1 :
甲光次 :
2001/03/16(金) 07:23 小松左京先生が、御自身の古希を祝う会を欠席される程の重症の 老人性鬱病になられてしまったそうです。 プロデュースした花博の惨憺たる失敗以降、「もう自信が無くな った」とふさぎこむようになられ、そのまま鬱病に。 知己の顔もお忘れになり、あるいは…と思わせる場面もあるよう です。 日本SF界の重鎮を襲った悲劇に、大きなショックが広がってい ます。
亡くなる前に文化勲章授章キボーン
3 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2001/03/16(金) 09:20
「花博大失敗」と言うことはないでしょう。 大阪万博に継ぐ成功とされています。むしろ、「赤字を黒字と発表した」つくばのほうが、 イベント界では失敗となってます。 あの高揚が収まって、しばらくエキサイティングなイベントがなかったせいではないでしょうか。 博覧界関係者のあいだでも 「花博の頃はバブリーでよかった」てな声がきかれます。実際、わたしの会社もまだ儲かっていました。 懐かしい。 愛知の動員目標1500万。花博で2300万人もいたのに。 ああ。
4 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2001/03/16(金) 13:29
こうなったら,抗うつ剤を大量に投与して,虚無回廊を完結させて もらうしか…(不謹慎)
5 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2001/03/16(金) 13:30
それとも,石ノ森氏の「サイボーグ009」みたいに,誰かにあら 筋を伝授してから…(またまた不謹慎)
6 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2001/03/16(金) 15:34
>抗うつ剤を大量に投与 やたらセックスしたくなるだけで、仕事はしたくなりません。経験上、そうでした。はい
抗鬱剤なしでも性欲だけは落ちなかった。。。。。 これってへん?
8 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2001/03/16(金) 23:30
ボケ老人は逝ってよし。
9 :
なんでいまさら? :2001/03/16(金) 23:43
最近はすこし回復してきたって聞いたよ。 小松左京マガジンとか出したっしょ。
10 :
模範モーヲタ :2001/03/17(土) 01:11
さげ
>>2 そうだよなー。小松左京の活躍を考えれば文化勲章くらいくれてもいいよな。
阿川弘之なんて何書いてんのかわからん奴までもらってるんだから、国民的
大作「日本沈没」を書いた小松左京が貰うのは当然だね。
12 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2001/03/17(土) 11:40
おいおい、ニッポンを沈没させたり、宇宙人に売っぱらったりした大国賊作家に 文化勲章がもらえるわけないじゃないか これ、噂の真相が書いてたんだね さっき気がついたよ もう長くないってことだな 合掌
13 :
>9 :2001/03/17(土) 12:03
ボケ老人じゃねーだろ あ、「老人性」が味噌か?
14 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2001/03/17(土) 14:19
>>12 小さんネタでの切り返し、誰かしなかったのかなあ。
そーゆーとこ噂の真相つまんねーなー。
15 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2001/03/17(土) 17:21
お年を召した方に良くあるんですよね。鬱症状。 最近は良いオクスリもたくさん出ています。 小松氏の回復をお祈り申し上げます。 来院患者の70%が60歳以上のとある病院に勤めるSFファンより。 (若い患者は来ないかのぉ)
鬱病は治りかけが一番危ない。家の中の剃刀とか隠しておいた方がいいね。
17 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2001/03/17(土) 23:56
碁盤と碁石を持って遊びに行こう。
18 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2001/03/18(日) 12:36
19 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2001/03/18(日) 13:24
小松氏は碁が趣味なのね。そういえば、碁のSFもあったなぁ。
20 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2001/03/24(土) 06:02
小松さんをなめてるやつは何読んだんだ? あんな作家、もう出てこないぞ。
時空道中なんとか、ってのを読みました。くだらなかったです。
22 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2001/03/24(土) 08:23
「安置所の碁打ち」を連想してよ
23 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2001/03/24(土) 20:22
>>20 文化勲章モノの仕事してるからね。
でも今のロートル政治屋連中に氏を評価するセンスは無いだろう。
手塚治虫に文化勲章も国民栄誉賞も出せなかった時代とトシヨリの頭は全く変わってない。
恐ろしいことだが。
>>23 あんな棺桶に片足突っ込んでからじゃなきゃ出ない叙勲なんか意味なし。
国民栄誉賞は政府の国民へのゴマスリ。これも意味無し。
あ、でもそうすると小松御大には叙勲の年齢的資格は一応あるな・・・
25 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/03/25(日) 04:31
首都消失なんかで 無能でも政府の存在のありがたみをアピールしてたのだから、 国家に貢献はしたと思います。SF界のトップにいる存在だと思いますが。 でも本人が文化勲章に思い入れがないからいまだに貰ってないのでは?
26 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2001/03/25(日) 06:14
文化勲章に至らないのは、 「日本沈没」以外の映画が、ぱっとしなかったのが たたっているのかも。「さよならジュピター」他…。
27 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2001/03/25(日) 13:57
「首都消失」とか「さよならジュピター」の映画は確かに足を引っ張るかも。 というのは冗談として、「SF作家」への世間の認知の問題もあるのではないか。
28 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2001/03/25(日) 14:11
制度側から小松左京が冷遇されてるのは彼が「左翼」であることが最大の理由と思われ。 数年前に発行された小松左京コレクションにすら”ソ連礼賛エッセイ”が収録されている くらいなんだから。 まあでも一般や各界からの圧力があればしかたなく、って可能性はあるはず。
29 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2001/03/25(日) 14:42
しかたなく文化勲章→大江健三郎。ただし拒否され。
30 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2001/03/25(日) 23:59
「SF作家」に対してじじい世代はまだまだ偏見というか、 勘違いをしているんだろうか。 それとSFの衰退・・・これはどうしようもないのかな。 藤子Fセンセに何も賞が贈られないのはショウショウビビった。
31 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2001/03/26(月) 00:40
F→偉大な漫画家。後世に作品が残る。 A→俗物権威主義者。残らない。
32 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2001/03/26(月) 16:39
作家でCMでたり、お上から賞もらって喜ぶのって、情けねえな。
33 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2001/03/27(火) 04:13
31<ブラックユーモアおもしろいんだけどなぁ・・・。 あの変な世界。
なにっ!!そうすると、日本沈没の続編はどうなるんだ!
35 :
へらへら :2001/04/02(月) 23:58
何年ぶりかで第三巻をだして、タイトルのねたばらしてた話だけど、 作品のなかで花博やってたやつね。 あれって弛緩してない?噂眞がほんとなら、 あそこから挽回して、序章の充実感を取り戻すことは望めないって事か。 どうでもいいけど、小松作品みたいに文明批判・文化批判が露骨だと、 文学賞は望めないと思います。あと人物が描けてないって批判もある。 文学賞をとった作品が、人物を書けてるとは思わんけどね。 「勉強したことをそのまま書いてる」って苦笑してた文学者、知ってるけど。
とりあえず本人曰く欠席は怪我のせいみたいだけど。 しかし一番最近書いたSFものって何なんだろう? なにか書く気はあるのかなあ? 小松左京マガジンって本人のはマンガしか乗らないのかな? 誰か代筆でもなんでもいいから書いて欲しいなあ。 無理はしないで欲しいけど。
37 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2001/04/24(火) 19:47
9> 雑誌になにか書いてたからといってボケてない証拠にはならんのよ。 犬好きで有名な作家(最近面倒みてた長女がしんだな・名前どわすれ) あるつだったんだけど、かなり悪くなるまで執筆できたらしいからね。 小松氏はうつ病ってより、脳血管性のなんかじゃないか、 あの体だからねえ、コレステロールも高そうでしょ。
38 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2001/04/26(木) 09:46
小松左京スレッドに書いてあったけど、(老人性)鬱病の患者を元気づけようとしたり 「がんばれ」と励ましたりするのは大変危険らしいですぞ。ファンの皆さん、気をつけ ましょう。
39 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2001/05/01(火) 00:03
オフーのやりすぎということにしよう。
40 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2001/05/02(水) 14:48
ara、だれも読売は読んでいないのか
読んだよ、大丈夫そうだったけど?
42 :
:2001/07/17(火) 08:28
バイアグラ試してみたらいいかもしれんぞ。
43 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2001/07/18(水) 13:21
いまなら小松左京を超えられる!!! 日本人作家で彼より偉大なSF作家は出ていまい!!!! 俺が超えてやるぞ!!!!!
44 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2001/07/19(木) 06:22
俺も「肥えて」しまった。 中年だなあ。 なんかマンガ全集年内発刊だって。 原作ってことかな。
鬱病にはエフェドリンをどうぞ。
46 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2001/07/20(金) 16:37
あれでしょ、顔中包帯巻いて、牛の角をはやした女の子を見て鬱 になったんでしょ。 それと妹の元旦那と。
47 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2001/07/20(金) 22:52
くだんのはは読んだ頃は、もう高校生になっていたのに、 しばらくは、実話かどうか判断できなかった。 馬鹿だ。俺。
48 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2001/07/21(土) 02:27
先生の鬱はもしかしたら僕のせいかもしれない.. 先生、ごめんなさい。 これからも面白い作品を沢山書いて下さい。
49 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2001/08/01(水) 20:21
老人性鬱病っていわゆる、ボケ、のこと?
50 :
:2001/08/01(水) 21:15
「くだんの母」実話ではないけど、終戦前の阪神間ではわれと有名な 都市伝説。 「えろちか」三崎書房から偽名で出したハード・エロSFが幻の一品。
51 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2001/08/04(土) 12:57
エロイカっていうと、あの少佐とかでてくるあれか…。
52 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2001/08/04(土) 13:09
エロイカって男性用化粧品(古っ!
53 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2001/08/12(日) 19:06
このページの下の方に、小松左京の写真でてるんだけど、 これホントに本人? なんか、かつての面影が・・・
54 :
53 :2001/08/12(日) 19:07
55 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2001/08/12(日) 22:44
今にして思えば、小松氏は「おたく」っていうものも見事に予言してたよなあ。 機械の花嫁とか、○○屋敷(忘れた、ごめん)とか、ショート・ショートで、 他人の目を見て話せない野郎が生身の女性とセックスしようとして、恐くなって 窓から落っこちちゃう話とか、とても60年代に書いたとは思えないんだよね。
56 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2001/08/21(火) 06:08
大会ではどう見ても「躁」だった。 あさりよしとおの次ぐらいに元気だった。
霧の明けるとき?晴れるとき?って小説が 高2の明治書院の現国の教科書に載ってたけど、 これはイマイチだと思った。小松左京のよさが伝わんない!と。 (他に載ってる安部公房の赤い繭とか中島敦の山月記とかはいいのに) マリー・セレスト号の失踪をモチーフにしたやつだけど。 それとも作品が発表された当時としては新しい試みだったのかなあ?
58 :
:01/08/28 19:51 ID:fsfGQiXo
59 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :01/08/28 20:21 ID:myO9xF0w
妹の婿とかな。
もっとバイアグラでももりもり食べて、 作品をばりばり書いて欲しいですよ。
61 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :01/09/18 23:15
62 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :01/09/18 23:36
なんかねぇ、最近やった「難波弘之を讃える会」(笑)っていうイベントに、小松先生がいらしてたって読んだときに、すごい違和感あったの。 なんで違和感を感じたのか、うまく説明できないんだけどね…… 他に、なんだか「あれっ?」と思った人いなかった? オレだけ?
63 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :01/09/19 00:00
>>57 理系クラスの現文教科書にあったなあ。
今使ってる奴に個性豊かなどうたらな小松さんの文章が乗ってるけど
先生はそれを飛ばして変なおばさんの評論をやりやがった。
「汚れた月」 を読んで小松先生の偉大さを知りました。
>64さん とーとつに書き込むのはいいですけどね、こんなタイトルのスレ、今更ageないで くださいよー。( TдT)
66 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :01/12/11 23:29
まだ生きてるの?宅間の縁者らしいけど。
67 :
権力の犬のお巡りさん :02/01/18 07:15
17日のズームインで小松先生を見たよ。銀座の文壇バーで3人のホステスに囲まれ て上機嫌だったよ。
68 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :02/01/18 12:27
>67 出てなかったぞ。ウソつくな
うそつき呼ばわりは甚だ遺憾。このまま捨て置くは末代までの恥。どなたか同 じ放送を見たものはござらぬか。17日(木)午前8時ごろ、山本一力氏の直木賞 受賞を特集したものでござる。
70 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :02/01/18 22:16
こんどモリ・ミノルの漫画が復刊されるらしいね。 まさかモリ・ミノルを知らない奴はいないよな。
証言する。私も観た。ほんの少しだが、確かに小松先生は映った。 「あれ、鬱病という噂の割りには、お元気そうだな」と感じた。
72 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :02/01/18 22:22
∧ ∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 〜′ ̄ ̄( ゚Д゚)< 71さん Thanks UU ̄ ̄ U U \_____________
筒井さんと同じで「躁鬱」が激しいのでは。 他の証言によると、 文壇バーの老舗「エル」で取材。 文壇バーと言うわりに、文士が少なかった。 「おけいママ」(?)があちこちに電話。 ヒマな人が来てくれた。 てなことらしい。
75 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :02/01/19 12:08
67=69=71であることは明白だな オレ,現場にいたもん 小松なんていなかったよ
>75 >67=69=71であることは明白だな 67=69=73 は自明。71は別人。68=75は明白。76氏が示してくれたが、スレッドが ひとつできている。
78 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :02/01/19 23:21
67は粘着
私は67・69氏とは別人である。そして、ズームイン朝で小松さんが 映っているのを見たのも、間違いなく本当である。
80 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :02/01/20 13:13
>79 きみの見たのはただの太ったおっさんだよ 小松は今、最盛期の4分の1ぐらいにやせ細ってるんだぞ
81 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :02/01/20 15:24
今度モリ・ミノル復刊記念パーティー行くから、 ほんとに体重四分の一かどうか確かめてくるよ。 でも四分の一だったら体重25kgくらいか?有りえんなあ。
最盛期三百キロだから、今は八十以下か。 ありえるな。
83 :
人間鬼押出し :02/01/22 23:36
>>70 小松左京はSF作家になる前いくつかの職業を経験している。業界紙記者、町工
場の所長、ゲリラ、漫才の台本書きなどである。漫画家もそのうちのひとつ。
ゲリラ?って……ああ、山村工作隊か。まぁゲリラだな。実際は食いモンまずくて「げりばら」だったとか。
85 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :02/01/24 00:41
サヨ時代の小松先生、萌えー。
86 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :02/01/24 19:32
今週号のビックコミックに、さいとうたかおと一緒に 元気そうな顔で写ってる。
昭和一桁生まれって、案外早く逝くなあ。 一番大切な十代後半がモロ戦時下&終戦で、 必要な栄養をとってないせいか。 あと身の回りのことを、妻におしつける。 案外自分で節制できない。 志は高いけど、現実がついていかない。 一通り左の思想にかぶれて、かつ卒業してるんで自信がある。 実際、昭和一桁で七十むかえたら、むちゃ長命と言えるかもしんない。 ただ、そのあとに続く団塊世代と、団塊ジュニアはもっと悲惨だ。
88 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :02/01/25 12:27
>86 いや、皮膚の妙なたるみの方に注目すべきだ
89 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :02/01/26 14:45
小松先生の鬱状態というのは今の日本の状態を反映したものだと思う。 だって本当に沈没しちゃってるわけだから。
明日です。 まったスッポかしたら今度こそ………
91 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :02/04/02 00:43
復活の日DVDのおまけ見る限り普通っぽいよね
92 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :02/06/29 05:39
あ! """''''''ー- 、 ::::::::::::::::::::::::\ ヘ;::::::、:::::::::::::::ヽ, | ヽ:::::i、::::;::::::::::::i | .ヾ;;;|._i::|i:::::::::::i | ´ i_|. i;|`!::::::::::| ' 'r:::ヾ,l、|:::::::::::| {:::::::::i i゙|::::::::::| O::::::i l |::::::::::| `''''''" |:::::::::| _ /:::::::::| 駄スレ 発見やー ノ /::::::::::::| ,..ィ、'゙:i!:::::::::::::::| ''"´ |〉ヾ,i::::::::::::::| | ``!:::::::i:::::| | |:::::::||:::|
>>87 幼少時からジャンクフード、規制前の食品添加物やきつい農薬バリバリ。
廃棄物垂れ流しの工業地帯。高カロリー肉食偏重。たしかに先行き暗い。
「41歳寿命説」ってこのところ下火だったですな。
そういえば、大阪(春日歩)って実は阪神淡路震災の被災者だよね。
タイミング的に。呑気な顔して何を見てきたのか。
94 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :02/07/10 21:58
危篤連絡あげ
95 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :02/07/11 00:01
>94 マジ? 「虚無廻廊」の続きは〜。
宅間がらみの報道も鬱においうち、
全く関係ないが俺も鬱病に罹ったぞ。でも通院して治った。 小松先生が本当に老人性鬱病だというなら、とっとと病院に行くことを薦めたい。 今、鬱病は治る病気だぞ。薬で治せる。 体重が軽くなった今なら持ち上げて病院に担ぎ込めるだろう。 無事完治することを祈ってます。
98 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :02/10/03 23:54
99 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :02/10/04 02:56
小松センセ、そろそろジェイムスン教授かサイモン・ライトになりなさいよ。 体が楽よ。野田大元帥はマジで考えているらしい。
100げっと >体が楽よ。野田大元帥はマジで考えているらしい。 ボケ老人?
お星様になってしまいました。 合掌。
102 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :02/11/06 23:04
爆笑問題のススメに出ていたよ。
103 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :02/11/24 10:56
彼の長編最高作はなんだとおもう? おれは「継ぐのは誰か」。 しかしこのひと、女の登場人物の名前にマリアを使いすぎだ。
「アパッチ族」を書いた小説って大阪3大作家のテーマにされてますね。 開高健、小松左京、藤本義一。 (藤本先生の話は人間を食べる話にデフォルメされすぎて刊行されて文庫には なってないような)
105 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :03/01/02 17:15
で、いつ死んだの?
106 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :03/01/02 17:37
>>104 スレ違いだが『夜を賭けて』
梁石日/幻冬舎文庫 1997/04
を忘れないでくれ。名作!
107 :
名無しは無慈悲 :03/01/04 16:14
虚無回廊V出た頃にうちの大学に講演に来たが はっきり言ってボケてたよ。
(^^)
(^^)
(^^)
111 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :03/03/13 19:07
オイこそが 111げとー
112 :
bloom :03/03/13 19:12
ボケてると言うより、躁の時は ツッコミやってます。 しかしあれだけ不摂生して、友人作家たちより長生きするとは
(^^)
高千穂・鹿野・小松の鼎談『教養』を読んだが、 御大、明らかにボケていたぞ。 少なくとも往年の批判精神のかけらも感じられない。
ボケたのではないのである。 少年の日に戻ったのである。
∧_∧ ( ^^ )< ぬるぽ(^^)
既に功なり名遂げて、今では悠悠自適の日々・・・それもまたよし。
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
∧_∧ ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。 =〔~∪ ̄ ̄〕 = ◎――◎ 山崎渉
121 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :03/06/15 04:47
終わった人でつ
小松菜
123 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :03/06/25 20:24
アタイこそが 123げとー
__∧_∧_ |( ^^ )| <寝るぽ(^^) |\⌒⌒⌒\ \ |⌒⌒⌒~| 山崎渉 ~ ̄ ̄ ̄ ̄
125 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :03/08/15 22:17
山崎氏ね!
(⌒V⌒) │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。 ⊂| |つ (_)(_) 山崎パン
SFマガジンで近影を見たが、頬のあたりの肉が落ちて、別人のようだった。
128 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :03/08/27 08:41
>>83 SF作家も科学知識だけでなく、人生経験が大事なのだな
漫画も少なくとも原作者は、いきなり学生からよりいろんな職を転々とした人の方がよかろう
小松左京マガジンでの氏の写真見てると胸が詰まる。 ホントにコレじゃ別人だよ…。
130 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :03/12/13 14:09
小松先生に青雲賞を送りたい 青雲 それは君が見た光〜
131 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :03/12/17 21:22
さよならジュピター、今日本映画専門チャンネルで放送中。
小松右京のからんだプロジェクトは鳴物入りで宣伝される割に フタを開けてみると泣かず飛ばずってのが多いね
作家ってけっこうみんな短命なんだな。 自殺、病死も含めて。 不養生不摂生、不規則な生活しているからなあ。 リーマンみたいな定期健診もないし。
134 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :04/04/19 20:42
まだ生きてるの?
135 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :04/05/20 06:14
>>134 死んだら新聞にでるんじゃない?それとも見逃したか…。
136 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :04/05/20 22:10
小松左京が他界したら大きく取り扱われると思うよ
誰かまじで彼のAE作ってくれ。
138 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :04/05/20 22:45
AEとは?
小松ファン以外が混じってるな・・べつにいいけど。
140 :
わしの亀は短い :04/05/21 01:38
神への長い道は宇宙の真理なのだろうか?
141 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :04/06/10 21:33
>>140 は何故そんな突拍子も無い絵空事を考えたのだろう…?
3年かけて142レスかよ。
144 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :04/06/12 14:44
つか、誰?>小松左京 作家?
京都の地名です
都で内裏からみて左側の地域左京と呼んだ訳で、 間違ってはいないが誤解を与える可能性があるな。>145
147 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :04/11/16 23:04:33
日本沈没の第2部書いてくらさい、先生。
148 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :04/11/17 00:51:58
長生きしてください。
虚無回廊は、アレでお仕舞?萎え〜。
まだだ、まだ終わらせんよ
「女シリーズ」書いてちょ
152 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :04/11/27 19:54:31
欝の原因は義弟の宅間守ではないのか
なんかのDOS/V雑誌に最近の写真がのってたよ。 せめて07年のワールドコンまでは長生きしていただきたい。
自分的には、糖尿病とクソ映画さよならジュピターの負債で シュンとしておられるのかと思っていたが、朝日で写真みて ホッと一安心
盟友の星新一さんが他界されたのも、非常に大きな要因であるように思います。
157 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :05/01/24 15:48:11
晩年の星氏、小松氏はケンカばかりしていたと、筒井康隆が書いてた
ジュピターはクソだったけど、負担はソックリ東宝が負ったはず。 でもSF系取り巻きは「金をもっとださなかった東宝が悪い、理解しなかった 観客が悪い」としばらくいきまいてたな………。 ☆サンは晩年、人とケンカできる状態ではなかったはず。 けっこうかわいそうな晩年でした。 でも親しい☆さん、カイコーさん、手塚さん、司馬さん、枝雀さんなんかが どんどん死んでいったのは寂しそうだと聞いた。 でもなんで長生きしてんだろ。現代医学の不思議だ。
小松左京程にまで上り詰めても、晩年は不幸なんだなぁ。 著名文学賞にも縁が無かったから、後世に名も残らないだろうし。
でも○ー○○賞とった作家って、 一人は実子なし、一人は…… なのね。
161 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :05/01/30 19:57:42
後世の文学史 綿金>>>>>>>(超えられない壁)>>>>>>小松左京
後世に名声と子孫の両方がのこるといいな。 でも名声残って子孫なし、と 子孫のこって名声なし ではどっちが幸せかな。 名声なんて微塵も期待できない漏れは、 デキの悪い一人息子にかけるしかないのか。 このガキが子供作れば、せめて生命体としての義務は果たすことになるから。
163 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :05/01/30 22:57:32
オレは毒男だから、植林でもしようか・・・
164 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :05/02/01 22:49:42
>>138 「虚無回廊」の主人公。AEとは、人工実存の略。人間の意識をコピーして、人工
知能に移植したもの。
初号機は、開発者の意識がコピーされて、現在SS内部をうろついている。
「日本アパッチ族」から読んでいる俺が記念カキコ。 「果てしなき流れの果に」読んで、この人は紛れも無い天才と思った。
ディックのように氏の作品群を次々に映像化していく事が、御大の名を後世に残す一つの道。 原作の数々はアニメーションにせよ実写にせよ、クリエーターにとり料理する材料の宝庫。
虚無回廊続き読みてえよお
>>159 「小松左京賞」ってのがあるから……。著名とはちょっといいかねるけど、賞
を取るより、賞の冠になるほうが、ある意味、すごい。(「今日の俺大賞」と
かいうんじゃなくて)
小松左京氏の実妹って池田小事件の宅間守の元妻なんだぜ。
170 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2005/05/15(日) 18:16:33
171 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2005/05/16(月) 03:08:49
新宿ー!! 新宿ー!! だめです首都消失してます!!!
虚無回廊 を驚くような映像の数々で映画に仕立て上げたい。‐加藤氏のビジュアルコンセプトを中心におきながら。
173 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2005/09/26(月) 06:07:58 BE:56279423-
なんかえらいこと書いてるな。(^^; まぁ私は一番人格的影響を受けたのは小松左京先生だし、池田小学校事件の宅間守死刑囚とは同年齢なんでなんともな。 おまけに現在の統合失調症の初期症状までの経験はしてるからどんなものかわかる…。ややこしいなぁ。(笑) まぁ幻覚症状っていうか正確には幻聴ってものがどんなものかわかるってだけですけどね。幻聴解釈に対して人間がどんだけ大変な事になっていって、回復してくるかの幾分もわかる…と。(本当に大変な人たちの事を理解できるとは言えないけどね) でも人間生きてたらこの位の関連持つの当たり前じゃないかしらん? で無い人はおめでとうさん。(本当に、本心で。笑) でも本当に、ファンタスティックな部分だけではなくて、 特にPF(ポリティカル・フィクション)の分野の作品からは、現在の日本の状況に 対する見方のヒントみたいなものをたくさん頂いたしね。 「物体O」とか、『首都消失』はなんかアルジャーノンみたいな(?)長編化作品だし。『日本沈没』の田所博士の生き方は結構好きだし。 「物体O」とかは道州制とか県連合連邦制とかのボトムアップ式の積み上げをやる 上でのヒントみたいなのにはなる。 ちょっと使える(思考的に。ヒントに)“アプリケーショナル”っていうのは、 SFが含んでいる面白い所(ストーリーテラー、“物語り性”だけでなく。これの ところはスターウォーズとかが代表しているのでしょうけれど)ですが。 H.G.ウェルズの文明論的関係の系譜からも、面白かったし。 まぁとにかく、お大事に。 『さよならジュピター』の火星の学校の体育館における太陽系の縮小サイズイメージは、いまでも役立っています。(実際室内で局所的サイズ作ってみた事ある) 本当にありがとうございました。 「一般文学論」については、まだまだ考え続けてみたいと思います。 (あ、高橋和巳さんとご親友だったんだよね?)
174 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2005/10/12(水) 10:39:55
ここまでくるとまさに「継ぐのは誰か」って感じだな。
175 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2005/10/23(日) 10:35:30
☆と左京って盟友だろ。 晩年はホントに仲悪かったのか? ☆の晩年ってどーゆーのだったの?
176 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2005/10/23(日) 21:05:12
虚無回廊がどうなるか、だけでもいいから、メモかなんかの形で残してほしい。
>>173 >『さよならジュピター』の火星の学校の体育館における太陽系の縮小サイズイメージ
お、やっぱりあれ好きな人いるんだ。うれしい。
あのシーン、0.15光年、へぇー遠いナー、ってのが一気に冷や汗とともにその距離を実感できました。
やっぱりただもんじゃない・・・
無人探査機の擬人化表現もうまかったね。
日本沈没での提言はなかなか重かった。
短編形態でもいいから続編読みたかったなあ・・・
あのころ海外でも通用できる人間になろうとちょっと考えて、
結局堕落してる俺がいる・・・・orz
仲悪いってこたあない。 手塚氏や☆氏とは最後までいい関係だったでしょ。 ただ☆さんは最後寝たきりになる直前、相当欝状態だったみたい。 でもって酸素呼吸器を自らはずしてしまった。 自分より長生きするはずだった開高氏、手塚氏、☆さん、司馬さん その他がどんどん他界し、自分だけ残されたら寂しいでしょう。 長生きするってのも、つらいものだ。
欝になる前から、おべっか屋と茶坊主の言うことしかきかなくなっていた。 「先生、それはちょっと違うんじゃないんですか」 とか言ったヤツは、敵扱いされてたらしい。
181 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2005/11/05(土) 15:34:32
>>179 なぜ、アナタがそんなことを知ってる??
某映画のときだろ? まぁわけあって追放されたヤツのグチだろうから。 あと東宝側と言うか映画屋さんたちの反発もひどかったみたい。 SFまったくわかってない映画屋さんもひどいけど (ロケットが流線型でない、と怒ったり、 宇宙空間で「墜落」させたい、とか言ったり) 「映画屋はだまっとれ」的な面がSF人がわらもあったみたいだ。 随分前に聞いた愚痴だが。 グチの一つに 「銀座でドンチャン騒ぎしてつけを制作費に回したら怒られた」つうのがある。 当時は制作費の三分の一ぐらいは宴会代だったらしい。
184 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2005/11/12(土) 23:12:21
185 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2005/11/20(日) 21:55:25
186 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2005/12/02(金) 00:59:08
小松左京の本探してもどこにも見当たらん!普通の本屋から古本屋まで・・・。 特異な才能持った人なんだが・・・。
アマゾンは?
188 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2005/12/03(土) 11:42:24
ゴルディアスの結び目アニメ化しねーかなー
189 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2005/12/03(土) 23:44:26
日本沈没第二部、他人と共著で来年出版と新聞記事にありましたが、 信じられんな。映画リメイクと併せてそんなのが出てくるのか。 第一部ファンだけに正直怖い。
190 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2005/12/04(日) 12:51:00
おお、その記事俺も見た。 泣いて喜んだけどw 御大もやっぱりどういう形にしろ死ぬ前に出版しておくべきだと思ったんだろうな。 御大も歳だからなぁ、「岬にて」みたいなところで最期を迎えてもらいたいよ
191 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2005/12/04(日) 16:02:07
小林信彦氏のエッセイ集「定年無し、打つ手無し。」を読んでいたら 「(作品が評価され、有名になってくると)講演やコンサルetcの仕事が 舞い込んでくるようになるけど、この先作家としてやっていきたければ 引き受けていちゃ駄目だよ」と、親戚筋の学者氏から忠告されたというのが あったのですが、「虚無回廊」「日本沈没・第二部」が読めなくなったのは やっぱりそのせいでしょうか?(ギャラが圧倒的に違いすぎて、小説なんて 馬鹿馬鹿しくて書けなくなるらしい…)
いや小松御大は小説家としてはわき道にそれること (未来学や、万博のプロデュース、「さよならジュピター」の製作等) をやってるけどそれで小説を書かなくなったことはないよ (「時空道中膝栗毛」完結させたし)。 やっぱり書かないのは内面の問題と思いますよ。 (「日本沈没」については第一部執筆に(下調べ等で) 何年も費やした。しかも「小松左京マガジン」によると 最初カッパノベルズ編集部では「これは長いから削ってくれ、 「第一部完」の文字も削ってほしい」等のいざこざがあったらしい。 「虚無回廊」に関しては、落ちのつけ方が決まらないので 最新の宇宙論が出てくるのを待ってたら、年取ってかけなくなってしまった・・・。 というのが真相らしいです)。
小松左京ほどの人でも 年を取ったら書けなくなるのか…
194 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2005/12/05(月) 01:26:46
>>192 小松左京先生が書き直しを命ぜられたら、かえって長くなって返って来てしまうというのは伝説だったからな。
でも最後の2行見てたら納得だわ。
あれ待ってたらどうしようもない…… (ホーキングの膜状宇宙説明とか何次元だとか…こっちも消化不良気味だもの)
「(作品が評価され、有名になってくると)講演やコンサルetcの仕事が 舞い込んでくるようになるけど、この先作家としてやっていきたければ 引き受けていちゃ駄目だよ」と、親戚筋の学者氏から忠告された ……ある意味真理だ。 でも作家の「旬」なんてせいぜい十年、長くても二十年。 書けなくなると講演やコンサルで食っていくしかなくなる。
花の万博って業界的には大成功なんだ。 二千万予想で2300万動員。 実は動員水増しは「つくば」なのです。 「花博失敗」つうのは「失敗してほしかった」人たちの妄想。 愛知は予想外に成功した。プロデューサー自身が首をかしげるほど。
じゃあ御大が花博でへこんだというのもウソなの?
花博は業界的には「大阪万博につぐ成功」 多分、都市博とかで失敗した連中の流したデマ。 「東京じゃ、誰もしらねえよ」とか言われても 関係者はホクホク。 博覧会で大成功と言われるのは大阪、ポートピア、花博と今回の愛知ぐらい。 「つくば」はなんとか成功に見せかけて記念財団つくったけど、 あとあとまで訴訟が残ってた。 これは数値が証明している。いくら花博を失敗にもっていこうとしても無理だ。
200 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2005/12/07(水) 22:14:12
|┃ ζ |┃ ../ ̄ ̄ ̄ ̄\ |┃三 ../ \ _____________ |┃ ./\ ⌒ ⌒ | / |┃ ≡ .||||||| (・) (・)| < 4年9か月でやっと200かい ____.|┃ (6-------◯⌒つ| \ |┃= .| _||||||||| |  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |ミ\___.\ / \_/ ./ |┃=__ ..\____/.\ |┃ ≡ | 人 \ ガラッ
>>199 悪いがEXPO70の前には影は薄い
バブル期だったしねー
東京都市博が中止になったとき、鏡○さんが マジで欝になってた。 なんだったの? 青島知事って。 まあ横山ファックよりかははるかにましだったろうが。
>>202 鏡○さん都市博で○通の担当だったの?
逆に大成功した例で大阪万博で○通の話あったよなぁ
のちにその部署まるつぶれしたそうだけど…なんか失敗したのかその人脈崩壊したとか…
無駄遣いが丸見えだったから中止だと思う。
206 :
B@a :2006/05/16(火) 01:21:51
Vomisa!Vomisa! ↑の由来もわからなくなってしまわれたのか.....鶴。
○明さんはまだ現役だっけ。 都市博の時にヘコんでらしたのは確からしい。 と言うか、関係者はみ〜んな、そりゃヘコむよ。 愛知の成功(つうてもハードル低すぎ!)みりゃ 都市博はやっときゅよかった。 あ、欝病ね。 たしか大親友の高島「ゴシラ常連」忠夫さんが、さらにひどい欝になって その励ましの手紙を書いたとかなんとか。 昭和一桁って欝になりやすいのかとおもいたら、 ワタイの周囲にも結構「プチ欝」とか多いので驚いた。 しかも二十代の女性なんかに。
208 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2006/05/21(日) 19:36:58
「さらば幽霊」は傑作だったなぁ
209 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2006/05/26(金) 00:00:36
去年の事だけど、知り合いが京都で一人芝居「大経師昔暦」を見てきた。 近松門左衛門の浄瑠璃でおさん茂平の物語らしい。 その解説に小松さんがでてきたそうな。 にこにこした好々爺で、べらべら止め処なく話続けて 「先生、せんせ〜、もうその辺で…」 と係員に止められても、まだモグモグしゃべっていたらしい。 とても鬱病ようには思えないけどなぁ。
じゃあ痴呆ということで
211 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2006/06/08(木) 20:40:56
博覧強記で言いたい事があふれ出して止まらないのか、 自分でも何が言いたいのかわからないまま支離滅裂な言葉の断片がだだ漏れなのか。
212 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2006/06/11(日) 01:50:13
最近テレビに出ないなあ。
誰もいないスタジオの写真とったら、 ぼんやりと写ってた……
214 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2006/06/17(土) 12:25:52
金曜日の産経新聞で近影を見た。相当体重が落ちているみたいだった。
215 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2006/06/18(日) 16:53:34
>>211 博覧強記に変わりは無いみたいだが、どこかのネジが緩んでいるのかもしれない。
>>214 昔のデップリした面影は全く無いらしい。
216 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2006/06/21(水) 00:05:05
,/ ヽ
/ ,,、-〜_二二,」
,i゙ 〈K) _,、-''"´ ゙ヽ、
|ー〜ヽ、 _,、 ,,、-'" , ,; j'ト、 ヾ;.i ヾ;)
゙ト、__,ニ-ァ"/ ,イ,ク グハハNハ リ i, ソ
/';';';';' ,ノ,ノノイ∠幺ダ 'ェェ=キレ|l;, ;レ゙
| ;;;'' ='イ ''"'〒テ~`' .i 'Tフ` ,!''ソ
ヽ、 ;;''イ `¨´ !: | ト こんばんは。新スレに移行したのでご挨拶に来た
ネ ;;'' ヒ , _. 〉 ,|イ,リ 伊達と酔狂で新スレ建ててチンコも勃てるユリアンです。
| ;;い ,i゙,ナ゙ 【自衛隊のヤン・ウェンリー】
ヾミ iト、 ー''二 ̄ ./ツ
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/jsdf/1150468063/ )ぃ,l リ ヽ、 /ト-:、
,, -'^;;ゝ|ヽ `''ー、___,,ノ_」'''ァ ゙i,
.|.n '';;;〈 >'"~>''"ニ=F".:::::,ノ'!:!_
_,、-| |:゙i, ;;l゙Y゙ r'ア{ . |,ィ'|.|:::::::l;_ノ:::::::::`ー
| |::::゙i::|`! ゙( | | リ::::::::::::::::::::::::::::
217 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2006/06/22(木) 17:31:11
>217 中田の引退は政界への転身だったのか・・・
>>209 それは却って危ない。
躁状態の有吉佐和子もそんな感じだったそうだ。
220 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2006/07/09(日) 16:12:35
今朝のNHKのニュースで「日本沈没第2部」が取りあげられていて、インタ ビューもあった。ナレーションで、阪神淡路大震災で被災し、そのショックで 執筆ができなくなった、と言っていたが、どういうことだろう?
昭和四十年代開通の高速や新幹線のみならず、 出来たばかりの阪急今津線跨線橋が破壊されたのを見て、 世界に誇るといわれた日本の技術や安全基準、 それを裏付ける科学の基礎知識への信頼感が崩れ去ったと、 震災の年の中央公論に書いていたね。 そのニュースは見ていないので、 これが回答になるかは自信がないが。
>>219 有吉佐和子って首吊りだっけ?飛び降りだったっけ?
小林信彦さん、イイこと言うなあ 有吉さん、あの若さで「心不全」と言う実にあいまいな死因で いぶかしんだけど。 やっぱり薬物のリバウンドによる自殺だつたのか。 なんであの才女がねえ。
224 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2006/07/10(月) 16:07:00
先月デジタルチャンネルで1時間くらいインタビュー番組やってたけど、 普通にしゃべってたよ。 歳取ったなぁとは思ったけど、繰でも鬱でもなく、ごく普通に会話してた。 あのデブ期からすれば激痩せだけど、不健康にも見えないし。
つか、医者嫌い不摂生 酒好きタバコ好き。 で、なんで長生きしてんのかと小一時間。
実は昔の住所、ハルヒ実家の近くらしい。 東中=鳴尾付近と家庭して。
227 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2006/07/15(土) 13:12:34
日経の「私の履歴書」というコラム書いてるけど中々面白いです。
自殺するとたいてい 「心不全」って発表されるみたい。
229 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2006/07/16(日) 00:42:25
新潮新書『SF魂』を購入
>>98 読み始めたばかりの日本沈没第二部関連で、谷甲州スレから、来ますた
漏れも、ちょうどそのころに、うつ病にかかり始めて、無理して仕事続けてたけど、結局、半年休職、職場復帰して今に至るも、再発が怖くて抗うつ剤をのみ続けているよ
2ちゃんは、休職中に覚えた 山崎渉とか見ると、こういう長寿wスレって、まるでタイムマシンだな
おれも2001年にうつ病発症。良くなったり悪くなったりを繰り返している。 「仕事バカ」は気をつけろよ。特に馬力と気力で突っ走るタイプは。
232 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2006/09/24(日) 17:04:06
新潮新書の『SF魂』は、「バカの壁」みたいな、インタビューを編集者が まとめた体のものなのかな?
>232 もともとは『小松左京マガジン』でコマケンの人がインタヴュアーになって 長期連載してたインタヴューがあって、 基本的に『SF魂』はそれを再構成したものと思われる。
うつ病については、もっと酷い欝になってた高島タダオを励まして 回復したとかなんとか。 えっと、ある程度の年代になったらなるものなのかね。 将来自分もコワいんだが。
今ではトンデモ学説だが、 肥満型は躁鬱気質 痩せ型は分裂気質 って分類があったね。
236 :
クレッチマー :2006/09/25(月) 00:10:28
肥満型は循環気質ではなかったか?
おお、クレッチマー! もっとスゴいのは、 犯罪者はその容姿で分かると言う ロンブローゾの学説。 ロ〜ンブロ〜ゾ〜!
>>236 もう一つ「闘士型」はてんかん気質ってのがあるから、これで良いと思う。
躁→鬱→躁→鬱と循環するから、循環気質とも言うのでは。
なんか昭和ヒトケタ生まれで、還暦前後に鬱病って、やたら多くない? 成長期が戦時中で、栄養不足がひびいてるとか、関係ないか? 周囲にもチラホラいる。
墓立てたらしい。 いよいよか。
また欝になったら、来年のヨコハマどころじゃないだろうな。
ここいらで先生にはひとつ、「安置所の碁打ち」になっていただいて(ry
もうダメポらしい。
244 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2006/10/10(火) 00:24:43
第一世代で生存中なのは後・・・ 筒井、平井、豊田、荒巻、他には?
245 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2006/10/10(火) 00:41:24
眉村
藤子A
247 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2006/12/24(日) 22:07:38
「戦時中、食料がなかったので自分の精液を食べていた」ってエッセイが載ってる本のタイトル誰か知らない?
248 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2007/03/08(木) 22:20:42
おいおい、じゃあ、虚無回廊は未完の大作になってしまうのかい? あれだけでも完成させてから逝ってくれ。
249 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2007/05/03(木) 23:17:50
>>244 亀だが
その人たち第一世代になるの?
その中で第一世代は筒井のみじゃないの?
250 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2007/05/05(土) 07:44:31
第一世代だろうよ。 俺の感覚だと田中光二氏以降が第二世代。
>>248 同意。
実質の執筆は谷甲州、という
「日本沈没」方式でもいいから。
252 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2007/07/04(水) 10:45:10
>>248 続きを読みたいファンは沢山いらっしゃると思います。
わたしもその一人。
でも御大の心身の体調の具合を考えると・・・・
代筆はかなりにムズカシイ部類の作品ではないかと思われます。
いつか完成してくださればとはわたしも強く思っています。
いやあ、かなり単純で幼稚な作品という印象が。 誰かできるんじゃない?
当然253センセイなら複雑で熟達した作品ができるはずだな
痩せたよな。びっくらこいた。
256 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2007/07/25(水) 22:52:55
今日発売のSFマガジンに写真が載っていたが、杖を使っているようだな。
>>249 俺もそう思う。
ただ最近のヒトから見れば、
第一世代でひとくくりに見えるかも知れん。
60年代というか福島正実時代にデビューしたのが第一世代じゃないのか。 平井・豊田を第二世代にしちゃうのは細分化しすぎでは。 俺的には、70年代デビューだけど銀背のSFシリーズで本を出した荒巻がギリギリな感じ。
>>1 が2001年ワロスww
どんだけ過疎、いやいや長寿スレなんだよww
この板は時空を超えて存在し続けるのです
261 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2007/09/02(日) 01:18:49
最近髭をたくわえておられるようで。
去年より言葉がはっきりしていたので安心した。
263 :
白服親爺 ◆Hmoiscdtk. :2007/09/03(月) 18:56:41
'07世界SF大会・横浜パシフィコ 若いスタッフの方々、大変ご苦労様でした、 感謝の言葉もありませんが、一つだけ注意を言わせて下さい。 小松先生はホスト役の責任感で、ゲストほぼ全員が退場するまで 車イスでロビーで頑張って長時間応対されてらっしゃったわけで、 最後ひっそり黙って出て行かれようとしたわけで、 それは御本人はその方が良かったのかも知れませんが、 僕が皆さんに拍手を促さなかったら誰にも気付かれずに行かれていたわけで、 保安や健康の意味も含めて、常時誰かは注意を払っていて頂きたかったです。 さしでがましくて済いませんが。
さしでまがしいやつだ
そうか?礼儀としても正しい気が駿河。
266 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2007/09/27(木) 23:01:36
過疎にもホドがあると思うぞ・・・・・
267 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2007/09/27(木) 23:46:43
岐阜県の各務原で小松左京先生を見たよ。
賽河原でも見たよ。
ときどき体調こわすけど、あの酒好きタバコ好き不摂生で、 よく八十近くまで生きてるなあ。寝たきりでもなく。 スポーツとか健康法とかに関係なく なんか遺伝子によって寿命とかある程度決まってるのね。 もっとお元気なのは筒井さんだけど。
271 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2007/10/23(火) 14:15:32
NHKのSFの番組に出てたみたいだけど、見た?
見た。少々ショックを受けたが、すぐ立ち直った。
あれCGだってさ。
>>247 「おもろ放談」に載ってるよ。文庫版だと44ページ。
他にもエッセイとか対談でも見かけたような記憶がある。
275 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2008/02/01(金) 09:13:13
果てしなき流れの果て、みたいなハードでロマン溢れるSFを また書いてほしいな♥
「虚無回廊」を完成させてからね
もうさすがに無理だろうな・・・
なんか昨日から『小松左京論』書きたくなって仕方無くなった。
でも全然何も調べもしなくって、自分的に、個人的な思い出や記憶の範囲から見ても、
一冊の本になるくらいの、膨大な関連量なんだよね──。思わずすごいわ。
小松左京さんって。(あえて親しんでいるので、先生って呼ばない)
“本”と言っても、昔H.G.ウエルズだっけ、25年ほどもだけれども、伝記書いてた人が(外国)いて、
早川書房から 『時の旅人』 というタイトルのが出てたけど、あのくらいの分量になる推定なの。
(例えば、だけれども)
『ゲーデル、エッシャー、バッハ』とか、ユリシーズとか『フィネガンズ・ウェイク』の級をイメージして
いただければ、そんな感じの分量になっちゃうんじゃないかなぁ。
でも関連項目、それくらい、人物に関してでも (H.G.ウエルズ論とか、手塚治虫論とかも入りそうだもの)、
影響力のあったものとか、交遊録の範囲考えても、すごいメンバーになりそうなんだし。
結局いままでオチの着いてない日本SF論(SFとは何か論)の問題や課題も残されたままだし。(これは敬愛して割愛)
かんべむさしさんの「ワー人間」論、(確か新潮文庫版 『物体О』 だかに載せられた解説文)、は越えたい、
とは思っているんですけど、(あれすごくまとまりのいい文章なんだし、かんべむさしさんの才能最高っに出てる)、
難しいよなぁあ。
と雑文してる私です。 orz (汗)
ちなみに
>>271-272 って、栗山千明がナビゲーターやってたNHK教育の番組なんかしらん。
みれなかったー。(あぁあぁぁあ) (また分量多くなってすみません orz orz )
という訳で、昨日地元の図書館に行ってたら、ちゃんと城西国際大学・メディア学部の、 「 小松左京全集・完全版 」がちゃんと有ったんで、びっくりした──っ。 オンデマンド版だってんで、図書館なんかとは関係ないもんだと思い込んでたから、 ほくほく顔で、第29巻「 日本タイムトラベル、日本国解散論、現代の神話 」と、第2巻 「 復活の日、果てしなき流れの果に 」 借り出して来て、いま目をとおしてます。 なんかえらい事思いついちゃったなと思いながら、コツコツとやってくつもりです。 でも自分にとって一番問題なのは、『 小松左京のSFセミナー 』 (全集・完全版だと、 収録は第43巻に収録予定みたい ) に出てくる、小松左京氏の “ 一般文学論・序説 ” ってやつで、これが小松左京氏のライフワークだったみたいなんだけど──。 これをどうするかが、頭の痛い問題・課題です。 orz
論とは、どのような疑問を立てて、それに答えること、の2つかと思います、が。 この場合の論とは、「 小松左京とはなにものであり、それに答えること 」 なんじゃないか、と思います。(仮の設定) 取材量の見積もり、がねー、で、私にはよくわからんのです。どのくらいの分量になるのか。 例えば、ある作品について、それが出来た動機とかね、一体どうやって出来たものなのか?、とふと考えてみる と、 具体的には 『 果てしなき流れの果に 』 ← は一体どういうデマンドで持ち出されて、そもそも作者からは一体どういった 動機(モチベーション)で書かれたのか、←なんて事柄を 今まで考えた 事が無い。 一部は全集・完全版でも記述があとがきとかの形で残ってるんですけど。(あなるほどね〜とか) 京都学派、なんて問題もある。これ、西田幾多郎とかの旧京都学派とか、今西錦司系の京都学派とかの人々とかある。 会社イオで載ってる 「 小松左京 年譜 」 を見てると、あの有名な モリ・ミノル の名義で18歳ごろ漫画を描いているんですが、 (アルバイト?えーと十何年も昔なら松本零士先生あたりが 「 これにあんまり触れると小松さんに殺されるから 」←なんて 冗談言ってたくらいの秘密の話ですね。今は公に講談社からか出版されちゃったけど) これのマンガ史における影響はあった のかなかったのか、とか。私は全然知らないし。 H.G.ウエルズとかオルダス・ハックスリーとか、ジョージ・オーウェルとかオラフ・ステープルドンとか、もちろん三大SF作家 であるクラーク、アジモフ、ハインラインといった人々、あるいは作家たちとの比較は必要なのか?、といった問題・課題もある。 こやって見ていくと ( 思い付いていくと ) 、様々な問題や課題が眠っていたり、存在していたり、事に気付いていきます。 えーとこのスレ、って言うのかな?あんまり使われていないみたいなんで、ちょっとメモに使わせてもらいますね。 多分、まだまだ沢山続くと思います。 orz
【こういう発想法】 もう昔、何十年も昔のビンボーもほどほどにしろっていう頃でしたけど (自分で招いたビンボー暮らしだったが)、 勉強ちょっとでもやろうとしてて、不燃ごみの日に捨ててあった教科書を拾ってきてた時代が私にはあるんですね。 その中で 数学の教科書 ←が含まれていて、その最初の方に、こんな事が記述されていた。 んーと、数の式には、1.定数 と 2.変数 のものがあって、それに 整式 というものがそれぞれ有る、みたいな書き方だったんです、が。 これ、今度の事に使えないかなぁ、と思います。 今度は、今回の件は 「小松左京論 」 をやろうという、課題なんですが (とんでもない発想なんですけれども) 定数っていうのは、ふつうの数、例えば、自然数とか整数とか小数とか分数とか、もう数の値が決まっちゃってる数の事です。 (具体数の事ですね) 変数ってのはお馴染み、「 代数 」 で使うやつです。代数、でいいのかな、ふつう a とか b とか x とか y , z みたいなアレです。 (代数とか代数で取り扱う変数、って言い方するのかも知れません) 定数や変数や、その 「 整式 」 っていうのは、“数の概念” ←が成り立たないと存在しませんから、“数の概念の以前”っていう のを導入してみたら面白いんじゃないかと。 0.数概念以前 雑記文形式・小松左京論 (公にできないようなまた確定されていないもの、いわゆるベータ版) 1.定数とその整式 整文形式 ・小松左京論 (決定稿としての 『 小松左京論 』) 2.変数とその整式 変数形式 ・小松左京論 (一般化・『小松左京論』。ここに 「 一般文学論・序説 」本論を入れたい) よくわかんない事書きましたけど、こんな事やってみたいかと思います。 それでは、これからまず 「 雑記文形式・小松左京論 」 に取り掛かってみたいかと思います。 スタート!
【 ダンテの神曲、あーちゃかこーちゃか 】 思えば小松左京さんって方は、京都大学のイタリア文学科専門課程を卒業された方だってんで、ダンテの 『 神曲 』 とかも 読んで置かなければならないかなぁ、と思ったり。そのダンテのモデルがローマのウェルギリウスだっけ?の 「 アエネーイス 」 だっけ、建国物語を古典古代のモデルにしているというはずなので、そっちの方面にも手を伸ばさないといけないかなぁと思ったり。 いったい小松さんって、例えば大学時代だけでも ( 年譜によると一般教養の数学と体育理論を落として五年かかって京大を 卒業、となってますが ) どんだけ、“どんなものを” 読書量として読んできたんでしょうか? ロシア文学とかの、ドストエフスキーやトルストイなどはちゃんと読んで置かなきゃ駄目だろうなぁ。 orz 安部公房とかは、もちろん初期のものはちゃんとも一回読み直して置かなきゃならない。( なんでも 「 衝撃 」 を受けたそうだから ) 一体、小松文学だけでも ( ほかに漫画とかラジオ脚本とかもあるわけだから ) 、「 どんなものから 」 線を引っ張って影響を受けて きたか、考えてみる必要がある。そのためには、小松さんが目を通したものにはちゃんと目を通して置かなければ、一体どんな “関係性” があるのか、発見が出来ないかも知れない。これは大仕事です。 手塚マンガとの関係もあるし、盟友高橋和巳さんの書いたもの、話したこと、などにも触れて置かなくてはならないかも知れない。 膨大な作業になりそうですねー。 『 日本沈没 』 でも、思えばどんだけどうやって具体的にソロバンやら当時最新鋭の計算機(電子式卓上計算機) で 「 どうやって 」 計算をされていったのか、なんてまったく考えた事も無い。フォッサマグナとか中央構造線とかいった言葉の知識は、一体どこから最初に 覚えていったのか、そこには 『 はみだし生物学 』 あたりにヒントがあるわけだけど、思えば本当に いわゆる “沈没” にも文学史上とか 映画史上とかでもいいから 「前例」 は無かったのか、なんて事もいままでちっとも考えてみた事も無い。 orz 論文?はとても難しい道のりになりそうです。 (溜め息) キタ━━━(ノ゚∀゚)ノ ┫:。・:*:・゚'★,。・:*:♪・゚'☆━━━!!!!
【ラジオ脚本と 「 さよならジュピター 」 シナリオ】 前の文章書きながら、ふと気が付いたんだけれど、この2つは関係があるのかなぁ??、と。 年譜における、昭和30年代のラジオ台本を書いた経験と、昭和50年代における 『 さよならジュピター 』 のシナリオ版を書くことは、 どこかで ( どころかで ) 「経験」として生きてらしたのではあるまいか? これ、今まで気付いてなかったです。 anaware 再考していると、本当に自分のあたまはナマクラだなぁ。 orz 全集・完全版によると 「 戯曲 」 も収録するってこの事 (さよならジュピター・シナリオ版) なんだろうけれど、まさかラジオ台本経験 が、映画総監督の時のシナリオ作成の時に生きてるかも知れないってことは……。 当時映画を観ていても、全然 「 考え 」 も付かない事だったぁ。──やれやれ、なんてこった。 good-grief 小松さんって、漫画もやって、ラジオもやって、父親の工場経営参画経験もおありになして、つぶれて(倒産経験) 、作家・文学・小説 もやって、映画もやったは、万博も3回ほどはやったわ、ほか雑誌の記者や編集等、大変マルチな才能と経験がお有りになるんですね──。 ちょくっと、テーマの大きさに呆然として来ました。でも、続けます。
【ウィキペディアを見ていると…】 比較して、筒井さんの研究の方が、小松さんの研究よりも進んでいるような気がするんですよね。 ほか、出版物見ても評伝出てるの、筒井さんの方があったような気がするし。( 確か筒井康隆全集を出版した時に連載されてたものを 一冊にまとめたものだったでしょうか。オンデマンド版では、筒井さんみたいに全集に連載付属記事が付かないみたい?で、筒井さんみたいに、 寄稿なりがまとまっていく、という可能性が無い?) 筒井・小松比較では、筒井さんの方が研究と、ファン層が厚いような気がします。 気のせいでしょうか? 小松左京さんところには、確かコマ研というのもあったような気がするんですけどねー。( 確か 『 小松左京のSFセミナー 』 集英社文庫で、 最後、ラストにインタビューするのはコマ研の人だった気がする。でもあれは1980年頃の話だし。) 出版物にはされていないのかな? 自分がもしファンであるとすれば、本当に、本当に、手落ちでした。 私はあまりな事に、小松左京さんの研究をやっていません。幾ら素人であったとしても、本当に手落ちでした。 僕は小松さんを守っていなかったと思います。猛省し、反省します。ちょっと、恥じてます。
【思い出す言葉──】 エリック・シーガルの、映画にもなった 「 ある愛の詩 」 Love Story ←でしたっけ、こんな台詞がラストにありましたねぇ。 「 愛とは、決して後悔しないこと 」 って、最後の方で彼女が言うんでしたっけ。 後悔しないだけ、自分はSFにしろ、筒井さんにしろ、小松さんにしろ、愛せたんでしょうかね。 でも続けちゃいますねー。
【 ウィキペディアに見る日本3大SF作家 】 あんまり小松左京氏について調べた事が無かったんで、周辺情報としてもウィキペディアは貴重に役立ってます。 筒井康隆氏については読んだけど、今度は星新一氏についても読んでみると新鮮ですね。 意外な評伝が出てる事もつゆ知らずだった。 やっぱり小松左京さんについて評伝が出ているという記憶はないので、小松左京研究は遅れているという感じしますね。 全集本が出るという事も、星氏、筒井氏についでて、遅れているわけだから、無理も無いことなのかも知れません。 ひょっとしたらこの瞬間にも、小松左京評伝を書いている人はいらっしゃるかも知れませんね。 1970年代後半から1980年代前半にかけて特に流行る 「 女の子の文字 」 については、放って置いたら (手を着けられ無かったら) 山根一眞氏が 『 変体少女文字の研究 』 ←という見事なレポート、研究書を書いたという事がありましたから、そういう事が今度もあるかも 知れません。 手塚治虫氏についても、夏目房之介氏が 『 手塚治虫はどこにいる 』 など書かれて、問題・課題が解決した、なんて事もありましたし。 出来れば、自分がこうやっている内にも、出て欲しい ( 実現して欲しい ) なと願ったりしています。 でも小松左京評伝とか、伝記、小松左京論といったものは、とっても難しいような気がします。 満足するものを書ける人は、果たして一人としていらっしゃるのでしょうか?? とっても心配な事ですね。 このあとはウィキを使って、とりあえずは世界3大SF作家について調べてみようかと思っています。 でもとりあえずは UFO焼きそば で食事を取って来ます。ええと、スタンダードのやつです。 3ヶ月前くらいに、一個99円くらいで1ダース箱買いしたかな。もう賞味期限切れてますけど……。( 書くことじゃないなぁ。うふふ )
【 精読 と 慢読・漫読 】 精読するのと、漫然と読むのと。 すごい分量なんで、これをどうやって読み解くのかといった問題・課題もあります。 で、出来たら精読をすべてにこなしていくのが一番なんですが、それだとあまりに焦点 ( ピント ) の合った読み方にならないかも知れません。 で、漫然と読む、漫読というのも採用してやっていって、労力を下げる、といった工夫も必要なのかも知れません。 できたら主要なものには精読をしたいです。また成文化されていないものにも、推定を重ねる必要が多々生じてきます。 ここで、課題になってくるのは、「 主要なもの、とは何か? 」 ←といった事です。 全集・完全版に収められる予定のものくらいは、全部目を通しておく位の事は必要でしょう。 でも、その中でもどこに焦点を当てておくか、著作ならどれに焦点を選んでおくべきなのか、といった課題は付きまといます。 一体どうしたらいいんでしょう。? 『 日本沈没 』 などは一番有名とも言える作品なので、どこかで様々な視点で誰かさんから書かれている、という可能性が大です。 でもそれを “再考する” といった方針で行くのか、それとも “別の作品に焦点を当てる” などのやり方もあります。 最初に戻ると、論とは自分で疑問を立てて、それに答える、という事の2つでした。 ここでは 「 小松左京とは何者か? 」 であり、それに答える必要が出てきます。 普通なら、例えば、小松左京はSF作家である、とかいった言い方でいいか、説明になるかと思いますが。 それだと単純に論を立てて面白いとは思えない。 「 もっと別の視点 」 が必要になって来ます。 それを 「 見つける 」 、発見するのに、この最初の 自分の疑問の立て方 が重要になって来ます。 さて 小松左京とは一体なにもの なんでしょうか? これが重要な論立てのキーワードになってきます。 それから、その疑問に答える、という作業が始まるわけです。 続けます。
自分でブログ作ってそこに書けば?
>>288 そだな(´・д・`) 見つかったらやめよと思ってたw
290 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2008/04/13(日) 18:14:45
age晒しておこう。
せっかくどこまでエスカレートするかなまぬるくヲチっていたのに余計な事を…
>>290 こらこらこら──っ。(恥j)
それにしても、小松さんの卒論のピランデルロって 劇作家 の方だったなんて初めて知ったよ──!
ちゃんと今まで株式会社イオの年譜を読んでおかなかった罰だ。翻訳やっていらっしゃるのに。1979(昭和54)年八月。
「 さよならジュピター 」 の脚本書けるわけだよな。 orz
ウィキペディア、google 経由で本当に役に立ちました。これからピランデルロ、読んでみます。
なんとか 年譜 暗記の努力中です。
【 今友人からの電話で偶然知ったんですけど。 】 あまりの偶然なんで、唖然としてるんですが。 小松左京自伝 『 実存を求めて 』 日本経済新聞出版社 ←というのが出たそうですね。 週刊文春で、今読んでおくべき一冊とか何とかで載っているそうです。 一冊、¥2500円 + 消費税 だそうです、が。 やっぱりまた偶然で、こんな事起きるんだなぁ。『 変体少女文字の研究 』 や 『 手塚治虫はどこにいる 』 とか以来。 結構、日本経済新聞 「 私の自叙伝 」 なんでしょうね。書き加えとインタヴューが載っているそうですから。 私って、なに? orz でも、続けますだ。おさむれぇ雇いますだ。 orz orz
294 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2008/04/13(日) 22:56:44
奇跡は起きます。 起こして見せます。
最後にハードSFなラノベを書いて欲しい 表紙はのいぢでいいや
【 続けてま──す 】 いま 『 小松左京自伝──実存を求めて── 』 を読んでいるんだけど、自分の記憶は間違いだkらけ。 orz demo まず負けずに読んでみます。 これ昨日検索にかけてアマゾンで知った 新潮新書かの 『 SF魂 』 は買えて読めるかどうかわからん。 orz ( 宝くじでスクラッチで、なぜか ¥500円 と ¥1000 円 が連続して当たったけどさ、トントンだから ) それと、これ ( 「 自伝 」 ) に負けないような、別の新しい切り口は無いかしらん、と模擬模索中。 ひとつの案は、精神発達史というか、発達心理学などを応用して、小松左京さんのライフ ( 人生 ) を眺められないか、といったような事。 なんか論立てしたかったら、手塚治虫さんが作品を作る時にに常に言ってらした事だけれど、 ● いつも、何か“新しいもの” ( 要素 ) を取り入れる、導入すること といった事があるんですが、これ手塚マンガの秘密中・秘策中の秘策ですから、このアイディアを応用すればいいのではないかという事。 なんか、新しいアイディアを開発しなければ……。 話は、まだまだ続きます。 どこかで、ブログのやり方を憶える事があったら、そっちに切り替えます。
トリップつけてくれ
【 ノエシス、ノエマ ( 意識作用、意識内容?) / フッサールの現象学 について 】 はぁ──。一応 「 小松左京自伝 」 、かるく斜め読みしてみました。お疲れちゃん。 しかし、一体どういう人たちなのだろ。この小松さんはともかく当然として、この小松左京研究会 ( コマケン ) の人たちというのは……。 「 小松左京マガジン 」 っていうのが発行されていたというのは初耳だった訳ですが、なにやら偶然、このコマケンという所の 活動のことについて、1980年頃以降のことにこの先日に思いをめぐらせていたら、幾日も経たずのうちにこうやって 「 出版 」 されて いるものに出くわすなんて、なんか偶然過ぎる。えーと、第2部のインタビュー (かなり大部なもの) で成り立っているものとは、全部 この コマケン ( 小松左京研究会 ) の方々がされて、「 まとまっている 」 わけですね。 コマケン の皆様、たいへん御見逸れ (オミソレ、と読む) いたしました。 orz ちゃんとこんなに立派に活動されていたんだなぁ……。すごいわ、まったく、もう。 にしても、文中で面食らったのは、「 ノエシス、ノエマ 」 が出てくる事です。 (p314 参照のこと ) これは…、実は私放送大学に在学中でして、この春まで取ってました、「現象学」 に出てくる言葉なんですね。 これがもう──、なんて言いますか、私この人生で こんなに難しい本はあるんかいな と本気で悩んでしまったもんなんですよ。 「 哲学 」 なんです。それも死んだもんじゃない、現在も生きている大きな門流としての哲学なんです。 でまさかなー、こんな所で “出食わす” とは思いもよらんかった。 小松左京さんは、学生時代に、フッサール ( ドイツの哲学者さんで、非常に丹念な誠意を込めた仕事をなされた方です ) の 『 純粋現象学 』 だっけ、を3冊のノートに書ききるまでに勉強なさっていたそうなんですね。 で私みたいなニワカ小松左京ファンみたいなじゃない本格SF小松ファンなら知っている事なんでしょうけれど。 これ (現象学) 、あの続編待たれる 『 虚無回廊 』 シリーズと強い関係が有るみたいなんです。 いろいろやっとくもんだなぁと、つくづく思いましたです。ハイ。 orz
違う! メアド欄に、「fusianasan」って記入して書き込んでくれと お願いしてるんだ
>>300 ああ、fusianasan 。
じゃ
て。ちょと。それ危険なんじゃ? 簡便してちょw
で、どうやら御大、老人性うつ病 (今うつ病 [鬱病] ってことば使うかしらん。気分障害とか言わないかな? ) 、克服にかかってる由。 完全に治ってる、とは言い切れないけれどなぁ。偶然、古くから友人の高島忠夫さんもかかってたし。(一応、過去形にはなられたみたい) うつ病といえば、桂枝雀師匠のことが気にかかる。決して安心して見守っているわけにもいかないよね。 「 小松左京マガジン 」 が、この時、頃の気持ちのはけ口になっていたみたい。 さて、小松左京の復活はありえるか。こんな事いうと不謹慎なのかも知れないけど。私も期待したいです。劇的な復活劇。 はたして、『 虚無回廊 』 の完結編は書かれるのか。また新作の予定はあるのか。 あとは人生の締めくくりの著作だけでも、終わるのかも知れない──。
【 小松左京論のほかの話 】
>>303 いけね。ミスった。 orz
『 小松左京自伝──実存を求めて── 』 で大幅に資料もらっちゃったので、これからどうしようか、考えている所。
小松左京とはなにものであるか……、に、SF作家である、では、あまりにもイメージが面白くないんだよね。
例えばプロデューサーである、とか、そんな側面もあるわけで。
果たして 「 SF作家 」 という枠組みに入り切れているんかしらん?と思うと、疑問に思って。
筒井康隆さんもなぁ、この枠に決して収まっている訳じゃないし。例えば役者さんとしても一流の活躍を見せている気もするし。
星新一さんにだって、翻訳者といった側面もある。(希少だけれども)
そもそも、日本SFに属した人たちって、「日本SF」に収まり切れているかいるか、というと疑問を呈さざるを得ない。
ひょっとしたら、「 日本SF 」 を否定した所から、物事を眺めてみる必要があるのかも知れない。
たとえば、「日本SF」 は、あくまでそれに所属した人々の紐帯の場、コミュニケーション (共同体) の場にしか過ぎなかったのであって、
実際に活躍した場では、それを遥かにしのぐものがあり、“日本SF”とは場に過ぎなかったのではないかと。
これについては、すでに 「 SFはメディアである 」 (媒質である) というような言い方もされて来た事も有るわけだし。
とりあえずは、小松左京とはなにものであるか、←は、無定義用語もしくは無定義術語 として取り扱った方がいいのではないか。
( これ、『ゲーデル,エッシャー,バッハ』 ダグラス・R.ホフスタッター の中に出てきますよねぇ。)
それで、小松左京とは、なになになにものである、という風に結論付けた方がいいのかも知れない。
一体小松さんって、例えば日本社会の中で、例えば世界の中で、また文明の中に於いて、どんな存在だったんだろう?
そうやって、小松左京さんの姿が、浮かび上がってくるのでは、あるまいか?
【 比較研究対象としての 】 さて優劣はつけがたく、優劣はつける必要もないが。 なんか先立っても書いたように、小松左京ファンっていうより、筒井康隆ファンとか星新一ファンの方が、ファン層が幅広い・厚い ような気がするんですよね。気のせいかも知れないけど。 で、ファン層、支持した層のことですけど、これの比較も含めて、例えば小松左京さんと、筒井さんと、星さんの比較を例示として やっておくべきかも知れない。 最近は 芸術の消費構造 とかいった問題・課題 が立てられているみたいだから、特定の芸術の支持基盤、享受者、消費者と、 それに対する生産者といった対置の課題のやりかたは、ごく普通になされているみたいなんですね。 それで 芸術の消費構造 を調べていく、生産も位置づける、なんてやり方がある。 注目されているのはいわゆるファイン・アート ( ふつうにいう芸術 ) だけじゃなくて、マンガとかアニメとか、ゲームとか (音楽も含めて、 Jポップとかですね)、いったものにも注目が集まっている。例えば、江戸時代芸術としての 浮世絵 なんてのにも、その誕生と成長とかにも この芸術生産構造の研究がなされていたりするわけです。 マンガについては、千葉大学の若桑みどり先生あたりが、20世紀末くらいに 「 まんがももう芸術の研究対象になりますよ 」とか言って おられて、いる頃に、日本マンガ学会 みたいなものの創設がなっている。SFでもちょっとこの事は真似しといた方がいいのかも知れない。 SFってのはマンガとかじゃない、ジャンルを問わない内容の事ですから、ちょと難しいんですが、構造分析くらいのヒントくらいにはなる。 こうやってね、クラークとかアジモフとか、ハインラインとかについてもその消費構造を分析していって、小松さんと比較してみる。 旧、SF前三大作家 ( 科学小説家 ) の、ウエルズ、ヴェルヌ、ポー についても、同じように考える。 どのような人たちが消費して、すなわちファン層を切り開いて支持し、その生産構造を支えたか。 これに横田順彌先生や会津信吾先生のやっていらっしゃる古典SFの研究とかと消費市場規模をドッキングさせるとか。 いろいろやり方はあるような気がするんです。
【 アルヴィン・トフラー 】 これには、読んだことはまだ無いんだけれども、アルヴィン・トフラーの 『文化の消費者』っていう本が役に立つかも知れない。 トフラーっていうと、一般には 『未来の衝撃』 『第三の波』 『パワーシフト』 の三部作、それから 『アルヴィン・トフラーの戦争と平和』だっけ? とかで知られる未来学者、という事になっていますが。 最近急速に伸びてきた分野としての、「 アーツ・マネジメント 」の分野では、それ以前の1960年代 ( 『未来の衝撃』が1970年 ) に書かれた 『 文化の消費者 』 の方が、NPО問題にしても、評価が遥かに高いんですね。 小松左京文学やレポートを愛してる、愛読してる人たちというのは、文化の消費者なんです。(たぶん) その点では、江戸時代後期の文化文政期(化政文化)に、葛飾北斎や安藤広重、東洲斎写楽を消費してた人たちと、たぶんなんら変わらない のではないか、と。
酉なんかいらんだろ、書き込み見れば一発で特定できる。
アボーンしたいんだよ
>>308 あそうかぁ。今の状態だと、あぼーんが効かないんだ?
そこまで気が回らなかったよ。
>>308 fusianasan 以外で、なんかいい手ない? やってみるから。
コテハン、……や、まぁ書くのやめりゃ早い話か。 orz
SF論評賞適なのを掲示板に書くのは向いてないと思う もうすこし、まとめて
>>312 オケ。考え直して、つか、練り直してみるわ。orz ありがとうございましたー。
「天声人語」でも長いな。
>>235 >>236 >>237 >>238 クレッチマーのあの体型3分類学説って、今ではトンデモ学説なんですか。
きのう、うちの市民図書館の収蔵庫に入っていたもの9冊を含めて、全集本でないナマの原本10冊かり出してきた。
年代順番に並べる (配列する) と、そううつ だか 循環 だか、実際にあるかどうか がわかるんかしらん……。
現在、『 シンポジウム 未来計画 』 1967年4月30日 (共著) 昭和42年?読み込み中。
>>177 >『さよならジュピター』の火星の学校の体育館における太陽系の縮小サイズイメージ
お、やっぱりあれ好きな人いるんだ。うれしい。
おんなじ感想があった人がいて、なんだか僕もうれしい。
あのイメージは本当に役に立っている。太陽系の直径が確か100メートル、半径が50メートルくらいになるんだっけ……。
また 『 さよならジュピター 』 読み直さなければ。
『 小松左京自伝──実存を求めて── 』 を読んでいると、第二部というか、映画にカットされた部分もあったんですね。
>>314 まだちょっと長いですかね? orz
おととと、TOXSOFT さんの天文ソフト、ごめんだけど3ヶ月の無料期間でどんだけ使えるか試してみよ。
確か¥5000円くらいだったから、金銭に余裕ができたら購入しよかな?
『 さよならジュピター 』 の理解に、なんか役に立たないかしらん──。
>>316 光は1秒に30万km進むけど、宇宙のサイズを1/300億(だったと思う)に縮小して
1秒に1cm進むものとする。
すると、太陽から地球までは500cm、つまり5mで、冥王星までは196m。
したがって、太陽を後楽園球場(古い〜)のホームベースにおくと、冥王星までは
場外ホームランの距離。
さらに、太陽系に一番近い恒星(アルファケンタウリ)までの4.3光年は約1300kmと
なり、鹿児島と沖縄の間くらいの距離(正確な数値に自信ないので、要確認)。
というのを、ジュピター以前にどこかのTV放送で見たことがある。これを見てから
人類が太陽系外の天体に行くのは不可能と思っているw
>>318 うん。そう思うのは無理もねぇずら。 orz
でサ、これはどうレスをすればいいのか(内容なかなか高等だから)を考えながら眠っちまって
それで突如出てきた妄想だ、と捉えて欲しいんだけど──。
時間や空間、エネルギーっていうようなものが、もし情報だとすると、情報処理をする事によって
飛べるんじゃないかと。ディファレンス・エンジンとか乗っけて。
ピタゴラスの定理の一般化が可能であるように、アインシュタインの式がニュートンの理論の一般化
だっていうのは有名な話なんだそうだけど、E=mc^2 で 物質とエネルギー だけを取り扱うのでは無く
情報 をも取り入れた 3つの要素 ( 「物質・エネルギー、情報) の関係図式となる一般化公式が見つかったら、
それを使って、原爆級やら、水爆級か、それ以上のエネルギーを楽々と扱えるようになれば、
つまりメガトン級とか、ベガトン級とか それ以上のエネルギーを楽々とこなして扱う、操縦できるようになれば、
星間空間も制覇できるのではないかと。
物質・エネルギー・情報っていう考え方は ハワード・ラインゴールドさんの 『 思考のための道具 』を読んで
以来、身に付いて、考えて来た。 ( ラインゴールドさんの著作は日本語訳で1986年頃だったかしらん?)
その際、「 物質、エネルギー、情報 の エンジン 」っていう考え方を自分はしてきたんだよね。
(やっぱり、続く)
「物質、エネルギー、情報 の エンジン」っていうのは、ご存知直感的にもわかると思う。 エンジンっていうのは、ふつう内燃機関などの原動力マシン(機械) の事の意味使われてまふ。 また19世紀のバベッジだっけ、エイダ・ラブレイス夫人も含めて、エンジンっていうのは、 コンピューター (ディファレンス・エンジン で当時はいいのですか?) の心臓部、現在の CPU に 相当する部分の事を言っているそうなんですけども。 時間や空間、エネルギーや物質が、つまり宇宙空間が 情報 として 他の 物質やらエネルギーやら と比率 (ratio あるいは rate 。合理化) して扱えるようになったら、なんか 宇宙空間制覇 の可能性は 無いかしらん?と妄想してみるわけです。 実は20世紀初頭に出てきた 飛行機 やらでは、ライト兄弟 なんかが飛行に成功したのには、「 制御 」 の問題があった、っていうんだよね。 おなじく同じような問題ってのは 自動車 にもあって、つまりは 「 操縦 」、つまりは 「情報処理」 の問題、 課題が交通機関の発達に深く影響した。 つまり、20世紀や21世紀までの現在の交通の事情に、旧後楽園から、沖縄と鹿児島の中間あたりだっけ? の距離に行くまでに、道路整備(高速道路・ハイウェイ)の構築も含めて 自動車 や、鉄道の新幹線やら、 空港の整備による 飛行機 (エアプレーン) 、それともちろん 船舶 (羅針盤、コンパス) のスピードの 「 到達速度 」 の実現、っていうやつがある。 これにロケット (ミサイル) や スペースシャトル などのスピードも考慮に入れていいかも知れませんが。 物質・エネルギー・情報 の 一般化公式 による関係づけ とそれによる航法 なんてのは夢想かしらん? orz アタシャぁ、ハードSFの人間じゃないもんで、よくわかんないんですけれども。orz orz 簡単に普通のイメージで、旧後楽園(確かにふる〜w)から沖縄と鹿児島の間の距離にまで、自動車やら、 新幹線やら、飛行機やら、もちろん船舶やら (以上みんな内燃機関 [エンジン] ) で結ぶって発想の アナロジーでいいんじゃないかと、ふつうには思っちまいますだ。 あと交通には、マップや宇宙気象学、みたいなもんも必要なんでしょうね。交通するなら。 (また長くなってごめんなし) orz
で、「 情報処理によって飛ぶ宇宙船 」 て発想はSFのアイディアにはまだ出て来ていないんですかね? 内燃機関 も 情報処理 も、どっちも同じ エンジン なんですけどね。 「 宇宙の性質 」 ←ってやつが、解明されないとどうにもなりませんが。 案外 WWW ( ワールド・ワイド・ウェブ ) の始まりになった、ヨーロッパのセルン (CERN?) あたりの 研究から、宇宙航法の実用性が見つかったりなんぞして。w 私は、どうも ふつうのエネルギー処理による交通 と、妄想による情報処理による交通 (トラフィック?) (トランスポート?コミュニケーション?)とを、混同している気配が濃厚ですけれども。
そういえばウィキで調べてやっと思い出したんだけど、 グレッグ・ベア に 量子思考体シリーズ だったかで 『 火星転移 』 っていう作品もあったなぁ。 地球と対立しちゃった火星植民地が、あげくの果てに他の恒星系にまで 「 火星丸ごと 」 移っちゃう話。 いずれにしても、空想科学の域、出てませんが、と。
「火星転移」は、 物質の粒子の中に「存在する空間座標」を定義する情報があり、 それを人為的に書き換えることも可能、という設定の話だから。
>>323 ああいうのって可能性はあるのかなぁ?
やっぱり空想科学かしら。
計算機が究極的にあそこまで発展したら…意識持ってるけど。
ただ今、『 日本を沈めた人 小松左京対談集 』 昭和49年2月5日 地球書館 Q-BOOKS 読み込み中。 小松先生、なんか 対談 形式を取ると そう状態 の気分になってるような希ガス。 うかれ って少年時代に呼ばれてたくらいだから、サーヴィス精神が旺盛なだけなのかな。 今回は、小説以外のものばかり年代順に配列して読んでいるんだけど (なぜなら小説は大体は読んでいるし) 気分の循環みたいなものは、まだ発見できませんね。 あと8冊とか読み込んでいく内に、何を発見できるんかしらん。
小松左京さんのうつ状態だったのは、同時に日本のSFのうつ状態気分だったのと おんなじ だったような気がして。 なんとか これを 乗り越える算段はないかと、考慮中。 筒井康隆さんにも、むかし 『 日本SF百科事典 』 構想みたいなものがあったみたいだけど。 横田順彌さんの 『 SF事典 』 だったかの裏表紙に、そんな事書かれていた事があったっけ。 これも待っていたら出来ないと思うので、もう自分で個人的に書き始めようかと準備中。 個人的には、ノートと鉛筆さえあれば作れるはずなんだよね。 小松左京版・一般文学論 と、筒井康隆版・日本SF百科事典 を作るのが、自分のひとつの夢。 せめてパーソナルなものだけでも…
小松左京マガジン のページ見てきた。 インターネット一年半もお預け食らってて、はた、とインターネットで 「 小松左京 」 調べてない! と思いついて調べてみたら… 出るわ出るわ、オランダ語みたいなもんから英語、んと小松左京ホームページにコマケンさんの箇所、 んで 今回1月に出た最新版の 小松左京マガジン の豪華な寄稿者の数… みなもと太郎先生までいたなんて驚きだやお。 もう漏れのやりたかった事なんて全部やってしまっているのではないか?という感じ。 それでも瀕死になって続けますが… 1.) 小松左京版・一般文学論 2.) 筒井康隆版・SF百科事典 3.) かんべむさし版・SF論 ↑この3つが、是非読みたかったですだ。できたら… orz しかたなく、あとは 自分で書く しかない。まだ待ちたいけど……。
老人性鬱病 ←って何なのか、についても思えば調べて無い。 これも調べないと… かんべさんのホームページに飛んできた。 梅田望夫 『 ウェブ進化論 ── 本当の大変化はこれから始まる 』 (ちくま新書 2006年) は既読で、 現在 『 ウェブ時代をゆく ── いかに働き、いかに学ぶか 』 (同ちくま新書 2007年) も読み込み中。 なにかヒントもらえるかしらん──。
3冊目は 『 日本文化の死角 』 昭和52年5月20日 1977年? 講談社新書478 に取りかかる。 別に市立図書館に2冊返して、別に かんべむさし さんの、本を2冊借りる。 『 SF街道二人旅 』 堀晃 かんべむさし 1981年8月31日 徳間書店 これに問題のエッセイ、「 SFマトリックス覚書──いつか書きたい「論」の一部分例 」 が載っている。 かんべ さんはついにこのSF論を今までまとめる事が無かったと思われる。 『 笑い宇宙の旅芸人 』 1986年9月30日 SF大賞受賞作。 これの再評価ができるかが、問題・課題のところ。(以上余談) 特には“五段返し”で大団円が面白かった。 県立図書館で 巽孝之・編 『 日本SF論争史 』 を入手。これに小松左京さんの有名な文献が載っている。 「 拝啓イワン・エフレーモフ様 」 など。これはあとで読みます。 『 威風堂々うかれ昭和史 』 これで小松左京さんの少年時代を探求するヒントにしてみる。 発達心理学とかの、応用は果たして利くのだろうか?マズローとかエリクソンは使えるかしらん。 同時代の有名人物を書き上げていってみる。時代の大きな背景の流れを見ながら、小松左京さんの存在を見つめる。 時代の大きな流れを見ながら、書き上げていく。 河野典生さんにそういえば 『 街の案内図 』 か短編集に、最後に面白い短編が載っていたよなぁ。 ああいうのも、何か描写のヒントにならないかしらん。
この次には4冊目、小松左京編集 『 地球が冷える 異常気象 』 昭和49年5月30日 1974年?になる予定。 あれ?、しまった、年代順番を置き間違えた。しかしこのまま読み進もう。 これが 日本沈没・第二部 のための予備研究となっている本。旭屋出版より。
小松左京先生の思春期から最近の老年期 (高齢期) に至るまでを考えてみる──。 日本は、小松先生を本当に活躍させたり、人物として活用できたのか、なんて事も考えてみる。 現代の平賀源内的な要素もあるのではないかと思ったり…、いろいろ思考実験的な事も入れてみる。 小松先生が活躍される場作りのためには、あの敗戦が無ければならなかったのではないか、とも思ったり。 敗戦はどのような形で、小松先生を御活躍させる いわば 「 背景づくり 」 をしたのか、を捉え直す。 敗戦は、どんな風にそれまでの体制を吹っ飛ばしたのか、について考えてみる。 例えば、手塚治虫という人についても、その人物が出てくるのには彼が天才的だったのではなくて、 むしろ日本の漫画界の発展が阻害されてしまっていて、それで人物の登場が遅れただけなのだ、とも考えてみたり。 【本来進んでいるべき道を遅れていた】からこそ、かえってその人物の出現が鮮やかに見えるのだ、という視点を持ってみたり。 その揺籃した社会についても考えてみる。 という事は、その運んだタクシー運転手にしても、新幹線や飛行機にしても、日本国民が全員が影響を与えている、 という事に、視点を焦点を集めてみたり。かえってその名もない活躍をした人々の姿が、小松左京論をやっていく中で、 浮かび上がって見えてくるはずだ。 漁業にしても農業にしても、関係ないわけではない。日本の全体社会が、その人物の構築に深く関わっているはずだ。 そんな視点で、小松論を描写し、描く、書けないだろうか? かけがえのないものとして。
農業というと 短編小説 「 米金闘争 」 を思い出しちゃうなぁ。 漁業の出てくる小松小説ってあったかな?
>>332 あ、日本沈没 の カナカ人 がいたっけ。
特には……幼年時代に接した 文化 というものへの考察が重要な所。( 同時代史をやらなくてはならない) 戦後なら……、学研の学習と科学とか、小学館の学年誌、テレビジョン文化とかラジオ文化といった一般的な ものだけでなく、もっと奥入った専門誌的なものや、図鑑や百科事典など、特殊なものにどれだけ触れたか、 少年少女マンガ雑誌やコミックス(廉価のマンガ単行本)といったものなどもあるし、もちろん映画もある。 かなりの 文化 の蓄積がないと、小松左京は生まれて来ないだろうし。 あんまり自分には、そういう専門的なものやポップ(ポピュラー)カルチャー、サブカルチャー的なものに触れて いないので、わからない所ではあるけれども。 小松氏の場合には、なにやら、当時(戦前)の 演劇・芸能文化 に直接に触れている、という事が重要である希ガス。 ヴァイオリンをやっていた、というのも(演奏経験)気にかかる。レコード文化・音楽文化などはどうだったか。 それと、ラグビーなど 「スポーツ文化 」 を実践してやっている、という側面も見逃せない。 漫画もまた当時はごく少数のものであっただろう。(出版文化の現在に比較するの大衆性の未成長性。) 神戸一中時代(戦後部分)に、軽音楽部や演劇部などを作っているのには、今から30年ほど前に漫画部活が 同好会クラスから部活として正式に認められていく、文化系クラブ活動の創始者の面も感じさせる。 神戸一中時代には、学生動員など苦しい側面も多かったけれど、こういった側面も忘れられない。 大学に入って左派活動にアジテーションされてしまう前の、思春期・青春期段階の小松左京を色眼鏡で見るのでは無く 見つめておくのは、至極重要な事に思える希ガス。 だから、論の重要な点においては、この幼年・児童期・思春期・青春期と、ラジオなどをやっていた時期、といった今まで あまり焦点を浴びせなかった点に着目して照明を合わせ、それとSF作家の時代との 二部構成 もしくは 三部構成 で やってみるのがよろしいかとも思える。 SF作家としての小松左京氏というのは、結末の部分においてなのであって、その成立史の謎を解いておくのは重要と思われる。
文学や文芸がもし 芸術活動 であるとしたらならば、ひと、人間はどうやってその芸術活動にたどり着くのか? という事もやっておかなければならない所。 SFを従来はあまり 芸術作品・芸術活動 として捉えて来なかった事も 事実 であるような気がする。 アートとして、今までどうしてSFを、またSF文学を、捉える批評がなかったのか? これもまた、捉える視角に取り入れたい所。 文学・文芸は、一般的には 芸術・文化 ではないのか? SFの進歩の上でも、これは捉えておかなくてはならない部分だとも思える。次世代のために…… もっと、読みやすいSFが誕生するためにも……。 筒井康隆さんが、大学で転科して、美学に入ったというのも、気がかかる。
読みやすさ、という点においては、小松左京賞ばかりじゃなく、日本でも、 ジュール・ヴェルヌ賞とか、H.G.ウエルズ賞 なんてのも欲しい所かなぁ、と思う。 小松左京でも、大衆的にはまだやや難解かな?という感じもするんだよね。 クズかも知れないけど、あと90パーセントがダントツに足らないのが、今のSF界なのかも知れない。 (スタージョンの法則の逆説、パラドックスですね。マンガ・アニメ・ゲームではこの法則は当てはまっている ような気がしますけれど。) ラノベ (ライトノベル) なんてのは、この需要に応えちゃってるのかなぁ。 品質がよくて、芸術的で、SF的なもの、で読みやすい、なんてハードルが高すぎるかしらん。 (まるで新体操の難度を見ているような感じである。アイススケートでもいいけど。) もし 美学・芸術論 的に 「芸術度」 というのがあるとして、小松SF作品がどのくらいに判定できるのかも、やれればやってみたい所。 さて、採点できますでしょーか。
ことばあそび論。 ホモ・ルーデンスという事ではなくて──。 筒井康隆 「バブリング創世記」 「早口ことば」 かんべむさし 「SSキット」 「たれながしシソーラス」 みたいな事は、小松左京さんはやらないなぁ。その代わり知的な実験はよくやる。 「物体O」 「日本漂流」 「日本売ります」 「米金闘争」 … etc. その応用版が、『日本沈没』 『首都消失』 などに長編化されて出てくる。 ひょっとして、「発想の段階」 で、実はかなりの ことばあそび が行われているのではないか?、と勘ぐる。 そうしたら 共通性 が見つかるんじゃないかしらん。 共通因数の発見。それから、SF全体を締めくくる、共通因数 (素因数分解) の発見はできるか? 小松左京、創作の秘密、裏話──。
ひょっとして スタージョンの法則 っていうのは、漢文に直すとこうなるんじゃないのか? まず隗より始めよ。 品質の悪いもんからとりあえずは取りかかって、ぐんぐん成長せよ、との意味? 本田宗一郎さんなんて、そういった発想だったよなぁ。 「まずいアイディアでもまずぽんぽん出さなきゃ、どうしていいアイディアが出る?」 解決指向の人だったんだ。
逆に言えば「1つの傑作と9つの良品を得るためには、90のクズが必須である」って事だ。
>>339 ですねぇ。うふふ。
「職人さん見習い体制」 ←っていうのは、その スタージョンの法則 を、リスク回避するためにあるもんなんですかね。?
クズ90パーセント を作らないために、分業体制にして見習いを作り、90パーセント以下に 「クズ」生産率 を落とす。
45パーセント とか 10パーセント以下 とか。
料理人さんとか、その他職人さんの世界に興味わいて来ましたよ。 (教育・育成の問題・課題でもありますね)
SF文芸・文学の世界にも、これは応用できないかしらん。
というか、実際に現実がそうなっていないかしらん。良品が1つ生まれちゃう事で、その後の作品の質がおのずと決定されてしまう。
逆に新しい新作・良品のブレイクスルーをつかむのに、苦しんでしまう、とか。
筒井康隆さん、もしくは、筒井家は、『NULL』 という雑誌を起こすことで、最低二人の作家を生み出している。 かんべむさし さんと、「帰るノシ」 ちがうわー! 「蛙の死」 (タイポグラフィー) の 夢枕獏 さん。 これらは 門下生 (作家見習い職人さん) とは言えないだろうか?とか。 実は 小松左京さん も掲載するメディアとしては、この中に入っているんですね。 小松さんもある意味、筒井家門下生?職人学校出?(笑) と考えるとずっと楽しいです。小松さんはもちろん、他にたくさんの同人誌等のご経験があられるんですが。 (ラジオ脚本時代も考えんといけないな。それと雑誌編集者時代と。) ある時期の、SFマガジン職人学校、というのも考えられるのかも知れないな。 ご存知アメリカの、ジョン・キャンベル・JR. に相当する、SFマガジン初代編集長の福島正実さん。
筒井康隆さんには、ご存知 かんべ さんという後継者が出たわけですが。 あまりSF読んでないもんでよく知らないんですが、小松左京さんの後継者って出てるのかなぁ。 出てたら、すごい規模だけど。 で、できたら 星新一 さんにも、後継者でないかなー、なんて思う。 ショートショート を 4コママンガ にたとえたら、できたら 「いしいひさいち」 なんて人が突然変異で出て来たらw 読みたい読みたい。 掌編小説家、なんて大変そうですけどねぇ。
『 威風堂々うかれ昭和史 』 2001年4月7日発行。 ちょっと最初読んだけど、やっぱり自分のやりたいこともう書いてるよ。 orz 現在、大学で 『 現代日本社会における音楽 』 (放送大学教材、'08 ) っていうのを取ってるんですが、 それとかぶる話もあるのね。小松さん、幼年時代の音楽の起源まで調べてて、まぁ──。 ちなみに、同じく放送大学教材、『 資源人類学 ('07) 』 p64 には、筒井康隆さんの短篇小説、「アフリカの爆弾」 が 出て来て、大きくのけぞりました、です。 orz
巽孝之 先生の、放送大学ラジオでやってた 特別講義 SF 3回シリーズ なんてのも思い出しました。 地域の学習センター へ行くと、まだ カセットテープ が残ってるのかしらん? 内容、完全っに忘れとるわ。 orz
>>339 ふと、2ちゃんねる の言葉なら、「お前のことだ、半年間ROMってろ!」 ←とかになりそうで冷や汗出て来た。
(´・ω・`)ショボーン
小松左京氏の代表作って何なんだろ……って、それはやっぱり 『 日本沈没 』 なんでしょう。 400万部とか売ったとも言う、アレがあるだけでも、それはなかなか無い、実績・経験ですから。 ただ───問題の第二部が完成しなかった事もあって、結局“本来のテーマ”が理解されず、単なるパニック小説に理解されてる希ガス。 これは悪寒でもなんでもない、本当の事ですよね? SFとしてなら、『 果てしなき流れの果に 』 や 『 復活の日 』 なども入って来るのでしょう。(『首都消失』や『エスパイ』なども含まれる。) それと 『 さよならジュピター 』 。 『 虚無回廊 』 は一応完成を見てない現在が残念。 小松さんに残念なのは、本当に完成された大著を、著せ切れなかったのではないか?といったふとした気分。 まさかあんだけの活躍をしていて (プロデューサー活動もしていて ) それは無いのかも知れませんが。 H.G.ウェルズとかとヴェルヌとか較べても、きちんと世に残っていく作品は一体あるのでしょうか? 「タイムマシン」「宇宙戦争」、「海底二万里」「月世界旅行」「二年間の休暇 (十五少年漂流記)」 SFには似たようなものなんだけど、イマイチ完成していないって気がします。 物語としてはそれはかまわない。 物語でないとすれば、ウェルズには 『世界史概観』といったような著作もあるわけですが。 御大の本当の力量を反映する大作(著作)が全力投球で生まれたかは、微妙な所かと思います。 それがひとつには、御大の著したかったと言われる、一般文学論の序説 (『小松左京のSFセミナー』)にも現れているわけで。 未完成が、惜しまれます。 『日本沈没』も、もし日本が沈没しなくても、しなくてはならない日本の国際化といった問題・課題などを描写する必要は有るわけで。 それを誰かが、日本が沈没しない 『沈没しない版・日本沈没』完全版 といった形で試みる必要はあるのではないか、と思います。 それが小松SFの、ある種の不幸であり、ある種の悲劇であったのではないか、と思うのです。
小松左京編集 『 地球が冷える 異常気象 』 ただいま読み込み中。 最初の、小松左京さんの部分を読んだんだけれど…、あとはインタビュー記事の部分に取りかかる。 全9章分。全部をナナメ触れしておいたんだけど、なかなかの大著・力作みたい。 環境問題とかにも触れていて、昭和49 (1974) 年段階で 公害問題 でなくこれに触れていたものってどれくらいあるんだろ。 1972年かのストックホルムのは、国連の環境問題かの会議だったかな? レイチェル・カーソン の 『 沈黙の春 』 の出版年はいつだったっけ? 調べなければ。
小松先生の後継者は、山田正紀って言われてた。 まあ、四半世紀昔の話だが。
>>348 だよね。山田正紀さん以外にだれが居るって感じでしたね。
でも巨匠のどうやって継ぐべきか、なんてとても大変な事だったりして。
『 地球が冷える 異常気象 』 ねむぅーい、眠すぎる。私にはついていけないほど内容濃い。 それでもなんとか、約3章弱分にまで目を通した。
ふと、『日本沈没』 と 成田美名子 マンガ 夜中、もしくは朝方に突然がばっと起きて申し訳ないんだけど。 情報理論の中田、とかが出てくる意図が、巨匠 (御大) の中でどうやってあるのか、今まで自分で読めてなかった気がして。 あれは D計画 という計画発足に、「人材」 を“かき集めてくる”、仕事の話でもあるから…… 巨匠が 「情報理論」 を 「物語」 に導入した、持ち込んだ 意図 ・ 意味合い がイマイチ理解できてなかった気がする。 「情報理論」小説として読むと、予報小説としても、『日本沈没』は意味合いが違ってくるような気がする。 ソフト小説 (ソフトウェア小説) 、あるいは いわゆる社会派小説 (社会科学段階SF、アジモフの発展段階説による)としても、 読めるんじゃないかと。 ハードSFがあるんなら、ソフトSFがあってもおかしくない、という気もするんだけど。 で、「人々が親近感を持って集まってきて、また別れて散らばっていく」、という点では、 成田美名子マンガ と似ている部分を 『日本沈没』 は持っているんじゃないかな−、と思いまして。 『みき&ユーティ』『あいつ』『エイリアン通り』『CIPHER』『アレクサンドライト』『ナチュラル』『花よりも花の如く』といった、 作品のなかばする テーマ に、仲間ヽ(・∀・)人(・∀・)人(・∀・)ノの離合集散 という隠れたテーマ(主題)が、いつも見え隠れする。 似てはいないか? (共通点はないか?) 情報理論導入の動機と、ある集団の形成・組織化と解体過程、の2つについての話でした。 漏れが理解が遅れてたんだろうけど orz 、『日本沈没』はまだまだ奥が深い。 orz
で、『日本沈没』を一体どれだけの人が、情報理論 やら 地学情報 やらをちゃんと押さえて理解して読めているのやら。 新作の映画を見ていて、旧作を見ていた人たちが言う、「国土を失う悲しみ」 とかそういった直接必ずしも描かれていない 比較的淡泊に進む 物語 の中に、深く描かれていない 哀惜 の念 を情報量としておもんばかる事ができるのやら。 読書ってのはさ、源氏物語でもそうだろうけど、想像力 (イマジネーション) だよね。 なんか 田所博士 のような言い方になって来たけど (汗) 、そういう所に気づく事が、イマジネーション と カン(勘) を 働かせる事ができることが、文学・文芸を読む上での大切な資質 (ライト・スタッフ) なのかも知れないですね。 orz ソフトウェア、読み下し の技術、ってのは、なかなか奥が深い。人文系の学問・学術・知識・技術をやる上で大切みたいです。 その人文系の科学をやる上で、小松左京さんの定義によると、「文学の科学」 という事で始まる 「一般文学論・本論」 を やりたい、なんていう自分の希望なんて、なんて大変なんだろう という思いが 深まって 来ました。 自分って『日本沈没』もちゃんと読めていなかったんだなぁ。イマジネーション力がカチンカチンのかっちかちやぞ、だったんだ。orz 柔軟でなかったんだ。 また小松文芸・文学を、そういう視点からも読んでみたい。 また、J.R.R.トールキンの文学との比較なんて事も、やってみたいですね。
スレッド<小松左京スレ 第6期> のレス 419 に役に立つ情報が載っている。
> SFマガジンで翻訳家として活躍していた文芸評論家、加藤弘一氏の若き日の小松論
>
ttp://www.horagai.com/www/sf/komatu1.htm >
ttp://www.horagai.com/www/sf/komatu2.htm でやっと気がついたんだけど、グーグルで 「小松左京論」 ←でググると↑これはイの一番で出るんだよね。
インターネットの使い方のまだ分からない事の悲劇。 orz
で、さすがに 「世界中の情報すべてを整理し尽くす」 ←という理念を持っている Google さん、
このスレまで、自分の書いたことで 10番目 以内に載ってきた事にびっくりした。(表示ですよ表示)
おいっ、この程度で 10番位 以内なのか!?いいのかそれで?小松研究!
あと自分は Jane Doe Style っていう 2ちゃんねる専用ブラウザ ←というのを使っているんだけど、
エクスプローラ や ファイヤーフォックス などの一般ブラウザ・ユーザーの事も意識して書かなければ
ならないのかも、と感じた事。
にしても、まさか Google で自分の文章目にするとは思わんかったです。
あー、心臓に悪い。 Orz
>>281 のためのメモ (再掲)
0. 未定数 (未数概念、数概念未然の ) 小松左京論 …… 試論 (序説なども) trial お試し版 (ベータ版) 雑記文形式 序編
1. 定数形式 (自然数以上の秩序) 小松左京論 …… 本論 (個別具体論) formal 正規版 (アルファ版?) 整文形式 本編
2. 変数形式 (定理、テオレマ段階) 小松左京論 …… 概論、汎論、一般論など trans,super-formal 一般化形式 応用編
今、小松左京研究に欠けているのは、たぶん 本論 (小松左京全体像・具体論) です。
「伝記」にか評伝になっちゃうかも知れないけど、これを今だれもが、読みたいと思っているのでは?
で、『自伝』は出ました。『SFへの遺言』も出ています。
どんな視点で、外部から、小松左京さんを描けるか───。それが期待される所なんですけれど。
『 地球が冷える 異常気象 』 やっと第五章までたどり着く。 「 5■地球物理から見た気象変化 」へ。レポーターは竹内均先生です。 でもこれはなかなか面白い話なのかも。 地球全体の事について、一体どうアプローチしたらいいものか、のシミュレーションになるかも知れない。
音楽、そして総合判断力・批判力という事のむつかしさ。 『 地球が冷える 異常気象 』 、やっと六章へ突入ですが。( 6■はたして氷河時代はくるのか ) 今日はちょっととどまって、となり近所のおじさんから勧められたCD聴いてます。 『 フォーク歌年鑑’75 』 (フォーク&ニューミュージック大全集13。日本クラウンのコンピレーションCDらし) なんだか、懐かしい歌でいっぱいです。 俺たちの旅(中村雅俊)、無縁坂(クレープ)、「青空、ひとりきり」(井上陽水)、「アザミ嬢のララバイ」(中島みゆき)… 全部で18曲。この年 ( 1975年 ) に発表されたものばかりなのでしょうか? 音楽といい、サブカルチャー (←この意味もよくわからない) 全般について詳しくないので、よくわからないのですが。 小松さん論をやる場合に、その同時代の大衆文化がどうであったか、という視点も大事かと思います。 そしたらダメだもんね、自分、同時代史 (自分の) すらも うまくやれない。 これで、音楽を自身でやってた 小松左京さん の 分厚い文化的・感化的土壌 にすら理解が及ぶわけが無い。 小松左京と音楽、という設定は、その来歴からとても重要なファクターになっていると思われる。 なんといっても、ヴァイオリンが上手に弾けるらしい、感性と技能の持ち主だもの、小松左京さんは。 小松左京には、果たして宮崎駿みたいに、制作(著述)過程にBGMを入れるような習慣はあるのか、という事すらわからない。 自分の生きていた範囲だけでもいいから、小松左京と同時代文化史との関係は押さえて置かなきゃならない。 その上で、小松左京は、その文化的位置を、時代の中に浮かび上がらせて出てくる。 それが一番出た(クロスオーヴァーした)のが、『 日本沈没 』 の時期なのでしょうが。 だれかポップカルチャーやポップミュージックと、小松左京とを関係づけて、論じてくれないかな。 富田勲さんとは関係があるんだよね、小松さんは。これは、むしろ現代音楽か? 小松さんのプロデュース・演出(富田さんのコンサート)が、一体その後の日本音楽にどのような影響を与えたか? これも追っておかなければならないテーマだなぁ。 また長くなって、申し訳ない。 orz
とりたてて、SFに こだわるのではなくて、ごく普通の体験や経験、知識や文化享受力でいいから、 それで 比較しながら 述べていける、小松左京論。 そんなものはできないかしらん。 大衆文化的なものの享受力 (消費力・受け止め力) でいいから、読める小松左京論。 そういうものを書こうとすると、結局 「 小松左京伝 」←みたいなものにならざるを得ないのかしらん。 手塚治虫さんは、昔読んだ偉人伝、みたいな伝記みたいなものの範疇に、もう入っていらっしゃる。 児童向けの伝記の形式でも、これは 小松左京論 とは言えなくて 「読み物」 なのかも知れないけど、 そんなものの レベル でいいのなら。 だれかは、書けるのかもしれない。 あなたなら、どう平易に、まとめますか?
ジェイムズ・マレー 小松さんの事を思うたびに、ふと、ひょっとしたらイメージしていたものの一つに。 『 オックスフォード英語大辞典 』 をまとめたという、スコットランド出身のこの人の事があるかも。 なんかよく知らないけど、大変な人みたいです。 もうずーっと随分昔に、伝記をナナメ読み・拾い読みした思い出があって。 小松さんを世界文学と比較した場合に、ひとつのヒントにはなる?? 片方は言語の基礎たる辞書の編纂事業、片方は日本でのSFの振興事業に関わった人物だけれども。 ほかにも どしどしふんどし で 世界中 にいろんな人物居るんだよなぁ。 orz 今日は top of the world でも掛けて、寝ちゃおうかな。 orz 比較する人物、いっぱい居るわぃ。
きのう今日じゃないけど、「 拝啓イワン・エフレーモフ様 」 ナナメ読みで読了。 すぐにではないけど、それから “精読” が必要。 そんな無限ではないだろうけど、これから読まなきゃならない 小松文献 は一体どの位あるのやら。 ショボーン
芥川龍之介 「羅生門」 人文科学の分野ってのにも、着実に変化している兆(きざ)しってのがあって。 例えば自分たちの時代の 高校・現代国語 って呼ばれてた時代には 「エゴイズム」 というのを この芥川作品について、解釈で教わった覚えがあるんだけど。 これは 吉田精一 さんだったかしら、文芸評論家で 吉田茂宰相 (総理大臣・首相) のご子息で、 小松左京さんを評価した事のある人のご意見だったらしいんだけど、そんなの過去は学んでました。 ところで時代は変わって、つい10年ほど昔の事なんだけど、国語研究会なる、地元の高等学校の 国語科の先生たちが集まって授業を研究してる小サークルになぜか紛れ込んだ事があって。 でうっかり、次回のレポートなるものを頼まれて、受けまして、その道の素人ながら研究資料作りを してみた事があったのです、が。 早川論文だったかなぁ (記憶あいまい)、最近だと、この作品(「羅生門」)の解釈に、「エゴイズム」 なんて言葉は入れないみたいなんですね。でどーだったかというと、こんどは、「人間性の解放のおたけび」←。 主人公は、毛抜き老婆に対して、うんぬんが…、そんな事、書いてた論文を、地元の県立図書館で 発見いたしました。 それにしても、高等学校・国語科教材 として、この芥川作品「羅生門」研究や芥川研究は非常に数多い。orz 高等学校で、国語教材 と言えば、まずこの 「羅生門」 と、中島敦の 「山月記」 の2つが出てくる。 現在では、国語T、国語U、現代文、古文、などの分類から、初期には 「国語総合」 になってる高校・国語科ですが。 国語?、文学研究にも、いま、か最近か、こんだけの変化がダイナミクスとして起こってあるんだよね。 小松左京研究にも、SF研究や日本SF研究にも、そんだけのダイナミズムがあっても、いいんでないかい? とそういう体験から、考えてみる私でした。 先生の老人性鬱よりも、こっちの鬱の方もなおしておかないと──。
で最近のSFマガジンも私は読めていなくっって。 こっちもなー、地元の図書館のでも目を通せるんだから、ちとは現在SFにも目を向けないとな。 ポチッとな。w いつぞやのSFマガジン500号記念号だっけ?、読者の選ぶSF作品のベストテン投稿者がたったの200名足らず であったので全員の名簿を記念に掲載してあって。 そこに自分の名前まであるのでのけぞった事がある。 orz ダメジャン 日本のSFファンって、一体どのくらい居るのだろうか? というか、読者を獲得してるSF作品・ジャンルのものって、一体どのくらいの規模(読者層)なのかしらん。 そこのデータは、SFマガジン発行部数でもちょっとはわかるか? ジュブナイル的な内容(児童向け編集)のものも多いんだろうなぁ。あとラノベと、本格SF作品? 変格SFものでもいいけど、SFアドベンチャーの経験からすると、あんまり読者獲得しそうもない気もする。 SF供給ライターの絶対数の不足が、こんにちのSFマガジンだけ生き延びを招いたわけでしょう? 奇想天外 とか SF宝石 とか、その他もつぶれて…。 面白いSF作品って、作るの、むつかしい気がする。どっかブレイクスルーは無いかなぁ。 それを発見したのが、アメリカのサイバーパンク (サイバーオペラ) だったりするんじゃないかと思うのですが。 日本自前で、考えないと。 よくよく、かんべむさし さんの SF論 が完成しなかったのが、悔やまれる。 マンガ界ほどの出版の厚み・広がりは無いとしても、せめては垂直に深く深く個々の作品を深く味わえる評論(解釈学?)は 成り立たないかしらん。 ぜひぜひ、どなたかエスコートして、くださいまし。 で、自分で作る羽目になっとる。 orz ナンナンダ
繰り返し書くけど。 1.)小松左京版・一般文学論 2,)筒井康隆版・SF百科事典 3.)かんべむさし版・SF論 の3つが、日本には必要なんです。という思いが、強くって。 「 SF百科事典 」 もしくは 「 日本SF百科事典 」 が制作される・編纂されるという事は、 一国のSF文化の程度を決める、決定づける、その程度(SF文化)を深めるのに決定的な役割を果たす、 その指標になる、という印象が強い。 SF論しかり、で、これが完成されたあかつきには(そんなの来ないかも知れないけど)、 小説・文学・文芸形式に限らず、たとえばSFマンガや映画についても、将来書き手が書き易くなるんではあるまいか。 SFジャンルのメディア全体にわたって、また 「日本文化全体の振興」 ←というテーマからも、 『 日本SF百科事典(仮称) 』 は作って、創作して、著述して、編纂して置かなければならないのではないのか? その編纂能力によって、一国の、あるいは1文化圏の、あるいは日本の SF文化 のメルクマール となる気がするのです。 ただ、どんなものを上梓すればいいのか、というテーマが、まだわからない。 これは、「 編纂方針 」 ←という形になって、出てくるのだと思います。 アイディア (着想) は、かなりユニークなものでなくてはならない。 ヒントは、作家(諸メディア)の 参考書・参掲・参照ができるもの、です。 でもまだ、あまりまとめないでおきましょうね。
今日も色んなものを買ったり、図書館から借り出して来て、ぺらぺらめくってみました。 小松左京関係・SF関係 でなくても、その数現在7冊、全ページめくり飛ばし読み。 そしたら、『 SF入門 』 (日本SF作家クラブ編。早川書房 2001年12月31日発行) に 「 SFサブジャンル百科事典 」 ←という項目があった。あらら。 サイズ小さくても、少なくとも 「 百科事典 」 と名の付くものはあるじゃん。 orz 動機はどうあれ、いろんな無知をさらしておりまする。 orz 自前のノートは、作り続けるけどね。 <小松左京スレ 第6期>の方ではなんだか活発な話が行われているようで。 それでこちらも、まだ借りてる 『日本SF論争史』の 野阿梓 さんの箇所にちらりと目を回してみました。 でもうひとつ。自分もこんなのこんな場所に書くのは、やっぱり新種の 「荒らし行為」なのかもなぁ。 「荒らし」と「荒らしでない」の違いがいまひとつわからない。 あ、そーだ。2ちゃんねるには、通常ブラウザからだと 使い方 のルールブックみたいなものが見えるんだっけ。 また見直してこよう。 SF関係の本も読み直さないといけないものが多くって。こんなんで 小松左京論 にたどり着くことが出来るんでしょうか。 不安じゃ不安じゃ。
『 時の旅人 H・G・ウエルズの生涯 』 THE TIME TRAVELLER 早川書房 昭和53年10月31日初版発行 1978年? 小松さんとの比較がしたくって、こんな本も県立図書館さんの奥の倉から取り出させていただきました。 実はこれ、今から30年ほど前に読むの挫折した本なんです。700ページ近くもある分厚いものなの。 当時、地元のタウン誌に、司政官シリーズの同じく分厚い本とこれを積んで、写真に載ってしまった事あったなぁ。 どっちも結局読めてない。 orz ザセツ あの時四度ヾ(*´∀`*)ノキャッキャ、ちがう読んどきゃ、今頃こんな苦労はしなかったものを…。
『 地球が冷える 異常気象 』 あともう少し。 内容はなかなかきびしいものがある。オレ頭がついていけん。orz ハード。 非常に膨大なテーマで、それをよく読み下し (ソフトウェア) できない。しばらく脳内冷やす。 これが 日本沈没第二部 の予備研究として、例えば 谷甲州共同著作版 『日本沈没 第二部』 などと どう関連しているかというと、地球が寒冷化する事と、塩害の描写がある事かしらん。 現実の 『日本沈没 第二部』は良く言ってかなりスマート、悪く言ってもかなりスマートな感じに仕上がってる気がする。 期待してた人は、これは(第二部は)もっと世界全体にわたっての流浪した日本人の姿が描かれる気がしてたんだろうな。 例えば。 次、5冊目には 『学問の世界 碩学に聞く──』下巻 (上巻は図書館に保管が無し) に移る予定です。
日本SF作家クラブがあっても、日本 「 SF研究学会 」 が無いこと。 なぁんとなぁく、この分野で マンガ界 にも遅れを取ってしまったと感じているのは、 ひょっとして、マンガ学会 ならぬ SF学会 が現在に至るまでも成立がしていない事。 いままでいろいろな頓挫をしてきた SFとは何か? ついて、どこかで “親睦団体としての” 日本SF作家クラブ だけじゃなくて、 研究団体としての SF学会 もしくは 「日本SF学会 (仮称)」 ←は必要じゃないのかしらん。 そしたら、SF研究の振興が図れるんじゃないかと。 こんな事言ってて(書いてて)、結局 それは有る! なぁんて事になる破目になるのがオチなんでしょうけど。orz 組織や、必ずしも 形式張ったもの があれば 研究が進む というものでも無いだろうからなぁ。 研究に必要なものってなんだろ。リサーチ? 資料整備が必要な事は言うまでもないだろうけど。という事はデータベース、SF図書館みたいなものも必要になってくるだろうな。 小松SFについても、全冊、博物館的資料も含めて、集めておく必要がある。 それを現在では、個々の人々のあいだで、手持ちの形でやっている。 小松左京論 だけでなしに、日本SF論研究 のため、文化振興の点でも、それは必要になってくるだろうか? SF博物館と、研究員としてのそこの学芸員の組織化、といったものも必要となってくるだろうか。 NPO SF博物館・資料館・図書館 とかの設立、資料、学芸員組織、利用者・リピーターの確保、なんてのは… 大学で 博物館関連6単位 (『博物館概論』『博物館資料論』『博物館経営・情報論』) やったんだけど、 うまく活用できてない。 orz
NPO SF博物館・資料館・図書館 の設立。 図書館と言えば、高知県高知市で、全国でも珍しい NPOこども図書館 の例があるそうなんだけど。 こんなのは、夢の夢だろうな。 ここで 一般文学論、百科事典編纂、SF論 もやってしまうか。(学芸員になっちまう。スペシャリストだぜ) 夢の夢だけど。夢想や空想するのは悪くない。 さて集客の方法論は、設立の資金はどこから持ってくるか(確保)、図書館資料の発足については、 管理は、検索は、博物館資料の保存は、、まるでファウンデーションだなぁ。 いろいろと 思考実験 を重ねて、考えとく、妄想しとくのも悪くない。 楽しい。 いっひっひ、まだちゃんと読めてないんだけど(銀河帝国興亡史)、実際の ファウンデーション の設立に、 博物館学も具体的にちゃんと役に立つんですね。 偶然ながら、驚き。 SF研究家で、学芸員の方、いらっしゃるかなぁ?
『 地球が冷える 異常気象 』 やっと読了。 あんまり 壮大なテーマ なので、レスポンスのしようが無し。 現在では 地球温暖化 の方が1980年代半ばから中心テーマになっちゃってるけど、 長期で見て、地球温暖化 が 地球寒冷化 や 氷河期 に至る道筋である可能性もあるんだっけ? 『日本沈没』で日本国民の災厄を描きながら、次には 地球環境問題 に対するテーマが出るこの話。 もう一回読み返したいよ('A`)。この書物。 ひょっとしたらこの話、地球全体の「日本沈没」を描けた話だったのかも知れない。 その中で日本人がやれる事というのも。災害SFですね。 次、『学問の世界・下』講談社現代新書 に移ります。 そのあと6冊目として 『 地球社会学の構想 文明の明日を考える── 』 PHP研究所 昭和54年 1979年?に移ります。
── ←これどう読むんですか? 小松左京文章によく現れるこれ ── ←(直線スラッシュ?、バー?)。 これは、一体どういう意味に見えるんでしょう? 小松さんは大抵、──文章、という風に、文の最初に持ってくる。 あと比較的少なく文の真ん中に、──文章──、という風に、サンドイッチにする場合もある。 自分なら、文章── 、←という風に、文面の最後に用いる場合が多い。 なんか文面起こすのに、一瞬のためらいの息が ── には入っているのかなぁ。とも考える。 あるいは 文章 を起こすためのジャッキ? 小松文面の ── は、もちろん …… 等と比較してもいいけど、やっぱりちょっと考えて押さえておきたい所。 小松左京 文体論 ←なんてのも、是非とも必要なんですね。解読のためには。? 用い方の解析。
>>369 ダッシュ
ダッシュについては、世界SF全集の小松左京篇の石川喬司の解説もおすすめ
JA文庫の「果しなき〜」の解説は上記の改訂版
>>370 サンクス。助かったぁ−。長年読み間違えていた事がわかってホッとした。orz
高等学校一年で、芥川龍之介も確か ── とか / などを多用してた記憶があるんで (「羅生門」ですな)、
その時に確か教えてもらったような記憶もあるんだけど、すっかり忘れてた。
石川喬司さんの解説も、なんとか探してみて読んでみるわ。ありがとう。
ええと、ダッシュ、ダッシュ、ダッシュ、と。(記憶法)
変換したら ダッシュ = ― でも出るね。 orz
小松文体のなぞ。 石川喬司版解説も読まんで、先走りもやっちゃいますが。 自分で独自の解読もやって置かなければならない。 確か(記憶あいまい だけれども)自分の知ってる範囲では、芥川龍之介がやたらと記号を用いる文体を 使うのだった。(違ってたらごめん) 小松文体みたいに (この 「文体」 ←という言葉がイマイチ自分には意味がわからなかったりするけど)、 この ── (ダッシュ) やら …… 、``` といった強調点、「」 といったカギ括弧 、それと 野坂昭如さんみたいに、 やたらと 読点 (、) を用いる文体、などと比較してみる必要はあるのかなぁ、と。 / (たぶん スラッシュ。斜線/) も含めて、こういった “記号群” を用いる・あやつる作家は、 かなり精密な書き方をする作家さんたち 、のような気がするけど、気のせいなんだろうか。 石川啄木 の 三行分け短歌 の事もふと思い出し。 日本精密文体史・工夫史 ←みたいなものも構想し。 いったい 小松左京文体 の成立の起源はどこにあるのか、という事を問い直し。 強調点```の発生については、『小松左京自伝』 のインタビューの方で、確かその発生の起源は、「ラジオ」台本を やっていた事が発生起源なんじゃないか?、みたいな事言ってらしたような気がするし。 まずはSF作品としては、一番古い 「地には平和を」 や 『日本アパッチ族』 を見ておく必要があるかなぁ。 でもこの時でも、小松文体は大体完成をしていたような気がする。 もっと遡って 「小松文体の発生のなぞ」 を解き明かすにはどうするか。 それには、もっとも古い小松文献を当たってみるより、しようがないか。
宮尾登美子先生が確か言ってたんだけど。 作家 というのは地道なお仕事で、自分の身近に常に辞書とかを置いといて 間違いがないか 索引(確認)し続けないんといけないだ、とおっしゃってたような気がす。 それは本当なんだろうねー。 私なんかまだまだ うろ覚え ←に頼ってる所があって、これは いけない ルージュマージック な事なんだろうな。orz 「暗記」 の問題・課題もある。 まだ、小松左京・年譜 も暗記していない。orz 暗誦(あんしょう) が必ずしも必要なばかりではないけれども、一方では一度二度ではなく、 何度でも 文献 に挑戦し、“読み数をこなす” という事も 必要なこと なんでしょう。 あきらめずに(挑戦し)続ける。限界を見ないで繰り返し続ける。 それが 「研究」 には、必要な体制(体勢)なんだろうね。 それと 小松文献 (小松作品) から自分たちが受け取った 内容 なり 影響 なり 作用 なり、っていうのには、 どういうものがあるのか、という事も考えとかなきゃならない。 小松SFの影響とは、なんなのか? ならべて、ならべて、一体どんな影響があったのか。 むしろ 読み足りない から、今頃こんな事をやっているのか? 読み足りないから、むしろ 作者の込められたメッセージ を読み解きたいから、今頃こんな事やっているんだろうね。 小松さん(小松左京さん) という人物と、小松作品というものをより深く知りたい、読み解きたいから、今、 こんな事をやっているのだろうと思うのです。 じゃ、どうしたらいいんだろ?
読まなきゃいかにゃーだで。結局。 orz 読むしかなーい。結局。orz それは苦痛ではないんだけど。 もう一回最初にもどってみよう。 いつだって、それさえ (ホームベース) あれば、道に迷うなんて事は無いはず。 論とは、体系立った疑問のことであり、かつまたそれに答える試み、の2つの事である。 とするならば、「まずは体系立った疑問」 を立てないと、どうしようも無いな。 あれ?、自分の放送大学教科書 『現象学の基礎』 の書き込みによると、 論とは、系統だった問いかけであり、かつそれへの解答の試みのことである。 になってる。これが自分の原本かぁ。 「体系立った問いかけ」 を作らないと、「体系立ったそれへの解答の試み」 なんてものは成立しないわなぁ。 小松左京に対する体系立った問いかけ 若しくは 疑問 とは、めんどくさいんで簡単にすると 疑問と解答 とは、 小松左京とは何者で、いったい何であるか、に尽きる。 小松さんが何者であるかを問うことで、自然に疑問が持ち上がり、体系化され、系統立ち、それへの解答が 決まってくるはず。 小松さんとはSF作家である、とは簡単に結論づけない。もしくは 問いかけない。 むしろ、それを新しい切り口で築く。 そこに新しい小松像、小松左京さん像 が成り立つはず。 小松左京とはなにものか? これに新しい切り口を見つける事が、すなわち 新しい小松論 につながっている。 問いかけが、小松論を決定する。 問いかける力が、小松左京論 を、決定付けるのだー!
迷子とコンパス。 迷子の迷子の子猫ちゃん、あなたのおうちはどこですか?♪ まぁ一回は 「迷子」 にならないと 新しい切り口なんぞは見つかんないのかも知れない。 そしてもって、「新しいコンパス (方向磁器、方位磁石)」 をそこに見つける事が無いと、 新しい小松論なんて、見えてこない。 寺田寅彦が言う。 「科学者は頭が良くなくてはならない。また、頭が悪くなくてはならない。」みたいな事を。 頭が良くなくてはならない事は、理解が出来なくてはならないという事だけれども、 頭が悪くなくてはならないという事は、「疑問を持つ力」を抱けなければならない、という事を意味する。 あたま悪いほど疑問を持つ。わからない、と。ウェーゲナーしかり、なのかも知れないけど。 迷い道くねくね〜 ♪ なのかも知れないけど、まぁそれほどまでに 迷わなくても。 迷えるというのは、たぶん大切なのだね。資質、というか、ひょっとしたら ライトスタッフ というのか。 そういう意味でも、かんべ版解説 というのは好きです。 迷った挙げ句に、こんなもんか?、としているからです。
『学問の世界 碩学に聞く──(下)』 疲れて涙目になりながら読み続ける。 疲れて、途中で小松さんの短編を あいだごなし に読みながら、1番目の江上波夫先生(考古学)から、 2番目の東畑精一先生(農学)へと移る。 旧制のナンバースクール(中学・高校)の話や、哲学の話に及んで、ちょっと面白くなりかける。 BGMにNHK教育の囲碁の時間。
部屋が暑いよー。 本は3番目 松本重治先生(法学やジャーナリズムみたい?)に入る。 BGMは なぜか急に 谷山浩子さんの「河のほとりに」 に。 近所の50代後半の方が思い出深い歌だという事なので、あとで帰宅すればお貸しするつもり。 あ、そのおじさん来たわ。 続けて読書を続けます。こうしていくうちに 小松左京さんの事がいろいろわかっていくかしら??
>>372 独自解読をおもしろくみさせてもらいました。
深い洞察でうなりました。
ラジオ起源と言われてるがそれも1つだと思うが
落語などにも造詣が深く、 音の感覚 に優れた作家だと思う。
タイプこそ違えども
音のみでいうと、やや筒井康隆に近いのかと思う。
イメージで書くが
「関西人は、音の微妙な感覚を表現できる」
これもあるのかもしれない。
――や、、、などの記号を駆使した文体は、見やすい利点があり
声に出しやすくテンポが生まれやすいと思うのも計算に入れたか
それともそういう境遇に、置かれた、あるいはそういう(```)ので既存のと区別を行ったのかもしれなせん、
あつい
>>378 くっくっく、そっちもあついですか (笑い) こっちも扇風機回しっぱなしです。
それにしても、こちらもそちらの解釈にうなりました。
関西系の人は、「音曲(おんぎょく)もの」 のリズムとかが身に付いているのでしょうか?
私には、知識や体験、比較するものが内にまだ無いもので、なんとも言えないのですが。
そう言えばです!
小松左京さんのヴァイオリン、筒井康隆さんも熱心に楽器をなさるなど、このお二方には
その点で共通するもの、共通項 がお有りですね!
それと 文体解析 の上でまだやってない事がまだひとつ。
別宮貞徳 (べっく・さだのり。漢字合っているかわからず) さんに 講談社現代新書 で、日本語は
4拍子リズム、英語などは3拍子リズムといった 確か 『日本語のリズム』 という ご著書がございますが、
小松左京さんの文体、また筒井康隆さんの文体で、(文章を単語などに) 区切って、その “リズム”を
調べていないのです。
これも適用してやってみると、面白い発見があるかもしれませんね。(微笑)
私が個人的に思いますに、──、……、```、「」、それに句読点(。、)など、私ならそれにさらに
“ ” ←などのもっとたくさんの種類の括弧類を使うと、表現者としては多様な表現が出来て、
とても便利に思います。
それを 伝える 伝達者が抑えて使え・用いる 事ができれば、読者には複雑な交信が伝わるような気がするのです。
この法則 (解釈・文法) が読み解けると、小松左京さんの文体 は、さらに読みやすく理論立って読み解けるようになるのではないでしょうか?
と愚考いたします。うふふ。
あと 章分け とか、文章のあいだの一行の切れ目の入れ方、段落分け や 数字の付け方、 といった 問題・話題 もあります。「物体O」には二行の空白を入れてある部分もありました。 ↑空白、といった成文の読み取りも大切かも知れませんね。 それはきっと、小松文体、というか 文脈 のリズム作りに役立っているはずです。 もいっちょ。ご友人の 高橋和巳 さんの影響でか、さだまさし の先駆というのか、 漢字の文字・単語・長句に、カタカナで小さく英語などの 「ルビ」 をふる、というクセもありました。 ↑ これについては、集英社文庫 『 小松左京のSFセミナー 』 に聞き書き部分でお話が出てきます。 手塚治虫さんの 副題に英語の文字を貼る みたいな影響があるのかも知れません。 なにしろ、ご自身は漫画家ではなかったにしろ、マンガを随分と書かれていたり、手塚マンガの追っかけを なされていたりした時代もあられたのですから。 とすると、近年のマンガ学で 「間拍 」 だっけ?、という コマとコマのあいだの空白 の文法を、 モリ・ミノル 名義マンガでどう扱われていたか、という事も、小学館復刻版 で確かめる必要があるかも知れません。 マンガのコマづかい の要領ですね。これができたはず。「わかっていらした」 はずです。 マンガの文法 については、「カリオストロの城」 のあとで失職して、映画化したいものをマンガにして連載してみたら? という 当時の鈴木 (のちのジブリ・プロデューサー) 編集長から言われて 『 風の谷のナウシカ 』 を連載し始めた頃の 宮崎駿 さんが、「マンガの文法がまだイマイチわからないんです」 ←みたいな事をおっしゃってた時期がおありになりました。 文学の古文献 (失礼。諸文献j) をあさるばかりでなく、こういう 副視点 も持っておいた方がいいかも知れません。 つまりは、音楽 と マンガ の要件です。息づかい、とも。他にも 映画… など、調べていく要素はいずれあるでしょう。 またもちろん重要には、左京さんのイタリア語、英語に至る文献の原典や、翻訳文学を見ていく必要はあります。
落語〜♪
ででんでん、えー願いましては、1つばかばかしい話を。
なんつって。落語は僕の大きな弱点でーす。
あぁコマた。 orz
落語は日本SF作家たちにとって、とっても共通の教養になりました。
>>378 さん、これは私にとって大変な弱点なんですよ。
私は個人的には 旧・月の家円鏡師匠 (現・橘家圓蔵師匠だっけ?) の落語が好きなんですけれども、
師匠の落語の風体もアレですから (爆笑) 、私は落語のことをよく知らんのですよ。
最近では、タイガー・アンド・ドラゴン (TBS)
笑福亭鶴瓶のスジナシ (中部日本放送、CBC?)
ちりとてちん (NHK総合、朝の連続テレビ小説)
なんてので、やっとおぎなってるくらいです。
ええ、もちろん、蒼井優ちゃんや鶴瓶師匠、貫地谷しほり 等は好きです。(笑い)
落語の教養がないと、『首都消失』で主人公の地方新聞記者に若い頃ぼこんぼこんに論駁された某映画担当記者みたいに、
されそうで、(つまり小松氏に) とっても僕こわいのぉ〜♪ (ボカスカにやられそう ましてや筒井さんなら…あわわ orz )
日本SF論やりたかったら、日本SFこてん古典はもちろん、落語の知見・知識はとっても必要でしょうな。(´・ω・`)ショボーン
こわすぎちゃってー、こ・まぁ・る・の・ぉー♪
>>382 サンキュー!とっても貴重な文献ありがとう。
そうか…御大、こんな風に少年時代から落語に触れていたんだ。
…にしてもマスメディア (この場合は時代の最先端のラジオ) って、こんだけのちのちにまで影響をもたらすのね。
20年ほどのちに、ラジオ投稿者が、大蔵省かのエリートとかになっていたりするなんて…
インターネットも、ぼちぼち、おちおちしてられないなぁ。
今、インターネットは急進の勢いにあるとしても、実はもう新しいライバルやメディアが、すでに台頭し始めていたりなんかして。w?
ラジオとか音楽とかって、受験勉強とかには向いてそうな メディアなのかも知れない。
その点、視覚を奪われるテレビや、手作業を奪われるインターネットよりも。
いろんな諸活動における、 「 メディアの棲み分け論 」 (今西理論かいな) みたいな事も考えてみないといけないのかなぁ。
大学で 『メディア論 』 取ったけど、そこまで考えた事無いわ。
、
記念パピコ 野辺へ出てまいりますと、春先のことで 空には雲雀がピーチクパーチクさえずって 下はレンゲ、タンポポの花盛り 陽炎がこうもえ立ちまして 遠山にはすーっと霞の帯を引いたよう 麦が青々と伸びて、菜種の花が彩っていようかという本陽気 やかましゅ〜言うてやってまいります その道中の陽〜気なこと! NHK総合実況版 「ちりとてちん」 より、落語「愛宕山」の一節をもらってきて、記録しておきます。
解析の方法と、そのままの総合を受け取るマズローの方法と。
落語についてウィキペディアで調べていたら、もの凄い分量なので恐れをなし。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%BD%E8%AA%9E だんだんと、しばらくはコツコツとやっていくしかないですね。
別の話。
私は高等学校中退組でして、昔高校でやっていたのは 倫理社会 でした。
で大検(大学入学資格検定、の略だったっけ?)の経験も18年ほどでやっとし、
それでは 高校の卒業をした資格 にはなりませんでしたので、
大検でいいじゃん、という人もいるけど、通信制高校に入ってみました。
それで 倫理 っていうのが現在の相当科目なのですが、そこで
E.H.エリクソン も アブラハム・マズロー も、笠原嘉(かさはら よみし)も出てくる事に驚いた!
みんな 精神分析 や 自己実現の心理学 や 精神医学 の方なんですけど、
滅入ったね−、自分一人で格闘してて 覚え込んだ知識っていったい何なんだ? てなくらい
驚いた。 (最近 高校で 「情報 A、B、C 」 が入り込んでるようなものです)
でつい、今まで 小松左京氏 について、文体だのと分析・あるいは解析的な方法ばかり述べてきたけど、
マズローの心理学 (自己実現の心理学) みたいに、人間をそのものを動機的にか、総合的に見る
眺め方、もあってもいいかと思います。ええと、大きく分けると 五段階 の心理発展をするんでしたっけ。?
解析や分析ばかりをやっていると、細かな点ばかりに目が行って、本当におのれが捉えたい、そのものの、
「 対象の全体像 」 ←を見失う事になりかねない、危険性はある。
当時放送大学の学長先生が、元東京大学総長の 吉川弘之先生 で、吉川先生の著書にはマズローの
引用が出てくることでも、影響があるのだけどさ。(吉川先生の 「一般設計学」 ←というのはとっても面白いです。)
吉川弘之先生には、サインもらった事があって、「学問をする楽しさを知ってください」だっけ、頂いた事ある。
それも原点に、「もしできれば」、小松研究というのはやっていければいいのではないかしら?
なお、吉川先生は理系です。ウィキに名前は載っているのかな? 本当にかっこいい先生です。
マズロー
マズローの心理学?の考え方、というのは、それまでの フロイト系 の精神分析のようだったりする、
精神や心理に病いを持つ人々のその病的な部分に焦点を当てて研究するのではなく、
行動主義心理学のように、するのではなく ( 『アルジャーノンに花束を』 ですわな )、
歴史上偉大な実現をしたりした人物の方のこそ研究をしてみるべきだ、という考え方みたいです。
自分の最初のイメージも忘れずに、小松左京研究に打ち込むのも、ひとつの方法ではないでしょうか?
また先には書いておいたように、無定義述語・無定義用語 として扱って、自然に見えてくる文脈上から、
小松左京さんの事を なにものであるのか? という 系統だった疑問 に対して、
解答を試みていく 方法もあるかとは思います。
その場合には、全体の、総合の 「 文脈 」 を、見つけなければ、発見できなければ、どうしようもない、
と言えます。
SFをなんらかの動機の歴史、として見るのも一つの方法論になるかも知れません。
そうして、日本のSF作家たちは、自己実現をしていったのだと、星さんや筒井さん、小松さんなどについても、
考えを及ぼしていく、その活動に原点を見る、という動機はあってもよいかとは思います。
でょっとエラソーに書いてしまってすみません。 orz ヒントはできるだけ多い方がよいので。
そんな事をいったら、マズイロー、とか、言っちゃったりして。(#^_^#;)
マズロー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%BA%E3%83%AD%E3%83%BC
『 学問の世界 碩学に聞く── (下) 』 読了。 4人目の中山伊知郎先生(経済学)を読了。 わかっているようで、何もわかっていないかも。やたらと皆先生方、留学の話が出てくる。 ケインズとかは(名前は)わかっても、シュンペーターとか名前は聞いた事あるけど、わからない人も多いよ。orz アカデミズムの幅は広いんだなぁ。 これでようやっと、対談話の著作を抜けて、次は自著の 6冊目 『 地球社会学の構想 』 に入る。 私事ながら、風呂入ってきます。
読みたい小松論とは もう一回、小松作品を読んでみたい、と思わせるだけの内容を持ったものです。 いまやっと、野阿梓 「 ジャパネスクSF試論 」 読んでみてます。
てか、SF全体をまた読み直してみたい、と思わせる論かなぁ。
「 ジャパネスクSF試論 」 読了。 ・ ・ うーん、どうやったら 「 ジャパネスクSF本論 」 が書けるのかわからない。 天皇制についても、どう感想を書けばいいのか…、「 天皇制 」 というのも、ひとつのテーマなのかな? 日本に 共和党 とか 共和主義 というのがあんまり無い、というのも、考えてみるべきテーマ (主題) なのかも知れない。
セマンティック (意味論的?) なんか 音韻論 的な事を先に書いてしまったから、今度は忘れていた 意味論 的なものを重視せねばならない。 小松文体の使われている 記号 や 用語、リズム 等 に着目するのではなく、その 「書かれている内容」 に むしろ眼を据えなければならない。 こやってこないと、小松作品の醍醐味 はむしろ味わえないだろうなぁ。 そういう セマンティック (意味論的?だと思うけど) な意味内容の枠組みの中で、とくに 括弧付き 「」 のワードが とっても面白く効いて来る。んだとおもふ。あと 傍点 部分や、漢字語句のカタカナ振り仮名(ルビ) 部分が。 具体例を挙げないと、これはいけないよね。 つーて、“論じたいが、読んでみて読みやすくて、楽しいもの” でなければ、「 意味がない 」 んだろうなぁ……。
ショック。『新明解 国語事典』 第五版 が使えない。 『 地球社会学の構想 』 に入りましたぁ。 ところで、出てきた、基礎的な用語である トリビアル とか ルサンチマン といった言葉を調べようとしても、 持っている 新明解国語事典 ← にこれらが載っていない! だめだこりゃ。( いかりや長介 さんじゃないけど ; ) 国語辞書新たに買って来なきゃだめー。orz せめては新版の 『 広辞苑 』 第六版 にするべきなんだろうか? 使える辞書って何?どれ? 覚えでは、集英社のは使いやすいんだよなぁ。英単語も、行書、草書ものっていたりする 実用辞典。 広辞苑 も、言語学を 音韻論(音素論)、意味論、構文論 の3つに代表するような書き方がなされていた。 辞書が要る。不可欠だ。 orz
無知がごろごろ。知見が狭い。了見もせまい。 orz せめてウィキペディアでいろんな人をおさらいしないといけないなーと思う。 さっき、かんべむさし さんと 堀晃 さんと 吉里吉里人(日本SF大賞) とか エヴァンゲリオン とか いろいろ見てきたけど、 ネットに触れる装置を持っていながら、機会も機械も持っていながら、なんと知らない事のおーい事ですか。 orz さらに、外部リンクで 豊田有恒 先生のホームページへと、ウィキ経由で飛んできた。 もちろん 本 は読まなきゃならん。辞書も要る。 orz ※ でもとりあえずは、「 やれる所から 」 ←やっていくしかないのだろ。その範囲でさえも、やり残している事多いわけだし。 検索でのリサーチの仕方、も もう一度学び直そう。
>>394 ありがとぉぉぉ!おかげで助かったぁぁ。(涙目)
トリビアル も ルサンチマン も正確に引けたよう。(`・ω・´)シャキーン
そういえばそうだね。古い版の方が、古い本にはもってこいかも。
古本屋で調べてみます。
小松的エッセイの魅力 うむ、うふふふふ、『 地球茶会学の構想 文明の明日を考える── 』 読んでてなかなか面白くなってきた。 小松左京さんって、小説家といった(SF作家) 面もあるけど、どうして エッセイスト としての面があんまり強調されないんだろ。 『 ゴエモンのニッポン日記 』 『 はみだし生物学 』 …… どれをとっても、第一級品の爆笑のエッセイ集ですよ。(笑) 「 ニッポン国解散論 」 なんて、ヤーメタヤーメタ、のシーンで大爆笑する。w 小松さんの魅力を語る上で、エッセイスト の面は、はずせないですよ。きっと。 そして、そのエッセイストの面で 「」 括弧などの、特殊で独特な文体が特に生き生きとしてきます。 これが モノローグ・小松エッセイ の面白いところなんだなぁ。 もちろん読者とはダイアローグしてる、モノローグなんだけれども。
小松左京論・付論 エッセイ論 小松左京論・本論 でこれはやるべきなのかも知れないけど。 あるいは 特論 として、小松左京エッセイ論 はやるべきなのかも知れないなぁ。 これはとても小松左京さんらしさがあふれてる分野で、小説だけで追っていたら人物・ご人格を誤解するんじゃないかしらん。 やっぱ本論 (小松左京論 ) でもこれは触れましょう。きっと。間違いなくこれは小松左京さんに触れる事になる。 ええと7冊目には 『 空中都市008 』 、8冊目には 『ボルガ大紀行 』 になる予定です。
ど・ん・な 小松左京論 が読みたいか? これもそろそろ 原案 くらいは固めておかないといけない テーマ です。 この デマンド っつーか、要望が自分の中に無いと、創れないんだからね。 雑記文形式 は、もはや 雑気分形式 になりつつあるし (笑)、 整文形式 (完成版。アルファー版) への道のりはあまりにも遠し。せめては衣服をちゃんと着て、気ままなる旅へ…… それは、萩原朔太郎 の詩かい。? 一般論(一般化形式) や もっと 一般文学論 なんてもっと道のりは遠いだろうしなぁ。せめては着物を仕立てて気ままなる旅へ…… また 萩原朔太郎 かい。 朔太郎 と 親友 室生犀星 との出会いの話はあまりにも面白い話なんだけれども、 SF作家さんたちの出会っていく過程というのも面白いものなんだろうな。? isshu no ryo-zan-paku kana ? 話がずれた。orz 自分、もしくは 自分たち の 内なる希望のデマンドたる 小松左京論 とはどんなものであるか? それは抱いておかなければなるまい事なのです。
小松論のポイントの1つ。 知ることができる事 と 知ることができない事 とを分けて(分類して) おいて、それにどう対処するべきかということ。 iいずれにしても、いくら調べても、わかる事ができる事と、わからないままになるだろう事が、2つ出てきます。 これらにどう対処するべきか、方略 (戦略、ストラテジー) を決めておく必要があるのです。 1)、わかる事、追求する事ができる事を、どこまでも追求して・洗っていって、その 「 今までわからなかった事を明らかにする 」 こと。 2)、「 いくら調べてもわかない事に、推論を加える 」 こと。 こうやって、どちらを選ぶかによっても、戦術 (タクティクス) が決まってくるのでしょう。 一般には、研究には、アクシオム(原理、公理、公準、等) と 方法論 (メソドロジー ) と 方法 (メソッド?) の 3つの段階がある と言われます。 選ぶ研究方針の原理を決定する事で、採用する方法論の選択肢が限定され、またさらに採用するメソッドが決まってきたり、なんかするようです。 アクシオムと方法論、具体的方法の3群のあいだには、いろいろな組み合わせ が考えられます。(自由に組み合わせてもいい) これを、どういうものを選んで、どう組み合わせて使うか、に、研究というか、「 論 」 の成功の成否がかかってくるわけです。 論とは、系統だった疑問であり、かつそれに答えること、であるとしたならば。 例えば、小松左京とはなにものであるのか、を問いたい とするのであれば。 いかな原理・原則で動いて、方法論を採用して、具体的方法を実践するのか。がとても大切になってくるでしょう。 それにも、やっぱり デマンド が無ければ成らない。どんな 小松論 を欲し、読みたいと念じ、実現を要求するのかによっても。 著作エネルギーの問題や、その活用にも関わりますから。著作エネルギーというのも、有限の資源なんです。 それをどう運用するかも、大切なポイントになってきます。 戦略、方略、ストラテジーは、とっても大切だと思います。その上で、具体作業プランとしての戦術も有効になってくると思われます。 現在の私の方針だと、とりあえず読めるものは読め、←というのが具体的作業プラン、戦術になっています。w
>>399 に付け足し。作戦 オペレーション の事。
>>399 に付け足しで、いわゆる 「 作戦 」 の事があります。
どんなに 良い戦略(方略) を思いついても、それを直接的に受け継ぎ、具体的方法(戦術)へとつなぐ 作戦 を作成する力が無ければ、どうしようもない。
例えば かたっぱしから本を読んでいく という手を思いつき実践していたとしても、
そこにはおのずと どの本を読めばいいのか、という一種のカンみたいなものが働かなければ、効率がぐっと落ちる。
ただし、作戦にも欠点はあって、それは 物事をわからない内にバイアスを掛ける、という 先入観が働くかも知れない 見事なバイアスです。
作戦には失敗例も数多い、と考えられる。
かなり無手勝流ながら、最初は具体的個々に渡って触れていく、という事が 科学の方針 であるとするならば。(全称帰納性)
やっぱり物事にじわじわ触れながら、そこからだんだんと 作戦 を思いついていく、というのが最良の方針のようにも思える。
物事は調べてばかりでわかるようなら、苦労はしません。そこにはおのずと、「 イマジネーション 」 というものの働きの助けが要る。
イマジネーション と 直観 が無かったら、文化は発展しない。
高度な技芸 としての 論文 をやるのには?、この事は大変重要な事なのかも知れない。
このように 作戦 には、欠点 と 良点 ( メリットとデメリット) があると考えられます。一種の先入観が入り込むんですな。
でもいい作戦を思いつく事ができるようになって、戦略を実現し、戦術を効果的に使える (効率的に用いる) 事ができるようになったら、
どんなにいい事でしょうか。
フッサールの現象学なんて、ややこしいなぁ。極端に先入観を排する、(哲学)運動だからです。
オレ長く書きすぎ orz
伝記 の部分と 論 の部分との分離、分割。 小松左京論 をもし長くやっていますと、やがてはその長い 伝記的部分 と、その作品や活動面においての 論 的部分がごっちゃになってくる。 こいつは分けなければなりません。 伝記 と 作品や諸活動 の面とは密接なつながりがあるのですが、とりあえず この2つは分けとかないとしようがない。 文芸として解くならば、作者の人生はある程度は捨象すべきなんでしょう。 あくまで 作品 のみでその作家を述べなければならない。評価はあくまで 作品 でのみだけです。 でも作者の人生もまた面白いものであるから、そこと密接な繋がりのある説明の仕方は面白くなりやすい。かも。 この程度は、たぶん問われる事ですな。 われわれは、一体どのような欲求・デマンドを、小松左京論に求めるているか。 今までの文芸論で、我々が読んでも楽しいものができあがるでしょうか?
ありきたりでない、小松左京論を。 ありきたりで、なんかありそうな 小松左京論 というものであったら、なんかつまんないでしょ? ここを乗り越える、新しい作品が欲しいわけです。 てかね、本当は小松左京論の1冊やなんて出来ていなかった事が、そもそもの我々の不満なんですからね。orz ほんっとに怒ってるんだかんね──!! て、うそよ。(´・ω・`) とにかく、誰か1冊、面白そうな小松左京論を出してぇー。読みたいの、読みたいのよ、本当に。 だから、こんな事になってるんだから。 (書くとまで宣言して) まぁ手塚治虫論にも、まだ部分的論 的色合いもあって、まだ決定版が出てない、という気もするけど。 (ドイツ人で出版した方もいらっしゃいましたな。) どうせ出すなら、決定版がほすぃ。 でも小松左京研究は、存在が存在だけに 決定的なパワーを要する仕事です。そんな簡単にいけるわけが無い。 この巨人の姿を、こびとが捉えられるわけ無いじゃないですか。でもやんなきゃならない。 群盲象をなでる、でもいいから、とにかくやらなくっちゃ。 ヒントでピント (古い) をやれば、山椒は小さくともピリリと辛い、←くらいでやる事です。そこからなんだかブレイクスルーが見えてくるかも。 あとはもちろん、勝手でも 自分の好きな小松左京論 をやることです。 好きならば、可能性は見えてくる。きっと。
憧れの小松左京さん なんで 小松左京さん が好きになったかと言えば、この位のもの知りになりたかったからなぁ。 「 もの知り 」 というのは変な言葉(表現)だけれども、こんだけの 雄大な構想力 を持ちたかったからに違いない。 というわけで、尊敬する人物としては、平賀源内とレオナルド・ダ・ヴィンチが甲乙つけがたく、 第三番目に、村田蔵六 にしようか、それとも 手塚治虫 さんにしようか、それとも 小松左京さんか と迷ってたわけです。 三人挙げれば、という点で迷ってたんだけど、「人格的影響」 ←という点では、小松左京さんたち日本SF作家たち (手塚治虫さん含む) の影響が大きい。特に 小松左京さん と 筒井康隆さん の影響は大きい。 その中でも、小松さんは群を抜いて、尊敬の度が大きかったかも知れない。 そういった原点を見つめ直して、小松左京さん論 を噛みしめて読んでみたい、とは思うじゃないですか。 なのに、小松伝 はまだ早いとしても、小松左京論 があんまり盛んでない、というのはちょっと気がかり。 人格的影響のおじさん (なんて悪い言い方かな?) に当たる 小松さん をどうまとめたらいいのか。 というより、そもそもどうして自分は小松SFなり、小松作品・小松エッセイが好きになっていたのか。? これは各自個人的なものの面ですけど、それを突き止めておかなくてはならない。 夏目房之介先生が、手塚治虫論に入って行かなきゃならなくなった動機と似てるかも知れない。 なんで小松左京さんが理想の人格やら、作風などになっていったのか、その理由も知って、突き止めてみたいのです。
話はちょっと ドリトル先生物語全集 にも始まる。 個人的な話ちょっと続きます。 私はあんまり繰り返して読んではいないんだけどれども(せいぜいで3回程度)、「 ドリトル先生物語全集 」 が好きなんですよね。 で、この話には、いわゆる読み物として面白いだけではなく、「 形式として面白い 」 という面があるわけです。 ドリトル先生物語 というのは変な物語で、読んでみた事のある人にしかわからないんですけど、12冊全体がなんだか一連の物語 の構造化を果たしてる面がある。 まず 1) 作者の視点から描くドリトル先生の物語シリーズ と 2) ドリトル先生の弟子になるトミー・スタビンズという少年の目から見た物語シリーズ、の 2つの物語体系が交互にはさまっていく。 それに、3) ある小さなエピソードの拡大版 ( ドリトル先生と秘密の湖 ?) やら、4) 月の世界へ行く一種のハイファンタジーもの、 そして3冊にもなるスペシャル版 ( 月へいく シリーズ3冊 )、それと 5) 短編集 (ドリトル先生のたのしい家)などと いろいろと 「結果」として、おもしろい構造を成しているわけです。(各編やその文脈の交代、長編、スペシャル、短編集など諸形式) 小松左京さんの作品なら、長編 『果てしなき流れの果に』 や 短編 『時の顔』 にあたるでしょうね。(複雑に舞台が変わる) 光瀬龍先生なら、短編集&長編 「宇宙年代記シリーズ」です。(短編諸集から歴史の全体が浮かび上がる) 手塚作品で有名なのは、もちろん 『火の鳥』シリーズ。(歴史・物語の開始と結末から書き始める実験的手法) こういった、妙に物語りが構造化され、不思議になったお話が好きでした。 なお、辻邦生さんにも、「ある人生の七つの場所」といって、総勢100編くらいからなる時空間の縦横の実験組立小説があります。 この話は小松左京さんとはあんまり関係が無いなぁ。(苦笑)
ファンタジーには、そういったものが多い なんだか 小松左京論 とは別口の話になっちゃった。でも 小松論 に応用ができる部分もあるかも知れないから続けますね。 ファンタジーには、妙にそういった 変な構造化されちゃったもの が多いですね。 こういう 語り口 の手法の事を、自分では勝手に 「 物語システム 」 ←と名付けちゃってるわけですが。 特に代表的で典型的なのは、『指輪物語』 もしくは J.R.R.トールキン系のファンタジー一群です。 トールキンのファンタジーに代表されるファンタジーについては、以下のような要素を備えているものが多い? 1. 物語システム …… 物語を物語っていくそのあり方。(物語の 「順番」 やレベルを変えたりする) 2. 世界システム …… 物語の背景設定。(細かに準備された設定面) 3. 空想地図 …… 物語世界についての空想地図。ボームの『オズの魔法使い』なども含む。 4. 資料編・追補編 …… 特にトールキンの場合に特色的な、その創造世界についての詳しい資料編。 4.番が特にトールキンのファンタジーに顕著な特異性のある部分ですが、ほかは C.S.ルイスの 『ナルニア国ものがたり』でも、 アーシュラ・K.ル・グウィンさんの 『ゲド戦記』 シリーズ にもよく見られます。 ローリングさんの 『ハリー・ポッター』 シリーズはまだ読んだことが無いんですけれども……。 こういった考え方を導入する事で、小松左京研究を 図面化 する、という方法論はあるかも知れません。 えっと、まったく関係の無い話をしてしまいましたけれども。 小松作品をこういった図式でもって、追っていくというのもできるのではないかな?まちょと覚悟はしておけ、くらいで。 やってみてもいいかなぁ、とは思うのです。 小松作品の、様々な成分表 (栄養学に見立てて) というのも可能かも知れない。 ここは 会話文、ここは 地の文、ここは 説明文、などと……。
『地球社会学の構想』 昭和54年9月30日 第一版 1979年? 面白いんだけど、結構むずかしい、かも。精読をすれば、です。読み流しは別。 序章 「灰色の季節の中で」 で、この時代 (1970年代末)、第一次石油危機、第二次石油危機のエネルギー危機で、 「自由世界が危機に陥って先の見えない時代」 だった事を思い出す。日米経済摩擦もある。 そこからの脱出の過程は、 1) 先進国首脳会議 (サミット) の開催 …… フランスのジスカールデスタン大統領の提言かによる 2) 新自由主義的政策の開始 …… ちょうどこの年(1979)に始まるイギリスのマーガレット・サッチャー政権や 翌々年(1981)の米国ロナルド・レーガン大統領による (不完全) 3) 1985年のソ連ゴルバチョフ書記長の登場 …… ペレストロイカ・グラスノスチ改革 (不完全・ソ連邦崩壊) だった事を思い出す。東西で再建合戦だった。1985年にはいわゆるプラザ合意によって、日本のバブル経済が準備される。 1979年は、イラン・イスラム革命、ソ連のアフガニスタン侵攻、翌年の1980年モスクワ・オリンピック という歴史の境目にある。 日本では、大平総理大臣がお亡くなりになったのが翌年(1980)。 こんな時代背景の中で、同時に世界ではSFブーム、SF映画ブームが巻き起こっていた。 それまでのパニック映画ブームから、「ジョーズ」を抜け出して、「スターウォーズ」 や 「未知との遭遇」 SF映画ブームへ。 ハリウッド新時代。日本のSFブームも最高潮を迎える。 ひょっとして、SFもバブルだったのだろうか? いや、アメリカでは1980年代初期より、サイバーパンク運動が起こる。 この時代の事はきっちり調べておかないとなぁ。
小松SFの分類 ↑これは、コマケンさんに頼った方がいいかも。特にPF (ポリティカル・フィクション。政治的小説) の名称は役に立っている。 何か新しい分類方法は無いかしら? 考えてみなければ。 1979年=昭和54年。御大、48歳。 とにかく全部、読み直すに尽きます。(`・ω・´)シャキーン
小松左京さんの人生、 小松左京さんのSF、 小松左京さんのエッセイ、 小松左京さんの論法、 振り返ってみると、色んな事があるけど、これら大量のものを、なんとかして整理する手段を、無手勝流でも見つけなければならない。 しかもある人 (御大) の人格を損なわずに……。 ある人の作品群や、ある人の人生をまとめようとするのは、ある意味では、なんと罪深いものなのであろうか? 芥川龍之介 の 「羅生門」 を研究みたいな事にわずか参加させて貰ってた頃には、こんな事は考えた事は無かったなぁ。 文学も、芸術も、時としてその人物が 「人生賭けて」 創り出したもの、創作したものなんだから。 それに対して、果たして 「人間として」 接するという姿勢を、果たして自分は持てていたか? 大いに反省させられる。そんなあったかみのある人間に、自分はなれていたか? こういう所から、なにか再発見はないかしら?
『 地球社会学の構想 』 第一章 「機械化人類学」の妄想 受け流し、読み流すとなんでもないけど、ちゃんと筆者・著者の言葉・文章・文脈を受け止めようとすると難しいのな。 「機械化人 ホモ・マキニクス」 なんて、ちょっと難しそうな概念の提言がある。 だいたい、「人類学」っていうのが何なのか、私も「人類学概論」みたいな事はやったけど、さっぱりわからんもんなあ。 けれども、機械化していく人類、というのは面白い観点だと思います。 問題はまた読み直すとして。 機械化人類学 の問題には、モーターライゼイション の事がテーマになっている。ただし単に 「自動車化」 の意味ではなく、 「モーター (電動機) が付いている」 という事で、梅棹忠夫氏式 の洗濯機、冷蔵庫、等のモーターライゼイションも入っている、 という普通とは違う意味での モーターライゼイション である。 また 機械化 の所に当時なら テレビ などの 情報機械 を考えて、「情報人類学」 というものの構想がなされている。 エレクトリックス (電気工学) から エレクトロニクス (電子工学) へと時代が移る中で、真空管から、トランジスタ・半導体に 代わり、さらに エレクトロニクス が集積度を上げていく際に 重要になったのが コンピューター(マイコン) であれば、 その観点からも、コンピューターライゼイション は 自動車や家電製品 に 「マイクロコンピューターが入り込んでいく」 点で その意味の モーターライゼイション に似ている、と言える。 つまり 広い意味の モーターライゼイション と コンピューターライゼイション は似ていると言える。 「機械化人類学」 は現在の発達した コンピュートピア (コンピューター世界) というか パソコンや携帯電話、インターネットの 時代を考えるとき、どう捉えるべきだろうか? 百円ショップの百円時計なども視野に入れて、エアコン、扇風機、キーボード、 マウス、等にも 電子機械部分 は入り込んでいるわけだろうし、この構想は結構雄大だという気もしないでもない。 自分の身の周りで、モーターやマイコン・電子部品のあるものを数えていったら、ひいふうみい…で大体35個程度あった。 (リモコン [リモート・コントローラー] 含む) 私も機械化人か?
同じ機械化の中で モーターライゼイション コンピューターライゼイション 思えばなんで 自動車普及化を モーターライゼイション と言うか知らなかったわけで。 英和辞書で調べてみれば moter には 電動機 、以外にも 発動機、内燃機関 ←といった意味もあったんだね。orz モーターライゼイション にも 「動力化」 という意味もあるんだった。 知らない事大杉。 うわっ、それで 1971年の英和辞書にはなんと computer が載っていない! すげぇ、まだ存在すらも認知されていなかったんだ。1971年っていうと例の 最初のマイクロコンピューターシステム インテル i4004 が誕生した年でしょう? 1968年に AT&T から アルヴィン・トフラーが研究を委託され、また1970年には 『未来の衝撃 The Future Shock 』 を出す。 のちに AT&T は分割され、さらにのちに 日本の NTT も分割されるようになる。 1971年の時代には、computer や compute なんてまだ一部の英和辞書では載せなくてもよかった時代なんだね。 今から37年前…メモリ (記憶装置) も、コア とか言ってたんだっけ。 でのちに、コアゲーム ←というゲームが流行したりなんかして、これがコンピューターウイルスのひとつの源流にもなったりする。? モーターを使った革命 (原動力革命) 自動車としては20世紀初めに始まるんだっけ。 コンピューターの革命は1940年代後半のコンピューターの成立から始まる。 小松左京さんの意見を知るには、本当に広い知見が必要なんだな。orz 「機械化人類学」 の基礎すらわからんw (しかたなく考え続けまーす)
小松左京さんのようになりたくて そういえば自分は小松左京さんのようになりたかったんだなぁ。 別にああなりたかった、なれるとかいう事じゃなくて、「考え方」というか、そういう考え方が出来る人間になりたかったと。 これは、『日常性の社会学』 の 加藤秀俊 先生でもそうだし、『しぐさの日本文化』 の 多田道太郎 先生にしてもそうだ。 一見雑学的な地点から、普遍的な方面へと遡る、そんな “著述方法” がとても好きだった。 これは小松人脈とは若干離れるけど、他には 『情報文明論』(NTT出版)を書かれた、公文俊平先生とか、H.G.ウエルズ の 『世界史概観』(岩波新書・上下)、アーノルド・J.トインビーの 『歴史の研究』、J.R.R.トールキンのファンタジー体系、 などが好きでした。ちゃんとしっかり読めていないものも多いものの、こういった著述を自分もやりたいと思っていたのかも知れない。 一体どこでどう道を踏み間違えたんやら。orz ただ、自分の出身した家庭の文化程度では、あんまりこうやった分野へ進出し、高度に完成する事なんてできなかったと思うんだよね。 と言っても言い訳にしかならんか。orz もっとひどい環境から、自分の身を起こした人はたくさん居るのだから。orz 今頃になって、やっと余裕を持てているのかも知れないです。 小松左京さんとかの著作が、自分のものとしても読めるようになった。 別段、他人の書いたものとも思えない、自分が解読して、説明してもいいようなものへと態度が変化した。 それまでは尊敬と謙遜とで終わってたのが、それだけでは、いけないものと 時代の流れ の中で変わっていった。 遅ればせながら、やってみなければならなくなった。これは必然です。 ひょっとしたらもう誰かが手を着けていて、完成間近になっているかも知れない事にも期待して。 ここらで自分のやれる範囲まではやってみませう。 全然やってみた事も無いのに、経験も無いのに、小松論文になるのやら、小松伝記になるのやらわかりませんが、やれるだけはやってみましょう。
第二章 探検の構造 地元にアメリカの国立公園の研究をやっていらっしゃる先生がいて、その事を思い出しました。 いつかの探検が、やがて旅行になり、移動になり、マス体験化する。 この連休中は、ディズニーランドとかに行かれた方もあるかとは思いますが、それも一種の公園(テーマパーク)でしょう。 国立公園は「ナショナル・パーク」だったかしら? 探検がやがて旅行になり、そして移動に変化する際において、その内的、心理的アプローチ、モチベーションが通俗化し、 マナーの停滞となる、なんてのは、よく聞く話です。いや逆かな、マナーが無いと移動も出来ない、という事もあるかな? 電車男は、マナーの悪いおじさんから、女性の身を守る 事から恋が始まるテーマでしたっけ。 ある意味、電車男クンは、あそこで冒険をしたのかも知れないな。そこからが探検・冒険続き。 われわれ人類の中には、探検衝動がある、というのを デズモンド・モリス の著書を引きながらお話しするテーマなのですが。 そういえば最近、自分も老年化して、探検も冒険もしなくなってしまったなあ。 いかんいかん、ちょっとやり直そう。 リビングストンやコロンブス、遣唐使や諸留学生、マルコ・ポーロなどには及ばないとしても……。
小松学派バイアスについて 一方においては、小松左京氏たちの世代を単に引き継ぐだけではなく、 自分たちで新たなものを創り出す、その「バイアス(偏り)」をただす (糾す・正す) 事も必要かと思われる。 例えば、SF、もしくは 日本SFにおいて、小松さんたちばかりが、その明解な回答では無いであろう。 その視点を見失った事が、日本SFでなんとなく、読者の獲得を少なくしている原因になっているのではあるまいか。 SFのSの字も知らんのに、勝手な事を申しておりますが。orz 最近、読みたいってSFがあんまり無いのも本当なんだよねー。(もちろん「発見の努力をしていない」のも本当ですorz) 最近だと、グレッグ・ベアの 「凍月 (いてづき)」 に ハマったくらいだった。個人的には。読書欲をそそられたのは。 どっかに眠れる市場はないか、そのブレイクスルーを切り開いてやらねばならない。 時代は変化して当然だ。もっと雄大なものが出たっておかしく無いではないか。 その準備は、今地下で着々と進んでいるのかも知れないです。 少なくとも J.R.R.トールキン教授 のような体力の持ち主が、日本のどこかにも居るかも知れない。 あるいは フッサール のようなこつこつとした努力をする人、できる人が、日本のどこかにも居るかも知れない。 読もうとはするけど、私はいつごろSF読書戦線に復帰できるのかなぁ?(笑)
インターネットという海の中で 2ちゃんねる にはまったくお世話になっておりまする。 ユーチューブの使い方なんてのもまったくわからないので (使う気もないのも本当ですが)、 こんなお宝映像が (本当はイケナイんだろうけど) 眠っているとは思わなかったです。 たまにブラクラもあるけど(オエッ)、色んなものを貼っつけてくれて本当に視野広がる思いです。 SF界だけ1つ取ってみても、その全体像を描ききれる人なんてのは、居ないんだろうなぁ。 またある意味では、小松さんについても、全部思い描ける人なんて皆無なんじゃないかしらん? 一方でアメリカでは有名ブロガーが過労死で死ぬ事態が増えているそうで。 こんな事書き込むの もし わっちも、もしウェブログに切り替えたら死んでしまいそうな気配あり。 そんなにネタ無いよー!てのが本音ですが。 静かに、今は読書続けるのみです。 鏡よ鏡よ鏡さん、世界で一番 小松左京さんについて書けるのはだーれ? オレじゃないわな。orz あー安心したり、それはダメだったり。orz
少しでも視野広げようと。 『終戦のローレライ』 と 『ローマ人の物語』 と 『カラマーゾフの兄弟』 のそれぞれ第一巻買ってきてあるんだけど、 よむヒマあるんかしら。『日本SFこてん古典』も文庫版の第2巻百円で売ってたんで買ってきました。 通信制大学の科目も六科目分教科書があって、それぞれの通信指導も5月末までには提出しなければならないので、 あんまり読むヒマ無いと思うんだけど。 小松論書くためには、いろんな事をやっておかないといけないと思うから。 できるだけはやってみます。ほかの基礎読書。
文献読解とマルチメディア 長い事あんまり読書をしてこなかったので、 本格的文献 やら 本格的文章 を読んでいなく、解読経験が足りない。 その点で、『現象学の基礎』やった時には本当に役に立った。それまでこんな難しい文献なんて読んだ事無かったから……。 著述した先生の書き方にも問題あるな、とは思ったけど、でも難解になっちゃう文献を読みこなすというのには、 相当の文献を読みこなす力が必要になって……、それで、難しく書く必要は無いんだけど、それを読み取る力は必要ななんだと思う。 小松左京さんの文章というのは、大変読み易くできていて、だけれども提案するテーマについては大変深いものがあり、 その点を甘く見ていると、大変なもの、内容を見落としたり、受け落としたりするかも知れない。 ナメちゃいかんものです。どんなものでも。それに、ナメると結局自分の 「知識 (智識)」 に成らんし。 地元の県立大学の公開授業とかに入って若干 文献の読み方 みたいなものの基礎はやったけれども、 文献を読みこなすのは大変です。 一方で。 小松左京さん (だけにとどまらず) マルチメディア というのも考えて置かなければならない。 これは視覚的部分や、音声的感覚、皮膚感覚、臭気、味覚、それに論理的成分など、 どの作家さんについても、分類は可能なんじゃないか? とすると 短編の 「うるさい」 ←だっけ? は、音楽的・聴覚的もの (ファースト・コンタクト) という事になり…… 光瀬龍さんなんか、ガントリークレーンとか、視覚的なイメージの方が多いのかなぁ。 こうして、ご著作をマルチメディアとして読み解いていく、また 「分類していく」 方法もアリなんじゃあるまいか。 マルチメディア的、というのは、もう原始的な分類法なのかも知れないけど。 一丁、また小松作品を全編読み直す時には、やってみましょう。
文章の書き方 もう少し (少しで無くてもいいから。笑)、読み易くて面白い文章は、自分で書けないかなぁと思い。 苦労しておりまする。どうやったら 文章鍛錬、文献鍛錬 が出来るんでしょうか? それには 名文を読め、という事になりますが、名文というと 加藤秀俊先生とか、多田道太郎先生とかしか思い浮かばない。 特に、多田道太郎先生の文には畏(おそ)れ入る。 あんなにユニークで楽しい文献 (随筆・エッセイ) には会った事がないw。 それはとにかく、音楽でも美術でも、「論法」というやつはあるのだろうな。アニメでも。 わかりやすい文脈、すなわち 筋立て というのはあるんだろうと思う。 昔から文章には、起承転結、序破急、などの形式がさかんに述べられて追求されて来たし。 でもどうやったらいい文面訓練法になるのか、よくわからんのよね。 こうやって、なんとか言葉を連ねて書けている以上は、何かしら書ける能力は潜在的には在るんだろうけど。 わずかでいいから、これから 小松左京論 とか、SF百科事典、SF論 に近づくためにはどうしたらいいのか。 この場合は、文章の書き方という 「形式」 が決定するわけじゃないよね。 ●あくまで 「内容」 が文章の形式を決定する。 だから、この3者について深く知っていければいくほど、それにより、 「文章の形式」 は決まってくる、定まってくる という事に、たぶん成る。 なにも 四六駢儷体 ←だっけ、中国の官僚試験文体(科挙)を使え、と言っているわけじゃないから、そこん所はね。 (そんなん、書けるか−!) 小松さんについても、なにも文章のうまい下手にそれほど感動してるわけじゃない、深い内容から出る文章の深みに、 おのずと感動を覚えているわけだし。
コンピューターとSF また夜中に 突然がばちょ と起きてしまって恐縮ですが。(申し訳け無い) ふと、ENIAC のプログラム量って今の計算機でどのくらいだ?、とか夢で思っちゃったり。 楽しい夢でした。 実際あの 1946年頃でしたっけ?、私が1986年当時 MSX2 を用いた NHK学園 の教養講座にいたんですけど、 そこで、一番最初のコンピューター という事になっている ENIAC のプログラム量なんて、今の計算機 (パソコン等)で どのくらいなんでしょう? また現在の32ビット64ビットコンピューターは、幾らENIAC量に相当するのでしょうか? 馬力 ならぬ ENIAC力 というのを単位といして 導入してもいいかなぁと思います。(現在のは 怪力 コンピューターですね) また私は 情報エンジン (CPU)の事を 「情報の馬」 ←と呼ぶ事があります。 サイバーオペラ、もしくは 情報オペラ としての “サイバーパンク” を呼ぶ時に、これは大変便利な言い方ではないでしょうか? スペースオペラ の原型は、ホースオペラ つまり西部劇 (馬と拳銃のオペラ) ですから、これはその点では再び サイバーパンクも “情報の馬”オペラ ←として回帰したことになります。 としたら、日本でも 相当するものとして「時代劇」 としての “情報の剣劇・チャンバラ”←としての分野が描かれてもよいかも知れません。 実際アニメでは、「SAMURAI7」 といったような作品も登場していますが。 こうやってくると、日本時代劇も、情報化時代 いや 現代の 高等学校科目 『情報A』 では 「情報社会」 とはっきり表記しますが、 発展をしていないな、まだ手つかずの場所 が 「情報時代劇」 (日本版サイバーオペラ。情報剣劇・チャンバラ) としてくっきり形を 残している、「ブレイクスルー」 が残っているかも知れない事がわかって来ます。 例のアジモフのSF3段階発展説だけれども、それも スペースオペラ時代 自然科学(ナチュラル・サイエンス?)オペラ時代 社会科学(ソーシャル・サイエンス?)オペラ時代 インナーオペラ (ニューウェーブ) 時代 サイバーオペラ (サイバーパンク) 、情報オペラ時代 とならべる事もできるかも知れません。ホースオペラ(西部劇)で。
物質・エネルギー・情報の馬やエンジンと、日本版サイバーオペラ・情報時代劇の可能性の追求。 アメリカンSFを理解する上で、どうしても大衆小説としての 西部劇(ホースオペラ)ジャンルと、ハーレクイン等のラブロマンス・ジャンル をきっちり押さえておかないと、「SF」(アメリカンSF) というのはどうも理解しづらいものになるかも知れません。 日本でかつて 昼メロ だっけ?と呼ばれていた、テレビ番組としての ソープオペラ もそうですね。 大衆文化がいかにほかの分野に相克して、深い影響とその支持基盤になっているか、を理解する。 これは画期的な 小松論 および アメリカSF論、日本SF論のブレイクスルー になるやも知れません事です。 とすると、日本文芸においても、大衆小説としてなぜ、「時代劇」というものが小説・文芸・文学分野として生き延びているかわかってくる。 また、ひょっとして 日本の時代劇の人気の低下と、SFの人気の低下とには、大衆文化としての共通基盤性・連関があるかも知れない訳です。 あんまり意外でもなんでもない、結論でしょ? 私は ハワード・ラインゴールド氏のコンピューター史を描いた著作 『思考のための道具』(パーソナルメディア社1986頃?) の影響を受けて、 それ以来、物質・エネルギー・情報 を3組セットにしてものを考えるクセが付いちゃってます。 それで、物質・エネルギー・情報 の エンジン、みたいな言葉の並べがすぐ思い浮かぶんですけど。 実際、コンピューター(計算機)の CPU は、“エンジン”と言う事もあるそうなので、そうすると、エネルギーのエンジンは内燃機関など、 情報のエンジンは、コンピューター(計算機)の五大機能であるうちの1つ 演算機能 (狭い意味のCPU)、それと物質のエンジンとしては、 物質加工装置・機械としての 旋盤(せんばん) など が思い浮かび上がって来ます。 情報の馬、なんて考えると、パソコンは単騎の馬車から、デュアルコアに至って2頭立ての馬車、クアッドコア?に至っては4頭立ての馬車、 もしトリオのCPU装置があったとしたら、それは情報のトロイカ馬車体制、制御という事になります。 こんなアナロジーも、ちとアナクロ気味でも面白いでしょう?
馬車、または馬の乗り手としてのネットワーカー パソコン通信時代には、パソコン通信をやっている人は 「ネットワーカー」 と呼ばれたり、その人格意識がありました。 インターネット時代を支える個人倫理意識には、どんなものがあるのでしょうか? 私にはあんまりわかりません。 それを原始的(プリミティヴ)ながらも 教えないといけなくなった、のが、高等学校の『情報A』 や 中学校の『技術・家庭科』 なんでしょう。 話は学校教育(義務教育や高等教育)などの分野ににまで押し寄せてきました。(小学校でも教えないといけなくなっているでしょう) マイクロコンピューターの時代からパーソナルコンピューターの原型時代に至るまでの時代を触れている人が 『情報A』の教科書を見たら、 きっとその知識、授業の現場に驚かれるに違いありません。 私はその授業で WWW(ワールド・ワイド・ウェブ) じゃなくて、WWM(ワールド・ワイド・メッシュ) という 時代 があった事を知って、 この 『情報A』 の科目の授業内容のヴァラエティさに驚いた事があります。 通信制高等学校では、これ(『情報A』) が実際授業20時間満ですから、その一般昼間高等学校ではどのくらいの授業料になるのやら。 高等学校では35週間程度を1単位とはかりますか?とすれば3単位だと105時間だな。? 現行の高等学校卒業単位は最低ラインで74単位です。(私たちのふるーい頃は80単位) さて、パソコン等(計算機)を扱う人はみな 情報の馬の乗り手、という事になります。 まさに ホース・オペレイティング (操馬術)をやっている事になり、その技能によって、初心者タイプ、ある程度の使いこなしタイプ(実用程度)、また さらに コンピューター・プログラミング・レベル のタイプの人が、3つほど居る事になります。(もっと上もあるかも知れない) こういった 当世書生気質 的、坪内逍遙 的 『小説神髄』的、通俗・風俗世界を、描いておく事は大変大事な事なんでしょうね。 そのためにはSFである必要はありませんが。 ひとひねりして 情報オペラ、情報剣劇・チャンバラ、チャンバラでなくてももっと 情報市民的なもの (ネチズン) として描いていく事はできないでしょうか? 情報人情もの、なんてのも面白そうですね。
SF版宮本武蔵。情報板宮本武蔵。 すでにある原型から、プロットだけもらってくるというのもありかも知れないなぁ。 「SAMURAI 7」はそうですね。 できたら、物語にはオリジナリティがあればあるほど、いいとは思うけれど。 実験的に 宇宙の宮本武蔵、みたいなもの、情報化・宮本武蔵みたいなものもあってもいいかも知れない。。 一種の修行と修練と青春と成長の物語ですな。 いらんことですが、私は 水滸伝 をフィーチャーした 筒井康隆さんの 『俗物図鑑』が大変好きです。 とてもきれいな文章に、なんて言ったら変に思われるかも知れませんが、知性的で感動したことをおぼえています。 こういう所が、SFの素敵な部分なんでしょう。 自分でも書けんといて、あんまり言うのもはばかられますますが、SFはもっと他の分野の文学からも、学ぶべきはたくさんあると思います。 とにかく続きは擱(お)いといて、今夜はまた眠りにつきますね。 もしお読みくださった方がいらっしゃったら、ありがとうございました。
情報化時代劇 とはなにか (日本版サイバーパンク、サイバーオペラの近未来版、近未来・未来志向について、それと小松SF) また(眠りの)途中で夜中にぽっくり起きてしまった(´・ω・`) 大衆文芸としての 時代劇 もしくは 「時代小説」 というものを 僕はまったく読んだことが無いんだけれども。 「宮本武蔵」(吉川英治)すらも読んだことが無い。 歴史小説 (ある意味時代小説) としての 司馬遼太郎 なら、若干読んでいる。(『花神』『竜馬がゆく』『翔ぶが如く』『坂の上の雲』など) SFだったら、新しい知見としてが学問で発見されてからのその反映 としての歴史小説、もしくは情報化の現在、近未来、過去への応用 が問えるのではないかと。 つまり情報化の観点から、現代小説を書いたり、その未来志向で出来た状況を書くとか大衆小説として出来ないものかと。 歴史学の発展の成果なら、過去SFにタイムトラベル・パトロールものとしてその知見を反映する事が出来る。(一種の人文SF) また現在の状況においては、情報とは何かという観点から、現代社会を深くえぐり出す。(この場合 「情報」 とは何かがわかってないと駄目) また近未来小説の形を取る場合には、「情報」 の及ぼす影響を考慮して、近未来のあり得る日本社会、世界社会を構築して、そこに 主人公を動かすとか。もっと未来小説でもよし。これには 情報 のみならず、最新知識の外挿法 も必要になるんだろうけど。 小松SFで過去、歴史を取り扱うのには、『時間パトロール』や『おしゃべりな訪問者』、それと宇宙人の目から見た「ムス・ムス星雲系生物の地球通信」 それと、『空から墜ちてきた歴史』などがありますね。「時の顔」もある。 でも思うと、筒井さんにしても小松さんにしても、あんまり 「未来史体系」 ←というのは築くことが無かったんじゃないかという気がします。 時間が、過去、現在、未来、どこを取ってもいいから、SFとして 情報化時代劇(日本版サイバーオペラ)の可能性は無いんかしらん。 貴族スタイルとしての、SFチックロマンチック (ハードSF的な考察のもの) でもいいんだけれども。 「情報化」がさらに進んでいく中で、私たちの身の上には何が起こるのか、といった考察も必要ではないかと思う。
雄大な構想力のために 情報化時代劇という事を考えていく内に、ちょっと小松SFや筒井SF等の欠点が見えてきてしまった、かも知れない。 そういえば、雄大なスケールでの、「未来史体系」←というのを、築いた事がないかも知れない。 小松左京さんの場合には、さらにバイアスがかかる。かえって「日本沈没」というアイディアとテーマの進行を実現したがために、 そのために 「日本が沈まなかった場合」 の日本の未来史が描けなかったのではないか?、という限界的憶測。 『日本沈没』はそれでも、わが国土にとってのあり得る 災害SF シミュレーション にはなっているのだけれども。 こんだけの偉大な作品の前半部を描いてしまったがために、小松さんの全宇宙体系の中では、パラレルワールドとしての 日本が沈没した世界 というのが問題になってしまった。(ただし構想としては、国土を失い国際化した日本から、さらに宇宙植民を 経て日本人は果たして 宇宙人 としてなれるか、←といったテーマも 第三部 として依然 主題・テーマ が残されているわけだが) 日本沈没はもういい。それよりもこれはもう 「パラレルワールド」 として割り切ってみて、現今の日本からまたさらに外挿法を重ねる 可能性、これアリの日本の姿というものを、描き出さなきゃならないSF作家というものが、登場しなければならないのではあるまいか。 かわいそうに、日本沈没は大成功を収めた一方で、日本SFにとって大失敗をやらかした側面もあるかも知れない。 現状のままで国土が保たれ、“現実”が進行していった中で日本が取るべき方向は何か、を問えるSFが出せなくなっちゃった、という事か? といっても、『虚無回廊』といった作品もちゃんとあるしなぁ。『さよならジュピター』もあります。日本、ちゃんと存在しています。 「小松さんの“宇宙”」 の全ピースを、現実に書かれたものを手がかりピースとしてその全貌を探り出す 研究 はやっとかなきゃいけないかな?とも思い。 小松さんにとって、地球の未来は 「地球連邦」 みたいだ。(『さよならジュピター』『虚無回廊』類) 国際連盟、国際連合(連合国)ときて、その次に来たるべきものとしては 地球連邦 というのが、小松左京さんの見通しなんじゃあるまいか。
現実の異なる進み 現実には、アメリカ帝国が闊歩し、そのパックス・アメリカーナの凋落が、2001年9月11日のテロ以来、叫ばれてもいる。 アメリカのユニラテラリズム(一国主義)とマルチラテラリズム(多国主義)だっけ?への再シフト問題もあるけど。 中国、そして再ロシア、いわゆるブリックス(BRICs ほかにインド、ブラジルなど)の台頭もあり、パワーポリティクスはせわしない。 こんな中で危険ではあるが、もう一度 世界連邦 の実現可能性を再検討してみるのも いい検討事項だろう。 地球連邦制は、H.G.ウエルズの構想でもあり、マッキンダーもそうかも知れず(彼は地理学者のみならず地政学者でもあるが)、 歴史哲学者 アーノルド・J.トインビー の歴史から帰結した考え方かも知れない。 世界連邦的な考え方は、イマニュエル・カントあたりからの具体的な考え方だそうだけれども、こいつが本当に実現するのか? 今のところ様々なゲームを繰り広げている大国、中小国の最終的に落ち着くところが、一つが国連改革案であり、地球連邦の 設立であるというのは、EU や ASEAN のような地域主義とその拡大 (拡大EU、拡大東アジア連合)、それと NAFTA (北米自由 貿易地域協定?じゃないよな。訳忘れた) のようなものが、世界を分裂させていくのを解消する、ひとつの手立てであるかも知れない。 まぁまだ、「地球連邦」はSF的設定である、というのは、若干は残っている気配なんでしょうな。 世界が順調に比較的経済成長をサステナブルにして、南北問題や南南問題が解消傾向に向かえば、国連改革と地球連邦か国際連邦は やがてはやってくる未来なんでしょう。 そういう政治設定的SFよりは、(ポリティカル・フィクションとしてその成立過程を描くことは、H.G.ウエルズなどが『解放された世界』などで やっておりますが)、もっと具体論をSFはやるべきかも知れませんが。 SFのネタも、確かに少なくなってきたのかもねぇ。 とにかく、巨匠 (小松左京さん) の研究は、その意味でも大切でしょう。 論じても、堀穴見つけられなきゃ、意味無いかな?
>>420 そういえば、剣劇、時代劇、剣豪小説、とかって、ソードオペラ (剣のオペラ) とか言うんじゃなかったっけ?
3すくみ へび、かえる、なめくじ いまぁ、眼の前にしているのわぁ、県立図書館からオープン書棚と奥書棚から借りて来たぁ、SF百科事典類。 SF大百科事典 …… ジョン・クルート 編著 高橋良平 監修 1998年8月25日 初版第1刷発行 グラフィック社 ¥6500円 SF百科図鑑 ……… 編=ブライアン・アッシュ 日本語版監修=山野浩一 発行──1978年11月30日 株式会社サンリオ ¥3000円 オレは、本当に、本気でこんなの作る気で居るのかぁ?! 創りたいってか、在って欲しいというのは、本当なんだけど。 ま、いっか。(昔のラップ音楽曲みたいだね) 少しずつ始めよう。
梅田望夫 『ウェブ時代をゆく』 (ちくま新書) を少しだけ読んだんですが、 ネット上の活動が支えられるのは、一人だけの卓越した人物がまず居るんだそうですな。 たとえば、リナックスのフィンランド出身 リーナス・トーバルズ氏。 マイクロソフト社もアップル社も例外じゃないかも知れないですね。 日本語版ウィキペディア なんてのにも、きっと最低たった一人の方がいらっしゃるのでしょう。 私はそういうのをやる気も、なれる気もありませんが。 ただ、好きだったら、最初から立ち戻って、やる、だけです。
なんか、今日書いてみたメモ これはなんだか? 日本SF百科事典 及び 評論系 (←なんでこうなったかわからん) └基礎事項目、日本独自のフォーマット、 どんなフォーマットが増えるか ・マンガ、アニメ系の記述が増える、 ・日本SF独自の視点、 ・画家の確保、 小松崎茂など、 ??なんじゃこら? もしかして、なんだけれども、筒井康隆さんの構想していたSF百科事典って、どんなもんだったんだろ? それともハッタリ?だったのかな?まさか。 筒井さんの性格では、あんまり考えられない気がする。 大体、あんだけの独自の辞典類を実際にお作りになっている。(笑) あれだけでも大した「創作活動」です。w
『地球社会学の構想』 読んでて眠くなって、なかなか読めない。 オレ、バカなのかな?
小松論の構想、構図、なかなか浮かばず。 読んどくもの、読み返しておくもの、多いしなー。 「 小松左京をどうやって乗り越えるか 」 ←、というテーマもあるしなー。 思うんだけど、「SF作家」っていうレッテル、無くてもいいんじゃないかしらん? 別に、本人が書きたかったら、書きたいもの書けばいいだけで。それは自由なんだし。 しかしそれで、か、そのせいで無いのか、我々、本当に読みたいものを時として得てない事になる訳だな。orz 別にSFでなくてもいいのよ、ただ、SFで読みたいものが出て来て欲しいの。 日本SFからも。 いま、どんなシロートでも、これだけは読んどけ、っていう大衆文芸的な日本SF作品、出て来てー。
SFといっても、思えば作家と、我々は心中している、気配・部分もある。 筒井さんだから読む、小松さんだから読む、という事はある。それで満足に達する部分もあるし、無い部分もある。 一生のあいだで、これは読みたい、という作家さんと出会えたら、それは幸運(ラッキー)というものだよね。 私の場合はそれは映画・日本沈没であり、小松小説SFとしては『復活の日』が感動した最初だった。 とある特定の作家に耽溺して、文学・文芸の全体像なんて、あんまり関係無いですよね。 SFの全体像とも、あんまり関係無いかも知れない。 ただ、私も筒井康隆の『SF教室』で本格的に“SF”というジャンルを知った者だから、つい「SF」というジャンル全体に目が行ってしまう。 「SF」がしぼむのはしんどい。でも。 「SF」をさかんにするためには、「SF作家活動」をするか、有力・有効なSF界活性化の手立てを発見するサポーター側に回るしかない。 紙で印刷する、製本するに足るSF作品を発見するしかない訳ですよ。印税差し上げたいと思わせるだけの作家さんが現れなきゃならない。 で『SF教室』で誘われたように、SFの作家的部分に頼るわけにしかいかない訳なんだよなぁ。 しかし小さいときに経験した経験というものは、おそろしいものよなぁ。(未だにSFを読みたい、という気持ちだけは長持ちしている訳だもの) 『SF教室』だけでなく、ジュブナイル科された当時のSF、にくいです。(笑) 読み易かった−。 結末。SFというジャンルと心中している。(笑) 人間読むべきもの、古典といい、たくさんあるだろうに。 「その教養の中から、自然にSF的アイディアと結びつくものが出てくるだろうに。」 タイム・パトロールという発想に至った、歴史知識の、フレデリック・ポール (あれ?違うかな?ポール・アンダースンだったかな?) みたいに。
教養が足らない? もし、さ。自分が仕方なく、小松SFを越える・超えるような作品を書くとしてですよ。 その手には、一体どのような手が、あるのでしょう。? 一番いけないのは、教養が足りない、という事ですが、教養こそが原因になるかと言えば、それはそうとも言えないかも知れない。 人が学歴によって、作家に必ずしもなる訳ではないように。 あんまりSFとしてでもない、スペースファンタジーとしてでもいいから、小松SFを超える手は、なんだかありゃせんのかしらん? どっか盲点があると思うんだな。 SFは偏見の多い分野でもあるし、それは内部からも、外部からもであるような気がする。 外部からはともかく、内部からもかなり好み等にもバイアスを抱えている分野だと思う。現世代にとっては。 じゃから、その何かがわかれば、小松左京SFを越える事は、案外簡単のように思えるんだな。 小松SFにも、時代の流れもあって、名作ではあっても、つまりは時代遅れになっている部分もある。これは仕方が無い。 だからこそ、というわけじゃなく、案外意外な所から、小松SFというのはポカン(・∀・)とやられちゃう部分もあるんじゃないかしらん。 思えば 『日本沈没』だって、壮大なバカ話なんだし。(SFに通じてる人にならすぐに通じてしまう話。決して“聖典”などではない。) だから 「日本以外全部沈没」 でも、実はこの両者、ぜんぜんバランスを持って天秤(てんびん)に載ってくる話なんだよね。 フィクション という点では。 SF感覚を持っている人というのは、そういう 相対化 の観念がちゃんと入っている人だと思う。ありゃ『モンゴルの残光』みたいに、 まったくひっっくり返してはいるけど、まったく同じ話なんだという事がわかっている。私はいままでわからなかったけれども。 結論を言えば、SFの教養っていうのは、その本質、サイエンスじゃなく、「フィクション」なんだって事がわかっている感覚を持っている事なのかも知れないね。 センス・オブ・ワンダーなんかじゃなく。 さもないと、だから、ケイバーリットなんかを信じちゃう、たとえば火星人はタコ型だと信じちゃう、事になっちゃう。
パニック映画の時代と、映画『日本沈没』のシンクロ うーん、映画史わかんなくって、体験的映画史になっちゃうんだけれども。 映画『日本沈没』と、そのメディアミックス的・小説『日本沈没』の “大成功” の話なんですけれどもねぇ……… いまだに、原因がわからない、っていう話も、あるでしょう? あれ……、思い出したんだけれども、「国際的」な要因から読み解けば、割と明解にわかるかも知れないんだな。 つまり 「パニック映画」 だと。 映画史ちーと詳しく無いもので、それ以前はよくわからんのですが、1970年代初期までか?西部劇がはやってたのが、それが変わってくる季節がある。 それが、一方で 「パニック映画」 、一方で「ホラー映画」 といって、映画館が “お化け屋敷”化してた時代があった。 これが出てくるのが、たぶん1970年代の半ばなんではないかと思うわけです。 売れたのは SF としてでは無かった。映画興行としての 「パニック映画」 だった、その原作だった、とすればよく理解できるわけです。 とすると、映画化なんかされないで売れてしまった、『ノルウェイの森』上下巻なんか、すごいもんだと言わざるを得ない。 「パニック映画」としては、「ポセイドン・アドベンチャー」 とか 「タワーリング・インフェルノ」なんてのがある。 「ホラー映画」としては、“決して一人で観ないでください”のCMで有名になっ「たサスペリア」とか「オーメン」なんかがある。 で、パニック映画ブーム (まさにブームですよ) の結末に スティーヴン・スピルバーグ監督の 「ジョーズ」 が来て、そのあと、1970年代後半からは、 時代のブームは、SF映画ブームへと、「スターウォーズ エピソード4」 以来移り変わっていく。そして 「未知との遭遇」なんてのも出てくる。 日本のSFブームはこれとシンクロしてますね。 私たちは 『日本沈没』をSFとして受け止めてしまうけど、世間様から見れば『日本沈没』は“パニック小説”としてちゃんと受け止めないといけないかも知れない。 いやぁ、そんな簡単な事に、今頃気がつきました。orz だから、新作・映画『日本沈没』もパニック映画として成功したかどうかで問われるべきなのかも知れないねぇ。やっぱSFでやって欲しかったけど。
でも時代はファンタジー映画全盛時代 orz でも時代は パニック映画 の流れじゃなかったのよねぇ。21世紀の初めの10年間?は、映画の世界ではファンタジーが主流なのでした。 そこへ、パニック映画、もしくは地震・国土災害シミュレーションとしての 『日本沈没』。orz でもよく健闘したとでも言えるんじゃないですかぁ。 今回も、SFとは扱ってもらえなかった、と言えるのかも知れない。orz なんて作品 『日本沈没』の成功の奇縁、もしくは大失敗の奇縁。orz ところでファンタジーの全盛時代なんだったらさ、ひょっとしてアメリカのライマン・フランク・ボームの、『オズの魔法使い』のリメイクなんて無いの?
SF映画とはなにか?
つい映画『日本沈没』はパニック映画で、それで小説『日本沈没』はパニック小的要素の説として大衆からは受け止められている、
なんて
>>435 で書いてしまいましたが。実はあんまり理由も無い気もする。
SF小説『日本沈没』をSF小説として読めている人は、というか銘打ちがモロ「SF」だったような気がするし(光文社版)、映画だって
SF映画として受け止めている人はたくさん居ると思う。それといわゆる ハリウッド製パニック映画ブーム の時とは若干時間がズレ込んで
いるかも知れない。
あたしはあんまり映画を見ない人間なもんで……(それも「幼い頃」から)、それもあるんですが。
そもそもSF映画としての条件って、何じゃろ?
小松左京さんの作品についても、『日本沈没』の大成功のせいか、それからなのか幾つか映画化されたやつがありますわな。
『エスパイ』とか。(由美かおる出てくるんだっけ?)
んで……参ったな、いま一財産小松左京さんの資料失って数年という所なんで、『小松左京のSFセミナー』すら身のそばにないのが痛いのですが。
日本映画にとって、「妖星ゴラス」がありますわな、でもちろん、ゴジラ、ガメラシリーズがある。
こういう青春時代を 日本映画 とともに暮らしてないもので、私には日本映画における SF映画 というものがよくわからない。
実は…申し訳ない。本当の事を言うと、スターウォーズすらも、エピソード4感動した事もない。
見たのは映画館で日本語吹き替え版で見た者で、お話しは要するに最後は勲章もらってメデタシメデタシの物語じゃん、と寝ちゃいました。orz
スターウォーズ・ファンの皆様には多大な迷惑をおかけしますが、ごめん、オレ映画SF時々ダメ。orz
いや、「未知との遭遇」には感動したような気がします。「E.T.」もまぁまぁ。「未知の物体X」だったかもなんか怖かった。
でも、SF映画の条件って一体なんなの?
あー、小松論書くのに、小松SF映画にも触れておかなきゃならないかも。そして日本SF百科事典創りたかったら、日本SF映画は知っておかなきゃ
ならないですわな。それと、SF論に果たして映画は必要か?
も一回、センス・オヴ・ワンダーも見返しておかなくてはならない。
奇怪・本を読んで眠くなる現象が自分にも出現。 本を読む・読もうとして 眠くなる ←なんて現象は、かつてなら私には起きようがないものでしたが。 なにしろ、読める本と、読めない本とにくっきり別れてたもんで。 最近、小松左京さん関係の本・ご著書を読もうとするだけでも、「眠くなる」←という奇怪な体験が相次いでて困ってる。 おっとびっくり、自分、必ずしも 「小松左京さんなら」 なんでも苦(つдT)泣く(無く)読めるという人間ではなかったんだな。 でへでへでへ。 自分にも限界あったー、なんて新鮮な発見。てゆーか、それは当たり前だろう。 ましてや、学術文献として小松著作、さらには小松SFを読もうなんて、「娯楽じゃない」行き方したら。 だれか一巻 小松左京論 書いて。書かなきゃ自分がやるしかないんだけれども。 それにしてもある人の人生伝やろうとしたら、何か面白いものじゃなきゃならない。批判的な面も取り入れなきゃならない。 読むに値するもの、すなわち 小松左京 を俯瞰できるものじゃなきゃならない。 そう、1つの条件を考えます。 無いんだったら、バカでもいいんだもの、著作を一編書けばいい。違うと言ったら誰かが立つだろう。 その引き金(トリガー)を引くためだけにも、小松左京論 に挑戦する人は出て来なきゃならないと思うわけです。 小松の山を過去のものにして、越えて欲しい。 では小松論をどうするか?
小松小説や小松論作に現れる一定の傾向性やパターン、要素を捉える ↑こういう基本アイディアもあるんじゃないかと。 1つには、いったいどこから始まったののか、「未来学」の方法論というのもある。 この「未来学」の起源についても調べて置かなければならないな。 未来学といっても、アルヴィン・トフラーなんかとクロスする所はあるのかとかも、調べとかなきゃならない。(これはあんまり無さそうだ) ええと、どなたかがおっしゃってた、「関西系作家」というのも一つの視点。 これには 堺屋太一氏 とか、司馬遼太郎氏 とかも入って来るのですかね? 筒井康隆氏等の関西系SF作家の面々も、これには当然入って来る。ただしあんまり内容分析には向かないかも知れない。 小松さん独特のものを発見するのには。 視野は天文学的な分野からもなされる、というのは一つの視点でしょう。これは『日本沈没』でも『復活の日』『さよならジュピター』その他でも 出てくる視点。こういう視点を具体的に持ち出せるというのは、小松SFや著作の強みですな。 私なんか未だに太陽系がちゃんと心にイメージとして浮かびませんからね−。(天文シミュレーションソフト見てもですよ。) 個々の惑星のデータ (懐かしい) もちゃんと頭に入って無かったりするんだからね。公転周期とか重力とか、直径とか。推定組成とか。 私は惑星学もダメ。(勉強しなきゃ) 生物史的 (進化論的) な視点が出てくるのも1つの特徴。ただしこれはあんまり出て来ないみたいだ。進化論 IF SFは書かれていないみたいだし。 あ、なぜか恐竜なんか弱そうだなぁ。(近年の恐竜論の変化発展がめざましかった事もあるが) 小松SF、小松左京のウィークポイントが徐々にわかって来たぞ? (←こういうものの推定を付録として付けると、お客さん喜ぶかも) 小松さんは、その巨大な著作エネルギー資源を、本当に生涯にわたって効率的に生かし切れたか、という問題・課題もある。 これについては、作家としては『日本沈没』一作でも大成功だったという視点と (ウェルズの『タイムマシン』『宇宙戦争』だよね)、 本当はやりたかったらしい、日本沈没完全版(第二部)や 一般文学論 (文学の科学) といった点では完成を見ていない、という点においてとがある。
私は本来ハイ・ファンタジー志向の人間だから。
てゆーか、どっちかというと文芸の構造関係のモノ好きなんですが。
先にも書きましたとおり、
>>406 「ドリトル先生物語全集」的な全体構造が好きだったり、書きました、
1. 物語システム (ゲームの実際プレイに相当する)
2. 世界システム (ゲームの設定、背景に相当する)
3. 空想地図 (ゲームのボード板に相当する)
4. 資料編・追補編 (ゲームの細かい余分資料?に相当する)
みたいな、「指輪物語」もしくはトールキン系(とは限らない)ファンタジーの設定構造が好きだったりします。
だから、文芸の構造にひと工夫がされているものは、全部特色を持って好きになってしまうんですね。
ものの語り の構造 、というか。
だから光瀬龍先生の 宇宙年代記シリーズとか、ナルニア国ものがたり、ゲド戦記シリーズ、辻邦生の「ある人生の七つの場所」、
豊田有恒先生の「タイム・パトロール」シリーズ、「倭王の末裔」シリーズ、それと後期にそうなってしまうアジモフの「ファウンデーション」シリーズ等は、
<お話しの順番> ←が錯綜されてて、だんだんタネが明かされていくようで、大変興味深いものがあります。
山田ミネコの「ハルマゲドン・シリーズ」なんてのも手法としてあります。
もし 小松左京さん(先生) についても、そういう背景なり光景が、バックグラウンドに見えてくるようなら、これは壮大な話で楽しいんですね。
これの発見に努めたいと思います。
という事は、小松SFの全体を貫くテーマとは何か、また小松著作の全体を貫くテーマとは何か、という事に帰納されて来るかとは思いますが。
これの発見が大切な 目標 になってくるでしょうね。
大体の共通項の発見が、とても大切な事になってくると思います。自分の趣味上。
じゃぁ仮にそのピースをはめてみるとしたら、何になるか?
それは、やっぱり小松さんも、ダンテの子、ウェルズの子という訳で、宇宙論・(生物)進化論、だったり、仮にするのかも知れません。
小松さんのコンフェッション(告白) ダンテ、ウェルズ、イデオロギー・宗教・科学の中での「科学」の選択。 小松左京さんに強い影響を与えたものに3点、 1) ダンテ、(宇宙論) 2) ウェルズ (進化論的生物学・生物史) 3) イデオロギー・宗教・科学の中での、“バイアスがかかっていないもの”としての「科学」の選択、(サイエンス) があると思われます。 これは小松左京さんが自ら、3番目においてはコンフェッション(告白)なされている事です。 で、児童期にダンテと出会い (『神曲』、なんとかコンメーディア、「めでたく終わる物語」) 少年期に ウェルズ の著作と出会われています。 これをE.H.エリクソン的 八段階発展説 や 自我同一性、アブラハム・マズロー的「自己実現論」に当てはめてみると、 一体どんな精神・心理的発展史があったのか。僕にはわかりません。orz でも小松左京さんも「時代の子」で、そこには先代というか、「先駆者たちの偉大な功績・航跡の影響」があるのだね。 この関連を読み解いていく上で、いろいろなしていくべき事多くあり。たぼん。 その時、ダンテ、ウェルズ、サイエンス、というのは、重要な3つのキーワードになるのではないか?、と思うのです。 (最後の サイエンス[科学] というのは、児童期や少年期じゃなく、“青年期”にその道筋の選択肢が出てくる、釈迦の生老病死みたいな話です) これが準備された「あと」で、なぜか小松さんは 「SF」 というものに出会う事になります。 もし 小松さんがSFに出会わなかったら、どうなっていたでしょうか? もしかしたら、小松左京さんは自ら独自の道を究め、また別には日本は大著、『文学の科学・一般文学論・本論・本説』←を得ていたでしょうか? いや小松さんは作家だから、かえってそんなアカデミックな著作は、作家活動の中でアイディアとしては生まれていても、完成する事はやはり無かった、のかも知れません。
先生(小松さん)を、その年代時期別に分けておく必要もあるでしょうか。 幼児期 児童期 (ダンテと出会う) 少年期 (ウェルズを知る) 青年期 (サイエンスを選ぶ。いろいろ模索のあと、SF作家の道に入る) 中年期 (『日本沈没』が大ヒットする。前後以下いろんなチャレンジや仕事が続く) 高年期 (映画作りや、花とみどりの博覧会のプロデューサー、虚無回廊などが書かれる。阪神淡路大震災の経験もする) いま老年期? (いろいろとまとめの著作が目立ってくる) こう簡単とはいかないでしょうが、まとめるとこんな漢字でしょうか。 児童期・少年期に触れていた、広い文化の世界の幅・厚みの事がむつかしいですが。 小松さんを約すると、ひとつにはこんな風にまとめられるのかな。 誰かに言われる気がする。まとめられて、たまるかって。orz
ひとつのものの見方ですが…… とりあえずは、まとめてしまいましょう。 他のまとめ方は、とりあえず他の方がやってくれるでしょう。 とりあえずアプローチは、ダンテ、ウェルズ、サイエンスという3つの要素にしといて、そこに 高橋和巳 が出てくる。 左京さんの大親友 です。 ということは、ある意味ではいいライヴァル、だったと言う事もできるのかも知れない。 小松さんが、「文学の科学」という事にこだわった点においては、この方の存在が大きかったような気がする。 もし 高橋和巳 なかりせば。 “内部の友”ともする、高橋和巳研究も、若干必要にはなって来ます。 高橋和巳氏の死によって、小松左京さんは多くのものを抱え込んでしまった。 それが、後期小松SFにとって、どんなに大きい意味を持ったか。 これは一度は考えてみないといけない問題・課題です。その死の影響力、といったものを特定して分析しておかなければならない。 小松さんは友達や知人に恵まれたと言う。それは、とても大きな意味合いを持つと思う。 J.R.R.トールキンが、第一次大戦で、親友の幾ばくかを失っているように。 それが、彼の文学に大きな影響を与えているように。(大きな影として) また、人々のあり得るある理想的な人間関係のあり方としても。これは記録に値する事なのではあるまいか。 小松さんにはもう一つ、作家ばかりではない SF人脈 という、ファンダムも含めた人間関係も有る。 これが、小松左京さんを支えてくれた? また桂米朝師匠などとの付き合いも重要であるでしょう。 書かれなかった日本沈没、第二部、第三部については、また別の人が別の書き方をしてもいいでしょう。 虚無回廊についても・・・さよならジュピター第二部についても。 ●いま、小松左京を人間として支えられる人物がいるか、という事も、重大なテーマだと思います。 だから、本当は私がそれにならなければならないんだけれども。(使命として) 「継ぐのは誰か?」は、本当に必要なんです。
全教養古典の中で、 SFがどのくらいの位置を占めたかも重要だなぁ。 SFが好きな人も居るだろうし、SFが嫌いな人も居るだろうし。 SFを単なる通俗書、娯楽として見るばかりではなく、どれほど人間のものの考え方の訓練になったかという面も重要かも。 小松さんの得意な範疇に破滅SFがあるけれども、逆に生き延び、世界を建設していくためにはどういった事が必要か、みたいなテーマも重要かと思われる。いや、むしろ破滅SFの行く末が『AKIRA』とかになったりして、しかし一生懸命の生きる姿を 描くというのも、とても重要な気がする。そういう点で、SFという視野を超えて成功したのが、『アルジャーノンに花束を』 だったりする訳でしょう? 小松SF批判には、そういう視点も必要かとは思ってしまう。(このネット・BBSの某メッセージを見つつ) 2ちゃんねるは主(おも)には、連歌みたいな会話式、会話・対話に対応した、またはそれを想定したホスト形式として発展してきたような希ガス。 ただし、「使い方のソフトウェア」としては、2ちゃんねるブラウザ も含めて、やや僕みたいなメッセージの使い方も、アンカーシステムがはっきりして使い易い事もあって、参照にとても向いているシステムとも言える。 人が一生懸命現状で生きていく、というテーマでやる場合、ともすれば破滅SFテーマはそれを無駄に終わらせる面も無いではない。 ただし、『日本沈没』ではそれをいかに被害を最小限にとどめ、避難と世界への貢献を考えるか、というシミュレーションも実は入っているのだけれども。 破滅SFも使い方次第 (ツール) だ、というわけだ。 「人間の本当の苦労とその報酬を描く事で、人間を虚無には陥らせない、希望を持たせる」 というのも、文学の役割なんだと思う。 それは映画も例外では無いだろう。 『ニューシネマパラダイス』の示す希望とは一体なんだろうか? 人生のたどってきたあとでの救済、みたいなものなのかも知れない。 ホープ、希望の文学、という所で、小松左京文学を読み解く事はできない事なのだろうか? それには、司馬遼太郎の言うが如く、小説というのは半分は書き手で、半分は読者によって成立するものによって。 「読者の読み方・読む力」 こそが “試されている” ものかも知れない。
想像力 (イマジネーション) と 直観 <地球社会学の構想>と聞いて、「地球」「社会学」「の」「構想」にそれぞれどんなイメージを抱くか。 思えば、文学にしろ科学にしろ、それは イマジネーション の産物、でもあるわけですから、イメージ力をどう働かせたか、が解釈として問われる事になる。 ・地球 …… のイメージ。どんな「地球観」を持っているか。 ・社会学 …… 社会学 (ソシオロジー) とは何か。これには社会学の知識と訓練が必要でしょう。 ・の …… 助詞「の」のイメージや、使い方(遣い方)。接続詞としてもの、ときとして「所有格」としてものそれの意味のイメージ力が問われる。 ・構想 …… 構じて・講じて想う力。 まだ本編「地球社会学の構想」にまで読みが至って無いのですが(申し訳ない)、イメージとしてはこの4つの単語の意味と、構文関係をしっかり捉えきれる、 それによってイメージを拡大できる力、根源力、ひょっとして今流行の 「地頭力(じあたまりょく)」 が必要になって来るかも知れない。 イマジネーションは物事を意味的に扱うときに、飛躍的な力を発揮します。 SF的なものは、かつては戦前から「変格推理小説」(本格推理小説、に対する表現)として日本では扱われてきた 歴史 を持っていますから、推理小説的な性質を持っている事が明言されている。 その物語や提言の解釈には イマジネーション (想像力) が用いられ、ある時にはいっぺんにその 「結論」へと予感づける 直観 によって、結末を予想させたり、推理を電撃効果で襲って、小説を読むのをつまんなくさせる (ネタ割り) が起こったりするわけです。 時として物語(文学)や学問(科学、サイエンス)に その“名称”で 先行するイメージが付いたりする時には、その実際の作品や分野よりも、より発展したものに到達して、期待はずれだったり、慣習法としての分野規定から外れてしまったり、なんて事も起きかねません。 しかしその時には、それは 読者の側が作者や学術に対して、その名称によりすぐれた面に到達したりする事がある事を示唆しているとも言えるでしょう。 推理小説の面白い所は、たぶん理性を働かせれば、犯人(現象)は必ず理性によって判定できる、といった構造を持っている事なんでしょうね。
イメージ力は 与えられたものからはみ出す 力 イメージ力(イマジネーション、イマジン)というと、『赤毛のアン』を思い出してしまうのですが。 イメージ力とは、与えられたもの(与件)から、それだけにとどまらない 過剰なイメージ ←を呼び起こす力なのではないかと想います。 文学だったら(文芸だったら)、その文字・言語で表現し切れていないものを 「補って捉える力」 がまさにイマジネーション、レゾナンス(共振力)という事です。 文学・文芸読みのソフトウェア、テクニック(技術)というのには、そういった余裕心があり、そういうのが作者だけではなく、読者の側からも発見されなければならないというのが、最近の能動的ないわゆる「読者論」でしょうか。 文芸は読者を通じて初めて「発見」される、というわけです。 ものごとの魅力というものは、それに接している者の 基礎的な 働きかけ によって、単純に書かれている事が拡大解釈され、拡張されて 初めて 意味内容の深いもの、つまり 鑑賞、芸術作品になる、といった考え方です。 これが有るか無いかによって、ものの作品、ないしは学術の読み方は変わってくるのでしょう。その資質たるのが、「教養」といったものなのかも知れません。 この (与えられた与件から) はみだしちゃう力 を持っている人は、実は作家になる可能性がある人です。 というのは、それまでの 与えられた言葉や意味内容に対して、新しい意味やイメージ付けが出来る、という 「得意能力」 の持ち主ですから、足らない教養(資質)を補えば、その人は軽々と 作家 に転化しうる人なんじゃないでしょうか? 実際に今ある世界を、はみだして拡張する力 を持っている人だからです。 SFで ファンダム(ファン・アマチュアリズムの世界) から プロダム(プロフェッショナルの書き手の世界) へとしばしば人が動いていくのは、こういった現象によるものと思われます。 テクスト解釈とかいろんな方法があるそうなんですが、いったいどうやったら小松左京さんの世界をイメージ力たっぷりに描き切る、解釈し切る事ができるんでしょうか。 わたしゃ頭の痛いことしきりです。従来のイメージからは、大きくはみ出してやる必要がある。 小松左京、未踏の分野についても言及しておかなければならない。でもたぶん、それはきっと楽しい道です。
友人・知人 同時代活動の人々、社会史事件 小松文学を、社会史事件から同時代的に追っていく方法もある。 戦前、戦争中、戦後事件史、たとえば岩戸景気、三島由紀夫事件、石油危機、ドルショック、諸内閣、プラザ合意、バブルなど。電卓革命、パソコン革命なども。 世界史的事件をも入れる。(第二次大戦、東西冷戦、戦略核兵器体系による対立や、宇宙開発競争、アポロ計画、冷戦の終結、湾岸戦争など) 同時代の人物がどう活動していったか、に連関して小松左京の物語を追っていく物語り方法もある。 梅棹忠夫、加藤秀俊、高橋和巳、手塚治虫、SF仲間といった人々や、その諸先生方、またそれとはまったく関係無い日本史・世界史を構成する方々。 ウルトラ知識と調査が必要になるけど、学術の進歩や変化とともに、これはやっておいてみるといいだろうな。 というか、これ一冊読むと、とある日本史や世界史や、つまり近代史や文化史などの知識がおまけとして一斉に手に入れられる、といった構成の方が、読者さんが 副メリットがあって、いい思いするんじゃないかとおもふ。 とある人物の生き方をどう活写したらいいのか。 それが問われてくると思ふ。主人公に据えるべきか、それとも主役はあくまで時代に据えて、そこに人物を絡ませるべきか。 逆にいつごろ、人物が「歴史を作っていく」側に回っていくのか、など。 1つ目には「第二次世界大戦」の理解が大切になってくるだろう。それと世界の冷戦構造というとある時代・時期と。
相田洋(ゆたか)ディレクターの、ドキュメンタリー (NHK) 『自動車』(4回) 『電子立国日本の自叙伝』(6回) 『新電子立国』(7回くらい) こういうのも、作る姿勢としてはいいなぁ。
『地球社会学の構想』 あと約40ページ…… なのに、なかなか読み抜けられないよー。 享楽・娯楽として読み抜けている内はいいけど、それじゃぁなかなか内容が身に付かないから、真剣に小松左京さんの意見として受け止めていると、どうも理解が遅れていってしまう。勉強するスタイルになる。 そうすると、なかなか自分が 疑問を持てる力 が無い事に気が付いたりするんだな。 さて、今まで好んで小松さんのご著作を読んできたものの、今まで、どんだけ自分のその理解(受け止め)がなされていたか、疑問に思う。好きな『はみだし生物学』でさえ、どんだけ読めていたか疑問に思う。 『小松左京のSFセミナー』さえ、しっかり内容を記憶している訳では無し、こりゃぁ全部やり直しだ。 とにかくまずは一冊一冊を読み抜けないと……基礎論点がしっかりしないよ? とかくまぁ、ちょっと愚痴気味になる私でした。 ノートも取っていかないと…。
大教養 (大きな教養) の前で 世の中には、とかくSFだとか小松左京とかいっただけではなく、教養って世界があるわけですから。 かと言って私はお茶をたしなむ訳では無し、芸能(芸道)を親しむわけでは無し。 SF的教養もまた、いろんな教養体系の、そのまた一部ですから、大教養の世界においては小さいと言える。 仏教哲学、心理学、社会学、西洋哲学、歴史学、自然科学、数学、古典文献、コンピューター・リテラシー…等、 自分もあんまり教養の無い人間なもんで、(2ちゃんの板一覧を見た方がいい位だ) あんまり頭からリストが出て来ませんが… SF的教養?というのもまた小さなものだなぁ、と。 そういう視点から、小松左京さんを見ていくと、どうなるんだろう。 少なくとも視座が、常に 地球から とか 宇宙から といった視点から持ち出せるのは興味の深い所で。 一方で、一般社会から見ればなんだかな、という気もする。 自分は小松さんSFと論説大好きの人間なもんで、好きで読めますが。 他の方には、また別の視点があるんだろうなぁ。 そういう、教養からしてみても、大きな視点から眺める事が自分には出来ないのですが。 ちょっとでもそこに近づけたらいいなと思います。 小松的観点だけにどっぷり漬かるのではなく、その外部にも出ないとイケナイとは思うわけです。
日本SFのバイアス 日本SFのかかっている病い、バイアス(偏り) についても研究して置かなければならないかとは存じますが。 逆には、その日本SFのバイアスがかかっている方向が、一般日本文化のかかっているバイアスと逆方向であれば、 SFはちょうどバランスがとれて、一種の日本文化のフリーダム、オアシスになっている可能性があるわけです。 そうなると日本文化の全体像にすら、世界文化の点からも、理解を示さないといけなくなるんだな。(タメイキ) 日本に掛かっているバイアスというものには、気候学的なものから、政治政策的なものにまで幅広いものがあると思われますが。 もちろんバイアス (圧力) の無い生活なんて、あんまり考えられないわけですけれども。 この無意識・無自覚かも知れないものについても、解明を怠らないようにはしたい訳です。 それには、比較社会学、比較文化学なども、役には立つんでしょうけど。 幅広いことはそれこそ楽しみになると思います。 自由な発言というものがもし出来るとして、出来るとしたら、それは多くの人にとってより広い楽しみを提供する事ができるように思われるわけです。
文化ってなんだろ? ここでは、人間の生み出した様々な要素……といった視点から考えますが。 「文化」は「自然」と対置される事も多いみたいですね。 私の一つの定義によれば、文化とは「人間を幸せにするもの」と言う事も出来ますけれども。 文化とはなんだろー、とは思う。 文化国家といった言い方もありますけれども、それは人間を幸せにする国家の意味なんでしょうか? SFの文化は、人間を幸せにしてきたか?なんて疑問も生み出してきます。 人間が創り出してきたものとしての SFの文化 は、SF大会 というさらなる文化の下で、アニメーション文化を創造したり、コミックマーケットに変化したり、という事で、様々な影響を社会に与えて来ました。 人間の諸活動に影響を与えるもの、それが人間が着想した(アイディア、創意工夫)としての文化の実相なのでしょうが。 小松左京さんも一種の文化体なんですね。 文化には「化」の字からもわかるように、一種の影響を及ぼすもの、としての意味合いもありますし。 文化として見た場合、小松左京さんとは一体なんぞや?
いつも使っている VISTA ノートマシンからでは無く、昨日買ってきた Windows xp Home Editioon で、 内部の電源装置が壊れて、ハードオフで¥350円で買ってきたそれを外付けし、「内臓はみ出し状態」で使っている Windows Me タワー型横倒しマシン (^^;) を XP化した マシンでここに書いた記事を読んでいると、 内容がぜんぜん違うものに見える。 なんか、気恥ずかしい内容書いているなぁぁ。orz たまにはこうやって、せめては別マシン、別の場所で見ると、自分の書いた内容や記事を “客観的” に見つめられるかしら? 2ちゃんに書くという事は、一種 「公共物」 と化す 事を書いている事になるんだから。 それにしても、通常版 Windows xp OSソフトウェアで「も」、98 や Me のバージョンアップもできるなんて、初めて知ったよ。orz 本当は若いうちからいろいろと経験しとくもんだ。orz なお Windows xp 、6月30日あたりで発売が終わりになるって、本当ですか?(新規契約が、かな?)
>>452 各国のSF文化の違い
小松論ではなくて、SF百科事典を書く場合に、各国SF文化を比較してその違いを述べるという項目を立てるというのはどうだろうか?
その意味で、小松SFの位置づけが、国際的にも決まってくるかも。
そういう作用も合併症 (複合連関・関連作用) でやってると出てくるかな?両方をやってると――?
日本だと、単純に日本SFにとどまらず、国際SF百科事典の成り立つ素地が、翻訳文化を通じてあるかも知れない。
『SF大百科事典』(翻訳版) もなかなかの出来だけれども……。日本SFに特に中心を割くのは仕方が無い事だとして。
ブックオフで、筒井康隆版・悪魔の辞典(アンブローズ・ビアスのもの翻訳) を見かけました。 筒井さん、これで大変なものを引き受けてしまった、っておっしゃってたから、いまさら、 日本SF百科事典作って、とは言えないんだろうな。orz せめて筒井さんがどんな構想を持たれていたのか、それを知りたいです。ハイ。 事典じゃなく、「辞典」だった“かも”知れないけど。orz
シナージェティクス 1980年代の初めごろだったかしらん、「ニュートン」誌とかがポピュラー科学誌が続々創刊されてた頃ですな。 当時、SFマガジンで藤原博士が連載されてたコラムで、取り扱われてたドイツのヘルマン・ハーケン博士が創始された、 レーザー光線の理論が、確かこれであったと思いますが。 『協同現象の数理』 だっけ?、当事で¥5000円近くのもの、近くの本屋で注文して、目を通した記憶があったっけ。 藤原博士お勧めの本だったので。orz オレニャァ、ムズカシスギルッテ これも使えないかなぁ。散逸構造(イリヤ・プリゴジーヌ)とかと一緒にして。 「文学の科学」もしくは「一般文学論」に、果たして複雑系科学は使えるか?
やっと『地球社会学の構想』読了する。はー、時間かかった。 内容を実際にどうやって実践していけばいいのか悩んでます。 次は『空中都市008─アオゾラ市のものがたり─』講談社青い鳥文庫 小松左京 絵・和田誠 昭和60年6月10日 1985年? もちろん再刊でしょう。 やっと久しぶりに小松左京さんのものがたりを読めます。
>>453 今日のNHK、クローズアップ現代の 古い家電製品から発火する事件相次ぎ を見てでガクガクブルブル。
あんまり古いマシン買いたい気癖やめるべきかしらん。
古いSFにもそんな事あるのか?w
これは間違っているかも知れないけど。 興味ある小松・筒井比較、そして星比較 ・文芸の目標 小松 宇宙における人類 宇宙における人類の意義 筒井 美学としての芸術 諸美学的文学への開花、汎化(広がり、移動) 星 SS(ショートショート)という形式での表現の追求 形式内でのSF等の追求 こんな気持ちもするのですが、どうなのでしょうか?
空中都市008───レトロ・フーチャー。 “それから──世界じゅうで、戦争はなくなり、病気もほとんどすぐなおるようになり、まずしい人たちもなくなっているでしょう。” なかなか、そうはいかなかったんだなぁ。「核戦争」は避けられただけでも、大したものかも知れないけど。 社会は問題だらけ。でもその夢は、夢としてかつて確実にあったのでしょう。 現実の未来図は、いまどこにある?
ロボットのめしつかい── そんなの、いまでは考えられん。orz あんな高いもの、“召使い”に使う発想なんて…… いや、一部特権者には、あってもいい発想なんだろうか? ロボットって、一体何になっていくんだろうな? いま、ちょうどロボットの恋愛ドラマをフジテレビでやってるが。
すらこらかから ←ロボットと書こうとしてカナになってしまったorz すらこらかから ふーんだ!ワープロってのは (ATOKだけれども) 何やらかすか わかったもんじゃない orz ロボットのシェヘラザードですか……そういう思いつきは無かったな。orz どうやら “童話”らしくなって来た。
半分読んで挫折。orz 一回休みます。後半、だんだん盛り上がってくるみたいな感じだなぁ、いまのところ。 『空中都市008─アオゾラ市のものがたり─』。
『空中都市008─アオゾラ市のものがたり─』 6.くるった電子脳 「テレビでお買いもの」 ……うーん、テレビショッピングは実現している。 これが書かれた昭和43年(1968)にはまだその余裕は無かったかも知れないけど。 ……つぎは立体テレビですが、なかなかむずかしいようです。──そのまえに、うすいかべかけテレビ、ワイドテレビと いったものがいったものが出現すると思います。 ↑これも当たってるかな。 配達シュートのしかけ …… 品物用のコンベヤロード、品物を送り先によってしわける装置・自動選別機、 「銀行の小切手選別機は、磁性インクで書かれた符号を、読み取り機がよみとってしわけをします」 ↑アメリカや、日本のクロネコヤマトの宅急便、の出現を言っているとしたら、当たっている。(ずっと人手が多いが) 機械の声──「音声合成機」 ←これも実現している。 テレビや電話、インターネット通信網、道路の普及と自動車等の交通の普及、といったものの影響を押さえているとも考えられる。 この作品、小松未来学の総結集といった色合いもあるんだろうか? くるった電子脳は、西暦2000年問題や、自動支払機危機、いわゆるバグ問題とも言える。(実際には細菌によって起きてる設定だけど)
近所のおじさんから、谷山浩子を貸した代わりに、山崎ハコを貸してもらって、一週間以内したら、もう山崎ハコが耳に付いて離れなくなった。 そんなアンタなら、バイビー♪
リボンをしているおじょうさん いまどき、そんな人、いるか?(といるかが出て来たエピソードのあとで言ってみるテスト)
『空中都市008─アオゾラ市のものがたり─』 読了。 これを読んでいた人の中から、ノーベル賞を受け取った人まで出たんだっけ?(田中耕一さんかな?ダレだっけ) 次(8冊目)は 『ボルガ大紀行』 徳間書店 1987年(昭和62) 7月31日初版。 いまではこのルートは、「Googleアース」で追えるのよね……なんて時代になったもんだ。 時代はまだ、冷戦時代でござーい。もうゴルバチョフ政権下だけれども……
468 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2008/05/15(木) 00:18:40
あたしゃ子どものころ『空中都市008』の人形劇をNHKで見た世代でさあ。
オイラにとってSFとは 星・小松のことだったな
おれもそだけど、すでにどうでもいい いつからだろ、驚けなくなったのは > 御大の作品
>>468 友人のパソコン作ってて遅レスですみません_| ̄|○
そうですかー。「NHK人形劇・空中都市008」 ですか−。昭和43年(1968)以降ですね、放送は。
私ゃ、その時代はまだ “NHKテレビ人形劇” は見れなかったです。せいぜいで 「ネコジャラ市の11人」… あたり程度からかな?
EXPO'70 (大阪万博) のニュースはテレビでは見ていたので、単に その放送の存在 を当時知らなかっただけなのかも。orz
そっか、見ようと思えば見れてた世代なんだ、自分も。(あぁ、もったいない)
子供の時の印象は何気なく強い うちの姪っ子が2歳の時に 「美少女戦士セーラームーン」 を放送してまして、それを彼女が登場人物を全部言えるようにまで はまってしまったのには参ったな。 子供っていうのは本当に一種の天才なんですねぇ。 NHK人形劇にも、ひょっこりひょうたん島世代、新八犬伝世代、プリンプリン物語世代、等があるんだろうな。 いま考えりゃ、これらも一種SFか、SFと競合する分野なんだけれども。 人形SFっていうか、「人形劇SF」、“人形劇のSF的要素” ←については今まであまり考えた事がなかったな。 実写・特撮や、児童向けアニメ については、それは有るけれども…… (最近では、いわゆる 「電脳コイル」 )
>>469 自分にとっては、さりげなく 筒井(SF教室、にぎやかな未来)、豊田有恒(古代シリーズもの、モンゴルの残光、
タイム・パトロール・ヴィンス・エヴェレットもの)、小松(日本沈没・映画版・小説版、復活の日) などだったりします。
それと、少年少女世界SF。
のちに 光瀬龍 宇宙年代記ものシリーズ 等が入って来る。
でやっと 早川書房『世界SF全集』の一部で 火星年代記 や 1984年 を読んだりします。
>>470 自分にとっては 『虚無回廊』 が未完に終わってからかなぁ……。
『はみだし生物学』 『空から墜ちてきた歴史』 等はまだ読んでたんだけど……
あんまり一つの作家に根詰めると、そうなりますよね?
小松さんって、相当SF等に人生資源をつぎ込んでいるんだけど、結局大著を成せなかった人物のようにも思えるんだな。 『 日本沈没 』 ←はその製作スタイル、社会に与えた衝撃力とそのベストセラー性で今後も残っていく1冊にはなったんだろうけど。 大著の定義 はなかなか難しいだろうけれども、一種社会に広い意味で貢献した作品と考えてもいいかも知れない。 『日本沈没』 はその点では、これからまだ日本に、本格的な 「地震・津波・火山・台風 の複合型の災害」 が来ていない、という点において、 シミュレーション としての意義を 「まだ本格的に」 果たしていない、という事に於(お)いて 出番はまだこれからなのだろう。 特に、富士山、浅間山等の火山災害。 別の意味での 小松再評価 が待たれる。
『復活の日』の再評価は── 結局、パンデミックだっけ??、鳥インフルエンザ・ウイルスの流行が起きてしまってから再評価が遅れすぎな希ガス。orz もう危険地帯なんだ、もういいだろー (再評価されても) だと思うんだけど。 文学の広い片隅に置いとくべき 作品 じゃないような気がするんだがなぁぁ。!orz 人類滅亡ほとんどなりかけ、の結末には、それは受け入れるのは無理としてもだよ。ねぇ。orz
で、『ボルガ大紀行』 にふたたび戻ることになります。 別れた、そのわーけは、話ぃーたーくなぁーいー♪
>>477 なんか間違えた浮かれ方をしていたなorz
このあと8冊目に『ボルガ大紀行』1987年(昭和62年)
9冊目に『宗教の未来』日本未来学会 編・東京書籍 1994年12月27日(平成6年)
10冊目に『小松左京の大震災’95』毎日新聞社1996年6月25日発行(平成8年)
に向かうつもりです。
しばらく読む気がしないので、人形劇の話などを続きに。 NHK初の人形劇って何なんですか?とふと疑問。 『空中都市008─アオゾラ市のものがたり─』の人形劇化は何作目なんだろう、とふと疑問に思ってみる。 こんなトリビアル(些末な)事も、小松論を書く上では知っておいたり、調べて置いたりするべきなんだろうか? 『空中都市008─アオゾラ市のものがたり─』って放送の印象はどうでした? なんかだんだん、想像してきてしまった。
小松作品は、映画化、人形劇化、テレビドラマ化がされていて、アニメ化もあったんだっけ?? アニメといえば、手塚治虫24時間テレビアニメにも、登場人物として出てくるシーンが確かありますが。 あとご自身がテレビ番組に登場している場合、ラジオをやっている場合もある。 新聞記事や新聞連載にもなり、メディアへの露出度は割と高いと言えるか? あ、そういえば 映画『日本沈没』にも 「よっ」 って主人公に挨拶してゆく人物の役もやってたな。 (☆ わずかな俳優歴だ ★) 映画の制作もしているけど、いろいろ細かな意味ではやっているなぁ。 あ、漫画もやっているんだった。orz ややこしー人物ですね。
出した著書の正確な数、も調べないといけない。 漫画の数、小説の長編・中編・短編・ショートショートの数、 流した放送台本の実態、こういうのも必要になる。 全集に収録予定のものばかりでなく、むしろ落ちこぼれているものが大切になる。 逆に資料集めの価値になる。
勁文社刊の『小松左京ショートショート全集』全一巻(1995年11月20日[平成7年])には、192篇が全収録されているそうです。 これが全部とは、まだ言えないでしょうが……?どうなのかな。
未発表原稿という名の問題作。 これをやったら小松左京さんは怒るかも知れませんが…… 究極のある種のものは、これ。 手塚原稿じゃないんだけれども、小松さんのしたかった事の秘密に触るには、究極の可能性。 いったい何を書かれたかったのか……それが全く言われて無いものが、まだあるのかも知れない。 博物館的研究ですけれども……
推論に推論を重ねて 小松左京さんが、一般文学論(文学の科学論)をやりたかったのは、よくわかっている。 『日本沈没』第二部もやりたかった事、未完のままの『虚無回廊』も完成させたいだろう事も、なんとなくわかる。 『さよならジュピター』にも第二部があるらしい。『日本沈没』にも第三部の可能性が残っている。 しかし。 それとは別の 「長編作品」 の可能性はまったく無かったのだろうか? これを推論してみるのは、諸短編作品や、ショートショートの中に在るのかも知れない。 小松SFには、短編をもとに長編化されたものが多いような気配があるから。もしかしたら…… 短編を、もう一回洗いざらして、長編化してみたらどうだろうか? もし、かんべむさし さんの推論が正しいとしたら、「」括弧付きの多い作品には、その傾向が強いはずだ。 (つдT)泣く泣く短くした、長編アイディアの缶詰なのだから。
>>484 「人類裁判」には、"レーゼ・ドラマ、または長編のためのエスキース"
と但し書きがついていたっけ
「継ぐのは誰か」も「時間があれば書き直したい」と言っていたし、
「果しなき〜」のあとがきでも「この次は二百億年のタイムスパンで宇宙喜劇を書きたい」と言ってた
だけど、もうどれも夢物語なんだな
>>486 あー!忘れてた!orz どうもありがとう。
コマケン、恐るべし。
>>485 だよねぇ、悲しい事に……
いま自分、御大の状態がどうなのか知らないんだけどサ、具体的には……
それにしても、そんだけ、まだ可能性のあった長編等の作品の可能性があったんだ。
教えてくれてありがとうございます。
せめては夢に見たいのよ、御大が一体どのような事を本当は為されたかったのか……。
自分自身の反省でもあるんだけどさ、自分自身がレポートしてこなかったのよね。 作家さんにも手紙が書けるというか、伝えられる事もあるんだという事が……。 しかし、自分たら手紙のリテラシーも無いし。 もっと小松左京という人にも、反応(レスポンス)というか、レポートをしてくれば良かったと思ふ。 自分のお願いというか──勝手な話かな、いまごろ。 作家さんに、まじめな話、感想文というかレポート(まとめ、再集約反応、答申)をしていくのは、大切なファン活動なんだと思う。 それをしてこなかったのは、私の怠りでした。
レポート、ルポの書き方 あぁぁ、この書き方がわかんないよー。 てかこんな作文能力で 小松左京論 なんか書けるもんかい! ルポルタージュの能力すらないんだもの。 レポート作文の能力がなってないーいー。orz やれやれ、どうなります事やら…
レポートは指示の能力 指し示す力といいますか、物事を“表現する”力 ですな。 これを、遅ればせながらどうやって鍛錬していけばいいんだろう……。難問早くも多発ですわぃ。 鉄の鍛造のような文(文章)を鍛える力。 レポートは、プレゼンテーション。(指示・表現)する力。 どうやって プレゼンテーション の能力を築いていく(磨いていく)かと言えば、ひとこころに努力しかないのでしょう。
492 :
難船残尿 :2008/05/17(土) 01:01:01
>>492 おっ、おおお、ぉお?
な、なつかしぃー。(見たことは無いくせに orz)
そういえば聞いたり、ちょっとだけ部分だけ見たことあったような気がしたわ。w
「チロリン村とくるみの木」 (昭和31年4月 〜 昭和39年4月)(1956〜1964)ですかぁ。
違うネタだけど、「ブーフーウー」(三匹のこぶた)は見た覚えあるような気もする。
あとは、『空中都市008─アオゾラ市のものがたり─』がいつ放送で、何番目の人形劇だったかですね。
Google 掛けてみよ。
そう、Google に掛ける事も、Yahoo! に掛ける事もできない、癖付いてない私なのでありました。 何のための 検索エンジン の発達なんじゃっ!ちゅーのじゃ。orz おじさん にはまだそういう発想が身に付いていません。 情報の海におぼれております。orz
いろいろあるもんですねぇ、『空中都市008─アオゾラ市のものがたり─』人形劇版グッズ。 1969(昭和44年)〜1970(昭和45年)の放送らしいんですね。 見ようと思えばオレ見れたじゃん。orz ははぁー、こういうイメージなのかと感心いたしました。 典型的な昭和年代(高度成長期)ですな。美術がきれいー。 それにしても検索エンジンをもっと習得しないと……私は情報化(情報)時代のリテラシーがなっとらんのら。orz
本を数ページ読むたびに気絶する最近の私っていったい……
008はなぁ…、ひょうたん島のポップなキャラデ、サンダーバードのリアリティを見慣れた後だったから、 竹田人形座の人形劇が物凄く古臭いというか、あらゆる意味で中途半端だった印象しかない。
>>497 ああ、サンダーバードやキャプテン・スカーレットなどと較べちゃうとそうかも知れないですね。
ひょうたん島のキャラ立ちもすごいし。
『ボルガ』読む前に死んでしまう。眠いー。 どうやって新しい視点を見つけるべきなんだろか、探しながらの読書になる。 この旅も何かを探しに出かけた旅なんだって何か書いてたな──なんだっけ。 小松さんは あんまり大きな主題(テーマ) を持ちすぎたので、それで消化不良になっていった面もうかがわせるんじゃないか? いつか書きたい、と言っていたら間に合わなくなる何か。 それに向かって、作家小松左京は立ち向かって行ってしまったという観も否めない。 書き始めるんだったら、今でしかない。なんという事。 という事、そぅだったような気がする。 最終的に小松左京の書きたかった事、それはもう一回 『SFへの遺言』 等を読めばわかるだろうか。 小松先生、あなたが本当に為した(成した)かった事とは、一体なんだったんですか? それはやっぱり、人類に関した事、その上での日本人のやるべき事だったような気がするのですが……。
科学への期待と、裏切られ。(イマジネーションへの期待) 裏切られ、というと言い過ぎの観も否めないのですが。 小松左京さんが 最初に文学と分野を選ばれている際に、イデオロギーと宗教と科学、の三択があるという話がありました。 その中で、イデオロギーと宗教にはすでにバイアスがかかっているが、科学にはバイアスが比較的かかっていないのではないか?、 それであなたは 「科学」 を選ばれた、というようなケースを、おっしゃっていた記憶があります。 しかし科学は実に地道にやっていかなければならないものであり、一方では激動を経験するほどの変化を見せる分野です。 そこで、大切になってくるのは、やっぱり 「イマジネーションへの期待」 だと思われるわけです。 あなたもそれを実践なされた。科学の発展を単に待っているだけではなく、その先・未来すらをも読み取るその道を、 イマジネーションのサイエンス、サイエンスフィクション(SF)として実現、実行されたのではないかと思います。 単純に科学の進歩・進展に身をゆだねるのではなく、その人間の想像力による、一種の乗り超えを目指された。 そんな感じも致します。 科学に裏切られた、という感は無いのかも知れません。ただ、実際の科学の進展に期待以上の発展がなかなか見られなかったかも 知れない、という点は、『虚無回廊』未完の事などを思い出すと、思われるわけです。(発展方向の推定の失敗かも知れません) 私は引き継ぐとしたら、その 「イマジネーションの展開力」 を見習いたいと思います。 それがSF、サイエンスフィクション(イマジネーション)なんだと、思います。
で、どうなんのよぉぉ と、突然オカマことばで申しますが、(汗)、「イマジネーション」 を実際どうやったら実践したらいいんかい! どーやって、イマジネーション力をもって、あなたの御著作に触れればいいのでしょうか? わたしには、わーかーりーまへーん。(こら、居直っとる場合かい!)orz
竹田人形座人形劇の文化史とサンダーバード、 宮崎アニメとCG(コンピューター・グラフィックス)系アニメ・ニモ、 西部劇と時代劇、 日本SFと欧米SF、 日本文化と西欧・欧米文化、 という、比較文化的な視点。 日本的特撮技術(マレー沖会戦?、ゴジラ)と、欧米的SFX(2001年宇宙の旅、スターウォーズ) 「ルパン三世カリオストロの城」(1979) と 「TRON」(198?) 日本SF論や、小松左京論、日本SF百科事典のための( ..)φメモメモ。 アナロジーの感覚 (類比既見感。デ・ジャヴ) はないか? A.J.トインビーの challeng and response 推定は使えないか?
比較文化史的な視点から、交差文化史的な視点(クロッシング)へ 互いに立場を変えてやる文化史といったものはどうだろ。 中華文化史的な視点からはなかなか得られない文化論的視点のような希ガスるが…… 上下エジプトが一時(末期)エチオピアあたりから支配の影響を受けたように、 中国が一時チベットから一時的支配的な影響を受けたらしい事(唐代?)があるように……? 対比文化史列伝、なんて書けちゃうと面白そう。(プルタークですね)
考えてみると、サンダーバードって、体の一部分を強調してる (頭部がでかいとか) で、 日本の“漫画チック”に当たるものかも知れませんね。(それがリアリズムに見えるとは…意外な結果ですが) 『パンチ』とか英国漫画雑誌と、サンダーバード、日本の『北斎漫画』と、円谷特撮、の関係を調べてみようかな。 英国は、マンガ文化と漫画雑誌においても、一時先進国でした。
>>503 スーダン北部のメロエ文化の間違いかも、知れない。orz
日本SF百科事典に、本紀列伝方式を取り入れる。 12本紀10表8書30世家70列伝……併せて、130巻とす。だっけ? モデルのひとつとしては、面白いかも知れない。 司馬遷に愛を込めて。
星新一先生の、ヒトコママンガに関する3冊の御著書ってなんて言ったかな。 「……をするサル」って言うんだっけ……おっと、ここで “検索” に掛ける癖を付けなければ。 『進化した猿たち』ですね。 (星新一 サル マンガ で検索。) アマゾンで新潮文庫のは売ってるけど、早川書房のは無いのかなぁ。
文庫ブームとSF 星新一氏の著書を探していて、ふと 「文庫ブーム」 というのがあったんだ、という事を思い出しました。 SF関係者で言うと、サンリオSF文庫の出版とか、角川商法の時代がそれに当たりますね。 これとSFの関係も調べておいた方が良さそうですね。(1979年前後かな?)
で、 映画 「 さよならジュピター 」 が1984年作品だったのね。 こいつの失敗?が小松左京氏に大きな影響を与えるのかなぁ。? で、話は 1990 年の 花と緑の博覧会 にまで影響するのかも知れない。 自分の本来したい事、どころじゃ無かったのかも。 さらに 1995年 に 阪神淡路大震災 が起きる。 日本にとっても明るい話題ばかりではなく、暗い世相も反映していく。
1995年はインターネット元年でもあり、パソコン通信からインターネットへの移行が徐々に進行していく。 パソコンの使用形態が変わっていく季節でもある。 コンピューター通信ネットワークの発達においても、アメリカ・欧米規格がスタンダードになり、日本も、 一方的敗北の感じがある。そんな時代。 混沌の時代を抜け、まず ADSL が 日本の ISDN 構想より先に進展し、インターネットが普及する一役を買う。 グーグルが 1998年頃に開業し、世界を席捲して変えてゆき、今の 2008年 に至る。 そういえばああいう事もあったなぁ、こういう事もあったなぁ、と思っている内、なんだか先が読めなくなる。 (オレだけかな、読めないの)
ポスト小松、とスーパー小松、ウルトラ小松、トランス小松。 アメリカの情報スーパーハイウェイ構想は、日本のNTTの全国通信新幹線網(ISDN)の影響を受けているという話もあったような希ガス。 ともかく、この先ですよ、問題は。
>>511 > 1995年はインターネット元年でもあり
これ喋ってるのどこの糞アフォ?
俺は 1988年に史上初のインターネットワームと呼ばれている
「モリスのワーム」にいじめられた経験があるんだが…
>>513 あははは、申し訳ない。レスありがとう。正確に言うと ウィンドウズ95 元年とかでしたかね。orz
その前のネットが 「 インターネット 」 に名称が変わったり、した事踏まえなかったりしないといけなかったよね。
1988年 史上初のインターネットワーム 「モリスのワーム」 ですか、調べてみます……
インターネットっていう、自分にとってよくわからない事についても調べていってみないといけませんねぇ。 てゆうか、まさに糞アフォなんだけれども、ウィキで小松左京 『継ぐのは誰か?』←が出てきたから、読み返さないといけない。まさかこんな所に出て来るとは…… もう記憶が定かでなくて、てかこの作品はあんまりきちっと読んでいなかったから。 それと、インターネット←って必ずしもアーパネットとかから改名された訳でも無いわけ? もうちょっと調べてみよう。
>>515 一般名詞としてのインターネットは今で言うところの LAN のようなものを
複数つないだもの
ARPA が金出してネットワーク研究を始めたのが 1970 年頃かな
で, それでもって出来たのがいくつかの国立研究所と大学を結んで出来た
ネットワーク. その当時は TCP/IP 接続ではなかったらしい
で, 当時は軍用のネット(セキュリティに気を使わなくても良い用途のもの
だけ)も参加していたため金の出本所も含めて ARPA-net と呼ばれていたらしい
そのうち, その他のネット(IBM のマシンをつないでた bitnet とか, 電話
回線でバケツリレーしていた uuncp 系のネットとか)が, 相互乗り入れする
ようになって, internet (まだこの当時は一般名詞)と呼ばれるようになった
らしい
で, 「そのうちセキュリティ的に問題が?」とかの話が出てきて, 軍用ネットが
切り離されたらしい. そのころからなのかな? the internet とか the net と
呼ばれるようになったのは.
また聞きだから, 嘘も混じってるかもしれん.
>>516 ううん、ご丁寧にありがとう。
これで足りない知識おぎなえるわ。(笑)
518 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2008/05/20(火) 03:10:44
>>513 >俺は 1988年に史上初のインターネットワームと呼ばれている
カルトだなあ。95年が元年でいいんじゃないの。あの年にマルチメディアまるちめでぃあと
騒ぎ出したのをよく覚えている。
倒幕と新体制運動は前からあったが明治元年は1868年。
>>518 ふむ、そうやって考えると、1995年インターネット(一般活用)元年 というのは正解になるのかなぁ。
その前はいわゆる 「夜明け前」 というわけで、複雑な時代なんだし。
「ウィンドウズ95」 を間違えて 箱だけ で買った オサーン 今はどうしてるんだろう?w
日本が低迷してるなー、といった感じ(20世紀・世紀末?)の中で、そこで立ち上がりのインパクトを与えたのが、携帯電話の成功だったような気がする。 携帯電話に様々な機能やサーヴィスが付いてくる事で、日本の世の中の閉塞感から抜け出し、日本が自信を取り戻してきたような。 i-mode の開始が 1999年2月 だったそうな。(ウィキによる) それから、ネットバンキング、待ち受け壁紙、着信メロディ の配信などの有料サーヴィスが多数立ち上げられた とある。 J-PHONE の 携帯用カメラ のサーヴィス (当時は外付け) は一体いつだったかなぁ。 このあたりになると、御大が関わる分野じゃ無くなって来ますよね。 むしろラノベ辺りが付き合うニュース素材っちゅうか、ドラマ題材になってくるのかも。 いや現代小説か。 時代はSFではなくなり、本当の社会になりました。 時代の表記も 「情報化社会」 ではなく、現代は 「情報社会」 である と、実際に教科書にはっきり書かれる時代になりました。
絵理香ローカルBBSソフトウェア 古い話を申しますが、インターネット元年(1995、ただし一般の元年) の10年以内前に、地方ローカルBBS (当時は小さな草の根パソコンホスト局の事を主に BBS と言った) のホスト運営に使われていたのに、NTT系のホストソフト、絵理香がございました。 ちょっとなつかしいなー、と思って、ここに記録させていただきます。 ネットアクセス中に飛び交う 電報 といった機能とか、自分のアクセス中の表示に書き加えられる機能とか、いろいろ面白かったですねぇ。いま、草の根ホストの子孫って、一体どの程度残っているのやら? (全滅かな?) 電子掲示板系コマンドのB系、PDS(パブリック・ドメイン・ソフトウェア)系のF系、ホスト内電子メールのM系などのコマンド体系がありましたっけ。コマンドが使える人と、使えない人がかなり区別されて居た。 大手BBS(ホスト局) も含めて、あの頃、パソコン通信がどうやって今後普及していけばいいのか、が分からなかった模索の時代だと言える。結局それに回答を与えたのは、インターネット普及による総倒しでしたけどね。従来ネット文化の。 インターネットは、まるで大規模な台風災害のように、すべてを吹き飛ばして行ったようです。 ちょうどその頃、1990年代の後半を私はネット環境から遠ざかっていたので、一体どんな具合だったのかわからないのですが。 それにしても懐かしいなぁ。絵理香。とか、その他。
地方草の根BBS、大手パソコン通信ホストがつぶれて (新体制に適応して)、全国全員参加体制が立つ。 そういった中に、2ちゃんねる も立つ。 2ちゃんねるのような、一種罵詈雑言の(笑)館が建つと言うのには、すでに パソコン通信時代のトラブルから、予感できていてもよかったのかも知れませんが。 まさかこんな形でパソコン通信(というかネット文化)が成り立つとは思わなかった。 登録必要なし、ただ書き込みについて最初に納得の了解事項が一回、それで匿名掲示板、ハンドルネームの必要すらなし、それは個人の自由。(笑。いろんなのがあって笑える) みかか(NTT)さんに月何万円ものお貢(みつ)ぎをしなくてもよい、ごく安い月定額制通信料金支払い制度。 プロバイダー。夢のようです。 印象も、文字だけの世界から、HTMLでウェブページ・ホームページが作られる。 ブラウザで、印象的なホームページがカラフルにグラフィックに見られる。 意外な形で、アスキーアートが多大な発展をする。 全国全員参加体制じゃないな、ワールド・ワイド・ウェブ(グローバル)参加体制なんだな。 とんでもない時代に生きちゃった。いまだに実感が湧かない。orz 今度五年後にはどうなっているんだろ。10年後はまったく読めないな。
こういう時代の中で、小松御大の出る幕、もうあまり無いのかも知れませんね。 むしろ筒井康隆さんの方が、適応していると言えるのかも。 夢の時代は来ちまった。だから、これからの時代を作るのは未来の子だと。 私も中年化しちゃいましたから、これからは現代っ子に任せるべきなのかも知れません。 ただね、前世代の言い方から思うんだけど、自分が例え高齢化・老化したからって、社会からリタイアしてもいいってわけでも無いみたいですね。 もう俺たちは俺たちでやった、だからこれからはこれからの世代がやるべきだ、というだけではいけないみたい。 年寄りには、もうなんて言われるかわかりませんが、若い人を応援し続ける姿勢が必要なんじゃないかと思うわけです。 元気なうちは、少なくともそうでなくてはいけない。時代や社会を見放してはいけない。そういう気分や気持ちもあります。 それは私の反省事項です。 少なくとも相談役としては、生きている人はみな重要な存在なんじゃないでしょうか? 歳にかかわらず、ですよ?
小松御大の作品から、演繹的に、帰納的に、(アブダクション [発想] 的に?)、学ぶこと。 小松作品を視野を変えて試みれば、また新たな視野も提供できるのではないかと思います。 だから小松研究「も」重要だナァ、と思うのですが。いかがなもんでしょう?
本質を直観的に見抜く力。 (本質直観・カン と 地道な力・検証力) 物事は整理立てて行っても、手順には時間の限界というものもあるだろうから。 余計な時間の手間を省くには、「物事の本質を直観的に見抜く力」 、達成する力 (能力) というものがあれば いいのだろうなぁ。 本人が言っている事だけではなく、その物事の本質を直観的に推理し、見抜く力、まとめる力、発展する力などが、 有ればもっといいのだろうと思う。 達成は、こつこつと地味な力によって達成されるのは言うまでもないが、それだけじゃぁ駄目。 大きく飛躍する、アイディア力や、達成力によっても、達成されるのでないと、時間が幾らあっても足りない。 むしろ結果的には、達成されたものを検証する力が、地道な努力によってなされる、(転覆される) というのが、 本来のあり方なのかも知れない。 飛躍する力 (物事の本質を直観的に見抜く力) と 地道な力 (地道な検証力・努力によって築く力) とを、 なんとかバランスさせる事はできないものか。 どっちにしても、“飛躍する力” が無ければ、物事はみな、遅いままに時間切れを迎えてしまうものだろうし。 御大の未完に終わった大作たちの事を、ひとつのヒントとして思えば……。 ある作品の言いたいこと、表現したいlこと、についても、本質直観・カン (気付き awareness) は必要となる。 見抜いて、発展させて、より広範な解釈が必要になる、なる事が出来るようになるのかも知れない。 小松SF作品が目指したものとは一体なんであるのか。 だから、もちろん仮言や仮説は出しといた方がいいのかも知れない。
仮言や仮説 やっぱり小松SFの目指しているものは人類とか日本人とかじゃないのか?という事。 やっぱり幾つかは、鈍重でも表現しておかなければならないもので。 やっぱり違うか、という結果や可能性は無きにしも非(あら)ずではあるが。 例えば 小説 『日本沈没』 で問われているのは、日本が沈没するという設定で、関連して 日本人論 が出る訳であろうし。 でも他の作品で全部が全部、長編とか短編でもそうかと言えば、そうとは言い切れないものであるだろうし。 『首都消失』 はまた日本人論でもあろうし、もしもの秩序の回復劇でもある。 『復活の日』 は、人類と災厄をテーマに、それを人類自らが自分自身で引き起こした部分もある災厄である事で、 事態のアイロニーを表現しているとも受け取れるし。 (←ちょっと読み取りが鈍重すぎるなー) やぱ、だめだ。個々の作品を読み直しつつ、適切に解釈を積み上げていかねば。orz 『さよならジュピター』 は、宇宙時代の人類というやつを、設定として 政治劇 までをも巻き込み…… 『虚無回廊』 は、宇宙における知性の存在について問いかける…… なんて、ちょっとばか (おばかさん) かな、オレ、適切な表現思い付かんわ。orz やっぱ、地道に読書やって、着想に、追い着いて、追い抜いていった方がいい。 むしろ、小松小説、小松SF作品に、自分が期待している事でもいいか。 それは、視野の広がりです。表現の、もっとアクロバチックな事、全体性と、具体的部分性との調和。 となると、「小説作法」 といった事にも関わるようになるけど……。 小松的、小説作法、SFアプローチ法 を解釈したり、応用する事によって、一体何が見えてくるか? これも おもしろき 事なのかも知れない。
小松SFで一体何を感動するのか? 私の場合は、『日本沈没』は別として (すごい大人の作品に思えた) 実際に最初に出会った作品と言えば 『復活の日』 でしたから、『復活の日』 がお手本になるかも知れない。 一体何に感動したんだろうなー。ウイルスというものへの理解かしら。それとも、それが地球全体に波及していく、 そのシミュレーション性にかしら。著述のそこかしこに散りばめられた知識かしら。 「旅行」 ←といったケースも重要なんだろうなぁ。当時は旅行なんて夢のまた夢だったから。 もちろん、インターネットによる仮設の旅行可能性感覚の実用化といった面でも。 もう過去に一度読んでしまった、という点において、小松SFは老いてる、というか古びてる。 一方では、新しい読者を獲得する事で、それは永遠の命を持つものかも知れない。それについては、何とも言い得ない。 ちょっと今溜まっている諸事もあるもんで、再読するのはまた更に先の事になりそうなんですが。orz 人の心の胸を熱く打つ、物語って一体なんなんかしらん?
純情ロマン派、SFロマン派 うーむ、そういえば芸術思潮、文芸思潮としての ロマン派 というやつは、19世紀に流行るのでしたかね。 そん頃のあとですよねぇ。SFの原型が成り立ってくるのは。 メアリー・シェリーのゴシック小説 『フランケンシュタイン』。 フランスのジュール・ヴェルヌ や イギリスのハーバート・ジョージ・ウェルズ。 エドガー・アラン・ポーなども含めて。 コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」ものや、モーリス・ルブランの「ルパン」ものも入ってきますね。(探偵・推理小説) アメリカン・スペオペ (スペースオペラ) などの成立も含めて、この「ロマン派」 という奴は 考えとかなきゃならん一大要素なのかも知れん。 1980年代の後半のSFに、ポストモダンの要素があった?みたいな事が言われているように、SFの衰退には、この 「ロマン派」的思潮 のついに衰退が関わっているかも知れない。 ロマンチシズムに終わりがあるとは、あんまり思えないんだけれども。 単純にロマンで終わってはならぬ所に、ジェンダーの問題、フェミニズムといった問題や課題が重なってくるのかも知れないし。 ロマン派というのは、簡単に言ってしまえばモダンですわな?そして現代はその先のポストモダンの時代に入っている。 ロマン派の原理には男性原理が働いているかも知れないし(特に女性の扱いに)、 そこでポストモダンとして、批判的にフェミニズム論評なんてのが入ってくる。 うーん、素人ながら、そんな流れは無いものか? SFが面白かったのは「ロマン派」だったからで、男性と女性の関係にもそれが言えた。 でポストモダンに入ってくると(「ポストロマン派」かな?) その関係にも批判的な目が向けられるようになってくる。 サイバーパンクなんてのにも、ポストロマン派 みたいな言い方が出来るのかも知れない。 サイバーパンク、あんまり読んでないもんで、これから読まなきゃならないけれども。orz いわゆる私は、サイバーパンク (一部を除いて) 落ちこぼれ組です。orz
ポスト・ロマン派 の原理。 かつてSFがいわゆる ロマン派 (ロマンス派) で、現代がポスト・ロマン派 (ポスト・ロマンス派) だとしたら。 ポストロマン派 で何が面白いテーマになるのか、といった事も重要な研究テーマになる のかも知れませんわな。 それはSFの新しい題材を見つける事になるのだろうし、一般文芸のテーマにもなりそうな発見だからです。 パンクの文化 ってもんがどんなものなのか、あんまりっていうか全然わからないのですが。 それとフェミニズムもあんまりわかりませんのですが。orz 例えばですけど、どーいう事言われるかわからないんだけど、SFの中で新しい男女の仲を見つけてあげるとかしたら。 新しいSF需要は生まれるのかも知れませんが。 放送大学で 『現代日本社会における音楽』 なんて科目を取っていると、戦後の目覚しい変化の中に、吹奏楽部だっけ、で 男子生徒中心から、女子生徒中心になっていく変化が見られる、という特色ある記事にぶつかったりします。 いわゆる 映画 「スウィング・ガールズ」 (あんまり観てないが) の登場人物たちがそうですわな。 一方では女性の多かった 看護師 とか 小学校教師 の分野に、男性がちょと多くなっているという現象もあり? SFの中で新しい男女関係の模索をする、というのはひょっとして ポスト・ロマン派 としてのSFとしては重要だったりするのかも知れません。 ロマン派の原理 と、ポスト・ロマン派 の原理 は一体どういうものであるのか、というのを探求してみると、 読みやすいSF作品というのは、ある程度察しが付くものなのかも知れない。 もちろんSFは単純な 恋愛小説 (ラブ・ストーリー) では無いので、SF的設定というのが重要になって来るのですけれども。 SFのサーヴィスのひとつに、ラブロマンスの要素の傾向も必要なもの。 ポスト・ロマン派 の原理探し というのも、ひとつお題目に立ててみますか。
小松SFの中のロマン、ロマンス (この場合は男女の間のロマンスに限る) は、どうやって出ているのかと言うと……。 『日本アパッチ族』 …… 内容忘れた。orz 『日本沈没』……出てきます。 『果てしなき流れの果に』……出てきます。 『復活の日』……出てきます。 『さよならジュピター』……出てきます。 『首都消失』……ちょっと出てきます。 『虚無回廊』……出てくるっていうか、ちょっと夫婦間のもつれ合いっぽい。 他、長編だけでなく、短編においても、男女間のロマンス的な要素は、小松SF(小松小説)にはよく出てくるようです。 このロマンスの効果が、小松SFを古典的なものにしているかも知れない。 しかし実際の “ロマン派”ってどういうものだったのか知らないから (人間の心情・情緒を大切にするもの?) 調べないといけない。
男女間のロマンス以外のロマン。 あーと、そうだ、ロマン派っていうか 「ロマン」 の定義には、“男の冒険” みたいな所もあったんでしたっけ。 つまり 「冒険譚」 ですね。 でSFが、原型3人 (3巨匠、ポー、ヴェルヌ、ウェルズ) を除いて、その初期のスペオペ (スペースオペラ) 、冒険活劇から始まっている事は、まさに ロマン派、ロマン主義 (冒険主義) に基づいているわけです。 アジモフのSF発展3段階説 における 第一段階 はこの 冒険活劇 の時代に始まります。 冒険活劇 にも種類があって (この辺りでますますSFに疎(うと)い自分が出てしまうが) ・外部劇 (スペースオペラなど) ・心理劇・内部劇 (ニューウェーブなど?)……サイバーパンクなどにもこの要素は出る? となる? あーん、こんな事書いてたら、また糞アフォと言われかねないが。orz SFの事、もっと勉強しないといけないなぁ。 だんだん広げていったら、一般文芸にまで幅を回復していきたい。(文芸ってくくる事もないだろうが) ちなみに女にとって「冒険」とは一体なんだ?
女の冒険譚。 女性にとって、時として少年漫画は実に面白いだった時代があるようなもので。 少年活劇には、女性にとって限りなく面白い時期があるらしい。 よくは知らないが、セルバンテスの 『ドン・キホーテ』 はそれまでの中世ロマンス小説のパロディとして成立した模様ですが。 その中世ロマンス小説とは、女性に恋の仕方の手ほどきをする役割を負ったものだったらしい。 記憶定かで無いけれども。 女性にとって理想の男性の人格を発見したりとか、見つける場合(同じこと言ってるな私はorz)、モデルとして、 物語上の男性が手本になってしまったりする場合も無くはないのだろう。というか、世界の各地で、発展した叙事詩とか、 物語に、理想の人格や男性面を込めてしまうのは、結構あるような希ガス。 テレビドラマとか、映画とかにも、その効果や要素・様子はあるのでしょうが。 女の子にとって、男性遍歴というか、理想の男性の形成には、一体何があずかっているのでしょうか。 女の子にとって冒険とは一体何なのかなー。 自分も身辺に妹とか母親とか義理の姉たちとか姪っ子たちの群れとかはあるんだけど、どういうものか推定しがたい。 女の子の読み物には、恋愛の系統がやはり多いようには見受けますが。(誤解かも知らんが) そういう点では小松SFは、渋すぎるか。? 少年マンガに対する少女マンガのようなものは、あんまりSFの代表作には成らなかったような気がする。 いや、グインサーガ・シリーズとかは、どうなんだ? 女の世界を知りたいとは、気恥ずかしい話ですが (オレ遅れてるなぁ) 、 そういや、小松SFで、女子向けに書かれたものって、一体あったっけ? これも渋い問題だ。
女男に関係なく。 小松左京スレで関係ない事をあんまり一杯しゃべくりまくってもお叱りを受ける事になりますですが。 フェロモンといいますか、もし小松SFで 男女を問わず読めるもの・ところ があるとすれば、それはなんぞいや? 『果てしなき流れの果に』 のラストは、やっぱりいまいちロマンチックな感じがするんだよね。 長いときを隔てて男女が出会う、というか。 『日本沈没』のプロジェクトには、今なら本来女性のスタッフの事を、映画版のように描き入れないといけないものなのかも知れず。 D計画に女性スタッフが入り込んで来ると、一体どのような結果に終わるか。それは見てみたい気もする。 男女混合・混成スタッフのD計画なんて、原作では考えもしておらんようだし。 今なら、一体どうなる事だろうか? 宇宙開発スタッフも、そうですが。しかし 『虚無回廊』かの男性化改造した(筋肉マッチョ)女性スタッフには参ったなー。 現代はまだまだ男女混成の (これを 厚生労働省あたりでは 男女共同参画社会 と言っておるようですが) 模索期なんですからねー。 小松SFを、時代の申し子として、こうやって、女性の面から攻めていってみる、というのも一つの手なのかもです。
大学の通信指導のまとめ期間のため、小松左京著作を読破できません。orz
ブックオフなどで¥105円、などとそれ以上。 御大には申し訳無いんだけど……ブックオフとかの¥105円コーナーとかを回り込んで居たら、 御大の諸長編に関してはほとんど集められてしまった……。 あとは、「エスパイ」とか「継ぐのは誰か?」とか「こちらニッポン…」などくらいしか無い。 これらにペン入れしながら、のちのち読んで行く事になります。 ちょっと高かったけど、『小松左京ショートショート全集』全一巻が見つかる事で、これまた SS192篇については、読めるようになった。 あとは小説外だけど、これらに関しては地元の図書館にバラバラに収められているものか、 全集・完全版に収められているもの で補ってゆく事にする。 さらにそれ以外だと、ネットで 「日本沈没」のシナリオとか、書き写しノートを公開していたりする ご熱心な方も発見されたりするので、それらをも活用させていただく事にする。 短編集が特に集まりにくいので、これらは一般書店か、ネット書店(新中古書含む)を当たって活用させていただくか。 もちろん図書館も活用するけど…あんまり置いてそうも無い。 御大のネット、ホームページからウェブページ等も活用させていただくしかない。 そういえば「小松左京マガジン」の購入が未(ま)だだったな。orz 最近ではブックオフでもハードカバーはなかなか見かけなくなった。 そう言えば図書館間連携プレーも、使おうとすれば使えない事も無いんだっけ? 調べておこう。
大学図書館なんかも 地元ので県民や市民一般に公開されている例も多いので、これも足しげく調べて使ってみる姿勢も必要。 でも大学図書館で小説とかはなー、あんまり期待できないかなー。とにかく調べてみよう。 意外な発見はあるのかも知れない。
SF史の周辺 SFについても知らない事が多すぎて、また具体的作品に当たる (読む) 事も少なくて、これも補ってやらんといかん。orz やっぱり基礎になるのは 具体的作品 なのだろうし。 読めるものから片っ端。(時間の無駄になる可能性もあるが) SF論、SF史について書かれたものについても、参考になるものか、あるいは 新たに参考にする価値の出てきたもの、 については、読み返しが無ければならない。 ただ、小松左京SFの読み込みについては、これらはしばらく邪魔になる立場のものになるかも知れないんだなぁ。 できれば、あまり先行の作品 (諸著作) に触れるばかりでなく、自分で独自のSF論推定を行っておく事も必要。 自分で芯が抜ける (エッセンス、ポイント、本質を見抜ける) ものならば、それを (SFに関しても) やって置いた方がいい。 事態を混乱させるだけではなく、新たな整理視点を打ち出せるのが、事態の発展に寄与するように。 というか、てゆうか、自分の納得できる論理・論法を確立させたいだけなのです。 自分なりのSF史観、小松SF視点があってもよかろー。 臆病なりともやっておく事で、それはそれなりに 「自分にとって」 役に立つような気がする。
きらきら はぁー。一度読んだり読み直したりした作品を、一体どうやったらもう一度再生して?面白く読む事が出来るのであろうか? それには、「読み方の姿勢を変える」←という事も必要なのかも知れません。 読んでる人の主体が変わると、また作品も味わいを持って変わって来るという “可能性” を秘めているわけです。 「主体的な読み方」←って言うのかな? 自分が変わらねば テキスト (テクスト。編み物) も変わらない。そういう視点もあるわけです。 テクスチャー (編み物) の読み方には、人それぞれのものが、背景として付きまとう。 それは個々の性質として認めようではないか。そうやって出てくる 共通性 とは何ぞや? というものの見方も出てくるかも知れない。 駄作の映画でも、自分なりに補って見えれば、それはそれなりに名作になるか仕立て上げる事ができるかも知れない。 駄作を単に “消費” するのでは無く、「創造的昇華」をもって使ってみる。文句ばかり言うのではなく作ってみる、という姿勢を、 持てれば、「何か足りないもの」 の成分がわかってくるかも知れない。 こうあればよかったのになー、←という視点が持てれば、それは新たな創作なり、消費意欲の開発にも繋がるかも知れません。 反省して、ごく改まった再読の機会を得る事になるのかも。 そういった きらきら した姿勢で、ものの本は、出来れば読みたいものです、ね。 読書という名の コミュニケーション には、そんな所もあるかも知れないです。
コミュニケーション コミュニケーション理論、ってゆーのはよくわかりません、が。 作者の意図したものが伝わっているか、という視点・観点と、読者が期待したものが実現されているか、といった観点・視点の 場合があるように思われます。 読書も一種のコミュニケーションなんだろうし、一生ものの教養 づくりなのかも知れない。 一生を、何回も読めて繰り返し、生涯に生かすことの出来る作品に出会えたら、それはそれで幸福なのかも知れませんね。 小松SFには果たしてそういう教養性はあるか? あるとすれば、それは一体どのようなものであるのか? 一過性のものだけでは無い (例えば娯楽など) そういうに足るだけの教養性がある としたら、それも見たいです。 小松SFや小松著作・作品は、それに耐えるだけの 屈伸力 、テスト力 があるか。 まるで機械試験みたいだけれども、こういうのもやろうかなぁ。 とおいおい、読まないでしゃべってばかりいると、未完のままに終わった先人たちと「同じ結果」(墓穴)に終わるぞ。orz ハイ 私は果たして、ディスカバーコマツSFにたどり着く事が出来るのでしょうか?
『継ぐのは誰か?』 ハルキ文庫にあたぁー。¥760円 (新品) ほか幾らかの長編や短編集があるみたいですね。
ごめん、今 『ゴエモンのニッポン日記』 の初段見て笑ってるw やっぱ面白いw (ハルキ文庫 中古品にて。¥105円。ブックアイランドより)
『ゴエモンのニッポン日記』 は 1966年 「アサヒグラフ」 4月1日号〜9月9日号 に掲載。 1966年 (昭和41年) 12月に 講談社より単行本として刊行。 ハルキ文庫版 p35 line 12行目。 「あと三十数年、今世紀末に、世界人口が現在の倍──六十数億になるのは確実だし、」 もうそうなっているって.。orz 現在64億だっけ? しかし、宇宙人 ゴエモン というのは、手塚治虫 「ドオベルマン」 並みに奇天烈(きてれつ。借字)な キャラクター・デザインですね。
個人事ですが… ノートパソコンに、ハードオフで買ってきた格安の2台目モニターを付けて、 横並列式に2台ディスプレイをできるようになったら、大幅・格段にネットが使いやすくなった。 ふぅ。これでやっと汎用ブラウザと2ちゃんねる用ブラウザなどを取り混ぜて扱えるようになったよー。 これで少しは、書き物する時にインターネットで調べ物・確認をしながら書くことができるようになり、 便利になります。 パソコン工房では、¥2980円 のワンセグUSB を買って来て、テレビ生中継もできるようになりました。 (余分な話) 至らぬ私ですが、これでちょっとはちょこまかと、ネットでは当然の確認作業やリサーチ作業をする癖が、 身に付くようになるかしら?
あとモニター(ディスプレイ)1つあって、3つ目でワープロ打てるようになるといいな… (欲張り)
どなたかが教えて下さった 『 世界SF全集 29 小松左京 』 、
うちの市民図書館にアター!
ええと
>>370 番のレスの方ですね。ありがとうございました。
これに 石川喬司さんの解説が載っていると。
JA文庫の「果しなき〜」は今後も探してみますね。(上記の改訂版解説が載っていると。)
これで──(ダッシュ)について何かわかるとありがたいなぁ。
だんだん2ちゃんねるブラウザの検索機能の使い方も分かりだして来た。
御大、小松左京さんの 文体 の起源について、再び。 小松文体の謎…、ダッシュ(──) や点線(……)、強調点(```)、括弧(「」など)の多用はいつ始まったのか? については、処女長篇小説 『日本アパッチ族』 (オンライン年譜によると 1964年3月 (33歳) に光文社より刊行) では ダッシュ(──)にだけ注目してみると、かなり 完成されていた様子に思う。 氏が一番最初に“SF”を意識して取り組んだ短編作品 「地には平和を」 (1961年(昭和36) 「SFマガジン」第一回 コンテスト参加作品。選外努力賞) については、前半では……(点線)だけが少し目立つものの、後半にはやはり ダッシュ(──)が出て来る。こちらは氏1960年(29歳) のときに執筆されたもの。 という事は、29歳 (1960年。1931年・昭和6年生まれ) の時・頃には すでに大体この特徴ある文体は完成されていた 事になる。 という事は、更に遡って、この 「文体」 が成立した段階を追わねばならない、という事を意味する。 この文体、独特の諸記号を駆り・駆使し、活躍させる文体の完成は、“作家・小松左京の原型” の完成、と見なさなければ ならない、かも知れない。作家の “内面性” が誕生した瞬間でもあろう? ちゅーわけで、少なくとも29歳、1960年 以前 の作品や記事について、調べなくては、この文体 起源論は成り立たない事が 明らかになった。主立っては二十代にそれがあるだろうなー、と憶測で推理してみる。
20代の小松左京さんというと…
再び年譜(いまだに暗記してないorz)によると、
二十八歳 (1959 昭和34年) に ラジオ大阪の番組 「いとし・こいしの新聞展望」 (昭和34年10月5日〜37年6月30日) で、
ニュース漫才の台本を担当、とある。足かけ4年。
更にさかのぼり、1957年 (昭和32年、二十六歳) に3月、『対話』二号に 短篇 「失敗」 を書く、とある。
この二十六歳以前を探さないといけない。
ちなみに御結婚が27歳の時で、えーと、なんですか、SF者が結婚できないなんて言っている場合じゃありませんわな。
(笑)&(苦笑)
文学志望者でも、仕事をしていれば食える。作家になれる?といった てい もあるわけで。
さらに年代をさかのぼると、いろいろな作品作りの試みをやっている時期がある。散見される。
で一番最初に、神戸一中時代の 1946年(昭和21年) 十五歳の時に、神戸一中文芸誌 『神中文藝』 に ユーモア小説 を
寄稿、なんて事になるわけです。この ユーモア小説 も読めないかなー。 (出発点らしいですな)
まさか 絶対、オンデマンド版 小松左京全集・完全版 に載るようなものとも思えないですからね。
何か、触れる機会は無いかしらん?
ちなみに
ttp://www.jiu.ac.jp/sakyo/ いろんな懐かしい本のデザイン、イメージ、いっぱい有るよねぇ。
十代で小説書く 人って…、書ける人って、相当の才能の持ち主のような気がする。 と 全然書けない人 が申して居りますが。(笑)&(苦笑) ものまとめる力が無いと、決して出来ないような気がしますからね。 「もの」とは何か、といった問題もありますけれど。(物語の核心というか) 私は今でもこうやって雑文程度をたしなめる程度で、「まとまった文面・文章」なんか一度たりとも完成させた事が無かったから。 まとまった文章が書ける人がうらやましいです。 (ではなんでそんなものに挑戦しているんだ?) 十五歳でどんなものにしても作文が寄せられるというのは (この場合さらに ユーモア小説 である) 、たぶん、 ある一定の、程度の、才能のある事の証明でしょう。 その頃には、小説家・小松左京の片鱗なんて、カタコトも無かったはず? 青春・思春期にものを書く。それも 戦後の出発点 たる 昭和21年(1946年) に書いたというのは、象徴的な出来事なのかも知れません。 まだあるぞよ。「年譜」に “書かれていない事” ←があるかも知れない。 例えば当時の 綴り方(つづりかた)教育 なんてどうなっていたか、とか、小松少年が当時未熟な時期にどういった教育を受けたか、 といった事も調べて置かなくてはならない。 小学校から一時期 「国民学校」 に変わった時期・時代だからねぇ。この <教育内容> をよく調べておく事も大切なはず。 反発心でもいいから。 無意識に影響、してるかも知れない。(やっぱりダンテの方が影響が強いかとは思いますがorz)
549 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2008/05/24(土) 11:33:13
「意識の流れ」か
十代マスター・ヨーダ
>>549 「意識の流れ」 具体的専門文芸用語 デタ━━━(ノ゚∀゚)ノ ┫:。・:*:・゚'★,。・:*:♪・゚'☆━━━!!!!
ああぁあぁ、つ、ついに一般文芸・文学専門用語が踊る事態に。
私コレ苦手なんですぅ。orz
まずはウィキで調べてみたけど、なるほどね。
これは調べまくるよりも、現物に当たった方がいいかぁ。
ジョイスの 『ユリシーズ』 は、パソコン通信時代に一晩で、斜め読みをして中継記述をするなんて無茶やった事あるけど。
なんにも覚えとラン。orz
ジェームズ・ジョイス に ヴァージニア・ウルフ、フォークナー などがおありのようで、
ジョイスの『ユリシーズ』 とか フォークナー (『響きと怒り』 など) などに触れといた方が(読む)いいかな?
2単位程度で、それぞれ イギリス文学、フランス文学、ドイツ文学 もやった事あるけど、さっぱり身に付いとらん。orz
「 意識の流れ 」 が登場する前と、登場するあとについても、調べておかないといけないか。
技法として、の「意識の流れ」……の登場の事態と、その前後関係について。
内的独白 とか、無意識的記憶 といった用語もあるそうですね。
小松左京先生、フォークナーには確か触れていたような記憶があるなぁl。(と、ここで原典があるなら、『自伝』を取り出す。)
……あり?、記憶間違いかな、とあとあとで調べます。
読んでたら、「私の履歴書」のうちに、神戸一中時代「神中文藝」に寄せた作品の名前が、「成績表」 だとある。
『自伝』 ももう一度と問わず、何回でも読み直ししないと。(ヒントの宝庫なんだし)orz
>>550 演劇部作ったりとかいろいろしてる行為はそうかもですな。文化祭で時代劇やってますね。
高島忠夫さんと軽音楽活動をやったり。
『自伝』には、新聞部も作ったらしいと、記事がありますね。 (『自伝』 29ページ)
>>550 いや、日本の十代にSFを教えまくったという点で “マスター・ヨーダ” なのかな?
宿題からの逃避はしばらく続く。吉田健一。 なんかなかなか通信制大学の宿題をやる気が起きなくって…。 これも何かに役立てられないかなぁ。(また欲張り) そういう中で、柳瀬尚紀さんの 『辞書はジョイスフル』 (新潮文庫。平成8年) をちらりと古本屋で見ていると、 吉田健一についての記事がチラリ。気になって、買ってきてしまった。 総理大臣・吉田茂の子であり、大久保利通の曾孫(ひまご) に当たるという、吉田健一氏。 なんかウィキ見ていると、文学本流の流れが見えてきた。 ケンブリッジ大学キングスコレッジ中退ですかぁ。英文学の翻訳家、評論家、小説家。 われらが小松左京先生に関係する年譜で言うと、1963年(昭和三十八年) 三十二歳の時に、 五月、『オール読物』七月号に「紙か髪か」を発表、中間小説誌初登場となる。 掲載直後、読売新聞の大衆文学時評欄(5/31・6/1)で吉田健一にとりあげられ好評を得る。 とある。 吉田健一氏というのは、筒井康隆さんにおける大江戸川乱歩みたいな位置にあるのかしらん。 「認めてくれた」という点において。 しかし文学本流一般 (←この“本流”という言い方が嫌いな方も多いでしょうけど。じゃわしらは変流かと) の 話に関わるのは面倒だなぁ。日本文学史全体における、ややこしい人間関係ももつれ合ってるみたいだし。 ハァ、これもやらねばならんのか。? 吉田健一氏、1977年に逝去。享年65歳頃。その評価が小松左京さんに与えたものは大きいだろうと察しがつく。 この人 (この方) にはいったいどういう取り扱いをすればいいのだろう。 悩む。
文学・文芸全体の流れと、SF アメリカなんかだとSFを文学の成果の1つに取り上げるのはふつうらしいんだよね。 日本でも一時期そういう時期はあったみたいなんだけど、今はあんまりお盛んではない。 日本SF自体が一種の衰退現象をやっぱり迎えているというか、またSFから変格性を持ってしまった という点もあるかも知れない。筒井康隆さんとかは明らかにそうですね。 えー、文学の流れという大河の事を知らずして、SF“も”語れないかも知れず。 文学という大河は、あまりにも細分化されている事もあり?、ええとたぶん自分だけだー、よくわからない。@ 文学の全体というのと、娯楽としての、趣味としての、SFというのは、また別の視点だと思うから。 だんだん小松論からはみ出していっているけど、どーもこの問題にもコンプレックス(複合観念)を持たざるを得ない。 もうちっと、整理して扱えないものかしらねー。 「日本にとって、一体SFとは何であったか?」 またこの点にも答えておかないといけないようにも思う。 SFブームに先立つ、“日本沈没”ブーム。 これは実際には、文学的ムーヴメントというよりも、“映画化”されたショッキング映画、パニック映画、メディアミックス的 要素を持つもので、純粋にはSF的ではなかったように思う。 その点でも、文学の中でも、SFが誤解される原因をひとつは、齟齬として作ってしまったかも知れない。 メディアミックスは、角川商法はもちろん、今では当たり前の芸術工学的、というか 「アーツマネジメント」 的に普通になって いる事なんだけれども。 文学本流と、(一体“文学本流”って何なんだ?と言われるだろうけど)、SFの関係もみなくっちゃ…… って、やる作業大杉。
〆(._.)メモメモ から 整理 へ。 大切な のは「 整理すること」 である。これは当然です。 あんまり話を大風呂敷に広げ過ぎてもなー、となる。 十五歳のユーモア小説から、大学・同人誌、記者時代、会社経営、ラジオ作家時代を経て、 作家・小松左京の誕生へ。 小松左京とは一体どんな事を成した人か、これの評価。 これへの筋を見出さなければならない。 材料探しに苦悶する。私は「花と緑の博覧会」にも行けてないしなー。(大阪万博にも行けて無いのだ) 同時代の人形劇やアニメにも触れていないし。 一番やれることは、具体的小説などの文献に目を通して、判断していくぐらいしか方法論が無い? ちゅ事は、文芸論くらいしかやる事はできない事になっちまう。限定終わり、ですな。 でもそれだけじゃどうも楽しくない。何か楽しいものにしなくっちゃ。 という訳で頼りに成るのは、ひとつは今の時代、ネットを活用する、という事です。 ネットでホームページ・ウェブページを見るばかりでなく、「情報集めに活用する」といった点が現代に有効に効いてくる。 それと、人の思い出にも関わってくる事だから、できるだけそれは侵さないようにしないといけない。 うーん、私に何が出来るのかしら。 整理、整理、整理、と。google じゃないけれども、これがとっても大切。 じゃ、このあたりで吹っ切れましたんで、本業の学業に戻って来まーす。 月末までは通信指導作りで大変だぜよ。
ついでに。 自分の書き込んだレスを、インターネットのグーグル検索で見ていくと、グーグルの検索の性質がちょっとわかってくるかなぁ。 小松左京論 と 小松左京 論 で若干違いが出てくるとか。
フリーマーケット流行とSF、生活もの
つい、いろいろ思い付くもんで、戻ってきてしまった。orz
SFのいっぱい見落としている所って、例えば女性感覚。?(主婦感覚、か?)
1990年代かの、デフレで苦しい生活の中で出てきた工夫かの、フリーマーケットの流行。
こういった事は考えた事もなかったなぁ。
ガーデニングの流行。こういうのもSF的テーマではないせいか、あんまり触れられていない。
お菓子の商品の大袋化。これはみみっちい変化かも知れないけど、消費文化の変化として捉えられる。
ほか、おなじみディスカウント・ショップやドラッグストアの拡大。
(ディスカウントはもうそれほどでも無いけど。一般ではもうディスカウントするようになっちゃったから)
こういうのをSFとは言わないかも知れないけど、確実な生活上の変化に当たる。
こういう さらなる 高度消費社会の姿を、SFは描き出せたんかしらん。
と、「ラルフ」があったか。
検索で調べちゃうと (癖付け癖付け ^^;)、「ラルフ124C41+」。ネーミングはなんか英語のダジャレだったような。
ttp://manuke.seesaa.net/article/47749905.html ¥100円ショップの出現の未来予想なんてあったかしらん。
こういう生活的な事の予測は、関心が無いとムズカシイですな。
にしても女の人と書いたけど、女の人・女性 (おばさんチックな人に多いですが) の感覚ってばかにならん。
野菜とかの話になると奥深いものがあるし。農園栽培とか味わいとか処理とか料理・調味とか……。
とうてい並みの男が太刀打ちできないわ。orz
小松SFにそういうみみっちいもの (失礼orz) を見つけられるかしら。
『ゴエモンのニッポン日記』とか読んでたら見つかるかな?
書いてるといろいろ思い付くものがあるもので。 今テレビ(TBS系)では、「がっちりマンデー」で “109デパート” の話をやっていますが。 “ファッション” の事なんて全然関心が無いもんで さっぱり わからん。orz これはヨクナイんだろうなぁ。私には世間的常識があるわけない。 小松さんはその点、関心もおありになりましたよねぇ?? うー。こう言えばなんだけど、小松左京さんの好みの食事ってなんなんだろ? 何がお好きですかー。例えばお菓子とか。趣味とか。 趣味ねぇ……全然しらねぇ。情報源が無い? ってこういったみみっちい事(?)を調べてみるのは、案外大変かも。ぉぃぉぃ ひとりの作家の個性を探る上で、こんなアプローチもあるのかも。 とかは先のアーティクルを書くまでは、考えも付かんかった。 下手すると下世話になるかも知れない話ですが、お好みの料理とかは知っておいても良いのかも知れないな。 はて、そういった類(たぐい)のものを、どうやって調べたらよいのやら…。 小松さんの体格をあんなに (太めに) しちゃったのは何なんでしょうか? (失礼ながら)
どうじゃろ
宿題もやらんとだべりを続ける・こちらアホ 課と。orz 高橋和巳全集で小松左京さんと高橋和巳さんが一緒に映っている写真がある。 どんな写真だったか鮮明には忘れたけど、小松さんが京都大学でラグビーをやってる姿のままだったかも知れない。 とにかく。 文化クラブ系小松左京だけじゃなくて、スポーツ少年・クラブ系小松左京にも興味を持っていて、 それでついさっき 『自伝』 に目を通していたら、こんな部分があった。 19ページ。(略式書き方) 神戸一中時代、体はあまり丈夫な方ではなかったものの、水泳部に入る。中耳炎でやむなく退部。 その後、小さい体なのにも構わず、柔道部に入って稽古に励む。 戦後は柔剣道が禁止になったのでラグビー部に在籍して、小さな体で駆け回った。 クラブ活動らしいものを、文化部以外これとやった事の無い私にとっては、小松左京という人は、 文化部系、体育・スポーツ部系 両方 「兼ね備えた」 人のように見える。 それと、理科系と文科系の交わっている人でもあって、こんな人には立花隆とか荒俣宏さんとかが居るそうな。 水泳部、柔道部、ラグビー部、と遍歴を重ねた小松左京少年・青年。 一方で演劇部を作り、軽音楽をやり、新聞部を作り、学芸誌に寄稿する小松左京少年。 家庭は割りと理科系寄りで、それに対してなぜか文科系のイタリア文学科に進んでしまう小松左京青年。 漫画も描いちゃう、小松左京青年。 タマゴ食べたらタマゴン、怪獣生んじゃうタマゴン♪ じゃないけど (またわけわからん番組思い出す)、 なんか豊かによく活躍してますねー。 理科系・文科系 はともかくも、当時 文化部・体育部 なんてクラブ活動の区別がなされていたのかはわかりませんが。 小松左京さんの思春期は、とても面白く思えます。 (あんな悲惨な時期に失礼かも知れないが) とても積極的に生きた人、少年・青年のように思える。
小松さんが 『神曲』 に出会われたの、小学校(&国民学校)時期だと思い込んでいたら、 旧制中学校時代だった。orz (つまり、児童期じゃなくて少年期だ。) いろいろ自分、まだまだ 脳内間違い している気配濃厚だなぁ。orz
注意されない限りなかなか情緒深く読めないからセルフ注意しとく。 作品の理解がまだ甘いのよね。自分。 読んでて面白いんだけど、それをすぐ浮かび上がらせて 立体化 させて理解する なんて事があんまり出来なかったりする。 もっと小松SFを深く知りたいですよ。 つい馴れ合いのディレッタンティズム (少し触れてもう納得してしまうような軽い手合い) だったりする自分。 嗚呼、もうちょっと深めに小松SFを知るテキストが知りたい。
しょうがないんだけど、しばらく 『ボルガ大紀行』 よめねぇー。 でもしっかりと学業の方に身が入りだしたから、こちらの方で効果あるかも。 『アメリカの歴史と文化』やってたりするから、「アメリカの壁」なんかに応用効くかな? ただでは転ばず、起き上がりましょう。
今後の予定 とりあえず予定の10冊を目を通し終えておいて、さらに未読のものに目を通していく予定。 そろそろ何か小説についても、読み方心得ながら読んでいかないといけないなぁ。 『ゴエモンのニッポン日記』にしても、「ありおり侍り」←なんて私はどこまで理解できているか。orz ちなみに、これ “日記文学” の一種のパロディなんかしらん?←というのはちょっと深読みか?
ここは酸素が薄い
小松左京におけるダンテの影響について とか、注意して読んだ事無いのでわからないのですが。 どんだけ〜、影響あるもんじゃろ? 原作の 『神曲』 を肝心の読みをあまりやっていない (飛ばし読みはある) ので、 どこらあたりに 共通性 があるのかよく判別し切らん。orz 旧制中学校の時に図書室かで読んで、物凄く影響を受けたらしいから、何かの気配は残っているのだろうけど。 角川文庫の生頼範義さんのカバーイラストの印象が強くて、どうもうまく 判別 し切らん。 生頼範義さんのカバー絵を取り除いちゃうと、一体何が小松SFの文庫版の場合の印象に残るのか? まずは 『神曲』 を読み直してみるしきゃないか。 ところで、『神曲』ってラブロマンスを描いた作品でもありますよねぇ? 小松SFにものすごく男女ロマンスがかぶってくる印象があるのは、この影響?かしら。 昭和22年 (1947) に 『神中文藝』 に 「成績表」 を載せた。 次は 青春恋愛物の構想を練っていた、と 『自伝』 32ページにある。 この、書かれなかった 「青春恋愛物」 ←とは、のちに どこか作品になって蘇って来るのか? 思えばそんな事にも、気付かないのでした。 小松さん、この未完の作品の構想は、捨てられてしまったのですか? それともどこかで、のちに結実してしまっているのですか?
小松小説の、骨格分析。 これもやっていない事ですが、「小松小説」 とは、一体どんな 案出 のされ方をされるものなのか? それぞれの物語の骨格を追いながら、そこに何か 原型 (プロトタイプ) みたいなものは見えて来ないか? 小松小説の 「案出方法」 を知りたいのです。 『日本沈没』 なら、なんで 日本を沈没させる という結末のアイディアに結び付いたのか? 『果てしなき流れの果に』 なら、なんであんな時間交錯の物語になったのか。 小松SFの、その 案出方法 の秘密 に迫ってみたいのです。 『日本沈没』 なら、その手法は リアリズム と言ってもいいかも知れません。 いかにも有り得そうな現象、説得力を持つ展開、というのはファンタジーでも実践された、 また推理小説でもの、リアリズム (いかにも有り得たかのような描写) に違いありません。 でも、どうしてそこに、小松SFは発展したんだろう。 「リアリズム」(いかにも有り得たかのように描写する事・手法)、とは、なんぞいや。 まるで 現実のようにそれを描いた という手法は、『日本沈没』 の大成功を生むのでしょう。 あんな小説の アイディアの湧き方、や、描写の仕方、というのは一体どこから来るんですかぁ? また謎が、深まってしまった。 小松SFのアイディアの根源、これは探ってみる価値は十分有るのかも。
もちろんSFには、IF という想定法・方法論 (発想法・着想法) が有る。 考えてみりゃ、答えには、一つにはこれが有る訳で。 そう大したことも無し、自分が 「もしも……」 ←と思った事を自由に表現できる自由が、SFには有る。 「もしも……」という事が発想出来ない人には、SFは書けないかも知れない。 また読むにも、向かないかも知れない。 そんな分野・ジャンルです。 私たちは、「もしも……」 をよく、親しみを込めて、親しんで来たはず。 だからこその、SF だったんじゃないでしょうか? 「もしも……」 が死ねば、もしかしたら、SFは死にます。 「もしも力」の低下、例えば ユートピア などの想像力の欠如が、今日のSFの低下・低迷を招いたとも言えるかも、 知れないのです。(ひょっとしたらね) 考えてみたら、小松SFにとっても、発想法はただの IF の二文字に過ぎなかったのかも知れない。 だとしたら、とても単純で、簡単な事です。 小松SF発想の謎は、ただの「もしも……」だったのでしょうか? もしも日本が沈没したら……
小松左京という人の文学観。 小説観、と言った方が正しいのかも知れませんが。 『自伝』 32ページ 6行目。(第二段落) (『神曲』の影響もあって、) 私は小説には奇想天外、波瀾万丈の醍醐味が絶対に必要なんだと思っていた。 それからユーモア。まじめくさって人生を説くのではなく、笑いのセンスが文学の大事な隠し味だ、と 考えるきっかけをつくってくれた。 ここにも小松SFのタネ、“動機”みたいなものが見えるかなぁ。 「もしも……」 ←もあるけど、それ以上に、一層激しい “サーヴィス精神” 。 『神曲』の影響は激しく、また もともとサーヴィス制神 なのか、ユーモア精神 なのか、それの旺盛な小松少年を、 著述・著作の世界へといざなって行きます。 あんまり応用した事無いけど、私がテレビドラマ 「天下御免」 を見て、人生観に影響を深く受けたようなものかしら。?
根暗少年、「天下御免」 を見る。 もう7年くらい前かしら、小学館のヤングサンデー辺りでか、マンガ家の江川達也先生が もしもう一度見たいテレビドラマがあったら、という解答欄に、4つ答えていて、その内の3つが 自分と同じだった記憶があります。 「天下御免」、「花神」、「高原へいらっしゃい」 ← がその3つです。 すみません、こんな所で私事にますます偏りますが、この3つのテレビドラマは本当に面白かったです。 「天下御免」には心救われるように感銘を受けましたし、「花神」は後半だけ見ましたが感動しました。 「高原へいらっしゃい」はホテルマンというものを意識させてくれた作品です。 そうかー、江川先生でもあれ好きなんだー、と7年前、とっても感銘を受けました。 『神曲』って、小松左京さんにとってそんな存在だったかも知れませんね。 当時イタリアは同盟国だし、問題無く読めた作品でもあるでしょうし……。
ふと、『天下御免』 と 江川先生の 『BE FREE』 の関係性が有るのか無いのか、気にかかる。
比較少年発達史 正確には “比較少年期発達史” と言うべきか。 「コマツ サキョー」 が生まれるためには、そこに少年期が無ければ成らない。 これは 「テヅカ オサム」 にしても、「ツツイ ヤスタカ」 にしてもそうだ。 自分にとっては、これらに 比較すべき 少年期 というものを 「自分のもの」 しか持っていない。 そこで、これらに、「自分のもの」 を比較したら、どうなるか? そういう アプローチ で見ていくと、若干、これら 作家・小松左京 や 手塚治虫、筒井康隆 といった ものの 出現 というものが、理解できるのではないか? 応用していくと、小松左京氏や、手塚治虫氏、筒井康隆氏などの少年期を比較していくと、 そこにそれぞれの 成り立ち や、違い を際立たせる事が出来るのではないだろうか? とまた一人 “問わず語り” を始めてしまいましたが、自分の思春期・少年期・青年期と、 とある作家、この場合は 小松左京 さんを比較して理解するやり方は、ある程度研究に有効かと思われる。 別の場合、ここにある2ちゃんねらーが居るとする。 この人の思春期・青春期と、小松左京さんの思春期・青春期を 比較検討する事で、その相違性や同等性を 問題にできるのではないだろうか? 自分の中に、その研究対象 (ただしこの場合は人間、という人文科学的な対象性がある) と同じもの、あるいは 別のもの (異なるもの) を発見していく事は、対象性 (作家・小松左京、人間・小松左京など) の理解につながる のではあるまいか? こうやって自分のうちと外(作家存在・人間存在) を比較対象とするうち、交互に立場を変えてまとめてみる。 できない事だろうか? 愚問しながら、小松左京氏の姿を、追っていきたい。
2ちゃんねらーの人たちに、小松左京や手塚治虫や筒井康隆、星新一といった人は居るのだろうか? これは、考えてみたい所なんだけど。 この無記名(匿名)掲示板である 2ちゃんねる にアクセスしている人で、上記に相当する人は居るのだろうか? これなんだけど、両手でほっぺたをぴたっ、と軽くひっぱたいてみて。 居るような気がするんだな。これが。 何も才能というのは、小松左京氏……以下人物……、というものが指し示すものでもないし。 確かにこの人たち、この方々は、「文化的偉人」ではある。 文化的ヒーローとかトリックスターと言ってもよいが。 その枠中で2ちゃんねらーが当てはまるかしらん? 例えば、アスキーアートの発展にしても、自分の目からすれば、この19年くらいの発展には、目覚しいものがある。 古すぎて恐縮だが、(^_^) ←あたりから始まって、キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!! などの一行アスキーアートが 生まれていく過程を見ていても、僕には驚嘆に値する。 何らかの才能が働いたとしか思えない。 会話にしても、ものの(話題の)投げ方(&継ぎ方)にしても、パソコン通信の時代からインターネットの時代にかけて、 そこに常に 上記の人たちに匹敵する人物たちの関与、といったものもあったような気がする。 西村博之という人はどうなのかわからないけど。(笑) この方も十分なキャラクターです。 いや失礼。十分以上か、ホストなんだから。 ねらー と 小松左京氏 を比較するなんて変?に思えるかも知れないけど。 ボクはこういう比較対象もあってもいいかと思います。 最近、偉人比較史は流行らないし、新しい比較の対象としても、ねらー、って言い方嫌われるかも知れないから、 「2ちゃんねる参加者の皆様方」 ←という事にしておきますがw、こういう比較もあってもよいものだと思う。 2ちゃんねるの個々の個性の持ち主と、とある作家性との比較は、果たして成り立つものでもあろうか?
逆転、ねらー としての、小松左京氏。 また とんでもない事 言い出してしまったなー、と思い始めてしまいましたが。 逆転の発想をするとですよ。 戦時中・戦後の 小松左京 さん (当時 旧制中学生 で 13〜17歳) は一種のねらーだったのではないか?と思える。 そんな馬鹿なぁ!と言われるかも知れないが、大体あの時期、前半は軍国主義で、その中で 「うかれ」 と批判的な 言葉を浴び、名付けられ、そしもて、戦後には 戦前からの体育部的活動だけではなしに、「文化部的活動」にまで 手を出していく。 なんかねぇ、“反発神 (じゃねぇや反発心orz)” 旺盛なねらーとの共通性も見えてくるわけ。 ねらーが文化的創造力が旺盛か、と言えば、それは疑問に思える部分も多いかも知れない。 しかし明日はわからない。どの時代でもほんの一部が、次の時代を担っていく「文化的英雄」になっていくのはごく普通だ。 ねらーのコテハンの人なんてねぇ、なんかしら面白過ぎるではありませんか。 ねらーが歴史を作ったら、面白いよな。 分子、っていうのはもうずいぶん古い言葉です。今だったらクオークとかに言い換えないといけないものなのかも知れない。 冗談はともかく、分子としての 小松左京さん は、当時ある程度としてのねらーだったのかも知れない。 そういえばねらーの正体とか実生活ってあんまりよくわかってなかったりするかも知れませんが。 比較ねらー史、みたいなもんで、ごめんね、苦しくて、小松左京さんが少年時代にやった創作活動と (当時ネットというもの は無かったというか、本式の 「人脈」 でやるしか無かった。例えばイエーイの高島忠夫さんとか、國弘正雄氏とか) 、 現在のネット活動でやっている事とは、相似しているかも知れない。 オフライン(・ミーティング) というのも有りますが。 私にゃよくわからないけど、ごく一部の人にとっては、インターネット活動というのは、当時の小松左京さんたちがやった事 くらいの、価値が本人たちにはあるんじゃないのか? 続きます。
高級文化、公衆文化、大衆文化、そして俗衆文化 としての文化。 これはおぼろげながら、むかし(もう20年くらい)前に、古本で読んだ、NHKのテレビ文化の研究レポートだったんですが。 文化をね、時代の変遷を経て、3つの段階に分けるわけ。 例えば、「高級文化、公衆文化、大衆文化」 といった程度にです。おそらく、昭和40年代くらいまでの考えだろうけど。 それぞれ、支持階級としての支持層が違うのね。高級文化はもともと貴族とか、ブルジョワジーだし、公衆文化は 中間市民層、で、近代はそこから、「大衆」の時代に文化が入った、と言われるわけです。 NHKの放送文化研究所だっけ?、の出すところのレポートでは、この歴史を踏まえてテレビ文化を論ずるわけですが。 インターネットと2ちゃんねるの時代になると、もう 大衆文化 も乗り越えて 「俗衆文化」 の段階に入っちゃってるんじゃ ないか?、という気もしますが。(超・大衆文化ですね。通俗性の大きい。元禄文化に対する、化政文化かも) 小松左京さん(たち)の時代ってのは、公衆文化の終わり・大衆文化の始まりの時代なわけです。 いや文化は並列して、高級・公衆・大衆と残っているんだけど、小松左京さんっていうのは、ちょっと公衆文化っ気の 多い人でやんして、ヴァイオリンが弾けるとかね、神戸一中・旧制高等学校・京都大学進むとか、文学やるとか、 当時まだ少数のものだった、漫画をやる (描いてもしまう) みたいな人でしたから、現代の大衆・俗衆文化たるの インターネット文化からすれば、ちょっとか、どころか全然ちがうもの、に見えてしまうかも知れないけど。 ここは数学の「相似」っていう考え方を使って、考えてみてもいいかと思うわけです。 今だったら、ヴァイオリンは、ギターを弾くとか、ヒップホップダンスを踊る みたいな事に相当する。 ガッコは専門学校。 漫画・マンガ読むのは現在では当たり前。 (描くまでにいたる人も、クラブ活動においてならざら) 文学は……まぁテケトウでいいです。orz 映画見るようなもんでしょう。(映画作る人は少ないけど。) 第一、小松実少年は、小さいからだで、水泳・柔道・ラグビー部をこなした「運動系」の人なんですから。
運動系の人、としての小松左京。 文学やってるから文弱か、といえば、小松左京さんはむしろ硬派だったんだよね。 志望は。 でも硬派だからって、えー、あー、まぁいろいろ、ってわけではないです。 スポーツやりながら、文学。音楽もやる。演劇も新聞部もやる。 いかん、『やぶれかぶれ青春記』 読み返さないといけなくなってきた。 小松左京さんの事を考える場合には、この運動(部)系のことと文化部系のこと、 文科系と理科系がクロスオーヴァーしている部分の事を忘れちゃいけないんでしょうな。 なんかあの様子なら、今小松実少年がいたら、ヒップホップダンスしてるような気がする。 (んなわけないのか?そうかなぁー?) まぁそれはもし考え過ぎとしても。 ●文系・理系、体育部系・文化部系、の関心両立は出来てた人なんだろうなぁ。 ヴァイオリンの経験から、ギターをやる人の事については理解が進んだかも知れない。 自らマンガを描いたから、マンガが好きな人・書く人の気持ちも若干か、もしくは相当わかる。 進学したから、進学した人の気持ちはわかる。 学校でよくカツを入れられてたから、ちょっぴりそういう人の気持ちもよくわかる。 良すぎるかも知れませんが、そんな気持ちもして来ますな。 私は運動はからっきしで、文弱にすらなれなかった者ですので、なんとも言い難いですが。 小松左京さんに 「スポーツ」 が与えた影響は、相当の一考の価値がある。 水泳部・柔道部に、ラグビー部ねぇ…
やっと思い出した 極冠作戦
どうも今頃思い出すような事が多い。例えば短編 「 極冠作戦 」。
小松左京さんの 『日本(だけ)沈没』 や、筒井康隆さんの短編 「日本以外全部沈没」 ばかりじゃなくって、
世界全部水没、という IF の方程式・公式 もあったんだっけ。
話は原本が手元に無いので、インターネット検索に汎用ブラウザで頼るんだけど、結構記事あるある。
『日本沈没』 は沈没の過程をリアリズム描写手法で描いて小説として成功したけど、
「極冠作戦」 は地球両冠 (北極圏と南極) の氷が解ける事で 世界が全部というか低地が水没?してる状況を描いてる(はず)。
検索を軽く流すと、月人口が30万人で自給自足している時代。地球では大気中二酸化炭素の増加等によって平均気温が7度
近く上昇 (ほとんど棒読み) 、平均湿度は20%も上昇。「地球の金星化現象(ヴィナサイゼーション)」によって150〜200mもの
海面上昇に見舞われる。……以下は
ttp://homepage3.nifty.com/nishimura_ya/earth/komatsu.htm にて。
読んでなきゃ「思い出す」なんて事も無い訳だけれども、それにしても迂闊だった。orz
こんな温暖化シミュレーションのお話があるなんてな。
小説 『日本沈没・第二部』の想定は 地球寒冷化 だけれども、こちらの場合は 地球温暖化。どちらもやってる、というのが正解。
だったのね…orz オソイッテ、イマゴロ、キヅクノガ
これも、発想はどこからだったんだろう。金星のガスが二酸化炭素が多いという事からなのかな?
いや……氷河期のメカニズムも考えてるだろうから、その逆をいけば、という事かしら?
真相は今確かめられないけど、ともかくこんな発想はあったという事で……。
小松さん、すごいとしか言いようが無い。1973年の短編集収録作だそうな。(今から35年前)
バビロン・プロジェクト 地球温暖化で水面が上がる話といえば、ご存知 『機動警察パトレイバー』 (マンガ)ですわな。 アニメは映画以外はあんまり見てないのでなんとも言えない…。 地球温暖化は、オゾンホールの拡大から始まって、地球環境の変動の一環として、1980年代後半に出てきたお話なんだっけ。 それからもう20年以上…。 バビロン・プロジェクトというのも、実現する話なんだろうか?
>>581 あ、ありがとう〜。全然“重箱の隅”なんかじゃない。いつもお世話になってます。orz
掲載は 『SFマガジン』誌 だったんですね。
なら、1967年 (昭和42) の作品なので、今から 41年前 の作品ですね。
ちょうど 『日本沈没』 の構想本格化に入り始めていた頃……かな?
象の皮にノミ 今、ウィキペディアのタモリさんの箇所にアクセスしてきたんだけど、タモリさんも超多趣味なんだなぁ。 小松左京御大もやってる事多大だから、こんな自分って巨象の皮膚にノミが居て、わかろうとしてるようなものだわ。orz それでも、続けよう。なんか、知りたい。
いかん タモリさんを調べたら、ビートたけしさんまで調べ始めてしまって、はまってしまった。 でもこれも比較材料になるか? いろんな人生あるんだなぁ。 小松御大も父親の会社の倒産、ご経験されているし……。 追うことはいっぱいある。 でもそれは私事にわたる事で、作品には関わりの無い事なのかも。 ご著作をだんだん思い出して、めくっていこう。
やっぱり見るものは選ばなきゃならない、読むものは選ばなきゃならない。 なんかねぇ……ある人の亡くなったのを機会に、徒然草137段 の言葉・文章を知って、身に沁みてしまった。 やっぱ 見るべきものは選ばないといけない、読むものも選ばないといけない。 いつも臨戦態勢にあるもんなんだねぇ、人間というやつは。 僕は、小松左京先生の御著作を選んで良かったのかしら、良く無かったのかしら。? 僕的にはよかったのだけど。(笑い) 疑問をも持ちながら、これからも生きていこう。
演劇や芝居の検討 小松小説は私にはいかにも小説小説に見えるので、こんな事はあんまり関係無い事かも知れないが… 小松小説(SF)に、演劇の果たした役割というのはあるんだろうか? 卒論はご存知、イタリアの演劇家ピランデルロ。 放送脚本を書き続け…… 中学校(旧制)で演劇部を立ち上げる。 「のらくろ」なんかは、ご存知その構図に演劇的要素(お芝居的要素)が濃い。 でも、小松小説の場合にはどうなのか。 あー、直接読み直さないとわかRない。小松SFに「演劇的効果」というのは有るのか無いのか、と言うと。 今度読むときには、これもヒントに読んでみよう。 音楽とか、演劇とか、叙事詩とか……、小松SFに影響したもの(かも知れないもの)はややこしいなぁ。 それとスポーツの影響。あるかも知れず、無いかも知れず。 そういえば 『日本沈没』の小野寺や結城たちの肖像、田所博士等も含めて、ちょっとスポーツくさいかなぁ?
ラグビー とある人と「戦略」の話をしていたら、その方がフットボールをやっていた方で、 フットボールには 戦略 っていうのは深く関係しますよ、というお話をおうかがいした事があったなぁ。 ラグビーだって、作戦立てて計画的にやるよね? つまり 戦略的 な要素も入ってくるスポーツだろうと思う。 このスポーツの影響は、小松SFには深く影響は入っていないのだろうか? この疑問に答えるには、どうやったらいい? 柔道だったら 受身 をやるよね。 この受身とか柔道の作法、柔道部やってた小松SFに影響の影はあるんかしらん? PF(ポリティカル・フィクション)で “何月の何日間” ←とか言う作品(短編)無かったかなぁ? うーん、というか、これらの作法、小松SFの制作姿勢に現れているんじゃないか?? どうやって調べていいのかわからないけれど。 ただ小松少年・青年時代の柔道・ラグビー等のスポーツ文化の運用水準がわからないといけないんだな。 レベルがあんまり進んでいなかった(精神論的時代だった)可能性がある。 それでも、経験したものはどこかで無意識にでも活かしてる可能性はあるか、残るんだけどサ。
長編の読み方、短編の読み方 『果しなき流れの果に』、題名もいいんだけど、ふと一部を覗いたら、野々村浩三・野々村佐世子(旧制鴨野) ←で 墓石が立つの、二〇一八年なんですね。あと10年だ。 大学の通信指導から逃げてばっかり居る私だけど、それも6月2日までには終わりが来ます。 それから 『ボルガ大紀行』 その他に触れようかと思っているんだけど、 それから一時は、やっと諸長編・短編の一部に触れていってもよいような気がして。 でも 長編の読み方 とか 短編の読み方 とかで違いはあるのかなぁ?と思い。 まずは 『果しなき流れの果に』 あたりから読み直してみようかと思っているんだけど。 (いまちょっと読んだところで、面白そうだし) この作品を読む前に、心構えなど、要るのでしょうか。 長編をチェックを入れながら読むことは、さぞしんどい事でしょうねぇ。 でも手元に大幅に短編集が足りなくなっているので、長編しかチェックしながら読めるものがあまり無い。 でもとにかく、やれやれ、どうやって読んでいったらいいのか。 愚痴言ってる場合じゃないな。まずはどんどん読まなきゃ。(笑)
大学 角川文庫版 『果しなき流れの果に』 12ページ。 ……(省略) だが学者の世界では孤立させられており、その研究はアカデミストから白眼視される ことが多かった。その研究が、従来の盲点をつけばつくほど、敵視されるのだ。──大学とは、 もともとそんな所だ。 この番匠谷教授の説明記述は、いったいどういう所から来たんだろうか? モデルは居るんだろうか? なんだか、また読みたくなってきたなぁ。『果しなき流れの果に』。 とても静寂で、神秘的な始まりのような気がする。
赤塚不二夫 これでいいのだ!? 昨日NHK夜10時からの 赤塚不二夫 先生の特集番組を見ていたら、 赤塚先生 の若い頃ってものすごい事してるのね。 集団 「アイデア会議」 (一種のブレーンストーミング) やって集団でギャグ漫画発想して、マンガ量産の達成をする。 ものすげぇー。破天荒っていうんじゃないんだな、なんか常識人がそれを破壊していく感じ。 筒井康隆さんに近いのかも。 フジオ・プロダクション、恐るべし歴史。 てなんじゃん、小松左京先生と何の関係も無いじゃん、と思われるかも知れないが。 そこが 「時代」。 こんな人がぞろぞろ出てくるのが、昭和ヒトケタ時代とか、フタケタ初期(10年代) の凄さなんだよね。 小松さん、筒井さんあたりが昭和ヒトケタ。 赤塚先生が 昭和10年生まれなんだそうな。そのアラウンドで フジオプロの アイデア会議 メンバーが決まる。 宮崎駿さんは昭和10年代後半の辺りなんでしょ? (とここでまた、インターネットで調べ物をしない悪癖に気付く。汗) 宮崎駿さんは 1941 (昭和16年) 生まれですね。 筒井さんは 1934 (昭和9年) ですね。われらが小松さんは 1931 (昭和6年) ですね。 とにかく、とんでもねー世代の時代ですねぇ。 といっても、われわれ若手?から十分に才能発揮の時代が時間として十分にまだ成ってないという事もありますが。 ひとが大成するのには、それなりの時間がかかる。 って事は、これらの世代が特別だ、っていう訳でも無いのかな。 時間を置けばちゃんと次世代も、これからの世代も……安心していいか。(笑) ちなみに手塚治虫先生は…… 1928 (昭和3年) 生まれだったのでした。
ウィキペディアの小松左京の項目が更新されている──っ。 先のレス書くのに参照にウィキ使ったら、小松左京先生のページが更新されている事に気が付いた。 『自伝』 の記述を使い、あとづけをして更に充実・パワーアップされております。 ホッ。 よかった、安心した。 更新してくださった方、ありがとうございます。 こうやって健全に?、使わせていただいてます。 orz オレイノセイザ このウィキ書くだけでもどんだけの労力なんでしょうかねー。大変つらい(楽しい?)と思うんだな。 ここで雑文やってる私っていったい……。(キートン山田の声で) 後半に続く。(続かないって!)
地学が大好き? 先にも書いた事があるんだけど、小松左京さんが フォッサマグナ とか 中央構造線 とか知ったのは、 いつ頃の事なんだろ? それは……中学校(旧制)の授業でやったりするもんなんだろうか? はて?そういえば結果はともかくとして(旧制高等学校に合格とか)、旧制中学校でどんな科目が好きだったとか、 得意だったとか、の情報が入ってこないな? 個人的なプライバシーに相当する部分なのかしら? そもそも 「地学」 ←という科目名が成り立ってくるのはいつの時ぞ? 日本教育史を調べなければならなくなった。 旧制中学校の事調べていたらわかるかな? 日本沈没に当然のこととしても山の事がたくさん出てくるのは、京都大学の登山文化と何か間接的関係は有るんかしらん? 私は確かこの小説で 濃霧(ガス) ←という言葉を知りました。ハイ (濃霧・ガス は海洋でも山でも使えるみたいですが) 小松先生、たぶん地学大好きなんだろうな……と思いきや、本当はどうだったんだろうか? 『日本沈没』はたしかに地学的ドラマですが、にしてもまぁ、なんと断層とかの記述が入ってくる事か。 (ただしうろ覚えでまた書いてやんす) これら理解したり、とにかく作品書くために 地学 の勉強をなされたのか、興味あるなぁ? たぶん……地学の事・関連事項は好きなのだと思う。いや、もっと大きく「科学」の分野に照らしてか? 私は大地震が来ると言われながら、なかなか来ない一地方に住んでいるので、あんまり実感が湧かない。
地学・地球科学 と、リアリズム『日本沈没』 リアリズム『日本沈没』の感覚が生み出されて来るのは、そこに地学・地球科学の知識の運用があるからで。 そのとてつもない、でっかかったり、細かかったりする知識の用い方にびっくりするわけで。 いや、恥ずかしながら、たぶん、です。 リアリスティックな感じのする『日本沈没』では、その記述の過程が予感させる(暗示)ようにミステリアスで、 そして序編 (第一章・日本海溝) から、本編 (第二章・東京 以降)へと話が展開していく。 SFの面白さは、ああいうリアリッシュというか、非常に微に入り細にいり書き込んである所にあって。 それ自体で、空間が存在するかのような感覚を生む所だと思う。 そういう感覚を生めれば、読者は自然と付いて行く。 て、考えてたら、「リアリズム」ってなんぞいや?という思いが強くなり。 現実にある道具(知識など)を使って、精緻にわたる描写をやるのが リアリズム (あたかも現実であるかのような フィクションを作り出す能力) なのかな? いかん、なんかアホレスになった。orz あの当時、地球科学の進展の度合いは激しかった。プレートテクトニクスという転換期を迎えていた。 科学とのそういうタイミングも、ベストセラー作品が生まれる原因なのかも知れないですね。 ヴェルヌの「八十日間世界一周」にしても、ウェルズの「宇宙戦争」にしても、です。 アホレス、すいません。orz もうちょっと勉強しながら、レスしていかないといけないな。 でも疑問もどんどん浮かんでくるので……つい書いてしまうのでした。
『継ぐのは誰か?』は甘く見てた。 『継ぐのは誰か?』 を手に入れて来ました。ちなみにまたブックオフで手早に。 いずれお詫びに (それも早急に) 小松さんの印税入る作品を手に入れなければならない。 まだ読んでいないんだけど、告白するとこの作品、『継ぐのは誰か?』 は甘く見てた作品です。 小松左京氏の作品で、あまり珍しく相性の少なかった作品と言える。 あんまり……読む気起こらなかった作品なんですね。 だから小松作品が苦手な人の気持ちがわかるためには、丁度の作品なのかも……。です。 今回 『果しなき流れの果に』 よりは先に読んでおくといい作品かなぁ……? 先に通信指導完成し終えて、手早く読んじまいますか。 はよ通信指導 (難しい) 完成させよう。
『継ぐのは誰か?』 の研究 昨日で通信指導 (通信制大学です) が終わるかと思いきや、知人とだべりまくりで6つのうち1つ残ってしまった。 あはははは、遺憾。orz 提出期限に今日までで間に合うか〜?みたいな状況になってますが。 それにしても、インターネット・グローバル(コンピュータ)ネットワークに関係があるという事で (ウィキの記述) 『継ぐのは誰か?』 には関心を持ってしまう。 どこのあたりがグローバルなコンピューター・ネットワークに関する記述なんだろ?と 斜め読みしながら探してみたけど、偶然ながらその記述にはめぐり合えず。 こりゃ、本格的に読み直さんといかんな、と思い。 『継ぐのは誰か?』 は繰り返すけど、なぜか?苦手な書物・ご著作なんですね。小松作品としては。 なぜ自分にとってそうなったかはわからない。 話をたどっても、なんだかあんまり感動しない。 でも、それは 「今まで」 の事であって、これから 読み直す にチャレンジした所で、変わって来るかも知れない話ですが。 いや、“印象” 変わって来たりして欲しいです。 うーん、そういえば違うかも知れないけど、なんか 空中都市008 の原作本を思わせる書き方なのよね。 偶然か、勘違いなのかも知れないけど。 ジュヴナイルな感じがする、作品冒頭だと思います。 早く読みたいです。『継ぐのは誰か?』 。 イオ・小松左京事務所の作品一覧で調べてみたけど、 1968年(昭和43) 6月 SFマガジン初出掲載の 作品なんでしょうか?
そういえば、キャンパス・ネットワークと言えば…… 放送大学のインターネット設置 (学生に、選科履修生等も含めて ID、メールアドレスの交付) が、 1999年 (平成11年) の秋ごろだったような気がする。 当時は、吉川弘之先生が、放送大学の学長を、日本学術会議の議長も務めながらされていたと思います。 インターネットは付いたんだけど、あんまり個人的には使わなかったような。 やっぱり家庭 (自分の個人生活部屋・家・アパート等) からアクセスする事ができなければ、 あまり便利で無い。 (当時私は当然のように、自宅にインターネットアクセス回線が有りませんでしたから) でも他の方には、大学の地域学習センターのアクセスポイントをビシバシ使って (ノートパソコンは全部 その地域の学習センターから端末として貸し出してもらえた) 情報を引き出して活用していた人も居ました。 学校の特殊な教員免状か許可証を、インターネットで探し出して取った方もいらしたなぁ。 私は、なんか恥ずかしくて疎(うと)いから (放送大学のセンター空間に居る事が) 、 なんだかそんな便利な環境を早めに手に入れながら (地元の県立大学のネット整備より、大幅に早かった。 地元国立大学がノートパソコンの必携を決定しても、そんなに遅れが無かった) 、あんまり初期の インターネット環境を使いこなす事は、おくびれてて、あんまり使う事は無かったです。 まぁ放送大学には、高齢の方や女性の方が多いという事もあって、なかなかヴァラエティに富んだ場所 でもあるのですが。 『継ぐのは誰か?』 の冒頭に出てくるような話題がはずむという事はあったかなぁ、いやいろんな人が居ますね。 その中で自然とコミュニケーターというか、コミュニケーションを取る人が決まってくる。 広く世界や社会全体の事に関心を持ちそれを広げていこうという人も居るし、 自分の関心領域を深く掘り下げていく人も居る。 それぞれ、千差万別です。 私のわずかながらのキャンパス生活では、感じる所によると、人間さまざまですね。(先生もですね)
インターネット世代の子供たち そゆわけで、私はなぜか平成10年 (1998年) には全国ネットワーク化された通信制大学に入っていたので、 インターネットに接する機会も偶然早めに来たのですが。 高齢?になってやっと来たので (もっとも20代でパソコン通信の経験はあるが) インターネットに馴染めず、 最初期はインターネットの普及に、とまどってばかりいました。 一方で自分が子育てにも関わった姪っ子の一人の場合だと、小学校からインターネット世代ですから、 小学校で最終的にはインターネットクラブの副部長を務めたりしています。 なんか、それで昔あった あれNHK?の 「金曜書き込みTV」 に参加したりなんかしてたみたいですが。 おうちにも、うちとほぼ同じ頃 (2004年頃だった?) にADSL回線を引っ張っており、(あんまり豊かな 家庭というわけでもないです。でもそこは、よくあるパパさんの気まぐれですから) それででしょうが、 でもまぁ、格別、「インターネット世代」 だからというわけでもなく、印象も無いのですが。 インターネットだからって、特別の目的を持たなければ、これといったものでは無いでしょうからね。 ましてや、未成年のレベルで、危険な所にアクセスするわけにもいかず、(当たり前です)、 ブラウザや検索サーヴィスを使って、実現出来ているのはどれくらいやら。? 私は最近の若い人々 (大幅に言ってティーンズ。小学高学年を含む10代) の事がわかっていないかも知れませんが。 「コミュニケーション」 としてのインターネットでは、どんな事をやっているのかわからない。 無料ソフトやサーヴィスをダウンロードしてくる、という点では、私には理解可能なんですけど。 と、天下の 「2ちゃんねる」 に書き込んでいる私はなんなんだ?という事にもなりますが。(笑)&(苦笑) ねらーも結構高齢だという感じは、私にもよく実感がありますから、なんですけど。 そう……『継ぐのは誰か?』 を読みながら、インターネット世代以後、ポスト・インターネット世代の事も含めて、それを考えてみるというのも、いい機会かも知れませんね。 少なくとも、「メール」を打つ文化が発達したおかげで、ある程度家族の親和力が高まった部分もあるのではないか、と思います。
ポスト・インターネット インターネット以降 パーソナル・コンピューターによるネットワークが活発になってくるのは、1980年代以降なんでしょうか。 草の根BBSなんかになると、なんかシカゴでーなんて話も読んだ覚えもありますが。 こんなネットワークが実現する事を、まったく予感していなかった人々も居るでしょう。 そういえば、日本では1980年代かのオフィス・オートメーション化時代に、でもなかなかミニチュア化していく パソコン (コンピューター・ダウンサイジング) についていけず、というか “物凄く適応積極的でない人々” が 居て、「デジタル・おじん」 (略して デジン) ←なんて人々も数多く居ましたっけ。(汗) 自分が 「コンピューター」 (パーソナル・コンピューター。“パソコン”) なるものに自分から触れていき、 慣れていく事が出来たのは、まったくSFの影響かと存じます。 「コンピューター」 ←というものの“印象” と、いわゆる 当時の マイクロコンピューター というものの印象には 大幅な ズレ があったのですが、それでも 本体5万、モニター10万 の FM7 を友人が持ってあせりにあせり、 なんだか 胃の痛くなるような経験をし (トフラーの言う 早く来過ぎた未来、「フューチャーショック (未来の衝撃)」 症候群 だったかも知れない) 、それで ¥29800 (ニキュッパ) のパソコン、パナソニックのMSX2 を見つけなければ、 「今頃」 どうなってたか。orz その関連誌 『MSXマガジン』(名編集!)で、「ウーくんのソフト屋さん」 でタッチタイピング練習ソフトを打ち込み、 練習、いや、その前に 田口編集長 のお勧めで ブライド・タイピング の練習をする事を始めなければ、今頃、私は、 いいかげん社会不適応症候群なのに、「更に」どうなっていた事やら。orz そうやって、NHK学園のMSXパソコン講座もあり、パソコン通信にも入門し、現在の私が在る。 インターネット後、ポスト・インターネット後のネット、及び社会は、いったいどうなっていくのでしょうか? そんな事も感じさせ、考えさせられますね。 そんなきっかけが、『継ぐのは誰か?』 を読む事で、つかまえられます事やら。?
「継ぐのは誰か?」は、昔読んだとき、推理小説+明るい学園小説+未来年 の感じで、おもしろかった。 ただ、エネルギーとしての電気と、情報としての電気とが、ややごちゃまぜになっているのが残念。
確かに、『継ぐのは誰か?』っていうのは、推理小説の感覚と、学園的感じの印象はしますね。 学園都市だったでしょうか、未来都市 の感じというのはそこに有るのかも知れない。 た、たのしみになってきた……わくわく。 あ……調べたら、ハルキ文庫版で55ページ、ヴァージニア“大学都市”(ユニバーシティ・タウン)←だった。orz
でも先に、『ボルガ大紀行』(1987)等をやっつけないといけないのでした orz もう図書館からの貸し出し期間は大幅に過ぎ、でも蔵出しの本だからまた出すの面倒だし。 この際、一気に借り切って読んで、また本棚 (図書館の蔵の中) に返却しましょうか。orz ゴメンネ、トショカンさん 「ボルガ」 と 「カリーニン」 の章を読み終える。 関西テレビ放送 の番組取材のための旅だから、700キロの機材を8人がかりで運ぶのが大変なご様子。 われらが御大も運びの手伝いをやって、おまけにベルトがおなかに力を入れ過ぎて吹っ飛ぶありさまw いろいろとソ連・ロシアの知識がちょこまかと入って来る。 これから結末に向けて、旅はどうなっていくんだろ。わくわく。 でも確かに腹圧というやつはすごい。ベルトのバックルの留金具が切れてしまったそうな。 どっとはらい。
>>604 そだね。それが最大のテーマだったかも。(笑)
『ボルガ大紀行 「ウグリッチ」の章 「進化とは何か?」をテーマとした 『継ぐのは誰か?』 にいずれたどり着くとして。 『ボルガ大紀行』 はだんだんロシア史に迫っていきます。 しかしダジャレ好きのTプロデューサーが、ネクラソフという人物の孫がいるというくだりで発する、 「お孫さんの方が、明るい顔してはるやろ。お祖父さんの胸像は深刻そうだけど……」と Tプロデューサーが口をはさむ。「これがほんまの ネクラ祖父 ……」 ……というのは……。orz 御大、大変でしたなぁ。あわててさえぎってますもん、このダジャレを。w 1980年代という 特殊な空間 という事もありますしね。この場合。 (タモリが流行(はや)らしたんだっけ、ネクラとネアカ。)
宇宙戦艦ヤマト等の呪い、そして小松左京を越えて。 宇宙戦艦ヤマトとか、小松左京とかだけじゃない話なんですが…… 某所で 宇宙戦艦ヤマト について書いていて、自分がいまだにその発想の枠組みから脱け出していない 事に気付き…… ガミラスってねぇ、あんだけ科学技術力があって、銀河系間飛行も出来るし、なら、 他の星を地球に遊星爆弾を落としてガミラス化が図れるくらいなら、途中のビーメラ星とか 放射能化してある程度の殖民も出来ているんじゃないか、とか。 テラ・フォーミング ならぬ、ガミラス・フォーミング だってできる技術力あるでしょうがっ! てまぁ、それは時代の背景ってやつはあります。(1974、昭和49〜50年だもんね) でも本当にうっかりしてたー。 ガミラスのやってる事は、おかしい、です。 植民地星だって、ビーメラだけじゃなく、他に無数もあるだろうしね。 その膨大な数の星を従えたガミラス帝国が、いちいち地球ごときに移住する理由はなんじゃろか?と。 あぁまとまらない。 オカルティックな事から、脱け出せなかったオウムの連中の事笑えない。自分もだ。orz まぁ話はそういう方向へ行かなかったから私の場合はよかったものの。 なんかなー、今頃気付くなんて、遅すぎ。orz ビーメラ星の場合、資源の問題に関する 生態系の多様性の維持、の問題・課題なのかも知れませんが。 地球ねらったのは、宇宙地政学的位置があったから、なのかな? ええとー、小松左京SFについても、同じことがひょっとして調べると言えるかも知れないですね。 これは調べないといけない、とても最重要な一件のひとつになってきた。 テレビというのは、ある意味ではものすごい洗脳マシンになりえますから。 映画もそうですけど、小説も例外ではない。 きちんと、その発想の枠にいまだにとらわれていないか、「チェック」する必要があります。
ガミラスは、地球人のその後の発展を恐れたのかなぁ? おぃおぃ、また小松SFとは違う方向へ話が行っちゃってるゾ。と。 でもまぁ、考えるに、ガミラスのその後の銀河系間発展のためには、発見した地球人が、 その後、すぐにでも ガミラスのライヴァル になる事見え見えで、それでガミラスは、 地球を先制攻撃したのかも、と考えると納得できます。 しかしなぁ、ガミラス本星だけではなく、ほかにガミラス独立殖民星はたくさん残ってる感じはするが。 えと……SFアニメって荒唐無稽ですね?orz SF小説も場合によってはそれは言えるかも知れない……。 小松SFには、あんまり荒唐無稽さは無いかも知れないけど、一応チェックは入れておきましょう。 一応の検品は済ませておいて、考えないとね。何事もね。 そうする事で、やっと、筒井SFとか、小松SFとか、星SFとかを乗り越えていく方法が見つかるかも知れない。 それは 私たちの課題 だと思われるんです。この失われた何十年かの。 それがSFの誤解を解いていく方法にもなるでしょうし、またSFの発展のためにも大切な事でしょう。 時代に流されず、また作品にも流されない目 (眼目) は大切なはず。貴重な宝物です。 そうやって、新たな眼目が出来たら、また求められるようになったら、また小松SFを読み返してみましょう。 そこにそうやって、新発見があるはずです。
『ボルガ』 は続くよ、まだ続く。 次は 「ヤロスラブリ」 の章に入りまーす。 以下、カザン、ウリヤノフスク、ボルゴグラード、アストラハン、へと至ります。
なんか 野田昌宏 氏が亡くなられたそうで、僕はよく知らない人物なんですけど、お悔やみ申し上げます。 ウィキペディアの記事を見ると、NHK教育テレビ・人間大学の講義までちゃんと載っているんですね。 これは見たことがあります。 もしSF百科事典を作るとなると、大変惜しい人物をまた一人亡くしました。 その関係で 「宇宙軍」 のページをウィキの最終記事から飛んで知ったんですけど、 「SF博物館+図書館」←を実際にやろうとなさっている方もいらっしゃるんですね! 仮称は 「SFファンタジーミュージアム」 だという事ですが。(2005〜2010中?) 高橋信之さんってどんな方だろ。 あ、まだだ。 ちゃんとインターネット検索を使って調べてみましょうね。 ……てちょ、わかりづらい。
『ボルガ』 ヤロスラブリ から カザン へ入ります。 ヤロスラブリでは、「イーゴリ戦記」 や、ソ連の別荘作りブームなどが特筆かな?
日本沈没のしかた 『武器としての情報活用』 小松左京、竹内均 ほか 1982(昭和57)年 パシフィカ という本を見つけて、 ちょっと小松左京さんの 『日本沈没』 の制作過程が明らかになった。 『日本沈没』 の構想を得たとき、一番悩んだのはどうすれば日本列島を沈没させられるのかということでした。 昭和三十九年頃のことです。(自注:1964年頃、44年ほど前、じゃ33歳頃?) (中略) いきなり地学や地球物理学の専門書を読んでもしようがありませんから、まず弟たちが使っていた地学の 教科書からはいりました。基本的な知識を得たうえで、今度はいろいろな出版カタログを調べ、結局面白そうだ と飛びついたのは岩波新書、坪内忠治先生の 『地震の話』 です。それからクセfジュ文庫 『地震と火山』。 この二冊をしっかり読んで、荒っぽい構想ができあがりました。しかしまだまだ暗中模索です。その間にも いろいろの情報が耳にはいり、どうしても最新の科学に触れてみたくなってアメリカ文化センターに行って みました。 (再中略) で、いろいろ調べていくうちに、どうやら地球内部でマントル対流が起こっているのは八分、九分通り確か らしいとわかりました。それを今まで組み立てた構想の上に乗せてみようと思ったのです。ところがやっかいな 問題にぶつかりました。それは計算です。 (以下略) なるほどねー。これだと、さすがの小松先生でも最初は 弟たちが使っていた地学の教科書 から 『日本沈没』 の制作過程に入って行った事がわかる。 やっと私には、その知識獲得過程がわかりました。
『ボルガ』 まだ ウリヤノフスク 入った所 全269ページ中、まだ146ページ目。orz 早く読み終えたいッス。 でも、これで初めて ブルガリア が第二次世界大戦で 枢軸国 側だって知った。 ふうん、琴欧州 の母国って、日独伊三国同盟側で相当な苦労してたんだね。 少し賢くなりました。
『ボルガ』 事情で途中挫折 orz で、早川書房・世界SF全集29巻・小松左京 へ。 突然、カラオケで “愛の賛歌” を歌わなきゃいけない事を引き受け、その関連のCDと歌詞を (図書館から) 借り出さなきゃいけなくなったため、『ボルガ大紀行』 を図書収蔵庫へと返却して しまいました。orz 越路吹雪 とか エディット・ピアフ とかの 「愛の賛歌」 聞いてますけど、、こりゃ熱情込めないと難しいなぁぁ。 とか小松左京氏と関連無い事を話してしまいましたが。 返却ついでに、早川・世界SF全集29巻 小松左京 を借り出してきました。 これでどなたかが教えてくれた、石川喬司氏 の解説文が読めます。(微笑) その解説文が読めたら、今度は直接に 『継ぐのは誰か?』 を読み返してみようかと思っています。 なお、同時に 『やぶれかぶれ青春記』 『地球を考える 小松左京対談集』 TU 『紀元3000年へ挑む 科学・技術・人・知性 地球紀日本の先端技術』 を借りて来ました。 読めるかどうかわからないけれど。 大学の教科書だって6冊もある〜ぅ。orz
うん、確かに ダッシュ (──) についての記述有った チラと見た所、確かに石川喬司氏の解説に、小松左京氏が多用するダッシュ(──) についての記述がありますね。 SF全集版・29巻・496ページ、五行目以下3行分の括弧内。 (小松の文章には、お気づきのとおり、「──」が実に多い。そのほとんどは、改行よりも軽い「間」として用いら れているのだが、ダッシュの多用は、“情報綜合学者”の資質のひとつ、思考の粘着力と分離度の良さを示すものだ ろう。流行のCMソングではないが、「もっと猛烈ダッシュして!」というわけだ)
石川解説版・改 お求め中 で、前レスの記事の発展版がハヤカワ文庫版 『果しなき流れの果に』 にあるそうですが、 現在、探しております。 果たして見つかることがあります事やら。 お。そういえば図書館に 『文庫版』 のそれが有るかどうかを探っていなかったな。 やってみまっしゅ。
うちの(図書館)には無かっただ。orz 仕方ないのでブックオフとかで現れるのを待つか。
歌謡論 と SF論 なにを夜中に寝言をむにゃむみゃ…… いまぽや〜んと夢を見ていたのだけど、SF論を、また小松左京論を打ち破るための画期的なメモ?〆(._.)メモメモ 越路吹雪の (あるいはエディット・ピアフの) “愛の賛歌” を歌わされて思った事だけど。 これ、小松左京論とかSF論とかに使えないかなぁ?? 歌を解釈して歌う (カラオケ) なんて初めてしたんだけど、これは あるテキスト(テクスト) を読む場合にも 使えるんじゃないかぁあ?というのが内容。或る「歌い方」←に相当するような→「読み方」があるのではないか? 私はコミックバンド方式とか中間の声が出ないので 突然声が低音から裏声に飛ぶ方式 とかやったりするんだけど。 コミックバンド方式SFなんて馬鹿らしくてあほらしくて書けないけど。(笑い) 小松SFの一部は確かにコミックバンド(“笑い”)な所があるかも知れない。 (「うるさい」、など。笑) シンガー・ソングライター というのが成立するなら、 リーダー・フィクションライター みたいなものも成立するのでは? よく読み方というか、プロダムプロダム偉い事言うな、プロダムファンダムのなれの果て、←みたいな事言うし。笑い。 まぁ、よくある夜中の寝言。です。(笑)
自分のために物語を書く、子供のために物語を書く…… ……そして、その延長上に 他人のために物語を書く …… ←という行為が有るわけですが。 中島敦とかが愛した作家、スチーブンソンとかの 『宝島』なんて、子供に語りだしたために出来たんだよね? ほかには、ルイス・キャロル (チャールズ・ラトウィジ・ドジスン) の 『地底の国のアリス』もそう。 トールキン教授の 『ホビットの冒険 (行きて帰りし物語)』 なんてのもそうだったと思います。 われらが小松左京さんの 『日本アパッチ族』 も、妻のために書かれたものから始まってますからねぇ。 こういう、ごく身近な人のために物語を始める、また語り始める、という行為は、ごくごく物語 (フィクション) の 成立、文学史的に重要な位置のものがあるはず。 人間はなぜ、物語始めようとするのでしょうか? 藤原道長と紫式部のことも、『紫式部日記』の冒頭の事を思い出していろいろ考えますが。 (確かにこのふたりあやしいー、という感じを受けるんだな) 日記文(土佐日記)などをはじめとして、なんでフィクションたる王朝物語が誕生していくのかという事も謎。 ↑あわわわ、また夜中の寝言と放って置いて下さい。orz 物語には、自分のために書く という事もあってもよいのではないでしょうか? 一種の治療行為として、医療行為としても、それは有るかも知れない。 自分のために書く、という事が成立していったら、それが広汎にわたって他人のため、社会のためのものとなり、 ホメロスが生まれる、など。 文学・文藝(文芸) とは何のために生まれるのかは永遠の謎ですが。 「職業」としてもいいのですが、本当になんでそれは生まれるのでしょう? 作家として、職業として。 歌と似てるのかな、歌歌いと。
作詞 と 作小説 と。 もう朝になったというのに、寝言はまだ続く…… 前段ばかりやって、なかなか本論をやってませんが……。 今度ばかりは、『継ぐのは誰か?』 を読みながら、それにぶつかるかと思います。 作詞の解釈 とかやって、“愛の賛歌”を歌おうとすると、なかなかわからんかったりするものがある。 例えばこの場合は、越路吹雪が歌ってる場合の歌詞の問題なんですが、 あなたの燃える手で、私を抱きしめて ↑だっけな、「あなた」ってどんな人で、どうして「燃える手」 なのか、が、考えた事も無い話でして。 どういったイメージで歌えばいいのかなー、とふと、“独自解釈”を作る上で考えてしまった。 小説にもこんな所あるんだろうな。この場合の 「あなた」 とはダレで、どうやって「抱きしめて」欲しいのか、とか。 小説は相当な 長文 にわたるものなので、こんな事をやっていたら、身が持たない かも知れませんが。orz 長文解釈ー、なんて、楽しい事なのかも知れませんが。♪ ええーい、へとへとになってしまいそうだー。 て書いてたら、東北で地震があってNHKで震度予報がキタ─wwヘ√レvv〜(゚∀゚)─wwヘ√レvv〜─ !!!! NHK実況中継板の市民の皆様方の書き込みを見ると、今回はかなり役立ってたみたい。 おお、初めて、震度予報見た。 智之さん、ぐっジョブ。 (おい、小松左京さんと何の関係もないぞ……て、ちょと関係あるか?沈没作者だし)
『継ぐのは誰か?』 事始め 1回読んだ事有るはずなんだがなー、ストーリー全部忘れ切ってる。 また読み始めてしまいました。 今回、読み返しを始める最初の本です。 どこらへんから、現在のインターネットにも通じる コンピューター・ネットワーク の話も出てくるんだろ? 楽しみです。 雑誌初出は、「SFマガジン」 昭和四十三年六月〜十二月号 (1968) だそうですね。 一応、60年代SF という事になるのかな?
622 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2008/06/15(日) 10:04:59
半村良の『石の血脈』に、肥った作家の「大杉実」という人物が出てくるが、こ の名前は小松左京から取ったものだろうなあ。
>>622 たぶん、なぁぁ。読んだ事無いけど。orz
「大杉」 で 実 なら、もうたぶん間違い無いでしょう。
『石の血脈』 ですか、探してみよ。
半村さんのは 『妖星伝』 ですら、まだ完全には読めてないのよね、私。
『楽園伝説』 ←だっけ?、くらいは、小学生高学年くらいで読んだ事有るような希ガスるけど。
半村さんと言えば、100巻予定のムー大陸ものも計画はあったのよね、確か。
『グインサーガ』 本編 はついに予定100巻以上になっちゃいましたね。
『継ぐのは誰か?』 中盤戦 展開、早いぃぃ。 もう中途であれよあれよという間に、結末に近づいて行っているような希ガス。 あんまり記憶というか、印象が無かったの、このせいかな? それと、やっぱりちとエロい。小松SFは。(笑) ふむ、電子脳ネットワークとか、携帯の電話とか出て来ますね。 あとのいろいろの 「考え」 は、私には難し過ぎるっス。orz 力と知恵と、愛とか……。 でもこれら、避けちゃいけないんだろうな、小松左京を論ずるためには。 とにかく怒涛らしい、後半へ、続く。あと5分の2。 それにしても、読む力ないわね、私は。orz
『継ぐのは誰か?』 終盤 及び 詰め。 読了〜ィ。 ああー、こういう話だったのね、なんて、完全に話内容忘れてました。orz カンゼンダワ 急速に物語が進むのだけど、最後に新人類ククルスク一族の話の部分になって、 内容が濃くなって、ややスピードが遅くなったような感覚。 最後に、ある1人類支種族を滅ぼすような結果に至らしめるような出来事が起きて、 なんとも罪深そうな。 で、しかし残された最後の望み?に託されたものは……。 フウ・リャン と “クーヤ” の子供は、はたして タツヤ との間で無事育ったんだろうか──。 いろいろ考える事は有るんだろうけど、あんまり見事な最後のスピードアップなので、何も言えないッス。 (内容は前述したように濃くなったので、相対的にスピードが落ちた印象しますが。) みんなそのあと傷は癒えたのかしらん・・・ 私は胸が痛くなりましたわ。 とゆーか、これも内容濃くて読み完全ではもわはん。orz しばらく、何度も読み直さないと、内容読み解けないっス。orz アホカオレハ とにかく、やっと一冊、小松左京さんの 「作品」 を読み返す事が出来ました。 こんだけでも十分成果か。 テーマは、人類に知性としての別支族が居たら……という事になるのかな。 もし種族(種)としての別種族の知性が複合して存在してたら……という話に展開はなるのかも。 本当に、もしそうだったら、人類はどうなっていたのでしょう。その種族と。 共存関係を成立させ得ていたら・・・ これは考えてみませう。いろいろと思い出して、考えてみます。 やや軽い感想ですみませぬ。orz
続 『継ぐのは誰か?』 ↑なんて、書いちゃったら、それこそ 「猿の惑星」 みたいになっていくのでしょうか。 ククルスク族の再生活動なんて、遺伝子工学とか使って、出来ないのかな? ちょと 「ジュラシック・パーク」 じみて来ますが。 えーと待てよ、例の京都大学の先生の何とか細胞を作り出すやつの発展形で…… うむ、科学弱い私ですが、ククルスク族の子供作れたりは、しないか? 今なら、他にいろいろな可能性残ってるのかも知れない。 子孫作りにしろ、共生や(人類との)共同の子孫づくりにしろ、……。 これは、いろいろ妄想してみよう。
みんなが立ち直っていく物語。 『継ぐのは誰か?』 メンバーが、その後人生をどう立ち直っていくか、というのもテーマになるなぁ。 ヴァージニア大学サバティカル・クラスの面々が、2人のメンバーを失ったあと、事件に遭遇し、 そのあと、それぞれが分散して、立ち直っていく、というケースバイケースを描いていく、というのも、 ひとつのテーマになるのかも。 ミナ・コローディ があずかっている子ども、ジャコポのこともちょと心配になる。 ちゃんとそのあと、成長できたかしら? 登場人物のメンバー表を作って、それぞれがそのあとどのような行き先をたどったかトレースしてみる のも、一考かと思います。 舞台は、21世紀の半ばくらいになるのでしょうか? そんな風に考えると、小松SFは、まだまだ続く物語の缶詰のようにも見えて来ますよね。
小説はキャラクター造形? マンガは、よくキャラクター造形だと言う話も聞きますが。 小説も、ドラマである限りは、キャラクター造形であるのかも知れません。 『継ぐのは誰か?』 の場合には、これは、キャラクター(造形) というよりは、シチュエーション(設定)の 小説なのかなぁ。 SFはキャラクターというよりは、シチュエーションの場合が多い?のかも知れませんね。 ラ・マンチャの男 (ドン・キ・ホーテ) とかいう事であるというよりは、 主人公たちが一体どんなシチュエーションに突き込まれたか、という事が、 つまりは 放り込まれた環境 というものが重大な性質を帯びているもの なのかも知れない。 それが SF サイエンス・フィクション ? とシロートが愚考いたしますが。 小松さんの小説で 「キャラ立ってる」 ←ってったってねぇ、やぱ ゴエモン ←の事思い出しちゃうもんねぇ。(笑) あと、『日本沈没』 の 田所博士等 とか、小野寺とか。 「物体О」 とかもちょと諸教授群のキャラ立ってるなぁ。あはは。 小松小説における、キャラ と シチュエーション の関係について、考えてみようかしら?
「果しなき流れの果に」を書いた後、1967年以降の小松左京の 小説作法については、ハヤカワSFシリーズ版「神への長い道」 著者あとがきのマニフェストを読むと参考になると思う。 同題の各種文庫版にも同じあとがきが収録されてるかどうかは いまちょっと調べがつかないけど。
評価・『継ぐのは誰か?』 てははははは、書いてたら放送大学のテレビ 「アメリカの歴史と文化('08)」 見忘れちゃいました。orz 読後感想。 途中までものすごく展開が速い感じがします。最後のククルスク一族の歴史はなんだか圧縮してる 感じがして、実はもっと長い物語になったんじゃないかと思います。 違うかな? 小松左京さんも 『日本沈没』 とかでお忙しくなければ、もっと深く取り組んだかも知れない物語? 圧縮してる感じとしては、なんだか 筒井康隆さんの 『虚構船団』 の第二部 イタチ族 の話を連想 してしまった。そこの部分。 壮大な人類を継ぐ存在としての可能性を追求する物語としては、一つの可能性としては電波人間というのは あるのかないのか、よくわかりません。(ええ、これは一重に読者の力としての私の無力さによりますorz) とにかく、面白さとしてはちょと急いじゃってるような気がする。 もったいないです。 まだまだ (力量さえあれば、ですが) この物語は続きそうなんですね、感じとしては。 人類を本当に “継ぐ” 存在としてククルスク一族(種族)は適当なのか、は、よくわかりませんでした。 物語の登場人物たちがみな成長して、あと何十年かぶりのところまで描ければ、すごい小説になったんじゃないか? と思ったりします。ハイ、これは1読者としての勝手な意見です。 ククルスク一族が結局人類に吸収されて、人類を継ぐのは結局人類の責任でなきゃなくなる、小説の果ては そんな所にもあるんじゃないかと思います。そりゃ、時々は残っているククルスクの血筋が登場してくるような 気がするんですけど。 人類から1支脈として出て行ったククルスク族(人類亜種?)が、結局現生人類と統合を果たしていく、そんな 予感に満ちています。(これも勝手な読者の予感ですけれども) ククルスク族 と 人類 の危機はどうなっていくのか、という深い問題は避けられません。 ククルスク は電波や電気を生物的に扱う力を持っていますから、その点がどうなっていくのか…… コンピューター・ネットワーク にも、適応してるククルスク、どうなったんでしょうか?
>>629 サンクス
>>630 みたいな、ぼんやりしたレス書いて、ごめんね。orz
いつもいつも、ありがとうございます。
また 「神への長い道」 など、調べてみます。
本当にいつも、ありがとう。
ふとめも 『復活の日』 角川文庫版によると、『復活の日』 初版本は 1964年(昭和39) 早川書房より。 『継ぐのは誰か?』 ハルキ文庫版によると、『継ぐのは誰か?』 はSFマガジン昭和四十三年 (1968)。 4年後の作品ですね。 最後に病原体にやられてしまう、というネタは、ウェルズの 『宇宙戦争』 でもあるけど。 これは落語のオチとしても、別に意識したわけじゃないでしょうね。 偶然、かな? SFのツールって限られてるから、病原体ネタや火星がからんできても、これは偶然に過ぎないよね。 (ククルスクの火星開発の場合の移民希望の話がある) 別段意識したわけではないのですが、ふと気が付いたので。
火星人 という存在とSF (異存在) ウェルズの 『宇宙戦争』 の場合の火星人(異星人、異星好戦的知性体) のデザインというのは、 秀逸というべきなのか、「怪物」 (モンスター) として優れものなので。 当時のシチュエーションとしての、宇宙戦争、という設定もそうなのでしょうし。 その点、異存在 との 対話 と 協働 というテーマは、描くのはとてもむつかしいものなのでしょう。 あんまりちゃんと描けているSFというのは、少ないかも知れませんね。 戦いは描き易く、調和と平和へ至る道は険しく描きにくい? これは、今後ともSFでも重要なテーマなのかも知れません。 私はあんまりその仕事の姿を知らないし、よく作品を知りません。 そう考えると、『継ぐのは誰か?』 で最後に思わぬシチュエーションで 或る人類希望の1種族を失ったかも 知れない挫折、←というのは、とても深い感覚なのかも知れません。 小松SFにはよく、未来設定として 国際の連邦体制 というのがあらわれて来ます。 『継ぐのは誰か?』 しかり、 『さよならジュピター』 しかり、 『虚無回廊』 しかり、 です。 特に、『虚無回廊』 で、ある地域的核戦争の残骸の場所 の描写で描かれる、地球人類統合を保持する努力 というのは、印象的ですね。 H.G.ウェルズでも、サンリオSF文庫で 『解放された世界』 でしたっけ、という戦争後の国際平和を描くSF的作品 を読んだ覚えがあります。 ククルスク と ウェルズの火星人 というのは違いますが、ともすれば 人間側と敵対異星人側 の分岐点に ククルスク は立っていたかも知れない。 そのままでいられたかも知れない平和裏のククルスクの存在というのは、重要なテーマそうですね。
『憂鬱なる党派』 (高橋和巳) と 『継ぐのは誰か?』 ふと、学生・青年群像を描いたものとして、小松先生の畏友であらせられる、高橋和巳氏の 『憂鬱なる党派』 という長編小説の事を思い出してしまった。 なんか 群像劇 というので、似ているんだな。 ブラウザで調べてみると、ウィキペディアで、『憂鬱なる党派』 は 1965年河出書房新社から刊行とある。 昭和40年の事になる。(どっかに連載されていたのではないかと思う) ハルキ文庫版によると、『継ぐのは誰か?』 はSFマガジン連載が昭和四十三年 (1968年) になる。 3年後の事になる。 何か 関係 はあるのだろうか? なんか高橋和巳氏の 『邪宗門』 が、小松左京氏の 『日本アパッチ族』 か何かからのアイディアによるものだ、 といったような話なかったっけ? (違ったかな?) 逆に 『継ぐのは誰か?』 が、小松版 『憂鬱なる党派』 みたいな所は無いんだろうか? 調べてみる、一考の価値は有りそうだ。 登場してくる若者たちの人物像にも、ある程度のモデルは存在するのかも知れない。
邪宗門は「アパッチ」にアイデア借りただけ。 両者納得ずみ。 ただしサブ主人公の「阿礼様」は 総ての「勝気お姉さまキャラ」の元祖。 高橋は「貧者の舞」で、 初の「小学生援助交際」を描いている。 実は元祖「萌え作家」
>>635 工エエェェ(´д`)ェェエエ工
そうなのかぃ。
あんなお堅(難)そうな作風で、元祖「萌え作家」なんて言われると びっくりだけれども。
高橋和巳は、長編3作品、『悲の器』 『憂鬱なる党派』 『邪宗門』 がなぜか好きで
読んでましたけど。
『悲の器』 は高校で読書感想文やってる人はよく取り上げてましたけどね。
中でも、『邪宗門』 はよく出来ているなぁ、と、自分の文学作品の理想の1つになってるんですけどね。
そういう方でもあったんですね、高橋和巳さんという作家。
違うかも知れないけど(もちろんたぶん違うだろうけど)、
ひょっとしたら 日本の ルイス・キャロル とか、ナボコフ になれた人かも知れませんね。
てまた、『不思議の国のアリス』 二部作等や、『ロリータ』 読んだり読み返したりしなくてはならなくなるけど。orz
高橋さんも、面白そうな人だなぁ。
まてよ? 『悲の器』 には、もうその気配濃厚だった気がする・・・ 『悲の器』 の主人公は 正木典膳 とかいったかなぁ 突然、パソコンの調子がおかしくなって調べられなく……あ、やりかたわかった。 典膳でいいですね。 それに、その “萌え作家” かどうかわからないけれど、気配濃厚だった気がする。 そんなシーンが、あったような。希ガス。
『継ぐのは誰か?』 のメンバー表 アドルフ・リヒター …… 神学者めいた顔でいう ディミトロフ・ポドキン …… 赤髪で大男 ホアン・クリストバル・ディアス …… とんがった顎ひげをはやした ヴィクトール・ドラリュ …… 金髪 チャールズ・モーティマー …… 笑いながらまぜかえす フウ・リャン …… 身をよじって笑いころげる ぼく …… のちに名前はタツヤ、姓はヤマザキとわかる サム・リンカーン …… 黒人 クーヤ・ヘンウィック …… ボリヴィアからきた ミナ・コローディ …… (ジャコボを連れている、養母) 以上がヴァージニア大学都市のサバティカル・クラスでたまたま一年を いっしょにすごすことになった仲間たち。総勢10人。 このうちチャールズ(チャーリイ)が殺されて、 クーヤ が別人類だとのちにわかる。
よく考えると、サバティカル (制度・研修制度) の意味がよくわからんのよ。
以前教えてもらいましたヤフーのオンライン辞書で引いてみると、研究休暇 a sabbatical leave の事らしいのよね。
国語辞書だと、サバティカル・イヤーで「《安息年の意》大学などで、研究・旅行などのため、通例7年ごとに
与えられる長期有給休暇。」の意味なんだそうな。
自分の持っている古い英和辞書によると、サバティカル・イヤーとは、
安息年《古代ユダヤ人が7年ごとに休耕した年》 ←の意味でもあるんだそうな。
こんな制度が大学にあるだなんて、調べるまでは知りませんでした。
一年間も有給休暇与えられるんだねぇ。これはアメリカで、日本では期間が異なる場合もあるみたいだけど。
ためしに、東京大学教員のサバティカル研修に関する規定
ttp://www.u-tokyo.ac.jp/gen01/reiki_int/reiki_honbun/u0740730001.html
サバティカル・クラスというのは… ハルキ文庫版 『継ぐのは誰か?』 59ページ以下に1ページ程をさいて説明してる箇所があるじゃん。orz 登場人物のリストを作ろうとしているうちに偶然ぶつかったって。orz 小松左京さん独特のアイディアです。 「サバティカル・クラスというのは、従来の教職制度に古くからあったサバティカル・イヤー──七年間の うち一年だけ、大学教授などは、四年ないし三年のうち一年、授業の義務から解放されて、自分の好きな 研究ができる──の制度から派生したもので、これが学生の間にも拡大され、修士コース “四年間” の うち、一年だけ (一年をまるまるつかってもいいし、半年ずつ二回でもいい) 助手待遇で給料を支給され、 全世界のどこの綜合大学の、何の学部にでも任意に研究留学ができ、また登山でも探検でも、好きなこと につかってもいい、ということになった──そういう連中が一つの大学の中で、同じ宿舎にくらすことによって できあがっているまるきり非公式かつ寄合世帯の “クラス” なので、大学当局も、別にクラスのメンバー 個々人について、深く知っているわけではない。」 「いわばぼくたちはこの大学都市に、一年間滞在しているお客にすぎなかったのである。」
文学(作品)研究 ↑そんな大げさなものではないけれど… 詳しく解析して解読してみないと分からない事はあるものです。 そゆこと今まで全然やって読書なんかやった事なんか無かったからな。 これは初めての体験です。 文章って、もんのすごく巧妙に作られていたり、軽快に作られていたりするのだろうな。 なんて事を期待しながら読んでます。 何か新しい事が発見できないかな、と、調べ調べつつ進んでます。 何か実り有るといいな。
言語知識 日頃しゃべっている言葉にも、構造があり意味がある。 こんな事気にもしなかったけど、今後は気にするしか無いかも知れない。 言語知識なんてぇ、ややこしい事には今まで手を出した事なんて無かったけれども、 これからはやるっきゃないかも知れない。 『国語学概論』 くらいは、少し齧(かじ)った事は有るのよね。 でも駄目、全然役に立たないというか、歯に立たないレベルの私の知識でしか無くて…。 言語のかたまり (インゴット) としての 小説 に私は 今まで あまりにも関心が無かったのかな? 人文知識というと、ルネッサンスの、古典古代研究の事を思い出すけれども、 なんかそういう事やっている感覚になるのかねぇ。 段落分析とか、章段分けとか、いろんな方法講じて 面白い事見つけないといけない。 さてさて、小松SFの魅力の秘密は、どこにあるのでしょうか。 小説という名の ことばのインゴット。 はれはれ、これからどうやって取り組んで行ったらいいのやら? ※sigh※
思えば 章分け、段分け の知識がない! 章 …… @ 〔音楽や言語の〕 一定の発想に貫かれる、ある程度の長さを持った一まとまり。 (三省堂・新明解国語辞典第五版より) 工エエェェ(´д`)ェェエエ工 思えば、段分け・章分けの技術を持ってる、その分け方の呼び名を知らないよ。orz 章の下の、数字を付けたりしたある程度のまとまり はなんと呼べばいいのかしら? 下位章なんて呼ばないだろうしなぁ。ああ、本格的な国語の技術が要る。 勝手に作ってみるのもなぁ。 普通の章 (主章)、その下の複数の段落をかなり含んだ分類←(副章) とか。 こりゃぁかなり国語学の技術の知識が相当に必要かも知れない。 まぁ、なんとなく学んだり作って行ったりして、たどり着いていったりしてみるか。 全体(小説作品)、(部)、章、段、段落、文 ……、こんなものでいいかな?
段落 …… 文章中の意味の上での大きな切れ目。また、そのような切れ目から次の切れ目 までの間の一まとまりの部分。 (同上) 段 …… 三。長く続く物を分ける一区切り。 (同上) へー、調べてみるといろいろなものがあるのね。
ククルスクの一種の精神・知的文化 と、人類の物質文明。 ククルスクが動いちゃったのは、ある思想家とその潮流が問題なのかな? 世界大戦の様子を見て、自分たちがやっぱり 「おろかな人々」(人類) よりも上の存在である事を 自覚して、それで若者たちを 「おろかな人々」 の間への留学生へと渡し、 同時に 「おろかな人々」 の力を試すよう、それも求めていく……留学生たちに。 しかしククルスクといい、留学生たちといい、人類の 「物質文明」 をどう見ていたのだろうか? 少なくとも、人類は確かにククルスクと較べて劣った所はあるが、大地の全体、地球の全体、 海洋も含めてグローバルに生育圏、生態圏を持ってしまっている。 そういう意味ではすでにククルスクに較べて、人類は遥かに地球適応を (というか地球環境破壊を?) やってのけている。 それに対して、ククルスクの高い平均知能は、どう考えたのだろう。 果てしない環境改造はやがて破壊と混乱をもたらすが、この宇宙に生まれてしまった知性のひとつとして、 ククルスクは一体どう、自分たちと宇宙の事を考えて、いや身をもって感じていたのか? コンピューター・ネットワークという、電波放送(ラジオやテレビ)でない インタラクティブな存在の創出を 「人類」 の側からの創造を経て、ククルスクは自らをどう見ていたのか? 自分たちに限界を感じたりはしなかったのか。 一体そもそもテーマにある 「完全」 もしくは 「より完全に近い人類」 というのは、何なんだろうか? 身体能力としても発展するのはいいが、それでも自らに限界を感じはしまいか? ククルスクとしても完全ではあるまい。 それらを果てに身映える より完全な人類や知性体の姿 とは一体なんだろうか? さらに次の段階の世代の人類は、そこからククルスク以上に生まれてくるのか? 人類の哲学としては、到達点はどこまでに至るのだろう。 われわれの文明段階はどこまで行っているのだろう。 そんな事を 『継ぐのは誰か?』 を再考しているうちに、考えてしまった。 ふと、『赤毛のアン』 を思い出してしまった。 アンが間違って送られて来たカスバート家に、なんとか適応しようとするその姿を。
ククルスクは、なぜ新大陸地域、南北アメリカ、メソアメリカ、カリブ海地域に広がらなかったのか? 考えてみれば、相当な人類との種族競争の圧力にもさらされているククルスクにとっては、 それは高い知的に成長しただけであり、「肉体」としての生存競争 (コピーと多様化。増殖)の 方で、どうして勝利を収めようとしなかったんだろう? 彼らの知性で言えば、そのあとの結果は見えていただろうに。 増殖する人類は、いわばククルスクの潜在的敵、というか表立っての敵にもなるという事を。 いろいろ考えると、ククルスク族というものにも、新人類として疑問に持たれる行動もあるのよね。 一種の知的袋小路に入ってしまっちゃってるんじゃないかと。 ホモ・サピエンスを越える存在ほどでは無かったような気がする。 ただ知性としては、若干異なるかも知れない。 しかし増殖という点では、昆虫類やその他の生命体がむしろしっかりと生きているかも知れない。 文化人類学的にククルスクとは何かと言えば、一種の未開状態にある人々だとも言える? それだけの高い知性を持って、高い高人口の文明社会をコロンビア(両アメリカ大陸)において 築かなかったのはなんだかなー、という気もする。 ククルスクは貴族的かしら? 人類の先モンゴロイド系?から分枝していって、そこでどうして種族分離はまぁよしとして、人口拡大 に努めなかったのか? ククルスクも一種の袋小路に入っていたように思えるなぁ。 人類の歴史には様々なものがあり、その中で生まれた西欧・欧米文明に学んで近現代日本を作って 来た日本としては、いったいこの事をどう考えるべきなのか? ククルスクの採っていた政策というのは、近世日本の鎖国政策に似たようなもので、 それに対して海外が大幅に発展している事を発見して、大慌てで政策転換を図った、その段階という のが人類とククルスクの公式の接触の物語のようにも映る。 つまりククルスクというのは、どこか日本と似ている部分、アナロジックな性格も持っているんじゃあるまいか? 日本の場合にはその後開国して人口の増殖運動が4倍にまで増える。 ククルスクの場合もそういう可能性は無きにしもあらずで、大幅な人口増加に転じていたかも知れない。
ククルスクと日本。 もはや失われた民族や文化、とある文明というところで、ククルスクと失われた江戸時代というのは 似ている部分もあるかも知れない。 また、フェミニズムの視点から、どうもククルスクは男性支配社会のようで、女性の出産の危険性などを ククルスク文化はどう見ていたか、といったものも感じる。 日本では、鎖国といいながらも 蘭学 が発達し、医学の部門から文化(生活様式)の内部改革が起こる。 ククルスクは高い知性は備えているかも知れないものの、あんまり 「女性問題」 が描写されていない 嫌いが残るかも知れない。 それは小松左京さんも時代の子であったという事で? かたよりが 男性知性 の方に偏り、“女性知性” の問題にまで踏み込めていなかったのかも知れない。 ククルスク族の中での、女性の権威的位置というものが、ちょっと気になる。 見ればみるほど、ククルスク族と開国に至るまでの近世日本というのは似ている感じもあり、 「鎖国」 したから一種の国家・民族アイデンティティを形成できた、という点も、共通する点ではあるかも知れない。 知的、でなく、生物的後継者としての新人類は、いったいどのようなものになるのであろうか? それは歴史を繰り返していく中で、人類にも必ず訪れる事態だと思われるが…… 人類以上の強靭な生殖力と、知性、その他情感や意志などのバランスを遂げたものとは一体どのようなものになるのか? 新たな新人類や、多様な新人類の姿を、思い浮かべるべきかも知れない。
人類内の問題解決と、多様化。 結局は人類内の問題解決に、問題はいくのだろうなぁ。 また、近年ますます人類はひとつの種族であるという見方が強まっているので (単なるニラメン色素の度合いで肌の色が決まっているとか)、人類の問題は、 結局進化とかではなく、現生人類の間での解決へと問題を持ち越される事に なるのでしょう。 この人類知性体のみならず、人類には他にいかような可能性があったのか、 という事は考えてもしかず、「科学」の発達と科学技術の進歩という点では、 この地球においても、この宇宙においても、同じものかも知れない。 そういう点では、『継ぐのは誰か?』 を読みながら、いろいろと考えさせてくれる本ではあります。 人類の異種族に対するアプローチのシミュレーションにしても… 人類に、カンブリア爆発だっけ?みたいなものが起きるとしたら、それは 歴史上の過去、未来といずれにおいて起きた、また起こるものなんだろうか? その多様化で収斂し、また発散する人類は、一体どのようになってしまうのか? 結局は、人類から隠れて生きていた、しかし電波メディアをキャッチし、そしてコンピューター・ ネットワーク通信回線網にアクセスできる能力を持つ種族としても、 世界中に散らばる、さまざまなネイティブ集団の1種族に対する接触(コンタクト)の扱いと 変わらないかも知れない。 ただし相手は相当な知性と文化程度、また最新科学技術的・電気的なアクセス能力を 人類社会全体に持っている存在であって、ただの旧文化人類学的存在ではない。 一種のファースト・コンタクトものにも分類すべきなのかなぁ、この作品は。
まぁどっちにしても、自分、人類の子孫に対して、猛反省して考えたくなってきたわorz 以上書いてた者です。
人類ってホントこれからどんな進化遂げるのかなぁ。 環境問題も物凄いだろうけど、やっぱり長期を見渡してなんとなく気になる。 人間様は今を精一杯に生きねばならないのだけど、でもどうしてそのあとに やってくるものが気にかかる。 私は子孫は持っていないけれども親類は居るから、その先の事まで考えてみたい。 どうなるんだろう。 小松先生も事件を乗り越えながら暮らしていっている。 私も考えるに思えばやぶさかでない。 遥かな遥かな未来の果に、人類にはいかなる事が待っているものか。 ちょっと夢想しかねない。 小松小説を解析していくなかで、そこにたどり着ける事はあるだろうか? あってほしいと願う。 『果しなき流れの果に』 人類にはいかなるものが待っているのだろう。 そういうの、『継ぐのは誰か?』 からも、読み取れるんだろうか? オレの両親は、一体オレがどんな未来を過ごすと考えていたのかなぁ?? ふっと笑って、そんな事も考えてみる。
電波人間という発想には、小松さん自身のラジオ体験とかが重なっているのかなぁ? とも思う。 少年、たしか小学五年生の時 (1941か42年ごろ?) にラジオのDJの経験がおありになる。 そういう意味からすれば、ラジオとか電波の刻印が深い。 ラジオと小松左京というのは、ひとつのテーマになるのよね。 そのあとの、小松左京史において、ラジオ職業生活は重要な位置・意味を占めているから。 いとし・こいし、桂米朝 はいざ問わず、様々な箇所で小松左京はラジオに触れているに 違いない。 その 「発信する」 立場からも、「受信する」 立場からも、電波人間の構想にはある着想が あるかも知れないのだ。 小松左京さんにとって、ラジオは体験的なものなのよね。 またラジオからは、向田邦子など様々な人々が文化として旅立っている。 (向田邦子はご存知ラジオ・テレビ放送ドラマ脚本家) ククルスク族の口承文化(文学)なんてどんなものがあったのか興味深い。 歴史を史実と科学によって蓄積しているような種族だからこそ、その持つ文化の意味合いは高い。 ククルスク文化の謎を解くことは、とても面白そうだ。 でもなー、想像の範囲内でしかその存在を語れないのだな。 最終章のククルスクの歴史を、もう一回読み直してみようかしら?
ククルスク族の文化の再現 かなり高度な平均知能を持つ、電波人間種族、亜人類?ククルスク族。 プライドや自負も相当高いと思われる現象もある。 そのひとつが思想家の輩出。 しかしククルスク族は、残念な事に多分おそらく人口の絶対数が足りない。 それで磨き上げられる文化を担当する数が少ないんじゃないかしらん。 いや待てよ、その前にククルスクの 「食生活」。 一体どんなものを、どんな風に食べていたのやら、食生態学的なものがわからない。 アマゾンの密林の中で、どのように種族を守り、生活を立てていたか、その姿が おぼろげにも見えない。 「火」 はもちろん使うのでしょうな。言語はもちろんそうでしょうが。 しかし “ククルスク言語” って一体どんなんだ? 文化は土器段階かしら?どんな土器を使っているのだろう。 というかもちろん 「金属器」段階で、でも新大陸の青銅器段階だったのか、もう独自の 鉄器というのを持っているのか? あぁ、わからんなってきたなー。一体どんな生活を営んでいるんだ? どんな風に、生活物資を獲得しているんだろう。交易はしているのか? なんか日本の弥生人のような雰囲気もあるしなー。風体にも。 て細かく考えて行ったら切りが無いのでありますが、これを細かく詰めるのが、物語を 作ったり、ファンタジーを作ったり、シチュエーションの面白さ・醍醐味というものなのでしょう。 もうひとつの知的種族としてのククルスク族、それには様々な謎があります。 一方で、人類の電波文明をキャッチし、解読受読し、享受する姿。 コンピューターと会話し、そのネットワークにアクセスして、自在に操ることも出来るようになる 種族の姿。独自のアクセスポイントを持ち?、インターネットにアクセスする強烈なハッカー 集団のような事もやらかす、アマゾンの一族。 ククルスク族の謎は、尽きることを止みません。
て考えてたら…なんとなく反省して、また本を読む、原作に戻るものなのよね、話は。 また読み返しますけれども、ええと、今までこういった、深い思考・思索の上で作品を 読むなんて作業、したことが無い! 『継ぐのは誰か?』 にしたって、同じことですわorz “わからない” ←っていう 「疑問」 にぶつからないと、なかなか人は研究はしないものなのよね。 寺田寅彦いわく、「科学者はあたまがよくなくてはならない、またあたまがわるくなければならない。」 このテーゼは、“疑問を持つ、それも 「とことん持つ」” という点でとてもセンスの光ってる話です。 お寺ちゃん (寺田寅彦先生すみませんorz) の言う事には一理も二理もたくさん理も有る。 うーん、つい小説を流し読みしちゃう点で私はボケナスなのよねぇ。orz でもたまには知ったかぶりでもいいじゃないですか、そこから新たな疑問点が湧き上がるなら。 羞恥心、恥ずかしさで一杯になっても、うんと、あるちょっとの事で進歩が見られるかも知れない んだから。 それが 「読書の自由」 ←ってもんでしょう? こういうやり方って、一応中学・高校あるいは小学の国語でもやってるもんだけどサ、なかなか 身に付かなかったり、身に付いていなかったりするもんなんですネ。(がくっ) ところで、と、ククルスクには 「印刷文化」 っていうのはあるのかな? そもそも 文字体系 ←というのは持っているのかしら? 種族のタブーをやぶるような、ときおりの 「激越な個性」 ←というのは誕生して来たりするのかしら? そういう人(個性・固体) が居ると、文化的ヒーロー というか トリックスター的な個性を持ちそうですね。 ククルスクには人類一般の文化(それも近代・モダン以降の) に触れる事によって、原初的・原始的 ながら 「何かに目覚める 文化的・意識的曙光」 を見出したのかしら? その段階が、近代人類と本格的にファースト・コンタクトを迎えたククルスクの段階だったのかしら? 日本人の鎖国から開国へみたいな?。 ククルスクは謎だらけですねー。
『継ぐのは誰か?』 段落数え。 第一章 予告 殺人予告の前段が1。 1段 が 地の文で約38段落、2段が同じく地の文で約39段落 (中途間白で分けて 20+19) 。 第一章 予告 は全部で約77〜78段落。で構成されている。 会話の部分は別の部分として外してみた。 会話の各一連を一段落に相当すると考えると、答えは若干数値が増える。80〜90段落程度か?100以内位。 文芸解析のテクノを持たないための、初歩的な出来事。
第一章を前提に仮に数値を推定してみると、『継ぐのは誰か?』 は 七章 なので 全部で 約100段落 × 7 で 約700段落 くらいなんじゃないかと まず推定してみる。 これだけのもの (約700段落) を書き上げる 作家さん の力量ってどのくらいのものなのかしら? 具体的数値計数はこれから。
原稿用紙換算 と、段落換算など。 小松左京さんの小説の場合、「段落」記述で見ていくと、すごく長い段落と、ごく短い段落との 内容のリズムの格差が有り過ぎるみたい。 例の小松左京節で、内容が物凄く説明口調になってしまう場合だと、(ここでオリジナリティの 高い発想や着想や視点が語られる事が多いが)、一段落は長く、内容が濃いものになりやすい。 ごくごく短い段落、や間白(空白行)、ダッシュ(──)を用いた文章の流れの分割・軽い転換・、 接続、それに対して 中くらいの大きさの段落、長めの段落、といったものを見ていくと、そこに 小松節、というかリズム、小松左京氏独特の 「叙事詩」 ←のようなリズム形成jが見えてくるのかも しれない。 小説を、400字詰め 原稿用紙 換算の いわば 「分量・文字量」 で換算して計算していく事と、 もうちょっと構造的に見ていく、いわば 「段落数」 等で計算していくのとでは、小説の構造等の 見え方に、いったいどのような違いが生まれてくるのだろうか? ほかにも、登場人物の人数で考える場合、などjがありそう。 『継ぐのは誰か?』 の場合には、登場人物総数 30人程度 といった事が目安となるかも知れない。 あと単純に言って、段落分類からさらに進んで、単文 がいくつあるのか、といった絶対数も鍵を解く ヒントにはなるかも知れない。 まとめると、 原稿用紙 換算 段落 換算 単文数 換算 登場人数 換算 … といったものがあり、これで 『継ぐのは誰か?』 等、また短編を捉えてゆくのは有効かと思える。
小松左京氏独特のオリジナリティの高い説明口調の部分、その他 『継ぐのは誰か?』 でもそれは発揮されていて、まず サバティカル・クラス といったものの内容説明、これは文庫版1ページ分くらいを充(あ)てている。 それと例の セージ(賢者)、ナハティガルの居所の様子 といったものもある。 こういった成分を列挙していくと、1長編や短編の中身の構造が知りやすい かも知れない。 とにかく数えていくこと。 その作品の中でどのくらいの分量が割(さ)かれているかを見極めることは大切な事になる。 会話の記述のシーンもそう。 て考えてたら、例の量子コンピューターシリーズだっけ、『火星転移』 とかのど長い説明の部分とか 思い出してしまった。SFには部隊説明はとても重要な位置を占めてそれが醍醐味になっている 部分もあると思う。あぁ、グレッグ・ベアか。 クラークの 『宇宙のランデブー』 なんかも説明は多いだろうな。とか言い出したら文学では説明 の部分 (地の部分) はもちろん多いし、小説のテクニカルな面白さを支える部分ではあるかも 知れない。 例の司馬良太郎の 「余談続く」 ←みたいな所もそうだしさ。『坂の上の雲』 とか。 御大の場合、何気にそういう箇所に非常にオリジナリティの高い考え方が挿入される事が多いのよね。 こういうシーンが、非常に楽しくて小松SFに近づける。 逆に “書く場合” にはその作者にとってどのくらいの負担があったのか、という事は考えておかなければ ならないかも知れない。作者の側からも気持ちはわからないといけないかも……。 まぁ一般にして書く側の人はたくさんの知識を要するから (例えばサバティカル・イヤーについてとか) 作者追求については、その作者の持っている知識なり努力量を推定しておく事はとても大切なんだろうな。
新たな小松左京像の模索 というような以上の努力をもちまして、コツコツと小松左京作品の 「成分分析」 について迫ってみる。 そういう有り方の発想であります。
1000段落の物語って 書くって一体どんな気持ちなんだろう…… 考え及ばないなぁ 1000 (一千) をどうやって分割して、配分して、物語りにつなげるのだろうか? これ、やってみたり考えてみたりするT、作文に役に立つかも。 各文 (単文・シングル文) への意味の賦与とか、複文構成 (複数文・マルチ文) への視点とか。一段落における各文の機能の分類・分担とか。 作家さんの謎に迫れるかも。 どうやって・どうしてこのような文を作れるのか、どうやって文章を作る・書き記す のかといった、シロートにはよくわからない事について、述べさせていただく一つの きっかけにはなるのかも。 全体構成に、起承転結とか、序破急、いや、こんだけの長文になると、それぞれの 構成要素がさらに全体要素に 複合 して現れるのかも知れない。 いろいろ大切な文芸作品の分析・解析・理解に役立つような気がするなぁ。 複雑構成も、長文も、シンプルな構成・構文から。第一歩を示す。 「アイディア」 という点、具体的なアイディアの結実化・構成化、実際記述に落とすこと、 その他いろいろな理由・意味づけがあるはず。 ソネット形式(14行詩) とか、文芸用語たくさん知っとかないといけないだろうけど……。
国語便覧の活用 なつかしや、高等学校の国語の授業の副読本として使うアレですが。 わずか千円以内で手に入るので、便利です。 ただし、時代によって内容が違うという事があり、昨今のゆとり教育での版は、 昔ながらの世代にとってはちとつまらないかも。 国語便覧では特に高等学校程度の教養を記述・提供しますが、 ソネット形式とか、文学のもっと奥まった部分についてはさっぱりですよね。 これにはもっと奥まった 専門書・専門入門書 のおやっかいになる必要がある。 作者が想定した骨組み、骨格、「…なんとか形式」 の事がふと思い付かなければ、 及びもなくなる。 専門文学用語の基礎知識が要るなぁ。これは一体どこで手に入れたらよいものやら? 教科書、探し出してみようorz あはぁ、無知の大海に居るみたいだ。私は文芸用語・文芸世界について、シロート。orz
才能論 文芸って 一種の “才能” があるから書けるのか、 それとも、例えば僕にでも 練習すればある程度は書けるようになる “技能” なのか。 これはあるテスト (判定j) パターン。 まぁ自分が書くことは無いにしろ (書かないといけなくなる場面・シーンは有るかも知れないが) これは考える所。 「技芸」 という事になると、一種の手習い事、職人芸という事になる。 日本の文芸界(文学界。文壇) には 弟子という形式もあったようだし。 “お習いごと” といった側面はあるかもしれない。 ルネサンス的古典教養の巨人たちは、みな古典古代・古代ギリシア・ローマの文典・文献を 研究して、新たな文学作品の形成に努めていったらしい。 その有名な例は、ウェルギリウス等に学ぶダンテの叙事詩 『神曲』。 しかし 才能 や 才覚 が無ければ、例え職人的技術・技能世界や物語世界を 広げる事はできないだろう。 “才覚” や “才能” は一体どこから現れて来るのか? 他者から磨かれて出てくる場合もあるだろうが、 自己の自助努力によって誕生してくる場合もあるに違いない。 小松左京さんの才能は、自助の努力にかその才能の発露と仮定してみる。 A自身はAである みたいな記述になってしまっているかも知れないけど、 ある文学者、文芸家の、作家の現れるかたち を確保しておきたい。
小松左京さんの才能論 旧制中学校の頃にダンテに感動して、文芸作品をいろいろ読み漁(あさ)る。 京都大学の時代にも、いろいろな作家の作品を読み、生まれたヽ(・∀・)人(・∀・)人(・∀・)ノ 仲間といろいろ討議をする。 その 「絶対の読書量」 が、作家業を興すのに重要な契機になっているは違いない。 それと、次第に中学時代から作文 (それも創作) に親しんでいった事が見逃せない。 ラジオ脚本家時代というのもある、それで創作の実作に自信を身に付けて行った という経緯はあるかも知れない。 忘れていたけど、雑誌記者時代もあった。orz 同じく忘れていたけど、二十歳頃のモリ・ミノル名での漫画作品の創作というのもあった。orz どこから作家・小松左京かというと、昭和34年 (1959) に 『SFマガジン』 が創刊されて、 それで第一回コンテストに応募した 「地には平和を」 が最初だったと 『自伝』 には あるから、それから以降という事になる。 別段、小松左京さんに限らない、いったい 才能 というのはどうやって生まれ、どうやって 世の中に登場、現実化するのだろうか? もし自分でも、ちゃんと文芸作品を読めたり、それを解析する癖(クセ)があったなら、 ものを書くという可能性はちゃんとあったのだろうか? 私はあまり読書というものをしないからなぁ、わからないけれども。 作品というのは、ある技能のバリエーションに過ぎない、というのが最近の考えかも知れない。 技術スキルを身に付ければ、ある程度はどうにかなる、というものなのかも知れない。 小松さんの作品を読み解いていっちゃうと、自分にもある程度のその秘密がわかっちゃうという 事だろうか? それはわからないけれども。 小松左京の才能の秘密に、迫ってみたい。
約1000の段落の意味論、構文論、音韻論、等。 手っ取り早く、長編小説を約1000の段落から成る物語だとして (司馬遼太郎なんかもっと たくさんの量の段落から成っているでしょうけど。“意味段落” ←という意味ではわからない けれども) 、そのそれぞれの段落の内部、また段落間関係に、いったいどのような力学が 働いているのか、構文を分析してみる。 (↑とか言って、専門的ではなく、実にシロート考えなやり方なんだけれども。orz) 文芸作品って、ほんと海のように広い世界だねぇ。orz というか、それを世渡りする、“航海法” が無いから、こういう感じ、感覚になるのだろうけど。 私はあまり天才では勿論なく、読書の仕方もあまりぞっこんで満足にいくほうでも無い。 コツコツと読んで行って、「発見できる所」 を発見するしかないか。 小松小説の成分を、細かく分類していくと、そこに アイディア という面がある事に気付く。 これは小松小説の醍醐味といったもので、それはある時はある論であったり、 あるまとまったアイディア、また歴史解釈の描写 であったりする。 これがいつも幾つか 成分 として含まれている所が、小松小説の魅力であったりする。 司馬小説の余談などに相当する。 あぁぁ、だめだ、意味論、構文論、音韻論 も “なんとなく”わかっているだけで、本当に 理解しているわけでは無いわ。orz 調べて知っていかないといけない。 でも、とにかくよく読んで、よく親しみ、よく読解して、気付く所に気付くようにしないと いけない、地味、地道な作業しか、小松左京小説の魅力や創作の秘密に迫れる方法は、 無いのでしょう。 はぁー、やる気出てきた。
やるとなったらポイントを決めて。
やっぱり好きなものからやっていった方がいいわけで。
名作、『日本沈没』 などや 短編小説のエポック 「地には平和を」 などを
選びたいと思うのですが。
『継ぐのは誰か?』 でも、共通して発見できるものはあるかなぁ?
それは、やっぱり 小松節 の存在かも知れない。
小松リズム、というか 小松イズム の存在。
>>629 さんのも目を通して置かないといけないと思うけど。
小松左京思想の小説作法は 『継ぐのは誰か?』 にもしっかり現れている。
と思う。ちょっと急激な動きをする部分が、他作に比べてあると思うけど。
小松左京氏の場合、書き下ろし の形式のほうが、生き生きとしているかなぁ、と思う。
主作は、『復活の日』、『果しなき流れの果に』、『日本沈没』 とほぼ書き下ろし。
でも 『エスパイ』 『さよならジュピター』 みたいに連載されたものもある。
一編から普遍的なものを発見していく事。
でも 小松リズム とか、小松イズム とか言いながら、それだけではまるで言葉の遊び。
内容の含蓄がないといけない。
小松左京のリズム感覚とは何か?それは時折出てくる長文のアイディアの部分にあると思う。
これが小説の重石(おもし)の役割をして、小説を面白くさせる。
小松左京のイズム・主義とは何か?
それはエロス的なものであれ、豊富・旺盛なサーヴィス精神であると思われる。
と仮定しておいて、これら 小松リズム、小松イズム がどうやって各作品に投影されているかを
調べる。
>>664 『果しなき流れの果に』はSFMに連載されてるよ
連載中に作家仲間と飲み屋でダベったときに得たネタなんかを
ぶちこみながら書き進めた、とか御大自ら書いてたと思う
>>665 あ、さっそくのレス、サンキューorz
またとちってしまったのね私。orz
インターネットで印字していた年譜をきちんと読めなかった(チェック入れなかった)みたい。
『自伝』 の年譜 415ページを見たら、その “連載” のこと載っていました。
ケアレスミスとか多いままでやっててごめんなさい。orz
更に角川文庫版解説で、福島正美氏がその連載の事ちょっと触れてるわ。orz
かえすがえすもミスごめんなさい。orz
ごめんで済めばケーサツは要らない……
まっことです。
すまんこってす。orz
>>664 の 『果しなき流れの果に』 は「連載」だという事で訂正し、書き下ろしは無し。
しかし…… ずっと 『果しなき流れの果に』 は書き下ろしだと思い込んでいたんだけど、 よくあんだけのもの、連載する事が出来ましたねぇ。(ハァー。溜め息ついちゃう程おどろく) 『果しなき流れの果に』 も、物忘れの多くなった事に気付く。 また、これはさっそく読み直さないといけないな。 角川版それの福島正美解説によると、その連載の時の創作に苦しむ姿がちょっと出てくる。 1965年 (昭和四十年) 御年三十四歳の時の作品って、試みとして新しい。若い。 こんなとき、私はどうしてたかなぁ。どうしようもない年齢だ。orz 病気になってたりして、どうしようもないときだ。 そんなときに、御大は格闘してらした、記念すべき作品だ。
今日6/22付けの中日新聞朝刊の第3面にインタビュー載ってた。 温暖化問題についてで、 中に「新婚さんから生まれる熱いエネルギーさえ 何かに使えるかもしれない。」 とあった。 ワラタ
>>669 その中日新聞のインタビュー記事、読みたいわ。(笑)
ネットで調べると、6月18日付で、「2050年のエコ生活は? ハイテク一長一短」で
小松氏の「空中都市008」のホシオ君とツキコちゃんが出てきているんだね。
なんかいまさらだけど…
情報技術の進展って大変だわ
たぶん
>>669 さんの貼り付けだろうけど、某所で参照していただいた
その記事を読んでいて、いや、ふと気が付いて うちのハードオフで
\315円 のプリンタで印字(印刷)してみたら、全部じゃないけど、ある
範囲は印刷できた。(うち、紙がA4幅しか使えないもんでorz)
なんか時代の変化についていけない。orz
\315円の中古プリンタ、という事ではもちろん無い。
新聞の記事を、こうやって読めるだけでなく、ネットを通じておろして、
こうやって多少とも、大体をカバーして印字出来て 「手にする」 事が
できる事がショック 衝撃的で。
私はレンタルビデオなんかもほとんど借りないから、たまに借りたりして
その中にドラマがあったりなんかすると、ふとその内容の濃さに衝撃を
受けたりします。
時代についてけない。私がいて。
最近リクエストを受けたので、今度はカラオケで テレビドラマ「瑠璃の島」
の主題歌のコブクロの 「ここにだけしか咲かない花」?を歌うつもりです。
私は、情報に弱い。orz
ネット・リテラシー、情報リテラシー もう少しで放送大学の授業が始まるので急がないといけないのですが 2ちゃんねるの皆さんを見ていても、 本当によくこんな事が出来るなぁ、と思う。 画像をリンクさせたり、編集アップしたり、 たぶんスキャナで取り込んだ映像を貼付したり、 でたぶん、印字とかも出来たりするんでしょう。 あはぁ、一応SFファンのはしくれだというのに、まぁこうやってパソコンを 操っているのはSFファンのおかげではありますが、 オレってほんとパソコンやネットの使い方のリテラシーがまだなってない のね。orz 一番単純な コピー&ペースト (コピペ) ですら、独学で1年も気付くのに かかったもんね。orz 若いときの小松左京さんなら、なんと言ったかしらん。orz 情報提供あまりできなくて、すみません。orz
小松左京さんの 新潮新書 『SF魂』 を買って来ました。 これで少しだけ、小松さんに印税を入れる事ができます。
ドラマ と 小松さんの作品 なんかまたカラオケのリクエストがあったので、それで久しぶりに ビデオレンタルなんぞ出かけて、日本テレビ系の 『瑠璃の島』 の 第一回目と二回目を見、図書館の視聴覚室から 主題歌 の コブクロ の 「ここにしか咲かない花」 (3年前の流行歌みたいですね) を 借りて来て、イメージ作りに励んでいますが。 なかなかいいドラマと歌みたいなんで、珍しく感動しています。 で、まぁこんな事でも無いと、歌謡の歌詞とか歌い方の解釈なんか 全然やらない私なんですが。 ふと、小松左京さんの作品をテレビドラマ化したら、主題歌はどんな 風にしたらいいのか、とか気になり。 『果しなき流れの果に』 を テレビドラマ化 なんぞしたら、主題歌はどんなのが 合うのだろう??と考えてみたり。 12回1クールとして、それで完結する物語、なんてどうなんだろ。 テレビドラマ化を本当に考え始めてしまいました。 ええー、そんな事してたら、『果しなき流れの果に』 の “メッセージ性” って いったい何だろう?とか考え始めてしまぃ、こりゃ、それをまとめるためにも また全部読み返さないといけない、という事になり。 どんな歌詞にしたらいいの、どんな曲にしたらいいの?とわけもわからずに 大わらわです。orz いったい、 『果しなき流れの果に』 とか、 『継ぐのは誰か?』 とか、 『復活の日』 とか、をテレビドラマ化するには、どうやったら一番成功するのでしょう? 無駄な話ですか。orz
昔の人々と、映画やテレビ以降の人々 うーん、ドラマ(テレビドラマ)の事考えていると、映画や放送といったものが出現 する前の人々の文芸に対する姿勢というものが気になってしまい。 いろいろとあの手この手で 盛り上げよう とするメディアの作戦に、我々は負けて しまう事も多いわけですが。映画、アニメ、テレビドラマ。まれな人には演劇? ドラマ出現には、例の“火星人襲来”?「宇宙戦争」のオーソン・ウェルズのような、 ラジオドラマ の影響が大きいのでしょうね。 それから 映画 がトーキーになる。(ラジオとの競争があったのかな?) で次にテレビドラマが登場する、なんて。(トーキー映画との競争になる) 小説(ロマンス、ノヴェル、フィクション)の捉え方にはいろいろあるのでしょうが、 それらのメディアの登場する前の人々にとっては、ちょっと違うながら、現代の テレビドラマと同じような感動を味わったりしていたのでしょうか? それとも、もっと過疎・閑素な感じの感動だったのかな? 『神曲』の韻律なんて、どう受け取られていたのかしらん。 オペラは、とても大事な(貴重な) “音楽付きのドラマ” の大感動作品だったでしょうね。 ソープオペラって、本来は ラジオメディア から始まったものなのかしらん。ふと。 これも調べなきゃならない。スペースオペラ当時のソープオペラって、思えば たぶん ラジオオペラ の事でしょうね? 何を言わんとするや、小説は、時代の中でどう受け止められてきたか?という事ですが。 例のアレクサンドラ・デュマ、『三銃士』とか『モンテ・クリスト伯』、『鉄仮面』のごときもの、 文章のオペラみたいなものもあるわけですが (あぁ、ここら辺りで批判に逢いそうだ) 大衆って変わらんものなのかなぁ? 何を言いたいののか忘れてきたorz 要は、むかしの小説ドラマ と、最近の テレビドラマ などの「感動」は同じものか、という問題です。 違うのかな、同じなのかな?
小松作品を感動作として脚色すると どうやろうかなー、と思ってしまふ 一番やりたいのは、『継ぐのは誰か?』 よりは 『果しなき流れの果に』 の方です。 今まで累積している、日本の感動の歌謡曲の中で、一体どれが一番似合っているのかなぁ。 また、脚色はどうすべきだろ。 ム、無駄な話だわ。orz でも、なんか考えてしまう。 12回1クールの物語の中に、『果しなき…』 で展開される、この宇宙での人類の存在意義とは 何か?といった事が込められるものなのか。 なんか、やってやれない事も無いような気がする。12時間の中に、小松作品のイメージを投影 すること。 今夜は、なんか別口の話やってますね。orz
図書館から『SFマガジン』の5月号と6月号を借りてきました。 なんか生活が安定したら、また再び購入するような生活にしようかとは思いますが。 なんか図書館の雑誌本棚見たら、SFマガジンの 第3回日本SF評論賞 の受賞作、 2ヶ月連続で載っているではありませんか。 でまぁ、借りてきたというわけです。 これでもし読めれば、ちとはその水準の低さに恥じて反省して、こんな所にこんな駄文 書かなくなるかも知れません。orz そーなればよろしい事で。 でもねぇ、小松左京論文の決定版が出ないとイヤ。orz ハヤクダレカ出シテ 読みたいのは小松左京論の決定版なのよぉ。 どなたか書いてくださいませな。 てまぁそれはともかく、ちとは 小松左京さん の事が知りたくて、ここでコツコツとなんか みじめなオンライン書き物しつつ、小松左京さん について考えをめぐらせておるのですが。 だれかもおっしゃってましたよねぇ。 本当にこんなに、小松左京さんについて書かれたもの (小松左京論) が少なくていいのか!? と。 えー、ぐす、それを見るまでは死に切れない。てな話は大げさか。でもまぁ、本当に。 ただいま、書かれようとされている方もいらっしゃるようです。(期待) 私ぁ、無手勝流で、ちょっと、自分なりに 「気付いてみる」 ←事に、気付いてみるのみ。
とゆうわけで、ちと落ち着いて 『継ぐのは誰か?』 の事を考えながら、 『果しなき流れの果に』 を読み返してみる事にいたしました。 SFマガジン の 日本SF評論賞 についても読んでみる事にいたします。
なんかねぇ 今回は、知ってしまった 「ここにしか咲かない花」 を、似合っているかどうかわからないけれど、 『果しなき流れの果に』 のドラマ化主題歌 に使えないか、イメージソング として思い浮かべ ながら、この本を、ドラマ化を前提に読んで行こうかと思っています。 そりゃもう一度ほかのテレビドラマの主題歌になっている事はわかっているんだけど、このくらい の水準のテーマソングで、イメージを脹らましてみたい、という思いは持っているので。 なんか 『果しなき流れの果に』 をインスピレーションに、このくらいの水準のイメージの曲を 作ることは、できないものかしら。そうしたら、是非採用したいなぁ。 テレビドラマの宇宙的小説 『果しなき流れの果に』 、見てみたいわぁ。 途中どうしよう、主人公が記憶を失って、宇宙抵抗集団?フキッフの一員として働いていくところ とか、エンの時代を背景とした活動とか、最後の、最高の宇宙の全体像の一部を覗くシーンとか、 テレビ小説にして。 それにしても、スパイスはどうしたものか。 野々村と佐世子の時を越えたロマンスは入れるべきだよね。 宇宙を越えた、壮大なテーマはどうするべきか。壮大な宇宙と、1個の人間との、相対比。 音楽としては、ルキッフのテーマなどを入れるとして。(どんなんなんだ?) あとは読み返さないと思い出せないけど、主題としてどれを持ってくれば、視聴者にわかりやすい かしら? 構成、考えないといけないなぁ。 テーマは、やっぱり野々村のロマンかしら。彼が書いていた、エスキース 『時間と認識』 のこと。 彼も知的アカデミズム、学者の一員として、やがて宇宙の秘密を知っていくわけだから。 このあたりの根本がわかれば、わかりやすいのかも知れない。 野々村の喜劇と悲劇、そんなところかも知れない。
エスキース の意味 よく考えたら、「エスキース」の意味がわからないので、オンライン辞書で調べてみました。 そしたら エスキース では載っていないので、「エスキス」 で調べてみたのね。 1. エスキス【(フランス)esquisse】別ウィンドウで表示 1 下絵。スケッチ。画稿。2 彫刻の粗(あら)造り。3 文学作品の草稿。 ↑だそうです。 要するに スケッチ(素描) とか、著作・著述作品の草稿 のことを言うのね。 また初めて知りました。orz いや、立体製品としての 彫刻の粗造り のほうが、イメージとしてはしっくりくる か 大切なのかな? (彫刻は体力要るからねぇ…。いや何もスケッチや草稿が体力要らないと言っているわけでは 無いが…)
エスキス 大辞泉(辞書)では、「見取り図」 の意味もあるみたい。
なんか鳩間島のことを読みながら… また個人的な話なんですが、昨日はいろんな人とちょっと交わる機会が多くて、 いろんな思いをしました。 私は音楽はできないんだけど、キーボードもギターもヴァイオリンもできちゃう 青年とか、医者になりたかった人とか、現在通信制高校に通っている若い女性 とか、いろんな人々に出会って、また「世間」というものを、自分の小さな身の丈 を越えて感じ入っている次第です。 相変わらず テレビドラマ 『瑠璃の島』 (成海璃子ちゃんの主演作品で有名に なった番組) にはまっていまして、その原作の 『子乞い』 の話などちょっくら読み しながら、沖縄の鳩間島 というところの歴史に感じ入っているところです。 こんな小さな島でも、沖縄における空襲の余波の空襲を受けているんですね。 また、漁業でも高知や九州とのカツオ漁との競争にさらされて、人口が減っていく 過程が、なんとも言えませんでした。私は、そっちの(主要四島の)側なので。 えー、エスキースといい、いろいろな事は知っておかんといかんな、と思います。 世間のいろいろな事を知っておいて、初めて見えてくるものがある、そういえば、 『果しなき流れの果に』 のどこかのシーンでは、空襲のシーンがあるのでは ないでしょうか? (またうろ覚えなんで、調べないといけないな) でも、そんな教養って、どうやって鍛えればいいの? 放送大学の 『現代日本社会における音楽(’08)』 ←という教科書の第8章、 「音楽を伝える」 という箇所で 鈴木メソード や 桐朋式音楽教育 の事を読みながら、 “文学、文芸” にも、ある程度の早期教育的な要素は大切なんじゃないか、と 思いました。 文学への目覚め についても、早熟的要素は大切なんじゃないでしょうか。 かと言ってなぁ、文芸の世界については、あんまり早期教育する理由というか、 「メリット」 が無いのかも知れない。しかし、一国民の姿として、文化として文学が、 ある文学者が登場する事は、とても大切な事かも知れないじゃないですか? コンテンツ産業としても、ハイテクばかりではなく、こういった人類の基礎的な文化 の振興は、とても大切な事なのかも知れません。
コンテンツ産業としての文学 最近、「コンテンツ」 という名前とその重要性が数多く訴えられる中で、 文芸や文学の振興がないがしろにされている気もいたします。 成長が比較的ほかの分野に対して伸びていない分野・ジャンルなのかも しれないんですけど、それにしても、人類の基本的・基礎的な芸術分野と しての、リテラシー、記述文化、言語芸術としてのそれが、振興が、ないがしろ にされていいはずがない。 国家としても、振興に取り組む姿勢があってもいいかもしれない。 しかしここで問題になるのは、文学とかがむしろかつてより 「検閲」 とかの 国家権力とたたかっての勝ち取られてきた文化・文明であるという事です。 官製文化 という事では立ち行かなくなるかもしれない、そういう 文化のアイデンティティ みたいなところの問題性もある。 文学は、国家の趨勢をあまり担ってはならない、自由なものでなければならない のかも知れないのです。ここに、文芸・文学文化の矛盾がある。 ある一文豪が出ることは、ロシアなどの例を見るまでもなく、とても重要な事だろうに。 国家 (官憲) の介入が出ること、入ることには、何らかの危険性が入り込む。 そういう意味で、本来自由なものとして展開していける 文学・文芸の文化 というのは、 非常に悩み苦しいところですねぇ。 日本では、あまり 「演劇」 の振興が無い、とも言われますけれども、そもそも 「文芸」 の分野、ジャンルについても、これは言える事なんじゃないか? 文化の基本骨格とも言える文学の文化、これに、SFとしてもあまり作家講座というか、 登竜門たる (あんまり 登竜門 ←なんて言葉は古くて使いたく無いが) 新人発掘賞が ない、掲載誌もない、というのも、一国民のバロメーターたるを得ないかも知れない。 SF本場のアメリカなどではどうなのかなぁ。 というか、一般芸術としての文学の、各国の取り扱いはどうなっているのかしら? コンテンツ産業、文化振興としても、この問題は調べてみたいなぁ。
文芸の自助努力 と、とにかく。(汗) 自助努力で自分に必要な教養くらいは身に付けていって行くにしか仕方が無いのだろうなぁ。 いろんな本を読み、苦心惨憺しながら、「続けていく」 しか無いのでしょう。 今までそれをやっていなかったからなぁ (やる方法も知らなかった) これからやっていくしか 方法は無いもんだろうか。orz 自分の手で、ちょっとはSFとか、文芸作品を理解できるようになるためには、その努力が必要 で、続けざるを得ない。 て愚痴言っているヒマがあったら。ちとは前へ進んでみるか。
『SF魂』 ナナメ読み わぁーっ、なんだ、いままで疑問に思っていた事がほとんど載っているじゃないか。orz これだからもう、わずかなお金でもはたいて買いましょう というもんだ。orz いろんな疑問が解けそうです。ありがとう、小松先生。!
フッサール、あぁフッサール 今年の春まで、偶然 『現象学の基礎』 という科目を取っていた と思ったら、 また繰り返しますが、小松左京の論や劇作の基本には フッサールの 『純粋現象学』 。 なんか変なところで追いついているなぁ。 でもフッサールの現象学はむずかしくてわからん。 ノエシス(意識作用) と ノエマ(意識内容) の不可分の関係だって、よくわからんし、 持ち越せて、持ち使えないもの。orz でも、学んどいてよかった。w 少しだけ小松宇宙に近づいた気がする。 フッサール等の現象学 (特にフッサールの現象学) については、また復習する事にするけど。 偶然でも、小松さんの若い時にノート3冊も取りながら勉強した事に触れられたのは、 幸運だった。
どわすれ 「拝啓、イワン・エフレーモフ様──」 『SF魂』 を読んでいたら、一回は読んだのに、小松氏のSF論 「拝啓イワン・エフレーモフ様──」 の内容を 完全に どわすれ(度忘れ) している事に気が付いた。 やっぱ 一回よむだけじゃぁだめだ。orz 図書館に行って、一部丸ごとコピーしてこよう。 年譜の暗記だってまだだし───。
カラオケもムズカシイ コブクロの 「ここにしか咲かない花」 も、6分以上で長くてムズカシイ。 おんなじフレーズが単純な繰り返しのメロディーに乗っているわけではなく、 デュエットされながら、複雑にあるぶらつきで揺れるようだ。 ながーい。 こんな風に歌を歌えるもんなら、ある程度は理想的ともいえますが。 長尺というか、なかなか、曲を歌いこなす事はむずかしいようで。 小松さんの作品を、このくらいの密度で、(6分もかかる長尺の曲を歌い切るくらいで) 読んでいくと、どうなるんかしらん。 あまりにも長くて、へとへとになるんじゃないかしらん。 まぁ、これからそれを参考にしながら、読み解いていく事になるわけだけれども。 やっぱり今まで 「難しい所」 (難所) は飛ばし読みして 避けて来た ところもあるからなぁ。 これから 本格読み をしていく限りは、体力も整えなくちゃ。 文庫版で約400ページの長尺の曲を歌い上げながら読んでいく事になります。 その力量、たるやカラオケに比する所あるべきや、否や? 叙事詩を歌う 吟遊詩人たち、平曲(平家物語)を弾く・奏でる琵琶弾き のように、 最後まで歌いきれる、読みきれるものですかは。 できれば、かくありたいのだけれども。 読むのに、ふと現代の琵琶弾きの心がけが胸に浮かぶとは!
琵琶弾きじゃないよね、「琵琶法師」だよね ↑ orz
コマツさんって何者なの? 『SF魂』 にも (ご自身で)書かれている事だけれども、小松左京さんって、 いろんな事をこの生涯のうちにやられていて、いったい何者なんかしらん、 という気がする。 本当に 「SF作家」 なんて所で、収めて評価してしまっていいのかしらん? もちろん、本人はあくまで “SF作家” としての自意識はお持ちだろうけど、 それにしては、いろんな事をやり過ぎるほどやってしまった観もお持ちだろう とは思う。 その全体像を、自分で説明できる程にならなきゃ、小松さん、小松左京さん という方を理解した、存じ上げる事は出来ないよね? 説明能力が要る。 H.G.ウェルズだっていろんな事やった。 ある場面で知られている存在・人物が、ほかの側面を持っているのは珍しくない。 釈超空や斉藤茂吉の短歌・歌人としての性質と、その民俗学者、精神科医としての側面など。 あの森?外だって、軍医軍人だ。 ある範囲にとらわれている人間のほうが、数少ないのかも知れない。 たいていの人間は、多様多側面な部分を持っている。 いまでは伝説となってしまった、レオナルド・ダ・ヴィンチ といったキャラクターもいる。 そうなって、みんなが、いい時代なのかも知れない。 さて、私は、何者でしょう?
いろんな側面を持っちゃう人間を見るのが……大変なのかなぁ… それはそうだよね。 でも、小松左京さんの場合には、やっぱり(SF)作家一筋というのが、 他の活動の前提になるわけだから。(SF作家になる以前の事は別としても) そういう意味では、「一貫」 しているわけだよね。 というわけで、いまはとにかく 小説 にとりくむ事ですが。 思えば、小松左京SFを、私は、何度も同じ作品を“繰り返して”読んだ事が無い! うーん、これは反省させられちゃうなぁ。 小さい時から、繰り返して読んだ作品なんて、「ドリトル先生物語全集」の3回程度くらいだ。 じゃが、繰り返し読むだけじゃなく、その一回得たイメージを、いかに何回も思い返せるか、 思い生かせるか、にも、文芸の(教養的)消費って事に もっと 関わる事でかもしれない。 思い出す、←という事ですが。 そういう事においても、私はあんまり 思い出した 事も無かったかもしれないなぁ。 (いろいろ、忘れてるもんなぁ。僕も 『果しなき流れの果に』 は好きな方ですが) (SFマガジンの500号記念では、トップに 『日本沈没』 を投票しましたけど) 一生に一度だけでも、ひとつの作品に、深く 「鑑賞」 の根を張りたい。 そういう願いを持っても、いかがなものでしょうか? 是非、一度はそんな作品と回り逢ってみたい。 せめてひとつくらいの作品には、それこそ心底深く関わってみたい。 それは現在の自分の願いなのです。
で、『果しなき流れの果に』 のオープニング プロローグ ±n に (一箇の、奇妙な形をした、) 金色の電話機 というのが出てくるんだけど、 これはどうしたイメージで捉えるべきだろうか。 ドラマ化する場合には(映像化)、このあたりはどう処理するべきなのかな。 思えば、ドラマ化ってえらい勉強要しますよね。 主題歌は、各種のシーンに添える各種音楽(効果音)の取り揃え、キャストの決定、背景大道具、 小道具の準備など……衣装・照明等も。えーと、小松さん、絵コンテも含めて、これ 映画版 「さよならジュピター」 でやっていかれたわけだ。 膨大な作業量とアウトソーシング量ですよねぇ。 オープニングは、主題としては、原作と一緒でいいのかなぁ。 これは、テレビドラマ化といった点では、考える・一考の余地がある。 時代だから、携帯電話でいいのかな、それとも オールド・クラシックな電話や、 世界のクラシック電話をイメージするべきなんだろうか? ルキッフの準備装備って、どんなもんなんだろ? その支援組織は? などなどなどと考えてくると、いろいろ疑問が思い浮かぶゾ。 ルキッフの活動資金源はどこだ?とか、あんまりにも現実にまみれた話だけれども、 ほか、いろんな事を考える。ルキッフの実体というのは何か、というのも感じる。 宇宙全体のイメージ、管理システム・管理組織 というのも、一体どうやって出来上がったのか。 それは 宇宙を作った のか、宇宙の中から出来上がったのか・生まれたのか、などと。 『果しなき流れの果に』 は、なかなか複雑な物語ですね。
最初に ラジオドラマ化 をやってみる、という手も テレビ化なんて難しいから、最初は割りとやり易い?かも知れない ラジオドラマ化を、 『果しなき流れの果に』 では考えた方がいいかも知れませんね。 ラストの壮大な宇宙のイメージを、映像にしなくていいコストが有るかも知れない。 音響は相当考えないといけないでしょうが……宮川泰(ひろし)先生の“宇宙戦艦ヤマト”並みみたいな? オレ、ラジオドラマをナメテいるのかなぁ?orz でもラジオだとコスト安く済みそう。放送ドラマ化としては、一手としてはそうですよね。 ラジオドラマのイメージで読んでみようかしらん…… という冗談はさて置いて、テレビドラマ化を前提に読んでみます。 『果しなき流れの果に』 本編。
コブクロ の 「ここにしか咲かない花」 ↑にだんだんハマりながら……これはあくまでリクエストのカラオケにお応えして、 の練習なのですが。 惜しいなぁ…… この曲、もしも今、「少年少女SFテレビドラマ・シリーズ」 ←みたいなものがあったとしたら、 その シリーズ・テーマソング に欲しいじゃん。orz ! 本当に惜しいじゃん、こんだけの曲、SF番組から生まれなかったの。 まあ 五木ひろし は別としてさぁ (「日本沈没」だわorz) オレもう現代曲としてこんだけの曲ほしー。 そんでもってテレビドラマ作るの。少年少女向けのがいいなぁ。 いま、現代に少年少女を元気付ける事の出来るようなジュブナイルSF番組があるか? てゆーと、ちっと疑問な気がする。(何か忘れてるかも知れないが) ドラマで……そんなもん作れないもんかしらん。 とゆうところでいっそですよ…… 『果しなき流れの果に』 を一挙に ジュブナイル化! できないかしらん? 日本の最近のSF、ちゅうかもう中古になっちゃってるかorz (60年代SFだもんなorz)、 そういうの全部、ジュブナイル化して、SFシリーズとして放送する、とか。 こぶし きかせて 五木ひろし というのもいいけどさ orz コブクロ もいいんじゃない? 『果しなき流れの果に』 ←をジュブナイル化する事も考えてみよう。
ジュブナイル 『果しなき流れの果に』 こいつは一種の才能なんだよな… 話を集約・要約して、その話を分かり易く展開する。 児童文学の手法をとことんまで使いこなさなければならない? ええと、いろんな話をこの手でどんどん子ども向けに翻案していったら…… それはかつての レ・ミゼラブル や モンテ・クリスト伯 ではないか! てまぁそれはそれで…… できるもんかしらん orz やってみたい気もするなぁ。 そーゆう心掛けで、読んでみたいなぁ。今回のテキスト、『果しなき流れの果に』。 でもあくまで前提は、テレビドラマ化、だけれども。
いろんな登場人物に、心を寄せる 「瑠璃の島」 を見ながら (第1話、第2話) その…… オレ、ドラマって、時々ついていけないんだけど。 それは、よくできたドラマほど、その登場人物のそれぞれの思いに、思いをかけないと いけないからだ。 ドラマっていうと小説も同じで……本当によくできたドラマほど、そのそれぞれの登場人物 の事に、思いを馳せたくなる。 まぁ、私たちの世代における、第一シリーズ宇宙戦艦ヤマトなんて、そんな所もあったんだけど。 特に僕の場合にはねぇ、佐渡酒造に自分のやりたい役割の原像を見たな。 すんません、宇宙戦艦ヤマト世代なんて、アニメ世代としては恥ずかしいものがあり、 これなら ガンダム か イデオン、ルパン三世カリオストロの城 に 鉄腕アトム とかのほうが、 まだ恥ずかしく無いものがあり。 でもヤマトにも、真田とかいいキャラもいるけどなぁ。 いやー、要は (ごくふつーの) テレビドラマで、はまればはまるほど、そのそれぞれの登場人物の 姿に感情移入や気持ちの推測を入れないといけないからで、それには放送している時間というもの が、あまりにも短いんだよね。なのに、こちらは重点的に様々な人物に思いを掛けないといけなくなる。 あんまりにも切ない体験なわけですよ。わずかな時間のものに対して、もう時には人生賭けて しまわなければならなくなる程、時間と力量をかけなくてはならなくなる。 そんだけの解釈をする時間がテレビドラマには無いし、期待もされない。 あぁもったいなーい、みたいな気持ちになるわけです。 『果しなき流れの果に』 の 佐世子さん なんて、一体どんな気持ちだったんだろ? 女の気持ちなんてわかりゃしない。でもわからねば──と思う。 今回テキストを読むに当たっては、なんかそんな事も感じたい。 ところで主人公の野々村って、どうしてルキッフに身を投じたんだろ?記憶を失って。
人を感動させる歌い方 ってものにねー、今回、取り組んでいます。 人をしびれさせるほどに、とまではいかなくともですよorz 、やっぱり歌う以上は、 期待されているんなら、そんだけの歌い方をしたい。と思ふ。 読むときにも、それはそうかも知れませんね。 考えもしなかったけど、「人を感動させる読み方」 というのが有るものかも知れない。 それは、書き手たる作者をも感動させる。そういう位置の読者さんもいらっしゃる事でしょう。 そのたったひとりの人のために 思いを込めて書く、というのも、作家・小説家の在り方かも 知れません。 考えてみたら、大衆に向かって文学を語る、というのも、特殊な近代的なものなのかも。 まぁ確かに、大衆性に訴えて書く 職業的専門家小説家、というのも存在しますが。 物語は、だけじゃない、ごく個人に向けて書かれた手紙のようなもの、みたいな所もあるわけです。 イギリスの 「宝島」 「アリス」 「ホビット」 といったようなものは、みなそんな所から派生している かも知れません。日本の 「アパッチ族」 にしてもそういったもの。 そういった所から、かえって逆に 「人を感動させる小説・物語の書き方」 ←といったものが派生 してくるのかも知れない。 うは、思いっきり今回はますます 『果しなき流れの果に』 話から離れてしまいましたが。 こうやっていく内に、たぶん 「読み方」 が決まってくるのよね。
まぁうだうだ言っているうちに、どんどん先へ読み進も。orz いまポカっと松浦登場のところに出くわしたばかりです。 (角川文庫版、254ページ前後)
筆者を感動させるものが、その賛辞たる評論なのかしら、と思ったり。 いろんな意味で、評論はある意味の賛辞であり、さげすみにもなったりするもんだと。 よくできた文章はひとを感動させる。その物語へと とりこ にさせる。 そうしてある人は作家となり、 ある人は批評家となる。 またある人は歌手となる。 何のために作家に、歌手に、あるいは読者に、ひとはなるのだろう? そうやって問いが積み重なっていく。
読み返してみて、佐世子さん が野々村の ノート(エスキース) 『時間と認識』 を 読んでいた事を初めて知った。というか、再び知った。 (角川文庫版・96ページ)
広域行政で『近畿州』ができ ↑角川文庫版・102ページの言葉。 このあと、 市町村第二次統合で、南大阪市という大都会が誕生し というセリフがある。政令指定都市・堺市 のことかしらん。
ヴィデオフォン 104ページ。鴨野のばあさん(佐世子さん)が亡くなった時に、警察官が持っていたもの。 21世紀もかなりに入っていた頃にこの状況。 現在の携帯電話の世界とある程度は似ている。 ヴィデオが本当に必要かどうかは別だけれども。機能には重要性があるかも知れない。
ナナメ読みしてて、松浦の名前を148ページで初めて知った…
『果しなき流れの果に』 の登場人物リストを作らないといけないな
野心を捨てて 上手(うま)く歌いたいとか、上手(じょうず)に読み取りたいとか、 そんな野心を捨てて。 ただ自分の思うままに、自分の情実を、吐露・表現して読書できないものだろうか? 自分の生身の思い・重みにそのままに隠し事なく、触れる事、そんなことは出来ないものだろうか? たった一冊の本の前で、隠しどころも無く、ただ、素直に受け止めること…… 自分をさらけだしてしまうこと。 やっぱりなぁ、故意に、あるいは作為的に、なるのではなく、自分に正直でいたい。 読書体験や読書経験とは、一体なんだろうと思う。 そこに描かれている、人の人生を、どう見て受け止めるか。 佐世子さんの人生を見てて、人はどう思うだろうか? ほかに、もっと 「選び取れる人生」 というものもあったろうに。 たった一人の男性と深い関係性を、それが失われたあとで気付き、 また守って待って、待ち続けること・・・ 一冊の本の、作品の前で、自分は素直に裸になれる事だろうか? 恥ずかしながら、あまりそんな事は出来ないように思う。少し、照れてしまう。 ただ、たった一冊の読書でも、そこに多様な人間像を発見したとき、 ひと、人間は、それを思いっきり、つい身の回りの人間に対して応用をやってしまうのではないだろうか? 事実は小説よりも奇なり。 それを含めると、やってしまうのが人間というもの。 そんな理解の果てにたどりつけるなら、ほかの人生捨てても構わない。 どうしても佐世子さんの生き方が気にかかる。 佐世子さんへの鎮魂歌、それとともに人生というものを思う。 結局彼女は、『果しなき流れの果に』 の円環構造に触れるのだけれど、それは自覚的なものじゃない。 『果しなき流れの果に』 のヒロインとして、彼女の立場とは一体いかがなるものなのだろう。
男たちのドラマとしての 『果しなき流れの果に』 制作過程の時代の背景もあるかとは思うが、『果しなき流れの果に』 は、 戦う男たちと、待つ女(あるいは巻き込まれる女) の構造になっている。 思うに、宇宙の全体構造を支配する知性体構造に対して、対抗する ルキッフの面々も、登場するのは男たちばかりだ。 (全部読み返してないから、まだ何とも言えないけれども) 本当に現在テレビドラマ化するとすれば、この男性・女性ロマンティックを そのままに採用すべきなのか、それとも宇宙全体を通してのこの戦いの 中に、宇宙支配構造 と ルキッフ の存在の両方に女性の存在を巻き込む べきか、といった問題・課題もあるかとは思う。 子どもたちの参加、所属といったものもあるかも知れない。 もちろん圧倒的に 反抗組織・ルキッフ のほうが、組織の弱体性は多い。 でも、そこにどんだけの宇宙的様相を見出すべきか、困ってしまう。 一体ルキッフは何のために戦っているのか、それは(知性体)進化の道筋を ただひとつ?に関係付け、体系付けているもの、「秩序」 に対する 自由 の 反抗なんだと思う。 全宇宙というか、超宇宙体系としての進化制御体系に対して、もっと自由な 進化の可能性を開く、それがルキッフの目的なのかも知れない。 まぁこれも読んでいくうちに謎が解けるだろうけど。 それにしても、現代には 組織対組織 で、ジェンダー(性的役割づとめ) は 流行(はや)らない かも知れない。 それにしても、分岐した宇宙のイメージ、どうやって映像化したらよいものやら orz
体制側・宇宙知性支配体系 と ゲリラ側・ルキッフ ↑うん?そんな事言えるか、とも思い。 これは現代の戦争の、まだ終焉していない姿を指し示しているような気がする。 9・11でクビが飛んだ、アイみたいな実際の人もいただろうしね。(たぶん) アイはクビではなくて、「知性体レベル降格」 だけれども、それで松浦と合体して ルキッフを追うらしい。(で野々村は実は松浦の子で・・・) ハンターとしてのアイ、追われる立場、いや抵抗する立場としてのルキッフの面々たち。 どちらも、知性体の進化を支持し、その過程に干渉・介入している点では立場は同じ かも知れない。 もしルキッフ側が勝利したら、人類を含めて宇宙の知性体の進化はどうなる事だろう? 宇宙にとって知性とは何か? これは根本的な問題だと思う。 宇宙体制側 も、ルキッフ も、知性についてどんな考えをめぐらしているのだろう? それは現在の人類の理解や構想を超えるものではあるんだろうけど、 どんなものなのか? 一体どんな哲学なのか? 考えるにそれは謎。 現代の戦争の哲学についても、それは一体どうなっているのだろう。 先日、放送大学の共通科目で、高橋和夫先生がおっしゃっていたなぁ。 戦争には二つの理由があって、ひとつは強大な軍事力を持ってしまう事、もうひとつは それを持つことで、政治が戦争の選択をし易くなる事、の説があると。 老兵は死なず、ただ去るのみ、みたいな言葉もあるけど (マッカーサー)、 実際には、老兵はただ立ち去るのみ という事は無くて、そのまま次の戦いを求めていってしまう 人が多いんじゃないかと。西郷隆盛しかり、アフガンの冷戦時代のムジャヒディンしかり。 「老兵を作らないこと」 が、戦争が起きない、戦争をしない事につながるのではないか、と。
まぁとにかく。 ちゃんと本を読みましょう。 orz こうなるとまるで小学生みたいだね。 orz
時間を飛び、時空を飛び しても、やはりルキッフの仲間たち、人物たちは生身の存在なので、 生きているうちにいつしか年・年齢を取るものなのだろう。 その若き時は別として、年老いたら、どうなっていくのか。 肉体としての人生を終えようとしたら…… 果てしなき流れの果に、では機械知性・人工知性の問題はどう取り扱われている のだろうか。といっても、まだ例の “資料衛星” の箇所に読書が届いていないので なんとも言えないのだけど。 そういう点で、『果てしなき流れの果に』 はヒューマンドラマ、の要素を持っている。 あくまで登場するのは、人間的な生身の存在たち、その中で、超知性体・超意識体 としてのアイの存在は異色の存在である。 人間がドラマの主人公だから、この物語はこれほどまでに成功したのかも知れない。 実際の、例えば人類の進化と人工の知性体の関係はどうなるのか。 人工の知性体は、あくまで人工のものにとどまるのだろうか。 それとも、いつしか 人工の生命体 も含めて、意識を獲得して、超意識の段階へと 進むのだろうか? 昨日誰かにお伺いしたのだけれども、アミノ酸の段階なら人工合成が出来ているという 話があったが、これは 完全な無機物 の段階から、有機物を合成する事に成功した、 という事なんだろうか? なんかそれにはまだ早過ぎるような気もするのだが…… とにかく、なんだか 『果しなき流れの果に』 はヒューマンドラマのようだ。 時間を越え、空間を越えて、異次元の果てまでも話が飛んでも、ヒューマンドラマの枠 は越えなかった気がする。(それはこれから確かめる) 超意識体・知性体のひとつが、人間のヒューマンドラマの中に巻き込まれていく物語、 そんな風にも受け止められるかも知れない。この物語は。
ふむ… 113ページに、「女の声」 というのが出てきますね…ええと、保安省特捜課長の オリガ・メチニコフか… (119ページ)
ちょっと一休みに。 果てしなき 流れの果てに 一休み by 小松左京 果てしなき 流れの果てに 墓二つ from 2chんねるのSF川柳のスレ
カラオケで大失態が なんで 小松左京研究 に結び付くのか? いやー、難しかったです。「ここにしか咲かない花」。思いっきり音をハズシテしまいました。 でも今回は orz は付けない。勉強してしまいました。 コブクロの 「ここにしか咲かない花」 、一週間足らずでマスター出来るほど、簡単な曲では 無かったんですね。物凄く、音程崩しました。オンチに限りなく近かったです。 これは…まったく知らない曲を、一週間でマスター出来るわけではない。 私はカラオケなんて普段やったりしませんから、それもありますが、物凄く勉強になった。 歌手になる人なんて、物凄く歌い込んでいるわけだ。 カラオケ程度でも、物凄い練習量に違いない。(練習でなくとも、物凄く歌うのが好き、とか) 「ここにしか咲かない花」 は今やカラオケの定番と化しているみたいですが、(好きと言う方が とても多かった。それでリクエストを受けたのですけれども) こりゃ、まずは、 一ヶ月は徹底的に練習 しないと習得出来ない曲と見た。 カラオケでこのざまなんだものなぁ。人の心を動かしたいなんて、全くの慢心でした。 「ここにしか咲かない花」 6分11秒 でこんだけなんだものなぁ、何回歌い練習しても足りない。 ならば、小松左京作品の代表作たる、『果しなき流れの果に』 を知ろうたって、それは 一回読んだだけでは駄目で、何回でも読み直さないといけない。 半年かかるかも知れないし、一年かかるかも知れない。あるいはもっと長くかも。 (おそらく答えは最後のだろうけど) はぁ、誰もが苦心惨憺して結末に近づく。そうかも知れない。 これから一ヶ月をかけて、「ここにしか咲かない花」 を修得しようかと思います。 同じように、心改めて、『果しなき流れの果に』 などの諸作品に取り組みたいと思います。 ほんとによく読めーつーのよねー。 何度でも繰り返し繰り返し。 レンタル・ビデオで 「瑠璃の島」vol.2 を借りて来て見てしまいました。 『果しなき流れの果に』 の話は 再び プロローグ±n から、第一章 象徴的事件 へと戻ります。
『果しなき流れの果に』 は、映画に向いている作品か、それとも テレビドラマ か? これは…映画化してコケたらえらいことだからなぁ。orz しかしテレビドラマ化が失敗しても、ファンからはどう言われるかわからない。orz でも今回は、テレビドラマ化を前提として読んでいきましょう と決めているので、それで行きましょうか。 どんなテーマ曲にしたらいいのか、雰囲気・ムードはどうあるのか。 またどんなオリジナリティを付け足したら、面白くなるのか。 12回1クールとして、それで毎回どういった要素を付け加えたら、視聴者が見たい番組になるのか? ビデオ(DVD)は販売できるのか、考えていきましょう。 毎回の予告編の作り方が、決めにはなるはずなのですが。老いた佐世子さんと謎の老人との会合 シーンはどこに持って来るべきか、など、やる事はいっぱいあります。 『継ぐのは誰か?』 の場合には、青春小説として読めた。 『果しなき流れの果に』 の場合には、もっと大人の作品として読めるのではないでしょうか? 『日本沈没』 は本来は第二部が大切だったのだから、それをもう一度考えるとして。 (次期テーマです) 全12回のラストシーンに、毎回佐世子さんのシーンを入れるとか、そういう工夫をするとよいかな? 佐世子さんに重要なキャストを勿論充(あ)て、第一回に佐世子さんが野々村を失うシーンを入れる とか、それから毎回、佐世子さんが生活地を変えたり、教室で教育を行っているシーンを入れたり、 大学で聴講生になっていたり、野々村の残したノート 『時間と認識』 を読んでいるシーンを入れたりとか、 すると、全約12話が自然とまとまってくるかも知れない。 ヒロイン佐世子さんには、どんなキャストをあてるといいと思います? (うぅ、ひょっとすると、毎回だんだん老いて行く佐世子さん orz) 謎解きやクライマックスは、だんだん末尾の方に。エピローグ(その1) から エピローグ(その2) へと。 それでは流れは本編へ。
714 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2008/06/27(金) 20:39:19
『果しなき流れの果に』 分布表・構成表 プロローグ ±n 第一章 象徴的事件 1 2 3 4 5 6 第二章 現実的結末 1 2 3 4 エピローグ(その2) 第三章 事件の始まり 1 2 3 第四章 審判者 1 2 3 4 5 6 第五章 選別 1 2 3 4 5 第六章 襲撃 1 2 3 4 5 第七章 狩人たち 1 2 3 4 第八章 追跡 1 2 3 4 第九章 狩りの終末 1 2 3 4 第十章 果しなき流れの果 (数字無し部分) エピローグ(その1) こんなものでしょうか。
ウヒャヒャヒャヒャ、今度は テレビドラマ の歴史 テレビドラマ化したいのなら、今度はテレビドラマの歴史を踏まえる、というのも大切なのかも。 なんて、考えてしまい。 思えば、おっと、『果しなき流れの果に』 も文学史上の文脈の流れを踏まえないといけない かも知れない。 映画化するんだって、映画史上の歴史を踏まえるというのも大切な事なのでしょう。 プロローグ ±n を読みながら、なんで、物語の開始が恐竜の時代(ロストワールド)なのか、 考えてしまいました。それは、人類、知的生命体に対する対応なのかどうか? いや、いかにも巨大な時間の流れで地質時代的な比較をする場合には、当時には、 「恐竜時代」 を描くことが、まだその時代を描くことに、効果的だったからか? そこに登場する、人間らしい一体の死体。円筒型のピカピカ光る金属の筒…… このオープニングで、ドラマ化するのは難しいかなぁ? どうなるのか、よく考えてみよう。 この プロローグ が、やがて、2つの エピローグ へとつながっていきます。 このオープニングが、どうしてエンディングにつながっていくのかは、よく考えてみよう。 そうか、“恐竜の時代” を描くことで、また 知性・意識体の進化 という事を潜在的に表現している のかも知れない。黙示録的表現かぁ──? オープニングの恐竜時代の描写から、第十章 果しなき流れの果 で意識の最高水準に達した あとで、やがて遥か下り、エピローグ(その1) から エピローグ(その2) へと到達する流れが、 プロローグからエピローグ へと繋がっていく理由なのかも知れない。 プロローグ ±n から 第一章 象徴的事件は繋がっている? それはよく読もう。(よく読んでいなかった。orz)
黙示録 (もくしろく、あるいは もくじろく とも) 黙示 @ 暗黙のうちに意志を伝えること。 A 〔キリスト教で〕 神意・真理を、神が人に示すこと。啓示。 三省堂・新明解国語辞典 (第五版)
瑠璃の島、第3話・第4話 を見ながら 2回目見てるんですけど(昨日1回見た)、「瑠璃の島」って何かに似てるんですよね。 普通、それはみんな「Dr.コトー診療所」 ←に似ていると言うのですが。(私の知り合いどもは) う…ーん、それだけじゃないような気がするのね。 あと二つ、「電脳コイル」 と、「北の国から」 の3つに似ているような気がする。音楽とか… カントリーを音楽として使ったり… う…ん、物語、ドラマって、歴史を踏まえることも大切なような気もする。 ほかにも探してみると、たくさん要素が見つかるかも知れない。 『果しなき流れの果に』 も、どんな要素が隠れているか、それはこれからになりますが。 だんだん連想していって、調べてみたい。
あ、そうそう。 もうひとつ。「瑠璃の島」 って、流離の島のダジャレかと思ったら、流離は(りゅうり)と読む んだった…orz 瑠璃 (梵語の音訳) @七宝の一つ。紺色の宝石。 A美しい青色をしていて、こがね色の細かい点が入った鉱物。 Bガラスの古い名。 C「るり色・るり鳥」の略。
「瑠璃の島」 と 赤毛のアン、『果しなき流れの果に』 と …? 言われてみると、「瑠璃の島」 と 赤毛のアン には共通性があるかも知れない。 ただ、「瑠璃の島」 は現代の捨てられた子どもの話なんだけれども。 (というか過疎になっていく限界集落的小島の社会問題の中で入っていく側も 受け入れ側も変わっていくのが主題) アンは孤児(みなしご)。ちとタイプは違うけど(もらい手の父親の性格とか)、 ある程度の老夫婦に結局引き取られていくらしい物語も、似ている。 でも偶然か。? プリンスエドワード島 と 鳩海島 というのは、さすがに共通性には今のところ 数え上げなかったけれども。 『果しなき流れの果に』 も、偶然にでも似たような話・作品は有るだろうか? 読み返さないといけないけど、大クラークの 『幼年期の終わり』 はある程度 そうかも知れないけど、内容大変忘れてて。orz 「2001年宇宙の旅」 はいつ頃の作品だっけ? (映画の方) あ・と、調べます。 やっぱり1968年4月6日にアメリカで初上映ですね。 『果しなき…』 は1965年(昭和40年) 御大 34歳の時 の作品だから。(映画の3年前) 『果しなき流れの果に』 と究極的には似ている話ってあるのかな? H.G.ウェルズの 『タイムマシン』 とか、オラフ・ステープルドンとか、 やっぱり御大に強烈な影響を与えている 『神曲』 地獄篇・煉獄篇・天堂篇 はどうなんだろ。(これも読んで確かめてみないといけない。orz) 似てるからって…(つまり「偶然似たように見える」からって)同じとは言えない んだけれども。 逆説すると、御大の『果しなき流れの果に』のオリジナリティって何か?が問える という事になる。 ついでながら、「瑠璃の島」 のオリジナリティが問える、という事になる。
ひとの考察をとっかかりにして考える、という手もあるから、 「果しなき流れの果に」論の載っている 笠井潔『機械じかけの夢』を一読するのをおすすめします。
オリジナリティ とは。 物語の独創的な部分、といった事になろうか。 展開の仕方、とか、主題(テーマ)とか、いったもの。 ええと、突然バカになります。 物語のオリジナリティとは、一体なんでしょう? 一回バカになっといた方がいいなぁ。なんか考え付くというか、考えるもん。 といってもバカになりすぎてもやり過ぎだし・・・ 『果てしなき流れの果に』 の世界SF、日本SFにおけるオリジナリティとは一体何かな? それは……(仮言形を借りて)、うむむ、そういえば、管理する体制側とそうでない側の 対立を描いたものに、ポール・アンダースンの 『タイム・パトロール』 があったっけ? それを、小松SFでは、人類の進化を管理する問題 と置き換えた、と言えるかも知れない。 でも 『タイム・パトロール』 の記事紹介に御大が触れた時期を知らないといけないしな。 で調べる。 翻訳は知らないけど、『タイム・パトロール』 Guardians of Time は米で1960年。 時間警察の概念はたぶん日本でもあったでしょうね。すぐに。 てグレッグ・ベアが義理の息子だなんて初めて知ったゾ。orz SFにもいろんな作品や人脈があるんだなぁ。 ええと、結局オリジナリティの話が展開できないや。orz 日本SFの最大の偉作のひとつであり、収穫でもある 『果しなき流れの果に』 の オリジナリティを求めるのは、ほかに世界の作品と比べると、少しづつ違っていて面白いかも。 そう…オチが男女のロマンスに落ち着くというのも…。 あほらし。簡単に言って、オリジナリティとは、やっぱり主題とか展開の新規性・新奇性に 求めてもいいのではなかろうか。 あんまり似たもの探しの前に、この作品だけでやっていくべき発見があるべきではなかろうか。
>>723 サンクス。いつもながらです。
『機械じかけの夢』を一読ですね。はい、やってみます。
で、じゃ〜ん。忘れていた 早川書房 世界SF全集 第29巻 小松左京 の 石川喬司 さんの解説、「小松左京の宇宙」 を今取り出している所です。
石川喬司 解説 「小松左京の宇宙」 から うーん……、フィールドノートですか……。
第一章 象徴的事件 1 番匠谷教授の風貌 ──でっぷり肥って、いい服装をしている。精力的な顔で、太い黒縁の、ボックス型の眼鏡をかけ、意志的な、大きな顎をしていた。 実業家かな?──と野々村は思った。←そうですね。 こんな事も細かく読まないとわからないものだな。全然記憶になかった。 一方、その直前の大泉教授の描写。 ──大泉教授は、ずっと目をわずらっている。外では濃いスモークのサングラスをかけ、部屋の中はいつもブラインドをおろしている。 こんな簡単な事にも、ちゃんと目を通してみないと、わからないもんだ。 番匠谷教授が、こんな風貌だったなんて、全く記憶にない。 自分には、何か小説を映像化する場合、読む場合の大きな欠陥があるんだろうか。? たぶん、それはある。 両人とも、眼鏡をかけていたなんて、ちょっと初めて知った。 こういった調子で、かつては読んでいました。 今はペン入れしながら読んでいます。
なんだか高橋和巳さんを連想した記述の仕方のところもある。 9段落目あたり。
箱の大きさは、高さ二十センチぐらい、たて横十五センチくらいのものだった。 (22段落目) しまった。今手元に(というか宅に)ものさしが無い。 よって厳密にどのくらいの大きさかわからない。
和泉砂岩層──西日本中央構造線の北側を走る、中世代の……上部白亜紀の中からだ…… (1 最終段落。65段落目あたり) これも地質図が手元に無いので場所がよくわからない。 上部という事は、白亜紀でも新しい時代という事だろうか? それと中世代というのは、文庫の中生代の印刷の間違いかな? グーグルアースで見ても、ちょっとわからない。(もちろん)
>>727 フィールドノートとも受け取っていいって言ってらっしゃるみたいだから、
読む側ももっと想像力をたくましく働かせてもいいのかな。この作品。
1. フィールド‐ノート【field-note】 実地調査記録。野外活動記録。
話の舞台の、和歌山県と大阪府の県府境の葛城山と思われる位置、 グーグルマップでゲットしました。
735 :
名無しは無慈悲な夜の女王 :2008/06/29(日) 02:04:09
大和葛城山、和泉葛城山、南葛城山、中葛城山
>>735 そんなにあるのぉ?orz どれがどれだかわからないや。
役小角(役行者) に関係するのはどれだろう。
とにかく 『機械じかけの夢』 が地元の図書館に無い事がわかったので、 これはアマゾンショップとかで買い求めていくしかないのかな。
第一章 象徴的事件 1 (第1段) のまとめ。 しめった冷たい空気にみたされ た薄暗い部屋で行われる会話。 物理の大泉教授と史学の番匠谷教授、それと大泉教授の助手 野々村の3人で交わされる会話。 その内容は、特異な砂時計(発掘現場からの出土品によるもの)で、重苦しい 雰囲気も交えている。(でも淡々と話は進む) あまりにも謎の物体。それもオーパーツの水準を遥かに超えている産物。 四次元砂時計? 1回読んだだけでは駄目だろうけど、なんとなく物語(作中)で起きている出来事の ドラマ性や雰囲気、事の深刻さについては触れていく事が出来るような気がする。 これが第2段に入っていくと、間白で3つに分けられ、その最初の部分(部分第1) の明るい野々村と佐世子の恋人関係の描写とコントラスト(好対照)をなす。 2 (第2段)の、葛城山までへの交通コースから、N大が東京か羽田空港経由になる土地にある 事がわかる。それから飛行機でフライトで、伊丹空港へ。 自分がそんな変なものに出会っちゃうと、どういう結果になっちゃうかなぁ、と考えてみる。 まぁどうしようもないので、そのままにするだろうけど。 実は兄貴の修学旅行の写真に、幽霊とも言える女の子の生首、4つを森の中で見つけた 覚えがあるんだけど、どうしていいのかわからない実際経験もある。 幽霊?、ちゅうのはそれほど珍しくも無いものなのか?写真においては。 オープニングとしては、1 (第1段) はスリリングでクール、怪奇な始まりだとしてよいのか?
2 (第2段) 3つ割で、1番目 33段落 2番目 19段落 3番目 16段落 合計 68段落 1 (第1段) 65段落 とほぼ同じ段落数と言える。 ここで、登場人物としては5人目辺りの、謎の「クロニアム」という言葉を口にする 青年が登場してくる。 飛行機で出発する前 (野々村の恋人関係の描写) 飛行機で向かう途中 (番匠谷教授と野々村との会話で、番匠谷教授の学問姿勢が浮き彫り) 飛行機を降りたあと (「クロニアム」と名を口にする謎の青年との邂逅・接触) 3 (第3段) で一行(番匠谷教授、野々村、学生)は葛城山へと移動。 例の謎の青年もその後を追っていたか、すでに葛城山の新発掘古墳で見かける事になる。 これからどうなるのか。 物語はどう進んでいくのか?
“クロニアム(四次元砂時計)” についている模様の 「梨地」 とか、ベルベット(ビロード) とか、 オレよく知らん単語多いな。orz というわけでよく国語辞書などを引く。
小松左京さんのイメージ力の傾向が知りたくて、も一度プロローグから読んだけど、 映像(そして、色、形など)や音にかたよっているのか、もっとマルチ感覚なのかは いまいちわからなかった。 匂いのイメージもちゃんと有る。 野々村の佐世子とのシーンでは羞恥心も出てくるし。 読んでいて佐世子さんが お寺の娘 だという事を初めて知った。 どんなお父母さんなのか、ちょっと関心が出た。
まだ読めていないけれども 野々村がどうしてここ、N大の助手として居るのかが、その過程が気になった。 パパの松浦の影響も、潜在的にはあるのかしら? それはあまり考えられない影響だとしても?、謎の孤児だった野々村浩三は、 どうしてここにいるのだろう、と考えてしまった。 かなり浮世ばなれしたN大理論物理研究所の中でも『隠者』とよばれるほど ひどくとびはなれた存在の、大泉教授の助手。 この位置にやってくるまでに昭和をどう生きていったのだろう。どう育ったのだろう。 野々村は一体何歳くらいなのだろう。 ふと、なんとなく、佐世子は野々村の年上なんだろうか?
で、だんだんノート取ること覚えてきた。
“穴から大神宮” (角川文庫版・56ページ) これはもうすでに、第二章 現実的結末 1 に入ってしまっているのですが、 いろんな事知っておかないと著述って出来ないもんだなぁと思う。
やっと出てきた。 大田佐世子さん、三十路超えてたんだ。
エピローグ (その2) アマチュア郷土史家?鴨野清三郎氏もまたどこへ行ったのか…… 大田佐世子さんが、養子手続きで、その伯父(父母の兄)の家を継ぐ。 そして野々村の帰ってくるのを待ちながら、年齢を重ね、ついに老境で亡くなる。 その頃には、訪れた、近在の人もよく見知らぬ老人とよく会話していた……。 その老人も、老婦佐世子さんの死を交番に告げたあと、すぐ亡くなる。 建つのは、野々村浩三 と 野々村佐世子(旧姓鴨野) の二つの碑。(いしぶみ) 佐世子さんは、いったいどのような気持ちで、書置きをしたためていたのか? (その書置きで、ふたつの墓碑と野々村たちの残した資料が大学に寄贈され、残される。 現実に老いている人を見て、その人がどんな人生を送ってきたのか、自分は考えた事があるだろうか? 「先生」 としたわれる佐世子さんの、のちの姿。 野々村を待ち続けるだけではない姿も有り得ただろうに…… (普通に結婚して、子どもがいたり) 実際には、全体としては継代していく人類の姿。 そこには人類社会の発展が待っている。それをこつこつと見ていったら、 未来だけではなく、過去の歴史だけでもえらいことになるだろうなぁ。 話はそして、まだ等質の時間が未来に向かって開きつながっていく──。
第三章 事件の始まり 3段 によって構成。それぞれ間白によって幾つか区切られている所あり。 第一段 73段落 (会話文含む) 第二段 57段落 (同じ) 第三段 90段落 (同じ。3つの部分に分かれる) 合計、約220段落。 (数え間違いもあるかも知れないから) イメージしている所を細かく見ていくと、これは静止軌道衛星と、それをつなぐ軌道エレベーター の話なんだろうか。いやそれは文中で使われる手段に過ぎないのだけど。 超科学研究所 的な研究はなお続けられいて、ぞの成果はある一定の 「全体像」 みたいなもの をおぼろげながらつかむ、輪郭線を描くことに成功する。 それは、未来からのふたつの力による、現在と過去への干渉だった……。 未来から干渉してくる二つの力。 一方は解読すべきメッセージを発しているようであり、一方はそれを打ち消そうとする。 そしてその成果をあげた、貴重な資料衛星ナンバー5 が突如ガス化される・・・ 事件はタカノリ・バンショウヤ博士の意識のメッセージを込められている古いテレビの破壊から 始まる? 電気が無くても映る謎のテレビ遺物。謎の人物ムッシュウ・Mの破壊工作の対象は これだった。 第一段、第二段、第三段 の関係は、だんだん通過関門を潜り抜けるようになって来ていること。 そして第三段 の各3つの間白によって区切られた段は、それぞれの目標がある。 特に、第一 と 第二、第三 の間の間白 は、一行ではなく 二行の間白で区切られている、という 違いがある。第一 は資料衛星No.5 の描写、それと超科学研究所の得られた結論。 第二で、“ムッシュウ・M” は「目的」 の番匠谷教授の映る古いテレビの所在位置を知る。 そして破壊……第三で、資料衛星No.5 を4番目の事故として失ったあとの、地球社会における 超科学研究の一時の停滞化する顛末が語られる。 白堊紀の描写から始まった物語は、現代の謎の事件を経て、約300年後の未来において、 再び関連事件を引き起こす。何かの破壊工作の芽が、おぼろながら見えてくる。
現実の果しなき流れの果 かつては、21世紀も現実ではなかったから、21世紀がどんな姿になって出てくるのか わからなかった。 現実になったら、コンピューターというものがこんなにも身近なものになっていて、 コンピューター通信ネットワークというものが、こんなにも世俗なものにも普及していた。 90年代に湾岸戦争が起き、その前に 「冷戦の終結」 という重大な事件があり、ソ連邦が 終末を迎えた。 そして、アフガン戦争とからんで、9月11日のアメリカ同時多発テロ事件が起きた。 ’95年にはオウム真理教による毒ガス・地下鉄サリン事件も起きた。 阪神淡路大震災も起きている。 未来ってのは、具体的にはなかなか予言(あらかじめ語る事が)できないものだ。 ただ21世紀になって気楽になっちゃったというか、もう時間の束縛にならなくても現実に こうやって、平気で空気のようにアクセスできるのは、悪くない。 ただ、だとすると現実に自分の死も近づいているわけで、その事をも考える。 自分の人生には 「果て」 がある。その事をふと考える。 あとしばらくのあいだ、一体何をすればよいのか、その事をまた考える。
あと10年くらいは何とか生きられそうなので・・・ どうだかはっきりしないけど。(苦笑) その間に、小松左京さんのご著作を、一部なりとも今年のうちでいいから、わかる事が できるようになるのか、その事が心配。 昨日、「小松左京マガジン」 の最新号2号分をオンライン書店で買い注文致しました。 果たしてどんな雑誌なのかしら? とにかく本文、こつこつと読み続けます。
『果しなき流れの果に』 …… 半分まで読んで。 読み返してみて、いろんな事忘れていたなぁと再発見する。 うーん、こういう話だったのか。
一度読み返したけど…… こ、こ、こ、こんな大変な物語だったとは思わなかった……(笑)
整理がつかない どっかまた愚痴っぽくなりますが、まぁいいか、『果しなき流れの果てに』 複雑な物語なんで、 なんだか整理つかない。 もうちょっと読むと、そんなに複雑な物語でも無いとわかってくるのだろうけどなぁ。 なかなか大変だぁ、と思ったりしてます。 要するに 未来からのメッセージ、過去への改変干渉というのは 野々村自身が考えて仕掛けた 事にになるのかしら。ルキッフ(←私はこれを組織名と間違って憶えていたorz)のやっていた 事と、そのルキッフの後継指名としての、野々村の行動には、どう違いがあるのかイマイチ わかんなくて。orz 何章、何段、何段落、何文 で構成されているのか、という事も分析途中です。 文 は、ある1ページから平均的な文数を取り、それに全ページ数をかけると得られるでしょうね。 章は プロローグ±n を含めて全11章なんで、また全段数は各章の段数合わせて約45段、 段落数はまだ途中なのだけど、第三章まで(20段ほど)で 約1300段落くらいなんで、全部で 約2500段落くらいの構成数にはなるのかしら? 1ページ約20文だとしたら、約400ページを掛けて、8000文、1万文弱で構成されている物語 としていいのかな? とにかくそのくらいの物語です。 1万文で出来た物語を、また意味論的に捉え直さないといけないので (プロット・粗筋等など) そこが大変。構成は複雑だし、そこに登場してくる人物たちを全部押さえていくのも…… あぁ、私にはやり切れないわ。orz とか言って、読んでいきます。
うーん、プロローグ±n を含めて、エピローグ(その2) と エピローグ(その1) は 本章(10章分) とは違ったものとして捉えるべきかも知れないなぁ。構成成分として。 それでも本章10章分と1プロローグ、2エピローグの13部分から成り立ち、 本章10章分で 42段分け、それとプロローグ・エピローグで 全45段の分けとなる。 推定約2500段落 (これはあとで明確に計算)、8000文〜1万弱の文から構成される。 物語は野々村が 第一章 象徴的事件 で事件で関わって、第二章 現実的結末 で現在 の場所から消える所から始まり、最後にはノアヴィル氏となって鯨座タウ・ケチの第五惑星の 四十五世紀に出現し、ほぼ一千万年先にある“掟の壁”を乗り越えて、アイに意識が吸収 されるまで続く。その前後に、野々村の父松浦の体験した事と、アイの凋落後のアルプスの 謎の遭難者となって第二階梯の存在として復活し、日本の葛城山のふもとで佐世子と出会う までの姿がある。 全部を思い返し切れないよー。あんまり読めてないので、登場の各人物に感情移入出来ない。 できたら全部にしたいなぁ。読み返すしかないか。 わずかな所で、終わりごろの佐世子さんの住んでいる場所の生えている植物の名前すら イメージできないんだものな。orz わかるのは 南天 くらいのものか。(無知だ〜) いろんな部分がわからないので (前述の植物名とか) 、ちょっと情緒的な部分でもこの作品 をより一層深く味わえてなかったりする。あと色彩とか形とか、物体の大きさとか、 具体的にイメージできていなかったり。 ただ最後の葛城山の晴れた日のイメージはよかった。 またいろいろ読み直そう。 映像等になかなか翻訳しづらいです。私個人では、努力しないと。 (例えばタイムマシン、時間機はどんな形をしているのか、というの。)
小松左京マガジン うーん、こんな形してたのね。 あとでちゃんと読んだり、バックナンバー揃えていったりしていこう。
なかなか先へ読めなーい。 段落は、推定2500 から、実際調べたら、2839段落くらいだったみたい。 文も実際は1ページ平均で15文くらいから構成されているみたいだから、 約400ページかける1ページ平均15文で、約6000文から構成されている、 というのが正解な所なのかも知れない。 それよりも、全体のイメージがより一層つかめない。(『果しなき流れの果に』) どういう視点で読めばいいのか、はまだこれから。
はぁ。 7月末に試験準備と人付き合いに追われ、ここから先jに攻められない状況が続き。 試験はものすごく難しい感じだったので、6科目中2科目ぐらいしか合格しないと思ったら。 物凄く運がよく、6科目中5科目まで合格した。 それもA○(えーまる)が4個とAひとつという奇跡的な数値。 でも法律の「著作権法概論」がE評価だったもんなー。 再試験だ。美術館関係のエキスパート資格がすぐには取れなくなった。(汗) これから落ちたの含めて人文関係専門科目4科で5科目を取らないと卒業できないので、 来年1月末から2月初めにかけての試験を頑張らなきゃならない。 (結果が報告されるのが3月) あははは、小松左京作品の研究にもう一度取りかかれるのは、少なくともあと4ヶ月ほど、 以降の事になりそうだなぁ。(遠い目) 物凄い低い水準の研究レベルだけど、なんとかだんだん小松小説の秘密に近づいていきたいです。 次にアクセスできるのは、半年先くらいなのかなぁ。 案外またあしたからするかも知れないけど。(くす。苦笑) リナックスのJDがKDE環境でクッキー問題とかで書き込んでくれないので、手打ちで打ち直して XPマシンから通信しています。
tesuto
ひえぇ〜。テストしたら書き込んでくれたぁ。 LinuxのUbuntu8.10のJDってすげぇぇ。(オレのマシンだけか、哀れなものよの) しかしとにかく小松左京さんの作品をどんどん読み直さないといけないのよぉ。 誰かさんに教えてもらった、笠井潔さんの評論集もまだ読めてないし。 (探せないのよぉ。ネットで買うしかないか。地元に今のところ見当たらず) 『機械じかけの夢』だっけ? (違ったかな?) とにかくどんどん読み込んで、考えていかないと先へ進めない。 まずは『果しなき流れの果に』がわからんと……。 大学の中間考査が大変なんでひぃこら言ってます中でなんですが。(ぁぁぁぁ)
kde test
SFには、関係の無い話のようで…、地元の図書館でアーノルド・J.トインビーの『歴史の研究』完訳版全25巻を発見。 長年触れたいと思っていた書物なので、それがなんと地元の図書館に蔵書されているなんてショック。 地元の旧国立(現独立行政法人)の大学付属図書館でも検索でヒットしなかったものが…。 あわわ、今までの私の人生の時間っていったい何? orz 第一巻が1966(昭和41)年、第25巻の完結がなんと1972年(昭和47)だよっ?! で、第一巻で冒頭の方に、H.G.ウェルズの『歴史概説』についての記述がある事を発見。 これは、岩波新書の『世界史概観』?(上・下巻)の事なのかなぁ。 さすがのトインビーも、きちんとウェルズの著述をちょっと押さえているんですね。 で話はトインビーと小松左京さんの比較という事にもしたかったのですが、うーん、同じアカデミズムっぽいのでも、 両者を同じ俎上に乗せるのは無理があるかなぁ。(トインビーは完全アカデミズム肌、学究一筋の人ですが) やるなら同じ作家・小説家としての面でのウェルズとの比較とその影響だよなぁ。 ウェルズは『世界史概観』でも知られる通り、いろいろと?通俗教養書を書いた人でもあり… 小松左京さんなら、これに相当するのは、『はみだし生物学』、『空から堕ちてきた歴史』、それと、 集英社文庫の『小松左京のSFセミナー』などの類(たぐ)いかなぁ。 なんかまたゴミレスを書いているようで申し訳無いのですが。orz トインビーの著作を発見したところで、小松左京さんと比較したくなって仕方が無くなってしまった。 これは、やっぱり無理な問題の立て方なのかしらん? 相手はギリシア語(ギリシア文字)でも詩を書ける人、片やイタリア文学専攻で英語なども読める人…。 う〜ん、主題から相当はずれているかしらん。 とにかく、『果しなき流れの果に』を読みこなすには、そこまで大袈裟な教養は必要ないとして…。 ちょっと小松左京さんを理解したいというのを、トインビーを通じて、知って思ってしまった。 本当にいつもスレの本題と違っているかも知れない事を書いてすみません。
小松左京全集・完全版 読みこなさなきゃならねぇ、と思ってしまった…。 いまは時間が無いかも知れないけど、トインビーに負けているヒマはねぇずら。(ありゃりゃ) でもねぇ、本当に文献読みこなす力が無いのよねぇ。 仕方ないか、今からでもとにかく量こなして、「読める」っつーのを、実現していくしかないか? まだ小松左京年表を暗記できていません。(ええと、インターネット上で手に入る、スタジオ・イオかのあれですね) 『果しなき流れの果に』なども、できれば暗記・暗唱するべきなんだろうな。 ここでふと、「赤毛のアン」でアンが詩を暗唱朗読するシーンだっけ、を思い出してしまった…。 アン、おまえさんは偉い。 僕は九九(ピタゴラスの表)さぇも暗記・暗唱できずにいるゾ。(本当の話。本当に恥ずかしい。orz) 小松左京研究を本当にやりたいのなら、全集、もしくは問題の文献を暗唱・暗記できるくらいの力が必要になるのかなぁ。 答えは、たぶん「そう」だよね? (当たり前だよね?) えーい、学問は結局暗記(脳内情報処理)ができる事を意味するのか? それは案外、でもなく、「当たり前」のことだよな。(タメイキ) 文系の学問、そして例外無く理系の学問も、それはおんなじ事だよね。? アインシュタインじゃないけれども、脳内学問、シミュレーション、思考実験が可能な事が、すべての学問の基礎だよね? ね?
文学を科学する 文学をサイエンスする、←っていうのが、小松左京さんのひとつの夢、また課題でもあったらしいのですが…。 それが 『小松左京のSFセミナー』 ←で 「一般文学論・序説」 (SFは文学の原形質だ!、だっけ?) に僕が こだわる理由。 なんとかこの夢をかなぇてあげたい…、っていうのが、不肖の1読者の気持ちなんです。 なんか平賀源内 (「天下御免」) のあとを追ってその夢をかなぇてあげたい…、とテレビドラマなんぞ見ながら、 思ってしまうようなもんかなぁ。 私は小松左京さんの薫陶をそんなに受けてませんから、あんまり申す事はできないんですけれども、 人生で一番尊敬する人物が、小松左京さんでした。 でそういう人生モデル形成があったものですから、平賀源内やレオナルド・ダ・ヴィンチや司馬遼太郎の小説、 『花神』の大村益次郎やら、と同じように、そのあとの「やり残した事跡」というのを追ってあげたい、という気持ち は実際あるんですね。 そのひとつは、文学を科学する、“一般文学論”(仮称) の実現、ってやつです。 ほかにも大幅にたくさんのことがあるのでしょうが、たったひとつだけ、と言われれば、自分はこれをやりたい。 というかデキナイ、できる実力も無いので、他の方に是非やっていただきたい、と思うわけです。 しゃぁないから、非力でも自分でやる、しか無いのでしょうが。 小松左京式、文学を科学する、「一般文学論」は、「一般文学論・序説」にしろ、「一般文学論・本論」←にしろ、 いったいどのような手のつけ方をしたらいいものか、私にはまったくわからない。 たまたま、最近になって、卒業間際になって、「日本語の歴史」とか「近代日本の文学」とかを大学で科目を 取る機会があって、少しこんなもんかなぁ、という気はするような気がしてはいる、機会はあるのですが。 「科学」も「文学」もまだ理解が無いからなぁ。(私の属しているのは教養学部) しかし梅棹忠夫氏だっけ、のように、京都大学で魚の動き(集団分布)を数学解析する事をやる事から始めながら、 文明論にまで行ってしまう、というようなやり方もアリではあるのかな。 吉川弘之先生の、砥石研究から「一般設計学」へまで行ってしまう手もなぁ…。
小松左京の人格の理解。 そろそろ“研究方針”(羅針盤) というのを決めなくてはならないだろうから、そのひとつというのは、 「小松左京さんの人格(パーソナリティ)の理解」、という事に置いてもよいかも痴れない。 心理学的な研究としても、日本で小松左京氏が出現したのも、ただ一回限りの出来事だから、 それは、小松左京さんに関する文献にしても一回だったかは誰かが言った事だったわけで (梅棹忠夫先生だったかしら?)、心理学的研究 (人格心理学?その他) というのは、やっといた 方がいいような気もする。 文化人類学的研究としての小松左京さんの(社会的?)役割ていうやつは、一体どういうもので あったのか、というのは、また考えてみなければならない。 心理学も文化人類学も現代の研究を成す広大な分野であるから、なんか役に立つと思われる。 とにかく、知と活動の巨人としての小松左京の存在をどう理解するか、を決めないといけない。 小松左京のこころ、人格性をどう理解していくか。解き明かすか。それは大切なような事のように 思われる。 やっぱり中心のひとつには 「日本沈没」 流行現象、も入れなくてはならないのだろうが、 えーと、氏と会話をこなさないといけないかな。(当たり前の事ですら。) 直接ご本人に 問い合わせないといけない事は多いはずで…。私はなんて手落ちな事をしているんだろ。 ともかく、小松左京論というのは、どうやって出来上がっていくんだろ。それには、独自の 方針づくりが欠かせない。独自の視点は、独自の提供ができるはずであり、その可能性を 押し広げてくれるはずだ。それは今まで足りなかったものを、満たしてくれる可能性を 取り入れる事になる。 もちろん 「的外れ」 はいけないことなんだろうけど。(冷や汗になり) きっちりと、「自分の知りたいこと」 をメモ箇条書きにしておいて、それを一種の公準とし、 引いて定理を見つけ、実現していく事は悪いこと、バッド・アイディアでは無いのではあるまいか?
SFの理解。 あははは、小松左京理解というと、やっぱりこれの理解が欠かせない。 また現在ではわからないけど、「SFとは一体なんであるか?」←という事の理解、追求に於いては、 日本SF界は最少でも 座礁した問題・課題 になっていたような気がする。 これは現在でも違っているのだろうか? これの解決に失敗したか、あまりにも多くの意見でそのそれぞれが要件として容れられた事が、 日本SFの発展を阻害したりする壁となったり、また逆に潜在的にはかつての 内容の多様性 を 受け入れる事ができた事のような気がする。 欧米ではこのこと、問題、課題は 「解決」 を見てきたのだろうか? それと分野(ジャンル。SF)の 存続や、さらなる発展の可能性は、関係があるであろうか? これは知りたい事であり、調べておきたいこと。 (関係は“無い”←かも知れない?) とりあえずその 「SFとはなにか?」 については煮詰まらずに分野・ジャンルの存続が行われ許容 されて来たのが欧米SFであり、日本SFについてはこの問題につまづき過ぎたりしたのかも知れない。 これはことの許容性の大きさを考えると、(例えばSFはメディアである、といった考え方があったり)、 ユークリッドの第五公準みたいなものだったのかも知れない。 つまりは、じつは SF とはどんなものでも受け入れられるものであり、ユークリッド幾何だけではなく、 ほかに2種の非ユークリッド幾何が見つかったように、多数の公準論理の可能性が多様性として 保障されているものであり、その事を、解決として無駄に力を使ったり、というか底無しのそれぞれの 作家や評論、研究家の努力をうわばみのように受け入れられた 「現象」 の根本原因・性質であった のかも知れない。 そう考えると、SFとはなにか といった問題・課題は、底なし沼 だったんだなー、と改めて思う。 大きな可能性でもあり、危険地帯でもあったのだ。 そこを大きく解決ができなかったところに、日本SFの失敗というか、成長不全が起きたのではないか? この問題 避けてもいい。それぞれはそれぞれのSFの実現を遂げてもいい。(それは作家冥利である) やっぱり日本人は生真面目すぎたのかも知れない。
それでも。 SFとはいったいなんであるか、←といった問題には、一応各個人で「SF観」という形で応えて置かなくては ならないもののように思えるのよね。 てことは、自分は自分なりに、自分のSF観を提出せねばならないという事になるわけで──。 顕在的に表明する事は必要では無くても、潜在的にはそれを確実に確実な形で持っている事が必要に なってくる、という事になる。 どうなんかしらん。それと小松左京研究をやる上で、枠組みを作るうえで関係は有るかしらん。 ひととおり適切な言葉をならべられたりすると、研究ははかどり易くなるのではないかしらん。 では自分にとってSFとは…センス・オヴ・ワンダーとか 「与えられた言葉」では無くて物語をしなければ ならないのだとしたら…。 SFから受けた感銘の初心、といったところだろうか。 それは広がりということに尽きるのかも知れない。「SFは絵だねぇ」という言葉も与えられた言葉だし。 与えられた言葉では無しに、自分の内部から汲み出せる言葉としては、SFとは広がりである、と言う ことができるかも知れない。 どんな広がりか?それはイメージの広がりである。だから、ファンタジーを一部取り込む事にもなる。 それが原因であるかとも思える。 ただし小松左京にはトールキン系の影響を受けたファンタジーの傾向は無い。が純粋ファンタジーの 分野、例えば「不思議の国のアリス」とか非トールキン、プレトールキン(トールキン前)、パラトールキン (ええと言葉間違ってるかなぁ、トールキンと並行してきたファンタジーの分野)な“ファンタジー要素”は 入っているかも知れない。 ん?小松さんでファンタジーの傾向が多いって作品は何があるんだっけ?「愛の空間」か?(およよ) 小松先生はあんまりハイ・ファンタジーな空間はお作りにならないみたいだなぁ。?? ともかく、自分の内部に独特のSF観を具体的に持っている事は、読者性にしても作家性にしても、至極 大切なことなのかも知れない。
なんで「SFは音楽だねぇ」←とかいった言葉が出なかったんだろ? そしたら日本のSFは音楽とか、彫刻とか、建築とか美学・美論とか演劇とか映画とかテレビとかラジオとか、 んーと、数え切れないほどのほかの発展の「チャンス」をものにする事ができたかも知れないのに。 「SFは絵だねぇ」はある特定の人の発言であるのであって、もっとしたら逆に、別に「SFは音楽だねぇ」、 「SFは演劇だねぇ」等の発言等がどんどん出てきても良かったのでは、本質あるのではあるまいか? てゆーと、ちと「反省」の気持ちが出て気もしないでも無いな。 SFは絵であってもいいが、また他のものでもあっても良かったものでもあったのだ。 だから、例えば「SFは音楽でもあるねぇ」←と言う事で、“音楽系の人”もSFにもっとどんどん取り入れていく事が できたかも知れないのだ。これは、演劇人を巻き込めなかったり、SFの最大の失敗のひとつであるかも知れない。 てまー、「SFはお茶だねぇ」←とか、言い方はいろいろあるかとは思いますが。 でも。考えてみると、日本SFの第一世代と言われる人で、例えば筒井康隆さんとか小松左京さんとかが、漫画家に なる事にあこがれていて、現実に実際にマンガを描いているという事実はよく知られていても、ふと、このお二人に 限っても、実は音楽にも手を染めていたり、小松左京さんなら、ヴァイオリンをやっていた文化・教養程度の高い人 だったって事は、つい「忘れがち」になるんだよなあ。 SFは別に視覚等にかたよるものではないのかも知れない。し。マルチメディアで、総合的なものである、という考え方 は生まれても良かったのかも知れない。 それを小松左京さんは集英社文庫版(1980年頃)の『小松左京のSFセミナー』でSFのジャンルについて今後の注目 として演劇などにおいても関心を持っていらっしゃられて実現されているわけだし。 つい最近の『小松左京自伝』とかで、小松さん自身が文芸だけではなく「演劇」もなされていた、放送もやっていたという 人だという事をつい知らなかった事もあるんだよなぁ。 SFは**である、はまだまだ何か沢山あってもいいよね?
もう一回日本SFの全体像を。 歴史的にも、取り描かないといけないなぁ。 これは巨大なキャンバスで、実現しないといけない事は多いはずだ。 例えばシンセサイザーの冨田勲さんとの関係とか。 オカモト・タロー、も、大阪万博とかいった事でSFとクロスワードしているかも知れないんだな。 この見取り図を描くのは、容易ではないな。そういう著作・研究も無いし。 とか言って、有ったらはずかしいやら、いやむしろありがたいやらなんだけど…。 日本でも日本SF百科事典(百科図鑑)みたいなもんが日本SFの文化程度として発表されたら、 出版されたら、そういうSF界人脈の広がりみたいなもんは自然と整理されて表現され定着されて いくのかも知れないな…。
諳(そら)んじる 私ゃ、ものの本を一回くらいしか読まない。悪ーいl癖がある。 勉強をするにも、暗譜・暗唱をするほどには、教科書や参考文献などを一回しか読まないか、斜め読みする 程度の、軽い扱いしか出来なかった気配が毛頭にある。 勉強が出来ていたら、教科書は丸暗記した方がいい。例証・例題もそうだし、勉強は基礎としてそういう事になる。 反省材料になる。 血肉材料として、情報も存在する。何も検索にかけてばかりで、辞書や辞典類、テキスト類を扱うのではなく、 実際にそれらは暗記か、触れられて暗憶にされてもいい。 勉強とはそういう事だったんだよなぁ、…と改めて思う。 何も松岡正剛さんの、編集工学研究所の 『情報の歴史』を記憶しろとは言わないが…しかし、一方ではそういう 姿勢もあってもよかったはずだ。難しくても、「取り組めば」いい。 やるしかない事はやるしか無い事なのであって、ものごとを学究するのに記憶は自然と必要になる。 というか、「やっていれば」自然と記憶は残っていってしまっているはずだ。 困りものなのは、なにか「考え」はあっても、それを実行せずに「立ち止まって」いる事のほうだ。 これでは、何か真実に近づけるわけも、発見も無いわけだよねぇ。(ため息) テクスチャー(編み物)を読み解くためには、それなりの努力が要る。 単純に物語を総なめするのではなく、より深い読みに達するには、それなりの熟練と練達を必要とする。 現象より、より高次のものを発見するには、山の頂きに(頂点に)達するしかない。 それには、道歩いて、読むしかないかぁ。 単純な事ですけど、できてなかったです。
で、 現在 ブックオフで\105円で買った『ホモ・ルーデンス』(ホイジンガ)にはまり込んでいるんですけど、 小松左京さんの『果しなき流れの果に』をかばんの中に必携で持ち歩くことに致しました。 大学の勉強のほうで中間考査(中間試験・通信指導)もこなす事が難しいけれども、暇なときに書き込み 入れながら暗記・記憶していけるように頑張ってみようかと思っています。 物語のあらすじを、まだすらすらと言えないもんねぇ、まだ理解が未然のこと、明白な事だもんねぇ。 どじで間抜けなカメとは、私のこと。(スチュワーデス物語かぃ、私は。) でも一生懸命か一所懸命か、やってみるしか無いのでございましょう。(これは 大奥 的ノリだよな。)
では、 ここで書いているヒマがあったら研究せぃ、と言われそうなので、 現実の時間に立ち戻って、読み直してみましょうか。 なんか読んでくれている人あったら?、ごめんなさいです。 『果しなき流れの果に』、暗譜します。
人間の原因 (人間の探求) きょう いまになって、ようやくこんな疑問を持つことができるようになった。 例えば 「人間のかたち」 について、どうしてこんな形をしているのかについて、非常に有機的な 考え方と機能的な考え方を投入してみると。 ほね(骨)というのは、生物にとってカルシウムの貯蔵場所である。 それはまた、骨格という生物が筋肉組織と結びついて、それと運動をする、というよりは生物身体を 具体的に支えるために、このようなデザインとなっている。重力と強い関係があり、それには外骨格系 の考え方(仕組み)と、内骨格系の考え方(しくみ)のデザインなどがある。 生物にとって大切なカルシウム貯蔵庫としての一種のデータベース(物質ベース)が骨格についてへ 変化を表す。 他の機能系で内蔵、体表面皮膚(被覆)などについてもいろいろ考えられ…。 生物学自然史 (進化史) が事には考察とその説明に役に立つ・・・。 人間というものの「存在」と、その「現象」の原因について、基礎だけれども、考えてみる必要に迫られている。 生物的だったり、理科的だったりするだけでなく、文化的に於いても考えてみてる。 そういう人間的探求、人間の(生命にだったり)原因について、基礎的な考えから入ってみると、 組み立ててみると、小松左京さんの探求、研究については、よりいっそう深みを増した探求、研究が できるんじゃないかと思い始めている。(きょうから現在) 非常に普遍的で広大な問題だけれども、この基礎は。でも共通して基盤として成り立っている文芸、文学と して、あるいは作家業という現象について問いただす事ができるような気がする。 ぼんやり考えながら、やっとたどり着いた感じ。 人間を生物的にもやっと捉えられるようになった感じで(今までの自分ならそのようには捉えられ無かった)、 これからはもっと人間の原因、人間の探求について考えていこうと思う。 さりげなく香原ユキナリ先生の、『人類生物学入門』 (中公新書) を想い出していたりなんかして。 「人間(の)理解」が、もっと自分の中で進みますように。
人文系、文芸(文学)、芸術。 人間がどうしてこんな形をしているのか、そのひとつには、ナメクジウオ祖先の存在と、その軸索(カルシウム) の形成、それが脊椎の形成となって分節し、いわゆる脊椎動物の原型となる。 さらには、人類等で姿勢が直立化した結果、骨格はほぼこのような、人間の形へと進化(変化)する。 なんかNHK特集・スペシャルのさまざまな番組を復習している感じ。 例えばタモリのとかから始まった「人体」のシリーズとか、「地球大紀行」とか「生命」だっけ、といったような 番組名がずらずらならぶ。こんどの「病の起源」等についてもそうだけど。 そういった自然史(ナチュラル・ヒストリー)基礎に対して、文化現象の基礎として、いったい人間の文芸、文学 活動としての文化の基礎、あるいは芸術の基礎というのは、いったいどのように取り組めばいいのか? という事はちっと考えてしまう。 う〜ん、自然学的基礎、教養、科学的基礎、教養、といったものを考えながら、文化的基礎、教養たるものを 生かして、文明と文学について探求していくのは、決して悪いことじゃないような気がするんだな。 いずれ、マンガ、アニメ、ゲームといったものにまで探求と言論の手を広げるけど、(漫画については小松さん 御自身が手をお染めになさっている分野でもあるし)、そこまで行かずとも、また社会科学系としても、 文化現象としての文学を問いただす事はとても大切な気がする。 折々の手順を組み立てなければならなくなり、こういうアプローチもいいのではないか。 それは自分なりの物事に対してのアプローチ(の基礎)を提供する事となり、これから「手段」(「算段」)として、 役に立っていくような気がする。 ここでどういうわけか 「海雪」を歌いたくなりましたとさ。
人類の探求。 人類(人間)は社会的動物である、というのは、アリストテレス以来の考え方だけれども。 人類は、いわゆる「社会」を形作ることによって、やがて、文化と文明を育んでくる事になった。 その人類社会の理解と形成について、自然史・自然科学的理解(人体についての)は、とても役に立つかも知れない。 生物としての人間の、このかたちの原因、理解について考えていくと、進化論や胎児の形成についても考えを 及ぼさないといけなくなる。 それ(ら)は、人体の一部品(有機的な)というとともに、文芸・文学を(文明)社会においてのどのような機能を 果たしているかについての、考察をもたらしてくれるのではないか? 成田美名子さんの『花よりも花の如く』(マンガ、第6巻)が出たけれども、これを読んでいても、文芸・文学が 人類社会に及ぼしている影響と機能について考えを及ぼさざるを得なくなる。 例えば古代ギリシャのホメロス叙事詩、イーリアスとオデュッセイアとか。というかギリシャ神話体系全般。 「ハチクロ」とかもそうなんだろうけど…、文明社会(社会体系のひとつのまとまった形。全体社会・総合社会) に於いて、いったい文芸、ストーリア、ロマンスといったものは、一体どのような形の機能を持っているのか。 それは人を慰撫し、またあるいは鼓舞し、また人のイメージを高め、伝達し、昇華・鑑賞し、とか、さまざまな 心理的、精神的サイドの問題を浮かび上がらせてくる。 いったいこのように大量に生産されてくるようになった物語、フィクション、小説やマンガといった「ドラマ」の 類いは、どのように理解する、されるべきなものなのか。 これへの理解が、またつとに足りない。 「人類」についての理解が進まないといけない。そのためには、SF、サイエンス・フィクションの役立つ範囲は まだまだ広いと思われるのだけれども…。 小松左京さんのやり残した仕事、というのも、追求していかねばならないもののひとつ。 もし現在でも活発に活動が出来ている事なら、いったいどのような事に手をお付けになさったのか。 人類社会への理解の様式が、自分の考えを決定付けるとは、よくよく考えておかねばならない考え。
サイエンス・フィクションとは何か? ↑についても、自分なりに明解な解釈、解答を持つこともとても大切なことのひとつ。 サイエンス・フィクションが、人類にとってイメージを広げるための手段のひとつである事は、確かな事である ようであると思う。 では、サイエンス・フィクションは、果たして自覚的にその事を率先してその役割を果たすことが出来る役割を 行動して、率先することが出来てきたか? これには、疑問はともなうのかも知れない。 サイエンス・フィクション(SF)の分野で、そのこと、使命・ミッションを、ほぼ自覚的に分業的にもそれが実績と して成されて来たことはなかなか無かったことなのではあるまいか? 作家業の集まりとして、その存在はあったとしても…。 例えば勉強会などはあったのであろうか?(えーと、よう知らんことに足を突っ込んでいるな。) 科学小説界がまず自覚的に行動すべきは、まず科学的知識・意見・識見の啓蒙である、というのは古典的 過ぎるか。 どこにいったい科学小説のブレイクスルー、があるんだろう。 例の、アジモフのSF発展3段階説、というやつを、古典的過ぎるながら復習をしてみたい。 となると、 1.冒険的小説時代(スペースオペラ) 2.自然科学的SF 3.社会科学的SF … のあとで、もし「4.」とそれ以降があるとしたら、いったいアジモフはどのような回答や記述を寄せたであろうか… それは、例えば、4.文化科学的SF、といったものも入るのではなかろうか? 「演劇」を科学する、というのでもいい。 アジモフの考え方の果てには、このあとに無限のリストアップが続く、という予感も感じられる。 逆にゼロには、「0.ランポー、ヴェルヌ、ウェルズ時代」←みたいな事も言えるかも知れないし。 いずれにしてもサイエンス・フィクションとは一体何か?、制作姿勢としても理解姿勢としても、考えて置きたいねぇ。 必要だろうと思う。
パラレルの考え。 SFが1.冒険小説時代、その他の時代にパラレルに他のジャンルがどうなっていたか、を見ていくのも大切な事と思われ。 「映画」なんかのジャンルだと、一体どうなっていたんかしらん。 映画には、割と古典的な無声映画のスタイルの時代で、スラプスティックは別として(アクション的)、SF的な要素は 出てくるのよね。 演劇なんかはどうだったんだろう…。時代背景として、どんな演劇が流行ったのかなぁ。 パラレル(平行・並行)的に、どんな社会事象が、てか文化事象があったのかは、考えておかねばならないのよね。 他ジャンルの傾向と比較発展して、SFを考えてみるというのは、巨大な文化現象としてのSFのその中での位置づけ、 という物事を、割と今まで達成されていなかった?、探求の方針を探るについてのヒントになるのでは無いかしらん? こういう広範な事情に関するSFの研究・提出論文というのは出されていなかったような気がする。 不明ならごめんなさいですが、SFをその内部からではなく、文化史の面から広大なまでに捉えなおすことは出来ない ものなのかしらん。 パラレルサイドの考えを、SFシリアルサイドの考えに、併せて持っている事は大切な事、武器にもなれると思う。 もしそんな実力者が居れば、のことだけれども。 文化論とか社会論とか、といったことはもちろん大切なことなのです。もちろん自然科学とそのエンジニアリング、 自然科学技術等の発展についての歴史的背景、知識というのも必要なことではあるのだろうけど。 このあたりは科学史家、サイエンスライターの仕事なのかしらん。 アジモフの3段階発展説は、そのままより多段階発展説に分節して延長して考える事のできるもんだよなぁ。 ほかにテレビドラマや映画やアニメ、マンガといった諸メディアのことの発展についても考えないといけない要素 も持っている。 小松さんの個人史についても、文集寄稿から漫画を描いた時代、同人誌を立ち上げた時代、ラジオ放送時代、 など様々な要素が浮かび上がってくる。 なんだかなぁ、大変だなぁ。
暗譜の進行度。 あれから、(レス770番)以来、少し努力しているのだけど、あはは、冒頭の一行分も出てこないや。 まだ。『果しなき流れの果に』。 あれから、大学の一部残っていたテキストや、ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』、『歴史の研究』第一巻・序論、 それに妙にリアリズムなものも載っている『西洋名画の読み方』1,2など、様々な写真、文献に目が触る 程度のことをやっているけれど、どれも暗記するにはなかなか大切な、いや大変なものがあるよね。 なんかもっと正確に、効率的に暗記する方法は無いもんかーい、と思うのだけれども。 ちょくちょくとやっていくうちに、そのうちにコツをつかむ事がありましょう。 この世には、旧約・新約聖書を暗記したり、広辞苑や百科事典を読破しちゃったりする人たちも居るのだ そうだなぁ。文化教養として、これは大切なことのようだなぁ。いや何も広辞苑を読破せいという事じゃなくて、 「自分の基礎となる物事、教養について暗誦・暗記をしておく」というのは、とても大切な事のように思える。 というのは、自分にはなーんにも、身に付いていないからだね。(汗) よく、他の人が明白な、その人の基礎となる事について細かな事・詳細な事についてもちゃんと記憶に 残っていたり、する事をおうかがい、体験するたびに、自分は、う〜ん、と考えてしまう。 みんな、自分を見失っていない。 その見失いを防ぐためにも、自分なりの記憶は大切なものであるように思う。 取り組むためにも、大切なものである事のように思う。自分が今、大切に取り組んでいる事についても。
ああぁ だんだん自分の表現場所を持ちたくなってきた。 不慣れながら、本当にブログでもやろうかしらん。 関心あること多過ぎるのよねー。とここで愚痴っても仕方ないか。(ふむ) でもそのくらい好奇心旺盛でなけりゃ、小松左京さんに追い着きはしないとしても、 触れ合うことは出来ないんじゃないんかしらん。新鮮な好奇心をたくさん持ち合わせる 事は、小松さんの生き方、姿勢に繋がって来る事なんじゃないかしらん。 豊富に、物事に関心を持ち続ける事は、継続として大切な事なのだけれど、 豊かな事には、記憶が必要で大切になる。 てまぁ、なんだか中卒程度でも(物理とか)、高卒程度でも(様々な分野に関してとか)、 いま通信制の高等学校に行ってる子の通信指導で、保健体育とか見てると、本当に、 オレ忘れているなぁ、これレベル(水準)の高い教養をやっているなぁ、オレもう忘れてるわ、 と再度勉強し直さないといけないんじゃないか、という気分にさせられる。 作家・小松左京の遺産とは、あの旺盛な好奇心とそれらをまとめ上げる力なんじゃないか、 と思えてくる。 私もそういう力は持ちたいなぁ。能力は持ちたいと思う。 また根本的に勉強し直さないといけない。これというのも、物事をごく表面的にしか勉強しない 癖が今まで有った所為(せい)だ。 中途半端な知識を持って、中途半端な見識、それで物事考えている、かも知れない。 そう思うと危険だなぁ。 とにかく、これも危険な事かも知れないけど、勉強につぐ勉強だなぁ。 (自己)検証は、欠かせない。
一般文学論・本論のイメージ。 どんな構成を採ればいいのか。 考える事、多々有り。 文学の歴史というのは、起源論から必ずはめ、踏まなければならないと思うので。 歴史と、基礎論としての言語論をやっておかなくてはなるまいか。 文章というべきなのか、そもそも活字時代や(筆記)文字時代だけではなく、 口承文学時代も踏まえて、文学というのをやっていかなければならない。 文学というのに、どういうイメージを持つべきなのか。 「文学」というのは、定義不能だという話もあるけれど、ここで扱う「文学」とは一体 どのようなものにすべきなのか。 実際作品論、具体論に至ると、実際の作品をたくさん読み込んでおく、深く読んで おくという必要に迫られるので、これが一番の大変な作業になる。 ジョイスとかプルーストとかになると、一体どうなるんだろう。 一般教養だけじゃなく、何か専攻を持った方がいいだろうな。(どの作家さんに就く べきなんだろう。(僕の場合は、小松左京さんについて専攻してもいいだろうか。) (なんかメタ小松左京みたいな話になっちまうなぁ、一般文学論・本論が。) 文学の本道、王道ってなんだろう、と思っていると。 あまりにも素人なので、よくわかんないという事になる。 いまたまたま「日本の近代文学」をやっているのだけど、そう言えば一応形ばかり ではあるが、イギリス、フランス、ドイツの文学(史)についてやった事があるか。 (すっかり忘れてたわ。) でも主要なもの、例えばシェイクスピアとかゲーテとかフランス文学とかロシア文学 とか、セルバンテスとかはやっておかなきゃ(読まなきゃ)いけないかなぁ。 世界文学全集くらいはらくらくこなしておく程度の事は普通にやっておかなきゃ駄目か。 あは、大量労働だわ。いつになるかわからない。 「文学とは一体何か」という事と、「文学の科学」に関する事だから。 やるしかないか。スケッチ(素描)が欲しいなぁ。 文学の明治の初心(「小説真髄」以前)に関わる事でもあるなぁ。
サンプル。 一般文学論・本論のための、つまりは文学全般を代表するための、一般基礎研究に モデルとして成り得る代表的作品、というのはあるだろうか。 逆に、あるいは「一般」が成り立つとしたら、それは「小松左京にも含まれている」はず なので、特殊・小松左京論(特殊文学論・序説&本論)をやることで、そこを拡大や拡張 をして、→「一般文学論」へと漸次あるいは急挙に近付いて行く、という方針も成り立つ だろうか?? 1.小松左京研究 → 2.特殊文学論 → 3.一般文学論 ↑といった手続きも、これからやる事を考えると、効率的には考えられるものなのかも知れない。 小松左京が文学ではない、あるいは特殊な文学なのである、といった場合にはこれは成り立たない。 この方針から成り立つと、小松文学の特殊性を超えて“一般性を獲得する”という事が必要 に成って来る、という事があるかも知れない。 とすると、小松文学でもっとも一般性が高いと思われるのは、一時日本最高のベストセラーに なった『日本沈没』が、未完成ながら向いている研究素材と言える・言い得るのかも知れない。 『果しなき流れの果に』は、その点で日本SFのローカルな名著・名作、と言えるのかも。 暗記するなら、日本沈没 なのかなぁ。そして研究材料としても、ベストセラーの一般性としても、 日本沈没 の方が 果しなき流れの果に よりも向いているのかも知れない。 まぁ文学というのには、多々多様性がある。ベストセラー作家と言われる、デュマとかそういうもの、 通俗小説、ポピュラー小説の分野だけでなく、ファインアートとしての芸術としての文学作品もある。 それらを含め、一般性を文学内で獲得するためには、いやひょっとして文学外ででも一般性を 獲得するためには、どうしたらいいんだろう。? 文学を科学するとは、一般文学論序説ではなく「本論」とは何か、という事は、いま考えている最中なのです。
特殊文学論。 うーん、突然こんな言葉が浮かび上がってきたので、素っ頓狂にびっくりしているんですけど。 これは、やっぱりアインシュタインの特殊相対論と一般相対論から来ている言葉なのかなぁ。 一般文学論が(もし)あるのだとしたら、もちろん特殊文学論もしくは独特文学論 みたいなものが あってもおかしくは無い訳だよね。 特殊論、という事で一般のそれぞれの文学作品もしくはジャンル、時代等に対する研究を、一括 して取り扱う事が出来るようになる。 それらを一括して、一般に持ち込む事で、インスタントに一般文学論が出来上がる、という構図も 無くはないが、一般というよりは「普遍」文学論という意味合いを持っているかも知れない事を思う と、そーんな事は簡単ではないなぁ、と思う。 「文学の科学」を標榜している事を思うと、文学の科学って何?という基礎を打ち立てないとこの 企望は無いわけだし。 一般文学論は、単に今までの具体・特殊文学論を統合して→「概論」「総論」に持ち込むのではなく、 それなりの、つまりそれ自身の基礎論を持たなくてはならない存在であろうと思う。 小松さんの「一般文学論序説」相当の文章を思い出してみると(原本を自分は失っているので)、 小松さんの考え方には「情報」という考え方がたぶん中心にあるであろうかという事に気が付く。 (違っているかも知れないけど) 情報論というのが、つまりは情報科学という事になると思うけど、他には諸心理学とか、認知科学、 文化人類学・民族学 といったものは基礎として、それらを基礎として語らないといけない、という 事があるのかも知れない。もちろん、他には哲学も大切になるだろう。 でも情報の科学と言うには、デジタルの情報だけでなしに、「アナログの情報」も大切になるだろう。 寺田寅彦にならえば、情報にも、固体・液体・気体、という相だけでなく、粉体といった相で考えないと いけない場合もあり、レオロジーというか、粘体、といった情報論もあるのかも知れない。 情報科学を拡張する事が、そのまんま一般文学論に近づく事になるかも知れない。 とにかく、あせらず続けること。
三重県立相可(おうか)高校 栄養調理科? いまTBS系の「夢の扉」だっけ、という番組で取り上げているんですけど。 この教育はいいなぁ。即戦力の歴史家とか出来ないかしらん。(無理を言う ^^;) 高等学校で一体何かになりたい、としたら、そのための教育をやってくれる。 これは、ある意味ではベストでいいこと。 私も、こんな学校があったら授業とクラブ活動を受けたいなぁ。 かどうか知らんが。このくらいの密度の活動には、負けてられんなぁ。と思ふ。 本格的なその事について学べるのはいいなぁ、と思う。 その分野に関する、本格的なこと。 自分のやりたい事でも、こんな風に自身を鍛え上げられないものかしらん。 とふと思う。
検索したら。↑ 「食物調理科」のまちがいでしたね。 三重県立相可高校のは。
文学のジャンル。 ごく基礎的なこと…に立ち返って。文学、文学って言ってないで、いったいどんなジャンル があったんだっけ?と問い直してみると…。 文学の使われ方、というのを見ると。追悼する挽歌とか、賛美する賛歌とかいろいろなものがあり。 てなー。基礎的なことがわかっていなかったりする。orz ふつうには、小説、詩、戯曲?(シナリオ、脚本)、…といったものがたくさんあるだろうけど、 また日本では、短歌、俳句、川柳、狂歌、みたいなものもあるし。 詩形式では、海外から入ってきたものだけれど、ソネット(十四行詩)その他があり、 小説では、形式にとらわれずに、様々なものがある。 わーん、たくさんあるんで言いづらいよー。また基礎から勉強し直さなきゃ。 何かいい教科書ないかしらん。これは概論的、基礎論的知識ですな。(冷や汗) 言語を使ったもの一切が、文学なんだとすると、これは相当に幅広いものになる。 文章の問題、文体の問題、といった、もののかたちのことにまで触れなければならなくなる。 尊敬語、謙譲語、といった敬語遣いのことも入ってくるし、国語学/日本語学にまで手を伸ばさない といけなくなる。国語学概論の知識が是非とも必要になってくる。 国語史、言語史の知識も必要になってくる。 出版物の多くのものが、文学のジャンルに入ってくる事になる。ほぼ全体と言っていい。 うーん。結局文学ってよくわからないや。高校でも使ってる国語便覧にでも立ち戻って、また もう一回考え直してみようかな。 その程度じゃ、駄目だろうなぁ。orz 歴史書とか、美術書とか、の記述や解説といったものにまで目を通すと…文学っていうのには、 狭い意味だけではなく、広く、文章を扱う言語技術、言語テクニック(表現の方法論、具体性) ってやつにも入ってくるものもある。 とにかく、自分を鍛えなきゃ。