スレ立てるまでもない質問スレ

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1人間七七四年
スレ立てるまでもないちょっとした質問のスレッドです。
2人間七七四年:2014/09/18(木) 18:55:09.54 ID:PFxPT2lS
分からないことがあるときは、スレッド建てて聞く前にこのスレで質問してください。
専門的な質問は、各分野の専門スレで聞くほうが、より詳しい説明を得られるかも知れません。

回答に時間がかかったり、回答が得られなくても怒らないでください。
質問が続くようでしたら、名前やトリップ付けることをお奨めします。
また質問する前に一度自分でも調べてみましょう。
人名・用語について調べたい時は、ここで聞くよりも検索したほうが速くて確実かと思われます。。

―【質問する前にすること】―
★検索サイトでとりあえず検索。これ最強。→Google検索
ttp://www.google.co.jp/
★自分と同様の質問がスレッド内(Ctrl+F)、過去ログ先に無いか必ずチェック。

<お願い>
・常時age進行でお願いします。
・回答に時間がかかることもあります。ご了承ください。
・既に専門スレがあったり、板違いの質問があったりする場合は、速やかに誘導してください。
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◇過去スレ
01 ttp://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1150022967/
02 ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1195567708/
03 ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1234172504/
04 ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1251802299/
05 ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1263114279/
06 ttp://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1274877247/
07 ttp://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1296473917/
08 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1311198199/
09 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1327134476/
10 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1347617351/
11 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1362228842/
12 http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1376577423/
13 http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1390465028/
3人間七七四年:2014/09/18(木) 18:57:37.78 ID:PFxPT2lS
このスレは14スレ目になります。
>>1
4人間七七四年:2014/09/19(金) 00:06:29.60 ID:jmtadMTF
城の本丸取るのってそんなに大変だったんですか?
本丸って縦横何mくらいだったのですか?
本丸には何人くらいが守っていたのですか?
5人間七七四年:2014/09/19(金) 00:15:52.81 ID:bswbxBr/
>>4
城それぞれ
6人間七七四年:2014/09/29(月) 18:51:56.12 ID:V1NxB5p5
城って言っても、小山に柵つくって木造の家を建てたような小砦から、城下町すら城郭に取り込んだ城塞まで千差万別です
7人間七七四年:2014/10/01(水) 07:27:51.93 ID:oVkcJhdU
ここでの質問として適当かどうかわかりませんが、一応質問させて下さい。
秀吉が日本全土を初めて統一したと世間では言ってますが、室町幕府時代には全国を支配下に治めていなかったのでしょうか?
どこかの地域が反幕府としてずーと敵対していたのでしょうか。
初歩的な質問ですが、ご回答お願いします。
8人間七七四年:2014/10/02(木) 04:20:01.53 ID:B1tKdaFV
>>5-6
では例えば、関ヶ原の戦いの時の信濃上田城の本丸は縦横何mくらいだったのですか?
本丸には何人くらいが守っていたのですか?
上田城の本丸取るのってそんなに大変だったんですか?
9人間七七四年:2014/10/02(木) 23:51:27.48 ID:l6uiWvQk
>>7
各国の領主である守護は京にいて、現地はいわゆる代官である守護代が地域に根を張る
そして将軍は自前の戦力がほとんどない

こんな政権で全国制覇は無理です
10人間七七四年:2014/10/03(金) 00:00:14.98 ID:M8uTy27D
>>7
南朝勢力とか鎌倉公方とか
11人間七七四年:2014/10/03(金) 22:44:32.21 ID:NfiRnvc4
室町までは朝廷権力を委譲されたというのを
背景に全国を支配してたんだけど
武力で統一した、のが秀吉が初めて
という意味だろね。
12人間七七四年:2014/10/07(火) 02:34:53.76 ID:yy7DdgH2
謀反と裏切りの違いってありますか?
13人間七七四年:2014/10/07(火) 02:44:23.22 ID:UY25Zv8g
言葉の定義の問題だけど
裏切りは友人とか男女間とか
同立場の間でも発生するけど
謀反というのは、下から上、に
対してのものだろねぇ。
14人間七七四年:2014/10/16(木) 16:22:59.65 ID:oPgL/NHa
直江兼続の「愛」って兜
愛という字は今見たらクサイ、恥ずかしい、照れる、と感じますけど
当時の周りの反応はそうではなかったんでしょうか?
15人間七七四年:2014/10/16(木) 20:12:16.88 ID:TRs4TQFg
>>14
愛するとかの意味ではなく
愛染明王の愛とかと言われてたと
16人間七七四年:2014/10/16(木) 20:51:06.65 ID:oPgL/NHa
>>15
いや由来を聞けばそりゃ あ〜って思うけど
雑兵とか女中とか一目見て飯粒を吹き出したりしないのかと・・・
17人間七七四年:2014/10/16(木) 21:13:27.83 ID:Va0JGWls
>>16
あの愛の前立ての兜は飾り兜と言って、戦場に持っていくものではなく座敷に飾るもの。
実戦に使われたことはない
18人間七七四年:2014/10/16(木) 21:59:11.15 ID:oPgL/NHa
そっかー
一般人には見せてないのかー
19人間七七四年:2014/10/20(月) 21:25:13.74 ID:s/rerL6o
軍師官兵衛だと、三成が同僚を嵌める酷い奴なのですが、本当はどういう人だったのでしょうか

自分は三成がわりと質素な暮らしをしていた点、領内の治世の評判が良かった点、島左近との話から、脳内で勝手に悲劇の無能武将だと思っていました
ですが秀吉存命中に三成にとって邪魔な人々が失脚したり不興を買ったのは、三成がはめたからではないか?という意見を聞き、
確かにそうだなぁ、二時間ドラマなら確実に犯人だよなと思い、段々三成がクソ野郎だと思い始めて来ました

人の本質なんてずっと一緒に居たってわからないこともあるし、
ましてや死んだ人のことなんかわかりっこないのですが、
三成は一体どういう人だったのかが知りたいです
どういう本や資料を読めばいいのでしょうか
20人間七七四年:2014/10/21(火) 12:34:45.43 ID:TLnUCVGC
>>19
>>三成がはめたからではないか
ぜんぶ一次史料の根拠が存在しない大ウソです。
そもそも関が原の戦い前夜の三成は家康派として働き、
家康を攻撃しようとした前田軍の侵攻を阻止するため
兵を北陸路閉鎖のために出したり、
三成の兄の屋敷を家康に譲渡したりしていました。
また三成の挙兵自体があくまで「風聞」でしかなく
当時、大坂にいなかった三成が細川ガラシャを捕らえようとすること自体が不可能です。
当然、挙兵の大義名分であった内府たがい条には三成の署名はなく
三成が挙兵に参加したのは風聞通り本当か?を確かめるために書状を再三だしていた
佐竹や真田へ無視を続けていた三成が、ようやく反家康を宣言する書状を出すのが
7月末日であり、このタイミングは伏見城が落ち、瀬田の大橋を毛利軍が確保して、
次の標的が佐和山城になるタイミングです。
戦前は三成と直江が関が原前に書状を交換している証拠の写書状を根拠に
上杉と三成の共謀策が信じられてきましたが、
近年ではそれは捏造偽文書と認定されています。

中井俊一郎氏「家康の加賀攻めの際、三成は家康に従い越前に出陣している。
これは「看羊録」だけではなく、前田家の史料にも見られるので史実と思われる。
また大谷吉継は前田派の加藤清正の上坂に備えて淡路に出陣したという。
これも島津義弘の書状にあるので史実であろう。この当時、三成らは家康に従う姿勢を示していたのである」
21人間七七四年:2014/10/21(火) 13:08:34.93 ID:TLnUCVGC
三成は明への侵攻について
「先々は兵糧もなくその上寒空に向かっており途中の道筋も無人になり返すことすらできなくなる」
と明侵攻において途中での補給が難しいことを説明し、
まずは国郡で政務を行うように命じ、秀吉の意向に対して、反対して方針変更してしまうほどの男
忍城攻めでも秀吉の指示による水攻めに反対し、強襲を意見するほど。
豊臣恩顧大名の書状を見ても、秀吉の絶対命令に対して、現場責任者としてちゃんと理を説いて反対意見を具申しているのは三成くらい。
これが秀吉の信用を得ていった理由だろう。
また筑前筑後の小早川領をやると言われた時には三成は反対し、
それらの領地を豊臣政権の財政基盤のため蔵入地にしてしまうなど、
当時の豊臣恩顧大名の領土欲とは正反対の志向を持っていた。

秀吉にも怒りを買うのを恐れず意見し、領土欲もない。
これが秀吉には唯々諾々と従い、強欲に領地を欲した武断派と相容れないところだったんだろう。


当時の日本軍の北上はうまく行き過ぎて楽観論で支配されていた。
蔵に食料がたんまりあり、兵糧にこれほど困らない戦いはいままで無かったなどと言われるほど。
だけれどそれは現地の蔵にあるものを没収していたからで、
三成は日本との兵站線から先々は補給が厳しくなることを見通して朝鮮統治に力を割くようにしようとしていた。

そこに明軍が襲来である。
小早川隆景の馬鹿は後退により秀吉からの叱責を恐れて臨津江という大河を背に自分の守る開城で篭城することを主張し、
三成は背後の大河を使っての補給遮断の危険性を強調し、隆景が臆病者めと応じて大口論。
大谷と前野が仲介して、漢城へ後退し迎え撃つことに。結局、立花宗茂が活躍し明を撃退。
秀吉が後退をとがめるために浅野が使者としてやってくると、
隆景が奉行が臆病で仕方が無かったと連呼し、明軍撃退を自分ひとりの功績だと主張して得意がっていた。
三成は後退の叱責を一人でかぶり、開城撤退理由を話した。


三成が統治していた地域にはかなり三成が発給した行政文書が残ってるんだよな。
よほど三成の統治は喜ばれていたからこそ大事に保管されてるんだろうな。
千石に1人の賦役とちゃんと決まってたし、それ以上が必要になった場合は飯米を給金して補償だし、
土地の耕作権は未来永劫、検地帳に書いた氏の者であり、奪われることがない保証もあるし、
百姓が迷惑することがあれば、取次は一切なく三成へ直接、訴訟できる目安による救済制度もある。
これほどよい領主はいないだろうね。
22人間七七四年:2014/10/21(火) 18:02:03.45 ID:2K0UFneR
斎藤龍興の家臣、斎藤飛騨守って誰ですか?
飛騨守は役職ですよね?
検索しても斎藤飛騨守としか出てこず名前がわかりません
23人間七七四年:2014/10/22(水) 14:37:23.43 ID:FRRwKAs8
首実検の時に午年の奴に弓を持たせて立たせるって聞いたけど、
なんで午年の奴限定なの?他の干支じゃダメな決まりって何?
調べた範囲では「なぜ午年の奴なのか」って理由が解らん。
24人間七七四年:2014/10/22(水) 14:40:22.55 ID:FRRwKAs8
午が南の方角で縁起が良さそうだからか?
虚空蔵菩薩が午神だからか?
朱雀とかも関係あるのか?

午年の人間を・・・ってのが気になって仕方ないんですわ。
25人間七七四年:2014/10/24(金) 22:52:52.54 ID:T6cGM1ae
吉川晃司が毛利元就の息子の子孫と聞いた事があるんですが、そうなのでしょうか?直系の子孫ですか?
26人間七七四年:2014/10/26(日) 05:56:15.68 ID:cV0LchBM
平塚為広と大谷吉継の辞世の句について質問。
この二人の辞世の句がセットになっていると聞いたんですが、本当なんでしょうか?
平塚から大谷へ送ったというのは間違いなさそうなんですが、大谷の歌の内容は誰へ、というのがはっきりしません。
状況的には平塚しかいないように思えるんですが、解釈次第で誰にも当てはまるような気がして・・・
もしこの話のはっきりした出典があるなら教えて欲しいです。
27人間七七四年:2014/11/01(土) 10:53:08.44 ID:3qxLM6w/
俺は自分の姉には頭が上がらないんだけど、戦国時代の武将も姉には頭が上がらなかったんですか?
28人間七七四年:2014/11/01(土) 11:12:44.07 ID:OoEwluKY
戦国時代の武将で、双子の武将はいたりしたのでしょうか?

もしくは、それを匂わせる史書とかは有ったりするのでしょうか?
29人間七七四年:2014/11/01(土) 13:00:17.29 ID:6gn/78I7
家康の次子・結城秀康は双子だったって説があるな
30人間七七四年:2014/11/03(月) 23:50:08.74 ID:PYhSdtJF
80年代半ばからの秀吉ってどうしてこんなに偉そうに出来たの?
同じ大名の立場なのに、どうして「こっち来い」と言われて会いに行かないといかないんだよ。みたいな。
例え秀吉の家臣にせよ、友好的な大名にしても、疑問を持たなかったの?この秀吉の高慢な態度に。
数年前までは信長の家臣の1人だっただけの奴に、どうしてペコペコしなきゃならんのかと。
秀吉の奴、急に偉そうにしすぎてるな。そろそろ秀吉包囲網でも組むか的な風潮にならなかったのかね。
31人間七七四年:2014/11/10(月) 17:28:11.21 ID:aBx5SVt6
清華成には内府たがい条を発給し挙兵した
毛利や宇喜多もなっているのも知らんとか恥ずかし過ぎるw
もちろん上杉も清華成で同格だし。
秀吉は同家格の彼らの中に徳川が埋没することを狙っていたわけだ。
五大老筆頭なんて言葉は江戸幕府が作った捏造語で、
秀吉は五大老なんて言葉は知らんから。
いよいよ諸大夫成の一番下の立場でしかない三成が、
公家成の島津らはともかく、
清華成の殿上人を差し押いて、
家康打倒の首謀者に成り得る可能性は皆無だな。
どう考えても輝元が首謀者としか考えられない。
内府たがい状に 家康が諸大名の妻子を贔屓屓に国元に帰したことを弾劾してるから、
大坂には人質なんていなかった。 完全に作り話。
挙兵した西軍が伏見城を落とした辺りで、
帰属してきた美濃諸将から人質を取り始めたりしてるしな。
残念ながら、秀吉の遺言と称する二次史料の覚書に関しては、
家康を特別扱いした文面に限り、
直江状と同じで関ヶ原後の改竄で家康の正当化の作為指摘されてんだよ。

早稲田大学が持つ豊臣秀吉遺言覚書案は、
清水亮氏が宮部氏が家康の体面を重んじて江戸時代になって作成したと指摘してるし、
浅野家に伝わる秀吉遺言覚書も、
矢部健太郎氏が内府以外の文字の時に、大納言殿、江戸中納言殿、羽柴肥前殿などと、
徳川家と前田家だけは律儀を強調したり、
『殿』の敬称を付ける反面、
他の大老は呼び捨てになっていて呼び捨てになってる異様さ。
さらに人質もろともみんなで大坂に政治中枢を移動した後のさみしい伏見に家康を閉じ込めて帰国禁止にし、
いつでも武政の大坂から権威の伏見を討てる形を作ったのに、
遺言だと徳川と前田に任せるような矛盾する話になっており、
そもそも伏見に家康が置き去りで、
奉行衆も検地などで下向して全員揃うことがあまり無いのに、
バラバラで合議制なんて成立しないという点。
極めつけは、この秀吉の遺言に関して、
上杉や毛利ら関ヶ原で負けた側には全く伝わってない不審さ。
これらを挙げて浅野家文書の遺言は関ヶ原後に手が加えられた可能性があるとされてる。
実際は秀吉がもともと上杉よりも下の家格だった前田家を急速に引き上げ、
ついには秀家、景勝、輝元より早く権中納言に利家が就任するなど、
利家を政権の後見役にしようとする動きが見えるため、
秀吉の遺言には前田家の秀頼後見役にする話しかなかったのでないかと考えられる。
秀吉が家康を特別扱いする必要性が無い。
32人間七七四年:2014/11/10(月) 20:59:33.32 ID:Z1k6pT/p
そもそも関ヶ原の戦いの時に一番上の地位にいたのは家康じゃなくて、
西軍にいて尾張奪回を狙って出陣した正二位前内大臣北畠信雄だからね。
尾張で捕縛されて家康に土下座したけど。
33人間七七四年:2014/11/18(火) 05:07:10.00 ID:s9Q3ENDP
小田原攻めの際、北条氏政が黒田官兵衛宛てに送った書状に「黒勘」の表記があったような気がしますが、これがこの板でよく黒田官兵衛が「クロカン」と呼ばれる理由なのでしょうか?
それともこの書状に限らず当時多くの人が官兵衛のことを「クロカン」と呼んでいたために現代でもこの名称が存続しているのでしょうか?
34人間七七四年:2014/11/18(火) 05:09:32.41 ID:4nD8sGuB
>>33
書状で名前を略すのは当時の親しみの表し方にすぎん。
クロカンというのはむしろ近代以降の呼び方やろな
35人間七七四年:2014/11/18(火) 05:31:05.85 ID:s9Q3ENDP
>>34
即レスどうもです
そう言えば山本勘助もヤマカンと呼ばれてますし、姓と通称を縮めた呼び方が形式として存在していたんですね
クロカンの場合は語感の良さが受けて未だに使われてるといった感じですか
36人間七七四年:2014/11/18(火) 20:50:57.29 ID:X6lL4f8K
形式というほどのこともない。
慣用表現、ってぐらい。
37人間七七四年:2014/11/19(水) 01:07:41.01 ID:K4q7enNw
>>35
昔も今も、語呂が良ければ縮めて呼ぶ事は当たり前だろ。
前田健太でマエケンとか、木村拓哉をキムタクとか。
38人間七七四年:2014/11/19(水) 01:34:34.03 ID:oz8qVD44
4音って呼びやすいのね、2音の名前みたいに短すぎるとわざわざ四文字にもされる
39人間七七四年:2014/11/19(水) 18:43:17.72 ID:wwWg9Jlq
「ぼす」ではちと短すぎると感じましたのでこれより殿下を「らすぼす」とお呼びいたします。
40人間七七四年:2014/11/20(木) 11:51:55.07 ID:iOkKbXWG
>>30
天正11年4/12付秀吉→輝元宛では
前々せがれの時でさえ、信長家中においては、秀吉が真似ごと仕るべき者、これなく候つる
などと書いていて昔、子供の時ですら信長家中で自分ほどのことができた人間はいなかったと書いていて
秀吉がせがれ時代からすでに信長に仕えていたことがわかる。秀吉の才覚じゃ自他共に認める隔絶した将器だったのが判明しよう。
他にも上井覚兼日記や島津側書状で、 天下静謐のために秀吉が島津に停戦受け入れるよう命じた時に、
島津が秀吉のことを、なんでお前みたいな馬の骨に名門島津が従う必要あんだよ?みたいな侮り記述がある
フロイスの日本史にも身分も低く血統も賤しいと秀吉の人となりを書いているので、島津の批判は間違っていないだろう。
天正10年10/18の秀吉書状には、自分のことを「小者一僕の者に過ぎなかったのに信長が召し上げてくださり」
などと書いていて「下僕」の身分に過ぎなかったのに、信長が身分を引き上げてくれたことを感謝してる。
また、天正17年11/24の秀吉書状では、
「秀吉若輩の時、弧と成りて信長公幕下に属し」などと書いていて
「孤児」に成り下がり、頼るべき親類もいないほど貧しくなって信長公に仕えたと書いている。
あぁ孤児って訳は染谷氏の解釈であって俺が勝手に訳したわけじゃないからな。
看羊録の著者は、 秀吉の父の家は元来貧賤で、農家に雇われてどうにかたつきをを立てていた。
壮年になってから自分から奮発し、信長の奴隷になったが関東に逃げて数年し、
また戻って信長に自首したので、秀吉は一心に奉公して昼夜風雨を厭わなかったと書いてる。
耶蘇会の1584年の年報にも はっきりと「一般人民の声によれば、秀吉は何事においても
彼の前任者信長より遥かに優れている」と当時の日本での世評において激賞されていたことを記している。

天正10年10月には京の出入口に設けられていた関所を廃止し(禁裏領率分関)、
信長のやり方の否定を開始し、次々と経済振興策を繰り出し始め、
ついには「公家武家地下商人に至っては諸役を止め、座を破らる。
これに依りて悦ぶ者多く悲しむ者少なし」などと秀吉の政策は激賞され、
「日本国の諸役、京のみいり(関銭)、兵庫の関、津々役儀かくのごとく往古より有り来る役さへあがり候処」と宣言し昔からあり続けた税の免除を開始。
「日本国諸役悉く上げ申し候処」
関所や港で商品にかける役銭をはじめとして日本国中のすべての役の賦課権を没収するまでに至り、空前の活況を示した。
信長のもとで関所や座の組合が経済活動を押さえ付けていたが(薄と言う公家が牛にまで税を賦課していたのも秀吉が完全廃止した)
これにより自由往来と自由通商が可能となり瀬戸内海から伏見〜京への河川流通網整備のため大河治水が開始された。

信長には分国法すら無く、単に室町幕府に寄生してたら下克上された 歴史的意義の無い 実質10年弱で淘汰された畿内政権だからね。
41人間七七四年:2014/11/20(木) 20:39:34.46 ID:iOkKbXWG
安国寺は天正12年1/11にも秀吉の評判を書き残していて
大なる事は、近年信長の下にても、羽柴羽柴と申候て、世上操りをも、又弓矢をも手に取り候て、鑓をもつき、
城をも責候て存んぜられ候、又、小事の儀は小者一ケにても、又、乞食をも仕り候て存んぜられ候仁か、
申し成しなとにては成る間敷候、日本を手の内にまわし候、今日まては名人にて候、明日の不慮は、存ぜず候
などとどんなことでもなんでも抜群にこなせるオールラウンドプレイヤーで頭角を現し、信長の名も霞むほどだと書いてる。
ここで面白いのは秀吉は乞食まで経験してるので、世間の人情の機微も心得ていて名人なので
信長のような犬死のような突然の死に方もしないと書いてるところ。
42人間七七四年:2014/11/21(金) 01:59:18.01 ID:5DfkDuHo
>>28
森力丸と坊丸は双子と書いてあるサイトを読んだことがある。
真偽は知らぬ。
43人間七七四年:2014/11/21(金) 08:20:24.05 ID:Z5h0Wz/4
信長は怒りの感情に任せて好き勝手に命令しているから
家臣に荷重がかかり精神磨耗させてるだけで、
秀吉はキチンと戦略を組み立て経営管理しているから
家臣が心配なく自由にやれる。
この違いが大きい。
信長は社員を見下し威張りまくるパワハラ ワンマン経営で仕事内容もグレーゾーンで社員の離職率が高いブラック。
気に食わない、自分に従わない者を悪人認定して次から次へとイチャモンつけていくDQN。
恐喝と破壊と殺戮による亡国政策のもとに文化財や民を損ない日本を衰退させた人物。
しかし秀吉は新たな国のシステムを創る才覚があったから元同僚たちも従ったんだろうね。
中間搾取層を排除し、農民に土地を与え、戸籍を作り、民政重視により氾濫防止と田畑拡大を目的に、
河川治水と海上交通網と街並み城下整備など、
大開発を通じて日本を活況させたのが秀吉。
秀吉は信長と真反対のことを行い人心を得た。
44人間七七四年:2014/11/21(金) 10:22:15.19 ID:KbQdv/aP
信長は神仏の使いである鹿の大量虐殺による寺社への挑発・荘園の略奪・惣村強制没収略奪・京での略奪放火恐喝大虐殺・強制労働と相次ぐ臨時の税賦課
上限の設けられない軍役・軍役がない時は軍道作りを強制される。また子供が遊ぶことも禁止された。
これらに従わない場合は弾圧で村や都市ごと焦土にする(信長のこのやりかたを一国亡国と呼ばれ批判された)
信長体制とは無政治無内政体制ともいうべきもので、とても国家の体を為してない
単なるあらっぽい下克上大名のレベルからの昇華は認められない。
それは近代兵制たる田畑からの収入把握から算出される家臣団編成、軍役賦課・軍事力編成がなされていないからこそ生じた問題であろう。
それを虐殺略奪を兵制の基礎に置き、武篇道の督励で対応しただけの蒙昧ぶりが信長。
信長自身が武篇道に邁進して土地支配制度と知行制の整備を怠ってきたことに
原因があるのであって、逆に信長の限界を示すべきものとみるべきであろう。
信長は分国法すら作る知識も能力も無かった。
また甲州の治水技術は関東開発に役に立ったが織田は治水をやらないために後世に残る織田治水などは一切残らなかった。

秀吉が治水をしているのも田畑開発、水害防止、大坂から京への海上経済通商政策を理解しているから。
兵農分離の先駆けは天正13年卯月22日付けの秀吉朱印状が嚆矢。
紀州の雑賀・根来を討ったときに刀狩りを命じていて
その際に頭領の者を選んで皆殺し、平百姓は許すと書いていて
明確に兵と農を区別して国人指導層を殺し、武器を没収して完全な農民にしている。
これにより専業武士と農民が区分けされ秩序が生まれ国内は安定を迎えた。
信長にはそういう思考はなく皆殺しの撫で切りや根切りや磔など残虐な極刑による地域消滅政策。
秀吉は農村の生産力確保維持政策が基本にある。
秀吉の平和安定のための物流革命と言えば、信長死ぬや早くも
天正10年10月には京の出入口に設けられていた関所を廃止し(禁裏領率分関)、
信長のやり方の否定を開始し、次々と経済振興策を繰り出し始め、
ついには「公家武家地下商人に至っては諸役を止め、座を破らる。
これに依りて悦ぶ者多く悲しむ者少なし」などと秀吉の政策は激賞され、
「日本国の諸役、京のみいり(関銭)、兵庫の関、津々役儀かくのごとく往古より有り来る役さへあがり候処」と宣言し昔からあり続けた税の免除を開始。
「日本国諸役悉く上げ申し候処」
関所や港で商品にかける役銭をはじめとして日本国中のすべての役の賦課権を没収するまでに至り、空前の活況を示した。
信長のもとで関所や座の組合が経済活動を押さえ付けていたが(薄と言う公家が牛にまで税を賦課していたのも秀吉が完全廃止した)
これにより自由往来と自由通商が可能となり瀬戸内海から伏見〜京への河川流通網整備のため大河治水が開始された。
これが桃山文化と呼ばれ日本各地で城下町が整備され、
日本史史上最も派手で豪勢な時代と言われている。秀吉の下、インフラ整備と経済活況化への資本投入による民心安定策である。
さらに秀吉は太閤検地と身分法令において人口戸籍まで作らせて言わば国政調査をしている。
例えば伊達が朝鮮出兵で飛ばされている間を狙って石田豊前守にやらさせたりしてる。
また朝鮮出兵は看羊録によれば国内で変事を起こさせないように兵を消耗させ
戦国の気風がある荒々しい武将どもの内乱意識を消す戦後処理を謀る意図があったとする。
また土木工事も諸大名の経済力を奪い取ると同時にインフラ整備と経済活性政策であった。
45人間七七四年:2014/11/21(金) 10:24:32.41 ID:KbQdv/aP
秀吉は全国統一の度量衡の統一、税や法の平等を施行し、
それに反して挙兵するものは朝廷から認められた公儀政権として警察権を行使し
下克上的機運や中間搾取層の排除による既得権益の一掃と豊臣政権による官僚制を志向した。
秀吉は帝国主義・重商主義の世界史的な流れを理解し
大陸進出により、日本が強国で植民地化が不可能だと悟らせた。
看羊録には、秀吉の朝鮮出兵は諸大名の力を削いで
戦乱や領地を望む心を奪うためと書いている。
戦国の機運を終わらせるためには強権発動も必要なのだろう。
〜キリシタンはさらに悪質で領主層を惑わす〜と秀吉は書状に書いている。
秀吉が給付した領地の主人は変更することはあるが、其の地の農民の移動はない。
それなのにキリシタン大名が秀吉の許可も得ずに領地の寺社を勝手に燃やしたり略奪するのは許されない。
宣教師の企みを喝破できたのは日本の中でいまはまだ私だけだ」と言っている。
信長のようにただ単に興味本位で珍しい新しい物好きで宣教師を厚遇してるバカとは違う。
また高山右近が高槻に続き転封先の明石で寺社を破壊してたのを施薬院全宗が秀吉にチクったことで
激怒した秀吉が博多でポルトガル人の奴隷売買を糾弾したり、
牛馬は人間に仕え有益な動物なのになぜ食べるのか?と言ってたが、
(秀吉の基本思考・・・ポルトガル船でも純粋な交易のためなら寄港するのも問題なし、
秀吉から2000貫以上を給付される者がキリスト門徒になる場合は自分の許可を得よ。
それ以下の者の場合、日本の宗派は八宗あるが、キリスト教が加わり九宗になっても大して変わらんから
信教の自由は保障し何を信じようが構わない。但し、秀吉から給地を与えられた者が、権力を以って
庶民にキリスト教信者になることを強制したら罰する。)
小田原城を降伏に追い込み奥州仕置きをしようとする秀吉は
天正18年8/10に関東にも刀狩り令をだし、その中において
人を売買することを禁止し、天正16年以来で人を売買した者は
すべて返却するように命じ、売る者も買う者も処罰すると宣言している。
このことから高利貸しが政権運営する北条が滅亡するまで頻繁に奴隷売買をしていたことがわかる。
信長のような蒙昧暗愚の暴君と秀吉の差は天地の開きがある。
重商主義的・帝国主義的な植民地化がすでにフィリピンにまで押し寄せている中で
秀吉のみがキリシタンの野望を喝破し、逆に朝鮮への遠征を行うことで
日本の武威を知らしめ、陶工などを連れ帰り現在に至る名産品を生む。
秀吉は明確に日本人民の安全を謀り世界に対する武力誇示と同時に
国内混乱要因の武士層のストレスを解消させる政策を実行(神風連の乱や西南戦争を見れば明治政府の武士への扱いの苦心もわかる)
46人間七七四年:2014/11/21(金) 10:25:37.86 ID:KbQdv/aP
資金面から見てみよう。
永禄11年11月上洛するやさっそく
石山本願寺に礼銭五千貫を恐喝
法隆寺に防築銭千貫余を恐喝
永禄12年2月
堺の代表10人中8人を
自刃に追い込み二万貫の矢銭を恐喝。
尼崎は矢銭拒否により全焼略奪。
8月の織田による山名祐豊の但馬攻略後に
祐豊は堺の金融業者の渡辺宗陽を頼って今井宗久を紹介され
今井宗久が祐豊に年利40%で1000貫文を貸付け
それを信長への礼金として但馬復帰を許してもらってる。
信長が永禄12年からの恐喝集金システムでバブリーだったのも
志賀の陣での敗北までに浪費しまくって全部使ってしまったのだろう。
信長がやたら強気に出て、本願寺まで敵に回してしまったのも
あまりの想像を絶した大集金で舞い上がってマトモな判断力を失っていたのだろう。
永禄13年4月改め元亀元年4月に改元。
朝廷からの荘園返還要求から逃げまくる信長
比叡山の荘園横領しまくりの信長による元亀2年9月比叡山焼き討ち略奪。
元亀3年に奈良内銀子320枚・興福寺銀子100枚・東大寺銀子50枚を上納
しかし金が尽きたのか12月にも再度の要求があり成身院に銀子100枚上納の記録が残ってる。
この年は大和で地震もおきていて大和亡国と呼ばれた。
元亀4年に天皇から乱妨狼藉の禁止・禁中御警固を命じられていたのに
まずは小手調べで賀茂〜嵯峨まで燃やして恐喝し銀棒300(それぞれ重さ43匁)
恐ろしくなった上京が払った銀1300枚の受け取り拒否した上で上京を焼き討ち略奪。
(信長に金を渡しに行く際に織田軍に略奪され、改めて高利貸しから借金して信長に渡すなど酷い状態になったりした)
御所への延焼の恐れが出てきて天皇も逃亡準備。桂川が死体で埋め尽くされる大虐殺開始。
下京恐喝(銀800枚)で金品を集める。
しかしあっちゃこっちゃ延焼しまくりで火だけは統御できない。
織田軍は常に金欠だったんだろうな(ちなみにこれ以前にも京で略奪をやって織田軍と徳川軍が
略奪品を巡り衝突し織田軍が敗北している)
越前加賀で虐殺略奪大会したあとに前田や不破や佐々に越前の寺社領は
先祖の織田神社以外はすべて没収とかやってるし
宗麟とかは商人から借金したりしてるけど
信長の場合は武力をチラつかせて上納を要求する恐喝型だしな。 完全に893
しかしもう恐喝できる相手すらいなくなり
みんな貧民だらけになってしまう現実・・・北朝鮮的織田統治下全員貧困化政策。
47人間七七四年:2014/11/21(金) 11:37:56.78 ID:KbQdv/aP
織田軍の残虐行為の証拠隠滅行為から逃れるために
当時の人々が瓦の裏に後世の人々へ、その犯罪行為を告発しているほど

「後世の方はどうか語り伝えて下さい。
5月24日に一揆が起こり、 前田利家が千人を生け捕りにした。
磔、釜茹で、その有様を書き留めておきます。」

またフロイスも日本史において
荒木の謀反の時は、荒木の妻、二人の娘、兄弟、彼女の兄弟姉妹、すべての従兄弟たち、甥、近親ら36人を
市中引き回しの上、斬首(市中引き回しは名誉を重んじるので死ぬことよりも甚だしい恥辱と不面目を信長は与えた)
荒木の城から取っていた貴婦人120名は磔(赤子も母の胸に縛りつけて串刺しにして母親を一層苦しめるやり方をした)
これを見た群集は殺された者が赤の他人であっても肝を潰し幾日も放心状態になる人たちばかりだったほどで、
このまったく罪なき人々に対して前代未聞の過酷さと残虐に京の群集が恐怖したのもつかの間、
今度はさらに残酷で非人道的かつ恐怖を比較にならぬほど煽ったのが、
4つの平屋を作り、そこへ514名が入れられ(380名が女性)外から火をつけられ全員を生きたまま焚殺した。
彼らが発する悲鳴や叫喚の声は、彼らが受けている残忍極まりない苦しみが、京都を恐怖で覆った。
このように荒木のみが受けるべき罰を、多数の無実の人々が受けた。
苦悩の涙と尽きることがない慟哭だけがずっと聞こえてきた。

これが信長のやり方で、異常な暴君以外のなにものでもなかった。

信長は日本史上、唯一の恐怖と虐殺を礎に王朝を築き上げようとした
大陸中国人的専制独裁君主なんだよな。
だから猜疑心が異常に強く、
行き着いた終着駅はカルト宗教の神になって崇拝を強要し権力だけでなく新たな権威を備えようとした挙句に自滅。
朝廷も異常なまでに恐怖し、家格も前例も段階も踏まずに一気に位階官職を引き上げようとしてるくらい媚びへつらい朝廷存立の危機感を持ってたが、
それすらも拒絶して朝廷秩序の枠外に出てしまった日本史上、唯一の暴君。
48人間七七四年:2014/11/21(金) 12:00:58.15 ID:jRwsxZfR
荒すなよカス菅沼遼太
49人間七七四年:2014/12/01(月) 00:09:15.81 ID:pcnXVagQ
大友宗麟が名将扱いされてる理由が分からん
大内氏いが滅びたからその残党を吸収しつつも島津に敗れて壊滅しただけじゃないの?
50人間七七四年:2014/12/01(月) 01:30:16.23 ID:NcWWY9TD
そもそも名将扱いされてないでしょ。
51人間七七四年:2014/12/01(月) 02:13:50.99 ID:pcnXVagQ
されてないのか、ごめん
信長の野望では準一級的な能力と顔グラだから強い武将なんだと思ってたわ
52人間七七四年:2014/12/03(水) 09:12:41.15 ID:ezHLUEqW
毛利に連勝しまくった名将でしょ。
家督譲ってキリスト教三昧な生活やってたら、
息子の義統が下手うったから、家臣団から当主復活してくれって頼まれたけど、
あくまで義統が大友当主だといって後見役に復帰して、
大友内乱を治めるのに成功して、毛利の便乗も破ったし、
隆景の伊予攻略も失敗に追い込んでるじゃん。
53人間七七四年:2014/12/03(水) 09:16:56.97 ID:OaP3T190
宗麟は功もデカイけどやらかした失敗もデカクて

ゲーム的にいうと、キャラの性能はいいんだけど操作するプレイヤー側に問題がある、みたいな
54人間七七四年:2014/12/03(水) 09:46:23.36 ID:ezHLUEqW
失敗なんてあったか??
55人間七七四年:2014/12/03(水) 12:25:37.40 ID:SicqXKKM
どうせ島津に敗戦したのを
いまだに宗麟が主導した戦だとか思ってるアホだろ。
むしろ敗走してきた大友軍を支えて一時は踏み止まらせるのに成功したのが宗麟。
誤情報で結局、撤退したけど、被害を最小限に食い止めてる。
56人間七七四年:2014/12/03(水) 12:38:20.67 ID:I1EytWOg
カス菅沼遼太、適当なこと言ってんなよ
57人間七七四年:2014/12/07(日) 22:12:53.59 ID:vk5ySBRi
>>54
子育て
58人間七七四年:2014/12/08(月) 15:39:43.72 ID:2u1Icnhf
国人衆と家臣の線引きってどのあたり?

木曽義昌は1555年に武田に降伏し娘や人質を差し出し1582年に反旗を翻した
これだと1555年に家臣になったのがわかりやすい

毛利元就は1525年大内義興の後ろ盾で高橋一族を破り足場を固め1537年隆元を人質に差し出す
1540年吉田郡山城の戦いの活躍で安芸武田氏を滅ぼし安芸最大の国人となる
1551年大寧寺の変で事実上大内が滅ぶと1554年防芸引分で陶晴賢と決別
これは従属国人ではあるが家臣ほどではない

松平広忠は1535年森山崩れでボロボロになり1539年今川に泣きついて1547年に竹千代を差し出す
1549年死ぬと岡崎城は接収され城代を送り込まれている
これは早くて1539年遅くても1549年には家臣に降っているようだ
家臣と言えるのはどのあたり?
59人間七七四年:2014/12/08(月) 15:59:03.13 ID:6ZE/ro+x
>>58
国衆が大名の家中に取り込まれたのは近世に入ってから。
それ以前はあまり区別する意味は無い。
60人間七七四年:2014/12/08(月) 17:39:43.94 ID:hhTpV3Lt
>>58
とりあえずその三例は全部国人かな
大名は国衆を家中に取り込んで家臣化を押し進めてたから
取り込まれ途中の中間形態なんてどっちに区別とかできないし厳密な判別は難しいね
大名から「殿」付けされたたら国衆、「との」付けなら家中とかも参考にはなるけど厳密じゃ無いし
毛利みたいに同時代の家中名簿と国衆名簿を残してくれてたら簡単に判別できたのにね
61人間七七四年:2014/12/09(火) 15:10:39.03 ID:HNiFHT52
山内一豊のウィキペディアに記載されている
「関ヶ原の合戦後の追撃戦で家康に先鋒を求めたが、寛大と評判の一豊が先鋒だと西軍が降伏してしまうためやんわり断られた。」
という逸話の出典(史料でも小説でも)をご存知の方いますか?
62人間七七四年:2014/12/12(金) 10:02:48.41 ID:EVAQ/Z9n
関白と征夷大将軍はどちらのほうが偉いのですか?
63人間七七四年:2014/12/12(金) 10:16:47.00 ID:iPgindBB
>>62
そもそも意味合いが全く違う役職。
ただし室町後期になると将軍家と摂関家はほぼ同格と考えられていたようで、将軍家と摂関家の間では通婚が行われている。
江戸期もそれに準じている
64人間七七四年:2014/12/16(火) 04:00:22.52 ID:1Rg9JPsU
小早川隆景が亡くなった際、秀秋が故人を偲んで詠んだ歌があると聞いたのですが、
詳しいことをご存知の方はいらっしゃいますでしょうか?
ググっても個人サイト以上の情報が引っかからず…
65人間七七四年:2014/12/18(木) 13:38:26.02 ID:yDNh6imx
物事、小事より大事は発するものなり。油断すべからず
66人間七七四年:2014/12/18(木) 13:39:51.03 ID:yDNh6imx
すいません書き込んでしまいました

物事、小事より大事は発するものなり。油断すべからず

とはどういう意味ですか?
67人間七七四年:2014/12/18(木) 18:41:01.58 ID:+H5Px5kl
まんまじゃね?
68人間七七四年:2014/12/21(日) 09:31:58.42 ID:jsu2KoHC
関ヶ原の戦後豊臣の領地が220万石から65万石になったとき
なんで家康殺さなかったの?その決定で殺す大義名分あるし
豊臣恩顧の大名も多かったやん
秀頼の御前で謀反ありとぶった斬ればよかったんじゃね?
69人間七七四年:2014/12/21(日) 12:26:12.74 ID:FnbnX6kd
関ヶ原であわや日本全土に乱世再来となりかけたわけで
秀頼が幼少で指導者不在の豊臣も諸侯も強力な統治者を必要としていたので無理です
70人間七七四年:2014/12/21(日) 12:58:36.52 ID:E91JbBFN
そもそも220万石の殆どを構成する豊臣蔵入地は五奉行体制があってはじめて管理できるようなものなので、
蔵入地どころか本拠摂河泉の管理すら自身でできなくなっていた関ヶ原後の豊臣家にその保持は現実問題として無理。
71人間七七四年:2014/12/21(日) 17:41:34.12 ID:jsu2KoHC
なるほどな
72人間七七四年:2014/12/24(水) 01:49:28.18 ID:UItYDs0/
220万石は豊臣直轄地で
蔵入地は諸大名の領地の中に設定した別腹収入だよ。
家康はこの蔵入地を廃止して諸大名の支持を得た。
この蔵入地は諸大名の内情監視の出先機関にもなっていたし。
73人間七七四年:2014/12/24(水) 18:42:05.43 ID:rQCin5Ug
74人間七七四年:2014/12/25(木) 22:27:30.14 ID:yRTbQsfL
関ヶ原の西軍で、田辺城攻めてた人達は、なぜほとんど本領安堵だったの?
75人間七七四年:2014/12/26(金) 00:27:11.87 ID:jdwILHnc
天皇の仲裁に従ったから家康といえどもむげには出来なかった。
76人間七七四年:2014/12/27(土) 18:58:07.20 ID:KJ4Jxz8M
質問です
↓のような被り方は名前があるのですか?
ttp://j-koyama.img.jugem.jp/20091005_2866825.jpg
77人間七七四年:2014/12/27(土) 19:12:56.65 ID:IGwgV0/p
>>76
桂包
7876:2014/12/27(土) 19:25:12.59 ID:KJ4Jxz8M
>77
どうもありがとう
この被り方すきです
79人間七七四年:2014/12/28(日) 14:09:30.35 ID:eWm0dRZV
>>74
忠興のお礼参りがあったよ。
80人間七七四年:2014/12/29(月) 11:24:39.35 ID:suqvr24n
どうすればこの板で語れるくらい詳しくなりますか?
81人間七七四年:2015/01/03(土) 19:27:38.22 ID:73225Wit
秀吉や家康の居城といえば大坂城や江戸城ってイメージですけど
引っ掛け問題で伏見城や駿府城って答えにするのはありでしょうか?
82人間七七四年:2015/01/03(土) 22:21:47.45 ID:I7vypsGf
居城の定義によるから、出題者の性格で決まる。
83人間七七四年:2015/01/08(木) 22:45:02.22 ID:wYF6aiGR
戦には馬がたくさん必要ですが、戦国時代当時日本にそんなにたくさん馬がいたんですか?
84人間七七四年:2015/01/09(金) 11:29:57.83 ID:kK8S2/Jg
現代から見れば世の中じゅう馬だらけと言っていいほどいた
機械が無く人力以外は牛馬力に頼るしかなかった時代で農民でも耕運機代わりに3,4人に一人は馬か牛を持ってた。
85人間七七四年:2015/01/11(日) 02:41:59.93 ID:SMo23iG/
城の本丸取るのってそんなに大変だったんですか?
例えば関ヶ原の戦いの時の信濃上田城の本丸は縦横何mくらいだったのですか?
本丸には何人くらいが守っていたのですか?
86人間七七四年:2015/01/11(日) 02:55:05.61 ID:034jqvSg
>>85
本丸は最終防衛拠点であり本丸を守るために二の丸三の丸などの外郭があるのだから、
本丸だけ見てもなんにもわからん
87人間七七四年:2015/01/11(日) 07:55:38.07 ID:X1IuPqB8
そういえば
薙刀ってどうして戦国ではやらなかったのですか?
よく集団戦法に変わって密集するようになったからといいますがそれは源平合戦でも三国志でも同じでは?
関羽や弁慶みたいに馬上で薙刀振り回すやつが戦国に一人や二人いてもおかしくないと思いますが。
88人間七七四年:2015/01/11(日) 09:39:25.52 ID:gNnmejBQ
薙刀使ってるやつもいたよ
89人間七七四年:2015/01/11(日) 10:56:59.06 ID:kh7Sehpx
家康の家臣・鳥居元忠は薙刀の達人
他にも逸話で良ければ小西行長が長刀(=薙刀)ぶん回してる話がある
つまり個人レベルでは薙刀使ってる人も居た
90人間七七四年:2015/01/28(水) 12:06:39.38 ID:ezQ+h2aJ
戦国時代の武士にも武士道ってあったのですか?
91人間七七四年:2015/01/28(水) 12:55:51.06 ID:DvY+KoLf
武士道自体は江戸時代に作られた言葉であり江戸時代に作られた思想であるし
現代人がイメージする武士道はそれをさらに明治にまとめたものなので当然戦国時代には無い
現代人がイメージする武士道とは違うが何らかの武士の普遍的な規範、
たとえば背中の傷は恥とするような武士独特の全国で共通する思想は有った
92人間七七四年:2015/01/29(木) 22:33:42.94 ID:Eq+l0AYi
上杉謙信が後継者指定しないで死ぬに任せたのは何故でしょう?
内紛になる事は解ってたろうに。
93人間七七四年:2015/01/30(金) 02:01:21.69 ID:2XNxKKl3
謙信は年齢的にはもう後継者を決めなければならなかったが患って訳ではなく突然死だったので、
本人は健康体だと思っててもう少し生きるつもりだったののと。
景勝にかなり権力移譲していたので本来は景勝に譲るつもりで居たと思われますが、
憶測になりますが越相同盟のときに上野割割譲の条件が景虎を後継者にすることだとしたら、
今だ大義名分として利用価値があることになり、とりあえず後継者候補から外さずにいて、
様子見してたら死んじまったというのが、今のところつじつまが合う説とかなと思います。
94人間七七四年:2015/01/30(金) 15:23:13.86 ID:O0UIx5OX
足利義持が死去するに及んで、群臣が後継をだれにしますか?と尋ねた。
しかし義持は「どうせここで私が指名したところでお主らが支持してくれなければ意味はない
おぬし等で相談して決めるがよい」と言って死んだ。
当時の上位権力者というのは重臣たちの合議の上で支持していくというのが当たり前だった。
とにかく支持を得るために行動するのが当主の器用であり才覚だった。
そして何らかの変事が起きない限り当主身分は終身にわたるものであり、
そうでない場合は権力の分裂対立が生じてしまうので総領制の元で権力集中が行われた。
特に器用を謳われたのが織田信秀で取り分け器用の仁と賞賛された。
95人間七七四年:2015/01/30(金) 15:30:44.93 ID:SH6+yHXE
まあ信玄のように今まで支持しろと言わんばかりの嫡男をあっさり廃嫡させたり
当主であるはずの父親を喜々として追放するような人間と違って
謙信はあくまで越後やお家のことを考えていたんだろう。
元々謙信も代理当主に近い就任の仕方だったしな
96人間七七四年:2015/01/30(金) 15:38:27.53 ID:O0UIx5OX
漢の劉邦は愛妾の子に皇帝の座を与えたかったが、
群臣が長男を支持したために
やつには翼が生えてしまったようだ。
自分の力ではどうすることもできないと嘆いた。
当主というのは力ある群臣らによって擁立廃嫡されるものなのだろう。
97人間七七四年:2015/01/30(金) 15:52:41.54 ID:SH6+yHXE
信玄の悪事を群臣のせいにする菅沼君w
98人間七七四年:2015/02/01(日) 08:31:06.96 ID:+4EWxpoX
香川に所用で行くのですが、香川で有名な武将は誰でしょう?
調べたのですが分かりませんでした
そしてお勧めの歴史関連の観光地もあれば教えて下さい
99人間七七四年:2015/02/01(日) 10:15:16.06 ID:rPc8svad
香川と言ったらまずは全国に12しかない現存天守で有名な丸亀城に行きましょう。
そして「こんぴらふねふね」で有名な金刀比羅宮(ことひらぐう)にも行きましょう。
時間があったら高松城にも行きましょう。堀が海と繋がっているので海水で、
真鯛が放流してあるらしいです。

有名な武将は十河一存(そごう かずまさ /かずなが)だけど全然知名度無いですね。
そもそも読めません。
100人間七七四年:2015/02/04(水) 07:21:52.56 ID:Y3DikEAr
>>99
遅くなりましたが、ありがとうございます
勧めてもらったところ全部行きたいと思います
101人間七七四年:2015/02/06(金) 14:29:16.61 ID:Cb7ha08l
戦国時代は何年から何年までという明確な定義はあるのですか?
102人間七七四年:2015/02/06(金) 14:36:26.64 ID:uyESoe16
無いです。見方によって変わります。
103人間七七四年:2015/02/07(土) 20:37:03.42 ID:PAcyCIFz
あと、関東と関西の学者によって違うというのがたまにある。
面白いところだ。
104人間七七四年:2015/02/07(土) 21:04:54.21 ID:DKtI3TKy
>>101
学説として多いのが、明応の政変から小田原の陣まで。
これが一番狭義の戦国時代といえる。
一般的には応仁の乱から大阪の陣までが多い。
関東では享徳の乱から小田原の陣まで。
研究者によっては、国内内戦の集結として下限を島原の乱まで入れる人もいる。
105人間七七四年:2015/02/21(土) 18:54:36.16 ID:4gwbVL9w
家康の子には秀忠 忠輝 忠吉と忠がつくのが複数あるけど
忠は誰から取ったの?
106人間七七四年:2015/02/21(土) 19:09:53.20 ID:RfXAP9Sx
安祥松平初代親忠から、いわゆる通字
107人間七七四年:2015/02/21(土) 19:12:58.83 ID:4gwbVL9w
>>106
なるほど
108人間七七四年:2015/02/21(土) 20:53:01.57 ID:t1LPiuE0
信康は信長だが、
信吉の信はどこから来た?
109人間七七四年:2015/02/21(土) 21:00:08.99 ID:b0LrnURU
>>108
> 信康は信長だが、
違う。「信」も松平氏の通字。おそらく家康の曾祖父にあたる信忠からとられたもの。
110人間七七四年:2015/02/21(土) 21:19:43.84 ID:cxxB/l7/
武田信玄が晴信。信玄の後を継いだ勝頼の子が信勝。(ここで武田家滅亡)
武田一門の重鎮から織田に寝返った穴山梅雪の息子で信勝の従兄弟の穴山勝千代に
武田の名跡を継がせて武田信治と名乗らせたが16で死んだので、家康の子に勝千代の母で
信玄の娘である見性院を後見人として武田信義と名乗らせた。後に改名して信吉らしい。

つまり「信」は武田の通字。
111人間七七四年:2015/02/22(日) 22:05:31.12 ID:E00Nx43d
信長は尾張統一に半生をかけたって聞くけど
織田家ってそんなに弱小大名だったの?
112人間七七四年:2015/02/22(日) 22:58:20.62 ID:pLCYB52C
年齢で言えば18歳から26歳までなので普通は半生とは言いません
113人間七七四年:2015/02/22(日) 23:17:12.09 ID:C3LWhJv9
享年49だから約半分じゃね。
114人間七七四年:2015/02/22(日) 23:26:49.97 ID:C3LWhJv9
>>111
信長の織田家は尾張の守護大名斯波氏の守護代として尾張を半分ずつ支配する
二つの織田家の一方の分家で家臣という立場で、しかも家督相続後に家中が分裂して
内紛となった。柴田勝家とかも敵に回った。内紛を収めて主家を滅ぼし、もう一つの織田家も
滅ぼしてやっと尾張統一。
115人間七七四年:2015/02/23(月) 01:24:36.29 ID:FZ+HdIaU
>>111
なんで尾張統一に半生かけたって聞いた時点で「なるほど、織田家は弱小大名だったんだなぁ」って
判断できないの?
人に聞かないと納得できないの?
116人間七七四年:2015/02/23(月) 12:40:02.21 ID:21crPvTn
普通に信長関連スレで質問すればいいじゃないか
117人間七七四年:2015/02/26(木) 20:01:39.74 ID:jnF3wmRL
信秀が尾張統一したまま信長に与えたのに
信長がバカすぎて道三も心配の手紙まで書いてる。
道三死去後に、義龍に尾張半国奪われたからね。
118人間七七四年:2015/02/26(木) 20:16:00.44 ID:p4tYciIV
信秀が尾張統一って本気で言ってる?
119人間七七四年:2015/02/26(木) 21:47:08.94 ID:8STWgQJt
尾張統一どころか加納口で斎藤道三にボコられた挙句
居城が織田信友に包囲されて平手のおかげで
なんとか助かったくらいなんだよな
信秀が死んだ段階でよく霧散しなかったもんだ
120人間七七四年:2015/02/26(木) 22:58:59.61 ID:nCG1h7+P
>>居城が織田信友に包囲されて平手のおかげで
>>なんとか助かったくらいなんだよな
加納口のあとの大垣城救援で出張中の信秀がいない間に放火するくらいしかできなかったレベルなのに
「なんとか助かった」とか捏造にもほどがある。
しかも信秀が急速渡河して猛烈な勢いで北上してきたから
道三はさっさと大垣から逃亡してるくらい鎧袖一触の武威を信秀が示した結果
濃姫を人質に出す政略結婚をすることに追い詰めたからねぇ。
愛知県史もはっきり政略結婚によって信長に嫁ぎって書いているし。
結局、大垣城も信秀は守り通して斉藤との同盟を結んでいるし、
信秀の姉妹の岩村城も織田勢力圏として信長に譲渡してるし
三河の水野氏も隷属化においているし、
なにより今川からも和睦したいなら城をよこせと要求して義元に条件を飲ませてるほど。
121人間七七四年:2015/03/01(日) 16:34:00.19 ID:hwL7l25R
信長が出陣した後居城
攻められたのはそれなりに危なかったんじゃないか。
放火するぐらい、というけどそれで城炎上したてかもしれない。
というか居城まで敵に攻められた、というのは信長の
ミスだろう。
助かった、のこそ結果論で、最終的に道三救出にも
失敗してるし、この頃の信長はそんなにスーパーじゃない。
桶狭間でやられてたらそれこそバカ殿で終わってたろう。
結果から美化しすぎだし
本能寺でやられたという結果ももっとちゃんと
低評価したほうがいいと思うけどな。
122人間七七四年:2015/03/08(日) 01:23:13.55 ID:kN8VazEK
自民党、グッジョブですわ。
http://www.soumu.go.jp/senkyo/kokumin_touhyou/index.html

☆ 日本国民の皆様方、2016年7月の『第24回 参議院選挙』で、改憲の参議院議員が
3分の2以上を超えると日本国憲法の改正です。皆様方、必ず投票に自ら足を運んでください。
私たちの日本国憲法を絶対に改正しましょう。☆
123人間七七四年:2015/03/08(日) 11:48:25.52 ID:qpde/qZJ
褒美として木下から羽柴と名乗るようになった藤吉郎さんみたいなことって、よくあったのでしょうか?

一字や大名の姓を貰うことではなく、兼続の弟小国から大国みたいなことで
124人間七七四年:2015/03/08(日) 12:53:25.92 ID:ZcJkqeU1
>>123
姓を与える、というのは割とあった。
ただし秀吉の羽柴の姓はどういう経緯で付けたのかよく解っていない。
丹羽+柴田というのは裏付けのない俗説
125人間七七四年:2015/03/08(日) 13:04:09.07 ID:/w0C/1Pk
でも、その俗説以外に羽柴なんて考えられないでしょ
地名でもないし、過去に羽柴という偉人がいたわけでもない
126人間七七四年:2015/03/08(日) 13:32:58.22 ID:ZcJkqeU1
>>125
むしろ「丹羽+柴田」の方が考えられない。
丹羽からは後の字、柴田からは前の字で、あまつさえ羽を頭に持ってくるなんて
柴田勝家を徹底的に丹羽長秀の格下だと言っているのと同じ行為で、勝家に喧嘩を売っている以外の何物でもない。
これは丹羽長秀と柴田勝家の関係すら悪化させる。
そんな不穏当な苗字ならそもそも信長が許可しない。
なので「丹羽+柴田」というのは間違いだと断じてもいい。
127人間七七四年:2015/03/08(日) 13:36:45.43 ID:/w0C/1Pk
>>126
あなたの由来説はどんな感じですか?
もちろん信長も納得するような「羽柴」の由来
128人間七七四年:2015/03/08(日) 13:41:27.92 ID:ZcJkqeU1
>>127
もちろん推測だが秀吉の実家の在地、あるいは縁のある地名を雅字にしたというあたりが穏当なところじゃないかね。「橋場」とか。
129人間七七四年:2015/03/08(日) 13:49:17.00 ID:/w0C/1Pk
その結果
>柴田勝家を徹底的に丹羽長秀の格下だと言っているのと同じ行為で、勝家に喧嘩を売っている以外の何物でもない。
ような苗字が出来上がったら、NGでしょうが。
説得力が足りない
130人間七七四年:2015/03/08(日) 14:04:17.22 ID:v73fmS7r
つか苗字にも避諱ルールが適用されるのか?
131人間七七四年:2015/03/08(日) 14:08:32.19 ID:ZcJkqeU1
>>129
ランク付けする意図があるかないかは重要だよ。そもそも関わりなければ丹羽柴田とは関係ないものだ、で済む話。

>>130
ランク付けのような話になれば大いに問題が出てくる。現在だって同じこと。
だからこそ「丹羽+柴田」なんて俗説は現実的にありえない。
132人間七七四年:2015/03/08(日) 14:17:38.42 ID:v73fmS7r
えらいあいまいやね
133人間七七四年:2015/03/08(日) 15:23:35.26 ID:PB/wFq+d
>>123
>兼続の弟小国から大国みたいなことで
秀吉の「庭に鬼が居るのは縁起が悪い」といういいがかりで鬼庭から茂庭に変えさせられた茂庭綱元とか。

百武賢兼は『主君・龍造寺隆信から百人並みの武勇を有すると賞され、百武姓を賜った。』
134123:2015/03/08(日) 17:45:25.27 ID:qpde/qZJ
沢山のレスありがとうございます。

事実かどうかはわかりませんが、上杉謙信から姓を賜ったと代々伝えられている珍しい姓を当方しておりまして、気になりました。
135人間七七四年:2015/03/08(日) 18:01:45.13 ID:FFdLPIYb
>>134
差し支えなければ、お名前は?
136人間七七四年:2015/03/08(日) 18:05:45.45 ID:v73fmS7r
家康からじゃなくて胸を撫で下ろした
137123:2015/03/08(日) 18:17:48.08 ID:qpde/qZJ
>>135
戦国時代板の方なら読めるとは思いますが、雁行と申します。

一般の方には初見で正しく読めた人はいないですね
138人間七七四年:2015/03/08(日) 18:24:22.41 ID:FPwWaZN6
謙信には雁の漢詩があるが、地域も時代もビンゴなんだな>>能登
139人間七七四年:2015/03/08(日) 18:40:07.71 ID:PB/wFq+d
「がんこう」さんで良いのかな?それなら陣形で雁行陣(がんこうじん)というのがあるからすぐ判るけど。
「雁行陣」でググってみたらテニスの陣形ばかりでてきてワロタ。
140123:2015/03/08(日) 18:51:32.06 ID:qpde/qZJ
>>139
正解です

>>138
能登も正解です

雁行の由来はどっちなんでしょうね
>>138の雁行が由来ならば謙信さんぽいですし、>>139の陣形が由来ならば鶴翼さんとか陣形が由来の方がいらっしゃるんですかね?
141人間七七四年:2015/03/08(日) 18:57:02.53 ID:ZcJkqeU1
>>140
もしかすると群馬県の雁行川からじゃないかなあ?
謙信が由来なら、越山でその辺りで軍功を立てたか、領地を与えられたか。
142123:2015/03/08(日) 19:39:12.89 ID:qpde/qZJ
>>141
雁行川は知りませんでしたが、「がんぎょう」ですので違うと思われます。また、「かりゆき」と読む雁行姓もあるのですが関係はないです。

上杉謙信に姓を賜ったらしく、家系図にもそう書かれてあったと代々伝わってはいるのですが、肝心の家系図が今現在どこにあるのかわかりません。

大きな軍功であるならば、何かしらの記録がどこかに資料等として残っている可能性もあるとは思いますが、姓を賜ったとしか伝わっておらず功の話すらないんですよね。

調べようにも>>139ばかりですし、資料館等に行ったところで解読出来ませんし。
143人間七七四年:2015/03/08(日) 20:29:22.28 ID:PB/wFq+d
>>140
あっ、イヤイヤ。「判る」と書いたのは読めるという意味です。陣形が由来とは思いません。
貰った時の逸話が伝わってないのは惜しいですね。
144人間七七四年:2015/03/08(日) 21:11:26.78 ID:ZcJkqeU1
>>142
雁行のばあい「がんこう」と「がんぎょう」は読みとしては根は同じ(おそらく表記はどちらも「ガンカウ」)なので
現代の読み方の違いにあまりこだわることも無いかとも思う。
もちろんそれが姓の由来かどうかは別として
145123:2015/03/09(月) 19:09:04.05 ID:N9XK0JCR
>>143>>144
なるほど、納得しました。

雁行の陣が由来なら戦働きにより賜ったとも考えられますが、何もわかりませんからね。

むしろ橋作りだとかの活躍で雁行川が由来ならしっくりきます。
146人間七七四年:2015/03/09(月) 23:18:59.04 ID:YBxpmIC4
「羽柴」に戻るけど、126の論は非常に
不思議だよね。
実際に信長が許可したのだし、直接の関係者に
丹羽と柴田がいるのだから、そこから採用したと
するのが普通でしょう。直接史料がないから
「理由不明」ぐらいならともかく、否定、するのは
さすがに行き過ぎじゃないだろか。
例えば秀吉の文書に理由が記載してあっても
「本心はわからない」とかなんとでも言える。

この頃の信長が伝統とか格式に厳しく
偏諱ルールにもこだわっていた、という傍証があるのなら
わかるけど、「ランク付け」だけが根拠というのは
拡大解釈すぎないだろか。

逆に、ではどうしてそんな苗字を信長が許可したか
というのを説明できるのだろか。
自分から家中での関係を悪化させてるわけなんだが。

「雅字」にした、も矛盾してるでしょう。
縁のある地名に「はしば」と発音するところがある
という証明もされてないし。

というわけで、現実にはありえない俗説が
どうして「現実にある」のか、そこの説明が
ほしいですね。
147人間七七四年:2015/03/10(火) 07:13:40.49 ID:VvPq4sS2
>>146
> 実際に信長が許可したのだし、直接の関係者に
> 丹羽と柴田がいるのだから、そこから採用したと
> するのが普通でしょう

何が普通なのかさっぱりわからん。通説を肯定したいだけの発想じゃん
148人間七七四年:2015/03/10(火) 07:17:52.86 ID:VvPq4sS2
例えば徳川家中の井原という武士の苗字は「伊井と榊原から取ったと考えるのが普通だ」とか言い出すのだろうか>>146
149人間七七四年:2015/03/10(火) 08:39:34.35 ID:J2nhTqJ6
と、通説を否定したいだけのひとが申しております

井伊な
150人間七七四年
>>148
一般例ではなくて、秀吉の改姓の話をしてるわけでしょう。
通説というのが一番普通の考え方、ということだね。
話をそらしたり、個別のアラさがしをするだけだったら
「通説否定」は話にもならないということ。

「不穏当な苗字をどうして信長が許可したか」
をまず説明してほしいのだけど、128が
何の説明にもなってないから129,131と
話がそれてしまってるし。