874 :
待った名無しさん:2006/02/10(金) 05:09:42
雷電程度が現代でも通用すると思ってるバカっているんだなw
875 :
:2006/02/10(金) 09:02:05
ガキは朝青龍が雷電に勝てると思ってるらしいな
876 :
待った名無しさん:2006/02/10(金) 09:46:17
雷電にしてみりゃいまのジジイも赤子だな(笑)
877 :
待った名無しさん:2006/02/10(金) 10:34:56
朝青龍は周りがしょぼかっただけというのは常識だろ
そんな状況で生涯勝率7割台だし
レベルの高い江戸時代で.962の雷電最強だよ
不毛なクソスレ晒しage
879 :
待った名無しさん:2006/02/10(金) 11:39:06
雷電はレベルの低い江戸時代だから凄い勝率の越せただけ。
朝青龍はレベルの低い時代なのにショボイ勝率だなw
周りが少し力をつけてきただけでこのザマだし。
881 :
待った名無しさん:2006/02/10(金) 12:00:32
雷電は多分今でも通用するくらいの体格とパワーがあったんだろう
でも江戸時代のレベルはかなり低かったと考えるのが普通
体格考えても雷電のいた江戸後期は成人の平均身長が160センチ無かった時代
食事は粗末だし科学的な筋トレなんか当然無い
そんな時代に2メートル級の大男が暴れまくったわけだから「怪物伝説」として
残ってるんだろう
>>881 科学的な筋トレ?
米俵運ぶのが最強の筋トレだよ。
今の幕内力士は江戸時代なら
全員名横綱だな
雷電は神
885 :
:2006/02/12(日) 01:42:18
現代厨は可哀相だな朝青龍と曙しか押せる力士がいないwww
100年たったら覚えてる人さえほとんどいないだろう
朝青龍も曙も勝率7割台の凡横綱だろw
雷電・谷風の敵じゃねーよ
887 :
待った名無しさん:2006/02/12(日) 16:47:17
江戸時代なんか全体的にはカスばっかだろ
888 :
:2006/02/12(日) 18:21:29
それはあんたが無知だということを証明しているに過ぎない
889 :
待った名無しさん:2006/02/12(日) 22:12:51
江戸はチンカス以下
890 :
待った名無しさん:2006/02/12(日) 22:22:20
低俗すぎ
891 :
待った名無しさん:2006/02/12(日) 23:32:14
朝青龍が相手に恵まれていることは事実だが、江戸時代の水準なんてわからないだろ。
2ちゃんねる一珍妙なスレですね。
《 栃木山 / 太刀山 / 相撲 / 見物 / 総立 》
●901 56連勝の横綱太刀山(40歳)、小結栃木山に破れる。二萬の見物總立。
【1916/大正05年05月26日/朝日】
降ったり霄(は)れたり鬱陶(うっとお)しい二十五日、この場所もはや八日目とあって...
(中略).....太刀はこの日頃左手の指を病んで居たが、鳳を二度敗り伊勢を一度敗った栃木ながら
この勝負九分に一分の番狂はせはあってもよもや太刀の大敗とは誰しも思ひ設けなかった。
此一番が引繰り返って栃木は別項記載の如く見事太刀を敗った、只敗ったばかりか、何という
見事な極り手の勝利、アッと驚いた二万の見物は一時に総立となって等しく驚愕と昂奮の声を放った。
囂々(がうがう)たる鬨(とき)の声は四方から雪崩(なだれ)を打って土俵に向かって流れた、
鉄傘下(てっさんか)に巻返す人の波、声の波、塵埃(ほこり)と砂が何処からとなく飛び交って濛々
(もうもう)と渦を巻いた、......(以下略)..
[出典:朝日新聞社編 朝日新聞100年の記事にみるスポーツ人物史 P.83]
《 栃木山 / 太刀山 / 相撲 》
●902 勝者栃木山:勝って逃げた栃木山 【1916/大正05年05月26日/朝日】
.....『栃木山!!』の狂呼と共に今度は大海瀟(おおつなみ)が東の花道にドッと押し寄せる。
先(まず)花道の取的連が真先に躍り狂って部屋に飛込むと群集の狂■{らん}がワッと許りに
雪崩(なだれ)と躍り込む、栃木山は恰(あたか)も怒濤に揉(も)まれる難破船のように
『ワッショ』と『万歳』の掛声に胴上げにされながら胸から上を群衆の頭の上に現して部屋に
担ぎ込まれる、此処でも亦『栃木山万歳』の歓呼が起る、.....(中略)....屹度(きっと)群衆に
包囲されて身動き出来ないのだと思って居る途端洗い場と高塀(たかべい)の間を一人の力士が
両手で臀(しり)を端折(はしを)って逃るように駆けて行く......『栃木山が逃げた』と誰かが怒鳴る。
又『ワーッ』と動揺めく。記者連も群集も好くスッポ抜けを喰(く)はされる。贔屓(ひいき)の
一人に詰(なじ)ると『群集に胴上げされたり、撲たれたりするので負傷でもしたら大変ですから
ソッと逃がしました』と云ひ更に『併し栃木山は泣いていました。真実(ほんたう)に嬉涙を
一杯にして■{い}ました』と其男までが感極まって声を震はす
[出典:朝日新聞社編 朝日新聞100年の記事にみるスポーツ人物史 P.84
895 :
待った名無しさん:2006/03/07(火) 22:21:36
《 栃木山 / 太刀山 / 相撲 》
●903 敗者談:太刀山の敗戦談 【1916/大正05年05月26日/朝日】
板塀一枚で背中合せの西方部屋では御大太刀山が明荷(あけに)を前に大胡座(おほあぐら)を
掻(か)いて弟子に汗を拭かせて居る、其の周囲には贔屓(ひいき)連が群がって『仕方ないさ
病気を無理に出てるんだから』と悲気(かなしげ)な断念(あきらめ)を云うを太刀は
夫(それ)には耳も借さず独言(ひとりごと)の様に『土地に生えた松の木だって倒れる事が
あるんですからナア』とニッと苦笑する、太刀山の感慨と気性(きしょう)とは此一言に
尽きて居る、......(中略)......『ナンショ此通りですから』とi繃帯(ほうたい)を施した左の指を示す、
負傷した中指と食指(くすりゆび)は腫上(はれあが)って居る『是ですもの此方から突て行く事が
出来ないんです、片手で相撲取るのだから引張り込むか組むより外に仕方がないのです、
九州山との時も引張り込んだものですから彼麼(あんな)に危なかったのです』と
沈着(おちつき)払って語ったが流石豪胆(がうたん)な太刀山も今日ばかりは何処か
打萎(うちしを)れて見えた。
[出典:朝日新聞社編 朝日新聞100年の記事にみるスポーツ人物史 P.85]
http://www.eonet.ne.jp/~otagiri/new_page_25.htm
896 :
:2006/03/09(木) 11:03:57
最近負けたからといってこんなに話題になる力士はいないな
せいぜい千代の富士くらいか
>>893-895乙。
2万人も客呼べてたのに不人気横綱とは太刀山はなんてかわいそうなのだろうか。
898 :
:2006/03/13(月) 06:31:50
大伴 大江丸
負けてこそ人にこそあれ相撲取
寛政12(1800)年10月場所初日に44連勝中(途中に無勝負を 1つ挟む)の雷電が鯱(当時は幕下 3)に敗れる大番狂わせが起きた。
朱楽 菅江(あけら かんこう)
手なれせし手を蟷螂の小野川やかつも車のわっという声
天明 2(1782)年 2月場所 7日目に 4年 7場所も土付かずで63連勝(引き分けなどを挟む)を
続けていた谷風を小野川(当時は幕下 3)が倒し、一気に小野川の名は天下に轟いた。
唐衣 橘州
水ぱなの誰かは咳をせかざらん関はもとより強き谷風
「咳」と「関」、「カゼ」と谷風の「風」を掛けている。
太田 蜀山人
谷風は負けた負けたと小野川がかつをより値の高いとり沙汰
上記の朱楽 菅江の歌と同じ小野川の快挙を詠んだ歌。「(勝負に)負け」と「(値を)負け」、「勝つ」と「鰹」を掛けている。
百里をも驚かすへき雷電の手形をもって通る関と里
蜀山人は雷電の良き友人だった。これは雷電の手形に添えた賛で、「関と里」は「せきとり」。
天田 愚庵
東の関も投げたり常陸山天か下には唯一人也
東は梅ヶ谷かよ西は誰ぞ常陸山とぞ名乗り挙げたる
明治36(1903)年 5月場所 9日目に観戦した際に詠んだ歌。この日は常陸山と梅ヶ谷が共に 8戦全勝で対戦し、
勝負は常陸山が制したが、場所後に揃って横綱に推挙された。
右筈へ天下無双の七五三を張り
栃木山は無敵の筈押しによって、しめ縄(すなわち横綱)を張った。
http://www.fsinet.or.jp/~sumo/haiku/04.htm
899 :
:2006/03/19(日) 13:35:57
力士幕内勝率ランキングベスト50
■幕内20場所以上、在位した力士のみ。■成績は宝暦7年(1757)から現在まで。15位の
関ノ戸億右衛門Tは、それ以前の入幕だが成績が不明のため以降の成績のみでランキングした。
■分預無は0.5勝0.5敗に換算。(分、預かり、無勝負があった時代の力士が有利になりすぎるため。
これまでこのコラムで紹介してきた力士の記録とは勝率が異なっている)■新入幕、現役最終場所は
西暦に置き換えた。■同姓同名の力士には時代順でT、Uとつけたが、西ノ海、梅ヶ谷を除くと
正式の代数ではない。。■明治23年(1890)までは「横綱」は大関力士の一部に許された尊称であり、
地位ではなかったが便宜上最高位とした。■優勝制度は明治42年(1909)6月に制定されたが、
それ以前の幕内最高成績も「優勝回数」に加えた。■現役力士は2001年11月場所終了時点。
■大関は紫色、関脇以下は赤色で表示。 参考文献「古今大相撲事典」(読売新聞社)
「大相撲人名大事典」(ベースボールマガジン社)近世名力士伝(読売新聞社)他
順位 力士名 最高位 新入幕年 現役最終年 場所数 勝 敗 分預無 勝率 優勝回数 出身 身長cm 体重kg
1 雷電為右衛門 大関 1790 1811 34 254 10 21 0.928 28 長野 197 170
2 谷風梶之助 横綱 1769 1794 49 258 14 37 0.895 21 宮城 189 160
3 梅ヶ谷藤太郎T 横綱 1874 1885 20 116 6 20 0.887 9 福岡 176 105
4 小野川喜三郎 横綱 1781 1797 21 144 13 16 0.879 7 滋賀 178 135
5 稲妻雷五郎 横綱 1824 1839 23 130 13 18 0.863 10 茨城 188 145
6 栃木山守也 横綱 1915 1925 21 166 23 11 0.858 9 栃木 172 104
7 常陸山谷右衛門 横綱 1899 1914 25 150 15 24 0.857 8 茨城 175 145
8 鬼面山谷五郎 横綱 1857 1870 25 143 24 24 0.856 7 岐阜 186 140
9 太刀山峰右衛門 横綱 1903 1918 26 195 27 15 0.854 11 富山 187 140
10 大鵬幸喜 横綱 1960 1971 64 746 144 0 0.838 32 北海道 187 150
900 :
:2006/03/19(日) 13:41:37
順位 力士名 最高位 新入幕年 現役最終年 場所数 勝 敗 分預無 勝率 優勝回数 出身 身長cm 体重kg
11 玉垣額之助T 大関 1794 1812 30 189 29 30 0.823 2 長崎 182 130
12 双葉山定次 横綱 1932 1945 29 276 68 1 0.801 12 大分 179 134
13 小錦八十吉 横綱 1888 1901 21 119 24 16 0.799 7 千葉 168 128
14 梅ヶ谷藤太郎U 横綱 1898 1915 34 168 27 49 0.789 3 富山 168 158
15 関ノ戸億右衛門T 関脇 1757 1776 33 107 23 17 0.786 3 岩手
16 荒岩亀之助 大関 1897 1909 23 120 29 13 0.781 6 鳥取 170 88
17 常の花寛市 横綱 1917 1930 30 221 58 14 0.778 10 岡山 178 115
18 羽黒山政司 横綱 1937 1953 34 321 94 1 0.773 7 新潟 179 120
19 柏戸利助 大関 1811 1825 28 158 37 28 0.771 16 青森 183 132
20 秀の山雷五郎 横綱 1837 1850 23 112 21 35 0.771 6 宮城 164 150
21 剣山谷右衛門 大関 1834 1852 32 143 31 33 0.771 6 富山 167 115
22 阿武松緑之助 横綱 1822 1835 26 140 31 33 0.769 5 石川 173 135
23 玉錦三右衛門 横綱 1926 1938 37 308 92 3 0.768 9 高知 174 140
24 柏戸宗五郎 大関 1795 1812 28 155 36 33 0.766 4 埼玉 184 116
25 貴乃花光司 横綱 現役 685 210 0 0.765 22 東京
26 雲竜久吉 横綱 1852 1865 23 127 32 20 0.765 7 福岡 178 135
27 北の湖敏満 横綱 804 247 0 0.765 24 北海道
28 玉垣額之助U 大関 1810 1824 23 119 27 28 0.764 長崎
29 千代の富士貢 横綱 807 253 0 0.761 31 北海道
30 照国万蔵 横綱 1939 1953 30 271 91 0 0.749 2 秋田 173 160
901 :
:2006/03/19(日) 13:56:45
順位 力士名 最高位 新入幕年 現役最終年 場所数 勝 敗 分預無 勝率 優勝回数 出身 身長cm 体重kg
31 鷲ヶ浜音右衛門T 大関 140 37 31 0.748 2
32 輪島大士 横綱 1971 620 213 0 0.744 14 石川 184 128
33 国見山悦吉 大関 1900 1912 23 111 29 29 0.743 2 高知 179 135
34 曙太郎 横綱 566 198 0 0.741 11 米国
35 境川浪右衛門T 大関 1850 1861 21 111 35 14 0.738 2 三重 190 130
36 不知火光右衛門 横綱 1856 1869 24 119 35 24 0.736 3 熊本 177 120
37 稲川政右衛門 前1 1769 91 23 31 0.734 3 大阪
38 西ノ海嘉治郎T 横綱 1882 1896 27 127 37 29 0.734 2 鹿児島 176 127
39 越ノ海勇蔵 前1 1759 1780 34 133 35 43 0.732 3 新潟
40 武蔵丸光洋 横綱 現役 647 242 0 0.728 9 米国
41 荒馬源弥 関脇 1798 124 37 31 0.727 2 神奈川
42 佐田の山晋松 横綱 1961 1968 42 435 164 0 0.726 6 長崎 182 125
43 出水川貞右衛門 関脇 1765 1780 21 83 22 33 0.721 3 鹿児島 140
44 境川浪右衛門U 横綱 1867 1881 26 118 23 76 0.719 5 千葉 169 130
45 鷲ヶ浜音右衛門U 関脇 1856 22 99 33 19 0.719 1 長崎
46 栃錦清隆 横綱 1947 1960 51 513 203 1 0.716 10 東京 178 120
47 武蔵山武 横綱 1929 1939 23 174 69 2 0.714 1 神奈川 186 117
48 緋縅力弥T 大関 1802 1822 28 147 49 33 0.714 0 広島
49 柏戸剛 横綱 1958 1969 60 599 240 0 0.714 5 山形 188 140
50 東富士謹一 横綱 1943 1954 30 261 104 2 0.714 6 東京 179 160
http://www.wanogakkou.com/culture/020000/020501_sumo08.html
902 :
待った名無しさん:2006/03/19(日) 21:17:50
>>899-901。
鬼面山が.856で8位とあるが、引き分け預かりを0.5勝0.5敗で計算したら.812ぐらいになるはず。
陣幕や大錦卯一郎は幕内出場20場所未満なので省かれているようだがこれはあまり妥当とは思えない。
903 :
:2006/03/20(月) 10:32:14
904 :
待った名無しさん:2006/03/23(木) 13:45:02
時代が転んだ!?朝青龍から白鵬へ、玉錦と双葉山に似て
横綱になって同じ相手に連敗は2度だけ
白鵬に完敗を喫した朝青龍。この勢いを止められるか?
出るくいはたたけ、というのがナンバーワンの座を維持する鉄則。
たたき損なうと、とんでもないことになる。
まだ頂点に上り詰める前の不世出の横綱、双葉山が6戦して6敗と
どうしてもかなわず、最大の目標にしたのが横綱玉錦だった。
ところが、7戦目で初めて双葉山が勝つと両者の関係は一変。
玉錦は、昭和13年12月に現役のまま没するまで1度も勝てなかった。
この玉錦、やはり2年半もひとり横綱。
初めて勝ったときの双葉山は関脇だった。
つまり、今場所の朝青龍と白鵬に状況がよく似ている。
http://www.zakzak.co.jp/spo/2006_03/s2006032307.html いよいよ覇者交代か
以外と短かったね
905 :
:2006/03/24(金) 05:44:56
栃木山守也(とちぎやま もりや、1892年2月5日-1959年10月3日、
栃木県下都賀郡赤麻村(現在の藤岡町 (栃木県)|藤岡町赤麻)出身)は、
大正時代に無敵を誇った大相撲の第27代横綱。
「史上最軽量の横綱」と形容されることが多いが、厳密に言えばこれは誤り。現在でも
春日野部屋の力士が「栃」のつく四股名を名乗るのは、部屋の開祖である栃木山にならってのもの。
現役
1911年2月、初土俵。
入幕までに喫した黒星がわずかに3というスピード出世だったが、その軽量のために
幕下にあがるころまで師匠の出羽ノ海(常陸山谷右エ門)からもほとんど省みられなかった
という。幼少時代に海を見たことがなく上京のために乗った列車で初めて海を見て
「でっかい川だなあ」と言ったと伝わりこの時一緒に乗っていた兄弟子の宇都宮新八郎
|宇都宮は後々までこれを話の種にしていた。当時としては非常に珍しい左利きだったが
指導を担当した若者頭から左を効かせるためには右も強くしろと言われそれを守って
強くなったと伝わる。その怪力を伝える逸話として、ピラミッド状に詰まれた米俵の
真ん中のものを片手で引き抜き、あるいは半分抜いてまたねじこんだなどという。
その右手でおっつけられた相手は腕がねじきられるのではないかと思ったという。
1916年5月場所8日目に、当時最強の太刀山峯右エ門を破ってその連勝を56でストップ。
1917年5月場所、大関昇進。以降1919年1月場所まで5場所連続優勝。
この間、1918年5月場所で横綱昇進を果たす。
当時の出羽ノ海部屋には玉錦三右エ門のように他の部屋から預けられた力士も大勢いたが
栃木山はそういった力士にも区別なく稽古をつけていた。また出羽ヶ嶽文治郎|出羽ヶ嶽の
ように他の力士が稽古を嫌う力士との稽古も積極的に行なった。このあたり、師匠と似ていないだろうか?
大関と横綱を通算15場所、うち風邪で全休した1場所をのぞいて、7場所で優勝、6場所で
半星差の準優勝、残る1場所は優勝力士との間に半星差の準優勝力士を挟んで1勝差の3位だった。
この安定感をもって、近代最強力士に推す意見も多い。
906 :
:2006/03/24(金) 05:47:26
924年1月場所から翌年1月場所までを3場所連続優勝の後、翌5月場所直前で突然の引退表明。
これについては3連覇しながら張出のままとされた番付面での不満、頭髪の衰えを気にして、
などの諸説があるが、当人は「衰えてから引退するより、力のあるうちにやめたい」とだけ語り、
このエピソードは現在まで横綱の引退の理想像として伝説的に語り継がれている。
当時他にも2横綱がいたが彼らよりまだずっと強かったので周囲は誰しもその引退には反対し
まだ5年は勤まるとの声まであった。太刀山の突っ張りに対抗して磨いた出足鋭い押し相撲。
そのすり足によって土俵に土煙が舞い、勝負の決まった後にはレールのような二本の線が
くっきりと残っていたという。自身の理想体重をさだめて稽古量を調整するなど、
近代相撲の開祖と評される。押しの速攻は土俵入りにも現れていた。彼の弟子で後にこの型を
受け継いだ栃錦の土俵入りを見た人ならわかると思うが非常に早い土俵入りだった。
年寄・春日野
引退後は養父である行司・式守勤太夫の持ち株であった年寄・春日野を襲名。
当時「分家を許さず」の不文律があった出羽ノ海部屋から例外的に独立を許され、春日野部屋を創立。
不文律の作者常陸山がただ1人認めた例外であった。
養父の名跡を受け継ぐものであるし、人物的にも評価されてのことだった。
常陸山の死後後継問題をめぐって紛糾し、有力候補と見なされたが、すでに独立を
許されているからと一番に身を退いた。のちに横綱栃錦清隆らを育成している。
1931年には第一回の全日本力士選士権に参加。現役の玉錦三右エ門、天龍三郎らを
やぶって優勝を飾った。これについて、玉錦らには日頃から稽古をつけており手のうちを
知っていたのではないか、現役の側に遠慮があったのではないか、などの意見もあるが、
ともかくその引退が衰えによるものではなかったことを証明してみせた形だった。
907 :
:2006/03/24(金) 05:50:32
また現役時代に13尺土俵で一時代を築いた栃木山が、現在と同じ15尺土俵でも無敵を
発揮したという意味で、この逸話は特筆される。史上最強の力士は誰か、といった論議の際に
江戸~明治期の伝説の名力士たちが、15尺土俵でもあのような高勝率をのこせたかどうかが、
重要な論点の一つになるからである。
後日談として、周囲から「年寄が勝ってどうするんだ」「相撲をつぶす気か」と、あるいは
ひやかされ、あるいは本気で叱責されて、翌年から同大会に出場することはなかった。
年寄としては「この人が本当にそんなに強かったのか」といわれるほど、
春風駘蕩という性格で知られた。「力士は寡黙であれ」が美徳とされた時代から、「記者のむこうに
数百人の読者がいるのだから」と弟子たちにマスコミ対応を徹底した。
一方その怪力ぶりは衰を知らず、昭和30年代のある日には弟子の栃光正之|栃光とその付人達が
動かそうとして動かなかった大火鉢を1人で軽々持ち上げ動かしてしまった。
昭和27年には当時の蔵前仮設国技館で赤い綱を締め露払安藝ノ海節男|藤嶌、
太刀持羽黒山政司|羽黒山を従えて還暦土俵入りを披露した。
主な成績
*通算成績 166勝23敗7分4預24休
*優勝回数 9回(全勝2回)
*金星2
ttp://prof.mmmax.net/400/93C896D88E528EE796E7/
全盛期の曙
910 :
:2006/03/28(火) 10:02:52
全盛期でも全勝がない曙
911 :
:2006/03/32(土) 10:21:00
常陸山谷右衛門
常陸山 谷右エ門(ひたちやま たにえもん、1874年(明治7年)1月19日 - 1922年(大正11年)6月19日)は、
明治期に活躍した大相撲の第19代横綱。本名は市毛 谷。現在の茨城県水戸市出身。近代化へむかう国勢
の中で、現役時代には梅ヶ谷藤太郎 (2代)|二代目梅ヶ谷藤太郎との「梅・常陸時代」で角界を隆盛に導いた。
引退して後は、年寄・出羽海部屋|出羽海として横綱栃木山守也以下の名力士を多数育成、現在まで続く
出羽一門の礎を築いた。また、日本相撲協会|相撲協会取締役として辣腕をふるい、力士の地位向上に
多大な功績を残し、角聖の異名を冠された。彼の代までは出羽ノ海だったがその死後に継承した
元小結両國はノを外して出羽海とした。これは常陸山の偉大さを称えてのことであるとされた。
稽古熱心でありまた後進の指導にも熱心で有望な力士には一門や陣営(当時は番付の東西に分かれて
割が組まれたため自分と同じ片屋は全員味方、反対の片屋は全員敵だった)の区別なく稽古をつけ
当時数ある小部屋の1つでしかなかった出羽ノ海を1代で大きくした。大の負け嫌い、そして引分嫌いで
強引な相撲も取るが取りこぼしは少なかった。それでもしぶとい相手には手を焼くことがあったという。
彼の弟子である大錦卯一郎|大錦、栃木山、常ノ花寛市|常ノ花の3横綱はいずれも師匠の影響だと言って
土俵入りの際太刀持を左に立たせていたそうだが常陸山引退土俵入りの写真を見ると不思議なことに
太刀持を勤めた太刀山峯右エ門|太刀山は右にいる。
912 :
:2006/03/32(土) 10:23:53
その土俵入りはせり上がりこそ現在雲竜型と
呼ばれるものに近いが拍手の直後に両腕を広げるという現在では見られないものであり、初披露で
間違えて行なったものが吉田司家による検証の結果過去にもあったと考えられる資料(不知火諾右エ門の
錦絵であったらしい、綱姿で両腕を広げたものが現存)が見つかり最後までこの型を通した。ところがこれを
継承するものは誰もおらずもし将来誰かが突如この土俵入りを行うと言い出せば「常陸山型」と呼ばれる
べきものであろう。横綱免許授与が決まると常陸山はしばらく考えた後に「できれば梅ヶ谷関といっしょに
お願いします」と返答、しかし当時は大砲万右エ門|大砲がまだ現役の横綱であるため同時免許が
実現すれば前例のない3横綱になってしまう。ところが司家は双方承認した。このため常陸山の器の
大きさが知れ渡るとともに当時から既に歴代横綱としては常陸山が先であるという見方が存在したという。
武家に生まれた影響か力士は侍であるとの思想の持ち主で現役時代から力士の品位を向上させる努力を
怠らなかった。また弟子への指導の厳しさは有名で稽古場では常に愛用する青竹のステッキを持っていた。
後の横綱たちも、彼が稽古場にこのステッキを持って現れると、ふるえあがったという。悪い相撲をとったり
稽古をしなかったりすると容赦なくこのステッキで殴っていたが逆によい相撲をとれば賞金を出し時にその
金額は10円にも達したという。相撲史上屈指の艶福家として伝わる。「あなたの子だ」と言ってつれて
来られれば、ろくに調査もせずにすべて認知し、十分な援助をした。現在も日本中に「常陸山の傍流の子孫」を
名乗る家は多い。弟子の1人小常陸を養子とした。孫娘は笠置山勝一|笠置山の妻である。
913 :
:2006/03/32(土) 10:25:28
太刀山峰右衛門。
寄生中症を克服してからは、上述の常陸山が八百ってもらえないと引き分けさえできなくなった最強横綱。
915 :
待った名無しさん:2006/04/04(火) 13:33:40
太刀山って強そうだけど今ひとつ品格が感じられない気がするのは何故だろう
「角聖」っていうと常陸山の代名詞だし
太刀山は良識があったからね。
917 :
待った名無しさん:2006/04/13(木) 14:22:59
千代の富士が全盛期に100m11秒台で走れたってほんと?
>>918 太刀山夫人の賢妻ぶりも知らないお子ちゃまは学習院で愛子とでも遊んでなさい。
920 :
待った名無しさん:2006/04/23(日) 14:15:42
貴乃花っておもいっきり無理して太ってたんだな・・・
別の競技やった方が良かったんじゃないのか。
922 :
:2006/05/15(月) 04:09:57
水増し横綱ですから
923 :
:
朝青龍の強さも一年で終わったが強さを何年も維持するのは難しいねえ