【疑問】スレ立てるまでもない質問12【戦国時代】

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1 忍法帖【Lv=40,xxxPT】
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◇過去スレ
1 ttp://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1150022967/
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3 ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1234172504/
4 ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1251802299/
5 ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1263114279/
6 http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1274877247/
7 ttp://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1296473917/
8 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1311198199/
9 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1327134476/
10 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1347617351/
11 http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1362228842/
2人間七七四年:2013/08/15(木) 23:41:58.44 ID:w3DwkFGJ
池上裕子氏の本はダメと書いてる人がいましたが、どんな点がダメですか?
3人間七七四年:2013/08/16(金) 01:25:26.39 ID:imKNgb6q
>>2
「俺が気に入らないからダメ。」

書いてあることはまっとうだぞアレ。信長信者は気に入らんのだろうが
4人間七七四年:2013/08/16(金) 01:31:58.39 ID:tuyRyJz8
私も個人的にはちゃんと一次史料引用がされてて良書だと思うのですが
アンチさんの意見も聞いてみたいので。

池上氏のアンチさんは池上氏の本はどのような点がダメだと思いますか?
5人間七七四年:2013/08/16(金) 09:20:25.58 ID:wjG6mmGE
一次史料をきちんと引用しているのはいい
ただその解釈がちょっと我田引水というか結論ありきになってないか?とは思う
でも読んでおく価値のある本は多いと思うよ
6人間七七四年:2013/08/16(金) 10:32:24.47 ID:imKNgb6q
ムリムリに信長をスーパーマンにしようとする連中よりはるかにマシなんだよなあ…
7人間七七四年:2013/08/16(金) 10:38:55.14 ID:t/YlwsHb
>>5
具体的にどのような点がでしょうか?
佐久間譴責状から、織田の動員体制を逆算してる点でしょうか?
8人間七七四年:2013/08/16(金) 13:12:37.02 ID:NcpGapMn
1554年の朝倉家の総鉄砲数ってどの位だったんでしょうか?
9人間七七四年:2013/08/16(金) 20:14:04.38 ID:U9vbTyM+
前スレの続きだが、歴史研究に携わるなら
「結論ありき」の政治や思想をもつべきはないだろう。
ゆうこりんは、「アベは信長に似てる」という文脈の
インタビューで受け答えしてるわけで
そこで「権力者は嫌い」もあったものではない。
つまり、一次史料の引用、というのを
「結論ありき」でしているわけだ。

では具体的にどこがおかしいですか、と言われると
まずそういった「特定の政治、思想の下に
導き出されたものである」というのをどう思うか
というところからはじめないといけないのではないか。

「好き嫌い」から始まっても、研究、解釈的に
矛盾がなければ学術的に意義がある、という答え方が
よくされるわけだが、好き嫌い&人民史観の解釈自体に
「矛盾がない」といわれても、もはや「歴史解釈」以前の問題である
と、そういったレベルの問題ではないか、ということね。

例えば「アベが嫌いだからアベノミクスは反対」とか
「消費税は嫌いだからなんとか」とか実際に言う政治家はいるし
理屈では「矛盾のない主張」ぐらいはなんとでもなる。
それ自体がどうかとは思うが、学問の世界でその手法では
「推して知るべし」と思うわけでね。

少しウザくて悪いが、そのインタビュー自体が
非常に気になったもので、せっかくだからということで。
10人間七七四年:2013/08/16(金) 20:26:55.22 ID:lBc0JS+X
>>9
そういうお前の好き嫌いからの中傷的なことではなく
書籍の文章から具体例を挙げてかけよ。
11人間七七四年:2013/08/16(金) 20:52:34.99 ID:3DP15BLl
ID:lBc0JS+X=アスペルガーだが
嘘吐き荒らしなのでかまっちゃダメよ

ttp://hissi.org/read.php/sengoku/20130816/bEJjMEpTK1g.html
12人間七七四年:2013/08/16(金) 21:19:54.63 ID:nYBQfydT
>>9
>ゆうこりんは、「アベは信長に似てる」という文脈の インタビューで受け答えしてるわけで
>そこで「権力者は嫌い」もあったものではない。

前後の文が繋がっていないようにみえますが、いいたい事がよくわからないのですが。
そのインタビューを受けた事と権力者が嫌いと、書籍の内容の論述記述とどのような関連性や間違いに繋がっているのですか?

>つまり、一次史料の引用、というのを 「結論ありき」でしているわけだ。
すみません。権力者が嫌いな事と、「結論ありき」で一次資料の引用を行う事は特段論理的に繋がらないと思うのですが?

>「特定の政治、思想の下に導き出されたものである」というのをどう思うか
具体的にどのような点が「特定の政治・思想の元に導き出されたものである」とあなたは考えますか?

>「好き嫌い」から始まっても、研究、解釈的に矛盾がなければ学術的に意義がある、という答え方が よくされる

好き嫌いは誰でもあると思うし、またそれが史料解釈に繋がったら問題だと思うが池上氏の場合どのような点がそれに繋がってるとあなたは考えますか?
また、他の学者の意見と比べて、特にその好悪の表れが著しいと考える点はどういったところでしょうか?

>好き嫌い&人民史観の解釈自体に「矛盾がない」といわれても、もはや「歴史解釈」以前の問題である
池上氏の主張のどのあたりが、好き嫌い・人民史観だと思いますか?
また、他の歴史家や学者と比較した場合、それが著しいと思う点はどのような点でしょうか?

>理屈では「矛盾のない主張」ぐらいはなんとでもなる。それ自体がどうかとは思うが、学問の世界でその手法では「推して知るべし」と思うわけでね。

歴史家や学者も人間なわけで、どうしても多少なりとも史料解釈に好悪は入ってしまうのではと思いますが、池上氏の場合どのような点にそれが現れていると考えますか?

>少しウザくて悪いが、そのインタビュー自体が 非常に気になったもので、

どのような点が気になりましたか?


自分は池上氏の本をいいものか悪いものか判別はつかないのですが、個人的には割りと気に入ってるのですが、ダメだという意見もチラホラ聞くので、
具体的にどのような点がダメか、アンチの人に教えていただきたいです。
13人間七七四年:2013/08/16(金) 23:31:19.70 ID:eTTEVtwn
14人間七七四年:2013/08/16(金) 23:39:00.61 ID:eTTEVtwn
>>8
そんな限定的な期間での鉄砲保持数なんて朝倉家のどこの資料にも探してもないと思うよ
朝倉家と鉄砲の関連した記述だと
・明智光秀が鉄砲の腕前を当主の前で披露したことがある
・羽後・羽前の下国氏に当時高価だった鉄砲を一丁送り、その返礼に名馬を贈られた
・薩摩島津氏に琉球貿易の仲介と鉄砲の安価な入手方法を相談したことがある
ぐらいしか記憶にない
朝倉家で鉄砲が戦場で使用したという記述は思い出せん。相手に使われて撃退されたみたいな記述ならあるが
15人間七七四年:2013/08/18(日) 01:27:40.04 ID:gZH6DLR5
>>12
マジレスもなんだけど
色眼鏡をかけてたら全部「色」がつくよね。
だから、色眼鏡はずしてほしいのだけどわかります?

個別の文脈で「つながらない」というのは
ここ数十年の研究史をまとめてるからで、
申し訳ないけどわかる人にはわかると思う。

だから、具体的に答える前にそっちゃがゆうこりんから
ハッシからダイモンさんの新刊とか読んでたら答えるけど
それを勉強してないなら>10みたいなのには
答えようがないんだ。

ちとマジでいうと、若い人は学校の試験みたいな
レスを期待してるんだろうけど、歴史解釈と言うのは
そういうものじゃない。

人文学は理系とは違って「証拠」を提出するものではない。
このあたりから始めないといけないから
あなたのすべてのレスは「気に入ってるならオッケ」という
範疇で、答えようがない、ということなんですよね。

繰り返すが「イタリアが一番」という人に、イタメシもセリエAも
「ちと古いんじゃね?」といっても、こっちが「その証拠を提示しろ」と
言われたら困ってしまう。
それだけのことなんだ。

ゆうこりんも桐野も藤本も、かなり弱点承知で強弁しはじめてる。
金子なんかは、ぐらいついてる、というから正直でいいし
本郷は逆に開き直ってて好感がもてる。

こういう、すべての研究者が相反する解釈してるのを
俯瞰してると、とっても楽しい。

で、好き嫌いは誰にでもあったら困るよね。
ましてや史料解釈で・・

ま、しつこかったら申し訳ないけどね。
16人間七七四年:2013/08/18(日) 01:46:43.07 ID:yLCJlRUp
これはちょっと・・・
17人間七七四年:2013/08/18(日) 10:28:50.79 ID:Qxxro86T
すみません、終戦記念日でたまたま太平洋戦争で旧日本軍の無謀な作戦(例:アウトレンジ戦法やインパール作戦)
の数々を知ったのですが、世界的に見て旧日本軍の戦争レベルは低いのでは?と思ってます。
戦国時代(100年間)の戦争レベルって当時の諸外国からすればどんなレベルだったのでしょうか?
やはり島国で井の中の蛙レベルだったのでしょうか?
18人間七七四年:2013/08/18(日) 10:50:31.05 ID:V2KsGfKM
>>17
アメリカの戦後の研究では、太平洋戦争は戦術戦略関係なく、ごく単純に戦力差通りの期間と規模で日本は降伏したとしている。

戦術戦略レベルが云々というのは、「そこが良ければ勝てた!」と思い込みたい日本人のオナニーに過ぎん。
馬鹿の妄想
19人間七七四年:2013/08/18(日) 22:26:50.02 ID:w7DCkv3+
>>17
戦略と政治は特に語らない
戦術はWW1を本格参戦してないので本格的な近代戦を戦ってないので
欧米に比べると遅れてるという話は確かにあるね
ただ本当に遅れてるならイギリスやオランダを南方からたたき出したことの説明は出来ないよね
あとペリリュー島、硫黄島と沖縄戦あたりは
限られた条件の中で最大限ねちっこく戦ってて戦術的にはもの凄いぞ
20人間七七四年:2013/08/18(日) 23:35:01.99 ID:c263z40d
池上裕子の日本の歴史15織豊政権と江戸幕府で
信長の貨幣政策について書かれていて絶句する部分っていうと

確か1565年からの畿内近江での米価上昇、貨幣の混乱は
上洛後の信長の貨幣政策・撰銭令が悪かったから
信長の貨幣政策経済市場政策は間違っていた信長は日本を混乱させただけ
みたいなこと書かれている部分かな
21人間七七四年:2013/08/18(日) 23:43:17.35 ID:V2KsGfKM
何も間違ってないんだけど。
結局信長は一再有効な手を打てなかった
22人間七七四年:2013/08/19(月) 04:08:10.55 ID:U98OB+Cq
>>20
んなこと書いてあるか?どこのページよ
23人間七七四年:2013/08/19(月) 11:44:31.17 ID:7Z3dqSlN
小規模の興福寺(永禄8年・永禄10年)や浅井氏(永禄9年)の撰銭令の猿真似をした
織田政権は上洛した翌年に撰銭令(永禄12年)を広範囲に出して
多くの悪銭を畿内で流通させインフレ経済崩壊を招いた愚か者。
悪貨が良貨を駆逐するの例えどおりに重度に悪銭が畿内に集中し、
他地域では良銭が流通したため畿内→外地域での決済において拒否が続出。
そのため元亀2年辺りに至ると物々交換と言う古代時代に戻ってしまったw
元亀2年から天正8年の時期は信長の命令は無視され決済拒否される悪銭は使用さなくなり
そして天正8年に至ると石見銀の流通が活発化した。
一方の信長は永禄11年12月の誠仁親王の元服という晴れの舞台において
無礼にも流通拒否され有り余る腐れ悪銭ばかりを献上して朝廷の公家達を激怒させている。
このように信玄の上洛とは畿内経済の破綻による生活苦による大規模一揆の隆盛。
東国経済の飛躍的向上に裏付けられた時代の流れなのである。
東国では悪銭でない永楽銭が信長の失政で信用低下著しい京銭4文との交換比率になっていた。
これが信玄の6万の上洛軍の背景であり、この時、貧困織田軍は1万しか兵力が集められず
京で略奪恐喝殺戮をやって資金調達するゴロツキチンピラに成り果てていた。
この信用不安を解消する手を打ったのは秀吉。
豊臣政権は撰銭令を撤廃し米主体の石高制を採用し河川流通を整備するや
景気低迷を脱して桃山文化の香る時代が招来している。
とくに天正大判を発行するなど信玄の政策を継承した金融政策である
秀吉の金本位体制は西欧重商主義と金融資本の概念を先取りしていて驚愕的である。
24人間七七四年:2013/08/20(火) 01:27:53.72 ID:TLPuG9Hd
ゆうこりんは、あの15巻以来メジャー論文は
出してないのだけど、あれを元に今頃語ってるのは
夏休みの中高生ってことか?

こないだ久々に一般書出したけど
それは誰も相手にしてない。
せいぜい黒田とか東の研究者間で
人民史観解釈してるぐらいなんだけど
それすら読んでないのが2ちゃんってことかな。

あの時代を貨幣うんたらだけで解釈するほうが
頭どうかしてるんだが、マジで信長、秀吉を
「経済感覚」で論じようとするのなら
相当にヤバいと思うぞ。

清盛の時すらそういうのが多くて
どこまでマジかレスしようがなかったもんだが。

「信長は経済的に無能だった」なんてのもすごいが
そっから「信長アホ論」にまで結び付けてるのは
さすがに2人ぐらいしかいない。

というわけで、なんでゆうこりんがこんなに
今頃話題になるんだ?
25人間七七四年:2013/08/20(火) 09:34:47.60 ID:ryFWTtQd
結局、信長公記の内容をそのまま肯定し、
信長マンセーし崇拝する内容の本しかアホ織田原人ども読みたくないってことだろ。
需要と供給を考慮せず、
中立性の視点で書いた池上は購入層の嗜好を汲んで書けと織田原人は主張してるわけだ。
似たり寄ったりの本しか読まない自慰猿織田原人。
武田の論文は組織論や内政体制論などいろいろあるが、
織田なんて内政も組織化も軍事改革も書けるほどの内容は皆無だから、
研究する価値すらないから原人はマンセーだけしてればいいと思うよ。
だって織田は足利幕府に寄生して武辺道を奨励していただけだもの。
26人間七七四年:2013/08/20(火) 09:39:00.66 ID:l3RryVGU
>>24
人民史観って何?
あと、経済感覚がおかしいとかどんな点が?
27人間七七四年:2013/08/20(火) 09:47:14.48 ID:ryFWTtQd
得意技レッテルを貼りだろ。
都合が悪く、自分の意に沿わぬ言説は何でも噛み付きレッテル貼れば論破できたことになるのが織田原人脳。
28人間七七四年:2013/08/20(火) 11:59:36.98 ID:nnDE2tnv
あのレベルごときで人民史観とか決め付けちゃうあたり
時代錯誤の左翼脳在日織田厨そのものの思考w
なるほど確かにいまだ信長論は東西冷戦時代から
大して変化がないな。
織田好き読者層が愚鈍で変化を怖がる無知なのを傍証しているな。
29人間七七四年:2013/08/20(火) 20:42:25.60 ID:QIoVgtY/
池上氏の論文は村井良介氏の戦国大名権力構造の研究とか、大名の権力構造論では
必ず引用されるほどメジャーなものだからな。

ただ、池上氏の意見で貨幣経済とか経済感覚?がおかしいとか、
どのあたりの意見の事をいってるのか、具体的に指摘していただきたい。
30人間七七四年:2013/08/20(火) 20:47:21.41 ID:sIqD4faj
池上の論文って、歴史家とか学者の中では割りと主流とかいうか、多数派なんじゃないの?
31人間七七四年:2013/08/20(火) 20:48:18.60 ID:ragO6W5T
ちゃんと原文読まずに他の感想から孫引き非孫引きした被害妄想なんだから、
具体的に指摘できるわけ無いじゃんw
32人間七七四年:2013/08/20(火) 21:28:38.66 ID:/6/XWb/u
書いてもないことで絶句してるしな。何考えてるんだか
33人間七七四年:2013/08/21(水) 03:39:50.59 ID:I8Z+ZDGh
また読まずに非難する糞織田在日…
とことん徹底的にクズ
34人間七七四年:2013/08/21(水) 08:24:52.16 ID:etUVoURW
相変わらずの安定糞人格クオリティのエタ信長厨による、
各スレでの荒らしコピペ行為で池上氏叩き工作ワロタw
あちこちに池上氏非難工作コピペして回ったところで全く無駄ですたw
なんせ非難工作してるエタ信長厨 本人がネットから断片譲歩を見ただけで全く読んでないからw
35人間七七四年:2013/08/21(水) 11:01:01.78 ID:CMESRUXs
まー、織田厨が珍しく一次史料を出すときですら、
武田厨が過去にレスした書状の転載を悪用しての曲解解釈だけだからね。
ほんと気持ち悪い。
36人間七七四年:2013/08/21(水) 11:52:26.10 ID:UyB6AZWo
だがさんハッスル
37人間七七四年:2013/08/21(水) 15:30:54.76 ID:nBfA9QF3
気に入らない意見にはことごとく見境無く
相手にレッテル貼れば論破したことになる頭がヌル弱い信長厨〜笑
38人間七七四年:2013/08/21(水) 19:22:38.80 ID:kQuOzIz9
信長厨=「だが」

なるほど。
39人間七七四年:2013/08/22(木) 08:38:04.48 ID:PnT6DVU6
織田チョンは池上氏の著者に対する具体的列挙による問題点の説明が出来ないことが露呈w
相変わらずの幼稚園児っぷりを晒す…
40人間七七四年:2013/08/22(木) 12:24:10.29 ID:7F/lknXW
恥知らず織田鮮人には何を言っても無駄。
あいつらの「1000年経っても日本は敵」と大腸領が発言するのも
気持ち悪い負け犬「恨」思考に基づくもので、
負ければ負けるほど快感となって喜悦するM属国根性だから。
41人間七七四年:2013/08/23(金) 12:35:48.78 ID:LGHElE4m
信長の撰銭令が正しいか間違っているかは置いておくとして。

簡単に書くと
1560年からの米の価格推移の表を見ると、1566年から畿内近江で米の価格が上がっているのがわかる、
で氏は1569年の信長の撰銭令と翌年の米の通貨としての使用禁止、
こういったことが米の価格高騰貨幣経済の崩壊を招いたとし、
そこから信長の経済政策市場介入政策について論じている。

例えばたまにあるような年数を書き間違えたとかなら、
その部分の年数を自分で修正すればちゃんと意味が通る文章になるんだけど、
この場合はどこを脳内補完すればって感じになる。

だからチェック漏れとか錯誤とかじゃなく、もうその話の部分すべて信用できないって感じになる。
42人間七七四年:2013/08/23(金) 13:10:16.14 ID:gN0iFfEH
信長が米価の高値是正する目的でやった政策のせいでかえって悪化し、
飢餓と一揆を誘発し貨幣経済が崩壊したってことだろ。
信長政権政策による貨幣価値の信用保証に全く裏付けが無いことにみんな気づいていたってことだろ。
結局、信長政権の民衆による否定が一揆頻発という結果になり、
大坂経済圏にある石山本願寺の政策の支持という点において畿内の民意により共同戦線が樹立されたということだろ。
43人間七七四年:2013/08/24(土) 01:11:24.02 ID:DMKLNh1B
みんなだがさんをスルーするのにも慣れてきたな。いいこっちゃ
44人間七七四年:2013/08/24(土) 08:23:24.10 ID:BinU2yHM
村井って・・池上とかあっちゃがお仲間なのも
知らずにこの時代の本読んでるのか・・
アジア人民史観の闘士の書いた本に
どこがおかしいか言ってください、というのも
お花畑すぎて笑えるな。
疑問持たないとしたらすでに洗脳されてるぞ。
なんか、だが、のほうがまともに見えてきた・・
45人間七七四年:2013/08/24(土) 11:28:54.04 ID:i3CHrUSp
>>44
だから池上とか村井の「アジア人民史観」とは何なのか。

具体的にどこがおかしいのかを聞いてるんだが。
46人間七七四年:2013/08/24(土) 11:47:48.19 ID:LAT4J9qL
>>43
いやむしろ論破されると途端に相手を無差別に「だが」だと連呼するお前を黙殺スルーしているだけにみえるけどなw
47人間七七四年:2013/08/24(土) 19:50:11.39 ID:P81kY2Rl
戦国時代人にRPG-7と4斤半砲を教える場合
どちらが効率よく覚えやすいでしょうか?

・弾数等はふんだんにあるので試射ヤリ捲りオッケー
・各火器にベテランの人(達)(指導する人)あり

と言う前提でお願いします
48人間七七四年:2013/08/24(土) 19:53:52.86 ID:gUNoClJ1
使い慣れない言語とはいえRPG-7の方が画数が少ないから覚えやすいんじゃないかな
49人間七七四年:2013/08/24(土) 20:20:54.89 ID:/Kv/mQUC
RPGの方が簡単じゃないかなーと
基本は弾薬をセットして撃つだけ、火縄銃の延長とも言える
榴弾、焼夷弾、照明弾、サーモバリック弾なんかがあれば戦果も期待できるし

大砲を効果的に運用しようとなると数学能力が必須になるから、人員育成が面倒かもしれん
50人間七七四年:2013/08/24(土) 20:32:10.30 ID:DMKLNh1B
戦国時代にRPGなんて使い道ないけどな
51人間七七四年:2013/08/24(土) 21:00:32.76 ID:/Kv/mQUC
>>50
だから成形炸薬弾を使うなんて一言も言ってないだろ
52人間七七四年:2013/08/24(土) 21:24:55.95 ID:DMKLNh1B
それ以外の弾頭あるのか?
ランチャー系ならともかく
53人間七七四年:2013/08/24(土) 21:29:53.95 ID:DMKLNh1B
調べたらあるらしいな。まぁ素直に迫撃砲のが有用だろう
54人間七七四年:2013/08/24(土) 21:34:48.54 ID:P81kY2Rl
そういや弾頭に関して何も言ってませんでしたね(汗
取りあえず榴弾と延焼弾です

・・・やはり4斤半砲は弾道学等を教え込ませないと不味いですか?(汗

取りあえず
目測の中近距離「野戦で敵陣(敵集団?)に向けて発射」な直射でも
やはりRPG-7がカンタン?
55人間七七四年:2013/08/24(土) 22:00:01.08 ID:TWmK/c5F
秀次事件後、豊臣秀次の所領は、誰に与えられたんですか?
56人間七七四年:2013/08/25(日) 02:19:01.88 ID:CXQIFIC0
子飼いの福島正則や石田三成ら
57人間七七四年:2013/08/25(日) 02:39:28.35 ID:FFjFtD7A
鳥取城の飢え殺しの、吉川経家について質問です。

彼が生前にでた戦場は、鳥取城攻城戦を除けば、永禄4年の福光城の戦いのみなのでしょうか?
また、亀寿丸に渡してくれるように経言に頼んだとされる「長光刀」は、刀工長光の作である刀(それも太刀?)と解釈してよいのでしょうか?

勉強不足で申し訳ありません。
58人間七七四年:2013/08/25(日) 08:26:21.82 ID:h3JVYMd/
ttp://www.lam-c.com/item/tate.html
この透明盾ですが
刀槍・矢筒(特に火縄銃)を防げれるものでしょうか?
59人間七七四年:2013/08/25(日) 12:39:49.38 ID:CXQIFIC0
投石や鉄パイプでの攻撃に対応した暴徒鎮圧用なので
刀矢には効果があるでしょうが火縄銃は防げません
60人間七七四年:2013/08/25(日) 15:59:36.74 ID:aQK2+d2J
今の透明盾は一応の防弾能力があるって話
まあ大口径の弾丸は貫通するみたいだけど

結局試してみないとなんとも言えないし、条件次第(距離や使用する火縄銃など)でどうとでもなりそうだけど、
殺傷距離圏内だと完全に防ぐのは難しそう
61人間七七四年:2013/08/28(水) 13:49:57.96 ID:rWbkCecC
透明盾は2〜3枚重ねなら安全かな?

所で、昔の漫画版戦国自衛隊(ちょっと前の映画版)で
「ローマ歩兵みたいな装備 大盾+グラディウスっぽい刺し剣」みたいな戦術してたけど
実際効果あるのかな?(上記の戦術対従来の戦国装備の戦術)
62人間七七四年:2013/08/28(水) 14:19:18.88 ID:raFkBi0C
昔の浅間山荘の時はジェラルミン盾を重ねて使っても小口径猟銃が貫通したそうだ。
63人間七七四年:2013/08/28(水) 14:30:25.90 ID:raFkBi0C
下段は類似の戦法を取ってた明軍が日本軍に通用せず大苦戦してる。
有効では無いだろう。
64人間七七四年:2013/08/28(水) 14:41:04.99 ID:etb8rkNd
戦国時代のいつ頃、どの地域か、双方の状況などがわからないとなあ
戦国時代は広義で150年以上、狭義でも80年近くあるんだから
65人間七七四年:2013/08/28(水) 14:41:49.35 ID:etb8rkNd
>>62
ジェラルミンの盾よりも今の透明盾の方が強度あるよ
66人間七七四年:2013/08/28(水) 19:41:40.44 ID:rWbkCecC
>>63
それ朝鮮出兵の事?
興味あるのでどうか詳しく
67人間七七四年:2013/08/30(金) 10:05:12.76 ID:CORsFTrS
日明貿易で日本からの輸出で硫黄と銅がバカ売れだったと聞きましたが
実際どの位の儲けになったのでしょうか?
68人間七七四年:2013/08/30(金) 10:45:48.05 ID:CORsFTrS
戦国期(1550年代の
鉄、銅、硫黄の市場価格、輸出価格を知りたいです。
69人間七七四年:2013/08/30(金) 20:55:50.32 ID:CORsFTrS
200石の知行持ちになって
軍役騎兵2名、歩兵3名の責任が出た…という状況設定なのですが

騎馬は絶対に買わないといけない…のでしょうか?
70人間七七四年:2013/08/30(金) 22:41:20.81 ID:eiC1cNr7
レンタルは無いから買う以外にどうやって調達するの?
71人間七七四年:2013/08/30(金) 23:20:56.35 ID:RSwr+1xQ
銅は輸出すると原価の4倍になったらしいが
日明貿易の総合的な利益は輸出額がわからないから不明
鉄は室町戦国期の価格がわかる資料が全くないので不明。
鎌倉と江戸時代から推測するしかない

知行を返上すれば軍役は果たさなくていい
72人間七七四年:2013/08/31(土) 06:23:57.74 ID:GklWmkwR
73人間七七四年:2013/08/31(土) 11:20:51.07 ID:ckPX7uFa
はしがき

※五木寛之は小説家である。だから文章がうまい。そこのところを警戒してから読んでほしい。


信長と敵対者について、作家の五木寛之さんが『朝日新聞』に連載の「みみずくの夜メール」で興味深い記述をされているのに出会い、
私は強く惹かれた。
少し長いが、みなさんにぜひ伝えたいと思うところを引用してみよう。
(以下引用)
……ところが東京中心のジャーナリズムには、その違和感がない。日本全国みんな一定の物の見方をしているように思い込んでいるふしがある。……
たとえば、織田信長という人物は、だれでもが英雄氏していると決めこんでいるような気配がある。……しかし私が日本各地で出会った人たちの中には、
「信長許すまじ」
と、平成のいまでも眉をつりあげ、言葉が激する人びとが少なくなかった。いや、むしろ松代まで信長を憎み続けると公言する人たちがたくさんいたのだ。
北陸、東海、近畿、中国地方など、ことにその傾向がつよかったように思う。
瀬戸内の島々の人びとのなかには、信長勢と戦う一向宗の応援に水軍としてはせ参じた船の民の末裔があちこちにいて、
ご先祖の船乗りたちがいかに水上戦で信長軍を翻弄したかを、きのうのことのように唾をとばして語ってくれる人たちがいた。
(引用おわり)
私はこの文章に深く共感し安堵の思いを持った。近年は、平和が勝者=権力者も含めて多数の希求していた絶対的な価値であるかのようにみなして、
平和のために統一をめざし実現したから民衆に支持されたという権力像を描く立場もある。
そうなると、信長や統一政権に抵抗した人々の立つ瀬がないのである。
五木さんの文章からは、誰もが権力による「平和」を待望し、統一政権の戦争をそのための戦争と称賛していたわけではなかったことがわかる。
命を懸けて戦った人々には、抵抗し戦うべき立場があったからこそ闘ったのである。
それなくして、どうして四00年以上もの間、「許すまじ」意識が生き続けてこられようか。
私はこれまで「英雄」の歴史を書きつつ、敗者・抵抗者の思いを気にかけてきたが、その思いを描き出せたわけではなかった。
そしてこの先は、信長の側に立って天正十年六月一日までの勝者の歴史を描くことになるのだが、私の立場は、
民衆のために平和=統一をめざしたかのごとき権力像を描こうとするものではなく、
また、敗者・抵抗者を歴史の「進歩」を見誤った愚者のように扱うものでは決してないことを表明しておきたい。


[編集] 評論
五木寛之は「蓮如物語」「親鸞」という小説を書いている。一向宗(=浄土真宗)側に偏った視点になっているのではないか。
北陸、中国地方はまあ分かる。近畿は数年でほぼ制圧されてしまったが、まだ分からんでもない。しかし東海は信長(と家康)の本拠地である。信長を憎んでいる人が多くいるとは全く思えない。
「末代まで信長を憎み続ける」・・・日本人が本当にこんな事を言うものだろうか? 朝鮮人や中国人ではあるまいし、400年前の人間を恨み続けるなど、およそ日本人の価値観とはかけ離れている。
もし本当に憎んでいるとしても、それはおそらく実際の信長ではなく、江戸時代以降に創作によって作り上げられた信長像ではないのか。
抵抗した人々の立つ瀬がないと、著者にとってなにか不都合なことでもあるのだろうか。
「平和を待望していた人々」に抵抗し、命を賭けて戦うことはむしろ不名誉なことではないのか。
「信長許すまじという意識」は、本当に400年間生きてきたものなのか。江戸時代200年の平和、そして明治維新後の激動の中、特に目的も無くそんな意識を持ち続けていられるとは。ちょっと思えない。
要は「自分は反・信長の立場から本書を著す」と宣言しているのである。これではとても中立的な内容は期待できない。

[編集] 第一章 尾張・美濃平定

[編集] 一、大うつけ信長 〜 四、稲葉山城攻略
初めっから史料の丸写しのような文章が目立つ。「武者始」くらい現代語訳したらどうなのか。(初陣のこと)

[編集] 五、信長の人柄
このように絶対君主のような性格の人はどの時代にもどこでも大なり小なり存在すると思うが、信長は時代の波に乗って、
そうした面を抑制することなく人々に君臨することができ、大きな成果をあげたといえようか。
信長は敵を討った後、戦果を誇示する手紙の中で、「近年の鬱憤を散じ候」のように書くことが少なくない。
本音であろう。
逆らう者、抵抗を続ける者に憎しみ、怒りをつのらせ、徹底的に叩くとか、根切り、なで切りの殲滅戦をするとか、
狂気のような沙汰に走ってしまうところがあった。
まことに多くの人を殺したのであった。
74人間七七四年:2013/08/31(土) 11:21:56.65 ID:ckPX7uFa
なんとも時代遅れの信長評である。これは一体いつの時代の本なのだろう?
信長の行った事績を性格に帰している。さすがに幼稚すぎるだろう。
ちなみに戦国時代に、権力強化を図って失敗した大名は何人かいる。有名なのは武田信虎、斎藤道三。
信長は彼らと比べ自分を抑えてうまくやったから成功したのだ、と推測できる。
敵を徹底的に叩くことが狂気の沙汰???わけがわからない。ちなみに敵を殺してその数を減らせば、味方は安全になる。
この項はたった3ページ未満しかない。人物叢書・・・?
上に書いた部分以外は、全てフロイス日本史と信長公記からの抜き書きである。あまりにも貧相である。

第二章 幕府の再興と天下

[編集] 一、義昭を奉じて上洛
だから信長は美濃平定が終わらないうちから、上洛供奉の意向を積極的に表明して、義昭を自分に引きつけておこうとした。
将軍家の者を擁立しなくては、京都に入って軍勢を動かしても、その正当性を認められないのが現実であった。

まったくの事実である。しかし、この著者はあとで「信長は全国統一を目指したのではなく、ただ自分の領地を拡大しようとしただけ」などと書くのである。
だったらなんで信長は京都に入ることを目指したのか?この時点での京都は、信長の領地からは国1個を隔てた場所にある。
自分の領国拡大以上の意図がなければおかしいではないか。完全に矛盾している。
自分の頭の中身を整理してから書いてもらいたいものである。

[編集] 二、幕府再興
ただし、信長が幕府・守護体制とか、義満が樹立した、室町将軍を頂点とする公武一統政権をつくることをめざしていたと私は考えない。
信長自身が義昭から分国の守護に任じられてはいないし、幕府が守護を任命する体制はすでにない。
信長は京都・畿内の秩序維持機能を幕府に期待したにすぎない。

恒例の信長sage。
「信長は守護に任じられてはいない」というが、上の『一、義昭を奉じて上洛』にはこう書いてある。
なお、「古今消息集」には同日付で義昭が信長を主筋の管領家斯波氏の家督とし、武衛(左兵衛督)に任じるとした文書写も載っているが、
信長はこれを辞退したようである。


任じられているではないか。任じられたのに(著者の解釈によれば)信長が断ったのである。
「幕府が守護を任命する体制はすでにない」ことと、信長が何を目指すかは全く別の話である。前者は現状、後者は未来の話だからだ。
幕府に秩序維持機能があるなら、信長が上洛し、幕府の役人に様々な指示を与える必要はなかったはずである。
信長が期待したのは自身が天下を支配するという大義名分だ。この「天下」は従来通り「日本国」という解釈でいいだろう
75人間七七四年:2013/08/31(土) 11:22:49.26 ID:ckPX7uFa
三、公家・寺社領安堵政策
なぜなら、信長は京都を本拠地にする気はなく、みずからが将軍になる気もなかった。
将軍になっても、それだけでは全国の大名を従えることはできないことをわかっていたからである。
天下布武によって天下静謐を実現した後は幕府に静謐維持を担わせ、みずからは分国支配・分国拡大戦に邁進し、
全国を平定しようと考えていたのである。

もっともな考え方だが、1つ上で指摘した通り、自分の主張同士で矛盾している。

[編集] 四、天下と分国
神田千里氏は「中世末の『天下』について」で、天下の意味や範囲についてくわしく述べている。
それによれば、天下が京都あるいは京都と五畿内をさす場合、将軍をさす場合、「将軍が握っている幕府政治」
あるいは「将軍というものに象徴される秩序」をさす場合などがあるという。
(中略)
一五八二年十一月五日付ルイス・フロイス書簡は信長の死を報じる中で「後には公方さえも都から放逐して日本の君主国、
すなわち天下と称する近隣諸国の征服に乗り出した」とあり、同人の一五八四年一月二日付書簡にも
「天下、すなわち、都に隣接する諸国からなる君主国」とある。
都に隣接する諸国とは五畿内のことと考えてまちがいないだろう。それが「天下」の範囲とされている。
以上の史料は「天下」が日本全国を意味するものではないことを示している。
もちろん、この時代に「天下」の語に日本全国を意味する用例がなかったわけではない。
ことに朝廷や寺社・幕府関係者には伝統的に全国を意味する用法が観念上存在したであろう。
しかし、現実の政治的状況の中では、信長と信長を取りまく人々や大名において、
「天下」の語は通常右に述べた意味内容で意識され使われていたといってよい。
(中略)
三好三人衆とその与同者、敵対者の城を攻略し、あるいは制札銭・矢銭などを賦課することで、それらの国を平定したという形をとった。
それから京都にもどって義昭が将軍になった。
これを『公記』は「畿内の逆徒ら」を退散させて「天下御存分に属し」たと書いた。
逆徒らを追い払い平定すべき範囲は畿内であり、それが「天下」でもあったことを示している。
(かなり中略)
そうして、天正元年の義昭追放を機に「天下」であった五畿内が分国になった段階を経て、さらに分国が拡大していくと、
天下は全国を意味する語へと飛躍していった。
天正八年三月に本願寺の屈服が確定してまもなく、柴田勝家は「天下一統」といって全国平定を展望した(補208、これについては後述)。




天下という単語に2つの意味があったことは否定しないが、もっと単純に考えていいだろう。
つまり我々は、国政と地方行政が区別されている環境に慣れているせいで、戦国時代もそうだったと思い込んでいるのである。
実際は違う。天皇にしろ将軍にしろ、自分の直轄領というのがあった。
つまり当時の「天下人」とは、京都府知事が内閣総理大臣の両方の権利を持った役職である、ということである。
こう考えれば矛盾がない。
それを抜きにしても「全国を意味する語へと飛躍していった」はおかしい。
回帰していった、なら分かるが。
どうでもいいが、ずいぶん文章が安っぽい箇所がある。自分の主張にあまり関係ないところはどうでもいいのか。

[編集] 第3章 反信長同盟の結成と戦い

[編集] 一、浅井・朝倉・本願寺の同盟
比叡山焼き討ちにしても、古い体制を象徴する宗教勢力を否定するという目的のために破壊・殺戮をおこなったのではない。
信長に味方せず敵方を利して、信長を窮地に陥れたから、敵を徹底的に破砕する信長流の報復戦をしたのである。
もちろん、そこには計算があった。
天皇・都の鎮護を担って公武の手厚い保護をうけ、信仰の対象でもある比叡山でさえ容赦なく攻め滅ぼすというメッセージである。
わが身と言えの存続をひたすら願う天皇・公家らは信長の期限を損ねないようにつとめるしかない。

要するに単なる見せしめだというのだ。いくらなんでも理解の仕方が低レベルすぎないか?
76人間七七四年:2013/08/31(土) 11:24:54.56 ID:ckPX7uFa
二、武田信玄動く
正月、六角承禎父子が一向一揆と組んで蜂起し、南近江の金森・三宅の両城に立て籠もった。
この地域を支配する佐久間信盛は、信長の命令をうけて、一向宗の僧や荘・郷村の指導者である「地士長」らに、
一味内通をしない旨の起請文を提出させた。
(中略)
もし敵方になれば手ごわい人々である。

どこが手ごわいのか。この後の一向一揆に対する処置を知らないのか。事実、信長にあっさり起請文を提出しているではないか。

[編集] 三、反信長連合を解体

(末尾)
相変わらず安国寺恵瓊の書状を予言扱いしている。
この点については他の研究者も同罪だが、いい加減どうにかならないものか。
文言が曖昧すぎる。「信長の代は持たない」とは、「高転び」とはいったい何を指しているのか。
「高転び」というのが本能寺の変の事を言っているのなら、年数がハズレている。(3年5年ではなく9年)
揚げ足取りレベルでいいなら、信長の代は2年後に確かに終わった。信忠に家督を譲って。 さらに、あまり知られていないが、恵瓊は数年後に織田家との和睦を毛利家に進言するのである。高転びはどこへ行った???

秀吉が「さりとてはの者」と言うが、どの程度の者なのか。 恵瓊は公家になる事を否定的なニュアンスで記しているが、彼の言う「さりとてはの者」=秀吉は、今更言うまでもなく、公家になることで天下を取ったのである。
恵瓊が「周公旦・太公望などのごとく」と絶賛した朝山日乗は、数年後に失脚した。のちの関ヶ原の戦いで、恵瓊は西軍について敗北し、斬首された。

この時、西軍の敗因となったのは、吉川広家と小早川秀秋の内通である。
つまり恵瓊は、毛利家中の人間といってよいこの2人の動向を、見極めることができなかったのだ。
そもそも、たった1回会っただけで相手の事がどこまで分かるというのだろう。
それもこれだけ人物眼のない人間が。

[編集] 第4章 一揆を殲滅し、右大将に
[編集] 四、安土城を築く
信長の王権構想は日本と天皇とを超えんとするところにあった。

どうでもいいが私はこの意見には反対である。 どうでもいいが。

[編集] 第6章 絶頂期へ高揚
[編集] 四、本能寺の変
これに関してはガスパル・コエリョの一五八八年度日本年報の中の文が興味深い。
(少略) 統率権の大部分は、特に都の周辺に位置する五畿内なる五つの領国を占領した武将と領主の手中に帰するのが常である。
(中略)また、「天下とは日本の主権のことである。都および周辺の支配権を握ることをそう称する」とある。

第2章の四での「天下」もこれと同じ解釈で問題ないはずである。京を含む畿内の支配が、他の地域の支配に優越するのは当たり前だろう。

[編集] 第8章 家臣団と知行制
[編集] 三、譜代重用と新参国人の没落
また、信長が分国支配や京都支配で重用した顔ぶれを見ると、尾張出身者が圧倒的に多く、美濃出身者は少しだけいる。
この両国出身者を譜代家臣と規定してよいだろう。
77人間七七四年:2013/08/31(土) 11:27:32.86 ID:ckPX7uFa
ぜんぜん良くない。なんで美濃が譜代なの? ならば武田信玄にとって信濃衆は譜代なのか。
2行目について、3版では次のように修正がくわえられている。

『この両国出身者を仮に譜代家臣と呼んで、その他と比較してみよう。』
この文自体は正しくなるが、これでは後の文と全く意味がつながらない。   著者自ら、この章には読む価値がないと認めたようなものである。
一門の子供や弟を用いた伊勢・尾張・美濃を除いて〜
なんで伊勢が除かれるのか。北伊勢が滝川一益に与えられていた事実は無視なのか。

さて、いよいよ問題の表である。
近江 佐久間信盛(尾)・丹羽長秀(尾)・羽柴秀吉(尾)・明智光秀越前 柴田勝家(尾)・前田利家(尾)・佐々成政(尾)・不破光敗(濃)・金森長近(濃)・原長頼(濃)
若狭 丹羽長秀(尾)加賀 簗田広正(尾)能登 前田利家(尾)越中 佐々成政(尾)丹波 明智光秀
丹後 細川藤孝 京都 村井貞勝(尾)・明智光秀 山城 細川藤孝・塙直政(尾) 大和 松永久秀(山城)・塙直政(尾)・筒井順慶(大和)
摂津 荒木村重(摂津) 播磨 羽柴秀吉(尾) 甲斐 川尻秀隆(尾)・穴山梅雪(甲斐)
信濃 森長可(尾)・毛利長秀(尾)・滝河一益(近江)・木曽義昌(信濃)上野 滝川一益(近江)

太字が外様(譜代でない家臣)。 しかしこの表には間違いがいくつもある。
村井貞勝の出身は尾張じゃない。少なくとも尾張に村井という苗字の領主はいない(谷口克広「信長の天下所司代」)。唯一の史料は「太閤記」の近江説。


   よって村井は外様として扱う。
近江に柴田勝家(尾)・中川重政(尾)・磯野員昌(近江)が抜けている。
越前に前波吉継(越前)が抜けている。
山城に明智光秀が抜けている。
加賀がその後、柴田勝家に与えられた事が抜けている。
摂津がその後、池田恒興(尾)に与えられた事が抜けている。
国ごと存在しない国がある。 和泉は蜂屋頼隆(尾)。
河内は北半分が野間長前・池田教正・多羅尾常陸介(すべて河内)、南半分が三好康長(不明)である。
備前は宇喜多直家。 美作も宇喜多直家。
但馬国は秀吉指揮下、大名は不明。うち二郡が宮部継潤(近江)に与えられている。
いったいいつ、松永久秀の出身が山城ということになったのか。まあ松永は譜代でないのが明らかだからどうでもいいが。
著者はこの譜代重用が荒木村重の謀反の一因になったと言うのだが、荒木村重の謀反は1578(天正6)年である。
この時点では「能登 前田利家」や「越中 佐々成政」はまだ存在しない。
村重の謀反のことを語るのに本能寺の変直前のデータをもってくるのは、時期的におかしい。
もし本能寺の変直前までを時間的範囲とするというなら、実質的に家臣同然である徳川家康(三河)・北条氏政(相模)も含めて良いはずである。 さらに言うと、本能寺の変後には周防・長門を大友義鎮(豊後)など、他国者にいくつもの国をあてがう事が予定されていた。

どうでもいいが、京都を山城と分けるのは煩雑なので統一した方がいい。

これらを踏まえた正しい表は以下である。
伊勢 滝川一益(近江)・織田信雄(尾)ほか親族衆
近江 佐久間信盛(尾)・丹羽長秀(尾)・羽柴秀吉(尾)・明智光秀・柴田勝家(尾)・中川重政(尾)・磯野員昌(近江)
越前 前波吉継(越前)ほか朝倉旧臣・柴田勝家(尾)・前田利家(尾)・佐々成政(尾)・不破光治(濃)・金森長近(濃)・原長頼(濃)
若狭 丹羽長秀(尾)加賀 簗田広正(尾)、柴田勝家(尾)能登 前田利家(尾)越中 佐々成政(尾)
丹波 明智光秀丹後 細川藤孝
山城 村井貞勝(近江?)・明智光秀・細川藤孝・塙直政(尾)大和 松永久秀(山城?)・塙直政(尾)・筒井順慶(大和)
摂津 荒木村重(摂津)、池田恒興(尾)播磨 羽柴秀吉(尾)和泉 蜂屋頼隆(尾)
河内 野間長前(河内)・池田教正(河内)・多羅尾常陸介(河内)・三好康長(不明)
備前 宇喜多直家(備前)美作 宇喜多直家(備前)但馬 宮部継潤(近江)甲斐 川尻秀隆(尾)・穴山梅雪(甲斐)
信濃 森長可(尾)・毛利長秀(尾)・滝河一益(近江)・木曽義昌(信濃)
上野 滝川一益(近江)三河 徳川家康(三河)遠江 徳川家康(三河)駿河 徳川家康(三河)相模 北条氏政(相模)伊豆 北条氏政(相模)武蔵 北条氏政(相模)

※ほか、志摩の九鬼嘉隆などもいるが、小さすぎるため除いた。
78人間七七四年:2013/08/31(土) 11:30:30.42 ID:ckPX7uFa
右に列挙した人々のうち、尾張・美濃出身者で信長に離反した者はいない。
信長との強い主従の絆が形成されていたからであろうか。
逆に離反したのは松永久秀・荒木村重そして光秀と、いわゆる外様である。
別所長治の抵抗も、村重の抵抗と相まって、信長に総力戦に近い形を余儀なくさせるほど強力だった。
彼らを離反に踏み切らせた要因の一つに譜代重用があったのではないか。

斉藤利三は美濃出身である。また、明智光秀も美濃の土岐氏出身という説がある。

天正三年(一五七五)九月信長は村重に対し、播磨奥郡に出陣し、国人を味方につけ人質をとるよう命じた。
(中略)ところが、村重は粉骨もむなしく、その地位を秀吉にとって代わられるのである。
(中略)このような信長のやり方に村重が心穏やかでいられるはずはない。
村重の離反はこの翌年のことである。
荒木村重は特に戦功もなく、ただタイミング良く寝返ってきたというだけの理由で、いち国人から大名に取り立てられた人間である。
その当時、織田家にはまだ、一国を任された人間はいなかった。
これだけでも破格の扱いなのに、新参の身で、村重はそれ以上を望んだというのだろうか?さすがに同意できない。

領域支配者=大名に取り立てられたのはほとんどが譜代直臣であり、現地の中小武士はその給人に編成されることによってのみ生き残ることができた。(中略)
容赦のない殺戮戦を展開し、そのあとに信長譜代の直臣を大名にすえる。信長の分国とは信長と譜代直臣の領域支配体制である。
戦国代用らの地域権力は信長のもとで生き残ることはできないから必死の抵抗を試みる。
荒木村重や光秀のように信長に取り立てられても、譜代重用の中でいつまでその地位を保てるかわからない不安がつきまとう。
かすかな勝算に賭けて謀反に走るしかなくなる。謀反と頑強な抵抗は、信長の戦争、分国支配のあり方が生み出したものであった。

すでに書いた3版の改文により、意味が通じなくなっている。 戦功を積み重ねても、謀反の心をもたなくても、信長の心一つでいつ失脚するか抹殺されるかわからない不安定な状態に、家臣たちは置かれていた。
一門と譜代重視のもと、譜代でない家臣にはより強い不安感があった。独断専行的で、合議の仕組みもなく、弁明・弁護の場も与えられず、家臣に連帯がなく孤立的で、信長への絶対服従で成り立っている体制が、
家臣の将来への不安感を強め、謀反を生むのである。

どうも日本の歴史学者は思想が偏っていて困る。
反乱というのものは不安感などというあいまいな動機からは生まれない。
  それは欲望や誇り、怒りから生まれるのである。
  もし独裁者を恐れているならば、よりその意に従おうとするのが人間の自然な感情なのである。
  著者は独裁者を憎み、独裁者は必ず滅びると言いたいのであろうが、個人の思想は自由であっても、私情を学問に持ち込んではいけない。
79人間七七四年:2013/08/31(土) 11:32:13.55 ID:ckPX7uFa
信長の発給文書をみて気づくことは、信長自身は百姓や村と正面から向き合おうとしなかった権力なのではないかということである。
郷村宛の禁制以外に村や百姓支配にかかわって発給した文書はほとんどないのである。
信長は領主に対し当知行安堵状や知行宛行状を発給するが、あくまで領主にしか目が注がれてはいない。
それをうけて、村や百姓に対するのは奉行人や領主自身である。
信長には農政・民政がないのである。
戦争遂行には築城、道路整備、兵粮等の運搬のために百姓らの夫役・陣夫等が不可欠である。
信長は村・百姓の負担の実情に思いを致すことはなかったし、その年間の負担数量を規定することもなかった。
道普請でも信長は家臣に命令を発するだけである。
それを受けた家臣は自分の才覚で人足や資材等を集めて速やかに遂行し結果を出さなければならない。
百姓らの負担がどれだけ過重かに信長は関知しない。
『兼見卿記』をみると、村井貞勝はたびたび兼見に人足等の負担を頼み込んでいる。
兼見は渋りながらも結局それに応じる。
信長にとって戦争と政権運営は家臣・領主との関係において遂行されるものであり、結果だけを評価する。
彼らの存在基盤をなす百姓らに直接向き合うことはなかった。


織田厨【「正面から向き合う」とは具体的に何を指すのか。詩を書くのは歴史学者の仕事ではない。 ちなみに著者は普段、後北条氏の研究をしている。この点には留意しなければならない。



     後北条氏には「村に直接、多くの書状を出していた」という特徴があるからだ。
     村にいちいち書状を出すというのはかなり特異なことなので、これをやっていないからという理由で信長のことをどうこう言うのは見当違いである。
     ちなみに、後北条氏の研究者の中にはこれを「後北条氏の権力が強かったから村の統治にまで介入できたのだ」などとほざいている輩がいるが、そんな勝手な推測をされても困る。
     細かい事まで指示しなければ言う事を聞いてもらえないほど権力が弱かったのかもしれないし、単にそういう方針をとっていただけかもしれないのだから。
     後北条氏の研究者の方々には、信長研究者への僻みは捨てて、公平な研究をするよう期待したい。
関所の廃止や道路整備は民政ではないとでも言うつもりなのだろうか? 上京焼き討ちの後の地下銭免除は? 「百姓から本年貢以外とってはならない」と記してある甲斐の国掟は?


  妄想で話を組み立てないでほしい。
なぜ百姓の負担が「過重」であることが確定しているのだろう? そういう史料でもあるのだろうか?


  ちなみにこの時代、領主の権力は基本的に弱く、家臣や村に対して絶対的な権力を振るえる人間は少なかった。
兼見卿記の話について、誤解のないように書いておこう。


  『吉田兼和は、これまで貞勝との縁故を頼って、常にこうした負担を逃れようとしてきた。
   この時も、免除を願い出たが、許可は下りなかった。』
   (『信長の天下所司代』谷口克広)
  こういった印象操作は卑怯だと思うのだが。
  もっとも、タネが分かってしまえば「な〜んだ」である。
津島で踊りを興行した際、信長は村の長老に茶を出し、自ら扇で彼らを仰いだという信長公記の記事がある。
だいたい、信長はもとは尾張の守護代の家老という低い身分の出身である。それが百姓に全く目を向けないなどという事がありえるだろうか?
常識で考えてみてほしい。 】
80人間七七四年:2013/08/31(土) 12:53:18.46 ID:KY/2I9Zf
くだらねぇw無駄に読みにくい癖に冗長駄文で読む気が起きねー。
81人間七七四年:2013/08/31(土) 13:52:46.43 ID:gdKQPUnZ
2行目まで我慢して読んだけど、何が言いたいのか解らんな
82人間七七四年:2013/08/31(土) 14:27:46.33 ID:zC+hdGWe
この読みにくさと、
執拗さが反映した駄長文で
読み手の士気を萎えさせる腐れ文は、
武田厨のフリをして工作したが、
見事バレたアンチ秀吉の基地外コピペ爆撃織田厨だわ。
間違いないわ。
83人間七七四年:2013/08/31(土) 16:21:52.79 ID:taCr/iSC
結局>>73-79で批判されてるように池上本ってダメなのか?
84人間七七四年:2013/08/31(土) 16:25:07.54 ID:ARLh4UJ1
ダメじゃないけどバイアス付きの所は注意して読めと言う感じ
そのへんは他の学者も同様だけどね
85人間七七四年:2013/08/31(土) 16:26:34.37 ID:R1eXw8+S
信長信者しかそのバイアスを感じないという得意なものだけどなw
86人間七七四年:2013/08/31(土) 16:28:26.41 ID:ARLh4UJ1
即レスとかだがさん張り付きすぎ。
87人間七七四年:2013/08/31(土) 16:49:03.07 ID:IKO2/cY3
88人間七七四年:2013/08/31(土) 19:38:39.24 ID:r3DW0J5j
結局、徳川家康って信長の事どう思っていたの? 好きなの嫌いなの?

息子の切腹を命じられる
信長が死んだら旧織田領の甲斐信州に攻め込む
結局信長の息子達、織田家を排して自分の天下を作る。

でも
信長との同盟が信長が死ぬまで20年続く、裏切り当然の戦国時代では異例の同盟
多くの人間が信長を裏切っているから、信長の戦力が凄いから逆らえなかったとは
思えない
本能寺の変では光秀に味方するどころか、信長の仇討の為に本能寺に行こうとしたり
信長の後を追って切腹しようとして部下に止められて伊賀越えをする
間に合わなかっただけで光秀を討つ気だった
人質時代信長に遊んでもらって尾張の兄、三河の弟と呼び合う仲だったとか

結局家康が信長の事どう思っているのか分からない
89人間七七四年:2013/08/31(土) 19:39:51.69 ID:U/pLdYGV
好きとか嫌いとかで同盟相手を見極めるような甘い政治家じゃないだろ、家康も信長も
90人間七七四年:2013/08/31(土) 20:21:25.59 ID:z4yeFJ78
同盟関係というのは基本的に信用が大事
あっさり同盟破棄したりしても特になることは何もない。
松平は小国だからどの道どこかの大名と同盟結ばなきゃいけないんだし
織田と同盟破棄したら政略的に孤立する危険性すらある
91人間七七四年:2013/08/31(土) 20:45:20.69 ID:1+fRAHI6
>>88
家康の行動原理が徹底的に守備・防御思考だったって事を考えれば、好き嫌いに関係なく
時流に従って行動してたって事がわかるぞ。
手紙とか文章として信長個人を好きだったか嫌いだったかは残ってないから、実際はどうだか
わからん。

ただ、信長のことを好きだったとしても嫌いだったとしても、同じ行動をおこしたと思う。
徹底したリアリストとして状況を判断して、もっとも危険が少なく、その中でもっとも利益が高い
行動を行っていただぇよ。
言い換えればそれらの行動から好きか嫌いかを判断することはできないし、好悪どちらの感情を
抱いていてもそれらの行動に矛盾はない。

坂口安吾が家康の評論をしていて、もちろん坂口安吾は歴史学者でもない一介の文学者だけど、
逆に文学者だからこその洞察力で評価しているその内容が、歴史学者の論文よりも家康の人物像を
よく描き出していると思う。
あまり長くないから、↓を読んでみて。いろいろ参考になると思う。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42911_25520.html
92人間七七四年:2013/08/31(土) 21:43:22.07 ID:r3DW0J5j
じゃあ本能寺の変知った時にそのまま本能寺に行って光秀を討とうとしたり
信長の後を追って切腹しようとしたら部下に止められて伊賀越えしたってのは?

リアリストなら、これ幸いとばかりに光秀に協力にして一緒に織田家攻めるか
速効帰って戦の準備して光秀討って名声高めようとするんじゃない?

なのに感情に任せて信長の後を追おうとするわ、帰ったら帰ったで山崎の戦い
に間に合わなかったわ、ってなんだか不自然
93人間七七四年:2013/08/31(土) 22:09:38.78 ID:eg9Npc+u
>>92
必ずしも正解と言うつもりはないけどこんな心境もあったのかも程度で読んでくれ

当時の武家は首を討たれることを最大の恥辱と考えていた
これを避けるために自害を図ることもあった
家康の場合は僅かな供しか連れていなかったので発見されたら終わりだから
自害を考えても不思議なことではなくむしろよくある話
現代の私たちの感覚では理解し難いことなのでなかなかこの境地には至らんけどね

リアリストならという話
織田家を攻めるという軽挙な選択肢は無かったのだろう
徳川家が明智家と密約が無い状況なら生捕られ首を刎ねられて終わりだからね
即行帰国の選択肢は家康が実際に実行しているからこれが現実的なんだろう

なので必ずしも感情的な発想ではないと思うよ
現代の常識と戦国の常識の相違がそう見せているだけかもしれない
94人間七七四年:2013/08/31(土) 22:12:46.58 ID:/p78/fat
大名家がどの勢力と同盟や恭順で結びつくかは、パワーバランスや損得勘定以外にも
歴代の家臣とかこれまでの同盟関係敵対関係や、個人的好悪や、距離的地理的地勢的問題など
様々な複合的な問題がからむから、そんな物では何を基準・理由にその勢力と同盟結んだとかは推測はできない。
関が原合戦で西軍と東軍に諸大名が割れたり、あるいは信長に次々反旗を翻したりする者が絶たなかった事からみてもそれは明らか。
95人間七七四年:2013/08/31(土) 22:35:03.10 ID:qThqehXi
>>92
>じゃあ本能寺の変知った時にそのまま本能寺に行って光秀を討とうとしたり

そんな行動しようとしたか?兵もいなかったのに?


>信長の後を追って切腹しようとしたら部下に止められて伊賀越えしたってのは?

信長の後を追うと言うより「反乱軍に囲まれて逃げ切れないからもうダメぽ」と諦めたから
腹を切ろうとしたんじゃない?
実際、困難な伊賀越えをしなければ逃げられない情勢だったわけだし。
大坂夏の陣で、徳川方がかなり不利な状況になったときに切腹も考えた、ってのと同じかと。


>リアリストなら、これ幸いとばかりに光秀に協力にして一緒に織田家攻めるか

光秀に協力して織田家攻めるってのがリアリストの選択とは思えないけどね。
本能寺の変直後には、光秀が家康をどう処遇するのかわからなかったわけだし。


>速効帰って戦の準備して光秀討って名声高めようとするんじゃない?

実際、最短と思われる時間とルートで帰国して、すぐに光秀討伐の軍をおこしてるけどね。
秀吉の行動が早すぎて間に合わなかっただけで。


なんか、いろいろ思い込みが激しすぎるような気がする。
96人間七七四年:2013/08/31(土) 23:47:51.43 ID:r3DW0J5j
ようするに家康や情や絆で信長と結ばれていたんじゃなくて

●信長との同盟が信長が死ぬまで20年続く、裏切り当然の戦国時代では異例の同盟
裏切っても得が無いと判断しただけ、松永とか裏切った奴はいるけど、そいつらとは見解の相違なだけ

●本能寺の変で信長の後を追って切腹しようとして部下に止められて伊賀越えをする
自分も殺されると思ってその前に自殺しようとしただけ

●間に合わなかっただけで光秀を討つ気だった
光秀につくのが得策じゃなかっただけ、実際柴田とか丹羽とか織田家には有力大名
いっぱいいるし

信長がどっかに負けたら裏切ったかもしれんし、囲まれてなきゃとっとと三河に逃げたし
柴田とか丹羽とか他の連中が光秀に流れていれば家康も光秀についた可能性は十分あるってことか、なんか納得
97人間七七四年:2013/08/31(土) 23:53:23.16 ID:U/pLdYGV
戦国大名ならだれだってそうだわ
98人間七七四年:2013/09/01(日) 00:02:18.03 ID:47HZoKdF
好きか嫌いかで言えば好意的史料はいっぱいあるけど嫌いというのは
信頼できる史料にはまず無いから、まあ好きだったでいいけど
それが行動に結びついた重要な事例はないってところ
戦国大名は専制君主じゃないから個人的好悪で行動はしないし出来ない訳やね
例えば北条大嫌いと公言しまくりの謙信も利があれば北条と同盟組んだり
99人間七七四年:2013/09/01(日) 00:17:51.76 ID:AENzhSVj
損得だけ中心で動くなら援軍派遣もろくにせず役に立たない信長なんか即効で裏切って
武田についとるわw
同盟破りは普通の戦国大名は不義とされる事だから行わないし
信用問題にかかわるから、その後の外交にも影響するし
単に地理的距離的問題と、初期の同盟関係が、共通の敵の存在から長く続いたってだけだろ。

損得で動くなら信長騎下の大名があんなに反乱ばかり起こすわけねぇしなw
裏切っても即効大軍が終結して滅ぼされるだけで得なんてねぇんだから。
100人間七七四年:2013/09/01(日) 00:23:28.88 ID:0LB+j81g
自害が得になる行動なわけねーし
勝家には協力しなかったのに、信雄に協力しても得になるわけねーし
信長が畿内で浅井朝倉に負けまくり武田に侵略されまくった時期でも信長見捨てなかったもんな

はっきりいって家康は同盟信義を重んじてたから信長は助かっただけ。
信長みたいな不義な武将だったら即効で松永や別所みたいに信長を裏切って織田は瞬殺されてる
101人間七七四年:2013/09/01(日) 00:32:42.26 ID:W+EGXTYy
光秀なんて討っても家康からしてみりゃ何の得もねーのに討とうとしたんじゃん。
光秀なんて殺したところで、ただの同盟者の家康が織田の後継者になれるわけないんだし
損得勘定考えるならむしろ光秀と協力して織田家を崩壊させたほうが遥かに得策。
それが危険でも静観してりゃいいだけ。
尾濃は本能寺後斉藤が暴れて岐阜城を落としたり混乱が起きてたくらいだしな
102人間七七四年:2013/09/01(日) 00:40:47.55 ID:47HZoKdF
だがさんはホントめんどくせーな
103人間七七四年:2013/09/01(日) 00:40:52.68 ID:j5Ak5Vpi
武士は信義を重んじるのが普通で、信長みたいな騙まし討ちとか同盟破棄とか不義な振る舞いは
信義を損なうものとして嫌われるものなんだが。
同盟とか部下の統率とか人望失ったら思いっきりひびくし、信長の場合それが原因で
あれだけの大勢力がありながら各国で国人が蜂起したり光秀に殺されたり裏切り三昧で人望がいかに低下してたかわかるんだが。
同盟する方からすりゃ劣勢になったらすぐ裏切るような輩はいざという時全く役に立たないし
最初から敵に回して潰した方が不慮の事態が防げるからまだマシなくらいだしな。
104人間七七四年:2013/09/01(日) 00:44:24.37 ID:L0OjV/BH
家康も「天下殿」の評価を受け、石田三成襲撃事件の解決からかなり実権実力名声増したと思われる時期の後でも
三成や輝元の決起であれだけ大軍が西軍に集まったのは家康の不義な振る舞いを見かねた諸侯が多かったからだろ。
別に西軍についたからといって得になるわけねーし。
105人間七七四年:2013/09/01(日) 00:49:59.20 ID:I0tnA0NO
長期同盟継続最大の理由は武田の存在ではないか
106人間七七四年:2013/09/01(日) 00:53:35.89 ID:30YmvS4C
そだよ
武田は今川攻めで徳川との共同戦線で不義かましたからまったく信用されてない
織田はどうのこうの言っても何らかの形(主に金銭)で支援してるし婚姻同盟もあるから武田より信用されてただけの話
徳川単独では生き残れない立地だしな
107人間七七四年:2013/09/01(日) 09:13:21.34 ID:NDizOxg+
家康って晩年まで信長に関してはあまり語っていないんじゃなかった?
いろいろと含むところは多かったとは思うんだけど、気にはなるところかなあ…
108人間七七四年:2013/09/01(日) 10:11:47.60 ID:USNsKLH/
>>106
キチガイ織田厨って、すぐ話を誘導するから気持ち悪いわ〜


1/8に無断行動した秋山を呼び戻したと信玄が家康や1/9信長へちゃんと謝罪して問題解決済み。

一方、2/18、3/13 家康と謙信が情勢報告をしたりと内通交渉している事実

5/23 信長の配下の武井などへ信玄が出した書状では(家康と信長が背信してるのがはっきりわかったので)
そちらが支配するために遠江の人質も渡したし、その後に北条がやってきたから対陣していた。
掛川城が落ちたのに氏真が無事に三河経由で尾張へ送られたのは
小田原衆と岡崎衆が会面し掛川籠城衆をつつがなく駿河へ通過させてやったからで存外のことだ。
すでに氏真と氏康親子は和睦の旨。 家康も誓詞を出してる。
この状態を信長はどう思っているのか!信長も家康に氏真と氏康親子に敵対するように催促するべき。

5/24 氏政から酒井へ 氏真が帰国したし、家康から誓詞も届いた。当方との入魂大慶

完全に家康・信長の方が上杉&北条と入魂して武田を裏切ってますね。本当にありがとうございました。
109人間七七四年:2013/09/01(日) 10:35:43.10 ID:5M2SBAUU
>>107
「あまり語らない」=「好きじゃなかった」ってのは司馬辺りが出典だと思う
別に話すことがなかっただけかもしれないし
110人間七七四年:2013/09/02(月) 13:14:29.40 ID:LxtnxIWZ
>>88
天正2年1/9付けの謙信→榊原康政宛てで 謙信は勝頼を経略名之下ニ候と酷評してるから
勝頼なんてただのバカでしょ。 そんな勝頼さんは2/6に丹波の赤鬼さんに、
雪解けしたら早速、信長を攻めるよ!と書状を出してる。
ちなみに本隊は雪解け待ちのようだが、先鋒はすでに出陣しててちょうどこの時期には
明智城を陥落させている。さらに櫛原城や神篦城を攻略している。
尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。
積雪で信濃国境は封鎖された閏11/9になって、のこのこと三河で鷹狩しに行くよなどと家康監視目的で
来援する信長を歓待すると申し出る家康の心中は複雑だよな
(冬になると家康恫喝監視でよく信長は三河に鷹狩の口実でよく来る)
少ない兵を引き連れた勝頼が完全に織田をナメくさって長篠の戦いで無謀な突撃をかましたのがよくわかる。
そういう状況だと、あながち甲陽軍鑑に書かれている内容も誇張でもないような気がするんだよね。
曰く、武田を恐れまくる信長は天正3年の勝頼の攻勢に
もはや完全に切羽つまった家康からの援軍要請にも色よい返答をせず
激怒した家康が、上洛戦や越前陣や姉川の戦いで織田が勝てたのは徳川のおかげなのに
ことごとく徳川の援軍要請には拒否を続けるその態度ならもう武田に降って先鋒を務めて尾張を攻める。
尾張なんて武田陣営になっちゃえば簡単に落とせるんだからね!って使者に言わせて
信長がびっくりして援軍を長篠に出したって話。
天正7年8月末に北条高広が後北条を離反 それを受けて9/5に北条と徳川の同盟が成立し
家康も武田窓口の信康を9/15に切り 対武田の全面戦争開始。
同時期、佐竹を通じて武田と織田の同盟交渉がなされており
家康は信長の娘を尾張に送り返し甲江同盟に対して不満をぶちまけている。
当時の信長は本願寺と毛利と別所に呼応して摂津荒木が挙兵し危機的状態にいた。
織田が江甲同盟交渉で武田の鋭鋒を避けようとしてたから
むしろ援軍がもらえない家康が逃げ回ってただけだろ。
家康としては甲斐府中から遠いことを良いことに武田の最前線の城を攻撃しては、
勝頼が決戦目指してやってくると掛川城へ逃亡しまくりの繰り返しじゃんw
しかも武田主力は上野国東部で戦ってるのにも関わらず
田中城や用宗城の攻撃に失敗の連続で家康はぜんぜん領地を広げられない。
天正10年に家康が安土城へきたのも臣従の誓いだしな。もう家康も織田家に併呑されてんだよ。
だから本能寺の変首謀説に家康も名があがるしな。穴山を殺して甲斐を独り占めしてるあたり利害と動機も充分にある。
そもそも神君伊賀越えにしたって近江南部の国人へ書状を出しているなど、実は伊賀なんて通過してない可能性があるしね。
しかも家康は三法師を後継に掲げると言う、秀吉と同じように勝手に織田後継者を決めて尾張への侵攻をしようとした火事場泥棒ぶり。
111人間七七四年:2013/09/02(月) 14:30:05.14 ID:IuNirTfM
信康と岡崎衆は信長を支持して家康を隠居させようとしてたって説もあるからなー。
家忠日記でも徳川家臣団が信長のことを、
御家門様とか大殿様とか主君として尊称し始めてる辺り、家康の権力の後退が見受けられるし、
本能寺の変後の織田家に対して、三河の織田領をよこせば味方してやるとか信長への感謝など微塵も感じられないどころか恨んでいたようにしか見えないし、
勝頼らの菩提を弔うなど信長のやったことを全否定してるしな。
112人間七七四年:2013/09/02(月) 14:39:15.44 ID:Vxahf8uB
正直、家康が信長をどう思っていたか、なんてのは直接はっきりとあかした記録なんてないんだから
結局は残された史料と事象を「どう解釈するか」でいくらでも変化して答えは出せないと思う

同じ史料に記録された事象でも、解釈しだいで好意的だったでも隔意があったとでも読み取れるんだから
113人間七七四年:2013/09/02(月) 16:20:28.32 ID:jykhD50k
戦国時代は商人は卑しい職業で非課税って聞いたのですが
そんなにボロ儲けできたのですか?他国との商売は手形や通行税だけでよかったの?
114人間七七四年:2013/09/02(月) 20:16:12.97 ID:W28f9RnV
そんな訳はない。
国々によって色々だけど商人からも税は取ってたよ
もちろん何かしらの見返りがあるからだけど
115人間七七四年:2013/09/02(月) 20:23:55.78 ID:Z4K7QnUK
つか裕福な商人や金融業者(有徳人)は、営業利益の代わりに色々な恒久課税や臨時課税、さらに行政任務の請負など
様々な負担が在った
116人間七七四年:2013/09/02(月) 21:01:33.09 ID:FzM2hD3w
当時の体制では所得税法人税や消費税は取られることがありませんでした
何故かと言うと年貢なら年一度収穫時に検見すれば収入がわかりますが
売上は毎日一日中張り付いてないとわかりませんので売上を知ることがまず不可能でした
現代のような厳粛な管理も当然ながらまだ無理です
じゃあどうするかというと当時は行商が主だったので関所を作って
通行料を取ることで物と人に税金をかけました。これが戦国時代の商人の主な税になります。
ついでに経済を活性化するために信長秀吉らが関所を廃止していったので
それを受け継いだ江戸時代では商人の税金は百姓に比べて格安でした。
117人間七七四年:2013/09/02(月) 22:15:43.17 ID:ItQL6ddi
そのかわり、借金の棒引きとか、さまざまな社会事業への出資を要求(半強制)されるとか
江戸時代の商人もいろいろと大変だったんですけどね
118人間七七四年:2013/09/03(火) 00:33:01.59 ID:L8R2cdJa
店の間口のサイズで課税、同業者組合で献金
ってのもありますね
119人間七七四年:2013/09/03(火) 10:09:59.09 ID:/wsRS+uR
江戸時代なんかだとどんなに儲けても自分自身のためには使えなかったしな、武家に貸すしか無い
>>117 大変だったけど淀屋なんか今でも地名を残してるよね
120人間七七四年:2013/09/03(火) 13:49:57.26 ID:cBUKITDM
江戸時代なってはいけないのは藩の御用商人
仙台伊達家だけでも2つ潰したw
121人間七七四年:2013/09/03(火) 17:53:37.83 ID:TQQyUHFr
>>112
いやいや家康は一方的に信長への奉仕を強制され続けていた恨みはあるね。
三河物語などでもそういう底意が滲み出てる。

家康の領国の三河からは、盛んに石山本願寺へ兵糧や兵員の輸送が
円滑に行われており天正6年になってさえ、
織田軍が本願寺に呼応した荒木によって大敗し12/12尾張知多郡の水野忠分が敗死するなどしてる裏で
10/13に上宮寺(岡崎市)や本證寺(安城市)や勝鬘寺(岡崎市)へ
石山本願寺が書状を出して支援要請してる。
10/28にも三河の浄妙寺・慈光寺・無量寿寺・願照寺にも支援要請してる。
家康は一向宗の叛乱を恐れ石山支援を事実上容認していたのがわかる。
謙信が死んだことで御館の乱が発生し
信長が北陸戦線防衛に必死になることなく
勝頼の遠江侵攻への支援が可能になる余裕が出てくると
9月に信康の岡崎へ三河国衆が出仕するのを禁止して
万が一の時の武田との交渉チャンネルである
信康の排除へ家康が動き出す。
そして家康と北条の同盟が成立する天正7年9月に切腹。
それと同時に徳川領での石山本願寺支援も消えていく。
122人間七七四年:2013/09/03(火) 17:59:34.52 ID:JbuHno4d
>>121
それは家康じゃなくて大久保彦左衛門だろ
勝手に家康の意思にするなよ気持ち悪い
123人間七七四年:2013/09/03(火) 18:19:14.91 ID:5/29jNrQ
>>121
史料の選択と解釈でどうとでも取れる、という実例ですねありがとう
124人間七七四年:2013/09/03(火) 18:33:36.82 ID:pNu0gA2z
だがさん妄想炸裂だな。読んでないけど
125人間七七四年:2013/09/03(火) 18:49:23.36 ID:TQQyUHFr
織田厨がたくさん沸いたなw
さすが単発ID自演のクズw
偏向レスの連投乙w
126人間七七四年:2013/09/03(火) 20:34:05.94 ID:fExg0OMT
>>119
貸すっていうか半分カツアゲみたいなもんだしな。
転封や改易になったら、即不良債権になっちまうし。
127人間七七四年:2013/09/04(水) 17:10:51.53 ID:KLHU29PN
普通、村高500石の村だと、むら人口ってどの位なモノなのでしょうか?
128人間七七四年:2013/09/04(水) 19:16:00.58 ID:lJu25SxI
基本的な考え方は一石が一人が年間で食べる米の量で年貢が5公5民なら村が養えるのは250人
ただし苅高や他の産業や村人の所有する村外の田畑の量などによって激しく上下します
129人間七七四年:2013/09/04(水) 20:03:53.51 ID:DsMbBulE
信長含めてなんで大名達って鉄砲鍛冶を雇わなかったの?

鉄砲一丁が数百万から一千万以上したらしいけど、買うんじゃなくて
鉄砲鍛冶を高給で雇えば普通に材料費と人件費だけで鉄砲作れるじゃん

今風に言うと民間企業に武器製造を頼むんじゃなくて
公務員が働く国の武器製造工場で銃を作る感じ
130人間七七四年:2013/09/04(水) 20:06:56.99 ID:MAm0IXz/
>>129
維持費
131人間七七四年:2013/09/04(水) 21:34:07.07 ID:ifDO2oRa
>>129
到底雇えない程の高給になるから。
132人間七七四年:2013/09/04(水) 23:39:31.68 ID:swdD7mng
大内氏と田村氏って渡来人の家系とききましたが、事実なんですか?
大陸や南蛮から来て大名に仕えた人はいないのでしょうか?
133人間七七四年:2013/09/04(水) 23:55:33.69 ID:lJu25SxI
本当に渡来人の系譜かは不明。確かめる術なし。
家康に仕えた三浦按針とか少しは居る
134人間七七四年:2013/09/04(水) 23:58:40.29 ID:ifDO2oRa
田村氏は坂上田村麻呂の後裔と称しているがたぶん嘘。
坂上氏は後漢の霊帝の後裔と称しているがたぶん嘘。

大内氏は百済の王様の後裔と称しているがたぶん嘘。

大名に仕えた異国人は家康に仕えた三浦按針(ウイリアム・アダムス)と八重洲の地名の元になった
ヤン・ヨーステンとか信長に仕えた弥助とかが有名。
135人間七七四年:2013/09/05(木) 08:55:45.84 ID:3Ug0bAtS
戦国期(1550年代の農民はアワ・ヒエ・キビを
何時頃植えて何時頃収穫してたのでしょうか?

それとこれらの反収ってどの位の物だったのでしょうか?
136人間七七四年:2013/09/05(木) 09:47:41.94 ID:khVillgr
長曽我部にいたっては秦の始皇帝の末とか一番ブッんでる
137人間七七四年:2013/09/06(金) 11:07:08.48 ID:2xAsJgeU
ヤスケを、仕えた、というのは少し違うような。
最近はそういう小説もあるようだから
家臣、みたいに考えるとこれまたもっとおかしくなってくる・・
138人間七七四年:2013/09/06(金) 11:39:14.77 ID:5l5aszuS
弥助って奴隷の身分で信長の前で宣教師に晒し者にされ、世界には黒い人間も居るよ
こいつ見本って献上品にされたよね。
139人間七七四年:2013/09/06(金) 11:49:56.18 ID:0I0DS03P
弥助は人間じゃないからって光秀も捕縛しなかったんだよね。
140人間七七四年:2013/09/06(金) 17:43:43.97 ID:ZiKaqtop
江戸城に近い城持ち大名ベスト3ってどこの家?
参勤交代楽そうw
141人間七七四年:2013/09/06(金) 20:35:26.48 ID:qG2wFzNL
>>140
関東の大名は半年ごとに参勤交代だったと思う
142人間七七四年:2013/09/06(金) 22:20:02.77 ID:70967GaA
水戸徳川家は参勤交代しなかったような。
143人間七七四年:2013/09/07(土) 01:48:28.19 ID:nWoyUleB
川越藩とか
144人間七七四年:2013/09/07(土) 05:25:25.30 ID:aRxYmycH
>>142
あれは特例さ。
145人間七七四年:2013/09/07(土) 06:11:00.90 ID:sFE0+CW9
在府大名って30位いなかったか
146人間七七四年:2013/09/07(土) 11:11:58.16 ID:g1dwE8Uy
五大老制ってなかったらどうかわったと思いますか?
家康筆頭っておおきな顔できないし知行割とか政権運営できなさそうですが
147人間七七四年:2013/09/07(土) 12:24:48.27 ID:grJGBM3l
領地も織豊政権下での格も飛びぬけてる最強最大の徳川を
建前的には5人の中の1人まで落として枠のにはめたのが五大老制なわけで
無ければもっと自由に動けただろ
148人間七七四年:2013/09/07(土) 12:32:54.00 ID:7KI41+4j
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり自分から家康が天下取りやすい状態作っといて
ぶち壊したも糞もねーじゃん

秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻を進めている。
自分の死後を見据え、最有力大名徳川家との融合を企図したものだ。
秀頼・千姫の間に出来た世継ぎが、徳川家の傀儡になる事は、
秀吉が認識していて当然。

実は反徳川的な行動を起こし、豊臣家を滅亡に導いた輩こそ、
秀吉の意思に背いた不忠といえる。
秀頼・千姫の間の子は世継ぎになるわけで。
徳川の血が、豊臣宗家に組み込まれるわけだけど。
実際融合されなかったのは、邪魔をした者がいたから。
そしてそのせいで、豊臣滅亡。不忠でしょ。
千姫は正室なので、当然千姫との間の子が世継ぎでしょ。
そうなれば、政権における徳川家の影響力が増す

豊臣家が滅ぼされたのは単に秀吉が馬鹿だったからというだけ。
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。

こんな体制じゃあっさり崩壊して当然
149人間七七四年:2013/09/07(土) 15:55:56.94 ID:cERM5e7K
信長、秀吉、家康の3人が一堂に会したことってあるのでしょうか?
150人間七七四年:2013/09/07(土) 15:58:42.14 ID:nWoyUleB
信長後期ならあるでしょ
長篠の戦とか
151人間七七四年:2013/09/07(土) 15:59:06.29 ID:I0PrKMFi
姉川の戦い
152人間七七四年:2013/09/07(土) 16:46:23.86 ID:v+8w6VjG
あとは越前遠征前の京都とか
一番古いのは清洲同盟締結時かな
家康が清洲に出向いて挨拶しているし
153人間七七四年:2013/09/07(土) 17:53:57.14 ID:87Gx7I7E
青森に落ち延びた武将の子孫ってどんな一族がいるんでしょうか?
今まで落ち武者といえば薩摩のイメージが強かったのですが、石田三成の子孫のように青森も多いと聞いたもので
154人間七七四年:2013/09/07(土) 18:22:49.05 ID:I0PrKMFi
>>152
> 一番古いのは清洲同盟締結時かな
> 家康が清洲に出向いて挨拶しているし

家康が清須に出向いたって話は実際には無かったことが証明されてるから
155人間七七四年:2013/09/07(土) 19:26:59.41 ID:v+8w6VjG
>>154
それは知らなかった
どんな史料を元にそうなったんですか?
156人間七七四年:2013/09/07(土) 19:43:39.36 ID:grJGBM3l
出典があまり信用できない総見記で他の一次史料や比較的信頼できる文献にはないのと
経緯経過を見るととりあえず対等同盟と言って間違いはないんだが
相手の元に行って同盟を組むっていうのは服従の形式だからそぐわないので
清須訪問で同盟締結は考えにくいって話
逆に行ってないという信頼できる資料もないから証明されたとまでは言えないけど
157人間七七四年:2013/09/07(土) 19:44:36.64 ID:I0PrKMFi
>>155
> ところでこれまでの通説では、永禄五年正月に元安は清洲城に赴き、信長と会見して盟約を結んだと言われてきた。
> 平野氏はこれを真っ向から否定されたが、この点については筆者も同意見である。
>
> 資料的な問題として、第一に『信長公記』『三河物語』『松平記』などに、この事実が一切記されていないこと、
> 第二に、元康に供奉して清須に赴いたとされる武将たちの家譜類にも、そのような記載が見られないことである。
> もし清州城での会見というような重大な出来事があったとすれば、そのような事態を生ずることはなかったであろう。
> また当時元康が置かれていた状況は、先に述べたように今川方と東三河各地で激戦を展開しており、
> 岡崎城を離れることは難しかったであろう

> 本多隆成 著『定本・徳川家康』
158人間七七四年:2013/09/07(土) 21:13:28.30 ID:v+8w6VjG
>>156-157
なるほど、たしかに確たる行っていない根拠はないけど
行ったという根拠もなく状況からも行く動機が薄い
これは賛同できますね
159人間七七四年:2013/09/07(土) 23:28:17.72 ID:ZL01oQ8y
戦国武将ってなんで牛に乗らないの?
牛も結構速いし馬より力強いし
頭が下がってる分、槍をふるのに頭が邪魔にならないから
馬よりも戦闘向きだと思うんだけど
へたすりゃつきとばせるし
160人間七七四年:2013/09/07(土) 23:30:52.57 ID:gPgK5FKk
>>159
牛は移動するとき前後の揺れが凄くて人が乗るのに向かないんだよ。
その点馬は安定している。

きちんと理由があって人は馬に乗るようになったの
161人間七七四年:2013/09/08(日) 01:20:28.48 ID:qXAlyqB8
>>159
戦国武将に限らず、世界史で牛を乗用に使った文明や軍隊って、たぶんなかったはず。
つまりはそういうことだ。
162人間七七四年:2013/09/08(日) 10:07:23.96 ID:cRDsH9UP
牛は高い所や狭い所に行くと急に動かなくなることがあるんだけど
本当に梃子でも動かなくなっちゃうから輸送にも不向き
戦闘なんてもってのほかやね
163人間七七四年:2013/09/08(日) 13:12:45.96 ID:HmAg9m8T
家康が清洲に行ってないことから発展して
同盟はなかった、みたいな論も多くなってきたね。
従来は家康は同盟どころか実質家臣状態だった
という感じだったけど、家康が信長と行動を共にしたのは
公儀に対する忠誠だった、というのもある。

158で、行く動機薄い、とあるけどこれは少し
不正確かもしれない。
直前に信長が家康領近辺を軽く攻めてるし
前の状況から両者が会談するのは十分に必要がある。
またその後の行動も考えると会談があったとするのも
これまた十分に普通。
だけど直接一次史料で確認されてない、ということでね。

これでいくと道三ー信長会談もまた複数一次史料での
確認とはならないし、公記に書いてあれば十分である
というとこれはまた別の話になってしまうけどね。

手取川なんてのも公記には書いてあるけど
他の史料では案外不確実だからその規模なんかは
よく議論のネタにはなるしね。
164人間七七四年:2013/09/08(日) 14:26:02.33 ID:JFG2m/AG
個人的には織田とのなんらかの同盟がなかったというのはちょっとないと思うけどね
でなければ、今川との独立戦争を、家康は織田と両面作戦やりながら出来ると踏んだ愚か者となる

最初はそうした不可侵同盟あたりが、時間の経過と状況の変化に対応して同盟の役割も変化していったというところかな

あと公儀に対する忠誠ってのもどうかねえ
まあこの時期の足利将軍は分裂しまくってどこを正当な公儀とするかって問題から始まるが
165人間七七四年:2013/09/09(月) 08:53:37.44 ID:ljJBlSo9
1560年代の朝倉家に

・朝挺に献金する伝手
・ちょっと無理を聞いて貰える貸し借りみたいな物

ってありましたでしょうか?

それと当時の敦賀湊に水軍みたいなものはありましたでしょうか?
166人間七七四年:2013/09/10(火) 10:14:36.56 ID:c6/BiFVI
戦国時代最強のカリスマ性、部下からの忠義が厚かった人って誰?

多くの部下一人一人が「●●様の為にぃいいいい!!」
ってなって平気で命をなげだすような感じの

謙信も信長もけっこう謀反起こされているし、鬼の引き口で有名な島津?
晩年の信玄結構部下から好かれていたらしいけど
167人間七七四年:2013/09/10(火) 11:07:28.91 ID:vxfJzo51
謙信は国人から人質を取らない信用統治をしていたから謀反が起きてる。
さすがに本庄の謀反で、武田に滅ぼされる寸前に追込まれてからは、
重臣の意見に抗えず、人質をとることにした。
その際の書状でも、謙信はお前を信じてないわけじゃないんだけど・・・・などと
苦渋の選択ぶりを吐露している。
しかしその後に謀反が起きなくなっている。
逆に信長は謀反を起こされまくっていて、その都度、人質を虐殺している。
松永久通の子供14歳と12歳も酷い殺し方だったそうだ。
168人間七七四年:2013/09/10(火) 11:53:36.90 ID:ka5t23dF
>>166
ぶっちゃけ何処も一緒
「御恩と奉公」と呼ばれる中世的相互契約に基く主従関係に
個人的魅力が立ち入る隙は少ない
169人間七七四年:2013/09/10(火) 12:09:31.74 ID:38rzUN54
そんなことはない。
国人たちの支持を受ける重臣連名合議制の元で、
傀儡政権として祭り上げられた謙信や信玄は、
次第に信用を得ていき指導的立場でリーダーシップを発揮していく名実ともに盟主となる推移がみられる。
またそれによって結束が強固になったがゆえに、それぞれの個性が特徴ある戦略軍事行動に反映してる。
170人間七七四年:2013/09/10(火) 16:30:07.12 ID:L+1A/1tm
>>166
人たらしといわれた秀吉じゃね?

タイトル忘れたけど、今コンビニで売ってる雑誌で、戦国武将に評価項目を
設定して(戦闘力、統率力、外交力とか)、各項目でNo1は誰か、みたいな
本がある。
見ればわかると思うから、ちょっと見てみるといいよ。
171人間七七四年:2013/09/10(火) 19:46:45.79 ID:ZVTKlbXR
>>164
公儀というのは天皇ということだね。
姉川も天皇から義昭に命が出てそれが
信長の行動に影響を与えてる。
まぁ、そういう側面もあった、ということで
自分は賛同はしかねる部分も多いんだけどね。

>>166
自分も規模からいくと秀吉とは思う。
少し視点が違うが、現在でも信玄とか民衆から
人気のある、ある特定地方の武将とか人物はいるけど
そういった人物はあてはまるんじゃないかな。
そのランクとかになると、お国自慢、レベルで
酒の席では楽しいかもしれないな。
172人間七七四年:2013/09/10(火) 20:05:20.85 ID:73NhmLzv
まあ戦に負けて城に帰ってから、「あれ?殿は?」なんてお方もいますから
173人間七七四年:2013/09/10(火) 20:33:49.50 ID:yULdAjI6
北条は小田原までなら結束高かったんじゃない
174人間七七四年:2013/09/10(火) 20:34:23.44 ID:yULdAjI6
>>173
小田原→小田原征伐
175人間七七四年:2013/09/11(水) 00:45:15.80 ID:n6/cFowm
秀吉人気はあくまでも物欲につられただけで秀吉個人に忠誠心があるのは
加藤清正みたいな連中だけって聞いた事あるけどちがうの?

農民上がりでみんなから軽く見られて戦争に勝ち続けて土地と金を与え続けないと
見限られるから朝鮮出兵したって意見も聞いたぐらいなんだけど
晩年かなりの暴君で気に食わない奴皆殺しだったし
176人間七七四年:2013/09/11(水) 01:49:46.18 ID:LCNC9jsw
戦国大名と言えるかアレだけど、本願寺でいいじゃん。
それこそ命捨てて尽くす奴多そう。

次点で天草四郎。戦国時代じゃないけど。
177人間七七四年:2013/09/11(水) 08:16:03.44 ID:vnMZP2tB
>>175
誰だよぞんなデタラメ吐いてるの。
完全に反日朝鮮人思考じゃねーかw
お前が書いた内容は全く一次史料で証明出来ない完全な妄想だけだぞ。
178人間七七四年:2013/09/11(水) 09:37:08.66 ID:n6/cFowm
秀吉のことは色んなテレビでも伝記本でもいろいろ書かれているよ

朝鮮出兵に反対した利休を処刑
息子の拾を叱った奴は処刑にする言った
屋敷の城に落書きされたとき、警備員の怠慢として警備員全員皆殺し
朝鮮出兵時人質として各国の大名の妻を差し出させる、そして食いまくる
(政宗の妻の愛姫は小刀装備、宗茂の妻のァ千代は完全武装していたので
秀吉に抱かれずに済んだ)

朝鮮出兵自体秀吉の誇大妄想で国内の支持は低かった
朝鮮や明を征服できるなんて思ってる人は少なくいやいや出兵していた
179人間七七四年:2013/09/11(水) 09:53:06.36 ID:HDPt9YGB
>>178
それ、一次史料の根拠をあげてくれないか。

ネットが一般化する前の左翼反日勢力の捏造貶ネタしか書いてないけど。
他にも伊藤博文が朝鮮併合を推進していたとかw
東郷平八郎が李舜臣を尊敬すると 発言していたとかw
世界三大海軍提督に李瞬臣が含まれるとかw
それと同レベルの捏造解釈じゃんwww
180人間七七四年:2013/09/11(水) 10:35:57.37 ID:n6/cFowm
一次資料といわれたら出せない 知らない

歴史テレビでやっていたことだし、テレビなんて嘘ばっかと言うのであれば
もう何もいえない

本は自分が持ってるのじゃなくて主に学校の図書室や図書館で見た本
秀吉の伝記本とかで
秀吉の活躍を描いた後、天下統一後は暴君ぶりを発揮している事が描かれている

逆に晩年、民や兵から慕われるような話あったっけ?
加藤清正の話は知ってるけど
181人間七七四年:2013/09/11(水) 10:45:01.32 ID:n6/cFowm
ただし秀吉の弁護もすると
アジア統一があながち誇大妄想ってわけじゃないって評価は知ってる

当時日本は
鉄砲の質、数。兵の練度、数、士気、経験。指揮官の経験値。
どれをとっても世界最強の究極軍事国家であえて言うなら中国が兵の数で
拮抗していたぐらい
逆に朝鮮、中国は当時国力が低下していて兵の士気や経験値も低く
実際朝鮮出兵は最初連戦連勝、負けたのは中国の援軍のせい
秀吉軍は朝鮮中国二国連合と同時に戦い失敗したのであって
朝鮮に負けた、という解釈は間違っている

ていう話は本で読んだし、個人的には支持している説
182人間七七四年:2013/09/11(水) 12:12:06.04 ID:sTgS+Qjm
桶狭間の戦いは奇襲戦法ではなかったという最近の新説は本当なんですか?
183人間七七四年:2013/09/11(水) 12:39:02.83 ID:jre1LPKj
本当かどうか、と聞かれると返答に困るな

確実にいえる事は、かつての定説だった「隘路の敵に側面奇襲」説はほぼ否定されている
184人間七七四年:2013/09/11(水) 12:44:14.96 ID:n6/cFowm
本当かどうかは定かじゃないけど
最近は奇襲じゃない説が濃厚になってきたって感じ

もとから奇襲説は日本軍が奇襲戦の効果を説明する時に桶狭間のことを
持ちだしたのが原因らしいし、説得力を上げるためにそうしたって言われている

桶狭間も盆地じゃなくて丘って説が有力になってきているし
奇襲だから勝ったんじゃなくて
丘の上の今川本陣を直接攻撃、ただ今川軍は伸び伸びになってて本陣が手薄だったから勝てた
ってのがだんだん濃厚になってきてる

最近発売されている戦国本もどれもだいたいそう説明している
185人間七七四年:2013/09/11(水) 13:10:30.50 ID:HDPt9YGB
>>180
日教組やTV放送の言ってることは他国への侵略は悪=秀吉貶しと言う
くだらんロジックのフィルターがかかっているからね。
そこから晩年の秀吉が耄碌したアホだった説で苦し紛れの誤魔化し論が生まれたが、
宣教師パシオが、一度死んだ秀吉が息を吹き返し狂乱状態で
愚かしい事を言ったと言う点の拡大解釈だろうが、
一度死んで脳の壊死が開始されたような秀吉の状態を持ち出すのはおかしい。
完全に韓国史観丸出し。

>>182
そもそも桶狭間の戦い自体があったかどうか怪しい。
>>183
それ戦前の日本参謀本部の苦し紛れに考え出した奇襲ネタ
>>184
それ甲陽軍鑑に書いてあるネタを発展させたネタだが、まぁそちらが主流にはなってる。
簡単に言えば、寡兵の信長が山上の今川軍へ正面突撃をして、なぜか勝った???
その解答に甲陽軍鑑が今川兵が軍規の乱れで乱取などが起きていて
兵が散っていたからと言うネタを結び付けないと説明できないセット話。
186人間七七四年:2013/09/11(水) 14:44:17.66 ID:qJBB9DlD
藤本説も正面攻撃といいながら奇襲までは否定できて無いけどね
187人間七七四年:2013/09/11(水) 14:46:22.23 ID:DEUPTmCa
まとめるが、正面攻撃説は藤本が公記を
厳密に解釈して主張し始めた説で最近と言っても
20年はたってる。
それがようやくテレビネタに使われるようになってきた。

しかし本人も言うように弱点があって、正面からどうやって
本陣にたどりつけたか、というのが説明できない。
それを、伸びきって手薄だったろう、とするのだが
これには根拠もなく結論ありきの逆算になってる。

それを具体的に説明しようとしたのが黒田の、軍艦の乱取説、
なんだがこれもかなり無理があって本人以外賛同者は
出ていない。
桐野本では好意的に、今後の課題、にはなってた。

歴史は繰り返して、軍を二手に分けて奇襲部隊がいた、
というような主張をする郷土史家もいて、辻褄あわせでは
あるがそれなりに藤本説を補完していて参考にはなる。
藤本自身は回答はしてないとは思ったが。

とこういうのが研究者の流れであとは詳細な解釈と
具体論になっていくね。
188人間七七四年:2013/09/11(水) 14:58:35.32 ID:DEUPTmCa
>>179
息子を叱ったのを処刑しろと言った、の話だが
これは書状に残ってたかもしれない。

お付の女中さんたちが「おいたがすぎて困ります〜」
みたいなことを言ったのを聞いた秀吉が
「そんな女中は殺してしまえ」と言ったらしい。

実物か写しか覚えてないが、長浜城で展示
されてたのを見た記憶がある。

もちろん、こういった個別事象を拡大解釈して
秀吉自身の全体評価をするのは問題外なんだけどね。
晩年少しおかしくなるのは誰にでもあることだし。

それと、写しの書状の真贋とかそういった話はまた個別にね。
とりあえずテレビにもちったは根拠があるだろうけど
各論はいいかげんだし総論はひどいなぁというところで。
189人間七七四年:2013/09/11(水) 17:01:02.94 ID:qJBB9DlD
>朝鮮出兵に反対した利休を処刑
小説

>息子の拾を叱った奴は処刑にする言った
書状が残っている

>屋敷の城に落書きされたとき、警備員の怠慢として警備員全員皆殺し
多聞院日記、言経卿記

>朝鮮出兵時人質として各国の大名の妻を差し出させる、そして食いまくる
創作
ただし女狂いは本当。秀次訓戒状、他
190人間七七四年:2013/09/11(水) 17:37:40.24 ID:qNU47uZ4
息子を叱った〜は職責と身分を越えた越権行為で混乱させたから。
女狂い〜人質として預かっていただけの女を側室と混同して女狂いとか言い出してるだけ。
落書き〜実際に落書は存在せず捏造話説が有力。
191人間七七四年:2013/09/11(水) 17:47:42.94 ID:HDPt9YGB
秀吉や秀次の政治に関しては、いまだ大半が軍記からの想像でしょ。
例えば秀次の不行跡は記録が『多聞院日記』や『兼見卿記』にあるあると
2ちゃんで書かれてても実際に調べると
秀次の罪状に関する公家や朝廷の公式な記録は何一つない。

『大かうさまぐんきのうち』の比叡山狩猟の件も信用できない。

文禄2年(1593)の6月8日に女人禁制の比叡山に女人を引き連れ、殺生禁断の地で狩を行い、
止めようとした僧たちの塩酢の器の中に獲った鹿肉を入れたとあるが、

山科言経の日記『言経卿記』では、
秀次はその日に山科らと聚楽第の山里で琵琶法師の平家物語を聞いてる。
(山里町という山里茶亭を由来とする町名があることからおそらく聚楽第の茶亭)
つか、仮に山里が聚楽第でなかったとしてもそういう事実があれば
山科言経が日記に残してない方がおかしい。
秀次の母親の日秀が秀次供養するために建てた瑞龍寺に
村雲の寺地と「瑞龍寺」の寺号、寺領1000石を与えたのは他でもない後陽成天皇だぜ。
そんな不道徳なことを本当にやってたら天皇がわざわざそんなことをするはずがない。

秀次が「殺生関白」と呼ばれてるのは、『大かうさまくんきのうち』が、
正親町天皇の諒闇中なのに狩りをした秀次を批判する京童の落首を引用しているが初出だよ。
庶民を虐殺したから「殺生関白」と呼ばれてるわけではありません。
しかしこの落書も同時期の記録にその落首が残ってないから信憑性を疑われてる。

信長公記の著者である太田牛一(秀頼に仕えていた)がデッチあげてデタラメを並べて秀次を悪く書いてるだけ。
三河物語で大久保から信長記はデタラメと叩かれた著者の太田は金をもらって捏造する売文家です。
しかし織田チョンは、あれは太田牛一が書いた信長記だけは除いて批判したものに違いないと
なんら根拠なく妄言を吐く朝鮮脳で白昼夢を主張するキチガイ
逆に川角太閤記では秀次に落ち度はなく、秀吉が老いて耄碌して三成の讒言を真に受けて
秀次を殺したと正反対の内容を書いているなど、所属する立場や思想信条から相手を悪く書く対立が見え
とても史実とは思えないデタラメが横行してます。
(実際には秀吉が耄碌していたとは思えませんし、讒言をしたとする三成の介入も一次史料から証明できません)
ちなみに謀反人の場合は斬首であり、自刃のような自害による名誉を守る行為は許されません。
つまり秀次は名誉の死であり、これを自ら選択したのであれば、恨み腹で秀吉一族に怨念をかけたことになります。
秀吉や秀次の政治に関しては、相手を中傷するために落書など平気でデッチあげてます。
192人間七七四年:2013/09/11(水) 17:48:18.73 ID:HDPt9YGB
漁夫の利を得た利家の陰謀と考えるのが一番分かりやすいです。

南部根元記には秀次が奥州の仕置きを終えたので平泉を見た
そして最上へ向かい義光がもてなし奉り息女いこまの方を秀次公に参らせる
と書いていてその記述には平泉に寄っているなど書かれており
後世の研究調査から平泉中尊寺には秀次軍令書などの文書が納められていることが発見され
秀次の平泉訪問も事実と確定され南部根元記の記述が極めて事実に基づかれているとされた。
そのため義光の方から進んで駒姫を秀次に差し出したのも極めて事実に近いとされる(伊達成実記とも合致する)
南部は秀吉からの武装解除の一環としての一国一城の破却令により天正20年6月に
領内48城中→破却36城の上で存置12城が許されたとされる。
戸沢は角館の1城のみを残して33城を城破りをしているため南部は破格の待遇である。
前田や蒲生と入魂していたからであろうか。利家は氏郷亡きのちの蒲生家存続にも尽力して
秀次・利家・蒲生・南部・浅野らが日本海から奥羽に影響力を行使しているのがわかる。
そして利家や氏郷らは南部と組んで津軽や安東を田舎者と名護屋陣でいじめていた。
のちに困り果てた津軽の働きかけで親しくなるように浅野が仲介してきたが拒否し
前田などが津軽を辱めたので浅野なども津軽に関して何も言わなくなったと記している。
前田家文書には秀吉→関白宛の文録元年5/18に
来年正月の2月頃に3万を率いて兵庫より乗船し秀次が朝鮮へ渡海する命令がある。
南部信直→織笠但馬守に年不詳9/20で秀次公来年高麗国へ出陣。暦明け候はば上洛と記され
南部も前田騎下として秀次とともに朝鮮へ行く予定だった。
どうやら何らかのこともあって秀次&前田&南部の朝鮮渡海は中止となったようだ。
秀次と親しくなることで朝鮮渡海しないで済むような状況があったのだろうか。
ちなみに黒田如水が朝鮮出兵を自ら申し出るように秀次に忠告したと言う。
文禄4年7月秀次自害と同じ頃、津軽が浅利を支援し戦闘開始されており
安東は進退に窮していると知らせがあり、また最上の小野寺侵略の岩崎合戦が開始される。
伊達と最上が秀次と共謀の罪があるとされたので、世上暗澹なこともあり信直は娘が
安東実季の弟に嫁ぐ予定だったが(利家斡旋らしい)安東から連絡もないし延期した方がいいとしている
このことから当時の奥羽がかなりの混乱下にあり秀次との謀反連動の疑いが強い。
(秀次は伊達や毛利に大金を貸していた。また利家も伊達に金を貸している)
奥南旧指録附載には南部利直は前田&浅野と先代以来親しかったので東軍の立場を鮮明し
最上に加勢したが領内和賀一揆のために最上出羽守に相断り帰陣し一揆を討ったと記されている。
利家は柴田を見捨てただけでなく、親しかった秀次をまったく弁護せず死刑を放置
(その時期の利家は京にいて早世した娘の与免と婚約者だった浅野幸長ばかり擁護、家康は江戸にいた)
利長は姉妹の豪のダンナである秀家を見捨てるなど
有軍を裏切って肥え太る術だけで加賀百万石を築いた天下一の泥棒大名。
ちなみに利家夫妻はお拾いと秀次娘の婚姻仲人に決められていたし
秀次が死んだ後、利家は秀次と親しかったこともあり秀次の伏見の邸宅を貰い、秀次の家臣の一部も併合してる。
利家は秀次の死によって秀頼後見役にのし上って、秀吉亡きのちは事実上の天下人になっていた。
193人間七七四年:2013/09/11(水) 17:48:57.95 ID:HDPt9YGB
6才で死んだ実子の羽柴秀勝 (石松丸)もいるから種無しってことはないし

豪姫の姉って誰のこと?
宇喜多直家の妻を妾にしたと言う記述は毛利の捏造史料にしか出てこないデタラメ。
毛利は宗麟を女好きと捏造記述したりと毛利の敵だった側をむちゃくちゃ悪く書きまくってる。
しかし実際に幼女をレイプ目で見ていた輝元を危険視して匿った挙げ句に婚姻させたが
それでも諦めずに輝元が隙をみて略奪して子を生ませ
その夫を隆景が暗殺してるのはリアル史実w
残念だが光成氏も寵愛を受けた記述があるのは毛利の捏造軍記である陰徳記のみで
一次史料には無いと否定してるわけだがw
相変わらず在日毛利厨って無知だな。
摩阿姫のことを言ってるようには思えない内容なんだが?
摩阿姫は非嫡出子の可能性が高く普通は利家夫婦の子とカウントしない。
そのため12歳の時に柴田への人質に出され北ノ庄城へ送られ
佐久間十蔵と婚約済みである以上はすでに非処女だし。
その摩阿姫が人質として京へ送られたのは1586年であり14歳の時。
しかも秀吉の側室として関係を持つ可能性があるのは
1587年9月に聚楽第が完成して、そこで摩阿姫が起居してからだから15歳。
しかし摩阿姫は病身であり子供が秀吉との間に出来てないが、
のちに万里小路充房との間に利忠を生んでる。
元々、人質の立場であって秀吉の好みからではないから
秀吉が手をつけたかどうかすら怪しい。
>>妾にした時その娘は数え歳でまだ十二歳
>>現代の年齢の数え方だと11歳
これwikiの1585年に秀吉の側室になったデタラメ記述から盗用した挙句に
秀吉を貶すために悪意ある文章を書いただけだろw
こんなの前田家の保身のための人質なんだから
糾弾すべきは秀吉じゃなくて前田夫妻の方だろ。
在日は無知なだけでなく捏造歪曲までやるから気持ち悪いわ。
そもそも秀吉が好色だったのかどうかすらも怪しい。
衆道をやってないなら好色だったんだろ!的な江戸庶民の妄想の産物だろ。
好色を証明するソースは無い。 唯一あげるとすれば信長がねねに出した書状くらいだが
それだけでは好色と大げさに言われるほどの内容じゃない。
そもそも子姓をはべらし衆道など性に奔放熱心だった信長や家康の方がはるかに側室も圧倒的に多いし子供も大量にいる。
むしろ子姓も侍らすことをせず能をやったり、オッサン達と軍記話をして楽しむことが多かった多趣味な秀吉は性欲があまり無かったから子作りに熱心じゃ無かったんじゃないかな。
女好き最強は中華の後宮並みと言われた信長だな。
秀吉は信長や家康と違い ガキあんまりいないから 女好きって軍記講談話に惑わされてるだけで、
実際にはエロより800人いたと言う御伽衆との会話ばっかり楽しんでいたと考えられる。
中国みたいな後宮つくってたのは明智軍記で1000人の女性を囲ってたとされる信長だけ
だから信忠をはじめ母が誰だかわからん子ばっか。基本的に戦国時代は一夫多妻制じゃないからね。
秀吉が側室をたくさん持ってたと誤解してるやつもいるけど
あれは人質として差し出させて厚遇してる姿をアピールしてただけ。
秀吉が手をつけてないのは子供ができなかったことでもわかる。
それを秀吉の種なし&秀頼の父は別人説をデッチ上げてるのは在日。
そもそも秀吉が女好きの変態みたいに書いてんのは陰徳記って言うもんを編集した毛利の捏造だから。
宇喜多秀家が厚遇されてんのは、秀家の母が秀吉に寵愛されてるからとか、
嫉妬して秀家を貶している醜い毛利
194人間七七四年:2013/09/11(水) 17:54:57.83 ID:qJBB9DlD
この的外れな長文はもしかして俺宛?チラッとしか読んでないけど
195人間七七四年:2013/09/11(水) 18:12:09.00 ID:qNU47uZ4
なんだよ。同じ内容で日本史板でもアンチ秀吉・アンチ三成の反日朝鮮人が、
必死に叩きやってんじゃねぇかよ。
相変わらずどこにでも沸く蛆虫だな。。
196人間七七四年:2013/09/11(水) 18:16:26.52 ID:NPZQUCYf
2chの伝統に則り三行で頼む
197人間七七四年:2013/09/11(水) 18:37:41.41 ID:oeiPDCMG
>>194
戦国板に半常駐してるなんJ在住の荒らしなんで無視しとけ
198人間七七四年:2013/09/11(水) 20:42:15.10 ID:zEouGFKb
>>190
細かいが、女中を殺してしまえ、は
「女中たちのグチを聞いた殿がかように
言うほど愛息をかわいがっておられる」みたいな
文脈だった記憶がある。
だから実際に殺したどうかは未確認ね。
非難ではなくあくまで親ばかぶりの伝聞ってかね。

なので、越権行為、というのは一つの解釈だけど
そういった論理的な思考よりかは本人の私的な
感情が出てる、という気がするな。

この話は、信長が遊びに行ってた女房集を殺してしまった
という話と似てる様に思うけど、こっちはたぶん実話だし
それこそ命令違反みたいとすれば話は通る。

まあどっちも、コロさんでもクビや追放でいいじゃん、とも
思うがそのあたりに個人の資質を少しは感じるな。
別に、だから残虐だ、などとは全く思わないけどね。
199人間七七四年:2013/09/11(水) 21:22:15.37 ID:All23iRI
最近では大名の嫁や側室の正式名前が曖昧で、〇〇の娘としか記録に記載されて
いないと聞いたことがあります。
一部の人しか下の名前わからなかったってことでしょうか?
200人間七七四年:2013/09/11(水) 21:24:37.27 ID:iG+KXh3w
>>199
そう。戦国時は日本において女性の地位が最も下がった時期とも言われる
201人間七七四年:2013/09/11(水) 21:30:29.37 ID:P2AmG43w
今だって下の名前は親しい人しか呼び合わないやん
202人間七七四年:2013/09/11(水) 21:42:08.23 ID:qJBB9DlD
当時の家ってのは今でいうと会社みたいなものだから
社長といえども社員名簿に家族の名前を書かないように
家の記録に女性の名前までは書かなかったから残らなかった
もっと言えば表と奥の区別がはっきりしてたから表の記録である家譜系図に書かれてないだけ

女性の地位が低いってのも昔に流行った一面的な偏った考え方やね
203人間七七四年:2013/09/11(水) 22:22:11.21 ID:2XIk1Sb3
日明貿易に関する事で質問あります

当時日本から銅と硫黄が良く売れたと聞きましたが
仮定で鉄材・塩・日本米・馬鈴薯等は売り物になれたでしょうか?
204人間七七四年:2013/09/11(水) 22:28:50.41 ID:zEouGFKb
戦国に限らず平安の昔から
立場ある人の女性の名前はわからないことが
多いというかほとんど。
最近では、ということもないわね。
205人間七七四年:2013/09/11(水) 23:50:56.88 ID:n6/cFowm
いままでの流れで秀吉のマイナス面がねつ造であることはよくわかったんだけど
逆にプラスの面は?

秀吉が人望あって兵や民、家臣から慕われていた人って話何かあったら
知りたいから教えて
206人間七七四年:2013/09/12(木) 00:16:47.03 ID:XL0l9Zo2
もしかして、だがさんの捏造こじ付け長文を真に受けてるのか?
自演じゃないならあの長文と自演IDは有名な荒しだからこれからは気をつけときな
207人間七七四年:2013/09/12(木) 00:58:26.39 ID:VcrIRe3j
だがって本当に心の病気なんですか?
208人間七七四年:2013/09/12(木) 01:05:15.55 ID:FgYrz0eT
>>206>>207
アンチ秀吉の反日織田厨厨君。
異議があるなら一次史料による根拠を付けて論述してください。
209人間七七四年:2013/09/12(木) 01:20:44.63 ID:PM4a24St
頭と国籍の病気
210人間七七四年:2013/09/12(木) 09:11:25.00 ID:60V5v2W7
出ました。
反日織田厨は論破されると、
得意の悪口中傷とレッテルを貼りを開始するお約束展開w
論破された自覚を持っているかどうかのバロメーターだから便利なもんだなw
211人間七七四年:2013/09/12(木) 10:45:27.34 ID:tGG4eRXy
>>198
信長の「女中成敗」も殺したかどうかは不明だぞ
212人間七七四年:2013/09/12(木) 10:53:36.77 ID:sbszIxBR
>>205
簡単にだけど、長浜城主になったあたりの部下は
そのまま重臣になって裏切ったり離れたりした人は
ほとんどいない。
これからも秀吉自身の人望は判断できるよね。

現在でも関西では好かれてるけど、意外とこういう
人物は少なくて真偽あわせて面白いところ。

細かい話だと、手取川で権六とモメて戦線無断離脱した時も
信長は激怒はしたけどそれですんでる。
普通なら打ち首だろうけど、きっとうまくやったんだろな〜、とかね。

小牧の後に、さっきまで殺しあってた信雄のとこまで行って
仲直り?してしまって味方につけるんだけどこれも
「まっぺんうまくやろみゃぁか」と涙ポロポロ流してたらしこんだかも。
これなんかも人たらしを超えて、すさまじいばかりの人の機微をわきまえた
秀吉の本質とは思う。

その後に家康のとこにおっかさんを人質に出すんだけど
こんなひどい行動も不思議と悪く言われない。
逆に家康をも「ドあきれたじゃんねぇ」と篭絡?してしまった。

戦もすごいけど、そういった人間的な部分で難局を切り抜けたというのは
やはり傑出、突出した人間の器の大きさ、人望だろう。
213人間七七四年:2013/09/12(木) 10:57:50.44 ID:sbszIxBR
>>211
前に論議したことがあるんだけど
成敗という表現とかから、まず実話であったんじゃないかな、という
話になったんだよね。
マイナスの話なんか書かなくてもいいのに
ちゃんと記録に残ったと言うのはそれこそ
サプライズ的な事実だったんだろう、とか。

もちろん100%事実という史料を出せ、と言われると
ないけど、そういうレベルの話はしたくないなぁ。
214人間七七四年:2013/09/12(木) 11:11:46.20 ID:C20vlyAb
信憑性云々じゃなくて
成敗は罰したと言う意味だから殺したとは限らないというレスでないかい
どう罰したか書いて無い成敗はたいてい死刑だけどね
215人間七七四年:2013/09/12(木) 11:23:54.85 ID:xmKkEu//
>>212
戦は全く凄くねーよ。
雑魚毛利に3000人ぶち殺され但馬平定戦も光秀らの援護を受けながら失敗し
備中鴨城・備前児島・八濱合戦でも敗退し、馬野山対陣ではわずか6000の吉川勢にビビッて敗走。
アホ信雄に135000の大軍で短期決戦挑みかかって10000殺され、松ノ木・浜田・戸木・東駒野・前田・蟹江・下市場・長久保・河波・二重堀と
各城郭で敗戦し、135000の大軍でわずか16000そこそこの織田・徳川の尾張半国も北伊勢(会戦当初から離反の連鎖で崩壊状態)も全く歯がただず
全国から235000の大軍で短期決戦挑んで忍城1000や韮山城500に大苦戦した上に小田原1000にも手も足も出なかった雑魚じゃん。
216人間七七四年:2013/09/12(木) 11:27:32.09 ID:s5ZVnSeS
看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。

看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別

主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...

関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
217人間七七四年:2013/09/12(木) 11:28:53.94 ID:SbdEGqTx
秀吉が天下取れたの100%棚ボタでしょ
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張。山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入で
ぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多く
あつまっただけ。毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
218人間七七四年:2013/09/12(木) 11:29:38.65 ID:SbdEGqTx
家康始め諸大名。あんなもん形式的にしたがってるだけでしょ
いわば実力のない公家や公方とかに形だけ頭下げてるのと同じ。
信濃では小笠原、木曽、真田が秀吉に帰属し家康の支配はわずか3郡
石川数正、水野忠重も秀吉に内応。譜代の離反&軍事機密が露見した状況で
母と妹人質に出さなきゃならん秀吉は終わってる


圧倒的兵力差があった上に秀吉の敵対勢力の敵を利用してん寝返らせたから屈服できただけ。
上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争いその後も川中島〜安曇・筑摩・小県方面に積極的に出陣し
徳川方勢力と交戦。85年の上田城攻めにも援軍を派遣した。毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。
宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河、三好や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った
木曽、小笠原、真田等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用したから勝てただけ。

単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。

圧倒的兵力差があったし敵対者の対立を利用してん寝返らせて勝ってるだけ。
別に有利な状況も秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ。
家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ
しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。
まあ毎度の事だけど
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
219人間七七四年:2013/09/12(木) 11:30:54.62 ID:SbdEGqTx
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太

また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
220人間七七四年:2013/09/12(木) 11:32:09.63 ID:+SZn6ejQ
○織田対上杉  謙信生前…1万8000程度の寡兵で柴田&織田家オールスター武将4万以上に正面衝突で大勝
謙信死後…  御館の乱やその後の内戦・新発田の乱につけこんで圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で能登・加賀・越中を火事場泥棒したのに
越中中部で天正8年から天正10年半ばまで2年も足止めされた挙句土肥・小島・須田などに大苦戦しロクな防備もなかった平城の松倉の枝城にすぎない魚津城攻防で上杉が信濃に
派兵した隙をついて 居留守泥棒的に行ったにもかかわらず大苦戦。松倉の須田に手も足も出ずに苦戦し撃退
新発田は完全に新潟から排除されて下越で包囲され逼塞
連発した内戦による瓦解・信濃5000・越中加賀能登越前飛騨(美濃の諸将も援軍に来てた)55000・下越2000・奥州(?)・上野(20000)
から総兵力8万そこそこで動員兵力5000〜8000そこそこの上杉に信濃長沼で敗北越中中部で苦戦した織田軍
上杉37万石程度(御館の乱や新発田の乱で極端に瓦解)に 伊達・芦名・新発田と共同戦線で9倍の兵力差でもって
2年も越中中部〜魚津・松倉のわずかな区間で進めず立ち往生
金森ら飛騨口部隊も松倉に手も足も出ず 森は長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北 新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞
上杉5000〜8000に対して総勢8万そこそこで廻りから総勢で攻め込みまくって勝てなかったのが織田家トップの柴田

武田対織田…
上村合戦…武田の圧勝。東美濃攻防戦…武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方ヶ原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間・平手・滝川・水野・前田兄の大軍2万が敗走、平手・前田兄戦死
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり
長篠の戦い…「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
○武田と徳川…三方が原の戦いで織田の大軍2万&徳川8000を見事正面衝突で敗走させられる
勝頼時代も大いに苦戦し田中城に手も足も出ず高天神城に大苦戦
○織田と徳川…織田は大軍で寡兵の浅井に苦戦し当時の織田四天王の息子の坂井久蔵戦死。
徳川は寡兵で大軍の朝倉に勝利し、瓦解した織田軍を救って引き分けもで持っていく

秀吉…小牧長久手で家康より遥かに戦下手で織田家で最も無能で伊賀攻めに失敗し信長の勘気蒙り縁を切られそうになるアホ信雄に135000の大軍で挑んで
1万人殺される大敗。その後の攻防も二重堀・蟹江・前田・下市場・松ノ木・浜田・長久保・東駒野・河波・神戸攻防で敗北
二重堀合戦では防衛戦にもかかわらず1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられる
蟹江・前田・浜田・下市場・長久保・神戸は秀吉方本陣から程近い距離にあるにもかかわらず見事に寡兵の信雄に奪回される


以上をまとめると上杉>>武田>>>>>>>>徳川>>>>>>織田>>>>>>>>>>豊臣
221人間七七四年:2013/09/12(木) 11:33:53.19 ID:+SZn6ejQ
大友や宇喜多に蹴散らされまくった雑魚輝元に敗北した秀吉w

史料総覧  毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
萩藩閥閲録
晋叟寺文書
毛利家日記
[参考]備前軍記
[参考]浦上宇喜多両家記
[参考]陰徳太平記
[参考]御答書
[参考]總見記
[参考]柏崎物語
【管理番号】020100216456
【編/冊/頁】10編911冊179頁
【綱文和暦】天正6年6月21日(15780060210) 3条
【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、

晋叟寺文書
天正6年8/21
今度播州上月之城従芸州被催候処、
自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、
成田五郎左衛門尉秀綱(花押)
晋叟寺 衣鉢閣下

荻藩閥閲禄巻91林平八
敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、
輝元 御判

巻115の2湯原文左衛門
桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候
天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 
輝元 御判
天正10年5/4小早川→冷民少
如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉
去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉
去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉
去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状
一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉
態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元
去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、
…中略  昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
222人間七七四年:2013/09/12(木) 11:34:49.36 ID:s5ZVnSeS
圧倒的兵力差があったし敵対者の対立を利用してん寝返らせて勝ってるだけ。
別に有利な状況も秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ。
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけ
実際秀吉の予定とは全く別
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており
現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
223人間七七四年:2013/09/12(木) 11:37:17.59 ID:Zm/oW2pQ
秀吉が統率87なら他の有力大名なんか200か300くらいないとおかしい
何せ雑魚に蹴散らされる事で有名な信雄・氏政・輝元の日本三大凡将に大敗したレベルだし
秀吉が城攻めうまいってどこから出た話なんだろうな
大嘘もいいとこなんだが。
松ノ木・戸木・三木とかめちゃめちゃ苦戦してるし
小田原1200程度に手も足も出なかったレベルなのに

秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ

家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反とそれによる領国軍事機密露見と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ
しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。
まあ毎度の事だけど

北条は確かに雑魚だが、それは佐竹・里見・結城・宇都宮・武田・上杉など強豪と比べての話。

幼君義龍(クーデター騒ぎで分裂状態)に負けまくった信長や、信雄・輝元などの雑魚武将に蹴散らされまくった秀吉などに比べれば遥かに強い。
織田家トップクラスであり秀吉が伊勢方面で蹴散らされまくった滝川を北条が瞬殺してる時点でわかる。
224人間七七四年:2013/09/12(木) 11:39:12.82 ID:Zm/oW2pQ
●二重掘合戦で大敗し、楽田陣から敗走した秀吉w

細川家記
3月27日秀吉一に25日、秀吉公犬山に入り、楽田・羽黒辺まて諸大将衆はかり召し連れられ、
仕寄の下知など仰せ付けられ先つ小牧山に対し向城を高く構え、堀を二重に深くほり、柵を堅く結び
井楼を上させられる、是を二重掘の要害といい、この外岩崎山・小松寺山・青塚内窪山等の付城勢を
分ヶ守らせらる…(省略)
秀吉公二重掘に附城三ヶ所仰せ付けられ、忠興君を初大将数多くして守らせられ、
小松山寺を本陣とし、用心厳しくして合戦を持て数日対陣有り、二重掘には細川与一朗・蒲生忠三朗
堀久太郎…(省略)
五月遡日、信雄小牧山より見て一あてせんと有しを、家康公御無用とおおせられ、ぜひにと有りて御立候間、
家康公御家人を召され、尾張勢定立らるへし、もり返す用心せよと仰せられ候、信雄の勢は木村・長谷川等の手に食い付き、
芝手の中まてかけこみ、両手の軍士散々に敗走いたし候、忠興君御手廻討に走出られ、芝手の上に御揚り御下知、…(略)
長久手にて3大将討ち死に、秀次利を失われ、二重掘にても既に味方追崩され、秀吉公御気色悪かりしに、忠興君御手にて敵を
追い返し、勢ひつくのみならず、…
徳川家の軍勢小牧山より打ち出て二重掘の前に一戦せんと備ふ、秀吉公下知には敵馬を入れ来らは成へき程折敷て防くこと、…
二重掘の神子田半左え門一戦にも及ばず敗走す、寄手是を追討…神子田、太閤の御勘気を蒙ると云々…
二重掘の軍勢周章して伍を乱す、信雄兵其の気に乗じて攻撃多く首級を得たり、
225人間七七四年:2013/09/12(木) 11:39:48.46 ID:Zm/oW2pQ
秀吉の三大デタラメ

○秀吉は城攻めがうまい→デタラメ。松ノ木・三木・戸木・長久保・韮山・鳥取など大苦戦
圧倒的資金力と人心掌握と大規模軍隊が必要な水攻めや兵糧攻めや降伏勧告で楽に勝ってるだけ

○秀吉の一夜城→一次資料にない太閤記のデタラメ

○秀吉の中国大返し→事前に兵糧・街道確保など準備してたからできただけ


上方の圧倒的国力・先進的装備&135000もの圧倒的大軍の豊臣軍が

わずか22000程度で寝返り続出中で木造の傀儡状態で基盤ガタガタの信雄相手に大敗!!! 敗戦!!!!

ってまるで漫画だな。

アホすぎる

さすが戦国最強豊臣軍


秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
226人間七七四年:2013/09/12(木) 11:40:55.41 ID:E2Xox3ov
皆もいってるけど単純に秀吉が雑魚すぎるだけだと思う
野戦するからにはある程度なんらかの傾斜物を超えなくてはならないのは自明の論理で、
あの場所は川とか沼地とか崖や山などに比べたら遥かに決戦しやすい上にその辺りが突破しずらいなら
戦場の変更とか転進とか兵力6倍以上ならいくらでもうつ手あるわけで。
中入り勢増やすもよし、西方面迂回するもよし。砦を一つ一つ兵力に物言わせて攻め取るもよし
支配力の弱い信濃や信雄の本拠の伊勢を荒らすもよし。結局何一つ有効な手打てないまま
だらだら対陣するしかなかった秀吉は弱すぎる

あのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、
南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると
夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、ただ単純に手出し云々というより
秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
それを秀吉のアホ作戦で台無しにして奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのにそれをさせないあたり軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
織田家で最も無能な上に重臣の謀反&粛清等があり、権力基盤弱い織田信雄の領土相手にこの醜態ってw
227人間七七四年:2013/09/12(木) 11:41:29.74 ID:Zm/oW2pQ
秀吉って鉄砲の名産地長浜を根拠とし、その後も富裕地を領国としてるから
経済基盤でいえばかなりのものだし装備も当然充実させられるのに
こんなに雑魚なのは本人の指揮能力がクソレベルなんだろうな
秀吉が全軍で小牧山を攻めていたら織田信雄に大敗していたのは間違いない。
何せ信雄家臣の木造や吉村などにぼこぼこにやられた史実があるんだしな
しまいには小田原、韮山、山中、忍、松ノ木、太田など大敗や大損害を重ね、天下失った凡将w
犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には
芝のついた土手を築いて柵を付けている。そこに秀吉方が陣取っていて龍泉寺
にも根城をこしらえ、柏井、大草にも堅固に普請を申し付けられてる。
家康から見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。
中入り作戦なんてしなくても北と東から力づくで押し込める
あと秀吉は中入り軍を追撃していく軍の動きを把握していた事は明らかだが
ここですぐに軍を動かさずもたもたしてたから負けただけ。これは柏井にいる一柳直末にあてた書状から明らか。

単純に秀吉が雑魚すぎるだけだと思う
野戦するからにはある程度なんらかの傾斜物を超えなくてはならないのは自明の論理で、
あの場所は川とか沼地とか崖や山などに比べたら遥かに決戦しやすい上にその辺りが突破しずらいなら
戦場の変更とか転進とか兵力6倍以上ならいくらでもうつ手あるわけで。
中入り勢増やすもよし、西方面迂回するもよし。砦を一つ一つ兵力に物言わせて攻め取るもよし
支配力の弱い信濃や信雄の本拠の伊勢を荒らすもよし。結局何一つ有効な手打てないまま
だらだら対陣するしかなかった秀吉は弱すぎる

あのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、
南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると
夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、ただ単純に手出し云々というより
秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
7倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
それを秀吉のアホ作戦で台無しにして奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのにそれをさせないあたり軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
織田家で最も無能な上に重臣の謀反&粛清等があり、権力基盤弱い織田信雄の領土相手にこの醜態ってw
228人間七七四年:2013/09/12(木) 11:42:00.49 ID:Zm/oW2pQ
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる

敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ

あんだけ兵力差ありながら晩秋まで一進一退続いてるからな
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
つうか尾張口突破がそんな困難なら権力基盤弱い伊勢攻めるか
間接的統治を行うだけで支配力が弱く、木曽が寝返り、翌年に真田、小笠原が寝返るなど
不安定な支配の信濃を上杉とともに攻めりゃいいだけだろ
だらだら尾張口や木曽川筋で対陣続けて晩秋になるまで突破口見出せん秀吉は馬鹿すぎる
中入り勢は突出などしとらん
秀吉の命令通り動いただけ
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな

秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
目付け役で堀・長谷川も加わってるし
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな

敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
229人間七七四年:2013/09/12(木) 11:42:07.35 ID:mcvQhNDL
見事に別スレで設定したNGワードにひっかかって全部あぼーんになってるから
同じ人なんだろうけど、専用スレがあるらしいんで、そこでやってくれないだろうか

ここは質問に対して答えるスレであって、自分の考えを発表するスレではないのだから
230人間七七四年:2013/09/12(木) 11:42:48.05 ID:s5ZVnSeS
秀吉は元々あった対立関係利用して漁夫の利得ただけ。
中身のないゴミ政権だからすぐにボロが露呈した。
信長に従い土下座外交してた氏政が秀吉に従わなかったのも秀吉の実力のなさを見抜いてたからだろうな
本能寺時点でも光秀が運良く信長を打ち逆賊の汚名被り毛利も運良く追撃せず
柴田戦でも運良く勝家が雪で動けないのを利用し勝家と勝豊の運よく不仲なのを利用し寝返らせ
運良く権力基盤が弱い信孝を攻め運良く稲葉を寝返らせてへタレ前田が運よく軍を引きやっと勝てただけ
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
そういう優位な状況は秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。

長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、真田
石川の場合は秀吉の威信が強大になっていたのが大きく小笠原は石川が小笠原の人質もって逃げたから寝返った。
水野は元々外様だし石川と同じく秀吉の威信が高まりすぎたのが原因だろうな。
どれも秀吉が自力で作ったというより運よく強大な勢力を持てたのと元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ

よく秀吉は城攻めの達人とか人たらしの名人とか言われるがこれも間違い。
どこの大名でも漁夫の利を狙うような芸当はやってるし
城攻めに関しても鮮やかと言われるのは対中国戦くらいだろう。しかも水攻めといい兵糧攻めといい
時間や金ばかり無駄に浪費した下策でこんなもんは織田家が経済的に圧倒的なものをもってるから
なせる芸当。少数しか兵のいない忍城や竹ヶ鼻城、紀州の城を正攻法で瞬殺できないのは終わってる
231人間七七四年:2013/09/12(木) 11:43:57.00 ID:/WjMekgv
正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。

秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
兵力差6倍を生かし、小牧山周辺砦を陥落させるかあるいは龍泉寺方面の中入り部隊を増やし
家康の動きにそなえる部隊を置きつつ家康方の後方拠点を落とし、三河からの連絡を分断・孤立させる策にするか
それも無理ならそもそも尾張口を無理に突破する必要もなく、基盤の弱い伊勢でも支配の弱い信濃でもどこでもいい

結局11月になるまでだらだら戦い続いてるしな
木曽川筋のわずかな城を落としただけで
南伊勢でも反撃くらい滝川が作ったチャンスも無駄にして
権力基盤が弱い信雄領国を荒らしまわってたら信雄がびびって降伏しただけだし


黒田官べえはきてる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、
三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。
合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)

松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して
攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる

伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。
堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)

3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。秀吉方は
秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、
蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、
長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、
蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、

長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内
彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる
232人間七七四年:2013/09/12(木) 11:45:42.55 ID:jsR0zmjH
秀吉の活躍は講談ソースばかりだからな
金ヶ崎の退陣、中国大返し、墨俣一夜城、農民からの出世話。
中国大返しとかよくマンセーされるけど別に速くねーだろ。
233人間七七四年:2013/09/12(木) 11:47:18.27 ID:sbszIxBR
>>214
そんな感じだったかね。
どっちにしろ、まず実話だったろう、という
意味なのでよしなに。
234人間七七四年:2013/09/12(木) 11:48:31.12 ID:s5ZVnSeS
中川は既に天正8年時点で秀吉と兄弟の契りを結ぶほどの濃密な関係だったし
摂津の他の諸侯も織田家中での長宗我部・毛利など対諸大名への処遇など
秀吉光秀間の派閥抗争においての秀吉勝利に収まり初めから秀吉方の陣営だったという見方が濃厚
235人間七七四年:2013/09/12(木) 11:49:32.47 ID:JpYGg9g1
>>232
確かにね。
秀吉が備中を立ったのは6/4で
播磨に移ったのは6/6
摂津尼崎に6/9
6/12に富田着陣
6/13に山崎合戦だから9日〜10日かかってる
これでは特別速いとはいえまい
236人間七七四年:2013/09/12(木) 12:08:36.17 ID:rE7IfGhM
あーぁまたキチガイアンチ秀吉の織田厨が暴れてるわ。
この糞コピペ爆撃に対しての応酬は下記に書いてあるから興味ある人は下記へ

歴史ゲーム板の毛利を語ろうスレをログ速で読んで
秀吉擁護 ID:OLS/uK1H
アンチ秀吉 ID:7zgWFRNP


アンチ秀吉の反日君の性格は下記のとおりなので、
双方の意見を読んだ上で、どちらが正しいかは己で判断してください。

決着wwwwただ単にお前が24時間体制でひたすら永遠と粘着レスを続け、
他の用件があるのでレスをやめるのを待ち続け
最後にレスした者が勝つ脳でひたすらループさせてるだけだろ。
237人間七七四年:2013/09/12(木) 12:10:43.48 ID:+SZn6ejQ
>>234
本能寺の変は明らかに秀吉が仕組んでやった事。備中〜京都までの距離で信長が殺されて一日半程度で
情報が正確に伝達し、真偽も確かめず備中陣を引き払ってるから、秀吉が最初から首謀的に信長を殺しただけ。
238人間七七四年:2013/09/12(木) 12:18:45.42 ID:rE7IfGhM
>>236で教えたスレに下記の情報も追加かな。
秀次を罪人同様に縄目の恥をかかせたのでうれしく思ってくださいと書いている。
ちなみに岡山大学付属図書館では秀次への縄かかりを兄弟への罪滅ぼしとしてさせることと訳している。
この書状からも秀吉の作戦の失敗というよりも秀次の判断ミスであるのは明白。
これにもアンチ秀吉のヤツがケチをつけているようだから下記の文章をテンプレに入れて欲しいところだな。
東京史料編纂所の所属だった染谷氏の訳は「兄弟からその失態によって縄で縛られることでしょう」と訳している。

つかそもそも秀吉は小田原城を干してから会津へ向かう宣言してるのに兵糧不足なわけがなかろうwww辻褄があわねぇwww
前年10月に長束へ蔵入米20万石を清水へ廻送するように命じ、さらに金一万枚で伊勢・尾張・三河・駿河で商品米を買い上げを命じ
2月末に加藤・九鬼・脇坂の水軍が山中城のある伊豆の目と鼻の先の清水湊
これにもアンチ秀吉のヤツがケチをつけているようだから下記の文章をテンプレに入れて欲しいところだな。
4/13の秀吉→おねの侍女である五さ宛て書状(形式的なもので実際はおね宛)でも
「各々へ申し触れて大名どもに女房を呼び寄せ小田原へ来るように申し触れた。
このように長陣を申し付けたそれゆえ淀殿を呼ぶのでお前の方からもしっかり申し付けてくれ」
「小田原城に坂東八国の者どもが籠ってますが、干殺して奥州まで〜行く末までも、天下の御ために
良いようにするつもりですから、今回は手柄を奮い長陣をして、兵糧や金銀も出してのちに名前が残るようにする」
このように小田原城には八カ国の兵が集まって篭城してるし、
秀吉は大名の妻まで呼び寄せて長陣するほど戦況も余裕だったし兵糧もふんだんにあった。

天正5年に一旦、秀吉によって但馬平定されたのは事実だし
朝来郡と養父郡を占拠し生野銀山を手に入れ出石・城崎・美含・二方の4郡を山名親子に安堵
天正6年春には武田城の秀長の元へ山名氏政が挨拶にきてるほど安定していた。
しかし天正7年に垣屋豊続が元春を訪れ但馬侵攻を哀願したので、
元春は今度の但馬侵攻の目標を八木・竹田両城を手に入れないと但州の儀は正儀あるべからず
と書いていて但馬支配の要が両城であるとしている。まぁ実質、生野銀山を奪い取ることが目標だわな。
そして元春は8月くらいに但馬へ侵攻したと考えられている。
しかし秀吉の調略に応じた宇喜多や南条が離反した為に9月には元春が但馬から逃亡し、
一ヶ月に満たない但馬訪問に終わる。天正8年に入り織田軍が謀反者追討で但馬へ入ると、
垣屋氏が但馬山名氏の居城だった有子山城に逃げ込んだが5/16に開城。
山名祐豊は5/21病没し、氏政は因幡へ逃亡し但馬を織田領に組み込み完了。
垣屋豊続は水生山城→余部城→田井城と逃亡を続けたが宮部善祥坊に降伏斡旋され帰順。
垣谷豊続が織田軍に勝ったなどと主張してて笑えたわ。さすがキチガイアンチ秀吉の織田朝鮮人だわ。
光秀の援護とか意味不明なもんを付け足したりとアホ杉。
さらに言えば天正10年5/4小早川→冷民少の書状でもって秀吉が鴨城(加茂城)で敗戦と主張しているが、
5/6には秀吉が亀井茲矩に宛てて備中国の巣蜘塚城・河屋城・加茂城・亀石城を落城させたので
備中国の平定の目処が付いてきたことを書き送ってるし、
勢いがますますついて5/7には備中国高松城を包囲して水攻めを開始してる。
ちなみに5/19に秀吉は柴田勝家の与力の溝江大炊允に戦況がうまく言ってると報告してる。
はっきり言って毛利方の糞書状なんてまったく信用できないもんなんだよカス。
加茂城→鴨城と表記を見事に間違える冷泉民部少輔の子孫による後世作成偽書状wwwさすが先祖の武功を捏造する毛利家臣団www
冷泉元満は水軍の将なのになぜか備中高松城の近くでめちゃくちゃ内陸地の加茂城www
239人間七七四年:2013/09/12(木) 12:27:07.96 ID:C20vlyAb
いくら連投しようが透明NGですっきり
240人間七七四年:2013/09/12(木) 13:34:45.76 ID:60V5v2W7
織田厨得意の自演で今日も反日活動w
尊敬する兄の国朝鮮に出兵した秀吉なんて全否定ニダ!!!
反論するやつはことごとくレッテルを貼って排除ニダ!!
241人間七七四年:2013/09/12(木) 16:20:47.90 ID:IpEWJVf7
>>天正12年4/11 秀吉→養徳院(信長乳母で池田恒興の母)孫七郎(秀次)参らせ候 そこ元下々騒ぎ候わんと存じ、御城(大垣城)の留守居に遣わし参らせ候
>>孫七郎めも、命助かり候も、せめて三左衛兄弟(輝政・長吉兄弟)の為に(首に)縄かかりにて候と、御うれしく思い参らせ候
>>などと秀吉は書いていて秀次を大垣に派遣した目的を池田家中が怒って騒いでいる元凶である秀次の失策で恒興親子を死なせた償いとして、
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる

秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。

>>166
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ

>>秀次を罪人同様に縄目の恥をかかせたのでうれしく思ってくださいと書いている。
秀次は縄目の恥なんて書いてねーよボケ
242人間七七四年:2013/09/12(木) 16:21:24.53 ID:IpEWJVf7
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるという
かなり縦長の陣容だったがこの時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。柏井にいる一柳宛書状に
『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる。しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに軍事的才能がなさすぎる。敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としか
いいようがない。池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
あらしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
>>秀吉は書いていて秀次を大垣に派遣した目的を池田家中が怒って騒いでいる元凶である秀次の失策で恒興親子を死なせた償いとして、
>>秀次を罪人同様に縄目の恥をかかせたのでうれしく思ってくださいと書いている。
秀吉が自分の戦術ミスで徳川方に大敗したのを池田家からの非難を恐れて無理矢理秀次に押し付けてるだけじゃねぇかアホ
秀吉が池田隊や秀次隊に無謀な行軍中入りを命じたのは>>509のように明らかだろうがタコ
秀吉が自分の作戦失敗を部下になすりつけるのは滝川の蟹江合戦の時とかいつもの事だしな(蟹江から眼前の大垣にいながら滝川を見捨てた)
>>ちなみに岡山大学付属図書館では秀次への縄かかりを兄弟への罪滅ぼしとしてさせることと訳している。
>>この書状からも秀吉の作戦の失敗というよりも秀次の判断ミスであるのは明白。
秀次は実際には縄かかりにはなってないし陣立書や書状から、美濃大垣に入り8/19に犬山8/27に楽田とちゃんと後詰部隊として動いてる
>>つかそもそも秀吉は小田原城を干してから会津へ向かう宣言してるのに兵糧不足なわけがなかろうwww辻褄があわねぇ
小田原で現地調達するつもりか、後からさらに届けさせようとしたんじゃね
>>前年10月に長束へ蔵入米20万石を清水へ廻送するように命じ、さらに金一万枚で伊勢・尾張・三河・駿河で商品米を買い上げを命じ
>>2月末に加藤・九鬼・脇坂の水軍が山中城のある伊豆の目と鼻の先の清水湊
山中城守備の松田康長の3/21付け書状の「敵陣中は兵糧不足で山芋を掘って食べており、米一升が鐚銭100文もしてるが、
それも底を尽き雑炊一椀が10文になっていおり長陣は無理」の書状があるな

>>4/13の秀吉→おねの侍女である五さ宛て書状でも「各々へ申し触れて大名どもに女房を呼び寄せ
>>小田原へ来るように申し触れた。このように長陣を申し付けたそれゆえ淀殿を呼ぶのでお前の方からもしっかり申し付けてくれ」
>>「小田原城に坂東八国の者どもが籠ってますが、干殺して奥州まで〜行く末まで天下の御ため
>>良いようにするつもり 今回は手柄を奮い長陣をして、兵糧や金銀も出してのちに名前が残るように
秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
243人間七七四年:2013/09/12(木) 16:22:28.77 ID:IpEWJVf7
>4/13の秀吉→おねの侍「各々へ申し触れて大名どもに女房を呼び寄せ小田原へ来るように申し触れた。
>このように長陣を申し付けたそれゆえ淀殿を呼ぶのでお前の方からもしっかり申し付けてくれ」
むしろ長陣覚悟で、長期戦を想定してたんだからいかに小田原征伐が苦戦だったかがわかるだろ。実際忍城1000小田原1000
韮山500などに手も足も出てないし一柳・前田重臣・堀尾嫡男・平岩弟・依田が戦死し氏家も負傷。
小牧長久手の時の茶会とかと同じで秀吉は苦戦しまくってもパフォーマンスで一夜城作ったり茶会やったりして中身のないパフォーマンスやったり
苦戦しまくってても隠蔽して楽勝みたいに捏造しまくるのはいつもの事だからな
6月の時と同じでガチンコで東駒野・戸木・松の木・二重堀・河波など砦みたいな小城郡を全く落とせず
苦戦しまくっていた雑魚秀吉お得意の中身のないパフォーマンスだろ。11月の時だって全く勝利の糸口がつかめず
諦めて大阪に納馬しようとしてたら信雄のヘタレ降伏に助けられただけだし
本願寺顕如に和睦斡旋してもらってやっと和睦にこぎつけただけだしそれなのに秀吉は9月に信雄が種種懇望してきたが断ってやったとか大嘘吐きまくってるし
小牧長久手時も秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてるが大嘘で信雄のヘタレ降伏による
秀吉のウルトラスーパーラッキーパンチでの停戦(秀吉の勝利でもなんでもない)まで2か月も経ってるな。
大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。
しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため
苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
>>「小田原城に坂東八国の者どもが籠ってますが、干殺して奥州まで〜行く末までも、天下の御ために
>>良いようにするつもりですから、今回は手柄を奮い長陣をして、兵糧や金銀も出してのちに名前が残るようにする」
むしろ米20万石&金1万両を容易しながら、わざわざその後に兵糧や金をふんだんに出してなどと書いてるんだから、
金や兵糧を出さないといけないような状態だったって事だろ。豊臣方は那須記や榊原書状によれば50万もいたようだし
20万石も容易させながら3か月程度でなくなりかけてたんだから。
>>このように小田原城には八カ国の兵が集まって篭城してるし、
集まってねーよアホ。豊臣作成の北条家人数覚書や関東八州諸城人数覚書から小田原には1000しかいなかったとわかるし
兵力を集中してた下総や北武蔵・上野の拠点を家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが落としてくれたおかげで
秀吉ははっきりいって何もやってない。
そんな雑魚諸城攻防で20〜80倍もの兵力で攻め込んで落とせず大苦戦し一柳・堀尾嫡男・前田重臣など多数戦死し
4か月だってもガチンコで落とせず徳川や伊達に見捨てられてただでさえ抗戦・和議で割れていて乏しかった
戦意が0になったおかげで助かっただけなのが秀吉
豊臣軍は北条以外全て味方で、しかも北条からは会戦開始早々皆川ら下野勢が寝返ったりしてるし
豊臣にぜめられた山中城や本拠小田原も内通者がいた上に氏勝は逃亡。
松田・笠原など重臣まで篭絡されてる有様だったし別に実力で負けたわけじゃない。

あと小田原城は落ちていない。ただ自軍の味方がいない状況で抗戦しても無駄だと判断して開城しただけで、
兵糧物資がなくなってるわけでも豊臣方に内部まで侵攻されたわけでもないしただ圧倒的大軍に攻囲されて反抗を諦めただけ
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる

>>秀吉は大名の妻まで呼び寄せて長陣するほど戦況も余裕だったし兵糧もふんだんにあった。
秀吉が苦戦しまくっててもハッタリパフォーマンスするのは小牧長久手の茶会とか見りゃ一目瞭然だし確か高松城攻囲のときとかもやってるはず。
逆に妻まで呼び寄せて戦意高揚させないと危うい戦況だったとも解釈できるな。兵糧どうこうは上記の理由で不足が確認されるし
小田原市史の久保田氏もちゃんと書いてる。
244人間七七四年:2013/09/12(木) 16:23:25.38 ID:IpEWJVf7
>>などと秀吉は書いていて秀次を大垣に派遣した目的を池田家中が怒って騒いでいる元凶である秀次の失策で恒興親子を死なせた償い
秀吉が自分の無謀な敵地への放火・苅田・城攻め・諸城普請などを行いながらの遅い行軍で、徳川軍に気付かれ、秀次軍が奇襲食らって大敗し、しかも
徳川方の動きを把握していながらすぐに軍を出さなかったために負けた事を認識してなかっただけじゃん。
単純に別働隊の大将を秀次に命じてその別働隊が負けたから秀次のせいと無理矢理理由も考えず池田家からの非難を恐れて敗戦責任を押し付けてるだけだろ。
滝川の時も眼前で敢闘する滝川に対して家康にビビッて後詰も出さず負けたのを無理矢理滝川のせいにして押し付けるクズっぷりだからな。
>>秀次を大垣に派遣した目的を池田家中が怒って騒いでいる元凶である秀次の失策で恒興親子を死なせた償いとして、
>>秀次を罪人同様に縄目の恥をかかせたのでうれしく思ってくださいと書いている。
秀吉が自分の戦術ミスで徳川方に大敗したのを池田家からの非難を恐れて無理矢理秀次に押し付けてるだけじゃねぇかアホ
秀吉が池田隊や秀次隊に無謀な行軍中入りを命じたのは>>509のように明らかだろうがタコ
秀吉が自分の作戦失敗を部下になすりつけるのは滝川の蟹江合戦の時とかいつもの事だしな(蟹江から眼前の大垣にいながら滝川を見捨てた)
>>ちなみに岡山大学付属図書館では秀次への縄かかりを兄弟への罪滅ぼしとしてさせることと訳している。
>>この書状からも秀吉の作戦の失敗というよりも秀次の判断ミスであるのは明白。
秀次は実際には縄かかりにはなってないし陣立書や書状から、美濃大垣に入り
4/14秀吉→一柳・伊藤や4/16秀吉→一柳で美濃の青柳に派遣されてるし
8/19に犬山8/27に楽田とちゃんと後詰部隊として動いてる
>>この書状からも秀吉の作戦の失敗というより秀次の判断ミス
秀次は判断ミスなんてしてねーよアホ
秀吉の指令通り途中で築城城攻め苅田放火などを行いながら行軍してたから背後の備えが手薄になり徳川方に襲撃されただけだし
秀次軍の背後にさらに後背の警戒部隊を置くなり秀次とある程度離れてさらに2万か15000くらい中入りさせるなりすりゃいいだけだろうが。
敗戦当日早朝に秀吉はすでに徳川方の動き把握してたのが一柳宛書状でわかるが、すぐに軍を出さなかったために負けたし100%秀吉の戦術ミスだろうが。
わずか10町15町の距離にいる敵に対してしかけた軍事作戦が秀吉の失態じゃないなら秀吉の功責となる戦なんて一つもねーよクズ
245人間七七四年:2013/09/12(木) 16:24:23.07 ID:VNNlst4O
>>241->>243
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉の下記のようなデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな

尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定w
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないw
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは2人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるしそれ以外のやつもほとんど織田信雄分限帳で生きてるのがわかるのにwww
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね。なぜ今更付け城の話を????
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記・織田信雄分限帳など)
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)w→いやはやこれは笑うしかないw3月上旬に留守居兵ろくにいなく、陥落した犬山を4月ってw
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→2人を除いて生き残ってる

尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分w これが本当なら防衛どころじゃないw
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンwギャグがすぎるだろwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るw
9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しい?
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
9月時点での懇望を断ったのに11月では容認 明らかにデタラメ
246人間七七四年:2013/09/12(木) 16:26:48.12 ID:VNNlst4O
小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
信雄は伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる。完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
247人間七七四年:2013/09/12(木) 17:02:13.83 ID:ZmybRLkH
ちょっとでも秀吉を肯定的に評価すると、
キチガイ反日織田厨による
スレ潰し火病コピペ絨毯爆撃が開始されて、
スレ崩壊すんだよなあ…
ほんとこのキチガイチョンの工作何とかならんのかねぇ。
248人間七七四年:2013/09/12(木) 17:02:28.78 ID:+SZn6ejQ
秀吉厨のデタラメ
>>「一次史料を見ると信長も1万〜3万くらい
>>兵糧や衛生管理や屎尿対策の壁で一戦場3万が動員限界とされたのが戦国時代」

天正3年5/15奥平書状で織田徳川で7万騎動員してるのがわかる
毛利軍も高松攻防時5万と秀吉が本能寺後の書状で書いてる
柴田も上杉討伐の時45000の大軍を動員してるのが享禄以来年代記でわかる
手取川合戦では織田軍は主力級総メンバー連れており、少なくとも長家家譜のように4万越えはしてるはず
国力に対して課されるのが動因数で国力があっても大軍を集結できない大名なんていねぇよクズw
一揆とか国が疲弊・瓦解してるだけだろうがw
軍なんて鎌倉や南北朝時代の戦争でも動員されてるだろ
織田の場合は戦線が複数あったから一箇所に超大規模の大軍が集結しなかったというだけだし
信長公記基準だとかなり大軍動員してるし島津も大友も動員してる(耳川や水俣城攻防戦など)
足利軍30万騎とか書いてあるね。
多聞院日記や兼見卿記をみると15万とか10万とか天正5年で動員してるし
戦国期より遥かに兵站技術が遅れた鎌倉や南北朝戦争でも数十万の大軍が一遍に動いてるのに
兵の動員数に限界数値があるわけねーだろアホ
ローマ軍や清とか中国の王政はどうなるんだよ馬鹿がw

朝鮮出兵なんて馬鹿な戦を
>帝国主義・重商主義の世界史的な流れを理解し 大陸進出により、日本が強国で植民地化が不可能だと悟らせた。
>看羊録には、秀吉の朝鮮出兵は諸大名の力を削いで 戦乱や領地を望む心を奪うためと書いている。
>戦国の機運を終わらせるためには強権発動も必要なのだろう。
>国内で変事を起こさせないように兵を消耗させ
>戦国の気風がある荒々しい武将どもの内乱意識を消す戦後処理を謀る意図があったとする。
>また土木工事も諸大名の経済力を奪い取ると同時にインフラ整備と経済活性政策であった。

こんなすり替え方してマンセーの流れに入れ替えるとか馬鹿すぎる。その結果が豊臣崩壊じゃねぇかw
249人間七七四年:2013/09/12(木) 17:05:07.34 ID:E2Xox3ov
そもそも源平合戦とか戦国期より遥かに後進的軍隊の頃でも10万20万と大軍動員してるし
中国とかヨーロッパの戦史とかだとそれより遥かに昔の時代に規格外の大軍が動員されて動かされてるのに
戦国期の日本の軍隊の動員数が2〜3万が限界とかアホにも程があるだろ。
戦史まともに勉強しろや。確か元寇のときでももっともっと動員してただろ
250人間七七四年:2013/09/12(木) 18:06:03.06 ID:auY5rKR0
織田厨って長文ばっかでホント迷惑だよな
実社会で共通の趣味や友人居ないから構って欲しいんだよ。
ここは大人の対応で。
251人間七七四年:2013/09/12(木) 21:25:25.52 ID:sHsRO6gS
各軍団長が率いる軍勢と織田家直轄軍の勢力均衡が
崩れた末に起きた事件って事だな>本能寺の変
252人間七七四年:2013/09/12(木) 22:20:51.35 ID:tG4tWnic
大返しの日程は各太閤記によって
微妙に異なって整合性がない。
だから一般本なんかで一覧表になってたりするが
これも不正確で、「川角本を元に作成」とかしないと
いけない。

後から結果を知ってから「誰でもそうする」「別に早くない」
というのは簡単だが、その前の状況から判断すると
行動自体がものすごく異例でありえないぐらいだろう。

例えば山崎の戦いだって「絶対に勝てる」という保証なんかどこにもない。
姫路で情勢伺うことも十分に普通。
結果知って「かなりの大勝」という前提があるから
「誰でもそうするよな」「ここで仇打てば天下を目指せるから
誰でもそうする」とか後だしジャンケンなんだよね。

このあたりもかなり論がループしてるが
少なくとも秀吉の行動を「当たり前」「プラス評価にはならない」
というのはおかしいだろう。
253人間七七四年:2013/09/12(木) 23:08:56.45 ID:uUW7MfkA
反日織田厨荒らしコピペ爆撃は都合が悪い事実が書かれた時に始まる。
つまり事実ということ。
254人間七七四年:2013/09/13(金) 00:22:01.56 ID:B1iOJ2mW
200キロを10日だから別に早くないわな。
大げさに講談でマンセーされてるだけ。
255人間七七四年:2013/09/13(金) 00:27:32.87 ID:u4/EsBsq
山崎合戦なんて最初から勝ったようなもんでしょ。池田・高山・中川ら摂津の諸将は
本能寺前時点で秀吉が光秀との政争勝利の結果から秀吉派軍閥だし中川なんて天正8年時点で兄弟の契り結んでるほどで
光秀側は主殺しの汚名背負ったせいで細川・筒井ら与力連中に背かれ信雄・信孝・丹羽ら周辺諸将も基本みんな敵。
ありえないタイミングで信長が光秀に殺されたおかげで棚ボタ的に主殺しの敵打ちの大儀名分手に入れて
それを利用して次々に勝手に味方が増えたし、信長が殺されてから、わずか1日半でその報を知る棚ボタっぷり。
しかも毛利も都合いいタイミングで即座に難航することなく和議に応じてくれたし
256人間七七四年:2013/09/13(金) 00:30:43.82 ID:WeXCNtfU
つーか本能寺の変は明らかに秀吉が仕組んでやった事だから最初から勝てて当たり前でしょ。
備中〜京都までの距離で信長が殺されて一日半程度で
情報が正確に伝達し、真偽も確かめず備中陣を引き払ってるなんてありえないし
秀吉が最初から画策して首謀者として信長を殺しただけ。
257人間七七四年:2013/09/13(金) 00:43:06.46 ID:nyH+6NxF
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。

その後妹も同じように殺されてる。

秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
258人間七七四年:2013/09/13(金) 01:00:39.47 ID:yxiovGc2
確かにそこそこ切れ者のはずの光秀が、あんな勝算のない状態で単独で主殺しを行い
四面楚歌を招くとか普通にありえないわな。織田家中での光秀単体での軍事力なんて知れたもんだし
秀吉と光秀が協力した画策(信長殺し)を協力するはずの秀吉が破って光秀が逆に汚名を一心に背負わされて結果殺されたと考える
方がしっくりくるな。
259人間七七四年:2013/09/13(金) 11:42:42.30 ID:bRxnFUBq
深夜に必死に反日アンチ秀吉織田厨の自演放送w
260人間七七四年:2013/09/13(金) 21:10:34.22 ID:Z7LiDOQg
噂もあたかも事実のように語る反日バカ織田厨…
261人間七七四年:2013/09/13(金) 21:29:37.16 ID:JkcMnhYe
浅間山噴火による武田滅亡みたいな大嘘よりは、本能寺の変秀吉首謀説の方が遥かに現実に即してるだろ
262人間七七四年:2013/09/14(土) 11:04:32.83 ID:Z4h9p66h
秀吉黒幕ってのは、その頃ケータイがあったと
思ってるとしか考えられないんだよな。
大返し簡単説も、その頃道路が舗装してあって
ゲーム上の一直線のまっすぐな道で
車やコンビニがあったと思ってるかな。
263人間七七四年:2013/09/14(土) 11:16:17.82 ID:h/YE9cjs
むしろケータイがない時代でわずか1.5日であの距離を情報が正確に敵対者である羽柴陣栄に届き
その正否を確かめる事なくさっさと毛利と和議結んで引き上げるとかありえんだろ
大返しなんて1日20キロペースで現代人でも十分歩ける距離だぞ。
264人間七七四年:2013/09/14(土) 11:26:12.28 ID:PnH/ANDM
本能寺の変後一気に奸臣と化し謀略で織田家を乗っ取るクズっぷりからすれば
秀吉首謀説はかなり秀吉の性格に即しているといえる
265人間七七四年:2013/09/14(土) 12:27:33.64 ID:hMErV2S4
>>263
一人で歩くのと何千何万の軍勢の行軍を一緒にされても
266人間七七四年:2013/09/14(土) 12:53:42.03 ID:FTSHcD9A
帰還なんだし、大将さえ帰りゃなんとでもなる
267人間七七四年:2013/09/14(土) 13:08:31.62 ID:Ii/ORhFp
そもそも山崎の合戦の秀吉の兵はほとんどが播磨の留守兵。
中国から帰ってきた連中ではない
268人間七七四年:2013/09/14(土) 13:08:42.04 ID:HauJ1/gR
>>265
何がいいたいのかわからん。大返しの速度なんて関ヶ原のときの秀忠軍や徳川軍の西上速度と大差ねーじゃん
一日20KMペースって当時の軍隊でごくごく標準的どころか、速さだけをいうなら遅いくらいだよ。
269人間七七四年:2013/09/14(土) 16:40:12.59 ID:3sMrOpQ5
200キロってのは直線であって
当時の道がどれだけ不便だったか、というのは
わかってるのかな。
未確認情報にかけて準備もないのに
9〜10日の一気の行軍を実行した、という
決断もすごいがそれを成功させたというのも
たいしたものだ、という話なんだけどね。
食事も水もないいきあたりばったりで
そういうのを批判するならともかく、現代人でもできる
というところがもはや驚きだ。
しかも毛利の追撃も警戒しないといけないし
姫路を空けたあとのことも考えないといけない。
そういう全てを勘案しての大返しなんだが
「速さだけなら遅い」ってのもすごいもんだねぇ。
270人間七七四年:2013/09/14(土) 16:59:44.20 ID:CB58rVKK
毛利と秀吉の和平交渉が運よく成ったから備中を引き払っただけだし
情報の真偽を確かめる事なく即座に行動を起こしたのは秀吉があらかじめ計画した証拠だろ。
ただでさえ備中京都間をわずか1日半で情報が駆け抜けるというありえない事態が起きてしかもその情報を秀吉は鵜呑みにしてるわけで。
200キロを直線じゃないどうこうの話するなら
秀忠が行軍した中仙道とか家康の東海道とかは遥かに直線距離より曲がりくねった道なわけで。
秀吉の通った高松〜播磨間は味方や秀吉策源地播磨の領国内のまっただ中なのに
事前の準備がないも糞もない。秀吉が変に備えて事前に準備を行っていたと書いてる学者だっていくらでもいるわけで。
271人間七七四年:2013/09/14(土) 17:15:46.62 ID:CB58rVKK
当時の道が不便だったって皆そういうところを通って遠征したり逆にそういうところに陣を張って迎撃したり
してるのが戦国大名なんだが。
あと中国街道が不便だったとか秀吉方策源地の中なのに食料や水もないいきあたりばったりというソースはなんだ?
272人間七七四年:2013/09/14(土) 17:21:35.82 ID:72qxBi+V
水や食料がないのに兵士が10日も行軍するのは不可能。
長距離間の行軍は兵士の水分やカロリー消費から考えて相当な食糧水が必要
水や食料を事前に準備してたから10日に及ぶ行軍を行っただけ。
毛利が運よく和議に乗ってくれた上にわずか1日半で遥か遠くの京の変事が、敵であるはずの
秀吉方陣営に飛び込み、しかもその真偽を検証する事なく鵜呑みにするという棚ボタ奇跡が起きたのが本能寺の変
明らかに秀吉は京の変事をあらかじめ知って予想し事前に準備しまくってただけ。
本能寺の変後一気に奸臣と化し謀略で織田家を乗っ取るクズっぷりからすれば
秀吉首謀説はかなり秀吉の性格に即しているといえる
切れ者のはずの光秀が、あんな勝算のない状態で単独で主殺しを行い
四面楚歌を招くとか普通にありえないわな。織田家中での光秀単体での軍事力なんて知れたもんだし
秀吉と光秀が協力した画策(信長殺し)を協力するはずの秀吉が破って光秀が逆に汚名を一心に背負わされて結果殺されたと考える
方がしっくりくるな。
273人間七七四年:2013/09/14(土) 17:24:25.57 ID:V2aN6C1v
背後は南条宇喜多が守ってて端から心配する必要がないしな
毛利軍は雑魚だからそうがかりで攻め込んでも宇喜多に大敗したり
南条4万石程度も攻略失敗したりしてるし
274人間七七四年:2013/09/14(土) 17:51:21.58 ID:6dKoS9sY
該当スレでやれ。
275人間七七四年:2013/09/14(土) 22:36:30.62 ID:M5BEJDFJ
水や食料がないて。。。
砂漠を進軍してるんじゃないからさぁ
そんなら関ヶ原の落ち武者はみんな餓死してるわ
276人間七七四年:2013/09/15(日) 21:21:09.89 ID:Rd2VpX/m
てかそもそも光秀あたりが援軍に来る
手はずの街道を、逆走しただけでは?w
277人間七七四年:2013/09/16(月) 17:13:01.59 ID:wF7Eldbt
現在と比べて当時の道は不便だし
水や食料は事前に準備してなかった
という意味だね。
事前に準備してた、という記録はあるの?
それを書いた学者って誰?
歴史的大発見でもあったのかな?

あらかじめ計画した証拠、というのがわからない。
もし毛利が和睦を受け入れなかったらどうしてんだ?
追撃くらったらどうした?
共同計画なら逆にあんなに急いで戻る必要もないだろう。

京からの連絡が1日半で着くのはそれこそ
普通でありえないことでもないだろう。
記録にもしっかり残ってるので
連絡はまちがいなくあったわけだし。

秀吉首謀、はいいがいつどうやって光秀や
関係者と打ち合わせしたの?

ところで、帰りの行軍の道もはっきりしてないし
10日と一口に言うけど、各太閤記の非整合性と
書状なんかの疑問点はどう考えてるの?

そういった不明な点こそいかに突発での大返しであり
事前に何も準備してなかったことの説明になるのだけどね。

例えば姫路に秀吉が入ったのも確実に6日とは言えないし
大軍の残りが8日〜9日に戻ったとすると
それこそその軍が次の戦になど対応はできない。
かなりの犠牲がでたことからも事前準備がされてなかったことの
証拠にはなるのだけどね。
それが、秀吉本軍ではなく大阪にいた兵中心になった
ことにつながる。
だけどこれも結果論で変を事前に知ってた?としても
京ー大阪の状況がどうなるかなんてわかりようがない。

まぁ結果を知った上で「こうだったに違いない」なんてのは
答えようがないのだけどね。

それと、秀吉は信長に応援要請を出してたので
京から信長が来る準備はされていただろう。
ただそれと大軍がいきなりやってきて水食料を要請するのとは
意味合いが違う。
自領地だって、大軍がいきなり戻ってくる準備なんて
してないだろう。
クソもない、というけど、準備がしてあって普通に戻れた
遅いぐらいだ、なんて当時の記録を見ればまずそうは
思わないと思うのだけど。
雨が降ったとか川は洪水だった、という記録もあるし
そのあたりも考慮して、1日20キロじゃ少ない、とか
言ってるのかな。
278人間七七四年:2013/09/16(月) 17:37:11.08 ID:iIOF0Y1Q
毛利と秀吉の和平交渉が運よく成ったから備中を引き払っただけだし
情報の真偽を確かめる事なく即座に行動を起こしたのは秀吉があらかじめ計画した証拠だろ。
ただでさえ備中京都間をわずか1日半で情報が駆け抜けるというありえない事態が起きてしかもその情報を秀吉は鵜呑みにしてるわけで。
200キロを直線じゃないどうこうの話するなら
秀忠が行軍した中仙道とか家康の東海道とかは遥かに直線距離より曲がりくねった道なわけで。
秀吉の通った高松〜播磨間は味方や秀吉策源地播磨の領国内のまっただ中なのに
事前の準備がないも糞もない。秀吉が変に備えて事前に準備を行っていたと書いてる学者だっていくらでもいるわけで。


当時の道が不便だったって皆そういうところを通って遠征したり逆にそういうところに陣を張って迎撃したり
してるのが戦国大名なんだが。
あと中国街道が不便だったとか秀吉方策源地の中なのに食料や水もないいきあたりばったりというソースはなんだ?
水や食料がないのに兵士が10日も行軍するのは不可能。
長距離間の行軍は兵士の水分やカロリー消費から考えて相当な食糧水が必要
水や食料を事前に準備してたから10日に及ぶ行軍を行っただけ。
毛利が運よく和議に乗ってくれた上にわずか1日半で遥か遠くの京の変事が、敵であるはずの
秀吉方陣営に飛び込み、しかもその真偽を検証する事なく鵜呑みにするという棚ボタ奇跡が起きたのが本能寺の変
明らかに秀吉は京の変事をあらかじめ知って予想し事前に準備しまくってただけ。
本能寺の変後一気に奸臣と化し謀略で織田家を乗っ取るクズっぷりからすれば
秀吉首謀説はかなり秀吉の性格に即しているといえる
切れ者のはずの光秀が、あんな勝算のない状態で単独で主殺しを行い
四面楚歌を招くとか普通にありえないわな。織田家中での光秀単体での軍事力なんて知れたもんだし
秀吉と光秀が協力した画策(信長殺し)を協力するはずの秀吉が破って光秀が逆に汚名を一心に背負わされて結果殺されたと考える
方がしっくりくるな。
背後は南条宇喜多が守ってて端から心配する必要がないしな
毛利軍は雑魚だからそうがかりで攻め込んでも宇喜多に大敗したり
南条4万石程度も攻略失敗したりしてるし
279人間七七四年:2013/09/16(月) 22:38:36.30 ID:z/jmyPy4
なんかもはや質問スレとして機能しとらんな
回答全然ないし変な在日が火病荒らししとるし…
280人間七七四年:2013/09/16(月) 23:23:06.56 ID:LWF20TNC
勝ったら女を自由にしてもいいの?
281人間七七四年:2013/09/17(火) 07:33:22.07 ID:u/uncxwK
>>278
うむ、レスよくわかった。
ソースはいっぱいあるんだが、まずは史料を確認してくれ。
各太閤記以外にも多聞院日記は当然としていろんな文書ね。

そっちは「ありえないから秀吉首謀ー事前に準備してあったはず」と
「事前に準備してあっただろーだから秀吉首謀の証拠」と要は自家撞着というか
ダブミーなんだよね、わかる?

中国街道が不便、じゃなくて、当時はすべてがそうなの、ね。
食料や水もないのが当たり前で、そこを成功させたからこその
「大返しのすごさ」なのさ。

逆に考えてはだめだよ。

それと、「光秀が勝算のない」というのもおかしい。
秀吉さえ「大返しに成功」しなければ、完璧だった。
朝廷もほぼ押さえてて敵は家康ぐらいだったろう。でしょ。

その時点では秀吉なんて「地方攻めてる猿の軍団」で誰も相手にしてない。
無視、だよね。
「大返し」に成功したからの「秀吉奇跡の3年」がはじまった。

本能寺の偶発性、奇跡、蓋然性の問題、は専門家でもかなり
異見はあるが、とりあえず「光秀の完全試合」で意見は一致してる。

つまり、あの時点で信長から光秀に一瞬天下はうつったわけね。
それが13日後にどうなったかはまた結果論、秀吉の話になる。

ただ、ケータイもないから、秀吉ー光秀ー朝廷とはつながりはありえなかったでしょ。

ところで、「事前に予測してた」ならこれはありえる。
エケイの「サリトテは〜〜」の書ね。
これは重要なんだが専門家は逆に軽視してるよね。
これこそまさに「光秀や秀吉ーその他は信長非謀反を予期してた」と
いう直接証拠なんだが、まぁ、今で言う「保険かけたら死ぬのを
待ってたよなー保険金殺人?」と一緒で歴史の範疇をこえる。

つまりさ、秀吉のやったことは「全部事前に準備してたからだよ」と言われるぐらい
すごかった、というのが普通の正しい解釈。
で、15年後には家康が同じことをするわけさ。

あ、ちなみに、水分やカロリーも詳細な研究はされてるからね。
休憩の時に川の水飲んで、おかゆ作って食べたのさ。
当時の川はそれなりに沸かせば飲めるからさ。
干飯のばしてそれが1食分、これで大返ししたんだからたいしたもんでしょう。
さらに、酒まで造った、という記録もあるけどそういうのは知ってる?

で、おかゆ作る「釜」まで持って走ったのだけど、そういうのも知ってるよね?
当時の役割分担まで記録にあるわけで、専門家はそういうのを知った上で
「大返しはすごい」と言ってるのだけどさ。

もっと具体的に証明できるけど、普通の新書にも書いてあるから
そのぐらいは読むと勉強になるよ、がんばってね。
282人間七七四年:2013/09/17(火) 11:04:16.67 ID:+DHktL9u
ここ質問スレだから。いいかげん他でやってくれんか
283人間七七四年:2013/09/17(火) 11:05:53.12 ID:5hcIXZf8
>>281
史料とは具体的に何の?多聞院日記の何条のどこ?状況から考えて秀吉首謀以外ありえないだろ。
毛利と秀吉の和平交渉が運よく成ったから備中を引き払っただけだし
情報の真偽を確かめる事なく即座に行動を起こしたのは秀吉があらかじめ計画した証拠だろ。
ただでさえ備中京都間をわずか1日半で情報が駆け抜けるというありえない事態が起きてしかもその情報を秀吉は鵜呑みにしてるわけで。
200キロを直線じゃないどうこうの話するなら
秀忠が行軍した中仙道とか家康の東海道とかは遥かに直線距離より曲がりくねった道なわけで。
秀吉の通った高松〜播磨間は味方や秀吉策源地播磨の領国内のまっただ中なのに
事前の準備がないも糞もない。秀吉が変に備えて事前に準備を行っていたと書いてる学者だっていくらでもいるわけで。
>>中国街道が不便、じゃなくて、当時はすべてがそうなの、ね。食料や水もないのが当たり前で、そこを成功させた
当時の道が不便だったって皆そういうところを通って遠征したり逆にそういうところに陣を張って迎撃したり
してるのが戦国大名なんだが。
あと中国街道が不便だったとか秀吉方策源地の中なのに食料や水もないいきあたりばったりというソースはなんだ?
水や食料がないのに兵士が10日も行軍するのは不可能。
長距離間の行軍は兵士の水分やカロリー消費から考えて相当な食糧水が必要
水や食料を事前に準備してたから10日に及ぶ行軍を行っただけ。
>>「光秀が勝算のない」というのもおかしい。秀吉さえ「大返しに成功」しなければ、完璧 朝廷もほぼ押さえてて敵は家康ぐらい
そもそも秀吉は10日かけて200キロを走破しただけで「大返し」なんて大袈裟な誇張のつく芸当なんてやってないし
柴田も信雄も信孝も丹羽も池田も中川も細川筒井滝川など、明智軍12000程度以外全て敵。
最初から明智単体での謀反なら成功するはずのない愚かな芸当としかいいようがないわけ。
>>その時点では秀吉なんて「地方攻めてる猿の軍団」で誰も相手にしてない
秀吉はその当時で長浜播磨但馬因幡備前美作備中淡路とすでに200万石級の大大名(宇喜多は直家死後幼君になって
秀家を擁する秀吉との一体化が一層進められていた)
さらに摂津の諸将も秀吉が光秀との織田家中での政争勝利から秀吉方軍閥で、中川なんか天正8年時点で兄弟の契り結んでる
>>「大返し」に成功したからの「秀吉奇跡の3年」
大返しなんていわれるほどの大袈裟な芸当やってないし、軌跡の3年なんて事も全くやってない。ただ織田家が、光秀に当主と嫡男を殺されたせいで無主状態になった所を
主君を殺した敵打ちの大義名分と三法師の後見役という立場を利用して織田旧臣たちを味方につけるなど火事場ドロしただけ。

毛利が運よく和議に乗ってくれた上にわずか1日半で遥か遠くの京の変事が、敵であるはずの
秀吉方陣営に飛び込み、しかもその真偽を検証する事なく鵜呑みにするという棚ボタ奇跡が起きたのが本能寺の変
明らかに秀吉は京の変事をあらかじめ知って予想し事前に準備しまくってただけ。
本能寺の変後一気に奸臣と化し謀略で織田家を乗っ取るクズっぷりからすれば
秀吉首謀説はかなり秀吉の性格に即しているといえる
切れ者のはずの光秀が、あんな勝算のない状態で単独で主殺しを行い
四面楚歌を招くとか普通にありえないわな。織田家中での光秀単体での軍事力なんて知れたもんだし
秀吉と光秀が協力した画策(信長殺し)を協力するはずの秀吉が破って光秀が逆に汚名を一心に背負わされて結果殺されたと考える
方がしっくりくるな。
背後は南条宇喜多が守ってて端から心配する必要がないしな
毛利軍は雑魚だからそうがかりで攻め込んでも宇喜多に大敗したり
南条4万石程度も攻略失敗したりしてるし

>>本能寺の偶発性、奇跡、蓋然性の問題、は専門家でもかなり 異見はあるが、とりあえず「光秀の完全試合」で意見は一致してる。
何それ?
どこが完全試合なんだ?光秀が単体での謀反ならアホとしかいいようがないだろ。織田家主殺しの汚名負ったせいで
光秀直属系12000以外織田家臣全て敵に回す事になったんじゃねーか。秀吉が来なくてもどの道ころされるしかねーわアホ
284人間七七四年:2013/09/17(火) 11:17:57.33 ID:GIiuOMDT
>>食料や水もないのが当たり前で、そこを成功させたからこその「大返しのすごさ」なのさ。
大返しなんて大袈裟な誇張のつく事秀吉は何もやってないし
秀吉方策源地のど真中を行軍してるのに水や食料なんてないわけがない。
軍隊が何日も生きるために食料も水も不可欠で、もしそれがないのに秀吉が行軍させて成功させたとしたら
兵士の生命力が凄いのであって秀吉は本物の馬鹿としかいいようがないわけで。

>>つまりさ、秀吉のやったことは「全部事前に準備してたからだよ」と言われるぐらいすごかった
事前に準備もしないのに備中京都間をわずか1日半で情報が駆け抜けるのはありえないわけ。
また光秀が単体で謀反起こしたというなら秀吉は敵になり、毛利に向けた使者が秀吉の陣営に都合よく飛び込むというのもありえないわけ。
さらに秀吉がその情報の真偽を確かめる事もなく、ただちに陣を引き払ってるのもありえないわけ。もし仮にそうだったら秀吉は誠に馬鹿としかいいようがない
(たまたま光秀が信長を殺した報が正確だったから結果オーライだったが、偽情報なら秀吉は毛利に後ろ見せるだけの馬鹿になる)

>>あ、ちなみに、水分やカロリーも詳細な研究はさ休憩の時に川の水飲んで、おかゆ作って食べたのさ。
>>当時の川はそれなりに沸かせば飲めるからさ。干飯のばしてそれが1食分、これで大返ししたんだからたいしたもんでしょう。
>>さらに、酒まで造った、という記録もあるけどそういうのは知ってる?
上記に関してそれをやったというソースよろ。
>>で、おかゆ作る「釜」まで持って走ったのだけど、そういうのも知ってるよね?
>>当時の役割分担まで記録にあるわけで、専門家はそういうのを知った上で
>>「大返しはすごい」と言ってるのだけどさ。
だから上記に関してその場面で秀吉がやったというソース出せ。
そもそも大返しが凄いなんて一部の秀吉マンセーの馬鹿しか言ってないし10日で200キロだから
速いどころか遅いとしかいいようがない。
285人間七七四年:2013/09/17(火) 11:21:19.74 ID:IDfSvz9k
まだキチガイ反日織田厨の自演は終わらないのかよ・・・
286人間七七四年:2013/09/17(火) 11:52:18.57 ID:Asz/q71i
--------------------ウリ様用しおり------------------------

                 ∧_∧
  今日はココまで    < `д´#>   読んだ

--------------------ウリ様用しおり------------------------
287人間七七四年:2013/09/17(火) 11:52:47.55 ID:VIdClQPs
おい、誰か通報しろよ
いい加減ウザくなって来た
288人間七七四年:2013/09/17(火) 12:10:18.22 ID:VKAuL8vR
常識的に考えて光秀が単体で本能寺を行ったとしたら光秀方としては情報の漏洩
はすなわち死に直結するわけで、毛利への使者もわざわざ秀吉に見つかりやすい山陽ルートではなくより安全な山陰ルートか
それでなくとも高松近辺からの接近は避けようとするはず。
しかも機密情報握った使者がなぜか、毛利方陣営と羽柴方陣営を間違え、しかもその本当かどうかわからん情報も秀吉は鵜呑みにしてさっさと陣を払っているあり得ない事態。
備中〜京をわずか1日半で情報が駆け抜けるというのもありえないが、それ以上にありえない奇跡ばかり起きているのが本能寺の変。
状況から考えて秀吉と光秀が共犯で信長を殺したが、秀吉が光秀を裏切って主殺しの汚名を一身に着せたとしか考えられない。
289人間七七四年:2013/09/17(火) 13:39:56.95 ID:mEioVRHw
なんで山崎の戦いスレを無視してここを占領してるんだ?
荒らしたいだけか?
290人間七七四年:2013/09/17(火) 13:58:04.14 ID:+DHktL9u
そりゃだがさんだもの
291人間七七四年:2013/09/17(火) 15:14:28.63 ID:/44bqy71
反論は山崎スレか本能寺スレか明智スレに移動で。
292人間七七四年:2013/09/18(水) 08:37:07.07 ID:iigF6Cfa
関ヶ原で小早川が裏切ったから勝ったてなってるけど、既に勝ちが決まったから
攻撃したていう事はない?

関ヶ原で家康の影武者が殺られたて資料あります?あれば殺られた家来の名前解れば教えて。
293人間七七四年:2013/09/18(水) 08:52:24.28 ID:XlqjhR1h
>>292
ない

ない
294人間七七四年:2013/09/18(水) 10:57:17.59 ID:OYibyMLF
>>292
大阪夏の陣で家康が戦死したため小笠原秀政が影武者を務めた、という説はある。
だがこの二人は年齢差が30近くあるんだよな、ムリすぎるだろ。
295人間七七四年:2013/09/18(水) 19:09:44.93 ID:vyYg4oOz
信玄死後、勝頼は家臣たちから何と呼ばれていたのですか?


御屋形様、御当代様、四郎様etc.
296人間七七四年:2013/09/18(水) 21:20:44.02 ID:y8pKBcvV
御屋形やね
297人間七七四年:2013/09/21(土) 08:45:05.39 ID:/BilCrlN
1560年10月時点で、越前を中心に近畿幾内等で
有名どころ、高性能な武将で浪人してるのは
誰でしょうか?

その停留している地名もお願いします。
298明智光秀じゃね?:2013/09/21(土) 11:45:30.01 ID:8QTE76cm
ある時代とそこから何十年後かの歴史認識と、
風化しまくったけど科学ある現代では
どっちが歴史の正確さって高いの?
299人間七七四年:2013/09/21(土) 12:01:19.85 ID:QC9Px+j3
先ずお前が何を聞きたいのかがわからん
300人間七七四年:2013/09/21(土) 12:21:03.85 ID:JFYMTRxl
エスパーすると
史料や生き証人が大量に残ってるが、
当事者に近い分、どうしても主観的になってしまう何十年後の時代と
残存史料はきわめて少ないが情報共有や学問の深化が進んでいて
客観的に比較的公平に見られる現代と比べた場合に
どちらがより正しい歴史認識が出来ているかということだろう。

まぁ現代は百分の一もピースが残っていないジグゾーパズルを
知識技術を総動員してどうにかとこうとしてるようなものだから
生き証人が居る時代には流石にかなわんだろうなあ
301人間七七四年:2013/09/21(土) 13:09:50.98 ID:Sg0pBci2
何十年後といえば、幕府が歴史編纂し各家の系図なども作るために、
各藩に史料提出を求めたのよ。
それで藩史を作る事業にともない、
各家にある書状の提出を求める大編纂事業ブームがあったんよ。
これで嫡流筋まで変わっちゃうから各家は対立し、
この期に落ちぶれた家は下克上狙いで偽文書を作ったりした。
例えば佐竹氏では「伝聞伝承でもウソ、事実問わないから全部の史料を出して!
間違っていても罪に問わないから!」ってことで各家が提出したんだけど、
例えば岩屋氏なんかも書状などを出した。
でもいろいろと事情があって、本来、嫡流筋にあるべき書状まで、養子や預かっていた寺社などに
ばらばらに伝わっていて、自分こそが嫡流筋を主張し、なぜ書状がうちに伝聞したかの申し開きでも
誰が本当のことを言ってるのか吟味が難航した。
牢人の岩屋団斎も祖母の覚書とともに大量の書状を提出した。
佐竹の裁定では、14通は本物とされたが、不正の書き物3巻6冊・不正書状20通
写し11通1包とされた。
そして本物は嫡流家へ強制返却。不正の書き物は近年の作で信用しがたいとされ、
不正書状は作為が見られる。写し11通1包は岩屋家に関係ないのにんぜ持ってる?
という結果になった。これになお不服を言った場合、
提出時にはウソでも罪に問わないといっていたが、今度はちゃんと証拠がない場合は罪に問うとはねつけられた。
こういうことが全国レベルで沸きまくった。
この編纂時の真偽の裁定をやっていた佐竹などの文書群は非常に高い信頼性が担保されることになった。
逆にこういうのをやっていないのが毛利家。これは陰徳太平記などの毛利家の歴史と先祖の武功を
批判検証してはならない聖域化していたのと、藩が大縮小したために下々の藩士に強く出られない権力不足により、
まtが大友・大内・宇喜多・尼子・赤松・山名が滅亡していたことにより、
矛盾する史観であるかどうかを判別する藩史が存在しないために恣意的歴史が作れる土壌があり、
旧毛利領だった地域ですらも偽書状が作られた。
302人間七七四年:2013/09/21(土) 13:45:47.56 ID:yBP8PRV4
歴代古案なんかも偽文書でしょ。
303人間七七四年:2013/09/21(土) 14:10:50.56 ID:L9XItWdU
>>302
幸い、徳川や佐竹や武田や北条の書状が山ほど残っていたから照らし合わせが可能だったし、
そもそも幕臣に旧武田家臣が多く、
徳川宗家は武田、御三家は上杉の兵法を採用し、研究していたので武田や上杉や北条や佐竹らの史料照らし合わせ編年史が完成し、
江戸を中心に東国大名は怪しげな書状はほとんどありませんが。
304人間七七四年:2013/09/21(土) 14:20:51.73 ID:Xd/p/+b5
>>301>>303
妄想には興味ないんで出典の文献とページ数でも書いてちゃんと引用文にしといてくれ。
305人間七七四年:2013/09/21(土) 14:29:58.85 ID:JFYMTRxl
ただの妄想だな。論ずるに値せず。
306人間七七四年:2013/09/21(土) 15:27:05.08 ID:T2P0RQvu
>>302>>304>>305
単発ID自演基地害のアンチ秀吉の反日織田厨涙目乙です。
307人間七七四年:2013/09/21(土) 15:33:58.42 ID:/BilCrlN
>>297
出来れば複数お願いします。
308人間七七四年:2013/09/21(土) 19:42:54.98 ID:Uz4GTUbP
御家再興の埋蔵金って実際掘り起こされたことあるの?
ニュースや新聞などで掲載された記憶ないので

武田の埋蔵金は穴山梅雪が関与してるまでは読んだことあります
309人間七七四年:2013/09/21(土) 20:13:59.80 ID:ywWAGE20
自分が見つけたら言わないでぽっけないない
310人間七七四年:2013/09/21(土) 21:13:32.17 ID:JFYMTRxl
武田氏の埋蔵金とか過去に見つかってるがそのくらいかな
311人間七七四年:2013/09/21(土) 22:08:15.80 ID:NIsDsDUY
>>303
マトモそうなのに単発IDなのが残念w
ある程度風化した歴史の場合は、
現代のほうが正確って感じかな?
312人間七七四年:2013/09/21(土) 23:11:21.57 ID:sIZVeSsm
>>303は完全に妄想だろ。
誰がそんな事いってるんだよアホ
歴代古案でも史料の編纂作業なんて普通に行われてるのに
毛利の文書だけ疑わしいとか馬鹿にも程がある
313人間七七四年:2013/09/21(土) 23:13:58.60 ID:pBifOIl7
>>312
文書はともかく「萩藩閥閲録」は後世に編纂されたもので、しかも証拠の怪しい話がかなり多いのは事実だぞ
314人間七七四年:2013/09/21(土) 23:26:50.52 ID:JFYMTRxl
編纂物の信用度なら東国でも似たようなものだろ
315人間七七四年:2013/09/22(日) 11:08:38.04 ID:88K8nGjn
萩藩閥閲録はガチでゴミ資料
熊見川の戦いを証明するゴミ偽書状の出典先。
316人間七七四年:2013/09/22(日) 11:13:30.82 ID:AnC5gjXE
来年の大河ドラマは軍師黒田官兵衛。
備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
http://mirai660.net/castle/
317人間七七四年:2013/09/22(日) 11:53:30.02 ID:bSDo9Ig+
萩藩閥閲録以外にも熊見川合戦ちゃんとのってるじゃんよ

天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老  此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、
去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人
所、羽築・荒木所へ…
天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、
天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、
尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、
7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由
7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条
7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条
10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、
12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、
天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、
彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、
因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田…
天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、
御粉骨之段、神妙被思召通、
天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、

天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫  宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長  敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼  今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候  天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿  輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監  花押 同左近大夫殿 御返報
318人間七七四年:2013/09/22(日) 11:56:20.57 ID:d7FHRtdq
あと萩藩閥越録を頭ごなしに捏造文書扱いしてるのは秀吉厨のアホ学者くらいだろ。
岡山県史編年史編とかでもちゃんとしたソース元として引用されてるし、山本浩樹氏も
毛利羽柴宇喜多の戦線の史料として直接的なソース元として引用してるほど。
逆に無視してるのは一次資料にしっかり登場するにもかかわらず上月は捏造名将で
七条が正式名称とか嘘をデッチあげてる三鬼とかアホ学者くらいだろ。
319人間七七四年:2013/09/22(日) 12:11:00.85 ID:88K8nGjn
児玉家文書とか家伝のはみんな萩藩閥閲録収録じゃねーかw
山口県史の地域別家伝文書にも熊見川の戦いの偽書状は完全排除されてんじゃんwwww
それに上月城で尼子を討った書状と熊見川の戦いの書状を故意に混ぜて有耶無耶にしてる誤魔化してるだけだろ。
そもそも現場には宇喜多軍がやってきていて、その配下に吉川元長がチョロって参加してたくらいだろwww
320人間七七四年:2013/09/22(日) 12:19:09.84 ID:KlkhFeM9
児玉家文書は萩藩閥越録ではないし
山口県史資料編において偽文書扱いされるどころか原本によって花押の確認できた文書類に分類されており
お前のいうような偽文書と書いてる学者も郷土史も全くないし
そもそも熊見川合戦は上月城下での合戦を呼称して読んでるだけなんだから
陰徳期とかでいう熊見川合戦=上月城下之合戦ってだけだろ
321人間七七四年:2013/09/22(日) 12:20:54.18 ID:7dAHJn5K
ソースとしてあげられた文書は山口県史資料編と島根県史資料編からの抜粋

山口県史資料編中世三巻凡例
2ページ目
正門でないものについては、中世に書写されたと思われるものには「案」とし
近世以降に書写されたと思われるものには「写」とした
現段階では真偽の容易ではない文書、また偽文書と考えられるものでもその存在に
何らかの意味があると判断される場合は、検討を要する旨の注記をつけて収録した。

ソースとしてあがってる書状をみてもそんな注記も「写」もついておらず
偽文書などという馬鹿妄想いうのは馬鹿のお前だけ
322人間七七四年:2013/09/22(日) 12:34:20.52 ID:88K8nGjn
>>戦国板 山口県史資料編3目次解説凡例
>>山口県史資料編凡例2ページ目
はぁ?お前の書いてる書状って萩藩閥閲録からの転記だろが。なんで山口県史史料編の注釈を持ち出して
萩藩閥閲録収録の輝元御印と書いてるだけの写しを偽書状写しじゃないと証明しようとしてるわけ?まったく関係ないだろwwwwwwww
だいたい萩藩閥閲録からの転記の
>>天正6年8/10毛利輝元→児玉
>>去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
敵数多討捕なんて書いてないからw書いてあるのは及鑓合被疵左足併郎従1人令討死だし
>>天正6年6/26輝元→児玉
>>態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
小次郎事と無比類の間には、被疵之由候、無心元候と書いてあるのに、なんで削除してんだよw
なんでお前は必死になってそこまで捏造歪曲しまくってんだよwww

つかさ、萩藩閥閲録収録の巻115の湯原文左衛門186通の中からお前は抜粋してるようだが、
山口県史料で本物認定して収録してある児玉文書はたった6通だけだぞwwww
しかも湯原分で調べると児玉文書第3(天正8年12/28)・4号文書(天正9年1/21)だけじゃんwww
こんなもん信用できるわきゃねーだろwww
323人間七七四年:2013/09/22(日) 12:35:26.29 ID:88K8nGjn
萩藩閥閲録なんて山縣平八家蔵文書9で先祖の山縣三郎兵衛が第四次川中島合戦決戦2日前に信玄から書状をもらったことをでっち上げ
その中で山本勘助は登場するは山縣別働隊が1万引きつれ啄木鳥の別働隊を率いる内容が書かれてる始末www
また1801年に源兵衛が先祖の由緒を偽造するべく萩藩に提出した山本勝次郎方御判物写でもやっぱり山本勘助を実在させちまうなど、
武田や毛利系講談軍記を参考に先祖の捏造軍功祭りだし、児玉文書も1800年代に突然登場するでっち上げ。
晋曾寺文書だって原本書状がない信用性ゼロの後世作成文書だろううが。
萩藩は資料収集の際に偽書状であろうが、真偽の認定を避けて、つか藩士の先祖を疑えない空気で口出しできなかったから
アホみたいにたくさんの軍記を元ネタにしたような軍功感状が湧き出てきて収録されてる。肝心の毛利本家に書状案などの形として
領地宛がいの根拠となる記録の書留めの記録すらない完全に根拠ゼロのな。
どこの大名家でも家臣が所持していた感状なんて稀で貴重なものなのに、萩藩はとにかくアホみたいにある。
上杉氏の文書写ですら藩士の所持していた感状なんてほとんどない。
どの大名家でもせいぜい口述筆記による記録や覚書や家系譜などに記されているレベルで信憑性に疑問がつくのがほとんど。
これは武田の武名から江戸期に武田家からの感状がアホみたいに偽造されて、
現代では武田氏研究会や山梨県史編纂の過程でほとんど偽書状認定されて取捨選択されたのと萩は対照的だ。
特に北条や上杉の書状と照らし合わされて研究される武田書状と違い、毛利は敵対勢力の生存がほぼなく(大友・大内・尼子・宇喜多など)
他大名との接点から遠かったため他有力藩からクレームもなく捏造しまくりの先祖武功大会状態。
324人間七七四年:2013/09/22(日) 12:50:05.66 ID:GEF4coPA
史料の編纂作業なんてどこの大名でもやってるだろ
上杉の年譜とか歴代古案とかと同じ
つかあげられた文書が全て偽文書と主張してる学者なんかいるのか?
325人間七七四年:2013/09/22(日) 12:50:17.32 ID:wY6oZwM4
この一連の自演でだがさんは何を得するんだい?
 
 
326人間七七四年:2013/09/22(日) 12:50:40.48 ID:SWvWUM4p
>>つかあげられた文書が全て偽文書と主張してる学者なんかいるのか
そんな奴いない
馬鹿一人だけ。
晋叟寺文書とか毛利藩の物が書いたわけでもなく
他の史料も花王がちゃんとついてるし捏造とか馬鹿
内容からして捏造&デタラメ99%な秀吉書状のがよほど後世の偽作の可能性高い
327人間七七四年:2013/09/22(日) 12:51:41.69 ID:bvgWOVlt
史料総覧  毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
萩藩閥閲録 晋叟寺文書 毛利家日記
[参考]備前軍記 浦上宇喜多両家記陰徳太平記 御答書 總見記 柏崎物語
【管理番号】020100216456 【編/冊/頁】10編911冊179頁 【綱文和暦】天正6年6月21日(15780060210) 3条
【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、
鉾盾削、就中為 虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、
成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下

荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、
輝元 御判

巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿  輝元 御判
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、 天正6年8/10毛利輝元→児玉
去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、
…中略  昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案
去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監  花押 同左近大夫殿 御返報
328人間七七四年:2013/09/22(日) 12:52:44.05 ID:bvgWOVlt
顕如条文案晋叟寺文書他これだけソースが上がってるのに文盲だろお前
手取川合戦も他家の史料には全く見られない合戦じゃん
むしろ、これだけソースがあるんだから合戦資料としては十分すぎるだろ>>124-125
忌宮神社文書服部家文書冷泉家文書福永家文書厳島野坂文書
いずれもちゃんとした文書集として花押が本物認定されてる
他家の史料ない事をどうこう言い出したら武田の合戦も上杉の合戦も北条の合戦も織田も自家の史料にしかない
オナニー合戦だらけになっちまうからな。
自家の敗戦なんて都合悪い事だから隠蔽されるのが普通だし
329人間七七四年:2013/09/22(日) 12:54:05.07 ID:bvgWOVlt
>毛利家日記みたいな家臣団が家に伝わってきいたと称し提出した偽書状の宝庫の捏造文書
根拠なし。毛利の負け戦もちゃんとのってるし史料の編纂作業なんてどの大名でもやっている。上杉の語年譜とか歴代古案とかと同じ
>東京大学が出版してる毛利や吉川や小早川家に伝わる正統な書状をまとめた家わけ文書の毛利家からソースをひとつでも出してみろと再三要求してるのなぜ逃げまくる
児玉家文書だの晋曾寺文書やらいろいろ出してるが無視しまくって捏造扱いしてるのがお前
>萩藩閥閲録なんて山縣平八家蔵文書9で先祖の山縣三郎兵衛が第四次川中島合戦決戦2日前に信玄から書状をもらったことをでっち上げ
>その中で山本勘助は登場するは山縣別働隊が1万引きつれ啄木鳥の別働隊を率いる内容が書
根拠なし。辛川合戦や加茂崩れみたいな醜態もちゃんと書かれているのが荻藩閥越禄
>また1801年に源兵衛が先祖の由緒を偽造するべく萩藩に提出した山本勝次郎方御判物写でもやっぱり山本勘助を実在させちまうなど、
>武田や毛利系講談軍記を参考に先祖の捏造軍功祭りだし、児玉文書も1800年代に突然登場するでっち上げ。
そんな事かいてる学者の論文やら出してみろよクズw都合悪い文書だけ捏造扱いしてんじゃねぇよチンカス野郎
>もう滅茶苦茶だなお前wそれ信長の命令で秀吉が撤退したのちも、
そもそもそれが軍記の講談ネタで兵庫県史とか洗ってみても信長の命令で秀吉が撤退したなんてどこにもかかれていない。
普通に毛利軍と熊見川の正面対決で大敗して戦線離脱せざるをえなくなっただけ
>>山中ら尼子復興軍の全滅の話であって熊見川の戦いとはまったく関係ねーよ捏造野郎くんよw
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案
去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
>>毛利の捏造ぶりの参考例・・・サムライワールド_歴史再発見_折敷畑合戦はなかった.1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、この合戦に関して発給されてたとされている感状である。
>>全部で五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。
それが熊見川とどう関係あるのか不明 あれが捏造だからこれも捏造とか妄言乙だな
330人間七七四年:2013/09/22(日) 12:54:42.18 ID:bvgWOVlt
>萩藩閥閲録なんて山縣平八家蔵文書9で先祖の山縣三郎兵衛が第四次川中島合戦決戦2日前に信玄から書状をもらったことをでっち上げ
>その中で山本勘助は登場するは山縣別働隊が1万引きつれ啄木鳥の別働隊を率いる内容が書
根拠なし。辛川合戦や加茂崩れみたいな醜態もちゃんと書かれているのが荻藩閥越禄
>また1801年に源兵衛が先祖の由緒を偽造するべく萩藩に提出した山本勝次郎方御判物写でもやっぱり山本勘助を実在させちまうなど、
>武田や毛利系講談軍記を参考に先祖の捏造軍功祭りだし、児玉文書も1800年代に突然登場するでっち上げ。
そんな事かいてる学者の論文やら出してみろよクズw都合悪い文書だけ捏造扱いしてんじゃねぇよチンカス野郎
>もう滅茶苦茶だなお前wそれ信長の命令で秀吉が撤退したのちも、
そもそもそれが軍記の講談ネタで兵庫県史とか洗ってみても信長の命令で秀吉が撤退したなんてどこにもかかれていない。
普通に毛利軍と熊見川の正面対決で大敗して戦線離脱せざるをえなくなっただけ
>>山中ら尼子復興軍の全滅の話であって熊見川の戦いとはまったく関係ねーよ捏造野郎くんよw
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案
去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
>>毛利の捏造ぶりの参考例・・・サムライワールド_歴史再発見_折敷畑合戦はなかった.1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、この合戦に関して発給されてたとされている感状である。
>>全部で五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。
それが熊見川とどう関係あるのか不明 あれが捏造だからこれも捏造とか妄言乙だな
>毛利の主張する捏造熊見川の戦いの日付は6/25
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、
自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、 成田五郎左衛門尉秀綱(花押)
晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、
輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候
天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿  輝元 御判
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、
…中略  昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、 以上児玉家文書
331人間七七四年:2013/09/22(日) 12:54:59.34 ID:88K8nGjn
本願寺や一向宗研究の第一人者であり
富山県史や福井県史の編纂に関わった金龍静氏の総チェック史料参照したところ
東大史料編纂編纂所架蔵影写本・写真帳
龍谷大学大宮図書館・本願寺史料研究所架蔵写真帳
国立公文書館内閣文庫の顕如書状や光佐書状や教如書状や
何人もいる下間書状や平井重敦書状や小笠原種盛書状や中島弘藤・若林宗成書状や
法敬坊玄、常楽寺証賢、益田照従、教行寺証智、横田芳堅・重恒、勧修寺晴豊
等々の書状を総攬しても「上月」なんて言葉は残念ながらまったく登場せず。
陰徳太平記を書いた岩国藩の香川景継が吉川家の意向を受けて、
関ケ原軍記大成などの軍記類に偽書状を元ネタに
吉川の主張を隠密裏に盛り込む活動をして
毛利は被害者ぶった史観を作りあげただけ。
このことを山本洋氏が解説し、
これを土台にして光成氏が書状研究した結果だね。

若狭小浜藩の大老酒井忠勝は直江と三成を首謀者にする
会津陣物語を作り上げ東国太平記でさらに昇華させ
6/20三成→兼続書状・7/14三成→兼続偽書状を製造し
これはのちに続武者物語にも転載され一般化され根付かせるのに成功。
これで徳川史観として三成と直江がすべて悪いと汚名を着せた。
直江状に本来なかった追而書を付け足す暴挙をやってのけて加筆したり
関が原前日の内通を約束する秀秋家臣稲葉(春日局のダンナ)宛て9/14付け井伊&本多ガセ書状を
捏造したりと怪しげなネタ満載の「関ケ原軍記大成」(著者は若狭小浜藩出身の宮川忍斎1655?1716没)
若狭小浜藩の歴史捏造事業(実態は低俗な軍記)は神レベルだと言えよう。
さらに毛利側も陰徳太平記を書いた岩国藩の香川景継が、
吉川家の意向を受けて、関ケ原軍記大成などの軍記類に偽書状を元ネタに
吉川の主張を隠密裏に盛り込む活動をして三成と安国寺に騙されただけと
毛利も被害者ぶった史観を作りあげた。
光成氏「この決起に輝元が直接関与していた可能性は高い」
「藩祖輝元の反幕府的活動をあからさまに証明する史料が隠滅された蓋然性は高かろう」
毛利は首謀者として改易させられ輝元の罪も問われる予定だったが、島津征伐が議題に上がったので
輝元は先鋒にすることになり減封になったのであり、偽書状のように広家のおかげで輝元が助命されたわけじゃない。
332人間七七四年:2013/09/22(日) 12:55:34.70 ID:bvgWOVlt
>>はぁ?お前の書いてる書状って萩藩閥閲録からの転記だろが。
はぁ?全部山口県史資料編と兵庫県史資料編と島根県史資料編から抜粋しただけだが?
>>山口県史料で本物認定して収録してある児玉文書はたった6通だけだぞwwww
どこにそんな内容が記述されてるのか書いてみろよクズw
山口県史資料編表題部には花押の書かれてるものしか乗ってないしその花押確認を写しに頼ったものには印影と
記載されてて偽者認定されてる書状なんてほとんどねーだろカス
>>(上月城の戦いがあったとする天正6年の湯原分ですら偽書状扱いして山口県史もガン無視www)
どこで偽書状認定してるんだよアホ
>>つべこべ言わずに研究者も出典として使う一次史料認定されている 毛利家・吉川家・小早川家・熊谷家文書 三浦家文書・平賀家文書等の家わけ文書
それ以外偽だと決め付けて一切排除してるの三鬼とか馬鹿な歴史家だけだよ
山口県史資料編中世三巻凡例
2ページ目
正門でないものについては、中世に書写されたと思われるものには「案」とし
近世以降に書写されたと思われるものには「写」とした
現段階では真偽の容易ではない文書、また偽文書と考えられるものでもその存在に
何らかの意味があると判断される場合は、検討を要する旨の注記をつけて収録した。

でソースとしてあがってる書状をみてもそんな注記も「写」もついておらず
偽文書などという馬鹿妄想いうのはお前だけ

天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老  此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、
去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人
所、羽築・荒木所へ…
天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、
天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、
尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、
7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由
7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条
7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条
10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、
12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、
天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、
彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、
因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田…
天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、
御粉骨之段、神妙被思召通、
天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、

天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫  宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長  敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼  今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
333人間七七四年:2013/09/22(日) 12:56:08.60 ID:bvgWOVlt
天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老  此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、
去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人
所、羽築・荒木所へ…
天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、
天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、
尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、
7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由
7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条
7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条
10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、
12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、
天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、
彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、
因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田…
天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、
御粉骨之段、神妙被思召通、
天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、

天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫  宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長  敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼  今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候  天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿  輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監  花押 同左近大夫殿 御返報
334人間七七四年:2013/09/22(日) 12:56:44.02 ID:bvgWOVlt
三鬼の妄想なんぞ知らん。山口県史資料編3目次解説凡例の最後から2ページ目の12行目
でも見直せ山口県史資料編凡例 2ページ目
正門でないものについては、中世に書写されたと思われるものには「案」とし
近世以降に書写されたと思われるものには「写」とした
現段階では真偽の容易ではない文書、また偽文書と考えられるものでもその存在に
何らかの意味があると判断される場合は、検討を要する旨の注記をつけて収録した。
んでソースとしてあがってる書状をみてもそんな注記も「写」もついておらず
偽文書などという馬鹿妄想いうのはお前だけ
さらに「上月城」という呼称は下記の他の史料でも使われており他の呼び方をしている文書が捏造されてできてるだけ
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫  宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長  敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼  今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
確か上月というのは顕如日記にもしっかり書かれていたはず。
顕如条文案にもしっかり存在するし逆に七条というデッチ上げ地名城名は秀吉の捏造文書くらいしか登場しない。

あと萩藩閥越録を頭ごなしに捏造文書扱いしてるのは秀吉厨のアホ学者くらいだろ。
岡山県史編年史編とかでもちゃんとしたソース元として引用されてるし、山本浩樹氏も
毛利羽柴宇喜多の戦線の史料として直接的なソース元として引用してるほど。
逆に無視してるのは>>882-883のようにこれだけしっかり登場するにもかかわらず上月は捏造名将で
七条が正式名称とか嘘をデッチあげてる三鬼とかアホ学者くらいだろ。
335人間七七四年:2013/09/22(日) 12:57:28.25 ID:bvgWOVlt
>>だからこの時期の織田軍は毛利と播磨西部で戦ってねーんだよカス

天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老  此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、
去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人
所、羽築・荒木所へ…
天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、
天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、
尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、
7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由
7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条
7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条
10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、
12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、
天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、
彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、
因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田…
天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、
御粉骨之段、神妙被思召通、
天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、

天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫  宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長  敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼  今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候  天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿  輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監  花押 同左近大夫殿 御返報
336人間七七四年:2013/09/22(日) 12:58:26.92 ID:SWvWUM4p
>>天正6年正月15日付け宇喜多直家→下刑法参 人々御中御報の内容では芸州へ重ねて仰せ談ずるとのことは最も肝要ななことです。
なんで上月合戦の半年前もの史料がソース元としてあがるんだよアホ
>>毛利は播磨表に出てくる気がなかったのがここで判明する。結果、下記のようになるわけだ。
宇喜多が毛利の出兵計画を誤認してただけだろアホ
>>6/18付け信長→荒木宛書状では宇喜多、八幡山罷越候由、無論不可有差事候
>>などと信長は宇喜多軍が八幡山まで進軍してきたが大したことはできんだろうと言っていて毛利軍自体が実は来てないし
なんで宇喜多が八幡山まで進軍してきたと書いたら毛利が来てないことになるだタコw
信長が誤認してたか宇喜多と別の所に毛利が陣取っただけだろアホ
>>6/25付け信長→家康宛書状では就播州面之儀〜去廿一日敵罷出候を追散、首十四討捕候、可然者共候由候、是式不物数人共申候
秀吉から歪曲された戦果の情報が信長にもたらされてただけじゃね
>>などと6/21に攻めてきた宇喜多軍なんて、これしきのの兵はモノの数ではないと楽観してるし←日付で言えば熊見川があったようだなw
ならなんで上月落とされて尼子勢全滅・西播磨から撤退の大敗戦になるんだよタコ
>>9/6付け信長→黒田宛でははやくも至備前面可進発候、就其差越羽柴筑前守候〜
>>などと秀吉を派遣するから宇喜多を追って備前へ攻め込めと命じてる
西播磨を攻略もしてねーのに備前までいけるわけねーだろクズw
>>実はそもそも黒田がいただけで秀吉自体もいなかったのがバレバレ。
根拠なし。秀吉側近黒田に秀吉派遣して備前に攻め込むといったらなんで秀吉がいなかったことになるんだアホ
>>早くも備前へ侵攻命令wとても播磨西部で毛利に負けてるようなでっち上げ話は信用できんわな。
播磨西部で負けたから上月初め西播磨の拠点悉く失って尼子衆や山中見殺しにしたんだろうがボォケwwww

>>結局さ、義昭を奉じた毛利軍の配下になった宇喜多軍が攻めてきたので、秀吉が戦って勝利したって言う歴史的事実を
そんな事実ない
>>毛利の捏造でっちあげ書状で宇喜多軍=毛利軍と脳内変換してるだけなんだわ。
秀吉が毛利にガチンコ大敗して西播磨からたたき出されたのを、毛利→宇喜多に摩り替えて
宇喜多を調略で味方に引き入れたのを武力で勝ったように捏造してるだけ。

>>東大史料編纂編纂所にガン無視された萩藩閥越録www
天正6年4月18日 2 吉川元春、小早川隆景、播磨に入り、尼子勝久、山中幸盛を上月城に囲
天正6年4月29日 1 信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援せしむ
天正6年5月4日 1 信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す
天正6年5月21日 3 羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、
尋で、宗治、同城を復す、
天正6年6月21日 3 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
天正6年7月5日 1 播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る、山中幸盛、偽り降り、尋で、毛利氏の爲めに備中合の渡に殺さる、

毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
萩藩閥閲録 晋叟寺文書 毛利家日記
[参考]備前軍記
[参考]浦上宇喜多両家記
[参考]陰徳太平記
[参考]御答書
[参考]總見記
[参考]柏崎物語
337人間七七四年:2013/09/22(日) 13:00:05.19 ID:SWvWUM4p
>>だからこの時期の織田軍は毛利と播磨西部で戦ってねーんだよカス

天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老  此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、
去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人
所、羽築・荒木所へ…
天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、
天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、
尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、
7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由
7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条
7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条
10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、
12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、
天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、
彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、
因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田…
天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、
御粉骨之段、神妙被思召通、
天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、

天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫  宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長  敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼  今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候  天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿  輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監  花押 同左近大夫殿 御返報
338人間七七四年:2013/09/22(日) 13:01:41.52 ID:SWvWUM4p
>>あれは合戦では無かったので虎倉合戦では無く加茂崩れと呼称。
>>毛利軍は有漢から福山への陣替のために近習が夜に先発し移動開始したけど
>>現地に不案内で進む先すら見分けられない有様。 そのため間違って小倉の尾頭へ出てるのに気づかず
>>高地の敵城から見透かされて、ことごとく討ち出してきて
>>鉄砲を撃たれたので移動中に小児与七郎、名古屋与七郎らザコが死んだ。
>>その後、死期を悟った悪魔の直家が伊賀久隆を毒殺したので、 これによって伊賀家久が長州藩の家臣となった。
>>一番笑えるのは荻藩閥閲禄において大四次川中島の戦い二日前の書状の写しがあって
>>そこには馬場を配下にしてる武田軍の参謀『山本勘助』が登場してて、2万のうち一万を山縣に預けるとか書いてる。
>>つかまだ飯富であって山縣を名乗ってませんがwww

そんな事でどこにも書いてねぇよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

>>萩藩閥越録は毛利の捏造文書集
萩藩閥越録を頭ごなしに捏造文書扱いしてるのは三鬼とかアホ学者くらいで
岡山県史編年史編とかでもちゃんとしたソース元として引用されてるし、山本浩樹氏も
毛利羽柴宇喜多の戦線の史料として直接的なソース元として引用してるほど。東京大学史料編纂所HPも参考軍記以外の直接的な
ソース元として利用してる。逆に無視してるのはしっかり登場するにもかかわらず上月は捏造名将で
七条が正式名称とか嘘をデッチあげてる三鬼とかアホ学者くらい
>>家わけ日記に出てる文書以外の毛利の史料は一次資料扱いされておらず偽文書

萩藩閥越録や毛利家日記を頭ごなしに捏造文書扱いしてるのは三鬼とかアホ学者くらいで
岡山県史編年史編とかでもちゃんとしたソース元として引用されてるし、山本浩樹氏も
毛利羽柴宇喜多の戦線の史料として直接的なソース元として引用してるほど。東京大学史料編纂所HPも参考軍記以外の直接的な
ソース元として利用してる。逆に無視してるのはしっかり登場するにもかかわらず上月は捏造名将で
七条が正式名称とか嘘をデッチあげてる三鬼とかアホ学者くらい

上月城下合戦のソースとしてあげられた文書は山口県史資料編と島根県史資料編からの抜粋で全て花押がついてる。

山口県史資料編中世三巻凡例
2ページ目
正門でないものについては、中世に書写されたと思われるものには「案」とし
近世以降に書写されたと思われるものには「写」とした
現段階では真偽の容易ではない文書、また偽文書と考えられるものでもその存在に
何らかの意味があると判断される場合は、検討を要する旨の注記をつけて収録した。

ソースとしてあがってる書状をみてもそんな注記も「写」もついておらず
偽文書などという馬鹿妄想いうのは馬鹿のお前だけ
339人間七七四年:2013/09/22(日) 14:03:05.32 ID:z+10w9ZX
まーたアンチ秀吉の反日織田厨がファビョってんのかよ。。
340人間七七四年:2013/09/22(日) 15:42:13.19 ID:oWjTrM9J
質問スレとして機能しとらんわ…

通報ってどこにどうすればいい?
341人間七七四年:2013/09/22(日) 15:46:27.49 ID:uDd/LFc4
>>340
ここ
【単独スレ】スクリプト・コピペ報告スレッド256【全板共通】
http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/sec2chd/1377354870/
342人間七七四年:2013/09/22(日) 18:48:44.23 ID:wY6oZwM4
自分と自分で争って何がしたいんだだがは?
343人間七七四年:2013/09/23(月) 03:12:16.16 ID:jabZ1Y7w
なんか自分の中にストーリーがあって自演もばれてないと思ってるんじゃ?
一目見ればだがだとわかって誰も読まんから他人には判断不能だけど
344人間七七四年:2013/09/23(月) 07:34:19.17 ID:B/hkYSqV
毛利家は特殊で、全て公式の文書や領収書、蝋燭1本まで残してた。文章として
明治政府はこれ元で官僚が継続させてる
345人間七七四年:2013/09/23(月) 09:59:49.21 ID:vkF1qmF4
サムライワールド_歴史再発見_折敷畑合戦はなかった
1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、
この合戦に関して発給されてたとされている感状である。
全部で五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。

贈位が行われた明治・大正にかけては長州閥の政治権力が強大であった為、
一部で不公平も見られる。例えば長州藩の祖である毛利元就に正一位、三兄弟に正三位が授与された。
これは正親町天皇即位式の功が理由とされる。
一方でその元主君大内義隆は後奈良天皇の即位式だけでなく日常的に朝廷や公卿への貢献が抜きん出ていたが
明治政府からの贈位を見送られた。この差は「毛利元就の献金は勤王だが、大内義隆の献金は
猟官運動目的であり勤王によるものではない」という見方による。
長州閥が毛利元就の下剋上を正当化する為には大内義隆の評判が悪いほうが都合が良い事情もある

山室氏も鴨川氏も元就が一次史料レベルで歴史の捏造してるのを指摘してるしな。
自分の過去の所業を改竄するとか歴史の冒涜までして正当化。
まじキモ大名毛利。
346人間七七四年:2013/09/23(月) 10:00:50.89 ID:vkF1qmF4
豪姫の姉って誰のこと?
宇喜多直家の妻を妾にしたと言う記述は毛利の捏造史料にしか出てこないデタラメ。
毛利は宗麟を女好きと捏造記述したりと毛利の敵だった側をむちゃくちゃ悪く書きまくってる。
しかし実際に幼女をレイプ目で見ていた輝元を危険視して匿った挙げ句に婚姻させたが
それでも諦めずに輝元が隙をみて略奪して子を生ませ
その夫を隆景が暗殺してるのはリアル史実w
残念だが光成氏も寵愛を受けた記述があるのは毛利の捏造軍記である陰徳記のみで
一次史料には無いと否定してるわけだがw
相変わらず在日毛利厨って無知だな。

摩阿姫のことを言ってるようには思えない内容なんだが?
摩阿姫は非嫡出子の可能性が高く普通は利家夫婦の子とカウントしない。
そのため12歳の時に柴田への人質に出され北ノ庄城へ送られ
佐久間十蔵と婚約済みである以上はすでに非処女だし。
その摩阿姫が人質として京へ送られたのは1586年であり14歳の時。
しかも秀吉の側室として関係を持つ可能性があるのは
1587年9月に聚楽第が完成して、そこで摩阿姫が起居してからだから15歳。
しかし摩阿姫は病身であり子供が秀吉との間に出来てないが、
のちに万里小路充房との間に利忠を生んでる。
元々、人質の立場であって秀吉の好みからではないから
秀吉が手をつけたかどうかすら怪しい。
>>妾にした時その娘は数え歳でまだ十二歳
>>現代の年齢の数え方だと11歳
これwikiの1585年に秀吉の側室になったデタラメ記述から盗用した挙句に
秀吉を貶すために悪意ある文章を書いただけだろw
こんなの前田家の保身のための人質なんだから
糾弾すべきは秀吉じゃなくて前田夫妻の方だろ。
在日は無知なだけでなく捏造歪曲までやるから気持ち悪いわ。
26:人間七七四年 08/15(月) 09:22 p9qSTrsV
そもそも秀吉が好色だったのかどうかすらも怪しい。
衆道をやってないなら好色だったんだろ!的な江戸庶民の妄想の産物だろ。
347人間七七四年:2013/09/23(月) 10:01:37.55 ID:vkF1qmF4
反大友をキチンと一次史料の裏づけを提示してやるなら
ちゃんと相手してくれるんじゃないかな?
根拠を書かずに>>937みたいなことを書いたらただの反大友の厨房キチガイでしょ。
ちなみに毛利厨が誤まった歪曲捏造知識を手に入れてるだろうことは想像がつく。
江戸時代に毛利は捏造歪曲毛利マンセー史を編纂してる。
大友や大内や尼子や宇喜多や竜造寺や浦上や赤松が滅亡してるから
他家史料との比較もできず、やりたい放題捏造できたから。
そしてその捏造軍記を手本に偽感状が生産され先祖の名誉ある武功が事実のように語られた。
それでまぁ、宗麟のこともデタラメを書いて、毛利の自己正当化が図られてる。
たとえば陰徳太平記での宗麟像は、
歳若い美女を領国中から求め、酒池肉林に溺れた生活をしていて
それを憂えた道雪が居所を集めて宗麟の気を引いてから諫言したが、すぐ元の堕落した生活に戻ったとか
家臣の妻が九州一に美女だと聞いて、その家臣を殺して妻を略奪したとか
まったく一次史料にない話をデッチ挙げている。
そのエピソードを盗用して高橋記では一万田の妻を奪った遺恨が実はあったなどと捏造し自己正当化してる。
宗麟がダメ人間とするエピはすべて大友滅亡後の江戸時代に作られた軍記ネタ
そもそも宣教師は宗麟は体質は元来、虚弱だが優秀な人物と評価しているし、
妻がそもそもヤバイ奈多夫人なので、略奪妻とかありえない。


好色を証明するソースは無い。 唯一あげるとすれば信長がねねに出した書状くらいだが
それだけでは好色と大げさに言われるほどの内容じゃない。
そもそも子姓をはべらし衆道など性に奔放熱心だった信長や家康の方がはるかに側室も圧倒的に多いし子供も大量にいる。
むしろ子姓も侍らすことをせず能をやったり、オッサン達と軍記話をして楽しむことが多かった多趣味な秀吉は性欲があまり無かったから子作りに熱心じゃ無かったんじゃないかな。
38:人間七七四年 11/18(金) 20:44 umlTHGZA [sage]
女好き最強は中華の後宮並みと言われた信長だな。
秀吉は信長や家康と違い ガキあんまりいないから 女好きって軍記講談話に惑わされてるだけで、
実際にはエロより800人いたと言う御伽衆との会話ばっかり楽しんでいたと考えられる。
42:人間七七四年 08/23(木) 10:51 4cgiEJma [sage]
中国みたいな後宮つくってたのは明智軍記で1000人の女性を囲ってたとされる信長だけ
だから信忠をはじめ母が誰だかわからん子ばっか。基本的に戦国時代は一夫多妻制じゃないからね。
秀吉が側室をたくさん持ってたと誤解してるやつもいるけど
あれは人質として差し出させて厚遇してる姿をアピールしてただけ。
秀吉が手をつけてないのは子供ができなかったことでもわかる。
それを秀吉の種なし&秀頼の父は別人説をデッチ上げてるのは在日。
そもそも秀吉が女好きの変態みたいに書いてんのは陰徳記って言うもんを編集した毛利の捏造だから。
宇喜多秀家が厚遇されてんのは、秀家の母が秀吉に寵愛されてるからとか、
嫉妬して秀家を貶している醜い毛利
348人間七七四年:2013/09/23(月) 10:02:16.17 ID:vkF1qmF4
陰徳太平記は正則を酒狂いで家臣を自刃させたりする愛を知らない大工の子と書いてたり、
天野の武勇を聞いて宗茂が召し抱えた後に、正則が天野を召し抱えようとして
宗茂に先約ありと聞いて遺恨に持ち、朝鮮陣で何かと正反対の意見を吐き険悪だから
広家と長政が酒席に読呼んで和解を斡旋したが、武勇の家臣ときた宗茂と1人で来た正則。
酒の肴に宗茂が踊りながら正則の前に来たので,鴻門の会のようになり
険悪になったが広家と長政がうまく収めたとか、
秀吉死後に三成や増田が増長し始皇帝死後の趙高のようだと書いたり真偽不詳の嘘話多過ぎ。
しかも肝心な関ヶ原は書いてないからそんな悪評の三成と輝元が組んだり、
自称名将の広家が関ヶ原で下手うって、長政偽書状まで偽造して
広家のおかげで毛利が存続できたストーリーを作ったのかわからん。
そのくせ、やたら長政と親しいアピールがウザい。
江戸で動けなかった家康…黒田親子の家康へ協力しろ書状を再三にわたり無視してただろ伊勢にいた広家…
正則の悪評の元ネタの大半が陰徳太平記だからな…
よほど安芸の主人になった福島を毛利は逆恨みしてたんだろうなあ。
正則がアホ馬鹿だとイメージされてきた代表的エピソードの数々の出典って毛利捏造軍記だったとは…
正則の印象を変えなきゃならんね

陰徳太平記を書いた岩国藩の香川景継が吉川家の意向を受けて、
関ケ原軍記大成などの軍記類に偽書状を元ネタに
吉川の主張を隠密裏に盛り込む活動をして
毛利は被害者ぶった史観を作りあげただけ。
このことを山本洋氏が解説し、
これを土台にして光成氏が書状研究した結果だね。
349人間七七四年:2013/09/23(月) 12:32:44.09 ID:36J2aJnK
>>308

昭和46年および49年に、湯沢町石白地内より発見された古銭です。
総量1004s、82種類が271,784枚あり、
全国の出土古銭中 第2位の記録となっています。
誰が何のために埋めたのか謎ですが、埋蔵の年代は室町時代と推定され、
関東管領・上杉氏の軍資金説が有力です。
古銭出土地点は、
天正年間に廃絶したと伝えられる泉福寺の境内にあたります。

湯沢町HPから引用
ttp://www.town.yuzawa.niigata.jp/pcp_portal/PortalServlet?DISPLAY_ID=DIRECT&NEXT_DISPLAY_ID=U000004&CONTENTS_ID=2097
350人間七七四年:2013/09/23(月) 19:23:46.51 ID:XMupKKQn
参勤交代で、他藩の領地を通るとき藩庁近くを避けたり通りったしたり気を使ったことはあるのですか?
江戸屋敷がゴージャスでも国元の本城がすごく質素な大名が居るので、他の藩士が通らなくて気を使ってない藩なのかと
逆に見せるため?に派手だったりと云うような事があったのでしょうか
351人間七七四年:2013/09/23(月) 19:56:00.22 ID:jabZ1Y7w
参勤交代が制度化したのは江戸時代なので板違いですがついでに答えると
初期の頃はほんとケースバイケースだったそうです
相手が格上なら城下を通るときに槍の穂先を降ろして通るとか
また親しければ城に招いて宴会したりとか、宴会に呼ばれても断った方がありがたがれる場合と
断ると気を悪くされる場合があったなど、通る方も通す方もかなり気を使っています
さすがに毎回気を使うのはめんどくさいのでその後は簡略化作法化されていったそうです
あと相手の領民を無礼打ちして領主に激怒されて通行禁止にされる藩も有ったそうです
352人間七七四年:2013/09/23(月) 22:05:53.18 ID:Dw/3C5JA
>>350
喜連川藩は小藩(5000石)ながら鎌倉公方の末裔として家格が高かった(10万石格)ので
何かと出費も多く、参勤交代で通る奥州諸藩のお接待が主な収入源だったらしい。
仙台藩が費用節約の為に迂回したら江戸まで追いかけて嫌みを言ったらしい。
353人間七七四年:2013/09/24(火) 13:49:28.08 ID:NVmeINlr
この辺りの歴史なんか結局「らしい」だけで証拠ないよね。なんでこんなこと学校で勉強しなきゃいけないの?
誰々が〜と言った。とか色々名言あるけどなんでそんなこと分かるの?
354人間七七四年:2013/09/24(火) 18:05:15.57 ID:w+8CWHs2
関ヶ原本戦


『葵徳川三代』に「南宮山の山内勢を関ヶ原へ」って台詞があるんですけど
山内隊は西軍のどの部隊と戦ったんですか?
355350:2013/09/24(火) 18:14:11.07 ID:BtyQXrZA
はっ、ここは戦国板でした。。
失礼しました&ありがとです
356人間七七四年:2013/09/24(火) 21:43:51.28 ID:1QwPtDjd
>>354
山内勢って山内一豊の事だよね?南宮山には毛利本隊と愉快な仲間たちが居て、
一応それの押さえとしての布陣だけど毛利隊は吉川広家の裏切りにより一切動く事は
無かったので山内勢も戦ってないんじゃない?
357人間七七四年:2013/09/24(火) 23:26:54.90 ID:Ayk7bbXu
だがって在日で精神の病気なんですか?
358人間七七四年:2013/09/25(水) 00:32:12.07 ID:e3+bWJg1
それを必死で追掛けるお前もな( ´,_ゝ`)
359人間七七四年:2013/09/25(水) 10:15:48.51 ID:SLedGDVa
兜や鎧着て馬なんか乗って走れんの?
360人間七七四年:2013/09/25(水) 10:48:53.86 ID:XdIp9GC7
余裕です。
361人間七七四年:2013/09/25(水) 14:00:41.45 ID:9T4cW/yB
馬に乗る時は周りの人が手伝ってくれないと乗れない。
ただ当時の馬は小型なので馬高はかなり低い。
下手すると足が地面に着いたとする説も。
戦の時は下馬するので、馬上で戦う事もない。
362人間七七四年:2013/09/25(水) 14:05:53.18 ID:XdIp9GC7
うそです
363人間七七四年:2013/09/25(水) 15:42:20.05 ID:pilCGuul
でも俺は、10k制限の3輪バギー(馬)乗った武者のが
不利だと思うけどなw
364人間七七四年:2013/09/27(金) 21:41:03.68 ID:Gl8GArtr
実家ある一帯が古戦場だったらしいので、金属探知機借りて調査したいのですが
敷地内なら問題ないよね?錆びた鍔や弾でも発見したら、後日うpします
365人間七七四年:2013/09/27(金) 21:46:30.96 ID:V1YMHe6H
問題ないよ。見つかったら見せてねww
366350:2013/09/27(金) 22:09:13.19 ID:cWKC/kPS
骨が出てくるにペリカ
367人間七七四年:2013/09/28(土) 20:16:05.30 ID:8sXc46mX
近年では家康正室の築山殿の名前を「瀬名」とする例が多く見られますが、
これには何か史料の裏付けがあるのでしょうか?
368人間七七四年:2013/09/28(土) 22:39:15.03 ID:iSkzWihK
369人間七七四年:2013/09/29(日) 00:10:29.81 ID:dAO5GwXk
>>367
瀬名じゃなくて瀬名姫な
瀬名家(関口家)出身の嫁さんだから瀬名姫ってだけで便宜上付けた名前やね
370人間七七四年:2013/09/29(日) 01:17:20.83 ID:PdVZ9TRc
築山殿がもし孕石家の出だったら…
(*´Д`)ハァハァ
371人間七七四年:2013/10/01(火) 09:26:01.27 ID:3B/Sqg1F
関東移封直前の家康の所領は何万石だったのですか?
150万石くらいだったのでしょうか?
372人間七七四年:2013/10/01(火) 09:59:02.78 ID:K+Mb2StO
120万石かな
373人間七七四年:2013/10/01(火) 12:40:17.48 ID:FTW1Zr8+
駿河遠江三河(刈谷の水野分と石川分除く)甲斐、信濃の諏訪・佐久・伊那だから100ちょいくらいじゃね
374人間七七四年:2013/10/01(火) 19:01:51.83 ID:3B/Sqg1F
回答有難う御座います。
375人間七七四年:2013/10/03(木) 20:08:37.65 ID:RtPK0khA
質問の仕方が下手で申し訳ないんだが
秀吉死後〜関ヶ原前までの豊臣(秀頼)の直下兵力ていくらくらいだったのか?
福島などの独り立ちした大名は除いて
376人間七七四年:2013/10/03(木) 20:21:16.25 ID:j7VCoSq/
>>375
七手組の事?1万くらいだと言われている
377人間七七四年:2013/10/03(木) 20:23:03.64 ID:RtPK0khA
七手組含めて豊臣全体の兵力を知りたいのです
378人間七七四年:2013/10/03(木) 20:28:16.43 ID:j7VCoSq/
どこまで「豊臣家」の範疇に入れるのかわかりにくいが、蔵入地を除いて、摂河泉60万国程度の大名として考えれば
3,4万がいいとこじゃないか?
379人間七七四年:2013/10/03(木) 20:30:33.27 ID:RtPK0khA
↑「関ヶ原前」の時点での豊臣の動員可能兵力
380人間七七四年:2013/10/03(木) 20:31:36.99 ID:RtPK0khA
投稿がかぶった
381人間七七四年:2013/10/03(木) 20:33:02.23 ID:RtPK0khA
再質問

関ヶ原前は豊臣200万石あったと思うのですが
動員可能兵力は、どの程度ですか?
382人間七七四年:2013/10/03(木) 20:34:55.34 ID:j7VCoSq/
>>379
だから豊臣家の定義がわからん。
そもそも関が原前なら豊臣家にとって戦争は家臣がやるもので、豊臣宗家に過大な軍勢は必要ない。
だから関ヶ原前の時点でも豊臣宗家の直属部隊は七手組1万そこそこだけだ。
383人間七七四年:2013/10/03(木) 20:46:58.73 ID:RtPK0khA
※関ヶ原の戦いとは無関係な質問です。

質問の仕方を変えます。

太閤秀吉存命中の「豊臣家」の動員可能兵力は何万人ですか
384人間七七四年:2013/10/03(木) 20:54:51.68 ID:FK8KINgj
親戚一同集めても20人くらいじゃないの
385人間七七四年:2013/10/03(木) 21:10:47.11 ID:M6/gaMKB
>>383
日本全部だから太閤検地と本役で単純に計算すると100万人
386人間七七四年:2013/10/03(木) 22:11:43.49 ID:B8oei/wa
蔵入地が全国各地に大量にあったようだからな…例えば増田が管理していた蔵入地の旧大和大納言領は120万石あったし。
387人間七七四年:2013/10/03(木) 22:30:39.67 ID:w5zv8DJF
先祖調査を自分でやってみたいけど
戸籍謄本取り寄せた後はどうしたらいいのかな
388人間七七四年:2013/10/03(木) 22:34:32.01 ID:rA/FfXVo
日本国王の秀吉なら100万人。
ただの豊臣秀吉なら3〜5万人。
389人間七七四年:2013/10/03(木) 22:36:26.28 ID:M6/gaMKB
有名家ならともかく戦国時代まで遡るなら本家の菩提寺に聞くなりしないと分からんぞ
無論きちんと調べてもらうとそれなりに金がかかる
390人間七七四年:2013/10/04(金) 13:50:16.25 ID:tAd9dpCy
豊臣秀吉没〜関ヶ原の間なら何人くらい?
391人間七七四年:2013/10/04(金) 14:51:15.35 ID:o7W22gYT
変わる要素が無いので同じ
392人間七七四年:2013/10/04(金) 20:44:14.97 ID:0Rmfl0sl
お前ら知識(情報)ばっかで
〜まで:千
〜まで:万
とか賢い回答できる知恵者居ないんだなw
393人間七七四年:2013/10/04(金) 21:08:21.51 ID:o7W22gYT
オタクではありますがエスパーではないので賢い回答とやらはできかねます。

ご了承ください。
394人間七七四年:2013/10/04(金) 23:25:51.71 ID:dTF7hnm6
100万石の前田で3〜4万
250万石の徳川で8万だから
その間ぐらいじゃね
395人間七七四年:2013/10/05(土) 02:25:44.53 ID:hPWmCoJI
>>386
豊臣蔵入地が増えることを家康は歓迎出来ないらしく、
小早川秀秋を越前へ転封して、
筑前筑後を豊臣蔵入地にする予定だったのに、
秀吉が死んだこともあって家康は秀秋転封を取り消してんだよな。
396人間七七四年:2013/10/07(月) 17:14:38.96 ID:s0IlT2JZ
少しスレチな質問だけど

大陸には自分達こそ最高の存在で他は取るに足らぬ蛮族っていう
白人至上主義や中華思想
自分達の神以外の神を信じる奴は死ぬべき悪で殺してでも力づくでどうこうの
イスラム、キリスト、ユダヤ教同士での宗教戦争とかあるけど

日本てそういうのあったっけ?
戦国武将は領土拡大の為に戦争してたんであって尾張人以外は全員蛮族で〜〜とかじゃないし
一向宗も凄い権力持っちゃった宗教団体なだけで、織田家が仏教の宗派が違ったから反抗したわけじゃないし
家康や秀吉がキリシタン弾圧した事以外であったっけ?
まぁそれも人種宗教差別じゃなくてただ自分の政権に邪魔だから排除したみたいだけど


戦国時代じゃなくても日本国内で起こった事なら教えてください
397人間七七四年:2013/10/07(月) 17:37:07.84 ID:W0qi+rBZ
>>396
日本こそ中華だ、っつー日本中華思想は本場の中華思想のカウンターとして大昔からある
398人間七七四年:2013/10/07(月) 20:17:06.49 ID:s0IlT2JZ
倭国人こそが至高の存在で大陸人の連中は野蛮って思ってたって事?

でも日本てアヘン戦争までは中国のことを先進国として尊敬してたんじゃ
なかったっけ?
399人間七七四年:2013/10/07(月) 20:26:43.78 ID:e36Wk/to
信長は自分以外を全て見下し卑下しきっていた。
また激昂し易く讒言もすぐ信じてすぐ処断する性格。
誰であろうが自分が会う人物は皆、頭は下げさせて話をしてやってた。
また自分以外の誰の意見も無視して、ただ自分の言うことさえ重視すればよいとも言っている。
400人間七七四年:2013/10/07(月) 20:27:30.07 ID:9Qau6oax
尊敬はしてたが対等とも言ってた。それこそ日出国の天子の頃から
401人間七七四年:2013/10/07(月) 21:59:38.79 ID:XFHDN1WS
軍学者山鹿素行の『中朝事実』では、日本を中朝(中華)としている。

そして、この山鹿素行の軍学を学んでいたのが、吉田松陰。

江戸後期までには、公家や武家にとどまらず、庄屋や商家等にも浸透し、志士たちのパトロンとなる者も多数いた。
402人間七七四年:2013/10/07(月) 23:53:42.36 ID:nKuOZGPN
>>396
ヒント:蝦夷
403人間七七四年:2013/10/08(火) 08:54:52.98 ID:hNUyTagm
武士の身分を捨てて農民になることはできましたか?
404人間七七四年:2013/10/08(火) 09:40:14.92 ID:8ede9ViH
一部武士が農民になることを禁じてる大名もありますが
基本的には出来ます
405人間七七四年:2013/10/08(火) 09:56:28.58 ID:DxZY0fE1
帰農しても地域の顔役だから隠然たる勢力ではあった。
また商人になったやつもいるな。
山中鹿之介の子孫なんか鴻池組になったんだっけ?
406人間七七四年:2013/10/08(火) 17:37:40.06 ID:TRkVIQ2h
>>398
尊敬してたけど実際に中国に行って見れば
庶民は土人の様な生活をしてる
だから俺達が支配して孔子の理想を実現しようって話じゃないかな?
でも中国人でも上手く行かない事を日本人がやっても上手く行かず
侵略、虐殺のオンパレードと
407人間七七四年:2013/10/08(火) 23:16:39.17 ID:niKOc4Aw
>>405
>山中鹿之介の子孫なんか鴻池組になったんだっけ?
これが質問?
そうだね末裔だね
しかし直系ではないです

元々酒造メーカーでその後手広く職幅を始めました
今は三菱UFJフィナンシャル・グループの一部ですね
408人間七七四年:2013/10/09(水) 10:42:30.31 ID:GBvgdl/A
名古屋を代表する松坂屋百貨店の開祖は織田家の小姓の子孫である伊藤蘭丸祐道という人だそうです。
蘭丸という名前&織田家の小姓といえば森蘭丸を連想しますが
織田家には小姓が蘭丸を名乗るような慣例があったのでしょうか?
409人間七七四年:2013/10/09(水) 11:05:33.82 ID:GqxDi1hC
例がその2人しか居ないので慣例な訳がありません
しかも伊藤蘭丸は資料的裏付の取れる人物ではありません
410人間七七四年:2013/10/09(水) 11:50:27.77 ID:GBvgdl/A
偶然か森蘭丸をモデルにした創作上人物かもしれませんね。ありがとうございます。
411人間七七四年:2013/10/09(水) 13:02:46.27 ID:bk7EXPdI
>>410
当時の史料にあるのは、直筆書状の森乱成利、信長書状の森乱法師くらいで
森蘭丸という名は後世の創作
412人間七七四年:2013/10/12(土) 22:48:42.66 ID:ytsRKTfT
>>396
蛎崎氏のアイヌ支配
中山王朝の離島支配

特に後者の方は沖縄のブサヨ新聞にとって、
都合の悪い真実なので黒歴史として語られる事は少ない
413人間七七四年:2013/10/13(日) 12:22:29.54 ID:K3FJarO7
信長は女子供の区別なく平等に日本人数十万人を虐殺した英雄。
秀吉は応永の外寇の報復で朝鮮人を殺しまくったので極悪人。

なんで日本人の歴史観がおかしなことになっているんですか?
414人間七七四年:2013/10/13(日) 12:46:44.71 ID:qJZljsl8
>>413
菅沼遼太はもっとお勉強しましょう。
415人間七七四年:2013/10/13(日) 23:29:43.36 ID:bxeOhjfu
最近、川中島の戦いって武田側の勝利で解釈されてるけど、ここの板でも
そういう認識でおkなの?
416人間七七四年:2013/10/14(月) 00:06:46.10 ID:4sDzg63u
最近?昔から川中島確保した信玄の勝ちって事になってるだろ
それとも感状研究の話か?
417人間七七四年:2013/10/14(月) 00:09:26.05 ID:mhPiS+yX
戦術勝利は謙信、戦略勝利は信玄ってのは元からの評価だろ
418人間七七四年:2013/10/14(月) 11:06:42.38 ID:cA3NwZDf
よく関ヶ原の西軍の大将は石田三成じゃないって聞くけどじゃあだれなん?
419人間七七四年:2013/10/14(月) 12:18:39.93 ID:ZQ6PN5ZG
>>418
毛利なんじゃないの
420人間七七四年:2013/10/14(月) 16:39:27.59 ID:5ihtqYUx
戦国ゲームから戦国マニアになった俺だけど調べれば調べるほど
中世の戦争も一個人の武勇なんて些細なもので
全体の七割が弓矢と鉄砲で死亡
残り三割も大半が長槍
百人斬りなんていなくて数十人前後殺すだけでも猛将

無双の英傑豪傑なんていなくて、ただ調練された兵の数と作戦が勝敗を決する
っていうイメージなんだけど
結果として、めっちゃ強い個人て飾りなの? いなくても勝てるの?
英雄ぞろいの無双騎士団じゃなくて
優秀な教育者と指揮者軍師が調練された雑兵をいっぱい抱えているのが本当の最強なの?
421人間七七四年:2013/10/14(月) 17:40:48.05 ID:7T9GN9S2
調練も糞も戦争の素人軍団一揆勢でも織田軍相手に大暴れしてる程だし
戦国期に調練なんてないだろ。
422人間七七四年:2013/10/14(月) 18:32:01.84 ID:4sDzg63u
>>420
>全体の七割が弓矢と鉄砲で死亡
>残り三割も大半が長槍

ソース何?
423人間七七四年:2013/10/14(月) 18:49:29.05 ID:5ihtqYUx
>>422
ソース
何かの戦国漫画の注意書き
・当時、戦場における死者の七割は弓、銃、石などの射撃武器、槍などの近接武器の死者は三割程度だった
とある戦国番組
・当時最強の武器は弓矢であった。現に戦場の死者の七割は弓矢で槍や刀で殺される人は三割しかいなかった
立ち読みした戦国本
・槍や刀では全体の三割しか死んでないし、一騎打ちは一部の武士がやっていただけ
 大抵は長槍同士の突き合いなど集団戦で死んでいた

あとは作者の豆知識コラムとかじゃないけど、いくつかの戦国漫画の展開で
戦場じゃ豪傑だって流れ矢流れ弾で死ぬし一個人の武勇など悲しいものだ……
ほとんど矢と弾で死んでて「剣術なんて戦場じゃ役にたたねぇ」
みたいな描写を見る
424人間七七四年:2013/10/14(月) 19:02:13.61 ID:4sDzg63u
センゴクかよw調べたと言うから新しい研究でも出たかと思った。
あれは軍忠状から割り出した「怪我人」の割合で戦死者じゃない
まぁ刀で切られたら次は首取られるから怪我人にはならんな的なもんで
刀や剣術の実用性有効性の指標になるもんじゃない

あと質問の答えとしては
優秀な教育者と指揮者軍師が調練された雑兵をいっぱい抱えている軍隊と
優秀な教育者と指揮者軍師が調練された雑兵をいっぱい抱えているてて
さらにめっちゃ強い個人が大量に要る軍隊とどっちが強いと思う?
個人と組織は融合するものあってで相反するものじゃない
425人間七七四年:2013/10/14(月) 19:07:32.96 ID:4sDzg63u
あとセンゴクも過去の描写やコラムや薀蓄は無かった事になってて
騎馬突撃や刀での切り込みやらしてるらしいぞ昔のところは書き直したいんじゃないの作者もw
426人間七七四年:2013/10/14(月) 19:29:33.03 ID:5ihtqYUx
レスありがとう

でも俺が見た漫画がセンゴクかどうかははっきり覚えてないけど
戦国番組とか戦国本のはガン無視なの?

漫画でこういう描写あるけど実際どうなのって質問じゃなくて
色々調べているとテレビでも本でも豪傑の無力さが描かれてるんだけどどうなの
って質問なんだけど
427人間七七四年:2013/10/14(月) 19:42:06.93 ID:4sDzg63u
下段で答えてんじゃん
428人間七七四年:2013/10/14(月) 19:57:20.99 ID:fA/qb7oh
戦国時代の前半までは、槍馬鹿武者が一騎打ち所望してたんでしょ?
どこの家中でもいるけど。
429人間七七四年:2013/10/14(月) 21:17:13.89 ID:lJwFkTQm
>>426
>戦国番組とか戦国本のはガン無視なの?
その辺はセンゴクの蘊蓄のネタ元で、一時流行ったけど妥当性が無い。

また一般論としては「大将が先頭に立って戦って死んだらどうすんだ、バカ!」という事になっているが
例外は居る。同様に豪傑の活躍も無いのが一般論だが例外は有る。
430人間七七四年:2013/10/14(月) 23:11:01.39 ID:5ihtqYUx
ごめん、質問の仕方が悪かった、例えるなこういう事
一騎当千や万夫不当の英傑も実際は一度の合戦で十数人討ち取るのがせいぜい

A英傑いないけど調練された雑兵は一万人います。   戦力10000
B調練された兵はAの半分だけど英傑が26人もいます。戦力 5260

円卓の騎士の二倍の英傑がいるけどB超劣勢
一騎当千の猛将って言っても実際には一人で無双できるわけでもなく
10〜20人分の働きをするのは凄いけど戦争は数千数万同士で戦うわけで
それに比べれば英傑の武力は微々たるもの
>>424
みたいに調練された兵や指揮官の条件が同じでも10000VS10260
戦争なんて千人単位で兵数差がつくのはザラなんだから全然許容範囲ないだし
いればいいにこした事はないだけでいないと勝てないわけじゃないというか

ようするに 調練された雑兵数>英傑の強さ
英傑の有無はほとんど勝敗に影響しない
特別強い人なんていなくても雑兵さえいっぱいいればOK
なのかどうかが聞きたかった

そりゃたしかに429が言うように例外的に超活躍した一個人はいたかも
しれないけど、個人じゃなくて一般的に、豪傑クラスの武将の存在って本当に必要なの?
必要なら勝敗にどうそこまで関わるの?
一人で10人以上の首を取りますって言われても、その程度じゃ意味ないのが現実


長文すいませんでした
431人間七七四年:2013/10/14(月) 23:46:43.33 ID:AHDUjoYI
机上の空論という言葉を思い出したよ
432人間七七四年:2013/10/14(月) 23:48:23.11 ID:umf6+w/G
だから戦国期に調練なんて概念なんてないって。
農兵主体でそんな大規模演習なんてやってるところないし
地域や大名によって差があるわけも根拠もない。
433人間七七四年:2013/10/14(月) 23:53:42.59 ID:4sDzg63u
戦国の軍隊組織を一から説明すれば分かってもらえると思うけど
そこまで頑張ると本が書けちゃう
434人間七七四年:2013/10/15(火) 00:00:01.51 ID:+/GGvh+6
わかった
435人間七七四年:2013/10/15(火) 01:34:10.79 ID:+6Qz39xx
>>430
万の集団と思うと圧倒されるが実際は備(そなえ)という単位の集合だから
一度に当たる敵はそこまでの差は無い。
そして先陣が崩れると二陣が巻き添えを食って潰走なんて事も有る。
雑兵は調練なんてされてないし、死にたくないからヤバいと思えばすぐ逃げるから。
パニックを起こした集団は始末に負えない。

たしか大坂夏の陣の天王寺岡山の戦いとかそんな感じだったと思う。
既に幕府軍の勝ちがほぼ決まった状態から、家康と秀忠とそれぞれの本陣への
突撃で危うく全てをひっくり返される寸前だった。

こういう時によく引き合いに出すけど、俳優の宇梶剛士は暴走族時代に50人を
相手に喧嘩に勝った経験が有るらしい。といっても実際に殴り合った訳ではなくて、
悠然と一歩踏み出したら蜘蛛の子を散らすように逃げて行ったらしい。
436人間七七四年:2013/10/15(火) 10:07:16.59 ID:bZbqiW0r
>>一度に当たる敵はそこまでの差は無い

それは基本的に当時の戦術概念からしてありえない。
備えの一部だけが敵と対戦するなんんて一昔前の合戦じゃあるまいしそんな事誰もやってない。
戦下手とされる北条ですら、数的有利を生かすため、神流川合戦や三増峠合戦じゃ寡兵の敵に対して全軍で挑みかかってるし
四万十川合戦や摺上原合戦、三方が原合戦でも戦争における兵力の優位は絶対的に戦局において決定材料として現れてる
これが覆るのが、大軍側の大将の油断や愚かな采配、あるいは寡兵側の大将のうまい戦術など両将の指揮官に隔絶した実力差があった時や
両軍の武器性能の差が大きかった時だけ。戦国期は集団戦法がもう既に確立してた時代なので
備え単位のみだけで勝敗が決するなんて馬鹿な戦術は誰も取ってない。

>>そして先陣が崩れると二陣が巻き添えを食って潰走なんて事も有る。

基本的にそれが起こりやすいのは寡兵側な。寡兵側は防衛側の事が多いから課っても領土広がらない・負ければ滅亡
また不利な状況の会戦でも戦闘を避ける術がない(避ければ滅亡か領土喪失)なので圧倒的に逃亡兵離散兵裏切りがおきやすく
士気も瓦解しやすい。

>>家康と秀忠とそれぞれの本陣への突撃で危うく全てをひっくり返される寸前だった。
ソース元の史料を頼む。

>>暴走族時代に50人を相手に喧嘩に勝った経験が有るらしい。といっても実際に殴り合った訳ではなくて、
>>悠然と一歩踏み出したら蜘蛛の子を散らすように逃げて行ったらしい

そんな馬鹿な例を引き合いに出されても困る。戦国合戦でそんな例はまずない。
437人間七七四年:2013/10/15(火) 10:10:23.18 ID:Gnob+fEm
戦争において弱小勢力なんて周辺の強国に飲み込まれてくだけだし
小さい勢力で大きな勢力跳ね返し続けた大名なんて佐竹とか田村とか甲斐とか名将しかいない。
攻撃側は兵力に勝るから戦略の幅も大きいし勝てば領土広がるから士気も上がりやすいし
兵糧物資でも圧倒的に攻撃側のが調達が容易で防御側は策源地が攻め込まれてるから長期戦になればいずれおいこまれてくだけだから短期決戦によるしかないし
寝返りが出やすく勝っても領土も広がらんし圧倒的に不利でしかない。現に攻守三倍原則より遥かに少ない兵力で攻略してる例なんていくらでもあるし
圧倒的大軍で寡兵の敵に蹴散らされるのは指揮能力が雑魚の奴だけだよ
地形を生かした陣取りの主導権握ってるのも攻撃側。兵力が勝ってるから
そこで会戦するのが嫌なら別方面に兵力展開したり誘い出す作戦練ればいいだけだし
相手が乗ってこなかったら持久戦に切り替えるなり違う拠点攻めるなりして攻撃続ければ勝手に追い込まれてくだけ
438人間七七四年:2013/10/15(火) 12:05:52.53 ID:cuuWVnKI
おい馬鹿菅沼遼太。要点の定まらない糞長文連投するな
439人間七七四年:2013/10/15(火) 12:09:23.02 ID:CgnrIE4M
信長は女子供の区別なく平等に日本人数十万人を虐殺した英雄。
秀吉は応永の外寇の報復で朝鮮人を殺しまくったので極悪人。

なんで日本人の歴史観がおかしなことになっているんですか?
440人間七七四年:2013/10/16(水) 13:48:27.02 ID:/t7zEF8C
古今東西、乱世の英雄なんてそんなもん
441人間七七四年:2013/10/16(水) 15:28:04.71 ID:0C6gDawk
ウィキペディアには明智光秀が流浪中に毛利元就に士官を求めた際
「才知明敏、勇気あまりあり。しかし相貌、おおかみが眠るに似たり、喜怒の骨たかく起こり、その心神つねに静ならず。」
と言った、という逸話が載っていますがこれについて出典元となる史料(ソース)は明らかなのでしょうか?
442人間七七四年:2013/10/19(土) 08:38:13.72 ID:LWSvO9hH
信長の子供といったら無能なイメージあるけど
実際は信長の長男と三男て結構有能だったの?

前テレビの信長特集で
長男
信長に今回の戦は深追いはしないよう、城までは攻め込まないよう言われたけど
独自の判断で凄くチャンスだったから攻め込んで見事落城
命令通りでない、ちゃんと自己判断で動く事から信長に後継ぎに相応しいと認められる

三男
普通に武将として色々有能で優れた人物。本能寺の変で長男が死ぬと
信長が実力主義だったこともあり
「自分こそが戦国の魔王織田信長の後継者である」
と信じていたが、母の生まれが良いという理由だけで次男が支持されて絶望

これだけ聞くと信長みたいな超一流のSランク武将じゃないけど
一流か一・五流のAランク武将ぐらいの実力はあったのかな? と思った
443人間七七四年:2013/10/19(土) 10:40:46.74 ID:1igUKDLo
TVからだけの情報なんか鵜呑みにせず、もっと色々な書物(一次に繋がるものも)を読んで自分で判断した方がいいよ。
それこそ戦国スレ板の楽しみだろ
母の生まれが良いだけなんていってもかなり重要なことだろ?
その母に繋がる人がどれだけ居るかで支持数が決まるのだし
444人間七七四年:2013/10/19(土) 10:42:38.26 ID:otVmQmf6
長男信忠は優秀ですね
甲州征伐では父信長の意見を聞かず自分の考えで行動して
強敵武田を滅ぼし甲信上の三カ国を切り取ってしまいます
軍団長としての功績だけを見れば秀吉光秀より上でダントツです
松永攻め秋山攻めなど他にも実績はあります

三男信孝は本能寺の変のせいで四国征伐がぽっしゃって
大きな功績を立てる機会を逸したのと
その後は戦った相手が悪すぎる(秀吉)ので実績を得ることは出来ませんでしたが
とりあえず覇気と行動力はあった人物と思われます
445人間七七四年:2013/10/19(土) 13:12:45.72 ID:Iazoyc2R
俺の城訪れるもの容赦せんw
446人間七七四年:2013/10/19(土) 19:59:58.48 ID:YZHuzXT4
信忠は、嫡男として正室濃姫の養子になって跡継ぎ教育受けてたし
武田攻めで信長の本隊待たずに勝頼を滅ぼして
信長からは「(信忠が武田を片付けてくれたから)俺は甲斐には観光に行ったようなものだ」と褒められてるし
信孝も、紀州攻め四国攻めで総大将つとめて、大和国筒井氏に養子入りの話もあったが
代々大和国主が不幸に遭っているのを危惧した信長が、四国の三好氏への養子へ変えた矢先に本能寺の変で有耶無耶に
信雄は、総大将経験無し。独自に攻め込んだ伊賀では惨敗で信長から
「お前は馬鹿だから周囲に唆されたんだろう。次やったら親子の縁切る」と叱責され
信忠信孝が尻拭いするはめに。

信長は、信雄の器量を察して大役は課さず、伊勢国司北畠当主として地位を与えながらも
お飾り的なポジションで織田家の中で釣りあいを持たせてた気がする
三男信孝は、優秀だったから京の禁裏で出仕させたり、信雄差し置いて総大将務めさせたり。
確かに初めの養子先の格式は低かったが、筒井や三好に行ってたら、北畠と大差なくなるし
それが、本能寺の変後の兄弟対立に繋がっていったと思う。
信孝にしてみたら、父に愚鈍扱いされてた信雄より、実力を認められてた自分が織田を継ぐべき。みたいな
447人間七七四年:2013/10/19(土) 20:04:37.12 ID:YZHuzXT4
あと、信孝生母は伊勢平氏関氏の庶流坂氏なので身分は低くない
報告が送れて三男になったとはあるが
身分が低いとしているのは信雄側の資料だけだったような
448人間七七四年:2013/10/19(土) 21:34:43.95 ID:C0dBHUpS
武田攻めなんて最初から寝返り崩壊して自壊しただけなのに信忠は別に何もやってねーじゃん
むしろ唯一抗戦した仁科1000以下相手に圧倒的に兵力差が影響する城外戦で一門信家をぶち殺される有様だし
普通なら10分程度で決着がつきそうな決戦において最低で見積もっても4時間も戦われてる有様だし
449人間七七四年:2013/10/19(土) 21:38:30.20 ID:QXPvBsBI
武田征伐で信長に勝手に動くなと命じられおっかなびっくり信忠
その信忠を無視して、あとで信長に直談判するからいいやw
とばかりに信忠無視で進撃する森らw
この時点で統率すらできない信忠にはなんにも権力移譲されてないお飾りで無能じゃんよ。
450人間七七四年:2013/10/19(土) 21:39:07.59 ID:zDXeGwXP
武田討伐の責任者は川尻であり
信忠はただのお飾り。
信忠はよく贔屓目にみても滝川と同格レベル。
森や梶原はまったく相談もせず、どんどん進軍。
信長もあいつら軽率な行動の言い訳に力戦したとか言って
後から俺に訴訟してくるだろうと書いてる。
織田厨は信長書状すらまったく読んでないアホ
自分の願望信長像・信忠像を否定するレスを中層レッテル人格攻撃で排除してるだけ。
そして武田を捏造妄想曲解でまったく根拠ゼロの悪口中傷でっち上げで攻撃してきた歴史。
451人間七七四年:2013/10/19(土) 21:40:40.43 ID:L71Uloor
バカ若殿信忠は無能過ぎて、
25歳になっても川尻が事実上の指揮官やってるくらいのボンクラw
追加保護者に滝川まで付けられるくらい信長は不安視していたが、
案の定、森や梶原は好き勝手やった挙句に信長に断罪されるどころか加増してもらったw
ハッキリ言って信忠イラネw
452人間七七四年:2013/10/19(土) 21:41:21.18 ID:L71Uloor
天正10年1月6日付けの勝頼書状には
軍事行動は延期。2月には仏事を執行するから (3年喪を秘していたので信玄7回忌だった)
3月、4月も一切動かない。
などと軍備を解除して武田領国は仏事に入ってた。
そこで織田軍が無防備の武田領へ奇襲しただけだからなぁ。
斎藤滅亡も義龍7回で美濃諸将が仏事の最中の時だし。
信長は服喪期間にコソ泥して滅ぼしてるだけだろ…
そもそも騙まし討ちによる武田防衛体制解除・北条徳川戦の疲弊や内政失敗などによる国人のそううっての離反
・出陣しようとしてきた所に浅間山噴火と不運が重なったのが武田滅亡。
453人間七七四年:2013/10/19(土) 21:42:02.96 ID:KKumV0Np
日比野弥次郎・日比野孫一に陣夫銭の件で棚橋彦一郎の違乱に対して、
和田八郎に命じて1貫500文を納めるようにと決まったので
異議申し立てをしないようにせよという内容の書状を発給している。
この書状は織田信長御朱印の旨で裁許するようにと書かれているが
日比野は尾張、棚橋は美濃の人物でいずれも信忠領地の武将
454人間七七四年:2013/10/19(土) 21:42:37.22 ID:QXPvBsBI
>>453
結局、信長が裁断してるのか。
やっぱ信忠は無能だな。
455人間七七四年:2013/10/19(土) 21:57:42.75 ID:otVmQmf6
自演連投が菅沼遼太って人ですか?
456人間七七四年:2013/10/19(土) 22:03:18.11 ID:/DJu4rA1
信忠なんて優秀といわれる事なんて全くといっていいほどやってないのにマンセーされる理由がわからん。
あの状況ならトンデモない雑魚武将が攻め込んでも勝てるだろ。
457人間七七四年:2013/10/19(土) 22:04:39.26 ID:C0dBHUpS
対北条戦や徳川戦で武田は疲弊しきってた上に甲江同盟の詐欺の騙まし討ちをかけてたからね。
まともに抗戦したのは仁科1000以下だけだったし。
458人間七七四年:2013/10/19(土) 22:26:28.94 ID:t1ijeWyj
そうは言っても家康や謙信でも勝てない相手だしなぁ
459人間七七四年:2013/10/19(土) 22:36:54.78 ID:QBKC77/Q
2代目はいつもこう
460人間七七四年:2013/10/19(土) 22:36:57.70 ID:C0dBHUpS
謙信→勝頼と戦った経験0
家康→兵力も状況も違い過ぎ(徳川軍は圧倒的に数が少なく、また武田も全く自壊も防戦解除もしていない時期)
461人間七七四年:2013/10/19(土) 22:43:57.08 ID:CC/RaM5C
勝頼は信長や信忠みたいな雑魚よりは戦巧者だろうけど
信玄と比べると遥かに劣る感は否めないよな。信玄だったら勝頼みたいに無茶攻めをせず
北条や徳川にやったみたいにわざと退却して追撃に来た信長や家康を野戦で殲滅してる。
462人間七七四年:2013/10/19(土) 23:48:18.77 ID:TQfJheOV
信玄が大苦戦した北条を勝頼は終始圧倒して領土も奪った
よって勝頼の方が信玄より戦上手なのは確定
そしてその勝頼を長篠で完膚なきまでに叩き潰し完勝した信長はさらに上を行っている
そうだよね?菅沼君
463人間七七四年:2013/10/19(土) 23:48:34.41 ID:LfgiKrVZ
信玄なら無理に突っ込んで討死していたから勝頼の方が上手いな
信玄が苦戦していた戦いも勝頼ならなんなく攻めているし
464人間七七四年:2013/10/19(土) 23:51:21.11 ID:LfgiKrVZ
>>462
そもそも信玄が戦った諏訪だの村上だのって簡単に言えば雑魚ばかりだしな
信長で言えば織田信友や織田信清と同レベルの存在
そんな奴らにすら苦戦したのが信玄
武田の家督を信繁に譲ろうとしていた信虎は間違いなく先見の明があった
465人間七七四年:2013/10/19(土) 23:52:44.95 ID:C0dBHUpS
信玄がろくに苦戦しなかった奥三河の諸城に勝頼は苦戦しまくり
信玄が三増峠で瞬殺したり友軍なしに押しまくってた北条相手に
勝頼は佐竹結城宇都宮那須連合の協力がありながら五分五分の勝負
信玄が撤退戦で瞬殺した家康相手に勝頼は信玄よりも楽な状況で戦って五分五分

その信玄より遥かに劣る勝頼相手率いるわずか6000の勝頼相手に
まるで城のような陣地&高性能鉄砲&かなりの数的有利&雨でぬかるんだ地面という絶好の条件で戦ってすらろくな損害も与えられず
6000も味方を殺されたのが信長。
466人間七七四年:2013/10/19(土) 23:57:03.02 ID:TQfJheOV
>>463
砥石崩れで背後から迫る村上軍に全く気づかず大惨敗した信玄では
信長の巧みな罠を察知出来ずに勝頼以上の大惨敗をしていたろうね

そもそも朝倉の撤退で泣き言言っていたのを見ても信玄が戦の天才である信長との直接対決に如何にビビっていたかがわかる
たぶん恐怖心のあまり病状を悪化させて死んだのだろう
467人間七七四年:2013/10/19(土) 23:58:13.65 ID:ZjdJYel2
菅沼遼太は嘘吐き荒らしで本当に困る
468人間七七四年:2013/10/20(日) 00:00:50.34 ID:q0HoUXi+
信濃攻略そのものが、
村上と小笠原が組んでの共闘で武田挟撃体制を作り上げ
実質、甲斐衆と信濃衆の戦いになってたし、
信玄は最強の上杉や北条やランク落ちる織田から、
領土を奪って、逆に一寸足りとも彼らから領土奪われてないからな。

天文16年関東管領山内上杉軍が志賀城救援で浅間山のまわりに布陣。
8/6に武田軍が突撃し打ち負かし名大将15人を討ち取り、雑兵3000討ち取り。
これらをことごとく志賀城の周りにかけたので、
志賀城の者どもは力を失い、水にもつまり8/11に300の討ち死にをだして落城。

河越野戦は一次史料が存在しない架空戦のため
関東管領上杉が衰退した理由は 小田井原の戦いにより、
信玄によって名大将15名を討ち取られたのが原因なのが明白。
むしろ信玄が苦戦していた戦いといえば、
翌年の天文17年の村上戦だろう。

これは佐久郡攻防戦といってよく、
佐久郡の志賀城を攻略したあとも佐久郡攻防戦は続いており
村上や小笠原ら信州連合軍と武田の戦いである。

2/14から村上と武田は塩田原で川をはさんでの合戦で勝利した勢いで
突出し敵前で首実験して増長していた垣や甘利が奇襲され討ち死に。
しかし信玄は本陣を払わず踏みとどまり、小山田出羽守の比類ない働きもあって戦線を維持
だが小笠原軍5000が武田の背後を襲うために進軍(塩尻峠の戦い)
7/15に武田軍は朝駆けで小笠原軍を悉く撃破し村上の近所の村井に要害を築く。
8/18佐久郡田の口要害へ小山田出羽が働いたものの、信州兵に包囲され
9/12信玄が救援に出撃し佐久郡の大将及び信州兵5000を討ち取る。
469人間七七四年:2013/10/20(日) 00:05:33.98 ID:K6dW7JpL
信玄は一度は北条の攻勢に駿河から逃げ出しているし
三増峠も浅利が死んだり大損害を受けた上での辛勝
もちろん北条の領土は全く奪えていない

一方勝頼は苦戦らしき苦戦もせず終始北条を圧倒し領土も奪った
そしてその勝頼に長篠で完勝したのが戦の天才である信長
そうだよね?菅沼君
470人間七七四年:2013/10/20(日) 00:11:08.53 ID:D+q3u7uK
当時の北条は今川と結託していたし反北条勢もまとまっておらず信玄と協調していない。
大して勝頼期の対北条は厩橋北条を初め、上野や下野の国人が即効で佐竹結城側や武田側に寝返った上に
伊豆の笠原まで寝返る始末。
信玄は石高が80万石程度しかない状態で今川+北条相手に北条を撤退戦で瞬殺し駿河を切り取ったが
勝頼は石高が120万石くらいある状態&佐竹結城宇都宮那須など90万石程度の後援がありながら
北条相手に五分五分(実際には勝頼は優勢だったのは天正7年〜8年くらいの間だけで、後半になると駿河に攻め込まれ
本国甲斐にも二度侵入を許してる(撃退してるが)し駿河の国境の長久保城も北条方に落城されたりしてる)
471人間七七四年:2013/10/20(日) 00:12:36.68 ID:D+q3u7uK
後信玄は北条から北武蔵とか駿河をしっかり奪ってるんだが。上野も奪ってなかったっけ?
472人間七七四年:2013/10/20(日) 00:14:58.66 ID:oujP2hNf
信玄の駿河攻略は、上野で上杉と対陣、相模や駿河で北条の軍と戦い
家康を追い払いつつの攻略戦だからな。
その前に今川氏真は遠江の掛川城に逃亡している。

駿河は半分北条が取って半分家康が取ったがすぐに武田に追い払われ
駿河の深沢城は北条綱成が、蒲原城には北条幻庵が入って
守ってたが信玄が攻略した。このあたりの合戦は
総勢北条4万に対して信玄は1万8千だからな。背後に家康も邪魔してたし。
473人間七七四年:2013/10/20(日) 00:20:36.01 ID:CbFUHTOS
該当スレでやれ低能
474人間七七四年:2013/10/20(日) 00:30:29.49 ID:K6dW7JpL
>>470
信玄時代も北条は佐竹里見らとやり合っていたから大して状況は変わらんだろ?菅沼君
それに北条の方も信玄時代より領土増えていたこともお忘れなく
475人間七七四年:2013/10/20(日) 00:39:23.32 ID:K6dW7JpL
>>471
武蔵北部が武田領なのにどうやって上野まで北条軍は行けたのでしょうか?菅沼君
476人間七七四年:2013/10/20(日) 01:09:39.91 ID:q0HoUXi+
信玄時代の佐竹や宇都宮はまだ反北条でまとまってたわけではなく
佐竹などはむしろ奥州白川とか下野で葦名や那須などと戦ってた時期だな。
勿論里見とか簗田とか敵はいるにはいたが全然勝頼時代のそれとは規模が違う。
後信玄が北武蔵の北条方の拠点も攻略しまくってたのも知らんのか。御岳城とか何個も城落としてるのに。
元々全て北条方だったところだぞ。勝頼は北条相手に優勢と言っても反北条連合との結束の元東上野などで
攻勢をかけてはいたが信玄時代みたいに国力的に格上の相手ではないね。それに後半になると
駿河伊豆国境の長久保城の攻略や甲斐侵攻、東上野の宇津木氏の調略に見られるように北条の反撃もされてる
477人間七七四年:2013/10/20(日) 02:47:51.99 ID:K6dW7JpL
>>476
どう規模が違うのか具体的に菅沼君
あと私は武蔵北部を領土にしたのかと言ったんだよ?
なんでその後北条領のままのかねえ?菅沼君
478人間七七四年:2013/10/20(日) 03:35:54.81 ID:pnsdmgZi
そりゃ北条と武田の同盟の際武田が占領してた北武蔵の児玉郡?と
北条が残ってた駿河の一部を交換したんじゃん。
佐竹氏は天正2年の北条の関宿攻略と翌年の上総平定・下野小山・榎本攻略と
北条の進出に対して危機感を持ち出して、それまでの奥州での対立関係も全て解消して
白川・岩城・葦名等を中心に南墺州連合と、反北条諸侯を集めた反北条連合を形成して、
鬼怒川対陣では、那須・結城・佐竹・宇都宮などが一体となり、北条方の進出を阻止してただろ。
479人間七七四年:2013/10/20(日) 03:39:10.96 ID:q0HoUXi+
しかも武田との対戦時だと壬生も皆川も佐野もこの連合に加わって
北条方の国人は全くいなくなる始末だしな。上野でも厩橋北条らが寝返って
富岡と由良・長尾がわずかに北条方で残っただけだし
480人間七七四年:2013/10/20(日) 05:05:53.38 ID:3MfNZhO+
つか対北条戦で比べるなら明らかに信玄>>>勝頼だけどな。
信玄の時は謙信とも敵対してて上野でやりあいながら信濃にも留守部隊を置いてて
反北条勢の支援も大して得られず
今川領と途中から邪魔しに入ってきた徳川も含めて相手にして国力的に上の北条から駿河や北武蔵奪ってる。
勝頼の時は上杉・佐竹結城宇都宮那須皆川佐野壬生など関東連合と同盟し
ほとんど北条を包囲状態で戦ってるけど切り取ったのは東上野だけ(北上野などは旧上杉方国人が武田に寝返っただけで
自力で切り取ったわけではない)
481人間七七四年:2013/10/20(日) 06:17:28.61 ID:2vk/m2W6
長篠の戦・・・本作戦の目標は美濃への侵攻のための陽動作戦でしかなかった。しかしあまりにも織田・徳川が弱すぎて、決戦で一気に勝負をつけようと考えてしまい、
織田6000討死(長篠日記)により野戦では大勝利したものの徳川・滝川の陣城へうまく逃げ延びた織田兵への陣城攻撃を開始し優勢だったが
さすがに陣城が落ちずに日没を向かえたので鳶ヶ巣山砦も放棄し(一次史料に酒井の鳶ヶ巣山砦攻撃は存在しない)
撤退を開始したら殿が下手を打って軍が崩壊し1000人討ち取られた(多聞院日記)義景もそうだが、敵前撤退の難しさを痛感する。三増峠や三方ヶ原の撤退戦における軍の180度回頭し
尻が頭になる陣形変えの瞬間妙技は信玄にしかできない芸当だな。長篠戦死者に関しても公記で長篠で討ち取ったと書く名簿一覧の甘利藤蔵(晴吉)など、
永禄7年に小田原で戦死している者が登場していたり討ち取り一覧からして捏造臭が激しい。また甘利一族の誰かが死んだのを間違って書いたと考慮した場合、
6月朔日の勝頼→小原・三浦宛書状の中で、甘利諸頭諸卒恙無きと書いていて甘利一族で名の有る者の戦死者はまったくいない。
わざわざ勝頼が甘利の名を書状で言及して出しているのも織田側が討ち取ってもいない者の名前をあげて捏造戦果をデッチあげて勝った勝ったと吹聴して回っていた可能性が高い
一方、21日に長篠で勝ったとされる織田軍も信長の28日書状で27日にはすでに京に帰ってるのがわかりほとんど追撃してないように見える。
実は織田軍もかなりの被害を受けて岐阜へ逃げ帰ってるんじゃないかと思う。だから織田が勝利による戦果の拡大に失敗してるのでは。その証拠に信長から諸将への感状が一切出されてない
(武家雲箋に収録された馬場美濃守信房討ち取りの岡三郎宛の研究の余地ありの感状はあるが・・・)ちなみに家康は松平勝次などに感状出してるし、その後は駿河方面へ攻め込んで伊豆境で放火してる。勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取り
その勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてるから野戦で織田軍は大敗して大きな損害を出して籠城してしまったのがわかる。
信長があっちこっちで誇大戦果をばら撒きまくってるから織田の大勝利に見えるだけで、実態は織田が大敗して武田が城攻めを余儀なくされてただけなのでは?

ちなみに高柳光寿氏は長篠の戦いでの武田軍兵力を6000と推定してるね。(勝頼が謙信を怒らせたので1万を高坂につけて越後の
押さえに残し15000で出陣は甲陽軍鑑のネタ)信長書状には「数万を討取った。勝頼の死体も河に漂ってるだろう」などと書いてるが
武田軍の損害は多聞院日記の千人ぐらい討死が正しい。
そもそも相手より少ない兵力&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面の中城攻めやったんだから
撃退されて当たり前そんな状況で9時間も戦い続け、織田方6000の被害なんだからガチンコで戦術的勝負させたら100%武田の勝ち 織田軍のことを
敵失行之術 一段逼迫之躰候之条 無二彼陣へ乗懸信長・家康両敵共 此度可達本意案之内って書いてるように勝てる判断をしている。
もっとも15000は甲陽軍鑑の話なので実数は高柳光寿氏が指摘するようにこの時の出兵は武田軍6000が実数だろう。
もともと岡崎城での内応をアテにしての出陣から計画変更してるわけだし。長篠日記によれば戦が始まるや武田軍が一方的に野戦で大勝利して
陣城へ追い込んでるわけだし、織田側は6000の戦死を出してると書いてる。6000の軍で野戦で圧勝して6000討死させてるんだから
陣城での織田側の籠城戦での鉄砲での防衛に戦局は変化してる。武田側も鉄砲における戦訓を得ていないとおかしいわけでやはり陣城からの敵前撤退の失敗に敗因があると思われる。
これが朝倉家における刀根坂の撤退戦の失敗と同様のものだったと考えられる。殿部隊が失敗してしまった軍の崩壊は致命的。
482人間七七四年:2013/10/20(日) 08:05:22.37 ID:j3DrEHw1
アスペルガーだがは馬鹿なのか?
スレチな荒らしが痛々しく気持ち悪い
483人間七七四年:2013/10/20(日) 08:35:13.73 ID:K6dW7JpL
>>478
交換したという一次史料は当然あるんだろうね?菅沼君
それからそれらの連中を合わせだのと里見らの石高は大して変わらんように思えるんだが?菅沼君
484人間七七四年:2013/10/20(日) 08:58:29.81 ID:q0HoUXi+
お前は何かまともな本でも読んでるのか?
信玄と北条の攻防で信玄が北条方の北武蔵の拠点を攻略したなんて
北条側視点で終始考察してる黒田基樹氏ですら書いてるんだが。
佐竹結城宇都宮那須壬生皆川佐野なら普通に90万石くらいいくだろ。
沼尻合戦の時とか墺州からも援軍が来てたことに見られるように、奥州勢も加わったかもしれんし
最盛期の里見でも40万石前後だから全然違うわな。
あと上杉と同盟してた勝頼に対して上杉と敵対してて上野で追い払ったり信濃に後詰残してた違いもある
485人間七七四年:2013/10/20(日) 10:25:45.70 ID:Qrnkk9ss
>>483
埼玉県神川町にあった御嶽城とかが実際に北条へ譲渡されてるぞ
486人間七七四年:2013/10/20(日) 11:11:46.14 ID:K6dW7JpL
>>484
攻略はしたがその後領有化は出来なかったんだろ?
んで交換したという一次史料は?

あと90万石の根拠は?
それと北条領も勝頼時代には増えているのだから国力対比としては大して変わらんと思うが?菅沼君
487人間七七四年:2013/10/20(日) 11:16:21.59 ID:Qrnkk9ss
北条側は興国寺城などを武田に譲渡してる。
488人間七七四年:2013/10/20(日) 11:17:28.65 ID:K6dW7JpL
>>487
それを証明するための一次史料は?菅沼君
489人間七七四年:2013/10/20(日) 12:25:59.03 ID:Qrnkk9ss
>>488
戦国遺文北条編の
1572文書と1769文書。
490人間七七四年:2013/10/20(日) 12:36:06.21 ID:q0HoUXi+
>>攻略はしたがその後領有化は出来なかったんだろ?
なんで攻略したのに領有化ができないんだ?

>>んで交換したという一次史料は?
そんなん>>489も出してるが武田と北条の攻防を書いた書籍類読めば何にでも書いてあるわアホw
>>あと90万石の根拠は?
佐竹結城宇都宮那須皆川佐野壬生連合の版図は下総北部の一部に常陸と下野のほぼ全域に南奥州の白川領だからそのくらいいくわな。

>>北条領も勝頼時代には増えているのだから国力対比としては大して変わらん
武田領もかなり増えてるし対上杉用の留守部隊の必要性から動員可能兵力は全く異なるものになると思われる
491人間七七四年:2013/10/20(日) 13:45:50.22 ID:TdPMCxxP
信玄は圧倒して臆した北条に二度目の小田原城攻めをちらつかせ
上杉との同盟を破棄させた上で武田と同盟させた巧妙さがあるが、
勝頼は北条と徳川の同盟を破棄させて、
武田と北条の再同盟を結ばせる器用さが無いんだよな。
492人間七七四年:2013/10/20(日) 15:21:40.81 ID:nlCcY1S9
家臣をことごとくぶち殺され物資と兵士を北条に奪われ壊滅した武田軍
捕虜になった兵士は処刑されている史実から目をそらすアスペルガーだが
493人間七七四年:2013/10/20(日) 22:14:37.55 ID:321Af2A+
>>492
キチガイ織田チョン乙w
494人間七七四年:2013/10/20(日) 23:46:33.56 ID:1oTwHkwf
>>482
在日朝鮮人らしいぞ
本名は菅沼遼太だってさ
495人間七七四年:2013/10/21(月) 00:51:59.74 ID:GFgVyo00
>>490
勝頼のときは上杉など問題にならないくらい強大な織田がいたんだが?
496人間七七四年:2013/10/21(月) 01:07:50.89 ID:X7Xuv5WA
しつけーな。質問スレでやるなキチガイども
497人間七七四年:2013/10/21(月) 07:53:25.12 ID:pkNRb5O1
>>496
高天神城は3年も籠城し続けていて
徳川はかなり苦労してるね。
つか一次史料を読むと
天正7年の中ごろあたりから佐竹のよる甲江同盟(武田・織田)が
成立しつつあるような感じなんだよね。
勝頼も佐竹の仲介が成功しそうで、確約が早く来ないかと悶えるとか書いてるし、
天正8年に入ると織田信房(御坊丸)を武田が織田へ返還したこともあり
景勝が甲江同盟を結んだのを、なぜ事前に報せてくれなかった!と抗議を受けてるし
そのため武田の軍事行動の中心は対北条戦で、
織田と武田は和睦交渉中で事実上の戦闘停止状態。
そのため勝頼の書状も対北条での景気のよい話の書状ばっかり。
逆に高天神城とその周辺に関しては関心がないと言うより
事実上の膠着状態(甲江同盟交渉の影響で緊張状態にないヌルイ感じ)になってたとしか思えない。
なんせ高天神城からは一切、援軍要請すら出てない。
天正9年正月になって久しぶりに高天神城への勝頼書状が登場するが、
使者の往来の忠節ぶりを褒めて加増の話を書いてるだけで、
援軍に出るとか、そんな危機的な内容は一切書いてない。
そして次ぎに登場するのは3年も籠城して討死した岡部の所領の相続を息子に認めてる書状。
明らかに武田側に高天神城が落とされるとは思ってなかったとしか思えない。
織田と武田の同盟が成立すると誤認して
遠江方面での軍事行動を控えていたとしか思えないし
徳川も高天神城に砦を構築して包囲したとは言え
本気で攻め落とすつもりがあるような態度でなかったから
使者の往来が天正9年に入っても可能だった。
つまり織田が同盟成立を匂わせて佐竹や武田を騙していて
御坊丸を返還した武田は同盟なったと誤認して安心してたら
突然、高天神城が落とされてしまったと思われる。
しかもそんな武田に織田はさらに同盟のカマかけて
南化玄興ルートで和睦交渉の美人局をやって
またしても佐竹や里見まで今度こそ同盟成立したと誤認してる(天正9年8月)

織田は奇襲によって完全に武田を騙し討ちしてる。
498人間七七四年:2013/10/21(月) 08:34:16.77 ID:6FgzgQxk
でそれが何か問題でも?w
499人間七七四年:2013/10/21(月) 10:06:05.71 ID:mevrfaSr
だがの粘着荒らしはいろんなスレでよく見かけるがここは酷いな
500人間七七四年:2013/10/23(水) 00:20:44.90 ID:DzT1Q/wb
徳川秀忠の遺言が
徳川家が天下を取って、まだ日も浅い。
今まで制定した法令も完全なものとはいえない。
近いうちに、これを改正しようと思っていたが、
不幸にしてその志を果たすことができない。
私が死んだあとは、少しもはばかることなく、これを改正せよ。
と、あるらしいのですが、ソースはどこでしょうか?
501人間七七四年:2013/10/23(水) 00:36:33.08 ID:8QznwjxV
戦国時代はどんな酒を飲んでましたか?
502人間七七四年:2013/10/23(水) 12:47:31.53 ID:3i8i/pzG
どぶろく
503人間七七四年:2013/10/23(水) 20:41:11.84 ID:eD0JBXjM
何故に文献、史料はくずし字で書いてあるんですか?

当時は皆読めたって事ですよね?
504350:2013/10/23(水) 20:45:13.01 ID:PavGj4b7
普通に書くのが早いだろ、毛筆で巻かれた状態の巻物に書くことが多いんだし
習字みたいに半紙床に置いて書くばかりじゃないよ
505人間七七四年:2013/10/23(水) 21:34:57.65 ID:CGUsXxhX
日本語でおk
506人間七七四年:2013/10/23(水) 21:35:40.63 ID:CGUsXxhX
誤爆すまん
507人間七七四年:2013/10/23(水) 22:00:26.15 ID:1YmKuhiK
戦国時代に西洋や中国みたいな巨大投石機が殆んど使われなかったのは何故?
あれが何機かあれば、城を落とすのが大分楽になったと思うんだけど?
508人間七七四年:2013/10/23(水) 22:08:34.18 ID:kv2FY87K
あれを山城に運ぶ事が出来ないから。
509人間七七四年:2013/10/23(水) 22:09:27.29 ID:3i8i/pzG
あれは山城には意味ないから
510人間七七四年:2013/10/24(木) 00:09:03.34 ID:/dmuAhtc
日本の戦国の城は要塞戦だもんな
要塞に投石機は通じない
511人間七七四年:2013/10/24(木) 10:05:48.82 ID:+W3tPsEp
プレハブみたいに作れば良いし
対岸とかからなら意味あるだろ?
512人間七七四年:2013/10/24(木) 12:34:49.59 ID:IDuKVFC6
>510
ごめん
よくわからないんだが、要塞に投石機が通じない理由を教えてください
513人間七七四年:2013/10/24(木) 14:02:04.30 ID:/dmuAhtc
>>511
そうだな通用しないは言いすぎた
効果が弱い、だな

>>512
要塞でググればわかるはず
514人間七七四年:2013/10/24(木) 15:59:12.60 ID:IDuKVFC6
要塞の定義に錯誤があるのかとすでにググったんですが、あなたの意図がわからない
だからおせーてください
515人間七七四年:2013/10/24(木) 16:06:01.79 ID:IDuKVFC6
ちなみにお題の答えは俺も運用できる戦場が少ないからだと思う
516人間七七四年:2013/10/24(木) 16:07:48.29 ID:6KlCSDX4
応仁の乱では投石機で火薬を使った炸裂弾を使ったりしてる
517人間七七四年:2013/10/25(金) 10:57:25.23 ID:2xlYhFig
あれだよ、手頃な石がないんだよ
518人間七七四年:2013/10/25(金) 18:14:05.57 ID:RQJz796X
なんか説得力がある
519人間七七四年:2013/10/26(土) 12:06:22.53 ID:xswH1yaZ
川の中流に行けばあるだろw
道路が未舗装で運べないのは大きいと思うよ
荷物運ぶのも馬車じゃなくて背中に背負わせる駄馬だし
欧州はローマ街道が使えた
520人間七七四年:2013/10/26(土) 14:59:56.04 ID:+G/fCcf5
>>514
城壁を壊すとかの目的で無い限り
わざわざ投石機を運ぶメリットがないってことだよ
そこまで役に立たない兵器を起伏の激しい日本で無視して運んでも得が無い

日本の城は、西洋や中国みたいに城壁頼みの構造をしてないで
地形を複雑化して守るから

大砲が出てきて城壁頼みしなくなった西洋も
地形を複雑化して拠点を要塞化してからは
城壁破壊を目的とした攻城兵器の意義は薄くなった

これでどうよ?
521人間七七四年:2013/10/26(土) 19:39:37.49 ID:+cJmz0wa
一個人の武勇で最強クラスの奴ってどんなのがいますか?
最強は誰だっていう議論じゃなくて最強クラス、最強候補
最強決定戦するなら間違いなくこいつエントリーされるだろうって奴を教えてください

戦国好きなんで戦国本よく読むんですが、戦国本の『戦国最強』って必ず
軍団的な強さで信玄謙信信長家康秀吉が候補になるんで

それに関する確認質問ですが東日本最強の本多忠勝と西日本最強の立花宗茂
って本当に一個人の戦闘能力高くて戦場で無双してたんですか?
前ネットで『名家のお坊ちゃんだから実際は指揮統制で本人が戦う事は少なかった』
みたいな文章読みました
522人間七七四年:2013/10/26(土) 20:03:16.70 ID:roUXOWNG
最強の定義を出せ。個人格闘なのか軍勢は使うのか武器の範囲は等々

それがはっきりせんと何も言えんわ
523人間七七四年:2013/10/26(土) 20:11:20.12 ID:+cJmz0wa
一個人の戦闘力です
指揮統制能力とかじゃないです。完全な一人の戦士としての戦闘能力です

最強候補たりえる逸話はタイマンでも多対一でもいいです
武器は飛び道具じゃなければなんでもいいです


ていうのも中世時代の最強人て二種類いて比較が難しからです
多対一系 戦場で●●人討ち取る 生涯無傷
タイマン系 決闘●●回やって全勝 ●●最強と決闘したが瞬殺した
524人間七七四年:2013/10/26(土) 20:16:21.60 ID:ah8424Ae
個人武力だったら信長は相当なもんだぞ
525人間七七四年:2013/10/26(土) 20:36:39.43 ID:roUXOWNG
どれほど個人武力が強くても武将にはなれんよ。名のない最強雑兵はなんぼでもいただろうさ
526人間七七四年:2013/10/26(土) 20:52:52.53 ID:xeDEZga7
やはり塚原卜伝から一の太刀を伝授された剣豪将軍足利義輝も候補だな。
二条御所を襲撃されて死んだけど何人も切り倒したらしい。
527人間七七四年:2013/10/26(土) 21:23:54.59 ID:diEhaLZ3
上泉信綱かなぁ
528人間七七四年:2013/10/26(土) 22:01:13.99 ID:2yVLtxd0
上泉さんは晴信から名前もらったから、格が違うでしょ
529人間七七四年:2013/10/26(土) 22:09:35.94 ID:2zS4mEmT
何の格だよw
530人間七七四年:2013/10/27(日) 23:47:01.00 ID:/5C47myj
>520
ありがとう
しかしやはりあなたの要塞の定義には錯誤があるようだ
あなたの意図は「要塞戦に投石機が通用しない」という説明からは到底汲み取れない
まして「要塞でググれ」ってググったところで絶対にわかるはずもない

言ってる事は間違ってないのだから、最初から最低限の説明を付けてくれ
おかげで真面目にググってしまって陣や築城にも目を通したが意図がわからず途方にくれたぞ
あともう少し早くレスしてくれるとありがたい
531人間七七四年:2013/10/29(火) 06:43:34.89 ID:Lc0kTtdm
質問させて下さい。
合戦中に首を取るのって難しいと思うんですが実際どうなんでしょうか?
当然1対1じやないでしょうし敵兵を殺して首を切り取ってる間に敵兵に襲われたりしそう…
また首を持ち歩いて戦うのもあまり効率良く思えません。
色々調べてみたら織田家の武将で笹を口に詰め込んで目印にしてた人が居るみたいですが、他の人達もそんな風に目印を付けて放置をしてたのでしょうか?
それはそれで無名な人が自分のじゃない首を持ち逃げしたりしそうで効率が悪そうに思います。
もし宜しければ首全般についてご教授下さい。
532人間七七四年:2013/10/29(火) 06:46:22.84 ID:kkBLlCtD
>>531
「武士」というのは本人+数名〜数十名の従者とのユニット。以上。
533人間七七四年:2013/10/29(火) 07:51:20.03 ID:QDXDJ2Zb
ユニットなんて戦国時代に無い言葉使うなや
534人間七七四年:2013/10/29(火) 07:59:55.37 ID:YBvvq51b
>>533
お前はアホか
535人間七七四年:2013/10/29(火) 09:45:22.71 ID:oXm9tTWt
>>531
いろいろだけど、でっかい重要な戦だと
クビは関係ない、と事前に宣言したりね。
言われるように効率悪いし。
後は、鼻とか耳で代用したり、とか。
局地戦だとクビ下げて帰還、みたいなのも
あるけど、重いからひとつふたつが精一杯
だったみたいね。
536人間七七四年:2013/10/29(火) 11:13:12.60 ID:XhbcHRiT
普通の戦だと、石つぶての投げ合いで決着つく場合も多く、
そこそこでかい戦で真っ正面から戦う羽目になる稀なケースでも
一人討ちとれば比類無き武功で感状がだされるレベル。
2人も3人も討ちとれるようなヤツはまずいない。
それより一番槍の武功や劣勢下での活躍の方が誉れ高い。
天下に名を覚えられるアピール武略が重要なんだわ。
537人間七七四年:2013/10/29(火) 11:18:48.59 ID:SUzHFdTK
前田利家が首2つ取って大手柄で帰参を許される世界だからね
首といっても侍の首じゃないと手柄にならないけど
538人間七七四年:2013/10/29(火) 11:56:51.00 ID:IBGR0NHA
当時の織田の規模だとバンバン死者が出るような戦はやってないだろうからね
539人間七七四年:2013/10/29(火) 13:19:49.62 ID:brGmkeWn
>>531
>敵兵を殺して首を切り取ってる間に敵兵に襲われたりしそう…
よくあるケースだよ
540人間七七四年:2013/10/29(火) 18:10:58.47 ID:Lc0kTtdm
解答して下さった皆さん有り難う御座います。
自分が漫画や小説などを読み過ぎてたせいかイメージとかなり違う事が分かりました。
1人討ち取るだけでも誉められて首2つでも充分な手柄とか重たくて持てなかったなど大変生々しくその通りだなと思いました。
耳鼻に関しても朝鮮出兵とかで確かに学校でも習いました。
国内の戦でも代用する事もあったんですね。
かなり参考になりました。
今回一番びっくりしたのは石を投げるなんて地味な戦いもしてたという事でした。
調べてみると武田軍でもやってたみたいで驚きました。
自分の中で合戦のイメージが本当に変わりました。
解答して下さった皆さん有り難う御座いました。
541人間七七四年:2013/10/29(火) 18:30:43.04 ID:3em9xmQH
>>540
あと、合戦を周りの丘から一般人たちが、
見学をしていたりもする。
それはわりと戦国末期になってもあったようで
政宗が蘆名を滅ぼした戦いでは、
戦の見物人の集団を敵と誤認した片倉が銃撃を浴びせてパニックになったりした。
542人間七七四年:2013/10/29(火) 21:08:11.54 ID:ge15pGVv
>>540
>石を投げるなんて地味な戦いもしてた
石つぶては水滸伝にも出てくる位ポピュラーだよ。
543人間七七四年:2013/10/29(火) 21:53:26.00 ID:iJfdnKXH
水滸伝の話をされてもなぁw
544人間七七四年:2013/10/29(火) 22:24:17.41 ID:SUzHFdTK
投石はあの宮本武蔵さえぶったおしたスーパー兵器!まぁ攻城戦だけど
545人間七七四年:2013/10/30(水) 08:05:47.76 ID:bPNpOi1h
大坂陣でも、家康公もお聞きになっているって言われる活躍は、
天下に隠れなき武功として超嬉しいみたいだしな。
子孫も自慢しまくりで江戸時代270年間の生活が守れる。
546人間七七四年:2013/10/30(水) 15:30:05.49 ID:S8/HLOI1
平安末期には、石投げ、はちゃんとした
剣術槍術みたいに技術化されて一門
みたいなのもあった。
戦国でも農民上がりに剣なんかは
扱えないので、石投げというのはこれも普通の
攻撃方法ではあった。
547人間七七四年:2013/10/30(水) 22:37:12.61 ID:wFOmCuXu
昔外国投石機の話を読んでいた時に象(の死体)を投げ込む話載っていて、
石よりも伝染病を期待して不潔なものを投げ込む方が多かったようだけど
日本もやはりそんな感じなんだろか
548人間七七四年:2013/10/30(水) 22:47:14.33 ID:krOgfyxB
籠城戦って兵糧の話はよく出るけど実際は大量の糞尿の処理にも難儀したんじゃなかろうか。
549人間七七四年:2013/10/30(水) 23:12:18.16 ID:2JgYxlOQ
当時は糞尿は貴重な肥料ですぜ
550人間七七四年:2013/10/30(水) 23:53:25.78 ID:krOgfyxB
糞尿だって直ぐに肥料になるわけじゃない
何ヶ月もかけて発酵させて初めて肥料になるんだ
551人間七七四年:2013/10/31(木) 00:05:09.78 ID:kKGTvSxS
織田信長のうつけは平手政秀が演じさせていたっていうのは本当なんですか?
552人間七七四年:2013/10/31(木) 07:35:50.77 ID:C2XCzBEU
>550 肥溜めって知らない? 備中松山城なんかには跡があったよ
553人間七七四年:2013/10/31(木) 07:38:30.61 ID:dCi/WxlQ
長期の籠城戦なんかになると肥溜めも溢れちゃうんじゃないかね?
外に出せないわけだし
554人間七七四年:2013/10/31(木) 09:26:07.12 ID:DhARhHe+
糞尿の処理は人間が生きてる限り当然大きな問題であり
北条や武田の軍令書には城から百間離れた所に捨てろとか
野グソは陣からは離れた所にしろとか書いてある
河を引き込んだ水掘りを持つ城は堀に落ちるいわば水洗だったり

籠城時は捨てにいけないけど精神攻撃兵器として敵にぶっ掛けたり。
後の掃除は大変そうだが
555人間七七四年:2013/10/31(木) 12:39:50.48 ID:nVFlm2md
会津藩が篭城を断念したのもうんこ処理が限界突破したからと学者が発表したら
会津の人々から総非難をうけてたんじゃなかった?
かっこ悪いからメンツとして認めたがらなかったんだろうけど
実際、戦となると人数における排尿処理とか衛生管理面とか重要だからね。
556人間七七四年:2013/10/31(木) 13:04:55.55 ID:Fc4njHQj
>>547
領地を脱出する時に
井戸に糞尿いれておく、という話もあった。
イヤガラセだのぉ。

篭城の時は糞尿を武器としてかけてたらしいけど
「煮てから」というからね。
今と違って昔はニオイにもある程度はおおらか
ではあったろうな。
557人間七七四年:2013/10/31(木) 13:10:27.35 ID:0OHXevRF
島津と立花って本当にトンデモなく強かったの?

関ヶ原で島津軍突っ切った島津。その島津と九州二分してガチンコしてて
西国無双立花宗茂を有する大友立花家
ついでに両者ともに朝鮮の役で五倍十倍の戦力差でも普通に勝つ無双ぶり

これだけ聞くとチート連中に見えるんだけど、鬼の引き口は勝利確定した
徳川は余計なケガしたくなくって消極的だった
朝鮮軍は元々弱くて、島津立花以外の日本軍も勝ちまくりだった
とも聞く

なら島津と大友立花って九州の中では最強でも全国的にみると特別最強軍て
わけでもないんじゃないだろうか、と思いました
558人間七七四年:2013/10/31(木) 13:34:13.14 ID:UBEK92lz
トンデモなく強かったのなら、九州はもちろん、近畿まで支配してたでしょ。
できてないのは強くてもその程度ってこと。
559人間七七四年:2013/10/31(木) 13:38:08.96 ID:0OHXevRF
うん、だから本当に強かったなら
九州の中で戦国最強同士が潰し合いしてたから助かったけど
互いが互いを無視しあって本州行ってたらそんな感じだったのかなと

でも本当は井の中の蛙なのかとも思った
560人間七七四年:2013/10/31(木) 14:27:40.69 ID:DhARhHe+
>>555
TV局が面白いからという理由だけで拾って広まった馬鹿げた説すね

>>557
その手の話は立花朝鮮記や征韓録などの
自家の功績を誇張して喧伝している史料によるものであって
軍記物の記述を鵜呑みにするなら確かにチートですが、
日本全国あらゆる所で作られているものなので、日本中チートだらけになってしまいます。
づすから話半分に割り引くか、一次史料や他家の記録と照らし合わせて精査すれば
なんとか史実に近い像がみえてくる様になるものです。
まぁ九州大名はしょっぱくなり過ぎてロマンはなくなりますが。
561人間七七四年:2013/10/31(木) 14:34:27.64 ID:L9rTt89A
>>559
そもそも宗茂の時代には大友は島津の侵攻で滅亡寸前だし
宗茂の養父道雪の時代だと毛利や北九州の国人とやり合ってたし
島津と立花が潰し合いしてたとは言えないよ
562人間七七四年:2013/10/31(木) 16:27:41.42 ID:KtzbFUPk
島津が長年潰し合いをしてきたのは相良や甲斐や志賀や佐伯や伊藤だろ。
特に佐伯には野戦で全戦全敗してるし
立花にも完璧に負けまくってる。
あと関ヶ原の寡兵での陣中とか井伊や忠吉の負傷話は島津の糞講談なので全く信憑性がない
563人間七七四年:2013/10/31(木) 16:41:06.16 ID:zfT0rVys
木崎原の戦い→一次史料皆無の島津軍記オナニー
戦場が義弘統治下のホームグラウンドでありながら、義弘の兵力の方が極端に少ない謎
まるで諸葛亮孔明並みの予言力で、伊東軍の逃走経路を算出し、都合よく配置した上に、
都合よくその場所へ島津の援軍も到着する軍記丸出しストーリー
そもそも伊東氏の家臣を疑う乱政で人心がすでに離散していて自壊状態の不満を外敵へ向けさせただけのアホ戦だったとする話も。

耳川の戦い→これは宣教師の記述くらいでしかまともに史料なし。当然、当然兵力についてもまったく不明。
宣教師によればそもそも大友軍は島津と戦う気gはなく、総大将の田原からして、
島津との間で勢力圏を決めて和睦するためにきたようなもんだった。
出陣の目的は豊後から離れた場所でのキリスト教と宣教師をどういう手段で追放するかの会議だった。

沖田畷の戦い→これも宣教師の記録からしかまともなことはわからない。
宣教師によれば、もっとも竜造寺と激しく戦ったのは有馬。隆信戦死場所も有馬陣前方。
島津はロクに働いていない。島津側の資料には鍋島が島津に内通し、隆信のいる場所へ案内してくれたと記される。

戸次川の戦い→これも宣教師の記述が一番マトモに書かれている。
これによれば豊後に来た仙石はさっそく略奪を開始し、あまりの暴虐に豊後民から見放される。
大友義統などから戦闘は時期尚早と反対されるが反対意見をすべて無視して無謀な進出を強行して敗北。

泗川の戦い・露梁津の海戦→半島はザコなので自慢にすらならない。
むしろのちに関が原で一緒に戦うことになる軍団長の小西の功績を盗んで記述してる疑いが濃厚。

関ヶ原退却戦→家久の子である豊久の犠牲を強要しての単なる大敗走。豊久討ち死にで家久の家は実質滅亡。
あまりのボロ負けに、島津を親の仇と思っている立花宗茂に自分を守って九州へ連れて行ってくれと哀願。
564人間七七四年:2013/10/31(木) 16:55:40.91 ID:nVFlm2md
>>560
>>TV局が面白いからという理由だけで拾って広まった馬鹿げた説すね
それは感情的批判を受けたTV側が釈明のためにいった話に過ぎないでしょ
565人間七七四年:2013/10/31(木) 18:25:11.95 ID:gy0VON/N
ちょっと糞尿の流れ見てて思い出せない武将が居る…
確か野糞(下痢だったかな?)してる最中に捕まった武将が居たと思うんだけど思い出せない…

うんこ中に捕縛された武将ってだけじゃ該当多かったりする?
566人間七七四年:2013/10/31(木) 18:28:41.23 ID:kCf8WxZA
三成だろ
567人間七七四年:2013/10/31(木) 18:37:18.11 ID:gy0VON/N
ああ三成でしたそうでした…
568350:2013/10/31(木) 19:10:39.87 ID:C2XCzBEU
最中じゃなくて、紙を使ってたので上位の武将のんこだとバレて追っ手がかかったんじゃなかったけ
569人間七七四年:2013/10/31(木) 20:48:51.96 ID:RzDzR/Tz
九州で大河やれば、
かなり知らない事だらけで楽しそうなのになぁ。
570人間七七四年:2013/10/31(木) 21:10:48.08 ID:6wUnyXdP
>>563
鍋島が内通してたって史料なに?
571人間七七四年:2013/10/31(木) 21:13:54.05 ID:XhzQA5uF
大友宗麟で正月ドラマは有ったけど、大河は無理なんだろう。
572人間七七四年:2013/10/31(木) 21:54:00.06 ID:Fc4njHQj
尿と言うと家康としたもんだが。
573人間七七四年:2013/10/31(木) 22:01:42.60 ID:XhzQA5uF
家康で糞尿の話と言ったら焼き味噌だろう。
574人間七七四年:2013/10/31(木) 22:16:51.45 ID:DhARhHe+
>>564
史料に拠ってるわけでもなく理屈にも合わない説は馬鹿な説としか言いようがありません
575人間七七四年:2013/10/31(木) 23:11:58.88 ID:5E9K4Wlc
脱糞してでも逃げるの優先して生き延びた家康と
丁寧に紙使ってまで野糞した為に捕縛され死んだ三成と書くと
何か歴史ドラマを感じるような気がしてくる
576人間七七四年:2013/11/01(金) 08:02:16.53 ID:Cu5C46ro
家康は脱糞したうんこどうしたんだろう
手突っ込んでうんこ取って遠くに投げ飛ばしたりしたのかなw
577人間七七四年:2013/11/01(金) 08:05:04.26 ID:7RXD+zux
史料的裏付けがないこと好きだねえ君たち

あ、ウンコが好きなのか。スカトロ趣味じゃしょうがないな。スマンスマン
578人間七七四年:2013/11/01(金) 09:09:40.46 ID:3Ocki+kA
>>574
糞尿降伏に対する会津若松市の反論が、
会津人の心情を踏みにじるもの
という根拠ではなく心情を持ち出してるし、
TBSも会津人への心情に配慮を欠いてしまった
なんだから糞尿降伏自体は否定してない。
問題なのは心情から事実を隠蔽する配慮をしなかったことなんだがな。
579人間七七四年:2013/11/01(金) 10:02:18.41 ID:a64l2svl
残念ながら家久は戦場のだいぶ後ろでビビって隠れてただけ 赤星や相良の援軍が必死に戦い、
それを有馬の陸から2門、海からの2門の大砲で援護射撃して崩しにかかり
隆信が前線が崩壊して混乱してるのを見てこいと指示しただけなのを
「隆信さまがどんどん前進しろや!」と喚いて回ったために
竜造寺軍が自殺進軍を開始し完全に敗北して隆信の周りが孤立無援になってから
急いで家久が少数の兵を派遣しておいしいトコだけ盗んだ卑怯者なだけ。
しかも有馬を助けたいだけで野心はないと大ウソまでついて善人顔してた屑な人柄。
イエズス会によると 「前線にあった島津軍は膨大で、しかも優れた装備の隆信軍を見て色を失い、
互いに顔を見合わせ死の汗を流した」と島津が完全に怯えていたと記す。
そして後方へ逃げた島津3000。一方の有馬5000や赤星や相良らが島津に代わり、
前線で竜造寺と果敢に激突し、大村純忠が戦うフリをして空砲をはなって有馬に内通を開始。
陸海からの大砲の集中攻撃で竜造寺が敗走した時に 島津の川上が竜造寺兵の如く変装して
独断行動で隆信に近づき暗殺しただけ。隆信は川上を味方の兵だと誤解していた。
イエズス会は隆信を暴君と呼んで嫌っていたが島津に対してはデタラメを言うようなことはない。
島津の国主と書いたりしている。また陸上2門と有馬の老臣安富徳円の船から二門の大砲を操ったのが
隆信が不当に殺すことを命じたために大村領から逃げてきたマルチニヨというキリシタンが砲の狙いをつけ
黒奴が砲に装薬し、マラバル人が火をつけたなど細々と解説している。
もっとも跪いて手を挙げ祈祷したりする手順があったのでそれを知る人間しか大砲を操れなかった。
フロイスによると有馬氏へ天正8年に鉛や硝石を提供したりしているので大砲もこの時にもらったのではと言われている。
これにより海岸線のに展開して進軍していた竜造寺隊は崩壊逃走し一部は中央の畦道を進軍する軍へ乱入混乱が増した。
有馬隊は柵の後ろで鉄砲により応戦していた中央の赤星隊300を守るために右前方に突出した森岳に布陣し
大砲を打ち込みつつ有馬兄弟や叔父たちとともに竜造寺の槍隊に討ってでて恐れを知らなかった。
事実、隆信戦死の地とされる場所は海岸線に近い森岳前方なのである。
つまり有馬の陸海からの大砲と有馬本隊の突撃(有馬隊自体は鉄砲は使わず)で竜造寺の左翼の海岸線の部隊は
壊滅し、その敗走は中央軍の混乱を誘い、隆信は海岸線の部隊の督戦のため移動し
そこで隆信は孤立無援状態に陥り討ち死にしたとしか思えない。
ちなみに竜造寺軍は鉄砲1000挺に大砲も持っていたらしい。これを島津が見て恐怖したようだ。
ちなみに相良軍は13歳の忠房が疱瘡で病んでいたために有馬救援軍を的場自休が代役として率いており
竜造寺相手の先陣争いでは騎下の豊永金兵衛が奮戦したと言う。
島津が攻撃に参加したと思われるのは竜造寺が敗走した後の追撃戦のみ。
これを家久の武功だなんて主張するのは基地外のやること。
つか丸尾山方面へ向かったはずの右翼の鍋島ってこの時も兵を動かしてないように思える。
580人間七七四年:2013/11/01(金) 10:02:51.24 ID:a64l2svl
出兵に反対していた鍋島ははお留守番を命じられていながら
なぜか戦場へやってきて、しかも竜造寺軍右翼を担い、しかも戦を傍観し続け
中軍の混乱も放置しており、戦後に隆信の首もいらねぇよと拒絶。
そのため隆信を暗殺すべく敵側へ内通した説も存在している。
この時の鍋島の行動は腑に落ちない。
島津方軍記には沖田畷の戦いで川上左京に隆信の居場所を教えたのは直茂だと書いてある。

沖田畷の戦い(抜粋)
此レハ偖置此処ニ又川上左京久堅ハ、軍ハ今カ花ト心得テ、我手三百余騎ヲ引テ桑原ノ陣ヲ忍ヒ出テ、
寺山カ死シタル籏ヲ奪ヒ取リ、肥前ノ軍衆ニ様ヲ替へ、陣屋々々ヲコナタコナタニ廻リ玉ヒシカ、
鍋島ニハタト行合、「如何ニ申サン、鍋島殿。某ハ士ノ身ニテ未練ナカラモ今中務殿ノ横入ニ目暮ンテ、
我身隆信公ノ御陣所ヲハタト忘レ候ヒシカ、教エ玉へ、鍋島殿」ト泪ヲ流シテ申シケル。
鍋島モ、勢ヲ見レバ薩摩勢印シヲ見レバ、肥前方、暫シガ間ハアキレ果テテゾ御座シマス。
鍋島殿運ノ尽キニヤ、大敵ノ薩摩勢ヲ味方ト心得テ我君隆信公ハアナタニ見へシ。
小松原ノ本陣ニ三十六騎ヲ御側ニ召サレ、母衣カケ武者ニテ御坐シマス。急キ参レ」ト
教エケレバ川上殿ハ鍋島カ教ニ行キ頓テ小松原ニモナリヌレバ左京モ□□□ノ中ト心得テ装束改メ
「我レヲ誰トカ思フラン。薩摩ニ於テモ、島津義久カ郎等川上左京久堅トハ我事ナリ。
此度、赤星兄弟子供カ恨ミニ太刀ヲ請玉へ」ト大音揚ケテ申シケル。隆信聞シ召サレ、
偖テハ薩摩ニ於テ家アル士カ、又ハ家ナキ士ナラバ、目下廻り首ヲ討テ」ト申シケル。
左京聞シ召サレ「偖ハ中々思ヒモ依ラン仰カナ。士カ士ヲ討ツニ、目下目上ノ差別アルマシト、
去フヨリ早ク三尺六寸ヲ抜キ持テ隆信カ弓手ニ廻リ隆信カ首ヲ水モタマラス打チ落ス。
年ヲ申セバ五十七。御側ノ三十六騎ハ此ノ由ヲ見ルヨリ、主ヲ討レテハ叶フマジト切テ掛レバ、
左京ハ隆信ヲ討チタル勢ニテ爰ヲ戦度ト戦エバ三十六騎モ同シ枕ニ討チ伏スル頓テ隆信カ首ヲ
太刀ノ切リ先キニ貫キテ本丸陣ヲ心静カニ立出テ小松原行ケバ鍋島四洲添島彼ノ両大将ハ此ノ由ヲ
一目見ルヨリ、扨テハ中々、我敵何国マデ落チ行ク。逃スナト云フヨリ早ク切テ掛レバ、
川上ハ心得クリト云フ儘ニ士卒ニ下知シテ群カル敵ヲ迫ツマクリツ爰ヲ戦土卜戦へバ、
又向敵一千余騎ハヤスヤスト打取リ仕スマシタリト云フ儘ニ陣所ヲ差シテ引テ行ク。
頓テ隆信ノ首ヲ中務殿御覚ナサレ心得タリト云フ儘ニ、小高キ所ニ走セ登リ、大音揚ケテ名乗ル様、
「肥前ノ大将龍造寺隆信ヲ川上左京久堅カ討チ取リタリ」ト呼ハレケル。
581人間七七四年:2013/11/01(金) 10:35:19.46 ID:tZ8Jw4L8
おい菅沼遼太。少しはあせろよ
2chやってないでちょっとは現実を見ろ
582人間七七四年:2013/11/01(金) 10:38:24.23 ID:tZ8Jw4L8
>>578
会津若松市の反論とやらは良く知らんが、
ウンコって臭いね俺だったら萎えるねくらいしか根拠が無い説だってなw
583人間七七四年:2013/11/01(金) 11:18:13.56 ID:uzD5aPg2
>>580
鍋島直茂がどう企んだとしても
隆信以下、四天王が揃って討ち死には出来過ぎだなー。
でも裏で直茂が慶ァ尼と共謀してやってたとしたら面白いな。
584人間七七四年:2013/11/01(金) 14:44:16.99 ID:nrrn+QUS
なんにせ沖田畷が島津の功責とか捏造はなはだしいのは間違いない。
実際には有馬が頑張ってた後ろに隠れて鍋島らの内通で勝てた功を島津が横取りしただけ。
585人間七七四年:2013/11/01(金) 16:58:50.26 ID:i9dDXcjh
>>582
糞尿処理怠ると城内で疫病蔓延するじゃん
七尾城も籠城中に城内で疫病蔓延しまくって開城してるし
586人間七七四年:2013/11/01(金) 17:43:42.68 ID:fWj1FshU
家康が大阪の陣付近に太政大臣を辞退したのは何故?
慣習?豊臣への遠慮?
587人間七七四年:2013/11/01(金) 19:20:40.21 ID:tZ8Jw4L8
>>585
七尾城は一年篭城してだろ。会津の戦いの期間も知らんのかよw
板違いだからもう止めるけど菅沼遼太はほんと馬鹿だな
588人間七七四年:2013/11/01(金) 19:31:20.61 ID:a64l2svl
>>587
は?お前がアホだろwww
七尾城包囲が第一次と第二次包囲に分かれてるのも知らんとか無知にもほどがあるw
589人間七七四年:2013/11/01(金) 20:26:09.16 ID:tZ8Jw4L8
ああそうなん、なんにしろ疫病の流行る夏のを経過したちゅう七尾と
今の時期で短期間の会津と一緒にする菅沼遼太はほんと馬鹿なのはかわりない
今涼しいぞ家から出てみろ引きこもり菅沼遼太よwww
590人間七七四年:2013/11/01(金) 23:14:07.27 ID:FRFtPNcc
別に疫病は夏しか流行らないなんてアホな話は無いから。
591人間七七四年:2013/11/02(土) 09:10:50.51 ID:kms/VMar
スペイン風邪と一次大戦みたいなもんもあるし
592人間七七四年:2013/11/02(土) 10:13:04.42 ID:TX6VcWXL
三木城「俺もがんばったんだよ…」
593人間七七四年:2013/11/02(土) 10:27:54.89 ID:8NzOS4rj
>>570
葉隠三百年の陰謀
著 伊沢元彦
594人間七七四年:2013/11/02(土) 10:33:16.49 ID:OnKVMsCT
菅沼んちはウンコからインフルエンザ流行るらしいで
595人間七七四年:2013/11/02(土) 10:48:44.92 ID:jZSxebqC
>>594
ノロウィルスは普通に糞便や嘔吐物から感染するぞ。
この時期多いからお前もトイレのあとはきちんと手を洗えよ。
596人間七七四年:2013/11/03(日) 01:10:18.55 ID:5SLufq/P
所謂、北条早雲は、備中伊勢氏の出と聞きました。
備中伊勢氏と言うのは、戦国の終わりくらいには、どうなっていたのでしょうか?
597人間七七四年:2013/11/03(日) 01:38:03.97 ID:52brZvFK
毛利家臣として織田と戦い断絶。居城は宍戸氏の家臣が在番するようになった。らしい
598人間七七四年:2013/11/03(日) 11:32:20.85 ID:KzkF6K1v
城って具体的にどうやって落とすの?
ドラマや漫画の攻城戦見るとなんで成功するのか不思議

条件
四方を高い壁に覆われている城。壁の上には弓兵などがいる。
城門は東西南北にひとつずつ。
場所は山の上と平地の2パターン。

当時は城壁破壊するだけの破壊力持った武器はないし
破城鎚:門に当るまでに射殺されないの?
ハシゴ:上の兵にハシゴ倒されるか登ってる最中に射られないの?
焼き打ち:土壁は燃えないから火矢で射られても平気じゃないの?
四方を壁に囲まれた建物の中に入られた時点で終わりだと思う
599人間七七四年:2013/11/03(日) 11:43:03.16 ID:UEU9gzhW
>>598
ドラマにある立派な城を落とすには多大な損害を要する。しかし城
といっても砦のようなものだったら、比較的攻略しやすい。
また城を落とすには戦う以外に方法はある。秀吉の水攻めとか、
兵糧攻めだ。
江戸時代以降の城郭建築の技術があがって、城の攻略が難しくなった。
江戸幕府は城に籠られると困るので、一国一城令で対処したのだ。
600人間七七四年:2013/11/03(日) 12:29:55.05 ID:lVNA3bUJ
熊本城は西郷軍が近代兵器で攻めても落ちなかったな
601人間七七四年:2013/11/03(日) 13:13:37.19 ID:52brZvFK
>>598
堅城相手の長期戦覚悟の力攻めでは「仕寄り」戦を行う。
竹束、木板、鉄盾、土俵などの防衛装備を並べて敵の射撃を防ぎながら、
塹壕を堀り土塁を築いて包囲陣地を作る。
出来たらこれの内側にまた同じように包囲陣地をつくり包囲を縮める
繰り返して敵の眼前まで来たら土を盛って土城を築く。
土城からの援護射撃の元に攻城隊が突撃。
城内部での白兵戦で攻城側が勝ったら城側は二の丸本丸に撤退して抗戦
そこでも攻城側が勝ったら落城

記録が多く残っている島原の乱の原城攻防戦がこの場合分かりやすいの調べてみるといい
602人間七七四年:2013/11/03(日) 13:54:27.16 ID:hZD9DYEe
戦国期の城郭なんてほとんどショボイ砦みたいなものが大半でしょ。
山中城とか忍城とか荒戸城の復元がネットで見られるけど城と呼ぶには到底貧相な代物だし
日本で最も厳しい天嶮が立ち並ぶ信濃とか上野とか奥三河の城だって馬鹿みたいに落城しまくってるし
堅城とか言われてる岐阜城なんて6回くらいあっさり陥落してるし
603人間七七四年:2013/11/03(日) 13:57:30.77 ID:Sa1TSHhY
基本的に後詰なしの篭城戦は負けるしかないといわれるほど愚策だからね。
何もせずにほっといても勝っても領土の広がらない上に兵力劣勢の城方は降伏・自落・寝返り・逃散で楽に勝てるのは
目に見えてるし長期間もたつくのはよほど寄せての大将が雑魚の時だけだよ。
604人間七七四年:2013/11/03(日) 14:00:07.06 ID:C5D1m4q3
戦争において城に篭もらなきゃいけない弱小勢力なんて周辺の強国に飲み込まれてくだけだし
小さい勢力で大きな勢力跳ね返し続けた大名なんて佐竹とか田村とか甲斐とか名将しかいない。
攻撃側は兵力に勝るから戦略の幅も大きいし勝てば領土広がるから士気も上がりやすいし
兵糧物資でも圧倒的に攻撃側のが調達が容易で防御側は策源地が攻め込まれてるから長期戦になればいずれおいこまれてくだけだから短期決戦によるしかないし
寝返りが出やすく勝っても領土も広がらんし圧倒的に不利でしかない。現に攻守三倍原則より遥かに少ない兵力で攻略してる例なんていくらでもあるし
605人間七七四年:2013/11/03(日) 14:23:14.20 ID:hZD9DYEe
攻撃側は兵力に勝るから戦略の幅も大きいし勝てば領土広がるから士気も上がりやすいし
兵糧物資でも圧倒的に攻撃側のが調達が容易で防御側は策源地が攻め込まれてるから長期戦になればいずれおいこまれてくだけだから短期決戦によるしかないし
寝返りが出やすく勝っても領土も広がらんし圧倒的に不利でしかない。現に攻守三倍原則より遥かに少ない兵力で攻略してる例なんていくらでもあるし
圧倒的大軍で寡兵の敵に蹴散らされるのは指揮能力が雑魚の奴だけだよ
地形を生かした陣取りの主導権握ってるのも攻撃側。兵力が勝ってるから
そこで会戦するのが嫌なら別方面に兵力展開したり誘い出す作戦練ればいいだけだし
相手が乗ってこなかったら持久戦に切り替えるなり違う拠点攻めるなりして攻撃続ければ勝手に追い込まれてくだけ
606人間七七四年:2013/11/03(日) 14:52:47.52 ID:52brZvFK
だがさん落ち着いて、何時もみたいに意味不明になっとるよ
607人間七七四年:2013/11/03(日) 18:07:46.51 ID:fzvgvLlF
嫡男以外が跡を継ぐとやっぱり武田勝頼みたいに上手くいかないものなんですか?
上手くいった事例があるなら知りたいので教えて下さい。
608人間七七四年:2013/11/03(日) 18:09:10.12 ID:R28n4y4w
徳川秀忠
609人間七七四年:2013/11/03(日) 18:13:30.98 ID:wVgUIAx+
>>607
うまくいってないってのは甲陽軍鑑のネタだから。
610人間七七四年:2013/11/03(日) 19:45:28.77 ID:8RkczJkW
周りから見てこりゃ仕方ね〜わって状況だと大体なんとかなってる
野心を持った奴はつけ込もうとする程度
611人間七七四年:2013/11/03(日) 19:48:03.52 ID:a6wNH6lR
>>607
前田利家
長尾影虎
612人間七七四年:2013/11/03(日) 20:45:17.61 ID:Gwi+Jtge
>>597
ありがとうございます。
諸行無常ですなあ。
613人間七七四年:2013/11/03(日) 21:34:55.77 ID:mwjttES5
戦略戦術兵器事典の日本の戦国編と日本の城郭編、戦略戦術兵器大全日本戦国編を持っていたり読んだ事ある人いたら聞きたいんだが
事典2冊と大全って中身同じ?
614人間七七四年:2013/11/03(日) 22:38:02.65 ID:f8AogBFD
>>607
毛利元就
615人間七七四年:2013/11/03(日) 23:29:21.70 ID:KzkF6K1v
攻城戦についてはわかりました ありがとうございます

でもどの方法も結構時間がかかるように思います
ですが加藤清正が朝鮮で城を二日で落としたとか
今川義元が尾張の城を次々落としたり
時には●●城を半日で落としたとか聞くこともあります

城にこもった敵を十数時間で倒すような方法なんてあるんですか?
616人間七七四年:2013/11/03(日) 23:32:40.85 ID:mSRtJMfU
>>615
入り口こじ開けたらもう終わりよ
617人間七七四年:2013/11/03(日) 23:47:25.01 ID:52brZvFK
>>615
彼我の戦力差があれば幾らでも。
防衛側も明らかな戦力差があればあっさり撤退するし。
618人間七七四年:2013/11/04(月) 01:20:53.14 ID:C4h2C/ef
中国西洋で言う城塞都市のまともな「城」の形にようやく少し近づいたのは
戦国後期織豊系城郭が普及した後の事だしそれ以前の日本の城塞なんて
山中城とか荒戸城とか各城郭の復元模型とか見る限りまぁお粗末なもんだよ
619人間七七四年:2013/11/04(月) 01:27:45.08 ID:ondBBnmc
だがチョンしつこいわ
620人間七七四年:2013/11/04(月) 03:29:59.79 ID:zwKrmm4N
>>618
それのどこがお粗末なんだよ?
お前、実際に見に行ってないだろ?
621人間七七四年:2013/11/04(月) 03:39:57.97 ID:C4h2C/ef
>>620
お前アホだろ。見に行くも糞も戦国期の城郭を小型模型以外で再現なんてされてねーよクズ
http://mirai660.net/castle/furumaki.html
622人間七七四年:2013/11/04(月) 03:41:18.29 ID:pPW71lB2
>>620
お前は見にいった行かなかった以前の話だわなw
623人間七七四年:2013/11/04(月) 03:45:20.69 ID:ondBBnmc
>>621
ニートの菅沼遼太よりクズはそうはいない。そう思いませんか菅沼遼太くん?
624人間七七四年:2013/11/04(月) 03:46:30.45 ID:9duq6T2M
上杉と北条での関東の城郭攻防戦とか両軍の遠征のたびに天嶮のガチ山城が陥落しまくってるし
武田の信濃侵攻なんて侵攻側にしては大して多くもない兵力で北信濃の日本で最もキツイ天嶮山城を毎回毎回簡単に落しまくってるからな。
織田徳川の大軍に対して行われた三・遠州侵攻作戦とか三方が原、長篠の戦いなんて武田が少ない兵力で侵攻しまくってるし対北条今川戦でも武田が侵攻側で
大国今川北条が防衛側だが北条今川相手に勝ちまくってるし信濃・上野の山間の天嶮によって割拠するガチンコ山城を攻撃側としては少ない兵力で落としまくってる。
長篠の戦いも「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし圧倒的に戦上手な部隊としかいいようがない
625人間七七四年:2013/11/04(月) 03:47:33.19 ID:7z+WDPvJ
織田信忠もあっさり二条城落されて殺されたしね。
626人間七七四年:2013/11/04(月) 03:48:59.41 ID:pPW71lB2
信長が手こずった岐阜城とか堅城とか捏造されてるけど6回も簡単に落された雑魚城なんだよな。
単に寄せての大将が雑魚なだけでしょ。
627人間七七四年:2013/11/04(月) 03:50:11.53 ID:ondBBnmc
自演連投菅沼遼太糞
628人間七七四年:2013/11/04(月) 09:42:00.07 ID:sMsVduFA
>>621>>622>>623
深夜3時代のわずか6分の間で、
すげー必死な単発ID自演ワロタwww
織田チョン顔真っ赤www
近江寺社石垣技術である穴太衆の技術は信長が考えたわけじゃないしwww
別に石垣があるか、ないかで優劣はかわらんぞアホwww
629人間七七四年:2013/11/04(月) 10:26:42.90 ID:BTBBqI/n
>>626
稲葉山城は何度も攻められているから攻略法が見つけられたんじゃないかな
630人間七七四年:2013/11/04(月) 14:48:25.81 ID:C4h2C/ef
信雄も斉藤利尭も福島も稲葉山城攻めは一回目であっさり落してるし
信長の稲葉山城攻め以前にも何回か攻防が行われている
条件は何も変わらないよ。
631人間七七四年:2013/11/04(月) 17:29:41.31 ID:1BA8pDL9
火器の普及率という点で戦国前半と後半で条件が変わってるんだ
だいたい元亀の頃から急激に変わっている

火器の普及発達に対応して城も新式に変化してったんだが、
岐阜(稲葉山)は旧式の城だったのね
632人間七七四年:2013/11/04(月) 19:05:36.25 ID:1Mh1Dszl
稲葉山は火気というよりは調略で落ちた部分が
多いとは思うけど。
633人間七七四年:2013/11/04(月) 19:18:08.39 ID:C4h2C/ef
火器の普及率の向上でむしろ有利になるのは篭城側じゃないの?
それに調略依存で落したのは信長にいえることで、他の武将は特に調略も行ってなかったんじゃ?
634人間七七四年:2013/11/04(月) 19:24:59.75 ID:jGNeYAtc
信長が苦戦してるのは美濃に限らず伊勢の長島一揆とか大河内城攻めとか
志賀の陣とかも一緒だし、特に美濃が特別というわけではないよ。
一方の信玄や謙信や氏康親子は信濃や上野、奥三河、東美濃などガチで日本で最峻険の山が立ち並ぶ
山城毎年落としまくって奪い返したりを繰り返してたからね。最も苦戦したといっていい三河野田城ですら1か月程度だし
単に両将の指揮能力が桁外れに違っただけだろう。
つか、畿内での動乱の時期なんてそれこそドミノ倒しのように勢力図が塗り変わったり、城も陥落しまくってたし
635人間七七四年:2013/11/05(火) 11:07:43.24 ID:TJwJISUt
>>633
防御側もだけど、攻撃側のレベルアップの方が大きかったの

日本の旧式の城の防衛構想は基本的に上下、高低差を防御力にするというもの
なので攻め手はえっちらおっちら山崖のぼって直接攻撃するか、遠距離攻撃手段としては
弓を下から上に打ち上げるくらいしかなかった

それが火器に登場と発達・普及によって「下から上への攻撃力」が増大したのです
こうして旧式の城が役立たずとなり、それに対応した新式の城が開発し普及するようになります

新式の城の防御構想の基本は「水平」つまり堀をめぐらし石垣土塀を複雑に重ねることで
距離をつくり火器の威力を防ぐというもの、これは新しく建てられた山城も変わりません
峻険で険しい山よりも、山の上でもなるべく広い土地が得られるように建設されました

ちなみに、石山本願寺や伊勢長島、関東の忍城など周囲に水路を張り巡らした城は
建設時期は旧式時代ですが防御構想は新式に近かったのですね
これが結果的に織田軍や豊臣軍に対して高い防御力を発揮することになるのです
636人間七七四年:2013/11/05(火) 11:43:14.20 ID:pJB69PoH
篭城側は弾薬なくなったらおしまいだ。
637人間七七四年:2013/11/05(火) 18:04:17.23 ID:xVINAw9J
素人としては城は焼いちゃえば簡単に落ちそうなイメージ…
やっぱり綺麗に城や物資を奪いたいのかな?
638人間七七四年:2013/11/05(火) 18:08:06.55 ID:u+BloXPj
>>637
城の本質は建物ではなく縄張り。
建物なんて飾りにすぎん
639人間七七四年:2013/11/05(火) 22:46:57.46 ID:/SxhI6/+
>>635
火縄銃の威力程度で、
攻め手が有利になったりしないわ。

山城から平山城や平城になったのは、
経済流通と行政支配を重視したから、
山奥の城にいる必然性が無くなったからだ。
結局、戦国最末期になり、
小田原城みたいなモデルが最も長期籠城に向いていることがわかったのは言うまでもない。
640人間七七四年:2013/11/06(水) 00:06:57.20 ID:Ccf03y/X
平城の方がコストは半端なさそうだけど、どうなのかな
641人間七七四年:2013/11/06(水) 00:57:07.19 ID:ZrUebDJu
平城の方が掛かるけど利便性はいいわな
コストかけても鉄砲からの防御を優先したんだろう
642人間七七四年:2013/11/06(水) 01:50:36.11 ID:LTgoI1oU
織田信長の超英雄扱いしている本を教えてください
643人間七七四年:2013/11/06(水) 09:02:00.01 ID:LyXQB/uU
>>642
信長革命〜安土幕府の衝撃〜
644人間七七四年:2013/11/06(水) 11:08:31.56 ID:wQwWT5q3
>>639
経済や行政、それも理由の一旦です
ですがそれだけが理由なら、各地の現存している平山城が
過剰なまでに火器対策の防御構造をしている説明になりませんよ
645人間七七四年:2013/11/06(水) 13:14:33.61 ID:IE5wfKRE
>>644
その過剰火気対策をやり始めたのは
もう戦国期の話ではないだろ。
ほとんど実戦経験すらない城郭時代の話で、
無駄に過剰防備してる守勢の時代の産物。
646人間七七四年:2013/11/06(水) 16:59:59.62 ID:wQwWT5q3
>>645
いっぺんに変わるわけがないでしょう
少しずつ少しずつ戦訓を取り入れて、城は火器に対応できるように変化していった
その集大成が、戦国も終わりになろうかという時期に作られた城郭たちです

ついでにいえば、城を作った時期の人たちは「もう戦争はない、三百年の平和が訪れる」
なんて考えたわけがないですよ当然、彼らは未来予知者ではないのだから
彼らは「次の戦争が起こったときにはこの対火器対策の構造がきっと役に立つ」
と考えながら作ったんです
それくらい、火器対策の城を作るのが当時の常識だったのです
647人間七七四年:2013/11/06(水) 17:32:14.49 ID:IE5wfKRE
いやいや、あれは無駄な過剰防衛設備であって
実際は小田原城の時点で防衛思想としては完成してんだよ。
だからお前の言う攻撃側のレベルアップなんてものは大したもんはなかったし
経済流通路と行政支配と言う目的を無視して、ただ防衛する目的だけを追求するなら
山城は充分に対応していたし、威圧目的でしかない石垣だって、あえて使う必要性なんてない。
堀や湖沼だって、鉄砲の火力で急に必要性がでてきたわけでなく、
元々、できる限り幅を広げていれば防備に有利だったから存在していたもので、
火縄銃の登場によって新戦略として導入されたもんじゃない。
火縄銃は近づく敵を高地から狙撃できる防衛側に有利であっても、
竹筒などを持って近づく攻撃側には、それを凌駕するほどの攻撃力はない。
なぜなら、機動力と両手を封じるほど、ものすごく重いからだ。
648人間七七四年:2013/11/06(水) 17:49:13.09 ID:fCAB+fcg
wwwww

三上枝織 @mikami_shiori

@mikakokomatsu 話は聞かせてもらった (???????)わたしが純粋とな…!? via ついっぷる 

2013.11.06 17:45
649人間七七四年:2013/11/06(水) 18:13:29.59 ID:ZrUebDJu
菅沼遼太の面にしょんべん
650人間七七四年:2013/11/06(水) 18:24:34.48 ID:n+t1mk/P
>>643
それ以外の本は何かありますか?
651人間七七四年:2013/11/06(水) 19:41:12.25 ID:ezSLZwQm
司法の闇 「特定秘密保護法違反」で市民が逮捕される日

http://www.shinmai.co.jp/news/20131104/KT131102ETI090015000.php

特定秘密保護法は非常に危険
652人間七七四年:2013/11/07(木) 10:49:17.54 ID:S2ldkz3s
武田家と斎藤家は隣接してましたけど何か親交や争いなどありましたか?
そういう逸話を聞いた記憶が無いので気になっています。
653人間七七四年:2013/11/07(木) 12:26:50.05 ID:hZmbfMwM
快川紹喜
武田信玄の帰依を受けた、心頭滅却すれば〜で有名な僧侶ですが
もともと美濃の僧で甲斐恵林寺に再任した際は外交僧として濃甲同盟締結に奔走しました
残存する2通の快川紹喜書状から締結間際まで行ったみたいですが
駿河侵攻で信玄が信長との同盟を選んだので立ち消えになったようです
654人間七七四年:2013/11/07(木) 12:59:23.75 ID:gANaUTeB
元々、斉藤家と武田家は敵対していて
東美濃国人を信玄は支援していたけど、
西美濃攻略に失敗断念していた信長が
遠山氏から養女を迎え、勝頼と婚姻することで
同盟したいと申し出があったので、
信玄は織田が東美濃を領土化させるために
東美濃国人への支援から手を引いた。
そこに織田家が森を東美濃の要衝であった金山城などに入れた。
そのために快川が美濃を助けるために
信玄との同盟へ動いたらしいが、先に結んだ織田との同盟を守るため拒絶された。
655人間七七四年:2013/11/07(木) 13:02:19.82 ID:S2ldkz3s
>>653
ありがとうございます。
斎藤家と武田家は同盟していたんですね。
信玄はここでも同盟破ってたのにもびっくりしました…
656人間七七四年:2013/11/07(木) 13:26:51.49 ID:hZmbfMwM
結局同盟は結んでないので破ったとはいえません。
657人間七七四年:2013/11/07(木) 15:20:35.95 ID:gANaUTeB
>>655
やっぱりキチガイ織田厨だったのかw
相変わらず日本語が理解できないんだな。

無知のお前に説明してやると、斉藤側はどうしても武田を仲間に引きずり入れたくて
一色治部大輔義棟(斉藤龍興)の名前で恵林寺の快川へ宛てて書状を出している。
快川も一色宛に書状を出していて、どうも快川の恵林寺再任の目的自体が斉藤家を救うことだったようだ。
658人間七七四年:2013/11/07(木) 15:56:09.79 ID:hZmbfMwM
うぜえなぁかぶせんなや、菅沼遼太はそれより職探せ。
659人間七七四年:2013/11/07(木) 16:15:47.61 ID:gANaUTeB
>>658
wwwww
660人間七七四年:2013/11/07(木) 17:03:16.37 ID:7fL4gPCV
>>657は煽り口調じゃなければ割りと普通な事を言ってるな
珍しい
661人間七七四年:2013/11/07(木) 22:21:40.60 ID:XEaoStyJ
>>655
織田チョンのお前の頭の中は腐りきっててワロタwww
これは晒しage確定だわw
662人間七七四年:2013/11/07(木) 22:59:45.58 ID:hZmbfMwM
菅沼遼太は自演したいなら文体変えろ低脳。つか中学くらい出ろや小卒とかありえないだろカス
663人間七七四年:2013/11/08(金) 07:43:35.17 ID:uwTjocu5
え?小学校をまともに卒業してんの?
664人間七七四年:2013/11/08(金) 09:10:09.18 ID:4L85E406
まーた無知織田在日が、織田厨であることを隠して、
信玄貶しのネタ捜しの目的だけで質問www
ここは悪口中傷材料捜しの為にあるわけじゃねーんだよ。
最初から曲解するつもりなら、
自分で書籍を読んで探せよ。
善意を利用しようとすんな基地外織田在日くん。
665人間七七四年:2013/11/08(金) 18:22:09.60 ID:6h03yx49
織田厨って武田に対してジェラシー感じてストーカーしてるよね。
日本に対する韓国人のように、
なにもかも全て武田が悪いって執拗に粘着してる偏執狂ぶりは異常。
666人間七七四年:2013/11/08(金) 23:18:03.04 ID:6REW6tgR
何度読み返しても>>655が織田厨に見えないんだけど…
なんか織田厨が暴れたりして迷惑でもかけてたの?
667人間七七四年:2013/11/09(土) 09:09:53.33 ID:r+Ssiv08
どう考えても織田チョンそのものじゃねーかよwwwくっそワロタwww白々しいわwww
668人間七七四年:2013/11/09(土) 11:29:09.05 ID:E1PDjQfV
>>596
織田について本能寺の変で明智につき羽柴に負けて江戸時代は旗本
669人間七七四年:2013/11/09(土) 11:50:32.26 ID:AeZjwQ15
また菅沼遼太が暴れているのか
670人間七七四年:2013/11/09(土) 12:15:20.55 ID:xaIEsehE
織田厨は精神的な病をどんどんこじらせている
671人間七七四年:2013/11/09(土) 15:23:38.86 ID:E9ddsfFM
自分の意見を肯定できない人間は全て織田厨というものに見える病気
もうバカ過ぎてギャグでしかないわ
672人間七七四年:2013/11/09(土) 19:18:53.05 ID:U6t8g1y9
>>668
だって一条校じゃない非正規の民族学校(朝鮮学校)出身だぜ?
小学校卒業ですらねえよ
せめて民潭系だったら中卒ぐらい認められんのにな
673名無しに人種はない@実況はサッカーch:2013/11/12(火) 23:28:02.91 ID:PYCJF9T0
ところですいやせん
戦国時代って鎌倉・室町・江戸幕府のときと比べたら
大名間は異国の色合いが強いよね?

異国間をまたぐ民事・刑事紛争についてはどうやって解決したのでしょうか?
(例1:駿河の民と甲斐の民のどちらかが契約を反故にしたから強制執行させたい場合)
(例2:甲斐で人を殺した下手人が駿河で捕まって甲斐の奉行がこっちに連れて尋問したい場合)

法律や決まりも違う国相手に何かするにはきっと対策を練ってたはずだと思っておりやす
どなたかその当時の文献とか参考になるものとか教えてくれます?
674人間七七四年:2013/11/13(水) 00:22:52.65 ID:LAf7rmBe
大名間で協定結んでってまともにやるようになったのは豊臣期からじゃないかなぁ
675人間七七四年:2013/11/13(水) 17:45:28.17 ID:7E1wbZkZ
>>673
敵領地?に逃げ込むと基本は手が出せない。
鎌倉からこっちは、寺なんかに逃げ込む盗人が多かったけど
その場合盗んだものを全部出してかくまってもらう。
だから寺もエグいことをやってる。
ただ隣国というのは姻戚関係があったり局地的友好関係に
あることが多いからその場合はケースバイケースで
訴えたりはしてた。
京に近いと公家さん同士のもめごともあって
こういうのは将軍や大寺や朝廷にうったえたりしてる。
結局こういう暗黙の了解みたいなものが
トップの弱体化、地方の強力化で消滅していった結果が
戦国時代で、いろんな地域間闘争はまさにその
解決法ではあったわけだね。
も〜がまんできん、みたいにね。
676人間七七四年:2013/11/13(水) 18:04:45.27 ID:zTHFNP8H
犯罪し放題に見えますが関所突破が大変そう…
677人間七七四年:2013/11/17(日) 19:46:25.45 ID:QSwmR03+
戦国時代を題材としたオススメの漫画はあるでしょうか?
連載中、又は既刊であれば買ってみようと思います。
花の慶次やへうげものは読みました。
三国志なら蒼天航路が良かったです。横山光輝が描いた漫画は色々見ましたが、
どうも合いませんでした。
678人間七七四年:2013/11/17(日) 20:54:53.42 ID:q/buOafF
新田次郎の武田信玄の漫画版
センゴク
679人間七七四年:2013/11/17(日) 22:31:28.48 ID:QSwmR03+
センゴク一統記 5巻
センゴク天正記 15巻
センゴク 15巻
別でしょうか?
680人間七七四年:2013/11/18(月) 01:04:04.48 ID:FrI5htCf
続き物
最初がセンゴク
次が天正だったかな
681人間七七四年:2013/11/18(月) 02:29:05.68 ID:oEDYVkCA
雪の峠・剣の舞 
まぁちょっと江戸時代入ってるけど名作
682人間七七四年:2013/11/18(月) 17:46:19.21 ID:TIYF+raz
>>654, >>657で言われてる武田への書状って何年ごろの話か分かりますか?

あと、龍興は稲葉山城を追われた後、縁戚関係にあった朝倉を頼ったといわれていますが、
具体的にはどういう繋がりだったのでしょうか
もしかして道三以前の斎藤氏の話であって、龍興とは直接関係なかったりするのでしょうか
683人間七七四年:2013/11/18(月) 17:47:46.66 ID:TIYF+raz
武田への書状じゃなかった
武田と同盟しようとする動きがあったのは何年ごろか、ということで
684792:2013/11/19(火) 08:56:43.51 ID:ya3d5Rs6
戦国時代の○○な出来事が理由で、地元の人達はついこの間まで仲が悪かったみたいな話はありませんか?
例えば、大友宗麟が日向国の神社仏閣焼いてまわったので、宮崎県民は大分県民を野蛮人と思ってた、とか。
685人間七七四年:2013/11/19(火) 11:30:26.98 ID:6p1BDkp2
代表格の津軽と南部とか
686人間七七四年:2013/11/19(火) 11:34:51.85 ID:6p1BDkp2
>>683
永禄7年前半
687人間七七四年:2013/11/19(火) 11:37:37.68 ID:6p1BDkp2
ごめん永禄8年かも
688人間七七四年:2013/11/19(火) 18:40:01.27 ID:XN9hAkAt
>>683
>>687
快川和尚が甲斐に行くのが永禄七年でその時から同盟に向けて動きがあり、正式に同盟がなったのが八年ではないかと横山住雄氏の「斎藤道三」には書かれている
689人間七七四年:2013/11/19(火) 21:18:42.17 ID:+yNqAKAL
>>680-681
ありがとうございます。雪の峠剣の舞は読みました。
690人間七七四年:2013/11/19(火) 21:24:04.70 ID:FBJn83HL
>>688
同盟がなったって書いてあるけど、結局同盟成功してるん?
691人間七七四年:2013/11/19(火) 22:33:28.59 ID:8y39iPde
細川晴元について調べていたのですが彼は足利家の家臣なのでしょうか?
幕府の実権を掌握したとか足利義晴と敵対していたとか記載されていてよく分からなくなってしまいました
692人間七七四年:2013/11/20(水) 09:44:18.88 ID:GO6y201W
家臣でも敵対するのが戦国下克上の時代
693人間七七四年:2013/11/20(水) 18:14:56.38 ID:WnyHmsPx
>>690
同盟成功してない。
つか信玄まで話自体が上がってきてない。
694人間七七四年:2013/11/20(水) 18:20:52.99 ID:WnyHmsPx
>>682
義景最後の妻で嫡男朝倉愛王丸を生んだ小少将の父が
斎藤兵部少輔と呼ばれ、この人物が美濃斉藤家から来た人質とする話がある。
伊勢長島へ逃げた斉藤龍興が、越前を頼った理由はこれ以外にツテがないように思える。
695682:2013/11/20(水) 19:49:38.32 ID:k1L/MFDL
皆さんありがとうございます
横山住雄氏の「斎藤道三」は評判が良いようですが、図書館で探すのは難しそうですね……

斎藤兵部少輔の資料はほとんど見つかりませんが、道三に乗っ取られる前の、本来の美濃斎藤氏っぽい感じですかね
そうだとしたら、龍興と義景の関係ってそんなに強くない気がするなあ
龍興の母が近江の方だから、朝倉よりは浅井の方にツテがありそうな気もするのですが
696人間七七四年:2013/11/20(水) 19:53:15.51 ID:m2zTyLN+
>>694
斎藤と朝倉の同盟が成立し、
人質交換があったって説があるんだよなー。
愛王丸が4歳で死んだことを信じると、
1569年以前に同盟が成立したことになるが、
それだと三好三人衆や本願寺らの軍に参加してた時だし、
やはり美濃を失う寸前かな?
697人間七七四年:2013/11/22(金) 14:04:53.07 ID:gbAZayP1
だがってどうしてあんなに必死なんですか?
698人間七七四年:2013/11/22(金) 17:49:16.26 ID:XC3MkhwL
>>697
アスペルガーだから自分の思い通りに事が進まないと見境無くぶちキレるため
699人間七七四年:2013/11/22(金) 17:52:12.59 ID:eZ0Ts2P3
だがスレでどうぞ。懇切に教えてくれるよ^^
700人間七七四年:2013/11/22(金) 18:04:07.68 ID:7Vs4r7Ch
合戦に兵糧は付き物だと思うんですがただの白米ですよね?
まさか白米だけ支給されていたのでしょうか?
701人間七七四年:2013/11/22(金) 18:07:07.16 ID:eF5Mqi2c
>>700
玄米だぞ
702人間七七四年:2013/11/22(金) 18:11:18.34 ID:eZ0Ts2P3
白米だよ。あと味噌玉、梅干、塩の要は塩分も支給されていた
あと兵糧丸ってのもあるけどどこまで普及してたかはしらん
703人間七七四年:2013/11/22(金) 18:13:48.12 ID:ZLFQ2qF4
精米したのと籾付きの米を半々にしてる事例が割とある
糠は食うと長々ととつらい下痢を起こす(実体験)けれど、どうやら退っ引きならない場合には食っていたようだ
白米はどうなんだろう?軍記物には普遍的に登場するが、全国的にメジャーだったのかどうかは知らない
704人間七七四年:2013/11/22(金) 19:15:12.04 ID:PdtCOgk7
味噌玉で思い出したが、縄か何かに味噌汁を染み込ませて飲みたい時に絞るみたいな事を学校の授業で習った覚えがある
705人間七七四年:2013/11/22(金) 22:54:50.37 ID:CWbRDD57
信玄が考案した味噌玉を再現したものを食べさせてもらった事あるけど、
あれ喰うと一日腹が減らなくてビビったw
706人間七七四年:2013/11/23(土) 00:22:16.09 ID:s+WMUGeg
>>702
白米を食えるのはおかずを供される身分の高い武士だけ
兵卒の主食は玄米だよ。副菜抜きに白米と味噌、塩分のみの生活を
何カ月もしてたらビタミン欠乏症になってしまうがな
707人間七七四年:2013/11/23(土) 03:34:59.57 ID:draHjhmz
皆さん教えて下さって有難う御座います
仕官してる大名によって違いが出てるんですね
オカズとしては梅干、塩、味噌といったところでしょうか?
参考になりました
有難う御座いました
708人間七七四年:2013/11/23(土) 05:36:47.66 ID:uPpqWa4E
豊臣秀吉の遺体は死後どうなったの?
大河では大坂城から密かに運びだされて・・・から描かれる事が少ないと思うのだが
豊国神社に祭られてたのかな?
もしそうならその後徳川に壊されて遺骸は何処へ?
709人間七七四年:2013/11/23(土) 09:56:55.06 ID:oWNN1djU
>>698
その偏見はアスペルガーに失礼
あれはもっと別の何かだよ
身内にアスペルガー居るけどあんな感じじゃない
710人間七七四年:2013/11/23(土) 10:10:18.25 ID:5LViEUVG
>>708
東山阿弥陀ヶ峯山頂に葬られてそのまま
711人間七七四年:2013/11/25(月) 16:57:51.99 ID:G2YGP+6k
長尾為景が100戦以上の合戦経験有ると書いてたのですが、これはどのくらい凄い事なのでしょうか?
一般的な武将の合戦参加の平均数が分からないので教えて下さい。
712人間七七四年:2013/11/26(火) 09:45:43.61 ID:tZJ9xjI8
長尾為景の時代で正確な参戦数が分かる武将が居ません、なので平均も求められません
多いか少ないかというより、戦に次ぐ戦の生涯だったくらいのニュアンスなんじゃないでしょうか
713人間七七四年:2013/11/26(火) 18:39:08.26 ID:OmUqd+iS
>>712
では質問を変えます。
応仁の乱から関ヶ原の戦いまでの範囲で大体の平均数を教えて下さい。
出来れば生涯の合戦参加数が多めの武将も教えて下さい。
714人間七七四年:2013/11/26(火) 19:39:20.63 ID:dYBrYV3B
平均ってのは無理じゃね?国勢調査やったわけでもないし
馬場信房70回、本田忠勝50回 有名どころでもこんなもん
715人間七七四年:2013/11/26(火) 20:28:05.81 ID:OmUqd+iS
>>714
有名どころでもそんなものなんですか…
なら100度以上って凄いんですね。
716人間七七四年:2013/11/28(木) 22:14:08.30 ID:kX5qv3er
加藤光秦は秀吉配下で高い石高をもらっています。
高い評価の理由はなんでしょうか?
また、功績をあげた代表的なもの合戦、調略など何かありますか?
717人間七七四年:2013/11/29(金) 05:07:32.45 ID:BOmsx3Xi
>>716
高い石高なのは初期の頃からの家臣で苦楽をともにした期間が長いからだよ
それが一番の評価と言っていい
石高に比べて特別何か凄い功績を挙げた武将でも無い
718人間七七四年:2013/11/29(金) 11:09:04.98 ID:HFwAl0tz
名古屋の文化は戦国時代だろう

尾張国だけでも、
織田信長、豊臣秀吉、前田利家、柴田勝家、丹羽長秀、佐々成政、加藤清正、福島正則
蜂須賀小六、山内一豊、浅野長政、池田輝政、堀尾吉晴など

三河国は、
源頼朝、足利氏、徳川家康、本多正信、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政など

すべて愛知県出身
お寺の数、城・城跡・武家屋敷の数も全国1位で戦国観光が流行ってるよ
719人間七七四年:2013/11/29(金) 15:08:53.28 ID:QRLHtZV3
名古屋って意外と観光地がないし
戦国観光なんて流行ってるか?
桶狭間と熱田神宮ぐらいかな。
遠出で関が原にはみんな行くみたいだけど。
720人間七七四年:2013/11/29(金) 15:32:52.76 ID:Zm8oCix3
>>716
領地というのは功績に対して与えられるものだけではなくて
その領地を防衛するために必要な兵力=石高を同時に与えられる場合もあって
会津が代表的なんだけど甲斐も関東の徳川に対する備えだから
功績と比べると過大に見える石高を与えられているのです
721人間七七四年:2013/11/29(金) 21:18:45.68 ID:Z0P/2LcD
>>717
>>720
なるほど。付き合いの長さに報いた功績と、軍事的な能力に期待しての
石高なのですね。ありがとうございます。
722人間七七四年:2013/11/29(金) 22:21:42.06 ID:IU7anJco
>>719
犬山城が有るジャマイカ。
723人間七七四年:2013/11/30(土) 08:38:04.47 ID:tpPr1gBQ
こ、小牧山城に残る土塀はスゴイんですよ!
724人間七七四年:2013/11/30(土) 09:39:52.70 ID:4jL+8dAL
犬山市に小牧市、名古屋(市)じゃねぇ・・・・
725人間七七四年:2013/11/30(土) 10:31:38.14 ID:JMVzx3by
名古屋圏でいいんじゃねの
726人間七七四年:2013/11/30(土) 16:00:40.42 ID:Bvuxx1UO
>>722
そこがどんなにチャッチイか・・まだ小牧城なんだけど
高速使って小1時間かかる・・
自分なら末盛城跡、古渡城跡、伝秀吉生母誕生地
とかだけど、これもちょ〜マイナーで地元民でもあまり知らない。
名古屋城、徳川美術館とかかなぁ。
727人間七七四年:2013/11/30(土) 19:16:03.64 ID:krvbELAR
名古屋は中途半端だった
信長公にちなんだ物も見受けられるが家康公を担いでたりするし
そらどっちつかずで廃れる
728人間七七四年:2013/12/01(日) 01:38:32.79 ID:NuNQDqml
写しはどうやって作られるんですか?
729人間七七四年:2013/12/01(日) 06:55:59.30 ID:Hp7m3zO8
>>726
規模は小さくても現存天守ならではの雰囲気というものが有ろう。

>>728
物にも作る事情によっても様々。
730人間七七四年:2013/12/01(日) 09:18:29.00 ID:EblQwzDf
信長なら岐阜、家康なら岡崎であって名古屋は尾張徳川
長浜が秀吉か。
つかコンクリート清洲城を無視して可哀想だろ!
新幹線の車窓からも見れるんだぞ!
731人間七七四年:2013/12/01(日) 13:35:07.86 ID:PRqDeY7Q
侍大将と足軽大将の違いが分からないのです。
武田家なんですが。

武田軍2万人を、旧陸軍の師団に喩えると、
大隊長(800人を率います)クラスが、侍大将で
中隊長(200人を率います)クラスが、足軽大将なのかなあ 
732人間七七四年:2013/12/01(日) 13:49:56.66 ID:TpZfDHtZ
武田家の場合

侍大将
大きい領地を持ち大勢の家臣を抱え
自分の家臣を中心として与力を付けられ構成された軍を指揮する武将
主に武田一族、大身国人

足軽大将
領地をたいして持たず武田家が集めた足軽を部下に付けられ
それを中心として与力を付けられ構成された軍を指揮する武将
主に抜擢された小身や新参者
733人間七七四年:2013/12/01(日) 14:28:58.96 ID:P5ANq1TJ
あと基本的に足軽大将は侍大将の補佐的な役割をしていた感じだな
734人間七七四年:2013/12/01(日) 15:03:51.04 ID:A7kbhKXe
現代の軍は構成員の半分は後方支援だけど、戦国時代ってどうなの?

車両の管理、銃火器や機械といった整備に特殊な技能が必要なものはない
紙の書類、手続き、記録も今よりずっと少ないだろうし
水や食料は一人一人が自分で自分の分を用意して運ぶなら後方支援て
みんなの荷物や物資を見張る人と本陣を守る人の二種類、でも本陣を守る人も武装して
後ろに配備されて守備に回っている戦闘員と考えれば戦闘要員

戦国時代は現代と違って兵全員が戦闘員であり同時に後方支援ってイメージがある
735人間七七四年:2013/12/01(日) 15:11:17.43 ID:TpZfDHtZ
朝鮮征伐の大名部隊の構成をみると半数が陣夫などの非戦闘員
736人間七七四年:2013/12/01(日) 15:18:40.24 ID:X7uUmTeO
侍大将と足軽大将で言うと、合戦の作戦方針はこの侍対象と足軽大将の協議によって作成され、それを総大将が承認して
執行される。
あの山本勘助(官助)は足軽大将の資格で作戦立案に参加したものと考えられる。
737人間七七四年:2013/12/01(日) 15:25:59.25 ID:hpdMjI8z
熱海に城があったけど、あの辺りに城なんてありましたっけ?
738人間七七四年:2013/12/01(日) 15:30:05.09 ID:X7uUmTeO
>>737
無い。アレは完全に勝手に作ったもの
739人間七七四年:2013/12/01(日) 16:00:52.05 ID:TpZfDHtZ
>>731
原虎胤とかが足軽大将なのに普通の武将以上に活躍してるとか
足軽大将のトップが40騎持ってるのに侍大将のドベは30騎で逆転してるとか
場合によっては同格みたいに扱われてるとかで混乱してると勝手に想像すると

基本的には、大隊長(備)-中隊長(組)という理解でいいけど
侍大将を支社社長や子会社社長。足軽大将を本社(武田宗家)の部長課長クラスと
会社にたとえると分かりやすいかなと思う
本来は本社(本陣備)の一部署(各種足軽隊)の長だけど抜擢具合によっては
一会社並の人員のプロジェクト統括したり、支社長に指示したり
社長側近として重要な決断に関与したり、支社長と同格に扱われたりみたいな
余計混乱したらすまんw
740人間七七四年:2013/12/02(月) 10:12:34.23 ID:XW9NAmrz
毛利元就の小説や本でこれは読んどけ、という本はありますか?
ドキュメント厳島の戦い
覇道の鷲 毛利元就
和田恭太郎の毛利元就
歴史群像シリーズの毛利戦記
コマンドマガジンの厳島の戦い
は読みました
741人間七七四年:2013/12/02(月) 18:09:20.25 ID:BME5zyCf
『四本目の矢』は名作
穂井田元清を意識してしまうようになった
742人間七七四年:2013/12/02(月) 19:16:41.77 ID:Tyg7wPoO
穂井田元清・・・確か父親に虫けらと言われた男だっけか
743人間七七四年:2013/12/02(月) 20:02:08.45 ID:U75Ryr8o
四本目の矢ですか?
検索してもそれらしき本が出てきません
著者名など教えていただけると助かります
744人間七七四年:2013/12/03(火) 21:28:57.05 ID:448iYeI0
明智光秀が本能寺後は筒井を頼ってたという話ありますが、明智光秀はいつ頃から筒井氏と仲が良かったのでしょうか?
745人間七七四年:2013/12/04(水) 10:00:09.21 ID:Kib7Azii
仲が良いというのはどのような状態か分かりかねますが
筒井氏が織田氏に降った当初から付き合いはありました
光秀が降伏を仲介したとも言われています
746人間七七四年:2013/12/04(水) 14:11:29.10 ID:KJ9OAPRD
戦場で脱糞した大名っていますか?
747人間七七四年:2013/12/04(水) 16:09:19.32 ID:F47xHcj7
筒井と明智って婚姻関係あるし、
一応、一般的には光秀の与力扱いでしょ。
まぁ異論もあるけど。
748人間七七四年:2013/12/04(水) 19:42:42.47 ID:BpGaBXIU
史料の写しって模写ですよね?
749人間七七四年:2013/12/04(水) 20:01:26.37 ID:/OopdRZT
お家騒動って何で起こるの?
頓死でも無い限り、跡継ぎ勢力を圧倒的優勢にするとか
芽を摘んどけば良いんじゃね?

特に江戸期とかw
750人間七七四年:2013/12/04(水) 22:04:23.15 ID:Kib7Azii
江戸期はスレ違いやね
751人間七七四年:2013/12/04(水) 22:35:56.66 ID:ADDKke5r
圧倒的に芽を摘むのが大変だからおこる
752人間七七四年:2013/12/04(水) 23:57:35.31 ID:h5hDYxMI
どうして戦国時代に日本では酪農が起こらなかったのでしょうか。
酪農について調べてるんですけど、水害の多い関東や
寒冷な東北地方や北海道でさえ酪農が発達しなかった理由が分かりません。
単に仏教の教えだとしても、それでアイヌ人や東北地方でさえ
手を出さなかった理由って何かあるんでしょうか?
753人間七七四年:2013/12/05(木) 00:03:35.80 ID:CZs4EGNA
多分だけど日本人には牛乳が合わなかったんだろう。
754人間七七四年:2013/12/05(木) 00:22:36.14 ID:nY1rKTP6
秀吉の統治が重税を連呼してる勢力は必ず、秀吉が中間搾取層を排除していたことを故意的に書かない。
秀吉は浅野長政に1587年に出した命令で、おとな百姓として下作に申し付け
作あいを取り侯儀無用ニ侯 今まで作つかまつり候百姓直納ニつかまつるべき事。
と書いていて中間搾取の禁止と、百姓への土地分配をして水飲み百姓に土地を無料で与えて、
しかもその土地の所有権はどんな理由があっても取り上げられたり変更さたりは出来ないと決めてる。
これは強力な貧困層百姓の救済策であり、
しかも百姓の田畑を荒らす行為も禁止した為に貧困層がいなくなった。
貧困層出身の秀吉ならではのやり方と言える。

家康が関が原に勝つ為に蔵入地をあげまくった為に、
各地を監視支配する蔵入地が失われ、
秀吉が進めた中央の統治体制の地方への御指南による輸出を通じて内政支配が廃止され、
各藩は独自の旧制に戻っていった。
そして秀吉が決めた中間搾取層廃止も有名無実になり、
中間搾取層が復活し、さらに士農工商えた非人の階級カースト社会になっただけ。
そして各藩は自由に税をかけ始め重税に苦しんだのが江戸時代。
特に関が原後に領地の大減封を受けた毛利の重税ぶりは一揆続きだった。
大規模家畜牧畜経営者が明治になるまで生まれなかった理由を
秀吉の太閤検地によって土地を与えられて小農として自立意識を促され
小家族経営が徹底したので家畜を使った耕起をしなくなったと言われる。
一族郎党思考から個人主義の魁ともいうべき
家単位で土地という資産概念が生まれた現われの意義は大きく
西洋との競争において資産を持ち自立自営意識から
教育水準も高かった百姓は維新の原動力となり、富国強兵を背負う人材を作り上げた。
755人間七七四年:2013/12/05(木) 00:45:05.48 ID:bhWqk7ec
>>752
酪農や牧畜は面積あたりのエネルギー生産率が低い非効率なものです
日本の気候だと東北でも米に限らずもっと効率の良い作物が作れてしまいますので
酪農に手を出す必要が無かったのです。
また代表的な醍醐をはじめとする嗜好品としての乳製品は古来より少数生産されていました。
酪農に手を出してもよさそうな北海道アイヌに関しては不勉強で分かりませんが
冬が寒すぎたのではないでしょうか
756人間七七四年:2013/12/05(木) 05:59:41.03 ID:qrUEFp0C
秀吉が指6本だったという説は確定なのでしょうか?
757人間七七四年:2013/12/05(木) 06:03:33.66 ID:XPYGYYA1
>>756
当時そういう噂もあった、程度
758人間七七四年:2013/12/05(木) 06:05:46.31 ID:qrUEFp0C
>>757
ありがとうございます
その程度だったんですね
759人間七七四年:2013/12/05(木) 08:11:55.07 ID:/lS+Ee+y
長篠の戦いでふと思ったのだけど、あの鉄砲の一斉射撃の轟音の中、基本、臆病な動物である馬が怯む事なく
敵陣目掛けて突撃って、本当にできたのか?
鉄砲の轟音に驚いて暴れたり、後方に逃げ出したりしてマトモに攻撃できないと思うのだけど?

それとも、大きな音に馴れさせる訓練があるとか?
760人間七七四年:2013/12/05(木) 08:25:01.32 ID:HgVcWfzW
>>756
フロイスと前田利家という、殆ど関係がない二人から秀吉6本指説が出てるから実は本当なのではないかと考える人もいる
761人間七七四年:2013/12/05(木) 09:21:11.45 ID:wplD8J1R
>>758
事実だよ。
戦前は英雄像に似つかわしくないから隠蔽され、
戦後は差別とされて隠蔽されてきた事実。
フロイス日本史の翻訳が登場した際も、
キリスト教を排除した恨みで宣教師が、
秀吉を悪魔みたいな身体として悪く書いたと徹底抵抗する史学家ばっかりだった。
しかし利家の口伝記録にも登場するという事実と、
現代医学において多指症は珍しいものでは無く、比較的多いものである事実と、
生まれた時にいろいろな障害を背おった人達にとって、
秀吉が多指症でもひるむこと無く、
利家が指を切れば?って助言しても切らずに人生を通した事実に、
生きる勇気を与えてくれるという前向きの発想から、
6本指はすでに確定してる。
>>759
武田大騎馬軍団が柵に突撃したのは信長公記の捏造。
そもそも一次史料では柵を作ったのは家康だけだし、
その書状自体が後世の偽書状の疑いが強いとされてる。
それに一次史料には細川と筒井が、
おそらく堺あたりから鉄砲隊傭兵部隊を雇って連れてきたようにしか思えず、
信長公記も3000とか1000とか種類によって訂正されてる為、
大騎馬軍団と柵を用いた大鉄砲隊の戦いはデタラメで、
単なる読者サービスの演出。
実際は、そんなにたくさん馬を所持してないし、
あくまで移動や荷物運び要員であり、
戦する前に下馬する。
762人間七七四年:2013/12/05(木) 09:25:42.25 ID:cOEObOKA
>>759
鉄砲に慣れさせる訓練はあったようです
騎馬による突撃は第二次世界大戦の初期まで存在するので
空想妄想の類ではありません
763人間七七四年:2013/12/05(木) 21:54:44.70 ID:2scIyGQw
>>761
おや、秀吉は切断したんじゃなくて最後までしなかったの?
コンビニ本程度の知識しかないんだが切断したと思ってたわ
764人間七七四年:2013/12/05(木) 23:10:31.72 ID:Nrmz1y9X
切断してないよ。
まあ痛いからやらなかっただけかも知れんけど。
ただ世間的には、それは何とも思われなかったんだろうね。
765人間七七四年:2013/12/06(金) 02:08:23.96 ID:cVsfpTzd
>>764
thx
コンビニの胡散臭い本だと○○頃に切り落としたと思われる〜みたいな記述あったんだよね
だから切断してなかった事に驚いたよ
まあ、普通に考えて痛いよね
766人間七七四年:2013/12/06(金) 03:14:31.44 ID:CL5kOkvK
本能寺の面白いアナザーストーリ思いついたから
スレ建てて推敲してから
原案提供して映画化して貰いたいんだけど
笑える系の歴史映画作れる大家って何て人が居るの?

のぼうの人とかなら良いのかな?
767人間七七四年:2013/12/06(金) 04:52:11.94 ID:GaWsFll/
>>766
まず清洲会議を見てから脳内会議をしてみるのが良いんじゃなかろうか
768人間七七四年:2013/12/06(金) 12:59:23.36 ID:m6JJyk/6
小田原市のサイトによると
http://www.city.odawara.kanagawa.jp/encycl/neohojo5/012/
戦国時代の小田原城下町の人口が六千人程度だったとあります。
小田原ほどの規模でもこんなに少ないのなら
他の城下町の人口はどの程度だったのでしょうか?
769人間七七四年:2013/12/06(金) 17:36:34.17 ID:eRTsmSJ5
何故武田信廉は信玄のように法名で信鋼とはあまり呼ばれず号の逍遙軒と呼ばれることが多いの?
770人間七七四年:2013/12/06(金) 17:48:58.84 ID:mt/w8vpn
具体的な数字は分からんけど、
戦国大名の本拠地は不連続型の連結都市だから
城下町だけを抜き出せば何処も人口は少ないよ
771人間七七四年:2013/12/06(金) 18:02:51.07 ID:mt/w8vpn
>>769
『甲陽軍艦』がそう呼んでいたから
772人間七七四年:2013/12/06(金) 18:56:19.65 ID:m6JJyk/6
>>770
ありがとうございます。
773人間七七四年:2013/12/06(金) 19:55:02.09 ID:CdcVIDZa
戦国時代について勉強を始めたばかりの者です。
質問をさせて下さい。
戦国大名と家臣の関係を勉強しています。
まず、家臣に与えた領地内の年貢は全て家臣の元に入るのでしょうか?それとも一部大名にも渡るものなのでしょうか?

次に、家臣が自分の領地に隣接する他国の領地や小規模の城などに対して、戦国大名の許可なしに勝手に戦争を始めることは出来たのでしょうか?

初歩的な質問で申し訳ありません。
なかなか家臣と大名の関係が詳しく解説されてるサイトを見つけることができなくて。。
よろしくお願い致します。
774人間七七四年:2013/12/06(金) 20:30:36.51 ID:+XQmXS1E
テレビで信長が今川と戦った時、織田軍が次々負けて全滅寸前で
信長自身も鉄砲で戦ってなんとか勝って
死んだ家臣たちのことを悲しんだって、やってたんだけど
今川軍との戦いで信長はずっと無視して、今川が桶狭間に入ってようやく
動いて総大将の義元本人を討ち取って勝ったんじゃないの?
それとも桶狭間の戦いってそんなに超ギリギリだったの?
奇襲説が最近否定されぎみだけど、だからって負けそうなレベルだったの?
775人間七七四年:2013/12/06(金) 22:28:13.97 ID:JH9FMz2i
テレビに撮られてた以上動かぬ証拠になるだろ
776人間七七四年:2013/12/06(金) 22:50:16.50 ID:zbjLSM9u
>>774
砦が次々と落とされてギリギリだったから大逆転なのだ。

>>773
家臣の領地からの年貢は家臣のものだ。

戦争とかはその武将と大名の力関係による。完全に臣下なら無いが、
例えば真田のように徳川に付いたり上杉に付いたりする武将は勝手に戦争する事もある。
上杉家中の本庄繁長なんかもかなり好き勝手にやっている。
777773:2013/12/06(金) 22:59:08.47 ID:CdcVIDZa
>>776
なるほど、ありがとうございます。
家臣との信頼関係、かなり大丈夫なんですね。
778人間七七四年:2013/12/07(土) 00:10:53.12 ID:dLujSrB9
>>755
ありがとうございます。酪農は効率が悪かったんですね。
確かにそう考えれば明治期に西欧から改良された
家畜が大量導入された理由が分かります。
779人間七七四年:2013/12/07(土) 00:16:33.51 ID:afCGR0MS
>>777
本庄はむしろ半独立勢力として好き勝手やっていて、反乱を起こして鎮圧されてもいる。
信頼されているからではない。反乱の後は信頼厚い家臣になったけど。
780人間七七四年:2013/12/07(土) 09:40:40.79 ID:5YLGEePJ
酪農はそもそも放牧民文化で牧畜技術の副産物。
4足動物を喰うことに抵抗感あった日本人とは分化的土壌がない。
それに田畑収入で国力を測るので放牧に地を割くのではなく、
新田開発の治水に力を割いていた。
また秀吉が中間搾取層を廃止し、
貧民に土地を与えて収入確保させて自立を促したので、
中間搾取層の富豪寡占化による大土地を利用して事業をやるような、
牧畜や農業における奴隷プランテーションの発展が阻害された。
まぁこれは家康が鎖国してしまい輸出による資本蓄積がなされず、
国内市場だけなら個人による手工業で充分な生産力であったためでもあるが。
家康は士農工商えた非人のカースト制度を導入し、
日本同士に差別蔑視という階級闘争を導入して、
庄屋など中間搾取層を復活させ連座制で農村支配を開始したので、
歪になってしまったので、
秀吉により与えられた田畑はずっと与えられた者が耕すと言う原則が失われ、
経営能力がない民が田畑を奪われ貧困化したのは確かだが。
781人間七七四年:2013/12/07(土) 10:05:35.58 ID:9jpxSNuP
> 家康は士農工商えた非人のカースト制度を導入し、

士農工商という身分制度はなかったことは証明されている。以上。
782人間七七四年:2013/12/07(土) 11:03:23.32 ID:jyrFYYoa
イノシシとか鹿とか普通に食ってるべ
783人間七七四年:2013/12/07(土) 11:04:49.08 ID:9jpxSNuP
司馬遼太郎の小説とかそのまま信じてるタイプだな>>780
784人間七七四年:2013/12/07(土) 13:11:33.34 ID:kg51bfIo
実際はは部落差別に絡めて左翼が日教組と組んで無かったことにしただけだけどな。
785人間七七四年:2013/12/07(土) 15:25:59.33 ID:kg51bfIo
〜キリシタンはさらに悪質で領主層を惑わす〜と秀吉は書状に書いている。
秀吉が給付した領地の主人は変更することはあるが、其の地の農民の移動はない。
それなのにキリシタン大名が秀吉の許可も得ずに領地の寺社を勝手に燃やしたり略奪するのは許されない。
宣教師の企みを喝破できたのは日本の中でいまはまだ私だけだ」と言っている。
信長のようにただ単に興味本位で珍しい新しい物好きで宣教師を厚遇してるバカとは違う。
また高山右近が高槻に続き転封先の明石で寺社を破壊してたのを施薬院全宗が秀吉にチクったことで
激怒した秀吉が博多でポルトガル人の奴隷売買を糾弾したり、
牛馬は人間に仕え有益な動物なのになぜ食べるのか?と言ってたが、
(秀吉の基本思考・・・ポルトガル船でも純粋な交易のためなら寄港するのも問題なし、
秀吉から2000貫以上を給付される者がキリスト門徒になる場合は自分の許可を得よ。
それ以下の者の場合、日本の宗派は八宗あるが、キリスト教が加わり九宗になっても大して変わらんから
信教の自由は保障し何を信じようが構わない。但し、秀吉から給地を与えられた者が、権力を以って
庶民にキリスト教信者になることを強制したら罰する。)
小田原城を降伏に追い込み奥州仕置きをしようとする秀吉は
天正18年8/10に関東にも刀狩り令をだし、その中において
人を売買することを禁止し、天正16年以来で人を売買した者は
すべて返却するように命じ、売る者も買う者も処罰すると宣言している。
このことから高利貸しが政権運営する北条が滅亡するまで頻繁に奴隷売買をしていたことがわかる。
786人間七七四年:2013/12/07(土) 15:29:42.35 ID:BDncvnB3
こいつ小卒菅沼遼太だからもう触るな
787人間七七四年:2013/12/10(火) 10:54:28.03 ID:Y/rJ2MNy
>>784
Wikipediaの偏った政治的編集を丸呑みしてシッタカしてるだけの厨房なんだろ。
あれ部落起源まで持ち出してるくらい気持ち悪い。
788人間七七四年:2013/12/10(火) 18:32:35.86 ID:kwLQFPmA
自分は菅沼氏では無いんですけどウィキペディアの情報って駄目なんですかね?
出展元とかも書いてあるし8割くらいは信じたしていたのですが・・・
789人間七七四年:2013/12/10(火) 19:22:19.93 ID:UF3Yc8P+
wikiなんて信じるなよw
あれは編集者が自分に都合よく
洗脳しようとしてるだけだぞ。
どうでもいい過疎記事は放置されるが、
編集合戦に発展するワードも多いんだから。
790人間七七四年:2013/12/10(火) 19:24:40.53 ID:3DgZsaG9
良記事とそうでない記事がある事は確かなんだけど
詳しく知ってないとそれを判断しようがないから初学者なんかは結局見ない方が余分な手間かからない
791人間七七四年:2013/12/10(火) 20:03:13.36 ID:kwLQFPmA
>>789
なるほど・・・好きな武将などを脚色過多に書いてたり過剰まで貶めてるなどそういう感じなのですか?
前述したように引用元や出展がしっかり記載されてた物は割りと信じていました…

>>790
そうなんですね。
でもゲームなんかで知ったマイナーな武将とか調べるの大変でついついwikiばかり見てしまいます…
792人間七七四年:2013/12/10(火) 22:25:30.96 ID:26rZJ4n1
そういや昔、wikiでウソ武将を数人編集してたやつがいてワロタなあw
793人間七七四年:2013/12/10(火) 22:49:27.21 ID:whXpIdEx
>>791
別に個人で楽しむ分にはWikipedia丸呑みでも問題ないでしょ。
論文書いたりするわけじゃないんだから。
794人間七七四年:2013/12/11(水) 00:44:49.87 ID:V+ZD9TKl
編纂合戦をして応酬してる編纂履歴を見たりすると、
どこを改変し合ってるかわかるよ。
かなり前に西南戦争を引き合いに出して、
征伐は夷狄を対象にしたもんだとか主張して、
秀吉の九州征伐を平定とか役の表記に変更しろって火病発症してたやつもいたよなー。
小田原は関東だから征伐でいいって言ってたやつ。
結局、どちらでもいい勝手にしろってキチガイ放置になったな。
795人間七七四年:2013/12/11(水) 00:56:35.83 ID:GsMDpRAV
そこら辺りは完全に差別用語意識丸出しで、
織田厨が紀州征伐や甲州征伐の名前に固執してケンカ越しで24時間監視粘着してたからな。
796人間七七四年:2013/12/11(水) 04:17:30.19 ID:1XaaGQnj
質問なのですが、一つの備が展開した際の広さってどれぐらいですか?
仮に幅が2町なら槍衾を組むのに一列二百人ぐらいは必要ですよね。
槍衾が二列400人、騎馬と下人で200人、弓と鉄砲が200人、
本陣、旗、荷駄が合わせて200人とすると1000人で備一つ分ぐらいになりそう。
これだと200m×50mで一町歩ぐらいになりそうですが、そんなものでしょうか?
797人間七七四年:2013/12/11(水) 04:22:20.58 ID:Hb93Yuyg
>>796
備も規格の決まった単位じゃないからそれだけではなんとも…。
人数と収容面積と作戦意図で広くも狭くもなった、というのが実体だと思うぞ
798人間七七四年:2013/12/11(水) 04:29:49.61 ID:1XaaGQnj
>>797
成る程。確かに決まったルールで展開したわけじゃないんでしょうね。
守りを固めたるなら密集、包囲するなら展開するなど柔軟に対応したのかな。
799人間七七四年:2013/12/11(水) 09:37:41.61 ID:g9MshBRK
wikiの奴隷貿易でも島津がやった奴隷貿易は絶対に削除されてんだよな。
監視してるやつスゲーよ。
あと要出典が必要な謎記述とか連発編集してたり、
我田引水や曲解してるやつとか、
明らかに中立性が無い。
信長英雄マンセーして全力擁護してる本を出典にしてる時点でもうね…
800人間七七四年:2013/12/11(水) 10:39:22.39 ID:LZ0w4ukD
朝鮮や秀吉や豊臣政権の関わるwikiも出典皆無の捏造ある
801人間七七四年:2013/12/11(水) 10:42:26.78 ID:04n3JFZs
>>789
その件をよく知らないので詳しく教えて頂けますか?
明日発売の創造で島津プレイしようとしてたけど、なんかそういうダーティーな大名家を使うのは嫌だなと思いますので…
802人間七七四年:2013/12/11(水) 11:28:44.01 ID:SXAdK15V
朝日新聞出版の雑兵たちの戦場という書籍が詳しい。
出版社的にリベラル寄りかと言うと、そうでもない。
戦国時代の末端の悲惨さ(懸命に生きていることも含めて)が生々しく書かれていて面白い。
別に島津に限らず、武田も奴隷市場的なものはあったそうだし、ダーティとか拘る必要はないと思うけど。
803人間七七四年:2013/12/11(水) 11:37:57.09 ID:LZ0w4ukD
>>801
薩摩島津家総合スレッド その3
島津家久公之スレ
を覗くと書いてあるからわかるよ。

>>802
それ左翼本じゃねぇかw洗脳そのものwww
804人間七七四年:2013/12/11(水) 11:59:29.23 ID:cUU5AMdr
>>802
共産主義思想を反映されたキチガイ歴史観で書いてる本を紹介してバカじゃねぇのお前。
>>801
残虐な戦国大名とは誰なの?スレの
646レス以降を読んでみると良いよ。
豆知識として鎌倉時代からの奴隷売買の常識が書かれてるから。
805人間七七四年:2013/12/11(水) 12:03:00.93 ID:jdV7v4U2
菅沼遼太がハッスルして自説の宣伝してるなアホくさ
806802:2013/12/11(水) 12:20:26.90 ID:grJwSVMl
えらく罵倒されてるが、資料とそこから類推される部分だけ読めばいいだけだと思う。
イデオロギーに同調する必要はないし、そんなこと言い出すと本が読めなくなって
一次資料をあたるしかなくなるじゃない。

俺自身はどちらかというと、新自由主義と夜警国家に傾倒してる人間だから共産主義とは相入れないけど、
主義主張によらず面白い本を読めばいいと思うよ。
807人間七七四年:2013/12/11(水) 23:59:22.10 ID:vtp9gFuA
>>803
>>804

Wikiより信頼性がない2ちゃんねるのスレを参考として紹介するとか、正気かお前らwww
808人間七七四年:2013/12/12(木) 00:39:33.92 ID:r1oWmDbc
菅沼遼太が正気なわけ無いだろ。お前こそ正気かよ
809人間七七四年:2013/12/12(木) 09:05:28.95 ID:eew7HvfI
こういう>>807>>808みたいな偏執的なキチガイが、
議論や反論ではなく罵倒自演を開始することにより、
都合が悪い事実はこうやってwikiで編集され消されます。
>>807>>808は決して該当スレで根拠を出しての反論をすることは絶対にないでしょう。
810人間七七四年:2013/12/12(木) 18:35:57.75 ID:XgSIz7XA
前に脇坂保治の子孫だったかの人がもの凄く詳しく編集してたってのがあった様な
811人間七七四年:2013/12/13(金) 08:44:51.46 ID:4zWOuiHL
堀秀政の子孫っぽい人?のHPとそっくりな内容がwikiに書かれていた時もあったな。
812人間七七四年:2013/12/13(金) 18:01:30.12 ID:98KFAb6+
>>810
36連隊の脇坂大佐?
813人間七七四年:2013/12/16(月) 03:26:39.59 ID:MKEiqLSw
お市の方の輿入れ時期(永禄7年?10年?)と稲葉山城落城時期(永禄10年?)は、どっちが先なのですか?
814人間七七四年:2013/12/16(月) 17:41:03.76 ID:4YIwbhDL
浅井との縁談が後
815人間七七四年:2013/12/16(月) 18:49:58.14 ID:5RrfwRcF
>>813
縁談が後としてる研究者が多いけど(小和田哲男等)先としてる研究者もいる(宮島敬一)
816人間七七四年:2013/12/16(月) 21:14:12.51 ID:pg1U9x77
織田チョンにとって都合が悪い事実は捏造される典型だなぁw
817人間七七四年:2013/12/17(火) 00:05:48.60 ID:b5RZZ79O
何がどう都合悪いんだよ
馬鹿にするにしても分かりにくいんだよ
818人間七七四年:2013/12/17(火) 00:07:11.13 ID:25xTLp8m
菅沼遼太に触るな。病気なだけだ
819人間七七四年:2013/12/17(火) 09:44:37.31 ID:2OBn9H//
>>814
一次史料はまだなの?
820人間七七四年:2013/12/17(火) 19:05:27.31 ID:bdzu2ipx
縁談関係に一次資料あんの?
ぜひ知りたいが
821人間七七四年:2013/12/17(火) 19:11:17.84 ID:IYY4NoRj
>>820
お前一次資料の意味もわかってないだろ
822人間七七四年:2013/12/17(火) 19:51:00.55 ID:FocLRfan
そいやお市の直筆発見ってあったけど
あれどうなったのかな。
823人間七七四年:2013/12/18(水) 00:08:43.28 ID:mWTdUeOZ
つまり浅井との縁談が後であると話には、
根拠が全くないってことか。
織田チョンってデタラメばっかでやはりバカだな〜w
824人間七七四年:2013/12/18(水) 12:34:37.20 ID:T2DLk7Ge
>>821
(浅井との)縁談関係に一次資料あんの?
文脈くらい把握してから煽れよ
825人間七七四年:2013/12/18(水) 15:47:24.68 ID:LUIpniD2
永禄10年以降に婚姻した説
市が生んだ万福丸は永禄7年に生まれているので、
信長との間にできた子であり、
浅井長政は信長と市の子が跡継ぎになるのを黙認出来ずに信長に謀反した。


はいトンデモ話のネタになったウソ説です。
織田チョンがキチガイなのがよく分かります。
826人間七七四年:2013/12/18(水) 16:16:55.82 ID:EAuCqBOZ
万福丸の実母しだいやね
827人間七七四年:2013/12/18(水) 16:35:33.15 ID:FKjCTGVk
オワーダ
永禄10年以降に婚姻ニダ!
えっ!?たぶん万福丸は妾の子に違いないニダ!
そうだ辻褄合うニダ淀の生まれは永禄12年ニダ!
万寿丸ってのもいたに違いないニダ!
お市は再婚、いや三婚ニダ!

まともな研究者
『馬鹿馬鹿しい検討に値しない。だいたい淀は49で死んでるから永禄10年生まれだ」



はいトンデモ話のネタになったウソ説です。
織田チョンがキチガイなのがよく分かります。
828人間七七四年:2013/12/18(水) 16:55:12.29 ID:FKjCTGVk
宮島敬一氏は永禄6年までに婚姻。
高柳光寿氏は永禄6年
田中義成氏と桑田忠親は永禄7年

オワーダは永禄11年に決まってんだろ。
尾張一国をやっと統一した程度の信長が浅井なんかと婚姻出来るわけねーだろ!はっ?根拠?自分で調べろや。
829人間七七四年:2013/12/19(木) 13:11:42.75 ID:S3L2DYkj
まーた懲りずに織田チョンがデタラメ書いて論破されるの巻w
830人間七七四年:2013/12/19(木) 14:31:10.04 ID:JDtXGw3o
最近よく文献を読むようになったんですが、たまに「成人」という単語が出て戸惑っています。
「成人した頃には〜」という言葉が出てる際は元服した頃(15歳前後)を指しているのでしょうか?
それともあえて現代にも通じる成人という言葉を使っているので20歳頃を指しているのでしょうか?
831人間七七四年:2013/12/19(木) 15:03:16.41 ID:EBm+8sYr
普通は成人=元服。ただし稀に7,8歳とかで元服することもあるので、
普通の人が元服する頃=成人と言う意味で使ってるんでないかい
832人間七七四年:2013/12/19(木) 15:53:16.81 ID:JDtXGw3o
>>831
迅速なレス有難う御座います。
やはり成人と元服はイコールなんですね。
7、8歳で元服するパターンがあるのは知りませんでした。
若年の可能性も考慮して以後は考察するようにします。
833人間七七四年:2013/12/19(木) 17:01:09.40 ID:NicF2NvB
戦国武将の間では、なぜ男色が盛んになったのですか?
834人間七七四年:2013/12/19(木) 17:39:21.92 ID:h8GFoN+B
貴族や僧侶たちの文化が広まったからじゃねかね
835人間七七四年:2013/12/19(木) 18:56:40.85 ID:EBm+8sYr
元は僧侶から始まって公家に広まって、
公家に憧れてた武士は平安の頃から諱やら連歌やらいろいろ貴族文化を取り入れてて
その中に男色もあって、団結や戦場の性処理にも有効で広まったと
西洋の騎士やイスラムのホモ軍団や古代ギリシャの神聖隊とか
世界的にも戦士階級の男色は類型は多い
836人間七七四年:2013/12/19(木) 19:05:25.58 ID:oyYWer/I
古代ゲルマンの戦士は友情の契りに掘りあったとか……(震え声)
837人間七七四年:2013/12/19(木) 19:11:37.22 ID:sHW+sZVE
男は女と違って関係こじれたりしなさそう
楽だから広まったのかな?
セフレみたいな感じ
838人間七七四年:2013/12/19(木) 19:50:15.38 ID:WnAMsN1u
婚姻永禄11年説を唱えてる第一人者はオワダじゃなく奥野高広だろう…

宮島氏が異論を唱えるまでかなりの学者が信じてたぞ
839人間七七四年:2013/12/19(木) 21:08:30.09 ID:zSCsE3mE
ただ、市橋伝左衛門≠市橋長利らしいからなぁ
だとすると、宮島氏の解釈の仕方だと、かなり早い時期から信長の側近だったという伝左衛門への手紙としては不自然になる気がする
840人間七七四年:2013/12/20(金) 00:20:57.92 ID:zW428gWk
>>837
新撰組は男色からの嫉妬で内部抗争まで起きかけたじゃないか
841人間七七四年:2013/12/20(金) 00:54:35.50 ID:o3xsw6+T
こじれたら死人が出るから男色禁止にした藩も多い
842人間七七四年:2013/12/20(金) 02:21:22.12 ID:pvZEahP9
戦国時代に前例ないの?
大崎義隆がこじれたくらいなら知ってるけど
843人間七七四年:2013/12/20(金) 08:52:32.39 ID:B2y4Z0lb
葦名盛隆
844人間七七四年:2013/12/20(金) 10:11:52.96 ID:28XxpxCs
奥野は大した理由を述べてないからほとんど意味ない。
信長文書のとりあえずの編年整理に大雑把に力を使い過ぎて、
大した理由も述べずに比定しまくり細かいミスを連発してるからな。
まぁ年代比定の先鞭をつけた偉業は評価されるし、
そこから初めて学者らの検証が始まりミス指摘大会になっちまい、
新たな史料発掘されて修正に次ぐ修正になったから、
奥野のは大雑把でスタートラインだったから正確性は二の次だった。
小和田の場合もかなり杜撰。
と言うか当時の常識には新しい資料漁りで新事実をって話で、
小和田みたいに家譜や講談軍記や地方史など江戸時代成立の二次資料を根拠にいれてくるのも時代の雰囲気としてアリだった。
しかし明らかにトンデモになってしまうリスク付きだが、
小和田の場合は定説ではなく、裏説として持ち上げられたからNHKとかメディアでも人気だった。
一般大衆への歴史広報家としてお茶の間の人達に愛されてる。
武功夜記問題以降はリスクを感じたのか、
まだ多少の未練があるみたいだが最近は一次史料重視で本を書くことが多くなってきた。
でも小和田さんのトンデモはネタと知っていて楽しむことが出来る人達からは好感を持たれているし好きだ。
845人間七七四年:2013/12/20(金) 16:46:59.12 ID:DTKB5fn3
しばらく大人しくしてたが
大河考証2連発で
トンデモがそのまま定説になりそうなのが危険だな。
ちなみに、夜話、ね。
846人間七七四年:2013/12/21(土) 22:04:50.95 ID:y+3FjfmD
奥信大まそ
新奥小と小し,小一武まで
847人間七七四年:2013/12/22(日) 19:46:44.15 ID:kq34VLkr
主君や自分より上の大名や公家などから姫を貰った武将って、やっぱ姫のが偉くて肩身が狭かった人が多いんでしょうか?
848人間七七四年:2013/12/24(火) 08:53:48.29 ID:QKJmmKuD
黒田如水の男色相手は、吉川以外に誰が知られているのでしょうか?
849人間七七四年:2013/12/24(火) 14:15:21.83 ID:dZIlgLo+
大内義隆と陶晴賢と隆元と隆景と元春が男色主従だろ。
如水と広家が衆濃厚な道関係なのは陰徳太平記に出てくるくらいじゃね?
衆道主従は裏切り防止として精を入れて昵懇する行為だから、
恩賞よりも絆が高まる。
850人間七七四年:2013/12/26(木) 18:12:49.79 ID:G8RGazlG
流れ便乗
正室や側室がレズってたとか記録ありますか?
絆深めるという意味で必要なのかなと思った
851人間七七四年:2013/12/26(木) 21:07:55.88 ID:7Tsv4ooQ
無い
852人間七七四年:2013/12/26(木) 21:38:37.89 ID:ekBBzYH5
大内義隆と陶晴賢と隆元と隆景とは有名ですが、
元春とも男色関係にあったのですか?

ちなみに出典は何という書物でしょうか?
853人間七七四年:2013/12/26(木) 23:01:00.56 ID:ROFtiJ4U
この前ズリダチとタイマン勝負したことを書くぜ
(略)
3時間勝負は俺達ズリ舎弟の絆を更に固めたぜ!
854人間七七四年:2013/12/26(木) 23:13:47.10 ID:qiJJ84Dj
>>850
くの一が武将の妻を篭絡したという怪しい軍記物なら見た事ある
たぶん那須記だった気がするがうろ覚え
855人間七七四年:2013/12/27(金) 09:04:47.48 ID:f+9wisLQ
元春と陶がそうだったんじゃなかった?
856人間七七四年:2013/12/27(金) 17:38:19.18 ID:ZeonbHr+
元春と陶とが男色関係にあった
と何かの本で読んだ記憶これあり。
されど、その典拠は何でござったろう?
857人間七七四年:2013/12/27(金) 19:03:17.39 ID:Cwd9lFEu
史料とかけはなれた軍記で御座います
858人間七七四年:2013/12/27(金) 20:27:40.36 ID:ebSfNn0X
>>848>>852>>856は「ナッ爺」という
ネット検索も知らないクレクレ厨のゲイ爺です。
くれぐれもお相手召されぬよう。

ttp://hissi.org/read.php/sengoku/20131224/UUtKbW1LdUQ.html
ttp://hissi.org/read.php/sengoku/20131226/ZWtCQnpZSDU.html
ttp://hissi.org/read.php/sengoku/20131227/WmVvbmJIcis.html
859人間七七四年:2013/12/28(土) 19:46:38.73 ID:6tcFWlP3
同盟を結んでる勢力が自分の同盟勢力に攻め込んだ際、浅井長政みたいにやはり先約の大名を優先して支援する物なのでしょうか?
それとも仲裁をしたり見ぬふりするのが普通なんでしょうか?
860人間七七四年:2013/12/28(土) 19:58:19.68 ID:LzVSiI6f
>>859
そもそも浅井と朝倉は同盟どころか、むしろ敵対していた模様。
浅井が信長を敵とすることに決心して、その対抗勢力である朝倉と結んだに過ぎない
861人間七七四年:2013/12/28(土) 20:03:12.56 ID:bL+COZmb
>>859
同盟国を攻めないも同盟条約に当然入ってるものと思われるので
同盟違反→破棄で朝倉浅井みたいになるのが一般的じゃないですかね
もっとも同盟の強度しだい事前の交渉しだい諜略しだいの面もあるでしょうが
北条今川と同盟していた武田は北条今川の抗争が勃発すると
一旦今川について北条を占領地から撤退させたあと仲裁役に回って
三国同盟締結したなんて例もあります
862人間七七四年:2013/12/28(土) 20:25:28.94 ID:6tcFWlP3
>>860
なんと!大河ドラマやゲーム程度の知識しか知らなかったのでびっくりです
信長が違反したからじゃなくて義昭の包囲網に呼応してたとも言うべきなんですね

>>861
そういう協定があるんですね
後から結んだ人は条件を色々加えれそうですけど、先に結んでた人がちょっとややこしい感じがしますね
三国同盟の件を今把握しましたがしっかりした基盤や協定があったというのが見えました

教えて下さったお二方有難う御座いました!
863人間七七四年:2013/12/28(土) 20:38:36.87 ID:TewN3i1N
あんまり鵜呑みにしない方がいいと思うぞ
864人間七七四年:2013/12/28(土) 21:12:05.23 ID:lrqh6dTG
>>862
>同盟国を攻めないも同盟条約に当然入ってるものと思われるので
いや、これは「当然」じゃあない
するのなら同盟を結ぶときにそういう条件をはっきりと入れておかないとダメ

例えば武田信玄の外交において、一時期は北条と山内上杉と三家で和議を結んだことがある
のちに北条と山内上杉は敵対することになるが、武田はそのまま北条・山内上杉双方と
同盟関係を維持し続けた
後に信玄の信濃侵攻が進むと武田と山内上杉との関係が悪化し、有名な三国同盟に繋がるが
それはまた別の話で、武田は武田の都合の山内上杉と敵対したのであって、同盟の北条とは関係ない
865人間七七四年:2013/12/29(日) 11:48:11.87 ID:E7yCMc6D
戦国期の同盟なんてあってなきようなものだし
条件は破られるためにあるようなものだからなぁ。
現代っぽい、規則は守って当然破ったのは悪
みたいなのは日本だけってぐらいだし。
866人間七七四年:2013/12/29(日) 12:16:07.65 ID:pryM4MKF
同盟にも強弱があるから一概に言えるものではない
現代風に言えば攻守同盟なのか不戦同盟なのか従属同盟なのかその他で対応はぜんぜん違う
867人間七七四年:2013/12/29(日) 13:26:26.05 ID:Gqsmz8jG
>>864
同盟にも色々あるんですね!
例によく用いられた武田について色々と調べてみましたが、武田信玄が同盟破りまくったせいで勝頼が外交面で苦労したみたいな記述なども見ました
守らないは守らないで今まで戦国時代だしな〜と流し読みしてたんですが、信用を無くしたら後々が辛そうですね
864さんの出してくれた例の記述も薄いものですがネット上で読みました
同盟国同士が争っていても維持し続ける場合もあったんだなと前例が見つかって良かったです

>>865-866
同盟ってそんなに種類があるんですね
そして戦国時代らしくあってないものなんですね
攻守同盟というのは対○○の時は協力するなど一時的な感じなイメージが沸きました
興味深い要素なんでもっと色々掘り下げて知りたいなと思いました
868人間七七四年:2013/12/29(日) 17:21:51.78 ID:sDB/5OAh
結局はケースバイケースで、必ずこうする、こうしなければいけない、ってものはない
869人間七七四年:2013/12/29(日) 17:56:33.42 ID:Q62BNLpX
ケースバイケースなのは当然さすがに誰でも分かる質問内容だろw
テンプレあったらビビるわ
870人間七七四年:2013/12/30(月) 14:52:46.46 ID:lFpMSYLT
信長つええ
尾張が豊かなのは分かるけど
他にも豊かな所はあったのに
何故信長つええんだろう?
871人間七七四年:2013/12/31(火) 09:12:17.28 ID:nMPsgL0m
結構危ない時もあったんだけど
そういうのを生き延びるしぶとさがたいしたもんだわ。
でもあそこでやられては過大評価は
いかんけどなぁ。
872!ninja:2014/01/01(水) 03:02:24.93 ID:ZoKAEEBB
百姓、町人などから大名になった人物は秀吉、道三以外にいる?
ついでながらその中で幕末まで家を守った大名なんかいるかな?
873人間七七四年:2014/01/01(水) 03:46:54.85 ID:1EwnQTVw
福島正則は桶屋の息子。
小西行長は商人の息子。
本多正信は鷹匠上がりらしい。
874人間七七四年:2014/01/01(水) 04:55:20.16 ID:OI9kn5iN
だがさんは誰の子ですか?
出自を知りたいです
875人間七七四年:2014/01/01(水) 04:58:13.96 ID:wIGmDx5+
だがスレでやれ
876人間七七四年:2014/01/01(水) 05:56:45.03 ID:ZoKAEEBB
>>873
thx
877人間七七四年:2014/01/01(水) 20:03:32.48 ID:t3BIEN4G
家康のように他国に送る予定だった人質を違う国に奪われたケースって他にあるのでしょうか?
これは珍しい部類なのでしょうか?
878人間七七四年:2014/01/01(水) 20:43:20.44 ID:gkd6wtcS
人質ではないが嫁入り行列を襲撃して花嫁を奪取した例はある
879人間七七四年:2014/01/01(水) 22:10:29.15 ID:ImjJunia
将門?
880人間七七四年:2014/01/01(水) 22:30:40.82 ID:wIGmDx5+
珍しい例だね。
石川数正が人質ごと豊臣に寝返って人質出していた小笠原氏らが
しょうがないから一緒に秀吉に寝返ったみたいな例もあるけど
881人間七七四年:2014/01/01(水) 22:55:37.65 ID:ImjJunia
家康がちょ〜出世しちゃったからあれだけど
桶狭間あたりで流れ矢にあたって死んでたら
たぶん歴史にうもれたぐらいの話。
だから有名になったのは珍しいけど
いろいろ細かい不手際みたいなのはあったろうなぁ。
882人間七七四年:2014/01/02(木) 00:08:19.56 ID:zTvk5vsq
秀吉の墨俣建設は史実?
大河の信長ではスルーされてた
883人間七七四年:2014/01/02(木) 00:09:42.54 ID:50GdH7Yn
>>882
作り話
884人間七七四年:2014/01/02(木) 09:08:03.51 ID:JMkUl2ZO
>>878
伊達晴宗と岩城の久保姫か
もっとも元々は晴宗に嫁ぐはずだったのを破談にされたという話もあるんだよね
885人間七七四年:2014/01/02(木) 11:46:19.09 ID:K6UN9TNF
天正13年の秀吉の動き
上記のように充実した手際よい戦略行動を展開した辣腕家秀吉公。

天正13年の家康の動き
真田へ沼田城を北条へ返せ!と命令
諏訪の領地加増の約束を忘れたフリかよ!と逆に不義をなじられ
甲斐へ恫喝に出陣してもまったく効かず馬鹿にされ、怒って上田城を攻めるも惨敗し、
小笠原や石川にまで見限られ、信濃の大半を失い、
無駄な一年を送ったアホ康。

てか、このアンチ秀吉三成のチョンって、ウソデタラメばっか書いてるよね。
石川が小笠原の人質をもって離反したから、やむなく小笠原も家康を離反したとか、
細かいところまでキッチリとでっち上げのウソを挿入しまくってるw
真田昌幸が北条へ沼田を引き渡さないから、
怒りくるった家康が天正13年4月に甲斐に出陣して真田を威圧。
7/15に上杉が真田に起請文を出す。
これにより徳川軍7000が上田城へ侵攻し、
真田と徳川は戦闘開始するも惨敗し9月には上田城を徳川軍は攻めることすら諦めて傍観状態。
10/17に秀吉が真田の進退を保障した文書には、
真田に対して、小笠原貞慶と協力するように言っていて、
11月に岡崎城代石川数正が逃亡しているので、
明らかに石川よりも小笠原の方が先に離反してるのにwww
信濃を代表する真田、小笠原、前年に離反した木曾の三大族が家康を見限ったことで、
実質的に家康は信濃の大半を失ったことになる。
家康異父妹でバツ3の多却姫が嫁いだ高遠の保科がいなかったら、
家臣総離反で家康はドミノ倒しのように離反だらけになってたよなw
家康は秀吉の調略戦に大敗して、
秀吉に臣従する以外に生存する道が無くなったんだよ。
北条と家康の会談で同盟強化?いやいや家康が沼田問題で指導力発揮出来ない無能なことが露呈した会談だろwww

なんだよ、結局11/15家康→氏直のやつだけしかねーのかよ。
それ原本ない武江創業録なるもんに収録されてる、
どんな家康花押かすら写してない鑑定不可能の怪しい写し書状だろ。
他の関連一次史料書状には、人質なんて話は出てこず
石川は「足弱」「女房衆」を連れて逃げたって書いてるだけだろ。
百歩譲っても、石川出奔の大事件を利用して小笠原氏離反を石川のせいにして、
木曽氏や真田氏に続いて小笠原氏にまで俺が見限られたわけじゃないと
北条相手に虚勢を張る言い訳をして誤魔化しているようにしか見えない。
886人間七七四年:2014/01/02(木) 11:47:38.47 ID:K6UN9TNF
10/17 秀吉が昌幸へ小笠原と協力するように命じる。
11/13 石川が「女房衆」と共に逃亡(家忠日記)
11/15 北条殿宛家康書状(武江創業録)13日に石川が「小笠原人質召連候」と書いて北条へ弁解してる。
11/17 石川が「足弱」を同道して織田信雄の元へ逃げてきたことを秀吉は述べている。
11/19 昌幸への秀吉の書状でも石川の逃亡と「足弱」についてを述べ、
    今年はもう残り少ないので、家康討伐は正月15日以前動座を伝える。
11/19 11/21の下条宛の家康書状でも石川伯耆尾州退散と書いて人質の話すら出てこない。
11/20 秀吉が三河侵攻するため大垣城へ正月15日以前に着陣するので一柳へ兵備の準備を命じる。
11/28 織田有楽や滝川雄利や土方雄久ら信雄家臣が家康へ入京を促す。
11/29 天正大地震発生。
12/14 高遠を攻めた小笠原軍がすでに撤兵後の家康からの感状であり、とっくの昔に小笠原は離反済み
1/9  景勝へ上杉軍の雪解け2月中頃の信濃出陣を命じ、四国・中国の軍船が2月下旬には海上を封鎖すること。
   関白軍の先陣は当月出陣、追って2/10の関白秀吉尾張着陣予定を伝える。
1/24〜29 三河家康御成敗に付き家康が信雄に秀吉へ属する為の斡旋を懇願し岡崎で条件をつめる会談をする。
1/25  家忠日記に大雨降、水出候とあり、家忠のいた近辺で水があふれたようだ。
2/8  家康と秀吉の和睦がなる。
もう家康は屈服して臣従する以外の道は残されてなかった。

えっw どんな家康花押かすら写してない鑑定不可能の怪しい写し書状を
どうやって本物だと証明できるの?そんな神技術あるなら教えてくれよwww
超無知だなお前。 愛知県史の編纂に参加していた播磨良紀氏が、
県史では特に指摘せずに収録しておいた史料と言えども偽書状の疑いが高いものがあると言ってるんだがw
例えば天正3年の家康が長篠で柵を作るように命じている書状での解説で、
花押が天正7年以降の家康花押で署名されているので、
長篠合戦譚から作成された可能性が高いと言っている。
家康の花押は時期によって14回の変遷があるので、

本物の家康書状の花押を見ながら似せて書いても、
内容による時期特定と花押の種類に、
時間的ズレが生まれたら偽書状と判別出来る。
家康の文書は非常に名誉や価値が高い為に偽書状がたくさんある。
しかし花押がわからない書状写なんてお話にもならんよ。

石川が足弱(石川やその家臣の老人や子供)や
女房衆(石川やその家臣の妻や侍女や身の回りの世話をする人々)と言った
家族衆を連れて熱田の織田信雄領へ逃げたと言うのは複数の一次史料にあるので事実だろう。
しかし石川が人質の小笠原嫡男を連れて逃げたと言うのは後代の編纂記事に頻繁に出てくる。
これは神君家康を裏切っている事実が不都合なので、
藩の永代存続の不安要因を取り除く為にも小笠原氏が捏造し言いわけをして、
そのストーリーに基づいて書状を捏造したからに他ならない。
そもそも石川は自分が人質として出していた者達すら見捨てて岡崎から逃げているし、
もし石川が人質を管理し預かっていたなら、
なぜ小笠原の嫡男しか管理してないのか、
もしくは小笠原嫡男だけを選んで連れて逃げたのか全く説明出来ない。
だいたい石川が逃げた理由は、
秀康や石川嫡男や本多らがすでに提出している人質の他に、
さらなる追加人質を秀吉に提出する約束の履行期限が来たので、
提出に向けた相談に関わる会議の後であり、
その後に秀吉が家康の表裏を非難している。
つまり家康はまた約束を誤魔化して曖昧な態度になったので、
その言を左右にして不誠実に誤魔化す態度に秀吉がその表裏を理由に出陣命令を出しており、
2月中には尾張から三河岡崎を目指して出陣することになる。
石川は提出約束を反故しようとする不誠実な家康を見限って逃げたため、
直接、石川と小笠原には関連性すら無いのである。
887人間七七四年:2014/01/02(木) 11:49:37.10 ID:K6UN9TNF
またアンチ秀吉のキチガイ織田チョンが暴れているのかよ。
ガチうぜぇ。だいたい秀吉は天正12年戦役の結果、
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww

秀吉に嫡男を人質に出した酒井は徳川四天王筆頭じゃん。
最古参筆頭として石川数正と同格。
他の四天王って言っても本多忠勝と榊原康政は21歳も差があって親子並に離れていたし、
井伊直政に至ってはさらに13歳下。
本多重次も譜代最古参で三河三奉行の1人で民衆に慕われた行政のスペシャリスト。
つか出世より家康へのイラつく直言で有名で、
その命を惜しまぬ直言ぶりで三河武士の見本と呼ばれ鬼作左と言う名前の方が有名。
おかげで北条征伐後間もなく蟄居になってるからあまり有名になってないだけで、
一筆啓上、火の用心〜の日本一短い手紙でも有名で、
現存天守が残る福井県の作左の嫡男が封じらた丸岡城の宣伝文句にも採用されてる。

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww

天正12年戦役の結果、圧倒的な秀吉からの征伐から逃れる為、
家康や家臣らは秀吉に人質を出して属した。
人質を得て家康の服属を以って東国平定がなった秀吉は、
背後を気にする必要もなく、
安心して紀伊和泉の惣国一揆や四国や越中と言った親家康勢力を全て制圧した。
いにさらなる追加人質を要求した秀吉は、
征伐されたくない家康が言いわけをして人質提出先送り曖昧うやむや化を狙う態度を表裏と捉えた。
実際、家康は家臣団とさらなる人質提出において家臣団の同意意見統一がまとまらず破談していただけである。
それは秀吉による徳川家臣団離間への揺さぶり術でもあり、
石川は意見統一出来ない家康を見限って逃げた。
2月までに秀吉の怒りを解かないと徳川は滅亡確定である。
秀吉は家康取次の信雄を通して人質提出ではなく、家康本人の上洛の要求にハードルが上がり始めた。
意見統一が出来ない家康は2月寸前ギリギリに至り信雄に秀吉への斡旋を懇願し岡崎で降伏条件の最終会談をして、
秀吉との婚姻を条件に、さらにハードルをあげられた自らの上洛するリスクを約束して秀吉政権への完全臣従を申し入れ征伐を免れた。
しかし上洛したら殺されると恐怖する日々が家康を襲うことになる。
秀吉は早く朝鮮出兵したくて仕方がなく、
家康の小心っぷりが際立っていた。
888人間七七四年:2014/01/02(木) 11:52:36.47 ID:K6UN9TNF
そもそも秀吉の妹が徳川家の正室になることを、
(秀吉の妹が質と書かれている書状は存在しない)
命欲しさの家康が懇望していただけで、
賛成している者は徳川家臣団には無く、
明らかに秀吉に強制的に押し付けられて拒めないようにされてるだけなのに、
秀吉の妹は人質になっていたと連呼して馬鹿じゃないかwww
天正14年5/25の秀吉書状には、
家康事種々縁辺等之儀迄令懇望候条、誓紙・人質以下堅相ト令赦免候
などと書いていて戦を回避する為に家康が懇望していたのが分かるし、
実際、5/28の祝言日にも、
酒井忠次や本多忠勝や榊原康政が、
そっち行ねーからと露骨な反抗姿勢を示した為に、
謀反を恐れた家康は、
いろいろ難しくて事切候ハんかと嘆息して婚姻破綻を申し入れて、
信雄の面目が失われ、秀吉立腹となってる。
ビビった家康は何とか秀吉の怒りを鎮める為に近日中に祝言を強行しようと試み、
6/9にやろうと決めるが家中内和睦をまとめるのに難航し、
6/6にやっと本多忠勝が清洲の信雄の元に、
徳川家臣団の女房たちを人質に送り込んだおかげで、
秀吉の妹が三河へ移動できる状態になるものの、
9日には祝言が挙げられずに10日にズレる。
しかし11日にズレる程に徳川内は混乱し、
11日やっと秀吉の妹がやってくるほど、
徳川正室問題は揉めていて、
秀吉にしてみれば徳川家中が混乱した方が良いわけで、
秀吉の思惑通りに妹が徳川家臣団の大反対を押し切り、
徳川正室に入り込むことになり、
7月に家康が真田攻めしようとしても、
妹の旦那に対して秀吉が、真田攻めを止めさせたら従う他無くなってしまうまでに影響力を行使出来るようになった。

在日基地外理論
家康に秀吉は旭姫を人質として出して婚姻した。
へぇ、じゃあ義元は家康に瀬名姫を人質に出したのかね?
家康は多却姫を保科正直
家康は亀姫を奥平信昌
家康は督姫を北条氏直や池田輝政
家康は振姫を蒲生秀行
家康は氏姫を蜂須賀至鎮
家康は栄姫を黒田長政
家康はかな姫を加藤清正
家康は上記の人々などに相次いで人質を出していたのかね?
婚姻を結び正室を出し縁者になると、
正室を出した方は人質を出したことを意味するなら、
大名たちは姫を出そうとは思わないだろうね。
でも実際は逆で、 ふつうは正妻と一緒に家臣もやってきて政治に口を出し、
正室の父は外戚として権力を振るう側だから、
正妻選びでは妻の実家が乗っ取りを謀るような野心家であるのを避けようとするよね。
朝日姫は家康に嫁いだ時はまだ43歳以下だったとされているから、
まだガキが出来る可能性あったんだよね。
ガキが出来てたら間違いなく徳川を継ぐことになったよな。
そもそも瀬名姫を殺した後も、
家康はガキ作りまくってるし全く正室がいなかったわけないし、
泣き泣き止むを得ず正室から側室に格下げになったやついただろうね。
実際、天正7年45歳で秀吉の姉の日秀が秀保を生んでるから、
朝日姫が家康の子を生む可能性が充分にあった。
秀吉は外戚として徳川家を操るつもりだったのは明らか
889人間七七四年:2014/01/02(木) 14:42:41.95 ID:8GktFeOw
ニート菅沼遼太うぜえ
890人間七七四年:2014/01/02(木) 17:04:53.78 ID:vD7SA/pO
軍隊って前衛後衛半々て良く言うけど前衛の中での役割分担の割合って決まってるの?

槍兵何割 弓兵何割 銃兵何割 投擲兵 騎馬兵何割っていう感じで

もしも大まかでも決まってる、または理想とされる割合があるなら教えてください
戦場や地形によって連れて行く兵の種類が違い過ぎるなら保有数でもいいから教えてほしい
891人間七七四年:2014/01/02(木) 17:18:07.81 ID:8GktFeOw
前衛後衛は置いといて割合ならたとえば
馬上11 長柄65 鉄砲13 弓7 旗持4 (各% 徳川慶長10年軍役規定)
馬上10 長柄65 鉄砲6 弓0 旗持7 手明12 (各% 天正三年上杉家軍役帳)
892人間七七四年:2014/01/02(木) 23:25:21.72 ID:vD7SA/pO
手明 って仕事がなく暇なことってネット辞書にでてるんだけど
これってその状況に合わせてやることが変わる人ってこと?
何もやることなくて緊急時にその場その場で指揮官が指示だすみたいな
もしそうだったらどういう装備でいるの?
それとも手明って武器を持たない伝令兵?
893人間七七四年:2014/01/03(金) 00:33:46.57 ID:pcEEKW6j
手明は道具(武器)を持っていないと言う意味ですが
本当に武器を持っていないのではなく、規定が無い、何を使っても自由と言うことでしょう
簡単に言えば北条の軍役規定の歩者に相当する主に持ち槍をつかう徒歩武者だと思います
上杉軍役には弓兵が無いので兼用だとすると比率的にもちょうど良くなりますね
894人間七七四年:2014/01/04(土) 02:03:57.23 ID:Y+OFtK8o
学校で社会の教師に質問したら、『う〜ん・・・・難しい質問だな・・・・わからないや、ごめん。テストには出ないから大丈夫。』 って
言われたので、ここで質問させてもらいます。

本能寺の変で、信長は自害したのは本当なんでしょうか。信長が自害したのを誰かが見ていたのですか?
なんで自害したと言い切れるのでしょうか。もしかしたら、焼死の可能性もあると思うんですが。
誰かが自害を見ていたとして、その目撃者はどうやって逃げたのでしょうか。不思議でなりません。

このスレ見てると、学校の社会の先生なんか足元にも及ばない専門家の人ばかりに思えます。
だから聞いてみました。
【多分○○なんじゃないかな】という推測でも構いません。お願いします。
895人間七七四年:2014/01/04(土) 02:15:01.43 ID:XuMhhzlf
本能寺から逃げ延びた女中の証言らしいです。それでも信長がふすまの向こうに消えるのを
見送った所まででその先は不明でしょう。武士の心得として敵に首を渡さない事を考える筈だし、
焼死は最もつらい死に方の一つなので、普通はその前に自決すると思います。

どうやって逃げたかですが、あのような襲撃事件では女子供とかは殺さないのが普通です。
抵抗すれば別ですが。
896人間七七四年:2014/01/04(土) 08:37:22.55 ID:GpVnjJmW
不測の炎上ならいざ知らず自分で本能寺焼いたんだぜ?
自殺の中でも焼死と溺死の苦痛は凄絶とされてて普通なら選ばない
切腹も厳密には苦痛を味わってから首を切断して貰うという物なのだけど、
罪人とかじゃない限り介錯を早くしてくれるわけで苦痛の時間は少ない
あの状況の武士なら逃げないなら普通に自害でしょ
897人間七七四年:2014/01/04(土) 08:45:45.36 ID:prF8O4WY
信長公記の作者の太田牛一が当時の関係者を探して取材して回ったんだよ
自害したってのは状況証拠からくる推測だろうけど
898人間七七四年:2014/01/04(土) 09:03:35.91 ID:D7pjMA1U
本能寺の近くに教会があった宣教師は、
自害説と生きながら焼かれた説の二つを書いていて、
生き残れた人は誰もいないからどちらかわからないと結論している。
自害説を吹聴しているのは、
自害が名誉と尊厳を守る死に方だから、
信長亡き後の織田家のとって、
信長が選んだ死に方が名誉と尊厳を守る死に方の方が都合が良い為に、
織田方が吹聴して回っていただけだろう。
実際は、吹聴しなければならない必要性に迫られたのだから、
明智軍が死体が見つからないから焼け死ぬまで逃げまわっていたのだろうと話していたのだろう。
さっさと自害していれば死体はすぐ見つかるからね。
宣教師の話だと門衛を殺して二条城に入った後は、
抵抗なく信長の元に行き着いて、
信長の背中に矢を当てたら、
長槍で攻撃してきたって話だから、
比較的すぐに信長の場所は確定してる。
899人間七七四年:2014/01/04(土) 09:15:27.55 ID:/ZBQbIXP
白虎隊自刃した証拠もなんもない。
それと同じ
900人間七七四年:2014/01/04(土) 09:30:38.23 ID:WUeEpJyl
三日前の事を裁判で証明するのも難しいもんな
確実な情報なんて得られるわけがない
901人間七七四年:2014/01/04(土) 10:36:10.20 ID:F1/6T5ZJ
信長が自ら死を選んでいたら、
名誉ある死に方なので、はっきりわかるように死ぬし、部下は助命される。
捕虜にされて報復されるのを恐れ逃げまわってから死んでたら、
部下が首を持って逃げるから、首だけは存在するはず。
つまり火で焼かれながら死んだのが信長。

尤も名誉ある死に方
部下の命の助命する代わりに、
敵前で切腹し、苦しまないように介錯してもらう。
これは最強の勇者と敵味方から賞賛され、
その恩恵は息子たちに及び、勇者の子には縁談話が次々にくる。

部下は道連れで当たり前じゃボケ!俺に殉死しろやといいつつ、
逃げ回るも追い詰められ、
生きて陵辱の辱めを受けるのだけは嫌で、
ついに介錯がいない場合に最低限の小さい名誉を守る死に方が首を掻き切り死ぬ。

死にたくなく逃げまわった挙句に、
火で焼かれながら死ぬ死に方は、身分が低くく虫並みの扱い。



織田軍の残虐行為の証拠隠滅行為から逃れるために&amp;#160;
当時の人々が瓦の裏に後世の人々へその犯罪行為を告発しているほど&amp;#160;

「後世の方はどうか語り伝えて下さい。&amp;#160;
5月24日に一揆が起こり、 前田利家が千人を生け捕りにした。&amp;#160;
磔、釜茹で、その有様を書き留めておきます。」&amp;#160;

またフロイスも日本史において&amp;#160;
荒木の謀反の時は、荒木の妻、二人の娘、兄弟、彼女の兄弟姉妹、すべての従兄弟たち、甥、近親ら36人を&amp;#160;
市中引き回しの上、斬首(市中引き回しは名誉を重んじるので死ぬことよりも甚だしい恥辱と不面目を信長は与えた)&amp;#160;
荒木の城から取っていた貴婦人120名は磔(赤子も母の胸に縛りつけて串刺しにして母親を一層苦しめるやり方をした)&amp;#160;
これを見た群集は殺された者が赤の他人であっても肝を潰し幾日も放心状態になる人たちばかりだったほどで、&amp;#160;
このまったく罪なき人々に対して前代未聞の過酷さと残虐に京の群集が恐怖したのもつかの間、&amp;#160;
今度はさらに残酷で非人道的かつ恐怖を比較にならぬほど煽ったのが、&amp;#160;
4つの平屋を作り、そこへ514名が入れられ(380名が女性)外から火をつけられ全員を生きたまま焚殺した。&amp;#160;
彼らが発する悲鳴や叫喚の声は、彼らが受けている残忍極まりない苦しみが、京都を恐怖で覆った。&amp;#160;
このように荒木のみが受けるべき罰を、多数の無実の人々が受けた。&amp;#160;
苦悩の涙と尽きることがない慟哭だけがずっと聞こえてきた。&amp;#160;


これが信長のやり方で、異常な暴君以外のなにものでもなかった。

信長は日本史上、唯一の恐怖と虐殺を礎に王朝を築き上げようとした&amp;#160;
大陸中国人的専制独裁君主なんだよな。&amp;#160;
だから猜疑心が異常に強く、&amp;#160;
行き着いた終着駅はカルト宗教の神になって崇拝を強要し権力だけでなく新たな権威を備えようとした挙句に自滅。&amp;#160;
朝廷も異常なまでに恐怖し、家格も前例も段階も踏まずに一気に位階官職を引き上げようとしてるくらい媚びへつらい朝廷存立の危機感を持ってたが、&amp;#160;
それすらも拒絶して朝廷秩序の枠外に出てしまった日本史上、唯一の暴君。
902人間七七四年:2014/01/04(土) 10:39:35.90 ID:QN5Tjane
菅沼遼太しつこいぞ
903人間七七四年:2014/01/04(土) 11:03:00.23 ID:u49Pzgrv
本能寺て首実験された織田方は居たのか?
家内の部下や小姓側近系ばかりだろうけど。
秀吉も光秀の首探してないからそれどころの状況じゃなかったのだろうか
904人間七七四年:2014/01/04(土) 13:11:30.31 ID:txe8wK74
まぁ光秀が信長を閉じ込めて火刑による私刑をしたんだろうけどね。
昔は仏教の影響で土葬が流行った時期もあったけど
戦国当時の武士にとっては土葬がメインで、
火葬なんてやられてないからね。
足利将軍家も4代以降は土葬で、江戸幕府の将軍もすべて土葬。


朝日新聞デジタル
ttp://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201205090243.html

124代(2人は2回即位)の天皇のうち、火葬になったのは約3分の1。

狭川真一さん(仏教考古学)は、火葬が盛んになった理由について、
「中世以降については、高野山など各地の有名な寺に自らの遺骨を分けて納骨し、
極楽往生を願った貴族たちの納骨信仰と関連がある」と推測する。「火葬はすぐに骨になるので、分骨には向いていたのでしょう」


「武士の間に儒教思想が浸透したことが大きい」と
立正大名誉教授の坂詰秀一さん(仏教考古学)。儒教では、火葬によって肉親の遺体を傷つけることを大きな罪と考えるからだ。

庶民は古代から近世の終わりに至るまで、一貫して土葬だった。
理由は「火葬は燃料代が余分にかかるから」(坂詰さん)。火葬が増えたのは埋葬地の確保が難しくなった明治以降
905人間七七四年:2014/01/04(土) 13:25:32.78 ID:txe8wK74
訂正
×昔は仏教の影響で土葬が流行った

◯昔は仏教の影響で火葬が流行った
906人間七七四年:2014/01/04(土) 13:27:07.79 ID:b/e6NPj8
で、どれが一次資料?
なんかどれも眉唾っぽいけど
907人間七七四年:2014/01/04(土) 15:00:36.60 ID:XuMhhzlf
>>904
>まぁ光秀が信長を閉じ込めて火刑による私刑をしたんだろうけどね。
首を取る必要があったのにそれは無い。
908894:2014/01/04(土) 18:33:41.72 ID:Y+OFtK8o
894ですけど、色々なレスありがとうです。
とても面白かったです。
信長は無念だったろうなあ・・・・。
909人間七七四年:2014/01/04(土) 23:28:26.65 ID:qsFniUsz
軍役で動員した兵隊は種類別に再編成するんでしょうか?
910人間七七四年:2014/01/05(日) 01:47:06.60 ID:K1bHMM3h
戦国後半はしてた。前半は不明
911人間七七四年:2014/01/05(日) 05:07:40.68 ID:GygGskUB
信長は内政や軍政に興味無く全くやってなかった。
ゆえに最初期的な寄親寄子制度のまま。
全て家臣への丸投げで、秀吉ら個人個人の才覚で工夫していた。
そもそも、それがやれるのは検地して、
国人から一旦領地召し上げて、
改めて大名から家臣へ領地を与える形にし、
その収入に応じた軍役を課せるまでに、
大名による領国支配が深化しないと無理。
上杉や武田や北条はやれていた。
一番早かった伊達家はそれを実行する為に晴宗が米沢遷都をした程。
でも政宗時代にはそれが崩壊後退していた。
毛利は最後まで単なる一揆的結合集団としての寄親寄子から脱皮出来なかった。
912人間七七四年:2014/01/05(日) 06:47:05.94 ID:cYySOx1y
>>896
一応言っておくと焼死自体は大してつらいものじゃない
よく焼死を「体中を炎で焼かれながら死ぬ」と勘違いする人間がいるが
実際の焼死の死因は「炎が他の有機物を燃やして出た際のガスを吸いすぎた」ことが原因で
これ自体は窒息する前に意識を失うので死に方としてはそこまで苦しいとはされていない。

「炎に焼かれて死ぬ」というのは「焼身自殺」の類であって、これは体中にガソリンをぶっかけたり
核爆弾クラスのエネルギーがないとほぼ不可能。実際に腕か何かにライターで火をつけようとしても全身火だるまにはならんだろ?
「焼身自殺」のインパクトが強いので勘違いする人が後を絶たないが、もともと人体はかなり燃えにくい。
つまり>>901の言うような「炎に巻かれて死ぬ」というのはこの時代だとまずありえない
913人間七七四年:2014/01/05(日) 07:19:27.75 ID:cYySOx1y
火葬と土葬の話が出ているので、若干スレチだがこれも付け加えておく

>>904では「仏教の影響で火葬が流行った」としているが、厳密には正しくはなく、
仏教は特に埋葬方法を定めていない。ヒンドゥー教やバラモン教で火葬を定められていたからその風潮が仏教にも影響を与えたというだけ。
基本的に仏教では人間の死後「成仏」という形で仏になると定められているので、仏になった後の抜け殻(つまり死体)の扱いなぞどうでもいいというのが教義。

これは日本の神道もほぼ同じで、違いは神になるか仏になるかというくらい。日本神道では全人間に霊魂が存在し、死後霊魂が神となると
定められているので、これまた抜け殻である死体の扱いについては全く書かれていない。ちなみに徳川将軍がほぼ全員土葬で埋葬されているのは初代の家康が吉田神道式の土葬で埋葬されているから。
この家康の例を見ても分かる通り日本の偉いさんは死後のことなどいい加減で、天皇家でも持統天皇が火葬を選択してから火葬式で埋葬される天皇貴族が急増し、
孝明天皇が土葬で埋葬されてからは土葬で埋葬される天皇が増える(今上天皇は火葬の予定らしいが)という匙加減。

ちなみに儒教一尊の朝鮮では現代でも土葬率が半分近くを越えており、一時期は土葬がほぼ100%という土葬大国で、今でも埋葬地の問題が後を絶たない。日本はそんなことないけど
914人間七七四年:2014/01/05(日) 08:44:29.45 ID:1Aw2+ed9
もともと「埋葬」の概念が薄いんだよね仏教も神道も。
若干異なるけどキリスト教とかもそうだし、「死んでから何になるか」が
重きを置かれている気がするなぁ。スレ違いでごめんなさい
915人間七七四年:2014/01/05(日) 09:19:56.04 ID:GygGskUB
なるほど、逃げ回っていた信長は気絶してそのまま身体を焼かれて死んだと言うことか。

持統天皇以降、貴族は高野山らへの分骨の為に火葬していたが、
儒教が入ってきて火葬をやらなくなり、
足利幕府も3代までしか火葬しないで、
その後の幕府は全て土葬か。
まー確かに宣教師から魔女狩りでジャンヌダルクが火あぶりの極刑にされた話など聞いていただろうから、
遺体を全く残さない火あぶりなんて地獄行き確定だからね。
そりゃいろいろな宗教思想が入ってきたら、
儒教だけでなくキリスト教でも遺体を傷つけてはならないのが正解みたいだな!って日本人も悟るよなあ。
なんせ高野山の弘法大師からして生き仏として死んでいないことになっているから、
遺体は火葬されてねーんだからな。
916人間七七四年:2014/01/05(日) 11:52:41.21 ID:jmU9j0ud
空海入定説なんて戦国で言えば豊臣秀頼生存説と同レベルの眉唾モンだろw
しかも今現在まで生きているから修行僧達が毎日飯を上げるとまで言われ、
年齢換算すると1000を超えているというトンデモカルト話じゃねーかw
実際には同時代の続日本後記で淳和天皇が空海の死没を聞いて急いで使者を送ったが既に火葬されていたことが
刻銘に記されているという有様w
挙句の果てには死後戦争が終わってから名誉が回復され
信長が生存していた時代にはとっくにカトリックの象徴的存在とされていたジャンヌを
「火あぶりの極刑にされた」とボロカスに酷評する宣教師がいるという菅沼遼太理論w
どこの宣教師かな?w朝鮮人?wwしかもジャンヌは魔女狩りではなくただの異端審問にかこつけた捕虜の処刑なのにここでもまた知ったかw
そもそもジャンヌが悪魔崇拝していたならキリスト教の極刑である火あぶりなど全く効果がないのに、こんなことをするのはジャンヌがキリスト教徒だとわかっていた証拠w
尤も信長はキリスト教徒じゃねーから「遺体は火葬してはダメ」なんて言われても「あっそう」としか思わんだろうがw
917人間七七四年:2014/01/05(日) 12:53:07.84 ID:pJKblRSN
菅沼がお怒りなのは信玄の遺体が死後きわめて冷酷に扱われたからでしょwww
1573年に信濃のド田舎駒場で死亡(現代で言えばホームレスが厳冬に耐えられずに野垂れ死に)

1575年まで土屋邸で死体を放置(当然防腐処理には限度があるので蛆がプンプンわいたり遺体の損傷も激しい)

1575年にようやく土屋邸近くで火葬(菅沼曰く「身分の低い人間のやる方法」)

翌年の1576年に恵林寺で本葬(ここでようやく正式に「信玄が死んだ」という事実ができる)

200年近く土屋邸跡地は魔縁塚と呼ばれる(信玄の放置された遺体を誰かが見た可能性あり)

江戸時代になって代官が調べてようやく信玄の墓だということが判明する



戦死者が手頃な寺で適当に葬られる戦国時代じゃ信長の死後の扱いなんてかなりいい方だな
918人間七七四年:2014/01/05(日) 13:02:30.72 ID:BU2zMuIV
>>916
書いている内容があからさまにwikiの内容じゃん。
なんで在日織田チョンって、
丸パクなのにそんなに偉そうに書くの?
お前、アホだから教えてやるけど、
ジャンヌの名誉回復を開始した理由は、
当時、コンスタンティノープルがオスマン帝国に落とされ東ローマが滅亡し、
イスラム世界の脅威にキリスト教世界が危機的状況に追い込まれていたときに、
縁故主義を推進したバカ教皇が、十字軍を組織するに当たって、
ジャンヌを宣伝に利用するしょーもない動機だから、人心が集まらず十字軍なんて大失敗したわけだ。

空海が死んだ時は仏教の日本的解釈も含めて荼毘にふすのはおかしなことじゃなかったが、
のちに火葬になっている事実が日本社会の常識にとって不都合な事実になった為に、
空海がいまだ生きていると言う形に修正された。
つまり中世になり、明らかに火葬は良くないとする常識が広まり、
天皇が死んだ時も、儀式の形式にあった火葬をせずに火葬したフリをして土葬するように変質してる。
だから信長を火で殺し、遺体が残らなかったと言うのは、
当時の人にとって最大の仏罰であり、
光秀はそれを演出してみせたと言うこと。
だから宣教師も神の怒りの報いだと書いているし、
義昭もそれを天意と書いている。
919人間七七四年:2014/01/05(日) 13:05:53.59 ID:K1bHMM3h
菅沼遼太を構うな。きちがいの耳にしょんべんだぞ
920人間七七四年:2014/01/05(日) 13:41:09.30 ID:Y7+qUW/u
>>917
まーたアンチ信玄の基地外が湧いてるのかよ。
それ全部、大ウソじゃん。
信玄は快川紹喜によって、
ちゃんと葬儀も行われているから。

つか、奥野高広も躑躅ケ崎の館に安置された信玄が座禅して安置されていた壺を、
天正4年に恵林寺での法要で開けたら、
ちゃんと五体満足の姿だったと書かれているし、
一門以外にも数百人が剃髪して葬儀に並んでた。
7周忌もやってるどころか、
南化玄興主導により慶長2年の25回忌までやってるわけだがw
921人間七七四年:2014/01/05(日) 13:54:07.78 ID:pJKblRSN
         ___
       /     \ 
      /   \ , , /\
    /    (●)  (●) \  日本の中世では火葬なんて底辺しかやらない!
     |       (__人__)   | 信長は底辺だから火葬という仏罰を与えられた
      \      ` ⌒ ´  ,/   天皇家は誤魔化しまくってるし実質土葬が日本本来の形式!
.      /⌒〜" ̄, ̄ ̄〆⌒,ニつ
      |  ,___゙___、rヾイソ⊃
     |            `l ̄
.      |          |

       _____          武田信玄や上杉景勝や正親町天皇が火葬!?
      /:υ::─ニjjニ─ヾ        土葬大国は韓国だけ!?    
     /:::li|.:( ○)三 (○)\     日本は埋葬などどうでもいい!?     
   (:::||!.::υ::::: (__人__)):::: i| _________
     ):::::::::::::   |r┬-| li::::/ | |          |
   /:::::::::::::::   `ー ' ::::::ヽ | |          |
922人間七七四年:2014/01/05(日) 14:00:28.94 ID:pJKblRSN
>>920
ID変えまくってる暇があったら他人の日本語くらいちゃんと読めよwww
葬儀をやっていないとは>>917のどこにも書いてないだろww
恵林寺の葬儀は天正4年で信玄が死んでから3年も経っているんだよ、
馬鹿なおまえでも中世に死体を3年も放置しておけばどうなるかくらい想像つくだろうがww
五体満足だったって、そら当たり前だwww人間肉は腐っても骨までは溶けんからなw
ちなみに火葬自体は天正3年にとっくにやってるからなw天正4年の本葬では、とてもじゃないが信玄の亡骸を
衆目に晒せるような状態じゃなかったってことだろw
923人間七七四年:2014/01/05(日) 14:08:55.93 ID:k10ccbt1
書状の写しが現存するって表記をみかけたのですが、当時は貰った書状をコピーするような習慣があったんですか?
924人間七七四年:2014/01/05(日) 14:51:25.43 ID:Q5IdbbRw
秀吉は光秀の首をさがしてない、にはどうして
誰もつっこまない?
925人間七七四年:2014/01/05(日) 14:55:56.37 ID:Q5IdbbRw
>>923
逆にコピーがないから、重要な書状などは
写して回覧したりした。
所領安堵みたいなのは公的文書でもあるし
一種の私信でもあるので、写して見せたりしないと
証拠にならない。
それと単純に原本が失われてもいけないから
そのために写しておいた、というのもあるでしょね。
家臣の家から写が見つかったりするのは
江戸期になってもよくある。
926人間七七四年:2014/01/05(日) 15:12:15.11 ID:K1bHMM3h
後は江戸時代に大名が家譜を編纂する時に書状を集めるのだが
家の由緒を伝える重要な書類だからもらう訳には行かないので写しを作ったり
現在の領収書などと同様に発給した書状の写し(下書きを流用)を手元に残したりとか

>>924
突っ込む価値もないからスルーしてた
927人間七七四年:2014/01/05(日) 15:21:46.24 ID:k10ccbt1
>>925
確かに書類を見せて回るなら原本に粗相があっては大変ですね
用途としては頻繁に誰かに見せたりするのでしたら写しは確かに大事だと思いました
教えて頂き有難う御座いました
928人間七七四年:2014/01/05(日) 15:50:52.20 ID:W7K7EJOa
大返しん時、何で毛利は秀吉軍に旗やったの?
目立つほどの量なんだよね?
929人間七七四年:2014/01/05(日) 15:56:18.37 ID:K1bHMM3h
それは甫庵太閤記がソース元なので信憑性はかなり低い
930人間七七四年:2014/01/05(日) 19:45:41.94 ID:r6SElImy
>>922
信玄火葬を示す一次史料なんて無いぞ。
謙信も火葬されてないし。
931人間七七四年:2014/01/05(日) 20:09:54.26 ID:1Z4RO5WI
荼毘に付されてるんなら火葬じゃねーの
信長も謙信も信玄もキリスト教やイスラム教の信者じゃないしどっちでもいいんだろうけどな
932人間七七四年:2014/01/05(日) 23:52:02.22 ID:I//EQ2AA
宗教以外で火葬するってのは、単純に土地と衛生の問題なのかな
933人間七七四年:2014/01/06(月) 00:33:48.95 ID:fssYcpj8
信玄は諏訪湖に水葬して欲しいって言ってたけどあれは作り話?
934人間七七四年:2014/01/06(月) 09:51:36.13 ID:7ue0SGFp
>>931
でさ、荼毘にされたと言う一次史料はまだなの?

>>933
たしかそれ軍鑑ネタじゃなかったっけ?
躑躅ヶ崎での重臣会議で行われなかったとか。
でも異説だと実際に沈められたとする話もあるようだけど。
935人間七七四年:2014/01/06(月) 11:01:24.94 ID:nWrkOCl5
>>926
写の写もあるだろうし、誤字とか
正確性の問題は案外語られないよね。
誤読ってのもあるだろうし。
936人間七七四年:2014/01/06(月) 11:08:53.36 ID:nWrkOCl5
少し話がズレるけど、火葬というのは貴重な
材木類ーエネルギーを使うから身分が低かったり
一般では普通はもったいなくて用いられない。
これは世界的にも普通で。
だからわざわざ火葬にするというのは
その時代背景や地域の問題も含めて
異例、わけありの場合が逆に普通。
自然葬の方が生物循環にも優しいしね。

信玄の水葬は映画の影武者で映像化したから
あれで膾炙したような気がする。

犬神家、というのもあったが・・
937人間七七四年:2014/01/06(月) 16:13:02.91 ID:Zs6AQaeC
小説を書くときの参考にしたいんだけど
本願寺の顕如って肩書きみたいなのはあるの? 「僧正」みたいなやつ
周囲の人が顕如に呼びかけるときって何と呼ぶのが自然なんだろう
あと、顕如ほどの地位の人が一人称を「拙僧」はへりくだりすぎかな?
938人間七七四年:2014/01/06(月) 17:13:48.77 ID:ocTpuWmy
菅沼君は儒教大好きの朝鮮人だから土葬じゃないとヤダヤダってさw
939人間七七四年:2014/01/06(月) 20:45:05.21 ID:sCXVOhRD
>>937
こんなトコで聞かずに本願寺サイトでも本願寺関係の本でもいくらでも載ってるし、
関係の博物館とか行けば立場によって呼びかけ方が違うくらい分かるよ。
取材に手を抜くなよ
940人間七七四年:2014/01/07(火) 01:11:30.31 ID:At/+094O
領地より茶器を欲しがる武将が居たり、茶器を差し出すのが嫌で自爆した武将が居ますよね。
そんなに戦国時代って茶器に価値がある時代だったんですか?
上記の滝川氏や松永氏みたいに茶器に関する話で何か面白い逸話を持ってる武将が居れば一緒に教えて下さると嬉しいです。
941人間七七四年:2014/01/07(火) 09:00:19.25 ID:QID75+ih
>>938
儒学者が日本の歴史上にはいないとか思ってんのかよwww
さすが無字文盲の倭とかバカにしている朝鮮人ならではの視点だなw
実際は本家中国すら失った書物がたんまり日本人が保存していて、
中国人研究者はみんな日本に来てるほどだぞ。
むしろ朝鮮人は漢字も読めない文盲だから儒教なんて実際は理解出来てない。
あれは事大正当化下克上防止機能付きで統治者が都合よく独自解釈し朝鮮化した挙句に、
今ではただの蒙昧風習風俗レベルにすぎないわ。
儒教に盲目固執した結果、先祖代々の家系図とか必死に捏造してんだ。
日本は儒教にだけ固執してたわけじゃないがな。
942人間七七四年:2014/01/07(火) 09:17:53.17 ID:GIS9Lng6
菅沼フィルターを通すと「儒教大好きの朝鮮人」が「儒学者が日本の歴史上にはいないとか思ってんのかよwww」になるらしいなw
ところで菅沼君、鷲と鷺の区別はついたかね?w
943人間七七四年:2014/01/07(火) 10:44:30.54 ID:ENKDsgla
>>940
倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る、だな
944人間七七四年:2014/01/07(火) 11:03:13.75 ID:xXpd+rXr
>>940
価値はあった
ただ滝川のケースは茶器には様々な地位身分と諸権利がついてくるものだし
松永は敵(信長)が欲しがっているものをくれてやるものかという武士の意地があるから
945人間七七四年:2014/01/07(火) 20:39:18.52 ID:Dr/WT4Cs
>>940
武将の逸話じゃなくて茶器の逸話だけど。

九十九茄子(つくもなす)という大名物の茶入がある。足利義満ゆかりの品で足利将軍家に伝わり、
後に信長の手に渡って本能寺の変で焼けたとも言われるが、何故か豊臣家に渡り大坂夏の陣で
大阪城とともに灰燼に帰した。家康はその破片を探させて、漆塗りの名工に修復させた。
946人間七七四年:2014/01/07(火) 21:12:27.11 ID:SgxDXZ4I
「柴田」とか「稲葉天目」ってのもあるね。
由来はぐぐってくれ。
947人間七七四年:2014/01/08(水) 09:06:22.39 ID:ZNhRxvDU
茶器を脅迫して、召し上げしたのは内政行政に興味がなかった暴君信長と秋月種実の2人だけ。
宗麟は商人に借金して正当に購入してる。
948人間七七四年:2014/01/08(水) 09:50:42.08 ID:CDKnd/zZ
うそつき菅沼遼太
949人間七七四年:2014/01/08(水) 21:32:25.97 ID:FFBfKdga
為政者自らが犯罪を犯すとか、
絵に描いたような愚主の見本が鬱気者信長。
950人間七七四年:2014/01/08(水) 21:56:19.48 ID:G0UdQvae
>>944
なるほど手放したり欲したりする理由にも付随価値があったんですね
ただのコレクター的な意地かと思ったのですが全然違った事に仰天です
茶器が地位に繋がるのであれば納得出来ます
ポケモンとかモンハンみたいな流行物と同じ感じでとらえていたのですが違ったんですね

>>945
何故に豊臣秀吉が持っていたのか不思議になる逸話ですね!
破片を集めて修復させるというのも凄いお話ですね
それほど価値あったという事なんですね

>>946
曜変天目茶碗ってのが出てきたんですけど、これじゃないですよね?
調べ方が悪いのかな・・・

>>947
没収した人の実例を教えて頂けて嬉しいです
秋月という方を知らないので調べてみる事にします
951人間七七四年:2014/01/08(水) 23:21:27.58 ID:4P4rkmJa
>>950
>それほど価値あったという事なんですね
それほど価値がありました。修復したおかげで今でも茶入の中では一番とされています。
一見普通の焼き物のようだけどX線で調べると破片を寄せ集めてあるのが判る。
釉薬が流れたように見えるのも全部漆だそうです。

>曜変天目茶碗ってのが出てきたんですけど、これじゃないですよね?
いや、それの筈だ。曜変天目は世界に3つしか無いが、全部日本にある。(製造元の中国には無い)
その一つが稲葉天目と呼ばれている。家光から春日局に下されて、その子孫である稲葉家に伝わった。
春日局に下される際の逸話が有名なので調べてみて下さい。
952人間七七四年:2014/01/08(水) 23:51:38.20 ID:y3TIXLx2
なんで信玄と謙信はいがみ合いだけで
人生を無駄にしたんですか?
あと二人の死は信長の暗殺ではと思うんですが
953人間七七四年:2014/01/08(水) 23:59:34.49 ID:rVaQ2XUE
窯変は再現不可能と言われてたのが20年ぐらい前に
成功した人が出たんですよね。
日本にあるうちの三つが国宝指定受けてて
どれもが素晴らしい名品。
今は佐賀の方でいい土が取れるとこないだ聞いた。

それと、茶器自体に価値があるのもさることながら
戦国大名は要は田舎の無教養なおっちゃんたちだから
花の都のお茶や香を嗜むというのは
ちょ〜上流階級の仲間入り、ってそういうニュアンスの
価値観なんですよね。
大名自身は茶器自体の価値なんかまったく
わからなかったでしょう。
そんなもんです。
954人間七七四年:2014/01/09(木) 01:09:53.08 ID:0rzRT0l4
織田家臣は信長の恫喝により、
茶を自由に出来ない制限を受けていて、
茶をやりたくて仕方がなかった。
他大名家は自由に茶を楽しみ、
茶会を通じて商人や坊主らから情報収集をしていた。
茶会好きの数奇者だった荒木や松永が信長から離反したのも当たり前だろう。
当時、茶会と連歌会は外交諜報に重視されていたが、
歌会外交は連歌師を通じて公家との関係作りが出来る為に、
事実上、朝廷外交になる事もあり、
その連歌能力が問われた為に、
茶会と違い、誰でも出来るものじゃなく、
ハードルが高かった。
三好や上杉や武田は連歌を良くしていたが、
信長は文盲なので連歌が出来なかった為、
光秀のような連歌朝廷外交が出来る者が必要だった。
また実は秀吉も連歌ができた。
955人間七七四年:2014/01/09(木) 01:14:58.16 ID:e9LiScyc
菅沼遼太ゴミみたいなこといってんな。はよ職探せ
956人間七七四年:2014/01/09(木) 09:01:17.53 ID:e2RqyuHC
戦国時代の人口、武士人口、全兵数、動員兵力
可能なら各身分の人口比率が知りたいです

あと、それぞれ違う本の情報だけど下の合ってる?
・当時の日本は人口二千万人
・兵力は石高の20分の1と考えていい、100万石なら兵力は5万人
・日本の兵力は100万人
二千万の20分の1は100万人だから、違う本の内容なのに
計算が合う、なら本当の事だと思っていたんだけど合ってる?
合ってたとしたらこの20分の1って全兵の数?
それとも国防の為に国に残す兵を引いた侵攻に使える動員兵力?
957人間七七四年:2014/01/09(木) 09:30:30.34 ID:O0tf2fLC
戦国時代の人口比率は分からないので江戸時代初期の人口比率から推定くらいしかない
人口は色んな説があるが1600万人前後だと思う
20分の1ってのは大坂の陣以降の江戸幕府の軍役
100万人ってのは豊臣時代の軍役が元
戦国時代に近いのは当然100万のほうね
国防分も含んでいると考えていい(総動員体制除く)
958人間七七四年:2014/01/09(木) 23:36:31.10 ID:tff+9hnl
織田信長が朝倉責めした時
三好勢はただ何もしなかったのは何故?
京乗っとれるじゃん
959人間七七四年:2014/01/10(金) 00:02:04.98 ID:sYY4uzPb
四国で兵を集めるのに手間取ってたから
960人間七七四年:2014/01/10(金) 12:00:38.61 ID:sqs3E+UP
のっとっても戻ってきたら
また蹴散らされる。
961人間七七四年:2014/01/10(金) 14:36:40.19 ID:WfwOgdS5
時代は違いますけど財力や権力など比較して
戦国時代前期が全盛期の細川政元や大内義興と
戦国時代後期が全盛期の今川義元や武田信玄と
どちらの方が隆盛を極めていたのでしょうか?
962人間七七四年:2014/01/10(金) 15:33:52.92 ID:sYY4uzPb
後者
上に乗っかってる存在で部下の動向に右往左往してたものと
農民の直接支配にまで手を出してた政体とでは政権の強度が違う
963人間七七四年:2014/01/10(金) 16:49:21.84 ID:o7K6pgvY
財力、でいうのなら大内や細川には及ばなかっただろうなあ
しかし領国内における大名権力の強さという意味では文句なしに後者
964人間七七四年:2014/01/10(金) 18:18:39.08 ID:TSZbEqeF
>>960
何でそんなに弱かったんですか?
965人間七七四年:2014/01/10(金) 21:59:20.53 ID:WgaMejql
城を占領しただけでは権力は確立できないのよ
特に畿内は権利関係がややこしやー
966人間七七四年:2014/01/10(金) 22:03:49.99 ID:SNrB9GAc
三好って織田台頭前なら天下獲れそうなレベルだったのになw
あの辺はほんとややこしい
967人間七七四年:2014/01/11(土) 19:25:09.35 ID:NZ8S2grC
信長が生きてたらどうなってたと思いますか?
中国に戦争?
968人間七七四年:2014/01/11(土) 19:27:05.77 ID:zoAgAnIM
歴史にifは無い
969人間七七四年:2014/01/11(土) 19:30:19.21 ID:UHywL1UF
無いな
970人間七七四年:2014/01/11(土) 19:46:44.61 ID:NZ8S2grC
だから もしも
だよ
曹操みたいになりそう
971人間七七四年:2014/01/11(土) 19:47:56.76 ID:I4eK7dN/
もしもは存在しないと言っているのも解らんのか
972人間七七四年:2014/01/11(土) 19:55:39.35 ID:NZ8S2grC
存在はしないけど
想像は出来る
973人間七七四年:2014/01/11(土) 22:23:51.15 ID:IOQYU9HK
大人しく隠居してた説と、そんわけね〜だろ説と
ある。
やってきた事見れば大体想像つきそうだが
このスレは想像なしってか。
974人間七七四年:2014/01/11(土) 22:45:21.33 ID:bHhuA6HF
信長スレでやれ
975人間七七四年:2014/01/11(土) 23:22:57.89 ID:zoAgAnIM
【今ごろ?】 もし豊臣時代に信長が帰って来たら?
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1294076224/l50
976人間七七四年:2014/01/12(日) 01:48:48.22 ID:4CJ/jwuV
動員した兵を種別ごとに再編成した場合、旗印?みたいのはどうなるんですか?
977人間七七四年:2014/01/12(日) 06:59:50.83 ID:eIo2jsXT
屏風絵見る限り本陣は大将旗、足軽隊は隊の旗、騎馬隊の武士は各々の旗て感じかな
978人間七七四年:2014/01/12(日) 15:36:57.89 ID:2v0Zvogn
黒田官兵衛と秀吉は「義兄弟の契り」を交わしたというけど、
男色関係を結んだのですか?

それとも、アナル・セックス無しのセックス・フレンドになっただけなの?

どちらでせうか?
979人間七七四年:2014/01/12(日) 15:50:21.84 ID:eIo2jsXT
また来たか。はよ帰れ
980人間七七四年:2014/01/12(日) 17:13:57.92 ID:DbTt2PQD
>>978
穴兄弟じゃね?
981人間七七四年:2014/01/12(日) 19:27:02.97 ID:NHuTMmdj
>>961-962
俺は前者だな。
太閤検地以前はどこの大名も連合の盟主にすぎないから権力構造には大差ない。
しかし、一時的とはいえ中央を牛耳っていたものと地方の雄では圧倒的な差があり鼎の軽重を問うようなものだ。
撰銭令の布告の用途を見ても遣明船主の細川や大内は流入による物価高騰の抑止策、つまり原因療法に用いていたが、
武田の場合は銭飢渇への対応という対症療法に留まっている。
982人間七七四年:2014/01/12(日) 22:23:40.85 ID:qIx0qQnD
>>981
「鼎の軽重を問う」は天下を伺う意味だから使い方を間違っている。
983人間七七四年:2014/01/12(日) 22:46:50.52 ID:dnnczA5/
すいません
素朴な疑問ですが、僕が足軽で合戦に出ると死ぬ確率って何%ですか?
三国志の曹操が1万の兵を倒すには8千の兵の犠牲が必要といってましたが
にたようなものでしょうか?
また何人殺したら凄いことになるのでしょうか?
一般論で結構です

本多忠勝って関ヶ原で90人殺したといってますが
これってすごいのでしょうか?張飛は一回の戦闘で200人殺しますから
忠勝ならできそうな感じがしますが
984人間七七四年:2014/01/12(日) 23:54:15.92 ID:eIo2jsXT
関ヶ原の逸話等から判断するに戦死率は1%以下もちろん状況で違う
首一つで手柄
本多隊で100首獲ったという話で忠勝一人で殺したわけじゃ無い
張飛も史実の話ではない
985人間七七四年:2014/01/13(月) 00:43:40.18 ID:R2EJnb6L
>>984
そうなんですか?
例えば100人VS100人で戦争するじゃないですか?
1回の戦闘で生き残りが50人になって2回の戦闘で生き残りが
25人という風に戦いってつき進んでいくんじゃないですかね?
1%だと、いくさって1回も戦わない兵士が圧倒的に多いことになるんですかね?
986人間七七四年:2014/01/13(月) 08:20:49.68 ID:VpMFmRcH
>>985
ゲームの話か?
征服した相手の陣地の百姓とかも
動員できるし、確率とかいうのが根本的にわからんぞぃ。
987人間七七四年:2014/01/13(月) 09:41:44.58 ID:WofSTTbO
こりゃあかん、と思った時点で逃げ出すから
988人間七七四年:2014/01/13(月) 19:59:13.46 ID:Y+VpVAJB
>>982
ここは日本の歴史板とはいえ春秋の有名なエピを知らずにその指摘はちと恥ずかしいぞ。
中国の「問鼎」は権威を見下す不遜なニュアンスで用いられる。
日本国内では江戸時代に誤った使い方が流布しているのが実態だ。
989人間七七四年:2014/01/13(月) 20:49:44.09 ID:+gCP2voZ
>>988
荘王が九鼎の軽重を問う事で王位を狙う野心を示した故事は知っている。
だから天下を伺う意味だと書いた。間違ってるか?
990人間七七四年:2014/01/14(火) 01:48:46.25 ID:40QhT5U7
>>983
関ヶ原は両軍合わせて15万人くらいの戦だったが死傷者は5000人くらいといわれている。
これは全参加人数の30%にあたるがこれでも少ない方らしい(川中島の戦いが異常だといわれている)
もちろん知っての通り吉川など観戦していただけの部隊もいるので一概には言えないが参考までに。
991人間七七四年:2014/01/14(火) 09:33:04.53 ID:PQqBLByu
15万で被害5000が30%?
>>983
実際には信長の野望みたいな戦いはありえないよ
被害10%前後で戦いにならなくなるから逃げ出したりしてね
ゲームでは天下統一がうまく再現してるね
992人間七七四年:2014/01/14(火) 11:42:00.16 ID:tfXkF8ow
天下統一って凄く不評だけれど、ここにいる知識のある人には逆に楽しめるようなゲームなのかな?
993990:2014/01/14(火) 12:22:03.62 ID:40QhT5U7
悪い、計算間違って送信してしまった。推敲後は以下

関ヶ原は両軍合わせて15万人くらいの戦だったが戦死者は5000人くらいといわれている。
これは全参加人数の1/30、1%以下でしかない(川中島の戦いの死傷者が異常だといわれている)。
もちろん知っての通り吉川など観戦していただけの部隊もいるので一概には言えないが参考までに。
994人間七七四年:2014/01/14(火) 19:55:35.94 ID:Qy1SbORR
第四次川中島の戦いが異常な死者数になったのはなんでだろうなぁ
凄まじい激戦だったらしいが武田側は弟やら重臣やら死に信玄本人や義信も怪我してるあたり
めちゃくちゃ被害が出てるにも関わらず引かなかったからだろうか
995人間七七四年:2014/01/14(火) 21:16:12.34 ID:KZvaZbIm
士気の高かいもの同士が霧の中での遭遇戦を行ったため両軍の損害がアホみないになったとも言われる
996人間七七四年:2014/01/15(水) 00:23:30.42 ID:WwdZfYpv
>>992
知識のある人っていうか、初代は純粋にゲームとしておもしろかったよ。
信長の野望と違う切り口のゲームになってたから楽しめた。
続編が出るたびに迷走を続けたから今は評判悪いけど。
997人間七七四年:2014/01/15(水) 02:07:19.47 ID:xhp0yRme
>>989
知っていたのに使い方を間違っているという的外れな指摘をしたのか?
語るに落ちたな。
998人間七七四年:2014/01/15(水) 05:49:54.25 ID:mXiDDCHD
>>993
もう一回推敲してみな

>>997
横からだが俺も何でそこで鼎の軽重を問うという表現が出てくるのか意味不明だった

>一時的とはいえ中央を牛耳っていたものと地方の雄では圧倒的な差があり(、両者を比較するのはor両者の違いを認識しないのは)鼎の軽重を問うようなものだ。
意味不明ではあるが文章の繋がりからこうを言いたいのかと思ったけど

>一時的とはいえ中央を牛耳っていたものと地方の雄では圧倒的な差があり(、前者は例えるなら)鼎の軽重を問うような(勢力であったと言う)ものだ。
意味をわかって使っていたという事は、かなり補足して考えないといけないけどもしかしてこういう事なのかな?
999人間七七四年:2014/01/15(水) 12:57:09.16 ID:Bm7j1x0e
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1000人間七七四年:2014/01/15(水) 12:57:44.74 ID:/9IFA294
jh
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