西洋占星術の歴史

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1トーシロー:2001/02/28(水) 16:29
その起源は紀元前3000年頃のバビロニアということですが
根拠は?出土品の中から粘土板に書かれたホロスコープでも見つかったの?
2名名無しさん@占い修業中 :2001/02/28(水) 22:00
今のホロスコープは最初から今の形をとってたわけではないよ。
3万年前の月の観測記録(骨に刻んであった)がフランスから
発見されていて、これ位昔から天体観測はされていたらしい。
メソポタミアでも天体観測の風習がBC6000年頃にはあって、この頃
12の数字が発生したらしい。
星占いの記録としてはBC2350年のアッカド王朝での記録が残ってるそう。
世界最古の「ホロスコープ」はBC410年4月30日のが発見されている。
まー、それなりに記録があったわけですね。
これは手元にあった「辞典 占星学入門」に載ってたので、詳しく
知りたいなら買ってみてはいかがかな?
他に占星術の歴史に関する本とか、あるとしたら、読んでみたいなー。
3トーシロー:2001/03/01(木) 22:11
2さんレスありがとう。
勉強になります。

とともに他の方々のレスにも期待しております。
星座(コンステレーションっていうんですか?)の完成っていつ頃なんだろう?
誰が天に線引っ張って絵をこしらえたんでしょうか?
その観察はいつくらいからなんでしょう?
それと占いが結びついたのはいつ頃の話なんでしょうか?

もう疑問があふれかえっております(笑)
4名無しさん@占い修業中:2001/03/02(金) 06:10
このスレは1さんの指示に従ってここの住人が質問内容を
調査して報告してあげるスレなのかね。
他力本願けっこう。うまいことスレを盛り上げろよ。
期待してるからな。
5名無しさん@占い修業中:2001/03/16(金) 13:17
他力本願って言ったら、この板にあるスレのほとんどが該当するよ。
人の力に頼らないとならないこともあるし、自分一人じゃ生きていけないけど
教えて君はやめて欲しいな。
6名無しさん@占い修業中:2001/03/16(金) 23:11
>>5
あんたは「何にも知らない君」だろ藁
7>1:2001/03/17(土) 02:27
疑問を持つことは誰だって出来る。それと同じように、
検索エンジンに調べたいことのキーワードを入力して
いろんなサイトにある情報をあさってみることも、
誰だって出来る。
少なくとも、ここにいる人間はそれが可能な環境を
お持ちのはずなのだから。

「教えて君」が嫌われるのは、その誰だって出来ること
を面倒がってかわりに他人にやらせようとするから。
あなたが面倒に思うことはみんなも面倒なんだよ。
8:2001/03/17(土) 02:53
なんだよ、教えてくれたっていいだろー。
けちけちすんなよなー。
9あのさー悪いけど:2001/03/17(土) 11:28
ここって>>7君の説教賜りスレじゃないわけ。
西洋占星術の起源とか発祥、そしてどのような変遷を辿っていったかを
知識をお持ちの皆さんにその一端でもご開帳いただけませんか?っていう
スレなのよ。
ていうかあんたさあーなんなの?自分が知らないこと聞かれたら
いきなり逆上するタイプらしいけど別にあんたなんかに聞いてないんだからさあ
ほっといてくれよ。
ちょっとおかしいよあんた。一度診てもらったら?
10名無しさん@占い修業中:2001/03/17(土) 11:34
>9
そんな乱暴なこといってると、また板があれるぞ。

7じゃないけど、7が、
ああいうふうに言いたい気持ちはわかる。
1110:2001/03/17(土) 11:42
「西洋占星術の歴史」以上の知識持っている人なんて
中世哲学云々を大学院で専攻してるんでもなければ、
ほとんどいないんじゃないのだろうか?

そういう人たちはいまは別の場所に集まっている。
ここが穏やかな場所になれば、きてくれるかもしれないけど、
いまのかんじだと、無理だと思う。
12名無しさん@占い修業中:2001/03/17(土) 12:26
同志社女子大学短期大学部
自然科学史では、山本啓二 さんが講座持ってるみたいだよ。
http://tandai.dwc.doshisha.ac.jp/dw/la98/70R20670.htm

あとは、この人。國分秀星 さんの本棚にあった。
http://www.kokubu.com/astrology/books.htm
13名無しさん@占い修業中:2001/03/17(土) 12:48
12で引用したシラバスは98年のものだから、
今年度も講座もっているかどうかは不明>山本センセー
14名無しさん@占い修業中:2001/03/18(日) 10:00
     〆 ̄TTTTTTTTTTTTTTT7
     | =|  ̄ ̄ ̄┴┴┴ ̄ ̄ ∨
    |=|  ̄ ̄――― ̄    |
     | =| 巛lllllllllllllllii ̄ ̄iillllllllllllll|
     | =|  ___llll  lll___|
    |=\人   o > /   o フ<
    |i⌒i| へ ̄ ̄,  \ ̄ ̄ , .|
    ||  |.|     ̄    \ ̄ |
    ||  ‖  //  (      | ヽ |
    | \| イ_   ^  ̄ ̄   |
     | ≡ ./|  \王I王I王I王I王フ|
    /| =/ |           |
   /  |/ 人    =≡≡=  ノ
― ̄|  \ へ _      イ
   |    \     ̄ ̄ ̄

質問すれば答えがかえってくるのが当たり前か?
バカがっ・・!

世間というものはとどのつまり、なにも肝心なことは
何ひとつ答えてはくれない。

政府の役人ども、不祥事続きの警察、銀行・・
これらが何か肝心な事を答えてくれたか? 答えちゃいないだろうが・・・!
これは企業だから、省庁だからというわけではない個人でもそうだ
大人は質問に答えはしない。それが基本だ。
その基本をはきちがえているから、こんな朽ち果てた場所に来ているのだ
厨房どもめ・・!
15名無しさん@占い修業中:2001/06/24(日) 09:24
そんなにいばるなよ
16名無しさん@占い修業中:2001/07/05(木) 08:22
さあ、みんなでレスしよう、
17名無しさん@占い修業中:2001/07/05(木) 17:57
あ、そうなんだ。ありがとね
18名無しさん@占い修業中:2001/08/05(日) 01:49
あげる
19名無しさん@占い修業中:01/10/21 03:57
こんなのも
20名無しさん@占い修業中:02/01/04 00:03
資源は大切に。
21名無しさん@占い修業中:02/01/04 00:11
古典スレの422
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スウェーデン出身の天文学者ティコ・ブラーエはデンマーク王の援助を受け,
ウラニボリ天文台で20年間にわたって精密な天体観測を行った.ティコの
最大の功績は今までにないほどの精度で天体の位置の測定を行い,ケプラーの
法則をはじめ,将来の天文学上のあらゆる進歩の基礎を築いたことにある.
彼は日中に見える金星を使用して星の位置を測定したり,子午線を通過する
時間から赤経の差を測定したりした.彼の天体の位置測定の最大の特徴は
角距離の測定であった.半径6mの四分儀を使用して,精密な観測を行った.
また,今日の経緯儀の原型となった方位角四分儀を製作し,角度の秒単位まで
正確に位置を測定した.
ティコは,この装置で年周視差を測定することができなかったので,
コペルニクスの説に賛成せず,太陽のまわりを水星と金星がまわり,
それを含めた惑星と太陽が地球のまわりをまわっているという説を唱えた.
また,「ティコの星」と呼ばれた超新星を観測したりした.
1588年,保護者の死去により故国をさり,プラークに移り,観測に従事し,
1599年,助手としてケプラーを招請したあと,1601年に没した.
その後,ケプラーは彼の16年間にわたる火星の観測を利用し,ケプラーの
法則を発見した.

ギリシャの科学は中世ヨーロッパでは維持されなかったが,シリアやペルシャ
で大事にされ,そこを征服したアラビアでも継承された.アラビアは科学の
原典をギリシャに求め,それを発展させ,近世ヨーロッパに伝えたところに
功績がある.
アラビアでは各地に天文台が建てられ,観測が行われた.8世紀後半には
アル・ファザーリーはインド天文学書をアラビア語に翻訳した.9世紀には
ギリシャ語の翻訳がなされ,10世紀にはアル・バッターニはプトレマイオスの
天文学書を完全に理解し,翻訳した.そのころから,プトレマイオスの知識を
上回るようになり,観測から黄道傾斜角,遠地点の位置,太陽の離心率,
歳差の値等の天文表の数値を改良した.1000年頃には三角関数の研究を行い,
三角関数表を作った.14世紀にはアッ・シャーティルが全ての惑星の運動を
合理的に表すために,惑星の動きを完全な等速運動をする円の組合せ(周転円)
で表現するようになった.このモデルはコペルニクスのモデルと非常に
よく似ている.
中世アラビアの天文学の特徴は三角法の発展にある.ギリシャの「弦の表」は
インドでは「半弦の表」となり,sinの関数表ができていたが,アラビアでは
精度が高くなるだけでなく,cos,tan,cotの表も作成された.13世紀には
ナシル・アッ・ディーンは球面三角を取り扱った.

1838年,ドイツのベッセルははくちょう座61番星の観測から,年周視差を
発見した.年周視差とは地球が太陽の周りを公転するのに伴い,近くの恒星が
遠い背景の恒星と相対的に生ずる位置のずれがを言う.そのずれの大きさは
0.314"であり,現在用いられている値0.300"に比べて遜色ない.
年周視差の発見により,地動説を直接支持する証拠が得られただけでなく,
恒星までの距離を直接測定するという重要な役割をになうものの観測が可能と
なった.
22名無しさん@占い修業中:02/01/04 00:13
古典スレの427
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1420年代 サマルカンド天文台設立、「ウルグ・ベグ星表」編成
   ウルグ・ベグ(中央アジア・ティムール朝)

アラビアでは天文表が多く作られた.特に恒星表に自分の名前をつけるのが
王としてのたしなみという風潮があった.アッバース朝のアル・マムーン
(813-833)時代にバクダッドに天文台が設けられ,学校や図書館が建てられた.
特に各種の国語に通じた学者が集められ,アリストテレス等の著書の翻訳が
なされた.アル・フラガーニが「マムーン表」を,
ファーティマ朝アル・ハーキム(996-1021)時代にはイブン・ユーヌスが
太陽・月・惑星の運動に関する「ハーキム表」を作った.これらは独自の
観測による恒星表であった.アル・バッターニは489個の星の恒星表を作った.アル・スーフィーは独自の観測で1022個の恒星表を作った.
13世紀にはナシル・アッ・ディーンはマラガ天文台で「イル・ハーン表」を
作った.1420年,ウルグ・ベクがサマルカンド(現ウズベキスタン)に天文台を
建てた.この天文台では恒星の位置,光度が測定された.その恒星表1018個の
内900個は独自の観測によるもので,サマルカンドで観測が困難なものだけ
「アルマゲスト」に修正を加えて,記載されている.観測は木製象限儀で
行われた.この「ウルーグ・ベク表」はケプラーの時代まで使用された.
この恒星表はサマルカンド天文台の歴代台長によって作成された.
それはギヤース・アッ・ディーン・ムーサー,サラフ・アッ・ディーン
・ムーサー,アリー・ビン・ムハムマド・クーシジーである.
23名無しさん@占い修業中:02/01/04 00:13
古典スレの429
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科学史に示されているように,天文学は
もっとも長い歴史をもつ科学であり,また国家が国民に暦や時を
授けるという統治上の必要に用いられた。
そこで天体観測を国家の権威のもとに行うための天文台が
設けられた歴史もまた古い。
エジプト暦が採用されたのは前4200年ころといわれ,
古代エジプトではそれ以前から詳しい天体観測がなされていたことになる。
ナイル川の流域にあったデンデラ,メンフィス,ヘリオポリスの
3都市には,いずれも天文台が設けられていたという。
中東地域のメソポタミアでも,前十数世紀から天体観測が
なされ,有名なバベルの塔は,その頂上で神官たちが
天体を観測した天文台であったという説もある。
前6世紀以降の約800年間は,ギリシアで科学的な宇宙論が
花を開いた時期であるが,当時のギリシアの天文学者の中で,
天体観測の第一人者であったヒッパルコスは,
エーゲ海上のロドス島に天文台を作って観測に励んだ
ということである。前150年ころ,彼は長年の恒星位置の
観測から,歳差運動を発見している。
しかし,3世紀ころからヨーロッパは混乱が続き,
科学が本格的に復活したのは約1000年以上を経た
ルネサンス期以降であった。
天才レオナルド・ダ・ビンチがまだ若かった1471年,
ドイツで最初のニュルンベルク天文台が
レギオモンタヌスによって建設され,
実証精神を重視して盛んに観測が行われるようになった。
当時の大観測家 T. ブラーエが,デンマーク近海の島に
ウラニエンボリ天文台を築いたのは1576年のことであり,
これこそ近世最初の本格的な天文台といえるものである。
彼は六分儀や四分儀などの器械を作ってここに置き,
精密な天文観測を行ってその記録を残した。
一時彼の助手をつとめた
J. ケプラーは,1609‐18年,この記録を整理して,
有名な惑星運動の3法則を導いたのである。
 一方,中国でも,伝説上ではあるが,尭帝の時代に,
恒星の南中を観測して1年の長さをきめていたとされている。
下って前104年,前漢の時代に太初暦という暦が制定された
ころ,落下畑(こう)という天文学者が,以後長く中国の伝統的
天文観測具となった渾天儀を使って観測したという。
その後,隋,唐,宋の各時代にも,この渾天儀が改良製作され,
1260年になって元のフビライが皇位に就き,
北京に天文台を建設したときに作られたものは
今でも残っている。
清朝の康熙13年(1674),ヨーロッパからの宣教師
F. フェルビーストは,諸種の新しい観測器械を増設し,
この北京天文台を拡充した。
 イスラム系の天文学が栄えた中央アジアでは,
1258年,イル・ハーン国の創設者フレグが,
現在イランの北西境にあるマラーガ Mar´gha に
巨大な天文台を作り,ナシール・アッディーン・アットゥーシーを
台長とした。その後,1428年にはティムール朝の名君
ウルグ・ベクがサマルカンドに天文台を作り,
地下深く斜めに掘り下げた観測坑が今なお残されている。
大規模な天文台を作って観測を行うイスラム天文学の影響は
インドにも及び,ジャイプールの藩王ジャイ・シン2世は,
1718‐34年にわたって,領内数ヵ所に大きな天文台を建設した。
ジャイプールやデリーには,石造の巨大な観測器群を
配置した天文台の遺構が当時の姿をとどめている。
24名無しさん@占い修業中:02/01/04 00:17
古典スレの462
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アラビアのそれってよーするに、新プラトン主義の流れだよね?
新ブラトン主義知らない人は以下参照。辞典より抜粋。

ユスティニアヌス帝の勅令による
アカデメイアの閉鎖(529)など6世紀の異教弾圧で,
西方世界にはこの伝統は表だってはとぎれてしまうが,
アウグスティヌス,ボエティウス,偽ディオニュシウス・
アレオパギタなどの著作を通してキリスト教の
教義形成に無視できない影響を与えたほか,
東方キリスト教会にはフィロカリアという形で受け継がれ,
さらにイスラム世界に入って,スーフィズムの哲学的原理
として発展した。
古代ギリシアの学術の継承とあいまって数学,
天文学など自然諸科学の発展に対する寄与も小さくない。
この伝統がルネサンスとともに西方に復帰しフィチーノなどの
〈ルネサンス新プラトン主義〉を生み,
各地のアカデミー運動の原動力となった。
ケンブリッジ・プラトン学派に属する人々や
T. テーラーは近代新プラトン主義者といえよう。

大沼 忠弘

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25名無しさん@占い修業中:02/01/04 00:20
やっと体裁整った(w
こっからどーすれ言うのよ。
たぶん、スレッド作成時のホラリー図が悪いってか(藁
27名無しさん@占い修業中:02/01/04 01:51
みんな、こっちにきてたのか。デオクレタ。
いや、何も起こってないよ。
今は「古典占星術はここで語れやゴルァ」で盛り上がってますな。
あの辺は、人様に任せてそれをゆっくり拝読賜ろう、と心に誓ってしまった。。。
勉強しないと書き込めない。知識を蓄積して近日出直すぜ。
32名無しさん@占い修業中:02/02/25 22:55
良スレあげ 
33名無しさん@占い修業中:02/02/26 02:06
Tester, S.J., 山本啓二訳『西洋占星術の歴史』恒星社厚生閣,1997.
中山茂『占星術−その科学史上の位置』(朝日文庫)朝日新聞社,1993.
矢島文夫『占星術の起源』(ちくま学芸文庫)筑摩書房,2000.
34名無しさん@占い修業中:02/02/27 01:41
こっちも覗いてみろやゴルァ
http://caramel.2ch.net/test/read.cgi/uranai/995743703/l50
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