趙雲はいったい何を諌めたのでしょうか?
夷陵の戦いは違うっぽいし・・・・。
>>446、
>>447=趙統護衛兵様
>優秀な二世=夏侯覇
それはいくらなんでもナシでしょう(笑
>出来が良い、というのに引っかかるかな。
前に董允の時にも触れましたが、蜀は二世にパッとしたいのがいない割に、
妙にそういった二世が出世する傾向があるもので、つい口が滑りました(笑
>陳矯
じゃ軽く概略を。
陳矯(?〜237)
字は季弼。徐州広陵郡東陽県の人です。
初め動乱を避けて江東へ避難しますが袁術、孫策の誘いを相次いで断り
郷里に帰ります。そこで広陵太守だった陳登に要請されて郡の功曹となり、
以後陳登の腹心として外交や援軍要請に活躍します。
陳登の死後、曹操に召されて司空の掾の属官となり、
相の令、征南将軍の長史、彭城太守、楽陵太守、魏郡西部都尉を歴任した後、
魏郡太守となりました。
法律を重視し、判決が滞っていた囚人たちを短い間に裁き切ったと言います。
その後、丞相長史、再度魏郡太守、丞相西曹属を務めた後、漢中征討に参加。
帰還後尚書となりました。
文帝の時に吏部尚書を務めた後、高陵亭侯に封じられて尚書令となり、
明帝の時代に侍中・光禄大夫の位を与えられ、最後は司徒まで上りました。
237年に死去。貞侯と謚されています。
彼の次男の陳騫(字、休淵)は晋建国の功臣の一人です。
なお注に引く『魏氏春秋』によりますと、陳矯は本来は劉姓だったそうですが、
母方の叔父の家を継いで陳姓を名乗るようになりました。
しかし、結婚した相手もまた劉氏の女性だったため、
陳矯は後年になっても何かにつけて礼をわきまえない非常識な人間として非難を浴びたそうです
(同姓結婚はタブーなので)。
曹操は陳矯の才能・器量を惜しんで、
「動乱以来、風俗教化は衰微している。謗言をもって評価することはならぬ。
建安五年(200)より以前のことは一切問題とするでない。(以下略)」
と言い、陳矯を擁護したと言います。
>簡ヨウは劉備に投獄されてるんですね
おっと、それは違います。
過去ログ、読み返して見ましたが、あれは
>>19氏が挙げた「簡雍が秦フクに一喝された」という演義のエピソードに
反応した
>>35氏が説明を求めたのに対し
>>36氏が「秦フクのエピソード」を紹介、
(従って劉備の東征に反対して投獄されたのは秦フクです)
それを
>>38で35氏が簡雍のエピソードと勘違いなさっているだけです。
>>448=桃紫様
おお、お久しぶりですね。
>趙雲はいったい何を諌めたのでしょうか?
>夷陵の戦いは違うっぽいし・・・・。
いえ、趙雲が反対したのは劉備の東征(すなわち夷陵の戦い)で間違いないですよ。
「国賊は曹操であって、孫権ではありません(以下略)」と主張し、劉備を諌める話は
蜀書の趙雲伝の注『趙雲別伝』に見える話で、演義もその話を採用していたはずです。に
>>450(自己レス)
文末の「に」って何だ(苦笑
>桃紫 様
夷陵の話です。まあ、簡雍が投獄されたなんて書いてあったら分からないのも無理ないですね。
事実じゃなかったようですし。
>陳矯
ん〜〜地味な方ですね(w。突っ込むところが少ない…。
しかし曹操が言った言葉なんてよく残ってるよな…。
カク昭と関係がある人って居るんですかね?
王陶沖様、暖かいレスありがとうございます。
ところで「趙雲別伝」は信用できるもんなんでしょうか?
私は信用できないと見ているのでが・・・。
>>452=趙統護衛兵様
>カク昭
カク昭と関係ある人・・・ですか?
どのくらい関係のある人を挙げればいいのか分からないですが(苦笑
正史に出てくるカク昭が関わる事件は
22?年、涼州の西平・張エキ・酒泉の三郡で起きた麹演・張進・黄華の反乱討伐に参加。
227年、涼州西平郡で反乱を起こした麹英を討伐。
228年、諸葛亮率いる蜀軍からわずか千人余りの兵で陳倉城を守りきる。
の三つとなります。そこから彼と関係のある人物を書き出すと・・
・蘇則:麹演・黄華・張進の反乱の時の上役。カク昭は彼の指揮に従って戦った(魏書・蘇則伝)。
・魏平:麹演・黄華・張進の反乱の時の同僚。共に涼州金城郡に駐屯していた(魏書・蘇則伝)。
・鹿磐:麹英の反乱の時の同僚。(魏書・明帝紀)。
・曹真:北伐の時のカク昭の上役。カク昭は彼の命令で陳倉を守備した(魏書・曹真伝)。
・キン詳:蜀将。カク昭と同郷であり諸葛亮からの降伏勧告の使者となったが、
カク昭は受け入れなかった(魏書・明帝紀の注『魏略』)。
(おまけ)
・カク凱:カク昭の子(魏書・明帝紀の注『魏略』)。
これくらいでしょうか。
>>453=桃紫様
どういたしまして(笑
>『趙雲別伝』
うわわ、正史での趙雲ファンの希望をこっぱ微塵に打ち砕くご発言ですね(笑
確かにどこの誰がいつ書いたとも知れない怪しげな書物ですが
この資料の記事を否定してしまうと、ただでさえ少ない趙雲の史実上の事績が
ゼロ同然になってしまいますからねぇ(笑
「正史本文ほどの信憑性は無い」という点では勿論同意します。
けれど裴松之は本当にいい加減な記述をしている資料を引用する時は
きちんと「信用できない」と書いてくれる人ですが、『趙雲別伝』はそれを免れています。
正史の他の記述と明らかに矛盾していたり、間違っているという証拠でもない限りは、
信じてあげてもいいんじゃないかと個人的には思いますけど。
まあ、趙雲を擁護してあげたいという気持ちが私にあることは否定できませんね(笑
>>454 『趙雲別伝』は『隋唐志』に掲載されなかったとわざわざ集解に書かれていますよね。
このことからかなり信憑性は低いのではないかと思うわけです。
しかも『趙雲別伝』という名前からして、趙雲をヨイショして書いてあることは間違いないでしょうし、夏侯蘭や張著など趙雲別伝にしか出てこない人物もいますよね。
それに、夷陵の戦いを止めようとしたという話も『趙雲別伝』だけのものですし、かなり疑わしいなと思ってしまいます。
というわけで、私は趙雲は名将ではなかったと思っています(^^ゞ
>>455=桃紫様
>『趙雲別伝』は『隋唐志』に掲載されなかったとわざわざ集解に書かれていますよね
申し訳ないですが、当方『三国志集解』は未読です(苦笑。
史学畑に縁がないとそうそう読む機会も購入する機会もないですから(笑。
各時代の歴史家たちがつけた補注のまとめですから是非とも読んでみたいとは思っているんですが・・・。
桃紫様が既読なのでしたら是非ともその貴重な情報の数々を教えて頂きたいものです。
さて本題の『趙雲別伝』ですが、信用できないという意見は出てきても当たり前の意見でしょうし、
そう思う方がいても問題ないと思います。それも十分理に適った主張でしょう。
ただいくつか桃紫様のカキコに対し指摘させて頂けると
・「『趙雲別伝』にしか出てこない人名や出来事がある」というのは
『趙雲別伝』の信頼性を判断する基準にはならない。
(ある一部の書にしか出てこない人物や出来事なんて他の書にだっていくらでもいますし、あります)」
・沈家本が「『隋唐志』(正確に言うと『隋書』経籍志と『旧唐書』経籍志、『新唐書』芸文志)
に記述が無い」と注に書いているのは別に『趙雲別伝』に限った訳ではなく、
「裴注に引用されているが『隋唐志』に記されていない書物全て」
についてそうなのであって「わざわざ」そう記されている訳ではない。
また沈家本が「『隋唐志』に記されていない」と書いているのはイコール
「後世にどんな書物なのか伝わっていないので分からない」
という事実を記しているに過ぎないのであってそれが直接「信用できない」に繋がる訳ではない。
という二点について挙げて反論に代えさせて頂きましょう。
勿論、「『隋唐志』に記されていない時点で取るに足らない書と判断されたのだ」という再反論も
あるかも知れませんが、裴松之が注を付けた南朝宋の時代(裴松之は372年生まれ、451年没)から
『隋書』(636年成立)、『旧唐書』(945年成立)、『新唐書』(1060年成立)が記された時期の間に
それらの書物が失われてしまったために記されなかった可能性もある訳で、『趙雲別伝』に限らず
「『隋唐志』に記されていないから信用出来ない」とは断言出来ないでしょう。
要するに「『趙雲別伝』は信用できない」と確定出来る決め手は無いんです。
そういう訳で、桃紫様と正反対に『趙雲別伝』を信じて「演義ほどではないけど趙雲はすごい」
と考える人がいても、それは三国志に対するスタンスの違いに過ぎず、批判は出来ないと私は思います。
ま、要は
「明確な証拠はないんで『趙雲別伝』の信憑性は自分の好きなように考えればいいんじゃない?」
ということです(笑
>カク昭
…俺でも知ってるような有名な人は曹真位だなあ、、
ありがとうございます。>王陶沖 様
>楊雄 様
カンキュウケンですか…ていうか岩波…
>>456 王陶沖様が言われるように、何を信じて何を信じないかは個人の自由だと思います。
だからこそ、三国志は人それぞれに違った世界が広がっていって面白いわけですから(^^ゞ
とりあえず私は「趙雲別伝」は読んで字の如く、趙雲を贔屓して書かれている書物ですから、その部分をさし引いて解釈していこうと思います。
>集解について
実は私も読んだことないです。
前述の意見も友人の受け売りだったりするわけなんです。
すんませんm(_ _)m
>>457=楊雄様
実はそこにリンクされてるカキコの内一つは私のカキコだったりします(笑
>>458=趙統護衛兵様
まあまあ、岩波さんだってたまには間違えるということでしょう(笑
>>459=桃紫様
>「趙雲別伝」は読んで字の如く、趙雲を贔屓して書かれている書物ですから
う〜ん・・・困ったなぁ・・(汗。
「現代に現物が残っていないし、記録もない以上、そうとは決め付けられないからそういう風に
断言するような書き方をするのはやめた方が良いですよ」と上で言わせて頂いたつもりなんですが・・・(汗。
確かに趙雲伝には良い記事しか引用されてませんが、だからと言ってその本が趙雲を贔屓して書いた本とは限らない訳で。
(他にどのような記事が書いてあったのか今となっては分からない訳ですから)。
タイトルが『趙雲別伝』だから趙雲に贔屓しているというのもちょっと穿ちすぎな気がします
(世の中の『なんとか別伝』という本が全てその「なんとか」について贔屓した本だなんて言えないですよね?)
例えば「『趙雲別伝』は趙雲が赤壁の後に偏将軍・桂陽太守になったと書いてあるけど、
長阪の功でやっと牙門将軍になったばかりの趙雲がそんな官位貰える訳ない」(私はそうは思いません。「例えば」です)
というように、まだ何らかの内容検討があった上で「信用出来ない」という意見をお持ちになるのでしたら異論はないのですが、
タイトルだけで判断なさったような書き方をされてしまうと、「それは如何なものか」と思ってしまいます。
どうにも「趙雲は名将でない」という答えがまずあった上で理由を後付けしているように見えて仕方が無いのです
(例え桃紫様が本当は論理的な理由をお持ちだとしても、書き方でそう見えてしまうということです)。
で、これは桃紫様がこのスレにいらっしゃるようになってから何度も言わせて頂いていることですが
桃紫さまがご自身でそう「思う」こと自体は何ら問題ないんです。
非常に面白いご意見だと思いますし「三国志は色々な見方があるから面白い」というのもその通りだと思います。
ただ、確固たる証拠が無い場合は断言するような言い方は避けるべきだと思うのですよ。
あくまで「自分の意見」に留めて書くべきだと。
特に桃紫様は通説とは反対だったり、普通とは異なった説をお唱えになることの多い方です。
何かを批判したり、評価を下げる発言をしたりする時は言動に細心の注意を払わねばなりません。
もう少し注意して発言しないと無用の敵を作ってしまいかねないと思うのです。
特に趙雲のように人気のある武将の評価を下げる発言をするのなら尚更ですよ。
「一歩間違えば敵に回る人」の数が圧倒的に増えてしまうのですから。
以上、おせっかいカキコでした。sage。
王陶沖様、心遣い感謝しますm(_ _)m
確かに、王陶沖様が言われることはもっともだと思います。
「趙雲別伝」に関してですが、やはり私は趙雲を贔屓して書かれたものだと思います。
というのも、趙雲が主人公である以上、悪く書くことはないと思うんですよね。
これは「花関索伝」「諸葛亮集」でもそうであるように、わざわざ主人をけなして書くような書物は少ないように思います。
あと、趙雲別伝で検索をかけたら、趙雲別伝について説明しているサイトを以前に見かけました。(お気に入りに入れていないのでURLはわかりませんが)
うろ覚えなのですが、第一巻は趙雲が放浪していて劉備に出会うまでの冒険を描いたもので、第二巻が諸葛亮の派閥問題、第三巻が戦いについてだったように思います。
そして、そのサイトの説明でも、趙雲別伝は信憑性が薄いだろうということだったように思います。
私は裴松之の注にひいてあるものしか読んだことがありませんが、漢中での彼の活躍はどうも信じられません(単騎で曹操軍に突っ込んで張著を救出し、その後、曹操軍を壊滅させるなんて人間技ではないと思うので)
また、趙雲別伝に書かれていることが本当だとするならば、なぜに劉備は趙雲を出世させなかったのでしょうか?
私は劉備の人物鑑定眼は信用に値すると思うんですよね。だから、本当に趙雲が有能だったらもっと早く出世していたと思うんですよ。
あと、趙雲別伝でこれだけエピソードが残っているのに、陳寿は一つとしてこういった美談を記していませんよね。
なぜに陳寿はこういったエピソードを記さなかったのでしょう?私も全部を記せとまでは言いませんが、ここまで何もないと、なんで?と思わざる得ないわけです。
また、御意見がございましたら、お願いしますm(_ _)m
つくづく魏延が不遇だと思った。
一隊長から牙門将軍、さらに一足飛びに督漢中・鎮遠将軍。後には諸葛亮の軍事
の片腕。終わりさえよければ、蜀書第六は関張馬魏黄趙伝くらいになってたかもし
れないのに。
趙雲は最初劉備の親衛隊で武勇でもって功績を立て、晩年に高位に登って良将
になり、かつて劉禅を救った功績で他の四将と並び称されたって感じなのかな。
>>461 >「趙雲別伝」に関してですが、やはり私は趙雲を贔屓して書かれたものだと思います。
>というのも、趙雲が主人公である以上、悪く書くことはないと思うんですよね。
ええ、ですからそう思うこと自体は別に非難する気はありません。(私は同意は出来ませんが)。
ただ「もう少し発言に気をつけて断言するのは避けた方が良いでしょう」ということが言いたいだけのことでしたので。
>趙雲別伝について説明しているサイト
いえ、456や460でも書きましたが『趙雲別伝』はすでに失われた史料ですので、
現在その内容を知ることは出来ません。
よって解説などはどうしたって出来ません。
もしかして桃紫様がご覧になったのはこのページ
http://www2.plala.or.jp/Lian/bookindex/rekishi/sangoku.htm の19番で挙げられてる「趙雲伝」じゃないですか?
それは後世、日本人が書いた小説ですよ。『趙雲別伝』ではありません。
>趙雲が主人公である
・・・(泣。
『趙雲別伝』は小説ではないのですから「主人公」などはいません。
勿論タイトルからすれば趙雲にスポットを当てて書かれた書物でしょうが、
それは間違っても「主人公」という言葉では表現されないものです。
仰りたいことは分かりますが史書を評すのに小説の用語を用いてはいけません。
>「花関索伝」「諸葛亮集」
その二つの書物は民間の雑史とは言え史書である『趙雲別伝』と比較するには適当でないです。
「花関索伝」は後世の小説です。文学としてはともかく史料としての価値はありません。
「諸葛亮集」は諸葛亮の事績を記した書物ではありません。諸葛亮自身が書いた文章を陳寿が編纂した文集です。
いずれも「ある人物にスポットを当てて書かれた史書」ではないので
「『趙雲別伝』は趙雲を良く書いた書物である」とする説の補強には残念ですがなりません。
>単騎で曹操軍に突っ込んで張著を救出し、その後、曹操軍を壊滅させるなんて人間技ではない
お願いしますから批判をするのならきちんと内容を把握してからにして下さい(泣。
そこには「趙雲は馬を馳せて敵陣に立ち戻って、張著を迎え入れた」
(原文「雲復馳馬還營迎著」)とあるだけで「単騎である」とは言ってません。
また曹操軍も壊滅したのではなく損害を受けて退いただけです。然程に化け物じみた活躍ではありません。
・・・誤解なさっているかも知れませんが私も趙雲が「名将」だったとは思っていませんよ?
私は特に『趙雲別伝』を疑いはしませんが、あれを全て正しいとしても
中規模以上の軍を率いた経験がほとんど無いのですから「名将」とは呼べないと思います。
私自身は、彼を「個人的武勇に優れ、小規模の部隊の統率に長けた親衛隊長」だと思ってます。
劉備から見れば曹操にとっての典韋や許チョみたいな存在でしょう。
そういう意味ではひとかどの人物だとは思ってますが。
従って私は別に桃紫様のご意見そのものに反論している訳ではないんです。
ただ、「断言はやめましょう、証拠はないんだから」と
桃紫様の「書き方」と「論拠」について「だけ」を繰り返し苦言として申し上げているんです。
今後のカキコで気を付けて頂きたいなぁ・・・ということですので・・・・。
正直これで趙雲と『趙雲別伝』の話は終わりにしたいです。
確たる証拠がどちらにも無い以上『趙雲別伝』の信憑性の話は平行線ですし、
これ以上続けてもまた麋竺の時のようなエンドレスになって埒があかない気がしますので(苦笑
>>462 魏延は無くすには惜しい名将でしたね。
ただ、諸葛亮政権下ではどうしたっていずれ排除されたでしょうが・・・。
私も彼は「個人的武勇に優れ、小規模の部隊の統率に長けた親衛隊長」だと思ってます。
あと、「趙雲別伝」については信憑性は不明ということで、納得いたしました。どうもいろいろとすんませんでしたm(_ _)m
でも、ちょっと細かいことですが、少しだけ言わさせていただくと、「花関索伝」のおかげで最近になって演義の発生ルーツについての研究が進んだそうです。
だから、少なからず史料的価値はあるのではないでしょうか?
しかし、王陶沖様は本当にすごいですね。脱帽です。
できれば、私のサイトにも来ていただいていろいろとアドバイスなどしていただきたいのですが、さすがにここでURLを出すわけにはいかないです(^^ゞ
何か良い方法はないでしょうか?
>>463 うんー。私はこのスレの主流と違って(笑)、諸葛亮が特に魏延を嫌ってい
たとは解釈していなかったりしますけども。前出ですが、「楊儀の才幹を愛
し、魏延の剛勇を頼みにしていた」「二人が不仲であることを残念がって」
ですから、軍略面で進言を退けはしても冷遇していたとは思えないのです
(個人的な交流があったとも思いませんが)。
諸葛亮の人事からは性格的な欠点への大らかさ(甘さ?)を読み取ります。
推挙したのは劉備だとはいえ、結局魏延や李厳を重用しましたし、楊儀に
至っては丞相府参軍として遠方から呼び戻しています。ただ一度法を犯
した場合の措置が厳格だったということなのでしょう。
魏延の場合、自分(諸葛亮)が死んだら手に追えなくなるだろうとは予想し、
事実そうなったわけですが。優れた武人ゆえに、一介の武人で収まって
はいられなかった、ということですかねー…。
ちょっと外れますが、泣いて馬ショクを斬るって正史ですか?古典の教科書で見たような…赤壁だったかな…
史実だったらそんな話が残ってる場ショクに対していきなりクビになったり殺されたのに話が特に残って無い魏延や李厳は
あまり孔明に好かれて無かった、または嫌われていた可能性がありますよね。…話に大した進展は無いですが…(苦w
楊儀って孔明に嫌われていたんですか?
初心者の意見なんでsage
>>463=桃紫様
>「花関索伝」のおかげで最近になって演義の発生ルーツについての研究が進んだそうです。
>だから、少なからず史料的価値はあるのではないでしょうか?
それは「文学史」という観点で見た時の史料価値ですね。
それなら確かに高いものがあるのだろうと思いますが、
史学的な史料価値は「ない」と言い切って構わないと思います
(演義など足元に及ばないくらい荒唐無稽なお話ですから、あれは)。
>私のサイトにも来ていただいていろいろとアドバイスなどしていただきたい
おやめになった方が良いと思いますよ?
それこそ掲示板がはた迷惑な超長文で埋まってえらいことになりますから(笑
>>465=462様
あいや、私も別に諸葛亮が魏延を嫌いだったとは思ってませんよ(好きでもなかったとは思いますが)
ただ、前にも書かせて頂いたことがありますが、私は蜀漢政権というのを基本的に(特に劉備死後は)
「諸葛亮をトップとする荊州名士共同体」が支配する集団」と捉えています。
魏延のような一兵卒上がりの高官は荊州名士たちには目の上の瘤なんですよね。
ですから例え諸葛亮が魏延に悪感情を持っていなくとも、荊州名士のトップという彼の立場上、
いずれ彼を排除せざるを得なかったのではないだろうかということで463のようなカキコになりました。
説明不足でしたね。申し訳ないです。
>467
確かに、諸葛亮と魏延があと数年長生きした場合、魏延がさらに上を望めば、廖立
のような舌禍の形で排除されるというのは十分ありえそうですね。
おっと、私が先の書き込みをする直前に趙統護衛兵様のカキコがあったのですね。
気づきませんでした。すいません。
>>466=護衛兵様
>泣いて馬ショクを斬るって正史ですか?
赤壁ではなくて第一次北伐ですよ。
一応、蜀書諸葛亮伝の「馬謖を死刑にして兵士に謝罪した」というくだりと、
蜀書馬良伝付馬謖伝の注に引かれた『襄陽記』の、馬謖の死後に蒋エンが
「(前略)天下がまだ平定されていないのに、智謀の士を殺したとは、なんと残念なことでしょう。」
と言ったのに対し諸葛亮は涙を流しながら
「(前略)四海の家は(三国に)分裂し戦争がまさに始まらんとするときに、
もし法律を無視したならばどうして逆賊を討つことが出来ようぞ」と言った
というのが「泣いて馬謖を斬る」のエピソードの元ネタでしょう。
そういう意味では正史(及び注)にもあると言えます。
しかしこの馬謖の死因、実は同じ正史の蜀書内でも諸葛亮伝では「死刑」、
馬謖伝では「獄死」とバラバラで不可思議な謎に包まれていたりもします。
更には向朗伝にある「向朗は平素より馬謖と仲が良かったので、馬謖が逃亡した際事情を知りながら黙認した」
という記述を曲解して「実は馬謖は死んでない」なんてトンデモ説を唱える方までいたりします(笑
(一般的にはこの「馬謖逃亡」は街亭敗戦直後で、結局は捕まって死んだのだろう、と解されます)。
>馬謖と魏延・李厳
え〜と、このエピソードの核は「愛弟子のような存在だった部下の馬謖をきちんと追求し、
私情を差し挟まずに死刑に処した諸葛亮の清廉さ」であって、むしろ諸葛亮を誉めるために残っている逸話です
(蒋エンが言ったような反論も勿論当時からあるのですが)。
何故諸葛亮が泣いたかと言えば、馬謖が彼にとって非常に親しい人物だったからです。
対して、魏延と李厳はかたや何かと反抗してくる部下、かたや有力な政敵です。親しいはずもありません。
彼らが落ちぶれようが死のうが(魏延の死は諸葛亮の死後ですが)泣くはずないですね(笑
だからと言って李厳と魏延が諸葛亮から嫌われていたとは言い切れませんが、
まあ少なくとも親しくなかったのは確かではないかと思います。
>楊儀って孔明に嫌われていたんですか?
それに関しては私(元101)と廖化の副将(元283)様が
このスレの
>>340-342,
>>349-353で議論してますのでご覧下さい。
私個人の見解としましては「まあ嫌ってはいなかったんじゃない?」と考えてますが。
>>468=462様
その通りだと思います。
ただ、私は魏延はあのままそれ以上の高位を望まずにいたとしても
いずれは排除されてしまったであろうと考えていますが。
趙雲の話と文学の交流
三国志・西遊記・水滸伝など、明代の爛熟した文化の中、あらゆるジャンルの文学作品が生まれ、
消えていきました。このなかで、歴史書のうちから題材にとったのが三国志演義です。と、簡単に
書くのもアレですので、一点だけ注意してください。
三国志演義・作羅貫中 とありますが、羅漢中が最初から最後まで書いたのではなく、巷間に
散らばっている各地の三国志の人物にまつわるエピソード・伝説・民話・民間伝承を盛り込んで
います。それらを集大成したものなのです。花関索伝は、関羽の(架空の)三男が大暴れ、という
破天荒な物語です。どちらが先なのかは存じませんが、関索という人物は三国志演義にも、水滸伝
にもみられます(笑)。このように、文学作品や文書には、互いの影響というものがあるようです。
魏延の話
演義ベースになります。予めご了承ください。
で、魏延なんですが。諸葛亮との確執が演義後半の諸葛亮の内憂としてクローズアップされます。
しかし、初対面で「お前の顔は裏切り者の人相」みたいなこと(叛骨の相)いわれつつも、一兵卒
から見事立身出世を果たしております。その後も諸葛亮はきっと言葉に出さないまでも、「こいつ、
いつか裏切る」と見られ、そんな中でも働いています。身近な場面に置き換えてみたらどうでしょう?
初対面の目上の人に「あなたは、裏切りますね?」って言われたことありますか?私なら即座に
やっつけます。「どうせ、会社やめんだろ?」って言われたら、働きません、とっとと辞めます。
つまり、魏延は実力もあり、長い間裏切り者のレッテルを張られた中でも辛抱強く働いていたのでは?
とか、かばってしまいたくなります。
諸葛亮「裏切るぞ、裏切るぞ〜」
魏延「なに?!そこまで言うなら裏切ってやる!」
諸葛亮「ほーらやっぱり裏切った〜」
・・・魏延を裏切り者に仕立てたのは、諸葛亮なんじゃないですかね?
おまけ
岩波に限ったことではありません。漢詩の本はとくに落とし穴だらけです。
王陶沖様へ
私の友人という師匠様がこのように言われていましたので、そのままコピペいたします。
基本的に、個人の傳を扱ったのものって、その人物を中心に書くわけですから、基本的によいしょの方向にあんるのは否めないと思いますよ。
三国志の注でも、かなりの雑傳が、ひかれていますが、これもその題名の冠する人物にたいしては、持ち上げる方向でかいているとかんじられます。
正史の部類でも、本人の伝は、敗戦記事を載せなかったり、マイナスイメージの記事を省いたりということを普通にしているので、個人の雑伝にいたっては、そのスタンスは当然のことだと思います。
題名が・・というより、題名がその中身を一番端的にあらわしたものですもんね(笑)
三国志関係の雑傳に関して、このサイト(有名な、黄虎洞さんのだから、見られているかも・・)さんの考えが、よろしいかと。
http://www.daito.ac.jp/~oukodou/tyosaku/kayoukokusi.html ここの製作意図のところに、雑傳についての、見解が。
個人の名前を冠していて、なおかつこき下ろしているのは、曹瞞伝ぐらいかな・・とは思うんですが?でも、曹瞞伝は、もっとも、曹操のくそガキ伝という題名ですから、こきおろしは当然なんですが・・。
といっても、三国志関係よんだだけの私の見解ですから、その質問されたかたに、個人の名前を冠している伝で、こきおろしているのがあったら、教えてくださいって言っといてください。
あと、どうでも良いことですが、私は「花関索伝」や「三国志演義」のような小説であっても、史料的価値はあると思っています。
例えば、根も葉もないエピソードでも、全然何もないところからは産まれないわけであって、逆にそのエピソードがなぜ産まれたのかと推測することによって、史料的価値があるとされているものだけでは知りえないことでもわかることはあると思っておりますので(^^ゞ
まぁ、素人が戯言を言っとるという感じで聞き流してくれてけっこうです。
↑のあと、どうでも・・・・
というのは私の意見です。わかりにくくてすんませんm(_ _)m
>>460:王陶沖殿
ライブで私がミスっているところを見ていたのですね。やるなお主。チッ。
>>473:桃紫殿
吉川英治著「神州天馬峡」を是非ご一読をお勧めします。その辺、リアルです。
しかし。
身近に師匠とも呼べる詳しい友人が居るということは、貴殿は恵まれていると
思いました。
>桃紫さん
あ〜蛇足ですが、”こっそり清談“スレとはいえ、URLを
じかにリンクはされないほうが良いですよ〜。って、
なぜそういうルールなのかは自分よく知らないのですが…。
よぅ知らんのに、えらそい事言ってごめんなさい。
とりあえずwww.ではじめるか、最初のhをはずして置いておいて
下さいね。 じゃ、みなさんまた今度 (;;)/~
>>472=桃紫様
はぁ・・・。一度終わらせた話を蒸し返さないで下さいよ・・・。
私のスタンスが趙雲擁護寄りにあることは最初の最初で断ってあるんですし、
合意に至らないことはもう分かってるんですから(泣。
・・・正直、同じことを何回も書かされるのはもうイヤです。
>桃紫様のお師匠さまのご意見
大体仰る通りだと思います。
当時の地方誌や人物伝に、スポットを当てられた地方や人物寄りの記述を
したものが多いことは確かでしょう。
ただ、そういう偏った記述をした書物の「持ち上げ方」というのも様々でして、
「全く根も葉もない事柄を記述したもの」から
「事実をベースにしつつ誇張したもの」、
「事実を都合良く解釈したもの」、
そして「良いことだけを記述して悪い記述のみを省いたもの」まで様々です。
例えばもし『趙雲別伝』が四つ目のスタンスで書かれたものであれば、
趙雲寄りの記述がなされているからと言ってそれは嘘を書いていることには
ならないのであって、「趙雲寄りの本であること」が即「事実ではない」に
繋がらないことが有り得ることをお分かり頂けるでしょうか?
(勿論、『趙雲別伝』が四つ目のスタンスで書かれているという証拠はありません。
そう、確たる証拠はどちらにもないんです。もう何度も言わせて頂いたはずですが)
それにこれも何度も申し上げてますが私が言いたかったのは「確たる証拠はない」ので
『断言するような発言はやめましょう』ということ「のみ」であって、
個々人がどう思おうと自由だと思っているということも既に論述させて頂いた通りです。
「『趙雲別伝』というタイトルの本が何も趙雲を贔屓して書いた本とは限らない」
と言ったのも「断言は出来ない」ということが言いたかっただけなんです。
断言さえやめて下されば何も文句は無いんですよ。合意は出来ませんが。
確たる証拠が遺跡から出土でもしない限り、この問題はこれ以上議論したところで、
合意には至らないのは自明の理です。不毛ですから私はやりたくありません。
ご理解下さい。何か違う話題で次の話でもしませんか?
なおリンク先サイトの記述は『華陽国志』を読む前にどのような本なのか調べた時に
読んだことがありました。
続きです。
>根も葉もないエピソードでも、全然何もないところからは産まれないわけであって、
>逆にそのエピソードがなぜ産まれたのかと推測することによって、史料的価値が
>あるとされているものだけでは知りえないことでもわかることはあると思っておりますので(^^ゞ
事実ではないエピソードが何故生まれたのかを考察するのは面白いという点は同意します。
しかし「史料的価値」という観点に限ればその人物が生きた時代に近い時代に書かれた
書物以外は、どうしても伝聞的・伝説的要素の方が増えてしまい史料としての価値は
あまり無いと私は考えます。
民間伝承には事実よりもやはり民衆の好き嫌いが最も色濃く反映されてしまうもの
だと思いますし。
(桃紫様は花関索伝のストーリーをご存知でしょうか?
あらすじだけでも知れば、文学的にはともかく絶対あれを歴史史料だとは思わなくなると思います。
(もし既にご存知であればすいません。))
なお言わせて頂ければ「根も葉もない」という言葉は「本当に全くそのようなことはない」
時に使う言葉であって、「全然根拠のない」出鱈目なことを言います。
「エピソードが生まれたのには何らかの理由がある」というのが桃紫様の御主張であるのでしたら、
それは「エピソードには根か葉があった」ことになる訳で、
そこで「根も葉もない」という言葉を使うのは誤用と言わざるを得ません。
おせっかいでゴメンナサイ。
>>474=楊雄様
はい、リアルタイムで見てましたよ(笑
>>475=孫乾の従者様
お元気ですか?
お時間が出来ましたらまた清談にご参加くださいませ。
>>469=王陶沖 様
赤壁ってのは「教科書に載ってるのは馬ショクじゃなくて赤壁の話だったかな?」って事です。
非常にどうでも良いですが(w ちなみに教科書にあったのは馬ショクじゃなくて赤壁で曹操が攻め込んだ話でした。
やはり王陶沖様が
>>433で言ってるとおり詳しい事は書いて無かったです。
あ、後楊儀の話は既出でしたね。スマソ。
>>470-
>>471>>474=楊雄 様
>魏延
おお!昔私も似たような事考えましたよ。改めて考えたら魏延から見た孔明ってヒイキばかりのやな奴になってもしょうがないですよね。
…まあ魏延の方にも非があったかもしれませんが。韓玄を魏延が殺したのは横光の漫画みたいなイメージでいいんですか?
>岩波
やはりミスは何とかしてホスィですよね、、まあ、ちゃんとやってもミスるもんはミスるんでしょうが。
>ライブで…
そのスレの
>>150>>152>>153あたりが王陶沖様っぽい…(w
>>475=孫乾の従者様
直リンって何でマズいんでしょうかね?
王陶沖様、たびたびすんませんm(_ _)m
一応参考までにコピペしたつもりなんですが(^^ゞ
あと、楊雄様は吉川先生の書籍をご推薦してくださいましたが、私は吉川先生の三国志を読んで以来、嫌いになっちゃったんですよ。
でも、ご推薦くださった本が面白いものであれば、読んでみたいと思います。内容的にはどのようなものなのでしょうか?
それと、師匠様と言っても私のサイトの常連様なんですよ。つまりリアルな友人ではないわけなんですが、いつも掲示板でいろいろと教えて戴いております。
幸いなことに、うちのサイトには私よりも詳しい方が大勢来られるので、感謝感謝でございます。
ちなみに、孫乾の従者様もその中の一人ですし(^^ゞ