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人間七七四年:
豊臣秀吉の時代のことである。
伊予に徳猪之丞といって天下無双の大力があった。14,5の頃から四国中に肩を並べるものも
居なかったが、これを秀吉が聞き、呼び出して二千石で召抱えた。
また毛利中納言輝元の家中には、入江大蔵之丞といって、おおよそ日本一の大力があった。
ある時秀吉は聚楽へ御成をし、伺候した諸大名居並ぶ中、このように言った
「毛利中納言の家中には入江大蔵之丞という大力の者が有ると聞く。予が召抱えておる
徳猪之丞と相撲を取らせて、見物しようではないか!」
これに輝元は「安き御事に候」と早速呼び出し、両人は相撲の出で立ちにて、行事を連れて
御白洲に出た。
両名、互いに一礼して力足(四股のことか)を踏んでいる様子は、作りものであるはずの
仁王像と全く違いがなかった。
徳猪之丞はその身長6尺7寸(約2メートル3センチ)、肩の巾の広いこと、
背中だけで普通の者の夜着3着分が必要であった。
また大蔵之丞は身長6尺8寸(約2メートル6センチ)、彼の着物も又徳猪之丞と同じほどの
布が必要であった。
諸大名は彼らを見て、さてもさても、このような厳しい人間がこの世にあるのか。
今日は比類なき見物をするものだと手に汗握り相撲を待った。
暫くして大幅の緞子一巻づつ両人に与えられた。
そして秀吉は「何か力を見せよ」と、周囲1尺5,6寸(約50センチ)の大竹を、
2間半(約4.5メートル)に切って1本づつ両人の前においた。
大蔵之丞はこれを取ると切り口の節の近い所から、ミシミシと押しつぶし下帯の上から
巻きつけた。それはまるで箍で筒桶を止めたようであった。
徳猪之丞も次に取ってミシミシと押し潰し腰に巻いた。
秀吉はこれを見て、「力業はなにかあるか?」と聞いた。
徳猪之丞はつっと立つと、3間(約5.5メートル)ほど下がるとそこから走りかかり、
弓手(左手)の拳で大地を突いた!
すると腕の肘のところまで地中に突き抜いた。
大蔵之丞はこれを見て、4間(約7.3メートル)ほど下がってそこから走りかかり、
弓手の拳を握りしめ「えいやぁ!」と殴りつけると、なんと肩先まで地中にめり込んだ。
二人は暫く苦労して自分の腕を抜いた。これを見た諸侯たちはどっと彼らを褒め称えた。
秀吉はこれを見て
「彼ら両名、敢えて相撲を取らせるには及ばない。皆々、これを了解せよ。」
と言うと、皆畏まってこれを了承した。敢えて相撲の勝負をさせなかった秀吉の心遣いに、
感じ入らぬものは居なかったという。
(義殘後覺)
秀吉と二人の大力についての逸話である