この御仁の偉大さをご教授下さい。
2 :
あぼ〜ん :2001/06/19(火) 07:59
デュルケームの方が偉大だ! よって、終了!
「プロ倫」のほかのものっていまいち読む気しません
デユルケームのほうが上か・・
5 :
名無しさん :2001/06/20(水) 03:44
ウェーバーが今でも評価されてるのって日本くらいでは?
えっ、そうなん?
7 :
名無し :2001/06/20(水) 09:29
んなことないっしょ。 わたし、個人的にはでゅるけみあんだけど、 ウェーバ−はやっぱり、社会学の創始者の一人として、 大きな扱いをされていると思います。 ギデンズだって、デュルケム研究でも点を稼いでる けど、ウェーバー抜きではその理論構成が成り立たない でしょう。 資源動員論だって、合理的選択論のスジもあるけど、 ウェーバーも導きの糸の一つだし。 フランクフルト学派(今だとハバーマス?)だって、 ウェーバーの合理化論のモチーフと無縁じゃないでしょ? ま、ぽすともだんだの脱こーちくとウェーバーは、 無縁かもしれないけどさ。(でも、あんましいわれないけど、 フーコーの場合だって、マルクスほど見え見えじゃないけど、 ウェーバーも隠れキャラの一つでは?)
8 :
名無し :2001/06/20(水) 22:50
まず、ウェーバーと誰々どっちが優れてるうんぬんとか言ってる時点で
不毛で余計な対立図式を生み出し再生産するように主体化されてるよ。
ウェーバーの業績は、正直一概には言えないけど、
一つには「理解」概念を初期から主張していたこと。
それから、社会学の初期の人でありながら、ウェーバーには
統合的な「社会」という概念が存在してないんだよね。
その代わり彼には秩序についての綿密な分析、類型論がある。
これはものすごく興味深い点だと思う。
最近言われてるように、国民国家についての構成主義的な見方を最初から
提示していたし。
所与として社会秩序を見る、という多くの社会学者が陥りがちな
過ちを最初から免れていた。
それから「法社会学」での秩序の発生論的な分析とかも面白い。
他にも「静態的/動的」といった二項図式をはなから否定して、
変動、闘争に満ち溢れたものとして社会分析を行っていたこと。
宗教社会学で見せた、さまざまな領域(政治、経済、宗教など)が
複雑に相互作用しながら変動していくさまの分析は、
ブルデューが絶賛していたね。
>>7 が言うみたいに、フーコーとの関連で見るのは今日では常識に
なりつつあると思う。フーコーがウェーバーを意識してたかは
わからないけどね。
9 :
名無しさん :2001/06/20(水) 23:06
著作が多すぎてまともに評価なんかできません。 せいぜい何となくわかるのは方法論的な部分だけかな。「カテゴリー」とか。 該博な西洋史・東洋史の知識がなければ、記述の真偽すら判断できない。
10 :
名無し :2001/06/21(木) 00:53
>>9 正直言って、厳密な検証にはかなり耐えられない部分があるのは否めない
と思う。
だけど、これは言っておきたいんだけど、学問というのは共同的な
営みなのであって、特定の誰がどうこうという視点はまったく得るものがない。
せいぜい、誰かを聖化するか、不毛な個人叩きになるか、いずれにせよ、
アカデミズム内の醜い内輪もめにならざるを得ないと思う。
重要なのは、われわれが現在取り組んでいる諸問題にウェーバーから
どのような意義を引き出して、その問題に満足いくような答えを出せるか、
ということだと思う。
あと、歴史学と社会学をごっちゃにしてる人に言っておきたいんだけど、
社会学はきちんとした理論体系を備え、そこから事象の演繹をするわけだから、
歴史学と同じ基準で仮説が検証されたかどうかうんぬんするのはおかしい。
11 :
マック :2001/06/22(金) 02:10
「社会学の根本概念」などは分析の方法論としては秀逸。しかし、ヴェーバーの 宗教社会学におけるオリエント認識には多くの誤りがある。彼の仏教、儒教、ヒンドゥー 教の理解は19世紀末から20初頭のヨーロッパにおける東洋理解の限界がそのまま 踏襲されている。日本でヴェーバーを持ち上げる大塚史学の系列の学者にはそうした視点 からの批判的考察はゼロ。多分、彼らの多くはサンスクリットはもとより、中国語にいたる まで東洋の語学の知識がないものと思われる。20世紀も終わり、21世紀に入り当然の ことながら様々な東洋の宗教学の教義が紹介され、理解されているにもかかわらず、 依然としてヴェーバー学はヴェーバーの語る東洋理解の水準に留まっている世にも 珍しい存在た。
12 :
名無しさん@おなかおっぱい :2001/06/22(金) 06:25
キリスト教の予定説によって、 どうやって利子利潤を正当化したり、 職業召命感が得られるのかわかりません どなたか教えて下さい。
13 :
マック :2001/06/25(月) 02:53
>>12 まず職業召命観について
予定説については分かるよね。つまり、人間が生まれる前に天国に行く人間と
地獄に行く人間が決まっていて、現世におけるいかなる努力も無意味ということだ。
とすると普通はそんなんだったら、努力なんかしても意味がないとなるわけだ。
しかし、これでは信仰の意味が無い。そこで考え出されたのが、既に選ばれた者は
何らかの兆候が、その生き様に現れていると考えた。その生き様の一つが
只管自らの職業に打ち込む姿がそれだと言うわけだ。これは日本人では江戸時代の
仏教僧鈴木正三の言う「農事即佛業」とよく似た考えだ。正三は「ひたすら額に
汗して働くことは、その毎日が仏道修行と同じ」と言っている。
この職業召命論はそれまでのヨーロッパの労働観を一変させた。それまでのカトリック
的労働観は「労働は奴隷の仕事」と言う蔑視観でしかなかったからだ。
次に、利子利潤の正当化
これは予定説によっては正当化されていない。カルヴァンはその布教先が主として
都市であったので、ある程度貸し金に利子を取ることは止むおう得ないとしているが、
彼の利子の考えの基本は中世と然程変わっているわけではない。
それではプロテスタントはどうして利子を取ることを合理化したのか。
それは一言で言うと信仰から離れていったからだ。そうした情況についてヴェーバーも
「プロテスタントの倫理・・・」の中で司祭ウェズリーの言葉を引用して、しぶしぶ
認めている。
14 :
aho :2001/06/26(火) 17:34
一つ言つておくとヴェーバーの東洋にたいする見方は無茶苦茶ですね。
15 :
マック :2001/06/27(水) 03:35
>14 「無茶苦茶」と言うのは、すこし言い過ぎかな(笑) でも、まあーそれに近い。彼の「儒教と道教」での、儒教理解は素人 目にみても酷い。ところが、それを翻訳し、解説している木全徳雄氏 はあとがきで「ヴェーバーの中国知識が実に微細にわたっており、また極めて 正確なのに驚嘆した」などと言っている。これは木全氏が中国の知識に無知なだけ。 これが日本のヴェーバー・プロパーの学者の限界。しかし、余英時が「中国近世の宗教 倫理と商人精神」で言っているように、ヴェーバーの東洋理解に対しては あるていど、われわれは寛容にならなくてはならないと思う。11にも 書いたけど、当時ドイツを含めたヨーロッパにおけるオリエント学が 今日ほど充分に練れたものになっていなかったからです。特に、ヴェーバー が参考にしたと思われるオルデンドルフの仏教解釈にたいして和辻哲郎が徹底的に 批判しています。 それと、このレスの冒頭で「ウェーバーが今でも評価されてるのって日本くらいでは? 」 とあり、そんなことはないといった反論がありましたが、私見では日本はかなり 執拗にヴェーバーにこだわる傾向があるのは事実です。反論者はギデンス などを引っ張ったりしていますが、実のところそうした親ヴェーバー的 論者の本の翻訳が主流になっているのが、実情でそうしたことが恰も 世界でヴェーバーが主流の社会学者のように言われる原因になっています。 ヴェーバーは決して無視できる学者ではありませんが、日本の場合は世界的 水準からみても過剰であることは明らかです。
16 :
aho :2001/06/27(水) 16:42
あと欧米ではヴェーバー的プロテスタントの労働論理はいまや敬遠されがち ですね。(最近ハーバードのランデスあたりが擁護しているが)
17 :
名無し :2001/06/27(水) 19:06
>>16 それは、ウェーバーのプロ倫テーゼ自体が敬遠されてるってこと?
それとも、プロテスタントの労働倫理が否定的に扱われてるってこと?
後者だったら別に珍しくないような気がするのですが。
肯定的に考えてるのは大塚解釈だけど、もう古いでしょ?
18 :
aho :2001/06/28(木) 20:41
前者も後者もだね。(もっとも社会学者としてのヴェーバーは偉大だと思うけど) でもたしかにヴェーバー自体もう古いよね。
19 :
考える名無しさん :2001/06/30(土) 02:35
古い=ダサい?
20 :
名無し :2001/07/08(日) 01:51
>>18 確かにウェーバーのテーゼそのままってことは無いだろうけど、
プロテスタント的エートスに注目するのって結構メジャーじゃない?
どういった感じで敬遠されてるの?
21 :
考える名無しさん :2001/07/08(日) 06:15
近代資本主義とプロテスタントのカルバン派との関係なんかは 信憑性薄いと思います。 当時のプロテスタントの人口は多数派では無かったしカルバン派 以外でも商業でうまくやっている人もたくさんいたわけですから ウェーバーのテーゼ自体疑わしいですよね。
22 :
:2001/07/08(日) 12:46
まあ、どれだけ影響力持ってるかは知らないけど、 ウェーバー・テーゼに新しさがあるとすれば、 「規律の精神」として読み替えて、国民国家論→ファシズム論に 応用しようとする方向でしょ。 大塚門下の山之内靖、さらにその弟子筋のカンサンジュンとかの一派。 まあ、「プロ倫」ラストの「鉄の檻」概念の解釈をめぐっては 昔から色々議論があるのだけれども。
23 :
名無し :2001/07/15(日) 00:34
>>13 >それではプロテスタントはどうして利子を取ることを合理化したのか。
>それは一言で言うと信仰から離れていったからだ。
誰かこの部分をもう少し詳しく解説してください。
24 :
もういいじゃん :2001/07/15(日) 04:39
21世紀だよ。 どうしてまだウェーバーなの? それしかできない先生に指導されたからって、もう止めたら。
25 :
代打名無し :2001/07/17(火) 01:29
あのオッサン自体面白いから
26 :
↑ :2001/07/17(火) 08:22
ヴェーバリアンて愚鈍なのばかりだよ。 どこが面白いの?
27 :
↑ :2001/07/19(木) 00:04
荒らすな
28 :
名無し :2001/07/19(木) 00:34
>>24 そういう問題ではないと思うのですが…
なんぼなんでもウェーバーマンセーという人はいないだろうけど、
他のディシプリンに比べて標準的なテクスト、あるいは
自然科学ばりの明確な理論体系に欠け、とかく客観性に欠けがちな
社会学においては、古典へのある程度の精通は必須だと思います。
ウェーバーに限らず。
さもなければ社会学という学者共同体に参入するための共通の語彙の
獲得が困難になるわけで、ただでさえタコツボ化、パラダイムの乱立状況が
進む中で、学者同士が共訳不可能になっていくだけ。
科学の条件の普遍性、一般性が失われるだけだと思う。
つーか、基本的なことも知らん奴多すぎ。
ちっとは本読んでくれ。
29 :
考える名無しさん :2001/07/19(木) 01:06
age
30 :
名無し :2001/07/20(金) 00:48
>>28 もう入門書とか学史でサラっと教わる程度の人なんやろ
>ウェーバー先生
あの髭面好きなんやけどなあ
31 :
うーん :2001/07/20(金) 12:42
やっぱりある世代以上には「価値自由」という概念が魅力的なんだろうなあ。 実際、戦前の軍国主義時代、マルクスがやばくなってウェーバーで逃げ切った 人達けっこういるんだよな。 大塚は別にしても、尾高邦雄とか。 ある意味で、ポストモダンの現在は状況が似てるんだが。
意外とみんな読まずに批判してるよね 解説書の受け売りですか?
じゃ、これは読んどけ!って著作教えて。 あと概説書のオーソリティ的な奴も。
34 :
24 :2001/07/21(土) 05:09
訳されている主要なのはほとんど読んだ。 で、現代社会学では、不要と。 確か、青山編の「日本マックスウェーバー書誌」 というビブリオが25年くらい前あったが。
荒らすな
36 :
>24 :2001/07/22(日) 01:00
そんなアナタのイチオシを教えてよ 現代社会学はコイツだってのを
伸びそうも無いねこのスレ
38 :
名無し :2001/07/22(日) 22:17
>>32 現代社会学って何?(w
ルーマンのこと?
39 :
名無し :2001/07/22(日) 23:40
昔、この人の客観性論文やらされてさ。「客観性とは云々・・・」の ややこしい話でウンウンうなったあとに、アメリカ社会学とかに 触れたらその凄まじい能天気さにカルチャーショックを受けて すっかり馬鹿馬鹿しくなった覚えがある。 「現代社会学では不要」確かにそうかモナー・・・
40 :
名無し :2001/07/22(日) 23:57
>>39 それはむしろ退歩です。
単なるルポとか評論に近くなるね。
41 :
名無し :2001/08/01(水) 20:32
講壇禁欲age
42 :
中川君 :2001/08/11(土) 22:59
現在、『プロ倫』を読んでいるんだけど、どうして「プロテスタントが資本主義をつくった」というとマズイのか 教えてください。
43 :
キ :2001/08/12(日) 18:50
プロテスタントが資本主義を作ったんじゃなくて、 生産様式が資本主義段階に達した時、プロテスタント的メンタリティが もっともよくこれに適応できたということ。 マルクスもこのことは軽く指摘している。
44 :
ななしいさん :2001/08/12(日) 19:19
マルクスもこれを指摘はどこで?具体的に知りたいんですが?
45 :
キティ :2001/08/13(月) 17:20
資本論の中のどこか.第一部の中間あたり.今手元にないのでわからない. 当該個所はヴェバーも『プロ倫』の中で、そこでマルクスが使った 用語をことさら引いて、皮肉ってます. 両方とも原語で読まないと気づかないかもしれない.
46 :
キティ :2001/08/14(火) 20:01
ざっと見ただけなのですが、 資本論の第1巻23章の4の最後あたりで、 マルクスはベネチアのカトリック修道僧の キリスト教社会主義的な意見を紹介したあと、 プロテスタント聖職者2人の貧民に酷な経済学を 引用しています。 主に資本主義の発展に伴う貧富の拡大についての 意見なのです。前者が慈善事業やなんらかの貧民対策を 主張するのに対して、後者ふたりはプロテスタント的な 選民意識から下級労働に従事する階級、この富を消費しつつ 高貴な仕事を天職とする階級を、神の摂理として当然とする ような意見です。 23章のはじめでも注で、特に人口政策に絡んで資本主義擁護の 経済学を唱える学者にプロテスタント神学に立つものが多いと されています。(ワルサス、タウンゼントなど) ヴェバーがこのことを準引用しているというのは私の思い違いだった みたいで、この辺に近い議論、人口過剰についてマルクスを下敷きに した言説が見られるといった程度でした。 結論的にはマルクスも少なくともカトリックよりは プロテスタント的メンタリティが親資本主義的、資本主義擁護的で あることは意識していたようです。
アドルノの社会学講義を読んだら、ウェーバーの客観性論文を 全然理解してないみたいだったのでビビった
age
age
世界観について 「プロテスタントの倫理が意図せずに資本主義の精神を作り出すことになった」 そして我々は世界中でプロテスタントの精神が衰退していく中でも「鉄の檻」つまり 「非人間的」な社会システムのなかで生活していくことを余儀なくされる。これが現代人にかされた運命である云々 (参考:山之内靖「マックスヴェーバー入門」) 資本主義の精神とやらが世界中を席巻し、好むと好まざると世界中の人間がこの社会に取り込まれてゆく中で我々はどのように生きてゆくべきか!!! 「受苦者の連帯」 これが回答であるとするならば、人々がだ。二ヒリステックにかつ享楽的にその日その日を生きてゆくしかない 理想も価値も見出せぬ。ある日本の社会学者は「そんな退屈な日常をまったり生きよ」と言った。 で、大方の人々が「その日その日をまったり生きること」そんな人生に楽しみを見出し始めた ・・大体こんな理解でいいのかな?
>・・大体こんな理解でいいのかな? こんな理解ではちょっと困るんじゃないかと思われ。
最近の学部生はヴェーバーを読まないと聞いた
某最難関大学でもヴェーバー読んでるのは2割ほどか。 卒業してからでもイイから読め。
諸兄よこの新説に御評論を「日本の資本主義の精神は小学校で再生産されてきた」 旧来の日本の小学校では、法則や公式を正しく理解して難問を正解させるルーズな 子供よりも、難問は解けないが、提出物が完璧でミスの少ない几帳面な子供の方が、 通知簿の成績が上に評価された。 提出物を期限までにきっちり仕上げられない子供は、能力不足ではなく、道徳不足 として、道徳的に叱られた。つまり、この几帳面さ、期限厳守、広義の事務能力は、 スキルではなく、エトスとして、旧来の小学校では仕込まれていた。 日本の旧来の小学校では、日本的資本主義精神の再生産の場であった。
工房から基本的な質問をさせて下さい。 「プロ倫」に即したもので、ほんとうに基本的なんですが、読解力が足りないもので。。。 「禁欲精神」とか「生活の方法的な統御」とか「計画性」とか「組織性」とかは、 「救い(恩恵の地位)の確証」という発想から生まれたのか、それとも、 「禁欲的プロテスタンティズム」の「天職観」から生まれてきたのか? ここがいまいち分かりません。 岩波文庫の大塚久雄訳で読んでるのですが、 P286あたりを読むと前者か?とも思うんですが、 P184とかP292あたりのバックスターの議論とか読むと後者? とも思うのです。 もう疲れて、読む返す気力もございませぬ。 馬鹿に教えてやって下さいませ〜
と、書いても分かりにくかったかもしれません。 もうちょっと疑問点を詳しく書いておきます。 つまり、 @ ある「行為」でもって「救い」を確証しようと思った人間は、 絶えずある「行為」を行うようになる ということなのか、それとも A 「救い」を確証する「行為」とは「職業労働」であり、 なぜなら「職業労働」こそ神が「自己栄化」として望む「行為」であり、 当然、そうした「行為」が絶えず行われることを神は望んでいる (あるいは、なぜ現世が「職業分化」されているかといえば、それは神が 望んだことであり、つまり「分化」する→労働者は自分の専門の労働を 組織的に行える=絶えず行う、ということだから、絶えず行うことを 神は望んでいる)(BY P309のバックスターの議論) のどちらか、ということです。 是非とも、皆さんのご意見をお聞かせ下さい)
age
>>58 後者じゃない?
救いを求めるといっても、宗教における合理化やその方向性の違いで
様々な形態が発達した、その中でプロテスタンティズムだけが
近代資本主義へとつながっていった、というのがウェーバーの主張だと思うから。
>>55 そんなこと無いよ。少なくともわたしの周りでは。
Weberの方法の問題点: Weberの認識論は事実判断と価値判断の峻別を前提(リッケルトの認識論)。 価値自由(脱価値)も、事柄(Sach)に即した検討を保障するために要請 される姿勢・態度。 Weber自身は、個人の思惟において、事実と価値の分離は本質的には不可能 と考え、ただ特定の価値観による事実認識の歪曲を回避する点で技術的 メリットありと考えた。 つまり、認識の客観性の断念を前提にした議論(客観性に付されたカッコ)。 またWeberの理念型=ある観点から諸対象の一側面を抽象して論理的に構成 したもの(実際にはどこに実在しない)。だからその妥当性を検証する場 合、可能なのは論理構成の整合性のみで、対象に即した再検証は不可能なの では。抽象化はあくまで対象の一側面だから、他の側面の検討を通じて、 それと異なる側面を指摘しても反論にならない。 つまり反証不可能性という理念型のもつアポリアの存在。 また支配の諸形態(類型)として示される理念型は、いずれも時空を越え た歴史事象を事実的な根拠としており、これをただちに歴史概念として 利用できるわけではないという限定的な有効性。 いずれも有益な点も多い反面、利用にあたっては問題点も多いと思われ。
64 :
世界@名無史さん :02/06/21 04:27
>>63 ウエーバーは、もともと中世商事会社の分析から出発した歴史畑出身の
人。歴史主義の立場だった。それがリッケルトの哲学を摂取すること
で、研究する側の主観性の問題や因果関係の問題などで、一時かなりの
混乱に陥ったといわれる。
客観性論文は、彼のそうした歴史認識上の問題に一応の決着をつけた
記念碑的作品。この後、彼は社会学という分野を開拓していく。
65 :
世界@名無史さん :02/06/21 04:49
>>63 確かに認識上の事柄では問題点は多いかもしれないけど、
官僚制の研究や宗教社会学・法社会学などではためになる
論点も多い。
それに社会学の概念は非歴史的概念かも知れないけど、それを
踏まえて歴史社会の分析に利用できるという点も数多い。
ただ、資本主義であろうと社会主義であろうとシステムの複雑化
が社会のあらゆる部門で専門の細分化を促し、専門家=官僚制に
よる管理が進展するという予測は、当たっているだけにいささか
悲観的な見通しを感じる。
まさに「精神なき専門人と情熱なき享楽者」の充満という構図
は現在の状況そのままという気もする。(鬱ダ
66 :
世界@名無史さん :02/06/21 04:58
>>63 あと、ウエーバーは政治と学問を峻別した上で、政治活動にも熱心
だったけど、その立場は、帝国主義的な国民主義とでも云うべき
もので、社会主義や社会民主主義には一貫して反対していた。
当人があと15年ぐらい長生きして、ナチの台頭の場面に立ち会って
いたとしたら、どんな対応をとっただろうか、という点には興味が
あるなあ。
をしただろう
67 :
世界@名無史さん :02/06/21 05:06
>>66 >政治活動にも熱心 だったけど、その立場は、帝国主義的な
>国民主義とでも云うべきもの
だとしたら、やっぱり対外的膨張を容認する強力国家の確立を
望んでいたのではないか(議会制を前提とする国民主義という
点で国家社会主義とは対立するだろうけど)
68 :
世界@名無史さん :02/06/21 05:16
>67 しかし、ウエーバーは、近代化改革にしても、19世紀的なビスマルク主義や 皇帝専制的な在り方には批判的だった。ワイマール的体制のもとで、 あくまで国民を主体とする漸進的な改革を望んでいたのではないか? 現在の日本で云えば、さしずめリベラリズム右派といったところかな(W
69 :
世界@名無史さん :02/06/21 05:26
>68 >リベラリズム右派 口を開けば改革・改革と唱える急進的ネオ・リベラリズム派かあ? たしかに連中は階層分解しつつある中間層のうちの上層部分(勝ち 組)だな。 しっかし、あれだけの大学者がそれほどバカじゃあるまいYO 寧ろ確固とした議会運営を担える政権政党の成立と諸政党・ 知識人の政治的な成熟を期待してたのじゃないかい。 おっと、だいぶん話しが本題から逸れてきちまったな。スマソ
70 :
世界@名無史さん :02/06/21 11:08
いや、プロテスタンテイズムの倫理が世俗的な職業(Beruf)への 専心的態度の骨格となっているというシェーマは、『職業として の学問』や『職業としての政治』でも展開されている。 あと最近ではウエーバーにおけるニーチェ思想との関連性が問題 とされているね。近代的な専門人がもつ醒めた精神的態度は、 ニーチェのいうニヒリズムとも通底した側面がある。
71 :
世界@名無史さん :02/06/21 11:33
>65 >資本主義であろうと社会主義であろうとシステムの複雑化 >が社会のあらゆる部門で専門の細分化を促し、専門家=官僚制に >よる管理が進展するという予測 社会主義については、予測は当て嵌まったな。結局それによる社会 体制の硬直化がその崩壊をもたらしたのだから。 しかし、現在の資本主義においてもそうした管理(所謂「鉄の檻」) から逃れる術はあるのだろうか? 近年の自由主義的改革は、官僚制の支配のミニマムな限定により 社会の側に自由を再生させようという目論見かもしれないが、 結局国家的な官僚制の機能を私企業的な官僚制が代位するだけの 結果に終わらざるをえないのでは? だって自由主義的な資本主義では社会がうまく機能しないから、 国家が市場経済に介入する修正資本主義(ケインズ主義)が生まれ、 官僚制の権限が拡大したわけだろう。 これだけ複雑化した社会システムを国家官僚制が掌握できず社会 の非効率化を生み出したのは理解できるが、他方で市場経済に すべて任せたところで、またかつての自由主義的資本主義段階 の弊害が再生産されるだけなのではないか。 事実、国民の階層分化により弊害がハッキリ出てきている。 失業問題や治安問題や国民統合の弛緩などの問題を国家機能 の権限強化で乗り切れるとは思えないが。
72 :
世界@名無史さん :02/06/21 11:48
>>71 要するに自由主義的な資本主義には未来はないってか。
確かに、Weberが想定した資本主義を支える禁欲的精神と、バブル
時代に代表される欲望丸出しの資本主義の「精神」は対照的だな。
生産労働から乖離したもっぱら投機にのみ走る資本主義、Weberは
こういうのを賤民資本主義って云ってなかったっけ。
ベンチャー企業(泡沫企業)の叢生、片や巨大金融資本の統合・再編。
そして国民の貯蓄を無理にでも外貨預金や投資信託などの市場主義的
な投機主義へ強制誘導しようという傾向。しかもそれが国家の経済政策
の基本。
こうしたことって、Weberが想定した健全な国民経済とは逆な賤民資本
主義の姿そのものなのではないか?
国家的賤民資本主義(W
73 :
世界@名無史さん :02/06/21 11:53
賤民=パリア 賤民資本主義=パリアキャピタリスム
何だか、はなしがウエーバーの学問内容からそれてきて いるのではないか??
>74 いや、逸れてはいないと思われ。 市場経済万能主義を唱える連中も、少しはウエーバーを勉強 して反省シル
結局、Weberの提出した問題は、 社会学固有の学問(方法)としては、 デユルケームなどに乗り越えられているとはいえ、 近代の終末をある意味では見通しているのではないか?
77 :
世界@名無史さん :02/06/21 12:09
Weber=ポストモダン??
78 :
ものはいいよう? :02/06/21 12:18
>77 言い方しだいで、誰でも「ポストモダン」になりそうな 気が、するんですけど。 スペンサーはポストモダンだ。 (無理かな。でもでも、進化論をこねこねしてなんとか。) コントはポストモダンだ。 (だめか。愛の宗教あたりをこねても?) マンハイムはポストモダンだ。 (こりは、歴然と無理。) エドマンド・バークはポストモダンだ。 (意外と大穴?)
79 :
モン テッ ラ!! :02/06/21 13:46
いやむしろマンハイムだけがポストモダニストかと(w
ヴェーバー、デュルケム、ジンメルの 宗教についての考え方の違いってなに?
>>76 Weberの社会学上の問題って、どういう点でデュルケームに
乗り越えれたの? 理解社会学で示された人間の行為と動機
の関係についてですか?
あとWeberの提出した支配の諸形態の中での近代官僚制・家産官僚制
・カリスマ支配の理念型などは、現在でも学問的に有効性をもつと
思うのですけど。
法社会学が宗教社会学についてはよく読んでないので知りませんが・・。
むしろジンメルが乗り越えたという見解の方が・・・ 『社会学の理論』浜日出夫
あとそれからWeberの伝記として定評のある奥さんの編集した伝記 は、内容的に信憑性が薄いという議論を最近どこかで読んだけど 確かなのですか? またどういう点が不備なのですか? どなたか知っている人説明キボン
というか未だにもめてるらしいよ。 weberってちょっとだけ精神的におかしいところあったんでしょ。
大澤真幸『虚構の時代の果て』は 大澤版プロ倫としても読めてけっこう面白かったデス。 でも、その内容はウエーバーの嫌うディレッタンティズムの典型かと。 ラムプレヒト=大澤真幸。 マックスウェーバーの名の下に大澤犬に喝をばキボン
ラムプレヒトっていうのは三木清が訳してましたよね。できればどういうことを主張して いらっしゃるか教えてもらえると幸いです。
このBBSってわりとまじめに議論やってますね〜。 ところで、かの有名な「支配の3類型」って ウーバーのどの本に書かれてるのか教えてください! 読んでみようと思ってます。
「支配の諸類型」だっけか・・・? スマン、フォローお願い。
ttt
92 :
世界@名無史さん :03/01/07 00:59
戦後の日本でマックス・ウェーバーを論じてきた連中は、 プロテスタンティズムの『倫理』と資本主義の『精神』の 内容を、意図的にプロテスタントと近代化(日本の理想) と同一視しようとしてきた事が多かった。 プロテスタントがあったからイギリスやアメリカは発展した というわけで、日本も「見せ掛けの近代」ではない「真の」 「市民社会」になるためには、みんな信者にならなければ、な どと本気で言っていた(大塚軍団)。 これでは社会学でも何でもなくて、単なる宣教。
「価値自由」とかいいながら、内実はメロメロの信仰共同体(セクト)。
97 :
世界@名無史さん :03/01/10 21:04
私はキリスト教徒の社会学者が書いた本をいくつも読んだことがある。 当たりまえの話で、ヨーロッパやアメリカの著者の本はほとんどそれ。 しかし、「社会学」の本に自分の信仰について宣伝するのは日本のキリスト 教徒だけだ。 なんだあれは? マックス・ウェーバーは「世俗化」を「近代社会の運命」と呼んだのじゃ なかったのか。
(^^)
99 :
ウェーバー本マニア :03/01/19 23:53
講談社の人類の知的遺産シリーズの62巻、安藤英治さんの『マックス・ウェーバー』は、これまで手にしたウェーバー本の中で最も優れた本だと思うんです。 しかし出版後20年経過していますが、他の人が引用に用いもしなければ学術文庫で再版もされません。何か問題があるんですか?
官僚制論って一体何ですか?
101
^ ^;
(^^)
∧_∧ ( ^^ )< ぬるぽ(^^)
105 :
世界@名無史さん :03/05/06 01:18
「職業としての軍人」
106 :
世界@名無史さん :03/05/06 13:17
>>97 ?
今話題の理論家と言えば
109 :
動画直リン :03/05/07 06:21
あの、ちょっとウェーバーについて質問させていただいていいでしょうか。 今、「社会学のあゆみ」という本を読んでいるのですが、 ウェーバーっていう人は、19世紀末の、啓蒙主義が過去のものになった 時代の人だと思っていたのですが、「伝統主義との決別」や「近代化と自立人間像」 といったものがウェーバーの主張として取り上げられていて、なんだか 啓蒙主義っぽい気がするのです。それとも僕の啓蒙主義に対する認識がそもそも 間違っているのかもしれませんが・・・。最近社会学に本格的に興味をもちはじめた ので、ド素人の質問ですがどなたか教えてください。
111 :
maeda :03/05/10 00:41
>前田かかってこい! 復唱しよう。 俺は自分より弱い相手としか戦わん。 つうか、さっさとやめろ、宮台。 さっさとやめて、普通に寝たい。 猿、狐猿、デブザル、デブ狐、インテイリもどき、すのっぶ。 小室崩れ、橋爪なりそこね、見田もどき、 文学おたく(システム観、文学だらけじゃねぇか、社会学じゃねぇのか) 漫画おた(漫画は子供が読むものだよ。。。えらそうに語るなアフォ) 元お宅の癖に、お宅馬鹿にする心性ってみすぼらしいぞ。 やってるやつも同類だ、しね、きちがい。
ちょいと失礼 どっかにパットナムについて語ってるスレない?
113 :
maeda :03/05/10 02:42
>前田かかってこい! 復唱しよう。 俺は自分より弱い相手としか戦わん。 つうか、さっさとやめろ、宮台。 さっさとやめて、普通に寝たい。 猿、狐猿、デブザル、デブ狐、インテイリもどき、すのっぶ。 小室崩れ、橋爪なりそこね、見田もどき、 文学おたく(システム観、文学だらけじゃねぇか、社会学じゃねぇのか) 漫画おた(漫画は子供が読むものだよ。。。えらそうに語るなアフォ) 元お宅の癖に、お宅馬鹿にする心性ってみすぼらしいぞ。 やってるやつも同類だ、しね、きちがい。
114 :
maeda :03/05/10 03:10
>前田かかってこい! 復唱しよう。 俺は自分より弱い相手としか戦わん。 つうか、さっさとやめろ、宮台。 さっさとやめて、普通に寝たい。 猿、狐猿、デブザル、デブ狐、インテイリもどき、すのっぶ。 小室崩れ、橋爪なりそこね、見田もどき、 文学おたく(システム観、文学だらけじゃねぇか、社会学じゃねぇのか) 漫画おた(漫画は子供が読むものだよ。。。えらそうに語るなアフォ) 元お宅の癖に、お宅馬鹿にする心性ってみすぼらしいぞ。 やってるやつも同類だ、しね、きちがい。
>「社会学のあゆみ」という本を読んでいるのですが、 女宮台と呼ばれているあゆみさんの本ですね。
116 :
maeda :03/05/10 03:24
>前田かかってこい! 復唱しよう。 俺は自分より弱い相手としか戦わん。 つうか、さっさとやめろ、宮台。 さっさとやめて、普通に寝たい。 猿、狐猿、デブザル、デブ狐、インテイリもどき、すのっぶ。 小室崩れ、橋爪なりそこね、見田もどき、 文学おたく(システム観、文学だらけじゃねぇか、社会学じゃねぇのか) 漫画おた(漫画は子供が読むものだよ。。。えらそうに語るなアフォ) 元お宅の癖に、お宅馬鹿にする心性ってみすぼらしいぞ。 やってるやつも同類だ、しね、きちがい。
羽生さん忘れられた(黙殺)ね
>>110 ウェーバーは近代理性の「意図せざる」悲劇的な帰結を
予知した思想家だというのが最近の定説です。
つまり、ナチドイツも近代合理化が徹底されたがゆえに
出現したものであるわけでして。
119 :
ドラえもん :03/05/10 22:35
薄っぺらな理性の把握をしているから 近代=抑圧なんていえるんだよ。
あげ
日本の定説???
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
age
アルフレートは?
山之内靖さんの単なる受け売りが何人かいるな…
∧_∧ ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。 =〔~∪ ̄ ̄〕 = ◎――◎ 山崎渉
山之内を褒め称えた姜がわるい
マスコミの「盗聴、盗撮」は許されるのか?その8
http://natto.2ch.net/mass/kako/1011/10115/1011522150.html 583 名前: 文責:名無しさん 投稿日: 02/03/05 15:33 ID:A9o87Nml
フジテレビの10時からの番組は、この一つ前の
『どうなってるの』の時からして最悪。私の個人情報を使って、
丸一本「恐怖のサイテー女」とかいった特集を組みやがった。
素人投稿を騙っては、そのもの自体は必ずしも私とは
言いかねるようなものに、同じ名前、同じイニシャルを当てはめたり、
盗聴・盗撮をしているから分かるのであろう様子のほのめかしを
所どころに散りばめては、出演者総出で「サイテー、サイテー」を
連呼していた。
あざとさ極まったことをしながらも、司会者のY・Tと掛け合って、
私の個人情報をボロクソにこけ落としながら大笑いしていた
局アナのN・K(かな?)のけたたましい声が今でも耳から離れない。
仕事だから仕方がないのかも知れないけれど、
ここに出ている者はサイテー最悪の盗聴者。
でもここでの書き込みが筒抜けだからか、
最近は一頃の悪意に満ちたほのめかしが少なくなっている。
しかも明日の項目は「心の〜」だって。
この枠での私への盗聴ほのめかしは、とりあえずのところ
「許せない、とんだ賠償請求」みたいな感じの特集が最後となっている。
賠償を意識せざるを得ないほどに、本当はヤバい盗聴・盗撮と、
そこから得られる個人情報の悪用ですものね。
羽入辰郎は偉い!!!!!!!!!!!
あげ
まんせー
134 :
CC名無したん :03/06/29 01:06
『社会学の根本概念』をドイツ語で読みたいんですけど、 原題はなんですか?教えてください。 Wirtschaft und Gesellschaftのなかに入ってるんですか?
そのまんま独訳せいや
__∧_∧_ |( ^^ )| <寝るぽ(^^) |\⌒⌒⌒\ \ |⌒⌒⌒~| 山崎渉 ~ ̄ ̄ ̄ ̄
__∧_∧_ |( ^^ )| <寝るぽ(^^) |\⌒⌒⌒\ \ |⌒⌒⌒~| 山崎渉 ~ ̄ ̄ ̄ ̄
(⌒V⌒) │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。 ⊂| |つ (_)(_) 山崎パン
やばそう
名前:厨房 :03/08/27 23:23 ヴェーバーって新カント派、つまり論理主義に属する学者に分類されますが、論理主義に対する心理主義からの批判については同思われますか? ところで1のRageさんは哲版の有名コテハンで阿修羅が心酔していた人と同一人物ですか?
zackってさ、日本は欧米と同じく封建制を経験したから 同じく先進国なんだってさ。 今どきライシャワーの近代化論かよ。50年代ってったら もう半世紀前だぜ。今ごろ何言ってんだろうね。
じゃあお前の説はどうなんだ?>143
近代日本は薩摩が造ったんだよ人工的に、教育環境を整えて、憲法を造って、戦争の指揮をとって・・ 別に言う事聞くなら中国人でも良かった
公務員になったが、「官僚制」が身に沁みる。
147 :
マックスヴェーバープラッツ :03/08/30 01:08
神選びの人?
>>145 へぇ
ぼく、明治維新は司馬しか読んでないから、よくわからない。。。
>>146 ウェーバーが言う「官僚制」ってのは
たんに公務員だけを指しているんじゃないぞ。
近代社会全体の支配様式を意味しているのだ。
>>150 うん。
そのウェーバーの『プロ倫』遵守すると、儲かるらしい
羽入辰郎『マックス・ウェーバーの犯罪』(ミネルヴァ書房) どう評価します?
153 :
ヴェーバーを学ぶ :03/09/23 15:21
ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を理解するためには、イディアル・ティプス(理念型)とヴェルトフライハイト(価値自由)の意味を理解することが大切。 カント哲学の基礎知識も必要。ヴェーバーは新カント派の思想家の一人。カントの『純粋理性批判』と『実践理性批判』はヴェーバーを理解するための必読文献。
すいません。教えていただけると助かります。 ウエーバーが「官僚制」を提唱したのは何の本ですか?
>>155 提唱した本はわかりませんが(訳書だと原著の抜粋とかあるので)、「支配の諸類型」(創文社,1970)とか
「官僚制」(恒星社厚生閣,1987)で官僚制について分析しています。手に入りやすいものだと、講談社学術
文庫の「社会主義」の前半部でも官僚制について論じています。
>>156 ありがとうございます。参考にさせていただきます。
>>154 必死だ・・・じゃなくてまあ仕えるとこが仕えるとこだからなあ
羽入先生の研究書増刷したね。
羽入辰郎『マックス・ヴェーバーの犯罪』(ミネルヴァ書房刊)が 「山本七平(『日本人とユダヤ人』の著者?)」賞を受賞しました。
選考委員 加藤寛、竹内靖雄、中西輝政、山折哲雄、養老孟司、江口克彦
山折なんて馬鹿選考委員に入れてるからな。こいつヴェーバーの著作を1つ訳した くらいだろ。
山折哲雄はM.Weberの何を訳したんだろう?
大学院生じゃないと調べようがないよな。
age
ちょっと古いですが今年春の東大『経済学論叢』に掲載の、 至る所に下線の引かれた異様な羽入本書評(評者・折原浩!)は必見。 『犯罪』本でウェーバーに失望してしまったあなたに朗報、 折原翁が『マックス・ウェーバー−羽入詐欺師説論駁から』の 執筆を予告しております。いやはや、折原さんの命尽きるまで、 どろどろの論争が展開されることを期待♪
168 :
マキァヴェリ :03/11/11 21:41
マックス・ウェーバーは 君主論を著したイタリアのおぢさんです
死人でもドイツ国内での社会学のレベルの急低下をみれば、執筆ぐらいするだろ
おいおい。
11月中旬に未来社から、折原浩著『ヴェーバー学のすすめ』が刊行されます。 未来社のPR雑誌「未来」にも、折原氏が亡くなったとは、一切書いて ありません。全くのデマです。お通やの折、山之内氏が薄笑いした…なんて よくも言えたもんだ!
安心しました。 未来社から出る本が、書評で言及していた反羽入本ということでしょうかね。
↑その広告文に、「〜世間に蔓延する悪しきヴェーバー論の風潮を憂慮し〜云々」 とあります。
そもそも折原氏と山之内氏は数年前、雑誌「未来」で くだらん事で、泥試合のような論争をしました。学者 はカスミを喰って生きているのではない事を実証しま した。 それにしても、カスミを喰って生きている学者がいな くなったのは、良につけ悪きにつけ、寂しいデスネ。 その後の「マックス・ヴェーバーと近代日本」という シンポジウム(1999年)では、2人は仲良く話 していました。 何や?これは!〜と思いました。
>>174 >>「〜世間に蔓延する悪しきヴェーバー論の風潮を憂慮し〜云々」
激しく笑わせて頂きました。かなり楽しみです。しかし「悪しき」って。
多分「こんなことでは危険だ!」とか書いてあるんだろうなぁ。 別にミサイルとんでこやせんてw
>168さん江 昔々、マキャヴェリの『君主論』を読んだとき、アレッ!これヴェーバーの 『職業としての政治』の真似しじゃないか?!と、一瞬 思いました。
宮台真司は「終わりなき日常をいきろ」という。ハイデッガーは「世界内存在」 (In-der-Welt-Sein)という。どちらも、ヴェーバーの「世俗内禁欲」から触発さ れた発想ではないか?(同じ実存主義でも、ハイデッガーと対立するヤスパース は、ヴェーバーの弟子である) ヴェーバーはプロテスタント。ハイデッガーはカソリック。宮台は無宗教? 宮台が言いたいのは、「何が良いのか・何が悪いのかハッキリしない世界」を生きろ〜 と、いう事である。宮台は、Mヴェーバーを念頭においていたのではないだろうか?
かのプロメーテウスが人間のために、天上の火を盗んだが、ゼウスは怒って彼に石 を積み上げることを命ずる。それが崩れればまた積み上げ、永遠に繰り返す(これ はギリシャ神話にはない〜大鷲が繰り返し繰り返しプロメーテウスの肝臓を食ら うのを、実存主義者がこのように改ざんした)。これを実存主義では美しいという。 これが、終わりなき日常である。 また、ヤスパースは‘実存的人間’として、ヴェーバーをあげている。 (Kヤスパース著『マックス・ウェーバー』創元社刊S25)
目次:ヴェーバー学のすすめ -------------------------------------------------------------------------------- 第一章 基本構想――ヴェーバーにおける実存的問題と歴史・社会科学 一、職業観問題――神経疾患による挫折と再起の狭間で 二、実存的原問題と「倫理」のテーマ 三、自己洞察からヨーロッパ近代の自己認識へ――「倫理」以降の展開 四、生産的批判の要件を欠く過当な一般化と裁断――「倫理」批判の問題傾向 五、同位対立と批判黙殺――翻ってヴェーバー研究のスタンスを問う 六、ヴェーバー研究の二途・「からの道」と「への道」――「への道」の陥穽 むすび――「夏の虫」は「火中の栗」を拾えるか
目次:ヴェーバー学のすすめ (↑のつづき) ----------------------------------------------------------------------------- 第二章 ヴェーバーの言葉・意味・思想・エートス論――羽入書論駁をとおして 一、論法と水準 二、四「問題」の選択規準と所在 三、疑似問題「唯『ベン・シラの知恵』回路説」 四、宗派宗教性と訳語選択 五、ルターにおける思想変化と訳語選択――『コリントI』七章二〇節の意義 六、疑似問題「『コリントI』七章二〇節訳語の時間的揺れ」 七、資料種選択と研究能率 八、生硬な二項対立図式 九、一挿話――パリサイ的原典主義の反転/回帰 一〇、疑似問題設定の代償――全業績の批判的継承への道を閉ざす 一一、資本主義の「精神」は、功利的処世訓か、それとも倫理/エートスか 一二、資本主義「精神」の独自性――営利追求そのものの倫理的意味づけ 一三、功利主義への転移傾向と純然たる功利主義――キルケゴールを越えるヴェーバー 一四、「カルヴィニズムの神」の歴史的特性 一五、没意味文献学と petitio principii の創成 一六、「フランクリン研究」と暫定的例示手段 一七、「一文書資料」引用の前提 結論 注 あとがき
大塚久雄氏は、階級としての近代的なブルジョアジーは、ただ、西ヨーロッパ (Occident)においてのみ生まれた。だから、階級としてのプロレタリアート も、ただ、西ヨーロッパにおいてのみ生まれた〜という。 だから、「資本主義の精神」とは、資本家〜ブルジョアジーのエートスだけで なく、労働者〜プロレタリアートのエートスも、そこに含まれているという。 ただ、重要なことは、(私が思うには)その労働者階級のエートスとは、 マルクス=レーニン主義的なそれでなく、英国のフェビァン主義的なもの ではないか?
折原書評眺めてみた。 羽入「唯『ベンシラ』回路説」への批判はそれなりに納得いったけど、 フランクリンの引用操作についての折原による擁護論はちょっと苦しいかな〜という印象。 当方素人につき印象批評のみで申し訳ない。 ウェーバーやってる院生さんなんかの意見が聞きたいです。
ラテン語できないとなあ。 まあラテン語できねえ奴はヴェーバー読むなってこった
いや、別にラテン語読めなくてもウェーバーは読めるが・・・
いま、賜杯の社会学を勉強してます
>>188 やっぱりカリスマ賜杯じゃないとイマイチ人民は納得しませんよね、先生。
☆<188 Makikoさん江 Typen der Herrschaft?〜スゴイ!
雁須磨的賜杯より電燈的賜杯の方が安定している。雁須磨は不安定でドンデン 返しが起こりやすい。ヨーロッパでは、ピピンから封建社会が1000年近く も続いたではないか!(近代)資本主義はせいぜい、未だ300年!
ヴェーバーの軽率というより、‘焦り’だが、それは再びかの極度の「神経症= 精神病」(ヴェーバー家系の唯一の欠点はそれであった)に襲われはしないかと いう不安である。だから、正常なときにあらゆる事をこなして置かねばならな かった。しかも、第一次世界大戦ドイツ敗戦の直後である。講和条約の委員に もなっている。国内では左右の対立が激しくなって来た。彼は八面六臂の活躍 をした。その合間にミュンヘン大学での学究生活があった。(マリアンネ夫人 の『Max Weber Ein Lebens-bild』を読め)羽生氏も含めて日本の多くの学者 のように、のんべんだらりと学問に携わっていたのではない。羽入氏のような 揚げ足取りをすれば、『プロ倫』だけでなく、『経済と社会』その他『宗教社会 学論集』などなどにも同じことが出てくるだろう。 ヴェーバーの「同時代」を考えろ!!
>>192 はにゅー氏は「そんな忙しいときに、他にいくらでもやることがあるだろうに
なんでよりにもよって『プロ倫』の改訂なんかやってたの?資料操作にやましい
ところがあったからなんじゃないの?」という突っ込みを入れていたと思います。
ヴェーバーも確かに軽率というより、焦っていたところはあった。しかし、フランクリ ンはプロテスタントのキリスト教徒だから、何かにつけて、聖書からの引用はする。〜 当然のことだ。(クリスチャンでない=無宗教の僕も、ヨク聖書のコトバを引き合いに 出すことがあります。)聖書を引用したからとて、その文に宗教的敬虔がにじみ出てい る〜引用しないからとて、宗教的敬虔からフリーである・・・なんて論法はナンセンスで ある。ヴェーバーは、フランクリンが、個人としては敬虔なカルヴァン派であり、職業 人としては優秀な企業家であるからこそ、彼の文章を引用したのだ。彼は一筋縄では いかない人物だが、決して二重人格でもなければ、偽善者でもない。わが国でいえ ば、幸之助さんか本田宗一郎のような人物だろう〜と思う。雷雨の日に凧を揚げて 雷を捉えるなんて、よくも感電死しなかったものだ。ところが彼はなんとその後で、避 雷針を発明して大儲けをした。印刷業では、『貧しきリチャードの暦』などを刊行して いる。幸之助さんのPHPのようだ。 『自伝』では、宗教的なものが前面に出てくるだろうし、『若き職人への助言』 や『富まんとする者への指針』では、合理的・経済的な、あるいは功利主義的な ものが前面に出てくるのは当然である。しかし、これらは同一人物の著作であ ることを羽入氏は念頭にないのだろうか?〜不思議でさえある。 「致命的」欠陥だの、彼にやましい所があった云々・・・というのは、羽入氏の個 人的な勝手な解釈で、自己の‘揚げ足取り’を正当化しているに過ぎない。(但 し、『〜の犯罪』の第1章と第2章については、私は論評する能力はないから別 だが・・・) また私は、今までの「解釈学的ヴェーバー学(only)」にも反対です。 解釈学は解釈学で躓く。羽入氏は、それに警鐘を鳴らした意味で、存在価値を認 めるにやぶさかではありません。 11月27日に発売される折原氏の『ヴェーバー学のすすめ』が楽しみです。
折原なんて典型的近代主義者の本を 今頃真剣に読む香具師いるのか?
パパのほんをぼうやたちが買わないわけなかろう
ウェーバー研究者は転身? 羽入辰郎の「ヴェーバーの犯罪」の衝撃はちょっとやそっとではおさまりません。 事実でもってウェーバーが学者として失格であることを天下に示したといえるで しょう。かくいう私もずっとウェーバーに執心してきましたが、きっぱり縁を切る ことにいたしました。 私はまだ若いのでいいですが、何十年かをウェーバーに捧げてきた研究者のみなさ んはどうされるの心配です。Zさんのようにまだまだご執心の方もおられるようで すが、そのうち教わりにくる学生がいなくなれば自然と失職することになるでしょ う。早めに転職先を探されたらいかがですか。
<<198さん江 ご進言、ありがとうございます。そやけど Mヴェーバーは、女性スキャンダルを起こして落選するような副総裁 とは、違うでェ。長嶋茂雄じゃないが、ヴェーバーは永遠やでェ。 (もっとも、ヴェーバーとて人の子やから、スキャンダル[女性の]もあるが・・・)
『〜の犯罪』第4章で、羽入氏は適切な比喩を出している。即ち、河の両岸から橋 をかけて行き、中央で結合する・・・・。この河の中央上で橋を結合する役目がフランクリ ンである。だから彼には、A(ピューリタニズムやカルヴィニズム)と同時に、B(功 利主義的思想)が共にあるのは当然である。それを羽入氏は、『自伝』や『若き職人へ の助言』・『富まんとする者への指針』に、AやBがあるの・ないの〜と、自分勝手に ハードルを設定して、どうのこうのと言うのは筋が通らない。 フランクリンの『自伝』は、古今東西の自伝の白眉であるから万人が読んでいる。(私 もプロ倫以前に読んだ。〜フランクリン少年が、コッペパンを齧りながら街を歩いてい るのを、二階から一人の少女が眺めて、なんと奇妙な子が歩いているわ、と思ったそう だ。その少女が、後にフランクリンの奥さんになるのだが・・・) だのにこの百年間、『プロ倫』にかんして問題が出ていない。羽入氏はヴェーバーの魔 術にヴェーバリァンが罹っているというが、彼こそ自己麻酔にかかっているのでは? 以前、別の2ちゃんねるにも書いたが、Kマルクスは『資本論』劈頭の第1巻第1章 第4節:商品の物神性とその秘密で“商品生産社会に最も適した宗教は、抽象的人間を 神と崇めるキリスト教。なかんずくプロテスタントである”と言っている。ヴェーバー がそれを知らなかったはずがない。プロ倫の半世紀も前である。 (以上、『〜の犯罪』に関するファイナルアンサーとします)
上記の、マルクスの文章を正確に訳せば、下記の如くです。 (Kマルクス『資本論』長谷部文雄訳) “‥‥かかる商品生産者たちの社会にとっては、抽象的人間を礼拝するキリス ト教が、ことにそのブルジョア的発展たるプロテスタント・理神論などとして のキリスト教が最もふさわしい宗教的形態である‥‥”と。
『折原浩の弁明』〜=『ヴェーバー学のすすめ』 書店へ 来た・見た・買った そして読んだ。 意を強うした。(僕の考えと同じ) 賽は振られた。 『羽入辰郎の犯罪』 今度は羽入氏が弁明する番。
もしも、折原反論が正しいのだとすると、一番馬鹿を見たのは、最晩年になって 全人生をかけて打ち込んできたウェーバーに裏切られたと感じながら死んだ 安藤英治先生ということになるが・・・
安藤先生が亡くなられたのは5年前(1998年)でしたね。
折原さんが正しいかどうか、まだ即断は出来ないでしょう。 折原さんも、これで終わってはいない〜と、言っていますから。
一次資料と二次資料について。 ヴェーバーや大塚久雄氏は、主として二次資料を使った。 全て一次資料だけで、いかにヴェーバーとて、あれだけの業績を 仕上げるのは無理だ。かつて、貝塚茂樹博士がヴェーバーの使 った東洋に関する二次資料(ヨーロッパの東洋学の学術専門雑誌) を調べたところ、ほとんど正確だった、との事である。もっとも、 二次資料と言っても、他人の著作の「孫引き」という意味では決 してない。三〜四流学者じゃないのだから。
羽入さんは基本的に「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を誤読しています。 誤読の上の虚構の問題(疑似問題)を創作し、そしてそれを破壊して、ウェーバーをやっつけたように得意がっていると思います。
羽入氏は、「プロテスタンティズムの倫理」と「資本主義の精神」とが密接に 関係があるという、ヴェーバーの根本理論に対して、賛成とも反対とも言って いない。 羽入氏の言いたいことは、「そんな事どうでもよい。ヴェーバーの『プロ倫』 は学問的に‘詐欺’だ!」〜ただ、それだけが言いたいのです。そうとしか 考えられません。 しかし、今日まで『プロ倫』批判をした学者は、この二つの関係を論述して いるのです。そこが羽入氏と他の学者との違いです。 Wゾンバルトは『ブルジョワ』で、(近代)資本主義を生み出したのはカソリ ックだと言っています。 このような点が、羽入氏に対し違和感を持つわけです。 だから羽入氏は、ヴェーバーの資料操作の誤り(但し羽入氏から見ての)を基 に、“再構築”をして見せるべきなのです。彼はそれを一切せず、ただ犯罪だ の、誤魔化しだの、ヴェーバーは詐欺師の顔をしているだのと、言っているだ けです。 私が羽入氏に尋ねたいのは、「そやから、どぅやねん?」です。
209 :
考える名無しさん :03/12/06 04:45
岩波新書は山之内靖「マックス・ヴェーバー入門」絶版にして、 青山秀夫の「マックス・ウェーバー」を復活させてくれ。 ポストモダンの解釈はもう飽きた。
羽入氏の誤読の第一は文献学と社会学の混同です。羽入氏は社会学の方法を全く理解していません。 もし、文献学が一次資料を中心に扱うのなら、社会学は二次資料で満足せざる終えない学際科学です。 次に、羽入氏は理念型というもの根本的に誤解しています。彼には真理を理念型によって見る感受性が全く欠けています。 折原氏が指摘する如く、羽入氏はフランクリンにおけるエートス(倫理的生活態度)と功利主義的見解を混同しています。 さらに、羽入氏には「宗教的生命」と「宗教的生命を失った化石(死骸)」の区別が理解できていません。 これも折原氏が鋭く指摘しているように、フランクリンの神は決してカルヴァンの神ではありません。 フランクリンは預定説を受け入れることができなくて長老派の信仰を離れ、理神論者となったのです。
ウェーバーの「プロ倫」は、はっきり言って思いこみの産物だろ。 まあ思いこみっていうか妄想というか、 しかしそれを宗教思想と結びつけて、もっともらしい理論に仕立て上げた というところが、頭でっかちの学者には受けたんじゃないかな。 そういう評価が欧米では一般的になってると思うが、 大塚っていうウェーバー信者が学会のボスだったから 「裸の王様」よろしく、日本の学会ではそういう批判が通りにくかった。 それで、羽生が「ウェーバーの犯罪」で猫に鈴つけたということじゃないの? だから、この本の日本の学会での意味は ウェーバー批判じゃなくて大塚グループ批判ということで、 それに対して大塚グループ代表として折原が反論したと見てるんだけど。
まあオレは社会学界とは無縁だから、 見当違いのことを言ってるのかも知れないけどね。
>>211 難しいのだが
>欧米では一般的
ということは無いように思われる。
おそらく、ヴェーバーが考えていたよりも
事態はもっと複雑だった、というのが現在の
一般的な認識では無いかな。
いずれにせよ、ヴェーバーが切り開いた領野を
ヴェーバーを越えて後続の研究者が踏み進むのは
好ましいことだとは思う。
が、どうも羽入氏の著作はあまり生産的では無い気がするね。
読んでないから何とも言えないが。
以上折原ゼミ出身者総出でお送りしました。
>>213 >いずれにせよ、ヴェーバーが切り開いた領野を
そうかねえ。学問の流れとしては
不要な脇道にそれただけ、という気がするが。
>>211 折原と大塚は別に仲良く無かったんでは?
まあ同じ岩波文化人と言ってしまえばそれまでだが、
プロ倫大塚訳の問題点をいち早く指摘していたのが折原だったりする。
専業ウェーバー読みとしては、大塚訳の過剰な読み込みには納得いかない
ところが多々あるだろう。無くなった安藤さんとかもね。
折原を大塚派にくくるのはかなり違和感がある。
羽入氏は、系統上は大塚氏の孫弟子に当たります。
責任取らず自由に発言できる + 体制がチェックを入れる意味を感じない場所 = 隔離場だから。
>>99 の趣旨に近い。
>>218 学会がってこと?まあそうだけどさあ・・
<<213さん江 珠玉の小著『ウェーバーの思想における政治と社会学』 (未来社刊〜我が本棚に在り)を、早速、読んでみます。 しばらくお待ちください。
今、フッと思いついたのだが、今のうちに一本‘釘’を刺しておかないと、 このスレが崩壊することがある。それは、吉本隆明が言った「共同幻想〜 (対幻想・自己幻想」というコトバである。安直にこの言葉を持ちだすと、 ディスカッションは無意味となる。あくまで具体的なデータを基礎にして この言葉を使うべきだと思う。(どなたか使いそうな気配がする...!)
マックス・ヴェーバー擁護 第二弾。 未来社のPR誌『未来』2004年1月号は、Mヴェーバー特集号となります。 乞うご期待!! 併せて、今月中に、ヴェーバー学者:住谷一彦氏の『日本を顧みて』(仮題・ 予価\3,200-)が刊行されます。 彼はパイプをくゆらすダンディなヴェーバリアン。60歳台にしかみえない。 (最低10歳は若く見える)
>>222 確かにデータを用いない議論など、19世紀以来人間社会では主流じゃなかったしね。
わが国の巷間では、民主主義はなんだか「最高目的」の如く考えられているが、 民主主義は一つの技術(テクニック)であり、目的に対する一つの手段である に過ぎない。 “何事も平和的に、話し合いで、民主主義の原則に則って・・・”こう言っておけ ば、無難なのが日本の言論界である。「雨が降る日は天気が悪い」というに等 しい。Mヴェーバーの、最も嫌うせりふである。
227 :
ななしさん :03/12/16 21:24
2004年1月号(今月号)の『Voice』誌に羽入さんが出てるわ。 みんな見た見た?
そのうち羽入氏は、1.5流大学の正教授になるだろう。
日本も、やっとイラクへの自衛隊派遣が決まった。今年中に「空自」が50人、 来年2〜3月に陸自が4〜500人。それも、恩にきせがましくしてこれだけ。 韓国は二千人に、追加三千人。Mヴェーバーが生きていれば笑うだろうナ。
>>229 むしろ、
>>そのうち羽入氏は、1.5流大学の正教授になるだろう。
みたいな発言のほうを笑うのでは・・・あなた何様ですか?
>>230 さん江
『国民国家と経済政策』を書いた人物の生まれ変わり。
クンコ学しかしてないに社会科学と勘違いしてる馬鹿っていいな。
>>231 そうですか。かたや齢三十で一流大学の正教授、かたや2ちゃんねるの固定、
なんとも不遇な時代にお生まれになったものですね。
カルヴァンの「予定説」だから。仕方おまへんなァ。
>>234 キリスト教だったら「生まれ変わり」はねーだろー、と無粋なツッコミ。
>>235 さすが鋭い!
ところで今日、PHP発行「Voice」04’1月号を買ってきた。
羽入氏の‘山本七平賞’受賞には、あえて反対はしないが、選者(6人)の
選評を読んでがっかりした。確かに彼等は学生時代に「プロ倫」を読んだ
であろうが、なんだか趣味会のミステリー賞でも出すような選評だった。
所詮、大塚久雄を頂点とするわが国のヴェーバー学へのルサンチマンでは
ないか? 選者の一人は、はっきりと大塚氏の名を挙げている。こんな選
評では、羽入氏も不満ではないか?
>>236 山本七平賞ってのが笑えるw
んで、このコメントも笑える
>著者の論考が誤りであることを証明したいなら、同じ手続きを踏めば
いい。評者にはもちろんそんな暇はない。したがって当面、それがいか
に破天荒なものであったとしても、著者の結論を素直に受け入れるしか
ない。
をいをいw
うーん、今後、この論争がどう推移するにしても、 たしかに山本七平賞って、羽入本にはうってつけですよね。 ところで、この賞をもらった羽入さんは、はたして嬉しいんだろうか。
凄い羽入爆弾。 ヴェ−バー産業壊滅。
>>238 折原さんはすげえ喜んでたよ。これでつけいる隙ができた!とかなんとかいってさ
キリスト教の「復活」と、ヒンズー教の輪廻による「生まれ変わり」〜 三島由紀夫の『豊饒の海』のそれと、どう違うのか? また、ギリシャ神話における‘メタモルフォーゼ(変身)’〜かつて子供が ヘンシーン!と言って遊んでいた変身など、この三つの関係は? それと両性具有(アンドロギュノス)は? 誰か「宗教社会学」(エリアーデでもよい)から解明してくれないかなァ。
>>241 「宗教社会学」8−9節ですね。
もっとも、ウェーバー自身にとってこの章は「恩寵状態の確証」という
キーワードを持ち出すための前振りですが・・・。
(11節の) インドにおける輪廻思想が、下層民に来世の上昇を約束することで 現世のカースト秩序を強化しているのに対して、 中世キリスト教における救済論は、現世の身分秩序を 楽園=彼岸に持ち込むから、民衆を現世秩序に従わせるには十分でない、 ここらへん、なんか説明に無理があるような気がする。
新約聖書マタイ伝第5章=「悪しき者に抵抗(てむか)うな。人もし汝の右 の頬を打たば、左をも向けよ。・・・」 マックス・ヴェーバー=「悪しき者に抵抗え。さもなくば、汝は悪の共犯 者と呼ばれるであろう。」 心情倫理(この場合は‘信条[教条主義]倫理’ではない)と責任倫理の違 い。 イラク戦争に自衛隊を派遣する一つの根拠〜?
いやここでルターを読んでないことの証明をしなくても・・・^^;
ルターは最後になって、ヴァチカンに対し“自己の考えを放棄する”と、懺悔 したのである。
じゃあ廃人だね
勿論、放棄したと言っても、百年後のガリレオ・ガリレイ裁判と同じで、 「それでも地球は回る...」である。
☆ 資本主義は「システム」か「精神」か? 精神派=Mヴェーバー・JMケィンズ・Fブローデル システム派=Kマルクス・Wゾンバルト(多分?) マルクスは資本主義をシステムと見ていたに違い ない。『資本論』がそうである。しかし、彼は共 産主義という言葉は使っているのに(『共産党当 宣言』〜「ヨーロッパに幽霊が出る。共産党主義 という幽霊である。」)、資本主義というコトバ は一切使っていない。これは今でも私にとって疑 問である(誰か教えていただきたい)。 ところで、スキデルスキーの『JMケィンズ伝』第 2巻:“The Economist as Saviour”に、「彼は 資本主義を精神と観ていた。しかし、彼は恐らく Mヴェーバーを読んでいなかったであろう」と書 いてある。
昔駒場で折原ゼミなるものに出席したことあり。 陰気な印象の人だったが今も同じかな? マージナルマンだったけ。たいしたことない理屈。 で今までずっとウェーバですか。アホかいな? 自分の足で立ちなさい。と思ったりもした。 それで折原先生に従う人たちに聞くけど折原理論っていうのは ドイツでどんな評価なの?それを教えて。
>>249 ウェーバーは、資本主義に適合的な「精神」と、
システムとして出来上がった資本主義は区別してるんじゃないの?
この一年、色々とご教示いただきまして有難うございました。 皆様、よき新年をお迎えください。 来年も大いにがんばります。 もちろん、「ヴェーバー」のみで全てが解き明かせる〜なんて、決して思 っていません。(かつての、教条主義的マルクス主義者のように・・・) あくまで、ヴェーバーは‘手掛かり・足掛かり’です。 サラブレッドの馬でも、時たま、野生馬の「血」を注入(交配)しなけれ ば、退化するそうですから。 〜解釈学からの脱却を!!〜
>あくまで、ヴェーバーは‘手掛かり・足掛かり’です。 あなた教条的マルクス主義者の言ってたこと知りませんね?学部生ですか?
>>253 あなた教条的マルクス主義者の言ってたこと知りませんね?
あなたこそ、ご存知なら具体的に教えてくださいナ。
同じ宗教社会学でも、ヴェーバーとエリアーデはどう違うのでしょうか? ヴェーバーでは「達人宗教・紹命宗教」がキーワードですが、エリアーデ はどうでしょうか?ご教授ください。(岩波の『哲学・宗教事典』では、簡 単過ぎて解らない)
『哲学・宗教事典』でなく、『哲学・思想事典』でした。マチガイ〜スマン。
☆達人宗教=ヒンズー教・仏教・儒教・道教〜これらを「Will」の宗教という。 ☆詔命宗教=ユダヤ教・キリスト教・イスラム教〜これらを「Shall」の宗教という。
259 :
にゃうにゃう :04/01/08 02:25
「マックス・ウェーパーの犯罪」をさらっと読んでみましたが、別に何の感慨 もなかったですね。 ウェーパーを悪魔と呼ぶ著者のロジックは錯綜してますが、まとめると以下です。 1 ウェーパーは資料を意図的に操作していた。 2 従って、ウェーパーは知的に誠実でない 3 従って、知的に誠実でないウェーパーが書いた理論は全て間違っている。 骨子は、単なる人格攻撃でした。 実際読めば分かりますが、悪魔だの、老獪だの、ずる賢いだの言葉が連呼され てます。そんな論文がまともだと思います? 裁判では「主張」と「立証」が別れており、「主張」で最終的な結論までのロジック を固めて、事実がそのロジック通りであることを「証拠」を提出して「立証」する。 最終的な結論までのロジックがへぼだったら、「立証」なんてそもそも問題になら ない。 その立証も、彼の立証が功をそうしているのは「二つ」の点でウェーパーの資料の 引用に誤りがあったというだけある。それが意図的であるか否かは分からない。 著者は意図的であると推測しているが、合理的疑いを入れる余地がないほどには、 立証に成功していない。つまり、ロジックの1でつまずいている。 基本的に、議論にあげる価値はないと思いますよ。
260 :
にゃうにゃう :04/01/08 02:26
もう一つ。 わずか二つの点で資料の引用に誤りがあったという点で論文を発表する奴もどうか と思いますが、それに過剰反応してしまうのは、ウェーバーの理論が「定理」として 受け止めてられていたことの裏返しですよね。 社会理論において、完全無欠の「定理」なんて有り得ません。 だけど、モデル理論の批判というのは、それと矛盾するモデルを作ってそちらの方が 現実に即していることを証拠をあげて立証するか、より一般的な包括理論を提出する ことだと思うんですよね。 我々がウェーバーの理論を「定理」と受け止めるのは誤りですが、だからといって、 この本の著者は批判の仕方が誤っており、ロジックもへぼい。 しかし、著者は主張、ロジックが一貫していないので、ウェーバーの理論を「定理」 として受け止めるのは間違いだという一般的で当たり前の主張と、ウェーバーはヘボ だという主張を等価として扱っている。まとめると以下です。 主張A = ウェーバーの理論は「定理」じゃない = ウェーバーはヘボ ウェーバーの理論は「定理」じゃないない(真)なので、主張Aは正しく、主張Aが 正しいので、ウェーバーはヘボ(ヘボはお前じゃ)というロジックを平然と振り回 しておられる。 よく茶者の言っていることを検証せず、ウェーバーの理論は「定理」じゃないから、 この著者の言っていることは正しいと述べた奴は猛省して欲しい。
>>260 ややさん,一つでも反証があったら間違いなんじゃなかったんですか?
マックス・ウェーバーの呪縛だな。 冷静に考えれば、「プロテスタンティズムの精神が資本主義を生んだ」 なんてわけねーじゃん(笑)て感じだし、 本だけを読んでもずいぶん苦しい論証をしているという印象だ。 それが事実誤認に基づくものだったら話にならないんだが。 にもかかわらず今だにこの説が生き残ってるのは 思想好きの人間に訴えかけるからなんだろうね。 「おお、経済活動も思想に支配されているんだ うんうん、やっぱり思想というものは大事なんだ」 と自己完結するにはもってこいの学説というか…
263 :
にゃうにゃう :04/01/09 01:11
>>261 全然、そんなことはないですよ。
例えば、ある人が殺人を犯して、刑事が立証するとしましょう。
血痕と凶器と証言と自白を検察官が証拠としてあげたとしましょう。
そのうち、血痕だけが弁護側から崩されたとしても、残りの証拠で
立証できる可能性は充分にある。
すでに述べたように、論理を組み立てる段階とそれを事実から基礎
づける段階は分けて考えて下さい。
論理を組み立てる段階で論理的矛盾があればそれは問題ですが、
事実認定がひとつひっくり返ったからといって、たいした問題じゃ
ない。
264 :
??_??v??C??_??v??C :04/01/09 01:13
>>262 別のスレで書いたのを、そのまま持ってきます。
ウェーバーは「新観念史観」という見方を打ち出したと 言っていい。
ヘーゲルが「観念史観」、つまり、人間の精神活動に基づいて歴史が発展していくと
い考え方を打ち出し、その後、マルクスが「唯物史観」を打ち出した。
「唯物史観」においては、人間は一個のものとなり、物理の法則のように動作する
対象として扱われる。
ウェーバーは「新観念史観」は、この二つを包括するものと言って良い。
即物的なものも人間の行動を規制するが、観念(倫理)も人間の行動を規制し得る。
経営者が数字とにらめっこして経営方針を決定することもあれば、信念に基づいて
打算を超えて意志決定することもある。
ウェーバーの見方って、現実に即していると思いません?
思想によって「も」人間の行動を規制されるということを言っているだけで、
人間が功利的に行動することを否定してません。
未来社PR誌「未来」1月号に、折原浩氏・橋本努氏が執筆しています。 折原氏の反論は、『ヴェーバー学のすすめ』に書かれていますからここでは述べていません。 氏が懸念しているのは、ヴェーバーは勿論の事、羽入氏の『〜犯罪』すらも読まずに、単に 週刊誌的な風潮に惑わされて、ヴェーバーを‘こうだ’と決めてしまうことです。今の大学 機構にも問題があると指摘しています。それと、節度(羽入氏の)の問題です。 橋本氏は、羽入氏が一つの警鐘を鳴らしたことは認めても、折原氏の反論を根拠に、“木を見 て森を見ざる”論法を指摘しています。結論として、羽入氏の一つ一つの指摘は事実としながらも、 ヴェーバーの根幹のテーゼには何ら影響はないとしています。特に第3章と第4章のアンチノミー を述べています。 要するに、フランクリンから‘プロテスタンティズムと資本主義の精神の関連を引き出したのではなく、 その関連の肉付けとして、フランクリンを挙げているのであって、彼とてそんな完璧な人物ではないのです。 彼も一人間である以上、当然のことです。
おそらく、羽入氏は再反論はしないでしょう(出来ないだろう)。もし、羽入氏に‘再反論’の 意思があるのなら、「未来」誌は無条件に掲載する度量があってもよいでしょう。それを期待 して・・・。
268 :
にゃうにゅう :04/01/10 01:09
Zさん >資本主義は「システム」か「精神」か という点ですが、ケインズは、少なくとも、システムの側面があると見ていたと 思いますよ。 ケインズの「自由放任の終焉」という小論では、資本主義は常にメンテナンスが 必要な機構であるということを述べています。メンテナンスを行う人は当然、 資本主義の精神が必要なので、この点では精神とも言えますが、同時に、対象 となる機構でもあるわけです。 なお、ケインズは絶対ウェーバーを読んでないと思います。 英国とフランスの文献は大量に読んでいたらしいですが、ドイツの文献は 全然読んだことがない人のようです。
>>にゃうにゅう さん、ご指摘有難うございます。これからもヨロシク。
質問なのですが、マックス・ウェーバーとW・W・ロストウの発展段階説の比較についてお分かりでしたら教えてください。
☆WWロストウ(1916〜)の発展段階説は、 1)↓伝統的社会 2)↓離陸のための先行的条件 3)↓離陸(Take-off)=イ)投資率の著しい上昇と持続 ロ)工業部門の急速な拡大 ハ)農業生産性の急上昇 4)↓成熟への前進 5)高度大衆消費時代 に分けています。[岩波『経済学辞典』(大阪市大経済研究所編)より] しかし、彼の理論は1950〜60年代のものであり、旧ソ連を5)としたり、IT情報革命を見込んでいない。(ベルリンの壁崩壊以前だからしかたない) Mヴェーバーの正統性(カズイスティーク)は発展段階説ではない。また、Fブローデルの3階建てもそう(1F=物質・2F=交易・市場・3F=資本主義)。
273 :
にゃうにゃう :04/01/14 01:44
Zさん プロバイダー規制で返答が遅れましたが、こちらこそよろしくお願いします。
一昨日「ラストサムライ」(米)を観てきた。面白かった。梅田の書店には、 新渡戸稲造著『武士道』(岩波文庫)が店頭に横積みされていた(その横に「新 撰組」の本も並んでいた)。 それで思い出したが、第一次世界大戦が終わった直後、文芸評論家の亀井勝 一郎がドイツに行ってMヴェーバーとあっている。その時、ヴェーバーは亀井 に“今次大戦での日本軍のドイツ軍捕虜への対応が、「騎士道精神」に適って いた”として、深く礼を言ったそうだ。これは、ヴェーバー学者:住谷一彦氏 から聞いた。(シムポジウム「マックス・ヴェーバーと近代日本」1999年)
Mヴェーバーが、かの神経病から回復する頃、そしてその回復も兼ねて、アメリカ大陸を旅行した。 20世紀の初頭である。そしてアメリカの大学を回り、驚いた。彼は、「アメリカの大学は企業で あると言った。 プロイセン官僚システムの手中にある、ドイツの大学〜その行政と比較して、驚いたのである。 大学教授にも、市場原理(競争原理)が貫徹することを目の当たりに見た。 彼の“価値自由論(Wert-freiheit)”は、先ずもって、プロイセン官僚の大学支配に対する反論として生まれた のである。 ところで、成蹊大学の竹内靖雄氏は、「環境問題にも市場原理が貫徹する」と言っている。 巷間では、一般に環境と市場は対立すると見られている。この問題を理論的に証明しなければ・・・ (論理整合性として)。
すでに議論されていることかもしれませんが、「プロテスタンティズムの 倫理と資本主義の精神(岩波文庫)」の終わりに近いp.366に書いてある 以下の文章についてコメントを頂きたいと思います。 私は、恥ずかしながら、これから姜尚中「マックス・ウェーバーと近代」を 読もうとしているところです。 ============================== 営利(活動)のもっとも自由な地域であるアメリカ合衆国では、営利活動は 宗教的・倫理的な意味を取り去られていて、今では純粋な競争の感情に結び つく傾向があり、その結果、スポーツの性格をおびることさえ稀ではない。 将来この鉄の檻(非有機的・機械的生産の技術的・経済的条件に結びつけら れた近代的経済秩序の、あの強力な秩序界)の中に住むものは誰なのか、 そして、この巨大な発展が終わる(おそらく将来、化石化した燃料の最後の 一片が燃えつきる)とき、まったく新しい預言者たちが現われるのか、ある いは、かつての思想や理想の力強い復活が起こるのか、それとも ――その どちらでもなくて―― 一種の異常な尊大さで粉飾された機械的化石と化す ることになるのか、まだ誰にも分からない。それはそれとして、こうした 文化発展の最後に現われる「末人たち(letzte Menschen)」にとっては、 次の言葉が真理となるのではなかろうか。「精神のない専門人、心情の ない享楽人。この無のもの(ニヒツ)は、人間性のかつて達したことの ない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう」と。―― ==============================
中葉さま お久です。「精神のない専門人、心情のない享楽人。・・・」、このフレーズは、 ニーチェの『ツァラトストラは、かく語りき』からの引用です。私は、それが『ツァラ〜』 のどの辺に書かれているのか、まだ調べていません。これは、山之内氏の言です。 ヴェーバーにおいては、「非合理的なものから合理的なものが生まれ、合理的なものから非合理的生まれる」 というのが‘主テーマ’です。彼において、非合理的なものの代表が‘宗教’です。それが 合理化された(教義にしろ、教団にしろ)。『職業としての政治』の中に、「善は善からのみ 生まれ、悪は悪しか生まない〜ということほど馬鹿げた考えはない」とあります。 ドッズは『ギリシャ人と非理性』で、ギリシャ文明は、非理性的なものの中から、あの理性的 な文明が生まれたことを書いています。 そして、その文明が最高潮に達して、人々が自由であることに耐えられなくなり〜即ち‘自 由の恐怖’を懐き、占星術のようなオカルトに走ってギリシャ文明は衰退した・・・と言ってい ます。経済的には決して衰退しなかった!!生活は前にも増して裕福だった。 ドッズは、古代 に現代を見たのです。
☆追伸 E.R.ドッズ著『ギリシャ人と非理性』A5-388p(岩田・水野 訳)みすず書房 1972 刊
>>276 大塚訳の当該引用箇所には、ウェーバー屋がこぞって指摘する有名な誤訳があります。
皆さん、適切なコメントをありがとうございました。 流石にウェーバー・スレですね。 私は今、この言葉を下敷きにしたレポート・提案書を書こうとしているので、 凄く助かりました。
「にせユダヤ人と日本人」で徹底的にやられたイザヤベンダサンこと 山本七平の名を冠した賞を、同じような本がもらうのも何かおもろい。 プロ倫久しぶりに読んだけど、確かに、結論先にありきで、 論証に必要かどうかわからない知識を多数ひけらかして煙にまき、 仮説をあたかも実証された科学的真実のように語る。 山本七平のごまかしテクはヴェーバーのパクリか? しかし実証や論理展開の正確性を軽視(無視)する 思想好きの空理空論家には好まれる本みたいですなあ。 どこかロマンがあるのだろうのう。 それとも信者を増やしていくお手本として珍重されるのか?
>>282 さん江
貴君は「思想」と「科学」とを混同しておられる。
勿論、この混同は貴君だけではない。
思想は‘熱き心’だから、悪くいえば空理空論的なところがある。
科学は、自然科学にしろ、社会科学にしろ、人文科学にしろ、学問だから
実証(一次資料・二次資料なり、統計・実験などなど)的な裏づけが必要
である。
学問がテーゼとして一人歩きすると、思想になる(〜場合がある)。
それが勝れたものか、下らんものかは別として・・・。
だから、思想に‘実証’を求めるのは無意味である。
>>283 282じゃないけど、あんた何にかみついてんの?
あんたの言おうとしてることが
「プロ倫」は思想であって、科学や学問ではない。
現実とは無関係な空理空論なのだから
実証を求めても無意味だよ
ということなら、282も同意じゃないのかね?
☆そう言うと思ってた。
『プロ倫』を思想と観るのも一つの見方であろう。その根拠は、せいぜい
『資本論』の「商品の物神性とその秘密」で充分だろう。
また、科学として観るならば、実証が基本である。その実証は、Kポパー
のいう反論可能性でなければならない。
ところで、Sピーロッティ女史が『プロ倫』批判をまとめている。下記のURL参照。
http://www.cad.gatech.edu/support/sandra/paper.html 思想とは“色即是空”や“人類の歴史は階級闘争の歴史である”であって、反論可能な実証でなく、絶対真理や『職業としての政治』に述べられているデマゴーグのようなものである。
>>282-285 の議論は、あまり理解できないが非常に興味深い。
今、必要があって姜尚中「マックス・ウェーバーと近代」とパウル・
ティリッヒ「文化と宗教」を読みはじめるところですが、おかげさまで
読む姿勢が決まり、読む意欲が湧いてきたように思います。
>>286 Pティリッヒとはスゴイ!!
RNベラーなども、影響を受けているのでしょうか?
日本では、未だ翻訳も出てないようですね。
同じプロテスタントとして、Mヴェーバーをどう観ているのか
教えてください。
追伸=「哲学」と「思想」は、分けて考えねばならない〜
というのが、私の持論です。
これを詳しくいえばキリがないので・・・
お目にとまって恐縮です。
詳しくはありませんが(汗)、
私がはじめて読んだベラーの「徳川時代の宗教(岩波文庫)」の出だしの
ところで、“我々は、パウル・ティリッヒ(Paul Tillich)にしたがって、
宗教を、究極的関心にかんする人間の態度と行為と定義する。”と説明して
います。そして、その後で何度もこの定義を引用しています。
私はずいぶん昔、婚約者について教会に通った頃、教会の小さな本箱にあった
ティリッヒの「信仰の本質と動態(新教出版社)」を読んでひどく感動した記
憶があるのでその後長い間探していたのですが、つい1週間ほど前に偶然、
再刊書を入手し、思い出に浸りながら読もうとしているところです。
繰り返しになりますが、ベラーの上掲書の基本理念は、ティリッヒ、
ウェーバー、石田梅岩などであり、指導教授はパーソンズ、ライシャワー、
エリセーフなどで、なんか、とっても格好いい本です。間接的には、丸山
真男の影響も大きく受けているようです。
ただ、将来のことを考えるに当たっては、同じベラーでも「善い社会(みす
ず書房)」が貴重です。そのあまり、私は原書まで購入してしまいました。
振り出しに戻りますが、私のチャレンジ課題は、
>>277 「精神のない専門人、心情のない享楽人。・・・」
です。
これに役立つ参考書はないようですね。
無謀な試みであることはわかっています。
ご支援ください。
もう一つ話題が残っていましたね。
>>287 「哲学」と「思想」は、分けて考えねばならない〜というのが、私の持論です。これを詳しくいえばキリがないので・・・
多分、これが私にとっても、躓きの石になるでしょう。
やはり、35年ほど前に購入し、読みこなせなかったティリッヒの「文化と
宗教」を最近読み直し始めたのですが、この本の基調テーマが「哲学と精神」
に近いと思います。今日はこれ以上言えません。
言えることは、良い本と良い友に恵まれて幸せだということです。
これからよろしくお願いします。
>>265 未来社
実は、未来社には大変お世話になりました。
私はもともとマンハイムからこの分野に入ったのですが、始まりは
「自由・権力・民主的計画(未来社)」で、この本を10年間テキストに
使い、途中で絶版になったときは未来社の了解を得て、講義録版をhpに
収録したりしました。
http://home1.catvmics.ne.jp/~shibatay/plan1.htm 今年で定年退職ですが、その後もこの講義録版を社会教育に使う了解を頂き、
とても喜んでいるところです。
また、マンハイムのこの本の素晴らしさを教えられたのは、UCLAの
John Friedmann教授のRetracking America(Rodale Press)からでした。
フリードマンの集大成はPlanning in the Public Domain: From Knowledge
to Action, Princeton Univ. Pressです。
http://pup.princeton.edu/titles/2594.html 恐るべきことは、マンハイムも、フリードマンも、もう一人私淑している
ドラッカーも、みんなオーストリー・ハンガリー帝国からアメリカへの移民
であることです。ハプスブルグ王朝、ため息が出ますね。
>>中葉さん、詳しくご教示くださって有難うございました。 さて、「思想」の件ですが、岩波から『哲学・思想事典』が出ています。私も 色々と利用しています。確かに、哲学と思想は緊密な関係があります。だから こそ、この二つはハッキリと区別しておかねばなりません。(そんな事、どっ ちゃでもエエヤンカ〜と、いう人は、それこそ、どちらでも良いでしょうが・・・) 鶴見俊輔氏主宰の『思想の科学』という雑誌があります。氏は、思想と科学は アンチノミーであることをヨク知っているからこそ、このようなタイトルを付 けたのでしょう。 一方、「科学的社会主義」というコトバがあります〜イヤ,ありました。社会 主義にしろ資本主義にしろ、科学的だの何のと、バカげた事を言うもんじゃない。 こういうところが、かつてのマルクシズムの胡散臭さです。「科学的」という コトバに騙された者が悪い。 それから、もう一つ。客観的が科学的で、主観的が非科学的〜なんて、幼稚な レベルで物事を判断しないように!!
私は前から気になっていたのですが、 ソ連の科学的社会主義とアメリカ合州国の科学的管理法とは一卵性双生児ではないかと。
これは鋭い質問です。 社会主義とは、一つの思想です。 「管理法」は経営学の一分野〜一つの学問分野です。しかし、これは商品の 管理だけでなく、「人」の管理も含みます。そこが問題ですネ。そこで、M. ヴェーバーの“精神のない専門人〜・・・”が問題になってくる。かつて、E. メイヨーがいったヒューマン・リレーション(人間関係)が経営組織論で論じら れるようになった。(古いがL.マンフォードも『技術と文明』で論じていま す。また、従業員の私生活にまで管理した‘フォード主義’も、科学的管理 法でした=新しいマルクス主義:レギュラシオンもこれを取り上げています) 即ち、「国家」と「企業」の違いが質的なものか、量的(規模の大小)な違い なのか〜です。私は、質的な違いだと思っています。 しかし、この2つは似ています。どちらも、人間を「機械の歯車」(L.マンフ ォード言)としていますから。
旧ソ連の社会主義を科学的(勿論、マルクスもそう言っているが)というのは、 他の社会主義を(侮蔑的に)「空想的」というのに対比しての事です(だから他 の社会主義者は、自己を空想的とは言いません)。あたかも、己の仏教を「大 乗」仏教といい、他の仏教を「小乗」と言うのに似ています(いわゆる小乗仏 教派では、己を「小乗」とは言いません)。それに対し、経営管理論を科学的 というのは、あくまで学問的(科学的)に言った言葉です(それが価値合理的か 否かは別として)。
>>295 (それが価値合理的か否かは別として)。
正にここがポイントで、ウェーバーの指摘も
>>276 そこを衝いているし、
ベラーは「善い社会」の序論「私たちは制度のなかを生きている」、
その「3 なぜアメリカ人は制度の理解が苦手なのか」で、
その原因と解決策の方向を示唆しています。
新しい「複雑系」を超える「総合」科学的アプローチが求められるゆえんです。
イラク問題に関する米国の対応はは悲劇的な状況です。 ティリッヒは「文化と宗教(岩波、p.119)」において、 “この分裂は悪魔的現象であり、その最も普遍的な現象は、人による自然の 支配と、その結果として人が支配されることに対する人の嫌悪との分裂であ り、もう一つの悪魔的象徴が、東と西との分裂である。”と言っています。 「加藤周一、戦後思想を語る(論座、2003、3、p.92-)」において加藤は、 近代とポスト近代との分裂について以下のように成田龍一と語っています。 “(成田)68年は「近代」が問いかけられるという出来事でもありましたが、 重要な20世紀の区切り目だと思います。(加藤)68年が本質的に戦後を二つ に分けると言えるかもしれない。改めて分析する価値があると、私はとても 強く感じる。” ドラッカーは「イノベーターの条件(ダイヤモンド社、p.159-)」で以下の ように書いています。 “歴史にも境界がある。目立つこともない。その時点では気づかれることも ない。だがひとたび越えてしまえば、社会的な風景や政治的な風景が変わり、 気候が変わる。「新しい現実」が始まる。1965年から73年の間のどこかで、 世界はそのような境界を越え、新しい次の世紀に入った。過去1世紀にわたっ て、政治の信条、公約、権力構造としていたものから卒業させられた。そし て、道しるべのない未知の世界に入った。” これらの見解は、私が1960年から1970年までに体験した実感と符合しています。 「マックス・ウェーバーの見直し」の必要性と可能性の原点も、正にここに あると思います。
戦争を「正義」とは思わないが、さりとて、“平和は正義だ・・・”という考えに も賛成できない。平和は利害関係(interest)であり、大いに利己的(国家で あれ個人であれ)なものであると思う。 1904年、ヴェーバーはマリアンネ夫人とともにアメリカを訪れた。その印象が 強烈だったためか、米国をヨリ肯定的に観る傾向があるようだ。 それに反して、ヴェーバーはフランスに対して厳しい。JMケィンズもそうだ (『講和の経済的帰結』参照)。わが国は(特にインテリ階級は)「おフラン ス」様々の国だから、この逆。 『講和の〜』にしろ、マリアンネの『Max Weber〜Ein Lebens Bild』にしろ第 一次世界大戦講和での、仏・クレマンソーのやり方に怒りを書いている(二人 とも、講和に参加している)。だいたい、フランスという国は戦争に負けなが ら、講和には勝ち組に顔を出す。騎士道精神の特に強いヴェーバーにとっては、 それが許せぬ行為だったのであろう。 今度のイラク戦争でも、アメリカを非難するならば、それ以上にフランスの平 和主義は正義ではない。フランスの思惑が見え見えであろう。そこを突っ込む のがジャーナリストとしての責任倫理である。このようなことは、‘60年安 保闘争’についても言える。
ロシアは?
ティリッヒ「文化と宗教(岩波、p.119)」より引用を続けます。 “私が今日悪魔的なものの最も普遍的な表現とみなすのは、人による産業の 支配と、この支配の所産に却って人が支配されることに対する人の嫌悪との 分裂であります。人間は産業社会の全制度を大がかりにつくり出し、その所 産たる強大な力を造りながら、逆にその力に伏します。それははじめ人間を 開放し、自然の支配を可能ならしめましたが、今や人を服役の地位に追いや り、人は次第にいよいよおのれの存在と、人格とを失ってゆくのです。この 種の非人間化は、初期の宗教的社会主義において他の象徴に対してわれわれ が戦ったところでした。今やわれわれは、さらに大きな基盤の上にたって、 この闘いをつづけねばなりません。”
君マジで小田実読んでなかったみたいねぇ
ええ、好きじゃないですから。
でも好き嫌いできめるところは小田ゆずりだね。
>>299 初期WASPが持っていた資本主義の精神は、20世紀初頭の段階で
失われつつあり、すでに営利追求はあたかもゲームのように営まれるように
なっている、という観察も、ウェーバーはしてますね。
外交政策にしても、かたやモンロードクトリン、こなたいけいけ覇権主義、
全然状況が違っています。
ウェーバーが今のアメリカ経済・外交を見たら、どのように評価するのでしょうか。
>>306 ウェーバーが今のアメリカ経済・外交を見たら、どのように評価するのでしょうか。
受け売りですが、次が参考になるのではないでしょうか?
>>276 ==============================
文化発展の最後に現われる「末人たち(letzte Menschen)」にとっては、
次の言葉が真理となるのではなかろうか。「精神のない専門人、心情の
ない享楽人。この無のもの(ニヒツ)は、人間性のかつて達したことの
ない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう」と。――
Mヴェーバーは、亡くなる前、オーストリア陸軍将校を前に、「社会主義」に ついて講演をしました。これは科学的であれ空想的であれ、社会主義の批判で す。でも彼はヒットラー・ナチスや第2次世界大戦は知りませんでした。 1951年、アメリカ・スタンフォード大学:ホールデン・フィッシュ・スミスの 『トップ・マネージメント』(TOP-MANAGEMENT〜Organizaition and Control)が 刊行されました。これは、一方の極にナチス・ファシズム、他方にソ連ボルシ ェヴィズムから、自由主義経済を守るために書かれたものです。またこの書は、 戦後日本の経済復興〜経営学のバイブルでした。1989年、ベルリンの壁が崩壊 し、1991までに社会主義諸国は崩壊しました。マンハイムは云うまでもなく、 ティリッヒもマルクーゼもフーコーもそれを知りません。マンフォードは壁の 崩壊の年に亡くなっています。そして壁の崩壊のときに、皮肉にもわが国では バブルが崩壊しました。それと時を同じうするように、‘IT革命’がグローバ ル化しました。 現在の(産業構造を中心とした)自由経済システムは、このような歴史的過程 のなかで捉えるべきでしょう。 確かに、一方では「カジノ資本主義」があるでしょう。かつてのマルクス主義 (教条的な)者は、今でもこれにしがみ付いています。奇妙にも、無知で保守的 な人ほどマルクスの19世紀的資本主義論を、盲目的に信じています。 例えば、「ブルジョア」という言葉の意味を、無知で保守的な人ほど、教条的 マキシストの思惑通りに妄信しています。
>>305 のURL、拝読いたしました。
結論を先に言うと、「カプセル」というコトバに、筆者は‘自己陶酔’している
感じがします。民主党のパーティでブッシュを批判するのは当然でしょう。
それから、アカデミー賞に「カプセル」があって、ゴールデン・グローブ賞にはな
い〜と言うのも腑に落ちません。
いささか偏りすぎている論評です。日本のジャーナリストとは、こんなものです。
「偏り」と「批判」の自己撞着=「偏り」が「批判」との思い込みが見受けられます。
こういうことは、ベルリンの壁の崩壊以前にはイヤというほど見せ付けられて来ま
した。そして、壁崩壊後は「そんなこといったか?」のような顔をして〜手のひら
を返して、のうのうと無邪気に新たな「偏り」・「批判」しているのが日本のイン
テリでしょう。
>>308 >例えば、「ブルジョア」という言葉の意味を、
>無知で保守的な人ほど、教条的
>マキシストの思惑通りに妄信しています。
具体的にはどういう意味ですか?
「都市部有産階級」といった広義的な意味合いですか?
それとも「金融資本」といった狭義的な意味合いですか?
普通に無知で保守的(とされる)人々の謂う「ブルジョア」
とは「金持ち」程度のものですね、この国では。
ですから、田舎の土地成金や(在地)小地主でもブルジョアであり、
「保守」層とされるわけです。
>>310 まァそんなところです。おカネを持っているだけではブルジョアではありません。
市民として、社会的・文化的責任を果たしてこそ「ブルジョア」です。もっとも、
借金だらだらでスカンピンはブルジョアではありませんが・・・
17世紀オランダのレンブラントの有名な絵画“夜警”をご存知でしょう。
あの絵画には「資本主義の精神」がみなぎっています。
したがって、プロレタリアといっても、単なる貧乏人のことではありません。 都市における産業労働者としての意識〜誇りを持ってこそ、初めてマルクス (あるいはMヴェーバー)のいうプロレタリアートです。それは資本主義の精神 の内の一部です。
>>311 −312
ふんふん。
要するに、ビュルガー(市民)に包摂され
産業社会の進展によって
ブル/プロに階層分化していく
社会化された道徳意識ということですね。
こういった経緯を西欧文明の周辺部に属する日本人は
分かっていないという事ですか。
また、この点について
例えば中葉さんはベラー等を引用しつつ、
真宗を評価しているわけですね。
>>313 例えば中葉さんはベラー等を引用しつつ、真宗を評価しているわけですね。
良くご存知ですね。
しかし、現在は相当変わりつつあります。
第一に、ベラー自身が「徳川時代の宗教」の中の「ペーパーバック版まえがき」
の中で、丸山真男の批判に応えようと努力している場所を何度も読み直しています。
第二に、ここでも発言した、プロ倫の最後の章句(ニーチェの引用だそうですが)を
何度も何度も、現在の情勢に当てはめて考えています。
第三に、ドラッカーの「イノベーターの条件」付章「もう一人のキルケゴール
――人間の実存はいかにして可能か」に刺激され、ティリッヒ「文化と宗教」
によって、この問題提起に実践的に対応する道を模索しています。
第四に、ベラーの「善い社会(みすず書房)」から、彼の眼を通して見た
米国を理解し、対応姿勢を決めようと努力しています。
最後に、ベラー(
http://www.robertbellah.com/ )の比較的新しい日本への発言、
心学と二十一世紀の日本
http://www.geocities.jp/sanzensha/drbellahj.html Shingaku and Twenty - First Century Japan.
http://www.geocities.jp/sanzensha/drbellahe.html を読みながら、これからの日米関係をどう再構築するか、考えています。
これからの真宗については、全く絶望していますから、無視する他ありません。
話題を変えてみます。ところで、 「社会主義」というのは、結局、共同幻想ではなかったか?と思います。即ち、 共同幻想・対幻想・自己幻想が絡み合って、ズルズルとそちらの方へ行ってしま った〜。?? 北朝鮮などは、市場経済はトンデモない。計画経済どころか、「無計画経済」 です。行政も、未だに植民地時代の日本官僚システムをそのまま継続している に過ぎません。(コンピュータは導入しているでしょうが) 参照=木村光彦『北朝鮮の経済』創文社刊
資本主義はもっと幻想だと思います。 まだ、ウェーバーの幻想の方が、末人の方が、現実的ではないでしょうか?
Mヴェーバーの『社会主義』は、もうご存知の事と思います。 1920年代に、ハイエク、ミーゼス、オスカー・ランゲなどの間で「計画経済」 か「市場経済」かの論争がありました。今では、結論がでています。塩沢由典氏 の『市場の秩序学』(サントリー学芸賞)によれば、計画経済でわずか40ぐら いのモノでさえ均衡するには、スーパー・コンピュータを使っても3〜400年 掛るそうです。市場に任せば一瞬です(ちょっと言い過ぎかもしれないが)。それ に加えて、かつての旧ソ連ではキャベツやジャガイモなど、現実には生産の約半 分ぐらいは流通の官僚的怠慢で腐らせていたそうです(統計は生産統計ですから、 それは表面に出てきません)。それなのに心情的反資本主義者は、大根やキュウ リが生産過剰になって価額下落を防ぐため、たかが数%焼却すれば、スグ資本主 義の欠陥だと騒ぎ立てます。市場経済において一般には、生産は消費の10〜 15%ぐらいは多く作ります。その方が経済合理性があります。「週刊誌」など は、均衡が50万部とすれば、60万部作成します。もし均衡通り50万部にす れば、例えば札幌のキオスクで300部不足し、博多のキオスクで300部余る 事態が起こるでしょう。それをリアルタイムで転送すれば莫大な費用が掛ります。 均衡通りに作れば、あるスーパーマーケットの何千何万という商品の半分は余り、 半分は不足するでしょう。市場には‘ゆらぎ’(自動車のブレーキやハンドルの アソビ)が必要です。 旧ソ連についての小咄にこんなのがあります。“ソ連のエライさんが、日本の百 貨店の食品売場にモノがいっぱい溢れているのを見て、日本の労働者階級は何と 貧乏なんだろう〜彼らは、これを買うお金が無いのだと。ソ連では、たちどころ に無くなってしまうのに〜と。”
もう一つ小咄を。 ソ連には三つ、世界に誇るものがある。 第一に、ソ連の国土面積は世界一である。 第二に、モスクワの地下鉄は、世界一深いところを走っている。 第三に、ソ連の腕時計の針は、世界一早くぐるぐる回る。
もう一つ、Mヴェーバーの『社会主義』について。 私たちに経済原論を講義されたF教授が亡くなられて、未発表の諸論文が 遺稿集として刊行されました。その中に、「プロレタリア独裁について」 というのがあります。そこには、“P独裁とは、都市の産業労働者が一斉に 蜂起して現政権を倒し、彼らが実権を握る事であって、プロの〜職業革命家 が労働者を扇動して己が実権を握るのではない。もし、そうであるならば、 その政権は過酷な専制政治〜極端な官僚政権になる・・・”と、書いてあり ました。そういえば、F教授の講義には、マルクスやエンゲルスは出て来ても、 レーニンは出て来ませんでした。やはり、Mヴェーバーの上記の論文を踏まえて の事でしょう。旧ロシアでは、ブルジョアジーの基盤が未熟であった。(チェホフ の『桜の園』を見よ)レーニンは、むしろ農民を扇動した。そして、ソ連時代に スターリンはコルホーズやソホーズによって、農民をドストエフスキー時代の ように‘農奴’にしてしまった。結局、旧ソ連は農業で失敗して崩壊した。 ロシアには、西ヨーロッパ(Occident)のような封建制度が未発達であった。 (この件については、マルク・ブロック『封建社会』参照=これについては、 改めて) 中国の毛沢東も、共産主義の拡大には、古くから細部に分かれていた農民結社 のようなものを基盤に、こまめに伸ばしていった。(終戦直後、岩波から『中国 農村慣行調査』が出ている)
>>320 すみません、最後の中国農民結社の文脈が取れなかったので、補足頂けると幸いです。
農民結社は封建的な性格を中国農村に与え、中共の安定に資したと理解するべきですか?
あるいはその反対?それとも別の論脈?
ところで、『社会経済史学』にも羽入本の書評出ましたのでご報告。
(大塚史学のかつての拠点だけあって、当然、点数は辛いですよ〜)
>>321 さん江
「封建制度」=マルク・ブロック『封建社会』参照
Mブロックによれば、「封建制度」はOccident(西ヨーロッパ)と日本だけにあった
制度です。中国は二千余年、官僚制度です。ただ、ここで云う封建制度とは、
“うちの親父は封建的だ。とか、うちの社長は封建的だ。”という巷間の言
い方とは違います。巷間では、ただ古臭いもの前近代的なものを、単にそう
いっているに過ぎません。
中国の農民結社は、中国でも一番前近代的(マルクスの経済進化論からすれば)
です。そのような共産主義〜社会主義と両極端のものに、先ず最初に基盤を
築いたのが毛沢東の中国共産党です。ソ連もそうでした。だから、歴史的には
後進国が共産化しました。では、都市の産業労働者が一斉蜂起して政権を倒す
事は無かったか?
それは二度ありました。ハンガリー動乱と、チェッコスロバキア(当時の)の
プラハの春でした。それらは事もあろうに、ソ連の戦車で踏み潰されてしまい
ました。
だから、現実の社会主義国家は、マルクス・ヴェーバー・シュンペーターが
考えていた社会主義国家とは、似ても似つかぬものです。
先進国では、マルクスが望んでいた共産化の‘時期’を逃がしてしまいました。
マルクスは、現代の情報化社会を予想できなかったのです。それはマルクス
の責任では、決してありません。
笑えたなw>「社会経済史学」の羽入本書評。 羽入がはたしてこのまま黙って引き下がっているか、見所だ。
『〜の犯罪』は、もう5刷(PR雑誌「未来」1月号広告より)。 出版されて、早や一年半。今頃になって、書評だなんて遅い。
>>324 んーでも学術誌だとそれが普通だからねえ
>>322 ありがとうございました。ロシアにおけるミール共同体とかと
同じで、農村社会のいわゆる相対的後進性の指標ということですね。
ところで、折原『ヴェーバー学のすすめ』を眺めてますが、もともと羽入本反駁本として
構想されているだけあって、ヴェーバー入門のようなつもりで手にした読者はひどい目に遭いそうです
タイトルに偽りありのような・・・
うんこ
テスト
test
>>276 私は、恥ずかしながら、これから姜尚中「マックス・ウェーバーと近代」を読もうとしているところです。
必要に迫られてざっと読んで見ました。
面白そうだが難しい。頭が三角になった。
最初は取っ付き難かったが、最後の第4章「アメリカニズムの倫理と「帝国」 の精神」はめちゃ面白く、めちゃ読みやすかった。 マックス・ウェーバーも喜んでいるだろう。
生姜の師匠の山之内靖には 「プロテスタンティズムの倫理と帝国主義の精神」 なんて笑えるタイトルの論文があるがな。
私は常々思うのだが、『カント事典』や『ヘーゲル事典』(共に弘文堂刊)それに 『マルクスカテゴリー事典』(これは、なかなか良い)はあるが、 どうして『ヴェーバー事典』が刊行されないのだろうか? 私は『現象学事典』・『ニーチェ事典』(共に弘文堂刊)は、ヨク利用している。 早く『ヴェーバー事典』が出れば良いのになぁ。 いっその事、この 「ビバ!マックス・ウェーバー統一スレ」をまとめれば、事典になるか???
>>335 世良晃志郎あたりが生きてればそんなコトテンも作れたかも知れないけど・・・
今、ウェーバー界隈ってセクト化してる感じするからね
337 :
ヴェーバー初心者 :04/02/22 16:54
大塚久雄の「社会科学の方法」「社会科学における人間」を 読んでみたので、ヴェーバー挑戦してみようと思います。 で、まずは「プロ倫」から読んでみようかと思うのですが、 みすずからでてる「宗教社会学論選」にプロ倫は収録されてますか? それとも初心者は、岩波の文庫で読んだほうがいいのでしょうか? 他の論文も読んでみたいので、みすずの「宗教社会学論選」に 収録されてるのならそっちを買おうと思っているのですが・・・ ご教授願います。
「プロ倫」と「宗教社会学」は一応別物だ。 (前者は本文以上に大塚の解説に読む価値がある) それよか、いきなり「支配の社会学」にチャレンジして撃沈してくれ。 「音楽社会学」も悪くないぞw
338さんの言うとおりだ。 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫 『支配の社会学T、U』は、世良晃志郎訳 創文社(『音楽社会学』も同刊) それから、『職業としての政治』岩波文庫も。これが一番わかりやすい。 これを先ず読まれたら。
19世紀フランスの政治家で、ヴィーン会議(会議は踊る〜の)をまとめたタレランが、 “外交の極意は何か?”と聞かれたとき、“一に誠実、二に誠実。三、四が無くて、五 に誠実”といった。それで思い出すのは、旧ソ連の外交官グロムイコである。彼は1949 年から30年近くソ連の外相を務め、国益に貢献した。後半では、崩れつつあるソ連 国家存立を限りなく引き伸ばした。ベルリンの壁崩壊の直前に亡くなったのが、せめてもの 慰みであった。彼を高く評価したのが、米国の国務長官だったキッシンジャーである。 彼も米中国交回復・ヴェトナム停戦を実現させた。 この二人のキーワードは、やはり「誠実」であった。 Mヴェーバーが、政治においては倫理やヒューマニズム・幸福でなく、「国益」に対する ‘責任観念’を先ず第一に挙げているのに注目すべきであろう。 ヴェーバーにおいては、情熱・洞察力・責任観念の三位一体が政治であるから。
今日、矢野善郎『マックス・ヴェーバーの方法論的合理主義』を買って来た。 氏は、1999年、シンポジウム「マックス・ヴェーバーと近代日本」を立ち上げた 学徒の一人である。このシンポジウムで、氏はMヴェーバーの四つの合理主義について レポートした。 読んでみよう。
未来社のPR雑誌「未来」'04三月号に、折原浩“ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理」 論文の全論証構造”が載っている。内容は、『プロ倫』の‘プロテスタンティズムの倫理’ と‘資本主義の精神’をメビウスの輪で繋いだ、正統派ヴェーバー解説である。 ただ一つ、「禁欲的・合理的ライフ・スタイル」が市場の競争を通じて、宗教的禁欲色が功利 主義にとって代わられる点を強調しているのが目新しい。 折原氏は、このメビウスの輪自体が羽入批判であるという。即ち、針小棒大な論難や暴言・雑 言で自画自賛・自己陶酔に耽り続けるのは論外だとしている。そして、羽入氏が、ヴェーバー の「知的誠実性」を問うた論争の「第二ラウンド」に、みずからの「知的誠実性」を賭けて 登場することを期待する。〜と締めくくっている。 私見だが、それには雑誌「未来」が、羽入氏に、無条件で執筆の場を提供すべきであろう。
343 :
ルーマン好き :04/03/10 22:23
羽入って今何してるの?
『〜の犯罪』は先月では5刷だったが、今月は1刷増えて6刷になった。 雑誌「未来」の、ミネルヴァ書房広告で。
1年半で6刷か。学術書としては早いな。
346 :
ルーマン好き :04/03/13 01:05
だな、しかし一刷毎どのくらい刷ってるんだろうか? これから羽入論理が日本では主流になるのかね。(非ウェーバー研究者の間では…)
ヴェーバー研究者が増えないから問題なしでしょ、
348 :
ルーマン好き :04/03/13 08:20
うーん そうかな? たとえばヴェーバーを引用するときに、羽入の論文だけ読んだら、 他分野でも、問題あるんじゃないのかな? つまりさ、変な土台の上に建った家は倒れやすいでしょ。 折原言うところの「誠実でない理論」で立論されたら、もうあとは ローリングストーンでしょ。
とにかく羽入さんは、何か書け!発言せよ。黙っているのは卑怯だ!
そうだね、出てきて発言したほうが良いと思う。 異論反論を出してちゃんと向き合わないと。 折原が羽入と何か討論の場(どこかの会場を使って)を設けるのが手っ取り早いかもね。
「ウェーバーと近代文化人の悲劇」(ミネルヴァ)の著者の方って有名なんですか
ミネルバじゃないよ
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」だって。 カソリック蔑視、プロテスタント万歳、ドイツ・オーストリア万歳が読み取れるぜ。 プロテスタントの倫理が資本主義の精神をつくりだしたなら、プロテスタントがほ とんどいない経済大国日本の成立と日本人の勤勉さはどう説明するよ? マルクスもウェーバーも結局ドイツ・オーストリア万歳なだけだぜ。
>>354 うーん、それはどうだろうね。
そもそもオーストリアはカトリックだし、ドイツについても、ウェーバーは
ドイツの改革諸派の教義における不徹底性を指摘している。
プロ倫は、アングロ=サクソン世界とドイツの比較論という側面を持っているんだよね。
さらに別の側面では、強迫神経症持ちのウェーバーじしんは、できることならイタリア人みたいに
なんも考えずにまったり生きてみたいなあ、という、むしろカトリック的世界への羨望を持っている。
多分、ウェーバーがプロテスタント万歳、ドイツ・オーストリア万歳というのは単純すぎると思う。
まして、イギリスの労働状態の悲惨さは人ごとじゃないんだよ、ドイツはただ遅れてるだけなんだよと
喝破したマルクスが、ドイツ・オーストリア万歳であるはずがないと思うのだけれど・・・
すいません、恒星社厚生閣でした 嘉目克彦という方です 翻訳などもやってるようなんですが・・・
>>354 プロテスタントの倫理が資本主義の精神をつくりだしたなら、プロテスタントがほとんどいない経済大国日本の成立と日本人の勤勉さはどう説明するよ?
ベラーの「徳川時代の宗教(岩波文庫)」はご覧になりましたか?
なかなかしっかりした分析をしていると思いますが?
>>359 ウェーバー自信がなんか説明していなかったっけ?
「徳川封建制及びそのもとで形成された日本人のメンタリティは、自ら近代資本主義を
作り出すことを許さなかったが、他方で西欧で形成された資本主義に順応しその産物を積極的に
輸入するのには非常に適合的であった」みたいな感じで。詳細は忘れたけど。
『イスラムと資本主義』Mロダンソン(岩波書店)がある。ロダンソンはユダヤ系 フランス人。これは当然、Mヴェーバーの『プロ倫』を意識して書かれたものである。 決して、ヴェーバー理論を真っ向から否定したものではなく、消極的にではあるが、 イスラムのシステムは資本主義のエートスに反したものではないことを述べている。 でも、説得力に欠けるきらいがある。現在、イスラム諸国は石油資源でGDPも伸 びているが…。
>>360 他方で西欧で形成された資本主義に順応しその産物を積極的に輸入するのには非常に適合的であった
これはなんとなく納得できますね。
私も、日本を中心に考えたいと思っています。
その意味で残された宿題は、「儒教と道教」を読み、
その傍ら、日本のこれからを考えることです。
少年老い易く学成り難し・・・階前の悟葉己に秋声
>>359 ベラーのあの著作はベラー自身が今では完全に見解を否定・撤回していて、
もうまったく読む価値はないと某先生に教わったが。
だから岩波文庫の復刊も永久にないはず。
>>363 2002年に重版されてたよ。
まあ、読んで笑いは起きるよ。時代の変遷ってこわいね。
ベラーなんか読むぐらいだったら、 まず安丸良夫の『日本の近代化と民衆思想』読めよ・・・ こっちは今でも内容は全然古びてないぞ。
必読というより、読んで手当たり前だろ
安丸良夫著『日本の近代化と民衆思想』(平凡社刊)は版元品切れ。
古本で探すしかない。
本をさがす=
http://www.books.or.jp/で検索すれば 。
安丸氏は、先日亡くなった網野善彦の系統ですか。
なお、NベラーはTパーソンズの弟子で、わが国では丸山真男の弟子ですか?
ベラーの『徳川時代の宗教』は良い本です。
>わが国では丸山真男の弟子ですか? あれそうですか? >ベラーの『徳川時代の宗教』は良い本です。 まあ自分で限界も認めているし、現在の観点から見れば、 当時のアジア感や論理の展開の制約もあるけれど、読んで損はないね。 引用されているのが『菊と刀』だったりして、今から観ればありゃりゃって感じもあるけれど。
ベネディクト女史の『菊と刀』が、今もって欧米で学術的価値を認められているのは、 日本人の分析もさることながら、「恥の文化」を「罪の文化」と対比した点にある。 欧米にも「恥」はある(昔から)。しかしそれは、「罪」の中の一つとしてであった。 ベネディクトは、罪の一部分である恥を独立させて、恥を一つの文化形態にしたのである。 その事をドッズは『ギリシャ人と非理性』(みすず書房刊)で、ベネディクトを激賞している。 ドッズは、ギリシャ文化を「恥の文化」といっている。
なんだだの時代錯誤か?『菊と刀』の書かれた意味ら内容やその意図なんて信じてるのは時代錯誤か無知かだけだろうに。冗談だと信じたい発言だな。
>370で「ギリシャ文化」と書いたが、「ギリシャ文明」の誤り。 このほうが適切のようだ。 訂正
>>373 阪京とかまだ生きてたんだwすげー懐かしいな、その板。
なんだかお互いに「読め読め」合戦で不毛な信者の争いだな
ベネディクト女史の『菊と刀』 ブッシュが命じて作らせた『フセインとチャドル』みたいなもの。 いかに侵略統治を容易にするかを、個人や集団の内面に当てて、 まとめたものじゃねえかよ。
>>377 確かに、その通りです。だからこそ、その分析は的確でした。だからこそ、
学問的に(世界的に)認められているのです。わが国で、そのような
使命感を持って、全知全能を尽くして、学問と対決しているような学者が
どれだけいますか?! 社会科学では、欧米の学者の「解釈学」ばかりじゃ
ないですか! そのくせ、口先ばかりはキレイ事を言っている。
日本の学者ほど、競争原理のない職業はありません。教授に就職すれば
一生のうのうと暮らしていけます。そして、学問に対し、責任観念が全くない。
“古典は読まれず、ただ誤解されるのみ”
>>378 それは政治に先導された研究をしろということかね?
>確かに、その通りです。だからこそ、その分析は的確でした。だからこそ、
>学問的に(世界的に)認められているのです。
それは西欧のオリエンタルに対する無知蒙昧から端を発しているに過ぎない。
19世紀のアジア観を続けているに過ぎない。
折原も羽入も「解釈学」の範疇ですね。 このスレ自体が「解釈学」の範疇ですしね。 君のコメントはまさにその「解釈学」の一端でしかないしね。 どこかのスレで「読め読め」論争やってること自体がまさにそれでしょ。
〉〉379という解釈。折原は「倫理」を全うな解釈すればとか言うがそもそも全うな解釈を態度や精神論で語るのは解釈の違いを論究した事にはならない。せっかくの文献学的反論も最終的にこれでは
>>380 >政治に先導された研究をしろ〜云々
この文節は、誘導尋問です。わが国でも、エイズの研究開発は、政治目標です。
まして況や、『菊と刀』は戦時中のことです。平時ではありません。
「政府」と言うと、カッとなるのは、そんなものは「学問の自由」とは関係ない
どころか、自由でなくヒステリー症候群です。
話は違いますが、Mヴェーバーは、「委任独裁」は認めていますヨ。
『菊と刀』追伸 ヨク考えてみてくださいヨ。「政治に先導」されて、政治家にヨイショするような 結論を出して、占領政策が失敗したら、結局、為政者の損です。 政治家もバカじゃない。教授職にしがみ付いている様な学者よりは賢いでしょう。 旧ソ連の御用学者は、為政者の気に入るような事ばかり言っていた。 ソ連は、だから崩壊した。 >それは西欧のオリエンタルに対する無知蒙昧から端を発しているに過ぎない。 19世紀のアジア観を続けているに過ぎない。 ☆それなら『菊と刀』に代わる、新しい「日本人論」を打ち上げればよい。
385 :
にゃうにゃう :04/03/22 21:24
>>377 >>380 などの意見は論ずるに値しません。
単に主張をしているだけで、証拠を挙げて根拠づけた理論ではありません。
こやつは、一貫して子供で言える抽象論を振り回しているだけです。
私がこのお間抜けさんに言いたいのは、「そういう根拠は」と「だから何」
そして、「それがウェーバーと何の関係があるの」です。これを言うべきは
このお間抜けさんです。
Zさんは丁寧に相手の解釈を補完をしてますがそれは思うつぼと思います。
とりあえず、質問を重ねて内容のあることを言えるか確かめてみましょう。
言えるわけないと思いますが。
>この文節は、誘導尋問です。わが国でも、エイズの研究開発は、政治目標です。 >まして況や、『菊と刀』は戦時中のことです。平時ではありません。 >「政府」と言うと、カッとなるのは、そんなものは「学問の自由」とは関係ない >どころか、自由でなくヒステリー症候群です。 あらあらあれもこれも一緒くたですか? >『菊と刀』追伸 >ヨク考えてみてくださいヨ。「政治に先導」されて、政治家にヨイショするような >結論を出して、占領政策が失敗したら、結局、為政者の損です。 >政治家もバカじゃない。教授職にしがみ付いている様な学者よりは賢いでしょう。 >旧ソ連の御用学者は、為政者の気に入るような事ばかり言っていた。 >ソ連は、だから崩壊した。 為政者万歳の翼賛理論ですねw
>@ あらあらあれもこれも一緒くたですか? >A 為政者万歳の翼賛理論ですねw この2つが「ご回答」ですか?
恐れ入り谷の鬼子母神〜ですネ。
ウェーバーのシンポジウムのお手伝いやってて、「教授職」になんか猛烈な ルサンチマンを抱いていて、2ちゃんねるにかなりの時間を費やしていて、 書き込みは(失礼ながら)あんまり切れ切れの研究者という感じがしなくて、 議論をこじらしてしまいがちなZさんって、どういうひとなんでしょうか? 30台前半の崩れかけODというプロフィールがなんとなく浮かぶんですが・・・
今野元はどうでつか?
>>392 さん江
この板では、何故Mヴェーバーの『国民国家と経済政策』が取り挙げられないんで
しょうか?
>392さんのご意見。期待!
今までは緻密な「解釈学」が学問とされて来た。馬克思(marukusu)にしろ、ヴェーバー にしろ、経済学の新古典派レオン・ワルラスにしろ…。私は決して解釈学を否定しない。 しかし、解釈学は解釈学でしかない。それを基にして、たとえ荒っぽくても創造的な問題 提起があっても良いのではないか? この板は〜その目標は、オリジナルな「道場破り」ではないか? 師匠〜弟子〜道場の保守… ではない筈だ。 Mヴェーバー学を、メタモルフォーゼせしめよ!!
>>392 読んでないけど、この人まだ30ぐらいでしょ?それで一著なしたのは率直に凄いと思う。
ただ、学問的客観性と政治的価値判断を厳密に区別した上で、社会の一成員としてはみずからの政治的
旗色を鮮明にすることの重要性をウェーバーが説いていて、そしてウェーバー自身は一般的に
抱かれるリベラルなイメージと違って、意外にも排外的ナショナリズムの性格を持っていた、という
話自体は、別に案外でも目新しくもないような気がするんだが、どうなんでしょうか。
読まずにタイトルだけで内容を推測してるので、かなり見当はずれなことを言ってるかもしれないが。
>>395 ↑上記の如く、ヴェーバーにはアンビヴァレンツな面が多々あります。
そこがまた、ヴェーバーの魅力です。特に「政治思想」の対外と対内の違い。
参照=
マックス.ヴェーバーの政治思想は
*対外的には、強い国家=あえて誤解を省みず言えば、「権力国家」
*対内的には、
@個人の人格の尊重(基本的人権の尊重)
A自由の厳守(学術・文化・市場の自由)
B民主主義の徹底(非常事態には、委任独裁を期限付きで認める。
但し、議会の承認を経て)
についてもそうです。
プロイセンの文部行政にあれだけ反論したのに(「没価値性」は、先ずもって、
プロイセンの文部行政に対する反論)、『国民国家と経済政策』では、ビスマルク
をベタ褒めです。
結論として=私は、決してヴェーバーは矛盾していないと思っています。
学問においても、私生活においても、完璧に一致している人間なんているでしょうか?
彼の女性関係においてもそうです。
その点、奥さんのマリアンネ・ヴェーバーは偉かった。見て見ぬ振りをしていた。
彼女は、今で言うフェミニズムの先導者であったから。
そして、当の女性を、婦人運動に使っていた。
『リヒトホーフェン姉妹』(みすず書房刊)参照
>結論として=私は、決してヴェーバーは矛盾していないと思っています。 という論座解釈
>>397 「論座」とは、どういう意味で使っているのか?
朝日新聞社が出している総合雑誌『論座』の意味ですか?
あるいは、かつて「講壇社会主義」(例えばウェルナー・ゾムバルト)
というコトバがありましたが、その講壇という意味ですか?
あるいは(多分)、机上理論という意味でしょうなァ。
☆「理論」は現実を、‘机上(講壇)’という俎板に載せて、
捏ね併せたもの。 〜その捏ね併せ方に問題があるのでしょうネ。
(どう問題があるのか〜そこが聞きたい)
同意できる部分も多いのだが、なんか引っ掛かりを感じたところを。 >>結論として=私は、決してヴェーバーは矛盾していないと思っています。 >>学問においても、私生活においても、完璧に一致している人間なんているでしょうか? ?????結局、矛盾してるのか矛盾してないのか、どっちなの? >>彼の女性関係においてもそうです。 >>その点、奥さんのマリアンネ・ヴェーバーは偉かった。見て見ぬ振りをしていた。 >>彼女は、今で言うフェミニズムの先導者であったから フェミに言わせれば、こういう「理解ある正妻」みたいな振る舞いこそ、結婚制度のうえに 男にあぐらをかかせる許されまじ態度だと思うのだが。男にだけ都合の良いフリーセックス論は フェミニズムとは無縁のものだ。
>400 Get!
>>399 さん江
早速のレス有難うございました。
問題は2つ @矛盾の件 Aフェミニズムの件
@は貴君の言われるとおりです。数理学上では。
A厳しいですネ。倫理的にはその通りです。
でも、多少の揺らぎ〜アソビが欲しいです。(自動車のハンドルやブレーキ
にそれが無かったら大変です〜尤も、程度の問題ですが)
追伸
最近、往年のデビッド・リーン監督“逢びき”が再上映されるそうです。
馬克思(marukusu)にしろ、ヴェーバーにしろ、日本の社会科学は解釈学の域 をでない。だから、ノーベル経済学賞だけは、未だにもらえない。 少しぐらい荒っぽくても独創的な事をしなければ。例えば、梅棹忠夫『文明の 生態史観』のように。シュッツは70年も前に、ヴェーバーの現象学的再構築 である『社会的世界の意味構成』を書いている。 独創的といえば、歴史人口学の速水融氏ぐらい。彼が、ノーベル経済学賞に 一番近い。 (ここはノーベル経済学賞の板と違った〜スマソ)
君何歳? 読んでるものが世代を感じさせるもんだけど。 馬列主義は、どこでも形骸化しちゃったみたいだけどね
>>401 ノーベル経済学賞ってのは実質的には「近代経済学賞」だろ。
自分ではまともに数学できない速水なんかがもらえるわけがない。
速水さんは、コンピュータalmightyだ。統計学はしている。 (経済史では、資料集計に必須) アインシュタインだって、自分の理論を数式化するのには、専門家に頼んだそうだ。 1993年に、経済史分野でノーベル経済学賞をもらったダグラス・ノースだって、高等 数学は使っていない。(同時に貰ったフォーゲルの方は、経済史に数理経済学を駆使 しているが…) 社会学理論でも数理化しなければ…。 シュンペーターは、文章に書くと一冊の本になるものを、数式なら一行で済むと言って いる。 先ず始めに、ヴェーバー理論の数学化。
>>402 漏れの経済史はマルクス〜ヴェーバー〜大塚久雄だったが、今では、Hブローデル
に重点を移してるヨ。
Hブローデルは、書物にはMヴェーバーを良く言っていないが(彼はヴェーバーに、
アレルギーを感じる…といっている)、彼の最大の愛読書はヴェーバーだったらしい。
大塚久雄? あの「共同体」に憑かれた彼ですか、微妙ですな。 すでに大塚が論駁された後の世代としてはね。
>>406 >論駁された<と決め付けるのは、いささか(〜いや、大いに)無謀だ。
解釈学相互の争いにしか過ぎない。そんなもんに拘っているから、
独創的なモノが生まれないのだ。
解釈学 “ここがロードス島だ。ここで飛べ!”(馬克思)
共同体と近代 でコテンパンにされてるけれどね。 信じないのも解釈のうちですか?それとも、 何か反駁でもあるの?
解釈学もなにも、日本の西洋経済史学界においてすら、実証レベルで大塚テーゼの根拠は覆されている。 大塚からなお学びうる事というのは、理論そのものではなくて、問題意識とか、 日本の社会科学はどういう課題を研究対象として選択すべきなのか、とかそういうことでしょ。
>>408 どうも「2ちゃんねる」の方々は、ただ、結果(それも不確かな〜そのくせ
強がりのコトバを力んで使って)だけを掲げて、それまでの経緯については
一切触れずに、脅迫めいたことばかり言っていますが、足元が見え見えです。
「コテンパン」というコトバは、討論用語にはない。
「5W・1H」で回答してください。
(5W=What/When/Where/Who/Why 1H=How)
もしかして読んでないの?
小谷 汪之は知ってますか?
ウェーバーを邦訳で読んでるかぎりは 大塚久雄の呪縛から逃れることは不可能なわけだが。
それは反論なんでしょうか?或いはただの意見なんでしょうか?
>>413 プロ倫だけじゃん。しかも、梶原力訳もあるし
>>412 さん江
私は「明石書店」や「こぶし書房」から発行された本は、まだ読んだ事がありません。
名前は知っていますが… したがって小谷 汪之氏がどんな方か、存じ上げていません。
ところで、ある評者が一方的に、相手の論考を攻撃したからとて、それで相手をコテンパン
にやっつけた事にはなりません。
私としても、大塚氏の説に、全て同意している訳ではありません。重点をHブローデルに
注いでいますから。また、大塚氏の論考がいつまでも賞賛されているようでは、学問の進歩
はないでしょう。当然のことです。‘馬〜ヴ〜大’の系列で経済史を学ぶのは、一般的でした。
未だ、歴史人口学は無かった時代です。まして、フォーゲルの経済史理論はわが国に輸入され
ていませんでした。(理論経済学は近経でも、経済史は馬克思学派が優勢でした)
まだまだ、言いたいことはありますが、このへんで…
一般的だったから何なの?もちろん過去には敬意は払うけどね。 >ある評者が一方的 へー知りもしないのに? >>どうも「2ちゃんねる」の方々は、ただ、結果(それも不確かな〜そのくせ >>強がりのコトバを力んで使って)だけを掲げて、それまでの経緯については >>一切触れずに、脅迫めいたことばかり言っていますが、足元が見え見えです。 >>「コテンパン」というコトバは、討論用語にはない。 >>「5W・1H」で回答してください。 >>(5W=What/When/Where/Who/Why 1H=How)
あ ごめん つられてあおっちゃった。 まあ小谷だけが批判したんじゃないけれど 小谷著のUP選書でも読んでみれば安い薄いし、大学の演習にも使われてるしね。
小谷知らないなんて・・・、どんな大学通ってタンダ?在野だとしたら程度低すぎ。大塚批判は、引用するとしないとに関わらず、その言説の多くが小谷に起因するのに。何読んでたんだろ。
>>419 まァ小谷氏の『歴史と人間』・『歴史と方法』を読んでみましょう。
なんだか、君のいうのは針小棒大のような気はするけどな。
ご存知と思うが、ヴェーバーにしろ大塚久雄にしろ、 資料は全て二次資料である。
>>どうも「2ちゃんねる」の方々は、ただ、結果(それも不確かな〜そのくせ >>強がりのコトバを力んで使って)だけを掲げて、それまでの経緯については >>一切触れずに、脅迫めいたことばかり言っていますが、足元が見え見えです。 >>「コテンパン」というコトバは、討論用語にはない。 >>「5W・1H」で回答してください。 >>(5W=What/When/Where/Who/Why 1H=How)
まあ冗談はさておき、 >なんだか、君のいうのは針小棒大のような気はするけどな。 ってどの点のことかな? 小谷が大塚の理論を論駁しているのは『共同体と近代』ですよ。 その後は実証作業に移ります。まあ在庫切れになってるが、 大学の図書館にはあるからそれ読めば。 あと >資料は全て二次資料である。 だから何?
>>422 確かに2ちゃんねるだけでなく日本全国でも討論用語集にのっとるべきだよな
参考:民明書房刊『討論用語集』江田島平八郎著
まァ、小谷は読んでみるけど、『岩波:哲学思想事典』にも、執筆者として名前 は載ってないゾ。 山之内靖が、ヴェーバーをニーチェに基づいて論じているのは、二十年も前から。 それは、私も認めているが…
『岩波:哲学思想事典』はなんでも載ってましたっけw
↑特にインドについては詳しく載っているヨン〜だ。
で?
大塚久雄は、大河内一男・木村健康・安井琢磨などと共に、河合栄治郎門下だから、 リベラリズムの伝統を引き継いでいる。イヤ、引きすぎている。それが災いしている。 余りにもお行儀良く出来すぎている。その点、山之内は第二次世界大戦を総力戦と して捉えているから(本当は、第一次世界大戦から「総力戦」は始まった)、戦時中 の(悪しき?)平等主義が、戦後の民主主義に繋がった事を認めている。大塚久雄は、 それを認識できなかった。それに、彼は高橋幸八郎と共に、「封建制から資本制へ」 に拘って、Hブローデルよりも(知らなかったかも)マルクスを重視した。なお、彼は プロテスタントだったから、Occident(西ヨーロッパ)を主体にして、インドや中国 には関心をあまり向けなかった。(これが重大)
>プロテスタントだったから、Occident(西ヨーロッパ)を主体にして、インドや中国 >には関心をあまり向けなかった。(これが重大) そこが重大なわけではないんだがw
>>430 「↑」さんは、人のオピニオンのあら捜しばっかりやらないで、己の意見を
「併記」して、論評すべきだ。
そんなことばっかりやっていると、社民党みたいに、このスレで席を失うゾ。
ヴェーバーの言う、「騎士道精神」が全くない。
レフェリーづらは、不愉快だ。
(自己のオピニオンは、空洞化しているらしい)
あらら このスレの席は任意で決定されるものなのですかね? それこそただの排除構造、「騎士道精神」とやらのなおれですね。
>>432 「↑」さん江
とにかく、↑さん。貴方のオピニオン、ご披露ください。
人の言葉尻を、捉えてばっかりいないで。
ドン・キホーテの如く、そしてMヴェーバーの如く、風車に向かって
突進したら如何ですか? 笑われたって、いいじゃないですか。
Mヴェーバーの真髄は、山之内靖氏も言う如く「主観的意図と客観的結果の逆説的連関」 でしょう。その点では、大塚久雄氏も同じです。ヴェーバーは学問の王道を、のんべんだ らりと歩くのでなく(馬克思は、‘学問に王道なし’と言った)、刑務所の塀の上で、ど ちらに落ちるか〜という瀬戸際で勝負している点です。そこが、現在に至るまで、ヴェー バーの信奉者が絶えない理由でしょう。学問の内容が、時代と共に刻々と色あせるのは、 マルクスにしろ、ケインズにしろ、みな当然のことです。 ヨク“ケインズは死んだ”という人がいますが(もう古臭い、という意味でしょうが)、 そんなことは、‘雨の降る日は天気が悪い’というに等しい。 小林秀雄は、ある本を批評するときに、先ずその本にひれ伏すと、言っています。そして、 あくまでその著者の立場にたって考える。そのうち自分も何か一言・二言、言いたいこと が浮かんでくる。その一言・二言、それが批評だといっています。
歴史は“古きを尋ねて、新しきを知る”といいますが、また、“新しきを尋ねて、 古木を知る”という一面があります。即ち、歴史家ほど、「現代とは何か」を身体 をもって感じ取っておかねばならない。 その点に関して、ドッズ著『ギリシャ人と非理性』(みすず書房刊)が良いでしょう。 ドッズは、古典ギリシャに現代を観ている。 ギデンズやルーマンも良いですが、ドッズにヴェーバーをかぶせると、独創的な21 世紀観が生まれるだろう。
突進してこれですか?歴史学を選考している僕としてはとんだお笑いなんですよ。 この場所でのオピニオン?無知なやからに向かって?何を言って無駄でしょ。 ただ僕は親切にも君の論点で間違っているところだけ、ちゃんと一言で 気づかせようと、心を砕いているわけですよ。 まあそれに調べもしないで拒否反応を起こしている時点で、見込みなしなんだけどね。
本居宣長 あるいは Mヴェーバー “弟子は師の真似をしてはいけない。 師の真似をする弟子は、ニセモノである”(一休宗純) 本居宣長のアンソロジーに『玉勝間』というのがあります。ここに“師の説になづ まぬ事”が書かれています。 いかに師であっても、自分が納得しないような説 には、従うべきでない。そのような場合、あくまで自説を堂々と主張すべきだ。 まァこんな内容です。 弟子だからといって、師の説を守る必要なない。勿論、師から受けた学恩に対 しては、最大級の敬意を表するのは当然でしょう。 本居宣長は賀茂真淵の弟子ですが、真淵の万葉志向に対して、宣長は「新古今」 です。 偉い学者は、師から貪欲に学問を盗み取るが、師の真似はしていません。 マルクスはヘーゲルやリカードの真似はしていないし、ケインズはマーシャルや ピグーのまねはしていません。 Mヴェーバーもそうです。青山秀夫『マックス・ウェーバー』(岩波新書)に詳 しく載っています。 詳細は次回に。
>>437 >つづき(Mヴェーバーの初舞台)
>われに代わりて わが槍を持て<(老騎士と若武者を結ぶもの)
時は1889年、ベルリン大学で、公開の学位授与の審査会が開かれた。
対象はMヴェーバーのローマ制度史に関する問題点であった。そこで、ローマ史の
世界的権威であるテオドール・モムゼンがヴェーバーに質問した。二人の間で、
丁々発止の論戦が行われた。双方、一歩も引かなかった。最後にモムゼンが言った。
「私はヴェーバー君が正しいと認めたわけではないが、私は彼の前進を妨げようとは
思はない。“槍はすでにわが腕に重過ぎる。われに代わりて、汝この槍を持て”と
呼びかける相手は、マックス以外にない。」
このモムゼンの締め括りで討論は終わった。学位付与は決まった。ヴェーバーの
学問の世界へのデビユーである。 (青山『マクッス・ウエーバー』より)
このモムゼンの曾孫が、現代のヴェーバー学者:ヴォルフガング・モムゼンである。
先のドッズも言っている。“昨日の誤謬よりも、明日の誤謬に立脚する…”と。
また“誤謬は、真理へ近かづく一過程である…”と。
青山秀夫『マックス・ウエーバー』(岩波新書)は、名著であろう。私は古書店で買って読んだ。 この本に触発され、ヴェーバーへ進んだ学徒は多いだろう。教条的マルクシズムが荒れ狂っている 時代だ。戦後第一期のヴェーバリアンは、この新書からだろう。今、読んでも通用する。 ただ、ここでは‘パンチカード’が出てくる。大型電算機が‘真空管’を使っていた時代だ。 昭和26年刊。当時のベストセラーではなかったか?
青山秀夫氏は、高田保馬 博士の愛弟子で、戦前、共産党に入党。 官憲に逮捕され、「転向」してヴェーバリアンになった。 専門は理論経済学。彼の弟子に森嶋通夫がいる。この二人は変人といわれている。 (変人はKOIZUMIさんだけではないらしい)
青山本は山之内靖の「マックス・ヴェーバー入門」が出たので絶版になった。
Z氏の >Mヴェーバーの真髄は、山之内靖氏も言う如く「主観的意図と客観的結果の逆説的連関」 でしょう。その点では、大塚久雄氏も同じです。 って2行だけど1分間くらいワロタ
>>422 さん江
笑ってくれて、アリガトウ!
ドッズを通してみると、ヴェーバーなんて最初から山之内氏の
いう通りだった。
ニーチェ云々は、それほどたいした問題だろうか?
羽入氏が何か言うと、スグそれに靡いてしまう。
でご高説はもう終わりですかね、そんな常識的な学問論なんて、まさに常識では? >Mヴェーバーの真髄は、山之内靖氏も言う如く「主観的意図と客観的結果の逆説的連関」 >でしょう。その点では、大塚久雄氏も同じです。 そうですかぁ それで?君は空転してますよ。 それでなんなのか?それがない。
なんだかとっても抽象的ですね。
宮台真司著『権力の予期理論』が、全国的古書チェーン店で\100-で売っていた。 直ちに買った。(カバー・帯つき・極美)
今日(4月6日)日本経済新聞夕刊に猪木武徳氏が、Mヴェーバーを逸早くアングロサクソン 社会に紹介したフランク・ナイト博士の事を書いていた。猪木氏は20世紀の経済学者として、 ケインズ、ハイエクと並んで、このフランク・ライトを挙げている。(ご一読を)純粋経済学 については、この板の範疇を超えるので書かないが、青山秀夫も、幻の名著『ビジネスの擁護』 で、ナイトに触れている。(ヴェーバーの思考方法は、アングロサクソン的である〜これを前提 として) 営利 ⇔ 計算合理性 ⇔ 競争 ビジネス ↑↓ ↑↓ ↑↓ 寛容 ⇔ スポーツマンシップ ⇔ フェアプレイ これが、ヴェーバーの基本思考である。(説明は改めて) なお、青山秀夫も『ビジネスの擁護』で、ナイトに触れている。 ナイトの詳細は、市大経研編『経済学辞典』(岩波)で。
人類の歴史において、主観的意図が、その意図の通りの、客観的結果に結びついた 実例がどれだけあるだろうか? そもそも、意図=結果なんて、あっただろうか? 馬克思主義が、その最たるものであった。「能力に応じて働き、必要に応じて受け とる」が、“必要に応じて働き、能力・権力に応じて分捕る”と、なってしまった。 そんな社会がつづく筈がない。わづか70年で消え去った。 ヴェーバーは、「意図」≠「結果」を逆手に取った。 カルヴァニズムを始めプロテスタントは、産業であれ・商業であれ・金融業であれ 「利潤」を取ることには反対であった。ただ黙々と現世内禁欲として働いた。(わが 国では、熱心な浄土真宗の信者であった近江商人のモットーが、勤勉・節約・正直で あったように〜利益は目的=モットーに無い) それが、結果的に「自由な労働の、合理的組織を伴った、近代的経営産業資本主義を 生み出した。 〜こう、ヴェーバーは分析した。それが『プロ倫』である。 ヴェーバーのヨク使うコトバに‘運命的’とか‘意図せざる結果’というのがある。 この場合は、良い意味での“主観的意図と客観的結果の逆説的連関”であった。 このような分析をした学者が、今までにいたであろうか。 羽入説を、如何に大目に見ても、『プロ倫』は揺るがないであろう。
500だね
>>449 で ‘近代的’経営産業資本主義と、書いたが
‘市民的’経営 〃 と、訂正した方が良いだろう。
452 :
パルぷんテ? :04/04/09 11:39
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神について質問。 イギリスの労働者階級はカルヴィ二ズムの予定説ではなくて、 メソディズムの普遍恩恵説オ信仰したという説がありますが、どちらが 正しいのでしょうか?
>>452 メソジスト派の語源は、Method(方法)に由来しています。
『プロ倫』でヴェーバーは、ルッター派は別にして、プロテスタントの対象として
4派挙げています。カルヴァン派と共に、メソジスト派も4つの中に入れて論考の
対象としていますから、余り細かいことは、言わないでも良いでしょう。
>余り細かいことは、言わないでも良いでしょう。 細かいことなんでしょうか?
こまかい事です。
細かいことでなく、大切なことを重点的に議論することに私も賛成です。
それほど細かいことでもないようにも思うけど。 4派のうち、カルヴァン派以外のドイツ敬虔派や メソディズム、新大陸の諸新興宗教が持つ信仰の特質は、 資本主義精神との親和性が不徹底だ、っていってるわけでしょ。 労働者階級も、たしかに資本主義精神に順応していくわけだけど、 その宗教的動機が、資本家に比べて不徹底なものであったとすれば、 当世流行りのモラル・エコノミー論とかとの関連も出てきそうだ。
そう云う事よりも、Wゾンバルトが『ブルジョワ』で、近代資本主義はカソリック が、大いに関与している…と、述べている事を、問題とすべきではないか。 勿論、それをバカげた事だ…と、言ってしまわないで。
もう一度、『ブルジョワ』を読んで、その主旨を述べてみます。
何が重大な点かを論じないで、問題とすべき点は・・・ と言い合うのは楽しいですか?
楽しいデス。だから、この「板」に、遊びに来ているのデス。
>>460 さん
貴方が重大だと思われるのなら、それを、ここで詳細に論じられたら如何
ですか?
重大だ〜重大だ〜と叫ぶだけでは、一つも「重大」ではありません。
重大でない些細であると叫ぶのは「些細」であることの証明ではありません。 楽しいですねこのスレはw
「些細なこと」というのは、先にも書いたように、Wゾンバルトのカソリック〜 プロテスタント問題に比べて些細なわけで、Mヴェバーの解釈学に終始するのなら、 メソジスト派とカルヴァン派の、影響の違いを論ずるのも結構でしょう。しかし、 それは、あくまで解釈学のコップの中の問題です。 虎を描くのに髭にこだわって、一本一本、詮索をしながら描いていると、意図とは 反対に、結果は「猫」になってしまいますから。
唐突に、
>>452 の質問とは全く違うレベルの論点を出してきて、十分な論拠なしに
「こちらのほうが重要だからそちらのほうは些細な問題だ」、と断言するZ氏の展開の仕方は、
およそ専門家ないし専門家崩れとは思えない、問題性に満ちたやり方だと思うのだがなあ。
要するに「ぼくちんはこっちのほうが重要だと思うから、そちらのほうは些細です」と
言っているだけじゃん。ちゃんとした論拠が示されていない以上、こういう論法はただの信仰告白にすぎないよ。
自分に都合の悪い個別実証レベルの論点を、「ウェーバーの壮大な世界史的構想に比べたら些細なこと」と切り捨てるのは、
日本のウェーバー屋の悪い癖だと思うなあ。こういう悪いところまで、大塚久雄あたりの真似する必要ないのに。
そんなんだから羽入あたりにつけこまれて言いたい放題言われるんだよ。
>>464 さん江
>こちらのほうが重要だからそちらのほうは些細な問題だ
>ぼくちんはこっちのほうが重要だと思うから、そちらのほうは些細です
別に何も悪いところはないでしょ。そう言ったって。
それぐらいの「価値判断」は許されると思います。個人の見解の相違です。
>それは、あくまで解釈学のコップの中の問題です。
それで良いのじゃないですか。重箱の隅をほじくる‘だけ’が学問ではありません。
もっとも、それがヴェーバー学の一つではありましょうけど。
そのうちに、ゾンバルトの見解をまとめてみましょう。
それよりも
>>452 さんの問題提起が、『プロ倫』にとって、どういう意味があるか
教えてください。
>>461 別に何も悪いところはないでしょ。そう言ったって。
それぐらいの「価値判断」は許されると思います。個人の見解の相違です。
ゾンバルトは資本主義精神の内的要因について、 @カスリック Aプロテスタント Bユダヤ教 の3つに分けて書いている。 先ず @カソリックについて。 ゾンバルトは、近代資本主義の発祥地をフィレンツェだといっている。近代的簿 記もイタリアで生まれた。そして、トマス・アクイナスがキリスト教の「愛と恩 寵」および「律法」を統一したトマス主義が、近代資本主義精神の基本だといって いる。そこでは、性の制限と生の合理化がある。トマスは利子は否定しても、資本 投資は認めている。(浪費者はオカネを余り愛さず、守銭奴はあまりにも愛しすぎる) トマスは市民性や堅実性の教育よりも、公正・勇気・賢明にして活動的な人間教育 を重視する。 Aプロテスタントについて ゾンバルトはプロテスタントの典型を、スコットランドのピューリタンに見る。 そこでは、教義の厳しさ(物財に対する)を狂気と観る。ピューリタンの倫理学も、 勤勉・財ではなく神と取り組む事・節度を重んじる。利益は目的ではなく、富が神 の思し召しにかなうときにのみ許された(蓄積)! ただ、ピューリタニズムは小企業で、近代的な大企業は生まれなかった〜と、ゾン バルトはいう。
つづき Bユダヤ教について ユダヤ人ほど神を恐れる民族はない。ユダヤの律法は2つあって、ユダヤ人に対す るものと、非ユダヤ人へのものである。非ユダヤ人からは、利子を取っても良い。 国家を失ったユダヤ人は、「運搬可能な祖国(国家)」を目指した。ゲットー (神と民族の団結)である。 >私見< カソリックは、現代のパリ・オートクチュールのように、問屋生産ではなかったか? プロテスタントは、マルクスのいう小資本範疇であろう。 マルクスは『資本論』で、「蓄積せよ!蓄積せよ!」といった。これは当然、利益の 資本投資である。日本の‘近江商人’の如く、「勤勉」・「節約」・「正直」から生まれ たものは、利潤ではないのである。Hブローデルも、マルクスの「蓄積」を重視している。 大塚史学は、この小資本範疇こそ、近代資本主義の発祥と見た。氏の『近代欧州経 済史序説』では、ヨークシャの毛織物工業が取り扱われている。 確かに、“大塚史学”は、一本スジが通っている。(但し、少数派)
ゾンバルトは需要の重要性を説いていなかったけ?
なお、補足しておきますと、大塚氏は『近代欧州経済史序説』の中では、プロテスタントや カソリックなど、一切、持ち出していません。
共同体をアプリオリで想定する愚をおかしてるけれどね。
“共同体”というものは、もともと、「ア-プリオリ」な面があるもの。
Hブローデルは、共同体なんて言わない。
>>473 それで批判を回避できたとでも?
大塚史学における共同体のアプリオリ問題は、共同体存在についてではなく、
無批判に共同体理論を用いているところなんだが、知らないみたいだね。
>Hブローデルは、共同体なんて言わない。
で?
>?さん。大塚氏の『共同体の基礎理論』読んでないのですか? 読んでいたら、>>無批判に共同体理論を用いている…<<なんて、 言えないはずだ。(経済史の理論としては、大塚氏としては当然のことでしょう。 勿論、それに賛成か否かは別として。ヒックスも『経済史の理論』では、市場〜 交換が、大塚氏の‘共同体’にあたる。Hブローデルもそう。 >?さん。先ず 経済史を勉強されては!) それに、ゾンバルトにつてのご意見は避けておられる。 需要〜云々なんて、ここで出すべき問題じゃないでしょうが…。 どうも、「ああ言えば上祐、こう言えばああ言う」ではねェ。
勿論、私も大塚氏の‘共同体’理論には、全て賛成ではありません。むしろ Hブローデルに近いです。
それより、>?さん。 ゾンバルトの「資本主義精神の内的要因について」ご意見ください。
これはあくまで私の‘感じ’なのだが、大塚氏は馬克思〜馬克思主義を「ガス抜き」 していたのではないか〜?と。マルクスは、ヘーゲルが逆立ちしているとして、ガス 抜きをしてrestructureしたが、大塚氏もマルクスから[形式]を借りて、restructure した。何をガス抜きしたか? 唯物論と搾取理論であろう。労働史観は持っていたが、 労働価値説はガス抜きしたであろう。 以前、ある雑誌(多分、岩波の『図書』?)でのインタビューで、 “マルクス経済学では、生産理論が希薄だから、新古典派から‘生産関数’を借りてきて 補強すれば良い…”と言っていたのが記憶にある。 だから、大塚氏は左右から攻撃されていた。左翼原理主義が猛威を振るっていた頃、 「階級性がない!」といわれるのは、正に死刑宣告であった。 彼は、ヴェーバーは丸ごと抱え込んだとしても、マルクスは形式だけを引き継いだ〜 のではなかったか。 私は、それに共感する。
だから、彼の共同体理論でも、インドやイスラムなどには、分析用具 としては弱いのではないだろうか。
>479 >彼は、ヴェーバーは丸ごと抱え込んだとしても、マルクスは形式だけを引き継いだ〜 >のではなかったか。 イギリス人のカルスタと同じってこと?(日本のはどうでもいいが
彼は『共同体の基礎理論』で、ゲルマン的形態を封建制度に当てている。 マルク・ブロックも『封建社会』(みすず書房刊)で、封建制度をヨーロッパ と日本に限定している。だから、そこでは適応するだろう。 もっとも、封建制から(近代)資本主義へという発想には、私は賛成できない。
Z氏 多弁を労してくれてありがたいんだけど、大塚の書籍は読んでるよ。 共同体を無批判に使っていると言う意味が君にはわかっていないようだね。 共同体が存在したと言う前提で、論を進めているところが問題なのだがね。 共同体が存在したかの論拠は考察されてないんだよ。 >ゾンバルトの「資本主義精神の内的要因について」 ゾンバルトは、ヴェーバー等の議論を資本主義の要因として否定していない。 だが彼が重点を置いていたのは要因としての需要だよ。 >ブローデルは言わない ブローデルの話がなぜ大塚共同体批判で出てくるのかね? 経済史?勉強されたほうがいいですよですか? 僕の専門は範囲は経済史・社会史・社会科学ですがw 人に勉強しろと言う前に、君を「お勉強」したほうがいいと思いますよ。
>>483 ?さん江
最初からそう言えばよいのに。人のアラ探しばかりしないで。
先ずゾンバルトについて。
私が「資本主義精神の内的要因について」問うているのに、
>彼が重点を置いていたのは要因としての需要だよ。<
なんてAnsはないでしょ。 回答になっていません。モット真面目にヤレ〜と、
言いたいです。
次に「共同体(Gemeinde)」について。
一体、共同体(Gemeinde)とは何か?人によって、みな内容が違います。これこれという
定義はありません。大塚氏の‘共同体’は、大塚流共同体です。マルクスの『先行する諸形態』
からヴェーバーのGemeindeと換骨奪胎したものです。彼が考案したものです。しかもそれを
「理想型」として。即ち、これは大塚史学としての分析用具です。借り物ではありません。
ケインズは有効需要や流動性選好を。サミュエルソンは乗数理論や加速度原理を分析用具として
自ら考案しました。ヴェーバーもカリスマ的・伝統的・依法的支配の三つを理想型として
分析用具たらしめました。大塚氏もこれです。自分の作ったものを使用するのは当然です。
吟味もクソもありません。無批判に使っている〜なんて、どういう意味でしょうか。
彼は、これを「鋳型」として使わないと、はっきり言っています。当たり前です。
又、彼は歴史的事実を、この鋳型に嵌め込むような事はしていません。
(靴に足を合わせない)
それとも、>?さんは、大塚「共同体理論」が出来損ないだと、考えておられる
のでしょうか? それなら、それで一つの見解です。もしそうなら、反論を書く
べきです。 以前>463↑さんに、意見を求めたところ、
>この場所でのオピニオン?無知なやからに向かって?何を言って無駄でしょ。<
といいました。失礼だ。 >?さんは、まさかそんな事言わないでしょうネ。
それからもう一つ。 例えば、同一の‘民族・宗教・言語’のところでは、当然、民族・宗教・言語 のゲマインデがあります。Mヴェーバー『都市の類型学』でも、宣誓共同体・ 食卓共同体・都市共同体が出てきます。 歴史上におけるゲマインデの存在証明をどうして立証するのですか? Hブローデルの場合は、「心象」(マンタリテ)を言います。これも 存在証明は出来るのでしょうか。 >?さんは、少なくとも、共同体が存在しなかったことを、立証すべきです。 ゲマインデの存在そのものを否定されるのならば、ヴェーバー理論は崩壊します。 羽入氏云々どころではありません。 最後に、Hブローデルの引き合い云々ですが、 今現在、ブローデルないしアナル学派を無視して、経済史が出来ますか? >?さんも、ブローデルぐらいご存知でしょう。 私は、ヴェーバーとブローデルをドッキングしたいです。 シュッツが、ヴェーバー理論を現象学的に再構築したように。
追伸 ☆私は、ゾンバルトの「資本主義精神の内的要因について」についていっているのです。 資本主義でなく、その“精神”を言っているのです。 それに、“需要”云々なんて。「需要」を重要視しない経済学者がいますか? ☆ここでは、共同体への賛否が問題ではありません。大塚氏は、“借り物”の 共同体を振り回しているのではない。私だって、彼の共同体理論には全面的に 賛成ではありません。 自ら作ったものを、(無批判で)自ら振り回すのは自由です。 彼の共同体理論に誤りがあれば、それは当然、批判されるべきものです。 あれは、大塚流「理念型」です。それに対しての批判は、当然です。 >?さんは、どう批判されますか?〜それが無ければ、>?さんは、 認めたことになります。(たとえ、他人の批判を借用してでも、いうべきでしょう) ☆いずれ、ブローデルの「三階建」については、述べるつもりです。 但し、ヴェーバーとの対比において。
すでに批判しつくされている大塚共同体について知らないみたいですね。 それとゾンバルトの需要は >それに、“需要”云々なんて。「需要」を重要視しない経済学者がいますか? こんな低俗な問題でないですね。それを読み取れていないのは残念ですね。 >自ら作ったものを、(無批判で)自ら振り回すのは自由です。 そのスタンスならまったく問題ありませんw 知識のない無知ままの独りよがりと解釈できますがね。 こんなことを言う人に何か伝えるすべがあるのかととても疑問。 結局最終的な逃げの言葉でしかないのですから。 まあ床屋談義でがんばってください。
最後は‘逃げ’ですか? しかし、いろいろと勉強させていただいて、アリガトウ。 何年ぶりかで(あるいはもっと)、『共同体の基礎理論』を読みました。 懐かしいです。
逃げ? >自ら作ったものを、(無批判で)自ら振り回すのは自由です。 この言葉は万能ですからね。 逃げ言葉として、そんな人とまともに話してもしょうがないと思います。 逃げと解釈されてもまったくこちらとしては問題ありません。
490 :
◆WEBERrvLR2 :04/04/17 13:07
資本主義精神の終末〜ゾンバルトとヴェーバー 資本主義そのものの終末は、19世紀マルクスが書き、20世紀前半にシュムペー ターが、マルクスと逆の方向で書いた(『資本主義・社会主義・民主主義』)。 現実は、皮肉なことに未来像であるべき社会主義が先に亡んだ。 “精神”については、ヴェーバーが『プロ倫』の末尾に述べている。 今は「情報化社会」という。書店には情報化社会について、ゴマンというビジネ ス書が氾濫している。情報化社会は、資本主義(ヴェーバーの定義に従う)の未 来像を描いているのか、はたまた、終末を予言しているのか。 資本主義にしろ情報化社会にしろ、ゾンバルト流に言えば、それは人間に例える ならば、「身体」であり、その精神は身体の「魂」である。だから、情報化社会 には、“情報化社会の精神”があるはずだ。 それで、ここでゾンバルトのいう資本主義の精神と、その精神の終末を、彼の 『ブルジョワ』から抜粋しよう。ヴェーバーと比較してください。 以下は次回にに。
492 :
Иαηα∫н!∫αη :04/04/17 23:34
おまいら文章長杉。 読む側の身にもなって見ろ。 これからの学会報告では生きていけないぞ。
ウェーバーが病んでいた神経症って何だったの?
ゾンバルト『ブルジョワ』に観る、資本主義とその精神。 ゾンバルトは、資本主義を、18世紀までのそれと、19世紀以降のそれを 区別する。 @前者は、植民地支配、大商人や金融業者の活躍などに、資本主義を観る。 A後者は、産業革命を経た後の巨大生産業やコンツェルンなどに。 “精神”については、身体と魂の関係から、魂から身体が生まれたのでないように、 資本主義からその精神が生まれる〜しかし、それは無かった。 だから、資本主義以外の精神から、資本主義(近代的)が生まれた、と言う。 これは、ヴェーバーはプロテスタントを挙げているのに対し、彼はカソリック を挙げている。 では、その精神とは?また、その精神の終末とは?(ヴェーバーよりも具体的に 述べている) 長くなるので、次にします。
最近社会学を学び始めたんですが、社会学を学ぶにあたって カギとなる概念はありますか?
訂正
>>494 で
>資本主義からその精神が生まれる〜しかし、それは無かった。 >誤
は
>>資本主義の精神から資本主義が生まれることはなかった。 >正
に訂正します。
ゾンバルトにおける資本主義精神の衰弱と終末 資本主義が高度するにつれ(『高度資本主義』1927刊)、組織の官僚化が進み、 利潤追求や市場での競争の熾烈化が、あたかも技術の発展と同じく、自己目的化する。 それに耐えられず、「沈滞した年金生活」に甘んじ、「貴族流の生活態度(優雅)」にふけり、 「奢侈」に溺れるようになる。 また、文化の発展と共に、資本主義の発展を支えてきた出生率の増大は、一転して減少 に向かう。資本主義の精神が弾力性を失ったとき、どうなるのか? 最後に彼は、以下の言葉で『ブルジョワ』を結んでいる。 “盲目になった巨人は、民主的な文化の担い手となる様、調教されるであろう。 もしかすると、そのときは、神々の黄昏となるかも知れない。 黄金はライン川に戻される。 誰にそれが、わかるだろうか?” (コメントは、また)
ら〜いんごると♪ ら〜いんごると♪ ら〜〜〜〜〜いんご〜〜〜ると!♪
☆ビジネス書は、一種の受験参考書のようなもので、「思考」よりも手っ取り早い 「知識」を羅列したものです。それにしても、Book Offなどへ行けば、なんとマァ よく似たものが出版されたものだと、感心します。これが、腑抜けた資本主義精神 です。 ☆Hブローデルは、『物質文明・経済(市場)・資本主義』の最後に、突然、“資本 主義は市場と敵対関係にある”と、言い出します。これは、マルクス学派の「独占 資本主義」とどんな関連があるか?レーニン『帝国主義論』をガス抜きする事。 ☆‘ラインの黄金’=ヴァーグナーの“ニーベルンゲンの歌”や、トーゥキン の『ロード・オブ・ザ・リング』(映画が上映中) ゾンバルトは文筆家です。 ☆今、「歴史人口学」が、経済史に入ってきています。その先駆者は、速水融 氏 日本でノーベル経済学賞の対象になる人は彼です。(解釈学ではダメ) ☆最後に、‘情報社会’ですが、その光と影を見極める事。情報化は、資本主義の あるいは市場経済の、救世主たり得るか?それとも、‘魔女’か?
>>495 最近社会学を学び始めたんですが、社会学を学ぶにあたってカギとなる概念はありますか?
私も自学自習で社会学、というよりもマンハイムの知識社会学のごく一部を学んでいます。
その勉強の結論としては鍵鑰的位置(key position)と媒介原理(principia media)とが「カギとなる概念」です。
「変革期における人間と社会(みすず書房)」の場合、以下のページで使われています。
鍵鑰的位置(key position):pp.184,280,341
媒介原理(principia media):pp.202,213,226,280
中葉さま。お久しぶりです。 「知識時代の実践的組織論5」を、‘お気に入り’に入れました。 ゆっくり拝見致します。 「情報社会」について、後ほど書きます。
「情報ゲマインデ」!〜? 情報社会について述べる前に、もう一度、大塚久雄氏の『共同体の基礎理論』を振り 返ってみます。 大塚氏や高橋幸八郎氏の、‘封建制から資本制へ’には、どうも賛成できません。また、 大塚氏が『共同体〜』で述べている、封建制から資本制へ移行するにしたがって、ゲマ インデ=共同体が崩壊していく…という考えにも賛成いたしかねます。Gemeinschaft→ Gesellschaft(利益社会)は如何にもキレイすぎる。新古典派経済学そのものです。 Gemeinnde〜Gemeinschaftは、なにかドロドロしたものが、ある様な気がします。それが 何となく魅惑的です。(これは、あくまで私の、感性的なものですが)新古典派経済学は キレイ過ぎます。 市場経済が高度に発達した社会(そこでは、また利益追求も高度化する)にも、ゲマインデ は存在するだろう。ヴェーバーも『都市の類型学』でいっているように、中世都市には、 食卓共同体や宣誓共同体などがあったように、『高度資本主義』(ゾンバルト:梶山力訳) にもゲマインデは生き残っているだろう。 情報社会には、なにか「情報ゲマインデ」のようなものが、あるのではないか?
>>503 情報社会には、なにか「情報ゲマインデ」のようなものが、あるのではないか?
マンハイムの「自由・権力・民主的計画」の基本的なカギは、近代社会の根源にある問題は一次集団の崩壊である。
そうだとすれば、一次集団を再生するのが解決策の一部だろうということになります。
これが私にとっての大きな魅力になっています。
中葉さんの言われる「一次集団」は、おぼろげに判るような気がします。 それの崩壊かどうかは別として、知識社会(この知識[ハードとしての]には当然、 ソフトとしての知恵もふくまれるだろう)では、一次集団は等閑視されてきました。 今や、フロイトやユングが、歴史学においても無視し得ない現状です(ドッズ著 『ギリシャ人と非理性』)。ヴェーバーも、フロイトを最初から認めています。 (詳しいことは、マリアンネ夫人の『ヴェーバー伝』参照〜ヴェーバーが、雑誌 『アルヒーフ』にフロイト関連の論文を掲載拒否した件)
私が情報社会で、情報ゲマインデといったのは、「情報ネットワーク」のような サイボーグ的〜ガンダム的なものでなく、もっと人間臭いものです。 「情報ネットワーク」は無臭である。だから気味悪い。 「情報ゲマインデ」=そんなものが、情報法社会にあるやろか?
訂正 正=橋本‘努’ 誤=橋本‘力’ 失礼しました。
ザラザラした大地 Mヴェーバーは、小学生の頃、授業中にこっそりと『ファウスト』全巻を読み上げたそうです。 だからヴェーバーは、ゲーテの影響を多分に受けています。ファウストとメフィストフェレス は、共にゲーテの分身ではないか?それは又、ヴェーバーの分身でもあるでしょう。あたかも 『二百十日』の圭さんと碌さんが漱石の分身であるように。 「情報ゲマインデ」には、ファウスト的なものとメフィストフェレス的なものが混在していて こそ、意味があるのではないか。だからそれは、救世主であり、悪魔でもある。即ち、救世主 から悪魔が生まれ、悪魔から救世主が生まれることもあるだろう(『職業としての政治』参照)。 柴田さんの言われるように、知識社会だけでは、キレイ過ぎるようにも思います。 情報ゲマインデには、「ザラザラした大地」も必要でしょう。
、
岩井克人さんは、21世紀の日本経済再生に関して、 「会社共同体」を提唱しています。 「タテ社会」の能動性を言っているのでしょうか?
まだマックス読んだこと無いんですが、一番最初は何から入ればいいでしょう?
>>514 さん江
青山秀夫『マックス・ウェーバー』(岩波新書:青版)絶版だから、
古本屋で探すべし。店頭の\100コーナーにあるでしょう。
516 :
名無しさん@社会人 :04/04/30 06:34
「自己責任論」についてウェーバーはなんというかな
最近、“マスター・アンド・コマンダー”という映画(主演:ラッセル・クロウ)があった。 コマンダー=リーダーは、結果に対して「責任」を取る〜というのが‘責任倫理’です。 わが国の、ある銀行が倒産した際、その頭取が、「こんな事態になるとは、予測出来なかった …」と、嘯いていた。これでもわが国の有力銀行の頭取か?!〜と、ナサケナイ!! かつての、東京軍事裁判のA級戦犯も、そんなこといっていた。こんなコマンダーだから、戦 争を興し、そして負けるのだ。心情的には悪人ではないのだが…。たとえ悪人であっても、結 果に対して責任を取るのが、正しいのである。自己責任は、人格の(価値としての)善悪には 関係ない。 ヴェーバーは、そう言うだろう。
責任観念のあるコマンダー=リーダーなら、倒産もさせないし、バカな戦争 もしなかったであろう。
Zさんわかりました、探してみます。どうもありがとう
「主観的意図と客観的結果の逆説的連関」は「文化の悲劇」と同じですか?
>>520 マキャヴェッリ曰く。“天国へ行く道を探すためには、地獄への道を熟知することである”と。
>>519 青山秀夫『マックス・ウエーバー』は古いヤツだと、お思いでしょうが、内容は非常に親切で、
学問的(初心者にとって)にも充分通用します。
確かに、ここには「パンチカード」が出てきます。1940年代のIBM計算機です。日本でも、
昭和30年代には使っていました。あたかも、映画「2001年宇宙の旅」に、真空管が使われ
ているのと同じです。
現在の50〜70代の学者で、この本に啓発されてヴェーバーリアンになった人が、如何に多
いことか!!
「主観的意図と客観的結果の逆説的連関」とは、例えば、権力を「敵視」する階級が、 “権力を「敵視」する”事が一つの‘権力’となって、その階級が権力を握ったとき、 以前にも増して権力に固執し、以前にも増して権力を振るう…。 これが、「文化の悲劇」と言うよりも、歴史のパラドックスだ。フランス革命にしろ、 ロシアのボルシェイズム革命にしろ。だから、H.アーレントはこの二つを否定し、 アメリカ独立革命を是とした。 要するに権力敵視は、単なるルサンチマンに過ぎない。そこには、ブルジョア的議会 民主主義思想が無いからだ。
マルクス主義者のいう「前衛」というコトバに、巨大な傲慢さ(ゴーマニズム)と 虚栄心が潜んでいる。
ヴェーバーを真に理解するには通常20年から30年かかる 青山秀夫博士が10年間読みにだけ全力集中してやっとものにしたぐらい。 安藤英治教授も生涯をかけてヴェーバーに集中してやっと理解しえたと言う。 小室直樹も大塚博士の近くに通って毎日特訓の日々で10年かけてやっと ものにしたというぐらい壮大で難解。 ラインハルト・ベンディクスによればヴェーバーは学び始めてから 25年目ぐらいからやっと分かり始めるであろうと言われている。
訂正 小室直樹も大塚博士の近くに通って毎日特訓の日々で10年かけてやっと ↓ 小室直樹も大塚博士の近くに家を借りて、大塚博士の自宅に通って 毎日特訓の日々で10年かけてやっと
新書とこのスレでヴェーバーを理解しようと していた俺は天才。
527 :
名無しさん@社会人 :04/05/05 12:27
>>524 小室の本読んで一日でヴェーバーしたと思った俺は
逝ってよしですか?
ヴェーバーを批判しているのは誤読がしているか完全に理解していないのが多い。 何せ難解無比だから。 直感だけでは、そうあたるものじゃない。 一部の天才を除いては。
529 :
名無しさん@社会人 :04/05/05 23:42
流れかなりの勢いで無理なんだが俺のレポート手伝ってください_| ̄|○ 理系には無理っす M.ヴェーバー「職業としての政治」を通読し、以下の設問に対しレポートを作成せよ。 1、(政治的正当性) @ある政権(政府)が正当化される、とはどのようなことか。「権威」と「服従」に関するM.ヴェーバーの議論を援用しつつ説明せよ。また、A政治的正当性を喪失した政権が安定して在続し得ない理由を、具体的な例を則して説明せよ。 ナニコレ_| ̄|○
530 :
名無しさん@社会人 :04/05/06 05:10
>>529 普通に『職業としての政治』のそれっぽいとこ読めば書けるっしょ。がんがれ
ほとんどの人は分かったつもりでいるんだろうね。。。 俺はその分かったつもりというところにもいないが。
532 :
名無しさん@社会人 :04/05/07 23:32
結局「マックス・ヴェーバーの犯罪」はヴェーバー学を揺るがすほどすごいの?
日本の中の極一部で内ゲバみたいなもの
>>529 さんの問題提起は、根本的に重要な意義があります。
>@ある政権(政府)が正当化される、とはどのようなことか。< について。
ヒトラーが(独裁)政権を獲得したのは、ライヒ(ドイツ帝国議会)の委任
によって生まれたものです。そういう意味で、「ナチス」には正統性があり
ます(あくまで形式的に)。学者は、気が引けるから、それを“擬似正統性”
と、呼んでいます。
何故、ヒトラーに全権を委任したのか?
当時(1920年代末〜30年代初め)右のナチスと左のドイツ共産党で議席の
過半数を占めていた。
共産党はゼネストを。ナチスには、70万人といわれる武器を持った「青年行動隊」
があった。ナチスと共産党が衝突したらどうなるか?
そこでライヒはナチスに政権を移譲したのである。
>A 政治的正当性を喪失した政権が安定して在続し得ない理由… <
@のことからAが問題になってきます。
要するに、中道の‘社会民主党’や‘国民党’は、この非常時に眠りこけていた
のである。彼らは、ライヒの議員としての「責任」・「情熱」・「判断」を、放棄
していたのである。“政治的正当性”の資格が、実質的になかったのである。
ヒトラーへの独裁委任が、いかに「苦渋の選択」と言っても通用しないだろう。
国会議員は、こんな事態になる前に、行動すべきだ。ヒトゴトではない!!
>534が、民主主義が崩壊する具体的な例である。 @については、カール・シュミット『独裁』(未来社刊) Aについては、『職業としての政治』
536 :
名無しさん@社会人 :04/05/09 12:39
プロテスタントが資本主義の担い手になったとのことですが、現代においても カトリックは資本主義の担い手にはなれないのですか?
537 :
名無しさん@社会人 :04/05/09 14:33
このスナックZって人はアホか。
>>517 みたいな単純なことはウェーバーどころか桝添みたいな三流の
政治学者でも言わない。
日本における責任感覚の希薄さには複数の原因があるだろうが、
最大の原因は、形式的な決定主体と実質的な決定主体が乖離していること。
つまり日本における「コマンダー」は本来の意味での「コマンダー」ではないこと
実質的な決定権限が与えられいず、ただ「空気」に従ってハンコ押してるだけの人に
責任感覚なんて持てっこないのは中学生でもわかる理屈。
それから『2001年宇宙の旅』に真空管なんて出てこないよ。
>日本における責任感覚の希薄さには複数の原因があるだろうが、 >最大の原因は、形式的な決定主体と実質的な決定主体が乖離していること。 >つまり日本における「コマンダー」は本来の意味での「コマンダー」ではないこと >537は、ボクの言ったことを「ヒチ難しく」言っただけだ。 何分わが国は、戦国時代から、良きにつけ悪しきにつけ、トップダウンでなく、 ボトルアップの国だから。
「トップダウン」と「ボトルアップ」は、どちらが良いか悪いか、その時の 状況によって判断しなければならない。(実際はなかなか出来ないが…) 高度成長の時はボトルアップで良かった。 開戦や、今度のバブル崩壊には、トップダウンでないとダメだった。 要するに、日本にはカール・シュミットのいう、『独裁』(委任独裁)が 無い。(それは又、議会制民主主義がケッタイな形であるから)
少子化問題で社会学ってなんか研究とかあるの?
再び
>>537 さん江 >537さんの言われた
「形式的な決定主体と実質的な決定主体が乖離していること」は意味深いものがあります。
と言うのは、‘形式’と‘実質’とどちらが大切かと言えば、当然、形式です。これが巌
としてある〜その形式的主体が、実質的主体であらねばならない。形式が虚構で、実質が
本質なのではない。
ボトルアップそれ自体が悪いのではない。常に、トップダウンの主体が、ボトルアップを
エンクロージャー(囲い込み)しなければならないのである。
この度のバブル崩壊では、それが出来ていなかった。
543 :
名無しさん@社会人 :04/05/11 23:09
NHK テレ朝 TBS テレビ東京 朝日新聞 など 日本のマスコミは情報操作をすることによって 政治家を騙して 政治や経済 株式市場を 混乱させている なぜこういうことができるかというと 政治家 経済人 投資家にとって 業務を行う上で 情報が必要なため マスコミが情報を提供するというと つい受け取らざる終えなく しかもマスコミが 情報のソースを明かさないので 鵜呑みにして 嘘情報を信じざる終えない それでマスコミが 情報を操作して 伝えて 政治 経済 市場を混乱させることができるからである このような情報の独占と 情報支配 それによる 情報操作 という 左翼マスコミの陰謀に対抗する必要がある
545 :
名無しさん@社会人 :04/05/12 21:42
頼むから「ボットムアップ」とか「ボトルアップ」とか変な単語作らないでもらえる? 「ボトムアップ」と「ボトルネック」の区別もつかないのかよ、ここに書き込んでいる香具師は。
546 :
名無しさん@社会人 :04/05/12 21:53
NHK テレ朝 TBS テレビ東京 朝日新聞 など 日本のマスコミは情報操作をすることによって 政治家を騙して 政治や経済 株式市場を 混乱させている なぜこういうことができるかというと 政治家 経済人 投資家にとって 業務を行う上で 情報が必要なため マスコミが情報を提供するというと つい受け取らざる終えなく しかもマスコミが 情報のソースを明かさないので 鵜呑みにして 嘘情報を信じざる終えない それでマスコミが 情報を操作して 伝えて 政治 経済 市場を混乱させることができるからである このような情報の独占と 情報支配 それによる 情報操作 という 左翼マスコミの陰謀に対抗する必要がある
>545 ボットムアップと書いている人はボトルアップと書いた人の 間違いをさりげなく指摘しているものと思われ
ボトル→ボトム スマソ・スマソ 一回ごと、打てば良かったんだが… メンドクサイから、抓んで〜抓まんで〜したものだから…申し訳ない!
549 :
名無しさん@社会人 :04/05/13 19:43
トップダウンやボトムアップは、封建社会(武家社会)が残した遺産だろう。 現代の「発展途上国」における軍事独裁との違いを、ヴェーバリアンは実感として 知っておくべき。 中国における官僚制についてもだ。国家が何度も戦争で亡んでも、結局は従来の Literaten-staat(文人国家)になっていった。封建社会は生まれなかった。 中国では、如何に官僚制というものが強固であることか! 現代の中国はどうか。生まれて半世紀以上経つが…。未だに軍事国家だが。 これからどう展開していくか?新しい「文化」が、生まれるかどうかが ポイントだ。‘無産階級’文化大革命は失敗したが。
これは面白い問題ですね。 中国でこれから大変革が必要なことは中国人自身が理解し、努力しているように思います。 日本はもう望みなしですから、せめて東洋に中国ぐらい生き残らせたいので、私はこれから中国を支援することにしています。
助ける方法があったら教えてください。
トップダウンは機能集団の機能的要請から来るのであって 封建社会とは直接関係ない。 封建社会にボトムアップは普通はありえない。すくなくとも ボトムアップは封建社会の必然などとはいえない。むしろ封建的 人間関係はボトムアップの障害にこそなりえても。。 もうこれ以上馬鹿をさらさない方がいい>スナックZ
>トップダウンは機能集団の機能的要請から来るのであって >封建社会とは直接関係ない。 トップダウンはギリシャにも、古代ローマにも中国にもあった。 しかし、現代における理想型としての「トップダウン」は、 封建社会で育まれたものである。 >封建社会にボトムアップは普通はありえない。すくなくとも >ボトムアップは封建社会の必然などとはいえない。むしろ封建的 >人間関係はボトムアップの障害にこそなりえても。。 これこそ、封建社会で生まれたものだ。障害とは逆だ。 これらは、「思想」と大いに関係がある。もっと、論争してください。
極端な言い方をすれば、ヴェーバーが近代的・合理的と言っているものは、 その起源は「封建社会」にあるのではないだろうか?
557 :
名無しさん@社会人 :04/05/16 01:27
そりは極端だ...
558 :
名無しさん@社会人 :04/05/16 02:20
極端というよりただのアホにしか見えないけど… どうやらIdealtypusを「理想的な形」と思っているらしいし、 ヴェーバーをろくに読んでないことは明らか。
どうせヴェーバーを読んでも凡人の俺には到底無理だな 何せ優秀な人でも30年ぐらいかかるらしいから
ヴェーバーにしろマルクスにしろ、解釈学を決して否定はしないが、ただ解釈学 をひけらかすのは無意味だ。 “弟子は師のマネをしてはいけない〜師のマネをする者のはニセモノである” “昨日の誤謬でなく、明日の誤謬(〜と、なるかも知れない思考)に立脚する!!”
>>559 30年もかけてヴェーバーをマスターしてからでは、もう年を取って何も
言えなくなるゾ。たとえ“名無しさん”から揶揄されてもよい、思った
ことは堂々と云え。
『徒然草』にそんなことが書いてあった。
562 :
名無しさん@社会人 :04/05/16 22:21
> 明日の誤謬(〜と、なるかも知れない思考) あなたのは思考以前の妄想レベルだと思いますが。
>>276 将来この鉄の檻(非有機的・機械的生産の技術的・経済的条件に結びつけられた近代的経済秩序の、あの強力な秩序界)の中に住むものは誰なのか、
> そして、この巨大な発展が終わる(おそらく将来、化石化した燃料の最後の一片が燃えつきる)とき、まったく新しい預言者たちが現われるのか、
> あるいは、かつての思想や理想の力強い復活が起こるのか、それとも ――そのどちらでもなくて―― 一種の異常な尊大さで粉飾された機械的化石と化することになるのか、
> まだ誰にも分からない。
この後に続く言葉が面白いことに今頃気がついた。
「われわれのなすべき仕事は、以上の素描でその一端にふれたにすぎない禁欲的合理主義の意義を、さらに社会-政治的倫理の内容について、すなわち、私的集会から国家にいたるまでの社会的諸集団の組織と昨日のあり方について、明らかにしていくことだろう。
その次に、禁欲的合理主義の人文主義的合理主義とその生活理想や文化的影響に対する関係、さらには哲学上ならびに科学上の経験論の発展や技術の発展に対する、また精神的文化諸財に対する関係が分析されねばならないだろう。
それから最後に、中世における世俗内的禁欲の萌芽から発した禁欲的合理主義の歴史的生成とその純粋な功利主義への解体のあとが、歴史的に、しかも禁欲的意識の個々の伝播地域に即して究明されねばならないだろう。
こうして、はじめて、近代文化の創出にあずかった他の諸要素との関連で、禁欲的プロテスタンティズムのもつ文化的意義の度合いを明らかにすることができると考える。
この論稿ではさしずめ、重要であるにせよ、ただ一つの点だけについて、その影響の事実とあり方を、それの動機に遡源させてみようとしたのだった。
私はどうも、この「面白いことに」いつの間にか興味を持って追求して来たような気がする。 さあ、これからどうしよう?
中葉さんが、ヴェーバー『プロ倫』の巻末のコトバを載せられたので、参考のため
ゾンバルト『ブルジョワ』の巻末のコトバ〜
>>497 が、これです(最初の方は要約)。比較してみて下さい。
ヴェーバーもゾンバルトも、ヨーロッパ(アメリカ・カナダを含む)中心主義 と言われても仕方がない様な気もする。 我々は、それをグローバルなものに再構築(Restructure)しなければ。 そこで、“グローバル”が問題になってくる。 (もうグローバルは聞き飽きた〜と、言われるかも知れないが…)
マルクス・エンゲルスは、『共産党宣言』の末尾に、“万国のプロレタリア、 団結せよ!”と言った。この‘万国’は、ECの基である欧州石炭鉄鋼共同体 六ヶ国に英・伊を加えたぐらいである。万国といってもグローバルではない。 やっぱり、マルクスもヨーロッパ中心主義だ。
1929年10月24日(木)〜いわゆる「暗黒の木曜日」。ニューヨーク株式取引所 株価大暴落。世界恐慌が始まった。これが「グローバル」である。 勿論、現代の情報はグローバル。 人によっては、「大航海時代」からグローバルが始まったという。 マルクスにしてもヴェーバーにしても、学問の射程はグローバル であるが…。 ☆マルクス『資本制生産に先行する諸形態』(地中海・ゲルマン・ アジア的生産様式) ☆ヴェーバー『世界宗教の経済倫理』(プロ倫・ヒンズー教と仏教・ 儒教と道教・古代ユダヤ教)
グローバルを論ずる際に、それと一体になっているのが“システム”である。 これを抜きにグローバルは解明されない。 さて、問題はこのシステムは、ヘーゲルのいう「形式」と、どう関係しているのか?
>>569 そうですね。
私も、根はシステムやですから、10年間国際経営を教えた間、何の疑問も持たず、システムとしてグローバルを扱ってきました。
ヘーゲルなど全然気にしないでやってきましたが、何か抜けていたかもしれませんね。
>>565 >>497 が、これです(最初の方は要約)。比較してみて下さい。
比較してみました。あまりにも似ていて、コメントのしようも、必要もないと感じました。
それよりも、私は対応策の提案と実践に寧日ないという状況です。
その観点から以下の言葉が出てきたのです。
>>563 この後に続く言葉が面白いことに今頃気がついた。
また、その関係で、昔買ってちょっと読んだベンディックス著折原浩訳「マックス・ウェーバー」を引っ張り出したところです。
そんなことを考えたのは、今最終校正を終わったばかりの
地域開発と地域文化―『エコ・コミュニティ』づくりについて考える―
の中の 2.2.4 理念(その3):方法論における理念の革新
の文章を分かりやすくするのにウェーバーをどう引用するか、頭を悩ませていたからです。
でも、今は頭が少しすっきりしました。
そして、やはりツンドクだった「儒教と道教」を読もうかと、ちょっと食指を動かしているところです。
「日本だめぽ、これからは中国」という人の多くが、「日本だめぽ」の理由として「少子高齢化、金融機関の不良債権、財政赤字、硬直した社会システム・・・」云々を挙げるのだが、それらはすべて中国にも当てはまる。 っていうか、実の所中国の方がずっと深刻だったりする・・・。
574 :
名無しさん@社会人 :04/05/18 14:18
中国って恐いよね。 そのうち、ピンヘッドの大群が反乱を起こすかも(w
今では、グローバルを論ずる人の数だけ、グローバルがあります。また、グローバルと 一体であるシステム〜構造(Constructure)〜形式(Form)も、同じコトバで別の意味 を含ませたり、別のコトバでも同義だったりして…。『岩波:哲学・思想事典』でも そうです。(初等)数学の定義のように、明確にはいきません。 中葉さんと私とでは、グローバル〜システムでも、ちょっとニュアンスが異なります。 当然のことですが…
コロンブス(の配下の水夫)がジェノヴァに持ち帰ったある病気が、全世界に蔓延するのに 20年とかからなかった。 同時に持ち帰った「じゃがいも」や「さつまいも」が、日本に定着するのに150年かかった。 15世紀末、前者はグローバルであった。(その‘システム’が) 〜「暗黒の木曜日」と同じ。
再び
>>573 さん江
岩波書店のPR誌『図書』H16.5月号:“中国雑感”(小林恭二)が、
参考になります。
(このスレの関係の方々も、目を通して下さい)
グローバルとは、Globe〜global地球的・地球規模の〜で、世界内存在(In der Welt-sein=Heidegger) ・インターナショナル・マルクスの好きなAllgemein(全般的)。 それよりも、20世紀末に、何故ことさらグローバルが言われだしたかが重要である。その背景が…。 ヴェーバーは『世界宗教の経済倫理』を書いた。Hブローデルは、『世界時間』を言っている。 時間については、ドッグイヤー〜スピードがグローバルの重要な要素である。 グローバルは「システム」や「構造」ではなく、それらの作動様式だろう。 自動車(と、いう構造)がグローバルでなく、それが動いている〜driving現在進行形〜その動き方。 何が動かすのか? 人か? 組織か? 構造それ自体か? まさか“神”ではなかろう。
グローバルをトットコ論じなければならないが、チッョト寄り道してみたい。 それは 「資本主義の精神と人間類型」だ。ヴェーバーは、それをB.フランクリンに見た。 日本のいわゆる‘進歩的文化人’(今でも生きているとして)は、フランクリン とは肌が合わないだろう。まして況や、カウボーイタイプの‘ブッシュ’とは そうであろう。彼等が好きなタイプといえば、故ケネディだろうか? そのケネディ も、「キューバ危機」の時は、完璧なまでの行動をとった。 日本人(いわゆる文化人)は、ホワイトハウスにしろペンタゴンにしろ、米国の “意思決定機構”を具体的に知らないのではないか。 ☆ケネディの特別補佐官だったセオドア.ソレンセンが、 『ホワイトハウスの政策決定の過程』というパンフレットを書いている。
大塚の後って誰か継いでいる者いるの? なんか誰も継げる人材いないとか聞いたが。
“降る雪や ヴェ−バーは遠くなりにけり”
JFケネディの特別補佐官だったセオドア・ソレンセン著『ホワイトハウスの政策決定の過程』 は、Mヴェーバー著『職業としての政治』の‘実務篇’のようだ。 コロンビア大学で2日間講演したのを、まとめたもの。『職業としての政治』と奇しくも同じ。 理想型が出てくる。カリスマは、行間に滲ませている。ソレンセンは、ヴェーバーを念頭に おいて講演したに違いない。 1962年の「キューバ危機」が詳しく書いてある。
セオドア・ソレンセン著『ホワイトハウスの政策決定の過程』の目次は以下です。 序 ジョン・K・ケネディ(大統領) 辞 グレイソン・カーク(コロンビア大学総長) 一 序章 二 決定の背景 白亜館の態度決定の特異性〜白亜館の決定の範囲〜白亜館の決定の仕組み 三 決定を制約する外的条件 その行動が容認される範囲〜手段の制約〜時間の制約〜過去の公約の制約 四 大統領の政治的かけひき 世論〜圧力団体・議会・新聞 五 大統領顧問 顧問たちとの会合〜専門家的顧問〜閣内の顧問〜白亜館のスタッフとしての 顧問〜外部の顧問〜顧問の資格 六 大統領の視野 顧問を斥ける場合〜大統領の自己主張 七 結論 以上です。量的には『職業としての政治』ぐらい。 コロンビア大学の‘ギノ・スペランザ基金’講演(1963/4/18,5/9の2日)
ソレンセンはケネディから政治の現実主義を学び、 ケネディはソレンセンから政治の理想主義を学んだ〜と、いわれています。
そこで〜。「グローバル」はどうなったのかナ?
ン十年前、ヴェーバー〜大塚流の西洋経済史を習った。そこでは、「問屋生産」は、 前期的生産とされていた。即ち、そこからは近代的・合理的資本制生産は生まれて 来なかった〜と。 しかし今、現代の最先端を行く産業は、高度近代的な問屋生産ではないか?という、 ギモンを抱いている。 第一、マルクス学派の生産・流通・金融というカテゴリーは、情報化社会では無意味 ではないか?したがって、「労働価値説」は(論理的に)合理的かもしれないが、 無意味である。〜経済分析の用具たりえない。 Hブローデルは、マルクスを‘ガス抜き’するといっているが、(何をガス抜きするか は言っていないが)当然のことだ。
問屋生産?? 問屋制手工業のこと? 前期的生産?? 前期的資本のことかいな? なんか、用語が不正確じゃないか? 全く理解できないぞ それに「前期的〜」というのは、大塚史学特有の言葉であってマルクスの用語ではないだろ
>>589 早速、反応していただいてアリガトウ。
>「前期的〜」というのは、大塚史学特有の言葉であってマルクスの用語ではない
その通りです。
> 問屋制手工業
と言ってしまえば範囲が狭く、いかにも江戸時代的です。
パリのオートクチュールやプレタポルテは問屋生産です(あまりにも近代的な)。
情報化社会における「問屋生産」を、見直すべき〜と、いうのが眼目です。
“自由な労働の、合理的な組織を伴った、市民的経営産業資本主義”
…や、植ぇ葉 は遠くなりにけり〜ですか?
☆情報、情報と言いますが、「孫子」にしろ戦国時代の伊賀者・甲賀者にしろ、
情報が大切なのは、今に始まったことではありません。
☆グローバルも、そうです。
岩波書店刊『経済学辞典(第3版)』(大阪市大経済研究所編)には、 「問屋制度」の項目で載っている。しかし、内容は大塚氏の論究通りである。 本当は、そこから一歩出なければならないのだが…。
岩波版『経済学辞典第3版』(大阪市大経済研究所編)には、「問屋制度」の項目で 載っている。しかし、内容は大塚氏の論究の通りである。 本当は、そこから一歩進まねばならないのだが…。
岩波版『経済学辞典第3版』(大阪市大経済研究所編)には、「問屋制度」の項目で 載っている。しかし、内容は大塚氏の論究の通りである。 本当は、そこから一歩進まねばならないのだが…。
岩波版『経済学辞典第3版』(大阪市大経済研究所編)には、「問屋制度」の項目で 載っている。しかし、内容は大塚氏の論究の通りである。 本当は、そこから一歩進まねばならないのだが…。
↑なんで(ry
596 :
クン学部生 :04/05/28 20:09
>>585 『ホワイトハウスの政策決定の過程』面白そうですね
英語はどのくらいのレベルでしょうか。
私の読んだのは翻訳です。原書は 『Decision-Making in the White House』 by Theodore C.Sorensen Columbia University Press (New York)
私の読んだのは翻訳です。原書は 『Decision-Making in the White House』 by Theodore C.Sorensen Columbia University Press (New York)
599 :
名無しさん@社会人 :04/05/28 21:11
ありがとうございます。意思決定か。 翻訳は、アマゾンと、グーグルで掛からなかったので、絶版でしょう。 なぜ(ry
ありがとうございます。意思決定か。 翻訳は、アマゾンと、グーグルで掛からなかったので、絶版でしょう。 なぜ(ry
>>695 変な言い方だが、大塚久雄氏の方が、むしろヴェーバー的である。
ヴェーバーは、そこまで言っていない。
(あるいは、マルクス的というべきかも)
そのマルクスだって、‘市場’から経済学に入っていく。
商品の循環→おカネの循環→資本の循環で終る。
実は、〇経学派は「生産論」が弱い。
以前、大塚氏は、あるところで(雑誌『図書』か『みすず』か忘れた)、
“〇経学派は生産論が弱いから、新古典学派の‘生産関数論’を借りてきて
補強すれば良い”と、言っていた。
602 :
名無しさん@社会人 :04/05/29 08:40
訳者はだめだめ?
小室直樹さんの『経済学をめぐる巨匠たち』を読んでみた。 一般教養書だから、あれでいいんだろう。でも、もう一つパンチがない。 勿論、ヴェーバーも入っているが・・・。(シュンペーター・大塚久雄・ 川島武宣も) 小室氏の『学術論集』って刊行されているのかナ?
604 :
名無しさん@社会人 :04/06/06 03:21
古本屋で青山秀夫の「マックス・ウェーバー」手に入れた。 さあ、これからたっぷり楽しんで読ませてもらうぞw
606 :
名無しさん@社会人 :04/06/07 18:10
もう、学説史の中の人でしかないウェーバーについて、 一生懸命語っている暇人の集まるスレッドはここですか?
学説史の中ですら相手にされない‘御仁’がギョウサンいるのに!
>>583 ウェーバーが本当に社会を動かすのはこれからだと思う。
609 :
名無しさん@社会人 :04/06/08 03:52
「Will」の宗教と「Shall」の宗教〜ヴェーバー『宗教社会学論集』より Willの宗教=儒教・道教・ヒンズー教・仏教〜達人宗教 Shallの宗教=キリスト教・ユダヤ教・イスラム教〜招命宗教 ☆太平洋戦争で日本軍がルソン島を制圧したとき、すんでの事で マッカーサーをコレビドール島から逃がしてしまった。 彼がコレビドールを脱出するとき、“I shall return!”の捨てせりふを 残して逃げた。 何故、マックは、I will return!と言わないで、I shall return.と言ったか? (willは自己の意志で戻る。shallは、自己の意志でなく、神の命令で戻る) 詳しくは、また。
611 :
名無しさん@社会人 :04/06/15 05:11
マックソウェーバーの犯罪
Shall we dance?
>>610 「Will」の宗教と「Shall」の宗教〜ヴェーバー『宗教社会学論集』より
ウェーバーを読まないで想像するのですが、、、
私が現在、応用するために熟読しつつある「文化と宗教」の中で、ティリッヒは、
「究極的なものに対する人間の関係の仕方の二つの類型を区別する必要があります」
と言っています。
「私は、一つの型を非歴史的ないしは神秘的な類型と呼び、他の型を歴史的ないしは預言者的類型と呼ぶことにいたします」
と言っています。
「Will」の宗教が歴史的ないしは預言者的類型に、
「Shall」の宗教が非歴史的ないしは神秘的な類型に
対応しているように感じました。
イヤー、どうも逆かもしれない。 面白い。
615 :
名無しさん@社会人 :04/06/22 14:30
この人、ジンメルにコンプレックスを持っていたと思うのですが、 如何?
Willの宗教・Shallの宗教は、私が勝手につけたタームです。誰も、そんな事 言っていません。でも、私はそう感じます。 ゲーテ、ニーチェ、ヴェーバーは、双方とも大切だと言っています。 ゲーテには、神秘主義思想が潜んでいるらしいです。 山県三千雄『神秘家と神秘思想』(創文社)
617 :
名無しさん@社会人 :04/06/26 22:34
今更で恐縮だが、羽入本を一読。 ヴェーバーよりも、羽入氏の奥さんの方に興味津々。
↑あの本は、夫婦合作ですネ。 ヴェーバー学界では、褒めもしなければ、反論もしない。 (折原先生を除いて)
ヴェーバーの「法社会学」や「国家社会学」につてのカキコがありません。 どなたか どうぞ。
620 :
名無しさん@社会人 :04/07/09 10:40
純粋伝統的行為 キタ-----------(゚∀゚)---------------!!!!!!!!!!
621 :
名無しさん@社会人 :04/07/14 20:00
age
622 :
名無しさん@社会人 :04/07/18 00:15
マックス・ウェーバーの「方法的個人主義」と、 エミール・デュルケムの「方法的集合主義」とを比較し、 あなたはどちらがいいと思うか理由を挙げて述べてみてください。
ウェーバー学の第一人者って大塚? 今は誰?
何でも物神化するのが日本人の悪い癖だな。
ウェーバーが今でも評価されてるのって日本くらいでは?
2次資料のウェバーは信用ならん
↑ヴェーバーは基本的に2次資料である。大塚さんもそうだ。 そうでないと、如何に超人であろうと、あれだけの事は出来ないだろう。 速水融さんは、1次資料の分析で、「歴史人口学」を築いた。 今は1次資料分析は、新進学徒に任しているだろうけれども。 まァ日本で、ノーベル経済学賞の受賞に値するのは速水さんぐらいだろう。
628 :
名無しさん@社会人 :04/08/02 19:46
↑ アンタ、ほんとに速水オタクだねえw 社会学板よりも日本史板行ったら? もっとも、まともな近世史研究者は速水その他慶応一派の仕事は全然相手にしてないけどね。
629 :
名無しさん@社会人 :04/08/02 21:41
速水融の業績は立派なものだと思う。 ただし、それは日本の国内での相対的な評価。 はっきりいって、近世史研究者にかぎらず日本の日本史の歴史学者ほど みょうちくりんな屁理屈をふりまわしてきた集団はいない。 それとくらべたらまともだということ。
630 :
名無しさん@社会人 :04/08/02 22:12
このスレ版トリビアの泉 経済人類学者・栗本慎一郎は院生時代 速水のゼミで近世の古文書を読んでいた。
631 :
名無しさん@社会人 :04/08/03 10:32
内田さんは忘れられた?
小室の宗教についての知識はウェバーからのパクリ?
>>630 昔の三田学会雑誌とか眺めると、まじめな論文が載ってたりして新鮮だよね。
たしかイギリス帝国史の文脈でホプキンス批判とかやってたんだけど、
かたやジェントルマン資本主義で大ブレーク、こなた太陽黒点とか
言い出したあげく脳梗塞。人間、本当にわからないものです
>>373 のスレがなくなってしまったので、お盆を過ぎたことでもあり、
好きだった森嶋通夫先生の追悼カキコに来ました。失礼。
>>632 確かに世俗内禁欲で何でも読み解こうとするきらいはあるな。
21世紀の現在における「世俗内禁欲」は、 宮台真司いうところの『終わりなき日常を生きろ』ではないか?
宮台真司が「終わりなき日常を生きろ」というのは、現代は何が善で何が悪か、また 何が真で何が偽は解らない世の中で、それを生きろ〜生きざるを得ない、ということ である。実存主義的な発想であろう。 ヤスパースは、Mヴェーバーを実存的人間として捉えている。 親鸞は、「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人においておや」といいながら、 他方で“念仏もうして極楽に生まれるたねにてや候や、はた、地獄に落ちる業にて や候や、そうじてもて、存知せらるなり”(唯円の『歎異抄』より)。これは、 カルヴァンの予定説にも通じ、また現代の実存主義でもあろう。 宮台〜ヴェーバー〜親鸞〜カルヴァンと、繋がっているような気がしてならない。
なんでも予定説の小室信者ご苦労様。
639 :
名無しさん@社会人 :04/08/20 00:07
このスナックZって人は釣りのつもり?天然の馬鹿? 世俗内禁欲、宮台の『終わりなき日常を生きろ』、 親鸞の悪人正義説、どれ一つ繋がらないと思うが。
640 :
名無しさん@社会人 :04/08/20 22:37
スナックって何だ。
>>639 親鸞の場合は、世俗内禁欲へのモチベーションが欠けているからね。
一般には、カルヴァンよりむしろルッターとの類似性を指摘されることが多いのでは
ないかしら。ルッターも親鸞も、現世的秩序そのものには割と従順だし。
>>639 どれ一つ繋がらないと思うが。
「繋がる」か「繋がらない」かは、本人が「思う」か「思わない」か次第。
自ずから実存の告白になってしまうところが面白い。
643 :
名無しさん@社会人 :04/08/29 17:30
ダサい奴に正しい奴はいない、と言った点が似ている気もする。w
644 :
名無しさん@社会人 :04/08/29 17:33
645 :
名無しさん@社会人 :04/08/29 20:56
合理化は実はまだまだ甘い。今こそ末人>煮ちぇ が現れたと言うのは幻想に過ぎない。 これから何百年かをかけて社会は昆虫のそれのように機能化される。 自分の子を自分で育てているようでは牧歌的にもほどがある。 第一段階は世界政府の登場。
646 :
名無しさん@社会人 :04/08/29 21:03
社会の合理化はある段階からは選民思想的側面を逃れられない。 第二局面はソコ。 資本主義の淘汰による結果的選民主義が予定的選民主義に入れ替わる。 バックアップするのは科学と宗教の合体。
647 :
名無しさん@社会人 :04/08/29 21:08
荒野から生まれた、自然を克服の対象と考える、人間自立の宗教がその天命を突き進む。
648 :
名無しさん@社会人 :04/08/29 21:09
鉄の檻?人間が鉄製になるが如し。
>>647 荒野から生まれた、自然を克服の対象と考える、人間自立の宗教がその天命を突き進む。
その通りです。
中近東の荒野から生まれたユダヤ・キリスト教系の「自然を克服の対象と考える、人間自立の宗教」とアジアの沃野から生まれた「自然と人間調和」の仏教系宗教とが最後の決着を付けるのが、正に21世紀の宿命です。
ある人は学習する組織とは適応し、反応し、変化する組織だと言い、対照的に他の人(Sengeと彼に啓発された人々)は、むしろ性急な判断を保留し、
学習する組織とは何かビジョンであり、探求であり、生殖力のあるイノベーションの探索であり、組織の中の新しい感覚のコミュニティであり、西欧ビジネスの支配的なパラダイムとは無縁な伝統との遭遇であるとする。
↑どうなんでしょうか? 埴谷雄高の『死霊』が、そうなんでしょうか?
651 :
siroyagi ◆atZ.pcoeH. :04/08/30 16:04
652 :
名無しさん@社会人 :04/08/30 20:28
>>649 フッフッフッフッフッ、、自然を調和の対象と考えた時点で実は宗教などいらない。
よってアジアに宗教は実は無い。あるのは修養道と処世訓と祭儀。
それらは分離し求むるもののみに個別に対応している。
よって荒野の強靭な宗教は決着をつけるまでも無く勝利している。
そんなことより問題は外部を失った世界が合理化のエネルギーをどこから得るか?
自然=才能、老い、死の克服がそれであり、外部とは自然発生的生命の外部を意味する。
653 :
名無しさん@社会人 :04/08/30 20:37
アジアの沃地に摩天楼がそびえ、海岸に人工材料で防波が行われた時点でアジアの宗教らしきものは 既にその存在意義を失っている。そう、お前は既に(ry
654 :
名無しさん@社会人 :04/08/30 22:23
宗教的外部性が経済的外部性を補完するようになることにヴェーバーは気づいていた形跡あり。
↑気付いていた〜と云うより、それが主眼だった。
656 :
名無しさん@社会人 :04/08/31 20:43
エートス、エートス、、、、、、 功利が厳密に否定される空間において利潤追求のエートスが昇華的に発現したように、生殖における反自然の否定、 および人間の差別の否定、が強力なエートスとして意識される空間において科学による予定的選民が萌芽する。 未来においてberufは合理的に予定され、予定的であるがゆえに差別的でもなくむしろ差別の必要すらない。 神はみずからの栄光を顕さんがため、人間のうちのある人々を永遠の生命に予定し、他の人々を永遠の死滅に 予定したもうた。 カルヴァン 神話の中に埋没したこの言葉は対に再び鎖を揺らし、予定的賎民は神に祝福を受けるであろう。 目先の享楽と欲望を退け、"資本”は永久に投下しつづけよ。真に栄光の生命は永劫の彼方において生まれいずる。 永劫の彼方は数学的な虚。すべては天国での平安のため。
657 :
名無しさん@社会人 :04/08/31 20:48
合理化を合理的に否定できる人こそ超人。 それは抗生物質より効く、呪術の実現でもある。可能か?
合理的と非合理的 Mヴェーバーの『職業としての政治』の中で、彼は「善は善を生 み悪からは悪しか生まれない〜と考えるのほど、馬鹿げたことは ない」と言っている。合理〜非合理もそうだ。合理的なものから 非合理的なものが生まれ、非合理的なものから合理的なものが生 まれる事だってある。ヴェーバーにとって非合理的なものの代表 が他ならぬ‘宗教’である。ヴェーバリアンは、合理的なものば かり丹念に追求するが、搦手から「非合理」とは何か?!をもっ と探求すべきだ。 ヴェーバーがキリスト教に関し、宗教の合理化をいう場合、それ は‘教義’そのものの合理化でなく、教会組織や教義体系のそれ である。 合理性→非合理性、非合理性→合理性〜これがヴェーバーの真骨 頂であろう。
659 :
名無しさん@社会人 :04/09/04 03:28
徹底的に合理化と平等化を推し進め、貴族制もぶち壊したのがナチスドイツで、 その帰結がああいうことだったわけだが。 ただ合理化と平等化という指向の中でユダヤ人がどう位置づけられたのかは はなはだ難しい問題だが。
↑当時ドイツにおけるユダヤ人の人口比は、1〜2%以下だった。 人口比でユダヤ人の多いのは、東欧である。ドイツにおいては、非ナチス (反ナチスではなく)は多くいた(ユダヤ人以外のドイツ人)。ヴェーバー の弟:アルフレッド・ヴェーバーやゾンバルトもそうだ。Aヴェーバーは、 マックスがなれなかったハイデルベルヒ大学の総長にもなった。 Hブローデルは、独仏開戦直後にドイツ軍の捕虜になったが優雅なもので、 彼は捕虜になったからこそ『地中海』を書く事が出来た。仏ヴィシー政権を 通じて奥さんのいたアルジェリアから、『地中海』執筆のための資料を取り 寄せることが出来た。 丸山真男氏は、ナチスドイツの政策の柔軟性を指摘している。といっても、 ナチスを認めているわけでは決して無い。映画:「戦場のピアニスト」だけ で、ナチスを論評してはいけない。(映画は映画) 勿論、私も反ナチスです。
661 :
名無しさん@社会人 :04/09/04 16:05
人間そのもの、そしてその宿命そのものが最大の非合理。 20世紀的合理はその壁の前ですべて頓挫。ナチスもソ連も米的グローバリズムもその意味では等価。 そこに手をつけるのが新たなる合理化の地平。 死、差異、性、老い、、、、、、あらゆる必然的非合理と、 不運、災難、、、、あらゆる偶然的非合理はエートスを伴って積極的に回避される。 外部を失った今、我々は合理化とは愛の別名であったのだと悟る。 人間とその宿命に愛を。
662 :
名無しさん@社会人 :04/09/04 19:24
馬鹿で貧乏な親の元に、劣等の遺伝子引き受けて生まれいずる不合理は真に涙を誘う。
663 :
名無しさん@社会人 :04/09/05 21:37
オリンピックの遺伝子ドーピングの番組見たが、人間の合理化って感じ、まさに。
ちなみに劣等的な遺伝的要素を非合理と呼ぶなら
>>661 、遺伝子治療なども人間の合理化っすね。
ただ、どういう要素の、どこまでを劣等的と呼ぶかは恐ろしく難しい問題。
宗教的倫理的問題でもあるし、国家戦略にも関わる予感。
一方で、遺伝子をいじることどころか避妊すら許さない人々が、かつて利潤を否定していた人々とも重なる。
かつての人々はやがて、利潤を追求しながら、得た富を快楽や嗜好として享受せず、隣人愛たる資本として投下し続け、
その永遠的勤勉(資本主義)は神の栄光のためであり、現世はうたかた、すべては天国での平安のためという
大義名分を与えられた。実際資本主義は他のあらゆるシステムより高度に合理的であり、人間の社会を加速度的に
進化させ、数々の不合理を減少させた。貧富の差など、大部分の人にとっては、かつては寿命まで生き残ることさえ
奇跡的に幸運な社会であったことを考えると贅沢な話にも思える。
そして今、社会システムの変容では解決できない非合理に、人類は立ち向かおうとしている。
人間という、生命という、根源的非合理に。
それを畏怖的な、あるいは漠然とした、消極的倫理観で否定するのはたやすい。
しかし非合理の甘受を合理化するのは、その論理的破綻が前提なだけに困難だろう。
さて、人類の未来に何があるか?
664 :
名無しさん@社会人 :04/09/05 23:14
ようするにウェーバーの予言は正しかったということか?
665 :
名無しさん@社会人 :04/09/06 00:04
ヴェーバーの予言が遺伝子レベルに及んでいたとは思えないが、大きな意味ではそうかもね。
目的合理性と価値合理性 遺伝子操作による優秀な子孫の繁栄は、果たして価値合理性といえるかどうか。目的合 理性ではあるだろう。ヴァーグナーの“ニーベルンゲンの指輪”〜愛の賛歌と犠牲的精 神〜は、確かに価値合理性ではあるが目的合理性ではない。愛の賛歌と犠牲的精神は、 キリスト教の精神でもある。ヴァーグナーの友人:ニーチェはキリスト教に反旗を翻し たが、これだけは受け継いだ。 今、マルクス=ヴェーバーよりも、ニーチェ=ヴェーバーが主流である。ヴェーバーの 時代には、らせん状遺伝子理論はなかった(せいぜいメンデルの法則)。今、彼が生きて いたらどう言うか? (ヴェーバーが何を言ったかでなく、21世紀に彼の精神を受け継いだヴェーバリアンが、 どう判断をするかである) 〜トールキンは『指輪物語』(映画にもなった)を書き、映画 『マトリックス〜三部作』が上映された。それも含めて考えてみよう。
667 :
名無しさん@社会人 :04/09/06 21:56
愛や犠牲的精神は、憎悪や利己的精神と表裏一体であるところが人間の不合理。 神の栄光が失墜するとともに、実際それらは既に等価になった? 少なくとも心理学者はそう扱っているように見える。 その等価性を宗教によって乗り越えようとすれば呪術にハマる。 主観的純粋経験としての愛や犠牲的精神は、多分強烈な憎悪と利己的精神の彼方にある。 いばらの道を歩き、全身血だらけになって初めて薔薇の花園が見える。 主観的純粋経験への道を描く創作的作品は、成長の物語としてティピカルであり、優れてリアティーある作品も多い。 と言うか、あらゆる物語は、ディティールを異にするだけで、すべて成長物語だとも言える。 が、それは読者の成長を促すわけではない。 学者より、手練の悪人に真の聖者然とした者が多くいる理由は、それである。 まさに人間の不合理。 指輪はティピカルな説教を壮大なCGと言うギミックで見せられてる感じ。原作は未読。 マトリックスは"無為の非力な美青年が”"突然選ばれ”"優れて肉体化し”"魅力的なエクイップと共に”"果てることなく 戦い続ける”と言うテーマが、日本のあらゆるヲタ文化の男性的部分と共通であり、この全ての要素がグローバルに ヲタの夢だと理解できる。一方ヒロインのタイプが日本物とは全く違うのと、マトリックスで達成される夢は結局全て幻であると言う オチの存在は日本と世界の差異だ。それはユーモアをお笑いと言う閉ざされた個人的享楽と見るか、コミュニケーションの 手段と見るかの違いでもある。日本の文化は総じてオナニー的で、これはヲタ文化に限らない。 それが世界のマイノリティーであったオナニストたちに支持される今日この頃。 読み通してくれた方、thanks
↑ 労作 !!
669 :
名無しさん@社会人 :04/09/07 23:55
>>667 聖者としての悪漢の過去には、数々の悲劇の残骸が横たわる。
成長って何?って感じ。まさに不合理。
宮台なんかは、これを国家の管理の下でガキにさせてやれといってる訳だ。
夢物語、つーか宮台自体自分で思ってるほど遊び人でも悪党でもない。
結局お勉強の人。世間知らずのメガネくんは怖い。W
670 :
中葉 :04/09/11 05:38:00
>>665 ヴェーバーの予言が遺伝子レベルに及んでいたとは思えないが、大きな意味ではそうかもね。
いや、着眼点はいいが、今や、生物的遺伝子でなく、文化的遺伝子のミームの概念を使って考える「ミーム理論」および、その応用の「ミーム・マネジメント」がしゅん(旬)になりつつある。
ミーム・マネジメントでグーグルすると面白いよ。私の書いたものがたくさん引っかかる。
meme managementで出てくるのは If PriceかRay Shawだが。
671 :
名無しさん@社会人 :04/09/12 06:31:18
ミームは現代日本語的に言えば、センスとか感性かな? などと言うと浅はかかもね。近いとは思うが。 売れないうちは大好きだったアーティストを売れたとたんに何だか嫌いになる、という事がある。 アーティストの作品自体はクオリティが保たれているにも関わらず。 ミームの拡散、拡大よりも少数での内容的強さを指向してるってことになるわけだ。 つまりミームは感性やセンスの不確実性も捉えている。 メディアに自己を載せたいという欲求はミームの拡大欲求かも。 未だ男性社会たる日本において、女性としてピンの内容を示すために何故か女子アナを目指すという 妙な傾向は、安全で手っ取り早いミームの拡大場所を嗅ぎ当てているのかも。 それをチャラチャラしてて目障りと思う女性のセンス、感性は拡散拡大するミームに対する脅威と拒否、また 自らのミームが急速に拡散拡大した時の内容的強度(純度?)不足を感じているのか。 男性が特にマスメディアを目指さないのはミームが社会的価値観と一致する部分が多いから、多分。 女性でも社会的価値観を受け入れている人はメディアを目指さない。 よってメディアに出てる女性は論理的に言って良妻賢母足りえず、メディアに出てる男性は男らしくない。 などと、言ってみる。 まあ社会的価値観そのものが過渡期ではありますが。
原初アニミズムの宗教は、太陽が神だったり、土地〜母なる大地が神だったり (これをマグナ・マーター=太母神という)した。そのうちそれらから、「カミ」そ のものを分離して崇めた宗教が生まれた。ユダヤ教であり、それから生まれたキリ スト教(イスラム教もそう)である。 一方、生きとし生けるものは全て「生殖行為」によって子孫の繁栄をはかる。 この生殖行為から分離されたのが「性行為」である。 この @アニミズム宗教→純粋なる「神」 A生殖行為→性行為そのもの この二つは、構造が同じである。人類における両極端が同じ構造を持っているのは 不思議です。 参照:Mヴェーバー『古代ユダヤ教』(岩波文庫) : 〃 『中間考察』(大塚・生松訳「宗教社会学論選」所収・みすず 書房刊)
↑上記の二極に加えるべきは「数」である。 どういうことかと言えば、例えば、 空に鳥が2羽飛んでいる〜彼方に山が2座聳えている〜足元に花が2輪咲いている 〜草原に牛が2頭寝そべっている……。これらは皆「2」である。 人類がこれら全ては「2」であると悟ったことは大発見であった。(今では幼児で も知っているが) 数ほど確かな思想はない。1+1=2、 2×2=4 からはじまっていく先は無 限。 この3つは、正三角形の角点である。 (これを正4面体=正三角形立方体として、その頂点に「人間」がいる) *マルクスは抽象的人間を神としたが…
674 :
名無しさん@社会人 :04/09/21 04:19:15
uchida
675 :
名無しさん@社会人 :04/10/11 23:08:41
ジャガーのマックス・ウェーバー、残念ながらリタイヤでした。 でも来年はウィリアムズですから優勝争いにも加われるでしょう。
676 :
中葉 ◆Uq4tWGbn2I :04/10/18 08:29:39
>>673 *マルクスは抽象的人間を神としたが…
この表現を逆転すれば永遠の真理、
すなわち、
神とは抽象的なイデーである。
実体があるのはすべて空虚な偶像。
色即是空 空即是色
∧_∧ ( ´∀`) ( ) | | | (__)_)
678 :
名無しさん@社会人 :04/10/19 13:35:10
679 :
名無しさん@社会人 :04/10/29 20:02:29
hoshu
Mヴェーバーの理論体系に、最近流行の「経路依存性」をぶっつけたら どうなるかなァ?
681 :
中葉 ◆Uq4tWGbn2I :04/11/04 22:18:02
ぶっつけてみたら?
経路依存性とは、「技術・システム・政策などの方向が初期に決まってしまえば、 それが固定してなかなか変えられない・・・」という現象である。 たとえば、タイプライターのアルファベットの配列が決まってしまえば、たとえ 以前のより合理的な配列が考案されても変わらない〜。現に、コンピュータに なっても、その配列が継承されているのに似る。それはユーザーの方が慣れて しまっているから。 だから、シュンペーターのイノベーション=新機軸・創造的破壊と、言うは易く、 行なうは難しである。しかし、いつまでも旧式に‘依存’していれば“硬直化” を来たし、気づいたときには手遅れとなる。その“ターニングポイント”が問題 である。 経路依存性のような流行語は、えてして用いる人によって、その重点の置き所が 微妙に違っている。なかには経路依存性を、硬直化の代名詞の如く用いる学者も いる。 今のところは、経済学・経営学・社会学などで、分析用具として用いられている が・・・
↑英語では、 Path Dependency
勉強になった
685 :
名無しさん@社会人 :04/12/04 15:30:37
age
686 :
名無しさん@社会人 :04/12/12 20:50:19
マックスウェーバーの著書についての書評のあるサイトをご存知でしたらお教えください!
687 :
名無しさん@社会人 :04/12/14 02:02:40
ウェーバーにとって近代化の意義とは何なんでしょう?
688 :
名無しさん@社会人 :04/12/16 00:44:03
689 :
名無しさん@社会人 :04/12/18 20:15:25
年表に精神病ってあるが今でいう何病でどんな症状に苦しんでいたの?
690 :
名無しさん@社会人 :04/12/22 04:42:59
モチベーションが欠けている
鬱症状、不眠、強迫観念(父親殺し)、長時間の思考ができない、など。
692 :
名無しさん@社会人 :05/01/15 23:19:15
教えて組んで申し訳ないですが、月曜提出のレポートを書いていて、 次の2問につまづきました。アドバイスでもいいので、助言ください…… お願いしまつ……。 ウェーバーの「精神のない専門人、愛情の無い享楽人」の意味を説明しなさい。 ブルクハルトの「芸術作品としての国家」という言葉を、マキャベリと関連させて説明しなさい。
693 :
名無しさん@社会人 :05/01/16 05:28:22
>>692 まずは問題文を正しく引用することから始めたら?
愛情の無い享楽人→Genussmenschen ohne Herz
普通「心情の無い享楽人」と訳す。
694 :
中葉 ◆Uq4tWGbn2I :05/01/16 22:59:31
695 :
名無しさん@社会人 :05/01/16 23:55:17
Googleで 最強情報 と打ってみてください。
ありがとうございます。なんとかかけました。本当にせっぱつまっていたので助かりました…。
697 :
名無しさん@社会人 :05/01/17 12:43:27
698 :
名無しさん@社会人 :05/01/18 16:58:06
ウェーバーの資本主義の精神・・を読んで感動したのですが。 正直、あきらめの気持ちになりましたね。 皮肉な事に原理主義が世の中を変える可能性があるようにしか思えない。 イスラム原理主義などは利潤の追求とはまるで正反対にあるため 中東の知識層に評価が高い様な気がする。 俺とすればアメリカ政府が経済界と断絶し動けるようになり それによるましな世界ができればと思うが現状ではありえない 彼の予言が当たっているのは間違いないよ。 ノストラダモスなんかよりウェーバーがブームになれば 少しはましになるんじゃないか
699 :
名無しさん@社会人 :05/01/27 15:23:58
今更感動した時点で負け組かと
700 :
学部生 :05/02/03 06:16:01
このスレを読んで思ったんですが 研究者というのは過去の研究者の説を正しいとか間違ってるとか批評するだけの存在なのでしょうか。 確かにウェーバーはすごい学者だと思いますが 研究というのは自分でテーマを設定しそれを研究し、新しい価値を創造するようなものじゃないんですか
701 :
名無しさん@社会人 :05/02/03 20:17:17
それは宗教ですよ
外国文献の寄せ集めで論文書いてる
703 :
名無しさん@社会人 :05/02/04 00:21:32
今日、丸の内線でマックスウェーバー見かけたよ。 写真で見るより小柄だった。
704 :
名無しさん@社会人 :05/02/04 02:42:48
じゃあ新しい価値を創造するのところを削除すれば宗教じゃないかな
706 :
名無しさん@社会人 :05/03/04 09:21:00
から揚げ
>>705 ブクオフで100円でよく売ってる本だな。正直言って軽い。
それより昔の、才能のない学者は馬鹿だとかいう本読んでみたい
708 :
名無しさん@社会人 :05/03/06 09:07:36
今朝の日経一面コラム(天声人語のようなもの)を見て爆笑 おまえマックス・ウェーバー言いたいだけちゃうんかと しかも中身ゼロだし・・・
710 :
名無しさん@社会人 :05/03/06 12:58:30
( ・∀・ ) ス (・∀・ ) パ (∀・ ) イ (・ ) ラ ( ) ル ( ・) ネ ( ・∀) ニ ( ・∀・) チ ( ・∀・ ) リ (・∀・ ) | (∀・ ) ン (・ ) ( ) ( ・) ( ・∀) ( ・∀・) ( ・∀・ ) (・∀・ ) (∀・ )
>>708 つまりそれは「オレを社会学科に雇ってくれ!」というメッセージかな。
もしくは社会学科に内定したか。
いやそういうの多いから^^;
>>585 古い話でスマン。
セオドア・ソレンセン著『ホワイトハウスの政策決定の過程』
これ訳者は社会党衆院議員だった河上民雄氏ですね。
ソレンセンと個人的に親しい方のようです。
民雄氏は「十字架委員長」河上丈太郎の長男ですから社会党でも
右派の方のようですが、社会党の議員が訳者だとは驚きました。
個人的には比較的読みやすい訳だとは思うのですが・・・。
資本主義許すまじ!
=三三ミ≧、 ムヘ三シ'"´ r'ヽ fi! ji !ll レ_ __ 〈i l il iriュ.j ftjz、`{lツ^! { 〈 、 ソ .iイi liミミ / {イ仕_ミヾツ /i !l}i ! ! l j }ヽ _,. ィ L!l!」、i、l/ ノ ヽー- 、 -‐'´ / ヽー‐l_f_//i | _論iヘ 二__/_」__」 ヽ ヽ V / \ \ ヽ/ o /
715 :
名無しさん@社会人 :2005/03/29(火) 05:48:35
資本主義許すまじって自分が許せないってのと同義だよな・・
716 :
名無しさん@社会人 :2005/03/31(木) 03:15:37
ウェーバー読んでからポパー読むと、何だかなってオモー
717 :
名無しさん@社会人 :2005/03/31(木) 09:12:56
大塚久雄を読めば充分 大塚久雄を超えるウェーバー読解は今後も現れないであろう
718 :
名無しさん@社会人 :2005/03/31(木) 21:42:21
>>717 大塚の論文訳してドイツ人に見せたら「この学生のレポートはよくまとめられている」
ってのは何にのってたっけ
719 :
名無しさん@社会人 :2005/04/03(日) 17:19:56
orz
720 :
名無しさん@社会人 :2005/04/04(月) 02:15:46
4年かかっても消化しきれてないんだな。
このスレいらなくね。てことで
>>1 氏ね
721 :
名無しさん@社会人 :2005/04/21(木) 06:21:44
折原は、羽入はドイツ語で論文を書いたのが自慢のようだが、欧州の二流誌に書いてでかい面をするなといっている。 じゃあ折原は一流紙に欧語で論文を書いて向こうで認められているのか?
マックスウェーバーって小室直樹のパクリだよ。完全に
>>721 折原のテキスト・クリティークがウェーバー新全集の編集を
一時ストップさせたというのはよく聞く話
この辺のことはZ氏が詳しいはずだが・・・
724 :
名無しさん@社会人 :2005/04/21(木) 23:31:28
ウェーバーとともに40年・・・ 学者としては惨めの一語ですな 後進国の文系知識人の典型ではありますが 西洋の偉い人の作品に注釈を付け続けて学者生命が終わるとは 学問とは学者を研究するものではなくてイシューを研究するもの ケインズをやってますとかマルクスをやってますとかアホかバカかと 経済学では「ケインズをやってます」的な人は最近はみないようになってきているが ウェーバー学(w ではあいかわらず魑魅魍魎が跋扈しているようだな
725 :
名無しさん@社会人 :2005/04/22(金) 09:03:54
>経済学では「ケインズをやってます」的な人は最近はみないようになってきているが 経済学では一昔前は「君はケイジアンとマネタリスト(新古典派)のどちらに賛成?」 って感じの会話があったらしいが、 古典を無視することは良くないが、いつまでも古典の枠を超えないことはもっと悪いね。 理念型ならともかく、時代は変わり、古典が想定している社会の構造は適合しなくなってくる。 教科書に載るような日本の学者の功績は、過去の理論を精巧し分類したものが多いような・・・
羽入辰郎『マックス・ウェーバーの犯罪』(ミネルヴァ書房) についてはどうなったの? 世の中的には、黙殺されたのかな?それとも論争中?
727 :
名無しさん@社会人 :2005/05/01(日) 12:43:52
新刊を待っているところ。
728 :
名無しさん@社会人 :2005/05/01(日) 19:04:12
日本の社会学は、欧米圏のSociologyを輸入して単に解説する学問であり、国際的に評価されるオリジナルな理論を構築するものではありません。単なる輸入訓詁学屋の集まりが「日本」社会学。 数学できないので自然科学にコンプレックスを持ち、その他、経済学や心理学、哲学にも深いルサンチマンをもっている。
大塚ってウェーバーだけに一生をささげたの?
730 :
名無しさん@社会人 :2005/05/03(火) 00:23:46
社会学連中の数学ルサンチマンって本当にみっともない根。かわいそ、馬鹿って。 一生、学説史noteしこしこやって、俺って天才かも〜とか思ってるんだろうな。 サバティカルで海外行っても向こうでは、「日本でも社会学ってあったのか?」って顔されて、論文の中身などきいてもらえない。
731 :
Z :2005/05/16(月) 21:24:39
お久さです。
>>726 羽入さん、どうしてるのかナ?
かつて羽入氏が、M.Weberが「OED」から引用したことに対して、
“国文学者が「源氏物語」を解明するのに『広辞苑』を引くようなものだ〜”
と非難した。
「Oxford English Dctoinary」は全20巻、収録語65万、引用文240万
件以上、総ページ数は約4万pだ。「広辞苑」の約20倍。
二次資料を旨とするヴェーバーにあっては「OED」を利用するのは当然のことだ。
羽入氏は、「OED」を見たことがないんだろう。
732 :
Z :2005/05/16(月) 21:46:25
>>729 終戦直後、織田作之助(私の大先輩)が『可能性の文学』を書いた。
ここで彼は、志賀直哉をコテンコテンにやっつけている。勿論、それには私も
賛成である。しかし、それによっても‘志賀文学’は微動だにしない。
それと同じで、どこの馬の〇かしらないが、大塚史学を論駁(私も同感であるが…)
したから、それで大塚氏の学問体系が音を立てて崩壊したようなことをマコトシヤカ
に言う御仁がいる。
733 :
大学生@年目 :2005/05/19(木) 20:58:03
いきなりごめんなさい。 「社会学の基本概念」を読んで、明後日までに、 書評を書かなければならないのですが、 手も足も出ません!知恵を貸してください! 一応、本は一読したのですが、 難しくて「文献の概要」を汲み取ることができません。 文献の概要と、論点の提示、考察、について、 アドバイスや考えを頂きたいです。お願いします。
734 :
Z :2005/05/19(木) 23:12:54
>>733 さん江
To be, or not to be でなく、たとえ間違っていても「風車」に敢然と
突進すること!(満身創痍になっても…)
(マリアンネ・ヴェーバーによれば、Mヴェーバーは「ドン・キホーテ型」
だったそうです。)
勇気を出して、ハチャメチャに書いてみろ。
皆様方、ウェーバーの著作の中で一番お好みの論文はどれですか?
736 :
名無しさん@社会人 :2005/05/25(水) 02:53:27
好み? どういうこと?
737 :
Z :2005/05/27(金) 00:08:28
好みという点からすれば、ヴェーバーの全てが好きか全てが嫌いか、どちらかになる。 ヴェーバーの論文や論考はアンビヴァレンスな点がある。 「近代的・合理的」(『Vorbemerkung』)と「誇り高きゲルマン民族の歴史と文化」 (『国民国家と経済政策』)だ。そこがヴェーバーの魅力なんだ。 だから一方の極にKマンハイムがおり、他方の極にKシュミットがいる。 この後者に関して、ヴェーバーとナチスの関係が論議されるのだろう。 一般には、ヴェーバーがもう10年も寿命があったなら、ナチスは台頭しなかった であろう〜と、云われている。私もそう信じるが…。(理由は、ユダヤ問題。 〜ヴェーバーは、決してユダヤ人を差別しなかった。例:Gジンメル) しかし、これは微妙なところではないか?
738 :
名無しさん@社会人 :2005/05/29(日) 19:41:57
739 :
Z :2005/05/31(火) 23:57:34
☆今西錦司(1902〜1992)と大塚久雄(1907〜1996) それ、どういう関係あるの? 今西錦司は京都生まれの京都育ち。大塚久雄も京都生まれで、京都一中4年から 三高へ進んだ、当時、三高の山岳部といえば、旧制高校のトップをいっていた。 大塚久雄が、その三高山岳部に入っていた。彼は中学時代には野球をしており、 ショートを守っていたそうだ。三高にはいって山岳部員になった。その名簿が 残っている。奇しくも、そこから「文化勲章」受賞者が二人も出たことになる
740 :
名無しさん@社会人 :2005/06/07(火) 20:26:18
>>737 >ヴェーバーの論文や論考はアンビヴァレンスな点がある。
おいおいおいw
741 :
名無しさん@社会人 :2005/06/07(火) 21:32:23
「職業としての学問」「職業としての政治」は俺の座右の書だな。 繰り返し読んでぼろぼろになっているが、何度読んでも心に響く。
742 :
おながいしまつ :2005/06/09(木) 00:51:46
743 :
名無しさん@社会人 :2005/06/09(木) 07:32:25
中川八洋/八木秀次/渡部昇一「エドマンド・バークに学ぶ──保守主義の大道」『諸君』Vol.32 No.8,2000-8
744 :
名無しさん@社会人 :2005/06/13(月) 02:43:52
ヴェーバー学におけるすゑ人の跳梁批判 折原浩 予価5800円 450ページ A5並製 ISBN4-624-40056-9 学問軽視・専門家蔑視の俗悪化する風潮に抗し!世界的ヴェーバー学者が怒りを 込めて痛烈に批判する論争書! 『マ犯』なる耳目蟲動を意図した悪質なヴェーバー非難の書、およびそうした本に 雷同していかがわしい賞を付与した保守的な選考委員及び読者といった 「末人」(ニーチェ、山之内靖)の跳躍する元凶を徹底的に究明し!さらには論文査読 責任を回避しているアカデミズムをも問題化する!学問のあるべきありかたを 改めて!再び!原則的に問い質す!
いまやネオ機能主義ですよ
747 :
Z :2005/06/18(土) 23:07:04
Mヴェーバーの根底にあるもの ヴェーバーにはエートスとして“近代的・合理的”を論じ、 パトスとして“誇り高きゲルマン民族〜歴史・文化”を主張する。 それらの根底として“騎士道精神”があるのではないか! 学生時代に彼は「決闘」(儀式に則った)をしている。 頬にその傷跡があるそうだ。右側か左側か忘れたが、それは名誉のある方らしい。 ポートレイトにそれが薄く残っているという。 *決闘については、上山安敏著『世紀末ドイツの若者』講談社学術文庫 参照
748 :
Z :2005/06/21(火) 21:05:33
Mヴェーバーがヨクいう「運命的」とうコトバの意味。 ソポクレスの『オイディプス王』について。(父親殺しと、母親との近親相姦) これが運命のいたずらの最たるものであろう。オイディプス王は名君ではないにしても、 悪王ではなかった。それなのにかかる運命に翻弄された。彼はどうしたか? @しょせん、人生は運命だとあきらめた。 ATo be,or not to be と迷う。 B運命を受け入れ、対決する。あたかも風車と、敢然と対決する如く。 オイディプス王はBを選び、盲目となって諸国を遍歴した。(娘アンティゴネと共に) ヴェーバーが運命的という場合、Bの意味である。ヤスパースは彼を「実存的人間」 といっている。(マリアンネ夫人は「伝記」で、夫をドン.キホーテ型と見ている) この「運命的」と「非合理的な力」はどう関係があるのか? (例 Zwischen-betrachtung)
749 :
Z :2005/06/22(水) 21:46:49
JMケィンズ『若き日の信条』(世界の名著〜ケィンス・ハロッド=中央公論社刊)より。 *我々が人間の本性に属すると考えた合理性のために、判断の浅薄さばかりでなく、 感情の浅薄さをも、もたらすことになった。 *良かれ悪しかれ人間の心のなかにある、より深くより盲目的な情熱の多くを無視した ものには、ほとんど興味深いものはなかった。 *水底の渦や急流に全く接触することなく、流れの表面を優雅に、空気のように軽く、 わだかまりなく、滑っていく“みずすまし”……
750 :
Z :2005/06/22(水) 21:54:45
Mヴェーバーにとって、非合理的なる最たるものは、外でもない「宗教」である。
Mウェーバーの理解社会学について詳しいことキボン ググったけど良く判らんのですよ。 明日までに何とか小レポ仕上げたいんで協力ヨロー
752 :
名無しさん@社会人 :2005/06/28(火) 21:50:05
age
邊得婆
754 :
Z :2005/07/05(火) 23:16:49
大塚久雄氏は、「資本主義の精神」という場合、そこには資本家〜ブルジョアジー だけでなく、労働者〜近代プロレタリアートの精神も含まれる…といっている。 そこで、東欧の社会主義国家が滅んだのは、そこに「社会主義の精神」がなかった からではないか? 上層部はノーメンクラトゥラとして権力に甘んじ、下級の本来のプロレタリアート は‘おんぶに抱っこ’で気力もなく、甘えだけがあった。 現在の中国も、上層部の賄賂(一部ではあろうが)・権力への甘えがあり、農民・労働者 は刹那的現世主義に甘んじている。権力一極集中・分配なき成長・エイズの蔓延をどう 解決するのだろうか?
755 :
Z :2005/07/05(火) 23:46:28
英国のギリシャ史家E.R.ドッズ(1893〜1979)は、古典ギリシャ文明が滅んだのは、 民衆の「自由への恐怖」があったからだという。(『ギリシャ人と非理性』1951〜みすず書房刊) 彼は、古代に現代を見たのであろう。(「古きを訊ねて新しきを知る」の逆) 自由(当然‘責任=結果責任’を伴う)よりも、現世主義(‘占い’がそうだ) を求める… これが自由への恐怖だろう。 Mヴェーバーとドッズを比較研究している学者はわが国にはいない。 不思議にも。
> Mヴェーバーとドッズを比較研究している学者はわが国にはいない。 不思議にも。 そんなことを不思議に思う奴の方がよっぽど不思議。
757 :
名無しさん@社会人 :2005/07/10(日) 15:29:08
ジンメル社会学についてヴェーバー社会学とデュルケム社会学と比較したい。
758 :
Z :2005/07/10(日) 23:46:27
>>756 わが国だけでなく、世界でもいないだろう。Mヴェーバーが世を去って85年。
やはり、ド・ニ・ド・ルージュモン『愛について』(Love and Occident=平凡社
ライブラリー)やドッズの業績に頼らねばならないと思う。
>>758 あー、はいはい。
だったら2chなんかで能書きたれていないで、さっさと自分で
論文なり本なり書けば?
今時の大学人ってこんなのばっか。
760 :
名無しさん@社会人 :2005/07/13(水) 13:57:13
暇なんだろ
761 :
名無しさん@社会人 :2005/07/15(金) 08:06:23
762 :
名無しさん@社会人 :2005/07/15(金) 14:17:57
765 :
Z :2005/07/26(火) 21:57:00
Mヴェーバーの『Zwischenbetrachatung』(中間考察)の‘性愛’を突き詰めていけば、 ド・ニ・ド・ルージモン『愛について』(トリスタンとイゾルテ=情熱恋愛)になるのではないか。 ド・ルージュモンの分析は、ヴェーバーの『プロ倫』の手法とよく似ている。 もっとも、シスモンディは出てくるが、ヴェーバーは出てこない。 そこがウサン臭い。
766 :
Z :2005/07/26(火) 22:33:35
ドッズは、ユークリッド幾何学のような合理的な精神〜ギリシャ文明の深層には、 フロイトのいう「幼児体験(それが原始体験につながっている)」〜人間の原始的なマンタリテ があるという。ヴェーバーのいう運命的とか非合理的とかいうそれである。 BC4〜2世紀の後、ギリシャは世界の文明史から消えた。(中国は手を変え品を変えて続いている) BC4〜2以降、経済的に没落したわけではない。むしろ向上している。 わずかにプルタルコス(プルターク)が知られているぐらいだ。 19〜20世紀になっては海運が栄えたぐらいだ。 人間の原初から続いている運命的な非合理的なものに、もっと目をむけねば。 JMケインズも気づいていた。シュンペーターの創造的破壊の背後・根底にも、 それがあるのでは? スキデルスキーは『ケインズ伝』第2巻に、ヴェーバーとケインズの類似点を指摘している。 しかし、スキデルスキーは、「ケインズはおそらくヴェーバーを読んでいなかっただろう」と、 書いている。
767 :
名無しさん@社会人 :2005/07/26(火) 22:36:54
>>754 大塚久雄先生ってずい分勝手なことを言われるんですね
西欧について言われるているんでしょう?
768 :
Z :2005/07/26(火) 23:44:48
>>767 べつに。大塚さんは勝手なことをいってやしないと思うよ。
当然のことです。マルクスの亡霊に惑わされるな!!
イヤ。マルクスではなく、マルクスのエピゴーネンに惑わされるな!!
769 :
Z :2005/08/02(火) 21:17:06
上山安敏 氏の新刊が出た。 *『宗教と科学』岩波書店 B6版 \3,800- この人の『ヴェーバーとその時代』ミネルヴァ書房刊は、 Mヴェーバーの解説書(実際は学術論考集)として一番良い。 但し、相当な覚悟で読め。
770 :
名無しさん@社会人 :2005/08/02(火) 23:46:10
上山安敏氏のミネルヴァ書房版は『ウェーバーとその社会』ではないですか。
771 :
Z :2005/08/03(水) 00:20:15
>>770 さん江
間違いました。『ウェーバーとその社会』でした。
スマソ(_○_)。
772 :
名無しさん@社会人 :2005/08/03(水) 00:24:15
社会科学方法論を学ぶ意義って何だと思います?
773 :
名無しさん@社会人 :2005/08/04(木) 01:21:54
自然科学は仮説を実験等によって検証することができますが、 社会科学は対象が社会および人間一般ということで、自然科学 のように仮説を確定的に検証できません。ヴェーバーの「動機 の意味理解」や「理念型」は社会科学を可能な限り自然科学に 近づけようとした苦肉の策かと思います。
774 :
名無しさん@社会人 :2005/08/05(金) 00:17:10
「プロ倫」に書いてあることを現代社会の事象にあてはめるとしたらどんなことに適用でき ますか?
775 :
名無しさん@社会人 :2005/08/05(金) 01:21:17
経済効率を高めるために、出費や無駄を可能な限り削減することは、 禁欲的エートスの世俗版といってもよいでしょう。もっとも、プロテス タンティズムの倫理の原点には、「神の栄光の顕現」や「隣人愛」、あ るいは「救いの確証」という価値合理的な目的がありました。現在の経 済的効率化や構造改革には、そのような倫理・精神は希薄あるいは皆無 ですよね。
776 :
Z :2005/08/16(火) 22:58:28
いよいよ選挙です。小泉首相は、反対派の選挙区に「刺客」を送り込むという。 半数は決まったらしい。当然のことだ。 反対しておいて、公認が欲しいという。甘ったれるな!! といいたい。 Occidentや日本は封建制度を経験しているから、法(国法であれ私法であれ)の 遵守が“プラチック”として存在する。 反対派の国会議員(与野党とも)『職業としての政治』を読んだことがないのだろうか。 代議士で読んでないのはモグリだ。
777 :
Z :2005/08/16(火) 23:15:33
小泉首相は今回の選挙を‘郵政民営化’の選挙といっている。民主党の岡田さんは、 郵政民営化は重要な選挙課題ではないといっていたが、民主党はここ2〜3日、 自民党の郵政問題にズルズルと、ひきずられて来そうだ。 小泉方式が、M.Weberのいう‘デマゴーグ’である。
778 :
Z :2005/08/18(木) 22:44:52
出版社:未来社のPR誌『未来』の2005年7・8月号に、 ヨハネス・ヴァイス『ニーチェ・ヴェーバー・ハイデガー』が載っている。 力作! ニーチェ=ヴェーバーやニーチェ=ハイデガーは、多くが論じている。 しかし、ヴェーバー=ハイデガーまず、論考を見たことが無い。 これは数少ないその論考である。 一度、読んでみてください。 ちなみにいうと、出版社のPR誌 創文社=「創文」 みすず書房=「みすず」 も、ヴェーバーに関する論考がしばしば載る。 参考として、「創文」2005:7月号に、 権左武志『カール・シュミットの正戦批判』がある。 KシュミットはMヴェーバーから、かれのパトスを引き継いだ。 (エトスを引き継いだのは、カール.マンハイム)
780 :
名無しさん@社会人 :2005/08/19(金) 23:23:27
『マックス・ヴェーバーの新世紀』は東大でのシンポジウムの報告が中心 ですよね。その後、このシンポジウムの報告内容を基本として、雀部幸隆、 牧野雅彦、佐野誠、矢野善郎、上山安敏諸氏は重厚な学術書を出版してい ます。そちらの方を読まれるのもよいでしょう。折原浩氏も羽入批判の観 点からですが、精力的ですよね。
>>778 既読で評価も君とほぼ同じだがあんたとは他のすべての点で評価が異なるからなあ
782 :
名無しさん@社会人 :2005/08/23(火) 07:53:35
「プロ倫」でマックスウェーバーは近代資本主義を結局どう考察したんですか?
783 :
名無しさん@社会人 :2005/08/23(火) 08:41:06
一言で説明することは不可能ですが、ヒントは「プロ倫」の原論文(1904-05) には近代資本主義の近代という言葉はなく、1920年の改訂論文で、資本主義に 「近代」という言葉が付け加えられたということです。これは、「パーリア」 資本主義と「近代」資本主義を理念型的に区別する必要性からです。そこには、 ユダヤ教と禁欲的ピューリタニズムとを等置して資本主義の起源を考察するゾ ンバルト(『ユダヤ人と経済生活』1911)へのヴェーバーの激しい批判があり ました。
784 :
名無しさん@社会人 :2005/08/24(水) 13:44:27
御回答ありがとうございます。「プロ倫」をもう一度ざっとみてみました 近代資本主義以前の資本主義(バーリア・キャピタリズム)では倫理的性格が欠如していて、 ウェーバーはその倫理的性格がプロテスタンティズムの精神によって生まれたと主張したのですよね。 「プロ倫」の最後には、現代、ウェーバーの主張するような清教徒的な資本主義の精神はもはや必要なく、 ただ単に競争的な感情によって行動する傾向があるとあります。 ウェーバー自身は、この傾向について、また新たな倫理的性格が復活するか、それとも粉飾されたシナ的化石化 (バーリア・キャピタリズム化)が起こるか、という二つの可能性を示唆しています。 これは質問というか疑問なんですが、現在資本主義に起こりつつある変化(強引なM&Aがあったあり企業の社会的責任が重視されたり) はどちらに傾いていて、これからどう変化するのだろう。私としてはバーリアキャピタリズム化していると思いますが、 いまのところ上の二つが混在している状態だと思います。 これからどうなるかはいまいち想像がつきません。この2つが混沌としつづけるのか、完全にどちらか一方になるのか、 ひょっとしたら新しい経済体制が誕生するのか。 まったくまとまりつかない文章・疑問になっちまいました。
785 :
Z :2005/08/24(水) 18:27:51
Mヴェーバーの予言が当たるか当たらないか、は問題ではない。科学は予言はしない。 (当たらないからヴェーバーは間違いだ、というのは無意味) 「人文主義的合理主義(Humanistische Rationalismus)」がヴェーバーの理想。 この人文主義的合理主義を論ずるのは大変〜一冊の本になるだろう。
786 :
Z :2005/08/24(水) 19:54:38
前にもどこかで書いたと思うが、『プロ倫』とWゾムバルトの『ブルジョア』 は、方向が全く違うが、その結論は驚くほどヨク似ている。結論だけを相互に 入れ替えても、充分整合性があるのではないか。 もっとも、二人は生涯友人だった。 因みにいうと、ゾンバルトが亡くなった(1941)後の長男=ニコラウス・ゾムバルト の後見人は、カール・シュミットだった。(晩生の子だったから)
787 :
名無しさん@社会人 :2005/08/25(木) 07:45:58
ニコラウス・ゾンバルトには、フロイトの精神分析をシュミット論に適用した 『男性同盟と母権制神話』という著作がありますね。これはフロイトの精神分 析をヴェーバー論に適用したアーサー・ミッツマンの『鉄の檻』のシュミット 版ともいえますが、精神分析の分析枠組みの妥当性については種々の議論があ り、難題かと思います。いずれも興味深い書で、一気に読ませます。
788 :
Z :2005/08/25(木) 22:17:02
>>778 で
ヨハネス・ヴァイスは、ヴェーバーとハイデガーの二人の思考の収束点〜共通点として、
ニヒリズムの経験=「神に疎遠〜不在と、予言者の不在」。
そして、このような時代に、最後まで耐え抜くという態度である。
宮台真司は“終わりなき日常を生きろ”という。
789 :
Z :2005/08/27(土) 00:30:08
>>787 同感。
大阪市大の図書館に“ゾムバルト文庫”(Wゾンバルトの蔵書=約14,500冊)
がある。
790 :
Z :2005/08/27(土) 00:42:26
KシュミットもMハイデガーもカソリックだった。 ヴェーバーは勿論、プロテスタント。 Wゾムバルトはどっちかな?カソリックかもしれない。 旧西ドイツでは、5割がプロテスタント、4割がカソリック、 1割がユダヤ教その他だった。 キリスト教民主同盟はカソリックだ中心。 因みにいうと、音楽ではブルックナーがカソリック、ブラームスがプロテスタント、 ベートーヴェンがカソリックだった。 マルクスは親の代に、ユダヤ教からプロテスタントに改宗している。
ヴェーバーとマルクス ヴェーバーとニーチェ ヴェーバーとジンメル ヴェーバーとゾンバルト ヴェーバーとハイデガー ヴェーバーとイェリネック ヴェーバーとヤスパース … … こんなんでいくらでも論文が書けるんだから、学者って 気楽でいい商売ですね。 解釈学がどうの、とか言ってるけど、この手の「AとB」型 粗製濫造論文はそれのはるかに下を行っていると思うけど。
792 :
名無しさん@社会人 :2005/08/28(日) 00:47:03
ドイツでは、ルターの宗教改革以降の領邦教会制の関係で、地域と宗派がほぼ 一致します。たとえば、北のプロイセンはプロテスタント、南のバイエルンは カトリックが主流です。あるドイツ人は「ベルリン(北)とミュンヒェン(南) はまるで外国のようだ」と言っていました。ヴェーバーはエアフルトで生まれ、 青年時代まではベルリンで生活していましたね。ヴェルナー・ゾンバルトの出 身地はどこですか。息子のニコラウス・ゾンバルトはベルリンで、カール・シ ュミットと知り合いでした。ヴェルナー・ゾンバルトがベルリン大学の教授で したからね。
793 :
名無しさん@社会人 :2005/08/28(日) 01:08:34
モムゼンとシュヴェントカー等が編集した『マックス・ヴェーバーとその同時 代群像』(邦訳、ミネルヴァ書房)は、シュモラーとヴェーバー、ゾンバルト とヴェーバー、ミヘルスとヴェーバー、ナウマンとヴェーバー、フロイトとヴ ェーバー等々といったテーマのオンパレードですが、内容的には深い論稿がい くつかあります。思想史は一人の思想家と他の思想家との比較から、その思想 家の特性を浮き彫りすることも一つの課題かと思います。いかかでしょうか。
今はどの方向に向いているんだおるか >新たな倫理的性格が復活するか、それとも粉飾されたシナ的化石化
795 :
名無しさん@社会人 :2005/08/28(日) 10:07:26
>>793 その「思想史」に多少は意味があるとして「一つの課題」に過ぎないと
思いますが。そういうものばかりが目立つのはどうかと。
ましてや、ここで何回か出ていた「どうして『ヴェーバーとXXX』を
誰も論じないのか」といった論には辟易します。
誰も気づかなかったのではなくて、論じる価値がほぼない場合が
ほとんどではないのかと。
796 :
名無しさん@社会人 :2005/08/28(日) 12:40:16
了解しました。かつてモムゼンは、ヴェーバーとニーチェの思想史的関係につ いて、増やそうと思えばいくらでも増やすことができるといった旨の発言をし ています。ヴェーバーとハイデガーの思想史的関係についても、興味深い視点 ではありますが、どこまで有意味性があるのか。今後の論者の力量にかかって いるとも言えそうです。
797 :
名無しさん@社会人: :2005/09/02(金) 19:01:20
こんどの衆院選挙、どうよ。
798 :
Z :2005/09/08(木) 23:30:56
予想 自民=250 民主=170 公明=30 共産=8 社民=7 その他=15
799 :
名無しさん@社会人 :2005/09/08(木) 23:39:16
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800
801 :
Z :2005/09/14(水) 21:16:46
イヤ〜参った。自民党があれだけ勝ち、民主党があんなに負けるとは。 勝敗の決め手は。Mヴェーバーの『職業としての政治』や、‘経済と社会’ の『国家社会学』(石尾芳久訳)で何度もいわれている‘デマゴギー’だ。 デマゴギーの本来の意味は、このスレの方はご存知でしょう。 まさか、「あの話しはデマだ…」という‘デマ’と解釈されないでしょうネ。
802 :
Z :2005/09/14(水) 21:18:25
訂正 誤 デマゴギー→正 デマゴーグ
803 :
Z :2005/09/14(水) 21:27:45
@皆で協議して決める(世間様でいう民主的)が、結果に対しては責任を取らない。 Aリーダーが独断で決める(世間様でいう独裁)が、結果に対しては責任を取る。 Mヴェーバーはどちらか、お判りでしょう。
804 :
名無しさん@社会人 :2005/09/18(日) 07:46:53
ドストエフスキーの「大審問官」みたいだなあ。
805 :
名無しさん@社会人 :2005/09/20(火) 11:44:27
マックス・ウェーバーについて学びたいです。 どこかおすすめの講座はないでしょうか? 出来たら通信系がいいのですが、御教授よろしくお願い致します。
どこの大学でも一人は専門家いるだろうからモグれば
807 :
名無しさん@社会人 :2005/09/29(木) 13:24:11
808 :
名無しさん@社会人 :2005/09/30(金) 09:21:36
すいませんマックスウェーバー初心者なのですが ちょっと簡単な解説をさせて下さい。 間違えていれば指摘していただければ幸いです。 (プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神) ※キリスト教カルヴアン派の人達は近隣愛を大切にしていました。 人々が欲しいと思った商品を良質で生産し適正価格で販売していました。 利益となったお金を必要以上に使う事なく、ただひたすら仕事を勤勉に 行っていました。勤勉、節約を旨とし、仕事の効率化や生産性を高める 努力をしていました。これがプロテスタンテイズムの倫理(資本主義の起源) (非営利目的の概念を持つ人達) ※そのカルヴアン派の人達の中に勤勉、節約の観念に相違を持つ人達がでて きました。(営利目的を持つ人達) これが資本主義の発展させたという考えで間違いないですか??
809 :
Z :2005/09/30(金) 11:01:33
↑ 後者 ※そのカルヴアン派の人達の中に勤勉、節約の観念に相違を持つ人達がでて きました。(営利目的を持つ人達) これが資本主義の発展させたという考えで間違いないですか?? これはMヴェーバーからすれば、間違いだ。 詳しくは後便にて。(営利は目的ではなく、結果だ)
810 :
Z :2005/09/30(金) 22:32:25
>808の後論に答えるため、とりあえず下記の書物を列記する。 大塚久雄 著(内容は主として戦前に発表されたもの〜S20以前) *近代欧州経済史入門 時潮社 *近代資本主義の系譜 学生書房 *近代欧州経済史序説 弘文堂 それに重要なのは、梶山力『近代西欧経済史論』 みすず書房 梶山は大塚より2年下であった。(梶山はS16年、34才で没)
811 :
808 :2005/10/01(土) 03:18:24
ありがとうございます!!勉強しますのでまた書き込みさせて 下さい。
812 :
Z :2005/10/01(土) 20:04:43
ヴェーバーの『プロ倫』で考察されているプロテスタントはカルヴァン派をはじめ、 再洗礼派・敬虔派などで、ルターや英国々教会ではない。プロテスタントの倫理と 資本主義の精神の地理的な重なりはない。 大塚久雄が『近代欧州経済史序説』で論じているのはイングランドのヨークシャー 地方の毛織物工業である。英国にはカソリックもある(アーノルド・トインビーが そうだ)。多くは国教会だ。 〜倫理と〜精神の関係を、どう観るか? それから、現在でも「カネ・カネ」といっている連中は、皮肉なことに案外おカネを 持っていない。ビンボー人ほど、「しょせん、この世は金だ…」という。 逆説だ。
813 :
名無しさん@社会人 :2005/10/01(土) 21:20:07
> ルターや英国々教会ではない。 英国国教会という概念が現在一般に考えられているようなものになった のは17世紀の中盤以降であり、16世紀のイングランドにおいては、 英国国教会とカルヴァン派のプロテスタントとの区別は、明確ではない。 従って、上記のように断言するのは誤り。
814 :
Z :2005/10/02(日) 09:57:14
↑ イングランドでは、カソリック・カルヴァン派(オランダを通じて)・ルター派など いろいろありましたが、エリザベスT世(統治は16世紀後半〜17世紀初頭)がイギリス 国教会を設立しました。以後、清教徒革命(クロムウェル:17世紀中期20年間)や名誉 革命(1688:対カソリック)がありましたが、国教会の概念は受け継がれています。 メソジストは18世紀に国教会から分かれています(ヴェーバーの四つの新教の一つ)。 ヨークシャーの毛織物工業(農村家内工業として)が興隆したのは、エリザベスT 以前ですから(大塚久雄論)、813のおっしゃる事も正しいです。
815 :
名無しさん@社会人 :2005/10/02(日) 20:42:51
816 :
名無しさん@社会人 :2005/10/07(金) 20:52:16
>>814 >国教会を設立
最初から後の国教会のように教義とか方針が固まっていた訳ではなく、
文字通り単なる「英国の教会」ということでしかなく、
当初は高教会派、低教会派、カルヴァン派等々が「我こそは国教会」ていう
覇権争いをしていたのが実情。
クリストファー・ヒルでも嫁。
817 :
名無しさん@社会人 :2005/10/07(金) 21:38:32
818 :
Z :2005/10/13(木) 23:58:30
支配(Mヴェーバー)と搾取(Kマルクス) マルキシストは、支配と搾取は違うという。しかし、ライトゥルギー国家(現代で は、かつてのソ連)は一種の家産官僚制であり、搾取以上の支配が行われていた。 人民は単なる物体であった。その家産官僚が「ノーメンクラトゥーラ」であった。 『プロ倫』の最後のコトバ〜ニーチェ:『ツァラトストラはこう語った』よりの 引用〜「精神の無い専門人、心情の無い享楽人…」は、ノーメンクラトゥーラに ピッタリ当てはまる。 能天気なマルキシストは、あれは資本主義社会における‘人間の自己疎外’をいっ たものだと人事のように思っているが、ドッコイ現実の社会主義にも当てはまる。 むしろ、こちらの方が適切だ。
819 :
名無しさん@社会人 :2005/10/14(金) 19:36:11
>>818 >「精神の無い専門人、心情の無い享楽人…」は、ノーメンクラトゥーラに
>ピッタリ当てはまる。
同感だけど。同時にそれは現代の理系・文系すべての研究者にもあては
まると思う。
学問領域の際限の無い細分化と自己完結化。それは学問の発展の必然性
というよりは、単なる些末主義と安易な権威化の所産のように見える。
Weberの”禁欲”を大義名分化して”無欲”を衒いながら、実際のところ
は、現在的な問題関心を完全に喪失した現代日本の学問状況、更にはそれ
を自明の事柄として業績稼ぎにひたすら邁進する研究主体・・・・・・
これらにこそ先のニーチェの言明はあてはまると思うけど。
820 :
Z :2005/10/14(金) 22:34:53
デジタル=計算合理性 アナログ=なんだろうか? 心情倫理か? いま、世の中はデジタル万能だが… いままでは、デジタルとアナログは時計に振り子のように、 行ったりきたりしていた。また、アナログ見直しの 時代が来るのかも? その時のアナログは、今までのそれとはチョット違うだろう。
デジタル・アナログ融合・統合の時代だと思う。仮にユビキタス時代ということにしておきます。
822 :
Z :2005/10/24(月) 21:45:32
Mヴェーバーの『国家社会学』について。 彼の畢生の大著『経済と社会』(Wirtschaft unt Gesellschaft)は生前から 書き溜めていたが、1920年、55歳で亡くなったから、未刊であった。 マリアンネ夫人やその他が整理して刊行した。 その編纂が、やや杜撰だったのはいたし方がない。 悪く言う人は、「『経済と社会』は、植字工が編集したんだ…」という。 第3版→第4版(かつて創文社から刊行された〜未刊)→第5版(現在)と、 入れ替え・並べ替えがあった。 それでも、折原浩氏は不満を述べている。 (「合わない頭をつけたトルソ」から「頭のない五肢体部分へ」参照) 特に、『国家社会学』は、それとして原稿を残していなかったようである。 したがって、彼の旧著や論文から集めてきたものである。だから、 『国家社会学』が、『都市の類型学』・『法社会学』・『宗教社会学』など に比べて、なんとなく影が薄いのは、マリアンネやヴィンケルマンの責任 ではない。 それでも、あらゆる巷にあふれている‘国家学’本に比べたら、燦然と〜! 日経新聞の文化欄(H17.10.8)に「気鋭の国家論 冷戦後を問う」が載っている。
今、山之内靖「マックス・ヴェーバー入門」をボツボツ読んでいますが、とても面白い。 p.35のマンハイムが出てきたくだり。病み付きになりそうです。
824 :
Z :2005/11/04(金) 18:26:47
ニクラス・ルーマン『情熱としての愛』(木鐸社刊)を読んでいます。 Mヴェーバーには『中間考察』があります。(性愛=Sexual-love) エロス、アガペについては、ニールセン『エロスとアガペ』 (全3冊・新教出版社)があります。 ドニ・ド・ルージュモン『愛について』(岩波、平凡社ライブラリー2冊)。 このたび、ルーマンのが翻訳されたので、「愛=エロス」についての論考が 豊富になりました。
825 :
名無しさん@社会人 :2005/11/05(土) 23:40:32
RAGE AGAINST THE MACHINE
827 :
Z :2005/11/06(日) 21:49:38
「八巻正治」を‘Google’で検索してみては?
828 :
Z :2005/11/08(火) 00:57:32
ルーマンは愛(情熱としての)を、先ずコミュニケーションとして捉える。 (この場合は、A君のB子さんへの情熱恋愛) 一般論としては、愛も一つの‘コミュニケーション’に違いない。 その愛のゼマンティック(意味の型)〜コードを問題視する。
829 :
名無しさん@ :2005/11/14(月) 20:15:29
ヴェーバー『支配の諸類型』における「カリスマの日常化」は、カリスマ的支配 が永続化=日常化といういわば矛盾するルートを辿る際に、伝統化や合法化など 非制度的支配から制度的支配へと変化するというよーなことだ。
830 :
名無しさん@社会人 :2005/11/14(月) 21:27:25
↑カリスマの ル−ティン化と日常化とどう違うの?
831 :
考える名無しさん :2005/11/18(金) 13:35:27
情熱なしでは何も為し得ない。 −職業としての学問ー
832 :
名無しさん@社会人 :2005/11/27(日) 00:15:11
スレ違いかもしれませんが、Zさんはイラク戦争を、肯定的に見ていると思えるレスが あったのですが、今現在アメリカ国内に於いてさえブッシュの判断、イラク戦争そのもの に対する正当性が危ぶまれていますが、今現在、いかがお考えでしょうか?
833 :
名無しさん@社会人 :2005/11/27(日) 23:03:43
↑
>>832 ブッシュはアメリカ的(プロテスタント的)な大統領で、平均的な大統領だと
思います。ホワイトハウスの政策決定の過程は民主党であろうと、そんなに
変わっていないでしょう。民主党の大統領であっても起こっていたでしょう。
アメリカでは、どんなことでも賛成・反対の意見が表面に出ます。
自分の都合の良いように、時には賛成、時には反対意見をとって、イチャモン
をつけるのが日本のジャーナリストの常套手段です。彼らには「責任観念」が
ありませんから。
勿論、神ではないから、ホワイトハウスも誤謬をおかす危険はあります。
しかし、その修正過程は早いです。
独・仏がイラクに派兵しなかったことをもって(こんなことは、欧米間では
常態)、戦争勢力・平和勢力の判定はナンセンスです
英国は労働党政権でも、イラクに派兵しています。最近、わが国でも、外交
政策では、与野党の差が縮まって来ました。当然のことです。
日・米・英・豪・韓等の派兵は、世界的に重いです。
国家とは、「暴力」を行使しうる唯一の機関とはMヴェーバーの持論ですが、
その暴力の行使の方法が民主的か専制的かの違いがあります。
この‘暴力’というコトバを、自己の都合の良いように解釈して論じる傾向が
わが国の学者間にあります。
まだまだ云いたいことがありますが、この辺で。
834 :
Z :2005/11/27(日) 23:06:42
↑>833はZです
835 :
Z :2005/11/27(日) 23:19:00
Mヴェーバーは、政治の根幹はデマゴギーだといっています。 そのよいデマゴーグの例として、ギリシャの古代民主主義を確立した ペリクレスを上げています。それに反して、当時のクレオンはデマゴーグ とはしていません。
836 :
名無しさん@社会人 :2005/11/27(日) 23:30:58
すれ違いのイチャモン同然のレスに、わざわざ返答恐れ入ります。 またお尋ねしてもよろしいでしょうか? もう二点だけ。 >>勿論、神ではないから、ホワイトハウスも誤謬をおかす危険はあります。 しかし、その修正過程は早いです。 このお考えは、マックスウェーバーの書物等が根拠になっているのか、Zさんの 個人的な考えなのか。 >>独・仏がイラクに派兵しなかったことをもって(こんなことは、欧米間では 常態)、戦争勢力・平和勢力の判定はナンセンスです この事と、アメリカのイラク戦争の正当性は、どうつながるのか。 この二点、もしウザイ奴と思ったら、うっちゃってやって下さい。 Zさんの個人的な価値判断には、口を挟む気は御座いませんので、 いただいた答えについて、批判など一切いたしませんので。
837 :
Z :2005/11/28(月) 00:21:21
↑「正当性」というコトバに引っかかります。 ヴェーバーのキーワードとしての‘正当性’なのか? それとも、自己の思いを美化する(己の意見は正しい!〜) 意味でのコトバなのか?
838 :
名無しさん@社会人 :2005/11/28(月) 23:00:39
レス有難う御座います。正当性とはそのままの意味です。仮にも戦争を行うとしたら 当然それなりの理由が必要となると思います。 イラク開戦の理由として、大量破壊兵器、イラクとアルカイダ(9.11)との繋がり その他フセインが国民を弾圧していると言うのがありました。あと中東の民主化など。 果たしてこれらの理由で戦争が正当化されたわけですが、今はどれも眉唾物です。 それはさておき、これらの戦争遂行の理由と、諸外国で反対した国家がいると言う事実は 直接的にも間接的にも関係ないと思うのですが、Zさんはそのに何か関係を見出されて おられるのでしょうか? という質問でした。 お忙しい中真に申し訳御座いませんが、ご返事よろしくお願いします。
839 :
838 :2005/11/28(月) 23:04:03
追加 上記の戦争の遂行の理由について、フセインが独裁者であったのは事実です。 しかし当然Z様もアメリカが国益に適う範囲では、必ずしも独裁者を排除しない ということはご存知でしょうから、そういう意味において、これも眉唾物だと思っています。
840 :
Z :2005/11/29(火) 21:37:16
かつて、まだベルリンの壁が崩壊しない頃、旧日本社会党は「非武装中立」を 声高に言っていました。真意は、日本とアメリカを引き離し、日本を当時の 旧ソ連のフリーハントの領域にするためだったようです。その方が、ソ連の力 を借りてわが国を社会主義政権を樹立するに安直だったから。 幸か不幸か、ベルリンの壁を契機に、社会主義はドミノ的崩壊をしました。 社会党は、東独といわず、「民主ドイツ」といっていました。 838さんの論法は、この非武装中立的発送です。 (プチインテリ=社会主義者が、旧ソ連のノーメンクラトゥーラような人間 集団にならずに済んだ事は幸いでした) イスラムも「聖戦」を云います。アメリカも正義をいいます。 戦争とはそんなものです。 ‘イラクVsアメリカ’だけを抽出して論じても無意味です。 アメリカの真意は、サウジアラビアをファンダメンタルな勢力の支配下に おきたくないことです。 *追加の件 こんなことは(国益に適う範囲では、必ずしも独裁者を排除しない) 、 旧ソ連・中国・EU・日本……どこの国でもやっていることです。 国益に反すれば、たとえ民主国家に対しても行動をとるでしょう。 以前、英サッチャー政権はアルゼンチンに攻撃をして、領土奪還したでしょう。 大量破壊兵器云々は、聖戦の口実に過ぎません。 だから、アメリカが北朝鮮を攻撃しない理由もお判りだと思います。 中国・韓国を敵に回したくないからです。第3次世界大戦になるからです。 ブッシュ・ブッシュといわずに、ホワイトハウスの政策決定過程を芯から 知ることです。 余談になりますが、民主党の前原さんは「高坂ゼミ」出身だから、日米体制 は日本の根幹であることをよく知っています。
ご丁寧なレス有難う御座いました。内容が多岐に渡り、私は少し頭が混乱しています。 どうかもう少しお時間頂けましたら、また失礼に当たらない範囲で、ご質問させていただきたいと思います。 どうかよろしくお願いします。
>>840 >>838さんの論法は、この非武装中立的発送です。
戦争に反対するものは、全て非武装中立論者であるような、少し軽率な断定のような気がします。
正当な戦争はやはりあると思います。若しくはアメリカの戦争に反対するものは、すべてコミュニスト
と思われているのでしょうか。その思考はかつてソ連が、自分に反対するものは全て刑務所送りにした
ような、およそ民主主義を信奉するであろうZさんとは思えないような、狭量な感じを受けます。
また若しアメリカに反対することは、すなわち日本の国益に反するから、反対してはならないと言うお考えならば、
それはそれで個人の自由だと思います。私はそのようないびつな関係は、長続きしないと思うのですが・・・・。
これ以外にもZさんのレスには、思うところもあるのですが、これはzさんの信条でしょうから、特に
触れる必要はないと思います。
私の質問が、ウェーバーとは直接関係ないことから、個人の思想の話になってしまったようです。
私はとても不勉強でありますし、スレ違いでもありましょうから、以上で私のレスも終わらしてもらいたいと思います。
真に長い時間お相手くださり。有難う御座いました。失礼します。
カルヴァンの予定論がよくわからないのですが。 神はあまりに絶対なので、人間の行動や意思には左右されない。 その人が救われるか救われないかは最初から定まっているのなら、 なぜ当時の人は絶望や虚無に襲われなかったのですか? 職業や商売に励みだし、資本主義の形成に繋がったという流れが すんなり納得できません。
844 :
Z :2005/12/01(木) 22:28:26
↑ 参考になるかどうかわかりませんが。 『歎異抄』に 「善人なおもて往生をとぐ。いわんや、悪人をや」とありますが、一方では、 親鸞は「念仏もうして極楽に生まるる種にてやそうらふらん。はた、地獄 に落つる業(ごう)にてやそうらふらん。そうじてもて、存知せざるなり」 といっています。 それでも、多くの庶民は親鸞の教えに帰依しました。どうもこれは、カルヴァン の予定説に似ているような気がします。 自力で極楽へいくのではありません。(決定権は仏にあり) あらゆる意味で、浄土真宗はプロテスタントに似ています。 (阿弥陀如来の一神教・他力本願=仏への絶対帰依・天皇の上に阿弥陀如来あり〜など等)
845 :
Z :2005/12/01(木) 23:59:34
>>843 >なぜ当時の人は絶望や虚無に襲われなかったのですか?
16世紀の人の思考と、20世紀末〜21世紀初頭の人の思考との違いでしょう。
しかし、それは「虚無」であったかも知れません。(いま、世間でいう虚無ではない)
虚無は否定ばかりでなく、肯定的な虚無もあります。
宮台真司『終わりなき日常を生きろ』 これも、虚無といえば虚無です。
ちなみに親鸞は12〜13世紀です。
847 :
shijo :2005/12/11(日) 03:44:07
未だ基本的な理解が不十分でありますので、ここで質問させてください。 ウェーバーは非合理から合理が生まれ(る可能性がある)、またその逆も 然りである、と考えていた。だから、世界は規定できない(理性で覆うことができない)ものであるため、 宗教という非合理的な力が合理となり、それが政治経済などの様々な社会を構成する要素?と緊張関係になるのは必然であるとした。(中間考察) つまりそれはウェーバーがマルクス的主知主義ではなく、プラトンにルーツを見るような主意主義であるととらえてよろしいのでしょうか。 ご回答お願いします。
>>846 ところで、そのサイトから色々たどったのだが、リアルの中葉ってそんな経歴だったのか・・・。
てっきり若い人かと思っていたのでビックリ。
849 :
Z :2005/12/11(日) 19:44:51
>>847 ★リッケルト『文化科学と自然科学』(岩波文庫)参照。
Mヴェーバーは、1歳年上のリッケルトとは、少年時代からの親友だった。
主知主義vs主意主義といってよいかどうかは判りませんが…。
しかし、21世紀の現在では、文化科学(人文・社会科学)と自然科学の
境界はハッキリしなくなってきました。だから、リッケルトの考えがその
まま通用するかどうかも問題です。
★理解・理解社会学(Mヴェーバー)→『岩波・哲学思想事典』参照。
主意主義といえば、ショウペンハウアーやニーチェです。(理性を否定している
わけではない)
主知主義は、アリストテレス・カント・ヘーゲルです。(経験・意志を否定して
いるわけではない)
宗教の合理化とは、「呪術からの解放」です。それと教義の内容でなく体系・組織
の合理化です。(宗教の非合理性は変わらない)
合理的な宗教なんて存在しない。敢えて「心学」を宗教と観るならば、合理性に
近いかも?
ヴァチカンも奇跡は決して否定はしないが、慎重になってきています。
850 :
名無しさん@社会人 :2005/12/11(日) 23:23:32
ウェーバーの思想は今の時代にどのような影響をおよぼしていますか?
851 :
名無しさん@社会人 :2005/12/12(月) 02:22:47
「宗教的現世拒否の段階と方向の理論」はどんな内容なのでしょうか?
852 :
Z :2005/12/12(月) 23:01:27
↑「中間考察」(『宗教社会学論選』大塚・生松訳みすず書房刊)を読むこと。
853 :
名無しさん@社会人 :2005/12/12(月) 23:52:08
予定説とは、現世でどのような努力(戒律を守る等)を重ねようと天国に行けるわけ ではなく ただ、天国行きは神が予定しているのみというのが基本テーゼである。 だから、誰が天国に行けるか誰にも分からない。 しかし、天国に行ける人間にはその「兆候」があるに違いない。 つまり、プロテスタントの規則(戒律)は、 「戒律を守る」→「天国に行ける」という因果律ではなく、 「戒律を守る」→「天国に行ける兆候の現われ」←「天国に行けるっぽい」 予定説的な拘束として機能する。 個人は自分の効用を最大にしようと働き、企業は自分の利潤を最大にしようと運営する 各々が利己主義的に振る舞った結果、市場機構が働いて経済的均衡が実現され社会全体がよくなる アダム・スミスの「神の見えざる手」という理論によって秩序は維持される。 これが神の愛であるカリタス(隣人愛)であるとして「勤労」と「節約」が事実上の戒律となり 手に入った資産が選ばれたる者である証となる。 そして神の愛であるカリタス(隣人愛)の更なる実現の為に資産投下を続け事業拡大を計る。 これで間違いない?
854 :
Z :2005/12/13(火) 23:26:16
>>853 >「戒律を守る」→「天国に行ける兆候の現われ」←「天国に行けるっぽい」
そうではない。
855 :
Z :2005/12/14(水) 00:07:38
予定説について Mヴェーバー『プロ倫』から原文(大塚訳)を引用して説明いたします。 「」内は『プロ倫』からの引用 ()内は私の補足 「彼(カルヴァン)は、自分は神の‘武器’だと感じ、自分の救われている ことに自信をもっていた。」 また「彼は、選ばれているか否かは、彼等の行動によって知り得るとの臆見 に対しては、これを神の秘密に立ち入ろうとする不遜な試みだとして原理的 に斥けた。」(A5版岩波単行本P126)といっている。そうはいっても、あま りにも厳しい解釈には耐えられなくなってきたので、時代とともに穏健化さ れてきた。そして 一つは「自分はあくまで選ばれているのだとあくまで考えて、全ての疑惑を 悪魔の誘惑として斥ける・・・」そして「自己確信のないのは信仰の不足の結果」 と観る。 もう一つは「職業労働によって、むしろそれによってのみ宗教上の疑惑は追放 され、救われているとの確信が与えられる」(同上P130) かかる‘自己確信’は、ニヒリズムの場合もある。西谷啓治『ニヒリズム』参照。
856 :
853 :2005/12/14(水) 10:23:55
857 :
Z :2005/12/14(水) 17:21:40
兆候ではないとおもう。「兆候」を持ち出すのは、一種の甘えではないか? カルヴァンは、 「選ばれているか否かは、彼等の行動によって知り得るとの臆見 に対しては、これを神の秘密に立ち入ろうとする不遜な試みだ として原理的に斥けた。」
858 :
Z :2005/12/15(木) 00:53:33
『歎異抄』では、「念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべryらん、 また地獄におつべき業にてやあhんべるらん、総じてもて存知せざるなり。」 に対し、親鸞は、釈尊→善導(唐代の浄土教高僧)→法然と、仏の教えは虚言 ではない。それを受け継いだ己もそうだ・・・と、いっている。 “地獄は一定”(どうせ自分は地獄行きなんだ・・・という考え)これがいちばんいけない。 そう親鸞は云っている。(「とても地獄は一定すみかぞかし。」) カルヴァンの予定説においても、信仰による自己確信が重要なのです。 地獄は一定と思い込み、自棄妬けの敗退的人生を送るのが (21世紀の現代人はそう考えがち)いちばんいけないと云うことです。
>「職業労働によって、むしろそれによってのみ宗教上の疑惑は追放 >され、救われているとの確信が与えられる」(同上P130) この心境が今ひとつ理解できない・・・ 誰か詳しく解説してくれないかな・・・
860 :
853 :2005/12/15(木) 21:23:58
>>857 >兆候ではないとおもう。「兆候」を持ち出すのは、一種の甘えではないか?
>「職業労働によって、むしろそれによってのみ宗教上の疑惑は追放
>され、救われているとの確信が与えられる」
勤労による自己実現感やランナーズハイの様な感覚が
救われているとの確信となると言う事でしょうか?
「戒律を守る」→「いやー、今日も良く働いた(w」←「天国に行けるっぽい」
という具合?
いや、そうではないでしょうね。 それでは「兆候」とほとんど同義です。 それの反対側、「疑惑」が重要です。 「天国が予定されているならば 『兆候』としてそれが行動に出る筈だ、 そして自分はそうだ、 だから戒律を守りたくない自分なぞ 存在する訳がない そんなこと自分が思うわけがない」 という強迫観念に満ちた疑惑からの逃走を 戒律を守った行動をしているその時【だけ】 許されるのです。 「俺、守ったヨー」という達成感が事後に 生ずることはありません。
>>823 今、山之内靖「マックス・ヴェーバー入門」をボツボツ読んでいますが、とても面白い。p.35のマンハイムが出てきたくだり。病み付きになりそうです。
最近、今井賢一氏が短い論文:日本が真の「創造的破壊」を行うために−ネットワーク的世界の未来−
http://www.stanford-jc.or.jp/research/news-event/imai/imai030527.html の中に以下の啓示的な文章を書いているのを見つけました。これが非常に面白いと思うのです。
“その方法としては、マックス・ウエーバーという社会科学の巨匠がすでに手本を示している。社会はわれわれの理論よりずっと面倒なものであり、
その複雑面倒さに対処するために、マックスウエーバーは「理念型」という方法論を編み出した。個々の社会の成り立ちを理解するための鍵となる事実が何であり、
何が中心的で何が周辺的な事実かを決定するという接近方法である。マックスウエーバー自身は、「プロテスタンティズムの精神」に着眼し、
その倹約、勤勉、効率の精神が資本主義の成立を理解する鍵だとした。それでは、情報化社会ないしネットワーク社会におけるこの「プロテスタンティズムの精神」に
相当するものは一体どのようなものであろうか。”
はたと気がついたのですが、この“それでは、情報化社会ないしネットワーク社会におけるこの「プロテスタンティズムの精神」に相当するものは一体どのようなものであろうか。”
という問いに対する答えは、ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」あるいは姜尚中の「アメリカニズムの倫理と「帝国」の精神」に習って言えば、
「クエーカリズム、または、浄土系宗教の倫理とトヨティズムの精神」ではないかと思うのです。私はクエーカリズム・浄土系宗教・トヨティズムの三者に長い間魅了されてきたので、
その立場で申し上げるのですが、このコンセプトを深め広めるのが、我々日本人の使命ではないか、と思うのです。多分後5年、上海万博までにはこのコンセプトを固めることができるでしょう。
863 :
Z :2005/12/30(金) 19:59:46
本年は色々とご教示戴きありがとうございました。 私にとって「Weber学問論」が弱いので、来年はそこを もっとかじらねば、と思っています。 ヨロシク
私はどちらかと言えば、具体的な問題の解決に学問を利用したいという立場です。 来年もよろしくお願いします。
865 :
853 :2006/01/04(水) 03:38:33
>>861 亀レス失礼
「規範」→「責務」→「秩序の形成」→「天国に行けるっぽい」→「事実上の戒律」
という具合でしょうか?
「予定」→|→「疑惑」→「禁止」→「遵守」→「疑惑」へ戻る※ | →「破戒」→「天国に行けないっぽい」 ※このループの中にいる間だけひとときの安らぎがある。 「今のところ、『天国に行けないっぽい』というわけでは なさそうだ」
867 :
Z :2006/01/13(金) 23:49:16
バーバラ・スィーリング『イエスのミステリー』(NHK出版)がある。刊行されて10年以上経つ。 内容は、20世紀最大の発見とされる死海文書によると 「イエスがゴルゴダの丘で磔の刑で死亡した事になっているが、実は十字架からおろされて、奇跡的 に命を留め、70歳まで生きた〜。その間、2度結婚し3人の子供を得た〜。」 このことは新旧のキリスト教会や聖書年代学者からは、完全に無視されている。その原因は、 やはりスィーリング女史にある。それは、 死海文書にこう記されているから、こうだ・・・と、死海文書の原文は一切載せていない。 最近の韓国の、クローン発見問題と似ているともいえる。 その点、羽入辰郎『マックス・ヴェーバーの犯罪』の方がましだ。原典を載せているから。 それでも、学会からは無視されている。それは、羽入氏はヴェーバー理論の崩壊の如く 言っているが、たいした問題ではないからだ。 ヴェーバーは、あれだけの壮大な研究を、全て一次資料での補強は無理だから。 彼はほとんど二次資料である。(といっても、他人の著作の孫引きではない) OEDは収録言語70万、引用文書270万といわれている。『広辞苑』の 十数倍だ。(このスレで、広辞苑とOEDを同等に扱っていた人がいた) だからスィーリング女史は、当該の引用された死海文書を公表すべきだった。
高尾利数さんの訳だね。彼は面白い人で、昔、私の英会話の先生だった。 イエスが死んだとか蘇ったというのはアホ臭い嘘で、それを信じている連中って、なんだろう?と心底思う。 話題を変えて、山之内靖さんのヴェーバー入門はしばらく読むのを休んで、 「具体的な問題の解決に学問を利用したいという立場」から、 姜尚中「マックス・ウェーバーと近代」を読み始めています。なかなか面白い。
姜尚中「マックス・ウェーバーと近代」の第4章、第1章と読み、第2章を読みはじめているのですが、 凄い!の一言に尽きます。 ボツボツ考えながら、応用を夢想しながら、楽しく読んでいます。
870 :
名無しさん@社会人 :2006/02/09(木) 15:41:19
キリストの墓は戸来村にありますよ。
大事なのは墓じゃなくて教えが伝わっているかどうかだと思われ
ゼウス信仰だからザビエルの伝えたのはキリスト教ではない。証明おわり
873 :
ウルトラマンマックスウェーバー :2006/02/13(月) 14:55:45
ザビエルが伝えたのは「デウスの御大切」だよね
874 :
Z :2006/02/14(火) 21:13:06
これは、あくまで私の想像ですが、欧米の「法」の基礎は“ローマ法”ではないかと思う。 そのローマ法の背後には、かの希臘の幾何学(平面)〜判りきったことをきちんと証明す る幾何学の思想がある・・・と。(例・ピタゴラスの定理=三平方の定理の証明など) Mヴェーバーは、そこまで言っていないが・・・。
875 :
Z :2006/02/14(火) 21:16:55
↑古代(その原初の)ユダヤの法は、「目には目を、歯には歯を」であった。
山之内靖「マックス・ヴェーバー入門」のプロ倫を要約すれば、 「ネタにマジレス格好悪い。踊る偽善のほうがまだましす」みたく、こりゃVIPの発想だwwwwwうはwwwwwおkwwwwww と思った俺はどうしようもないな。こんなとこに書いても仕方ないけど。
山之内靖は実践には使えない。その点では、姜尚中の「マックス・ウェーバーと現代」はまだまし。
45万部のベストセラー『嫌韓流』の第2弾 『嫌韓流2』発売中 駄作か傑作かは、買って自分で確かめよう
879 :
名無しさん@社会人 :2006/02/26(日) 03:30:12
意味は実践に着手すれば自ずから判る。頭だけで判ろうとしても無理だから、心配は要りません。
以下にご紹介する国際的なポスト資本主義社会構築の実践に、是非ご参加下さい。
最近、私は「持続可能な社会発展」の分野で以下のようなことをごそごそ取り組んでいます。
ここから「より良い社会」が実現すると信じています。
しかし、そのためにはヴェーバーも山之内も姜も超えなければなりません。しんどいですね。
http://www.env.go.jp/press/press.php3?serial=6797 に以下のアナウンスがありました。
私は意見を申し上げましたが、皆さんも注目して下さい。
平成18年2月3日
わが国における「国連持続可能な開発のための教育の10年」実施計画案に対する意見の募集について
「国連持続可能な開発のための教育の10年」関係省庁連絡会議では、わが国における「国連持続可能な開発のための教育の10年」実施計画案に対する国民の皆様のご意見を募集いたします。
同実施計画案に対してご意見をお持ちの方は、平成18年2月23日(木)までに、電子メール、郵送、FAXのいずれかの方法によりご意見をお寄せ下さい。 1 趣旨
わが国の「国連持続可能な開発のための教育の10年」実施計画については、関係省庁の緊密な連携を図り、
総合的かつ効果的な施策の推進を図るため、昨年12月、関係省庁連絡会議を内閣に設置し、政府外の関係者(教育関係者・産業界・NPO・自治体等)との円卓会議等を通じ、
検討を行ってまいりました。
同実施計画案に対する国民の皆様のご意見を募集いたします。
2 意見募集の対象
わが国における「国連持続可能な開発のための教育の10年」実施計画案(別添)
3 参考資料(略)
4 意見提出締切日
2月23日(木)(消印有効)
今回は期限切れですが、次回は遅れないように、皆さんにお知らせします。
881 :
名無しさん@社会人 :2006/02/26(日) 14:51:36
牧野雅彦『マックス・ウェーバー入門』平凡社新書、はどうですか?
入門書じゃあねえ?
中葉は馬鹿だけど、まあ牧野さんのは読んでみないとね
私は読むよりも実践指向だから、姜尚中の著書をベースにして、日本の社会変革を試みています。
885 :
名無しさん@社会人 :2006/03/01(水) 18:40:33
西洋の勤労意識がプロテスタンティズムの倫理や予定説に由来するとして 日本の勤労意識はどこから発生したのですか?
一つではない。例えば: 二宮尊徳の報徳精神 梅田梅巖の石門心学 等々
梅田梅巖⇒石田梅巖
888 :
名無しさん@社会人 :2006/03/02(木) 16:28:08
>勤労意識 農工商の中では地道に田畑を耕す農が一番エライという幕府のプロパガンダじゃね? 町人は今のフリーターみたいにフラフラしてたらしいし。
889 :
名無しさん@社会人 :2006/03/03(金) 05:13:17
最近はにゅうさんって何してるんすか?
アレッ、いつの間にかベラーの話になったが、 ベラーが若い頃著わした「徳川時代の宗教」は面白い本だよ。 ハーバードでライシャワーやタルコット・パーソンズの指導を受けヴェーバーの 方法で徳川時代の宗教を研究し、浄土系宗教がプロテスタンティズムと似た影響力を日本に与え、 日本の資本主義化を支援したと言うんだ。 しかし、最後になって、丸山真男の批判などを受け、考えが揺らいだが、これからあとの研究は日本人の責任だと言っている。 不肖 私は、その課題と取り組んできたが力足りず、努力も足りず、未だにもたもたしている。省みて忸怩たるものがあるな。 後は、若い俊才に頼む。姜でも誰でも良い。Zさん、どうですか?
892 :
Z :2006/03/05(日) 23:58:37
↑ たしかに「浄土真宗」はキリスト教〜なかんずくプロテスタントに一番よく 似ている。理由は、以前このスレに書いた。 また、マルクス『資本論』第1部・第1章・第4節「商品の物神性とその秘密」 で、“資本家的生産に最も適した宗教はプロテスタントである…”と書いてある。 それも、このレスに書いておいた。 ベラーは浄土真宗と共に、石田梅巌の「心学」を挙げている。これは、マルクス風 に云えば「理神論」になるのであろう。 それから、もう一つ重要な事は、わが国はオクチデント(Occident西ヨーロッパ) 以外では唯一‘封建制度’を経験した国であること、之である。 マルク・ブロック『封建社会』(みすず書房刊)には、オクチデント以外では日本 しか出てこない。 (この本には、乃木大将の殉死が出てくる。ブロックは、これに強烈な印象を 受けたのだろう)
893 :
Z :2006/03/06(月) 00:09:44
上記追加 以前、NHKで『お江戸でござる』を毎週やっていました。その解説にマンガ家の 故杉浦日向子さんが出ていました。あれは日本経済史にも大いに参考になります。 惜しくも杉浦さんは早世されました。彼女の時代考証はしっかりしていました。 (余談になりますが、杉浦女史は、かの荒俣宏氏と結婚して半年で離婚された)
うわぁ、このスレすげえ勉強になる
イタリアやスペイン等のカトリックの国はメシうまいのに プロテスタントの国がまずいのは無駄を嫌うプロテスタンティズムの倫理と関係ありまつか?
896 :
Z :2006/03/10(金) 00:00:33
あるかもしれない。たぶん先入観かも。 オイディプス効果か? 『プロテスタンティズムの食味と菜食主義の精神』
韓国、中国、台湾、ロシアの資本主義の精神はあるのだろうか? 韓国なんかは、先進国の仲間入りしているから何かあるのかな 韓国は宗教的にはキリスト教徒が一番多いらしいが。
いや、問題は、第三ミレニアムにおける、
ポスト資本主義、ポスト・プロテスタンティズムがどうなるか、という課題だ。
その前に、いつも引用するジェッシカ・マシューズのシナリオを紹介しておこう。
彼女は、フォーリン・アフェアーズ日本語版 1997年3月号「パワーシフト グローバル市民社会の台頭」
http://www.foreignaffairsj.co.jp/archive/yoshi/1997_03.htm の最後の部分で主張している以下のように予想している。
“もはや「ウェストファリア・システム」の絶対性はすべて解体しつつある。
インターネットに象徴される高度情報化時代にある現在、おカネ、情報、汚染、大衆文化といった資源や脅威が重要性をましながら拡散し、「政治的な境界線には殆ど関係のない形」で人々の生活や経済を規定しているからだ。
新たな問題の多くがトランスナショナルな性格となり、国際コミュニティが何に対して関与するべきかという概念も広がりを見せているため、国家がもつ力では十分な対応がとれない状態にあり、
これを補完するかのようにNGOや市民団体が台頭し、多国間機構への関心も高まっている。
こうした中で、国民国家がそれ以外を支配するという体制は弱まり、NGOに一方的にバランスが偏った「パワー・シフト」が起きている。
多元化は市民社会の実現という意味で好ましい面もあるが、その逆に、民主的な統治を混乱や膠着に陥れる危険も秘めている。
しかし、中世における皇帝、王、君主、騎士、法王、大司教、ギルド、町は、帝国を包み込む世俗的な力をもとに生活していたわけで、
このシステムは、帝国崩壊後の階層的で厳格な国民国家秩序よりも、むしろ、市民団体、国際機構、国民国家という三次元のネットワークからなる現代により似通っていた。
しかし、この結果が吉と出るか凶と出るかは、これからの舵取りにかかっている。
ビジネス部門がより広範な政策上の役割を担いうるようになること、NGOがより視野を広くし、さらに大規模な活動を行えるような存在に変貌すること、国際機構が、国家にも市民にも効率的な社会サービスを提供する二重の舵取り役を担えるようになること、
とりわけ、今日におけるトランスナショナルな課題に対応でき、透明度の高い民主的な統治を求める市民の願いをともに満たすような新たな機構と政治単位が登場することが含まれよう。 ”
イスラム系は存在しないことになってるようだなw
なるほど!我ら仏教系とイスラム系とで連合軍を作ろうかな? 大川周明「復興亜細亜の諸問題」を繙き直すこととしよう! ヤア、出てくるわ出てくるわ!やはり日本人の先見の明は凄い!
次はもう少し新しい所で: 井筒俊彦:イスラーム文化 姜尚中:オリエンタリズムの彼方へ 池内恵:現代アラブの社会思想 終末論とイスラーム主義 辺りかな?
902 :
名無しさん@社会人 :2006/03/11(土) 02:28:53
五十嵐一を外すとはお前・・・・www
韓国はプロテスタントが一番多いからプロテスタンティズムの倫理や予定説から 由来する西洋の勤労意識に近い 日本より遥かに西洋に近い国民性である
韓国って、 儒教的精神がのこっていて、職業の貴賎がいまだ根強い国 なんじゃなかったっけ? 教授職がえらくて、サービス業がいやしいとか。 プロ倫で言うところのプロテスタント精神とは真逆ではないでしょうか。
906 :
名無しさん@社会人 :2006/03/11(土) 22:00:14
職業の貴賤のない国なんかあるのか?
職人の仕事に敬意を払い、後の物作り大国を形成する萌芽をもっていた 日本には、プロ倫でいうところのベルーフ=天職という概念があったのでは。 比して、小銭を貯めたら、物作り業をさっさと放棄して、上級職をめざそうと する伝統をもつ気風がプロテスタント精神と近似するとは思えないのですぞ。 かの国には○○一筋○十年という庶民の店はほとんど無いと聞くがいかがか。
>>907 なにもウェーバーはベルーフをものづくりに限定してないけど。あくまで商売全般を美徳としている
のであって。
ちなみに小室直樹は日本のものづくりなどに見られる職人精神はむかしからあるものでプロテスタ
ンティズムとは異なるといっていたね。
訂正:商売全般→禁欲をともなう商売
910 :
名無しさん@社会人 :2006/03/12(日) 14:58:07
>>905 それって東アジア圏すべてでしょ。大学教授がえらくてサービス業がいやしいっての
が残ってるのは。
世界中どこでもそうだよ。
912 :
名無しさん@社会人 :2006/03/13(月) 05:13:22
『儒教と道教』のどこらへんだよ
読むとき考えるよ。
914 :
名無しさん@社会人 :2006/03/16(木) 21:19:43
プロ倫は御用理論
言葉が浅いし、真剣味がないと感じるよ。どうしてかな?
916 :
名無しさん@社会人 :2006/03/18(土) 05:28:08
どれが?
言わぬが花。武士の情け!君子危うきに近寄らず。
>>917 はぁ、言わぬが花なら、最初からイヤミ書き込むなよ。
言いかけたんならはっきり言え。
言われなければ気がつかないのか? 言われても分からないのか? 分かっても直せないのか? いずれにしても、、、何とかにつける薬がほすい。
プロ倫が?
プロ倫だけでは先が見えない。
922 :
名無しさん@社会人 :2006/03/21(火) 01:46:39
923 :
名無しさん@社会人 :2006/03/21(火) 09:55:15
必要を感じたら、それに応じて探すんですね。 必要を感じなかったら、無理に読む必要はありません。 私の場合は、山之内靖や姜尚中が役に立ちました。
925 :
名無しさん@社会人 :2006/03/26(日) 10:32:36
姜や山之内がプロ倫を書いたかのようだね
そんな感じです。
927 :
名無しさん@社会人 :2006/04/04(火) 18:56:50
928 :
名無しさん@社会人 :2006/04/05(水) 20:28:03
偏狭でない日本人とは? そうだ! 橋川文三は「昭和ナショナリズムの諸相」「昭和維新試論」・・・等々で、 その種の日本人論を詳しく書いていたなあ!(詠嘆調で)
思いだした! サミュエル・ハンチントンも「文明の衝突と21世紀の日本」で日本のとるべき姿勢を提言している。 アメリカ人に教わるのは癪だが、日本人が考えることを知らないし、しないから、しょうがないね。 お互い、情けない国に生まれたものだ。この国辱にいつまで耐えられるのかな? 1さん、どう思いますか?
931 :
名無しさん@社会人 :2006/04/11(火) 13:39:17
え?戦後日本人が教わらなかった「こと」ってあるのか?
おーい。アホな俺が誤って社会学を学ぶ事になったんだが、書物がどいつもこいつも難解で理解出来ん。 理念型ってのが何なのか小学生でも理解して他者に説明出来るようになる紹介サイトとか無いかね?
ウェーバーはとりあえず小室直樹あたりを読んでダメだったらどうしようもない。
小室直樹は昔宗教の本だけ読んだけど。 どの著書にベーバー載ってるん?
935 :
Z :2006/04/21(金) 23:37:30
議論がまた、元に戻るようだが、[マルクス=ヴェーバー]→[ニーチェ=ヴェーバー] →[ヴェーバー=ハイデッガー]をしっかりと確認すれば、カルヴァンの“予定説”は 理解できる。 ‘世俗的思考’で予定説を論じても無意味。21世紀の日本人は‘世俗的思考’を 論理だと自惚れているから理解出来ないだけのこと。 予定説は、あくまで宗教的思考である。 それから、「ニヒリズム」とは何か?! を理解していない。 否定的な・悲観的なことを言うと、『あの人はニヒルな人だ…』といって、 お茶を濁す。 否定的な・悲観的なことをペチャクチャ言うのは、ニヒリズムでもなんでもない。 ただ、不平不満を言っているだけだ。堕落した世間的発想でしかない。 カルヴァンにしろ、親鸞にしろ、宗教上の発想である。 ハイデッガーで初めて、ヴェーバーが真に理解出来るのではなかろうか?!
936 :
Z :2006/04/21(金) 23:46:45
実存主義とニヒリズムは、楯の両面である。
そんなもん理解してもケツ拭きにもならんよ。時間の無駄無駄。
938 :
Z :2006/04/22(土) 00:38:48
ヤスパースはヴェーバーを実存的人間として捉えている。
939 :
Z :2006/04/22(土) 21:05:00
ハイデッガーはIn der Wert-sein(世界内存在)をいう。 ハイデッガーは、「人間は、この世界内存在から逃れられない」という。 宮台真司は、「終わりなき日常を生きろ」という。 どういう事かというと、「今の現実の世界では、何が真実で何が偽物か、 判らない…」のであると。 そのような世界=日常を、生きざるを得ない、という意味である。 それを、敢えて‘受け入れる’のがニヒリズムである。 それは、J.P.サルトルの実存主義に通じる。
940 :
平和市民 :2006/04/22(土) 22:01:34
すみません、この人の 「政治はその国の民度云々」という発言があるそうですが、 出典を教えて頂けませんでしょうか?
942 :
あきら :2006/04/24(月) 19:00:09
中葉さん。ご苦労様でした。頑張りましょう。宗教は実践ですかね。
943 :
名無しさん@社会人 :2006/04/29(土) 21:09:54
宗教は信だろうと思います。
945 :
あきら :2006/05/02(火) 10:32:48 BE:325001164-
失礼しました。
946 :
名無しさん@社会人 :2006/05/04(木) 22:42:05
柄谷もウェーバーを引用してたな。
マックス・ウェーバーの劣化コピー=大塚久雄 大塚久雄の劣化コピー=小室直樹 小室直樹の劣化コピー=副島隆彦 しかし後ろの方に行くと、単なる劣化コピーではなくて 何か変なモノが混じってきているようなw
948 :
Z :2006/05/06(土) 15:31:04
最近、柄谷は「オカネと商品」の循環(Kマルクス)と、 「略奪と物質」の循環を、同列に置こうとしているのではないか? イスラムにおける略奪(中世:中央アジアにおける)は、循環的略奪 ではある。それは、徹底的な略奪ではない。いわば、‘摘み草’であろう。 中高年の登山者が山で山菜を取るのは、根っこから採ってしまうので、翌年 から再生しない。ところが中高年登山者は、それを自慢たらしく言いふらす。 柄谷の‘略奪論’は、イスラム的であろう。 それにしてもイスラムには、ローマ法の理念が欠けている。 柄谷は、それを知っているのだろうか?
949 :
Z :2006/05/06(土) 17:57:11
↑上記で、「登山者が」とあるが、「登山者の中には」と訂正。 スマン
マックス・ウェーバーがいるのならミニマム・ウェーバーもいるのではないか?
951 :
Z :2006/05/07(日) 11:46:17
アホか! わが国で言えば、 織部 大 という姓名は有っても、 織部 小 というのは無い。
952 :
名無しさん@社会人 :2006/05/08(月) 22:03:28
なんで?
953 :
名無しさん@社会人 :2006/05/09(火) 15:03:07
>>947 それ大塚が喜んで受け入れそうなレッテルww
死者を誉めるなよ(当時は)
954 :
名無しさん@社会人 :2006/05/14(日) 02:42:50
昔、折原先生による「プロ倫」の講義、聞いたなあ。 ろくに理解できなかったのにAを貰ったのは、 退官前の最後の年度の講義だったからかなw
955 :
名無しさん@社会人 :2006/05/16(火) 20:54:29
>>947 昔は自称デュルケム自称ストロースとかたくさんいたもんだよ。
今の若いヤツの教養とは比較にならんかったというのもあるが
だから?
957 :
名無しさん@社会人 :2006/05/20(土) 15:51:06
947のネタは60年代ネタだということ。つまり947は高齢者
947が高齢者かどうかはわからないが、 >957が高齢者であることはたしかみたいだ。 でも50年代生まれの副島が登場するネタが 何で60年代ネタなんだろう。
私も相当な高齢者だが、私より上なんだろうか?
>小室直樹の劣化コピー=副島隆彦 これって副島が自分でネタにしてるの?
961 :
Z :2006/05/30(火) 21:05:56
今、60〜70台のヴェーバリアンは、ほとんどといってよいぐらい青山秀夫著 『マックス・ウェーバー』(岩波新書=青版)からだろう。1950年代である。 その頃、カール・レヴィッド著『ウェーバーとマルクス』が一世を風靡した。 (人間の自己疎外Vs合理化・市民的資本主義) 30年ほど前からわが国で、「ニーチェVsヴェーバー」が言われだした。 その代表が山之内 靖(『マックス・ヴェーバー入門』岩波新書=赤版)である。 (戦士集団Vs祭司集団) 昨年、雑誌『未来』(未来社PR誌)で、「ヴェーバーVsハイデッガー」が言われ始めた。 ここに、感極まれりである。 (勿論、ヴェーバーはハイデッガーを知らない) 「カルヴァンの予定説」が理解できなければ(その賛否にかかわらず)、『プロ倫』を 読んでも無意味。 その糸口がハイデッガーであるから。
962 :
Z :2006/05/30(火) 21:10:00
ハイデッガーの“In Der Welt Sein(世界内存在)”
963 :
Z :2006/06/01(木) 21:17:53
岩波のPR誌『図書』6月号に徳永恂 氏が書いています。 第一次大戦終結後、ヴェーバーは八面六臂の活躍でした。死期を前にして、 全著作の大改定は不可能でした。 彼は、 「小さな物語」の改定はしたものの、 「大きな物語」の大改定は出来なかった。 それをするのは、後に続く読者〜ヴェーバリアンの任務である…と。 最早、解釈学の時代でなく、自己の責任において、ヴェーバーの‘再構築’を すべき。
964 :
Z :2006/06/01(木) 21:35:33
ここでいう「小さな物語」・「大きな物語」とは、 「小さな物語」=近代資本主義成立の経済史 「大きな物語」=普遍史〜シュペングラーの『西洋の没落』のような (ヴェーバーは、シュペングラーに反対だったからこそ、普遍史を求めた)
965 :
名無しさん@社会人 :2006/06/04(日) 20:56:52
ハイデッガーはどこでカルヴァンについて言及してるの? まさか初期とかじゃないよね
966 :
Z :2006/06/05(月) 00:53:04
ハイデッガーはカソリックだから、カルヴァンにつてはノー・タッチです。
株でマネーゲームしてるようなのは、労働自体が救済と考えてる プロテスタントたちから見てどうなんだろう?
968 :
名無しさん@社会人 :2006/06/06(火) 18:29:38
>>967 たぶん映画『ウォール街』がそのヒントになりそう
969 :
Z :2006/06/09(金) 22:30:09
Mヴェーバーは第一次大戦中、ヴィルヘルム二世を攻撃したが、 最終的は「立憲君主制度」に賛成であった。 それについて、詳細な論考は残していない。 無理もないことだと思う。
971 :
名無しさん@社会人 :2006/06/17(土) 04:34:03
972 :
Z :2006/06/17(土) 21:59:20
973 :
名無しさん@社会人 :2006/06/19(月) 12:21:16
ハイデガーがカルヴァンについてノータッチであるからこそ 「カルヴァンの予定説」の糸口はハイデガーにある ってこと?
974 :
Z :2006/06/19(月) 23:04:15
ハイデガーは、カルヴァンについてノータッチである “け れ ど も、” 「カルヴァンの予定説」の“解明”の糸口は、 ハイデガーの“哲学=実存主義・ニヒリズム”にある… と、いう事です。
975 :
名無しさん@社会人 :2006/06/21(水) 00:41:08
一応わかりました。納得はできないけれども・・
976 :
名無しさん@社会人 :2006/07/07(金) 14:43:32
はい
977 :
名無しさん@社会人 :2006/07/17(月) 15:04:07
お尋ねしたいんですが。 マックスウェーバーの近代化論、資本主義成立論について説明をしていただけませんか?
978 :
Z :2006/07/18(火) 22:11:20
Mヴェーバーの最終最大のテーマは、なぜ資本主義が西ヨーロッパ(Occident)で生まれたか?! であった。“自由な労働の、合理的な組織をともなった市民的経営産業資本主義”(Vorbemerkung) [Mヴェーバー『宗教社会学論選』大塚・生松訳の中の‘序言’] しかし、ヴェーバーは、どう〜こうして近代資本主義が生まれてか、については言っていない。 当然の事だ。そんなものいえるはずがない。(彼はゾムバルトの様に、経済史家ではない) そこで大塚久雄氏はマルクスの『資本論』を基盤にして、資本主義発生論を展開した為、「生産のみが価値を生む」という事に コダワリ過ぎた。 今では生産・流通・金融の境界はなくなった。情報やコンピュータはどこに属するのか? ‘生産価値論’は崩壊した。“創造〜ポイエーシス”はどこに属するのか? 〜生産・流通・金融(それに情報)の全てに属する。 資本主義はプロテスタンティズムより古い。(近代)資本主義の精神はプロテスタンティズム の倫理から生まれたのではない。ただ、類似関係があると云うこと。 『プロ倫』を読めば、次はゾムバルトの『ブルジョア』(中央公論社刊)を読め。
979 :
Z :2006/07/18(火) 22:23:30
↑つづき まして、マルクスは経済史家〜学者ではない。 マルクスは史的唯物論(唯物弁証法)で全てが解決できると思っていた。 彼のエピゴーネンは、現実を史的唯物論をはめ込んだ。 即ち、足に靴を合わせるのでなく、「靴に足を合わせた」。 ギリシャ神話にある、人にベッドを合わせるのでなく、ベッドに人を合わせる・・・
980 :
Z :2006/07/20(木) 00:58:09
キンドルバーガー『経済大国興亡史』上下2巻岩波書店2002年刊が参考になる。
981 :
名無しさん@社会人 :2006/07/20(木) 14:09:26
日本の公務員制度とウェーバーの官僚制論ってどう関係してるんだ?
>(近代)資本主義の精神はプロテスタンティズム の倫理から生まれたのではない。 へー。そうなんだ
983 :
名無しさん@社会人 :2006/07/20(木) 16:16:26
デュルケームの方が偉大だ!
984 :
Z :2006/07/20(木) 21:27:31
>>982 影響は受けたとしても、生まれたのではない。 マルクスは資本家的生産(Kapitalistsche Prodaction)にとっては、 プロテスタントが最も適していると言っている。
985 :
名無しさん@社会人 :2006/07/20(木) 21:37:08
もう>>999が近づいた だれか新スレを!
どう〜こうして近代資本主義が生まれてか、については まだ誰も解明してないということかな
987 :
Z :
2006/07/21(金) 09:36:55 ここでの「生まれえる」というコトバの意味は、 胎児を孕んだ女性が、臨月で赤子を出産すると云うのと 全く違う。 誤解しないように。 近代資本主義の「近代」というコトバは日本独特のもの。 “封建制から(近代)資本制へ”なんて、欧米では言わない。 日本人は「近代」というコトバに捕らわれ過ぎ。近代が好きなんだなァ。 日本も、もうそんな時代ではない筈だがなァ。 (ヴェーバーのいう「近代的(Moderne)」とは別。