1 :
人間七七四年:
勢力図はかなり塗り換わってたと思いますが、天下は武田や上杉の物になったでしょうか??
それとも大勢にはそこまで影響がなかったでしょうか??
2 :
人間七七四年:2013/09/02(月) 17:34:09.97 ID:3stqpAbt
半年や1年じゃ全く影響なし
特に武田信玄は死ぬ半年前から病気で出陣遅らせるまでやってる
長篠城で療養する期間が長くなるだけで終わり
3 :
人間七七四年:2013/09/02(月) 21:16:40.08 ID:qjMRKLe4
>>2 影響なしって事はないだろ。
畿内では浅井朝倉に織田は押されまくってたし徳川もかなり窮地だったし
謙信の時も畿内で一斉離反で崩壊前夜だったじゃん
4 :
人間七七四年:2013/09/02(月) 21:34:55.96 ID:e2qvVAWn
実際ほとんどないからな
信玄が病であっても武田軍が信長といざ決戦!という態度ができれば
勝てる可能性がないとは言わんが、信玄の療養が本格化した2月頃は
武田軍の侵攻スピードは物凄く遅い。そして信玄の病の重篤化を理由に武田軍は撤退している
つまり信玄が長生きしても病気が治らない場合は史実と大して変わらない。
そして信玄の病は当時不治の病と言われた癌or結核。完治する可能性はゼロ。
長篠城で信玄が療養する間、武田軍が本格的に動くことはないし、その間に他の奴らが信長に攻撃されて終了
5 :
人間七七四年:2013/09/02(月) 21:47:26.77 ID:/bF/uEAg
信玄については
>>4に同意。
謙信についても、たとえ1年長生きしたところで、そのうち半分は関東に費やさなきゃならない
超頑張って&運が良くて越前まで来れても、行き来する時間と越冬でタイムオーバー。
6 :
人間七七四年:2013/09/02(月) 21:50:38.92 ID:0/hxh+lb
その前に信長が畿内で浅井朝倉などに崩壊させられるだろ。
もう既に4将のうち2将が欠けて戦力ガタ落ちになって天皇に必死に土下座してる状態なんだから
7 :
人間七七四年:2013/09/02(月) 21:53:25.90 ID:SJhLaqPY
まあそれより
信玄がさっさと引退して家督を譲り
謙信がきちんと後継者を決めて
いたら少しは違ったかもね
8 :
人間七七四年:2013/09/02(月) 23:02:42.48 ID:/bF/uEAg
>>6 浅井朝倉は近江に築かれた砦を突破できない。
逆に彼らの方が織田に崩壊させられてる状況。
9 :
人間七七四年:2013/09/02(月) 23:32:21.62 ID:U2bICpXq
織田鮮人がなんら具体的根拠や一次史料による裏付けも無く偏向自慰レスを繰り返してるだけでワロタw
10 :
人間七七四年:2013/09/02(月) 23:45:32.93 ID:HrEstHZB
まあ信玄が生きてるとなったら浅井朝倉ももちっと持ち堪えられるでしょ
11 :
人間七七四年:2013/09/03(火) 02:22:30.61 ID:VSCkrPty
武田信玄が生きていても長篠城で療養+武田軍は積極的に行動できない状況だから
実質信玄の病が重篤化して撤退して信濃駒場で死んだ史実と大差ない。
強いて言うなら武田軍が信濃へ向かっているか三河で留まっているかの差。
信玄が死に体だった史実で大して動けなかった武田軍が信玄の寿命を延ばしたところで
死にかけの信玄を放置して織田と決戦を挑むなんて武田軍には不可能。
信玄の病は結核or癌で治療は不可能だから信玄はずっと死に体のまま。
結果として信玄の場合は史実と大差なく進む。武田軍の撤退時期が半年1年伸びるだけ
12 :
人間七七四年:2013/09/03(火) 05:56:35.55 ID:mzwqu2Y1
武田が常に織田をけん制し続けられればそうなるが、半年から1年じゃあな。
謙信と敵対してる以上。
13 :
人間七七四年:2013/09/03(火) 13:06:52.81 ID:TQQyUHFr
織田厨のデタラメ「信玄が毎年戦をしまくって財政破綻して
兵糧はなくなり長期遠征は不可能だし民衆は怨嗟した」
1570年1月の駿河西部制圧後の信玄は
内政に集中していて
1572年10月の西上作戦まで
大規模出兵は一切やってないから、
それ以前の例年の頻繁な出兵は無し。
だから兵糧にはまったく心配ない。
むしろ信長は金も米も火薬もなく兵も1万しか集まらなかった。
織田厨の話の誘導パターン
「どうしても野田城で苦戦してたから三河制圧なんて出来ないし
そこからさらに尾張へいくなんて無理w」
実際は 鴨川氏「信玄が三河方面に出てきたのは
信長を誘い出して殲滅するため。
その一方で別働隊に岐阜を突かせるつもりだっただろう
もし出てこないなら別働隊と本隊が合流して岐阜を攻めただろう」
森田氏「信濃と美濃国境の神坂峠の雪解けは当時の暦だと
3月下旬からなので、信玄は雪解け待ちをしていた。」
朝倉などへの手紙でも信長を敵として戦っているとか
来春に美濃攻撃すると信玄が書いている上に、
3/6付けで信長が東美濃にやってきたので三河や遠江は別人に任せて
秋山隊は信長を追い払えと先陣を命じている。
その後の情勢を見ると明らかに信長が東美濃で大敗しているとしか思えないw
捏造軍記信長公記は柴田と明智らが石山と堅田砦を破り西近江を平定すると書いてるが完全にデタラメ。
ちなみに謙信→長景連への3/19書状には
(菅屋・林・佐々・松井と供に長連竜(長続連の子)が織田配下として書かれてる)
信長が謙信に比叡山再興を約束してる土下座モードで謙信も納得したとか書いてるwww
(4/24謙信→関東の小田守治で氏政を足蹴倒すぞと報せていて、武田攻めする気なしwww
おそらく3/5の遊足庵への謙信書状で葦名と佐竹が和議になることと葦名が北条へ手切れ
佐竹・宇都宮連合が氏政を29日夜に多功原で大破し数千人を討ち取り、
岩槻へ氏政がたった一騎で逃げ入った報が影響してる。
謙信は信玄と氏康同陣の時にたびたび俺が乗り出してきても決戦せずに退散するくせにと愚痴ってる)
朝倉義景が一乗谷城から越前府中まで3/11には出陣してきたことを報じている。
また濃州・信州境を用心しろとも書いていて、信玄の美濃侵攻が近いことがわかる。
3/7信長→幽斎書状にも長与一(長景連)が味方だと書いてる。
元亀4年時点ですでに明らかに七尾城は織田方なのだがwww
14 :
人間七七四年:2013/09/03(火) 14:05:28.02 ID:gBmgysVd
朝敵認定された織田信長1万が武田信玄6万に踏み潰されて終了でしょ。
15 :
人間七七四年:2013/09/03(火) 15:55:50.38 ID:m7H/G+fp
無理だねー。
16 :
人間七七四年:2013/09/03(火) 17:41:41.08 ID:NrUuW0AA
まあ信玄は無理だな
朝倉の寝返りは起きないけど、それでも攻勢に出れる状況じゃないな浅井朝倉は
謙信は結局関東方面に行っちゃいそうだし小田原は抜けないだろうしやっぱりあんま変わらんかもな
17 :
人間七七四年:2013/09/03(火) 17:51:32.00 ID:TQQyUHFr
貫高に応じた兵数動員を賦課してない織田軍
しかも織田軍全体の統一された軍規や軍事編成や武器比率が存在しない。
兵站とそれを支える奉行が存在しない。
上杉も天正3年軍役帳があるから兵・槍・手明・鉄砲・大小旗・馬の比率がちゃんとわかる。
織田とかデタラメで全然わからん(末期の明智はわかる)
利家や信盛とか蓄財に必死で兵をあまり雇わなかったようで、
足らん分だけ国人や与力などをコキ使って軍功上げてたようだし。
長篠直後ですら家康が駿州へ軍事行動をしていることに触れた後に
織田軍は兵糧がまだできてない間は軍を出せないので
(6月の時点では米が尽きていて収穫期の)来たる秋まで動けないと書いている。
織田軍は兵農分離どころか、思いっきり農業スケジュールに左右されている
徳川軍よりも遥かに後進的で古い軍隊組織体制なのがわかる。
武田軍は輪番制や村請、印判衆がいるので軍役衆は農業の暦に合わせて帰る必要が無い
北条は天正9年7月に前年に氏政が家督を氏直に譲渡したこともあり
軍役に関して記された改定着到之事を施行して
指物や槍の寸法や装備や馬上具足に至るまで、
それまでの基準を改定し、軍役を課す基本台帳たる
着到帳も氏政から正式に渡されてる。
また翌月には段銭増分を設定し村郷の代官に納入を命じてる。
織田にはこんな内治政策などまったくない。
信玄が旗本を対象に陣立書を作成していたのは 軍事関係者の間では高く評価されているが
中央で言えば、小牧長久手での秀吉が一番最初。
陣立書は今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
いい加減丸投げ統治の信長には最後まで考えつくことはできなかった。
大和一国支配者の興福寺
1580年の織田による差出検地 興福寺大乗院跡750石 興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石
かんぜんにナメきってる報告っぷりw
秀吉の文禄検地
興福寺春日社は2万1000石とされた。信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの
石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。
18 :
人間七七四年:2013/09/03(火) 18:08:24.46 ID:TQQyUHFr
岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて
城主にしたことで信玄は怒っていた。それで11月には岩村城が武田に取り返され、11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
松永久秀の元から土岐頼芸(妻は六角義賢姉妹)も美濃に帰国したから武田軍が来たら土岐郡も反織田で呼応挙兵するのは間違いないよ。
郡上八幡の遠藤に岐阜にほど近い鉈尾城の修築をさせてるぜって義景に信玄が11/19に手紙出してるし
(信長を敵として戦ってるとも書いてる)10/3に甲府を出撃し信長と開戦するや
早くも完全に岐阜城を射程圏内に収めてる。12/12には岩村に兵を移動させたから来春は美濃攻めるよと宣言し、
12/22に三方ヶ原で織田徳川連合軍を大敗させ12/28には義景に信長滅亡の時がやってきたと信玄は書いてるし、
1/11には義昭に信長を絶対に許してはならないと信玄は決断を促してる。完全に信玄が情勢を操ってる。
遠山氏は一向宗の美濃安養寺や飛騨照蓮寺の影響を受け、西美濃は大垣を中心に湖北の湯次誓願寺や福勝寺の影響下にあった。
加治田(富加町)・津保(関市)・鉈尾(美濃市)を帰属させた信玄と伊勢門徒による岐阜城までわずか三里に新要害建設し日根野を入れたりと
美濃織田領国は崩壊前夜にあった。また信長方の反撃に対して3/6に信玄が秋山虎繁に東美濃へ出陣命令を下し
当代記によると信長の息子の御坊丸を甲府へ送ったとする。そしてこの時期において松原信之氏が著書で義景本人の元亀4年の出撃を
3/11で敦賀までやってきていて、5/10に一乗谷へ帰国したと書いてるから朝倉先陣は3月中に小谷まできて普請を始めてるはず。
同時に近江甲賀では武田信虎が義昭の命を奉じて軍勢を募り始めていた。
8/18三好義継と本願寺宗徒が信長配下の細川昭元が守る摂津中島城を攻める。
8/28松永久秀父子が上洛を目指し山城木津を攻める。
9月是月に信長が義昭を批判し異見十七箇条と出す。
朝倉が丁野山に要害を築くのに信長は邪魔することもできず城が完成する(総見記)
11月に信長は虎御前山砦から美濃へ逃走したので12月3日に朝倉は越前へ引く(年代記抄節)
ちなみに朝倉記には虎御前山砦に火をかけたと記されている。
12/20義継・久秀ら再度、昭元の中島城を攻める。
元亀4年(天正元年)
2/26信長が義昭に和睦を乞うた。
2/27義継、久秀らがまたまた昭元攻め、ついに昭元が堺に敗走(尋憲記)
3/6義昭が義継と久秀を赦し盟を結んだことを受けて
久秀が京に赴かんとし河内津田に進出(日本耶蘇会年報)
3/7義昭、信長の質子を斥け、之と絶つ(尋憲記)
3/11荒木村重、和田惟長の臣高山重友を誘ひ、惟長を其居城摂津高槻城に攻む、
惟長は山城伏見に敗走する(兼見卿記)
ちなみに3月の細川家記によると義昭が信長追討の御教書の下した先に謙信も含まれる。
19 :
人間七七四年:2013/09/03(火) 18:10:57.16 ID:TQQyUHFr
2/15久秀や岩倉の山本対馬、山中の磯貝、和邇の金蔵坊、勢多の山岡、田中の渡邊らが10日付で帰参。
静原に山本城を築いて織田に反抗する。
2/23筒井城の順慶が春日社参詣に3000人を引き連れてきたため
松永久通が警戒し小規模な衝突もあったようだ。
大神楽や神馬を奉納して成身院に宿泊後に筒井へ帰る。
2/23信長→細川宛で信長自身が信玄が去る17日に野田表から撤退したので、志賀の一揆蜂起について
蜂屋・柴田・丹羽を出征させ湖を渡らせる。成敗に手間がかかれば世間聞合なので
自分も近日中に佐和山へ出て上洛し畿内を平均すると述べている。
すでに湖経由でないと上撃烽ナきないほど近江戦線は崩壊してるのがわかる。
2/26義昭に同調し三井寺の光浄院暹慶ら西近江で挙兵し
柴田と明智が彼らの石山と堅田砦を破り西近江を平定すると
信長公記録は書くが、慈敬寺文書の顕如書状によると
2/14付けで慈敬寺が伊藤城を攻略し其の表の面々は此方一味であり
堅田まで属理運、還住由になったとして黄金三十両を進呈している。
小林吉長も2/17付けで堅田村の郷士達への書状で慈敬寺との入魂専要之旨と述べている。
2/27には顕如→信玄宛てで江州西路事、
此方當門家中慈敬寺以調略属本意候と書いている。
2/19の義昭書状でも山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯貝新右衛門らまで
悉く取除、明智光秀は儀無正躰候、近邊大略属本意候と書いていて
(2/13における木戸表(大津市木戸)御働として光秀が革島忠宜へ感状を出してる)
近衛家文書の2/16長政→伊勢七郎左衛門宛てでも信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。
長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べ
2/24に革島宛てに光秀が明日から今堅田を攻めると書き
三月朔日で柴田が革島宛てに今堅田成敗申し付けと報告してる。
やはり明智軍(光秀は配下の18将を供養してる)は
戦力としては崩壊しているようで、主力は柴田が担っているようだ。
3/7の信長は伊丹により摂津において中島城の細川が堺へ敗走に続き
賀嶋城まで落ちて絶言語と動揺している。
3/18に義景が木戸城主佐野十乗坊秀方へ早船で加勢した
近江高島郡の多胡宗右衛門を褒めていて
3/13には下間頼充が馬場宛で今堅田に篭もっていた馬場親子が敵が取詰にきた時に一戦し粉骨したのを慈敬寺から
報告を受けたと戦功を感謝しているし
3/21には義景→馬場宛に敵が相働くも十乗坊に立て篭もり粉骨したのを賞している。
佐左馬要害と同等の価値あると言っている。
4/2には長政も馬場に木戸籠城を褒め称えていて、相次いで大勝利を褒めている。
この状況から見るに柴田ら織田軍は今堅田は何とか攻め落とせた可能性はあるが、
堅田村を一向宗側が取り込んでいるため無力化にはほど遠く、
しかも今堅田に続く十乗坊攻めでは逆に織田軍は大敗しているのがわかる。
また手間取ると外聞が悪いと気にするほど劣勢の信長は
信玄が帰ったし信長自身が出馬すると言いながらまったく出馬できないありさま。
20 :
人間七七四年:2013/09/03(火) 18:17:16.95 ID:TQQyUHFr
近衛家文書の2/16長政→伊勢七郎左衛門宛てでも信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。
長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べ
山岡家の領地は栗太郡と志賀領であるが、すでに志賀郡が失われているのか、
山岡家が反織田側に内通していたのがわかる。
信長公記は山岡景隆が山岡家の惣領で瀬田を支配していたように捏造してるけど、
実際は元亀3年7/18の山岡景祐(景友・暹慶)→飯川・曽我ら幕府側近宛てで
将軍が甲州へ送る使者の真下入道殿が此渡乗船之儀の仰せ付けのこと、
畏まって其の意を得候、只今に限らず諸公・御衆・其外、下々に至るまで?と書いていて
明らかに瀬田の支配は山岡景祐なんだよね。 公記では景隆が瀬田を維持してたなどと捏造してるのが笑える。
元亀4年3/7 信長→幽斎
鉄砲・玉薬・兵糧・金が足らないと嘆いていたり、
畿内諸侍の覚悟が(味方かどうか)見分けられない体で通路も同じ状況だと
完全に畿内の諸将が離反しまくりで泣き言を言っている信長www
元亀4年5/24 信長→池田恒興
恒興とその与力に年貢滞納と軍役怠惰を咎める書状www
しかもそんな離反寸前の池田を咎めたことを後悔した信長は
6/18に恒興の母に対して丹羽郡の一部を加増してるほど家臣に対して土下座外交っぷりw
しかもこれ超レアな天下布武の印まで押してあるしwwwwwwwwww天下布武で家臣へ土下座書状wwww
信長は援軍として西に兵力派兵する余裕がまったく無かったから、勝頼は非常に有利な状況だった。
丹波の赤井直正も勝頼に書状を出してたし、
赤井忠家や内藤如安や宇津頼重らが反織田で丹波も毛利や武田に協調してる。これ信玄の大きな遺産だな。
5月に長篠で武田が無謀な決戦で大敗した為に、
信長は余裕が生まれてしまい、8月越前一向衆を壊滅させてから、光秀に丹波侵攻を開始させてる。
まぁ波多野ら丹波衆の反撃で光秀は大敗したが。
実際、天正三年3/4には芸但和与が正式に発足したことに対する織田→小早川への返信で、
信長は但馬はかねてから申し入れているように織田分国であることを承知してるはずだ。
近年はずっと山名祐豊から連絡が来なくなったのは無念だが(信長が上洛した時に軍を播磨や但馬へ派兵して攻略していた)
出雲や伯耆の安定の為に、尼子のいる但馬出兵がどうしても必要なら仕方が無いと
背後で尼子を支援してる信長もしぶしぶ毛利の但馬での勝手な行動を認めてる。
それだけ信長には余裕が無かったから露骨に毛利に開戦したく無かった。信長は毛利に対して内心激怒してたが土下座外交を続けていた。
すでに天正元年12月までに元春が信玄西上のドサクサに丹波国衆と呼応して織田分国但馬を平定して出雲に帰国しており、
毛利は朝山日乗や安国寺らを織田に派遣し、秀吉を窓口に信長に媚びて敵対行動の誤魔化しをしてた。
うまく信長との間を誤魔化せたのは秀吉と朝山のおかげだと安国寺が12/12に書状を出してる。
以前の但馬窓口は志賀の陣で討死した坂井政尚だった(山名祐豊が帰国し交代するまで但馬此隅山城を占領して但馬統治していた。
朝倉軍が坂井を討死させて織田但馬窓口消失の大金星を挙げる)
天正4年5月までに尼子残党を京へ逃亡させ毛利は山陰再平定に成功してる。
その一方で山陽道でも織田に内応した備中の三村を毛利は天正3年5月までに平定に成功。
21 :
人間七七四年:2013/09/03(火) 18:25:22.05 ID:TQQyUHFr
元亀3年11/27の山縣書状に
朝倉軍が織田軍を大破したし尾張・美濃衆が数多討死って書いてある
織田が朝倉に大敗して近江勢が寝返ったと書かれている。 嘘長公記はこれを隠蔽。
この大敗で信長は岐阜へ引きこもり震えていた。
で、この書状の最後に日野蒲生が朝倉に寝返ったとあり、手紙の内容と合わせて
織田の敗北、武田の躍進を山県が強調している。
元亀3年10/5の朝倉景亮書状(書状には「朝倉」の文字がかき消されている)
先日以◯◯◯◯ 入候之処、御懇之御報、
殊御一書披見本望候、其已後重而可申入之処ニ、
延引非本意ニ候、仍其表如何ニ御座候哉、承度候、乍御六借敷、南方辺之儀、示預候者、
畏可存候、委細林権介可申候之条、不能詳候、恐々謹言
蒲生下野入道殿御陣所
比叡山座主覚恕法親王は正親町天皇の弟で延暦寺炎上後は洛中曼殊院や禁中に滞在して
比叡山再興を掲げる信玄の権僧正任官の斡旋活動をして信玄も僧正号宣下のお礼状を元亀3年10/3に出している。
信長追討綸旨発給の衝撃・・・・本人が関わる綸旨・宣旨を纏めていた勧修寺晴豊の旧蔵記録には
蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→四辻大納言李遠宛て元亀3年9/20付書状
今度叡山炎上のこと、非常に嘆かわしく思っていたところ、法性院僧正が再び叡山を隆盛させるべく
入洛を計画しているとのことを聞き及びました。
叡山復興によって朝家の盛興するべく忠勤を励むとのこと。使者として直接談じ合ってくるように。
蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→恵林寺(武田氏菩提寺)・長禅寺(信玄生母墓所)宛て元亀3年9/20付書状
あなたたちの寺を天皇の勅願所に決めましたので、宜しく国家安全と長久を祈り奉ってください。
これにより天皇は信長に与えた決勝綸旨を破棄し、将軍義昭に呼応する信玄の官軍認定をしたのである。
このことで物資と人の両面で困窮し追い詰められた朝敵信長の自暴自棄の報復が
御所まで類炎するのも辞さない上京焼き討ちによる公家・寺社への乱暴狼藉である。
謙信→長景連宛て元亀4年3/19付け書状を読むと
謙信も信長へ叡山再興をするように約束すれば信玄の大義名分が立たなくなると諭し
朝敵信長がそれを承諾しているのがわかるように、朝敵信長は比叡山の報復圧力に土下座しているのがわかる。
このように官軍武田軍が威風堂々と徳川・織田連合軍を瞬殺して上洛を目指していたのがわかる。
元亀4年1/11に僧正法性院信玄→将軍足利義昭側近上野中務大夫(秀政)宛てで
朝敵信長追討を受けた信玄は
義兵を起こし大軍が靡かせ発向し家康の大半の要害を破却したと宣言し、
信長・家康ら逆党を誅伐し天下を静謐にすると言上してる。
そして叡山での乱逆や、他者を軽んじ公家や寺社の人々を侮り、放言の数々
洛中洛外を徘徊しみだりに徳分の課役をして砂金財宝を横領しまくり、
朝倉と信長を和睦させたかたじけない天皇の勅命とそれに類する複数の起請文を捧げたのを
破って延暦寺を壊滅させるなど悪逆無道を為すなど5か条に渡って
信長の大罪を弾劾し讒巨乱国を救うと誓っている。
その檄文を将軍から入手した天皇は日本を救う救世主に感動して、
信玄の大義名分を筆写し醍醐寺理性院に納めて祈願したほど。
いかに信長が悪逆無道だったかがわかる。
醍醐寺理性院に残る天皇の写の日付は1/11だが、甲陽軍鑑では1/7とされている。
実際に書かれたのは1/7で出されたのが1/11なのかも知れない。
22 :
人間七七四年:2013/09/03(火) 18:27:43.60 ID:TQQyUHFr
謙信が生きていたら下記の状況からして上洛成功は間違いないな。
信長って天皇がいなかったら三回は反織田連合に捕縛されて自決させられてたよな。
志賀の陣・義昭二条城籠城。そして下記の荒木籠城。
天正6年2月東播磨を中心として実高43万石とされる別所氏が信長へ謀反。
美嚢郡淡河城・加東郡金鑵山城・加古郡高砂城・印南郡中道寺山城・明石郡枦谷城・明石郡林城・
飾西郡英賀城・加古郡野口城・印南郡志方城・印南郡神吉城など播磨一円蜂起。御着城主の小寺氏などもこれに呼応の構えを取る。
まさに謙信の上洛戦を待つばかり。だが3月に謙信死去・・・さらに光秀を粉砕した丹波の赤鬼赤井直正まで死去。赤井兄弟は吉川元春に太刀や馬を贈り、上洛と急援を要望していた。
謙信死すとの確定情報が届くと上杉へ備えていた信忠の大軍が開放され播磨へ移動可能になる。上月城攻略後に義昭と隆景が毛利全兵力を播磨に集結させて織田を播磨から追い出し陸路で摂津の本願寺を救おうと考えていたが
7月元就死後に隆景と対立するようになった元春が但馬へ移動しての山陰再平定を主張して出発してしまった。10月に荒木村重が本願寺と毛利に人質を出して挙兵してることも考えれば
小寺政職と協調してる東播磨別所の三木城を攻撃中の織田を毛利全軍で攻め寄せて雌雄を決した方が良かった。義昭側の池田知正の失脚により荒木の摂津国での指導が確立した矢先に荒木謀反で
有岡城・尼崎城・大和田城・吹田城・高槻城・茨木城・多田城・能勢城・三田城・花隈城ら対本願寺包囲のために固められた諸城が織田に対して摂津一円一斉挙兵。摂津の大半が再び義昭側へひっくり返ったため織田の別所包囲軍が孤立するどころか
対赤井・波多野の丹波戦線も再度崩壊し本願寺と相手をすることすら不可能に陥り、またしても戦略の大破綻を招いてしまい
相次いで信長家臣団を派遣し荒木の再考を促す説得や宣教師を脅迫しての調略をする。
がもうまくいかず信長は荒木を説得する時間を稼ぐために天皇に土下座した信長は11/4に正親町天皇の勅命を出させて
輝元と本願寺に信長と和睦するように伝えさせるほど危機的状況に追い込まれていた。
信長は天皇を使って時間を稼いでるうちに荒木配下の高山右近や中川清秀を降伏させる事に成功し
高槻城・茨木城・大和田城・能勢城・三田城を織田側へ寝返らせ荒木を孤立させるのに成功した。
これで最大のチャンスが消えて一転して毛利が圧されていく。謙信が生きていたら、勝頼も健在になるし
信忠を秀吉への援軍に派兵できないから毛利の攻勢により播磨戦線が崩壊しその影響で本願寺のいる摂津(荒木時限爆弾もある)明智がボロ負けした丹波戦線まで(丹後もセットで爆発)
紀伊・河内・和泉・伊賀・伊勢南部・大和南部このあたり一円も高野山を始めとして反織田だし(本能寺の変まで高野山は織田軍を山内侵入を許さなかった)再度崩壊するから織田は詰むよ。
23 :
人間七七四年:2013/09/03(火) 18:45:13.40 ID:TQQyUHFr
天正2年正月の公記 朝倉義景や浅井長政らのキンピカ骸骨を酒の肴に宴会した。
史実の信長は? 義昭→六角義賢書状 信長が帰ってきて下さいとか頼んできたけど拒否ってやったわw
そして越前が一向宗に奪われ、 勝頼に明智城を奪われ 織田の攻勢期は半年持たず…
さらに公記4月に石山本願寺再挙兵につづいて、
石部城を雨に紛れて夜に六角義賢が逃れたと書いてるが義賢書状では 信楽表で大勝利し感状まで出してる。
禁裏被迎出により和平して大坂を退出した顕如を無視して籠城をした教如。
4/16然共 新御門跡様 御寺内御堅固ニ御拘被成候間 各可御心安候
5/2御門主(顕如)にハ雑賀へ御退出之事候 然者予(蓮如)当寺に残り 可相持思立如此候
天正8年9/11勧修寺晴豊らが教如の説得に成功し、
9/23に教如も然処内輪逆意之賊 しかれども内輪に逆意はこれ賊徒となってしまうとして
大坂を明け渡す決意をしてるのを公記は隠蔽。
家康を助けると言う同盟の信義を裏切ってまで 武田との戦いから逃げ回り、江甲同盟詐欺を繰り返していた。
また信長は北条からの帰属の申し入れを受けても それでもなお、武田との戦いを恐れていた。
しかも石山本願寺が信長の泣きを入れた天皇からのたびたびの勅命を恐れ多いと感じ
信長から自筆血判状を顕如が要求し、さらに教如も要求し、そんな無理難題にも
切羽詰って困窮した信長は血判状を書いてまで土下座外交したので、本願寺も勅命をたびたび拒否するのは恐れ多いし、
信長への無理難題要求を、信長が怒って拒否したら、それを口実に朝廷に信長との講和無理と言おうにも
すべての要求を呑み続け、断る口実がなく顕如が折れ、教如も血判状をもらうことで
石山本願寺戦も終結したのに、なおも武田との戦いを避けまくっていたのが信長。
甲斐、越後之弓矢天下一之軍士之由風聞と織田軍の大和衆が恐れていたので
戦国最強だったのは間違いないところで
その武遺武徳ゆえに江戸時代には将軍家の軍法として甲州流
それに対して御三家や福井藩などは越後流を研鑽してた。
しかし織田流なんてもんは一切生まれなかったのは
それを唱えたところで誰も学ぼうなんて気持ちが起きなかったからだろう。
織田軍なんて、惣村ですら一揆を組んで、織田に反抗していたほどザコで
誰も恐れていた記述が存在しないしな。
そもそも長篠の戦いで武田が弱過ぎるなら、そのまま武田領へ侵攻すりゃあいいけど
謙信に武田を攻めない理由を追求されて、いいわけ三昧の態度をだして
あまりのヘタレぶりに、謙信から織田とは絶交!とか言われて
能登や加賀を奪われたヘタレ信長だし
近甲同盟交渉を長引かせて、ひたすら武田の鋭鋒から逃げ回ってただけだし。
24 :
人間七七四年:2013/09/03(火) 22:26:01.98 ID:qKwVx6Pw
信長なんて比叡山で屍姦され、
石山本願寺で死体を八つ裂きにされ、
紀州で塩漬け朝敵標本にされてたな。
25 :
人間七七四年:2013/09/03(火) 22:52:54.76 ID:VSCkrPty
まるでチョンみたいな発想だなw
26 :
人間七七四年:2013/09/04(水) 00:02:52.29 ID:A6xBhsfW
>>17-23 つまり信長は信玄・謙信に滅ぼされるのは確実だったって事?
27 :
人間七七四年:2013/09/04(水) 01:37:51.19 ID:g4uuE1bU
>>26 逆逆。
多少長生きしたところで信玄も謙信も信長には勝てないって事。
28 :
人間七七四年:2013/09/04(水) 03:05:05.77 ID:N9flRRH0
29 :
人間七七四年:2013/09/04(水) 03:12:22.23 ID:OG3KWTty
半年や一年そこらの延長では時間が無さ過ぎだよ
謙信玄が老害おこさず八十まで武士やったなら天下とかもあり得るかしれんがな…
まあ史実と変わらず武田も上杉も局地的な戦いにてたびたび勝ち織田を苦しめるが最後はジリジリと防戦になってくるパターンが想像できる
30 :
人間七七四年:2013/09/04(水) 07:55:12.41 ID:EsXhaH8A
織田厨は具体的な根拠や理由を一切書かずにいつも願望を単発ID自演で書き込む馬鹿低脳です。
31 :
人間七七四年:2013/09/04(水) 11:50:27.84 ID:DvZ1Yro9
三方ヶ原後進軍したとしたら多分長篠が早まったか、二度目の桶狭間が起きるだけだったんじゃないかな
援兵の少なさと言いわざと引きずり込もうとしてるようにしか見えん
手取川にしても同様
手前で引き返した信玄謙信は流石としか言いようがない
まぁどのみち決戦しなかったらその場合経済的に締め上げられて音を上げる織田側勝ち確パターンに入るだけなんだけどね
32 :
人間七七四年:2013/09/04(水) 12:31:43.08 ID:FDmJH7w1
6万の信玄と1万でしかも誰が味方で誰が敵かも分からないとパニくってる信長軍じゃ
最初から勝負にならないな。
軍制による質で考えても織田軍は武田や上杉とは明らかに雲泥の差があるし。
内治でも織田は常に不安定で背後を気にしないとならないほどいい加減統治だし。
33 :
人間七七四年:2013/09/04(水) 12:58:12.39 ID:TxGSDcYg
信玄が病死しなかったら信長を打ち取るまで戦は続き、織田領獲得した武田の国力は抜きん出たものになるが、誰も天下統一しないことになるだろうね
34 :
人間七七四年:2013/09/04(水) 13:18:52.67 ID:DvZ1Yro9
武田の経済力じゃ60000もの軍勢を維持するのは瞬間的でも不可能。
35 :
人間七七四年:2013/09/04(水) 14:13:09.56 ID:XIqvIe+v
信長→尾張南西部を伊勢長島一揆に奪われ、
美濃北部と東部は信玄の調略で内応され、
近江は街道すら寸断されまくり、
実質、80万石前後まで低下。
兵糧足らず自暴自棄のあまり京で放火虐殺略奪をやり始めキチガイ化。
信玄→120万石ぐらいで朝敵信長征伐戦を開始。
一年間もの間、戦をせず内政に力を入れており家中は充実。
36 :
人間七七四年:2013/09/04(水) 15:39:50.27 ID:FDmJH7w1
3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。
家康の織田裏切り行為
家康の領国の三河からは、盛んに石山本願寺へ兵糧や兵員の輸送が
円滑に行われており天正6年になってさえ、
織田軍が本願寺に呼応した荒木によって大敗し12/12尾張知多郡の水野忠分が敗死するなどしてる裏で
10/13に上宮寺(岡崎市)や本證寺(安城市)や勝鬘寺(岡崎市)へ
石山本願寺が書状を出して支援要請してる。
10/28にも三河の浄妙寺・慈光寺・無量寿寺・願照寺にも支援要請してる。
家康は一向宗の叛乱を恐れ石山支援を事実上容認していたのがわかる。
謙信が死んだことで御館の乱が発生し
信長が北陸戦線防衛に必死になることなく
勝頼の遠江侵攻への支援が可能になる余裕が出てくると
9月に信康の岡崎へ三河国衆が出仕するのを禁止して
万が一の時の武田との交渉チャンネルである
信康の排除へ家康が動き出す。
そして家康と北条の同盟が成立する天正7年9月に切腹。
それと同時に徳川領での石山本願寺支援も消えていく。
37 :
人間七七四年:2013/09/04(水) 21:23:16.73 ID:wb/+In5Y
>>34 維持するも何もまず総指揮する信玄がくたばりかけている
病床で長々と城の中で寝込んでいる信玄に軍を指揮する力はない
じゃあ誰かが代わりに総指揮するかと言うとそういうこともできない(史実でもやってない)
つまり60000の軍勢がいても誰も動かす奴がいないから三河で観光や宴会でもするしかない。
仮に武田軍が20万近くいて、織田軍がたった1000人でも武田軍は織田軍に勝てない
指揮する奴がいないのに戦争も糞もない
38 :
人間七七四年:2013/09/04(水) 21:32:30.82 ID:wb/+In5Y
>>33 それすら不可能だろう
武田軍は信玄が長篠で療養を始めてから、4月に信玄が信濃駒場で病死するまで
軍事行動らしい軍事行動が一切できていない。小石暢太郎文書によると4月6日の段階ですら
武田は遠江三河国境に存在して家康とチンタラ対陣していることが書かれている。
つまり信玄が病気で療養している間武田軍は誰1人兵を動かして戦争することができない状況
そして信玄の病気は不治の病だから信玄は死ぬまで病床のまま。
39 :
人間七七四年:2013/09/04(水) 21:35:39.25 ID:a2nDp8Eb
スレタイ黙殺で荒らし行為をするなよ…
40 :
人間七七四年:2013/09/04(水) 22:14:04.08 ID:DvZ1Yro9
>>37 一応スレタイに沿って1年ほど多少健康で長生きを前提にしてるからね
仮にそうだとしても武田の貧弱な経済力じゃたとえ60000もの軍勢があっても食わすことは不可能って事よ
つまり60000なんてのは妄想の産物だったと言いたかっただけなんでまぁあんま気にすんな
41 :
人間七七四年:2013/09/04(水) 22:47:15.68 ID:rt0lTCra
42 :
人間七七四年:2013/09/04(水) 23:03:11.24 ID:wb/+In5Y
だがチョンがすぐ自演自演言い出すのは自分がやってることだからなんだろうなw
>>40 いや、スレタイは「半年〜1年ほど長生きしたら」だから
どういう状況で長生きしたかとは明記されていない。
武田信玄の場合、死の半年以上前から慢性的に病にかかっており、
徳川攻めへの出陣も病によって1ヶ月遅らせている。
上杉謙信の場合は、倒れてから数日足らずで逝去しており、死因は脳溢血であるという見方から
「長生きしていたら」との仮定では、健康的な生活を送れるかもしれないと言う予想が立てられるが、
武田信玄の場合は逝去するまで長い間病によって身体を蝕まれているため、例え信玄が長生きしても健康的な生活が送れるとは言い難いと思うんだがね。
まあいずれにせよ60000だろうが200000だろうが、武田軍が織田軍に万が一にも勝因がないことはわかってくれていると思うけど
43 :
人間七七四年:2013/09/05(木) 08:06:47.83 ID:2TCDgwGa
>>7に同意かな。
後継者をしっかり決めてその体制を作ってやるべきだしょ。
信玄がー、謙信がー、って希望を持ちたいのはわかるが、この2人のスピード
からすれば1年程度じゃ足りない。
特に信玄の場合には、
>>42の言う通りで、「健康であったら」がプラスされる。
44 :
人間七七四年:2013/09/05(木) 08:45:40.08 ID:O1ZjnJE6
織田厨単発ID自演放送をお楽しみくださいw
45 :
人間七七四年:2013/09/05(木) 09:12:57.96 ID:/8ZyOquf
残念だか越後と甲斐の田舎侍に天下をとれる余地はなく、
中央政権の統一時が少し遅れるかどうかだ。
信玄の場合、信長と手切れを選択した時点で、もう一族の命運は決したわけだし。何も変わらん。
むしろ土地制度の面などから、後北条の方を話題にした方がよさそうな…
家臣の離反に悩んで逃げ出す謙信をなぜ英雄扱いするのか、理解に苦しむ。
46 :
人間七七四年:2013/09/05(木) 09:46:46.88 ID:O1ZjnJE6
前提ルールを変える。
反論を恐れ具体的な書き込みはせず抽象的偏向レスで知識説得ではなく、自演で多数派を装い何となく印象づけ誘導する。
知識がないので一次史料に基づかず悪口中傷に終始する。
これが織田厨の習性だな。
47 :
人間七七四年:2013/09/05(木) 11:07:36.60 ID:0owPLiFG
>>42 >>武田信玄の場合、死の半年以上前から慢性的に病にかかっており
鴨川氏が家康に一撃を加えた後に東美濃の別働隊と
信玄が合流して岐阜を攻めて信長を滅ぼせたかも知れないと主張しているが、
森田善明も新著で鴨川氏の意見に賛同して
信玄が朝倉や浅井に5月を目標スケジュールに据えていたのは
飯田から東山道を使って東美濃へ進出する際に通過する
神坂峠の雪解けを考慮していたからだと主張してるな。
信玄は野田城攻略完了して信濃へ進軍した時の」2/16には
まだ花押も書けるほど元気で、その後に急に病状悪化し急死したと。
(信玄は面倒な時は朱印で誤魔化していた)
そして信玄が死去した時期がちょうど雪解けして進軍可能な時期になっていたと。
(永禄の暦だと雪解け3月下旬から4月上旬)
だから信玄は「信長滅亡の時がきた」と自信を漲らせていたと主張してる。
(信玄が病を押して出陣したなどと書いてるのは甲陽軍鑑のネタで、
病が重くなってきた信玄が三河から引き上げて甲斐に戻るも、病が小康状態になったので
信長を倒すために美濃岩村へやってきて、織田軍1万を粉砕するも病が悪化し死んだと書いてる)
むしろ三好長慶が鬱病が死因とかいろいろ言われているが、まったく根拠なく、
長江正一氏は、長慶死去の3年前の永禄4年ごろから病だったのではと書いているほど。
>>43 後継を決めても信忠みたいに病気で死ぬのではなく、
父と一緒に死ぬ選択をした馬鹿を後継にしちゃ意味ないだろ。
>>45 >>むしろ土地制度の面などから、後北条の方を話題にした方がよさそうな…
君のレスは突っ込みどころ満載なのは上記の素晴らしい意見を評価して不問にしよう。
よし、さぁ語ってくれ。期待してる。
48 :
人間七七四年:2013/09/05(木) 12:43:25.26 ID:2TCDgwGa
>>47 その通りだよね。
だから体制を作ってやるべきだと書いたんだ
いつ死ぬなんて解らないしさ、どこまで意味があるかは後世の人しかわから
ないけど、それでもしないよりは良い。
今の時代だって、金貯めたり、生命保険は言ったり、自分が死んでも子供が
大丈夫なように図るでしょ。
特にこのスレは1年長生きしたらだしね。
49 :
人間七七四年:2013/09/05(木) 13:09:50.33 ID:G+UQVSs7
後継者を立てることの優劣は決め難いな。
足利義持は死ぬ間際に、後継は誰にする?と再三聞かれても勝手に決めてくれと言って突っぱねてるからね。
理由は俺がいくら後継指名したってお前たち重臣が従う気持ちが無ければ意味ないだろ!
それよりはお前たちが支えたい者を相談して決めて擁立しろや!って言ってたし、
足利義政の後継を巡って応仁の乱が始まったのも義政が指名拒否したから、重臣らがそれぞれの次期将軍を擁立しただけだしな。
結局、織田重臣は織田当主を否定し、
上杉重臣は景勝を後継に決めた。
国人重臣たちの意向なんだよ結局。
浅間山噴火が武田滅亡の怪異と噂が流れ自壊した武田重臣たちは選択するいとまがなく可哀想だったけどな。
50 :
人間七七四年:2013/09/05(木) 13:51:16.05 ID:dGPkouPr
>>42 その辺はよーわかっとるよ
だがチョンがしょっちゅう60000とか妄想言ってるんでそっちを否定しただけだし
51 :
人間七七四年:2013/09/05(木) 16:29:00.81 ID:0owPLiFG
>>50 >>17 内政軍事動員などの組織論で考えても
内政いい加減で、兵站も整備してないため
志賀の陣の時点ですでに兵糧すらなく土下座した信長に
勝てるみこみはまったくないけどな。
52 :
人間七七四年:2013/09/05(木) 16:57:23.68 ID:0owPLiFG
>>50 おい!なにとぼけてるんだよwww
>>むしろ土地制度の面などから、後北条の方を話題にした方がよさそうな…
君のレスは突っ込みどころ満載なのは上記の素晴らしい意見を評価して不問にしよう。
よし、さぁ語ってくれ。期待してる。
53 :
人間七七四年:2013/09/05(木) 17:50:10.42 ID:v2z5wSAj
シコリアンだがの妄想スレか
54 :
人間七七四年:2013/09/05(木) 21:54:37.33 ID:3pvV6zGz
だがの妄想の中ではどうやって信長は尾張統一して美濃支配して京までいき浅井朝倉滅ぼして本願寺当主を高野山に送り武田滅ぼしたのか
織田が土下座土下座とひたすら連呼してるけどその土下座軍に史実で滅ぼされてるわけで…
55 :
人間七七四年:2013/09/06(金) 15:56:23.88 ID:0I0DS03P
>>53>>54 >>むしろ土地制度の面などから、後北条の方を話題にした方がよさそうな…
君のレスは突っ込みどころ満載なのは上記の素晴らしい意見を評価して不問にしよう。
よし、さぁ語ってくれ。期待してる。
56 :
人間七七四年:2013/09/06(金) 20:30:50.50 ID:Rz4mbXwe
とりあえず謙信のやるべきことは跡取りをきちんと決めて発表すること
57 :
人間七七四年:2013/09/06(金) 22:33:39.06 ID:eLZgMx6i
跡取りに関しては不明だったとしか言えない。
だって勝者となった景勝側が謙信の遺言では景勝指名だったと言ってるだけで、
証拠が無いからね。
ただ軍役賦課から考えると確かに景勝が後継者とされていたと考えるのが自然なんだけどね。
反上田長尾勢力を厩橋の北条を利用して後北条が発火させるべく煽っただけな気がする。
58 :
人間七七四年:2013/09/07(土) 00:45:00.59 ID:tThLRojA
いいや、生前に家督を譲るという手があった。
それをしなかったのは謙信の権力が不安定だったか、もしくは怠慢。
59 :
人間七七四年:2013/09/07(土) 12:40:49.57 ID:MQ7Vjzsh
実際、信長も家督を譲ってなかったとも指摘されてるからなぁ。
信忠を岐阜城主にはしたけど。
ただ単に安土城に信長が移転したからだし。
その理由として信忠発給の書状があまりにも極端に少な過ぎて、
織田当主としての行動が確認できないこと。
そもそも出家して家督を譲るという事態には、
失政が原因で、装いを新たにして新外交方針で臨む表明でもあるし。
家臣団による強制家督交替と対して変わらない。
たとえば福川氏によれば大友義鑑の死去で後を継いだ大友宗麟にしても
大友宗麟が天正5年に後見していた義統へ家督を正式に譲渡したのも、
信長による対中国、対四国政策が本格化してきたので、複雑な同盟政策を展開する必要性が生まれたからだとしている。
備前の浦上宗景や出雲の尼子残党と同盟関係を構築するなど、大友の外交同盟政策は複雑化していってる。
佐竹義昭の死去で家督を継いだ佐竹義重も後見していた義宣に家督を譲渡したのは対秀吉外交が原因だし。
北条氏康も悪政が原因で氏政に家督を譲渡しているし、その氏政も武田の攻勢に上野国を失いそうになった甲相同盟破棄の失策の挽回のため
氏直に家督を譲り、武田とともに織田を敵視していた政策を撤回し、徳川の仲立ちによる北条と織田の婚姻同盟を推進する刷新からだし。
信長が本当に信忠に家督を譲っていたのなら、そこに信長のなんらかの致命的失敗による家臣団との軋轢がきっかけになっているはず。
何も問題が生まれなければ戦国大名というのは終身維持する身分であり、致命的失策が己の威信の低下を呼び家臣団により家督譲渡を強制させる。
60 :
人間七七四年:2013/09/07(土) 13:38:03.95 ID:LPW7L8jb
そりゃそうでしょ。
天下の右筆と呼ばれ、松永久秀に無理を言って信長が自分の右筆にしたほどの楠長諳が秀吉の右筆になってんだから。
本願寺顕如や教如に土下座血判状を信長の血液で押印して出した際でも、
最上級の敬意を表すために権威ある楠長諳が文章書いてるほど。
天正10年7月11日に織田家をないがしろにして秀吉が細川家と独自に家臣同士の連盟を結んだ血判状は楠長諳が文章を書いてる。
信長と秀吉が出した血判状はこれだけで、全て文章は楠が書いてる。
信長死ぬや織田を見捨てて秀吉の右筆になってるあたり、
最初から織田家は信長一代限りと周囲は認識してたんだろう。
所詮、信忠は信長の傀儡であり、
信長が死ねば織田家が崩壊するのがわかっていたから、
信忠は信長と一緒に死を選んだのであり、
信長と一緒に死ぬ選択をして家を家臣に乗っ取られたバカを後継者に選ぶより、
後継者を選ばない方がまだマシという意見も当たらずとも遠からずだろう。
そもそも信忠は後継者には選ばれてなかったから、
天下の右筆がそば近くにいなかったのだから。
61 :
人間七七四年:2013/09/07(土) 14:23:03.29 ID:9RQEgivy
結局あまり変わらないんじゃ?
62 :
人間七七四年:2013/09/07(土) 17:46:43.18 ID:09085xZ9
うむ。たった一年延びても織田潰すほど大局的に変化はない
謙信の延長戦→厠で卒倒…と思ったらウンコふんでスリップしただけでノーダウン、関東へ予定通り出陣し北条を痛めつけ数ヶ月後に帰還。しばらく兵を休ませた後にいよいよ信長を討つべく大動員をかけるも厠にてこんどこそ卒中
信玄の延長戦→駒場で死の行軍中に体調が回復。しかし既に退却も半ばまであり、兵糧、帰りたい兵の士気も考慮しすぐに反転はせず甲斐についてから再度本格的に侵攻する準備をしてから出陣
しかし遠江に入り浜松城を囲むまで進むが再び病気が再発し今度こそ危篤になり駒場まで引き返したあたりで息を引きとる
63 :
人間七七四年:2013/09/07(土) 18:44:05.23 ID:MQ7Vjzsh
>>17 織田のいい加減な戦闘姿勢にたいして、武田や上杉や北条の軍事革命した統率の取れた軍隊じゃ、信長なんてフルボッコされるだけだね。
>>18>>19>>20 こりゃあもう信長は信玄に王手をかけられて滅亡寸前だわな。
>>21 朝敵信長・・・・賊軍確定じゃんwww
>>22 信長がもはや謙信にフルボッコされる前夜じゃんwww
>>23 天皇がいなかったら信長なんて速攻で死んでたなwww
>>35 信長も滅亡を悟り自暴自棄だったやんwww
>>36 家康も信長を見捨てる寸前wwww
>>47 信長すでに信玄により死刑宣告されたも同然じゃんwww
>>51 全面的に信長の方が圧倒的に無能なのは間違いないな。
>>62 いままでの議論をすべて無かったことにしてリセットかwアルツハイマーかお前wwww
64 :
人間七七四年:2013/09/07(土) 19:10:06.03 ID:ob4rvdHM
だが晒しage
65 :
人間七七四年:2013/09/07(土) 19:37:48.42 ID:9RQEgivy
二人が共同戦線張っていたら
66 :
人間七七四年:2013/09/07(土) 20:11:24.58 ID:hq3kRUMz
むしろ共同戦線ではなく謙信・信玄が互いに敵対してたにもかかわらずあそこまで
織田を追い詰めたんだから、両者が不可侵条約でも長期間結んでたら織田は瞬殺されてただろうな
67 :
人間七七四年:2013/09/07(土) 20:23:33.20 ID:ob4rvdHM
いやー全然追い詰められてないけどw
まあ信長はだいたいどの勢力とも仲良くしてるから不可侵条約は無理じゃないっすかね。
68 :
人間七七四年:2013/09/07(土) 21:07:19.46 ID:EDpHMp9h
69 :
人間七七四年:2013/09/07(土) 21:10:50.33 ID:nGGoS6E2
多分3ヶ月くらいかけて美濃・尾張占領。
その後政略で立て直した織田方に対してじわりじわりと信玄の攻勢が続いて5か月くらいで
織田滅亡or降伏って流れになるんだじゃないかな?
謙信の時も大体そのくらいじゃないかと。
70 :
人間七七四年:2013/09/07(土) 21:14:42.45 ID:1qwgHmar
お前の妄想に基づく仮想戦記はどうでもいいから
火葬にでもしとけ
71 :
人間七七四年:2013/09/07(土) 21:29:00.88 ID:TqQPksZv
妄想も何も
>>17-23のように史実で滅ぼされかけてる織田方が信玄が生きてても
その後持ち返すっていう方が妄想なわけで。
72 :
人間七七四年:2013/09/07(土) 23:35:11.82 ID:Sli8K5d+
全盛期の信玄ならまだしも野田城囲ってるときの信玄なんて床に伏しっぱなしの重病人だし話しにならんね
信玄がゾンビかサイヤ人ならまだしもw
73 :
人間七七四年:2013/09/08(日) 00:12:49.45 ID:khCwq+zr
74 :
人間七七四年:2013/09/08(日) 00:24:33.73 ID:2bfiW65t
75 :
人間七七四年:2013/09/08(日) 00:46:48.49 ID:QfbPxSkZ
>>74 お前の主張(信玄・謙信が生きてようが史実に変化なし)
が妄想な
76 :
人間七七四年:2013/09/08(日) 00:48:51.26 ID:9U5LTMWP
信長の主力は志賀の陣と三方が原などで壊滅し
四将のうち2将が欠け、兵力も物資ももう途絶え気味なので
単独で抗戦するのは無理とみていい。
後は同盟者頼みと朝廷を介した和議にどれだけ期待できるかが鍵だな
77 :
人間七七四年:2013/09/08(日) 00:52:03.06 ID:4wOC67n+
半年なら尾張・美濃を制圧し、伊勢・近江を攻囲中くらいの流れだろうか。
ここで信玄病死ならまた混沌としてくる可能性もあるな。それでも武田の優位は覆らないだろうが
78 :
人間七七四年:2013/09/08(日) 01:26:25.37 ID:2bfiW65t
>>75 また相手が1人に見えてるの?まあどっちでもいいや
とりあえず妄想の垂れ流しはやめるんだな
79 :
人間七七四年:2013/09/08(日) 02:00:24.28 ID:9sOvpFi7
>>73 えっ、
>>47の理屈を完全に信頼しても
「2/16にはまだ花押も書けるほど元気で、その後に急に病状悪化し急死した」だから
2月16日を越えてしまえばその後信玄がいくら長生きしようが瀕死の重症だったってことじゃんw
野田城が落ちたのが2月16日だから、そっから信玄は何もできてないじゃん・・・意味ないじゃん
武田信玄の病は不治の病なんだから、結局そこから信玄がどれだけ床の間で踏ん張るかというだけしかなく、
結局信玄抜きで何もできない武田軍は大軍団抱えたまま三河で静養するしかできない状態じゃん・・・
80 :
人間七七四年:2013/09/08(日) 02:11:32.25 ID:9sOvpFi7
>>77 いや、そもそも総大将が病に伏しているのにどうやって戦争を続行できるんだよ・・・
仮に信玄が出陣前に「総大将は勝頼、ワシが死んでも戦争続けろ」とでも言っておけば
そんなことも可能だったかもしれないが、信玄はそんなこと一言も言っておらず、結果
信玄が病に倒れたために武田の指揮系統は混乱して何一つ軍事行動ができない状況になってしまった。
だから「信玄が長生きしていれば」なんて言わずとも、「最初から勝頼が全権を持っていれば」織田と決戦に持ち込むことは可能だったわけで
それが
>>7や
>>43の意見に繋がっている。結局信玄が無能だったために自分の命や体調を軽んじて、あるいは信玄の猜疑心が強かったために
自分以外の誰かに総指揮を委ねることができず、自分を過信した結果が信玄重病→誰も軍事行動できず→信玄死去に繋がるんだから
結局信玄の無能さ未熟さが武田の命運を分けてしまったわけ。
81 :
人間七七四年:2013/09/08(日) 02:18:40.41 ID:2bfiW65t
>>79-80 だがさんの自演は分かりやすいなぁ……
病状うんぬんじゃなくて、信玄は信長には勝てないの。ガチで。
分かった?
82 :
人間七七四年:2013/09/08(日) 02:52:23.99 ID:9sOvpFi7
>>81 俺はだがじゃないよ
もちろん信玄は信長にはまず勝てんよ
ただ史実の信玄は、そういう勝ち負け云々じゃなくて「勝負する」土台にすら立ってないでしょw
「勝ちか負けか」じゃなくて「眼中にない」レベルなの
そういう点では勝頼の方が信玄より上なのよ
83 :
人間七七四年:2013/09/08(日) 02:58:36.99 ID:9sOvpFi7
そもそも信玄が本気で信長に勝つ気があったのなら、徳川を無視して信長と決戦すればいいし、
それは不可能、長期戦を想定していると言うなら、勝頼にしかるべき権限を委譲させて備えるべきだった。
勝頼は上洛戦当時数え年で27。普通なら大名をやっていてもおかしくないわけ。
長期戦を備えているなら、信玄は自分の年齢を考えても、途中で死ぬ可能性だってあるわけで、
勝頼にしかるべき権限をゆだねていれば、少なくとも病で退場なんて惨めな末路にはならなかった。
実際に北条家は当主の氏康を死んでも、後見当主を定めていたおかげで氏政が迅速に武田と盟を結んで危機を脱した。
ところが信玄はそれをしなかったがために、自分の病で武田軍全体を機能停止させ、最悪の形で武田勝頼にバトンを渡した。
信長に勝つか、負けるか、それ以前に「勝負できるかどうか」の段階だったのが武田信玄
それを回避するための「隠居策」すら講じれなかったのが武田信玄
84 :
人間七七四年:2013/09/08(日) 09:26:30.07 ID:BuSxyEOO
織田厨は相変わらず一次史料による基礎情報を一切、無視した会話を自演でする時だけは異常に元気いいなw
いやアスペだから不自然とも思わないだろうな。
85 :
人間七七四年:2013/09/08(日) 10:51:57.19 ID:6tFEFC1W
武田軍6万w
86 :
人間七七四年:2013/09/08(日) 15:01:31.10 ID:Hcqg1yeK
武田が6万も集めたら集めて数日で領内の経済崩壊しとるわwww
領民反乱頻発して行軍もできねえよ
87 :
人間七七四年:2013/09/08(日) 15:04:03.25 ID:tgbsCum9
>>85>>86 なんの根拠も一切、出さずに
織田厨の願望自慰妄想垂れ流し自演乙
88 :
人間七七四年:2013/09/09(月) 09:05:16.35 ID:4bgK6oOi
武田軍6万こそなんの根拠もないだろw
89 :
人間七七四年:2013/09/09(月) 09:13:07.16 ID:Me1oaqYT
>>むしろ土地制度の面などから、後北条の方を話題にした方がよさそうな…
君のレスは突っ込みどころ満載なのは上記の素晴らしい意見を評価して不問にしよう。
よし、さぁ語ってくれ。期待してる。
織田厨は上記を黙殺して逃亡中www
90 :
人間七七四年:2013/09/09(月) 11:00:10.41 ID:QaPK4+QS
池上裕子著「織豊政権と江戸幕府」より
「(佐久間盛信への)折檻状から読み取れるように、信長自身は所領の大きさに比例して、
家臣一人ずつの軍役数を定めると言う方法をとっていない。家臣をどれだけ抱えるかは
各自に任されていた。
これは鎌倉・室町期の武士たちの有り方と類似で、北条・武田らが所領貫高に比例して
軍役数を決定した方法といちじるしい対照を成す。
従って武篇道と戦果が問題となる。
池上裕子→武田家の軍役衆は武田家直轄でそれを家臣に預けるだけ。
よって槍3人・弓3人などの賦課で軍役に応じて集結した彼らを解体し
兵種ごとに再編成することが可能。
これは武田が寄親寄子制からいち早く脱却したことを表している。
黒田基樹 →信玄の永禄10〜12年年のものと思われる陣立書によって兵科別の編成が証明できる。
大和一国支配者の興福寺
1580年の織田による差出検地→興福寺大乗院跡750石 興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石
かんぜんにナメきってる報告っぷりw
秀吉の文禄検地→興福寺春日社は2万1000石とされた。
信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの
石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。つかできない。
北条は天正9年7月に前年に氏政が家督を氏直に譲渡したこともあり
軍役に関して記された改定着到之事を施行して指物や槍の寸法や装備や馬上具足に至るまで、
それまでの基準を改定し、軍役を課す基本台帳たる着到帳も氏政から正式に渡されてる。
また翌月には段銭増分を設定し村郷の代官に納入を命じてる。
織田にはこんな内治政策などまったくない。信長が国内を統治していた証拠など無いに等しい。
織田諸将が直接、在地と主従関係を結んで地域割拠していたので
地域一円謀反が多発し信長が死んだら、即、織田が瓦解したのであろう。
3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
排便などの衛生管理は非常に重大な問題で北九州の戦国研究で有名な吉永正春氏も
毛利や大友などを調査しても一戦場に3万が限界だと言ってる。
一次史料を見ると信長も1万〜3万くらいだよな。
この限界の壁と突破できるのが内政軍制改革の結果であり、
圧倒的大軍による威信を背景にした「位攻め」戦略であり、
これが達成できない限り全国支配など夢のまた夢。
結局天下を取るのに大事なのは多く兵を動員できるか
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1322744022/l50
91 :
人間七七四年:2013/09/09(月) 22:18:53.73 ID:yhJm/SJq
謙信がちょっと上野をつついただけで撤退する武田軍wwwwwwww
戦略がザルすぎて笑いがこみあげてくるwwww
92 :
人間七七四年:2013/09/10(火) 11:49:35.70 ID:vxfJzo51
>>91 当時の勝頼は東美濃の明智城や櫛原城(恵那市)や神箆城(瑞浪市)を落城させて快進撃だったから
信長の窮地を救うために謙信が上野へ出馬したんだがw
この時の勝頼は戦略的に提携していた丹波の赤井にも書状出してるしな。
その後、信虎の葬儀を終えるや、二股城攻撃していた家康を攻めて6月11日には高天神城を落としている。
29日には上杉と徳川が信長支援していたのに、肝心の信長が、謙信との約定とおり信濃を攻めずにいたので、
謙信が何もせず違背したことに抗議したから、信長は9月になったら武田を一緒に攻めようと言い訳w
しかし信長はまた放置してたので、9月の勝頼は家康がいた浜松城を放火し、久野や掛川城にk付け城完成www
93 :
人間七七四年:2013/09/10(火) 12:20:54.14 ID:Kvlwwl6f
火病起こしてるっぽいんでちょっと落ち着いてから書けよだがチョンw
94 :
人間七七四年:2013/09/10(火) 12:48:40.94 ID:vxfJzo51
>>むしろ土地制度の面などから、後北条の方を話題にした方がよさそうな…
君のレスは突っ込みどころ満載なのは上記の素晴らしい意見を評価して不問にしよう。
よし、さぁ語ってくれ。期待してる。
織田厨は上記を黙殺して逃亡中www
95 :
人間七七四年:2013/09/11(水) 05:19:50.84 ID:p/ssjx4P
6万も武田軍がいたのに上杉の防備に残す兵力はなかったらしいwww
96 :
人間七七四年:2013/09/11(水) 08:19:34.97 ID:yFzdQNBA
武田の所領で6万ねぇ。
領民を餓死させる気かね。
97 :
人間七七四年:2013/09/11(水) 10:29:41.56 ID:HDPt9YGB
竹田には金山あるの知らないの?石高には麦などの収入含まれてないんだけどwwww
98 :
人間七七四年:2013/09/11(水) 11:18:32.86 ID:oeiPDCMG
竹田?
火病起こしてるだがさん落ち着けよ
それと金があっても飯は買わなきゃ湧いて来ねえよ
99 :
人間七七四年:2013/09/11(水) 13:19:44.47 ID:HDPt9YGB
熱田〜伊勢の商業通商ルートを武田水軍と伊勢水軍に封鎖され
破綻財政だった織田軍は金も兵糧も火薬も尽き周囲は離反三昧で1万しか兵を集められなくなり自暴自棄となった信長は京で虐殺略奪を開始。
武田水軍は土屋や岡部らによって作られ駿河清水に拠点が作られた(戦国遺文武田1496・1515・1625)
もともとは北条の梶原水軍を仮想的にしたものだ(本光国師日記)
元亀2年には伊勢水軍から小浜氏や向井氏を招集してるが(1748・1789)
北条との同盟によって仮想敵が徳川へ変更される。
元亀3年10月からの徳川攻撃では武田水軍も高天神城攻略にも出動していたとされ、
11月には武田水軍(伊勢水軍)が三河田原表襲撃の計画があったのがわかっている(1995)
天正2年遠江国今切に武田の兵糧船が現れ徳川の船で取り囲んだが徳川方の寺島が討死させられてる(当代記)
6月には武田が兵糧を北条領から調達しようとして北条方に押収され
翌月から武田が船手判を発行することで解決してる(静岡県史資料8の773・785)
小川雄氏は今切では伊勢から武田領への兵糧の回送が行われていたり、
三河田原表襲撃などから、武田伊勢水軍が海上でも徳川を圧倒しつつあったと論証してる。
天正7年9月に駿河用宗城が徳川に攻略され遠江へ進出することがなくなった武田伊勢水軍は(3178)
天正8年4月より北条水軍を相手に伊豆で圧倒しており(3331・3332)
北条方の水軍根拠地まで攻め込まれてる(3534・3535・3536・3372)(静岡県史資料8の1394)
要するに伊勢水軍によって織田と徳川水軍は圧倒されており、武田の兵糧の海上輸送は磐石なんだよ。
第二次長島侵攻直前の天正元年(1573年)9月20日付けの塙直政の書状
信玄の西上中にも岐阜にほど近い新砦の守備をしていた日根野弘就に協力してた
伊勢大湊自由商業町の山田三方の福島親子が船を出していたことが発覚し、のち殺される。
このことからも織田に伊勢水軍が従っていたなかったことがわかる。
茶筅が「具豊」と名前を改めて文書発給を開始したのは天正元年9/20が初見。
大湊中に宛てたものだ。これは長島一向宗攻撃のために伊勢水軍に桑名派遣を命じてる。
そこには「本所よりも固く御申し付けあるべく」とあり、本所とは具教もしくは具房を指しており
信雄より先に本所からも命令文書が発給されているのがわかる。
まさに面従腹背の北畠と伊勢水軍である。
そして林通政を討たれ逃亡中に凍死続出で大敗する織田軍・・・これを受け信雄も天正2年に発給文書ゼロ。
その記述や天正元年9月の第二次長島侵攻での織田軍の退却での追撃で、
元亀2年の退却同様に大打撃を受けて、
信長公の一の長の林新次郎(道政)討ち死にも含めて、
一向一揆論の金龍静氏も、
すでに尾張国海津郡一体はほぼ全てが一向衆化していたと書いてる。
第二次侵攻時において恐怖とパニックで周りが全て敵に見える信長は、
深谷部の近藤氏は禅宗に帰依してたのに一向衆と誤認して攻撃してる体たらく。
海津郡失陥は重大な事件で、
これにより尾張から近江へ行く街道が封鎖されてしまい蒲生は敵中孤立。
蒲生が朝倉に帰属するのもうなづける。
また伊勢大湊に伊豆の大船が着岸していた事実から、
甲相同盟に基づき、
北条水軍まで伊勢湾に支援に来ていた。
100 :
人間七七四年:2013/09/11(水) 17:44:13.88 ID:p/ssjx4P
蒲生氏の居城である日野城は織田方の観音寺城や箕作城にほど近い場所にあるのに
蒲生は敵中に孤立したらしい。いったいどこに蒲生氏は居を構えていたんだろうか・・・・w
101 :
人間七七四年:2013/09/11(水) 18:04:40.56 ID:HDPt9YGB
蒲生賢秀の娘2人の旦那の関盛信と神戸具盛は
信長によって幽閉されていたから怒ってたんだろうな。
脱走した際に不憫に思って助けたのが賢秀だろ。
大体蒲生は六角侵攻の時に素早く織田に鞍替えるような人間
信長が滅亡寸前で鞍替えしても不思議ではない。
実際、蒲生の後援がなければ六角氏が生き延びられるわけがなかったからな。
元亀3年11/27の山縣書状に
朝倉軍が織田軍を大破したし尾張・美濃衆が数多討死って書いてある
織田が朝倉に大敗して近江勢が寝返ったと書かれている。 嘘長公記はこれを隠蔽。
この大敗で信長は岐阜へ引きこもり震えていた。
で、この書状の最後に日野蒲生が朝倉に寝返ったとあり、手紙の内容と合わせて
織田の敗北、武田の躍進を山県が強調している。
元亀3年10/5の朝倉景亮書状(書状には「朝倉」の文字がかき消されている)
先日以◯◯◯◯ 入候之処、御懇之御報、
殊御一書披見本望候、其已後重而可申入之処ニ、
延引非本意ニ候、仍其表如何ニ御座候哉、承度候、乍御六借敷、南方辺之儀、示預候者、
畏可存候、委細林権介可申候之条、不能詳候、恐々謹言
蒲生下野入道殿御陣所
102 :
人間七七四年:2013/09/11(水) 18:07:11.05 ID:HDPt9YGB
天正4年の木津川の戦いと天正6年の第二次木津川の戦いの間である
天正5年にも織田軍は毛利と海戦して大敗してるのを公記は隠蔽してる。
謙信の上洛戦に言及があるため天正5年9月23日の手取川の戦いが始まる寸前の書状。
龍谷大学大宮図書館蔵 光佐披露状 江戸浄林寺文書 顕如上人文書簒所収
急度令啓上候 仍今度芸州警護船 早速被相催 歴々衆渡海候
殊為合力 兵糧等厳重之儀 囘申謝候 随而於海上及一戦 敵船悉被打果候事
無比類高名 併上意御威光之故候 当寺門下・紀州兵船相共ニ 抽戦■候
可然様御執成専用候 其節之儀 加太豊前守存知之事候条 可有言上候
就中御太刀一腰金・御馬一疋鹿毛進上之候
聊表祝儀計候 於此上 播州陸路之行 肝要存候 弥可被上意候
北国謙信事 近日越前表 可有出張候 猶以三和之儀 此刻候 甲州之儀
八月中尾濃江必定出馬■■ 一両日已前も申越候 諸国之儀■■分急申候
吉事近々可申入候 此等之旨 宜有披露候 怖々謹言
七月廿八日 光佐(花押)
一色駿河守殿
真木嶋玄蕃頭殿
加太豊前守=鹿伏兎豊前守宗心の血統か?
亀山城主関盛信に従って関軍の先鋒を勤めていた鹿伏兎城(白鷹城)主
信孝が神戸家の養子になると関氏を通じて織田に仕えたが、のち反織田挙兵。
姉川での討死説あり?子の四郎盛氏も天正2年に長島で討死説あり。
神戸具盛(妻は蒲生定秀の娘)
養子信孝を冷遇していた為に元亀2年に山路弾正など家臣が大虐殺され
信長により幽閉されるも義父を頼り日野城へ逃亡し、元亀3年に神戸家は信孝が家督を継ぐ。
ちなみに永禄11年の観音寺城の戦いで蒲生賢秀を降伏させたのはこの人
関盛信(妻は蒲生定秀の娘)
亀山城主。信孝との不和が原因で
元亀4年に信長により幽閉され義父を頼り日野城へ逃亡
嫡子の関盛忠は天正2年の長島討伐で信孝や蒲生賢秀に従い従軍し討死。
織田信孝
信雄は長島滅亡後の天正3年信意に改名するまで
北畠家での支配実績がまったく書状で確認できない。
そのために織田家へ突っ返されていたとする見解もある。
神戸家での信孝はほとんど不明で、信雄以上に謎。
鹿伏兎豊前守宗心・神戸具盛・関盛信・蒲生定秀は反織田でつながっていた。
しかし義昭降伏と浅井・朝倉滅亡を契機に蒲生は織田へ鞍替えし関氏の嫡男も従う。
103 :
人間七七四年:2013/09/11(水) 18:33:38.79 ID:p/ssjx4P
当主の賢秀ではなくなぜか隠居済の定秀に書状を送る朝倉
信長敗北という超重要事項をリークした人物の名前を出さず「尾張から来た申すに及ばない者」と週刊誌レベルの根拠を出した山県
不審に思った奥平は信玄死後あっさり徳川に出戻りで勝頼激怒
いつの間にか織田の指揮下に戻る近江衆と蒲生
104 :
人間七七四年:2013/09/11(水) 20:47:01.94 ID:pPQCn9o4
>>103 強欲な『だけ』の甲州人じゃ近江の人間は手に負えない。
105 :
人間七七四年:2013/09/11(水) 23:31:10.90 ID:KN/Ka1R1
>>103>>104 お前の願望は書かなくていいから。
反論を書くなら一次史料の根拠を付けろ。
だいたい蒲生なんて4年前は六角家臣だったし、
信長に仕えいるか、義昭に仕えているか元々曖昧なやつらばかりだから、
信長本人からして、信玄と義昭に翻弄され誰が味方で、誰が敵だからわからないと泣き入れてただろ。
味方なんて荒木と細川くらいしかいなかったのが現実。
106 :
人間七七四年:2013/09/12(木) 01:19:41.29 ID:FgYrz0eT
織田厨の書くことはことごとく願望妄想だけで、
一次史料による根拠なんて無いから無理。
107 :
人間七七四年:2013/09/12(木) 08:26:59.67 ID:iPXOBguL
>>97 その金山がやばくなっていた事も知らないのか。
それと、金は食えんよ。
単純に1万石で兵200〜250人で武田領が120万石として最大3万の動員。
あとの3万は金で補うのか?
凄い埋蔵量だな。
しかも、領地に一人も残さない計算か。
108 :
人間七七四年:2013/09/12(木) 08:31:53.85 ID:60V5v2W7
あぁ以前、織田厨が氏郷と信長の娘が婚姻していた程、蒲生と織田の結束は強いから裏切るわけがない(願望)とか言ってイチャモンつけたら、
は?なら婚姻していたとする一次史料出してみろよwww
とか言われて火病発症した魔の話題じゃねーかwww
六角義賢から近江の御本所様と敬われた
六角義堯が織田から離反した時期と
蒲生が離反したので朝倉側が返書を出した時期と、
山県書状の時期がほぼ同一期間なんだな。
これは説得力あるな。
そもそも蒲生が義堯に仕えていたとするのが自然な解釈だな。
109 :
人間七七四年:2013/09/12(木) 08:44:37.94 ID:60V5v2W7
バッカw
金山やばくなってねぇよ。妄想たれんなw
黒川金山の本くらい読んでからレスしろアホ
だいたい秀吉の石高による動員時代の兵数を、
元亀〜天正時代に当てはめるのがバカ過ぎ。
朝鮮出兵時代は全国武装統一に費用がかなりかかってるし、
政宗などは秀吉の動員要求よりもさらに多くの兵を動員して、
秀吉に忠誠を示しているほどで、
普通に動員に余力ある賦課。
しかも半島出兵時は、兵農分離していて兵は田畑を耕してないにも関わらずだ。
110 :
人間七七四年:2013/09/12(木) 09:59:30.13 ID:PM4a24St
人口の問題もあるな
30000居るのか?
111 :
人間七七四年:2013/09/12(木) 10:17:17.59 ID:60V5v2W7
元亀2年には駿河の富士金山・安部金山・井川金山などが武田金堀衆により本格稼動し始めてる。
といっても、もともと採掘してる武田領の長畑金山を駿河側から掘ったり(井川金山)
武田の早川金山を駿河側から掘ったり(安部金山)
武田の中山金山を駿河側から掘ったり(富士金山)
要するに武田氏が従来の金脈を駿河側から掘って採掘力を2倍に強化したと言うこと。
これで武田の財力基盤はさらに強化されている。
112 :
人間七七四年:2013/09/12(木) 11:50:00.71 ID:rE7IfGhM
蒲生の織田からの離反の契機は元亀2年10月あたりからだな。
11/3付で穴山→蒲生賢秀宛に書状を出してるから。
その内容は信長には秘密裏に蒲生が馬が欲しいと言ってきたことに対する返礼で、
蒲生の望み通りの乗り心地の栗毛の馬を馳走してる。
また関東と越後と戦っているが伊豆と武蔵の過半が
信玄の本意になるのは疑いないと書いている点は、
11/7の書状で信玄が書いている内容と同じで、
10/3に氏康が死んだことを知った上で、再度の小田原攻撃を宣言し、
氏政を恫喝していたので12/17には北条が武田との和睦を受託していた。
またこの書状には文書には書けないことを柱蔵司に演説させるとも書いていて
武田の威勢に驚いた蒲生が、武田への急接近を始めている証拠となっている。
113 :
人間七七四年:2013/09/12(木) 12:30:53.12 ID:iPXOBguL
>>109 あ〜あ、言っちゃったな。
人物批判する奴は自分の論理が波状していて自身がないから相手を罵るんだよね。
もう少しましかと思ったら、だがと同じかw
だいたい、石高ってのを米の収穫だけと勘違いしているだけすでにあれだろ。
しかも、秀吉の頃の石高とか、わけわからんことを言ってないでもう少し調べた
ら?
114 :
人間七七四年:2013/09/12(木) 12:50:10.04 ID:rE7IfGhM
115 :
人間七七四年:2013/09/12(木) 12:52:12.07 ID:BlsMSw0B
>>108 アホだなおまえ
蒲生が六角義堯に仕えていたんなら、なーんで朝倉ごときに寝返る必要があるんだ?w
主君である六角義堯に従って、そのまま六角家臣として反信長連合に与すればいい話じゃねーか
そもそも蒲生の拠点である日野城は北、東は織田領に囲まれ、南と西は六角領。
朝倉なんて影も形もねー勢力にゲームじゃあるまいしいきなり鞍替えするのか
蒲生が寝返ったとしている山県の書状は1572年11月、朝倉が滅亡したのは1573年の8月。
蒲生が朝倉の指揮下にいたというなら約1年もの間朝倉家臣として蒲生が朝倉家に貢献した証拠があるはずだよな?w
なーんでもいいから朝倉家臣として動いたとする一次史料をくれよだがチョン
116 :
人間七七四年:2013/09/12(木) 12:59:23.34 ID:rE7IfGhM
>>115 >>99のように蒲生はすでに六角の親戚筋の伊賀の仁木氏や六角や
岐阜近くに砦を築いた長島一向宗や暗に武田や六角に協力する北畠などによって
完全に孤立してるから織田を離反するのは当たり前。
そもそも義昭上洛の時に支えた人々のほとんどが反信長になってしまったので
細川宛の書状で誰が味方で、誰が敵かまったくわからないと信長は落胆して岐阜城に篭って動けなくなってたし、
柴田らが京へ行くのも船で行かざるを得くなるほど、近江の織田支配は完全に瓦解していた。
117 :
人間七七四年:2013/09/12(木) 13:07:47.81 ID:60V5v2W7
まー肝心の山岡氏がもう信長から離反開始だからね。そりゃ蒲生だって裏切るわな。
信長公記は山岡景隆が山岡家の惣領で
瀬田を支配していたように捏造してるけど、
実際は元亀3年7/18の山岡景祐(景友・暹慶)→飯川・曽我ら幕府側近宛てで
将軍が甲州へ送る使者の真下入道殿が此渡乗船之儀の仰せ付けのこと、
畏まって其の意を得候、
只今に限らず諸公・御衆・其外、下々に至るまで〜と書いていて
明らかに瀬田の支配は山岡景祐なんだよね。
公記では景隆が瀬田を維持してたなどと捏造してるのが笑える。
そんなら天正元年には何で滋賀郡周辺で大苦戦してる光秀への援軍に柴田は陸路が使えず船で行かざるを得なくなってんだw
あきらかに瀬田大橋が織田軍の通行を許さなかったからだろw
118 :
人間七七四年:2013/09/12(木) 13:38:47.55 ID:BlsMSw0B
>>116 本気でアホなのかおまえ
それだけ反信長勢力がいるのに「なぜ寝返り先が朝倉なのか」と言う話だがw
おまえの言うように近江でも足利や六角など反信長勢力はいる
だから信長を見限るなら地理も近いこいつらに寝返ればいいだけ
なぜ遠い朝倉に寝返ったのかって聞いてんだよだがチョンwww
自演で誤魔化してないでそこ応えろやwww
119 :
人間七七四年:2013/09/12(木) 13:51:07.48 ID:BlsMSw0B
そもそも山県の嘘っぱち書状によれば「尾張熱田から来た申すに及ばない者」という捏造レベルの酷いリーク者情報を載せた挙句、
岐阜と越前(織田と朝倉)が江北で一戦して濃尾勢(織田勢)が多く討死したとまで書かれているが
討ち取った人物の名前もない有様。さらに山県は具体的に日野蒲生と固有人物を指して
越前朝倉に同意したと書いてあるが「実際のところは確認を待ってくれ」と文末に記述されていて
「真偽は不明だからね」と完全に責任逃れの一文まで記述している。つまり武田方もこの段階で
「日野の蒲生が朝倉に寝返った」と言う情報の裏を取っていない状態で、結局武田のはやとちりだっただけにすぎないw
120 :
人間七七四年:2013/09/12(木) 14:58:37.09 ID:rE7IfGhM
とりあえずお前の「思った願望」はチラシの裏に書いてくれよ。
反論するなら一次史料の根拠を提出してくれ。
121 :
人間七七四年:2013/09/12(木) 18:22:37.07 ID:BlsMSw0B
「蒲生が寝返った」と書いた当の本人である山県が一次史料で
「実際にはわからないから確認してくれ」と書いてある事実を無視し
一次史料も過程状況もまるで無視するだがチョンwwww
一次史料で証明しろ(キリッ
おまえが出した山県書状(一次史料)こそ蒲生が寝返っていない証拠だよ
最後まで読まずに妄想で補完した結果だなざまぁwwww
122 :
人間七七四年:2013/09/12(木) 18:33:22.13 ID:4EA01g+5
自らは真偽不明の情報を出しながら奥平の嫡男である九八郎貞昌を暗に人質に寄越せと
奥平美作守貞能に慇懃無礼の書状を送りつけた山県昌景
当然奥平は信用できるわけもなく武田軍が撤退するとあっさり家康に寝返り
怒った勝頼は当時10代半ばの奥平の子供達を処刑して長篠城を大軍で囲むファビョっぷり
それが狂乱突撃集団自害に名高い長篠の戦いに繋がる因果応報・・・
123 :
人間七七四年:2013/09/12(木) 23:01:02.71 ID:uUW7MfkA
※織田厨は全く根拠を出さずに否定するほど低い知性しかありません。
124 :
人間七七四年:2013/09/13(金) 11:24:34.65 ID:wwCH0/x7
125 :
人間七七四年:2013/09/13(金) 12:04:16.32 ID:bRxnFUBq
願望妄想を根拠に主張する織田厨のとろけた脳・・・
126 :
人間七七四年:2013/09/17(火) 15:53:16.11 ID:IDfSvz9k
>>119>>121>>122 完全に自演発狂しながら織田厨はデタラメを書き散らして喚いているな。
二股城はあと3日中には落とせる予定です。
尾張の熱田からやってきた者が申すごとく
朝倉軍と信長が江北で戦い、尾張・美濃の者が数多討たれたとのことです。
これによって織田軍では大身の2人3人と越前への内通をしております。
これは自然なことでしょう。なお、事実である証明の使者を届けるので重ねてお聞きください。
徳川の田原表を水軍で焼き討ちしました。
あなたが出陣するときは何事でも秋山に相談ください。
こちらには御気遣いなく滞在してくださるのはもっともです。
息子の信昌殿や源次郎殿やその他の親類の歴々の方々が
こちらに在陣してくださる話がまとまり喜んでいます。
追伸ですが、こちらに蒲生殿が朝倉殿へ同意なされたとのこと。
この上はそちらにこの使者を届けさせますので、待っていてください。
山縣→奥平貞能宛て書状。
127 :
人間七七四年:2013/09/18(水) 01:18:14.24 ID:CvvJHPjx
まあ謙信はともかく信玄公が一年生きてたら信長の首はなかったってのが定説だよね
128 :
人間七七四年:2013/09/18(水) 08:29:24.96 ID:3UGA6rGd
誰の定説だよw
129 :
人間七七四年:2013/09/18(水) 11:46:57.28 ID:KRa5twYd
だがチョンの脳内学会の定説だってさw
130 :
人間七七四年:2013/09/18(水) 19:09:37.19 ID:pUc/cf/3
1年長生きできるならそこから勝頼と景勝にみっちり教育した方がいい
131 :
人間七七四年:2013/09/18(水) 19:45:40.40 ID:woZsQImu
どちらも優秀な後継者だけどな
まあ、上杉は景勝に景虎を支えるよう教育し
勝頼には・・勝頼はよくやったと思う
132 :
人間七七四年:2013/09/18(水) 20:54:05.28 ID:3rv+5QOE
半年や一年でどうにかできるなら北条なんてとうに占領している
133 :
人間七七四年:2013/09/19(木) 08:29:21.02 ID:I+UlB5Jz
>>131 勝頼はよく頑張ったと思う。
強いてあげれば、時代が味方しなかったと言うところだろうか。
>>132 徳川ならまだわかるが、後北条?
何十年も戦ったり和睦したりしてるのに、死ぬ間際の1年でとかw
ところで、「北条なんてとうに占領」という、占領ってなんだ?
滅ぼしているって事か?
134 :
人間七七四年:2013/09/21(土) 13:09:53.47 ID:ag8bvkal
結局謙信・信玄が半年か一年いきてりゃ信長の首はなかったって事?
135 :
人間七七四年:2013/09/21(土) 14:47:43.18 ID:8uNVorS0
だがチョンの脳内学説ではな
136 :
人間七七四年:2013/09/21(土) 21:01:11.41 ID:GEsF771T
実際は逆なんだけどな。
137 :
人間七七四年:2013/09/21(土) 23:20:30.44 ID:8EXDs6/O
逆?ギャグの間違いだろ
お寒いですねえ
138 :
人間七七四年:2013/09/21(土) 23:32:49.25 ID:ag8bvkal
いやスレを読む限り
>>17-23とか>>99-
>>102とか、織田が押されまくって崩壊寸前のところで
助かったようにしか見えないんだが、織田優勢派はちゃんとソース出してるのか?
139 :
人間七七四年:2013/09/22(日) 00:17:34.30 ID:+VdxgB7D
織田厨はアホなんだよ
140 :
人間七七四年:2013/09/22(日) 00:19:06.54 ID:ln5RF/FY
1年鄭度じゃあんま変わんなくね?
141 :
人間七七四年:2013/09/22(日) 00:31:37.08 ID:/geYd4Xc
>>140 だが理論によると武田軍はショボい噴火で腰を抜かし逃亡するようなヘタレばかりだから
織田軍と正面切って戦えば大敗していたろうな
142 :
人間七七四年:2013/09/22(日) 00:56:30.41 ID:N/KByx4e
だが理論によらなくとも信玄の戦術能力はかなり低いんで、残念ながら信長に勝利する確率は相当低い
謙信の方も、そんな信玄相手に何度も手こずってるようじゃあ、信長相手の直接対決では不利
143 :
人間七七四年:2013/09/22(日) 08:01:44.47 ID:kMX1WhH1
半年生きていても何も変わらないだろ、信玄なんて6万の官軍を率いていて
賊軍に組する家康すら倒せないんだぞ。
それに比べて信長は1万の乞食兵で10万の官軍を崩壊させるているしな。
刀根坂では朝倉・浅井・六角に完全に包囲され退路が無い状態で朝倉・浅井を壊滅させ
第三次長島では
>>99の通り伊勢湾が武田のものであり織田には水軍が無いにもかかわらず
長島を陸と海から包囲している、こんな天才相手に信玄・謙信が勝てるわけが無い。
144 :
人間七七四年:2013/09/22(日) 09:23:08.01 ID:z+10w9ZX
ゲーム脳織田厨の馬鹿シュミレーションをお楽しみください。
145 :
人間七七四年:2013/09/23(月) 01:13:20.32 ID:+MLh9Bdw
だーがだーがだがアスペの子♪
146 :
人間七七四年:2013/09/23(月) 09:04:20.12 ID:TBvVYxFF
長家家譜(織田側)
その(七尾城の)援将には柴田勝家・丹羽五郎左衛門尉長秀・長谷川藤五郎秀一・
稲葉伊予守通胤・滝川左近将監一益・羽柴秀吉・ 前田利家・徳山五兵衛則秀・
柴田伊賀守勝豊・佐々内蔵助成政・不破彦三・金森五郎八・堀久太郎秀政その勢四万余、
2万の上杉兵に対して4万の織田兵が一瞬で壊走。強すぎだろ謙信w
147 :
人間七七四年:2013/09/23(月) 16:32:24.86 ID:wZCvgWhs
実際にぶつかりあったんならなw
148 :
人間七七四年:2013/09/24(火) 17:29:02.97 ID:3kTKr3n0
信玄は知らん。詳しくないから
ただ謙信はひとまず織田には最低限の備えをして、人を舐め腐った氏政にかなりキレてたから
そっちに掛かり切りでしょ
ただどっちにも言える事だが次の作戦に本格的に取り掛かる前に死ねて良かったんじゃないの?
謙信は予定してた関東出兵時に死んでたら悲惨だぞ
149 :
人間七七四年:2013/09/24(火) 18:21:49.14 ID:9qBtutyY
まず後継ぎを指名しろっつー話だわなw>謙信
150 :
人間七七四年:2013/09/25(水) 12:02:23.39 ID:g3wmxI+P
どうだろうね。
景勝側は自分が跡継ぎに指名されていたと主張してるからね。
151 :
人間七七四年:2013/09/25(水) 12:12:47.75 ID:MDNhe5cj
自分の後の事は残ったもので何とかしろって言う考えだったのかもね。
152 :
人間七七四年:2013/09/25(水) 17:43:34.01 ID:Q+Eb4P9W
長文の詳しい奴何者?
事実なら、学者級じゃね?
さらにどうやって知ったの?
153 :
人間七七四年:2013/09/25(水) 18:55:43.71 ID:nIhVUo8D
154 :
人間七七四年:2013/09/27(金) 02:29:42.40 ID:8hiD1Qlw
>>150 ここで殊更に言う事じゃないが、景虎がやったのが実家含め周りの大名に救援頼みまくった
言い換えたら越後に自ずから外敵を引き入れたから
余計に説得力があるな
長尾上杉に後ろ盾がいないのに後継者とかギャグかよ
155 :
人間七七四年:2013/09/27(金) 02:32:08.93 ID:pqMVHYaY
>>152 先に結論ありきで根拠を作ってるだけなんでスルーが一番
156 :
人間七七四年:2013/09/27(金) 06:36:42.17 ID:FBfs1zUq
それは天才無敗の革命児信長という1980年代像を崇拝する織田厨のことだろ。
信長マンセーしか受け入れられず、
それ意外の意見はレッテルを貼って自演排除するだけ。
光栄ゲーム脳の老害40代
157 :
人間七七四年:2013/09/27(金) 08:26:03.05 ID:iMpWl0iP
まんま武田厨にも言えることだなw
光栄ゲーム知らないで言っているかもしれないが、武田の方がマンセーだぞw
158 :
人間七七四年:2013/09/27(金) 09:13:54.60 ID:JeF8S5a6
武田は正常評価でしょ。
織田は家臣団の評価が超過大評価だらけの数値。
159 :
人間七七四年:2013/09/27(金) 10:25:20.01 ID:7xUKbv5+
織田家臣団は猛烈な火砕流と大地震で滅茶苦茶になったところを平然と進む自衛隊を超える能力を持っていたから過小評価されているな
だが理論に則るならね
160 :
人間七七四年:2013/09/27(金) 13:42:22.37 ID:Fb34UClq
史実の織田家を圧倒出来る戦力を保有してる武家が存在してるなら
そこが織田家より早く勢力を伸張させ統一してるだろ
講談の謙信や信玄に重秀らの現実味のない信長の野望はもう良いんじゃないか
幕府再興プレイで織田や三好より上杉武田の動向を気にしないと詰むのは歴ゲーとしてどうかと思う
161 :
人間七七四年:2013/09/27(金) 15:33:12.28 ID:waS9yECz
えっ?信長なんて家臣に滅ぼされたアホじゃん。
そうとうに数値を低くしないとダメだろ。
土岐頼芸くらいの数値か・・・せいぜい大内義隆が限度じゃないか?
162 :
人間七七四年:2013/09/27(金) 17:50:45.83 ID:aGAJVqt3
んー、それは信玄のことですねぇ
163 :
人間七七四年:2013/09/28(土) 11:05:22.50 ID:QPOSC1YJ
もう勝敗はついてるよ。
フロイスは日本史において、
初めて岐阜へ向かったときに
「信長の軍勢の総司令官である佐久間殿」を最初に訪問してる。
その後に「信長の最高の武将4人の中の一人である柴田」を訪問。
そして信玄は三方が原で織田軍総司令官佐久間を怯えさせて戦わずして勝ちを得ている。
謙信は織田軍総司令官の下にいる四天王の1一人である柴田を怯えさせ戦わずして勝ちを得てる。
孫子が主張する戦わずして勝ちを得る最高級の勝ち方を示している。
164 :
人間七七四年:2013/09/28(土) 13:10:34.24 ID:7hLdDQ5M
信長の功績の大半が佐久間の指揮のおかげだからな。
信長は佐久間の功績泥棒
165 :
人間七七四年:2013/09/28(土) 15:20:19.86 ID:QPS9DTdN
166 :
人間七七四年:2013/09/28(土) 15:24:43.52 ID:f6h/9GTi
織田軍ビビって崩壊。まさに鎧袖一触とはこのこと。
167 :
人間七七四年:2013/09/28(土) 16:07:15.75 ID:SvlEs71J
慎重な震源が決戦なんて博打うつか?
168 :
人間七七四年:2013/09/29(日) 14:46:34.98 ID:WF2Sq0gi
169 :
人間七七四年:2013/09/29(日) 15:50:18.50 ID:5B9IABRe
170 :
人間七七四年:2013/09/30(月) 09:15:15.24 ID:9ys1InRs
佐久間信盛が餓死して、
息子信栄の赦免がなって間も無く家臣に裏切られてぶっ殺されたマヌケ信長。
171 :
人間七七四年:2013/09/30(月) 17:03:36.29 ID:Rt3nfN6j
どうでもいいがその文脈で持ち出す武将がなんで佐久間なんだ?w
172 :
人間七七四年:2013/10/02(水) 09:06:37.65 ID:BDYhBL2O
佐久間が信長を護り、勝ちを献上してきたが、
佐久間が死んだらすぐ信長が滅んだからじゃねーのかw
173 :
人間七七四年:2013/10/02(水) 09:46:30.98 ID:PoWYXtAc
信長が活躍したのは菅沼遼太のおかげ
174 :
人間七七四年:2013/10/02(水) 11:45:03.61 ID:K+y2GQUw
信長の軍勢の総司令官である佐久間殿への嫉妬から信長が左遷人事そたのが
織田崩壊の元凶なのは間違いないな。
信盛が織田軍を全体統括していれば、光秀は暴挙できなかったし
秀吉の織田家乗っ取りもおきることはなかった。
175 :
人間七七四年:2013/10/02(水) 12:32:52.14 ID:ox19hHxf
そうかもしれないが、そのれはこのスレとしては関係ない事だよね。
176 :
人間七七四年:2013/10/02(水) 15:20:34.45 ID:4CEVzBwG
菅沼さんにとっては大いに関係あるんだろうw
177 :
人間七七四年:2013/10/02(水) 21:07:54.83 ID:5ZfU1WBA
信玄が活躍したのも菅沼遼太のおかげ
178 :
人間七七四年:2013/10/05(土) 17:28:57.91 ID:y/KUA43L
179 :
人間七七四年:2013/10/06(日) 09:05:19.56 ID:KBomKo9Q
石山本願寺を降伏させた名将佐久間信盛総司令官がいなくなったから、
軍の統帥が出来なくなった織田家は崩壊したってことか。
180 :
人間七七四年:2013/10/06(日) 17:21:56.86 ID:gozLNNCN
餓死した佐久間信盛か
181 :
人間七七四年:2013/10/07(月) 09:32:44.27 ID:Ii6QlKTs
江戸時代初期に書かれた佐久間軍記にも、
信長が信盛の軍功を嫉み妬んだから改易になったと書いてるからな。
そもそも国持大名でもない佐久間が強敵石山本願寺を押さえこんだ大功績は讃えらるべき大軍功だからね。
182 :
人間七七四年:2013/10/07(月) 09:36:32.16 ID:Ii6QlKTs
江戸時代初期に書かれた佐久間軍記にも、
信長が信盛の軍功を嫉み妬んだから改易になったと書いてるからな。
そもそも信長の子に娘を嫁がせたから抜擢され大和守護になった塙直政が大敗して討死した石山本願寺戦において、
国持大名でもない佐久間が強敵石山本願寺を押さえこんだ大功績は讃えらるべき大軍功だからね。
183 :
人間七七四年:2013/10/07(月) 19:33:44.43 ID:KSQpb4Tm
184 :
人間七七四年:2013/10/08(火) 07:22:47.14 ID:DxZY0fE1
佐久間軍記は余計な脚色なく、短くてシンプルなだけに
信長公記よりよっぽど信用できる。
185 :
人間七七四年:2013/10/08(火) 08:13:04.34 ID:bTbdm7wG
菅沼君の価値判断基準
都合のいい史料=信頼がおける
都合の悪い史料=信頼できない
解りやすいねえ
186 :
人間七七四年:2013/10/09(水) 23:06:22.65 ID:007qY1Go
「福井県史」では天正5年10月に入っても越前国で上杉方についた一向一揆衆と
織田方との争いがあった事が紹介され、上杉方が加賀南部から越前までその勢力を
のばしたものと推察している。
「上杉方についた一向一揆衆」の根拠は何だろう?
187 :
人間七七四年:2013/10/10(木) 08:28:59.81 ID:XcEm0YMM
織田と言う共有の強敵が出現したのと、加賀に近いお国柄、反織田が多かった
からかねぇ。
188 :
人間七七四年:2013/10/10(木) 09:46:17.74 ID:f0eyLc+m
>>186 たしか誰かの手紙で越前一揆が謙信に傾いているとか書かれていたんじゃなかったっけ?
189 :
人間七七四年:2013/10/10(木) 10:37:52.91 ID:Z1Ug+wFm
越前や加賀で撫で斬り大会や根斬りパーティーやって回った織田軍は庶民の敵だったからな。
190 :
人間七七四年:2013/10/10(木) 21:12:44.31 ID:IAefJpJH
テスト
191 :
人間七七四年:2013/10/10(木) 22:32:23.22 ID:2ndNrfxU
農民に負けた唯一の戦国大名が信長。
192 :
人間七七四年:2013/10/10(木) 22:37:54.25 ID:2ndNrfxU
農民に負けた唯一の戦国大名が信長。
193 :
人間七七四年:2013/10/11(金) 00:25:39.28 ID:1vLZq8Lh
農民ねぇ…
狂信者と農民を一緒にするにする菅沼君はやっぱりアホだな
194 :
人間七七四年:2013/10/11(金) 03:12:42.57 ID:D+81HdAP
l / .r―――┐l
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l;゙、',.::l;;;i ///// r ヽ./// l,/,.. r'`ニニヽ, .l'、
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人 /l
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195 :
人間七七四年:2013/10/11(金) 07:24:45.62 ID:eWiAAQZT
悪質なマルチポストなので通報しました。さようならw
196 :
人間七七四年:2013/10/11(金) 08:23:23.60 ID:6WSalAZA
197 :
人間七七四年:2013/10/11(金) 08:30:41.24 ID:NHB3Qp/n
惣村に住む庶民や農民と寺社勢力の一向宗が共闘せざるを得ない状況に追い込んだのが悪政暴政を輸出しまくった信長じゃん。
198 :
人間七七四年:2013/10/11(金) 09:12:29.23 ID:8GqIgvYX
謙信や家康も連中には手を焼いていたいたからそうとも言い切れない
199 :
人間七七四年:2013/10/11(金) 14:30:20.44 ID:Mo4qPUyC
謙信が戦っていた一向一揆の背後には信玄の指令があったからね。
謙信の場合は惣村一揆は全く起きてない。
200 :
人間七七四年:2013/10/16(水) 12:43:09.31 ID:y99rsQOk
一向衆絡み以外で、信長って惣村一揆起きてたっけ?
201 :
人間七七四年:2013/10/16(水) 12:46:20.23 ID:1/rTJNQt
近江や伊勢なんて一向宗以外も蜂起してたろ。
202 :
人間七七四年:2013/10/16(水) 13:30:37.59 ID:eYjBaXtk
武田が長篠で大敗後は謙信は越中の一向宗と和睦してたはず
謙信の北陸攻めでは武田勝頼は三河に出陣してなかったっけ?
203 :
人間七七四年:2013/10/18(金) 23:40:54.62 ID:IJQnXBwq
信玄の死因はあれだけど、謙信は病気とは言え急死だから、対策うんぬんなんてもはやどうしょうもない
21世紀ですら、脳卒中なんて助からない場合のほうが多いのだから
204 :
人間七七四年:2013/10/23(水) 01:01:30.70 ID:8QznwjxV
信玄はまだしも、謙信は半年生きてたら少なくとも後継問題はマシになってた
205 :
人間七七四年:2013/10/23(水) 08:25:41.38 ID:EOOvfehN
謙信が後継者を誰にするか考えていたらそうなると思うけど、どうなんだろう。
マシになっていたと思いたいけど、上杉に関しては、意外と歴史のままでも良い
気がする。
206 :
人間七七四年:2013/10/23(水) 10:49:50.47 ID:Qbwy7U92
後継者は春日山城の屋敷跡から推察するに景勝かと。
本丸に近い景勝屋敷、かたや三郎景虎屋敷は家臣の直江屋敷より低い場所。
仙洞院も景勝屋敷で暮らしていたと伝わる。
また、景勝は城主である御実城様に次ぐ御中城様と呼ばれていた。
完全に景勝の方が扱いが上。
207 :
人間七七四年:2013/10/23(水) 12:14:17.85 ID:ZZqCBgo7
景勝を主に、景虎を2にしたかったのかな?
208 :
人間七七四年:2013/10/23(水) 17:13:19.69 ID:A2Ms8I1t
景勝は越後国主、景虎は関東管領でしょ、前から。
209 :
人間七七四年:2013/10/25(金) 00:33:23.64 ID:gLRRjZr3
跡取り問題がしっかりしてれば景虎も死ぬ必要なかった
謙信に、お前はナンバー2と言われれば自害しないだろうに
210 :
人間七七四年:2013/10/25(金) 12:02:49.54 ID:MzqLsDh/
実際、信長も家督を譲ってなかったとも指摘されてるからなぁ。
信忠を岐阜城主にはしたけど。
ただ単に安土城に信長が移転したからだし。
その理由として信忠発給の書状があまりにも極端に少な過ぎて、
織田当主としての行動が確認できないこと。
そもそも出家して家督を譲るという事態には、
失政が原因で、装いを新たにして新外交方針で臨む表明でもあるし。
家臣団による強制家督交替と対して変わらない。
たとえば福川氏によれば大友義鑑の死去で後を継いだ大友宗麟にしても
大友宗麟が天正5年に後見していた義統へ家督を正式に譲渡したのも、
信長による対中国、対四国政策が本格化してきたので、複雑な同盟政策を展開する必要性が生まれたからだとしている。
備前の浦上宗景や出雲の尼子残党と同盟関係を構築するなど、大友の外交同盟政策は複雑化していってる。
佐竹義昭の死去で家督を継いだ佐竹義重も後見していた義宣に家督を譲渡したのは対秀吉外交が原因だし。
北条氏康も悪政が原因で氏政に家督を譲渡しているし、その氏政も武田の攻勢に上野国を失いそうになった甲相同盟破棄の失策の挽回のため
氏直に家督を譲り、武田とともに織田を敵視していた政策を撤回し、徳川の仲立ちによる北条と織田の婚姻同盟を推進する刷新からだし。
信長が本当に信忠に家督を譲っていたのなら、そこに信長のなんらかの致命的失敗による家臣団との軋轢がきっかけになっているはず。
何も問題が生まれなければ戦国大名というのは終身維持する身分であり、致命的失策が己の威信の低下を呼び家臣団により家督譲渡を強制させる。
そりゃそうでしょ。
天下の右筆と呼ばれ、松永久秀に無理を言って信長が自分の右筆にしたほどの楠長諳が秀吉の右筆になってんだから。
本願寺顕如や教如に土下座血判状を信長の血液で押印して出した際でも、
最上級の敬意を表すために権威ある楠長諳が文章書いてるほど。
天正10年7月11日に織田家をないがしろにして秀吉が細川家と独自に家臣同士の連盟を結んだ血判状は楠長諳が文章を書いてる。
信長と秀吉が出した血判状はこれだけで、全て文章は楠が書いてる。
信長死ぬや織田を見捨てて秀吉の右筆になってるあたり、
最初から織田家は信長一代限りと周囲は認識してたんだろう。
所詮、信忠は信長の傀儡であり、
信長が死ねば織田家が崩壊するのがわかっていたから、
信忠は信長と一緒に死を選んだのであり、
信長と一緒に死ぬ選択をして家を家臣に乗っ取られたバカを後継者に選ぶより、
後継者を選ばない方がまだマシという意見も当たらずとも遠からずだろう。
そもそも信忠は後継者には選ばれてなかったから、
天下の右筆がそば近くにいなかったのだから。
211 :
人間七七四年:2013/10/26(土) 07:49:07.84 ID:WkegeyP/
菅沼遼太と一緒に武田信玄の天下統一を応援
212 :
人間七七四年:2013/10/26(土) 07:59:17.74 ID:MUyBDkVO
213 :
人間七七四年:2013/10/31(木) 08:45:12.76 ID:pPu0w/ac
謙信があと1年2年生きてたら織田は滅んでたと思う
決戦を挑んだら織田の滅亡確率は100%だった
謙信が死ぬまで逃げまくれば生き延びられるかもしれんが、
それでは家臣や支配地も離反しただろうな
214 :
人間七七四年:2013/10/31(木) 13:12:39.21 ID:4CJpoioN
謙信は足利義昭の追放時点で方針転換してればね
武田と組むのは長篠までは難しいかも知れんが
215 :
人間七七四年:2013/10/31(木) 23:31:45.12 ID:S6XUdDbi
北条を滅ぼせなかった奴に織田が滅ぼせるとは思えん
大打撃が与えられないとまでは云わんが
216 :
人間七七四年:2013/11/01(金) 14:59:40.71 ID:nrrn+QUS
まあ北条は雑魚の織田よりは遥かに強いだろうな
謙信に案外手弱きなどといわれてるし北条や武田のがずっと手ごわかったんだろう
217 :
人間七七四年:2013/11/01(金) 15:00:54.73 ID:RMR4yfiv
武田や北条は謙信にガチンコ戦闘で負けきり、エア大敗はしなかったけど
織田は圧倒的兵力でトップ格柴田がガチ負けして加賀から追い返され
謙信死後御館の乱や新発田の乱でガタガタに弱った隙をついて
空白地同然の北陸を火事場泥棒しようとしたら越中中部で9倍もの圧倒的兵力で2年も足止め食らったし
普通に戦闘なら武田、北条>>>>>>織田でしょ
北条が弱い=織田厨の妄想
織田家トップ4に入る滝川もガチンコ戦闘で大敗してるし織田なんぞよりは遥かに強い
218 :
人間七七四年:2013/11/01(金) 15:41:24.31 ID:gO0XxyGl
北条に大敗して上野国を奪われた織田軍www
219 :
人間七七四年:2013/11/01(金) 16:11:31.05 ID:a9Ac78tH
大敗続きでこんなところに逃げてきたのかね?菅沼君
220 :
人間七七四年:2013/11/01(金) 21:50:27.97 ID:JgfytSx4
川中島で人気あるけども実際
100万石くらいで上洛ってきついもんなw
221 :
人間七七四年:2013/11/02(土) 01:33:52.86 ID:Jv3IAG8h
白黒はっきりさせるためにも是非信玄にはあと2年は長生きしてほしかったというのが率直な感想だ
222 :
人間七七四年:2013/11/02(土) 01:42:37.09 ID:Jv3IAG8h
信玄が最強なら、それこそ躊躇なく天下を取るべきだと思うよ
ちんたらやってないで畿内を制圧すべきだ
俺は個人的にもし仮に信玄が畿内を押さえても一時的に掌握するだけで、
直ぐに治世が破綻して元の木阿弥で信長以前の分裂状態に戻ると思うけどな
畿内勢力を押さえるには頻繁に京と本拠を往来しなくてはならなくなる
常に間を置くと謀反が頻発する難治の土地柄だ
223 :
人間七七四年:2013/11/02(土) 06:01:46.74 ID:fhYQJgnn
信玄が最強なら今川ごときに何年も費やすはずないし
独立したての徳川とか一瞬で滅ぼされるから
織田とあっさり決戦することも可能だ
224 :
人間七七四年:2013/11/02(土) 10:36:16.45 ID:RZ+B0zpx
武田が織田より圧倒的に強かったからこそ信玄の一部下にすぎない馬場や秋山は上村合戦や三方が原で織田方大軍を大破したし
信玄に遥かに劣る勝頼ですら長篠では城の中にこもった3.7倍の織田軍(高性能鉄砲・雨でぬかるんだ地面)に対して自分が突撃して
突っ込んでも天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り 山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
と圧倒的戦闘能力を発揮している
秋山と勝頼で美濃取るとか馬場や山県で遠州三河取るとか内藤真田で関東制覇とか一隊あたりの兵力が3000くらいしか出せないからどうみても無理
長篠では総軍で6000しか連れてこなかったと高柳が書いてるしな
225 :
人間七七四年:2013/11/02(土) 10:37:55.91 ID:z2OHQSvJ
信長は信玄存命中は劣勢一方で滅亡寸前だったからな。
三方が原で佐久間平手滝川水野の大軍を大破されて
畿内でも当時の織田トップ4のうち二人森と坂井を殺されて戦力不足になり、
もはや誰が味方で誰が敵かわからない、兵糧も物資も兵数も不足しているなどといって泣き喚いている有様だし
226 :
人間七七四年:2013/11/02(土) 10:58:25.71 ID:Xg4EEtHn
フロイスは日本史において、
初めて岐阜へ向かったときに
「信長の軍勢の総司令官である佐久間殿」を最初に訪問してる。
その後に「信長の最高の武将4人の中の一人である柴田」を訪問。
227 :
人間七七四年:2013/11/02(土) 16:26:01.30 ID:C/jwU0x3
まぁ武田崩れと同じことが1571〜2の織田領で起きてもおかしくはなかったね
周辺を敵に囲まれて絶体絶命
武田が尾張に侵攻して織田軍を撃破したらそこら中で裏切り始まるでしょ
228 :
人間七七四年:2013/11/02(土) 16:29:40.90 ID:v0ftIwNW
尾張侵攻しなかった弱腰甲斐軍団
229 :
人間七七四年:2013/11/02(土) 17:29:36.02 ID:HDownkbR
あのままのペースだと伊勢あたりくらいだろう
駿河から三河までだもんな結局w
230 :
人間七七四年:2013/11/03(日) 00:12:59.54 ID:pcxuydDm
新しく領地にしたトコを慰撫しないで尾張・伊勢と侵攻するワケか?
231 :
人間七七四年:2013/11/03(日) 12:56:03.83 ID:cp8LZsFj
織田打倒が目的だったらそれでいいんじゃね?
もちろん補給路を確保するための最低限の手当は必要だけど
織田さえ崩壊すれば尾張美濃まで武田に与えられるだろうし
232 :
人間七七四年:2013/11/03(日) 21:37:32.97 ID:X9hsUwaq
菅沼遼太
233 :
人間七七四年:2013/11/04(月) 04:54:33.13 ID:HgeivLIm
自国領民すら満足に食わすこともできん信玄に慰撫など無理だろ
234 :
人間七七四年:2013/11/04(月) 14:58:00.18 ID:5ITfm2MF
235 :
人間七七四年:2013/11/04(月) 23:40:14.11 ID:moCkMN9m
具体的に
あ、坊主にそそのかされたのは困窮だけが原因じゃないんで除外な
236 :
人間七七四年:2013/11/05(火) 07:55:49.59 ID:9hz/9YVB
惣村一揆は坊主関係ねーだろアホかw
相変わらず信長は例外にするんだなキチガイ君w
そもそも信長に内政や民政政策は全く無い。
だから坊主にそそのかされる土壌がある。
いや土壌ではなく、
明示された賦課量の取り決めではなく、
織田には国法が無いので賄賂が横行し、恣意的私刑がまかり通り、
しかも際限無い賦課で貧困になった民衆が反織田に進んで協力してんだよ。
しかも信長は家臣に対して才覚と武辺道で武功をあげることを強制し、
その結果でしか自分への忠誠を評価しないから、
統治されている民衆に過度な負担が強制されるのは当たり前。
特に軍役が重く、ひっきりなしに遠方出陣が科せられ、
戦がない時は街道作りで山や丘を削り平坦にする使役で田畑を耕す暇さえ無い。
しかも子供を外で遊ばせることすら禁止し働かせているし、
神使と敬ってた鹿まで狩りまくる信長には不安こそあっても、喜んで統治を受けるアホはいないわな。
237 :
人間七七四年:2013/11/05(火) 08:41:11.28 ID:ytJBMOss
坊主が煽ったの以外はないと
その程度なんだね
238 :
人間七七四年:2013/11/05(火) 12:36:40.57 ID:k5Tz4JTq
>>236 当時の事を知らなすぎないか?
江戸時代の農民じゃないんだぜ?
239 :
人間七七四年:2013/11/05(火) 22:35:54.67 ID:QLeEEs2u
>>238 惣村一揆=江戸時代の農民
こんな風に
>>236のレスの内容を解釈するなら
お前はかなり重症な文盲だ。
240 :
人間七七四年:2013/11/06(水) 10:54:11.21 ID:IE5wfKRE
近江坂本の光秀や近江長浜の秀吉などが
信長からすべてのものを奪い取ったことを考ええると
彼らを支える近江国民の民意の総意が光秀や秀吉に
そうさせたんだろうね。
河内国民が三好義継に、丹波国民が波多野や赤井にさせ、大和国民が松永に、
播磨国民が別所を、摂津国民が荒木に謀反させたように。
信長は民政を一切やらずに搾取しまくりだったからな。
241 :
人間七七四年:2013/11/07(木) 08:03:43.23 ID:1w1BWIt3
>>239 おまえさんの方が文盲じゃないか?
と言うか、文盲どうのより、当時の農民の事を調べなよ。
自分の妄想だけで書かないようにね。
242 :
人間七七四年:2013/11/07(木) 08:53:38.41 ID:6hm/Wcn0
>>241 そこまで言うなら当時の農民について説明してみろよ。
お前が具体的に当時の農民について羅列せずに、
根拠ゼロで批判してることに原因があるんだから。
根拠なく他人を批判するのは、
自分に都合が悪い意見だからケチつけて貶してるだけにしか見られない。
243 :
人間七七四年:2013/11/07(木) 12:44:03.90 ID:gANaUTeB
>>242 織田厨に根拠とか理由を聞いても無駄。
質問には質問で返答するオウム返しで逃げるだけだから。
244 :
人間七七四年:2013/11/08(金) 07:56:57.93 ID:ZXsje+8V
>>242 へ?
自分で調べる事も出来ないんじゃ、論ずる気にもならんわ。
もっと勉強してから書き込んだら?w
245 :
人間七七四年:2013/11/08(金) 08:41:33.17 ID:4L85E406
>>244 結局、織田厨くんのお前は答えられずに逃亡レスw
246 :
人間七七四年:2013/11/08(金) 09:31:53.22 ID:50QA8pI/
卑劣極まりないが、負け犬織田厨の常套手段だから仕方が無い。
ゴミ人格だが諦める他無い。
247 :
人間七七四年:2013/11/08(金) 09:38:14.81 ID:6OQTnH3/
いつもの子供型強弁いただきました
248 :
人間七七四年:2013/11/08(金) 10:01:25.62 ID:Sst9+FAj
249 :
人間七七四年:2013/11/08(金) 11:32:24.10 ID:6OQTnH3/
分かってないみたいだから教えてあげるけど、織田厨言ってる奴に言ってるんだよ君
250 :
人間七七四年:2013/11/09(土) 07:06:16.33 ID:G+cWh/sG
さぁ、武田厨と織田厨のオウム返し合戦が始まりました!
端から見てると誰が織田派か武田派かわからねーしww
251 :
人間七七四年:2013/11/13(水) 11:19:07.58 ID:z3ZcsQTC
信長の国家ビジョン
9/14に京で富貴な者が賄賂を贈ることで目が悪い者しかなれない
検校(金貸しができる)になってる不正を座頭たちが信長に報告し
「金持ちの賄賂がまかり通るような社会では秩序が乱れるばかりです」と訴えたが
信長が富貴な下手人検校から黄金200枚の賄賂を貰って不正を不問にして許している。
こんな身障者の特権すら賄賂欲しさに剥奪する判決を
信長本人の私欲で是認する秩序崩壊社会は前代未聞の暴虐。
身障者は死ねと言わんばかりの残虐で狂った私刑社会の織田政権。
天正元年12/12の安国寺書状には別所と浦上の領地争いを信長が仲裁した話が書かれているが
その内容には浦上宗景が三カ国の朱印えお信長からもらったと書いてある(別所が浦上配下になるということ)
そのお礼として浦上が朱印の礼、夕庵より過分に申し懸け候、おかしく候と書いている。
朱印の礼ってのは朱印銭と言って、要するにワイロでありむちゃくちゃ多く請求されたということで
安国寺はそれに対して財力ある者が領地を金で買い不正が横行する信長のやり方を「おかしいだろワロスw」と嘲笑してる。
それゆえに信長がたかころびに転落するだろうと断言し、しかし秀吉は覇の者だから重視するように報告してる。
当時の人々には信長の悪政をカバーするため奔走する秀吉というのを認識していたのだろうね。
ちなみに安国寺は天正12年1/11にも秀吉の評判を書き残していて
大なる事は、近年信長の下にても、羽柴羽柴と申候て、世上操りをも、又弓矢をも手に取り候て、鑓をもつき、
城をも責候て存んぜられ候、又、小事の儀は小者一ケにても、又、乞食をも仕り候て存んぜられ候仁か、
申し成しなとにては成る間敷候、日本を手の内にまわし候、今日まては名人にて候、明日の不慮は、存ぜず候
などとどんなことでもなんでも抜群にこなせるオールラウンドプレイヤーで頭角を現し、信長の名も霞むほどだと書いてる。
ここで面白いのは秀吉は乞食まで経験してるので、世間の人情の機微も心得ていて名人なので
信長のような犬死のような突然の死に方もしないと書いてるところ。
信玄の国家ビジョン
晴信が武田家で傀儡として擁立されたころ
甲斐国は武田の支配した国中
小山田が支配した郡内
穴山の支配した河内
でほぼ三分されてる(少し国中が大きい程度)
この両者は独自に外交権を有して戦国領主として対等な立場にあったが、
天文末期に武田による介入が進み、介入からさらに国衆存続のための武田による保護へ変質した。
これは信玄による法整備と公正な裁判によるところが大きい。
たとえば郡内での領民の裁判などで、小山田一族の暴虐の裁きはまったく進まず
訴訟を信玄の元へ訴え、それを信玄が裁き、小山田の妨害を排したりと
介入し、さらに穴山などは信玄の発給文書様式と特徴を学ぶことで、
武田へ従属し領内権力基盤を安定させる方向性へ志向したのである。
つまり天文末期の晴信時代に武田氏はその内治裁判の先進的整備を通じて甲斐国での民意の支持を得て求心力を高め
国衆への介入と知識提供を通じて、甲斐国の統一権力への進化と臣従を進めていき、
その内治による国力伸張を背景に他の国衆を凌駕し、武田による安全保障体制を構築提供するに至った。
これを全国レベルで広めることこそが使命であったといえるだろう。
しかも国中には専横重臣ばかりで晴信政権はその家臣団によって擁立された。
これは斉藤道三や長尾為景などと同様に一国の主の資格なしとして否定された事例と同様である。
252 :
人間七七四年:2013/11/13(水) 14:44:23.55 ID:YSCQm8R+
信長って中国人みたいだよな。
253 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 03:24:37.46 ID:lSOm+jew
相手の兵站の限界まで誘って津波がさざ波になった地点で一気に叩く戦法だな
254 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 15:45:20.27 ID:4tpy/m2e
武田の政教分離政策
久保田氏が指摘してるが、
武田の駿河侵攻で今川方の大宮城主だった富士山本宮浅間大社の宮司富士氏を、
武田は次第に武装解除して、神職だけをやらせるようにしていってるようだね。
武田氏の宗教政策を垣間見れる例だと考えられる。
久保田氏はこれを兵神分離と読んでいる。
この分離は富士氏に出した書状から北条や今川にはできなかったもんだろうと。
255 :
人間七七四年:2013/11/22(金) 01:45:08.52 ID:ZJeP8Cs8
一向一揆は越前で独立国造るくらい深刻な脅威だった
信長も家康も謙信も皆、領国経営で苦慮している
特に信長は包囲網で本願寺と正面衝突しているからな そのせいで近世に宗教や寺院勢力がおっ払われたけどな
256 :
人間七七四年:2013/11/22(金) 14:08:58.50 ID:AcYC7kp1
義景と本願寺は婚姻同盟して平穏無事になってたのも知らんのかよ。
信長の越前統治が失敗して独立国になっただけ。
領国経営で苦慮もなにもそもそも信長は内政無視で搾取ばっかりやってるから、
統治に失敗して一揆や謀反だらけだしな。
延暦寺だって天正10年12月12日には日吉社が完成し
天正12年5/1秀吉が本格再興を許可して1万貫負担してるし
追って8/4勅命もでてる。
上杉や秋月や毛利や竜造寺や伊達や最上なども、本格再建に協力してる。
信長のやったことは大失政だっただけだ。
257 :
人間七七四年:2013/11/22(金) 14:57:08.28 ID:8E2JnDgN
延暦寺再建については、
綸旨まで大名宛に出されたから、
資金がたんまり集まったからね。
前より豪華になった。
都の鬼門に延暦寺が本格再建が開始されてやっと畿内人心が落ち着いて平穏になった。
258 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 00:24:15.82 ID:0j2FUs6K
別に信長だけが標的なわけではないな
家康の三河も武装蜂起で家臣団も割れるくらいだし 謙信も不穏な動きのある時は身動きを封じられた
信長は農民蜂起ともいえる宗教勢力を一掃している 地均ししているから大したものだ
259 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 00:28:27.65 ID:0j2FUs6K
無論、越前の一向一揆は単なる失政への不満の蜂起ではなく、裏で顕如が糸を引いている
バイアス思考だとこんな明白なことも棚上げなのか?
260 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 01:14:07.44 ID:2Bhgd+He
北陸一向宗に対して、
顕如に指揮権が無いのも知らんとは…
261 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 01:33:36.73 ID:QV5iJAd1
>>258 地ならしではなく、信長が土下座して朝廷が石山本願寺との和睦を取り成してくれただけ。
そのために信長は顕如と教如に絶対約定は守ることを誓う血判書をそれぞれに出酢ほど切羽詰まって必死だった。
血判書を出さないとならないのは比叡山延暦寺に土下座した際の勅命和睦をぶち破って延暦寺を燃やしたりと、
信長の不誠実な大嘘つきなのを知っているから。
ちなみに秀吉の血判書は本能寺の変後に、
細川との互いの協力関係を約した際だけ。
262 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 02:34:30.58 ID:0j2FUs6K
>>260 それはない 調べる気も史実を追い求める気も全然ないな
顕如は越前に下間頼照を置いている
和睦は古今東西、枚挙に遑がない 和睦の取り成しを朝廷という専売特許を使って実行しただけ
なぜ和睦が=土下座外交などと揶揄されるのか?
そんなこといえば、現在の日本は四方の土下座外交してることになる 和睦も戦略の一手段である
263 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 02:38:38.62 ID:0j2FUs6K
そんな威勢ばかりいい中坊みたいな戦略眼の持ち主が幅を利かせるから、
国土を灰燼に帰し焼け野原の丸焼けになってしまったのだろう
降伏した割りに一億総玉砕もせず、おめおめと生き残りやがって 今からでも自害して果てる覚悟もないのか?
俺は付き合ってもいいぞ
264 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 08:35:31.71 ID:ECZkvuS1
下間頼照が越前にいるだけで指揮権があるとか言い出してワロタw
お前ガチで何も知らんでレスしてるだろw
265 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 11:00:13.78 ID:solHjjjG
しょうもない煽り
266 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 11:32:37.82 ID:3AY9wx69
世の東西関係なく宗教勢力が政治権力握って軍事力まで持ってるのは変わらないね
ある意味信長はそれをぶっ潰したんだから凄いと思う
267 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 11:53:56.09 ID:qhTtPg1g
信長は土下座和睦しただけでぶっ潰してねーよアホか。
本能寺の変がおこると、本願寺に対して
織田諸将は協力してくれと哀願して、一揆蜂起を恐れてるし。
弱体化したのは後陽成天皇の勅許を背景に家康から教如が領地の寄進を受けて
本願寺の分立が始まってからだ。
比叡山も秀吉が1万貫を出して本格再建したし、綸旨が各大名に届いて献金が集まってる。
信長のやったことは不必要な対立と無意味な殺戮。
天皇は信長が死ぬやすぐ比叡山も本願寺も本格復興させてる。
268 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 12:32:38.68 ID:37fYDBPG
織田の土下座和睦に仕方なく応じてやったはずなのに、なぜか本願寺が本拠地を捨てて鷺森みたいなド田舎に引越し
269 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 12:36:53.19 ID:qhTtPg1g
勅命に抗えず顕如が退去した後も
抵抗した教如も恐れ多いことに
重ねての勅命に教如が逆賊にされるのを嫌ったからだよ。
270 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 12:55:15.58 ID:R/1BiOvh
信長が哀願したからこそ、
自筆血判状が顕如宛に続いて、
教如宛の二通が本願寺に現存してるんじゃん。
双方が血判状の交換をしているならともかく、
本願寺側は血判状を出してないのだから同格和睦ですら無い。
271 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 18:47:10.08 ID:qUgWHGLC
大坂を明け渡した時点で本願寺の負け
戦争とは戦争目的を達成した側の勝利だという軍事上の常識を菅沼君は知らないらしい
しかも長島越前加賀といった本願寺の拠点は壊滅しているしな
272 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 20:03:52.68 ID:OAmRWNQc
信長は石山本願寺が潰せるなら、
どんなに犠牲がでようが構わない。
絶対許さないって言ってるんだから、
戦略目標達成を諦めて、
要求された自筆血判状まで差し出してるから、
むしろ信長が屈服してるだろ…
しかも絶対に退去する者たちを攻撃しない約束をさせられたから、
石山本願寺を武力で支えていた反織田派の紀伊国衆を中心にした雑賀衆や海賊衆は面前を堂々と通過していき、
高野山と協調して織田と継戦してる始末。
結局、信長が死ぬまで紀伊国衆は反織田活動を続けていたし。
実際、石山本願寺が主導したと言うより、
彼ら傭兵や海賊上がりが家族を養い易いから石山本願寺を巣窟に反織田活動で
喰う為にたむろっていただけだからな。
だから惣村一揆が母体の北陸一向宗や伊勢長島一向宗とは
全く性質が違う。
273 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 00:08:19.27 ID:xPOGXPq9
下間は一向宗の北陸における司令官としての立場だ
宗教勢力というより武装勢力である以上、軍隊形式で上官の意向を無視して農民が勝手に蜂起するわけではない
>>264 指揮権がないことを証明するソースは?
274 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 00:13:26.09 ID:xPOGXPq9
>>268 鋭い指摘だね 時代の潮流というものを肌で実感できない机上の空論家がさも分かったように言うが、
以後急におとなしくなったことは信長の天下統一を妨げないという意思の表れ
信長も宗教弾圧ではなく、宗教による政治や軍事への介入に対して武力を用いているのだから
各地で寺院を焼き払い根絶やしにするうちに拠点がなくなったというのもあるが
275 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 04:01:10.90 ID:Y/NYbijY
そもそも下間が北陸一向宗を指揮してることを証明する一次史料からして無いのに、
なにを根拠に言ってるのか理解に苦しむ。
276 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 04:37:09.59 ID:tLQLs9Ef
>>274 朝敵にならないよう勅命を奉じて本願寺は信長と和睦してやっただけだぞ。
しかも本願寺側は血判状を出してない時点でどちらの立場が上での和睦かははっきりしてる。
自らに長く敵対してきたならず者者達を、
一切、お咎めなしにせざるを得なかった信長は完全に屈服してんだよ。
だいたい石山本願寺から和睦を提案したわけじゃない。
信長が天皇に土下座して和睦の斡旋を哀願したんじゃないか。
277 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 04:51:47.67 ID:pwhmWD6p
信長の敗因ははっきりしてる。
石山本願寺に続く街道に砦を作り、
大坂湾に制海権を樹立し、
完全封鎖することで補給路を断ち兵糧を枯渇させ、
紀州国人や三好系海賊ら反徒を石山に集め一網打尽に根絶やしにして後顧の憂いを断つこと。
しかしいくら時間をかけても食料が尽きることがなく、
包囲は見事に大失敗していた。
これに尽きるわな。
278 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 05:22:35.98 ID:kqAWLf+i
>>272 お互いの戦争目的は何かをちゃんと考えような?菅沼君
まあ君は上田原は武田の勝ちとか言っているからわからんか
279 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 05:27:30.35 ID:gdeCidcV
朝倉や武田も菅沼遼太みたいに思ったんだろうな
「信長は血判状まで出して土下座までした、信長は雑魚い、我々の勝利だ」と
そして滅亡直前になって信長の掌の上で踊らされていたことがわかるわけだ
家臣出身の秀吉や家康を見れば、天下人が方々に頭を下げるなんて
定番の身の振り方だし、そもそも土下座も血判状もタダだからなあ
菅沼君みたいに、他人に頭下げたことのないニートはそうは思わないんだろうがw
280 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 08:41:27.52 ID:6Pgk/Hl1
単独では、織田の半分強の兵力しか持たなかった武田が
1年や2年で織田を倒せるとは思えない。
信玄の性格からして最後の軍事行動も織田信長との
決戦が目的だったとは思えないんだけどね。
281 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 09:50:43.88 ID:sEjJO/OL
信長余りにも弱すぎるよなあ。
天皇がいなかったらとっくに滅亡だよな。。
282 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 10:08:10.31 ID:1Snb7bW/
戦国時代の城って、内応が無く、食糧も尽きなければ、攻め手が何万人いようと
石山本願寺、小田原城、大阪城、月山富田城みたいな強固な城は絶対に落ちない時代なんだよな。
防御力>>攻撃力
がはっきりしている。
内応工作が得意な武田信玄と、強固な石山本願寺を同時に敵に回したのは、
信長最大のミスだったと思う。
283 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 10:37:58.47 ID:VlkFFc4n
むしろ逆かと。防衛側は士気が下がりやすくあっさり簡単に内応も出るし
策源地が攻め込まれてるからその間収入0.
日本の戦国期にそんな難攻不落の城なんて実際ほとんどないからな。
最も日本の中で険しい天嶮が立ち並ぶ信濃や上野のガチンコ山城も武田や上杉に短期間で落とされまくってるし
284 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 10:45:00.28 ID:HP4IUeNe
基本的に後詰なしの篭城戦は負けるしかないといわれるほど愚策だからね。
何もせずにほっといても勝っても領土の広がらない上に兵力劣勢の城方は降伏・自落・寝返り・逃散で楽に勝てるのは
目に見えてるし長期間もたつくのはよほど寄せての大将が雑魚の時だけだよ。
285 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 10:46:37.87 ID:zBe5QJyp
中世の戦争で、ゲームみたいな、相手の兵力全て傷兵と戦死兵に変えるような
相手の息の根を止めるような殲滅戦なんて少ないだろうしね
286 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 10:48:49.34 ID:0bOITmoK
後詰の望みがない防戦なんてよほどの偶発的条件か両将の指揮能力のよほどの差がない限り基本勝つ可能性皆無なんだから
戦争において弱小勢力なんて周辺の強国に飲み込まれてくだけだし
小さい勢力で大きな勢力跳ね返し続けた大名なんて佐竹とか田村とか甲斐とか名将しかいない。
攻撃側は兵力に勝るから戦略の幅も大きいし勝てば領土広がるから士気も上がりやすいし
兵糧物資でも圧倒的に攻撃側のが調達が容易で防御側は策源地が攻め込まれてるから長期戦になればいずれおいこまれてくだけだから短期決戦によるしかないし
寝返りが出やすく勝っても領土も広がらんし圧倒的に不利でしかない。現に攻守三倍原則より遥かに少ない兵力で攻略してる例なんていくらでもあるし
287 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 10:51:21.17 ID:zBe5QJyp
城攻めでも野戦でも兵力差が大きいと少ない方は味方の士気が下がったり離反や逃亡する兵が出まくるからね。
後詰の望みがない防戦なんてよほどの偶発的条件か両将の指揮能力のよほどの差がない限り基本勝つ可能性皆無なんだから
攻撃側は兵力に勝るから戦略の幅も大きいし勝てば領土広がるから士気も上がりやすいし
兵糧物資でも圧倒的に攻撃側のが調達が容易で防御側は策源地が攻め込まれてるから長期戦になればいずれおいこまれてくだけだから短期決戦によるしかないし
寝返りが出やすく勝っても領土も広がらんし圧倒的に不利でしかない。現に攻守三倍原則より遥かに少ない兵力で攻略してる例なんていくらでもあるし
圧倒的大軍で寡兵の敵に蹴散らされるのは指揮能力が雑魚の奴だけだよ
地形を生かした陣取りの主導権握ってるのも攻撃側。兵力が勝ってるから
そこで会戦するのが嫌なら別方面に兵力展開したり誘い出す作戦練ればいいだけだし
相手が乗ってこなかったら持久戦に切り替えるなり違う拠点攻めるなりして攻撃続ければ勝手に追い込まれてくだけ
288 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 10:53:43.71 ID:4Pk6Z+oZ
織田徳川の大軍に対して行われた三河遠州侵攻作戦とか三方が原、長篠の戦いなんて武田が少ない兵力で侵攻しまくってるし対北条今川戦でも武田が侵攻側で
大国今川北条が防衛側だが北条今川相手に勝ちまくってるし信濃・上野の山間の天嶮によって割拠するガチンコ山城を攻撃側としては少ない兵力で落としまくってるからな
長篠の戦いも「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし
289 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 11:51:46.17 ID:4Pk6Z+oZ
そもそも攻撃側は攻めるのキツイと思ったら攻めずに十分準備を整えてから攻めるか
他の拠点を攻めればいいだけだけど、防衛側は戦闘の回避→領土喪失、死につながるからそういうわけにはいかないからな。
攻撃側は兵力に勝るから戦略の幅も大きいし勝てば領土広がるから士気も上がりやすいし
兵糧物資でも圧倒的に攻撃側のが調達が容易で防御側は策源地が攻め込まれてるから長期戦になればいずれおいこまれてくだけだから短期決戦によるしかないし
寝返りが出やすく勝っても領土も広がらんし圧倒的に不利でしかない。現に攻守三倍原則より遥かに少ない兵力で攻略してる例なんていくらでもあるし
圧倒的大軍で寡兵の敵に蹴散らされるのは指揮能力が雑魚の奴だけだよ
地形を生かした陣取りの主導権握ってるのも攻撃側。兵力が勝ってるから
そこで会戦するのが嫌なら別方面に兵力展開したり誘い出す作戦練ればいいだけだし
相手が乗ってこなかったら持久戦に切り替えるなり違う拠点攻めるなりして攻撃続ければ勝手に追い込まれてくだけ
290 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 12:21:09.90 ID:VlkFFc4n
日本の城なんて難航不落といってもたかが知れてるからね
城攻めで何ヶ月ももたつくとかそんなに多い事例じゃないし
日本で最もキツイガチンコ天嶮城が一杯集中してる信濃の城とか一日に16も17も武田によって
陥落させられてるし、
同じく天嶮でキツイ上野の山間部の城とかも武田やら上杉やらによって毎年のように落とされまくってるし
291 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 12:35:13.08 ID:xTwnWcAs
日本語通じてないね
繰り返すけど、戦国時代に限定すると、「内応が無く」、「食糧も尽きなければ」、攻め手が何万人いようと堅固な城は落ちない
>>283-290 全部内応ありの話だから、逆どころか全く同じ話。
つまり、内応なく、食糧補給が永遠に続くような石山本願寺は、戦国時代の攻城技術では難攻不落。
和睦で退去させる以外に道はない
292 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 12:46:38.61 ID:VlkFFc4n
単に寄せ手の指揮能力に問題があったから簡単に落ちなかっただけでしょ。
大阪の陣や岐阜城攻防戦で内応も食料欠乏もなかったし北信濃や上野の攻城戦でも一部では離反の動きがあっても
ほとんど自力で陥落しまくってるし
293 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 12:51:40.92 ID:MUnaw58w
戦下手といわれる北条でも山間部の上野や下野や北武蔵の諸城を何回も攻略したりしてるもんなあ
294 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 13:09:01.70 ID:xTwnWcAs
>>293 大阪城は力攻めでは落ちていない。
岐阜城や山間部の小城は、数万単位の敵兵力を想定していない。
月山富田城、小田原城、大阪城(石山本願寺)クラスの大規模な城は、
指揮官の能力が優れていても、内応や政治工作無しの力攻めでは落とせない。
295 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 13:32:55.08 ID:VlkFFc4n
木津川口砦の戦い→徳川方の勝利(木津川口砦占拠)
今福・鴨野の戦い→徳川方の勝利(鴨野の拠点を占拠)
博労淵の戦い→徳川方の勝利(博労淵砦占拠、大阪方の守将平子正相戦死)
野田・福島の戦い→徳川方の勝利(野田・福島の拠点占拠)
その後豊臣方は残りの拠点も放棄して大阪城に逃亡
後厭戦気分になってるのはむしろ豊臣方だわな
12/15に淀殿が人質として江戸に行く替わりに、篭城浪人のための加増を条件とした和議案が豊臣方より出され、家康はこれを拒否
また大阪方は弾薬・兵糧も不足しだし、大筒を打ち込まれると即座に和睦交渉に乗っかる。
また、朝廷から後陽成上皇の命により、17日に広橋兼勝と三条西実条を使者として家康に和議を勧告した。家康はこれも拒否し、
あくまで徳川主導で交渉を進めた。
さらに夏の陣でもあっさり徳川方に攻め込まれて短期間で終結している
>>岐阜城や山間部の小城は、数万単位の敵兵力を想定していない。
根拠は?
296 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 13:39:13.23 ID:zBe5QJyp
そもそも城攻めにおいて防衛側の物資兵糧が永遠に続き、
離反者逃散者降伏者が出ないというのはありえない話だと思うんだがね
攻撃側は策源地が攻め込まれてるわけでもなく、周辺領国や敵領土内部での略奪行為で
いくらでも補充がきくし、勝てば領土が広がり負けても滅亡に追い込まれるわけでもないから離反なんてまずでないし
士気も上がりやすいけど
防衛側は策源地が思いっきり攻め込まれほっといても不利な状況にどんどん追い込まれ基本的に城に篭もってるだけでは収入0
負ければ滅亡、勝っても領土が広がるわけでもなく恩賞もでないから非常に離反・逃散がでやすく
士気も下がりやすい。
ゆえに攻城戦では戦略的決定権や戦争の主導権を攻撃側が握ってる事になり
基本的に後詰なしの防衛戦は勝つ可能性0の下策なわけで。
297 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 13:41:01.14 ID:HP4IUeNe
攻撃側は無理だと思ったら攻めずに十分勝てるまで準備するなり別の拠点から攻めるなりすればいいだけだけど
防衛側は戦闘を回避したらすなわち領土喪失→滅亡だからな。
298 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 13:48:18.16 ID:0VJ564oq
信秀時代に15000から20000の兵で攻められた事もある岐阜城や
北条に追い込まれた山之内上杉が北条を退けるために防衛拠点としてきた上野の諸城などが
数万の大軍を迎撃する事を想定してないって事はないだろ。
どちらも当時の城郭としてはかなり堅固な部類に入るし
武田が攻め込んでおとしまくった北信濃の諸城も全国のキツイ城ランキングトップクラスに入るような
ガチの天嶮山城。
当然平野部より山間部の方が数的有利も生かしにくいはずで、短期間に落すには難易度が高いはずだが
どちらも本格的に攻められるとあっさり陥落してる。
そのくらい当時の城郭技術なんてショボかったってだけだよ。
山中城とか荒戸城とか忍城とか鳥取城の復元模型もみてもまあそりゃ貧相な砦みたいな雑魚城だし。
299 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 14:31:27.42 ID:xTwnWcAs
300 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 14:38:01.48 ID:xTwnWcAs
>>295 >「また大阪方は弾薬・兵糧も不足しだし」、大筒を打ち込まれると即座に和睦交渉に乗っかる。
守り手は弾薬・兵糧も不足、攻め手は大筒を打ち込む以外に手が無い状態
つまり力攻めは完全に失敗している。
301 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 14:40:30.37 ID:xTwnWcAs
ていうか他人のレス全然読まないくせに、論点ずらした無駄な長文貼るのやめてくれ
302 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 14:43:38.40 ID:DLjWeWss
そろそろ話題そらし目的の自演は止めてくれないか織田チョンくん
303 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 15:27:04.07 ID:xTwnWcAs
>>298 鉄砲の普及前は山城もそこそこの防衛力があった。
鉄砲の普及後は城外からや城内で食糧や弾薬の補給しやすい平城の方が守りやすい。
岐阜城や上野の諸城では、鉄砲の普及後の長期の戦はできない。
304 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 15:45:46.92 ID:MlVCURBH
信濃の諸城を落としまくったとか城攻め苦手で上田原だの砥石城だので負けてる信玄は無視するらしい
流石ですね
305 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 15:50:36.21 ID:VlkFFc4n
上田原は城攻めと全く関係ないし
砥石城も城だけで負けたわけではなく
城の部隊+後から来た後詰部隊との挟撃。
しかも武田が信濃攻めしてたのは1542年〜1560年頃の長期間。
さらに信濃には長尾や上杉の援軍もあり、甲斐の2倍の国力があるにもかかわらず
負けという負けは2回程度。
306 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 15:58:39.16 ID:zBe5QJyp
>>303 鉄砲が普及したから山城のメリットがなくなるとかそれはないだろ。
鉄砲は城の防衛や拠点の防戦にこそ威力を発揮する武器
なぜなら重量があるため攻撃には向かない。
山城は寄せ手からすれば一度に兵力の集中的な展開が難しく、兵力の優位性による力攻めが最も難しい。
逆に守り手からすれば、寡兵でも鉄砲など防衛用の装備による迎撃が最もしやすい。
だから上野や信濃や奥三河などの山城が鉄砲の伝来と敵兵力の増幅によって
役に立たなくなったとかはありえないんだよ。むしろ逆。
307 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 16:04:44.09 ID:HP4IUeNe
そもそも美濃は斉藤の元で統一されてるから、
濃尾平野にあった井の口居城を攻略すれば簡単に美濃平定が完了するヌルゲーっぷりと違って
山谷国といわれた信濃は要害堅固を支えに群雄割拠する戦国っぷりで、
各地域に1000〜の兵が篭る国人だらけで篭城する敵相手に信濃全域で苦労したわけだ。
岐阜県の面積: 10,620 km2(井の口居城を落とすだけで一国平定)
長野県の面積: 13,590 km2(要害堅固・縦に領土が長く交通補給路に難儀・群雄割拠)
だいたい跡部氏や逸見氏らが専横していた甲斐では、
甲斐守護武田信重が甲斐への入国を将軍から言われても拒否するほどだった。
17年後に無理やり入国させたが穴山氏に暗殺される始末。
こんなに武田の基盤は崩壊していたわけだしな。
308 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 16:05:24.76 ID:VlkFFc4n
信長の周辺は弱い大名ばかりだが
信玄の周辺には実力が同等国か同盟国ばかりだった。
仕方ないから謙信方面に行くしか道がなかったよね。
309 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 16:47:05.57 ID:D2CCJtof
強い割に言い訳が多いよね
それって結局弱いんじゃね
310 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 16:57:02.62 ID:8mTX2Zzo
信長の周りには強敵斎藤氏ぐらいしかいなかったからな
畿内で賢主と呼ばれた大名はみんな死んでいて最盛期が過ぎ
衰退に向かっていく大名ばっかりだったじゃん
それに比べ関東地方は強豪揃い
しかし北条・武田・上杉の三国が互角の鼎のように竜虎獅子が合い戦う強豪っぷりだったしな。
武蔵国の名は武器の蔵と言われていたと信玄も言ってるし。
家康は武田旧臣を配下に入れて翼が生えたようなもんだ。
そのおかげで信濃や甲斐が統治できたしな。
戦国関東三国志と呼ばれるほど
三雄は強かったからねぇ。
興福寺の史料でも織田軍大和衆が越後と甲斐の兵の強さにビビってたからなー
そんな中で勢力拡大してた武田さんは素直に凄い
311 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 16:58:12.20 ID:8mTX2Zzo
各国最盛期を演出した大名と跡を継いだ不肖の息子達
駿河 英主 今川氏親(北条早雲の姉の子で死没1526年)兄氏輝(〜1536年)の死後に家督争いに勝った
義元は補佐役太原雪斎(〜1555年)が死んだ後は迷走して歴史上でもレアなもっとも恥ずかしい大名の野戦での敗死。
越前 英主 朝倉孝景(〜1548年)
息子義景は補佐役朝倉宗滴(〜1555年)が死んだ後は迷走して最後は従兄弟に裏切られる。
南近江 英主 六角定頼(〜1552年)
息子義賢は最有力重臣で人望もあった後藤賢豊を惨殺し家臣から見放され浅井への内通を許し
六角氏当主権限を縮小する六角氏式目に署名させられた(観音寺騒動1563年)
美濃 英主 斎藤義龍(〜1561年)
13歳で家督を継いだ息子龍興は稲葉山城を家臣に乗っ取られたアホで家督継承しわずか6年で亡国。
跡を継いだ息子はみんな暗君だったと言える。
結果 主家の尾張守護代清洲織田家が衰退期に入り
清洲三奉行・織田家が商業都市津島や熱田を支配し隆盛拡大発展期に入り
円滑に家督を継いだ信長は実に運がいい男と言える。
しかも信長が1556年の斉藤道三の死から1567年に美濃掌握し11年で
尾張57万石+美濃54万石=111万石になり上がり、この濃尾平野に覇権を確立した時点で周囲を圧倒した勢力になっていた。 また三好長慶が死去し分裂紛争中の三好三人衆や松永久秀らの暴虐ですでに三好政権は瓦解。
一方、北条氏康・上杉謙信ら隆盛期を迎えた各家に囲まれた信玄は家督継承し1542年に信濃侵攻を開始し
1553年に村上義清が謙信の元へ敗走し信濃を11年で掌握し(しかも村上家も領土が膨張しており勃興期を迎えていた)
甲斐22万石+信濃40万石=62万石と信玄は自分の領地の2倍の石高の地を併呑する奇跡を成し遂げている。
キツイ城ランキングを見ると信濃の山城ばかり目立つ。武田軍の精強さと攻城の苦労がわかる。
312 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 19:18:35.88 ID:kqAWLf+i
>>307 美濃攻略がヌルゲーなら信玄は謙信なんかと戦わず先に取っちまえば良かったのじゃないかね?菅沼君
その頃の信長は内部の反乱や今川相手に手一杯でそんなどころじゃなかったんだしさ
313 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 19:36:43.03 ID:VlkFFc4n
武田は東美濃に勢力圏を持っていましたし、
そこにいた武田の軍勢と織田の軍勢が偶発的に衝突した時に、
すぐさま退却して土下座外交で同盟を申し込んできたのが織田でしょ。
織田が自分で同盟申し込んで来たのに何をいってるんですかw
ちなみに、武田にとっては当時は西上野で上杉と戦うのが主戦線だったので、
同盟結んで美濃は安全地帯に留めただけです
314 :
人間七七四年:2013/11/25(月) 00:19:58.07 ID:MNrbaoJd
>>313 だから何でヌルゲーの美濃攻略を信玄はしなかったかね?菅沼君
全然関係ない話をして誤魔化さないでちゃんと答えなさい
315 :
人間七七四年:2013/11/25(月) 01:03:38.34 ID:N78oF6oH
316 :
人間七七四年:2013/11/25(月) 05:39:58.30 ID:MNrbaoJd
>>315 全然答えになっていないよ?菅沼君
信長が内部反乱と対今川で手一杯の頃に信玄は何をしていたの?
美濃を攻める絶好の機会だったじゃないか
さあ早く答えなさい
317 :
人間七七四年:2013/11/25(月) 08:43:55.55 ID:5XPqK08F
というか信玄がヘタレて斎藤と、そして織田と結びついたんだけどな
信長の土下座外交なんざ講談もいいところ
318 :
人間七七四年:2013/11/25(月) 13:27:15.34 ID:jja7QeOi
信玄は斎藤と敵対して、金山城を中心部とした反斎藤東美濃国人に金や米や兵を出して後援してたのも知らんとかアホ過ぎw
319 :
人間七七四年:2013/11/25(月) 14:37:02.78 ID:8nc/OcFB
斎藤を攻略できないから、ヘタレ同士の織田と武田が組んだってわけですね
320 :
人間七七四年:2013/11/25(月) 16:05:20.35 ID:MNrbaoJd
>>318 そのまま美濃に攻め込めば良かったのにねえ
どうしてそうしなかったの?菅沼君
321 :
人間七七四年:2013/11/25(月) 16:47:36.14 ID:qqP8NIRP
>>277 石山本願寺を隠れ蓑のように矢面に立たせてるけど、
実際の黒幕は紀伊惣国一揆だからね。
だから血判状を差し出し屈服した信長は傍観している目の前で、
反織田軍事組織が安全に高野山戦線に移転していっただけ。
信長は憎き惣国一揆軍事組織にバカにされながらも、
指を加えて眺めているしか無かった。
信長はそうとう悔しかっただろうね。
結局、高野山戦線で信長は苦戦しまくった挙句に謀反で死んだ。
比叡山延暦寺を弾圧した足利義教が謀反で殺された同様の犬死だった。
そして信長が死ぬや早くも比叡山延暦寺の本格再建と、
本願寺の復権が天皇により発令されて、
畿内は急速に民心安定に向かった。
322 :
人間七七四年:2013/11/25(月) 20:11:30.15 ID:VZ9B7rC1
謙信はその半年〜1年の間に後継者問題整理してたらだいぶ変わっただろうな。
信玄はもう大勢に影響なし。
323 :
人間七七四年:2013/11/25(月) 20:17:52.49 ID:VZ9B7rC1
信玄が長生きしても武田は滅んだだろうけど
謙信が長生きしてたら武田は生き残れたかもね。
御館の痛恨の判断ミスが致命傷だったから
324 :
人間七七四年:2013/11/25(月) 21:22:37.46 ID:5XPqK08F
やれるのにやらない
言い訳は敵が強い
成功者の敵は弱い
自分なら余裕で倒せた
僻みじゃん
325 :
人間七七四年:2013/11/25(月) 22:14:07.36 ID:N78oF6oH
そもそも信長は光秀に殺されて死んだし織田家も滅ぼされたんだから成功者じゃねーだろ
326 :
人間七七四年:2013/11/25(月) 22:24:38.24 ID:5XYZmf3E
スレタイに対する答えの半分は出たのかな。
信玄が1年くらい長生きしても武田は変わらない。
327 :
人間七七四年:2013/11/25(月) 22:26:56.33 ID:5XPqK08F
敵が強かっただのと言い訳せずに天下統一してるんで十分成功者です
カエサルも失敗したというのかw
328 :
人間七七四年:2013/11/25(月) 22:35:46.62 ID:N78oF6oH
信長は天下統一どころか家の存続すらできなかったし、光秀に殺されて死んだ負け犬じゃん
329 :
人間七七四年:2013/11/25(月) 22:39:33.33 ID:5XPqK08F
ん?
まあ東海もろくに統一できなかった震源よりは成功してるよw
330 :
人間七七四年:2013/11/26(火) 00:07:39.51 ID:s5wIOeqM
そろそろ半泣きで必死チェッカーコピペしそうwww
331 :
人間七七四年:2013/11/26(火) 08:41:47.44 ID:djESQlLA
>>326 三方原の余勢を駆って浜松城を囲んでいれば少しは変わっていたかも
家康さえ殺せれば勝頼もその後かなり楽だっただろうしね
つくづく信玄は詰めが甘いというかなんというか
332 :
人間七七四年:2013/11/26(火) 10:04:18.05 ID:rvVTjYD+
信玄は家康に生きるチャンスを与えた。
信玄は家康が人間的に成長させるべく試練を与えた。
武田を崇拝する家康は甲斐を平定するや勝頼の菩提を弔い、
信長を否定し武田旧臣を取り立てた。
333 :
人間七七四年:2013/11/27(水) 08:44:45.46 ID:yERaneZQ
信玄が育てあげた武田家臣団は徳川幕府を支える人材として重宝された。
家康が最も可愛がった武田信吉 武田万千代丸
常陸国水戸25万石に封ぜられ、旧穴山家臣を中心とする武田遺臣を付けられて武田氏を再興した。
慶長8年(1603年)9月11日、生来病弱であったらしく、わずか21歳で死去した。
徳川の先陣役譜代筆頭家 実は家康の隠し子? 大政参与 井伊直孝
1603年慶長8年頃? 井伊谷以来の井伊家の家臣は直勝に、武田氏の遺臣などは彦根藩の直孝に配属された
大久保長安 慶長18年(1613年)4月25日、卒中のために死去
武田信正 元和元年(1615年)に伊豆大島に配流され、同島の野増に居を構える。
今信玄と呼ばれ警戒された駿河大納言 徳川忠長
元和2年(1616年)甲府23万8000石を拝領し、甲府藩主となる。
のち信濃の小諸藩も併合されて領地に加えられた。藩主就任に際し、
朝倉宣正や郡内地方を治めていた鳥居成次ら附家老を中心とした家臣団が編成され、
のちに武田遺臣や大久保長安配下の代官衆らがこれに加えられた。
寛永元年(1624年)7月には駿河国と遠江国の一部(掛川藩領)を加増され、駿遠甲の計55万石を領有した。
334 :
人間七七四年:2013/11/27(水) 08:51:22.12 ID:7iAv8zmk
>>332 武田を崇拝するなら信玄の孫や子供を大名にしてあげればいいのに・・・
なんでまた伊豆になんざ流しちゃうのさ
335 :
人間七七四年:2013/11/27(水) 09:29:12.23 ID:pKKCeUbE
忠長は斬られたし、大久保も潰されて伊奈が取り立てられたし
336 :
人間七七四年:2013/11/27(水) 13:01:37.93 ID:yERaneZQ
武田の復活を恐れた幕府。
また秀吉は甲斐、信濃、駿河、遠江、三河の大加増と、
秀吉のたっての推認連投での前例のない速さでの官位官職の昇進を通じて、
信雄に武田復興による自身の後継者になってもらおうとした。
しかしアホだったので秀次を後継者にする羽目になった。
337 :
人間七七四年:2013/11/27(水) 13:19:32.89 ID:M49qG3QK
所詮、負け犬の武田。利用されて捨てられる運命
338 :
人間七七四年:2013/11/27(水) 13:24:17.67 ID:pNpxUcgu
忠長は信雄の嫡男の娘が正室だったのに殺されている辺り、
織田家が軽く見られていたからだろ。
最も甲陽軍鑑が大ヒットして売れまくり、
信玄神格化が凄まじくなっていったことから、
神君家康を成長させた信玄。
民政でも辣腕を振るった信玄
これらの偉大さを慕う民衆の武田復活を恐怖した幕府の姿も垣間見れる。
339 :
人間七七四年:2013/11/27(水) 16:58:04.10 ID:aaBUKq3J
まあ徳川にしてみれば信長のパシリだったのは黒歴史そのものだしねえ
必死になって否定したいのもわかる
340 :
人間七七四年:2013/11/28(木) 11:04:17.96 ID:WrI0Yzla
家康の家臣たちが信長のことを、
大殿とか御家門様とか呼んで仕えてる始末だからな。
341 :
人間七七四年:2013/11/28(木) 14:21:15.80 ID:/Ag1TT0Y
まぁ天正10年10月には早くも尊敬する信玄を弔うため家康も
岡部正綱に命令して、信玄・勝頼親子の冥福を祈る
恵林寺と景徳院を建立してるしな。
家康はなんだかんだ言って、軽蔑していた信長を弔うような真似は一切してないからな。
342 :
人間七七四年:2013/11/28(木) 15:19:41.15 ID:h3yzeFCZ
武田領支配のための祭祀だ
343 :
人間七七四年:2013/11/28(木) 18:05:26.18 ID:0oWt7wgj
まあ家康は信玄同様嫡男を死に追いやったから親近感を持っていた可能性はあるな
344 :
人間七七四年:2013/11/28(木) 19:47:21.07 ID:HkCTvPUW
>>337 まぁ幕末でも甲斐を守る新撰組を破る為に、
官軍の乾退助が武田旧臣の板垣の名前に戻して人心を得て大勝利し関東平野への道を切り開いたくらいだからな。
東海道の西郷隆盛は苦戦して進軍停滞していた中で、
武田の遺徳を以って江戸侵攻の道を開け徳川幕府に致命的打撃を与えた。
345 :
人間七七四年:2013/11/29(金) 10:33:33.90 ID:HaohFvEb
福岡
横浜
阪神
渋谷
橋石
346 :
人間七七四年:2013/12/08(日) 20:23:16.38 ID:4erKU5A7
半年や1年じゃ全く影響なし
特に武田信玄は死ぬ半年前から病気で出陣遅らせるまでやってる
長篠城で療養する期間が長くなるだけで終わり
信玄が病であっても武田軍が信長といざ決戦!という態度ができれば
勝てる可能性がないとは言わんが、信玄の療養が本格化した2月頃は
武田軍の侵攻スピードは物凄く遅い。そして信玄の病の重篤化を理由に武田軍は撤退している
つまり信玄が長生きしても病気が治らない場合は史実と大して変わらない。
そして信玄の病は当時不治の病と言われた癌or結核。完治する可能性はゼロ。
長篠城で信玄が療養する間、武田軍が本格的に動くことはないし、その間に他の奴らが信長に攻撃されて終了
347 :
人間七七四年:2013/12/08(日) 21:20:32.35 ID:zu2aZNnt
信玄が病で出陣遅れたとか思いっきり甲陽軍鑑のネタなのも分からない程に無知だから話にならない
348 :
人間七七四年:2013/12/09(月) 02:52:41.99 ID:CBEHFqBl
>>342 腐っても武田だからなwもともとは清和天皇の血筋を引く名家中の名家
家柄だけなら織田羽柴徳川など足元にも及ばない
しかし徳川家康はなぜか、なぜか武田家の再興は許していない
>>341の言うように、信玄勝頼を厚く思っていたのなら、その血筋を引く武田家一門に適当な領地与えて
大名にしてやるくらい造作もないはず。なんせ
>>341が言う「軽く見ていた」織田や北条ですら
江戸幕府体制下で大名として生き残っているのに、武田はそんな気配全くない。
家康存命当時、武田信玄の血を引く一門は六男の武田信清、次男竜芳の息子の武田信道がいた
せめて、せめてどちらか1人でも大名に取り立てて、武田の再興を高々に宣言してもいいはず。
ところが家康はそれをしないどころか、武田信道を大久保事件にかこつけて遠く伊豆大島に流刑にしたわけだ。
おまけに家康は、武田と縁も所縁もない自分の子供である信吉に武田の姓を与え、まるでわが子こそ武田当主であるといわんばかりの扱いまでした。
現代で言えば、総理大臣の息子がいきなり天皇か皇族の跡取りだと勝手に宣言するようなもん。
武田に領地を与えないばかりか尊厳まで奪い去っている。しかも武田信道は自分が死んだ後も許さず、
信道系が許されたのは家康の孫である徳川家光が死んだあとで、すでに信道が死んで息子の信正の代になってから。
かつて歴史上、敗軍の長でもないのにこれほど冷遇された家があっただろうか
349 :
人間七七四年:2013/12/09(月) 08:14:48.48 ID:3UN7rGsu
名門出身の守護大名なんて皆衰退期に入ってて次々新興勢力によって倒されてる時代に
名門だとかブランドだとか何の価値もねーよ
腐敗した家臣構成を抱えて崩壊した両上杉がいい例じゃねぇか
350 :
人間七七四年:2013/12/09(月) 08:20:52.99 ID:uX719id7
>>338>>344 関東政権たる江戸幕府にとって、
武田復活は常に目に見えない
仮想敵国的な脅威であり畏怖の対象であり続けた証だな。
甲陽軍鑑がバカ売れして庶民にまで軍学ブームが波及し、
信玄の治世を理想とされ、
幕府の政治が批判されたくらいだからな。
特に甲州街道宿場町を守っていた八王子千人同心とか武田旧臣なんて引退した爺まで、
出版されるやいち早く競って購入して、
自分の父祖のルーツを考え、幕府政治の汚職腐敗不平等批判の義憤に駆られていたくらいだからな。
351 :
人間七七四年:2013/12/09(月) 08:21:32.15 ID:unjJBzZa
守護大名が下克上されないように家を守りぬく難易度の高さは異常だからな
352 :
人間七七四年:2013/12/09(月) 15:08:42.89 ID:HonsSIHP
金持ち大久保が旧武田系の兵を八王子に1000の兵を甲州街道警備に駐屯させていて
当時、他に幕府が常備兵力としていたのは忍1000と川越1000だけだった。
奥羽や東海で謀反が発生し、関東へ押し出してきた有事においては将軍は、
甲州街道を通って甲斐へ避難する手はずになっており、
甲斐と武田氏は重要なファクターだったので、警戒されていた。
353 :
人間七七四年:2013/12/11(水) 17:28:18.83 ID:HR+OJTQU
. ,、r‐''''''''''''''''ー 、
,r' `' 、
/ ヽ
. / , ヽ
,,' ; ,、、,_ ニニ ,、」、 俺は嫌な思いしてないから
l. :;;;i ´ .._`ー ‐''"....| それに織田豊臣徳川らが糞味噌に叩かれようが俺の知った事ではないわ
l:,;'"`'、, ‐=・-; -・=‐ ;〈 だって全員俺が嫌いな連中だし
. ';i l :::i;;,, ::' ` ̄,:  ̄´ .:゙, 大袈裟に言おうがそいつらが無能でもなんとも思わん
l;゙、',.::l;;;i ゚人,,__,,人:.. l, それは俺の頭の中では信玄公こそ戦国最強の存在だから
l;;;;`‐;;;;;ヽ , __ij..__ 、: l;;;,, つまり日本人なら武田信玄公を崇めるべき
. ,、rイ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ゝ `Zエlフ'´ , !;;;;:'
'.:.:.l ll ;;;;;;;;;;;;;;;;;' ,rニン" ` ̄´´ `ノ;;;;;`-、
:.:.:.| l.l '';;;;;;;;;;;;;;' ,イ l''' l `
:.:.:.:| ','、 ''''''''' , ‐---,ェr'".l.| | |
:.:.:.:| ゙、゙、 `''''''''"",ノ l l .| |
354 :
人間七七四年:2013/12/19(木) 18:24:52.23 ID:iBbmjdul
半年はキツいな
あと2〜3年長生きしてりゃ面白い展開にはなったと思う
355 :
人間七七四年:2013/12/20(金) 01:06:30.55 ID:cAPemCnX
不摂生な連中の寿命をこれ以上延ばすとか無茶言いすぎだろ
まぁ2〜3年程度じゃ変わらんだろうけど
356 :
人間七七四年:2013/12/23(月) 08:59:37.40 ID:osOHM6s2
なぁ
現代の自衛隊でも越後出身者と甲斐信濃出身者は最強兵士候補と言われてる
現代は言わずものなが江戸明治維新の平和ボケ時代でさえ最強の名をほしいままにしてました
戦国のとんでもナくつおい謙信、信玄公のご威光は日本人のDNAにすりこまれてしまってる
で、次につおいのは武士の本場でもまれつくした北条だろ。フツーに強い程度なら謙信信玄に滅ぼされてる
大阪名古屋弱小は刀を包丁に作り替えて手もみすってエビ天ぷらつくって金儲けしてしゃちほこってろ。にゃー
357 :
人間七七四年:2013/12/23(月) 16:03:06.34 ID:SoN30hBV
358 :
人間七七四年:2013/12/23(月) 16:21:18.17 ID:SoN30hBV
訂正
爆風じゃなくて幕府ね。
朝鮮人の織田厨はすぐ鬼の首をとったかの如く、
揚げ足取りして論破宣言をする頭の悪さだからね。
359 :
人間七七四年:2013/12/24(火) 00:59:58.08 ID:UUtrUNPm
>>356 旧帝国陸軍で最弱だったのは間違いなく東京の第一師団
日露戦争で醜態晒したし大東亜戦争でも大した働きはしていない
デタラメ言わないように
360 :
人間七七四年:2013/12/24(火) 11:51:02.76 ID:vdjNCM2E
北条の本領は伊豆相模。
東京は背反が激しい植民地武蔵なのも知らんのか。
361 :
人間七七四年:2013/12/24(火) 13:35:35.72 ID:UUtrUNPm
>>360 第一師団は東京千葉神奈川埼玉山梨から兵隊集めていた
362 :
人間七七四年:2013/12/24(火) 13:51:07.39 ID:dZIlgLo+
関東最弱とか言い出すと、
鎌倉幕府も鎌倉府も江戸幕府も全否定だなw
実際は明治政府が関東民を死地に追いやって意趣返ししてただけだろ。
身分開放で農地に縛られなくなった人々が東京に流入してきてたから、
純粋に関東人とも限らんし。
363 :
人間七七四年:2013/12/24(火) 20:03:31.89 ID:HELvinnn
弱いといえば四師団
強いといえば六師団
日本の常識だろw
なんだか戦国板のヲタが喜ぶ薩人マシーンとやらを後世、殺しまくった連中の元祖だぜ
364 :
人間七七四年:2013/12/25(水) 08:30:27.17 ID:7ObORPSi
まあ、どの師団だろうと、このスレには関係ないわな。
しかし、信玄と謙信があと数年生きていたとすれば、どのくらい楽しくなった
のだろうか。
365 :
人間七七四年:2013/12/25(水) 09:47:05.15 ID:rsfdII22
連隊ネタで関東弱く広島最強とか
日本史板の恥部の白馬青牛さんがまた降臨したのか?
戦国板で毛利最強、大友最弱を主張してフルボッコされ逃亡した過去を忘れたのか?
366 :
人間七七四年:2013/12/25(水) 20:27:51.13 ID:8Q1cDMxH
広島が強兵ぞろいだったとしたら
強兵を持ってしても雑魚の大友軍や、自国の7分の1程度の宇喜多勢に蹴散らされまくった
毛利方の指揮官は相当無能なんだろうな
367 :
人間七七四年:2013/12/26(木) 08:26:29.42 ID:vIIqLw7t
>>366 それもそうだけど、この戦国版でよく言われている、最弱の織田軍に
攻められている始末だからねw
368 :
人間七七四年:2013/12/26(木) 12:52:14.53 ID:hQPdJjUp
この戦国版で(菅沼遼太によって)よく言われている
369 :
人間七七四年:2013/12/27(金) 19:43:39.24 ID:ooyYr69w
信玄が死んだ途端に武田家を離れた武将は誰だった?
370 :
人間七七四年:2014/01/07(火) 15:49:30.86 ID:P9Mlqy2T
>>11 ちょっと待って
>>1はただ生きてるってことなの?
寿命が伸びるってことは療養の時期もずれるって事でしょ?
つまり長篠城では療養しない
371 :
人間七七四年:2014/01/07(火) 20:04:23.35 ID:bkvgP/YJ
東武士は大方強敵どもなり
上方の弓矢すえになりたる国ども
上方衆恩も存ぜず強き弱きの弁えもなく義理をも恥をも捨て候て
信州(武士)弓矢功者の事は、侍の事は申に及ばず、百姓まで勝負のすべをよく存じたる
信州弓箭つよき事、大形ならざるに付、忰者・中間まで武勇をたしなみ、にげおつる者さのみ無之して
関東の儀、昔より弓箭国と申は、まず武蔵は武の蔵とやらん承及候。(中略)よき武士あまた候て、(中略)弓矢巧者、手柄武士達際限なく御座候事、老若共に沢山なる儀は、積もられぬ程にて候
三河は武篇の国なる故、五千あらば上方の二万にかけあひ申べく候。(中略)三方ヶ原御合戦に、討死の三河武者下々迄、勝負を仕らざるは一人もなく候。
たけき武篇の家、和朝に上杉謙信・徳川家康なり。
(『甲陽軍鑑』)
372 :
人間七七四年:2014/01/07(火) 20:10:57.18 ID:bkvgP/YJ
関東
東人は常に云わく、額に矢は立つとも、背に矢は立たじ(続日本紀)
東男は出で向かひ、返り見せずて勇みたる、猛き軍卒(万葉集)
三河
三方ヶ原御合戦に、討死の三河武者下々迄、勝負を仕らざるは一人もなく候(甲陽軍鑑)
373 :
人間七七四年:2014/01/07(火) 23:33:17.04 ID:c0GlZxx9
>>370 そもそも寝たきりで1年生きるだけならこんなスレは立てない
1年伸びるということは活動限界も1年伸びるということ
1年で当時の上洛ってどの辺まで行けるかわからんが
374 :
人間七七四年:2014/01/08(水) 11:29:34.71 ID:eKRVumZN
1年で信長の領土を通過するくらいまで進んだとして
信長が信玄に手を出さなければチョット通りますよって通過しただけ
って事はあるかな?徳川は自分からちょっかいを出して酷い目にあったけど
さすがに信長は無視できる軍の規模ではないか
375 :
人間七七四年:2014/01/20(月) 05:19:53.66 ID:/hq0KjYm
謙信・信玄が互いに敵対してたにもかかわらずあそこまで
織田を追い詰めたんだから、両者が不可侵条約でも長期間結んでたら織田は瞬殺されてただろうな
376 :
人間七七四年:2014/01/20(月) 12:17:27.75 ID:udRkUxP0
信玄があまりにも無能だったおかげだろうなw
377 :
人間七七四年:2014/01/20(月) 12:45:07.43 ID:2EGVj7Yx
まあ、織田をあまり意識していなかったんだろうね。
378 :
人間七七四年:2014/01/24(金) 08:31:28.61 ID:VBSnAhTX
してたよ
武田からすり寄ってきたんだから
379 :
人間七七四年:2014/01/24(金) 10:43:50.13 ID:gZ4wz7z/
織田と武田の同盟って信長から同盟結んで信玄が破ったんじゃなかった?
380 :
人間七七四年:2014/01/24(金) 22:13:09.61 ID:StypLkqt
信玄は本願寺と織田の和睦斡旋してやったりと織田家の為に奔走してた。
しかし信長は掛川城の今川氏真の小田原への移送を黙認する背反行為や、
東美濃の岩村城を奪い取ったり、
信玄が尊崇していた天皇の勅命を破ったり、
信玄が信仰していた比叡山を焼き討ちしたり
ひたすら信長は悪逆無道を繰り返し挑発しまくってた。
381 :
人間七七四年:2014/01/24(金) 23:39:09.37 ID:VBSnAhTX
なんだ、出し抜かれただけじゃん
そんなのが織田信長以上とかないないw
382 :
人間七七四年:2014/01/25(土) 09:51:46.02 ID:LHVXT+T6
チャイニーズ高校野球権利団体ワイパー 沖縄海焼きそば
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チャイニーズ高校野球権利団体ワイパー 沖縄海焼きそば
383 :
人間七七四年:2014/01/26(日) 14:20:23.83 ID:nwk0fZD3
朝敵信長
384 :
人間七七四年:2014/01/30(木) 22:09:54.16 ID:cyfN5uL0
>>381 さんざん卑怯とか悪人とか汚いとか悪口三昧中傷しまくってた癖に、
論破されるや180度豹変して、
出し抜かれただけじゃんとか言い出し始める織田厨は、
やっぱり特定アジア脳そのものだな。
385 :
人間七七四年:2014/01/31(金) 00:06:42.31 ID:8OL1MdO3
そりゃ視点変えればそうなるよ
ずっと同じ視点からしか見れないお前にはわからんだろうw
386 :
人間七七四年:2014/03/06(木) 15:34:10.73 ID:J5zBV2nv
387 :
人間七七四年:2014/04/26(土) 16:29:53.09 ID:rNWc0GCy
共同戦線ではなく謙信・信玄が互いに敵対してたにもかかわらずあそこまで
織田を追い詰めたんだから、両者が不可侵条約でも長期間結んでたら織田は瞬殺されてただろうな
388 :
人間七七四年:2014/04/26(土) 16:59:31.78 ID:H/WGWcO3
そいつらが組んだときは北条がどっちかの敵に回るだけ。
389 :
人間七七四年:2014/04/26(土) 17:26:46.63 ID:YjOSTzuD
非現実的な構想なんてまるで意味ないしな
全国の諸大名が信玄に従っていたら武田は天下を取れたと言うのと同じ
390 :
人間七七四年:2014/04/26(土) 17:41:41.16 ID:H/WGWcO3
むしろ北条と組んでて上杉もろくに動けず
織田が畿内で手いっぱいなんて千載一遇の好機でも
徳川領のきれっぱしなしみったれた土地しか切り取れなかったのが武田
しかも兵を引いたらあっさり取り返された。
391 :
人間七七四年:2014/06/01(日) 18:44:15.25 ID:4DRi4PPp
対上杉に上野と信濃で8000は兵残さなきゃいけないし岩村にも別働隊をおかなくてはいけない。
徳川は40万石そこそこの大名。
それで100万石のうちの60万石分に相当する兵力で
対徳川の侵略戦争を圧勝で終わらせたのが信玄じゃん。
392 :
人間七七四年:2014/06/01(日) 19:31:13.70 ID:+p6jOTOG
徳川に圧勝したのに、なぜか徳川に滅ぼされる武田
393 :
人間七七四年:2014/06/01(日) 22:06:52.23 ID:1aobFJ0F
徳川に滅ぼされたのかよ凄えないつ徳川軍が高遠城落として天目山で勝頼の首とったんだ?
394 :
人間七七四年:2014/06/01(日) 22:07:38.25 ID:Mwr8+BQH
情けない話だよな
395 :
人間七七四年:2014/06/01(日) 22:08:08.11 ID:Mwr8+BQH
徳川と織田に滅ぼされるなんて
396 :
人間七七四年:2014/06/01(日) 22:08:52.29 ID:Mwr8+BQH
徳川と織田に滅ぼされるなんて
397 :
人間七七四年:2014/06/01(日) 22:09:29.76 ID:Mwr8+BQH
連投すまん
398 :
人間七七四年:2014/06/08(日) 02:40:53.67 ID:QnxqUwTE
信玄なら信長と対決しただろう。
信玄が勝っても勝頼の代でどうなったかは、わからんが。
399 :
人間七七四年:2014/06/08(日) 19:50:49.38 ID:NbrwdSTi
信長公との決戦にビビって
徳川領ちんたら徘徊してたら
寿命が尽きた究極屁垂れカス
400 :
人間七七四年:2014/06/15(日) 19:08:24.04 ID:s9KwTPh5
信長と戦う気満々だから美濃に進攻させたんだろ
401 :
人間七七四年:2014/06/15(日) 21:30:34.02 ID:3bSSji/J
じゃあ信玄自ら陽動に回って部下に本命も織田の相手させたのか
どんだけヘタレだよ
402 :
人間七七四年:2014/06/16(月) 08:54:50.63 ID:QFK4LwTE
美濃の調略進んでたし、
信玄みずからじゃなくても楽勝だったからだろ
403 :
人間七七四年:2014/06/16(月) 11:48:12.31 ID:Xg5IsIZJ
信玄がいなくても楽勝だったくらい織田は貧弱だったのに
てめぇの体調不良で全軍撤退させるのか
404 :
人間七七四年:2014/06/16(月) 12:28:53.90 ID:L2n+DHhu
楽勝なのに調略を進める
楽勝なのに自分は家康に当たる
楽勝なのに体調不良で撤退
そして長篠へ……
405 :
人間七七四年:2014/06/16(月) 16:26:29.20 ID:qPo5Gg8f
402
そんな楽勝なのに自ら赴かないってどんだけびびってたの?w
しかも朝倉に出兵催促して?浅井焚きつけて?本願寺にもすがりついて?w
406 :
人間七七四年:2014/06/16(月) 16:56:00.05 ID:OnnJkr8e
まあどうやろな信長公記にも三方ヶ原の時のことを八方塞がりで手立て無しと記載するくらいだしやばかったんじゃない?
407 :
人間七七四年:2014/06/16(月) 17:50:19.78 ID:QIdY3PT5
>>406 少し違うし、そこの部分だけ見てヤバいと言ってもな。
正確には『信長が方々手塞がりの状態となっているらしいという噂を、下々の者が義昭に告げたんじゃないか』
でこの記述からわかるのはそういった噂が流れているということで現状はまた別。
江北で越前朝倉氏の大軍と対峙していると言っているがこの時点じゃ朝倉主力はまだ越前だし
現状を正しく認識している噂とは言えない。
とはいえそういった風聞が流れるぐらいには京周辺は動揺していたとも言える、
しかしその後の石山今堅田を織田側が落としたことにより、
細川宛書状で『世間のかほつきも変わる』と書いてあるので、
おそらくその風聞も払拭されたと。
408 :
人間七七四年:2014/06/16(月) 18:48:24.23 ID:9FjK9yiZ
なら徳川救援に本腰入れればいいじゃね?
409 :
人間七七四年:2014/06/16(月) 18:50:41.53 ID:3QAgopYr
武田自体が織田との直接決戦を避けて徳川だけを攻めているのが現状
これが史実だもんな
410 :
人間七七四年:2014/06/16(月) 19:29:21.36 ID:lt2g/v91
411 :
人間七七四年:2014/06/16(月) 20:58:05.76 ID:OnnJkr8e
八方塞がりでないなら信玄が生きてる間に本腰入れれば
平手らは死なずにすんだんじゃないの?
412 :
人間七七四年:2014/06/16(月) 23:13:19.25 ID:qPo5Gg8f
武田だけを相手にしてるわけじゃ無いんだぞー
なんでもいいよ
例えば受験勉強
数学だけ満点とっても仕方ないんだろ?
例えば野球
一回から抑えの切り札使うか?
例えばビジネス
開発部門にだけ全経営資源を投入するわけないだろう?
お前が言ってるのはそう言うこと
或いは巷間言われてるような規模の軍事行動を、武田はしてなかったのかもな
413 :
人間七七四年:2014/06/16(月) 23:21:44.83 ID:3q+tutrt
>>411 信玄は大して重視されていなかったということ
414 :
人間七七四年:2014/06/17(火) 05:54:25.19 ID:je8mx6S7
>>412 それを八方塞がりっていうんじゃないの?
なんか散々史料が〜史実では〜とかいってるけど結局重視されてなかったとか根も葉も無い妄想でしか語れないんじゃん
415 :
人間七七四年:2014/06/17(火) 09:51:44.35 ID:g4Tkkll4
織田は冬になったから軍事行動が一旦止まったってだけで
春になったら普通に反撃しているからな
武田が完全に兵を引いてから織田が動いたって言うなら八方塞がりって言える可能性もあったけどね
416 :
人間七七四年:2014/06/17(火) 23:17:42.87 ID:6gdsjPX6
>>414 2行目のお言葉、そっくりお返ししますわ。
417 :
人間七七四年:2014/06/18(水) 02:20:08.07 ID:JSaPgAGl
414
言いません
他にしなければならないことがあったり(ビジネス)、それだけに拘ってる場合じゃ無かったり(受験勉強)、他に有効な手段があったり(野球)
いずれも、手が出ないのではなく、他に手を出すべき事柄、効率的な事柄があるの
ビジネスなら営業や生産や品質管理、受験勉強なら英語やら国語、野球なら先発を使うとかな
武田だけが相手じゃ無いんだよ?
418 :
人間七七四年:2014/06/18(水) 18:40:57.31 ID:7o/v8k6N
信長公記ですら松永久秀降伏を一年前倒しの大ウソを吐きながらも、
なおも方々御手塞がりと信長の八方塞がりの窮状を書かざるを得ない状況だったじゃんよw
それがキチガイ織田チョン脳だと冬だから軍事行動をやめたと曲解に変換されんだwww
419 :
人間七七四年:2014/06/18(水) 22:23:24.20 ID:JSaPgAGl
年々三分の二のだがさんが古語で書かれた資料を持ち出して喚いてまーす
420 :
人間七七四年:2014/06/18(水) 23:10:34.93 ID:tKVd0D65
自然と不足する玉薬
421 :
人間七七四年:2014/06/19(木) 07:40:38.81 ID:OZmAykBW
幽斎に誰が敵で誰が味方かわからないと
泣きをいれてたし、三好らにも摂津の城を次々落とされ、
幽斎に絶句とか動揺して書いてた信長www
しかし織田在日曰く、冬だから軍事行動をしないから仕方ないと意味不明の釈明www
422 :
人間七七四年:2014/06/19(木) 13:49:03.12 ID:UHTkf8xv
>>421 また誤訳かw
ほんと訳せないのに無理やり自分に都合よく訳すな
というかそんな風に妄想で訳作るならお前は史料見る必要ないんじゃね
適当に小説でも書いてた方がよほど建設的だと思うぞ
423 :
人間七七四年:2014/06/19(木) 15:01:11.32 ID:js2wQTcc
本当に織田軍が死にかけだったら朝倉や三好あたりが信長の首取ってるもんな
424 :
人間七七四年:2014/06/19(木) 17:15:25.49 ID:aXHq4YyQ
信長大躍進のきっかけを作ってしまった信玄……
425 :
人間七七四年:2014/06/20(金) 11:44:56.56 ID:azZIypPc
皮肉だな
426 :
人間七七四年:2014/06/22(日) 07:52:53.61 ID:ssvu9SNd
謙信の上洛戦に怯えて、
武田に同盟してくれと土下座した信長www
その後も甲江同盟詐欺で武田の鋭鋒から逃げまくる信長www
427 :
人間七七四年:2014/06/22(日) 11:51:22.05 ID:tMO1WTH4
そして武田家は滅亡したわけか
428 :
人間七七四年:2014/06/22(日) 13:05:27.95 ID:vrTyZpKu
浅間山噴火して、武田滅亡の怪異とされたら
もうパニックと混乱で戦いすらできんから仕方ない。
なにせまともに戦った武田兵なんて
多聞院日記3/2に織田軍が甲州之衆と戦い100討ち取ったと述べてる高遠城での一点だけだからね。
いずれにしても噴火を契機にして、ほとんど無抵抗で武田が自滅してるから仕方ない。
巨大な威力の天変地異の天災を形容するのに、
公記は天罰
朝廷は神威
教会はデウスの力
それぞれの立場から未曽有の規模の浅間山大噴火を表現してるんだなぁと。
他の大名が滅びる時とは全く違う異質な自然現象が起きてるんだね。
そしてそれが信長破滅と密接に関わるのだから異質中の異質。
他国の大災害を信長は大吉事と喜んで火事場泥をやるために張り切って出陣準備してる辺り
先日の東北大震災でみんなが避難した後に、外国人盗難集団が鉄パイプ装備で家々を荒らしまわって
略奪して回った事件を思い出したわ。
北条早雲が駿河大地震で崩壊した伊豆国を襲撃して
組織的抵抗できない堀越公方から国を奪った時と同様に
武田もほとんど組織的抵抗もできずに災害便乗型強盗武力団に領国を荒らされたのだろう。
宣教師がデウスが起こした信長の反省を促すための驚くべき兆候と恐るべき不思議なこととして、
この噴火による徴候による恐怖から、
哀れな信長がデウスを天地の絶対主として認めることができるようにするために起こしたが、
増長していた信長が陥っている闇があまりにも根深く、
これ程の光も彼に悟りの目を開かせることが出来ずに破滅したと書いてる。
酷いゼウスの災厄の起きた方向へ信長が恐れずに進む姿を不思議がっていたが、
立入左京亮入道道隆佐記で天正十年二月十四日夜に従北方赤雲天下を覆い、
その色の光明は朱の如し。信長大吉事云々。即3月5日に信州表に御出馬。
などと浅間山噴火が起きたことを火事場泥棒できる千載一遇のチャンスと信長は捉え即出陣してる。
多聞院日記で浅間の獄の焼けるは東国の物怪(もののけ)と武田滅亡の怪異という風聞が流れて
武田軍が自壊したようで、武田軍がまともに戦ったと思われる一次史料では、
多聞院日記3/2に織田軍が甲州之衆と戦い100討ち取ったと述べてる高遠城での一点だけだからね。
いずれにしても噴火を契機にして、ほとんど無抵抗で武田が自滅してるから仕方ない。
東北大震災の混乱の最中に攻められるようなもんだ。
429 :
人間七七四年:2014/06/22(日) 13:21:08.24 ID:+Km1hpYz
そんななか進軍出来る織田軍の兵站と進撃能力よのぅ
430 :
人間七七四年:2014/06/22(日) 20:22:30.62 ID:tMO1WTH4
そして一応補足しとくと
>公記は天罰
>朝廷は神威
>教会はデウスの力
浅間山噴火についてこんな事は書かれていない。各史料とも。
431 :
人間七七四年:2014/06/23(月) 22:40:13.76 ID:6Gvr2QGI
浅間山噴火で火砕流の危険性のあるなか進軍し続ける織田軍
浅間山から凄く近いのに無傷で済ませる妖術師がいる北条軍
信玄さんを慕う会という冬休み期間中に災害で慌てる武田軍
432 :
人間七七四年:2014/06/25(水) 11:24:21.83 ID:eCZuXvr6
木曾から援軍要請が来ても武田領へ侵入出来なかった織田軍の噴火日から侵攻開始。
北条氏政が16日付け書状で八王子城へ向けて、甲斐の情報が全く入ってこなくなったと情報途絶を報じる。
19日に勝頼夫人が武田八幡宮に対して、 勝頼に罪がないのにと天意に対して抗議しているが、天意とはまさに天変地異のこと。
織田軍を迎撃すべく出陣してきた武田軍が、全く戦わず撤退したどころか謎の瓦解。
援軍を出し始めた同盟国越後上杉氏にも逃げられる浅間山のある真田領へ勝頼は逃げず、なぜか小山田領に逃げる謎。
甲斐で一番浅間山に近い場所にわざわざ集まり僧たちが人身御供とも言われる観音様に祈りを執行する。
浅間山噴火について丸島和洋氏は、晴豊公記の東方に厚い雲が垂れ込め、空が赤く染まる様子や、
多聞院の浅間山噴火が甲斐信濃敗北の怪異という話を列挙し、 武田勢の士気に大きな影響を与えたことは想像に難くないと評している。
信長の敵国の神を流したって甲斐市一ノ宮を指し、山梨県笛吹市に溶岩が飛び散り宮が流されたって解釈しか出来ないね
塩山向獄禅庵小年代記 天正10年3月
開山徳和之観音堂へ各僧衆御伴申三日三夜奉移と書かれている。
徳和之観音堂とは三富村(旧山梨県東山梨郡)の観音堂で三日三晩の御祈祷をして下山したそうだ。
これは重大な意味を持つ。この村の位置はまさに甲斐・信濃・上野との県境にある。
そして浅間山からも近い。なぜこのタイミングでここに各々の僧が衆を伴って
3日間の山篭りをして祈祷しているのか(山梨県笛吹市の北に位置する事実)
察するに2月中は噴火の影響で近づくことができず、噴火被害者を弔うことができなかったが、
ようやく混乱が落ち着いてきた3月になり、浅間山を望むことができる山上へ登った
各地から僧に伴われた遺族達が被害者を観音様に見立てて鎮魂し、浅間山の荒ぶる神を沈める祈祷をしているのだ。
2/14 浅間山噴火し、空が真っ赤になり、京の空から雪とは異なるものが降って来て、大気圧変化のためか和仁親王が体調を壊す。
2/16 五の宮やひめ宮も相次いで体調を崩されていたことから、この日の夜に病退散のために方違が行われた
(陰陽道における方忌みのこと。浅間山噴火方面からの忌の流入を避けるため)
3/2 多聞院日記によれば織田軍が甲州之衆と戦い100討ち取る(織田の武田攻めの戦果はたったこれだけ。のちに信忠は高遠城に勝頼もいて苦戦したと大ウソを吐く)
3/11 村井が吉田へ御運によって武田侵攻がうまくいったと主張した(織田の実力といわないのは噴火によるラッキーだから。
信長公記でも信長が死んだ天意を棚に上げてw武田の悪政とか因果とか書いて勝頼が天意の罰で滅びたように書くなど、
天意の報復は悪政が呼び込んだ惨事のように他力本願的勝利を匂わす)
しかし吉田は二条御所で俺や公家たちが信長のために千返之御楽で祈祷したからだと対立(噴火は祈祷力!!!天皇すげぇー!)
3/12 多聞院が天候不良と先頃の光物の影響で不安感を募らせる(浅間山噴火とその影響で穀物の不作など先行き不安がる)
3/15 正親町天皇が庭上之作法をやってたらなぜか雨が止んだ。天道之感応奇特だわ〜と公家達か感嘆した(濃尾之暦者って馬鹿じゃんw最近の天皇力すげぇな!)
3/23 穴山信君が裏切った理由って金子2000枚で買収されたんだってよ!などと多聞院が記録する(噴火で甲斐はどんだけ貧乏な生活に堕ちてるんだよw)
また最近の大風霰飛火逆雨の天候状況は天皇の祈祷力で信長の敵国の神を吹っ飛ばしたからだ(浅間山噴火による飛火や粉塵で日照も良くないようだ。こりゃ甲斐一揆くるな!)
まぁ戦後にはまたその神々も勧請してやろうが、まぁこれできるのは神力だけで、人の力じゃできない技だと書く(もうキチガイ信長と天皇どっち選ぶか決意しろや!)
多聞院の記述には断片的に浅間山噴火後の被害が書かれていて、その被害の大きさから先行きを不安がっている。
433 :
人間七七四年:2014/06/25(水) 11:26:14.49 ID:eCZuXvr6
傍証としてさらに二次資料の信長公記から補填してさらに自説の追加補強
織田軍は遠陣だから兵糧が足りなくならないように わざわざ兵力調整してたのに すぐ軍を解体して逃げるようにして
速攻で甲斐から領国へ帰ったの? なんで甲斐で一揆がおきたの?
当時の甲斐はあきらかに食料不足だよね。これ火山の被害じゃないの?
3/20に木曽や穴山に会い、23日に滝川に関東行きを命じた信長だったが、
兵糧に困窮した織田軍は占領した深志城(松本)の兵糧を
3/24に分配するほど追い詰められてる。
3/26には馬の飼料を北条から貰うほど困窮。
3/28には信忠も甲斐から諏訪へ逃亡。
それですら、人があまりにも寒くて多く死んでいったから、
29日には開陣して諸将はいそいで帰国。 なんで大量に死んでるのかなぁ?
噴火被害で荒廃した甲斐で馬の飼料どころか一切の食料が手に入らず、よって体の熱量不足になり、
おまけに噴煙の影響で天候はボロボロ(3月末なんて5月上旬だし)
もう甲斐から逃亡するしかなくなったからだよね。 そして荒廃した甲斐ではついに一揆が起きて川尻が殺される。
晴豊記 2/14 浅間山噴火し、空が真っ赤になり、京の空から雪とは異なるものが降って来て、大気圧変化のためか和仁親王が体調を壊す。
兼見卿記 2/14 この日の夜に和仁親王が体調を崩す。
立入左京亮入道隆佐記 天正十年二月十四日夜。従北方赤雲天下を覆い、その色の光明は朱の如し。信長大吉事云々。即3月5日に信州表に御出馬。
晴豊記 2/16 五の宮やひめ宮も相次いで体調を崩されていたことから、この日の夜に病退散のために方違が行われた。
(陰陽道における方忌みのこと。浅間山噴火方面からの忌の流入を避けるため)
フロイス日本史 3/8 豊後からの報告とも照らし合わせて、信長出陣前に起きた浅間山噴火をデウスの示し給うた現象だったのだろうと書く。
フロイスが使ってるのはユリウス暦だから、日本の暦で言うと2月14日。
ttp://maechan.net/kanreki/ 兼見卿記 3/11 村井が吉田へ御運によって武田侵攻がうまくいったと主張した(織田の実力といわないのは噴火によるラッキーだから。
信長公記でも信長が死んだ天意を棚に上げてw武田の悪政とか因果とか書いて勝頼が天意の罰で滅びたように書くなど、
天意の報復は悪政が呼び込んだ惨事のように他力本願的勝利を匂わす)
しかし吉田は二条御所で俺や公家たちが信長のために千返之御楽で祈祷したからだと対立(噴火は祈祷力!!!天皇すげぇー!)
多聞院 3/12 多聞院が天候不良と先頃の「光物」の影響で不安感を募らせる(浅間山噴火とその影響で穀物の不作など先行き不安がる)
多聞院 3/23 穴山信君が裏切った理由って金子2000枚で買収されたんだってよ!(噴火で甲斐はどんだけ貧乏な生活に堕ちてるんだよw)
最近の「大風霰飛火逆雨」の天候状況は天皇の祈祷力で信長の敵国の神を吹っ飛ばしたから(浅間山噴火による飛火や粉塵で日照も良くないようだ。こりゃ甲斐一揆くるな!)
戦後にはまたその神々も勧請してやろうが、まぁこれできるのは神力だけで、人の力じゃできない技だと書く(キチガイ信長と天皇どっち選ぶか決意しろや!)
多聞院の記述には断片的に浅間山噴火後の被害が書かれていて、その被害の大きさから先行きを不安がっている。
434 :
人間七七四年:2014/06/25(水) 11:27:10.96 ID:eCZuXvr6
こんな感じだろ。明らかに
公記は天罰 朝廷は神威 教会はデウスの力
上記は同一現象を表現しているだろ。
つか浅間山噴火以外に該当するような事件は他にない。
天正十年二月十四日夜。従北方赤雲天下を覆い、
その色の光明は朱の如し。信長大吉事云々。即3月5日に信州表に御出馬。
たしかに方角はあってないように見えるけど、そもそもこの時に
立入宗継がどこに居たのかわからないよね。観測地点も大問題じゃないかな?
フロイスは安土城の東方と的確な表現をしているよね。
それに「北」って単に方角を指しているだけなのかね?
釈迦が死んだ時に、頭を北向きにして安置された事に由来する北枕など
不吉を予言する際んぽ慣用表現の可能性も捨てきれないよね。
それに2/14で、やはりここにも夜の出来事と書いている。
光明ってのは、のちに多聞院も「光物」と表現してる事象と共通項だよね。
なにより信長は浅間山噴火を火事場泥棒する千載一遇のチャンスと捉え
大喜びして即、信長自身の出馬準備してるのがわかるよね。
当然、信濃・美濃国境にいる信忠の侵攻開始が始まったのも理解できる。
晴豊記が夜の観測で空が赤く見えたと書いていて
フロイスも夜10時から朝方まで見れたって書いてるのだから
同じ浅間山噴火を表しているし、
豊後から見れたって話も同様の徴候って書いてるんだから
別々のことを言ってるような解釈にはならない。
多門院日記の2月14日地震ってのも
こうやって見ていくと浅間山噴火による地震が奈良県までは
少なくとも影響を及ぼしているのがわかるね。
しかも小さな地震ならわざわざ記さないのだから
そこそこの規模の地震が浅間山噴火日に観測されているわけだ。
宣教師が酷いゼウスの災厄の起きた方向へ信長が恐れずに進む姿を不思議がっていたが、
こんなところに回答があったとはw
そうか信長は火事場泥棒が出来るから喜んで東に向かってたのかw
宣教師と信長の認識ギャップはここにあったかw
435 :
人間七七四年:2014/06/25(水) 11:28:42.76 ID:eCZuXvr6
個人的には二次資料だから必ずしも作者の思惑や作為や取捨選択が反映していて正確には書いてないとは言え、
信長公記から読み取れる 兵糧が無くなら無いように人数調整した兵力でありながら、
甲斐は極度の兵糧不足で織田軍が逃げるように甲斐から急いで逃亡するも、
信濃諏訪湖辺りでついに織田軍が凍死続出になってることだな。
5月上旬ともなれば青森県の津軽弘前城でも桜祭りの時期だしな。
極度栄養不良と極度の天候不順が感じ取れる。 浅間山噴火の酷い惨状が読み取れるんだよな。
公記は天罰・朝廷は神威・教会はデウスの力 奈良興福寺は甲斐信濃滅亡の怪異・大風霰飛火逆雨
恐ろしいまでの天変地異が甲斐を襲ったんだろうね。
火焔が飛び散ってきたからこそ一の宮が流されたのかもな・・・・
そりゃあ勝頼も真田領から同盟国上杉へ逃げるのを断念して、
敵である北条を頼って小山田領へ行かざるを得ないよな。
フロイス日本史に浅間山噴火を、
デウスが起こした信長の反省を促すための驚くべき兆候と恐るべき不思議なことと書いてある。
この噴火による徴候による恐怖から、
哀れな信長がデウスを天地の絶対主として認めることができるようにするために起こしたが、
増長していた信長が陥っている闇があまりにも根深く、
これ程の光も彼に悟りの目を開かせることが出来ずに破滅したと書いてる。
浅間山噴火はデウスの実力を示すと思わせるレベルの破壊力と強い光だったのがわかる。
多聞院の浅間山噴火が甲斐信濃敗北の怪異という話を列挙し、 武田勢の士気に大きな影響を与えたことは想像に難くないと評している。
信長の敵国の神を流したって甲斐市一ノ宮を指し、山梨県笛吹市に溶岩が飛び散り宮が流されたって解釈しか出来ないね
塩山向獄禅庵小年代記 天正10年3月
開山徳和之観音堂へ各僧衆御伴申三日三夜奉移と書かれている。
徳和之観音堂とは三富村(旧山梨県東山梨郡)の観音堂で三日三晩の御祈祷をして下山したそうだ。
これは重大な意味を持つ。この村の位置はまさに甲斐・信濃・上野との県境にある。
そして浅間山からも近い。なぜこのタイミングでここに各々の僧が衆を伴って
3日間の山篭りをして祈祷しているのか(山梨県笛吹市の北に位置する事実)
察するに2月中は噴火の影響で近づくことができず、噴火被害者を弔うことができなかったが、
ようやく混乱が落ち着いてきた3月になり、浅間山を望むことができる山上へ登った
各地から僧に伴われた遺族達が被害者を観音様に見立てて鎮魂し、浅間山の荒ぶる神を沈める祈祷をしているのだ。
大日本地震史料 増訂を読めば
文部省と大森氏・今村氏・石本氏・田山氏・武者氏おいう錚々たるメンバーが
天正10年浅間山噴火を支持してるのは確定的じゃねぇかw
江戸時代以前で噴火の記述で一次史料ソースがあるのは
1108年の上野国壊滅報告もあった公家による記述である中右記
そして同じく公家と宣教師の記述がある武田滅亡の噴火
そして江戸幕府の記録にある1783天明浅間山噴火(この時は京からは視認されてないので小規模噴火だろう)
この3つしかないから。
436 :
人間七七四年:2014/06/25(水) 11:51:19.78 ID:3JKfBZuu
こじ付け曲解のオンパレード
437 :
人間七七四年:2014/06/25(水) 12:08:15.03 ID:z6zAsiYA
つまり噴火でひっちゃかめっちゃかになった武田領国を、現代でも進軍に苦労する条件にもかかわらず侵略できた織田すげえって?w
438 :
人間七七四年:2014/06/26(木) 16:02:46.41 ID:Oo2HUwOG
一方武田は信玄のために冬休みをしていた
439 :
人間七七四年:2014/06/26(木) 16:47:56.68 ID:K4KEHpRL
噴火とかいう珍説で言い訳するだがの惨めな醜態
440 :
人間七七四年:2014/09/18(木) 08:02:43.22 ID:KZ1+ZUxV
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横浜駐車近代らーめん
441 :
人間七七四年:2014/09/20(土) 03:47:03.25 ID:aAV+kKKv
能登加賀越中の兵まで動員した大規模な関東出兵を計画していたみたいだから北条滅亡でしょ
442 :
人間七七四年:2014/09/27(土) 00:01:26.74 ID:zESDcVWL
今更だが、島田町長とすりゃぁ「町民はどこみてんじゃい!」って感じだろうな。
実績残してたから悔しかったろうな。
創価学会が花輪候補に投票したが、創○学○票2500が逆に島田に投票してたら島田が当選していたわけだし。
創○学○票って力があるんだな。
443 :
人間七七四年:2014/09/27(土) 00:09:21.26 ID:m8hYPwPB
かつて謙信は大軍で小田原を攻めたが、補給が追いつかなくて、1カ月程度で引き上げたんだよ。
謙信が長生きして関東征伐したとしても、同じだよ。
444 :
人間七七四年:2014/09/27(土) 11:32:40.54 ID:WYJekhri
謙信のひきあげって信玄が北信濃の城を落としたからでしょ
445 :
人間七七四年:2014/09/28(日) 04:23:46.95 ID:8IPWDf6k
大遠征が実行されても北条は1年以上は粘るだろう
446 :
人間七七四年:2014/09/29(月) 15:28:32.37 ID:L2aR+aE6
武田の援護が見込めないから無理でしょ
関東遠征って北条牽制+上洛軍募る為でしょ
謙信が一年長生きしていたら美濃、越前は確実に
上杉上洛軍に制圧されていたはず
447 :
人間七七四年:2014/09/30(火) 08:19:24.47 ID:6Vuma7gX
それも無理だと思うよ。
謙信は確かに強いし行動力もあるけど、将としては1〜2万程度で動くのが
限界かと。
448 :
人間七七四年:2014/09/30(火) 16:42:31.85 ID:KIg62JXV
たいして大きな勝利を得られない戦争をしまくって
国人衆から愛想つかれるを何度も繰り返したのが謙信だからな
449 :
人間七七四年:2014/09/30(火) 23:02:23.57 ID:uHV07B6y
謙信は全く大したこと無い。口だけ野郎
信玄はどうかなぁ。1年後に死ぬんなら大丈夫じゃない?
5年とか言われたら分からんが
450 :
人間七七四年:2014/10/07(火) 13:11:05.65 ID:Tg6Efsni
信長は危ういところで英傑の死にすくわれてつくづく運がいい男だ
451 :
人間七七四年:2014/10/11(土) 12:39:22.09 ID:gbqK5Lp2
寧ろ信長に叩き潰される前に死んだことで死後に英雄化した信玄謙信こそ運のいい男だ
452 :
人間七七四年:2014/10/30(木) 10:44:06.79 ID:0rOv5uWS
自衛隊の元戦術教官とか兵法研究家の海上智明氏とかは、信玄に信長は絶対に勝てないと言っているね。
そして謙信は信玄と比べても段違いに強いとも。
兵を指揮したり戦争の研究もしたことがない我々がここでグジャグじゃ言っても仕方がないと思う。
453 :
人間七七四年:2014/10/30(木) 10:44:56.57 ID:0rOv5uWS
海上氏の「震源の戦争」は読んだ方が良い。
読み物としても面白いし戦争について勉強になる。
454 :
人間七七四年:2014/10/30(木) 14:17:06.37 ID:0rOv5uWS
→信玄の戦争
455 :
人間七七四年:2014/10/30(木) 17:51:20.10 ID:cQh0oE7n
「関ヶ原の戦い?西軍の勝利に決まってるぜHAHAHA」って言ってた連中もいるんだがw
そもそも信玄にしろ謙信にしろ本当にそれだけ強かったら信長が出てくる前に上洛してるよw
一年や半年じゃ無理だね。直接対決まで持ち込めるかすら怪しい
456 :
人間七七四年:2014/10/30(木) 19:21:46.85 ID:0rOv5uWS
>>455 直接対決で信長が勝つという素人の妄想も良いと思います。
ロマンがあるじゃないですか。
457 :
人間七七四年:2014/11/03(月) 22:43:28.44 ID:jRWLWPrI
菅沼遼太「直接対決で信長が勝つという素人の妄想も良いと思います。 」
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
458 :
人間七七四年:2014/11/04(火) 08:03:52.66 ID:Wn+7FGiB
まあ武田・上杉が10回勝つ前に織田は1回だけ勝てばいいんだから
前提からして無理ゲーだよね
459 :
人間七七四年:2014/11/04(火) 22:17:18.42 ID:FqciyUDG
古今東西の戦争・戦術を研究した自衛隊の戦術教官だとか兵法研究者のようなプロとここの歴ヲタじゃぁ比較ができない。
歴ヲタが信長の方が強いと思ってもそれは自由だ。
460 :
人間七七四年:2014/11/05(水) 13:22:36.93 ID:BxSL8ztS
>>458 大前提が既に欠けてたりするんだよな
兵站や軍事力、それに当時の行軍状況外交状況。
そもそも当時の信玄謙信が信長と直接対決すること自体が困難。
関ヶ原の西軍勝利を唱えた連中もそうだが、こういう関係を把握できない
なぜなら戦術のプロであっても「戦国のプロ」じゃねーからな
「直接対決でよーいドン」しか測れないんだから前提からして無茶苦茶だわな
事実戦国の学者で信玄謙信が信長に勝って上洛、なんて誰一人唱えてないし
唱えられるくらいなら本人たちが実行できてるわなw
461 :
人間七七四年:2014/11/05(水) 13:37:27.61 ID:aver7SIU
そもそも自衛隊の戦術教官とやらが参考にしてる資料って怪しげな軍記物かなんかじゃねえの?
元傭兵のおっさんが書いたこう戦えば勝てたみたいな本、読んだことあるけどそもそものソース元が
甲陽軍鑑とかその辺だったし。
462 :
人間七七四年:2014/11/05(水) 13:57:24.03 ID:9myFZbfN
傭兵って一兵士。
463 :
人間七七四年:2014/11/05(水) 18:47:18.03 ID:HmUWeFuC
それでも「戦術のプロ」って名乗れるんじゃね?
真面目な話、謙信はともかく信玄はまず間違いなく信長に負ける
村上に何度も手痛い敗北喫するような人間だし
長篠でも信玄以外はボコボコに敗れた。
あまりいいたくないが、信玄と謙信を同格にするのは無理がある。
雑魚専の信玄では信長に到底勝てない。謙信なら話は別だが
464 :
人間七七四年:2014/11/05(水) 21:36:06.22 ID:9myFZbfN
一兵士は戦闘のプロであっても戦術のプロとは名乗れない
465 :
人間七七四年:2014/11/05(水) 22:04:25.74 ID:aver7SIU
466 :
人間七七四年:2014/11/05(水) 23:09:49.30 ID:HmUWeFuC
467 :
人間七七四年:2014/11/06(木) 01:27:18.24 ID:4kRF6A/z
465は大学生が単に傭兵にスカウトされただけの人物だから、そこらのわんさかいる自衛隊員と変わらない。
468 :
人間七七四年:2014/11/07(金) 00:56:22.67 ID:Jo/3WOSe
そこらのわんさかいる自衛隊、大学生、孫子研究家、江戸時代から昭和にかけての大半の
歴史学者が織田信長の劣勢と判断している中、信長の勝利を疑わない井沢信者の根拠の無い
信念が凄いな。
469 :
人間七七四年:2014/11/07(金) 01:39:50.35 ID:eRVtfmGS
江戸時代から昭和にかけての大半の歴史学者は今のところ信長優勢ですけどね
そもそも領土が倍近く差がありますので
470 :
人間七七四年:2014/11/07(金) 06:27:36.04 ID:NyaQyCbC
徳川すら潰しきることができないのが武田の全力
あんだけ大軍繰りだしといてほんの切れっぱしのような土地しか勝ち取れず
しかも軍を引いたらあっさり取り返される始末
471 :
人間七七四年:2014/11/07(金) 08:12:15.49 ID:mZwa/s7g
ちなみに非常に珍しい中で必死に探すと
下記のようなのが出てきた。
陶晴賢書状と思われる某齋宛て書状では
大野方へ「よく被相調候 奇特候〜通心靜披見候」として
文書の返却したので、大野方が持ち帰る際に
「案内者」として椋飛騨守に申し付けた。
そして坪井に「可引合之由申付候」と
引き合わせることを仰せになっている。
これ内通交渉の引き合わせに椋飛騨守が登場してるし
毛利と山名が同盟した時も
高木越中守が双方を結びつける「自是爲案内者」となっている。
内通案内や同盟を結びつける使用例が散見された。
白石は掠め取ってない譲渡だよ。
対家康で、政宗と景勝は血盟していたとのことだ。
看羊録には前田利長が家康を暗殺しようとして
同士を募った際に、景勝・秀家・清正・忠興・義宣・政宗が血盟したと書いている。
関が原での同盟仲間と家康から見られている伊達政宗、上杉景勝、佐竹義宣に
10/15将軍徳川秀忠は大坂攻撃の先発を命じるわけよw 上杉と佐竹と同列視されてるのよ伊達って。
472 :
人間七七四年:2014/11/07(金) 08:46:30.52 ID:GhdieX7H
>>徒手空拳の秀吉や光秀が手柄を挙げて異例の出世ができた。
国人連合体の他の大名組織では絶対に有り得ない出世と抜擢。
そもそも明智光秀って無名なのに信長から抜擢されたわけじゃねーじゃん。
光秀は足利義昭の姉婿の若狭の武田義統の姉妹を母にしてたし、
信長公記にも光秀は朝廷と強い繋がりがあったと記され
朝廷工作に必要な人材だったわけで
義昭配下の幕臣だった細川幽斎や和田惟政と光秀は同じ立ち位置。
(義輝や義昭の家臣団名簿のうち、義昭の家臣として明智の名がある)
信長の抜擢もクソもねーじゃん。
光秀の正室は不明。ガラシャを生んだ継室も出自がよくわかってない。
ただ細川家とガラシャは婚姻してるのでいずれにしても身分は高かったと言われてる。
尾張生まれの秀吉は織田配下で算術系能力が必要な奉行職をやっていたようだし
信長公記初登場の義昭を奉じて上洛の時点で
すでに一軍の将として佐久間信盛や丹羽長秀と同列で書かれてるし
浅野長勝の養女と結婚できる身分を持ち合わせてるし
美濃にも人脈が存在していて岐阜城を占拠した竹中重治や
流通業者も兼ねていた川並衆の蜂須賀正勝や前野長康にも顔が利いていた。
それなりの立場を持っていたとしか思えない。
473 :
人間七七四年:2014/11/07(金) 08:47:34.90 ID:GhdieX7H
本庄の乱が勃発するまで在地国人家臣らを信用し人質すら取らずにいたが
本庄の乱をきっかけに親しい者達からも人質を取り在地国人豪族を完全に統制下においたから
それ以降は家臣の謀反が無くなり版図の支配も安定している。
晩年まで謀反だらけの信長では勝ち目は無いだろうね。
謙信の抜擢と信任を受けた新参者
織田との最前線の鎮将として能登支配の牙城七尾城将だった鯵坂長実
近江出身で古志長尾家を相続した富山城将や沼田城将を歴任した河田長親(のちに北陸方面総司令官)
安田氏の家督を相続した河田長親の弟の堅親
魚津城の戦いで死んだ近江出身の吉江資堅(子は中条の家督を相続した景泰)
河田長親に至っては謙信が署名した白紙の書状を50枚以上持っており、
謙信の名で臨機応変に書状を出して命令をする権限も所持。
他国出の者を抜擢した謙信が反発を覚悟して
無理やり越後国内の有力領主の跡を継がせたりしてるのに連絡役なわけないだろ…。
そういや信玄が抜擢した春日改め高坂弾正は単なる百姓の子だったよな。
白紙委任状でナニができるかを考えれば、どれほどの権限、信頼かわかろう
有力な織田直参の柴田や丹羽や池田の跡に世襲を認めず
秀吉や光秀ら他国者に継がせるようなもんだな。
土着国人領主の影響力を排除し謙信側近官僚による直轄化への動き。
謙信は最初河田堅親に中条の家督を継がせようとしたが
中条家中の反発が激しくて失敗したんだよ。
しかし謙信はあきらめずのちに吉江景泰を中条の家督に入れ込むことに成功したわけだ。
謙信は在地領民を掌握している国人領主は北条や本庄のように離反の危険性が高い為に
他国者を取り立てて側近官僚としてネジ込んでるんだよ。
他国者だから在地領民との代々の繋がりがない官僚だな。
在地領民と領主を切り離し官僚化させて中央集権化していくのは豊臣政権になると激しくなるが、
謙信は安堵権を利用して国人領主割拠の解体を始めてる。
しかも河田も吉江も鯵坂も重臣の地位をまったく世襲してない。
それに天正3年軍役帳において後継者の1位の景勝に続いて
2位 山浦上杉国清(養子として信濃村上国清をネジ込む)
3位 上条上杉景信(この古志長尾景信のこと。こいつの跡を河田長親が継ぐ予定ですでに古志衆が付けられていた)
4位 上条上杉政繁(能登畠山氏の出説あり。この後は能登畠山義春が継ぐ予定)
こんな感じで家格の序列で在地領主権のない他国者が上位になるように仕向けられてる。
家中と在地領主権の改革が実行されてるのは明白なんだけど。
こういう在地領主には不利益になることを実行してた時期の上杉軍はいまいち奮わなかったけど
この天正3年の家格序列を基礎とした軍役をかけてからの上杉軍は異常に強い軍になって北陸制圧までしてる。
謙信がもうちょっと長く生きていたら完全に官僚化がなされていたよ。
残念だったのが上杉景信が謙信より長生きしてしまったことか。
景信から河田への古志長尾の反発を抑え込んでの継承が完遂していれば
上田長尾との対立の歴史が消え御館の乱の勃発を防げていた。
それに吉江景泰は中条の家督を継承したが中条の領地には一切赴任してないと言われている。
常に側近官僚としての立場で景勝の代になっても変わらなかった。
ちなみにまだ18歳だった吉江景泰は7位ね。
武田はすでに信虎がかなり新人採用しまくってたから抜擢の土壌が成熟してるからね。
だいたい武田五名臣からして他国者ばかりだし。
近江出身で六角に仕えていた横田高松 美濃出身の多田満頼 下総出身の原虎胤
実在は不明だが諸国流浪の山本勘助。
そういや原虎胤に父を討たれて駿河から流浪してきた北条綱成を採用した北条氏綱なんかも大抜擢されたよな。
474 :
人間七七四年:2014/11/07(金) 08:48:24.61 ID:GhdieX7H
>>河田は嫡男が世襲してるんだが。夭折したがな
お前さ、河田には養子がいるのも知らんのかwww
そもそも岩鶴丸以外にも2人の実子と2人の養子がいたとも言われてる。
江戸時代には河田一族で本家分家争いまで起きてる。
ちなみに岩鶴丸の跡を継いだのは従弟で養子の源七郎。
だが世襲してないから古志長尾氏の栖吉衆を引き継ぐことはなかった。
天正5年12月杉家家中名字尽において鯵坂長実は越中国扱いとなっており
能登国には上条政繁・直江景綱・長沢光国・平子房長らが派遣衆として能登国衆と名を連ねている。
そのために鯵坂長実は天正5年には能登国から元々の任地であった越中新庄城へ戻っており七尾城には
いなかったとされる (天正6年謙信死去してまもなく鯵坂長実が能登国衆から血判状を取っているのがわかる)
御館の乱では景虎派と思われる越後小千谷の国人だった平子和泉守が城代だった
能登甲山城を景勝側の鯵坂長実が攻撃しているのがわかる。
もちろん鯵坂長実の親類縁者も子孫も地位の世襲などを感じさせるものは何もない。
中条へ養子に入った吉江景泰は祖父・父・兄・祖父の兄弟の息子達と共に越中魚津城で玉砕したが
(祖父はこの時に孫で中条入りした景泰に景勝に貰った領地の一部を譲渡する約束をしてる)
子の中条三盛10歳が残されており、のち景勝の会津入りにも従っているわけだが
これは越中魚津城において一族の大半が景勝のために玉砕したのを哀れんで特例で存続が許されただけ。
そもそも上杉家の家法ではどんな重臣であっても15歳に満たない後継者は領地を没収し、成人された後に継げるかどうか政治的判断される。
しかし特別な功績を挙げた場合のみ恩情が加えられる制度で働かない重臣や国人は衰退するようになっている。
例えば天正三年の「謙信軍役帳」において譜代・旗本の三条城主山吉豊守は序列はかなり低いものの景勝に次ぐ軍役を背負わされている。
35歳で死去した彼には子が無く13歳の弟しかいなかったものの叔父景久の後見を条件に
山吉豊守の多年の軍功と謙信への忠節から特別に先祖伝来の領地半分と三条城を没収されたものの家名存続のご恩を得られた。
ちなみに三条城には神余親綱が城主として治めることになった。
信長にはこんな制度もないだろうが。
それなのに信長が中央集権を目指したとかありえねーから。
475 :
人間七七四年:2014/11/07(金) 08:51:04.34 ID:uAWu1bBP
主張をまとめる能力
大事だね
476 :
人間七七四年:2014/11/07(金) 08:56:31.52 ID:GhdieX7H
浅間山が大噴火して武田滅亡の前兆とか噂された時点で積み天変地異で滅亡したのが武田家。
援軍に来た勝頼も諏訪から甲斐へ撤退せざるを得なくなる。東に横たわるアルプス山脈を無視して考えた場合、広島での原爆が京都から視認出来たくらいの距離に相当する。
京の公家日記に視認観測記録が記述される程の大規模噴火は、1108年の大噴火(後日、浅間山のある上野国の国司が朝廷へ上野国壊滅の報告をしている)
に続いて武田滅亡のこの時で有史以来わずかに二回目でしか無い。
信吉が1602年に水戸25万石に封じられたのは武田としてだよ。
信玄最強というのは江戸初期から常識であり
甲州流軍学が江戸時代を通じて最強とされ続けてるしな。
1576年 円昌坊教雅書状
謙信、大方於太刀者日本無双之名大将ニ而御入候
1582年3/5 蓮成院記録
甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士
信玄死去から10年経っても甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士
とその遺武があったほどの威勢だったけどな。
信長死んだら武遺の話題すら出てないな。
江戸期を通じて織田流軍学なんてもんは
誰も見向きもせず一切評判になったことすらないw
蓮成院にはリップサービスする必要性は無いし実際に風聞として天下一だという世評を知っていて
これからその地へ行くことにビビっている姿がわかる。
だが、その古今無双の名将〜の勧修寺晴豊の書状はあくまで
綸旨案であって実際には再考された結果、送られてない。
しかも実際に出された同日付けの万里小路書状では
露骨に馳走しろとか書かれてるしwww
万里小路宛ての女房奉書では誠仁親王の元服費用を織田から取れ!
信秀も御所の御事を他と違う御事だと認識していたとか書かれてるように
信長にリップサービスして金を取ろうと考えた結果の下心からのマンセー言辞でしかない。
だから他者と比較して信長がスゴイと言った表現ですらない軽薄さ。
しかも実際には再考され出されてない。そして女房奉書の如く元服費用だせと同日付けの万里小路も直球で信長宛て添え状出してる始末。
フロイスによると恐ろしいほどに東方の空が真っ赤に染まったと書かれておりしかも浅間山噴火と同日に赤い光りが
豊後国(大分県)でも観測されたと言う。 実に凄まじい爆発力だったのがわかる。
477 :
人間七七四年:2014/11/07(金) 11:35:00.91 ID:NyaQyCbC
また火山噴火の真っ最中に進軍するチート軍隊か
478 :
人間七七四年:2014/11/07(金) 13:11:26.99 ID:GhdieX7H
貫高に応じた兵数動員を賦課してない織田軍
しかも織田軍全体の統一された軍規や軍事編成や武器比率が存在しない。
兵站とそれを支える奉行が存在しない。
上杉も天正3年軍役帳があるから兵・槍・手明・鉄砲・大小旗・馬の比率がちゃんとわかる。
織田とかデタラメで全然わからん(末期の明智はわかる)
利家や信盛とか蓄財に必死で兵をあまり雇わなかったようで、
足らん分だけ国人や与力などをコキ使って軍功上げてたようだし。
長篠直後ですら家康が駿州へ軍事行動をしていることに触れた後に
織田軍は兵糧がまだできてない間は軍を出せないので
(6月の時点では米が尽きていて収穫期の)来たる秋まで動けないと書いている。
織田軍は兵農分離どころか、思いっきり農業スケジュールに左右されている
徳川軍よりも遥かに後進的で古い軍隊組織体制なのがわかる。
武田軍は輪番制や村請、印判衆がいるので軍役衆は農業の暦に合わせて帰る必要が無い
北条は天正9年7月に前年に氏政が家督を氏直に譲渡したこともあり
軍役に関して記された改定着到之事を施行して
指物や槍の寸法や装備や馬上具足に至るまで、
それまでの基準を改定し、軍役を課す基本台帳たる
着到帳も氏政から正式に渡されてる。
また翌月には段銭増分を設定し村郷の代官に納入を命じてる。
織田にはこんな内治政策などまったくない。
信玄が旗本を対象に陣立書を作成していたのは 軍事関係者の間では高く評価されているが
中央で言えば、小牧長久手での秀吉が一番最初。
陣立書は今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
いい加減丸投げ統治の信長には最後まで考えつくことはできなかった。
大和一国支配者の興福寺
1580年の織田による差出検地 興福寺大乗院跡750石 興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石
かんぜんにナメきってる報告っぷりw
秀吉の文禄検地
興福寺春日社は2万1000石とされた。信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの
石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。
479 :
人間七七四年:2014/11/07(金) 13:14:39.77 ID:GhdieX7H
もう勝敗はついてるよ。
フロイスは日本史において、
初めて岐阜へ向かったときに
「信長の軍勢の総司令官である佐久間殿」を最初に訪問してる。
その後に「信長の最高の武将4人の中の一人である柴田」を訪問。
そして信玄は三方が原で織田軍総司令官佐久間を怯えさせて戦わずして勝ちを得ている。
謙信は織田軍総司令官の下にいる四天王の1一人である柴田を怯えさせ戦わずして勝ちを得てる。
孫子が主張する戦わずして勝ちを得る最高級の勝ち方を示している。
ちなみに元亀4年3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は六万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
史料から、信玄軍の強盛振りと徳川の累卵が如き危うさを伺えるね
烏合の衆か組織化された衆かで質の違いが顕在化した結果でしょ。
貫高に応じた兵数動員を賦課してない織田軍
指物や槍の寸法や装備や馬上具足に至るまで数と質を指定されてない織田軍
信玄が旗本を対象に陣立書を作成していて
陣立書は今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込むものであり、軍隊として高度に機能させるに必要不可欠だし、
しかも織田軍全体の統一された軍規や軍事編成や武器比率が存在しない。
信玄死去から10年経っても甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士と呼ばれ戦う前から怯えさせる精強さ。
480 :
人間七七四年:2014/11/07(金) 13:19:50.58 ID:GhdieX7H
天正2年は武田家最盛期といってよく
高天神城を攻略し、さらに浜松城を燃やし、掛川城に付け城を築いて
家康に王手をかけていた。
天正3年は5/21長篠の野戦で勝利したものの陣城を攻めあぐね撤退で噛み付かれ痛みわけ。
7/19に勝頼が岩村へ援軍を派遣すると書状を出すが、
27日に家康が駿河まで攻め入る報が入ったので、堅城の岩村より対家康を優先。
小山城の後詰めで大井川まで出陣したのが9/7でこの後、高天神へ入城し、
21日に小山城在番衆へ感状を出してる。
11月 岩村への援軍として出陣。
武田軍の援軍が岩村に向かったと聞いた織田は焦って岩村側と和睦を結ぼうとする必死さwww
11/21に武田軍が到着前に和睦となるも秋山が挨拶にきた21日に捕縛26日に磔。
激怒した勝頼が12/16年明けに興亡の一戦をすることを指令。
この時より勝頼は獅子朱印状を使用するようになる。
信長は武田本隊による岩村城救援の報を聞くと、
急いで岩村側へ和睦したと詐術を弄して秋山を殺した。
いやいや織田が江甲同盟交渉で武田の鋭鋒を避けようとしてたから
むしろ援軍がもらえない家康が逃げ回ってただけだろ。
家康としては甲斐府中から遠いことを良いことに
武田の最前線の城を攻撃しては、
勝頼が決戦目指してやってくると掛川城へ逃亡しまくりの繰り返しじゃんw
しかも武田主力は上野国東部で戦ってるのにも関わらず
田中城や用宗城の攻撃に失敗の連続で家康はぜんぜん領地を広げられない。
481 :
人間七七四年:2014/11/07(金) 13:25:46.62 ID:GhdieX7H
信忠が超絶バカだったからなー。
岩村城で苦戦して全く落とせない愚将ぶり。
仕方なく家康がうちの信康を派遣するからって言われて、
信長が信康に落とされたらやべえって佐久間信盛を派遣して、
しかも信盛をうまく活用出来ずに落とせないw
結局、勝頼が自ら岩村城の援軍に出撃したのを知ると、
安全に撤退する為に和睦交渉を岩村城に申し出て、
人質交渉しにきた秋山を騙して奪うという
天下に徳を失う愚人ぶり。
武田征伐でも川尻や滝川の後見無いとダメな無成長ぶり。
森や団らすらまともに統御出来ないバカぶりで、
森らは信忠の命令違反しても、
武功をあげて信長に訴訟すりゃあいいやwって高を括り、
案の定、信忠の指揮が拙いから、
森や団は罰せられるどころか領地を貰い褒賞を受ける始末。
佐久間や滝川や川尻もガッカリした愚人信忠は、
本能寺の変で自爆する最上級のアホ
482 :
人間七七四年:2014/11/07(金) 14:06:12.78 ID:mZwa/s7g
石高がいくら広くても、
それを把握していないから、
石高に応じた軍役や装備が課せないため
中世の寄親、寄子の原始的暴力集団だったのが織田軍
武田や上杉や北条は領土を把握し軍役を課し、
兵種に応じた編成と、陣立が表すようにそれを自在に移動、
配置が可能な組織的近代軍隊だった。
483 :
人間七七四年:2014/11/07(金) 18:59:58.98 ID:GhdieX7H
武田・北条は上に書いてるようにわかるが、
上杉も天正3年軍役帳があるから兵・槍・手明・鉄砲・大小旗・馬の比率がちゃんとわかる。
織田とかデタラメで全然わからん(末期の明智はわかる)
利家や信盛とか蓄財に必死で兵をあまり雇わなかったようで、
足らん分だけ国人や与力などをコキ使って軍功上げてたようだし。
長篠直後ですら家康が駿州へ軍事行動をしていることに触れた後に
織田軍は兵糧がまだできてない間は軍を出せないので
(6月の時点では米が尽きていて収穫期の)来たる秋まで動けないと書いている。
織田軍は兵農分離どころか、思いっきり農業スケジュールに左右されている
徳川軍よりも遥かに後進的で古い軍隊組織体制なのがわかる。
武田軍は輪番制や村請、印判衆がいるので軍役衆は農業の暦に合わせて帰る必要が無い
秀吉は自身が旧織田領土を支配した後、というか支配する前から
信長がろくにやってなかった畿内の利権や流通の整備や再編成を始め、
それこそ関東から東北、九州、さらには外国にまで10数万の兵力を送り込めるほどの
流通システム再編を行っている
統治システムも体制も信長のものより遥かに進んでいる
島津が「こんな遠くに秀吉はこないだろう」と思っていたのは本当
それは別にお前さんが言ってるような政治的理由なんか関係ない
博多があろうとなかろうと、島津は秀吉はこれないと思っていた
それはなぜか?距離の問題だ
適当体制の信長が武田攻め程度の距離で、兵糧におっかなびっくりになってた事実を
考えてみろ
旧来の放任主義な適当体制じゃ、九州まで10数万もの兵を送り込んで維持する事はできない、
送れる兵力なんてたかが知れてる、それなら島津が遅れをとる事はない、
これが島津の目算だったし、それは実際にある程度ただしかった
信長政権のままだったら九州に大軍で侵攻する事は難しかったろうな
しかし、当時には東国で既に今川・武田・北条・上杉をはじめとして領内に細かく指示を出して、領国を整備・掌握し、
それによって軍役や軍事力の構成、さらには兵站を円滑化させようとする試みが進められ、成功していた
秀吉はそれと同じような要領で、信長がそれまで手をつけなかった畿内の流通や利権の掌握・整備を進めていき、
10数万もの大軍を九州まで送り込み、維持する事が出来る体制を作る事に成功したわけだ
西国の領国統治体制は東国の先進的な有力大名達ほどには進んでいなかったので、島津は自分達を前提にして
畿内政権の兵站を測ったし、それは信長政権に関する限り正しかった
豊臣政権にしても、ここまでしても九州平定までの間、兵糧が持つかは常に危機感としてあったから
島津は決して根拠ない目測をしていたわけじゃなかったわけだ
実際に信長生きてる当時と豊臣政権の安定度はまるで違う
信長は兵站に苦労しながら小規模に兵力あちこちに送り込むか
反乱鎮圧に躍起になって生涯終えた気がする
まぁ隣国武田攻め自体が補給の問題から兵数調整してる上に
(人数少なく召し連れることで在陣中の兵糧がつづく様に〜中略〜
但し人数多く候様に剛力粉骨の者を召し連れるように)
484 :
人間七七四年:2014/11/07(金) 19:02:15.09 ID:GhdieX7H
兵農分離の先駆けは天正13年卯月22日付けの秀吉朱印状が嚆矢。
紀州の雑賀・根来を討ったときに刀狩りを命じていて
その際に頭領の者を選んで皆殺し、平百姓は許すと書いていて
明確に兵と農を区別して国人指導層を殺し、武器を没収して完全な農民にしている。
信長にはそういう思考はなく皆殺しの撫で切りや根切りや磔など残虐な極刑による地域消滅政策。
秀吉は農村の生産力確保維持政策が基本にある
(生産力・経済の概念は遠征補給兵站思想と、重商主義的な朝鮮出兵ビジョンが視野にあるから)
そのため島津に対して豊後の民を返還しろと命じたり、
宣教師に奴隷売買すんなや!と激怒し、宣教師が苦し紛れに
日本人が売るからポルトガル人が買うだけで私たちは苦しく思ってたと釈明していたり
キリシタン禁止理由として「本願寺一向宗のように国を奪い戦を起こすようにする企みがあり
しかも本願寺は百姓を惑わしたが、キリシタンはさらに悪質で領主層を惑わす。
秀吉が給付した領地の主人は変更することはあるが、其の地の農民の移動はない。
それなのにキリシタン大名が秀吉の許可も得ずに領地の寺社を勝手に燃やしたり略奪するのは許されない。
宣教師の企みを喝破できたのは日本の中でいまはまだ私だけだ」と言っている。
信長のようにただ単に興味本位で珍しい新しい物好きで宣教師を厚遇してるバカとは違う。
秀吉の諸政策は、織田狂信者のエセ作家によればすべて信長の脳内にすでにあったと捏造してるのが笑えるw
貫高に応じた兵数動員を賦課してない織田軍
しかも織田軍全体の統一された軍規や軍事編成や武器比率が存在しない。
兵站とそれを支える奉行が存在しない。
一次史料をみる限り織田軍兵力は1万〜3万しか動員出来てない。
織田軍が攻めこんだ先は摂津や河内・大和など一国亡国と記述されるなど、
軍が略奪による現地調達方式なので多方面に敵を作るデメリット付き兵力分散して軍を養う必要性から大軍集中が無理。
しかもそこを領国にしても荒れ果ててる。
よって国力の単純比較は成立しない。
信長の軍事政策にはまるで評価されるところがない。
常備軍や兵農分離なんてデタラメであるばかりか
そもそも基本である法度に従って寄子を取り締ることもしてないし
貫高に応じて負担する軍役の内容を細かく指示したこともない。
485 :
人間七七四年:2014/11/07(金) 19:03:09.05 ID:GhdieX7H
秀吉は太閤検地と身分法令において人口戸籍まで作らせて言わば国政調査をしている。
例えば伊達が朝鮮出兵で飛ばされている間を狙って石田豊前守にやらさせたりしてる。
また朝鮮出兵は看羊録によれば国内で変事を起こさせないように
兵を消耗させる意図があったとする。
また土木工事も諸大名の経済力を奪い取ると同時にインフラ整備と経済活性政策であった。
そもそも信長は分国法すら作る知識も能力も無かった。
ちなみに天文16年の甲州法度の最後の条文が、
史学において誉れ高いんだよね。
晴信が法を犯したら、
貴賎の身分を問わず目安に申し立てよ。
晴信が法治国家の魂をちゃんと理解していたのがわかる。
また甲州の治水技術は関東開発に役に立ったが織田は治水をやらないために後世に残る織田治水などは一切残らなかった。
秀吉が治水をしているのも田畑開発、水害防止、大坂から京への海上経済通商政策を理解しているから。
多くの悪銭を畿内で流通させインフレ経済崩壊を招いた愚か者。
悪貨が良貨を駆逐するの例えどおりに重度に悪銭が畿内に集中し、
他地域では良銭が流通したため畿内→外地域での決済において拒否が続出。
そのため元亀2年辺りに至ると物々交換と言う古代時代に戻ってしまったw
元亀2年から天正8年の時期は信長の命令は無視され決済拒否される悪銭は使用さなくなり
そして天正8年に至ると石見銀の流通が活発化した。
豊臣政権は撰銭令を撤廃し米主体の石高制を採用し河川流通を整備するや
景気低迷を脱して桃山文化の香る時代が招来している。
一方の信長は永禄11年12月の誠仁親王の元服という晴れの舞台において
無礼にも流通拒否される悪銭ばかりを献上して朝廷の公家達を激怒させている。
このように信玄の上洛とは畿内経済の破綻による生活苦による一揆の隆盛。
東国経済の飛躍的向上に裏付けられた時代の流れなのである。
秀吉は兵站補給概念を持っていて奉行衆による計画的な物資管理や
大軍進駐に伴う排便処理による衛生管理を編み出すことで
信長には不可能だった「位攻め」戦略を多用し瞬く間に天下を統一してしまった。
位攻めとは、圧倒的大軍を用いて相手の軍の士気を崩壊させ服属を強要する戦略。
信長の現地調達方式では大軍の集中は不可能であり、
戦力崩壊を起こす攻勢限界点が存在する。
すでに美濃の隣国信濃への出陣である武田攻めにおいて、
遠陣だから率いる人数を抑えることで兵糧が続くように。
しかし戦力ダウンにならないように剛力の者を選んで引き連れよと人数調整をしていた時点でお察し。
信濃より遥かに遠い備中えの遠陣である毛利攻めで旧来の遅れた兵制の信長は討死していただろう。
486 :
人間七七四年:2014/11/07(金) 19:04:25.30 ID:GhdieX7H
高山右近が高槻に続き転封先の明石で寺社を破壊してたのを施薬院全宗が秀吉にチクったことで
激怒した秀吉が博多でポルトガル人の奴隷売買を糾弾したり、
牛馬は人間に仕え有益な動物なのになぜ食べるのか?と言ってたが、
(秀吉の基本思考・・・ポルトガル船でも純粋な交易のためなら寄港するのも問題なし、
秀吉から2000貫以上を給付される者がキリスト門徒になる場合は自分の許可を得よ。
それ以下の者の場合、日本の宗派は八宗あるが、キリスト教が加わり九宗になっても大して変わらんから
信教の自由は保障し何を信じようが構わない。但し、秀吉から給地を与えられた者が、権力を以って
庶民にキリスト教信者になることを強制したら罰する。)
小田原城を降伏に追い込み奥州仕置きをしようとする秀吉は
天正18年8/10に関東にも刀狩り令をだし、その中において
人を売買することを禁止し、天正16年以来で人を売買した者は
すべて返却するように命じ、売る者も買う者も処罰すると宣言している。
このことから高利貸しが政権運営する北条が滅亡するまで頻繁に奴隷売買をしていたことがわかる。
信長のような蒙昧暗愚の暴君と秀吉の差は天地の開きがある。
重商主義的・帝国主義的な植民地化がすでにフィリピンにまで押し寄せている中で
秀吉のみがキリシタンの野望を喝破し、逆に朝鮮への遠征を行うことで
日本の武威を知らしめ、陶工などを連れ帰り現在に至る名産品を生む。
織田一族が既存の土地に執着する古い豪族の連合体で
武田家などは集権化が比較的進んでいたことが判明しているんだよね
織田一族の領域では在地構造がそのまま温存されたり
私的な関係や便宜的な寄子寄親関係で適当に済ませてるケースが非常に多いが
武田家の領国では代官支配や主城主を中心とした再編成が多く見られる
ざる統治だったので、ちょっと体制を整備しようと
取り敢えず重臣2人のクビ斬ってみたら、反動で連続謀反が起き死亡ってとこじゃね
織田に離反が多いのも私的な主従関係を築いて一蓮托生な国人が多いから。
信長は織田家による領地支配を全く考えていなかった。
完全に内政丸投げ。
織田軍統一の規則自体がまるで無く
しかも一職支配権を与えて丸投げするから、
勝手に在地国人たちと主従を結んでいるにすぎ無い。
そのために大規模謀反が多発。
結果、信長死んだら織田の命を無視する一職支配権者が自立乱立したために
秀信を擁して専横されて
家臣と主従関係が逆転し下克上されて織田は引きずり落とされた。
一職支配権とは簡単な話、
室町幕府における守護設置みたいなもん。
信長の好い加減な統治により、
家臣らが軍閥化していた。
信長の死によって簡単に、
大身家臣が安易に自立できるだけの在地と一職支配家臣の主従関係が成立していた。
信長と在地国人には統治の仕組みは存在せず、
織田政権が脆く崩壊する構造だった。
織田テキトー政権は、そもそも足利幕府に寄生してただけ。
いずれ大身家臣が信長を下克上するのは当然の結果。
なぜなら家臣と在地が主従であり、
在地と織田に内政政策による介在がなく、従って主従関係が無い。
光秀の命令を聞いて信長を殺す軍隊であり
軍隊は信長を主人だと思ってない。
家臣の力量、懐柔、苦楽を共にする戦友家中が戦闘集団である。
487 :
人間七七四年:2014/11/07(金) 19:05:39.43 ID:GhdieX7H
池上裕子著「織豊政権と江戸幕府」より
>
> 「(佐久間盛信への)折檻状から読み取れるように、信長自身は所領の大きさに比例して、
> 家臣一人ずつの軍役数を定めると言う方法をとっていない。家臣をどれだけ抱えるかは
> 各自に任されていた。
> これは鎌倉・室町期の武士たちの有り方と類似で、北条・武田らが所領貫高に比例して
> 軍役数を決定した方法といちじるしい対照を成す。
> 従って武篇道と戦果が問題となる。
>
> (中略)
>
> 信長は信盛親子に続いて、家老の林通勝(秀貞)、安藤守就親子、丹羽右近も追放した。
> それは信長の権力強化の表れのようにも見える。これをもって中世の武家権力と違って、
> 信長が家臣の所領に対し干渉しているとか、領域統治能力を問うているとかと評価して、
> 信長の権力は新しいとみる見方もあるがいかがであろうか。
>
> 信長は家臣を大名に任じて分国を統治させ、各方面ごとの総大将を任命して統一戦争を
> 戦っていかなければならない。
> 拡大する家臣団と支配領域に対応した家臣団編成、軍役賦課・軍事力編成が
> なされていないからこそ生じた問題であろう。
> それを武篇道の督励で対応しようとしたのが追放策であろう。
> それは、信長自身が武篇道に邁進して土地支配制度と知行制の整備を怠ってきたことに
> 原因があるのであって、逆に信長の限界を示すべきものとみるべきであろう。
>
> この問題の解決は秀吉の課題となる。
信長には分国法すら無く、
単に室町幕府に寄生してたら下克上された
歴史的意義の無い
実質10年弱で淘汰された畿内政権だからね。
三好や細川高国政権の方が長命だし、
なにより天正元年の発足と同時に、
安国寺から高転びすると簡単に予測できたほどずさん蒙昧政権。
信長は義昭の息子を擁立して
毛利とかにこれからは義尋に挨拶にくるようにとか命じたりしてんじゃんw
しかも義昭にも帰ってきてと哀願して拒否られただけじゃんw
それでも幕府の政治体制になんら手を加えた形跡もなく
そのまま幕府組織も継続してるし。
新領国の早い安定化を達成できた撫民政策や民政力ある大名に信長は該当しません。
むしろ一揆や謀反や反乱平定に追われる暴君や失政、無策な大名です。
信長殺して
宿老4人の合議で当主傀儡とか
あきらかに時代が30年は遅れてることをやる織田・・・
幼君を傀儡として擁立して
実力ある者が専横しようとするのは
古来からよくある事例。
織田は1500年代前半に相次いだ下克上ブームも
とっくに終わったはずなのに
まぬけにも光秀・秀吉とダブルで起こされた稀有な事例
488 :
人間七七四年:2014/11/07(金) 19:06:32.07 ID:GhdieX7H
池上裕子
武田家の軍役衆は武田家直轄でそれを家臣に預けるだけ。
よって槍3人・弓3人などの賦課で軍役に応じて集結した彼らを解体し
兵種ごとに再編成することが可能。
これは武田が寄親寄子制からいち早く脱却したことを表している。
黒田基樹
信玄の永禄10〜12年年のものと思われる陣立書によって兵科別の編成が証明できる。
秀吉は帝国主義・重商主義の世界史的な流れを理解し
大陸進出により、日本が強国で植民地化が不可能だと悟らせた。
看羊録には、秀吉の朝鮮出兵は諸大名の力を削いで
戦乱や領地を望む心を奪うためと書いている。
戦国の機運を終わらせるためには強権発動も必要なのだろう。
秀吉のように実力で押さえつけた全国統一と各地に蔵入り地設置をしなかった家康。
家康は諸大名の支持を取り付ける手法だったので
地方分権による幕藩体制に妥協していたので
秀吉が世界に見せた武威がなければ、植民地化の流れの前に
秀吉と違い、家康では政宗がスペインに内通とかで撃退できなかったかもしれない。
それに朝鮮出兵で陶器技術の向上が無ければ、しょぼい陶器を江戸時代も使っていただろう。
陶磁器技術は日本幕末でも主力輸出製品だったし、
米余り現象で価格大下落していた中で貴重な特産品として現金収入源になっていた。
北条なども検地を通して軍役を賦課してるし
ほぼ武田と同様になってるよね。
すると軍事・統治で言えば、畿内は関東よりもはるかに遅れてるね。
畿内でも浅井や六角などは主君が重臣に議題を諮って合議により決断し
連名書状を出すし、
その大名や重臣権力を支えた惣村や堺などの自治も発達。
尾張の田舎者の信長が旧体制に畿内を力ずくで逆戻りさせたって感じだよな。
関東は進化し、畿内は時計の針を逆戻ししただけ。
489 :
人間七七四年:2014/11/07(金) 19:10:18.10 ID:GhdieX7H
排便などの衛生管理は非常に重大な問題で
北九州の戦国研究で有名な吉永正春氏も
毛利や大友などを調査しても
一戦場に3万が限界だと言ってる。
一次史料を見ると信長も1万〜3万くらいだよな。
なんでも自分で独断する信長と違って、多くの才覚ある吏を引き上げ使う秀吉はそういったシステムを作る天才だから
速攻で全国制覇したし、海外遠征まで実現できた。
信玄や秀吉のように内政・軍政改革をして始めて
大軍を一戦場に集中できるようになるのか。
よい勉強になった。
信玄すげぇな。6万も動員できるほどの改革と組織化を達成してたのか。
信長がただの暴虐なアホでなんらプランもないバカだったのもわかったが、
天才秀吉のおかげで過大評価されてたのが信長なんだって
改めて分かったわ。
信長公記だと織田って長篠の戦いの時点で
徳川と合わせてやっと3万だよね。
やはり数万単位の動員の場合の排便処理問題って大きいよね。
幕末の会津藩も籠城してたけど、わずか一ヶ月で
ウンコ充満になって開城したしな。
東国では悪銭でない永楽銭が信長の失政で信用低下著しい京銭4文との交換比率になっていた。
この信用不安を解消する手を打ったのは秀吉。
とくに天正大判を発行するなど秀吉の金本位体制は
西欧重商主義と金融資本の概念を先取りしていて驚愕的である。
490 :
人間七七四年:2014/11/07(金) 21:11:05.41 ID:GhdieX7H
一次史料を見る限り、脅迫虐殺略奪強盗をよる現地調達型の
織田軍は一戦場に最大3万までしか動員できなかった。
信長は内政や治水には全く興味はなく丸投げだったし、
法令もなく信長の感情に基づく私刑が横行するチンピラ団体。
おかげで本能寺の変が起きた途端に尾張や美濃で謀反多発し混乱状態になる始末。
491 :
人間七七四年:2014/11/07(金) 23:32:26.56 ID:vV2zo2s2
お前が信用を取り戻す手段はただ一つ
己の意訳を入れずにただ原文のみを載せることだ
それ以外でお前が信用を取り戻すことは永久に無いと知れ
492 :
人間七七四年:2014/11/08(土) 18:22:03.52 ID:hAzYm3dR
>>487>>488 軍事内政どれをとっても信長が武田信玄に勝てる要素が全くないじゃんwww
信玄が早く死んで命拾いしたな。
493 :
人間七七四年:2014/11/08(土) 19:11:45.41 ID:ab5S9O1J
早く死んで?
ゲームでもいるよね。あと1ターンあればって言い続ける見苦しいヤツw
494 :
人間七七四年:2014/11/08(土) 20:49:47.82 ID:MiJRJCiG
495 :
人間七七四年:2014/11/08(土) 20:57:17.27 ID:rNdMe/ZB
菅沼遼太の自作自演だからな
496 :
人間七七四年:2014/11/08(土) 21:02:28.49 ID:rNdMe/ZB
>>493 そもそも武田は朝倉や本願寺などの第三勢力に頼っているのが全てだからな
武田がタイマン張って織田と全力で戦うのではなく、朝倉や本願寺などに妨害してもらってようやく五分の状況。
信玄が甲府を発したのが10月の頭、信玄がどれだけ早く見積もっても信長と直接交戦できるのは3月。
つまり5ヶ月もの間武田含む反信長連合は軍を出し続ければいけないわけで、
前提条件からして非現実的
497 :
人間七七四年:2014/11/08(土) 23:53:26.49 ID:hAzYm3dR
秦が天下統一した時に用いた遠交近攻策って知らないの?
さすが織田チョンは無知だね。
498 :
人間七七四年:2014/11/09(日) 01:37:23.94 ID:YtuEVah+
朝倉に織田軍は大敗するわ、
続く6万の信玄の西上軍が三方ヶ原で大勝利。
これにより大量に離反されまくり1万しか集まらなかった織田軍www
499 :
人間七七四年:2014/11/09(日) 05:20:24.72 ID:1ewHfdKn
遠交近攻策当時の秦の強さも知らず、
かつ6万と1万の軍勢で6万が尻込みをする菅沼遼太史観
生兵法は怪我のもと、というが、まさにピッタリの状況だな
500 :
人間七七四年:2014/11/09(日) 07:08:50.23 ID:fEGmk8rB
武田って6万も動員できたのに1万の織田相手に朝倉なしじゃ戦えなかったんだね。
501 :
人間七七四年:2014/11/09(日) 11:18:45.18 ID:7DNgLB8c
ここんとこ菅沼くんが「織田チョン、織田チョン」て騒ぐ回数が増えてるのは、在日問題がらみで何か嫌なことでもあったのかな?
本国から徴兵命令が強く出てるて聞いてるけど、そのあたり?
502 :
人間七七四年:2014/11/09(日) 18:46:34.20 ID:VStwx0Bb
在日は逆に在日を強く叩くことで「そんなの可哀想」って思わせるようにするらしいぜ
503 :
人間七七四年:2014/11/09(日) 18:46:47.41 ID:fiZYVSOD
>>500 菅沼によると武田の兵は織田の兵の数倍強いって話なのに
武田はよほど武将大名が無能だったんだろうな
504 :
人間七七四年:2014/11/09(日) 23:08:03.87 ID:DhZdINUn
菅沼くんの妄想小説はごり押しですからのう
505 :
人間七七四年:2014/11/09(日) 23:36:44.45 ID:VStwx0Bb
>>500 武田単独で6万動員できるなら、周辺勢力含めれば10万いくんじゃね?
織田はたった1万の兵力で10万の兵力に包囲された状況から挽回したということか
506 :
人間七七四年:2014/11/10(月) 12:10:30.52 ID:ZjvxS2Zh
信玄も謙信も信長の方が全然勢力が大きいのに直接対決では完勝してるんだよな。
507 :
人間七七四年:2014/11/10(月) 12:49:48.10 ID:aBx5SVt6
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
ものすごく恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに
信長を警戒させている。
勝頼の明知城攻めでも信長はワザと遅く援軍を出す始末www
元亀4年の信玄西上のトラウマを
信長は引きずっているのがわかる。
一方、謙信は勝頼を大したことはないと評している。
織田は野戦の大敗がたたって25000のうち6000討死だもんな。
徳川の馬防柵収用キャパ限界を超えて
陣城逃げ込み拒否られて放置傍観された織田兵はほぼ全滅したんだろうな。
まぁ実際、真田宝物館が大切に所蔵している
8/10付け勝頼→岡修理宛で
長篠で取り詰めたところ、
織田と徳川が後詰めに出てきたので
累年の願望だったので満足しました。
すぐ乗りかかり一戦して数多討ち取り、その利に乗って
信長の前まで押し寄せたところ陣城を構えて籠もっていたので
人数を入れたところ、私たちの先衆が利を失ったとのことでした。
近日には遠江へ出馬します。このたびこそ尾張三河へ乱入し
是非を決して本意を遂げれることは疑いなしです。
などと書いているから、なかなか勝負してこないヘタレ織田が
やっと長篠包囲でおびき出されてきて累年の願望が遂げれたのは確かなんだよね。
そしてさっそく決戦して野戦で織田軍を大敗させたのも間違いない話で、
家康の構城へ逃げ込んだ信長(滝川が陣城を作った記述はウソ長公記にしかない)
の目の前まで武田軍は侵攻してきてる。
さらに陣城への侵入にも武田軍は成功してるから
陣城内での乱戦で不利になったのだろう。
そこで大勝利できずに撤退したが、次回こそ遠江へ侵攻すると同時に
尾張三河へも乱入して勝負を決したいと言っていて
武田軍が崩壊してる姿はまったくない。
織田側の嘘情報宣伝で武田が大敗したと浸透していったんだろうね。
案の定、織田家臣で感状をもらったやつは誰もいないしwww
508 :
人間七七四年:2014/11/10(月) 14:15:22.03 ID:Xc4pHSnr
油断するなと書いてるだけで恐れているに繋がるとは相変わらずぶっ飛んだ思考だな
509 :
人間七七四年:2014/11/10(月) 16:48:45.97 ID:/BC9OCiY
>>506 直接対決と呼べるほどの戦いはしてないけどな。
三方が原は片手間に援軍だしただけやし
手取川は戦いの存在そのものが眉唾やし
どっちも信長本人は来てないし
510 :
人間七七四年:2014/11/10(月) 17:04:50.47 ID:aBx5SVt6
もう勝敗はついてるよ。
フロイスは日本史において、
初めて岐阜へ向かったときに
「信長の軍勢の総司令官である佐久間殿」を最初に訪問してる。
その後に「信長の最高の武将4人の中の一人である柴田」を訪問。
そして信玄は三方が原で織田軍総司令官佐久間を怯えさせて戦わずして勝ちを得ている。
謙信は織田軍総司令官の下にいる四天王の1一人である柴田を怯えさせ戦わずして勝ちを得てる。
孫子が主張する戦わずして勝ちを得る最高級の勝ち方を示している。
ちなみに元亀4年3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は六万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
史料から、信玄軍の強盛振りと徳川の累卵が如き危うさを伺えるね
烏合の衆か組織化された衆かで質の違いが顕在化した結果でしょ。
貫高に応じた兵数動員を賦課してない織田軍
指物や槍の寸法や装備や馬上具足に至るまで数と質を指定されてない織田軍
信玄が旗本を対象に陣立書を作成していて
陣立書は今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込むものであり、軍隊として高度に機能させるに必要不可欠だし、
しかも織田軍全体の統一された軍規や軍事編成や武器比率が存在しない。
信玄死去から10年経っても甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士と呼ばれ戦う前から怯えさせる精強さ。
511 :
人間七七四年:2014/11/10(月) 17:17:46.92 ID:aBx5SVt6
差出検地すらまともに出来なかった織田政権の国力ってwwwwwww
そもそも山城国ですら、信長は支配出来ずに寄生虫みたいに乗っかってただけじゃんw
秀吉は天正12年戦役で家康を屈服させたあと、余裕が生まれたので、領地訴訟問題を解決すべく、
さっそく寺社や公家らを含めた山城国で検地し既得権益を整理して実質的な統治を開始している。
寺社や公家にまで検地したのは画期的な出来事として評価が高い。信長には不可能だったことだ。
信長は差出検地命令すらナメられて馬鹿にされてたからなぁ。
天正14年6/20の多聞院日記には 秀長が信長の差し出し要求で出された興福寺の石高を知り激怒してるのがわかるし。
財源確保と労役や軍備の算出の基礎データすら把握できてないのでは、
国として成立してない、子供が運営してるゴッコ遊びレベル。
これじゃ北条の方がはるかに信長の統治より優れているのは明白だよ。
内政といえば信玄は天文16年には甲州法度之次第55ヶ条を発布し
天文23年に条文追加で公事検地を目指したものと高く評価され
永禄6年恵林寺での検地などの記録も残る。
信玄堤や伝馬制など次々と整備されていて
今川義元も天文22年に分国法かな目録と訴訟条目を制定し伝馬制や検地を始めてる。
信玄が旗本を対象に陣立書を作成していたのは
軍事関係者の間では高く評価されているが
中央で言えば、小牧長久手での秀吉が一番最初。
陣立書は今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
いい加減丸投げ統治の信長には最後まで考えつくことはできなかった。
1580年の織田による差出検地
興福寺大乗院跡750石
興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石
かんぜんにナメきってる報告っぷりw
秀吉の文禄検地
興福寺春日社は2万1000石とされた。
信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの
石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。
つかできない。
だいたい信玄上洛にビビっていた織田軍はたった1万しか動員出来なかったしソースは年代記抄節。
しかも織田の国人への動員とは違い
武田軍は輪番制や村請、印判衆がいるので軍役衆は帰る必要が無い
知識が40年以上前から進展せず、知恵が小学校低学年のまま進歩しないのが信長厨
512 :
人間七七四年:2014/11/10(月) 20:06:43.81 ID:cQote55u
で、結局さー、信長が謙信や信玄に比べて優れている点って根拠付きで全く出てこないね。
つか貫高や石高を把握し、それに応じ租税や労役や武具を課し、
逆にそれ以上の過度な無理を要求しない。これは軍事組織を構成する基礎中の基礎。
自分の感情だけで私刑をしないで、家臣に諮り評議で合議するなり、明確な国法なりを整備する。
人心を得るために人倫の道を踏み外して大量虐殺しないで侘びを入れてきたら赦免する。
そーいう国家運営整備の基本がまったく出来てない信長じゃ、いずれは破滅するしかなかったよね。
大虐殺して脅迫して大略奪して兵を養う一国亡国政策や、
上限のない過度な軍役の末にやむなく起こる謀反叛乱一揆続出。
信長が気に食わないだけで殺される人々。信長はそれをスッキリしたと喜ぶ快楽殺人思考。
内政放棄で家臣の才覚に丸投げする一職支配権の結果、
織田家はまるでその地を把握しておらず、
その地で家臣は寄子を直接支配し軍閥化し荒木や明智のように大規模謀反。
513 :
人間七七四年:2014/11/10(月) 21:40:35.73 ID:u5w1kmJk
大学でその論文出してみ
ろくに添削もされずにデカいバッテンつけられてそのまま返されるレベルやで
514 :
人間七七四年:2014/11/10(月) 21:52:16.35 ID:ZggMchN9
菅沼遼太は大学なんて縁のないところに行ってないからセーフ
515 :
人間七七四年:2014/11/10(月) 21:56:55.26 ID:pYctKNJT
516 :
人間七七四年:2014/11/10(月) 21:58:32.30 ID:/BC9OCiY
今は大学の先生もグーグルでコピペでないかどうかぐらいのチェックはするからそれで引っかかるんでね?
まあ、ルーズーな教官なら通るだろうけど。
517 :
人間七七四年:2014/11/10(月) 23:09:02.26 ID:ZjvxS2Zh
自衛隊の戦術教官や兵法研究科の海上氏が信長は信玄には絶対に勝てない。ましてや謙信に勝てるはずがないと評しているのは当然の事なのですね。
兵法研究家海上氏の「信玄の戦争」は面白かったです。
518 :
人間七七四年:2014/11/10(月) 23:11:00.02 ID:/BC9OCiY
その兵法研究科の参考資料は軍記物であって歴史書じゃないけどね
三国志演義片手に語ってるようなもの
519 :
人間七七四年:2014/11/11(火) 01:33:41.35 ID:cs9/nUSd
マジレスするなら遠藤宛の朱印状とかに分在よりも〜とか書かれているから
何らかの軍役基準があったことは確実だろう
520 :
人間七七四年:2014/11/11(火) 01:42:03.88 ID:wGJVC4Jy
海上氏とやらが本気でそう思っているなら、現役の教官でなくて心底良かったと安堵するよ。
アジア情勢もキナ臭くなってきてるのに、こんな寝ぼけたこと言うやからに軍人をやられては国民が困る。
521 :
人間七七四年:2014/11/11(火) 06:55:39.81 ID:7oscOnvj
軍事のエリートどもが指揮してあんだけ散々な結果だったのが先の大戦なわけだが。
子どもでも分かる理屈を認めようとせず無謀にひたすら走る軍事のプロ(笑)
522 :
人間七七四年:2014/11/11(火) 09:51:44.49 ID:YdEXcYxJ
523 :
人間七七四年:2014/11/11(火) 11:04:25.70 ID:pUMLPQzk
そりゃそうだろ、所詮歴史の素人が書いた本なんだしさ。
お話としては面白いかも知れんが真面目に歴史を語るのであれば論外。
歴史学の本としてなら言っちゃなんだがこの手の本で参考になるかどうかは論拠のソースがはっきりしてる分
まだ大学生の論文の方がしっかりしてるはず。
524 :
人間七七四年:2014/11/11(火) 12:36:06.89 ID:XW3ce2w2
>>521 歴史オタクが指揮したらと思うと絶望的だぞw
525 :
人間七七四年:2014/11/11(火) 14:39:40.01 ID:wGJVC4Jy
526 :
人間七七四年:2014/11/12(水) 08:23:38.54 ID:dAbcOJ8U
この軍は相手の数倍は強い!と言って、何の根拠もないのに突っ込む姿が
浮かぶな。
信玄好きなら、相手を罵らず緻密な作戦を立てるだろうと考えるものだと
思うけどなぁ。
527 :
人間七七四年:2014/11/12(水) 10:27:01.83 ID:jubXjMfP
菅沼は自己中の上にビビリだから、まず自軍に寝首かかれないかとか考えだして
揉め事起こした挙句トンズラこきそう。三国志の孫峻のように
528 :
人間七七四年:2014/11/12(水) 12:12:23.54 ID:yq2rv0mh
彼の意見をそのまま取り入れると信玄や武田家臣は兵卒が強いから領土広げられただけで、
信玄と武田家臣は無能ってなりそうだからな。
529 :
人間七七四年:2014/11/12(水) 20:35:46.63 ID:fdRpGawS
>>522 その人、本に☆5の評価つけてて笑った。
530 :
人間七七四年:2014/11/12(水) 20:39:37.06 ID:fdRpGawS
他のレビューも読んでみたけど、なんか基本的に高評価だわ???
531 :
人間七七四年:2014/11/12(水) 22:48:20.18 ID:2gU4S/ty
批判したって本の中身には傾倒しているわけだ。
兵法研究科の海上氏が信玄には信長は絶対に勝てない。ましてや謙信に勝てるわけがないというのは当然の事なのだろうな。
そもそも降伏して武器を捨てた一向宗を包囲しておいて大殺戮し、怒った彼らに逆に大虐殺されて重心はおろか親族まで次々と殺されるような信長軍が強いわけはない。
信長の凄いところは、自軍が弱いところを知っていて自転車操業をし続けた商人魂だと理解しているが。
532 :
人間七七四年:2014/11/12(水) 22:57:42.22 ID:zWh/0r4a
大殺戮?とか、重心?とか釣り餌が凄いな。思わず飛びついちまうわ。
533 :
人間七七四年:2014/11/12(水) 23:26:08.89 ID:2gU4S/ty
武器を捨てた大勢をところかまわず殺しまくるのは大殺戮。
武器をもたない連中を囲んでおいて多くの兵に守られた重臣や親族を殺されまくられるのは大虐殺。
違うのか?
534 :
人間七七四年:2014/11/12(水) 23:55:03.59 ID:zWh/0r4a
笑い殺す気かwww
武器を捨てた、ところかまわず 、大殺戮、を殺されまくられる、、
ネタ多すぎwww
535 :
人間七七四年:2014/11/13(木) 04:58:47.16 ID:VJXv7WaW
>>530 そら糞だと思ったやつはレビューなんかつけずに破り捨てるだろ
業者も派遣されているだろうし話半分に見ていた方がいい
536 :
人間七七四年:2014/11/13(木) 08:12:22.65 ID:/1O4MU+e
>>534 自分も思わず笑ってしまったよw
ネタとしても上手いなw
537 :
人間七七四年:2014/11/13(木) 13:37:13.22 ID:DiOVMiKu
武器を捨てたのに大虐殺できる一揆勢は北斗神拳の使い手かなにか?
538 :
人間七七四年:2014/11/13(木) 21:48:33.91 ID:b9YEk0NY
一揆勢は北斗神拳の使い手だったのか。
すると重心が殺されるという表現はありかもしれないな。
笑ってゴメンね。
539 :
人間七七四年:2014/11/14(金) 08:48:36.96 ID:TgH35ChM
評価の高い研究者を偏った信者・歴史オタクが必死にこき下ろしていますw
540 :
人間七七四年:2014/11/14(金) 09:56:46.78 ID:/1sJ3Z0C
井沢元彦も評価は高いよなw
541 :
人間七七四年:2014/11/15(土) 10:47:05.49 ID:Y77fL3+5
井沢元彦の本は読みやすいからな。一般受けする。でもさすがに
井沢元彦の英雄の世界史みたいなどうしようもない本は評価低いから、読者は正直だね。
542 :
人間七七四年:2014/11/15(土) 16:27:48.23 ID:8wfWbINU
Amazonの評価?
2ちゃん、オープン、Wikipedia、まとめサイト、ニコニコ大百科、Yahoo!知恵袋と工作の限りを尽くす菅沼遼太くんが、Amazonの評価コメントには手を出していないとでも?
上杉謙信を世界史上の英雄のように語る元自衛隊のイカれた教官の本のAmazon評価なんて、オケラのウンコほどの価値も無いよなぁ。
543 :
人間七七四年:2014/11/15(土) 20:27:42.79 ID:VuUMwqrv
なんでそんな必死なんだww
544 :
人間七七四年:2014/11/16(日) 09:50:27.66 ID:bYsAm/D/
>>542 専門家と貴方みたいな歴史オタクじゃぁ比較にならないよ。
信長が信玄や謙信に勝てるという妄想も自由だし語っていいとは思うけど、そんなに必死にならなくても。
545 :
人間七七四年:2014/11/16(日) 10:42:36.28 ID:LaA2YHUk
関ヶ原の配置見て西軍の圧勝って軍人が言ったってあったな
546 :
人間七七四年:2014/11/16(日) 10:51:52.22 ID:HSfs2HUy
>>545 所詮は結果論
合戦当時に東軍掻各将が配置図見られたら寝返り続出レベル
547 :
人間七七四年:2014/11/16(日) 12:06:07.73 ID:oZQd2NwY
元の配置図自体があんま正しくないんだよね
松尾山いった時点で小早川は半ば東軍側についたものと両軍ともに認識してたし。
548 :
人間七七四年:2014/11/16(日) 13:18:38.00 ID:8yERYaTM
信玄って三増峠の戦いで左翼大将の浅利信種を北条綱成の鉄砲隊に討ち取られたけど
その時に鉄砲の有用性に気付かなかったのかな
549 :
人間七七四年:2014/11/16(日) 13:40:41.32 ID:bhihasrl
既に川中島の戦いのときにある程度まとまった数投入して籠城に使っている
550 :
人間七七四年:2014/11/16(日) 17:33:21.29 ID:zXJ7ENl3
>>542 心配しなくてもアマゾンレビューこそ高いけど、内容に関してはまず全然違うよ。
この本の肝は『「天下統一」という観点から、「織田信長」の革新性に対する保守・後進性と言う風によく対比されやすい「武田信玄」ですが著者はそういう単純な見方に異を唱えています』
とか、『名将武田信玄が天下を取れなかった理由を、彼のバイブルであった孫子の根本的価値観―負けない戦いをすること―の面から解釈し、更に信長のマキャヴェリ的合理性と対比していく意欲作。』
とあるように、武田信玄=旧態依然という図式を崩すのが目的。さらに謙信を通じて信玄のあり方を書くのがこの本の真髄。
斬新性を褒められてるレビューが多いわけだが、戦争に関してはほとんどの人は疑問符を持っている。
あと、この著書で筆者「武田信玄では天下を取れない」とまで言っているわけだが、
そこらへんはここにいるであろう菅沼遼太君にとっては苦痛だろうね。
不自然にこの話題が出ないのは、彼がいるからだろうけどw
551 :
人間七七四年:2014/11/16(日) 19:08:20.25 ID:Oy5WTDHp
「信玄の戦争」っていう題名なのに織田信長ベタ褒めの内容だからな。
上杉謙信好きの著者としても、信玄好きの購入者層に対しても、
「局地戦なら信玄の勝ち」とか書いとかないと収まらなかったんだろうと思う。
552 :
人間七七四年:2014/11/16(日) 19:25:35.75 ID:25tp6bGI
で、信長の凄さとやらを一次史料付きで語って貰おうか。
553 :
人間七七四年:2014/11/16(日) 19:28:47.24 ID:Oy5WTDHp
>>552 そういう初歩的な質問は、小学校の時に先生にしてくれないかな?
554 :
人間七七四年:2014/11/16(日) 19:43:48.13 ID:LAnrnlgX
>>549 実は早い時期から鉄砲多く使ってるのに
未だに武田が鉄砲軽視したって思われてるのは謎だな
555 :
人間七七四年:2014/11/16(日) 21:38:29.86 ID:bYsAm/D/
>>551 信長は信玄に勝てるわけがない
ましてや謙信には逆立ちしたって勝てない
このように「信玄の戦争」には書いてあったが・・
556 :
人間七七四年:2014/11/16(日) 22:39:27.95 ID:Ax8wUe/u
>>553 相変わらず織田チョン涙目だなwww
なーんにも根拠ないもんなwwww
557 :
人間七七四年:2014/11/16(日) 22:52:32.51 ID:c4cLC06K
>>554 甲斐よりも関東の方がむしろ馬を大量に集中運用してたとか、その辺と同じじゃねの?
558 :
人間七七四年:2014/11/16(日) 23:22:14.18 ID:2LAzI49H
>>555 信長自身が、全く勝てると思って無かったみたいだな。
信長は勝てると思ったらすぐ前線に出てくる。
なのに元亀3年後半は、あの谷口克広が驚くほど全く音沙汰無しだった。
559 :
人間七七四年:2014/11/16(日) 23:41:28.12 ID:LaA2YHUk
谷口何年生きるんだよ
560 :
人間七七四年:2014/11/16(日) 23:55:53.32 ID:2LAzI49H
失礼なことをいうな。まだちゃんと生きてるぞ。
561 :
人間七七四年:2014/11/17(月) 00:20:54.18 ID:WFxYR24G
>>555 それは局地戦の話だよ
本当に「信玄の戦争」を見て言ってるか?
「信玄の戦争」は、まず「武田信玄は天下を取れない」から始まる。
で、「信玄はなぜ天下を取れなかったのか?」という疑問を、孫子を通して解明していくのがこの著書の内容。
それを織田信長を通して対比して、「信玄が天下を取れなかった原因」を延々説明する。
で「仮にもし、信長と信玄が同じ戦場で対していたら」という仮定付きで「信長は信玄に勝てなかっただろう」と書かれている。
でも「武田信玄は天下を取れない」ってのが、この本の論調だから、早い話溜飲を下げるために書いた感が強いのよね
562 :
人間七七四年:2014/11/17(月) 00:22:51.67 ID:WFxYR24G
>>558 一応11月頃なら浅井朝倉と対峙している
563 :
人間七七四年:2014/11/17(月) 00:50:32.52 ID:P8sIeyrr
で、信長の凄さとやらの説明はまだなの?
信長が信玄に勝てるとする論拠は出せないの?
564 :
人間七七四年:2014/11/17(月) 01:11:57.39 ID:QCpWgKLi
>>563 両方、「信玄の戦争」にちゃんと書いてあるんじゃね?
みんなの話
>>522-562ちゃんと聞こえてる?
頭の悪い煽りレス、もうやめてくれない?
565 :
人間七七四年:2014/11/17(月) 02:09:31.99 ID:3mtMpQ4v
566 :
人間七七四年:2014/11/17(月) 08:31:11.28 ID:Hy48cn3X
>>564 561の話でもあるが、信長は結局信玄にも勝てないと書いてある。
信玄は孫子の体現者なので天下は取れないと説明されているが、信長は信玄には勝てないとはっきり明記されている。
「信玄の戦争」
それと信長は信玄に勝てなかっただろう・・
ではなく、
「勝てるわけがない」
位の強い表現だったな。
567 :
人間七七四年:2014/11/17(月) 08:45:07.17 ID:f3VNSqYV
>>564 はっ?そんなもんどこにも書いてねーだろアホが。
相変わらず織田朝鮮人は逃げ回ってばかりだなwww
いいからここに信長の凄いところを一次史料の根拠つきで書けよwww
絶対に無理だろうがな。
568 :
人間七七四年:2014/11/17(月) 12:43:12.31 ID:Tbsr8eIY
>>565 志賀の陣ではなく、ちゃんと元亀3年に対峙してるよ
そもそも武田信玄の挙兵を聞いた時に浅井朝倉と対峙している
>>566 だからその「信長は信玄に勝てない」ってのは「同じ戦場で対した時」という仮定つきなのが「信玄の戦争」の著者の主張。
でも「武田信玄に天下は取れない」というのが同著の主張だから、結局信玄は信長に勝てないことになる。
なぜなら「同じ戦場で対したならば」という条件つきなので、信長が逃げまわっていれば、信玄は信長と戦えない=結局勝てない、というのがこの本の内容
569 :
人間七七四年:2014/11/17(月) 16:19:45.90 ID:+p26yCZI
>>568 9月ぐらいまでで11月には岐阜に帰還して無かったか信長
まあ9月まで対陣していたんだから1572年後半なんだが
570 :
人間七七四年:2014/11/17(月) 19:10:05.37 ID:y7vR3KnW
9月の後半には信長は横山に帰還してその後岐阜へと言う流れだったかな。
571 :
人間七七四年:2014/11/17(月) 21:16:24.87 ID:f3VNSqYV
信長が優れている点は人を犬畜生以下に見下し、
女子供の差別なく大虐殺して喜んで書状を出す快楽虐殺を楽しむキチガイなところ。
日本国宝級財産600兆円を燃やし破壊して回った日本最大の放火魔。
細川政権や三好政権などとちがい、内政無視という国家体制整備皆無が原因で、
たった10年で完全崩壊させた中身がまるでない空虚な政権を作ったアホ。
572 :
人間七七四年:2014/11/17(月) 21:47:10.46 ID:Jsdt71H3
お、おう!そ、そ、そ、そだな。(誰か助けて!)
573 :
人間七七四年:2014/11/18(火) 03:15:30.18 ID:+9LoLOJF
菅沼遼太wwwwwwwww
574 :
人間七七四年:2014/11/18(火) 07:34:30.51 ID:wwQcs5rj
>>563 長篠で武田軍は信長に一方的に虐殺されましたが?菅沼君
575 :
人間七七四年:2014/11/18(火) 08:30:36.94 ID:fkoC5eyC
長篠野戦で虐殺され、家康の作った柵に助けを求めた織田軍www
576 :
人間七七四年:2014/11/18(火) 11:58:41.73 ID:wwQcs5rj
>>575 逃げただけで武田軍を壊滅させた信長は戦の天才だということですね?菅沼君
こんな天才に信玄が勝てるわけないですよね?菅沼君
577 :
人間七七四年:2014/11/18(火) 14:11:19.75 ID:Z3fAij1u
真田や山県や馬場や内藤はみんな揃って伝染病にでもかかったんですかね?
578 :
人間七七四年:2014/11/18(火) 14:19:25.49 ID:qpK0GmOJ
織田信長はバイオウイルスを持ち込んでいたんだよ
織田軍は大きな犠牲を出しながらもバイオウイルスを拡散して撤退した
元々織田軍がいた場所にバイオウィルスが撒き散らされ、織田軍を追って追撃した武田軍に感染者続出
武田軍は体を蝕まれてあれよあれよと死んでいったのさ
これが菅沼遼太史観にある長篠合戦の全貌である
579 :
人間七七四年:2014/11/18(火) 19:59:59.62 ID:7EJPbrs3
真田や山県や馬場や内藤が長篠で戦死したとする一次史料はまだなの?
580 :
人間七七四年:2014/11/18(火) 20:30:22.48 ID:5Hhqm0hR
菅沼史観だと馬場や山県なんてただのザコのはずだからどうでもよかったんじゃないの?
581 :
人間七七四年:2014/11/18(火) 21:08:21.75 ID:Z3fAij1u
582 :
人間七七四年:2014/11/18(火) 21:38:34.89 ID:WAq9P/Km
お前らよく会話が成立するなぁ 俺には到底無理だわ
583 :
人間七七四年:2014/11/18(火) 21:53:08.73 ID:WAq9P/Km
>>570 7月から12月まで朝倉は北近江に居たんだな。
結構、信長の方も厳しいね。
584 :
人間七七四年:2014/11/19(水) 18:11:16.04 ID:308e1GIY
武田が出てくる前に信長は帰っているから
浅井朝倉はもはや脅威ではないと思われていると思うぞ
本当に厳しかったら武田が徳川相手している間に浅井朝倉相手に再出撃するか
朝倉撤退後の雪で越前から出て来れない間に武田に対して一か八かの攻撃をかけているはず
585 :
人間七七四年:2014/11/20(木) 00:08:31.71 ID:xmWlYdEN
朝倉は織田に大勝したから帰ったんだけどな。
信玄も兵の疲労を考慮するのは尤もだけれども、せっかくの時に帰るのはもったいないって書状を出してる。
これが織田在日フィルターにかかると、知恵遅れ朝倉が織田に圧倒されて越前に逃亡し、
孤立した寡兵の信玄が織田にビビり、朝倉の撤退を詰るって話になるから笑えるわwww
一次史料を見る限り、朝倉に大敗→三方ヶ原でフロイス曰く、織田軍総司令官佐久間殿の援軍が信玄にビビり崩れ去り軍が崩壊。
結果、信長から大量離反しまくりで味方は荒木と細川だけで総勢1万にしかならず、
義昭の二条城すらフロイス曰く、とても落とせない状態で、
自暴自棄になり怒り狂った信長が天皇の御所への延焼も辞さず上京を焼き討ち略奪虐殺、下京からも脅迫を背景に金を大量にカツアゲ開始。
京洛が地獄と化し天皇がビビって義昭に信長と和睦するように斡旋。
この恐怖体験から天皇が吉田山に避難するための施設を作りたいと信長に申し出たら、
信長は面談を拒絶して柴田に、施設作りは許可しないと言わせて天皇を籠の鳥にする始末。
天皇も信玄死去に落胆しただろうね。
586 :
人間七七四年:2014/11/20(木) 00:33:49.38 ID:4KzOUMre
カタカナとかダブリュとか混じるとなんか幼稚な文に見えるな。
587 :
人間七七四年:2014/11/20(木) 09:05:53.74 ID:a3YZ+Na2
579
菅沼だから公記は認めないだろうから、他にも、君の聖書甲陽軍鑑や各地の碑や墓石などなど
長篠以外で死んだってどこで何が原因で死んだのか異論を唱える学者先生の論文があればどうぞw
588 :
人間七七四年:2014/11/20(木) 12:09:33.06 ID:iOkKbXWG
>>587 で、一次史料はまだなの?碑や墓標なんて後世の人が刻んだもんで論拠になんねぇよ。
589 :
人間七七四年:2014/11/20(木) 16:52:28.13 ID:tS1pg5Ij
高野山の過去帳でとっくに出ているのに頑なに史実を認めない菅沼遼太wwww
590 :
人間七七四年:2014/11/20(木) 17:35:30.75 ID:xmWlYdEN
過去帳がいつ一次史料になったんだよアホかwww
591 :
人間七七四年:2014/11/20(木) 20:18:59.68 ID:a3YZ+Na2
菅沼のれすよりはよっぽど墓標の方が信頼性あるわw
592 :
人間七七四年:2014/11/20(木) 20:58:18.13 ID:c2uQohEV
過去帳は本物なら当然一次史料にあたるものだろ
593 :
人間七七四年:2014/11/20(木) 21:56:14.65 ID:xmWlYdEN
あたらねーよ。織田ちょん自慰はいい加減にしろやw
594 :
人間七七四年:2014/11/20(木) 22:08:44.07 ID:c2uQohEV
また凄い迷言が出たな
595 :
人間七七四年:2014/11/20(木) 22:52:10.41 ID:iU4DvyF+
みんなで覚えよう菅沼名言録
「寺の過去帳など本物であっても一次史料とは言わぬ!(キリッ)」
596 :
人間七七四年:2014/11/21(金) 00:08:20.33 ID:gQJap/t8
ただ一次史料って唱えて逃げてるだけだろ
一次史料だろうが二次史料だろうが正確な検証が伴わないと信用性は確保できないぞ。
ちなみに菅沼君の日記でさえ現代の一次史料なんだけど、もちろん将来の五次史料より
信用できない一次史料となるだろう。
597 :
人間七七四年:2014/11/21(金) 00:15:45.20 ID:AlQUStyf
過去帳が一次史料だったら
長尾為景や織田信秀らの
死去年なんて論争なく確定する話だろwww
598 :
人間七七四年:2014/11/21(金) 00:37:37.09 ID:m5fHLriG
一次史料の意味すら知らない人間が歴史カテゴリの板にいると聞いてきました
599 :
人間七七四年:2014/11/21(金) 01:20:49.67 ID:RLdrZV3C
予想どおりの菅沼遼太スレだった
600 :
人間七七四年:2014/11/21(金) 08:54:49.62 ID:Z5h0Wz/4
むしろ過去帳の記述が、明らかに後世の軍記講談に書かれる武将の死を参考にしていたり、
家や寺や古老の言い伝え、
宗家や分家の正統争い、菩提寺争い、政治的意図、勘違い、火災に関わる複製時の誤記、死去と葬儀の混同、記述者不明でなにを根拠にしてるのかまったく不明
などで編集してあるから混乱の元になっている。
601 :
人間七七四年:2014/11/21(金) 10:12:45.09 ID:z76fZlgK
過去帳は一人だけ載ってるわけじゃなく死亡した順番に記載されているので後にねつ造は無理じゃない?
602 :
人間七七四年:2014/11/21(金) 11:04:10.76 ID:KbQdv/aP
>>597 信秀は万松寺の位牌が天文20年3/3死去
万松寺の過去帳が天文21年3/9死去
万松寺の開山大雲永瑞法語41歳死去
信長公記3/3に42歳死去
だからもうどれがあってるのが確定できず
無茶苦茶だからねぇ。
長尾為景も天文5年12/24死去が定説だけれど、
上杉家御年譜の天文11年12/24が有力になってきてるし
参考として高野山越後過去帳には天文10年12/24って書いてあってわからない。
もっとわかりにくいのは為景の正妻天甫喜清で、
越後過去帳に天文12年5/7と永正11年5/3の二回死去が確認されてしまう。
603 :
人間七七四年:2014/11/21(金) 11:22:46.22 ID:V88dVcMF
604 :
人間七七四年:2014/11/21(金) 11:29:21.70 ID:KbQdv/aP
>>603 だからね、そもそも誰がいつ、
記入したものかわからない過去帳なんて
一次史料じゃないんだよ。
書札礼に従った書式で差出人と日付けと花押や朱印がある書状と混同すんなよ・・・・
しかも書状は当時のものかの真贋で紙質や墨の濃淡まで研究者にチェックを受けるからな。
605 :
人間七七四年:2014/11/21(金) 12:46:55.74 ID:sb/Eo1oU
(ピラミッドの落書きも一次史料ですが、何か?)
606 :
人間七七四年:2014/11/21(金) 12:50:33.77 ID:a11+R7m/
そもそも一次資料って他の資料を基にしてに書かれたものではないってだけの話で
信憑性が高いとかそういうのとはまた別の話なんだけどねえ
607 :
人間七七四年:2014/11/21(金) 13:18:29.95 ID:7fxDj4/z
面倒だからコピペ
歴史学においては、「史料」という用語が使われる。
同時代の人間による生の史料を一次史料と呼び、後世の編纂物などを二次史料と呼ぶ。
例えば、上杉謙信の残した書状や感状などは一次史料であり、
米沢藩が一次史料を元にまとめた『上杉年譜』は二次史料である。
608 :
人間七七四年:2014/11/21(金) 18:39:43.14 ID:n0AE3cr1
本物であっても一次史料に当たらないって主張するから馬鹿扱いされているということがわからないのか?
609 :
人間七七四年:2014/11/21(金) 22:13:27.50 ID:NXRIP/OL
>>597 「一次史料であれば確定する」と思う時点で、
自分が愚かだと思わないの?
過去帳には一次史料もあれば、過去帳の写本みたいな
二次史料に近い物もあるかもしれない。
それらの信憑性をスレの住人が仮説立てたりして検証してるところに、
「一次史料じゃないから信用できない」とか、「一次史料だせ」とか、
頓珍漢な事ばかり喚くから、全員から出てけって思われちゃうんだよ。
610 :
人間七七四年:2014/11/22(土) 07:28:34.14 ID:Z7S/Uo98
>>606 菅沼遼太は一次史料と二次史料の区別がついてないからな
菅沼流で言えば信長をゴミカスに書いてる史料は一次史料ですなわち信頼に足る史料
信長を持ち上げている史料は二次史料ですなわち信頼に値しない糞史料
まあ奴の単細胞ぶりではいいとここんなもんだろ
611 :
人間七七四年:2014/11/22(土) 10:34:43.81 ID:LYa5X7eu
菅沼遼太が権力者になったら絶対に焚書をやると思う。
二次史料は不要!三次史料は不要!信長評価本は不要!
612 :
人間七七四年:2014/11/22(土) 12:05:52.08 ID:xujicz1V
ラノベや架空戦記本が菅沼書記長によって一次史料wにされるのかぁ。
お隣の国みたいだなぁ。
613 :
人間七七四年:2014/11/22(土) 12:19:31.74 ID:LYa5X7eu
>>612 ラノベや架空戦記本は菅沼君の認定が無くても普通に一次史料だと思うけど?
607の定義を理解できてる?
614 :
人間七七四年:2014/11/22(土) 13:14:47.85 ID:bFmHvYlW
>>613 それは現在時を未来に置いた場合のことだね
で21世紀の歴史を研究する場合の一次史料であると
それは正しい
でも、多分
>>612は、現在時を今に置いていると思うよw
615 :
人間七七四年:2014/11/22(土) 17:47:21.08 ID:iJPQMOkr
616 :
人間七七四年:2014/11/22(土) 18:31:30.57 ID:I4ujgvNR
論破され発狂する織田在日w
617 :
人間七七四年:2014/11/22(土) 20:07:17.93 ID:j5FgSPqR
ツーリングが趣味で様々な都道府県に行く。
あちこちで県立博物館によるが、山梨県立博物館は面白さが俺の中でかなり上位。
618 :
人間七七四年:2014/11/23(日) 06:34:29.90 ID:ikcx7MvR
菅沼遼太って前からそうだけど一次史料を相手を黙らせることができる
唯一無二の真実みたいに考えているところがあるんだよなww
現代の一次史料といえば新聞や雑誌などだけど、
全部の新聞や雑誌が全く同じこと書いてあるわけでもねーのにな
だから記述が混乱するし突拍子もないことまでかかれてる
619 :
人間七七四年:2014/11/23(日) 07:55:26.06 ID:Zo63EpBR
まあ一次史料でも本当のことを書いているかどうかはまた別だしな
そういう場合はそういう場合で
そういった偽情報が流されたとかそういう噂が流れていたとか宣伝情報だったり解釈の違い
見方によって異なるとかだったりで
そういった当時の状況を知るための史料となるわけだが
620 :
人間七七四年:2014/11/23(日) 09:14:59.12 ID:FmYJ3UVt
織田厨「都合が悪いことは全て認めないニダ」
「信長だけが事実を書状に書いているニダ」
621 :
人間七七四年:2014/11/23(日) 12:51:53.87 ID:h/Z2RAOk
>>620 君の主張を裏付ける地質学論文はまだかね?菅沼君
622 :
人間七七四年:2014/11/23(日) 16:08:58.26 ID:y4ZOsydS
スレ住人A「この一次史料のココはこのように解釈している」
スレ住人B「いや、同じ人物による一次史料には真逆のことが書かれている。断定は早い」
スレ住人C「二次史料ですまないが、それについてはこう書かれているね」
菅沼遼太「俺が認めていないものは一次史料にあたいしない。お前らは織田厨。スレのレベルは俺が護る!」
菅沼だけヤバいぐらいに話が1つも噛み合わない。
623 :
人間七七四年:2014/11/23(日) 18:50:04.01 ID:JKo4k6dZ
だがクンは妄想癖なだけ
624 :
人間七七四年:2014/11/24(月) 01:00:21.77 ID:sxWW6utU
>>622 このスレの菅沼遼太語録
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
で、一次史料はまだなの?
過去帳がいつ一次史料になったんだよアホかwww
過去帳が一次史料だったら死去年なんて論争なく確定する話だろwww
論破され発狂する織田在日w
織田厨「都合が悪いことは全て認めないニダ」
「信長だけが事実を書状に書いているニダ」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
一人だけ別格すぎるよな。これと話題が噛み合ったら自殺するレベル。
625 :
人間七七四年:2014/11/24(月) 21:35:20.17 ID:ELt9uac5
信玄がもう1年長生きしてたらかなり変わってきそうだな
三方ヶ原の戦いの後、さらに1年猶予があり西進することになるな。そうなると織田と大規模な戦いが行われた可能性あるんじゃないか
626 :
人間七七四年:2014/11/24(月) 22:21:16.93 ID:t228owwl
武田は他力本願でしか織田とは戦えないから大勢にそう差はないと思うよ。
朝倉が兵を引いたらそれだけで止まらざるを得ない。
627 :
人間七七四年:2014/11/24(月) 22:41:35.52 ID://NmdYAz
>>625 信長が逃げただけで武田軍が壊滅するんだから信玄が勝てるわけない
そうだよね?菅沼君
628 :
人間七七四年:2014/11/24(月) 23:02:50.41 ID:6dYtYDj5
織田と大規模な戦いが行われるとすると場所は何処になるんだろう。
矢作川を挟んで戦うのなら岡崎城、岩津城、安城城、
木曽川を挟んで戦うのなら犬山城、鵜沼城、伊木山城の北あたりかな。
629 :
人間七七四年:2014/11/24(月) 23:56:50.97 ID:6dYtYDj5
間違えた。
木曽川を挟んで戦うのなら犬山城、鵜沼城、伊木山城あたり。
結局、小牧・長久手の戦いと近い合戦地になりそうだと思った。
630 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 01:00:27.06 ID:Y+ZpLG+m
11/19岩村城が武田軍の手に落ちる。信長が岐阜へ帰る。そして浜松へ3000の援軍が派遣される。
11/27付の山県書状で朝倉軍が江北で織田軍に大勝してる報告あり。
(岐阜へ信長が逃げ帰った理由が判明する)
美濃尾張兵数多討ち死にしたため
この後、2.3の大身が朝倉軍に内応。
(池田や斎藤や遠藤などが離反)
さらに最新情報で近江の蒲生まで離反。
12/22三方ヶ原で信玄圧勝。
(フロイス曰く織田軍総司令官佐久間信盛の軍が
武田軍の威風に鎧袖一触で自壊する勢い。
ちなみに織田チョンは一ヶ月以上前の出来事である
11/19の3000を佐久間全軍兵力と捏造歪曲)
遠藤が鉈尾城を岐阜に向けて築城。
池田が織田の軍役に従わず無視。
南近江〜北伊勢に義昭の命で武田信虎が調略開始。
長島門徒を北畠家より出張してきた日根野が指揮して岐阜にわずか三里に肉薄進出し要害を築く。
武田水軍が三河田原表を襲撃。伊勢湾を武田北畠水軍が経済封鎖。
四ヶ国門徒を蜂起させている顕如を媒介に浅井や朝倉らが情報交換。
一向宗や国人一揆が六角を支援し湖南封鎖。
謙信が信長のために越中へ進撃し加賀と越中の近江への一向宗援軍を足止めしてあげる。
織田軍が岐阜へ逃げ帰り、越中表の情勢を心配した朝倉軍撤兵。
信玄も謙信の動きを制するべく越中表の備えを万全にする。
織田の援軍なく野田城落城。しかも信長が近江へ家康に援軍要求。
織田軍離反されまくり、和田を殺した謀反人荒木と
(伊丹や三好により摂津を奪われた荒木…)
細川しか合流せず1万しか動員できず。
(和田は信長へ粗略しないと誓ってきたのに味方のない荒木を不問にする困窮した信長)
加治田城や津保城の斎藤と遠藤の鉈尾城が一向宗寺院を通じ連結し岐阜半包囲。
毛利の吉川軍が織田勢力圏を浸食西進。
三好軍が京の桂川以西を制圧。
浅井軍が湖西の志賀郡などを制圧。
朝倉軍の先遣部隊が西近江国人への支援に入る。
朝倉浅井本願寺合同で江州西路を完全制圧。
信玄が東美濃へ雪解けと同時に進軍するため
先遣部隊として3/6秋山に織田軍を追い払うよう命令。
3/19謙信が破綻中の朝敵信長に比叡山復興と土下座をして許しを乞えば
官軍武田軍の大義名分が消えると要求し、信長が受け入れる。
3/7ついに摂津の要で細川右京兆昭元の中島城まで落ちてしまい、
信長がさてもさても惜しき事だと嘆息。伊丹も摂津賀島城を落としてしまい摂津失陥。
吉川軍ついに丹波国人と呼応し但馬乱入。信長手当できず。
それどころか丹波国人の宇津氏に続き、
信長が信頼していた丹波国人内藤にまで裏切られる。
3/19謙信が信長、菅屋、林、佐々、松井らに相次いで美濃信濃境を油断なく用心し監視するように強く注意勧告する。
松永、三好連合が南方から山城へ北上するも信長手当できず。
3/12信玄が三河から撤兵。
謙信へ義昭が甲越相和睦の交渉を提案する。
4/6陸路が封鎖された為に船で上洛した信長だったが、
フロイス曰くとても落城しそうにない二条城を前に、
六角と一揆に背後を遮断されまな板の鯉になった信長が狂い
ついに御所が燃えるのも辞さず京洛郊外寺社焼き討ち、上京焼き討ち殺戮略奪。
下京恐喝。桂川が虐殺した屍体でいっぱいになる。
天皇が青ざめて義昭に二条城退去の講話を斡旋する。
あの信長マンセーの信長公記ですら信長八方塞がりとまで書く異例の記述。
631 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 01:09:04.23 ID:xGG0gh5U
>長島門徒を北畠家より出張してきた日根野が指揮して岐阜にわずか三里に肉薄進出し要害を築く。
なんだこりゃ?
説明と論拠よろ。
632 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 01:38:27.23 ID:mdCcYJyB
>加治田城や津保城の斎藤と遠藤の鉈尾城が一向宗寺院を通じ連結し岐阜半包囲。
遠藤慶隆が全く処罰されていないことを考えると、具体的な行動は何も起こしていないのだろう。
斎藤利堯の動向については、遠藤慶隆以上に全く不明。
そもそも親族である織田家を裏切る理由が無いし、
その後も織田家に忠実な家臣として仕えているように見える。
633 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 07:19:17.32 ID:r3HSIzGJ
菅沼遼太って織田の史料はやれ捏造だの妄想だの言う癖に
山県昌景→奥平貞能書状にある「尾張から来た申すに及ばない者によれば、朝倉は織田を大勝して近江を分捕り、蒲生は朝倉に寝返ったぞ」などという、
誰がどう見ても怪しいゴシップレベルの内容が書いてある書状はあっさり信じるのよなw
しかも山県は同じ書状で人質をさっさと寄こせ、ついでに嫡男の貞昌も寄越せという強硬姿勢。
なお奥平貞能は当然のごとく信用せず、信玄が死んで武田が撤退するやさっさと徳川に寝返った模様
634 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 08:27:09.64 ID:Y+ZpLG+m
織田厨は史料を元に反論するのでは無く、
自分のこうあって欲しいという思いつき願望妄言を根拠に反論する超絶バカ無能。
細川宛で信長はもう誰が味方で誰が敵かもわからないなどと泣きついているほどの状況で幽斎に依存しまくってるほどなのにw
しかも北陸一向宗を引きつけ近江へ行かせなかったどころか朝倉まで引かせた勇将謙信や、
浅井と湖東一向宗戦線を孤軍で支えきった天才秀吉が裏切ったら即滅亡だったのがこの時期の織田。
「」
635 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 09:18:36.03 ID:8Zwy4/2y
実際は 鴨川氏「信玄が三河方面に出てきたのは
信長を誘い出して殲滅するため。
その一方で別働隊に岐阜を突かせるつもりだっただろう
もし出てこないなら別働隊と本隊が合流して岐阜を攻めただろう」
森田氏「信濃と美濃国境の神坂峠の雪解けは当時の暦だと
3月下旬からなので、信玄は雪解け待ちをしていた。」
朝倉などへの手紙でも信長を敵として戦っているとか
来春に美濃攻撃すると信玄が書いている上に、
3/6付けで信長が東美濃にやってきたので三河や遠江は別人に任せて
秋山隊は信長を追い払えと先陣を命じている。
その後の情勢を見ると明らかに信長が東美濃で大敗しているとしか思えないw
鴨川氏が家康に一撃を加えた後に東美濃の別働隊と
信玄が合流して岐阜を攻めて信長を滅ぼせたかも知れないと主張しているが、
森田善明も新著で鴨川氏の意見に賛同して
信玄が朝倉や浅井に5月を目標スケジュールに据えていたのは
飯田から東山道を使って東美濃へ進出する際に通過する
神坂峠の雪解けを考慮していたからだと主張してるな。
信玄は野田城攻略完了して信濃へ進軍した時の」2/16には
まだ花押も書けるほど元気で、その後に急に病状悪化し急死したと。
(信玄は面倒な時は朱印で誤魔化していた)
そして信玄が死去した時期がちょうど雪解けして進軍可能な時期になっていたと。
(永禄の暦だと雪解け3月下旬から4月上旬)
だから信玄は「信長滅亡の時がきた」と自信を漲らせていたと主張してる。
(信玄が病を押して出陣したなどと書いてるのは甲陽軍鑑のネタで、
病が重くなってきた信玄が三河から引き上げて甲斐に戻るも、病が小康状態になったので
信長を倒すために美濃岩村へやってきて、織田軍1万を粉砕するも病が悪化し死んだと書いてる)
636 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 10:05:06.85 ID:8Zwy4/2y
第二次長島侵攻直前の天正元年(1573年)9月20日付けの塙直政の書状
信玄の西上中にも岐阜にほど近い新砦の守備をしていた日根野弘就に協力してた
伊勢大湊自由商業町の山田三方の福島親子が船を出していたことが発覚し、のち殺される。
このことからも織田に伊勢水軍が従っていたなかったことがわかる。
茶筅が「具豊」と名前を改めて文書発給を開始したのは天正元年9/20が初見。
大湊中に宛てたものだ。これは長島一向宗攻撃のために伊勢水軍に桑名派遣を命じてる。
そこには「本所よりも固く御申し付けあるべく」とあり、本所とは具教もしくは具房を指しており
信雄より先に本所からも命令文書が発給されているのがわかる。
まさに面従腹背の北畠と伊勢水軍である。
そして林通政を討たれ逃亡中に凍死続出で大敗する織田軍・・・これを受け信雄も天正2年に発給文書ゼロ。
その記述や天正元年9月の第二次長島侵攻での織田軍の退却での追撃で、
元亀2年の退却同様に大打撃を受けて、
信長公の一の長の林新次郎(道政)討ち死にも含めて、
一向一揆論の金龍静氏も、
すでに尾張国海津郡一体はほぼ全てが一向衆化していたと書いてる。
第二次侵攻時において恐怖とパニックで周りが全て敵に見える信長は、
深谷部の近藤氏は禅宗に帰依してたのに一向衆と誤認して攻撃してる体たらく。
海津郡失陥は重大な事件で、
これにより尾張から近江へ行く街道が封鎖されてしまい蒲生は敵中孤立。
蒲生が朝倉に帰属するのもうなづける。
また伊勢大湊に伊豆の大船が着岸していた事実から、
甲相同盟に基づき、
北条水軍まで伊勢湾に支援に来ていた。
637 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 10:38:00.06 ID:r3HSIzGJ
菅沼遼太は地理の知識に乏しいから
信長から反信長にするだけなら
同じ近江の浅井や六角に与すればいいところを
わざわざ越前の朝倉に帰順するという
山県の情弱っぷりに気づかないんだろうなw
そしてその山県は蒲生の寝返りに対して
「実際よくわかんないから確認して」と全力で責任逃れ。
ウソにウソを重ねるとどうなるかというのは本人が身をもって長篠で経験したことだろうw
638 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 10:39:41.44 ID:8Zwy4/2y
蒲生の織田からの離反の契機は元亀2年10月あたりからだな。
11/3付で穴山→蒲生賢秀宛に書状を出してるから。
その内容は信長には秘密裏に蒲生が馬が欲しいと言ってきたことに対する返礼で、
蒲生の望み通りの乗り心地の栗毛の馬を馳走してる。
また関東と越後と戦っているが伊豆と武蔵の過半が
信玄の本意になるのは疑いないと書いている点は、
11/7の書状で信玄が書いている内容と同じで、
10/3に氏康が死んだことを知った上で、再度の小田原攻撃を宣言し、
氏政を恫喝していたので12/17には北条が武田との和睦を受託していた。
またこの書状には文書には書けないことを柱蔵司に演説させるとも書いていて
武田の威勢に驚いた蒲生が、武田への急接近を始めている証拠となっている。
まー肝心の山岡氏がもう信長から離反開始だからね。そりゃ蒲生だって裏切るわな。
信長公記は山岡景隆が山岡家の惣領で
瀬田を支配していたように捏造してるけど、
実際は元亀3年7/18の山岡景祐(景友・暹慶)→飯川・曽我ら幕府側近宛てで
将軍が甲州へ送る使者の真下入道殿が此渡乗船之儀の仰せ付けのこと、
畏まって其の意を得候、
只今に限らず諸公・御衆・其外、下々に至るまで〜と書いていて
明らかに瀬田の支配は山岡景祐なんだよね。
公記では景隆が瀬田を維持してたなどと捏造してるのが笑える。
そんなら天正元年には何で滋賀郡周辺で大苦戦してる光秀への援軍に柴田は陸路が使えず船で行かざるを得なくなってんだw
あきらかに瀬田大橋が織田軍の通行を許さなかったからだろw
完全に自演発狂しながら織田厨はデタラメを書き散らして喚いているな。
639 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 10:43:27.87 ID:8Zwy4/2y
二股城はあと3日中には落とせる予定です。
尾張の熱田からやってきた者が申すごとく
朝倉軍と信長が江北で戦い、尾張・美濃の者が数多討たれたとのことです。
これによって織田軍では大身の2人3人と越前への内通をしております。
これは自然なことでしょう。なお、事実である証明の使者を届けるので重ねてお聞きください。
徳川の田原表を水軍で焼き討ちしました。
あなたが出陣するときは何事でも秋山に相談ください。
こちらには御気遣いなく滞在してくださるのはもっともです。
息子の信昌殿や源次郎殿やその他の親類の歴々の方々が
こちらに在陣してくださる話がまとまり喜んでいます。
追伸ですが、こちらに蒲生殿が朝倉殿へ同意なされたとのこと。
この上はそちらにこの使者を届けさせますので、待っていてください。
山縣→奥平貞能宛て書状。
640 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 10:44:19.94 ID:8Zwy4/2y
近衛家文書の2/16長政→伊勢七郎左衛門宛てでも信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。
長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べ
山岡家の領地は栗太郡と志賀領であるが、すでに志賀郡が失われているのか、
山岡家が反織田側に内通していたのがわかる。
公記では景隆が瀬田を維持してたなどと捏造してるのが笑える。
元亀4年3/7 信長→幽斎
鉄砲・玉薬・兵糧・金が足らないと嘆いていたり、
畿内諸侍の覚悟が(味方かどうか)見分けられない体で通路も同じ状況だと
完全に畿内の諸将が離反しまくりで泣き言を言っている信長www
元亀4年5/24 信長→池田恒興
恒興とその与力に年貢滞納と軍役怠惰を咎める書状www
しかもそんな離反寸前の池田を咎めたことを後悔した信長は
6/18に恒興の母に対して丹羽郡の一部を加増してるほど家臣に対して土下座外交っぷりw
しかもこれ超レアな天下布武の印まで押してあるしwwwwwwwwww天下布武で家臣へ土下座書状wwww
641 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 10:47:13.45 ID:3G6Abf0B
書状なんて相手を味方に引き入れるためにいくらでも適当にあることないこと吹き込むからねえ。
今みたいに簡単に情報手に入る時代じゃないし。
642 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 10:54:28.26 ID:8Zwy4/2y
元亀3年11/27の山縣書状に
朝倉軍が織田軍を大破したし尾張・美濃衆が数多討死って書いてある
織田が朝倉に大敗して近江勢が寝返ったと書かれている。 嘘長公記はこれを隠蔽。
この大敗で信長は岐阜へ引きこもり震えていた。
で、この書状の最後に日野蒲生が朝倉に寝返ったとあり、手紙の内容と合わせて
織田の敗北、武田の躍進を山県が強調している。
元亀3年10/5の朝倉景亮書状(書状には「朝倉」の文字がかき消されている)
先日以◯◯◯◯ 入候之処、御懇之御報、
殊御一書披見本望候、其已後重而可申入之処ニ、
延引非本意ニ候、仍其表如何ニ御座候哉、承度候、乍御六借敷、南方辺之儀、示預候者、
畏可存候、委細林権介可申候之条、不能詳候、恐々謹言
蒲生下野入道殿御陣所
信長→尾張南西部を伊勢長島一揆に奪われ、
美濃北部と東部は信玄の調略で内応され、
近江は街道すら寸断されまくり、
実質、75万石前後まで低下。
兵糧足らず自暴自棄のあまり京で放火虐殺略奪をやり始めキチガイ化。
一次史料を見る限り兵糧現地略奪型中世軍隊の織田軍が一戦場に集中できる兵力は最大3万
(織田軍による証拠隠滅を逃れた瓦の裏に書き記された釜茹拷問などの
後世への告発文が発見された越前大虐殺で大略奪した時の兵力)
信玄→120万石ぐらいで朝敵信長征伐戦を開始。
一年間もの間、戦をせず内政に力を入れており家中は充実。
3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。
家康の織田裏切り行為
家康の領国の三河からは、盛んに石山本願寺へ兵糧や兵員の輸送が
円滑に行われており天正6年になってさえ、
織田軍が本願寺に呼応した荒木によって大敗し12/12尾張知多郡の水野忠分が敗死するなどしてる裏で
10/13に上宮寺(岡崎市)や本證寺(安城市)や勝鬘寺(岡崎市)へ
石山本願寺が書状を出して支援要請してる。
10/28にも三河の浄妙寺・慈光寺・無量寿寺・願照寺にも支援要請してる。
家康は一向宗の叛乱を恐れ石山支援を事実上容認していたのがわかる。
天正三年3/4には芸但和与が正式に発足したことに対する織田→小早川への返信で、
信長は但馬はかねてから申し入れているように織田分国であることを承知してるはずだ。
近年はずっと山名祐豊から連絡が来なくなったのは無念だが(信長が上洛した時に軍を播磨や但馬へ派兵して攻略していた)
出雲や伯耆の安定の為に、尼子のいる但馬出兵がどうしても必要なら仕方が無いと
背後で尼子を支援してる信長もしぶしぶ毛利の但馬での勝手な行動を認めてる。
それだけ信長には余裕が無かったから露骨に毛利に開戦したく無かった。信長は毛利に対して内心激怒してたが土下座外交を続けていた。
すでに天正元年12月までに元春が信玄西上のドサクサに丹波国衆と呼応して織田分国但馬を平定して出雲に帰国しており、
毛利は朝山日乗や安国寺らを織田に派遣し、秀吉を窓口に信長に媚びて敵対行動の誤魔化しをしてた。
うまく信長との間を誤魔化せたのは秀吉と朝山のおかげだと安国寺が12/12に書状を出してる。
以前の但馬窓口は志賀の陣で討死した坂井政尚だった(山名祐豊が帰国し交代するまで但馬此隅山城を占領して但馬統治していた。
朝倉軍が坂井を討死させて織田但馬窓口消失の大金星を挙げる)
天正4年5月までに尼子残党を京へ逃亡させ毛利は山陰再平定に成功してる。
その一方で山陽道でも織田に内応した備中の三村を毛利は天正3年5月までに平定に成功。
643 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 11:06:14.45 ID:r3HSIzGJ
>>641 多分山県の中では
近江は朝倉領になってたんだろう
だから蒲生が寝返ったという噂を聞き
帰順先は朝倉だと早合点した。
まー奥平をたらし込むために盛りに盛ったってところだな
そして失敗した。まあ
反信長連合の連中がのたまう戦況が
事実なら、信玄がいなくても信長は岐阜城で
腹切ってそうな話だからしゃーないけど
644 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 11:11:42.66 ID:8Zwy4/2y
大和一国支配者の興福寺
1580年の織田による差出検地 興福寺大乗院跡750石 興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石
かんぜんにナメきってる報告っぷりw
秀吉の文禄検地
興福寺春日社は2万1000石とされた。信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの
石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。
烏合の衆か組織化された衆かで質の違いが顕在化した結果でしょ。
貫高に応じた兵数動員を賦課してない織田軍
指物や槍の寸法や装備や馬上具足に至るまで数と質を指定されてない織田軍
信玄が旗本を対象に陣立書を作成していて
陣立書は今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込むものであり、軍隊として高度に機能させるに必要不可欠だし、
しかも織田軍全体の統一された軍規や軍事編成や武器比率が存在しない。
信玄死去から10年経っても甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士と呼ばれ戦う前から怯えさせる精強さ。
山城の山崎の畿内全域の油流通を支配していた団体も信玄上洛は確実とみて、
武田から安堵状を出してくれるように乞うてた。
中世日本最大規模の油座であった大山崎油座の情報諜報能力とその意向と影響力・経済力は高く
山崎の合戦で明智が守ろうとした山崎の地は戦後に、秀吉が築城し大坂城ができるまでここを根拠地に政戦略を策していたほど。
645 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 11:14:55.25 ID:8Zwy4/2y
蒲生賢秀の娘2人の旦那の関盛信と神戸具盛は
信長によって幽閉されていたから怒ってたんだろうな。
脱走した際に不憫に思って助けたのが賢秀だろ。
大体蒲生は六角侵攻の時に素早く織田に鞍替えるような人間
信長が滅亡寸前で鞍替えしても不思議ではない。
実際、蒲生の後援がなければ六角氏が生き延びられるわけがなかったからな。
天正4年の木津川の戦いと天正6年の第二次木津川の戦いの間である
天正5年にも織田軍は毛利と海戦して大敗してるのを公記は隠蔽してる。
謙信の上洛戦に言及があるため天正5年9月23日の手取川の戦いが始まる寸前の書状。
龍谷大学大宮図書館蔵 光佐披露状 江戸浄林寺文書 顕如上人文書簒所収
急度令啓上候 仍今度芸州警護船 早速被相催 歴々衆渡海候
殊為合力 兵糧等厳重之儀 囘申謝候 随而於海上及一戦 敵船悉被打果候事
無比類高名 併上意御威光之故候 当寺門下・紀州兵船相共ニ 抽戦■候
可然様御執成専用候 其節之儀 加太豊前守存知之事候条 可有言上候
就中御太刀一腰金・御馬一疋鹿毛進上之候
聊表祝儀計候 於此上 播州陸路之行 肝要存候 弥可被上意候
北国謙信事 近日越前表 可有出張候 猶以三和之儀 此刻候 甲州之儀
八月中尾濃江必定出馬■■ 一両日已前も申越候 諸国之儀■■分急申候
吉事近々可申入候 此等之旨 宜有披露候 怖々謹言
七月廿八日 光佐(花押)
一色駿河守殿
真木嶋玄蕃頭殿
加太豊前守=鹿伏兎豊前守宗心の血統か?
亀山城主関盛信に従って関軍の先鋒を勤めていた鹿伏兎城(白鷹城)主
信孝が神戸家の養子になると関氏を通じて織田に仕えたが、のち反織田挙兵。
姉川での討死説あり?子の四郎盛氏も天正2年に長島で討死説あり。
神戸具盛(妻は蒲生定秀の娘)
養子信孝を冷遇していた為に元亀2年に山路弾正など家臣が大虐殺され
信長により幽閉されるも義父を頼り日野城へ逃亡し、元亀3年に神戸家は信孝が家督を継ぐ。
ちなみに永禄11年の観音寺城の戦いで蒲生賢秀を降伏させたのはこの人
関盛信(妻は蒲生定秀の娘)
亀山城主。信孝との不和が原因で
元亀4年に信長により幽閉され義父を頼り日野城へ逃亡
嫡子の関盛忠は天正2年の長島討伐で信孝や蒲生賢秀に従い従軍し討死。
織田信孝
信雄は長島滅亡後の天正3年信意に改名するまで
北畠家での支配実績がまったく書状で確認できない。
そのために織田家へ突っ返されていたとする見解もある。
神戸家での信孝はほとんど不明で、信雄以上に謎。
鹿伏兎豊前守宗心・神戸具盛・関盛信・蒲生定秀は反織田でつながっていた。
しかし義昭降伏と浅井・朝倉滅亡を契機に蒲生は織田へ鞍替えし関氏の嫡男も従う。
646 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 12:15:59.97 ID:8Zwy4/2y
岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて
城主にしたことで信玄は怒っていた。それで11月には岩村城が武田に取り返され、11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
松永久秀の元から土岐頼芸(妻は六角義賢姉妹)も美濃に帰国したから武田軍が来たら土岐郡も反織田で呼応挙兵するのは間違いないよ。
遠山氏は一向宗の美濃安養寺や飛騨照蓮寺の影響を受け、西美濃は大垣を中心に湖北の湯次誓願寺や福勝寺の影響下にあった。
加治田(富加町)・津保(関市)・鉈尾(美濃市)を帰属させた信玄と伊勢門徒による岐阜城までわずか三里に新要害建設し日根野を入れたりと
美濃織田領国は崩壊前夜にあった。また信長方の反撃に対して3/6に信玄が秋山虎繁に東美濃へ出陣命令を下し
当代記によると信長の息子の御坊丸を甲府へ送ったとする。
8/28松永久秀父子が上洛を目指し山城木津を攻める。
朝倉が丁野山に要害を築くのに信長は邪魔することもできず城が完成する(総見記)
11月に信長は虎御前山砦から美濃へ逃走したので12月3日に朝倉は越前へ引く(年代記抄節)
ちなみに朝倉記には虎御前山砦に火をかけたと記されている。
3/6義昭が義継と久秀を赦し盟を結んだことを受けて
久秀が京に赴かんとし河内津田に進出(日本耶蘇会年報)
織田厨って黒川金山や湯之奥金山などから採掘して鋳造した甲州金(碁石金)も知らんとかアホだろ。
謙信だって青芋販売と日本海貿易でボロ儲けだし。
ほんと無知な上にウソ吐きだから半島人そのもの。
元亀2年には駿河の富士金山・安部金山・井川金山などが武田金堀衆により本格稼動し始めてる。
といっても、もともと採掘してる武田領の長畑金山を駿河側から掘ったり(井川金山)
武田の早川金山を駿河側から掘ったり(安部金山)
武田の中山金山を駿河側から掘ったり(富士金山)
要するに武田氏が従来の金脈を駿河側から掘って採掘力を2倍に強化したと言うこと。
これで武田の財力基盤はさらに強化されている。
そもそも山城国ですら、信長は支配出来ずに寄生虫みたいに乗っかってただけじゃんw
秀吉は天正12年戦役で家康を屈服させたあと、
余裕が生まれたので、領地訴訟問題を解決すべく、
さっそく寺社や公家らを含めた山城国で検地し既得権益を整理して実質的な統治を開始している。
寺社や公家にまで検地したのは画期的な出来事として評価が高い。 信長には不可能だったことだ。
647 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 12:17:44.26 ID:8Zwy4/2y
中込力氏
ttp://www.yafo.or.jp/letter/pdf_new/vol154_1.pdf 円の呼称が使われる以前の金銀貨の呼称は「両」「分」「朱」であり、
またその計算単位は「四進法」で、これらの始まりは甲斐武田氏が造った甲州金であった。
戦国大名によって造られた各種の金銀貨が秤量貨幣であったのに対して、甲州金は7段階に及ぶ
量目体系に基づいて造られた先進的な計数貨幣であった。
甲州人の知恵が近世の貨幣制度のルーツとなった。
秤量貨幣であったのを武田信玄の時代に鋳造と秤量の技術の進歩に伴い、量目単位が確立し計数貨幣となった。
このうち四進法の貨幣制度は、徳川家康が踏襲して天正18年江戸市中に採用し
江戸幕府幣制の母体としたことで知られる。このことから江戸時代の幣制のルーツは甲斐武田氏の甲州金だったといわれている。
甲州金は、江戸時代唯一の例外的な公認地方貨幣として鋳造や通用が認められた。
秤量貨幣・計数貨幣とは?
秤量貨幣とは、使用に際に、貴金属としての品位・重さを検査したうえで、
その交換価値を決めて用いる貨幣。
これに対して計数貨幣とは、治世者が一定の品位・量目を保証し、
額面を表示することで、枚数によって交換価値を計れる貨幣のこと。
金融政策こそ国家運営の要。 金本位体制こそ理想そのもの。
信長は生野銀山すら有効利用出来なかった。
648 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 15:02:05.88 ID:Y+ZpLG+m
織田チョンって歴史的事実を一切、うけいれず
願望妄想を語り出すキチガイだよな。
しかも信長が優れている点すら根拠つきで
一切挙げた事すら無いくせに、
武田より優れていると主張するクズ馬鹿。
さらに武田貶しをすれば信長の評価があがると思い込み
根拠ゼロの武田への悪口を書きまくり毎回論破されても繰り返し
論破がテンプレ化していくと、コピペは無視とか言い出すwww
ただ歴史的事実を書いていただけで、お前は菅沼とかSUBとかTOHOとかだがだとか
レッテル貼りの印象操作で排除しようとする不逞朝鮮人脳。
織田厨は根拠付きで書き込むことはなく、
願望妄想と捏造歪曲とレッテル貼りと悪口中傷のみ。
649 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 15:27:14.54 ID:8Zwy4/2y
謙信が生きていたら下記の状況からして上洛成功は間違いないな。
信長って天皇がいなかったら三回は反織田連合に捕縛されて自決させられてたよな。
志賀の陣・義昭二条城籠城。そして下記の荒木籠城。
天正6年2月東播磨を中心として実高43万石とされる別所氏が信長へ謀反。
美嚢郡淡河城・加東郡金鑵山城・加古郡高砂城・印南郡中道寺山城・明石郡枦谷城・明石郡林城・
飾西郡英賀城・加古郡野口城・印南郡志方城・印南郡神吉城など播磨一円蜂起。御着城主の小寺氏などもこれに呼応の構えを取る。
まさに謙信の上洛戦を待つばかり。だが3月に謙信死去・・・さらに光秀を粉砕した丹波の赤鬼赤井直正まで死去。赤井兄弟は吉川元春に太刀や馬を贈り、上洛と急援を要望していた。
謙信死すとの確定情報が届くと上杉へ備えていた信忠の大軍が開放され播磨へ移動可能になる。上月城攻略後に義昭と隆景が毛利全兵力を播磨に集結させて織田を播磨から追い出し陸路で摂津の本願寺を救おうと考えていたが
7月元就死後に隆景と対立するようになった元春が但馬へ移動しての山陰再平定を主張して出発してしまった。10月に荒木村重が本願寺と毛利に人質を出して挙兵してることも考えれば
小寺政職と協調してる東播磨別所の三木城を攻撃中の織田を毛利全軍で攻め寄せて雌雄を決した方が良かった。義昭側の池田知正の失脚により荒木の摂津国での指導が確立した矢先に荒木謀反で
有岡城・尼崎城・大和田城・吹田城・高槻城・茨木城・多田城・能勢城・三田城・花隈城ら対本願寺包囲のために固められた諸城が織田に対して摂津一円一斉挙兵。摂津の大半が再び義昭側へひっくり返ったため織田の別所包囲軍が孤立するどころか
対赤井・波多野の丹波戦線も再度崩壊し本願寺と相手をすることすら不可能に陥り、またしても戦略の大破綻を招いてしまい
相次いで信長家臣団を派遣し荒木の再考を促す説得や宣教師を脅迫しての調略をする。
がもうまくいかず信長は荒木を説得する時間を稼ぐために天皇に土下座した信長は11/4に正親町天皇の勅命を出させて
輝元と本願寺に信長と和睦するように伝えさせるほど危機的状況に追い込まれていた。
信長は天皇を使って時間を稼いでるうちに荒木配下の高山右近や中川清秀を降伏させる事に成功し
高槻城・茨木城・大和田城・能勢城・三田城を織田側へ寝返らせ荒木を孤立させるのに成功した。
これで最大のチャンスが消えて一転して毛利が圧されていく。謙信が生きていたら、勝頼も健在になるし
信忠を秀吉への援軍に派兵できないから毛利の攻勢により播磨戦線が崩壊しその影響で本願寺のいる摂津(荒木時限爆弾もある)明智がボロ負けした丹波戦線まで(丹後もセットで爆発)
紀伊・河内・和泉・伊賀・伊勢南部・大和南部このあたり一円も高野山を始めとして反織田だし(本能寺の変まで高野山は織田軍を山内侵入を許さなかった)再度崩壊するから織田は詰むよ。
650 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 15:33:19.44 ID:8Zwy4/2y
信長の国家ビジョン
9/14に京で富貴な者が賄賂を贈ることで目が悪い者しかなれない
検校(金貸しができる)になってる不正を座頭たちが信長に報告し
「金持ちの賄賂がまかり通るような社会では秩序が乱れるばかりです」と訴えたが
信長が富貴な下手人検校から黄金200枚の賄賂を貰って不正を不問にして許している。
こんな身障者の特権すら賄賂欲しさに剥奪する判決を
信長本人の私欲で是認する秩序崩壊社会は前代未聞の暴虐。
身障者は死ねと言わんばかりの残虐で狂った私刑社会の織田政権。
天正元年12/12の安国寺書状には別所と浦上の領地争いを信長が仲裁した話が書かれているが
その内容には浦上宗景が三カ国の朱印えお信長からもらったと書いてある(別所が浦上配下になるということ)
そのお礼として浦上が朱印の礼、夕庵より過分に申し懸け候、おかしく候と書いている。
朱印の礼ってのは朱印銭と言って、要するにワイロでありむちゃくちゃ多く請求されたということで
安国寺はそれに対して財力ある者が領地を金で買い不正が横行する信長のやり方を「おかしいだろワロスw」と嘲笑してる。
それゆえに信長がたかころびに転落するだろうと断言し、しかし秀吉は覇の者だから重視するように報告してる。
当時の人々には信長の悪政をカバーするため奔走する秀吉というのを認識していたのだろうね。
ちなみに安国寺は天正12年1/11にも秀吉の評判を書き残していて
大なる事は、近年信長の下にても、羽柴羽柴と申候て、世上操りをも、又弓矢をも手に取り候て、鑓をもつき、
城をも責候て存んぜられ候、又、小事の儀は小者一ケにても、又、乞食をも仕り候て存んぜられ候仁か、
申し成しなとにては成る間敷候、日本を手の内にまわし候、今日まては名人にて候、明日の不慮は、存ぜず候
などとどんなことでもなんでも抜群にこなせるオールラウンドプレイヤーで頭角を現し、信長の名も霞むほどだと書いてる。
ここで面白いのは秀吉は乞食まで経験してるので、世間の人情の機微も心得ていて名人なので
信長のような犬死のような突然の死に方もしないと書いてるところ。
耶蘇会の1584年の年報にも はっきりと「一般人民の声によれば、秀吉は何事においても
彼の前任者信長より遥かに優れている」と当時の日本での世評において激賞されていたことを記している。
信玄の国家ビジョン
晴信が武田家で傀儡として擁立されたころ
甲斐国は武田の支配した国中 小山田が支配した郡内 穴山の支配した河内
でほぼ三分されてる(少し国中が大きい程度)
この両者は独自に外交権を有して戦国領主として対等な立場にあったが、
天文末期に武田による介入が進み、介入からさらに国衆存続のための武田による保護へ変質した。
これは信玄による法整備と公正な裁判によるところが大きい。
たとえば郡内での領民の裁判などで、小山田一族の暴虐の裁きはまったく進まず
訴訟を信玄の元へ訴え、それを信玄が裁き、小山田の妨害を排したりと
介入し、さらに穴山などは信玄の発給文書様式と特徴を学ぶことで、
武田へ従属し領内権力基盤を安定させる方向性へ志向したのである。
つまり天文末期の晴信時代に武田氏はその内治裁判の先進的整備を通じて甲斐国での民意の支持を得て求心力を高め
国衆への介入と知識提供を通じて、甲斐国の統一権力への進化と臣従を進めていき、
その内治による国力伸張を背景に他の国衆を凌駕し、武田による安全保障体制を構築提供するに至った。
これを全国レベルで広めることこそが使命であったといえるだろう。
しかも国中には専横重臣ばかりで晴信政権はその家臣団によって擁立された。
これは斉藤道三や長尾為景などと同様に一国の主の資格なしとして否定された事例と同様である。
武田氏の家臣と土地を分離し官僚として再編する転封政策
遠江高天神城を武田家直轄領にするため
小笠原信興衆に甲府で屋敷地を与えた上で、
現在の富士市にある駿河下方に1万貫で移封。
高天神城将に岡部元信が選ばれ、
その寄子や同心衆へ高天神の周囲を中心に駿河や遠江に知行を武田家より与える。
武田の武力抗争を伴わない巧妙な政教分離政策
久保田氏が指摘してるが、
武田の駿河侵攻で今川方の大宮城主だった富士山本宮浅間大社の宮司富士氏を、
武田は次第に武装解除して、神職だけをやらせるようにしていってるようだね。
武田氏の宗教政策を垣間見れる例だと考えられる。
久保田氏はこれを兵神分離と読んでいる。
この分離は富士氏に出した書状から北条や今川にはできなかったもんだろうと。
651 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 15:47:05.42 ID:8Zwy4/2y
義昭は二条城の他にも伏見城や槇島城らを支配していて、
さらに松永久秀の弟の子の内藤氏などを傘下にいれ
丹波を実質的に支配してたから義昭は兵力を持って無いというのもデタラメ。
さらに毛利軍が東進を進めていたが摂津や丹波を義昭側に握られた信長は
但馬や播磨戦線へ援軍を送れず見放している。 そのため浦上まで義昭に内通開始。
丹波守護代内藤を筆頭に、 宇津や萩野らが最有力国人らが反織田。
そもそも将軍義昭の名の元に従っていたのであり、
織田軍の丹波介入が開始されたのは、天正3年6月以降であって、 丹波は織田領では無い。
しかもその侵攻では波多野まで敵対し敗走。
その後、籾井綱利を降して京から丹波への入口にあたる丹波南東部にやっと亀山城を築いて、
丹波に根拠地設営成功しての天正6年から天正7年10月の第二次丹波侵攻による
丹波丹後平定までは織田領になってないわ。
山城北部は義昭配下の山本・磯貝・渡辺ら 南は淀城に石成友通 南山城は真木島 木津川辺は松永
元亀3年12月には三好康長・篠原自遁・大和守らが大山崎で禁制出す。
山城東部は義昭に山城半国守護に補任された山岡道阿弥が一揆と連合してるし、
山城西部の西岡一揆の主力は36国人で構成する西岡被官衆だし、
どう考えても荒木や細川が領地を維持していたとは思えない。
信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ
(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され 森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に 安堵状を発給しまくる始末www
信長がむちゃくちゃ『厚遇していた織田信澄』を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww
652 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 16:00:16.62 ID:8Zwy4/2y
天正10年武田崩れよりも酷い、天正10年織田崩れ
美濃尾張も謀反人だらけであっと言う間に一瞬で大崩壊
信長なんて恐怖で支配してただけで統治力もゼロ
なんせ尾張・美濃ですら面従腹背で人心は織田家から離れていたからな。
そりゃあ本能寺の変で尾張美濃兵が信長のあだ討ちなんてするわけない。
むしろ歓迎してたのは明らか。 斎藤利堯などの誤算は秀吉が速攻で光秀を討って近江長浜に凱旋したこと。
なんせ天正10年10月十八日付け秀吉→信孝側近斉藤玄蕃・岡本太郎左衛門宛書状でも
信長が死ぬや謀反したので人質を出させて降伏を許すのでなく首を刎ねるべきと秀吉が書いてるなかで
江州の阿閉氏を挙げたあとで、さらに尾・濃の御成敗に言及してる。
濃州の面々、城を拵え、悉く御敵と成り、稲葉山えおは、既に、斉藤玄蕃允相上られ候といへども、
長浜へ罷り越し、我等に稲葉山、相渡さるべきに極められ候、其の外、国衆の人質、残らず我等請取り申候
長松へつれて馳せ向ひ候間、一国の者首を助け申し候事
其れより尾州へ罷り越し、又ぞろや、悪逆人成敗いたすべきと申し候処に、我等清洲の御城に居申し候へば、
国中の人質残らず、三河・信濃境迄出し申し候間、是非に及ばず候、是又首を助け申し候事
などと秀吉は尾張と美濃のまたぞろ現れた悪逆人を処罰をせずに人質を受け取ることで許す信孝を非難してる。
この不審な態度は信孝が信長・信忠暗殺の黒幕とも思える話で秀吉が激怒してる文である。
いかに信長が尾張美濃の人々からも憎しみを向けられ敵視され、隙あらば謀反自立しようとしていたかわかる。
そして秀吉は信長親子への謀反をした者どもと組している信孝を討って仇討ちをするのである。
(信孝は安土へ三法師を戻すという織田重臣会議の合意を破り、柴田と組みして三法師を岐阜城に拉致監禁する謀反人)
653 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 16:48:07.35 ID:8Zwy4/2y
以前に伊勢国大湊の代官鳥屋尾満栄が信玄に使いし
信玄の上洛の時は岡崎まで大船団を派遣し迎えると約していたことが発覚。
1576年正月に鳥屋尾が岐阜に国司の使いとして年賀の挨拶に来るや信長は挑発しまくって威嚇した。
そしてついに11月北畠具房と四男・徳松丸、五男・亀松丸が武田内通を疑われ暗殺され
同日朝に次男・長野具藤、三男・北畠親成、北畠房兼、大河内教通、大河内具良、
波瀬具祐、波瀬具通、岩内光安、坂内具義は
信雄の妻の千代御前(雪姫)が兄達にぜひ会いたいと騙されて田丸御所に呼び出され暗殺。
坂内御所では坂内具房・霧山御所では城代・北畠政成・波瀬具通が殺されたことで
北畠氏は完全に指導者を失うことでやっと伊勢国を鎮定するまでは北畠氏の支配はうまくいかなかった。
剣豪国司と言われた具教ももっとも信用する藤方慶由の嫡男である藤方朝成の家臣達の挨拶と聞いて
完全に油断していたそうで短刀しかもっていなかった。
のち息子が主家に不忠したことにショックを受け藤方慶由は自害。
鳥屋尾満栄は具房の妻子(具房嫡男昌教はのち本願寺へ)を助け出すことに成功し
具教の弟で大和興福寺別当にいた北畠具親は伊賀吉原氏の支援により
還俗し1577年蜂起した際に合流し川俣の戦いで鳥屋尾戦死。具親は国司家復興と打倒信長を掲げ毛利客将になった。
一段が500文というのは荘園の基準貫高であり 北条も今川も一段が500文だったので
遠江〜関東に渡って共通した荘園の統一基準。
しかし武田が駿河を領有すると荘園システムの再編成を開始。
一段を田畑の内容の吟味を通じて 500文・400文・300文の三等級にすることで
税負担を軽減した。これはその後、徳川に引き継がれていく。
また武田が統治政策として一斉に発給する公文書と言う形式も
七か条の定書などの例を見れば徳川が継承しているのがわかる。
武田の統治ノウハウが徳川の地方支配として継承されている点からも
武田家臣団&給人の優秀性が見て取れる。
織田厨がキチガイなのは 天正6年諏訪大社の遷宮で信濃一国に
造営費をかけた時に 出来る限り負担したくない者が
いい加減な言い訳を書いてる文書の一部を切り抜いて
武田の悪政とか重税で民が苦しんでたとか歪曲してたところだよな。
今でこそ遷宮は諏訪市の負担だけで執行してたが昔は信濃一国に費用が課せられていて
費用負担を嫌がって非協力的だった戦国期の国人たちも信濃一国支配を完成させた信玄により
古来の通りにサボりを許さずに諏訪大社の復興を行っただけなのが現実。
654 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 16:53:17.70 ID:8Zwy4/2y
興福寺(永禄8年・永禄10年)や浅井氏(永禄9年)の撰銭令の猿真似をした
織田政権は上洛した翌年に撰銭令(永禄12年)を広範囲に出して
多くの悪銭を畿内で流通させインフレ経済崩壊を招いた愚か者。
悪貨が良貨を駆逐するの例えどおりに重度に悪銭が畿内に集中し、
他地域では良銭が流通したため畿内→外地域での決済において拒否が続出。
そのため元亀2年辺りに至ると物々交換と言う古代時代に戻ってしまったw
元亀2年から天正8年の時期は信長の命令は無視され決済拒否される悪銭は使用さなくなり
そして天正8年に至ると石見銀の流通が活発化した。
豊臣政権は撰銭令を撤廃し米主体の石高制を採用し河川流通を整備するや
景気低迷を脱して桃山文化の香る時代が招来している。
一方の信長は永禄11年12月の誠仁親王の元服という晴れの舞台において
無礼にも流通拒否される悪銭ばかりを献上して朝廷の公家達を激怒させている。
そして経済破綻から超インフレが拡大し織田は貫高制を維持できなくなるほど悪化。
このように信玄の上洛とは畿内経済の破綻による生活苦による一揆の隆盛。
東国経済の飛躍的向上に裏付けられた時代の流れなのである。
一方、1560年代より島津が大隈の加治木で偽銭製造を開始し
偽造硬貨による信用不安で西国において銭より米が決済に使われる頻度が上がる。
東国では悪銭でない永楽銭が信長の失政で信用低下著しい京銭4文との交換比率になっていた。
この信用不安を解消する手を打ったのは秀吉。
とくに天正大判を発行するなど秀吉の金本位体制は
西欧重商主義と金融資本の概念を先取りしていて驚愕的である。
元亀2年5/11朝廷が信玄に比叡山再興を頼んだ&7/16朝廷が続けて東大寺大仏殿の再興も頼んだ
どちらに正義があるかなんて明らかじゃないか。
比叡山延暦寺は信長と敵対して志賀の陣などの戦乱で荒廃した。
そこで王城鎮護の比叡山の再興を朝廷が信玄に頼み、
信長が攻撃したり金を出させていた南都の東大寺の復興も頼むのは重大なことだろうね。
戦国遺文武田の4043(延暦寺再興)と4044(東大寺の再興)がソース
信長の御勘気をこうむっていた教如を顕如が義絶していたが
本能寺の変の20日後にはさっそく正親町天皇が待ってましたとばかりに教如を赦免するように顕如を諭してる。
元亀4年1月11日 信玄は義昭に、増長しまくりの信長が政治を正そうとせず傲慢で他者を侮り
朝倉や比叡山との勅命和睦無視などを書き連ね信長と家康の非法を訴えた激文を送付した。
正親町天皇はその文を読み感動し、写を自ら作成された。
655 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 16:58:27.43 ID:8Zwy4/2y
一職支配の制度は、三好長慶が考案した統治体制で、
律令制の行政単位を否定し、摂津を上郡下郡に分けて、広域行政単位となし、
さらに重層的な土地権利を一括し、
荘園領主を否定する性格を持つもので、
松永久秀が摂津下郡一職支配を任されていた。
一方で国人や有力者との独自の主従関係を作り、
軍閥として盤踞する恐れがあるため、
久秀は永禄3年に大和へ転出させて、
在地支配の確立を阻害してる。
それを理解せずに全てを丸投げと誤認した信長は致命的失敗をやらかしており、
信長の一職支配は三好の考案した制度の単なる劣化パクり。
しかも荒木が主従関係を作り謀反するなど、
猿真似でやはり大失敗してるし、
本能寺の変後に、織田家を傀儡政権にする
家臣の軍閥化を完成させてしまった。
言わば、三好長慶の一職支配制度を内政丸投げと誤認理解し、
守護領国制との違いを信長が理解出来てなかったために、
結果的にリーダーシップなり、カリスマ性を持つ光秀らが軍閥化してるのに気付かずに、
信長への謀反が成立できる在地主従化を完成させてしまった。
細川も光秀も筒井も秀吉もみんな軍閥化してるだろ。
それを90年代は織田軍は各戦線に分かれて軍団制を布いたとか
デタラメ妄想でマンセーしていただけでさ。
信長が在京せずに京を遠隔支配している手法も三好長慶が考案した手法だしね。
長慶は村落や都市共同体など将軍や幕府機構などの権威を必要としない
新興自治と国人のコミュニティーを持つ地域に独自の支配機構を構築し始め
その成長促進と商業収益を政権基盤として芥川城に在城していた。
信長って長慶などの猿真似はするんだけど、形だけパクってるだけで
魂の部分を理解してないから新興自治と国人のコミュニティーを潰して
京を遠隔支配すべく安土城に居城した。そして光秀の謀反であっさり近江が光秀に組み込まれた。
そもそも前田や金森は信長直臣で家老柴田を監視する役目で付けられてるのであり
もともと柴田の配下ではない。柴田に付与された与力は同僚じゃない。
信長直参の母衣衆出身者は超エリートで信長の指揮命令系統で動くのであり
家老の柴田の命令なんて受け付けない。信長が柴田と相談するように命じてるから
柴田との会議で越前経営に同席するのであって柴田が彼らを家臣扱いすることは信長を軽視してることになる。
柴田・佐々・前田らはそれぞれに軍閥化したとするべきで賤ヶ岳の戦いではその弱点が見事に顕れた。
一方の光秀や秀吉は軍閥化に成功しており信長の仇討ちをスローガンに
摂津にいた池田恒興・高山・中川ら都市国家(都市軍閥)を
同陣に誘い光秀軍閥を打ち破り指導力を確立した。
656 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 17:10:42.19 ID:Y+ZpLG+m
信長はただのキチガイDQN。
実際、史料を見ていくと何一つ評価できる点はないんだよな。
殺戮と虐殺が大好きな暴君で、
結局、畿内統一すら失敗して細川や三好よりも短い10年の短命足利幕府コバンザメ金魚の糞政権(義尋を傀儡にしており、織田には行政支配をしていた証拠文書がまるでない)
657 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 17:28:53.29 ID:8Zwy4/2y
信長は能力不足だったから朝廷の人心を得ることが出来ず、
力で脅して無理やり従わせていただけだしな。
能力不足を補うために松永久秀を厚遇してただけだし。
久秀を殺した時点で信長と朝廷の人的つながりは消えたよな。
長慶はキリシタンの布教を認めた初めての畿内大名だし、
和歌で公家と友好し、真の武士たるものは歌連歌も精進すべきと奨励。
万葉、古今集を諳んじ風月を愛した文化人。
清少納言や紫式部や紀貫之や在原業平をも研鑽し朝廷でも大いに人心を得ているし、
連歌の発展に貢献している。
和歌ひとつ読めない信長のような野人を朝廷は認めるようなことは無い。
天正壬午の乱の時甲斐に入った家康が真っ先に甲斐の人々に約束したのは
勝頼の菩提寺の建立&恵林寺の再興
強豪である武田旧臣を味方につけたい願望とともに
完全に織田の悪政を完全否定してますね。
信長を否定し、武田を肯定することで
家康は翼が生えた獅子のように強くなった。
武田家の神格化しその擁護を表明したこと。これが天下統一の足掛かりとなった。
658 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 17:36:21.45 ID:FO9LnwsZ
逃げただけで武田軍を壊滅させた天才・信長に信玄も謙信も勝てるわけないですよね?菅沼君
659 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 17:49:09.78 ID:RcpMPPAE
菅沼ー、延々荒らしたところで信玄が信長に勝てなかったという史実は何も変わらないんだから
そろそろ現実を直視しないとダメだぞー。親が悲しむぞー遼太ー
660 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 17:56:03.91 ID:8Zwy4/2y
信玄より遥かに劣る勝頼でも、信長よりは遥かに戦上手。
天正3年に入っても長篠で痛みわけする寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、別隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
5/12付け多聞院日記では武田軍は尾張国へ侵攻し先陣はすでに熱田まで進出してるし
4/16付け勝頼書状では22日出馬して参着次第、
その地に二重堀の普請すると書き(奥平信光のいる三河国設楽郡津具筋?)
遠江方面(光明行之儀)では天野藤秀を利用して
彼地の模様を見届け、調儀するのが肝要で(後回しの方便とも書いてる)
その地は幸い、久しく普請を続けていたので(穴山宛てなので穴山が)加勢望むに任せる。
小尾崎・八幡山之儀は案内者を以って
(尾崎権現山や郡上八幡だから両遠藤氏や安養寺や最勝寺か?)地形御見し、注進を頂くべく候などと書いてる。
このことから当初案では石山本願寺救援のための出陣計画だが岡崎内応策が露見した後、作戦変更して
穴山に任せている遠江方面を後回しに三河進出し長篠で二重堀を作って対陣する予定だったのではないか?
そのために長期対陣に備えて武田軍は穴山・信豊・小山田・甘利が率いる実数6000くらいの兵しか連れてこなかった。
しかも長篠後に謙信に出した信長書状では兵糧が足らないから織田は撤兵したと書いてるから
織田徳川は3万を維持する兵糧がなかったため対陣して兵糧攻めを通じて織田軍を崩壊させる。
(熱田方面で挑発され面目丸つぶれの信長が急いで出てこざる負えなくなった)
そしてこの対陣中に美濃の軍事的な予定戦場調査をして、
武田軍が残り5万4000の大兵力を率いて大挙、美濃へ侵攻して
伊勢長島の日根野や郡上八幡の遠藤氏や一揆軍の南下で織田を引き付けつつ
尾崎権現山(200メートルしかない小山)を武田本軍の陣所として
各務原市〜岐阜市日野で織田と決戦して一気に岐阜城を奪い取る作戦だったはず。
長篠の戦・・・本作戦の目標は美濃への侵攻のための陽動作戦でしかなかった。
しかしあまりにも織田・徳川が弱すぎて、決戦で一気に勝負をつけようと考えてしまい、
織田6000討死(長篠日記)により野戦では大勝利したものの徳川・滝川の陣城へうまく逃げ延びた織田兵への陣城攻撃を開始し優勢だったが
さすがに陣城が落ちずに日没を向かえたので鳶ヶ巣山砦も放棄し(一次史料に酒井の鳶ヶ巣山砦攻撃は存在しない)
撤退を開始したら殿が下手を打って軍が崩壊し1000人討ち取られた(多聞院日記)
661 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 17:58:53.68 ID:8Zwy4/2y
高柳光寿氏は長篠の戦いでの武田軍兵力を6000と推定してるね。(勝頼が謙信を怒らせたので1万を高坂につけて越後の
押さえに残し15000で出陣は甲陽軍鑑のネタ)武田軍の損害は多聞院日記の千人ぐらい討死が正しい。
もともと岡崎城での内応をアテにしての出陣から計画変更してるわけだし。長篠日記によれば戦が始まるや武田軍が一方的に野戦で大勝利して
陣城へ追い込んでるわけだし、織田側は6000の戦死を出してると書いてる。
織田徳川連合軍3万に対して6000の軍で野戦で圧勝して6000討死させてるんだからそりゃあトラウマでしょ。
信忠に対し孤立無援の岩村一城が半年以上かけてもまったく落ちないという武田防衛軍の精強さもまたトラウマ化させとる。
6/13の謙信への書状における信長の想定は、 岩村城が懇望してきても5、3日で落とせるので許さないと言っていたが、
実際の戦況は苦戦続きの信忠を見た家康が信康を派遣しようとしたので、
6/28に慌てて信忠は若年だからと補佐してくれって佐久間信盛を派遣していることがわかる
二俣城が落城したとする妄想もあるそうだが、
その根拠は徳川実紀の出典一覧にまったく存在しない著者不明・成立年代不明の
明らかに鈴木肇氏の妄想で書いた偽書認定されている浜松御在城記にしかない。
デタラメ神君マンセー「大須賀記」にしか登場しない犬居城陥落物語w
天野文書には 長篠於乗本、最前越川則合鑓などと渡河して攻勢に出た武田軍という動きがわかるし、
真田宝物館にある書状でも、 則時二乗懸、遂一戦宗者数多討捕、乗其利、 信長至陣前押寄候処、
構陣城籠居候之間、 入入数之砌、当手之先衆聊(いささか)失利候 などと書いてるように、
渡河しての野戦で織田軍を大破して、 敗走した織田軍が石川と鳥居が家康に命じられて19日から築き始めた柵に逃げ込んだことがわかる。
しかし2日で急造した陣城の柵に逃げ込める人数なんて限りがあり、 入れなかった織田軍が壊滅したのは想像に難くない。
662 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 18:31:01.02 ID:wiNiqA7+
一次史料を突っ込まれて発狂する菅沼氏
663 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 19:02:49.51 ID:enBJnwRX
>>661 正しいかどうかは別として、すごい知識量ですね
煽り抜きでどこからその知識を得たか教えて
664 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 19:33:47.02 ID:IAP7+uqx
菅沼遼太による各勢力の最後
足利義昭
信長が乞食兵1万を率いて岐阜からワープしてくる。
東には山岡氏と六角氏南には松永氏・西には三好氏・北には内藤氏と周囲を完全に
包囲されていたが、堅城の二条城から金銀兵糧すべてを使ってボロ城の槇島城に
移ったからか1万の兵がいたにもかかわらず速攻で土下座降伏した。
朝倉義景
包囲されている虎御前山砦に信長が乞食兵1万とともにワープしてくる。
北を朝倉2.5万・西を浅井3千・南と東を六角2万と蒲生に包囲されているにもかかわらず
なぜか山本山城の阿閉氏が信長に降伏。
若狭守護は知らないうちに消滅したので将軍直轄地になっていた若狭で
なぜか反朝倉で騒乱が起こりその鎮圧に全軍を向かわせたところ背後から
奇襲を受け2.5万が一瞬に壊滅朝倉滅亡。浅井・六角・蒲生(朝倉配下)は
まさに見てただけだった。
浅井
取って返してきた信長に瞬殺。江北一揆・六角・蒲生(朝倉配下)は
まさに見てただけだった。
六角
知らないうちに消滅
北畠
朝敵なのになぜか蘭奢待の切り取りが許されるという事が起こり
信雄を人質取っていたにもかかわらずびっくりして織田に降伏した。
長島一向一揆
第二次で現在の海津市いったいまで勢力を広げ岐阜の足元まで迫るも
伊勢湾を制圧している武田水軍に徹底的に焼き討ち・虐殺され信長に占領された。
三好三人衆・義継・松永
完璧な連携ができていたため義昭が倒れるとドミノ倒しのように倒れた。
武田
6万の兵力がありながら1万の乞食兵しか持てない信長を攻めず
道中寄り道していたら信玄が急死して撤退。その後勝頼は長篠に
なぜか6千の兵しか率いてこず、織田徳川をボコボコにしたが夕暮れで
戦争止めようとしたところ反撃にあい被害甚大。温存した5万4千の兵は
知らない間に消滅して、北条が無傷で済んだ浅間山噴火で遠く甲斐が被害甚大、混乱の中滅亡
665 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 20:04:36.51 ID:Y+ZpLG+m
で、信長の凄さや強さや才能について早く根拠付きで教えてくれよwww
666 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 20:43:41.09 ID:L2E0yYMn
>>664 信長すげーな、ゲームでもそこまでやるのは難しいぞ。
667 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 21:48:26.94 ID:Yc1TIDFK
>>663 やたらと長文な上に文脈がクルクルパーだから大混乱するだろうが
そうやって要点をぼかしてなんとなく信長を貶めるってのがこいつのやり口だから
話半分どころか話兆分の一くらいに聞いておいたほうがいいぞ
668 :
人間七七四年:2014/11/25(火) 23:12:25.52 ID:mdCcYJyB
煽りに負けてコピペ荒らしするなら最初からレスするなよ
なんか真面目に相手して損したわ
669 :
人間七七四年:2014/11/26(水) 04:21:13.15 ID:hG4/dLqm
菅沼遼太なんていつもそんなもんじゃん
670 :
人間七七四年:2014/11/26(水) 08:13:13.94 ID:02a/Ezyj
真面目な話、信玄が生きていたとしても、そのまま織田領に行く事はなかったんじゃない?
野田城攻略して、長篠経由で帰還していたかと。
信玄が1年生きていたとしてもたいして変わらないんじゃないかな。
謙信の方はどうだろう。
671 :
人間七七四年:2014/11/26(水) 08:37:45.38 ID:tdUioHLa
謙信も加賀にちょっかいだすのがせいぜいで越前までは攻め込めないんじゃないかな。
北条との関係をどうにかせんことには遠出できんし。
672 :
人間七七四年:2014/11/26(水) 08:55:35.32 ID:Hsb2qtnV
信長が信玄より優れていたとする理由を
根拠付きで具体的に挙げてみてください。
673 :
人間七七四年:2014/11/26(水) 12:20:10.13 ID:vVGMK7/R
謙信のほうこそ1年長生きしててもそう大差ないんじゃない、北陸で何かやってるぐらいやろ
674 :
人間七七四年:2014/11/26(水) 12:22:50.52 ID:km5XiF2I
長家家譜には越後勢が越前まで進出した記述があるね
675 :
人間七七四年:2014/11/26(水) 12:24:17.86 ID:Dt2lRe31
>>672 信長はワープ出来るが信玄は出来ないでしょ?菅沼君
火砕流の中を行進出来るターミネーターを信長は作ったが信玄は作れなかったでしょ?菅沼君
676 :
人間七七四年:2014/11/26(水) 13:16:18.84 ID:rmyhHxWG
相変わらず根拠皆無の願望妄想と
自分に都合が悪い内容を書く相手への
中傷レッテルしか織田半島人は書き込まないな。
>>665>>672にすら返信できないほどの無能が信長www
だから信玄や謙信や秀吉を貶して、信長マンセーの抽象的な願望妄想を書くしかないんだよなwww
677 :
人間七七四年:2014/11/26(水) 15:05:30.41 ID:Dt2lRe31
>>676 全て君の主張が根拠だよ?菅沼君
ターミネーターを開発した信長は天才でいいよね?菅沼君
678 :
人間七七四年:2014/11/26(水) 15:12:08.79 ID:Hsb2qtnV
信長が優れている点なんて全くありません。
私が間違ってましたって
素直に土下座すればよいのに。
武田や上杉や豊臣の悪口中傷してれば
信長の評価があがるなんて思考は韓国脳だよ。
679 :
人間七七四年:2014/11/26(水) 15:31:41.11 ID:tdUioHLa
織田と武田を入れ替えればそっくり君のことじゃん。菅沼くん。
680 :
人間七七四年:2014/11/26(水) 17:03:41.04 ID:nwa7nIKZ
菅沼氏菅沼氏ー
武田に劣る織田を滅せなかった武田は織田以下なの?
681 :
人間七七四年:2014/11/26(水) 18:33:03.12 ID:2MCGdkPP
武田信玄は織田信長より優れていたのに、織田を滅ぼせなかった。なぜか?
682 :
人間七七四年:2014/11/26(水) 21:16:04.95 ID:cCSg/D1Y
菅沼君の思い込みは凄いな。
少ない資料を圧倒的な妄想で補完するなんて、小説家の才能があると思う。
普通の人間はここまで妄想に没頭できない。
俺なんか不利な史料でてきたらすぐ悩んでしまうから。
阿呆も極めれば、立派だよ。
菅沼君は無意味なコピペで時間浪費するより、
早く信玄上洛天下統一小説を一冊書き上げた方がいい。
683 :
人間七七四年:2014/11/26(水) 22:29:01.03 ID:4lKfwaUC
天寿を全うした人と行いをとがめられて部下に殺された人ではどっちが優れているのだろうか
684 :
人間七七四年:2014/11/26(水) 22:45:11.08 ID:7Sz7VvFm
病原菌に殺されたか、人間に殺されたか。ただそんだけ。
685 :
人間七七四年:2014/11/26(水) 23:08:31.58 ID:nwa7nIKZ
死に方で優劣が決まるってすごい思想だなw
686 :
人間七七四年:2014/11/27(木) 04:43:07.00 ID:wO2Rle3D
正直死に方に関して言えば全員微妙だろ
織田信長:部下の謀叛で自害
上杉謙信:トイレで昏倒して意識戻らず
武田信玄:冬場の長陣で倒れ駒場道中で野垂れ死
687 :
人間七七四年:2014/11/27(木) 08:06:24.62 ID:QBbiceBG
まあ家康以外はみんな負け組といっていいな
688 :
人間七七四年:2014/11/27(木) 12:45:03.56 ID:eJdHk7F1
少なくとも大名として残った織田と上杉は負け組じゃなかろう
689 :
人間七七四年:2014/11/27(木) 13:24:13.95 ID:VzuDKa5F
武田ってなんで大名で残れなかったんだろうな
北条ですら再興されてるのによほど家康に嫌われてたのかな
高家旗本になるのすらかなり遅い
690 :
人間七七四年:2014/11/27(木) 14:24:40.40 ID:QBbiceBG
むしろ家康は自分の五男に武田の名跡つがせるほど武田贔屓だよ
そいつが若死にしたせいでおじゃんになっただけ
691 :
人間七七四年:2014/11/27(木) 14:33:48.22 ID:QBbiceBG
あと大久保長安事件の連座で長安に庇護されてた信玄の二男の子が島流しにされた。
色々と運が悪かったんだ。
692 :
人間七七四年:2014/11/27(木) 17:16:32.49 ID:VzuDKa5F
それは贔屓といえるのか?
吉川小早川と同じ匂いがするが
693 :
人間七七四年:2014/11/27(木) 20:30:54.62 ID:44yuxn7P
武田復活を恐れてたからだろ。
甲州軍鑑が飛ぶように売れて
八王子じゃそこいらの爺までが読みふけり、
信玄の政治を理想として、幕府批判していたくらいだし。
だいたい旧武田家臣を擁して、武田旧領を支配した徳川忠長を
脅威に思って自刃に追い込んだりしてるからな。
694 :
人間七七四年:2014/11/27(木) 20:49:14.56 ID:vAA7IgRo
毛利と島津と鍋島は勝ち組だろう
695 :
人間七七四年:2014/11/27(木) 23:57:33.54 ID:QBbiceBG
>>692 どっちかというと穴山に負い目があったんだと思う
五男の母親は穴山の養女だしね。
穴山が本来継いでたはずの武田宗家の名跡を残したかったんだと思う。
五男は穴山の妻で信玄の娘の養子になってるし。
696 :
人間七七四年:2014/11/29(土) 00:11:19.14 ID:xeoHL0Fm
たしかに信玄が生きていたら、天下は取れんにしても
相当攻めるのに苦労はするだろう。
だいたい平地の戦と違って山ばっかだし、アメリカがベトナム戦争で
敗北したみたいにゲリラ戦みたいになったことだろう。
よって、後の家康もなく、北条家も信玄と組んで安泰
信長は、尾張から京を支配する大大名止まりで結果としては
織田・徳川と武田、北条、毛利の4大勢力でしばらく続いたのか
結果、織田が実質的な天下人となり、4大老として徳川、北条、武田、毛利
の体勢となった可能性も考えられるが、ライオンのオスは7匹のうち1匹しか
残れないという動物の本能からすれば、結果集団で統治するなどとは考えられず
前記のうちの誰か一人だけが残り、後は全員殺されるかして、その人が天下人
になるというのが普通だとは思う。
697 :
人間七七四年:2014/11/29(土) 00:29:34.51 ID:q9PJAC9x
天正9年に火山が噴火するから武田家は必ず滅亡するよ。
698 :
人間七七四年:2014/11/29(土) 05:30:07.96 ID:lWEbr5qE
>>696 ベトナム戦争はソ連・中国の二大国が全力支援したし
アメリカ国内の世論が乗り気じゃなかったから
リメンバーパールハーバーのときの勢いだったらベトナム全土が焦土になってたよ
699 :
人間七七四年:2014/11/29(土) 16:00:08.74 ID:doliVy7k
孫子の体現者たる信玄は凄いよ
外交も調略なんでもござれだ
信玄と決戦するとなれば織田内で反乱の嵐だったろうな
700 :
人間七七四年:2014/11/29(土) 21:41:28.23 ID:noGsd9q8
信玄生きてたら
そもそも元亀4年内に
朝敵信長の首は晒されてただろ。
701 :
人間七七四年:2014/11/29(土) 21:58:09.66 ID:S7+wNYbt
いまだに信長を朝敵と言ってる人の頭の中がよく分からない
702 :
人間七七四年:2014/11/30(日) 20:36:26.69 ID:KUDqSwlY
朝廷が信玄信者だと思い込みたい菅沼遼太だろ
703 :
人間七七四年:2014/11/30(日) 23:14:00.90 ID:bEJC7fbf
元亀3年11/27の山縣書状に
朝倉軍が織田軍を大破したし尾張・美濃衆が数多討死って書いてある
織田が朝倉に大敗して近江勢が寝返ったと書かれている。 嘘長公記はこれを隠蔽。
この大敗で信長は岐阜へ引きこもり震えていた。
で、この書状の最後に日野蒲生が朝倉に寝返ったとあり、手紙の内容と合わせて
織田の敗北、武田の躍進を山県が強調している。
元亀3年10/5の朝倉景亮書状(書状には「朝倉」の文字がかき消されている)
先日以◯◯◯◯ 入候之処、御懇之御報、
殊御一書披見本望候、其已後重而可申入之処ニ、
延引非本意ニ候、仍其表如何ニ御座候哉、承度候、乍御六借敷、南方辺之儀、示預候者、
畏可存候、委細林権介可申候之条、不能詳候、恐々謹言
蒲生下野入道殿御陣所
比叡山座主覚恕法親王は正親町天皇の弟で延暦寺炎上後は洛中曼殊院や禁中に滞在して
比叡山再興を掲げる信玄の権僧正任官の斡旋活動をして信玄も僧正号宣下のお礼状を元亀3年10/3に出している。
信長追討綸旨発給の衝撃・・・・本人が関わる綸旨・宣旨を纏めていた勧修寺晴豊の旧蔵記録には
蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→四辻大納言李遠宛て元亀3年9/20付書状
今度叡山炎上のこと、非常に嘆かわしく思っていたところ、法性院僧正が再び叡山を隆盛させるべく
入洛を計画しているとのことを聞き及びました。
叡山復興によって朝家の盛興するべく忠勤を励むとのこと。使者として直接談じ合ってくるように。
蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→恵林寺(武田氏菩提寺)・長禅寺(信玄生母墓所)宛て元亀3年9/20付書状
あなたたちの寺を天皇の勅願所に決めましたので、宜しく国家安全と長久を祈り奉ってください。
これにより天皇は信長に与えた決勝綸旨を破棄し、将軍義昭に呼応する信玄の官軍認定をしたのである。
このことで物資と人の両面で困窮し追い詰められた朝敵信長の自暴自棄の報復が
御所まで類炎するのも辞さない上京焼き討ちによる公家・寺社への乱暴狼藉である。
謙信→長景連宛て元亀4年3/19付け書状を読むと
謙信も信長へ叡山再興をするように約束すれば信玄の大義名分が立たなくなると諭し
朝敵信長がそれを承諾しているのがわかるように、朝敵信長は比叡山の報復圧力に土下座しているのがわかる。
このように官軍武田軍が威風堂々と徳川・織田連合軍を瞬殺して上洛を目指していたのがわかる。
元亀4年1/11に僧正法性院信玄→将軍足利義昭側近上野中務大夫(秀政)宛てで
朝敵信長追討を受けた信玄は
義兵を起こし大軍が靡かせ発向し家康の大半の要害を破却したと宣言し、
信長・家康ら逆党を誅伐し天下を静謐にすると言上してる。
そして叡山での乱逆や、他者を軽んじ公家や寺社の人々を侮り、放言の数々
洛中洛外を徘徊しみだりに徳分の課役をして砂金財宝を横領しまくり、
朝倉と信長を和睦させたかたじけない天皇の勅命とそれに類する複数の起請文を捧げたのを
破って延暦寺を壊滅させるなど悪逆無道を為すなど5か条に渡って
信長の大罪を弾劾し讒巨乱国を救うと誓っている。
その檄文を将軍から入手した天皇は日本を救う救世主に感動して、
信玄の大義名分を筆写し醍醐寺理性院に納めて祈願したほど。
いかに信長が悪逆無道だったかがわかる。
醍醐寺理性院に残る天皇の写の日付は1/11だが、甲陽軍鑑では1/7とされている。
実際に書かれたのは1/7で出されたのが1/11なのかも知れない。
704 :
人間七七四年:2014/12/01(月) 00:03:09.30 ID:xdI+0o3H
北朝鮮のメディアによると将軍様はすごい善政らしいよ
705 :
人間七七四年:2014/12/01(月) 00:37:58.38 ID:UBd7KG0r
下から5行目の2文
>その檄文を将軍から入手した天皇は朝廷を救う救世主に感動して、
>信玄の大義名分を筆写し醍醐寺理性院に納めて祈願したほど。
しか読んでないが、信玄の朝廷寄進の約束を保管しただけなんじゃね?
706 :
人間七七四年:2014/12/01(月) 10:19:09.38 ID:NXC9ECCL
1月に入ると本願寺が遠三尾濃の一揆の蜂起を命じ
(天正2年8/5の幽斎宛て信長書状にも尾・勢之中一揆を尋ね出して悉く楯切り(思いっきり)しろと命じてる)
岡崎にある勝鬘寺が蜂起予定だし、伊勢長島門徒も岐阜城付近に要害を建設した。
2/17に信玄が野田から撤収したと23日付けで幽斎に信長は言ってるが、
3/6には信玄が秋山に東美濃に織田が攻めてきたから追い払えと命じてる。
(ちなみにこの後に信長の子の御坊主丸を甲府に送ったとされる)
その後も岩村は武田方なので、織田軍はまた岐阜へ敗走したんだろうねw
3/7に義昭が信長の人質を突っ返して断交してるし
京都の大山崎にある山城離宮八幡宮は、信玄の上洛は確実とみて
さっそく諸役免除と禁制発給をお願いしてるし(26日に諸役免除を認めてる)
元亀2年5/11朝廷が信玄に比叡山再興を頼んだ
7/16朝廷が続けて東大寺大仏殿の再興も頼んだ
どちらに正義があるかなんて明らかじゃないか。
比叡山延暦寺は信長と敵対して志賀の陣などの戦乱で荒廃した。
そこで王城鎮護の比叡山の再興を朝廷が信玄に頼み、
信長が攻撃したり金を出させていた南都の東大寺の復興も頼むのは
重大なことだろうね。
戦国遺文武田の4043(延暦寺再興)と4044(東大寺の再興)がソース
信長の御勘気をこうむっていた教如を顕如が義絶していたが
本能寺の変の20日後にはさっそく正親町 後陽成天皇が
待ってましたとばかりに教如を赦免するように顕如を諭してる。
元亀4年1月11日
信玄は義昭に、増長しまくりの信長が政治を正そうとせず傲慢で他者を侮り
朝倉や比叡山との勅命和睦無視などを書き連ね
信長と家康の非法を訴えた激文を送付した。
正親町天皇はその文を読み感動し、写を自ら作成された。
707 :
人間七七四年:2014/12/01(月) 10:23:14.36 ID:NXC9ECCL
信長は天皇がいなかったら永禄の間に死んでただろ。
義昭を奉じた上洛が成功したのも
天皇からの決勝綸旨を戴いたおかげだし
志賀の陣も勅命講和で
関白二条晴良が斡旋し
納得しない比叡山に綸旨まで出して妥協させたからな。
708 :
人間七七四年:2014/12/01(月) 10:46:12.45 ID:6T7EC7y7
父が准三宮関白二条晴良だった義演(足利義昭の猶子)がいた醍醐寺に天皇の写が残される。
蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→四辻大納言李遠宛について
遠藤が執筆した論文によれば差出人の下に花押までしっかり書かれている書状なので、
一度、正規に発給されたが、その後に見直し 法性院の後に僧正が挿入されたり、重ね書きがあるので、
複数の訂正箇所が見つかり改めて発給された方が使者の四辻大納言李遠に渡され
こちらの書状は控えとして保管になったと書いている。
そしてこの書状の存在を反信長勢力による信玄上洛戦を促す目的のものと断じている。
細川藤孝の従兄弟で吉田神社当主の吉田兼見 誠仁親王の妃と姉妹の勧修寺晴豊 太政大臣の近衛前久はグル
2/14の浅間山噴火で甲斐崩壊を知ったのか、武田滅亡阻止のために信長暗殺を策謀。
2/25 竹内殿(信長に焼き討ちされた比叡山延暦寺166世天台座主の准三宮曼殊院覚恕で信玄を官軍に、信長を朝敵にした人)
による天神講(3/2夜執行?)に勧修寺晴豊が出席(延暦寺の大ボスと勧修寺の秘密会談。信長への叛意相談か)
誠仁の妻の兄である勧修寺晴豊は祖父の尹豊・子の光豊とともに
元亀3年末に信玄を官軍に、信長を朝敵にする活動をした
比叡山延暦寺の大ボス166世天台座主の准三宮曼殊院覚恕と
信長が武田征伐に集中してるドサクサに密談しているのであったw
信玄を尊敬していたからね快川。信玄の供養もやってる。
京で晒し頸にされた勝頼親子の頸を弔ったのも快川の師弟であった南化だしな。
土岐氏一門最大の天才として光秀と双璧を成していたとも言われ
本能寺の変を経た快川一周忌に南化が「過去の大通智勝仏(快川) 分身は今日扶桑(日本)に現れた」
などと書いていて快川がひそかに生きているとも取れる文章を書いている。
本能寺の変には朝廷と快川と光秀の共謀があった可能性が強い。
天正9年9/6に天皇が快川に国師号を下賜した時、 綸旨に「快川和尚は天下にその名が知れ渡っていて
朕は遥かに和尚の道風を聞き及んで感動しているので特別に大通智勝国師の号を授ける」と書かれ、
恵林寺の公式には快川と関係が深い武田氏が信長と敵対していたのに
この時期にこのような行為をする天皇の強い信長への反骨精神を感じたと評しているし
天正9年2/28に皇居で馬ぞろいを信長が行った時に、宣教師ヴァリニァーノに対して
信長が「予が国王であり内裏であり天皇に価値はないので会う必要はない」
などと答えているのを知った天皇の武田氏への救援の意味がこめられているとも言う。
709 :
人間七七四年:2014/12/01(月) 10:49:44.26 ID:6T7EC7y7
また天正6年冬に大垣にいた南化が安土を訪問して信長から話を聞かされており、
南化が7年8/23付けで出した書状に甲濃和睦の文字が登場し
信長→稲葉一鉄→南化→快川→勝頼への窓口があったようで
天正9年11月以前に織田勝長返還という
甲江同盟の交渉への布石を信長が依頼していたとされ
信長は武田氏が織田領へ攻めてこないように愛撫活動をしていた。
しかし浅間山大噴火とともに信長による火事場泥棒が開始され、
この裏切り行為に激怒した快川が信長への抗議を込めて信忠に屈せず火の中に消えた。
美濃で強い影響力を持っていた快川は
尾張の半分を手に入れた斉藤義龍と対立し、義龍を突然死に追込み信長を助け、
信玄が信長のために東美濃を譲渡した際に尽力し
その挙句に手のひら返しされた信長を暗殺したのが快川和尚。
まさに火に囲まれ死せる快川、生きる信長を焼死させたのである。
信長から義昭への17条の意見書
御参内の儀 光源院殿(義輝)御無沙汰につきて果たして御冥加なき次第。
諸事について御欲がましき儀 理非も外聞にも立ち入らざる由 其の聞こえ侯。
然る間 不思儀の土民百姓に至るまでも 悪しき御所と申しなす由に侯。
普光院殿(義教)を さ様に申したると 伝へ承り侯。
天皇を敬い参内することを義輝がやらなかったため暗殺されたのです。
欲望のままに諸事を行ったために土民百姓までが悪い御所と申し果て義教が家臣に暗殺された。
義昭「信長お前のことだろうがwwwwww」
美濃で強い影響力を持っていた快川を虐殺した結果 美濃が乗っ取られる始末www
天正10年武田崩れよりも酷い、天正10年織田崩れ 美濃尾張も謀反人だらけであっと言う間に一瞬で大崩壊
信長なんて恐怖で支配してただけで統治力もゼロ
なんせ尾張・美濃ですら面従腹背で人心は織田家から離れていたからな。
そりゃあ本能寺の変で尾張美濃兵が信長のあだ討ちなんてするわけない。
むしろ歓迎してたのは明らか。 斎藤利堯などの誤算は秀吉が速攻で光秀を討って近江長浜に凱旋したこと。
なんせ天正10年10月十八日付け秀吉→信孝側近斉藤玄蕃・岡本太郎左衛門宛書状でも
信長が死ぬや謀反したので人質を出させて降伏を許すのでなく首を刎ねるべきと秀吉が書いてるなかで
江州の阿閉氏を挙げたあとで、さらに尾・濃の御成敗に言及してる。
濃州の面々、城を拵え、悉く御敵と成り、稲葉山えおは、既に、斉藤玄蕃允相上られ候といへども、
長浜へ罷り越し、我等に稲葉山、相渡さるべきに極められ候、其の外、国衆の人質、残らず我等請取り申候
長松へつれて馳せ向ひ候間、一国の者首を助け申し候事
其れより尾州へ罷り越し、又ぞろや、悪逆人成敗いたすべきと申し候処に、我等清洲の御城に居申し候へば、
国中の人質残らず、三河・信濃境迄出し申し候間、是非に及ばず候、是又首を助け申し候事
などと秀吉は尾張と美濃のまたぞろ現れた悪逆人を処罰をせずに人質を受け取ることで許す信孝を非難してる。
この不審な態度は信孝が信長・信忠暗殺の黒幕とも思える話で秀吉が激怒してる文である。
いかに信長が尾張美濃の人々からも憎しみを向けられ敵視され、隙あらば謀反自立しようとしていたかわかる。
そして秀吉は信長親子への謀反をした者どもと組している信孝を討って仇討ちをするのである。
(信孝は安土へ三法師を戻すという織田重臣会議の合意を破り、柴田と組みして三法師を岐阜城に拉致監禁した謀反人)
710 :
人間七七四年:2014/12/01(月) 10:50:32.86 ID:6T7EC7y7
信長公記の武田征伐話はデタラメばっかりで信用性ゼロだからな。
俺が一次史料を書いてあげよう。
大分県でも観測された浅間山超噴火が14日。
2/15付けの信長→滝川書状の中で
我々出馬儀 無油断令用意候て 一左右(いっそう)相待候
能々見合候て 発足之日限可申上候
などと書いてあり、信長は自分の出馬まで油断なく用意して待つように
よくよく見合わせて出撃のスケジュールを俺に申しあげよなどと命じている。
いまだ織田軍は信濃・美濃国境線上で待機していて
本格的な侵攻をしていないのが判明する。
また信忠が若いので働きして名を取らんとする気色があるので
俺が来るまでちゃんと抑えるのだ。もし失敗したら2度と俺の前に出ることは許さんから覚悟しろ。
2/23の信長→川尻宛の書状では
19日の書状報告を読んだ信長が飯田・大嶋が落居したので敵の城は高遠城だけだとのこと。
高遠攻略のためのしかるべきところに2.3の伝城を普請するように。
高嶋(諏訪)に在陣していた勝頼は甲州へ引き退いたとの話だが
韮崎の新城はまだ完成してないし城域が手広いが(この後に四郎無人之由と書いてる)
籠城するのであろうか、例え人数が多かったとしても
この状況では退治するのは簡単だろう。
信忠が軽挙しないように滝川とも相談してよく申し聞かせよ。
森や梶原が談合せずに進軍したとのこと。若きものだから粉骨して名を取ろうとしてるのだろう。
また俺へ褒美などで訴訟する種とも思ってるに違いない。
アホな働きは無用だとよくよく申し聞かせよ。
高遠の陣取りはよく相談してのちのちのことまで示し合わせて落ち度ないように。
(この時期になると森や梶原が信長の命令を無視する行為を公然とやりだすのがわかる)
2/28の信長→川尻
大嶋を武田側が明け退いた内容について重ねての説明を聞いた。
(やはり武田が組織的抵抗できずに逃亡を重ねてるのがわかる)
道を作れ。あちこちに作りまくれ。そうすれば撤退する時に役にたつ。
俺の出馬前に急いで作れ。進軍とかしなくていいから作れ。
大百姓は草が靡くタイミングをよく知ってる。そういう時に役にたつ。
勝頼は俺が出陣して叩くから進むんじゃねぇよ。この命令は信忠や滝川にも申し伝えた。
とにかくつなぎの城を普請することに集中しろアホども。
上記と同じ日付の2/28の信長→川尻
高遠へのつなぎの城を作るよう申し伝えた件、お前が皆に尋ねはよやれや。
(追加で出した書状か。どうしても厳命したいようだ)
711 :
人間七七四年:2014/12/01(月) 11:01:20.51 ID:NXC9ECCL
明智光秀を裏で操っていた南光坊天海=快川紹喜
712 :
人間七七四年:2014/12/01(月) 14:01:35.01 ID:NXC9ECCL
噴火からわずか5日で、兵が逃亡して無人の勝頼が甲斐へ逃げ、
次々と城が自落した結果、敵の城は高遠城だけしかないという
武田の自壊現象は、浅間山大噴火以外に考えられないよな。
しかも高遠城に籠城したのはわずか100だけで、あとはみんな逃げた後。
信長への報告でも野戦やったとか城攻めたって話は一切出てこないため
感状を出すような武功すら全くあげる機会もなかった。
北条もラクラクと伊豆へ侵攻落城させていた。
そんな状態だったのに、なぜか戦下手家康だけが苦戦に次ぐ苦戦www
徳川と北条の甲斐争奪では、崩壊中の甲斐の領国化に価値なしと判断した北条が、
あっさり甲斐を諦めて帰る。
しかし家康は最強武田軍の遺臣を手に入れたくて
勝頼の菩提寺を作り、恵林寺再興を約束し朝敵信長否定をアピール。
713 :
人間七七四年:2014/12/01(月) 14:43:52.86 ID:2ofefyH4
菅沼遼太はなぜバレバレのコピペを連発するのか
714 :
人間七七四年:2014/12/01(月) 14:57:17.29 ID:2izF+vJA
一方的にでも書き続ければコピペが真実になると思ってんでしょ
つい最近も自分をスルーできない奴が悪いとか言い出してたし
715 :
人間七七四年:2014/12/01(月) 19:21:46.32 ID:2i3ppeib
昔読んだ夏目房之介の「消えた魔球 熱血スポーツ漫画はいかにして燃えつきたか」を思い出した。
> この過剰なゴタクの物量作戦こそ、何をかくそう、消える魔球の秘密であったという事実は意外と知られていない。
> ストライク・ゾーンで球に沈んでミット手前で浮くのだから、ひょっとして消えなくても打てないんじゃねーかとか、雨ふったらそれっきりじゃねーかとか、ゴタク読み解くのに必死で疑ってる余裕がないのである。
716 :
人間七七四年:2014/12/01(月) 21:01:18.45 ID:UBd7KG0r
717 :
人間七七四年:2014/12/01(月) 22:38:42.25 ID:FDi6tI8F
まあ気に入らないなら専ブラで消せばいいんじゃね?
子供が駄々こねてるみたいで字面だけなら微笑ましいよ
中身を想像するとオカルトだけど
718 :
人間七七四年:2014/12/01(月) 23:47:19.84 ID:va6Az0D5
菅沼君が戦国板に居なかった頃が懐かしい。
白熱しても誰も長文コピペ荒らしなんかしなかったし、
スレも結構長く残ってたからいろいろなスレを読むだけでも楽しかった。
このスレも1年以上もったのに菅沼君がコピペしまくって、
たった1か月で300近く進めてしまった。
菅沼君はもうこのスレには書き込まないでほしい。
719 :
人間七七四年:2014/12/02(火) 19:32:36.14 ID:T0vOUFSi
もういっそ菅沼遼太板か菅沼七七四年にしようぜ
720 :
人間七七四年:2014/12/02(火) 20:44:36.56 ID:y2fITIbK
織田在日がなんどとなく懲りずに
同じことを蒸し返しては毎回論破され
ついには完璧な論破テンプレが完成してしまい
涙目でレッテル中傷しかやれない哀れさ。
721 :
人間七七四年:2014/12/02(火) 20:52:58.07 ID:9RayAE+3
>>720 菅沼君が戦国板に居なかった頃が懐かしい。
昔は議論が白熱しても誰も長文コピペ荒らしなんかしなかったし、
スレも結構長く残ってたからいろいろなスレを読むだけでも楽しかった。
このスレも1年以上もっていたのに菅沼君がコピペしまくって、
たった1か月で300近く進めてしまった。
「菅沼君はもうこのスレには書き込まないでほしい。」
722 :
人間七七四年:2014/12/02(火) 22:26:21.64 ID:y2fITIbK
織田厨が書き込む内容は願望妄想ばかりで、
いまだかって、それ初めて知ったとか、そりゃ勉強になった
レベルの書き込みを一度たりともしたことがない。
それどころか信長のすごいところを教えてっていう新規の素人にすら
怯えまくって書くことから逃亡する始末。
723 :
人間七七四年:2014/12/02(火) 23:19:36.54 ID:kDpPLjoY
>>722 俺がお前に言いたいことを完璧に代弁してくれた
実はエスパーなのかな?
724 :
人間七七四年:2014/12/03(水) 00:29:43.97 ID:Y48d0zPr
>>722 じゃあなんで「織田厨」の発言を時々パクってコピペに混ぜてんのw
725 :
人間七七四年:2014/12/03(水) 09:36:16.39 ID:ezHLUEqW
726 :
人間七七四年:2014/12/03(水) 13:23:57.34 ID:3a9Axiy2
>>722 ターミネーターを開発した信長は凄すぎると何度も言っているでしょ?菅沼君
727 :
人間七七四年:2014/12/03(水) 21:09:22.90 ID:kjc6eeQj
「菅 沼 君 は もうこのスレには 書 き 込 ま な い で ほ し い。」
728 :
人間七七四年:2014/12/04(木) 01:39:54.64 ID:VvCO+YzI
織田厨とは日本語が成立しないな。
729 :
人間七七四年:2014/12/04(木) 06:45:12.70 ID:8Oi/QuN7
730 :
人間七七四年:2014/12/04(木) 21:45:42.99 ID:iBb5Xkdj
菅沼君による1573年3月の状況
織田
各地守備兵を除けば金欠で1万しか動員できない。尾張や美濃の国人も
かなり調略されているし、虎御前砦の敗戦で近江の豪族は離反し近江はほぼ失陥
伊勢湾の制海権も失う
おまけに義昭に京におびき出される。
徳川
動員できるのは4千程度、もうすぐ武田に降伏。
朝倉
2万5千を動員できる、前年虎御前砦にて上総土岐家にまで伝わる勝利を挙げ
近江蒲生家が降る砦は5月反攻を考えて落とさなかった。義昭と呼応して敦賀に駐屯。
浅井
小谷城に篭城中。朝倉さえ来れば虎御前砦など問題ではない。
六角
兵力2万南近江の主要街道を封鎖中、さらに各一揆を先導。
義昭
朝倉と連携して信長を京におびき寄せる。丹波内藤氏が5千の兵を援軍として送る。
三好三人衆・義継・松永
各自織田派と交戦。畠山や細川はおされ気味。
畿内の反織田派は完璧な連携が出来ている。
本願寺
長島一向一揆は美濃に砦を築き近隣を調略、いつでも攻勢に出られる。
北畠
1万5千を動員可能、紀伊・雑賀水軍も動かせる。
武田
兵力6万、野田に駐屯中、水軍は伊勢湾を制圧済み。
こから1年半で武田・本願寺以外全滅
731 :
人間七七四年:2014/12/04(木) 21:57:35.38 ID:nqn+aQki
こから?
732 :
人間七七四年:2014/12/04(木) 22:56:28.68 ID:lZUauAIQ
>>730 改めて記すととんでもねぇな信長
人間じゃこんなの絶対不可能だよ。魔王だよ魔王
第六天魔王を自称したのはハッタリでもなんでもなかったわけだ
733 :
人間七七四年:2014/12/05(金) 01:12:13.76 ID:N3qs30pV
菅沼史観の織田って1万しかいないから北畠の1万5千だけで滅ぼせるだろ。
朝倉と六角のどちらかが同調すれば間違いなく信長は晒し首
逆に早く瞬殺されすぎて信玄の出番必要なくなって上洛できない可能性すらある
この状況から信玄が死んだ程度でひっくり返せる信長はやっぱり凄いな
734 :
人間七七四年:2014/12/05(金) 03:46:21.93 ID:lRrk/t8S
官軍信玄の上洛が期待された結果
朝敵認定された信長が
大半の国人から離反されまくっただけだろ。
735 :
人間七七四年:2014/12/05(金) 04:05:34.03 ID:N3qs30pV
そんな状況からよく持ち直せたなwww
武田いなくても織田の4倍以上の兵力を持つ反織田勢力がいるのに
736 :
人間七七四年:2014/12/05(金) 08:15:21.43 ID:lRrk/t8S
首謀者義昭が信玄の死去を知り無条件降伏したからなあ。
毛利が信玄の死去を知り義昭の支援を止めたのも大きな理由だし。
いかに信玄が期待されていたかわかる。
737 :
人間七七四年:2014/12/05(金) 08:38:27.70 ID:buliXxBY
そんな大国だったのに滅ぼせなかった武田信玄
漸く立ったと思ったら山の中でご臨終
カッコいいなw
738 :
人間七七四年:2014/12/05(金) 09:42:05.88 ID:N3qs30pV
そもそも信玄は何をチンタラしてたんだよ
朝倉六角北畠で6万の兵力を動員できるんだからこの時点で織田の6倍の兵力だろ
加えて信玄本人が6万の軍を率いてられるんだから猿でも勝てる兵力のはず
しかも信長の領国は大部分が本願寺勢力に牛耳られてて死に体。
こんな圧倒的状況で2月に三河の野田とかハァ?
この状況なら2月には岐阜落としてとっくに信長を晒し首にしないといけない状況だろ
739 :
人間七七四年:2014/12/05(金) 09:50:52.31 ID:N3qs30pV
>>737 つうか織田の兵力の12倍、自身の兵だけでも6倍の兵力なのに
チンタラ余裕こいた挙句突然死とか怪しすぎるだろ。
こんな圧倒的優勢なんだから信玄が指揮せずとも勝てたはず。
松平記の言うように実は暗殺されたんじゃねーのっていう。
病で死んだとしているのは信玄の名誉を守るためだろう。
本当に病なら秋山なり馬場なり山県なり勝頼なりに軍を預けて軍だけ先行させればいいし。
しかも軍を進ませることすらできず圧倒的優勢の状況で撤退なわけだから
真相が知られたら武田が瞬時に崩壊するような死に方だったんだろうな。
740 :
人間七七四年:2014/12/05(金) 10:28:00.67 ID:iLA4nEtM
実際は鴨川氏「信玄が三河方面に出てきたのは
信長を誘い出して殲滅するため。
その一方で別働隊に岐阜を突かせるつもりだっただろう
もし出てこないなら別働隊と本隊が合流して岐阜を攻めただろう」
森田氏「信濃と美濃国境の神坂峠の雪解けは当時の暦だと
3月下旬からなので、信玄は雪解け待ちをしていた。」
朝倉などへの手紙でも信長を敵として戦っているとか
来春に美濃攻撃すると信玄が書いている上に、
3/6付けで信長が東美濃にやってきたので三河や遠江は別人に任せて
秋山隊は信長を追い払えと先陣を命じている。
その後の情勢を見ると明らかに信長が東美濃で大敗しているとしか思えないw
鴨川氏が家康に一撃を加えた後に東美濃の別働隊と
信玄が合流して岐阜を攻めて信長を滅ぼせたかも知れないと主張しているが、
森田善明も新著で鴨川氏の意見に賛同して
信玄が朝倉や浅井に5月を目標スケジュールに据えていたのは
飯田から東山道を使って東美濃へ進出する際に通過する
神坂峠の雪解けを考慮していたからだと主張してるな。
信玄は野田城攻略完了して信濃へ進軍した時の」2/16には
まだ花押も書けるほど元気で、その後に急に病状悪化し急死したと。
(信玄は面倒な時は朱印で誤魔化していた)
そして信玄が死去した時期がちょうど雪解けして進軍可能な時期になっていたと。
(永禄の暦だと雪解け3月下旬から4月上旬)
だから信玄は「信長滅亡の時がきた」と自信を漲らせていたと主張してる。
(信玄が病を押して出陣したなどと書いてるのは甲陽軍鑑のネタで、
病が重くなってきた信玄が三河から引き上げて甲斐に戻るも、病が小康状態になったので
信長を倒すために美濃岩村へやってきて、織田軍1万を粉砕するも病が悪化し死んだと書いてる)
741 :
人間七七四年:2014/12/05(金) 10:32:34.23 ID:z/9uJGkn
【親織田勢力】 織田信長 兵力1万 朝倉に大敗、本願寺に領土荒らされまくり
徳川家康 兵力4千 武田に大敗、滅亡寸前
【反織田勢力】 武田信玄 兵力6万 織田徳川の大部分を三方原で壊滅 武田水軍が伊勢湾支配
朝倉義景 兵力2万 織田を近江で破りほぼ領地占領
浅井長政 兵力不明 虎御前山から朝倉を支援
三好義継 兵力不明 四国からも続々と軍が到着し大軍に。一致団結して反信長を表明
足利義昭 兵力不明 信長を挑発して兵力を釣りだし。武田軍の上洛を間接的に支援
本願寺 兵力不明 岐阜城からすぐの場所に最前線基地。信長領を荒らしまわる
六角義賢 兵力2万 南近江、伊賀の兵力を結集。足利と同調
北畠具教 兵力1万 織田信長の息子である茶筅を人質。武田水軍と協力して伊勢湾を包囲。
状況を考慮すると、織田徳川は完全に滅亡寸前で、誰がちょっと叩いてもあっさり崩れた状況。
恐らく武田信玄は勝利を確信していたんだろう。そのため行軍はゆっくりだった。これはいわゆる権威づけのため。
既に武田信玄は書状や花押から健康状態が良好だったこともあり、戦後を見据えて行動していたに違いない。兵力差を考えると自然な発想。
ところがここで武田信玄が急死した。しかも武田軍はそのせいで全軍撤退した。この圧倒的有利な状況で。
誰が考えてもおかしい状況なので、この死は間違いなく不自然死だろう。武田信玄は暗殺されたのだ。
だが、不自然死だとするとなおさら撤退などというのは疑惑がつく、
織田や徳川の手に殺されたのなら逆に士気が上がって即岐阜になだれ込めるくらいだろう。
つまり武田信玄を暗殺したのは内部の人間だ。
ここで信玄の遺言とその後の武田家に注目したい。
信玄は遺言を残した。恐らく暗殺されたが即死ではなかったのだろう。
そして武田は信玄の死を秘匿し、勝頼のもと新体制を築いた。
が、長篠で勝頼は重臣たちと対立し、長篠で多くの重臣を集団自殺に近い形で失った。
結論から言うと、武田信玄を暗殺する上で手を引いていたのは諏訪勝頼。つまり信玄は息子に暗殺された。
まあ息子と言っても所詮四男坊、諏訪の人間。一次史料にも勝頼の幼少期の記述はない。庶子として冷遇されていたのだろう。
また諏訪勝頼の息子の信勝は、織田の血を引いていた。勝頼がもし織田のことを思って信玄暗殺に乗り出したのなら一大事どころではないので、
信玄が死んで武田軍が圧倒的有利の中、全軍撤退させるのも筋が通る。(ただし後年の勝頼を見る限り、織田が原因で凶行をしたわけではない・・・・が、当時の状況ではわかるはずもない。)
恐らく勝頼が下手な行動を取れば武田信虎のように重臣たちで協力して追放することも考えていたのだろう。勝頼はそれに対抗するために近臣や一族を揃えた。
穴山が勝頼を軽視したのも、所詮は勝頼が父である信玄を暗殺した謀叛人だったから。他の連中も勝頼に対抗できなかっただけで、ヤバくなるとあっさり見捨てた。
自分を暗殺しようとした勝頼が家督を継いだのは、他の一族を守るためだろうな。尤も、勝頼に誑かされた挙句、余計な対立まで生んでしまったが。
義信を廃嫡したのが運の尽き
742 :
人間七七四年:2014/12/05(金) 11:46:14.46 ID:ahqNLCJS
信玄がいなくたって余裕で勝てる状況だなw
743 :
人間七七四年:2014/12/05(金) 11:59:02.79 ID:3SbSDrj/
この状況を半年で覆した信長はもはや神将としかいいようがない
菅沼君って実は信長の大ファンだろwww
744 :
人間七七四年:2014/12/05(金) 12:08:54.61 ID:lRrk/t8S
日本の首謀者ってヘタレばっかだよね。
首謀者の義昭はあっさり諦め降伏。
将軍奉公衆がいた近江琵琶湖西岸〜若狭が混乱したため
ハシゴを外された義景は本国撤退を強行して失敗。
信長暗殺の首謀者は朝廷で、あっさり光秀を捨てるし、
西軍首謀者の輝元もあっさり三成を捨てて降伏。
745 :
人間七七四年:2014/12/06(土) 03:15:47.06 ID:/i4ey+z8
>>743 しかも織田はロクな兵力すらいない
信長がひと睨みしただけで斎藤は滅び足利は逃げた
鎮西八郎もびっくりの武勇の持ち主だったんだろうな信長は
746 :
人間七七四年:2014/12/06(土) 11:40:52.23 ID:hW5CNWQB
747 :
人間七七四年:2014/12/06(土) 11:45:16.32 ID:hW5CNWQB
アマゾンで見たら、その人の名前でこんなのがあったんだけど?
実写版超A級若妻三面記事 キレイな奥さんに変態させちゃった
748 :
人間七七四年:2014/12/06(土) 15:00:06.55 ID:sgpB6ATm
誰でも勝てる織田信長との戦いを御破算にし、実の父も殺したのに、
全く反対されず家督を強奪した武田勝頼の政治力、超絶凄いな
749 :
人間七七四年:2014/12/07(日) 06:23:01.15 ID:6W0ZTkax
>>748 ぶっちゃけそれは勝頼が凄いって言うより信玄が馬鹿なだけじゃね?
義信が生きていたら満場一致で家督は義信だったのにつまらん理由で廃嫡しちゃうんだもん
750 :
人間七七四年:2014/12/07(日) 07:14:28.93 ID:VC1wmUNk
まああれは廃嫡しなきゃ自分が親父と同じ末路を辿ることになってただろうからなあ。
751 :
人間七七四年:2014/12/07(日) 12:45:56.82 ID:qictZ0Zx
武田義信だとしても同じだろ
誰でも勝てる織田信長との戦いを御破算にし、実の兄も殺したのに、
全く反対されず家督を強奪した武田勝頼の政治力、超絶凄いな
になるだけ。
752 :
人間七七四年:2014/12/09(火) 12:50:52.35 ID:QNYhHHag
義信が謀反しようとしていたのは書状ではっきりしている。
甲斐国人としては信玄が統制を強化するのを望んでおらず
義信を傀儡にしようと水面下で動いていたが、
信虎と違い先手を打って義信を捕らえた。
しかし義信を殺しては居ない。嫡男を殺したのは家康。
信玄はこの策謀を防ぎ、人質や証文を取り、さらなる統制に成功する。
753 :
人間七七四年:2014/12/09(火) 13:43:23.70 ID:z/O04SoF
毎回いつものように、義信だったら武田は滅亡しなかったと
願望妄想を繰り返してるバカ池沼織田朝鮮人w
実際は浅間山大噴火で混乱瓦解した武田が滅亡しただけw
信長の情勢認識大ミスの本能寺崩れで武田よりもあっけなく崩壊した織田www
754 :
人間七七四年:2014/12/09(火) 14:45:44.92 ID:uLfiyUAl
はいはい噴火の事後処理の当時の行政文書見つけてからまたおいで
755 :
人間七七四年:2014/12/09(火) 15:55:37.98 ID:/5OumSJv
>>753 いつになったら浅間山大噴火の地質学論文を出してくれるのかね?菅沼君
756 :
人間七七四年:2014/12/10(水) 11:27:24.64 ID:PkLJW6uN
>>750 信玄は信虎を重臣と一緒に追放したせいで極度のクーデタートラウマになってるよな
いつ自分が信虎のようになるかとビクビクだったのがまるわかり。
大体成人した子供があれだけいて隠居の類を全くやってないからな。
織田、北条、毛利など形式上でも隠居した大名は山ほどいるのに、武田にはその気配がまるでない。
隠居して当主職についた子供と二元政治になると対立して追い落とされると思い込んでいたんだろう。
757 :
人間七七四年:2014/12/10(水) 12:11:30.69 ID:PsTUedve
織田チョンの願望妄想落書きなので、
相変わらず一次史料による根拠が存在しませんw
758 :
人間七七四年:2014/12/10(水) 14:48:49.68 ID:KY2pZT5W
あわれな捨て台詞ばっかりだな。だが氏よ
759 :
人間七七四年:2014/12/10(水) 17:44:02.77 ID:PkLJW6uN
信玄の場合は、信虎の二の舞を恐れて義信を廃嫡して計算高く独裁体制を築いていたが
今まで目をかけていた嫡男をあっさり廃嫡することの愚がわからなかったかの
どちらかだから、結局どっちにせよ信玄が糞なのは変わりないんだがな
760 :
人間七七四年:2014/12/10(水) 18:05:33.51 ID:aAAMc3jy
>>息子すらぶっ殺す悪党信玄
信玄は息子を殺したくなかったんだよ。
つかそもそも殺したとはどこにも書いてないから病死だろうし。
永禄8年5月に富士山麓の勝山で、義信妻(今川からきた)
のために信玄は祈祷してあげてるし、
でも6月に義信は甲斐二の宮美和神社で不穏な集会を開いた。
この出席者の署名のうち17名中4名は名前に花押がない。
これは反信玄決起集会に集まらなかった人々がいた証拠とされる。
そして10月に飯富を親子不仲にする陰謀の罪状で死刑にしてる。
11月には去る6月より文句が多いと三枝昌貞を信玄は叱責してるし、
翌年8月に三枝を含む3人が知行を与えると言う条件で
信玄に反逆を企てたりしませんと信玄に忠誠を誓ってる。
その後に義信の存在がまったく無くなると鴨川氏が指摘してる。
義信は明らかに信玄に反逆し、その態度を改めなかったので自業自得で自滅した。
信玄は父を追放してるだけにそれを黙認するわけにもいかなかっただろうね。
信玄は義信を殺したとは一次史料にはないしただの急死だろ。
そもそも嫡男殺したのはまずい事だと連呼してるバカ長厨は
江戸幕府を作った家康が信康を殺したことはどう思ってんだw
それに本能寺の変の時に信長は秋田城介(信忠)の仕業か!と言ったと言うから嫡男の謀反は想定内のことだったようだしな。
だいたい自害に追い込んだのは家康だろ!なに混同してんだw
天正6年3月に信康の岡崎城へ岡崎衆の常住を義務づけた家康だったが、
突然9月に岡崎衆に信康へ出仕することを禁止
天正7年8/4岡崎から追放したと8/8に信長へ報告
9/15の銘文で信康の五輪塔。
三河物語には二股城で15日に服部半蔵が自刃の検使だったと書いてるし。
ちなみに2/20に信長の娘の五徳が桶狭間まで家忠らが護衛して送ったと書いてるな。
織田厨ってなんでこんな初歩的なことも知らずに無知を晒すだけでなく
武田義信のことと恥ずかしくもなく混同して書いてんの?
なんでそんなにアホなの?
恥ずかしくて自害する気にならないの?
761 :
人間七七四年:2014/12/10(水) 18:55:32.09 ID:gxCBwjVB
煽らず丁寧に、厨、在日、チョンなどという言葉を使わずに
これだけでだいぶマシになるぞ
762 :
人間七七四年:2014/12/10(水) 19:10:59.06 ID:UQwAnLGw
感情的な長文は、読んでるこっちが恥ずかしくなるな。
763 :
人間七七四年:2014/12/10(水) 19:22:06.37 ID:aAAMc3jy
実際、信長も家督を譲ってなかったとも指摘されてるからなぁ。
信忠を岐阜城主にはしたけど。
ただ単に安土城に信長が移転したからだし。
その理由として信忠発給の書状があまりにも極端に少な過ぎて、
織田当主としての行動が確認できないこと。
そもそも出家して家督を譲るという事態には、
失政が原因で、装いを新たにして新外交方針で臨む表明でもあるし。
家臣団による強制家督交替と対して変わらない。
たとえば福川氏によれば大友義鑑の死去で後を継いだ大友宗麟にしても
大友宗麟が天正5年に後見していた義統へ家督を正式に譲渡したのも、
信長による対中国、対四国政策が本格化してきたので、複雑な同盟政策を展開する必要性が生まれたからだとしている。
備前の浦上宗景や出雲の尼子残党と同盟関係を構築するなど、大友の外交同盟政策は複雑化していってる。
佐竹義昭の死去で家督を継いだ佐竹義重も後見していた義宣に家督を譲渡したのは対秀吉外交が原因だし。
北条氏康も悪政が原因で氏政に家督を譲渡しているし、その氏政も武田の攻勢に上野国を失いそうになった甲相同盟破棄の失策の挽回のため
氏直に家督を譲り、武田とともに織田を敵視していた政策を撤回し、徳川の仲立ちによる北条と織田の婚姻同盟を推進する刷新からだし。
信長が本当に信忠に家督を譲っていたのなら、そこに信長のなんらかの致命的失敗による家臣団との軋轢がきっかけになっているはず。
何も問題が生まれなければ戦国大名というのは終身維持する身分であり、致命的失策が己の威信の低下を呼び家臣団により家督譲渡を強制させる。
元就が息子に家督を譲ったのは、 大内や正妻の父になった重臣内藤の意向だよ。
バカ元就がまた尼子側につかないように大内の人質としてホモ可愛がりした隆元に継がせた。
信長の場合は長篠で武田に花押が書けない身体にされたんだろ。
長篠で大勝したから岩村を3日で落とすと謙信に宣言した信長も
信忠が岩村で大苦戦して半年経っても落ちる気配なく困っただろうなw
家康がキレて清康を援軍に岩村に送り込むからって言われて
焦って織田の総司令官佐久間を援軍に送るからいらんって書状だしてるし
しかも全く落ちず、謙信からも過大戦果吹聴のウソ吐き野郎って見限られる信長www
ついに勝頼本人が岩村へ援軍に出発したと聞いて慌てて岩村と和睦www
和睦だまし討ちで岩村を手にいれてみたら
謙信が織田に宣戦布告で、いそいで勝頼に甲濃和睦を申し込む信長wwww
信忠が超絶バカだったからなー。 岩村城で苦戦して全く落とせない愚将ぶり。
仕方なく家康がうちの信康を派遣するからって言われて、
信長が信康に落とされたらやべえって織田軍総司令官佐久間信盛を派遣したのに
しかも信盛をうまく活用出来ずに落とせないw
結局、勝頼が自ら岩村城の援軍に出撃したのを知ると、
安全に撤退する為に和睦交渉を岩村城に申し出て、
人質交渉しにきた秋山を騙して奪うという天下に徳を失う愚人ぶり。
武田征伐でも川尻や滝川の後見無いとダメな無成長ぶり。
森や団らすらまともに統御出来ないバカぶりで、
森らは信忠の命令違反しても、武功をあげて信長に訴訟すりゃあいいやwって高を括り、
案の定、信忠の指揮が拙いから森や団は罰せられるどころか領地を貰い褒賞を受ける始末。
佐久間や滝川や川尻もガッカリした愚人信忠は本能寺の変で自爆する最上級のアホ
朝護孫子寺や諏訪大社や恵林寺らを焼き討ちした罰があたった愚か者破壊者ノブタダw
764 :
人間七七四年:2014/12/10(水) 19:25:14.42 ID:aAAMc3jy
そりゃそうでしょ。
天下の右筆と呼ばれ、松永久秀に無理を言って信長が自分の右筆にしたほどの楠長諳が秀吉の右筆になってんだから。
本願寺顕如や教如に土下座血判状を信長の血液で押印して出した際でも、
最上級の敬意を表すために権威ある楠長諳が文章書いてるほど。
天正10年7月11日に織田家をないがしろにして秀吉が細川家と独自に家臣同士の連盟を結んだ血判状は楠長諳が文章を書いてる。
信長と秀吉が出した血判状はこれだけで、全て文章は楠が書いてる。
信長死ぬや織田を見捨てて秀吉の右筆になってるあたり、
最初から織田家は信長一代限りと周囲は認識してたんだろう。
所詮、信忠は信長の傀儡であり、
信長が死ねば織田家が崩壊するのがわかっていたから、
信忠は信長と一緒に死を選んだのであり、
信長と一緒に死ぬ選択をして家を家臣に乗っ取られたバカを後継者に選ぶより、
後継者を選ばない方がまだマシという意見も当たらずとも遠からずだろう。
そもそも信忠は後継者には選ばれてなかったから、
天下の右筆がそば近くにいなかったのだから。
765 :
人間七七四年:2014/12/10(水) 21:59:55.62 ID:PkLJW6uN
武田信玄が糞だという史実を見てファビョってしまわれた菅沼遼太くんwww
766 :
人間七七四年:2014/12/11(木) 01:01:19.14 ID:JNnGyW8+
義信に関して後暗いとこがないならなんであんな大量に家臣から証文集めたんだとなるな
767 :
人間七七四年:2014/12/11(木) 17:40:28.37 ID:t3TVm6Zl
謙信があと半年から一年長生きしたら、間違いなく上洛したと思う
でも死んだ後はやっぱり景勝と景虎でお家騒動になる
酒を控えて10年長生きすれば天下統一したと思う
768 :
人間七七四年:2014/12/11(木) 17:51:32.36 ID:1vR7DMfr
>>765 そんなことないよ
むしろちゃんと勉強したなら武田信玄の凄さを理解し、悪い点も踏まえ冷静に語れると思う
これは伊達政宗、真田信繁といった信玄と並ぶ過大評価とされている人物はもちろん、三英傑にだって言えること
菅沼は精神的にまだ幼いね
769 :
人間七七四年:2014/12/11(木) 18:43:51.08 ID:aRF001yf
いいところを評価しても結局信玄は糞なんだよな・・・・
もちろんそこが信玄のいいところでもあるんだが。
信玄の一番いいところは目的のためならば一門すらゴミのように扱えるところだし
もう少し信玄に戦争の才能があればなあ
770 :
人間七七四年:2014/12/11(木) 19:02:12.32 ID:D4MgszNV
ageて書き込んでる時点でお察し
771 :
人間七七四年:2014/12/11(木) 20:43:28.71 ID:54FcCQlU
>>766 証文を取るのは当たり前の行為じゃねぇかよw
お前完全な素人だろw
772 :
人間七七四年:2014/12/11(木) 22:10:02.70 ID:aRF001yf
773 :
人間七七四年:2014/12/11(木) 22:54:18.92 ID:HFI65kPq
当たり前というからには例を二桁はあげられるだろうね?
774 :
人間七七四年:2014/12/12(金) 07:14:54.88 ID:5zcA+kuY
775 :
人間七七四年:2014/12/14(日) 00:18:39.57 ID:JAcRbBzy
むしろ昔から織田厨によってSAB、だが、菅沼とレッテルを貼られ
悪意の悪口中傷で排除されてきた人々が一次史料を多用して大昔から証明指摘してきたことが
きっちりと事実であったことが、4ヶ月前の今年の8/19に発刊された本で証明されたわけだが。
特に「信長は内政もやらず全て家臣に丸投げ」と指摘していた文章を
そのまま金子氏がパクったのでは?もしくは書き込みは金子本人なのか?とすら思えるほど酷似。
『織田信長 <天下人>の実像』東京大学史料編纂所の金子拓氏の信長評
(信長公記70種類以上をすべて閲覧研究した唯一の人で信長研究最強の第一人者で超信長マンセーで有名な人)
そもそも信長は、組織的な「政権」は作りませんでした。
征服した領土の経営も家臣に丸投げで、支配の方式に革新的な面はありません。
その点でも秀吉に比べ信長の「権力」は中途半端な中世的な段階に止まっていたと見做した方がよいのです。
織田厨は自分の意に沿わない書き込みに対して、まったく一次史料の根拠を書かずに
願望妄想の書き込みの自演による多数派のフリと工作スレを立てて自己正当化主張自演をすることで排除してきてるだけだしな。
776 :
人間七七四年:2014/12/14(日) 01:30:59.48 ID:TA9z6lAc
お前のそのレスのどこに一次資料があるのか
お前が書き出した時点で2次資料だけどなw
昔からレッテル貼りするのが菅沼の特徴だったな
>>775 政権、領土経営において秀吉が信長より進んでいた点ってどこ?
779 :
人間七七四年:2014/12/15(月) 08:26:20.17 ID:+sEfzxK8
>>775 それでも、武田や上杉より上にいっちゃったって事を言いたいのかな?w
それとも、織田を落としたいのだけど、言えば言うほど他が下がってし
まうって事を気づいていないのか?
どっちだ?
780 :
人間七七四年:2014/12/16(火) 08:16:01.66 ID:l1ll2Igs
織田朝鮮人は長文理解が苦手なのが知られていたが、
どうやら日本語が不自由らしい。
理解できずに文意を感情フィルターを通して想像して書いてるから、
どこにも書いていない武田や上杉の名前が出てくるのだろうw
781 :
人間七七四年:2014/12/16(火) 08:22:50.59 ID:Iz1D0H29
信玄、謙信のスレなのに何を言っているんだ?
どっちが「日本語理解できないかは一目瞭然だなw
782 :
人間七七四年:2014/12/16(火) 10:38:48.96 ID:fLZvILPj
『織田信長 <天下人>の実像』東京大学史料編纂所の金子拓氏の信長評
これについて語っているという文脈が理解できず、日本人とは違う斜め上の思考で返答する織田在日
783 :
人間七七四年:2014/12/16(火) 12:59:05.00 ID:l1ll2Igs
バカだから織田朝鮮人は会話が出来ない。
言い訳にスレタイを持ち出すがそれがもうアスペの固執する性格。
会話の流れよりスレタイを優先しないとイライラしてきて
流れを読まずにスレタイに強引に戻して
周囲から、えっ?って思われているのに全く気づかない。
784 :
人間七七四年:2014/12/16(火) 20:31:11.00 ID:Wy+PM3JC
周囲(菅沼遼太と自作自演ID)
785 :
人間七七四年:2014/12/16(火) 20:32:36.50 ID:KnZvrjhI
何が何でも信長をこき下ろさなきゃ気が済まない菅沼に言われても…
786 :
人間七七四年:2014/12/17(水) 14:05:36.70 ID:vCWRDRMT
とりあえず、こき下ろしているやつらを、
見返すために信長のすぐれている点を挙げてみろよ。
787 :
人間七七四年:2014/12/17(水) 18:07:17.26 ID:9IVZMKYX
菅沼遼太くんが、唱える浅間山大噴火の下を、進軍する超人的なところ
788 :
人間七七四年:2014/12/17(水) 19:39:41.82 ID:zHVfhP4d
たった一万の兵しかいなくて周り敵ばっかの詰みの状況から半年で逆転してみせたところ
789 :
人間七七四年:2014/12/17(水) 21:09:06.97 ID:BFUwBJkk
>>786 そもそも菅沼くんを見返したって飯がまずくなるだけだw
790 :
人間七七四年:2014/12/18(木) 01:03:54.50 ID:F1A89jY4
>>788 織田信長が乞食兵1万しかいなかったのに
反織田連合軍12万に包囲されながら逆転してるからな
6万の武田が離脱してもまだ6倍の兵力差で逆転した信長は日本屈指の名将だわな
しかも茶筅は北畠、勝長は武田の人質になってる危機的状況で
791 :
人間七七四年:2014/12/18(木) 07:38:29.66 ID:aD1tuk9J
どっちも信長に潰されていたでしょうね
792 :
人間七七四年:2014/12/18(木) 14:08:39.65 ID:SgCJwhya
信長はなんら手が打てず無策なまま
時間が解決してくれたから運だけは良かったな。
なんせ信玄死んだのを知った途端に義昭が信長に無条件降伏。
信長に頑強に抵抗していた琵琶湖西岸〜若狭の将軍奉公衆の動揺により
敦賀路が不安定化し、朝倉軍が無理な撤退を開始し
家臣に義景が裏切られ自壊。
孤立無援の浅井内が見限り離反続出。
将軍降伏で石山本願寺も一揆動員をやめたしな。
793 :
人間七七四年:2014/12/18(木) 17:46:00.78 ID:NpyfKNzD
包囲網の核がなくなれば、包囲網自体瓦解するのも分からない馬鹿が織田厨
794 :
人間七七四年:2014/12/18(木) 19:58:39.36 ID:sFBetKHi
その核が信玄だからね。ぎりぎり首の皮一枚のところで信玄が発病しあっさり死去。
ものすごく運がいいよ信長。
795 :
人間七七四年:2014/12/18(木) 20:58:00.75 ID:oeGbAhWq
また自演かね?菅沼君
いったいいつになったら浅間山大噴火の地質学論文を出すのかね?菅沼君
それとも敗北宣言かね?菅沼君
確かカルタゴは小国でアメリカは徴兵制なんだよね?菅沼君
796 :
人間七七四年:2014/12/19(金) 08:39:58.72 ID:PqM5NYsV
謙信が信長のために越中で一向一揆を引きつけてくれていたから
加賀の一向一揆が石山本願寺の要求どおり近江へ浅井支援で援軍出せなかったから
ギリギリ信長は助かっただけ。
謙信が信長を見限っていたら、信玄死んでても滅んでいた。
797 :
人間七七四年:2014/12/19(金) 10:39:22.72 ID:5aKRgqTz
越中の一向一揆と本願寺が天敵同士ってことも知らないのかね。菅沼君は。
798 :
人間七七四年:2014/12/19(金) 12:33:01.90 ID:qqzor3F2
信長が信玄よりもすぐれていることは菅沼遼太くんも認めているようだな
運の強さもすぐれているし、災害をモノとしない進撃もすぐれているし、
6倍の兵力差がある信玄軍をはね返したし。
799 :
人間七七四年:2014/12/19(金) 13:16:59.09 ID:PqM5NYsV
>>797 で、それを証明する一次史料は?
お前の妄想願望には付き合えないわ。
800 :
人間七七四年:2014/12/20(土) 07:33:11.11 ID:9RifuGlv
天皇を脅迫して
志賀の陣の朝倉義景や、
二条城籠城の足利義昭や
信長が顕如と教如宛に二枚も血判状を出して土下座しての石山本願寺と
勅命和睦させてるから信長は助かっただけだろ。
そのツケが本能寺の変だから因果応報w
801 :
人間七七四年:2014/12/20(土) 08:21:45.13 ID:uEmDbx3f
で、信玄が山の中で野垂れ死下には何の因果だね
武田がおだに滅ぼされたのはなんの因果だ?
ん?
802 :
人間七七四年:2014/12/20(土) 18:29:36.22 ID:VyXidRCM
年がら年中、故人の悪口言ってる奴も、
相当悲惨な死に方しそうだよな。
803 :
人間七七四年:2014/12/20(土) 22:59:13.24 ID:6ikrnW1n
>>798 そもそも相手にすらならんからな
12倍の兵力を敵に回し、6倍の兵力と戦って大逆転勝利を収めた信長
かたや村上のような弱小豪族に数倍の兵力で挑んでボコボコにされた信玄
仮に信玄が信長の立場だったら圧倒的兵力差に踏み潰されてとっくに首を晒されていたし
逆に信長が信玄の立場なら甲斐の精鋭を駆って10年あれば天下統一できただろうな
804 :
人間七七四年:2014/12/21(日) 19:09:50.66 ID:137KgzPC
なんにしても信長は軍勢ごとワープできるからな。
南近江は六角、北伊勢は長島、南伊勢は北畠と完全に封鎖されているのに京と岐阜を
何度も往復しているし、拠点しか残っていない近江の虎御前山砦にいきなりあらわれるからな。
>792
琵琶湖西岸〜若狭の将軍奉公衆
これって誰、武将の名前を教えてくれないか。
805 :
人間七七四年:2014/12/22(月) 07:15:11.50 ID:yW4xJEtP
806 :
人間七七四年:2014/12/22(月) 17:07:58.32 ID:2w9zhu4F
多胡宗右衛門や佐野秀方や小林吉長や伊勢七郎左衛門や本対馬守・渡辺宮内少輔・磯貝新右衛門とかだろ。
十条坊城や伊藤城や静原山本城や木戸城や佐左馬要害とか義昭降伏で一気に降伏したね。
将軍側近衆だから、城主本人は義昭の傍に付き従ってて、城は親族や部下が預かってるだけだしな。
807 :
人間七七四年:2014/12/26(金) 00:26:43.48 ID:vgoaK9PH
>>805 まごうことなき弱小だろ
村上は50万石くらいあったのか?
808 :
人間七七四年:2014/12/26(金) 07:37:49.95 ID:hwomPzZi
>>807 いきなり江戸時代換算とかアホっぽいが、そもそも50万石って相当な大大名だぞ
そうじゃなきゃ雑魚って、どんだけ視野狭いんだよ
809 :
人間七七四年:2014/12/26(金) 11:53:48.93 ID:jK1VZ3zK
信濃の僻地で大した領土もない奴が弱小じゃなかったら誰が弱小になるのか
810 :
人間七七四年:2014/12/26(金) 12:43:26.23 ID:hwomPzZi
>>809 世に有象無象の国人領主がいた
村上は、当時佐久から上田周辺を中心に活動した海野、滋野一族を制して北信一帯を支配下に置いた有力勢力
甲斐一国を押さえた武田信虎くらいには活躍してる
もちろん北条、今川といった大勢力とは比較にならんけどな
811 :
人間七七四年:2014/12/27(土) 20:23:25.88 ID:hAxuQgbr
>>807 ああ、村上義清が弱小という意味ではなく、国力が弱小ってことね。それなら納得だわ
ただ石高だけで弱小と判断するのは早計に失する気がするがね
812 :
人間七七四年:2014/12/28(日) 10:36:02.53 ID:v/l7iwcj
信濃のうち
更科埴科に水内高井の半分程度小県の大半に佐久安曇の一部
石高にしたって16万〜20万石くらいはあるだろ
813 :
人間七七四年:2014/12/30(火) 04:37:11.81 ID:yDaDESTT
謙信公があと半年生きていた場合
手取川の戦い 天正5年(1577年)9月
滝川一益・丹羽長秀・稲葉一鉄・不破光治・前田利家・佐々成政・金森長近・
長谷川秀一・徳山則秀・堀秀政による4万の軍勢が上杉軍に敗れ越前まで撤退。
北ノ庄の戦い 天正6年(1578年)3月
足利義昭・本願寺顕如の懇願により越前へ出兵。織田軍は手取川で兵力を失ったうえに、
越前の領民は越前一向一揆の残党により上杉軍に協力したため、柴田勝家は籠城を選択、
米俵を真っ二つにして善戦したが半月で落城し、不破光治・佐々成政・前田利家共々討ち死にした。
賤ヶ岳の戦い 天正6年(1578年)4月
織田信長は北ノ庄の救援を諦め、木の芽峠にて4万の兵をかき集め上杉軍を迎え撃った。
しかし上杉軍の勢いに押され、余呉湖東岸まで後退する。ここで信長は馬防柵を用いた陣を構築し、
新たに徴兵した丹羽勢に西側から上杉軍の側面を突かせた。しかしこれを読んだ謙信は、
自ら余呉湖西岸から賤ヶ岳を急襲し丹羽勢を包囲殲滅、そのまま織田本体を急襲したため、
馬防柵も三段構えも機能せず織田軍は総崩れとなった。この戦いで丹羽長秀、そして、
手取川の汚名返上を期して殿を務めた羽柴秀吉、そして佐久間信盛までもが壮絶な
討ち死にをした。
安土城の戦い 天正6年(1578年)6月〜9月
信長は安土城に籠城し上杉軍を迎え撃った。更に飛騨から越中攻め、若狭から敦賀攻め、
美濃から近江攻めを企図したが、全て失敗。逆に若狭および湖西を武田氏等に奪われ、
明智光秀が投降、琵琶湖の制海権を失い、7月に落城、 信長は炎の中に消えていった。
上杉謙信は上洛し足利義昭を京に迎え自らは管領に就任、戦乱の続く東国征伐を準備、
京都の酒を存分に楽しんだものの、9月13日の未の刻(午後2時)に厠で倒れ、急死した。享年50。
辞世「五十年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒 嗚呼 柳緑 花紅」
814 :
人間七七四年:2014/12/30(火) 18:48:56.90 ID:eoT9AW2D
この頃は宇喜多直家が毛利方で山名祐豊が織田方か。
815 :
人間七七四年:2014/12/30(火) 19:52:54.15 ID:JrU6We27
>>811 村上氏だけなら国力はたかが知れてたと思う。中世の国人領主なんて石高で換算しようにもぶっちゃけわからん。
村上が武田に対抗した時は他の北信濃の国人とも協力してたから単に武田vs村上とは言い切れんしな。
816 :
人間七七四年:2014/12/31(水) 20:13:40.66 ID:VU945KT0
817 :
人間七七四年:2014/12/31(水) 23:38:05.62 ID:C2TOb4Di
自国の国力が57万石+刈谷の水野氏+美濃大垣城+チート交易収入でおおよそ70万石ある状態で、裏切りや自落だらけで実高は30万石にも満たないであろう斎藤を倒すより
甲斐+諏訪の25万石程度で信濃と越後合計100万石近く敵に回して切り取る方が大変でしょ
818 :
人間七七四年:2015/01/01(木) 01:48:23.29 ID:UqFdBey1
上杉+毛利+本願寺が完全に機能すると厳しいよな
819 :
人間七七四年:2015/01/01(木) 10:26:54.63 ID:2e3tA7gE
上杉毛利本願寺が機能しても合計200万石行く程度
さらに上杉も毛利も九州や関東や奥州や信濃など別方面にも敵がいるから全兵力を対織田に動員するのは不可能
織田は長篠後なら600万石程度は余裕で行くからどのみち勝ち目はない
820 :
人間七七四年:2015/01/01(木) 12:37:00.56 ID:mKmDTE7q
単独では織田に太刀打ちできないチキン達ですしねー
821 :
人間七七四年:2015/01/01(木) 14:01:09.55 ID:DIYEqglb
>>817 その状態に持っていくのに隣国に国持ち大名抱えたタイムアタックで
国内統一して尾張に侵食してる今川勢力追い出すプロセスがあったわけだが
822 :
人間七七四年:2015/01/01(木) 20:12:32.23 ID:UqFdBey1
瀬戸内海貿易も日本海貿易も握られてたと考えると、
信長は良く勝てたよな。
823 :
人間七七四年:2015/01/01(木) 22:07:02.22 ID:YfeyQjbY
村上の領地って長野県唯一の穀倉地帯なんだよね。
あとは高地山岳地帯ばっかで冷害に弱い米でなく麦がメイン
824 :
人間七七四年:2015/01/02(金) 01:05:46.23 ID:vzL6ihvE
正確にはその穀倉地帯の南部だな
北部は高梨の勢力圏で村上はその高梨と争っていた
825 :
人間七七四年:2015/01/02(金) 08:41:15.56 ID:pnBiLyT0
高梨は義清に圧迫されて水内郡・高井郡の南半分は奪われて山岳地帯で籠城して長尾氏の支援でやっと延命してただけだぞ。
826 :
人間七七四年:2015/01/02(金) 13:01:38.60 ID:ypn7tDDy
村上の領地は豊そうだったよ
街道のターミナルだし泉質の良い温泉もあるし
827 :
人間七七四年:2015/01/02(金) 17:05:16.32 ID:Bi7NBg08
当時の温泉て産業として成り立ってたの?
828 :
人間七七四年:2015/01/02(金) 21:54:50.45 ID:NcVyxlEL
>>827 修善寺とか湯本とかは湯治の記録が残ってる
829 :
人間七七四年:2015/01/02(金) 22:22:22.09 ID:tA/HH39j
>>825 >水内郡・高井郡の南半分は奪われて
それ普通長野盆地の南半分って言わないか?
830 :
人間七七四年:2015/01/03(土) 09:27:18.60 ID:ixRYGPY6
>>829 盆地は取られて高地の要害を守りしのいでいただけだし。
831 :
人間七七四年:2015/01/03(土) 11:24:10.16 ID:dxj/Uwxr
え、それって何がソース?
長野県史とか信濃の戦国大名関係の本読むと村上氏は川中島の支配権争うような関係だぞ
戦国期で高梨氏が盆地は取られて高地の要害を守りしのいでいた時なんて
一時衰退して井上・海野・島津・栗田らを敵に回した時期だけじゃ、
村上氏が進出して追い詰められたわけじゃなく、上杉長尾の争いで数少ない長尾支持者だったからで、
最終的に長尾家が優勢になると長尾家の支援のもの北信濃でも高梨氏が優勢に戻る。
その頃の村上氏はようやく川中島に進出しはじめたような時期でしかないし、
その後も従属勢力含めても水内郡・高井郡の南半分川中島南半分程度。
高梨氏をはじめとして北信濃の諸勢力は残ったまま。
832 :
人間七七四年:2015/01/04(日) 12:32:25.88 ID:da+YjIRs
>>831 デタラメ書きまくってるなおまえwww
脳内ソースだろwww
833 :
人間七七四年:2015/01/04(日) 14:29:11.81 ID:ZHho1Bqq
信濃の戦国大名関係の本
今年もこの曖昧さで勝負だね
834 :
人間七七四年:2015/01/05(月) 00:39:48.72 ID:VtfOPAB7
長野県史は?
835 :
人間七七四年:2015/01/05(月) 00:50:39.16 ID:ReEP8t9Q
村上義清とその一族とかだと
村上氏は川中島の南側を支配していてそこから北は高梨・島津といった勢力の支配圏みたいな感じだな
836 :
人間七七四年:2015/01/05(月) 04:10:02.44 ID:Cg4G90qu
長野県史も同じだな
郷土史ってソースとしてどこまで有能なのか
「地元が調べた結果なんだから間違いない」というわけでもあるまい
837 :
人間七七四年:2015/01/05(月) 04:19:30.02 ID:u95lzLTa
そもそも高梨氏がそこを支配していた証拠となる一次史料なんてまったく発見されてないって話だからな。
家譜とかでテキトーに吹いてるだけで、実際には山間の小豪族レベルなんだろ。
838 :
人間七七四年:2015/01/05(月) 11:34:37.57 ID:yCmD4G3K
それいっちゃ村上はじめ信濃の戦国初期の大名の大半が一次史料なしで、
家譜とかでテキトーに吹いてるだけになるな。
839 :
人間七七四年:2015/01/05(月) 12:26:40.96 ID:bSZZ6Eoj
少なくとも郷土史はここでふかしてる奴より圧倒的に調査してるし、史料批判も受けてるから、どっち信用するかと
言われれば、迷いなく郷土史を取るがな
840 :
人間七七四年:2015/01/06(火) 18:40:29.57 ID:V8HkHDXK
つか高梨はホントに何にも史料ないだろ。
なぞレベルで言ったら上野国の長野氏をはるかに凌駕する不明っぷり。
841 :
人間七七四年:2015/01/07(水) 04:20:39.71 ID:B4w2tkIA
迷いなく郷土史を信用していけるなら歴史解明は簡単だね
で、長野県史とか信濃の戦国大名関係の本で当時の北信濃情勢は断定できてるのかな
>>831だと「ここでふかしてる奴」レベルに留まってるけど。まさか県史がこんな文章で終わらせてるわけじゃあるまい?
842 :
人間七七四年:2015/01/09(金) 01:21:27.69 ID:DPpiKpQK
いい加減スレ違いだろ。続きは信濃スレでやれ。
843 :
人間七七四年:2015/01/09(金) 09:09:49.05 ID:uIYwE46M
高梨の子孫かwww
844 :
人間七七四年:2015/01/11(日) 23:45:04.74 ID:tO3j0WXL
>>819 石高と合戦の勝敗って実はほとんど関係無いから。
地理、運、実際の戦闘地域における兵数・武器、将兵の質、協力者の数と質、、
それらを総合したものが合戦の勝敗を決める。
845 :
人間七七四年:2015/01/12(月) 00:12:44.06 ID:2VuDy6GH
兵は詭道なり
846 :
人間七七四年:2015/01/12(月) 09:39:58.40 ID:hDIMNjar
まあ村上ごときに2回もボコボコにされるような信玄では信長と戦ったところで討死するのが関の山だな
上杉謙信にさっさと降伏して謙信が武田の兵力も自在に操れれば
織田を倒すことも不可能ではなかっただろう
847 :
人間七七四年:
謙信って、1〜2万前後では無敵な印象があるけど、それ以上の兵力を扱えるかと言うと疑問が残る。
実際どうだったのだろう。