【初心者用】横光三国志を読む【解説付】

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下記「■●三国志初心者の私●■」スレから派生した
三国志初学者がマタリと横光三國志を読む講読スレッドです。
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1058260832/

専属講師もいらっしゃるので質問のある方はテキトに投下ヨロ。
(横光に直接関係しなくても構いません。正史演義ネタはむしろ歓迎)
ま、マタリといきましょう。
まったり2get
<第一回・黄巾族の乱>
劉備が洛陽船を待って黄河をぼんやりと見ている。
不審に思って近づく農民や兵士たちに
自分はタク県に住むむしろ売りで、
母親のためにお茶を買おうとしていることを話す。
彼らは劉備に黄巾党が出没しているので気をつけるように言う。

洛陽船がやって来る。
劉備の持つ銀は少なかったが、船主は快く茶を分けてくれた。
感謝しながら、劉備は近くで宿を借りて休むことにした。

と、その夜街に黄巾党がやってくる。
荒らされる街を眺めて、劉備は黄巾族に対する怒りを感じるが、
しかし馬元義という男につかまり、荷物持ちをやらされてしまう。

食事を取る為に馬元義たちと劉備は寺に立ち寄る。
その和尚に出自を尋ねられる劉備だが、しかしその時の劉備は
自分に漢王朝の血が流れていることを知らない。

馬元義と劉備は寺を離れる。
馬元義も寺の和尚と同じように劉備に何かを感じていたので、
黄巾族の仲間に入るように促す。
そして、黄巾党とその総大将である張角の説明をはじめた。
張角は鉅鹿郡の出身で、稀世の秀才と呼ばれていた。
彼はある日山へ薬草を取りに出かけると、
南華仙人と名乗る老人から『太平要術』という書物を渡される。
そして街に疫病が流行りだすと男には金仙丹、女には銀仙丹、
赤ちゃんには赤神丹を与え、病を治してやる。

彼の噂はあっという間に広がり、あちこちから弟子が集まってくる。
彼らはみんな張角を真似て、髪を黄色い布で結わえていた。
張角は大勢の弟子を階級分けし、自分は「大賢良師・天公将軍」であるとした。
そして「蒼天已死 黄夫当立 歳在甲子 天下大吉」という旗を掲げて蜂起した。

彼らを討つための兵を送るように皇帝の元へは急使がひっきりなしに送られたが、
しかし皇帝・霊帝はまだ幼く、彼を支えるはずの重臣たちは堕落しきっていた。
そのために兵は送られることはなかった。

そんな最中、霊帝の目の前に一匹の蛇が落ちてきた。
家臣達は驚き、その蛇を殺してしまうが、その途端いきなり空が曇りだし、
雷がなり、それから三日三晩大雨が降り続き、洛陽の街は大洪水になった。
人々はますます動揺し、黄巾党はその勢力を拡大していった。

<第一回・終了>
あらすじ、こんな感じでよかったでしょうか?

誰か早く来てくれないかなぁと思いつつ…
7冠礼 ◆.eGBa5cGo2 :03/08/07 04:37
藻つかれさんです。
では講師三号によるツッコミと解説いきます。

・黄巾族
横光三国志ではそういう字になってるのかな?
通常は黄巾賊と書くよ。
「族」と書く場合、違う民族や人種の人を指すけれども、
この場合はそういう意味はないからね。

・劉備がお茶を〜
有名な話だけど、この冒頭の、劉備がお茶を買い求めたり、
黄巾賊に捕まったり、という部分は
吉川三国志で作られた日本限定のオリジナルエピソード。
正史は勿論、演義にも無い話です。
横光三国志が吉川三国志をベースにしてることがよく分かる事例だね。
8冠礼 ◆.eGBa5cGo2 :03/08/07 04:39
・「蒼天已死 黄夫当立 歳在甲子 天下大吉」
黄巾賊のスローガン。
但し歴史書の『後漢書』皇甫嵩伝に従えば、
「蒼天已死 黄天当立 歳在甲子 天下大吉」が正しい。
これは横光三国志だけ間違ってるんだったっけな。
(詳しい人フォローよろ〜)

で、意味としては
「蒼天の世(後漢王朝の支配)は終わった。次は黄天の世である。
歳は甲子である。天下は大吉になるだろう。」
くらいの意味。
黄巾賊が皆、頭に黄色い布を巻いていたのは
自分たちは黄天の世を実現するために働いている」という主張な訳。
甲子ってのは十二支と十干を組み合わせて六十年で一回りする暦の一つ。
(日本史でも「壬申の乱」とかでお馴染み)
ここでは反乱を起こす年のことを言ってる。
ちなみに黄巾の乱の年(中平元年)は西暦で言えば184年になる。
今から1800年以上も前の話ってこと。
9冠礼 ◆.eGBa5cGo2 :03/08/07 04:58
一つ追加。
・皇帝・霊帝はまだ幼い
霊帝の年齢は本当は当時28歳。
幼い、という歳ではないよね。
これも横光だけの設定だろうか?
10一騎 ◆Ak19z4SexA :03/08/07 06:44
吉川と横光ってやっぱりあらすじは同じなんですね。
漏れは代用で吉川読んでいきまつ。

・タク県
幽州の県。
ちなみに地区行政の単位は州→郡→県となっている。
↓のサイトの東漢時代形勢図は、州単位の地図。
ttp://www.rockfield.net/kanbun/classicmap/

混乱すると困るので「正史では〜」の話はまた今度にしときまつ。
期待保守
お茶のエピソードもフィクションだったのか〜
でもなんでお茶だったんだろうw

ついで、横光持ってる人のヨコヤリ

・黄巾族…漏れの持ってる版だと全部「黄巾賊」だYO
・黄夫当立…吉川も間違ってる
        (つか、これって間違いなの?異説なんだと思っていたが…)
13冠礼 ◆.eGBa5cGo2 :03/08/07 17:10
>>12
>黄夫当立

史書には上述の『後漢書』皇甫嵩伝に
「黄天当立」で記録されているだけ
(だと思う。他の史書に記述があったら教えて)。
演義でも「黄天当立」と書かれてる。

日本の吉川、横光だけが「黄夫当立」なのだから
吉川氏が書き間違えたか、
印刷時に誤植されてしまってそのままになったか
等の間違いと考えて良いと思う。
やあ。

黄巾賊(族?)に関連して。
山越族は異民族扱いだけど山越「賊」って書かれた文献もあるんだな。
よほど呉にとっては鬱陶しい存在だったんだろうか。
15王甫さん@麦城からヘッドバッド ◆8HaqiVd0Sc :03/08/07 22:10
あと黄巾賊が黄色なのは陰陽五行説に基づくといわれるが詳細は不明。
(漢王朝は火=赤なのでその次は土=木だが「蒼天」と矛盾する。
 火の前は木=青なので遠まわしに言っているだけなのかもしれないが)
16王累さん@成都城門からヘッドバッド ◆8HaqiVd0Sc :03/08/07 22:11
土=木じゃなくて
土=黄な
火属性(赤)の漢王朝を「蒼天」呼ばわりするのはおかしいと思ったシトは一読あれ〜
ttp://www21.big.or.jp/~kanryu/kyouhudo/onmyo/

そして必要最低限の抜粋。

>漢王朝は五行の中でも特に「火」を崇め、「漢=火徳」としていました。
>そして、火を燃え上がらせ続けるのは木の力があってこそということで、
>五行相生で火を生かす木も重要視されていました。
>漢を象徴する色は火を生かす木の色です。
>木の色をを五行説に当てはめると「青」になります。
>故に漢王朝は別名「蒼天」と呼ばれています。
18王累さん@成都城門からヘッドバッド ◆8HaqiVd0Sc :03/08/07 22:39
>>17
上で俺も述べたけどまあ仮説の域を出ないよな
五行説じゃないもので物言ってるかもしれないし
>五行説じゃないもので物言ってるかもしれないし

だいたい>>17も「五行相生」は使ってても、「五行相克」理論は使ってない。
(火徳の王朝を倒すのは金徳の力じゃなきゃいけないはずだ)

なんか中途半端に矛盾してるから、
張角独自の理論があったと考える方が自然かも。
判らないで済ますのが最も無難。
21王甫さん@麦城からヘッドバッド ◆8HaqiVd0Sc :03/08/07 23:07
放伐するつもりなら五行相克を用い
禅定のつもりなら五行相生を用いるべきだな
秦は相克説使ってなかったかな
>20
身も蓋もないなw

つーか、元スレで道教が成立したのは隋・唐時代と言われていたし、
この時代、五行相乗とか五行相克とか言うのは
まだキチンと理論としてきちんとまとまってなかったんじゃないの?
すっかり綺麗に整った今から見ると矛盾してるだけで。


って何か変なこと言ってるような気もするが。
23冠礼 ◆.eGBa5cGo2 :03/08/07 23:14
黄天と五行説の関係に関しては「詳細不明」ということで
それくらいにしないか?
議論が初心者向けのレベルから逸脱しつつあるぞ。
>>21
一理ありますな
支持するです
書いた事が変だったのではなく文が変だったのか。

キチンと理論としてきちんと…(´・ω・`).
26一騎 ◆Ak19z4SexA :03/08/08 08:34
ではそろそろ「正史では」を。

・馬元義
黄巾賊の大方。
宮中の人物と共に内外呼応して、蜂起する予定だったが、張角の弟子である唐周の密告により、車裂きの刑に処された。
何進(後に登場)はこの摘発を指揮して、慎侯に封ぜられた。

つまり正史では、既に馬元義は死んでいる・・・。
むしろ馬元義の登場に漏れの方が驚きますたw
微妙に蒸し返すけど。

「蒼天〜」ははじめ張角の予言として広まった、あるいは広めたそうだよ。
この予言を実現させる為に、
黄巾党は甲子の年の甲子の日(中平元年3月5日)に決起する予定だったが、
この唐周の密告によって一ヶ月ほど予定を繰り上げざるを得なくなった、と。

以上、三国志新聞+光栄のCDドラマの知識(・∀・)
一応最後のカキコがあってから6時間たったくらいで
次のあらすじをカキコしようかと思っているのですが、

そろそろ2回目いいですか?
<第二回・芙蓉姫>
張角と黄巾賊について語った馬元義に、
劉備は母親さえ許せば黄巾賊に入ってもよいと言う。
そこへ他の仲間が合流するが、彼らは洛陽船で茶を求めた若者を探していた。
彼から茶を奪い、お茶好きの張角に献上しようと思っていたのだ。

その若者とは劉備であり、彼は痛い目にあったあげく、
お茶と黄金作りの太刀を奪われてしまう。
この太刀は劉備の家に代々伝わるもので、第一話に出てきた和尚には
王者の剣・無双の名剣であるに違いないと言われていた。

牢に閉じ込められた劉備を救ったのはその和尚であった。
彼は劉備に「恩を感じるなら頼みを聞いて欲しい」と言い、
美しい姫君を劉備に引き合わせる。
この姫はこの県の太守である鴻家の姫で名は芙蓉といった。
親や家臣は黄巾賊によって殺されてしまい、和尚がかくまっていたのであった。

この芙蓉姫を、川沿いの県令のもとへと届けて欲しいというのが和尚の頼みだった。
劉備は早速姫を馬に乗せると、和尚の指示に従って走り出した。
和尚は二人を見送ると、高い塔から身を投げた。
<第二回・終了>
あらすじとは直接関係ないんですが、
美しい芙蓉姫って聞いて、ちょっと質問があります。

劉備は「耳は肩まで届き、顔色は玉のように白く、
唇は紅をつけたようであり、腕は膝まで届く長さであった」らしいですが、
これって「要するに男前」ってことなんですか?

絶対変だと思うけど、時代が違えば美しさの基準も違うんだろうし…
31 :03/08/09 04:45
やっと文庫で30巻読み終わった。
蜀負けちゃったんだ、かわいそう・・・
>30
中国では玉に例えられる肌は美しさの基本のはずだけど、
男性の場合はどうなんだろうw

あと、劉備もそうだけど、英雄の風貌を異相にするのは、
普通の人間とは違うということを示すためらしい。
(でも曹操が小男だったのはガチ)
・顔色は玉のように白く、唇は紅をつけたよう
 →割とティピカルな「美青年」の形容
・超福耳→徳の高さを示す


・異常な手の長さ→不明
34冠礼 ◆.eGBa5cGo2 :03/08/09 20:40
二回目の解説いきます。

>お茶好きの張角
もちろん、吉川&横光のオリジナル設定。
同様に黄金作りの太刀や鴻芙蓉も吉川&横光のオリジナル

>県の太守
行政単位については>>10で一騎氏が触れている通りだが、
それぞれの長官は以下の通り
州:牧あるいは刺史
郡:太守(郡と同等の「国」の長は相)
県:大きな県は県令、小さな県は県長

上記の通り、実際には県に太守はいない。
(牧と刺史の違いだとか色々あるが初心者スレなので省略)
35冠礼 ◆.eGBa5cGo2 :03/08/09 20:41
・劉備の外見
演義では劉備の外見は以下となっている

「身の丈七尺五寸(漢代の度量衡で換算すると172cmくらい)
伸ばすと膝下まで達するほど手が長く、
顧みると自身で見ることが出来るほど耳が大きく、
顔つきが冠の飾りの宝石(玉)のようで、
唇は紅をさしたように赤い」

このうち、身長七尺五寸及び、手が長いというのと耳が大きいというのは
正史の『蜀書』先主伝にも記載がある。残りは演義の創作。
なお「耳が自分で見ることが出来るほど大きい」というのは
「垂肩耳」と言って中国では高貴な人相。

「顔は冠の白玉の如く」(「面如冠玉」)というのは
美しさを表しているのは確かだが、
『史記』において周勃や灌嬰が、劉邦に対して陳平を
「表面は美しいが中身がともなわないもの」として
評した時に使われた言葉で、実は純粋な誉め言葉ではない。
なんでも「堂々とした立派な風貌をしているが、内容の方はどうなのか、よく御覧になってくださいよ」
と読者に謎をかけているのだとか。
ちなみに「面如冠玉」の方は後に諸葛亮の外見の記述にも使われている。
<第三回・張飛>
劉備と芙蓉姫は、なんとか川沿いまでやって来る。
しかし、そこには県令はおろか人っ子ひとりいなかった。
不安になる芙蓉姫に、劉備はとりあえず逃げれるところまで逃げようと言う。

しかし追手に追いつかれ、二人は落馬してしまう。
丸腰の劉備は石でもって戦おうとするが相手にならず、絶体絶命の危機に陥る。
そこにやって来る一人の男。黄巾賊は彼を「新入りの張飛」だと言う。
張飛は劉備を殺さないように仲間に言い、反抗する仲間達を皆殺しにしてしまう。

張飛は自分は鴻家の家臣であり、復讐する為に黄巾党に入ったのだと言った。
そして劉備に茶壷と剣を返すが、劉備は剣を命を救ってくれた礼として差し出す。
張飛は剣を受け取り、そして芙蓉姫を守って去っていく。
<第三回・終了>
37冠礼 ◆.eGBa5cGo2 :03/08/10 23:22
藻疲れさんです。
三回目の解説・・・と行きたいとこなんですが、
ネタがありません。

強いて言うなら「張飛が鴻家の旧臣」というのも
吉川&横光のオリジ(何度もクドいので以下略
張飛は肉屋さんだったのは演義?
正史だと幽州出身ぐらいしか明らかになってない?

ぐぐってたら張飛は劉備よりいい家の出身だったとか、
誕生日は8/28であるとか書いてあるサイトがあった…ホンマカイナw
質問ってあらすじとかけ離れた内容でもおk?
4039:03/08/10 23:36
リロードしたらちゃんとした質問がw
語る内容がなさそうな時を見計らって投下いたします<あらすじに関係ない質問
>>38
演義の設定ということでOK.
ちなみに『正史』での「張飛伝」抜書き。

 張飛は字を益徳といい、タク郡の人である。
 若いときに関羽とともに先主に仕えた。
 関羽が数歳年長であったので、張飛は彼に兄事した〜(後略)

こんだけ。
42冠礼 ◆.eGBa5cGo2 :03/08/11 01:26
>>38
・「張飛は肉屋」は演義の設定?
そうみたい。
但し、「演義」やその前身たる「平話」の成立前から
すでに張飛にはそのようなイメージがあったらしい。
何故なのかは分からないが。

・正史における張飛の出身
「幽州タク郡の人。若いときに関羽とともに先主(劉備)に仕えた。
関羽が数歳年長だったので、張飛は彼に兄事した」
たったこれだけ。家柄などの記載は一切なし。
ただ後年、名士である劉巴から「ただの軍人」として
相手にしてもらえなかったことを思えば、
士大夫層ではないか、士大夫層であってもかなり低層の出身であると推察される。

だが、何という資料か知らないが、
張飛は文墨や書画に通じていたとする資料があるそうで
それが事実とすればかなりの文化人であり、
同時にそんな趣味に手を出せるくらい裕福な家庭に育ったということになると思う。

・誕生日は8/28
民間伝承では農暦の8/28が張飛の誕生日なんだそうだ。
古くから民衆に人気のある張飛だからこそそういう伝承があるんだろう。
43冠礼 ◆.eGBa5cGo2 :03/08/11 01:28
あらら、のろのろ書いてたらかぶっちまった(笑

ついでに張飛についていくつか。

張飛の字は演義およびそれをベースにした諸作品では「翼徳」だが
正史では「益徳」である点、これは有名。

張飛の容貌は、演義では
「豹頭環眼、燕頷虎鬚」(豹のような頭にドングリまなこ、豊かなあごに虎鬚)
となっていてこれが一般的なイメージになってるけど正史には記載なし。
彼の娘二人が皇帝劉禅の皇后になっている(当時の皇后は美しさが第一条件)ことを理由に、
彼は実は美男子だったんではないかと唱える論者はけっこう多い。

張飛の生年は不明。
演義では221年に死んだ時、55歳という記述があるのでこれに従うと167年生まれ。
正史の記載は先の「関羽が数歳年長」だけ。
但し柯汝霖という人(いつの時代の人か詳しい人フォローよろ〜。
清代以後の人らしいんだけど・・・)が書いた『関公年譜』には
「張飛は劉備より四歳下」説が唱えられてるらしい。
これに従えば、張飛の生年は165年になる。
またこれはソース不明だが173年生まれ、という説もあるらしい。
これに従うと劉備より十二歳も年下ということになってしまう。
講師さまに叉手しつつ。

小一時間くらいいろいろな武将の誕生日をぐぐっていました。
でも、わかったのはこれだけでしたw
・8/13  関羽の誕生日(6/24説も)
・9/28  孔明の誕生日

あまりにも引っかからないので途中で命日をぐぐりはじめました。
それでもわかったのはこれだけ…
・1/23 曹操の命日
・4/24 劉備の命日
・8/23 孔明の命日

もっとさくさく出てくると思ったのに、この結果は意外でした。
張飛の生年って165年説、166年説、167年説、
168年説、そして174年説とあるみたいだね。
(174年説はこのスレではじめて聞いた…)

ところで、年齢の数え方って日本の数え年(正月が来たらプラス1)と一緒?
46冠礼 ◆.eGBa5cGo2 :03/08/11 21:14
>ところで、年齢の数え方って日本の数え年(正月が来たらプラス1)と一緒?

同じみたいだね。
夏侯威が朱建平から「四十九で災難があるが、
それさえ乗り越えれば年は七十まで、位は公輔まで上る」と予言されて
四十九歳の十二月に病気をしたけれど、年末には持ち直して、
夜が明ければ新年、歳は五十になる
と喜んでいたら、その夜半に病状が急変して亡くなってしまい、
結局五十になれなかった、という話があるので。
新年を迎えたら皆一つ歳を取るという計算で間違いないと思う。
>正月が来たらプラス1
正確には「生まれた時に既に1歳で、以降正月を迎えるたびにプラス1」だと思われ。


ところで、生没年だけど、
それらしいデータが残ってる人には残る理由があるんだろうか?
ちょっと考えてみたのだが漏れにはわからなかった。

仮説1)「活躍した人は残りやすく、そうでもない人は(ry」
→趙雲はどうなる。

仮説2)「名家出身の人間は残りやすく、生まれの卑しい人は残りにくい」
→袁紹&袁術、夏侯惇の生年が残ってないところを見ると×
>→趙雲はどうなる。
・・・それは趙雲を活躍した人物の例として挙げてるのか?
それとも実はあまり事績の残っていない人物の例として挙げてるのか?
>正確には「生まれた時に既に1歳で、以降正月を迎えるたびにプラス1」
日本の数え年を例に挙げてる時点でそれは45も前提としてると思われ。
なんか、ヘタな雑学品評会よりも哀しいな。
51征南将軍 ◆hAKnaa5i0. :03/08/11 22:29
よいしょ
<第四回・王者の剣>
劉備は、故郷であるタク県、楼桑郡に帰る。
楼桑郡は小さいながらも活気のある宿場町だったが、
黄巾賊の出現でその活気はなくなってしまっていた。

家財道具まで没収されてしまい、がらんとした家の中で母は劉備を待っていた。
劉備は母親に茶壷を渡すと、彼女は涙を流して喜んだ。

しかし、父親の形見であるはずの剣が別のものに変わっており、
劉備が命を救ってくれたお礼に張飛に譲ってしまったことを聞くと、
自分は息子の育て方を誤ってしまった、と嘆いて茶壷を川に投げ捨てる。
(チャッポー←例の擬音)

どうしてそんなことをするのかと訝る劉備に、
母親は自分たちが漢王朝の末裔であり、ただの農民ではないこと、
それなのに武人の魂である剣を手放し、
すっかり農民になってしまっている劉備が情けないと言う。
劉備は自分の間違いに気がつき、これからは帝王の血に恥かしくない生き方をすると誓う。
それから数日(あるいは数ヶ月?数年?)が過ぎて。
劉備はムシロを売りに町へと出かける。
その途中で黄巾賊を征伐する兵隊を募集するたて看板を目にする。
そして、農民達が立ち上がる様を見て「この国は変わりつつある」と言う。

その劉備の肩を叩く男がいた。
それは張飛だったが、出あった時とは見違えいて、
劉備ははじめ思い出すことができなかった。

張飛はたて看板の前で立ちすくむ劉備に何を考えているか尋ねるが、
劉備ははっきりと答えない。
そんな劉備に、張飛は黄巾賊の酷さ、朝廷の愚かさを語り、
この看板は諸侯たちが農民まで募って黄巾党を征伐しようとしている証だと言う。

そんな看板を見て何も思わないのか?
そう詰め寄る張飛に、劉備は自分の体に流れる血筋と、
いずれ時が来たら人々の役に立ちたいと思っていることを話す。
その話を聞き、張飛は劉備に剣を返し、
自分が生きているのはこういう人間に仕えるためだったと言う。
一旦劉備と別れ、その足で蟠桃河の関羽の元に行こうとする。

途中、閉まった門を突破する為に兵隊を殺して、
やっと関羽の元に到着する。張飛は劉備のことを話し、
これから楼桑へ出向こうと誘うが、関羽は取り合おうとはしない。

面白くない張飛は酒場で酒を飲みだすが、
そこに城兵がやってきて張飛を門番を殺した罪で捉えようとする。
しかし張飛は黄巾賊呼ばわりされたことに腹を立て、
この兵隊達も殺してしまう。

そして店の主人に酒の代金を支払い、
関羽へのことづてを頼んで街を後にし、楼桑郡の劉備のもとへ向かった。
<第四回・終了>
55冠礼 ◆.eGBa5cGo2 :03/08/12 22:44
藻疲れさんです。
四回目、解説行きます。

>タク県、楼桑郡
楼桑村じゃないかな?
前に一騎氏が>>10で触れてくれている通り
中国の行政制度では郡の方が県より大きいので。
それとも横光版のみ「楼桑郡」なのかな?

>漢王朝の末裔
劉備は前漢の中山国の靖王、劉勝(在位紀元前154年〜紀元前113年)
の後裔を称してる。
劉勝は前漢の第四代皇帝である景帝の子で、
あの有名な第五代皇帝武帝の兄弟にあたる。
ちなみに劉勝には120人以上の子供がいたことが記録されている。
劉備が本当に劉勝の血を引いていたとしても
近辺には同じような劉勝の子孫がいっぱいいたんじゃないかと思われる。

但し、劉備の姓が劉であることが他の氏姓の群雄たちより
色んな面で有利だったのは確かで、
彼の強大な武器の一つだったのは間違いない。

>ただの農民ではない
正史にも劉備が父を早く亡くして経済的に困窮し、
草鞋を売ったりむしろを編んだりして生計を立てたことが記録されてるけど、
祖父、父ともに州、郡の役人をしていた士大夫層であって、
劉備が農民というのは吉川・横光のみの設定。
現に正史では、後に劉備は従父の劉元起の後援で
劉元起の子の劉徳然と一緒に遊学し、盧植の弟子になってる。
これは当時の農民にはとても無理なこと。
タク県の劉氏がそれなりの経済力を持った地方豪族であった証だと思う。
56征南将軍 ◆hAKnaa5i0. :03/08/12 23:40
反面、張飛は後に劉巴に
「兵子と話などできるか」
と拒絶されたので士大夫層ではないか、
士大夫層でも相当下のほうの出身と考えられる。
「楼桑村」です!ごめんなさい!
58征南将軍 ◆hAKnaa5i0. :03/08/12 23:42
>>57
詮無きこと。
59冠礼 ◆.eGBa5cGo2 :03/08/12 23:52
>>57
お気になさらずに。
楽しく読んで下さいな。
『横山光輝 三国志辞典』の系図抜粋。

景帝―勝―貞―昂―禄―恋―英―建―哀―憲→
→舒―誼―必―達―不疑―恵―雄―弘―備―禅―(後略


一応綺麗に並べられているけど、
景帝の息子の劉勝の血筋は、劉勝の5代後に一旦断絶して、
それからは何度も何度も再興しては断絶するということを繰り返した家系だそうで。

で、ここから質問なんだけど、
劉勝から5代後も、建(安国侯)、哀(広陵侯)、憲(膠水侯)…
とかもっともらしいことが書いてあるけど、
この人たちのうちで実在が確認されている人っているの?
それとも景帝〜英と雄、弘以外は完璧でっちあげ?
61冠礼 ◆.eGBa5cGo2 :03/08/14 01:36
>景帝〜英と雄、弘以外は完璧でっちあげ?
そう。でっちあげ、いや「演義による創作」のはず。

正確に言えば貞の子の昂からしてすでに創作。
何故なら先主伝によれば陸城侯劉貞は罪を犯した
(献上金不足)ために侯位を取り上げられていて、
その子から先に侯位を持つ者はいないはずだから。
劉貞は陸城侯に封じられてる時点で、分家であって中山王家の跡継ぎじゃない。
「劉勝の5代後まで続いた」というのは多分中山王家本家の話なんじゃないかな。

また上の系図に従うと劉勝から劉備まで約330年に17代いるけど、多すぎ。
後漢の皇室は劉勝の兄弟、長沙王劉發から出てるけど、
劉發から劉協(献帝)まで12代である点を考えると無理があるって話を聞いた。
62無名武将@お腹せっぷく:03/08/14 18:18
献帝は後漢14代皇帝だから劉発から数えて12代ってのは変じゃね?
>中山王家本家の話
納得シマスタ(叉手)

>62
系図見ると12代の意味が一発でわかるハズ。
チョト待ってて。
『総合世界史図表』(第一学習社)の抜粋。

劉發―□―□―□―□―光武帝―明帝―章帝→

       ┌ □―桓帝    ┌少帝   
 ┌河間王― □― □―霊帝―献帝
 ├ □  ―少帝    
 ├ □  ― □― □―質帝
 ├ □  ―安帝―順帝―冲帝
 └和帝 ..―殤帝

これ見ると献帝が劉發から12代ってことがわかるとオモ。
(って意味全然違ったりして)
>>64
12世代とか言った方が分かりやすいかもね。
皇帝は1世代1人ではないので、世代数とはズレる。
後漢は200年も持たなかった短命王朝。
その分、世代数はかなり少ないよ。
200年弱って中国の王朝だと短命とは言えないような。
比較対照が神聖ローマ帝国とかだったりすれば短命だが…

まぁいいか(w
<第五回・乞食部隊>
劉備が庭掃除をしているところに張飛がやっきて、
下男として家に置いて欲しいと言う。
劉備はどうしようか迷っているところに、おおぜいの城兵がやってきた。
昨晩門番を殺してしまった張飛を捕らえに来たのだった。

そこによろい姿の関羽が駆けつけ、張飛と兵隊達の間に割って入る。
そして張飛はかつて幽州の鴻家の家臣で、
黄巾賊を切りまくり「八百八屍将軍」と呼ばれた男であること、
だから四、五十人の兵隊が捕らえることなどできないと言う。

それでも兵隊達は張飛と、それから関羽を疑っている。
そこで関羽は張飛を縄で縛り上げてしまう。
それを見て、やっと兵隊達は帰っていった。
兵隊達が引き上げると、関羽は縄を解いて
これ以上城兵たちを殺してはまずいと張飛に言う。
そして昨晩、自分が張飛の話を聞こうとしなかったのは
他人に聞かれては劉備の身が危ないと思ったからだと言う。
張飛は納得し、関羽を劉備に引き合わせる。

関羽は早速劉備に仕える事を願い出るが、
劉備は頷かず、いったん家の中に彼らを招き入れる。
劉備の母は彼らを歓迎し、宴の準備をはじめる。

支度のととのった宴席で、張飛と関羽は主従の誓いをたてようとするが、
劉備は自分は主になるのは気が進まないと言う。
それで関羽は義兄弟の契りということでその場をまとめる。

その席に、幾人かの男達が現われた。
彼らは劉備が黄巾賊を討つために
義勇兵を募っていることを知り集まってきたのだ。
関羽は彼らの参加を許してやり、厳しい掟を言い渡した。

義勇兵たちは街へ入っていく。
みすぼらしい格好をした彼らを街の人間は笑ったが、
劉備・関羽・張飛の堂々とした姿を見て笑うのをやめた。
<第五回・終了>
やべ。

あらすじ貼り付けるの早かったですか?
だったらすいません。

ヽ(* ´∀`)人(`・ω・´) 人(・∀・*)ノトウエンノチカーイ
>>69
この宴、通称「桃園の誓い」は三人の豪傑が
まんが肉をムシャムシャと喰い、ムームーと寝たことで有名な
名シーンだよね。
まんが肉のでかいAA貼り付けたい…

桃園の誓いにはいくつものヴァリアントがあるのだけど、
そのうちのいくつかをまとめてあるサイトを発見したので、URLを晒しておきます。

ttp://so02.gamespace24.net/HOME/real3/scene10.asp

劉備はむしろ売りだったり遊び人だったり、
関羽も豆売りだったり学校の先生だったりと幅があるのに、
張飛だけは肉屋でケテーイの様子。
73あぼーん:あぼーん
あぼーん
74冠礼 ◆.eGBa5cGo2 :03/08/16 01:08
藻疲れさんです。

正史には「桃園の誓い」(=「桃園結義」)や義兄弟に関する記述はなし。
但し、彼らは形式上は君臣でも、互いへの恩愛は兄弟や父子のようだったことが
言う記述が正史にもあるので、「結義」そのものはフィクションかも知れないが、
彼らは実際に義兄弟のような深い繋がりを持っていたのだろうと推測される。

民間伝承における「桃園結義」のバリエーションについては72氏の
紹介してくれてるサイトに色々書いてあるので、
そっちに任せるとする。
大体、流れとして間違ったことは書いてないようなので。
(ただ、そこのサイト、正史と演義がごちゃ混ぜになってるのは
よくあることとしてスルーするとしても、夏侯「淳」とか「全」韋とか
思わず泣きたくなる大間違いが、各所に散見出来る点は頂けないが)
一つだけ付け加えるなら、演義ではこの宴が開かれた桃園は
張飛の家の裏手にあったとされてる。
75冠礼 ◆.eGBa5cGo2 :03/08/16 01:10
関羽の出自に関していくつか書いておくと、
関羽の生まれについて『三国志』の『蜀書』関羽伝には
「もとの字は長生といい、河東郡解県の人。
本籍からタク郡に出奔した」と書かれるのみで、
彼が何か罪を犯して故郷から逃げて来たのは確かみたいだが、
何故かは不明。
塩の密売人だったとか、
悪事を働いた役人を殺して逃亡したとか色々説があるらしい。
いずれにせよ士大夫層ではなく下層階級の生まれと推定されるそうだ。

関羽の年齢も張飛と同じく不明。
ただ、関羽の生まれ故郷における研究では
彼の生まれは160年が最有力なんだそうだ。
清の康煕年間に出土した「関侯祖墓碑記」にそう書いてあったとか、
『関帝誌』という書物に書いてあったとか色々根拠があるらしいが、
決め手は不明。
この説に従うと、実は劉備より関羽の方が一歳年上だったことになる。
乙彼さまです。

 お茶ドゾー     ____ ジャー
      ヘ⌒ヽフ つ/__ o、 |、
     (  ・ω・)ノ .ii | ・ \ノ
     (      □| ・  |
    ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
        旦~旦~旦~旦~
 .-、 ,.-、 .-、 ,.-、
(,,■)(,,■)(,,■)(,,■)
ちょっと話が戻るんだけど、いいかなぁ?

国が分裂してる間って、通貨も分裂していたの?
それとも漢代の貨幣をそのまま流用?

それに、劉備はお茶の代金を銀の固まりで支払っているみたいだけど、
この時代って銅銭が主流で銀が使われるのは
まだまだ後の話とか聞いたことがあるのだけど(←物凄くうろ覚え)
どうなの?
漏れでも答えられそうなので暫定的回答。

B.C.113(*)に武帝が貨幣の統一&鋳造独占をした。
そんで、その時の通貨は五銖銭というものが作られていたのだけど、
三国時代もはじめはそれが使われていたモヨン。

その後、魏では五銖銭+「穀物」や「布帛」の物々交換の併用。
蜀では独自の通貨、「直百五銖」を発行。
積極的な貨幣鋳造を実施し国力を増強した。
呉でも蜀を真似た「大泉五百」「大泉当千」という通貨が発行された。
(が、呉の通貨は高額だった為あまり流通しなかった)

こんな感じラスィよ。
___________________________

詳しく説明されたサイトはこちら↓
ttp://www5d.biglobe.ne.jp/~kosen/index.html
(漏れはここの内容と自分の教科書を合わせてまとめただけです)
年表で整理されているのはこちら↓
ttp://www.bekkoame.ne.jp/i/ge6128/chinacj.html

*漏れの教科書にはB.C.113ということになっているけど、
 B.C.118年説もあるようです。
後もう一つ。

銀については、銀が広く流通しはじめるのは明代になってからなので、
三国時代に銀で代金を支払う、というのはちょっとありえないとオモ。
>>79
しかし紀元前200年には、
既に日本に製銀技術が伝わっていることを考えると、
ありえないっつーこともないような気がする。
>>80
流通量の問題やね。
明頃の銀の流通は、実は西洋との茶などの貿易で銀を大量に得たことによる。
銀は中国内ではそんなに生産できなかった。
よって、銀が外から入ってこなかった後漢末には製法自体は分かっていても、
貨幣としての幅広い流通はありえなかった。
82冠礼 ◆.eGBa5cGo2 :03/08/17 19:53
貨幣と言えば、
最悪の悪貨を鋳造して、
貨幣経済を崩壊させてしまったのは
長安遷都後の董卓政権らしいね。

貨幣の流通量の不足を補おうとして、
五朱銭を鋳潰して小銭を作って銭の量を増やしたら、
あまりの出来の悪さに貨幣への信頼が失墜。
穀物一石が数十万銭という超インフレが発生したのだとか。

この後、一度失墜した貨幣への信頼はなかなか回復しなかったようで、
魏の文帝・曹丕が一度、五朱銭を復活させようとして失敗。
結局五朱銭が正式に復活するのは明帝・曹叡の時代(227年)
まで待たねばならなかったらしい。
<第六回・初陣>
義勇軍は幽州へと向かう。そして太守・劉焉に会い、
自分たちは黄巾賊討伐のために立ち上がった者であることを告げる。
劉焉は彼らを歓迎し、宴を催した。

その宴のさなか、使者がやって来る。
使者は大興山に黄巾賊が陣を張っているということを告げ、
劉焉は鄒将軍に黄巾賊討伐を命ずる。
その軍に劉備たち義勇軍も加わり、先陣を受け持つことになった。

大興山では、五万人の黄巾賊が戦いの準備をしていた。
そこに百姓姿に剣や槍を持った義勇軍がやって来ると、
黄巾賊は笑い転げ、乞食部隊だと馬鹿にした。

黄巾賊の将である程遠志、そして副将であるケ茂は
共に剣の使い手であったが、義勇軍の力を侮り、
程遠志は張飛に、ケ茂は関羽にあっさり斬り殺されてしまった。

張飛と関羽の活躍を見て、鄒将軍の兵隊達も突撃をはじめた。
黄巾賊は総崩れとなり、あっという間に勝敗は決した。
<第六回・終了>
792 :世界@名無史さん :03/08/17 22:28
>>789
ふぉ。支那の貨幣史ではの、三国時代から隋代は貨幣鋳造が低迷した時代とされておってな、
貴金属が不足し、まともな銅貨もそろえられんで鉄銭が鋳造されたような時代じゃ。
じゃから、日常的に銀貨で支払いをするという描写があれば、それはちと怪しげな記述というこ
とじゃな。
しかし、漢代には金貨銀貨も鋳造されておったのじゃから、いかに国外に流出し退蔵されたから
と言ってもな、いつの世にも、ほれ、ある所にはあるというやつじゃ。
特別の場合に取引の対価として銀塊が出てきても、それがありえないというほどのことでもない
じゃろの。
793 :永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/08/17 22:33
>>789
明代に中国で銀が主な貨幣として流通するようになったのは、
新大陸の銀をヨーロッパ商人が持ち込んだのと、
日本の銀を大量に輸入するようになって、銀の流通量が急増したからでした。
そのため貴金属扱いだった銀の相場が急落して、
春秋戦国時代以来の主な貨幣だった銅銭に変わり、
普通に通貨として流通するようになったのです。

三国時代の史書にも、銀に関しては恩賞として賜ったいう記録が大半を占めますが、
魏書甄皇后伝に飢饉でみんなが金銀珠玉を売りに出して食糧を手に入れようとした時、
穀物をたくさん持っていた甄皇后の実家が大儲けしたという記事、
蜀書麋竺伝に麋竺が金銀貨幣を供出して軍資金にしたという記事、
蜀書李恢伝に異民族叟族が納めた牛や馬や金銀や犀の革を軍資金としたので、
軍事費に困らなくなったという記事があります。

おそらく、牛や馬や犀の革は軍資金と言うよりは軍需物資に使ったのでしょうが、
銀が支払いに直接使われたのが確実なのは甄皇后伝だけで、
蜀書の二つの記事では銀を直接軍事費の支払いに使ったのか、
それとも銀を売って銅銭、あるいは布や穀物に換えて支払ったのかは分かりません。
この時代は貨幣経済が弱体化して現物交換が盛んになった時代と言われています。
布や穀物が通貨として流通するようになった時代ですが、それでも銅銭は流通していたようです。
あらすじ係とかぶったようでw
申し訳ないです。
87冠礼 ◆.eGBa5cGo2 :03/08/18 00:36
藻疲れさんです。
第六回、解説いきます。

>幽州太守・劉焉
恐らく、「幽州刺史」って書いてあるんじゃないかな?
各行政単位の長官名についてはすでに>>34で書いたので参照よろ〜。
ちなみに演義とそれをベースにした作品群では
劉焉が幽州刺史だったことになっているけれど、
正史の記録では(『後漢書』、『三国志』ともに)
劉焉が幽州刺史だったことはない。

本来は全く関係ない劉焉が何故ここに登場するのかは、
後に劉焉の子劉璋から
劉備が蜀を奪うことに対しての正当性の伏線だとか、
色々説はあるけど、詳細は不明。

ちなみに吉川、横光で、
劉焉の元に劉備たちが馳せ参じて、程遠志・ケ茂を斬る展開は
「演義」と全く同じ展開。
ここら辺から吉川、横光のオリジナル色は薄れていく。
但し、「演義」では程遠志が関羽に、ケ茂が張飛に斬られているのと
比べて逆になってる点は微妙に吉川、横光のオリジナルと言える。

>>84-86
いや、勉強になりますた。
ありがとう。
>>87
劉焉は多分劉虞の間違いだよ。
演義の時点で虞→焉と間違った。
冠礼さん、いつも乙彼様です。

>幽州太守・劉焉

それが、吉川版も「太守」になっていたりする罠。
以下、「横光版三国志大百科」の説明。

>劉備に徐州を譲ろうとする陶謙は州の長官だから刺史(牧)だが、
> 『三国志演義』には太守と記されており
>(立間訳では「正しくは牧」と訳注が入っている)
>横山『三国志』もそれに従っている。

どうでもいいけど、陶謙は牧でいいと思うのに、
何でわざわざ「刺史(牧)」と書くのだろう。
初心者は余計混乱しそうだ罠。
90冠礼 ◆.eGBa5cGo2 :03/08/18 01:58
>>88
なるほど、劉虞の間違いか。一理あるよね。
でも確か「演義」でも劉虞は後で(名前だけ)出てきていたはずだし、
実際には黄巾の乱の頃の幽州刺史は劉虞でもなかったり
(劉虞が幽州牧になるのは劉焉の牧復活提議以後で、
幽州刺史だったのはそれよりずっと前)するけど。

>>89
おお、そうだったのか。「演義」や吉川からして間違ってたのね。
ごめんよ元スレ137さん。濡れ衣だったみたい。

>陶謙は牧でいいと思うのに、何でわざわざ「刺史(牧)」と書くのだろう
陶謙は徐州刺史から徐州牧に昇進してるから
・・・ってのは関係なさそうだね、そこでは。
>>76


チャッポー
>89
>初心者は余計混乱しそうだ罠。

混乱したので調べてきた罠(w

・牧は188年に刺史に変わるものとして創設された。
 (が、牧創設後も刺史も並行して存在した)
・牧と刺史は一つの州にどちらか一つだけおかれた。
・牧→軍権を有する/刺史→有しない(その下の太守が有する)

ちなみに、1〜2巻は黄巾賊が健在なので、184〜185年頃と思われる。
だからこの頃まだ牧はいない、と。

あぁ混乱する(w

あと、調べている途中で、劉焉は実際には益州牧であること、
そして牧という制度を提案した本人で、
かつ最初に牧に任命された人であることがわかりますた。
(同時に任命されたのは豫州の黄[王宛]、幽州の劉虞)
>1〜2巻は黄巾賊が健在なので、184〜185年頃と思われる。

一巻の一番最初に「中平元年(184)」と書いてある。

…が、中平は黄巾賊平定を祝っての改元のため、これはおかしい。
吉川版だと建寧元年(168)だから、
素直にこれを採用しておけばよかったのになぁ。
94一騎 ◆Ak19z4SexA :03/08/18 10:13
お久しぶりデス。

>>90
でもやっぱり劉虞との間違いだと思いますよ。
その頃の幽州刺史を調べてみたら、郭勲なる全然関係なさそうな人物が出てきたので。

>>92
更に補足すると、最終的には刺史も牧も同じようなものになります。
ただ牧が2000石に対して、刺史は600石と俸禄が安かったので、結局は刺史になります。
刺史だけになるのはかなり先の話ですけど…。
95陸績さん@橘懐に入れまくり ◆8HaqiVd0Sc :03/08/18 18:13
ところで鄒靖って幽州の人なの?
それとも演義だけの存在?
あるいは益州牧劉焉の配下だった?

これでひょっとしたらある程度見当つくかも<劉焉は何の間違いか
鄒靖が幽州の校尉だったことはガチ。
ぐぐり旅してたらこんなの見つけますた。
初心者の方、参考までにドゾー

*刺史と牧
ttp://triglav.infoseek.livedoor.com/shishi01.html

*三国時代の刺史一覧表
ttp://www2u.biglobe.ne.jp/~dnak/sangoku/sisi.html
(ただし呉蜀の名誉称号の刺史職が省かれているそうでつ)

ところで、史実だと劉備は幽州刺史に会いに行くのではなく、
直接鄒靖の元に行くんですよね?
(刺史に軍権がないなら、行ってもしょうがないはず…)

どうでもいいようなちょい役だから、
それなりに名のとおった人物・劉焉を
登場させた、なんて思うのですがw
(結構な野心家として名前を残してますよね、このオッサン)
98冠礼 ◆.eGBa5cGo2 :03/08/19 00:19
あ〜、ややこしいかな〜と思って>>34では飛ばしたんだけど、
結局、牧と刺史の違いの話になったね。

刺史は漢代に設置された監察官。
州ごとに設置され、州内の郡太守や国相の不正を取り締まるのが役目。
秩禄は六百石で本来は二千石である太守や相より格下の職。
しかし太守や相への強い権限を持つことから次第に州の長官的な職務へと変化。

実質的な州の長官とはいえ、元々は監察官でしかない刺史には軍権がなく、
兵を用いるには指揮下の郡太守を通して、郡の軍を率いるしかなかったが、
後漢末、戦乱の拡大に従い、数郡に跨るような大規模な反乱が続発。
郡レベルの軍権では対応し切れない事態が続出する。

これに対応すべく188年、劉焉の建議により、牧が復活。
(元々前漢末に刺史は一度、太守と同じ二千石の牧となったが後漢になって刺史に戻った)
州の政治・軍事を統括する権限が与えられ、重要な州に置かれた
(但し刺史も廃止されたのではなく併置)。
秩禄は二千石。
(当初任命された劉焉・劉虞・黄エンは中二千石の高官であったため、中二千石のまま牧に就任)

乱を抑えるために設けられた牧だったが、
皮肉にも群雄たちの多くはその牧位を根拠に勢力を伸張。各地に割拠した。

三国時代になってからは強力過ぎる(=その気になれば割拠できる)権限を持つ
牧位を与えられる者はほとんど見られなくなり、
(原則として)刺史が置かれるようになる。
99冠礼 ◆.eGBa5cGo2 :03/08/19 00:30
>鄒靖
校尉ってのは将軍、中郎将なんかに次ぐ「中央の」武官。
(この時期の州には軍がないので州には武官がいないので)

この数年後、袁紹や曹操が就いた西園八校尉もまた
「校尉」であることを考えると、
皆が地方の一武官と思ってる鄒靖は実はかなりエライ人だったりする。
<第七回・青洲城救援>
勝利をおさめた義勇軍と鄒将軍の部隊が凱旋してくる。
劉焉は彼らをねぎらう為に宴を開くが、
その席上に青洲からの急使がかけこんでくる。
使者は青洲城が落城寸前であり、援軍を出して欲しいという
青洲太守からの手紙を劉焉に渡した。

それを読んだ劉焉は鄒将軍を向かわせることにした。
劉備も青洲に向かうことを申し出て、許可される。

初戦に勝利した義勇軍は意気ようようと出陣するが、
行軍の途中、烏のエサになっている野ざらしの死体を目にし、
義勇兵達だけでなく劉備たちも何となく不安な気持ちになってしまった。

青洲城は黄巾賊に四方を囲まれてしまっていた。
義勇軍は到着するなり突撃を開始するが、
勢いにのる黄巾賊に撤退を余儀なくされる。
正面からの突撃では勝てる見込みがないと見て、
関羽は劉備に一つの策を提案する。
それは単純な待ち伏せの策だったが、
最初義勇兵を簡単に追い払った黄巾賊はまんまとはまってしまう。

その様子を見た青洲城の太守は、門を開け自軍を出陣させる。
前後から攻められた黄巾賊は、あっという間に壊滅した。

青洲の太守は劉備や鄒将軍をもてなそうとするが、
しかし二人ともそれを固辞する。鄒将軍は幽州へ帰還し、
そして劉備はかつての師・盧植がいる広宗に向かう。
<第七回・終了>
102冠礼 ◆.eGBa5cGo2 :03/08/19 20:55
藻疲れさんです。第七回、解説いきます。

この辺りの物語の流れはほとんど「演義」と同じ。
忠実に「演義」をなぞった吉川を横光が更に忠実になぞってる。

>青洲
多分、青州だよね?
これも幽州同様、後漢の州の一つ。
やはり太守はなく、いるとしたら刺史。
これもどうやら「演義」から代々続く由緒正しい(?)間違いの模様。
ちなみに「演義」はこの「青州太守」に龔景という名前を与えてるが、
史書には龔景という人物は見当たらない。
なお当時、青州刺史が誰だったのかは不明。
> 多分、青州だよね?

うぐっ…
度々すみませんです。

地名人名役職名・地名人名役職名…
お疲れ様。
追い込んで悪いが、もちろん、青州城などあったはずもないw

さらに言うと、盧植が隠居していたのは広宗ではなく、上谷らしい。後漢書より。
広宗は冀州鉅鹿郡に属する県、上谷は幽州涿郡に属する県。

盧植の本籍は涿郡涿県なので、
本籍の近く(と言っても80kmほどある)に隠居したことになるね。
広宗と上谷の直線距離は300kmくらいかな。
105冠礼 ◆.eGBa5cGo2 :03/08/20 01:21
>>103
気になさんな。
慣れればきっと間違いも減るから。

>>104
いやいや、
確かに盧植が後年隠棲したのは上谷なのだけど、
それは董卓の少帝廃位、献帝擁立に反対して官を免ぜられた後。

この時期(184年)の盧植はまだまだ現役で
北中郎将・持節として黄巾討伐に従軍中。
盧植が広宗で張角本隊と対峙したことは
『後漢書』盧植伝や皇甫嵩伝に記述がある。
だからこの時点で盧植が広宗にいるのは正しい。

「演義」や吉川、横光では盧植が広宗で戦ってると聞いて
劉備が援軍に駆けつけようとする訳で、
隠居中の盧植を訪ねようとしている訳ではないと思われ。
>盧植はまだまだ現役

あ、ゴメソ。
隠居した盧植ではなかったのか。重ねてゴメソ。
107冠礼 ◆.eGBa5cGo2 :03/08/20 02:13
>>106
いや、ご協力に感謝。
気にせずにこれからも情報提供よろしく。
自粛しながら頑張りますw
劉備が関羽や張飛と知り合う以前の手下とか
義勇軍結成の時に援助してくれた馬屋さんとかって出てこないの?

横光で知ったと思ったが、違ったのかな?
それとも割愛した?
って誰一人として名前を覚えてない訳なんだが。
もしかしたら別のマンガor小説に出てきたオリジナルキャラクターだったかもしれない。

109はスルーしてくだちい。スンマセン。
111冠礼 ◆.eGBa5cGo2 :03/08/20 21:10
>>109,110
張世平や蘇双のことかな?
劉備を援助した中山の馬商人である彼らは
正史の先主伝に出てくる人物。
もっとも先主伝では援助したのは挙兵の際でなくて、
劉備が地元のゴロツキどもの顔役みたいなことをしてたころだけど。
いずれにせよオリキャラじゃないから安心して。

もっとも吉川や横光で出てきたかどうかは
漏れも記憶が無い罠。
そこんとこどうなってる?>元スレ137さん

>関羽や張飛と知り合う以前の手下
それは記録にないね。
強いて言うなら挙兵以来の付き合いだという簡雍かな?
そういう人物が簡雍以外で出てきたら
それは十中八九オリジナル。
>そこんとこどうなってる?

張世平と蘇双、出てきてます。
えーと、<乞食部隊>の回です。

横光だと、もともとは豪商だったけど、
黄巾賊に家も財産も奪われて馬商人に身を落としている、
そして劉備たちが立ち上がろうとしているのを見て、
彼らに援助するという役回りで出てきます。

このエピソード、完全にすっ飛ばして書いてました。
指摘されなかったらわからなかった…すいません。

>109-110さんが読んだのは
『蒼天航路』なのでは…と言ってみるテスト。
簡雍も出ていたように思うのですが。

113冠礼 ◆.eGBa5cGo2 :03/08/21 01:17
>>112
調査ありがとう。
ちゃんと出てきてたか。

>『蒼天航路』なのでは…と言ってみるテスト。
>簡雍も出ていたように思うのですが。
いや、簡雍は『蒼天』ではついこの間、
劉備入蜀の頃になってやっと出てきたらしいんで
ちょっと違うっぽい。

漏れの心当たりとしては北方謙三の『三国志』の
洪紀くらいしかいないな。(劉備の挙兵前からの付き合いで馬商人)
勿論こいつは北方のオリジナルだけど。
>いや、簡雍は『蒼天』ではついこの間、
>劉備入蜀の頃になってやっと出てきたらしい

アワワ…
いらんこと言って恥をかいてしまった…

気を取り直して、次にいきます。
<第八回・火攻めの計>
広宗では、盧植将軍率いる五万の官軍が
十五万の黄巾賊・本隊と戦っていた。

劉備と会った盧植将軍は、
楼桑村に身を潜めていた頃に文学や兵法を教えた少年が、
自分の力になりたいとやってきたことに感激する。
そして義勇兵が官軍と共に戦うことを許可する。

しかし、義勇兵が参加した後でも
官軍は三倍の兵力の差がある黄巾賊を圧倒することはできず、
二ヶ月戦いつづけた後も戦況は膠着していた。
官軍の士気は下がっていて、戦いそっちのけで宴会をはじめるしまつだった。

ある夜、義勇兵達の不満を感じながら、張飛は劉備の陣に出向いた。
そこには劉備だけでなく関羽の姿もあり、
三人は今後どうするべきなのかを話し合おうとする。

と、そこへ盧植将軍がやってきて、
張角の弟、張宝・張梁のいる潁川に向かってくれるように言う。
そこを破れば広宗にいる黄巾賊は退路を断たれて
退却してしまうだろうと将軍は考えていた。
それで義勇兵にはひとまず広宗を離れ潁川に行き、
その軍を率いていた将軍の一人・朱雋将軍に面会する。
しかし将軍は義勇兵を「食いつめ者の乞食部隊」とばかにし、
わずかばかりの食料を与え、軍の最前線へと追いやった。

潁川は広い原野に、湖や沼が点在する土地だった。
劉備は原野に茂る草を見て、一つの奇策を思いつく。
それは部下の一人一人に十把づつたいまつを持たせ、
500人をまるでその何倍かの人間がいるように見せかけ
夜襲をかけるというものだった。

それは早速実行されて、慌てた黄巾賊は総崩れとなった。
成功を喜ぶ劉備の前に、数人の武将が現われる。
彼らは洛陽から派遣されてきたばかりの官軍で、
その司令官は曹操だった。
曹操は劉備の奇計を誉め、勝利を祝って凱歌をあげるように言った。

一緒に勝どきの声をあげた後、曹操は潁川を後にする。
劉備も帰路につくが、曹操の面影が頭から離れなかった。
彼はこれからこの国を動かしていく大人物になるに違いない、
そういう予感がしていた。
<第八回・終了>
117冠礼 ◆.eGBa5cGo2 :03/08/22 01:58
藻疲れさんです。第八回解説行きます。

>朱雋
正しくは「朱儁」。後漢末の名将の一人。
これも「演義」以来の由緒ある(?)間違い。
ちなみに「演義」ではここにもう一人の名将、皇甫嵩も一緒に出てくる。

>火攻め=劉備の奇策
実は「演義」では火攻めは皇甫嵩と朱儁の発案で、
劉備が到着する前に潁川での戦は終わってしまってる。
吉川、横光は「演義」よりも更に劉備隊を活躍させた訳だ。

>曹操
「演義」でも火計によって敗走する黄巾賊の前に曹操が現れ、
活躍する展開は一緒。
但し、前述の様に「演義」では劉備はまだ到着していないので、
正に曹操の一人舞台になってる。

ちなみに正史では
皇甫嵩、朱儁が潁川の黄巾賊を破ったことは
『後漢書』の霊帝紀や皇甫嵩伝、朱儁伝に、
曹操が潁川の黄巾討伐に参加していたことは
『三国志』の『魏書』武帝紀にそれぞれ記述がある。
但し、この潁川の黄巾賊を率いていたのは張宝・張梁ではなかった模様。
講師早ッ&乙ッス!

ところで、党錮の禁を食らった人たちが
スンナリ公職復帰できたのは非常自体(黄巾の乱)が起こったから?
>>118
『三国志新聞』の抜粋でよければ。
正史準拠なので嘘ではないだろう(と思う)。

 今回の布告(党錮の禁の解除)については、
 一部で太平道の騒乱の影響を指摘する声もある。
 党錮の禁に連座したメンバーとその仲間達は
 現在宮廷の主導権を握る宦官とは敵対関係にあることから、
 政府打倒を叫ぶ太平道と手を組む可能性があった。

 宦官は洛陽の学生や各地の士大夫に絶大な影響力を誇る
 清流派と民衆の支持を集める太平道が結束することを恐れ、
 皇甫嵩、呂強ら清流派に同情的な立場をとる官吏の建議を
 受け入れたと見られている。

ついで、初心者向けお役立ちリンク

*「党錮の禁」、「清流派」について
166年(延熹9年)、 第一次党錮の禁
169年(建寧2年)、 第二次党錮の禁
そして禁が解けるのは184年3月(黄巾党の蜂起の一ヵ月後)

http://www1.interq.or.jp/~t-shiro/data/etc/touko.html
http://www2.nightmare.to/~aruaru/nen/etc/02.html
うっかり直リン。

漏れも「アワワ」と叫びながら逝ってきます。
109-110れす。
チョトすっきりしました。
でも何で見たのかまだ思い出せなかったり。

とりあえず、漏れもアワワと叫んで(ry
<第九回・渡り鳥>
朱雋将軍の元に、ものみの兵が報告に戻ってくる。
将軍は劉備が夜襲をおこない、大勝利をあげたことを聞いて青ざめる。
自分が長い時間をかけてできなかったことを、
劉備たちはたった五百人で、しかも一晩でやってのけたのだ。

無能と評価されることを恐れた将軍は、
凱旋してきた劉備たちに難癖をつけ、さんざん罵った。
そして盧植将軍の元に即刻戻るように命令した。

その態度に張飛は怒るが、関羽と劉備とでなんとか収めるが、
関羽は「天下の乱れは官の乱れ」なのではないかと二人に言った。
広宗に戻る途中で、劉備たちは罪人を護送している官軍に出会う。
中に捕らわれていたのは盧植将軍であった。
盧植は、左豊卿の視察により不正が発覚したということだったが、
しかし実際は左豊卿へわいろをおくらなかったために
ありもない不正をでっちあげられてしまったのだった。

盧植は、劉備にこれからの時代を託し、
そして劉備は涙を流してそれを受け、軍を進める。
すると、敗走して総崩れとなった官軍の一行に出くわした。
義勇兵は早速援護に回り、官軍の危機を救った。

盧植将軍の失脚後、官軍を率いていたのは董卓だった。
董卓は自分達を救ってくれた部隊に会おうとするが、
しかしそれが義勇兵だと知ると態度を一転させ、
「こんな雑軍に自分が会う必要はなかった」と言い放った。

その言葉に、張飛は激情にかられ董卓を襲おうとする。
関羽と劉備は必死で押しとどめようとするが、
これまで受けてきた無礼な振る舞いに憤る張飛の言葉に、
二人は肩を落とした。

官もない、旗もない彼らは、これからもこういう扱いを受け、
各地を転々としなければいけないのだった。
<第九回・終了>
124一騎 ◆Ak19z4SexA :03/08/23 02:09
お疲れです。
何だか冠礼氏に任せっぱなしで申し訳ない上、横槍みたいな解説で更に申し訳ないのですが…。

正史、演義、横光(吉川)オリジの、三つの設定が混ざってますね。
横光オリジの記述は「朱儁が悪人っぽい」というただ一点だけだと思います。
正史はもちろん、演義でも名将として扱われていたハズ…。

逆に、正史に存在する記述は「盧植が左豊に賄賂を贈らなかったために左遷され、後任に董卓が当てられた」と言う部分です。
また、正史において董卓は、羌族(北西の異民族)討伐で活躍した名将でしたが、それでもこの後黄巾に敗れて、免職されています。
一騎さんも乙〜。
時間があったので盧植についていろいろぐぐってみていたんだが、
この人何気にすごい<文官だったり武官だったり

「黄巾賊に対して盧植は互角に渡り合える実力があった。
しかし董卓はそれができなかった」
ネト上ではそういう説が結構出てくるのだけど、これはガチ(史実)?
126一騎 ◆Ak19z4SexA :03/08/23 04:42
盧植は黄巾を追い詰めていたので、結果論から言えばそうなります。
ですが、武官としての戦歴で言えば董卓の方が上ですので、一概に盧植が上とは言えないと思います。
指揮官が急に代わった事は兵士に影響を与えたでしょうし、また董卓にしても勝手の違うところがあったでしょう。
もっとも、これまで武官としての戦歴がほとんど無かったにもかかわらず、黄巾を追い詰めた盧植が凄いのは明らかですがw

ちなみに董卓が左遷された後、その黄巾を倒したのは皇甫嵩です。
どうもありがとう。
やっぱ盧植スゲーw
皇甫嵩や朱儁だって負けず劣らずスゴイんですがw

皇甫嵩伝
ttp://www2u.biglobe.ne.jp/~dnak/sangoku/kouhosu.htm
朱儁伝
ttp://www2u.biglobe.ne.jp/~dnak/sangoku/syusyun.htm

ここには盧植や董卓、王允や呂布の伝もありますよん。
全部ただで見せてくれないかなw
盧植は皇甫嵩に「おんぶにだっこ」
130一騎 ◆Ak19z4SexA :03/08/23 19:23
>>128
実は漏れの後漢書の情報源もソコw
でも何故か盧植だけ見れない罠。
<第十回・鉄門峡の死闘>
転戦を続ける義勇兵は、再び朱雋将軍の陣に合流した。
敗北が続いた朱雋は、今度は彼らを歓迎し、
兵隊には酒を振舞い、劉備たちには豪華な宴席を設けた。

次の日、朱雋は劉備に三千の兵を貸し、
黄巾賊の大方師・張宝が陣を張る山へ向かってくれるように言う。

それを受け、劉備たちは早速出陣するが、
行軍の途中、天気が悪くなり、それと同時に官軍の兵たちが怯えはじめる。
張飛が怯える理由を尋ねると、張宝は恐ろしい妖術を使うため、
結果彼らの陣までたどり着いた人間はいないのだ、そう答えた。
張飛は彼らを叱咤し、なんとか行進を続けさせる。

混成部隊は鉄門峡と呼ばれる谷へ差し掛かる。
谷にはすさまじい風が吹いていた。
すっかり怯えてしまった官軍の兵をおいて、
劉備は義勇兵達に突撃を命じる。

と、そこに笑い声と共に張宝が現われた。
鉄門峡に吹く風は一層強まり、その風に乗って矢が射掛けられた。
その様子を見て、関羽はこれでは戦いにならないと判断し、
劉備に兵を退かせるように言った。
休息を取る兵たちの様子を眺めながら、
関羽と張飛、そして劉備はどう攻めればよいか話し合った。
張宝の妖術はバカにできないこと、
このままでは戦いにならないことを関羽は指摘したが、
それに対して劉備は、「あれは妖術ではない」と言った。

劉備は、張宝が鉄門峡の地形と、気候を利用して
まるで自分が妖術を使って突風を起こしているように
見せかけていると見破っていたのだった。

その説明に張飛と関羽は納得し、攻撃の方法を練り直した。
結果、官軍はふもとに残し、義勇兵は絶壁をのぼり、
黄巾賊の背後を攻めることにした。
頂上までたどり着くと、劉備は祈祷の真似をして
兵たちの恐怖心を取り除いた。
勢いを得た兵たちは、黄巾賊の陣へと飛び込んでいった。

急をつかれた黄巾賊の陣は混乱した。
その上、ふもとに残した官軍の兵がドラや太鼓を叩き
その存在を示してみせたので、後方を守る味方が裏切ったのだと早合点した。
そのために同士討ちがおこり、その隙に乗じて劉備は張宝を討ち取った。
山には火が起こり、結果その地の黄巾賊は全滅した。
<第十回・終了>
133冠礼 ◆.eGBa5cGo2 :03/08/24 17:31
藻疲れさんです。第十回解説いきます。

>劉備隊、朱儁と合流して張宝と合戦。これを討ち取る。
「演義」と大筋は同じ。ただやっぱり細部は異なる。
「演義」ではまず、張宝の部下、高昇が出てくるがあっさり張飛に討ち取られる。
その後、張宝の妖術(「演義」では妖術は本物)で劉備隊敗退。
しかし朱儁の助言で豚や羊の血を注ぐことで妖術を破る
(何故そんなものを注ぐと妖術を破れるのかは覚えてない、スマソ)。
張宝は劉備の放った矢を左肘に受けて負傷し逃走。
陽城に立てこもるが、敗北必至と見て取った部下の厳政が
張宝を殺して投降する。
以上が「演義」での対張宝戦の顛末。

ちなみに正史では張宝を斬ったのは皇甫嵩と鉅鹿太守の郭典
(『後漢書』皇甫嵩伝)。
冠礼さん,乙鰈です。
チョッペリ補足。

>しかし朱儁の助言で豚や羊の血を注ぐことで妖術を破る
>(何故そんなものを注ぐと妖術を破れるのかは覚えてない、スマソ)。

妖術を破ったとうより,敵兵に浴びせて戦えないようにしたのではないかと。

それから、横山版(吉川)だと最初に張宝の死亡が描かれているけど,
実際にはまず張角が病死,次に張梁が広宗で皇甫嵩にやられて,
そして最後に張宝が曲陽で死にますた。
乙彼様れす。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 Λ_Λ   
 (´∀`)  本講義は2巻まで完了シマスタ。
 l⌒l⌒l   next→「三国志(3)・漢室の風雲」
 .⌒'⌒
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
<第十一回・十常侍>
朱雋将軍の元に、義勇兵が張宝の軍を破ったとの知らせが入る。
ついで曲陽からの急使が到着し、
黄巾賊の総大将・張角が病死し、さらに張梁の軍をはじめ
黄巾賊のことごとくを討ち滅ぼしたことを告げる。

朱雋は、自分も張宝を討ち取ったと報告し、使者を返す。
そして義勇兵が戻ってくると彼らをねぎらい、
黄巾賊が滅んだことを祝って宴席を設けた。

洛陽の街も、黄巾賊討伐を祝ってお祭り騒ぎであった。
街の人たちは引き上げてくる将軍達を歓声で迎えたが、
しかし私兵である義勇軍は街に入れてはもらえず、
その騒ぎを城外でただ見ているだけだった。
そのまま、何の音沙汰もなく冬になった。
まだ城外で待機している劉備たちの前を、
盧植将軍に仕えていた張鈞という男が通りかかる。

そこにいる訳を劉備が話すと、張鈞は既に評定は終わっており、
全ての兵に恩賞が与えられているはずであると言った。
そして彼らに吉報を持ってくると約束して街の中に入っていった。

張鈞は人払いをした上で帝に拝謁し、
黄巾の乱が起こったのは政治への不満に原因があると言い、
ついで劉備の例をあげ、賄賂によって恩賞・官職が左右される
漢室を正さなくてはいけないことを話し、
その原因である十常侍を排除するように進言する。

しかし、彼の言葉は全て十常侍に筒抜けだった。
物陰から姿を表した十常侍は張鈞を殺害してしまう。
そして、張鈞の話にはほとんどが偽りであると納得させてしまう。

何も知らない劉備の元に使者がやって来る。
使者は劉備を中山府安喜県の警察署長に任命するとの勅を渡した。
劉備はそれを受けるが、警察署長では義勇兵を
養うことができないので彼らを解散させることにした。
<第十一回・終了>
137さん、乙〜。
イラナイ一行までコピってしまった…恥。
 (⌒`⌒)
  |__| ,;'"'゙';,/    マイカイホントニゴクロウサマ。
 ( ・∀・)ヽ、ノ     カキゴオリドゾー  
 ( 「: ̄ つ┴         
黄巾賊討伐に関わった人の官位一覧を作ってみた。

何進  大将軍  → そのまま
皇甫嵩 車騎将軍 → 左車騎将軍
朱儁  右中郎将 → 右車騎将軍
盧植  北中郎将 → 讒言により免官
董卓  東中郎将 → 敗北のため免官
曹操  騎都尉  → 済南相
孫堅  佐軍司馬 → 別部司馬
劉備  官位ナッシング→ 安喜県県尉

武功の割に皇甫嵩が報われてないような気がしないでもない。
この頃の驃騎将軍(車騎将軍のひとつ上)は誰だったんだろう?
>武功の割に皇甫嵩が報われてないような気がしないでもない。

冀州牧に任命されたこととや槐里侯の号あたりでペイされたのでは。

つーか、>>128の「朱儁伝」を読んでいるのだが、官位ワケワカラン。

>翌年(185)の春、朝廷は使者を遣わして、節を持たせ、朱儁を右車騎将軍
>に任命した。凱旋して京師に戻ると、光禄太夫となり、食邑五千を加増され、
>銭塘侯に封じられた。

車騎将軍は常設だけど、左とか右は非常設なのかなぁ。
だから凱旋して戻るとそのままじゃなくて光禄太夫(って一体何?)になるとか?
光禄大夫は光禄勲の属官であり、かつ実質は光禄勲とほぼ同列。

 秦の中大夫で、漢武帝により改名。
 後漢では定員三名、比二千石。顧問や応対、諸国の王公の弔問などを司った。
 侍中などと同じく、職務から時代を経るに従い重要度が増し、魏以降では更に上位となった。

大夫は非常官(多くは加官)のときも往々にあったけど、
今回の皇甫嵩は、常設の光禄大夫を拝したらしい。
後漢書献帝紀や後漢紀も拠ると、
流れとしては、

   董卓が暗殺される
 車騎将軍に祭り上げられる(王允らによるか?)
   李カクが長安に乱入
 太尉に転ず(李カクらによるか?)

となりますから、
つまり、太尉になったのは李カクらによって名誉職に祭り上げられただけ。
光禄大夫や太常も、李カクらによる人気取りに過ぎなかったでしょうね。
黄巾以降の彼は、権力者の人気取りの道具程度だったのかもしれません。

なお、車騎将軍の左と右は、私は常設だと思います。

話逸らしてごめんなさい。
144冠礼 ◆.eGBa5cGo2 :03/08/26 00:21
藻疲れさんです。第十一回解説+αいきます
>黄巾鎮圧
「演義」ではこの後、宛において黄巾残党の趙弘、韓忠、孫仲と
朱儁、劉備、そして孫堅が戦い、孫堅が活躍する見せ場があるのだけれど
横光ではあっさり省略。憐れなり孫堅・・・。

ちなみに『三国志』孫堅伝によれば孫堅はそれまでの賊討伐の実績から
朱儁自らの希望により彼の部下に就けられて黄巾討伐に参加している。
実際には黄巾討伐で朱儁が戦った場所のほとんどで孫堅も戦っていたと思われ。

>張鈞
彼が十常侍を批判して獄死したことは
『後漢書』霊帝紀や張譲伝に見える。
但し彼がその際劉備のことを語ったというのは「演義」の創作。
また彼が盧植の部下だったというのは吉川&横光のオリジナル。

>中山府安喜県の警察署長
正しくは中山国安喜県の県尉。
「中山府」は例によって「演義」の間違い。
県尉とは県の長官である県令の下で軍事や警察権を司る武官。
現代で言えば確かに警察署長のようなもの。
145冠礼 ◆.eGBa5cGo2 :03/08/26 00:24
>皇甫嵩
彼が黄巾討伐時点で車騎将軍だったと記すのは
『三国志』呉書の孫堅伝だけれど、
『後漢書』霊帝紀や皇甫嵩伝、朱儁伝の記述では左中郎将。
同レベルの指揮官だった朱儁や盧植、董卓が皆中郎将クラスだったことを考えると
左中郎将の方が自然に思える。
孫堅伝の方は、後に左車騎将軍(後年更に再び車騎将軍)になったことから
皇甫嵩=車騎のイメージが強くて誤って記述されてしまったものではないかな。
左中郎将から左車騎将軍への昇進だったら十分に軍功に報いてると思う。

>>黄巾以降の彼は、権力者の人気取りの道具程度
この後に涼州の辺章・韓遂らの反乱鎮圧に活躍していることを忘れちゃならないと思われ。
また閻忠が独立を薦めている点から考えれば皇甫嵩の影響力はお飾りなどではなく
かなりのものだったのではないかと思う。
じゃ、訂正。
>黄巾以降
を「董卓以降」で。これでいいかな?
このスレちっとも初心者向けじゃないヽ(`Д´)ノ
わからないことがあれば質問するべしw
ついで(ついでってこともないけど)初心者チックな話題。

実は正史と演義では十常侍の面子が違う。
それぞれ2行目に挙げた人物が相違点。

正史(『後漢書』宦者列伝)
 …張譲・趙忠・段珪・夏ツ・郭勝・
  孫璋・畢嵐・栗嵩・高望・張恭・韓小里・宗典
演義…張譲・趙忠・段珪・夏ツ・郭勝
  曹節・侯覧・蹇碩・程曠・封言胥

名前が残っている割には誰一人として字が明らかになってないのね。
蹇碩や張譲くらい残っていてもおかしくないのに。
149 ◆vHwv81D.XU :03/08/26 13:04
<第十二回・勅使>
月日は流れ、義勇軍を解散し、劉備が中山府安喜県の警察署長に就任してから
はや4ヶ月の時が経っていた。
安喜県は劉備の善政でよく治安が守られ強盗・やくざなどは影をひそめ
劉備は民から慕われていた。

そこへ帝の使者が視察に来たとの報が舞い込む。
訪れた都の使者・監郵(官職名・行政の監察官)を出迎え
食事をもてなす劉備。

ところが都の贅沢な暮らしに慣れている督郵は
「こんなまずい酒は飲めぬ」と膳を蹴り上げ、早々に退出してしまう。
この扱いに激怒した張飛が刀に手をかけ、ひと悶着あるが
関羽がなだめ、劉備が謝罪した事でひとまずこの場は収まった。
劉備は自分の接待の仕方が間違っていたのが原因だと思い、
督郵の供に接待の仕方を窺おうと思案する。
150 ◆vHwv81D.XU :03/08/26 13:22
翌日。
劉備が督郵の元を訪れると
昼間から女と戯れ酒を飲んでいる督郵。
その姿を見て、落胆しながらも供の者に都流の接待の仕方を尋ねる劉備。
ところが供の者は、「もてなしとは賄賂持って来いという意味だ」と賄賂を要求。
劉備が、「ここは貧しい田舎村、そんな金はない」と言うと、
供の者は「税率を上げてでも持って来い」との返事。
愕然とする劉備。

それからというもの劉備はあまり外出をしなくなり
関羽は書物に目を通し、張飛は飲んだくれるという日々が続いた。

劉備からの賄賂が届かない事に業を煮やした督郵は
県の役人を脅し、偽の罪をでっちあげ、劉備に罪をきせようと画策。
その噂は民にも伝わり、村は大騒ぎとなる。
やがて噂は張飛の耳にも伝わり、ついに堪忍袋の緒が切れた張飛は
督郵の屋敷に乗り込み、番兵をなぎ倒し、督郵を捕まえると
縄で縛りあげ、そのまま木に吊るし、「この腐れ役人め!」と
木の棒で叩きまくる。

騒ぎを聞きつけた関・劉はあわてて止めに来るが、
関羽の「我らは元々、天下万民の為に立ち上がったのだ。賄賂を贈ってまで
片田舎の警察署長の職にしがみつく事はない。住む場所を我々は間違ったのだ。」
との言葉を受け、劉備は督郵の命だけは助け、警察署長の任を捨て、
3人で落ち延びてゆくのであった。
<第十二回・終了>
新しいあらすじ書きさんかすら?
とりあえず歓迎(・∀・)つ旦
152 ◆vHwv81D.XU :03/08/26 17:07
>>151
良スレだと思ったので
ちょっとお手伝いしてみました。勝手な事してごめんなさいね。
うまくできたかな?
153冠礼 ◆.eGBa5cGo2 :03/08/26 22:05
藻疲れさんです。第十二回解説、いきます。

>張飛、督郵に暴行。劉備、官職を捨てて出奔
劉備が県尉の官職を捨てて安喜県を去ったのは正史も同じ。
但しここの話は正史と「演義」(及びそれをベースにした吉川や横光)
の相違点として最も有名なものの一つ。

実は『三国志』先主伝において督郵に暴行を加えた犯人は、
張飛ではなく劉備その人。
また劉備が督郵に暴行を加えた理由は賄賂を要求されたからではなく
「督郵が会ってくれなかったから」。
演義系の物語では、聖人君子とされる劉備だが、
史実ではこういう荒っぽいことも幾つかやらかしている。

>都の使者・督郵
督郵は実際には皇帝の使者ではなく、
郡太守や国相の部下として県の役人を監察する郡の役人。
実際には中山国相の命を受けて安喜県を訪れたものと思われ。
154 ◆vHwv81D.XU :03/08/28 20:16
書き込みが無いようなので・・そろそろいいかな?
155 ◆vHwv81D.XU :03/08/28 20:28
<第十三回・放浪の旅>

安喜県を飛び出した劉備一行だったが、さりとて行くあても無い。
すると張飛が「心当たりがある」というのでとりあえず一行はそこへ向かうことに。
一方、張飛にボコボコにされた督郵は命こそ拾ったものの
プライドを傷つけられ怒りが収まらない。
定州の太守に「劉備一行を捕縛せよ」との指令を出す。

途中、定州の兵らに追いつかれ、捕縛されそうになるが
劉備の「兵を殺せば、反逆の徒となり罪が重くなる」との意見を入れ
関・張は素手で大暴れ&恫喝し、州兵をほうほうの体で追い返すのであった。

やがて劉備一行は張飛の心当たり、劉大人(劉恢・リュウカイ)の屋敷に到着する。
快く劉備らを受け入れる劉大人。劉備たちはひと時の安息を手にしたのであった。
156 ◆vHwv81D.XU :03/08/28 20:41
また、劉備はそこで意外な人物に出会う。
かつて黄巾の乱に巻き込まれた折、(<第二回・芙蓉姫> 参照)
命を救った芙蓉姫であった。
劉大人は滅ぼされた鴻家とも血縁関係にあり
鴻家の軍馬兵糧の相談役だったという。その関係でここに保護されていたのだ。

やがて関羽は劉備の変化に気付く。どことなく様子がおかしいのだ。
ある夜、寝所を抜け出し外へと出かける劉備に気付いた関羽はその後をつける。

そこで見たものは芙蓉姫と逢引をする劉備の姿であった・・

翌日。万民の為に立ち上がった志を忘れ、己の幸せだけを考え
恋にうつつを抜かしていた劉備に憤り、酒を昼間からあおる関羽。

そこへ劉大人が現れ、「定州の巡察使と太守がこの地方の巡察に現れ
その宿舎に自分の屋敷があてがわれる事になった。よってあなたがたの素性が
ばれてしまう可能性がある」と報告してきた。
157 ◆vHwv81D.XU :03/08/28 20:51
これはいい機会だと関羽は劉備に旅立ちの旨を伝える。

複雑な表情を見せる劉備に「芙蓉姫の事が気になり申すか」と関羽は尋ねるが
「大志を決して忘れたわけではない。ただ、芙蓉姫との恋は気まぐれなものではなく
本気の恋をした」と語る劉備。

しかし、結局別れを惜しみながらも、劉備は劉大人の元を去るのだった。

その後、
身を隠す為に、それぞれ別々に別れ再び八月に合流しようと
離れ離れになる劉・関・張。

とりあえず劉備は故郷・楼桑村に帰るが
心を鬼にした母親に
「大事を成さずに帰ってくるとは女々しい、今すぐにでも発ちなさい」と促され
再び旅に出るのであった。

<第十三回・終了>
乙!(・∀・)
>>97
すんごい遅レスですが。

>どうでもいいようなちょい役だから、
>それなりに名のとおった人物・劉焉を
>登場させた、なんて思うのですがw

演義ではこのとき、劉焉は劉備を「甥」扱いして歓迎します。
つまり、劉璋とは「いとこ同士(もっと言えば兄弟)」ってことになるわけで、
のちの劉備の入蜀の際、劉璋が劉備を信用することの
伏線になっているのであります。あんまり生かせてませんが…。
まぁ、演義の作者もいろいろ考えて、ここで劉焉を出したということで。
ごめん。スレちゃんと読んでなかった。
ホントすいません、お許しを。
161無名武将@お腹せっぷく:03/08/30 18:44
浮上
162冠礼 ◆.eGBa5cGo2 :03/08/31 14:15
遅レススマソ。第十三回解説です。

>定州
実際には当時の行政区分に定州は無い。
これも「演義」の間違いをそのまま踏襲したもの。

>劉恢
「演義」が創作した人物。
安喜県尉の官を捨てた劉備がこの人を頼る流れは「演義」も同じ。

>鴻芙蓉との再会&劉備の帰郷と母の叱責
この辺りは吉川&横光オリジナル。
「演義」では張挙・張純の反乱に際して、
劉恢が討伐の適任者として劉備を幽州牧・劉虞に推薦し、
劉備は都尉として張純討伐に出向く展開となる。

ちなみに正史の注によれば安喜県尉となったのは
この張純討伐の後。「演義」では順番が逆になっている。
<第十四回・絶望>
故郷に帰ったものの母に厳しく叱責&追い出され、うなだれる劉備。
激しいマザコンだった劉備はそのショックで全ての目的意識を失ってしまう。
名も無き村にたどり着いた劉備は酒と女に溺れ、無為にその地で3年の月日を過ごしてしまう。

その頃、中央ではまたしても各地で反乱が続出し、それに漢帝国は対応できなく
なっていた。各地で反乱軍は勢力を拡げ、袁胤、兀突骨、蔡和・蔡中らが巨大勢力となっていた。

そして・・
待ち合わせの場所では関羽と張飛が干からびていた。

<第十四回・終了>

164冠礼 ◆.eGBa5cGo2 :03/09/01 02:07
>>163
ネタスレじゃないんだから嘘を書くなって
文章ヘタすぎて、すぐネタだと判るな
でも最後の一行に不覚にもワロタ。

つーかそろそろ次いこか?
誰も書かんなら漏れが書いちゃうよ。
下手だけど。

先を急ぐ必要はないと思う>>166

ここ普通に良スレなんだけど、
問題は冠礼氏にかかる負担が大きいことだよNE。
だからこれくらいのペースでマターリ進めるのがよいかと思われ。
アクセス規制と専用ブラウザの不調と予想外の宿題の出現に
ネット断ちを余儀なくされた最初のスレの137です。
やっと復帰…できたようです。多分。

166さんや ◆vHwv81D.XUさんはまだ来ないですかね。
とりあえず漏れが書いてしまいます。
かぶったりしませんように…
<第十四回・乱兆>
黄巾の乱は収束したものの、天下の乱れはおさまることがなかった。
漁陽の張挙・張純の謀反、長沙江夏の兵匪の乱など、
次々と反乱が起こり漢室を揺るがせていた。

宮廷内では十常侍の専横がますます酷くなり、
黄巾賊討伐で名をあげた皇甫嵩将軍、朱雋将軍は
彼らにへりくだることをしなかったために
いまや将軍の座をはずされていた。

十常侍は帝に酒や女を与え、政治に目を向けさせないようにした。
洛陽の肉屋の娘であった何后も、そうした目的のために
十常侍が選んだ女だった。
皇帝は何后を寵愛し、その兄である何進を大将軍につける。

この何后は弁という皇子を産んだが、
後に協皇子を生んだ王美人に嫉妬し、彼女を毒殺してしまう。
そして協皇子は董太后(帝の母)の元で育つことになる。
このように世間だけでなく宮廷の内部も乱れに乱れていたが、
帝自身も連日の乱行が祟って、病に倒れてしまう。
中常侍の蹇碩が見舞いに行くと、帝は既に死期を悟っており、
後継ぎには協皇子をと考えていることを告げた。
蹇碩は、協皇子を立太子にするには何進を除く必要があるが、
自分に任せてくれればどうにかできるだろう、そう答えた。

何進の元に、帝から参内するようにとの命令がくだる。
何進はいそいで駆けつけようとするが、
十常侍の陰謀を疑う袁紹はそれを止めた。
何進は密偵を放つ。

その密偵は、十常侍が何進を暗殺する計画を立てていることを報告する。
怒った何進は諸将を集め、十常侍の抹殺を宣言する。
集まりに加わっていた曹操は十常侍の恐ろしさを指摘し、
慎重に事を運ぶよう進言するが、何進に一喝されてしまう。

と、そこへ帝が死んだとの知らせが入る。
密偵は十常侍が何進将軍を殺した上で帝の崩御を発表し、
その後協皇子を後継ぎとして担ぎ出そうとしていることを報告する。
それを聞いた何進は、帝からの使者を有無を言わせず八つ裂きにし、
そのまま宮中へと向かった。

何進はまず蹇碩を血祭りにあげ、それから何人もの宦官を殺したが、
たくさんの死体に囲まれ、なにやら恐ろしい気持ちになる。
一方生き残った十常侍たちは何后にとりなしを求め、
何進はそれを受け入れ、襲撃を途中で中止してしまう。

後日、何后と何進は弁皇子のために董太后を殺すことにする。
そして董太后は宮中から連れ去られ、殺されてしまった。
<第十四回・終了>
よかった、無事カキコできた上かぶらずにすみました。

手伝ってくださった◆vHwv81D.XUさん、感謝です。
というか文章うまい!なんか横山節を再現されているようなきがします。
気が向いたらまたおねがいします。166さんもどうぞよろしく。

そして冠礼さん、毎回マジで乙彼さまです。
これからもお見限りなく、です。
ホッス
ううむ…
誰もこなくなってしまった。

しょうがないから漏れが調べたことをコツコツ貼るスレッドにしようかな。
使いたい人がいたら譲りますが(w
今日調べたこと
★このときの帝…霊帝(在167〜189)
 中の人は劉宏。159生、189没。
 世継ぎのないまま桓帝が死んだので、遠縁の劉宏が選ばれた。
 しかし12歳で皇帝になったため、補佐する外戚と
 宦官の対立を招き、党錮の禁(2次)が起こる原因となる。
 そして、それに勝利した十常侍の専横を招いた。
 
 蓄財が趣味。官位や官職を金で売ったりしていた。
 文中の「弁皇子より協皇子を…」というくだりは史実的にもおkらしい。

難しいことはこの辺に
 ttp://www.tabiken.com/history/doc/T/T169C100.HTM
 ttp://www2.nightmare.to/~aruaru/nen/etc/03.html
175一騎 ◆Ak19z4SexA :03/09/10 04:30
来れなくてスマソ、正直この辺苦手なんですが…。

>漁陽の張挙・張純の謀反
張挙・張純は烏桓(異民族)と手を組み、幽州で反乱を起こした。
これに対し朝廷は、劉虞を幽州牧に任命、討伐を命じるが、劉虞配下の公孫サンは賊軍と戦って敗北する。
しかし劉虞は烏桓を味方に付ける事に成功、賊軍は飢えに苦しんだために敗走した。

>長沙江夏の兵匪の乱
186年に起こった趙慈の乱(江夏)と、187年に起こった区星の乱(長沙・零陵・桂陽)が混ざっているのだろうか?
どちらもその年の内に鎮圧されている。
176一騎 ◆Ak19z4SexA :03/09/10 04:49
>皇甫嵩将軍、朱雋将軍は〜将軍の座をはずされていた
皇甫嵩は左車騎将軍であったが、中常侍の張譲に賄賂を贈らなかったため、左遷されている。
しかし、朱儁は母の喪によって官を去っただけで、左遷されたわけでは無い。
悪役だった朱儁が善人らしく書いてあるのは、この部分が演義から引用されたからだと思う。

>何后もそうした目的のために十常侍が選んだ女だった
これが本当かどうかは不明。
ただ、後に何進が宦官を誅殺しようとした際、弟の何苗が「我々は宦官のおかげで富貴な身分になれた」と述べている。
177一騎 ◆Ak19z4SexA :03/09/10 05:15
>何進の元に、帝から参内するようにとの命令が下る〜
これ以降は史実と完全に異なっている。
大まかな変更点は
・何進は入朝しようとしたが、昔馴染みの潘隠が、目配せで蹇碩の陰謀を知らせたため、何進はこれに気付いて引き返した
・何進が誅殺されなかっため、長幼の順に従って弁皇子が即位した。この時点ではまだ蹇碩は生きている
・蹇碩は再度何進を誅殺しようとしたが、中常侍の郭勝がこれを密告したため、蹇碩が逆に誅殺された
・何進は董太后の甥である董重を自殺に追い込んだ。董太后は憂いと恐怖で亡くなった
一騎さん、解説ありがとうございます!
ついで自分も調べたことをペタリ。

★黄巾の乱前後に起こった反乱(184〜187年)
    後から混ざった人、協力者は「+」で表示
 ・五斗米道(益州)…184年蜂起。
    教祖は張脩。後に益州牧・劉焉と結託する。
 ・辺章&韓遂+姜族(涼州)…185年決起。
    平定には董卓の協力があった。
 ・趙慈(荊州)…186年決起。
    単なる一兵卒に過ぎない趙慈が決起。
    すぐ鎮圧されるが南陽太守・秦頡は殺害されてしまう。
 ・韓遂+馬騰(涼州)…187年。
 ・張挙&張純+烏丸大人・丘力居(薊中)…187年。
    右北平太守・劉政、遼東太守・楊終、
    護烏丸校尉・公キ稠を殺害し、張挙は皇帝を自称する。
 ・区星(長沙)…187年。長沙太守・孫堅により鎮圧。


ちょっと違うけどこの時期に活躍した賊と族。
 ・黒山賊(河北一体)…184〜185。
  朝廷は鎮圧を断念し、懐柔策をとる。
  頭目の張燕は平難中老将に任じられる。
 ・鮮卑族(幽州、并州)…186年。
間違えた…

平難中「老」将じゃなくて、平難中「郎」将だ。
<第十五回・何進将軍の死>
洛陽の街は、一見落ち着きを取り戻したかのようだった。
しかしその裏では、何進が董太后を暗殺したのではないかという
噂が人々の間に広まっていた。それは、生き残った十常侍たちが、
何進を陥れる為に意図的に広めたものだった。

袁紹は、何進に「十常侍を討つこと」を勧め、そして何進は決断する。
それを知った十常侍は、またも何后の情けにすがろうとし、
そして何后に呼び出された何進は、またも決意を翻し、
十常侍を除くことはやめようとするが、しかし袁紹に強く諌められ、
ついに十常侍を皆殺しすることを決意した。

何進は地方の諸侯に使者を送り、洛陽へ呼び寄せることにした。
その使者は西涼の董卓の元にもやってきた。
董卓は宮廷内部が乱れているのを知り、野望を秘めて洛陽に向かった。

一方、何進のもとにはせ参じた曹操たちは、
各地の諸侯、特に董卓にも使者を送ったと知って、
彼らに手紙を出すことは、宮中の混乱をわざわざしらせることになり、
ひいては天下の乱れを引き起こしかねないということを
何進に諫言するが、しかしそれは聞き入れられなかった。

一方宮廷内では、宦官たちが何進を暗殺しようとしていた。
何后を使い、何進を宮中に呼び出した。
袁紹は止めるが、しかし何進は聞き入れず、結局討ち取られてしまった。
<第十五回・終了>
181 ◆vHwv81D.XU :03/09/13 00:26
OCN東京ユーザーだったので永らくアクセス規制されていました。
今日から復帰です。
182無名武将@お腹せっぷく:03/09/13 02:09
良スレあげ
183無名武将@お腹せっぷく:03/09/13 23:14
★宦官たちについてはこの辺を見る。
 ttp://www.toride.com/~fengchu/
 ttp://sannan-web.hp.infoseek.co.jp/kangan/gokan.html
 「結婚相手はほとんど女性」の「ほとんど以外」が気になる漏れ。

 宦官が武官(西園八校尉)のTOPにたったり、
 宮廷警護の役についていたなんて驚き。
 後宮の雑用係で表舞台に立たない人たちなのかと思ってた。

 …ほんとうは蹇碩や張譲の事を調べていたんだけど、
 うまくググれなかったので今回はスルー。



ついでに通りがかりの人の解説期待age+先生の再降臨希望age
184一騎 ◆Ak19z4SexA :03/09/14 03:40
>>180
あまり解説する箇所は無いです。
強いて挙げるならば、董卓を呼び寄せる事を諌めた人物に、陳琳という者がいます。
そこまで重要というわけでもないですが、後になって出てくる人物です。
185 ◆vHwv81D.XU :03/09/15 19:50
そろそろ次のあらすじ書きましょうか?
186 ◆vHwv81D.XU :03/09/19 22:50
<第十六回・西涼の董卓>

十常侍の罠にはまり、あえなく命を落とした大将軍・何進。
城内から投げ捨てられた何進の首を見るや否や、袁紹は憤慨し、
仇討ちとばかりに城内へ軍勢を突入させた。

城兵も応戦したが、袁紹の軍勢を抑えることはできず、ついに城内へ侵入される。
劣勢を悟った十常侍は新帝と協皇子を連れて逃走を図る。
しかし、「帝を連れ出されたとあっては逆賊にされかねん」と袁紹の追っ手も猛追。
もはやこれまでと悟った十常侍・張譲は馬車から飛び降り河に身を躍らせたのであった。

操縦者を失い、新帝を乗せた馬車は横転。
新帝と協皇子はいずこへと落ち延びてゆくのであった。
187 ◆vHwv81D.XU :03/09/19 23:04
時が経ち・・
寄り添うように眠っていた新帝と協皇子に声をかける男がいる。
名を崔毅(さいき)。かつて宮中に仕えていたが、十常侍の悪政に嫌気が差し、
いまは百姓暮らしだという。

新帝と協皇子の素性を聞いて驚いた崔毅は二人を自宅に保護する。
ほどなく帝を探しているという閔貢(びんこう)なる武将が現れ、
二人は崔毅から閔貢に引き渡され、袁紹軍と無事合流する。

ところが街に帰還しようとする袁軍の前に正体不明の軍勢が現れる。
「ここにおられるのは帝である。何者か!」と尋ねる袁紹に対し、不遜な態度をとる将軍らしき男。
それは西涼の董卓であった。
その無礼を陳留王(協皇子)に咎められ、下馬してひれ伏す董卓。

その聡明な態度に「何進の血が流れる新帝よりも王者の風格がある・・・」と
体感した董卓であった。

<第十六回・終了>
188無名武将@お腹せっぷく:03/09/21 21:36
age
189無名武将@お腹せっぷく:03/09/21 21:54
a
190香山 ◆ZPjS81JnhE :03/09/24 20:40
誰も来ないねー。
冠礼様はどこに行かれたのだ?
すごく楽しみだったのになー。
お仕事が大変なのかな?
192無名武将@お腹せっぷく:03/10/01 14:17
あげ。
193陸績さん@橘懐に入れまくり ◆8HaqiVd0Sc :03/10/04 11:16
陳留王がこの後帝位につくわけだけど、
漢王朝から禅譲された魏の最後の皇帝曹奐は、
帝位を受け渡した後陳留王になっている。
194無名武将@お腹せっぷく:03/10/04 11:20
少帝可愛い
195無名武将@お腹せっぷく:03/10/04 11:22
腐女子は陳留王と少帝が抱き合っているシーンでホモ小説を書いていること
ショタはこのシーンでかならず3回は抜くということは覚えておくべき
196無名武将@お腹せっぷく:03/10/08 22:29
「曹嵩の死」の回でなぜか曹操が城主みたいになってるんだけどいつ城を手に入れたんだ?反董卓の義兵を挙げたときは陳留に逃げ込んだだけなのに
>>178でやたら韓遂が反乱起こしていますが、
どういう経緯なんでしょうか?

横光では前半生が全く描かれてないけど、
確か演技では有力な豪族っぽい感じだったんでしょう?
史実は違うのかな。
保守
199無名武将@お腹せっぷく:03/10/17 22:13
>>198
保守するなと言っただろ
200
>>197
正史の冠水は反乱しまくり。
馬騰らに脅されて反乱を続けさせられた
終わっちゃったのかなー。もう少し待ってみる。
204 ◆vHwv81D.XU :03/10/27 23:21
ageみよう。
超遅レスですが、

張飛の元々の職業については、別スレで見た話ですが、
>>張飛が肉屋という設定は、樊カイが屠殺業で(張飛は)その転生
という民間伝承があり、それを演義に取り入れたという説があるようです。

>>47
没年不明の件ですが、
蜀の武将は、孔明が史官を廃止したので記録が非常に少ないそうです。
ですので、戦場で没したのではなく、蜀国内で病死した人物については没年不明が多いという
ことではないでしょうか。
206無名武将@お腹せっぷく:03/11/03 15:27



ムムム



 
207 ◆G.ClPllFWI :03/11/03 15:57
「そうだ、こんな時こそ軍師殿から頂いた3つの小袋を開けてみよう」

そう言うや否や、趙雲はひとつめの小袋に手を伸ばした

「えぇと、なになに・・・」



III
『これですきなもの買いなさい 孔明』



「・・・蜀、滅びたり」
208無名武将@お腹せっぷく:03/11/03 16:39
今赤壁の戦いのとこだけどこのへんから急におもしろくなってきたね
逆に赤壁以降は好きじゃないって人もいるんだけどね。
軍師の知恵比べより呂布や関張の大立ち回りを見るほうがいいって人。
俺は孔明が出る位から、好きじゃなくなってくるなぁ。
211無名武将@お腹せっぷく:03/11/05 17:05
わわわ
廃れてきたね・・このスレ
ひともみにもみつぶせ
好きだったのに解説・・・
もう終わりなの?
冷たい母と思わないでおくれ・・・ラララ・・・ラララ・・・
216無名武将@お腹せっぷく:03/11/13 20:36
あげ
217無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 10:36
油揚げ
218無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 22:42
嘘でもいいから蜀に天下とらせてやれよと小学校の時思った。
読み終えてショックで2日学校休んだ。
劉備・張飛・関羽・孔明も男塾ばりに死んでないはずと言い聞かせてたのに。
219無名武将@お腹せっぷく:03/11/24 11:44
キャラの顔がわからん。
胡軫倒したの誰?
ユショウってダレだ
糞州の橋の闘いで張飛にぶった切られたヤシはダレ
兪渉
221一騎 ◆Ak19z4SexA :03/12/02 10:06
久々に戻ってきましたが、解説は漏れでも良いのでしょうか…?
もちろん
223ミカエルT世:03/12/02 23:12
>>219
胡軫を切ったのは孫氏三代に仕えた名将・程普。
兪渉(ユショウ)=韓馥の配下。華雄に切られた。
>>221
お願いします
225無名武将@お腹せっぷく:03/12/15 21:07
保持age
226あぼーん:あぼーん
あぼーん
あk
228無名武将@お腹せっぷく:04/01/04 19:58
吉川と園田の三国志は関羽が年長で劉備が一番若いと書いてあったが
桃園の誓い時の三兄弟の年齢は
劉備:23 関羽:22 張飛:16だろ。

てか呼び名くらい固定しろよ。横山くらいだぞ、劉備どの、兄貴、兄者、殿とかめちゃくちゃなのは。
演義 関羽→劉備:兄者 張飛→劉備:兄貴 張飛→関羽:兄貴
吉川 関羽→劉備:兄者 張飛→劉備:長兄 張飛→関羽:兄貴
園田 関羽→劉備:兄い 張飛→劉備:兄い 張飛→関羽:兄い
蒼天 関羽→劉備:長兄 張飛→劉備:劉備 張飛→関羽:兄者
李志清 関羽→劉備:劉備殿 張飛→劉備:兄貴 張飛→関羽:兄貴
>桃園の誓い時の三兄弟の年齢は
>劉備:23 関羽:22 張飛:16だろ。

どっから割り出したん?
まさかとは思うがゲームじゃねぇだろうな。
231無名武将@お腹せっぷく:04/01/05 05:26
>>229-230
はあ?平凡社の演義の登場人物紹介に生没年書いてあるだろうがクズが
>>231はリア厨房
233229:04/01/05 05:32
>>231
はあ?俺は聞いただけだろうが、人間のクズが
>>229
香ばしい
235無名武将@お腹せっぷく:04/01/05 10:00
吉川が演義をネタにしてる以上>>228でいいんじゃないの?
蒼天既に死す黄夫当に立つべし〜とか漢寿亭侯を漢の寿亭侯とか言ってるあたり結構吉川氏は誤解多いし。

園田のじゃ関羽が趙雲の教え子とか言ってるけど228年に70歳だった趙雲は劉備より年上なわけだし。
吉川読んだ後に読むと痛々しいだけ。

つか横山は桃園の誓いまでの吉川三国志の丸写しは何とかならなかったのか。
236235:04/01/05 10:01
訂正
関羽が趙雲の教え子→趙雲が関羽の教え子
最後の方でに、
初めは国交の関係でなかなか詳しい資料が
手に入らなかったとか書いてあったよ。
スレ違いだったらスマソ

横山三国志もう数十回初めから読みまくってそろそろ
新しい三国志の出来れば漫画を読みたいのですが、
いまだ、初心者の漏れ。
何がメジャーなのか... 〓■●~゜
どうか暇でネ甲を目指す香具師教えてください(ノД;)
>>238
いっそいきなり正史を読んで純然たる正史派になるべし

正史は半端じゃなく読みづらいがね
240無名武将@お腹せっぷく:04/01/05 12:42
>>235
つーか御大は三国志演義を元にしたオリジナル作品と謳っておきながら当初は連載数年前に発行された立間祥介の三国志演義すら全く目を通していなかったと思われる。

そうでなかったらストーリーから台詞の一字一句まで吉川のと一致するはずがないしね。
>>162
>定州
実際には当時の行政区分に定州は無い。
これも「演義」の間違いをそのまま踏襲したもの

ここで言う「州」は蜀にある「江州」みたい意味合いじゃないか?

http://www.chinatravel.co.jp/china/hebei/dingzhou.htm

ここを見ると一応中山国に実在していたようだが。

>>241
定州は演義成立頃の地名で、そこは当時は盧奴県だNE!
>>242
んなことはない。これみれよ。
段覇
生没年不詳。
雁門(山西省)原平の人。父の乾は慕容垂の廣武令であった。道武帝が雁門を制圧した時、
幼かったので宮刑に処せられた。乾は部族を率いて雲中に帰っていった。
 段覇は幼くして物事をみるに敏感で、それが認められて中常侍、中護軍将軍、殿中尚書を歴任し武陵公に封じられた。
後に安東将軍、定州刺史として赴任することとなった。

太武帝の頃、功績の有無を自ら調べた事があり、前の定州治左(刺史の補佐)
である張渾屯が段覇が刺史時代に賄賂を貪ったと弾劾したため、
太武帝の不興を買い、殺されそうになったが、景穆帝(拓跋晃)の取りなしにより、
庶人に落とされるだけで済んだ。
『魏書』94 閹官 段覇伝、『北史』92 恩幸 段覇伝

http://www.toride.com/~fengchu/retu02f2.html

これを見る限り、定州はあったようだが?この人物は魏晋南北朝時代の人物ですが。
魏晋南北朝の州インフレ時代と一緒にするのはノンノンYO!
後漢末にはまだ定州なんて州はないですNE!
せめて三国志から持ってきてYO!
>>244
州じゃなくて街の意でいってるではないかと。
蜀にも江州・呉にも温州ってあるだろ?

それに、>>242は定州は演義成立頃の地名、と言っているが、
少なくても魏晋南北朝時代にはあったわけだ。
246無名武将@お腹せっぷく:04/01/17 12:05
age
つか、どうでもいいが、本編の方はどうなった?
解説者ー?
248無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 02:34
ageてみよう。
249無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 04:15
ageっているのを見てここまで通し読みした者ですが、
解説の続きを私がやってもよいでしょうか?一応「つなぎ」ということで・・・
夏侯淳は「かこうとん」と読むのであって「かこうじゅん」じゃないから
251無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 09:36
>>250
どっちでもいいと思う。
252無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 10:19
>>249
ひらにお願い申し上げる
>>250

×夏候淳

○夏候惇
>>253

×夏候惇

○夏侯惇
>>254
上と下同じじゃねーかよ(ワラ

>>255
釣りかもしれんが掛かってやる。

本気で言ってんなら目を凝らしてもう一度見てみろ。特に「コウ」の部分。
257249 ◆kezb33M35. :04/01/25 19:56
<第十七回・荊州の父子>
董卓らに守られ都、洛陽に帰還してきた少帝と陳留王。
それを出迎えたのは帝の母親にして今は亡き何進の妹何太后であった。
幼い少帝は母に連れられ、奥の間に戻ると、董卓も陳留王にくつろぐ事を薦め、自らも退廷した。

李儒が何太后が陳留王の母、王美人を暗殺した話をすると、董卓は因果応報と、意味深な発言をした。
董卓はその後、李儒に軍を城外で野営させること、門を閉ざし、他の諸侯を入れぬことなどを命令した。

そうして洛陽城外に董卓軍の旗が並ぶと二人の将軍が兵を引き連れ洛陽に到着した。
荊州の丁原とその養子呂布である。二人がたなびく董卓軍の旗を見ていると、陣中から一人の男が此方に向かってきた。
董卓の知恵袋、李儒である。

李儒は二人に何進が既に暗殺されたこと、そしてその犯人である十常侍も袁紹らによって壊滅させられたことなど、
二人の到着が遅すぎたことを話した。
しかし二人は来た以上帝に挨拶せねば臣下の礼に反するとして野営の準備を行った・・・
258249 ◆kezb33M35. :04/01/25 19:57
夜も更け、董卓は屋敷で夕食を摂っていた。そして董卓はおもむろに腹心の李儒を呼ぶ。
ある相談をするためだ。その相談とは現在の皇帝の廃位、そして陳留王を帝に立てることである。

この計画に李儒は大賛成した。有力な諸侯はみな領地に帰り、残るは董卓に媚を売る連中ばかり、
計画を実行するなら今しかないと。これを聞いた董卓は諸侯の反応を見て、敵か味方かを判別するため、
翌日大宴会を開きその場で公表することにした・・・

翌日の温明殿―董卓主催の大規模な宴が開かれていた。そして主催者である董卓が登場すると、
文武百官皆揃って董卓のご機嫌取りをはじめた。丁原を除いて・・・

宴もたけなわになると董卓は一つの提案をした。勿論現皇帝の廃位である。諸官はこぞって賛成したが、
一人だけ反論するものがあった。丁原である。董卓は大いにいかり刀に手を伸ばすが、皆の制止や、呂布の威圧などもあり、
一旦その場は収まった。

しかし董卓の怒りは収まるはずも無く、部下に帰り道を襲うよう命じた。しかし丁原の護衛はあの呂布である。
数人の刺客が敵うはずも無く、瞬時に返り討ちにあってしまった。

董卓の魂胆をみかねた丁原は深夜、董卓軍に夜襲を仕掛けることにした。寝静まった兵は20万といえども呂布の敵では無く、
董卓軍は開戦前に甚大な被害を受けてしまったのである・・・
 
259249 ◆kezb33M35. :04/01/25 19:58
個人的には丁原は本当に荊州が本拠地なのでしょうか?
作中には「荊州の丁原」としか出ていないので・・・
>>259
「本当」ってのは史実ではどうなの?ってこと?
并州だよ。三国志呂布伝によると丁原は并州刺史だったYO!
ただし殺された時は執金吾だったけどNE!
「并」と「荊」、字が似てるから間違ったんだと思うYO!!
262249 ◆kezb33M35. :04/01/25 22:14
>>261
そういえば司馬懿がボケた芝居やる時も并州と荊州聞き間違えてましたよね?
>>262
うん。
ちなみに呂布は丁原の属官になったけど、呂布は并州の出身なんだから、
丁原も并州刺史としか思えないんだNE!
ほんとかなーw
265コードブレイカー ◆ZPjS81JnhE :04/02/23 16:06
このまま落とすのはもったいないスレですな。
266無名武将@お腹せっぷく:04/02/29 19:42
俺もコミック売ってなければ適当に解説するけどねえ。
267無名武将@お腹せっぷく:04/03/01 17:52
あれだ。
横光三国志辞典を買えば万事解決。
268無名武将@お腹せっぷく:04/03/03 16:39
>>267
あの人物解説読んでると初期の御大の人間描写がいかにいい加減かわかる。
ジュンイクやチンキュウあたり特に。
ジュンイクなんて横光に出てきたっけ?
270無名武将@お腹せっぷく:04/03/22 12:28
ageとくか。
>>269
7巻にいたぞ
272無名武将@お腹せっぷく:04/04/04 08:29
またageちゃいますよ。
>>269
二虎競食の計とか進言してるヤシが荀ケ。
274無名武将@お腹せっぷく:04/04/15 22:51
つーか良スレ下がり過ぎ
275無名武将@お腹せっぷく:04/04/15 22:54
>>269
ジュソイクは曹軍の文官でそ。
ジュンイクは
どちらかというとイジメられキャラだな。
277無名武将@お腹せっぷく :04/04/16 00:19
二虎競食の計の人はちがうでしょ
馬超VS曹操が終わって直後にジュンイクでてたけど明らかに顔が違いすぎ
278無名武将@お腹せっぷく:04/04/16 00:25
>>273
それって郭嘉じゃない?
279無名武将@お腹せっぷく:04/04/16 01:37
カヒ城での曹操と呂布の戦いで、呂布に
「貴方が最も信頼していた陳親子でさえ貴方を裏切りました・・・・。」
見たいな事言ったのは誰だったけか?
280無名武将@お腹せっぷく:04/04/16 01:43
呂布の嫁
281279:04/04/16 01:47
>>280
ありがとう。
御大のご冥福を、心から祈りながら、解説やらせて頂きます……。

<第十六回・西涼の董卓>
>新帝と協皇子の素性を聞いて驚いた崔毅は二人を自宅に保護する
崔毅自身に特に事績はありませんが、崔毅の兄の崔烈は大尉(三公の一つ)だった人物です。
崔烈は金でこの位を買い取りましたが、それでも評判は高かったそうです。
また、閔貢が百官と合流した後、先導を務めたのは崔烈なのですが、特に崔毅との関係は示されていません。

>二人は崔毅から閔貢に引き渡され、袁紹軍と無事合流する
合流したのが袁紹軍という記述はありません。
しかし、この時点で朝廷は袁紹軍の下にあったので、袁紹の軍が少数いた可能性はあります。
どちらにしても、袁紹自身はいなかったと思いますが。

>その聡明な態度に「何進の血が流れる新帝よりも王者の風格がある・・・」と
>体感した董卓であった
陳留王を立てようとした理由について、
「陳留王を育てた董太后と自分が同姓であるため、そこに自分との姻戚関係をこじつけようとした」
という説を聞いた事があります。
<第十七回・荊州の父子>
>董卓の知恵袋、李儒である
三国志正史には登場せず、後漢書で少帝を毒殺した時にだけ出てくる事である意味有名ですw
つまり正史に従うと、李儒の考え出した策略は全て董卓自身の知略、という事になります。

>荊州の丁原
正しくは并州(洛陽の北)です。
演義からの間違いだったと思います。

>董卓の怒りは収まるはずも無く〜甚大な被害を受けてしまったのである・・・
呂布の強さを強調するために作られた話だと思います。
284無名武将@お腹せっぷく:04/04/16 03:09
このスレ、今日初めて発見して最初から読んでて
すげえなあ、これ一冊の本になるよなんて
思ってたんだけど、ぐずぐずで終わっちゃったのかな・・・
285無名武将@お腹せっぷく:04/04/16 05:11
文庫版の先生のあとがきを思い出す。劉備陣営を際だたせるために、あえて曹操の幕僚には個性を与えなかったこと。先生は曹操が好きだとも書いてたこと。

横山三国志は読者のために、わかりやすさに徹してくれた作品。先生の冥福祈ってます。
>>277
でもさ、実際二虎競食の計って荀ケの策じゃなかった?
横山三国志って後の巻で顔変わる奴は何人かいるしな…。
孫乾とかね。
288無名武将@お腹せっぷく:04/04/16 22:20
>并州と荊州
ピンイン似てるかいね?
289無名武将@お腹せっぷく:04/04/16 22:29
>>286
周泰なんて親父顔から青年に変わってた品・・・
290無名武将@お腹せっぷく:04/04/27 22:13
そろそろ、黄金週間が始まるから、再開キボンヌ
291無名武将@お腹せっぷく:04/04/29 08:21

ねえ、長坂橋での趙雲の一騎駆けと張飛の仁王立ちって、どこまでが正史にあるの?

ひょっとしてどちらも演義?
292無名武将@お腹せっぷく:04/04/29 08:59
夏侯淵顔変わりすぎだろ。細目から変な奴だし
>>291
趙雲=劉禅・甘夫人を保護したのは正史
張飛=正史
294無名武将@お腹せっぷく:04/05/01 00:03
誰も書かないのなら、dat落ちしてしまえや。
295無名武将@お腹せっぷく:04/05/01 01:13
>>293
え、あれホントだったの?でも本当かなあ。。一騎駆けだよ?

あと、張飛のも。。。
>>295
いや、劉禅・甘夫人を助けたのが本当なだけで、戦ったかどうかとかは分からないよ。
張飛の方は脚色除けばガチ。
>>296
そうなんだ。ありがとう。やっぱ長坂橋の攻防って興奮するね。
もしよろしかったら張飛の脚色なしでの長坂橋での活躍とかを読めるサイト知りませんか?
>>297
「張飛伝」でググればすぐ見つかるよ。
>>298
おお!ありがとう!面白い!張飛美形説、張包の若死になど、いろんな新発見。
趙雲伝も調べてみます。

本当に20騎で曹軍蹴散らしたんだなあ。すごすぎ。
張飛の息子、孫は文官だったのか。勉強になった。
301無名武将@お腹せっぷく:04/05/11 19:58
敢えて保守
302無名武将@お腹せっぷく:04/05/11 20:03
20騎ぐらい遠巻きで針鼠にすればよかったのに。アホだな。
303無名武将@お腹せっぷく:04/05/20 02:59
>>303
根本的に違うだろ
305無名武将@お腹せっぷく:04/05/25 07:39
306無名武将@お腹せっぷく:04/05/26 00:37
>>288
「并州」:Bing Zhou→ピンチョウ
「荊州」:Jing Zhou→チンチョウ
で北京語では音は似てるんだが
丁原は演義だと荊州シシで
   正史だと并州シシじゃなかった?
308無名武将@お腹せっぷく:04/06/09 11:57
掃除機でかんうの髭を吸いこむとどうなるの?
309無名武将@お腹せっぷく:04/06/17 02:16
てきろって最後どうなったの?
310無名武将@お腹せっぷく:04/06/20 15:26
このスレ復活させないか?
職人さんいなくなっちゃったのかな。。。(´・ω・`)
的櫨はホウ統と一緒に死んだんじゃないか?
312無名武将@お腹せっぷく:04/06/21 02:09
>310
あらすじ書いてくれる側の人が居てくれれば良いのだけれど。
313無名武将@お腹せっぷく:04/06/21 21:57
>>312
解説は無理だけどあらすじならかけそうだ。
再開してみても(・∀・)イイ?
314無名武将@お腹せっぷく:04/06/21 23:24
>>313
(・∀・)イイ!
315312:04/06/22 05:07
>>313
(・∀・)イイ!!
316313:04/06/22 23:21
<第十八回・赤兎馬>
丁原による夜襲で董卓軍は莫大な被害を受けてしまった。
散らばる兵士達の死体や燃ゆる野営地に呆然となる董卓の前に呂布が現れ、
逆賊たるきさまの首を討つと高らかに宣言、董卓は一挙に窮地に立たされることになる。

死にものぐるいで陣に戻ったはいいが、あの勇猛果敢な呂布が相手では勝ち目がない。
そこに、呂布と同郷で幼き時分は親しく遊んだ仲だと言う武将・李粛が、自ら呂布の元を訪れ、
必ずや奴をこちらの味方へと引き抜いてみせると訴え出た。そのために董卓の愛馬「赤兎」を差し出せとのこと。
赤兎馬とは真っ赤な馬体を持ち、一日千里を駆けると言われる稀代の名馬である。

愛馬を失うことに逡巡する董卓だったが、天下を得るのに馬一匹を惜しんでどうするとの
諫めを聞き入れ、李粛に赤兎を与え、呂布の元へと送り出した。

早速呂布を訪れた李粛は、まずは董卓からと称して赤兎馬を贈り、お前ほどの手練れが
あの羊(丁原)に飼われているのも惜しいものだ、天下の英雄・董卓の元で腕を試してみた
くはないかと巧みに誘いかける。

豪傑とは言え、根が単純に出来ている呂布は、言われるがままに信じてしまい、義父・
丁原を斬って董卓の元に走ったのだった……
317無名武将@お腹せっぷく:04/06/22 23:36
陳宮いつ整形したんだ!
318313:04/06/22 23:37
ついでに、解説は無理ですが赤兎馬についてちょっとだけ。
赤兎馬は一日に千里を駆けると言われてますが、千里をメートル換算してみました。

1里=3.9272727km なので約3.9kmとします。
1000里=約3900km

ちなみに成都と雲南省の昆明を結ぶ成昆鉄道の全長が1100kmなので、
赤兎馬は一日の間に南征に行って、帰って、また行くことが出来るってことですね。



( ゚∀゚)
中国の里も3.9kmだっけ? うる覚えだけど。
320無名武将@お腹せっぷく:04/06/22 23:53
あまりの美味さに曹操も独り言を言い出すという「鶏肋」料理が食べたいです。
自分で作りますから作り方教えて下さい。
千里って・・・・あまりにも遠い所の例えじゃないの?
だから、赤兎馬はそんだけ才能がずば抜けてる!って、意味じゃないの?
322無名武将@お腹せっぷく:04/06/23 21:34
>>321
いやま、そうだけどそれは洒落で書いてるんだろ?
マジに取るもんじゃないような。
「千里馬」ってのは昔の中国で名馬の総称
( ´ー`)y−~~
325無名武将@お腹せっぷく:04/06/24 02:36
>>318
326無名武将@お腹せっぷく:04/06/24 06:41
普通に考えて一日で1100kmは無理だろ
車でも時速110kmでノンストップで10時間かかるw
中国の一里と日本のではkmに直すと違う
んで、当時の一里はもっと短かったはず
まあ>>321の言うように比喩な訳だが
遅くなりましたが……。
当方、余りネットが出来る環境にありませんので、レスが遅くなることをお許し下さい。

今回の一番の眼目はやはり赤兎馬ですね。
この赤兎馬、いかにもフィクションっぽいですが、実は正史にも登場します。
また「人中の呂布、馬中の赤兎」という言葉は、正史注にもある曹瞞伝が出典となっています。
ただ、その記述は要略すると、「呂布は赤兎という馬に乗り、敵陣に突進して活躍した」というだけです。
赤兎の流れの中で、董卓→呂布は呂布の欲の強さを強調するため、
呂布→曹操は関羽に馬を渡すための伏線、
曹操→関羽は曹操が贈った他の恩賞との対比のために出現したと思われます。

他に、董卓と丁原が戦ったのは、呂布の強さを強調するため、
丁原と呂布が義理の親子という設定は、呂布の不義を強調するために出されたのでしょう。
これらも正史にはないアクセントです。
何これ・・・(;´Д`)
>>328
おまえが何だよ
一里は0・41472kmです。つまり

「だめだ、とても追い付かん」
「何しろあれは24時間に414・72kmを平均22・93km/hで走るという名馬だからな」

と会話していることになります。自分も>>321の言うとおりだと思います。

ちなみに、典韋でおなじみの「十歩」
あれは歩数ではなく、長さの単位です。当時の一歩は1・3824mです。つまりこういうことです。

「よいな、敵兵がまで近付いたら声を掛けろ」
「はっ」
ドドドド…… カッカッカッ
「13・824mです」
ドスッ ドウッ
「13・824mです」
ドウッ
「13・824m」
ドドド
「13・824m!」
331つづき:04/07/09 20:19
一寸は2・304cm

「上国の勅使は小邦の国主に平伏しないのがならわしでござる」
「なにっ! そちは6・912cmの舌先で余の心を動かせるとでも思ってやってきたのか」
「ははは」

関羽は身長九尺でしたが、一尺は十寸、つまり23・04cmで、関羽の身長は207・4cmということです。
ちなみに、前述の一歩は六尺でもあります。

十尺を一丈といいます。五丈原は、最も狭くなっているところがわずか五丈だから。というのがその名の由来です。

「諸葛孔明、秋風11・52m原に堕つ」

横光三国志には記述がありませんが、張飛の蛇矛の長さは一丈八尺、関羽の青龍偃月刀の重さは八十二斤です。
一斤は222・73gです。にこやかに他人と接する劉備のそばには常に、
4・15mと18・3kgの武器をたずさえた巨人が控えていました。

それから単位でありませんが、一騎討ちに出てくる

「両雄は百余合をうちあっても…」

の「合」は武器と武器が当たった回数です。カキン、コン、カンなら3合です。
332330-331:04/07/09 20:24
>>330
誤:「よいな、敵兵がまで近付いたら声を掛けろ」
正:「よいな、敵兵が13・824mまで近付いたら声を掛けろ」

「切り取り」にしてそのままだった。
あ、マジですか。ずっと歩数だと思ってた。ありがと。
334330-331:04/07/10 10:31
なんだよ、414・72÷24 は 17・28 じゃん。検算ぐらいしろよ。

……うん、他は基本単位、計算結果とも間違ってない。信じて。間違いは誰にでもあるのよ。
このままじゃカッコつかないから、他にもなんか書くか。

「後漢時代の単位はわかったけど、三国志演義は明代に成立したんでしょ?
 単位も当時に合わせて書いていたかもしれないじゃない」と言う方もいらっしゃると思います。

明(14〜17世紀)の一寸は3・11cmです。十寸=一尺 十尺=一丈は後漢と同様ですが、
一歩は六尺ではなく五尺 一里は360歩(後漢は300歩)です。よって明代の一里は0・5598km(559・8m)です。
まあ大した違いというわけでもありません。懲りたからもう計算もしません。
ちなみに現代の中国の一里は300歩500mです。

後漢と比べて大きく変わったといえるものは斤です。一斤=596・82gになっています。
335無名武将@お腹せっぷく:04/07/23 03:08
遅れす乙です
しばらく見ないうちに解説人が光臨してたんだな。グッジョブ!
献帝って協王子なのでしょうか?
いきなり大人の帝が出てきて、単行本読んでた当時から10年来疑問に思っております。
338無名武将@お腹せっぷく:04/07/27 03:26
あげ〜
339 ◆vHwv81D.XU :04/07/27 12:53
<第十九回・暴虐将軍>
李粛の策により豪傑・呂布を配下とし、邪魔者・丁原を葬った董卓。
その権勢は益々増大してゆく。
ついには現帝を廃し、陳留王を新しい帝に据えようと目論む。
早速、董卓は宮中にて「現帝を廃し、陳留王を新しい帝に据える」旨を宣言。
「皇帝の位を勝手に決める気か!この逆臣め!」と一部の家臣が異を唱えて
斬りかかるも逆に董卓の家臣に討ち取られてしまう。
何太后は助けを求めるが、この様子を見ては家臣は皆
怖気づいてしまい、異を唱えるものは皆無であった。

新帝を陳留王(献帝)と定め、自らの権勢に酔う董卓。
そこへ参謀・李儒が現れる。
「新帝を我等が定めても、廃帝をそのままにしては良からぬ火種に成りかねない」
との進言をしに来たのだ。
それを受けて董卓は「何太后や廃帝を生かしておけば、誰かが担ぎ上げ事を起こそうと
するやもしれん。害は取り除け」と殺害命令を出す。

こうして 李儒一派は廃帝の屋敷に乗り込み、何太后・廃帝はもちろん
その従者まで、ことごとく殺害したのであった。
340 ◆vHwv81D.XU :04/07/27 13:03
何太后と廃帝の首を殺害の証として献上する李儒。
董卓は「酒がまずくなる」と首を城外にでも埋めろと、興味なし。
気分直しに花見にでも行こうと提案をする。

自ら手綱を裁き、馬車を走らせ
天下が全て自分の庭であるかのように感じ悦に入る董卓。

と、ある村へ目を留める。
着飾った村民が歩いているのを見て「この晴れた日に田へも出ずに、けしからん」というのだ。
村民は「年に一度の村祭りなので着飾っていた」と弁明するが
言い訳など聞く耳もたぬと、董卓は村人を捕縛するよう配下に命ずる。
さらにそれだけでは飽き足らず、見せしめとして若い娘を「牛裂きの刑」に処してしまう。
その余りに残酷な光景に若者が一人、董卓に斬りかかるが
これまた逆に討ち取られてしまう。

董卓は誰一人自分に逆らえるものはいないと確信し
花見よりも村民を弄ぶ事が面白かったと帰城したのであった。

(つづく)
341 ◆vHwv81D.XU :04/07/27 13:07
訂正
×董卓は「酒がまずくなる」と首を城外にでも埋めろと
○董卓は「酒がまずくなる、首を城外にでも埋めろ」と

×手綱を裁き
○手綱を捌き

ふむふむふむむ
343 ◆vHwv81D.XU :04/07/27 20:00
>>340紛らわしかったね・・
(つづく)でなく
<第十九回・終了>です。
344無名武将@お腹せっぷく:04/07/28 00:13
つづいてつづいてー
コンビニで売ってる横光三国志の絵が原作とどう違うか教えて。
346無名武将@お腹せっぷく:04/08/11 21:13

347無名武将@お腹せっぷく:04/08/12 02:15
横山の三国志おもしろいけど、誰が誰か途中で分からなくなる。ザコキャラと名のある武将が同じサジ加減。特徴無さスギ。
愛があれば、違いがわかってくる!
・・・ものすごくビミョーだけど・・・
いや、、、、絶対手を抜いてるって(ボソ
バカだなあ、雑魚と有名人の顔を分けて描いたら、登場した瞬間に死にキャラだって分かっちゃうじゃん。
戦国ドラマには横山画は必要不可欠だよ。俺なんてトウガイはじめて見たとき雑魚キャラかと思ったし(ボソッ
351無名武将@お腹せっぷく:04/08/25 21:14
ウホッ
董卓に敗れた曹操を助けに来た楽進と曹仁の顔が見分けられればあなたも横山三国志通
>>352
ワロタw

兵糧を送ってもらえず激怒した孫堅をなだめるために、罪を着せられて斬られる
部将と袁紹の顔が見分けられればあなたも横山三国志通
354無名武将@お腹せっぷく:04/08/28 01:53
>>352 >>353
やったー!俺は見分けがつくぞ!
見分ける際は「おおっあれは曹仁」「あれは楽進」と言う事。
りょふぐらいだなぁ・・・・見分けつくのw
357無名武将@お腹せっぷく:04/09/12 19:55:42
もう、誰もいないのか?
358無名武将@お腹せっぷく:04/09/22 14:48:31
>>357
|д゚)ノシ
|彡サッ
359無名武将@お腹せっぷく:04/09/23 20:43:17
げぇ!!>>358!!!
360無名武将@お腹せっぷく:04/09/23 23:07:37
チョトワロタ
361無名武将@お腹せっぷく:04/09/25 17:20:49
362無名武将@お腹せっぷく