大谷の刑法は矛盾がある
原因において自由な行為、未遂犯等で
専断的治療行為もTB阻却説で果たしていいのでしょうか?
あいつは息子に知り合いの試験委員から入手した問題をリークしてたとの噂
>3
いいかげんなこというなよおまえ。
構成要件論で構成要件が先にくるだろう
なぜ原因において自由な行為だけ平野説に乗り換える?
被害者の同意があることを行為者が知らずに犯行に及んで未遂だった場合、
大谷説ではどうなるんだ?
どうでもいいが物騒な名前のスレだ・・・
あいつは頭狂ってるンだよ
大谷派よ、
理性的に反駁せよ
俺は許さんぞ
頭狂ってるって、大谷がだぞ。9です。
被害者の同意があることを行為者が知らずに犯行に及んで未遂だった場合、
大谷説ではどうなるんだ?
犯行ってのは、同意殺or殺人罪だね?
大谷がなに書いてるかはしらんけど、殺人未遂なんじゃないの?
理論的には中山説が優れてると思うんだが。
最初に岩魚か炊けど、共犯論では大谷説は無茶苦茶だし。
最初に言わなかったが中山説や団藤説で惹起説はないだろう。
あれでも司法試験委員になれるとしたら司法試験も無茶苦茶だ。
>>7
源氏だけ乗り換えたっていいじゃん。あふぉなんだし。
それより、なんで源氏だけ乗り換えちゃだめなのか、それを言え。
>12
そうはならんぞ。
通常、被害者の同意は傷害罪の話だ(最初に言わなかったけど許してね)。
大谷説では、被害者の同意があるから違法性を阻却するのか、
行為無価値がのこるので未遂になるのかよく分からん。
平野説は、この部分移管しては、行為無価値に移行してるから問題はないけど。
仮にも大学教授である以上、こんな単純な話も分からんはずはないとおもうんだが。
同意あるから、違法性を阻却するんじゃないの?
普通に。
行為無価値がのこるので未遂になるのではないとオモワレ。
平野説では未遂罪だが、大谷説ではどうなるか、という話だ。
大谷は各論で死体にピストルを打ち込んだら殺人未遂といってるから未遂罪だろう。
そうすると総論で未遂罪で前田説と結論を同じくるのは意味不明ではないか、ということ。
中山派!
しっかり!
意味不明ぞ!
受験生を名乗るのならもうちょっと勉強してくれよ
スマソ
〜〜説〜〜説と羅列されてもわがんね。
せめて、理論を書いてくれ。
そんな気ないな?寝よ。
なんか矢ふーに、似たスレあったね。
中山派・・・逃げおったか。
どうせ試験では少数説だよ
プンプン
ただ、俺の周囲の東大の3、4年での最短合格者は
前田と並んで愛用している奴は多かったよ。
特殊な例ともいえるけどね。
前田と大谷でシェア8割くらいだから、特殊な例ってわけでもない
でしょ。みんなどっちか使ってる。
これからは書研刑法の時代
同意傷害の場合は保護法益がないから違法性が阻却される。
保護法益がない以上、行為者が同意の有無を知らなくても違法性阻却で犯罪不成立。
未遂でも同じ。
同意殺人の場合は同意の存在を知らなければ抽象的事実の錯誤で同意殺人罪が成立。
よって同意殺人未遂罪。
>>30もうちょい教えて!
事例:行為者が同意の存在を知らずにころしたんだよね。
でも、客観的には同意があった。
主観は殺人罪で、客観は同意殺人なわけですね?
で、軽い方の同意殺人が成立する・・・。
なんで、未遂になるの?
ちなみに、客観的に同意殺人罪というためには、一般人の目からみて同意殺人の実行行為といえなければダメですよね?
やっぱり大塚+大谷の合わせ技で行こう…
前田よりはましだよ。
大谷でも前田でも、おかしい部分なんて多少あるもんでしょ。
前田だったら、偶然防衛とか。
どっちもどっち。
>31
30は12の話を受けて書いてるから、未遂になってるだけだよ。
37 :
大谷マンセー:01/11/12 02:08
ということで。
∧∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(,,゚Д゚) < 大谷先生、まともな批判がありません!
〜(___ノ \______________
∧_∧
(゚ー゚*) あふぉばっかだな
トン!> ┣⊂⊂ |
| ̄ ̄ ̄ ̄
大谷と団藤(判例)の組み合わせが最強。
>>39 禿同
所詮、受験生で大谷説を批判できるレベルの人なんかいないのかね。
いない。
素人にはおすすめできない。
とりあえず改説し過ぎじゃない?
まあ大谷一本で操たてなくてもいいんだろうが
この前は酔っ払っていたので今日はまじめに書く
大谷説では、原因において自由な行為をでは因果関係さえあればいいとか言ってるが、
団藤的な構成要件論を採用しているなら、因果関係さえあればいいとは言えない。
原因行為は実行行為ではないので、因果関係が問題になる前に入り口のところで排除される。
いくら構成要件該当性を形式的に判断するといっても飲酒行為を実行行為とは言わないだろう。
このため団藤は間接性犯類似というなにやらわけのわからない構成を採らざるを得なかった。
しかし、行為を独立させ、行為と結果の因果関係を構成要件の前に論ずるとすれば、
原因行為と犯罪結果の因果関係だけは認めることができる(佐伯説、中山説)。
構成要件該当行為を開始した時点では責任能力がないとしても、
責任能力は実行行為のときになければならないなどとやかましいことを言わなければ問題ない。
行為を構成要件から分離させなければ因果関係があればいいとは言えないのに、
何を勘違いしたか、大谷がそのようなことを言ってるのはおかしい。
被害者の同意があることを知らずに被害者を傷害した場合には、
大谷は被害者の同意によって保護法益がなくなるので未遂にもならないと言ってるが、
通説の具体的危険説なら、未遂にならないとおかしい。
団藤・大塚説では、行為者が被害者の同意を知っていることを要件としているので
その場合、被害者の同意は成立しないから、単に既遂犯になるだけだ。
平野説では、行為者が被害者の同意を知っていることを要件としないが、
その場合、具体的危険説の立場から未遂罪の成立を認めるのでまだ話は分かる。
大谷は未遂罪にもならないと言ってるが、
死体(保護法益はない)にピストルを打ち込んだ場合に殺人未遂を認めているので、
理論的に一貫しない。言ってることが無茶苦茶。
したがって大谷説はおかしい。
共犯論では意図的な誤解・曲解が散見されるが、面倒なので次の機会にする。
まあ憲法もおかしいんだから
憲法の下の法律の解釈学の一つがおかしくってもかまわないじゃないか。
>47
空手チョップ食らわすぞ
このヤロー
大谷は不要。いぢょ。
ううん、有用。いじょ。
>>31 返事遅れてゴメン。
36の言うとおり。
試験に受かるためだったらさぁ、とりあえず原自はおいとけば。
来年は出ないよ。
みんな来年受かるつもりで勉強してるんだろ。
それに大谷がおかしいと思うのは勝手だけど、試験に受かるための勉強なら、ある程度妥協した方が良いよ。
今年の原自は大谷で書いてAだったよ。
大谷おかしいと思うかも知れないけど、司法試験合格レベルには大谷で十分だと・・・。
大谷出て来い
論破しちゃる
出てこねぇーだろ
山口で楽勝
山口はカスだ
どうせなら山中読め
消えとるぞコラー
大谷説では、原因において自由な行為をでは因果関係さえあればいいとか言ってるが、
団藤的な構成要件論を採用しているなら、因果関係さえあればいいとは言えない。
原因行為は実行行為ではないので、因果関係が問題になる前に入り口のところで排除される。
いくら構成要件該当性を形式的に判断するといっても飲酒行為を実行行為とは言わないだろう。
このため団藤は間接性犯類似というなにやらわけのわからない構成を採らざるを得なかった。
しかし、行為を独立させ、行為と結果の因果関係を構成要件の前に論ずるとすれば、
原因行為と犯罪結果の因果関係だけは認めることができる(佐伯説、中山説)。
構成要件該当行為を開始した時点では責任能力がないとしても、
責任能力は実行行為のときになければならないなどとやかましいことを言わなければ問題ない。
行為を構成要件から分離させなければ因果関係があればいいとは言えないのに、
何を勘違いしたか、大谷がそのようなことを言ってるのはおかしい。
被害者の同意があることを知らずに被害者を傷害した場合には、
大谷は被害者の同意によって保護法益がなくなるので未遂にもならないと言ってるが、
通説の具体的危険説なら、未遂にならないとおかしい。
団藤・大塚説では、行為者が被害者の同意を知っていることを要件としているので
その場合、被害者の同意は成立しないから、単に既遂犯になるだけだ。
平野説では、行為者が被害者の同意を知っていることを要件としないが、
その場合、具体的危険説の立場から未遂罪の成立を認めるのでまだ話は分かる。
大谷は未遂罪にもならないと言ってるが、
死体(保護法益はない)にピストルを打ち込んだ場合に殺人未遂を認めているので、
理論的に一貫しない。言ってることが無茶苦茶。
したがって大谷説はおかしい。
共犯論では意図的な誤解・曲解が散見されるが、面倒なので次の機会にする。
理解力ないだけじゃねーの
すまん。言い過ぎた。
しかし山口より山中のほうが面白い。
山中ってはじめてきいたけど
使っている人多いの?
わたしはは読んだ
使ってるのは救いようのない刑法オタクか世捨て人だろう、多分
刑法の基本書何冊くらい読んだの?
ソビエト刑法から学ばれたものは?
66 :
在日☆朝鮮人:01/11/13 01:19
持っているのは大塚・前田・大谷・山口です。
山中がないじゃないか
福田はどう?
大谷説ではありませんが。有益な議論ができるなら参加したい。
大谷は、おそらく死体にピストル打ち込んだ事例についても、違法性阻却します。
今、そういうことをいってるかどうか知りませんが、そのうちに言いだします。
一番の問題は
大谷説の優秀答案が少ないから
論証のお手本が存在しない点だ。
結論が一緒だからって結果無価値の論証を
使うわけにもいかないし。。。。
原自については、なぜ行為を構成要件から分離しなければ、因果関係ありとはいえないのかわからないので、ちょっと反論できない。
大谷は、実行行為から考えるはずなのに、その前段階である原因行為を問題にしてるからおかしいという批判なの?
>46
>57
大谷先生の何かの本で読んだのですが、死体事例や、被害者同意の場合は、構成要件的には未遂などを認めて、
結局、保護法益がないから、違法性が阻却されるという話だったはずです。
被害者の同意のところも、傷害未遂→違法性阻却なの?
傷害既遂→違法性阻却のような気がするなあ。
しかし、傷害未遂というのも、論理的にはありうる。というか、そっちのほうが論理的かもねー。
基本は団塚。
やばいところは大谷。
ということで、やばいところ教えてくださいな。
源氏くらいかな。
団塚でやばいところ・・・
とりあえず、具体的に発生した結果や因果関係の認識を故意の内容として要求するのはやめた方がw
中山の仕事は、大塚説やぶりじゃないんですか。
大谷にターゲットをかえたの?
責任故意を認めないというのがどうしても納得できないのですが。
>>79 責任故意とかわけわかんないこといいだす、大塚先生のほうが意味不明。
故意の内容が、2種類なんて。。。おかしくない?同じ一つの故意概念を、責任のところでも、構成要件のところでも検討するというならよくわかるのですが。
結局、大塚先生は正当化事情の錯誤(第3の錯誤)を故意阻却するためにそんなこといいだしたんだよね。
でも、やっぱ故意概念を2種類つくるのはどうかな?
不真正不作為犯の成立要件のところでぶち切れた。
何であんなにごちゃごちゃと考える必要があるのか、説明求む。
中山中山中
関西では名前に「中」か「山」がつかないと偉くなれないってホントウデスか?
「松」とか「宮」じゃダメですか?
未遂犯と被害者の同意の矛盾に気付いて改説したか
形は崩れとるが一応取り繕ったな
しかし原因において自由な行為のボケにはまだ気付いていないな
次のような因果の流れがある場合
1酒を飲む 2らりる 3ナイフを振り上げる 4刺す 5刺された人が死亡する
平野説、中山説では、
行為論を構成要件から独立させて行為論で因果関係を論じるので、
そこで考察の対象とされる行為は、構成要件該当行為である必要はなく、いわゆる自然的行為でよい。
故に、上記の場合、行為論において、1から5までの因果関係が肯定される。
構成要件にかかるのは3から5であるが、すでにらりっているので責任能力はない。
しかし1の時点では責任能力があるから、1から5まで全体として犯罪成立としてもよい、となる。
行為と責任能力の同時存在のドグマを捨ててしまえ、ということだ。
団藤・大塚説や大谷説は平野説や中山説の考え方を「裸の行為論」と呼び、
構成要件に該当しないなら意味がないし不当に処罰範囲を広げるとか何とか言って批判する。
考察の対象とする行為は構成要件に該当するのだけで十分として、行為を実行行為に限定し、
行為論を構成要件に吸収させ、行為と結果の因果関係を構成要件で論じる。
上記の場合、団藤・大塚説、大谷説では、元々の考え方では、1と2は切り捨てられ、意識にも上らない。
そして構成要件に該当する3から5を考察の対象とするのだが、3から5では責任能力がない。
不可罰にしたくなければ、1から構成要件に該当すると言わねばならない。
ただし、単に1が構成要件に該当すると言えば、団藤の定型の美学が崩れる。
このため団藤は間接正犯類似と言って1も構成要件に該当するようにしようとした。
しかし間接正犯類似といってもわけが分からんので非難を浴びることになった。
藤木みたいに構成要件の枠を伸縮自在にすればちょっとはマシかもしれないが。
原因において自由な行為では、必然的な流れとして、
裸の行為論を採用する場合は平野説、中山説の如く、
採用しない場合は、団藤・大塚説の如くなる。
これはカッコ書きの何々何ページで名前が挙がっている人の犯罪論の体系を見れば分かる。
ただし、論者が何も考えていない(大谷)か、適当に言いくるめればいいと思ってる(前田)場合、
上記の対応関係から外れるが、こんな外道は相手にせんでいい。
大谷出て来い
オラオラ
中山派さんの言うことは,結構説得力あるんだけど,
こういっちゃあなんだが,司試に限って言えば,学説の当否の
判断なんていうことは,受験生に求められているわけじゃない。
某教授の言葉だけど,「おれはこの説は絶対に破綻している,と
思う説であっても,教科書にそう書いてあって受験生がそれで
勉強している以上,×はつけられねー。鬱だ」
原自なんてさ,判例の理論構成だって明確じゃないんだし,
裸の行為論否定してる書研の講義案だって,だいたい大谷説に近いし。
理論的にカッチカチの団藤説じゃあ,結果の妥当性おかしいことあるし。
(受験政策上それでいいと開き直るならそれでいいんだけど)
中山説が,どんくらい理論的にきっちりしてるのかは知らないけどさ,
それは,他の教授からまともな批判食らう契機が足りないだけとは言えない?
(中山先生が大塚説を猛攻撃してたのは知ってるけど,大塚先生ぐらいの
巨峰なら,ちょっとたたいてみたくなったりするよね)
批判の入る余地のない説なんて,ないと思うけどなあ。
とりあえず中山説は間接正犯を認めない時点で司法試験の教科書としてはアウト。
じっちゃん。
俺も参加してえよ。
学者先生方の説が実務で役に立つわけではないんだよ
答案書きやすい説とればそれでよし
下手に学説にこだわるとヴェテ一直線
大谷か・・・
漏れは前田と心中!
大谷先生だけじゃなくて、川端先生も責任説なんだよねぇ。
行為無価値では大谷先生より川端先生の説の方が説得力ある気がするのは私だけ?(責任故意が納得いかないので大塚先生は却下)。
>>80>>93 構成要件的故意と責任故意をわけるのって団藤先生でしょ?
大塚先生はそれを承継しただけで。
分けることについてべつに納得できないことはないです。
>>中山派
なるほど。「広義の行為」ってなんやねん?ってことか。
破綻してるね。
有益あげ。
他に批判ないの?
前田と馴れ合ってる程度の学者ってことでしょう。
>>100 感情だけの批判はききたくないね。
もっと、中山派みたいに理論でこい!!!
大谷先生の説の場合、誤想防衛が一番 色々言われるよね
私は答案は大谷説で書くことが多いのだが誤想防衛の処理はいまいち納得できないよな
正当防衛の法益侵害の根拠が「社会的相当性」であるなら、「客観的に侵害行為がないから」という理由だけで、誤想防衛では違法性は阻却しないと決めてしまうのはどうかと思われる
誤想が「社会的に相当」ならば正当防衛に準じるべきなんじゃないのか?
誤想自体が社会的に相当であるはずはない、ということなのかしら・・・。
間接正犯の着手時期を、具体的事例によって被利用者の行為時に認めることがあるなら、
原因において自由な行為において、間接正犯類似構造という風にしても構わないのではないのか?<大谷説から言えば、着手が早すぎるということもないし
団塚の部分的犯罪共同説と大谷のそれは
同じモノなんですか?
>>102 なーるほど。いわんとすることわかります。
230条の2の大谷説の処理から考えて
そういう筋は十分考えられますね。うんうん。
という私は誤想防衛は通説(笑)。
責任故意阻却。そんでいいんじゃねーの?
>>102 川端説がそれと似たような説じゃなかった?
詳しい人の解説希望
大谷説から反論はないようだな。
103氏はわたしの批判の趣旨を誤解しているようなので、再言する。
わたしの批判の趣旨は次の通りだ。
大谷説が、犯罪論の体系として、団藤・大塚説に由来する構成要件論を採用し、
行為論を構成要件に取り込んで、構成要件、違法性、責任の三分説を採用しているのに、
原因において自由な行為の理論では、平野説、中山説、西原説に賛成しているが、
平野・中山・西原説は、行為論を独立させ、行為、構成要件、違法性、責任の四分説だから、
原因において自由な行為のところだけ乗り換えるのは無理がある、ということだ。
ちなみに、団藤・大塚説的な構成要件論で間接正犯類似構造を採用しないとすれば、
原因行為と犯罪行為の間に特別強力な因果関係を要求するのが普通(確か藤木説とか)。
逆に、その強力な因果関係があるから原因行為が実行行為と解釈できるようになる。
そうしなければ因果関係が際限なく広がって収拾がつかなくなる。
念のために付言すると、先に述べた四分説では、因果関係が際限なく広がったとしても、
行為と結果の因果関係を論じた後で、今度はそれらの構成要件該当性を論じるから、
余分なものは、因果関係があっても構成要件該当性なしとして排除できるので問題ない。
なお、103氏の如く、大谷説で間接正犯類似構造にすれば、もっと悲惨だ。
被利用者とは、らりった自分であり、らりった自分の行為時には責任能力がない。
だから問題になっているのだという基本的な前提を御理解いただきたいものだ。
間接正犯の場合、団藤・大塚説では利用者の行為時に実行行為を認めるので、
間接正犯類似構造でも説明がつく(上記三分説での説明としては自然)、ということだ。
>>107 素朴に質問
原因において自由な行為のらりったうんぬんはともかく、
「間接正犯で被利用者の行為時に着手を認める」こと自体を、あなたは認めない、と理解してよいのだろうか?。
>>107 追加
そうそう、そもそも103の書き込みは、あなたに向けての書き込みではないです。
大谷先生が間接正犯類似説をとらないのは何故なのだろうか、という観点からの疑問を書いただけです。
>103氏
「あなた」とはわたしのことか中山説のことかどっちか分からんが、
中山説では間接正犯を認めていないので何とも言いようがない。
ただし、実質的な犯罪結果の危険性でもって着手時期を判断する(中山説)なら、
被利用者の行為時に実行の着手を認めるのが自然だ。
仮に中山説に間接正犯の概念を導入するとすればそうなるだろう。
即ち、行為と結果の因果関係を行為論で処理し、
ある程度危険が高まった時点で実行の着手を認めることになる。
ただし、団藤・大塚の構成要件論では、
行為と結果の因果関係を構成要件内部に取り込んでいるので、
構成要件に該当する犯人の行為をもって実行行為とするしかない。
(構成要件の定型性を云々言っても、実質的には何も言っていないに等しいが。)
藤木説的に、結果発生の実質的な危険性が高まった時点で実行の着手としたいなら、
「仮にその時点に犯人自身の行為がなされていないとしても、実質的に見れば、
その時点で構成要件該当行為があった」、というフィクションを用いざるを得ない。
即ち、構成要件を実質化し、それでもなおある程度定型性を維持しようとすれば
犯人自身の自然的行為のないところで犯人の行為を認めざるを得ない。
この考え方で原因において自由な行為を考えてみると、
実質的な危険性がない時点に実行の着手を認めることが不可能であり、
責任能力のないラリルレロ時以外に実行の着手を認めることができない。
そうすると処罰は不可能になって都合が悪いので、
実行の着手時期の考え方を原因において自由な行為のときだけ修正し、
どういう理由からか分からんが、「特別に因果関係が強力な場合」に限定して、
実質的な危険がない飲酒時を実行の着手時とし、犯罪成立とする。
大谷は、この部分で、何も考えず、平野説、中山説に乗り換えているが、
これは彼の刑法への無理解ぶりを顕しているのではなかろうか。
少なくとも本能的に団藤・大塚説を避けたところは世渡りの巧さだろうが。
なんとなく暇だからだれか遊んで
中中山山中
ところで中山派は受験生?
まさかねぇ〜
今年は落ちたけど
今年もかな?
マジっすか?
受かるための勉強をしようとは思われないんすか?
大谷説で受かりたくないよ
中山説に殉す・・・
中山先生も本望だろう。
えー、もったいない。合格する勉強もしようよ。
でも刑法好きってこういう殉教者が多いんだよね。
院に逝きゃあいいのに・・・
もう遅いわ
うがー
といってもまだ死なないよ
ガハハハハ
ついでに大谷の誤想防衛が意味不明の理由。
大谷の誤想防衛が意味不明なのは、構成要件故意で動機説を採用しているからだ。
動機説は、中山説の採用するところであり、中山説では故意は責任論(厳密には責任構成要件)で論じられる。
中山説は厳格責任説であり、故意責任成立の要件としては、事実の認識と違法性の意識を必要とする。
よって、誤想防衛の場合、違法性の意識がなく故意犯は成立せず、過失判の成立があり得る。
中山説で反対動機云々というのは故意が責任要素であるからであって、
大谷のように、何も考えず構成要件故意で動機説を採れば責任論で困るのは当然であり、
責任論で苦し紛れに責任説に逃げ込んだとしても、誤想防衛では矛盾が露呈する。
そこで、無理矢理「反対動機形成可能だ」などというわけの分からないことを言い出すのだが、
これは大谷の無理解ぶりを端的に示している。
大谷説の誤想防衛論は感覚的に受け入れ難いのはこの故であろう。
理性的に反駁できるヤローはいないか
やはり受験生はバカばっか?
はじめに断って置くが漏れは大谷説ではない。
が、能力のある者の義務として、大谷ならどう考えるか?という視点から反論しよう。
110は、結局大谷説との関係では84と同じ事を長々といってるだけ(藁
したがって、反論はしない。95の大谷波のいうとおり。
102についてだが、大谷実は、違法性を事後的観点からみるので(だから同意傷害が違法性阻却になるわけだね?)
誤想防衛について社会的に相当とはいえない。それだけの話だ。
121についてはよく内容が理解できない。構成要件該当事実について認識していれば反対動機の形成が可能だと彼は考えていて、
それが「わけがわからない」のなら、仕方ない。但し、批判としては感情論の域を出ていない。
誤想防衛について彼は故意責任を問うというスタンスなわけで。これについて納得できないならそれは結論にかみついているだけだ。
中山説とやらだと、違法性の意識が故意の要件なら、確信犯等の処罰はどうなるの?まあ、処罰しないならしないで別に良いが。
124 :
浄土真宗大谷派:01/11/18 02:00
>>121 少しビビるような誤植(?)があります。
>中山説は厳格責任説であり、故意責任成立の要件としては、事実の認識と違法性の意識を必要とする。
中山説は厳格故意説のはずです(中山『刑法総論』372ページ)。
これは有名な話だと思ってましたが。
それとも、『概説刑法』で改説なさいましたか?
一応、これを「誤植」としないとツジツマの合わない文章がその後に
続いてますので本気ではないと思いますが。
結局大谷説の味は、違法性の意識の可能性を故意とは別個の責任要素としたところにある。
「違法性の意識」なら故意の要素としてもいいけど、「違法性の意識の可能性」はいけない。
こんな過失的なものを故意の内容にとりこむわけにはいかない。
他方、違法性の意識を故意の内容にしてしまうと、確信犯等が処罰しにくくなる(大塚先生はそれでもいいとおもってる。そう考えるのなら別に問題はない)現実の問題として考えても「違法性の意識」について立証するのは大変だ。
そこで、「違法性の意識の可能性」を責任の要素としたのだと思う。
ちなみに彼は責任論ではそんなに困ってるようにはみえないが。。。
むしろ楽しすぎのきらいすらある。
>A級戦犯氏
わたしは大谷説において原因において自由な行為のところで矛盾があると指摘している。
しかし、その点に対しては、不思議なことに、誰からも反論はない。
110と84は同趣旨なのは指摘の通り。
95の大谷波は何を言ってるか良く分からん。「広義の行為」とは何?
わたしが言ってるのは、行為、構成要件、違法性、責任の4分説なら、後々、処理が楽になる、という話だ。
121は、大谷が単に中山の言葉を借りただけで魂はないという批判だから、
学説の分布状況を前提として受け入れてもらわないことには話ができない。
確信犯でも現行法に反しているという意識はあるし、その程度で十分だろう。
>124
脅かしちゃってごめんなさい、ではすまんかな。
厳格責任説ではなくて厳格故意説のまちがいでした。
でも分かる人が分かるからいいよ、というのは言い訳か。
>125
責任説は福田説から。
福田説では構成要件に違法性も責任もすべて押し込んだので、
故意犯と過失犯の別も構成要件レベルでつくようになった。
よって責任論では何も残らず、例外的な責任阻却を論ずれば足る。
大谷説は、福田説の盗用の藤木説をさらに盗用しただけ。
要は、というか、わたしが再三(裏側から)指摘しているのは、
大谷が、犯罪論の体系を理解せず、
その場しのぎにいい加減ななことを言ってるだけ、
ということなのだ。
御理解いただけているようには見えないが。
理屈をこねようと思えばいくらでもできるからね。
原自行為については、中山派氏の指摘に分がある。
121については魂かなんかしらんが、感情論につきあう気はない。
95の広義の行為とは、「酒を飲む〜ラリる〜ナイフを振り上げる」のことだろう。
これは大谷説なのか?大谷波いたら教えてくれ。
それを「広義の行為」と言うのか?
それはさておき、
原自で大谷説の矛盾は十分明らかになっていると思うが。
ただし「大谷用語」をそのまんま信用するなら別か?
大谷実氏に「その場しのぎ」の悪癖があるのは、公知の事実だ。
いまさらあげつらうまでもない。
それをどこまで、理論で糾弾できるか。
私が大谷説から説明しているのは、理論的糾弾の一助にでもなればと思ってのこと。
その辺をご理解いただきたい。
できれば、原自行為以外でもおねがいしたい。
連続カキコ。スマソ。
理解できればしたいものだが。
その場しのぎであっちこっちで矛盾を来たしていたり、
名前だけほかの説から借用して内容として全然別なこと言ってたり、
イデオロギー的に批判してたり、
ウソ書いてたり、
ちょっと手におえない。誰か何とかして、みたいな。
大谷説内部で完結するなら適当に理屈をこねればいいんだけど
それでは大谷説信徒以外に通用しないだろう。
なるほど。
もう、ネタはないのか。
残念だ。
ちなみに、山中敬一によれば、
大谷が自説を惹起説として、
団藤・大塚も仲間に入れるのは噴飯もの、
ということです。
ほんとに、大谷は惹起説の仲間に団藤、大塚もいれてるのか。
我田引水ここにきわまれりか。
そもそも、団藤大塚の頃は、共犯の処罰根拠論はそれほど、さかんではなかった。
したがって、彼らを、分類の枠組みにのせることに無理があるのであろう。
神大にも合格できなかった低学歴な学者の基本書は読む気がしない
138 :
朧月夜 ◆asa1afC2 :01/11/18 21:21
>>134 >大谷が自説を惹起説として、
>団藤・大塚も仲間に入れるのは噴飯もの、
では、曽根先生の分類によればいいということかしら?
天下の大谷先生を糾弾するとは、何事か!
恥を知れ!!
ΦΦΦΦΦΦΦΦΦΦΦ
ΦΦΦΦΦΦΦΦΦΦΦΦΦΦ
ΦΦΦΦΦΦΦΦΦΦΦΦΦΦΦΦ
ΦΦΦΦΦΦΦΦΦΦΦΦΦΦΦΦΦ
ΦΦΦ ΦΦΦ
ΦΦ ◎ ΦΦ
Φ ______ ______ Φ
/ ̄\Φ ______\ /______ Φ/ ̄\
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)| Φ | | Φ ||
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\_/ \ \_______/ / \_/
\____―――____/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
素晴らしく高度なお話が続いておりますが・・・、
で、
結局誰が良いのでしょうか.
結論が妥当で、理論的に破綻してなくて、書きやすい人。
いるんですか?
日本生命の削除依頼公開スレッド
1 :ひろゆき@暫定管理人 ★ :01/11/01 15:49 ID:???
「削除依頼は公開」の原則に従って削除したものを公開してますー。
ソース。
http://www.dd.iij4u.or.jp/~cap/nissei/ 14 :名無しさん@お腹いっぱい。 :01/11/01 15:59 ID:I8TSGCyI
むしろこのGIFを保存しといてそこらにミラー作りまくるのが
2chねらの使命かと
15 :名無しさん@お腹いっぱい。 :01/11/01 16:00 ID:pX4yzwVD
>>10 つか、それがひろゆきのねらいだろ
16 :名無しさん :01/11/01 16:00 ID:4XQtcOuc
オイラはとりあえず保存しといたよ
17 :ひろゆき@暫定管理人 ★ :01/11/01 16:01 ID:???
いやぁ、削除依頼は公開って原則ですから、、
( ̄ー ̄)ニヤリ
18 :va :01/11/01 16:01 ID:+W2rWnl4
同じこと書き込んだら、速攻で削除されるのかな?
19 :ひろゆき@暫定管理人 ★ :01/11/01 16:03 ID:???
削除依頼がくるまで放置っす。
144 :
(゚∀゚!より愛を込めて・・・:01/11/19 13:57
ヒロユキ万歳!(゚-゚)(。_。)(゚-゚)(。_。)
中山先生って誰?とか思ってたらソビエト刑法とか研究なされてた方なんですね。
知らなかった。そんで、一応概説刑法とかいう本読んでみました。正直さぶかった
っす。誰があんな学説で書くかっつーの!!ワケわかんなかったっす、正直(ワラ
確かに優秀な学者先生かも知れないけど、オレはいっす。あんまし用ないっす。
大谷先生は割りと萌え〜っす。通説なんでしょ?あ、それは大塚先生だっけ?
どっちでもいーや。前田先生っているじゃないですか?あの方の本も買ってみた
けど、文脈おかしすぎて理解できなかったです。まぁ、オレのアタマが極端に
悪いだけかもしれねっすけど・・・。結論としてはいいんじゃねーの?誰でもって
カンジです。強いて言えば判例かな、うん。お上公認っすからね。やっぱ、昔から
言うじゃないですか?寄らば大樹の陰って。ところで判例で書いてると落とされる
んですかね、やっぱ?ほら、学者の先生って判例好きじゃないみたいだし。まぁ、
受かれば何でもいいんですけどね。大谷先生って同志社なんでしょ?すごいっす
よねぇ。ある意味最強の成り上がり伝説っすよね。横浜銀蝿と一緒じゃないっすか
う〜ん、オレ刑法見直しちゃったなー。それにしても、ここの掲示板の人って
みんなアタマいいですよねー。議論できるのって本当にかっこいいなーと、不覚にも
感心しちゃいましたよ!!みなさん、頑張ってください!!
共犯論雑感
1共犯の教唆行為、2正犯の殺意発生、3正犯の殺人実行行為、4殺害結果
この設例で共犯の処罰根拠等々を考える。
@三分説その1(基本的構成要件=3から4、修正された構成要件1から2)
まず、4から3までにつき、正犯の成立を論ずる。
次に、正犯に影響を与えたものとして、2から1までにつき、共犯の成立を論ずる。
共犯の処罰根拠は、正犯を作りだしたこと、即ち、責任共犯論。
正犯の成立が共犯の成立の理論的前提で、共犯は正犯に完全に従属する。
正犯の犯罪に対して加功するので犯罪共同説である。行為共同説は無理。
団藤・大塚の発想に近い(本人は違うと言ってるが)と思われる。
全然読んだことはないが瀧川説はこの考え方かも知れない。
@三分説その2(基本的構成要件=3から4、修正された構成要件=1から4)
4から3までにつき、正犯の成立を論ずる。
殺害結果発生に影響を与えたものとして、4から1までにつき、共犯の成立を論ずる。
理論上は成立と共犯の成立は別個に論じられるはずで、従属性は必ずしも必要ではない。
共犯の構成要件の枠を拡大し、正犯の行為を共犯の構成要件内に取り込むことにより、
行為共同説を採用する(「行為」を共同する)ことを可能とするものである。
この場合の共犯の処罰根拠は、結果を惹起するという意味で、因果的共犯論となろう。
大谷が惹起説と言ってるのはこのことか?
なお、未遂で終わらせるつもりで教唆した場合には未遂罪の教唆にならないはず。
@四分説
行為論で因果関係を論じ、構成要件はその後の話になる。
4から3までで正犯の因果関係を論じ、4から1までで共犯の因果関係を論ずる。
共犯が問題となるのは行為と因果関係の部分で、行為共同説。
理論上は成立と共犯の成立は別個に論じられ、従属性は必ずしも必要ではない。
次に正犯の構成要件該当性、共犯の構成要件該当性を論ずる。
(基本的構成要件=1から2、修正された構成要件=1から4)
構成要件を採用しなくてもよく、その場合は牧野説になる。
中山説では構成要件を採用し、謙抑主義の見地から実行従属性を堅持しつつ、
正犯の行為が(共犯から見て)違法であれば共犯成立と言っている。
平野説は正犯が構成要件に該当しなければならんと言ってるが、理由は不明。
西原説は共同意思主体説だけどよく分からんので略。
>>中山派氏
おもしろい。
3分説その2は講学上、純粋惹起説とよばれるものだ。
中山派氏のモデルは、よく考えられている。中山派モデルに乗って考えてみよう。
ただ、分類が犯罪論体系からの分類なので、共犯の処罰根拠を説明するのには適していない。
そのため、少しわかりずらくなるかもしれない。ご容赦いただきたい。
3分説その2の
>4から3までにつき、正犯の成立を論ずる。殺害結果発生に影響を与えたものとして、4から1までにつき、共犯の成立を論ずる。
ここまでは、惹起説の説明として、的を射ているだろう。
結局、惹起説というのは、共犯にも、法益侵害との因果性を要求する見解のことで(法益侵害結果「惹起」との因果性を要求するので、そう名付けられた)
モデルに即して言えば1と4の間が因果性が存することが必要であるという見解だ。
ただ、これから先は、惹起説内部で争いがある。
すなわち「正犯行為を介しての法益侵害結果惹起」という共犯の類型をどこまで重視するのかの言う点についての見解の相違だ。
これを無視すると、純粋惹起説にいたる。
中山派氏の書いてるとおりだ。
これを重視すると、修正惹起説にいたる。
すなわち1と4の間に因果性を要求するのであるが、その際、正犯の3から4を「借りてくる」。
従って、正犯の法益侵害に共犯は従属することになるはずだ。
では、問題の混合惹起説はどのような見解か。
正直理解に苦しむ面があるのは否めない。基本的には修正惹起説と変わらないとおもうのだが、正犯の3から4を「半分借りてくる」という見解と理解している。
その意味で「混合」と名付けたのではないか。共犯の処罰根拠である「法益侵害惹起」は共犯独自のものと正犯のものが混在している。
こんなもので、良いか?
>>中山派、話をもどしてスマソ。
126>確信犯でも現行法に反しているという意識はあるし、その程度で十分だろう。
ということだが、行為者が法的に許されてると勝手に誤解した場合は、故意犯は成立しないのか?
過失犯になるのか?
有益アゲ
共犯論随想(昨日の蒸し返しも含むというかほとんどそうか)
共犯論の最初に出てくる共犯従属性説と共犯独立性説の話は、
瀧川説と牧野説をそれらの理念系として、犯罪論の体系から考えると、
「共同」するのは「構成要件」か「行為」かという話になる。
最近(といっても今は昔だが)の学説でも、
{四分説}={行為共同説}={佐伯説、中山説、平野説}={因果的共犯論}
{三分説}={犯罪共同説}={団藤説、大塚説}={責任共犯論に近い}
といった対応関係が、一応は見られ、
ここでも「共同」するのは「構成要件」か「行為」かという話になる。
故に、犯罪論の体系が決まれば共犯論も決まり、
その説明としての共犯の処罰根拠も決まると考えたのだが、
川端説のように三分説で行為共同説を明言するものもあり、
百家争鳴の共犯論、あまりうまくいかないかも知れない。
恨みはないが名前があがったので、川端説をネタに理論的に検証しよう。、
構成要件論を採用しつつ「行為」を「共同」するとは、、
即ち、正犯の構成要件内の{実行行為、結果及び因果関係}を「共同」することである。
ただし、川端説では、構成要件を離れた行為や因果関係は考えられないため、
共犯としての構成要件(=修正された構成要件)には、
正犯の{実行行為、結果及び因果関係}が含まれていなければならない。
したがって、
(共犯の構成要件)={(教唆行為等の共犯独自の構成要件)+(正犯の構成要件)}
そこで三分説その2ということになった。
昨日は余りよく考えなかったのだが、A級戦犯氏の指摘するように、問題はここから始まる。
犯罪論の体系にこだわって考えてみよう。
上記の怪しげな式において、
(共犯の構成要件)内の(正犯の構成要件)の内容と、正犯の(正犯の構成要件)の内容は、
一致しなければならないのだろうか、一致しなくてもよいのだろうか。
考え方としては、
1、構成要件は「枠」であり、枠に詰め込む中身については、正犯と共犯で全然別でもいい
2、枠に詰め込む中身も正犯と共犯で共通でなければならない
1の場合、
正犯と共犯は別個に考察することができ、正犯が成立しない場合の共犯の成立もあり得よう。
これはA級戦犯氏のいう純粋惹起説だろうが、結論的には、牧野説、中山説に限りなく近い。
2の場合、
共犯は正犯の構成要件の中身を借り受けると考え、正犯なくして共犯なしとするのだろうか。
これはA級戦犯氏のいう修正惹起説だろうが、結論的には、完全犯罪共犯説即ち責任共犯論である
なお、考え方1と2の間にいろいろな中間説が発生することは考えられ、
そのうちの一つがA級戦犯氏のいう混合惹起説ではないかと推測している。
書き忘れたが、
共犯の構成要件(共犯の構成要件)={(教唆行為等の共犯独自の構成要件)+(正犯の構成要件)}
であれば、共犯の故意の内容としては、結果の発生まで要求されるはずで、
未遂で終わらせるつもりで教唆をした場合は、
不可罰が通説になりそうだが、どうだった?
通説さえ押さえときゃ論文にゃ受かる
共犯論随想その2(事例を設定するとこうなるか)
XがYに「Aを殴れ」と教唆した。
実はAは脳梅毒で、一発殴られても死にそうだったが、一般人には分からなかった。
Xはその事実を知っており、Aを殺すつもりで教唆した。
そして、Xは、Yもその事実を知っていると信じていた。
しかし実際は、Yはその事実を知らなかった。
YはAを殴り、その結果、Aは脳梅毒のため脳細胞がグチャっとなって死亡した。
この場合、
正犯Yの行為とAの死亡の間には、相当因果関係折衷説(大谷、川端等)では因果関係がない。
通説の折衷説で150の考え方を当てはめると次のようになろうか。
なお、間接正犯との関係では、
主観的には教唆犯、客観的には間接正犯という抽象的事実の錯誤の問題ということで、
結論的には、小さい方の教唆犯を考えれば足りるだろう。
150の考え方1であれば、
Yには因果関係がなく犯罪不成立。
正犯に因果関係がなくても、共犯独自の因果関係を考えればよいので、
XはAが梅毒である事実を知っていることから、Xについての因果関係は肯定される。
よって、Xは殺人教唆、Yは無罪となる。
なお、YはAの脳梅毒の事実を知らなかったので、Xについて因果関係の錯誤の問題もあるが、
この程度の食い違いであれば影響はないだろう。
150の考え方2であれば
Yには因果関係がなく犯罪不成立。
XはYの構成要件の中身(因果関係が肯定されないこと)を借り受けるので、
Xについても、Aの死亡との間に因果関係が肯定されないことになり、
Xに教唆犯は成立しない。
ただし、教唆行為は存在して結果が発生していないため、殺人教唆の未遂か?
>A級戦犯氏
現行法秩序からみて許されないのに、行為者が勝手に許されると誤解していていた場合は、
結論的には、故意を阻却し、過失犯の処罰規定がなければ罰せられないだろう。
殺人や強盗を許されていると誤解することはないだろうが、
行政刑法上の細々とした規定なら、誤解することはあり得ると思う。
禁漁区を知らなかったとか、書類を提出する義務があるのを知らなかったとか、
赤と緑を誤解したとか、その他諸々、いろいろなパターンが考えられる。
理論的には、故意を阻却するので困るかも知れないが、
現実的には、結局は事実認定の問題になるので、取調官にうまくあしらわれて、
「何かやばそうな気がしたが、まあいいか、と思って」などという調書を取られてお終い、かな。
ともあれ、実際上、不都合があるのかどうか、という常套手段で落ち着くと思う。
>>154 なるほど。実際上、不都合があるかどうか?で、判断がわれるのだろう。
私は、厳格責任説はそれなりに評価している。
すくなくとも、制限故意説よりはだいぶ「故意」概念に忠実なのではないか。
理由については
>>125参照。
それはさておき、共犯論だ。
まず、未遂の教唆だが、不可罰説が通説かどうかはしらない。
確か、大谷氏は可罰説だったおもうが。
ここでは共犯と正犯の違いをを強調して、正犯が実行行為にでる認識で足りると主張する。
モデル論でいうと、借りてきた正犯の違法にひきずられて共犯も違法となるのだろう。
つまり、正犯なら他人に引きずられることはありえないが、他人の行為を介在させる共犯は、他人にひきずられることがありうる。
この意味で、正犯と共犯は違う。
しかし、故意について、正犯と共犯を同じように考えれば、結果の認識まで要求するのは当たり前であり、不可罰説が普通なのだろう。
ところで、153で、中山派氏は「Yには因果関係がなく犯罪不成立」とのべておられるが、
これはどのような意味か。通説的見解からは因果関係がなければ未遂が成立するのであり、ここは実行行為性がなく犯罪不成立が正しい。
行為論を先行させる見解からは、既遂or未遂結果との因果性を行為論のところで検討するという意味か。それならば、よくわかる。
>>A級戦犯氏
>155
共犯の構成要件に正犯の構成要件を取り込みつつ、共犯の故意に犯罪結果の認識を要求しないなら、
即ち、客観面で正犯の犯罪結果惹起まで要求し、主観面で共犯独自部分の故意だけを要求するなら、
共犯は結果的加重犯になってしまう。(確か中山も同様のことをどこかで言ってたような)
なお、責任共犯論・完全犯罪共同説は、他人を引きずり込んだことをもって共犯の処罰根拠とし、
共犯の構成要件は、主観面においても客観面においても共犯独自部分の部分のみだから、
同説に対しては、結果的加重犯という批判は当たらない。
正面から責任共犯論・完全犯罪共同説を採用すれば、楽に可罰説を採用できるのに、
惹起説に飛びついたのはいいがその前提も忘れて矛盾を取り繕うのでは何をやってるか分からない。
大谷の説明も意味不明だが、いくら大谷でも、
正犯が犯罪の犯罪の実行に着手しつつやっぱりやめた場合、即ち、正犯に中止犯が成立する場合、
正犯に引きずられて共犯にも中止犯が成立するとは言わないだろう。
中止犯の減軽理由を責任減少に求めるという手はあるが、確か大谷は違法・責任減少説だったし。
この場合は違法の相対性を云々言い出して受験生を混乱させるのだろうな。
また一つ、大谷を罵倒する理由ができたかも。
>156
通説的見解をよく理解せずに書いたかも。失礼こきました。
中山説では、まず、行為論で、行為と結果(既遂も未遂も関係なく)の因果関係の判断を行い、
次に構成要件該当性の判断を行う。ここでようやく構成要件的に未遂と既遂の区別がつく。
ただし、通説的見解でも、因果関係がなければ、即、未遂という話にはならないと思うが。
脳梅毒の話は、殺意がない場合の設例で、結論的には、傷害致死か障害かの話ではなかったか。
殺意がある場合の設例は、殺意をもって刺して病院送りにしたが、
たまたま搬送された病院で火災があって被害者が死亡した話ではなかったか。
設例では、Yに殺意がなかったことはあえて書かなかった。
(YはAの脳梅毒を知らなかった)には、(Yに殺人の故意はなかった)}という意味も
含むつもりだったのだが、若干不正確な書き方だった。申し訳ない。
しかしよくよく考えてみればYには暴行の故意があるので、
Yの行為とAの死亡までの因果関係がないとしても、Yには暴行罪か傷害罪は成立する。
この場合、Xが殺人教唆になるか、Yに引きずられて暴行罪又は傷害罪の教唆になるか、
中途半端だが殺人教唆の未遂になるか、考え方はいろいろとありそうだ。
>>157 >確か大谷は違法・責任減少説だったし
大谷『新版刑法総論講義』では、「違法性減少+刑事政策の
結合説」です(408ページ)。責任減少は明確に否定している模様。
でも違法減少させている限り
>>157の批判は同様に当たることになりますね。
>この場合は違法の相対性を云々言い出して受験生を混乱させるのだろうな。
「・・たしかに、違法性のうち法益侵害については連動することを認めるべきであるが、違法
性は法益侵害の結果を前提として行為の無価値を評価するものであり、行為自体の連動と
いうことはありえないから、共犯者に連動することもありえないのである。また、中止未
遂は「自己の意思により犯罪を中止した」場合について成立するのであり、自己の意思に
よらないで中止した共犯者に連動することはありえず、右の批判は全く当たらない。」(大谷
『新版刑法総論講義』409ページ)
・・御見事な御推察で。共犯者自身の中止の問題と共犯者への正犯者の中止の効果の影響を混同
してるあたりは、もうどうしようもないような感じで。
大谷のことだから、何も考えず安直に違法・責任減少説と思ったのだが、そうではなかったか。
中止犯と未遂犯が構成要件の修正形式であって、両者の違いが、
行為の客観面ではなく、「自己の意思」という主観面にあることを前提すると、
わたしの感覚からすれば、
中止犯の刑の減免理由は、理論的には、大体、次のような流れになりそうだ。
構成要件を基本的に違法類型として、構成要件的故意・過失(主観的違法要素)を認めるなら、
自己の意思を主観的違法要素と考え、違法減少説になる。
(ただし、責任故意を認め、違法・責任減少説となる場合を除く。)
主観的違法要素を認めない(故意・過失を責任要素とする)場合、流れとしては責任減少説になる。
構成要件的故意を認めるとともに、責任論(違法性の意識)において責任故意を認める場合、
主観面が違法と責任に関係するので、違法・責任減少説かな。
大谷は、確か、構成要件的故意・過失を主観的違法要素とし、違法性の意識で責任説を採ってたので、
違法性減少+政策であれば、中止犯の減免の根拠では変なことを言っていないことになる。
>中山派氏
まず通説的見解についてひとこと。
>ただし、通説的見解でも、因果関係がなければ、即、未遂という話にはならないと思うが。
実行行為性があり、結果との因果関係がなければ、直ちに未遂犯の構成要件に該当する。
殺人の故意がなければ、殺人罪の実行行為性が欠ける。こう考えるのが通説だと理解している。
>共犯の構成要件に正犯の構成要件を取り込みつつ、共犯の故意に犯罪結果の認識を要求しないなら、
即ち、客観面で正犯の犯罪結果惹起まで要求し、主観面で共犯独自部分の故意だけを要求するなら、
共犯は結果的加重犯になってしまう。
なるほど。確かに。
>浄土真宗大谷派氏。
>共犯者自身の中止の問題と共犯者への正犯者の中止の効果の影響を混同
してるあたり
大谷氏は
正犯者の中止の効果は共犯者には影響しない。
共犯者自身の中止は、「自己の意思によ」っていないので成立しない
ということを言ってるだけだろう。
結局、大谷氏が主張する混合惹起説(最小限従属形式と制限従属形式との中間とやらでも同じ問題)は正犯からなにをかりてくるのかが不明である。
違法の相対性(二元説なので当たり前といえば当たり前)をみとめるので違法性そのものを借りてくることはありえない。
もし、借りてくるとすると、正犯に正当防衛が成立する場合、共犯も違法性阻却されなければおかしいが、これは、大谷氏が明確に否定している。
つぎに、「>違法性のうち法益侵害については連動することを認めるべきであるが」という大谷氏の言に従って、違法性の段階の法益侵害について借りてくるとすると、
中止犯において法益侵害が減少すると名言しながら、中止犯について正犯との連動を認めないこととの整合性がとれない。この点は中山派氏の指摘の通りである。
最後に残るのは、構成要件段階での法益侵害を借りてくるという考えである。
これが、かろうじてまともか。
このように考えると、未遂の教唆も説明できるかもしれない。
つまり、客観面は、教唆行為+正犯の構成要件。ここで、惹起説から要求される結果との因果関係というのは、正犯の構成要件的結果との因果関係。
そして、主観面においても、正犯の法益侵害の危険性(構成要件的結果)を認識していれば、それで故意ありとかんがえられる。
ここで共犯が認識すべきは、共犯から見た法益侵害の危険ではなくて、正犯からみた法益侵害の危険である。
このように考えることで、結果的加重犯云々の批判は回避できるか。
つまり、惹起説なので、客観的には、法益侵害結果との因果関係が必要であり、
主観的にも、法益侵害結果を認識していなければならないのであるが、ここにいう法益侵害結果とは、
正犯の構成要件的結果のことである。
単なる思いつきなので、批判的検討を待つ。
「・・たしかに、違法性のうち法益侵害については連動することを認めるべきであるが、違法
性は法益侵害の結果を前提として行為の無価値を評価するものであり、行為自体の連動と
いうことはありえないから、共犯者に連動することもありえないのである。また、中止未
遂は「自己の意思により犯罪を中止した」場合について成立するのであり、自己の意思に
よらないで中止した共犯者に連動することはありえず、右の批判は全く当たらない。」(大谷
『新版刑法総論講義』409ページ)
一見しただけではわけが分からない非常に難解な文章、さすが大谷先生。
彼の考えについて、足りないところを補いながら合理的に整理すると、次の如くなろうか
<前提>
{違法性}は{法益侵害}及び{行為の無価値}から成る
{法益侵害}において、正犯と共犯は連動する
{行為の無価値}において、正犯と共犯は連動しない
{中止未遂}は{行為の無価値}に含まれる
<結論>
中止未遂は共犯者に連動しない
大谷説と同様の結論をスッキリと導き出したいなら、
構成要件を違法類型としながら主観的違法要素を認めず、故意・過失を責任論で論じ、
中止犯の責任減免理由を責任減少に求めればいい。
大谷説を未遂の教唆の場合に当てはめてみよう。
{法益侵害}は{既遂に至る純客観的危険性}であり、
{行為の無価値}は{内心的な認識の危険性}である。
両者がそろって始めて{違法性}を肯定できる。
{行為の無価値}が共犯に連動せず、教唆者に{内心的な認識の危険性}がないため、
教唆者の違法性が阻却される。よって可罰説にはならない。
大谷の理解する違法の相対性の「相対性」とは???
などといっている間に、A級戦犯氏が新たに考える材料を提供してくれたようだ。
とりあえず、大谷説のセキュリティーホールをまた一つ発見したかも、ということで。
>160 A級戦犯氏
A級戦犯氏の説について何かいう前に、相当因果関係説云々で誤りがあったので
訂正させていただきたい。これについてはA級戦犯氏の理解が正しいと思う。
結果との因果関係がなければ未遂、ということであれば、
不能犯はどうなるのか、と思ったのだが、
よくよく考えてみれば、通説を四分説の感覚で考えていた。
四分説では、行為と結果の因果関係を検討してから構成要件を当てはめる。
犯罪結果が発生しなくても、「犯罪結果発生の危険」という結果が発生する場合、
行為と「犯罪結果発生の危険」の因果関係を検討し、未遂の構成要件に当てはめる。
よって未遂犯は一種の危険犯として理解されることになる。
そして、行為と結果(未遂であれ既遂でれ)が、どうあがいてもつながらない、
という場合には、不能犯となる。
しかし三分説では因果関係の検討の前に構成要件の枠を決めなければならない。
未遂犯も構成要件の修正形式であるとすれば、不能犯と未遂犯については、
構成要件の枠を決めるために、因果関係を云々する前に区別しなければならない。
故に、入り口のところで、言わば、構成要件の予定する行為のデータベースの中で
一致するものがあるかどうか検索するという作業が必要になる。
それがなければ不能犯で、不能犯は最初に落ちる。
因果関係を検討する段階では、不能犯はすでに落ちているので、
既遂犯か未遂犯かをきめればいいことになる。
このような理解で正しいだろうか。
ただ、三分説の如く、最初に形を決めるためには、行為無価値的に、
行為者の主観を出発点にせざるを得ないようにも思われるが。
>A級戦犯氏、160
よく分からないのだが(もう少し具体的に書いてくれれば)
思いついたところをいうと次の通り。
{正犯の構成要件}={正犯構成要件}
{共犯の構成要件}=[{共犯独自部分}+{正犯構成要件}]
であって、
原則的には、共犯は構成要件の枠だけを借り受けるが、
例外的に共通する部分が{正犯の構成要件結果}ということか。
結論的には正犯構成要件的結果従属性説?
{正犯の構成要件結果}に至るまでの因果関係は、正犯と共犯で独自に判断するのか?
独自に判断する場合、正犯の構成要件結果と共犯独自の因果関係が
どうしてもつながらない場合もあり得るのではないか?
特に相当因果関係折衷説では主観を交えて因果関係を考えるので。
また、共犯独自の因果関係は共犯構成要件部分だけでよいとすれば、
実質的には、責任共犯論を因果論的に記述し直しただけで
結論が変わらなくなりそうだが。
{正犯の構成要件的結果}というと、{共犯の構成要件的結果}とは相互に
排斥し合ものであることを含意しているように思われる。
共通部分であれば真に共犯であり、片方にしかないものをもう片方に借り受け
させるのも共犯で、そこまでならまだ分かるのだが、互いに排斥し合うものの
一方をもって他方にも通用させ、それで共犯とするのはいかがなものか。
>>中山派氏
思いつきにつきあってくれたことを感謝する。
まず、通説的見解についての162の理解だが、私の理解と一致している。
ただ、「よって未遂犯は一種の危険犯として理解されることになる。」の一文だが、「一種の結果犯」の誤植か。
最後の「行為者の主観を出発点とせざるをえない」だが、実行行為のところでは、あまり、主観と客観を厳密に分けては考えてないはずなので、どちらが先といわれても困るのではないか。
次に、大谷説だが、因果関係のみ共犯独自に考えるのは無理か。共犯の構成要件={共犯独自部分+正犯の構成要件}と考えるべきだな。
したがって、惹起説といってみたところで、責任共犯論とかわらないというという批判はあたってる。
ただ、彼に言わせれば(共犯行為と正犯の実行行為の因果関係)+(正犯の実行行為と結果の因果関係)と2段階ではあるが、結果惹起との因果関係を要求しているので、自分も惹起説だということだろう。
正犯の因果関係がつながっていないときは、共犯も結果との因果関係がないとせざるをえない。こう考えないと、未遂の教唆の可罰性を肯定できない。
このように構成要件段階では正犯に完全によりかかっておきながら、違法性のところでは、共犯独自にかんがえるのだな。
うーむ。
主観が行為の(法益侵害惹起の)危険性に影響を与える見解において、共犯の処罰根拠につき惹起説にたちつつ、正犯の構成要件を借りてくることができるのか?
だんだんかばいきれなくなってきた。
すこしわかりにくいので、補足の説明を。
主観が行為の(法益侵害惹起の)危険性に影響を与える見解にたったとしても、責任共犯論ならば、正犯者を作り出したところに共犯の処罰根拠をもとめるので、なんの問題も生じない。
共犯は、正犯とは別個に違法性を論じることができる。そして、未遂の教唆の場合、正犯者を作り出しているので、可罰的だ。
又、主観が行為の(法益侵害の)危険性に影響を与えないとすれば、惹起説にたったとしても、正犯の法益侵害の危険=共犯の法益侵害の危険とかんがえられる。
未遂の教唆については、正犯が法益侵害結果を惹起せしめているので、可罰的と解しうる。
ところが、大谷氏は、主観が法益侵害の危険性に影響をあたえることを認めつつ、惹起説をとる。
とすれば、法益侵害の危険は正犯と共犯で当然異なりうるはずであり、
共犯独自の観点から法益侵害結果を考えざるをえないはずだ。
つまり、{共犯の構成要件}=[{共犯独自部分}+{正犯構成要件}] とは、考えられない。
したがって、未遂の教唆は不可罰。
大谷氏は惹起説に拘るなら、純粋惹起説にいくべきだろう。
2元論+純粋惹起説。この組み合わせで、いいのではないか。
未遂の教唆の可罰性を認めるのは、あきらめるべきだ。
また、惹起説はすてて、「正犯に実行行為をさせたこと」ここに共犯の処罰根拠をもとめること見解にたつこともできる。
この場合も、共犯独自の観点から、共犯の違法性等を論じることになる。
未遂の教唆については、正犯に実行行為をさせてしまっているので、可罰的。
どっちかだろう。
>A級戦犯氏
大谷説も落城間近かな。キメラだから仕方ないか。
大谷説(の結論)を合理的に再構成すると、結局は、次のようになるのではないか。
1.正犯の構成要件、違法性、有責性を論じ、正犯の成立を検討する。
普通に、というか、正犯の立場から犯罪の成立を論ずる。
正犯に犯罪が成立しようがしまいがステップ2に進む。
2.共犯独自の観点から構成要件該当性、違法性、有責性を論ずる。
{共犯の構成要件}=[{正犯の構成要件}+{共犯独自の構成要件}]として、
因果関係、違法性、有責性は共犯独自の観点から判断する。
3.ステップ1又は2において、犯罪成立要件を充足する場合、共犯が成立する。
ステップ1及び2の両方で犯罪成立条件を充足しない場合のみ、共犯不成立。
貴殿も苦心しておられたようだが、上記の思考の道筋を一段階的に説明しようとすると、
どこかで無理が出てくると思う。ステップ1的な部分は、三分説・責任共犯論的な感覚だし、
ステップ2的な部分は、四分節・因果的共犯論的な感覚だから。
二段階的に説明しようとすれば、共犯の処罰根拠は、{他人を悪の道に引き入れ}、
しかも{法益侵害の結果を惹起した}、という二つになる。自分の手で犯罪を実行するより
責任は重いが、それは{他人を悪の道に引き入れた}、ということで説明がつくかどうか。
共犯については、何ゆえ正犯部分が二重に評価されるのかよく分からないが、共犯の
処罰根拠が二つあるということで説明できるかどうか。少なくとも御都合主義の極み
という批判くらいは甘受せねばなるまい。
また、単なる下っ端幇助犯がこんなに悪いやつとは思えないので、感覚的に受け入れ難い
ということもあるかもしれない。
なお、164に関して、「危険犯」ではなくて「結果犯」とは、言われてみればその通り
であった。やはり基本書は精確に読まねばならんな。今後は気をつけようといっても、
感覚で日々の生活送ってるのでどうなることやら。
通説的見解は、実行行為においては主観と客観を厳密に分けていないということだが、
実行行為のところで枠が決まらなければ次に進めない、ということであれば、
客観面だけでは判断できないので、最終的には行為者の主観を基準にして判断するしか
ないのではないか。主観と客観の綜合みたいな言い方はあるが、突き詰めて考えれば、
客観面は余分ではないかと思うのだが。
大谷先生の基本書は本人が書いてるんじゃないから
どうでもいい。
学会では結果無価値派だし。
>禿同
確かに未遂の教唆について可罰性を肯定するためには、共犯は正犯の構成要件を借りてきてるとしかおもえない。
他方において、行為者の主観が実行行為の危険性や因果関係に影響を与えることを認めるので、正犯の構成要件をそのまま借りてくることはできない。
また、共犯の類型を主張して、正犯の構成要件を借りてくる事を認めたとしても、違法性のところではやはり違法の相対性ということをいうので、今度は構成要件と違法性がずれる。
このような思考の枠組みが、はたして理論的といえるのか?
ちなみに、中山派氏の大谷説を合理的に再構成した
>>168だが,よくできてるのではないか。
ただ、とても、「論理的」では、ないな。大谷説を論理的に構成するのは無理なのかもしれない。
そもそも、2元論をとっている学者の中で大谷氏以外に混合惹起説を採用している人がいるのか?
私の能力ではこのあたりが限界だ。
この部分について、誰か、うまく論理を貫ける人はいないか?いたら、レスしてくれ。
では、次、行こうか(笑)
170の「禿同」は
>>168にむけたものである。誤解のないように。
通説的見解について。
実行行為の危険性は、やはり主観と客観を統合して判断する。
「主観だけ」なら、たとえば良くあがる例で恐縮だが、丑の刻まいりなどが殺人罪の未遂になってしまう。
客観的に(一般人の目からみて)、危険性のない行為は、本人がどう思っていても、やはり実行行為とはいえない。
結果から遡る立場なら、未遂についても結果犯と捉えて、そこで、結果発生の危険性のない行為を落とせるから
「主観だけで判断」してもいいのかもしれないが、実行行為から考える立場からだと、そうはいかない。
なんどもいうが、実行行為があって、結果が不発生or因果関係がきれたら、即、未遂犯の構成要件該当性を認めるのが通説的見解だ。
大谷先生の基本書は本人が書いてるんじゃないから
どうでもいい。
学会では結果無価値派だし。
パラダイムでも読んでろ
中山説では、共犯の処罰根拠論はどうなるのか?
間接正犯を認めない(限縮的正犯概念)らしいので、共犯を広げざるをえず、純粋惹起説ではないかと推測するのだが。
>A級戦犯氏
御推測の通り、中山説は純粋惹起説。本人は因果的共犯論だと言っているが。
中山説は間接正犯を認めない(認めたくないという方が正確か?)ので、
公務員が妻に賄賂を受け取らせた場合、公務員は教唆犯、妻は幇助犯となって、
「共犯なき正犯」という批判が加えられることになるのは周知の通り。
再三の繰り返しで恐縮だが、
中山説は、まず、教唆・幇助行為から結果までの因果関係を考え、
因果関係がつながれば、次に構成要件、違法性、責任へと続く。
共犯は、正犯の違法性を借り受けるわけではなく、違法性は共犯から見た違法性の意味。
(警察官を利用して逮捕させる場合等は、共犯から見れば違法性がありと考える。)
つまり、正犯とは、共犯が自らの犯罪の結果に至る過程での因果の流れに過ぎない。
したがって理論的には正犯が実行しなくても未遂で処罰してもよさそうだが、
中山説では、結果発生の危険がないということで処罰しない。
なお、中山説の共犯論は、共犯の独立性を認めるかどうかという点を除けば、
結論、発想などは、牧野説とほぼ一致している。両説とも、行為と因果関係が基本なので、
行為共同説が自然の流れであり、そうなるのも当然のことかもしれないが。
また、総論を全体的に見ても、牧野説(行為者の主観から結果)を逆流(結果から)させ、
構成要件の枠をはめれば、中山説に変形できるのではないかと考えている。
171に関して
通説的見解では、なかなか、究極の選択といっても難しいようだ。
丑の刻参りのような話があれば、確かに、客観面は余分とまでは言えないだろう。
理論的に不徹底のような気もするが、もともとの前提が、主観と客観の綜合だから
まあいいか、みたいな。
個人的には牧野説にも萌え〜
時間があれば一読をお勧めします
ようやっと、混合惹起説の形がみえてきたので、報告する。
結論からいえば、混合惹起説は惹起説ではない。
惹起説とは、共犯の処罰根拠につき、法益侵害結果ないしその危険の惹起に求める見解であり、共犯行為と結果との間の因果性を要求する。
ここで求められている因果性は、共犯から見た因果性である。
因果関係について、人により異なることを認める見解(折衷説)からは、誰から見た因果関係かに注意しなければならない。
そして、大谷氏は(共犯行為と正犯の実行行為の因果関係)+(正犯の実行行為と結果の因果関係)と2段階で、因果関係を考えるのであるが、
この後者の(正犯の実行行為と結果の因果関係)はあくまで、正犯から見たものを想定している。
したがって、彼は惹起説ではない。
因果関係について、人により異なることを認めない見解ならば、正犯の構成要件を借りてきたところで、共犯行為と結果との間の因果性に問題は生じない(前田氏とかの修正惹起説)。
しかし、折衷説(因果関係)からは、そうはいかないのである。
これを大谷氏がどの程度自覚しているかはわからない。
しかし、共犯の処罰根拠論のところで、責任共犯論と違法共犯論にしか分けないあたり、確信犯の匂いもする。
というのは、違法共犯論の中身を狭義の違法共犯論と、惹起説に分けると、自説が前者に近い事を看破されるからである。
さらに、団藤氏や大塚氏を混合惹起説に含めているあたりからも、彼自身が、自説が惹起説でないことを自覚している匂いがする。
では、彼の説の正体は?
まあ、正犯に実行行為をなさしめたこと(責任共犯論の実行行為バージョン)を処罰根拠だと考えているのだろう。
このように考えると、未遂の教唆の可罰説も説明可能である。主観的には正犯に実行行為をさせることの認識があれば十分だからである。
また、正犯なき共犯は不可罰となる。正犯に実行行為をさせていないから。
さらに、共犯なき正犯(法益主体が第3者に自分を殺すことを教唆したが、未遂におわった事例)については、可罰説が素直だろう。
正犯に実行行為をさせているので。
共犯の処罰根拠について、中山派氏との議論は、多くの示唆に富むものであった。感謝する。
今、思ったのだが、中山説によると、正犯と共犯の区別は、自らの手で犯罪を実行したかどうかで決まることになるのか。
そして、その区別はあまり重要ではない・・・。
大谷説によると、正犯と共犯の区別はどうなるのだろう。
正犯=実行行為を行ったもの。共犯=正犯の実行行為に加功したもの(正犯に実行行為を決意させたものが教唆犯。正犯の実行行為を容易にしたものが幇助犯。)か。
ただ、この話は見張りが、共同正犯or幇助犯いずれにあたるか、という所で議論されるので、これだけ話しても、どうしようもないかも。
共同正犯は正犯か共犯か。大谷氏はその中間に位置すると述べているが。
この辺について、意見を聞きたい。
大谷説の正体はわたしにも分からない。
本人はあらゆる刑法理論を分析して統合して止揚したつもりかも知れないが、
今さら言うまでもなく、無理がたたってあっちこっちで矛盾を来しているようだ。
大谷説こそ本当に解説本が必要かも知れないが、書ける人がいるかどうか……
中山説は間接正犯や共謀共同正犯を認めないので、
構成要件に該当する行為を自らの手で行うかどうかで区別する。
ハッキリ正犯と言えるものを除き共犯になるので分かりやすい。
通説(中山説以外)のように間接正犯や共謀共同正犯を認めると、
定型的にとか規範的にとか実質的にとか、どこかで基準を設定せねばならないが
万人が納得できるような説明は相当困難だろう。
共同正犯は正犯か共犯か、ということについて、
<責任共犯論(団藤・大塚説)的な感覚>
共同正犯については、一つの構成要件の枠に数人が加功すると考える。
(弁当箱(構成要件の枠)にみんなで一緒に中身を詰め込んでいくようなイメージ。)
狭義の共犯については、正犯の(完成した)犯罪に対し、共犯が関与すると考える。
(正犯の車(犯罪)に共犯の車が追突して、正犯の車が電柱にぶつかる(犯罪結果)ようなイメージ。)
このように、責任共犯論では、共同正犯と狭義の共犯を質的に異なるものと捉える
共犯の従属性の話は、狭義の共犯を前提として組み立てられているため、
それを共同正犯に適用するのはちょっと無理があり、学説(藤木説だったような)によっては、
共同正犯と狭義の共犯を分けて、それぞれ別個に理論構成していたのもあったと思う。
なお、大塚は、従属性の話は共同正犯にも適用可能と言ってたと思うが、理由を示していない。
<因果的共犯論(平野説、中山説)的な感覚>
他人の行為と因果関係を、自己の因果関係に組み入れ、自己の犯罪を実現するという感覚。
共犯理論の本質は「他人の行為と因果関係を自己の因果関係に組み入れる」ことにあり、
このことは共同正犯でも狭義の共犯でも変わらない。
(共同正犯でも、自己の実行していない部分については、上記の共犯理論が適用される。)
このように共同正犯と狭義の共犯は、同一の理論で統一的に説明できる。
共同正犯と狭義の共犯の違いは、自ら構成要件に該当する行為を行うかどうかの程度の差に過ぎない。
責任共犯論的な感覚からすると受け入れ難いだろう。
なお、共同正犯の「一部実行全部責任の原則」の実質的な根拠をよく説明できるのもこの説の自慢。
<大谷説>
大谷も、共犯の従属性云々は狭義の共犯だけではなく共同正犯にも適用されると言ってるが、
理由はよく分からないし、適用されると理論的にどうなるのかも示されていない。
この部分は大塚説に非常によく似ている。
大谷の言うところの、共同正犯が正犯と共犯の中間であるということの意味が、
自ら実行する部分については正犯で、自ら実行しない部分については共犯という意味なら、
これ自体は因果的共犯論の感覚なので、別段、変なことは言ってないと思うが、
大谷説全体からみればいつもの迷走状態と思う。
<ついでに乱入前田説>
ちょっと飛ぶが、大谷説よりも更にわけが分からない。
前田説の構成要件が実質的構成要件{(構成要件に該当する)=(犯罪が成立する)}であれば、
最小限従属性説といってもガチガチの完全犯罪共同説になるような気がするが。
共犯の従属性の部分を適当に流しているのは、深入りするとやばいという判断からか?
あんたらすげーよ。マジでスゲーよ。
凄いけど・・・
>>181 「君もブラジャーを買ってもらえる歳になればそれがわかる」
……世の中には色々な言い方がある。
「君は学者向きだね」
……世の中には色々な言い方が、ある。
大谷先生の基本書は本人が書いてるんじゃないから
どうでもいい。
学会では結果無価値派だし。
訂正。176でまとめた事についてだが、大谷氏の説は「結果無価値の惹起」とはいえないが、「行為無価値の惹起」となら言える。
この意味での惹起説ならば、彼もその中に入れても良いようだ。ただ、前述のように、これは結果無価値の惹起説(普通の)とは、明確に異なるものだ。
この際、「実行行為惹起説」と命名するのが良いか。
内容面での訂正ではない。念のため。
>>178 そうか、共謀共同正犯も否定か。一貫している。
教唆にできる行為ならいいが、幇助にしかできない行為の場合、科刑の点で明確に不都合だとおもうが。
>>179 共犯の従属性の話というのは?
共犯は正犯にどこまで従属すべきか(従属性の程度)という話だろうか。
大塚氏は違法性まで従属する事をみとめる(制限従属性説)。
共犯の処罰根拠について、違法な正犯行為を惹起した(不法共犯論)ところにもとめるので、当たり前の結論。
従属性の話が共同正犯にも適用可能というのは、みんなでやった特定の犯罪行為が、構成要件、違法性のところまでは一体として考えられる。ということを言ってるだけで、そんなにおかしくはないとおもうが。
一応、狭義の共犯と共同正犯は分けて考えた上での話だとおもう。
モデルについては感心した。
因果的共犯論の立場から大谷氏の説明は受け入れやすいのだな。
おそらく実行行為共同説とやらもそのあたりからきているのだろう。
しかし、
大谷氏は因果的共犯論(結果無価値の惹起説)からの説明は捨てざるをえない。
共同正犯と狭義の共犯を統一的に説明するのは大谷説からは無謀だ。
というのは、
正犯はあくまで、法益侵害ないしその危険を惹起せしめた所に処罰根拠がある。
これに対して、未遂の教唆の可罰説、及び団藤、大塚と自分をひとくくりにしているところからは、共犯の処罰根拠について、「正犯に実行行為をさせたこと」と考えてるとしか思えない。
共同正犯に、狭義の共犯の処罰根拠をもってくるのは厳しいだろう。
その意味では、共同正犯は正犯と考えるべきか。
したがって、大谷説から共同正犯と狭義の共犯を統一的に説明することはできない。
うーむ。ほんとに、キメラだなあ。
ちょっと、「実行行為惹起説」からのスジにこだわりすぎたようなので、反省の意味もこめて。
共謀共同正犯を認めるにあたって、大谷氏は包括的正犯説ということだが、否定説の流れである@共同正犯は正犯である。A正犯とは実行行為を行うものである。B共謀それ自体は実行行為ではない。のいずれを否定しているのか。
巷間いわれているのは、包括正犯説はAを否定するということだが、大谷氏の包括的正犯説は@の否定ではないか。
大谷説に詳しい人がいたら、教えてくれ。
>>183 多くの学生は基本書で勉強するのである。
その基本書の矛盾を学生から突かれて「自分がかいたのではないから」と答えるのは学者云々以前に人間としてどうかと思う。
大谷氏もまさか、そこまで落ちてはいまい。
実行行為惹起説についてふと思ったこと
実行行為惹起説は何となくスッキリしないが苦肉の策としては仕方がないかと思っていたが、
何故スッキリしないか考えを整理しようとしてみました。
責任共犯論っぽい説(?)([ ]は構成要件。以下同じ。)
(共犯)[教唆・幇助行為;因果関係;正犯の犯罪実行決意]
(正犯)[実行行為;因果関係;法益侵害結果](未遂犯の場合は未遂としての結果。以下同じ。)
共犯の構成要件は共犯の独自部分に限られるが、共犯の成立のためには正犯の成立を前提とする。
構成要件論+惹起説その1
(共犯)[教唆・幇助行為;因果関係;正犯の犯罪実行決意;正犯の実行行為;因果関係;法益侵害結果]
(正犯)[実行行為;因果関係;法益侵害結果]
共犯構成要件中の「正犯の実行行為、因果関係、法益侵害結果」は正犯の構成要件の中身からコピー。
構成要件論+惹起説その2
(共犯)[教唆・幇助行為;因果関係;法益侵害結果]
共犯独自の観点から因果関係、法益侵害結果を検討。
実行行為惹起説(大谷説?)
(共犯)[教唆・幇助行為;因果関係;正犯の犯罪実行決意;正犯の実行行為]
(正犯)[実行行為;因果関係;法益侵害結果]
共犯構成要件中の「正犯の実行行為」は正犯からコピー。
共犯の構成要件が正犯の実行行為までとすれば、正犯の既遂未遂は共犯には無関係か?
正犯の因果関係及び法益侵害結果を正犯から借り受けるだけであれば、
共犯の構成要件の内容が、共犯の構成要件の枠を超えてしまう。
正犯の構成要件を全部セットで借り受けるとすれば、「正犯の実行行為」が重複する。
因果関係と法益侵害結果のみ構成要件の枠付きで借り受けるのは御都合主義?
やはり何となくスッキリしない。
中山説における教唆と幇助
通説的見解では、
教唆とは犯罪実行の意思を生じさせることで、幇助とは犯罪実行を容易にすること、という
素朴な意味の通りに理解しておけば別に難しいことはないだろうが、
中山説では、
間接正犯なども教唆犯に取り込んでいるので、
自らは実行行為を行わず、他人を巻き込んで犯罪を実行させることが教唆犯で、
巻き込まれて実行行為以外の行為をすることが幇助犯、というように、
何やら分かったような分からないような変な説明になってしまう。
わたし的には、教唆犯と幇助犯の区別がつきにくいのは問題だと思う。
従属性と責任共犯論
従属性の意味をハッキリ書かなかったのでスマソ。
責任共犯論的に、共同正犯と狭義の共犯を質的に別と考える場合には、
狭義の共犯をモデルとした従属性の理論を共同正犯に適用するのはちょっと変、という意味でした。
大塚説が内心的責任共犯論なら、流れ的というか気分的にはちょっと変、ということです。
また、従属性の意味を「特定の犯罪について、構成要件、違法性レベルまで一体として」とすると、
「従属」という言葉の語感からちょっとずれるのでは?
前のカキコは、結論だけを直観的に書いていて、論理的に厳密に詰めていったわけではないので、
この点はご容赦を。
185について
残念ながら、わたしは大谷説の専門家ではないので。
頻繁に改説してるし、バグが多いし、どうやって成り上がったのか分からんし、
専門に研究する対象としては面白いかも知れないが、果たて意味があるか……
わたしはそんな有閑階級ではないし……
なお、定期的に183と同じ書き込みが上がっているようだが、
ひょっとすると狂信的な大谷シンパの陰謀だったりして(笑)
なるほど。早くも破綻したか。
『世の中に「正犯の構成要件」を作り出したこと』これを処罰根拠としているという考えも駄目?
>>185すみません.大谷説ですがわかりません。
確かに、そう感じる部分もあるんですが(新版456参照)。
法学教室の連載(エキサイティング刑法?)で、そんなようなことをいってた記憶もあります。
>>179 前田説云々の部分がよくわからない。
教えてくれ。又、前田説の人がいたら、反論してみて。
大谷説について。
今、又、妖しげな説明を思いついた。
大谷氏は、正犯とは実行行為を行う者だが、実行行為は行為者の意思に支配されていればいいと考えているのではないか。
実行行為の開始=実行の着手だが、この実行の着手は、行為者の手を離れたところにも認めうる。
つまり、他人の行為や、責任無能力状態の自己の行為であっても、それが行為者の意思に支配されていれば、その行為者の実行行為と評価しうる。
間接正犯の着手時期の個別化説しかり。原自行為しかり。
この意味で、行為論が先行しているというよりは、意思論が先行しているという感じか。
見当外れだったらスマソ。
>>190 上記の通りならば、共謀者も実行行為を行っていると評価できる場合があるので、Bの否定というのもありうる?
規範的障害があるので無理か。
>>190 大谷氏は、実行共同正犯と共謀共同正犯という二つに共同正犯を分ける。
これらは、正犯か共犯かという位置づけが異なるのか?
感覚的には、実行共同正犯は正犯より、共謀共同正犯は共犯よりな感じだが。
大谷説バリバリの人、レスくれ。
>189
論理的に説明がつかないということはないと思うが、ちょっと……
論理というより気分の問題と言えないこともないが……
刑法は難しいね
>191
構成要件論からすれば、
共謀自体は実行行為とは言えそうにないが、
無理矢理、共謀共同正犯の成立のために共謀も構成要件の一部とするか、
行為者の行為が同時に背後の大物の行為であるということするか。
行為論からすれば、
行為と因果関係はあるので、後は構成要件を実質的に解してごまかすことも可能か。
否定説なら楽でいいけど。
実行共同正犯と共謀共同正犯を分けると、
本来的には教唆犯であるものを共同正犯に格上げしているという無理が、
どこかで露呈しそうな気がするが。
大谷説からの書き込み期待あげ!
二元論の大塚先生が、違法の連帯性を認めるのって変じゃないですか?
違法の連帯性の捉え方にもよるが、変ではない。
違法の連帯性を正犯が違法なら共犯も引きづられて違法になると捉えると、変。
そうではなく、共犯が成立するためには正犯が違法であることを要するという意味なら、変ではない。
言葉の使い方は変だが。大塚氏は「違法の連帯性」なんていわないのではないか。しらんけど。
大塚氏は共犯の処罰根拠につき正犯の違法行為を惹起した点に求めるので、共犯が処罰されるためには正犯が違法でなければならないのは当たり前。
大塚氏の説によると、正当行為を利用して犯罪を実現した場合などは共犯は成立しない。
間接正犯になる。このあたりは、中山説と逆だな。
ちなみに、正当行為だと誤信させて犯罪を実現した場合は?
やっぱ、間接正犯か。共犯理論からは教唆犯もありうる。
大谷説総本山(?) ↓
http://www.dnavi.com/bbs.html 理性的な対話ができるかどうか分からんが。
>195
二元説とは何と何の二元説のこと?
通説には疎いので(スマソ)
ちなみに事実と規範は法哲学、陰と陽は陰陽道
構成要件に故意と過失を詰め込めんだ場合、構成要件に該当すればほとんど話は
終わりなので、最小限従属性説でも制限従属性説でも極端従属性説でもあんまり
変わらない。制限従属性説の採用には、多少のごまかしは入ってるかも。通説は、
構成要件を大きくしすぎて、共犯論で身動きがとれなくなってるような気がする。
司法試験にガチガチの理論的整合性なんていらないんだよ
実務家養成試験なんだから。ぱっと見で一応筋が通ってて
結論が妥当ならそれでよし。
いつまでも重箱の隅をつつくような態度で学者の揚げ足取
ってばかりいるとベテ一直線だぞ。そんなに理論的整合性
追い求めたいんなら学者になれば?
同意
細々と200まで来たか
195の2元論というのは、違法性の本質につき、結果の無価値に加え、行為の無価値をも考慮する立場(一般に言われている行為無価値)を指しているとオモワレ。
で、少なくとも、行為の無価値には主観が影響するだろうから、これを正犯と共犯で「連帯」することはできないのではないかという疑問と理解したのだが。
>198
同意(笑)。
>中山派氏
大谷説総本山・・・パスワードとか言われてみれん・・・(・_・、
203 :
ML ◆cLw.sT.Q :01/11/30 11:57
かちゅーしゃにDLL導入テスト上げ
>A級戦犯氏
昨日はタダで入れたのに
なんでやろ???
ふと思ったこと
とある厨房が、掲示板をムチャクチャにアゲまくり、荒らしまくった場合、何罪?
206 :
Ratio:01/12/01 12:20
I was very happy to study Ooya's criminal law in the Dosisha Univercity.
But now,I think,he is a magician.
He made me his mad supporter of his theory.
But some people say,and,I think so,he is great,The Great Boss of the criminal law mafia.
(´-`).。oO(原自行為や共犯の処罰根拠論が重箱の隅なら、真ん中にはなにがあるんだろう・・・)
真ん中は各論に決まってるジャン。
>>197 『通説が構成要件を大きくしすぎている。』というのは、因果関係の折衷説とかだろうか?
確かにそうかもしれない。惹起説に行きづらいという欠点をかかえてしまっている。
>>176参照。
前田氏のように主観的帰責は別立てでやるとか?(笑)
そもそも、刑法の因果関係というのは、なんなんだろう?
社会通念上、実行行為から生じた結果といえるものをより分ける道具・・・(通説?)
うーむ。
>>208 各論かあ。公務と業務の違いとか?(w
>>205 業務妨害罪?
総論は刑法研究の中心ではない。
哲学と同じで答えが出ないことについて遊んでいる。
各論が中心。
また、いままでの裁判で原自行為なんかろくに必要とされてもいない。
共犯処罰根拠についても同様。
各論における当てはめが大事。
司試論文でも同じ。
はいはい。
>>191 >大谷説について。
>今、又、妖しげな説明を思いついた。
>大谷氏は、正犯とは実行行為を行う者だが、実行行為は行為者の意思に支配されていればいいと考えているのではないか。
>実行行為の開始=実行の着手だが、この実行の着手は、行為者の手を離れたところにも認めうる。
>つまり、他人の行為や、責任無能力状態の自己の行為であっても、それが行為者の意思に支配されていれば、その行為者の実行行為と評価しうる。
>間接正犯の着手時期の個別化説しかり。原自行為しかり。
>この意味で、行為論が先行しているというよりは、意思論が先行しているという感じか。
怪しげな説明というより、大谷説はそういう風に理解していた<一応大谷説
原自行為の際に、大谷はどこかで「ひとつの意思に貫かれている」という表現をしているはずなもので。
その意味で原自行為は「(大谷説の)間接正犯」類似説か?
実務で現時行為なんて不要でしょ
気が狂ってたって「責任能力はあった」って認定しちゃえば
それまでなんだから。実務なんて結論先にありきでしょ
>>213 あなたは100%正しい。
もっと言えば、120%正しい
ただ、中山派氏とA級氏との議論も興味深いのも、事実であるので、
この流れは放置しておいてやってくれ
>A級戦犯氏
構成要件論の肥大化について
構成要件論に、行為、因果関係、故意・過失をぶち込んだ結果、
構成要件に該当しただけで、ほとんど犯罪成立となってしまい、
違法論・責任論では、違法性阻却・責任阻却を論ずるだけでよくなってしまう、という意味。
(ただし団藤・大塚説は違法故意とか責任故意とか話を蒸し返すのが好きなようだが。)
故意・過失を責任論に置いておけば、共犯論の制限従属性説を採用した場合、
過失致死罪の正犯に対する殺人教唆罪が成立するが、
構成要件論に持ってくると、従属性のところで何説を採っても、
過失致死の利用は間接正犯になってしまう。
で、実際上の結論は、制限従属性説も極端従属性説もあんまり変わらない(ちょっとは違うが)。
責任共犯論で「正犯を堕落させた」といって、モラリストみたいに見られるのがイヤなので、
{構成要件論(行為、因果関係、故意・過失入り)+制限従属性説}でごまかしてるのかも。
205に関して
他に器物損壊罪にならないかな???
誰かアゲ荒らし厨房が捕まってくれればいいのだが。
因果関係
哲学の深みにはまりそうですな。
ネタとしては周辺の断片的な知識しか持ち合わせがないので何とも……
宅間を責任無能力なんて認定したら避難ゴウゴウだもんね
レス遅れて申し訳ない。
まず、
>>212氏へ。
大谷氏は「意思による行為支配」を重視するのだな。
その場合、意思は、実行行為の一部なのだろうか?それとも、実行行為を離れて、「行為支配の意思」(『自己の思い通りに犯罪を実現する意思』と同義か)を考えているのだろうか?
共謀共同正犯についても、行為支配の意思が共謀者にあり、その意思に基づいて実行担当者が実行行為を行ったとみる余地があり、(共謀)共同正犯を正犯として説明することができる。
もっとも、大谷氏の説明はこれとは異なる。
大谷氏の考える共謀共同正犯とは?
正犯とは、自己の意思通りに犯罪を実現していなければならない。
ところが、(共謀)共同正犯は自己の意思通りに犯罪を実現しているとまでは言えない。
したがって、(共謀)共同正犯は正犯ではない。
にもかかわらず、法が、共同正犯を「正犯」として扱い、一部実行全部責任を認めるのは
個々の共同実行の意思が他人の行為に及ぼしている影響(支配よりは弱い)に鑑みてである。
とすれば、現実に実行行為を担当していないものも、共同実行の意思により、実行行為に影響を及ぼしている限り共同正犯とできる。共謀共同正犯肯定。
こんなかんじだろうか?
中山派氏へ。
そうか、そう言う意味か。そういう意味なら、構成要件は前田説が一番大きい気がする。
まあそれはさておき、『 故意・過失を責任論に置いておけば、共犯論の制限従属性説を採用した場合、過失致死罪の正犯に対する殺人教唆罪が成立するが、
構成要件論に持ってくると、従属性のところで何説を採っても、過失致死の利用は間接正犯になってしまう。』とのことだが、前半は、確かに、と言う感じだ。
後半は過失犯に対する教唆犯を認めない見解からだな。
通説が故意過失を構成要件に引き上げたのは、その方が思考経済において優れていると考えたからだろう。
責任のところまで行かなければ、どのような犯罪が成立するかわからないというのでは、経済的ではない。
結論としても、看護婦の不注意を利用して犯罪を実現する場合など、殺人罪の教唆犯というよりは殺人罪の間接正犯としたほうが、実体に合うような気がするが。
また、正犯が過失致死なのに、これを教唆した人間が殺人教唆に問われるというのは、「教唆」概念の弛緩だともいえる。
まあ、このへんは好きずきだと思う。特に通説の枠組みが劣っているとはおもわない。
優良スレにつきあげあげ〜〜〜
通説のように最初に形を決めて考えるか、
中山説のように最初に形を決めないかについて、
また、構成要件から入る場合でも、
因果関係論で客観説を採り、因果的共犯論・行為共同説を採用することもできる
というその辺りも考えると、
どの体系も一長一短で、好みの問題のようだ。
ただ、個々具体的な論点での結論が体系とどうしても結びつかないとすれば問題だけど。
団藤・大塚はいいけど大谷は……
共謀共同正犯については、
団藤・大塚説のように構成要件から入るという場合、
実行共同正犯の構成要件は通常の構成要件で済むところ、
共謀共同正犯の構成要件では、[{共謀}+{通常の構成要件}]としなければならないだろう。
本来は構成要件ではない共謀行為を構成要件に取り込みむことから、
共謀行為は、原因において自由な行為の原因行為と類似している。
間接正犯類似みたいな説明があったかどうか忘れたが、
行為支配説は感覚的にはそれに近いではないか。
行為論を独立させて共犯論で因果的共犯論、行為共同説を採ると、
共謀共同正犯の説明は苦しくなりそうだ。
因果関係の判断では、共謀から犯罪結果まで因果関係ありとして肯定されるのだが、
構成要件該当性の判断で、共謀共同正犯の構成要件を[{共謀}+{通常の構成要件}]と
するのであれば、教唆犯と変わらない。
教唆犯との違いを説明しなければならないができるかどうか……
団藤・大塚説では、教唆犯の構成要件は上記の式では{共謀}までなので、
共謀共同正犯とは、形式上は明確に区別できる。
>中山派氏
なんか220で呼ばれてるけど・・・。
223 :
縞栗鼠(シマリス)の親方:01/12/07 13:03
今日は多忙につき
呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン
というわけにはいかなんだ
>>217 大谷の基本書によれば
間接正犯が直接正犯と同視される根拠は、利用者が被利用者の動作ないし行為を自己の意思に基づいて支配し、
いわば自己の思い通りに動かして所期の目的を実現する点にある
責任の前提として責任能力が必要とされる根拠は、犯罪的結果が責任能力のある状態での意思決定に基づいて
実現しているときに初めて非難が可能であるという点にある。それゆえ、自由な意思決定に基づく原因行為があり、
それに基づいて結果行為が行われた以上は結果行為は責任能力状態での意思決定の実現過程に他ならないから
完全な責任を問うことが可能(原因において自由な行為)
この考え方からすると、実行行為の定型性は団・塚と比べて緩やかなのだろう。
意思による支配範囲を実行行為の射程範囲と捉えているのかもしれない。
大谷説では意思論が先行しているという
>>191の解釈で正しい気がする。
>中山派氏
なるほど、因果的共犯論からは、教唆と共謀共同正犯の区別がつきにくいか。
中山派氏が以前書かれていた、「(共謀)共同正犯は共犯と捉えることになる」からだな。
逆に、責任共犯論からは(共謀)共同正犯は、正犯と捉えるので、そんなに苦しくはない。
しかし、正犯とは実行行為を行うものをいうところ・・・共謀者は実行行為を行っていないので、正犯とはいえないというところから、団藤氏や大塚氏は共謀共同正犯を否定していたのだな。
ここで、共謀者も実行行為を行っているというためには、間接正犯的な思考が不可欠だろう。
>>212=225?
大谷説の紹介、感謝する。大谷説からの書き込みがないと、このスレはもりさがるので。
意思による行為支配といのは、行為論のところで、「意思支配の可能性」というのとつながっているのだろう。
なんか、「意思による支配」の是非について語り出すと、目的的行為論がどーしたこーしたということをいわなきゃならんくなりそうだな。
やめとこう。しらんし。
中山説が、一番実行行為概念は硬い。直接、自らの手で行わなければならない。
次が、団藤、大塚説。他人を利用してもいい。間接正犯肯定。ただし、実行行為は利用行為であり、行為者の自然的行為を離れたところに実行行為をみとめているわけではない。
さらに緩やかなのが、大谷説か。自らの自然的行為を離れたところにも、意思による支配が及んでいれば、実行行為を認めうる。
こんな整理をしてみたのだが、どうだろう?
みなさん、ムツカシイ抽象論は頭の中で図式化してるんですか?
なんか何説がどうとか、私にはわかりづらいんですが・・
共謀共同正犯について大谷説。
なんか、レスがないのであんまり伝わってないのではないかと思って補足の説明を。
大谷氏は、共同正犯を「正犯」とはかんがえていない。それを「正犯」と擬制したのが60条だと。
そして、共謀共同正犯について、完全な行為支配があれば認められる(行為支配説)というのであれば、それは、もう正犯(
>>226参照)であり、60条の適用を待つまでもない。
したがって、行為支配説は大谷氏に言わせれば矛盾を含んでいることになる。(団藤、大塚ならべつに矛盾じゃない)。
そこで、大谷説から共謀共同正犯はいかに位置づけられるか?
まず、共同正犯の位置づけから。
共同正犯は、行為支配よりは弱い共同実行の意思によって相互に利用補充しあっている。
そこに「正犯」と擬制される根拠がある。
共謀共同正犯においても
共謀者は行為支配よりは弱い共同実行の意思によって、実行担当者の行為に影響を与えている。
実行担当者も共同実行の意思によって、共謀者を心理的に利用にしている。
(これなら実行担当者は正犯そのもののような気がするが。)
したがって、共謀共同正犯肯定。
なんか、自分で書いてて、怪しいので、批判的検討を待つ。
>>227 図式化はされてないと思います。
淡々と、この論点には、〜説と〜説と・・があり、それぞれの説に
理由と批判を覚えているだけです。
論文では、何説がどうとかわかりづらくてもなんとかなりますが、
択一が辛くありませんか?
私は上記のように覚えていますが、択一では苦労してません。
ただし、今の時期はあまり明確に覚えてないから辛いですが(^^;)
ちなみに ここ大谷刑法を糾弾するスレでの議論ほどに細かいところは
択一でも出ない気がします(笑)。
私は大谷説なので 自己の理解の検証としてよく出入りしていますが。
212=225=私です(書き忘れた)。面倒だといけないので一時的にコテハンにすることにする(昔、大谷を「おおたに」だと思ってたのです)。
共謀共同正犯について、A級戦犯氏の意見の問題点が見つからずレスに困っている。
大谷基本書によれば
共謀共同正犯の所で団籐説や大塚説(優越支配共同正犯説)に対して、行為支配が認められるのであれば単独正犯を認めれば足りると解するべき
と評している
やはり、ここでも定型性をゆるめて意思による支配を優先しているようだ。
犯罪を共同して遂行するという合意(共謀)に基づき、相互に他人の行為を利用し補充し合い、その結果として犯罪を実現した以上、実行行為を分担する場合であると実行行為に向けて行為を共同する場合であるとを問わず、全て正犯とすべきであり
と表現している。
うーん この表記だけだとよくわからないがA級戦犯氏の解釈で良いのではないのか?。
他の大谷文献にもあたってみるか・・・
このような観点から思うに、
・原自行為に関しては、大谷説的見解からすれば、間接正犯類似説と平野・西原的説とは同じものと考えうる。
(あくまでも大谷説にとっての間接正犯という点からすると)
・未遂の教唆を可罰説にするのは、やはり矛盾であると考えられる気がする。自己の意思を基準に実行行為を考えるならば、
正犯の実行行為を通じて間接的に法益侵害・危険を惹起したと言えないのではないか?。
未遂の教唆について、大谷基本書の記述は非常に薄いので、実はほとんど考えてないのではないかという気がする(笑)。
ご苦労さん、ベテども
226のA級戦犯氏の考えを図式化すると
{形式的 規範的・実質的}
{中山 >> 団藤・大塚 >> 大谷、前田}
雰囲気的には分かるのだが、A級戦犯氏が「実行行為概念」としているところは、
精確に記述すれば、
「「正犯としての実行行為」は、自らの手で行う必要があるかどうか」、という問題における、
「自らの手で」の意味を形式的にとらえるか規範的・実質的にとらえるか、
ということになると思う。
次の事例(間接正犯における実行の着手)から考えてみたい。
{1利用者が被利用者を誘致 >> 2被利用者が襲う(具体的危険の発生) >> 3被害者死亡}
この場合、どこで実行の着手ありとするか?
団藤・大塚であれば1の段階だが、大谷、前田では2の段階だろう。
すると、団藤・大塚説の構成要件は{1〜3}だが、大谷説、前田説の構成要件は{2〜3}。
行為論を構成要件内部に取り込む考え方から、大谷説、前田説では1は切捨てられる。
中山もこの場合は大谷、前田と考え方も結論も同じで、実行の着手は、
実質的な危険が高まった2か3辺りと言っている。
ただ、中山説では行為論で1から3までの因果関係を論じ、
次に、構成要件論で{2〜3}までを構成要件に該当すると判断する。
原因において自由な行為について、前にどっかで書いたと思うが、また事例で。
{1酒を飲む(原因行為) >> 2ナイフを振り回して刺す >> 3 被害者死亡}
この場合、上記のどの説でも、本来的には、構成要件は{2〜3}でなければならない。
構成要件論から責任を問うためには、構成要件を{1〜3}へ拡大しなければならない。
単に構成要件を広げるだけでは、構成要件で犯罪の限界を画するという意味がなくなる。
故に、団藤・大塚は、間接正犯類似という説明を用いて原因行為も構成要件に取り込んだ。
しかし、大谷、前田のように実質的な危険という観点から構成要件を捉えようという観点からすると、
間接正犯の実行の着手時期を遅らせている以上、間接正犯類似という説明はできない。
だから、常識的には、どう考えても酒を飲む行為に実質的な危険がなさそうでも、
ウソでもいいから「危険がある」と言うしかない。
前田はこの事情を理解して、常識的には実質的な危険が「ない」ものを「ある」と言うために、
1と2の間か1から3の間か忘れたが、特別強力な因果関係があればとか何とか言っていた。
大谷は単に因果関係があればと言っているが、この辺の事情を理解していないのではないか。
なお、最近川端の総論を立ち読みしたが、川端もこの事情を理解しているようには見えなかった。
行為論を前置する立場では、行為論で1も拾ってるから、あまり難しいことは言わなくてもいい。
共謀共同正犯について、例によって事例。
{1親分が命令 >> 2子分たちが討ち入り >> 3被害者を殺害}
実質的な危険が高まるのは2の段階なので、
大谷、前田的な考え方からすれば、実行の着手とせねばなるまい。
本来的には、正犯としての構成要件は{2〜3}であるべきということになる。
ここで、共同正犯とは、
「一個の{構成要件}を二人以上で充足していくものである」こと(犯罪共同説的な)を
前提として考えてみると、次のようになるのではないか。
共同正犯の本質を、正犯であると考えるのであれば、
正犯としての構成要件は{2〜3}であるため、
共謀共同正犯の構成要件も、正犯としての構成要件と同じく{2〜3}ということになり、
構成要件の枠外にいる親分が正犯になることは有り得ない(構成要件にかすりもしない)。
しかし、共同正犯の本質を、共犯であるか、{共犯+正犯}であると考えるのであれば、
共犯としての構成要件{1}を、正犯としての構成要件{2〜3}に加え、
共謀共同正犯の構成要件は{1〜3}であるとすることができる。
故に、親分も共謀共同正犯の構成要件該当行為を行ったことになる。
この考え方は、実質的にというよりも理論的に、共犯を正犯に格上げするとすることになる。
大谷は「共同正犯が正犯だ」と言っていないようなので、この部分では筋は通ってるだろう。
団藤・大塚説なら、正犯としての構成要件を{1〜3}とすることもできそうなので、
共同正犯の本質を正犯と解しても、背後の親分まで構成要件に取り込むことができる。
形式的には、実行犯も正犯なら共謀共同正犯で、実行犯が道具なら間接正犯になるか。
実際に区別がつくかどうか分からんが。
中山派氏へ
>>234で
>すると、団藤・大塚説の構成要件は{1〜3}だが、大谷説、前田説の構成要件は{2〜3}。
>行為論を構成要件内部に取り込む考え方から、大谷説、前田説では1は切捨てられる。
とある。
実際に大谷教授がどのように考えているのか、微妙だが、
どの事例でも1は切り捨てられるものではなく、1〜2を一体に捉えて実行行為としていると思われる。
そして、
>>235で述べられている
>構成要件論から責任を問うためには、構成要件を{1〜3}へ拡大しなければならない。
>単に構成要件を広げるだけでは、構成要件で犯罪の限界を画するという意味がなくなる。
構成要件の「定型性」については、
「酒を飲み自己を責任無能力状態に陥れてナイフを振り回して人を刺す」行為が、
社会通念から見て殺人と言えるか、というような社会通念上レベルでの実質化を
認めるのが大谷説だ(前田は、社会通念上ではなく、裁判官が判断する)。
その意味での実質化は、定型性を失わないと大谷教授は主張している
(具体的にこう言っているわけではないが、エキサイティング刑法などの対談などを
読んだりした感じでは、こういう主張だと思われる)。
また以前の書き込みでも中山派氏より説明があったが「間接正犯の実行の着手時期を
遅らせている以上、間接正犯類似という説明はできない」の部分が、
何故「説明はできない」のかが理解できない。
頭脳が眠っているらしいので、もう少し考えてみる。
>237おおたに氏
>実際に大谷教授がどのように考えているのか、微妙だが、
>どの事例でも1は切り捨てられるものではなく、1〜2を一体に捉えて実行行為としている〜
「一体として」とは、具体的には何をどうすることを言うのだろうか。
例えば、医者が看護婦に毒入り注射器を渡す事例で、自然的行為の流れが次のようになったとする。
1医者が毒入り注射器を看護婦に手渡す
2何も知らない看護婦が患者に注射する
3患者に毒が回り患者が死亡する
「一体として」とは単純に上記1と2を算術的に加算するということか。
そうすると、構成要件としては、{{1+2}+3}ということになりそうだが、
多少、屁理屈が入るが、{{1+2}+3}={1+2+3}で、
団藤・大塚説と同じく、実行の着手時期は1の時点にならざるを得ないのではないか。
しかし大谷説の結論からすると、大谷がこう考えていることはなさそうだ。
では、単なる行為と因果関係としては{1>2>3}と考えるが、
実行行為は2と考え、1は実行行為の前段階として検討するという意味だろうか。
これは、犯罪論の体系を{行為、構成要件、違法性、責任}とする考え方にほぼ一致する。
しかし大谷は{構成要件、違法性、責任}の三分説で、「裸の行為論」明確に否定している。
考えられるのは、
構成要件としては{2〜3}であるが、
構成要件に該当する{2}は、単なる自然的行為ではなく、
行為{1}を分析的に包含するものとして観念された{注射する}である、ということだろう。
即ち、{注射する}とは、自然的行為が、(大谷説的にいえば)規範的に、再構成されたところの、
{医者が看護婦をして注射せしめる}という意味に観念された、{注射する}である。
こう解すれば、間接正犯の着手時期は2の時点ということになる。
「一体として」とは、この意味ではないかと推測しているのだが、どうだろうか。
詰まるところ、視覚的に表現すれば以下の如く。
自然的行為の流れ 大谷説の構成要件(要素)
1医者が毒入り注射器を看護婦に手渡す
2何も知らない看護婦が患者に注射する = 1医者が看護婦をして注射せしめる
3患者に毒が回り患者が死亡する = 2患者に毒が回り患者が死亡する
>>234 正確な指摘、ありがとう。そういえば、実行の着手時期については、前に、書いてあったような。
スマソ。
>>おおたに氏、中山派氏。
結局、大谷説によると、マインドコントールなどで犯罪を犯した場合、コントロールしている方を正犯と捉えることができる。
おもしろ!
今日は時間がないので、これにて。
age
241 :
胴無しモナー:01/12/10 15:42
_____________
∧_∧ /
( ) < 大谷刑法は
| | | \
(__)_)  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
クルッ _____________
∧_∧ /
(´・∀・`)彡< 改版が速い!
人 Y \
し (_)
そして、責任の基礎・対象としては、意思責任論に至る・・・。
というか、このあたりがスタートっぽいな。
あの〜。
間接正犯の成立要件がすごくややこしいんですけど、どういう考えに基づいているんですか?
@主観 行為支配の意思+故意
A客観 行為支配の事実+被利用者の実行行為
こんな感じではないだろうか?詳細は、おおたに氏にお任せ。
すいません。
間違えました。
不真正不作為犯の成立要件でした。
>>243 というか、このスレを読めばわかると思うが。
不真性不作為犯・・・
おそらく、作為義務の発生根拠につき、行為無価値的なものと結果無価値的なものを、両方とりこんでややこしくしているのだとは思うが。
大谷説や前田説のように着手時期を危険発生時まで遅らせる場合、
行為の意味を自然的行為に限るとすれば、
間接正犯は、
やっぱり気が変わって被道具者を引きとめるべきだったのに引き止めなかった、という
不真性不作違反になってしまう。
>>中山派氏
248は、確かに。
235は、うまく整理できている。感心した。
238は、私の理解と一致している。
>>243=245
もう少し、大谷氏の要件を書くなりなんなりしてくれると議論もしやすいのだが。
>どういう考えにもとずいているのか?との質問だが・・うーむ。
私の理解(いい加減だが)
不真性不作為犯を認めると、どーしても、処罰範囲が不当に拡大してしまう。
結果発生を防止できた者すべてを、とらえてしまう。(例えば、川で誰かがおぼれている場合に通行人で泳げる人はみんな殺人罪とか)
それでは、いかんので、なんとかして限定せねばならない。
そこで、学者が四苦八苦している。
大谷氏とかだと、「作為義務ある者(保障人)の不作為のみが実行行為性を有する」というわけだが、この作為義務がいかなる場合に発生するのか。
結果の妥当性をにらみつつ適正な処罰範囲を画さなければならない。
そのために、複雑な要件をたてているのだとおもう。
この辺の限定に関しては、倫理的なものを考えざるをえないというのが、学会の多数説だと思うが、中山説はどうなのだろうか?
>>245 不真正不作為犯の要件がややこしい?。ややこしかったっけ?。
あなたが どう理解しているのか もう少し詳細を希望。
大谷説だと、過失犯で、客観的予見可能性・客観的回避可能性、主観的予見可能性・主観的回避可能性
という要件があって 「具体的あてはめがよくわからない」と思うこと多々あり(苦笑)。
「構成要件的故意 と 責任」の問題と
「客観的予見可能性・回避可能性 と 主観的予見可能性・回避可能性」の問題が
パラレルなのだろうけど、
客観的予見可能性・回避可能性にどこまで具体的事情を入れて良いのかがわからないので困る
(規範的構成要件なんだからしょうがないのかもしれんが)・・・。
脱線した、すまん。
>>251 初学者なので上手く説明できないのですが、個人的には不真正不作為犯の成立要件は
作為義務・作為の可能性・作為との構成要件的同価値性
の3つでいいんじゃないかと思うのです。
それがなぜ、大谷説では
作為義務(@結果発生の現実的危険の発生、A作為によって結果発生が確実に可能となること、B社会生活上の依存関係があること、C結果発生防止のための作為が可能であること)があり、
作為義務に違反するという複雑な要件を設定するのか、理解しかねるのです。
そんなに複雑な用件を設けなくても、シンプルに3つの要件で考えればいいじゃないかと思うのですが。
基本書を読む限り、3つの要件で判断する考え方を否定しているいるようにも思えないですし・・・
結論はほぼ同じになるのでしょうから
あまり考えてみても意味がないのでは?
表現方法の違い程度に考えて、先の勉強に進みましょう。
中山説の不真性不作為犯
要件はハッキリしないが、作為義務に倫理的な持ち込むことには反対しているようだ。
判例の「既発の火力を利用する意思」にも反対らしい。
一旦車に乗せたけどやっぱり気が変わって捨てるみたいな「危険の引受け」を重視している模様。
通説と違い、行為と因果関係の後に構成要件該当性判断を行うので、
事後的に、客観的に、結果発生から遡ればいいと考えているのではないか。
故に倫理的なものや主観的なものは除かれ、「危険の引受け」が残るのではないかと推測している。
>>中山派氏
なるほど。しかし、果たしてそれで、妥当な処罰範囲を画することができるのだろうか?
例えば、川で子供がおぼれているとして、赤の他人の通行人は不可罰だろう。
しかし、親が通りかかってなにもしなかった場合やはりなんらかの刑法的な非難を加えたくなるのだが。
>>おおたに氏
ここで、過失犯を持ち出したのは、過失犯を不作為犯と捉える大谷説からは、不作為犯の構造と過失犯の構造がパラレルにならなければならないからか?
ちなみに、あなたのいう過失犯の構造は大塚氏のもので大谷氏のものではないとおもうが。
>>243 司法試験との関係では253の意見に全面的に賛成だ。
もし気になるのなら、大塚氏の要件と大谷氏の要件を比べてみて、どういう違いがあるのか考えてみるといいかもしれない。
構成要件的同価値性はどこへいったのか、とか。
>>255 A級戦犯氏
そうです。構成要件段階で判断できるかどうか微妙なものを
構成要件段階にも含めるという意味でパラレルだから、
全体的な記述も似ているから。
過失犯の構造は大塚氏と同じものなのですか?。
大谷説でもこうなのです。
そうか、私は、大谷と前田と山口(問題探求)を中心にやっているので
大塚説をよくわかっていないということが改めて明らかになった(^^;)
ご指摘ありがとうございます。ちょっと大塚説を立ち読みしてきます。
>>252 >>253 司法試験的には全くもって同意だ。
結論は変わらない。
3つの要件で判断するようにしても、大谷説の体系と矛盾するわけでもない。
説へのこだわりは、私は趣味・娯楽の一環と思っている。
特に初学者なら止まるより進むが吉だ。
一応、大谷説では何故、複雑な要件を設定するかについて説明すれば、
要件を厳密に設けた方が処罰範囲を明確化・限定化でき、罪刑法定主義にも
資するからであると考えて良いと思う。
不思議と下の方にあったのでage
不作為犯の因果関係について。なぜか、dat落ちしそうなので。(と思ったらだれかあげてくれてた。感謝)
不作為犯というのは、結果犯として考えた場合、どうしても、結果との因果性というやっかいな問題が出てきてしまう。
これは、刑法と自然科学との不調和が表面化する場面だ。
つまり、不作為は自然的、科学的にみれば「無」であることに疑いはない。
それを「期待された作為をしなこと」と構成するのは、自然的科学的ではなく、「規範的」に見ていることを意味する。。
それで実行行為のところでは問題を回避できたとしても、「PなければQなし」という自然科学的条件関係はクリアできない。
結局、「期待された作為がなされればそのような結果は生じなかったであろう」という、仮定的条件関係でごまかさざるをえない(しかも10中8,9。)。
ごまかさないとどうなるか?
自然科学的条件関係の放棄っていうのがてっとりばやい。行為無価値からはやってやれないことはないぐらいの感じか。
結果無価値からはどうだろう?自然科学的なものを重視するので、まあ、無理か。
次に、作為犯と構造は同じだと強弁することも考えられる。
つまり「PなければQなし」の公式において、結果である「Qなし」の証明は、特定の具体的な結果の否定で足りる。
これと同じように「期待された作為がなされれば結果は発生しなかったであろう」という場合の結果も、特定の具体的結果の否定で足りる。
すなわち、「命が助かった」という証明まではいらなくて、「そのような死に方をしなかった」ことの証明で足りると考えるのだ。
難しいなあ。
<不真性不作為犯について>
親が溺れかけている子供を見殺しにした場合、
最終的には価値判断というか好みの問題になりそうだが、
個人的には、そこまでやりたいか、みたいな感じ。
また、子供が溺れていたのは、実は第三者が川に突き落としたからとしたら、
不作為の承継的共同正犯(普通の感覚ではここまで処罰しないだろう)を
単なる同時犯、不作為の殺人として処理することになるのではないか。
第三者と親のそれぞれの因果関係のカラミがどうなってるのかよく分からんないけど。
<大谷説が何故に複雑な要件を設定するか?>
彼の性格でしょう。多分、死んでも治らない。
他人のマネをしたくないので何か一言付け加えたり、
対立説を(主観的には)Aufhebenしたり(ただし客観的にはツブレ形)。
一般論としては、要件を細かくすればその分だけ明確になるというか安全というか。
しかしあんまり細かいのもわけが分からなくなって困るかも知れないが。
<因果関係について(刑法からかなり逸脱)>
よく、自然科学では一万回も実験して疑いようがないほど厳格だが
法学では社会生活を安んじて送れる程度にアバウトでいいとは言うが、
本質的には、因果法則「AをBの条件とする」を事実に適用するということで、意味は同じ。
自然科学においても、実験結果自体は事実だが、
実験結果という事実から推認された因果法則自体は、事実ではない。
因果法則が学者の頭の中にあるだけか自然界内在の原理であるかという問題は別にしても、
因果法則は、事実ではなく、規範の世界に属する(因果「法則」と言うくらいだから)。
故に、自然科学の因果法則でも、事実がそれに一致することを絶対的に保障するわけではない。
神の法であれば理論上絶対といえるかも知れないが、所詮人の考えたことだから。
刑法の因果関係も、因果法則を事実に適用し、一致すれば因果関係ありと判断するという点で、
本質的には自然科学と変わるところはないだろう。
上記の基準からすると、不作為犯の場合、「A」に「非A」を代入だけで、作為犯と違わない。
しかし、最初に「事実Aなければ事実Bなし」という公式を立てたとすれば、
事実(作為)と非事実(期待された行為)を互換的に使用するのは何か変なので、
作為犯と不作為犯は本質的に違うと考える方が自然だし、感覚的にも違ったものに見える。
また、作為義務の関係から、「非A」領域にあるものすべてではなく
「非A」のなかから具体的な行為を幾つか特定して、公式を、
「仮に(事実非Aであるうちのある)期待された行為Cがあったとすれば、事実Bはなかった」と
書き直さなければならないので、話が余計に複雑になってわけが分かんなくなってしまう。
何なんだ
そうか。自然科学における因果法則も、規範的なものか。
そう考えるとすっきりする。ただ、どうしても、ある作為(ピストルの引き金を引く)がなかったならば、その結果は生じなかったというのと、ある不作為(子供を助けない)がなかったならば、その結果は生じなかったというのは違ってみえてしまうのだが。
これは、感覚的なものか。そうかもしれない。
さて、刑法に戻ろう。
『また、子供が溺れていたのは、実は第三者が川に突き落としたからとしたら、
不作為の承継的共同正犯(普通の感覚ではここまで処罰しないだろう)を
単なる同時犯、不作為の殺人として処理することになるのではないか。』
とのことだが、共同正犯にはならない。共同実行の意思がないから。あれば、処罰していいと思う。
『個人的には、そこまでやりたいか、みたいな感じ。』
確かに、親が通りかかっただけでは処罰しようと言う気にはならない。
しかし、ここで、「死んでくれたらいいな」と思って助けなかった親はやっぱり殺人罪に問いたい。
まあ、この辺は単に感覚的なものだな。理論がどうこういう問題でもない。
というわけで、不真性不作為犯はこのくらいか。
<しつこく不真性不作為犯で>
溺れて死にかかっている自分の子を見殺しにするような親なら、
児童虐待くらいはやってそうなので、そっちでいく方が早いのではないか。
しかし子供が死亡して児童虐待の証拠がなくなるのであれば
不作為の殺人にする意味はあるだろう。
実際上の差はこれくらいではないか。
この差はしかし大きいかもしれない。
<しつこく因果関係>
やはり、不作為と作為は構造がちがうきがする
質の違いというよりは量の違いという感じだが。
つまり、作為の場合はPがQの条件となっていたことの証明は100%ではないにしろ、それにきわめて近い確率で可能だ。
これにたいして、不作為の場合、非PがQの条件となっていたことの証明は、やれてもせいぜい10中8,9。
これくらい量のレベルで違うと、質が異なるといってもいいぐらいだと思う。
その意味で不作為犯の因果関係の問題はまだ、完全には解決されていない。
ちなみに、10中8,9の判例について、実行行為性の問題だ(でもある?)というのが大谷氏の見解だったとおもうがどうだった?
あげとこう。
今日大谷総論立ち読みしたけど、
保護用のケースに収納する時本にくるまれた半透明の
セロファン思いっきり破いちゃった・・・・。
ナイナイして帰ってきた俺は刑法勉強する前に刑法の
お世話になりそうです。。。
買うなら薄い方がよいのでは?よくしらんが。
ちゅうか、俺、買ってこようかなあ?
大谷もいいけど鈴木茂嗣では如何?
先日、本屋で目次だけ見てびっくり
買おうと思ったが持って帰るのが重いのと
誰も買いそうにないから次回にしてもいいと思って
買わないで帰った
何とも言い様のない味のある本のような気がする
ちなみに。山中氏の大谷批判「木をみて森を見ず」だが、すこしひどいな。(立ち読みしてきた)
なんか正当防衛者に武器を渡した人間が幇助犯として処罰されるとかなんとか。
そんなわけないやろ!そいつはそいつで違法性阻却じゃ!たわけ!
あ、なんか理性を失っているな。
しかし、刑法学者しっかりしよう。批判の前提には理解があらねばならない。
↑これ俺です。書き忘れ。
山中の総論二分冊なら持ってる。だいぶ前、何となく買ってしまった。
山中説なら正当防衛者に武器を渡して幇助犯になるのも分るが、
大谷説の帰結ならおかしい。
なお、その場合は、中山説では幇助犯になるだろう。
中山説なら正犯なき共犯でもOKだが、多分山中も同じような発想だったと思う。
風呂に入った後で山中の総論を調べたら総論Uの758頁にあった。
おかげですっかり湯冷めしてしまったが。
ただ、山中総論Uの書き方では、
正当行為についての共犯が成立することも認められる云々の記述が、
大谷(第4版補正版)419頁にあるのか、
西原春夫古希記念論文集第2巻473頁にあるのかよく分からん。
せめてカッコ書きの後ろに引用元を書いといてくれればいいのに。
なんか漏れが読んだところだと、最小限従属性説に立つと、正当防衛者や正当行為者に対する共犯が認められて不当だと。
で、例として、
>>269のような事例が。
でもなあ、大谷説だと違法は相対的(個別)なので、それぞれ独自に違法性阻却事由を考えるだけだからなあ。
<不真性不作為犯>
ふと思ったのだけど。
池で子供がおぼれています。周りには、泳げる大人が5人ぐらい。
その子は大人にきらわれていて、みんな「死んでくれたらいいのに」と思っています。
その中に子供の母親もいました。
この母親の罪責なんですが、大谷説からだと、殺人罪ですか?誰か答えてみて。
なわけねえだろ
真性包茎
殺人罪じゃないなら、要件のどこでおちる?
正当防衛者に武器を渡した者は、自分自身に防衛の意思があるならば
第三者に対する正当防衛となるので問題ありません。
母親以外の大人は助けてくれないんだから、母親以外が存在しないのと
同じだと考えれば、作為可能である限り不作為の殺人
なるほど。殺人か。
母親以外が存在しないのと同じっていうのも、どうかとおもうが。
母親以外も存在してるとしたら、殺人罪ではないのか?
繰り返しで恐縮だが、その場合、要件のどこで落ちるのだ?
大谷説では作為義務を構成要件要素としていたと思う。
落ちるとすれば構成要件の段階で落ちるが、
因果関係とは縁がなさそう(母親でも赤の他人でも因果関係は変わらないだろう)なので、
大谷の大好きな実行行為性のところではないか。
たぶん実行行為性のところで落ちると思うが、『作為義務(@結果発生の現実的危険の発生、A作為によって結果発生が確実に防止できること、B社会生活上の依存関係があること、C結果発生防止のための作為が可能であること)があり、
作為義務に違反する』という要件のうちどこなのだろうか。
おそらく、Bだとは思うが。
しかし、Bの発生根拠として法令、契約・事務管理、慣習・条理という形式的基準をあげるので、ここでは落ちにくいのではないか。
大塚説のような分類なら、作為との構成要件的同価値性を、作為義務とは別に検討するので、そこで落とせばいい。
それを真似て、同価値性を別個に検討しない大谷氏が同じ事(形式的基準をあげる)をやると、上記のような事例の場合困ったことになる。
大谷説を採ってる人からの書き込みがないのは、そういうわけなのではないか。(勘ぐりすぎかも)
そもそも彼のいう「社会生活上の依存関係」というのは社会通念上、当該法益の保護がその人に依存している場合に認められるという、かなり実質的なものだ。
それをなんとか類型化しようとして、無理が生じたのだろうか。
とにかく、社会生活上の依存関係というのは、親子だったら認められるとかいう、画一的なものではなくて、その場にどれくらい人がいたのか、子供との距離はどの程度だったのか、子供はいくつぐらいなのか、そういう具体的な要素を下に、決定するものだと思う。
あってる?
age
大谷説の方へ。
上記(
>>274-285)のような理解の仕方でよいのだろうか?
もし読んでる人がいたら教えて欲しい。
上記のような考え以外には、人がたくさんいても助けられるのに助けなかった親は、人が何人いようがやっぱり殺人罪というのがある。
又、構成要件のところでは形式的に判断するので落ちなく、違法性のところで落とすというのもあり得る。
どんな説を採ろうとも
結論の妥当性から殺人罪しかありえない。
そうでない説があるとするならば
役立たず説ということになる。
法律は結論先にありきだ。
要件がどうだろうと関係ない。
クリスマスアゲ!
290 :
A級戦犯 ◆zjjwZEH. :01/12/25 09:32
私も妥当な結論を導けるのが優れた理論だと思っている。
問題はなにが妥当な結論か、だ。
>>274のような事例を殺人罪にもっていくのは一つの考えだが、決してそれしかないというわけではない。
むしろ多数説は、殺人罪を認めない結論を支持している。
やはり、客観的に同じ状況の人がたくさんいるなかで、親だけを殺人罪で罰することに抵抗があるのだろう。
「親ならば、助けろ!」というのは、「道徳」であり「法」ではないと。
逆に、誰も通りかからないような池で、子供がおぼれている。
そこに、たまたま、ひとり、父親が通りかかって、見殺しにした場合は殺人罪を認めるのが普通だろう。
この場合は「結果の支配」を言いやすい。
意見、反論等を待つ。
中山説では作為義務の実質的内容として、確か「危険の引受」などという言葉を使っていた。
車で跳ねて重傷を負った人を車に乗せた場合などでは「危険の引受」があるとか。
大谷説の「社会生活上の依存関係」を実質的に捉えれば
中山説の「危険の引受」と区別がつかなくなるかもしれない(言葉の感覚の問題かも)。
家庭崩壊したので子供を引き取ったという奇特な人がいた場合、
大谷説でも、作為義務を負うのはその人(赤の他人であっても)であって、子供の親ではないだろう。
なお、作為義務を構成要件と違法性の二段構えで捉えるのは、
直接原典に当たったことはないのだが、確か、内田説だったと思う。
内田説は構成要件をベーリング(うろ覚えなので要確認)的に捉え、
形式的な構成要件該当性判断の次に実質的に違法性判断を行うらしいので、
構成要件に該当しても違法性で落とすということが可能。
しかし、大谷説では、構成要件を実質的に捉え、構成要件に該当すれば原則違法とするので、
違法性の判断は違法性阻却事由があるかどうかの判断になるが、
「よく考えてみたらやっぱり作為義務はなかった」という違法性阻却事由はないので、
違法性判断で落とすことはできないのではないか。
団藤・大塚説はよく分からない。
構成要件をベーリング的に形式的に捉えているわけではなさそうだが、
違法性で、もう一度、実質的な違法性判断を行うらしい(だいぶ前に読んだので違ってたら御免)。
どなたか団藤・大塚説のプロフェッショナルがおられたら御教示願いたいものだが。
前からそう思いながら見てたんだが、
このスレの人はきちんと原典を参照してから
その原典について書くべきだと思う>中山派氏、A級戦犯氏
原典を読まずにどうして批判できるんだろう
その神経がよくわからない
293 :
A級戦犯 ◆zjjwZEH. :01/12/26 08:26
>>291 やはり、話はそこにいかざるをえない。そことは、構成要件と違法性の関係。
確かに、ベーリング流の捉え方(構成要件を違法性や責任と切り離して、客観的・記述的なものとする考え方)をすれば、作為義務を構成要件と違法性の2段構えで考えやすい。
しかし、構成要件を違法類型と捉えたとしても、類型的に作為が期待される人を構成要件段階で、「作為義務阻却事由」がある場合を違法性のところで考えるというのは、やってやれないことはない。(少し厳しいけど。)
大塚説。決して、プロフェッショナルではないけど。
大塚氏は、構成要件に該当しても実質的違法性を有しない場合がある事を認める。
例として、可罰的違法性を欠く場合、正当防衛の場合など。
つまり、構成要件の違法性推定機能は認めた上で、阻却的なものを違法性のところで考える(可罰的違法性を有しない場合は超法規的違法性阻却事由)立場だと思う。
したがって、「もう一度実質的違法性の判断を行う」というのは、おおむね、「実質的違法性を有しない場合を違法性のところで落とす」という意味で、そんなに特別な話ではない。
>>292 もちろん、原典にあたった後、批判したほうがよいのだろう。
だが、時間との関係でなかなかそうもいかない。
そこで、大谷説(その他も)をとっている人の、反論、指摘等を待っている。
もし、理解が違っているところや、反論があるなら、ぜひ、書き込んでほしい。
あまりに、自分の理解がひどいようなら、原典にあたってから発言するが。
ベーリングと内田の他は一通り読んだけど……
いちいち手元に基本書置いて参照して注釈入れながら書くのも面倒だし
団藤・大塚説では、作為義務を構成要件と違法性の両方で考えることはできそうだ。
違法性判断に、可罰的違法性、正当防衛等の他に「実質的作為義務なし事由」を加え、
構成要件該当性判断では定型的に、違法性判断では実質的に、作為義務違反の判断を行うことになろう。
以上のように解すると、団藤・大塚説では違法の本質を社会倫理規範と捉えるので、
親が子を見殺しにした場合には(気分的に)不作為の殺人が成立しやすくなりそうだが。
ただ、団藤・大塚説の構成要件は、ベーリングのとどこが違うのか説明困難かも知れない。
何やかや理屈をこねるとは思うけど。
構成要件を実質化(構成要件と違法性が接近(極めつけは合体))すれば、
構成要件該当とは即ち違法であり、違法性判断では違法性阻却事由の判断のみ行えば足りることになる。
この考え方では、構成要件該当性判断において実質的違法まで判断しているので、
作為義務違反について、構成要件では定型的、違法性では実質的に判断することはできそうにない。
構成要件該当性判断のところで一気にやっちゃうことになろう。
大谷説に矛盾があったって、いいんだよ。
ちゃんと大谷はそれで飯が食えてるんだから。
296 :
A級戦犯 ◆zjjwZEH. :01/12/26 23:19
>大谷説に矛盾があったって、いいんだよ。
>ちゃんと大谷はそれで飯が食えてるんだから。
大谷先生からみれば、その通り。
受験生からみれば、そこが問題。
297 :
A級戦犯 ◆zjjwZEH. :01/12/27 10:03
>中山派
あなたの理解によると、
構成要件を形式的(定型的)に捉えれば、実質的である違法性判断とは区別され、作為義務を構成要件・違法性の両者で考えることができる。
これに対して、構成要件を実質的に捉えれば、違法性判断とは、原則ー例外の関係となり、作為義務を両者で考えることはできない。
となる。
なるほど、もっともな気するが、漏れとは「形式」(定型)の理解が異なる。
あなたのいう形式はベーリング流のものだ。つまり、違法性、責任から離れた枠としての形式だ。
しかし、団藤氏も大塚氏も構成要件の違法性推定機能を認めるので、ベーリング流のものを考えているわけではない。
構成要件が違法性を推定させるので、違法性のところでは、その阻却事由を実質的に考察する。
そして、このように構成要件を違法類型と捉えたとしても、なお、作為義務を構成要件と違法性、両者で考えることができる。
作為義務が類型的にある場合(保障人的地位にある場合)を構成要件で検討し、違法性では、実質的に作為義務がない場合を落とす。
ちなみに、違法性の捉え方だが、大塚氏は「国家・社会的倫理規範に違反して、法益に侵害又は脅威を与えること」と考えている。
このあたりは、大塚ー大谷ラインが共通だろう。団藤氏は「法秩序の基底となっている社会倫理的規範」。
ちなみに構成要件については団藤氏が「定型」=社会心理的なもの。大谷氏が「類型」=社会通念によるもの。
<構成要件の「実質化」>
不用意に「実質化」をいう言葉を使用したので、話がこんがらがったようで、スマソ。
「実質化」は大谷説や前田説を念頭に置いたものではなく、
ベーリング>>マイヤー>>メツガーの順に構成要件と違法性が接近していく状況をイメージしていた。
個人的には、行為、不法、有責として、構成要件を不法の中に取り込んでしまう体系が好き。
確か西原説がこの体系だった。本人は構成要件云々と言ってるが平野説もこれに近いような気がする。
ちょっと作為義務の話から外れると思ったが、ついつい……
構成要件と違法性の一体型なので、仮に大谷がこの体系採ってたとしても、
構成要件と違法性の両方で作為義務を検討するのは無理かな。
<団藤・大塚説への素朴な疑問>
団藤・大塚説で、構成要件に違法性推定機能を認めるとしても、
構成要件に該当すれば直ちに違法性が認定されるわけではなさそう(「推定」だから)なので、
構成要件に該当したとしても、果して本当に違法性があるかどうか分からない。
故に、違法性判断に当たっては、違法性の有無をゼロから考え直さねばならないのではないか。
構成要件該当性判断で認定された違法性が違法性阻却事由によって消滅することにはならないだろう。
団藤・大塚説は、可罰的違法性がない場合も正当防衛の場合も違法性阻却として区別しないようだが、
可罰的違法性がないので違法性が阻却される場合においては、違法性の程度をゼロから量り直し、
その違法性の程度が可罰的な程度に達しているかどうか判断しなければなるまい。
「違法性阻却」の意味は、「一旦認定された違法性が違法性阻却事由によって消滅する」ではなく、
「違法性の有無をゼロから判断し、なければ有罪認定処理をうち切る」という意味になると思う。
そうすると、構成要件の「違法性推定機能」といっても、その実質はどうなるのだろう。
内容的には没価値的なベーリング流の構成要件とあまり変わらないような気がするのだが。
「形式的」と「定型的」
「定型」と「類型」
「形式」と「定式」(これは、菅野喜八郎「根本規範論考」参照)
同じような言葉が多くて難しいな
とうとう300まで来たか
中山派さんから見て、平野先生、内藤先生、山口先生、前田先生の評価はいかがでしょうか?
内藤ケンちゃんとはえらいマイナーやなぁ
中山もケンちゃん、大塚はジンちゃん、福田はピンちゃん……
内藤ケンちゃんの三分冊は長すぎ、よう読まんわぁ
評価できるほど勉強してへんのでノーコメントですわぁ〜
山口あっちゃんも立ち読みしただけやし
>>299 >「違法性阻却」の意味は、「一旦認定された違法性が違法性阻却事由によって消滅する」ではなく、
>「違法性の有無をゼロから判断し、なければ有罪認定処理をうち切る」という意味になると思う。
そんなことはないのでは?
「違法性阻却事由 」があるかないかを判断すればいいわけでしょ。
>可罰的違法性がないので違法性が阻却される場合においては、違法性の程度をゼロから量り直し、
>その違法性の程度が可罰的な程度に達しているかどうか判断しなければなるまい。
構成要件該当性判断で違法性が<認定>されるのではなく
あくまで<推定>されるのであるから、場合により違法性の量り直しに近くなる場合もありえる、というまででは?
よって
>「違法性阻却」の意味は、「一旦認定された違法性が違法性阻却事由によって消滅する」ではなく、
>「違法性の有無をゼロから判断し、なければ有罪認定処理をうち切る」という意味になると思う。
ではなく
「違法性があると推定されたものが阻却される」という単純な理解で充分のように思われます。
304 :
A級戦犯 ◆zjjwZEH. :01/12/28 06:11
まず、大谷の構成要件と違法性の考え方だが、大塚と同じではないか。
中山派氏の理解だと、二人は違うのだろうか?
ふたりとも、構成要件は違法性の認識根拠であり、実在根拠ではないと捉えているのだが。
大谷は構成要件については、一般人からみた事前的判断。違法性は一般人からみた事後的判断。
大塚はこんな事いわないと思うので、その点では違うか。
<団藤・大塚説への素朴な疑問>について
「推定」の意味が問題で、中山派の批判は、まあ、ありうる批判だとおもう。
大塚先生とかなら、303氏のように返すんだろうな。
「違法性を推定」するとは、一体どんな意味なんだろうね。
今日から、2,3日、レスできないと思う。スマソ。
「違法性を推定」するとは
構成要件は違法性のあるものを類型化したものであるから
構成要件に該当すれば原則として違法の推定」が働く。
何故「推定」かといえば
構成要件該当性の判断は類型的・一般的・抽象的におこなわれるものであるから
これをもって個々の事案を違法と「認定」することは出来ないからである。
違法性阻却事由は違法性はあっても社会的相当性があるものを類型化したものであり
方向性は違うが違法性の類型化という点で、構成要件と違法性阻却事由は<表と裏>のような関係にあるといえるだろうか。
もっとも、違法性阻却事由自体は類型化されているが
その判断は構成要件該当性の判断とは違い、具体的なものになる。
よって、可罰的違法性などのように「違法性」自体があるといえるのか微妙な事案では前田説(藤木説)のように
そもそも構成要件に該当しないという処理も考えられる。
しかし、それは形式的構成要件論からは不都合な方法であるといえよう。
違法性の推定とか、違法性阻却とか、その具体的な内容がよく分からんのだ。
構成要件に該当すれば違法性が推定され、違法性阻却事由があれば違法性が阻却されるのはいい。
では、違法性阻却事由がなければどうなるか。
形式論理的には、違法性が推定されているだけなので、違法性が有るか無いかは分からんことにならんか?
それでは困るのであれば、
違法性の段階では、違法性の有無をゼロから実質的に考えねばならんのではないか。
団藤・大塚説のプロフェッショナルには「推定」の意味について御教示願いたいものだが。
少なくとも、団藤・大塚説はコンピュータでのデジタル処理には向いてそうにない。
なお、わたしは十日ほどお休みします。多分生きてるから。
良スレ保存あげ
構成要件事由に該当し、違法性が推定されるということは
たとえて言えば
刑訴でいう無罪の推定の逆バージョンだ。
基本的に違法性ありの方向性があり、違法性阻却事由がないことで違法性ありとなる。
中山「刑法総論」p224(1)のような二分論的解釈になる必然性はないと考える。
Re: 質問:平成5年度第1問 コメント数: 2件
P&Cの井藤 |
[email protected] 2001/12/28 (金) 12:34
> W過去問集の参考答案(やわらかい犯罪共同説(大谷説ベース))では、
> 結論が甲と乙に傷害致死罪の共同正犯、甲の殺人未遂罪の単独犯が成立する、との結論になっていました。
まあ、それでもいいでしょう。
甲を殺人(既遂)罪としてもかまわないと思いますが。
>308
刑訴法においてそういう論点がありますよね。
構成要件該当性があった場合には
被告人側は違法性阻却の立証責任を負うとまでは
無罪の推定に反するからできないけど、
民訴法で言う主張責任のようなものを負うと考える
んですよね。
311 :
A級戦犯 ◆zjjwZEH. :01/12/31 13:23
以上を整理すると。
実質的違法性=構成要件該当性+違法性阻却事由がないこと
となる。
従って、構成要件の違法性推定機能とかいったところで、違法性阻却事由がないこととあわせて実質的違法性を認定できる、という以上の意味はないのだろう。
ただし、そうだとしても、中山派氏がいうように「違法性阻却事由がないこと」の中に、「超法規的違法性阻却事由(可罰的違法性がない)がないこと」をいれてもいいのか?という疑問は残る。
つまり、実質的違法性というのは可罰的違法性と同義なので、上記の式は
可罰的違法性=構成要件該当性+「超法規的違法性阻却事由(可罰的違法性がない)がないこと」
↓
可罰的違法性=構成要件該当性+可罰的違法性があること
となってしまい、構成要件該当性が無意味になる。
従って、「可罰的違法性がないこと」を違法性阻却事由とすることは、構成要件の違法性推定機能を害する、という批判は、的を射ている。
まあ、そんなに細かいこといわなくても、、、って感じか。
>以上を整理すると。
>実質的違法性=構成要件該当性+違法性阻却事由がないこと
>となる。
整理するとなぜこうなるのか?
よくわからない。
実質的違法性。形式的違法性という言葉をどのように理解されているのか?
実質的構成要件判断を行う立場からは、可罰的違法性の議論の多くは構成要件該当性に吸収される。
しかし、全部ではない。
形式的構成要件判断を行う立場からは、違法性阻却事由判断を実質的に行うことは必然的論理結果である。
可罰的違法性にもいろいろな類型がある。
前田説では構成要件該当性判断と実質的な違法性判断は基本的には一致する。
しかし、違法性判断のところでも可罰的違法性(この言葉は一義ではない)を判断する。
ここでの可罰的違法性判断による阻却は刑訴でいうと、被害軽微による起訴猶予の段階にあたる。
つまり、構成要件には間違いなく該当する。しかし可罰的ではないので起訴猶予ということだ。
次に、一円盗んだ場合には、構成要件該当性なしとする。このような場合の実質的構成要件該当性判断では
可罰的違法性という言葉自体が意味をもつ意義が失われる。
前田説についてレス。
前田説が違法性(阻却)レベルを必要と考えるのは,前田教授が犯罪論体系
を機能的なもの(事実認定のため等)考えているからでは?
前田説で違法性(阻却)レベルにおいて考慮されるのは,当該行為をするこ
とに法益侵害を上回る反対利益が存在するか否か,それが法益侵害を上回る
ものかを分析的に検討するため(ただし,純粋に結果のみで利益考量するわ
けではない)。
要するに,前田説は犯罪論体系についての他の説と発想が違うから,従来の
見解からおかしいとかいっても意味ないのではということ。
314 :
A級戦犯 ◆zjjwZEH. :01/12/31 19:47
>実質的違法性。形式的違法性という言葉をどのように理解されているのか?
「実質的」という言葉を不用意に用いてしまったようで、すまない。
(Maurachとかの見解というわけではない。単なる不注意。)
より正確に書けば
違法性の認定=構成要件の違法性推定+違法性阻却事由がないこと。
311の見解は実質的違法性を違法性によみ変えていただきたい。
ちなみに、大塚説の話だ。前田は関係ない。
315 :
A級戦犯 ◆zjjwZEH. :01/12/31 20:53
なんか、読み替えろっていうのも、横着な話だなあ。
ちゃんと書きます。
違法性の認定=構成要件の違法性推定+違法性阻却事由がないこと。
↓
違法性の認定=構成要件の違法性推定+「超法規的違法性阻却事由(可罰的違法性がない)がないこと」
↓
違法性の認定=構成要件の違法性推定+可罰的違法性があること
そして、ここでいう「違法性」というのは可罰的違法性のことだ。
従って
可罰的違法性の認定=構成要件の違法性推定+可罰的違法性があること
となり、構成要件の違法性推定が無意味になると考えたのだが。
「前田は関係ない」と書いたが、311の内容と無関係という以上の意味はないので。
構成要件の違法性推定機能は
あらゆる行為から「違法の可能性がある行為」を選別するという
構成要件の意義から付随的に出てくる概念であるから
意味が無いと言ってみてもしょうがない。
実際、そういう結果になるのだから・・・。
何故前田説を出したか?といえば
「実質的」「形式的」「可罰的違法性」という言葉を
他説より意識的・分析的に使っており
話の意味を明らかにするため。
「エキサイティング刑法」を見てもわかるように
このような言葉の意味・定義は各説違っており
たとえば「可罰的違法性」の定義・体系的位置づけなどを
明らかにしなければ、答えようが無いから。
ずっとロムってました。
可バツ的違法性の概念が構成用件の違法性推定機能を害するというA級さん、中山さんの意見はその通りだと思います。
一応大塚説で勉強しています。311−315の数式はちょっと感動しました。
316さんは、なにをいってるのかわかりません。大塚説じゃないと思います。
>構成要件の意義から付随的に出てくる概念であるから
大塚先生がおっしゃってるのですか?
>意味が無いと言ってみてもしょうがない。
>実際、そういう結果になるのだから・・・。
構成用件の違法性推定機能は事実上の概念ということですか?
大塚先生は、構成用件は違法類型だから、違法性推定機能をもつっておっしゃってませんか?
それならば、構成用件の違法性推定機能は理論的なものだと思います。
世の無常を観じて修行に出て帰ってきました。
大塚説にいう「違法性の"推定"」の意味が不明確のままだけど……
わたしの理解では、大塚説は、
構成要件に該当すれば違法性が推定されるが、それだけではまだ確定的に違法ではなく、
違法性判断(違法性阻却事由がないという判断?)を経て確定する、ということだったと思う。
違法性判断の段階で、実質的に違法性の有無をゼロから判断し直すのではなく、
違法性阻却事由の有無の判断によって同時に違法性の有無をも判断するためには、
違法性阻却事由の有無の判断は、裏側から見た違法性の有無の判断でなければなるまい。
即ち、
構成要件; 違法性が"推定"される("推定"とはまだ何かよく分からんが。実質的に無?)
違法性; [違法性阻却事由なし] = [not(not違法性))] = [違法性あり]
大塚説的な違法性阻却事由は、違法性を裏側から完全に覆い尽くすものあり、
中山説的に、一旦発生した違法性を個別的に覆滅する、というものではない。
この考え方では、可罰的違法性がない場合は、構成要件段階では処理できず、違法性判断での処理になる。
やっぱりベーリング的な構成要件に限りなく近づいていくような気がするが。
>>319 そう思います。。
>>318 >構成用件の違法性推定機能は事実上の概念ということですか?
>大塚先生は、構成用件は違法類型だから、違法性推定機能をもつっておっしゃってませんか?
>それならば、構成用件の違法性推定機能は理論的なものだと思います。
概念と理論はほぼ同じと思います。。
321 :
A級戦犯 ◆zjjwZEH. :02/01/07 16:23
>中山派、帰ってきましたか。
可罰的違法性を認めると、ベーリング流に近づくというのはわかるが。
大塚先生も、違法性阻却事由がないことだけで、違法性ありとはいわんだろう。
やっぱ、構成要件の違法性推定機能あってのことだと思う。
思うに、可罰的違法性を認めたことが間違い。だいたい、大塚説だと「可罰的違法性」の観念なんてほとんど出番ないはず。
大谷説なら出番は多いか。奴こそ、構成要件の違法性推定機能とか言うべきではない気がするなあ。
以上、
>>311の繰り返しでした。
>318
>>316は漏れもなにをいってるのかよくわからない。しかし、大塚説なら可罰的違法性は無視してもいいと思う。
>320
「事実」と「理論」の比較だと思われる。
そろそろなにか新しい話題が欲しい・・・
>A級戦犯氏
大塚説で可罰的違法性を違法性阻却から外せば、今度はメツガーに限りなく近づき、
「"推定"とは何なんだ、要は、構成要件に該当すれば違法ではないか」、
という振り出しに戻ってしまう。
それはそれとして、前田説の支持者が現れたようだが、
>312
>前田説では構成要件該当性判断と実質的な違法性判断は基本的には一致する。
>しかし、違法性判断のところでも可罰的違法性(この言葉は一義ではない)を判断する。
>ここでの可罰的違法性判断による阻却は刑訴でいうと、被害軽微による起訴猶予の段階にあたる。
>つまり、構成要件には間違いなく該当する。しかし可罰的ではないので起訴猶予ということだ。
>次に、一円盗んだ場合には、構成要件該当性なしとする。このような場合の実質的構成要件該当性判断では
>可罰的違法性という言葉自体が意味をもつ意義が失われる。
>313
>前田説についてレス。
>前田説が違法性(阻却)レベルを必要と考えるのは,前田教授が犯罪論体系
>を機能的なもの(事実認定のため等)考えているからでは?
>前田説で違法性(阻却)レベルにおいて考慮されるのは,当該行為をするこ
>とに法益侵害を上回る反対利益が存在するか否か,それが法益侵害を上回る
>ものかを分析的に検討するため(ただし,純粋に結果のみで利益考量するわ
>けではない)。
>要するに,前田説は犯罪論体系についての他の説と発想が違うから,従来の
>見解からおかしいとかいっても意味ないのではということ。
312による前田説の発想は中山説に近い、というか、
前田説全体が中山説の簡易輸出版みたいな感じがする。
中山説では、構成要件を可罰的違法類型とするので、
まず、ムチャクチャ軽微な違法については構成要件に該当しない。
次に、割と重い違法で、それを上回る反対利益がある場合、
違法性が完全に阻却されなくても可罰的違法性のレベルを下回れば、
可罰的違法性がないとして違法性判断で落ちる。
藤木説もそうだったような気がする。。。
藤木説は構成要件該当性判断だけで終わってたと思う
違法性レベルで反対利益との比較の話にはなりそうにないし
325 :
A級戦犯 ◆zjjwZEH. :02/01/08 13:34
中山派氏へ
>大塚説で可罰的違法性を違法性阻却から外せば、今度はメツガーに限りなく近づき、
>「"推定"とは何なんだ、要は、構成要件に該当すれば違法ではないか」、
>という振り出しに戻ってしまう。
確かに。
構成要件は定型的、形式的判断。違法性は非定型的、具体的判断。
可罰的違法性(阻却)を否定してしまうと、非定型的、具体的判断とはいえんなあ。
撤回!。
難しいなあ。
ところで
可罰的違法性の判断を構成要件に取り込むと、刑罰の適用が恣意に流れるというありがちな批判にはどう答える?
先述のように
「可罰的違法性」という概念自体各説複雑化しており
「実質的構成要件判断は刑罰の適用が恣意に流れるのでは?」
という問題提起のほうが回答を出しやすいと思われる。
「可罰的違法性」について掘り下げるのであれば別だが。。。
>A級戦犯氏及び326氏
実質的構成要件判断によって刑法の適用が恣意に流れるか
1構成要件・違法・責任という体系を堅持しつつ、構成要件を実質化するとする場合、
構成要件に入る前に、その入っていいかどうかを判断する基準が何もないので、
構成要件該当性判断が恣意に流れる危険があるだろう。
前田説や藤木説の体系はそうだろう。特に藤木説は行為無価値なので危ない。
ただ、前田説は、行為・違法・責任の体系の行為部分を違法部分に合体させ、
違法・責任(客観的構成要件・主観的構成要件とか)の二分説にしているようにも見える。
前田説に詳しい人がいれば御教示願いたい。
2行為・違法(構成要件を内に含む)・責任という体系で構成要件判断を実質化する場合
行為のところで、行為と結果の因果関係を論じ、
違法のところで、構成要件(実質的構成要件)の枠をはめることになる。
違法の本質を法益侵害として徹底し(結果無価値)、
実質的に処罰に値する程度の法益侵害の類型(可罰的違法類型)を構成要件とすれば、
構成要件・違法・責任の体系で実質的構成要件判断するよりも恣意に流れる危険は少なそうだ。
構成要件を違法性に取り込めば、違法性判断が構成要件判断に先行するので、
違法性を基準として構成要件該当性判断をすることができるから。
通説的な見解から見れば、違法性判断が構成要件判断に先行するのは異常に見えるかも知れないが、
構成要件判断を実質化しようとすれば、違法性と構成要件が接近していくので、
最終的には、違法性が構成要件を追い抜くような形になるのが自然な流れだろう。
なお、中山説は、可罰的違法類型(違法構成要件)と可罰的責任類型(責任構成要件)の二本立て。
構成要件該当⇒違法性阻却事由の有無⇒責任
の流れは司試論文上書きやすいというだけで
実質的検討はやはり
>可罰的違法類型(違法構成要件)と可罰的責任類型(責任構成要件)の二本立て。
になるのではないか。
構成要件に該当するか否かよりは
逮捕要件が有るか無いかのほうが重要に扱われるであろうし
構成要件という概念もあいまいさがある以上それも当然か。
あげ
すごいね、みんな。
そうであれば、構成要件とはなんだったんだろう?
前田総論を立ち読み(情報窃盗?)。
結論的には中山説の簡易輸出版で誤りではないと思う。
即ち、
*中山説
1行為論{行為、結果、因果関係}
2構成要件{違法構成要件(あてはめのみ、無内容)+ 責任構成要件(故意、過失)}
3違法性{違法性阻却事由}
4責任{責任阻却事由}
*前田説
1構成要件{客観的構成要件(実行行為、結果、因果関係)+ 主観的構成要件(故意、過失)}
2違法性{違法性阻却事由}
3責任{責任阻却事由}
中山説から「裸の行為論」を外せば前田説になる。
「裸の行為論」を論ずる場合、構成要件に該当しない行為も論じられることになるので、
行為論を構成要件から独立させてそこで論ずるのが理論的であろう。
「裸の行為論」をやめれば、構成要件に該当する実行行為だけが残る。
そこで{実行行為>>結果>>因果関係}を論ずる場合、
繰り返しになるが、実行行為とは構成要件に該当する行為であることから、
行為論として独立させるのではなく、構成要件論として論ずるほうが理論的であろう。
パッと見た感じでは、前田説のほうが美しい体系に見える。
ちなみに、構成要件の意味は、中山説も前田説も同様。(名称は異なるようだが)
構成要件 = 可罰的違法類型 + 可罰的責任類型
両方とも構成要件を実質化してるので、
団藤・大塚的な、形式的でも実質的でもない微妙な「構成要件」とは、意味が違う。
(続き)
前田説で、行為共同説・純粋惹起説的な考え方は採用できるか。
例えば教唆犯の場合を考えてみる。
前田説は構成要件から入るので、教唆行為(=実行行為)に始まり因果の流れを経て結果で終わるところの
共犯構成要件(修正された構成要件として)を設定せねばなるまい。
共犯構成要件には、正犯の行為・結果・因果関係が含まれていなければならない(=行為共同)。
{共犯の構成要件 = 教唆行為(=実行行為)>>正犯の行為>>犯罪結果}
ところで、教唆行為それ自体は、(一般論としては、)正犯をその気にさせるだけの行為であり、
耳元で囁くにせよ、重々しく命令するにせよ、何ら危険な行為ではない。
故に、教唆行為それ自体は、正犯のそれと同様に危険があるという意味での実行行為とは言えない。
実質的構成要件を標榜する以上、実質的には何ら危険ではない教唆行為を実行行為と考えることはできず、
結論として、前田説では、共犯論で行為共同説・純粋惹起説的な考え方はできないと思われる。
ものの考え方としては、教唆行為それ自体が実質的に危険な行為と言えないとすれば、
通常の構成要件に該当して云々で成立するところの「犯罪」とは言えないことになり、
教唆犯を「犯罪」として処罰するためには、正犯の成立とは別の原理に服さしめねばならなくなる。
例えば、正犯に犯罪を決意させた(責任共犯論)とか、正犯の違法行為を惹起した(違法共犯論)とか、
正犯を通じて結果を惹起せしめた(修正された惹起説(だったか?))とか。
前田説では、正犯の処罰根拠と共犯の処罰根拠が別の原理に服せざるを得ないため、
共同正犯と教唆犯・幇助犯で、統一的な説明をすることができない。
事実、基本書でも別に説明がなされていた。
今年こそ合格するから。(毎年同じこと言ってるなぁ)
合格しても法曹としてやってけそうにないけど。
というのは、清談以外に何もできないから。わーい
(続き)
中山説ではどうか。例えば教唆犯の場合、次の如し。
1行為論で{教唆行為>>正犯の実行行為>>結果}(「>>」は因果の流れのつもり)を判断し、
2構成要件で構成要件該当性を判断し、
3違法性阻却事由、4責任阻却事由の有無を調べる。
ただ、構成要件が、正犯の構成要件なのか、教唆行為を含むよう拡張された(共犯の)構成要件なのか、
共犯独自部分(教唆行為>>正犯の決意)のみの構成要件なのか、よく分からないが。
ともあれ、行為論を構成要件から独立させ、裸の行為論を排斥しない場合、
実行行為ではない行為であっても、一応、考察の対象とすることができる。
故に、構成要件から離れて、教唆行為から結果までの因果関係を観念することができることとなり、
正犯と共犯について、「因果的に犯罪結果を惹起した」、という統一的な説明を行うことができる。
即ち、行為共同説・純粋惹起説的な考え方が可能。
なお、この辺りの考え方(感覚かな?)は、構成要件を除けば、牧野説とほとんど変わらない。
両者の神経組織には一致する部分が多いのではないか。
もし日本が共産化してたら、中山が牧野の理論的後継者になってたかも(師匠は佐伯だが)。
大谷説と離れてしまった。今度は大谷の総論を買って読もう。
>>336 中山派氏の考えておられる牧野説の内容を聞かせていただきたい。
自由法論の考え方から罪刑法定主義の解消(=放棄)を唱え、
結果的に理論的側面が浅薄となった牧野説と、中山説が同じ、というのは
解せないので。
おそらく、単純に中山先生が古い体系を維持している、というだけに
過ぎず、別に牧野説を理論的に継いでいるわけでもなんでもないと思うが。
あと、中山派氏もA級戦犯氏のように、できればトリップをつけたほうが
よろしいのではないかと。
>337氏
「もし日本が共産化してたら」という条件付きでの話。
中山は、旧共産圏に留学してソビエト刑法学の勉強したり、
(ブルジョア社会の)社会倫理規範を標榜する大塚を忌み嫌ってい(るように見え)たり、
基本書に体制批判的な記述をしたりしている。改正刑法草案には当然ながら反対。
ちなみに、山中敬一によれば、中山刑法学とは(内藤、曽根も含め)、
「現在の国家権力を「悪」と捉える立場から」の謙抑的な刑法学だそうな(see,総論TP42)。
中山は、現在のブルジョア国家のブルジョア刑法には警戒の目を向けているが、
仮に、日本で共産主義革命か何かが起こり、日本が共産化されていたとしたら、
中山は、刑法の全面改正があれば喜んでそれに乗り、改正がなければ共産主義的に現刑法を解釈し直し、
体制賛美の刑法学に改説し、その大御所になっていたのではないか。
この場合、ソビエト刑法学は新派刑法学をヨリ徹底させたものなので、
結果的に、中山説は新派の牧野説をより進化させたものとなると思われる。
この辺りは推測なので、文献を挙げろと言われても挙がらないのでスマソ。
なお、新派の中で特に牧野説を挙げたのは、
牧野の社会進化論的な思想がソビエト刑法の思想と重なり、
牧野理論における、細部から全体を組み立てる分析的傾向、「科学」への信頼等々が、
中山の理論的志向と重なるため。
形式論理的というか、中山・牧野両説の形だけから見れば、
中山説から構成要件を取っ払い、主観面から客観面へ逆流させれば、牧野説が出来上がる。
共犯論では、両方とも行為共同説だったし(前田説では行為共同説は無理なのは先に述べた)。
中山の構成要件について一言付言すると、中山は、行為・結果・因果関係等々を行為論で論じるため、
中山の構成要件論の中身は実用的には無内容であり、単に条文への当てはめを示すものとなっている。
なお、牧野も条文を完全に無視して裁判官が勝手に犯罪を創造できると考えているわけではない。
思想的な背景を無視すれば、形式的には中山説と牧野説は、かなりの部分、一致するので、
日本が共産化された場合、説明を変えるだけで同一の結論を導き出せることになると思う。
以上の如く、中山と牧野は(形式的・理論的には)かなり一致する部分があり、
中山がクラシックな古典派を基礎に議論を展開したのはブルジョア刑法だったから思うのだが、如何?
ところで、トリップって何?
法律に関する学説なんてアラ探せばきりがないよ
グダグダ言ってないで「一応」筋の通った答案書ける説なら
それでよし。そんなにアラ探ししたい奴は学者になるべきだね
実務家養成試験たる司法試験には適性がなかったってこと
刑法は軽く流す
これが合格への近道
というのは司試での常識
342 :
七誌タロウ ◆Z6G0yP9Q :02/01/13 21:36
刑法には深みにはまらないように。
できるだけコテハンにしてくれると、読みやすいです。(ロム一同)
司法板なんだから、法律板、自分で作って、そっちで
やってくれ
理論展開して批判して、口述辺りで司法試験委員とケンカする気?(w
1回くらいやってもいいな
前田が去りやっぱこの人の時代が来るんですか?
この人?
>346
中山派ならほんとにやれそうだ。
337は338に答える義務があると思われる。
質問:
斉藤信治の刑法総論・各論は司法試験向きでしょうか?
>>345 他に数多の糞スレがあることにかんがみれば、
こういうスレがあってもいいではないか。
>>350 そんな作為義務あるか?(藁
もしかしてあんたが中山派?
>353
おれは知らんぞオラオラ。
337氏にきかれたから答えただけで、こっちからは何も問うていない。
しかし二行で終わるのも淋しいので、雑感でも書こう。
337氏は次のように記述している。
>>自由法論の考え方から罪刑法定主義の解消(=放棄)を唱え、
>>結果的に理論的側面が浅薄となった牧野説
わたしは牧野が「自由法論」者かどうか知らない。
ただ、自由法論といえば、普通の(と思われる)理解に従うと、
法哲学や法思想史の世界において、概念法学と敵同士の関係とされる学派のことをいい、
エアリッヒ(エールリッヒでもいい。確かEhrlich)等が主唱者とされる。
牧野が社会進化論的な思想を持ってることは、ひととおり「日本刑法」読んだので分かるが、
「自由法論」者かどうかについては覚えがない。
見落としてるかもしれないので、知ってる人がいたら教えてくれればありがたい。
或いは、刑法学独自に自由法論なるものがあるのか?
また、牧野説は、本当に「理論的側面が浅薄」なのかどうか、
わたしにはそう断言する勇気はない。
>>354 意地でもトリップをつけるのはイヤなのですか?
>中山が牧野の理論的後継者になってたかも
というのが、
>「もし日本が共産化してたら」という条件付きでの話。
という空想上のものなら、それに関してどうこう言うのは不毛だよね。
「(空想上の事実を前提として)オレはこう思う!!」
「はあそうですか、想像力が豊かですね」
で終わっちゃう(藁
「意見を突き合わせるのがいいんだ!!」
という考え方もあるかも知れんが、結局空想だし。(撃藁
立証不可能。不毛。
>355
トリップの付け方が分かんないのです
ヴァカだから
>356
「もし作為義務として求められる行為をしていれば結果は発生しなかった」
不真性不作為犯は不毛な議論かね。
なお、338で、わたしは、単に「オレはこう思う」と言ってるのではなく、
可能な限りの根拠は上げている。
それでは不十分だと言われるのは仕方がないが、完全な夢物語のように書かれるのは心外だ。
なんだかなあ
中山、A級論争の復活キボン!
トリップの付け方。
名前#任意の文字列(数字可)
中山派だと,中山派#nanndemoiiとか。
過失犯の議論 きぼー
過失論といえば、なんか最近、危惧感説ぽい判決もあったね。
俺自身は危惧感説も、
過失の客観的評価を目指すものとして好意的なんだが、
中山、A級氏のご意見をうかがいたい。
このスレ見て大谷総論買っちゃった。
>>362 大谷は学院生が書いてるので
改説が頻繁に行われます。。。
364 :
中山派 ◆ql8ppqKE :02/01/30 22:38
最近A級戦犯氏見かけないけどどうしたんだろう。
359さん、Danke。トリップつけます。
過失犯で何かネタがあるかどうか考えたが、あまり思いつかない。
体系論としては、(故意とセットになるが、)
1:過失を責任論としてのみ論じるか、2:構成要件的過失を認め構成要件論で論じるか
1は、構成要件としては故意も過失も同じで、責任が違うだけとする。
発生した現象は客観面から見れば故意犯でも過失犯でも同じだから。
結果は同じなので故意犯と過失犯に本質的な差異を認めない、
この立場は結果無価値と結びつきやすいと思う。
2は、構成要件から故意犯と過失犯を区別する。
構成要件的故意・構成要件的過失が(主観的)違法要素なのか責任要素なのかについて、
違法要素だと言いたそうであまりハッキリ言わない大塚、大谷等の輩もいれば、
ハッキリ違法要素と言っちゃう福田等の輩もいる。
2は、過失犯で注意義務違反を強調する(故意犯もメツガーの決定規範違反と言いたげ)。
内心では、違法の本質を義務違反と思ってるのだろう。社会倫理規範違反とか。
違法の本質を義務違反と捉えれば、行為者が行為に出る時を問題にすれば足り、
理論的には行為無価値がその帰結になりそうだが、行為無価値一元論は評判が悪いのだろう、
適当に結果無価値で中和してごまかしている。
「人を殺すな」という規範と「注意せよ」という規範に本質的な違いがあるとすれば、
故意犯と過失犯には本質的な違いがなければならず、責任レベルでちょっと違うのでは済まない。
このため、構成要件段階で故意犯と過失犯を区別せざるを得ない。
また、ともかくも「人を殺すな」という規範に違反したかどうかが問題だとすれば、
どの人を殺すかは大きな問題ではなく、故に、錯誤論では具体的符号説にならない。
わたしが思いつくのはこの程度です。
誰かもっとすごいこと書いてください。
危惧感説は体系的にどうというより、公害事件か何かの「場合の手」みたいな感じがする。
交通事故の多発から信頼の原則が出たのと同じようなものではないか。
上記1の立場では信頼の原則は無理だろう、多分。
トリップなんか付けて自己顕示しなくても、内容で判別付くよ
愚考ですが枯れ木も山のにぎわいとやら書き込みます。
一応、注意義務を整理すると次のようになると思います。
旧過失論 具体的予見義務 具体的危険回避義務
新過失論 具体的予見義務 抽象的危険回避義務
危惧感説 抽象的予見義務 抽象的危険回避義務
何故、危惧感説が抽象的予見義務(危惧感)とするのかといえば、
予見義務の定型化だけでなく、
許された危険をいかに扱うかの問題があると考えます。
ひとつは、故意犯の限界の認容説を精緻にするための整合性、
いまひとつは、藤木刑法総論の説明とはすこし離れますが、
予見義務の問題として処理するためにではないでしょうか。
いやしくも、生命・身体に関わる危険が、抽象的予見において、言い換えれば、
一般人基準で、因果関係の予見はともかく、具体的結果の危惧感が感じられたなら、
その結果を回避する行為者の立場に置かれた一般人以上のレベルの
回避行為が求められるのではないでしょうか。
もしあえて、回避しないなら、故意があるのではないかとさえ考えられます。
許された危険は、どの説でも結果として回避義務を軽減するものですが、
抽象的予見義務という土台を設定して、
許された危険の確度の危険を超えて予見できなければ、
回避義務は発生せず、過失とならないとしたほうが分析的ではないでしょうか。
>366
結局、過失犯の予見義務の程度としては、許された危険<予見義務<認容ってことで、
これを、導くためには、抽象的予見義務(危惧感)を要求し、またそれで足りるとする、新過失論がいいってことなの?
結論的には、新過失論と大差なくても、
危惧感説(新新過失論)の方がいいと思ってます。
366で書いたのは、
危惧感<許された危険<認容ってことですけど。
>>366 >いやしくも、生命・身体に関わる危険が、抽象的予見において
なぜ、この設定が出てくるのかが分りません。。
それは危惧感説に都合のよい場面だからですか?
>>366 あのー。ここに書かれてあることは司法試験にひつようなことですか?
366です。
>>369 危惧感説を採用する根拠として
認容と過失の限界を探ろうとしたわけで、
生命・身体という限定の必要はありません。
>>370 不必要でしょう、でもいい無駄になると考えます。
旧過失論 具体的予見義務 具体的危険回避義務
新過失論 具体的予見義務 抽象的危険回避義務
危惧感説 抽象的予見義務 抽象的危険回避義務
この表は伊藤まことの講義にもあったので
覚えておいても損はないでしょう。
あれ?
許された危険の確度を越えて予見できなければ、過失とならないんだよね?
じゃあ、許された危険<抽象的予見義務であってんじゃないの?
366は、研究者ですか?
366です。研究者ではありません。
371において少し書き間違えました。
366で書いたのは数式でたとえればこうなるでしょう。
(危惧感∨許された危険)=抽象的予見義務<認容
ところが、一般に、
危惧感≦許された危険
なので
367さん、372さんのおっしゃる通り、
許された危険<抽象的予見義務
です。
新過失論は、新々過失論の書き間違いでした。m(_ _)mゴメン。
新過失論は、具体的予見可能性さえ認められたら、どんな行為でも
過失犯として処罰されかねない、として旧過失論を批判するんでしょ?
そうだとすると、旧過失論で具体的危険回避義務、新過失論で
抽象的危険回避義務とするのはおかしくない?新過失論の方が
処罰を拡張することになるよ。
それに、新過失論は予見可能性に結果回避義務を導き出すための機能
しか認めないわけだから、具体的予見可能性を要求しながら、
抽象的危険回避義務を要求するのはおかしくない?後者を要求するなら、
抽象的予見可能性で足りると思うけど。
間違ってたら指摘してくれるとうれしいです。
>>371 では
どんな領域においても「危惧感」(不安感)さえあれば
過失になってしまうのですね?
前田先生は公害犯罪などに対しての処罰拡大のための
「不安感説には、公害被害者になりうると同時に過失犯の主体になる危険性を持たざるを得ない
現代の国民の大多数が、不安感を持たざるを得ない」
と書かれていますが。。。
>>371 そんな表覚えたって損するだけでしょう?
366です。
376さん
> 旧過失論で具体的危険回避義務、新過失論で
> 抽象的危険回避義務とするのはおかしくない?
> 新過失論の方が処罰を拡張することになるよ。
一つは、用語の問題かもしれません。
前田刑法総論では、”客観的注意義務”となってました。
366の表の新過失論(危惧感説も同じ)の抽象的危険回避義務とは、
”類型化された客観的な一定の行為基準”
であることに違いはありません。
その基準を満たした行為があれば、罪は問えないので、
危険回避の面では処罰はある程度限定的となります。
> それに、新過失論は予見可能性に結果回避義務を導き出すための機能
> しか認めないわけだから、具体的予見可能性を要求しながら、
> 抽象的危険回避義務を要求するのはおかしくない?後者を要求するなら、
> 抽象的予見可能性で足りると思うけど。
まったく、そう思います、それが私が危惧感説を支持する理由でもあります。
369さんの377での投稿について
しかしながら、
いくら公害企業であっても、
結果回避可能性の無い従業員の罪は問えませんし、
日常生活に関しては、
予見・回避とも客観基準を設定することに支障はないと考えます。
たとえば、どの過失論を採用しても、
人通りの多いベランダに植木鉢を落ちやすい状態で並べることは、
罪を問うに足りるのではないでしょうか。
> 378
そうかもね。でも前田総論3版349ページにも類似の表あり。
>>379 >いくら公害企業であっても、
>結果回避可能性の無い従業員の罪は問えません
問題は、重大な結果が発生して、その責任を問われる場合(例えばHIV訴訟)
結果回避義務が厳しく認定される恐れがある点だ。
その結果、危惧感が「全く無かった」とはいえないとされるのだ。
つまり、結果から結果回避義務を逆算することで
ほとんどの場合は結果回避義務ありと認定される恐れがあるのである。
そんなことは無いようになっている。と言ってみたところで
そういう恐れがあるところが刑法理論としては不完全(危険)といえるのではないか?
そもそも「危惧感」とはなんなのか?がよくわからない。
381 :
366:02/02/08 02:21 ID:mIXHGO3g
366です。
380さん
> 問題は、重大な結果が発生して、その責任を問われる場合(例えばHIV訴訟)
> 結果回避義務が厳しく認定される恐れがある点だ。
> その結果、結果から結果回避義務を逆算することで
> ほとんどの場合は結果回避義務ありと認定される恐れがあるのである。
この問題自体は、確かに重大ですが体系の問題といえるでしょうか。
つまり、新過失論でも、また予見義務になるだけで、旧過失論でも同様ではないでしょうか。
必要なことは、各注意義務の内実の確保と考えます。
例えば、行為者がいかに資料収集すべきか、いかに回避すべきか。
故意に行っても罪責を問えないようなまったくの初めての事象はともかく、
類似実験などは行っているのが普通ですし義務だとも考えます。
ところで、新聞で読んだ限りですが
HIV訴訟のA教授に関しては、危惧感どころか具体的予見があった
と考えても不合理ではないと感じます。
382 :
366:02/02/08 02:24 ID:1dmrvDaR
366です、曽根と山口を立ち読みしてきました。
そもそも、予見とは何かを詳しく書いてある教科書少ないですね。
まったくの私見ですが、「危惧感」とは
「当該局面において、知り得た知見に基づく、法益侵害の危険の認識」
と考えています。
但、法定的符合説程度の具体性は必要と考えます。
ついでに、許された危険と信頼の原則の関係について、
私見では、「許された危険」は予見義務、「信頼の原則」は回避義務に、
適用されるもので本来は直接の関係はないと考えます。
しかし、予見と回避の循環により、結果的には危険が許されることになる。
(参照 藤木英雄 刑法講義総論 P240)
前田総論の「具体的予見が法定的符合説程度の重なり合いで足る」に
これが具体的予見かという疑問があったんですが、
危惧感説の密輸という趣旨の、曽根基本問題での指摘を読んですっきりしました。
山口問題探求での、危惧感説は責任主義には反しないが、
1元的行為無価値を要することが問題との指摘は、
立ち読みでは済みそうに無いです、じっくり検討したいと思います。
2元的行為無価値を考えてますから。
383 :
中山派:02/02/08 14:23 ID:STzx5aJz
>366さん
わたしも危惧感説が一元的行為無価値を要する(とまでは言わないが極めてそれに近い)と考えます。
理由は以下のとおり。
なお、「具体的」と「抽象的」というのは、本来的には犯罪論の体系に起因すると思いますが、如何?
>旧過失論 具体的予見義務 具体的危険回避義務
>新過失論 具体的予見義務 抽象的危険回避義務
>危惧感説 抽象的予見義務 抽象的危険回避義務
旧過失論は故意・過失を責任要素(構成要件要素ではない)としており、
客観的(構成要件的でもいい)には故意犯も過失犯も全く同じで、
客観面に対応する主観的な認識がある場合を故意、ない場合を過失とする。
即ち、構成要件の具体的な内容(行為と結果と因果関係)の認識があれば故意、なければ過失。
ただ、そうすると、結果が発生すれば少なくとも過失犯には問えることになって具合が悪いので、
予見可能性、危険回避可能性がない場合には、過失なしとして、過失犯にしない。
過失の内容は、認識して回避しようと思えばできた構成要件の具体的な内容だから、
「具体的」というのはいいが、「義務」はどうだろうか? むしろ「可能性」ではないか。
なお、この説では構成要件は必須ではないと思われる。
危惧感説(=藤木説とすれば)は故意・過失を構成要件要素(主観的違法要素)として、
責任論から故意・過失を完全に追い出してしまう(と記憶している。違ってたら指摘して下さい。)。
構成要件の内部で故意・過失を論ずることになるので、故意規制機能が失われ、
旧過失論のように構成要件を故意による認識の対象とするわけにはいかなくなる。
よって、危惧感説においては、構成要件要素として位置付けられた故意・過失等の主観的要件は、
素朴に事実の認識又はその可能性と位置付けるのではなく、むしろそのようなものから離れ、
処罰するために必要な主観的要件は何か、という実質的な概念として位置付ける方が具合がいい。
また、旧過失論の如く、構成要件の具体的な内容に対応する主観面を故意・過失とせず、
処罰するために必要な主観的要件を実質的に考察して故意・過失とするのであれば、
故意・過失の内容として、具体的に発生した結果・因果の流れ等を前提とする必要はなく、
一般的・抽象的・規範的な一律の内容のものを、構成要件に置くことになろう。
ここに至れば、故意・過失の内容は抽象化され、過失犯は「義務違反」として構成され、
抽象的予見義務・抽象的危険回避義務違反となる。
更に、結果を客観的処罰条件のようなものに過ぎないと考えれば、完全な行為無価値になると思う。
新過失論は、体系的に、予見義務を責任要素、危険回避義務を構成要件要素とするのだろうか。
そうすると、そもそも危険回避が不可能な場合は、
抽象的な危険回避義務に違反しないとして構成要件レベルで落とし、
予見が不可能な場合は、具体的な予見義務に違反しないとして責任論で落とすことになる。
構成要件的故意・構成要件的過失を認めるところから新過失論が出たと記憶してるのだが、
構成要件的過失で「具体的」注意義務を要求していいのだろうか。
大谷のように構成要件的故意で動機説を採用する神経があれば別だけど。
384 :
366:02/02/09 00:53 ID:uRhzjFfR
366です
>>383 中山派さん
> 「具体的」と「抽象的」というのは、本来的には犯罪論の体系に起因すると思いますが、如何?
そうですね。
> 旧過失論は
たしかに、「可能性」のほうがよく表していると思います。
予見可能性があるのに、予見していない責任を問うと言う意味での義務であり、
因果の「可能性→義務」との混同をさけるためここでは「義務」を使いました。
> 危惧感説(=藤木説とすれば)は
完全とまではいかないでも、過失を責任論から追い出してます。
(参照 藤木英雄 刑法講義総論 P251)
ただ、私は、危惧感説を採ることについて、
期待可能性の欠如による責任阻却などを考える余地がないほど、
全てを構成要件に解消することが必然かどうか、
については疑問があります。
もっとも、
危惧感説が採るべき構成要件的過失については、
中山派さんの書かれた、内容に賛成します。
過失犯を危険犯的に考えない限り、
危惧感説が完全な行為無価値になることも納得。
> 新過失論は
構成要件・違法性・有責性の各段階において、
予見義務・回避義務を考察するようです。
予見義務は回避義務を引き出す目的以外には、
あまり考えてなかったというのが本当かもしれません。
(また、立ち読みしてこなくちゃ。)
385 :
氏名黙秘:02/02/09 02:59 ID:Bc2sXf4o
そこまでして危惧感説を採用しなくてはならない理由はなんですか?
論文でサブ論点で出た場合、一時間で論証できるのですか?
386 :
366:02/02/09 12:45 ID:6eB1TTfH
最初の動機は、
「一般的・抽象的・規範的な一律の内容のものを、構成要件に置きたい。」
というのが一番でしょうか。
論文でサブ論点で出た場合は、危惧説と並んで
論理の流れのいい旧過失論
で書くことも視野に入れてます。
387 :
中山派 ◆syzf.Kp2 :02/02/12 00:25 ID:9KOXPdNr
これまでの話と全然脈絡がないけど、
ふと、疑問に思ったので、どなたか智慧を拝借させてはいただけぬであろうか。
疑問とは即ち、「結果無価値は一種の自然法に通ずるか」である。
結果無価値とは即ち法益保護である。
ところで、その法益とは、一体、「何法」によって保護されているのだろうか。
例えば、生命・身体の自由を刑法以外で直接に保障する法規があるかと問われれば
即座にその法規を答えることは困難ではなかろうか。
それは民法であろうか。ただ、民法は、基本的には、財産法・身分法を中心とし、
人格的利益については、法文上、沈黙している(よって民法を直接の根拠とするのは困難だろう)。
困った時の憲法13条がそれに当たると主張することも考えられぬではないが、
憲法は、基本的には国家と国民の関係を規律するものであって、
国民相互間の関係には沈黙している(だからこそ憲法の私人間効力が問題となる)。
仮に自然法論を採用して、憲法の人権規定が自然法の確認に過ぎぬと解するのであれば、
自然法によって生命・身体の自由が保障されていると解することもできよう。
ただしこれは芦部(清宮でもいいけど)説の信奉者でなければ採り得ぬ説であろう。
わたしは、自分では法実証主義のつもりであるが、
よくよく考えてみると、結果無価値は法実証主義と反するのではないか、
法実証主義者であれば、理論上、行為無価値に傾くのが正しいのではないかと
考えるに至ったのであるが、この考えは正しいのであろうか。
行為無価値なら話は簡単なのだ。国家がその行為を命ずると考えれば済むから。
どなたか、迷える一書生を救いたまえ(大袈裟だけど)。
388 :
中山派 ◆syzf.Kp2 :02/02/12 00:29 ID:9KOXPdNr
失礼、国家がその行為を命ずるでなくて禁ずるだ。
分っておられると思うが、念のため。
389 :
366:02/02/12 01:23 ID:1NEEpkmO
366です。
浅学の私が書くのもなんですが、
法実証主義と行為無価値・結果無価値は無関係なのではないでしょうか。
ああ言えばこー言うという感じですが、
法は、価値判断無しで、損害賠償を定めている民法や
処罰要件を定めている刑法があるのみ、とも解釈できますから。
一般的な法益概念は陰伏的にしか記述されてないというか、
かなりの抽象化をした段階で現れるのではないかと。
>法実証主義と行為無価値・結果無価値は無関係
そうだね。ついでに自然法とも無関係だね。
391 :
芦部派:02/02/12 02:36 ID:j9KpBPCH
>>387 私は芦部説信奉者ですが(検閲のところは佐藤幸で書きますが)、
芦部先生が、人権規定は自然法の確認に過ぎぬ、などと仰ったという
話は、聞いたことがありません。というか、「自然法」の語を
いかなる意味でお使いかわかりません。芦部先生は近代立憲主義憲法と
いわゆる「自然法」とを明確に区別しておられるものと私は理解しております。
また、「法実証主義」の意義もイマひとつ明確でないと思います。
ハンス・ケルゼン流の「実証主義法学」という意味でお使いなら、
確かに芦部先生は『憲法と議会制』はしがきで仰っている(いたと思う)
とおり、ケルゼンのような実証主義でもシュミットのような「決断法学」
でもない、第三の道(ヘルマン・へラーの立場)を日本の憲法学者も
志向すべき、というお立場であり、その意味では法実証主義ではない、
とも言えます。しかし「実定法に基づく解釈論」という程度の意味で
「法実証主義」の語を用いられておられるなら、芦部先生は当然
「法実証主義者」であられるし前田(刑法の)だって「法実証主義」
でしょう。
ご批判を願います。
392 :
芦部派:02/02/12 02:53 ID:j9KpBPCH
>391「用いられておられるなら」→「用いておられるなら」に訂正です。
ちなみに、私は(3版)だいこく派ですが、刑法的にも「法実証主義が
行為無価値に傾く」という命題は維持するのが難しいように思われます。
ただこれは「そもそも大谷は行為無価値じゃネエ」などと言われようもの
ならそもそも成り立たない議論なのでやめときます。
なお御大将の大谷先生は「法益」の根拠は憲法13条(幸福追求権)に
求めておられます。この点も何分浅学ですのでご批判を頂きたいと存じます。
393 :
中山派:02/02/12 20:10 ID:BMltDXTi
やっぱりちょっと乱暴だったか。
共同体への義務違反が刑法の本質とする立場においても、
その義務を実定法によって基礎付けられないなら一種の自然法になる。
先に書いたような形で結果無価値が自然法に結びつくよりも、
共同体が国家を超越した団体であり共同体が国家を創設するという考え方によって
行為無価値が自然法と結びつく方が自然かも知れない。
ともあれ、うっかり「自然法」を使用したのは大ボケだった。反省。
ところで、芦部説(清宮説も同じ)は、
憲法制定権力の万能性を否定し、根本規範が憲法制定権力を制約すると説く。
芦部説では、超憲法的な規範によって憲法が制限されることになるが、
実定法上、憲法を超える規範は存在しない。
その超憲法的な規範は要するに何なんだと問われたら、
これは一種の自然法(超実定法的な規範という意味で)とでも答えるしかないと思う。
また、芦部は、『憲法制定権力』(記憶が定かではないが)において、
憲法改正の限界を超える憲法改正が行われた場合、それは、
「あらわな実力による憲法の破壊であり究極的に妥当性(Geltung)を獲得することはできない」、
というようなことを言ってるところからしても、内心自然法論者と考えて間違いではないのではないか。
なお、菅野喜八郎は、憲法改正の限界(確か、「憲法の争点」にあったと思う)について、
法実証主義的無限界論(佐々木惣一、大石眞)、主権万能論的無限界論(結城何とかさん(忘れた))、
法実証主義的限界論(シュミット)、自然法的限界論(清宮、芦部)に分類している。
芦部派さんは、
「芦部先生が、人権規定は自然法の確認に過ぎぬ、などと仰ったという話は、
聞いたことがありません」
と言われるが、これは確かにその通りで、ぼんやりして大ボケかましちゃいました。
しかし「自然法」ではなく「自然権」を確認したという話なら本にあったと思う。
上記の如く芦部が内心自然法論者なので(多分皆さんもそう思われているだろうと速断して)、
「自然法」も「自然権」も区別することはなかろうと軽く考えたのだが、
これは言い訳なので黙殺して下さい。
なお、大谷は、講義でも、憲法13条を保障するために刑法があるんだと力説していた。
法による自由という感覚かな。
394 :
芦部派:02/02/12 23:26 ID:j9KpBPCH
>393中山派さん
イヤー、常に明快な論をお持ちで感服します(ホントに)。
確かに『憲法の争点』では芦部先生が「自然法的限界論」と
位置付けられていたように私も記憶しています。
「憲法13条を保障するために刑法がある」というのは
どこぞの魔骨塾長のようですが(w
「刑法の目的は、法益保護を通じた社会秩序の維持にある。
犯罪を防圧し、社会秩序を維持することなくして
国民の幸福追求権保障はありえない」とする大谷刑法学には
(ご指摘のとおり多くの難点がありますが)行為無価値論者として
「社会倫理規範」「行為者人格」のみを振り回す団塚よりは
魅力を感じます。
(しばらく来ませんがまたいずれ立ち寄らせていただきます)
395 :
氏名黙秘:02/02/13 01:32 ID:OKhUAvgm
>「刑法の目的は、法益保護を通じた社会秩序の維持にある。
>犯罪を防圧し、社会秩序を維持することなくして
>国民の幸福追求権保障はありえない」とする大谷刑法学
団塚だって同じだと思うが・・・・。
>「社会倫理規範」「行為者人格」のみを振り回す団塚
本当に「のみ」振り回しているのでしょうか?
私はそうは感じなかったのですが。
396 :
age:02/02/13 01:35 ID:???
ぶちゃけた話、ここで書いてて楽しい?
398 :
中山派 ◆syzf.Kp2 :02/02/18 22:30 ID:O5zowHUR
久々に大谷刑法を糾弾する。大谷の動機説を糾弾する。
大谷は、故意において動機説を採用する(大谷・総論182頁)と言っているが、
大谷の動機説は純粋な動機説ではなく、詐称動機説とでも言うべきで、理論上も破綻を来している。
純粋な動機説は、故意を責任要素としてのみ捉え、構成要件的故意をみとめない。
そして、故意の要件として、事実の認識及び違法性の認識の両者を要求する(厳格故意説)。
具体的には、反対動機を形成して思い止まるべきだったのに敢えてやっちゃった、ということ。
また、誤想防衛では、反対動機の形成は無理として故意を阻却し、過失犯の成立を検討する。
(以上、中山の純正品の動機説)
大谷は、構成要件的故意を認め、構成要件的故意に動機説を詐称して曰く。
1;「故意は、類型的かつ事実的でなければならず、評価的であってはならない(大谷・総論172頁)」
2;「故意が責任類型として過失から区別される根拠は、行為者が当該の行為について、「その行為は法律上
許されているか否か(違法であるか否か)」ということを検討する機会、すなわち規範の問題を具体的かつ
直接的に与えられているのに、あえて犯罪事実を実現する点にある(大谷・総論173頁)」
3;「故意の本質的要素は、@構成要件に該当する客観的事実すなわち犯罪事実の認識、および、A認識した
内容を実現する意思にあり、いわゆる違法性の意識ないし違法性の意識の可能性は故意の要素ではない
(大谷・総論173頁)」
団藤・大塚的な1、中山的な2、福田的な3のキメラとなっている。
1で評価的であってはならぬとしつつ、2で法律上許されているか否か(これは評価的な問題ではないか?)
検討するといい、3で違法性の意識又はその可能性が故意の要素ではないと主張している。
この2頁の間に、事実的→規範的→再び事実的へと主張が二転三転、理解不可能である。
大谷は、厳格責任説の立場から、誤想防衛では構成要件事実の認識があるので規範の問題に直面しており
故意を阻却しない(大谷・総論362頁参照)とするが、ここで大谷が規範と言っているものの内容は、
「他人に殺されても他人を殺すべからず」ということになりはしないか。聖人君子ならともかく、
常人には遵守不可能であろう。社会倫理規範もここまでくれば高邁すぎて法で強制できるはずがない。
福田説的な結論を導き出したいなら、動機説は無用の長物であり、認容説に改説すべきである。
大谷は、正当防衛の根拠として、法確証の利益を挙げ、曰く。
「人間の自己保存の本能を保護するとともに、法秩序の侵害の予防又は回復という観点から法の自己保全を
図り、法秩序の存在を確証するために違法性を阻却する(大谷・総論294頁)」
そうであれば、急迫不正の侵害がある場合には、上記の「法秩序」が規範であるというべきであって、
反撃行為を行う行為者は規範の問題(違法であるか否か(大谷・総論173頁参照))に直面していない、
即ち、正当防衛が成立する場合にはそもそも故意がないことになるのではないか。
これは無論屁理屈で、大谷は規範を云々言いながら構成要件事実の認識さえあればいいとしているので、
実際にはこのような結論にはならない。しかし、大谷のようにいい加減な折衷説で調子に乗っていると、
ちょっぴり突き詰めて考えれば訳の分らないことになってしまう。
そして、誤想防衛になれば通常一般人の道徳的直感(直観か?)からしても破綻を来すことになる。
なお、中山説は動機説であるが、中山説では、正当防衛の根拠として優越的利益の原則を挙げ、
故意の検討の前に違法性阻却を検討し、正当防衛の意思を不要とするので、正当防衛が成立する場合、
故意の検討は不要になるし、誤想防衛の場合には規範の問題に直面していないとして故意を阻却するので、
理論的に整合性は取れている。
399 :
芦部派復活!:02/02/19 00:47 ID:XTkF6dBI
>395
>>国民の幸福追求権保障はありえない」とする大谷刑法学
>団塚だって同じだと思うが・・・・。
弾道の基本書、読んだことありますか?団藤を読んでからご批判ください。
(大塚は確かにそれらしいことを書いてますが。)
>>「社会倫理規範」「行為者人格」のみを振り回す団塚
>本当に「のみ」振り回しているのでしょうか?
>私はそうは感じなかったのですが。
これも弾道の「論証集ではなく基本書を」お読みください
としか言えません。(これは大塚も)
何回も逝っているように
大谷「刑法総論」「各論」は弟子が書いてるだけ。
大谷は学会では結果無価値派。
大谷説って言われてもね。。。
401 :
:02/02/19 00:54 ID:???
>>399 具体例も挙げず
「基本書をお読みください」じゃないよ!あほか!
自分が書いたことの論拠を挙げろ!!
特に
>行為無価値論者として 「社会倫理規範」「行為者人格」のみを振り回す団塚
の部分。
402 :
:02/02/19 01:00 ID:???
>弾道の基本書、読んだことありますか?団藤を読んでからご批判ください
>弾道の「論証集ではなく基本書を」お読みください としか言えません。(これは大塚も)
こいつ自分しか基本書読んでない。または読んでるから正確に理解してる。
とか、勘違いしてるな。
なにが芦部派だよ(w
中山派に対抗してるつもりか?
他人を見下して、さらに自分への反論・疑問には「基本書をお読みください」
としか応えられない奴は出てくるな。目障り。
まあまあ、マターリといこうや。
でも、団藤まで基本書読むのもバカバカしいな(w
404 :
中山派:02/02/19 12:32 ID:PcTDV4kc
>誰とは言わないが「大谷本は弟子が書いてる」と書き込む人へ
大谷が弟子にも印税の分け前を渡しているかどうかは知らないが(これはどうでもいい)、
自分の名前を使って出版しているのだから、弟子が書いたという言い訳はできまい。
履行補助者の責任の世間一般道徳版なので、考えなくてもすぐに分かっていただけると思う。
秘書がやったので知らないみたいな言い訳(本当に知らないかも知れないが)は議員だけで十分。
また、自分の名前で本を出す以上(しかも元司法試験委員でそれなりにネームバリューもある)、
他の学者等から、「(大谷・何頁)」などという形であちこちの基本書や論文で引用されるのは必定で、
学会向けと基本書向けで主張が違うなどと言ったらアホにされるだけ。
まさか、仮に大谷が厚顔無恥の破廉恥漢としても、弟子がやったから知らんとは言わんだろう。
なお、大谷本のゴーストライターの正体は、わたしにも大体創造がついているし、
同じことを何度も言われんでも分かるから、今後は非建設的な書き込みは御遠慮願いたい。
405 :
氏名黙秘:02/02/19 12:49 ID:9EahwnnH
>>400 大谷先生の弟子で、大谷先生に使われるのに疲れて弁護士になった人知ってるよ。
今企業法務やっている癖、同志社で刑法研究という名の大学院講義やってるらしい。
本の改版頻繁にやって印税は稼ぎまくるわ、弟子使いは荒いわ、最近も辰巳の演習本
(「同志社総長」と肩書きつけてた(w)の執筆の機会を借りて、
大谷ファミリー団結式ひらくわ、いってよしですな。
例えゴーストライターが下書きしているとしても
中身のチェック・修正は大谷自身がしてるだろ、いくらなんでも。
>>404 >なお、大谷本のゴーストライターの正体は、わたしにも大体創造がついているし、
誰?実務家?学者?院生?
一人じゃないよな。集団か。
408 :
:02/02/20 03:32 ID:???
>>404 あれって
「教科書」でしょ?
そのつもりなんじゃないの大谷さんも。
>中山派さん
大谷説から反論します。
大谷説の規範とは、構成要件の規制機能のこと(行為規範)をさしているとおもわれる。
規範=法律上許されているか否かというのは、法律=構成要件ぐらいの意味でそれほど深い意味はない。
従って、構成要件該当事実の認識があれば、規範に直面し故意ありとなるわけです。
もし、誤想防衛で、無罪にしたいなあと思ったら、責任段階で38条3項による責任阻却を認めればいいだけで。
そんなにおかしいですか?
動機説を取ると、なんで、構成要件段階で故意を検討しちゃ駄目なのかわからないんですけど。
410 :
氏名黙秘:02/02/22 19:36 ID:2Eb17by8
大谷ファミリーって ワラ
学界や法曹会じゃじゃほとんどそんな勢力なんかないじゃない
つまり結論としては、団塚が一番楽で近道かつそれで十分、てこと?
問題は大塚の教科書がむちゃくちゃつまらないことじゃ。眠くなっちゃう
413 :
:02/02/23 02:57 ID:???
平野で充分。
414 :
409:02/02/23 10:17 ID:QsoWrD1o
ちなみに、過失犯については、「一般人を結果回避へと動機づける程度の予見可能性」を道具として使えば、かなりうまくいきそう。
たとえば、公害とかなら、かなり低いレベルで予見(危惧感程度のもの)していたとしても、それが生じれば、とてつもなく重大な結果が生じるので、一般人を結果回避へと動機づける程度の予見可能性ありといえるだろう。
この意味で、帝京大の安部なにがしの予見可能性を肯定することも可能。
ただ、さらに優越する利益がある(例えば、100人に非加熱血液製剤を投与すれば、一人ぐらいは、エイズになるだろう。しかし、投与せねば、もっと多くの人が死ぬ)と考えた場合は、許された危険の法理で、違法性を阻却すれば、いいんじゃない?
緊急非難でいきたいような気もするけど、「現在の危難」とかが厳しいのかな。
415 :
中山派 ◆syzf.Kp2 :02/02/23 20:31 ID:vUIOymwd
>407氏
うっかりしてた。嫌味か?(笑)
元締めが一人、更にその下に戦闘員みたいなのが数人、院で大谷の金魚のウンコしてるよ。
>408氏
中学や高校の教科書じゃないんだから。
>409氏
反論? これが? 全体的に何を言いたいのかよく分からない。
「規制機能」とは故意規制機能のこと? 「規制機能」では何を規制するのか分らない。
それはそれとして、貴方は規制「機能」と行為「規範」を同一視しているの? どういう了見???
区別がつかないのは小林直樹だけで十分と思うけど。
それに、「〜ぐらいの意味でそれほど深い意味はない」などと書くと良識疑われるよ。
理屈の言い合いを商売にしている人又はしようとする人が、こんなこと書いてもいいのかね。
「シュミットなど引用した無数の学者の一人に過ぎぬ」と言って失笑を買った小林直樹みたい。
要するに、貴方が書いていることは、『構成要件が行為規範(「殺すな」、「盗むな」)であり、
構成要件該当事実(「殺す」、「盗む」)を認識すれば規範の問題に直面する』、ということだろう。
これは大谷本をそのまま引っ張ってるだけ。このどこが反論か?
誤想防衛については、わたしは大谷説の結論が不当だとは言っていない。
大谷の言う規範の内容は「自分が殺されても他人を殺すなかれ」ということになるが、
大多数の国民に実行できない規範を行為規範としても国民の理解を得られまい、ということ。
ただ、法で強制云々が誤解を招いたかも知れないので、その点はご免なさい。
最後のは「反論」というより「質問」だろう。無知が反論になるのはアホな上司だけで十分。
それに貴方は、大谷の動機説と正当防衛の間の緊張関係については、沈黙している。
以上のことから、409氏に再反論する義務は認められない。
なお、大谷説を理解(本質的には不可能であろうが理屈の言い合いに使える程度に熟知)していれば、
『大谷は「構成要件要素としての故意がそのまま責任要素としての故意になる」と言っている。
即ち、構成要件要素としての故意には責任要素としての故意の意味もあり、通常、動機説は、
故意を責任要素として論じる場合に使われるが、構成要件故意で動機説を使っても構わない』
という手をすぐに思い浮かぶはず(変な手だけど)。
矛盾のない学説を教えて下さい
417 :
中山派 ◆syzf.Kp2 :02/02/23 23:28 ID:XY5Xx/s2
やだ
>>415 院生?
その情報は古い気がする。
「既に就職した何人かが手分けして」という話なら
「ああ あの人とあの人と・・」みたいな形で想像つくが。
419 :
中山派 ◆syzf.Kp2 :02/02/23 23:39 ID:XY5Xx/s2
悪かったな
卒業してかなりたつんだよ
中山派は同志社大生かい!
421 :
中級者:02/02/25 09:53 ID:???
中山派。わからんぞ。
貴兄のいっておられるのは、
動機説は、厳格故意説(故意の認識対象として違法性の意識が必要説)とむずびついていて、そうであるならば、構成要件段階で故意を考えることはできないってことなのか?
ちなみに、大谷の言っている規範は「人を殺すな」(199条)って事だろ。
そのなかには、貴兄のいわれる、「他人に殺されても他人を殺すべからず」もはいってくるんだろうが。
まあ、私も大谷はなにをいってるのかわからんけど。
薄い大谷刑法総論(第2犯、2900円)を買ってきて読もうと思ったが、いきなり、6ページ目でつまずいたわ!!
社会倫理と刑法の関係なんだが。
社会倫理的には無色の行為であっても、法益保護の観点がら処罰すべきときはする(6ページ下の方、犯罪化)とかいっときながら、次のページでは、刑法は、社会倫理の観念に立脚していなければならない。とか説く。
その心はいかに?
犯罪化によってあらたな社会倫理が形成されるとでもいうのかね。
422 :
氏名黙秘:02/02/25 09:59 ID:OGUe26jJ
大谷って、もともとは結果無価値だったんでしょ?
423 :
中山派:02/02/25 18:12 ID:uG4OhR51
何故に反対動機を形成しなければならないかといえば、それは、違法な行為だから。
よって構成要件、違法性の検討を終え、違法であることが確定してから、
何故に違法な行為を敢えて行ったか、という責任を追及するのが自然な流れになる。
通説的見解では、構成要件段階では、違法はまだ推定だから、
構成要件段階で故意を検討する際、違法なのに何故に敢えて行った、とは言えまい。
違法を推定してやめておくべきだったのに何でやったのか、というのは変だし。
また、違法性が阻却される場合でも構成要件故意はそのままなので、
違法性がなくなるが違法な行為を敢えて行うということで、やっぱりちょっと変。
違法性がなくなるのは結果違法だけで行為違法は残るとすれば、一応、話は分かるが、
それなら、正当防衛のところで正当防衛の意思を要求するのはおかしい。
なお、消極的構成要件理論を採用し、違法性阻却の後に故意・過失の判断をすることは
あり得るだろう。
また、構成要件判断は一般的・類型的判断なので、
反対動機云々という行為者の内心に深く関わるようなものを持ち込むめば、
大谷によれば形式的に判断すべき構成要件判断が実質的になるのではないか。
行為規範は違法性とは別だとして、反対動機を違法性と結びつけないとすれば、
違法性とは別の社会倫理規範に敢えて違反したことを根拠に責任を問うことになる。
これでは、客観面とは別に悪い意思を罰することになるが、ここまでやるか?
424 :
中級者:02/02/26 06:07 ID:???
なるほど!
納得した。
それで、大塚先生は犯罪を個別するための構成要件的故意と責任故意をわけて考えるのだね。
また、井田先生のように(実は、2ちゃんでしか、知らないけど)、消極的構成要件要素を認めるというのもありですね。
そうすれば、故意の検討は一回ですむし、「規範」が、一般的な国民の意識と離れることもない。
正当防衛状況を認識していれば、故意なしとなるので。
最後のところなんですが、「違法性とは別の構成要件という規範に敢えて違反したこと」が責任を推定させるのでしょう。
なんか、言ってることは実質「無」に等しい気もするけど。
425 :
中級者:02/02/26 09:32 ID:???
今、思ったのだが、中山派のいう理屈だと、動機説云々が問題なのではなくて、故意を複数認めないのに、構成要件段階で故意を検討する事が、おかしいということになるんじゃないの?
426 :
中山派:02/02/26 18:35 ID:3ILlzdMg
クラシックに、心理的責任論+道義的責任論を採り、
「自由意思で止めるべきだったのに敢えてやった」行為に対する道義的責任を問うとすれば、、
故意を論ずるに当たっては、どこかで違法性の意識を絡ませないとまずいだろう。
故に、故意を完全に責任要素として動機説を採ることには十分理由があるし、
故意を事実の認識と違法性の意識に二分して責任故意で違法性の意識を論じることも可能だろう。
しかし、規範的責任論を採り、故意を事実的・心理的なものから切り離し、規範的に再構成し、
責任の本質を(行為者に対する行為者以外の者から見た)非難可能性と位置付ければ、
故意を論ずるに当たって、「止めるべきだったのに敢えてやった」云々(違法性の意識)は、
故意の成立のために本質的かつ必須の要素ではないことになって、
故意は、故意非難のためにどの程度の認識が必要かという観点からドライに論じられることになろう。
ただし、違法性の意識は故意に必須ではないが、それを要求したからといって
論理矛盾に陥るというわけでもなさそうなので、違法性の意識を責任故意で要求してもいいと思う。
違法性の意識があるからこそ故意「非難」が可能だ、という考え方もできると思う。
また、事実を認識すれば非難は可能だ(違法と思わないで違法行為をする方がもっと悪いとも言える)、
と考えれば、故意に違法性の意識を必要としないことになろう。
この考え方を徹底すれば、厳格責任説、故意は、構成要件故意(事実の認識で足る(認容説))のみとし、
違法性の意識がなければ例外的に責任阻却の可能性がある、ということになるのではないか。
大谷はともかく、故意を構成要件要素とすること自体がおかしいということではないと思う。
428 :
刑法って趣味なの?:02/03/05 23:09 ID:g+o/Mk0s
「中山派」さん、死亡したの?
中山説、ってオリジナルな見解ほとんど提示していないし、
人の批判しか言ってないよね。
でも、学者としてはそれでいいっか?
429 :
氏名黙秘:02/03/09 01:43 ID:iTQ47JkU
「中山派」の大谷批判は、的を射ていない。
皆さん、信じてはいけませんよ。
でも、的を射ていないだけで、矛盾がたくさんあることは、事実です。
択一も近いし、書き込みにこないだけじゃ、ネーノ。
iTQ47JkU。
まず、おまえの中山派批判が的を射ていない。カス!
確かに、中山派は学説史に拘りすぎだとは思うが。
しかし、説得力ある。
すくなくとも、おまえiTQ47JkUよりは、はるかにましだ。
おまえはこのスレのどの住人よりもアフォであることを保証しよう。
434 :
氏名黙秘:02/03/09 22:58 ID:BgRSrsN1
>>432 どこが?
説得力あるって感じてるところが、勉強不足の証拠だろ!!
431=432
437 :
氏名黙秘:02/03/10 08:03 ID:YOoO4vDL
大谷も誉められた学者じゃないが、前田もヒドイだろ?
文章はヘタだし、論理矛盾してるし、ただ諸学説をまとめただけ
じゃないか。全く発想力がないよ。前田刑法を紛糾するというスレが
出てきてもよさそうだが・・・
438 :
氏名黙秘:02/03/10 13:39 ID:7SvaNSnb
前田先生の発想力は、刑法における新たな「学者」概念、すなわち「刑法の御用学者」の創設にあると思われるが。
>>433-434 2ちゃん初心者ですか?
煽りにマジレスしないように。
って俺か?
439 :
氏名黙秘:02/03/10 15:48 ID:h0lrRVol
これだけ諸学説に詳しくても受からない奴らって・・・
魔骨本だけ読んでさっさと受かる奴らの方が余程実務家向き
>439
なぜマコシ本が出てくるのか不明だが、
普通に勉強して平安合格する奴は実務家向き。
正直、このスレの話は半分も理解できん…
択一も刑法が苦手で苦戦している…
大学も私大だし。(でも、私大のなかではましな早稲田)
やっぱ試験やめよかな。
442 :
氏名黙秘:02/03/10 18:36 ID:r5T2gsRW
>>441 「私大のなかではましな早稲田」
えっ?
あ、ちなみに丙案の合格者は、自分で考える事を知らないからつかえないそうです。
すぐ、答えを探すそうです。判例さがして、「なかったです。」
ヴァカか?
>>438 それには藤木という大先人がいるではないか。
445 :
氏名黙秘:02/03/10 18:51 ID:r5T2gsRW
>>444 勝手なこというな!!
藤木先生は、「御用学者」ではない。
現に、刑法改正反対だっただろ!!
446 :
氏名黙秘:02/03/11 01:02 ID:5tE9MQw6
>>439 中山派さんは、学説知っているだけで、理解してないからだと思います。
動機説の現在における意味内容を取り違えています。
大谷説で問題なのは、動機説をとることではなくて、
積極的動機説をとることにあります。
そのほかにも、多くの誤った理解をしています。
大谷説だけを批判したところで、現在の刑法学説の到達点は
充分には理解できないと思いますよ。
447 :
:02/03/11 03:56 ID:???
結局、揚げ足取りなんだよね。
法学者が一般人から嫌われる理由の第一番目だね(w
448 :
中山派:02/03/11 12:38 ID:XCaqFYM0
暫く修行で留守にしていた。
446の趣旨が批判なのか忠告なのか誹謗・中傷の類なのか知れないが、
「現在の刑法学説の到達点」とはものものしい。山中、山口、佐伯、井田あたりのことかな。
積極的動機説というからには消極的動機説もあるのだろうか。
わたしは意味内容を取り違える以前に「積極的動機説」という言葉すら知らなかった(笑)。
5tE9MQw6氏には、上記の点も含め、わたしの理解が誤っている点を具体的に教示してくれればありがたい。
449 :
氏名黙秘:02/03/11 14:28 ID:KcoRnDuT
>446
くだらね。
どうせ、犯罪事実の認識を、犯罪行為にでない動機としなかった(消極的)
と、犯罪事実の認識を犯罪行為にでる動機とした(積極的)
だろ?
450 :
氏名黙秘:02/03/11 16:13 ID:+57Di2YT
君たちは実務家には向いてない
学者肌が過ぎる。
学者を目指せば成功するかもよ
451 :
pool0267.cvx8-bradley.dialup.earthlink.net.2ch.net/:02/03/11 16:15 ID:nb1m1gZb
ENTER
>450
「学者肌」は学者としても「成功」しない。ここで成功というのは、
以上でさんざん悪口を書かれている大先生たちのようなビッグボス
になることです。彼らは極めて優秀な実務家になれるタイプではない
でしょうか。
453 :
山口組:02/03/11 17:40 ID:0TUEPEw/
オオタニ、誰、ソレ。死んだ人?
行為無価値、何、ソレ。
司法試験向きと実務家向きとはまた違うわけだが。
司法試験向きなら大抵実務家向きだが、
その逆は必ずしも……
455 :
氏名黙秘:02/03/11 18:42 ID:RDLW4yzM
自分たちには理解できない議論が不愉快なのはわかるけど。
その場合は放置でいいんじゃない?
456 :
452:02/03/11 19:52 ID:???
邪魔して悪かったね。議事進行でおねがいします。
457 :
氏名黙秘:02/03/12 02:00 ID:akJvFWOh
458 :
氏名黙秘:02/03/15 00:33 ID:uTOsfD4c
大谷實『刑法講義総論・第4版補訂版』ってまだ、絶版じゃないんだね。
っていうことは、『新版』と共存ってことかな?
私的には、四版の方がまだ理解しやすいんですけど。
459 :
:02/03/15 06:56 ID:???
460 :
氏名黙秘:02/03/16 11:54 ID:HdYU2zjL
>>453 山口先生も、行為無価値的説明、使っているところあるよ。
反応がないな
誰か俺を糾弾してくれないかな
未遂故意と既遂故意が同じ、と解する近時の見解は、
ほとんど皆無である。
他スレに書いてあったんですが、これってほんとなんですか?
行為無価値からは既遂故意と未遂故意は同じだと思っていたのですけど。
中山派ではないが
山口総論194-195を見れ
ふと、疑問
過失の基準で折衷説を採ってたら、こんな場合困らない?
「高い予見能力があれば、危険にみえないが、一般の水準では、危険にみえる」
465 :
:02/04/02 08:12 ID:???
常識的結論を見据えて考えれば
高い予見能力ってのが正しいものであるという前提なら
危険は予見できなかった。となる。
一般の水準といっても一般人の水準ではなく
同じ分野における専門家の一般水準と比べてということになるだろうが。
実際の裁判になれば、高い予見能力が正しいものとはいえなかったという
認定がされるのであろう。
過失が起こったということは、予見能力に劣った面があるという材料となろう。
466 :
氏名黙秘:02/04/03 08:28 ID:Rrshl+Kv
大谷は刑法総論(各論)講義じゃダメなのか?
刑法講義総論(各論)じゃなくて。
467 :
氏名黙秘:02/04/07 03:36 ID:U+ReCFZF
>>466 団藤「刑法綱要」
大塚「刑法概説」
藤木「刑法講義」
行為無価値論の伝統なんですよ。
そうなのか?
西原という手もある
470 :
氏名黙秘:02/04/15 01:19 ID:qGa5VNX6
>>469 467の書き込みは、大谷「刑法講義」のことだよ。
omaekusai
学説の変遷は実に興味深く・・
さりとて、大谷は、変遷を追いかけるほどの学者でもなし。
精神科医療云々とやらいう本は印象深かったのは確か。
保存
476 :
氏名黙秘:02/04/27 19:22 ID:0l9DgT23
>大谷は刑法総論(各論)講義じゃダメなのか?
いいと思うよ。分かりやすくて。学部用とか言ってるけど
結構レベルいいカンジ。
477 :
ゼ:02/04/29 19:25 ID:???
大谷刑法講義の総論は、第四版補訂と新版と両方持っているが、
過失犯の説明は、前の方が良かった。
新版の方がなんだか訳がわからなくなっている。
478 :
氏名黙秘:02/04/29 23:07 ID:5CzTsc7W
>>477 書き直している部分すべてについてそういえます。
第四版のほうが読みやすいし、論理もまだ理解可能。
前田教授とエクサイティング刑法(対談)やって、
前田的理論構成(説明方法)を受け入れてしまったから。
479 :
:02/04/29 23:50 ID:???
新版で、故意に因果関係の認識を不要にしているのは、
これはこれでいいと思いました。
俗にいう因果関係の錯誤は、すべて因果関係論=相当因果関係の折衷説で処理し、
故意論としては、実行時点での「実行行為の認識」で処理するのは
説明しやすい。
「意外な因果関係によって結果が発生した場合」の処理は、
実行時点で実行行為の認識があれば、まずは故意の存在は認め、
あとは、折衷説での因果関係からはずれた場合は、結果を帰責せずに
(場合によっては)未遂犯にすればよいわけで。
480 :
氏名黙秘:02/04/30 00:09 ID:Y6MPu8mn
481 :
:02/04/30 00:20 ID:???
>>480 ただ、前田説の場合、因果関係は客観説ですからね。
前田のように、
相当因果関係客観説+因果関係の認識不要論となると、ものすごく処罰範囲が
広がる畏れがありますが、
大谷新版のように、
相当因果関係折衷説+因果関係の認識不要論ならば、一応、意外な因果関係を
たどった場合に、因果関係論で主観面で絞りをかけることができるので、
結果的にはまあ妥当になると思います。
>>ものすごく処罰範囲が広がる畏れがありますが、
それが前田説の真骨頂ですよ(w
483 :
氏名黙秘:02/04/30 00:30 ID:C+Y6gd/N
>>482 そして、あとは検察官の合理的な基礎裁量に任せる、という趣旨でしょう。
理屈で処罰範囲を制限しようとするのには反対、ということです。
>>483 前田説はよく知らんのだけど、
検察官が合理的な判断をする際、何を基底・基準とすればよいのか問題にならんのだろうか。
485 :
氏名黙秘:02/04/30 00:48 ID:C+Y6gd/N
>>484 前田説にとっては、それは、「信頼」で終わり。
486 :
:02/04/30 00:55 ID:???
487 :
氏名黙秘:02/04/30 01:03 ID:u7IKT2yQ
すべて、直観。
488 :
氏名黙秘:02/04/30 02:27 ID:/s/mKvHh
大谷刑法講義二版をもらいましたが使えますか。
489 :
氏名黙秘:02/04/30 03:12 ID:7dg51sqU
>>488 初版と二版は立場がひっくり返っているけど、
二版以降は、微調整を繰り返しているだけだから
基本書としては使えないことはないと思います。
でも、総合的には第四版が一番使いやすいと思います。
どのみち、判例は補充しなきゃいけないから。
前田説は以前、A級氏が書かれているように、主観的帰責は別にやるだけ。
だから、ここでは、処罰範囲はそんなに広がらない。
処罰範囲が広がるのは、実質的犯罪論をとるから。
大谷の過失論でいえば、第四版と新版は、立場的には(たぶん)
同じはずなのに、全然叙述が違っている。
第四版では、そのまま論証に使える良い言い回しが沢山あったのに
新版はばっさり無くなっているよ〜
492 :
:02/04/30 10:34 ID:???
>>490 >前田説は以前、A級氏が書かれているように、主観的帰責は別にやるだけ。
主観面で、前田説は、法定的符合説(それも数故意説)、かつ因果関係認識不要だから
やっぱり処罰範囲は広がると思われ。(客観面はもともと広い)
あと、実質的故意論なので、どこまで故意の符合を認めるのか、どんどんなし崩しに
ひろがっていく感じですね。
保全
494 :
:02/05/06 12:39 ID:???
大谷本の不真正不作為犯についての記述はかなり詳しいが、
なんだか必要以上に要件を細かく分断して増やして、いたずらに複雑に
しているような気がする
2版の不真正不作為犯を読んだ、でもそれほど複雑には見えなかったよ。
497 :
刑:02/05/16 23:38 ID:???
>>495 2版っていつのだよ(w
10年以上前か?
>>495 基本書にだけはするなよって忠告と一緒に、先輩がくれたんだよ。
ついでに「刑法総論の重要問題」、「刑法各論の重要問題」も、
先輩の書き込みにここも改説の文字が散らばっていて苦笑。
495と498の書き込みは私です。
確か、もらった平成元年の2版だったと思う。
500 :
氏名黙秘:02/05/18 22:46 ID:U/nUkyaR
大谷太=三男坊
501 :
氏名黙秘:02/05/18 23:14 ID:hCJJhWzE
同志社、恐るべし。
502 :
氏名黙秘:02/05/18 23:50 ID:hCJJhWzE
大谷先生、今日、南山に来てなかったよ。
大谷さんはバランス感覚抜群だと思うんだけどな
504 :
氏名黙秘:02/05/23 00:24 ID:tLQ++nxh
新派と旧派
506 :
氏名黙秘:02/05/29 02:16 ID:NNvUhiHU
やっぱり、『新版』は、使い物になりません。
507 :
>506:02/05/29 02:20 ID:TtEVcyvH
たとえば
不真正不作為犯のところ、新版は、自分なりに力を入れたつもり
なんだろうけど、必要以上に複雑に要素を分けて要件立てすぎて
試験には使いにくくなってしまっているね
(第四版も似たようなもんだったが、さらにわかりにくくなった)
川端は簡単だYO!
*大谷・刑法講義総論 新版
1.法律上の作為義務があること
(1)結果発生の現実的危険が生ずること
(2)作為によって結果防止が確実に可能となること
(3)社会生活上の依存関係が存在すること(法的義務、条理等細かく分けてる)
(4)結果発生防止のための作為が可能であること
2.作為義務違反(実行行為)
*川端・刑法総論講義
1.不作為の存在
2.作為の可能性・作為との等価値性
3.不作為と結果との因果関係
4.保障人的地位と作為義務の存在
(5.故意・過失の存在=大谷では明記して無いが当然の前提でしょう)
509 :
氏名黙秘:02/05/29 02:34 ID:NNvUhiHU
>>508 どちらとも、処罰範囲が広すぎかな?
っていうより、最初から裁判官の規範的判断に依存するような
要件の立て方でいいのかな?
もう少し事実的な要素が必要であるような気がする。
hozenn
・甲女は、恨みをはらそうと考え、A女を強姦することを乙男と共謀し、
乙男は、甲女が誘いだしたA女の肩に手をかけ、その場に押し倒す
暴行を加えたが、A女が隙を見て走って逃げたので、強姦をあきらめた。
A女は、逃げ出した直後転んで手足に全治二週間の傷害を負った。
甲及び乙の刑事責任を論ぜよ。
・伝聞法則の意義について説明した上、次の各証人の供述が伝聞証拠になるかを論ぜよ。
被告人Dの強姦致死被告事件の公判で、証人丙は、「被害者Eは
『Dなんか大嫌いよ、いやらしいことばかりする人なのよ。』と言っていました。」と供述した。
盗人にも3分の理、
荒らしもスレ保全の効能あり。
「おおたに」じゃないのね
514 :
◆OXkW9bvA :02/07/05 00:44 ID:OfROIYKr
保全あげ
同志社生なので大谷マンセー、前田アイゴーです。
保全上げ
糞スレあげんな
行為無価値な人はやっぱ大谷読んでるのかな?
刑法って基本書必須ですかね!?
買ったよーん
大谷を読む上で注意するところ(矛盾点など)は、
結局どのへんなの? 総括的にまとめてくれ。山中派よ。
age
責任だろ。
524 :
氏名黙秘:02/07/28 18:39 ID:wI/iNqrl
大谷は、版を変えるごとに、
学説がバラバラ。
てUか、結果無価値論ヂゃんか。
525 :
:02/07/29 22:22 ID:S36iK5R7
丁寧に読めば読むほど分からなくなります。
みんなどうしているのかな。
見えないところに隠す。
そして團藤か山口を読む。
私は、前田と大谷は判例・学説紹介と理由付け探しに限定して使ってます。
だから、大谷の矛盾点などは、丁寧に読み込んだことがないので評価不能。
中山派氏、A級氏に再登場ねがいたいですね。
大谷本は辞書的に使ってるが、これって間違い?
529 :
氏名黙秘:02/08/09 00:16 ID:kzfbe3/P
中山派氏、A級氏再登場希望あげ
どーせ、今頃ひまなんだしさあ。
まだあったんだ、このスレ>>>>>>
私今年の論文で、
>>196の話をそのまま書いてきました
結論は無罪にしました
納得して書いたので悔いはありませんが、大丈夫?駄目?
良スレ保存あげ
保存
,.., ,...,__
,...::-‐''"/ ``ー 、
、_,;ー'" / `"'-,
`ー=, / / ヽ
,/ f \ `l、 r――――――――――――――
l/'i / /´rヾMFヾ \ ヽ 、 .1 .| くくく・・・ageるぞ、覚悟しな・・・
! | l l ヾ(::::: ヽ〉ヽ)ヽ `l ミ ー .、 | └y ,;――――――――――――
| {レヽ〈:::~``'' ´ ソ |! l } ミ. ミ ト //
レヽ,;:::''''`':;|;il~,. -‐' ル )ノl / ミ ノr^,ヾ ! /
ゝ l;ュ=≡{., (;;,(ニ===、-.l! li /ソ ;;)|./
`!;ェ‐・オ ""'''< `・ーz'ー'~ |/ フ;;i |!
|:'""`')' ^ヽ;` ̄,. -‐'^ i|;;;;ノ/\ー-、-.,_
!;:.. .:;i| ;, ~、´ ,/ |,..ノ; \ ゝ ヽ``)、.,_
``ヽ(__,,,,...) \_,,..-' |;;; |〉 トli ヽ
|::::::::J..,,_ ^ヽ, : 1, ;!;: /l、 ) |
ヽ::r,―--一' . , il/::: :: / ! ; /
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