1 :
無名武将@お腹せっぷく:
戦国時代、男の活躍もさりながら女性も色々なところで活躍しました。
戦場しかり、外交しかり、内政しかり、宗教しかり。
享徳の乱・応仁の乱〜大坂の陣まででお願いします。
個人的には上野隆徳室を。
鶴姫レスにもありますが、常山城攻防で小早川隊に突撃かました女傑です。
2
4 :
無名武将@お腹せっぷく:03/06/24 00:21
5 :
無名武将@お腹せっぷく:03/06/24 00:21
もし昔に行けるなら淀の方とSMやってみてーな
女王様とおいい!!!サル!!って云われてみたい
∩
|∧∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ,)∩ <
>>2 が!!
丿 ノ \________
〜 .つ
し~
彡
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
||| ガリ
||| ガリ
∩ .|||
|∧∧ ||| / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(TД)∩ < オレの
>>2 がぁぁぁぁぁああ!!!
丿 ノ \______________
〜 .つ
し~
7 :
無名武将@お腹せっぷく:03/06/24 01:55
ワロタ
9 :
無名武将@お腹せっぷく:03/06/24 15:38
ミーハーといわれればそれまでだが、
お市の方を推したい。
竹中半兵衛と結ばれていたら歴史はどう動いたのだろう?
・・・って変わんネーカ
10 :
無名武将@お腹せっぷく:03/07/01 05:01
age
甲斐姫って怖いらしい?
>>9 身分の関係があってケコーン自体無理ですとマジレス
>>11 怖いと言うよりは、強いんじゃないの、いろんな意味で。
メジャーどころではおねとかまつとかでそうなのでw
とりあえず九州勢の女性を
立花闇千代
慶闇尼
奈多”イザベル”夫人
島津常磐
辺りはメジャーかな
闇千代、常磐あたりは戦闘能力も高い鴨
信長の野望には出てくるのかな?
阿虎。伊東義益の女。その美貌のために大友宗麟が自分の孫の嫁にしようとしたらしい。
15 :
無名武将@お腹せっぷく:03/07/05 12:06
株価回復祈願あげ
>>15 とりあえず9500円近くまで入ったから今の経済レベルじゃ回復したんじゃねーのw
では引き続き九州勢から。
大友宗麟の娘で、洗礼名「マセンシア」
フロイスの『日本史』では臼杵城の籠城戦での働き(とは入っても戦った訳じゃなくて
後方支援だったようですが)ではやはり褒めちぎられてるがw
このあと小早川秀包の奥さんになったようなんだが、秀包は関ヶ原で西軍について
改易になったように記憶してるし、実家の大友家は文禄の役で既に改易になってるし、
マセンシアはどうなっちゃったんでしょう。
マリーア・木村・デ・村山。村山等安の縁者・・・のはず。敬虔なクリスチャン。
18 :
無名武将@お腹せっぷく:03/07/09 15:51
宇都宮の尼将軍こと宇都宮南呂院(広綱室)はどう?
広綱死後〜国綱元服までの間、女性大名やってたよ!
結城家に自分の次男送り込んだり反抗的な重臣粛清したりで
広綱より戦国大名っぽい
19 :
無名武将@お腹せっぷく:03/07/09 21:04
毎日新聞社から出てる『戦国女系譜』と言う本に
戦国マイナー武家女性の話がわんさか載っています
しかし、たまに間違いがw
20 :
無名武将@お腹せっぷく:03/07/09 22:12
政宗の母ちゃん最高。
21 :
無名武将@お腹せっぷく:03/07/09 22:35
仙洞院綾子様最強説を提唱
おお!
そいつぁいいネタだ。dクス。
23 :
無名武将@お腹せっぷく:03/07/10 19:57
弟(謙信)に一生女を必要としないくらいの強力なシスコン属性を植え付け
自ら外交カードとしての存在感をUP。
政景が怪しげな死に方をしたにもかかわらず、その後の上田衆はおとなしい。
逆手にとって息子と自分を質子してしまい、府中上田両長尾家を逆に一体化。
政景の菩提を弔う為出家してしまう義理堅さ
兼続の類稀なる才をわずか10歳で見出し取り立てる。
卑役の息子?だから何?
そりゃ一生忠誠誓いますわな
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
27 :
無名武将@お腹せっぷく:03/07/15 20:57
伊達家臣山岡重長の正室は元朝鮮の女武者。
朝鮮出兵時に生け捕ってそのまま正室に。
山岡小説では政宗が南蛮系の女を側室にしてるし
伊達って姻戚が国際的だな。
カンコック関連で言うと
村上水軍の誰かの奥さんも朝鮮王族の姫とか言われてナカータっけ?
それより山岡小説の話を真に受けるんじゃないぞw
朝鮮関連でいうと、「ジュリアおたあ」は外せんな。
31 :
無名武将@お腹せっぷく:03/07/21 15:58
age
うーん、意外にネタ切れかよ。
ではトリビア風に
石田三成の子孫は
常陸宮華子妃殿下である?!
33 :
無名武将@お腹せっぷく:03/07/27 18:10
へぇー
34 :
無名武将@お腹せっぷく:03/07/27 23:10
智謀の持ち主、妙印尼。
所持スキル:謀殺。
あぼーん
>>35 すいません、どんな方か全くわかんないんで経歴など簡略に紹介してもらえるとうれすぃのですが
>>36 「山崎渉」「ぼるじょあ」と言う戦国女性は聞いたこと無いので逝って良し
>>14 阿虎かぁ 「遙かなりローマ」面白かったなぁ
漏れは明智玉子を挙げよう。
明智光秀の娘で、細川忠興のグレーシア夫人だ。
聡明で気の強い美人だったらしい。
関ヶ原の際に忠興が東軍についたので、西軍の人質になって
夫の弱味になるのを嫌って、家来に自分を殺させてしまった。
そのとき死ななかったらどういう人生を送っていたのだろう
>>38 (勝手な妄想)
その後ガラシャは江戸に人質に出される。
「我が妻はいつか家康にやられるのでは」
という妄想が燃え上がり、妻への嫉妬に狂う自分に酔いしれる忠興さん
そんな倒錯愛の夫を横目で見ながら
「家康公はロリコンだよ、ばっかじゃねーの」
とのたまうガラシャさん(w)
『武蔵』では忠興さんは夏八木勲がするらすぃ。
>37
ぐはっ、すんません、妙林尼の間違いです。
妙印尼は小田原征伐によって北条氏に属していた由良氏が改易の憂き目を見そうになった際、秀吉に由良氏存続を約束させた烈婦です。
妙林尼は大友家臣吉岡鎮興の妻。九州征伐の際、豊後鶴崎城から撤退する島津家臣白浜重政を謀殺した、これまた烈婦な女性です。
甲斐姫の義母情報教えて?
>>40 さんくすこ
「妙林尼」は「妙麟尼」と書いてある資料も見たことがあるような気がするが
ソースが提示できないじょ
妙林尼はその功績で秀吉に褒賞をもらえるところを断ったとかなんかの本で
(おそらく吉岡正春さんの本)読んだ記憶が。
で、大友はその後あぼーんして、妙林尼さんも行方知れず。
諸行無常。。。
妙林尼・妙麟尼のどっちでもいいよん。彼女を紹介している本とかサイトも、たいていは最初に両方の名前を挙げてる。
44 :
無名武将@お腹せっぷく:03/08/08 16:42
甲斐姫、鶴姫以外に萌える女武将とかいないのかなぁ・・・
戦国前期の土豪・国人クラスで無名どころの・・・
知勇兼備でさらに萌え?
>>44 智勇兼備で萌え って条件だとかなり・・・
居るんだろうけど甲斐鶴以上にマイナーで
・・女性武将自体がマイナーなんでしょうね・・・
内藤ジュリア。松永久秀は大伯父にあたる。
1606年に日本初の女子修道院を設立。追放された後も、マニラにおいて聖ミカエル会を設立。
>44
ギン千代様とかどうですか?
ギンチヨが入るんなら小松姫も入るだろ。肖像画では鎧着てるし。義姫だって戦場に出たっつーし。
50 :
無名武将@お腹せっぷく:03/08/09 23:28
条件は智勇兼備で鶴姫、甲斐姫クラスの萌えらしいです
ァ千代も小松姫も有名様ですね。
名も無き国人の名も無き女性の名も無き戦の活躍みたいな。
・・・って、そんなのは記録に残されてないのでしょうね。
あぁ、マイナー好きって悲しい・・・
52 :
無名武将@お腹せっぷく:03/08/10 13:57
コギャルの元祖・茶々姫
本当は常山城の鶴姫がそうゆうのだな。なんでか知らんが今じゃ有名人だ(わら
マイナーって素晴らしい
これはマイナーだろうというのを出しておこうか。
戦国前期ではないよ。スマソ
あの有名な三木城の籠城戦で鎧兜をかぶって奮戦したという
女武将「お波」。
えっと、たね本『戦国女系譜』を返却したのでうろ覚えなのだが(w
別所長治の従兄弟の奥さん、と言う関係だったかなあ。
で、最後はやはり子供を殺害した後自害されてます。
その時の最後の台詞がふるっている。
「奥方様は皆様お若いので、ご自害の作法をご覧に成られたことがないと思いますので、
一番年寄りの私が手本を見せましょう」
といったとか。その時のお波の享年27歳・゚・(ノД`)・゚・
今の私より若い(w
56 :
無名武将@お腹せっぷく:03/08/15 20:40
共産主義になった翌日、私は妻とともに脱国をはかった。
もうすぐGWだというのに、成田は閑散としている。
職員の表情は鋭さに満ち、手に構えた機関銃の柄が太陽光を反射していた。
「人間が好き勝手に動ける時代は終わったんだよ」
昨日まで全日空に勤めていた斎藤さんが、吐き捨てるように私たち夫婦に言った。
「ええ、でも私たちは出国許可書を持ってるんですよ」
普段は滅多に話に加わらない妻の靖子が、PCで作ったニセ許可書を振りながら優しく言った。
「許可書の文字を御覧なさい。線が少しにじんでるじゃないですか」
通りがかりの髪の長い中年男がそう言ってほくそ笑んだ。
職員たちは私たちの財布を懐に入れ、黒光りする銃を突き出した。
「金はもう不要だ。これからは強制労働の鍬の音を響かせるんだな」
一仕事終えた工作員の表情で男たちは言った。
青空のなかをを軍用機が横切っていった。
57 :
無名武将@お腹せっぷく:03/08/15 20:42
あぼーん
>55
別所長治の従兄弟ではなくて、叔父の別所吉親の奥さんじゃないかな。
三木落城による自害の順番でわかってるのは、長治の妻子→友之の妻子→長治→友之→三宅治忠とゆう順番。
別所吉親の妻がいつ自害したのかはわからないが、長治が妻子を殺害する前とも考えられる。それなら何となく、身内の死に様を最初に長治の奥さんに見せたというのもわかる。
ちなみに吉親の妻は畠山昭高の娘さん。言うまでもなく、長治の妻、友之の妻よりも年長だ。
詳しいですね
61 :
無名武将@お腹せっぷく:03/08/20 19:42
良スレあげ
良スレ・・・か。これが
嶋シメオン。
嶋左近の娘で、小野木重次(公郷)の妻。関が原の敗戦で夫は自害し、それを聞いたシメオンも跡を追った。
自害はできないから家臣に首を打たせたんだろうねえ。
名前が伝わっている人はどれくらいいるんですか?
そして複数名前が伝わっている人はなんで?
なんとか院とかなんとか尼じゃなくて 戒名も除く
徳川秀忠正室とか
65 :
無名武将@お腹せっぷく:03/08/31 22:19
age
名前が伝わっている人はやはり本人が有名人とか、有名人の奥さんとか(w
マイナーどころでも、島津みたいに記録を残すところは、意外に名前が残ったりしている。
後いままでたくさん出てきたがキリシタン。宣教師が残した記録に残っている。
ただし基本的にバテレンども(w)は苗字と洗礼名しか書かないので、
実際に名乗っていた名前までは判明しないのが残念。
まあ、戒名だけでも伝わってたらまし、と言うのが寂しい現状でしょうねえ・゚・(ノД`)・゚・
(あの毛利元就の妻でも賢妻、愛妻と言われつつも、元就の手紙の中ですら戒名しか出てこない)
複数名前が伝わっているのは
・読み方は一つでも、文書にするときにいろんな漢字で書いた
・途中で名前が変わる
・形式上、他の名前が必要になった
と言う理由が考えられる。
67 :
無名武将@お腹せっぷく:03/09/11 21:24
ジュリアンおたあってどんな人?
せっかくなんで。
佐久間虎。佐久間盛政の娘。中川秀成の奥さん。秀成にとって、盛政は親父清秀の仇である。
しかし夫婦仲はよかったのか、二人の間には7人の子女が生まれた。
幸せな人生だったのだろう。
7人目を生んだのは虎姫数え46才の時だったそうですな。・・・ある意味すげーよ(w)
でもやはり高齢出産が祟ってこのときに虎様はお亡くなりになられたそうです。
虎様は生前に夫の領地(豊後・岡)に行くことを憚り、死後お骨となってようやく領国にはいる。
これは1さんの言うとおり、自分の父親が夫の父親の敵であることを考慮し、遠慮された物のようです。
・・・の割りには、遺言で「自分たちの子供のうちの誰かに佐久間の名跡を次がせて欲しい」
と、かなーりな無茶を言っておりますが(w)この無茶も虎様の死後に実現されました。
ちなみに虎様と中川秀成の結婚は豊臣秀吉の命令で決められたことで、中川家の中では相当反対があったようです。
・・・当たり前だ罠。秀成・虎夫婦の仲は良かったようですが、嫁姑の中は当然最悪でした。
もうひとつちなみに。虎様は姉さん女房で秀成さんより5才年上です。
関係ない話だが「中川家」と書くと、漫才師の例の兄弟の顔が浮かんでしまったのは私だけだろうな・・・(汗)
おまけの話し。
虎様には姉がいたのだが、この姉は佐久間盛政の戦死後、何故か秀吉の命で処刑されたそうです。
なんで姉妹で扱いがこんなに違うのだろう?
sageてネタ振り。
武田信玄の娘達はみんな波瀾万丈の人生を歩んでいるのだが(しかも悲惨な末路をたどった人が多い)
とりあえず有名どころで信玄の末娘と言われる松姫。織田信長と武田信玄の同盟政策の中で、織田信忠
の許嫁となるが、同盟破綻により結婚話はお流れに。松姫はよりによってもと婚約者の軍勢から追われ
る羽目となり、八王子まで逃げる。そこで押し寄せる求婚者をすべて断り、尼となって滅亡した武田家
の菩提を弔う一生を送る。
晩年は武田家よりの政策を採る徳川家康が関東の支配者となったこともあり、財政的には苦労のない一
生だったようです。あの保科正之の保護にも関わったことがあったそうな。
おもしろいのは彼女の出家後の名前が「信松尼」ということ。「信」は武田信玄の「信」という説もあり、
元婚約者の織田信忠の「信」という説もあるそうな。彼女のお寺の信松院には武田家の位牌の中に一つだけ
織田信忠の位牌が混じっているらすぃ。織田信忠も婚約解消後に新たに正妻を迎えようとした形跡はなく、
実は彼女に未練があったという説もあるそうな。
正直、織田・徳川・豊臣など大大名の姫についてはあんまり知らないのでありがたいよ
>>73 ええ話や・・・。
75 :
無名武将@お腹せっぷく:03/09/29 05:03
age
76 :
無名武将@お腹せっぷく:03/09/29 07:16
>>73 松姫の姉・武田見性院(穴山信君室)もなかなかの女性。
嫡子・勝千代が夭逝したため御家は断絶となったが、徳川家に扶持を与えられ、江戸城下の
比丘尼屋敷に居住。
将軍・秀忠が庶子・幸松(後の保科正之)の処置に困った際、土井利勝を通じて幸松の養育
を引き受けた。見性院は幸松を武田の子として育てる方針であったが、嫉妬深い秀忠室・於
江与の方が幸松の探索を開始。ついに幸松の所在が明らかになり、於江与の方の追っ手が
見性院の屋敷を訪れ、身柄の引渡しを求めたが、見性院は「わらわは信玄の娘。幸松は武田
の子として貰い受けた子ゆえ、御台所の命とは申せど引き渡すわけにはまいりませぬ」とこれ
を一蹴したという。
その後、幸松は八王子の信松院に預けることになるが、盆暮れになると律儀に挨拶に訪れる
旧臣・保科正光の人物を見込んで、正光に幸松を養子にしてくれるよう依頼、正光がこれを承
知し、ここにようやく保科幸松が誕生することになった。
武田家の女性は、徳川政権下でそれなりの処遇を受けている場合が多いかもね。
勝頼の娘・貞姫は徳川家康に保護されて扶持を与えられ、古河足利家の庶流にあたる
宮原家(幕臣)に嫁している。
>>76 彼女は非常に誇り高くて、信玄の4男とはいえ側室の子である勝頼よりも
自分の一族の方が本流だ!と言う意識があったようですね。
穴山梅雪がいち早く勝頼を見限ったのはこれも背景にあるらしい。
その報い?かどうか分からないけど、実子の夭折、養女と家康の間に生まれた
武田信吉も若死したのには参ったのではないかと思われますが・・・
ちなみにこの信吉の死を持って名実共に武田家は断絶となります。
その分、血はつながらないけど手に掛けた保科正之には異常な思い入れがあって
見性院は死ぬ直前、正之の名前ばっかりさけんでたという逸話が残っている。
信玄の三女・木曽義昌室(真理姫・真龍院)は、過酷な運命をたどった信玄の娘達の中でも
ある意味悲惨な一生を送った人かも知れない。
木曽氏は実家・武田家に匹敵する名族。あの木曽義仲の末裔という。
戦国時代には武田の配下として活躍する。信玄の時の当主は木曽義昌。真理姫は5才で
嫁に出される。
が、勝頼のときに木曽義昌はいち早く織田信長に内応し、武田滅亡の原因となる。
これはやむにやまれぬ背景があって、何度も勝頼に援軍を要請したにもかかわらず、
援軍がついに来なかったのが理由とされている。
しかし、この時に甲府に人質として差し出されていた真理姫の子供達は処刑されたため、
夫と対立した真理姫は別居している。
その後、木曽氏は信長、秀吉、家康と変わり行く権力の中で翻弄され、秀吉時代に
先祖代々住んでいた木曽から引き離され「家康の家臣」として関東への移住を強要される。
これが最大の原因となって木曽家の家臣団は崩壊、真理姫の息子の代になってお家騒動も
勃発し、木曽家は家康から改易される。
真理姫は末息子と共に故郷の木曽谷に籠もり、家康に木曽家の再興を訴え続けたが
受けいれられることはなかった。
真理姫は零落の中、1647年に98才で亡くなったという。
引き続き信玄の娘ネタ 四女の菊姫。
彼女は当初、一向一揆の盛んだった伊勢・長島の願証寺にお嫁に行くことになっていた
もちろん理由は信玄と一向一揆で織田信長を挟み撃ちするためである。
しかし、長島の一向一揆がその信長に壊滅させられ、菊姫の婚約はお流れとなる。
月日は流れ。信玄はなくなり、武田家は勝頼の代になっていた。
親族衆や家臣団との不仲、信長や家康の攻勢に悩む勝頼は、かつて敵だった越後の
上杉家を頼るようになる。その頃の上杉家当主は謙信の甥(養子)の景勝になっていた。
独身の景勝に、これまた結婚しそびれて独身だった菊姫が嫁に行くことが決定する。
1579年(天正7年)、菊姫20才の時のことである。
彼女はかつての敵から嫁に来た人物であったが、性格は温厚で、家臣や女中にも慕
われていたという。武田家滅亡の際、上杉家は助成をしなかったが、武田家から上
杉家に逃げてそのまま家臣になった人が多いのは、菊姫を頼った人が多かったから
と思われる。
つづき
やがて、上杉家は天下を統一した豊臣秀吉の風下に置かれるようになり、菊姫にも
人質になるように命令が降った。1595年(文禄4年)のことであった。彼女は
16年間住み慣れた春日山城を出ることになる。
京都では聚楽第近く、後に伏見の近くと移住したと思われる。
この間に上杉家は越後から出羽・米沢への転封が有り、国元は混乱していて財政事
情も逼迫していた。彼女は食事・衣服に至るまで自ら率先して節約し、内外から
「賢夫人」との呼び声が高かった。
1600年、上杉景勝は関ヶ原の合戦で西軍に付き、領地は減封される。
しかし人質であった菊姫は京都を離れることが許されなかった。
景勝と菊姫は結婚して20年以上になっていたが、二人の間に子供はいなかった。
上杉家の無嗣断絶を心配した家臣の一人が、京都の公家の娘を米沢に側室として
送り、彼女が男の子を産む。1604年のことである。
米沢で国元を助けることもできず、世継ぎも生めなかった菊姫は精神的に追い込
まれる。
その年、菊姫は京都で死去する。長い間「病死」と伝えられていたが、近年上杉側
の史料の読み直しにより、自殺であることが分かった。享年46才。
彼女は遺骨となって、ようやく新領国の米沢に戻ることができた。彼女の墓は上杉
家菩提寺の林泉寺にある。
82 :
無名武将@お腹せっぷく:03/09/30 21:58
>>79 木曾氏の義仲末裔説はやや「?」らしいけどね。
ちなみに木曾氏は家康から秀吉に乗りかえた前科があるから、そのあたりが下総への転封や
御家再興を果たせなかった遠因にあるのでは?
また信玄の娘ネタ 順番が逆になったが長女の黄梅院。
有名すぎて書いていいものかどうかちょっとまよったが・・・
ちなみに「黄梅院」というのは出家後の名前。実名は不明。
彼女は武田、今川、北条が3国同盟を結ぶ中で、北条家の跡取り・氏政に嫁ぐこと
になる。1554年、黄梅院11才の時のことである。
その婚礼行列は武田家らしいど派手な物であった。付いていった人数が
1万人
である。しかも、その年の正月も小田原で黄梅院と一緒に迎えたらしい>1万人
・・・北条、文句はなかったのだろうか・・・。
政略結婚だったが、北条氏政と黄梅院の仲は非常に良かったらしく、その間に生まれた
子供は分かっているだけで6人。これは男子だけなので、姫まで入れたらもっと多い
かも。信玄はそのたびに娘を案じて神社に願文を書いている。富士浅間神社にはその
うちの2通が残っている。
しかし、幸せは突如幕を下ろす。
1568年、黄梅院の父・信玄が今川義元死後弱体化した今川家を攻撃した。
それだけならまだしも、この攻撃があまりにも急で今川家の人々は大混乱に陥り、当
時の今川家当主・今川氏真の妻は着の身着のまま、草履も履けずに実家に逃げ帰る。
・・・この「今川氏真の妻」、実は北条氏政の姉妹であった。
これを聞いた氏政父・北条氏康は当然激怒し、黄梅院を離縁することを決定。氏政
は必死に反対するが、無駄に終わる。
愛する夫や子供と無理矢理引き裂かれ、実家に返された黄梅院はその1年後に急死。
まだ27才であった。さすがに信玄も気がとがめたのか、彼女の菩提寺を建立。残さ
れた夫の氏政も氏康死後の1575年に「黄梅院」という名の菩提寺を建立する。
しかし、武田家と北条家の滅亡により、この二つの菩提寺も跡形もなく消えてしまっ
た・・・
>>82 フォローサンクスです
木曽氏レベルの弱小大名では、御家存続のため乗り換えも致し方なかったのでしょう
が、家康にしたらそれが許せなかったのでしょう。
85 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/01 21:20
>>84 木曽家の領国経営を支えたいたのは森林資源でしょ。
確か旧領は幕府の直轄領になったはず。そもそも心証を害しているところに
垂涎の的になるような森林資源・・・そりゃあ、下総への移封もやむを得な
いよね。
あぼーん
>>81 ちなみに、この定勝を産んだ京の女性も産後の肥立ちが悪くてすぐに死去。
景勝の子供はあとにもさきにもこの定勝一人だけらしいが。。。
景勝と菊姫の間に子供が産まれなかったのって、もしかして直○とか○野とかが原因なのか?
(((((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
88 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/02 07:01
>>87 女御よりも・・・(((((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
sage保持
…だけでは芸がないので池田利隆のお母さんの話を。
池田利隆と言っても分からない人がいると思うが、あの池田輝政の長男になる。
輝政は最初、中川家から奥さんを迎えていた。中川清秀の娘で「糸姫」という。
これが利隆君のお母さん。
しかし、利隆君のお母さんはその後病気になり、実家の中川家で静養することになった。
この時に問題が発生する。
その頃、豊臣秀吉は何とかして徳川家康を押さえ込もうとしていた。
いろいろと考えた末、麾下であった池田輝政に家康の次女の督姫を嫁がせようとする
・・・輝政には中川家から嫁に来ていた妻がいたにも関わらずで、ある。
秀吉の命令ゆえ断ることもできず、中川家に静養に行っていた妻はそのまま離縁される
こととなった。
悲惨なのは一人池田家に取り残された利隆君である。
その後、督姫は輝政との間に5人の男子を産んだ。
当然の事ながら、督姫は池田家の跡継ぎに自分の産んだ子を据えたくなってきた。
督姫はある日、利隆を茶会に呼ぶ。その茶会で見るからに美味しそうな饅頭が出された。
しかし、その饅頭を出した侍女の手のひらには「毒」という文字が利隆にだけ見えるように書かれていたのである!
・・・あまりの督姫の露骨なやり方に憤慨した侍女が、思いあまって利隆に密告したのであった。
しかし、義理とはいえ母親の出した茶菓子を食べないわけにいかず、利隆は苦慮する。
そこに、とんでもない偶然が起こる。利隆の弟(母親は督姫)の池田忠継がやってきて
「兄上、この美味しそうな饅頭一個下さいな」
と言い終わると同時に、その饅頭を一気食いしてしまったのである!利隆も督姫も止めたが間に合わなかった。
錯乱した督姫は、その自分が仕込んだ毒饅頭を食べて後を追って服毒死したという。
・・・という、「姫路の毒饅頭事件」で知られるこの事件、実体の程は不明だが、池田忠継は1615年に
17歳の若さでなくなり、督姫も同年になくなっている。そして利隆もその翌年に32歳の若さでなくなった。
ところで、利隆は何とかして実の母親と再会しようとしたが、池田輝政のやり方に憤慨していた中川家では
なかなか利隆君のこの申し入れを聞いてくれなかった。しかし、利隆君は必死に食い下がって、ようやく
瀬戸内海のとある港で一日だけ糸姫と再会することができた。利隆君が実母と再会できたのはこれが最初で
最後となった。糸姫は1615年に実家のある豊後岡で死去。偶然にも仇敵とも言える督姫の死んだ年と同
じであった。
密かにお勉強になるスレだなぁ
南条広継の妻。兄である蛎崎舜広・元広を次々に毒殺したという。最期はもちろん誅殺された。おそろしや。
93 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/13 07:33
age
>>92 ぐぐったけど、弟たちを毒殺した理由がよく分からなかったのだが・・・
つまり実家を乗っ取ろうとしたのかな?>南条広継の妻
最後は父親によって殺されたようだけど・・・まあこんなことしでかしたのだから
当たり前だわな
95 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/16 05:46
ある歴史書で見ましたが、男は戦場にて命を落とし、女子は磔柱の上で一生を終える。
それだけ、人質に出され悲惨な運命をたどった女性が多かったのでしょうか?
姫様のみんなが人質にだされる訳じゃないけど
まあ政略結婚がほとんどで恋愛結婚なんてほぼ無理っぽいし
現代に比べて過酷な人生を歩んだ女性が多いのは確かでしょうな
ちなみに戦争に巻き込まれた一般女性の中には
奴隷として海外に売られちゃう人も結構いたそうです(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
姫様にはそこまでジェットコースター人生を送った人はいないようだけど。。。
昔は、レイプとか合法だったのかい?
戦争に勝った物は、負けた物の物を奪うのは当然だったのかな?
負けた側の姫は・・・兵士達にチンポを入れられて
飽きたら殺される・・
そんな時代だったのかな(´・ω・`)ションボリック
政略結婚でも最終的に恋愛に発展することはあるだろうが、やはり自分の好みで
選んだ側室の方が良いだろうな。
督姫は前・北条氏直室でしょ。
氏直との間には子はいなかったのかね?
100突破!!
>>97 それが意外にも
負けた側の姫がそういう目に遭わされると言うことは少なかったようっす。
理由は
政略の道具として使いようがあるかも知れないから
と言うことのようですけど。
お市の方の3人の娘の扱いなんかまさにそれですかね。
おっと茶々は食われてしまいましたけど(w)
それでも一般兵の慰み者にはなってないですし。
最もこれは姫様に限った話で
下々の女性には悲惨な運命が待っていただろう事は言うまでもありません
おあむ物語を思い出しちゃった。
104 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/16 21:44
>>97 >昔は、レイプとか合法だったのかい?
信長は禁止していたはず
105 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/16 23:35
>>102 家康の娘・督姫と氏直の婚姻が天正11年(1583年)だから、19歳と当時
としてはやや遅め?の結婚だったわけね。
7年余の結婚生活で1女のみ。なのに、文禄3年(1594年)、30歳の時に
池田輝政と再婚するや否や、3男2女と急ピッチで量産体制に入っている
点を考えると、氏直との結婚生活はそれほど恵まれたものではなかった
のかも知れないね?
まあ、この手の問題には「相性」というものがあるから一概にはそう断定
できないのだが…
106 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/17 01:40
107 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/17 01:45
>>97 信玄は諏訪頼重の娘(妹?)を側室にしてるよね。
まあ、それが最後には武田家崩壊に繋がっていくわけだが・・・
>>101 そうか、その手があったか!
でも、お付の方はバックから犯られてしまったんですね
ワシ、戦国時代に生まれたかった・・・
犯りまくりたかった!!
今の時代だとタイ━━━━||Φ|(|´|Д|`|)|Φ||━━━━ホ!!
このままでは、一生・・・童・・ry
>>107 ??それは、レイプとは関係無いのでは?
昔の人(戦国時代)は、避妊とかしてなかったんですよネ!?
と、いう事は・・・誰の子か分からない事が多々あったのかな?
遊女とかは・・・子供出来まくりだったのかな??
…(*´д`)アハァ…?・
109 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/17 15:00
>>108 誰の子か分からないから、政治的に利用しやすいという考え方もある
110 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/17 15:20
>>108 レイプとは関係ないかも知れないが、滅亡させた大名家からの「略奪品」以外の
何物でもない。
兵士は戦場で恩賞代わりにレイプ三昧、対して信玄は「略奪品」である姫を以て
自分へのご褒美にしたということ。
111 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/17 18:57
>>104 信長は道行く女性をからかっただけの自軍兵士の首を刎ねています。
まさに軍規、風紀の風が吹くを地で行っていますね。
それが近代の萌芽の感じられる織田軍と中世を引きずったままの他の大名軍との違いの一つかも?
>>111 最初から略奪目的で参加してる農兵が主体の軍勢は、落城のときなんかは凄かったらしいね。
武田軍では略奪解禁の日を作って、兵の士気を保ったらしい。
織田軍の場合は性病の蔓延による戦力低下対策と民心の安定を考えて厳しくしたのかな?
中国人とロシア人は1940年代まで山賊の乗りで戦争してたし、彼らは中世の軍隊か?
近代的軍規って一体・・・
>>112 武田が西上野に侵攻したとき、寺の住職が武田軍が来る前に
略奪禁止の高札を貰いに駆けつけたっていうエピソードがあるな。
実際は高札を掲げてても無視されることが多かったみたいだけど。
略奪目的っつーよりも、給料を払う代わりに略奪を黙認してたんだろ。
いくら領主とはいえ、ただ働きで命を賭けろとは言えんだろうし。
武士と違って所領が増えるわけじゃないから、
「やるなとは言わんが、お前らあんまり派手にやるなよ。」ってとこだろう。
>>113 スレ汚しで申し訳無いが・・・
かの東条英機は軍規を守らせる事で有名で、彼は兵の強姦、略奪を一切容赦しなかったそうだ。
板違い・スレ違いスマソ
略奪・暴行・強姦について語りたい人は別スレ立ててね。
119 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/17 23:37
敵将・秋山信友に身も心も、そして城までも捧げた信長の叔母・おつやの方・・・
120 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/18 09:35
戦国時代は意外にも女性の地位は高かったんです。
というか近代以前でくくると江戸時代以前の日本ほど女性の地位が高かった国はないですね。
特に庶民はそうでした。ルイス・フロイスは「日本の女性は夫の前を歩いている」と驚いて記しています。
武家の女性の地位もかなり高く、特に正室は家を取り仕切るほど地位が高かったです。
日本は古代は母系社会であり、女性の地位が下がったのは
江戸時代以降で儒教の影響や正妻の地位の低下などが原因で下がったわけです。
「女は三界に家なし」などという文句もこの時代に生まれた言葉でしかないです。
いや、むしろ江戸時代はまだ女性の特権も多く残っていたのですが、
明治以降にさらに女性のほとんどの権利が剥奪され女性の地位が低下したようです。
121 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/18 10:01
>>108 昔でも一応、避妊はありました。
遊廓では折り紙を噛み砕いたものをあそこに入れて避妊具にした話しがあります。他には「外出し」ですね。
しかし、それでも望まぬ子供が生まれる事は多く、
そういう子は「間引き」されました。
方法は産まれた子をすぐに絞め殺したり、生きたまま岩場や海に放りこむなどの方法がとられました。
一人で十人以上も間引きした女性もいるようです。
>>120 でもその割には姫様が御家を継いだケースというのは少ないかモナー
立花ぎん千代ぐらいかな?
江戸時代でも商家のお嬢さんなどは婿養子をとって跡を継ぐことが結構多かったので地位は高かったみたいね
『あかんたれ』花登筺 などではわがままから逆に実家を衰退させてしまう商家のお嬢様が出てきましたっけ
(但し舞台は大正時代のよう)
123 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/18 14:44
戦国の世の女武者突撃伝説は真実だ。
決して妄想ネタではない。
↓のサイト参照。
http://www.infonet.co.jp/nobk/okym/tsuruhime.htm 蔵の中で保証も無いのに命乞いなんて
彼岸の太閣が嘆くだろう。
総大将の秀頼なら敵に首実検されぬために、
天守閣か本丸御殿かで腹を切るべきだったろう。
ただし淀の方は七手組の精鋭護衛兵と侍女たちの希望者を引き連れて特攻もよし。
将軍秀忠の義姉だから遺体を陵辱される心配も無かろう。
息子と水盃を交わした後で
特攻はかけずとも本丸御殿の内外で命数尽きるまで
天下人の妻であり母であるとの誇りを以って
これ以上無いほどの華麗な軍装に身を包んで戦えば
本能寺での濃姫伝説(実際には信長の側にいなかったけど)以上に、
後世、絶好の被写体となったであろう。
凄艶美こそ戦国の最後の名花にふさわしかったろうに。
124 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/18 15:23
>>122 古河公方・足利義氏の没後、男子がないため氏姫が足利家の家督を
継いでいる。後に喜連川足利家に併合されてはいるが・・・
>>124 それを仕掛けたのは足利頼純の娘・嶋子(秀吉側室)だったりする…
島姫は甲斐姫のスレで語られていたね。なかなかのおねい様だ。
127 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/18 16:08
孝蔵主や阿茶の局など、飛び抜けた交渉能力を発揮して歴史に
名を残した例もある。
>>127 孝蔵主は途中で徳川家康に鞍替えしてますね
この理由は 謎 らしい。
北政所と家康の間で折衝に当たっていたのを大坂方に嫌われて
命の危険を感じて逃げたという説を聞いたことがある。
『葵 徳川三代』の阿茶の局はサイコーだったなあ。。。w
129 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/20 04:47
孝蔵主が北政所の下を離れ、将軍秀忠に仕えたのは1610年。
将軍秀忠は、孝蔵主に200石の扶持を与え、茶阿の局付きの老女に据えている。
秀忠は九州征伐の際、一時的に北政所に預けられ、その際、孝蔵主が我が子の
ように世話をしたらしい。そのため、秀忠は孝蔵主に対して非常に好意的に接した
ようである。
徳川家としては、北政所に執事し、外交使者として辣腕を振う孝蔵主を引き抜くこ
とは、北政所と豊臣家の分断を図るうえで何かと都合がいいところもある。
反対に、徳川家に内通しているとの嫌疑をかけられ、豊臣家に命を狙われていた
という説もある。
北政所が彼女を手放すとは考えにくいが、孝蔵主は有能な女性である。好意的な
関係にある秀忠の誘いを受け、新たな活躍の場を将軍家に求めた可能性もある。
130 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/20 05:05
なお、補足になるが、孝蔵主は晩年、甥の川副六兵衛重次を養子にしている。
重次は、孝蔵主の弟・川副瀕次郎正俊の子であり、川副父子は関ヶ原の役で西軍
に属し、大坂の陣でも大坂城に籠城している。大坂の陣において正俊は戦死し、重
次は脱出に成功している。
重次は寛永年間に孝蔵主の養子となり、さらに孝蔵主の嘆願によって直参旗本に
取りたてられている。後に川副家は累進し、知行1500余石を与えられている。
131 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/20 07:48
>>128 家康の「後家好み」最大のクリーンヒット、いや、グランドスラムが阿茶局だろうね。
西郷局の死後、秀忠、忠吉の養育にあたったのを皮切りに、持ち前の才覚を生かして
対内的には奥向きの総取締を務め、また、対外的には方広寺鐘銘事件における大蔵
卿局たちとの折衝、大坂冬の陣おける和議交渉や豊臣秀頼母子からの誓紙受領など、
側室という枠組みに収まらない、家康の秘書兼外交官として活躍。
さらに凄いのは、家康氏後も側室の中では唯一出家を許されず、秀忠の側近くに置か
れ、1621年、東福門院和子の入内にあたり、御母代として付き添い、後水尾天皇より
従一位に叙され、「一位尼」と呼ばれたことだろう。なお、1626年に秀忠・家光の上洛
した際にもこれに従い、後水尾天皇の二条城での饗応を差配している。
公家の出身でもない無位の一般女性が生前、従一位に叙された例はそう例があるも
のではない。(ほかに北政所くらいか?)
ちなみに春日局も従二位。
神キタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━!!!
>>131 東福門院和子の母代わりとしての功績が認められての従一位のようだね>阿茶局
彼女は秀忠の死後出家したそうで、秀忠とのつながりはひじょーに強かったよう
公家出身者じゃない従一位と言えば後世の話になりますが徳川綱吉の母・桂昌院
もそうだね
春日局の従二位は嫌がらせとごり押しの末の従二位だからなあ(w
これに関して朝廷側の衝撃は何よりも大きかったようで
当時の公家の日記に「日本も世も末」みたいな記述があるそうな
>>132 春日局、桂昌院の場合は幕府の圧力によるものでしょ。春日局のそれに至っては
天皇の退位にまで発展しちゃったわけだし。
阿茶局の場合は、そういうものが見受けられないんだよね。彼女の業績が正当に
評価されての叙任だったんじゃないかな?
一介の側室から身を起こし、「将軍養母」「将軍・大御所秘書」「中宮御母代」を務
め、さらには戦場に供奉し、外交・講和交渉から天皇の饗応差配まで掌るなんて、
そんな女性は後にも先にもいないでしょ。
ある意味、怪物みたいな存在だよね。
134 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/21 01:30
>133
同じ天下人の側室の立場であっても淀の方なんぞとは、
外交手腕はじめ事務処理能力でも政治的嗅覚でも人格識見一般でも
とても比べ物にならない傑物だろうね。
それに引き換え旦那から何も学ばないまま
戦国の世の価値観の都合の良い箇所だけは受け継ぎ、後家役割として幼主の後見人になったつもりはいいが、
政治的にも軍事的にもナンセンスな采配しか振るえない女に過ぎない。
ほんとは旦那と実家の菩提だけを弔ってるのが精一杯の器量なのだろうが。
息子が元服の後も政権を返して親政をやらせもしないまま、
もしくは能力を培わせないまま、
公家の教養だけを身に付けさせても仕方が無い。
ってことは帝王学の伝授もままらなかった、明瞭な子育てレベルの失敗。
せいぜい比肩するか、もしかしたら凌駕するものがあるとしたら、
詠歌か性的魅力か個人的戦闘能力(薙刀とかで)くらいなものか。
135 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/21 07:38
>>133 今川家を支えた女傑、寿桂尼がいるよ。
様々な摂政や今川義元の擁立などに活躍し、
今川家の繁栄の功労者だ。
ちなみ今川家滅亡は彼女の死の半年後。
>>135 何かで読んだことあるよ
女戦国大名とか呼ばれてたんだったか
本当にイイスレの悪寒!
>>1よ
アリガトウ!!とても勉強になるヨ〜
この後もどんどん語ってくれぃ
>>133-134 でも阿茶の局、子供には恵まれなかったな
側室としてそれは心残りだったかも知れぬ
確か小牧長久手の合戦に妊娠中でありながら随行し
過密スケジュールの中で流産して不妊となったそうだ(つд`)
139 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/21 21:29
寿桂尼は中御門宣胤の娘。
生年は不祥だが、氏輝(1513〜1536)の生年などから勘案する
と氏親とはやや年齢差があったように思う。
ちなみに氏親が病身となったあたりから、彼女の存在が際立つ
ようになる。氏親の没年は1526年であるが、氏輝の発給文書の
初見は1528年とされる。この2年間に寿桂尼の発給した公式文
書が数多く存在していることから、彼女が実質的に女戦国大名
として政務を担当していたことはほぼ確実である。
また、氏輝急死にともなう花倉の乱においても、梅岳承芳(義元)
を擁して素早く太原崇孚や一門の瀬名氏貞と連携、玄広恵探を
擁する福島正成(北条綱成の父)一派を退けている。
氏親〜氏輝、氏輝〜義元の家督相続に際し、家中が混乱に陥り
かねない時期にいずれも強いリーダーシップを発揮し、事態を収
拾させ、家中を安定させた手腕をして「尼御台」と呼ばれている。
1568年12月に今川家は滅亡するが、寿桂尼は義元死後、衰退
の一途を辿る今川家と氏真を支えつつ、同年3月に死去している。
寿桂尼の死を以て今川家滅亡は決したのかも知れない。
140 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/21 21:45
>>138 阿茶局には前夫との間に一子・猪之助がいた。
猪之助のその後の消息は不明であるが、後年、神尾備前守元勝を
養子に迎えていることから、おそらくは早世したのではないか。
備前守は慶安事件当時の江戸町奉行であり、老中・松平信綱の下
で多摩川の引水を計画した人物である。
142 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/22 00:13
>>140 その備前守の娘が相馬義胤の養女になったらしい。
日本は女性の地位が低かったことはなかったことはなかったんだなぁ。
女性は女らしくして、男性は男らしくする。
今みたいにすべて一緒みたいな考え方間違ってると思うよ。
144 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/22 07:42
>>143 女性にとっては確かに悲劇的なことも多かったが、逆に実力と才知で成り上がること
のできる時代でもあったということ。
現代みたいに権利だの人件だのを振りかざし、無理に均質化を図ろうとするとかえっ
て息苦しい世の中になるような気がする。
そもそも阿茶局や孝蔵主が活躍した時代には「男女同権」なんてことをいう為政者は
いなかったわけでね。
良きスレばいヾ(^ω^=)ノ゛
なぜか人気の高い武田軍は強姦魔の巣窟。
みなさんイメージに騙されちゃいけませんぜ。
>146
強姦ネタが好きな方は同好の士とどうぞ他所で話し合ってください。
滅亡した大名家の子女たちって何か消息を追いたくなるよね。
そういう意味では、上杉家で大切に扱われた信玄四女・菊姫や七男・信清、八王子で
武田遺臣たちと支えあって生きた信松尼の話を聞くと思わず胸を撫で下ろすよ。
それ以外の大名家なんてどうなんだろうね。
149 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/22 19:54
宇喜多直家室は、秀吉に伽を求められ、体をゆるした
>>149 おふくの方のことね。
おふくの方は、高田城主・三浦貞勝の正室だったが、高田城は1565年、三村家親の
軍勢に攻められて落城、貞勝は自刃する。
辛くも高田城を脱出したおふくの方は一子・桃寿丸を連れ、宇喜多直家の庇護を受け
ることになる。直家は桃寿丸を我が子同然に扱い、慈しんだが、おふくの方の悲願で
あった桃寿丸を擁しての高田城再興の夢は、桃寿丸死去(地震により圧死)により潰
える。1572年、直家との間に八郎(秀家)が誕生するが、1581年に直家が死去。
寡婦となったおふくの方は、備中高松城攻めで岡山城入りした羽柴秀吉に見初められ
寵愛を受ける。八郎は秀吉によって「秀家」と名づけられた。
以後、おふくの方の尽力もあり、秀家は養父・秀吉の寵愛を受け破格の昇進を遂げた。
関ヶ原の役後は、秀家の身を案じて尼となり、圓光院と名乗った。
以後の消息は不明だが、備前において直家の菩提を弔ったとも伝えられる。
>>150 おふくの方は秀吉に先立って死んだみたい
://homepage2.nifty.com/hpsuiren/sengoku/toyotomi/hide-3.htm
出典がないのが痛いけど>このHP
息子の不幸な姿を見なかったのが幸いだったのでしょうか。。。
おふくは尻軽ってことですか。
有力な後ろ盾がない武将の妻が御家存続のため肉爆弾(w)を炸裂させるのは
この時代別にふつーの事と思われ
>>119のおつやの方(信長の叔母)も信長が助けに来てくれなかったので
武田方相手に肉爆弾を使う羽目になったのだな
その結果は悲惨なものになったが・・・
154 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/22 22:26
あぼーんした貞勝はまだしも、直家、秀吉に乞われるのだから
それだけの器量だったということでしょ。
>>132 貞勝の死後に直家、直家の死後に秀吉だから、尻軽というのと
はちょっと違うような気もするが・・・
155 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/22 23:14
>>153 養子の坊丸?(後の勝長)は人質として甲斐に送られるし・・・
そりゃあ信長も怒るでしょ
>>143 男らしく女らしくだけじゃなくて、その地位には違いがあったんだよ。
例えば離婚などは、男は三行半などの権利を有していたが、
女は相手の家族の了承がないと取り次いでもらえないとか。
しかし面白いのは、その場合に男が数日も経たずに再婚したりすれば、
女はその後家に暴力を振るってもよいという風習もあった。
まぁこれは女VS女の話なので、男VS女の話ではないが。
157 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/23 01:38
>>154 大河『秀吉』での「おふくの方」は高瀬春奈が演じていたな。
高瀬春奈、元気にしてるのかねえ
板違いなのでsage
>>155 順番が逆で
信長が助けに来てくれないから坊丸を人質に出す羽目になったんじゃなかったっけ
スレ違いになるけど、坊丸も幸薄い生涯の人ですね
>>1よ
強姦等の話しも語るに値するのでは?
もし、そーゆー話しがダメだというのなら・・・
スレ立てて欲しい(´・ω・`)ションボリック
162 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/23 21:41
>>160 だったら、スレタイ、テンプレなど必要なものを
揃えて「お願いします」と言ってみやがれ。
163 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/24 00:31
>>159 そうね。
岩村城が落城したのは元亀3年11月(天正元年3月説もある)でしょ。
ちょうど「足利義昭プロデュース」とも言うべき信長包囲網により、武田、
石山本願寺、朝倉・浅井各軍に包囲されており、とてもじゃないが援軍
を送れる状況ではなかった。盟友・家康にすら3千の援軍しか送れない
ような状況だったし。
しかし、岩村城が落城するにしても多少なりと時間を稼ぎ、武田軍に消
耗を強いることはできるはずで、信長の脳裏には「秋山信友とおつやの
方の婚姻」「御坊丸を人質として甲斐送り」なんてシナリオはなかったは
ずで、信長の眼には「裏切り」としか映らなかっただろうね。
したがって天正3年に岩村城を再奪還した折、信忠は降伏を認めたけど、
信長が了解しなかったのは至極当然と言えば当然。
信忠は城兵の助命と条件に降伏を認めたけれど、信長は「極刑に処せ!」
と命じたため、おつやの方は逆さに磔にされて槍で突かれ、流れ落ちる
臓腑と血を浴び、断末魔の叫びの中で信長を呪いながら絶命したとも言
われている。
可哀想だけど、おつやの方の状況判断も女城主としては甘すぎたんじゃ
ないかな。
164 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/24 00:48
>>163 じゃあ、どうすりゃあ信長は納得したの?と思ったりするけどね。
あの状況だと、おつやの方が御坊丸揃って自刃するか、揃って人質
として甲斐送りか・・・いずれしかないよね。
>163
納得も何も、援軍を派遣してるんだからそれまで持たせろ、ってのが信長の理想でしょ。
信長援軍は岩村城開城を聞いて引き返したんだし。
坊丸を信長のもとに帰還させてたら別かもしんないけど(無理か)、敵に送ったら火に油を注ぐようなもんだわな。
自分が助かりたいために信長の子を武田に売ったと見えてもある意味仕方が無い。
援軍が来る前に開城したのが運の尽き。その意味では薄幸かも。
166 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/24 03:14
>>165 援軍と言っても、岩村城に派遣された織田信広は、武田方の伏兵に阻まれて
救援に失敗しているよね。
167 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/24 03:47
>>105 亀レスでスマソ。
徳川家康次女の督姫が池田輝政に嫁いだのは文禄3年(1594年)で時に30歳。
なのに慶長4年(1599年)には忠継が、同7年(1602年)には忠雄が誕生。
当時の平均寿命から考えたら35歳、38歳での出産はかなりの高齢出産だよね。
まあ、それだけ頑丈な身体をしていたのか、輝政が天下人・家康の娘さんを貰っ
て猛烈にハッスルしちゃったのか・・・
略奪・暴行・強姦については女性も見てるかもしれないので…
事実のみを述べ中傷的・差別的な表現は避けるよう配慮していただければかまわないです
>>1 >「事実のみを述べ中傷的・差別的な表現は避ける」
それは無理だと思うよ。
暴行・強姦ネタを振りたがる香具師は、このスレッドの趣旨や
>>1の配慮
を理解することはないだろうし、そもそもが違う目的でやっていることは明
白だしね。
そういうネタを展開したい香具師は自分の手で別スレを立ててもらいたい。
別にスレッドを立てるなんて造作もないことだろう。
>1 名前:無名武将@お腹せっぷく 03/06/24 00:17
>戦国時代、男の活躍もさりながら女性も色々なところで活躍しました。
>戦場しかり、外交しかり、内政しかり、宗教しかり。
>
>享徳の乱・応仁の乱〜大坂の陣まででお願いします。
あくまで
>>1の趣旨に徹するべきだと思うね。
170 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/24 07:11
>>1の内容をふ〜んとか思いながら読みすすめていると「ん?」と
いう項目が・・・しゅ、宗教しかり???
「宗教しかり」ということは「ジュリアおたあ」なんかも有りなのか?
そう言えば過去レスには仏門の話題もあったし、神道系なんかも
神秘的でよいかも知れない。
しかし、戦国時代にカリスマ的女性宗教家なんていたのか?
>>161 立てたいのだが・・・上手くイカナイ・・
>>162 【戦国時代の女性への侮辱】のようなタイトルで
お願い致します。<(_ _)>ペコリ
確かに、君に頼んだよW
>>169 >暴行・強姦ネタを振りたがる香具師は、このスレッドの趣旨や
>>1の配慮を理解することはないだろうし、そもそもが違う目的で
やっていることは明白だしね。
↑
俺はそんな目的じゃないゾ!
勝手に決めつけるなんて・・・失礼だぞ
キサマ謝れぃ!!
規制かナンか知らないけど・・いくら新スレ立てようとしても
ダメなんだ・・・
造作も無いと、藻前は言ったから俺は藻前にも頼む事にする。
立ててくれヨ!そしたら、俺そっちに行くから<(_ _)>ペコリ
>>160 悪いけど断る。
あのさぁ・・・何でこっちでスレタイ&テンプレの面倒までみなきゃいけない
んだ?失礼だと思わないのか?
>【戦国時代の女性への侮辱】のようなタイトルで
>お願い致します。<(_ _)>ペコリ
>確かに、君に頼んだよW
「のようなタイトル」ってどういうことだよ。
ちゃんと「代行スレ」に依頼する要領・書式でやってくれ。
でなけりゃあ断る。
話の流れからは
【戦国時代の女性への陵辱】
かと思いきや、侮辱・・・
174 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/24 15:56
漏れもトラブルの元になるから
>>171が自分で立てた方がいいと思うよ。
>>172ここはマターリ行こうよ、荒れるの嫌だし。
代行に頼んだ方が無難じゃないの?
初めてこのスレ見たが160には不快感を感じる。
なんというか、まぁ全体的に能力の低い人間なんじゃないかな。
>>170 女性宗教家の範疇なのか分からないが、戦国時代には「歩き巫女」と呼ばれる女性
たちがいた。そもそも巫女には2種類あり、神社で神官を補佐する巫女と民間の巫女
がいて、歩き巫女は後者にあたる。
歩き巫女は諸国を巡りながら、占い術や呪術、祈祷などを生業にしており、中には巫
娼のように遊女化していった者もいたようだ。その意味で言えば、歌舞伎踊りで有名
な「出雲阿国」なども芸能と宗教を結びつけた歩き巫女だったと言えるだろう。
ちなみに武田信玄や徳川家康などは、歩き巫女を諸国に放ち、情報収集に当たらせ
ていたらしい。
特に信玄は配下の望月千代女に命じて甲・信州の巫女衆を統率させ、さらには小県
郡禰津村に館を構えて身寄りの無い少女たちを集め、歩き巫女として育成・組織化し
ていたとか。
>168
仰ってることはほぼわたしと同じなのですが、詐称してますよ。
日本史版で女性スレを立てた方ではありませんか?
>>162 失礼は藻前の方では?
>「代行スレ」に依頼する要領・書式でやってくれ。
でなけりゃあ断る。
↑
どっちにしても断わるくせにぃ〜W
自分で、立てようとしたんだけどヤッパリ無理だった・・
なんでかな〜。
>>176 煽りたいのかい?
そーゆー風に言うんなら荒そうか??
なるべく荒らさないように自分なりに気を使った
つもりなのだが・・・
【言ってみやがれ】・【能力が低い】等と言われたら
こっちもハラが立つヨ!
荒そうと思えば、いつでも・誰でも荒らせるヨ
ただ、【戦国時代の女性について語るスレ】なのだから
そーゆー部分も見ていかないとと思ったんだ。
でも、他にスレ立てて出ていけと取れる発言が多かったから
スレ立ててとお願いしたまでだヨ
(自分で、やってみたけどエラーが出るんだ・・)
>>1よ
スレを荒れさせる素を作ってしまった事をお詫びする<(_ _)>ペコリ
ただ、変な意味だけで発言したのでは断じて無い!
と信じてくれると有難い。
では、名無しに戻ります。
引き続き
>>1の話しを楽しみにしている
>>180-181 その文章文体が能力の低さ、器量の矮小さ
性格の下劣さを表してるように思う。
>荒らす行為は誰でも出来る
ならば何故許可を求めるのか、つまり自律性の無さ、倫理の欠如
自分で意思のストッパーを作れずに他人による制御を求めている。
文体も異常、自己の正当性を主張し責を逃れようとする有様は卑怯で
160のヒステリー気質や傲慢さが垣間見える。
最後の平謝りは純粋に見えるが、その純粋さは160にとって危険。
キリスト教が土着民をその純粋さから虐殺した行為に通ずるものがある。
漢語的に言えば「付和雷同」の人物。
>182
終わった話題について蒸し返すような発言は「荒らし」に他ならない。
160とは別の次元と思っているだろうが、同レベル。
荒れた発言をする香具師もそれに応酬する香具師も「荒らし」。
とゆうわけで以後マターリと進行。ほぼ自治厨だが、荒れスレ化するのは勘弁シテヨー
184 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/24 18:18
>>182 オレも>183の意見に賛成だな〜
これ以上スレ荒らすきならもう来るなよ
お前が1番厨かもよ
では引き続きマタ〜リ行こう!
>>160 別に煽るつもりも荒らすつもりもないが一言だけ言わせてもらう。
トラブルを極力避けるために機械的な処理しかしたくないから、必要なものは
全て用意しろと言ったんだよ。
なのにおまえは
>【戦国時代の女性への侮辱】のようなタイトルで
>お願い致します。
で終わり。普通はスレ立て代行に頼むときはこうするものだ。
★依頼例
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【板名】 三国志・戦国時代板
【板のURL】
http://sports2.2ch.net/warhis/ 【タイトル】
【名前】
【メール欄(省略可)】
【本文】
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
知らないようだから教えてやるが。
186 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/25 21:55
川V,_ゝV从<戦が終わった後には強姦だらけだよ
大坂の陣絵図なんかには全裸で足軽に追い掛け回される侍女がアリ
それが目当てで農民なんかは行くさに参加してたんだから
男って最悪
だが、(・∀・)イイ!
188 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/25 22:06
189 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/25 22:22
川V,_ゝV从<武田家の志賀城攻め後は美人は家来集に払い下げ
不美人は黒川金山で肉奴隷化・・・・・・・
黒川金山の遊女衆は武田家滅亡の際には
虐殺された、青梅街道おいらん渕の幽霊の発端
酷い時代です
190 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/25 22:26
川V,_ゝV从<時代は戦国ではないけど藤原仲麻呂の娘の話
絶世の美女であったその娘の将来を占ってもらったら
「1,000人の男と見合う」と出た、もちろんそんな話は
信用されなかったが、仲麻呂は反乱を起こし追討され
その娘は皇軍兵1,000人に犯されたと『水鏡』に出ています
あーぁ・・・・・・・・
192 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/25 22:29
193 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/25 22:31
たなかまきこってむかつくよなああ
何か荒れたなあ、ここ。
ではネタふりを
織田信長の母親は「土田御前」と言われる。
ところでこれ
「つちだごぜん」と言うのが正解なのか
「どたごぜん」と言うのが正解なのか
最近は「どたごぜん」と言うのが多いようだけど。。。
195 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/26 00:13
>>178 白拍子も巫女さんでしょ。
阿国も出雲大社の巫女だったらしいから、やはり踊りというのは入り
やすいジャンルだったのかな。
占いや祈祷を表稼業にしながら、女間者としての情報収集を裏稼業
にする巫女さんかぁ・・・
「くのいち」の原型がそこにあるんだろうね。
196 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/26 23:57
>>197 あーーーーーっ!!、甲斐姫スレの住人さんだぁーーーーっ!!
はるばるご苦労様ですw
信玄が命じた「歩き巫女養成所」には、
>>196みたいな装束姿の少女たちが
大勢いたわけか・・・いいねw
200巫女げっと!!
201 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/27 07:13
>>156 マイナス面ばかりでもないよ。
まず当時は夫婦の財産というのは分有制で妻も堂々と自分の財産を持ってたんだけどね。
時には夫に利息つきで金を貸すケースもあったとか。
ちなみに山内一豊の妻が夫に馬をヘソクリで買ってあげた美談だけど、
これ実は「ヘソクリ」でも何でもなく一豊の妻が元々持ってた財産から買ってあげただけの話し。
つまり嫁入りの持参金や化粧料、敷金などは婚礼の後も「妻のもの」であって
「家の物もしくは夫の物」になるわけでは全くなかったんだよな。
こういうのって同時代の欧米とか中国の妻の財産は夫が管理し夫の物になるとかいうのとは比較にならない程、
女性の地位が高かったのがわかる。
まあ当時は夫婦別姓が基本で結婚した後も妻は実家との結び付きが強かったからというのが大きいが。
あと、離婚した後、妻に何の落ち度もなかった時、持参した財産ばかりではなく慰謝料も取れるなんてのが
吉川家の文書なんかにあるね。
それと当時は夫に離縁を申しつけられても妻にはほとんどマイナスはなかったらしい。
フロイスいわく「日本では夫が妻を意のままに離婚する。妻はその事によって名誉も失わないし結婚もできる」
当時は処女とかそんな観念は全くなかったし、離婚を恥じる習慣もなかった。しかも財産は分有制。
妻は再婚するなり実家に帰るなりすればそれで済むだけの話し。
203 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/27 11:17
荒れは、もう回復したのかな?
虫が何匹か紛れ込んでたから
恐くてカキコ出来ませんでした
204 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/27 11:19
しかしまぁ
>>1はなんでそんなにセクースがしたいのかね?
風俗などで体験したならともかく、したこともないものに対して、なんで「イイ!!」
などと断言ができるのか・・・。
>>1がそう言っているのは、エロ関係のメディアや、周りの人から見聞きした
情報を鵜呑みにしているだけだろ?
俺もしたことないし、そもそも興味がないからあくまで憶測だが、セクースなんて
それほどいいものでもないと思うぞ。
>>1は、童貞でありながら、周りに結婚するような友達がいたり、思いを寄せて
いる女性がいたりとか、なんだかんだ言って周りに女性がいるんだな。
職場とかにもいるのか?
俺のように、独身者や童貞が多そうな職場や環境に身を移すのがいいかも。
周りに
>>1や俺と同じような境遇の者しかいなければ、童貞であってもそれが
「当たり前」だから、童貞云々で悩む必要などなくなるハズ。
とにかく、
>>1は周りの人が何と言おうと、「セクース・イイ!!」という考えは捨てろ!
205 :
また虫さんが:03/10/27 12:33
182=204なのか?
どの道スルーが無難だね
>>201 嫁が夫の姓を名乗るようになったのは戦国時代の辺りからだっけ?
少なくとも応仁の乱の辺りまでは実家の姓を名乗ってるようだが
(例:日野富子)
>>205他皆様
>>1ではないがこういう場合はageないに限るsageにてよろしう
208 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/27 23:23
妻が実家と強い結びつきを持っていたのは事実。
それゆえ実家が滅びると悲惨だよね。
濃姫などはまさにそのパターンでしょ。道三が死んだらほぼ用済み。斉藤家が
滅亡した後は濃姫の消息すら定かでない。
持参金や化粧料も経済基盤になっている実家があればこそ。生活資金の供給
源であり、帰るべきところである実家の存在が彼女たちに地位と価値を与えて
いた、とも言える。
淀殿があれほどまでに豊臣家に大坂城に執着したのも、彼女自身にもはや戻
るべき実家がなかった、ということが作用しているんじゃないかな。浅井家、柴
田家が滅亡、さらに織田宗家も零落・・・そんな状況だったわけで、秀頼の母と
して豊臣家に、大坂城に根を張る以外に、彼女には採るべき道がなかった。
淀殿と同じように、妹のお江与も徳川家に根を張るために秀忠の「種」を独占し、
将軍生母として江戸城に君臨するしかなかった、と言える。
>>194 信長の乳母なら、確かティクビを噛み切られた、悲惨な人がいたはずだが。
>>204 まあ、一度女を抱いてみることだね。鍛えてないと結構疲れるけど気持ちいいよ。
童貞は理論武装する前に、女の肌に触れてきなされ。
どっかの国王じゃないけど、「虎を狩り、国を建て、美姫を抱き、美酒を酌む」
ことは、男児にとって換え難い楽しみだ。
前者二つは流石に出来ないが。
210 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/28 05:30
>>209 そういう乳母さんが何人もいて、乳母探しが大変だったみたいよ。
み〜んな奈美悦子状態だったのね…
>>209 釣られない、釣られない…
>>211 えー、逸話に拠りますと、信長様は生まれたときから非常に疳が強くて
あてがう乳母の乳首を片っ端からかみ切るなど、将来の悪逆ぶりを彷彿とさせるw
行動に出られていたようです。
この不幸な乳母さん達の名前は伝わってないのではなかったかな。
乳母のなり手がいよいよ無くなったその時、不幸にして?白羽の矢がたったのが
ちょうど出産直後だった池田恒利の妻。恐る恐る恒利の妻がお城に上がると、
吉法師タソが牙を磨いて待っていた(かどうかは知らない 汗)こわごわ恒利の妻が
お乳を差し出すと、吉法師タソは恒利の妻のお乳がお気に召したのかどうか、
遂に恒利の妻の乳首をかみ切ることはなかった。
−彼女は後世「信長様の偉大な乳母様だ」と言うことで「大乳様」と言われたという・・・
212 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/28 10:13
>>208 でも中には勝手に商売をはじめるなどして資産を築いた妻もいますよ。
日野富子など夫が銀閣に銀箔も張れない程に質素な生活をしていたのに対し、
高利貸しで莫大な資産を築き花見の席で純金の箸を使って程の贅沢をしてたんだからね。
この才覚、現代なら女性事業家として大活躍してたろう。
213 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/28 10:46
>>212 富子の場合はかなり希少な例でしょ。
確か文明6年前後には義政と完全別居状態だったよね。
そして、政治に関心を失った義政を尻目に、将軍・義政の妻、さらには義尚の後見人である
という立場を最大限に利用し、京都の七口に関所を設けて関銭を徴収したり、疲弊している
諸大名向けに高利貸しをやったり、相場に介入して暴利を貪ったり、 やりたい放題だったわ
けで・・・
確かに商才には図抜けたものがあっただろうが、政治的混乱を含め、将軍夫人として
は厳しい評価がつくんじゃないかな。最終的には義尚とも不和になってるしね。
まあ、完璧な人なんていないわけだけど。
>>207さん、さんくすでございます
まあ女性が苗字を使う機会は限られていたようですから
どちらの苗字かというのは、当の本人達は余り気にしてなかったのでは・・・
と言う気も。
でも富子も、ただ蓄財に励んでいた訳では無いようだし、ちょっと可哀想かな?
戦火に焼けた御所の修復や、御所の番衆たちに、お金を与えたりとか
奈良に疎開していた一条兼良を呼び戻して「源氏物語」の講義を行わせ多額の謝礼を支払ったりしてるよ。
使うべき所では惜しみなく使ったりしてたみたい。
216 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/30 16:27
確かに同情すべき点はあるんだけどね。
そもそも義尚を産んだ時には既に義政が義視に「子が産まれても出家させる」
と約定を交わしてしまっていたり・・・
そりゃあ母親としては子供が不憫になるわな。対抗勢力を抱き込んで、義尚を
将軍に据えようという彼女の行動は、親としては当然のことだろう。
蓄財に蓄財を重ねたのも、軍事力を持たない足利将軍家にとって、もはや頼る
べきものが資金力以外になかったということだろうし、朝廷や寺社への資金援
助も将軍家の威信を保つための施策でしょ。
しかし、そこまでして支えようとした実子・義尚とは後に不和になり、義尚死後、
将軍に据えた義稙、義澄とも不和になり、彼女の遺した莫大な遺産も、結果的
には不和となっていた将軍家のものになったというし・・・
この人の生涯って一体何だったんだろうね。
217 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/31 06:30
>>216 敵方の守護大名にまで軍資金を融資してますなw
凄まじい商魂・・・
218 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/31 12:24
凄い!
219 :
無名武将@お腹せっぷく:03/10/31 13:16
富子の精力的な蓄財がなければ、足利幕府が既に立ち行かない
状態にあったのも事実だからね。
おおよそ、ありとあらゆる社会的行動は経済活動の延長線上にある。と言いますし
そう考えると、日野富子という女性は先見の明があったのではないでしょうか?
221 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/01 02:20
先見の明かどうかはともかく、足利将軍家、ひいては自らがよって立つ基盤として
先祖のような武家の広範な支持を集めての軍事的な権威はもはや無理であり、
大名相手の土倉酒屋になるしか方法はなかったと考えたんだろう。
しかし室町武士ってほんと、男女問わずユニークだよな。
222 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/01 04:35
ふっ。
うむ
224 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/01 14:26
義視の妻(義稙の母)は富子の妹。
つーことは義稙は富子にとって二重の意味で甥になると・・・
225 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/02 06:36
亭主や義弟、甥たちとの骨肉の抗争劇といい、協力者たちが離合集散を繰り返す人間模様
といい、大河ドラマというより昼ドラor『大奥』の後釜にもってこいの素材ですな>日野富子
まあ、大河でボロボロだったから二度とやらんと思うけどw
富子祭りが終わって静かになりましたな>ここ
ちょっと板違いのネタになるかも知れないけど、足利将軍家は代々日野家から
嫁を迎えていたのだが、義輝の嫁は近衛家だわね
やはり応仁の乱以降、足利将軍家と日野家の縁は薄くなっていったのかね?
227 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/08 12:48
>>226 歴代将軍の正室を見てみると、こんな感じ。
尊氏・・・北条登子(父:北条久時)
義詮・・・渋川幸子(父:渋川義季)
義満・・・日野康子(父:日野資康)
義持・・・日野栄子(父:日野資康)
義量・・・なし
義教・・・日野宗子(父:日野重光) ※側室:日野重子(父:日野重光)
義勝・・・なし
義政・・・日野富子(父:日野重政)
義尚・・・祥雲院(父:日野勝光)
義稙・・・不明
義澄・・・安養院(父:日野永俊)
義晴・・・慶寿院(父:近衛尚通) ※尚通は関白太政大臣
義輝・・・某(父:近衛稙家) ※稙家は関白
義栄・・・不明
義昭・・・不明
228 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/08 15:04
>>227 なお、補足になるが、義教の継室・三条尹子は正親町三条公雅女。
但し、義勝、義政、義視の3人は側室・日野重子の所生とされる。
変わったところでは、堺公方・足利義維の正室・恵光院は大内義隆女。
>>226 おそらく応仁の乱以前には、足利家にあまり上級公家の女性を嫁がせない
ようにして、公家と武家の力の均衡を保つようにしていたんじゃないかな?
逆に応仁の乱後は、形ばかりの権威とはいえ、摂関家・近衛家から正室を
迎えることで、少しでも権威を回復しなければならないところまで衰退してい
たと。
229 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/08 21:44
>>227 鎌倉公方家の方は・・・
基氏・・・清渓尼(父:畠山家国)
氏満・・・不明
満兼・・・一色氏(父:一色範直)
持氏・・・梁田氏(父:梁田満助)
古河公方家の方は・・・
成氏・・・不明
政氏・・・不明
高基・・・瑞雲院(父:宇都宮成綱)
晴氏・・・梁田氏(父:簗田高助)/芳春院殿(父:北条氏綱)
義氏・・・浄光院殿(父:北条氏康)
国朝・・・足利氏姫(父:足利義氏)
頼氏・・・足利氏姫(父:足利義氏)
尊信・・・那須氏(父:那須資景)
昭氏・・・松平氏(義父:松平忠倶)
氏春・・・喜連川氏(父:喜連川昭氏)
茂氏・・・松平氏(父:松平忠喬)/加藤氏(父:加藤泰恒)
氏連・・・なし
恵氏・・・前田氏(父:前田利道)
彭氏・・・榊原氏(父:榊原政永)
宜氏・・・喜連川氏(父:喜連川熙氏)
縄氏・・・松前武子(父:松前崇広)
聡氏・・・なし
ということになる。
将軍家に比べると、やはり武家から正室を迎えてますな。
230 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/09 08:45
>>229 熙氏(彭氏の子/喜連川藩10代藩主)が抜けたな。
とは言いながら、熙氏の正室は今のところ不明。
詳しい神様達さんくす
やはり日野家と足利将軍家の結びつきはかなり強かったみたいだね
>変わったところでは、堺公方・足利義維の正室・恵光院は大内義隆女。
あの義隆に娘がいたとは。。。
>231
足利義維の室とされる大内氏の女は義興の娘に推定される。
大内義隆は1507年生まれ、足利義維は1509年生まれ。
恵光院は義隆の妹と思われ。
233 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/11 00:44
>>232 義興の没年が1528年なので、名義上、義隆の「女」とした可能性があるんじゃない
かな?資料では義隆の「妹」としているものもあるので、
>>232が述べている通り、
義興の「女」と見て間違いないのでは?
義維は支援者だった細川持隆が殺害され、実母が病死した後、一時、妻の実家で
ある大内家を頼って周防に移り住んでいたが、三好氏に連れ戻されている。
234 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/11 14:40
足利義栄・義助兄弟の生母が大内義興女なら、現存する平島足利家の末裔さんは
大内家の末裔でもあるわけね
なるほど!
>>233 義維「うえ〜いぎだぐねえよ〜」
妻「あなた〜」
三好「つべこべ言わずに身体ではろうてもらおうか」
・・・と言うワンシーンが浮かんでしまいましたw
237 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 21:29
>>236 まあ、現実には「ねっ、もう一度上洛しましょうよ〜」と促されて戻ったんじゃないの?
お調子者の多い足利家・・・だったのかなあヤッパリ(w
239 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 23:14
御輿に乗るのが好きなお家柄ではあるな
240 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/16 23:17
最近、足利ネタが流行りみたいね。
権威に弱いのが日本人の特徴ですから
242 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 00:20
足利関係は男性に限らず女性もユニークな人が多いからねぇ。
243 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 00:26
244 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 12:50
戦で、負けて家が潰れた&没落した姫さん達はどうなったの?
乞食にでもなったの?それとも殺されたの?
245 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/17 12:51
普通のおネエちゃんに戻ったんじゃないの?
>>244 話をループさせる気か。
過去レス読め。また荒れるだろうが。
うむ同意
249 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 00:52
>>244 没落して終わりです。
まあ、殺される場合もあるだろうし、自害する場合もあるでしょ。
あるいは出家して尼僧になるとか、市井に紛れ込んで一般人になったり。
たまに天下人の側室になる女性もいるけどね。
徳川家康の側室になった於万の方がそれ。養父で伊豆国河津城主だった
蔭山長門守が小田原の役で城を失って浪人になり、一家は離散状態に。
そしてどこぞの宿場町で働いていたところを家康に見初められたとか。
その結果、紀伊徳川家の祖・頼宣、水戸徳川家の祖・頼房を生み、零落し
ていた蔭山氏どころか、生家の正木家まで三浦家として再興させる結果と
なったわけで・・・まあ、ごく稀なケースとして紹介しておくが。
於万の方の奉公先は韮山の豪族・江川家だったので訂正しておく。
なお、彼女の場合、実父を正木頼忠とする説と、蔭山長門守とする説がある。
というのは彼女の母・北条氏隆女が、正木頼忠と離縁後、蔭山長門守に再嫁
したため。
蔭山長門守を実父とする説については、彼女が家康の側室となった時点で蔭
山家は既に再興が成っており、系図を譲って頼忠を実父にすることで、同様に
零落していた正木家を再興させようとしたということらしい。
いずれにせよ、彼女の兄・為春は徳川家に仕えるようになり、家康から先祖の
姓に復するよう命ぜられて三浦家の名跡を継承、紀伊徳川家の国家老となっ
ている。
うんうん
252 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/20 16:30
太田氏なんかは反北条の大名家の客将になったりしてる。
英勝院(家康側室)の兄・重正なども佐竹氏の客将になってたりするし。
253 :
無名武将@お腹せっぷく:03/11/23 03:22
英勝院のおかげで大名でしょ>太田重正
保守
>>249 伊豆の江川家と言えばはるか後年に有名な太郎左衛門英竜がいますね。
保守
甲斐姫スレが総合スレに模様替えしたこともあってか、こっちの方が寂れがちだねん(´・ω・`)
松浦メンシアについてネタを提供しようかとも思っているのだが、本を返却してしまって、
没年がどうしてもワカラン。
258 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/10 01:31
>>257 松浦鎮信の嫡男・久信(1571〜1602)の妻・松浦メンシア松東院(大村純忠女)のこと
ですな。彼女は久信から「棄教しないと離縁するぞ!」と脅したら、実家から籠を呼ぼう
とした気骨のある女性。
1587年に豊臣秀吉により禁教令が下ると、熱心な真言衆徒であった舅・鎮信も禁教に
踏みきり、メンシア松東院に棄教を迫ると共に、1597年には度島のキリシタンを悉く誅
伐、さらにはキリシタンの庇護者であった籠手田一族と家臣600余名を長崎へ退去させ
るに至ったが、それでも彼女は頑として受け入れず、信仰を捨てなかった。
籠手田氏の退去後、平戸のキリシタン信者の精神的支柱であり、庇護者であったメン
シア松東院だが、1630年に幕命により江戸・廣徳寺へ移らされてしまった。
259 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/11 12:10
森蘭丸の母・妙向尼は熱心な一向衆の信者だったね
260 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/11 12:24
>>252-253 家康ははじめに太田道灌の子孫を召抱えようとしたけど、重正が佐竹家に仕えていた
のでお勝を召し出したらしいね。
ちなみにお勝の父・太田康資の死亡年を1560年代とする説と80年代とする説があるの
で、お勝は康資の娘or養女という扱いになってるらしい。
重正の子孫は大名に取り立てられるわ、老中になる者はいるわ、耐え忍んでいるとい
いこともあるようで・・・
261 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/11 18:49
262 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/11 19:55
末期今川→徳川って女傑多いな。
北川殿→寿桂尼・・・築山殿→加納御前
264 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/11 22:04
>>263 10年くらい前に森蘭丸って題名の3時間程度のドラマやってたな。
そん中で、蘭丸の初陣でもある甲州征伐。
その途上で寄った兼山城で信長、蘭丸、妙向尼が談笑。
その中で妙向尼が甲冑を着けた蘭丸を信長に披露。
信長は「南無阿弥陀仏」の文字にムッとしたものの受け入れた。
妙向尼が本願寺との講和を斡旋してた時も信長と強く対立。
265 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/11 22:23
>>264 >その途上で寄った兼山城で信長、蘭丸、妙向尼が談笑。
息子の「彼」と談笑してしまう母親・・・
現代の感覚ではちょっと異な光景だったりするね。
まあ、当時の感覚ではごく自然なことなんだろうけど。
266 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/12 19:51
妙向尼は息子が信長公に仕えるとは複雑だったのかな?
267 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/12 19:56
>>266 当時の価値観でいえば、むしろ喜ばしいことでしょ。
息子(たち?)が主君に菊門を許すほどの関係になってくれれば
御家の繁栄のために「よくぞやってくれました!!」という感じだ
ったと思うけどね。
しかも蘭丸、坊丸、力丸の3人だもの。
>>267 なるほど確かにそうですね。
一向宗との講和斡旋も息子の彼だからうまくいくように願いはしたろうけど
やっぱり御家の繁栄がより上位の優先事項だったんでしょうね。
269 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/12 22:17
>>268 江戸時代になるとちょっと事情が違うだろうけど・・・
倅が念者を相手に「貫通式」を済ませたときには両親が抱き合うように喜んだとか。
270 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/12 23:02
271 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/12 23:09
>>272 ガラシャは結構ふっくらしてるね。
忠興は・・・あんまり苛烈なイメージじゃなくてちゃんと文化人ぽだw
274 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/12 23:36
>>273 まあ、お父上も当世随一の文化人ですからね。
>>274 藤孝の息子夫婦なのにスンゴいエピソードが多いからどうしても
忠興はそれに伴うイメージが・・・
276 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/12 23:47
玉造教会のマリア絵像の下には細川ガラシャと高山右近が描かれて
いるね。
>>276 サイトでググると絵が小さいよね。ガラシャ像と右近像はドアップだけど。
278 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/13 00:05
>>277 現地に行ってみるといいよ。
思わず改宗して洗礼を受けたくなったもの・・・けっこう感動モノ。
>>278 ありがd そうだガラシャ様に愛に何時か行ってみよう。
280 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/13 01:34
松浦メンシア松東院、細川ガラシャ・・・最近はキリスト教を信仰した大名夫人が
多いようですね。
ならば、ジュリアおたあなどはどうでしょうか?
おたあは朝鮮貴族の娘でしたが、朝鮮の役で両親を失い、小西行長軍の捕虜
となって日本に送られた後、行長の養女となります。
そして行長夫人・小西ジュスタに養育されたこともあり、彼女自身も敬虔なキリ
スト教徒となります。また、ジュスタが薬草に関する知識に長けていたためか、
彼女も薬草の知識を身につけたようです。
小西家が関ヶ原の役で敗れて改易となった後は、徳川家康に召し出されて侍
女となり、奥向きの差配を務めますが、棄教を拒否したため(一説には家康の
求愛を信仰上の理由で断ったためとも言いますが・・・)伊豆大島に配流となっ
てしまいます。
しかし、配流地でも信仰を捨てず、薬草の知識を生かしながら島民たちのため
に尽くしたそうです。彼女の影響で大島でキリシタンが増えたため、新島、神津
島に配流となりますが、そこでも同様に島民に慕われたそうです。
彼女の没年は1651年と言われています。
>>280 つまりジュリアおたあは権力者家康の圧力には屈せず殉教したわけだ。
282 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/13 04:49
殉教・・・何か分からんけど美しい響き・・・じゃない?
283 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/13 04:56
ジュリアを武将化してみると・・・
蒼天なら策戦は「治療」「誘導」とか?特技は「哀願」かな?
薬草の知識を生かして島民を癒し(治療)、キリスト様の救いに導き(誘導)、
神の下に跪いて救いを求める(哀願)・・・とか。
ちょっと無理があるけど、政治値はけっこう高そう。
ジュリアおたあはこの板では既出なのじゃ〜
でも最近ネタに困っていたから、これでいこうかw
誤:「この板」
正:「このスレ」
殉教して参ります
286 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/13 21:25
287 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/14 03:23
洗礼を受けたキリシタン女性はかなりいるみたいだなあ
288 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/14 04:57
父島行ったら教会があった。
まあ、アメリカの占領統治下時代の産物なんだろうが・・・
でも、離島に教会って妙に風景に合ってるんだよな
289 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/14 11:49
>>287 しょうもないつっこみだが
洗礼を受けてないとクリスチャンネームはもらえません
291 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/14 15:16
おたあ祭りってのがあるらしいね
292 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/14 17:23
あっ直リンだった・・・
294 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/15 00:26
おたあ祭りに逝ってみたい。
295 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/15 19:35
>>280 大島、新島ときて神津島かぁ・・・神の名の付く島が終焉の地とは運命的だね。
296 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/15 23:51
大島〜八丈島〜神津島という説もあるが・・・
297 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/16 03:57
出雲の阿国っつ〜のは戦国の女性に入るかのう?
活躍期はほぼ江戸に近いだろうけど……
相当の芸術家と聞くが、舞台監督からアーチストから脚本から
手がけたと聞くが。
299 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/16 09:32
>>298 そうね、全盛期は1605年前後だったらしいから、正しくは江戸草創期になるな。
出雲大社の巫女だったとも、諸国を巡る歩き巫女だったとも言われてる。
300 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/16 09:33
おっ、300!!!
ミコミコイズモ!( ゚∀゚)
どっかのデカい神社で何の前触れもなく何人もの巫女さんが
一列になって現れ横を通り過ぎてったときは幻かとオモタ
303 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/16 10:08
歩き巫女と言えば望月千代女
304 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/16 10:09
♪同じ巫女なら踊らにゃ損!損!♪
305 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/16 23:13
>>298 池上/工藤の『信長』では安土で信長と××してたけどね>阿国
306 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/17 08:55
神職さんの娘ってけっこう後世に名前を残してるケースが多くないか?
>>305 げーっ
さすが池上+工藤『信長』
年代が全く合ってないw
308 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/17 23:10
>>306 家康の側室・お亀の方の父親は岩清水八幡宮の神職だね。
だが、神職とは言っても修験者なので、その出自を気にした家康が
「今すぐ還俗させ、髪が伸びて髷を結えるようになったら知らせろ」
と命じ、後日召し出して「志水八右衛門」と名乗らせたうえ、3000石
の家禄を与え、大名並みの「加賀守」に叙したとか。
結城秀康の生母・お万の方の生家・永見家も三河・知立神社の神
職で、こちらは神主のお嬢さん。
そりゃ人民の大半である農民には縁のない話だし
召し出されるのはある程度決まった職業ばかりになるだろう
徳川忠輝の母・茶阿の方は農民出身らしいがなー
やっぱ例外だけに珍しがられたんでない?
312 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/18 13:22
家康は後家のみでは無く巫女も好きと、メモメモ
>>310 忠輝は正室が政宗の娘でキリシタンだったりするし、おもしろいねぇ。
314 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/18 13:30
鬼っ子忠輝・・・昔千葉真一のドラマがあったなぁ
マニアックなヤシだったのね、忠輝
316 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/18 18:13
徳川忠輝の妻は離縁されてる筈、ついでに越後高田藩も改易であぼーんだったっけ?
徳川忠輝の妻と言えば五郎八姫か。
つまらない話だが、ここのスレの住人の皆様は「五郎八姫」は読めると思うが。。。
318 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/18 23:07
319 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/18 23:10
>>317 「いろは姫」は6歳で嫁いでおりまするな。
320 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/18 23:13
まあ、7〜8年は旦那様と清いお付き合いということで。
しかも彼女もキリシタンで忠輝を信仰に勧誘したそうだが・・・本当なのだろうか?
322 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/18 23:17
寝所に誘う前に宗教かい??
1616年に秀忠に改易された時に離縁されているらしい。
しかも死ぬまで信仰を捨てなかったとあるが。。。?
>>323 謎ですよねえ。
最後は出家して尼さんになっていたし。
どっちにしろ、二度と再婚せずに独身を押し通したそうだ>いろは姫
>>324 しかも1661年に68歳で死んでるから・・・あの時代でキリシタンはちょっと無理ぽ。
326 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/18 23:50
尼僧は世を忍ぶ仮の姿・・・
327 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/19 05:54
五郎八姫は隠れキリシタンだったとか?
328 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/19 20:06
手元のソースだと五郎八姫は剃髪をせず信仰を守り続けたとあるんだけど
だとしたらキリシタンのまんま・・・どうして許されていたのかな?
棄教者(実は棄教していない)が仏像(実はキリスト像)を拝んではいけないという法令はない。
棄教者(実は棄教していない)が数珠(実はクルスの代わり)を持って念仏(実はお祈り)を唱えてはいけないという法令はない。
棄教したフリをしているキリスト者が形のみ仏門に入ってはいけないというキリストの教えはない。(心はいつも主のそばにある)
最後までキリスト模写仏像に崇拝を続け、聖句を人知れず唱えていたのであればキリシタンだと言える。
本当のことはわかりませんね。
330 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/20 12:14
>>328 許されてないけど、表沙汰にもなってないとか?
331 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/20 14:31
伊達さんのお嬢さんだしな・・・と秀忠。
>>331 ただでさえ離縁でギクシャクした関係になっていただろうから
政治問題化するのを恐れたのかもしれないね。
333 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/20 14:49
松平忠輝改易はある意味、人身御供みたいなものだしな
家康は蟄居を命じただけ、だけど秀忠は家康の死後に忠輝を改易してるね。
335 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/20 15:58
家康が死んだ時点(1616年)で生きていた秀忠の兄弟というと・・・
●秀忠…38歳/征夷大将軍
●忠輝…25歳/蟄居
●義直…17歳/尾張56万石
●頼宣…15歳/駿河・遠江50万石
●頼房…14歳/常陸水戸25万石
となる。
年齢的に言って秀忠を脅かすことができるのは忠輝。
それ以外の3人は弟というより子に近いような年齢構成だし、秀忠との
関係も極めて良好だったらしい。
「葵・徳川三代」では家康の遺命だったということにしているが、背後に
伊達政宗がいるうえに年齢的にも対抗馬になり得る異母弟を排除して
おくことで、たとえ弟であっても容赦なく改易にする、ということを諸大名
に示す狙いがあったのでは?
336 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/20 17:07
>>297 ジュリアの墓は韓国にもあるようだが、そっちのジュリアの絵像は韓国の民族衣装
を着てるんだよな・・・絶対ないだろ、それは・・・
>>336 彼等、得意のいつもの慣習ですから放置したほうが良い。
338 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/21 21:33
徳川家に嫁いだ女性は不幸な人が多いな・・・権力者の妻子とは大変だ。
339 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/21 23:49
でも、秀吉の下にいた200人を越える側室たちも一部を除けば・・・
340 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/22 04:19
権力から遠ざかればあとは下るだけ・・・
寵愛されないヤシはどうなるの?
>>341 運が良いと寵臣にさげおろされる。
運が悪いと気分次第で殺される。
343 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/23 10:47
その運が悪い方の行く末って興味あるなあ
殺されなかったとして、どこまで墜ちるものなんだろ
家臣とか他大名に下げ渡された側室の話はたまに聞くけどね
有名なのは秀吉の側室から伊達政宗の側室、その後政宗の家臣・茂庭重元に下げ渡された
お種の方とか。
お梶の方(家康の側室→同族の妻に下げ渡し→家康の子を妊娠していたことが発覚し復帰)
というのもいたな。復帰できたというのはかなり稀なパターンかも知れない。
>>344 お種の方は、秀吉→重元→政宗という順番でなかったけ?
たらい回しにされる女か
347 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/23 20:42
香の前は碁の景品にされたからなぁ
348 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/24 08:07
妹を献上して再興した名門もあるしな・・・
350 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/24 18:36
生き残り戦略とは難しい。
351 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/25 16:43
姉が自らを献上?して再興した名門もあるしな・・・
352 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/25 19:13
自分の商品価値を知り尽くした女ってのもすごいな
秀吉は権威ある姫が咽から手が出るほど欲しかったのかも知れない。
355 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/27 01:41
ええ?
356 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/27 05:26
>>352-354 古河姫君(島姫/足利頼純女)は秀吉の側室の中では最も血筋の良い女性。
零落していた小弓足利家を古河足利家と併合、喜連川家として再興させたのは
「名族の滅亡を惜しんだ」秀吉ではなく、絶世の美女と呼ばれた島姫の懇請によ
るところが大きい。
なぜなら、古河城を退去させられた古河足利家の氏姫に与えられた所領は僅か
332石。これを命じたのは秀吉であるはずで、本当に「名族の滅亡を惜しんだ」の
であれば、古河城退去の時点で異なった措置をしているはず。
やはり島姫の捨て身の懇請が御家再興の原動力であったことは間違いない。
357 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/27 11:23
懇請しても聞き入れられるかどうかはやはり寵愛の度合かね
他にいくらでもそういった懇請はあっただろうし
358 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/27 11:53
でも秀吉は調子の良さそうな処があるから、閨で懇請されると「うん」と言ってしまいそう。
360 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/28 10:53
361 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/28 18:37
>>360 名門だけではないけどねw
ひどい事もやっているけど、なんか憎めないとこもあるんだよね〜?
無論、戦国女性の敵役としては得がたい存在だけどw
362 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/29 13:38
>>361 200名以上の側室のうち豊臣家滅亡後も生き長らえ、それなりの暮らし向きを
保てた女性がどれだけいるんだ?
哀れな末路の話きぼんぬ
365 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/30 14:25
最上義光の娘とか。
366 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/30 15:45
>>365 駒姫(お伊万の方)のこと?
秀次が切腹させられる三日前に側室になったのに…当時15歳とも18歳とも言われていたそうですが
義光の必死の助命嘆願も秀吉は聞かずに、処刑されてしまったそうです…
秀吉め!
367 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/30 16:23
悲惨やね
368 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/30 16:36
>>367 無茶苦茶悲惨です。
秀次の側室になるにあたっては諸説有るのですが
義光から持ちかけた説
秀次が欲しがった説
後者だった場合は…義光は親として悔やんでも悔やみきれなかったことでしょう。
どっちでも悔やみ切れんと思うが?
370 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/30 22:24
秀次事件で殺された女性や子供はみんな哀れですが、
それより哀れなのが何ヶ月も篭城した挙句、城主荒木村重に逃げられ
あてつけに皆殺しにされた城内の女性や子供です。
戦国時代も悲惨な話が多いな。
372 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/30 22:44
>>366 >義光の必死の助命嘆願も秀吉は聞かずに…
晩年の秀吉らしい態度だね。
373 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/30 23:13
>>372 若い頃の秀吉なら、ここまではしなかったろうね。
374 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/30 23:23
助命嘆願する側から、助命嘆願を聞く側になるとこうなるのかね?
>370
3軒の農家に押し込められての焼き殺しでしたね・・・。酷いことです。
12月13日に122人が磔、また512人が農家で焼殺。
12月16日に荒木一族・重臣及びその家族36人が京都市中引き回しの上処刑。
そういえば村重の側室「たし」は美貌の持ち主だったそうですが、16日に六条河原で刑死しています。
その他荒木重臣の荒木久左衛門は村重説得に失敗したため尼崎にも伊丹にも帰れなくなって逃亡。
同じく重臣の池田和泉は一縷の望みを託した久左衛門の失踪を聞いたのち、鉄砲を口に含んで自殺したと言われます。
南無・・・
376 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/30 23:39
秀次の妾妻子は赤ん坊に至るまで処刑されているのに
正室の1人の池田輝政の妹だけ処刑されずにすんだのは
のはなんでだろう。
377 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/30 23:41
378 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/30 23:49
php新書の「豊臣秀次」によると、菊亭晴季の娘一の台と、
池田輝政の妹が、正室ということになっていた。
正室2人ってこともあるのかも?
379 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/30 23:50
妻は全員処刑されたんじゃなかったのか。シラナカータ
>>376-378 ( ・∀・)つ〃∩ ヘェーヘェーヘェー すれ違いだけどヘェー(w)
てゆーか、正室が同時に二人いるってこの時代にあり得るのか?
381 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/31 01:08
荒木村重は戦国一の糞野郎です。最後は秀吉に拾われのうのうと生き延びて
おります。こいつの為に死んでいった大勢の人々の恨みは、伊丹の地に今も
渦巻いていることでしょう。聞くところによりますと、姫君や奥方や上臈達
は140人近くいたのですが、処刑場へ引き出される途中で一人また一人と竹藪
に連れ込まれ、雑兵達の慰み物にされとうとう処刑場の七つ松の浜辺に連れ
出されたのは122人になっていたそうな。だが、皆磔柱に恥ずかしい姿で縛り
付けられて様々な武器で突かれ切られ撃ち殺されたのである。どちらの死に様
が良いのか分からないが、酷い話である。
382 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/31 08:02
>>381 その 140 ? − 122 = 18 ? 人が、
レイープされた後女郎屋とかに売り飛ばされてでも
生き残っていたら・・・。
383 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/31 12:02
秀次関連ネタになるが・・・
秀次の女・隆清院は真田幸村の側室となり、五女・御田姫と三男・幸信を
産んでいる。
彼女自身は、秀次の妻妾、子女が三条河原で処刑された際、幼女であっ
たために難を逃れている。
大阪の陣の際には祖母にあたる日秀の許に身を寄せていたらしい。
384 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/31 12:25
菊亭晴季女(秀次正室)は市中引き回しのうえ処刑されているね。
晴季自身も越後に配流(翌年には赦免)されている。
自分を関白に斡旋してくれた恩人にすら、恩を仇で返すあたりが秀吉らしいのだが。
385 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/31 13:12
稲田姫、幸信の消息についてだが・・・
稲田姫は慶長9年(1604年)真田信繁の配流先・九度山で誕生し、成人後は
岩城但馬守宜隆に嫁した。
岩城家は秋田藩佐竹家の支流にあたり、貞隆の時代には出羽国由利郡にて
12万石余を領していたが、慶長5年(1600年)の会津討伐の際に出兵せず改
易となる。
元和2年(1617年)に信濃国川中島に1万石を与えられて再興、貞隆の嫡子・
吉隆の時代に1万石を加増のうえ由利郡亀田に転封となる。宜隆は佐竹義重
の4男で、吉隆の養嗣子。
稲田姫は宜隆との間に重隆をもうけたが、寛永12年(1635年)に32歳で没し
ている。
一方、幸信は元和元年(1615年)7月に誕生。父・信繁は幸信誕生の2ヶ月
前に大阪の陣で戦死。
同母姉の稲田姫の嫁ぎ先である岩城家に身を寄せ、祖父・秀次の姓を受け
継いで三好左馬之介幸信と称し、亀田藩士として380石を与えられた。
寛文7年(1667年)に53歳で没している。
386 :
無名武将@お腹せっぷく:03/12/31 14:06
>>385 正しくは「宣隆」だね。
それと宣隆に嫁した秀次女は「芳姫」というらしい。
岩城貞隆は佐竹義重の3男。貞隆の子・吉隆は一度亀田藩を継承
したものの、宗家の佐竹義宣に男子がないために養子となり、秋田
藩2代藩主・佐竹義隆となった。
そのため、貞隆の弟・宣隆が亀田藩主に迎えられている。
宣隆と芳姫の血脈は重隆―景隆(勘当され廃嫡)―秀隆(景隆の子)
と続いたところで途絶え、以後は仙台藩伊達家から隆詔、隆恭が入
るなどして明治維新に至っている。
明けましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしゅうに。
388 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/01 22:49
処刑する、しないの基準が曖昧だよな。
まあ、それだけ「一方的な言い掛かり的」な事件だったということじゃない?
>>387 あけおめ
時間からすると元旦徹夜でつか?
秀次のその生き残った子供の母親って言うのは判明しているのですか?
390 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/02 16:27
>>386 訂正しておくが・・・
出羽亀田藩主・岩城宣隆に嫁したのは真田信繁(幸村)の女・稲田姫。
そしてこの稲田姫と三好幸信の母が、豊臣秀次の女・芳姫ということになる。
×稲田姫⇒○御田姫
に訂正。
>>389 御田姫の母・隆清院の生母を秀次正室・一ノ台(今出川晴季女)とする説
もあるのだが確たる証拠はない。
但し、秀次事件では妻女34人と子女5人が処刑されたが、子女のうち難
を逃れたのが、隆清院と梅小路家に嫁した姉の2人だけだったことから、
2人の存在が後日まで秘匿されていたか、あるいは彼女たちが処刑する
には忍びない出自だったか、という推測は成り立つ。
ちなみに三好幸信は、隆清院が匿われていた梅小路家の知人宅で生ま
れたという。
393 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/02 21:13
>>381 磔にされたのは、中級家臣の妻子だと思う。
重臣の妻子たち(28人)は京都で引き回された後に首をはねられた。
これらの人たちはいちいち記録に残っているので途中でいなくなった
ということはないはず。
394 :
リンガーヤッタ派:04/01/02 22:51
一の台は秀吉の側室だったっていう話もあるね。どうなんだろう。
それにしても秀吉って言う人間はとんでもない女好きなのに女に優しいってわけでもないなんて
ひでえやろうだね。
395 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/03 00:13
>>394 はじめ秀吉の側室だったが、秀吉の好色に耐えかねて実家に戻ったところを
秀次に望まれて正室になったという説もある
396 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/03 02:36
>>392 隆清院は幸村の側室になったところを見ると、一ノ台の娘とするのが自然だろうね。
幸村の母も今出川晴季の娘だったから、隆清院とはいとこ同士になる。
397 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/03 11:39
>>396 まあ、そう見ていくのが無難かもね。
駒姫のように上洛後、秀次と接点があるのかないのか分からないような女性
まで殺され、さらには男子4人と女子1人が殺されているのに、隆清院の姉妹
2人だけが殺されずに済んだという点はおかしいと言えばおかしい。
398 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/03 13:06
御田姫の生涯はドラマチックだよね。
父親が真田幸村、母親が豊臣秀次の娘、隆清院なのだから、出生前から
既に波乱含みのスタートなのだが…
>>383-386で抜けている点をフォローすると、大坂夏の陣の開戦直前に大
坂城を脱出した御田姫は、曾祖母の瑞龍院日秀の許に身を寄せていたが、
後日捕らえられて江戸に送られてしまう。だが、伯父の真田信之が執り成
したこともあり、人質として大奥勤めすることになる。
御田姫の大奥勤めは3年で終わり、帰洛を許された後は、女性たちに薙刀
を指南するなどして生計を立てていたが、大奥仕込みの礼儀作法を見込ま
れ、さる屋敷に奉公することになった。
その屋敷に上洛してきた佐竹義宣と弟の多賀谷宣家(岩城宣隆)が逗留し
た際、給仕役を務めていたところを見初められて宣家の側室となったという。
(これだけでも凄い幸運?なのだが…)
宣家の正室は多賀谷重経(常陸下妻城主)の娘だったが、彼女が死没し
たため、御田姫が正室となった。
なお、御田姫は宣家との間に重隆(出羽亀田藩2代藩主)、女子、隆房の
3子をもうけている。
399 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/03 15:59
幸村の娘ということで捕縛されてはいるが、血統的にはギリギリ豊臣家の子孫狩りにも
引っ掛かってるな。
秀吉と直接血が繋がってるとなると・・・秀吉姉の「とも」の系列しかいないだろうし、羽柴
秀勝の女・完子と、隆清院の姉妹だけということになるのかな・・・
「なか」の姉妹であれば・・・
@「なか」の姉(杉原家利室)……家利の子・家次の一族
A「なか」の妹(福島正信室)……正信の子・正則、高晴の一族
B「なか」の妹(小出秀政室)……秀政の子・吉政の一族
C「なか」の妹(青木重矩室)……重矩の子・秀以の一族
青木あたりになるとやや疑わしいところもあるが・・・
それに
D杉原家利の女(木下家定室)…勝俊、利房、延俊、俊定、秀秋、秀規など。
まあ、Dは秀吉というより、禰々の方が血縁的に近いんだけどね。
401 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/03 17:43
>>388 ズバリ秀頼可愛さの言い掛かりでしょうね。
こうなって来ると秀次の凶状も本当なのかな?
402 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/03 21:33
>>401 秀次の旧領では、従来と全く異なった秀次像が語られてるよね。
いずれにせよ、時の権力者による情報操作が行われて、「殺して当然だった」という
雰囲気を作り出した可能性は高いよね。
>>402 そうすると、正室・側室に女子供まで抹殺したのは口封じが目的だったのかも?
404 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/03 21:45
男子は叛乱の旗頭になりそうなので全員アウト、女子はかつて愛した一の台の子に
限ってはセーフという感じか?
戦国時代の姫と女性を語ると、どうしても秀吉っちゃうな。w
406 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/03 21:56
話の筋としては悲劇的な末路を辿った女性からこうなった。
すなわち・・・
「 秀 吉 と 絡 ん だ 女 性 は 不 幸 に な る 」
ということか?
407 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/03 21:58
下げチン秀吉
409 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/03 22:00
410 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/03 22:06
>>407 さげチンにタネ無し・・・こいつの下半身は最悪だな
>>409 豪姫は…あかん、宇喜多が遠島にされてる。
茶々姫…最悪、城を枕にあぼ〜んしてる。
ねねは…浮気に悩まされてる。
香の前…最後には笑ったのは評価できるが、碁の景品にされてる…
話振ってなんだが誰だろ?
誰か秀吉ファンの人教えてくれ。
412 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/03 22:12
>>411 お初、お江の2人には一応穏やかな晩年があったが・・・
といって「秀吉と絡んだ」わけじゃないけどね
とりあえずわかった事、秀吉から関係が離れるホド幸せな生涯を
送っている法則。
415 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/03 22:49
加賀殿(お麻阿)などは、病気を理由に秀吉の側室を辞退した後、万里小路充房に
嫁して一子・前田利忠を産んだが、夫婦仲が悪かったため離縁になっているね。
別に秀吉が悪いわけじゃないんだが・・・でも、一ノ台も秀吉の好色に嫌気が指して
実家に帰ったように、加賀殿も性格が歪んじゃった可能性はあるよねw
ちなみに万里小路充房は織田信長の女との間にも一子・孝房をもうけている。
信長女は1597年に秀吉より化粧料300石を与えられるので離縁されたんだろうね。
で、その後に加賀殿が嫁したが、前述のように離縁になったと。
しかし、織田信包の女(はじめ木下利房室)も万里小路充房に嫁したというから、お
そらく信長女→加賀殿→信包女という順で妻に迎えたんだろうか・・・
>>415 女性の運気吸って出世したんじゃないの秀吉?
417 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/03 23:05
でも最後は女に滅ぼされたも同然だよねw
南無釈迦牟尼仏、南無釈迦牟尼仏・・・
家康は逆に運気アップかな?
仲が冷えると落ちてゆく…権力から離れるからか。
421 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/03 23:37
>>420 家康の場合は、最初に名門のお嬢さんを貰って懲りてるせいか、
あまり名門のお嬢さんは出てこないよね。
せいぜい・・・
●於都摩の方……江尻城主・穴山梅雪養女(秋山虎康女)
●於勝の方………太田道灌末裔・太田康資女(養女?)
●於万の方………元河津城主・蔭山氏広養女(正木頼忠女)
くらいかな?
下がりようがない女性ばかり相手にしているということもあるね。
>>421 それだけ家康が賢明なんでしょう。
最も子孫は凄いことしてるけどねw
423 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/03 23:54
家光、綱吉・・・
スレ違いだけど、11代将軍 徳川家斉は秀吉並。
タネはあったようだけどね。
425 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/04 00:08
>>424 その代わり諸大名が養子押し付けられて大変だったとか。
でも多くが成人する前に夭逝してたらしいけどね。
427 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/04 00:14
もし俺が将軍様でも、家斉ほどの体力(精力)はないな・・・つーか早死にしそう。
せいぜい秀忠くらいかな・・・
>>427 秀忠くらいなんて禁欲的ですね。w
保科正之の生母くらいでしたっけ側室?
429 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/04 00:17
家宣、家治くらいかのぅ・・・
430 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/04 00:25
>>428 禁欲的って言ってもそれは強制的なものでしょw
秀忠は正式に側室という身分の女性はいないよね。
チョロっと摘んだらバレちゃった、みたいな感じ。
確か長丸(夭逝)生母の女性と、保科正之生母のお静くらいのものでしょ。
戦国2大恐妻家、徳川秀忠と山内一豊
432 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/04 00:50
しかしあの恐ろしい姐御・お江与様に、平然と啖呵を切った武田見性院さま
も素晴らしい・・・
舐めたら、あかんぜよ!
434 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/04 07:20
>>433 いや、それじゃあ夏目雅子だってw
秀忠から庶子・幸松と生母・お静を託された見性院は、田安の比丘尼屋敷を訪れ、母子の
身柄引き渡しを巡って恫喝してきたお江の使者に対して「たとえ御台様(お江)のお咎めが
ありましょうとも、幸松は我が子」と突っ撥ねたんだよね。
435 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/04 15:22
>>434 それは大河ドラマの話でわ。お江は保科正之の存在を死ぬまで知らなかったと聞いたが。
436 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/04 15:58
全ては、土井利勝におまかせあれ…
437 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/04 23:27
ところで前の方で名前だけ出た奈多”イザベル”夫人 全然スルーされて可哀想。
440 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/04 23:39
タイマン張ってたよね、立花夫妻はw
引けは取ってないなどっちも。
442 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/04 23:42
パパが道雪さんという時点でかなり引くだろね、普通の人なら
443 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/04 23:46
何せ関ヶ原の敗戦後、柳河攻略のために進撃してきた加藤軍に対して、
僅か女と老兵ばかり僅か200余騎で出陣し、街道を封鎖するような無茶な
姫様だからね。
>>443 何せ関ヶ原の敗戦後、柳河攻略のために進撃してきた加藤軍に対して、
女と老兵ばかり僅か200余騎で出陣し、街道を封鎖するような無茶な姫様
だからね。
に訂正・・・スマソ。
445 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/04 23:49
>>381 >>393 で、結局のところ「処刑場へ引き出される途中で一人また一人と
竹藪に連れ込まれ、雑兵達の慰み物にされ」うんぬんというのは
ただの妄想なんですか?
>>445 ・・・・・・・・結局のところそっちへ持ってくのか
女鉄砲隊の話は本当なのかな?
なんか日本史の宗茂スレで嘘ぽなんて言われていたんだけど。
漏れ的には事実だったと思いたい。
448 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/04 23:54
449 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/04 23:56
>447
事実だと何かいいことがあるのかね
>>447 ウチの婆さんは戦争中に国防婦人会で竹槍振るってたぞ。
453 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/05 00:23
ァ千代姫は侍女軍団を率いて出陣してるよね
ァ千代は道雪に男のようにそだてられたからねぇ
455 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/05 00:36
厄介なことを避けたいがために加藤清正が進軍コースを変えたほどで、
相当に気合が入っていたんだろね。
あと宗茂と仲が良かったから気を使ったんだろね
457 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/05 00:44
清正「お、奥さん!!いくら何でもそれは勘弁してくださいよ〜」
という感じ?
ァ千代はプライドの高い人だから清正が面目をたててあげたんだよ^^
459 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/05 00:55
何か長久手の戦いでの本多忠勝に通じるものを感じるんだけどね。
寡兵で大軍に立ちはだかるのって。
5百で3万近い軍勢をね。よくやるよなぁ
姫さまの軍勢って何時も寡兵だけどね。
女だからね
463 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/05 00:59
ァ千代が率いたのは200騎くらいでしょ
寡兵で討って出たのってァ千代と甲斐姫くらい?
ほかにもいるよ、兵力は分からないけど。
討ってでたわけじゃないけどガラシャがいる!
468 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/05 01:07
迎撃は・・・したよね、一応。
残念な結果に終わったけどね。ガラシャ
彼女の話は当時ヨーロッパで話題になったらしい
471 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/05 01:11
「ァ千代姫、出陣!」の報は近隣の老兵たちを奮い立たせたらしいね。
はじめは近侍する侍女とお付きの兵だけだったけど、宗茂に無断でァ千代姫
の許に馳せ参じる者もいたらしい。
姫様が打って出る場面というのは、ある意味、最後の最後、土壇場の局面な
わけで、腹の据わり方が違うでしょ。
473 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/05 01:17
>>470 でも、当時のことだから相当タイムラグがあったんだろうね
それはなかったような???
475 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/05 05:14
矛を取るだけが女傑ではないんだけどね
476 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/05 18:19
もちろん文治の女性の活躍も重要です。
477 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/05 18:26
478 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/05 18:47
戦国時代の宮中の官女は文治の女性だと思うよ。
あの苦しい時代にどんな風に彼女たちは過ごしていたのでしょう。
嫁ぐ前の寿桂尼は和歌や、宮中の故実・典礼についても修養しているから 文治の姫と言えないかな?
こんな良いとこの公家のお姫様が女戦国大名と呼ばれるのだから・・・性格かな。
480 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/05 19:40
文治の姫さまは皇族あたりか?
482 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/05 20:42
>>481 姫様でなければけっこういるんじゃない?
このスレは姫様限定じゃないから、そちらを語ってみては?
484 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/05 22:49
メジャーなお公家さんでも家禄は1500石とか2000石とかそんなもの。
下を見たらきりがないものね。
お公家さんの姫で戦国大名の嫁になったといえば
・寿桂尼
・三条夫人
・朝倉義景の妻(後に離婚)
他に誰がいた?
487 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/06 18:48
近衛尚通女(慶寿院/足利義晴室)
近衛稙家女(足利義輝室 )
三条公頼女(細川晴元室)
三条公頼女(本願寺顕如光佐室)
伏見宮邦高親王女(玉姫/一条房冬室)
一条房基女(安芸国虎室)
>>487 公家のお姫さまは結構嫁いでいるんだなぁ
489 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/06 20:35
秀次夫人の一ノ台は今出川(菊亭)晴季の娘だろ?
490 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/07 02:08
>>487 大内義隆室の万里小路秀房娘・貞子もお忘れなく
>>490 貞子。。。 (((((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
貞子さんは義隆と一緒に陶にあぼーんされたのですか?
492 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/07 11:14
大内義隆室の姉(万里小路房子)は後陽成天皇の父・誠仁親王の生母。
493 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/07 15:19
>>491 義隆室の貞子は離縁されて京に戻っているよね。
大内義隆氏には正室・貞子のほか、側室・広橋兼秀女・広徳院、広橋兼秀養女
(小槻伊治女)がおり、後に義尊を生んだ小槻氏が後室になったとされる。
おそらく貞子が生んだのは「中将姫」(中将内侍の官名を受ける)のみと思われるが、
その中将姫は1551年に義隆と共に自害している。
494 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/07 19:30
漏れのソース本によると貞子さんは、恐らく15歳で結婚したと思われ。
理知的で気位の高い女性だったらしい。
義隆は貞子を愛しんだが、その一方でほかの女性にも手を出しており
その女性に恋文を送ったところ侍女が間違えて貞子に渡してしまう。
貞子はその恋文を見ても感情的に騒ぎ立てる事無く歌を詠み恋文に添えて
女のもとに持って行かせたそうです。
「頼むなよ行末かけて変わらじと われにもいひし言の葉の露」
当てにしない方がいいですよ。私にも、その生涯をかけて変わらないと
言ったのに、なんと言葉とは露のようにはかないものでしょうか
さすが公家のお姫様、なんとも皮肉な歌を詠んだものですね。
きっとくる〜
>>493 「中将姫」というと奈良の当麻寺の草創伝説にも出てくるお姫様と同名だね
ちなみにこちらの中将姫も継母に殺されかけて近畿各地を逃亡し、
その後父親に助けられた物の縁談を拒んで尼となり
27歳の若さでなくなったという悲劇の女性だそうな。
浅井のチャチャチャ♪浅井のチャチャチャ♪
チャチャチャ♪浅井の♪チャッチャッチャ♪
>494
女でも堂々としたもんだね
499 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/09 21:10
貧乏でもプライドだけは人一倍だからね
500 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/09 21:19
500超えしましたね。
502 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/09 21:56
公家の姫様じゃないけど、戦国時代の女流文化人の小野お通なんてどう?
503 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/09 22:57
504 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/09 23:16
>>503 でかくはないと思うけど・・・
信長の家臣小野正秀の娘で、母は若い頃大納言の勧修寺晴右に女房として
仕えていた美しく、教養のある女性だったらしい。
父の正秀は三好三人衆が足利義昭の本圀寺包囲戦にて戦死。その後は母に育てられた。
和歌や典籍はもちろん、書画や雅楽、礼儀作法、茶の湯、香道、生花などを仕込まれたらしい。
あんまりビックな「お通」像は浮かんでこないねw
505 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/10 00:31
>>504 小野お通の娘は松代藩主・真田信政の愛妾だったとか
507 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/10 00:38
まあ、殿様に見初められるんだからねぇ
ちなみに一晩遊んだら孕んじゃった、なんて話もあるようで
今も昔も責任の取り方は同じか・・・
509 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/10 01:04
あの時代は成人まで育てるのが大変だったから、
子供が産まれると喜ばれたものさ。
510 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/10 01:08
その子供が真田本家の後継ぎになったんだよね、確か。貴重な一夜だった。
一発必中、流石は真田だな。
512 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/10 01:27
200人以上側室抱えてもダメな香具師もいるのに・・・
. r - 、 ♪
((・エ・) 〜´
>>512 誰なの?
. ( )
U~U
514 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/10 01:33
>>513 ほら、お猿ちゃんこっちおいで〜。大人のお話に入っちゃ駄目でつよ〜。
516 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/10 01:36
>>515 あの〜、猿に餌やらないでもらえますか?
517 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/10 15:44
小野お通は世渡り上手な才女でもあるね。
信長の侍女を皮切りに、本能寺以後には豊臣秀次の家臣の塩川志摩守と結婚、すぐ離婚
その後紆余曲折あって秀吉の正室北政所の侍女となる。
秀吉の死後は徳川家康仕えて孫の千姫が嫁ぐときに介添えとして大阪城に供して
そこでは淀殿にも、たいそう気に入られている。
今日の女性からは嫌われるタイプかもしんない。。。
518 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/10 20:56
賢い女は嫌いじゃない。
つーかどこ行っても気に入られる女ってのはすげーじゃん
同姓からも気に入られたんだろ
すげーよ、お通
520 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/10 21:10
漏れはどっちかと言えば嫁さんにはしたくないタイプだな。
521 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/10 23:53
俺が将軍だったら、大奥総取締に起用するね
522 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/11 00:13
>>521 それでは最良の大奥人事をお願い致します上様。
>>497 >一条房基女(安芸国虎室)
一条房基は公家と呼べるのか?
524 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/11 19:10
>>523 一条房基 1522〜1549 大永3年〜天文18年
公卿。藤原氏。権中納言房冬の男。享禄3年(1530)、9歳で従五位下に叙し、
同5年右中将、累進して天文9年(1540)従三位、同10年阿波権守で土佐国に
在国、以後、土佐にあったが同18年4月12日自害した。狂気のゆえという。
(『戦国人名辞典』原文ママ)
・・・・・・・・・・・公家だろね
525 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/11 22:52
526 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/11 23:19
>>517 高台院の孝蔵主みたいな存在として小野お通にも政治的視点があれば
淀殿ももうちょっと上手く立ちまわれたかもね。
527 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/11 23:21
528 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/11 23:25
政治的野心があれば、千姫付の立場を利用して
淀殿に取り入って側近になるんじゃないかと。
529 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/11 23:27
淀殿に取り入るより家康―千姫ラインに乗るでしょ、それなら
530 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/11 23:31
家康に取り入っても千姫付きとまりだったんだから。
ならば当時のもう一方の勢力、そのトップに近寄るでしょ。
野心があればね。
531 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/11 23:34
トップに近寄る?短絡的だね
532 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/11 23:39
小野お通に文学的才は合ったが、政治的視点はなかったってことでしょ?
533 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/11 23:41
知行を与えられたとかそういうのはないんかね>お通
534 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/11 23:46
>>533 大阪落城後は後陽成天皇の生母、新上東門院に仕えてる
新上東門院の死後は秀忠に召し出されて徳川和子の付き人として同行を命じられているね。
知行はわからん・・・
535 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/11 23:54
文化人、侍女的な出世でしかないでしょ。
政治的な役目かなんかがあったなら、千姫の付き人になった時点で
淀殿&ひでよりの監視役スパイ役を全うし、
大坂の陣を起こす前に豊臣あぼんか降伏をお膳立てでもしなきゃ
自分の生き残る道がない。
お通ブレイク?
537 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/11 23:56
新上東門院は万里小路秀房の女・房子(大内義隆前室・貞子の姉)だろ。
徳川和子の付き人ということは、将軍家が宮廷文学にも対応できる女官を随行させ
ようとしたってことじゃないか?
538 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/11 23:59
>>537 万里小路房子は後陽成天皇の父・誠仁親王の生母じゃないの?
539 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/12 00:02
>>537 お通が新上東門院に仕えたのはお通の母が仕えていた勧修寺晴右との縁故関係があったかららしい。
540 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/12 00:05
>>538 漏れのソース本だと新上東門院は本名を勧修寺晴子といい
お通の母が仕えていた勧修寺晴右の娘らしいよ。
541 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/12 00:10
>>526 淀殿を取り巻く女の中で助言できたのはお通くらいだろうね。
できなかったのかしなかったのか。
新上東門院・勧修寺晴子(1553―1620)
誠仁親王妃。後陽成天皇生母。
勧修寺晴右の娘。兄弟に勧修寺晴豊、万里小路充房がいる。
良スレハケーン!
544 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/12 00:15
>>541 その後の生き方を見ていると、政治的な野心はあまりないんじゃないの?
>>541 千姫付きの侍女が助言して変わるような状況ではなかったと思うよ。
実の妹(常高院)の懐柔ですら功を奏さなかったわけだし。
546 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/12 00:19
>>544 というより、自分は政治的発言をする立場じゃないと
わきまえていたんだろうね。
下手に発言すれば首が飛ぶし。
547 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/12 00:21
>>545 当時の淀殿にとっては、実の姉妹だろうと
側近以外の人間は誰も信用できない心境だったんじゃないかと。
>>546 そもそも助言するような立場になかったわけだし。
助言は敢えてしなかったんじゃないの
出しゃばらないと言うか、身をわきまえてるという周りの認識があったからこそ
生き長らえたし重宝されたんだと思う
したたかなのかどうかは知らんが
彼女の役回りじゃないもの、政治的なことは。
551 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/12 00:24
>>548 助言する立場ではないが、淀が信頼できた唯一の徳川方の人間ではある。
>>551 そんなにムキにならなくてもいいんじゃない?
>>551 政治的なことに関わっていないからかわいがったんだろうけどね。
554 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/12 00:29
555 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/12 00:31
淀殿も真田を大将にしていればなあ。
あと、豊臣恩顧の大名と仲良くしておけば。
556 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/12 00:33
小野お通が淀殿に気に入られた理由は「十二段草子」を改作して
沢住検校が三味線で節つけして、これを弾いて聞かせたのが始まりだそうだけどね。
*「十二段草子」牛若丸と浄瑠璃姫との恋物語で元々は読み物。後に曲節(琵琶)が付けられ流行。
所詮、大阪城など女の城よ、じわりじわりと攻め落としてくれるわ。
>>556を踏まえると淀殿はお通の才能を愛したという感じだね。
お通が過去の歴史にも精通していたとして
千姫じゃなくて淀殿の付き人だったら、淀自身が政治的な関わりを
控える可能性は合ったかもよ。
で、秀頼にも徳川傘下の大名としての道を歩むことを薦めたかもな。
たぶん、お通は過去の文学に精通していただけだろうから無理な話だろうが。
561 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/12 00:44
>>560 >千姫じゃなくて淀殿の付き人だったら、淀自身が政治的な関わりを
>控える可能性は合ったかもよ。
根拠が良く分からん
>>560 余程の教育的手腕が必要だな。
でもお通と淀って年一緒くらいでしょ?
乳母くらいの長い付き合いじゃないと無理だね。
>>559 才能じゃなかったら何を愛したと思うわけよ
百合の華
565 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/12 00:59
>>560女頭領としての道より、文学や芸事を嗜む
静かな生活を好むとかそんな感じ?
>>566(文学の)才能と文学的素養の違いってなによ?
>>567 話の流れで言えば、
>>556の「小野お通が淀殿に気に入られた理由は「十二段草子」
を改作して沢住検校が三味線で節つけして、これを弾いて聞かせたのが始まり」を受け
ての才能と言えば、それはすなわち
>>566じゃねえか。
くだらねえことで絡んでんじゃねえよ。
556 :無名武将@お腹せっぷく :04/01/12 00:33
小野お通が淀殿に気に入られた理由は「十二段草子」を改作して
沢住検校が三味線で節つけして、これを弾いて聞かせたのが始まりだそうだけどね。
*「十二段草子」牛若丸と浄瑠璃姫との恋物語で元々は読み物。後に曲節(琵琶)が付けられ流行。
559 :無名武将@お腹せっぷく :04/01/12 00:37
>>556を踏まえると淀殿はお通の才能を愛したという感じだね。
563 名前:無名武将@お腹せっぷく :04/01/12 00:51
>>559 才能じゃなかったら何を愛したと思うわけよ
566 名前:無名武将@お腹せっぷく :04/01/12 01:12
>>563 文学・文芸的素養じゃないのか?
567 名前:無名武将@お腹せっぷく :04/01/12 01:31
>>566(文学の)才能と文学的素養の違いってなによ?
ここ数時間見当違いのレスを粘着に繰り返してるやつがいるな。
姫ネタの嫌いな香具師だろうか?
>>570 淀殿に政治的助言をしてたら、と抜かしてた香具師が臭うな・・・
文脈的には。
574 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/12 02:03
唐突な
>>564のレスが何を指していたのか今気付いたよ。
>>572 「姫ネタ嫌いなら来なけりゃいい」
そんな単純なこともできんのか・・・と思ってしまうな・・・
まあ、いいやマターリマターリ。
>573
アホクサい例え話に根拠だ何だ言うやつもな。
それが誰かと誘導したがるやつが粘着君というのが2ちゃんのお約束。
結局、荒れるんだよな・・・
583 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/12 02:10
劇藁age
もういいよ、マターリしようよ。
586 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/12 02:13
あんまり追い込むなよ。
他の姫スレみたいにあまり(;´Д`)ハァハァせず、真面目に語れるいいスレだと
思ってたんだが
くそ真面目に語れば語るほど対立しやすいもんだって。
歴史から学べよ。
まあ、「急速にレスが増える=荒れる可能性が高まる」ということw
>586
上手いのか下手なのか。
あーーーーーぁ・・・・
では忘れるためにも何かネタでも振りましょうかね?
コーヒー無礼区みたいなもんだよな
えーと亀姫出てたから、家康の次女の督姫なんてどうですかね?
えーと督姫出てたから、家康の三女の振姫なんてどうですかね?
毒まんじゅうのこと位しか面白味がないけど。
>>596 はい、その通りです。
最も北条氏直に嫁いだのは実質的には和睦の為の人質だったとか。
あの時代の姫様には珍しく30歳過ぎてから出産ラッシュでしたね、督姫
>>599 それで甲斐・信濃から北条軍を撤退させることに成功したのだから、その犠牲は
大いに報われたと見るべきなのかな?
>>598 う〜ん、それでは何か面白いネタが出るのを待ちましょうか?
氏直との間には1女が誕生したけど・・・確か早世したんじゃないかな?
>>598 あれ、俗説だろ。
確かアリバイ的に完全に崩れてるはず。
605 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/12 02:48
督姫、小田原開城のずっと以前(徳川との関係悪化、篭城前)に
離縁してたのか、開城してから出されたのか、小和田先生や下山さんの本を
読んでもわからない・・・。どっちなのかな。
>>605 私の本だと開城後ですね。
開城後に氏直が30歳で病死したので家康の元に戻されたとありますよ。
親父さんが先鋒・・・まあ、戦国の世の女性だから覚悟はできていたと
思うが・・・
>>606 氏直が高野山に送られる時点じゃないの?
>>607 そうなのかな?すみませんソース本鵜呑みにしてました。
609 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/12 14:32
高野山は女人禁制だしね
610 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/12 15:14
夫を愛し池田家の為に尽くした督姫だけれども、毒饅頭の噂話が生じたのは輝政が栄転した当初
総検地によって増税策を強化した為に領民の恨みを買ったことに由来するらしいですよ。
611 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/12 15:39
母子続けて亡くなったんだっけ?
612 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/12 15:56
>>611 そうみたい、
督姫は慶長20年(1615年)の2月5日に51歳で死去
さらに、その18日後には忠継が死去してるね。
忠継の遺領は弟の忠雄が継いでますね。
613 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/12 16:00
母は寿命かなと思えるが息子の方はなんか裏にありそうな死に方ではあるね
614 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/12 16:08
>>613 疑問といえば疑問だよね。
まあ推理物なんかの定石だと一番得をする人物が黒幕だったりするわけだけど
こればかりは、わからない。w
615 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/12 23:15
まあ あれだな中世の女性は驚くほど地位は低かったが
現在の日本女性を見ると、マンコを武器に男から搾取する側に
回ったから過去の女たちの屈辱とか無念も無駄ではなかったって
ことで。
蛇足ですまんが、江戸期の遊女ですら平均寿命はなんと20歳程度だった
とかで、今のように女性が強くなったのはやっぱり近代化を推し進めた明治期
の偉人達のおかげでもあろうか。
616 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/12 23:32
女性の地位が低いって、何を指して言ってるんだ?
明治以降の方が女性の地位は顕著に低くなっているからね。
619 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/13 00:39
中世の女性はむしろ能力次第でのし上がれる可能性を秘めていたと
思うけどな
620 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/13 03:59
>>613 督姫も忠継も死因は疱瘡だったらしいので、事件性はないと思われるが。
621 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/13 04:02
┌─────────────────────┐
│招待券@物質スレは只今8000スレ目です!!祭│
└─────────────────────┘
ぜひぜひ来て下さい!!
>>615 >江戸期の遊女ですら平均寿命はなんと20歳程度
つーか労働環境、衛生環境に大いに問題あるだろ
栄養状態もかなり影響が大きいと思われ
食生活と衛生環境の改善、そして医療の発達
624 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/13 14:13
>>615 >江戸期の遊女ですら平均寿命はなんと20歳程度だった
これのソースが見たいな。
遊郭の遊女はともかく、悪所の夜鷹なんか、分限帳とか無いわけだし。
遊郭の遊女は、位にもよるけど一般に贅沢だったけどな。食い物に関しては。
大夫みたいな上級遊女と一日にノルマ科されてるような下っ端ではずいぶん違ったみたいだけどな
遊郭その物にもランクがあって島原吉原あたりとそこらの名も知らぬ岡場所ではずいぶん違うと思われ
ちなみに上級遊女の場合、すべてに優遇される替わり、教養も大名の奥方並を要求されていたらすぃ
江戸時代ネタになってきて板違い気味なのでsage
626 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/13 14:29
身内が遊女ってやっぱ恥ずかしいことだったのかな
戦国時代はそうでもなかったかも知れないとも言えないかも知れないが(滝汗)
出雲の阿国なんかでも実体は遊女だったのではともいわれてますしね。
というか
江戸時代の中頃ぐらいまでは演劇などの芸能産業と売春産業は非常に密着していて
同業の部分も大きかったようですよ
629 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/13 14:48
売春婦のような旅芸人は多かったが、旅芸人が全員売春婦だったわけではない。
630 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/13 15:10
そりゃそうだろ!
631 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/13 16:09
>>631 半島からお越しのお客様
反 応 が 遅 す ぎ ま す
633 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/13 16:16
>>80 じゃあ景勝の子、忠勝は上杉と武田の血を引いているわけ?
これまたふるいレスからお読み返されてるようで
というか、続きよみなはれ
635 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/13 17:34
>>620 岡山藩の史料では督姫のことをけなしまくってるらしいね。
池田利隆の長男の池田光政が千姫の娘を娶るときに徳川関係の女は
やだってゴネたらしいし。なんかあったと思わせる。
636 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/13 19:39
鵜ィ〜歯っびー゜
酢〜パー歯ッピ
ノリノ痢〜 鵜ィ〜歯っびー゜
酢〜パー歯ッピ
ノリノ痢〜
637 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/13 22:11
638 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/13 22:39
将軍家の娘なんて、表面上ありがたがっていても本当はやだろ。
639 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/13 22:42
側室ばかり寵愛してたら告げ口されるだろうしw
640 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/14 02:14
光政と正室の夫婦仲はそんなに悪くなかったと思うが・・・
千姫が光政の変わり者ぶりを聞いて、一方的に気に入り婿にご指名されたとか
光政から正室への手紙もたくさん残っていて、不仲ではなかったようだよ
>>638 将軍家のスパイみたいな物だからと言うのもあるが
江戸時代中期以降になると、妻子の江戸在住もあってその要素は薄かった模様
しかし
将軍家の娘を妻にするとあるレベル以上に屋敷を改修しなければならないなど
諸経費が一気に跳ね上がったため
本音では将軍家の娘を嫁にすることはやはりいやがられていた
642 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/14 11:38
643 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/14 12:29
はじめは不仲だったんでは?
仲直りエピソードも残ってるくらいだし。
光政が疱瘡にかかって顔に後が残って醜くなった後の話。
光政「愛想がついただろうからいつでも里に返してやるぞ」
勝姫「醜くなってむしろ嬉しい。これで側室がよりつかなくなって
私だけを愛してくれるでしょうから」
疱瘡のときの献身的な看病もあって、
以後仲むつまじい夫婦になったのでした。
なんかごちそうさまって言いたくなるな。
647 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/14 18:46
649 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/14 19:16
光政たんは親父が徳川のイビリのせいで早死にしたので
幼児相続して姫路から鳥取に減転封させられて大変な思いをしている
から徳川嫌いだったんだらう。追い出されたあと姫路に入ってきた
のが勝姫含む本多忠刻ファミリーだし。
煕子は結婚前に疱瘡にかかってあばた顔に・・・そこで妹を嫁がせたところ
光秀はたとえ、あばた顔であっても生涯の妻は煕子が良いと言って娶った話ですた。
良い男だな光秀。
651 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/14 19:19
明智光秀の婚約者が結婚前に疱瘡にかかったから代わりに妹が
来たんだよね。
それで、はじめから婚約相手と結婚すると、妹を返したんだよね。
>>651 カコイーですね光秀。
少し太閤さんにも見習って欲しいですね。
653 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/14 19:26
明智光秀の妹はブサイクだったの?
654 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/14 19:27
誤 明智光秀の妹
正 明智ひろ子の妹
655 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/14 19:33
煕子たんはもともとはお美しかったらしいけど。
秀吉では有森也美が疱瘡メイクなしで出ていました。
>>654 うーん、そんな話は聞きませんから、綺麗だったのでは?
真実を打ち明けられるまでは妹を煕子だと信じていたそうですから。
657 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/15 08:09
妹がブサイクで嫌で顔に瘡蓋があっても姉のほうが美人の噂が高いし
そっちのほうがいいって選択だったりして
否定はできない…
660 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/16 22:31
肯定も出来ないでしょう?
661 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/16 22:37
ほとんどの女性は
なぜか、美しい〜ようだ〜
不細工で歴史に残った、女性は???????????
?? 北条政子と 土井たか子だけだろう〜
>>661 美人は3日で飽きる!
が、ブサは一緒に暮らすうちに味がでてくるぞ。
まあ限度内での話だろうけどな
>>664 女性の化粧を笑うのは感心しませんよねぇ…
666 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/17 22:27
流れは戦国時代のブサ論か?
667 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/17 22:42
三条夫人は本当にブサイクだったの?
668 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/17 22:51
>>667 美人だったらしいが、後世にブサにされたんじゃなかったか?
三条夫人の葬式の時に僧侶によってあげられた追悼の辞が残っており
そこからブサではなかったのではないかという説が有力。
最も国主の正室の悪口は言いづらいのである程度は割引かなければ逝けないが。
ところで、信玄の遺言では三条夫人の菩提寺の前に遺体を安置するよう命じていた
とされ、夫人との仲はそんなに悪くなかったのではと推測される。
信玄の死後、事実上武田家の当主であったのは武田勝頼(母・諏訪御寮人)であり、
三条夫人の悪口を言いふらしたという可能性は捨てられないと思われ。
困ったもんだな御曹司にも
671 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/18 12:20
本当にあったのか?三条夫人と諏訪御料人の確執は
672 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/18 21:30
>>671 嫉妬深いという記述が出てはくるけど、どうかなあ?
普通に旦那が側室を置いたら誰だって嫉妬くらいするんじゃないかな
側室腹の武田勝頼に阿る為に、そういった伝説(ブサとかの)が作られたんじゃないかな?
673 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/20 01:52
諏訪の女というのもあるんじゃないの?
674 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/20 03:02
油川夫人は三条夫人と時期的に被っていたと思うが、そういう話は聞かないね。
やはり信玄の遠縁にあたり、しかも甲斐の女性だったからか?
>最も国主の正室の悪口は言いづらいのである程度は割引かなければ逝けないが
割り引く必要がなかった可能性もある罠
676 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/20 18:24
>615
遅レスだけど、遊女の平均寿命云々の話は
吉原だかの近くの寺で埋葬されている遊女の平均年齢であって
年季明けを込みで考えてないらしい。
要は元遊女の死亡年齢を勘定に入れてないから、その数字無効。
677 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/20 19:05
油川夫人とか三条夫人とかって、
( ・∀・)<エロいな!
678 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/20 20:07
>>676 早死にした遊女の話を集めて「彼女たちはこんなに虐げられていたんだ!」
と喧伝して回ってみたりw
679 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/21 00:12
680 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/21 00:55
>>675 後世にいくらでもイメージは歪められるもの。
勝頼自身にその意思がなくても、後世の連中がいくらでも仕立て上げてくれる。
681 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/21 03:04
>676
遊女なんて若い女しか務まらないしな。
遊女の平均は20歳と聞くし、第一寺の過去帳に元遊女なんて記してないだろうし。
過去帳から見る死亡平均年齢が若いのは当たり前の話だよな。
なんというか歴史捏造の好例だと思うわ、遊女の平均寿命が20歳説ってのは。
諏訪御料人を信玄が一番愛してたって説どっかでみたけど
身勝手だよなやっぱり
684 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/21 12:55
>>682 誰が身勝手なんだ?
外に愛人囲って、本妻よりも寵愛する金持ち親父なんていくらでもいるが?
お蝶婦人
まあ、本妻さんの「枯れ井戸」にお付き合いでタネを注いで浪費するより、若い愛人に
タネを注ぎ込んだ方が効率的ではあるなw
WRS
688 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/21 17:44
若い愛人集めすぎて下半身がパンクしてる天下人は非効率的だなw
>>684 他にやってる香具師がいるからいいってものでも
実質略奪婚だったわけだし
690 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/21 18:08
別に珍しいことじゃないと思うが?
691 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/21 18:17
685 名前:松茸狩り ◆KKRb1u3.mA 投稿日:2004/01/21(水) 12:59
お蝶婦人
テニスですか?既婚ですか?
693 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/22 03:31
里見義弘も想像を逞しくすれば略奪婚かもな
>>693 あれは古い映画だがダスティン・ホフマンの『卒業』を思い出させる
戦国の究極の略奪婚といえば伊達晴宗と久保姫だろうな
その後の効率よいクローン生産ぶりと華々しいお家騒動も加わり、ワイドショー並に面白いw
695 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/22 13:03
思慕の念を思慕で終わらせなかった義弘は偉い!
696 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/22 16:12
尼僧さんを還俗させて妻にするなんて・・・けっこう良いかもw
697 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/22 16:59
氏康は絶対青岳尼に惚れてたねw
698 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/22 21:43
「内助の功」ってどんなヤツですっけ?
699 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/22 22:11
内蔵助のなまえが功だったんだよ。いさお。
>>698
嫁さんが、旦那さんを影で支えて助ける事じゃなかった?
701 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/22 22:41
>>700 そんな検索したらわかる事をいちいちここで聞いたりはしないでしょ。
702 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/22 23:50
>>700 最近じゃ働くカミさんを支える専業主夫もそう言われてないか?
703 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/23 01:11
保(略
704 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/23 01:28
>>696 家光の側室・於万の方は尼僧だったのを無理やり還俗させられてたな。
しかも公卿の血が徳川家に入らないように妊娠を禁じられてたとか。
705 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/23 17:48
706 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/23 21:43
>>705 通説では味見前に帰したことになっていますよ。
708 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/24 03:40
秀次なんて母と娘(ry
709 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/24 14:08
710 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/24 14:18
秀次に連坐して斬られたのは30数名の妻妾のほか、4男1女の子供・・・
その後の豊臣家の衰退〜滅亡の有様を見ていると、返す返すも愚かなことをした
ものだと思うね。
結局、生き残ったのは2人の女児だけだし。
711 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/24 14:40
スカートめくりしたい
秀次の連座刑は口封じくさいけどね。
713 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/24 17:36
>>712 秀次は現職関白だから、彼を罷免するに足る「正当な」理由が必要だったんでしょ。
そのうえで情報操作をして現在ある秀次像を作り上げてしまった、と。
714 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/24 17:46
これこの通りの乱心者ゆえに泣く泣く成敗した って筋書きを書いたんだろうね。
巻き添えにされる者は堪らないですねぇ
715 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/24 18:00
>>714 泣く泣く・・・と言いながら実はニンマリだったんじゃない?
716 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/24 18:08
>>715 何事にも対外的なポーズは必要ですよw
何しろ我子(本当の子か、わかんないけど)の将来がかかっていますから。
717 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/24 18:30
一番ニンマリしたのは淀殿じゃない?いろんな意味でw
718 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/24 18:32
ガラシャはポルトガルですか?
719 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/24 18:33
日本人です
720 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/24 18:37
ポルトガル語ですか?
721 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/24 18:38
きっと大野もニンマリ
723 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/24 18:59
ラテン語
724 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/24 19:04
石田も思い込みニンマリ
725 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/24 19:48
726 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/24 19:54
>>725 賢い女性だったからね北政所は、だから徳川寄りだったとか…w
727 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/24 19:57
家康と情を通じていたとする説もあるね・・・
つまりは男と女の関係だったと・・・(((((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
728 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/24 20:01
>>727 その説は、ちょっと怖い・・・(((((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
729 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/24 20:14
安土桃山版フルムーン・・・萎え萎えだなw
730 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/24 20:31
晩年の家康は若い娘がお好みだったわけですからw
731 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/24 21:34
若い娘というよりロリータw
732 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 00:05
>>717 まあ、いろんな香具師がニンマリしたはずだけど、特に家康あたりはマジでニンマリした
んじゃないの?
あの一件で、豊臣政権に対して世論の不信感が高まり、さらに政権を担う貴重な一族が
この世から消えてなくなったわけで。
733 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 00:30
一番得をした人物ですね。
734 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 00:46
秀吉が没した後、北政所が家康と××な関係に陥っていたら・・・それはそれで
安土桃山時代の一大スキャンダルであるわけだが・・・
でも、その方がドラマチックでいいかもなw
735 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 00:48
>>734 ドラマチックではあるけれども、、、絵にはなりません年齢の2人ですなw
736 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 00:52
家康が関ヶ原の後と大阪の陣の前に淀殿を側室にしようとした話あったよね。
表向きには人質にという話だったけど。そっちの方がまだ信憑性あるかな。
737 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 00:55
>>736 なっていれば大名家として存続できたのにねえ
秀吉の血が入っていない豊臣家だったかもしんないけどw
738 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 00:56
739 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 00:58
>>736 大河『徳川家康』で夏目雅子が演じた淀殿なら・・・絶対にそうするけどね
740 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 01:00
741 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 01:01
>>738 『秀吉』の場合なら西村雅彦&沢口靖子、『利家とまつ』の場合なら高嶋兄と酒井法子
になるので若干想像しやすい?かもね
742 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 01:08
743 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 01:09
744 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 01:16
淀殿の生年って1569(?)年でしょ。
とすると、1614年の時点で46歳だから、まあ、鶴松、秀頼に続く第3子は・・・無理ぽ
745 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 01:23
頑張れば高齢出産も・・・流石に、この時代じゃあ無理か。
746 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 01:25
まあ、愛があれば(ry
747 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 01:26
愛はないだろ。権力欲だけでがんばれ。
748 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 01:27
>>746 ないない、そんな物(愛)w
欲と打算のみだってこの組み合わせじゃw
大坂方が家康を腹上(ry
750 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 01:29
秀忠がいるので大阪方の野望は(ry
751 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 01:35
>>744 関ヶ原の直後なら34歳だから間に合う。
752 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 01:37
親父は姉君と、倅は妹君と、これに秀頼&千姫を加えたら・・・もう鬼畜って感じの
天下騒乱w
753 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 01:39
754 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 01:42
石田が早くに氏んじゃえば?
755 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 01:45
これで家康が北政所&淀殿をW食いしてたら・・・(((((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
756 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 01:47
>>755 やめてー幾らなんでも家康が詩んじゃうよw
757 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 07:49
758 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 12:41
>>756 家康は70過ぎても現役ばりばりだったのだろうか。
55歳年下の側室お六とはできたんだろうか。できたとしたらまだオッケー。
759 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 14:25
>>758 趣味は薬の調合だったからドーピングの可能性があったりしてw
760 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 17:53
>>758 「女はアンカ代わり」が持論だったからね、権現様は
761 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 17:58
762 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 18:25
夏はちょっとキツいかな・・・汗だくになっちゃうし
やば!縁側で日向ぼっこしながらお夏を膝に乗せてる家康を想像しちった!w
764 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 19:53
>>763 膝枕ならありそうだけどね・・・で、何でお夏?
夏と縁側で・・・座位か???
766 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 19:56
>>765 お爺ちゃんが猫抱っこの光景だったんだけど。
お夏は何となく
767 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 19:59
>>766 何となく膝の上に乗せないでーーーーーっ!!!
768 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 20:04
>>768 自分が70歳近くなった時のことを想像すると……
13歳の少女(お六を想定)を膝の上に乗せてハアハアしてたら……まぁ、犯罪だわなw
>>769 |__
|@=ノ
|∀・) イエヤス・・タイーホスルナラ イマノウチ
|⊂
|
♪___
♪ ヽ=@=ノ¶ タイーホ
ヽ( ・∀・)ノ タイーホ
( へ) イエヤス タイーホ
く タイーホ
♪ ___
♪ヽ=@=ノ ¶ タイーホ イッテヨシ
ヽ(・∀・ )ノ タイーホ
(へ ) ロリコン オオゴショ モウ
> ダメポ
771 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 20:27
772 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 20:38
>>770 もっと凶悪犯知ってますよ。姫スレにいますからタイーホして下さいw
773 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 22:03
>>772 何か巧みに姫スレに誘導してるような・・・
まあ、おそらく秀○じゃないの?
774 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 22:05
70近いおじいちゃんに膝に乗せられハアハアされて、お六はうれしかったのか?
775 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 22:09
>>774 もし大御所様の子を宿したら、それこそ左団扇の生活が待ってるからね。
しかも男子だったら尚更でしょ。
確か『マルサの女2』では、カリスマ宗教家(三国連太郎)が女子高生(洞口依子)
の処女を奪い、そのうえ一発で孕ませちゃう場面があったけど、イメージするところ
あんな感じなんだろな・・・
777 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 22:15
>>775 そこら辺どれくらい理解してたんだろうか…
なんて言ったって13歳…
まぁこんなの権力で誤魔化せちゃうんだろうけど
778 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 22:25
文献に残っていなくても
鷹狩の際によった農家の娘を…なんていうのがあってもおかしくない…
お六は元々、お勝の部屋子だからね。
そのあたりの予備知識や事前学習はバッチリでしょう。
780 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 22:28
やや年齢のいった側室が、自分の代わりに侍女の中から器量の良い女性を
見繕い、夜伽をさせるのはよくある話だったみたいだね
781 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 22:30
>>778 確か民放の『徳川家康』(松方弘樹主演)でそんなシーンがあったな
農家の娘(かたせ梨乃)を見初めてそのまま城に連れて来ちゃったという話だったと思う
782 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 23:43
つーか当時の13歳で妊娠するのか?
784 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 23:50
イヤーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん!!!
利家もタイ━━━━||Φ|(|゚|∀|゚|)|Φ||━━━━ホ!!!!
786 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/25 23:54
>>782 徳川家康の生母の於大の方は14歳で家康を生んでるぞ。
当時の13歳で妊娠してもおかしくはないだろう。
787 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/26 00:14
ということはお六にも十分可能性があったということだな?
788 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/26 00:18
於六は家康が死んだときにまだ20歳くらいでしょ?
789 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/26 01:50
お六の方と言うと・・・『葵 徳川三代』では菊池麻衣子、『武蔵』では須藤温子だったな。
『武蔵』の方は、確か蟄居中だった柳生宗矩を見るに見かねて、妻・りんがお六の方に
再出仕を願い出る場面があった。
けっこうハアハア・・・だったけどね。
790 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/26 01:59
家康没後には他の側室同様、髪をおろして養儼院と号して仏門に入った・・・かに思えたが、
そこはまだ二十歳そこそこの娘。
どうやら髪を伸ばし、その容色を誇りまくっていたらしい。
後に秀忠の斡旋で還俗し、喜連川義親(頼氏?)の後室に入ったという説があるが、真相は
定かではない。
また日光参詣の折に、割れた香炉が当たって死亡したという説もあるが、こちらも定かでは
ないらしい。ただ、若くして急死したというのは事実。
791 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/26 14:37
和久井映見の「りん」も良かったなぁ・・・
というより、俺の興味は中井の宗矩と高島弟の兵庫助に絞られてたんだが・・・
792 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/26 16:31
少なくとも朱実はど〜でも良かったなw
あの顔と声では一生決まったタイプの女役しか演じられんだろうな
794 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/26 16:50
お通&朱実よりもりんの方が数倍良い
>また日光参詣の折に、割れた香炉が当たって死亡したという説もあるが
権現様の怒りに触れて、って奴だよね
796 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/26 19:05
>>790 若くして亡くなったのは爺に全部吸い取られちゃったからかな。
797 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/26 19:15
権力者の側室になるのも考え物だね。
798 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/27 01:26
>>797 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・喜び組
799 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/27 02:28
>>797 しかし、下級支族の娘にしてみれば一攫千金のチャンスだからね
800 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/27 02:46
>>795 彼女の菩提を弔ったのは英勝院。
つくづく面倒見のいい姉御だったんだね。
801 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/27 08:59
戦国時代の女性を語るって言ったら「屁おい比丘尼」だべ。ぷっぷくぷぅ〜(臭)
比丘尼 びくに
[1]女性の僧侶
[2]鎌倉・室町時代、尼の姿をして諸国を遊行した半僧半俗の女性(しだいに芸人化した)
[3]江戸時代に尼の姿で売色した下級の私娼
803 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/27 15:28
>>802 ひきゅう、と読めるところがやらしいね。
少々荒れ気味ですが、河野氏関連を調べていて見つけた女性。
年姫。
河野家臣河上但馬守安勝の娘。
敵対する大西元武の策謀により父は暗殺され、仏殿城は落城。
味方の兵士は皆討死し、四方を敵に囲まれた年姫は落ち延びる所も無く、意を決して櫓より海中へと身を投じた。
このとき年姫は16、7歳と伝わる。家臣たちに慕われた女性とゆう。
「姫が嶽 海に身投ぐるいや果ての うまして入りぬ 大名の娘は」
昭和6年、同地を訪れた女歌人は年姫を忍んで一首詠じた。
歌人の名は与謝野晶子。
805 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/28 18:11
>>800 英勝院は太田康資の娘とも養女とも言うけどどっちなんだ?
806 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/28 18:20
807 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/28 18:24
808 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/28 18:30
既出のソース本だとお勝は天正6年(1578年)に太田康資の娘として産まれたとあるんだけど・・・
わかんないや・・・
809 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/29 00:06
810 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/30 20:20
>>809 それが事実なら太田道灌の嫡流の子孫ということになるわけね
811 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/30 21:08
ガラシャだな。日本人だが変な名前
813 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/30 21:43
812 名前:無名武将@お腹せっぷく :04/01/30 21:09
>>811 馬鹿?
単なる釣りと思われます・・・
815 :
無名武将@お腹せっぷく:04/01/31 22:01
>>810 実父を江戸某とする説もあるらしいけどね。
816 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/02 00:38
お梶やお万もいいけど、家康の側室の中では阿茶局の存在がある意味図抜けてないか?
817 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/03 10:54
>>816 家康の没後、出家を認められなかったのは阿茶局だけだしね
818 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/03 14:18
>>783 前田まつは11歳で妊娠だよ。
12歳で長女を産んでるから
利家は信長と衆道の関係を結び11歳の少女を孕ませたわけか。
現代だったらエロマンガの主役をはれるな。
820 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/03 16:38
思えばいい時代だったんだね……
823 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/03 19:34
824 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/04 18:21
>>816 その阿茶局だけど、小牧・長久手合戦の折りには家康の本陣に詰めていたらしいね。
その時に阿茶局は懐妊していたが、過酷な戦陣暮しで流産してしまったそうだよ。
まつは結婚した翌年に出産してます。
結婚したのは11歳か12歳の時です。
数え年でマイナス1、2歳現在で言うところの10、11歳くらい
よく生理がきてたものだ。
826 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/04 22:54
妊娠中の女性を戦陣に連れていくとは・・・
827 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/05 04:43
多羅尾光俊の孫娘・漸(やや)は、13歳の時から家康に仕えた女性。
光俊は家康の伊賀越えを助け、病床にありながら一族を指揮して警護にあたらせ
た人物だが、豊臣秀次に仕えていたために居城小川城と所領を没収されてしまう。
後に家康は光俊の二男・光太(みつもと)を召し出すことになるが、光太の娘・漸が
家康に仕えたのはそれよりも早く、おそらく伊賀越えの直後と思われる。
家康は後に伊賀、甲賀から多くの人材を召し抱えたが、漸は江戸にあって甲賀出
身の優秀な人材を次々と家康の許に送り込んでいたという。
漸が46歳のときに家康が死去、それを機に暇をもらって甲賀に戻り、天寿を全うし
たという。
828 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/05 18:41
>>827 >優秀な人材を次々と家康の許に送り込んでいたという。
まるで甲賀の利益代表のような女性だね。
家康の死と共に暇を貰うとは、なにかあったのかな?
829 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/08 23:56
>>828 まあ、46歳という年齢的なこともあるんじゃない?
830 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/09 01:43
>>825 夜な夜な信長に抱かれて、家に帰れば11〜12歳のまつと……凄いねw
831 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/10 20:57
>>829 そういえばそうだったね。
人生僅か50年・・・江戸時代になると人生60年
確かに引退時ですね。
832 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/10 22:33
信玄の長女で北条氏政の室の黄梅院も11歳で妊娠12歳で出産してるよ。
私も11〜12歳で産めるのかなぁ?
834 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 01:10
835 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 01:25
>>835 現代は愛があっても駄目だよ。
そもそも戦国時代は政略結婚で愛があったのかな?
837 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 14:02
>>836 結婚してしまえばそれなりに情がわく。それも愛。
838 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 16:22
839 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 20:22
レス数が839か・・・
次スレどうする?姫武将スレに吸収合併させるの?
840 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 20:32
>>839 結構ネタ被っていること多いからな、しかも最近はネタも枯渇気味だし。
しばらく居候して後で分かれてもいいんじゃないか?
841 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 20:32
真面目に語るスレとハアハア目的のスレは分けた方がいいと思う
>>840 向こうもネタ切れっぽいしな・・・こっちはこっちで「2」を立てても良いかも
>>840 ネタが被ってるというより住人が被ってるw
844 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 20:41
>>841-842 次スレでハァハァ抜けばいいんじゃないか?
戦国女性スレが合流するなら姫武将限定ではなくなるわけだし。
もしくは姫武将スレの合流を念頭にした次スレ立てとけば?
>>844 >1 名前:無名武将@お腹せっぷく 03/06/24 00:17
>戦国時代、男の活躍もさりながら女性も色々なところで活躍しました。
>戦場しかり、外交しかり、内政しかり、宗教しかり。
>
>享徳の乱・応仁の乱〜大坂の陣まででお願いします。
元来がこういうスレだからね。
姫ネタでハアハアするだけのあちらさんとは一線を画しておいた方がいいかも知れん。
846 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/11 20:53
>>845 所詮は相容れない道だったのかw
真面目スレと姫ネタスレの二系統ってことでおk?
姫スレは甲斐姫スレと鶴姫スレという当初対立関係にあった
スレが和合したものなんだけどね
>>847 そうだったのか……ネタスレだとばっかり思っていた。
849 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/12 02:50
>>848 ネタスレじゃないとは言い切れんだろうけどね
850 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/12 03:33
851 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/13 02:50
>>832 黄梅院は離縁後、ほどなく病没してるよね
漏れの場合、無惨な運命をたどった女性に興味があるんだが
当然無惨な死に方スレも好きでつ
854 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/13 17:46
855 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/13 19:46
856 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/13 22:54
>>852 では、相乗りして・・・
豊臣秀次の寵を受け、三条河原で斬られた女性たちの多くは(有名な女性を除いては)
家譜などに記録されていない場合が多い。
やはり秀次が謀叛人として処断されたことで、系譜類に記載しないようにしていたのか
も知れない。
『絵本太閤記』には
「三十余人の女たち、皆最後をいそがれけるこそ痛わしけれ・・・」
「御首をふつふつと打落し、大なる穴を掘りて其穴へ手足を取って投入々々したる有様
は、阿防羅刹・・・」
とある。
つまり秀次の妻妾、子女は辞世の句などもそこそこに「屠殺」され、穴に放り込まれたと
いうことか。しかも、謀叛人の関係者ということで、多くは身内からも家譜から除かれなけ
ればならなかったと。
天下人とはいえ、まさに鬼畜の所業としか言いようがない・・・
857 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/14 07:43
駒姫の処刑などは本当に酷いね。
実父の最上義光のみならず、同情した徳川家康なども助命嘆願し、翻意を
促したようだけど、老境に入って極端に視野が狭量になっていた秀吉には
通じることなく、秀頼可愛さのあまり強引に押し切ってしまった。
駒姫は御家の安泰と繁栄を願いながら、従容として死地に赴いたというね。
この事件の後、義光は知行を加増されてはいるけど、関ヶ原の役では東軍
に与したわけで、秀次事件の怨念の根深さを物語っている。
秀吉は死の直前に「秀頼を頼む」と小便を垂れ流しながら泣きっ面をかいた
が、政権は家康によって奪われ、秀頼は大坂城で自害した。
「因果は巡る」とはまさにこのことだろうな。
ちなみに義光は駒姫の菩提を弔うために山形に専称寺を建立している。
859 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 01:04
>>857 「おまえも我が子が可愛いか!」と言ってやりたいね
千姫の「淫蕩を好む」とやらいう伝説はどこまで信用できるんだろう。
861 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 02:23
862 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 03:21
>>860 深窓の姫君に対する世間の好奇心が生み出したものでしょうね
863 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 21:45
>>860 既出かもしれないけど・・・千姫が住んでいたのは吉田御殿ではなく竹橋御殿。
吉田御殿伝説は東海道五十三次の宿場町の吉田(現在の愛知県豊橋)のことで
当時は遊女屋が多く「吉田通れば二階から招く」との吉田宿の宿場女郎を謡った
俗謡があったそうで、この俗謡と二度の不幸な結婚をしたのち、千姫が長く後家を
通したこととが意図的に混同されて吉田御殿伝説が生まれたらしいよ。
実際の千姫は弟の家光が用意した竹橋御殿に住み、出家して天樹院と称していたそうです。
ただ、大奥にも隠然たる影響力を持っていたそうだから、妬みは庶民に限らず持たれていたかも・・・
864 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 21:47
865 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 21:54
>>864 まして大奥に影響力を持っていたとなると
陰惨な女達の嫉妬から、あらぬ噂を立てられて・・・ひぃ〜〜 (((゜Д゜)))ガクガクブルブル
なにげに良スレじゃないかw
868 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 22:02
宗教系かぁ……千姫の延長で天秀尼(東慶寺住持)あたりにも触れてみるか
869 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 22:13
>>868 千姫の義理の娘ね。
東慶寺は天秀尼以前にも「縁切り寺」として有名だったそうだけど寛永年間に天秀尼が住持になったおりに正式に幕府から「縁切り寺」
としての認可が下りているそうです。
あと余談だけど、女性の為の「縁切り寺」って天秀尼の東慶寺と確か群馬県にある寺が有名だそうですよ。
ネットだったか、本だったか忘れちゃったけど・・・
豊臣家の忘れ形見・・・37歳と短い生涯だけど、加藤家改易なんかにも
絡んでくるんだよね、彼女は。
天樹院との関係が彼女を一時、政治の表舞台に登場させたんだろうけど。
改行し忘れちった・・・鬱
872 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 22:23
東慶寺は名門の女性が住職を務めてるよね
873 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 22:24
>群馬県にある寺
徳川郷の満徳寺ですね。有名って言うか縁切り寺はこの二つに限られていたらしいです。
開祖は新田義季で、将軍家のご先祖様の立てたお寺として徳川家の位牌があったそうです。
でも女性に関連する話は聞いたこと無い。。。
>>873 そうだったの?
漏れの勘違いだったかなあ・・・ごめんね。
>>866 こらこら、騙るんじゃない。
でも、ネタ出してくれると嬉しいなあ。
876 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 22:50
>>870 >加藤家改易なんかにも絡んでくるんだよね、彼女は。
どんな話か聞きたいな
878 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 23:01
東慶寺は足利家の女性が数多く住職になってるよね。
明治期に入るまで尼寺として続いたけど、今では住職は男性。
開山は覚山尼(北条時宗の未亡人)なんだってね。
879 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 23:16
>>873 千姫が本多家に再嫁するにあたって豊臣家と縁切りをしたのが
世良田の満徳寺だね。
880 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 23:54
>>877 寛永10年(1639年)に会津若松藩・加藤家(40万石)の家老・堀主水が主君の
加藤明成と対立し、一族郎党300余名を連れて出奔。
主水は大坂の陣での軍功から先代の嘉明から金の采配を与えられ、明成の後
見を託された人物であったが、同僚の讒言のためか、あるいは明成が軍功を誇
る主水に反発し、金の采配を取り上げたためか、いずれにせよ主従が対立した
末の出奔だったらしい。
出奔した主水はしばらく鎌倉に潜伏していたが、明成の主水探索の執念は凄ま
じく、身の危険を覚えた主水は妻子を東慶寺に保護してもらい、自らは大目付・
井上筑後守に明成を批判した七ヶ条の訴状を提出して高野山に逃れた。
主水捕縛に執念を燃やす明成だが、高野山は治外法権であり、容易に手が出
せない。そこで幕府に「会津若松40万石を返上しても良いから、主水の身柄を
引き渡してほしい」と願い出ることになる。
(後半に続く)
(
>>880の続き)
明成は戦国の剛毅な気風を持った人物であり、自身に逆らった主水の首を取れ
るなら40万石を引き換えにしても構わない、と思ったのだろうか。
ここで天秀尼の登場となる。
明成は妻子が匿われている東慶寺の天秀尼の許に使者を送り、妻子の引渡し
を求め、これを連行しようとする。だが、天秀尼は加藤家の要求を撥ね付け、最
後の最後まで主水の妻子を守り通している。
一方、明成の願い出に対して、幕府は「ならば“望み通りに”主水の身柄を引き
渡そう」とこの願い出を受け、主水を明成に引き渡した。
当然、明成は主水を成敗したが、幕府は“望み通り”に明成から会津若松40万
石を収公のうえ、嫡子・明友に石見安濃郡1万石を与えるのみとした。
882 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/16 01:46
加藤明成、堀主水……かつての豊臣恩顧大名とその家臣でありながら、
豊臣家から離反し、大坂の陣で戦功を挙げた者たちだよね。
豊臣家の忘れ形見である天秀尼は、どのような感慨を胸に秘めてこの
騒動を見つめていたんだろうか……
>>879 それでも縁が切れなかったばかりに・・・
>>881-882 加藤は加藤でも、元伊予の殿様の方の加藤家か。
通りで知らなかったよ。ありがd。
885 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/16 18:47
千姫もとい徳川将軍家のバックがあるというのが度胸の背景にあるかも
最もそういう強力なバックがなければ駆け込み寺の住職なんて危険でやってられないと思われ
887 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/17 16:13
覚悟のほどを示したら、好都合とばかりに除封された明成・・・
こんな殿様は嫌だ!の典型だね。
888 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/17 18:25
889 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/17 18:31
>>888 明成の不用意な発言がそもそもの原因じゃないの?
趣味が「大名家お取り潰し」の徳川幕府に「会津若松40万石を返上しても良いから、
主水の身柄を 引き渡してほしい」なんて言ったら、幕府は「はいはい、仰せのままに」
と言うに決まってるし・・・
40分の1に減封されたんじゃ、家臣の大量リストラもやらなきゃいけないし、路頭に
迷った家臣も大変だよな
890 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/17 18:39
>>889 絶頂期の幕府初期ともなれば、ただでさえ「将軍家の鉢植え」の植え替えは自由自在だったすね…
そんな時にその発言、幕閣は大喜びだったに違いない。
明成としては武士の意地を見せ幕府の寛大な処置を期待していたのかもしれないけど…甘かったすね。
892 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/17 19:40
それを言い出したら、最上家なんて5000石の旗本だからね
893 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/17 22:08
福島・・・
894 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 03:38
895 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 08:27
あげ
>>887-893 やっぱりこう見てくると島津は最強だな
最も見た目の石高は増減0でも実際の石高が全く伴ってなかったようだがw
897 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 09:29
わーいつれたつれた!
、、、じゃなくて、
「最も見た目の石高は増減0でも 実際の石高が 全 く 伴 っ て な か っ た ようだがw」
って追記されてるじゃん。
本題の「戦国の女性」の話題に戻りましょうか。。。
女絡みの大名改易というとやはり淀殿か?
65万石⇒⇒⇒0石
だものな
ついでに900げっと!
改易と言うより、もっとすさまじいような・・・
ところで『葵徳川三代』で書かれたように「淀殿爆死」というのは
学会でもファイナルアンサーなのですか?
902 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 17:20
>>901 燃えるよりは砕け散った方が劇的だしね、演出的に
905 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 18:36
>>904 冬姫みたいに一泡吹かせた姫もいることにはいるよ。
906 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 18:38
>>905 そのためか蒲生家は減封の憂き目に遭ってるよね
・・・冬姫の出家が直接原因ではないという説もあるけど。
907 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 18:49
>>906 冬姫が原因と考えれば会津95万石→宇都宮18万石は意地を通した為の手痛い厳封かな?
一応公式には秀行が家老の蒲生郷安と対立、秀吉が家中不和に介入、断行したことにはなってるね。
908 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 18:50
>>907 介入する理由を見つけて「それ!やっちゃえ!」というのは
よくある話だよね。
909 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 18:55
>>908 姫・女性絡みは、すぐにはパッと例が思い浮かばないけど
安定期に入った政権(豊臣・徳川等)では確かによく聞く話だよね。
910 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 23:31
徳川家光の正室となった鷹司信房の女・孝子も悲惨だよね。
家光の性癖が性癖だけに、おそらく生涯に一度も「交わり」がなかったのでは?
という説もあるくらいで・・・
>>907 秀吉にとって会津は徳川を背後から牽制する要所だったわけで、
氏郷亡き後の蒲生家では力不足だと思ったんじゃないかい。
で、口実見つけて転封、上杉家に交代と。
孝子さんは中の丸で殆ど一人で過ごしてたらしく、寂しそうだったよね。
家光関係の本には「冷たく気位が高い」と書かれてある事が多いけど、
一概にそうとは言えないと思う。家光の趣向の問題も大きいのに。
家光の女性開眼(笑)は千代姫(尾張・徳川 光友正室)を産んだお振と言われ、
それ以降はバンバン子供生まれてるけど。
913 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/19 06:25
>>911 関ヶ原ではその牽制役が敵前Uターン(何か日本海海戦みたいだな)を食らうんだけどね。
>>912 徳川の歴史観で言えば、家光を立てなければならないから、御台所・孝子がどうしても悪
役になっちゃうんだろうけど、実際には家光が孝子を顧みなかったんじゃないかな?
女性開眼といっても千代姫誕生から家綱誕生まではけっこうインターバルがあるよね。
お振の方ともその後は没交渉だったらしいし。
むしろ真の意味での女性開眼は、お万の方なんだろうね。
お万の方は、参議・六条有純の娘で、伊勢山田・慶光院の住持(尼僧)だったが、江戸城
に出向いたところを家光に見初められ、そのまま還俗のうえ側室にさせられた女性。
彼女は公卿の娘ということで懐妊を禁じられたため、それを憐れんだ家光からより一層の
寵愛を受けたという。
914 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/19 14:54
女性開眼させてくれた相手が懐妊を禁じられる……これは悲劇だよね
915 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/19 23:04
本願寺の教如に嫁した朝倉義景の女ってどうなったんだろ?
確か滅亡寸前に輿入れしたと思うんだが・・・
昔は、レイプとか合法だったのかい?
戦争に勝った物は、負けた物の物を奪うのは当然だったのかな?
負けた側の姫は・・・兵士達にチンポを入れられて
飽きたら殺される・・
そんな時代だったのかな(´・ω・`)ションボリック
↑
なんちゅー事を…
>>915 えっと、離縁させられているようです。
朝倉の前スレでその話題が出ていたような。
あったね
919 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/21 07:56
>>917-918 実家が滅亡したり衰退すると、妻の本来持つべき権限が大きく損なわれた時代だからね
確かに本願寺としては・・・無理もない決断なのかな
920 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/21 08:25
離縁後はどうなったんだろ?
921 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/21 23:27
>>913 男色将軍・綱吉の正室も鷹司家の出身だよな
922 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/22 00:44
>>921 夫が男色にのめり込んでる場合の正室の心情ってのはどんなモンなんだろね
923 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/23 02:25
確か浅野内匠頭もそんな感じだったらしいけどな。
『元禄繚乱』で宮沢りえ扮する「あぐり」が想像妊娠する場面なんか
笑えなかったもの・・・
924 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/24 10:21
自分の○○○より、小姓クンの××の方が良いなんてかなり屈辱的じゃないの?
925 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/24 13:07
926 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/24 13:53
義景の娘の1人が謙信の養女として山浦(村上)国清に嫁しているよね。
彼女は国清の子・幸清(景国)を産んでいるが、幸清の生年が1591年とされて
いるので・・・彼女が前教如室ということはないよね?
村上家は国清の死後、養子の高国が陣代となるが、上杉家が会津転封となる
と幸清は6500石を領し、関ヶ原の役で上杉家が30万石に減封されると上杉
家を離れている。
結果的に村上氏が再興されることはなく、旧臣たちが子孫を養ったとか、系図
を売るなどして糊口をしのいだという話もある。
能登畠山も本願寺を後ろ盾にしようとしてたっけ
929 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/25 01:56
930 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/25 09:32
義景には3人の女子がいるよね。
正室・細川氏(細川晴元女)との間に1女、側室・小宰相の局(鞍谷嗣知女)
との間に2女。
しかし、小宰相の局との間の1女は早世しているので、実質2人に絞られる
ことになるわけだが・・・
931 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/25 09:54
本願寺教如と義景女(母は小宰相局)との婚約成立が元亀2年(1571年)のこと。
ちなみに越中の勝興寺(浄土真宗本願寺派)第10世・佐廉の室が義景女なんだよね。
佐廉は天正13年(1585年)、秀吉の越中進出の際に下間頼廉から還住するよう促され
ている。佐廉はその前後を活躍期としていたのだろうから、年齢的に見て教如とほぼ同
世代の人物と思われる。
とすると義景女は教如と離縁後、佐廉に再嫁したのか?
933 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/26 17:02
935 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/26 18:24
936 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/27 04:58
>>935 姫スレもそうだが、要所要所でマイナスな絡み方してくるね、クソ猿。
937 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/27 09:56
>>936 そして猿が絡むと不幸になると言うジンクスも・・・
秀吉をバカにするな!
. r - 、 ♪
((・エ・) 〜´
>>935-937 酷い話があったものだよね……
. ( )
U~U
940 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/28 05:58
もういいよ・・・秀吉は・・・
何だかネタ切れぽいけど940超えたし、そろそろ次スレのテンプレ案を作り始める?
942 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/28 19:20
943 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/29 13:41
南殿(石松丸生母)と京極竜子は姉妹だったという説があるね
944 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/29 18:44
945 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/01 08:05
>>944 長浜の日蓮宗・妙法寺の寺伝『長尾山妙法寺縁起』によると、秀吉の一児が夭逝した
ので、妙法寺の住持に頼んでこれを弔った、とある。
廟所もあって、そこには「本光院朝覚居士」とあった。
寺伝によるとその生母については「南殿」という名では残っておらず、「京極氏の息女」
とだけ記されているという。当時は寺の過去帳には女性の名を載せないという習わしが
あったのでそういうことになったのだろう。
(続き)
姉川の合戦後、秀吉は横山城番を命ぜられた。
横山城はかつて京極氏の支配下にあった支城だったが、浅井氏によって奪われてい
たもので、ここを付け城として秀吉は浅井氏の小谷城を監視していた。
この頃になると秀吉も織田の武将としての地位も高まりつつあり、降伏した武将や土
豪たちが一族の女性を差し出すようなことがあったので、妙法寺の寺伝にある「京極
氏の息女」もそのような女性の1人だったと想像できる。
(続き)
当時の京極氏は、江北6群を浅井亮政によって奪われており、当主の高吉は正室に
長政の姉?(叔母?)である京極マリアを押し付けられ、浅井氏から捨て扶持を貰っ
ているような有様だった。
高吉の子としては高次、高知、竜子の3人が記録上にあるのみだが、高吉の生年が
1508年、高次の生年が1563年であるから、高吉が56歳の時の子ということになる。
しかし、京極氏は近江きっての名族であり、マリア以前に複数の妻妾があってもおか
しくはなく、浅井氏との婚姻を結ばされた時点で過去の妻妾や子女の存在が抹消さ
れた可能性がある。
(続き)
京極氏にしてみれば、浅井氏との関係は屈辱に満ちたものであり、婚姻上の立場
はどうあれ、御家再興ということであれば浅井氏と敵対する織田氏の武威を頼る以
外に方法はなく、公には記録されていない?息女を秀吉に差し出し、機嫌を取った
可能性はある。
名門、名族好きの秀吉の立場としても、零落したとはいえ京極高吉の息女であれ
ば、それはそれで彼の虚栄心を満たすには十分である。
また、江北の人心が、歴史の浅い浅井氏より、佐々木源氏の名門・京極氏にある
ことを含めれば、秀吉にとっては十分に利用価値のある話だったことになる。
(続き)
また、竹生島宝厳寺に保存されている奉加帳には、1576年から1588までの間に
秀吉とその家族、家臣たちが金品を寄進したことが記されており、冒頭の1576年
には秀吉、御内方(=北政所)、大方殿(=大政所)、石松丸と記帳され、さらに
日を改めて南殿が奉加した旨が記帳されている。
だが、1577年以降に石松丸の名は記帳されていないので、おそらく1576年の記
帳の後に死んだということになる。
妙法寺の秀勝絵像が1576年の葬儀の時に描かれたとすると、石松丸が1571年
に誕生していたと仮定した場合、享年6歳ということになるので、絵像との辻褄も
合うことになる。
また、秀吉が横山城番になったのが1570年であるから、その際に京極氏息女が
側室になったとすると、京極氏息女と南殿はその存在自体が時期的にも状況的
にも一致してくる。
(続き)
南殿=京極氏の息女=京極高吉の娘=京極竜子の異母姉と繋ぎ、さらに信長
から養子にもらった於次丸にも秀勝を名乗らせている点を考え合わせると、秀吉
の南殿への思いもまた深いものがあったはずである。
その妹?である京極竜子への執着も、ただ彼女が美女だっただけではなく、市
姫への思いを茶々に向けたのと同様、南殿への思いを竜子に向けたと受け取る
ことができる。
ちなみにこれは作家の羽生道央氏ほかの提唱している説なのであしからず。
ところで次スレはどういたしますか?
とりあえず990くらいになったら立てません?
あまりフライングしても埋めるのに手間が掛かるので。
それまではテンプレ案を随時募集ということで。
954 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/01 13:38
>>912-913 家光と孝子の不仲については、孝子が於江与の猶子という資格で江戸に
下向したことにそもそもの原因があるんじゃないかな?
於江与は春日局と長年にわたって対立関係にあり、孝子との間にも同じ
ような対立が起こってもおかしくはない。
それでなくても公卿の血を徳川家に入れたくない春日局としては、家光と
孝子が名目上だけの夫婦関係であれば十分だと思っていたはずだし、ま
してや於江与の猶子であるとすれば、孝子を極力、家光に近づけたくなか
ったはず。
都合よく寛永3年に於江与が病没したので、秀忠の命令という形で孝子
を本丸から追放したと見るのが妥当なのかも知れない。
何やらAA荒らし横行中なので今ageると大変な悪寒…姫スレは被弾してます。sageときます。
>>951 まったく根拠のない想像にすぎないよそれ。
そもそも朝覚が秀吉の子であることも不明。
石松丸と朝覚が同一人であるかも不明。
朝覚の母親も京極氏女であるか不明。
南殿が秀吉の側室かどうか不明。
南殿と石松丸の関係も不明。
不明だらけで根拠がまったくない。
958 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/03 14:56
>>954 まあ、旦那があれだけ強烈な男色家だとね……
しかも、旦那と姑との関係を考えたら、不遇の夫婦生活になることは
最初から約束されていたようなものだし。
建礼門院さまは・・・
>>960 横レスだけど、根拠がまったくないのに「一説」と強弁されてもね。
962 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/04 17:12
>>961 妙法寺の寺伝と絵像は全く根拠にならないということね?
荒れは回避、マターリ汁
964 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/04 22:35
天下人の子にしては確証のない話しか残ってないよな・・・
普通、法要ぐらい営みそうなものだが・・・
石松丸の実在が確認されたとしても
「一応、秀吉も若い頃にはタネがあった」
ということが判明するに過ぎないような気がするw
六文銭の鎧なのに陣羽織は葵の紋が付いてるあたりが小松姫の
気質を端的に示していて良いね
確か紺野美沙子だったね、「真田太平記」の小松姫役は
『武田信玄』では三条夫人だったし、紺野美沙子って武田の女性がよく似合うw
>>969 小松姫、三条夫人と来たら、今度は武田見性院役でw
>>965 実在したとしても、父親が秀吉だとは限らない。
それでは高山右近の夫人高山ジェスタとかはどうかな?
とネタを振ってみる。
天秀尼関係のネタは姫スレに振ってみる。
>>973 出家した場合にはこちらでもいいんじゃない?w
975 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/10 00:47
976 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/10 00:49
殿様は自由にやりまくれる。いいな〜
>>976 でも、あまり子女を量産するのも問題でしょ。
足利家みたいに大多数が僧籍に入れられちゃうわけで・・・
978 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/10 15:28
>>977 寺の喝食になったりするんでしょ?
殿様の若君なのに、高僧さんと××しちゃうなんて・・・
東慶寺は関東公方の姫さまが多数放りこまれたし。
980 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/11 00:53
東慶寺といえば天秀尼
981 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/13 13:54
天秀尼といえば千姫
982 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/13 13:56
千姫といえば・・・淀殿?
淀殿といえば茶々