戦国ちょっと悪い話36

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1人間七七四年
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話35
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1356968224/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1357367577/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
2人間七七四年:2013/03/22(金) 12:35:18.41 ID:ofxsjBjP
>>1乙

前スレの話、「急行すれば泊まらずに伊達領に戻れるのに泊まっていくとかおかしくね?」という意見が出たから襲撃取りやめたって話もあったな。
翌日政宗が伊達領に入ると国境で伏せてた兵が引き上げていったと。
3人間七七四年:2013/03/22(金) 12:59:38.10 ID:8e22FhqE
>>2
これかな

伊達と相馬、累代の敵国
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5237.html

>>1
4人間七七四年:2013/03/22(金) 13:47:41.57 ID:ibaYaBZg
>>1

共に狩りにまいりましょうぞ。
狩りの後はスレ立てをねぎらう酒席も用意してございます
5人間七七四年:2013/03/22(金) 15:42:33.88 ID:TmZI3ihs
うっきー主催なら14ヘ進む、弾正なら42th面に進む、三歳さまなら奥方と遭遇する
6人間七七四年:2013/03/22(金) 18:06:24.16 ID:Buhd4xQf
藤原惺窩は関白秀次の召しに応じて、五山の僧侶と同じく詩を相国寺に賦した。
そして惺窩は他日にまた召されたが、病気を理由にこれを辞した。

惺窩が弟子に言うには「君子には君子のなかま、小人には小人のなかまがある。
なかまでもないのに交われば最後まで相容れない。

余が秀次に交われば、ただ最後まで心が合わないのみならず、後に必ずや
悔やんでも手遅れなことになるだろう。余は再び見えることを欲しない」
ということだった。

秀次はこれを聞いて心中に恨みを抱いた。惺窩は免れざることを懼れて、
避けて肥前名護屋へと赴いた。

――『先哲叢談』
7人間七七四年:2013/03/22(金) 20:22:00.90 ID:J/+0MHyH
どいつもこいつも秀次がいったい何したってんだよ(´;ω;`)
8人間七七四年:2013/03/22(金) 20:39:43.85 ID:3Jo90yzA
前スレ>>996
あえてうまみ「系」と書いたところで勘案してくれよ
現代の「うまみ調味料」、つまり化学調味料があるわけないだろ
戦国時代のポピュラ−な調味料は味噌、酢、塩ぐらいで、
塩味以外のうまみ(アミノ酸)を加えよと思えば味噌しかなかった。
9人間七七四年:2013/03/22(金) 21:31:21.93 ID:FqbiEfYf
福島正則が酒に酔って家臣に切腹を申しつけるんだが
酔いがさめたらそんなことすっかり忘れててその家臣を呼びつけるって逸話あるじゃん
まとめにもないし俺が探しても見つからないんだけどもしかして司馬の創作だったりする?
10人間七七四年:2013/03/22(金) 21:50:09.21 ID:W1dInTz+
なんとなく星野又右衛門の話がよぎったが、酒ではないな
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-448.html
wikiには結局切腹させてしまった的な逸話があったが、ソースはなしか
司馬遼太郎だとすると、「俺は権現」かなにか?
しかし、前の「くらわんか舟」やメッケルの関ヶ原ではないけど、
ソースが見当たらないからって、なんでもかんでも司馬遼太郎の創作扱いするのは
11人間七七四年:2013/03/22(金) 22:48:48.60 ID:TmZI3ihs
>9、元ネタは孫権かと。>8味噌あるなら醤油もありそうだけどな。あと鰹節とか昆布か、にぼしとか
12人間七七四年:2013/03/22(金) 23:35:34.61 ID:3Jo90yzA
醤油が大量生産されるのは江戸時代に入ってからなんだな。
13人間七七四年:2013/03/22(金) 23:46:47.31 ID:J/+0MHyH
信長のシェフで言ってたもんな
14人間七七四年:2013/03/22(金) 23:46:52.35 ID:QyjunG1i
前スレ>>922の続き

秀次からの借金を返納し、閉門を解かれた細川忠興は伏見城へ登城した。
奥へ通られよと言われ、列座の中を通って行ったが、
皆、忠興はこれから大丈夫だろうかと心配している様子であった。

秀吉は奥の間で寝ていたが、
忠興が来ると三成が訴えの証拠とした連判状を取り出し、

秀吉「ここにあるのはその方の判に相違ないか?」

忠興「いかにもよく似てはおりますが、筆格が違います」

秀吉「そうか・・・近う寄れ」

と言って忠興の懐に手を入れ探ったが、懐剣も持っていなかったので

秀吉「なるほどそうであろう。大倒れ者に一味し、このような連判状があると言っても、
総じて十人中五人や三人は謀判(※偽の判)ということはあるものだ。
忠興は先年明智の謀反にさえ与しなかったのだから、この判は偽りだろう。
例え一味であったとしても以前の忠義に対して許す。
さぞこの度は気詰りであったろう、茶の湯をして気を晴らすがよい」

と『有明』という茶入を与え、忠興は畏まりお礼を申し上げた。
その時、御側衆の者らが全く結構な物を拝領されたものよと言うと、

秀吉「いや、それよりもっと大事な物をやったぞ」

忠興「・・・? ・・・そういえば、前にも時雨の茶壺を頂きましたな」

秀吉「いやそれではない。最も大事な命をやったのだ」

忠興が退出すると、御次の間の人々は命さえ危うかったのに名物を御拝領とは、
冥加に叶ったことだと申したものだ。

後に有明の茶入は普請の時に金が足りないので
黄金50枚(30枚とも)の質に入れてしまい、その当時は麦飯ばかり食っていたという。

(綿考輯録)


>>9
「武功雑記」に載ってる話。
15人間七七四年:2013/03/22(金) 23:51:02.33 ID:up/4tzRQ
有明の茶入って取り戻そうとした例のブツだなw
16人間七七四年:2013/03/23(土) 00:28:49.75 ID:r6ZOaW2f
ある意味オヤクソクの細川貧乏話でオチ
17人間七七四年:2013/03/23(土) 00:32:05.65 ID:A5b12PEl
大名が麦飯なら家臣とか領民はどうなってるんだよ((;゜Д゜)ガクガクブルブル
18人間七七四年:2013/03/23(土) 00:39:05.33 ID:dKYcbkq+
>>17
殿がまた手打ちにしたぞー!
ありがてえありがてえ、これで鍋が出来るだ
19人間七七四年:2013/03/23(土) 01:32:25.25 ID:90sbCDzh
>>17
そりゃ普通に上の立場が我慢する時もあるだろ…
20人間七七四年:2013/03/23(土) 07:15:26.86 ID:028GQTpY
>>8
味噌、醤油はうまみ系ですら無いぞ。
21人間七七四年:2013/03/23(土) 12:32:47.97 ID:oZpfXNTr
お米がなければお餅を食べればいいじゃない
22人間七七四年:2013/03/23(土) 16:26:21.25 ID:KPrdK7Rt
>>14
この時代に黄金って言った場合、慶長小判かな慶長大判かな?
50枚だと小判の方なら1千万くらい、大判なら1億くらいの価値かな
23人間七七四年:2013/03/23(土) 17:33:48.18 ID:028GQTpY
>>22
小判なら両で表記されるし枚なら大判でしょ。

現代の金銭価値への換算は意味が薄いかな。物品へ換算するか、
労働力換算するかなどで桁違いの値になっちゃうし
24人間七七四年:2013/03/23(土) 20:26:23.09 ID:0g5yKYxp
>>20
「グルタミン酸 味噌」でググれ
25人間七七四年:2013/03/23(土) 21:01:33.14 ID:TPrjJcpO
>>8
酒は?
26人間七七四年:2013/03/23(土) 21:07:00.09 ID:KPrdK7Rt
戦国時代は味噌はまだ食料であって調味料的な扱いではなかったのでは?
武田の陣中食と言われてるほうとうは味噌煮込みの鍋だけど実際は江戸時代になってから成立したものらしいし
27人間七七四年:2013/03/23(土) 21:08:53.33 ID:e/tdfaJa
うまみ調味料つながりでなんか面白いの見つけたw

縁起かつぎとしての利用として「勝男武士」の字を当てはめて、北条氏綱氏が戦勝の報償品として常にかつお節を用いたそうです。

http://www.yamaki.co.jp/laboratory/labo01.html
28人間七七四年:2013/03/23(土) 21:08:53.77 ID:ha2uYD4z
天正18年(1590)、豊臣秀吉による奥州仕置は完了し、蒲生氏郷は会津に、木村伊勢守(吉清)、
並びにその息子弥一右衛門(清久)は大崎に下り下折壁という場所にあった。
ところがこの年の10月中旬の頃、不意に一揆が蜂起して大混乱となった。

この一揆の根源は、秀吉によって定められた新しい領主やその家臣たちが、下は姦淫法に越え、
どうかすれば現地の者の妻であっても犯すというような事件が多く発生し、また上も政道
正しからず、民間の租税を著しく引き上げ民を虐げた。このため人々は旧主を懐かしみ、現在の
領主達に遺恨をいだき、かつての地頭などを語らい友や同士を集めて、反逆をなしたのである。
その発端はこのようなものであった。

木村伊勢守が秀吉の命によって大崎に下った後、岩出山の城は萩田三右衛門尉と言う者に、数多の
武士を付けて警護させていた。

時にこの萩田三右衛門尉には未だ妻がなく、奥州仕置以前の岩出山城主・氏家吉継の旧臣で今も
岩出山に有る者に娘が有り、これを内々に求めたのだが、この者はなかなか同心しようとしなかった。
が、彼に弟が有り、これが強く意見したため、かの娘は萩田に嫁ぐこととなった。

ところがこの萩田三右衛門尉と言う男は酒乱であり、そう言う時にこの妻を打擲した。
この噂をかの父が伝え聞き、大変な怒りを覚えたが、彼女が嫁ぐことを進めた弟が一旦それを宥め、
娘の側近くに仕える女を呼び出し、「重ねてあの男が酔って暴力に及ぶことがあれば、包み隠さず
報告するように」と言い含め、内々に調べた所、その後も萩田は何度も妻に暴力を振るったことが解った。

ここにこの岩出山の兄弟は許せぬと思い、「この上は、あの萩田三右衛門尉と刺し違えて、
この鬱憤を晴らしてくれよう!」と決意した。その上で氏家氏の旧家臣らと密かに連絡を取り、
これこれの計画に同意してくれるよう頼んだ所、皆仔細も聞かず了解した。

さて、その頃岩出山城中では屋作のため、茅を大量に地毛より運び入れていた。
氏家の旧臣達はその中に具足・太刀・刀などを結び入れて、密かに城中に運んだ。
この事を警護の武士たちは全く気が付かず、叛徒たちは思うままに支度をしたのである。

ある日、岩出山の兄弟は一味のものを引き連れて不意に城中に乱入。かの憎き萩田三右衛門尉を
たちまちに刺殺した。
城中の者達は慌て騒ぎ、訳も解らず叛徒たちに斬って懸ったが、叛徒たちは大勢であり、
逆に取り籠めて散々に斬り捨て、その後、それまで用意しておいた兵具を茅の中から取り出し
旗を上げて城門を固めここに立て籠った。

この反乱の報告は、登米城にあった木村親子の元に方方から告げられた。彼らが対処方針を
協議していると、今度は登米と間近の古川でも一揆が勃発したとの知らせが入り、

「では先ず古川を先に平定し、それから他に対処しよう」と決定し、軍勢を発進させた。

ところがこの進軍の最中、飛脚により急報が入る

「殿が出立された後、登米でも一揆が蜂起し、登米城は攻め落とされました!!」
「古川の城も一気によって攻め落とされました!!」

瞬く間に孤軍となった木村親子は、未だ健在な成合平左衛門尉の居城・佐治城に立て籠るより他
無かったのである。
(会津四家合考)

葛西大崎一揆蜂起についての経緯である
29人間七七四年:2013/03/23(土) 21:14:50.79 ID:0g5yKYxp
>>26
味噌汁はすでにあるよ
30人間七七四年:2013/03/23(土) 21:40:57.31 ID:KPrdK7Rt
初期の味噌汁は味噌の食べ方の一形態であって、今みたいに味噌は味付けのための調味料と言う捉え方じゃないんじゃないかな
でも料理物語ではもう味噌を調味料的に扱った料理を紹介してたと思うから
調味料化は江戸初期から広まっていってたんだろうな
31人間七七四年:2013/03/23(土) 21:52:34.85 ID:0g5yKYxp
焼味噌という食べ方もあるけど、
味噌田楽も室町時代からあるといわれている
そんなにこだわるポイントか?
32人間七七四年:2013/03/23(土) 22:16:17.83 ID:B3AiF8ae
33人間七七四年:2013/03/24(日) 09:41:19.16 ID:HBRlOmOe
>>31
味噌は戦国大名にとって大事な資源だからな
戦が絶えてから調味料化が進んだという点でも重要なポイントだよ
34人間七七四年:2013/03/24(日) 11:19:42.14 ID:kj7b/kH3
鰹節がないとねこまんま作れないじゃん、ねこまんまは北条さんの燃料だよ
35人間七七四年:2013/03/24(日) 12:00:27.13 ID:6tnJ7zWo
島津久信の最期


かつて島津忠恒と家督を争った事もあった垂水島津家当主島津久信(忠仍とも、母は島津義久の次女)という人物がいたが、
家督争いから脱落し、義久死後は再び家督簒奪を狙ったなど疑われ起請文まで書かされた久信の末路は悲惨であった。

寛永14年(1637年)のこと、ある時風邪をひいて体調を崩した久信は松井玄性をいう医師の処方を受けていたが、
ある日、玄性の薬からいつもと違う毒見を感じた久信はすぐに服用をやめ、毒消しの砂金を煎用した。
その日の内に久信は改めて玄性を呼び寄せ、「誰の謀計で毒を盛った?」と尋ねたが、
玄性は「決して毒などは盛っておりません。今朝はいつもの調合に少し加味しただけです」と返事をした。

久信は玄性の弁明が本当ならばという事で残った薬を全て玄性に飲むように命じ、玄性はこれを飲み干して退出したが、
その後に玄性は自宅の門の所で昏倒してそのまま二度を目覚めることはなかった。
久信が玄性に飲まされていたのは疑ったとおり紛れもなく毒薬だったのである。
これが祟ってか久信も年内の内に死亡。そして翌寛永15年(1638年)、後を追うかのように島津忠恒もこの世を去った。
36人間七七四年:2013/03/24(日) 12:18:50.83 ID:Z7ZfamV/
犯人が全く分からない・・・一体誰の差し金だったんだ(棒)
37人間七七四年:2013/03/24(日) 12:37:09.36 ID:kj7b/kH3
悪久さんか祟る人多すぎてわからないぞ!
38人間七七四年:2013/03/24(日) 16:35:08.21 ID:HYii+uNw
ああ(察し)
39人間七七四年:2013/03/24(日) 17:24:19.52 ID:35gtWx8k
味噌の便利さは現代人でもよくわかるな
冷蔵庫いれなくても持つし
合戦の場でも湯沸かして溶かして飲めるし
焼き味噌にして食べることも出来る
肉や野菜につけて食べることも出来る
40人間七七四年:2013/03/24(日) 18:24:11.02 ID:ZRvIFyxl
砂金が毒消しになると思われてたのか
41人間七七四年:2013/03/24(日) 18:37:25.66 ID:u2M30pm7
銀の箸で毒か判定
42人間七七四年:2013/03/24(日) 19:00:35.35 ID:loek5YpO
戦国時代は色々迷信があるんだよね
砂金ならまだいい方で合戦で大怪我したときはう○こを煮たものを飲むとか
とんでもないものもあったらしい
43人間七七四年:2013/03/24(日) 19:06:38.15 ID:mgPDv1jm
>>42
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3655.html
その話ならここに
大河の「風林火山」でも出てくるな
利尿作用があるとかビタミンで凝血作用があるとかいう話もあるがどうだろ
44人間七七四年:2013/03/24(日) 19:21:59.01 ID:lURgclqI
味噌はすごいよ ないとこまるよ むしろお味噌が主食だよ
45人間七七四年:2013/03/24(日) 20:50:31.74 ID:RjD7t0ld
どこかに権現味噌とかありそう
46人間七七四年:2013/03/24(日) 20:52:33.21 ID:+GO7NyyQ
さて
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1357367577/816
の後のこと

文禄元年、秀吉が朝鮮征伐のため肥前名護屋へと向かう途中、安芸に立ち寄り
厳島への参詣を行った。領主の毛利輝元は同行の諸大名衆も含めてこれを接待した。

その日は雨天であったが、秀吉は先ず弁財天に参詣して祈念を行い、その後経堂へと入る。
諸大名もこれに伺候したが、ここで秀吉が言い出した

「そうだ芸州(輝元)、いつぞやは聚楽において大蔵之丞と徳猪之丞の相撲を見れずに
残念であった。彼らを召して、腕押し(腕相撲)をさせて、この雨中の徒然の慰みとしよう。」

輝元は「然るべく候わん」と、しばらくして両人を召し出し、彼らは座の中央で
腕押しを始めた。

何れも夜叉鬼王の如き男が、憤怒の表情で腕を押し合う姿に、御前の人々我知らず
手を握りしめ汗をかき、両人が獅子の歯噛みをする様子に、これはこれはと誉めそやした。

彼らは半時(約1時間)ばかり押し合ったが、右にも行かず左にも押されず、まるで固まったかのように
見えた所、徳猪之丞の手首の骨「はしっ」と言って折れた。
ここで腕押しは終わった。
座中一統、まるで牛のような力であると、感じ入った。

秀吉は徳猪之丞に、「骨の折れたのを治療せよ」と外科の名人を集めて手当を尽くしたのであるが、
手首が大きく腫れ上がり、脈所に腐り入って、56日後に亡くなってしまった。
これを惜しまぬ人は居なかったという。
(義殘後覺)

徳猪之丞、腕相撲に死す。という逸話である
47人間七七四年:2013/03/24(日) 21:23:37.89 ID:xp/xeZxb
48人間七七四年:2013/03/24(日) 21:32:39.06 ID:RJvehF3C
悪久さんの周囲は謀殺と戦と蹴鞠に満ち満ちている
49人間七七四年:2013/03/24(日) 22:07:34.72 ID:0iX7rGG3
よかった、DQNに満ち溢れてはいないんですね
50人間七七四年:2013/03/24(日) 23:23:34.47 ID:U6RdH2AQ
>>42-43の直後に>>44はわざとかwww
51人間七七四年:2013/03/25(月) 00:11:11.16 ID:fiBc4fQU
天正二年正月二十八日、富田長繁と袂を分かった越前の一揆勢は加賀より七里頼周を大将として招き、本願寺の戦力であることを明確にした。

しかし、一揆勢の制御は七里達にも取れていなかった。
武士も含めた反信長勢力の糾合を目指す本願寺の意思に反して、一揆勢は各所の武士達を攻撃し始めたのである。
丹生郡三留の朝倉孫六が討たれ、河北の黒坂与七も攻め滅ぼされた。
七里頼周は黒坂一族の首を持参した者を「命令無しに勝手に武士を殺すのは言語道断」として成敗したという。

この頃、丹生郡末野村(現越前町陶の谷付近)は立神(立髪)氏が治めていた。
この立神氏も蜂起した村人達によって討ち取られ、屋敷は略奪の対象となり火を掛けられた。
立神氏は前年十月の時点で本願寺と結び顕如からお墨付きを受けていたにもかかわらず、である。
この年の二月に作成され、一揆の指揮官である坊官に提出されたと思われる『某申状』はこの件を「理不尽」とし、
村人を召喚して糾明するよう求めている。

その後も一揆勢の丹生郡での暴走は収まらず、朝倉景綱が逃亡すると暴徒化した一揆勢によって剣神社が大きな被害を受けることとなる。
52人間七七四年:2013/03/25(月) 11:11:24.08 ID:RE5xNuzV
政宗「密書」、被災土蔵で発見…裏切り促す
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20130325-OYT1T00225.htm?from=ylist

佐竹配下にあった小野崎氏に起請文を出してアプローチしてたとの事。
なお小野崎照通さんは、翌年の小田原征伐の時に異心ありとして佐竹に攻め落されたそうな。
53人間七七四年:2013/03/25(月) 13:52:43.42 ID:BmG1XOoo
>>51
なんだ、一揆もヒャッハーか
ヒャッハーが持ちたる国越前
54人間七七四年:2013/03/25(月) 14:09:29.47 ID:ilM5LbTd
味方にする方が厄介だなw
55人間七七四年:2013/03/25(月) 18:31:08.73 ID:cE0fpfoo
剣神社といえば織田一族にとって大事な場所だよな

釜茹でもやむなしか
56人間七七四年:2013/03/25(月) 18:34:55.17 ID:P1o6y6IZ
>>46
前の逸話で助かった筈の命がこうも儚く消えるとは・・・

そういや、前の逸話で毛利中納言とか言ってたけど
文禄元年より前だと宰相じゃね?
57人間七七四年:2013/03/25(月) 19:03:53.14 ID:NFO/N5Xx
鳴かぬなら まとめてヒャッハー 不如帰
58人間七七四年:2013/03/25(月) 19:44:39.57 ID:SIq3uDIb
越前の民は本願寺に長年の支配・指導を受けた加賀の民衆達とは違って
本願寺坊官や大坊主達からの直接支配を嫌い、宗主顕如と宗主の説く「仏法」にのみ帰依していたようだね
59人間七七四年:2013/03/25(月) 20:09:35.02 ID:xT5reIS7
越前はキチガイしかいないのか
60人間七七四年:2013/03/25(月) 20:10:08.15 ID:tc2IenPu
殺しあわせて皆殺しにするしか無かったんだな…
ノブの判断は正しかった
61人間七七四年:2013/03/26(火) 01:28:25.15 ID:6A+2LxeI
>>55
後に支配することになる勝家や3人衆も信長に疎かにしやがっておめえらただじゃ済まさねえからなと怒られてたな
62人間七七四年:2013/03/26(火) 03:29:59.43 ID:V/xdGEAT
七里三河守頼周って顕如直筆の書状なんかには七三ってニックネームで呼ばれてたりするんだね 
63人間七七四年:2013/03/26(火) 07:03:34.02 ID:taGK6WNg
禿なのに七三とな
64人間七七四年:2013/03/26(火) 07:46:26.87 ID:Hfg9fMGr
>>58
仏法に帰依してるのに殺人は無いわ
65人間七七四年:2013/03/26(火) 08:12:23.15 ID:8vDmcnBk
念仏で全て許される
66人間七七四年:2013/03/26(火) 10:18:52.00 ID:25EE8DpS
アッラーアクバル的な何かか?
67人間七七四年:2013/03/26(火) 10:42:55.12 ID:QdUhgFhS
>>62
ああいう略称って自分自身でも使ってるよね。

花押を据えるような書状の署名にまで使われてることもあるし
書札礼的にはどういう意味があるんだろう
68人間七七四年:2013/03/26(火) 10:45:10.40 ID:TjctaZ8h
>>66
あっちは色々やらなくちゃいけないことがあるだろ
こちらは念仏唱えれば即救われる
それどころか宗派によっては何もしない・そもそも信じてなくても強制的に救われるからなw
69人間七七四年:2013/03/26(火) 15:41:18.25 ID:Q4knNv9Q
武士が南無八幡大菩薩と唱えるのも浄土思想から来てるのか?
平家物語読んでると源氏平家問わず八幡大菩薩を大事にしているが
70人間七七四年:2013/03/26(火) 17:01:39.86 ID:po4Uwlxd
>>58
その坊官や大坊主送り込んだのは顕如だし朝倉どころか織田もびっくりな酷な支配に民衆が怒っても
顕如は民衆の側に立とうとはしてくれなかったのが悲しいよね・・・
もう本願寺はそこまで追い込まれてたということなんだろうけど
71人間七七四年:2013/03/26(火) 18:12:18.68 ID:A+h3TMGj
>>69
それは別かな。八幡神は平安末のころには応神天皇と同一視された日本の武神
ちなみに、奈良時代末には菩薩号がつくようになった
まあ本地垂迹説によって阿弥陀如来とは結びついてるけど
72人間七七四年:2013/03/26(火) 18:17:21.02 ID:po4Uwlxd
平家というと厳島神社を思い出すけど弁才天だから戦の時に祈る対象としてはどうかと思うし
そもそも厳島神社が平家の氏神になったのは平家の長い歴史の中で最後の短い期間でしかないしなあ
73人間七七四年:2013/03/26(火) 18:42:11.24 ID:25EE8DpS
八幡神て源氏の氏神じゃなかったっけ?
74人間七七四年:2013/03/26(火) 18:51:51.83 ID:A+h3TMGj
平将門だって利用しているし、清和源氏の氏神であるのと同時に武家全般の崇敬の対象だったんだろう
75人間七七四年:2013/03/26(火) 20:34:52.29 ID:IpqSO+4J
大内義隆の家臣に、宮部久馬介、浅茅鹿馬介という、二人の小姓があった。
義隆はこの二人を別して大切にしていたのだが、ある時、とある女中からの支え口(中傷)により、
この鹿馬介を討つようにと、義隆より宮部久馬介に命ぜられた。

宮部は承って自分の宿舎に帰り考えた

「それにしても、なんと黙し難い仰せを被るものだろうか。私は鹿馬介と一緒に奉公仕り、
片時も放れたことはなかった。本当に入魂浅からぬ関係であるのに、彼にこんな事を一言も
知らせずして空しく討ち果ててしまえば、草葉の陰で、自分たちの契りはこんなものではなかったはずだと
どれほど恨むだろうか。

彼に知らせるなら、我も諸共に死ななくては面白くない。どうせここで死ぬのも主のため
なのだから、悪いことではない。」

そう思い定めると、浅茅の部屋へ行き、彼に言った

「私は大変情けなき仰せを被ってここに来た。義隆公より、それがしにあなたを討って来い、との仰せを
受けたのだ。しかし日頃から、親しくしていること他に異なる程の仲であるのに、一言も
あなたに知らせず、空しく討ち果たしては、冥土にて私は必ず恨まれるでしょう。
その上、あなたを討った私のことを、朋輩たちがどのように思うか、如何とも辨え難い。

こうなればあなたと刺し違えて、死出の旅路に赴こうと思う。」

浅茅はこれを聞くと

「さてもさても、日頃から互いをなおざりにしない関係であったのが、今ここに現れたのであろう。
あなたの心底は長く後の世までも忘れてはならない。
そして、かの女中の中傷に対して、真実を主君に申し開きをして死のう、と思ったが、
女を相手に論じても意味があるだろうか。

私は自害をしようと思う。なのであなたには、介錯を頼む。」

宮部はそのように言われて、笑い出して言った

「私の胸中を定めないまま、どうしてこの事をあなたに知らせるでしょうか?
仏神三宝も御照覧あれ!私はあなたとともに、相果てなければならない!」

浅茅、このように言われ「それならば仕方がない。であれば…」と、二人共に思い思いに
その意趣を細々と書き置きし、川の中瀬に行き、二人はしっかりと体を組んで、川の中に飛び込み
立つ白波と消えた。彼らの死を人々はみな、なんと殊勝な義死を遂げたものかと、褒めぬ者は
居なかった。

義隆は彼らの書き置きを見て千悔したが、もはや取り返しのつくことではなかった。
彼は中傷をしていた女を召し出すと、「あの者たちの追善にせよ」と、彼らが入水した中瀬にて
柴漬け(ふしつけ:簀巻きにして水中に投げ入れること)にして水の中に投げ捨てた、
と言われている。
(義殘後覺)
76人間七七四年:2013/03/26(火) 20:43:19.56 ID:58+lDL+F
>>67
花押がメインで署名はおまけなんじゃね〜の〜
つか、自分の名前でも結構いい加減に書いてるしね〜
77人間七七四年:2013/03/26(火) 20:43:58.53 ID:esRjIJAv
義隆絡みだとどうしても女中が言い寄っても衆道一筋で目もくれなかったので逆恨みとかそういう痴情のもつれとかの想像をしてしまう
78人間七七四年:2013/03/26(火) 20:53:37.33 ID:Q4knNv9Q
平家落人伝説のある祖谷に八幡大菩薩と書かれた旗が残ってるし、
平家物語の『一門の都落ち』では落ちる平家が、
男山八幡に、再び都に帰れるようにと参拝している話もある。
武家全般に信仰される神仏とみてよいだろう
79人間七七四年:2013/03/26(火) 21:38:31.77 ID:q4qhv8R/
>>75
こういう名を重んじる潔さはいいね。
80人間七七四年:2013/03/26(火) 22:20:11.63 ID:po4Uwlxd
義隆さんは調べもしないで気分でお裁き
81人間七七四年:2013/03/26(火) 22:21:54.59 ID:5gvxey5X
>>75
:::::::::::::::男 は こ            {::::::{
:::::::::::::::坂 て の      _ ,−v   、::::::、
::::::::::::::::を し       _/rァ  ̄ヽn  ヽ::::::ヽ
::::::::::::::::よ な     -こヽ__)ヽ へフ -‐':::::::::::}
::::::::::::::::::  く   /::::::://, 7′:::::::::::::::::::::/
::::_n_  遠   、:::::::::ー' //-‐  ば の よ オ
:::`ニl lニ  い   ヽ::::://\   か ぼ う  レ
::::`フ \:::::::::ヽ __ ノ:::ー':::::::::::::ヽ  り  り や 達
/'´|_|`ニ_::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::l  だ は く  は
:::::::ノ'r三7/::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::} か じ
::::::::`フ, 匸/l::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/  ら め
:::::: ̄´::: ̄´:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/   な  た
82人間七七四年:2013/03/26(火) 23:56:35.54 ID:AyrWldqZ
越前一向一揆の戦果
朝倉景鏡…討ち死
朝倉孫六(三富景盛?景茂?)…討ち死
佐々布光林坊…平吹落城後敦賀へ逃走を図るも捕捉されて自刃(本人あるいは息子が生き延びて商人になったとも)
溝江長逸…一揆に攻められ自刃(杉浦玄任の斡旋で和平を結ぶが、和平の儀式に乱入した一揆勢に討ち取られたとも)
立神清右衛門…蜂起した村人に討ち取られる
富田長繁…味方に撃ち殺される
朝倉景綱…逃亡(羽柴秀吉の救援有り)
鞍谷・千福・瓜生・北村・氏家・千秋・真柄…攻撃される。翌年織田軍の道案内として瓜生内記が登場することから逃亡に成功した?


普通に在来の統治組織そのものが吹っ飛んでないか、コレ。
83人間七七四年:2013/03/27(水) 01:29:43.89 ID:rd0oALb1
>>73
戦争の神様で、ジングウコウゴウを祀ってたはず。
氏素性が若干怪しい平氏よりは、宇多を除く各源氏の方が近しいとはいえる。

但し、八幡太郎が有名なだけで
弟は八幡次郎じゃなく加茂、新羅(佐竹さんはこちらの子孫だと断言してる)、と名乗ってるから
八幡神宮にこだわってるわけでも無いんじゃね
84人間七七四年:2013/03/27(水) 03:03:24.52 ID:eqdXWdzj
八幡宮の祭神て応神天皇だけどその母親の神功皇后も一緒に祀られてるんだよ
85人間七七四年:2013/03/27(水) 05:33:03.44 ID:gkOGJfgT
>>83
もともとは海の神様(鍛冶の神様説もあり)だった。
平氏も八幡信仰していたのは事実。
元寇、元軍返り討ちの北条執権家は平氏の系統だし、
後北条の北条綱成も八幡大菩薩の旗を掲げ戦っていた
86人間七七四年:2013/03/27(水) 12:17:55.59 ID:AXsSLCeS
武家と宗教の話だと信長と本願寺かせいぜい謙信くらいしか有名じゃないけど
源平も含めてそういうのって面白いね
何か手軽でいい本はないだろうか
87人間七七四年:2013/03/27(水) 12:43:09.66 ID:1m65cpRw
宗麟が泣いてるぜ
88人間七七四年:2013/03/27(水) 13:31:05.57 ID:/NxqrvF1
有馬晴信は島原の山岳信仰をぶち壊したと聞いている
89人間七七四年:2013/03/27(水) 15:09:25.05 ID:gkOGJfgT
明治の廃仏毀釈政策で日本仏教どころか、
神社神道も本来どういうものかわかりづらくなっている。
古事記、日本書紀に神様たくさん出てくるが、
江戸期まではあれだけ多様な種類の神社があったはず。
明治期に地方神やマイナーな神様を奉る神社が、
メジャーな神様に変えられた経緯もあり今じゃわからない。
八幡大菩薩の神号も禁止されたけど、
根付いていた信仰だから、旧日本軍は前線では政府無視して八幡大菩薩の旗を掲げていた
90人間七七四年:2013/03/27(水) 15:21:45.74 ID:zKB5jBeR
ある時織田信長は庚申待(庚申の日に神仏を祀って徹夜をする祭事)を行った。
ご相伴は柴田勝家、滝川一益、佐久間信盛、明智光秀を始めとした、諸士20人ばかりであった。

夜もふけ、酒宴乱舞で皆が遊んでいる中、明智光秀は小用のため座を立ち、そして庭先で暫く
佇んでいた。

ここで織田信長は、一体どのように思われたのか、広間にかけてあった槍を手に取り
鞘を引き剥がすと駈け出し、庭で俯いていた光秀の首に槍を突き出し刃先を当てた。

「どうしたきんか頭!何故座敷から立ち出たのか!?その懈怠の罰として、
お前の細首をこれで落としてくれようぞ!」
(いかにきんか頭、何とて座敷を立ちやふるぞ、其科怠に細首落とすとの給へば)

光秀は大いに驚き
「私は全くお座敷を逃げたのではありません!ただ今そちらに戻りまする!」

しかし信長
「どうしてお前が許される事があるだろうか!」
と、光秀の喉の脇に槍先を押し付けた。

光秀は恐怖したかのように小声になって
「ああ殿、御槍先が当たっております。どうかお許しくださいませ。」
と申し上げると、
(日向守、あゝ殿様御鑓先が当たりて奉る、真っ平御免あれと小声になって申されければ)

「そういう事ならば許してやろう。さあ、早く座にもどれ!」

そう言って槍を引いた。光秀はこの幸運に、五体よりどっと汗をかき、
そしてこう考えた。

『そもそも信長公は座興を好まれる人であり、その上今日の酒宴に乗じて、あのように
お戯れになったのであろう。

だが、”思い内にあれば色外に現れる”という。信長公は常に私を亡き者にしようと
思っているからこそ、この酒宴の時に、その本心が現れたのではないか?』

そう察し、それより以後は信長の動向を常に伺うようになったとのことである。
(義殘後覺)
91人間七七四年:2013/03/27(水) 15:39:48.61 ID:gkOGJfgT
『酒酔い本性違わず』とも言うからな
92人間七七四年:2013/03/27(水) 17:38:12.95 ID:O5bzIyhv
大河ドラマで今後出て来るね、この場面。
93人間七七四年:2013/03/27(水) 18:29:25.68 ID:E0ssFS57
>いかにきんか頭、何とて座敷を立ちやふるぞ、其科怠に細首落とすとの給へば
当時の日本語は難しいね。多分当時の人達の会話何言ってるのかわからないかも
94人間七七四年:2013/03/27(水) 19:15:18.15 ID:NGeY5xsP
きんかん頭は司馬遼太郎の創作と聞いた覚えがあってググったら
他の軍記物では触れられてないのに、司馬遼太郎が国盗り物語で「義残後覚」の話を使ったせいで
一挙に広まった、ということだったか
95人間七七四年:2013/03/27(水) 22:25:39.11 ID:pX1is54w
信長でも庚申待するんだなー
96人間七七四年:2013/03/27(水) 22:48:17.51 ID:eb4rkgEa
村重「信長様もちついて下さい。」
97人間七七四年:2013/03/28(木) 00:17:21.22 ID:bEPl4vW+
徹夜の酒宴とか酒の飲めない俺には地獄のように聞こえる
98人間七七四年:2013/03/28(木) 00:32:40.52 ID:enmeCcs8
>>95
ラスボスが来るの待っててイラついてたんだな、きっと
99人間七七四年:2013/03/28(木) 03:08:08.64 ID:x4m0oFo5
この宗論の話はもう出てますが、少し趣が違うので

天正3年の事である。
阿波の三好長治は、阿波に生まれたものは全て子に至るまで、法華経を抱かせて
日蓮宗に成るよう命じた。
これにより阿波の禅宗や真言宗の寺は檀家を取られ、経済的にも大変な苦境に立たされた。

これに真言宗の大滝山持明院は訴訟を起こした。その内容は
『これは仏法の事である以上、阿波一国を日蓮宗にしようとするのなら、その優劣を見るためにも
我等と日蓮宗との宗論を仰せ付けられるよう申し上げる!』

この訴訟は受け入れられ、三好長治は宗論を申し付けた。

この時、持明院には阿波国の真言坊主3千人が集まり、根来のえんじょうという僧を呼び、
彼は日蓮宗に対して質問状を書き、これを日蓮宗本行寺へ遣わした。

本行寺には堺妙国寺、経王寺などが下っていた。
堯伝坊が使いに参り、書状への返答を求めたが、彼らはそれに返答することが出来なかった。

これにより「宗論は負けた方を討ち潰す法度である!」と3千人の真言山臥達、事の他に騒いだ。
阿波三好家の重心、篠原実長(自遁)は真言宗をなだめ、堺妙国寺、経王寺を堺まで逃した。

こうして暫くは、真言宗の勝利のように受け取られたが、しかし三好長治は日蓮宗を後援することを
止めようとしなかった。

そのような中、三好長治の周りに様々な恐ろしいことが起こるようになった。

三好実休は既に亡くなっていたが、彼の屋敷や数寄屋はそのまま残っており、数寄屋には二人の
練達の武人が、番人として詰めていた。

ある夜、山伏が現れ戸を押し倒し中にあった二人の番衆を押さえつけた。
また長治の屋敷の中にも日が暮れると山伏が走り回り、さらに屋敷の上に、
身の丈5間(約9メートル)もあろうかという人形で様々な姿をした物が出現した。

この様な恐ろしい現象が起こったことについて、岡本卜也は
『長治の親も家も禅宗であったのに、阿波国を皆日蓮宗にしてしまえば、
親も家も皆破れて無くなる。これほど報いのかかる事は無いであろう。
これこそ、三好の家が滅びようとする前兆である。』
と、仰ったそうである。
(三好記)

天正三年の宗論と、その後の怪異についての逸話である
100人間七七四年:2013/03/28(木) 06:56:33.91 ID:3A8qzIFk
あゝ殿様御鑓先が当たりて奉る、真っ平御免あれと小声になって申されければ

宴会を抜出して2人で何してるんだか
101人間七七四年:2013/03/28(木) 08:48:24.89 ID:qdIDlN9B
>>97
そうしないと三尸に日頃の行いを告げ口されてしまうと思ってたからね
早々と組織の結束再確認やうさばらしに変わっていったらしいけど
102人間七七四年:2013/03/28(木) 09:10:21.79 ID:MTnq9wtA
>>99
業を煮やした真言宗らの脅迫か。
まあ二年後本当に長治敗死してるしな
103人間七七四年:2013/03/28(木) 09:52:35.76 ID:gXP8Q1o+
鬼武蔵と幽斎様、他所のお家でなにしてはりますのん
104人間七七四年:2013/03/28(木) 12:41:42.71 ID:Us60i1i/
>>90
股間の槍なら悦んで賜るのに もったいない
105人間七七四年:2013/03/28(木) 22:42:47.47 ID:78/SU9h9
慶長3年(1598)1月4日、朝鮮の役・蔚山城の戦いで加藤清正などの日本軍は、激戦の末
明軍30万を撃退した。明軍30万騎のうち、生き残って帰国できたものは10万に足らなかったと云う。

さて、その時期は雪深く、取り残された負傷者や死者の確認も出来なかったため、卯月(4月)まで
放置された。
ようやく気温も上がり氷も融けると、大地には異国人、日本人、和漢の馬の死骸が、別れること無く
うち重なり、7里(約28キロ)に渡って人馬の山が築かれていた。

この状況に諸将は評議して

『死体を全て海岸まで運び海に捨て、資材の通る道を開け城の改修をすべきだ。
いつ明軍が攻めかかってくるかわからない、城の改修は急がなければならない。』

と決まった。そして諸大名に割り当て、人馬の死骸を、百石につき4人づつ引き捨てさせた。
7,8里の間にびっしりとうち重なった死体であり、このような凄まじい戦は異国にも我が朝にも
聞いたこともないと、人々は言い合った。
憐れとも無残とも、世の常の言葉では言い表すことの難しい光景であった。

異国の者の死骸は、尽く結った髪を解いて、これを綱に結んで引いた。

これらの死骸を海に引き落としたのだが、海岸では諸々の魚たちが、その死体のおびただしい血に
窒息して死に、水のほとりに真っ赤になって充満した。
飲水すら薄紅の色をし、これで煮炊きした食事は腐ったような味がし、水夫病という病気を
多くの者達が患った。

どれほど多くの人が死んだかといえば、蔚山の西南に七つ(午後3時頃)時分より夜の子の刻(午前0時頃)
までは、日本に例えると比叡山ほどの、巨大な炎が燃え上がっては消え、消えては燃え上がり、
その光で夜になっても近辺の景色が見えた。
人々はこれを見て、

「これは今度の死者たちの悲しみ、嘆きが炎として固まって、あのように成ったのであろう。
何と無残なことだろうか。どうにかしてあれを成仏させなければ。」

と話し合い、安国寺恵瓊和尚が施餓鬼法要を行った。
この後その炎はだんだんに薄れていき、やがて成仏したかのように治まった。
これも不思議なことである。
(義殘後覺)

蔚山城の戦い、その後の戦場の模様である。
106人間七七四年:2013/03/28(木) 23:04:34.78 ID:nxX7jMLc
無数の死体の山で人魂大発生とか・・・
107人間七七四年:2013/03/28(木) 23:47:00.31 ID:bieiBvOq
プラズマです。
108人間七七四年:2013/03/29(金) 09:09:48.96 ID:eperx2W/
やっぱ屍毒ってやつかねぇ
109人間七七四年:2013/03/29(金) 13:45:26.12 ID:TTvt3ojZ
魚の死因はアンモニアかな
110人間七七四年:2013/03/29(金) 15:29:40.02 ID:kFYWXzdb
有機物たっぷりで赤潮発生て可能性も。
111人間七七四年:2013/03/29(金) 21:17:18.81 ID:Q4f9yYZJ
水夫病って脚気のことか?
112人間七七四年:2013/03/29(金) 23:37:08.91 ID:1gbpsi9F
どちらかと言うと壊血病ぽいが
113人間七七四年:2013/03/29(金) 23:39:06.87 ID:H15/4sm3
ライムジュースの出番だな
114人間七七四年:2013/03/30(土) 07:20:03.71 ID:B/YZtShr
実際に効果があったのはザワークラウトってオチだっけ?
115人間七七四年:2013/03/30(土) 14:34:15.01 ID:T0stjrxO
ライミーは知ってたがキャベツ野郎は知らなんだw
116人間七七四年:2013/03/30(土) 14:39:10.98 ID:J5JMtyh1
ビタミンC含んでりゃいいから、野菜や果物で熱を通してなきゃなんでもいいと思うが
117人間七七四年:2013/03/30(土) 15:08:42.56 ID:WF4EIqSf
戦場の不衛生な状態から発生した問題、特に水の問題だから
赤痢とかの疫病じゃないの
戦場で脚気や壊血病はつきものではあるけど
118人間七七四年:2013/03/31(日) 01:27:56.67 ID:HggsfwAe
>>116
そもそも途中補給無しの外洋航海では、生鮮食品は保たない。ライムとか柑橘は特に痛み易いし、だからザウアークラウトという「漬け物」が生命線だった。

「食の世界史」って 本によると、上記の理由により 冷蔵技術が発明されるまで、壊血病は外洋船乗りの命を脅かし続けたそうな
119人間七七四年:2013/03/31(日) 02:09:21.25 ID:OOy8AWo+
ある時武田信玄の元へ、やんごとなき人の子であると、15,6才の容顔美麗なる
少年を連れ、これを召し使って欲しいとの申し入れがあった。

信玄は目通りを許しこれを見ると、世に類ない美しい容貌であったため、召し置き、
やがて髪を切って法師の姿にし、茶堂である重阿弥に預けた。

このようにして少年は信玄の側で召し使われるように成ったが、彼は信玄の心を
よく悟り、物事を信玄が言いつけるより先に整えるなどしたため、その意に入ること
類なく深くなり、そうして2年余り宮仕えを続けた。

そんなある夜のこと、信玄はこの小法師を召して、御前において茶を轢かせていたとき、
館の中で、若侍十人ばかりが寄り合って、物語するような声が聞こえた。
その声は挙句に口論を始め、それからさんざんに斬り合うような音となった。

小法師は信玄に申し上げた
「この館の敷地の中で、若侍衆が口論をつかまつり、ただ今打ち合いをしております。」

信玄聞いて、まるで騒がず
「それは誰であるか?」

「誰なのかわかりません。何れも聞きなれぬ声をしています。」

これに信玄
「憎き奴原である。予の庭前にて何者なればかかる狼藉をつかまつらんか!
全員を討ち果たさねばならん!」

小法師は茶を轢くのを中断して、つと立ち、縁の前の障子をさらりと開け、庭を急度見、
立ち戻って申し上げた
「10人ばかりが、うち乱れて斬り合いをしております。どうかご用心してください。」
と、次の間に立て置いてあった薙刀を取って参った。

信玄は、「薙刀は置いて、弓にせよ」と命じたため、彼はかしこまって、七所籐の弓に矢を添えて
奉った。信玄がこれを手に取り引き絞って放すと、トツトツという声がして、
何者かの気配は尽く退散し、物音すらしなくなった。

「何と不思議なことだろう。これはきっと天狗の仕業にちがいない。予が明けても暮れても
弓箭の事のみ工夫しているため、その胸中を計ろうとしてかかる業をなし驚かしたのであろう。
まったく人の所業ではない。」

信玄がそのように言うと、小法師は「御意尤もに候」と答えたが、彼もその夜掻き消え、
姿が見えなくなった。

「これも魔の所業であること疑いない。油断があってはならない。」
この後信玄はそう語ったという。
(義殘後覺)
120人間七七四年:2013/03/31(日) 02:40:17.95 ID:8rChbPSj
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6870.html
残念ながら既出
しかしこの話、信玄以外に証人いるのか?
121人間七七四年:2013/03/31(日) 07:12:51.63 ID:1qcJUXQT
これって、その少年も「魔」だったってことかね?
122人間七七四年:2013/03/31(日) 12:00:04.67 ID:xSWPaZvM
「信玄」「美少年」と言ったら思い付くものは・・・


まさかのオカルトとは
123人間七七四年:2013/03/31(日) 12:41:44.97 ID:eS0maYHo
浮気なんかしてないよ?
魔の所業であること疑いない!
124人間七七四年:2013/03/31(日) 12:47:44.94 ID:jDC0rZsZ
手込めにしたらすでに住職のお手付きだったので手打ちにした
その後始末のため天狗の仕業にして神隠しってわけですね
125人間七七四年:2013/03/31(日) 15:12:17.55 ID:HEtig3kj
  ヽ/l l ニ|ニ                    ,.、-''"..;:;:;:;:;:;:;:... `'ヽ、
  (   ( ̄   ̄)               /....:::;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;.....ヽ、/ ̄ ̄ ̄ ̄\/
    ̄    ̄                  i_;;、:_;、;_;、;、;、、ィッ.;:;:;:;:;: /  興  男     君
.       ,、r‐''''''''''''''''ー. 、.           |      ,,,,,,  / ;:;:;:;:;:;: |   味   の      :
      ,r'         `' 、.        ,! '''''        \ ;;;;;;;;;_|   が   は      :
     /             ヽ       |ヒニニュ ャニ,ニニ、> 〉;; / _|   あ  だ
.    / ,             ヽ       `!゙l)_j   ' iリ__, `  }ii l f'ト〉   る  か
   ,,'  ;    ,、、,_  ニニ  ,、」、      |   l   ` " '''   }ii リノ |   の   に  |\__
   l.  :;;;i    ´ .._`ー   ‐''".....|.      .l! .{   、     ィ!ii;}' ノ|   か       |
   l:,;'"`'、,    . ,;ィェ、..   ,rェ;〈        {! ゙ー<⌒'     ,ミi;i;}ー'゙ |   ね       |
.   ';i l :::i;;,,  l "......::'''ン  .., .:::'''"゙,       }i、  -===-'  リiii;ツ   |   ?       |
    l;゙、',.::l;;;i lj     r   ヽ.   l,      _ノ}lli,  -r=‐  ,i;llilili|   > _____/`ヽ、
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126人間七七四年:2013/03/31(日) 17:15:08.32 ID:Qg0ePFcf
>>118
ジャガイモなら、ビタミンc豊富で、保存が利いて、熱に強いビタミンcだから火を通しても大丈夫
それを経験則的に知ってた人もいたかも
127人間七七四年:2013/03/31(日) 17:44:33.83 ID:OOy8AWo+
>>120
ほげっ!確認不足でした、すいません
多分こっちは未だ出ていないはず…


朝鮮の役の時のこと
釜山の城の普請が完成したことにより、日本軍の諸将はそこに集まった。

ここに毛利家の船大将である野島、来島、粟屋とといった人々も合ったが、折節雨が強く降っており、
徒然に野島と来島は碁を囲み、粟屋を始めとして両島の一族これを見物した。

この時、来島の与力が碁の手を助言した所、野島は激怒した

「大事の所で何を助言しているのか!碁というものは見落としを利するものではないか!」

しかし木島の側はこれに反論した。
すると野島、「助言面を張るべきという、よって御辺の面を張り叩く!」

この言葉に来島

「どうして助言したからといって、侍が面を張られて、おめおめと引き下がれようか!」

「要らぬ説明を尽くすよりも、この方が遠慮するようになるだろう!」

すると来島、侮辱するように
「御辺が張った後が腫れて、殊の外痛むぞ!」と言い出した。

これに野島、即座に刀を引きぬいて頭に向かって斬りつける。
来島も抜き合わせ「やるまじ!」と戦う所に、野島の与力斬って懸り、来島の与力も
そこに打ち掛かる。双方入り乱れ散々な斬り合いとなった。

こうして両派に分かれてひしめき大きな騒ぎとなった所、報告を受けた小早川隆景は激しく怒り

「何と言う憎き奴原か!この上もないような狼藉を起こし、何と言う曲事であろう!
人数を寄せて両方共、一人残らず召し捕れ!」

そう命じて一気に押し寄せ捕らえられた。
そして日本に撤退したあと、一同処罰を受けたとのことである。
(義殘後覺)
128人間七七四年:2013/03/31(日) 18:37:39.17 ID:wVBB2kIV
二人共あんまりヘタなんで、ポロッと言葉が出ちゃったんじゃないの
129人間七七四年:2013/03/31(日) 19:35:17.06 ID:LAnzFyTM
>>126
ジャガイモはも温度と湿気があると芽がでちゃうよ。
現代のように放射線で発芽を抑制できる時代じゃないしね。
130人間七七四年:2013/03/31(日) 19:37:59.60 ID:k9nQRdTb
度々出てるが武人が第三者の居る場で碁を打つとトラブルの元だな
こういうのをロクでもないと言うのだ
131人間七七四年:2013/03/31(日) 20:06:58.90 ID:EXaq8GOI
ジャガイモは風通しのいい乾燥した冷暗所か土中でなければ長期保存は難しかったと思うんだ
長期航海用の保存食に使われてたかどうかは知らないんだけど
132人間七七四年:2013/03/31(日) 20:29:04.27 ID:1ydcPRfh
>>127
やっぱ戦国武将って、今のヤクザやヤンキーと同じ連中だよなw
そんな時代に生まれなくて良かったわw
133人間七七四年:2013/03/31(日) 20:58:20.74 ID:cA7YOo5g
それをいうなら平安貴族もそんな感じでして、アレな現実から妄想に走った紫式部が
ラノベを書いて大ヒットという
134人間七七四年:2013/03/31(日) 21:26:31.80 ID:qAgTjjAv
現代ではなくオマエが平和だからそう感じるのだ
135人間七七四年:2013/03/31(日) 22:41:13.64 ID:WegoqeNc
三好長治様は、夜昼の境もなく酒盛りをされ、真面目な性根など少しもなかった。
また、御家を差配していた篠原玄蕃殿は、篠原自遁の子息であったが、これも大酒飲みで
夜昼酒盛りをされ、公事沙汰の取り扱いをまともに行える人がおらず、理を非にして
多くの人の恨みを作っていた。

天正4年12月1日の事である。別宮のある者、村で小舟に乗って居た所、三好長治様が
この辺りで鷹狩をなされていて、この者に対岸に渡るため船を渡せ、と仰った。

この時、この者は「船が汚れております」と申し上げると、長治様はこれを曲事だとお考えになり、
彼を成敗した、という。
(三好記)

三好長治への強い批判の満ちた記録である。
136人間七七四年:2013/03/31(日) 23:14:25.51 ID:EXaq8GOI
長治様は批判されているところしか見た事が無い
味方からすら批判されるおぼっちゃま
137人間七七四年:2013/03/31(日) 23:37:01.15 ID:mv/z8Zn1
あの親からよくもまあ、という感じだな。
篠原長房や三人衆の力が強くて、自分の思い通りに家が動かなくてふてくされたのかね?
それとも単に生まれながらの質なんだろうか
138人間七七四年:2013/04/01(月) 00:05:32.34 ID:EtSM2KT6
自分のママンが淫売婦だったらグレるだろ
139人間七七四年:2013/04/01(月) 00:47:06.98 ID:H78FbwLS
三好長治の最期

対織田戦線を主導していた篠原長房父子を滅ぼした三好長治だったが、
篠原父子討伐にかつて長治の父・実休が滅ぼした阿波守護・細川持隆の子
真之を担ぎ出したため、、阿波守護細川氏の軍事動員権復活を許してしまう
事態となった。さらに篠原父子を討ってまでして模索した織田信長との
和睦工作(※)も不調に終わってしまうなど散々な結果になってしまった。

※長房討伐の少し前には、十河存保が織田信長と接触を図っている。
  長治も信長に和睦を請うているが、結局拒絶されてしまっている。

やがて細川真之に攻められた長治は今切城へ逃れ、そこで土佐泊城を拠点とする
阿波水軍の将・森志摩守に救援を要請し、両者は助任川で合流することとなった。
森志摩守は早速船を出したものの、土佐泊から海を廻って河道に入り助任川へ入る
ルートは河道が複雑で潮流の見極めが難しかったらしく、志摩守の出した船は誤って
助任川よりも南の佐古山の麓に進入してしまい、結局長治の待つ助任川へたどり
着くことが出来ず、結局両者は合流しそこねてしまった。

やむなく長治は別宮浦へ向かったが、別宮浦一帯は土佐泊や撫養に比べて、三好
氏の支配が深く及んでおらず、結局長治はこの別宮の里長に密告されてしまい、
自害に追い込まれることになってしまったのだった。

水軍が道を誤ったために長治の予定が狂い、結局追い詰められて自害する羽目になった
というちょっと悪いお話。ちなみに、森志摩守は水軍の長という特殊なポジションから、
蜂須賀氏の阿波入国後も旧三好氏系の豪族ではほぼ唯一、その地位を保ち、蜂須賀水軍の
将として幕末まで阿波藩の上士として存続している。
140人間七七四年:2013/04/01(月) 02:21:08.23 ID:mvZbEfP1
吉野川の河口部はいまでも迷路みたいだな
141人間七七四年:2013/04/01(月) 06:57:32.95 ID:Km/1NTLe
うわーまよっちゃったわーこれじゃえんぐんまにあわないわーこまったわー(棒
142人間七七四年:2013/04/02(火) 23:26:43.52 ID:ROo9z7Xi
太閤秀吉が、その母大政所の追善のため、千僧供養し、大法会を執り行った。
この時諸宗より贈経を奉ったのであるが、日蓮宗より贈経を奉るその上書に、『法花経』と書いて提出した。
ところが、五山よりこれは受け取れぬと返された

「法花宗とは天台宗を指す言葉である。あなた方は比叡山とは別の宗派であり、法花宗とは言えない。
であるので、この上書を書きなおして頂きたい。もしどう書いていいか解らないのなら、『当宗』と書いていただければいい。」

こう申し渡され、言われた通りに書きなおし、贈経を治めた。
このことから、人々は日蓮宗の者を「当宗」と呼ぶようになったとのことである。
(義殘後覺)

法花の言葉一つにもいろいろ面倒なことがあったらしい、というお話。
143人間七七四年:2013/04/03(水) 15:38:49.79 ID:vI2wcPwD
播磨の赤松殿の事を、蓬庵様(蜂須賀家政)が安太夫にお尋ねになり、私が参って物語をした。

その内容は、性因様(赤松義村)はその身長が3尺(約1メートル)ほどだったが、
ご器量のある方で備前播磨美作3ヶ国の国主の座を守っておられた。

ところが備前の浦上(村宗)と、性雲様(義村の養父・赤松政則)の北の方(洞松院)が
仲良くなられ、義村様に毒を盛り、相果てられた。

これにより浦上は、その御後に赤松晴政様が立てられた。この時晴政様はご幼少であったので、
その経緯を全くご存じなかった。
晴政様が16歳になられた時、小姓衆が密かに囁き申し上げたため、初めて自分が擁立された経緯を
知ったのである。

晴政様は阿波の御屋形様(細川持隆か)の婿であったため、阿波との間に浦上を殺す密謀を
交わした。

そのうちに、阿波と播磨の間に合戦が起き、播磨衆は摂津国天王寺に陣取り、阿波衆は堺に陣取った。
(享禄4年(1531年)大物崩れの戦い)
この時、晴政様は兵庫の高山で寝返りの合図の狼煙を上げられ、この寝返りにより
天王寺の播磨衆は崩れ、大物と西宮の横河にて水に溺れ、1万人が死んだ。

このように安太夫に申し上げた。

この合戦について阿波では、『溺れ死んだ戦死者は皆蟹になった、その蟹の甲羅は
人の顔のようであった』と言われた。
これは歌念仏に作られ、その念仏の名は「しまむら念仏」と呼ばれた。

このことを覚えていた人が慶長の年号の頃まで存命であり、語られていたのである。
(三好記)

三好記より、大物崩れについての証言である
144人間七七四年:2013/04/03(水) 17:14:46.53 ID:ziJWCEde
平家以外にもカニになった人たちがいたのか。
145人間七七四年:2013/04/03(水) 17:21:43.04 ID:wE8I+kH0
>>143
   (~)
 γ´⌒`ヽ
  {i:i:i:i:i:i:i:i:}
 ( ´・ω・)  観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄
  (:::::::::::::)  舎利子 色不異空、空不異色、色即是空、空即是色
   し─J
146人間七七四年:2013/04/03(水) 18:13:20.26 ID:/eUye+tw
>>143
蟹になったのが、宇喜多能家を夜討した島村豊後守の父と言われてるんですね。
147人間七七四年:2013/04/03(水) 21:54:30.76 ID:47EmYUcI
蟹食い放題だな。
てか、西宮の川ってどこだろう?
武庫川かな?
148人間七七四年:2013/04/04(木) 00:16:11.30 ID:In+/la0l
浦上は赤松の家老であったがやがて備前国の主となり、天正2年までその地位を堅固に
守っていたが、家老に直家(宇喜多直家)と申す人が有り、この直家の一門隆盛して
浦上を追い出し、備前一国を進退した。

彼は主君の妻女も捕らえ自分の妻にせんと企んだが、彼女が常に端刀を離さず覚悟を決めて
おられたので、終に諦め播磨の親のもとに送ったと聞いている。
これは天正2,3年頃のことであった。

直家は天正の年号に相果てた。その子息の中納言(秀家)は、慶長5年(関ヶ原)の事で
八丈島に流された。これは全く、父親の悪行の報いである。
(三好記)
149人間七七四年:2013/04/04(木) 00:29:11.27 ID:62GD+v6o
暗殺しまくったことには触れてない…

主君に対しての反逆は悪行だけど、親戚や同僚も含めて殺しまくったことは
悪じゃないのかね?
150人間七七四年:2013/04/04(木) 08:24:31.24 ID:5Tg4IDsV
その親戚や同僚が悪事を働こうとしていたのです(棒
151人間七七四年:2013/04/04(木) 08:39:37.78 ID:8qz0nNUC
暗殺だなんて人聞きの悪い。少し早めに身を守っただけだよ(棒
152人間七七四年:2013/04/04(木) 11:04:16.14 ID:Sqhyb1II
親の報いと言う割には栄達重ねてるのはどうなのか
153人間七七四年:2013/04/04(木) 11:17:29.84 ID:nqUW/6K2
流れる血は1000人より1人がいい

人を愛する武将うっきーくんカコイイ(棒
154人間七七四年:2013/04/04(木) 12:37:25.40 ID:5fI42eIS
>>143
>性因様(赤松義村)はその身長が3尺(約1メートル)ほどだったが、
まだ子供という意味かと思ったら推定没年30歳前後だった
ちっちゃいおっさんで有名な山県昌景より更に一尺短いって最早妖精かなんかじゃないのかw
155人間七七四年:2013/04/04(木) 16:02:25.95 ID:G+nl4ji6
永禄4年(1561)の第4次川中島合戦の後半において、上杉謙信は武田信玄の嫡男・義信の軍を
攻撃したが迎撃され、逆に広瀬という場所まで追い討ちされた。

この時の武田義信の働きは比類ない物であったが、これを甲陽軍鑑の作者は知らなかったのか、
記載していない。

謙信は

「若武者の義信に遭って不覚を取ったのは、一代の落ち度であった。これは我が油断のためである。」

と、後々まで無念に思い悔しがった。

ところが、本庄繁長と長尾藤景がこれを可笑しく思い、若気でもあったので、謙信のこの合戦の模様を
批判した。

このため本城も長尾も謙信の気に背き、謙信は本庄に、長尾藤景を討つようにと下知した。
本庄繁長は長尾藤景を謀って招き、これを討ち取った。
しかし、それでも謙信は本庄繁長を憎んだ。このために後年(永禄11年)、本庄繁長は謙信に
反旗を翻し籠城を行うのである。
(北越太平記)
156人間七七四年:2013/04/04(木) 17:28:37.38 ID:bc5BS2dc
>>154
三尺入道、赤松義則も満祐もちっちゃかったし
赤松一族はコロポックルの親戚と考えるのが妥当
157人間七七四年:2013/04/04(木) 17:56:30.79 ID:SY64RZc2
158人間七七四年:2013/04/04(木) 20:19:08.86 ID:8Z8oboyT
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4590.html
そんな三尺(息子)さんも町人にかかれば三百人力
159人間七七四年:2013/04/04(木) 20:48:08.31 ID:qE7AQxtc
>>154,156
普通に考えたら小人症だろ。
160人間七七四年:2013/04/04(木) 20:52:08.40 ID:xtNCV/Sh
毒を盛るにも内応者がいないと出来ないし、
「こんな大将じゃなあ」という雰囲気があったのかもね
161人間七七四年:2013/04/05(金) 00:35:23.55 ID:ImF6WZ28
南光坊大僧正・天海の仰ったことに、

「この頃『甲陽軍鑑』という書物が出版され、それを読んだ所、川中島合戦での信玄謙信の
太刀打ちの年月、日時、場所、これが大いに相違している。
その上信玄が軍扇にて謙信の刀を受けたとあったが、これは全くの虚説である。

その当時、私は会津の不動院にあった。武田信玄はこの不動院の大檀那でもあり、私は
信玄のための祈祷をしていた。

天文23年(1554)8月、私は甲州の旦那廻りに行った所、信玄は川中島で謙信と対陣していると聞き、
直ぐに川中島まで軍陣見舞いに赴いた。則ち8月17日であった。
信玄は私に直ぐに対面して頂き、

『遠方まで見舞いに駆けつけてくれて、たいへん喜んでいる。しかしここ一両日のうちに
輝虎(謙信)と合戦になるであろう。貴僧は早々に帰られ、来春甲州において、緩々と語り合おう。』
そう仰られたため、私は帰ったのであるが、途中、

『寺の大檀那が近日大事の合戦を取り結ぶと言うのに、いかに私が出家だといっても聞き捨てにして
帰るのは道理にかなわない!』

そう思い直し、夜通し歩いて川中島まで戻った。途中、下米宮(あめのみや)に一泊し、翌18日、
合戦の模様を山の上から見た。

御弊川の中に両軍乗り込み、輝虎も太刀、信玄も太刀にて暫く戦っていたが、やがて敵味方押し別れて
合戦は終わった。
その夜、信玄の陣屋を訪ねて行くと、信玄は驚き、

『御坊は帰ったと思っていたのに、奇特にも立ち帰ってこられたのか!』

そう言って殊の外褒められた。その時信玄は負傷していて、床机に寄りかかっておられた。
私は信玄に

『源平合戦の時代より、大将と大将の太刀打ちなど、古今聞いたこともありません!
さてさて、なんというお手柄でしょうか!」

と申し上げた所、信玄は急に顔色を変え機嫌悪く仰った

『謙信と太刀打ちしたのは私ではない、鎧兜を同じにさせた影武者である!
知らぬ者はこの信玄本人だと思うであろうが、私ではないのだ。

よいか、奥州の伊達や会津、佐竹などの所で、信玄と謙信が太刀打ちしたなどと、
絶対に語ってはならぬぞ!』

信玄は殊の外の機嫌の悪さであったが、しかし私は山の上からはっきりと見たのだ。あれを
見間違えることはない。信玄と謙信の、直の太刀打ちであったのだ。
甲陽軍鑑は嘘を書いている!」

このように言われた。
その後、江戸城において横田甚右衛門の話に、
「謙信は太刀にて斬りかかった所に、信玄は床机に座り、軍扇にてこれを受けた」
と語った所、天海僧正は大いに甚右衛門を叱りつけられた

「甚右衛門は未だ生まれてもいなかった時のことを、どうして存じているのか!?私は直接に見た!
御幣川に乗り込み、馬上にて信玄謙信共に太刀打ちをしたのだ!その時私は45歳で、はっきりと見た!
川中にて馬上での太刀打ちである!」

伝え聞く所によると、天海僧正は足利公方義澄公の末子であり、母は会津の蘆名盛高の娘。
永正7年(1510)の生まれで、義澄公が逝去されると、母とともに会津へと下向され、そこで姓を
平氏に変えられたと言う。寛永19年(1642)に亡くなられた。この時134歳(原文ママ)であったという。
(北越太平記)
162人間七七四年:2013/04/05(金) 00:37:48.22 ID:1sWt4juu
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6673.html
同じ話は前にも出てるけど出典は違うのか
163人間七七四年:2013/04/05(金) 00:42:38.17 ID:1sWt4juu
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4861.html
ついでに前に出てた天海僧正が義澄公と蘆名盛高の娘との間の子供説のほかの逸話
164人間七七四年:2013/04/05(金) 03:02:56.45 ID:ImF6WZ28
あらら、ではもう一つ甲陽軍鑑ネタを


これは酒井修理大夫の家来であり、林春斎(林羅山の三子)の門弟であった、千賀源右衛門が
私(著者)ぶ直に語ったことである。

江戸において、学士である林春斎がある日、酒井匠佐の邸宅を訪れて物語した

「現在、本朝通鑑(江戸幕府により編集された漢文編年体の歴史書。寛文10年(1670)成立。全310巻)の編纂をしているのですが、
まもなく完成しそうです。

それについての事ですが、信州川中島において武田信玄と上杉謙信との合戦のことについて、上杉家に問い合わせ、そして
上杉家から記録を提出して頂きました。これは紙で40枚ほどのものでしたが、内容を読むと、そこに書かれているものと
甲陽軍鑑に書かれていたものとが、年号や月日から、合戦の内容についてまで大きく違っていたのです。

そこで、どのようにこれを記載すべきか上に問い合わせた所、上では色々相談されましたが、御旗本の歴々にも
武田信玄筋目の衆があり、彼らはこのように発言されたそうです。

『上杉家の提出した史料の通りに、本朝通鑑に記載してしまえば、現在日本中に流布されている甲陽軍鑑の内容が、
皆偽りということになってしまう。さらにそれのみではなく、(甲陽軍鑑をテキストにしている)甲州流の軍法にまで
瑕を付けることになるだろう。

かの甲陽軍鑑を編纂した者は、これが近年の偽作であったとしても、高坂弾正であるとされている。
こういったことまで虚言であるかのように成ってしまえば、我等が年久しく習い学んだ甲州流の軍法も、徒言に成ってしまう。

であるから、甲陽軍鑑が廃れ無いよう考慮して頂きたい。』

この事は上聞にまで達し、これによって、本朝通鑑には甲陽軍鑑の記述と上杉家の文書の記述を併記することになったのです。」
(北越太平記)

何時の時代も歴史書の編纂はいろいろ面倒なことが多かった、というお話。
165人間七七四年:2013/04/05(金) 08:47:48.12 ID:PgVurYge
一騎討ちして負傷したなんてwww恥ずかしくて喧伝できんわな
そんなの広まったら毎回本陣突っ込まれる羽目になるぜ
166人間七七四年:2013/04/05(金) 10:11:45.73 ID:Y34eVvqp
普通本陣に突っ込まれてる時点で負けだしなw
167人間七七四年:2013/04/05(金) 22:53:06.20 ID:fEOQ94as
>>164
さすがに甲陽軍鑑は嘘ばっかだってことは自覚していてるのか
168人間七七四年:2013/04/05(金) 23:33:46.98 ID:ETpsvNb6
>>164
これを書いたのが宇佐美定祐らしいってのがまた・・・・。
この人のおかげで、上杉関係の話はあること無いこといい加減な
話が世の中に出回ることになってしまったわけだし
169人間七七四年:2013/04/05(金) 23:36:37.70 ID:jbbDzpKO
甲州軍学と越後流軍学ならまだ甲州軍学のほうが信ぴょう性あるような
1701/2:2013/04/06(土) 04:02:05.63 ID:+LeHdO+v
伝え聞く所によると天正12年(1584)、上杉景勝より、上条(畠山)義春に、信州貝津、ならびに川中島領が
与えられた。その拝領の席でのこと。直江山城守兼続は景勝の前に座し景勝を脇に置き、自身に対して
諸侯が頭を上げられないようにしていた。

義春はこの事を奇怪に思い、貝津から何度か景勝に書状を出した。その趣は

『大名家においてただ一人の出頭人というのは御為に成りません。この事が陰でどのように言われているか、
よくよくお聞きになるべきです。』

景勝はこの書状を直江に見せ、
「これはどういう意味だろう?上条はこの様に申しよこしてきている」

直江は、これは自分の事を言っているのだと直ぐに悟ったが、表に出さず、さにあらぬ体で
「上条殿がどういう意図でそのようなことを言われているのか、よく解りません。」
と答えたが、内心、義春を自分の障害になると思い、景勝に讒言を行った

「上条殿は真田安房守昌幸と内通し、殿に対し逆心が有ると噂されています。」
景勝は、そのようなことが有るはずがない、と否定したが、それでも直江は
「とにかく、上条殿をこの春日山に引き取り置くべきです。何故ならば芋川、栗田、島津、岩井といった
信州衆の面々は、上条殿に大変に懐いており、これを放置すれば後々難しいことになると考えるからです。」

この様に何度も讒言を行ったため、景勝も、そうかという心が生じ、終に義春を越後に召喚する
使いを出した。
1712/2:2013/04/06(土) 04:02:38.75 ID:+LeHdO+v
信州衆はこれを知ると大いに驚き
「これは只事では有りません。絶対に行くべきでは有りません!
申し訳を行うのであれば、ここから行なっても良いでは有りませんか!
春日山に行って良い事は、絶対に有りません!」こう、再三に渡り意見した

しかし義春
「私は幼少より謙信に取り立てられた人間であり、その恩を報じ無くてはならない。
春日山で切腹することに成っても構わない。その上、私には心底から、謀反の心など欠片も無い。
であれば申し訳も必ず立つはずである。」

そう言って貝津を出立したが、信州衆は彼を城橋まで追いかけ
「どうしても春日山に行くべきでは有りません!こうなれば真田と一味して御謀叛なさるべきです。
先陣は我々が承ります!」と、なおも説得した。それでも義春は

「私の妻女、そして子の弥五郎、源四郎、弥三郎は皆春日山に居住しているのだ。そうである以上
そのようなことは出来ない。」

そう断り、終に春日山城に参上した。

すると景勝は即座に義春を捕縛し。領地は全て没収、信州衆との連絡も立たれ、彼の家臣も
妻子ある者は皆地元の上条へ戻り、義春の周りには5,6人だけが従っている、という有様となった。
そして今日明日にも切腹、という状況に追い込まれた。

ところが、義春の番をしていた者が密かに申し上げた
「このように成ってしまえば、もはや御滅亡は疑いありません。他の者が番をしている間は
ここから脱出することはできません。ですから、私が番を担当している時に、どうか脱出を
してください!」

義春は合点し、直ぐ様能登に人を遣わして迎え船を府中湊まで呼び寄せ、天正16年(1588)7月3日、
春日山より密かに脱出し上方に上り、そして大阪の秀吉に申し上げた

「このような理由で、私はこちらに上がりました。私に立身の望みは有りません。
どうか、理非を吟味され、私に理がないと判断されるなら、即座に切腹いたします。
しかし、私に理があると判断なされれば、景勝に御扱いを仰せ下され、私が本国に
帰国できるようにしてください!本国には妻子も残っており、大変不憫に感じております。」

秀吉もこれを至極尤もだと思い、先ず飢えにようにせよと玄米千石を御扶持米として下され、
そして石田三成に
「義春と景勝を仲直りさせるようにせよ。直江山城さえ了解すればいい。景勝は直江次第である。」
と命じたが、三成は直江と親しい関係であったため、知らぬふりをし、ついにそれは13年間
捨て置かれたのである。
(北越太平記)

畠山義春出奔についての逸話である
172人間七七四年:2013/04/06(土) 04:58:55.25 ID:+NZFBHtb
三成が隠したってこんなもめごとあったら、秀吉も景勝が来た時に「あの件どうなった」って聞くだろ
173人間七七四年:2013/04/06(土) 07:58:34.57 ID:5kQRsSwa
>>169
一応甲州の方からは北条氏長と山鹿素行が出てるからな
174人間七七四年:2013/04/06(土) 07:59:57.77 ID:dAD9VSpO
で13年後はどーなったの?
175人間七七四年:2013/04/06(土) 08:36:30.02 ID:kvKiWyEE
えっと・・・景勝は馬鹿なの?
176人間七七四年:2013/04/06(土) 09:04:10.21 ID:LNSY4flI
直江と三成は君則の奸のテンプレみたい

しかし景勝はラスボスと違って操縦簡単そうだなwww
177人間七七四年:2013/04/06(土) 10:05:46.15 ID:s/lZUpkv
「と、殿が申しております。(キリッ!」だな。
178人間七七四年:2013/04/06(土) 10:08:19.40 ID:pkLLlO7J
179人間七七四年:2013/04/06(土) 11:18:07.89 ID:63eEMAob
義春さん関ヶ原では東軍だったらしいな
仕返しはなった訳だ
180人間七七四年:2013/04/06(土) 11:25:49.63 ID:oWibhH2D
笑わない
全部直江任せ

自閉症?
181人間七七四年:2013/04/06(土) 11:39:00.09 ID:5kQRsSwa
本当に謙信死後の上杉って陰険だよなぁ・・・
182人間七七四年:2013/04/06(土) 12:19:10.20 ID:jcT9av3r
また宇佐美定祐か。この人の上杉関係の著作って
紀州藩や畠山義真とのラインで、いい加減な話どころか
(出自すら)嘘っぱちだらけだからなあ。
正直『甲陽軍鑑』あたりと比較するのも失礼なレベルで俗悪だと
思うんだけど。

いかに逸話スレとはいえ、ここらへんをソースに言いたい放題とか
悪い冗談としか思えん。
183人間七七四年:2013/04/06(土) 12:29:50.95 ID:asPC0UJM
上杉sageのための工作書か・・・あの当時の2ちゃんみたいなものだな
184人間七七四年:2013/04/06(土) 13:04:51.35 ID:bSrbgxM0
>>182
要するに上杉と武田の資料は全く信用が置けないってことか
185人間七七四年:2013/04/06(土) 13:09:42.64 ID:kGEvB6jb
直江を主人公で大河とか今更ながら基地外じみてる
186人間七七四年:2013/04/06(土) 13:36:11.19 ID:Ne4U7bUU
>>184
だから一次資料が重要なんだよ
187人間七七四年:2013/04/06(土) 14:15:32.14 ID:jcT9av3r
>>183
上杉sageというか、越後流軍学を推したい紀州藩の思惑と、それに
乗っかって自家の経歴を詐称して仕官にありついた宇佐美定祐の「捏造」だな。
さらに畠山義真も一枚噛んでいるようだし、しかも畠山は米沢藩の「軍法役」に
「軍法」を伝授したりもしているとのこと。
しかも、それが米沢藩の修史事業にも大きな影響を与えてしまっているため、
なかなか厄介なことになっている。
長尾政景の横死なんておかげでなにがなんだか、さっぱり判らないことになって
しまっている。
このラインゆえか、宇佐美定祐の著作は畠山義春を持ち上げて
直江兼続をくさし、そして直江の専横にまったく口出ししない景勝、
という傾向が強いと思う

>>184
すくなくとも宇佐美定祐関連は眉唾かなあ。
『甲陽軍鑑』に限らず二次史料は注意は必要だけど、有用な史料には
なると思うけどね。考古学的な成果によって二次史料や言い伝えの内容が
証明されたケースもあるわけだし
188人間七七四年:2013/04/06(土) 14:24:56.22 ID:hS+6+fdG
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3542.html
この逸話で理路整然と畠山義春が甲陽軍鑑の間違いを指摘しているけど
もしかしてこれも宇佐美関係?
189人間七七四年:2013/04/06(土) 15:27:17.42 ID:Ne4U7bUU
家譜や軍記は君主や自分の先祖を持ち上げるための誇張は付き物だけど
宇佐美定祐だけはそこに悪意まで入るからどうしようもない
190人間七七四年:2013/04/06(土) 16:40:42.05 ID:7UGOs80f
>>188
その可能性は高い。
畠山義春が『甲陽軍鑑』の間違いを指摘したというエピソードの出典は
国枝清軒編纂の『武辺咄聞書』なんだけど、この国枝は『東国太平記』の
編者でもある。そして、紀州藩の儒学者・榊原篁州がこんな証言をしている。

「北越太平記、東国太平記は紀州の宇佐美竹隠がつくり、その名を隠した
ものである」

つまり、国枝清軒という人物の正体は・・・・。


まあ義春本人は宇佐美勝興の経歴詐称を見破った人物なんだけど、義春の
子・義真は後年「それは間違いでした」と撤回してるんだよね。
最近出た『神になった戦国大名』という本では、畠山家の伝えていた「謙信の
軍法」を越後流軍学を作り上げるのに寄与してもらった見返りに、国枝清軒と
して、義春の逸話を書いたんじゃないか、と指摘していたな。
191人間七七四年:2013/04/06(土) 21:19:32.57 ID:0LbL04cn
>>172
まあそういうツッコミ所もあるから逸話ってのは話半分に受け止めときゃいいのよ
192人間七七四年:2013/04/07(日) 00:39:29.86 ID:s1NJjeq0
>>179
いい話になったな
193人間七七四年:2013/04/07(日) 15:46:13.00 ID:PtH2bR3D
中国の大内殿は、阿波の徳雲院(細川持隆)殿の舅の御家であったが、この御家が滅んだ様には、
こんな事が有った。それは天文20年(1551)の事である。

大内(義隆)殿が御茶数寄をなさろうと、堺の町のせうおう(武野紹鴎か)と申す侘び数寄の者を呼び下し、
四畳半の数寄屋を建てて、茶の湯を行った所、御内の家老に須江(陶隆房)殿と申す人があり、この人が

「大内家は16ヶ国の守護であるのに、四畳半ばかりの場所で茶の湯をするなど、沙汰の限りである!」

そう申して、陶殿は自分の茶の湯のやり方を紹鴎に見せた。
彼は大きな広間にかんす(茶釜)を数多据え、茶臼を数多取り並べ、大勢の小姓に茶を轢かせて
点てさせ、運ばせて紹鴎に飲ませ、

「陶が数寄はこの如くである!」

と言い放った。これに紹鴎は面目を失い、大内殿に暇乞いすらせず堺へと帰った。
このことは大きな遺恨と成り、大内殿は陶に対して悪心を起こし、また陶の方もそれを感じて、大内殿に対して悪心を持った。
そして両者の悪心は重なっていき、終に陶は大内殿を切腹させ、16ヶ国を陶が進退したのである。

ところが森(毛利)殿は陶に従わず、このため陶が毛利殿の城を取り囲んだ所、伊予の野島、来島といった者達が
毛利殿の味方をし陶殿の兵糧船を遮断したため、兵糧が欠乏し、陶軍が撤退を始めた所を毛利は討って出て
陶殿を討ち果たした。

これ以後毛利殿が中国西国13ヶ国を、太閤様の御代頃まで持ち伝えられた。
(三好記)

三好記より、大内義隆の滅亡についての逸話である
194人間七七四年:2013/04/07(日) 16:55:51.90 ID:lWQzATh/
毛利が13ヶ国・・・だと
195人間七七四年:2013/04/07(日) 17:25:42.09 ID:QgSSx+3i
大内16ヶ国って確実に大友と尼子の領地も入れてるだろ
196人間七七四年:2013/04/07(日) 18:28:00.18 ID:WEgCBbGA
陶が居なきゃ、元々大内は持たなかったんじゃないの
197人間七七四年:2013/04/07(日) 19:01:24.04 ID:6e0cDLXg
最後の当主<筒だっけ
198人間七七四年:2013/04/07(日) 21:37:29.78 ID:CrUnkdXS
>>196
んなこともねえだよ。内藤とか実績のある重臣は他にもいる。
毛利は陶とやる時にそいつらを切り崩すのに全力を突っ込んでる。
199人間七七四年:2013/04/07(日) 23:13:19.35 ID:jTQp3WsN
てか、元就は隆房につく気満々じゃなかったっけか
200人間七七四年:2013/04/08(月) 00:24:39.86 ID:mnZw7MK7
毛利側資料によれば、陶から義隆を諌めるために隠居させ、嫡子に跡を継がせるから協力して欲しい、という要請があって応じたけど、蓋を開けてみたら主殺しだったので引いた、ってことになってる。
かけらも信憑性無いけどな
201人間七七四年:2013/04/08(月) 06:39:43.13 ID:kIdZmlHW
長宗我部元親の家臣である久武内蔵助は、伊予国宇和郡の岡本城そ攻略する計略を立て、
この合戦には、侍大将の竹ノ内虎之助、およびその娘婿である弥藤次も一騎当千の侍20人、
小者20人と共に参戦した。

この戦いは不意打ちにより本丸の奪取に成功したものの、竹内虎之助・弥藤次父子は重症を負い、
さらに長宗我部軍は西の丸を確保できず反撃を受け、結果本丸も追い出され攻略に失敗。
久武内蔵助をはじめ佐竹太郎兵衛、山内外記といった3人も討ち取られ、大勢の兵も討たれる大敗を喫した。

敗戦の5日後、土佐の竹内の在所では、『岡本城では、竹内虎之助・弥藤次父子も含め
一人残らず討ち死にをした。』との風聞が流れた。

この時、弥藤次の妻は13歳であったが、「父も夫も討死したのであれば、同前に果てる」と
書き置きし、守り刀にて喉笛を掻っ切って死んだ。

そんな中、虎之助と弥藤次は伊予で傷を直し帰還した。そして妻の自害を知った弥藤次は、
嘆きのあまり切腹しようとした。

しかし虎之助は弥藤次を止めて、言った
「お前は私の甥であり、聟である!そして私にはお前の他にもはや、苗字の一類はおらぬのだ!
お前が死んだからといって、私の娘が帰ってくるわけではない。娘の後世の助けになるという
わけでもない。

そして、我が家も絶え、君にも不忠となる。

どうか、思いとどまってほしい。」

弥藤次はこの理に服し、切腹を止めた。
そして虎之助は知行を弥藤次に譲り、弥藤次は後に竹内玄蕃と名乗った。

虎之助は隠居料を取って、佐竹という城の番頭を勤めた。
(長元物語)
202人間七七四年:2013/04/08(月) 07:21:10.48 ID:LZJGEpGb
>>199
元就は陶につくと見せかけて他の国人調略のために時間稼ぎしてた
反旗翻してからの行動が非常に鮮やか
203人間七七四年:2013/04/08(月) 20:44:48.26 ID:OoOODWD4
>>201
戦国時代だけじゃないけど、訃報を信じて殉じちゃう例って案外あるよな。
13歳とは何とも哀れだ。
204人間七七四年:2013/04/08(月) 21:08:05.15 ID:Y9Ukvved
フィクションだけどジュリエットを思い出した。
205人間七七四年:2013/04/08(月) 21:53:26.70 ID:qvHDiQxr
>>201
そりゃ殉死連鎖で一族絶えたら洒落にならん
206人間七七四年:2013/04/09(火) 11:05:11.58 ID:W0KcGvTL
>>203
白虎隊とかw
207人間七七四年:2013/04/09(火) 19:23:54.65 ID:bYfOHI31
戦国白虎隊
208人間七七四年:2013/04/09(火) 20:09:20.80 ID:XyZ8bU0F
慶長19年(1614)11月26日、大阪冬の陣において、豊臣方の鴫野要害を幕府方が攻め取った、鴫野の戦いが起こる。
ここで上杉景勝の部隊の安田上総介能元は、豊臣方の攻勢を退け、鑓を入れて突き崩し、ついに大阪城まで追い込むという
殊勲をなした。

所が安田能元は直江兼続と年来関係が悪かったため、将軍秀忠より軍功の確認があった時、兼続の圧力で
安田の名前は記載されなかった。そのため安田の手柄は上聞に達せず、故に感状を下されなかった。

その後、景勝は御前に皆を呼び出し、こう、声をかけた。

「今度の鴫野合戦では、何れも精を出してくれ、満足に思う。しかしながら流石輝虎(謙信)以来、武辺慣れした
各々である。私の方では気遣いすることもなく、危なげもなかった。」

ところがここで、安田能元は、

「皆々は幸運にも、手柄のこと上聞に達し、公方様より御感状を拝領いたしたそうで、誠に目出度いことでありますが、
私は昔から数度の合戦に御奉公申し上げ、その武功は人を越えたことがあっても、人に劣ったことは有りません。

その上で、今回程事を、私の武功として記載される事は有りませんでした。これは今に始まったことではなく、
まるで珍しいことでは有りません。

この事について言っておくと、私に限ったことでは有りませんが、我々は御屋形様(景勝)への御奉公として、身命を投げうって
手柄を稼います。これは公方様への御奉公では有りません。ですから、公方様からの御感状など、少しも欲しいとは
思っていません。今までもお屋形様への御奉公に、命を捨ててきたのです。御屋形様の、公方様への御奉公に問題ながければ、
御感状を頂いても、特に嬉しいとは思いません。」

そう、申し上げた。

直江兼続が奸佞であったために、このような事になったのだと、人々は言っていたそうである。
(北越太平記)
209人間七七四年:2013/04/09(火) 22:06:18.34 ID:X6xJDosV
直江は周りからほんと評判わるいな
210人間七七四年:2013/04/09(火) 22:24:50.46 ID:a///h2q9
これが愛の人とか義の人とか言われるようになるなんてなあ…
211人間七七四年:2013/04/09(火) 22:30:13.60 ID:QmTezlEp
まぁ立場上同僚からの評判はどうしても悪くなるし、直系子孫もいないしな
実際がどんな人物であれ良くは書かれんさ
212人間七七四年:2013/04/09(火) 22:41:04.27 ID:mVgV5xwJ
関ヶ原の役が進行している中、北では伊達政宗が上杉方の白石城を攻略すると、
中立を決めていた相馬家は動揺し、水谷式部を始めとした重臣たちは相馬義胤に
このように申し上げた

「この戦、最終的には家康公が天下を掌握なされるでしょう。
そうであるのに、我が相馬家は家康公に対してお味方する験を一事も成しておりません。
ここはせめて家康方の伊達政宗に内通だけでもしておかなくては、末々御家の御ために悪しきことかと
考えます。」

しかし義胤はこれを聞くや
「家康公に御味方する験が無いから申し分が立たないというのなら、家を滅ぼしてしまえ!
あの政宗に内通し、その下知を請うなど、考えもできないことだ!
この事、重ねて申し出すことならぬ!」

そう、怒りの色もあらわに言い切った。
憎むべき敵で在り続けた政宗に、膝を屈し情けを請うなど、義胤には耐えられぬことだったのである。

重臣たちは義胤にこのように断言され、再び集まって相談し
「ご嫡男である利胤様は若年でも有り、これが政宗に内通しても、苦しからざることではないか?」
と考え、これを義胤に申し上げると

「彼は若者であるから、その身の振り方はお前たちに任せよう。
私は、例え家康公より仰せ付けられたとしても、政宗の下知には絶対に従わない!
…しかしお前たちは自分自身の考えによって、一族のために成るよう働いてほしい。」

こうして、相馬利胤は伊達政宗と通じ、政宗の指示により福島を攻めた。
この時の政宗からの指示の書類など今も残っているが、相馬家が一旦改易された時、
それらの書類はなんの役にも立たなかったとの事である。
(奧相茶話記)
213人間七七四年:2013/04/09(火) 23:16:29.40 ID:SCYWY/sl
綱憲の相続によって所領がさらに半分になってしまったことに加え、
件の宇佐美-畠山ラインの越後流軍学が成立したのか決定打なのかもな。
すでに直江家が断絶して久しいし、いくら悪く書いても誰も困る人がいない。

ただ、米沢藩にとっては、直江兼続が執政として万事を取り仕切る体制があり、
なおかつ直江家が兼続一代で絶えたために、江戸初期にありがちな家中騒動や
粛清劇のようなものが見られなかったりもする。
214人間七七四年:2013/04/10(水) 00:34:41.24 ID:DuHjuJan
江戸時代の価値観では権現様に逆らった不届き者でもあるな
215人間七七四年:2013/04/10(水) 01:40:45.74 ID:cgWqnRSv
婿に逃げられたおかげで主家が身軽になるとかわけのわからんことやってるが、
結果的に兼続が責任を全部背負う形で上杉が生き残ったような気はしないでもない
216人間七七四年:2013/04/10(水) 07:15:01.91 ID:w0bePnsT
江戸時代の直江は、直江状で大人気じゃないか
217人間七七四年:2013/04/10(水) 07:58:46.28 ID:+g8ljOBv
>>208
景勝がしゃべった・・・だと・・・?
218人間七七四年:2013/04/10(水) 08:39:54.42 ID:+ojIWgMw
>>214
そこら辺は大坂の陣やその前に帳消しになってるかと
219人間七七四年:2013/04/10(水) 10:47:47.84 ID:72m8Mc5D
鍋島は島原まで挽回しようと躍起になってたぜ
220人間七七四年:2013/04/10(水) 11:39:22.38 ID:BPhl7Pl/
>>212
なぜ秀康ではなく政宗なんだろう
221人間七七四年:2013/04/10(水) 12:22:24.26 ID:B/tnBpqF
験がないからだろ、文盲か?
222人間七七四年:2013/04/11(木) 19:40:46.52 ID:j1BlCTDN
慶長20年(1615)3月、江戸の幕府は再びの大阪攻めのため全国の大名に参集するよう命じた。
大阪夏の陣の勃発である。

奥州の相馬利胤もこれに応じ上方へと上ったが、駿府において病にかかり、十死一生というべき
重体に陥った。無論病臥したまま軍勢を動かすことは出来ず、それ故急遽、隠居していた
父・義胤が人数を率いて参陣することとなった。

4月、義胤は隠居所である標葉郡(現・、福島県浜通り)泉田の城を出立し、まず江戸に向かった。
この時義胤が近習や外様の面々に言ったことには

「太閤様以来、天下一統して安静の世になったため、我が身も畳の上で朽ち果てることに成るのかと、
毎晩眠る時に口惜しく思っていたのだが、このように不意の出来事によって、天下の武将の御為に
命をかけて戦うことになった!
これは誠に老いの果報!老後の大幸、一体何事がこれに優るだろうか!?枯れ木に再び
花が咲くというのはこの事である!」

そのように大いに喜ぶこと限りなかった。
義胤は次男の左近及胤、そして3男の越中久胤(この時16才)を伴い進軍した。

義胤はこの年66歳であったが、その頃下々は喜胤の事を
「謡の平家物語を聞かれるにも、常に修羅場を好んで聞かれて、その時は御心も浮き立っているようであった。
この度は真の修羅場であるのだからその浮き立ちもひとしおであろう。」と言い合っていた。
その時分は家中にも戦場を駆け巡った老巧の者達が存命していて、義胤と共に従軍していた。

さて、相馬義胤の軍勢は5月9日、近江草津に到着した。ところがここで衝撃的な情報が

「大阪城は一昨日の7日に落城しました。」

諸勢は既に帰陣を始めており、兵卒たちも口々にこのことを語っていた。

これには義胤を始め老若上下、進み勇んでいただけにガックリと力を落としたが、

「と、とにかく大阪までは参陣しよう!」

そう言って先へと進んだが、その道々で人々に
「なんだこの軍勢は?戦場の掃除に行くのだろうか?それとも城番に行く者達だろうか?」
などと言われ、一行は恥ずかしさのあまり顔を見られぬよう、横向きになって通ったのだという。

この様にどうしようもない状況であったため、醍醐の方に宿陣すると、佐藤丹後を使いに立て、
佐竹義宣に「どうすれば良いだろうか?」と尋ねた。

義宣からは「とにかく人数のうち過半は国元に返して、義胤殿はそのまま醍醐に居てください。
遅参についての詳細は私の方から幕府の老中に伝え、両御所様(家康・秀忠)のお耳に達するよう
取り図っていただきます。」との返事であった。

そうしている内に利胤も病から回復し、上洛したのであるが、彼も醍醐で父と合流した。
こうした所で、大御所様並びに将軍家からも「特に気にしていない(無御別心由)」とのことで、
佐竹義宣が同道して、二条城において相馬家父子4人お目見えがかない、その後親子ともども
帰陣したとのことである。
(奧相茶話記)

相馬義胤大阪遅参、というお話
223人間七七四年:2013/04/11(木) 21:12:55.00 ID:wtIlLzsx
せっかく書き込んでくれて申し訳ないのだが、いい加減「おおさか」は「大坂」とちゃんと表記して欲しい
過去にも何度か同じ事書いてる人いたが、最近また「大阪」が多いぞ
戦国・江戸期の話で「江戸」を「東京」って書いてたら萎えないか?
「江戸城」を「東京城」って書いてたらおかしいだろ?
読みは同じ「おおさか」だけど、「大阪」も「大阪城」も当時日本のどこにも存在しないんだぜ?
224人間七七四年:2013/04/11(木) 21:22:33.69 ID:9zKQX/vh
意識して大坂とは書いてるけど、
ぶっちゃけどっちでもいい
225人間七七四年:2013/04/11(木) 21:25:10.60 ID:1xdXtEFu
おれは平家物語の修羅場だと『信連』が好きかな
長谷部信連が1人で300人迎え撃つ話
信連は長続連たち能登長氏の先祖
226人間七七四年:2013/04/11(木) 22:49:38.68 ID:NLBTYAWT
>そう言って先へと進んだが、その道々で人々に
>「なんだこの軍勢は?戦場の掃除に行くのだろうか?それとも城番に行く者達だろうか?」
>などと言われ、一行は恥ずかしさのあまり顔を見られぬよう、横向きになって通ったのだという。

カワユスw
227人間七七四年:2013/04/11(木) 22:54:44.90 ID:eEJD0fni
相馬さんガンバ
228人間七七四年:2013/04/11(木) 23:50:04.41 ID:9j5yzmzt
横向きってまさか蟹歩き…
まあ、顔背けてるだけかw
229人間七七四年:2013/04/12(金) 07:12:46.41 ID:MdmdP04A
大阪城に兵が集められ、籠城となり、徳川方でもついに出兵と決し、
日向半兵衛(政成)他諸士が家康の御前に列したときのことである。

家康が今回大坂城に籠った者にこれぞというような者がいるだろうかと尋ねたので、
日向半兵衛が
「はかばかしく役に立つ者はございません。方々から集まってきた浪人たちですから、
彼らは金が欲しいだけであり、金をうまいこと手に入れたなら、
大方逃げてしまうことでしょう。」
と答えたところ、家康はこの言葉が殊の外気に入らなかったのか、
日向半兵衛をお叱りになったので、半兵衛は家康の御前から退出した。
暫く後、半兵衛は家康からお召しを受けたため、
これはきっと勘気を蒙り処罰を受けることになるのだろうと
覚悟を決めて家康の前に参上したところ、家康は殊の他ご機嫌で、
半兵衛を側近くまで招きよせ、こう言った。
「大坂の浪人達が金を受け取ったら逃げてしまうであろうという指摘は正しい。
しかし、もしそれが敵の耳に入れば、そのことに気が付いて、浪人達から人質を取るなど対策がなされ
そのためにこの合戦で勝利を得るのに手間取ることになりかねない。
将軍様(秀忠)の為にならないことを半兵衛が言ったので、あえて叱ってみせたのだ。
とはいえ、左衛門尉(真田信繁)あたり以外にはこのようなこと考えもつかないであろうがな。」
とのことであった。

紀伊国物語から、干城録で引用された際の解釈を交えつつニュアンス訳で。
いい話か悪い話か迷ったけれど、正しい指摘をしたのに人前で叱られてしまった
元武田武士日向半兵衛さんのちょっと悪い話?ということで。
230人間七七四年:2013/04/12(金) 07:15:40.01 ID:MdmdP04A
>>229
1行目 ×大阪城→○大坂城
普段は普通に大坂に変換されるのになぜ…
わざとじゃないんでお許しあれ
231人間七七四年:2013/04/12(金) 11:04:35.37 ID:XcfUomzs
おおざか→大坂
おおさか→大阪

とでも使い分けとけ
232人間七七四年:2013/04/12(金) 20:15:05.59 ID:RbWrQ0y7
相馬長門守義胤の嫡男であった大膳亮利胤が急死し、長門守は自分と同名の孫、
大膳亮義胤を家督に立てた。そして自身は隠居所の泉田から中村城に移り大膳亮義胤の後見を行い、
江戸にも参勤して折々江戸城に出仕された。
この頃長門守義胤は八十余歳。老将の髪は白髪となられていた。

ある時、御城内に入り下馬されたところ、伊達政宗がちょうど退出する所であった。
しかし政宗は駕籠に乗らず、そのまま立って長門守義胤が通り過ぎるまで見送った。

この事をお供に参った者達が長門守の前で夜話に申し上げた所、それについては何も言われず、
孫の大膳亮義胤に向かってこのような事を語った

「伊達政宗という人間はな、総じて若輩の頃から志が普通とは違う人物であった。
あれは、私と政宗が和睦して、最初の対面の後の事だ。

私は政宗の陣所の有った尾浜に彼を見舞い、その後政宗も返礼として私が寄宿した寺院を見舞った。
そこは入り口に小さな坂があり、階段が付けられていた。
私はその坂の下まで降りて政宗を出迎え、互いに礼をした後、政宗が『先に亭主からお上がり下さい』
と言うので、私が先に階段を2段上がり、3段目に片足を移した、その時のことだ!

政宗は大声で『やっ!』と一声上げると、階段の一番下から一気に二段を飛び、私の足を踏みつけんばかりに
駆け上がってきたのだ!

私はこれに気がついたが、あえて何事も無いかのように、振り返りもせずに静かに階段を上がった。
政宗の方はそこに留まり、後ろの共の方に振り向いてニヤニヤと笑っていたが、その後静かに
上がってきた。

政宗のそう言う気性は天性のものなのだろう。当時、18,9の若者が、30あまりの大人である
私を驚かせようと試したのだ。

あの時、もし私が驚いて後ろを振り向いたり、少しでも様子の悪い態度を見せたなら
何のかんのとこれを評判し、笑いものにしたに違いないのだ、あいつは!

だから、若い者はいつでも常に、朝夕、他人と交わる中に、何事があっても心が動揺しないよう
思い定めておくものだぞ。」
そう、仰った。
(奧相茶話記)

伊達政宗、若いころからこんなだったという、相馬義胤の証言であるw
233人間七七四年:2013/04/12(金) 20:23:50.37 ID:/mo5N9pF
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5249.html
前半はこれか
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2449.html
しかし、後半の話聞いたことがあると思ったらこれだったか
どの殿様の話だろうとモヤモヤしてた
234人間七七四年:2013/04/12(金) 20:23:57.85 ID:MRBVxY+t
安定の政宗
235人間七七四年:2013/04/12(金) 20:26:35.94 ID:Cfj8lIV8
>>233の下の話
>愚弄されたと怒った殿様は仕返しにその晩、政宗の寝所目掛けて暴れ馬を解き放つ
>イタズラを仕掛けるのであった…(一応同盟は締結した)

これが義胤(祖父)のことだとしたら義胤もたいがいだな
236人間七七四年:2013/04/12(金) 21:12:19.84 ID:Azwghty1
政宗せめて5段飛びくらいしてからドヤ顔しようぜ
237人間七七四年:2013/04/12(金) 21:14:44.12 ID:/mo5N9pF
片目だと遠近感とれないだろうに
よく二段飛ばしやろうと思ったな、ヘタしたらずっこける
238人間七七四年:2013/04/12(金) 21:59:20.99 ID:MRBVxY+t
先天的な片目は距離感がちゃんと取れるらしい
政宗は後天的なものだけど、幼い頃に失ったものだから存外慣れてるのかもな
239人間七七四年:2013/04/12(金) 22:00:44.39 ID:RyyY2Y6S
つまりこのお見送りも隙あらば80過ぎの爺に襲い掛かろうと…
さすがにないかw
240人間七七四年:2013/04/12(金) 22:10:02.19 ID:bSvR/8wv
>>239
まあ義胤の方では、「何を企んでるか解ったもんじゃない」って気持ちはあったかもねw
241人間七七四年:2013/04/12(金) 22:23:33.58 ID:dmCK7f25
少しでも足下よろけたりしたら、それネタに色々言いそうだしなw
悪意があるかどうかは別にして気が抜けん相手だ
242人間七七四年:2013/04/12(金) 22:34:28.94 ID:66infFGO
政宗の方だって還暦過ぎだし無茶はしないと思うよー
243人間七七四年:2013/04/12(金) 23:23:19.56 ID:ccfhYwSS
まさにDQN眼

中身が厨二のままだ
244人間七七四年:2013/04/12(金) 23:39:20.25 ID:eBh/QgWh
忠勝相手に相撲とったのはいくつの時だったか
245人間七七四年:2013/04/13(土) 05:58:06.97 ID:rAtF9XTM
よくイタズラを仕掛ける人間は必要以上に警戒される。
古今東西を問いませんなw
246人間七七四年:2013/04/13(土) 12:02:46.82 ID:g+485nqi
最上の血だな多分。で小十郎がDQN成分を増幅させたと
247人間七七四年:2013/04/13(土) 15:59:45.07 ID:7iTosJoD
でもやっぱり輝宗の息子なんだなと思うような生真面目さも
時々見え隠れするんだよな政宗
248人間七七四年:2013/04/13(土) 16:44:43.09 ID:HHMEhDl2
徳川家康の関東への移封が決まった頃、豊臣秀吉から徳川家康に対し、内々にお尋ねが有った

「中書(本多忠勝)、式部(榊原康政)、兵部(井伊直政)の三人には、いかほど加増するつもりか?」

家康は、彼ら三人に10万石づつ与えようと考えていたのだが、ふと気がついた

『まてよ?ここで10万石と言えば、殿下はもっと増やせと言うに違いない。』

そこで家康はこう答えた。「6万石です。」

秀吉これを聞くと
「それは少ない!10万石づつにせよ!」

と言った。そしてその通りに加増されたとのことである。
(紀伊國物語)
249人間七七四年:2013/04/13(土) 16:54:25.37 ID:rU86EnFu
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5336.html
秀吉を野人呼ばわりした康政だけ特別に10万石と思ってた
ところでこの当時は四天王は同等と思われてたのか、そうでもなかったのか
250人間七七四年:2013/04/13(土) 17:22:56.69 ID:8u0FUquJ
家康のケチな話か
251人間七七四年:2013/04/13(土) 17:35:54.09 ID:zyf+I4zA
山本神右衛門はこう言っていた。
「女で、綺麗な字を書き文学などをたしなむ者は、
えてして密通したりする。
味噌乞い文といって、親しい家に味噌をもらうための、
文章が書ければそれでよい。
見栄えする見事な筆跡などはいらぬ」【葉隠】
252251:2013/04/13(土) 17:53:32.13 ID:zyf+I4zA
>>251だけだとただの男尊女卑か、
浮気された者の逆怨みととられ兼ねないので(笑)、
まとめ管理人さん、これ↓もセットでお願いします

『弥三郎に色紙を買ってきてやり、
「この色紙いっぱいに、ただ一字を書け。
勢いで紙が破れてもかまわないと心掛けて書きなさい。
上手下手を言うのは書道家の仕事だ。
武士は思いきりよくやるのが仕事だ
(武士はあぐまぬ一種にて済む也)」
と教えて字を書かせたことがある 【葉隠】』
253人間七七四年:2013/04/13(土) 17:59:35.22 ID:0Q0idVXv
>>250
ケチというよりは領地経営の方向性の問題では
豊臣自身では金山や港など要衝は抑えても領地自体はほとんど自分で管理せず配下に任せ重臣は大領持ちにする
徳川はある程度本家で保持し大大名は政治に参画できない
254人間七七四年:2013/04/13(土) 19:41:55.99 ID:g+485nqi
マキャベリ先生風にいえば理想の君主じゃないのか?ケチなのはw
255人間七七四年:2013/04/13(土) 22:41:37.18 ID:Cl3MguMr
犬千代「最大多数個人の最大幸福だね!」
256人間七七四年:2013/04/14(日) 00:10:37.54 ID:1XYuPSaZ
大越紀伊は、最初相馬義胤の配下であったが、その後変じて磐城常隆に従い、さらに変じて
密かに伊達政宗に通じ相馬や磐城と敵対しようとした。

所が、大越紀伊の妻は大越甲斐の妹であったのだが、彼女は大変嫉妬深い女性であった。
そしてこの頃、本田孫兵衛という者があり、大変な美貌の若者で、彼が大越紀伊と心を通じ
衆道の間柄にあると噂があり、かの妻はこれに激しい妬心を抱き、夫の様子を常に窺っていた。

そんな事はつゆ知らず、大越紀伊は伊達と密かに連絡を取っていたのだが、その時どうしたわけか、
密書を落としてしまった。

この密書を妻が拾い、「これは本田から夫への恋文であろう!」と思い込み、これを兄の甲斐に
送った。

それを見た大越甲斐は驚いた、なんとそれは、大越紀伊が伊達政宗に従い、磐城常隆の
所領を犯そうという内容だったのである。

大越甲斐はとんでも無い事だと思い、この密書を磐城常隆にそのまま見せた。
常隆は直ぐに北郷形部を紀伊の元に遣わし、北郷は紀伊を捕らえて常隆の元に送った。
そして磐城常隆は、終に大越紀伊の首を跳ねたとの事である。

災いは婦人の口より生ずというが、それも理である。
(奧相茶話記)
257人間七七四年:2013/04/14(日) 00:17:31.21 ID:1wagCXZS
いや全然婦人の口関係ないよね...

アーッで身を滅ぼしただけだよね(´・ω・`)
258人間七七四年:2013/04/14(日) 00:19:30.00 ID:oJcbyOKA
災いって言われても、奥さんよりも大越のが悪いだろ
259人間七七四年:2013/04/14(日) 00:26:10.89 ID:Y1gH60y3
>>257
これだけじゃそれは濡れ衣かもしれへんのやで…
260人間七七四年:2013/04/14(日) 07:03:33.90 ID:qgrB6CFx
中身も読まずに兄の元に送ったのかよこの妻は
261人間七七四年:2013/04/14(日) 07:42:54.61 ID:NAsPBQyd
女の嫉妬は怖いのだわさ
古来、これで身を滅ぼす男は多いし
相手を十二分に見極めんとな(泣

武士だとオトコの見極めもだいじだが
262人間七七四年:2013/04/14(日) 15:33:32.12 ID:knMTFN11
ある時徳川家康公が当座に居合わせた人々に

「成瀬瀧之助は誰かと言い合いなどしなかったか?」

とお尋ねになった。皆は何れも「そのような事全く存じません」と申し上げたのだが、
それから2,3日過ぎて、瀧之助は人を討って退転してしまった。

家康はこのことを聞いて、

「内々そんな事ではないかと思っていた。ところで彼が人を討ったその場の様子は、
少し卑怯な様ではなかったか?」
とお尋ねになられた。

「御意の通りでありました。」と申し上げると

「それは卑怯な様ではないのだ。大変に健気なものであったのだ。」

この時家康公がどうしてそのようにお考えになられたのか、誰も解らなかったそうである。
(紀伊國物語)

そんな、色々裏がありそうだけど何だかさっぱりわからない逸話である。家康も説明すればいいのにw
263人間七七四年:2013/04/14(日) 15:46:26.24 ID:xqh/Jcix
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7320.html
この話と同じように、仇はどんな手を使ってでも早く討つのが肝心だから
できるだけ自分の本心を悟らせない様にして、卑怯と思われようとも
素早く仇討ちを行った瀧之助を評価した、てことじゃないのか。
ただし、権現様はその悟らせない様にしている態度によけいに不審感を持ったと
264人間七七四年:2013/04/14(日) 16:56:16.25 ID:GKo/qn6n
酒宴、娘と結婚、病気になる、他にあったっけ?
265人間七七四年:2013/04/14(日) 17:31:19.54 ID:fLcBkqbN
>>262
家康はよく家臣を見てるな
周りの人間は何かあった事すら気付いてないのに誰かを討つ気になったと気付いてる
多分成瀬が普通にやったら勝てない相手だからその場じゃじっと耐えてたんだろう
で、そういう相手を討つんだからその様は卑怯に見えるだろうけどそれが健気なんだと
266人間七七四年:2013/04/14(日) 18:19:37.75 ID:GKo/qn6n
気づいてるなら止めればいいのに
267人間七七四年:2013/04/14(日) 18:22:06.96 ID:P+2tXbzQ
仕返しの理由によっては止めないってこともあるだろうな
止めたばかりに遺恨が持ち越されて飛び火して大きくなることもあるし
268人間七七四年:2013/04/14(日) 19:30:10.93 ID:1XYuPSaZ
昔の、阿波の御屋形様(阿波守護家細川氏)は万事家老衆に任せて、軍の事を少しもお構いなさらなかった。
能く召し使われていた御馬廻の衆も、囲碁・将棋・囃子などの遊びばかりしていた。

逆に三好殿の衆は、兵法・槍・長刀・弓と言った武道には無闇なまでに強かったが、そればかりで
文道は少しも学ぼうとしなかった。それどころか理非を理解しようとするものは弱者であると笑いものにした。
そうして御家は滅びたのである。
(三好記)
269人間七七四年:2013/04/14(日) 21:00:37.85 ID:oJcbyOKA
細川家から三好家へ実権が移るあたりの話って面白いよなー
270人間七七四年:2013/04/14(日) 22:17:45.86 ID:FFCpfrkP
家康が止める
→殿は彼奴の味方をされるのか、共々に討ち果たしてくれん
→恥辱を晴らせぬとは無念じゃ、切腹いたす

どっちもありがたくねぇな
271人間七七四年:2013/04/15(月) 00:46:20.21 ID:ZBELe/rm
伊達政宗が岩出山という地に在城していた頃のことである。
(天正19年(1591)〜慶長6年(1601)まで。ちなみに築城したのは徳川家康である)

岩出山の城下の寺に江湖(三江五湖)があり、、その頃、長哲和尚はまだ若年であったが、江湖に参られていた。

政宗は殿中に江湖の僧を招きいれて供養が行なったが、この時、長哲和尚は酒に酔い、また長座に耐えられず居眠りしてしまった。
和尚は火傷のため頭に毛がなく、耳の脇に少し毛があるだけで他は赤く禿げていた。

政宗はこれを見ると、酌取りの者に言った

「いいか?目を覚まさせぬようそろそろと近づいて、あの天窓ハゲ坊主の頭の上から、たらたらと酒をつぎかけてやれ。
目を覚まして何だかんだと言って来たら、『いやあ、赤い椀と間違えて、うっかりついじゃいました』と言ってやれ!」
(そろそろ行きてあの天窓はけ坊主の頭上にたらたらとつぎ懸けよ。目覚驚き何とも云は赤椀しやほとにつぎたと云)

天窓ハゲ坊主というのも酷い呼び方であるが、また子供みたいな悪戯である。いい歳して。

酌取りは言われた通りに、酒を頭の上からタラタラとたらし掛けると、僧はハッと驚き、「これはこれは!?」と飛び起きた。
酌取り、また言われた通りに『赤い椀と間違えて、うっかりついじゃいました』と言うと、僧は

「赤椀と間違えたのなら、なぜ起こしてつがず、伏せたまま注いだのですか?」

と問い返した。

政宗はこれを聞いて

「さても機転のある答えである!」

と、すっかり上機嫌になり、寺の住職に、細かにこの僧の出生地などをたずね、彼を政宗の帰依する寺の僧とし、さらに配下の諸士に
説教を受講させたいと言って来たので、長哲もこれを承諾した。

ところがこの僧は相馬領である中村の長橋龍才禅院、後の長命寺の弟子であった。
そのため、政宗がこの事を申してきたのを聞いた相馬長門守義胤は、

「我が領内の良き坊主を、政宗の坊主には断じてさせない!」

と言って、師匠に仰せ付けて呼び返させ、帰依の寺の僧とし、出世ののち、龍造院の住職にされたのである。
(奧相茶話記)

いつもと変わらぬ政宗らしい逸話である。
272人間七七四年:2013/04/15(月) 06:30:17.62 ID:8ilFScLk
返しがいいなw
273人間七七四年:2013/04/15(月) 07:09:12.63 ID:NGF1E80j
義胤の政宗嫌いも徹底してるなあ
274人間七七四年:2013/04/15(月) 08:46:08.97 ID:uwUHfd9Z
出生地とか細かに調べてれば相馬のもんて分かってるはず
最初から嫌がらせじゃねーの?
275人間七七四年:2013/04/15(月) 10:14:41.01 ID:86KRsCUs
いつもの正宗のイタズラ話と思ってたら
まさかの義胤....。
276人間七七四年:2013/04/15(月) 10:42:50.12 ID:1QRhyVw0
自分は重用してなかったのに、他人に取られそうになると必死になる奴っているよねw
277人間七七四年:2013/04/15(月) 11:41:57.09 ID:gYx7Lg8h
いや、そもそもその存在すら知らなかったのではないか?
278人間七七四年:2013/04/15(月) 12:06:20.20 ID:rOjQKrOE
例え石の一欠片でも自領のブツを政宗が欲しがってると聞いたら回収するだろ、相馬さんは
279人間七七四年:2013/04/16(火) 01:11:58.98 ID:DO5hZk50
天正10年(1582)、稲葉一鉄の家臣だった那波直治は稲葉家を離れ明智光秀に仕えた。
これを知った一鉄は激怒し、信長に訴訟を起こした。

光秀はこの前にも、稲葉家から斎藤利三を引き抜いたことが有ったので、信長は光秀が悪いという裁定を下し、
那波直治を稲葉一鉄に返還すること、また斎藤利三は自害するようにと命じた。

だがこの時は、信長の側近であった猪子高就が執り成したため、斎藤利三は助命され、そのまま光秀に仕えることとなった。

しかし信長は光秀が度々法に背いたことを怒り、その裁定を言い渡す時、光秀を叱責し、手で光秀の頭を2、3度叩いた。
この頃、髪の薄い光秀は付髪(カツラ)を付けていたのだが、この叩かれた衝撃で、なんとその付髪が人々の前で
叩き落されてしまった!

この信長の仕打を光秀は深く恨んだ。後の叛逆本能寺の変)の原本(根本的な原因)は、ここにあったのである。
(稲葉家譜)


人前でカツラを叩き落とすなんて、信長は焼き殺されても仕方がないよね(´・ω・`)
280人間七七四年:2013/04/16(火) 01:28:16.08 ID:jsANWMmI
BGM:ムソルグスキー はげ山の一夜
281人間七七四年:2013/04/16(火) 07:29:07.48 ID:mfR8ma/i
>>249
酒井忠次だけ世代が違うからなぁ
282人間七七四年:2013/04/16(火) 10:06:40.93 ID:RuBtyo/K
信長のハゲしい怒りで...
283人間七七四年:2013/04/16(火) 14:49:23.79 ID:XkRKskmA
明智禿頭日向髪光禿とな?
284人間七七四年:2013/04/16(火) 17:36:12.74 ID:856mjIMT
酒井忠次って四天王筆頭に見えて数合わせなんじゃないか?
武田四天王に穴山信君入れちゃったような感じ
285人間七七四年:2013/04/16(火) 19:51:03.57 ID:Ql5gz06+
あの石川数正と同格だから本来ならば四天王よりも格上だわ
286人間七七四年:2013/04/16(火) 20:00:14.52 ID:bnyqTZ0Y
徳川四天王は後世の呼び名で、「徳川三傑」と命名したのは秀吉だったよね
市松のこの逸話からも秀吉周辺で通じる呼び方だったということを物語っていると思う
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2133.html
287人間七七四年:2013/04/16(火) 20:22:39.14 ID:sFZzJx26
石川が寝返らなかったら二人は副将で四天王には大久保あたりが這入ってたのかな
288人間七七四年:2013/04/16(火) 20:26:06.85 ID:CMg8+Ve+
5名臣とかだろ
289人間七七四年:2013/04/16(火) 22:28:05.57 ID:noP2GtF/
四天王は五人揃ってこそだろ
290人間七七四年:2013/04/16(火) 22:41:58.26 ID:DO5hZk50
上杉謙信が川中島の武田信玄との合戦より帰陣して、宇野という軍配者に聞いた

「私は今回、どうして軍配を操り損なったのか?」

自らが、どうして信玄に勝てなかったのかを聞いたのである。

宇野は答えて
「今回は、柿崎、本条、直江といった人々に備を堅くさせ、動かぬように合戦をすべきでした。それなのに大将がご自身で
戦場を走り回りました。それ故にそのような結果になったのです。」

これを聞いた謙信は激怒し、その場で宇野を手討ちにしたという。
(紀伊國物語)
291人間七七四年:2013/04/16(火) 22:44:55.16 ID:qz/qu+Ho
一般論では正しいんだが、上杉家は謙信が先陣切ってこそ上杉家だということを全く理解できていないな
292人間七七四年:2013/04/16(火) 22:58:03.41 ID:V8H46HOG
なぜ手討ちになったのか文章からまるで伝わって来ないw
293人間七七四年:2013/04/16(火) 23:03:24.84 ID:6NzJw5b6
>>287
大久保の扱いの悪さってなんだろうね
5か国時代には一応信州方面軍司令だったわけだが
294人間七七四年:2013/04/17(水) 00:45:04.90 ID:bPm+4S+M
やっぱ大名家として存続出来てないのは痛い
295人間七七四年:2013/04/17(水) 04:08:45.55 ID:VjwIdDSK
小田原藩大久保家復帰してるけど…

甲州方面の担当だった鳥居元忠も4万石だし、石川家成も息子に2万石
家康直属の一族が多いと一人当たりが減るのか?とも思ったけど、鳥居家なんかは元忠一人しかいないしなあ
296人間七七四年:2013/04/17(水) 09:31:26.99 ID:BuGkZdgc
大名の制度は維新で消えた。
彦左の武勇伝は残った

大久保家は負けてはいない
297人間七七四年:2013/04/17(水) 10:01:21.56 ID:IUzem0VY
>>290
自分から聞いたくせにヒドいwwww
298人間七七四年:2013/04/17(水) 10:49:03.06 ID:os0tTA/r
>>290
ちょっとどころじゃなく悪い話だなw
299人間七七四年:2013/04/17(水) 12:44:58.46 ID:FNgcVrba
>>223
まとめ管理人乙
300人間七七四年:2013/04/17(水) 14:11:29.48 ID:hySRu/+m
>>290
ワロタw 謙信って気が短くて乱暴者だよね
301人間七七四年:2013/04/17(水) 14:23:14.53 ID:3xUVikuU
>>290
何の注釈もないしわかって当然のことなんだろうけどまるでわからないw
302人間七七四年:2013/04/17(水) 17:23:39.57 ID:Kf2hHb/j
つまり
「お前は今回の戦、大将失格」
と言われたようなもんだと判断したからブチキレたのか?
「それが天命です」
とでも言っとけば……
ダメだ、やっぱ斬られる所しか想像できねえ
303人間七七四年:2013/04/17(水) 17:26:22.20 ID:6dw/1xZY
軍神の虫の居所が悪かった話
304人間七七四年:2013/04/17(水) 17:30:44.77 ID:nsUa3cgh
まぁ謙信に好意的に解釈すれば、この軍配者の言ってることは正論すぎて全く参考にならん
謙信自身も理解していながらそれが出来なかった自分に歯噛みしていたと考えると・・・

山崎秀仙といい上杉家の学者はこんなんばっかりか
305人間七七四年:2013/04/17(水) 21:37:46.82 ID:wj7LAbYf
虫の居所の悪い人間に理屈は通用しないw
306人間七七四年:2013/04/17(水) 21:39:46.75 ID:fClROOX9
へっぴり腰なら勝てたと今後の士気に関わることをしたり顔で言うから害悪と見なされたんだろ
守れば勝てたんだーじゃあ今後は前になんかでないわーじゃ戦にならない

と思うが軍神様の思考は凡人にはわからんところがあるからなw
307人間七七四年:2013/04/17(水) 21:58:32.25 ID:hySRu/+m
大将が行方不明になるようじゃ家臣も浮き足立つわなw
308人間七七四年:2013/04/17(水) 23:56:47.02 ID:gEcf6rtk
上杉に軍配者は無用だなw
だって毘沙門天だものしょうがない
309人間七七四年:2013/04/18(木) 00:13:05.52 ID:MED5YaXE
長めの前置き注意

信州の名族小笠原氏は、長時のとき武田信玄に追われ一族流浪の身となったが、
武田家滅亡、本能寺の変、天正壬午の乱を経て、度重なる苦難の末長時の子貞慶が
徳川家康の後援を受け旧領復帰に成功した。

しかし、その後、家康と対立した豊臣秀吉が飛騨を制圧すると、越後に上杉景勝、越中に前田利家、
飛騨に金森長近、木曽に木曽義昌と周囲を豊臣方に包囲された小笠原長慶は、圧迫に耐えかね
家康の重臣石川教正の出奔に従い豊臣秀吉に転属した。
ところが、まもなく家康は秀吉に臣従、その条件として信濃は徳川家の傘下に入るものとされ、
小笠原貞慶も家康の与力大名となった。

家康と、かつて謀叛をおこした貞慶(及び家康の下に人質としてあったにも関わらず
石川教正に従って脱走した貞慶の嫡子小笠原秀政)との関係には微妙なものがあったらしく
それを慮った秀吉が、秀政と家康の孫娘の婚姻を命じたほどであった。

天正17年貞慶の跡を継ぎ信濃筑摩・安雲両郡『8万石』の領主となっていた小笠原秀政は
家康の麾下に入り、小田原の役に参陣、徳川家が関東に移封されると
秀政は小田原の役での戦功を賞され、下総古河に領土を与えられた。


で、本題の逸話

或る時、徳川家康に豊臣秀吉がこう問うた。
「小笠原信濃守(秀政)には、本領(信濃の旧領のこと)に見合う分の知行を出したか?」
徳川家康はこれにこう答えた。
「この度小笠原信濃守には、一倍を加えて『3万石』を宛行いました。」

これより以前に、小笠原秀政は、聚楽第において豊臣秀吉に朝夕勤仕していたので
小笠原家の領地が筑摩・安雲両郡で『8万石』あることを、秀吉はよく知っていたのであるが、
今般下総国で小笠原秀政の領地が3万石しか与えられていなかったので、
秀吉は、前述のように家康に問うたのだった。

なぜこのようなことになったかというと、小田原に小笠原秀政が出陣した際、
わずか1万5000石分の軍役しか勤めていなかったため
家康はこれを心中に留めていて、前述のとおり(倍の3万石を与えたと)
秀吉に答えたのだということである。

小笠原秀政年譜より。
領土を半減されたのに、何故か倍に加増されたことになっていた話。
310人間七七四年:2013/04/18(木) 00:35:01.27 ID:3rAt9b9o
わざわざ年譜まで読んでるような人が石川数正の名前を間違えてるほうが気になる
311人間七七四年:2013/04/18(木) 00:49:44.85 ID:MED5YaXE
>>310
すまん、目が悪いんだ
×石川教正→石川数正
312人間七七四年:2013/04/18(木) 06:52:37.60 ID:BiwbsjNG
>>311
小笠原長慶も直しとけ
313人間七七四年:2013/04/18(木) 07:19:58.06 ID:BiwbsjNG
実際の話、移封の時点では信濃は検地してないから
8万石なんて石高は確定してなかったりする。

そもそも当時の小笠原、木曽は位置づけがあいまい。
元々は真田も含めて家康の与力大名っぽいのに、関東移封時には
真田はそのままで、小笠原、木曽は家康から所領を与えられる立場
に転落してる。
314人間七七四年:2013/04/18(木) 10:29:03.16 ID:iQFRMxWP
真田が徳川家臣化に抵抗しなければ同じ境遇になったのでは?
315人間七七四年:2013/04/18(木) 10:34:31.33 ID:4Ny/bL+r
真田は上田と沼田が別家扱いなんじゃないかな
上田は関東移封に付き合ってないし
上田城が豊臣政権所属の地方中枢拠点の可能性も出てきてるんだろう?
316人間七七四年:2013/04/18(木) 11:41:51.91 ID:iMZRx233
義昌も一度徳川から離反してるけどな
1万石なのはこれが原因だとは思うが、森林資源は石高に反映されないのもあるんじゃないかな?
317人間七七四年:2013/04/18(木) 12:06:14.81 ID:4Ny/bL+r
この問題は一言で言えば徳川が諸豪族を味方につけるために
安堵状出しまくり領地重複しまくりが原因
良くあることなのでその後に調整が入って普通は収まるのだが
豊臣という巨大な傘があったから重複して過大に領地のまま豊臣に逃げ込む
その後徳川に戻されて適正地を宛がわれると格段に減封されたように見える
318人間七七四年:2013/04/18(木) 18:22:12.72 ID:UFIAUEGu
ある時、織田信長が合戦へ出陣する前に、竹が必要であると言うことになり、誰かに切らせてこようと
した所、当時信長に仕えたばかりの秀吉が「是非とも私にお申し付け下さい!」と強く望み、
直ぐ様必要なほど竹を切ってきて、更にその枝葉を集めて「これを薪にして下さい」と、御台所の衆に
遣わした。実にソツのない働きである。が、それだけではない。

秀吉は竹の切り出し場周辺の百姓に、必要以上に竹を切らせ、余剰分は百姓と山分けをしていた。
そして自身はその竹を30貫で売り、これを出陣の費用にして信長の合戦にお供をした。

また秀吉はとある同僚と費用を出しあって、二人で一匹の馬を買った。
この時「今度の陣では半分づつ乗ろう」と約束を取り決めたのであるが、秀吉は上手く日積りをして
同僚を先に馬に乗せ、ちょうど合戦が起こる日に自分の乗る番が来るようにした。
この合戦において秀吉は頸2つを取り、初めて知行百貫を得たのである。

この様に秀吉は小身から成り上がった人であったため、後年まで金銀を貯めこみ、非常に吝い人であった。
ある時は瓜を作らせ、その瓜10個を大判2枚で、諸大名に買わせた。
また、御成を成される時は、「お前は私に何をくれるのか?」と問われた。
このため先方では少ないと言われてはいけないと思い、内々の所存よりも倍に申し上げた。

このように秀吉という人は、大変欲の深い人であった。
(紀伊國物語)

秀吉といえば大気で豪勢なイメージの逸話が多い中、吝くて欲深いという、珍しい秀吉像の
逸話である。
319309:2013/04/18(木) 21:57:36.63 ID:MED5YaXE
ちょっと誤解を招いたかもしれないので>>309の逸話の背景について3点ほど補足を

1.旧領の「8万石」という数字について小笠原秀政年譜でも
秀政が貞慶から所領を受け継いだ天正16年の条に
「筑摩・安雲両郡往古より貫文見積もりの地方であったのを、後に米高に直し、
両郡にて都合8万石」と記載してあるので、
上の逸話の石高も、便宜上、米高換算で8万石相当の領土といった意味合いで使われているようです。

で、8万石という数字の根拠は、後に小笠原秀政が慶長18年に2度目の加増を受けて、
旧領信濃松本筑摩・安雲両郡に復帰した際の石高が8万石だからだと思われます。

2.あと、小笠原秀政年譜には、関東移封の際、領地が「按外に減じ」たため、
大勢の家臣を信濃に残さざるを得なかったが
関ヶ原後の慶長2年に信濃飯田で5万石に加増された際、浪人となっていた元家臣145騎を
召し返した旨の記載があります。

3.そもそもなぜ小田原の役で秀政が1万5000石分の軍役しか務めなかったかについては
小笠原秀政年譜には「この節、公(秀政)一万五千石の格にて家康公に従って彼の表に出陣し」
としか書かれていないので、この史料からは細かな事情は分かりません。

逸話スレなので事の真偽はともかくとして、
この辺のくだりの書きっぷりから醸し出される恨みがましさからすると、関東移封は小笠原氏にとって
本領を離れるということだけでは収まらない結構な危機だったと捉えられていたようです。

ややスレ違い長文失礼しました。
320人間七七四年:2013/04/19(金) 17:41:55.02 ID:vmexdl0E
慶長2年(1597)に小早川隆景が亡くなったが、この時遺言で、

『我が領内の小郡という地を、黒田如水・長政親子が、茶屋にしたいから借り受けたいと申し込んでくるだろう。
これは裏に理由のある事なので、絶対に貸してはならない。』

と、申し置いた。

その後一両年過ぎて、案の定黒田親子から、小郡を借りたいと申し込んできた。
名将というものは、予想も出来ないようなことまで察知する知恵があるのだろう。
どのような理由であっても貸与は難しいと答えたそうである。
(紀伊國物語)
321人間七七四年:2013/04/19(金) 18:21:19.23 ID:+mKb8Ivy
そんなのを口実にして借りられるものなのか
わざわざ遺言して止めるってことは
322人間七七四年:2013/04/19(金) 18:56:49.19 ID:k5rIkgFl
中津から博多をうかがうにはいい場所だなw
323人間七七四年:2013/04/19(金) 19:00:50.93 ID:HBysBHcO
実効支配ちうやつですか
324人間七七四年:2013/04/19(金) 23:44:20.92 ID:m15pUdBk
ガイシュツだな。

ちなみに上京する際の休憩場所に借りたいと申し出てる
325人間七七四年:2013/04/20(土) 10:54:27.13 ID:MiYgLxA0
今川氏真は今川より離脱した徳川家康を退治しようと武田信玄を頼り、以下の様な作戦を提案した。

曰く『信玄は信州から美濃三河の国境を超えて信長を食い止めてほしい。その上で、伊那から進出先に兵糧を
送れるよう、兵糧五百俵を遣わし置くので、兵站に関しては安心して頂きたい。』

これを信玄は了解したが、それはあくまで表向きのことであり、有り体に言えば氏真を騙したのだ。
信玄はその計画を聞いて、そんなことが可能なわけがないと直ぐに察した。そして片腹痛く思い、徳川家康に、
下條弾正を使いとして、この氏真との内談を、ありのままに知らせたのである。その上で

『この件についてあなたは少しも気遣いすることはない。もし氏真が出馬するようなことがあれば、却って私が
氏真を滅亡させるだろう。』

と伝えた。

これを聞いた家康は
「武田信玄という人は、むごい事をするものだ。」

と仰ったが、暫く後に
「いや、ああ言うふうにもしなければ、出来ないことも有るのだ。」
と言われたそうである。

(紀伊國物語)
326人間七七四年:2013/04/20(土) 11:13:11.00 ID:eHTocj+V
信玄様ったら… 僕うれちい(*´艸`*) by家康心の俳句
327人間七七四年:2013/04/20(土) 19:19:19.22 ID:a6Uithnu
氏真「家康退治をしようと信玄と密約を交わしたら信玄が攻めてきた・・・な・・・何を言ってるのかわからねーと思うが(ry」
328人間七七四年:2013/04/21(日) 11:50:50.94 ID:5VvJ7paZ
負けたナッパを吹っ飛ばすベジータと同じ心理
329人間七七四年:2013/04/21(日) 19:20:56.50 ID:q0Uxl8Mt
家康は氏家にこのこと知らせて組んどけば伝説作らなくてすんだのに
330人間七七四年:2013/04/21(日) 19:23:14.14 ID:8ZPr5FF9
いえやす「信玄は信用ならないと思い、用心していたがウンコ漏らして逃げる事になった」
331人間七七四年:2013/04/21(日) 19:24:45.22 ID:cte9qme1
永禄12年(1569)、今川氏真は掛川城を逃れ、小田原の北条氏の元に亡命した。
武田信玄は小田原に氏真がいることは自らの行動にとって邪魔だと考え、彼を追い出す策略を立てた。

小田原の氏真の元に、とある町人が訪れ密かに申し上げた
「今度甲州から原隼人が信玄の使者として小田原を訪れ、氏真様に腹を斬らせることについて、
北条側と内談を行い、その後内藤修理が派遣され、氏真様に腹を斬らせる、という事が決まったそうです。」

この言葉を氏真は恐れた。するとその話を聞いてからまもなく、甲州より原隼人が使いとして小田原を訪れ、
これに心もとなく思っていたが、重ねて内藤修理が訪れるとの情報を聞いた。

これは町人の言うことに間違いはないと考え、氏真は小田原から船で逃亡した。
無論、町人も含めて信玄の謀略である。氏真はまんまと騙されたわけである。

さて、船で逃亡する途中、風が悪かったために遠江国浜松に吹き留まり、下十連時にて10日ばかり
逗留した。困り果て仕方なく、徳川家康に使いを出し

『私は伊勢まで所要によって参る所に、風向きが悪いため船で進むことが困難になりました。
そこで陸路を使いたいので、伝馬や人足を使わして頂きたい。』

と申し込んだ。家康は「昔のよしみである。仕方がない」と、望みどおりに人馬を遣わし、その上で
「暫くご逗留あるように」と、様々に饗した。
氏真は小田原出奔以来、たいへん心許なく思っていたのだが、この様子に安堵し、遠州にゆるゆると
逗留した。

そのうちに家康から信長へもこの事の報告があり、信長からも
「どうかいつまでも御逗留あるように。後々には駿河に帰参と言うこともあるでしょう。」
と、懇ろな言葉をかけられ、これは幸いなことであると考えて、さらに緩々と逗留を続けた。

ある時上方の方へ参ったが、ここでは相国寺に滞在し、公家衆などと歌会などを行い、また
蹴鞠などをして過ごしていた所、信長がこのことを聞いて、こちらに来て蹴鞠をして欲しいと
所望された。信長は氏真の蹴鞠の様子を緩々と見物され、その上で振る舞いの用意があり、
信長自身の出で馳走もされた。

長篠の合戦の時も信長に同道し、誰かの手に居たそうである。
その後、武田勝頼が滅亡したため、氏真は信長に対し

『初めに言われたように、駿河を氏真に遣わして頂きたい。』

と申し遣わした所、

「あの頃とは違い、今や何の役にも立たない氏真に、どうして駿河を与えなければならないのか!?
要らぬ人間を生かして置いておくなど無駄な事だ!あいつに腹を斬らせろ!」

と、激怒して命じた。氏真はこれを聞いて驚き、直ぐ様どこかに逃亡した。

そうしている内に、信長が切腹したという話が伝わってきた。本能寺の変である。
しかしこれを聞いた氏真は

「信長が私に腹を斬らせるために、このような虚報を流したのだ。騙されはしないぞ!
こんな真似をしなくても腹を斬れというのなら、私は尋常に斬る!」

と言ったそうである。
(内々信長より腹を切せらるべき気遣の所に是を聞て、だまされ仕まじ、腹をきれとの
事ならば尋常にきるべしと被申よし)
(紀伊國物語)
332人間七七四年:2013/04/21(日) 19:29:40.27 ID:buMIUTJM
氏真のゆるキャラぶり
333人間七七四年:2013/04/21(日) 19:34:17.69 ID:8ZPr5FF9
甲相駿三国同盟による政略結婚で唯一最期まで夫婦連れ添った氏真と早川殿
334人間七七四年:2013/04/21(日) 19:38:27.81 ID:86cNlbDF
親の敵の前で蹴鞠とか
誰か止めてやれよ、といつも思う
335人間七七四年:2013/04/21(日) 19:39:59.82 ID:x/ofBZEZ
生き恥さらせば長生きだけはできるってことか

武士じゃねぇわw
336人間七七四年:2013/04/21(日) 19:46:23.49 ID:xVTYET0X
泥水啜ってでもきのこる!ってのもそれもまた武士だと思うがここまでくればあかんわなw・・・開き直って戦場で槍働きでもすれば一国は無理でも村一個はいけるんじゃないか?とりあえず1対1なら負けないとは思うし
337人間七七四年:2013/04/21(日) 19:51:01.94 ID:q0Uxl8Mt
TERU「これ以上こっち来るな。こっちだって逃げ出したいんだから。」
338人間七七四年:2013/04/21(日) 21:23:13.29 ID:7GMytiRI
ピンチはあったものの、楽しげに長生きできたんならいいじゃないか
339人間七七四年:2013/04/21(日) 21:27:58.02 ID:spFTitzx
>>334
まあ親父は自分から攻め込んで討ち取られたから仕方ない
これで恨んでたら、とんだ逆恨み野郎だ
340人間七七四年:2013/04/21(日) 21:54:26.77 ID:spFTitzx
あ、なんか的外れなこと言ってしまったな
敵に反応してしまったが、恨んでるとかそんな話じゃないなスマン
341人間七七四年:2013/04/21(日) 21:58:52.12 ID:PZe0+X17
慈善事業で戦国やってんじゃないってことだ
手柄もないやつに国をやるわきゃない まして国を滅ぼして生き恥さらすぼんくらを
342人間七七四年:2013/04/21(日) 22:03:49.29 ID:pzslSECG
言われてみると氏真は、武田は結構恨んでそうだけど織田や徳川はたいして恨んでないよな
343人間七七四年:2013/04/21(日) 22:11:01.22 ID:PZe0+X17
親父のこと一番恨んでそうw
344人間七七四年:2013/04/21(日) 22:19:21.97 ID:8ZPr5FF9
>>343
テル「親父が若死にするから叔父さんに折檻されたお」
345人間七七四年:2013/04/21(日) 22:46:48.69 ID:pOlXsqRu
相手が悪かっただけで氏真は頑張ってたほうだと思うんだよなあ
346人間七七四年:2013/04/21(日) 22:53:01.21 ID:PZe0+X17
裏切り者家康め!滅ぼしてやるぅ! 

数年後 
蹴鞠蹴るから雇ってください… 

なぜなのか?
347人間七七四年:2013/04/21(日) 23:07:37.57 ID:pzslSECG
氏真は周囲からカモだと思われたせいで寄ってたかって潰された印象

しかしいざ戦国時代が終わってみれば、武田は味方裏切りまくり一族死にまくりで滅亡、
一方信玄がカモってた氏真は家が潰れた後も人望あったうえに夫婦円満で
さらに高家になったあげく孫が出世しまくるのを見ながら畳の上で天寿全うしたとか
信玄に教えたらどういう顔をするだろうか
348人間七七四年:2013/04/21(日) 23:13:05.29 ID:pzslSECG
ああ、氏真は孫が出世しまくってる頃にはもうあの世か・・・
正しくは「順調に成長していくのを見ながら」だな
349人間七七四年:2013/04/21(日) 23:15:29.32 ID:0GbOcKHp
後世にバカとして語り継がれる今川を笑うだろう
350人間七七四年:2013/04/21(日) 23:18:39.13 ID:Q4fmg1Fn
捨扶持で生きながらえて羨ましがられるかねぇ
351人間七七四年:2013/04/21(日) 23:23:05.77 ID:0GbOcKHp
今川の子孫とかいてもバカにされるだろうし
詐称する価値もないか
352人間七七四年:2013/04/21(日) 23:45:43.97 ID:QzCm68ap
幕府滅んで早々に断絶してたような
353人間七七四年:2013/04/22(月) 02:21:02.65 ID:Q9n2j4T6
武田を追い出したら駿河に復帰ってのは、氏真が掛川城を開城したときの条件だっけか
354人間七七四年:2013/04/22(月) 12:24:32.14 ID:RtZQFnNI
子孫って年末に討ち取られてるアレだっけ?
355人間七七四年:2013/04/22(月) 17:32:05.35 ID:VGnTz/Tr
武田の子孫だって高家だろ
356人間七七四年:2013/04/22(月) 19:59:31.98 ID:QtYTpxVI
朝鮮の役の時のことである。

熊川と言う地に築城することになったが、人夫が足りないため、歴々の侍衆・同心・中間などが
自身で鋤鍬を持って堀をうがち、おうご(てんびん棒)にて石を運び、地突きなどもした。

また一方で、石垣のためのくり石を運ばせたが、ここに久代殿(毛利配下の久代宮氏か)の家臣で、
江田甚内という侍、天秤棒で石を運んでいたが、数度運んで来たところで、工事を監督する奉行から
注意を受けた
「その石は小さくて役に立たない。」

甚内はこれを聞いて
「あまりに人々が集まって拾ったためにもう石が少なくなったのだ。
しかしこれは大きな石ではないが、重さはずいぶん大きいものだ。
とにかくここまで持ってきたのだから、これは受け取って頂きたい。」

これに奉行
「用にも立たぬ石を、何で受け取らねばならないのか」
と、ぶつぶつと文句を言った。

そこで甚内も仕方なく、その石をそこにガラリと捨てて、今度は大きな石を集めてきて、
奉行の前につっと寄って
「この石は気に入るだろうか?」
と聞いた。

奉行「これならば良い。受け取ろう。」と答える。

「最前石を持ってきた時は、色々と詫び言を行ったのに聞いてくれなかったが、
この石で機嫌は直っただろうか?」

「石で機嫌の良し悪しなど無い。そんな事より早く役儀を進めてくれ。」

これを聞くと、甚内
「其の方は機嫌が治ったかも知れないが、わたしは機嫌が悪い。」

と言い様、刀を引きぬき一刀にて奉行を討ち果たした。

そして甚内は多勢の中に紛れ込んだ。皆大騒ぎになり、あっちへ行った、こっちに行ったと
ひしめいたが、3万も5万もうち乱れて普請する中であったため、捜しようもなく、
甚内も主君のもとにも戻らず、どこに行ったのか、跡形もなく失踪した。

この事件の後、諸奉行いずれにも
『普請の人々に慮外な事をしてはいけない。歴々の侍自身の働きであるのだから、
物事を思慮するように。』
と、堅く命ぜられたそうである。そのためこれ以後は、無事に普請は進んだという。
(義殘後覺)
357人間七七四年:2013/04/22(月) 20:15:13.91 ID:SZjj+zeR
中間くらいは普通に石運びとかしそうだけどな。
それにしても、三成を髣髴とさせるような奉行だな
358人間七七四年:2013/04/22(月) 21:44:01.89 ID:46I3IBwm
どっちもめんどくさいw
359人間七七四年:2013/04/22(月) 21:47:07.51 ID:psuL4Gw0
刀装備したまま石運びって大変だな
いざというときに備えてるのか身だしなみなのかわからんけど
360人間七七四年:2013/04/22(月) 22:08:22.86 ID:czn8r6KG
刀は敵に備えるためじゃなくて
面子を保つために必要なんだよ
現にこうして役に立った
361人間七七四年:2013/04/23(火) 00:15:20.32 ID:JQ+ZSFwD
逆ギレだな
城作るにはいい石が必要だろ
石運んでる奴より奉行のが石の良し悪し判断出来るんだから、その奉行が不要と言ったんだから仕方ない
仮にその悪い石使って欠陥城作れってか
362人間七七四年:2013/04/23(火) 00:20:48.24 ID:vSdWIl3M
見たまんま逆ギレだわなw
363人間七七四年:2013/04/23(火) 00:45:33.54 ID:Kg9vg+Zq
>>361
いやこれ事前に作業者に良い石悪い石の区別を教えなかったってのがダメなんじゃないの?
364人間七七四年:2013/04/23(火) 08:01:06.69 ID:hp2IVLJF
今なら機械で石を削れるけど、この頃はまだ難しかったろうしなぁ
365人間七七四年:2013/04/23(火) 09:35:18.04 ID:12ur/tUd
>「用にも立たぬ石を、何で受け取らねばならないのか」
>と、ぶつぶつと文句を言った。
キーはここだな

愚痴愚痴いわんかったら助かったものを
366人間七七四年:2013/04/23(火) 11:32:14.68 ID:lNCN+iR3
黒田の大殿なら悪い石も立派に役立てたはず
若殿なら愚痴愚痴言ってるところを家臣団にバカにされるテンプレになったはず
367人間七七四年:2013/04/23(火) 16:09:29.49 ID:WvFxLpzM
>>354
年末に打ち取られる吉良って今川の本家筋だっけ
368人間七七四年:2013/04/23(火) 16:17:18.23 ID:TtJMyvBm
本家筋で今川義元の子孫>吉良義央
しかしなぜか浅野内匠頭や義士たちは
今川義元の供養のために建てられた泉岳寺に埋葬されている
369人間七七四年:2013/04/23(火) 20:46:13.96 ID:mQIJTpyV
権現様も結構いい人なんだな、
桜田門の目と鼻の先に義元公の供養の寺を立てるなんて・・。
三河物語なんかではボロクソだが案外、竹千代&岡崎衆は優遇されていたのじゃまいか?
370人間七七四年:2013/04/23(火) 22:10:07.79 ID:iT1uOT/c
>>369
人間は幼少の頃に嫌な思い出があった地には近づきたがらないんだってさ
駿府は家康の自由意志で終の棲家に選んだくらいだから、
苦労はしてても辛い思いはしてなかったんじゃないかな
371人間七七四年:2013/04/23(火) 22:23:23.81 ID:7RO21V+k
>>369
時代的には彦左が物心つく前の話だし、三河物語のあの辺は一次史料とも
食い違ってる事が多いから、創作程度におもっといた方が良いのかも
372人間七七四年:2013/04/23(火) 22:49:21.77 ID:3mSfHB9G
そもそも面倒くさい人だから事実を知っていたとしてもそれを素直に解釈している保証は無い
373人間七七四年:2013/04/23(火) 22:56:38.87 ID:TC7QpK/b
まあ史実と言うよりも、当時未だ名誉回復がなされていなかった大久保家の正当性を訴えるのが目的の著作だからなあ>三河物語
374人間七七四年:2013/04/23(火) 22:57:47.10 ID:FJpSGa4H
「田路勘四郎、衣笠を扶ける事」

赤松左兵衛尉広秀も、朝鮮征伐で渡海した大名の一人である。
その臣・田路(とうじ)勘四郎は強弓の使い手で、多くの敵を射斃し、追い払うと、小川の堤の上を馬で進んでいた。

その時、一頭の放れ馬が堤の下を駆け去っていった。
あれは衣笠宗兵衛の馬・・・。
田路は思った。「ああ、衣笠は討たれてしまったのか。」と。

さらに先へと進んでいくと、その衣笠がいるではないか!一人の朝鮮人によって生け捕りにされた衣笠宗兵衛が!

衣笠を捕らえた朝鮮人は、左の脇に胴を挟み、右の手で首を握って小川の流れに押し浸し、
二口三口と水を飲ませては引き上げ、水を飲ませては引き上げという狼藉を働いていた。

それを見た田路勘四郎は、朝鮮人の背後へ駆けよせて抜刀し、背中を袈裟懸けにして斬り殺し、衣笠を救出したのである。

「衣笠っ!いったい何があったのだ!?」
「あの朝鮮人が敵対してきたので対峙していると、拝み打ちに「丁!」と斬り付けてきた。
そして、長い袖を捲りあげて纏うや、「ひた」と組んで、あっという間にわしを横抱きにしてしまったのだ。
もちろん全力を出して逃れようとしたのだが、それ以上の力は出なかった。
奴が何人力かということは知らぬが、まるで2,3歳の小児を抱いているかのようだった。
そして、わしを抱えたままこの川に降りてあのようなことをし、我が面を見て笑うこと数度・・・。
これ以上の無念は無かったが、貴殿のおかげで不慮の難を逃れることができた。」

二人は、連れ立って陣所に帰った。(と、武将感状にある。)

(播陽物語(播陽万宝知恵袋に収録))

四書五経の筆写や、袖珍本の制作を依頼するという形で費用を用立て、姜の帰国をサポートしたという
逸話のある赤松広秀だが、その部下は朝鮮でひどい目に遭っていたようだ
375人間七七四年:2013/04/24(水) 01:14:13.43 ID:+gyH3aIl
その敵は一体何がしたかったんだ……
情報でも聞き出したかったのか、ただ単に気の済むまでいたぶろうとしただけなのか
376人間七七四年:2013/04/24(水) 07:16:05.98 ID:4jGU2sif
自分達の陣地に連れ帰らずにその場で拷問するってのが間抜けだな
377人間七七四年:2013/04/24(水) 08:00:23.51 ID:tBbyCNyz
義兵が復讐に猛ってただけとか
378人間七七四年:2013/04/24(水) 20:06:23.02 ID:vXwaQtUt
火病つてただけでしょうかと・・。
379人間七七四年:2013/04/24(水) 20:13:25.59 ID:Qi9JfOkH
大阪夏の陣の時のこと。

将軍・徳川秀忠はその軍勢の進軍が遅いと立腹し、御側の者達はこれを承って、殊の外
進軍を急ぎ、道も打ちまたぐように猛スピードで進んだ。

この時大御所である家康は、秀忠の軍勢が急ぐ必要はないと考えていたため、それを伝えたが、
秀忠の方は

「例え大御所様の思し召しであっても道を急いで攻め寄せるのが正しい!とにかく急ぐのだ!」

と、家康の言うことも聞かない様子であった。家康の方はいよいよ合点がいかず、

「何と言う手ぬるい行動だ。まるで弱みでもあるかのようではないか。」
と仰られた。

その後、家康の御前に成瀬隼人(正成)、安藤帯刀(直次)を初め何人かが集まり、この秀忠の
進軍に関して相談が持たれた。
ここで成瀬隼人が発言する

「大御所様のお考えは間違っております。大御所様が遅く来るようにとお考えになっているのと同じように、
秀忠様がお急ぎに成るのも、深い考えがあってのことなのです。
それに大御所様、秀忠様にも生まれつき、大御所様より優っているところもあるのですよ?」

家康これを聞いて
「優っている?あやつがわしにどれほど優っているというのか?」

隼人少し考え
「そうですな。この事はたいへん申し上げにくいのですが…、まあ、5倍は優っておりますな。」

家康、あっけにとられ
「おいおい、いくらなんでも5倍ということはないだろう!」

これに隼人
「それでは15倍も優っておられますかな?」

そう申し上げて御前を退出したそうである。
(紀伊國物語)
380人間七七四年:2013/04/24(水) 20:30:45.03 ID:+gyH3aIl
「大御所様息子を過小評価し過ぎですよ、心配しなさんな」ということか、ニヤリと笑って言ったんだろうな
381人間七七四年:2013/04/25(木) 01:09:12.40 ID:EQMFg1pX
尾張の付け家老か
最近まで子孫が国宝の城を個人で所有してたよね
382人間七七四年:2013/04/25(木) 14:15:11.10 ID:4yn1Iero
仙谷秀久とも似たような話あったよな
あれは関ヶ原直後だったかな
383人間七七四年:2013/04/25(木) 17:25:03.19 ID:MI+/cINI
朝鮮の役でのこと

”くちゃんかいねん”と言う所に攻め入って、そこの井戸の水を飲んだ所、どうにも味が悪く、
気遣って飲むのを止めた。

さて、この地域を占拠し、とりあえずやることも無かったので、大河が流れている所まで行って、
この川水を汲んで飲用に用いた所、皆々腹中痛み出し、体は血の気が引いて真っ青になった。

「これはきっと、川上からなにか流したのに違いない」と後で人々は考えたが、
しかし死ぬほどの事はなかった。
それでも、多く水を飲んだものは体が青く腫れ上がったため、人々はこれを『水風疾』と名付けた。

この後、先に進軍する時は皆々用心して、水を得るため新しく井戸を掘るようなことも有ったという。
(義殘後覺)
384人間七七四年:2013/04/25(木) 18:32:38.34 ID:adztKEHy
「食っちゃいかんねん」と言われてるのに飲むから
と冗談はさておき住血吸虫でもいたんかな
385人間七七四年:2013/04/25(木) 18:41:03.25 ID:gFh0H6AD
あるいは天然砒素とか
386人間七七四年:2013/04/25(木) 19:14:40.29 ID:dDW/kxPV
先日龍造寺四天王の散り様をいい話スレに投下したが、その中の一人江里口藤七兵衛信常。
この男、島津家久に手傷を負わせた際、「江里口藤七兵衛!」と名乗りを挙げて切りつけたのだが、
短い叫びだったためか聞き間違えられ、薩摩では勇士「”井口”藤七兵衛」として語り継がれているらしい。

そんな四天王の、ちょっと滑舌の悪い話
387人間七七四年:2013/04/25(木) 19:20:25.02 ID:prA9+65Z
川上シロンベロンといい、薩摩ではわざと滑舌の悪さを語り継いでるんじゃなかろうな
388人間七七四年:2013/04/25(木) 19:24:31.20 ID:zH4SnQ+T
薩摩と佐賀じゃ言葉が違うんじゃないの
389人間七七四年:2013/04/25(木) 19:26:23.78 ID:3GgiHJ2e
相手の滑舌が悪いのではなく、聞いた方が正しく発音できずに単語が変化してしまったのが方言だからな
390人間七七四年:2013/04/25(木) 20:45:58.27 ID:uQnskR5u
>>383
朝鮮は昔から不衛生で有名だからなあ
素戔嗚尊ですら嫌がったくらい
391人間七七四年:2013/04/25(木) 20:59:27.35 ID:56dO5KAK
慶長5年(1600)、関ヶ原の役
上杉征伐に向かっていた家康とその軍勢は、下野国小山で石田三成の挙兵を知る
この時、従軍していた中村式部少輔(一氏)はこのように言った

「石田の企ては、30日遅く、30日早かった。もし我々が上杉勢と交戦している最中に挙兵すれば、
彼の計画は図にあたっただろう。
また我々が江戸に到着する以前に挙兵し追い打ちをしかければ、大いに利があっただろう。」
(紀伊國物語)

中村一氏の、三成の挙兵のタイミングについての感想である。
392人間七七四年:2013/04/25(木) 21:45:30.46 ID:/G2hYSqy
上杉と交戦しなかった家康がスゴイと思う
393人間七七四年:2013/04/25(木) 21:47:50.82 ID:y4biFIZl
小山まで従軍してたのか、亡くなる前後のはずだからてっきり駿府で臥せってるのかと
394人間七七四年:2013/04/25(木) 21:59:49.78 ID:uQnskR5u
>>392
交戦しようとした矢先に三成挙兵の報が入っただけ
それがなかったらそのまま上杉と交戦してる
395人間七七四年:2013/04/25(木) 22:05:04.88 ID:MI+/cINI
>>394
そういえば中田正光先生の『北の関ヶ原合戦 ~北関東・東北地方で戦われた「天下分け目」の前哨戦』で、
「上杉は家康と戦う気はなかった」と断言してた。上杉の面子を保つ範囲で家康との講和を目指していたとか。
396人間七七四年:2013/04/25(木) 23:20:55.98 ID:M+ZUo8bM
東軍主力+伊達+最上に上杉120万石で対抗出来る訳無い

本能寺の変直前よりも無理ゲーじゃん
397人間七七四年:2013/04/25(木) 23:49:24.50 ID:o7TINGEP
>>393
史実では西軍が決起した頃に死んでる。
398人間七七四年:2013/04/26(金) 09:35:50.76 ID:UXZ1H25D
>>396
家康があのまま白河口に突入してたら佐竹、岩城、相馬なども上杉領に侵攻していたし正に四面楚歌
堀家が一揆で身動き取りにくかった事ぐらいが唯一の救いだな
399人間七七四年:2013/04/26(金) 10:38:46.85 ID:guINOens
白河口から征伐軍本隊、津川口から前田・堀らの北陸軍、
仙道口から佐竹ら北関東軍、信夫口から伊達
米沢口から最上ら出羽北陸奥連合軍、と
五路から数万の軍勢に攻め込まれる上に、
飛び地の佐渡と、最上領によって分断されている庄内領は
最初から諦めないといけないという四面楚歌どころの話じゃない状況

ところが一転、西軍蜂起で四路の軍が転進。
信夫口からの伊達にだけ対処すれば良いだけの負ようの無い戦いになったからな
最近よく言われる三成との密約はなかった説を取るなら景勝主従は神算鬼謀の持ち主
400人間七七四年:2013/04/26(金) 12:00:55.85 ID:UXZ1H25D
上杉じゃなくて三成の挙兵タイミングが神懸かっているのだと思うが
と言うか三成のタイミングが少しでもずれてたら詰んでいた訳だし
共謀していたとしか考えられないわな
まあ、いずれにせよ上杉石田の挙兵はこれ以上なく絶妙だった
401人間七七四年:2013/04/26(金) 12:24:17.09 ID:61JyAs4X
大津だの宮部だのにこだわらずさっさと清須辺りまで抑えていたら西軍有利だった?
402人間七七四年:2013/04/26(金) 12:42:02.75 ID:gHmooocO
>>401
大津はシカトできないだろ、交通の要衝すぎる
あと伊勢は徳川シンパの小大名がひしめいているし、
安心して尾張を攻めるにはやはり先にならしておく必要はある

となるとスケジュールをこれ以上早めるのはやっぱりむずかしい
むしろ東軍の反転の速さは予想外だろ
403人間七七四年:2013/04/26(金) 13:16:38.81 ID:k1RPgm44
確かに上杉と交戦中なら三成のタイミングで挙兵出来るが、その代わり上杉滅んでたかもな
密約あったからこそ、真面目な三成はあのタイミングで挙兵したんだよ
家康は上杉潰す構え見せて三成挙兵を誘ったんだろう
上杉も頑張るだろうから伊達の力も削げて、家康とっちゃあ上杉放置で西に行くのは理想だったはず
404人間七七四年:2013/04/26(金) 13:57:11.12 ID:gjoN/wUE
????「しかし、あんなにあっけなく決着がつくとは思いませんでしたな・・・三成役に立たない子!」
405人間七七四年:2013/04/26(金) 14:58:03.97 ID:VTn1cXqh
でも、なんとか東軍の先鋒だけでも撃破できなかったのだろうか
東軍側も先鋒と本隊の徳川勢の間が思い切り開いて、戦術上あまりよくない状況だったし
406人間七七四年:2013/04/26(金) 15:26:56.88 ID:1oiQR4OJ
アホな三成が百戦錬磨達の進言悉く無視だもんな
407人間七七四年:2013/04/26(金) 15:32:58.72 ID:AcZ/Bgwr
>>379
家康の墓で死にたいとか駄々こねたイメージなのに
結構家康にどきついこと言う鬼畜な成正さんはさすが三河武士のほこりやで
408人間七七四年:2013/04/26(金) 16:14:14.61 ID:pXRm+1bw
>>405
木曽川・合渡川から米野の戦い位までのタイミングしかないだろうけど、兵は分散してるしなあ
その後の岐阜城からの援軍要請に応えて大垣からゾロゾロ出ていったら多分関ヶ原本戦まで行かずに崩壊してるよ
409人間七七四年:2013/04/26(金) 19:38:14.99 ID:ngTA17tZ
>>405
と言っても、西軍はもっと分散してたからなー
東軍先鋒隊に兵数で優位に立ったのは、宇喜多らが伊勢から回ってきてからだし。
410人間七七四年:2013/04/26(金) 19:49:55.17 ID:tYuHgRcg
>>408
丹後方面を無視すれば岐阜城に援軍を送り込む事位できたような気がする。
そうなれば東軍先鋒の岐阜攻撃のタイミングで痛撃を与えることも可能だったかも。
411人間七七四年:2013/04/26(金) 19:52:15.17 ID:zDKsoLYX
もし岐阜城がもっと持ちこたえていたら
もし伏見城や大津城がもっと簡単に落城してたら
412人間七七四年:2013/04/26(金) 19:55:24.23 ID:eGNaG4PP
そもそも西軍は東軍の動向を全く把握していないんだから先を読んだ対応なんか出来るわけがない
413人間七七四年:2013/04/26(金) 20:29:49.91 ID:auBae9ly
>>410
無理無理
元々会津に従軍予定だった連中と違って、近隣だからって寄せ集めた勢だぞ
数で囲むだけで戦わないから丹後行ってるのであって戦力にならん
414人間七七四年:2013/04/26(金) 20:30:59.12 ID:ngTA17tZ
情報伝達や移動のタイムラグが大きい時代だから仕方ないさ。

西軍は元々決戦とかする気が無くて、孤立する筈の家康に対して
翌年に関東攻めというスケジュールだったし
415人間七七四年:2013/04/26(金) 20:43:36.17 ID:pXRm+1bw
>>410
順序が逆だし、あの辺り方面の小大名寄せ集めの軍勢なんて小野木以外どう動くかわかったもんじゃない
織田信包辺りが
「領国が不安だからヤダ」
とか言い出したら追従しかねんし、大人しく付いてきても役にたたないよ
頑張って大垣の留守居、そして下手すりゃ寝返る
416人間七七四年:2013/04/26(金) 21:42:44.02 ID:EC1KSH/h
三河武士は家康に一言皮肉を言えるようになってはじめて一人前

・・・という通過儀礼でもあったのかと疑いたくなるよね
417人間七七四年:2013/04/26(金) 21:46:05.38 ID:J1xm2FS1
>>416
組織としては超重要だか非常に難しいぞ、それ
418人間七七四年:2013/04/26(金) 23:08:40.77 ID:No9bYfyn
主を貶せるようになれば一人前・・・・つまり黒田家は皆一人前
419人間七七四年:2013/04/27(土) 00:30:21.24 ID:j4FKDUgx
丹後方面軍は小大名だけで構成したのが間違い
宇喜多や毛利の補助に配置しとけばよかったんだよ
420人間七七四年:2013/04/27(土) 00:30:42.70 ID:Sw5oXsom
官兵衛に歯向かった奴なんているの?
421人間七七四年:2013/04/27(土) 01:36:56.51 ID:E5ujqAhY
NGMSだろ
422人間七七四年:2013/04/27(土) 01:40:35.58 ID:FkzD9Ro4
>>397
そうか…
関ヶ原まで生きていてくれれば、タコを召喚して面白いことになっていたのに
423人間七七四年:2013/04/27(土) 09:51:14.26 ID:UjUwTEYi
良い話でも悪い話でもないが

秀吉死後の所謂家康の婚姻問題において、諸侯は家康派と前田利家派の2派に別れ一触即発の状態となった。

徳川家康には、池田輝政、福島正則、黒田如水・長政親子、藤堂高虎、森忠政、そして新庄駿河守などの小身衆、
また有馬法印、金森法印、織田有楽らが味方した。
大身小身共に、毎夜家康の屋敷に詰めていた。

中でも大谷刑部少輔吉継は、

「もし家康公に向かって敵が攻めてくれば、何時であっても先手を仕り、奉行衆共と一戦いたす!」
(若し家康公へ敵取かけ候はば、何時も先手を仕り、奉行共と一戦仕るべき)

と申され、自身の屋敷に人数を集め敵を待ち受けられていたそうである。
(玉露叢)

大谷吉継の、家康派としての活動が特筆されている記録である
424人間七七四年:2013/04/27(土) 10:54:21.46 ID:3I0DzSas
その大谷吉継が最後の最後に家康を裏切ったという悪い話か
まあでもこの前発売された歴史街道では吉継の子孫が
「最後に武将として大きな存在である家康に挑みたかったのだろう」(ちょっとうろ覚え)とか言ってたね
子孫が親藩である越前松平家に仕えられたのも吉継が家康の信頼を得ていたからだとも
425人間七七四年:2013/04/27(土) 11:17:08.90 ID:Lo4acF+I
越前松平ってどちらかと言うとお上に睨まれていた人が集まっている感じだが
426人間七七四年:2013/04/27(土) 11:27:44.35 ID:2yI8hEp+
そうした人材の受け皿としてはよかったんだろうね>越前松平家
427人間七七四年:2013/04/27(土) 12:28:53.41 ID:KmFhVaoa
北陸関ケ原はちょっと前まで敵だった、前田が味方で、
味方だった大谷と丹羽が敵になってて面白い。
428人間七七四年:2013/04/27(土) 12:29:06.45 ID:Tfoo7lvo
制外というのを上手く使って放置しとくと徳川にとって危険だが使わないのも惜しいような連中を集めてた感はある
429人間七七四年:2013/04/27(土) 12:38:57.55 ID:gRbdHG7j
つくづく徳川パネェ
430人間七七四年:2013/04/27(土) 15:57:17.01 ID:NA5LBGAu
>416、タヌキさんの場合道理が通ってれば文句言ってもいきなり斬られることはないだろうし。平八郎に折檻されるか友に冷笑されるかはともかくとして。
これが末期のラスボスとかだと首がポーンしかねない
431人間七七四年:2013/04/27(土) 20:14:31.18 ID:Tfoo7lvo
>>430
末期なら首がポーンじゃなくてポポポポーンだよ
家族とか一族的な意味で
432人間七七四年:2013/04/27(土) 20:40:03.96 ID:+rsyMp3u
諫言するたび、一族消えるね
433人間七七四年:2013/04/27(土) 21:05:48.34 ID:tMrczh2L
刑〜死〜
434人間七七四年:2013/04/27(土) 23:58:40.68 ID:te4Y41y0
うまくまとまってるんじゃないよ!
435人間七七四年:2013/04/28(日) 01:00:28.79 ID:N2441eKb
>>427
丹羽長重って立花宗茂と同じくらい名将だと思うけど
全く評価されてないよね
436人間七七四年:2013/04/28(日) 04:20:52.81 ID:T2ysZs7J
>>435
全く評価されてない人をなぜ名将と思うのかが知りたい
437人間七七四年:2013/04/28(日) 06:13:48.24 ID:MkNtV6ec
築城に長けていたとはよく聞くけど
438人間七七四年:2013/04/28(日) 07:08:03.56 ID:nVqyR022
名将かは知らないけど、関ヶ原で改易されたのに
最終的に関ヶ原前以上の石を得てるのはすごいかもしれない
もっとも、親父から受け継いだのは100万石以上だけど
あれはほら、ラスボスに睨まれてたし
439人間七七四年:2013/04/28(日) 07:29:48.21 ID:p2cuovEF
同じように改易から復活したのにその点で仙石秀久を評価する人はめったにいない罠
まあそもそも仙石の改易は完全に自業自得だけど
440人間七七四年:2013/04/28(日) 07:37:48.44 ID:T2ysZs7J
力関係を見極めての根回しとか、自分の印象付けとか上手いよね。
御子柴とかに比べて圧倒的に。
441人間七七四年:2013/04/28(日) 07:38:27.23 ID:9iZ4bBa4
>>430
生前の家康公は、狸ではなく猛牛に喩えられていたとか何とか
442人間七七四年:2013/04/28(日) 08:00:31.96 ID:Pm2buK+h
>>441
なんか、現在の良くも悪くも我慢強くて怜悧なイメージと違って、秀吉が「おれに天下でかなう奴居ない」って言ったとき
「殿下は小牧のことを忘れたか!」って怒鳴った話みたいに、あいつ怒らせるとガチで危ない、みたいな印象があったらしいね。
多分三方ヶ原で武田軍相手に玉砕して以来の印象。
443人間七七四年:2013/04/28(日) 08:19:26.74 ID:KTXbAPOz
>>440
御子柴って、阪神の元ピッチャーの?
444人間七七四年:2013/04/28(日) 10:27:35.89 ID:I+I6BckX
>>438
秀忠のアッー!の兄貴だったからじゃないの
445人間七七四年:2013/04/28(日) 11:08:13.16 ID:I+I6BckX
修行中の身でリンク禁止だから貼れないけど
まとめサイトの「丹羽長繁るへの、秀忠の懇志」にも書かれているけど
ほぼ確実に衆道の間柄だったとみていいと思う

『徳川実紀』には
「右大将殿もとより長重とは懇に御したしみありければ、しばしば長重が事なげかせ給ひしにより、かく召し出されたり」

『名将言行録』には
小田原の役の時に長重がまだ若いのによく兵を用いているのを見た家康が深く親しで
秀忠と兄弟の契りを結ぶように引き合わせたと書かれている
446人間七七四年:2013/04/28(日) 16:12:14.26 ID:1utBP5pf
見しは今。上野国石根という所の光円寺という坊主は永伝という弟子を一人もっていた。
住持は七十余り、弟子は四十に及ぶ。

弟子は早く寺を請け取りたいと望んだが、老僧は渡さなかった。
ある夜、弟子は師匠の首をくくり殺し、頓死したと檀那に知らせた。

しかし、天罰は逃れ難く、事実はあきらかとなり弟子は首に縄をかけられて江戸にやって来た。
御奉行衆は「五逆の罪人、言にたへたり」と仰せになって、弟子は浅草原で磔にされた。

――『慶長見聞集』
447人間七七四年:2013/04/28(日) 16:39:10.99 ID:1utBP5pf
>>446
申し訳ありません、訂正します。
×弟子は早く寺を請け取りたいと望んだが、
○弟子はとっくに寺を請け取ってもよいはずではあるが、
448人間七七四年:2013/04/28(日) 16:57:07.72 ID:U4unQ/i8
坊主も隠居みたいな制度だったのな
死んでから住職交代するものだと思ってた
449人間七七四年:2013/04/28(日) 17:18:27.16 ID:t3Z6YHFM
世の中には3日間で住職辞めた人も居るくらいだ
なりたがる人がいるって条件付きで割りと頻繁に交代はする
450人間七七四年:2013/04/28(日) 17:59:27.28 ID:ZQhjAYsu
天正十六年刀狩りの令が発布され、
諸国百姓等の刀、脇差、弓、鉄砲、その他武具の所持が禁じられた。
これは社会科の授業で習うので大半の人は知っているが、
これ以前にも戦国時代に刀狩りが行われている。
それは天正四年、柴田勝家により、
越前国の民間から刀、弓、鉄砲、馬具を集め、
これを農具に作り替え農民に与える政策が行われた。
当時これを「刀さらへ」と人々は呼んだという。
しかしこのとき武具没収を免除された者たちもいる。
それは越前国内の一向衆以外の寺社関係者たちであった。
このことから「刀さらへ」は一向一揆の戦闘力削減政策だと読み取れる
4511/2:2013/04/29(月) 00:09:36.98 ID:0q8LlLTo
大永4年(1524)、相馬顕胤は義父である伊達稙宗より相談を受けた。稙宗はその嫡男である晴宗に、
そろそろ妻を娶らせたいが、岩城重隆に年頃の娘が有ると聞く。これを嫁に迎えたい。
ついて近隣である相馬が取り次いで頂きたい、というものであった。

これを承った相馬顕胤は家臣たちと相談。木幡出羽守を岩城へと派遣した。
岩城側の相馬との取次は志賀寒虫という岩城家家老であり、先ず彼の邸宅を尋ねた。
双方、普段から交流のある中であったため、寒虫は直ぐに出てきて
「今日は一体何の御用だろうか?」と聞いた

これに木幡は先ず「岩城重隆様には、確かご息女があられましたな?」
「確かも何も、殿はお子様はご息女お一人だけで、大変に愛していらっしゃっている。
それよりも、何故そんなことをお聞きに成る?」
「ええ、そのことです。顕胤が私をこちらに遣わしたのは、岩城重隆様のご息女を、
伊達稙宗様が御嫡男の晴宗の後妻女として貰い受けたい、と願われまして、顕胤に媒をお頼みに
なられたのです。
御存知のように顕胤は稙宗様の婿であり、また若輩でもありますのでこう言ったお頼みは
断ることはできません。どうかあなたから重隆様にこの事を申し入れられ、首尾良く出来ますように、
あなたの才覚に任せ入る所であります。」

寒虫聞いて
「そのお話は、私のような者にとっても喜ばしいことです!むろんご息女様は未だ誰とも婚約なども
しておられぬ。ですが私ばかりがこのように申していても仕方がない。 これから重隆に申し伝えて
話を決めてきたいと思う。暫くここで待っていて頂きたい!」
そして早速登城しこの話を重隆に説明すると、重隆も
「私の娘を伊達に遣わすことといい、相馬が媒酌人を勤めることといい、万喜千悦、限りないほどである。
しかし伊達は大身であり、我ら岩城は小身であれば、不相応であるという事にさえ異議がないのであれば、
この縁組は実に有り難いことである。」

寒虫これに
「岩城の事は、例え伊達が知らないとしても、相馬殿は燐郡であれば良くご存知です。
そして御心にかなったからこそ、こうやって仰せ出になられたのです。」
「そういう事ならばこれに何の問題があろうか。但し私には跡継ぎが居ない。私の娘と晴宗殿の間に
子供が出来たなら、嫡男を給わって我が跡を継がせたい。そうそう、乳母にもこのことを聞かせるように!」
と言われたため、寒虫は息女の乳母のもとに行きこの事を話すと、彼女も大いに喜んだ。
この頃岩城重隆は妻を亡くし、独り身であった。

さて寒虫は御前を下がり帰宅して、待っている木幡に早速報告した
「さてさて、目出度く殿はご了承なされた。こちらは固く事済みました。伊達については、
相馬殿にお任せいたす。」
木幡出羽も「どうぞご安心下さい」と、直ぐに帰ろうとしたが、寒虫から「このように目出度いことですから、
祝儀の一献を」と饗応を受けた。

木幡は帰って顕胤に詳細を報告し、顕胤から伊達稙宗に、岩城重隆の存念は残らず伝えられ、稙宗からも
大いに喜ばれた。
が、この輿入れは延期された。それはこのような事が起こったためである

相馬の方では新婦のための座所が完成し、この事は岩城にも伝えられ、もはや伊達稙宗からの
受け入れ準備の完了を待つだけ、という状況であった所に、羽州名掛の者で、小高町に住んでいた
商人が、岩城の町人からこのようなことを聞いたのである
「岩城殿の娘は、白河殿(白河結城義綱)の御嫡男(晴綱)の所にお嫁ぎになると、もっぱらの噂です。」

この商人は岩城のご息女が相馬家の媒酌で伊達に嫁ぐということを聞き知っていたため、実に
不審なことだと思い、商売の品を宿に預け、すぐさま岩城から小高まで帰り、もはや暮れ時であったが
そのまま木幡出羽守の台所を尋ね、「お殿様に直接お伝えしたいことがあります!」と言う、
何事かと木幡出羽出て、彼に話すように言えば、「実は…」と、岩城での噂をありのままに伝えた。

これを聞いた木幡、賤しき者の言葉ながら、ともかく殿にお知らせしなければと、もはや夜間であったが
急ぎ登城し顕胤に申し上げた。顕胤はこれを聞くと笑われ
「夜中に何事かと思ったが、岩城重隆ほどの人物が、どうして娘一人に婿八人というような事を
するだろうか?町の者の無責任な噂など、取り上げるほどのことではない。」
4522/2:2013/04/29(月) 00:10:28.88 ID:0q8LlLTo
しかし木幡
「しかし、現在は自分だけが勝てば良いという世情であります。今日は今日、明日は明日などと
別けて考え、どんな約束も頼みには出来ません。先ず諸老臣とこれに関して評議すべきです!」
「実否もわからないまま老臣を集めて評議しても仕方ないだろう。では小人二人、歩卒一人を
商人に変装させ、白河に遣わして様子を探ってこさせよ。」

そうしてこの3人に、台所に有った鰹節や麻を少々、商品として持たせ遣わした。
一両日して彼らは帰ってきて、報告する

「岩城殿のご息女と白河殿との祝言が、近々必ず行われます!」

老臣たち尋ねる
「どうしてお前たちはそのように言い切れるのか?」
「それはこういう事です。巷説は勿論のこと、染屋、鍛冶屋。木細工屋などが、急ぎ
婚礼用具の用意を命ぜられているからです。」
相馬顕胤は予想外のことであると驚き、一族諸老を集め相談し、とにかく取次の志賀寒虫の元に
使者を遣わし事情の説明を求めることになった。

寒虫は使者の言葉を最初笑っていたが、やがて驚き、「重隆が私に聞かせないような事は
よもや無いとは思うが、とにかく重隆より承ってまいる!こちらで暫く待っていてほしい」
と、直ぐ様登城し御前に出た

「相馬殿より使者が使わされ、このような事を言って来ました。殿はそのような不義をなさったのでしょうか?
そして何故それを私に仰って頂けなかったのですか!?」
しかし岩城重隆は扇で頬杖をついて、寒虫から何度声をかけられても答えなかった。
重隆は大変な上戸であり、この時も昼間から大酒を飲んで泥酔していたのである。

それでも寒虫は詰問した。「相馬からの使者をどれだけ留め置く気ですか!?本当に白河と縁組が
有るのであれば、その理由をご返答あれ!」

すると重隆は顔色を変えて
「どうしてだと!?白土与七郎が言うには、伊達はその領地が我らから遠く離れており、
多くの郡を隔てている以上、婿を仕ったとしてもなんの役にも立たない。
一方白河殿は、何を申し合わせるにせよ燐郡であるので便宜であり、また子が出来れば貰って
家督に立てるのも易き事である。内々に白河殿よりお望みがあったが、既に伊達から先に話が来ていると
申した。ところがそれは以ての外の分別だという。しかし伊達と、相馬殿の媒酌で先に縁が決まった以上、
これを取りやめるのは難しいと言うと、白土は、それは大丈夫だ、白河と岩城が一和すれば、どこからも
手出しなど出来はしませんし、時が経てばどうとでも成ることです。是非白河に嫁がせて頂きますように、
と言うではないか、よってそのようにしたのだ!」

この白土与七郎は志賀寒虫と同じく岩城家の重臣で、白河結城氏との取次であった。

寒虫は怒り
「さてもさても、殿は御運がお尽きになった!相馬殿が木幡を使者に立て固くお約束なさったことを
お忘れになったのか!?今に見給え、相馬伊達の両勢にて岩城は攻められますぞ!ですが御家に忠義の
者達も、私を始めとして不義の将に忠戦致すものはおりませんぞ!そうなれば岩城は滅亡の時です!」

そう言い捨ててそのまま御前を退去した。そして相馬からの使者にもこの事を知らせ、
使者から詳細を聞かされた相馬顕胤は
「さてもさても、重隆殿はなんという無分別の人だろうか、相馬を何だと思ってその様な事をなさるのか」
と言い捨て、その後何も言わなかった。

志賀寒虫はそれから日を経ずして妻子を引き連れ岩城を立ち退いた。途中小高の城下を通り、
この時顕胤は「このまま相馬に留まってほしい」と仰ったが、彼は更に奥の大崎に向かって去っていった。、
(奧相茶話記)

岩城重隆の、婚約破棄事件に関する話である
453人間七七四年:2013/04/29(月) 01:22:12.81 ID:ND0FTJMI
>>448
今でも支障が出るほどの重病なら隠居して家督相続みたいな形を取る場合があるみたい
454人間七七四年:2013/04/29(月) 07:11:38.04 ID:CVE3W22k
神主も終身で、普通は体がきかなくなったら引退するんだけど早くにボケが始まって
行事やら会議やらすっぽかすようになって周りの人が呆けに気づいたときには
すっかり恍惚状態で神主なんて無理なんだけど本人が引退するって言わない限り交代出来ないので
みんなてんやわんや、というのが昔身近であったよ
455人間七七四年:2013/04/29(月) 23:02:29.39 ID:oyb4lvdo
江戸幕府の意向で宗派の本山による統制が進んでからは末寺の住職は本山が指定してたんじゃなかった?
住職クラスも結構色々な寺を異動して回ってたみたいだし
456人間七七四年:2013/04/30(火) 00:59:54.79 ID:1p0wPT3v
うちの近所の神主さんは定年があるw
まぁでかいところはまんま会社だからなぁ
457人間七七四年:2013/04/30(火) 10:07:10.61 ID:skzijdtl
小さい神社の神主は兼業が多いな
大概は公務員やっている

江戸時代以前の末寺ってどうやって食ってたんだアレ
寺領1石程度で檀家ゼロなんてのが大量にあった
458人間七七四年:2013/04/30(火) 11:50:32.11 ID:4vFIosP3
本山が戦略的出院として援助寄越してたか
もしくは食い詰め者の流浪坊主が勝手に寺を名乗ってたか
459人間七七四年:2013/04/30(火) 12:40:41.79 ID://dvgk4Y
寺社はその他収入がありそう。
今と一緒なんじゃね?
この時代もお祓いでも冠婚葬祭でもすればお礼金貰えたのでは?
460人間七七四年:2013/04/30(火) 13:11:56.93 ID:Y0iUc6wE
熱田の神主は信秀の美濃遠征に付き従って死んだり、桶狭間でゲリラ特攻して戦死したりしてたっけか
461人間七七四年:2013/04/30(火) 13:45:20.56 ID:UKq23YV4
阿蘇神社の宮司が纏めた阿蘇神社の本だと鎌倉時代の有力社の甲佐・健軍・郡浦(こうのうら)が末社で、甲佐社領が四百町前後、健軍社が二百町を越え、郡浦社は正確には確認できないみたいだ。
「阿蘇社宮師長慶譲状」
なんかでは長慶が息子に正覚寺って寺の別当(住職)の地位と周辺の田地、阿蘇本社の供僧職(阿蘇社に出仕して祭祀を勤める立場、ちなみに『宮師』は阿蘇社十二供僧の内第二位らしい)を与えてるとあるらしい
公的に建立された寺院とは違い、私的な由緒で建立された寺院には本来国家の保護は期待出来ないけど、僧侶が神社に属して祭祀に参加すると、その可能性が出てくる、ってこの譲状は示しているそうな
462人間七七四年:2013/04/30(火) 14:01:49.71 ID:UKq23YV4
ちなみに戦国時代だと、野外で大宮司が唯一参加する下野狩って大規模な祭があったらしい
上級社家、下級社家、領内の侍、勢子の猟師や領民、供僧から阿蘇山上の僧侶まで、 阿蘇五岳西麓の末端の原野である下野で、阿蘇社全社領から挑発された数千規模の勢子が五岳の猪や鹿を追い込んで狩って神に供えるっていう大規模な巻狩だそうな。
この狩りの際の大宮司は白木の弓矢、白皮の弓懸、白皮の沓を履いて、五色の幣を腰に携えるという、阿蘇神社の主神、健磐龍命(たけいわたつのみこと)に準えて参加したそうで
阿蘇、益城二郡を支配下においた阿蘇大宮司の政治力を示す神事ってことで、阿蘇家の最盛期はこんなことも出きるくらいの力持ってましたよと。
まあ、天正十年(1582)以降は勢力が衰えてしまって絶えてしまったようだけど…
463人間七七四年:2013/04/30(火) 16:08:59.43 ID:PYRrWnfp
阿蘇氏や諏訪氏は神職でありながら大名のような支配力を有していたからな
僧も強大な力を持っていたが、神主はより武士に近い存在だったと言える
464人間七七四年:2013/04/30(火) 16:36:23.95 ID://dvgk4Y
寺社家の者に剣豪多いからね。
そもそも歴史を学ぶ上で武家や社家の区別あるが、
当時、しっかり区別されていたかはわからない。
寺の僧兵という言葉も近世から使われだしたと言うし
465人間七七四年:2013/04/30(火) 17:30:56.69 ID:iq9Ay5af
台徳院殿が駿河殿を世継にしようと思し召されたとの世上の沙汰は大きな虚説である。

ある時、駿河殿は西の丸の御堀で鉄砲を使って鴨をしとめられた。
鴨は大御台所へ献上され、それが料理されて、台徳院殿へも御上げなされた。

(大御台所が)「これは国が初めて鉄砲でしとめたのですよ」とのいきさつを
仰せになると、台徳院殿は駿河殿の御附の某を御呼び出しになり、

「西の丸は神君御縄張であり、御世を手前へ御譲りの後はその西の丸におられた。
そして、只今は竹千代を差し置いておる。

それを、国松の分際でこの城へ向けて鉄砲を撃つなど、尊大な行為であるぞ!
附けておいた者どもの心得が悪いからこういうことになったのだ!」

と、たいそう御叱りになったということだ。この事から、台徳院殿が世継を
替えさせようと思し召しにはならなかったことが知れよう。

――『責而者草、鳩巣小説』
466人間七七四年:2013/04/30(火) 17:43:19.99 ID:iq9Ay5af
>>465
すいません、ちょっと訂正します。 ×尊大な行為 ○不届きな行為
467人間七七四年:2013/04/30(火) 18:32:06.62 ID:STMvl791
葵徳川三代にあったな。
468人間七七四年:2013/04/30(火) 23:07:12.87 ID:PYRrWnfp
権力の中枢にいると、ちょっとした言動も命取りになる
政権側にとっても、こういうちょっとした事を放置して積み重なると瓦解に繋がる事がある
一見するとつまらない事で咎められたように思えるけど、小さな配慮はとても大事な事なんだよな
秀忠の言う様に、御付きに気が回る者がいなかった事は国松にとって不幸であった
469人間七七四年:2013/05/01(水) 06:33:01.25 ID:4dboLDCB
ある時、上方より優れた相撲取り達15人ばかりが、許状を取った上で西国を廻り筑後へと来た。
この事を小早川秀包が聞き、元より相撲を好まれ、それまでも、相撲に名のあるものを20人ばかり召し抱えていたため、
彼らと相撲を取らせようと、相撲取りたちに宿を取らせ、4、5日休息させ、その後白洲に召されて手の者達と相撲を取らせた。

ところが、さすがに上方から許状を取って下って来た程の者達であり、何れも手練にて、秀包の20人ばかりの相撲取りを、
尽く打ち負かした。

秀包は顔色が変わり機嫌もすっかり悪くなり、御前の人々もすっかり盛り下がっていた所、行事が言った
「御相撲はもはや尽きたのでしょうか?取り組みのお望みがもはや無いのであれば、撤収したいと思います。」

これを聞いて秀包は
「私の抱えた連中は何れも脛の立たぬとは、なんという浅ましさか!野津の仁兵衛はそこにおらぬか!?」

仁兵衛、承って御前に出ると、秀包これを見て
「私の相撲取り共は尽く負けた!汝出て責任をとれ!」(汝いでてせきをとれ)

仁兵衛驚き、『これは何とも思いもよらぬお言葉だろう。私は侍の役儀に関しては調練してきたが、相撲の取り方など
調練しておらぬ。しかし御命令である以上、出るより他ない』と、裸になり下帯をよく締め、9寸5分の鎧通しをしっかりと挿して
出てきた

『例え彼らと相撲をとっても、10回やっても100回やっても負けるであろう。どうしても彼らに下されるくらいなら、あの腹を背中まで
突き通して打ち捨てよう。それにどれほど難しいことが有るだろうか。』

上方の相撲取りたちは仁兵衛の姿を見て当然ながら抗議した
「その脇差はいかがなものでしょうか?どうかそれを取って頂きたい。」
しかし仁兵衛これを聞いて
「お前たちのような相撲取りはそう思うだろうが、それがしは産まれてから刃物を片時も離す事が無かった。これは侍の身の道具であるから
こう挿しているのだ。お前たちは少しも気遣いすることはない!さあさあ、そんな事より立ち会いを合わせよう!」

行事はこれに「仰ることはご尤もではあるのですが、相撲をとる上は、同じようにお取り下さい。」
しかし仁兵衛「お前たちは要らぬ所に気遣いをするものだな。さあさあ、そんなことより早く取ろうではないか!」と怒って言い放った。

これには仕方なく、立ち会いを始めたが、立ち会った相撲取りが心に思ったのは
『この相撲にもし勝ったら、私の腹を刺し付かれる事は疑いない。命を失っては何にもならない。』と、引き組んで程良いところで、
土俵の真ん中で負けた。

この取組に、秀包を始めとして御前の人々、一度にどっと笑った。このようにして仁兵衛は二番打ち勝つ。その次の”かんせき”という相撲取りも、
もし勝ったら脇差で突かれると恐れて、様子よく相撲を見せて土俵の真ん中で負けた。

仁兵衛が都合三番打ち勝った事で、座中は大いに笑い、秀包も機嫌よく、相撲取りたちはそのまま退散した。

後に野津仁兵衛が語ったことには
「彼らはさすが上方の者達だけあって、心きいていた。無才覚の奴らだったら、2,3人は腹を突き通すことになっていただろう。」
と、大笑いしたそうである。

それから秀包は、それまで召抱えた相撲取りたちを尽く召し放ちにしたそうである。
(義殘後覺)
470人間七七四年:2013/05/01(水) 06:55:40.34 ID:FzF2uBvz
八百長相撲ならぬ仁兵衛相撲と呼ばれたそうである
なんちて
471人間七七四年:2013/05/01(水) 09:11:27.84 ID:eYbbqQTy
なにこのシグルイの世界こわい
472人間七七四年:2013/05/01(水) 09:37:31.32 ID:ZEPS/1lc
これ現代のスポーツマンシップや平等観からみたら?だが、
仁兵衛さんの対処はこうするしかないだろ。
一度は主君の無理難題を諌めてるし、、、
相手の土俵で正々堂々やって負けて理不尽に悔しいのは仁兵衛さん一人。
相撲取りは刀がなければ…と後から理屈はつくしね。
秀包もこの展開を読んで小早川家の面目晴らしたならさすがだが、
それでも無茶だよなあ、と思うオレも現代人だな(笑)
473人間七七四年:2013/05/01(水) 10:59:36.65 ID:OYTBu6sV
イイハナシダナー
474人間七七四年:2013/05/01(水) 11:38:37.35 ID:mu3gU2Le
観客を楽しませつつ程よいところでわざとらしくなく負けるって難しいよね。
475人間七七四年:2013/05/01(水) 12:05:11.31 ID:nn1ElgKs
立ち合いは強く行って、あとは流れでお願いします。
476人間七七四年:2013/05/01(水) 17:26:18.36 ID:4/41+WON
これって…北の将軍様と大して変わらんな
477人間七七四年:2013/05/01(水) 17:48:42.99 ID:r7gPLnkR
井伊直政が大政所を送って上洛した時、直政は豊臣秀吉に召されて饗応が行われた。

この時、石川数正も直政の昔の傍輩だからということで接伴に召されたが、
直政は数正に背を向けて、面をも合わせなかった。

秀吉が自ら茶を点じて与えようという時にも、数正はまた接伴したが、直政は側の人に向かい、

「これにおります数正は、数代相伝の主君に背き参らせ、殿下に従った大臆病の男なので、
直政は彼と肩を並べて膝を組むことは御免蒙りたく思います」

と言ったので、御前に居合わせた人々はみな舌を振るわせた。

――『責而者草(藩翰譜)』
478人間七七四年:2013/05/01(水) 19:25:14.40 ID:I6ZCd8uD
秀吉が気を利かせて昔のよしみで数正を同席させた中の御前での啖呵だからスゴいね
さすがにめんどくさい家臣団の中での筆頭だけある
てか、ラスボスは直政が懐かしがって喜ぶとでも思ったのだろうか…
479人間七七四年:2013/05/01(水) 19:33:02.09 ID:ctIUhIVi
三河者の譜代なんてしょっちゅう裏切るからなあ
そのくせ苦労してると聞けば帰参したり
松平の殿様と今の主君は別腹って感覚なのか?
480人間七七四年:2013/05/01(水) 20:04:41.99 ID:4/41+WON
そんなにしょっちゅう裏切ってるかなあ?
清康広忠のときはカオスだから仕方ないと思うけど

家康のときは、石川、大賀、一向一揆以外に誰か裏切ったっけ?
481人間七七四年:2013/05/01(水) 20:34:40.60 ID:nZuPJVUE
三河者の場合、主君に嫌気が指しての裏切りというか出奔じゃないからね
482人間七七四年:2013/05/01(水) 21:00:29.34 ID:nZuPJVUE
>>477にちょっとリンクする話

天正19年12月28日、秀吉は関白の座を養子に迎えた甥の豊臣秀次に譲った。
家康は秀次の関白就任祝いに名代として井伊直政を上洛させた。

一連の公式行事が済んだ後、聚楽第の一室で秀次と直政は碁を打つことになった。

対局中、直政は長久手合戦での秀次の敗走の話をし始めた。
直政は何食わぬ顔をして碁を打っている。
居合わせた諸士たちは、肝を冷やしながら見守っていた。
(井伊年譜)

関白をも畏れない悪い話だかいい話だか
483人間七七四年:2013/05/01(水) 21:50:20.17 ID:DE1+Hoq+
>>469
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6599.html
>395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/14(土) 06:41:24.95 ID:u1g3oh1k
>>どの辺が相手を斬っていいラインなのかね
>これ時期にもよるし藩主の考えにもよる
>戦国期なら百姓町人を切っても事情があれば許されたし褒められもした
>江戸期に入ると、刀を抜いただけで処分もありえた
>(更に刀を抜いて相手を殺せなかった場合は武家の対面という意味でも処分された)
>
>たしか商人に呼ばれて、相撲取りと相撲しろと強要された侍が相撲取りを切り捨てた話があったはず
>この人は処分されておらず、切ったのはもっともな話ってオチだったはず

斬られなくてよかった
484人間七七四年:2013/05/01(水) 22:11:04.85 ID:hDelicPc
なんか碁を打つってのが門番だの関守だのどこぞの嫁に挨拶するのと同じ位のフラグ臭がしてきた
485人間七七四年:2013/05/01(水) 22:17:07.64 ID:I6ZCd8uD
>>482
この人の場合、空気が読めないじゃなくて
もはや空気を読んで言ってるよなw
486人間七七四年:2013/05/01(水) 22:19:48.77 ID:DE1+Hoq+
これだから三河武士・・・井伊は違った
487人間七七四年:2013/05/01(水) 22:40:27.27 ID:QeAhPR5A
>>469
仁兵衛のとった行動は武士らしくていいんだけど、秀包は酷いな
488人間七七四年:2013/05/01(水) 23:08:32.25 ID:ZEPS/1lc
井伊直政は鍋島直茂にも桜の花より美しい武士だと評価されてたな。
逸話もカッコイイものが多い人だ
489人間七七四年:2013/05/02(木) 00:02:26.58 ID:DPGCPxkL
井伊直政って三河武士の範疇に入れていいの?
490人間七七四年:2013/05/02(木) 00:19:55.10 ID:i4UH1Fi+
入れちゃダメ。岡崎譜代ではあるけど。
491人間七七四年:2013/05/02(木) 00:33:08.88 ID:PZ8vPYeS
ある意味、三河武士より三河武士らしい所も多く
偏屈者ばかりの中で揉まれながらも、しかし戦を離れれば紳士的な振舞いを身に付けており
更にスマートな外交術も出来る洗練さに毛色の違いは出ている
492人間七七四年:2013/05/02(木) 07:53:44.96 ID:uD16CXSz
つうか素直で大人しい戦国武将の方がレアだと思うけど
493人間七七四年:2013/05/02(木) 08:21:57.71 ID:i1bLLOLa
何度でも城を差し上げる天庵さまのことかー!
494人間七七四年:2013/05/02(木) 08:29:19.57 ID:u6JC1lI9
>>491
醤油や鰹節の逸話を見る限りでは大久保党に
あと作左や減らず口の小平太にも鍛えられているようだしな
榊原康政も前に出てた逸話みると最終的に直政のこと一番に信頼していた風だ
495人間七七四年:2013/05/02(木) 08:32:36.73 ID:u6JC1lI9
>>492
直政は平素はつか権現様の前では素直で口数が少なかったんじゃなかったか
496人間七七四年:2013/05/02(木) 08:43:28.28 ID:u6JC1lI9
あ、少し語弊があったな
平素は口数が少なく権現様の前では素直、だった
497人間七七四年:2013/05/02(木) 09:51:26.94 ID:hsu6lKIk
三河武士は権現さまの前では皆素直に言いたいことを言う
498人間七七四年:2013/05/02(木) 10:09:17.67 ID:u/7uvxzx
直政がふだん口数が少ないってのは、俺もどこかで見た気がする
でも、権現さまの前では感情を爆発させてたかも知れないよ

権現さま、そういうタイプ好きだし…
499人間七七四年:2013/05/02(木) 10:45:33.34 ID:+ey38T3L
NOと言いまくりな三河武士
500人間七七四年:2013/05/02(木) 10:46:38.06 ID:i4UH1Fi+
>>491
なにより、男色にあまり興味のない権現様ですらウホッとなるイケメンだし。
501人間七七四年:2013/05/02(木) 12:08:56.81 ID:u6JC1lI9
>>498
「殿が大事にしている栗毛の馬が欲しいの☆」とか
「殿が大事にしている正宗が欲しいの☆」とか
小悪魔全開で権現様の愛人を確かめるようにおねだりしているようだしな☆
502人間七七四年:2013/05/02(木) 12:43:07.18 ID:u6JC1lI9
愛人ってなんだよ…愛情だよ…

まあそれも育った環境などの生い立ちにも関係してるのだろうが
503人間七七四年:2013/05/02(木) 14:01:38.75 ID:/JsrXha+
>>500
ウホッ井伊男
と言いたいわけじゃないだろうな
504人間七七四年:2013/05/03(金) 12:59:12.21 ID:clAJYcFx
堀直寄は大坂夏の陣にて、水野勝成に大和口先陣の大将を命じられた。
直寄は松倉重政とともに大和口に向かった。

五月五日の夜更け、勝成は「敵が寄せて来るらしく、松明がたくさん見える。
警戒を怠らないように」と諸将に伝えた。

直寄はこれを聞いて「日向守は物馴れしていると聞いたが、功者とも思えないな。
寄せて来る敵がどうして松明を照らすだろうか。敵にあらず」と言った。

そこへ勝成が使いを遣して「松明がすべて消えた。敵ではない」と告げてきた。
これを聞いて直寄は「いいや、敵だ。何事もないので火を照らしていたが、
功者がいて消させたのだろう」と言ったが、確かに後藤又兵衛がいたという。

――『責而者草』
505人間七七四年:2013/05/03(金) 14:24:10.84 ID:G7qRRhOZ
戦のお約束を知らない将は敵でも味方でも恐そうだな
506人間七七四年:2013/05/03(金) 14:32:08.22 ID:EhqI/3Wk
結局どっちなんだ
507人間七七四年:2013/05/03(金) 16:01:55.88 ID:OvJz/j0O
勝成は、たくさんの松明が消えたことをどう思ったんだろう
508人間七七四年:2013/05/03(金) 16:39:16.62 ID:gebgZCnY
省エネとか
509人間七七四年:2013/05/03(金) 17:00:12.19 ID:9qUZIJ0D
「堀直政の息子ってもこんなもんかーいw越後の田舎の戦は出来ても天下の戦はダメだなw」
とやろうとしたとか
まあ流石に無いな
510人間七七四年:2013/05/03(金) 17:18:38.39 ID:AlDhoViu
いい話なのか悪い話なのか、微妙に分からんw
まあ、さすが直寄!そこにしびれる!あこがれるゥ!なんだろうけど
511人間七七四年:2013/05/03(金) 18:04:24.42 ID:e5gA7wHn
話と全く関係ないけど日向守なんだね
謀反人の官位とか普通の人なら避けそうなのに
512人間七七四年:2013/05/03(金) 18:14:41.16 ID:fR/sZd5t
普通の人じゃないし。
513人間七七四年:2013/05/03(金) 18:16:09.94 ID:bzRKkpzn
むしろ光秀の官位とわかって、あえて日向守を望んだのが勝成だからなあ。
514人間七七四年:2013/05/03(金) 20:30:22.13 ID:5P/7dMEO
柴田修理亮勝家、丹羽五郎左衛門長秀らが、6,7千の軍勢で近江国野洲郡に侵入し、散々に町中を放火した所、
佐々木(六角)勢1万ばかりが馳せ向かい攻めかかったが、そのまま日を経て、川を挟んで
両軍対峙の形となった。

この時、六角方の杉坂いく兵衛という者は後方に残っていたのだが、戦況が心許なく思い
前線に見廻りに行きたいと考えていたのだが、それにはせめて、人数5百ばかりも連れていかねば
一方の固めにもならないと思うものの、その時は手勢2百ほどしか無く、このため比叡山へ行き
玄妙院の法印に会ってこのように言った

「今度の野洲郡での合戦に、多くの者達が馳せ向かいましたが、織田方を成敗したという知らせは
未だ承わらず、心許なく思っており、そのため私は陣中に見舞に参りたいと考えています。
しかしそのためには、せめて手勢5百も連れていかねば意味が有りません。

そこで、貴僧にお頼みしたいのは、この比叡山の百姓たちに古具足や錆鑓などを持たせて、3百人ほどを
合力していただきたいということなのです。
そのようにして頂ければ私はその謝礼として、あなたが頼もしき僧であると人々に披露し、
多くの寺領が付くよう宣伝しましょう!」

この頼みを法印は聞いて、『たしかに、こういう時に援助をすれば、侍の働きの役に立ったといって、
一層その栄誉が得られるだろう』と思い、それから若大衆や檀家と相談して、彼らの配下の百姓のうち、
誰の百姓を何十人などと組み合わせていき、そして古い腹巻を巻かせ、彼らの脇差からにわかにサビを
落とさせ、竹の柄を付けたり樫の棒を拵えてかづく者もあり、思い思いの軍装をした3百人の加勢を
提供した。

杉坂はこれに大いに喜び、5百の人数で野洲郡へと急ぎ、ようやく近くまで来て見てみると、
すでに合戦が始まっていた。

鬨の声、矢さけび、弓鉄砲の音、人馬の声、これらが天地を覆すかのように夥しい音量で
聞こえてくると、3百人の加勢は、もとより百姓であるのでこれを聞いて引き震え、胸騒ぎして
このように言い出した

「知行や所領を取っても、寺の得にはなるが、我々には一合の得にもならない。
このような弓鉄砲の飛び交う大事の場所に行っては、必ず一矢で死んでしまうだろう。
私はそんな目に合うのは嫌だ。お前たちはどう思う?」

こんな相談をしている内に、軍勢から一人抜け二人抜け、終にはガラガラと逃げ尽くして、
杉坂たちが「止まれ!止まれ!」と叫んでもまるで聞かなかった。
これには杉坂も法印も、ただ呆れ果てるより外無かったそうである。
(義殘後覺)
515人間七七四年:2013/05/03(金) 20:47:32.34 ID:AlDhoViu
信盛「戦わずして逃げるとは…」
祐直「もってのほかにござる」
義統「左様左様」
516人間七七四年:2013/05/03(金) 20:49:42.64 ID:MYYccr3l
信長、三歳、秀吉「ちょっとそこに座れ」
517人間七七四年:2013/05/03(金) 20:51:33.36 ID:8SKGvBND
戦が始まって急に集めた兵はそりゃ逃げるだろうな〜と思う
518人間七七四年:2013/05/03(金) 21:59:36.02 ID:LYD06Xrh
つか、このころの百姓で兵役に就いたことがないとか、まともな武具を持ってないとか、比叡山の荘園は平和なところだったんだね
519人間七七四年:2013/05/03(金) 22:04:39.72 ID:bzRKkpzn
>>518
真面目な話するとこの時代の惣村は、この手の軍役で人員を提供させられる場合正規の村の構成員は先ず出さない。
流れ者などを金で雇って提出する。なのですこぶる質が悪く、戦国大名からは何度もそういう事はするなという禁制が出されたが、
結局守られなかった模様。
520人間七七四年:2013/05/03(金) 23:57:25.99 ID:OvJz/j0O
坊主って自分の金と名誉のためなら、農民なんてゴミでしかないんだろうな
521人間七七四年:2013/05/04(土) 00:39:16.25 ID:hhH728Ol
マジレスすると戦国期の百姓は生産者として非常に立場が強く、荘園領主どころか戦国大名にとっても
その意向を無視して何かを推し進めるなんて不可能だった。
当時の慣用句に『百姓様ほどになりたし』というものまであった。身分的にも憧れられる立場だったわけ。
522人間七七四年:2013/05/04(土) 01:00:44.12 ID:3IO2wfWk
右から左と極端なやつばかりだな
523人間七七四年:2013/05/04(土) 01:26:43.92 ID:y4bTC+sM
一部の資料だけで日本全国そうだったと言うのは無理があるわな
524人間七七四年:2013/05/04(土) 02:52:09.17 ID:fivGPUoN
まぁマジで無茶振りなんかしたら逃散するか他の領主に帰属しちゃうからね
525人間七七四年:2013/05/04(土) 07:47:32.57 ID:BsjcJRCK
農業をしている人の中に百姓は含まれるが
農業労働者と百姓は違うぞ。
派遣と派遣会社の経営者くらいに。
526人間七七四年:2013/05/04(土) 16:42:45.80 ID:ufNsTbxQ
知ったか2ちゃんねる
527人間七七四年:2013/05/04(土) 17:42:01.67 ID:JTaylOhg
近江の惣村って織豊期から江戸初期にかけて何度も武器を取っての大規模な争い起こした記録残ってなかった?
領主や大名の制止振り切って惣村同士で大規模な同盟組んで争っていたような

まあ惣村間の戦いと戦国大名間の戦いのレベル差がどれくらいあったのかはわからないけど
瓶割り柴田が突っ込んできてる状況だしね
528人間七七四年:2013/05/04(土) 17:57:42.73 ID:3IO2wfWk
だから百姓と一口で言っても
地侍や足軽に即転身できるような武装農民地主層もいれば
専業農民や武器なんて持てない小作人層も居るわけ

この話の農民は武器自弁も出来ない下層専業農民や小作人層で、
戦闘のど素人だからいざとなったらビビッテ逃げたと言うだけ
529人間七七四年:2013/05/04(土) 20:06:07.77 ID:FpbL+zkr
ある人が紺屋(染物屋)に着物の染付を頼むため、注文書にその内容を細かく、仮名で書いて持たせた。

『せなかにふとうを、いかにも手際よくありありと付けるへし』

紺屋はこれを見て、「これは一興なる事を好むものだろうか。しかし必要あるものだろう。」と考え、
絵の上手に頼んで型紙を彫り、背中に染め付けたものを見れば、
不動明王が巌に立ち、火炎凄まじく描かれ、剣を持たせていかにも厳しくありありと染め付けられていた。

これを見た注文主は大いに驚いた。何故なら彼が頼んだのは「不動」ではなく「葡萄」だったからである。

「これは何だ!?何と心得てこんなことになったのか?これはりょうけん違いである!!
早く染め直すのだ!」」

そう言われ突き返されてきた。紺屋は注文書を見なおして

「不動はどんなものを見ても、剣は片手に持っているものばかりである。両手に剣を持たせよとは、
馬鹿げた好みであるとは思うが、客の注文である以上仕方がない。」

そして今度は両手に剣をもたせ、さらに凄まじい染付を付けた。
実にナイスな”りょうけん違い”である

これを見た注文主はもはや呆れ果て、もう仕方がないと諦めこれを受け取り、そのまま
捨ててしまったそうである。

総じて文章を書くときに、仮名だけで書いたものは読みにくくて役に立たないことが多い。
また仮名で書いたとしても、にごり(濁点)をきちんと書いておくべきなのである。

万松院殿(足利義晴)の御治世の前後では、京においてすら文字を書けるものは千人に一人も無かった。
しかし書を成すと云われる程の人は、後の世にも見られないほど見事な書を書かれた。
(義殘後覺)
530人間七七四年:2013/05/04(土) 20:24:45.96 ID:bdi90EW+
その注文した人って誰ですか?
531人間七七四年:2013/05/04(土) 20:35:21.87 ID:h9nKfsL2
私です
532人間七七四年:2013/05/04(土) 20:52:22.00 ID:Q+WJvxjR
かぶいた人に高く売れただろうにw
533人間七七四年:2013/05/04(土) 21:02:58.85 ID:i1SOR+Xn
悪い話というよりは面白い話だなw
534人間七七四年:2013/05/04(土) 22:08:02.61 ID:Ir4DzAB2
濁点がきちんとつくようになるまでさらに300年以上かかるのか
535人間七七四年:2013/05/04(土) 22:23:26.06 ID:AlGe84Sf
落語かよw
536人間七七四年:2013/05/05(日) 00:06:15.91 ID:fmTYy2Wi
何で昔は濁点付けなかったんだろうな
537人間七七四年:2013/05/05(日) 00:41:38.47 ID:wsoNoVcB
この中に1人、正純がいる!
538人間七七四年:2013/05/05(日) 06:59:37.19 ID:L9T8304a
丹羽長秀の憤死

後年、秀吉天下を掴まんとするに、心平らかなるあたわず。
ひそかに信雄(のぶを)卿を助けて、織田家の再興を計りて果たさず、
一室に籠りて懊々たり。

疾病に罹り、晩年ほとんど堪えず、遂に刀を抜きてはらを割き、
塊物を抉り出して死す。

塊物亀形をなして、鷹觜の如きあり、背に刀痕を帯ぶ、
秀吉竹中法印に命じて、これを蔵さしめたりき。

(続 鳴呼古英雄)
539人間七七四年:2013/05/05(日) 07:19:24.10 ID:ueyNyR2P
>>536
濁点がなくても分かるのがまっとうな学のある者で、
濁点は学の浅い初学者などのためのものとかそういう感じだったんかねえ
540人間七七四年:2013/05/05(日) 08:19:48.56 ID:UdwvAnAs
つか、まともな学のある人は漢文でしょ?
かな書きは字の読めない人のための走り書きで
541人間七七四年:2013/05/05(日) 08:20:11.65 ID:6XnixMhK
>>539
句読点なんてまさにそうだったねい
542人間七七四年:2013/05/05(日) 08:36:30.58 ID:5HShZpQM
そもそも句読点ないだろ当時は
543人間七七四年:2013/05/05(日) 09:00:21.04 ID:GBiO5QUA
〉竹中法印に命じて、これを蔵さしめたりき

この部分の現代訳をご教授お願いします
544人間七七四年:2013/05/05(日) 09:11:55.39 ID:BkSiWucm
>>543
「蔵さしめる」は「蔵に納める」ってこと。
つまり丹羽長秀が腹から取り出した塊を、秀吉が竹中法印に命じて蔵に納めさせた、という事だね。
545人間七七四年:2013/05/05(日) 10:23:59.64 ID:OWxix9Q8
腹に納めて縫ったのかと思ったが
塊を秀吉に送りつけてた気がするから、やっぱり蔵に納めたのか
546人間七七四年:2013/05/05(日) 11:28:35.29 ID:GBiO5QUA
>>544
ありがとうございます。
そのニュアンスは、丹羽さんの覚悟を讃えて蔵入りか、
それともその覚悟を隠したくて蔵入りなのか、
どちらに読めばいいのか…いまいちわからない
547人間七七四年:2013/05/05(日) 12:13:35.78 ID:ulbPAqWe
丹羽長秀を検索したらフンドシ姿のお姉ちゃんが出てきて死にたい
548人間七七四年:2013/05/05(日) 13:44:02.91 ID:befZ1wQQ
激寒採点おばさんの悪口やめーや。
549人間七七四年:2013/05/05(日) 15:52:47.11 ID:+ZHacaZi
>>547
画像も笑えたけど、検索したついでにあったアンサイクロペディアがくそ笑えた
>「織田」と名前のつくチンピラどもが仲間割れを繰り返す厄介な国である尾張において、牧舎の鶏小屋で丹羽長秀は誕生した。ってなんだよw
550人間七七四年:2013/05/05(日) 17:17:42.91 ID:hl7L+R7x
丹羽には丹羽丹羽鳥がいる
551人間七七四年:2013/05/05(日) 20:07:11.46 ID:BkSiWucm
ある時、榊原式部大輔(康政)が本多佐渡守(正信)を振舞いに呼んだことがあった。
この時、板倉伊賀守(勝重)も同行した。
ここで康政が正信に言った

「私は頂いた敷地が狭いため思ったように家を建てることが出来ない。ところが
そこで菜を作る者達には、広い敷地を与えられている。
なので敷地に家を立て、菜を作らない私のような者にも、広い敷地を頂きたいものだ。」

正信はこれを聞いて

「殿が菜を作る者達に好感を持ち、広い敷地を与えるのは当然のことです。
それは、今後何事が起こったとしても、自分の敷地で菜を作っている者達は、それが必ず御用に立つからです。

敷地に大きな家を作り菜を作らないあなた方は、いざという時に殿の足に縋ってたかる者というべきです。」

そう、返答したそうである。
(紀伊國物語)
552人間七七四年:2013/05/05(日) 20:36:13.51 ID:uqsrtS/X
振舞いに呼ばれながらそこまで言うか
553人間七七四年:2013/05/05(日) 21:07:10.72 ID:wsoNoVcB
紀伊國物語って、他に見ない逸話がたくさんあるね
でもオチがない話が多いので、創作っぽさも感じない
もしかしたら、作者の好き嫌いが存分に入ってるのかも知れないけど
554人間七七四年:2013/05/05(日) 21:13:31.59 ID:lxZ66NJN
>>529
「りょうけん違い」と言われて両手に剣を持たせちゃうほんとバカな紺屋じゃあ、
ちゃんと濁点つけて書いても「武道」だと思って剣道着着た人の絵を描いちゃうかもしれないな
555人間七七四年:2013/05/05(日) 21:44:01.37 ID:BBTeRyGk
>>552
下心が良く見える振舞いだから返事もあからさまにしたのかも
556人間七七四年:2013/05/05(日) 21:48:54.76 ID:CP05TOK6
紺屋の白バカめ
557人間七七四年:2013/05/05(日) 22:00:28.09 ID:7Ky2t4g3
>>554
どこの完璧超人だよ
558人間七七四年:2013/05/05(日) 22:04:27.54 ID:7wlvYMVy
てんかいちのふへんもの
559人間七七四年:2013/05/05(日) 22:04:31.47 ID:z1SzEs6S
>>554
まだ武道とは言わないだろ
560人間七七四年:2013/05/06(月) 19:22:54.80 ID:aKQS9Ed0
>>551
して菜を作るものの名はなんと?
561人間七七四年:2013/05/06(月) 20:46:59.76 ID:kxP2U/jl
武田信玄の武者奉行であった原美濃(虎胤)といえば、鬼美濃、夜叉美濃とも呼ばれ、
その器量の優れていること、また厳しさ類ない事については、戦場において数度の誉れの場数を
踏んだ事からも、推量すべきである。

そんな原美濃にある人がこんなことを尋ねた

「誠に、原美濃殿は武辺の将として近国他国にまでその名が響いておりますが、
そんな貴殿が奥方に対してはどんな事も恐れ、良いことであっても悪いことであっても、
奥方の前ではビクビクしていると言います。これは全く心得難いことです。

貴殿は、昔の渡辺綱、鎮西八郎為朝といった者達ですら、貴殿に勝ることはないとまで評判されています。
であるのに女房方に在っては心疎い人物のようですぞ?」

原美濃、これを聞いて
「その事についてだが、くちばみ(マムシ)という物は、人に出会うと噛み付いてきて、些かでも
その歯が刺さればたちまち命を取られるものである。であれば、虫の分際で人を従わせるほど恐ろしい
物である。

であるが、藪の中に居るなめくじり(ナメクジ)と言うものは、ふのりを溶いたようなものを、
くちばみが伏している周りを、遠がけにしてそろそろと輪を回すように地面に塗りつける。

くちばみはこれに気がつくと逃げようとするが、輪の上を越すことを恐れて、輪が狭まるごとに
自分の身をひたすら小さく巻いていく。
なめくじりはそのまま輪を描いていき、最後にはつくばみに這い懸るが、この時にはもう、くちばみは
五体へたへたと崩れ、腐って死ぬのだという。

これはくちばみの立場から見れば大いにもどかしい事であるが、深く分析すると、
『弱き者は強き者に勝つ』という道理によってこの様になるのだ。

私も、強き者に出会った時は心も、鬼であろうと組んでやると勇むのであるが、
女房は弱々とした風情で私に向かってくる。この時私はくちばみで、なめくじりに輪を回されているのと
同じなのだよ。」

そのように言ったそうである
(義殘後覺)

原美濃、奥方に頭が上がらない事を適当な理由をつけて正当化する、というお話
562人間七七四年:2013/05/06(月) 21:36:05.43 ID:a3wunDU1
>>560
鞍馬から牛若丸が出でまして、名も九郎判官…
563人間七七四年:2013/05/06(月) 21:38:49.75 ID:XAN9v53R
義経にしておけ
564人間七七四年:2013/05/06(月) 22:43:36.92 ID:ULVT3vPS
つまり妻に舐めまわされて逝っちゃう体質だと・・・
565人間七七四年:2013/05/06(月) 23:45:44.66 ID:UB2jQrnJ
元祖独眼竜、李克用の養子の李存孝も恐妻家の笑い話があったな
こっちは単なる恐妻家だけど

李存孝「妻が怖い」
同僚「お前は戦場に出れば右に出るものなしの猛者なのだから鎧を着てれば
奥方の前でも奮い立つだろう」
家にて
李存孝の妻「あらあんた、そんなかっこうしてどうしようっての?
戦場では最強とは聴いているけどさ」
李存孝「えーと、家では貴方様が李存孝です、はい」
566人間七七四年:2013/05/07(火) 07:30:52.58 ID:AkZAPbFW
恐妻エピソードは戦国でもバラエティ番組のようだw
567人間七七四年:2013/05/07(火) 07:35:54.88 ID:WUvNQt0U
>>538
丹羽長秀の死に方の何が怖いって

「去ぬる十四日(天正十三年四月)に腹切り、終に十六日死去しおはんぬ」
(多聞院日記)

ってことなんだよな。
腸抉り出すほどの割腹して尚死亡までに二日のタイムラグがあると言う・・・
568人間七七四年:2013/05/07(火) 14:19:54.01 ID:pCP2coqL
長秀が亡くなって以降の丹羽家はそれこそ波乱万丈の連続だったが息子は逞しく育ったな
決して世渡り上手の人ではなかったみたいだけれど
569人間七七四年:2013/05/07(火) 21:43:45.62 ID:ZTsDJyXS
ある年に加藤嘉明は秀吉に従って山路を通過した。時に凍りつくような寒さは堪え難くなり、
秀吉は嘉明に命じて酒を調達させた。嘉明は馬槽(馬の飼料を入れる容器)を携えて民家に入り、
濁酒を持って帰って来た。

秀吉は喜んで酒を少量飲むと、その余りを付き従う将士に与えて、
「汝等も少しばかり平等にこの酒を飲め。そのうえで残った酒があれば、私がまた飲むからな」
と、言った。ところが、嘉明は馬杓を使ってこれを飲み尽くしてしまった。

秀吉はたいへん腹を立てた。それでも嘉明は平然として、自分は何も知らないという体であった。

――『加藤嘉明公(細野写本)』
570人間七七四年:2013/05/07(火) 21:48:59.34 ID:Iq5cwOLw
嘉明は他の人にも飲ませてあげたのか、それとも一人で大部分をのんじゃったのか
571人間七七四年:2013/05/07(火) 22:17:58.07 ID:13YmHMsD
知らぬ顔してるってオチだから一人で全部飲んだんだろうw
まさに主の心、嘉明知らずと言ったところだなw
572人間七七四年:2013/05/07(火) 22:19:34.13 ID:ZTsDJyXS
>>569
申し訳ありません、訂正します。 ×自分は何も知らないという体であった。 ○まるで何も知らない人のようだった。
573人間七七四年:2013/05/08(水) 10:00:39.99 ID:ozFXPsMk
ラスボス後期なら問答無用でぶち殺されそうだな…
574人間七七四年:2013/05/08(水) 10:12:11.12 ID:0zuUEwHb
>>572
お前いつも投稿した後に訂正いれるよな
575人間七七四年:2013/05/08(水) 11:29:47.62 ID:97/v4Lob
>>567
多聞院日記はネタの宝庫だなー
噂を書きつけておくことが多いからビックリするような話が残ってて楽しい。
576人間七七四年:2013/05/08(水) 17:21:16.57 ID:cKpveGiZ
>>569
なんのオチもない話w 
577人間七七四年:2013/05/09(木) 00:01:06.35 ID:fiorno8I
bsの城下町へ行こう見てたら政宗が酒乱とかバラされていたw
酔っ払って脇差の鞘で家来の頭殴っちゃって、後から書いてたごめんねって手紙も晒されてましたが
ケガが治ったらまた出ておいでってアンタどんだけ殴ったの・・・。
578人間七七四年:2013/05/09(木) 14:34:14.00 ID:Sl4UHobc
切腹させなかっただけどっかの人よりマシか
579人間七七四年:2013/05/09(木) 15:29:48.74 ID:bPvA0eLr
>>577
脇差のとはいえ刃物を包む物だからある程度の頑丈さはあるだろうし、まして政宗のとなれば装飾もバッチリだろうからなー
酔っ払って加減効かずにぶん殴ったら当たりどころ悪けりゃ結構な怪我もするんじゃねーかな
580人間七七四年:2013/05/09(木) 15:53:48.58 ID:vxoOUUM+
いきなり発作的にキレてガラスの灰皿でぶん殴るようなイメージかねぇ・・・

ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-242.html
581人間七七四年:2013/05/09(木) 17:18:46.87 ID:4z4gmiFL
有名な大坂夏の陣後の徳川家康と大久保彦左衛門の大喧嘩

その後に彦左衛門が切腹を覚悟して登城すると、周りの者は彦左が来たと言い合ったが、
家康は彦左衛門をチラと見てそのまま通り過ぎてそれで終了
582人間七七四年:2013/05/09(木) 23:46:11.59 ID:IML4OQr2
>>579>>580
政宗だから、しょーがねーなーもう、とか思ってたが
改めて想像すると大変怖いということに気がついた(w;>キレた酔っ払い+刃物
583人間七七四年:2013/05/10(金) 00:36:44.55 ID:6tCIj4WD
家康なんて酔ってもないのに抜き身の刀を振り回して馬廻り斬りつけたり、小者を斬り殺したりしている
政宗はまだまだ甘い
584人間七七四年:2013/05/10(金) 07:35:31.39 ID:PxVdPn1x
備州宰相宇喜多秀家殿の家中に猪口佐治兵衛という侍が有った。
剛強の士であり、筑紫陣(九州征伐)、四国陣にても度々の誉れ有る侍であったが、
些かの事があって、秀家より、山村、有岡、片瀬、一原といった歴々の侍に、彼を討つよう
命ぜられた。

この四人、猪口は屈強手柄の者であるので、計略によらねば彼を討つことは出来ないと考え、
互いに相談した上で、次の日の早朝、四人揃って猪口の家を尋ねた。

早朝のため猪口は未だ起きていなかったが、先に起きていた猪口の女房がこれを見て、
「歴々の方々がおいでになりました」と猪口を起こして、下女に献茶を沸かせた。

そうしているうちに猪口も起きてきて、大脇差をキッツと反らせて差し、
「あなた方は早々に御出でになられて、どうしたのか?まあとにかくお上がり下さい。」
と、四人を家に上げた。彼ら、座して言うには

「実は今日は暇になりまして、あなたを驚かせようと早朝に出てきたのですが、
あまりに早くなりすぎました。そんな事なので特にお尋ねするようなことも無く
こちらに罷り越したのです。」

ここに女房が「どうぞごゆっくり。御茶を沸かしましたので、ぜひ一服して行って下さい。」
と四人を留めて座敷を自ら片付けている所に、猪口の脇差も取って勝手に置き、それから
茶を出した。

四人はこれを飲みつつ雑談などして時刻も過ぎる。この間猪口の隙を伺っていたが、
用心厳しく、討つべき隙を見出すことは出来なかった。
とにかくこれは首尾が悪い、今回は無理だと考え、
「ではそろそろ帰ります。明日またお目にかかりましょう。」
と、おいおいに立ち上がると、猪口は
「早々のお帰り、名残惜しいことです」と彼らを見送りに庭へと出、四人に向かって礼をした所、

「!」

有岡、刀を即座に引きぬいて打ち付ける!猪口、頭から肩にかけて骨まで達する傷を受ける

「心得たり!」

猪口そう叫ぶと刀引き抜き、弓手(左)の肩を斬り下げ、二の太刀にて無二無三に斬って懸ると
有岡は深手を負って退いた。残る三人、門の外で刀を抜き猪口に掛かろうとする。

猪口は女房に「この傷を結わえよ!ふらめいて悪しきぞ!」と、家の中で手ぬぐいで傷を結わえさせると、
二尺七寸の太刀を引きぬいて出、三人を相手に散々に斬り合う。

ここで女房は、火を炊いたばかりの熱い灰をかき集め、夫と斬り合っている三人に向かって浴びせかけた!
灰は彼らの胸に入り目を潰し、方角を見失った所に猪口踏み込み、死狂いに斬りまくり、終に刺客の四人全てを斬り伏せた。

宇喜多秀家は猪口を仕損じたことを聞くと、百人ばかりの勢を出して猪口の家を弓鑓にて八重に取り囲む。
猪口はここで「今は思いつく敵は尽く討ち取った!もはや思い残すことはない。」と、腹を掻っ切って死んだ。
これを見聞きした人々、「このような手柄なる死に様はない」と言って、褒めぬ人は居なかった。

その後猪口の女房は召し捕られたが、
『こんな女もあるものか。彼女はあの事態の中少しも取り乱さず、亭主を却って取り回し、
置き灰を浴びせかけ歴々の者を討たせた。男であっても中々出来る事ではない。急ぎ家財を返還し
故郷に戻すべし』とされて、親元へと送られた。

これも大変名誉のことであると、褒めぬものは居なかった。
(義殘後覺)
585人間七七四年:2013/05/10(金) 10:49:16.49 ID:aRwiAAEQ
直家「下手じゃのう」
586人間七七四年:2013/05/10(金) 10:55:57.85 ID:+w/xDqSI
義輝「猪口とやらには共感を覚える」
587人間七七四年:2013/05/10(金) 12:49:02.80 ID:iql3pW0N
>>583
戦時の話でもいいなら酔ってもないのに味方一部隊丸々やっちゃったけどな
588人間七七四年:2013/05/10(金) 13:27:43.44 ID:OC8Knv2v
>>587
所詮は利害関係で集まった寄せ集めの他人だし、奴にとっては味方ってつもりもなかっただろうな
あわよくば徳川軍が壊滅しないかと期待すらしてただろうし
間違っても、何処の誰かもよく分からない小大名の為に自軍を危険に晒すような聖人ではない
589人間七七四年:2013/05/10(金) 14:57:54.03 ID:D/MFbD91
>>584
>些かの事があって
省略される程度の事柄で討ってしまうには惜しい侍だな・・・
590人間七七四年:2013/05/10(金) 18:42:15.84 ID:8RwOjXbu
歴々、なんて書かれる以上彼等も手練れだろうに、行き当たりばったり感満載で、四人に全く歴々感がないな……
591人間七七四年:2013/05/10(金) 19:03:43.95 ID:hV6+V0eo
>>587
戦国系の某携帯ゲームで、今大坂夏の陣イベントの最中なんだが、この件に触れているヤツがいて面白かった。

そのイベント、徳川方について大坂方の浪人を倒すという内容なんだが、政宗が説明役(味方)として何度も出てくるので、神保さんの二の舞になる恐怖がちょっとある。

もちろん、そんな設定はないし、ゲームの運営会社もそんなことは知らないでイベントを作ったんだろうが。

スレ違いでスマン。
592人間七七四年:2013/05/10(金) 23:14:25.21 ID:Zfi/+jJG
武士は長刀を好むべからず

牧野有馬允常は士にこのように語った。

「武士はあまり長き刀を好むべきではない。
短い刀で敵の手元に踏み込み、鍔元で頭を割られる位の懐で敵の腹を突き通す覚悟が良い。
これほどの覚悟が無ければ勝ちは得難いものである。
故に私は常に短き刀を刷いているのだ。」

注訳:これは精神の問題である。単に刀の長短の事と解する事なかれ
(武人百話)
593人間七七四年:2013/05/11(土) 00:11:05.77 ID:PMPb1CaM
>>592
オマエ真柄さんdisってるのかよ(´・ω・`)

たまたま今日、トーハクの大神社展で鹿島神宮の直刀見てきたけど
こんなの使える奴いるのかよ
http://www.kashimajingu.jp/wp/jingu/jingu06
594人間七七四年:2013/05/11(土) 02:07:28.04 ID:In/u6lII
これ精神的なもんだから!気構えだから!
595人間七七四年:2013/05/11(土) 07:12:59.32 ID:FIFAtLKa
スコール? マテリアはどこにはめるんだ?
596人間七七四年:2013/05/11(土) 09:40:55.52 ID:/+TgyIYB
長篠の合戦の前のこと。
信長は佐久間右衛門(信盛)と毛利河内守(秀頼)に、徳川家康への加勢として長篠に出陣すべきかどうかを
尋ねた。毛利河内は武辺の誉れある者であり、当時岡崎に置かれ、佐久間は分別厚き者で、彼は
長澤に置かれていた。

毛利河内は『今回出陣した場合、甲州の者一人に見方十人の積りで懸ったとしても、必ず味方の負と
なるでしょう。出陣することは必ず無用です。』と書面で返答した。

佐久間からは『甲州勢は強く、見方が負けるのは疑いのないことです。ですが、加勢に出陣されることこそ
正しいと考えます。』と返答した

信長はこれを見て「毛利河内などは武辺者であるのに、どうしてこのように申すのか?
とにかく書面では埒が明かない。両名ともこちらに出てきて、直接自分の口から説明せよ。」
と、御小姓である津田於杉を以って召喚させた。

毛利河内が申し上げたのは、初めの通り、負ける戦であるので出陣は無用である、との事であった。

佐久間が申し上げることには、
「今度は三河の地においての合戦です。その上、今度加勢も送らず徳川家康殿が負けられれば、
彼は武田の旗下と成ることでしょう。
であれば、この方面の味方の手は薄くなり、武田が家康殿を配下として三河遠州を平定し、
我らに向かってくれば、これは大きな危機となります。
この想定から、今回は例え負けるとしても、加勢に出陣したほうが良い、と考えるのです。」

信長はこれを聞き「それは面白い想定だ。」と感想を述べたが、この時佐久間は

「ではありますが、是非合戦にも勝ちたい物ですので、勝利を得られるよう拙者にお任せ頂きたいのです。

私に一つの才覚が有ります。しかしながらこれまで甲州に心を通じた者が無いので、証拠として
起請を書き、その上で甲州の長坂釣閑、跡部大炊助に金を取らせてたらし込みたいのです。」

信長は「それは尤もなことだ。たらしこむためなら何であっても与えよ。ただ太刀を取らせるのは、
これは人も見るものであるので、この脇差を与えよ」と、脇差を佐久間に渡した。

佐久間信盛はこれを甲州に差し出し
『私は今回の合戦、必ず我々が敗北すると信じております。私は以前より、内々に武田勝頼公に志を
持っておりましたので、勝頼公に御奉公申し上げたいのです。もしこのお頼みを許して頂けるにおいては、
今度の合戦で我が方に攻め懸かってこられれば、我が部隊は必ずわざと負けを装い撤退するでしょう。
私の申し上げた通り、どうかお心得下さい。』

これを見た勝頼の寵臣である長坂・跡部は佐久間の言うことを信じ、
『何時でも其方のことは請け合う』と固く約束をした。

これによって長篠の合戦では、両人は此の方から敵に無理に攻めかかれば敵は相違なく敗軍するのだと心得、
勝頼に、「川を越えて攻めかかるべきです!」と進言した。

逆に織田方は、この予定を以って柵を形成し、敵を思い通りの場所へと引き付け、ついにこの合戦に
切り勝ったのである。

ちなみにこの時調略に使った脇差は、8年後の甲州滅亡の時に取り返したという。
(紀伊國物語)
597人間七七四年:2013/05/11(土) 10:11:04.31 ID:6S2fIjUJ
この5年後「お前が活躍した所を見た事がない!」と言われるんだな。
598人間七七四年:2013/05/11(土) 10:52:38.55 ID:wRk4C41N
>>593
それは最初から神様用に作られたものだから。
分割して作った刀身を鍛接してるから実用品じゃないよ
599人間七七四年:2013/05/11(土) 13:18:26.44 ID:zr8FVg9W
鮭様のバールのようなものと思えばいいんじゃないか?
600人間七七四年:2013/05/11(土) 14:08:26.59 ID:5p63js68
榊原健吉なら真柄さんの刀使えたかも
601人間七七四年:2013/05/11(土) 16:41:51.93 ID:1MK/qNbO
>>599
あれは本当にバールのようなものっぽい形をしてるからな
602人間七七四年:2013/05/12(日) 16:28:05.35 ID:YhAuK8F9
関ヶ原の時、島津義弘が引いたのを本多忠勝と井伊直政が見て、
忠勝は「そのまま逃がすとしよう」と言った。

一方、直政は、今あの逃げる武者を逃がす所ではないと思って「返せ!」と声をかけた。
すると、義弘はそのまま取って返し、鉄砲の者に銃撃させた。

直政は手に銃弾を受け、忠勝は馬に当たって落ちたのだという。

――『老人雑話』
603人間七七四年:2013/05/12(日) 16:38:27.52 ID:v6NTi0Nt
三国黒から落ちても無傷だったのか
604人間七七四年:2013/05/12(日) 21:09:42.35 ID:I8hjgfPM
長篠の合戦の時、織田信長は出陣したが、牛久保から新城までわずか3里の距離を3日もかかって移動した。
これは敵を恐れているためだと、味方の上下からすら誹られたのだが、これは信長が、敵に弱気を見せ侮らせることで
勝利を得ようという謀であったのである。
武田勝頼はこれを見抜けなかったために、強引に攻め懸かって合戦を行った。これは信長の智謀を知らなかったが故である。

信長は信玄と対立した時にも、このような手立てが度々あり、信玄を恐れた体にして俄に逃げこむなどしたが、
信玄は信長の意図を察していたため、これを追うようなこともなく、信長が次の手を失うことも度々あったという。
(紀伊國物語)
605人間七七四年:2013/05/12(日) 21:14:21.47 ID:QXwZi1Lc
塩尻峠の戦いを勝頼が知らない筈ないよな
606人間七七四年:2013/05/12(日) 22:10:56.60 ID:rW0HZ/lY
勝頼はいけると思ったら鎧もつけずに突撃する果断な武将だからね
長篠では若さゆえに判断を誤ったんだろう 
607人間七七四年:2013/05/12(日) 22:25:47.85 ID:yCCIYbOu
>>606
長篠の勝頼っても数えで30。
三方が原の家康と同じくらいだけど、どっちも若さのせいにするのは無理な年齢かと
608人間七七四年:2013/05/12(日) 23:27:45.39 ID:2xRPIWZU
>信長は信玄と対立した時にも

いつの話だwwwwwww
609人間七七四年:2013/05/13(月) 07:21:57.82 ID:xWUlX/Uf
時代考証なんてなければのお
若きダルビッシュが長嶋と初めて対峙したとき、小柄な老人だと思っていたものが
ストライクゾーンを覆わんばかりの虎狼に見えてデッドボールしてしまったんじゃとか
好き勝手にぶっこけたのに
610人間七七四年:2013/05/13(月) 08:58:24.56 ID:AfJuxrOu
>>609
後世の逸話ってそんな感じで作られるんだろうなw
611人間七七四年:2013/05/13(月) 10:13:27.59 ID:2nMyGQcb
昔の歴史サイトは猛者ばかりが集い・・・とか
昔のいい悪いスレは・・・

とか適当ぶっこけばいいんじゃね
うざいだけだけどw
612人間七七四年:2013/05/13(月) 16:10:22.59 ID:w5b7iIIp
まっすぐ育ってしまったんじゃないか?お屋形さまの半分でいいから真っ黒ならもっといけた?
613人間七七四年:2013/05/13(月) 21:22:10.16 ID:Xnu3zBu8
無理
614人間七七四年:2013/05/14(火) 10:11:15.97 ID:ZX4fuHhR
父の因果が子に祟り状態だからなあ
615人間七七四年:2013/05/14(火) 20:26:44.93 ID:zUXeszya
織田厨がわいてきたな
616人間七七四年:2013/05/15(水) 21:00:24.45 ID:HGl43v6v
徳川家康が、かの激戦で有名な、第四次川中島合戦について、後年に批評したことが有った。

『武田信玄は、川を超えて、越後への筋道を確保しようという意図があったと考えられる。
しかし川から上陸した所で軍を休め、陣取りなどをしていたために、夜中に謙信が川を渡ることに
気が付かず、敵に備を固めさせてしまったために、大利を得ることが出来なかった。

仮に謙信が川を渡るのを察知していれば、武田は旗本によってこれを正面から攻撃を行っただろう。
謙信の渡河地点は西条山にも近いため、ここに向かっていた武田の別働隊も、合戦の音を聞けば
直ぐ様駆けつけてくるであろうから、武田は上杉軍を挟撃する形になる。
この場合、夜中でも有り、上杉軍にとって不意の攻撃でもあるから、武田軍は難なくこれを
討ち果たすことが出来たであろう。

また謙信の方も、夜の間に川を越えて信玄との合戦を決断していたのなら、むしろ海津城の町口を
目掛け、渡河をじっと待ち、信玄の軍勢が海津城から出撃したところで一気に駆け向かい、
信玄を城に追い込むように攻めれば、これもまた大きな利があったはずである。

勿論、このような事は両人とも解っていたはずだ。だが互いに互いを恐れ、強く警戒していた為に、
こういった積極的な作戦を取ることが出来ず、備を連ねるような、消極的な策を取ったのであろう。』

この話を聞いた安藤帯刀は、信玄、謙信、そして家康という三将の知恵を聞いたと、大いに喜んだ
そうである。
(紀伊國物語)

徳川家康、川中島を批評する、というお話
617人間七七四年:2013/05/15(水) 22:58:23.96 ID:1GA0Oylg
好敵手ってことだねー
618人間七七四年:2013/05/16(木) 11:57:20.56 ID:xyM+/3M7
その信玄に恐れられてなかったから
三方ヶ原で積極策に出られてズタボロにされたんですね権現様!
619人間七七四年:2013/05/17(金) 04:38:39.96 ID:ilrZhu5k
歴史群像の徳川家康 四海統一への大武略のおもしろクイズに載っていたエピソード

家康がまだ三河で小勢力だった頃、近習の者が、家康が無理して麦飯を食べているのでは、と思い込み麦飯の下に白米飯を入れたら怒られたとの事

めんどくさいな相変わらず
620人間七七四年:2013/05/17(金) 08:03:30.67 ID:HNBJ4sTW
今じゃ麦飯食べる方が高くつくという
621人間七七四年:2013/05/17(金) 10:18:55.29 ID:dO80uBRo
しかも今、普通に麦飯を食える所は...。
622人間七七四年:2013/05/17(金) 13:29:25.34 ID:SlrfX0Ru
いっとくが刑務所はもう麦飯やめてるぞ、高いから。
623人間七七四年:2013/05/17(金) 18:14:24.11 ID:at2MRqSc
元和の頃、丹後宮津藩ニ代藩主・京極高広は、宮津城の大規模な改修を行った。
この時城の一部を海上にせり出す形で建築したのだが、これが一夜にして全て崩れ去るという事態が起こった。
ちなみにここは、後の駒ノ詰の矢倉であると言われている

この事に困った京極高広は大膳という山伏に占わせた所、『人柱を使わなくては建築は成就しない』という。
初めそれを信じず、工事を進めたが、海上への張り出しが大変大きいため、どうやっても上手く行かず、
終に人柱を選ぶ、ということとなった。

この時八蔵という中間(あるいは足軽とも伝わる)が主君の心を察し

「不肖ながら、私が人柱となります。」

と申し出た。高広は不憫なこととは思ったが築城の成就には代えがたいと、彼を人柱として入れた。
すると、工事は見事完成したのだという。

完成したその一角には、八蔵の名にちなんで八地蔵が建立された。
またそこに立つ角櫓は、別名「八蔵櫓」と呼ばれたそうである。
(宮津日記)

宮津城大改修にまつわる、人柱の逸話である
624人間七七四年:2013/05/17(金) 21:47:05.76 ID:kCr+rxHn
人柱って生きたまま埋められるの? 死んでから埋められるの?
625人間七七四年:2013/05/18(土) 01:36:51.64 ID:1C5sJy7C
摂政関白秀次公、御身体果て申す次第

前野但馬守(長康)、木村常陸、石河敦賀、白井備後、明石左近、羽根長門守と言った人々は、
豊臣秀次に対して、『公の仰せに成ることは、何事についても異議を申し上げない』という誓約を書き付けた。

ところが、この事を石田治部少輔(三成)が聞きつけ、太閤(秀吉)に申し上げた。

このため秀吉は秀次に、事を糾す遣いを送った。秀次はこれに大いに驚き、聚楽を出て伏見へと下がり、
色々と弁明に勤めたが、秀吉は納得せず、そのため秀次は終に高野山へと入った。
しかし高野山の秀次のもとに、福島左衛門大夫(正則)が検使として派遣され、秀次はここで切腹をされた。

この時、誓約の書付をした者達も残らず切腹を仰せ付けられた。
中でも前野但馬守(長康)父子は中村式部少輔(一氏)預かりとなっていたが、駿河府中において、
但馬守嫡男出雲守(景定)は切腹を成された。

細川忠興はこの誓約の書付を行なっていなかったものの、日頃から秀次と特別に親しい仲であった上に、
黄金百枚の拝領を受け、さらに前野但馬守の嫡男出雲守は、忠興の婿であった事から

「縁者である以上、一味となっていたはずです」

と、三成が秀吉に申し立てていた。

この事態に忠興は、この先どうなるかわからないと、米田助右衛門に対し、伏見からの報告次第で、
聚楽の細川屋敷に急行し、屋敷にある忠興の妻(ガラシア)と子供たちを殺し、屋敷に火をかけ、
助右衛門自身は切腹するようにと命じた。

忠興は、黄金百枚の件は、秀次から拝領したものではなく、薬院法印の肝煎で秀次から借用したものであると
秀吉に対し、米田助右衛門を遣わして弁明した。
この時、秀吉が言い出したことは

「先年の、明智謀反の時、お前たちは信長公の恩を思い、明智に味方しなかった。
今回秀次に一味したが、あの時の忠節により、赦免してやろう。」

この言葉が徳善院から忠興に仰せ渡され、ここで初めて忠興は安堵したという。
(細川忠興軍功記)

秀次事件の時の、細川忠興の模様である。
626人間七七四年:2013/05/18(土) 12:23:43.39 ID:VqmxySfn
三成ろくなことしねえな
627人間七七四年:2013/05/18(土) 16:28:03.58 ID:XFbh7/80
これは三成悪く無いだろ
628人間七七四年:2013/05/18(土) 18:14:35.61 ID:NW8/BH9g
江口(たぶん正吉のこと)は丹羽の亡き後に、
越前の黄門君(結城秀康)へ召し出されて一万石を所領した。

越前の家子に高木勘平という武勇の者がいた。高木は新参者が一万石を領するのを怒って、
ある時、江口の膝に迫り寄り、「上方の武辺とは、どのようなことを申すのだ」と問うた。

江口はこれに答えて「上方の武辺とは、人に武辺者と言われ、ここの殿の様な所へ
召し出されて、高い知行を取ることを申すのだ」と言った。

すると、高木は尾も無き様子で「うん」と言って退いたという。

もし江口がその時に「私の前々よりの武功」など言ったなら、
高木は「自分もそれくらいの事を八百回もしたぞ」と言っただろうと思う。

江口は武のみにあらず、才もすぐれた者なので、よく返答したのだ。

――『老人雑話』
629人間七七四年:2013/05/18(土) 18:33:45.26 ID:NW8/BH9g
>>628
しまった、誤訳した…orz。本当に申し訳ない
× 八百回もしたぞ」と言っただろうと思う。
○ 八百回もしたぞ」と言おうと思っていた。
630人間七七四年:2013/05/18(土) 19:37:08.09 ID:QFwocEwC
どっちでもニュアンス的には間違ってなくね?
631人間七七四年:2013/05/18(土) 19:58:10.06 ID:rrY+3lO/
むしろ尾も無き様子が気になる
632人間七七四年:2013/05/18(土) 20:11:05.67 ID:futhla0H
越前の逸話なのにキチガイが出てこないなんて!
633人間七七四年:2013/05/18(土) 21:02:09.96 ID:1C5sJy7C
織田信長の軍が、丹波国小山城主・長澤治部太夫と申すものを攻めた時、
攻め手は織田七兵衛(信澄)、明智日向守(光秀)、滝川左近(一益)という面々であった。
この時織田信澄に、80石の知行で仕えていた藤堂高虎は大いに働き、無類の高名を成した。

小山城攻めの後、織田信澄は自身の母衣衆10人を選定したが、そのうち一人がどうしても
決まらなかった。そして家中の侍たちを様々に吟味した上で、藤堂高虎をこれに選ぶと決定した。

これを聞くと、高虎は信澄に訴え出た

「私の現在の知行は80石です。この知行では母衣衆として満足な働きを成すことはできません。
どうか御加増をお申し付け下さい。」

しかしこの訴えは叶わず、そのため高虎は失望して、信澄の元を立ち退いたとのことである。

(藤堂家覺書)
634人間七七四年:2013/05/19(日) 00:31:39.80 ID:gtYAqGtm
高虎には美学があるな。
いい話でもよかったかも
635人間七七四年:2013/05/19(日) 01:37:57.29 ID:IDLcGgKx
>>631
文句付けようと思ったら上手く交わされて
「お、おう……」
がある意味一番正しいんじゃないかなあw

どっちかと言うと
「丹羽の亡き後」
の長重のすっ飛ばされっぷりが気になる
636人間七七四年:2013/05/19(日) 08:58:40.38 ID:RQBqzfZL
>>634
美学関係ないよ
この知行じゃあ馬を買うどころか維持費すらむりぽだってことなんだから
信澄に金銭感覚全然ないのか高虎へのイジメかのどちらかだろ
そりゃあ失望するわ
637人間七七四年:2013/05/19(日) 10:51:57.80 ID:gtYAqGtm
>>636
馬も飼えない=戦で役に立てないから去る。
に美学感じる
638人間七七四年:2013/05/19(日) 11:23:26.80 ID:7uhF6O8H
戦働きできなければ喰っていけんがのう
639人間七七四年:2013/05/19(日) 11:31:57.60 ID:gtYAqGtm
80石なら従者も動員せず、軍資金も上に甘えられるだろ。
食ってはいけるが、高虎はその立場をよしとしなかったんでしょ?
640人間七七四年:2013/05/19(日) 11:41:02.02 ID:X1lutpHf
会津宰相氏郷、蒲生忠三郎也歳は三十余。
朝鮮征伐の頃に肥前名護屋において患い下血し、諸医が技をつくしたが
堺の宗叔の治療で回復した。私はそのとき朝鮮にいたが帰って上洛した。

翌年の秋、法眼正純(曲直瀬正純)が「氏郷へ養生薬を進上しました」と
言ったとき、私は「名護屋で患ったあと脈は見てないが顔色をみたところ、
顔色が黄黒でやせが目立ち目の下がむくんでいる。もし腹が膨れて足に
むくみが出てきたら助からないので、薬を進上するときは気をつけなくては
いけない」と言った。

11月、太閤秀吉公の御成に私も供奉した時、また顔色をみたところ腫れが
はなはだしく、その後も腫れが増していった。

12月1日、太閤殿下が民部法印(前田玄以)の亭にいた時、施薬院と私の
二人を召して氏郷の病状について尋ねられた。二人は「脈を診ていませんので
判りません」と申し上げた。
薬は誰が与えているのかと尋ねられたので「堺の宗叔です」と申し上げたところ、
左右におられた大納言家康、中納言利家の二人に「諸医を召して脈をとらせよ」
と仰せられた。

即座に上池院、竹田驢庵、盛方院、祥壽院、一鴎、祐安、その他あわせて九人が
氏郷の病床に向かい、家康利家が左右に居るなか諸医が脈を診て退いた。

12月5日、利家家康卿が私と一鴎を召して氏郷の容体を問われた。
私は「十のうち九は助かりません。残る一つは年が若く食欲もあるからです。
なお食欲が減り気力が衰えたら十のうち廿は助かりません」と言った。

利家は残りの医師に一人ずつ尋ねたが、或いは「十のうち五は助かりません」
或いは「十のうち七、八は助かりません」と言った。

利家は宗叔を呼び「玄朔は十に廿、その他の医師も十のうち五、六、七、八は
助からないと言っているがどうか」と言ったが、宗叔は「十に一つは難しいで
しょう」と申し上げた。

その後、利家は私に対して「氏郷の病はますます悪化している。宗叔の治療を
止めて、今日から治療せよ」と言われた。
私は「宗叔が十死と見て諦めたら、数日間投薬してみましょう。そうでなければ
ご斟酌ください」と言った。利家は宗叔を呼ばれその旨を仰せられたが「十に
一つは如何と」申した。

翌文禄4年1月末、宗叔の投薬は止められた。
次第に気力が衰え食欲も減退し、一鴎が投薬を行ったが十余日で亡くなった。

(医学天正記)

蒲生氏郷が病み衰えていく様子が克明に残されたちょっと哀しい話
でも「200%」とか断言しちゃう玄朔さんって…
641人間七七四年:2013/05/19(日) 13:56:56.58 ID:RQBqzfZL
>>639
いやだから母衣武者ってのは
ほろを付けて馬に乗ってるものなんだよ
 
いわばネット環境無しで2chに書き込めって言ってるようなもの
642人間七七四年:2013/05/19(日) 16:19:50.47 ID:zS3t+lYj
壮年の井伊直政の鋭気を心配した徳川家康は、直政の配下に附けた武田遺臣の六士
曲淵宗立斎、菅沼雲仙斎、孕石備前守、馬場藤左衛門、広瀬治郎右衛門、辻弥左衛門に命じ諫書を作らせた。

「殿様(直政)は傷馬だろうが曲馬だろうが見事に乗りこなしカッコいいです……
ですが、御大将であらせられるのだからちゃんと良い馬にお乗りになってください」

「殿様は金の大天衝の脇立と背中まである白熊の毛を付けた小洒落た御具足で輝いています……
ですが、敵にもすぐに大将だとバレる目立つ格好で我々軍勢の先へ駆け出されるなどもってのほかです」

ーー直政の傾奇者振りが垣間見れる話
(常山紀談、井伊記)
643人間七七四年:2013/05/19(日) 18:20:42.25 ID:gtYAqGtm
>>641
役職?と知行の釣り合いが取れないってことだな。
説明Thank You
644人間七七四年:2013/05/19(日) 18:59:34.39 ID:21FkBzKA
>>641
いや、母衣衆は本来戦場の使い番でしょ。
この時の信澄の母衣衆がどういった立ち位置なのか定かではないが、話の流れから抜群の功を上げた名誉の者を上げた形なので信澄としても戦場での隊としての戦力を望んだわけでもなさそう。
名誉だけ与えて実をくれない信澄の吝さに失望したって話だと思う。
645人間七七四年:2013/05/19(日) 19:12:13.18 ID:rQW+tJh6
柏木源藤「あんなに狙いやすい的は初めて見た」
646人間七七四年:2013/05/19(日) 19:29:47.82 ID:TsEqvZW6
豊臣秀吉の死後、石田治部少輔(三成)は大納言・前田利家に、
「家康は早くも専横を行い、評議の場にも出て来ません。このままにしておいては、今後秀頼様の
御為に成りません。今のうちに討ち果たすべきです!」
と、様々に語り、利家もこれを尤もだと考え、大阪から家康の居る伏見に攻め上がろうと考えた。

三成の考えは、
「家康の伏見の屋敷は、低い土地にあります。向かいの高台に宇喜多屋敷がありますので、ここから
火を放って焼きたてれば、下々騒ぎ出し表に出てくるでしょう。ここで我らは宇喜多屋敷から
出撃し討ち取り、裏から出るようならこちらも味方の者達によって討ち取らせます。
こうして家康の屋敷跡は、我らの下屋敷といたしましょう。
只今、佐和山より4千人の人の人数を召し寄せています。この作戦、難しいことでは有りません。」

さて、この事を聞いた、利家の嫡男・肥前守利長はこれを細川忠興に話した。
「治部少輔はこのように言っているが、あなたはどうお考えなさるか?」
忠興は答えた
「治部少の企てに乗ってはいけません。」

「それはどういうことか!?どうしてそのようにお考えに成るのか!?」
利長は顔色を変えて聞き寄った。これに忠興

「あなたは私の縁者でもあり、一大事でもあるので、私の考えをはっきりとお伝えしないと、
後で後悔するでしょうからここで言いますが、今回、内府との関係が決裂するのも保たれるのも、
偏に、あなた方父子のお考え次第です。
仮に決裂ということになれば、私がそれから逃げたいと思っても、人が逃げさせてくれないでしょうし、
あなたが逃げたいと思っていても、やはり周りが逃げさせてくれません。私たちは同じ立場に有るとお心得下さい。

私が理解している所では、石田治部少の奴がこの日本において恐れているのは、内府公(家康)と
大納言殿(利家)の両名です。そのうち大納言殿は、かねてから重い病であり、大納言殿が死去成された後は
治部少は自分こそが主人になろうと、色々と策動しているのです。

今の時点ではまだ、それは難しいことです。しかし大納言殿が亡くなった後は、貴殿は今の十分の一も
人を抱えられなく成るでしょう。

よくよくお考え下さい。あなたは内府公を主人としますか?それとも治部少を主人としますか!?
私は治部少を自分の主人にするような事は、絶対にできない!(私ハ治部少主に用申儀、不罷成候)

これを聞いた利長は、一々至極尤もな事だと思い、忠興に同意した。
「では大納言殿に異見し、説得なされるべきです」と忠興が進めると、利長は
「いやそれが、あなたも御存知のように私は口下手でして、なかなか父上を説得できるとは
思えません。あなたもどうか一緒に来てくれないだろうか?」

そして利家の居室に二人で向かい、忠興は次の間に待たせ、先ず利長一人が部屋に入り、利家に
異見を述べた。

利家は病のため床に伏せていたのだが、利長の話を聞くとムクリと起き上がり、畳をバンバンと
叩きながら利長に対し激しい罵声を浴びせた。

利長は慌てて「わ、わたしは口下手ですので、父上が納得できるように話すことができません!
ここに越中守殿(忠興)を同道してまいりましたので、彼から聞いて下さい。
越中守殿、お入りを!」

こうして忠興は利家の前に出て、それまでの見解を説明し、また家康を滅ぼすのが困難なことを
語ると、利家の方も、家康が自分たちとの協調体制に戻るなら、戦うことはない、との認識を示した。
そこで直ぐ様家康に連絡を取り、家康と利家の間に和平を取り付けたのである。
(細川忠興軍功記)

細川忠興、家康・利家の講和を成立させる、というお話。しかし本当に三成のことが嫌いだったんだな…
647人間七七四年:2013/05/19(日) 22:58:48.53 ID:RVFqjO8Z
むしろこの話で利家死後の三成襲撃の理由がわかりやすくなった。
ドラマでよくある「とにかくムカつくから殺す」みたいな曖昧な理由じゃなくて
「こんな物騒な計画立ててた奴は今のうちに排除しとかないとヤバい」
って危険を感じたから先手を打ったと考えた方がしっくりくる。
648人間七七四年:2013/05/20(月) 00:16:56.71 ID:8yt9yU0v
利長の悪い話でもあるよね
649人間七七四年:2013/05/20(月) 03:24:03.39 ID:RorCYiM7
>>644
使い番って戦場での使者や伝令なんだけど
馬無しでやっていけるの?
650人間七七四年:2013/05/20(月) 08:41:08.67 ID:Vi04hVmr
頑張ってくれてるからと、名誉職として与えようとした可能性は?
戦場でも傍から離さないか、理由をつけて馬やら何やら下賜しようとしたとか
651人間七七四年:2013/05/20(月) 08:56:06.79 ID:FBpMFycF
名誉職扱いはどう考えても無理筋だろ
652人間七七四年:2013/05/20(月) 09:12:11.21 ID:Mg0CMXgc
母衣衆は主君の身辺を守る親衛隊で、ここぞという時戦線に突撃させる機能もあるので、
馬だけでなく最低でも10数名規模の配下を従えていないといけない。
それにこの当時母衣衆は名誉職ではなく、バリバリの実戦部隊だよ。
653人間七七四年:2013/05/20(月) 10:11:43.43 ID:wBqh+PpR
いや、戦力として期待したんならそれ相応の石高(この時代だと貫高?)も与えるだろ。
(万石で動員数250人を当てはめれば高虎に期待される動員数は80石だから2人)
そうしなかったということは信澄にとって母衣衆はつまりそういうことだったとしか思えない。
どうにかこうにか数合わせのために10人目として選抜されたとういう事情もあるし。
もしバリバリの実戦部隊として高虎を抜擢しといてこの扱いなら、単に信澄がバカ殿だったという話になるな。

いわゆる信長の赤母衣衆・黒母衣衆(たしか書状などでは確認できなかったのではないかな?)だってそれなりに大身のものから小身のものまで名を連ねており任務も一様ではなかった。

> それにこの当時母衣衆は名誉職ではなく、バリバリの実戦部隊だよ。

オレは知らんのだけど、どこの家中でどのように遇されていたとかの具体的な例はある?
信長の赤・黒、秀吉の黄以外で。
654人間七七四年:2013/05/20(月) 10:44:24.14 ID:/OZKFzWl
して他の9人の母衣衆の姓名、知行と高虎と比較吟味された者どもの名はなんと?
655人間七七四年:2013/05/20(月) 15:50:08.69 ID:jfhU2P6R
現代でいえば仕事が出来るアルバイトが、チームリーダーとかいう
肩書き付けられて、責任と業務量だけ増えて、時給そのままで、
店長に「君には期待しているよ」と言われたようなもんだろ。
656人間七七四年:2013/05/20(月) 18:17:55.99 ID:HGFZ4pVY
>>655
それもPC、会計ソフト、営業車は自前で買えってね
657人間七七四年:2013/05/20(月) 19:20:16.88 ID:0FkxAK+S
営業車にいたっては購入費だけでなく、燃料代や駐車代といった
維持費も自前でやらなきゃならんから、賃金を上げてもらわなきゃ
仕事も生活もままならなくなる
658人間七七四年:2013/05/20(月) 19:36:23.81 ID:a7bqs9Ri
今の時代で例えるなら、主君を七度変えれば一人前どころか下手すりゃ社会不適合者扱いだからな
まあだからといって当時が良かったと言うわけでもないが
なにせ今はモノホンのクビが飛ぶわけでもないしな
659人間七七四年:2013/05/20(月) 22:02:13.76 ID:1HrcY4KI
高虎が仕えていた頃の信澄ってまだ二十歳前で養子に出ていて
自前ではたいした部隊は持っていなかった時期だよね
そもそも母衣衆とか必要無いはず
信澄にしてみればファッションとしての母衣衆であって実質を備えている必要は無かったんじゃないのかな

でも任命された方としては母衣衆の名前貰う以上はみっともない姿は見せたくないだろうしなあ・・・
660人間七七四年:2013/05/20(月) 22:27:29.60 ID:16vz82Q5
母衣衆は次代を担うエリート候補で家中の花形だからな
その中で一人だけみすぼらしい格好してたらいい笑いものだわ
661人間七七四年:2013/05/20(月) 23:22:40.70 ID:vQNRgNm7
>>658
自分のスキルで飯喰ってる業界はそうでもないが。
いつの間にか同業他社に移ってる人多いし。
662人間七七四年:2013/05/20(月) 23:58:41.88 ID:BzD8lR9N
上が必要経費を出さないからやってられないって言ってるのに、
上が出してる経費が正しいんだって妄想してる奴はなんなのw
663人間七七四年:2013/05/21(火) 04:36:06.05 ID:LFLewhaE
なんだか中村紀洋みたいなイメージに見られてるんだろうな
664人間七七四年:2013/05/21(火) 04:49:25.21 ID:ildURQgD
ちょろちょろすんなや!
665人間七七四年:2013/05/21(火) 06:46:28.19 ID:fw4VHsUy
>>662
信澄にとっての母衣衆がその程度の意味しかなかったと言ってるだけだよ。
666人間七七四年:2013/05/21(火) 06:53:57.68 ID:BVFQeXZO
そろそろ >>1 を熟読して余所へ行ってくれ

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
667人間七七四年:2013/05/21(火) 07:45:37.59 ID:EsphktCK
天正十五年の夏、豊臣秀吉の四国攻めの軍勢が迫る中、長宗我部元親は城ごとに軍勢を配置し、
一之宮城は江村孫左エ門、谷忠兵衛(忠澄)の両名に仰せ付けられた。
しかしここに大和大納言・豊臣秀長の軍勢が迫る。

谷忠兵衛は周りからも知慮ある者と呼ばれていたが、事ここに到っては、城攻めの始まる前に、元親公に
講和のための交渉を始めるべきだと考え、江村孫左エ門とも相談し、矢止め(停戦)のための神文を請うため、
元親の居る羽久地城へと参上した。

しかし元親は、谷忠兵衛の進言を聞いて以ての外に激怒し、忠兵衛は全く面目を失った。

それでも現在は一大事の時であると忠兵衛は考え、在城している重臣たち全てと話し合い、何れも
忠兵衛の見解に同心するに至った。

忠兵衛は3日ここに留まり、重臣一同の総意として、豊臣軍との講和をするよう元親に諫言した。
そのため終には元親も、忠兵衛の言う通りにするとした。

忠兵衛はこの講和を認める重臣一同の一札を取ると、一之宮城に帰り、豊臣秀長にこの旨を申し上げ、
降参の首尾を相整えた。

この時、城中よりも軍勢が出て、豊臣軍と対面したが、豊臣の上方勢は何よりも馬が大きく、武装も華やかで、
千騎が二千騎にも見えるようであった。
一方の四国勢は、馬も細く武装も侘しいもので、こちらは千騎が五百騎に見えるようであったと語り伝えられている。

同年12月には元親が降参のため大阪に向かった折にそのお供をし、秀吉にお目見えされ、直々に刀を拝領し
人々から名誉の侍であると大いに褒め称えられた。

豊後の戸次川の戦では、谷忠兵衛はその嫡男が、長宗我部信親と共に討死をした。
このことも有り元親は、信親の遺骸を受け取る使者として、島津の新納忠元の元に使わされた。

この谷忠兵衛は土佐中村城を任され、慶長五年(1600)11月7日、関ヶ原の結果長宗我部が崩壊する中、その地で病死した。
享年67歳であった。
(長曾我部覺書)
668人間七七四年:2013/05/21(火) 09:46:54.75 ID:BVFQeXZO
太閤料理人を叱る

太閤が高野山に参詣したとき「割粥を進めよ」と言った。
しばらくたってから料理人がこれを調えて進上した。

太閤は「高野山には引臼が置いてないと聞いていたが
予が割粥を好むが故に用意しておったか、料理人達の
心掛けが良いな」と褒めた。

だが実際には引臼を持っていなかったので、にわかに
大勢でまな板の上で割っていたのだ。

その後、他の話しのついでにこの事を申し上げたら
太閤は怒り「無ければ無いで普通の粥を出せば良いのに
これは一体どうした訳だ。我が下知であれば一粒まで削るも
簡単ではあるが、そのような無益な事はしないものだ」
と叱られたとの事だ。

(武野燭談)

秀吉のちょっとわがままな話
669人間七七四年:2013/05/21(火) 13:05:04.88 ID:L+LUZvci
道具がなくても太閤が待たされた実感もない程度の時間で準備できるなら準備しちゃうよなあ
670人間七七四年:2013/05/21(火) 15:34:54.84 ID:RBQTduUH
秀吉は贅沢に人手を使った食事を用意させたという人の目がイヤだったのかなあ
日常は粗食だったみたいだし
もっとも饗応や宴の機会が多くて日常の粗食の方が珍しかったりして
671人間七七四年:2013/05/21(火) 15:39:29.81 ID:FIAoIbDq
といって断れば皆殺しだろうし
672人間七七四年:2013/05/21(火) 15:44:22.27 ID:XsOmb5Sa
湯沢山茶くれん寺の住職「なら白湯で我慢してくださいよ」
673人間七七四年:2013/05/21(火) 15:48:27.66 ID:vyBOyN2w
既出ですよ
豊臣秀吉の「割り粥」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1044.html
674人間七七四年:2013/05/21(火) 16:50:46.53 ID:8+DJhx3a
その料理人の名はなんと申すのですかな
675人間七七四年:2013/05/22(水) 21:18:37.37 ID:YXi0xOw8
慶長4年(1599)閏3月3日、大納言・前田利家が死去すると、これまでの政治的混乱は石田治部少輔三成の
せいだと、反三成派の武将たちが決起し彼を襲撃する、いわゆる「七将襲撃事件」が起こる。

この時三成は大阪にあったが、襲撃を避け宇喜多秀家の屋敷に逃げ込んだ。
この宇喜多屋敷は前田利長の屋敷の隣であったため、利長の屋敷に七将は詰めかけ攻め懸る準備を進めた。
三成はこれに気付くと、女乗物で密かに宇喜多屋敷を出、摂津から京に向かい、伏見の自分の屋敷に
入り、ここに立て籠った。この三成の屋敷は伏見城の西の丸近くにあり、その上城同然の要害で
あったため、七将は思うように手が出せず、ためらいが広がった。

しかも三成は、今度は自身の手勢を手分けさせて、逆に伏見の七将の屋敷に襲撃をかける姿勢を見せたため、
七将は銘々に、自身の屋敷の防御を固めた。

この時、細川忠興の伏見屋敷は低地に有ったため、内側より堀に詰め橋をかけて、寄せ手が来るのを
待ち構えていた。すると加藤清正より使いが来て、

『あなたの御屋敷は防衛に向かない低地にあります。
しかし京橋は要害の良い地であるので、あなたが京橋に立て籠って頂ければ、あのあたりは
私と黒田殿、そして細川殿の3人で固めることと成り、これならばどれほどの軍勢で
攻め懸けられてもビクともしません。急ぎ京橋に立て籠って下さい。』
そう伝えてきた。しかし忠興は

「三成の軍勢が仕掛けて来ると言われていますが、私はまだ状況も確認していません。
状況を確認した上で、ここで我々が戦うのは無理だと判断される時は、そちらに後退いたします。」
との返事をした。

さて、この様に忠興の屋敷に三成の手の者が襲撃をかけると沙汰される中、この忠興の屋敷の
裏方は、森忠政の屋敷であったが、忠政は忠興を屋敷に訪ね

「私とあなたは、信長様の時代からこの方、2代にわたる朋輩であります。その上、屋敷も裏合いであり、
深い縁があります。ですのでどうか、お互いに相談し合い、一緒に戦いましょう。」

そう協力を申し出、森家の人数で細川屋敷の周りを固めさせた。
さらに忠興に親しい金森和泉守殿、平野遠江殿、氏家志摩殿、津田興庵といった人々も
駆けつけたが、細川屋敷が狭く収容出来なかったらめ、忠政が自分の屋敷に詰めさせた。
これは隼人左馬之充が後に語ったことである。

このような中、徳川家康が事態の収集に乗り出し
「治部少輔が政治に関わっているため、あなた方はそのようにお腹立ちになっている。
彼を佐和山に逼塞させよう。これで腹立ちを収めて貰いたい。」

と七将に伝えると、
「治部少はお為悪しき人物です!」
とあちらこちらから声が上がったものの、最終的には「内府公の御分別次第」と纏まり、
こうして三成は佐和山に引退した。

これによって、大阪伏見の情勢も静まったのである。
(細川忠興軍功記)

あの七将襲撃事件で、実は三成の反撃計画が有り、しかもそれへの対応のため攻めているはずの
七将の方がむしろ防衛的になっていたという、興味深い内容の記された記録である。
676人間七七四年:2013/05/22(水) 21:22:36.60 ID:xVQ8I8TP
伏見の自分の屋敷、てはっきり書かれてるのになぜ家康のもとに逃げた
と誤解されていたんだろ

しかし、森忠政と忠興
>「私とあなたは、信長様の時代からこの方、2代にわたる朋輩であります。その上、屋敷も裏合いであり、
>深い縁があります。ですのでどうか、お互いに相談し合い、一緒に戦いましょう。」
もう一個深い縁があるようだが、このスレ的に
677人間七七四年:2013/05/22(水) 21:29:07.97 ID:gnwbBSSy
他にも結構忠興と忠政が絡む逸話多かったような、仲いいのかね
678人間七七四年:2013/05/22(水) 22:51:29.68 ID:ZysHbaov
>>676
関原軍記大成あたりでさえ、伏見城内の自邸に立てこもったとあるから
近年の小説とかかも知れんね。
679人間七七四年:2013/05/23(木) 00:41:35.37 ID:so1pz6EK
どこかで「仮にも大名やってる連中が嫌いなだけで軍勢率いて人間一人を襲撃するわけないだろ」
ってのと「嫌いってだけで襲撃しかねないのが江戸初期以前の怖さだろ」って話があってむむむとなった
個人的には某スレの清正則の政権参入策ってのが面白いと思った。お話しとしてはだがな!
680人間七七四年:2013/05/23(木) 14:41:32.16 ID:6FYwgCS7
広橋一遊軒は台所の下男であった。
ある時、相撲で揉めて相手を七、八人斬り殺した。
一遊軒は自害することが決まったが、
龍造寺隆信さまがそれをお聞きになり、
「今は乱世であるから、剛の者は大切だろう。
この者は剛の者にちがいない」
とお許しになった。
そして、姉川での合戦へ一遊軒を連れていったところ、
真っ先に進み、比類なき働きをみせた。
高木での合戦では、あまりに敵方へ深入りするので、
隆信さまは心配なさり、お馬のそばにいるよう命じたが、
先手が進まなくなると、一人駆け出し突撃していくので、
しまいには一遊軒の鎧をつかみ離れないようにした。
このとき一遊軒は、頭部を数ヵ所斬られ、割れていたが、
傷口に青葉を押し込んで、上から鉢巻で締めていた。
当時、一遊軒黒薬という膏薬があった。
まだ当国に外科医などのいないころである。
腫物のできた者はその薬をつけていた。
その黒薬とは、へそのゴマ、塩、米、を練り合わせたものだ。
腫物を切り裂いてそれを押し込むから、
たいていの者は気絶したとのことである。
直茂さまの腕に腫物が出来たとき一遊軒が、
「お見せください」
と言ってきたのでお見せになると、
一遊軒は突然、針を取りだし不意に切り裂いた。
直茂さまが思わず、
「何をする!」
と叫んだところ、
「これくらいで痛いのですか」
と言ったので、直茂さまは針を取り上げ、
一遊軒の頬を切り裂いた。
二人は気が合わず、顔を合わせば喧嘩をしていたという。
天正二年須古の平井攻めのとき、一遊軒は討死した 【葉隠】
681人間七七四年:2013/05/23(木) 15:08:01.95 ID:hNNWNmJw
とくに落ちがあるわけじゃない所がまたいいな
682人間七七四年:2013/05/23(木) 15:22:00.04 ID:EGxVCoOf
へそのゴマ、塩、米を練り合わせたものって・・・
683人間七七四年:2013/05/23(木) 15:46:56.09 ID:UL3DuNNu
垢を丸めた先祖伝来の薬だってあるんだ、問題ないって勝成さんが…
684人間七七四年:2013/05/23(木) 16:19:16.92 ID:rYD0kCrI
小十郎「まーくんの目玉取ってやったぜ!痛み止め?そんな軟弱に育てた覚えはないぜ!ワイルドだろ♪」
685人間七七四年:2013/05/23(木) 17:22:53.95 ID:YqZIn6op
クロカン「目薬いらんかね?」
686人間七七四年:2013/05/23(木) 17:32:24.22 ID:rYD0kCrI
ダンジョー「お茶でも飲んで逝きなさい」
687人間七七四年:2013/05/23(木) 17:40:13.55 ID:1BFd76bf
>>680
姉川じゃなく耳川じゃね?
688人間七七四年:2013/05/23(木) 18:07:10.00 ID:06GvmBN2
龍造寺が耳川で戦うことはないよ
肥前にも姉川という地名があるんよ
689人間七七四年:2013/05/23(木) 18:10:04.64 ID:cRSA1gOa
>>687
なぜ?
耳川より姉川のほうが自然だが…
690人間七七四年:2013/05/23(木) 18:27:56.12 ID:06GvmBN2
同じ地名と言えば佐嘉の北、現在の脊振山地一帯である山内の入り口にある城は春日山城といって、謙信の居城と同名だな。


弘治3(1557)年に龍造寺勢はこの城を占拠して、小河信安に普請を命じ、仇敵神代勝利攻略の拠点としようとした。
城の守備は小河の一族が担当したが、九月勝利はこれを攻めて小河一族に多くの死者を出した。

十月十五月信安はこの仇を取らんと手勢を率いて山内に攻め込んで、隆信も軍を率いてその後を追ったが、
勝利もこの動きを察知して兵を招集して迎え撃った。
翌十六日、信安、勝利ともに敵軍の布陣を物見しようとしたところ、薄明かりの中でお互いばったりと遭遇した。
狭い地形でお互いの従者も加勢ができず、一騎討ちしかできないような場所であった。
信安は一族の仇とばかりに勝利の腹を槍で突いて傷をつけたが、勝利は槍を返し信安を突き、
勝利の従者が駆け寄って信安の首を刎ね討ち取った。
勝利も手負いであったが、龍造寺の先陣大将を討ち取ったことにより神代勢も勢いを増し、
ついに鉄布(かなしき)峠で龍造寺勢を大いに破った。

この頃一首の狂歌が与止日女神社に張り出されたという。
春日山若武者先に落されて また清恥をかくぞ鉄布(かなしき)
691人間七七四年:2013/05/23(木) 20:06:08.91 ID:knNTMBy/
天正14年(1586)、長宗我部元親公の御嫡男である信親公は、豊後の大友が島津に攻められているのを
助けるため、長宗我部や仙石が加勢いたし合戦となり、ここで討死されました。

私の父である福富隼人は長宗我部家に仕えており、この合戦の後、長宗我部が再び九州に出陣した時に
先手を仰せ付けられ、天正14年9月21日、38歳にて討死いたしました。
その合戦の名は豊後府内陣と申します。また、筑紫陣とも呼ばれているそうです。

我が父隼人は討ち死にするまで数度にわたって名を上げる働きを致しましたが、
それらの事については、長くなるので省略します。

こうして私は、幼少(11歳)で父と離れました。

父・隼人は長男でした。
次男の民部は、豊後府内陣において兄隼人と共に、35歳で討ち死にしました。
三男の平兵衛は、伊予南表の大津という所で合戦が有った時、深手を負い、帰陣後30歳で亡くなりました。
四男の新六郎は、阿波国での勝端合戦で、26歳で討ち死にしました。
五男の新九郎も、新六郎と同じく勝端合戦で、20歳で討ち死にしました。

(福富平右衛門親政法名淨安覺書)

長宗我部元親が土佐の出来人として成長する裏での、巨大な犠牲の一端が垣間見られる、
福富隼人とその兄弟の戦死についての証言である。
692人間七七四年:2013/05/23(木) 21:12:26.15 ID:Mnno51pM
伊東祐兵、出陣の催促を免れる

石田治部少輔三成が逆心の棟梁として廻文をまわし、
在大坂の大名小名とともに慶長五年七月晦日に伏見城を攻め落とし
鳥居元忠らを討ち取って濃州へと出陣した。

かねてから伊東祐兵にも出陣するように催促があったが
祐兵は重病であり催促にも従わなかった。

島津中務少輔(豊久)は大坂から出陣する時に、祐兵の居所へ立ち寄り
さあいっしょに出陣しましょうと申し入れたが、郎党たちは大病にて
病臥していると答えたが「直にあってお話したい」と言われたので
奥へ通された。

祐兵の病状を見て疑いも晴れると、泪を流して「ともに出陣しようと
思っていたのにこんな容体とは・・・。十分に養生してください。
命があればまた会いに来ます」と言って出て行かれた。

もし家康公に通じていることが露見すれば大事だったであろうが
強運の程こそ頼もしけれ

(日向記)

伊東祐兵が東軍に通じてなければ美しい話だったのだけれど・・・
693人間七七四年:2013/05/24(金) 01:28:34.38 ID:xoZzArbF
関ヶ原直後に死んでるのは強運といえるのか
しかし、島津を仇と思ってるだろうに、豊久もよく行ったもんだ
694人間七七四年:2013/05/24(金) 06:36:58.88 ID:BhoaUw4r
伊東家が日向から追い出されたのは、豊久が幼少の頃だから
あまり意識してなかったかも
695人間七七四年:2013/05/24(金) 07:53:37.69 ID:BhoaUw4r
織田上心は大坂天満で秀頼公から数年間、御扶持米をお受け取りになられていたが
乱世の頃から家康様へ御一味されていたので北野へ引かれあそぱしました。

宇多にて五万石を遣わされ、夏の陣には出陣され大坂備前島へ攻め寄せられました。

(長澤聞書)

信雄さんのちょっと当て字が多すぎ・・・いやちょっと薄情なお話。
696人間七七四年:2013/05/24(金) 10:44:28.65 ID:hgPphfC3
上申さんでもいいかもなぁ。
697人間七七四年:2013/05/24(金) 15:39:19.57 ID:01zyoqe4
弘治二年(1556年)、信玄の命により信濃へ攻め寄せた山県昌景は、
周囲の城を攻め落としながら現在の白馬村近辺に兵を進めていた。
塩島城主の但島守勝雄は以前から武田家に従っていたがその様子を見て、
「我が城が間違っても攻められることはないと思うが・・・」と、少々不安になっていた。
そこで、昌景に敵意がないことを表すため盛大にもてなすことを考えた。
ただ、露骨にもてなすのでは面白みに欠けるとして、
昌景に気づかれないよう内密に準備をすることにした。

そうこうする内に塩島城に昌景の使いが訪れる。
但島守は使いの者たちに知られては意味がないと、
もてなしの準備を平静を装って隠したが、
使いの者たちはその態度や城内の慌ただしさを
「上杉方に寝返って戦の準備をしているのだ」と早合点。
但島守に「主が早急に出向くようにとのおおせです」と伝えた。

使いの者たちは先に陣に戻り、昌景へ
「大量の食糧が城内に運びこまれ、城内はものものしく戦でも始めそうな気配でした。
殿に万が一のことがあってはならぬと、城主に出向くように伝えてきました」と報告した。
昌景はその言葉を信じ、「裏切り者は討たねばならぬ」と準備をはじめた。

そんな状況になっていることを知らない但島守が昌景の陣にやってくる。
昌景は笑顔で迎え、和やかな雰囲気のもと酒宴となった。酒盛りが続き夜も更けた頃、
「今夜はわが陣にお泊りくださるがいい。風呂でも浴びてからゆっくりとお休みくだされ」
と、昌景は風呂をすすめた。
但島守は、昌景の心からのもてなしに礼を言い、案内された湯船に気持ちよく浸かった。
しかし湯船でゆったりくつろいでいだのも束の間、
覆面の武士が音もなく湯殿の戸を開けて入り込み、背後から槍を一突・・・。
但島守は「うっっ」と一声あげ、血潮に染まった湯舟の中で息絶えたのだった。


この話は「白馬ハイランドホテル」サイト掲載の昔話を短くまとめたものです。
出典や真偽等についてはちょとわかりかねますが、面白い話だったので是非。
698人間七七四年:2013/05/24(金) 20:35:01.49 ID:o3OeRfo3
戦国時代はサプライズパーティーも命がけやでぇ・・・
699人間七七四年:2013/05/24(金) 21:15:43.06 ID:UZrhSbeD
いやまぁ、それとなく伝えて内密に同意得ておかないと
事故ってしまうのは時代を選ばない気もするが

国単位でそれやらかした所もあったりするし
700人間七七四年:2013/05/24(金) 22:25:25.22 ID:+qovmhjL
敵意がないことを示すための接待なんだから、
始めから家中全体大歓迎ムード発揮してやるべきだよな
701人間七七四年:2013/05/24(金) 22:36:01.66 ID:W44iJUNB
文禄元年(1592)、その頃私は福富七郎兵衛と名乗り、17歳でした。

高麗陣にて12月5日、長宗我部元親公はこう仰られました
「二手か三手を出撃させ、5,6里ばかり進軍せよ。その途中で唐人に遭遇したなら、それを討ち取り、
鼻を削いで御帳に記録せよ。但し暮六つ(午後5時)以前に本陣へ帰るように。
もしこの暮六つ迄に帰って来なければ、例え敵の鼻を削いで来たとしても、必ず罰を申し付けるであろう。」
この様に固く仰せ付けられました。私はその時、久武内蔵助の組におりました。一組は16人で
構成されていました。

我々は八ツ時分(午後1時頃)に御本陣を出ました。御本陣は組川(ソセン)という場所に
ありましたが、そこから6里ばかり進んだ所で、騎馬の唐人の部隊、20騎ばかりを発見しました。

向うは我らの軍勢を見ると、急ぎ逃げ出しました。我々はそれを追いかけましたが、彼らは松林の中に
逃げ込み、そして唐人たちの姿は一人も見えなくなりました。
我々は皆馬から降り松林の中を探索すると、松林の奥に穴があり、唐人たちはどうも、そこに逃げ込んだ
様子でした。そのため我々は、穴の中を狙って鉄砲を何発も撃ちこみましたが、当たったのか
当たらなかったのか、まるで解りませんでした。

この時廣井嘉右衛門という者が、「唐人を穴に追い込んだのに討ち捨てることも出来ずに帰ってしまえば、
後日、我々への批判はどれほどのものに成るだろうか。とにかく、この穴に入って唐人を探し出そう。」
と言い出しました。
穴の入り口は狭く具足姿では入れそうになかったので、具足を脱いで脇差だけの武装が良いと、皆
支度をしていた所、私が召し使っていた久右衛門と言う者が、私にこのように囁きました。

「今こそ手柄を立てる時です!この穴に一番に入るのです!」

私はそれを聞いて「尤もなことだ」と思い、一番に穴の中に入った所、廣井嘉右衛門が後から入ってきて、
私の帯を掴み、穴から引っ張りだそうとしました。
しかし久武久右衛門と言う者が廣井に、「七郎兵衛は若輩者の志で先に入ったのに、お主が
そのようなやり方で、例え功を稼いだとしても、我々は後日の詮議で、一番は七郎兵衛であったと
証言するぞ!」と申し立てたため、廣井も私の帯を放しました。

こうして先頭が私、2番が廣井嘉右衛門、3番が久武久右衛門という順番で穴に入りました。
その他にこの穴に入ろうというものは、一人もおりませんでした。
穴の中で廣井から、「脇差を抜いて手に持っておけ」と言われ、私も尤もなことだと思い、脇差を抜いて
手に持ち、穴の中を進みました。

穴の入り口は狭かったのですが、奥に行くにつれて広くなり、12,3間もありました。
半ばで地面が盛り上がっており、これでは穴の口から撃った鉄砲など、当たるはずも有りません。

奥に隠れていた唐人たちを発見しましたが、彼らは日本人の鉄砲を恐れていたため、立ち向かってくること無く、
我々の姿を見るや、全員残らず抜け穴から逃げ出しました。しかし穴の外に残った者達が、
それを残らず召し捕りました。
この唐人たちは全部で17人。私達は彼らを斬首し、その上で鼻を削ぎ、穴に入った3人で分けました。
私は鼻7つ、廣井嘉右衛門は鼻6つ、久武久右衛門は4つを手にしました。

そうして本陣に帰ったのですが、時間は既に、夜の九ツ(午後11時頃)を過ぎていました。
これは先の軍法に違反しているということで、特に穴に入った3人には、切腹を申し付けると決定し、
私はその覚悟をしました。

所がそれから3日目に元親公の御意にて、「国元から100人ほどしか高麗に召し連れておらず、
その内では切腹する3人も含めて、10人と言えども大切である。よって今回は助けてやる。」と仰られ、
この旨は出頭人の中内勝助と申される方より発表されました。
そして翌12月9日、私たちは元親公にお目見えを許されました。
(福富平右衛門親政法名淨安覺書)

長宗我部軍の一兵卒から見た、朝鮮の役での一コマである。
702人間七七四年:2013/05/24(金) 22:46:32.33 ID:8QWdfP/d
「おいでませ野間 歓迎 源義朝公」
703人間七七四年:2013/05/24(金) 23:05:36.90 ID:w32lz4E7
福留とか久武とか長宗我部の重臣格の一族名だな
704人間七七四年:2013/05/25(土) 20:54:22.67 ID:++3Iv3+U
伊東家の禄高

慶長十年三月、平川分右衛門が領分検地帳を伏見へ持参。奉行所へ
届け出て禄高五万七千八十石余と確定しました。

これはさる文禄元年に検使を受け禄高三万六千石と定めらたのですが、
祐兵はなおもって禄高を上げようと思し召し、文禄四年にひそかに検地し
四万五千石ありましたが、表には出ないように止めました。

しかるに祐兵逝去の後で落合九右衛門、山縣太郎衛門の両人が相談して
伏見にて禄高は六万石であると披露しました。

これを国許の家老が聞いて、もし所替などの時には引き渡す帳面が無い。
急いで検地しようと評議して川崎主水、三谷作右衛門、平川分右衛門が
奉行して、慶長九年冬に検地して右の通りの禄高となりました。

(日向記)

やっぱ石高っていい加減だよねー
705人間七七四年:2013/05/26(日) 12:40:06.31 ID:Ihe91kgD
>>701
>5,6里ばかり進軍せよ。その途中で唐人に遭遇したなら、それを討ち取り、
>但し暮六つ(午後5時)以前に本陣へ帰るように
>八ツ時分(午後1時頃)に御本陣を出
>そこから6里ばかり進んだ所で、騎馬の唐人の部隊、20騎ばかりを発見しました。

4時間で20km行って戦闘して20km帰って来るの?(´・ω・`)
706人間七七四年:2013/05/26(日) 12:47:52.61 ID:zUSlV+Tv
>>705
八ツ時分が、午後1時ではなく、午前1時〜3時の方ではないだろうか?
707人間七七四年:2013/05/26(日) 12:57:07.19 ID:TxFi1cNb
超スケベの一里も4kmでええのんけ?
708人間七七四年:2013/05/27(月) 00:44:33.30 ID:HTBPF3WR
一里が約4km定められたのは江戸時代で戦国期の一里は1kmなかったって聞くけど?
709人間七七四年:2013/05/27(月) 01:08:17.62 ID:/WDr3SNv
中国だと、一里500mだったってのはよく聞くね
710人間七七四年:2013/05/27(月) 05:37:39.95 ID:PqjcO/n8
福島正則が家中の侍たちに知行割を申し付けた時、可児才蔵に対して、このように言った

「才蔵は普請役をするのなら、2千石取らせるのだが、しかし役無しを望むのなら、千石を遣わす。」

家に才蔵はこれを聞くと

「私には今まで、鋤鍬で取った知行などありません。ですので千石、無役で頂きたく思います。」

と、千石の方を取ったという。

また、彼が本丸の番をしていた時、才蔵の有名な十文字槍が番所に置いてあったのを、
福島正則が見つけこれを抜いてみると、

「なんだこれは、才蔵にも似合わぬサビ鑓ではないか。」

と、錆びついた彼の鑓について指摘した。これを聞いた才蔵は

「槍の先を、よくご覧ください。」

と申し上げた。先を見た正則は笑い出し

「なるほど、先に錆はないな」

と言った。可児才蔵は槍の先の部分は、戸に当てて置いていたそうである。
(福島太夫殿御事)
711人間七七四年:2013/05/27(月) 13:25:39.64 ID:MBNkYTlj
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1084.html
槍の話は既出だが、こっちでは市松がかっこわるいことに
712人間七七四年:2013/05/27(月) 18:12:42.43 ID:2O1GjFJN
藤原惺窩はかつて太閤秀吉を評して「秀吉は大胆な人ではあるが、大心とは言えない。
朝鮮より明に攻め入ろうとするのは誠に大胆ではあるが、秀信を信長の跡目と仰せられず、
自立して日本を掌握されたのは大心にあらず」と言った。

後にこの事を四辻亞相公理に語った人がいた。亞相は「吾もその論をもっともだと思う。
大仏建立は彼の猿心の離れぬなり」と言ったという。

――『先哲像伝』
713人間七七四年:2013/05/27(月) 21:19:28.63 ID:q4RGpC9u
文字を追うのに疲れたのでちと気分転換。

集古十種と言う江戸時代に刊行された木版図録集がある。
古美術品の類を碑銘、鐘銘、兵器、銅器、楽器、文房、印璽、扁額、
肖像、書画に分類し図録としておさめたまさにビジュアルな史料で
近代デジタルライブラリーでも見ることが出来る。

甲冑や武具の類も興味深いが、戦国で書状などに押されている
印判について紹介。

超メジャーな織田信長の天下布武(左側のページ)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1881074/29

続いて豊臣秀吉の朱印。
右のページにあるのが太閤朱印としてよく知られているもの
左のページにあるのは関白と記されているので関白だった頃のものだろうか。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1881074/30

三傑のうち家康のものは収録されていないようだが、
他にも秀次、秀頼、北条、武田、宇喜多秀家、小西行長あたりは
収録されている。珍しい所では一休和尚のものもある。

と…実はここまでが前振り。ネタとなるのは我らが鮭様の印判である。
既にご存じの方もおいでだろうが左のページをご覧いただきたい。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1881086/18

目に鼻に口、変な冠に手足が生えて…
ゆるキャラにしか見えない不思議な印判の画像
714人間七七四年:2013/05/27(月) 21:32:21.30 ID:eGeEbNeo
これは……鼎か何か?
715人間七七四年:2013/05/27(月) 22:11:08.45 ID:5h1h2izq
頸をねじ切られた亀にしか見えない。
716人間七七四年:2013/05/27(月) 22:59:34.57 ID:Huq/jFiY
>>710
屁理屈にしか聞こえんな
717人間七七四年:2013/05/28(火) 03:03:55.79 ID:pFuPe7AI
茶釜かな
織部に相手にされなかったのがよほど悔しかったのだな
718人間七七四年:2013/05/28(火) 05:12:12.65 ID:PXm8zvSH
最上義光歴史館よりあの奇怪な印判について抜粋
http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=224335

この「七得印」とは、中国の古典である『春秋左氏伝』に記されている
君主の心がけるべき七つの武徳(=七徳、七得とも)を印判のデザインと
して使用したものだと言われています。

一、暴を禁ず ……… むやみな暴力を禁じる
二、兵を収む ……… 武器をしまう
三、大を保つ ……… 国の威勢を大きいままに保つ
四、功を定む ……… 君主としての功あるように励む
五、民を安んず ……… 民心を安定させる
六、衆を和らぐ ……… 大衆を仲良くさせる
七、財を豊かにす ……… 財産を蓄えるよう努める

------
最上義光のエピソードを見てるとさもありなんと思うが
あのデザインを見ちゃうと本当かなぁと疑ってしまう。

香炉っぽいデザインにも見えるけど、ゆるキャラだとすれば
真中下部のはふんどしだろうか
719人間七七四年:2013/05/28(火) 06:39:42.85 ID:NL44dUxg
文禄元年(1592)7月、朝鮮の役

脇坂安治、九鬼嘉隆、加藤嘉明の3人は都より14日かけて釜山海の川口に到着し、敵の番船を
どう討ち取るかを評定したが、九鬼・加藤両人は船を動かさずに居た所、脇坂安治は一人、
自身の手勢だけで、7月7日、唐島表に船を押し出した。

この時瀬戸の内には敵の番船が4,5隻ばかり居たのを見つけると、脇坂軍は鉄砲を撃ちかけ
半時(約1時間)ばかり攻め懸け戦ったが、敵船は少しずつ退くのを、隙間なく攻めかかり、
およそ3里(12キロ)ほど追撃したのだが、敵船は瀬戸の内を過ぎて広い所へ出ると、
一度に舵を取り直し、大船を3手に分け、味方の船を引き包み、差し詰め引き詰めつつ
攻撃してきたため、味方の船は死傷者が多数出た。

その上、敵は大船であり見方は小舟であったため、対抗できないように見え、元の瀬戸の内に
引き退こうとした時に、敵船は一気に押しかけ、味方の船に焙烙火矢を投げ入れ、たちまちのうちに
船を焼いたため、脇坂安治の家臣である脇坂左兵衛、渡辺七兵衛を始めとした、名の有る者共が
討ち死にした。
しかし脇坂安治は、櫓の数の多い早舟に乗っていたため、その駆け引き自在の運動性に
助けられ、その身は無事であったが、それでも鎧に屋が当たるなど、十死一生を得る危うさであった。

敵船はなおも追撃し、しきりに火矢を射かけてきたが、脇坂安治の早舟は終に金海に撤収した。

この時敵に討ち漏らされた手勢が200人余りあったが、彼らは陸地から50町(約5.5キロ)離れた
小島に船を着け、各々船より上陸した。
この時、追ってきた敵船によって味方の大船が焼かれてしまった。
眞鍋左馬充と言う者は、その船の船長であったが、
「この船を焼かれた上は、私の命ばかりが助かった所で何の意味があるだろうか?
再び軍中において諸士に逢っても、語る言葉も無い!」
と言って、切腹して死んだ。

この頃、九鬼・加藤の両人も脇坂安治が既に唐島の敵船団に敗北したとの情報を聞き、直ぐ様
船団で馳せ向かったが、敵はカズも多く大船でもあるため叶わぬと判断し、二人共に安骨浦に引き返した。
敵船はこの後を追い、日が暮れるまで安骨浦の湊において船軍となった。
ここでも見方は敗北し、九鬼の船は帆柱をも打ち折られた。

夜に入って、敵船は唐島へと引き上げた。これにより唐島浦の小島に避難していた脇坂家の家臣たちは、
焼き捨てられた舟板で筏を作り、陸地に渡ろうとしたが、敵船10雙ばかりが昼夜島を取り巻いていたため、
彼らは13日にわたり、松の葉や海藻を食べて敵船が引き退く隙を待った。
こう言ったところに、再び唐島表に日本の兵船が多数向かうとの情報が流れ、敵船はにわかに
島から退いた。

この隙に島より、5人、10人づつ筏に乗って陸地へと渡ったが、敵船はまた引き返してきて、
海辺で10人ばかりを射殺した。
残った200人ほどは虎口を逃れ、危うい命が助かって、金海へと帰還した。

この敗戦は日本に知らせられ、豊臣秀吉より、藤堂高虎を遣いとして、直々に批判と
防衛の徹底を求めた書が下された。

こうして脇坂安治は、唐島表において敵船団に討ち負け士卒を多数討たせたことを遺恨に思い、
敵船団ともう一戦しようとあちらこちらと探索したが、終に敵船団に行き会うことはなかった。
ある時、敵の物見の船を見つけ、即座に乗り捕り尽く撫で斬りにして、大将と見えた者を生け捕りにし
牢獄に入れておいたが、しばらくして敵陣へと脱走した。この者は後に唐島表の海戦の時に、
8万の軍の大将となって来たとの事である。
やがてその年も暮れと成ったため、熊川へと引き取った。
(脇坂家傳記)

朝鮮役において、抜け駆けをした脇坂安治が李舜臣の船団に敗北したいわゆる「閑山島海戦」の敗戦の模様である。
720人間七七四年:2013/05/28(火) 07:20:20.50 ID:IauFkIIW
なんか脇坂さんっていつも一か八かの博打が多い気が
この前の秀吉待ちぶせといい、
赤鬼に単身談判といい、
上野城攻めといい(司馬遼太郎「貂の皮」でしかしらないけど)、
この閑山島海戦といい、
関ヶ原での便乗裏切りの素早さといい
721人間七七四年:2013/05/28(火) 12:28:48.12 ID:1lW1YO6h
一貫性があるのがいいね!
722人間七七四年:2013/05/28(火) 12:36:26.61 ID:kR++sBbf
7本槍なのにいまいちな印象(´・ω・`)
723人間七七四年:2013/05/28(火) 14:15:40.22 ID:MDl3PRNH
韓国では脇坂は戦死したことになってるんだったか
724人間七七四年:2013/05/28(火) 14:18:53.22 ID:qLXtfEUQ
影武者が本人に成り代り活躍とかなら面白いけど
ウリナラファンタジーのコリエイトだから無いな
725人間七七四年:2013/05/28(火) 17:57:09.54 ID:IeDKOz3w
一説に、徳川二代将軍は諸侯に野心があるか否かを試そうと、密かに土井利勝に命じて
偽りの謀叛を計らせ、織田豊臣に縁故ある七大諸侯に廻章を出して同意を求めた。

侯伯らは直ちに利勝の逆意を密告するか、または書を見ずに返したのであるが、
加藤明成は独り廻章に点を掛けた。

これまた嫌疑を招いた一事であり、領土返還の事はあるいはこれにより起こったという。
記して参考とする。

――『鹿深遺芳録』
726人間七七四年:2013/05/28(火) 19:01:20.25 ID:wdZfbmMn
193 名前: アビシニアン(内モンゴル自治区)[] 投稿日:2013/05/28(火) 02:34:24.69 ID:jvge/aGyO
修学旅行で姫路城に行った時に同級生が撮った写真に生首がふたつ写ってた
ガイドさんが説明してたのを上の空で聞き流してたから分からないけど姫路城内に処刑所とかあるの?
めっちゃリアルで怖かったけど生首のオブジェとかは無かったような
727人間七七四年:2013/05/28(火) 19:10:24.75 ID:NL44dUxg
刑部姫かな?
728人間七七四年:2013/05/28(火) 20:57:52.50 ID:pFuPe7AI
皿屋敷のお菊さんも姫路じゃの
729人間七七四年:2013/05/28(火) 21:01:54.68 ID:AfwfQ2PP
腹切丸で切腹したことは無いらしいね
730人間七七四年:2013/05/28(火) 22:42:24.37 ID:A49R97GK
姫路城の経験した実戦って、幕末に岡山藩に「攻め落とされた」時ぐらいじゃね?
731人間七七四年:2013/05/28(火) 22:50:57.89 ID:NL44dUxg
「近世姫路城」はそうだな。南北朝から千石にかけては結構実戦があった模様
732人間七七四年:2013/05/28(火) 23:43:53.30 ID:gleyTiTj
大坂城とか本願寺時代から米軍の空襲まで血みどろだよなぁ
733人間七七四年:2013/05/29(水) 05:11:58.06 ID:zYX3/DBl
福島正則が広島に入部し、新たに広島城の普請を行なっていた時のこと。
石垣の据え様が大変悪いと激怒し、坂本などから雇った穴太衆の者達を叱りつけ、また

「おのれら一人ひとりの首を斬ってやるぞ!」(おのれら一々首を切くれん)

と、丹波殿、石見殿、久之丞殿といった重臣の人々も散々に叱った。
そうして木造大膳(長政)(元織田秀信家老。関ヶ原後福島正則家臣に)の丁場に行き、
木造に

「木造殿は岐阜の中納言(秀信)の所で、したいままに応対されていたというのは、間違いだった
ようですな!」

と、散々に叱り、朋輩衆にも恥ずかしく思うほど叱りつけた。
これには木造大膳は面目なく、また無念に思い、そのまま宿舎に帰り

「今までこれほどまでに、主君から叱られた覚えはない!もはや男が立たない!
2万石の役儀と人数は残らずお返しする。私はここから船で上方に上る!」

と言って直ぐに支度を始めたが、先の丹波殿、石見殿、久之丞殿、その他普請の
組頭の衆が皆やって来て様々に意見したので、終には福島家に留まることになったそうである。
(福島太夫殿御事)
734人間七七四年:2013/05/29(水) 07:08:45.48 ID:GL+Xoqqs
覚頭合戦敗北の事

真幸院では元亀二年九月より翌年五月までの九ヶ月の間、島津義弘
の居城である飯野城にかかって数度の攻防を繰り返していた。

そこで真幸院を制する為に元亀三年五月四日に大軍を起こし、伊東
加賀守(祐安)・伊東新次郎(祐信)・伊東又次郎・伊東修理亮(祐青)
の四人が大将として発向した。

先に飯野城を抑えてから覚頭城を攻略しようとの衆議により、伊東
加賀守は飯野城の抑えと定められ妙現に陣取った。

残る三大将は総軍を率いて覚頭城の麓を打ち破り、敵数多を討捕え
競い合うように放火して引き下がる所に、飯野城では少数の敵を
破って薩州の士卒を城に追い込み岡尾平まで引き退いた。

勝ちに乗って敵を侮り軍法がみだれていたので、衆議して備えを
堅くして引くことに決まったが、過半は若い大将であり下知が行き
届かず、兵たちは「薩州の士卒がいかばかりの事をしでかすだろう
竹竿一本で打ち破れるものか」などと口ぐちに喚いて、五月の暑い
時期でもあり、皆水浴びをして刻を過ごしていた。

兵庫頭(義弘)は斥候を出し、油断しているさまをみすまして栗野横河
から急襲して突き崩した。

諸大将はこれを見て、逃げずに戦おうと我も我もと互いに突出して
火が出るほどに戦ったが備えを俄かに立て直す事は出来ず、薩州勢
に掛かられて、逸りきった若侍達は数を知れぬほど討たれていった。

伊東加賀守・伊東修理亮は軍勢をまとめて撤退しつつあったが、
誰々戦死と追々伝えられると、それぞれ馳せ戻って忠死を遂げた。

中でも伊東源四郎(加賀守の息子)討死と告げられた加賀守はそれを
聞いて取って返し島津兵庫頭と行き会い、敵の真中に割って入って
討死された。

この加賀守は勇気智謀兼備にして伊東の人傑であれば、皆これを
惜しみ最早これまでとばかりに、我も人も互いにとって返し討死に
を遂げた人数は二百五十人にも及び、そのうち面々衆が九十六人、
御一家大将分が五人であった。

(日向記)

なお覚頭城、覚頭合戦とは伊東側の呼称であり、島津側は加久藤城
木崎原合戦と呼んでいる。
735人間七七四年:2013/05/29(水) 09:03:00.00 ID:GL+Xoqqs
真幸口のうち四ヶ所の城を捨てる事

天正四年八月、真幸院のうち三ツ山、須木の領主である米良美濃守の給領
のうち加江田郷地福六町を召し上げ伊東皈雲入道へと遣わされた。

この所領は先忠により兄米良筑後守に褒美として与えられていたが筑後守
は覚頭で敗れたときに討死にしており米良美濃守に給っていたものだ。

懸命の地を取り上げられる事を美濃守が遺恨に思った為、これを糾明する
為に新光寺を使僧として山東へ召し寄せようとしたが、美濃守はなにを
思ったのか途中で新光寺を討ち果たし、そのまま三ツ山、須木の領を捧げて
島津兵庫頭(義弘)が居た真幸院飯野城に参陣した。

これにより真幸院のうち高原城に薩州より大軍が押し寄せ、高原城に指し
置かれていた福永平右衛門は日夜三日防戦したものの城中の水が尽き降伏。

それにより野久尾城も守る事も出来なくなり、高原・三ツ山・須木・野久尾
の四か所はそのまま島津の知行となってしまった。

これ以後は野尻の地頭福永丹波守に軍勢を加えて、野尻・戸崎の両城を境と
して手堅く番をさせるようになった。

(日向記)

所領のトラブルから伊東家の没落が加速していくお話
736人間七七四年:2013/05/29(水) 23:31:21.82 ID:zYX3/DBl
悪いというか、解るかこんなもん!w

> chutan28 ぷよ丸
> 日本史学特殊講義の問題むずすぎワロタwwww
> 「下の書き下しは右の古文書をそのまま写したものである。しかしこの古文書には漢字が一文字抜けている。どこに何の漢字をいれるのが適切か。」
> 知るかwww
> https://twitter.com/chutan28/status/339269458025656320/photo/1
737人間七七四年:2013/05/29(水) 23:38:35.37 ID:3ANQNnna
答え聞いたら、あー確かにとおもった
738人間七七四年:2013/05/30(木) 04:58:19.68 ID:mfYPus1T
慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原の結果、土佐国は権現様(徳川家康)によって召し上げられ、
山内対馬守殿(一豊)が拝領されました。

それに先立ち土州請取を井伊兵部殿(直政)が仰せ付けられ、兵部殿から浦戸城請取のため、鈴木平兵衛殿が
遣わされました。平兵衛殿は上下100人ほどの人数で、同年10月中旬に土佐浦戸の湊に到着されましたが、
この城請取の時に紛争が起こり、長宗我部は年寄方(重臣層)と家中方が真っ二つに分れ、大きな合戦が
ありました。平兵衛殿は”みませ”と申す所に居られましたが、年寄衆が相談され、夜中に平兵衛殿を
城に引き入れ、請け渡しを相済ませました。

この事に家中方一揆共は異論を成し、「城を渡す訳にはいかない!」と城に攻め寄せて参り、
浦戸の南、”ヌカワカ”という場所で大きな合戦となり、これに家中方は敗北しました。
私達福富一門は、年寄方でした。

こうして停戦が行われ、程なく土佐の情勢も鎮まりました。そして私は鼓谷という所に引き籠りました。

この家中方一揆の内に、北岡六兵衛・源七という父子があり、彼らは一揆を扇動する徒ら者であり、
とにかくこれらを討ち取らなければならないと年寄衆の間で相談の上決定し、
熊野又右衛門、前田久右衛門、佐和良木理兵衛、北岡宗右衛門、苅屋小左衛門、宇津野孫右衛門、
三谷六右衛門、そして私の、計8人が討ち手として向かいました。

私は一足先に出発し、2番の熊野又右衛門と、北岡の家の正面に向いました。
残りの者達は家の後ろに廻りました。

私と熊野又右衛門が北岡の家に着くと、息子の北岡源七が家から出てきて、私に斬り懸かって来ました。
そして父親の北岡六兵衛も出てきて、こちらは又右衛門と斬り合いをはじめました。

私の方は、胴田貫の刀で北岡源七の頭を割り、源七を討ち果たしました。
北岡六兵衛の方は、熊野又右衛門に腕と細腰(腰の帯を締めるあたり)を斬られ転びましたが、
又右衛門は「頭を斬られて目に血が入り目が見えない!」と申しましたので、私は源七を
討ち取った所から三間ばかり(およそ5.5メートル)もありましたが、そのまま走り寄って
六兵衛に止めを刺しました。
残りの六人は事が終わった後に到着したため、間に合わす無念であると口々に申しておりました。

さて、私が六兵衛を討ち取った時に使った脇差は、その地の地侍である高橋平右衛門と言う者に
与えました。彼に対し

「私は、長宗我部家が改易されたため、きっと他国に退くことに成ります。今後浪々の身になりますが、
もしまたここに戻って来た時は、今回の私の首尾を証言し、証人となって下さい。」

と申し置きました。

しかし最早、高橋の家も子の代になったと思いますが、それすら私は存じておりません。
(福富平右衛門親政法名淨安覺書)

長宗我部家改易の際に起こった「浦戸一揆」についての記録である。
739人間七七四年:2013/05/30(木) 13:11:46.40 ID:+42DkQlr
ちなみに長宗我部氏そのものは国親の三男、親泰が香宗我部氏の養子となった系列が
徳川家臣の堀田氏の重臣として存続している
740人間七七四年:2013/05/30(木) 23:49:10.68 ID:h4aiswuR
足立七左衛門(長宗我部康豊)もいるな
741人間七七四年:2013/05/31(金) 00:17:30.36 ID:gukCAe+o
現在の長宗我部当主の友親さんは国親の四男の島弥九郎(親益)の家系だっけか
742人間七七四年:2013/05/31(金) 05:00:42.50 ID:fFrzY2w+
太夫殿(福島正則)の家来に、草野介惣という者があり、彼は太夫殿と同じ在所の者であって、
切米の扶持(所領がなくサラリーとして米が支給される)にて使っていた。
その後、太夫殿が安芸備後両国を拝領したときに、5人扶持30石を取らせた。

ある時、この草野介惣が太夫殿に目安を上げた。その内容は

『さて、最近になって御家に参った木造大膳(長政)殿には、莫大にも2万石が下されるそうです。
ところがこの介惣は伊予の頃からお仕えしているというのに、僅かの切米を頂いているだけです。
このため人は皆わたしの事を笑い、大変迷惑しております。』

これを読んだ太夫殿は殊の外ご機嫌で、大笑いされた。
その後噺の衆(御伽衆)と物語されている時に言われたことには

「あの介惣という奴は大の横着者でな、知行などくれてやれば百姓を痛めつけて年貢を取り倒すであろう。
だから小知すら取らせないのだ。

介惣の奴の顔に傷があるだろう?あれを皆は合戦で鑓を受けた傷だと思っているが、違うのだ。
あれは介惣の親がつき竿を持った時にな、間違えて介惣を突いてしまった痕なのだよ。

そんな介惣に、この間私は酒奉行を申し付けたのだが、あいつがまた殊の外に上戸でな、
酒蔵の酒を盗んで飲んでしまった。仕方がないからすぐに油奉行にさせたよ。」

と、笑いながら仰った。

しかしそうではあったが、介惣を10人扶持35石に加増してやったそうである。
(福島太夫殿御事)
743人間七七四年:2013/05/31(金) 15:48:58.41 ID:qnPe9ukK
そのまま酒蔵の番をさせていた方が節酒になったのに・・・。
744人間七七四年:2013/05/31(金) 16:49:41.15 ID:bo2AiXbo
ついでに日本号も渡さずにすんだのに
宇喜多さんは仕送りなくなるけど
745人間七七四年:2013/05/31(金) 17:00:39.30 ID:bEx+Teev
福島家臣ってみんな扶持かと思ってたわ
746人間七七四年:2013/05/31(金) 17:40:33.82 ID:n1lUYz8+
三十六人逆徒追伐の事

去る天正十五年六月に祐兵様が日向に戻って以来その統治は四年に及ぶが
入国の翌年にようやく飫肥本城を請けとるという不安定な状況でもあり、
かつての家臣を手に加えようと御憐憫を加えられ、家風の形儀をも確とは
定めていなかった。

その為か遠近に分散せし譜代の士には、十年にも及ぶ島津の風俗に馴染み
なんでも我意を主張する者も多く、最近になって召し抱えた侍もあるので
すぐに帰参した者たちでも人によっては扶持が少ないと御暇を賜るものも
多かった。

そうしている間にも家臣間で談合するものがあり「よろず御奉公を致すと
言えども一味同心して忠を遂げよう。身の大事と成る事があれば、一同で
申し開きをしよう」などと内談し党を結び血判をしていた。
その数は三十人余りでなお増えつつあると言われていた。

ある日、河崎権介は曾井に在城していたが、そこに談合していた連中の
うち二人が「義賢様を守護とするべき旨を申し合わせて謀反を企んでいる」
と密告してきた。

これをうけ祐兵様は悪逆の頭人を討伐し残党は鎮めるようにと指示され、
七人の頭人が各地でそれぞれ討ち果たされた。

残党の輩はなだめられたが従わず、その旨を祐兵様に窺ったところ、
その者達にはさっそく腹を切らせよと仰せられ、これに御馬を向けられる
事となった。

残党は、曾井麓の源藤というところにある初瀬山長命寺の観音堂が立て
籠るに相応しいと考え、天正十八年八月二十八日に三十六人の者どもが
立て籠もった。

討伐側は、曾井は言うに及ばず清武・田野・紫波須崎の三ヶ所から馳せ
集まって一戦に及んだ。

田野衆は威徳山から観音堂を眼下に見て、鉄砲をつるべ打ちに打ち込んだ。
これで籠ったものどもは身動きが取れなくなったが、遁れる道もなかった
ので命を捨てて一時に切り出てきた。

寄手は大勢だったので八月三十日、一刻の間にこれをやすやすと鎮圧し、
二十四人を討ち取り残り十二人が遁れていった。寄せ手は八人が討死した。
これにより祐兵様はお仕置きを終えて御帰館なされた。

(日向記)

徒党を組んで我意を通そうとした家臣達を討伐した話。

これを見ると新生伊東家も家中の統制を重視する豊臣大名ですね。
我意の強い家臣を「島津の風俗に馴染んだ」とか言い切ってしまう
ところを見ると、義久や義弘が家臣達の統制がとれずに書状で嘆く
のも仕方ないかなぁとも思ってみたり
747人間七七四年:2013/06/01(土) 08:51:45.52 ID:rfyhuDr6
仙石殿豊後において敗北の事

島津家久が大将として二万余りの人数で豊後利満城(鶴賀城の別名
利光城)を攻めたとき、仙石権兵衛尉は豊後大友義統勢を加えて
六千余騎を率い、十二月十三日に河を渡って薩摩勢の後陣を取巻き
合戦に及んだ。

互いに武勇を磨き数刻太刀打ち槍合わせ勝負まちまちだった時に
長曾我部信親は、手の者二十二騎が左右につらなって槍を合わせ
ていたが一歩も下らずに討死なされた。

これにより豊後勢がこらえられず敗北し、十河新太郎矢野田宮を
始め多くの者が討死し、仙石も虎口を遁れて這う這うの体で退いた。

薩摩勢は勝ちに乗って遁れるもの達を追撃して府内は祇薗の河原
まで、高田は門口まで到達し討ち取られた人数はその数を知らず。

そのまま島津勢は府内へ乱入せんと掛かったので、すぐさま大友
は府内を引き払い高崎の城(高崎山城)へ逃げ籠られた。

島津家久は府内へと討ち入り、義統はまた高崎を捨て豊前国龍王
へ退かれた。

(日向記)

日向記に記された戸次川の戦いの記録である。

ちなみに伊東祐兵は黒田勘兵衛に属して筑前方面で戦っており、
この話の前半にあれこれと書いてあったが、少しダレるので
バッサリと省略しました。
748人間七七四年:2013/06/01(土) 09:52:01.78 ID:ALp6g2wx
省略された伊東祐兵とっても悪い話か。w
749人間七七四年:2013/06/01(土) 09:55:04.17 ID:S1DxjHp+
>>742
ソウスケじゃなくてスケソウってなんか言い難いなw
750人間七七四年:2013/06/01(土) 14:15:02.84 ID:hDy1tABV
(出羽国由利郡の由利十二頭の事を描いた『矢島十二頭記』より、)

天正14年(1586)2月中旬、仁賀保領冬師の住人・馬場四郎兵衛親子3人が、
矢島領谷地澤山の内、大村杉の杉を盗み取った。

このため直ぐ様、谷地澤の次郎兵衛が押しかけ、馬場四郎兵衛の次男を討ち取った。

ところが馬場四郎兵衛親子は仁賀保兵庫頭殿の家来分であったため、矢島殿に対し
仁賀保殿から、自身の家来が討ち取られたことへの、強い抗議が申し送られてきた。

しかし矢島殿はこれに「木盗人であるので討ち取ったのだ。」と返事を遣わした。

この事件に関して4月中旬まで数度の遣いが立てられ交渉が行われたが、
主張は相容れないまま対立がつのり、
5月20日、ついに仁賀保殿がブナの木モブチまで軍勢を出し矢島殿と合戦となった。
さらに宇津殿が仁賀保殿の味方をし後詰を成したため、矢島殿は陣を引いたのである。


木を盗んだことが殺し合いになりついに合戦になるという、戦国期、地域を統合する戦国大名が
存在しない地域での紛争の模様がよく出ている記録である。
751人間七七四年:2013/06/01(土) 18:57:07.56 ID:MVfrbMaw
また諸家深秘録によると(田中)吉政の父は田中伯耆守といって信長へ仕えて
近江八幡山三万石を領した人というが、

柳川の真勝寺(吉政の菩提所)に今ある吉政の系図を見た人が言うには、
吉政は信長の足軽に出られたということが家系の中にあるという話だから、深秘録の説は
でたらめであろう。また(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7579.htmlに続く

その上、真勝寺の先住は吉政の四男で今に血脈相続し、
今の住持は吉政の玄孫であるから、系図の説が事実であることは明白である。

まして惣見記や信長記にも田中伯耆という人は見えず、好古の人の考えもこれと同じだ。

――『筑後国史 筑後将士軍談』
752人間七七四年:2013/06/02(日) 01:01:27.03 ID:e8Ls+TEd
天正13年(1585)、羽柴秀吉の紀州征伐において最大の激戦となり、日本三大水攻めの一つともされる
太田城攻防戦。
秀吉軍は紀の川の水をせき止め、得意の水攻めを行ったが、一揆軍は堤防を破壊し、宇喜多秀家の軍勢を
多く溺死させるなど、頑強に抵抗した。

(この時一揆軍は秀吉方に対しに『備前もの其身は何と知らねども 堤や岩や大切ぞする』との
狂歌を立てた話は有名である)

しかし一揆軍の劣勢は変わらず、蜂須賀正勝、前野長康の説得により、終に降伏することとなった。

この時蜂須賀・前野からはこのような条件が出された

「最前に我々は51人を討たれた。その代わりに、誰でも良いのでそちらからも51人を討って首を提出
してほしい。」

そこで一揆方は元来は知らぬ者達(おそらく流れ者の傭兵などだろう)を51人討ち、その首を提出して、
こうして終に和談が成ったのである。

この時討たれた51人の首塚が、吉田村の西北に一ヶ所、南に二ヶ所、計三ヶ所作られた。
一つの首塚に首が一七埋まっているため、十七塚と呼ばれている。
(太田水責記)

太田城水攻め講和の時の、犠牲者について伝わることである。
753人間七七四年:2013/06/02(日) 01:49:24.64 ID:YvnAEsf5
754人間七七四年:2013/06/02(日) 06:29:02.08 ID:Z6paVRJL
後の日本版エリア51である
755人間七七四年:2013/06/02(日) 10:14:55.05 ID:IUi269tr
昨日ちょうど「のぼうの城」見ところだった。w
高松城:何もできず降伏
  ↓
大田城:堤防破壊したが降伏
  ↓
忍城:堤防破壊して降伏せず

でも、だんだん効果が下がってね?
756人間七七四年:2013/06/02(日) 11:03:02.36 ID:m1c/XmNz
高松城:最初のことだから諸々精査して慎重に慎重を重ねて実行→成功
太田城:過去の成功体験から、なんとなく実行→半分成功
忍城:過去の成功体験から、現地を視察せずに立案して現地に丸投げ→失敗
757人間七七四年:2013/06/02(日) 11:09:51.04 ID:45gHo9SI
最初に効果があったから水攻めを繰り返したけど、
地形的にだんだん無理がでてきたんじゃない?
758人間七七四年:2013/06/02(日) 12:09:50.15 ID:YvnAEsf5
費用対効果がどんどん小さくなってる

高松城
備中の要衝にして対毛利の最前線。後詰にきた毛利の本隊に為す術無く
城兵が水没するのを見せつける事でその後の毛利戦を有利に進める戦略的価値もある。

太田情
鉄砲で武装してるので、力攻めすると損害が大きい。わずかでも抵抗勢力を残しておくと紀州全域の政情が不安定化するので完全に屈服させる必要がある。

忍城
武蔵に無数にある北条支城のひとつ。成田という国人の雑魚が城主。
小田原城は完全に包囲されていて、忍城を無視しても全く影響無い。
759人間七七四年:2013/06/02(日) 12:15:38.87 ID:HT5QYVlV
高松では意図的に時間をかけて毛利主力と信長を戦場に引きずり出す
そして自分を無視して進む和睦路線を絶つ
忍では天下統一の総仕上げに大土木工事を見せ付ける
太田は…なんでやったんだろうな
760人間七七四年:2013/06/02(日) 12:29:10.94 ID:4/a09iMO
成田氏を雑魚とするのはかなり認識がおかしいけどね
ただ成田城の去就が戦争の趨勢にまったく影響しなかったのは事実だが
761人間七七四年:2013/06/02(日) 12:29:13.25 ID:wMnZF+tR
大田城の水攻めは寄せ手側に被害も出たけど水攻め自体は続いていた
堤防内に水軍入れて砲撃なんて面白い戦いも実施されていて水軍は最終的に撤退したものの
城側に大被害与えて降伏受け入れる契機になっている

築堤開始から一月かからずに降伏に追い込んでいるんだからこれは成功じゃね?
元々は兵糧攻めの予定だったらしいけど四国攻めの直前だから時間かけたくなかったんだろ
762人間七七四年:2013/06/02(日) 16:05:52.20 ID:V/y7oWqB
忍は完全に孤立している状態だから、小田原がすぐにも落ちそうな状況ではほぼパフォーマンス
太田城は……まあ長期戦を避けたかったんだろうね
763人間七七四年:2013/06/02(日) 16:10:16.70 ID:04Tg10Su
太田では被害を少なく、かつできるだけはやくくっていう選択なのかしらね
他の二つみたいな政治的な要素無しで
764人間七七四年:2013/06/02(日) 16:29:41.22 ID:+bzMedbv
日本史上初めて水攻めを行ったのは、応仁の乱後もずっと戦い続けた
隠れた名将畠山義就
765人間七七四年:2013/06/02(日) 16:51:36.22 ID:wMnZF+tR
畠山家を大分裂させる一因になった人だけど武将としての評価は高いよね
766人間七七四年:2013/06/02(日) 16:53:45.22 ID:12D2P/pF
最初の2つはわかるけど忍は全然地形違うのになんでやっちゃんたんだろうな
城の周りが湿地帯だからさらに水浸しにしてみたってだけじゃん
767人間七七四年:2013/06/02(日) 17:10:33.81 ID:PNpyZcK5
荒川と利根川に挟まれてるとは言え、起伏の無い平坦な地形で、30km弱の堤で囲んでどれだけ効果があったのだろうか。
実際は辺りの小河川の水位が上がったくらいなんじゃないかという気がする。
768人間七七四年:2013/06/02(日) 17:14:29.49 ID:b++FDpAO
忍水攻めは、石垣山城と同じく力を見せつけるためのパフォーマンスだろうね。
769人間七七四年:2013/06/02(日) 17:42:38.88 ID:wMnZF+tR
水攻めって秀吉は他にも何度かやっていてだいたい鮮やかに勝っているのに何で3大水攻めに
失敗した忍城が入ってるんだろ。
竹ヶ鼻なんか鮮やかな勝利だし長久手の敗戦の後で信雄追い込んで逆転の一手になったのに

忍城だけ築いた堤防の総延長距離が極端に長いからかな
770人間七七四年:2013/06/02(日) 17:44:19.85 ID:BOcLgSyh
有名だからだろ。三大なんちゃらなんてそんなもんだ
771人間七七四年:2013/06/02(日) 17:48:48.69 ID:v3l/F4eO
自分の読んだ本では秀吉の三大水攻めは
・備中高松城
・尾張竹ヶ鼻城
・紀州太田城
てことになってた
後、日本史上初の水攻めは六角義賢の近江肥田城ってことになってた
772人間七七四年:2013/06/02(日) 17:49:04.99 ID:y+mlhApP
それだけパフォーマンスとして効果的だったってことじゃないかな
773人間七七四年:2013/06/02(日) 18:00:51.85 ID:pb6N5MIR
三大水攻めが4つあってなにが悪いby龍造寺四天王
774人間七七四年:2013/06/02(日) 18:09:36.46 ID:wMnZF+tR
日本3大水攻めと秀吉3大水攻めは違うということか
秀吉が直接指揮してないモノが失敗例というのが象徴的だなあ
775人間七七四年:2013/06/03(月) 00:06:53.76 ID:OGuKHfpT
天文17年(1548)3月22日、龍造寺豊前守胤栄が卒去された。
この方は大内氏の推挙により肥前国の守護代を務められ、五千町を加封し人尽く従った。
胤栄公の夫人は龍造寺家門の娘であったが、胤栄公との間には姫が一人あるだけで、
家を継がれる男子は居られなかった。

このため重臣である小川筑後守や龍造寺播磨守などが相談し、還俗して水ヶ江龍造寺氏を継がれた
龍造寺胤信公に、龍造寺の嫡流を継がせるべしと迎え取り、先君胤栄公の未亡人と結婚させ、
龍造寺の御家督と仰ぎ奉った。

同18年、大内義隆より隆の偏諱を頂いて、龍造寺山城守隆信と名乗られた。
小川筑後守、納富左馬介、福地主計充といった人々が家老として支えた。

御一家は皆、隆信公に拝謁の礼を取ったが、公は普段から不敵な心を持った方で、
威儀を専らにせず事毎に軽々しく振舞ったため、一門の龍造寺鑑兼の周辺などでは
内々にこの新当主を侮る輩も多かった。

また隆信の夫人も、既に御歳も盛りを過ぎ、先公とのお別れで悲しみに沈む中、
公を弔いのため一心不乱の心であった所を、自身を隆信公の御台とされるべき、などと
聞こえてきて、なんと浅ましいことかと思い沈んだのであるが、老臣達によってこの旨が
決せられ、御家相続のためであるため、気分の気持ちを押し殺して隆信公の室と
なられたのである。

だが、夫人は先君のことを忘れられず、明け暮れに思い泣かれ、
隆信公とは親しむ様子もなかった。

このため夫人の周辺の人々にも、隆信公を侮る人々が集まり、これに家老の面々は、
これは御家敗亡の兆候であると嘆いたがどうしようもなく、
龍造寺播磨守などは妻女を通じて夫人に色々とご意見したものの、全く聞き入れようとはされなかった。

後に聞こえたことによると、龍造寺の老臣であった土橋伊賀守栄益などは、最初から
隆信公を侮り、龍造寺鑑兼を家督に立てたいと思い、夫人に対し様々に讒言していたそうである。
(肥陽軍記)

隆信が龍造寺家を継いだ時期の、その家中の不穏さを伝える逸話である。
776人間七七四年:2013/06/03(月) 09:18:35.50 ID:FcPZ+TnG
この後大寧寺の変で不満分子によって早速追放されたのは
復帰後に隆信派で固めることもできて
逆に僥倖だったのかもしれないかな?
777人間七七四年:2013/06/03(月) 11:01:26.18 ID:0qGhBGw1
後家になって自ら鍋島清房に嫁いだ慶ァ尼とは対照的だな
778人間七七四年:2013/06/04(火) 06:47:26.20 ID:psKLVZ+m
我が子の為、との思いの有無が大きいんじゃね?
あと当の慶ァ尼とソリが合わなかったとか
779人間七七四年:2013/06/04(火) 18:08:48.17 ID:8/FaK1vm
蒲生氏は江州で六角承禎の家臣だった時は日野を領していた。
蒲生氏郷の父は頑愚にして天性臆病の人であった。

その時の俗間の小歌に「日野の蒲生殿は、陣とさへ云やへをこきやる」
というのは、この人の事である。

――『老人雑話』
780人間七七四年:2013/06/05(水) 02:05:46.13 ID:UPw/lbKI
賢秀さんは頑固で愚かで筋金入りの臆病者…
しかし本当にそんな人物なら信長に気に入られたり、本能寺後のあの対応なんか出来ないような気もするが
781人間七七四年:2013/06/05(水) 09:25:52.36 ID:JInKUswq
賦秀さんが勇敢なのは反面教師が身近にいたからか
782人間七七四年:2013/06/05(水) 12:49:07.38 ID:ycDzp1hB
賢秀が臆病と言われたのって安土城番だったのに日野へ引き退いたことを言ってるんだと思うが、
あんなあけっぴろげな城で玉砕するよりは勝手知ったる自領のほうがいいわな
いざとなれば信長の妻子は伊勢へ落とせるし
783人間七七四年:2013/06/05(水) 19:04:46.32 ID:CPdK6HUg
慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原の合戦が起こり、東軍の勝利に終る。

19日、この日徳川家康は草津に到着したが、ここに小西摂津守行長を、関ヶ原の町人・林藏主という者が
召し捕えて参上した。

小西行長は関ヶ原の敗戦のあと、暫くあちらこちらに潜伏したが、近江伊吹山の東、糠賀部村にて
林藏主に発見された。幸長はもはや逃れがたいと思い、自ら

「私は小西摂津守である。お前は私を絡めとって、内府(家康)の御感に預かるといい。」

と呼びかけた。これに林藏主は

「それならば、そこで自害なされませ。」

そう勧めたが、行長は

「私は切支丹宗である。この宗門は自害することを禁じている。であるからこそ私はここまで落ち延びたのだ。
そして雑人の手にかかるのは無念であるので、いま自ら名乗り出て汝に知らせたのだ。」

こう言われ、林藏主は行長を馬に乗せ、関ヶ原の領主であった竹中丹後守に云い届け、
そして今日、草津の陣所まで送り届けたのである。

この事が伝えられると、家康は小西行長の身柄を村越茂助に預けさせ、林藏主には御褒美として、
黄金10枚が下された。
(關原始末記)

関ヶ原の敗北後、小西行長が捕縛された状況についての逸話である。
784人間七七四年:2013/06/05(水) 19:42:30.73 ID:QJZM+EV4
むしろ、ちょっといい話な感じがする。
785人間七七四年:2013/06/05(水) 19:45:59.50 ID:M8dDTHXY
誤爆を疑うレベル
786人間七七四年:2013/06/06(木) 20:25:38.41 ID:jVoyB5BD
福島正則は関ヶ原の後、安芸備後両国を拝領し入国すると、折々にその国境を見て廻り、
周防国との国境である、北方という地に新城を建築してそこに福島伯耆を置き、出雲国との国境である
三好という地にも新城を建築し、小関石見を置いた。また伯耆国の国境にも新城を築き、ここには
山路久之丞を置いた。

備中との国境には神鍋という古城があったが、これを改修して福島丹後を置き、
備後の友という場所にも新城を築き、大崎玄蕃を置いた
また備後の三原の城には刑部少殿(福島正之)を置き、広島は主君の居城とした。

これらの城には、もし国の騒ぎが起これば在地の庄屋や組頭から人質を取り、矢倉に入れ置く事に
なっていた。これは一揆を起こさせないためである。

ところが、この正則による新城建築が徳川家康に聞こえ、家康から

「とにかく、一国一城の他は固く法度である」

と仰せ付けられたため、福島正則はこの5ヶ所の新城の天守、矢倉、塀を破却したが、
石垣はそのままにしていた。そしてそれらの城主はそのままその地に、平屋敷を築いて置かれた。
(福島太夫殿御事)

後に広島城改修問題で改易される正則だが、その前にもあった、築城問題についての逸話である。
787人間七七四年:2013/06/07(金) 00:48:47.46 ID:0nnYZKal
周辺が毛利・池田と大大名だらけだし、築城しまくるのは大阪の陣の前なら
当然のことだったけど、元和偃武ですべてが変わったからねい…
788人間七七四年:2013/06/07(金) 07:26:20.73 ID:petkG17e
破却っていっても爆破とかじゃなくて手作業で分解してくんだよね
こっそりくすねるには絶好の機会だから喜ぶやついただろうな
789人間七七四年:2013/06/07(金) 07:46:57.97 ID:9xWeM5LF
正則が支城の破却に追い込まれたのは、慶長16年頃の話で元和偃武とは関係ないよ
790人間七七四年:2013/06/08(土) 11:53:29.78 ID:XVverpdE
どうせ築城してなくとも福島は難癖つけられて潰されてたんじゃないの?
791人間七七四年:2013/06/08(土) 12:03:58.51 ID:v6e0UqjY
うん
792人間七七四年:2013/06/08(土) 12:09:21.19 ID:acCmONnV
家康の養女を妻にもらった、養子の正之を幽閉・餓死させてなければ
793人間七七四年:2013/06/08(土) 13:02:56.57 ID:4EPSKEey
正則は敵視されてた訳でもないけどね。
例えば改易直前の元和3年には参議に昇進してるし
794人間七七四年:2013/06/08(土) 13:14:10.75 ID:acCmONnV
近頃セルトゥスワインの宣伝広告をよく目にする気がするが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7525.html
>ここより五日の行程ほど離れた、”東せいしう浦”という所に、”せるとうす”という北国の武者大将が
この逸話で過剰に意識に残りやすくなったからかな
795人間七七四年:2013/06/08(土) 13:36:44.40 ID:9fpcquBZ
>>793
改易は普通に正則の自業自得でしかないよなあ。
796人間七七四年:2013/06/08(土) 13:41:19.16 ID:Sta4lXuD
他の諸侯がものすごく幕府に気を使ってたのと比較するとね・・・
797人間七七四年:2013/06/08(土) 19:18:01.52 ID:g2T8U1n0
福島正則と星野又右衛門の女房・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-448.html

このお話だけど原典付きで、オチなんかもあるので

大夫(福島正則)殿が未だ凡夫で、知行200石を取っていた時分から仕えていた、
星野又右衛門と言う者があった。彼が有る時、大夫殿の気に違うことがあり、
大夫殿は刀を抜いて又右衛門を追いかけた。

又右衛門は家に逃げ込み戸を立てて

「やれやれ!かかよ、太夫殿は我を斬り殺さんとて刀を抜いてここまで追いかけてきた!」

と妻に言うと、妻は家から走り出て正則に向い

「そなたが200石取りの頃から奉公していた又右衛門を斬るというのか!?」
(そなはハ弐百石御取候時より奉公仕候又右衛門切候ハん哉)
と、嘆き悲しんだ。

これを見て太夫殿が申すには

「あまりに又右衛門が横着を言ったので脅して追いかけただけだ。
殺しはせぬぞ!かかよ、心安く思われよ。」

と言って帰っていった。

その後、星野又右衛門には知行8000石を取らせ、星野越後と名を変えさせ、
広島の町奉行を申し付けたとのことである。
(福島太夫殿御事)
798人間七七四年:2013/06/08(土) 21:42:10.13 ID:a+0+9MN1
刀抜いて家まで追っかけといてそりゃあねーわな
しかしまあ「かあちゃん」に弱いんだな
素面の時は結構頭も切れて気配り効く場面もあるのに、酒癖悪くて酒が入った途端アレでかあちゃんタイプに弱い…
酒が入ってない状態ならなかなか楽しいだろうなあ
799人間七七四年:2013/06/09(日) 01:07:31.99 ID:qmUPC9jE
慶長5年(1600)関ヶ原の役が進行する中、8月23日、内府(家康)方諸将は岐阜城を攻めた。

しかし、この時黒田長政は城攻めには構わず、合渡川の方に向い、石田、島津などの軍が、岐阜城を救援する後詰として
出撃しているのを見て、諸軍に先立って合渡川を渡り、石田方の兵を追い散らしに懸った。

黒田家中では神吉小助が真っ先に進んで敵陣に駆け入り、その後ろに続くのが菅正利、平松金十郎(後に村山角左衛門)、
海津市左衛門らが、みな命を惜しまずひとかたまりに攻め懸った。
敵陣より来る鉄砲は雨のごとしであったが、これをも恐れず、「鉄砲に怯むな!」と互いに声をかけ合い進んだ。

この後ろから松浦八左衛門が騎馬でやってきたが、やがて後ろに引き返していった。
菅正利はこれを見ると引き下がっていく松浦八左衛門に向かって

「鉄砲を恐れたか!?汚し、戻ってこい!そうでなければ武士を辞めよ!」

と怒鳴りつけていると、また後ろから一騎進んできた。これをよく見ると、なんと黒田長政ではないか。
大将自ら、また最前線に進んできたのだ。
松浦八左衛門もその後から進んできた。彼は長政のお伴をするために一旦引き返したのである。

敵からの鉄砲は激しくなる一方で、菅正利を始めとした騎馬の者達は長政の矢面に乗りふさがり、
勇み進んで敵陣へ乗り入れた。
長政が進むのを見て、黒田家の家人たちも後から続いた。

この日の合戦で神吉小助が負傷した後に、一番に進んだのは菅正利であった。
その後から平松金十郎、海津市左衛門なども続けて進み、正利を始めとして何れも粉骨の働きをなし多くの敵を追い散らし、
高名を成したのである。
(菅氏世譜)

合渡川合戦でも最前線に突き進んでいた黒田長政公であった。
800人間七七四年:2013/06/09(日) 08:38:20.20 ID:kUj/bC3P
801人間七七四年:2013/06/09(日) 19:24:19.88 ID:7Pka2Axt
大将が最前線にいる意味がわからん。
又兵衛の呆れ顔が目に浮かぶ
802人間七七四年:2013/06/09(日) 22:25:15.14 ID:icJsmgm2
工場長が何か言いたげです
803人間七七四年:2013/06/10(月) 00:18:43.89 ID:hTRVJ6RE
信長「待ってろ光秀!今助けるぞ!」
義光「反撃開始!上杉を追撃だ!」
秀秋「今だ!明の奴らを蹴散らせ!」
元繁「それ崩れたぞ!元就覚悟!」
804人間七七四年:2013/06/10(月) 08:14:28.83 ID:SQXMZ9Tm
一番下の人はちょっと落ち着いたほうが良かった。つーか、他3人に比べてマイナー
805人間七七四年:2013/06/10(月) 11:28:19.44 ID:Q/GyJD7k
古参連中には親父と比べられちまうから不運だったのかね
それとも単に性格の不一致だっただけかね
806人間七七四年:2013/06/10(月) 12:29:56.78 ID:5hsKSnq9
昨日の奴か?
たかだか僻地の一大名の一門である家久なんが特別扱いされると思ってんの?
無双だから武勇も大事なんだが武勇の数値はいくつだよ?
807人間七七四年:2013/06/10(月) 12:30:45.33 ID:vG5RRJYo
酷い誤爆だw
808人間七七四年:2013/06/10(月) 12:31:32.55 ID:5hsKSnq9
誤爆
809人間七七四年:2013/06/10(月) 12:44:02.10 ID:UnbnNjc+
豊久「父を愚弄し田舎者呼ばわり。首おいてけー」
忠恒「まさか俺のことか?東郷に暗殺依頼しておく」
810人間七七四年:2013/06/10(月) 14:40:21.29 ID:JTWeyqeh
歴ゲー板の戦国無双4を妄想してみようスレからの誤爆だな
家久出てほしいなあってレスにイチャモン付けてんの
811人間七七四年:2013/06/10(月) 14:43:35.90 ID:GXqrMb0J
え、悪久が無双に出演だって?
812人間七七四年:2013/06/10(月) 15:48:07.76 ID:64Dqs/rX
>>809
「代々田舎の方々」が束になってきちゃったよどうするよ
813人間七七四年:2013/06/10(月) 17:39:59.91 ID:L6BHVRIx
>803、志村さんどこー!止めて!
814人間七七四年:2013/06/10(月) 18:30:20.33 ID:bD9bkyb7
武士たる者、人を討って立ち退き逃げるのは非強至極なり。

なりゆきで討ち果たしてしまったならば、その意趣を書き記して腹切るべし。

ただし、親がいるならば一旦立ち帰り、親たちへ事情を申し述べ、検使を受けて
その上に真気を静め、それぞれへ挨拶して腹切るべし。

――『山本道鬼入道百目録聞書』
815人間七七四年:2013/06/10(月) 18:35:45.85 ID:W6c3jPw9
水野さんに対する挑戦ですね
816人間七七四年:2013/06/10(月) 19:12:56.13 ID:L6BHVRIx
趣旨を説明したら運が良きゃ腹切らなくてすむかもしれんからな
まあ江戸時代になるとまず切腹だろうけど
817人間七七四年:2013/06/10(月) 19:48:42.64 ID:Wa7n11n/
周り近所に大音声で討った理由を述べたあと、
その場で立ったま腹を切り、腸を撒き散らして心意気を表現するんじゃないのか?
818人間七七四年:2013/06/10(月) 21:00:34.92 ID:B+lr4YVI
妻を手篭めにされた男の復讐

筑前国・豊後国の境にある針目山(現在の福岡県朝倉市杷木)には
筑前国側に針目城があって、戦略的に重要な拠点だった。
この事件の起きた当時は秋月氏の支配下にあり、
初山九兵衛と大山源左衛門の2人が交代で城番にあたっていた。

天正9年(1581年)正月、初山家の与力・高久保彦次郎は妻を伴って
上司の屋敷へ年始の挨拶に上がった。酔いがまわった初山九兵衛は
常日頃から気になっていた彦次郎の妻の美貌に我慢できず、
その夜ついに、待ち伏せをして手篭めにしてしまった。
「亭主にばらすぞ」と脅された彦次郎の妻は誰にも言えず
その後も好きにされていたが、あるとき初山九兵衛の奥方にバレてしまう。

奥方は旦那を問い詰めるかと思いきや「夫を奪われた」と嫉妬に狂った。
ある日、与力の妻たち5人が奥方に食事の席に呼ばれた際、
他の妻たちには労いの言葉や土産物を与えたのに、彦次郎の妻は自分が呼んだのに完全無視。
彦次郎の妻は初山九兵衛との関係が奥方に気付かれてしまったことに気が付く。
819人間七七四年:2013/06/10(月) 21:02:41.72 ID:B+lr4YVI
奥方の仕打ちに悩み、夫に上司との関係が知られてしまうのを恐れた妻は
悩んだ挙句に首を吊って自殺。驚いたのは高久保彦次郎である。
妻の死について調べていくうちに事件の真相を知った彦次郎は怒り狂った。
そして事の発端であり全ての元凶である上司の初山九兵衛へ復讐を誓ったのである。

城番を破滅させるにはどうするか…城を敵方に奪われてしまえばいいのだ。
そう思った彦次郎は大友側である長岩城主・問註所統景を頼った。
突然の来訪に統景は敵の城を難なく奪えるのならばと喜び、
針目城奪取の計画を念入りに練り、チャンスを待った。

ある日、城番のもう一方である大山源左衛門が秋月本城に所用で出かけた。
好機と見た彦次郎は城が手薄になっていることを統景に伝え、問註所軍が急襲。
初山九兵衛は少ない味方で防戦したが多勢に無勢、
さらには高久保彦次郎が混乱に乗じて初山九兵衛を殺害。
針目城は問註所軍に奪われてしまった。
復讐を果たした高久保彦次郎は逐電。その後、彦次郎の姿を見た者はいないという。
820人間七七四年:2013/06/10(月) 22:22:42.92 ID:B1b1xfXe
陰湿な復讐だなあと思ったら普通に殺してた
生かしたまま追い込みかけるのかとw
821人間七七四年:2013/06/11(火) 17:28:20.66 ID:7JDtOc0/
数年召し仕えた譜代恩顧の男女であっても寝所へ呼びつけてはならない。
止むを得ず用事があるならば、老女か少女へ申し付けるべし。

取り分け、金銀を出し入れする所を見せてはならない。

下人は信有って義無く、目に触れて一念発起の欲心より、邪の悪事をする事がある。

――『山本道鬼入道百目録聞書』
822人間七七四年:2013/06/11(火) 17:48:24.80 ID:eIqPdM5w
一瞬小山田さんに恨みでもあるのかと思った
823人間七七四年:2013/06/12(水) 19:26:49.93 ID:U+USiE8G
安芸国佐東郡の百姓より、洪水により田畑が河に流され、郡の取れ高3千石のうち、5百石分が
石に覆われるか河となったため、2,3年は租税を5百石分の年貢を出すことは出来ないとの報告が、
奉行所に有った。

ところでその報告をしてきた村は城下に近かったため、ある時福島正則が天守からその方向を見て

「とても5百石まで河になってしまったようには見えない。」

と疑問を持ち、奉行に申し付けて検知をさせた所、河になったのは2百石ほどで、
残りの3百石は百姓たちが隠していたのである。

正則は「憎き奴らである!」と激怒し、佐東郡の村々の庄屋、組頭6人を捕らえ磔とし、
また彼らの妻子も残らず鼻を削いだ。

これによって佐東郡では、最近まで市などで、鼻の欠けた者が見られたそうである。
(福島太夫殿御事)
824人間七七四年:2013/06/12(水) 19:29:11.89 ID:eElyVMzN
隠し事はよくないよね
825人間七七四年:2013/06/12(水) 20:26:39.83 ID:8KCdicH8
市松、百姓には厳しいからな
826人間七七四年:2013/06/12(水) 20:47:21.99 ID:B5PVFAY6
一種の近親憎悪なのかな
827人間七七四年:2013/06/12(水) 20:50:28.57 ID:mbvhzHua
桶屋の倅だったっけ
828人間七七四年:2013/06/12(水) 21:14:17.02 ID:fSEZ/6i+
年貢の取立て厳しくするから百姓が隠し事するようになる。
829人間七七四年:2013/06/12(水) 21:17:14.75 ID:c2wUubKb
ちょっと厳しいね。罰として年貢割増とかにすればあとくされなさそう。
830人間七七四年:2013/06/12(水) 21:54:35.42 ID:IlT3t1fh
郡の取れ高3千石って少なすぎない?
831人間七七四年:2013/06/13(木) 10:08:36.16 ID:+eVNu7tZ
>>829
年貢増やして耐え切れず一揆起されるくらいなら殺してしまえってことじゃね
832人間七七四年:2013/06/13(木) 18:16:32.46 ID:H5d6Iz5s
明智光秀という人物は、裏切りや密会を好み、刑を執行する上で残酷で、独裁的であったが、
自分を偽装することに抜け目がなかった。

戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。

彼は友人たちに

「自分は、人を欺くための72の方法を体得し、学習した。」

と吹聴していた。

また彼は築城技術に優れ、熟練の兵を使いこなした。
(ルイス・フロイス『日本史』)

人を欺く72の方法が非常に気になる、風呂いすの明智光秀評である。
833人間七七四年:2013/06/13(木) 18:22:27.54 ID:X2+vpcge
風呂いす・・・妙にエロい
834人間七七四年:2013/06/13(木) 18:25:26.47 ID:H5d6Iz5s
あああ変換ミスしてました。すいませんフロイスです。
835人間七七四年:2013/06/13(木) 18:42:23.34 ID:BGTdALKc
たぶん本能寺以降に書いた後付け理論だろうな。
836人間七七四年:2013/06/13(木) 22:07:06.89 ID:XG61UqfK
明智光秀著 「人を欺く72の方法」

カバー裏(やーいまた騙されてやんのwww)
837人間七七四年:2013/06/13(木) 22:32:30.79 ID:+A4hQKna
なぜ俺はパタリロを思い出したんだろう?
838人間七七四年:2013/06/14(金) 03:16:54.33 ID:WiCu3aQn
だ〜れが、コロした〜♪
839人間七七四年:2013/06/14(金) 17:54:17.88 ID:NdGSkZ+w
この(北条)氏政は人よりもきわめて酒好きであり、常に長座して大酒であった。

酒の途中で座を立つことにはおきてを用いたので大小便も不自由となり、
毎度見苦しいことが多かった。氏政はこれを見て快気したと云々。

――『当代記』
840人間七七四年:2013/06/14(金) 18:11:52.39 ID:quaWMlMW
スカトロマニアすか
841人間七七四年:2013/06/14(金) 18:40:00.59 ID:u9TOWBaL
氏康さんがディスるべくアップを始めました
842人間七七四年:2013/06/14(金) 19:09:06.03 ID:lGhj9vKP
花の慶次で常に酒瓶片手にしてたが、あながち間違いでもなかったのか
843人間七七四年:2013/06/14(金) 21:07:00.67 ID:4GkNn3CL
福島正則の家臣に、藤松次右衛門と津田野小源太と申すものが有り、藤松次右衛門は
津田野小源太の舅であった。

ところがこの舅と婿が、双方を相手に公事(裁判)を起こした。しかもそれが
非常にたわけた内容の裁判だったため(内容不明)、この裁判を担当しようというものが
誰も居なかった。

福島正則はこのことを聞いて
「さてさて憎き奴らであり、なんとも申し付け様がない!なので鉄火を取らせよ!」
と申し付けた。火で焼いた鉄片を持たせる、いわゆる火起請で裁判の勝ち負けを決めよ、
という事である。

さて、神前に竹で拵えられた台が設えられ、黒鉄を長さ8寸、幅2寸(約24×6センチ)に
したものをふいごで吹いて真っ赤に焼く。藤松、津田野の両人は裃を着てそこに控えた。

先ず舅の藤松次右衛門が、熊野牛王符を三つ折にして両手にその端を大きく結わえて手を包んだ。
鉄火は金属製の鋏で持ち上げられ彼の両手の上に置かれる。
藤松は三歩あゆみ、いかにも静かに、淡々と台の上に鉄火を置いた。
この時彼が手に結んでいた熊野牛王符も焼け散り、鉄火を置いた台も焼けた。

次に津田野小源太が、藤松と同じように熊野牛王符を手に巻き鉄火を手に受けると、
いかにも足早に台に近づき、しかも少し離れた所から台の上に向かって鉄火を投げた。

その後、両人の手を布袋に入れ、3日過ぎてその手の様子を見ると、藤松次右衛門の手は
焼けて腫れていたが、津田野小源太の手は焼けた様子がなかった。
これによって舅の藤松次右衛門は、切腹を仰せ付けられた。

一方の津田野小源太の方は
「鉄火にまで及んだ以上、今後も御奉公するのは難しいので、どうかお暇を下さるようお願い致します。」
と、正則に申し上げた。

津田野小源太は、彼が若年の頃から正則が側で使っていた者であったため、今度の裁判に関しても
少し贔屓がましく思っていたのであるが、ここで正則は

「憎き奴め!殊の外に馬鹿なことをしおって!小源太にも腹を切らせろ!」
(にくきやつ殊にばか成仕形共にて小源太腹切らせ候へ)

と、津田野も切腹させた。
(福島太夫殿御事)

火起請は一体なんだったのかと疑問に思わざるをえない、福島正則の逸話である。
844人間七七四年:2013/06/14(金) 21:23:42.67 ID:RoyabJpz
わりと本気で意味がわからない・・・
845人間七七四年:2013/06/14(金) 21:39:04.91 ID:7uAaulNn
>>844
藤松次右衛門→火起請で負けたので切腹

津田野小源太→火起請で勝ったのに奉公を辞めたいと言い出したから切腹

と言うことかと
846人間七七四年:2013/06/14(金) 23:09:51.89 ID:5I735lLT
このやるせない理不尽さなんか既視感あると思ったらラスボスの話とかでたまに感じる奴だ。

やっぱ子飼いなんだな
847人間七七四年:2013/06/14(金) 23:57:53.42 ID:VM6xFicY
きっと酒が入ってた時の市松なんだよ。
素面の時ならこんな理不尽な真似はしないさ。
848人間七七四年:2013/06/15(土) 00:12:00.28 ID:dvguJODF
せこい方法で火起請に勝った話かと思ったら、
もっとひどい話だったw
849人間七七四年:2013/06/15(土) 00:28:42.01 ID:kXba0flv
百姓に対してもだけど、気分で処罰しすぎだな
850人間七七四年:2013/06/15(土) 01:42:27.59 ID:awE5wVKO
>>849
罰が多くて賞が少ないと、もっぱらの評判だからなぁ
851人間七七四年:2013/06/15(土) 07:15:40.76 ID:KC2J0XUl
昔話なら静かに淡々と運んだ藤松の手がきれいなままで
これぞ藤松が正しき証じゃとかそんななのに逸話って物語のお約束無視で怖い
852人間七七四年:2013/06/15(土) 10:58:15.65 ID:LOUIE+VS
>>851
読み間違えたかと思って読み直したよw
853人間七七四年:2013/06/15(土) 20:38:03.29 ID:57YiH2sk
織田信長の部将として、羽柴秀吉が播州に進出する頃までは、宇喜多直家も毛利に属していたのであるが、
隣国であるゆえに、直家は数年の間、別所と秀吉の弓矢の体を研究して、
家老である戸川秀安に密かにこう言った

「信長、秀吉の鉾先は、我々の及ぶものではない。その上彼らは賞を重くし爵を軽んじている。
それ故に人はこれに懐いている。
我々がこれに属することをせず、後で後悔しては何にもならない。

私は急ぎ秀吉を頼りに信長に属したいと考えている。そなたはこれをどう考えるか?」

戸川秀安はこれを聞いて

「仰ることはご尤も、言われる通りだと思います。そのお考えを、急ぎ実行すべきです。
このような事は延引きしては、その功を立てるのが難しくなります。」

と申し上げたが、直家は

「それも去る事ではあるが、そなたの二男である孫六が、毛利への人質として備後に置かれている。
私はこれを捨て殺しにするのが忍びないのだ。」

と、自分の思いを伝えた。しかし秀安

「御家の大事と、幼稚のもの一人ばかりを取り替えることが出来ましょうか?
その事を気にかける必要はありません。」

そう言って、絶って信長へ属することを勧めた。これには直家も大いに感心し、

「それならば、孫六の事は後日に手立てをし、とにかく直ぐに秀吉を頼もう。」

と、その工作を整え、天正7年より信長に従い、播州での秀吉の合戦にも加勢を出し、
毛利家には手切れの使者を遣わし、『そういうわけなので人質を返してほしい』と伝えたが、
勿論毛利がそのような事を承知するはずもなかった。

このような中、直家は毛利の外交僧である安国寺恵瓊が、所用が有って上京するという情報を
察知した。「これこそ絶好の機会だ!」と、京の安国寺の許に使者を立て、

『ご帰国の時、備前に立ち寄ってください。内々のご相談をしたいことがあります。』

と申し送った。これにより安国寺が帰国の際に備前に立ち寄った所を押さえて監禁し、
安芸に使いを送り

『戸川平右衛門(秀安)の子・孫六をお返し頂きたい。さもなくば
安国寺恵瓊をこのままこちらに留め置きます。』

と申し渡した。この事態に毛利家でも様々に議論されたが、『それでも安国寺は捨てがたい』と、
人質との交換に同意すると決まった。

そして備中何邉川を隔て、互いに人数を出して川中で行き違い様に双方を引き換え、
終に孫六を連れ帰ることに成功した。

戸川秀安は直家が自分の子を取り返してくれたことに篤く感謝をした。
この孫六もは後に助左衛門を名乗り、宇喜多家に仕えたそうである。
(戸川記)

宇喜多直家、毛利への人質を取り返す、というお話。
854人間七七四年:2013/06/15(土) 20:55:33.13 ID:qbbrMiMl
どこ辺で暗殺されるのかとビクビクしたが
すごくイイ話な件(´・ω・`)
855人間七七四年:2013/06/15(土) 21:03:40.21 ID:AjU9MdT9
>>849
百姓の件は処罰されたのが上層民なことから言っても
水呑百姓が作分を必死で隠すとかじゃなくて
村々での徴収と一括貢納の権利・義務を任じられた層による災害にかこつけての着服じゃないか。
彼らは立場的に福島家の被官なんだからそりゃ背信すれば処刑もされる
856人間七七四年:2013/06/15(土) 21:06:03.57 ID:Z0/rxtu5
人質返してくれとかストレートに言いすぎだろ
どれだけ相手を信用してるんだ?
857人間七七四年:2013/06/16(日) 00:33:52.53 ID:E1i6Xco3
まあダメ元で一応言ってみたって感じなんだろう
858人間七七四年:2013/06/16(日) 07:33:16.23 ID:TanzOudz
愛され坊主安国寺
859人間七七四年:2013/06/16(日) 08:50:26.39 ID:VSlMgNCv
>>856
意外にそういうこともあるんじゃないの?
小牧長久手のときも秀吉方の池田に織田信雄が人質返してるしな
860人間七七四年:2013/06/16(日) 11:02:06.53 ID:tBHH/roo
>>856
普通に考えれば宇喜多直家が律儀な正直者ってだけだろ
861人間七七四年:2013/06/16(日) 11:10:59.97 ID:UVJmsyTD
すっげー違和感があるけどな
862人間七七四年:2013/06/16(日) 12:06:42.81 ID:da24ZRSI
だが待ってほしい
直家の悪行のほとんどは軍記物がソースではなかったか
ゆえに悪行はなかったということもありうる!
863人間七七四年:2013/06/16(日) 12:35:42.72 ID:ZR3LCTMl
>>862
最近本出てたからそれ読んだ方が早いよ
864人間七七四年:2013/06/16(日) 12:37:01.28 ID:qi2OIALG
>>863
kwsk
865人間七七四年:2013/06/16(日) 12:45:49.78 ID:lspbdD/+
妙な申し入れしたら勘繰られるの目に見えてるし裏で動いてると警戒されたら後で坊主ふんじばるのも難しくなるじゃないですかー

正々堂々手切れしといて相談が・・・ってやったら外交上の問題か、で寄ってくれる可能性はあるけどさ。
866人間七七四年:2013/06/16(日) 12:47:12.90 ID:ZR3LCTMl
宇喜多直家・秀家って本
867人間七七四年:2013/06/16(日) 12:48:41.64 ID:qi2OIALG
d
868人間七七四年:2013/06/16(日) 18:03:23.37 ID:VUSbJ0Gc
石田慶長庚子の一事は、その時まで知る者はいなかった。
前から知っていたのは加藤清正一人であった。

故に徳川家康が上杉景勝追討のために関東へ進発する時、
清正は「石田には必ず異心があるはずだ」と言って家康を留めようとしたが、
家康は信じずに進発した。

これ故に諸将は皆家康に従って発し、清正は一人国に帰った。

――『老人雑話』
869人間七七四年:2013/06/16(日) 19:34:35.63 ID:aRZRdRaM
それは福くんに? 折り紙に?
870人間七七四年:2013/06/16(日) 19:35:04.01 ID:AHliUhZn
宇喜多秀家の重臣である戸川肥後守達安は、朝鮮の役にも秀家に従従軍したのであるが、
達安はここで朝鮮の人を、自身で一人も斬ることはなかった。それにはこのような理由がある。

達安が朝鮮に渡って、刀で初めて朝鮮人を斬ろうとした所、その者は手を合わせ、声を上げて泣き叫んで
命乞いをした。その有様は日本の婦人や童にも劣るみっともなさであった。

彼はこの有様に驚いて、「これは武人の斬るものに非ず。」と思い、その後敵を追い討ちするような時も、
自身は刀を持つことはなかったと云う。

この戸川達安は、普段は大変な驍勇(強く勇ましい)の人であり、家来を手討ちにするときや、
罪人を処刑するときも自ら行なっていたほどであったのに、それとは異なり、異邦においては
一人も人を殺さなかったのである。
(戸川記)

戸川達安、朝鮮人を殺さず、というお話
871人間七七四年:2013/06/16(日) 20:34:46.86 ID:KhzSoy2o
あっちは文治の国だからねぇ
872人間七七四年:2013/06/16(日) 21:04:31.30 ID:+MsBt9f5
自ら殺す価値が無いと言ってるだけで文治とか無関係じゃないか
873人間七七四年:2013/06/16(日) 21:57:12.89 ID:E1i6Xco3
軍人の地位が低いからその分軍人が持つプライドも低いんじゃないかってことでないの

上に立つものが見苦しく命乞いするのはどうかと思うけど
下っ端も下っ端ならそりゃそうでしょって感じだし
874人間七七四年:2013/06/16(日) 22:39:47.51 ID:iXOxPba9
>>870
すごくイメージどおりの朝鮮人なのがなんとも言えんな
875人間七七四年:2013/06/17(月) 02:21:55.65 ID:4K12nAzm
太平洋戦争の時でも朝鮮兵は同様だったから、それが国民性ってこったね
876人間七七四年:2013/06/17(月) 07:16:24.97 ID:YbkXtjY1
武人の斬る者でないならまとめて押し込めて火掛けりゃいいって第六天魔王さんがゆってた
877人間七七四年:2013/06/17(月) 11:49:57.62 ID:VrAJmhBe
大友の諸勢が日向高城において敗北した為、大友を頼っていた入道殿(伊東
義祐)や祐兵は心苦しく思っていた頃、祐兵の室家(妻)が野津から御母堂の
旅館を訪ねて逗留していた。

彼女は容顔美麗であったので大友家は密かに祐兵を殺害しこれを奪おうと
謀っているとにわかに密告するものがあった。

そこで入道殿と祐兵に対し「急ぎ豊後から立ち退きましょうと」と家臣達が
諌めたが「武の家に生まれたものが、命を惜しんで妻女を奪わせる事が
できようか」と承引されなかった。

これによりも室家も救出して皆でともに脱出しようと河崎駿河守(祐長)ら
が密かに談じ、母堂の女中新大夫は頼りになるものであるから、これに
計らわせようと告知した。

城中の旅宿は警備も厳しくそのまま忍び出ることは困難であったが、新大夫
は寝殿の庭内に塵出しの隙間を見つけ「あそこから脱出させましょう。夜に
紛れてお迎えにきてください」と注進した。

これにより計画を定め、三位入道殿や祐兵は密かに旅館を逃げ出して室家の
脱出を待ち構えていた。

室家のお迎えには河崎駿河守に物馴れた侍を二名差し添えて、かの塵出しの
外で待ち構えていたところ、計画通り塵出しの隙間から脱出なされた。

駿河守は室家にお供して入道殿、祐兵が待っている場所へとたどり着いた。
両主は喜ばれ、皆で船に乗って伊予国へと赴いた。

(日向記)

伊東家が豊後から退転する模様である
878人間七七四年:2013/06/17(月) 13:09:43.41 ID:G40qEFIS
そーりん自重しないなw
879人間七七四年:2013/06/17(月) 13:16:24.63 ID:VrAJmhBe
「大友家」とあるので宗麟かどうかは不明です。義統の可能性も十分です。
何より豊後退転をとりつくろうための創作の可能性も否定できないですし。
880人間七七四年:2013/06/17(月) 13:17:08.65 ID:aOSoVu2J
女が絡む時の宗麟は息子並にぼんくら
881人間七七四年:2013/06/17(月) 13:18:20.59 ID:aOSoVu2J
>>879
逆に考えると大友某に女を奪おうとされた!と言えば世間に納得してもらえるということでもあるw
882人間七七四年:2013/06/17(月) 13:39:51.07 ID:VrAJmhBe
>>881
は・・・反論の余地が無いw
883人間七七四年:2013/06/17(月) 15:19:00.41 ID:fisDmLvD
大友家危険度チェック

・妻女は見目麗しい
・評判の茶器を持っている
・仏に深く帰依している
・武士として八幡大菩薩は尊重している
・気分次第で沙汰が変わるのには我慢できない性質だ

1つでも該当した場合身の振り方の再考をお勧めします。
特に上2つ。

全部該当した場合大至急退転してください。
貴方とご家族の命と操が今まさに危険にさらされています。
884人間七七四年:2013/06/17(月) 21:23:21.32 ID:m3WXMwvc
江戸御普請の時のことである。

福島正則の普請場に、幕府の旗本衆が2,3挺の乗物を置いていたのであるが、
これを正則が見つけ、激怒した

「さてさてこれ程お急ぎの天下普請の場に、乗物を放置しているとは
なんと気の付かぬ連中であろうか!あそこの乗物、残らず打ち砕いて捨ててしまえ!」

正則の供の者達は、正則の性格を良く知っており、こういう時に少しでもためらい遅くなったり
すれば、その者を手討ちにするので、彼らは何の躊躇もなく3つの乗物を打ち砕き、
捨ててしまった。

少しすると、堀田勘左衛門殿が御出でになり、正則にこう申し上げた

「貴殿の普請場に置かれた乗物を、貴殿が仰せによって残らず打ち破られたそうですな!
あれは旗本衆の乗物ですぞ!いずれも殊の外腹を立てております。」

すると正則は

「私の召使の乗物かと思って打ち破らせましたが、旗本衆の乗物でしたか。

さて、かように上様がお急ぎになっている普請場に、乗物などを置くような連中は、
沙汰の限りと申すものです。その乗物の乗り主は一体どなたですかな?
名を承りたい。そして上様に申し上げ、その者達の腹を切らせたいと思います。」

堀田勘左衛門はこの言葉を乗り主たちに伝えた所、この件については沙汰無しにしたいと
頼み込んできたそうである。
(福島太夫殿御事)

福島正則、旗本の乗物を破却する、というお話。
885人間七七四年:2013/06/17(月) 21:27:05.21 ID:VrAJmhBe
本多上野介のセリフを取られた悪い話か
886人間七七四年:2013/06/17(月) 22:06:13.41 ID:Ly5oISyr
しっかしこの福島太夫殿御事って、市松メインの史料なのになんか悪い話ばっか載ってるなw
これじゃまるで酒飲んでない素面の時もDQNな人だったみたいな扱いじゃなイカ
887人間七七四年:2013/06/17(月) 22:33:46.51 ID:kI8PTUDM
888人間七七四年:2013/06/17(月) 23:35:15.38 ID:bK5WJmub
>>886
普段から罰多くして賞少なしと言われていたわけで。
伊奈の切腹要求とかアレな事例も素面の時だし。
889人間七七四年:2013/06/17(月) 23:53:32.79 ID:ZqSNCE8p
市松が大名の器じゃないのは、周知の事実。
侍大将くらいならいい働きしそう
890人間七七四年:2013/06/18(火) 20:24:14.97 ID:XgG5EsJu
宇喜多秀家の下で、中村次郎兵衛と言う出頭人が有ったが、これは秀家の妻の実家である
加賀前田利家の下より来たものである。また浮田太郎左衛門という先代からの用人があったが、
これも秀家の下で出頭した。

この両人は重臣の一人である長船紀伊守(綱直)と入魂の間柄となり、様々に密談して
伏見に登り、御内々を伺い、文禄4年(1595)春、家中に対して不意に『倹約のためである』と号して
宇喜多の分国悉く検地を入れ、かつ譜代の拝領した地では、良い土地は取り上げ所替りが申し付けられた。
これは皆、中村次郎兵衛の仕業であり、故に家中の者達は皆次郎兵衛を憎んだ。

さらに中村次郎兵衛達は、自分に親しいものを推挙し、疎い者達はほんの少しの事で閉門や遠慮が
申し付けられ、あるいは身上を滅ぼす者さえ有った。

家中の者達は薄氷を踏むような心持ちであったが、これらは皆、国元に居ない秀家からの上意として
命ぜられていたために、如何ともすることが出来なかった。
(戸川記)

家中騒動の原因で一番大きいのはやはり検地による所領問題なのだなと感じさせる、
後の宇喜多騒動に至る混乱の始まりについての逸話である。
891人間七七四年:2013/06/18(火) 21:22:14.65 ID:CNn15Bhn
検地を使っての大名権力強化はリスクも高いな。

大名自身の移封が伴うならマシだけど、同じ封土の中での所替は
一所懸命の地を奪われる国人や家臣団の反発が大きくなる。

島津、宇喜多は典型的な失敗例だろうなぁ。
佐竹のような成功例は意外に少ない。
892人間七七四年:2013/06/18(火) 21:37:04.31 ID:itwpMhOP
佐竹は豪族年始に託けて集めて皆殺しにしたからな
893人間七七四年:2013/06/18(火) 21:44:27.95 ID:CNn15Bhn
南方三十三館なら検地よりだいぶ前だけど、他にもあったっけ?
894人間七七四年:2013/06/19(水) 16:39:18.00 ID:a5/J2VU0
覚頭合戦(木崎原合戦)で伊東家が大敗した後に最前線となった野尻
城は地頭である福永丹波守が守っていた。

島津方は奪い取った高原城の地頭として上原長門守を入れ置いた。

かの上原は思慮深いものだったので、ある時は山東に人を送って
国中の情報を集め、またある時は福永丹波守の行動が悪く取られる
ように書き記した書状を山東に落とさせるなどして、福永の立場が
悪くなるように仕組んだ。

三位入道(伊東義祐)殿は福永の悪評を聞いて、これは本当の事では
ないかと思われ、何度か丹波守が参上した際にも会おうともせず
その上に二度、三度と出仕を停止させた。

丹波守の嫡子藤十郎が元服の為に出てきた際にも見参させずに送り
返えした。

これによって丹波守は腹を立て涙を流して、もう二度と出仕はしない
と誓いを立てて帰って行った。

以後は深い恨みを抱き上原長門守を頼って薩摩方と申し合わせるよう
になった。

(日向記)

上原長門守が謀略を用いて福永丹波守を寝返らせる話
そしてテンプレのようにひっかかってしまう三位入道クオリティ
895人間七七四年:2013/06/19(水) 22:05:08.21 ID:eOcqyegu
福島正則の家臣である野田忠助と云う侍は、500石の知行を取っていたが、
この知行が水損し、毎年無作となってしまったため、彼は終に、主君の正則に直訴した

「私に下されました知行は水損いたしましたため、御奉公し難い状況になっております。
ですので、私にお暇を下さるよう、お願い致します!」

正則はこれを聞くと、
「其の方は大気者であるな。今まで私に対して、直に訴訟したものは居なかった。
知行所が悪しき状態だということであれば、別の場所に替えて取らせよう。
但し、その上でも暇を貰いたいと望むか?」

忠助はこれに
「有り難く存じ奉ります。そういう事でしたら、いつまでも御奉公申し上げます。」
と申し上げた。

これによって忠助は知行替えをされ、その上正則は、これまでの毎年の損害分も計算して、
毎年それを加算して与えられるようにと仰せ付けた。
このため野田忠助は、殊の外富裕になったということである。

その後、日下部山三郎という、250石取の侍が正則に申し上げた

「私の知行所は大変悪しき場所であるため、御役儀を勤めることが出来ない状況になっています。
そのためどうか、替地をして頂けるようお願い致します。」

すると正則は言った
「この小倅めが!何と憎き事を言い出すのか!私は内心、山三郎には過ぎた知行所だと
考えていたほどなのに、そのような我儘を言い出すとは!
こいつに切腹をさせろ!」

として、切腹をさせた。
(福島太夫殿御事)

コブ取り爺さん的な話ですが、正則のスイッチの入り方が解るような解らないような、
どうも後味の悪い話で。
896人間七七四年:2013/06/19(水) 22:09:50.83 ID:9xpKYbeV
なんていうか、この頃はまだ内政をするという概念が無いのか
897人間七七四年:2013/06/19(水) 22:57:47.56 ID:oCWvXllR
自分の所領が全部悪地っていうなら
奉公しながら内政もしろっていうのはきついんじゃない?

今年は水害あったから内政に専念していいよとはならんだろうし
898人間七七四年:2013/06/19(水) 23:48:15.01 ID:E7qVCBFR
市松様がみてる・いい話
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-696.html
899人間七七四年:2013/06/20(木) 00:15:29.06 ID:aB7oSDM+
岐阜城の戦いでは東軍諸将の作戦は様々だった。

「根小屋を焼き軍を徐々に引くべきだ」

井伊兵部殿がそう言うと対して加藤左馬頭が申し出た。

「根小屋を焼こうとすれば敵方はそうはさせぬと出てくる筈だ。
この機会にこそ討ち取るべきである」

根小屋を焼いたら左馬頭の謀の如くして勝利を得た。
それ故に左馬頭殿は自画自賛の心を持って
それにつけ兵部殿はどんな謀で根小屋を焼こうとしたのやらという態度をしたようなしないような…。
これを兵部殿は奇怪なことだと思った。

その後、兵部殿は手に怪我を負った時、左馬頭殿よりの見舞いの使者が遣わされた。

「何故に御手にお怪我を負われたのですか?」

「はあぁ?何故に怪我をしたのかだと?
敵の近くに寄ったからに決まっておろう」

というやり取りがあった。

(武功雑記)
900人間七七四年:2013/06/20(木) 00:48:43.70 ID:aB7oSDM+
岐阜城の戦いでの作戦についてはジミーのWikipediaにある『明良洪範』の記述と違いますね
直政が「一気に総攻めにして抜くべき」と言い
対してジミーは「一気に抜くことは不可能だ」と慎重になっていて
結局ジミーも「敵は守りが十分じゃないから一気に倒す事が出来る」と
なんだ結果としては最初に直政の言った作戦通りじゃね、という事になってます
901人間七七四年:2013/06/20(木) 12:17:21.44 ID:XsocPi2K
なんか地味加藤さんがアホに見えたぞ
902人間七七四年:2013/06/20(木) 15:20:20.19 ID:AzboqeYI
福永の逆心により没落する事

福永らは天正五年十二月七日夜半に薩摩勢を野尻城へと引き込もうと計画し、高原城の
上原長門守と示し合わせた。

まず三百余りの兵を野尻へと攻め込ませ、これにより薩摩勢侵入と喚きたてたので山東
からの添番衆は胆をつぶして逃げ帰った。

翌八日、三位入道(伊東義祐)殿はこれを聞いて軍勢を率い紙屋まで出陣したが、同日
島津義久も大軍を率いて野尻の城へと攻め込んで来たので、戸崎城も守り難くなり
陣屋へ火をかけ山東に退くように指示された。

野村の一党は福永にとってはあるいは甥、あるいは従弟であったのでかねて同意していた
通り、そこかしこに叛乱の火の手をあげた。

三位入道殿はこれを見て後背を遮られては不味いと急いで軍勢を引き下がらせた。

それより数多の逆心の与党どもはあるいは家に火をかけ、あるいは城を囲むなど思うがまま
に振る舞った。

この状況では、いずこを味方と頼りようもなく三位入道殿は一門の侍、譜代の歴々を召し
集めて評定を行ったが、にわかに名案を出せる人もいなかったので「しからば居城を去らずに
一戦を遂げ、討死を遂げよう」と仰せられた。

大将一同は「まず御命をまっとうして、敵を滅ぼすことこそ良将でありましょう。」と申され
「早々に屋形を落とさせ、山中の様子をご覧になられ、米良山をお頼りになってそこから肥後
か豊後へと向かわれるのが良いでしょう」と申しあげた。

三位入道殿は「それも理である」と思われ、九日の明け方に佐土原を捨てられ、三位入道殿、
佑兵に一門の侍が供奉して財部へと退かれた。

その時、東光坊と言う山伏に栗木太郎五郎を添えて財部城に送り通路を求めた。

財部城主落合藤九郎は元来小男であったので、三位入道殿はこれを「ひきう人」と常に呼ば
せていた。

落合藤九郎はこの時「一城の主たるものをひきう人などと名付けて取り次ぎをされた事は
遺恨である。その上朋輩間の若衆で争論になった際に落合丹後守(藤九郎の息子)を成敗
されるなど、どこをとっても恨みが多い」と怒鳴りつけ、かの東光坊を討ち殺してしまった。

栗木はこれを見て急ぎ馳せかえりこの事を告げたが、城からはさらに足軽が少しばかり走り
出てきて矢を射かけてきた。

三位入道殿は「これでは行末も覚束ない。ここで腹を切るべし」と言われたが、供奉の人々は
「もっともではございますが、まずは義賢様・佑勝様の到着を待ってから御思案なされては」と
申し上げていると、そのうちに都於郡から義賢様・佑勝様と一門の衆その他が退いて来て、
これに追いつかれた。

改めて開いた評定では「まず穂北をお頼りしましょう。大将の命は惜しむべきものであり、
たとえ野に伏せ山に寝ても命あれば運をひらくことも多かろう」と定まった。

穂北城主長倉洞雲斉は嫡子藤七郎をひそかに花園原まで迎えに行かせた。
長倉家は数代一門に組まれ御重恩に報いる為にと、格別に御馳走を致されたので、かの城に
一宿して翌十日には米良山に入られ、長倉藤七郎も三十町ばかり案内を勤めた。

誠に身分の高い者も卑しいものも流浪の身ほど悲しいものはないであろう。

(日向記)

福永丹波守の謀反による伊東家の日向没落の様子である
903人間七七四年:2013/06/20(木) 20:59:56.66 ID:CjYL87PR
文禄4年(1595)の夏、宇喜多秀家の妻(豪姫)が病に伏せた。その病状は物の怪に取り憑かれたようであり、
医者ではどうすることも出来なかった。そのため秀家は祈祷するようにと日蓮宗の僧徒に申し付け、
彼らは皆丹精して数日祈ったがその験無く、その後山伏が加持して平伏した。

秀家は日蓮宗に対して大いに怒り、「今後家中の者達は日蓮宗から改宗し、他の宗派になるように!」
と申し付けた。

この時、明石掃部頭(全登)はキリシタン宗を勧め、伴天連を呼び下したため、我も我もと
この宗派に傾かない者はないほどの状況となった。
しかし戸川肥後守(達安)は殊更に日蓮宗への尊崇が厚かったため、秀家に断りを入れて
そのまま日蓮宗を信仰した。その他、浮田左京充、岡越前守、花房志摩守、花房助兵衛、以下、
家中の半ばは戸川達安の一党と成った。

一方の長船紀伊守方には、中村次郎兵衛、浮田太郎左衛門、延原土佐といった者達が一味した。

明石掃部頭はこの宗門を広めただけで、両派いずれにも加わらなかった。

この様に宇喜多家中は和することが無くなり、常に騒動する状況となり、
そして遂にはこれが、宇喜多滅亡の端となったのである。
(戸川記)
904人間七七四年:2013/06/20(木) 21:19:33.40 ID:AzboqeYI
浮田左京亮はキリシタンだよなぁ
905人間七七四年:2013/06/20(木) 23:00:38.72 ID:hZyi4oDG
トンデモ本大賞より

第22回のトンデモ本大賞は『お城でBL』に決定しました。
俗に「歴女」と呼ばれる歴史好きの女性向けのBLものは、同人誌などでけっこうあるのですが、
これは歴史上の「城攻め」を題材にしたBL小説(+イラスト)のアンソロジー。
城を擬人化、それを攻める(責める)武将との濡れ場が描かれます。
 表紙の帯のコピーは、

 どうした?
 お前の城門から、大事な
 天守閣が丸見えだぞ?


ついにここまで来たか・・・
906人間七七四年:2013/06/21(金) 00:57:29.98 ID:TY5j+8Ym
大野千兵衛の兄と、蓮池の鍛冶職人に衆道のうえで遺恨がうまれた。
まわりの者たちがなんとか仲裁しようと働いたが、
二人は和解せずに訴え出ることとなった。
その頃、勝茂さまは江戸においでになられたていて、
鍋島甲斐守直澄さまが国をお預かりしておられた。
直澄さまはこの訴えをお聞きになると、
「その二人に勝負させよ。
両者ともに助太刀のないようにするのだ。
もし一対一の勝負に助太刀する者があれば、
その者には処罰がくだるものと思え」
と仰せになった。
して、町の中に決闘場を作らせそこで勝負を行わせることとした。
そして勝負の当日、町中ということもあり、
見物人が隙間もなくひしめく状態となった。
大野は早くから決闘場に到着したのだが、
相手の鍛冶のいっこうに来る様子がない。
日が傾き始めたころには見物人たちは、
「これはもう来ないだろうな」
と帰り始めたところ、
「来た、鍛冶が来たぞ!」
と声があがり、見物人たちはどっと戻ってきた。
鍛冶は一人で、刀一本を差し小さな笠を被るという出で立ちだった。
決闘場へ入ると、笠を脱ぎ捨て左手をさしだす姿で、
「いざ、立ち合おうぞ」
と、大野に呼び掛けた。
このとき、待つ大野はもろ肌脱ぎになっていたが、
着物を直すまもなくそばにいた者たちに押し出された。
そうして切っ先から火を出すばかりに激しく斬り合った。
見物人たちがかたずを飲んで見守るうちに、
大野が太股を斬られてばったり倒れた。
その瞬間に、何者かが決闘場に飛び込んできて、
「おのれ、逃がさぬぞ」
と叫ぶやいなや、ただ一太刀で鍛冶を斬り伏せた。
大野の弟、千兵衛であった。
鍛冶も大野(兄)もその場で絶命した。(1/2)
907人間七七四年:2013/06/21(金) 01:18:28.08 ID:TY5j+8Ym
この始末が直澄さま、家老衆に報告されると、
「助太刀はならぬと命じられたにもかかわらず、
助太刀するとは千兵衛は不届き者である。
処罰するべきであろう」
と評議が進んだ。
ちょうどそのとき、勝茂さまが帰国された。
勝茂さまは事件の詳細をお聞きになると、
「千兵衛はひとかどの者だ。
目の前で身内を斬られながら、
自分の命が惜しいからといって、
おめおめと引き下がるような者は武士ではなかろう」
と仰せになり、千兵衛をお褒めになり助命した。
その処置をくだしたあとに、
次は直澄さまを呼び出し、
「留守の間に思慮の浅いはからいをしてくれたものだ。
とくに見世物のような形で勝負をさせたことは言語道断である」
と、厳しくお叱りになられた。
この千兵衛は後には御鷹師にまで御取り立てされ召し使われた。
千兵衛はその御恩を深く感じ、後追腹を切った 【葉隠】(2/2)
908人間七七四年:2013/06/21(金) 01:31:08.73 ID:TY5j+8Ym
>>906訂正
×勝茂さまは江戸においでになられたていて、

その頃、勝茂さまは江戸においでになられて、
909人間七七四年:2013/06/21(金) 11:01:18.98 ID:WCkNjnBn
出羽羽黒山は修験の盛んな山であった。
羽黒山で重職にあった出羽真田家は武将の出であって、行法の事に預からず山内の行政を司っていたが、
中には行法に優れた者もあった。

真田式部清鏡は、真田幸隆の子とも言われ、羽黒山で修験者となり醍醐坊を開いた。
また天正19(1591)年九戸政実の乱の折には、南部利直を助けとされる。
慶長4(1599)年の頃、清鏡は檀那である利直と碁の賭けをして勝ち、利直の娘を妻にする約束をした。
しかしこの約束を利直が果たさないので、清鏡は南部家への面当てに、南部家の玄関で腹を切り果てた。
利直はその事に怒り屍を川に投げ捨てさせたが、
屍は川を逆流して三戸に流れ着き、それ以来清鏡の霊が南部家へ祟りを成すようになった。
そのため、利直は浅岸薬師の境内に清鏡荒神として清鏡を祀り、その祟りを鎮めたという。


知切光蔵 天狗の研究より
910人間七七四年:2013/06/21(金) 21:12:11.81 ID:XrvaaiOZ
慶長19年の事。江戸御普請が行われていた頃、紅葉山の下、百間蔵の前で、
東堂和泉守(高虎)殿の衆が、小車4,5丁に石を積み、人数4,5百でこれを引いていた。

一方、福島正則の衆は大角石を千五百人ばかりで引いていたが、この時藤堂衆の引く小車の
進むのが遅く、福島正則の衆の引く大石の邪魔となり、福島衆は大変不快に思った。

この時、福島正則からは石引の奉行として、眞鍋五郎右衛門、鎌田主殿の両人が付けられていたのだが、
眞鍋五郎右衛門は大変に立腹し、石引たちに申し付けた

「あいつらが石を運んで空車で引き返す時、お前たちは綱を広げて置け!
そしてその綱の上を通ったなら、構わないか手に持った梃の木で、あいつらを討ち散らせ!!」

そう言っているところに、早くも空になった車を押して藤堂衆が戻ってきた。
何も知らず広げた縄の上を通った所で、福島の衆は梃の木を持って襲いかかり、散々に討ち散らした。
そしてそのまま本多佐渡守(正信)の屋敷まで追い込み、そこで大喧嘩となった。

その頃福島正則は屋敷で、「どうして大石を運ぶのが遅くなっているのか」と苛立ち
普請場まで使いを立てていたのだが、『邪魔だった藤堂衆を討ち散らした』との報告を受け
途端に機嫌が良くなり、大いに笑われ、自身で普請小屋へと入られた。
(福島太夫殿御事)

福島正則の江戸天下普請でのヒトコマである。
911人間七七四年:2013/06/21(金) 23:34:05.12 ID:iBl9lv2O
江戸城下で大御所の覚え目出度き藤堂相手に喧嘩ですか・・・
912人間七七四年:2013/06/22(土) 06:07:09.51 ID:1gPOswvG
よりによって喧嘩したのも本多佐渡屋敷…
913人間七七四年:2013/06/22(土) 10:21:26.09 ID:JGNyOeKf
家が邪魔でも突き進むレオンの方が格が上ですがな。
914人間七七四年:2013/06/22(土) 11:46:54.53 ID:ZJYCR9Cs
(`●∀・)邪魔だからって討ち払っていいわけじゃないよね
915人間七七四年:2013/06/22(土) 13:21:32.65 ID:pqueROR1
市松の所は家来も物騒だよな
916人間七七四年:2013/06/22(土) 14:16:59.93 ID:YGe0Yrja
917人間七七四年:2013/06/22(土) 21:48:10.40 ID:enzeKdNq
元和元年(1615)4月15日、大阪夏の陣が始まろうとしている頃である。
大阪の豊臣家より使いの吉村兵左衛門が紀州浅野家に下り、家老である浅野右衛門太夫、
浅野左衛門佐、亀田大隅守高綱に豊臣家の意向を仰せ下した。その内容は

『但馬守殿(浅野長晟)に対しては、秀頼公の元を遁れるようなことがなかったので、
疎意に思われるようなことが無かったのに、去年の冬、大阪表に幕府方として出陣してきたことは
全く意外に思われました。

故太閤殿下のよしみを忘れられていないのであれば、我らのお味方として頼りたいと思し召しに
なっております。

但馬守殿の家老であるあなた方3人にも、頼りたいと思し召しになられています。
もし我らにご同心なされるなら、但馬守殿には千枚分銅金(大判千枚分の金)を3つ、
3人の家老たちには1つづつ下されます。
また3人の家老には、秀頼の旗本の騎馬の武士30騎まで預け、直に召し使うことを認めます。』

という内容であった。3人の家老は亀田大隅の所に集まり相談した。

「仰せ下さった趣についてであるが、我らが主人である但馬守様は、関東の御取り立てによって
紀州の主と成ったのであるから、大阪に一味するなど考えられもしないことだ。
そうである以上これは、但馬守様に申し上げるにも及ばぬことである。」

こう結論し、大阪への返答には
『仰せ下さった上意について、畏まり存じ奉ります。
但馬守については、関東の芳恩を蒙っており、仰せ下された趣はその意を得ません。
ですので、御使者をお返しいたします。』

こう吉村兵左衛門に申しわたし、彼を帰らせた。
すると同月20日に、吉村兵左衛門が又もや罷り越し、今度は大野修理(治長)からの承りであると、
3人の家老に書状が下された。大野の書状の内容には

『自分達は兎に角、但馬守殿を味方として頼りたいと考えている。もし気持ちを変えて頂けるのなら、
今の紀州の領地に、大和国を添えて遣わすであろう。
浅野左衛門佐には摂津国を、浅野右衛門太夫には和泉国を、亀田大隅守には河内国を与えよう。』

これに3人は再び集まって相談し、一同に言ったことは
「どのように仰せ下されようとも大阪方に御味方するなど出来るわけがない。
しかし御使が2度にまで及んだ以上、但馬守様にこの事を申し上げ、お返事をして頂かなければなるまい。」

そう考え3人は、浅野長晟にこの事を申し上げた。長晟は聞いて
「お前たち3人はどう思うか」と尋ねた。これに浅野左衛門佐が答えて

「先々代の弾正様(長政)、先代の紀伊守様(幸長)は確かに、故太閤殿下の御厚恩を受けられました。
しかし但馬守様は家康公の御恩を蒙り、今の身代があるのです。そうである以上、我々は並びなき
関東の御味方であると、私は存じ奉っております。」
と申し上げた。長晟は再び「残る両人はどう思うか?」と尋ねた。
これに右衛門太夫も大隅も、「全く左衛門佐の申し上げたとおりです。」と答えた。

長晟は「では、そのように返答するように。」と仰せ付け、3人は『どうあっても御味方することは出来ない。』
と返事をし、吉村を返した。

こういう所に京の板倉伊賀守殿より、浅野長晟に飛脚が到来し、
『日本の大名衆は何れも領国を出立し大阪表へと出陣しているのに、但馬守殿はどうして遅参しているのか』
と申し越してきたため、長晟は「急ぎ出立する!」と、陣触れをされた。
(龜田大隅守高綱泉州表合戰覺書)

大阪夏の陣直前の、豊臣家と紀州浅野家とのやり取りである。
918人間七七四年:2013/06/23(日) 14:11:58.73 ID:7L91LwNe
武田家全盛の時代、ある時浜松城の城下町を、
武田家に仕える雑役夫が九人で通りがかった。
発見した徳川家の騎馬武者が三騎でこれを追い払おうとした。
騎馬武者一騎で歩兵数人分の戦力と言われるものだが、
なんとこの雑役夫九人はこれに対して反撃にでて、
騎馬武者一人を生け捕りすることに成功した。
これに甲斐国の者たちは大いに沸き立った。
「三河武士は強いと聞くが、我ら甲斐の者に比べたら」
「あの者たちでは甲斐には勝てぬ。
過去の数々の戦がそれを証明している」
武士も町人もこのように話していた。
だがなかにはこの事件を聞き現状を心配する者たちもいた。
山県昌景は、
「雑役夫が騎馬武者を迎え討つなど前代未聞である。
武田家も危うい時期に来ているのではないか」
と語り、
武田信繁は、
「敵方の悪口を言う者がいるならば戒めるようにせよ。
敵方に刺激を与えることは、
敵方を奮起させていると同じことである」
と諭したという。
後、名将二人の心配は的中することとなる。
設楽原以降、甲斐の者が三河武士の旗印に逃げ出すこととなる

甲陽軍鑑、信玄家法より
919人間七七四年:2013/06/23(日) 14:37:08.03 ID:4IQsvjP+
武田信繁が生きてるだと!?
920人間七七四年:2013/06/23(日) 15:33:53.82 ID:3dBL0xsn
>>919
子供の間違いじゃねーの?
921人間七七四年:2013/06/23(日) 16:32:49.05 ID:pamV8bUW
しかし信豊がこんな立派なことを言うだろうか、という疑問が
やっぱり化けて出てきたんだろう
922人間七七四年:2013/06/23(日) 17:07:10.48 ID:/FPltn36
>「敵方の悪口を言う者がいるならば戒めるようにせよ。 敵方に刺激を与えることは、 敵方を奮起させていると同じことである」

まったくだ
923人間七七四年:2013/06/23(日) 18:08:45.43 ID:yn/cMjnP
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5615.html
↑の話で出てた某戦国カードゲームが
先日メジャーアップデートしたんだが…。

ホント、どうしてこうなったよ。

ttp://yuyu-tei.jp/game_sen/carddetail/cardpreview.php?MODE=sell&amp;VER=2.1&amp;CID=10027

前々からこんなんだったけど。

ttp://yuyu-tei.jp/game_sen/carddetail/cardpreview.php?MODE=sell&amp;VER=1.1&amp;CID=10087
924人間七七四年:2013/06/23(日) 18:10:19.93 ID:C6BSAk1Y
さすがに戦国大戦の話題はスレチだろ
925人間七七四年:2013/06/23(日) 18:15:43.58 ID:n2sMvsj7
普通に信繁生前の話なんじゃないだろうか
926人間七七四年:2013/06/23(日) 18:50:38.74 ID:beg97CVR
よくある話に名前を借りただけなんだろうな
927人間七七四年:2013/06/23(日) 19:24:22.16 ID:C2MQo52C
天正9年に、細川藤孝、忠興親子が丹後に入国した時のこと。
与謝郡大島の城主・千賀兵太夫、日置むこ山の城主・日置弾正という者達が、
両人語らい、細川入部の迎えとして普申峠の麓まで、互いに騎馬で連れ立った。

ところが、日置弾正は隠れなき美男であり、衣装・馬鞍に至るまで美麗な出で立ちであったのだが、
千賀兵太夫はもとより貧乏であり、しかも醜悪な容貌で装束も異風であり、衣装から馬具に至るまで
見苦しいものであった。

そのため日置弾正は千賀兵太夫に戯言を言った

「初めて細川殿にお会いするというのに、そのような見苦しい装束があるものか!
一度戻ってその肩衣を着替え給えよ。」

この言葉に千賀兵太夫は大いに腹を立て口論し、終には喧嘩になり両人はたちまちの内に
相打ちとなった。
家来たちも互いに斬り合って、双方の死者は7,8人に及んだとのことである。
(丹州三家物語)

ちょっとした戯言も戦国の世は生き死にの事態になるのだ、というお話。
928人間七七四年:2013/06/23(日) 20:28:50.12 ID:X+UyQuNF
千賀さんに助太刀!
929人間七七四年:2013/06/23(日) 22:34:50.07 ID:XaG9f4fz
日置弾正っていうから弓神さまかと思ったわ
930人間七七四年:2013/06/24(月) 08:02:26.69 ID:/UYbUpo3
>>927
細川殿のような風流人が来なければこんな事には・・・
931人間七七四年:2013/06/24(月) 11:35:25.40 ID:W+rti0yd
そんな争っている暇があれば連れだって細川殿の奥方を見に行けばいいものを・・・
932人間七七四年:2013/06/24(月) 11:40:50.20 ID:HJEOFeWU
これが戯言になってしまうって、日頃からなにかあったのか
933人間七七四年:2013/06/24(月) 13:25:19.18 ID:VpgB5A2X
読み違えじゃないかな「たわごと」じゅなくて「ざれごと」だよ
934人間七七四年:2013/06/24(月) 14:47:25.69 ID:0xhh3kub
>>927
装束の事だけだし真面目な忠告っぽいけど貧乏を馬鹿にしやがったなってことなのかしらね
935人間七七四年:2013/06/24(月) 18:17:39.52 ID:Zh4sXWVo
>>927
せめて容姿が逆だったら格好もついたのにな
936人間七七四年:2013/06/24(月) 20:09:44.41 ID:RYB1E3S1
慶長5年(1600)、この年の奥州会津の城主・長尾景勝討伐の時、
細川越中守忠興は徳川家康の味方として宮津より出陣された。
細川幽斎は隠居の身であったため田辺城に留守をされ、忠興のみが
景勝討伐に出た。

こうして細川忠興は、雑兵たちを含めて三千の人数にて6月11日、宮津城を出馬され、
御暇乞いを申すためとして、父幽斎の在る田辺城に立ち寄り、その夜は田辺に宿陣した。
幽斎は天守に登り、軍勢の行列を見物された。

さて、忠興は若狭を通って近江路へ出ようと、丹後・若狭の国境である吉坂まで
進んだのだが、若狭の熊川にはその頃関所が有り、しかもそれを、敦賀の城主である
大谷刑部少輔(吉継)が命じて、非常に堅固なものにしたため、そこを往来することは
容易くないとの情報を得た。

ここで忠興は
「若州より近江路へ出ようと考えていたが、存ずる仔細が有るので、丹波路を進むこととする。」
として吉坂から取り返し、丹波路を山家へ進んで、伏見へと出た

この事を幽斎は聞いて、激怒した
「形部少輔に何か謀があったとしても、忠興の通行を妨害するような理由はない!
この頃は世間物騒の時節であれば、とにかく関所まで進み、逆に形部少輔の様子を見届けて
通るべきだったのに、吉坂まで進んでいた陣を取って返して丹波路へ出るなど、これは
不覚悟の至である!

忠興がもし生き残り、帰陣してきたとしても、私はあいつと対面しない!」
そう、奥歯を噛み締めて怒った。

一方の忠興は、西軍の小野木重次らが田辺城を攻めた田辺城の戦いにおいて、
幽斎が勅命とは言いながら、いま少し耐えようともせず城を渡して京都に上ったことを、
大変不本意なことだと考えた。

これにより、父子の間には互いに隔心が出来、段々と不和になっていき、
その悪感情は次第につのり、ある時など父子それぞれの侍たちが、1日の間に
2度まで槍を合わせたことが在ったそうである。
(丹州三家物語)

幽斎忠興不和の事、というお話
937人間七七四年:2013/06/24(月) 20:26:09.68 ID:pQ9LQrMi
そこはホラ、お玉様が間を取り持ってだね…あっ…
938人間七七四年:2013/06/24(月) 21:32:57.22 ID:V20UVszi
天正14年(1586)4月、徳川家康の元に羽柴秀吉の妹である朝日姫が輿入れすることとなった。
式の日取りは28日と決まり、家康の家臣は準備に追われていたのだが……
19日、小栗重常と土方雄良(織田信雄家臣)の二人がやってきて、突然祝言を延期したいと伝えてきた。
その理由を尋ねてみると、輿入れの使者としてやってきた天野康景のことを秀吉は知らなかったらしく
「よこすなら酒井忠次か、本多忠勝か、榊原康政じゃないのか!」と立腹しているというのである。
これには家康も機嫌を悪くし、「いろいろ面倒なことを言うからやめちゃおうか」
(いろいろ六ヶ敷儀申候間、事切候ハんか)と漏らしたのだが
土方が「そうなっては信雄様の面子が潰れてしまう!」と説得して忠勝が上洛することになった。
(家忠日記)

使者として行っただけなのに怒られた天野と、
主君は悪くないのに謝らないといけない土方(´・ω・)カワイソス
939人間七七四年:2013/06/24(月) 21:43:55.56 ID:VpgB5A2X
これ実際に延期されたしなー。

まあ、土方さんは仕方ない。和睦の仲介は信雄だったから
本当に手切れになったら面目つぶれちゃうしね。
940人間七七四年:2013/06/24(月) 22:04:01.33 ID:Hm8YFOhq
同僚を知らないと言われて傷ついた作左が後日アレをやっちゃうんですかわかりません!
941人間七七四年:2013/06/24(月) 23:52:29.75 ID:Abaz2w7h
天正七年の春、織田信長が在京の折、若狭国の丹羽長秀より
人魚が献上された。面も手足も人に違わず、長さは五尺ばかりであった。

その魚は岩の上へ登りかなり長いこと寝るので、その時を見つけて
取ったのだという。

――『当代記』
942人間七七四年:2013/06/25(火) 00:16:49.47 ID:0x6fxQUE
(アザラシ獲っちゃったのか・・・)
943人間七七四年:2013/06/25(火) 05:26:45.58 ID:mgXUtgr/
人魚は家忠日記にもあったよね。怪しいスケッチまでついてたし
944人間七七四年:2013/06/25(火) 11:11:19.73 ID:YoeW90r1
>942
トド(ボソッ!
945人間七七四年:2013/06/25(火) 11:31:28.02 ID:lYIQgIMv
946人間七七四年:2013/06/25(火) 11:41:11.29 ID:SQzrYAdU
人面魚やんw
947人間七七四年:2013/06/25(火) 12:26:13.34 ID:mgXUtgr/
>>945
それです。天正9年4月頃の日記に掛かれてるヤツ。
余白の部分にしかも横向きに書かれたオマケ的な内容。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772514/32

文面をそのまま引用すると

正月廿日二かん
てんちへあかり候
安土ニ而食人をくい候
声ハとのこほしと鳴候
せいハ六尺二分名ハ
人魚云

家忠日記は再発見されるまで保存状態が悪く余白には後世の落書きも
書き込まれてるそうだが、学者によればこいつの筆跡は家忠のものらしい。
948人間七七四年:2013/06/25(火) 18:58:02.94 ID:1HhF4iZm
安土で人を食ったって家忠さんというか信長さん何してはるんですか
949人間七七四年:2013/06/25(火) 19:39:16.23 ID:mgXUtgr/
天正9年の正月だと、水野忠重宛に勝頼は高天神へ
後詰には来れんとか言う書状を送ってますな。
950人間七七四年:2013/06/25(火) 20:49:05.24 ID:QPS4wqfJ
細川幽斎が丹後の領主だった頃の話

ある時、幽斎が白杉という場所に鷹狩に出かけた所、何者かが道の端にある田の畦に、
竹の枝を立てかけ、そこになにか書いた紙が付けられていた。
何かと思って幽斎がこれを見ると、おそらく百姓の仕業と思われる落書であった。
その内容はこうである

『いち(1)めいわく仕るハ、苦々(2)敷御仕置にて、さん(3)ざん志(4)ほうけ言語(5)道断、
六(6)月の日てりにハ七(7)ひんほうをかかけ、はち(8)をひかくふせい、
国(9)に堪忍なるやうに、十(10)分に無之とも仰付られ可被候。』

(何より迷惑なのは、細川幽斎の苦々しい政治である。散々な失政であり言語道断だ。
もし今の状態で6月に日照りが起これば、我々は南無妙法蓮華経を唱えて、鉢を持って
物乞いをしなければならない有様である。この国の人々がせめて我慢出来るように、例え充分で
なくても、この国の住人のための政治をしてほしいものだ。)

これを読んで幽斎は大いに笑い、閑雪という側坊主を召し出して、その紙の裏に、
自分がこれから言う通りに書けと命じた。

「このまれる十(10)分のよの中に、く(9)せ事を申百姓哉、八(8)幡きくましきとハおもへとも、
七(7)志やうより此のかたろく(6)になきハ地下の習、こ(5)くもんにかくるか
志(4)はりて腹をゐんとおもへとも、さん(3)りんにかくれぬれハ、に(2)くき志かたを
引きかへて、一(1)国一命ゆるすもの也」

(今のような好ましい世の中だというのに、何とけしからぬ事を言い出す百姓であろうか、
八幡にかけて聞き届けることはないと思ったが、七回生まれ変わったとしても
ろくなものでは無いのが地下の者達と言うものである。
獄門にかけるか、縛り首にして腹立ちを癒そうとも考えたが、これを書いた百姓も山林に
隠れているだろうから、このような憎いやり方を我慢して、その一命を許してやる。)

そう書かせると、元の場所に置かせたそうである。
(丹州三家物語)

細川幽斎、粋な政治批判の落書に、粋に見事にゼロ回答、というお話
951人間七七四年:2013/06/26(水) 09:49:13.19 ID:3NeMFpX6
>>947
人魚とか海獣よりも、シーラカンスかと思ってしまったwww
952人間七七四年:2013/06/26(水) 10:12:48.28 ID:s/lZUpkv
>950
まあ、そんなふうに幽斎様に戦いを挑んでも勝てないわな。w
953人間七七四年:2013/06/26(水) 12:08:36.22 ID:pORULxaX
一番落書・落首勝負をしかけたら駄目な相手だからな(勝てない的な意味で)w

尚ラスボスにしかけると落命で返ってくる模様
954人間七七四年:2013/06/26(水) 18:47:29.40 ID:Ei9Qmz2B
天正九年の事。織田信忠は能を好み、自身もこれを行った。
身分の高い者も低い者もその腕前を見事と言った。

織田信長はこれを聞いて「武将たる者がむやみに能を好むものではない」
と言い、大変しらけた。

そこで信忠は能道具をすべて取り寄せ、丹波の猿楽師・梅若大夫に与えた。

弟の信雄・信孝もこの道を好んだが、信長はこれについては知らなかった。

――『当代記』
955人間七七四年:2013/06/26(水) 19:18:11.08 ID:90EL/F1K
幸若舞はええんですかそうですか
956人間七七四年:2013/06/26(水) 19:28:49.30 ID:zZJOJp82
しかたないのう
957人間七七四年:2013/06/26(水) 19:54:10.62 ID:efCxEmqq
「面白の乱舞や 其身を捨てぬ程に心掛け」
ほどほどにできず、やり過ぎるくらいなら捨ててしまえ!てことでは
958人間七七四年:2013/06/26(水) 19:56:23.00 ID:dYZuCYsc
>>950
中身のない批判だなぁ
というか批判になってない
959人間七七四年:2013/06/26(水) 20:00:57.52 ID:efCxEmqq
あれ、4分前の>>958がもうまとめに載ってる
960人間七七四年:2013/06/26(水) 21:05:40.15 ID:tSLvIleb
慶長19年(1614)8月下旬、いわゆる方広寺鐘銘事件が起こり、その交渉のため大阪より派遣された
片桐且元に対し、徳川家康は「御袋(淀殿)か秀頼が江戸に下るように」との要求をした。

片桐且元は大阪に戻り。淀殿・秀頼母子にその通りに申し上げた所、淀殿も秀頼も
「中々江戸に下るということは出来ない」との意見であり、特に秀頼は、且元が心変わりをして
豊臣家を裏切ったのだと考えた。そしてこの件に関しては様々に紛糾し、大阪城の内部では
「福島正則殿に意見を聞きたい。」との声が出た

そこで福島正則は、大阪によしみがある堀田角左衛門という侍を上らせ、自分の意見を述べさせた。

『秀頼公の御袋様(淀殿)が江戸にお下りに成り、家康公にご対面なされて、また大阪に戻ってくるのが
一番良いと存じます。その折に姉妹の方々とお会いになるのが宜しいと存じます。』

しかし淀殿と秀頼はこれに同意せず、大いに腹を立て

「二度とこのような意見を言うな」(重ねてヶ様之異見被申まじ)

と返事をした。しかしこの返事を、正則は見なかった。それは使いの堀田角左衛門に、
『大阪からのご返事を頂いたら、直に家康公にお渡しするように。』
と指示していたためである。

こうして家康は大阪の返事とその様子を堀田角左衛門から逐一知らされし、以ての外に怒り、
早速京都へ出陣することとなった。諸大名衆も悉く大阪に馳せ向かったが、福島正則は
家康に願い出た

「私には秀頼を攻めることは出来ません。そこで大阪には嫡男の備後守(忠勝)を上らせ、
私には江戸で留守居を仰せ下さるようお願い致します。」

家康はこれを、いかにも尤もだと思い、備後守を急ぎ上らせるようにと命ぜられ、
備後守は大阪に上った。
(福島太夫殿御事)

福島正則から見た、大阪の陣前夜の模様である。
961人間七七四年:2013/06/26(水) 23:04:18.59 ID:0LbL04cn
>>958
中身のない批判だから取り合うまでもないとして、こういう返しをしたんだろ
962人間七七四年:2013/06/27(木) 10:58:10.61 ID:bsXfUkG7
こんなおふざけにマジレスしても野暮なだけだしな

殺るくらいマジだとまた別のメッセージを発信するけどさ
963人間七七四年:2013/06/27(木) 16:34:58.11 ID:unbWrIWQ
マジギレした場合は落首が文字通り落とした首の横に貼り付けられるんです
964人間七七四年:2013/06/27(木) 19:21:26.80 ID:+cLt+UhQ
>>950
今更ながら既出っぽい
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2023.html
なぜかいい話にされてた
965人間七七四年:2013/06/27(木) 22:36:05.33 ID:P2Wtrpyj
近頃少しばかり話題にのぼる人物がいる。
物事に動じぬ度胸を持ち、才能があり、頭脳鋭く、優れた人物である。
このあいだ、お城で話す機会があったので、
「その方は、頭の鋭さがすべて外に現れていて、
奥ゆかしさに欠けるところがある。
少し鈍くなってみてはどうか。
十の鋭さを三つか四つくらい、内に隠すということは出来ぬか」
と、言ってやったところ、
「無意味でしょう。山本さまの助言でもそれは出来ません」
と返答してきた。
たしかに、うまくおだてて幕府への使いなどさせれば、
なんでも賢くこなしてくるところがある。
しかし、殿のお側役、お国の政治など、
重大なことは決してさせてはならぬと思う。
『あの人物と同じ型の人間である』
頭の鋭さと知恵だけで世の中すべて片づくと思い上がっている。
しかし、その知恵、頭の鋭さほど、鼻持ちならぬものはない。
第一に人々が信用出来ず、心を許すということがなくなってしまう。
これにひきかえ、ある者は不器用ではあるが実直な人物なので、
立派にやってゆける奉公人だろう 【葉隠】
966人間七七四年:2013/06/28(金) 01:57:20.93 ID:eBuGTzxz
「戦国」ちょっと悪い話
967人間七七四年:2013/06/28(金) 10:11:59.02 ID:BsBaG+GJ
>あの人物

お隣のあの人ですね。
968人間七七四年:2013/06/28(金) 13:35:39.15 ID:a1NjDFFP
まあ葉隠の逸話はもうちと時代選んで選んでほしいな的な感じはするかな
969人間七七四年:2013/06/28(金) 17:07:50.49 ID:xlmzqz8w
ある時細川幽斎が、次男の頓五郎殿(興元)に、このような事を語った

「古の、室町将軍義満公の御時、日本の国々の、大小、上下、方角、米高、名物、等を調べさせ、
記録された、その書の名を『封域分数貢税誌』という。
この書は先祖より伝わり我が家にある。今、当国(丹後)の事を調べてみたが、国の形容、
全く違わず書かれていた。」

そう言うと、この抜き書きを頓五郎殿に与えたそうである。
(丹州三家物語)

忠興にはどうしたのだろう…?と思わせる逸話である。
しかし足利義満の時代に本当にそんな書物が編纂されていたとすれば、現在に残っていたら
もの凄い重要な史料になったのに、おしい。
970人間七七四年:2013/06/28(金) 19:19:21.27 ID:la3ElqeK
忠興は別の細川家を継ぐ身で
藤孝の細川家は所領もろとも興元に継がせる予定
少なくとも当時の藤孝はそのつもりだったという事かと
971965:2013/06/28(金) 19:52:49.60 ID:MChiuXB5
>>967
その御方ではないと思います

>>966 >>968
『あの人物』が時代範囲かな、と思ったので…
以降気をつけます
972人間七七四年:2013/06/28(金) 21:56:17.04 ID:WzbYBEfU
(大阪夏の陣が始まろうという時、二条城の徳川家康は伏見城にある秀忠からの使い、土井利勝と
酒井忠勝が到着したのを受け、本多正純、安藤帯刀、成瀬隼人らとともに、合戦の軍議を行った)

その日の晩、灯火をつける自分の事である。「日向に御用がある、お城に上がるように」
との上使が下されたので、私(水野勝成)は早速二条城に登り家康公に御目見得をすると、
膝近くまで寄るように、との御意なのでお側まで近づいた。

この時家康公が仰せになったのは、
「藤堂和泉守(高虎)に一番備、並びに伊井兵部(直孝)に二番備を申し付けた。
そして其の方は大和口より押し立て、この両人とその先で合流せよ。
そのため大和衆を其の方の旗本に申し付けるので、召し連れて行くように。」

私は、これを聞いてこう申し上げた
「去年(大阪冬の陣)、私は堀丹後(直寄)を召し連れて参陣いたしましたが、今回も同じく
堀殿に申し付けて頂けますか?」

「宜しい。丹後を召し連れて行くがいい。」

この時私は、去年の大阪冬の陣で、大和衆は藤堂高虎の麾下を仰せつかったのに、彼らは高虎を侮り、
仕寄りの時など高虎の言うことを聞くものがおらず、命令を聞かせても何かと我儘を言って
少しも役に立たなかった、ということを知っていたため、このように申し上げた

「私は藤堂高虎よりも小身であります。であれば私の言うことを、大和衆は聞かないでしょう。
ですのでこの仰せをお請けいたしても、もし前線で役に立たなければ、両御所様の御意に違う
結果となってしまいます。」

家康公はこれを聞くと殊の外機嫌を悪くされ、このように仰せになった

「藤堂と日向を一所にして、大和者共がとやかく申して来ると言うのか!?
もし我儘を言うものがあれば、公儀の命令を心得ぬ者どもは、一人でも二人でも踏み殺していけ!」

私はこの仰せを聞いて、家康公に直に申し上げた
「この上は、どんなことでも御意の通りに致します!」

すると家康公のご機嫌は治られた。御側に在った本多上野介(正純)がここで言った

「日向殿とあの時の藤堂殿を一所にして申すことはできません。今回日向殿は、上様の名代として
軍を率いるのです。ですので、もし我儘を言うようなものが在れば成敗されてかまいません。」

「忝い」と申し上げた。すると家康公が御意に

「良いか?今回は其の方に軍勢を率いさせるために申し付けたのだ。絶対に絶対に、
昔の一本槍の覚悟で身稼ぎをしてはならん!それは曲事であるぞ!」

と仰せられた。
(水野日向守覺書)

水野勝成、家康から大役を仰せつかるも最期に一言釘を差される、というお話。
家康はやっぱり勝成の事良くわかっているのですねw
973人間七七四年:2013/06/28(金) 22:45:28.93 ID:pYm2hN06
>>969
室町幕府の貴重な史料は応仁〜明応のゴタゴタで消失したのが多いからなあ。
974人間七七四年:2013/06/29(土) 00:30:46.73 ID:K2g9GWNi
「細川家には、昔はもっと良い宝物があったんですが、戦争でかなり焼けてしまったんですよ。
いやいや太平洋戦争の時ではなく、応仁の乱の時ですがね」

とのちに子孫が語ったのである
975人間七七四年:2013/06/29(土) 00:42:29.55 ID:a/5/lKhC
細川家が平成の世に天下取るとは忠興さんも予想出来なかっただろう
あっという間に切り崩されたけど
976人間七七四年:2013/06/29(土) 01:14:51.37 ID:SN1Dmahe
こんなの見つけた↓

首切り茂吉

戦国最強は首切り茂吉と言う農民だったらしい。
17歳から戦場で戦い、57歳までの間に40数度の闘いに出て居る。
槍も刀も貸し出し品は一切手にせず、鎌一つで戦ったと記録に有る。鎌一つで一度の戦で7人を殺したとも言われてる。
あまりの残虐性と強さのため武将達から「首切り茂吉」と言われていた。
高禄で召し抱えたいと申し出た織田信長を前に、あさりと断り、年貢を免除して貰いたいと願い出た。
自分の申し出を断られ激怒した信長は斬りかかるも、茂吉は信長相手に蹴りを入れて倒して「やるならやんぞ!!」と
怒鳴りあげたと言われている。
その後信長の領地で唯一年貢を免除された男として首切り茂吉は有名である。
かの秀吉も茂吉を召し抱えようとするも「秋だし狩ろうかな」と言われて引き下がったと言われている。
なぜ茂吉が首切り茂吉と言われるか、その自宅には今まで倒した男達の首が置かれており、その数は500を超えていたと言う。
一体人知れずこの男はどれだけの戦功をあげていたのだろうかと織田家中では伝説的な農民であった。
40数度の戦に出て、生き延びた首切り茂吉。有名ではないがまさに最強であり多数の戦をした男である。
57歳の時、ついに茂吉は関ヶ原にて可児才蔵との激戦の末、首を打たれたと言う。
977人間七七四年:2013/06/29(土) 01:17:07.67 ID:yemwjcXR
これで何人目だろう、釣れたのは
978人間七七四年:2013/06/29(土) 01:55:38.50 ID:nx/UmRQd
>>977
これ嘘なの?w
979人間七七四年:2013/06/29(土) 01:56:37.48 ID:OzBfaib6
バカ発見器ですか
980人間七七四年:2013/06/29(土) 05:10:48.05 ID:Vjrk4VUD
結城上野守の逸話を載せてるまとめ管理人はこれも載せるんだよな?
981人間七七四年:2013/06/29(土) 07:42:47.59 ID:w0sq+QBS
さすがに典拠もわからない逸話は載せんよ
982人間七七四年:2013/06/29(土) 09:09:47.98 ID:kkx9YAxA
このスレは出典は求められてないだよ。
先祖代々の言い伝えとか、地元の伝承とかでもOK。
最近の古文書そのまま掲載の流れのほうが昔から考えるとちょっと違う感じ。
983人間七七四年:2013/06/29(土) 09:46:57.37 ID:4ydcx/ux
近現代の小説ソースだけは勘弁してくれと言う流れからだからな
984人間七七四年:2013/06/29(土) 15:02:24.00 ID:MqAbeISa
架空戦記でかまわないから誰がこの茂吉でテキトーに小説書け
と思ったけど何だ?小説ソース?
985人間七七四年:2013/06/29(土) 16:52:03.21 ID:l3nEKvPi
そんなのないんじゃない?
適当に作っただけだと思われ
986人間七七四年:2013/06/29(土) 22:29:51.19 ID:OMcQKhey
美濃の住人に、岩崎角弥という若侍があった。
彼の主君は斎藤山城入道(道三)であり、多年その下で仕えていたのだが、
あるいは朋輩の嫉妬からであろうか、道三に角弥についての讒言が有り、道三はそれを信じて
彼の出仕を止めさせた。

角弥はこの事態に大変戸惑い、「私は主君に対し、私が一体どんな誤りをしたのかお聞きしたい!」と
人を介して道三に申し上げたのだが、それに返事もなく、角弥は「この主君とは縁がなかったのだ」と
考え、縁を訪ねて京に上り、時の摂政殿に仕えた。

この岩崎角弥は器量、骨柄、心の様、他に越えて優れていたため、摂政殿は彼を大変に重用し、
その寵愛は並びないほどであった。

そのようにして2年ほど経った頃、道三はこの岩崎角弥の事を聞き、京の摂政殿下に使者を立てて、
『角弥を返してほしい』と申し出た。
摂政殿はこれを聞くと
「呼び返すほど欲しい者を、どうして追い出したのか?その願い叶うまじき。」
と即座に断った。この事を道三に知らせると、『重ねてぜひとも!』とまた申し寄越した。
摂政殿は
「千度百度言ってきても、あの者を返す気はない!」
と仰せられたが、これを聞いた道三は大いに立腹し

「そういう気ならば、討ち手を上らせるべし!」

と、山本伝左衛門・須田忠兵衛という大剛の者を二人、京に上らせ、岩崎角弥の動向を伺わせたが、
なかなか角弥を見つけることが出来なかった。

所がある時、御節会の刻に摂政殿下が禁中に渡るお供に角弥も付いたのだが、この姿を
山本・須田の二人が見つけた。そして岩崎角弥も彼らの姿を見た。
双方は互いに見あって、「あっ!?」と思ったが、殿下は長柄、力者、前駆、随心などが先を
警護し、後ろは五位、六位などの随身で固められており、この行列に出会った人達は、何れも
身を伏していたため、二人も手出しできず、その日は虚しく帰っていった。

しかしそれより、毎日角弥の動向を執拗に伺っていた。角弥もこれに気づいており、『彼らはきっと、
私を討つために上京したに違いない、この事は殿下に申し上げなかれば。』と、ある時御気色を
伺って、このことを申し上げると、殿下は奉行所に、

「こういう曲者が京都に居る。急ぎ詮索して、洛中を平穏にするように。」

と仰せ付けたため、奉行所は洛中に『この者たちを少しでも助けたものは罪に問う!』と
触れを出した。

これを知った二人はどうしようもなく、美濃に帰って道三に「このように成りました」と
報告すると、道三ももはや手の出しようがなく、その場は興がさめて気まずい雰囲気になったそうである。
(室町殿物語)
987人間七七四年:2013/06/29(土) 23:28:27.25 ID:OzBfaib6
988人間七七四年:2013/06/30(日) 15:42:49.51 ID:OoHs8WB4
(大阪夏の陣、道明寺の戦いで水野勝成ら幕府軍は、後藤基次などの大阪方を撃退した)

しかし、敵は未だ藤井寺のあたりから平野道まで軍勢を集結させていた。
そこで私(水野勝成)は伊達政宗に使者を送り

『朝の合戦は早くも我々の勝利となりましたが、敵が撤退している今、追撃を行えば、
平野からこちらの方にある敵は大方討ち取ることが出来るでしょう。
非常に良い形勢なので、ぜひ早々に、そちらも追撃を行なってください。』

そう伝えた所、政宗より返事があり

『あなたの言う事も尤もだと思いますが、我々は真田の軍と3度の競り合いをしたため、
鉄砲の弾薬も残り少なく、その上軍勢の中には負傷者や死者も多く出ました。
そのため、今日追撃を行うことはできません。』

などと言ってきた。考えを変えるためにもう一度使者を送ったが又断ってきた。
諦めず再び使者を送った所、3度目には政宗が自分で直接やってきた。

「出来ねえって言ってるだろうが!!!!!」

激怒している。

しかし私は政宗がやってきたのを幸いに、かまわず説得することにした

「政宗殿、あなたがそう言われるのも尤もだ。だが今日、敵が撤退しているというのに、
それを追撃しなかったら、上様はきっと『どうして敵を追撃しなかったのか。』と
不審に思われるでしょう。そうなればせっかくの身上も相果ててしまうでしょう。
身体が果てるよりも、敵を追撃して討ち死にすれば、上様への御奉公になるじゃありませんか。

だから、追撃しようぜ?」

「いや、だから我々は…」

無視して話を進める
「それでね、作戦なんだけど、我々の前に立ちふさがっている敵は大野修理(治長)と毛利豊前(勝永)の
軍勢で、真田(信繁)の部隊は野中村の小高い山に備を立てています。
真田軍の位置は大野修理達の場所より遥々と離れた南の端で、前面の敵である大野修理の軍を追い崩す事は
簡単なのだが、そこに横から真田軍が救援に入って後ろに回られれば、逆に我々が全滅するだろう。

そこで政宗殿は真田の前面に出て、鉄砲隊に攻撃させて、真田をあしらって頂きたいのですよ。
そうすれば彼らが横から救援に入ることは不可能に成るでしょう?
これでどうか、お願いいたす!」

そう、達て申したところ、政宗は

「だから!さっきから言っているようにこっちは動ける人間も少ないっての!
今日、敵を追撃するのは我々には出来ない!この事は私から御両所様(家康・秀忠)にも直接申し上げた!
とにかくどうしたって、我々に追撃をさせるのは、無用である!
政宗の所は現在、追撃できるような状況ではない!」
(是非是非付候事は無用にて候。正宗事は中々付申間敷候)

そう言い捨てて自分の陣所に帰っていった。
(水野日向守覺書)

ちなみに他の人は官位などで呼んでいるのに、政宗に関しては安心と安定の諱呼び捨て、
しかも『正宗』表記である。追撃を断られた嫌がらせだろうか?w
989人間七七四年:2013/06/30(日) 20:15:29.00 ID:Ex1hHKaY
そろそろ次スレ立てたほうがよさそうだ
990人間七七四年:2013/06/30(日) 20:18:08.39 ID:Ex1hHKaY
たてた
戦国ちょっと悪い話37
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1372591033/
991人間七七四年:2013/07/01(月) 08:51:43.63 ID:tc6sVpyT
>>990

埋め代わりに

(天正17年(1589)の天草国人一揆における、小西行長・加藤清正による志岐城攻めの折のこと、
当時小西行長の配下であった水野勝成は二の丸まで乗り込んだ)

私(水野勝成)は二の丸に乗り込むと、二の丸の中の”ひちやう”と言う曲輪に一番に取り付き、堀際まで乗り込んだ。
この時、福島左衛門大夫(正則)の家臣・山瀬久兵衛の弟である山瀬勘右衛門という者も私同様に堀の裏まで
乗り込んだのだが、堀の端から鉄砲が二挺出てこちらを狙っていた所を、一挺は私が引きかなぐり取ったのだが、
もう一挺によって山瀬久兵衛は、股から尻まで撃ちぬかれてしまった。
私は彼に

「今までは一所に進んできたが、それでは最早役に立たない。そういう事だから早く撤退しろ!」

と言って山瀬久兵衛を城の下へ下ろした。

この時、阿波鳴門介が使っている、清吉と言う小姓がやってきて

「鳴門介様にはぐれてしまいました。六左衛門様(勝成)の指物を見かけましたので、ここまで罷り越しました。」

そう言うので、私は

「さてさて心がけも早く参ったものだ。これからこの曲輪に乗り入る所なので、私の傍についてこい」

と声をかけたその所で、清吉は鉄砲に当たり死んだ。
(拙者申やうにハさて々心かけ早く参候。只今乗込申候間、我等傍に罷在候得と申所に、其場にて鉄砲に當り相果候)
(水野日向守覺書)

城攻めの戦場のリアルな様子を伝える記録である
992人間七七四年:2013/07/01(月) 11:22:02.25 ID:GviWTAMs
強い人は運もいいな
993人間七七四年:2013/07/01(月) 13:41:02.24 ID:wu0N9C1I
名のある武将が主人公だとしたら
それに仕える武将等は脇役
その他大勢のエキストラまさしく死に役
994人間七七四年:2013/07/01(月) 14:47:39.88 ID:0U6I1beA
>>991
最後の一文、笑っちゃいけないというか笑いどころですらないんだろうけどなぜか失笑してしまった
995人間七七四年:2013/07/01(月) 16:55:47.73 ID:iA3e6Eqk
さすが勝成、鉄砲の弾も避けて通るとは。
996人間七七四年:2013/07/01(月) 17:13:57.61 ID:tvn1trM5
小田原征伐の時、豊臣秀吉は松田憲秀を斬罪に処したが、
その末子である十三歳の童も同じく生害させた。

彼は多能にして殊に美麗であった。これを惜しまない人はおらず、
見聞の衆は悲しみの涙を拭った。

――『当代記』
997人間七七四年:2013/07/01(月) 18:33:42.26 ID:wu0N9C1I
>>996
果たしてブサイクで有能でもこう惜しまれたのであろうか・・・

戦国時代でも但し※なのかな
998人間七七四年:2013/07/01(月) 18:46:24.94 ID:AfpEMuhk
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2635.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7249.html
こっちでは
松田憲秀と長男が豊臣方に内通
憲秀の次男が内通を北条にばらす

小田原城開城後
(坂口安吾「二流の人」では松田憲秀は開城直前に斬られたことにされてたが実際は監禁)
ラスボス「忌々しい松田の息子を斬れ!」
如水「長男とついでに憲秀を斬ってきました」
ラスボス「こちらに内通した者を斬ってどうする!」
如水「忠義者を生かし、不忠者を斬るのは当たり前でしょ」

と末子の話はなく、いい話になってたが、来年の大河ではどうなるか。
999人間七七四年:2013/07/01(月) 20:16:26.66 ID:43JejjCc
さよなら
1000人間七七四年:2013/07/01(月) 20:30:25.89 ID:wmwk99fL
で、あるか
10011001
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
.    | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
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   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
  l  {  .、          /      
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