軍とは・・・けっこう義昭って愛すべきキャラかもなw
302無名武将@お腹せっぷく:03/12/22 04:32
毛利家からは苦情が出なかったのかな?
まあ、公式記録に残っていないだけかも知れないけど。
303無名武将@お腹せっぷく:03/12/22 07:45
>>229
大内義隆公をお忘れなきよう・・・
ちなみに義尚のお相手は細川政元らしいけど本当かな?
政元は修験道に凝っていたせいか男色オンリーだったとか。
男色以外のネタ質問だけど、
義昭が信長のいう事なんでも聞いてたら室町はどの位伸びたかな?
305無名武将@お腹せっぷく:03/12/22 10:15
>>304
その程度の香具師なら覚慶のまま終わってそうな感じだな。
>>304

1、どうでもいい権威として世襲
  信長的には生かしておくことで
  「信長(が登りつめる場所)>>>>将軍(権威)」という存在になる。
  (現代での「将軍」の意味合いも変わってきたでしょう)

2、きりがいいところで罪状を箇条書きで書き立てて京洛追放
  (信長常套方式)
  担ぐ勢力がなくなったあたりで、かな。
  もしくはわざと放逐して、匿った勢力を攻撃する口実に。


「〜御所」って城というより豪華絢爛な屋敷なんでしょうか?
ちなみに室町御所は今の何処ら辺にあるんでしょぅか?
308無名武将@お腹せっぷく:03/12/22 13:57
>>307
義満が造営した「花の御所」は、内裏の西北に位置していたようだね。
南北は北小路から柳原、東西は烏丸から室町というエリアに位置し、邸内には中門、
寝殿、東の廊、常御所、対屋、透渡殿、釣殿などの施設があり、そこに大池が配され
るという王朝風の御所だったらしいが、応仁の乱に際して焼失している。
309無名武将@お腹せっぷく:03/12/22 14:00
一方、義輝が御所として用いた武衛陣は斯波氏の居館跡で現・京都御所の西、烏丸
通りの西側に位置していたようだ。地図で言えば、平安女子高校が建っているあたり、
ということになる。応仁の乱により斯波氏が没落し、斯波義敏が将軍家に献上したとも
言われている。
義晴の頃には今出川御所にて政務をとっていたようだが、義輝は相国寺、本覚寺に仮
御所を置いていた後、永禄2年に武衛陣跡に新御所・近衛御所を建設している。
310無名武将@お腹せっぷく:03/12/22 14:15
信長が義昭のために建設した二条御所は、義輝の近衛御所をさらに拡張し、南北は
春日小路から近衛大路、東西は東洞院大路から室町小路にかけてのエリアに位置
していたが、義昭追放後は解体・移築工事が進められ、廃墟同然と化した。
後に織田信忠が自刃した二条御所とは別物。
こちらは義昭の二条御所の南側に位置し、南北は三条坊門小路から押小路、東西は
烏丸小路から室町小路にかけてのエリアだったようで、信長が京都滞在用の屋敷とし
て建設したものを、後に正親町天皇の子・誠仁親王に献上したものとされている。
献上したのに信忠、駐屯してたのか。
おまけに、仮にも親王御所を攻める光秀・・・

逆に、とりあえず親王御所にしとけば
攻められることはないって思ってたんじゃないのかな?信長。

>311
信忠が二条城に入った経緯も知っていたら出てこないセリフだな。
313無名武将@お腹せっぷく:03/12/23 03:59
>>311
信忠ははじめ二条御所の隣の妙覚寺にいたんだけどね
314無名武将@お腹せっぷく:03/12/23 06:13
>>309
正しくは「平安女学院」だね
315無名武将@お腹せっぷく:03/12/23 08:49
>>312
東宮を人質に取らなかったところが信忠の甘さかもしれないな。
316無名武将@お腹せっぷく:03/12/23 16:58
東宮を「人間の楯」にはできないでしょ。
それこそ天下獲りの最有力候補である織田家の嫡男としては恥になる。
むしろ東宮たちを避難させたという点が信忠らしさでしょ。

・・・って何か本能寺スレ化してるなw
>>314
> 「平安女学院」

良さげなイメクラですね(;´Д`)ハァハァ
>>317
なんじゃそれはw
しかしキャバ嬢のような派手な生徒が多い学校ではある>へいじょ
>>317ではないが・・・
>>314を初めて見たとき、「へいせいじょがくいん」と読みますた。そして、チョット(;´Д`)ハァハァ
320無名武将@お腹せっぷく:03/12/24 07:59
義輝怨嗟?の地に女子高・・・
321無名武将@お腹せっぷく:03/12/24 11:42
>>310
京を追放された後、今度は毛利を頼って備後・鞆に御所を造ってもらい、
幕府を移すわけだが・・・名門って得だな
322無名武将@お腹せっぷく:03/12/24 12:00
>>321
その頃、阿波では・・・
323無名武将@お腹せっぷく:03/12/24 13:26
>>320
華やかな女子校のたつところはムサイ親父が刀もって必死になってた所・・・w
( ’ ⊇’)つ旦
325無名武将@お腹せっぷく:03/12/24 16:59
>>321
どっちにしても実権は皆無だわな。
義昭の場合、初めからそうなんだが。
326でらえもん調査局ヽ(`Д´)ノ ◆CJMS06S/xs :03/12/24 21:33
327無名武将@お腹せっぷく:03/12/25 00:43
足利義輝の死体はどうなったの?
まさか将軍なのにさらし首じゃないよね?
>327
そーゆーのは三好義重と松永義久に聞かんとわからんのじゃないか?
329無名武将@お腹せっぷく:03/12/25 16:37
>>327
おそらく首は取られたんじゃないの?証拠物件だし。
でも、義輝の首塚とか胴塚ってあるの?
330無名武将@お腹せっぷく:03/12/25 17:41
義輝が殺されたときには生母の慶寿院(近衛尚通の女)も一緒に殺されてるね。
3時間に及ぶ激闘が展開されたそうだが、側近160余名のうち戦死したのは2割弱の
31名ほど。
細川隆是のように将軍の前で最後の舞謡を演じた後、敵の真っ只中に斬り込んで戦
死したというようなエピソードがあるわりには・・・意外と死んでなかったりする。
まぁ、無能な将軍の道連れになる気も起きんだろ
332無名武将@お腹せっぷく:03/12/25 23:49
身辺にはべってる連中だって元は三好、松永あたりが付けてよこした連中だろ?
この時代、将軍一筋に仕えてた近習なんて少ない気がする。
そういえば足利義植だったかは刺客を撃退してるね。
つーか将軍が自分で刀を振るう状況って・・・。
333無名武将@お腹せっぷく:03/12/26 06:33
昔の「男色は慎め」という文面を現代ふうに解釈してはイカンね。
徳川家光が「殿は男とばかり寝てお子が産まれない」と家来に嘆かれたように、
男色に懲りすぎて子作りがおろそかになるのを注意する意味があるわけ。
信玄や信長みたいにちゃんと子作りもしっかりやってれば誰も男色に対して文句言わないの。
>>330
だって、勢力殲滅戦じゃなくて、「あいつ一人殺ればいい」ってことだしね。
・たまたま将軍の部屋へのルート上にいた奴
・戦力と見做された奴
・抵抗した奴
死ねばいいってもんでもないしね。相手も、殺せばいいってもんでもないし。
とにかく逃げられる前にかの一人を殺る。
で、かの一人が殺られれば、敵も味方も戦う理由がなくなるし・・・

側近160というのは、当時屋敷内にいた総数ってこと?(女子供・雑兵・小者含む)
そういえば、関が原西軍総大将様の毛利輝元って、足利義輝の「輝」字なんだよね。
元就が都(将軍)に頼んで、細川隆是が使者として下向して元服加冠一字頂き、と。

ンでそん時に将軍側は本当は「義」の字を持ってきたらしいんだけど、まさかの輝元が拒否。
毛利家臣一同顔面蒼白、将軍使者ぶちキレ。

しかし(のちの)輝元少年曰く
「うちはいま、先に義の字を貰った尼子義久と戦ってる。
 遅れをとるのは嫌だ。一緒は嫌だ。だから輝のほうちょーだい」

細川隆是は面白がってこれを(勝手に?)許可して「輝」の字を承諾。


かくして毛利の跡取りは「毛利輝元」となったそうで。
>>335
確かに、義の字貰った武将はろくな目にあってないもんな。
今川義元然り、尼子義久然り、足利義氏然り。

話し変わるけど、尊氏いがいは、将軍全部の名前に義の字が使われているけど、
どうしてこうなったんだ?
名前からすると尊を代々使った方が、よさそうに思うんだが?
それとも足利家の本来の伝統は義の字なのか?
尊氏も元は北条高時から押し付けられた高の字を後醍醐天皇に尊の字に変えてもらったと言う記憶はあるが。
>>336
尊の字は、高氏の勲功があまりにも高かったために後醍醐から高氏個人に下賜されたもの
家に与えられたものじゃないから通字に使うのは不可能ということ
足利将軍家が義の字を用いたことについては、それが源氏累代の通字だったからということ
尊氏自身は後醍醐に心服していたため、あるいは世間体を考慮して改名しなかったんだろう

ちなみに源実朝断絶後の鎌倉期の源氏長者はずっと足利家だったが
得宗家への配慮・一字拝領などから義の字は名乗らなかった
338無名武将@お腹せっぷく:03/12/26 13:13
「足利○氏」の系譜は鎌倉・古河・喜連川公方家に伝承されてないか?
義氏━泰氏━頼氏━家時━貞氏━尊氏━基氏━氏満━満兼━持氏━
成氏━政氏━高基(高氏)━晴氏━義氏━(喜連川)国朝━頼氏━尊信
━昭氏
と繋がっているし。
339337:03/12/26 13:17
>>228
それが何か?
340無名武将@お腹せっぷく:03/12/26 13:21
>>339

228 :無名武将@お腹せっぷく :03/12/16 12:08
延徳3年(1491年)に起こった豆州騒動では、茶々丸が重臣と激しく対立したた
めに伊豆国内が混乱に陥った。この機を逃さず、今川氏親から兵を借りた伊勢
長氏が同年、茶々丸を討ち、堀越公方を滅ぼしたことになっている。
だが、>>84にもあるように・・・
(1)潤童子は「続群書類従」「尊卑分脈」「系図纂要」にいずれにもその記載が
 ない。
また、
(2)通説では伊勢長氏が伊豆に侵攻し、堀越公方を滅亡させたのは延徳3年
  (1491年)となっているが、それ以後も伊豆・武蔵・甲斐で茶々丸が行動し
  ていた記録があり、最近の調査では、伊勢長氏による伊豆侵攻を明応2年
  (1493年)とする説が有力になっている。
(3)明応3〜4年(1495〜1496年)頃の伊豆国内における伊勢長氏の発給文
  書からも、事態が収束していない様子が伺える。
など、謎めいた部分が多い。

これか?
>>339
源氏長者として「義」の字をつける傾向があった将軍家に対して、鎌倉公方家は足利家
累代の「氏」を字をつける傾向があったということだろ?
そうすると小弓公方家なんかは義明−頼純−国朝だから、な〜んの一貫性もないな。
まあ、義明自身が政氏、高基の許しもなく還俗したような人物だけに致し方ないのだろ
うが。
342337:03/12/26 13:31
>>340
ごめん・・・>>339
×>>228
>>338だった
まあ、新しく家を興した傍流の者が
本家の通字とは別の字を通字として用いることは、よくあることだが。
344無名武将@お腹せっぷく:03/12/26 17:29
義明の場合は武勇に優れ、それが災いして一騎駆けを仕掛けて命を落とした
わけで、やはり八幡太郎義家にあやかろうとしたのかな?
ちなみに国府台の戦いで戦死した義明の嫡子は義純だから、そのあたり義明
は「義」にこだわっていたのかも。
345無名武将@お腹せっぷく:03/12/26 17:54
義明の場合、将軍家の「義」を意識してそう
スケールだけは大きいから・・・この人の場合
>>345
鎌倉公方の系譜で義の字を幕府の許可なく使ったのは持氏の子義氏とこの義明しかいない
前者は将軍位を狙ったことから考えても義明の義はバリバリ狙ってたんだろう
347無名武将@お腹せっぷく:03/12/26 18:21
>>346
持氏の子義氏?
>>347
永亨で死んだ持氏嫡子義氏。成氏の兄
最後の古河公方と区別するため持氏の子義氏と書いたんだが
>>344
ちなみに源氏の通字としては義の他に頼もある
子供に義純・頼純とつける義明は当時の状況からしてまともな神経とは思えんな
351無名武将@お腹せっぷく:03/12/26 18:49
>>349
義久じゃないの?それとも義久の初名か?
確かに義久の元服(永享10年)は、将軍の偏諱を受けるならわしを無視して
鶴岡八幡宮で行われている。
永享の乱の戦後処理をめぐっては、関東管領だった上杉憲実が持氏の助命
と義久の鎌倉公方就任を懇願したが、義教はこれを却下したため、持氏は永
安寺で、義久は報国寺でそれぞれ自害している。

>>350
頼純が元服したのは義明の死後なんだけどね・・・
義明に従い、国府台で戦死した弟の名は基頼。
まあ、ある意味でまとも?な名乗りなんでしょうなw
353無名武将@お腹せっぷく:03/12/26 19:31
354無名武将@お腹せっぷく:03/12/26 19:43
>>353
うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ
ここで足利家滅亡だな
>>353
>合併協の鼻息は荒い
町民の意思尊重しろよ…もしかしてレッドな人達ですか?合併協
356無名武将@お腹せっぷく:03/12/26 19:54
>>355
やはり「足利家末流の旧領」より「桜」を取ったのか・・・
じゃあ、喜連川温泉も「さくら温泉」になるのか?
温泉は喜連川のままじゃないのかな?
358無名武将@お腹せっぷく:03/12/26 20:07
>「氏川」「氏喜」
とは領主由来?
そういえば今川と足利は似てる気がする・・・分家だっけ?
足利の分家の吉良のそのまた分家が今川
360無名武将@お腹せっぷく:03/12/26 20:21
麿のプチばくーふを返せ〜・゚・(つД`)・゚・
361無名武将@お腹せっぷく:03/12/26 20:22
>>358
よく読めよ・・・氏家町と喜連川町の合併なんだからさぁ・・・
362無名武将@お腹せっぷく:03/12/26 20:24
>358
「氏」家町+「喜」連川町
「氏」家町+喜連「川」町
でしょう。
安易だよなあ,,,
「喜連川」の名に価値を認めるのは歴史オタくらいなのかなあ。
さくら市喜連川町ではいかんのか?
千葉県の佐倉市と混同しそうと思うのは漏れだけ?
365無名武将@お腹せっぷく:03/12/26 22:07
>>362
歴史ヲタというより足利ヲタだけじゃねえの?
366無名武将@お腹せっぷく:03/12/26 22:20
>>341->>352の流れに戻して恐縮だが・・・
晴氏の弟・晴直(?〜1551)の子にも「義勝」(1530〜1594)なる人物がいる。
高基―晴直―義勝―(宮原)義照=義久(義照弟)―晴克
という系譜になるのだが、まあ、古河足利家の分家だけに将軍の偏諱もクソもない
だろし、真里谷信政の庇護を受けていた際に「掟破り」をやったのかも知れない。

ちなみに義勝の母は足利義明の娘だが、1556年に鎌倉から奪回され、里見義弘
の正室に迎えられた青岳尼も同じく義明の娘だったりする。
真里谷信政は1552年に里見義堯らに攻められてあぼ〜んするわけだが、この時
点での房総では義明の血脈を巡って真里谷家(with義勝)VS里見家(with頼純)
という対立の構図もあったと。
足利義勝VS足利頼純・・・実にローカルな争いだなw
でも、後に頼純の喜連川家が足利嫡流で、そこに義勝の宮原家が2度養子を
送り込んだのだから、ローカルとも言っておれんけど・・・
368無名武将@お腹せっぷく:03/12/27 06:26
>>362
ならば「喜連川」町+「氏」家町でも良さそうな者だがw
369無名武将@お腹せっぷく:03/12/27 08:44
宮原義久室は武田勝頼の女(貞姫)だから、晴克からは甲斐源氏の血も若干混じった
ということになる。
晴克のほかにもう1人庶子が生まれていれば、家康は穴山家を再興させる腹つもりだ
ったとか。
370無名武将@お腹せっぷく:03/12/27 09:07
>>360
誰?
>>337
>ちなみに源実朝断絶後の鎌倉期の源氏長者はずっと足利家だったが

大嘘こくでねぇだ

こういう町村合併って、とりあえず

「氏家喜連川市」か「喜連川氏家市」


にしとけば何の問題もない気がするんだけど。
地名という文化を、てきとーな「さくら」なんて・・・
http://sakura.donet.tv/get_img.php?id=9676025
http://sakura.donet.tv/get_img.php?id=9675943
確かにきれいではあるけどさ、こんなん日本のどこにでもあるぞ。

「公方市」「幕府市」「室町市」希望。


373無名武将@お腹せっぷく:03/12/27 09:24

ああ、そういえば関係ないけどさ、冬といえば・・・


数年前に新潟あたりの雪降る国道を、早朝に大学生の男女で歩いてて、
車にはねられて死んで
「なんでンな時間に雪の積もった国道を”歩いて”るのよ?」
ってな事件があったんだけど。

死んだほうのねーちゃん、確か「喜連川○○」と・・・
足利直系か?とニュー速あたりで話題になったもんだけど・・・。
>>372
公方市はともかく、鎌倉や京都から抗議が来そうな気がするが?
もうすぐ鎌倉市も消滅するが。
>>371
んじゃ源氏長者は何家よ?
376無名武将@お腹せっぷく:03/12/27 12:10
>>372
まあ、自治体が考えることなんざそんなモン
377無名武将@お腹せっぷく:03/12/27 12:26
>>375
源氏の氏長者は長らく村上源氏中院流がつとめ、足利義満の時に清和源氏足利氏流に
移行したのだが?
378無名武将@お腹せっぷく:03/12/27 19:03
源氏の氏長者はそもそも源氏の中で最高位にあるものが原則として任じられていました。
室町時代でも、久我家の方が足利家よりも官位が上の場合、一般的に久我家が任じられていました。
将軍=源氏長者は家光以降です(秀忠は源氏長者になっていません)。
379無名武将@お腹せっぷく:03/12/28 00:51
>>377
中院家じゃなくて久我家じゃないか?
村上源氏の本宗家は久我家で、中院家はその分家。
村上源氏といやあ
北畠・赤松・信濃村上もそうか?
381無名武将@お腹せっぷく:03/12/28 01:40
そこまでいくとさすがに足利一門からは外れるなw
源氏総合スレでも立てんと。
382380:03/12/28 01:59
>>381
いうなれば北越の北条高広を毛利スレで語るようなものだ
うはははっ
383380:03/12/28 02:06
総合源氏スレと

清和源氏(義家系)スレ   略(w)
清和源氏(義光系)スレ   武田・南部・佐竹
嵯峨源氏スレ         佐々木(六角)・京極・尼子
村上源氏スレ         北畠・赤松・村上
大和源氏スレ         土岐

三戦的にはこれくらいかなw
>>383
嵯峨源氏は松浦とか渡辺氏じゃないかい?
(名前が一文字のとこ))
佐々木なんかは宇多源氏。
土岐は美濃源氏(清和源氏だけど)。


385無名武将@お腹せっぷく:03/12/28 06:31


「源氏スレッド」でオールオッケー。

つーか「天皇家&臣スレッド」でオールおけー。



残りは「出雲千家」や「地方豪族スレ」しか・・・



386無名武将@お腹せっぷく:03/12/28 07:20
地方の由緒ある地名はこれからどんどん減って逝きそうだな・・・
>>379
国学院大学所蔵の久我家文書の解説によると・・・
http://kotodama.kokugakuin.ac.jp/digital/diglib/koga/etc/kaisetsu.html

>久我家は村上天皇の皇子具平(ともひら)親王の子で寛仁4年(1020)臣籍に下った
>源師房(もろふさ)を祖とする村上源氏の家系である。師房は後三条天皇より右大臣
>に任じられて天皇の親政を補佐し、その子俊房・顕房(あきふさ)兄弟は白河天皇の
>もとで左・右大臣となり同天皇の院政期におよんだ。
>顕房の娘賢子(けんし)は関白藤原師実の養女として白河天皇の中宮、堀河天皇の
>生母となった。賢子の同母弟雅実は保安3年(1122)源氏として初めて太政大臣に昇
>り、京都西南郊の久我に顕房以来営んだ別業(別荘)「久我水閣」に因んで久我太政
>大臣とよばれた。これが久我家の家名の由来であるが、雅実の子孫である中院(な
>かのいん)流の人々は、嫡系三代すなわち雅定・雅通・通親がそれぞれ中院右大臣・
>久我内大臣・土御門内大臣と称せられているだけで、まだ特定の家名はなかった。
>鎌倉初期、後鳥羽院の親政および院政初期における土御門通親の権勢は有名であ
るが、その嫡子通光は後嵯峨院のもとで太政大臣となり、このころから中院流諸家の
>家名も定まり、久我・堀川・六条・土御門・中院・北畠などの家名を称する。

とあり、久我家は「村上源氏中院流の嫡流」と見るのが正しいのでは?
したがって表記的には>>377のそれも誤りではないと思うが?
388無名武将@お腹せっぷく:03/12/28 09:49
>>380-385
まあ、話としては足利一門から逸れたように思えるが、
そもそも>>337の「源実朝断絶後の鎌倉期の源氏長者はずっと足利家だった」
に対応してのこと。
源氏総合スレなら日本史板でやった方がいいと思うぞ。
389無名武将@お腹せっぷく:03/12/28 23:04
>>378
例外…北畠親房

>>382
それは相馬スレで千葉氏を語るようなものですか?
390無名武将@お腹せっぷく:03/12/28 23:57
管領家はスレ違い?
関係無いかも知れんが。公方家VS管領家
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1034776771/491
392無名武将@お腹せっぷく:03/12/29 00:22
>>390
だから「足利一門」だと言ってるだろうに・・・

1 名前:無名武将@お腹せっぷく 03/11/26 04:51
応仁の乱以降、ひたすら名門意識と権威にすがりついて戦国期〜
安土桃山期〜江戸期を生き抜いた足利一門。
その栄光?の歴史を嫡流、庶流を問わず、足利義康以降に分派し
た細川、畠山、斯波家なども交えて幅広く語り合いましょう。

こういうスレなんだよ・・・分かってくれた?
393あぼーん:あぼーん
あぼーん
>>372
喜連川氏(維新以後は足利氏)の末裔さんは、喜連川町の名誉町民だった
らしいけど、それも合併でご破算ってことになるのか?
395無名武将@お腹せっぷく:03/12/29 13:04
時代劇専門チャンネルで里見浩太郎主演の『忠臣蔵』をやっていたが、吉良様
の出自を知るにつれて
「この田舎侍めっ!」
という決め台詞に妙に頷いてしまうようにw
赤穂の浪人風情に逆恨みされ、因縁つけられたうえに首まで取られた吉良様
に合掌・・・
396395:03/12/29 13:05
でも、昨夜の時空警察(だっけ?)では、寺坂吉右衛門が吉良様を匿うために
離脱し、3年後に病死したという説を唱えていたのだが・・・マジ???
>>360
かなり遅レスになるが、久々に喜連川プチ幕府ネタを。
足利国朝が下野喜連川に移ったときの家臣には・・・
「高修理頭」「伊賀金右衛門」「相馬靫負」「渋江弥五郎」「梶原平右衛門」「堀江彦右衛門」
「印東内記」「柴田某」「福田某」「後藤内蔵助」「大草茂右衛門」「高塩某」「星某」「高橋某」
「石崎某」 「里見主馬」「高城左衛門」「浅沼友左衛門」「水戸某」「武田一郎右衛門」
「海老名某」「佐藤某」「土屋織部」「小俣某」「大谷某」「江戸某」「芦屋某」「一色刑部」
「相木与右衛門」「石塔某」「中村四郎兵衛」「椎木某」「伊賀伊勢守」「鴻野修理」
「山名豊前守」「国井某」「山名采女」「逸見三郎」
などの名前がある。
(参照/ttp://members.jcom.home.ne.jp/bamen/ichizoku51.htm
国朝の家老職に名を連ねたのは高修理頭、二階堂主計、三浦左京亮、相馬靫負。
彼らは総じて古河公方の家臣である。
国府台の戦いで足利義明戦死後、里見氏の庇護の下にあった頼純・国朝父子だけに直臣
は少なかっただろうし、「高城」「里見」「逸見」「武田」などそれらしい家臣を除けば、主力は
古河公方系の家臣で構成されていたとみて良いだろう。
前スレ既出、でいいんじゃない?
>>398
過去レスにすら目を通さない香具師が多いからな・・・
>>397に続けて・・・
足利氏姫(鴻巣御所)に仕えた御連判衆には、「一色右衛門佐氏久」「町野備中守義俊」
「小笠原兵庫頭氏長」「高大和守氏師」といった名前がある。
ほかに奏者として禅僧「芳春院松嶺」などがいた。
彼ら御連判衆の扶持は、氏姫の僅かな所領(332石)の中から与えられていたというが、
それについては氏姫の古河城退去時に秀吉との間でひと悶着あったらしい。
彼ら御連判衆の面々の晩節は不明だが、氏姫に近侍していた直臣団であるから、頼氏の
嫡孫・尊信が鴻巣館から喜連川陣屋に居館を移した際にそれに従ったのだろう。
>>399
んな奴、放っておけよ。構うだけ、逆に目障り。
402無名武将@お腹せっぷく:03/12/30 02:40
>>398
>>399
>>401
じゃなんか出してよー

プチばくーふ
>>396
あの番組の演出では、あたかも「こっちが真実!」みたいにやっていたが
あくまで「いろんな説の中の一つ」という風に受けとめておくのが無難。
404無名武将@お腹せっぷく:03/12/30 11:24
氏姫は鴻巣御所に移った後、家臣を他家に仕官させるなどして「口減らし」
をしているね。それでもなお、>>397にあるような家臣を抱えているわけで、
鴻巣御所領300貫では到底それらの家臣を養えるわけがない。
しかしながら・・・
@氏姫が秀吉に家臣の俸禄用として知行増を願い出て却下された時期と、
  足利頼純女・島姫が弟・国朝を擁しての御家再興を願い出た時期がほぼ
  同じであること
A比較的早期に島姫の化粧料3500石と国朝、氏姫の婚姻をもって喜連川
  家が創設されていること
B喜連川家の家臣団が主に古河家臣団によって構成されていること
などを考え合わせると、関東足利家再興という名目での喜連川家創設では
あるが、一方では肥沃な古河領を接収しつつ、改易となった塩谷惟久の喜
連川領を利用することで、困窮する古河家臣団を吸収しようという意図がそ
こに感じられてくる・・・
405404:03/12/30 11:26
ついでに言えば、秀吉の「名族の滅亡を惜しんで再興させました!」という
ポーズもあるだろうしね。
名族の滅亡を惜しむくらいなら、古河領から同じだけの扶持を氏姫に与え、
国朝と婚姻させれば済んでしまう話だし。
「絶世の美女」と言われた島姫を手に入れ、塩谷氏から召し上げた喜連川
領をもって足利家を再興させ、さらには肥沃な古河領を召し上げるという一
石三鳥を狙った施策なんだろうな。
406無名武将@お腹せっぷく:03/12/30 16:08
>>403
そりゃあそうだが・・・
勅旨饗応役がヘマでもした日にゃあ、文句つけられるのは指導的立場の
吉良様だし、賄賂云々で自らの地位を危うくするような真似をするか?
大体、内匠頭は過去に勅旨饗応役を務めた経験があるのだから、作法や
装束、段取りなんかは家臣たちが事細かにチェックしているはずで、対朝
廷という関係から見て、儀式の内容が10年、20年でホイホイと変更になる
わけでもない柳沢の謀略説にはやや「?」だが、巷間語られている遺恨説
にはどれも無理があるし、発作的に狂乱した内匠頭に斬りつけられたと見
て間違いないでしょ
>>402
プチばくーふネタが既に振られていたようなので引用。

135 :無名武将@お腹せっぷく :03/12/10 05:55
喜連川公方のプチ幕府?に対抗してるのか?
ttp://rekimin.hp.infoseek.co.jp/Prospect/html/KubouKanbungaku.htm
より引用。
>華山の弟子として、平島公方の家臣に、武衛頼雄、高橋言守、荒川為考、板東設、
>上杉頼竜、細川家則などの名が残っている。公方の家族として、義根の弟、義豊
>(号君王)、義恭(号君敬)の外に、兄、義智の未亡人が、琴和と号して漢詩を作り、
>「麗澤詩集」「日本詩選」などにその作品が載っている。琴和の侍女で小川という者
>の詩が「阿波詩壇」に残っている。この当時公方家は、詩人一家の観があった。そ
>の他、華山に師事し、栖龍閣に出入した詩人として、大仁錦水、山内半下、高橋赤
>水、富本済仲、僧才玄、僧浄本、小松島の服部彦豊などがある。

困窮を極める平島公方に家臣ハケーン!!!
「武衛頼雄」「高橋言守」「荒川為考」「板東設」「上杉頼竜」「細川家則」だって・・・
な〜んか前スレに登場した喜連川公方にも、“それらしき”人物の名があったが、
平島公方にも“それらしき”人物がいたということか。
しかも武衛(斯波)に上杉、細川ときたよw
喜連川公方にも「らしき」人物が多かったが、阿波公方も負けていない。
しかし喜連川は5千石(実高1万石)だから、財政難とは言いながらも公認サークル
的な「プチばくーふ」だけど、こっちは徳島藩から苛められ、僅か100石の扶持で運
営しなければいけない、言わば非公認サークル「プチばくーふ」だったわけで・・・
公認「プチばくーふ」としては、あとは義昭の鞆幕府、義維の堺公方あたりもそんな
感じだろうな。
>>408
非公認サークル「プチばくーふ」← ワラタ
410無名武将@お腹せっぷく:03/12/31 10:04
幕府非公認サークル「阿波プチばくーふ」は、漢詩文を趣味とする武士
や町人たちの集いといったところか?
しかし、僅か100石じゃあ、インストラクターの島津先生を招くこともでき
ないので、公方様や細川、武衛、上杉役の家臣たちは日夜、畑仕事を
したり、蝮除けの御札作りの内職をしたり、漢詩文の手解きをしたり、
寺子屋で手習いを教えたり、傘を張ったり、賭場の用心棒をやったりし
ながら活動費を稼いでいたんだろうね。

そうしている間に200年以上の歳月が過ぎ、天下号令の野望もいつし
か忘れ去られ・・・
「ん?ちょっと待てよ・・・」と気づいたのが第8代・義根だったと。
411無名武将@お腹せっぷく:03/12/31 10:50
やっぱさぁ、

適当な金子を納めますと、素敵な苗字を差し上げます。

って気がするんだけど・・・
特に阿波。
>>411
そこまで資料があるわけじゃないけど、足利家に対する妙な民間信仰があった
ことは事実。平島姓の強要も、「阿州足利家(清和源氏印付き)」の御札によっ
て足利家がにわかに領民の注目を集めるようになったことで、元々領民から人
気のなかった蜂須賀家がそれを妬み、足利家の権威を貶めようとしてとった施
策でしょ。そんなことをして余計に蜂須賀家は人気がなくなるわけだけど。
413無名武将@お腹せっぷく:03/12/31 11:58
一応、扶持を与えるってことは藩内では客分扱いだったんだろね
阿波公方つながりで聞きたいんだが、阿波細川家って結局真之の後、どうなったんだ?
実質的に三好の傀儡になっていたとはいえ、阿波公方よりもまともな権力はあったっぽいんだが。
>>414
守護家な。たしか真之の孫か何かが散見されたみたいだが長曾我部の衰退のその後不明。
416無名武将@お腹せっぷく:03/12/31 15:09
細川真之の子としては、仁木氏との間に畠山之照(?〜1582)がいる。
仁木氏は妊娠7ヶ月のときに叔父・仁木左衛門の許に落ち延び、生まれた子は
仁木六郎と名づけられた。
六郎は成人した後、畠山高政の養子となって畠山石見守之照と名乗るが、父・
真之の仇である三好氏を打倒するため、長宗我部元親に与して中富川の合戦
に参加している。後に元親の悪逆に愛想をつかして離反したが、長宗我部軍に
襲われて討たれてしまう。
細川真之は、持隆の妾腹の子であるが、生母は阿波国西条村・岡本美濃守の女
で、妖艶な美女だったという。
三好義賢は、持隆を自刃させた後、真之を擁立して阿波細川家の家督に据えたが、
一方で岡本氏を自分の館の迎え入れ、側室にしてしまった。
この岡本氏こそが三好家紛争の種となった「小少将」である。
小少将は義賢との間に長治、存保を産んでいる。
418無名武将@お腹せっぷく:03/12/31 18:59
細川真之には隆之、允之、之照の3人の男子がいたようだが、
ググッてみても隆之、允之の2人についてはよく分からん・・・
419無名武将@お腹せっぷく:03/12/31 19:02
細川藤孝って管領家と関係あるの?
播磨屋でも行ってこい
421無名武将@お腹せっぷく:03/12/31 19:24
>>419-420
無知ゆえの知的好奇心?は大事にしてあげようじゃないかw
そーいや細川元有と三淵藤英の家はどーなったんだよ?
あと松倉、あいつ独立した大名じゃなかったか?
>>422
そう思うならググッてみたらどうだ?
播磨屋でも行ってこい
425無名武将@お腹せっぷく:03/12/31 19:54
>>423-425
あ、いやネタ振りのつもりだったんだが・・・
藤孝のとき和泉守護家を継いでその弟の藤英が三淵家を継いだだろ?
つまり今の元熊本藩は和泉と三淵の祭司権を持ってることになるのかと

さ、レコ大見よ
427無名武将@お腹せっぷく:03/12/31 23:43
>>426
三淵家と細川家となると話は別だろ。
それに幽斎は和泉守護家の細川元常(1482〜1554年)の養子になっているが、
忠興も名目上とはいえ細川輝経の養子になっているから、そのあたり意識的に
はびみょ〜に異なってくるんじゃないか?
428足利義冬:04/01/01 00:00
上洛あげじゃ
429無名武将@お腹せっぷく:04/01/01 00:02
おめでとう
おめでとうございます
431無名武将@お腹せっぷく:04/01/01 00:14
>>1-430
今年もよろしくお願いいたします
432無名武将@お腹せっぷく:04/01/01 01:22
>>422-427
細川家と言ってもいろいろあるからね
●吉兆家(管領家)
●頼貞家…………俊氏の子・頼貞が祖。
忠興は頼貞家系の輝経の養子。
●淡路守護家……公頼の子・師氏が祖。
尚春(?〜1519)が三好之長に殺害され断絶。
●阿波細川氏……頼春の子・詮春が祖。
●備中細川氏……頼春の子・満之が祖。
●和泉細川氏……頼有の子・頼長が祖。
藤孝は和泉守護家系の元常の養子。
●典厩家…………持春の子・政国が祖。
氏綱(尹賢の子)が吉兆家に入り最後の管領に。
氏綱弟・藤賢は足利義昭、織田信長に仕える。
433無名武将@お腹せっぷく:04/01/01 12:53
>>432でまともに生き残ったのは、和泉守護家系(藤孝)&頼貞家系(忠興)の流れを
汲む熊本藩細川家と、吉兆家の昭元子孫(秋田家被官)、それに典厩家の藤賢子孫
くらいか?
434無名武将@お腹せっぷく:04/01/01 12:58
>>426
藤英と藤孝ってどっちが兄か弟か「?」じゃなかったか?
435無名武将@お腹せっぷく:04/01/01 13:13
>>434
兄弟の父晴員が三淵家だが、
三淵の主家筋の和泉守護家を継ぐわけだから普通兄を養子に出すと考えるのが自然では?
436無名武将@お腹せっぷく:04/01/01 16:07
藤孝があの人の御落胤だったりしたら(ry
437無名武将@お腹せっぷく:04/01/01 17:26
藤孝は次男だろ。
438無名武将@お腹せっぷく:04/01/01 17:29
奥州家の輝経って関ヶ原の時に討ち死にしてるよね。

ところで典厩家の子孫って熊本藩にでも仕えたの?
439無名武将@お腹せっぷく:04/01/01 17:30
大野三河守って斯波一族らしいけど、斯波義敏と関係あるの?
>>432
乙なんだけど「京兆家」だかんねw
藤孝は庶子扱いってのは無いかな?
442無名武将@お腹せっぷく:04/01/01 18:17
>>441
藤孝が妾腹の子だったら、本家筋にはむしろ藤英を入れないか?
443無名武将@お腹せっぷく:04/01/01 18:31
藤孝は、塚原卜伝に剣術を、波々伯部貞弘に弓術を学び、弓馬故実を武田信富
から相伝されているうえに、若年の頃から和歌や連歌を学び、「古今伝授」を受け
て和歌の伝統を継承、さらには茶道、料理、音曲、刀剣鑑定、有職故実など当時
のあらゆる学問・芸能の奥義を極めている・・・

・・・ってさぁ、才能に恵まれているのは分かるけど、やっぱり「やんごとなき」方の
ご落胤ゆえにみ〜んな一生懸命教えたんじゃないの?
三淵家の次男坊ってだけでこれだけの道を極められるわけないし、それなりに斡
旋した人たちがいるんじゃないの?
大体、義昭を保護・擁立したり、信長配下の武将として駆けずり回っているのに、
そんな暇ないでしょ。
444無名武将@お腹せっぷく:04/01/01 19:19
>>438
典厩家は系譜上、尹賢―藤賢―元賢―重賢―乗賢と続いているようだけど、
藤賢が義昭追放後、近江坂本城の城将になって以後、1590年に京で死去す
るまでの足取りはよく分からないんだよな・・・
一説によると藤賢の子孫は三浦氏を称したらしいが・・・
結局 細川幽斎って清和天皇の子孫じゃないんでしょ
              
446無名武将@お腹せっぷく:04/01/01 19:21
>>445
どこからその「結局」を弾き出したんだ?
>>445
とりあえず↓これを見てから判断を下してくれ。
http://www.harimaya.com/o_kamon1/buke_keizu/kz/hosoka_k.jpg
448無名武将@お腹せっぷく:04/01/01 22:34
>>439
越前大野氏か?
大野氏なら斯波高経の3男・義種が大野郡に戌山城を築いたときに
在地姓の大野氏を名乗って以来
義種━満種━持種━義敏
と4代続いて、持種の子・義敏が武衛家(斯波宗家)の養子に入って
るな。
449無名武将@お腹せっぷく:04/01/02 02:03
>>448
朝倉義景の重臣にいたんだけど、義敏との関係は?
450無名武将@お腹せっぷく:04/01/02 02:26
>>443
一生懸命教えようが

本人の才能と努力と、なにより興味

がなければどうしようもなく、またそれが理由かと。
451無名武将@お腹せっぷく:04/01/02 07:14
なに?あんな文化人とか言ってるくせに、有名な塚原に学んでいたの?
義輝か?
>>451
本人は武将のつもりだったようだが?
453無名武将@お腹せっぷく:04/01/02 09:13
田辺城に籠城したときにも、「古今伝授」を受けた我が身の価値を最大限に
生かしているよな。
勅使まで引っ張り出して、格好がつく形で停戦に持ち込んでいるし。
しかも、相手が空砲を撃ってることを知ると、すかさず旗印をチェックし、戦後
家康にその旨を報告して、減刑を嘆願してやったり・・・
少なくとも田辺城を枕に討死する覚悟があったとは思えない、したたかな計
算が垣間見れるな。
454無名武将@お腹せっぷく:04/01/02 11:43
http://www6.plala.or.jp/gousyuu/bukan/kan17.html
>信長勢は八万余になり越前国に乱入する。合戦をしても大方の敵は寝返りますます
>信長勢が大軍になる。信長勢は越州府中に旗を立てる。
>義景は居城を開き越前国大野郡山田へわずか千騎に満たない軍勢で退くが、義景
>の妹婿大野三河守と朝倉式部大夫の両人が寝返り軍勢で遮って義景に自害するよ
>うに申す。そこで義景は切腹し、首は信長方へ渡される。
>越前の侍共には一人も義を思う者はいない。もっとも義景が仁義の大将でなかったか
>らであるが、それにしてもあんまりな事であるという。
>
>一 信長は越前国を容易に退治して同国府中にて家来等に越国を分割して
>  与えるという。
>一 この合戦が終わる頃、大野郡にて義景の妹で大野三河守の女房が信長
>  方の下人に生捕られる。府中まで連れて来られた時に一首を詠み井戸に
>  飛び込んで死ぬという。その歌は次のようなものである。
>
>  世にへなはよしなき雲もをほいなんいさ入てまし山のはの月
>
>この一首は信長から天皇の耳に入るという。深い悲しみの歌である。

>>449
ここに出てくる義景妹婿の大野三河守のことか?
しかし、大野郡を治めているところをみると、斯波義敏所縁の人物かも知れんね。
しかも義景の妹婿だから、家中でそれなりに遇されていたと。
455無名武将@お腹せっぷく:04/01/02 13:06
朝倉景鏡は「式部大輔」なんだけどね
456無名武将@お腹せっぷく:04/01/02 13:25
だいたいなんだよ式部「大夫」ってw
457無名武将@お腹せっぷく:04/01/02 14:14
>>448
「尊卑分脈」によると大野持種(1413〜1475年)には、斯波義健の養嗣子となった
義敏(1435〜1508)のほかに、義孝(生没年不詳)という子がいる。
義孝の行動としては、文明11年に甲斐氏と連携し、兄・義敏の子である斯波義良
と共に朝倉孝景を攻撃し、一時的ではあるが義良を屋形に据え、占領地において
守護体制をしくことに成功している。
これに対して孝景の子・氏景が美濃の斎藤妙純を介し、形而的に守護として擁立
したのが斯波義廉の子・義俊(鞍谷御所)である。
義孝には義縁、義信(生没年不詳)という2人の男子がいるのだが、それが「三河
守」とどう結びつくのかは分からないが、大野氏を称して存続していれば、血統的
には鞍谷御所とは相容れない関係ということになるのだが・・・
458無名武将@お腹せっぷく:04/01/02 14:57
>>445 
確かに三淵氏を辿れば日野氏に突き当たるけど、細川家から晴員
が養子に入っているからね。そこから細川氏(和泉守護家)の養子
に入っているので、藤孝自身は清和源氏の系譜ということになる。
ちなみに三淵晴員の子藤英は1574年、伏見城破却後に近江・坂
本城の明智光秀に預けられ、そこで長子秋豪と共に自刃している
が、藤孝は藤英の次子光行(1572〜1623年) を引き取り、養育し
ている。
光行は後年、関ヶ原の役にも参加。伯耆守を名乗り、近江神崎郡
に1000石を与えられて幕臣となっている。
>>454
んー武鑑ですか。武鑑はそれ自体が信憑性としてかなりアレですからね。
何せ義景公は佐々木の養子などと書いてますし。
ただ「大野三河守」の記述に関してはその存在の可能性は別として、
大野氏を「三河守」としたところが特筆すべき点にあたると思います。
(以下に続く)

>>457
鞍谷氏については「奥州斯波系図」にみえる斯波郷長(高経の玄孫詮教の子)が越前国鞍谷家を相続したことがみえます。
渋川は当時加賀他に所領を得ていた足利姓渋川氏であり鞍谷とは別でしょうね。
さてさて肝心の「大野三河守」ですが、名字にもなってる大野郡は義敏の当時杣山とともに
斯波氏が越前で勢力を保ち得た地域でありまた義敏の実家大野家(高経の子義種が祖)発祥の地であります。
義敏が武衛本家を相続するにあたり、彼の三男三河守義高(孝)に大野家を継がせていますが、
この家が義敏放逐後も存続し大野の地に土着したと見るべきかも知れません。
父祖の官途は世襲しますからこの義高の子孫が代々大野三河守を名乗ったのでしょう。
ただ「姓氏家系大辞典」には「斯波義敏の三男三河守義高の時、堀越御所政知に仕ふ」とあるように、
関東に下ったようですからその辺は謎ですね。
>>454>>457>>459
いろいろありがとう。

ところで牧長義とか奥田忠高は本当に斯波一族なの?
461無名武将@お腹せっぷく:04/01/03 01:02
>>459
朝倉氏景は、斯波義良(義寛)と甲斐氏を加賀に追い落としているよね。
鞍谷家の出自はともかくとしても、これを擁立している以上、持種−義敏の
流れを汲む大野氏を越前国内でそのままにしておくかね?
>>459
よし朝倉スレ残党キター
>>459
高経から郷長までの系図きぼんです
464無名武将@お腹せっぷく:04/01/03 05:17
>>432
和泉守護家は、上守護家と下守護家の2系統がある。
上守護家は、細川頼之の弟・頼有(京兆家の祖・頼元の庶兄)の子である頼長を祖とする。
下守護家は、細川頼之の弟・満之(備中守護家の祖)の子で頼之の養子の基之を祖とする。

下守護家は、1531年の高国政権崩壊時に滅亡したが、上守護家は、藤孝を経て近世大名(熊本藩主)細川家となった。
なお、藤孝の子・忠興は、奥州家の輝経の養子となっているため、江戸時代の熊本藩は、和泉上守護家と奥州家の祭祀をともに継承している。
465無名武将@お腹せっぷく:04/01/03 08:49
>>459
荒らしているのか?
466無名武将@お腹せっぷく:04/01/03 10:05
藤孝が義晴の隠し子説ってどっから生まれたの?
467無名武将@お腹せっぷく:04/01/03 12:46
>>459
鞍谷家って義俊(義廉子)−嗣俊−嗣時−嗣知−嗣知−嗣基?と続くんじゃない
のか?
まあ、奥州斯波家なら変なしがらみが無さそうで良いかも知れんが、郷長が鞍谷
家の誰にあたるんだ?嗣俊か?
468無名武将@お腹せっぷく:04/01/03 12:53
鞍谷嗣俊が足利義嗣の子だとするのは完全な俗説でしょ。
>>460
それを言うと吉田重氏あたりも斯波氏庶流ということになる・・・
470無名武将@お腹せっぷく:04/01/03 15:51
義景の愛妾・小宰相の局は鞍谷刑部大輔嗣知の女。
小宰相の局は一男(阿君丸)二女を産んでいるが、唯一成人した一女は本願寺
第12世・教如室になっているね。

しかし、なんで鞍谷家って「嗣○」という香具師が多いんだ?
越前守護・鞍谷家は幕府非公認だけに(非公認なら守護じゃないんだが・・・)
「俺たちは足利義嗣の末裔なんだぞ!」とでも言いたかったのか?
471無名武将@お腹せっぷく:04/01/03 17:07
一次史料では鞍谷御所の実名は確認できないはず。
472無名武将@お腹せっぷく:04/01/03 17:13
>>471
じゃあ>>470の「鞍谷刑部大輔嗣知」は一体何者なんだ?
473無名武将@お腹せっぷく:04/01/03 17:24
俗説でしょw
>>460
「寛政〜」だと奥田家あたりが出自を斯波家に求めてますね。
牧・津川・堀・吉田もそうですが調べようがないすね。

>>461
>>459で書きましたが確証は持ってません。朝倉家臣で大野氏が確認できるものって江原武鑑以外あるんすかね?

>>463
高経━家長━詮経━詮将━詮教━郷長━義久=義次
です。

>>467
「武生市史」に代表されるように地元の伝承では根強く
足利義嗣━鞍谷嗣俊…
と信じられて来たようですが、佐藤圭・松原信之氏の論文などよりこの説はゆるやかに否定され、
現在では鞍谷家は斯波の分家という扱いが専らのようです。
>>459の「斯波家譜」また「奥州余目記録」などに代表される同時代史料から、
奥州から越前への斯波入嗣が確認でき、また「今川家譜」からは斯波一族として鞍谷・大野両氏の書見があります。
前出の佐藤氏は奥州から来た斯波氏を鞍谷氏、さらにその個人を斯波政綿と比定してます。
また後代の「奥南旧指録」に「越前ノ倉谷安芸守聞キ及ヒ斯波ヘ下ル」とあり、逆に越前から嗣子を迎えることもあったようです。

>>472
朝倉方の資料すね。確かに鞍谷の官途まで確認できますが、誰と言われてもそれ以上はわからんと思われり。
つーか斯波スレの需要ありと見ました。。。名門シリーズ3は是非とも斯波家を!
476無名武将@お腹せっぷく:04/01/03 18:59
>>475
まあ、足利一門としての斯波氏をピックアップしてるだけなので・・・
>>474
そうなると鞍谷氏は「義廉息」とされる義俊の系譜ではないということかい?

越前国内には大野郡のみならず、今立郡にも郡守護が置かれていた可能性があるし、
今立郡を支配していた斯波氏の一族は、武衛斯波氏や大野斯波氏からではなく奥州
から養子を取ったという資料もあるので、朝倉氏が義良を駆逐する際に奥州から養子
を入れたという考え方もあるね。
>>477
今立郡はそう杣山です。見事な推理ですな、異論ござらん。
ただ義敏放逐の際、奥州から迎えたというか義寛の在位中すでに奥州からの入嗣はあったみたいだから、
その誰かを使ったとみるのが妥当でしょうね。
479松茸狩り ◆KKRb1u3.mA :04/01/03 20:37
>>478
負け犬はコテを捨てて引っ込んでろよ。
お前終に荒らしになったか?
480463:04/01/03 20:55
>>474
家長の家系かぁ、義久&義次のあとはどうなったん?
>>478
奥州斯波氏のルートを生かして新守護を擁立したのではなく、今立郡の
斯波氏分家の誰かを名目的に引っ張り出した、と言いたいわけね。
482無名武将@お腹せっぷく:04/01/03 20:57
>>479
スレッド荒らさないでよ。しいたけさん。
483481:04/01/03 21:00
>>479
コテだの負け犬だの別にどうでもいいんだが、>>478はこのスレ的には荒らしでも
何でもないんじゃないか?
足利一門の斯波氏庶流・鞍谷氏のネタを展開してるだけなんだし。
そうやってコテ叩きしてる>>479の方がこのスレ的には荒らしに見えるんだが?
>>478
確か鞍谷氏ははじめ一乗谷に居館を構えた後、今市郡鞍谷に移ってい
るよね。
とすると、はじめに義廉の子・義俊を守護として一乗谷に迎え入れた後、
何らかの軋轢を生じ、今度は今市郡の斯波氏分家?を新守護として擁
立したという可能性はないのかな?
485484:04/01/03 21:05
失礼!今立郡だったw
486無名武将@お腹せっぷく:04/01/03 22:57
奥州斯波氏と交流のあった今立郡の斯波氏分家から新守護を擁立して一乗谷に居館を
置いたが、後に今立郡に鞍谷御所を設置し、在地姓である「鞍谷」を名乗らせたと見るべ
きかもな。
これなら義敏方、義廉方のいずれでもない第三勢力的な存在でもあるし、守護代の朝倉
氏としては何かと都合が良いわけで・・・
でも幕府は「そんな守護は認めん!!!」と突っ撥ねたと。
そんなところなのか?
487無名武将@お腹せっぷく:04/01/04 00:56
>>479のレス以来、朝倉渦中が姿を消したな・・・
>>487
荒れると思って消えた
朝倉には、また来て欲しいものだな、きのこは要らない。
けっこういい感じで盛り上がってたのにな、マイナー御所・鞍谷ネタで。
キノコごとき気にせず、皆で愉しもうや
また来るだろ。彼は朝倉と斯波の話題に詳しいし
斯波スレ建てたら確実に来るなw
斯波ネタと言うと、各地に散らばっていた氏家家。アレは元を辿れば一つなんだろうか…?
足利ネタ(?)の良さはその存在が「びみょ〜」なところ。
鞍谷御所なんてどの系譜なのかが諸説あるほどの「びみょ〜」ぶりだしな。
>>492
ホントはそれをするために「将軍家総合スレ」から「一門総合スレ」に
拡大したんだけどね。
将軍家or公方家のネタを振りながら、一方では斯波ネタも振れるよ
うな懐の広さを求めようと。
>>495
なるほど。たしかに斯波だけじゃ1スレ持たないし
そういえば日本史に斯波スレなかったか?
>>496
暫く続いたけど、結局落ちた。ROMってたんだけど、ネタ振れなくて…_| ̄|○
>>493
氏家って宇都宮氏流じゃなかったっけ?
499無名武将@お腹せっぷく:04/01/04 01:25
>>493
スレ違いだけど氏家は下野氏家発祥の同一の家と考えられる。
最上家臣、大崎家臣どちらも斯波一族の重臣。
美濃三人衆も同じ。
>>498
そうなんだ…。斯波はそういう運命か
じゃあ今日建った大崎スレなど(ry
まったり逝きますか
501無名武将@お腹せっぷく:04/01/04 01:29
ところで足利道鑑って本当に義輝の遺児ですか?
すくなくとも道鑑は生前足利を名乗っていたようですが。
>>500
狭い範囲を狙っていくと継続力がないよね・・・ホント

あのほんとごめんな。

朝倉スレッドに粘着荒らしがいて、とにかく朝倉ネタを乱立&妨害するんだよ。
ネタスレを乱立して、スレを妨害するっていう、、、歪んでるっていうか。

だから時々、渦中とか武衛山城の話するまともな奴が出てきても、そいつが
すぐまぜっかえして荒らすんだよ。
で、ここに朝倉ネタ&残党を見つけて、荒らしに来たらしい、、、
場をわきまえないっちゅーかなんちゅーか。

そいつもその無意味な努力、知識収集や研磨・勉強に使えばいいのに。
まともな歴史知識持ったレス見たことないぞ。


>渦中
まず畠山を追及すべし。<名門スレ
ここで展開されていたのは越前守護・鞍谷氏の話題なんだけどね。
どうしてそれが分からんのだろな・・・アホか?
傀儡守護の話をすれば、それを擁立する守護代の話も当然出てくるだろ。
だったら今後は朝○氏とか、○倉氏でやるか?
ほんとバカバカしいな・・・
>>504

このスレの話題                 朝倉スレ
足利>>斯波>>鞍谷>>>>>>>朝倉

朝倉氏の話が出てない現在スレ違いではないわな。
鞍谷氏は足利一門斯波一族としてこのスレの範囲だ
>>501
道鑑は尾池姓を名乗っていた時期もあったようで・・・

それはさておき、とりあえず義輝の子についてだが、義輝の遺児としては輝若丸
(乙若丸?)という男子がいたが、義輝が殺害された時に近臣と共に脱出、京の
誓願寺にて出家。覚山天誉と称して篠山・誓願寺の開山となっている。
元和10年(1624年)に没し、享年61歳だったという。
この他、女子が1人いたようだが消息は不明。
道鑑についてだが、義輝が殺害されたのが永禄8年(1565年)5月19日だから、
道鑑は遅くとも翌9年(1566年)1月末には誕生しているはず。
とすると、寛永17年(1640年)10月23日に細川忠利が道鑑を山鹿の茶屋に招待
したときには、若くとも75歳だったことになる。
507506:04/01/04 04:50
なお、細川家家老・小笠原長之の後室に道鑑の女が入っているので、熊本藩的には
怪しんではいなかったんだろうな…
508明日があるさ by足利泰氏:04/01/04 05:16
足利あるさ 明日がある 若い僕には夢がある
いつかきっと いつかきっと 天下をとれるだろう
足利ある 足利ある 足利あるさ

幕府をおこした奴がいる 幕府に残ったオレがいる
あせることないさ あせることないさ 桔梗にい言いきかす
足利ある 足利ある 足利あるさ

新しい執権は鼻たれ小僧 権謀術数が通用しそう
これはチャンス これはチャンス 陰謀めぐらそう
足利ある 足利ある 足利あるさ

ある日突然考えた どうしてオレはがんばっているんだろう
桔梗のため? 子孫のため? 答えは4代後
足利ある 足利ある 足利あるさ

近頃の若いやつはとよく言うけれど 自分の頃よりだいぶまし
大目にみよう 大目に見よう 幕府が討てないくらいに
足利ある 足利ある 足利あるさ

足利あるさ 明日がある 若い僕には夢がある
いつかきっと いつかきっと 天下をとれるだろう
足利ある 足利ある 足利あるさ

足利ある 足利ある 室町幕府ができる〜♪
>>504
鞍谷御所はそもそも越前支配をめぐる斯波氏と朝倉氏の抗争の中から
生まれ出た産物。
とすれば鞍谷氏だけに触れて、朝倉氏に触れないなんて芸当ができる
はずないだろ。
足利一門ネタだからセーフだと思うが、『独眼竜政宗』の総集編で二本松・畠山義継
が虐げられてたな。
大内定綱亡命の煽りを食う形で伊達家に攻め込まれ、降伏の条件が旧領のうち五ヶ
村の領有のみという滅亡同然の処遇では・・・
しかも輝宗事件後、義継は亡骸を八つ裂きにされたうえに公衆の面前に晒され、嫡
子・義綱は二本松落城後、葦名盛重に殺害されるなど不遇続き。
河内畠山家、能登畠山家が共に幕府高家になっているのに、奥州探題の末裔であ
る二本松畠山家は義綱の弟・義孝が水野家の家老止まりという点でも不遇・・・
何かいつも損な役回りだよな。
斯波以外にも畠山の話もヨロ。
512無名武将@お腹せっぷく:04/01/04 13:04
独眼竜リアルタイム時には、輝宗殺害の敵役にしか思えなかった二本松も、
沿革を知ると「おいおい政宗、そこまでせんでも・・・」と思えるようになるから
不思議。
でも、奥州探題ネタは斯波、畠山、吉良、石塔と足利一門の宝庫みたいな
ものだね。
513無名武将@お腹せっぷく:04/01/04 13:36
梅王丸は佐竹義広の許で元服し、義統(義綱?)と名乗ったが、美少年だったために
義広の寵愛を受け、その男色のもつれから義広に殺害されたらしい。
>>510
義継夫人が大内氏の出身だからね。
スレ違いが危惧されるためそろそろやめようと思いますが、
一応「鞍谷家」の史料的記述を少し上げときます。。。

「鞍谷系図」「越前名勝誌」(武生市史、民間伝承が支持)によれば、
足利義満━義嗣━嗣俊(右衛門左)━嗣時(掃部頭)━嗣知(刑部大輔)

また「朝倉始末記」などの系図によれば、
敏景女 … 「鞍谷形部大輔副知室 武衛之末流」
義景女 … 「母鞍谷形部大輔副知女(少宰相) 勝興寺顕幸室」

「奥州斯波系図」には、
詮教の子郷長(民部少輔・越前国鞍谷家相続)━義久(左京大夫)…義次(左京大夫・義久弟)
____________________________________________________________
んでこれらを整理して斯波義寛後の越前守護(非公認)を見ますと、
渋川義廉(義鏡子) ━ 義俊(鞍谷に居住?) … 郷長(奥州より入嗣) ━ 義久 … 義次 …… 嗣知(郷長の一族)

という感じになるんでしょうか。
(美濃守護代斉藤妙純の調停で朝倉方が越前守護につけた斯波義廉の子が
義俊かどうかという問題もありますが便宜的に置きました。また義次の後の記述がないため、
そこから嗣知にどう繋がるか謎です)
と、書きつつも上記に上げた史料はどれもアレなんで
とりあえず学者センセのご高見から鞍谷を考証したいと思いますがまずはレスを。

>>480
「奥州斯波系図」には義次以降の系図は見えません。
まあ上に書いてしまいましたが史料自体の信憑性がどうなんだろ?って感じなんす。

>>481
そうそう。

>>484
ありありです。

>>486
言いたいのはそういうことなんす。
ただ鞍谷家は義敏の時代には奥州から下ってきた一族としてすでにあり、
そこから引っ張ってきたクグツが鞍谷刑部大輔嗣知ではないかと。

>「そんな守護は認めん!!!」
実際には、幕府は義廉以降の越前守護の補任は行ってないんですけどね。
まあ誰を推しても認めてはくれなかったでしょう。
>>515-516
なるほど。
義廉の子・義俊、続いて斯波氏分家(今立郡)に入嗣した郷長の子孫が
鞍谷御所に擁されたとすれば辻褄は合うね。
問題は系図ということになるのだが・・・
朝倉敏景(1428〜1481年)の女が鞍谷形部室ということは、氏景(1449〜1486年)と
鞍谷形部にそれほど年齢差がないということになるよね。
なのに鞍谷形部の女・少宰相が義景の女を産んでいるの?
何かムチャクチャ強引な話じゃない?
519無名武将@お腹せっぷく:04/01/04 17:58
>>512
奥州管領4氏の末裔。
斯波氏→大崎氏・最上氏
畠山氏→二本松氏
吉良氏→蒔田氏
石塔氏→あれ?
520無名武将@お腹せっぷく:04/01/04 23:28
二本松氏の菩提寺・称念寺には、畠山右京進義孝の末裔・二本松錠氏が墓碑に
刻んだ碑文がある。
その碑文(書き下し文)は・・・
「我が家は本畠山氏と称し、後二本松氏と改めたり。実に清和源氏の後裔源義家
の孫の義康より出る。義康は足利氏と称し、其の孫の義純は畠山重忠の滅後、其
の食邑を領して畠山氏と称す。義純の曾孫高国は興国年中奥州探題となり屡その
地に転戦す。後南朝に帰属して吉良貞家を攻めたり。その子国氏及び其の族100
余名は岩切城に殉ず。国氏の子国詮は管領足利持氏の命に依り、伊達持宗を大
仏城に攻む。探題職に補せられ、其の子満泰は城を二本松に築き、威四隣に振う。
探題職かくの如くして子孫相承けて二本松の城主となる。
高国第11世義継は武略あり。将に伊達政宗と相和さんとす。偶粟の須の変ありて
義継政宗の父輝宗を刺す。王従ともに斃れ老臣の新城弾正等は遺孤の梅王と夫
人の大内氏を擁立し、また克く将士を鼓励して敵の攻防に当る。歳を越え相馬義胤
は開城を説くも梅王肯んぜず。城を焼き弟国王と会津に走りて芦名義広に倚る。
時に梅王甫12才国王10才なりき。既にして芦名氏の滅後、兄弟は義広に従い難
を常陸に避け佐竹氏に寓す。梅王害に遭うに及んで国王復会津に帰り首服して右
京進義孝と称し、姓を二本松とす。上杉、薄生、加藤の諸氏はこれを好遇し、僧天
海は旧の義孝を知り徳川氏にすすめんと欲して果さず。岡崎の城主水野堅物は義
孝の子孫を招き世その客将となる。後水野氏の移封に逢い唐津、浜松、山形等に
従う。
不宵錠は実に高国22世の孫たり。昭和8年10月8日、一族をつれてこの地に来り、
歴代の霊を称念寺に弔う。寺の累は畠山氏第四世満泰の開基にして、後小松天
皇の勅願を賜わり名刹たり。その後治乱興亡既に600年能く祀りを存する者殆ん
ど空し、感慨止まず不宵の宿志止め難く、この地の有志と謀りて其の西方の山上
に相して、是に於て起工す。城内には粟の須の殉難二三士及び前後の忠節の士
を合祀し、10月工全くなる。蹉呼錠の撰は克く宿志を達するには劣れども、実に皆
祖宗の英霊と、旧領地諸君の賜に因るもの、真に感激の至りなり。茲に其の梗概
を叙して以て後日につつぐ。昭和9年10月8日医学博士二本松錠識」
というもの。
521無名武将@お腹せっぷく:04/01/05 02:38
>>519
奥州吉良氏(後に世田谷吉良氏、蒔田氏)は、吉良長氏の兄・足利義継の系統
だよね。
義継の子・経氏のときに吉良姓を名乗るようになり、義継の曾孫・貞家のときに
奥州探題として陸奥国に下向したと言われているが、義満の時代(当主は貞家
の孫・治家)に奥羽州の探題が鎌倉府の所管となったために奥州からの撤退し、
以後は鎌倉府に仕えている。
治家―頼治―頼氏―頼高―政忠―成高―頼康と代を重ねるが、政忠の時代に
世田谷と蒔田に居館を構えたため「蒔田殿」「世田谷御所」「蒔田御所」と呼ばれ
るようになったという。
頼康の頃には北条氏の支配下に置かれ、頼康が正室・崎姫(北条氏綱の女)の
連れ子である堀越貞朝(堀越貞基二男)を養嗣子としたことで、義継以来の血統
はここで断絶する。貞朝は入嗣後、氏朝と改名している。
なお、頼康には3人の男子がいたようだが、早世したか、あるいは北条氏によっ
て排除されたのだろう。
522521:04/01/05 02:40
天正18年(1590年)の小田原の役後、氏朝は下総に落ち延びるが、翌19年(15
91年)、氏朝の子・頼久が家康に召し出され、上総国長柄郡に知行1125石を与
えられている。これ以後、頼久は吉良姓から蒔田姓を名乗るようになるが、義祇、
義成を経て曾孫・義俊の時代に赤穂事件が起こり、東条吉良家の改易後、吉良
姓に復している。

奥州探題の歴史は複雑でわからん・・・

わかりやすく知るサイトとかないものか・・・
524無名武将@お腹せっぷく:04/01/05 12:20
堀越氏は瀬名氏同様、遠江今川氏の流れを汲んでいるから、
足利一門ではあるよね、一応。
古河足利家の晴氏、義氏父子と同様、堀越貞基室は北条氏
綱女、吉良氏朝室は氏康女と、北条氏得意の婚姻政策で雁
字搦めにされてるな・・・
宮原御所(足利晴直)や鞍谷御所(鞍谷氏)に続き、世田谷御所&蒔田御所……
またびみょ〜な「御所」が出てきたな……
526無名武将@お腹せっぷく:04/01/05 13:59
>>525
宮原義路の実父・岡部備後守って岡部豊常の事?
そもそも朝倉が来るな。
うざい
528無名武将@お腹せっぷく:04/01/05 14:22
>>131
まあ、早い話、浅野内匠頭が、饗応役のストレスからノイローゼ起こして、
吉良上野介に斬りかかってしまったという所が、真相でしょう。
問題はその後の処遇。そういう状況であれば、「浅野内匠頭は乱心」と
いう事で、個人としてはともかく、赤穂藩としてはお咎め無しにする所。
ところが、「浅野内匠頭は正気だった」という扱いにされて、赤穂藩
取り潰しにしてしまったのが、間違い。
「おいこら、ちょっと待て! 正気だったというなら、喧嘩両成敗だろう
が、ゴルア!!」
(喧嘩両成敗=つまり、斬りつけられる吉良上野介にも、斬られる原因
となるような、落ち度があった)
という訳で、赤穂浪士が討ち入り。
つまり、吉良に対する遺恨というより、幕府に対する遺恨を、吉良に
対して八つ当たりしたというのが真相。
吉良・・・・゚・(つД`)・゚・
では吉良が浅野をいじめたのはフィクション?
530足利氏 ◆nfj/oZUsU2 :04/01/05 14:37
>>529
吉良が浅野をいじめたから浅野が吉良に斬りかかったんだと思います。
>>527
コテ叩きを見せられる方がもっとウザ・・・なんだけどね。

>>529-530
内匠頭が精神的に病んでいたという説は根強いよね。
大体、吉良様の側に内匠頭をいじめる理由はないし、饗応役がヘマをすれば
高家筆頭だった吉良様が恥をかくことになるわけで・・・でしょ?
おいおいそれで吉良悪者かよ!?
かわいそうだなぁ〜
>>532
「そのように仕立て上げなければいけない事情」があったんじゃないの?
534528:04/01/05 17:57
>>533
つまりですね、「赤穂浪士は、幕府への不満を吉良にぶつけた」では
幕府の面目丸つぶれ。
「確かに喧嘩両成敗にしなかった幕府にも落ち度はあった。だから、
赤穂浪士の忠義だけは、褒め讃えてやろう」
という事であれば、幕府の面目もそんなに傷つかない。
そういう「事情」でしょうね。
>>534
幕府は落ち度なんか認めてないでしょ。
吉良家を人身御供にすることで世論の矛先を交わしたと見るべきでは?
だからこそ、突発的な事件に怨恨という要素を絡ませていったわけで。
しかも後日、吉良家を再興させ、浅野大学長広も500石ながら旗本に取り立てる
ことで辻褄合わせしてる。
537無名武将@お腹せっぷく:04/01/05 18:50
>>536
500石取りの旗本っていっても、元の5万石の、たった100分の1だからな。
5万石の大名なら、家臣は千人くらいいる。
500石なら10人。せいぜい屋敷で働く人程度。
>>537
直参旗本と陪臣では同じ500石でもエラい違いだけどね。
それと「吉良邸討ち入りで忠義を世に知らしめたから、弟・長広をもって御家再興」
なんてシナリオでは幕府は格好がつかないでしょ。
その意味では、浅野家再興と長広個人の赦免とは別の話。
浅野本家にお預けになる前の長広の知行は3000石ほど。そこから割り算すれば
6分の1ということになる。
539無名武将@お腹せっぷく:04/01/06 00:33
>>526
京都東町奉行を務めた岡部備後守豊常と見て間違いないでしょ。
ちなみに在任期間は嘉永6年12月26日〜安政6年2月13日。
岡部家は家禄が900石だから、家禄1140石の高家・宮原家と釣り合いが取れて
たんだかどうだか・・・
540無名武将@お腹せっぷく:04/01/06 01:58
やっぱり旗本は、男爵でよいから華族にするべきだったな。
それが駄目なら、せめて高家だけでも。
541無名武将@お腹せっぷく:04/01/06 02:03
高家って維新のとき何家くらいあったんだろ?
>>540
大沢家や喜連川家のような例もあるけどね。
但し、大沢家は・・・
一応、諸侯の場合は例外事項を除いては石高(実高)で厳しく
規定されてからね。
>>540
大沢家や喜連川家のような例もあるけどね。
但し、大沢家は・・・
一応、諸侯の場合は例外事項を除いては石高(実高)で厳しく
規定されてからね。
544無名武将@お腹せっぷく:04/01/06 03:24
>>541
高家は延宝年間で16家、寛政年間で31家ほどあったらしいが、幕末までには200家
前後まで増えていたらしい。
とはいえ大半は非役の表高家だったようだが。
545無名武将@お腹せっぷく:04/01/06 03:40
>寛政年間で31家ほどあったらしいが、幕末までには200家前後

凄い増え方だな・・・。
546無名武将@お腹せっぷく:04/01/06 11:46
>>544
本当かよ?
典拠希望
その200家のうちの例をあげてみてくれよ。
547無名武将@お腹せっぷく:04/01/06 18:54
表高家って年始、歳暮、五節句の祝日にのみ登城するだけだろ。
奥州探題って功績のあまりカスなんだろうね。
功績のあった人物に思い当たる土地は全て与えたが、まだ終わらない。
そこで奥州探題ってそれらしい名前をつけて僻地にうまく追いやった訳だがな
関東公方に力を大権を握らせた時点から室町の滅亡は決まっている。
だから家康も藩を設けて有力大名の弱体化を誘ったんだろう。
>>548
そうなのか?
551無名武将@お腹せっぷく:04/01/07 11:16
つーか京と鎌倉の二元構造自体に問題があるような気もするが・・・
552無名武将@お腹せっぷく:04/01/07 12:46
>>546
源氏系の高家(表高家含む)の主なところはこんな感じ。

【清和源氏足利氏流】
●畠山家(3100石)※畠山(能登)義春三男・義真子孫
●上杉家(1496石)※畠山(能登)義春二男・長員子孫
●宮原家(1140石)※足利晴氏弟・晴直子孫
●今川家(1000石)※今川氏真嫡男・範以子孫
●畠山家(5000石)※畠山(河内)政尚子孫
●吉良家(1425石)※吉良義周断絶後、東条義孚(義央甥の子)により再興
●品川家( 300石) ※今川氏真二男・高久子孫
【その他】
●武田家( 500俵) ※清和源氏義光流、武田信玄二男・海野信親子孫
●六角家(2000石)※宇多源氏佐々木氏流
●京極家(1400石)※宇多源氏佐々木氏流
●横瀬家(1000石)※新田氏族(家紋は五三の桐・二つ引両)
●由良家(1000石)※清和源氏新田氏流
●土岐家( 700石) ※清和源氏頼光流、土岐頼芸子孫
553無名武将@お腹せっぷく:04/01/07 12:51
>>552
武田の石高は少ないのは徳川との長年の執拗が関係しているのだろうか?
554無名武将@お腹せっぷく:04/01/07 12:54
>>553
大久保長安事件に連坐して長らく流罪になってたからね。
555無名武将@お腹せっぷく:04/01/07 13:23
>>552
吉良義孚は、東条義武の養嗣子で柘植影正の子。義孚の母は織田信相女である
から、吉良家との血縁関係はない。
といっても養父の義武もまた義央の弟・義叔の養嗣子で柘植兄正の子。義武の母
・荒川氏が吉良義定(義央曾祖父)二男・荒川定安の流れを汲んでいる関係上、ア
カの他人ではないにしてもかなりの遠縁ではある。
556無名武将@お腹せっぷく:04/01/07 13:25
そこまで来ると養子だのなんだので存在が疑わしくなりそうだ
今川家なんかも分家の品川家や、吉良家の分家筋にあたる岡山家などから
養子を引っ張ってるからね・・・もうゴチャゴチャ。
血よりも家なんだよな
家がなけりゃ殿も家臣も飯食えないから必死だ罠
小身の家系ほど繁殖力が強い傾向があるように思うね。
560無名武将@お腹せっぷく:04/01/07 13:58
>>552
いやそうじゃなくて幕末に増えたという200家の方が知りたい
>>560
このスレ的にはまず足利氏流の高家を抑えるのが基本w
562無名武将@お腹せっぷく:04/01/07 14:04
江戸末期なら新規に名族を召し出して家を興すというより、大身大名の分家筋
を高家に任じてたんじゃないのか?
563無名武将@お腹せっぷく:04/01/07 18:37
石高が少なくても諸大名家の顧問みたいな感じで儀式作法を指導して
いたから、顧問料や付け届けなどでそれなりに懐は潤ってたらしい。
>>563
ということは、高家が増えすぎると、
熾烈なシェア争いが繰り広げられたのか?
565無名武将@お腹せっぷく:04/01/07 18:47
千年前の威光で暮らせるなんて羨ましい・・・
>>563
室町に流行った公家による家庭教師みたいなもんか?
566無名武将@お腹せっぷく:04/01/07 19:23
まあ、今の世の中でも家元稼業は儲かるからね。
儀式作法のお師匠さんみたいなことをしながら生計を立ててたということか。
室町時代の伊勢家なんかと同じか。
それに飽き足らなくなったような香具師も結構いるんだろうな。
新九郎ほどはじけた香具師はいないようだが(w
568無名武将@お腹せっぷく:04/01/07 19:40
>>567
はじけたら・・・改易だし・・・
569無名武将@お腹せっぷく:04/01/07 19:45
http://www.geocities.co.jp/MotorCity-Pit/2203/ogi/ogi012.html
>午前3時に就寝し、11時頃に起きてくる
何か引き籠り2ちゃねらーみたいですね、氏真・・・
570無名武将@お腹せっぷく:04/01/07 20:29
品川家の家禄300石…こりゃあ副業しなけりゃあやってけないねw
571無名武将@お腹せっぷく:04/01/07 20:36
>>565
>千年前の威光で暮らせるなんて羨ましい・・・
1000年か?
しかし、それが高家というものではあるな
572無名武将@お腹せっぷく:04/01/07 23:20
それに比べて浅野の分家なんぞ得体の知れない田舎侍
573無名武将@お腹せっぷく:04/01/07 23:27
ああ、分家だったな確か。
それを踏まえると全国の藩ってどれくらいなんだろう
574無名武将@お腹せっぷく:04/01/08 00:34
大名の数だけ儀式作法を教える相手がいるんだから、江戸中期頃までは
けっこう美味しかったんじゃない?
575無名武将@お腹せっぷく:04/01/08 01:44
>>561
言い訳はいいから本当に200家もるのか教えてくれw
ちなみに高家は職制ではなく、家格だという説もあるから知りたいんだけど。
>>575
聞く前に調べてみたら?
>>573
「藩」という維新後に広まった適当な表記は遠慮してくれ。
江戸時代のメジャーな言い方は「○○家」なんだから。
578無名武将@お腹せっぷく:04/01/08 02:31
>>521-525
吉良頼康(世田谷御所or蒔田御所)に北条氏綱が姫(崎姫/前・堀越貞延室)
を嫁がせる際に、叔父である北条幻庵は行儀作法を記した書状を送っており、
それが『北条幻庵覚書』として残ってるらしいね。
頼康は従四位下という高い官位を有しており、関東公方・足利家、関東管領・
上杉家に次ぐ名門だけに、それくらい気を使ったということなんだろう。
小田原の役では戦わずして城を捨て、サッサと逃亡しているあたりがいかにも
吉良様の家系という感じだが。
>577
メジャーになったのは維新後かもしれんが、17世紀に「藩」という語は登場してる。意味も現在のものとほぼ同じだ。
っつーか、江戸時代の民俗とか藩政とか調べたら「藩」が江戸時代中期には知識階級においてはある程度普及していたのは簡単にわかると思われ。
当時の知識人が既に使用していた「藩」を何でわざわざ遠慮しなくちゃいけないのか、その理由を教えてくれ>>577
>>577>>579
何かスレ違いなことやってるな・・・
581無名武将@お腹せっぷく:04/01/08 03:44
現存している『北条幻庵覚書』は吉良氏朝に嫁す氏康の養女(鶴松院殿)のため
に書き与えたものでは?
といっても松院殿の実父は北条幻庵その人なんだけど。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/9078/reki-oboe.html
582無名武将@お腹せっぷく:04/01/08 04:40
玉置浩二が君臨するスッドレはここですか?
583無名武将@お腹せっぷく:04/01/08 09:48
>>576
また言い訳か…
まあそれしか書けないんだろうけどWw
>>583
で、調べたの?
585無名武将@お腹せっぷく:04/01/08 11:59
>>584
他に書くことないんだろう。
というより書けないんだろう。
本当にあるんなら調べ方を教えてくれよw
(脳内検索とかいうなよw
586無名武将@お腹せっぷく:04/01/08 12:01
君たちもういい加減にしよう。
建設的な答えはもう出ないだろうから無意味だ。
587無名武将@お腹せっぷく:04/01/08 13:44
>>585
「教えて小僧」が文句垂れてるのって傍から見てると・・・ねぇ
>>584に噛み付いてる前に、とりあえずググッてみるなり、図書館行くなり
してみたら?
試しに「高家 二百家・・・」とか何とかでググッてみたら、こんなのがヒット
したぞ。まあ、もうチェック済みだとは思うが。

http://www.hi-net.zaq.ne.jp/osaru/edo/yakusyoku.htm
>足利家の一族を意味する称で、石橋、吉良、品川の三家が就任し、以後
>幕末には二百家にものぼったそうです。
>朝廷への使節、勅使、院使の接待、日光への御代参、殿中の作法など
>礼式の全てを司りました。官位は四位の少将で平大名を飛び越している
>のに禄が低く、ひがんだ者が多く、殿中作法の専門家なので大名などに
>助言する代わりに月々の仕送りを公然と受けていました。
>高家というのは現役の者を言い、非役のときは表高家と呼ばれました。
588584:04/01/08 14:05
ちなみに、>>576>>584だよ。
>>587-588
まだ言い訳してる。
それにそんなのがソースだったとはw
具体的に示せないわけだ。
面白いね、キミw
>590
常厨ですか?
592無名武将@お腹せっぷく:04/01/09 08:36
蒔田御所のあったところには成美学園という女子校がある。
義輝が殺された武衛陣跡の平安女学院といい、つくづく女子高に縁が
ありますな、足利一門。
>>589
スレ荒らすな。
>593
常厨ですか?
595無名武将@お腹せっぷく:04/01/09 11:27
>>592
女子校生に踏みつけにされる御所様たち・・・
>>595
オレも御所様になりてえええええええええっ!!!!
あんたたちも好きね
>>592>>595-596
成美学園は「横浜英和女学院」と改称したそうです。
ちなみにプロテスタント系。
http://www.yokohama-eiwa.ac.jp/
それにしても御所様はキリスト教系の女子高と縁が深いですね・・・
599無名武将@お腹せっぷく:04/01/09 12:55
>>554
武田信道・信正父子が大久保長安事件に連坐して大島に配流されたのが慶長18年(1613年)で、
赦免されたのが寛文3年(1663年)だから、ちょうど50年ほど配流生活を送ったことになるね。
64歳になっていた信正は本土に戻り、内藤忠興の娘を娶って一子・信興をもうけている。
(なかなかに体力あったのね・・・)
血統的には
海野信親(龍芳)―信道(顕了道快)―信正―信興―信安
と続いたが、信安に実施がなかったため柳沢家から信明が養子に入っている。

こちら↓が大島にある武田信道の供養塔。
ttp://akihirohideo.at.infoseek.co.jp/n-t/takeda/newpage3.htm
600無名武将@お腹せっぷく:04/01/09 12:56
>>600
これが何か?
横領で50年はやりすぎだろ。
宇喜多じゃあるまいし・・・・なんか恨みでもあったのかね?
603無名武将@お腹せっぷく:04/01/09 13:53
内藤忠興って磐城平藩主だよな。
忠興の側室が小山田信茂の娘、香具姫だから、その縁で娘を武田信正に・・・という
ことなんだろう。
香具姫は忠興との間に2男1女をもうけているが、嫡子の頼長(俳人・内藤風虎として
の方が有名)の生没年が1619〜1685年だから、武田信正室が香具姫の産んだ娘で、
しかも信正との間に子をもうけたという話には年齢的にやや無理があるな・・・

というより、香具姫って武田家が滅亡した時に3〜4歳だろ?
1619年当時、既に40歳近い年齢なんだが・・・忠興の生没年が1592〜1674年だから
ひと回り年上の側室ということに・・・
義晴→藤孝→忠興→((((((;゚Д゚))))))ガクガクブルブル
義満→義嗣→嗣俊((((((;゚Д゚))))))ガクガクブルブル
606無名武将@お腹せっぷく:04/01/09 20:25
鞍谷、幸手一色・・・いろいろと顔出すね、義嗣もw
607無名武将@お腹せっぷく:04/01/09 21:23
>>605-606
でもほとんど信憑性のない俗説なんだが・・・
608無名武将@お腹せっぷく:04/01/10 00:19
とりあえず子供の1人や2人くらいいそうな気もするが?>義嗣
609無名武将@お腹せっぷく:04/01/10 03:01
>>602
存在がびみょ〜すぎて完全に忘れ去られてたとか?
>>609
流罪ってのは基本的に死ぬまでの刑だからね。
年数とかは関係ない。
611無名武将@お腹せっぷく:04/01/10 04:24
>>572
浅野は清和源氏頼光流土岐氏族。
だから何度も、足利義嗣がでてきたら(ry
613無名武将@お腹せっぷく:04/01/10 14:05
>>611
土岐氏の支流と言われてるけど実際どうなの?というレベルでしょ。
長政が「藤原」を称してたこともあるくらいで、かなり疑わしい・・・
614無名武将@お腹せっぷく:04/01/10 14:38
>>610
信正は1663年に江戸に戻ったけど、嫡子・信興が旗本に取り立てられたのは
それから37年後の1700年、表高家に列したのが翌1701年だからね。
615無名武将@お腹せっぷく:04/01/10 21:27
一応、信正死去後の信興召し抱えってことなのか・・・
616無名武将@お腹せっぷく:04/01/11 19:02
>>612
略すなw
しかし、一色直明は義量の子孫とかいう俗説もあるよね
そういえば丸に二つ引き(だっけ?)の紋の人って将軍家ゆかりの人?
618無名武将@お腹せっぷく:04/01/11 21:55
>>617
これね。
http://www.harimaya.com/kamon/column/mon/2_hiki.jpg
「二つ引き両」とも言う。
足利氏流(足利家、細川氏、畠山氏、斯波氏、今川氏、吉良家ほか)は皆、定紋
として用いているね。
619618:04/01/11 22:02
とは言いながら、古河公方家の支流・宮原家は二つ引き両ではない・・・なぜ?
>>617
元総理「竹下登」の家も同じ家紋だったな。
621無名武将@お腹せっぷく:04/01/11 22:09
>>620
島根の百姓じゃねえの?
622無名武将@お腹せっぷく:04/01/11 23:24
>>616
義量・・・あるわけねぇ・・・
623無名武将@お腹せっぷく:04/01/12 00:41
>>605
嗣俊を出してくると・・・また鞍谷る〜ぷかい?
624無名武将@お腹せっぷく:04/01/12 01:07
確か金地院崇伝って一色秀勝の次男だろ?
ということは一応、足利一門の端くれということになるな。
だったら、父親が仕えていた足利将軍家のために多少動いても良いようなもの
だが・・・
このスレ的には俗説扱いされてる一色義喬だが、彼が藤長(秀勝の兄)に匿わ
れていたとしたら、義喬と崇伝ってお互いに幼少だろうけど、ほんの少しは接点
がありそうなものだけどな・・・
625無名武将@お腹せっぷく:04/01/12 05:44
一色藤長の子、範勝が家康に拝謁して幕臣に取り立てられたのは、崇伝の口添えが
あったからのようで、2人の間にはしばしば書状のやり取りが行われていたようだ。
範勝の子、範親の頃には2千石を領したが、養子の範供(正室の弟)−範永と続いた
ところで無嗣断絶となっている。
626無名武将@お腹せっぷく:04/01/12 15:00
丹後の一色は…こちらもびみょ〜な末路だな
>>625
藤長−範勝−範規=範洪−範永(断絶)というのが正しいみたいよ
628足利泰氏:04/01/12 15:46
お前には・・・・・うろこを喰らう・・・・龍の血が流れておる・・・・・
>>628 すまそ

お前には・・・・・うんこを喰らう・・・・獣の血が流れておる・・・・・

に見えたyo
630無名武将@お腹せっぷく:04/01/12 18:20
一色氏の支流になるが、公深の玄孫・範貞を祖として範貞の曾孫・藤次が家名を継承
した武田氏の支流・金丸氏がある。
武田氏に仕えた藤次の孫・虎義の子たちには嫡子・昌次(永禄13年より土屋姓、長篠
の役で戦死)のほか、秋山信友の養嗣子となった昌詮、金丸昌義、岡部定綱の養子と
なった後、土屋姓を称した昌恒などがいる。
昌恒は天目山で勝頼に殉じたが、男子が1人おり、武田氏滅亡時に家臣が連れて逃げ、
惣蔵と名づけられて駿河興津の清見寺に入れられたが、鷹狩の帰路、同寺に立ち寄っ
た徳川家康に召し出され、成人して土屋忠直と名乗り、累進して上総久留里2万1千石
の大名となっている。
631無名武将@お腹せっぷく:04/01/12 18:37
『北条時宗』に出てくる桐子が泰氏の血を引く女であることはわかったが、
それで自体は何か変化したのか?
そのあたりがよく分からんドラマだったな
>>630
佐川で議員辞職した金丸元副総理はその一族?
633無名武将@お腹せっぷく:04/01/12 23:50
金丸虎義の7人の子たちは

●昌直…信玄の奥近習衆を務めたが、1560年に信廉家臣・落合彦助に討たれる。
(虎義長男:1539〜1560年)
●昌次…信玄の奥近習を務め土屋氏を継承するが、長篠の役で壮絶な戦死を遂げる。
(虎義二男:1545〜1575年)
●昌詮…秋山信友の養子。甲州大崎城督を務める。1574年に美濃で病死。
(虎義三男:1545〜1574年)
●定光…昌直横死後、金丸氏を継承。1582年に田野で勝頼に殉じる。
(虎義四男:1550?〜1582年)
●昌恒…土屋貞綱の養子。長篠の役では敗走する勝頼を護衛。田野で勝頼に殉じる。
(虎義五男:1556〜1582年)
●正直…信玄側近。土屋に改姓する。田野で勝頼に殉じる。
(虎義六男:1560〜1582年)
●親久…昌詮病死後、秋山家を継承。田野で勝頼に殉じる。
(虎義七男:1564〜1582年)

とこんな感じ。多くが勝頼と運命を共にしている。
634無名武将@お腹せっぷく:04/01/12 23:56
>>632
金丸信とは多分繋がらない?と思うけど、金丸定光の子・定信は幕府より
御朱印を賜っているので、多少の知行地を得ていたのでは?
635無名武将@お腹せっぷく:04/01/13 00:22
昌恒の玄孫が赤穂事件で有名な旗本・土屋主税。
636無名武将@お腹せっぷく:04/01/13 00:42
俺の姓椎葉て言うんだが土屋と関係あるそうで
どこからどう繋がるの?しらない?
637無名武将@お腹せっぷく:04/01/13 00:48
>>636
宮崎の人?
638無名武将@お腹せっぷく:04/01/13 02:48
武田氏の被官で足利氏流というと、仁木氏族の向井氏があるね
武田氏滅亡後、徳川家康に仕官している点でも共通するものがある
椎葉ゆうってラジオDJいたっけな。
640無名武将@お腹せっぷく:04/01/13 03:06
椎葉といえば・・・那須絡みの話があるでしょ、確か。
641169:04/01/13 04:43
>636
宮崎県の椎葉なら1619年に起きた椎葉山騒動を思い出すな。
甲斐氏や三田井氏が関わった事件だったと記憶しているが、土屋氏が関わっていたかまでは覚えてないなあ。
無関係かな。
642無名武将@お腹せっぷく:04/01/13 22:04
>>638
仁木氏族と言えば、徳川家臣の榊原氏もそうだな。
643無名武将@お腹せっぷく:04/01/14 00:23
一色氏の流れでは尾張の丹羽氏もあるな。
公深の孫・直氏は鎮西探題として九州に下向したが、菊池氏に大敗を喫したため
嫡流は衰退してしまう。
直氏の子・氏兼には氏宗、長兼の2人の子がおり、氏宗の子・氏明は尾張・丹羽
郡に拠点を置いて丹羽姓を称し、長兼の子孫は関東に移り、幸手一色氏となって
いる。
丹羽氏は氏明から8代目の氏職が織田信長に、氏職の子・氏勝は信長・信雄に
仕え、孫・氏次は信雄改易後は豊臣秀次に、秀次処刑後は秀吉に仕えた後、家
康に接近し、関ヶ原の功により1万石の大名となっている。
なお、直氏の弟・範光は若狭守護となり、この系譜からは若狭・丹後一色氏、金
丸氏、土屋氏などが出ている。
644無名武将@お腹せっぷく:04/01/14 02:20
幸手一色と同様、びみょ〜な感じを醸し出してるな>丹羽一色

201 名前:無名武将@お腹せっぷく :04/01/14 02:42
>>199
幕府側から見たら、関東管領の初代は足利基氏になるんじゃないの?

202 名前: ◆udCC9cHvps :04/01/14 02:45
>>201
関東公方の釣りですか?

203 名前:無名武将@お腹せっぷく :04/01/14 02:58
>>202
釣りじゃないよ。
鎌倉公方は本来、幕府側から見れば「関東管領」だったんだけどね。
ところが関東足利家が独立志向を表面化させ、京の将軍(公方)に対して「鎌倉の将軍」
すなわち「鎌倉公方」を称するようになり、執事・上杉氏を「関東管領」に任じるようになっ
たという考え方もあるわけ。

まあ、ここでその話題はスレ違いだろうし・・・>>198じゃないが、こっちでやった方がいい
と思う。
【御所様】足利一門総合スレッド【公方様】
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1069789879/
646無名武将@お腹せっぷく:04/01/14 06:41
将軍家から見れば関東足利家は関東管領に過ぎないが、関東足利家から
見れば自分たちは鎌倉将軍なんだという、歪んだ機構が存在していたという
ことか?

義詮「基氏!テメエは所詮、関東管領なんだよ!ゴルア!」
基氏「るっせぇっ!俺様は鎌倉将軍だ!ゴルア!」
義詮「おい!上杉!テメエは関東管領の補佐だろが!ゴルア!」
上杉「え?鎌倉の公方様(=基氏)から管領やるように言われてますけど・・・ゴルア!」

という図式になるのか?
普通は成良・直義の鎌倉府から始まったと考えるのが筋なんじゃないか?
648無名武将@お腹せっぷく:04/01/14 19:36
それは後醍醐政権下での話しだからね。
確かに源流と言えば源流だが・・・その場合、直義の立場は鎌倉将軍府の「執権」という
ことになるな。
649無名武将@お腹せっぷく:04/01/15 01:02
壊れかけた者ばかり集めてしまうよ〜
細川の飾りじゃな〜い!ガラスの十代〜♪
650無名武将@お腹せっぷく:04/01/15 05:06
晴元の飾り……まずは足利義維あたりか?
ガラス細工のような堺政権……
651無名武将@お腹せっぷく:04/01/15 05:08
ttp://www.geocities.co.jp/HiTeens-Panda/1378/
このサイト少し盛り上げてやろうぜ
652無名武将@お腹せっぷく:04/01/15 05:22
細川違いだけど、飾りという意味では義晴も・・・
653無名武将@お腹せっぷく:04/01/15 17:29
細川氏綱なんか三好の飾り物じゃねえかよw
そこがイイ!(・∀・)
655無名武将@お腹せっぷく:04/01/15 18:58
足利がお飾りとしての素質をイツから持っていたかというと
すでに尊氏のころからその兆候はあったといえる。
義昭こそ信長の飾り物だろ。
上洛の材料に使われてポイ
戸惑〜う 気持ち〜で
行った〜り 来たり〜さ 都と周防を〜♪
その点、果敢に将軍の権威回復を図った義輝公は流石である!
>>658
早死にしたけどなw
やっぱり義澄みたいに賢く生きないとな
>>658
光源院は尊氏の再来と言われたんだよな。
661無名武将@お腹せっぷく:04/01/16 01:17
>>658
そんなことするから早死にするんだよ・・・

>>659
稚児から将軍に登りつめた?男・足利義澄w
662無名武将@お腹せっぷく:04/01/16 01:20
何もしてないけど早死にしたぞ>義栄
義輝は将軍じゃなくて一介の戦国大名だったら、なかなかの物になったと思うが。
彼の生まれが不幸だった。
664無名武将@お腹せっぷく:04/01/16 01:24
>>663
将軍家の嫡子に生まれて「生まれが不幸だった」はねぇだろ、いくら何でも
665無名武将@お腹せっぷく:04/01/16 01:26
俺は義輝は将軍家の嫡子だったから、そこそこやれたと思うけどな。そこら辺の戦国大名じゃ一向一揆も抑えられなかっただろうよ
地位が人間を育てるってやつだな。
667無名武将@お腹せっぷく:04/01/16 01:35
そうそう、小早川秀秋も関白になっていたら
ある程度は出来たかもしれんぞ!
668無名武将@お腹せっぷく:04/01/16 02:57
>>661
清晃(足利義澄)は天竜寺香厳院の喝食(=稚児)だったんだよね。
ということは夜な夜な高僧に・・・
それにしても変な髪形だね。

●参考●
http://iriz.hanazono.ac.jp/k_room/yoshi0314.html#
669松茸狩り ◆KKRb1u3.mA :04/01/16 07:33
>>668
宦官かと思った
ここ、特に上のほう、
http://www1.odn.ne.jp/~cem89780/

このスレ的に便利かも。家臣団〜
671無名武将@お腹せっぷく:04/01/18 12:35
>>670より引用すると・・・

>義昭15371597義晴子覚慶義秋昌山道休将軍権大納言准三后
>義尋義昭子高山
>義尊義尋子
>常尊義尋子
>義在義昭子
>義喬義昭子一色藤長嗣
>義房義喬子
>義邵義房子

というように、このスレで俗説的に扱われてる義在、義喬が「義昭子」
とされてるのは何でだろう?
典拠は何なんだ?
672無名武将@お腹せっぷく:04/01/18 12:44
>>670-671
鞍谷嗣俊が「(斯波)義俊子」or「(足利)義嗣子?」となってるしな
673無名武将@お腹せっぷく:04/01/18 16:31
>>671
そのスレは俗説でもなんでも検証してないからね。
674無名武将@お腹せっぷく:04/01/18 16:38
鞍谷氏について語り始めるとアンチ朝倉による荒らしが横行するしな・・・
675無名武将@お腹せっぷく:04/01/18 16:43
>>673
逆に「義在、義喬は義昭の子でない」とする論拠を示してくれないか?
>>499
んでト全のご先祖様が、新田義貞の首級を挙げた氏家重国。
他には奥州探題の代わりに軍注状・安堵状など発給してた氏家道誠などもいます。

>>517
滅亡した家ですから正確な家系がないのは如何ともしがたいですね。
ただ信長の越前入部時には鞍谷らの存続が確認されています。

>>518
そこが「朝倉始末記」の後世軍記物たる所以なんですよ。

>>670
シナリオ作ったとき参考にさせてもらいました。それ。


鞍谷はもうやめます。。。(斯波スレ立った時のためにネタ残し)
677無名武将@お腹せっぷく:04/01/18 19:48
>>676
確か鞍谷嗣知は朝倉滅亡時に戦死し、子の嗣基?が一向一揆軍に追われて
逃亡しているよね。
その後、佐々成政の入部により零落していったと。
以後の鞍谷氏がどうなったのかも興味があるところなのだが・・・
678無名武将@お腹せっぷく:04/01/18 19:55
>>676
斯波スレが立つまでにどれだけ時間が掛かることか・・・
畠山スレの低調ぶりからして、斯波スレはかなり先の話になると思うぞ
>>672
昔はそれが通説定説だったのです。
近年、微妙な史料の積み重ねで「斯波」説が有力になってきました。


>>676
渦中、雌伏の時であるぞ。がんばれ!
現役朝倉スレが落書きで終了した時、新しく
「ちゃんとした朝倉スレッド」作ろうな。

鞍谷御所の場所とか武衛山城の生写真とか用意して
あるからさ。

>>678
畠山はのんびりいきましょう。
スレ速度が遅いということは、逆にそれだけ知らないことが多いってこと。

680無名武将@お腹せっぷく:04/01/19 01:37
>>676
>信長の越前入部時には鞍谷らの存続が確認されています。
確か発給書があったよね。

>>679
足利義嗣−鞍谷嗣俊ではなく、斯波義廉−義俊−嗣俊というのが最近有力
になっているということね。
でも、このスレでは義俊=嗣俊(奥州斯波郷長子孫/今立郡斯波氏?)とい
うとらえ方もあるぞ、と提唱してるでしょ、確か。
681無名武将@お腹せっぷく:04/01/19 02:51
>>675
まず「義在、義喬は義昭の子である」という論拠を示してくれないか?
682無名武将@お腹せっぷく:04/01/19 03:09
>>681
どっちが先でもいいんだけど、「俗説を検証すらしていない」という主張に対して
「じゃあ、俗説であるという論拠を示してよ」という話の流れのようなので、ここは
>>681氏が先に応じた方がいいんじゃないの?
どうやら検証したうえでの発言のようだし。
まあ、>>673氏=>>681氏とは限らないんだけどね。
ジ・悪魔の証明
>>683
誤爆?
685無名武将@お腹せっぷく:04/01/19 03:46
>>682
非論理的だね。
存在を証明することはできても、存在しないことを証明することは難しい。
686無名武将@お腹せっぷく:04/01/19 04:42
>>685
何だ・・・検証がなされた上での発言じゃないわけね・・・
しかし「存在しないことを証明することは難しい」で済んだら、これほど楽なものはない
んじゃないの?
この時点で1つ分かったことは、少なくとも>>685氏の側には「義在、義喬は義昭の子
ではない」と言い切るだけの根拠がない、ということかな?
687無名武将@お腹せっぷく:04/01/19 05:00
細川高国たんは入れ物カワイイ
>>685-686
どっちも抜けているところがあるものの、
決定的な点が抜けている>>686の一本負け。
>>688
決定的な点って何?
690無名武将@お腹せっぷく:04/01/19 05:35
勝ち負け云々はどうでもいいが、結局、両者ともに根拠らしいものを
何一つ示してねぇじゃんw
道頓堀の話題はこのスレでいいのですか?
692無名武将@お腹せっぷく:04/01/19 13:05
>>679
「ちゃんとした朝倉スレッド」なんか立てても、荒らされるだけ荒らされて終わるような
気もするが?
その意味では、名門シリーズで斯波スレを立て、そこで朝倉ネタを展開しても結果は
それほど変わらんように思うが?
結局、粘着コテ叩きに原因があるんだろ?
693無名武将@お腹せっぷく:04/01/19 13:08
暫鉄剣必死だな
694685:04/01/19 14:25
念のため、685一つしか書きこみしてないんだけど。

一般的な話しとして、存在しないことをを証明するのは難しい。

存在の証明は、一つの事実を提示できればできるが、
存在しないことの証明は、すべての対象をを否定しないと証明できない。
だがためには、その対象を提示しないとできない。
>690
一色義喬・永山義在の義昭子肯定説は系図やそれに準拠したと思われる自治体誌に記載されていることが前スレにあったはず。
一方、義昭子否定説=俗説とする論拠のソースはいまだに提示されていなかったんじゃないか?
系図類に信頼が置けるわけじゃないが、その虚構を論破しなければ否定説は何ら証拠も無い暴論となる。
どこか付け入る箇所だけでも探し出せれば否定説もあながち虚説とは言えなくなると思うが、どうよ?>>685ほか俗説支持者の方々
696686:04/01/19 14:51
「俗説に過ぎない」と言い切るなら、言い切るに足るだけの根拠があるんじゃないの?と
言ってるだけなのにね。
697無名武将@お腹せっぷく:04/01/19 15:07
>>695
自治体誌にあるような系図の否定は>>515でもやってるし自治体誌をそのまま受け入れる姿勢はどうかと
日本史スレでも、自治体誌はお役所の素人が
我が町まんせー的なオナニーのために作ってるとも言われるほど粗悪なものが多い
たとえば永山なら鹿児島あたりの民間学者や郷土研究家の調べたちゃんとした資料があると思うのだが。
誰か信憑性を満たす資料を提供してくれる強者がいるといいんだけどね
要するに、漏れ達にはどっちが正しいか判りません、というわけだな。
>>695は自治体誌をそのまま受け入れてるんじゃなくて、むしろそれを否定できるだけの論拠を
持ち出してくれと言ってるんじゃないの?
だから「系図類に信頼が置けるわけじゃないが」と前置きしてるでしょ。

>たとえば永山なら鹿児島あたりの民間学者や郷土研究家の調べたちゃんとした資料があると思うのだが。
それを示してほしいんだよね・・・正直。
それさえ出てくれば、とりあえず永山義在の系譜は否定できるでしょ。
で、一色義喬も同様に否定できればそれでいいわけで。
>>698
まあ、詰まるところそういう感じかもね。
701697:04/01/19 15:25
>>699
すまん読み飛ばした>>695

ではこれをこのスレの課題に付け加えよう。
「足利義昭の子とされる義在、またその義在を始祖とする永山家の系図的信憑性について」

誰か鹿児島近隣在住の方が居たら県立図書館の郷土資料コーナーへGO!!
ぜひとも調べて欲しいのです。おながいしまつ
702無名武将@お腹せっぷく:04/01/19 15:36
>>701
滅亡してるならまだしも義昭の子孫を自称してる家が「存続」してるんなら
系図調査は名誉棄損に当たらないかな?・・・憶測だけど
それも必要だが肝心の義昭の足跡〜〜革頁〜〜からの足跡〜〜を調べて
本当に義昭が薩摩くんだりまで行ったかを検証したほうが早くね?
>>701-702
いずれにせよ解る人間が居ないので何とも。
そして資料を漁る労力にあまり差はないわけで・・・

とにかく鹿児島人の到着を待つか、史板で質問するかだな
あ、仮に鹿児島の人が来ても史板みたいに叩いたらダメよ?(笑)
このスレではたぶん"神"認定されるから(笑)
余談だが、一色義喬&永山義在を系図の信憑性を論じるなら、ついでに
西山義辰(義昭弟?)も論じてくれやw
705無名武将@お腹せっぷく:04/01/19 15:58
>>702
俗説を並べるなら、義在を足利高山の子とする説もあるんだよな・・・
そもそも義昭が薩摩に出向いたというより、義在が薩摩に迎え入れられたor落ち延びた
という見方が強いんじゃないかな
706無名武将@お腹せっぷく:04/01/19 16:04
つまりこういうことか?

●足利将軍家末期の系図

義晴┳義輝━道鑑
   ┣義昭━┳義尋
   ┃.     ┣(義喬)
   ┗(義辰).┗(義在)
(  )内は信憑性低。強者の出現を待つべし
707無名武将@お腹せっぷく:04/01/19 16:23
【朝廷】幻の16代将軍足利義尋について語れ【黙殺】


史板で受けそうじゃね?
708無名武将@お腹せっぷく:04/01/19 16:37
>>707
幻以前の問題なんだが・・・

>>706
「細川藩奉書」にもその名が登場する足利道鑑(足利義輝のご落胤?)だが、
足利義辰(尾池玄蕃)と同一人物とする説もあるんだよね。
ちなみに義辰の子・至之(西山左京)の子孫が細川家に1千石で仕えている
んだが、これには江戸初期、細川氏が名門の残滓を積極的?に迎えていた
という背景があるんだよね。
>701
ググってりゃ子孫のサイトに辿り着くから、直接尋ねてみたら?
>709
我々が聞きたいのは血縁者の熱弁ではなく、研究者の客観的推論及び結論である。

>702
歴史的に著名な家の系図を調査することは名誉毀損に当たらない。
海外には系図学という学問分野もある。系図史料そのものの真贋鑑定はもちろん、記載内容の認否についても調査研究しているそうだ。
たしかに家系を調べたら名誉毀損になるという理屈の方が意味不明だな。
712無名武将@お腹せっぷく:04/01/20 02:04
偽者が末裔名乗ってる方がよっぽど問題じゃねえの?有栖(略
713無名武将@お腹せっぷく:04/01/20 05:04
熊本藩・細川家の名門コレクションに掛かった足利一門武将と言うと・・・
●三淵家……細川藤孝甥・三淵重政の子孫(3200石)
●津川家……津川義近(=斯波義銀?)の二男・津川辰珍の子孫(1250石)
●楯岡家……最上義光甥・楯岡定直の子孫(1000石)
●西山家……足利義辰(=尾池玄蕃?)の嫡男・西山至之の子孫(1000石)

このほか、足利義昭の家臣絡みでは・・・
●槙島家……槙島昭光の子・槙島重宣の子孫
●沼田家……沼田光兼四男・沼田清延の子孫
などがいるようだね。
沼田家の場合は、光兼女が細川藤孝室・麝香だからその縁故での採用でしょ。
>>713
>●槙島家……槙島昭光の子・槙島重宣の子孫
真木島が正しいんじゃないの?
そもそも忠興は藤孝の子では・・・うわ何をするぐぼ!
717無名武将@お腹せっぷく:04/01/20 10:25
忠興は幽斎の実子だと思いまつよ。娘への手紙に「髪をそって鏡をみたら幽斎にそっくりでぴっくりしたよ」って書いてまつ。
うちの犬も漏れに似てきたのですが。
一緒に暮らして寝食を共にするとある程度、顔は似るらしいよ。
そういえば藤孝が義晴の子供だっていうソースってあるの?
足利初心者の漏れにおせーて。
>>718
犬が君に似てきたのではない
君が犬に似てきたんだ
>>717
わざとそう言っているのかもしれない、と勘ぐってみたりして。





という会話の流れに、>>716の存在はかき消されていくのであった。
尾張柳生。
722無名武将@お腹せっぷく:04/01/20 15:49
また和泉守護家と奥州家の話か?
723無名武将@お腹せっぷく:04/01/20 15:55
>>719
じゃあ、秀吉と於禰も似てくるのか?猿顔の北政所なんて聞いたことないが?
キタマンはどっちかつーとデブ系なんでしょ?
>>723
ちょっと話がずれるけど、
猿と呼ばれていたのは賎民の頃の話。
貴人の縁者に猿なんていえないよ。
726無名武将@お腹せっぷく:04/01/21 00:36
>>708
足利道鑑は宮本武蔵と共に忠利に茶室に招かれてるな
>>726
茶室じゃなくて茶屋。
http://kumanichi.com/etc/rekishi/musashi/musashigaku/kiji2.html

↑の年譜には、寛永18年(1641年)の正月2日に宮本武蔵が足利道鑑、西山左京
と共に本丸奥書院で忠利に御礼したことになってるね。
>725
関白就任後、京都の落書に「猿」呼ばわりしていたものがあったはずだぞ。
激怒して犯人の探索を命じた史料が残ってなかったか?
>>728
どう考えてもネタ的にスレ違いじゃないか?
730無名武将@お腹せっぷく:04/01/21 03:00
足利義輝には輝若丸という子がいたようだが、こちらは義輝が殺害される
と出家して僧侶になっている。
なお、足利義辰(=尾池玄蕃)については、「全讃史」に次のような記録が
ある。信憑性については・・・疑いの余地は大いにある。

「永禄八年松永彈正久通・将軍義輝公を戮す。時に元妃烏丸氏方に娠め
り、近臣小早川外記、吉川斎宮・元妃を奉じて遁れ来り尾池玄蕃(通称嘉
兵衛)光永の家に匿る。数日にして義辰を生む。遂に尾池を冒し、光永の
嗣と為す」
731無名武将@お腹せっぷく:04/01/21 03:24
義輝の子が輝若丸なんて名前からして嘘くさいね。

ところで日向綾の細川小四郎ってどういう系譜なんですか?
>>717
他人なのに似ていたから驚いたのでしょう
733無名武将@お腹せっぷく:04/01/21 12:04
>>730-731
丹波多紀郡(現・篠山市)にある誓願寺の開山・覚山天誉のことでしょ。
734無名武将@お腹せっぷく:04/01/21 12:11
>>732
そんなわけないじゃん、妄想も程ほどにね。
室町将軍。去年まで田舎公方だった
跡継ぎのため、性欲が出始める年になるとすぐに童貞喪失。
「役職やるから美女をくれ!」とか言うと大量の美姫が送られてくるし
マジお勧め
736無名武将@お腹せっぷく:04/01/21 12:33
義辰を義晴の子とすると、遅くても1550年には誕生しているはずであるから、1640年当時
には「若くても」91歳ということになり、いくら何でも茶屋に招くには年齢が高すぎる。
義辰を道鑑と同一人物とする説を採るとして、>>730の説に倣って義晴の子ではなく義輝
の子であるとするなら、義辰(道鑑)の生年は1565年となり、1640年当時には76歳となる
ので、年齢的には一応クリアという感じだが・・・
737無名武将@お腹せっぷく:04/01/21 14:06
>>735
美女ではなく美童をめぐって進退を危うくした足利義教はどうなるんだ?
738無名武将@お腹せっぷく:04/01/21 14:09
>>736
新説。
義晴には私生児がいたってのはどう?義輝の兄貴にあたる人。
>>738
その私生児って誰?義辰のことか?
740無名武将@お腹せっぷく:04/01/21 16:39
>>735
義澄あたりは童貞喪失よりも“処女”喪失の方が早そうだなw
741無名武将@お腹せっぷく:04/01/21 17:47
>>736
余談だけど・・・
ガラシャを斬った後に自刃した細川家臣・小笠原秀清(少斎)の孫、長之の
後室が足利道鑑の女なんだよね。
742無名武将@お腹せっぷく:04/01/22 13:21
足利義昭役と言えば、『国盗り物語』(NHK)の伊丹十三、『豊臣秀吉天下を獲る!』
(テレビ東京)の石橋蓮司、『秀吉』(NHK)の玉置浩二あたりがいいね。
>>742
足利義輝といえば、北大路欣也が演じたのが至宝か。
744無名武将@お腹せっぷく:04/01/22 15:56
鎌倉・古河公方はTVドラマ的には全然陽の目を見ないな・・・
北条5代(実質3代?)を扱ったドラマでもやれば、端役程度に登場するんだろうが・・・
745無名武将@お腹せっぷく:04/01/22 16:08
結局のところ、戦国期の室町将軍がそれなりに「腐っても鯛」みたいな感じで重宝がられたのは
なぜでしょうか?将軍の命令だって無視しようと思えば無視できたはず。
>>745
腐っても武家の棟梁だから
747無名武将@お腹せっぷく:04/01/22 16:19
>>745
下克上の世とは言いながら、一応、前時代的な政治秩序が残っていた時代。
自己の政治・外交・軍事行動を正当化していく場合には、形骸化したとはいえ、それが
「将軍の命令」という形をとっている限り、政治秩序の範疇で主と従の関係に則ったもの
であるから、敵対勢力に対して優位に立てたということでしょ。
とは言いながら、信長上洛の時点で足利義昭は将軍ではないんだよね。
あくまで将軍は義栄。
肝心の義栄は上洛できないまま・・・という矛盾
749無名武将@お腹せっぷく:04/01/22 16:55
義維、義栄、義助と上洛を果たせず・・・・結局、江戸末期になって子孫の義根が
自費?で阿波から上京したというオチがついてくる始末w
>>745
重宝がった主語はなに?
>>749
168 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:03/12/06 21:13
           ●
           |ニ| 
           |ニ| 
           |ニ|
      / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
    /    ■    ■  \   
   /                ヽ  ひとりで上洛が楽に行けるんだから
   l:::::::::               |  2万人をひとりづつ上洛させれば
   |::::::::::   (●)    (●)   |  楽に行けちゃうじゃん
   |:::::::::::::::::   \___/    |  ボクって頭イイー
   ヽ:::::::::::::::::::.  \/     ノ  
     \           /
752無名武将@お腹せっぷく:04/01/22 17:05
>>749
あれは「上洛」というより「お引越し」じゃないのか?
>>751
団体割引が利かないからかなりコスト高になりそうだなw
754無名武将@お腹せっぷく:04/01/22 17:16
>>753

135 :無名武将@お腹せっぷく :03/12/10 05:55
喜連川公方のプチ幕府?に対抗してるのか?
ttp://rekimin.hp.infoseek.co.jp/Prospect/html/KubouKanbungaku.htm
より引用。
>華山の弟子として、平島公方の家臣に、武衛頼雄、高橋言守、荒川為考、板東設、
>上杉頼竜、細川家則などの名が残っている。公方の家族として、義根の弟、義豊
>(号君王)、義恭(号君敬)の外に、兄、義智の未亡人が、琴和と号して漢詩を作り、
>「麗澤詩集」「日本詩選」などにその作品が載っている。琴和の侍女で小川という者
>の詩が「阿波詩壇」に残っている。この当時公方家は、詩人一家の観があった。そ
>の他、華山に師事し、栖龍閣に出入した詩人として、大仁錦水、山内半下、高橋赤
>水、富本済仲、僧才玄、僧浄本、小松島の服部彦豊などがある。

困窮を極める平島公方に家臣ハケーン!!!
「武衛頼雄」「高橋言守」「荒川為考」「板東設」「上杉頼竜」「細川家則」だって・・・
な〜んか前スレに登場した喜連川公方にも、“それらしき”人物の名があったが、
平島公方にも“それらしき”人物がいたということか。
しかも武衛(斯波)に上杉、細川ときたよw


この程度の人数なら、逆に団体割引を適用してもらえないんじゃないの?
>>754
>>上杉頼竜

「下間」の間違いではないよな?
756無名武将@お腹せっぷく:04/01/22 17:41
>>755
>>754の時代には生きてないと思うぞ、いくら何でも・・・
757無名武将@お腹せっぷく:04/01/22 17:47
>>749
義維の堺政権は室町期を通じてかなり異質な存在でしょ
758無名武将@お腹せっぷく:04/01/22 17:56
>>754に「義智の未亡人」とあるけど、どういう出自の女性が
阿波足利家に嫁いだんだろうね?
>>755
>>756
二代目とか、代々坊官が名乗る名前?
760無名武将@お腹せっぷく:04/01/22 23:15
>>759
下間頼龍は本願寺の坊官で、下間按察法橋頼龍と呼ばれた人物。
頼龍という名は別に代々世襲するものではなく、あくまで個人に付けられた名。
>>755
っていうか、なんでそこに「下間」が出てくると思うんだ?
らいりゅー
763無名武将@お腹せっぷく:04/01/23 00:30
>>762
名であれば「よりたつ」、号であれば「らいりゅう」だが、どこをどう見ても
姓は「うえすぎ」なんだが?
764無名武将@お腹せっぷく:04/01/23 01:45
>>743
北大路欣也の義輝は、確か高橋英樹主演の『織田信長』だね。
ちなみに『国盗り物語』での義輝役は竹脇無我。こちらも悪くなかったりする。
765無名武将@お腹せっぷく:04/01/23 02:06
足利モノの大河といえば、あの視聴率ワースト1位の『花の乱』を忘れちゃいけない。
ちなみに足利将軍家関係の配役は

■足利義教・・・・・・小林勝也
■足利義勝・・・・・・久我未来
■足利義政・・・・・・市川団十郎
■足利義視・・・・・・佐野史郎
■足利義尚・・・・・・松岡昌宏
■足利義材・・・・・・大沢たかお
■足利義澄・・・・・・羽江幹朗

その他の配役は

■日野富子・・・・・・三田佳子(少女時代は松たか子)
■山名宗全・・・・・・萬屋錦之助
■細川勝元・・・・・・野村万斎
細川陰陽師w
役者ネタは専門スレで。
768無名武将@お腹せっぷく:04/01/23 14:11
>>749
しかも明治維新の時点では主家を持たない浪人扱い・・・公方様なのに・・・
769無名武将@お腹せっぷく:04/01/23 15:17
>>765
義政の子供時代は、市川しんのすけ。
>>769
まさに大河ドラマではNGワードだなw
>>767
誘導するならネタを振れ!!!
772無名武将@お腹せっぷく:04/01/23 16:21
野村萬斎は確か『乱』(監督:黒沢明)にも出演してたな。
確か滅ぼされた大名の嫡男で、助命する代わりに両目を潰されたという役回り
だったような。
初めて見たときに武田信玄の二男・海野信親(龍芳)とダブッて見えたな。
姉君(宮崎淑子)と侍女に連れられて逃げるが、2人は付近の様子を見に行っ
たときに斬られ、彼ひとり生き残るという話の筋だったな・・・
足利義輝で大河めざせ!!
http://tv2.2ch.net/test/read.cgi/kin/1037380728/
774無名武将@お腹せっぷく:04/01/23 18:25
上洛のメリットって何?
775無名武将@お腹せっぷく:04/01/23 19:09
>>774
朝廷や公家たちを直接牛耳れる
776無名武将@お腹せっぷく:04/01/24 13:25
>>773
なかなかに妙案のようで・・・
>>775
首都東京に行政府を設けられず、茨城とか栃木あたりでギャーギャー
言ってても始まらないしな・・・
778無名武将@お腹せっぷく:04/01/24 13:39
>>773
応仁の乱直後の関東擾乱を描いた大河なら面白いかもな。
とすると足利氏としては古河公方と堀越公方、小弓公方などが
絡んでくるよね。
779無名武将@お腹せっぷく:04/01/24 18:52
>>754
時代から取り残されて・・・しかし、優雅なモンだな
780無名武将@お腹せっぷく:04/01/24 20:20
まあ、取り残されていたから可能だった?とも言えるんだろうが・・・
781無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 01:58
>>778
そうなると中心になるのは北条早雲・・・そろそろありそうな気もするな
>>781
それじゃ関東公方のドラマじゃない。
783無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 02:31
関東公方が主役になっても視聴率的には厳しいと思うぞ
>>781
【早雲時代】
堀越公方家……足利政知、茶々丸
【氏綱・氏康時代】
古河公方家……足利高基、晴氏、義氏(チョイ役で氏姫も?)
小弓公方家……足利義明、義純、基頼

といった面々の出演が期待できそう。
北条氏が関東を席捲する過程において、公方家とのお付き合いは外せないだろうし。
しかし、最初からそんな後ろ向きでいいんだろうか…
785784:04/01/25 02:50
【早雲時代】
古河公方家……足利成氏、政氏

を追加。
>>783
足利スレなんだから関東公方が主役のドラマを妄想したっていいじゃないかヽ(`Д´)ノ

たぶん、その通りなんだろうけど・・・
足利スレなんだから斯波義銀が主役のドラマを妄想したっていいじゃないかヽ(`Д´)ノ
>>787
『義銀の新・諸国漫遊記』とか
足利茶々丸VS早雲の抗争はある意味、マニアを惹きつけそうですな!!!

何せおじゃる口調の前髪公方ですからw
790無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 04:01
足利藤政について語ってくれ
語るまでもない・・・
792無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 04:29
>>790
天正2年(1574年)に関宿城が落城した後、藤政はどこ行ったんだ?
簗田持助と水海城に退いたにしても、その後、持助が北条氏に服従してる
からタダじゃ済まんだろし。
>>792
伊豆で暗殺されたんじゃなかったか?

ついでに、足利藤氏についても語ってくれ。
794無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 17:15
>>793
秦野で斬られたんじゃないの?藤氏
795無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 18:27
上杉謙信は、足利藤氏を奉じる前に近衛前久を関東公方に据えようとしていたらしいね。
(いろんなところに顔を出すね、前久も・・・)
もし、それが事実だったとすれば、謙信自身は関東公方・足利氏&関東管領・上杉氏とい
う構図をそれほど重視していなかった、言い換えれば、彼の中では関東公方・足利氏の復
権よりも、関東管領としての北条氏排撃と、傀儡政権を擁しての関東支配の方に重きが置
かれていたということになる。
796無名武将@お腹せっぷく:04/01/26 00:01


  ま た 前 久 か い !

797無名武将@お腹せっぷく:04/01/26 00:07
>>795
藤氏が斬られた途端、関東から北陸に作戦地域を切り替えたよね?>謙信
798無名武将@お腹せっぷく:04/01/26 01:15
晴氏は病死ということになっているが、時期的に見て・・・という気も起こるね。
799無名武将@お腹せっぷく:04/01/26 03:32
謙信の北条氏に対する軍事行動としては、北条氏康により甥の足利義氏が古河公方
に擁立された直後の1560年に里見氏、佐竹氏の要請に応じて三国峠を越えたことに
始まる。
古河公方家の家宰的立場にあった梁田氏を帰順させるために足利藤氏の擁立を決め
ており、この時に>>985の「近衛前久擁立」を断念した。
恐れをなした義氏は関宿から逃れて鎌倉に落ち、謙信は10万余の軍勢で小田原城を
包囲したが攻略できず、鶴岡八幡宮で関東管領就任式を行っている。
謙信は越後に向けて退却する際、藤氏、前久、上杉憲政らを古河城に残している。
その後、関東諸将の離合集散を繰り返したため、戦局は上杉軍にとって決して芳しい
ものではなく、1562年に北条軍は古河城を攻撃して藤氏を捕らえ、伊豆に幽閉した後、
1566年に殺害している。(憲政は辛うじて古河城を脱出した)
北条氏はその後、戦局を優勢に進めて武蔵のほぼ全域、下総の大半を領有、戦線は
常陸、上野、下野に向かって拡大していった。特に常陸、下野侵攻のためには水運に
適した古河、関宿を掌握する必要があり、1565年になると梁田氏の守る関宿城に対し
て攻撃を開始した。梁田氏は先鋒の太田氏資を撃退、ついで氏康本隊を撃退。ここに
上杉軍が来襲するという報が入り、関宿攻略を断念している。(第1次関宿合戦)
謙信はその後、臼井城の攻撃に失敗。一方、1566年に藤氏が殺害されると、1567年
には簗田氏と北条氏との間で和睦が成っている。
800799:04/01/26 03:41
1568年に和睦が決裂すると、再び北条氏の関宿攻略(第2次関宿合戦)が始まるが、
この直後に「甲相駿三国同盟」が破綻、1569年には「相越同盟」を結ぶことになる。
政治的に孤立した梁田氏は藤氏の弟・藤政を擁立、さらに武田氏と同盟。これに基づ
いて武田氏は上野に侵攻を開始し、厩橋城の利根川対岸に砦を築くなど積極的な軍
事行動を起こすことになる。
再び事態が動いたのは1571年。氏康が死去する間際に、越同盟の破棄と相甲同盟
の復活を指図したことに始まる。これにより梁田氏は再び孤立。そして1573〜1574年
にかけて北条軍は再び関宿を攻撃、藤政は太田資正を通じて佐竹、上杉氏に救援を
求めることになる。
しかし、由良氏の離反により後詰ができず、10月、春日山城を出撃、佐竹、宇都宮氏
に応援を要請しつつ、武蔵忍、騎西、菖蒲の各城を焼き討ちし、北条軍の後詰を遮断
した。11月23日には下総藤岡に進軍したが、ここで佐竹義重が家臣の忠告を容れて、
謙信との同陣を拒むという事態が発生し、関宿救援軍の足並みが乱れてしまう。
この背景には、謙信がかつて佐竹氏をはじめとする反北条の諸将を反対を振り切って
「相越同盟」を結んだことへの不信感があり、結果、関宿城は北条軍の総攻撃を受け
て落城、梁田氏は水海城へと退去した。なお、水海城に退いた梁田勢の中に藤政が
いたかどうかは不明。
これに激昂した謙信は羽生城を破却して越後へと撤退。以後、関東に対して軍事行
動を起こすことはなかった。
801EZ版足利藤氏:04/01/26 09:03
そう言う人物なのか。
そこまでは知らずに、使っていた。
今回関東で玉縄落として鎌倉ゲットしたが。
携帯版信長だと、足利の名前使っている人結構多いな。
漏れみたいな実在の名前は少ないようだが。
802無名武将@お腹せっぷく:04/01/26 10:56
803無名武将@お腹せっぷく:04/01/26 14:04
里見氏も対北条戦略上、足利藤政を擁立していたよね。
藤政の弟・輝氏、家国も里見領内にあって反北条勢力に抗戦を呼びかけ
ており、それは1574年に簗田氏の関宿城が陥落するまで続いたようだね。
みんなも足利家の子孫かもよ。。
300年前に遡れば自分の先祖は30000人近くいるんだから
805無名武将@お腹せっぷく:04/01/26 16:20
里見義弘の正室ははじめ足利義明女(青岳尼)だったが、死去したのか離縁に
なったのか、後室には足利晴氏女(藤政の姉または妹)が迎えられている。
そのためなのか、義弘の時代には上総方面において古河公方系の輝氏、家国
たちが、安房方面(義頼領)において小弓系の頼純がそれぞれ保護されている。
しかしながら、藤政が義氏との政争に敗れ、義氏の古河公方としての正当性が
認められるようになると輝氏、家国の存在意義も薄れていったようだね。
806無名武将@お腹せっぷく:04/01/27 01:48
義弘と晴氏の娘の間には梅王丸という男児がいたが、義頼との家督争いに敗れて出家
している。義頼が古河足利家の血筋にあたる梅王丸を排除したことで、輝氏たちの去就
も決まったところがあるだろう。
807無名武将@お腹せっぷく:04/01/28 18:42
その当時には足利晴直の子、義勝(宮原御所)も里見領内にいたはず
808無名武将@お腹せっぷく:04/01/28 19:56
足利晴氏の兄・晴直(?〜1551年)は椎津城主・真里谷信政(1496〜1552年)
の庇護を受けて宮原(市原市宮原)に居住し、「宮原御所」と称している。
藤政と義氏の争いが一応の終結を見たのが1574年だから、時期的には晴直の
子・義勝(1530〜1596年)がこれに符合する。
信政が里見軍に攻められて自害(1552年)した後、宮原御所がどのような境遇
にあったかは不明だが、「宮原家文書」によると、里見義康が1588年12月に宮
原家に対して諸役免除の印判状を発給している点、小弓足利家の頼純を安房
において保護している点、義勝が頼純の甥(義勝生母は義明女)にあたる点な
どから、客将として遇されていた可能性もあるのではないか?
809無名武将@お腹せっぷく:04/01/28 22:33
義頼の嫡子・義康が小田原の役に際して三浦半島において発した禁制
には、足利頼純を鎌倉入りさせようという意図があったよね。
義康が義頼の政治路線を継承したとすれば、義頼は上総にいた古河公
方の傍系たちをそれほど重視していなかったんじゃないの?
何か寂しいところだな
http://member.nifty.ne.jp/YOGOKUN/miyaharago.htm
811無名武将@お腹せっぷく:04/01/29 05:10
>>810
>「天文年間に足利義舜がこの地に居住していた」
またびみょ〜な香具師が現れたな・・・
812無名武将@お腹せっぷく:04/01/30 20:46

房総ほど御所様だらけな地域も珍しいな・・・
まあ、これも北条VS反北条勢力の抗争があればこそだったわけだが
 
813無名武将@お腹せっぷく:04/01/31 00:29
初心者なのでこのあたりの人の系図を希望。
814無名武将@お腹せっぷく:04/01/31 01:39
>>813
このあたりってどのあたり???
815無名武将@お腹せっぷく:04/01/31 02:18
>>813
「?」って箇所もあるけど、とりあえずこんな感じで。
http://www.ksky.ne.jp/~atrbdg/siseki/kamakurakuboukeizu.htm
816813:04/02/01 00:08
>>815
サンクス。戦国末期の古河公方系の人物を知りたいの意図でした。
小弓御所の本家と古河公方の本家しか知らなかった者で。こんなに一族が多かっ
たのに子孫が残ってるの数家とは。
>>813
結果的に喜連川家、宮原家、蔭山家の3系統しか残らなかったことになる
818無名武将@お腹せっぷく:04/02/01 03:49
蔭山も義昭の子孫と同じで俗説じゃないの?
819無名武将@お腹せっぷく:04/02/01 10:27
俗説に限りなく近い話だけに、喜連川氏、宮原氏と同類には扱えないだろうね。
蔭山氏そのものは確かに存在しているし、後に徳川家康の側室として頼宣、頼房
を産む於万を輩出しているのだが・・・
なお、於万の養父・蔭山長門守(氏廣)は北条家臣で伊豆・河津城主。小田原の
役で豊臣軍の前に降り、没落している。
>>810
光圀は足利の血を引きながら足利を侮辱していたのか!
>>820
光圀は足利の血を引いてないんですけど・・・
822無名武将@お腹せっぷく:04/02/01 18:48
蔭山殿(徳川頼房の母)の実父は正木頼忠、蔭山氏広は蔭山殿の母親の再婚相手
>>820
>>819でも「於万の養父・蔭山長門守(氏廣)」と記載してあるぞ。
早トチリしちゃあいかん。
>>677
そうですか。朝倉滅亡後の鞍谷ですか、ふっふっふ。だいぶ興味出てますねー。
語りたいのはやまやまですが、ネタ残しのため少しだけ。
たしかに奥州にそういった類の話はあります。これは鞍谷(斯波)に限らず
朝倉方にも出羽に移住したという説もあるくらいで、越前を追われた旧朝倉縁者は加賀、能登、東北と、
また内容も確実なものから信憑性の低いものまで広くありまして、
鞍谷もご他聞に漏れずこの中に入ってたりします。

>>678
需要があればすぐ駆け付けます。

>>679
三戦はネタとマジレス、史板は考証でいいような気もしますね。

>>680
信長から禁制の発給を受けてますね。


そういや渋川あたりはどうなんでしょう?
>>825
まあ、このスレ的には斯波氏絡みの朝倉氏という切り口なんだろうね
826825:04/02/01 23:59
失敬!>>824に訂正
827無名武将@お腹せっぷく:04/02/02 02:45
>>819-823
蔭山殿については、正木頼忠を実父とする見方が主流だけど、後年に蔭山殿が
手厚く供養したのは養父とされる蔭山氏広のみで、頼忠のためには全くと言って
いいほど何もしていない。
このあたりから考えると、兄・為春(三浦/仕・紀伊徳川家)は頼忠の子であると
しても、蔭山殿については若干疑いの余地が生じてくる・・・と言えなくもない。
828無名武将@お腹せっぷく:04/02/02 18:05
>>824
斯波は将軍家と同格と称された足利一門だけに、このスレで展開してくれた方が
住人的には嬉しいんだけどね……

それに次スレも同じような方向性で立つだろうし
829無名武将@お腹せっぷく:04/02/03 02:49
渋川頼資
830無名武将@お腹せっぷく:04/02/03 05:52
渋川氏と言えば、今川了俊の後任として満頼が九州探題として下向した
けれども、大内氏、大友氏の援助で何とか限定的な九州経営が成り立つ
ような状態だった。
満頼の子・義俊が少弐氏によって追われるけど、後に斯波氏を継承した
義廉はその孫にあたる。
831無名武将@お腹せっぷく:04/02/03 16:24
板倉氏は渋川氏の末流という説があるけど・・・どうなんだろね?
関東もいいけどたまには義持とか義量の馬鹿殿を語ろうぜ
833無名武将@お腹せっぷく:04/02/04 00:12
>>832
前スレでかなり語り尽くした感じもするが・・・

それなら>>832がまず適当なネタを振ってくれ
許された持氏の子、永寿王はどうなったんだろうね
>>834
永寿王???
どうなったも何もないだろ、永寿王丸って足利成氏のことじゃねえか
おいおい、また関東に逆戻りやんけw
>>835
成氏ってなんすか?初心者の漏れに教えて
なるほど鎌倉府を再興して、ガキのときに既に上杉某を謀殺して幕府と
上杉との合戦に明け暮れて子孫は古河公方になったのね。なるほど。
ここで人気の喜連川家は、義教のかく乱がなかったら無かったのねww
>>836
一応、貼っておくからね。

【足利成氏】 永享10年(1438)〜明応6年(1497)
初代の古河公方。鎌倉公方足利持氏の男。嘉吉元年(1441)の結城合戦で、
結城落城とともに捕らえられ京都に送られたが、嘉吉の乱で将軍足利義教が
死んだため許され、宝徳元年(1449)、鎌倉に移り父持氏の跡を継いだ。
享徳3年(1454)、関東管領上杉憲忠を謀殺し、康正元年(1455)、上杉房顕
を武蔵国分倍河原で破った。しかし幕府の命をうけた駿河の今川範忠軍の攻
撃をうけ、鎌倉を捨て下総国古河に拠った。
以後、幕府・上杉氏また堀越公方政知と長く抗争を続けたが(享徳の大乱)、
文明9年(1477)に至って成氏は和睦を申し出て、同14年11月、京都の将軍
家と古河公方家の和睦(「都鄙の合体」といった)が成立した。
明応6年(1497)9月30日に没した。

出典:『戦国人名辞典』(新人物往来社)
甘やかし過ぎは良くないな
この初心者への対応ぶりはかつての姫(ry
>>839
しかし、本人が「足利義政」って書くのか?と素朴な疑問
844無名武将@お腹せっぷく:04/02/04 01:04
>>832
義持や義量のネタはどうなったんだ?
845無名武将@お腹せっぷく:04/02/04 01:34
846無名武将@お腹せっぷく:04/02/04 01:35
室町時代の奥州管領・探題諸家
斯波氏→のちの高水寺氏
石橋氏→のちの塩松氏
吉良氏→のちの蒔田氏
畠山氏→のちの二本松氏
石塔氏→没落
斯波氏別系→のちの大崎氏・最上氏
847無名武将@お腹せっぷく:04/02/04 01:58
>>845
板倉家、榊原家共々疑わしい空気が漂ってるな……
まあ、主君ですらいつの間にやら新田氏流になりすましているくらいだしw
>>847
ということは、松平家臣の吉良も怪しい。
織田家臣の柴田、蜂須賀は斯波一門。
>>848
このスレの前半で語り尽くされたかも知れんけど、三河の吉良家は本物。
むしろ蒔田家の方が途中から北条&今川傍系の血脈になってる。
>>849
まあ、世の中言ってみるモンだなw
852無名武将@お腹せっぷく:04/02/04 02:45
関東の板倉頼資は渋川一族らしいが、板倉勝重は怪しい。
853無名武将@お腹せっぷく:04/02/04 05:05
>>849
ついでに、池田、浅野は土岐一族か?
854無名武将@お腹せっぷく:04/02/04 05:06
>>850
江戸時代の蒔田家は、今川支流の堀越氏(今川了俊の子孫の家)から入った養子の子孫だからね。
855無名武将@お腹せっぷく:04/02/04 05:06
>>852
板倉頼資についての詳細キボンです
>>854
堀越貞基と北条氏綱女の間に生まれた氏朝が、氏綱女の再嫁した吉良頼康の
養嗣子になったという話ね。
頼康には実子がいたけど廃嫡された、という説もあるんだよね。
857無名武将@お腹せっぷく:04/02/04 05:31
>>853
おいおい・・・ここは足利一門、すなわち清和源氏足利氏流を語るスレなので、
やたら裾野を広げないでくれないかな・・・

ちなみに、池田氏は頼光流とも紀氏流とも言い、浅野氏は土岐氏流と言うが、
いずれも不明な点が多くて「?」状態
858無名武将@お腹せっぷく:04/02/04 05:36
今川了俊の弟・仲秋の系統は九州に土着したんだっけ?
859無名武将@お腹せっぷく:04/02/04 09:54
>>858
小城藩士秋永氏
860 ◆42.195kmAM :04/02/04 10:46
861 ◆42.195kmAM :04/02/04 11:40
新田源氏もダメ?
>>861
岩松、桃井のみ可
863無名武将@お腹せっぷく:04/02/04 15:39
>>861
>>1を読んでくれや・・・当然、除外対象だな
>>842
謙虚に頑張るようにします。
865無名武将@お腹せっぷく:04/02/04 21:23
>>856
吉良頼康の養嗣子氏朝の室も北条氏康の娘でしょ?
なんか足利晴氏、義氏父子もそうだけど、何か北条の婚姻政策の餌食だな・・・
>>839
売れたみたいだね
867無名武将@お腹せっぷく:04/02/04 23:13
>>865
餌食とは言いながら、やるべきことはやってるんだよなw
868無名武将@お腹せっぷく:04/02/05 00:15
>>865
それを言うと足利氏姫の生母が北条氏康の娘であるから、喜連川足利家には義親−
尊信−昭氏−氏信(昭氏弟)までは北条氏の血が流れていたことになるな。
ちなみに庶流の宮原家には、義久室に武田勝頼の娘、貞姫が入っており、彼女の産
んだ晴克の孫、氏春が喜連川足利家を継承しているので、そこからは氏春−茂氏−
氏連までは武田家の血が流れていたことになる。
869無名武将@お腹せっぷく:04/02/05 02:32
>>862
岩松氏の場合は父系が足利義純だけに微妙なところがあるけど、結局
のところ新田氏流になるんだよね。
(まあ、このスレ的には可なんだろうけど)
岩松氏の祖・時兼は、足利義純と新田義兼の女の間の子ではあるが、
父・義純は生母の身分が低かったため足利領内に所領を得られず、妻
の実家である新田氏から岩松郷に所領を与えられる形となっていた。
ところが義純が畠山氏を継承することになったため、時兼は母と共に新
田荘に残り、成人して新田氏流・岩松氏を名乗るようになったと。
870869:04/02/05 02:40
岩松時兼の弟?・時朝からは田中氏が興っているので、こちらも一応、
対象に加えておいた方が良いかもね。
871無名武将@お腹せっぷく:04/02/06 02:54
>>855
蕨渋川氏の重臣でしょ?
872無名武将@お腹せっぷく:04/02/06 04:11
873無名武将@お腹せっぷく:04/02/06 04:13
>>861-862
このへんの家は難しいぞ。

岩松氏→男系では足利一族だが、準新田一門。
山名氏→男系では新田一族だが、準足利一門。

あと、桃井氏は最初から足利一門の扱いのはず。
>>873
桃井氏は新田を冠している
875無名武将@お腹せっぷく:04/02/07 05:30
>>873
準新田一門だの準足利一門だのという括り方は現実にはあり得ないんじゃないか?
876無名武将@お腹せっぷく:04/02/07 07:23
>>874

桃井(足利四郎)義胤―頼氏―頼直―貞頼―直常(越中守護)―直和…
という系譜であるならば、新田氏というよりは足利氏の庶流に属するんじゃないか?

どの時点で新田氏族を称するようになったのか詳細求む。
877無名武将@お腹せっぷく:04/02/08 01:27
桃井氏の末裔という説もある(かなり疑わしいが・・・)温井氏は、清和源氏足利氏流
を称しているけどね
山名って足利一族なんか???
879無名武将@お腹せっぷく:04/02/09 01:03
>>858-859
駿河今川家の庶流というと、吉良長氏の孫・今川基氏の弟・経氏の関口氏、
俊氏の入野氏、政氏の木田氏あたりかな。
遠江今川氏の庶流は、基氏の孫・貞世(了俊)の系譜から瀬名氏、堀越氏、
庵原氏、九州の仲秋の系譜が加わってくる感じか。
880無名武将@お腹せっぷく:04/02/09 01:19
>>879
小鹿氏もお忘れなきよう・・・
新田、足利兄弟の父、義国も足利〜と名乗っていた事もあった。
新田氏も足利一門のうちに強引に入れてもよいのでは。
>>881
新田氏は新田氏でスレ立てなよ
>>881
新スレ立てましたのでこちらへどうぞ

【山名・里見】新田一門総合スレッド【岩松・得川】
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1076262187/
884無名武将@お腹せっぷく:04/02/09 03:05
>>883

得川って・・・w
スレ違いかもしれないけど、言葉にかんする質問いいかな。
信長の野望オンラインつーMMOのSSかいているんだけど、
朝廷からの命令>朝命
(足利)将軍からの命令って何か特別な言葉あるんでしょうか?
普通に下命でいいの?
>>885
「幕命」とか?
887無名武将@お腹せっぷく:04/02/09 03:53
>>879-880
他にも蒲原氏、持永氏、加々爪氏、新野氏、那古野氏、名和氏、二俣氏
などが今川氏の一族になるな。
>883
「得川」は新田流で間違いないだろが。「徳川」じゃあるまいし。
「徳河」でも新田流だしな。
スレ違いなのでsageだが・・・
徳川家は「新田義重の子、義季が得川姓を称したのが始まり」ということにして
いるな。
だが、義季の子は頼有(得川)と頼氏(世良田)の2系統に分かれ、「徳川家譜」
では義季−頼氏と繋げている。
得川氏は得川郷、横瀬郷を領有していたようだが、世良田氏が新田家の惣領権
を継承し、鎌倉に出仕するほどの実力を有していた点からすると、得川頼有は長
庶子と見るのが適当で、父である義季が庶流の得川姓を称するとは考えにくく、
新田姓ないしは世良田姓を称していたと思われる。
また、系図を義季−頼有ではなく義季−頼氏とすると、世良田頼氏以降の系譜
に「得川」「徳河」「徳川」を称した者がいない点から、徳川家の系図誤認?の可
能性が出てくる。
>>888
新田氏流だから>>883では【岩松・得川】と括ってるんじゃないのか?
あるいはレス番間違いか?
891無名武将@お腹せっぷく:04/02/09 10:53
某漫画で義昭が本福寺で義輝と同じ事して、生き残ったのには萎えた
一つ提案。

もうネタも尽きたようだし、このシリーズはこれで終了する形をとらない?
無理して続けても、ネタが無くなったマンネリスレになるからね。
故事にも丁度いいところで隠居して成功した例もあるし、ここまで良知識の
集うスレが、いずれ荒らされると思うと忍びないし
>>891
堅田本福寺?
>>891
義昭も義輝と同じく、剣豪から剣術を習っていたんだっけ?
幻の八巻の漫画だよ
896885:04/02/09 17:40
>>886

なるほど。ありがとうー!
>>896
揚げ足取りみたいになるが、朝廷からの命令は”勅命”または”勅令”
>>897
そりゃ「朝廷」じゃなくて「天皇」だ。
朝廷なら「朝命」で合ってるよ。

>890
>>884の間違いでした。スマソ。
スマソ・・・折角だから書かせてくれ。

勅命は詔(みことのり)とも言って、正式に帝が下す命令
勅令は政治的に法規を定めるときに使われる。要するに法律とか作るときに使う。
総理大臣も、最高裁判官、法律の適応も一応、勅令によって任命されている
綸旨は帝ご自身の私意
どうも例の信長っていう漫画は義輝と義明を混同している気がする。
>>899
綸旨と宣旨を混同するなかれ。その他は同意
>>901
だな。スマソ
将軍からの命令は、ふつう「台命」と言うなぁ。
904無名武将@お腹せっぷく:04/02/10 14:05
>>892
じゃあ・・・

【山名・里見】新田一門総合スレッド【岩松・得川】
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1076262187/

こちらでしばらくお茶を濁しますか・・・
りんじ 【▼綸旨】

〔「りんし」とも。綸言の旨の意〕
(1)天皇の意を体して蔵人(くろうど)や側近が発行する奉書形式の文書。
  平安中期から南北朝時代に多く発行された。
(2)天子などの命令。 →綸言

せんじ 【宣旨】

(1)平安時代以降、天皇の命を伝える文書。詔勅に比して内輪のもの。
  内侍(ないし)が勅旨を蔵人(くろうど)に伝え、蔵人が上卿(しようけい)に伝え、
  上卿が外記(げき)または弁官に伝え、そこで文書にした。
(2)天皇の言葉を蔵人に伝える女官。また、広く女官のことをもいう。
   「故院にさぶらひし―のむすめ/源氏(澪標)」
906無名武将@お腹せっぷく:04/02/10 16:42
>>892
>もうネタも尽きたようだし、このシリーズはこれで終了する形をとらない?

別にネタ切れでもないだろ。
足利義康以降の嫡流、庶流を隅々まで語ればネタは十分すぎるほどある。
907無名武将@お腹せっぷく:04/02/10 17:22
>>900
確かにw
汗だくになりながら三好勢を斬って斬って斬りまくってたなw
そうか。
では再開しよう。
909無名武将@お腹せっぷく:04/02/10 21:00
>>889
徳川幕府公式見解では、世良田氏は親季の時代に頼有系の得川氏の旧領を合わせて継いだとされ、その際に親季が一時期だけ得川(徳川)姓を名乗っていたというのが、家康の徳川改姓の根拠らしい。
ちなみに、松平家が家康の祖父・清康の段階ですでに世良田氏末裔を名乗っているのは事実。

義重(新田)−義季(得川)−頼氏(世良田)−教氏−家時−満義−政義−親季(得川)−有親−親氏(松平)
みんなよ、太閤記の時代の足利一門について語ろうぜ
太平記ね。
912無名武将@お腹せっぷく:04/02/10 23:12
直冬の子孫は、嘉吉の乱であぼーんでOKですか。
913無名武将@お腹せっぷく:04/02/10 23:51
>>912
赤松満祐に担がれたのは冬氏(義尊)だっけ?
京極高知は毛利秀頼の養子なのか。
915無名武将@お腹せっぷく:04/02/10 23:56
>>914
女婿だね
916無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 00:07
>>913
冬氏=義尊なのかということは、直冬の子で終わりかよ。
>>916
満祐と一緒に死んだかどうかは定かじゃないよね。
逃亡したという説もあるし。
918無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 00:37
>>910

太閤記時代の足利家といえば・・・

天文5年(1536年)〜慶長3年(1598年)の足利家の動向を語ればいいのか?
吉良義昭
920無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 01:23
>>918
天文5年というと・・・足利義晴の時代だろ。ちょうど義輝が生まれた年でもある。
ちなみに関東では、晴氏が前年に関東公方(古河公方)の座を継承したものの、依然
として小弓公方と抗争状態にあった時期。
しかし朽木谷ってどんな所なんだろ? そんなに逃げやすい所なんだろうか?
>>921
山と山に挟まれた川と河川敷。事実上平地がない。
朽木村に入ってしまえば少しは平地があるのだが、それまでは
十数キロも細い谷が続く。
>>921
写真のあるページ見つけたよ
ttp://www.biwa.ne.jp/~kido/
924無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 02:58
>>921-922
朽木谷は田畑が乏しい分、森林資源を生かした林業が盛んだったようだね。
>>921
朽木氏が領した高島郡朽木荘は山間の荘園ではあるが、京に比較的近い
うえに若狭と京都を結ぶ交通の要衝でもあった。
長禄2年(1458年)に足利義政は朽木氏に朽木荘を安堵しており、2年後の
長禄4年(1460年)には幕府の御料所となり、年間100貫文を貢納させてい
たとか。この結果、朽木氏は奉公衆として将軍家に仕えるようになった。
926無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 17:12
御料所ってあんまりいい響きじゃないなw
「返せ」と言われて、「しょうがねえなぁ・・・」と思いながら返すネガティブな
イメージw
朽木谷の話題が出たって事は漏れが出した「信長」の影響だろうか……
928無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 20:08
>>927
松永久秀と仲良しの髭モジャ元綱ね、確か
929無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 20:41
義晴が朽木氏を頼ったのは六角氏の縁故らしいけどね。
朽木氏の陣屋(朽木谷館?)の中に将軍用の居館があり、義晴、義輝がそこで政務を
執ったという。
>>929
居館って……言ってみればメール部屋みたいなもんか?
六角氏の縁故ってのはバサラ大名時代の話か?
道誉ってどうよ?
933無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 21:59
義晴は朽木氏の忠勤に感謝して御供衆に加えてるな
義昭と朽木元綱がどういう関係にあったのかは知らないが、信長が朝倉攻め
の際に浅井長政に裏切られて撤退するときには、信長の朽木谷通過を許して
いるよな
義昭プロデュースの信長包囲網なのに、義昭に不利益な行動を取っているわ
けで・・・
義昭の幼稚な理由で愛想を尽かしたんじゃない?
本願寺も武田も私怨で参加したに過ぎないし
戦前まで華族が居たって事はプチ幕府喜連川も居たって事だよな?
300年前の威光で食えるなんてうらやますぃ……
>>935
喜連川足利氏の場合は300年どころの話じゃねえだろ
>>934
朽木谷は京から程近い交通の要衝であり、また朽木氏が幕府に仕えていた関係上、
松永久秀をはじめとして多くの知己を得ていただろうから、将軍家と織田家を秤にかけ
て客観的な判断を下すに足る情報を持っていた可能性はあるだろうな
将軍様が逗留している場合、諸大名からの使者と応対するのは保護勢力の
務めだからね。
毛利も義昭を鞆に匿っていた時には同じことがあったらしいし。
平安、地方豪族が官位を貰って正式に土地を治める→中央以外は殆ど変わらず室町↓
織田信長で近畿古大名は殆ど壊滅→豊臣秀吉で卑民上がりが大名なる→東軍大名栄える

ああ、下克上ってそういう意味もあったのか。。。
にしても1000年以上普通に暮らせるなんていいな
朽木は幕末まで朽木谷を支配したのだよな。
鎌倉時代から京都近くの要地治めながらよく生き残れたものだ。
941無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 23:44
そのあたりは畿内の情報収集に長けてた朽木氏ならではの処世術でしょ
誰をヨイショすればいいのかをよく心得ていたということなんじゃない?
942無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 23:57
最初の朝倉攻めの時点では、義昭と信長の仲はこじれておらんわい。
明確な敵対行動に出るのは、もっと後。
943無名武将@お腹せっぷく:04/02/12 01:08
信長の野望ではついつい朽木元綱で朽木谷に引き籠ってしまうな
周辺の大名や諸勢力と仲良くしてると案外、生き残れるから不思議・・・
将軍家で言えば近江、関東(古河)公方で言えば上総、小弓公方で言えば安房がそれぞれ避難場所
ということになるわけだな
945944:04/02/12 03:46
阿波公方はちょろっと内地に来たけど、それ以後は阿波に避難したまま土着化したと
>>943
随分とマニアックな大名選ぶね。
947無名武将@お腹せっぷく:04/02/12 11:23
>>945
足利義維が約5年間、堺政権として担がれていたけど入京できず、
義栄がやはり入京できないまま7ヶ月間だけ征夷大将軍……

ホント、「ちょろっと」と言うに相応しい内地生活だね……
948無名武将@お腹せっぷく:04/02/12 11:43
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/kutuki.html
朽木家も大したもんだよ。
何人も将軍家から偏諱を受けてるし。
まあ、将軍家が貧乏で名前ぐらいしか褒美をやれなかったんだろうけどw

ところで将軍家が売った名前(偏諱)の値段が分かる資料ってありますか?
義輝だと「義」と「輝」では随分値段が違ったらしいのですが。
9491/5:04/02/12 19:44
信玄「さてと!さっそくオラから闘わせてもらおうかな!」
承禎「え?い、いきなり信玄殿から始めなくても・・・」
信玄「いいだろ?謙信」
謙信「好きにしろ、どっちにしてもフィニッシュをきめるのはこのオレだ・・・・・・」
氏真「・・・・・・」
義昭「か・・・、勝手に順番を決めるんじゃないっ!!!」
氏真「あ・・・あの・・・、もしかして君たちこの織田ゲームに出場するつもりなのか?」
信玄「そうだ、全員じゃねえけどな」
氏真「悪ふざけはいいかげんにしたまえ!!これはお遊びじゃないんだよ!!
キミたちはなにもわかっちゃいないんだ!!!」
長政「わかってねえのはそっちだろ・・・」
義昭「ふっふっふ・・・こいつは驚いた・・・この征夷大将軍である足利義昭のことを
よく知らない無知なイナカ者がまだいたとはね・・・」
氏真「彼は室町幕府の第15代将軍なんだよ!源氏の長者なんだ!残り湯を飲めば病気が治るんだよ」
長政「信玄殿、いいからまずあいつにやらせてやれ」
信玄「い・・・いいけどさあ・・・」

9502/5:04/02/12 19:46
信長「時間だ、どいつからでもいい、さっさと出ろ」
義昭「とうぜんオレだ、オレに決まっている」
信玄「おめえ討ち取られっぞ、わるいこといわねえからやめとけって」
氏真&義昭「ふうっ・・・」
氏真「おい武家伝奏、ちょっとあのドアホのことをみんなに伝えてくれ」
武家伝奏「はい」
氏真「私の耳には幕臣達のやれやれという声がきこえてくるようです、
この男はいま義昭公にむかってなんといったかおわかりでしょうか?
なんと言うにことかいて「おまえ討ち取られるぞ、悪いことはいわないやめておけ」こう申したのです!」
幕臣達「アホかーっ!!おまえなんかすっこんでろーっ!!」
長政「まあいいからあのバカのスキにやらせておけよ、あいつが殺されたって大勢に影響ないんだから」
信玄「やれやれ・・・しょうがねえな・・・」
氏真「あ!やっとなっとくしたようです、といってもあたりまえのことです、彼は気付いているのでしょうか
命びろいしたことに。わけのわからない連中に迷惑顔の義昭公、気をとりなおしてやっと試合開始です!!」
951流星号:04/02/12 19:48
足利義明どこだ〜い
9523/5:04/02/12 19:49
氏真「甲冑を着けそしていま・・・栄光の足利二つ引の旗印も掲げました!!
さあーーーいよいよです!!!いよいよ織田ゲームが始まるのです!!
天下の趨勢が定まるこの勝負ですが、われらの征夷大将軍足利義昭公は
とても楽しみにこの日を待っていたと試合前にたのもしいコメントを語ってくれました!!!」
氏真「おや義昭公なにやら懐からとりだしました・・・おっと西陣織です!
雅な西陣織の布がでてきました!!さてその布の中には・・・!紙だ!!
美濃紙がはいっていた!!義昭公そして墨をていねいにすります!!」
長政「あちゃ〜・・・」
弾上「おいおい・・・もしかして」
氏真「すり終わりました!!美濃紙の数は1・・・2・・・3・・・15枚!!15枚です!!!
15枚の美濃紙を前に筆にたっぷりたっぷり墨をつけ始めました!!!」
義昭「ふっふっふ・・・」
氏真「そして精神統一です!!義昭公、力を集中させております!!
ここはちょっと静かにしていましょう・・・」
義昭「ずおりゃああああ・・・・・・!!」
氏真「あーっ、1枚残ったーー!!だがすごい!!
すさまじいまでの速記力です!!!14枚です!!
なんと14枚の美濃紙が諸大名に挙兵を促す御行書に早変わりしたのです!!」
義昭「ふうっ」
幕臣達「うおおおおおーーっ、すっすげーー!!すげえぞ義昭公ーー!!!」
9534/5:04/02/12 19:51
信長(・・・・・・ホンモノのバカだ・・・)
義昭「信長!!!この14枚の御行書をみるがいい!!」
義昭「これが1刻後に・・・きさまを討ちに来る諸大名の数だ・・・」
幕臣達「わああああーーっ!!いいぞーーっ義昭公!!義昭公!!」
氏真「しびれました!!さすが将軍義昭公!!!わたしはいまはげしく感動しております!!」
義昭(きまった・・・いまのはおもったとおり猛烈にきまったぞ!!
やはり梶尾城で挙兵しておいてよかった・・・!!)
氏真「びびっております!!でかいことを言っていた信長もさすがに
いまの義昭公の速記力をみてしまってはびびるしかありません!!
しかしいまさら謝ってももう遅い!!
日ノ本の皇民は信長の非道を許しはしません!!!」
義昭「よし来ーーーーーーーい!!!」
氏真「さあーっ!!いよいよ天下の趨勢を賭けた織田ゲームがいま始まりました、
全国蹴鞠選手権ブッチギリダントツ1位の義昭公対信長!!
たくさんの人命を奪った信長に正義の鉄槌が炸裂しますーーーっ!!!」
幕臣達「義昭公!!義昭公!!」
氏真「ルールはカンタン!!このリングから逐電したら負け、降参しても負け、
そして討ち取られても負けです!!さあー義昭公!できれば信長を討ち取って勝って欲しい!!」
9545/5:04/02/12 19:52
義昭「はあああーーっ!!!」
氏真「あーーっと、でたーーー!!!義昭公いきなり大技だーーー!!!
ダイナマイト御行書を諸大名に発給ーーーっ!!!
はやくも勝負がきまってしまったかーーーっ!!」
氏真「うおおっ!!義昭公発給の手を休めようとしません!!発給しまくりです!!
信長茫然自失!!手も足もでませーーん!!速い!速すぎます!!
さすが将軍義昭公です!!!」
義昭「だはははははーーっ!!!」
信長「うるさい!」
氏真「あれ?」
長政「ふうっ・・・正直いってさあいまオレちょっと信長を応援しちゃったぜ・・・」
義昭「お・・・・・・おうっ・・・・・・いたっ、いだだだだ・・・!!」
弾上「ち・・・生きていたか・・・
さすがの信長もあんなのを殺すのはイヤだったようだな・・・」
承禎「・・・・・・」
幕臣達「・・・・・・(し〜ん)」
氏真「リ・・・リング外に落ちてしまった・・・あ・・・あの・・・
よ・・・義昭公…負けてしまいました…」
信長「さあはやく織田ゲームを始めるぞ、どいつからやるんだ、やはり信玄おまえからやるのか」
信玄「ああ、そうだ」
氏真「も・・・もしかして・・・こ・・・これで幕府はおしまいなのでは・・・・・・・」
義昭「あた、あだだだ・・・」
氏真「よ・・・義昭公、な・・・な・・・なんで負けてしまったのですか?」
義昭「ちょ、ちょっと足をふみはずしてしまったのだ・・・」
氏真「ふっとんだようにみえましたが・・・・・・」
義昭「心配せんでもいいぞ・・・ちょっと休憩したらこんどは本気で発給してやる・・・!」
謙信「あ・・・あいつまだレベルの違いに気づいていないのか・・・
バ、バカの征夷大将軍だ・・・・・・・!」
>>949-954
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・なるほど
956943:04/02/12 23:37
>>946
朽木元綱でプレイ(蒼天録)する場合には、元綱の孫くらいまで登録して、一門以外
の武将はあまり登用しないな
独立大名or足利家の城主としてひたすら我が身の保身に走るけど、同盟だらけで
周辺の大名が通過していくばかり・・・
>>944
おまけに上総には古河庶流の宮原義勝父子まで・・・
最初は真里谷(武田)信政に招かれて宮原御所を称したが、信政が討たれた
後も宮原の地に居残り、里見義康からは諸役を免除されている。
次スレは980〜990くらいになったら立てるとするか・・・
959無名武将@お腹せっぷく:04/02/13 17:47
>>948
なら、『相良文書』などはいかが?
ちなみに第12代将軍・義晴の場合は、「義」が礼金100両、「晴」が30両
だったとか。
ホントかどうか知らないけど。
おそらく朽木氏に対しては宿泊料代わりに「晴」や「輝」の一字を
与えてたんじゃない?
>>960
朽木は戦争で名前代を支払ったのか。怖い奴らだ。
最近、流行ってるな・・・朽木ネタ
次スレでは南北朝時代の足利家を語りたいな
>>962
いまは「生き残り」が注目を浴びる時代なのだろう。
965無名武将@お腹せっぷく:04/02/13 21:57
近衛稙家(元関白・大乗大臣)なども足利義晴と共に朽木谷館に逃れているよね。
義晴の正室が稙家の妹だったからのようだけど。
966965:04/02/13 21:58
×大乗大臣
○太政大臣
>>964
確かに「生き残った」という事実は大事だな
>>963
南北朝って三戦板的にはどうなの?範疇に収まるの?
まあ、このスレに関しては「足利義康以降」が対象のようだから全く問題
ないとは思うが?
969無名武将@お腹せっぷく:04/02/13 23:40
公方様の避難所でも、里見の場合は偏諱貰ってないよね?
代わりに娘貰ってるけどw
佐々木道誉とのその後の関係とか知りたい。
971無名武将@お腹せっぷく:04/02/14 14:49
>>948
偏諱を受けたのは・・・稙綱、晴綱、藤綱、輝孝と随分いるな。
それにしても元綱の世渡り人生も凄いものがある。はじめ六角承禎・義治父子に仕え、
次いで足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と主家を乗り換えまくってる。
小勢力が生き残るために必要な「嗅覚」に優れていたんだろうな。
そのあたりは藤堂高虎に通じるものがある。
972無名武将@お腹せっぷく:04/02/14 16:45
朽木は奉公衆になっているから偏諱貰ってるんでしょ。
973足利義尋:04/02/14 17:48
次スレ立てました

【御所様】足利一門総合スレッド2【公方様】
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1076748393/
>>971
朽木は自分で乗り換えているが、高虎はどっちかって言えば乗り換えさせられている観が強い。
975無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 00:39
>>973
はぁ?もう立てたのかよ・・・ちゃんと責任以って埋めろよな
976無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 00:42
日本史板の住人が立てたらしいな……クソ幻滅……
>>976
ハゲドウ
978無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 00:48
958 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/13 02:42
次スレは980〜990くらいになったら立てるとするか・・・

日本史板の香具師って本当にモラルがないな
ろくに埋めもしねえし
990くらいになってから立てりゃあいいんだよ
日本史厨がしたのは参考だけ。
無視しろ
まあまあ、大切なのは中身だ。
それを修正すれば使える。
あと20・・・どうするんだ?
日本史板の足利関連のスレッドはレベル低いからな

少しくらいスレタイ変えろよ・・・ホント、芸がねえな、日本史厨は。
984無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 00:58
別スレ立てたい心境だな・・・
別のコンセプトで新スレ立てるか
「足利幕府奉公衆を語るスレ」とかさ
986無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 01:24
早く埋めろや、日本史厨・・・
987無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 01:30
どうせなら叛旗を翻して関東公方で独立スレ立てるか?
どうせなら
足利一門と”御供達”で新スレをたてようよ。
989987:04/02/15 01:37
【鎌倉公方】関東騒乱を語るスレッド【古河公方】
とかどう?
「室町幕府の奉公衆について語るスレッド」では?
991無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 14:50
海驢が一文
>>991
意味分からん・・・
993足利義尋:04/02/15 16:32
次スレは>>980-990でござったかあいすまん。

>>983
日本史板より三戦板の比率の方が高いが何か?

>>984
三戦のそういうところが嫌い。
特にスレタイが気に入らんからと立て直そうとするその頭の悪さ
>>993
新スレ、乙。
日本史云々など少人数を除いて、誰も気にしちゃいないからほっとけ。
どうせ日本史で過去に叩かれた私怨だろw しかもみんな寝てる時間に一人騒いでるのな
1時でお眠とは健康で良さそうですね。
997無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 18:59
うめれ


元綱      , - ' ゙    `` ‐ 、_,,,,,
   ,r'          /=ミ
  /           彡ll',''´
. /             彡lll
 !-- .、    ,、、、、,,,   彡lノ
 l,,,,,__ /   ___     'r''゙ヽ
. |`゙'' ./   `'゙'''"    .〉,l |
 |.   ,'           //
. ',. ,'           , r'
.  ゙, ゙'ー ‐`      l  |
   ゙、''゙ ,,、二''‐    ノ  l、
''''''''7'ヽ  '''    /   /`〉`゙T''''''''''
  l  ` 、,,,,、- ' "    / /.|  |
.  |  |  .l i       / ./ |  |
  |  |  | l      / ./ .|  |
. |  |   | l     / /  |  |
 |  |   | ',   / /  l  .l
10011001
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。