>>362 中葉さん、こんなとこにおったノネ
ええ、ここ本宅なんです。コテハンが「宙援隊員」だった当時建てました。
なるへそ
12月18日の朝日新聞朝刊、夕刊に第2回大佛次郎論壇賞受賞、池内恵著「現代アラ ブの社会思想―終末論とイスラーム主義(講談社現代新書)」の興味深い記事があ ります。私は入手後、コメントがあればお伝えするつもりですが、すでにお読みの 方はいらっしゃいませんか? 私はなんとなく、我々の内なる「終末論とイスラーム主義」が気になって仕方があり ません。
>>367 >「いかにして組織は構成メンバーに社会規範を凌駕するような組織規範を植えつけ
> るのか、そしてそれはいかにして機能するのか」は研究する必要がありますので
> 今回はこれで逝って見ましょうか。
最近私が関係した/している研究テーマでは、プロジェクト管理、
EAI(Enterprise Application Integration)、BSC(Balanced Score Card)な
どのすべてで、こういう議論が核心として立ちはだかり、あえ無く敗退しています。
どうもこの問題はマンハイムが言う(例えば「人間と社会」)鍵鑰的要點(key
position)、媒介原理(principia media)に近い戦略的な課題のように思います。
上記、池内氏の提起した問題も同根の用に思われます。
俺が時々言うには、グローバリズムとグローバル・キャピタリズムは ちゃんと分けて考えるべきだってことだなぁ・・・。
ちゃんと分けて考えた結果どうなりましたか? サワリだけでも聞かせてください。
WTCが消し飛んでしまいました(涙
あのあのあのあの、グローバル・キャピタリズムって。
あの「グローバリズムとローカリズム」スレでの議論に感じた違和感の源は
その二つの間の差異だった、って考えて良いですか?
(
>>373 氏、あっちにもいらっしゃったですよね)
宮澤賢治が郷里の岩手で『春と修羅』の序文など書いていた ことを、ふと想ってみたり・・・。
単純に「景気循環論」て言っても、その背景には国際政治の ダイナミックな変動があったりするよな・・・。 米国の民主党時代のニュー・エコノミズムは「ゼロ・サム 社会」って言うような考え方がなくて、世界中から米国にカネ を吸い上げるだけで、結局、周辺諸国の経済をガタガタにして 自滅したんだったよな。ウマイ話には気を付けろってことかな?
同時多発テロ後の社会構築3 とダブルポストで恐縮ですが、、、 買って積んであるだけなので、なんとも言えませんが、 グローバリズム宣言 パクス・アメリカーナを超えて、ボワイエ他編、藤原書店 アメリカを幸福にし、世界を不幸にする、不条理な仕組み、ウォルフレン著、 ダイヤモンド社 は読む価値がありそうです。
ウォルフレンかぁ・・・、あのオランダ野郎、いつの間にか日本で 復活しやがったのか(藁
381 :
タリちゅう :02/12/26 03:41
ウォルフレン、面白いよ。俺はリア厨のころ、小林よしのりのゴー宣でみて 「人間を不幸にする日本というシステム(毎日新聞社)」買ったんだけど。 恥ずかしいキッカケだけど、中葉さんが言うから久々に読み返してみたら、 けっこう踏み込んで痛いとこついてた。以下、背表紙の要約の引用です。 ■日本人は「知るもの」と「知らざるもの」のふたつにはっきり分けられている。 普通の人々には「もっともらしいウソ」だけが与えられる。真実はエリートだけが知っている。 ■自己検閲は日本のマスコミ人の第2の天性になっている。恐怖心が彼らを支配している。 日常の会話では自分の意見をはっきり言う。しかしそれは決して紙面に出ない。 ■日本では民主主義はいまだ実現していない。それは可能性にとどまっている。日本人が 現実だと思っていることはほとんど幻想だ。幻想はただ現状維持だけにとどまっている。 ■政治家は悪玉、官僚は善玉、という図式こそ最悪だ。日本の人々は意図的にそう思わされてきた。 あなたもまだそう思っているなら今こそ目を覚ましてほしい。そして、新聞はもう人々を 惑わすのをやめなさい。
382 :
タリちゅう :02/12/26 03:47
↑ ↑ ↑ 日本にかぎらず民主主義の傾向としてあるものだと思う。 アメリカなんか、いまもっとひどいかんじする。 町中星条旗だらけ、アフガニスタンやイラクの場所も知らない アフォ連中がイケイケ!ってやってるよ。 戦争はアフォ大衆にも責任ある。
>>381-382 は正に現代の本質的な問題を指摘してくださいました。
>>1 カール・マンハイムの「自由・権力・民主的計画(未来社)」を国際経営学部の組織論特論の教科書に使っています。
とご紹介した本の講義録第3部「情報化社会における新しい人間像」
http://home1.catvmics.ne.jp/~shibatay/plan3.htm 「第7講 慣習から科学へ」は以下のような書き出しから始まっています。
====================================
これまで提案してきた制度的な改革は、人間の意識と行動との改革が伴わない
限り実現しないであろう。つまり、民主的な政治が安定するかどうかは、それに
ふさわしい民主的な教育がなされるかどうかにかかっているのである。民主主義
は、社会のいろいろな制度と教育の諸方策と人々の基礎的な価値判断との間に整
合性がない限り存続することはできない。(もっとも、このことは、民主主義以
外の主義の場合にも同様に当てはまることではあるが。)以下、これらの点につ
いて論ずる。
====================================
もっとも本質的、かつ広範な意味での教育の問題だと思います。
384 :
タリちゅう :02/12/30 03:53
>>383 (中葉さん)
>これまで提案してきた制度的な改革は、人間の意識と行動との改革が
>伴わない限り実現しないであろう。(以下の文もふくめ)
この部分は、民主主義のみならず社会主義、独裁政権、イスラム教国含めて、
「大衆」が良く生きるか悪く生きるかにかかわってくる重要な問題だと思います。
大衆は支配層とくらべて膨大な数がいるはずですから、正しい世論を形成できれば、
主義や体制にかかわらず、社会を動かす力をもってるはずです。なかでも民主主義は、
動乱や革命という手段を使わず、平和的に「大衆の力」を駆使できるはずなのに、
どうして世界はあいかわらず混迷してるのか。
古事記で、大衆のことを「青人草」と表現していたことを思い出します。
「青人草」はその時その時の体制を維持するための土壌にすぎず、個々の人格や活動は
土着のささやかな民話や伝説にはなったかもしれませんが、大局的には影響力がありません。
時代がかわって民主主義というシステムが与えられても、それは本質的に変わってないと思う。
人間には貴賎があるのでしょうか?大衆が「青人草」であるかぎりはあると思います。
じょうずな宣伝や教育で我々は自分たちを根拠もなく立派な一市民と思っていますが、
盲目的にそれに甘んじて、我々自身がカンチガイしているかぎりは、理想の社会は
訪れないでしょう。
それを是正する「もっとも本質的、かつ広範な意味での教育」とは、まずは現行の
欧米グローバリズムを分析しつくした結果生じる、意外とシンプルな「道徳文化」に
なると思います。かつてのアジアの美徳は、これからの道徳に大切なヒントを
与えると思うのですが。
>かつてのアジアの美徳は、これからの道徳に大切なヒントを与えると思うのですが。
良いポイントを指摘していただきました。全く同感、大賛成です。
「アジアの美徳」と言われると広すぎて、うかつには「その通り」とは言えませんが、
明治維新前後に日本にきた多くの欧米人がこのことに気付いたようです。
実際、第二次世界大戦後、1970年代に日本で私も協力して社会教育に携わったアメ
リカ人(ICA:The Institute of Cultural Affairs
http://www.icajapan.gol.com/indexj.html も、日本社会の犯罪の少なさと治安の良さを誉めそやし、これを世界に広めたいと
盛んに言っていました。
問題は、その背景をきちんと説明できないことと、従って当然、そのノウハウを海
外に移転できないことです。(以下続く)
(385に続く)
このスレの主題となっているマンハイムは「自由・権力・民主的計画」の中で、
(以下、講義録
http://home1.catvmics.ne.jp/~shibatay/plan1.htm 「1.4自律的な小集団の退場」から「1.10コンセンサスと宗教的な絆の崩壊」
までを参照ください。)世界歴史の一般的な趨勢からこの問題を論じています。
また、このスレでもしばしば引用しているカリフォルニア大学バークレー校名誉教
授のR・N・ベラーは「徳川時代の宗教(岩波文庫)」の中で、ウェーバーの
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」と同じ方法論に基づいて日本人
の価値観が浄土系宗教によって形成されたことを論証しています。興味深いことに
ペーパーバックス版まえがき(1985年7月)において、“今日、アメリカは、かつ
て保持していた競争力の優位を失っている。この力はなお巨大であるが、アメリカ
は、もはや未来に役立つ模範的思想から他の国々に刺激を与えない。どこかの国
が、今日その役割を果たすとするなら、それは日本である。しかし、急速な近代化
も不可避的に伴うと思われる損耗――成功のための諸条件をいずれ否定することに
なる損耗――は、日本にありありとみられ、そのために、将来数十年間、日本が優
越さを持続すると予想することは、ほとんど難しいと思われる。(文庫版p.25)”
私は、概ねベラーに同意せざるを得ません。しかし、「ほとんど難しい」という判断
は、僅かの可能性を残しています。私は残りの僅かの人生を、この可能性に賭けて
います。
387 :
タリちゅう :02/12/31 04:58
>>386 >アメリカは、もはや未来に役立つ模範的思想から他の国々に刺激を与えない。
>どこかの国が、今日その役割を果たすとするなら、それは日本である。
>しかし、急速な近代化も不可避的に伴うと思われる損耗――成功のための諸条件を
>いずれ否定することになる損耗――は、日本にありありとみられ、そのために、
>将来数十年間、日本が優越を持続すると予想することは、ほとんど難しいと思われる。
この論法で言う「日本」とは、「価値観が浄土系宗教によって形成された日本」という前提でしょうか。
俺は、じぶんちの宗教もなんだかわかんないから、少し「浄土系宗教」というものをベンキョしないといけないな。
>>384 で言った「アジアの美徳」とは、自分自身まだうまく文章化できないのですが、イメージとしては、
他者への最初のコミュニケーションとしてまず先に与えるほほ笑み、同民族のマナー破りにたいして自分自身も
恥じらってしまう感覚。個人的な見方にすぎないかもしれませんが、他民族や他文化をわりと容易に受け入れて、
自分たちの文化と融合させ、そこから新しい技術や楽しみを見つけていく柔軟性なんかが、いまのところ
思いつきます。
さらに超個人的な感想を言うと、東南アジアの女性達の物腰は、とても美しいとかんじた。
いま、北朝鮮や韓国、中国のことばかりスポットライトがあたってますが、北朝鮮はともかく
韓国や中国の若い人は、日本のファッション雑誌やドラマのビデオ見て、いっしょけんめい
おシャレして可愛いよ。なんか自分たちの文化にも誇りもミックスしてやってるかんじなので、
日本の茶髪お姉さまたちにくらべて、イナカっぽいけど「上品」さもかんじます。
なんか今回はまとまりないレスで申し訳ありませんが、俺もこれから「アジアの美徳」を
調べてうまく文章化してみたいので、今回は思いついた印象をダラダラ書いてみました。
ヒントやインスピレーションわいた人は、ささいなことでも何かあげてくれるとうれしいな。
>>387 この論法で言う「日本」とは、「価値観が浄土系宗教によって形成された日本」という前提でしょうか。
必ずしもそうではないと思います。この原文に続く文章は以下の通りです。
“私は日本の社会を特徴づけるのに、一方では集団に対する忠誠、他方では個人と
集団の達成を強調する社会であるとした。両者が結びつくことから、強力で効果的
な集団行為は生まれる。私はごく普通の国民の生活に焦点をあてて、「徳川時代の
日本の社会構造、信条と実践」についてこうした行為のパターンの由来を位置づけ
た。”
私は、ベラーが“この論法で言う「日本」とは、”「徳川時代の日本の社会構造、
信条と実践」を言ってyいるのだと思います。
山本七平の「日本教徒(文芸春秋社)」に登場する多くの日本教徒一般が該当す
ると思います。
>>384 (タリちゅうさん)
>それを是正する「もっとも本質的、かつ広範な意味での教育」とは、まずは現行
>の欧米グローバリズムを分析しつくした結果生じる、意外とシンプルな「道徳文
>化」になると思います。かつてのアジアの美徳は、これからの道徳に大切なヒン
>トを与えると思うのですが。
カール・マンハイムは「自由・権力・民主的計画(未来社)」の13.3.2(講義録の
12.3.2
http://home1.catvmics.ne.jp/~shibatay/plan3.htm )不安定性の源
泉としての道徳の二重性」において以下のように言っております。21世紀の世界に
ぴったり当てはまるのではないでしょうか?
社会の進歩のためには、しばらくの間我々の自己中心的な地平線から離れて、
コミュニティのために何が善であるかを見ることのできる、我々の抽象的な道徳性
をもっと高めなければならない。旧式の説教者の誤りは、我々は利己的ではなくて
利他的でなければならないことを示唆しながらも、彼が我々の良心にしか訴えなか
ったことである。つまり、彼は社会構造を批判しなかったが、我々の行為は社会構
造の中で行われなければならないし、その社会構造のルールが個人に自己中心的な
ゲームを強制しているからである。だから、個人における社会的責任性を改善する
ことは、それと同時に社会的な改革を通して、我々の社会構造におけるゲームのル
ールを変更できる場合にのみ、効果を期待できるのである。
390 :
タリちゅう :03/01/08 07:44
>>389 >社会の進歩のためには、しばらくの間我々の自己中心的な地平線から離れて、
>コミュニティのために何が善であるかを見ることのできる、我々の抽象的な道徳性
>をもっと高めなければならない。
コピペで申し訳ありませんが、きょう【同時多発テロ後の社会構築】に書いたやつで、
サン・テグジュペリ「人間の土地(堀口大學訳/新潮文庫)」をなにげなく開いたら、
以前スレで話題にあがった画像を思い起こす文章があったので、以下に引用します。
(画像)
http://antwrp.gsfc.nasa.gov/apod/image/0208/earthlights02_dmsp_big.jpg -------------------------------------------
ぼくは、アルゼンチンにおける自分の最初の夜間飛行の晩の景観を、いま目のあたりに
見る心地がする。それは、星かげのように、平原のそこここに、ともしびばかりが輝く
暗夜だった。
あのともしびの一つ一つは、見わたすかぎり一面の闇の大海原の中にも、なお人間の
心という奇跡が存在することを示していた。あの一軒では、読書したり、思索したり、
打明け話をしたり、この一軒では、空間の計測を試みたり、アンドロメダの星雲に関する
計算に没頭したりしているかもしれなかった。またかしこの家で、人は愛しているかも
しれなかった。
それぞれの糧を求めて、それらのともしびは、山野のあいだに、ぽつりぽつりと光って
いた。中には、詩人の、教師の、大工さんのともしびと思しい、いともつつましやかなのも
認められた。しかしまた他方、これらの生きた星々のあいだにまじって、閉ざされた窓々、
消えた星々、眠る人々がなんとおびただしく存在することだろう……。
努めなければならないのは、自分を完成することだ。試みなければならないのは、山野の
あいだに、ぽつりぽつりと光っているあのともしびたちと、心を通じ合うことだ。
(スレ)
http://news3.2ch.net/test/read.cgi/news5/1039187085/l50
391 :
タリちゅう :03/01/08 08:14
この作者の言葉で、もうひとつ感銘を受けたのがありました。 「精神の風が、粘土の上を吹いてこそ、はじめて人間は創られる」 ここにいたるまでの経過は難しいので省略しますが、つまりほとんどの人は 粘土人間のままで、そこから脱出するテもなかなかない。粘土人間の子どもたちは 天上のモーツァルトのような愛すべき表情をしているが、貧困や腐った環境の中で いつしかキャバレーの腐敗の中にあることを最大の喜びとするようになるだろう。 傷口をもつものは傷口を感じない。その場合、そこなわれるもの、傷つくものは 人類というでもいうような、何者かだ。 いまぼくを苦しめるのはけっして貧困ではない。貧困の中になら、要するに、人間は 懶惰の中と同じように落ち着けるものなのだ。近東人のなかには、幾代も汚垢のなかに 住んで、快としている者さえある。ぼくがいま悩んでいるのは、施米も治すことのできない ある何ものかだ。ぼくを悩ますのは、その凸でも、凹でも、醜さでもない。 言おうなら、それは、これらの人々の各自の中にある虐殺されたモーツァルトだ。 精神の風が、粘土の上を吹いてこそ、はじめて人間は創られる。
392 :
bloom :03/01/08 08:48
> ぼくがいま悩んでいるのは、施米も治すことのできないある何ものかだ。
> ぼくを悩ますのは、その凸でも、凹でも、醜さでもない。
> 言おうなら、それは、これらの人々の各自の中にある虐殺されたモーツァルトだ。
マンハイム曰く(自由・権力の最後の部分抄)
http://home1.catvmics.ne.jp/~shibatay/plan3.htm “我々が今通過している恐るべき変容の時代に、精神的指導を行わなくても乗り切
ると考えたり、世界の状況を解釈する伝統的な手段を持った宗教的指導で十分であ
ると考えたりすることは、いずれも明らかに間違っている。このような指導を行わ
なくても、多少でも適応に成功する個人や集団の事例は、数多く存在するかもしれ
ない。しかし、これらの適応が全体として長期的な方向付けと焦点とを持たなけれ
ば、そのなすことには権威と一貫性を持ち得ず、社会全体の崩壊と解体とは止まら
ず、進行を継続するであろう。その結果、人々のパーソナリティ形式はだんだんと
無意味になるので、崩壊してしまう。そこには、分裂したパーソナリティだけが残
り、一貫性のある行動は発達できない。集団的な適応のレベルでは、我々は変化に
富んだいろいろの政策を持ち得るが、全体の理解に基づく中心的な政策は持ち得な
い。”
さらに続く: “過去においては、このような場合、宗教がこれらの解釈と統合の必要機能を提供 した。今日の転換期においても、一部の人は、宗教の助力を求めようとしている。 それに応えて、我々の宗教的な指導者たちは、より深い洞察と知的理解の上に世界 観と世界政策とを打ち立てつつ、変化しつつある秩序にテンポを合わせなければな らない。我々がバランスを必要としているという観点から見ると、彼らの解釈は過 渡期の心理的平衡と安定感とを破壊するほど極端なものであってはならない。この ように、その内面的な意義は別として、これから先、ダイナミックな宗教(“悩み 相談室”)は社会秩序の中で次のような三つの重要な機能をもっている;(1)過渡 期の社会を診断すること、(2)重要な問題に注意を焦点づけること、および(3)社会 生活のいろいろなレベルで人間の行為を統合すること。”(完)
395 :
タリちゅう :03/01/16 04:18
>>393-394 なっとくできました。とくにパーソナリティの部分で、
人間って、たいがいは弱いパーソナリティしかもってなくて、
だからそういう人ほど基本的なアイデンティティーや人権に
しがみつかないと生きづらいんだなって思いました。
それを50年もまえにカール・マンハイムにいわれて、いまもっとひどくなってる。
この50年ってなんだったんでしょう。まさに経済にスポットライトがあたった、
日本にとっては「国民が一丸となった経済発展」という輝かしいキャッチコピーは
あったかもしれないけど、そのぶんモラルは相当低下しましたよね。
あんまり器用になんでもかんでもできる人はいないと思う。なんだかわからないうちに
高度成長期に乗って、郊外の一軒家に住んでブルジョア気分の人たちもいるでしょう。
だいたい、そのあたりの階級の人々のレベルが一般化して、子どもたちは子ども部屋が
あるのがあたりまえで、鍵かけちゃったりして、親もそれをどうしかっていいかわからない。
社会があやふやになったのは大衆のせいです。
>>394 「社会生活のいろいろなレベルで
人間の行為を統合すること」なんて、いちばん基本なのにいちばん無理になってるんじゃないかな
よくいるキティガイはその最下層で、モロ病巣が発現しちゃってる人。すこしでも理性や知性に
価値をかんじる人は、統合失調するまえに、まず社会のことを考えないと。
必死のアジテーションが、いくらかの効果をなすこともあれば、孤独な自殺がアジテーションになることもある。
でもどちらもドンキホーテみたいな馬鹿者ってゆう世論が多いんだから、せめてネットで生きのころう。
(^^)
>>395 :タリちゅうさん、
>それを50年もまえにカール・マンハイムにいわれて、いまもっとひどくなってる。
>この50年ってなんだったんでしょう。まさに経済にスポットライトがあたった、
>日本にとっては「国民が一丸となった経済発展」という輝かしいキャッチコピーは
>あったかもしれないけど、そのぶんモラルは相当低下しましたよね。
おっしゃる通り、戦後50年間は自由主義諸国と共産圏との間の冷たい(経済)戦争
に明け暮れ、ようやく1989−1991年に決着がつきました。現在、その間に低下した
モラルをビンラディンなどから突かれています。マンハイムも警鐘を鳴らし、私の
講義録では、
http://home1.catvmics.ne.jp/~shibatay/plan3.htm 第3部 情報化社会における新しい人間像
第7講 慣習から科学へ
第8講 民主的な行動パターン
第9講 民主的パーソナリティの形成
第10講 基礎作業としての教育
第11-1 講 労働と余暇
第11-2講 自由と規律
第12 講 思考、哲学、宗教、および社会秩序の統合
で、主に広い意味の教育の観点から言及しています。
世界共通の大問題ですね。
>マンハイムの確信によれば、民主的な社会は、いかなる市民もそれ以下に落ちることのあり得ない最低のレベルをもっている。権威主義的な精神、 >独裁者、自動機械としての市民、独断的な精神などは、純正な人間性のレベル以下に落ちている。しかし、民主主義の特徴は、そもそもの発端から、 >漠然とした目的意識を認め、考え方の多様性を良いものとして尊重することである。また、意見の違いに見られる種々の微妙な色合いの共存の中に >順応しなければならないときにも、混乱しないようなタフな精神を育てることは、正に民主主義的な教育の一部分なのである。 個人的な興味で、カール・マンハイムとは一言で言って何ぞや?と、ヤフやググルで検索してみましたが、 こちらとタリ板の社会構築スレがよくまとまり、一番解りやすいように思いました。 中葉先生のMEGAーNETももう一度初心に戻って拝見しました。 上記の引用はMEGA-NETから無断でお借りしました。お許し下さい。 50年以上前に著されたものであるのに、今尚、経営学、経営組織論、 組織特論等のテキストにも使用される実戦的な理論であると、門外漢ながら理解できました。 私の頭で完全に理解するのは不可能ですが、何とか全体のイメージだけでも把握したく、 明日以降、再度読ませていただきます。 自分の研究上での大きな間違いを発見し、赤面の至りです。 社会学が決して机上の空論でないことは、知識人であれば熟知しているはずなのですね。
>こちらとタリ板の社会構築スレがよくまとまり、一番解りやすいように思いました。 ありがとうございます。1さんがタリ板の方を主に面倒見てくださり、私は主に こちらに責任を持ち、分担してやっておりますので、そうおっしゃっていただけ るととても嬉しいです。 >中葉先生のMEGAーNETももう一度初心に戻って拝見しました。 >上記の引用はMEGA-NETから無断でお借りしました。お許し下さい。 こちらも、その用に使っていただきたくてホームページを作成しましたので、 そうおっしゃっていただくと嬉しいです。元来はマンハイムの著作ですし、日本の 版権を持っている未来社の特別の了解を得て、期限限定で公開しておりますので、 今のうちに是非活用してください。 >社会学が決して机上の空論でないことは、 >知識人であれば熟知しているはずなのですね。 しかし、社会学が実用の学であるかどうかについては意見が分かれるところだと 思います。実際、このスレでも、時々激しい意見の交換が行われています。
おい、中葉。 さっき「社会政策論」スレがたったけど、お前的に政策論はどうなのよ? お前の思考を生かすなら、そこへ行き着かざるをえないように思うが?
>>400 400GETおめでとうございます。
>しかし、社会学が実用の学であるかどうかについては意見が分かれるところだと
>思います。実際、このスレでも、時々激しい意見の交換が行われています。
なるほど。実は社会学とは?という設問に関しての答え方と、マンハイムの価値観において
頭を悩ませていたのですが、社会学を机上の空論的に捉える人間も存在するのですね。
大学の講義は、過去の学者の研究結果である理論や学説をベースにおいています。
それらを、刻々と移り変わる情勢の中で、単なる学問として終わらせるか、
実戦的実用的に応用し、または新しい研究や発展に繋げていくかは、
すべて卒業後の自分の努力如何である。
これはどんなジャンルの学問においても同じだと思います。
>>402 > さっき「社会政策論」スレがたったけど、お前的に政策論はどうなのよ?
興味深いスレ情報をありがとうございました。ブックマークしておきました。
発展を期待しています。
No.1発言は以下の通りですね。
> 戦後日本の民間大企業における賃金決定システムの構造と歴史、
> 現状について教えて下さい。
これを社会政策論と見るか、企業経営論と見るか、見解は分かれると思いますが、
私は企業経営論と見ます。従って、社会学板では扱いません。
私は政策論をもっとも広い分野を対象にして考えています。
つまり、このスレ、つまりマンハイムのように「変革期における人間と社会」を
対象としています。
具体的にはホームページ「MEGA-NET社会再構築のための eコミュニティ」
http://home1.catvmics.ne.jp/~shibatay/ を参照してください。
> お前の思考を生かすなら、そこへ行き着かざるをえないように思うが?
おっしゃる通りです。ご覧のように、そこへ行き着こうと、悪戦苦闘しています。
経営だと、どちらかといえば企業内部での運営的側面を扱うんだよね? その質問だと、賃金決定の「構造と歴史、現状」を問うているんだから、政策 になるだろ? マンハイムの言うような、存在非拘束性とあわせて考えてみればいいじゃん。
> マンハイムの言うような、存在非拘束性とあわせて考えてみればいいじゃん。 マンハイムが存在非拘束性と言っているかどうか知りませんが、一般的な話題とし ては面白いかもしれません。 例えば、春季賃上げに関するトヨタと日産の違いを非拘束性と拘束性の違いで 説明すると言ったことになるのでしょうか? 私はお聞きする側に回りますが、どなたかどうぞご発言ください。
ごめんごめん。 変換ミス。存在被拘束性が正しい。 なんだろ?マクロな政策動向を背景に賃金に関する議論をしていくことになるのかな? こちらも、中葉に聞いてみたかったんだが。 まあ、ここはマンハイムスレなんで、これに関しては政策スレでやらないとね。 ちょっと2月いっぱいは忙しいんで、ROMしちゃいます。 ちょこちょこ暇なときに覗くんで、よろしく。
409 :
タリちゅう :03/01/21 05:38
>>408 (中葉さん)
>この現実を乗り越える「何もの」かが必要です。
>米国の経済力や軍事力でも「世界の混迷」を乗り越えることは困難でしょう。
その「何ものか」を考えるとき、マンハイムはじめ過去の良心的&情熱的な人々が
唱えてきた概念が、どんなに役立つでしょう。「何ものか」はまったく新しいことではなく、
提唱されて実行がなされなかった、たんに教養や学問としてしか受け止められず放置されてきた、
じつは立派な今後の指針だと思います。
なぜそれらが軽視されたのかは、大衆の意識にかかっている。
「いま、必要でないから」ということと、高度成長期の日本にとっては、個々の精神や存在から
構築していくやり方はウザイからって放置されたんでしょう。あのころの人はミーハーだったから。
いま、不景気で世界も悪くなって、愚民化がすすみ、世界のなかでも文化間の対立が激化しつつあり、
こういう状況下での社会学とは、哲学と道徳を網羅した、わかりやすい指針になりえると思います。
人間の種としての本質は「群れ」です。「群れ」に生きる以上、個人の意識と責任は不可欠ですが、
個人主義に走りバラバラになりつつある社会において、社会学的立場から「何ものか」を模索していくのは、
俺はわりと実践的で合理的だと思う。大衆レベルでの「統合の必要性」、これぜったい重要です。
統合を目的とするのは政治学。 つまり政治学へ目を向けろ、ということか。
>>409-410 のコメントにお答えしてみます。
ここまで話が進むと、マンハイムが出した答から2歩も3歩も前進しなければなりま
せん。マンハイムが創始したといわれる「知識社会学」のブレークスルーです。
現在UCバークレー名誉教授のR.N.Bellah は「善い社会(みすず書房)」でそ
の1歩を踏み出しています。しかし、そこで留まっているように見えます。
もう1歩、つまり2歩目を歩いたのはUCロスアンジェルスの、奇しくもまた名誉教授、
John Friedmann、Planning in the Public Domain:From Knowledge to Action
(Princeton Univ.Press 1987) です。彼は、旧著Retracking America:A Theory
of Transactive Planning(Anchor Press 1973)の中で、カール・マンハイムを
計画方法論の先駆者として紹介し、私がマンハイムを知る端緒を与えてくれました。
ようやく、3歩目、現状での終着点に来ました。エティエンヌ・ウェンガー他著
「コミュニティ・オブ・プラクティス:ナレッジ社会の新たな知識形態の実践
(翔泳社 2002)がそれです。特に、最終の第十章「世界の再構築――組織を超え
たコミュニティ拡張型ナレッジ・システム/市民社会」がこれからの1歩の方向だ
と確信しています。
私の活動はこの「コミュニティ拡張型ナレッジ・システム/市民社会」を目指して
すべてを集約しております。ホームページ、メーリングリストなどのすべての名称
を「eコミュニティ」としたのは、このことを意味しております。
具体的に私のホームページのURLについては、
>>11-13 を参照してください。
最後に一言。実践の場所はEXPO2005愛・地球「市民交流プラザ&交流広場 市民
プロジェクト」
http://www.expo-people.jp/index.html に定めております。その次のターゲットは2100上海万博「市民プロジェクト」にな
るでしょう。
タリちゅうさんがおっしゃるように、人類の将来は、良くも悪くも
“大衆の意識にかかっている。”!
>>410 統合を目的とするのは政治学。 つまり政治学へ目を向けろ、ということか。
勿論、そういう見方もできるし、そういう実践的態度をとることもできます。
しかし、マンハイムや私は、教育者であって実務家ではないという立場から、学校
教育や社会教育からアプローチしています。マンハイムの原書第3部、私の講義録
第3部
http://home1.catvmics.ne.jp/~shibatay/plan3.htm とも、表題がそれぞれ「新しい人間――新しい価値」、および「情報化社会における
新しい人間像」とあるように、極めて広い意味の教育からアプローチしています。
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彼のいうユートピアがわからない
私は「イデオロギーとユートピア」は読んでさえいないので、「わかるか、わから ない」かさえわからない状態です。 なにか「わからない」と実用的に困ることでもあるのでしょうか?
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タリちゅう :
03/03/01 03:27 もしも我々が理想的な民主主義社会を作ることができて、 そのうえで世界とかかわっていく場合に、民主主義という価値観は どの国にも錦の御旗のようにふりかざして良いものでしょうか。 たくさんある国々は、成り立ちも文化も宗教も違います。 その、こちらから見て変わった国に、異質だというだけで民主主義の鉄拳を くらわせていいのかな。さいきんのイラク情勢を見ていて、そう思います。 カール・マンハイムは民主主義に向いている社会を、民主的な方向に 啓蒙しているかんじがします。でもこれは、ナニ主義とかナニ教かんけいなく、 人間が構成する社会を潤滑に正しい方向に運営していくルールのたたき台という かんじがします。そういうところから生まれた人間的な民主主義は、他文化を 侵害しないと思うのですが。そこにまっとうな、穏やかなグローバリズムは 訪れないものでしょうか。