!太陽って無くなると人類は無くなるのか?!

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24、ニネヴェ定数

ニネヴェ定数

1852年
こうして大英博物館に持ち込まれた粘土板の中に、途方もなく巨大ないくつかの数字の記
されたものがあった――あるものは、何と桁数にして15桁、195兆9552億という数字だ
った。この数字はそれ以来、「ニネヴェ定数」と名づけられて久しく謎とされてきたが、これ
に興味を抱いたのが、アポロ計画にも参加した航空エンジニアのモーリス・シャトランだった。
 1963年、シャトランはマヤの暦がヨーロッパのそれを凌ぐほど精密であったことを知り、マヤの高度な
数字とニネヴェの巨大数には何か関係があるのではないかと考えた。すぐに彼は、ニネヴェ定数
は見かけほど面妖でない事に気がついた。60の7乗×70という簡単な数で表すことが
できるのだ。
このような巨大な数と高度な数字を用いて、古代人は何をしていたのだろうか?アッシリアの文
明は、バビロニアを経由してシュメールまで遡るものだ。シュメールは極めて高度な天文学を有していた。
彼らは、金星や火星、木星と言った近い惑星のみならず、天王星や冥王星の公転周期まで
知っていたのだ。また、1日を24時間に分け、さらに分や秒と言う単位を作り出したの
も彼らである。
 試みに、シャトランはニネヴェ定数を秒に置き換えてみた。するとこれは22億6800万日、
すなわち600万年以上に当たる。そしてこの数値は、春分点歳差に基づく「大年」とい
う単位に直すと、240大年にピタリと一致していたのである。
 次にシャトランは、ニネヴェ定数とは占星学者やオカルティストの言う「太陽系の大定数」なのではない
かと考えた。「太陽系の大定数」というのは、太陽系のすべての天体(月を含む)の公転周
期の公倍数である。
 NASAのコンピューターを用いて各惑星の周期を秒単位で計算してみると果たせるかな、そ
のすべてがニネヴェ定数の約数であることが判明した。すなわち、古代シュメール人は太陽系に関
して、少なくともアイザックニュートンに匹敵する知識を持っていた、ということになるのだ。
25、ニネヴェ定数 :2008/06/29(日) 22:56:02 ID:K+xZZxOD

もしもシャトランが正しいなら、これはわれわれの仮説にとって、このうえなく強力な証拠と
なる。シュメール人が5000年以上も前にニネヴェ定数を知っていたのなら、科学の起源は現在
の常識よりも遥かに古いということになるのだ。
シャトランはさらに、ニネヴェ定数と、現代のセシウム時計が示す太陽年の数値のズレに気づいた-―そ
れは小数点以下第6位、1年当たり2000万分の1日という、わずかなものに過ぎなか
ったが-―ズレはズレだ。だが、すの謎はすぐに解決した。地球の好転速度が年々落ちている
ために、公転周期は毎年1600万分の一秒ずつ短くなっているのである。つまり、ニネヴェ
定数は、6万4800年前の精密な公転周期を示していたのだ――6万4800年前とい
えば、ちょうどクロマニオン人がヨーロッパに出現し始めたとされているころである。
シャトラン自身は古代宇宙人説を唱えており、この点に関してはなんともいえないのだが、こ
とニネヴェ定数に関する限り、彼の推論に穴を見出すことは困難である。そしてシャトランが正し
いなら、われわれの遠い祖先は、我々が想像するよりも遥かに洗練されていた知識を持っ
ていたということになるのだ。シャトランがはじめてマヤの巨大数のことを聞いたとき、彼はその
意味を正しく理解することができなかった。だが数年後、彼は、かつてマヤ文化の中心であ
ったグアテマラのクィリガの石碑に書かれた2つの巨大数に、重大な意味を見出した。そのひとつ
は9300万年、もうひとつは4億300万年を意味する数字だった。
彼はこれらの数値をニネヴァ定数で割ってみた――驚くべきことに、9300万年とはニネヴ
ェ定数のちょうど15倍、4億300万年とは65倍に当たっていた。
26ミジンコ:2008/06/29(日) 22:59:10 ID:K+xZZxOD
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1206868737/91
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1206868737/89

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27ミジンコ:2008/07/03(木) 19:05:03 ID:NB2iJZv3
これらの数値の持つ意味について考えてみよう。マヤは紀元前1000ごろに遡るといわれ
ている。マヤの知識はオルメカから受け継いだとされるが、オルメカといえば巨石人頭像で有名であ
る。これは、アフリカ人に似ているが、権威者の中には、これを中国人と考える人々もいる―
―「アジア伝播説」を裏付ける説だ。だがこのオルメカ人も、紀元前4000年以前といわれる
シュメール人とは、やはり年代がずれている。いったい、両者が接触下などということがありう
るのか?

 シュメール人の起源は、いまもおようとして不明である。スティーブン・オッペンハイマーによれば、彼等
の多くは紀元前6000年の大洪水によって「スンダランド」を追われ、インダス渓谷に住み着き、
それからエジプト、シュメールへと移動してきたという。「アトランティスからスフィンクスへ」の中で、私はヴ
ェーダの聖歌の一つが、紀元前6000年を示している、と指摘した。

 1980年代、ヴェーダ学者のディヴィッド・フローリーは、「リグ・ヴェーダ」の聖歌が海のイメージに
満ちていることを指摘した。このことは、彼等の出身が海洋文明にあることを示唆してい
ると思われる―-これは、アーリア人の源郷を中央ヨーロッパのどこかに求める定説とは完全に
矛盾する。彼はまた、聖歌の中で歌われる「祖先」が、大洪水を生き延びて海を越えてや
ってきたとされていることを指摘している。

フローリは、ヴェーダの聖歌の中にある天文学への言及を研究し、「おとめ座の夏至」が紀元前4000
年、「てんびん座の夏至」が紀元前6000年を指していると結論した。彼はまた、ヴェーダの
作者たちが歳差運動のことをよくしっていたとしてきしている。

28ミジンコ:2008/07/03(木) 19:43:57 ID:NB2iJZv3
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%80 リグ・ヴェーダ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%80 ヴェーダ

ゲオルゲ・サンティラナとヘルタ・フォン・デヒェントの「ハムレットの水車」によれば、太古のすべての神話の根
元に、「星星を挽く水車」(場合によっては入会の攪拌<かくはん>)という要素がある。
この水車は、春分天才差を意味している。現在、太陽は春分の日にうお座から昇るので、
これを「うお座の時代」と呼ぶ。だが、西暦2600年にはみずがめ座から昇るようになる。
「みずがめ座の時代」である。一般の占星学では、うお座はみずがめ座の後に来るが、春
分点歳差においてはこれが逆行するのである。春分点が一星座ズレるには2160年係り、黄
道を一周するには2万5920年を要する。そして「ハムレットの水車」によれば、イヌイット、アイスラン
ド人、北欧人、アメリカ先住民、フィン人、ハワイ人、日本人、中国人、ペルシア人、ローマ人、古代ギリシア
人、古代ヒンドゥー人、古代エジプト人などは、いずれも春分点歳差の運行のすべてに通じてい
たという。古代人は、歳差運動の原因が地軸の摂動にあることを知らなかったので、この
現象を神の摂理と考え、それぞれの時代の終わりに破局が到来すると信じていた。

ジョン・ラッシュによれば、デンデラのハトホル神殿の天上にある黄道12宮図(紀元前100年ごる)
は、古代人が春分点歳差を認識していたことを示す証拠のひとつだという。これは実に魅
力的な12宮図で、私は、1980年に上梓した拙著「スターシーカーズ」で始めてこの図に触れ
た。シュヴァレ・ド・リュビチュの「聖なる科学」では、これは古代エジプト人が「おうし座の時
代」(6000年以上前)に春分点歳差を知っていたことを示していると指摘されている。
この図では、2種類の12宮図が重ねあわされて表現されているのだ。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B3%E5%B7%AE 差異差

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E5%88%86%E7%82%B9 春分点

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E9%81%93 黄道

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E9%81%93%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%AE%AE 黄道12宮
29:2008/07/03(木) 19:52:03 ID:NB2iJZv3
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/ruins/1139061564/49-53  デンデラ神殿とオリシスの墓、、、、、

通常、黄道12宮頭には2本の軸がある。南北の軸と東西の軸だ。そこで、このデンデラの2
重の宮図には、4本の軸があることになる。シュヴァレはこれをそれぞれA、B、C、Dと呼ん
でいる。さらにジョン・ラッシュは、そのほかに第5の軸Eを見出した。このE軸が、われわれ
の時代を指し示しているという。

 私の求めに応じて、ジョン・ラッシュは自説を次のように説明してくれた。
 デンデラ黄道12宮図の東西軸は、白羊宮を通過しているが、これは大体紀元前700年ごろで
ある。現存するデンデラの神殿はアウグストゥス(紀元前30年から紀元前14年)の頃に建てなお
されたもので、その原型は遥か以前に建てられたものだ。フランスの考古学者オーギュスト・マリエット
によれば、この神殿の基盤は通常よりも深く埋められていると言う。ルクソールやカルナックなどの
神殿が地面のすぐ上に建てられているのに、デンデラの基盤は地下20フィートまで沈んでいる
のだ!そして紀元前700年は、白羊宮時代のまん中ごろに当たっている。

 デンデラ神殿は、もともと白羊宮の方向を基準に建てたのだろうか?いずれにせよ、白羊宮
から双魚宮への移行の時期に当たる紀元前120年には、デンデラ神殿は依然として改装中で
あった。

 この黄道12宮図には、二つの極がある。ひとつはこぐま座、もうひとつは竜座だ。この
二つの極の意味は、言うまでもなく、地軸の傾きにある。天の北極は現在もなおこぐま座
にあるが、デンデラの図とは若干ズレている。これは地軸の摂動現象によるもので、これによ
って2万5920年周期の歳差運動が作り出される。デンデラの12宮図に二つの極が描かれて
いるのは、古代エジプト人がこの歳差運動を知っていたことを示している。

 歳差運動は、紀元前134年ごろにギリシアの天文学者ヒッパルコスが発見したことになっている。
シュヴァレ・ド・リュビチュによれば、12宮図の外側に描かれた二つのヒエログリフを繋ぐ直線は双魚
宮と金牛宮の間を通過しており、これは紀元前4000年ごろの歳差の位置を示している。
30:2008/07/03(木) 20:01:29 ID:NB2iJZv3
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%A8%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%95 ヒエログリフ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9 シリウス
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%94%E3%82%AB スピカ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%99%BD%E7%B3%BB 太陽系
 さて、四季に配分された黄道12宮図は何であれ、当然ながら直行する2本の軸を持つ。分
の軸(東西)と至の軸(南北)だ。当然、これはデンデラの12宮にも当てはまる。白羊宮
を通過する軸Aの東端は、恐らく神殿の改装が開始された紀元前700年ごろを示してい
る。そしてこの図には、さらに2本の軸、CとDが明瞭に書き込まれている。

この図全体を仔細に研究した私は、ここに第5の軸を見出した。この軸は、イシスと同一視さ
れる処女宮によって示されている。このデンデラの12宮図は、それらの軸によって、正確
に歳差の時期を指している――つまり、一種の星時計なのだ。だが、この図ではっきり識
別できる星はたった二つ、シリウスとスピカだけである。

デンデラ神殿が改装された当時、処女宮のスピカは占星学者にとって特別の意味を持っていた。
紀元前600年以降、ギリシアとエジプトの占星学者の間には密接な交流があり、ギリシアのヒッパル
コスが歳差運動を発見するきっかけとなった星もこのスピカであった。そんなわけで、デンデラ
のスピカが強調されていることには特別の注意を払う必要がある。

この第5軸(E)には、偶然とは思えない3つの特徴がある。第1に、この軸が天頂に達
すると、4つの羊の頭の乗った祭壇を2分する。第二に、軸Eは双魚宮の尾と交わるが、
これは、今日の春分点に一致している。第3に、軸Eは処女宮の足下、獅子宮の尾に伸び
ており、これは紀元前1万500年の春分点である。つまり軸Eは、ひとつの周期の終わ
りと次の周期の始まりの時をさしているのだ。
31:2008/07/03(木) 20:02:32 ID:NB2iJZv3

つまりラッシュによれば、歳差運動はデンデラ神殿が改装される何千年も前から知られていた、
というのである。そして、もしシャトランの言うことが正しいとすれば、シュメール人もマヤ人も歳差
運動の周期を正確に知っていたと言うことになる(ニネヴェ定数はこの周期のきっかり240
倍に等しい)。マヤのクイリガで発見された二つの巨大数は、ニネヴェ定数の倍数でもあるのだ。


マヤの天文知識に関しては、ピーター・トムキンズが次のように述べている。

マヤ周期である94万2890日、すなわち2582年は、土星と木星の合周期の130倍、
海王星・天王星の合周期の15倍、木星・火星の合周期の1万555倍、火星・金星の合
周期の2284倍、金星・水星の合周期の6522倍、土星・火星の合周期の2720倍
である。この数を2倍した5163ねんは、土星・木星の合周期の260倍で、これはマヤ
の第2の暦の日の数と等しい。

さらにトムキンズによれば、古代エジプト、シュメール、テオティワカン、パレンケでは、地球の円周を基準とし
共通の単位が用いられていたと言う。それどころかシャトランは、「マヤ人は歳差運動のみならず、
天王星や海王星の存在も知っていた」とまで述べているのだ。

一体彼らは、西欧の文学者よりも何千年も前に、望遠鏡も使わず、どうやってそれらを発
見したのだろうか。

彼らはそれぞれの惑星の公転周期や合の周期を計算し、いくつかの等しい天文周期を発見
した。たとえば、金星の公転周期の65倍は104太陽年に等しく、かつ水星の公転周期
の327倍に等しい。彼らはまた、3万3968日の周期を用いて蝕を予想していた。こ
の周期は月歳差周期の5倍、93太陽年、196蝕、150太陰月に当たっている。また
マヤ人は、188万6040年の周期も知っており、これは木星と土星の合周期の260倍、
火星と木星の合周期の2310倍、地球と火星の合周期の2418倍、地球と金星の合周
期3230倍である。
32:2008/07/03(木) 20:03:55 ID:NB2iJZv3

マヤ専門家シルヴァヌス・グリスヲルド・モーレーは言う。

マヤ人はまた、0を発見するとともに、高度な位置天文学、暦、時間の計算術を持っていた。
彼らの天文知識は、古代エジプト人やバビロニア人のそれをも凌ぐものであった――にもかか
わらず、『彼らの文化的限界は、旧大陸における石器時代初期の水準と同等だった。』この
ことからして、われわれは彼らを、地球上で最も才気横溢たる原住民と呼ばねばならない。

『』内の記述は極めて重要である。グラム・ハンコックの『神々の指紋』によれば、マヤ人は高度な
天球図を作成していたにもかかわらず、実生活では車輪を知らなかったと言う。何百万と
言う数を操っていたにもかかわらず、一袋の穀物の重さも計る術を持たなかった。ハンコックに
よれば、その考えは単純だ――彼らはその天文知識どこか別のところ――すなわち、より
古い文明から受け継いだのだ。

だが実際には、マヤ人は車輪を知っていた。1940年代に、手足に4つの車輪をつけた犬
の玩具が発見されているのだ。これを発見したゴードン・エルコムは、これが同時期(およそ2
000年前)の中国の玩具に類似していることを指摘した。つまりマヤ人は、玩具には車輪
を用いていながら、これを乗り物に用いると言う考えには思い至らなかったらしいのだ。
あれほど複雑高度な暦の体系を用いていた民族が、である。シャトランは言う――。

マヤ人が何千年も前に独力で1474億2000日、などという日数計算を行っていたなど
と言うことは、われわれの想像を超えている。だが同じ数字を65分の1にして、日では
なく秒で表したものを、地球の反対側に居たシュメール人が用いていたのだ。『この事実は、マヤ
人とシュメール人が直接交流を持っていたか、あるいは共通の情報源を持っていたとしか考えら
れない。
33:2008/07/03(木) 20:07:40 ID:NB2iJZv3
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1206868737/6-19

シュメール人はマヤ人よりも3000年も前に栄えたのであるから、「直接的交流」などあるはず
がない。つまり、両者は共通の情報源を持っていたのである。何千年にもわたる天の運行
を計算していた、古代の海洋文明と言う情報源を。

シャトランはフォン・デニケンと同様、彼らにこの知識を授けたのは太古に地球を訪れた宇宙人だと考
えている。だが、あえて宇宙人などを持ち出さなくても、高度な海洋文明の方がよほどあ
りうる話だろう。何しろ海洋文明であるからには、航海のために高度な天文知識は不可欠
なのだから。

1997年、ブローレス島(ジャワ島及びバリ島の東)の古代湖マタ・メンゲの湖底から、いくつかの
石器が発見された。その地層は80万年以上前のもので、すなわちホモ・エレクトゥスの時代だっ
た。このボローレス島は比較的小さな島で、古代人が発生し場所とは考えられない。古代人の

発生と言えば、近くにある遥かに大きな島であるジャワ島はジャワ原人の故郷だが、彼らはわ
れわれの最古の祖先、ホモ・エレクトゥスに属している。

ジャワ島からブローレス島にたどり着くには、この原始人たちは島から島へ、10マイル以上(約
16キロ)も航海したに違いない。さらに、かなり大きな集団で海を渡るという事実を成
し遂げたと言うことは、彼らは何らかの言語能力を持っていたと考えられる。

私はかつて、「世界犯罪史」(1983)という本を書いたが、この本の中で、1929年
の北京郊外の周口店での発見を論じている。それは14個に上るホモ・エレクトゥスの頭蓋骨で、
まるで脳みそをすくい取られたかのように、底面が切り取られていた。この北京原人は、
人食いだったのである。なぜなら彼らは、他の北京原人によって殺され(そして焼かれ食
われ)ていたからだ。およそ50万年に。
34:2008/07/03(木) 20:11:03 ID:NB2iJZv3
人食いという行為の目的が、純然たる栄養摂取に過ぎないことはめったにない。近年にお
いてすら、それはほとんどの場合、儀式的な意味合いを帯びている。敵を殺し、その肉を
食うことによって、その力や生命力を自分のものにできると言う信仰だ。北京原人は、何
もわざわざ同類を食わなくても、食い物は豊富にあった。よって、もしもその人食いが儀
式的なものであったのなら、彼らは何らかの言語を持っていたに違いない。言語のない儀
式など考えられないからである。

ホモエレクトゥスはわれわれの最古の祖先であり、46時中立って歩いていた最初の生物だ。脳
への血液供給のために心臓の機能は発達し、そのために脳は巨大化して知性が芽生えた。
その脳にもともと「言語基盤」が存在したと考えるのは理に適っている。

このことは、ブローレス島のホモ・エレクトゥスを考察する上で重要だ。知能の発達したチンパンジーでさ
え、筏を作って航海する事はできない。それは彼らに言語によるコミュニケーションが出来ないから
だ。つまり、いくら高度な知能であっても、彼らの脳には「言語基盤」がないのである。

ブローレス島のホモ・エレクトゥスは、何ゆえにジャワからブローレスを目指したのか?それはあらゆる生物
の基本的な欲求――縄張りだろう。生存競争が過酷になれば、家族を連れて他の場所へ移
動したくなるのは当然だ。

サイエンスライターのジョン・マクローンによれば、ホモ・エレクトゥスは160万年も前から火を使っていたと言
う。1970年代には、火の使用はたかだか4万年前に過ぎないと考えていたが、70年
代と80年代に、ケニアのクービ・フォラやチョソワニアで、ホモ・エレクトゥスによる焚き火の跡が発見された。
1999年、ミズーリ・コロンビア大学のラルフ・ローレットは、この焚き火跡から見つかったレンズ状の物
体が、野火ではなく焚き火によって作られたことを証明した。そして彼の同僚のランディー・
ベロモは、地磁気の研究を応用し、これらの焚き火場が多年にわたって用いられていたこと
を明らかにした。

ラトガーズ大学のブライアン・ルドウィッグも、4万個に上る石器を分析した結果、その中に160万
年前に作られたものがあるのを確認した。