>>928 播磨に攻め込んだ晴久が出雲に帰られなくなり、播磨に永住したとの噂もあったらしい…
933 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/26 08:31
尼子幸盛
934 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/29 10:32
立原幸隆に萌
935 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/29 22:09
完全に滅亡したしね。
生き残ってればもう少し名声あっただろうに
尼子は生き残ってるよ
毛利にお情けで喰わしてもらってた
937 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/29 23:44
江戸時代になってから、尼子氏の養子に宍道氏が、、、(ニヤ
鹿之助は尼子氏一族なのでしょうか?
939 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/30 18:21
940 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/04 21:56
尼子衰退の主因について
●吉田郡山城の敗北
●新宮党の粛清
●本城常光の謀反
●晴久の突然死
が挙げられているが、本当は
●塩冶興久の謀反
こそが尼子家衰退の始まりではないか?
興久は出雲西部および石見東部の大半の国人衆を抱き込んで謀反に
及んでおり、経久はその謀反を鎮圧するのに2年あまりを要している。
当初、あまりに興久側の勢力が強大であり、興久の塩冶衆と経久の
富田衆のどちらが出雲国内の最終勝利者となるのか判然としなかった
とされる。
この骨肉の2年間、経久は、石見、備後、美作、安芸、備前
などの分国支配をなしえなかったのである。
これが結局、毛利、小早川、三村、浦上、後藤などの国人衆の
台頭を許すことになり、のちの尼子氏の屋台骨を揺るがすことに
つながっていく。
そして、当然の帰結として、興久の妻の実家である有力国人山内家
の離反を招き、山内家と婚姻関係にあった備後北部の国人たちをも
ことごとく尼子家から離反してしまう。
この巻き返しに晴久がどれだけ苦労したかは歴史書に詳しい。
ずっとのち、この備後北部の国人らの離反が、毛利攻略の際の晴久
を追い詰めていくことになる。
結局、興久の謀反は、老いた経久の貴重な時間を奪い去ったのみならず、
尼子家の体力を半減させ、ずっと将来においても尼子家のためにはならな
かった。
もし、興久の謀反がなければ毛利家は台頭しなかったであろうし、
国久も他家を相続して、尼子本家に粛清されることもなかったであろう。
…と私は思うのだが、賢兄のご批判を仰ぐ。
941 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/05 00:04
なるほど
つーか興久本人は謀反して1ヶ月程度で備後に逃げてたような
切腹したのは逃げてから2年後だが
まあ尼子衰退の大きな一因なのは確かだが
943 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/05 10:52
塩冶興久「尼子経久三男」
・享禄3年謀反(1530年)
・天文3年生害(1534年)
備後甲山城に逃げ出してから2年後に切腹ならば、ともかく出雲には2年ほどいた計算だが
は?興久の謀反は1532年だろ?
佐々木家系図よれば興久の謀反は享禄3年(1530年)
或は天文元年とも言われている(1532年)
天文元年説であれば翌年没落、天文3年切腹、と書かれている
どちらにしても謀反で尼子の家臣はようけ死んだろうから経久は痛かったろう
ともあれ、尼子衰退の原因は、経久の分国経営が放漫だったからでは?
経久を継いだ晴久が、経久の経営方針が間違っていたことに気づいた時点ではもう遅かった気がする
尼子氏の伯耆国支配に関する文献探してるんだけど良いのないでしょうか?
まとめた本はないと思うから、伯耆の各市町村誌を全部読めば少しは見えてくるんじゃないか。
>>946 因伯の戦国城郭(通史編)
定価2500円
昭和61年11月28日初版
著書 高橋正弘
印刷 総合印刷出版
鳥取市西町1丁目
これお勧め!
経久が伯耆山名氏を取り込んで伯耆に足がかりをつくる経緯や
大永の五月崩れが実は10年戦争だったなど興味深い内容。
経久が山名澄之を手玉にとるやり方が本当に悪辣だったと分かるし、
伯耆国人の去就もはっきり説明してある。
尼子はもちろん、山名、南條、山田、小鴨、日野、行松、草刈、
武田、杉原、毛利、吉川、吉岡などにも詳しい。
通俗や口碑を排斥して、第一次資料である感状、私信、充行状
などの書状を基本にして論じているので尼子マンセーって感じでは
ないけど、妙に説得力が感じられる本だよ。
(絶版か値上がりしたりして改訂版となっている恐れが高いが…)
>>948 持ってるよ
なんか足りないよ、無理して手に入れなくても、
天文13年〜20年過ぎの記述無さすぎ
解釈がかたよっテルと思う、中世山城好きの私にはバイブルの一冊では有るが
少なくとも、陰徳太平記を元に年表が書かれた時点で看板倒れかな
950 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/10 08:20
マジで陰徳太平記を元にしてるのか?毛利びいき?
951 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/10 10:33
次スレ準備せよ
980でいい。900は2ヶ月前だぜよ。
亀レスごめん
専用ブラウザ壊れて四苦八苦してた
>948 949
サンクス
とりあえず図書館にないか探してみます。
955 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/15 10:45
レス数が950を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
956 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/17 18:10
どういう基準でピックアップされたんだこの五人は・・・・
958 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/25 23:55
959 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/27 17:45
>>959よ、
このスレを消費するのに二年半使ってるんだがその2を立てたところで
新しい話題が出るとは思えないんだが・・・
□◆◆戦国大名 出雲尼子氏 其の弐◆◆□
よりも、名門シリーズみたいにシリーズ化していってはどうだろうか?
たとえば
□◆◆斜陽の戦国大名 豊前少弐氏を語ろう◆◆□
みたいな・・・
少弐は・・・ 語ってみたいが、語れる自信が無い・・・
では、「山陰の名族を語ろう」
1/6の純情な山名家
>960〜963
尼子スレは尼子スレであること自体に意義がある
マターリペースでもよいじゃないか。
つか、ぶっちゃけ、「山陰の名族」とか幅広げ過ぎると、ネタが迷走して即落ちの危険大。
名義上は尼子スレで、山名とか隣接大名もOKとか
966 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/01 00:08
このスレけっこう長生きしたな
さて、埋めるか。仕方ない。
次スレ反対派が現れたか。様子見。
毛利が立てたから評判が悪いぞ
既にあっちは過疎だな
雲州男児たるもの、過疎如きでは驚かぬ。
「因伯の戦国城郭(通史編)」 近所の図書館で、取り寄せて貰いました〜
まだパラパラとしか読んでいませんが、戦国の非情さが淡々と述べられていて素敵。
かなり期待できそうです。
948さん有り難うございました。
974 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/07 18:25
一般売りはしてないが20年ぐらいに発行された淀江町の歴史を書いた本には
わかりやすく伯耆の歴史が載ってます。
室町末期には既に、西伯耆(米子市尾高城)と東伯耆(東郷町羽衣石城)に分
裂している。但馬山名氏の存亡や赤松氏の但馬・因幡・美作・備前支配に加え
られた伯耆は東のこと。西の守護は、山名−(尼子)−毛利。
西伯耆の有力士豪は応仁の乱に参戦し帰ってこなかったので、尼子氏の西伯耆
侵略は容易なものだったのでしょう。
かつて大陸より西伯耆の地に定着した一族を大和朝廷が西の出雲へ追いやった。
その後、その場所へ上淀廃寺を建立。山名京極氏から守護を奪い取った尼子氏
は代々大山信仰が厚かったと言われている。尼子氏の目標は京都ではなく西伯耆。
山名鹿之助が毛利元春との対決にこだわったのは西伯耆の支配者が毛利だったから。
淀江町の歴史おもしろそうだね
976 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/09 08:35
>>974 ×毛利元春→○吉川元春
間違えた〜
元春は鹿之助を小高城に幽閉した時点でぶっ殺すつもりだったが、地元出身
の有力家臣に進言され、とりやめたみたいです。
播磨上月城攻略に際しては、小高城城主杉原盛重配下の佐田彦四郎を主長に
おく忍者20人の働きが大きかったという話しもあるそうです。杉原氏から
見たら、まさに復讐戦だったのでしょう。
「因伯の戦国城郭 通史編」個人でも一冊欲しいんだが、どうやったら手に入りますか?
神保町の古書店とかは無理?
東京まででないとダメ? orz
それはそうと、「因伯の戦国城郭」、晴久の死亡時期に永禄三年説採ってるのね。
ちょっと残念。