最近初めて覇王伝をやったら、尼子十勇士(の一部)を拝むことができて感動した
206 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/08 18:26:40
尼子ビールについて詳しい方教えてください。
207 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/08 20:43:54
島根の地ビール 平成十三年?位に潰れました 全国初の地ビール会社の破綻だったので全国紙のニュースになりました
208 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/09 08:17:37
子孫の方がやられてたのですか?
それとも名前だけ
名前だけ
最近 尼子氏関連でおもしろい論文無いの?
211 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/11 15:39:39
昔、尼子経久という名前の日本酒があったと思うのですが
合併後遊びに行ったとき、店では売ってませんでした。
どなたかご存知の方いらっしゃいません?
212 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/19 21:28:36
こんな名前で死にたくない
容赦無手介
草葉百足之介
阿波鳴戸介
井筒女之介
五月早苗介
破骨障子之介
尤道理之介
薮原茨之介
上田稲葉之介
早川柳之介
淵川鯰之介
因幡白兎之介
六方破之介
武功夜話より
阿比留盗之介
214 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/20 22:26:40
横道が戦死した戦いについて詳細を教えてくだされ
>>212 恐ろしいことに、これらが実在しなかったとは言い切れない。
早川鮎之介の実在にしても、小さく記録されてるのが発見されたから。
>215
マジ?
ソースきぼん
>>214 横道は布部山の戦いにて討ち死に。
布部山の戦いとは・・・
鹿介らによる最初の尼子再興戦が勃発し、その勢力侮り難しとみた
毛利軍の主力が九州から急遽引き返してきたことにより発生。
ちなみに毛利軍は山口に進入していた
大内輝弘を討った後、雪を押して強行出陣してきた。
戦いは輝元&両川揃い踏みの上に数でも勝る毛利軍の勝利に終わる。
横道は負傷したところを、姪婿の中井善左衛門に
だまし討ちに近い形で討ち取られたらしい。
中井はそのことで毛利軍から追放され帰農したとかなんとか。
やっぱり普通の名前のヒトは、
地味にFade outしていくんだね。>中井善左衛門の帰農
219 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/21 10:08:00
大内は九州の大友に援護された
徳太平記か〜 うーむ
223 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/25 19:48:38
無名武将@お腹せっぷく :05/02/25 18:38:25
尼子十勇士の深田泥之助は実在の人物だそうです。
子孫は今も、鳥取県米子市にある深田庭園という鎌倉時代からある庭園を管理してます。
代々庄屋をつとめていて有名な旧家です。
先祖は佐々木道誉だとか。
尻子
もし尼子十勇士が全て実在だったら…かなりショッキングだよな。
どう見ても創作にしか見えないふざけた名前なんだから。
でも、半分は実在してそうなのか。
先祖が尤道理之介とかだったら、ショックだろうな
とか思ってたら、すでに寺元生死介が先祖という事例があるのか
ショックだ
山の中の鹿
秋の庵
横道に兵庫
田植えの早苗
尤もな道理
寺の元で生死
早川の鮎
深い田の泥
藪の中の荊
小倉に鼠
228 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 17:58:32
ところで諸兄に質問だが
尼子氏が完全に支配した国
出雲 伯耆 隠岐
影響力が強かった国
美作
一時的にでも影響力を及ぼした国
石見東部 安芸 備後 備中 備前 播磨 因幡
でいいのかしら
影響だけで言うなら但馬も
>229
>但馬
赤松政村 攻撃してた時期でしたっけ?
因幡を一応制覇してたのっていつ頃だったっけなぁ・・・
231 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 22:32:47
>>230 勘違いではないか、因幡を殆ど制覇しそうになったのは、尼子ではなく、
謀反人新宮党の勝久を担ぎ出した、泥棒集団山中鹿之助一味だ、
天正元年から二年ごろに毛利の城将が守る鳥取城他を陥落させている。
232 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 22:46:40
もう少し詳しく書くと
天正元年九月に鳥取城城将賢直を陥落させ、同年11月元春が再度鳥取城を落城させた。吉川文書
翌年天正二年三月厄子党、毛利軍退陣と同時に因幡へ再侵入。私部城を奪い諸所調略。吉川文書
9月22日山中・立原・牛尾・森脇・横道・足立達尼子残党毛利入道浄意を責め鳥取城を落とす。雲陽軍実記
一月後、但馬山名と和睦した毛利の再度の侵攻に、逃げ出すまでの短期間因幡の覇者だった。
いや再興戦の方じゃなくて
山名久通を屈伏させたあたり
一月後じゃなくて一年後じゃないか?
>>233 確かに天文12年以前に久通は尼子に通じたが、久通の因幡支配力は弱く征服したとはいえないのでは。
同年八月山名祐豊、因幡へ進出し所々攻略し誠通を布施一城に追い詰める。
翌年尼子は因幡に侵攻するが、鹿野と大崎を落としたようだが、(陰徳太平記)。
若桜も私市も鳥取も落ちてはいない。
>>234 9月の落城後、約一月で鳥取城を落ち
10月28日私部城下の合戦。山田信直、尼子党の城下を焼崩す。
若桜鬼ケ城に少しの配下を残し織田に敗走した。
鳥取城はよく分からないが尼子の因幡制覇が
すぐに崩れたのは確かみたいだね。
ただ、但馬山名が毛利と和睦したのは
三村の備中騒乱が収まった後の天正3年だ。
あと、尼子が若桜を攻略したのは天正3年初頭のはずだし、
私部城も天正3年中頃に吉川軍に落とされるまで健在。
なんだかんだで尼子の因幡への影響力は2年くらい続いてる。
237 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/13 02:47:48
天正三年乙亥五月。吉川元春父子。
因州を攻むと傳ふ。是より先。大坪一之。
虐其の主豊国に毛利氏に属せんことを勤む。
豊国聴かす。一之去りて安芸に往く。是に至り。豊国凝惧し。
老臣森下出羽守道裕・中村対馬守春次等と議し。
勝久等を逐ひて。毛利氏に掃すべきに決し。
遂に勝久幸盛に背く。幸盛直ちに私部・若桜(並に八東郡に在り。)の而城を修め。
茲矩を将とし。兵千五百余を以て。私都城を守らしめ。
勝久は幸盛等と倶に。 若桜城に籠り。
毛利氏の将草刈三郎左衛門景継・牛尾大蔵左衛門春重等と。
兵を交ふ。九月。吉川治部少輔元春及小早川左衛門尉隆景。
兵四萬七千余飴を率ゐて。私部城を囲む。茲矩衆寡敵し難きを以て。
城を輸し。衆を全うして。若桜城に入る。元春また若楼城を攻む。
幸盛夜襲して克たず。勝久其の為すべからざるを知りて。
但馬に奔り。復た京師に入る幸盛・茲矩も亦皆遁れて京師に入る。
是の時に當りて。織田弾正忠信長。京に在りて。勢大いに振ふ。
幸盛。明智光秀に因りて。信長に謁す。信長見て日く。嗟好男子。
能く主家を興復せよと。賜ふに駿馬を以てす。幸盛喜びて日く。
公若し兵を中国に出し給はば。臣請ふ先鋒たらん。
願くは臣が主に賜ふに。出雲国を以てせられよと。信長首肯す。
尼子十勇士って名前の割にへぼいよな。
それが尼子クオリティ
241 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/13 05:59:49
鳥取地元
若桜懐かしい
242 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/13 10:45:44
>>219 でも、大内輝弘は尼子で言えば勝久のようなもので主流じゃない。
ところで新宮党の尼子豊久は新宮党の粛清以前に戦死していたという事を初めて聞いたのですが、誰にやられたのですか?
「戦国大名尼子氏の研究」(P99 注46)
>天文13年か14年のものである6月17日河副久盛書状(吉川家文書)に、、
>因幡国が「一国平均被成行候」とある。
>高橋正弘「因伯の戦国城郭 通史編」参照
うむむ
245 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/21(月) 21:29:02
それが南条クオリティ
せっかく毛利と織田の争いの中で生き残ったのに
滅びちゃったんだよな、南条
鳥取城下燃やして あぼーん
そら赤松でなかったけ
南条は大坂の陣で入城するも内通を疑われ切腹、だった希ガス
250 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/24(木) 21:40:10
でもその赤松に罪を擦り付けたのは亀井君だという説もある。
亀井君って元々どこの家中だっけ…?
湯家の人だよ
252 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/25(金) 21:31:51
湯を語ったくずの説も
253 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/03(日) 13:49:52
uwala
期待あげ!