1 :
長文荒らしは完全スルーで!!:
徳川家・松平家とその家臣団まで包括するスレです。
炎上して無い関連スレは、過疎回避にこちらへ誘導願います。
人の一生は、重荷を負いて遠き道を行くが如し
急ぐべからず 不自由を常と思えば不足なし
2 :
人間七七四年:2013/03/03(日) 20:32:06.59 ID:YP5sBAAW
人はただ 身の程を知れ 草の葉の
露も重きは 落つるものかな
つ
>>1 長文荒らしは完全スルーで!!:
つ
>>2 毛利の長文連呼バカは、
東軍総大将スレにまで邪魔しに来てるんだから
論点まとめてシンプルにしたり、スレ番で引用する知恵持て( ´,_ゝ`)
3 :
人間七七四年:2013/03/06(水) 18:21:13.99 ID:jcGfLyKp
>>1 乙です。百姓の三回忌も近いから、盛り上げよう。
4 :
人間七七四年:2013/03/06(水) 18:21:16.22 ID:Sx1XIaRA
秀家わろたw
5 :
人間七七四年:2013/03/07(木) 07:45:11.33 ID:PmqMGeSa
ミクシで15代の知名度みたいなのがあったけど
家斉さんが下のほうなのが意外だな。
一般ではそんなもんか。
6 :
人間七七四年:2013/03/07(木) 19:31:43.23 ID:9xkIVG9F
教科書に出るような事績が少ないから仕方ないかも
家康、秀忠、家光は文句なしとして、綱吉は生類憐みの令、
吉宗は享保の改革と暴れん坊将軍、慶喜は大政奉還や戊辰戦争。
これ以外だと新井白石とセットで家宣とか、家光直系の断絶とか
最年少の将軍で家継があがるくらいか
7 :
人間七七四年:2013/03/08(金) 09:06:48.80 ID:ja9YZ5+G
歴史に興味もないであろうおっさんの友人が
「オレ15代いえるよ、暗記させられたもん」といって
キャッチボールしながら暗誦したのには
びっくりしたな。
豊田市の近くに住んでるんだけど
名古屋ではあんまり聞いたことがない、暗記とか。
8 :
人間七七四年:2013/03/08(金) 10:47:13.56 ID:+hFAaWlk
>>1 乙ぢゃ。
家康の天下取りは我々現代人に多くのことを教えてくれる。
幼少期の人質時代の屈辱。信長との同盟を守りきった律儀さ。
武田信玄との対戦。小牧・長久手での熟練した軍略。
豊臣政権下での着実な勢力伸張。そして文句なしの関が原での勝利。
天領400万石の圧倒的な徳川幕府。天下泰平250年。江戸は世界最大
の都市の一つとなった。
東京が首都となったのも、家康が始原。
死ぬまで階段をかけ上がった人生の達人。
9 :
人間七七四年:2013/03/08(金) 19:03:16.06 ID:pf2IyY3k
ショーグンってのが英語でも通用するのは
今の東京を作った人、みたいな理解のされ方で
通じやすいんだよね。
鎌倉だろ、とか細かい話は置いといて。
10 :
人間七七四年:2013/03/09(土) 14:10:09.02 ID:fourVI1/
滝山寺(愛知県岡崎市滝町山籠107)
・創建:伝・天武天皇時代(673年 - 686年)
・開基:伝・役小角
12世紀
【1122年】仏泉上人永救、物部朝臣・伴氏女を檀那として再興、最初の本堂を建立し、鎮守として山王・白山社を勧請する
【1130年代】三河法橋裕範(源頼朝の母の弟)、粟田口法眼長暹(源頼朝の母の弟)、仏泉上人永救に弟子入り、入山する
【1138年】仏泉上人永救、死去する
【1140年】藤原季範(源頼朝の祖父)、夫婦(夫人は源行遠の娘)で蓮華寺造営、仏性灯油料として額田郡恵那河内郷(愛知県岡崎市米河内)を寄進する
【1151年】藤原範忠(源頼朝の母の兄)、滝山寺の本堂(2度目)を建替える、10月8日の供養の時に延暦寺より招いた導師に馬3匹を贈る
【1155年】藤原季範(源頼朝の祖父)、死去する
【1159年】藤原範忠(源頼朝の母の兄)、弟の三河法橋裕範の要請を受け、大檀那として滝山寺の四至を確定し、 田畠1町2反づつを寺へ寄進する
【1159年】三河法橋裕範(源頼朝の母の弟)、姉の由良御前(源頼朝の母)が死去した際、49日の仏事を差配してその菩提を弔る
【1160年】三河法橋裕範(源頼朝の母の弟)、頼朝が罪人として伊豆国の配所に送られる際、郎従を付けて送り出す
【1182年】寛伝(藤原範忠の息、源頼朝の従兄弟)、源頼朝の推挙により日光山満願寺19世座主になる
【1188年】任憲(三河法橋裕範の息、源頼朝の従兄弟)、鎌倉で源頼朝に引見する
【1191年】源頼朝、任憲(三河法橋裕範の息、源頼朝の従兄弟)の熱田社領御幣田をめぐる争いの仲裁をする
【1199年】源頼朝、死去する
11 :
人間七七四年:2013/03/09(土) 14:11:14.05 ID:fourVI1/
13世紀
【1201年】寛伝(藤原範忠の息、源頼朝の従兄弟)、頼朝公の3回忌に惣持禅院を創建し、本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩を」安置する
【1205年】寛伝(藤原範忠の息、源頼朝の従兄弟)、死去する
【1222年】足利義氏(3代目足利氏当主)、滝山寺本堂(3度目)を建替える
【1226年】大平惟行(高階惟行)、大谷惟伴(坂上惟伴)と連署で、額田郡阿智波郷名越(愛知県岡崎市阿知波)の田地8反を惣持禅院に寄進する
【1229年】大平惟行(高階惟行)、常行堂の造営にあたり娘と一緒に大檀那となり、足利義氏に相談してこの堂へ料田3町8段を寄進する
【1230年代】藤原俊経(藤原俊継の父)持仏堂を造営、古市場御油畠(愛知県豊田市古市場)を寄進する
【1233年】足利義氏(3代目足利氏当主)、舞童装束などの調進のため150貫文を奉加する
【1238年】藤原俊経(藤原俊継の父)、京都東山一切経の谷で死去する
【1240年代】大谷惟伴(坂上惟伴)、持仏堂(延福寺)を造営する
【1244年】】大谷惟伴(坂上惟伴)、死去する
【1254年】増恵(藤原俊継の従兄弟)、本堂屋根瓦替工事の大勧進を勤め、同年、温室を改造する
【1254年】足利義氏(3代目足利氏当主)、死去する
【1255年】藤原俊継、故足利義氏の法華堂(宝幢寺)造営し、藤原俊継は田畠3町3段、足利家氏は壁海郡碧海荘の青野の田2町、宇祢部の畠1町2段を寄進する
【1257年】増恵(藤原俊継の従兄弟)、一切経蔵を造営する、足利頼氏(5代目足利氏当主)、一切経蔵の経会料所として、額田郡阿知波郷(愛知県岡崎市阿知波)を寄進する
【1261年】増恵(藤原俊継の従兄弟)、山王社の宝殿を改築する
【1263年】大平惟行(高階惟行)、死去する
【1274年】藤原俊継、鎌倉で死去する
【1283年】増恵(藤原俊継の従兄弟)、鎌倉滞在中に死去する
【1284年】足利貞氏(7代目足利氏当主)、故足利家時(6代目足利氏当主)追善の如法堂を造営する
12 :
人間七七四年:2013/03/09(土) 14:15:05.76 ID:fourVI1/
14世紀
【1301年】足利貞氏(7代目足利氏当主)、家時17回忌、如法堂に額田郡上村の田3反と正観坊跡大門屋敷を寄進する、同時期、熱田大宮司家ゆかりの蓮華寺へ願文を奉納する
【1335年】足利尊氏(8代目足利氏当主)、中先代の乱で足利直義と三河で合流、滝山寺に千寿王と赤橋登子を預ける
【1330年代】輔阿闍梨貞円(高師泰・高師直の弟)、滝山寺に入山
【1380年代】足利義満(3代目足利将軍)、滝山寺本堂(4度目)を建替える
15世紀
【1440年】松平信光(3代目松平氏当主)、滝山寺寺領内に神のお告げで万松寺を創建する
13 :
人間七七四年:2013/03/09(土) 14:36:47.28 ID:fourVI1/
足利義満(3代目足利将軍、1358〜1404)年表
【1351年】高師泰・高師直他高一族8人が摂津国武庫川で殺害される
【1351年】仁木義長(兄の仁木頼章は幕府執事(管領の前身))が三河守護になる
【1357年頃】明阿(父・高師泰、夫・高師冬(高師直養子))が、高一族の本拠であった菅生郷(愛知県岡崎市)に一族を菩提する深恩院(総持寺の前身)を創建、住持は兄・高師世の娘
【1358年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫、烏帽子親は足利貞氏(足利貞氏の父))の屋敷で生まれる
【1360年】大島義高(新田氏流)が三河守護になる(新田義重―里見義俊―義成―大島義継―時継―盛義―義員―義昌―義高)
【1368年】管領・細川頼之を烏帽子親として元服
【1368年】天恩寺(愛知県岡崎市)創建、永源寺2世弥天永釈開創、足利尊氏遺言の寺、4代目将軍足利義持の祈願所
【1369年】御馬城(愛知県豊川市)築城を管領・細川頼之に命ずる、頼之は弟の頼有に命ずる
【1370年】甘泉寺(愛知県新城市)創建か?、天恩寺と同じ永源寺2世弥天永釈開創、御朱印高48石、山林境内20余町歩を寄進
【1379年】管領・細川頼之失脚、斯波義将が管領になる(康暦の政変)
【1379年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫、烏帽子親は足利貞氏(足利貞氏の父))を政所執事に任ずる
【1379年】一色範光(侍所頭人、若狭守護、、尾張国知多郡・海東郡の分郡守護)を三河守護に任ずる
【1380年代】管領・斯波義将が、永源寺(愛知県岡崎市)創建を申し出る、これを支持し将軍家安泰を併せて祈願、三河国碧海郡碧海荘(愛知県岡崎市)は斯波氏先祖代々の墓所がある所
【1380年代】滝山寺(愛知県岡崎市)の4度目の本堂を建替
【1382年】源信氏(細川一族か?)が義満誕生日祈祷の為、三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)など4ヶ所を天恩寺に寄進
【1388年】富士山遊覧、矢作宿(愛知県岡崎市)に宿泊
【1388年】一色詮範(侍所頭人、若狭守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1390年】管領・細川頼之が、屋敷跡に蓮性院(愛知県岡崎市)を創建
【1391年】伊勢貞行(伊勢貞継の孫)を御料所三河国額田郡山中郷(愛知県岡崎市)の代官に任ずる、山中郷の法蔵寺は6代目将軍足利義教の祈願所
【1392年】細川頼之死去、葬儀は義満が主催して相国寺で行われる
【1394年】出家
【1397年】永源寺(愛知県岡崎市)に、後に建仁寺61代住持となる玉岡和尚を住持職に補す
【1397年】三河国渥美郡をを京極高詮に還付し、守護使不入の地とする
【1399年】管領・畠山基国に乙川(愛知県岡崎市)の六名堤造営を命ずる、下流の下和田郷が水不足に陥り、領主・京極高詮(侍所頭人、近江他6ヶ国守護)から苦情が入る
【1399年】高一族菩提の為に建てられた深恩院(総持寺の前身、愛知県岡崎市)へ三河国額田郡比志賀郷(高一族の旧領、愛知県岡崎市)を寄進する
【1404年】松平和泉守源信光が生まれる
【1406年】一色満範(義満偏諱、侍所頭人、若狭守護、丹後守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1408年】死去
14 :
人間七七四年:2013/03/09(土) 14:59:07.56 ID:fourVI1/
伊勢氏(初代・藤原俊継) 滝山寺縁起
■藤原俊経(〜1238):初代伊勢氏・伊勢俊継の父
・肥前前司
・法名願仏
・弟の相模法橋円辰と円辰の子大進法眼増恵は滝山寺僧侶
・滝山寺に持仏堂を造営する(後に持仏堂は、甥の大進法眼増恵に譲られる)
・滝山寺に古市場御油畠を寄進する
・歴仁元年(1238)5月13日、京都東山一切経の谷で死去
■藤原俊継(1217〜1274):初代伊勢氏
・藤原俊経の息
・伊勢前司
・建長7年(1255)、足利義氏追善の法華堂(宝幢寺)を造営、この堂に田畠3町8段を寄進、足利家氏に働きかけ、家氏の三河国碧海荘青野、宇祢部の料田畠を寄進させる
・文永11年(1274)6月23日、鎌倉で死去
■円辰:初代伊勢氏・藤原俊継の叔父
・藤原俊経の弟
・相模法橋
■増恵(1209〜1283):初代伊勢氏・藤原俊継の従兄弟
・円辰の息
・聖蓮坊大進法眼
・叔父藤原俊経の持仏堂を譲られ、自身の持仏堂とする
・吉良荘の奉行として、吉良氏の所領経営をする
・建長6年(1254)、本堂屋根瓦替工事の大勧進を勤め、同年、温室を改造する
・正嘉元年(1257)、一切経蔵を造営する
・文応2年(1261)、山王社の宝殿を改築する
・弘安6年(1283)2月13日、鎌倉滞在中に死去
15 :
人間七七四年:2013/03/09(土) 16:42:14.95 ID:REC4KdDu
16 :
人間七七四年:2013/03/11(月) 11:02:13.87 ID:/yVzhLT6
仙台藩百姓の三回忌、南無南無。
成仏してくれ。
17 :
人間七七四年:2013/03/11(月) 11:07:56.05 ID:jURgsMBF
地獄でこのスレを見守ってくれてるだろう。
18 :
人間七七四年:2013/03/11(月) 11:35:04.40 ID:7kSXkyR1
地獄なのかよw
19 :
人間七七四年:2013/03/11(月) 16:36:14.97 ID:1PDfMxO0
足利義満(3代目足利将軍、1358〜1404)年表
【1351年】高師泰・高師直他高一族8人が摂津国武庫川で殺害される
【1351年】仁木義長(兄の仁木頼章は幕府執事(管領の前身))が三河守護(前任は高師兼(高師直の猶子)になる
【1357年頃】明阿(父:高師泰、夫:高師冬(高師直の養子))が、菅生郷(愛知県岡崎市)に一族を菩提する総持寺を創建する、住持は兄・高師世の娘
【1358年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫、烏帽子親は足利貞氏(足利貞氏の父))の屋敷で生まれる
【1360年】大島義高(新田氏流)が三河守護になる(新田義重―里見義俊―義成―大島義継―時継―盛義―義員―義昌―義高)
【1368年】管領・細川頼之を烏帽子親として元服する
【1368年】三河国額田郡片寄(愛知県岡崎市)に天恩寺を創建する、足利尊氏遺言の寺、開創は永源寺2世弥天永釈、4代目将軍足利義持の祈願所
【1369年】三河国宝飯郡御馬(愛知県豊川市)に御馬城築城を、管領・細川頼之に命ずる、頼之は弟の頼有に命ずる
【1370年】三河国設楽郡(愛知県新城市)に甘泉寺創建か?、天恩寺と同じ永源寺2世弥天永釈開創、御朱印高48石、山林境内20余町歩を寄進する
【1379年】管領・細川頼之失脚、斯波義将が管領になる(康暦の政変)
【1379年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫、烏帽子親は足利貞氏(足利貞氏の父))を政所執事に任ずる
【1379年】一色範光(侍所頭人、若狭守護、、尾張国知多郡・海東郡の分郡守護)を三河守護に任ずる
【1380年代】管領・斯波義将が、三河国碧海郡(愛知県岡崎市)に永源寺の創建を申し出る、これを支持し将軍家安泰を併せて祈願、三河国碧海郡碧海荘は斯波氏先祖代々の墓所がある所
【1380年代】滝山寺(愛知県岡崎市)の本堂(4度目)のを建替える
【1382年】源信氏(細川一族か?)が義満誕生日祈祷の為、三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)など4ヶ所を天恩寺に寄進する
【1387年】三河国額田郡下和田郷を、京極高詮に還付する
【1388年】富士山遊覧、矢作宿(愛知県岡崎市)に宿泊する
【1388年】一色詮範(侍所頭人、若狭守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1390年】管領・細川頼之が、三河国額田郡細川(愛知県岡崎市)の屋敷跡に、蓮性院を創建する
【1391年】伊勢貞行(伊勢貞継の孫)を御料所三河国額田郡山中郷(愛知県岡崎市)の代官に任ずる、山中郷の法蔵寺は6代目将軍足利義教の祈願所
【1392年】細川頼之死去、葬儀は義満が主催して相国寺で行われる
【1394年】出家
【1397年】永源寺(愛知県岡崎市)に、後に建仁寺61代住持となる玉岡和尚を住持職に補す
【1397年】三河国渥美郡をを京極高詮に還付し、守護使不入の地とする
【1399年】三河国額田郡菅生(愛知県岡崎市)の乙川六名堤造営を、管領・畠山基国にを命ずる、下流の下和田郷が水不足に陥り、領主・京極高詮(侍所頭人、近江他6ヶ国守護)から苦情が入る
【1399年】三河国額田郡比志賀の深恩院に、高一族の比志賀郷の旧領を寄進する
【1404年】松平和泉守源信光が誕生する
【1406年】一色満範(義満偏諱、侍所頭人、若狭守護、丹後守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1408年】死去
【1440年】松平信光(3代目松平氏当主)、滝山寺寺領内に神のお告げで万松寺を創建する
20 :
人間七七四年:2013/03/11(月) 16:42:30.19 ID:1PDfMxO0
足利義満(3代目足利将軍、1358〜1404)年表
【1351年】高師泰・高師直他高一族8人が摂津国武庫川で殺害される
【1351年】仁木義長(兄の仁木頼章は幕府執事(管領の前身))が三河守護(前任は高師兼(高師直の猶子)になる
【1357年頃】明阿(父:高師泰、夫:高師冬(高師直の養子))が、菅生郷(愛知県岡崎市)に一族を菩提する総持寺を創建する、住持は兄・高師世の娘
【1358年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)の屋敷で生まれる
【1360年】大島義高(新田氏流)が三河守護になる(新田義重―里見義俊―義成―大島義継―時継―盛義―義員―義昌―義高)
【1368年】管領・細川頼之を烏帽子親として元服する
【1368年】三河国額田郡片寄(愛知県岡崎市)に天恩寺を創建する、足利尊氏遺言の寺、開創は永源寺2世弥天永釈、4代目将軍足利義持の祈願所
【1369年】三河国宝飯郡御馬(愛知県豊川市)に御馬城築城を、管領・細川頼之に命ずる、頼之は弟の頼有に命ずる
【1370年】三河国設楽郡(愛知県新城市)に甘泉寺創建か?、天恩寺と同じ永源寺2世弥天永釈開創、御朱印高48石、山林境内20余町歩を寄進する
【1379年】管領・細川頼之失脚、斯波義将が管領になる(康暦の政変)
【1379年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)を政所執事に任ずる
【1379年】一色範光(侍所頭人、若狭守護、、尾張国知多郡・海東郡の分郡守護)を三河守護に任ずる
【1380年代】管領・斯波義将が、斯波氏先祖代々の墓所がある三河国碧海郡(愛知県岡崎市)に、永源寺の創建を申し出る、これを支持し将軍家安泰を併せて祈願、
【1380年代】滝山寺(愛知県岡崎市)の本堂(4度目)のを建替える
【1382年】源信氏(細川一族か?)が義満誕生日祈祷の為、三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)など4ヶ所を天恩寺に寄進する
【1387年】三河国額田郡下和田郷を、京極高詮に還付する
【1388年】富士山遊覧、矢作宿(愛知県岡崎市)に宿泊する
【1388年】一色詮範(侍所頭人、若狭守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1390年】管領・細川頼之が、三河国額田郡細川(愛知県岡崎市)の屋敷跡に、蓮性院を創建する
【1391年】伊勢貞行(伊勢貞継の孫)を御料所三河国額田郡山中郷(愛知県岡崎市)の代官に任ずる、山中郷の法蔵寺は6代目将軍足利義教の祈願所
【1392年】細川頼之死去、葬儀は義満が主催して相国寺で行われる
【1394年】出家
【1397年】永源寺(愛知県岡崎市)に、後に建仁寺61代住持となる玉岡和尚を住持職に補す
【1397年】三河国渥美郡をを京極高詮に還付し、守護使不入の地とする
【1399年】三河国額田郡菅生(愛知県岡崎市)の乙川六名堤造営を、管領・畠山基国にを命ずる、下和田郷が水不足に陥り、領主・京極高詮から苦情が入る
【1399年】三河国額田郡比志賀の深恩院に、高一族の比志賀郷の旧領を寄進する
【1404年】松平和泉守源信光が誕生する
【1406年】一色満範(義満偏諱、侍所頭人、若狭守護、丹後守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1408年】死去
【1440年】松平信光(3代目松平氏当主)、滝山寺寺領内に神のお告げで万松寺を創建する
21 :
人間七七四年:2013/03/11(月) 16:57:56.83 ID:1PDfMxO0
足利義満(3代目足利将軍、1358〜1404)年表
【1351年】高師泰・高師直他高一族8人が摂津国武庫川で殺害される
【1351年】仁木義長(兄の仁木頼章は幕府執事(管領の前身))が三河守護(前任は高師兼(高師直の猶子)になる
【1357年頃】明阿(父:高師泰、夫:高師冬(高師直の養子))が、菅生郷(愛知県岡崎市)に一族を菩提する総持寺を創建する、住持は兄・高師世の娘
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【1358年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)の屋敷で生まれる
【1360年】大島義高(新田氏流)が三河守護になる(新田義重―里見義俊―義成―大島義継―時継―盛義―義員―義昌―義高)
【1368年】管領・細川頼之を烏帽子親として元服する
【1368年】三河国額田郡片寄(愛知県岡崎市)に天恩寺を創建する、足利尊氏遺言の寺、開創は永源寺2世弥天永釈、4代目将軍足利義持の祈願所
【1369年】三河国宝飯郡御馬(愛知県豊川市)に御馬城築城を、管領・細川頼之に命ずる、頼之は弟の頼有に命ずる
【1370年】三河国設楽郡(愛知県新城市)に甘泉寺創建か?、天恩寺と同じ永源寺2世弥天永釈開創、御朱印高48石、山林境内20余町歩を寄進する
【1379年】管領・細川頼之失脚、斯波義将が管領になる(康暦の政変)
【1379年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)を政所執事に任ずる
【1379年】一色範光(侍所頭人、若狭守護、、尾張国知多郡・海東郡の分郡守護)を三河守護に任ずる
【1380年代】管領・斯波義将が、斯波氏先祖代々の墓所がある三河国碧海郡(愛知県岡崎市)に、永源寺の創建を申し出る、これを支持し将軍家安泰を併せて祈願
【1380年代】滝山寺(愛知県岡崎市)の本堂(4度目)のを建替える
【1382年】源信氏(細川一族か?)が義満誕生日祈祷の為、三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)など4ヶ所を天恩寺に寄進する
【1387年】三河国額田郡下和田郷(愛知県岡崎市)を、京極高詮に還付する
【1388年】富士山遊覧、矢作宿(愛知県岡崎市)に宿泊する
【1388年】一色詮範(侍所頭人、若狭守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1390年】管領・細川頼之が、三河国額田郡細川(愛知県岡崎市)の屋敷跡に、蓮性院を創建する
【1391年】伊勢貞行(伊勢貞継の孫)を御料所三河国額田郡山中郷(愛知県岡崎市)の代官に任ずる、山中郷の法蔵寺は6代目将軍足利義教の祈願所
【1392年】細川頼之死去、葬儀は義満が主催して相国寺で行われる
【1394年】出家する
【1397年】永源寺(愛知県岡崎市)に、後に建仁寺61代住持となる玉岡和尚を住持職に補す
【1397年】三河国渥美郡(愛知県田原市)をを京極高詮に還付し、守護使不入の地とする
【1399年】三河国額田郡菅生(愛知県岡崎市)の乙川六名堤造営を、管領・畠山基国にを命ずる、下和田郷が水不足に陥り、領主・京極高詮から苦情が入る
【1399年】三河国額田郡比志賀の深恩院に、高一族の比志賀郷の旧領を寄進する
【1404年】松平和泉守源信光が誕生する
【1406年】一色満範(義満偏諱、侍所頭人、若狭守護、丹後守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1408年】死去する
【1440年】松平信光(3代目松平氏当主)、滝山寺寺領内に神のお告げで万松寺を創建する
22 :
人間七七四年:2013/03/11(月) 17:58:46.36 ID:8HqQ66MO
テンプレで貼るのはいいんだけど思い出したように何度も貼るなよ
23 :
人間七七四年:2013/03/11(月) 18:06:56.07 ID:Dkhcx+77
24 :
人間七七四年:2013/03/11(月) 19:46:50.63 ID:1PDfMxO0
利義満(3代目足利将軍、1358〜1404)年表
【1351年】高師泰・高師直他高一族8人が、摂津国武庫川で殺害される
【1351年】仁木義長(兄の仁木頼章は幕府執事(管領の前身))が、三河守護(前任は高師兼(高師直の猶子)になる
【1357年頃】明阿(父:高師泰、夫:高師冬(高師直の養子))が、三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)に一族を菩提する総持寺を創建する、住持は兄・高師世の娘
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【1358年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)の屋敷で生まれる
【1360年】大島義高(新田氏流)が三河守護になる(新田義重―里見義俊―義成―大島義継―時継―盛義―義員―義昌―義高)
【1367年】足助重宗(足助重範の孫)の子・重政(寛立上人) が、松平郷主・在原信重の支援を得て、三河国加茂郡松平郷に寂静寺(高月院の前身)として開創する
【1368年】管領・細川頼之を烏帽子親として元服する
【1368年】三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)に、天恩寺を創建する、足利尊氏遺言の寺、開創は永源寺2世弥天永釈、4代目将軍足利義持の祈願所
【1369年】三河国宝飯郡御馬郷(愛知県豊川市)に御馬城築城を、管領・細川頼之に命ずる、頼之は弟の頼有に命ずる
【1370年】三河国設楽郡(愛知県新城市)に甘泉寺創建か?、天恩寺と同じ永源寺2世弥天永釈開創、御朱印高48石、山林境内20余町歩を寄進する
【1379年】管領・細川頼之失脚、斯波義将が管領になる(康暦の政変)
【1379年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)を、政所執事に任ずる
【1379年】一色範光(侍所頭人、若狭守護、、尾張国知多郡・海東郡の分郡守護)を三河守護に任ずる
【1380年代】管領・斯波義将が、斯波氏先祖代々の墓所がある三河国碧海郡(愛知県岡崎市)に、永源寺の創建を申し出る、これを支持し将軍家安泰を併せて祈願
【1380年代】三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺本堂(4度目)のを建替える
【1390年代】足助重宗(足助重範の孫)に、尾張国野間荘を還付する
【1382年】源信氏(細川一族か?)が義満誕生日祈祷の為、三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)など4ヶ所を天恩寺に寄進する
【1387年】三河国額田郡下和田郷(愛知県岡崎市)を、京極高詮に還付する
【1388年】富士山遊覧、三河国額田郡(愛知県岡崎市)の矢作宿に宿泊する
【1388年】一色詮範(侍所頭人、若狭守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1390年】管領・細川頼之が、三河国額田郡細川郷(愛知県岡崎市)の屋敷跡に、蓮性院を創建する
【1391年】伊勢貞行(伊勢貞継の孫)を御料所三河国額田郡山中郷(愛知県岡崎市)の代官に任ずる、山中郷の法蔵寺は6代目将軍足利義教の祈願所
【1392年】細川頼之死去、葬儀は義満が主催して相国寺で行われる
【1394年】出家する
【1397年】三河国碧海郡(愛知県岡崎市)の永源寺(創建:斯波義将)に、後に建仁寺61代住持となる玉岡和尚を住持職に補す
【1397年】三河国渥美郡(愛知県田原市)を京極高詮に還付し、守護使不入の地とする
【1399年】三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)の乙川六名堤造営を、管領・畠山基国にを命ずる、下和田郷が水不足に陥り、領主・京極高詮から苦情が入る
【1399年】三河国額田郡比志賀の深恩院に、高一族の比志賀郷の旧領を寄進する
【1404年】松平和泉守源信光が誕生する
【1406年】一色満範(義満偏諱、侍所頭人、若狭守護、丹後守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1408年】死去する
【1440年】松平信光(3代目松平氏当主)、三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺寺領内に、神のお告げで万松寺を創建する
25 :
人間七七四年:2013/03/11(月) 22:55:50.85 ID:39RHNs4P
家康公はなぜに江戸を拠点にしたのかな?普通は小田原だよね?家康公が入る前の江戸は湿地帯の糞田舎だったらしいが。とにかく、現在の東京の繁栄を鑑みるに、家康公の先見の明は偉大だよね
26 :
人間七七四年:2013/03/11(月) 23:13:26.47 ID:XA7qiRR8
200万石の本拠地に成りえる
広い平地が江戸だったとかじゃ無いの?
27 :
人間七七四年:2013/03/11(月) 23:48:51.79 ID:eDi9l5+C
丘陵地だらけであまり田畑を潰さずに済むのが気に入ったらしい
28 :
人間七七四年:2013/03/12(火) 06:09:48.48 ID:IM7PYShY
足利義満(3代目足利将軍、1358〜1404)年表
【1351年】高師泰・高師直他高一族8人が、摂津国武庫川で殺害される
【1351年】仁木義長(兄の仁木頼章は幕府執事(管領の前身))が、三河守護(前任は高師兼(高師直の猶子)になる
【1357年頃】明阿(父:高師泰、夫:高師冬(高師直の養子))が、三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)に、一族を菩提する総持寺を創建する、住持は兄・高師世の娘
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【1358年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)の屋敷で生まれる
【1360年】大島義高(新田氏流)が三河守護になる(新田義重―里見義俊―義成―大島義継―時継―盛義―義員―義昌―義高)
【1367年】足助重宗(足助重範の孫)の子・重政(寛立上人) が、松平郷主・在原信重の支援を得て、三河国加茂郡松平郷に寂静寺(高月院の前身)を開創する
【1368年】管領・細川頼之を烏帽子親として元服する
【1368年】三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)に、天恩寺を創建する、足利尊氏遺言の寺、開創は永源寺2世弥天永釈、4代目将軍足利義持の祈願所
【1369年】三河国宝飯郡御馬郷(愛知県豊川市)に御馬城築城を、管領・細川頼之に命ずる、頼之は弟の頼有に命ずる
【1370年】三河国設楽郡(愛知県新城市)に甘泉寺創建か?、天恩寺と同じ永源寺2世弥天永釈開創、御朱印高48石、山林境内20余町歩を寄進する
【1379年】管領・細川頼之失脚、斯波義将が管領になる(康暦の政変)
【1379年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)を政所執事に任ずる
【1379年】一色範光(侍所頭人、若狭守護、、尾張国知多郡・海東郡の分郡守護)を三河守護に任ずる
【1380年代】管領・斯波義将が、斯波氏先祖代々の墓所がある三河国碧海郡(愛知県岡崎市)に、永源寺の創建を申し出る、これを支持し将軍家安泰を併せて祈願
【1380年代】三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺本堂(4度目)を建替える
【1390年代】足助重宗(足助重範の孫)に、尾張国野間荘を還付する
【1382年】源信氏(細川一族か?)が義満誕生日祈祷の為、三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)など4ヶ所を天恩寺に寄進する
【1387年】三河国額田郡下和田郷(愛知県岡崎市)を、京極高詮に還付する
【1388年】富士山遊覧、三河国額田郡(愛知県岡崎市)の矢作宿に宿泊する
【1388年】一色詮範(侍所頭人、若狭守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1390年】管領・細川頼之が、三河国額田郡細川郷(愛知県岡崎市)の屋敷跡に、蓮性院を創建する
【1391年】伊勢貞行(伊勢貞継の孫)を御料所三河国額田郡山中郷(愛知県岡崎市)の代官に任ずる、山中郷の法蔵寺は6代目将軍足利義教の祈願所
【1392年】細川頼之死去、葬儀は義満が主催して相国寺で行われる
【1394年】出家する
【1397年】三河国碧海郡(愛知県岡崎市)の永源寺(創建:斯波義将)に、後に建仁寺61代住持となる玉岡和尚を住持職に補す
【1397年】三河国渥美郡(愛知県田原市)を京極高詮に還付し、守護使不入の地とする
【1399年】三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)の乙川六名堤造営を、管領・畠山基国にを命ずる、下和田郷が水不足に陥り、領主・京極高詮から苦情が入る
【1399年】三河国額田郡比志賀の深恩院に、高一族の比志賀郷の旧領を寄進する
【1404年】松平和泉守源信光が誕生する
【1406年】一色満範(義満偏諱、侍所頭人、若狭守護、丹後守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1408年】死去する
【1440年】松平信光(3代目松平氏当主)、三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺寺領内に、神のお告げで万松寺を創建する
29 :
人間七七四年:2013/03/12(火) 07:31:39.51 ID:NfE1Nk2X
>>27 田畑潰さないでいいならそのまま小田原でよくね?
30 :
人間七七四年:2013/03/12(火) 07:36:17.19 ID:IM7PYShY
足利義満(3代目足利将軍、1358〜1404)年表
【1351年】高師泰・高師直他高一族8人が、摂津国武庫川で殺害される
【1351年】仁木義長(兄の仁木頼章は幕府執事(管領の前身))が、三河守護(前任は高師兼(高師直の猶子)になる
【1357年頃】明阿(父:高師泰、夫:高師冬(高師直の養子))が、三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)に、一族を菩提する総持寺を創建する、住持は兄・高師世の娘
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【1358年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)の屋敷で生まれる
【1360年】大島義高(新田氏流)が三河守護になる(新田義重―里見義俊―義成―大島義継―時継―盛義―義員―義昌―義高)
【1367年】足助重宗(足助重範の孫)の子・重政(寛立上人) が、松平郷主・在原信重の支援を得て、三河国加茂郡松平郷に寂静寺(高月院の前身)を開創する
【1368年】管領・細川頼之を烏帽子親として元服する
【1368年】三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)に、天恩寺を創建する、足利尊氏遺言の寺、開創は永源寺2世弥天永釈、4代目将軍足利義持の祈願所
【1369年】三河国宝飯郡御馬郷(愛知県豊川市)に御馬城築城を、管領・細川頼之に命ずる、頼之は弟の頼有に命ずる
【1370年】三河国設楽郡(愛知県新城市)に甘泉寺創建か?、天恩寺と同じ永源寺2世弥天永釈開創、御朱印高48石、山林境内20余町歩を寄進する
【1379年】管領・細川頼之失脚、斯波義将が管領になる(康暦の政変)
【1379年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)を政所執事に任ずる
【1379年】一色範光(侍所頭人、若狭守護、、尾張国知多郡・海東郡の分郡守護)を三河守護に任ずる
【1380年代】管領・斯波義将が、斯波氏先祖代々の墓所がある三河国碧海郡(愛知県岡崎市)に、永源寺の創建を申し出る、これを支持し将軍家安泰を併せて祈願
【1380年代】三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺本堂(4度目)を建替える
【1390年代】足助重宗(足助重範の孫)に、尾張国野間荘を還付する
【1382年】源信氏(細川一族か?)が義満誕生日祈祷の為、三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)など4ヶ所を天恩寺に寄進する
【1387年】三河国額田郡下和田郷(愛知県岡崎市)を、京極高詮に還付する
【1388年】富士山遊覧、三河国額田郡(愛知県岡崎市)の矢作宿に宿泊する
【1388年】一色詮範(侍所頭人、若狭守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1390年】管領・細川頼之が、三河国額田郡細川郷(愛知県岡崎市)の屋敷跡に、蓮性院を創建する
【1391年】伊勢貞行(伊勢貞継の孫)を御料所三河国額田郡山中郷(愛知県岡崎市)の代官に任ずる、山中郷の法蔵寺は6代目将軍足利義教の祈願所
【1392年】細川頼之死去、葬儀は義満が主催して相国寺で行われる
【1394年】出家する
【1397年】三河国碧海郡(愛知県岡崎市)の永源寺(創建:斯波義将)に、後に建仁寺61代住持となる玉岡和尚を住持職に補す
【1397年】三河国渥美郡(愛知県田原市)を京極高詮に還付し、守護使不入の地とする
【1399年】三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)の乙川六名堤造営を、管領・畠山基国にを命ずる、下和田郷が水不足に陥り、領主・京極高詮から苦情が入る
【1399年】三河国額田郡比志賀の深恩院に、高一族の比志賀郷の旧領を寄進する
【1404年】松平和泉守源信光が誕生する
【1406年】一色満範(義満偏諱、侍所頭人、若狭守護、丹後守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1408年】死去する
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【1440年】松平信光(3代目松平氏当主)、三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺寺領内に、神のお告げで万松寺を創建する
31 :
人間七七四年:2013/03/12(火) 08:11:59.07 ID:hfl61f3M
>>25 当時の江戸が糞田舎ってのは無いな。
北条氏の支城としてさえ有力な城だった。
そもそも、当時の家康が江戸を選定したのは旧北条領国を
統べる為であって、天下を基準に選んだわけじゃない。
江戸が大坂を超える大都市になるには、幾多の天下普請を
経る訳で、そこを無視して先見の明と言うのはおかしな話だ。
32 :
人間七七四年:2013/03/12(火) 08:27:00.55 ID:sp3f5h5I
大阪だって、本願寺の拠点だったのを、秀吉が普請させたわけで、そう古いものじゃない。
まあ、江戸と違って、堺とか色々と開けたところが周辺にはあったけどね。
33 :
人間七七四年:2013/03/12(火) 08:37:22.94 ID:MnZwhT3H
小田原征伐のとき、秀吉が家康を誘って連れ小便して
関東への国替えを申し渡すと共に治所を江戸にするよう奨めた
って話を、秀吉の先見性を誇示するかのように司馬遼あたりが
よく書いてたけど本当なのかね?
34 :
人間七七四年:2013/03/12(火) 10:14:55.27 ID:lEndQULF
>>33 小便は江戸期の俗説。
秀吉が江戸を勧めた話は、後世の編纂物ばかりなので
本当にあったかと言われると微妙。
35 :
人間七七四年:2013/03/12(火) 10:19:33.58 ID:IM7PYShY
足利義満(3代目足利将軍、1358〜1404)年表
【1351年】高師泰・高師直他高一族8人が、摂津国武庫川で殺害される
【1351年】仁木義長(兄の仁木頼章は幕府執事(管領の前身))が、三河守護(前任は高師兼(高師直の猶子)になる
【1357年頃】明阿(父:高師泰、夫:高師冬(高師直の養子))が、三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)に、一族を菩提する総持寺を創建する、住持は兄・高師世の娘
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【1358年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)の屋敷で生まれる
【1360年】大島義高(新田氏流)が三河守護になる(新田義重―里見義俊―義成―大島義継―時継―盛義―義員―義昌―義高)
【1367年】足助重宗(足助重範の孫)の子・重政(寛立上人) が、松平郷主・在原信重の支援を得て、三河国加茂郡松平郷に寂静寺(高月院の前身)を開創する
【1368年】管領・細川頼之を烏帽子親として元服する
【1368年】三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)に、天恩寺を創建する、足利尊氏遺言の寺、開創は永源寺2世弥天永釈、4代目将軍足利義持の祈願所
【1369年】三河国宝飯郡御馬郷(愛知県豊川市)に御馬城築城を、管領・細川頼之に命ずる、頼之は弟の頼有に命ずる
【1370年】三河国設楽郡(愛知県新城市)に甘泉寺創建か?、天恩寺と同じ永源寺2世弥天永釈開創、御朱印高48石、山林境内20余町歩を寄進する
【1379年】管領・細川頼之失脚、斯波義将が管領になる(康暦の政変)
【1379年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)を政所執事に任ずる
【1379年】一色範光(侍所頭人、若狭守護、、尾張国知多郡・海東郡の分郡守護)を三河守護に任ずる
【1380年代】管領・斯波義将が、斯波氏先祖代々の墓所がある三河国碧海郡(愛知県岡崎市)に、永源寺の創建を申し出る、これを支持し将軍家安泰を併せて祈願
【1380年代】三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺本堂(4度目)を建替える
【1382年】源信氏(細川一族か?)が義満誕生日祈祷の為、三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)など4ヶ所を天恩寺に寄進する
【1387年】三河国額田郡下和田郷(愛知県岡崎市)を、京極高詮に還付する
【1388年】富士山遊覧、三河国額田郡(愛知県岡崎市)の矢作宿に宿泊する
【1388年】一色詮範(侍所頭人、若狭守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1390年】管領・細川頼之が、三河国額田郡細川郷(愛知県岡崎市)の屋敷跡に、蓮性院を創建する
【1390年代】足助重宗(足助重範の孫)に、尾張国野間荘を還付する、当時の野間荘は、高師直領を将軍家預かりとなっていた模様
【1391年】伊勢貞行(伊勢貞継の孫)を御料所三河国額田郡山中郷(愛知県岡崎市)の代官に任ずる、山中郷の法蔵寺は6代目将軍足利義教の祈願所
【1392年】細川頼之死去、葬儀は義満が主催して相国寺で行われる
【1394年】出家する
【1397年】三河国碧海郡(愛知県岡崎市)の永源寺(創建:斯波義将)に、後に建仁寺61代住持となる玉岡和尚を住持職に補す
【1397年】三河国渥美郡(愛知県田原市)を京極高詮に還付し、守護使不入の地とする
【1399年】三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)の乙川六名堤造営を、管領・畠山基国にを命ずる、下和田郷が水不足に陥り、領主・京極高詮から苦情が入る
【1399年】三河国額田郡比志賀の深恩院に、高一族の比志賀郷の旧領を寄進する
【1404年】松平和泉守源信光が誕生する
【1406年】一色満範(義満偏諱、侍所頭人、若狭守護、丹後守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1408年】死去する
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【1440年】松平信光(3代目松平氏当主)、三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺寺領内に、神のお告げで万松寺を創建する
36 :
人間七七四年:2013/03/12(火) 10:36:45.10 ID:iNbzc9Tn
逸話の真偽はともかく、10万人で半年かけても落とせなかった小田原城を家康に使わせたくないという秀吉の意向はあったんじゃないかと思う。
37 :
人間七七四年:2013/03/12(火) 10:46:45.60 ID:lEndQULF
いやいや、小田原城は謙信に囲まれた時は一ヶ月にも満たず
信玄は数日、秀吉も3ヶ月程度しか囲んでないよ。
半年は盛りすぎ。
38 :
人間七七四年:2013/03/12(火) 11:14:09.21 ID:80i/SPVv
50万石規模であの辺の好きな所へどうぞ〜なら小田原を選んでたかもな
39 :
人間七七四年:2013/03/12(火) 12:34:03.74 ID:GMz6nDiC
>大阪だって、本願寺の拠点だったのを、秀吉が普請させたわけで
むかしどこかで「日本の主要都市は、ほとんど愛知県民が作った」
って力説してた人の持論パクって、愛知県民自称してるんだけど
これってかなりマトモな説なの?
確かに、東京・静岡・松本・金沢・岐阜・大津・大阪・神戸
広島・土佐・熊本とか愛知県エリアの人が拓いた気が、、、
40 :
人間七七四年:2013/03/12(火) 13:15:24.01 ID:lEndQULF
更地から全てを作り上げた都市なら「拓いた」もアリだけど
大抵は元からあった都市を拡張してるだけだからな。
そういう意味では、そこに挙げられた都市は愛知起源を
主張するのは無理。
つーか、そんな半島人みたいな発想キモいだけだぜ
41 :
人間七七四年:2013/03/12(火) 14:34:19.60 ID:GMz6nDiC
長期休みに親戚の家に滞在した、総計数ヶ月しか住んでない愛知出身自称
→リアル田舎モンが過剰反応→家康公信者の土地勘完全に信じ込まれる
→リアル出身地(もっと田舎)口走っても実家とは思われない大成功
狙ってるから、むしろ多少反感買わないと困るw
三成襲撃から守ったのと同じ論法。
俺、伊達藩百姓より数倍酷い粘着居るんだ(′・_・`)
42 :
人間七七四年:2013/03/12(火) 15:49:10.81 ID:hWurbAo5
>>39 名古屋人だけだろw
名古屋人(センゴク馬鹿)は、今も昔も井の中の蛙、世間知らずの田舎者だからな
三河人が威張りちらかす(やろうと思えばいくらでも出来る)とか聞いた事がないだろ
今も昔も、他人思いで謙虚なんだよ
43 :
人間七七四年:2013/03/12(火) 16:12:23.16 ID:ayj1SSM8
確かに、例えば旅行を計画したとすると、、、
世代も同じで、名古屋からも離れてるのに、、、
三河方の親戚:近隣県で温泉でも浸かってゆっくりしたい
ほかの親戚:ハワイだろハワイ!!
なノリでキレイに分かれるなw
44 :
人間七七四年:2013/03/12(火) 18:50:46.31 ID:abPJL3h0
なんで征夷大将軍なのか?わかるか?
45 :
人間七七四年:2013/03/12(火) 21:20:36.37 ID:RTF4zSYZ
名古屋って200万人もいるのに案外人が少なく感じる
んだよね。
通勤の地下鉄は混むけどあのぐらいなら
どこでもありそうな感じだし
何時間も待たされるのは確定申告と
免許更新ぐらいでそれでもうまくやれば待ちは
ゼロみたいな時もある。
どこに生息してるんだろうと思うわ。
46 :
人間七七四年:2013/03/12(火) 21:54:52.44 ID:ayj1SSM8
俺も江戸城そば住んでるけど、
夜は過疎地だぞw
スーパーの半額惣菜とかほとんど競合しない。
警官比率激増で、ケッタ(名古屋弁)停められまくるけどwww
47 :
人間七七四年:2013/03/12(火) 21:59:48.57 ID:kF42RdGW
首都圏と名古屋を行き来してるが名古屋はブスが多くて電車のっても雰囲気暗くていやだわw
横浜はかわいい子めちゃめちゃ多いなー 東横線横浜線相鉄線乗ると名古屋と別世界w
48 :
人間七七四年:2013/03/12(火) 23:12:57.87 ID:ayj1SSM8
アイドル同士で比較すると、
SKEには小木曽しおり や受理菜が居るけどなw
通り過ぎるばっかの名古屋はよく観察して無いけど
確かに東京だとアキバですらAKB余裕で凌駕するアイドル系を
ちょくちょく見掛ける。
49 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 00:57:12.92 ID:RtfELM3v
秋葉原かわいいかな?
世田谷・目黒・江東区・葛飾区とか都心からちょっと離れたベッドタウンのがかわいい気がする
小岩の高校生とか神レベルだし。
離れすぎるとレベルダウンするけどな
50 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 01:00:39.14 ID:wJceOSAa
名古屋とか地方は平均は明らかに低い(地下鉄乗ってるとわかる)
でもたまにかわいい子や飛びぬけた子もいる
でも首都圏はそういうのうじゃうじゃいる。東横線沿線はマジ楽園
51 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 02:13:42.09 ID:v2Mtf9tX
世田谷、目黒と江東、葛飾、江戸川を一緒にするなよ。小岩なんてほとんど千葉じゃねーか。
52 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 02:30:09.73 ID:RtfELM3v
小岩は田舎くさいが、素朴で田舎っぽくてかわいい子多いよ
東京の西側はおしゃれ派で東側は素朴派というイメージ。どちらもかわいいね
53 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 07:42:28.30 ID:Y3cPEOaD
岡崎の偉人は足利義満
その功績は、徳川家康など、足利義満の足元に及ばない
54 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 08:24:50.99 ID:k2ubvLif
>>36 小田原は六か国の本拠にするには位置が偏りすぎだな。
55 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 10:51:27.92 ID:6/rXbOfL
当時の江戸だと水運が中心かな、本格的に街道を整備するのは関ヶ原以降の筈だし
56 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 11:25:55.21 ID:fGk2czZj
水運が便利で、関東の中心として偏りすぎず、田畑を潰さなくて済む丘陵地がちのところ・・・
と考えると大体場所は決まる
57 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 11:50:15.54 ID:NzjvnxEb
>>56 千住大橋や六郷大橋を架けたり、宿場整備を行なっている
家康としては豊臣家が東海道を攻め上った場合は、小田原城で拘束して
旗本と本多忠勝を率いて相模台で野戦を行うつもりだったんでしょうね
58 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 13:11:23.71 ID:6/rXbOfL
同じだけの封土を持ってた北条がアッサリ潰されてるのに
その程度の手当で、豊臣家と戦うなんてのは幻想でしか無いよ。
城や家臣の配置状況を見れば、防御の重点はあからさまに東側だし。
59 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 14:15:09.81 ID:NzjvnxEb
>>58 中山道・北国街道方面は多くの城による固守により
東海道で決戦するまでの時間稼ぎを行う
最悪の状況でなおも勝利を求めた場合の計画でしょう
60 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 15:30:52.38 ID:UzOD3x1X
あほくさww
公儀が求めた東国鎮護の役割を誠実にこなそうとしただけだろ
61 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 15:36:23.21 ID:zhI6084y
小田原城
築城主大森頼春
築城年1417年(応永24年)
大森氏・葛山氏
大森氏の祖惟康は三河高橋の領主で甲斐・駿河両国の守となり,以後大森氏は親康,親家と続いて鎌倉御家人を輩出した。
葛山氏は親康の弟惟兼の流れをくむもので,惟兼の子惟忠を経てやはり鎌倉御家人を多く出している。
関東人、万年パシリも大概せい
62 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 16:05:10.17 ID:u0ZVP3LR
>>59 そんなの100%無理だよ。
小田原征伐の結果を見れば明らかだが、天下の大軍を引き受けて
時間稼ぎのしようもなければ、決戦しても滅多打ちになるだけ。
秀吉が天下を統一してない小牧長久手の頃でさえ、長久手や蟹江で
局所的勝利を拾うのがせいぜいで、伊勢、伊賀をガッツリ侵食されても
まったく対応できなかった。
63 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 16:08:34.99 ID:NzjvnxEb
>>60 北国街道よりも中山道に重点配置している
上野国など、全土が要塞化されたと言って良い
>>61 秀吉には長久手で機動戦により敗れた恐怖がある
64 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 16:30:53.11 ID:Mi4mKWtt
旧領から連れて行った譜代はともかく、関東で召抱えた新規の現地武士がどこまで徳川のために命捨ててくれるかと言ったらねえ
北条とか成田とかの旧主君を担ぎ出して、大名復帰を餌に旧臣への内奥働きかけをさせるだろうしねえ
65 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 16:34:38.94 ID:UzOD3x1X
中山道、北陸道は上野国にいる大名衆による城郭陣地帯による相互支援防御
東北は鬼怒川から街道沿いの城郭で敵戦力を減衰
佐竹は筑波山と香取海を防衛線とする
東海道の主力は小田原城で拘置
その間に上総・下総の大名と旗本を編成し敵主力を撃滅
こういう恥ずかしい脳内妄想はブログでも作ってやれwww
66 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 16:58:39.14 ID:3DGwuV/G
江戸を居城としたこと自体、戦闘より和平前提の殖産興業を中心でやっていく意思の表れだが、
江戸の町が江戸城を中心とした攻められにくい渦巻き状の町並みになっていることからわかるように
軍事的なシミュレーションを完全に捨てたわけではあるまい
仮想敵の最大のものは豊臣だから、対豊臣戦のシミュレーションがなければほとんど意味はないな
67 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 17:23:30.79 ID:RtfELM3v
>>62 無知すぎてワロタwwww
135000総軍率いてきたのにわずか16000〜7000の雑魚信雄相手に
小牧長久手では一万人ぶち殺され蟹江・二重堀・浜田・長久保・河波・戸木・松ノ木・東駒野など
各城郭で敗北し寝返りだらけで崩壊状態・天正11年からの徳政連発で疲弊しきった信雄領国を尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
68 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 17:26:09.10 ID:RtfELM3v
>>伊勢、伊賀をガッツリ侵食されても まったく対応できなかった。
秀吉が優勢だったのは伊勢で神戸関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・松ノ木地方近辺の諸将・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めた三月の攻防だけ
美濃からの池田・森の尾張上陸に対応した家康軍が尾張に転進したため
がらあき状態になった伊勢方面に不意打ち的に尾張上陸ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
69 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 17:29:41.08 ID:kTs3CAEF
脳内仮想戦記を垂れ流した挙句、発狂か・・・
70 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 17:33:32.81 ID:wJceOSAa
>>62 北条は豊臣方235000に対し三万そこそこしか集められず
しかも抗戦派主戦派で割れるような戦意0で皆川とか笠原とか寝返りまくって氏勝もへタレ戦線放棄するような
気概0のヘタレ軍団だったし大道寺や松田など重臣連中ですら勝手に降伏しようとするようなアホだったから勝てただけ。
しかもそんな規格外の兵力と圧倒的優位な状況ですら秀吉は一柳・堀尾嫡男・前田重臣・依田・平岩弟が戦死し
氏家が負傷。小田原1000や忍城500に手も足も出ず韮山数百にも苦戦する雑魚っぷりだったし
普通にガチンコで戦えば徳川が勝つに決まってる。
氏直より弱い滝川でも天正11年の伊勢攻防で秀吉軍跳ね返してるしな
>>64 徳川家臣なんて元々ほとんど外様だろ
最も本願地とされる三河ですら譜代系がいるのは西部のちょこっとで
あとは奥平だの菅沼だの鵜殿だの豪族が割拠してる領土を他大名と変わらん寄子寄親制で支配してるにすぎん。
71 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 17:34:45.14 ID:RtfELM3v
何せ長久手合戦後は8.5倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず長久保戸木松ノ木東駒野河波二重彫り蟹江浜田など砦クラスの小城軍で負け続け
尾張半分すら切り取れなかったんだからこのままガチンコ戦闘継続してたら秀吉は戦死してたのは間違いない
72 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 17:35:52.58 ID:wJceOSAa
小牧長久手の戦いが秀吉勝利とかアンチ徳川糞史観のアホ堀に毒されすぎだろ
長久手で7.5倍の兵力差でもってガチンコ決戦で1万人ぶち殺された上に
松ノ木浜田蟹江二重堀東駒野河波戸木神戸長久保と各城郭で敗北し続け
135000の圧倒的兵力差で以って伊勢・尾張・伊賀と離反が連続し瓦解状態の信雄領国を尾張半国すら切り取れなかったのに
秀吉勝利とかアホすぎる
73 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 17:36:58.32 ID:RtfELM3v
徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけ
実際秀吉の予定とは全く別
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包・小島・榊原・岡本など地元諸将がこぞって羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
74 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 17:40:32.68 ID:RtfELM3v
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
75 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 17:41:18.57 ID:UzOD3x1X
だが襲来wwwwwww
76 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 17:42:20.70 ID:RtfELM3v
秀吉・織田徳川方史料で各城郭攻防が激しく行われているのがわかる
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じる
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12秀吉→八重羽・富田・津田 木造の城がいまだ落ちず小島と相談して砦を4つ設けるよう指示
田丸・榊原・小島に申し付けるよう指示したので相談するように指示
4/12秀吉→榊原・小島・田丸 木造の砦は2箇所は小島、一箇所は田丸、一回書は榊原が申し付けるよう指示
各自相談し城中の者を一人も逃さないよう普請を堅固に申し付ける事を指示
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが敵に数多手負い死人が出た
4/23信雄→吉村 今尾口へ秀吉方兵力が出撃してきた旨を了承 吉村へ必ず加勢を申し付ける旨を伝える
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
信雄→吉村 秀吉が其の表(松ノ木)出兵してきたため信雄より加勢を使わす事を約束。伊勢方面の事を申し付けるため
本日(5/3)信雄が小牧より長島へ帰った事を伝える
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/5 信雄→吉村 松ノ木の加勢と防衛について詳細に命じる
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
77 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 17:43:55.26 ID:RtfELM3v
3/25 大久保→皆川 3/17に濃州口との境目である羽黒において池田・森の守る出構を撃破した事を報じる
4/20 秀吉→上部 秀吉が在陣する尾張方面では、普請など堅固に申し付けている旨を報ずる
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
6/2信雄→吉村 松ノ木への玉薬を送付
6/7秀吉→前田 尾張河波を敵城を全て攻略する意思である旨を報じる
6/12信雄→寺西・橋本・吉村 敵(秀吉方)が松ノ木近辺に陣取った旨を了承
6/13信雄→橋本・寺西・吉村 秀吉方を撃退した旨を了承 其の城について油断なく注意するよう指示
6/13家康→信雄 昨晩秀吉方が松ノ木へ攻撃してきたが撃退した旨の注進に対して賞する
6/16信雄→橋本寺西吉村 秀吉方の様子に関する報告について了承 松ノ木についていろいろな点で注意するよう指示
6/20信雄→吉村 今尾へ秀吉方兵力が少々出てきたため松ノ木への加勢を要請を承諾しやがて遣わす事を報じる
6/20家忠日記 秀吉方楽田に向かい放火する
6/28家忠日記 楽田へ小牧衆(小牧城に在陣している家康方兵力)が物見に出かけ秀吉方と交戦した
7/7秀吉→小野木・大塩・津田・富田 神戸城の守備について滝川益重を派遣する事を報ずる
7/7秀吉→一柳 蟹江落城により、蟹江に対する秀吉方拠点として神戸城に秀吉から軍勢を派遣することを報ずる
7/7蜂須賀→南条元続 秀吉方諸将は尾濃境目の城に在陣している。数日中に秀吉が伊勢へ出兵する旨を伝える
7/9秀吉→分部 神戸方面へ敵(信雄方兵力)が出兵してきた旨を了承
安濃津・上野城に敵が出兵してきたら秀吉が出兵して討ち果たす事を伝える
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
んで結局1年一杯使っても上記の城は攻略ならず。寝返りだらけでガタガタだった信雄領国を
8倍もの圧倒的大軍で攻め込んで結局尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
78 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 18:09:32.15 ID:HU7/PjV4
つ
>>2 毛利の長文連呼バカは、
東軍総大将スレにまで邪魔しに来てるんだから
論点まとめてシンプルにしたり、スレ番で引用する知恵持て( ´,_ゝ`)
79 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 19:28:14.31 ID:RtfELM3v
7/10信雄→吉村 浜田城築城を申し付ける。出来次第長島へ帰城する旨を伝える
7/10信雄→吉村 尾張から伊勢まで南下して放火した
7/12家康→木造 戸木城への兵糧搬入が困難である。戸木城を堅固に守るよう指示
7/14秀吉→津田 浜田之古城を信雄方が攻略した旨を了承。信雄方にとって菅生砦へのつなぎの城になるだろう
との考えを示す。明日美濃へ行くので神戸城で大方申し付けたならば、神戸城の一柳・小野木は美濃の秀吉陣所
へ来るよう指示
7/15家忠日記 秀吉方兵力が物見に出てきて家康方と交戦した
7/17伊勢から帰った家康が在陣する清洲へ出仕。軍勢半分を返す
7/18信雄→吉村 秀吉が曽根に到着し松ノ木の吉村に調略を仕掛けてきた知らせを聞いた
7/28秀吉→小島・蒲生 戸木城からの講和に関して指示する
8/12秀吉→長浜町人中 鍬などを取り寄せ犬山に届けるよう指示
8/14信雄→吉村 近いうちに秀吉が出陣してくるようなので諸事油断せず松ノ木の普請と昼夜の番等を堅固に申し付けるべき事を指示
8/18秀吉→上杉・須田 明日19日に秀吉が木曽川を超え小牧まで出兵し付け城を申しつけ家康が逃れられないようにする、三河へ出兵すると報じる
8/19信雄→高木 駒野城への加勢について空明と太田の両名に申し付けたのでよく相談して落ち度がないように
8/25秀吉→長浜町人鍛治中 鍬をつくり完成させ、普請に利用する
8/26加藤→長浜鍛治中 鍬について10駄分命じられたので朱印状を持参した旨を伝える
9/1家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/5家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/7家忠日記 秀吉との講和交渉決裂のため重吉へ惣人数を移す
9/9秀吉→あて先不明 尾張で秀吉方が放火し要害を数箇所申し付けた
9/16秀吉→前田 尾張国内で下奈良・宮後・河田へ砦3箇所堅固に申しつけ
過半が完成したので2.3日中に兵糧玉薬及び4千〜5千くらいの人数を入れる
9/19家康→滝川 戸木城が苦戦していると家康へ注進があり、いまだ本城を堅固に守備しているならば
家康が急ぎ出陣する予定なので戸木城の様子をよく聞き届け再度滝川雄利からたまわりたい旨を伝える
9/23信雄→保田 秀吉より講和に関して懇望があったが拒絶した旨を報じる
10/27秀吉→上部 虎落に用いる竹を調達する
11/10 信雄・家康→吉村 長久保攻略を賞する
80 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 19:29:03.83 ID:wJceOSAa
実際秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
81 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 19:30:27.32 ID:RtfELM3v
秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝
3月26日⇒佐竹
尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
4月8日秀吉⇒毛利輝元
伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww
5月9日 秀吉→毛利輝元
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww
9/8秀吉→丹羽、前田 9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね
で、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた
11/13
家康が懇望してきたので同意してやった
なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認??????
明らかにデタラメ
82 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 19:31:47.37 ID:RtfELM3v
>蟹江合戦が滝川の単独行動
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い
そもそも両者には会戦当初から秀吉に同行していた渡辺清忠や桂横重が小牧山に陣替したときの人数を10万といっており当代記、三河物語もこれと同じ数字
その他に伊勢方面を攻めている諸勢2万4000と美濃に残されている秀勝勢数千が存在するため総勢で13万を超えると思われる
また尊禄以来年代記では秀吉は3月に大阪をたった時125000、八月には16万で尾張へ出兵した
また長久手合戦参加者の家記や家譜、合戦記などでも同じ数字が用いられている
そして陣立書や書状から秀吉側は主要メンバーほとんど引きつれて短期決戦構想で合戦に及んでいる事がわかる
●二重掘合戦
細川家記
3月27日秀吉一に25日、秀吉公犬山に入り、楽田・羽黒辺まて諸大将衆はかり召し連れられ、
仕寄の下知など仰せ付けられ先つ小牧山に対し向城を高く構え、堀を二重に深くほり、柵を堅く結び
井楼を上させられる、是を二重掘の要害といい、この外岩崎山・小松寺山・青塚内窪山等の付城勢を
分ヶ守らせらる…(省略)
秀吉公二重掘に附城三ヶ所仰せ付けられ、忠興君を初大将数多くして守らせられ、
小松山寺を本陣とし、用心厳しくして合戦を持て数日対陣有り、二重掘には細川与一朗・蒲生忠三朗
堀久太郎…(省略)
五月遡日、信雄小牧山より見て一あてせんと有しを、家康公御無用とおおせられ、ぜひにと有りて御立候間、
家康公御家人を召され、尾張勢定立らるへし、もり返す用心せよと仰せられ候、信雄の勢は木村・長谷川等の手に食い付き、
芝手の中まてかけこみ、両手の軍士散々に敗走いたし候、忠興君御手廻討に走出られ、芝手の上に御揚り御下知、…(略)
長久手にて3大将討ち死に、秀次利を失われ、二重掘にても既に味方追崩され、秀吉公御気色悪かりしに、忠興君御手にて敵を
追い返し、勢ひつくのみならず、…
徳川家の軍勢小牧山より打ち出て二重掘の前に一戦せんと備ふ、秀吉公下知には敵馬を入れ来らは成へき程折敷て防くこと、…
二重掘の神子田半左え門一戦にも及ばず敗走す、寄手是を追討…神子田、太閤の御勘気を蒙ると云々…
二重掘の軍勢周章して伍を乱す、信雄兵其の気に乗じて攻撃多く首級を得たり、
83 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 20:48:53.30 ID:NzjvnxEb
徳川史観という言葉が最近流行っているが、正直かなり胡散臭い
84 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 21:23:12.99 ID:HU7/PjV4
てか誰かこの長文読んでるの(′・_・`)?
85 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 21:28:47.18 ID:wJceOSAa
堀や小和田を初めとするアンチ徳川の糞講談が出回ってるからね
堀のアンチ徳川のアホ本は谷口とか池上とか先人の論文を批判する癖に自分はろくに根拠となる史料も出さず
他者の論文を都合よくひっぱったりするだけで何も論文の体をなしていない講談小説
正直まだ江戸期の講談の方が信憑性あると思うわ
86 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 21:31:34.86 ID:RtfELM3v
上方の圧倒的国力・先進的装備&135000もの圧倒的大軍の豊臣軍が
わずか17000程度で寝返り続出中で基盤ガタガタの信雄相手に大敗!!! 敗戦!!!!
ってまるで漫画だな。
アホすぎる
さすが戦国最強豊臣軍
87 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 22:03:17.63 ID:GTK9+ZMo
家康公は何で本拠を江戸に置いたのか〜を聞いた者だけど勉強になったわ。なにわともあれ、江戸の発展に関わった全ての人に感謝ですな
88 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 23:14:49.42 ID:k2ubvLif
>>83 徳川史観は逆にも作用するからタチが悪い。
家康がエスパーのように全てを見通して行動してることになったり
大名の改易は全て幕府の陰謀になったりする。
89 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 23:32:44.04 ID:NzjvnxEb
一番大切なのは想定外の事態に対してどうリ対応するかなのにね
90 :
人間七七四年:2013/03/14(木) 00:18:54.65 ID:hxuRY0ho
想定外の馬鹿はどうしようも無いと思うのだが
91 :
人間七七四年:2013/03/14(木) 09:22:33.49 ID:cH3b3gRm
馬鹿なら行動を成果に繋げないから、対応は容易
92 :
人間七七四年:2013/03/14(木) 09:32:18.45 ID:De71Ns1t
小早川秀秋
93 :
人間七七四年:2013/03/14(木) 10:43:05.15 ID:AHzbXtUa
おぉ、SKEでしおりんに来るとは
さすが徳川スレは目が高い。
94 :
人間七七四年:2013/03/14(木) 10:49:45.89 ID:+pFkH+Cg
築城主大森頼春
築城年1417年(応永24年)
大森氏・葛山氏
高橋惟康の孫親家が大森に住んで大森氏となり、子惟兼が葛山に住んで葛山氏となった。
『吾妻鏡』に葛山太郎とか葛山次郎とみえ、惟兼−惟忠−惟重のころ、源頼朝の時代にあたり、
家伝によれば、源頼朝に従って石橋山の合戦に参加して、軍忠を尽くして恩賞を与えられた。
そして鎌倉幕府御家人として駿河国駿東郡に勢力を伸ばしていったのである。
大森氏
高橋惟康(三河国高橋荘領主、源頼朝の曽祖父の妹の息子)→高橋親康→大森親家
葛山氏
高橋惟康(三河国高橋荘領主、源頼朝の曽祖父の妹の息子)→高橋惟直→鮎沢惟兼→葛山惟忠→葛山惟重
葛山景倫
高橋惟康(三河国高橋荘領主、源頼朝の曽祖父の妹の息子)→高橋惟直→鮎沢惟兼→葛山惟忠→葛山景忠→葛山景倫
金剛三昧院
建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建された
承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰された
貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立した。
関東人、万年パシリも大概せいw
95 :
人間七七四年:2013/03/14(木) 10:51:43.02 ID:+pFkH+Cg
■小田原城
築城主大森頼春
築城年1417年(応永24年)
大森氏・葛山氏
高橋惟康の孫親家が大森に住んで大森氏となり、子惟兼が葛山に住んで葛山氏となった。
『吾妻鏡』に葛山太郎とか葛山次郎とみえ、惟兼−惟忠−惟重のころ、源頼朝の時代にあたり、
家伝によれば、源頼朝に従って石橋山の合戦に参加して、軍忠を尽くして恩賞を与えられた。
そして鎌倉幕府御家人として駿河国駿東郡に勢力を伸ばしていったのである。
大森氏
高橋惟康(三河国高橋荘領主、源頼朝の曽祖父の妹の息子)→高橋親康→大森親家
葛山氏
高橋惟康(三河国高橋荘領主、源頼朝の曽祖父の妹の息子)→高橋惟直→鮎沢惟兼→葛山惟忠→葛山惟重
葛山景倫
高橋惟康(三河国高橋荘領主、源頼朝の曽祖父の妹の息子)→高橋惟直→鮎沢惟兼→葛山惟忠→葛山景忠→葛山景倫
金剛三昧院
建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建された
承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰された
貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立した。
関東人、万年パシリも大概せいw
96 :
人間七七四年:2013/03/14(木) 11:39:35.80 ID:PVXujrmi
>おぉ、SKEでしおりんに来るとは
>さすが徳川スレは目が高い。
それより数段上なのが俺のNO1森田美位子な(σ^▽^)σ
長年NO1の小倉優子の座を発見数週で奪った。
ボルトとナットいじって癒される変な娘だけどなw
昔は水着ギャルだったのが少し残念だが。
97 :
人間七七四年:2013/03/14(木) 11:46:24.11 ID:cH3b3gRm
98 :
人間七七四年:2013/03/15(金) 08:01:35.14 ID:1wduPgb0
鯛の天麩羅を食べて脂肪
99 :
人間七七四年:2013/03/15(金) 10:07:41.83 ID:uHNAINxk
食べてから亡くなるまで3ヶ月。どう考えても死因では無いな。
100 :
人間七七四年:2013/03/15(金) 13:20:13.89 ID:vy1oPgXf
101 :
人間七七四年:2013/03/16(土) 20:04:05.64 ID:d3TlG0zG
三河に乱立してる小城の城主って、
かなり見知った苗字(松平・酒井・本多ほか)が多いけど、
概ねどのくらいの身分なの?
石高や常駐兵数とか分かったら教えて欲しい。
家康公の叔父さんの3男が侍大将で
50人率いて城主とかありそうで笑えるw
102 :
人間七七四年:2013/03/16(土) 20:20:51.56 ID:7Z8vPnoC
三河統一前は西三河に限定されるんじゃね?
103 :
人間七七四年:2013/03/16(土) 20:22:44.63 ID:z7tVbcmn
>>101 長沢松平、1,800貫目
深溝松平、8,949俵目
形原松平、750貫目
竹谷松平、1,200貫目
能見松平、250貫目
104 :
人間七七四年:2013/03/16(土) 20:27:56.66 ID:a72Yz8nd
>>101 信康に子供いたっけ?と思ったが水野の方のことか
105 :
人間七七四年:2013/03/16(土) 20:39:48.91 ID:d3TlG0zG
嫡子も居たような、、、
石高換算ってどうするの(′・_・`)?
106 :
人間七七四年:2013/03/16(土) 21:55:15.75 ID:z7tVbcmn
107 :
人間七七四年:2013/03/17(日) 06:48:45.30 ID:RqUENzqg
>>105 換算自体が無意味だな。
時代によって米と銭の交換レートが違うし、
それ以前の問題として石高が生産高だったのか、物成だったのかも不明だしな。
108 :
人間七七四年:2013/03/17(日) 17:22:54.12 ID:f/jGZ+dF
ちょっと「この城がOO千石かぁ」とか萌えたいだけだから
ザックリで良いから教えてよ!!
現状、苗木城の105百石しか無くて寂しい(′・_・`)
109 :
人間七七四年:2013/03/17(日) 18:19:48.01 ID:m6jD8OrH
>>96 結構年上だね。
同じ年で名古屋出身なら鈴木咲
ってのもかなりかわいいと思うぞ。
110 :
人間七七四年:2013/03/17(日) 18:30:41.96 ID:f/jGZ+dF
↑趣味合うから、俺の好みリストから好きなの持ってけw
秋元優里アナ 石原さとみ 栄倉奈々(長髪) 小倉優子 小木曽しおり 桜咲ちよ
皆藤愛子 佳子さま かしゆか 香里奈 小林まや 小春 紺野あさみ
桜庭ななみ 佐々木望 道重さゆみ 志田未来 関有美子(歯科医)
高嶋彩アナ 高見侑里 田中みなみ 田中れいな 谷一歩
CHIi(BLAZE) 継永桃子 トリンドル
夏川純 夏川ゆい
八田亜矢子 平松可奈子 Hiroko(GT) Hiro(SPEED) 日向ちほ
福田萌 福原遥(正装のみ) 深田恭子 福田かのん
松井樹理奈 森田美位子(天気姉) 本仮屋ゆいか
矢口真理 安田さち 山口リエ 横山ルリカ 吉高ゆり子
ローラ(舌出し娘)
年増ほか:
相田翔子 伊藤まい子 川上麻衣子 小西真奈美
壇れい 故・永作博美 西田尚美
堀内敬子 藤谷美紀
松下由紀 真鍋かおり 三浦恵理子 美保純 水野真紀 水原恵理アナ
宮崎美子 森高千歳
優木まおみ 和久井映見
小林星蘭 松浦愛弓 信太真妃(ヤマハ子役)
111 :
人間七七四年:2013/03/17(日) 18:42:11.68 ID:m6jD8OrH
>>110 確かに合うなぁ。しかし永作は生きてるからな。
で、ミニモニのミカとか、子役の本田なんとかってのはどうだ?
エイデンのCMで踊ってる子だ。
112 :
人間七七四年:2013/03/17(日) 18:51:17.37 ID:f/jGZ+dF
>確かに合うなぁ。しかし永作は生きてるからな。
大河の茶々役が超絶可愛かった!!
大河の茶々役が超絶可愛かった!!
大河の茶々役が超絶可愛かった!!
最近は劣化したがそれでも可愛い。
>で、ミニモニのミカとか、子役の本田なんとかってのはどうだ?
かなり興味ないぞそれw
113 :
人間七七四年:2013/03/17(日) 18:56:26.16 ID:f/jGZ+dF
114 :
人間七七四年:2013/03/17(日) 22:06:12.24 ID:+pwBsATt
アイドルスレはここですか?
115 :
人間七七四年:2013/03/17(日) 22:22:07.85 ID:f/jGZ+dF
だって換算してくれないんだもん (´・ω・`)
でも永作茶々出た時は。NHK板の永作スレが炎上してたw
116 :
人間七七四年:2013/03/17(日) 22:23:31.54 ID:RqUENzqg
117 :
人間七七四年:2013/03/21(木) 18:51:49.44 ID:WX5haPK6
三河遠江駿河甲斐信濃、この五カ国は義元公・信玄公のかつての領土。家康公も感慨深かっただろうな。んで関東に転封されたのは加増といえど相当口惜しかったと察せられる。
かつての強敵達の領土を治めるなんて偶然にしてもロマンがあるよね。
118 :
人間七七四年:2013/03/21(木) 19:40:58.40 ID:L/lqD3Fz
関東への転封は良いことずくめだったけどなぁ
北条の進んだ統治技術を学べたし、蔵入地が激増した事で
大名権力の強化も出来てる。
旧領では、領土を広げる為に在地の機構や権利を損なわない
ようにして国人の所領も安堵してきたけど、そこら辺も移封で
整理できたし。文句なしなんじゃないかな。
119 :
人間七七四年:2013/03/21(木) 20:08:37.10 ID:8Cu4HJrh
失敗するリスクもあるからその辺はトントンになるかと
120 :
人間七七四年:2013/03/21(木) 20:26:38.78 ID:8g4FT8wR
関東経営に失敗するようじゃ、とても天下は取れないな
天下を取るためのシミュレーションとして大変有益だったはず
121 :
人間七七四年:2013/03/21(木) 20:46:13.33 ID:WX5haPK6
それは結果論じゃないの?東海道から除かれるってのは地政学的に痛いんじゃない?移封したすぐは秀吉も壮健だったと思うし、天下の野望どころか関東の統制に秀吉の付き添い(京住まい)でそれどころじゃないかと。
122 :
人間七七四年:2013/03/21(木) 20:51:56.63 ID:ExLDm5ez
の割りに零細大名のが飛び地が多かったんだよなぁ(′・_・`)
123 :
人間七七四年:2013/03/21(木) 21:00:23.82 ID:8Cu4HJrh
秀吉としては自身の死後は家康と淀殿を婚姻させて、秀頼が成人するまで政権を担わせるつもりだった
淀殿が大野治長と密通の上、高野山に逃げたから頓挫したけど
124 :
人間七七四年:2013/03/21(木) 22:20:48.79 ID:7/NKWet3
>>121 頼朝や尊氏の事例から考えれば、地政学的にもまったく問題ないな。
125 :
人間七七四年:2013/03/21(木) 22:44:11.32 ID:8Cu4HJrh
>>120 これまで統治していた場所から、移封というのは結構キツイもの
土地買って、家建てて、近くの店の常連になって、近所とも上手く付き合って、
という状況で転勤命令されたら出世や土地が増えても嫌なもんでしょ
126 :
人間七七四年:2013/03/21(木) 22:55:19.92 ID:ccfNZcZL
>>123 まあ、秀吉自身が、家康に頼むしかないと思ってたんじゃ、三成がどうあがいても、だめだたろうな。
127 :
人間七七四年:2013/03/21(木) 23:59:31.07 ID:immbzhQZ
>関東経営に失敗する
三河崇拝が甚だしい関東統治に失敗するわけないw
■有史以来、武蔵国の御所号は全3ヶ所
平安時代
・吉見御所(埼玉県吉見町)
源範頼(三河守)の息子、源範円(正法寺(三河国宝飯郡)僧侶)が移り住む
範円の息子(為頼)から吉見氏と名乗る
現在も、吉見姓は愛知県蒲郡市(源範頼の本拠)が日本一多い
室町時代
・世田谷御所(東京都世田谷区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬)を祖する奥州吉良氏、三河国生まれ吉良治家(初代奥州管領、吉良貞家の息)が移り住む
戦国時代
・蒔田御所(横浜市南区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬)を祖とする奥州吉良氏、吉良頼康が移り住む
■家康入城前の江戸城主は富永直勝
三河国設楽郡富永保を本貫とする三河富永氏
家紋は木瓜に足利二つ引両(太平記、多々良浜の戦いの功労により、家紋に足利二つ引両を与えられる)
先祖は源頼義の家来、鶴岡八幡宮社職家の三河伴氏の平松氏、源義家の郎党No.2 三河伴氏の伴助兼
万年パシリのカントン猿w
128 :
人間七七四年:2013/03/22(金) 01:29:12.33 ID:dzKspXdN
大坂の陣の時、徳川には7人軍監がいたと言うが、この7人って誰なの?
このうちの2人が城と横田(ともに武田旧臣)ってのは知ってるけど。
129 :
人間七七四年:2013/03/22(金) 13:17:20.63 ID:JNv3/2Ya
軍艦とは何ぞや?
130 :
人間七七四年:2013/03/22(金) 13:22:05.32 ID:8e22FhqE
軍隊が使用する艦艇
131 :
人間七七四年:2013/03/22(金) 21:42:34.93 ID:JNv3/2Ya
字間違えたw
軍監とは何ぞ?
132 :
人間七七四年:2013/03/22(金) 22:07:52.91 ID:x706hndU
軍隊を監督する武将
133 :
人間七七四年:2013/03/22(金) 22:10:48.23 ID:PCMfDxkQ
134 :
人間七七四年:2013/03/22(金) 23:38:50.45 ID:niSwCGWy
>>131 君の目の前の箱や板で調べてから聞いてる?
135 :
人間七七四年:2013/03/23(土) 00:07:46.93 ID:bv2YE936
>>123 前半はともかく、淀と治長の密通は結局マジなん?
136 :
人間七七四年:2013/03/23(土) 01:03:37.87 ID:/kgjnDdA
んなわけねぇじゃん。後年の講談さ。でも実際にその場にいないと断定はできない。作り話濃厚。
137 :
人間七七四年:2013/03/23(土) 03:46:44.94 ID:v01B+Vg9
★海部俊樹・元衆議院議員
★知能指数60
★イタイイタイ病
★屠殺の末裔
★統合失調症@大雄会
★支持団体は障害者団体、解同
★一人ぼっちの学生時代に小説を執筆、まともに文が書けず挫折
★最終学歴は中卒
★学歴職歴を偽装
★司法試験(1次)を受験するも歯が立たず途中退席
★初当選後、支持団体から知能指数60の事実を告げられトチ狂う
★次男は愛知県コロニー
★妻は元ソープ嬢(名古屋ソープ「末広」勤務)
★名古屋風俗店顧問
★背が低いことがコンプレックス
138 :
人間七七四年:2013/03/23(土) 07:13:28.85 ID:028GQTpY
>>136 講談と言うより、当時の噂話を粉飾して合成したものだろ
元ネタはいつも怪しさ満載の「多聞院日記」と「内藤隆春書状」だな。
139 :
人間七七四年:2013/03/23(土) 10:38:15.78 ID:qeX7EyuM
140 :
人間七七四年:2013/03/23(土) 11:04:45.90 ID:028GQTpY
一次史料と言っても、噂を書き留めただけだからな。
正直、信ぴょう性はゼロだ。
141 :
人間七七四年:2013/03/23(土) 11:28:08.22 ID:qeX7EyuM
>>140 噂であることを示す「伝聞」とかの記述はないけどね
142 :
人間七七四年:2013/03/23(土) 12:51:20.35 ID:qeX7EyuM
なお、婚姻する予定だった慶長四年九月に家康は大坂に出向いて
そこで暗殺計画があると増田長盛から注進があったりする
それにより処罰された者の一人が大野治長なんだよね
143 :
人間七七四年:2013/03/23(土) 15:56:49.28 ID:028GQTpY
>>141 記した人物を見れば伝聞なのは一目瞭然じゃないか
144 :
人間七七四年:2013/03/23(土) 17:52:13.18 ID:qeX7EyuM
>>143 異なる複数の史料が同じ噂の内容を記した例は聞かないけど
145 :
人間七七四年:2013/03/23(土) 19:00:13.24 ID:EiyFs0Ve
一時史料を信用しないと歴史を語れない。二次史料を信用しないと小説は書けない。
146 :
人間七七四年:2013/03/23(土) 19:14:37.81 ID:028GQTpY
>>144 三者が記載してる内容はバラバラだぞ。
同じだなんて捏造は良くないな
147 :
人間七七四年:2013/03/23(土) 22:13:20.78 ID:tzng8AA7
お知らせ
市原警察署の生活安全課の帰化人創価警官の指導の元、
入学式から2週間ほど、在日の創価学会員を主体とした自称防犯パトロールが、
2週間ほど行われることになりました
生活安全課の指導であることと、パトロールであることは、
絶対に公言してはいけないとの指導も、帰化人創価警官より出ています
期間中は2人組の在日の創価学会員が、頻繁に創価批判者の自宅周辺を、
うろつき回ると思われます
日本人の方は、充分に注意してください
148 :
人間七七四年:2013/03/24(日) 10:00:58.62 ID:V3hIYaRO
>>146 淀殿と大野治長が密通しているというのは共通している
秀吉の遺言で家康と婚姻としているのは、多聞院・看羊録
高野山に逃げたのは、多聞院・内藤書状
秀頼が成人するまで家康が後見というのは看羊録のみ
別に矛盾する部分はないかと、内藤書状については家康の優位を
記すことを憚ったとも見られるし
149 :
人間七七四年:2013/03/24(日) 10:16:15.33 ID:HBRlOmOe
>>148 多門院日記には高野山との記載はない。
そもそも女人禁制の高野山に連れて逃げると言う時点で馬鹿げた話。
正直噂の真相レベルのお粗末な話で、他の日記などには一切記載が
見られない時点で笑い話にすぎん。
150 :
人間七七四年:2013/03/24(日) 11:16:09.34 ID:V3hIYaRO
>>149 「大野修理秀頼之母ヲ連候、高野へ参候由」
後、高野山にも女人堂とか女人道とかある
151 :
人間七七四年:2013/03/25(月) 18:02:44.06 ID:YysyOcMI
>関東経営に失敗する
三河崇拝が甚だしい関東統治に失敗するわけないw
■有史以来、武蔵国の御所号は全3ヶ所
平安時代
・吉見御所(埼玉県吉見町)
源範頼(三河守)の息子、源範円(正法寺(三河国宝飯郡)僧侶)が移り住む
範円の息子(為頼)から吉見氏と名乗る
現在も、吉見姓は愛知県蒲郡市(源範頼の本拠)が日本一多い
室町時代
・世田谷御所(東京都世田谷区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬)を祖する奥州吉良氏、三河国生まれ吉良治家(初代奥州管領、吉良貞家の息)が移り住む
戦国時代
・蒔田御所(横浜市南区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬)を祖とする奥州吉良氏、吉良頼康が移り住む
■家康入城前の江戸城主は富永直勝
三河国設楽郡富永保を本貫とする三河富永氏
家紋は木瓜に足利二つ引両(太平記、多々良浜の戦いの功労により、家紋に足利二つ引両を与えられる)
先祖は源頼義の家来、鶴岡八幡宮社職家の三河伴氏の平松氏、源義家の郎党No.2 三河伴氏の伴助兼
万年パシリのカントン猿w
152 :
人間七七四年:2013/03/26(火) 11:50:58.33 ID:mwrEoqhK
因みに慶長四年九月の騒動が家康暗殺未遂事件とするのは一次史料には無く、
かろうじて「慶長記」にあるくらいなものだったりする
153 :
人間七七四年:2013/03/30(土) 22:15:52.66 ID:HbM8HOUb
大久保長安と大賀弥四郎、信康と忠輝がダブってしゃ〜ない
154 :
人間七七四年:2013/03/31(日) 14:09:04.97 ID:LAnzFyTM
大賀は誤伝で大岡弥四郎なんだけどね。
155 :
人間七七四年:2013/03/31(日) 14:41:17.49 ID:rhGh+WuG
そうなんだ。後世にでてきた大岡越前守が大賀弥四郎の一族の出で弥四郎が大罪を犯したことを憚って大岡に改名したってのは俗説かな?
156 :
人間七七四年:2013/03/31(日) 21:59:20.47 ID:LAnzFyTM
>>155 俗説だよ。松平氏に仕え始めた頃には、既に大岡氏だね。
157 :
人間七七四年:2013/04/01(月) 22:44:09.30 ID:gy8rTnG+
今日から新年度が始まったってことで、俺の座右の銘を
厭離穢土 欣求浄土
にする!
お前ら真似するなよ!
158 :
人間七七四年:2013/04/02(火) 09:03:47.51 ID:XwO6lYOP
結構、厭世的ですね
159 :
人間七七四年:2013/04/05(金) 15:05:12.55 ID:2Dn6AH2Q
空華集 「東海道三河州碧海荘,寔今政府左金吾(斯波義将)祖宗九京之地也」
「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
初代斯波氏である足利家氏は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠地とした
永源寺
中世、碧海郡碧海荘内にあった禅寺。管領斯波義将が1380年代に創建。南北朝時代の禅僧義堂周信の詩文集『空華集』に収める「贈雲谿首座赴永源命詩并序」にみえ、錘秀山と号した。
「序」に碧海荘は斯波義将の先祖の墓所のあるところであるといっており、家氏以来斯波氏が伝領してきたのであろう。所在地は「碧海之東」とあるのみでどこであるか不詳である。
応永4年(1397)5月18日、のちに建仁寺61代住持となる玉岡和尚が将軍義満より住持職に補任された(『蔭涼軒日録』文明17年9月15日条)。
160 :
人間七七四年:2013/04/06(土) 11:34:14.32 ID:bHl+Xf+N
若い頃は秀吉や信長が断然好きだったが
おっさんになると家康の素晴らしさを再認識させた
ずっと律儀に生きてきて信用積み重ねて来たんだよね
タヌキになったのは豊臣家滅ぼした時だけ
161 :
人間七七四年:2013/04/06(土) 11:49:21.43 ID:/lo595eU
だから、秀吉も没後のことを家康に託す気になったんだろうね。
162 :
人間七七四年:2013/04/06(土) 12:06:36.86 ID:EmsQkNSw
タヌキが化けるのは普通だが、タヌキに化けるのはさすがだ
163 :
人間七七四年:2013/04/07(日) 00:02:00.82 ID:OQXzr1JV
家康公はタヌキなんぞに化けない。馬鹿にするな!
164 :
人間七七四年:2013/04/07(日) 00:47:19.76 ID:JLqiZIn/
馬鹿にしたわけではないぞ
大坂方を追い込んでいくやり方が誠実な家康らしくないから「タヌキに化けた」と言ったまで
あれが家康の本性ではあるまい
165 :
人間七七四年:2013/04/07(日) 08:22:25.05 ID:WRDhUSn/
家康公を狸に変身させたのは、本田正信だろうな。
166 :
人間七七四年:2013/04/07(日) 09:03:17.30 ID:lWQzATh/
なんというパチモノ
167 :
人間七七四年:2013/04/08(月) 01:09:29.97 ID:/eaFjVuf
本田って本多のパクリなんかな。明治以前に本田って著名人いた?
168 :
人間七七四年:2013/04/08(月) 09:27:30.48 ID:9gzIhpZ7
>>610>>614 同意だな。
二条城会見までは豊臣との共存を図っていた感じだし
それは藤原惺窩・林羅山との逸話でも分かる。
最後は「崇高な目的は、手段を聖化する」を地で行った。
家康は秀吉に頭を下げて機が来るのを待ったが、秀頼はそれをしなかった。
生き残りたいと思うなら、何かしらしないとね
169 :
人間七七四年:2013/04/08(月) 11:02:42.31 ID:K1NsjPrh
秀吉「も」好きだから、ドラマとかで愚鈍か成り上がりに表現されるのは嫌な気分になるけど、
晩年の秀吉なら、なんとでも言われてもいいや、みたいな。
170 :
人間七七四年:2013/04/08(月) 11:15:46.35 ID:K1NsjPrh
家康タヌキタヌキとか言われるけどさ、
歴史に名を残した人物のなかで、手を汚さなかった奴なんて古今東西存在するのか。
義とか後世に装飾された連中も、実際には普通に犬で畜生なことしてるだろ。
っていうか、歴史に正しい正しくないなんてあるのか。
水戸黄門(ドラマ)のような、平和な世界じゃあるまいし。
なんで家康だけタヌキって批判されるんだろ。
171 :
人間七七四年:2013/04/08(月) 18:53:18.80 ID:oPW/xnOF
庶民にとっては歴史的偉人を貶すことでうだつの上がらない自分が救われる部分がある
家康はその点でも人々を救っているわけだから、それについてはあまり騒がないほうが良いと思う
172 :
人間七七四年:2013/04/08(月) 22:27:26.09 ID:3qR6cDS1
173 :
人間七七四年:2013/04/09(火) 00:20:31.21 ID:h31+6ixE
天下への野心を直隠しにして従った振りをしていたから、
狸親父だなんて呼ばれるけど、こんなのは結果論も甚だしい。
勝算が無くなったと判断したから秀吉に従い、
その後は豊臣家臣として粉骨砕身し
敵対したハンデを跳ね除け秀吉の信頼を勝ち取り
政権内での立場を確立し、
突然訪れたチャンスを確実に物にして天下を取った。
自分が置かれた状況を客観的に判断し、
取るべき行動をベストなタイミングで確実にこなした結果だわな。
普通はそんな事なかなか出来ないから陰謀的な話になりがちだけど。
174 :
人間七七四年:2013/04/09(火) 07:38:31.59 ID:9psm7OrU
175 :
人間七七四年:2013/04/13(土) 17:10:46.76 ID:kWX+bVhF
ちょっと歴史に詳しい人に聞きたいんだけど、三方原の戦いの時に本多忠勝がいなかったら
家康は死んでたの?
176 :
人間七七四年:2013/04/13(土) 18:11:32.49 ID:zq1MAp56
わからん
177 :
人間七七四年:2013/04/13(土) 18:15:32.25 ID:IOy3Gd1R
むしろ吉信や久三郎の方が重要ではなかろうか
178 :
人間七七四年:2013/04/13(土) 18:49:14.24 ID:gf8sSVYI
賛否両論あると思うけど
長男の信康事件は家臣をまとめきれなかった
家康の責任も大きいと思う
酒井忠次の子孫があまり優遇されていないのも気になるところではある
179 :
人間七七四年:2013/04/13(土) 20:54:06.99 ID:u+sJj//Q
>>178 > 酒井忠次の子孫があまり優遇されていないのも気になるところではある
庄内藩17万石が冷遇か?
180 :
人間七七四年:2013/04/13(土) 21:28:36.66 ID:IOy3Gd1R
信康が嫡子として生き残った場合(=謀反しなかった場合)はどうなるのだろうと思うが、大体が歴史通りに進むとしても
瀬名も生き残るだろうから朝日姫が嫁に来ない、信康の正室が徳姫だから流石に江与も嫁にこない=豊徳の結びつきが微妙だから
……むしろ家康が五大老筆頭になれたかどうかも微妙かもしれない
181 :
人間七七四年:2013/04/13(土) 23:51:23.96 ID:gf8sSVYI
家康が亡くなったら酒井家は加増されたけど
家康は自分が家臣をまとめきれなかったはいえ
信康事件の悲劇を家康が忠次に恨んでいるうちは
酒井家の加増はかなえられなかったと思うわ
182 :
人間七七四年:2013/04/14(日) 06:12:43.12 ID:l3hgUjnC
信康が死んだのは
武田と北条の同盟が破綻し、
北条と徳川が同盟するタイミング
織田を必要とせずとも自力で武田と戦う自信が家康に出来た時期なのは間違いない。
明らかに徳川が武田との関係を清算するために信康を殺している。
また長篠の戦い寸前に足利義昭の使者を三河に迎えて接待するなど武田に圧される中で武田を恐れる信長によって再三の援軍要請にも織田の援軍は来ないため信長への背信もしている。
長篠の時に家康は、今まで信長に援軍を派遣してきたのに、全くこちらの危機には援軍くれないから離反すると脅迫しているし、
信長は武田が来ない冬に鷹狩りと称して三河へ監視に毎年やってきてる。
明らかに徳川は武田との窓口として信康を使って生き残りを図っていた
183 :
人間七七四年:2013/04/15(月) 01:46:23.90 ID:riAxzN3z
>>179 酒井は最初庄内ではなく山形を希望していたが、鳥居忠政が優先された
184 :
人間七七四年:2013/04/15(月) 07:23:57.40 ID:wfL4ZoVj
痛々しい長文はでっかい釣り針なんだろうなぁ
185 :
人間七七四年:2013/04/15(月) 22:15:08.09 ID:MK4a1fcm
結局信康が武田に通じてたのってマジだったの?大賀弥四郎の巻き添えくらっただけ?
186 :
人間七七四年:2013/04/16(火) 08:38:13.89 ID:rDZE1G3u
信康は信長の長男信忠より利発だったので、織田家の将来を心配した信長に嵌められただけ
187 :
人間七七四年:2013/04/16(火) 10:17:50.10 ID:yfPBLZW4
それの初出って彦左のだっけ?
188 :
宮内大輔忠勝:2013/04/16(火) 22:43:04.55 ID:z0vJwLID
荘内十四万八千石は信州松代十万石からの加増だが、山形の鳥居忠政を輔翼する立場が不満だったのである。
189 :
人間七七四年:2013/04/17(水) 11:09:21.04 ID:iIZyjM2A
>>171 そうか…。家康公は時を越えて人々の心の平穏を守ってくれてるのか…。スゲーww
そういえば、創作で敵が体制側っていう設定はよく見かけるな。
秀吉も、立身出世の面では庶民の憧れのヒーローだったけど、
天下を取ったとたん、石川五右衛門とかロビンフッド的なヒーローが生み出されるしな。
歴史に名前を残すのは大変だ。
190 :
人間七七四年:2013/04/17(水) 13:01:12.23 ID:yzdwUhbM
今日は家康公の命日で御座る。
191 :
人間七七四年:2013/04/20(土) 10:20:58.42 ID:S1vpQ2nN
家康って寧ろ信長と秀吉がもともと存在してなければもっと簡単に天下取ってた気がする
192 :
人間七七四年:2013/04/20(土) 12:13:10.63 ID:9QzqIF4t
それはない
193 :
人間七七四年:2013/04/20(土) 12:55:47.76 ID:SG85LTH/
信長が居ないと武田あたりに潰されてるな。
194 :
人間七七四年:2013/04/20(土) 16:04:59.54 ID:pi6golUf
今川の間接同盟国なのにか?w
195 :
人間七七四年:2013/04/20(土) 16:06:13.00 ID:6wy1Dtdm
3人の中で一番若く、しかも健康でボケなかった。これが重要。
大阪の人まで元気だったからな。
196 :
人間七七四年:2013/04/20(土) 16:28:40.88 ID:9QzqIF4t
信長がいなければまず今川からの独立が無理だろ
197 :
人間七七四年:2013/04/20(土) 16:36:26.45 ID:0FjiBVca
今川に忠節を尽くしまくって、最後にタヌキになって氏真を裏切る
198 :
人間七七四年:2013/04/21(日) 00:44:08.14 ID:NRaYA3Tz
旧今川家臣で神将って井伊氏以外思いつかんから
別に裏切らなくても一門として氏実の息子に
姫嫁がせて副将軍みたいになるだけじゃね?
199 :
人間七七四年:2013/04/21(日) 08:22:29.71 ID:kruJvVcq
今川配下の松平って、ただの国人にすぎんぞ
200 :
人間七七四年:2013/04/21(日) 08:43:26.73 ID:KSMvLDiY
氏真が本能寺で死ぬまで待つ
201 :
人間七七四年:2013/04/21(日) 08:51:59.43 ID:Q7gyI6Zm
>>199 毛利=安芸の国人
安芸の国人でも、あそこまでいけた。
三河なんて早くから戦乱に突入して支配がはっきりしてないんだから、
なおのこと成り上がりやすいだろ
202 :
人間七七四年:2013/04/21(日) 08:58:13.37 ID:FScpA2RT
成り上がり易いってか清康期に一応一国を勢力下に抑えて
世良田源氏名乗るまでは出来たんだから岡崎に帰してもらえればまあ何とかいけそうな気もする
203 :
人間七七四年:2013/04/21(日) 09:05:25.29 ID:kruJvVcq
>>201 ありゃ毛利が自力で切り取ったわけじゃない。
204 :
人間七七四年:2013/04/21(日) 17:37:50.55 ID:yssQuK7H
藤原季兼:源頼朝の曾祖父
・三河四郎大夫(四郎は四男、大夫は貴族)
藤原季範:源頼朝の祖父
・額田冠者(三河国額田郡に生まれ育った若者)
菩提寺
滝山寺(愛知県岡崎市滝町山籠107)
・創建:伝・天武天皇時代(673年 - 686年)
・開基:伝・役小角
12世紀
【1122年】仏泉上人永救、物部朝臣・伴氏女を檀那として再興、最初の本堂を建立し、鎮守として山王・白山社を勧請する
【1130年代】三河法橋裕範(源頼朝の母の弟)、粟田口法眼長暹(源頼朝の母の弟)、仏泉上人永救に弟子入り、入山する
【1138年】仏泉上人永救、死去する
【1140年】藤原季範(源頼朝の祖父)、夫婦(夫人は源行遠の娘)で蓮華寺造営、仏性灯油料として額田郡恵那河内郷(愛知県岡崎市米河内)を寄進する
【1151年】藤原範忠(源頼朝の母の兄)、滝山寺の本堂(2度目)を建替える、10月8日の供養の時に延暦寺より招いた導師に馬3匹を贈る
【1155年】藤原季範(源頼朝の祖父)、死去する
【1159年】藤原範忠(源頼朝の母の兄)、弟の三河法橋裕範の要請を受け、大檀那として滝山寺の四至を確定し、 田畠1町2反づつを寺へ寄進する
205 :
人間七七四年:2013/04/21(日) 17:40:09.83 ID:yssQuK7H
【1159年】三河法橋裕範(源頼朝の母の弟)、姉の由良御前(源頼朝の母)が死去した際、49日の仏事を差配してその菩提を弔る
【1160年】三河法橋裕範(源頼朝の母の弟)、頼朝が罪人として伊豆国の配所に送られる際、郎従を付けて送り出す
【1182年】寛伝(藤原範忠の息、源頼朝の従兄弟)、源頼朝の推挙により日光山満願寺19世座主になる
【1188年】任憲(三河法橋裕範の息、源頼朝の従兄弟)、鎌倉で源頼朝に引見する
【1191年】源頼朝、任憲(三河法橋裕範の息、源頼朝の従兄弟)の熱田社領御幣田をめぐる争いの仲裁をする
【1199年】源頼朝、死去する
13世紀
【1201年】寛伝(藤原範忠の息、源頼朝の従兄弟)、頼朝公の3回忌に惣持禅院を創建し、本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩を」安置する
【1205年】寛伝(藤原範忠の息、源頼朝の従兄弟)、死去する
206 :
人間七七四年:2013/04/21(日) 23:44:18.16 ID:vb/M4peF
子供の頃から辛酸を嘗めまくって人を疑う目を養い、世の中の厳しさを身を持って経験し、三方原で自分の天運を知った神君家康公にもしもはないよ
207 :
人間七七四年:2013/04/22(月) 08:55:54.37 ID:mbkAsV+2
観音寺城の戦いの援兵は家康が直接率いてたのですか
208 :
人間七七四年:2013/04/22(月) 16:22:40.51 ID:0TZwvWNg
209 :
人間七七四年:2013/04/22(月) 16:48:07.13 ID:v/0eRnIR
徳川将軍家の菩提寺は、
芝増上寺と上野寛永寺ですが、前者は浄土宗で後者は天台宗です。
えっなんで?
また、松平家の菩提寺は岡崎の大樹寺ですが、建立は1475年に松平親忠が建立してます。
由緒ある松平家の菩提寺は1475年前どこに有ったの?
また、家康は家紋は受け継いだが、何故 松平家康にしなかったの?
家康が天下をとってから自らの出自を知る賀茂神社の関係者を皆殺しにしたという説も有りますが・・・
210 :
人間七七四年:2013/04/22(月) 18:37:42.84 ID:v/0eRnIR
江戸幕府や大名は、飢饉の折も、妾が多いし大奥に1,000人近く居たのはなぜですか?
211 :
人間七七四年:2013/04/22(月) 18:41:40.80 ID:v/0eRnIR
信長はカワタ衆を武具製造等にあたらせましたが、
家康とカワタ衆の関係は?
212 :
人間七七四年:2013/04/22(月) 18:46:24.87 ID:v/0eRnIR
遠江堀川城攻めで気賀一揆を老若男女撫で斬りにしたのは、
出自を隠すためでは?
213 :
人間七七四年:2013/04/22(月) 20:08:21.06 ID:/Dv00Mxf
徳川家康は、征夷大将軍に任官する以前に、
征夷大将軍以外の官位昇進の為の朝廷工作はしなかったのかな?
214 :
人間七七四年:2013/04/22(月) 20:14:30.06 ID:2G8ScQru
関ヶ原後に、従一位に昇っているから、工作はあったんじゃないか。
215 :
人間七七四年:2013/04/22(月) 20:35:28.15 ID:7LhgMrHL
>>213 徳川「復姓」による従五位下と三河守がそれじゃね?
216 :
人間七七四年:2013/04/22(月) 23:51:58.85 ID:vEdkWF9g
家康公は今川武田織田北条豊臣の興亡から学んできて江戸幕府の体制を作ったというが
豊臣の衰亡って参考になることはもはやなかったんじゃないか
217 :
人間七七四年:2013/04/23(火) 01:41:04.32 ID:The63h4f
218 :
人間七七四年:2013/04/23(火) 05:31:16.95 ID:The63h4f
家康の真意がよく現れています。
人の一生は、重荷を負いて遠き道を行くが如し
急ぐべからず 不自由を常と思えば不足なし
219 :
人間七七四年:2013/04/23(火) 06:14:08.13 ID:7RO21V+k
>>216 家康期の統治機構はほぼ豊臣政権じゃないか
220 :
人間七七四年:2013/04/23(火) 07:43:33.67 ID:qrRNBj2d
もうあきたよ
221 :
人間七七四年:2013/04/23(火) 09:27:57.89 ID:jhWz4CjS
秀吉みたいに人たらしになりたいお
222 :
人間七七四年:2013/04/23(火) 09:54:36.96 ID:zK1JV41S
>>219 家康期の統治機構は少なくとも関東国主時代までは遡れるけど
223 :
人間七七四年:2013/04/23(火) 17:19:50.50 ID:The63h4f
224 :
人間七七四年:2013/04/25(木) 19:48:09.72 ID:Uc0UFni4
>>223 家康を調べれば調べるほど、出自は賎民なのですが・・・・
おかしいでしょうか?
225 :
人間七七四年:2013/04/25(木) 21:35:10.17 ID:aZKkO5Xn
石見銀山・出雲大社・厳島神社
へ行くのですが、家康公関連って銀山の長安くらいですか?
226 :
人間七七四年:2013/04/26(金) 04:07:33.15 ID:GH71j2H4
227 :
人間七七四年:2013/04/27(土) 02:43:31.15 ID:5nbpXVEJ
徳川家康が最晩年に孫娘みたいなお六殿を寵愛してたみたいだけど、具体的にどんなプレーしてたのかわかる人教えて下さい。
醜悪にも満ちた老いらくの性を楽しんでいた
毎晩足しげくお六の部屋に通った
歳老いてもなお有り余る性欲
上記の記述をどこかで読んだ
228 :
人間七七四年:2013/04/27(土) 02:46:47.11 ID:5nbpXVEJ
>>25 秀吉が江戸を指名した
出来るだけ遠国に国替えしたかった
229 :
人間七七四年:2013/04/27(土) 05:41:54.14 ID:dkFIMX3I
賎民は蝦夷に行くのは決まってるだろ!
230 :
人間七七四年:2013/04/27(土) 16:28:00.31 ID:+3m6KtoS
>>227 お前はどう思うんだ。
書き込んでみろ。
231 :
人間七七四年:2013/04/27(土) 18:51:42.66 ID:3e7FJ2AU
もし東北に国替えになったらどうなってたんだろ
232 :
人間七七四年:2013/04/27(土) 19:41:42.42 ID:gRbdHG7j
その時は400万石位はもらえたから問題ない
233 :
人間七七四年:2013/04/27(土) 20:50:10.12 ID:w8w2emmw
東北全部合わせても400万石もないだろう。
234 :
人間七七四年:2013/04/27(土) 23:04:48.95 ID:tjTrlSCf
東北だとさすがの家康公も反対するだろ
秀吉もさすがにやらないと思ふ
235 :
人間七七四年:2013/04/28(日) 21:52:19.32 ID:exdYSOJL
東北になるわけない関八州だよ
236 :
人間七七四年:2013/04/29(月) 03:29:05.36 ID:PQcrpQH8
後世の徳川氏・松平氏の系譜によると、徳川氏の祖となる松平親氏は清和源氏の新田氏の支流である得川義季(世良田義季、得河三郎義秀とも)
{上野国新田郡得川郷(現在の群馬県太田市徳川町)が本拠地}の後裔と称する時宗の僧で、松平郷の領主松平太郎左衛門少尉信重の娘婿となって
その名跡を継ぎ松平親氏を名乗ったという。親氏とその弟(叔父とも)あるいはその嫡子とする泰親の代には松平郷近隣に勢力を拡大したらしいが、
同時代の史料にその名は見えない。おそらく親氏以前の記録は、家康が系図を整える頃にはすでに失われていたものと見られる。
つまり家康は親氏以前を抹殺し、自ら家系図を捏造した。
237 :
人間七七四年:2013/04/29(月) 12:19:47.17 ID:m6zbzaqJ
>>234 関東の北条のように東北を一氏で治めていたらやったかもしれないが、
関東と違って東北は多くの平野と盆地に分かれているので
戦国時代に一氏の勢力が東北全体に及ぶことは考えにくい
238 :
人間七七四年:2013/04/29(月) 16:27:09.34 ID:PCTd38X5
徳川に東北与えたら代わりにあのDQNが南下してくるじゃん
239 :
人間七七四年:2013/04/30(火) 00:35:45.94 ID:ABsNuHHi
家康公が東北ならあの独眼は松前もしくはその上だべさw陸続きを完全に塞ぐ形で
240 :
人間七七四年:2013/04/30(火) 18:41:38.31 ID:4oZ4oj5y
>>236 的を得てるかも。
ここで知識を披露している人も、松平家や家康の出自についてはあまり触れないですね。
241 :
人間七七四年:2013/04/30(火) 19:52:41.53 ID:1xfebrUn
解らないから話題にはしない
暗黒物質を理解せずに銀河の構造を把握するようなものだ
242 :
人間七七四年:2013/04/30(火) 21:55:53.00 ID:FzjD8hRp
家康が今川家から独立した後三河の一向一揆が凄まじかったらしいのですが
どうやって鎮圧したの?
本多正信とか参加してたんでしょ?
243 :
人間七七四年:2013/04/30(火) 22:34:44.52 ID:ZXBV3qES
>>242 すさまじかったと言っても三河一向一揆における緒戦は終始家康方の優勢だったようで、
最終的に大久保忠俊や水野信元の仲立ちで和議となったみたい
というか一揆側は明確な指導者がいないわ最終目的もはっきりしてないわというgdgdぶり
調べて知ったが正信って忠勝や作左よりも本多氏の嫡流に近かったのか
244 :
人間七七四年:2013/05/01(水) 21:12:23.55 ID:tUOytQnA
>>243 さすがです、
どこの古文書から、引っ張り出しましたかお教えいただければ幸いです。
245 :
人間七七四年:2013/05/01(水) 22:16:43.41 ID:Yx/TKBqm
>>244 古文書じゃなくて本多隆成という先生の書いた「定本徳川家康」からの孫引きです。
この先生の話によると新行紀一という方の書いた「一向一揆の基礎構造」という本が三河一向一揆に関して詳しいそうなので、
更に興味がある場合は図書館等でお探ししてみてはいかかでしょうか。調べたところ少なくとも首都大学や京都大学の図書館には蔵書されているようです
246 :
人間七七四年:2013/05/02(木) 21:56:36.30 ID:5BmPrvrX
石見銀山 大久保長安の墓で泣いたよ (ToT)
大賀弥四郎と違って、そんな悪人じゃ無いんでしょう(′・_・`)?
247 :
人間七七四年:2013/05/02(木) 23:29:57.19 ID:upvhkMJ3
江戸幕府にとって代官が豪勢な暮らしをした時点で重罪
長安だけでなく家康期だけでもそうとうすうの代官が処罰されている
248 :
人間七七四年:2013/05/02(木) 23:37:39.42 ID:n+4Ean/o
大久保長安は極悪人や!
しかし、その類い希なる才能に家康公は無視できなかった
249 :
人間七七四年:2013/05/03(金) 09:28:15.79 ID:WgJVBCbf
子供の代になって取り潰すとこが徳川のやり方
250 :
人間七七四年:2013/05/03(金) 16:17:27.61 ID:A1JbO0f0
誰かかまってやれよ
251 :
人間七七四年:2013/05/05(日) 17:25:27.76 ID:RhulGrJe
藤田達夫の研究によると、
秀吉の出自をセンミン的非農業民だとしている
252 :
人間七七四年:2013/05/05(日) 17:36:14.76 ID:L9T8304a
藤田達生と言う時点でトンデモ説に思えてしまう
253 :
人間七七四年:2013/05/05(日) 20:58:44.66 ID:l/ChDjuP
秀吉と対立した時さ、秀吉が信雄の所領削ってたけど、その時傍観してたの家康?
254 :
人間七七四年:2013/05/05(日) 21:08:54.96 ID:QLlKGq62
>>253 信雄が単独講和する際に、所領削減を飲んだだけ
255 :
人間七七四年:2013/05/05(日) 21:51:25.31 ID:L9T8304a
むしろ秀吉が占領した土地を一部は返してもらえるという好条件の和睦
256 :
人間七七四年:2013/05/05(日) 22:28:15.58 ID:uuyV74yT
返却も何も秀吉が占領したのは伊勢で神戸関岡本榊原信包小島岡田 尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって徳川が尾張方面防衛を優先したために放棄せざるをえなくなった南伊勢のほかは
小牧長久手後の楽田に2万以上の留守居兵置いて家康が動けない隙に長期間かけて火事場ドロした木曽川筋のわずか数城だけだもんなぁ
不意打ち的に尾張上陸ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
蟹江・前田・下市場・長久保・浜田・神戸とか秀吉方陣地に程誓いエリアの城も信雄方に奪回されてるし
257 :
人間七七四年:2013/05/06(月) 03:57:54.70 ID:YfpcT6o7
髭吉が局地戦弱かったのは誰でも知ってるから、どうでもいい
気前のよさと、運のよさで出世した張り子の虎だったでしょ。2代目で滅んだのは、晩年に勘違いから人々の生活を蹂躙した報いだな
258 :
人間七七四年:2013/05/06(月) 06:10:10.67 ID:UwuGLQuO
スレ違い。かまって欲しいなら余所へ行け
259 :
人間七七四年:2013/05/06(月) 13:09:41.21 ID:ZGs6BK3a
260 :
人間七七四年:2013/05/06(月) 22:09:03.18 ID:Ck9YYDio
261 :
人間七七四年:2013/05/07(火) 13:33:51.86 ID:QmUAiyR/
おまいら徳川幕府時代に生きてたら取り潰しや改易されてた大名だったんだろ?
262 :
人間七七四年:2013/05/07(火) 17:25:24.81 ID:2uNsAhVm
農民に決まってるでしょうが
あと多いのは西国商人系だな
263 :
人間七七四年:2013/05/08(水) 00:51:39.43 ID:+cRwcw80
余裕の農民だな。
下手するとエタヒニン
264 :
人間七七四年:2013/05/08(水) 14:32:25.36 ID:diOqmgTj
小牧長久手で秀吉の首取るまで頑張ればよかったやん
265 :
人間七七四年:2013/05/08(水) 15:22:14.15 ID:rzaXg7b+
流石に16000〜7000の兵力で135000の大軍を、しかも自分から秀吉方の堅固に普請された拠点に攻めかかって破るのは無理はある
それでも二重堀合戦で秀吉方は散々に敗北して楽田から敗走しているが。
266 :
人間七七四年:2013/05/09(木) 03:27:56.85 ID:PWcCxtEf
それで、松平家の出自は?
エタだろ?
267 :
人間七七四年:2013/05/09(木) 08:25:28.36 ID:8hG6rb8N
天正12年の秀吉と家康・信雄との戦役は
秀吉の圧倒的優勢化で、家康や信雄は引き篭もって
ひたすら佐竹に牽制されてる北条が援軍出すとかデタラメを吐き続けて
毛利と宇喜多を無視して長宗我部が秀吉の背後を襲うように
依頼を続けると言う現実逃避っぷりの情けなさで、
戦略的に戦況が好転するなんて展望は一切見出せないまま
秀吉に呼応する上杉の南下と
秀吉得意の調略で家康方だった信濃諸将の離反と
無理な動員で荒廃しまくった三河と言う
秀吉と敵対する愚を犯した家康は最低最悪の戦略的大失敗を
犯しただけじゃんよ。
アンチ豊臣政権のキチガイ在日の捏造歪曲コピペ爆撃の必死さは買うけどよwwwwww
268 :
人間七七四年:2013/05/09(木) 11:02:49.01 ID:7IDWcR9L
実際秀吉が優勢だったのは伊勢で神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めた三月の攻防だけだしな
不意打ち的に尾張上陸ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
269 :
人間七七四年:2013/05/09(木) 11:03:15.02 ID:7IDWcR9L
>>秀吉の圧倒的優勢化で、家康や信雄は引き篭もってひたすら佐竹に牽制されてる北条が援軍出すとかデタラメを吐き続けて
家康や信雄が引きこもってるとか秀吉書状のデタラメハッタリ誇大喧伝だな。史実では家康は小牧山→清洲→蟹江合戦などでまくってるし
信雄も小牧山→清洲→長島など動いてるし逆に引きこもってたとしたらその周辺の城郭(浜田松ノ木戸木蟹江二重堀長久保東駒野など)全く落とせず撃退されてる秀吉は雑魚にも程がある
>>毛利と宇喜多を無視して長宗我部が秀吉の背後を襲うように依頼を続けると言う現実逃避っぷりの情けなさで、
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度兵力で柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
>>戦略的に戦況が好転するなんて展望は一切見出せないまま
135000の大軍相手にわずか1万7千そこそこで優勢になるわけねーだろボケw
>>秀吉に呼応する上杉の南下と秀吉得意の調略で家康方だった信濃諸将の離反と
圧倒的大軍がありながら他勢力頼みなのが秀吉。自力では規格外の大軍がありながら雑魚国力の信雄・家康相手に勝てないのがわかる
>>無理な動員で荒廃しまくった三河と言う
徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
270 :
人間七七四年:2013/05/09(木) 11:03:38.90 ID:7IDWcR9L
秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてるが大嘘で信雄のヘタレ降伏による秀吉のウルトラスーパーラッキーパンチでの停戦(秀吉の勝利でもなんでもない)
まで2か月も経ってるな。大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。
しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない。戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意の
ハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
3月26日⇒佐竹 尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
4月8日秀吉⇒毛利輝元 伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
日付不明 秀吉⇒大御ちさま 加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww
5月9日 秀吉→毛利輝元 小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他) 周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww
271 :
人間七七四年:2013/05/09(木) 11:04:06.74 ID:7IDWcR9L
9/8秀吉→丹羽、前田 9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね で、11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認?????? 明らかにデタラメ
>>信雄も家康も手も足も出ないほど追い詰められていた事実は動かない
当初去就が不明だった池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け 二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出なかったのが秀吉
272 :
人間七七四年:2013/05/09(木) 11:04:33.76 ID:7IDWcR9L
秀吉・織田徳川方史料で各城郭攻防が激しく行われているのがわかる
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じる
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12秀吉→八重羽・富田・津田 木造の城がいまだ落ちず小島と相談して砦を4つ設けるよう指示
田丸・榊原・小島に申し付けるよう指示したので相談するように指示
4/12秀吉→榊原・小島・田丸 木造の砦は2箇所は小島、一箇所は田丸、一回書は榊原が申し付けるよう指示
各自相談し城中の者を一人も逃さないよう普請を堅固に申し付ける事を指示
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが敵に数多手負い死人が出た
4/23信雄→吉村 今尾口へ秀吉方兵力が出撃してきた旨を了承 吉村へ必ず加勢を申し付ける旨を伝える
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
信雄→吉村 秀吉が其の表(松ノ木)出兵してきたため信雄より加勢を使わす事を約束。伊勢方面の事を申し付けるため
本日(5/3)信雄が小牧より長島へ帰った事を伝える
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/5 信雄→吉村 松ノ木の加勢と防衛について詳細に命じる
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
273 :
人間七七四年:2013/05/09(木) 11:04:53.18 ID:7IDWcR9L
3/25 大久保→皆川 3/17に濃州口との境目である羽黒において池田・森の守る出構を撃破した事を報じる
4/20 秀吉→上部 秀吉が在陣する尾張方面では、普請など堅固に申し付けている旨を報ずる
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
6/2信雄→吉村 松ノ木への玉薬を送付
6/7秀吉→前田 尾張河波を敵城を全て攻略する意思である旨を報じる
6/12信雄→寺西・橋本・吉村 敵(秀吉方)が松ノ木近辺に陣取った旨を了承
6/13信雄→橋本・寺西・吉村 秀吉方を撃退した旨を了承 其の城について油断なく注意するよう指示
6/13家康→信雄 昨晩秀吉方が松ノ木へ攻撃してきたが撃退した旨の注進に対して賞する
6/16信雄→橋本寺西吉村 秀吉方の様子に関する報告について了承 松ノ木についていろいろな点で注意するよう指示
6/20信雄→吉村 今尾へ秀吉方兵力が少々出てきたため松ノ木への加勢を要請を承諾しやがて遣わす事を報じる
6/20家忠日記 秀吉方楽田に向かい放火する
6/28家忠日記 楽田へ小牧衆(小牧城に在陣している家康方兵力)が物見に出かけ秀吉方と交戦した
7/7秀吉→小野木・大塩・津田・富田 神戸城の守備について滝川益重を派遣する事を報ずる
7/7秀吉→一柳 蟹江落城により、蟹江に対する秀吉方拠点として神戸城に秀吉から軍勢を派遣することを報ずる
7/7蜂須賀→南条元続 秀吉方諸将は尾濃境目の城に在陣している。数日中に秀吉が伊勢へ出兵する旨を伝える
7/9秀吉→分部 神戸方面へ敵(信雄方兵力)が出兵してきた旨を了承
安濃津・上野城に敵が出兵してきたら秀吉が出兵して討ち果たす事を伝える
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
んで結局1年一杯使っても上記の城は攻略ならず。寝返りだらけでガタガタだった信雄領国を
8倍もの圧倒的大軍で攻め込んで結局尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
274 :
人間七七四年:2013/05/09(木) 11:05:42.61 ID:7IDWcR9L
7/10信雄→吉村 浜田城築城を申し付ける。出来次第長島へ帰城する旨を伝える
7/10信雄→吉村 尾張から伊勢まで南下して放火した
7/12家康→木造 戸木城への兵糧搬入が困難である。戸木城を堅固に守るよう指示
7/14秀吉→津田 浜田之古城を信雄方が攻略した旨を了承。信雄方にとって菅生砦へのつなぎの城になるだろう
との考えを示す。明日美濃へ行くので神戸城で大方申し付けたならば、神戸城の一柳・小野木は美濃の秀吉陣所
へ来るよう指示
7/15家忠日記 秀吉方兵力が物見に出てきて家康方と交戦した
7/17伊勢から帰った家康が在陣する清洲へ出仕。軍勢半分を返す
7/18信雄→吉村 秀吉が曽根に到着し松ノ木の吉村に調略を仕掛けてきた知らせを聞いた
7/28秀吉→小島・蒲生 戸木城からの講和に関して指示する
8/12秀吉→長浜町人中 鍬などを取り寄せ犬山に届けるよう指示
8/14信雄→吉村 近いうちに秀吉が出陣してくるようなので諸事油断せず松ノ木の普請と昼夜の番等を堅固に申し付けるべき事を指示
8/18秀吉→上杉・須田 明日19日に秀吉が木曽川を超え小牧まで出兵し付け城を申しつけ家康が逃れられないようにする、三河へ出兵すると報じる
8/19信雄→高木 駒野城への加勢について空明と太田の両名に申し付けたのでよく相談して落ち度がないように
8/25秀吉→長浜町人鍛治中 鍬をつくり完成させ、普請に利用する
8/26加藤→長浜鍛治中 鍬について10駄分命じられたので朱印状を持参した旨を伝える
9/1家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/5家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/7家忠日記 秀吉との講和交渉決裂のため重吉へ惣人数を移す
9/9秀吉→あて先不明 尾張で秀吉方が放火し要害を数箇所申し付けた
9/16秀吉→前田 尾張国内で下奈良・宮後・河田へ砦3箇所堅固に申しつけ
過半が完成したので2.3日中に兵糧玉薬及び4千〜5千くらいの人数を入れる
9/19家康→滝川 戸木城が苦戦していると家康へ注進があり、いまだ本城を堅固に守備しているならば
家康が急ぎ出陣する予定なので戸木城の様子をよく聞き届け再度滝川雄利からたまわりたい旨を伝える
9/23信雄→保田 秀吉より講和に関して懇望があったが拒絶した旨を報じる
10/27秀吉→上部 虎落に用いる竹を調達する
11/10 信雄・家康→吉村 長久保攻略を賞する
275 :
人間七七四年:2013/05/09(木) 11:06:03.40 ID:7IDWcR9L
大友や宇喜多に蹴散らされまくった雑魚輝元に敗北した秀吉w
史料総覧 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
萩藩閥閲録
晋叟寺文書
毛利家日記
[参考]備前軍記
[参考]浦上宇喜多両家記
[参考]陰徳太平記
[参考]御答書
[参考]總見記
[参考]柏崎物語
【管理番号】020100216456
【編/冊/頁】10編911冊179頁
【綱文和暦】天正6年6月21日(15780060210) 3条
【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書
天正6年8/21
今度播州上月之城従芸州被催候処、
自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、
成田五郎左衛門尉秀綱(花押)
晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八
敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、
輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門
桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候
天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿
輝元 御判
天正10年5/4小早川→冷民少
如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉
去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉
去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉
去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状
一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉
態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元
去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、
…中略 昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
276 :
人間七七四年:2013/05/09(木) 12:00:39.38 ID:JL40DNF9
このコピペクチョンどこにでも湧いてくるな
277 :
人間七七四年:2013/05/09(木) 12:09:54.81 ID:7IDWcR9L
基本的に朝廷は京を制圧している大名と積極的に関係を築こうとするからね
近世成立記の大規模戦争86ページ
信雄は、この時期にも天皇・公家衆と積極的な関係を構築していない
これは信雄自らが京都を制圧しておらず、安堵などを通じて公家衆に対する主従的な関係を構築していないからである
公家衆や門蹟衆としても京都の支配者は秀吉であり、公家社会の擁護者である秀吉との関係が重視された。
83ページ
公家社会の政治的構造は、基本的に京都を制圧する政権やその有力武将との良好な関係の構築を試みるが、対立する武家勢力にも様々な人脈に基づき
関係を構築しうる二重性を備えていた
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれており
その他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦の痛手はひどかったんだろうね
フロイスの日本史とかイエズス会年報とかも秀吉の垂れ流した捏造情報がそのまま事実のようにかかれてたりするけど、その糞捏造本ですら小牧長久手は1万か2万戦死した事になってるから
よっぽど長久手敗戦の痛手が大きかったといえる。
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだからな
278 :
人間七七四年:2013/05/09(木) 13:47:42.68 ID:Ap6iyKVi
秀吉って鉄砲の名産地長浜を根拠とし、その後も富裕地を領国としてるから経済基盤でいえばかなりのものだし装備も当然充実させられるのに
こんなに雑魚なのは本人の指揮能力がクソレベルなんだろうな。秀吉が全軍で小牧山を攻めていたら織田信雄に大敗していたのは間違いない。
何せ信雄家臣の木造や吉村などにぼこぼこにやられた史実があるんだしな。しまいには小田原、韮山、山中、忍、松ノ木、太田など大敗や
大損害を重ね、天下失った凡将w 犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀
(最期の二つは小牧山城から真東)これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には芝のついた土手を
築いて柵を付けている。そこに秀吉方が陣取っていて龍泉寺にも根城をこしらえ、柏井、大草にも堅固に普請を申し付けられてる。家康から
見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。中入り作戦なんてしなくても北と東から力づくで押し込める。あと秀吉は
中入り軍を追撃していく軍の動きを把握していた事は明らかだがここですぐに軍を動かさずもたもたしてたから負けただけ。これは柏井にいる
一柳直末にあてた書状から明らか。単純に秀吉が雑魚すぎるだけだと思う。野戦するからにはある程度なんらかの傾斜物を超えなくてはならない
のは自明の論理で、あの場所は川とか沼地とか崖や山などに比べたら遥かに決戦しやすい上にその辺りが突破しずらいなら戦場の変更とか転進
とか兵力6倍以上ならいくらでもうつ手あるわけで。中入り勢増やすもよし、西方面迂回するもよし。砦を一つ一つ兵力に物言わせて攻め取るもよし
支配力の弱い信濃や信雄の本拠の伊勢を荒らすもよし。結局何一つ有効な手打てないままだらだら対陣するしかなかった秀吉は弱すぎる
あのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず
滝川が作った大チャンスも無駄にし夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てた
だけ。当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、ただ単純に手出し云々というより秀吉が弱すぎて攻められなか
っただけ。7倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築きさらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいてそれを秀吉のアホ作戦で台無し
にして奇襲を許した。白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったがこの時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを
小幡方面に向けて置いてればこんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々
とした行軍を無謀にもさせた。奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのにすぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させ
て間に合わずむざむざ家康を逃がした。正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから朝に動けば絶対間に合ったのにそれをさせないあたり
軍事的才能がなさすぎる。敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。織田家で最も無能な上に重臣の謀反&粛清等があり、権力基盤弱い織田信雄の領土相手に
この醜態ってw
279 :
人間七七四年:2013/05/09(木) 13:53:11.36 ID:+L+38ROX
>>276 マジキチはとっととNGにして無視するのが一番
280 :
人間七七四年:2013/05/10(金) 11:49:00.80 ID:e8afmIfT
凄い家康マンセーコメになるが、
司馬が小説で「家康は他人のやることを真似て、独自の発想のない男だった」とか言ってたけど、
自分にとっては、家康が頼朝や信玄とかどんな立場の人間も尊敬するという部分を見て好きになったんだが、
自分と司馬の好みの基準は大分違うなと思った。
そんでもって、
司馬以外にも「江戸時代は閉鎖的で、同時代の外国は次々と世界進出しているというのに」という意見もたまに見るが、
平和な世が二百数年も続いた時代だって世界史的に見ても稀じゃないのか(勿論家康の世代だけの力じゃないが)、
徳川家康は「自分の失敗と人々の歴史から学ぶ」という、
できそうに見えてできないことをやってのけた数少ない人間の一人じゃないのか、
家康は本当に「独自の発想のない男」なのかと思った。
281 :
人間七七四年:2013/05/10(金) 14:45:51.41 ID:bbfQuzcN
そもそも徳川幕府の代表的な政策は大半が家光以後の時代に形成されたものであって
何でもかんでも家康にくっ付けようとするのがおかしい
282 :
人間七七四年:2013/05/11(土) 10:38:36.68 ID:Al1xPlK/
だから、家康の世代だけの力じゃなくてと言ってるジャマイカ。
283 :
人間七七四年:2013/05/11(土) 11:24:00.81 ID:Wir+8bBM
家康って敵対したら最後取り潰すよね
秀吉は許して配下にしたりしてたのに比べると器小さい
284 :
人間七七四年:2013/05/11(土) 11:38:16.99 ID:c0fsVWgO
暇な人はかまってあげるように
285 :
人間七七四年:2013/05/11(土) 11:56:00.52 ID:Plob0gex
信長→足利を滅ぼしてない。
秀吉→織田を滅ぼしてない。
家康→豊臣を滅ぼした極悪人。
286 :
人間七七四年:2013/05/11(土) 12:30:15.04 ID:oNw45pD0
豊臣の一族(秀次・秀勝)を滅ぼしたのは秀吉だろう
秀頼は誕生日から逆算すると、妊娠した時期に秀吉は名護屋にいたから
他人の子だし
287 :
人間七七四年:2013/05/11(土) 13:39:07.86 ID:dOxyH2XI
秀吉の場合はそもそも滅ぼす実力がないからな
所詮上杉毛利宇喜多真田石川大友木曽小笠原石川水野大友龍造寺佐竹葦名宇都宮里見相馬十河野と
諸大名の力を頼りまくって漁夫の利を得ただけの形骸政権にすぎんし
それでも三木城の別所やら殺せる奴は無駄に殺しまくってるし
288 :
人間七七四年:2013/05/11(土) 13:44:45.98 ID:qhqMAYSU
秀吉は思いっきり主筋の織田を滅ぼしたし(無理矢理いちゃもんつけて攻め込み、苦戦したら顕如使って和睦したと思ったらまたいちゃもん
つけて改易してるし
あれだけ利用した秀信もあっさり使い捨てにされてるし信孝も命直接ではないが奪っている)
織田も足利滅ぼしたも同然じゃん
家康が一番優しかったといえるわ
289 :
人間七七四年:2013/05/11(土) 13:55:59.79 ID:5p63js68
さすがにそれはない
290 :
人間七七四年:2013/05/11(土) 14:23:42.60 ID:dOxyH2XI
信雄が秀吉を父に仕える如く態度で従っていたため信雄を三法師の守役にしてから清洲会談開始。
そもそも清洲会談の時点で池田や丹羽らを味方につけて派閥を形成して
秀吉のおもうがままに会談を主導。
結果、秀吉(秀長も京以西から河内まで)が大版図を獲得し領国を形成
(大和一円も貰った筒井も秀吉に入魂になっているなど多数派工作を進めていた)
信雄と信孝が名代を争っていたから、結局、三法師後見役も決めていない。
清洲での宿老合意の原則を無視する秀吉は信長生存時からの織田家の敵と戦うことをせずに
宿老会談で政策をはかることもなく、ことごとく勝手に政策を決めていく。
そして一刻もはやく安土へ三法師を移動させることを策する(安土が再建され畿内が静謐になるまで待てない秀吉)
五畿内ことごとく人質を取って磐石な体制を構築する秀吉。
信雄有利の大河切りを秀吉は支持し、信孝有利な河切りの境目を否定し兄弟対立を煽る秀吉。
柴田は双方からちゃんと話を聞いて、奉行を派遣して話合おうと提案している。
堀は三法師ともども岐阜にいるらしい(信雄の千福の仕官話の書状から考えると丹羽も?)
柴田は堀に宿老全員合意の原則を掲げて安土へ御座を移す話をしている。
秀吉の勝手な葬儀が事実上の宣戦布告。それの批判を受けて秀吉が誰が天下の主になるか腕比べしようと挑発。
石川数正への書状によれば、重臣対立の結果、
安土へ三法師がこないことで長く、織田家督者が実質空位で立っていない状態になってので
信雄を安土へ入れ御代にするなど織田主君を秀吉の意のままに廃君し別に擁立する暴虐ぶりを発揮。
(良識に従えば三法師のいる信孝や柴田側にこそ大義名分が存在する)
しかも信孝を降伏させたあとに三法師まで人質として取っている秀吉。
三法師を廃止し坂本城へ幽閉し織田家滅亡
木造家の傀儡北畠信雄政権樹立
秀吉の意を執行する家臣を信雄が殺したのでいちゃもんつけて攻め込み、苦戦したので無理矢理顕如使って和睦させ領土奪う
小田原陣後に信雄を小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放
秀吉が朝鮮役での大陣容を見せ付けたいがために旧主筋だった信雄を呼び出し息子に秀の名を与え秀雄と称させ5万石の領地を与える。
秀信13万石と秀雄5万石は関が原の戦い後に改易(どちらも織田宗家ではない)
秀信は高野山からも信長の所業を理由に拒絶され野たれ死に
秀雄は1602年に野たれ死にそうなのを聞いた徳川秀忠の好意により蔵米3000俵を恵んでもらったが栄養失調のため27で死去。
困窮した信雄は大坂城で生活保護を受けることになる。
291 :
人間七七四年:2013/05/11(土) 15:42:15.64 ID:BgjVSoI8
いつの時代、何処の国でも独裁者は執念深い
家康も例に漏れず執念深いし、織田家への冷遇を見るに
信長に従属させられていた事に対し相当な不快感を持っていたのだろう
292 :
人間七七四年:2013/05/11(土) 20:03:44.08 ID:SLhT5eND
信長は少なくとも織田宗家を滅ぼしてますが
293 :
人間七七四年:2013/05/11(土) 20:50:36.16 ID:YlSjRl/9
そもそも清洲同盟じゃないとダメな事なんてあったのか?
一門として氏真助けて今川牛耳りながら
武田と結んでも良かった気が、、、w
294 :
人間七七四年:2013/05/11(土) 22:23:45.75 ID:qhqMAYSU
今川から独立したかったんじゃね
確か三河物語に今川に冷や飯食わされてて恨みがあったとか書いてあったはずだし
295 :
人間七七四年:2013/05/11(土) 22:42:15.22 ID:MCWg2Cn5
今川に恩があるなら今川を立て直すために織田を攻め滅ぼすくらいのことするもんな
現実は今川なんぞ一顧だにせず即独立 今川に厚遇されてたとかいうのはメルヘンの世界である
顔は目立つからボディにしな!という加害者今川側の視点でしかないのだ…
296 :
人間七七四年:2013/05/11(土) 23:20:53.00 ID:Wir+8bBM
義元が殺された時氏真に私が先陣を切りますので父上の仇を討ちましょうって何度も誘ったらしいね
動かないのわかると、信長に接近した
筋を通すあたりが狡猾な家康らしい
297 :
人間七七四年:2013/05/11(土) 23:21:01.54 ID:DkhPIC16
家康と松平家は今川から厚遇されていたさ
ただ三河の他の諸豪族からしたらそうではなかった
そして当時に家康は彼らの意見を無視できる強さはなかった
298 :
人間七七四年:2013/05/12(日) 00:40:06.72 ID:c6oygCrZ
つまり氏真は信雄以下ってことだね(笑)
299 :
人間七七四年:2013/05/12(日) 05:58:42.75 ID:yCCIYbOu
300 :
人間七七四年:2013/05/12(日) 08:51:42.46 ID:kDxYCusz
>>294-295 つーか松平氏に今川氏からの恩なんて無いだろう
別に今川の分家でも無ければ、取り立てて貰った譜代でもない。
領地削られた上に、本拠の岡崎城まで取り上げられてたんだし。
301 :
人間七七四年:2013/05/12(日) 09:30:57.83 ID:YRxMmNMZ
でも三河者もヒドイんですよ
二代続けて主君をブチ頃したんですから
302 :
人間七七四年:2013/05/12(日) 10:40:21.42 ID:kDxYCusz
それが氏真に従うかどうかには大して関係ない
303 :
人間七七四年:2013/05/12(日) 10:44:52.42 ID:dzumH+/4
信長死後に返り咲いた織田一族は少ないけど、晩年の信雄は勝ち組に見えるが。
>>301 親父の広忠は病死説もあった筈。
304 :
人間七七四年:2013/05/12(日) 12:36:26.12 ID:SgB31B29
>>300 確かにそうだな。
名ばかり管理職的な厚遇なのかも(′・_・`)
305 :
人間七七四年:2013/05/12(日) 22:43:03.15 ID:b+QXMTxX
>>300 織田の侵略から領地を守って貰ってただろ
そもそも織田の侵略を防ぎきれなくなったから、広忠は今川に臣従して支援を受けていた
家康などは織田に身柄を拘束されていたのを今川によって救出されている
今川の庇護がなかったら松平は滅亡していた
これで恩が無いとか言ったら恩知らず過ぎるだろう
306 :
人間七七四年:2013/05/12(日) 22:53:23.52 ID:rW0HZ/lY
織田と今川に挟まれてる弱小豪族松平
へたすりゃ元就みたいにじじいになるまで小豪族止まりだったかもな
義隆と義元 いいところで死んでくれた
307 :
人間七七四年:2013/05/13(月) 00:38:27.58 ID:DfYDx5vI
>>305 領土の一部を差し出して、それで守ってくれたなら恩かもしれんが
家臣団解体、更に本拠を含めた領地を丸々取り上げておいて恩も何も無いだろw
岡崎城の城代にすら任命してもらえなかったんだぞ
308 :
人間七七四年:2013/05/13(月) 00:49:43.31 ID:y1Dqk4jw
>これで恩が無いとか言ったら恩知らず過ぎるだろう
受験で言ったら、早稲田と慶応(今川と織田)に合格した慶応ボーイが
「もし慶応に落とされてたら、底辺人生だった( ´△`)」
とでも思うのか?
普通に早稲田に入学するだけだろw
309 :
人間七七四年:2013/05/13(月) 12:54:53.46 ID:GEMHQYuK
>>307 御家滅亡より遥かに良いだろ
城代もなにも、今川の支援がなければ城自体を全て失う事になっていたわけだし
それに今川は多くの血を流しているのに、少しばかりの領地差し出して済ませようなんて虫が良すぎる
戦で手柄挙げた臣下に褒美も与えられないではないか
310 :
人間七七四年:2013/05/13(月) 14:40:08.45 ID:nwkvxL0d
今川は元康が成長するに従って徐徐に支配権を移譲している
松平の領地を自分のものにするつもりなら、織田に攻められて逼迫している時に反対側から攻め潰してるよ
それをやらなかったのは松平氏ごと三河を取り込む狙いであったにほかならない
だから最早何の力も持たない竹千代を一門に加えて丁重に扱っていた
311 :
人間七七四年:2013/05/13(月) 17:01:11.27 ID:CtrmXJOx
そこまで落ちぶれてたか?
内乱状態でもなかった気が駿河w
312 :
人間七七四年:2013/05/14(火) 08:21:21.80 ID:k4DM3jOQ
もうマスゴミは落ち目のチョンや支那に媚びなくなってきたのか
313 :
人間七七四年:2013/05/16(木) 19:17:10.32 ID:34ogbUFk
314 :
人間七七四年:2013/05/17(金) 02:07:58.77 ID:SqmIhTZ0
今川は恩人に間違いない
義元の姪まで正室に貰ってこれ以上の厚遇はないだろ
義元が桶狭間とは別の死に方しても家康公は独立できたと思うな
315 :
人間七七四年:2013/05/17(金) 02:12:21.57 ID:55FmaFyu
今川に恩なんてないだろ
今川を嫌ってたのは大久保が散々回顧録で書いてる
むしろ今川が松平利用して織田との戦有利に進めようとしてただけ。
316 :
人間七七四年:2013/05/17(金) 04:47:31.05 ID:tO+gZ0xU
恩はあるけど嫌い、なんてのは世の中にはよくある事じゃな
317 :
人間七七四年:2013/05/17(金) 09:51:58.48 ID:91kH8xK/
氏真が領土支配権を失ったあとは、家康は氏真を保護してるし、子孫は高家に取り立てられてる。
まあ、名門としてそれなりに処遇されてるから、家康としては、義元の恩義も感じていたんだろう。
318 :
人間七七四年:2013/05/17(金) 10:10:26.10 ID:1UkJq9TE
強く敵対して無かったから
元主筋として遇しただけじゃね?
信長にはそういうのあったのかな?w
319 :
人間七七四年:2013/05/17(金) 17:33:51.45 ID:bjh+Zz6C
織田家と今川家で人質生活送っていて、元服してからは今川家のために一生懸命働いた元康は健気
320 :
人間七七四年:2013/05/18(土) 00:46:31.39 ID:neL/8Yx3
松平次郎三郎元信
321 :
人間七七四年:2013/05/18(土) 14:30:13.79 ID:jdM/VGBh
足利義満(3代目足利将軍、1358〜1404)年表
【1351年】高師泰・高師直他高一族8人が、摂津国武庫川で殺害される
【1351年】仁木義長(兄の仁木頼章は幕府執事(管領の前身))が、三河守護(前任は高師兼(高師直の猶子)になる
【1357年頃】明阿(父:高師泰、夫:高師冬(高師直の養子))が、三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)に、一族を菩提する総持寺を創建する、住持は兄・高師世の娘
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【1358年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)の屋敷で生まれる
【1360年】大島義高(新田氏流)が三河守護になる(新田義重―里見義俊―義成―大島義継―時継―盛義―義員―義昌―義高)
【1367年】足助重宗(足助重範の孫)の子・重政(寛立上人) が、松平郷主・在原信重の支援を得て、三河国加茂郡松平郷に寂静寺(高月院の前身)を開創する
【1368年】管領・細川頼之を烏帽子親として元服する
【1368年】三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)に、天恩寺を創建する、足利尊氏遺言の寺、開創は永源寺2世弥天永釈、4代目将軍足利義持の祈願所
【1369年】三河国宝飯郡御馬郷(愛知県豊川市)に御馬城築城を、管領・細川頼之に命ずる、頼之は弟の頼有に命ずる
【1370年】三河国設楽郡(愛知県新城市)に甘泉寺創建か?、天恩寺と同じ永源寺2世弥天永釈開創、御朱印高48石、山林境内20余町歩を寄進する
【1379年】管領・細川頼之失脚、斯波義将が管領になる(康暦の政変)
【1379年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)を政所執事に任ずる
【1379年】一色範光(侍所頭人、若狭守護、、尾張国知多郡・海東郡の分郡守護)を三河守護に任ずる
【1380年代】管領・斯波義将が、斯波氏先祖代々の墓所がある三河国碧海郡(愛知県岡崎市)に、永源寺の創建を申し出る、これを支持し将軍家安泰を併せて祈願
【1380年代】三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺本堂(4度目)を建替える
【1382年】源信氏(細川一族か?)が義満誕生日祈祷の為、三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)など4ヶ所を天恩寺に寄進する
【1387年】三河国額田郡下和田郷(愛知県岡崎市)を、京極高詮に還付する
【1388年】富士山遊覧、三河国額田郡(愛知県岡崎市)の矢作宿に宿泊する
【1388年】一色詮範(侍所頭人、若狭守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1390年】管領・細川頼之が、三河国額田郡細川郷(愛知県岡崎市)の屋敷跡に、蓮性院を創建する
【1390年代】足助重宗(足助重範の孫)に、尾張国野間荘を還付する、当時の野間荘は、高師直領を将軍家預かりとなっていた模様
【1391年】伊勢貞行(伊勢貞継の孫)を御料所三河国額田郡山中郷(愛知県岡崎市)の代官に任ずる、山中郷の法蔵寺は6代目将軍足利義教の祈願所
【1392年】細川頼之死去、葬儀は義満が主催して相国寺で行われる
【1394年】出家する
【1397年】三河国碧海郡(愛知県岡崎市)の永源寺(創建:斯波義将)に、後に建仁寺61代住持となる玉岡和尚を住持職に補す
【1397年】三河国渥美郡(愛知県田原市)を京極高詮に還付し、守護使不入の地とする
【1399年】三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)の乙川六名堤造営を、管領・畠山基国にを命ずる、下和田郷が水不足に陥り、領主・京極高詮から苦情が入る
【1399年】三河国額田郡比志賀(愛知県岡崎市)の深恩院に、高一族の比志賀郷の旧領を寄進する
【1404年】松平和泉守源信光が誕生する
【1406年】一色満範(義満偏諱、侍所頭人、若狭守護、丹後守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1408年】死去する
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
【1440年】松平信光(3代目松平氏当主)、三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺寺領内に、神のお告げで万松寺を創建する
322 :
人間七七四年:2013/05/19(日) 19:59:42.22 ID:fxdy6NI0
323 :
人間七七四年:2013/05/20(月) 21:13:56.42 ID:wVhXhxb5
生涯一度だけ窮地に陥った三方原の戦い
もし家臣団の助言に従い籠城したら後の家康は無かった?
324 :
人間七七四年:2013/05/20(月) 22:10:35.38 ID:hD8p0guS
離反しそうな武田がガタガタだから平気そうw
325 :
人間七七四年:2013/05/21(火) 00:33:40.03 ID:irgbxsff
>>323 金ヶ崎の殿戦や伊賀越えも絶体絶命だったはず
326 :
人間七七四年:2013/05/21(火) 10:24:37.83 ID:s1kGdrAG
三方ヶ原の窮地は受動的に発生した事態というより自分の決断によって招来したものだから
家康にとっては特別で学ぶべきことも多かった
327 :
人間七七四年:2013/05/21(火) 14:13:46.08 ID:GjfE1Pax
下手に籠城してたら、結束緩んでガタガタだったんじゃないのかよw
実際には信玄が死んで、武田がそれ以上にガタガタだったから
結果オーライだったというオチ (´・ω・`)
328 :
人間七七四年:2013/05/21(火) 20:03:34.23 ID:1i7rhP6M
徳川家康はなぜ、系図を無理やり得川を変えたり、したりしたのか?先祖がエタ説が有力ですが、
誰か知りませんか?
329 :
人間七七四年:2013/05/21(火) 23:03:55.65 ID:irgbxsff
@三河守に叙任されるために系図の改変が不可欠だった
A征夷大将軍と氏の長者に叙任されるには源氏の系図が必要だった。(足利義満くらいから源氏が慣例だよね)
B関東に君臨すりには源氏のほうがいい
とりあえず適当に
@は間違いない
330 :
人間七七四年:2013/05/22(水) 01:04:31.00 ID:m+8/uRVu
>328
アンチなんだろうけど一応。
エタって言ってるけどあなたの考えてるエタとは違うとだけ言っとく。
多分、エタの血が入ってるからプギャーしたいんだろうけど。
家康や秀吉は超有名で、学術的にも研究が盛んだからこういうことが出てくるんだろうけど
他の武将とかは「何々家はどこどこの子孫と言われています。」で完結しててあまり深く研究とかされてない人がごろごろ。
深く調べていくと実際は違いましたって、出てくると思うよ。
あなたの好きな武将がどこの馬の骨ともわからない輩だったらどうするの?嫌いになるの?
ていうかイケメンだから好きなの?人気があるから好きなの?
自分いろいろ徳川家の出自を大まかにさらっと調べてるけど訳がわからんのよ
結局サンカって何よってなるし
別スレでは家康は山賊の末裔って言ってる人がいたけど、この発言した人自体理解してなさげ
もしかして
>>328があっちこっちで発言してるのか?
wikiでは、サンカは定住しないで山間部を移動ってあるけど山賊ではないよな?
河原者は河原周辺に定住してたってあるし、サンカと河原者ははっきり違うものだ
サンカや河原者の言葉の定義自体まだ明確じゃないのに、言葉が勝手に一人歩きしてる段階かな
とりあえず朝日新聞記者は戦前から色んな捏造してたんだってことだけはわかったw
母系だと松平は賀茂神社の氏子だけど葵紋もここからだよね
本多家に譲ってほしいって頼み込んだ逸話もあるけど
この話の場合は、本多家が賀茂の神官の家系っていうのもついてくる
個人的にこの頼み込んだ話は本多家のうちのご先祖様ヨイショかなって思ってる
松平郷自体賀茂神社の神領みたいだし
あと地元豪族のところに謎の遊行僧・徳阿弥が来たってなってるけど、
遊行僧ではなく、謎の河原者が地元豪族の娘に簡単に近づけるの?
サンカだとなんで山間部じゃなくこの松平郷に来たんだ?って謎が・・・
徳阿弥さんが松平氏に自分は遊行僧(もしくは源氏)ってハッタリをかましたのか・・・
一族の中で一色氏の娘を嫁に迎えてるけど、この出自で貰えるのかとか疑問が・・・
331 :
人間七七四年:2013/05/22(水) 02:46:10.70 ID:vYxhjHa9
親氏が新田源氏だってのは皆否定するのに親氏の存在自体は否定されない風潮
正直神武天皇とどっこいな気がするんだが
332 :
人間七七四年:2013/05/22(水) 19:23:53.52 ID:Xr2XpaTP
>>318 直属の主筋(他の織田一族)は滅ぼした
更にその上の斯波は家来にしといた
って所だな
333 :
人間七七四年:2013/05/23(木) 21:26:40.85 ID:395BoQSf
斯波氏って具体的に誰?
334 :
人間七七四年:2013/05/25(土) 11:11:52.97 ID:CefPG99P
徳川家康か〜
こいつ神君て自分で神名乗ってるだろ
綱吉の犬公方ってのも指すのあれ犬じゃ
なくて人間だろ
なんかしょうもねえのばっか
隠してるだけでずっと源平合戦続いてるだろ
335 :
人間七七四年:2013/05/25(土) 11:19:29.78 ID:CefPG99P
風魔だのなんだのでてくるだろ
こういうのみんなそういう系統だろ
336 :
人間七七四年:2013/05/25(土) 13:14:18.27 ID:otca3Bid
劣等生?の家光を長幼の序したのとか
組織政治&お飾り将軍にして、
滅ぼされないようにしたと俺は理解したんだけどなぁ?
昭和天皇が責任問われなかったのも
戦争する為の実権持ってなかったからw
337 :
人間七七四年:2013/05/27(月) 19:58:00.74 ID:qnaeSWze
お前らの神君家康公の好きな時期は?
俺は三河から遠江に移り、奥平氏に勧誘工作して成功した頃だ
338 :
人間七七四年:2013/05/27(月) 22:59:16.49 ID:YjpjLhqF
浜松城築城の頃だね。
俺は本能寺の変後の甲斐信濃を制圧するとこかな。北条上杉蹴散らして五カ国の太守に君臨していよいよ対秀吉にいくとこ。胸熱
339 :
人間七七四年:2013/05/27(月) 23:17:18.94 ID:4ahT3crD
私は桶狭間の後岡崎城に入城する時かな
いよいよこれから始まるなって感じで
340 :
人間七七四年:2013/05/27(月) 23:49:01.33 ID:eGeEbNeo
最近好きなのは豊氏政権の中で頑張って調整役をやってるところ
はい、どう見ても某やる夫スレの影響です本当にありがとうござ(ry
341 :
人間七七四年:2013/05/29(水) 17:53:03.74 ID:ojwxeQro
寧ろ桶狭間起きなければもっと楽に天下取ってたな
寧ろ自力で天下布武もできただろうな
342 :
人間七七四年:2013/05/29(水) 19:31:08.51 ID:qaiffCk/
氏真「ああん!?」
343 :
人間七七四年:2013/05/29(水) 20:21:04.08 ID:1mcjtaRR
桶狭間なんて軍記にしかないような存在自体疑わしい戦なんてどうでもいい
今川が弱体化するのは遠州騒乱がおきたからであってそれまでの今川は全く衰退してないし
信長公記の桶狭間合戦は1551年だから年代自体が間違ってて全く史料的価値はないし
344 :
人間七七四年:2013/05/30(木) 07:41:09.10 ID:iZC72wBV
信長公記ってゴミだなw
345 :
人間七七四年:2013/05/30(木) 10:13:49.93 ID:07mlV587
それで幸せになれるならそう思っていればいいんじゃない?
346 :
人間七七四年:2013/05/30(木) 11:11:17.11 ID:yVzcYX12
そう思ってればも糞も実際そうなんだろ
年次レベルで重要合戦に誤りがあるような糞資料なんて参照したって意味がないし
347 :
人間七七四年:2013/05/30(木) 11:12:56.38 ID:NLkeaN4h
348 :
人間七七四年:2013/05/30(木) 11:41:02.47 ID:iZC72wBV
織田厨は他家資料をさんざんディスってきたからね
そんで自分に降り掛かってくるとスルーするゴミだねw
349 :
人間七七四年:2013/05/30(木) 12:16:08.66 ID:5l7HKzvY
かまってほしいでござる
350 :
人間七七四年:2013/05/30(木) 16:33:09.18 ID:b6KnCwpS
そんなバカ構ってる暇があるなら
>>336 を構ってくれよ ( ´△`)
個人の責任にせず、子孫根絶やしされない
画期的手法だぞ(σ^▽^)σ
351 :
人間七七四年:2013/05/31(金) 10:43:43.74 ID:9qX9dYOv
>>337 時期というか、ほんの数分の出来事で家康公が何かしたってわけじゃないけど、
夏目さんが身代わりで戦死したところが好きだな。
家康公本人が本当に言った遺訓かどうか不明だが、
まさに、人の一生は重き荷を背負いて遠き道を行くがごとし。
352 :
人間七七四年:2013/05/31(金) 22:00:06.52 ID:4SaEEXWO
尾張徳川家の末裔が何と言おうと家康本人の言に間違いない
ダイソーに楯あるぞ
353 :
人間七七四年:2013/05/31(金) 23:03:27.38 ID:Qp5wKJAC
夏目は家康公の兜を無理矢理剥ぎ取ってかぶり敵陣に突っ込んでいった…
夏目「徳川三河守ここにありー!」
泣いた…
354 :
人間七七四年:2013/06/01(土) 11:48:00.23 ID:UM/4FyOw
命じられたワケじゃないからか
待遇悪いよな。
355 :
人間七七四年:2013/06/01(土) 23:17:17.74 ID:NTTQoskF
■日光山
源頼朝がその母方の熱田大宮司家の出身者を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた
源頼朝
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→娘(由良御前)→源頼朝
母方の熱田大宮司家の出身者(源頼朝の従兄弟)
寛伝(寛典・観纒とも、額田僧都、式部僧都と称された、日光山満願寺19世座主)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝
年表
・1142年、生まれる
・叔父の三河法橋裕範(源頼朝の母の弟)、粟田口法眼長暹(源頼朝の母の弟)を頼って滝山寺(愛知県岡崎市)で仏門に入る
・仁和寺で修行
・1182年、源頼朝の推挙により日光山満願寺19世座主になる
・宗徒と面会する際、御簾を半分にしか上げず紛紜、2ヶ月で三河国(愛知県岡崎市)に戻る
・菩提寺の滝山寺(愛知県岡崎市)僧侶になり、66郷を領し精舎一区を創建する
・鑁阿寺奥院の法界寺に、宋版の一切経を納める(後に一切経は、足利義氏により鑁阿寺に)
・高野山御影堂に大鐘を施入する
・1201年、頼朝公の3回忌、滝山寺内に惣持禅院を創建し、本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩を安置する
・惣持禅院に供僧10人を常置し10町の土地を寄進する
・1205年、死去する
356 :
人間七七四年:2013/06/02(日) 23:15:06.30 ID:cSSJlor3
3人で1セットの人か。
357 :
人間七七四年:2013/06/03(月) 00:58:49.05 ID:5yJq7MiO
__
 ̄ ̄ ̄二二ニ=-
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_,,-','", ;: ' ; :, ': ,: :' ┼ヽ -|r‐、. レ |
_,,-','", ;: ' ; :, ': ,: :' d⌒) ./| _ノ __ノ
358 :
人間七七四年:2013/06/03(月) 01:01:48.69 ID:5yJq7MiO
誤爆スマソ
359 :
人間七七四年:2013/06/04(火) 16:01:53.63 ID:SxPwkCML
先人たちの底力 知恵泉(ちえいず)
天下無敵の交渉術「太原雪斎の交渉術」
tv.yahoo.co.jp/program/72093163/
今夜だぞ。
360 :
人間七七四年:2013/06/04(火) 22:33:48.55 ID:jhwbCMrU
歴史に詳しい諸先輩方教えて
本能寺の変後家康は本国に戻って信濃と甲斐を併合しましたよね
その時北条や上杉、あるいは信長軍の残党とは戦闘あったのでしょうか?
あったとしたらどれくらいの規模(軍団の数)だったのでしょうか?
教えてくださいまし
361 :
人間七七四年:2013/06/04(火) 22:35:51.62 ID:7m6mM3i3
362 :
人間七七四年:2013/06/04(火) 22:36:15.76 ID:G4VyAiAd
「天正壬午の乱」を調べなさい
363 :
人間七七四年:2013/06/04(火) 23:00:03.29 ID:MNFMGLF1
>>360 とりあえず平山優の「天正壬午の乱」を読んどけ
364 :
人間七七四年:2013/06/04(火) 23:24:10.77 ID:jhwbCMrU
おお皆様ありがとうございます
早速調べます
365 :
人間七七四年:2013/06/06(木) 12:56:50.06 ID:x6TUYOc4
上の雪斎番組
・武田の三条嫁入り
・3国同盟
とかでエサぶら下げて交渉しただけで
手習いの間で家康公に引継がれたとか
無茶苦茶な話だたw
366 :
人間七七四年:2013/06/06(木) 23:21:54.98 ID:mrcK7gjD
家康の子供うちで誰が一番戦上手なの
367 :
人間七七四年:2013/06/07(金) 01:38:18.18 ID:4i/nTADg
普通に考えれば信康
「やれやれ、この歳になって骨の折れることだ
せがれがいればこうはなるまいに」
368 :
人間七七四年:2013/06/07(金) 22:19:05.74 ID:CqSMZHMx
このスレさすがだな、俺もそう思った。
4男だっけかも強くなかったっけ?
369 :
人間七七四年:2013/06/07(金) 22:43:37.39 ID:n+skzxny
四男は忠吉。けど関ヶ原の初陣が最初で最後。
信康以外ほとんど実戦経験ないから評価できねー。
御三家なんか合戦してないよね?
370 :
人間七七四年:2013/06/07(金) 23:48:56.80 ID:fNC1Axr1
秀康だろ。
371 :
人間七七四年:2013/06/08(土) 00:40:23.67 ID:4EPSKEey
>>369 大坂の陣には出てるけど、まともに合戦はしてないだろうな
372 :
人間七七四年:2013/06/08(土) 06:16:54.18 ID:7x1dPUdN
大阪の陣で、家康がいかに無能な運だけ野郎か、もろバレ
373 :
人間七七四年:2013/06/08(土) 08:10:14.93 ID:5c6AlZXN
大阪の陣ってあれだけ大規模で堅固な城攻めにもかかわらず短期間であっさり終結した大阪方の無能さが光る戦闘じゃん
374 :
人間七七四年:2013/06/08(土) 08:14:35.17 ID:h0FFRtEz
秀吉だったら数年かかっても陥落できなかっただろうな
何せ松ノ木城とか浜田城とか砦レベルの1000もいないだろう雑魚城郭に一年一杯かかって手も足もでず
三木城小田原城高松城忍城などいたるところで規格外の大軍を用いて苦戦しまくり
常に数ヶ月半年一年2年とか果てしない時間と莫大な人件費物資犠牲にして戦死者も大量に出すアホ攻城力しかない馬鹿だし
375 :
人間七七四年:2013/06/08(土) 09:14:02.75 ID:CJp8RFYP
ケチな家康公の場合
負けない戦しかしないとも言うけどなw
376 :
人間七七四年:2013/06/08(土) 10:37:55.44 ID:Bq4Hrvou
むしろ相手より少ない兵数の不利な状況下でばかり戦っている
三方ヶ原「死ななかった」
小牧・長久手「負けなかった」
関ヶ原「相手方の裏切りでやっと勝てた」
大坂の陣は兵数有利だが、「城攻め三倍」の原則には足りていない
しかも相手は「天下の要塞」大坂城
一旦講和して堀を埋めるしかない
377 :
人間七七四年:2013/06/08(土) 10:43:34.27 ID:GMszJtbn
小牧長久手は負けなかったというより大勝だし(秀吉は信雄に7.5倍の兵力で挑んで1万人殺された上に
その後の蟹江浜田松ノ木河波戸木前田下市場長久保神戸東駒野と負け続けて寝返りの連鎖と徳政連発で崩壊状態の
尾張を半国すら切り取れず立ち往生してる有様)
今川戦も今川のが大軍だし天正壬午も北条のが大軍だしなぁ
あと関が原は序盤から優勢だったと島津の薩藩旧記雑録に書いてるね
378 :
人間七七四年:2013/06/08(土) 11:04:30.51 ID:cweBebKY
信康は生涯が短すぎて戦上手かどうかいまいちワカンネ。
だが、泰平の世には忠輝のような荒々しい気性の人間は必要ないな。
379 :
人間七七四年:2013/06/08(土) 11:05:38.43 ID:4EPSKEey
兵力にかんしては後世の想像にすぎないからマトモにとるのもどうかと思うな。
380 :
人間七七四年:2013/06/08(土) 11:15:56.32 ID:hD9/u7Vp
だから秀康だろ
381 :
人間七七四年:2013/06/08(土) 11:27:43.33 ID:GMszJtbn
後世の想像とか馬鹿か
ちゃんと史料にあるんだが。
382 :
人間七七四年:2013/06/08(土) 11:31:08.48 ID:9N3Pzd1s
>>378 実紀ソースだけど対武田で何度か出陣して勝頼に「あの信康という小僧はいつか天下に名を轟かすだろう」て言われてるし
采配能力はあったと思ってもいいんじゃないかなあ。それ以前に他の兄弟が戦闘経験少なすぎなんだけど
383 :
人間七七四年:2013/06/08(土) 11:46:32.62 ID:h0FFRtEz
家康が大軍というの自体後世の想像というか妄想だしなぁ
384 :
人間七七四年:2013/06/08(土) 12:48:39.27 ID:n5LF4oiP
まただががID使い分けて自演かw
385 :
人間七七四年:2013/06/08(土) 13:03:57.26 ID:4EPSKEey
だがは平気で嘘を書くからスグにバレる。
386 :
人間七七四年:2013/06/08(土) 16:44:11.47 ID:GMszJtbn
嘘ってなんだ?
具体的にいってみろよカス
387 :
人間七七四年:2013/06/08(土) 16:45:31.23 ID:h0FFRtEz
家康が天下とったという事以外は全て後世の想像だからね
388 :
人間七七四年:2013/06/08(土) 16:50:08.08 ID:n5LF4oiP
ID使い分けるのも労力いるだろうにwww
もっとまともなことに振り向けたらwww
389 :
人間七七四年:2013/06/08(土) 17:11:48.57 ID:5c6AlZXN
ID:n5LF4oiPみたいな馬鹿がいるから一応説明しとくけど
小牧長久手の戦いの兵力に関しては秀吉に同行していた渡辺清忠や桂横重が小牧山に陣替したときの人数を10万といっており当代記、三河物語もこれと同じ数字
その他に伊勢方面を攻めている秀長勢2万4000(敗戦の翌日に楽田に到着したと秀吉が書状で書いてる)に、南伊勢の戸木城攻めに当たってる兵力(数は不明だがおよそ5000くらいか?)
と美濃に残されている秀勝勢6000が存在するため 総勢で13万5000を超えると思われる
また尊禄以来年代記では秀吉は3月に大阪をたった時125000、八月には16万で尾張へ出兵したとかかれ長久手合戦参加者の家記や家譜、合戦記などでも同じ数字が用いられている
そして陣立書や書状から下記のように秀吉側は主要メンバーほとんど引きつれて短期決戦構想で
合戦に及んでいる事がわかる
黒田官べえはきてる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。 合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる (4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)
松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる
伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。 堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀 池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。 丹羽長重も派遣されてる。 信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も それに合わせ多く兵残してる。
秀吉方は秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、
蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、 長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、
蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、 越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、
390 :
人間七七四年:2013/06/08(土) 17:12:34.86 ID:5c6AlZXN
長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内
彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる
3月13日の丹羽長秀宛書状では『14、5日程で一気に酒の酔いを醒ますごとく決着つけてやる』と言ってるししかも大軍結集してるから実行にも移してる。
敗戦前日の丹羽宛書状等複数の書状では『家康さへ討果候へは』とあるし龍泉寺に向かう途中での柏井、大草の根城に山内一豊、
生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦も
その一貫であり自分の意思で池田等の兵力を三河に向け発向させる予定である旨を報じてる。
北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀かねに同道してた
渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』と記してる。その後も秀吉の決戦構想はは秋頃まで一貫してて11月の信雄との和睦時ですら
「家康には恨みが深いので年内であっても攻め滅ぼしてくれん」とか言ってる。伊勢にいた軍勢北尾張に呼び寄せてるし留守居に最低限の兵
残して北尾張に秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄、細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、
赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、 小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、
蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、長久手方面進軍者を除きこれだけ
主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内 彼らが柏井の屋敷に在番してる。
上記の最低限の留守居除く全て総力でかき集めたといっていい
21日に美濃池尻に来た時は125000(細川軍記)100000(当代記や野坂文書)これだけ大軍を連れてきたとある。伊勢の兵も四月にはだいぶ尾張に進めてるし。
それから詳細な地図ないから説明しずらいが犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでてそこにも兵をある程度配置してると思われるし、さらに楽田〜龍泉寺までの大草、柏井、篠木にも屋敷が普請さ れている
(長久手合戦の陣立書や3/11秀吉→木下判物3/13秀吉→丹羽3/17羽柴秀吉人数書立
3/19毛利輝元→大多和副宗衛尉、3/20秀吉→池田3/22渡辺清忠→元行3/26秀吉→黒田長政
3/29秀長→秀吉4/8秀吉→丹羽、同日秀吉→毛利4/10筒井書状4/11秀吉→木曽、長船、富岡
同日あて先不明書状、4/12秀吉→富田八重羽津田)
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、駿河と相模の境の
長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)、
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の
水野忠重等信雄の兵。したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
391 :
人間七七四年:2013/06/08(土) 17:17:54.16 ID:5c6AlZXN
今川戦での兵力はよくわからんが、国力考えれば今川のが圧倒的に大軍だろうね(今川は駿河遠州三河の大部分だが
家康は西三河のほんのちょこっとの部分持ってただけだし、今川は遠州騒乱まで全く弱体化してないのに対して、家康は三河一向一揆の火種までかかえてた)
また天正壬午の兵力に関しては徳川方は当代記や三河物語、北条方の書状でおよそ8000〜10000と書いてたはず
北条方は三河物語では45000(これは多過ぎると思うが)また家康自身が若御子の対陣の時相手方を20000と書いており、またその後氏政が氏直の退路がたたれるのを心配し
氏勝勢6000を送ると書いており、北条が大軍だったとわかる
また関が原の戦いは、石田三成人数書立で西軍方は畿内方面だけで18万もいることがわかる(徳川方兵力はよくわからん)
392 :
人間七七四年:2013/06/08(土) 17:27:18.71 ID:n5LF4oiP
1行目の煽り文句以外は全部コピペwww
無駄なことに人生使ってるなwww
393 :
人間七七四年:2013/06/08(土) 17:29:51.50 ID:l4AiGzEo
その三河を持っていた家康が8000〜10000なのに桶狭間の戦いのとき、
豊かな尾張の大部分を領有していた信長が2000〜4000とはこれいかに。
394 :
人間七七四年:2013/06/08(土) 17:34:25.28 ID:4EPSKEey
>>393 だがの戯言は置いといて、桶狭間の頃の信長領って尾張の半分以下じゃね?
395 :
人間七七四年:2013/06/08(土) 17:39:10.73 ID:h0FFRtEz
>>393 天正壬午の時は三河遠州駿河と甲斐(一応占領し終えてた)全てそろってやっと1万だからな
(駿河の兵は反乱の影響で動員できないとする説があるが)
あと桶狭間の兵力は完全に講談軍記創作なので、2000とか4000とか普通にありえない
当時の今川と織田の国力はほとんど一緒だしそもそも合戦の存在自体非常に疑わしい戦(信長公記のは完全に年代もずれてるし
この後も遠州騒乱まで今川は全く弱体化してない)
396 :
人間七七四年:2013/06/08(土) 17:51:50.74 ID:GMszJtbn
桶狭間の戦いは厳島の合戦や木崎原の合戦と並んで日本三大捏造合戦だからな
軍記にしかない合戦だし
397 :
人間七七四年:2013/06/08(土) 20:27:50.74 ID:gKxvcYgi
>>393 そもそもこの時期の信長なんて今川と斎藤に囲まれて滅亡間近と言われる時期だからな
いくら国力があるからといって負けがわかってる戦に参加する奴はいない
1582年に滅ぼされた武田家もまともに味方が集まってくれず悲惨なことになってるし
当時の信長はそれと同等レベルの危険状態
398 :
人間七七四年:2013/06/08(土) 20:31:53.70 ID:h0FFRtEz
当時の斎藤は浅井と戦っていて六角義治が斎藤と協調しようとするのを土岐氏に配慮する六角義賢が
同盟不成立にさせたりと西側が不安定だったから、斎藤は南下なんて考えてない。
義龍は信長同様に内政や国内整備や宗教統治政策をまったくやらずに放置した道三の悪政から、
改革を押し進めていたから、尾張を内乱状態にさせて信長を封じつつ、宗教統制を改革中に急死。
今川が衰退期を迎えたのは遠州錯乱という大謀反が勃発したからでそれ以前の今川はまったく衰退していない。
だからこそ桶狭間合戦捏造説が成り立っている。また信長公記における桶狭間の戦いは年代が全然間違ってるし第一次小豆坂の戦いにおける織田圧勝も完全に作り話の捏造だしな。
信長は絶対安泰な体制を作ってくれた父の期待を裏切り
(今川との同盟+道三の後見+美濃大垣城+尾張一国+三河にも領地を持つ水野氏を引き継いだ)
399 :
人間七七四年:2013/06/08(土) 22:47:55.56 ID:5qbthxQ9
だが発狂w
世界操作 エージェント松本・村上 シークレットガバメント ロックフェラー帝国の陰謀-見えざる世界政府(原著1976年) 工作員 集団ストーカー で検索。
401 :
人間七七四年:2013/06/10(月) 02:34:50.11 ID:tkrR4U9t
>>377 家康の長久手での勝利なんて、秀次軍が休憩中で食事の準備中という油断しきってる隙を突いた奇襲。
こんなん、織田信雄は指揮してたって、楽勝だ。
しかも堀秀政に反撃され、すごすご撤退している体たらく。
402 :
人間七七四年:2013/06/10(月) 06:54:29.65 ID:NA6IRpwm
油断してる方が悪い
403 :
人間七七四年:2013/06/10(月) 11:13:36.20 ID:f6aJtU/i
家康の先勢が秀次軍を襲った時、秀次軍が休憩中だったなんて書いてる同時代史料は全くない
むしろ4/11の秀吉→長船・富岡宛書状から秀次軍は背後を襲われた事がわかりまた秀次軍が襲われたとき、先手勢は岩崎より南にいたが
秀次軍らは岩崎より北にいた事から、かなり縦長の陣容になってたことがわかる
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
404 :
人間七七四年:2013/06/10(月) 17:46:44.73 ID:NmmdD6hh
↑を5行でまとめる人募集中w
405 :
人間七七四年:2013/06/10(月) 22:14:49.17 ID:xWmVXK0F
>>404 ウリにとって都合の悪いことは捏造ニダ、ファビョーン
406 :
人間七七四年:2013/06/10(月) 22:46:54.54 ID:IbDqaSOR
軍記の引用がありなら合戦経緯もめちゃくちゃバラバラになって全くどれを引用すればいいのかって話になるしなぁ
軍記より信憑性高いと思われる覚書や家記や軍功記でも合戦の詳細部分なんてバラバラだから普通は論文で直接的なソース元としては使われず
補助史料参考資料程度にとどめるものなんだが
407 :
人間七七四年:2013/06/10(月) 22:48:15.55 ID:omPHHX6U
捏造も糞も軍記そのものが後世に書かれた脚色されまくりの捏造でしかないんだが
408 :
人間七七四年:2013/06/12(水) 17:22:14.90 ID:QswQLwmf
家康は簓者から成り上がったってのは本当?
409 :
織田信長:2013/06/12(水) 20:36:23.45 ID:2hv83q+Y
速やかに失い参らせるべく三河殿に伝えよ!
410 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 06:52:01.73 ID:dLTrvEz7
>>403 徳川軍が休憩中の秀次軍を奇襲した史実を、現存しない「同時代史料」という抽象的単語を用いて欺く詐話師。
411 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 08:01:22.63 ID:DrOUkX9u
あちこち荒らし回ってるコピペキチガイに触るなよ。
412 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 09:31:10.55 ID:Kw8OixJa
>>410 なら一次資料をもって証明してみろよクズ
413 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 09:34:24.50 ID:Cc+pUMBM
>>410 お前が捏造した事実だろうがボケェwwwwww
414 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 09:48:07.46 ID:khsxbSUl
>>410 とりあえずお前は無知すぎて話にならんから4/11秀吉→木曽4/9家康→鳥居大久保
4/10信雄→吉村4/10家康→吉村4/10家康→蘆田4/11秀吉→長船の書状でも読んでから出なおしてこい
無知童貞包茎チンカスゴミヲタゴミクズ野郎
415 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 09:52:06.50 ID:Ftov2hdp
>>410 徳川軍が休憩中の秀次軍を奇襲したなどというありもしない捏造を「事実」という抽象的単語を用いて欺く詐話師。
416 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 10:59:03.89 ID:lV5l5HAh
書状には後方から攻められたとあるだけで、休憩中を否定する文言はない
417 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 11:13:57.90 ID:Kw8OixJa
>>416 だから休憩中という馬鹿妄想自体が軍記にしか出てこない馬鹿妄想だっつの。
418 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 11:15:59.43 ID:Ftov2hdp
>>416 お前馬鹿だな
そんなんがありながら長久手戦話とかだと秀吉軍の後詰80000は本多500程度に翻弄されて
龍泉寺方面の後詰を妨害されて見事遅延させられてるので
本多500>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉80000だなw
419 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 11:22:18.17 ID:Kw8OixJa
>
>>416 休憩中なら前方も後方も糞もねぇわw
行軍中だったから後方から攻められたって書いてるんだろうが
都合いい軍記妄想を取り入れてんじゃねぇよボォケwwwww
420 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 12:03:46.33 ID:dLTrvEz7
>>412-417 詐話師がID多用した毎度の分身の術。
現実に存在しない味方の蜃気楼は、お前が捏造した事実だろうがボケェwwwwww。
「数」で捏造を正当化しようとする詐欺手法は、芸能人を広告塔にしてカネを騙し取る犯罪者と同じレベル。
ゴキブリにも劣る下等生物たる無知童貞包茎チンカスゴミヲタゴミクズ野郎の糞所業だ。
文句があるなら一次資料をもって、徳川軍が休憩中の秀次軍を奇襲していないと証明してみろよクズ。
尤も、お前は無知すぎて話にならんから、その「一次資料」の具体的名称すら分かってないのだろうが。
421 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 12:09:44.78 ID:7Kb1mTzb
422 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 12:13:42.29 ID:y95jbXyV
堀秀政が榊原隊を破ったというのは明らかに豊臣方の捏造。
同時代史料にはそんな記述全くないどころか三河物語や水野藤四郎覚書だと
堀鉄砲隊で一時榊原隊は崩れたが、その後反撃して切り崩し堀隊は敗走したと書いてる
つうか堀が榊原を破ってたら池田や森隊と秀次敗残兵を含めて家康・井伊隊を蹴散らせるくらいの兵力には十分なるはず
423 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 12:14:34.88 ID:dLTrvEz7
>>421 だから、その「一次資料」とやらの名称示せ。
実際、見てねぇから分かんねぇか。
424 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 12:18:06.46 ID:dLTrvEz7
>>422 堀秀政が榊原隊を破ったというのは明らかに豊臣方の捏造だと主張している専門家の固有名詞出せ。
いねーか。
蜃気楼の捏造しか取り柄の無い、無知童貞包茎チンカスゴミヲタゴミクズ野郎の妄想だからな。
425 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 12:24:26.11 ID:Cc+pUMBM
>>423>>424 家康の吉村宛書状、平岩宛書状、長宗我部宛書状、秀吉の木曽・佐竹・毛利・伊藤・谷・石川・田中
生駒・一柳・山内・丹羽宛書状
家忠日記当代記三河物語享禄以来年代記言経卿記顕如日記多聞院日記永禄以来年代記薬師寺旧記
本国寺年譜岩崎篭城戦死之記日本西京史宗及他会記高野春秋常光寺年代記
どれ見てもそんな事全く書いてない
はい証明終了
426 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 12:27:40.52 ID:dLTrvEz7
>>425 だから、堀秀政が榊原隊を破ったというのは明らかに豊臣方の捏造だと主張している専門家の固有名詞出せ。
何度も同じ質問させんな。
427 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 12:29:52.08 ID:dLTrvEz7
>>425 徳川軍が休憩中の秀次軍を奇襲していないと主張している専門家の固有名詞も忘れんなよ。
428 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 12:30:03.80 ID:NeyQAy+Q
>>426 そりゃ専門家の意見だって何を参照して書いてるかわからんし史料とどっちを優先するかといったら史料だろ
史料に基づいて専門家も論文を書くのが普通だが軍記の妄想ばかり垂れ流してる小和田みたいな馬鹿も中にはいるしな
429 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 12:33:22.19 ID:NeyQAy+Q
>>427 例えば谷口央氏とかでも秀次の休憩話みたいな軍記講談ソースの馬鹿妄想なんて全く主張してないんだが?
430 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 12:35:36.68 ID:dLTrvEz7
>>428 要するに、
堀秀政が榊原隊を破ったというのは明らかに豊臣方の捏造だと主張している専門家も、
徳川軍が休憩中の秀次軍を奇襲していないと主張している専門家も、
地球上のどこを探しても存在していない訳だな。
流石は、蜃気楼の捏造しか取り柄の無い、無知童貞包茎チンカスゴミヲタゴミクズ野郎だ。
簡単に論破されてやがる。
431 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 12:40:42.67 ID:dLTrvEz7
>>429 では、その谷口央氏は、何と私見を披露しているのか、その著作名と合わせて説明してみ。
読んでねーから分かんねーか。
432 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 12:49:00.14 ID:Kw8OixJa
>>430>>431 もうお前いいから
「何かをあった」と主張する際、「なかった」事を主張するのは単なる悪魔の証明
あったと主張する側が「あった」事実がわかる史料をわかり易く提示するのが基本
「なかった証拠がない」事が「あった事」になるとかそんな理屈はない
それなら殺人事件での容疑者は「やってなかった事」を証明できない限り「殺人した」と証明され、
逮捕、刑罰を受ける事になるな
日本語の基礎から勉強してこい
433 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 12:54:41.42 ID:dLTrvEz7
>>432 都合いい軍記妄想を取り入れてんじゃねぇよボォケwwwww
蜃気楼の捏造しか取り柄の無い、無知童貞包茎チンカスゴミヲタゴミクズ野郎の妄想なんぞ、専門家の範疇外。
拠って、専門家気取りの無知童貞包茎チンカスゴミヲタゴミクズ野郎一人が孤立してるブザマ。
434 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 14:51:21.99 ID:0H2lAzBm
>>432 これは刑事事件じゃない
>>420 休憩中を奇襲したという記述はどこにあるの?
または何を論拠に、お前はそう想った?
435 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 15:06:37.78 ID:Kw8OixJa
>>434 お前は馬鹿だな
アホのID:dLTrvEz7 が奇襲やら榊原VS堀隊のどうこうを「同時代史料がなく後世の創作」という主張に対して
「なかったことを証明できる史料がない」などと馬鹿な妄言をデッチ上げて「だからあった」などという
悪魔の証明がなされない限り史料にない妄想でも事実であるという糞理論を展開したから例えでいっただけだわw
436 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 15:47:39.93 ID:0H2lAzBm
熱くなんなよ、主語述語がねじれてるぞ
あと句読点ぐらい打て
事件のほうが、より厳格だよな
それを例えに持ち出すのは詭弁だろ
437 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 16:00:47.40 ID:Ad+aiOqB
自演するためだけに複数回線もってるなんてすごい贅沢だな
438 :
人間七七四年:2013/06/14(金) 10:39:02.65 ID:uyN9wzfN
なんか、荒れとる…。
家康公の遺訓
「堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもへ。」
439 :
人間七七四年:2013/06/14(金) 13:57:32.05 ID:CJ3DOK1J
両軍いっせいにヨーイドンなら大軍が勝つに決まってる
寡兵で大軍を破るには相手のスキを突くのは定石
織田信長の桶狭間以来、どんな卑怯な奇襲もアリになってる
大軍を動かすときは当然それに備える必要がある
440 :
人間七七四年:2013/06/14(金) 21:43:24.96 ID:h1JWuXyO
あれは卑怯だったのかよw
441 :
人間七七四年:2013/06/14(金) 22:03:33.34 ID:1ulZEhgz
全く卑怯じゃない
敵地のど真中で放火や砦普請や城攻めを行いながら隠密とは程遠い行軍を
普通なら4時間〜6時間くらいで行軍可能な短い経路を三日もかけてのろのろ行軍命令出した秀吉が馬鹿だっただけ
442 :
人間七七四年:2013/06/14(金) 22:07:15.61 ID:h1JWuXyO
いや、桶狭間、、、
443 :
人間七七四年:2013/06/14(金) 23:09:46.66 ID:CJ3DOK1J
当然ながら思い切り美化されるが、相手に戦闘能力を発揮させる余裕を与えず抹殺する、が基本
444 :
人間七七四年:2013/06/14(金) 23:23:03.47 ID:s2VR2N8Z
義経さんのは綺麗な奇襲だったのか
445 :
人間七七四年:2013/06/15(土) 01:31:22.02 ID:MVIKN45J
義経の時代はそれこそ一斉にヨーイドン!じゃなかった?
つか義経から奇襲や夜討ちが暗黙の了解になったように思う
446 :
人間七七四年:2013/06/15(土) 02:51:29.75 ID:hl8wOxqx
小牧山って平野に饅頭おいたような小さな山なんだけど
あそこから隠密に出陣なんて無理だよな
447 :
人間七七四年:2013/06/15(土) 03:03:17.89 ID:RhF3m7Xr
秀吉も徳川方の小幡方面への動きをさっさと感知してたしな
家康の方は岩崎を落とされてから察知して急いで軍勢送ったみたいだが
448 :
人間七七四年:2013/06/15(土) 11:00:59.88 ID:/X77glm7
449 :
人間七七四年:2013/06/15(土) 12:12:18.60 ID:gS4mI86D
450 :
人間七七四年:2013/06/15(土) 14:55:01.84 ID:RSoVz1t8
秀次軍は夜間進行時あまりにも進みが遅かったため秀吉から禁止されてた松明で道を照らす行為を行いこれで徳川に気づかれて襲撃を受けた これは秀次を失態だろう
451 :
人間七七四年:2013/06/15(土) 15:02:57.99 ID:gS4mI86D
陽動成功して家康引っ張り出せたのに何も出来なかった秀吉が悪い
452 :
人間七七四年:2013/06/15(土) 15:03:19.02 ID:RhF3m7Xr
相変わらずお前は馬鹿だな
そんな事どこにもかいてねぇわ
都合悪い事だけ部下になすりつけてんじゃねぇよクズ野郎
453 :
人間七七四年:2013/06/15(土) 15:06:59.15 ID:moe9bHYX
秀吉80000の後詰は本多500に行軍妨害されてほうほうの体で楽田に戻ったからね
しかも一柳宛書状から秀吉は大分早く家康方の動き察知してたけどすぐに軍送らずにまんまと家康を逃がしたんだから100%秀吉の責任としかいいようがない
454 :
人間七七四年:2013/06/15(土) 15:13:11.81 ID:TTezo0Ht
普通に考えりゃ秀次軍の後ろに警戒用の兵2万くらいつけて家康軍に備えてりゃよかっただけでしょ
敵地の中では迅速かつ隠密に行動するのが鉄則で、城攻めを行ったり砦を築きながらゆっくり行軍するなら
それに備えた陣構えで望むくらい普通の指揮官ならするわな
最も気づかれやすい方法で、最も襲撃かけられやすい遅い行軍でもって、家康はそれでも中々気付かず、秀吉方は逆に家康の動きをすぐ察知したのに
軍をろくに迅速に機動・展開せず、展開したら本多500に蹴散らされ、結局本戦で大敗した秀吉は戦下手どうこうといったレベルではなく、無能といっていいレベル
455 :
人間七七四年:2013/06/15(土) 15:17:42.81 ID:tcfy8g64
なんでもかんでも都合悪い事は部下になすりつけようとする秀吉厨は秀吉並のクズだな
わずか10町ほどの眼前にいる敵に対して行った軍事行動が秀吉の責任じゃないなら
逆に他の戦の功責なんて全て部下のおかげで秀吉の功責じゃなくなるな
100%秀吉の作戦が稚拙すぎたから負けただけだろうが
456 :
人間七七四年:2013/06/15(土) 16:02:28.74 ID:zheJkwzT
結局
>>403が全てだな
松明だのなんだのどんな講談妄想でグダグダいちゃもんつけてもわずか10町の眼前にいる自軍に比べてハナクソみたいな兵力しかない戦下手の雑魚信雄に対して
叩き潰すのに十分すぎる兵力差と状況で総決戦しかけて戦術的稚拙さから大敗した事実は全く覆らないわけで。
457 :
人間七七四年:2013/06/15(土) 20:25:15.63 ID:SE70OaKF
458 :
人間七七四年:2013/06/19(水) 23:35:45.67 ID:zVTbfWCN
>>455 だとすると桧ケ根での敗北は家康の責任と言う事か
459 :
人間七七四年:2013/06/19(水) 23:50:45.21 ID:lUeb9qcw
堀秀政が榊原隊を破ったというのは明らかに豊臣方の捏造。
同時代史料にはそんな記述全くないどころか三河物語や水野藤四郎覚書だと
堀鉄砲隊で一時榊原隊は崩れたが、その後反撃して切り崩し堀隊は敗走したと書いてる
つうか堀が榊原を破ってたら池田や森隊と秀次敗残兵を含めて家康・井伊隊を蹴散らせるくらいの兵力には十分なるはず
460 :
人間七七四年:2013/06/19(水) 23:53:03.12 ID:ABSxelWM
確かにそうだね。堀が大敗したからこそ池田や森は単体で戦う事になり、大敗して三人とも戦死したんだろう。
461 :
人間七七四年:2013/06/20(木) 10:51:20.61 ID:pGF/BWmG
なるほど
徳川の負け戦は同時代史料はないから捏造で、勝ち戦は同時代史料がなくても事実と言う訳か
三方ヶ原も上田攻めも武田や真田の捏造
家康は生涯無敗で一つの失態もない
と言う事ですね
462 :
人間七七四年:2013/06/20(木) 11:02:38.33 ID:/cK1mM7f
堀が撤退したのは家康本隊が榊原隊等に向いていた堀隊の後方、
池田・森隊とを分断する位置に前進したから
463 :
人間七七四年:2013/06/20(木) 11:13:23.40 ID:uFulUU05
堀隊は白山林で急襲を受け瓦解した秀次軍と池田・森らとの間にいたはず。
それでもって榊原勢と衝突して勝利したならば池田や森隊と秀次敗残兵で家康・井伊隊を敗走させられる兵力には十分なるはず
それがなぜか楽田の方にいつの間にか敗走してるのは、榊原隊に負けたからに他ならないだろ
現に堀が榊原に勝ったと書いてるのは秀吉側の家譜・家記や軍記ばかりで同時代史料の三河物語や水野藤四郎覚書だと
堀鉄砲隊で一時榊原隊は崩れたが、その後反撃して切り崩し堀隊は敗走したと書いてる
464 :
人間七七四年:2013/06/20(木) 11:23:19.36 ID:tcRPosXH
なるはず
なるはず
なるはずw
465 :
人間七七四年:2013/06/20(木) 11:33:41.76 ID:Ihzk0jSs
そうであるはず(希望的解釈)
そうでなくてはならない(理論の放棄)
そうなのだ(脳内で妄想が現実にすり変わる)
朝鮮人お得意の妄想三段論法
466 :
人間七七四年:2013/06/20(木) 14:44:43.70 ID:9/8xQf4r
>>463 確かにそうだね。
徳川軍8000の中で小幡方面に出兵したのは史料から井伊・家康・榊原の三人のみで 石川・本多・酒井らは小牧在城。
これに信雄勢が加わってもせいぜい8000〜11000くらいだろ(信雄も小牧山とその周辺の拠点に幾分かは兵残す必要があるし)
楽田→龍泉寺・篠木・柏井・大草方面に向かったのは秀吉の書状から24000であり、しかもこれとは他に山内、矢部、一柳などが留守居用として派遣されてる。
榊原隊が本当に堀勢に蹴散らされてたら家康・井伊隊は池田や森と戦うどころじゃないだろ
堀は長谷川とも軍を一緒に部隊を編成してるのが史料からわかるし別働隊の中でも池田・森・堀・長谷川と井伊・家康軍のみでは勝負にもならないはずで、
家康と井伊隊は一目散に逃亡してなきゃおかしい
467 :
人間七七四年:2013/06/20(木) 18:22:46.46 ID:cRrCeuhu
だがに与するのは癪だけどさー
久太郎の「康政は倒したけど家康本隊が来たから形勢不利と見て退却した」ってのは結局どこ出典なの?
468 :
人間七七四年:2013/06/20(木) 18:32:15.86 ID:9/8xQf4r
軍記と豊臣方の家記・家譜。
逆に徳川方の軍記・軍功記・家譜では間逆の内容になってる
469 :
人間七七四年:2013/06/20(木) 18:49:16.41 ID:/cK1mM7f
470 :
人間七七四年:2013/06/20(木) 19:45:33.83 ID:vbRHgtaQ
こーいう場合は両方共間違ってるでOKだな
471 :
人間七七四年:2013/06/20(木) 23:36:46.53 ID:HB8+NPxb
だががいうことであってることは一つもない
だががいうから嘘確定
472 :
人間七七四年:2013/06/20(木) 23:46:27.85 ID:kMDslY6T
具体的にどこが嘘なのかがわからん
473 :
人間七七四年:2013/06/20(木) 23:49:22.71 ID:rOzpxA/B
だがという人は一応史料は出してるし誤りもほとんどないからね
アホ織田厨のするレスはほとんど妄想ばかりの糞レスしかない。
>450
>>433>>430>>401>>446とかみりゃほとんど妄想ソースの糞レスなのがわかる。
474 :
人間七七四年:2013/06/20(木) 23:50:29.94 ID:womvIfY9
>>471 その文のだがをアホ織田厨に入れ替えると正しいな
475 :
人間七七四年:2013/06/20(木) 23:57:29.23 ID:M0/Ya6aQ
馬鹿織田厨のするレスであってるレスなんて一つもねえよw
ほとんど自分の妄想が史料だし
476 :
人間七七四年:2013/06/20(木) 23:58:04.17 ID:cRrCeuhu
>>471 まずどこが嘘なのか指摘してからにしようか
水野藤四郎覚書なんて文書は存在しないとか三河物語にそんな記述はないとか。確認してないから知らんけど
477 :
人間七七四年:2013/06/21(金) 01:35:36.74 ID:wIyTmbya
馬鹿織田厨に文書を読む力なんてないから言っても無駄
478 :
人間七七四年:2013/06/21(金) 02:43:16.08 ID:gOAGBY50
今日も妄想垂れ流し馬鹿織田厨が悉く論破されまくってるなw
479 :
人間七七四年:2013/06/21(金) 16:29:33.14 ID:bYFmBY3m
すげえな
ちょっと煽っただけでイナゴのようにワラワラとw
もうちょっと考えようぜ?w
それから、どこが嘘じゃなくて全部嘘だからなw
ようはだがのいうことにしんぴょうせいなんざ皆無
時代小説に書かれてるから事実だなんて言わないだろ?
それと同じw
480 :
人間七七四年:2013/06/21(金) 16:58:13.49 ID:WeVzd5iK
481 :
人間七七四年:2013/06/21(金) 16:58:56.27 ID:rH3kp9l5
>>479 その文のだがをアホ織田厨に入れ替えると正しいな
482 :
人間七七四年:2013/06/21(金) 17:00:14.56 ID:vjKvDppR
馬鹿織田厨からは史料の一つすら出てこないからな
483 :
人間七七四年:2013/06/21(金) 17:52:03.23 ID:lc0g0hV2
堀隊が後退したのは家康が回り込んだから
に対する反論マダー
484 :
人間七七四年:2013/06/21(金) 18:09:21.35 ID:wIyTmbya
家康が回りこんだからってなんで堀が後退する必要あるのか不明
そもそもそんな事どこにも書いてないし榊原が敗北後なら
堀・長谷川と池田森で家康井伊だけなら殲滅するだけなら十分すぎる兵力
それなのになぜかいつの間にか敗走してるのは堀が榊原隊に負けたってだけだろ
485 :
人間七七四年:2013/06/21(金) 18:20:43.38 ID:bYFmBY3m
なぜだがの嘘を証明する為に俺が手間さかねばならんのだw
嘘だって分かってるのに
486 :
人間七七四年:2013/06/21(金) 18:22:31.72 ID:pC++03xc
だがにかまうから廃墟になるんだよ
487 :
人間七七四年:2013/06/21(金) 18:24:26.08 ID:wIyTmbya
アホ織田厨にソースなんかないからね
>>450>>433>>430>>401>>446とかみりゃほとんど自分の妄想ソースの糞レスしかしてないのがわかる
だがのレスは一応そのアホ織田厨の糞レスに「史料がなく、ただの妄想」と突っ込んでるだけなので、
一々本当である証明などする必要なし。
「何かがある」と主張する側が史料をもって証明する必要があるわけで、「ないことの証明」など悪魔の証明というだけで
そんなもんは議論に必要がない馬鹿な主張でしかない
488 :
人間七七四年:2013/06/21(金) 18:25:18.70 ID:rH3kp9l5
>>485 お前みたいな妄想垂れ流し馬鹿は書き込まなくていいからさっさと出てってくれ
489 :
人間七七四年:2013/06/21(金) 18:26:04.48 ID:gOAGBY50
今日も妄想垂れ流し馬鹿織田厨が悉く論破されまくってるなw
490 :
人間七七四年:2013/06/21(金) 18:27:01.25 ID:vjKvDppR
あんまり妄想馬鹿織田厨をいじめるなよ…ww
かわいそうだろ…ww
491 :
人間七七四年:2013/06/21(金) 18:45:39.45 ID:gOAGBY50
確かにそうだね。
徳川軍8000の中で小幡方面に出兵したのは史料から井伊・家康・榊原の三人のみで 石川・本多・酒井らは小牧在城。
これに信雄勢が加わってもせいぜい8000〜11000くらいだろ(信雄も小牧山とその周辺の拠点に幾分かは兵残す必要があるし)
楽田→龍泉寺・篠木・柏井・大草方面に向かったのは秀吉の書状から24000であり、しかもこれとは他に山内、矢部、一柳などが留守居用として派遣されてる。
榊原隊が本当に堀勢に蹴散らされてたら家康・井伊隊は池田や森と戦うどころじゃないだろ
堀は長谷川とも軍を一緒に部隊を編成してるのが史料からわかるし別働隊の中でも池田・森・堀・長谷川と井伊・家康軍のみでは勝負にもならないはずで、
家康と井伊隊は一目散に逃亡してなきゃおかしい
492 :
人間七七四年:2013/06/21(金) 19:36:36.30 ID:lc0g0hV2
493 :
人間七七四年:2013/06/21(金) 19:37:35.14 ID:lc0g0hV2
494 :
人間七七四年:2013/06/21(金) 20:12:56.10 ID:gOAGBY50
>>492 軍記の引用がありなら合戦経緯もめちゃくちゃバラバラになって全くどれを引用すればいいのかって話になるしなぁ
軍記より信憑性高いと思われる覚書や家記や軍功記でも合戦の詳細部分なんてバラバラだから普通は論文で直接的なソース元としては使われず
補助史料参考資料程度にとどめるものなんだが
軍記引用ありなら本多500が秀吉軍8万を行軍妨害して退却させたとかの逸話もありになるし
軍記や家記でも堀が榊原隊に敗れて敗走したと書いてるものもあるし
参河後風土記なんかだと堀は大須賀・榊原勢を待ち構えて秀次軍を追撃にきた所を「鋭くして破りて」と一端優勢にたってるが
その後大須賀・榊原が士卒を「軍の勝負は必ずしも勢の多少に不寄ものぞ」などと叱咤激励して立て直して
堀軍を反撃で敗走させたことになってるしこういう顛末で書いてる資料のが多いくらいだし比較的信憑性が高い家記とか覚書とかでも堀は一端榊原隊を崩しかけたが
その後反撃して敗走させたと書いてるのが多い
495 :
人間七七四年:2013/06/21(金) 20:37:57.85 ID:lc0g0hV2
>>494 徳川方のを信じるか、豊臣方のを信じるかの差としか言い様がない
『池田家履歴略記』『堀家譜』『森家伝記』『豊臣秀吉譜』は堀が徳川先手を追い散らしとある
もっともこれらは『太閤記』の影響が大きいのは否定出来ない
496 :
人間七七四年:2013/06/21(金) 21:02:52.82 ID:gOAGBY50
森家伝記を読んでるんだが堀が徳川先手を崩したとは書いていない
この史料は堀に負けないように森勢も先手へなたれ懸かるへし武者道を開て
秀政を後陣にまわせなどと書いてて堀の活躍は士卒に大声で下知を飛ばしている様子くらいしかかかれてない。
497 :
人間七七四年:2013/06/21(金) 21:22:30.60 ID:gOAGBY50
あと太閤記をみても堀が徳川方を崩したとは書いてるが、その後堀が敗走した経緯は全く書かれておらず
いつの間にか消えている
「家康が回りこんだから堀が後退した」とはどこにも書いていない
498 :
人間七七四年:2013/06/21(金) 22:40:48.39 ID:lc0g0hV2
ものによっては堀も長久手の戦いに参加したような記述もあるな
499 :
人間七七四年:2013/06/22(土) 00:22:34.62 ID:9zTc7EGJ
>>486-
>>491 少なくとも四つ使い分けてるのかw
少しはばれない工夫しようぜw
500 :
人間七七四年:2013/06/23(日) 23:05:06.96 ID:/irA/gh9
旗本8万騎って幕末何してたの?
徳川将軍家の激減後の石高ってどんなもんなの?
501 :
人間七七四年:2013/06/23(日) 23:16:11.45 ID:nsW/8gET
502 :
人間七七四年:2013/06/25(火) 15:05:34.96 ID:WUNW7vUq
家康の謎
・影武者とすりかわった?(石川数正の離反、三河でなく駿府に隠居)
・信長殺し?
・神徒系(はち)だったが家光で仏徒系(いち)へ
面白いね
503 :
人間七七四年:2013/07/07(日) 20:54:05.19 ID:1/uSvuvZ
このスレの常駐者はほとんど興味ないだろ
504 :
人間七七四年:2013/07/07(日) 21:57:20.42 ID:BgglHA2u
いや、暇潰しには興味あるぞw
505 :
人間七七四年:2013/07/08(月) 13:32:30.57 ID:guNVhY7u
家康は三方ヶ原の戦いの前後で覚醒した
506 :
人間七七四年:2013/07/08(月) 20:00:17.69 ID:1su1ECGW
信長は家康を討つ為に本能寺に行った
家康は濃姫の弟(斎藤何某 道三の息子)を使役して未明に大量の爆薬で
本能寺ごと信長をふっとばした
家康の伊賀越えの苦労が現代にも伝わってるけど
信長と勝負してたんだから危険だったのだろう
この時点での家康は既に世良田二郎三郎
だったら面白いね
507 :
人間七七四年:2013/07/08(月) 20:17:02.82 ID:wXqujWSx
>>505 大高城兵糧入れとか、信長にも非凡さを見せつけていた
だから信長が同盟を求めてきたわけだが
三方ヶ原はどんな難敵でも立ち向かっていく意思を示したわけで、
自分が覚醒したというより周囲の家康を見る眼が変わった
508 :
人間七七四年:2013/07/09(火) 00:47:22.82 ID:DP3sqJC0
うむ!
甲斐勢を素通りさせていたら近隣大名はおろか、三河遠江の国人たちからも未来永劫嘲りを受けていたであろう
509 :
人間七七四年:2013/07/09(火) 23:33:33.14 ID:1TZ7BzCh
そういうの挽回できた例って無いの?
510 :
人間七七四年:2013/07/10(水) 18:54:25.77 ID:23IpXHvN
当時戦国最強と言われてた軍団に向かって行ったからこそ
後に奥平氏みたいに重要な地侍を味方に付けられたんだよな
511 :
人間七七四年:2013/07/11(木) 03:53:04.75 ID:aTtUP0Ou
隣国が信玄とか嫌だわな
信玄の隣国は謙信に義元に氏政か…嫌すぎる
そりゃ家康公なんぞ小僧に見えただろうな
512 :
人間七七四年:2013/07/11(木) 12:40:07.97 ID:uxm8d/zI
徳川家潰すつもりも無いのに、
何で信玄って東美濃から侵攻しなかったの?
513 :
人間七七四年:2013/07/11(木) 12:56:08.90 ID:AUhanZr0
遠江や三河が欲しかったからだな
514 :
人間七七四年:2013/07/11(木) 13:43:27.60 ID:4ZOHprZT
豊臣政権を奪った極悪人
515 :
人間七七四年:2013/07/11(木) 14:13:08.15 ID:gFF5Iy62
>>512 東海方面へ出てきたのはただの陽動。
それにひっかかった信長は佐久間らを派遣して大敗した。
本命は雪解けした峠を通過しての東美濃攻め。
信玄は越後を攻撃するフリをしてから駿河を攻めたり
関東を攻めて北条の戦力をひきつけておいてから駿河を攻めたり
よく相手の戦力を目的外へ移動させておいて、そいつを破り士気を衰えさせてから
本命の地を電撃的に奇襲する作戦を行っている。
516 :
人間七七四年:2013/07/11(木) 16:36:16.52 ID:li8Fjwlx
本人でばってて陽動もないわ
517 :
人間七七四年:2013/07/11(木) 19:36:25.29 ID:tJDQK2V6
西に侵攻する時に背後を襲われる危険性を冒すほど晴信は自信家じゃない
518 :
人間七七四年:2013/07/11(木) 22:15:21.33 ID:tTVHh5Pd
>>512 中仙道から美濃に入れば、家康が信長に呼ばれて織田・徳川連合軍と戦う破目になる確率が高い
東海道を行けば、家康が呼んでも織田軍の大半は来ないという信玄の読みだあったのだろう
519 :
人間七七四年:2013/07/12(金) 08:41:06.66 ID:nXM+BpzX
小田原焼いたり浜松素通りしたりめちゃくちゃ大胆ですやん 自信満々ですわw
520 :
人間七七四年:2013/07/12(金) 11:38:52.24 ID:eMT5aCTV
なるほど敵の分散かw
521 :
人間七七四年:2013/07/12(金) 19:13:29.66 ID:FZuj3c0s
信玄は舐められないように武蔵、信州、上野と神出鬼没だよな
522 :
人間七七四年:2013/07/12(金) 19:31:05.92 ID:wB+eFv1o
来春に岐阜を攻撃するって信玄が書状に書いているね。
美濃で内応してる国人達や岐阜近くに砦を構えた一向宗との連携も謀ってるし。
東美濃も武田軍がだいぶ侵食してたし。
523 :
人間七七四年:2013/07/13(土) 00:54:52.45 ID:N5Jx+G+g
信玄は戦国の巨獣だな
524 :
人間七七四年:2013/07/13(土) 03:09:09.71 ID:5kcMdXfU
巨獣と言えば聞こえはいいが結局無理な拡大を続けた結果が次代の滅亡だからな
後継者と次代の人間を育てることを怠った結果でもある
弟まで危急の時に役に立たないとは
525 :
人間七七四年:2013/07/13(土) 07:16:10.45 ID:b0p215Og
女子供問わず数十万人の日本人を虐殺した無理な拡大で、
信長本人が自滅した挙句に家臣に家を乗っ取られた戦国最大の愚主。
526 :
人間七七四年:2013/07/13(土) 11:26:35.18 ID:N+SLipEq
>>522 なんかの歴史番組で岐阜城の戦いをシミュレーションしてたけど
城を囲まれる隙に城から打って出た信長が討ち死にしててワロタw
527 :
人間七七四年:2013/07/13(土) 14:26:01.84 ID:AqQLTsVT
>巨獣と言えば聞こえはいいが
全然聞こえ良くない、むしろ悪意ある表現だなw
普通は「巨人」とか「巨星」という言い方する
528 :
人間七七四年:2013/07/13(土) 17:47:43.01 ID:LoFQy4yc
センゴクからの引用だろうなw
529 :
人間七七四年:2013/07/13(土) 19:52:34.50 ID:A0rGjwZt
戦国の巨根
530 :
人間七七四年:2013/07/14(日) 01:01:36.19 ID:NyAYJX5F
そんな信玄だからこそ軍法を真似たり実子使って武田家復興させたりしたんだな
531 :
人間七七四年:2013/07/14(日) 01:55:42.66 ID:dlas0FzT
子孫復興したか?
徳川家康にいちゃもんつけられて伊豆大島に流されてたがw
532 :
人間七七四年:2013/07/14(日) 04:15:08.30 ID:AGRGEO78
533 :
人間七七四年:2013/07/14(日) 11:46:27.70 ID:vhwzK/cs
足利義満(3代目足利将軍、1358〜1404)年表
【1351年】高師泰・高師直他高一族8人が、摂津国武庫川で殺害される
【1351年】仁木義長(兄の仁木頼章は幕府執事(管領の前身))が、三河守護(前任は高師兼(高師直の猶子)になる
【1357年頃】明阿(父:高師泰、夫:高師冬(高師直の養子))が、三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)に、一族を菩提する総持寺を創建する、住持は兄・高師世の娘
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【1358年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)の屋敷で生まれる
【1360年】大島義高(新田氏流)が三河守護になる(新田義重―里見義俊―義成―大島義継―時継―盛義―義員―義昌―義高)
【1367年】足助重宗(足助重範の孫)の子・重政(寛立上人) が、松平郷主・在原信重の支援を得て、三河国加茂郡松平郷に寂静寺(高月院の前身)を開創する
【1368年】管領・細川頼之を烏帽子親として元服する
【1368年】三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)に、天恩寺を創建する、足利尊氏遺言の寺、開創は永源寺2世弥天永釈、4代目将軍足利義持の祈願所
【1369年】三河国宝飯郡御馬郷(愛知県豊川市)に御馬城築城を、管領・細川頼之に命ずる、頼之は弟の頼有に命ずる
【1370年】三河国設楽郡(愛知県新城市)に甘泉寺創建か?、天恩寺と同じ永源寺2世弥天永釈開創、御朱印高48石、山林境内20余町歩を寄進する
【1379年】管領・細川頼之失脚、斯波義将が管領になる(康暦の政変)
【1379年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)を政所執事に任ずる
【1379年】一色範光(侍所頭人、若狭守護、、尾張国知多郡・海東郡の分郡守護)を三河守護に任ずる
【1380年代】管領・斯波義将が、斯波氏先祖代々の墓所がある三河国碧海郡(愛知県岡崎市)に、永源寺の創建を申し出る、これを支持し将軍家安泰を併せて祈願
【1380年代】三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺本堂(4度目)を建替える
【1382年】源信氏(細川一族か?)が義満誕生日祈祷の為、三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)など4ヶ所を天恩寺に寄進する
【1387年】三河国額田郡下和田郷(愛知県岡崎市)を、京極高詮に還付する
【1388年】富士山遊覧、三河国額田郡(愛知県岡崎市)の矢作宿に宿泊する
【1388年】一色詮範(侍所頭人、若狭守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1390年】管領・細川頼之が、三河国額田郡細川郷(愛知県岡崎市)の屋敷跡に、蓮性院を創建する
【1390年代】足助重宗(足助重範の孫)に、尾張国野間荘を還付する、当時の野間荘は、高師直領を将軍家預かりとなっていた模様
【1391年】伊勢貞行(伊勢貞継の孫)を御料所三河国額田郡山中郷(愛知県岡崎市)の代官に任ずる、山中郷の法蔵寺は6代目将軍足利義教の祈願所
【1392年】細川頼之死去、葬儀は義満が主催して相国寺で行われる
【1394年】出家する
【1397年】三河国碧海郡(愛知県岡崎市)の永源寺(創建:斯波義将)に、後に建仁寺61代住持となる玉岡和尚を住持職に補す
【1397年】三河国渥美郡(愛知県田原市)を京極高詮に還付し、守護使不入の地とする
【1399年】三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)の乙川六名堤造営を、管領・畠山基国にを命ずる、下和田郷が水不足に陥り、領主・京極高詮から苦情が入る
【1399年】三河国額田郡比志賀(愛知県岡崎市)の深恩院に、高一族の比志賀郷の旧領を寄進する
【1404年】松平和泉守源信光が誕生する
【1406年】一色満範(義満偏諱、侍所頭人、若狭守護、丹後守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1408年】死去する
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【1440年】松平信光(3代目松平氏当主)、三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺寺領内に、神のお告げで万松寺を創建する
534 :
人間七七四年:2013/07/18(木) 21:39:49.37 ID:vUB5EhyT
てか冬の陣って、なんで頑なに籠城戦だったの?
兵数多過ぎじゃね?
535 :
人間七七四年:2013/07/18(木) 21:45:07.92 ID:QUtsAbPe
大坂城の規模を考えれば適正より少ないくらい
536 :
人間七七四年:2013/07/18(木) 22:18:31.64 ID:p72+aV+g
>>534 数は揃っていてもその場の寄せ集めなので部隊戦闘は不可能
ある程度の期間を経た夏の陣でも道に迷ったり、集結時刻を間違えている
537 :
人間七七四年:2013/07/18(木) 23:07:38.19 ID:hlVJ57n0
部隊戦闘が不可能ならどういう戦闘が可能なんだよw
一人で大勢の相手に向かっていくのか?
538 :
人間七七四年:2013/07/19(金) 03:31:53.10 ID:xe2nw55u
移動するスキルが無いから城に立て籠もるんだろうが
539 :
人間七七四年:2013/07/19(金) 04:01:38.68 ID:0QyZo3xW
大阪冬の陣で、淀の馬鹿が安易な和睦をしてなかったら、
徳川勢は兵糧不足と兵の戦意喪失で、撤退せざるを得なかった。
こうなりゃ、徳川の権威も家康の威厳も大いに失墜だ。
諸侯も、あーあ、家康の城攻め下手は病気だな。と愛想を尽かし、徳川の諸大名統制は著しく劣化するのは必定。
大阪方の威勢は回復に向かい、昔日の南北朝時代の再来となった可能性は極めて高い。
540 :
人間七七四年:2013/07/19(金) 08:38:38.18 ID:rgqGrfrY
541 :
人間七七四年:2013/07/19(金) 11:28:15.16 ID:/vWz+kuT
むしろ兵の戦意喪失と兵糧不足の問題は豊臣方の方の問題だろ
策源地がずっと攻め込まれてて収入0でいつまでも持つわけないし
ちょろっとの収入で大軍抱えてるから恩賞も続かないだろうしそれこそ兵糧物資切れの心配もでかい。
淀が和睦に応じたのはこういった心配もあり大阪方が厭戦気分になってたからだろ。
542 :
人間七七四年:2013/07/19(金) 11:48:53.04 ID:daZoZVbn
543 :
人間七七四年:2013/07/19(金) 12:23:47.33 ID:CD8OwbVl
つまり両軍我慢大会の状態だったのだが
豊臣側が先にギブアップしたのか
544 :
人間七七四年:2013/07/19(金) 12:44:31.93 ID:xe2nw55u
冬の陣の和睦に兵糧不足は関係ないだろうな。
徳川方が兵糧不足に陥ったのは開戦当初だけだし、
豊臣方も接収した米で1年やそこらは余裕で持ちこたえられる。
豊臣方が和睦したのは戦況の方だろう。
緒戦に一方的に破れて周辺の砦を失い、本城に追い込まれたあげく
あちこちから仕寄りをつけられつつつ、大砲を打ち込まれてるんだから。
545 :
人間七七四年:2013/07/19(金) 13:07:48.57 ID:u63zZ/cP
でもNHKでも幕府軍兵糧不足って言ってたのだが、、、
それにしても元西軍?で
よく崩壊しなかったよなとは思うw
546 :
人間七七四年:2013/07/19(金) 15:04:21.50 ID:rgqGrfrY
>>545 そりゃ、二十万以上の人口が増加した上に、彼らの移動で街道が渋滞すれば一時的にそうなる
しかし移動が終われば解決するので、それまでの短期間の問題
547 :
人間七七四年:2013/07/19(金) 16:27:15.78 ID:NDagit7+
そんな短絡的な解説を、NHKがするもんなの(′・_・`)?
548 :
人間七七四年:2013/07/19(金) 18:53:59.93 ID:ylkCVoVk
この間やってた、歴史秘話ヒストリアだっけ?
東軍の陣地跡から、馬やら牛やらを解体した骨が見つかったってやつ。
549 :
人間七七四年:2013/07/19(金) 19:37:11.82 ID:rgqGrfrY
死んだ家畜を食っただけだな
550 :
人間七七四年:2013/07/20(土) 00:29:15.68 ID:534Ogst8
>>541 篭城戦に徹してる豊臣方に対し、徳川方は大坂城の外堀さえ突破できないのだから、焦ってるのは徳川方。
豊臣方の兵の損耗は殆ど無いが、徳川方の死傷者は狙い撃ちの狙撃され、増える一方なのだからな。
士気旺盛な豊臣方に対し、徳川方には厭戦の気配が広がる一方。
で、焦った徳川方は、本丸目掛けて大砲の嵐。
たまたま、その中の一発が淀の居所の近くに命中したもんだから、怯んだ無能の淀が、武将連中の反対を無視して和睦する愚。
551 :
人間七七四年:2013/07/20(土) 00:35:11.38 ID:534Ogst8
>>544 開戦当初に兵糧が不足する訳がなかろう。
殆ど消費してないのだからな。
馬鹿杉。
豊臣方は最初から堅牢な大坂城を頼みにする篭城戦しか頭にないのだから、周辺の砦も糞もない。
歴史歪曲も甚だしい。
552 :
人間七七四年:2013/07/20(土) 01:10:59.28 ID:m7PHWBOa
木津川口砦の戦い→徳川方の勝利(木津川口砦占拠)
今福・鴨野の戦い→徳川方の勝利(鴨野の拠点を占拠)
博労淵の戦い→徳川方の勝利(博労淵砦占拠、大阪方の守将平子正相戦死)
野田・福島の戦い→徳川方の勝利(野田・福島の拠点占拠)
その後豊臣方は残りの拠点も放棄して大阪城に逃亡
後厭戦気分になってるのはむしろ豊臣方だわな
12/15に淀殿が人質として江戸に行く替わりに、篭城浪人のための加増を条件とした和議案が豊臣方より出され、家康はこれを拒否
また大阪方は弾薬・兵糧も不足しだし、大筒を打ち込まれると即座に和睦交渉に乗っかる。
また、朝廷から後陽成上皇の命により、17日に広橋兼勝と三条西実条を使者として家康に和議を勧告した。家康はこれも拒否し、
あくまで徳川主導で交渉を進めた。
553 :
人間七七四年:2013/07/20(土) 01:26:15.32 ID:534Ogst8
枝葉末節な砦をいくら陥落させても、大阪城の外堀や真田丸さえ突破できないのではお話にもならない。
徳川方は豊臣方に事前に兵糧を買い占められて、窮乏しまくり。
力攻めで大阪城を落とすのは不可能なので、兵や諸大名の離反が起こる前に、どうにか和睦に持ち込まなければ、徳川の面目丸潰れ。
で、大砲撃ちまくりのヤケクソ戦法が功を奏し、どうにか和睦に漕ぎ着ける。
関ヶ原で小早川が陣取る松尾山へのヤケクソ射撃が吉と出たのと同様、冬の陣でも相手が無能の軟弱者だったので、運良く救われた家康。
554 :
人間七七四年:2013/07/20(土) 02:10:21.20 ID:m7PHWBOa
普通に考えて兵糧問題は策源地が思いっきり攻め込まれてて収入が望めない上に
他の地域からの輸送も見込めずまた、石高に見合わない大軍抱えている豊臣方の問題だろ
徳川方はその場ではいくら不足しようと他地域から物資を輸送調達するか敵の本拠地近くで略奪しまくるかすればいいだけだし
制海権も悉く徳川方が押さえている
大名衆の離反でいってもほとんど浪人衆で忠誠など皆無に等しい大阪方から出る可能性のが遥かに高い
厭戦気分になってるのはむしろ豊臣方だわな
12/15に淀殿が人質として江戸に行く替わりに、篭城浪人のための加増を条件とした和議案が豊臣方より出され、家康はこれを拒否
また大阪方は弾薬・兵糧も不足しだし、大筒を打ち込まれると即座に和睦交渉に乗っかる。
また、朝廷から後陽成上皇の命により、17日に広橋兼勝と三条西実条を使者として家康に和議を勧告した。家康はこれも拒否し、
あくまで徳川主導で交渉を進めた
あと関が原の合戦の小早川どうこうは初めから徳川方が予測したからこそ会戦に及んだだけなので、ヤケクソ射撃が吉どうこうとか論外
555 :
人間七七四年:2013/07/20(土) 09:49:08.75 ID:LYN2k/Bw
だががまともなことを言ってる・・・だと・・・?
556 :
人間七七四年:2013/07/20(土) 09:53:07.48 ID:ODQfAORU
>>550 家康は時間をかけて攻める方針だから当然
557 :
人間七七四年:2013/07/20(土) 09:59:02.20 ID:m7PHWBOa
時間をかけて攻めるつもりかどうかは知らないが今福鴨野野田福島あたりは
豊臣方もそれなりの軍勢派遣してるしガチ負けしてると言っていいだろ
558 :
人間七七四年:2013/07/20(土) 11:14:46.10 ID:42gBtIkO
大軍に攻められても落ちないように作られたのが大坂城だから時間かかって当然
それでも落とし方は決まっていて、一旦講和して堀を埋める
秀吉が口を滑らせたように言われているが、戦慣れした武将なら当然思いつくだろう
それを実践する機会を与えられたのが家康で、見事やってみせたのはさすが
559 :
人間七七四年:2013/07/20(土) 12:20:16.69 ID:5fwffG/A
↑それ定番だったら他の事例(巨大城が正々堂々と落城)いくつもあるの?
>その後豊臣方は残りの拠点も放棄して大阪城に逃亡
でも小牧長久手もそんな感じだったよな(′・_・`)
>関ヶ原で小早川が陣取る松尾山へのヤケクソ射撃が吉と出た
迷いまくってる相手が脅したら反旗翻すとか事例あるのか(;¬_¬)?
560 :
人間七七四年:2013/07/20(土) 12:34:53.51 ID:HtKZ9df0
だがにかまうなよ。マジキチはスルーこれ常識。
561 :
人間七七四年:2013/07/20(土) 13:10:44.19 ID:42gBtIkO
>>559 定番とは言っていない
「兵の形は水にかたどる」
水の流れるルートが決まっているように、
兵の攻め方にもやり方というものがある
高尚すぎて悪かったな
562 :
人間七七四年:2013/07/20(土) 13:42:57.86 ID:m7PHWBOa
>でも小牧長久手もそんな感じだったよな(′・_・`)
徳川方は8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯の小城2箇所くらいしか放棄してない
しかも小牧山周辺の砦には秀吉方の留守居部隊2万以上いて、徳川方が動けば小牧山の陥落は必至で動けなかっただけだし、
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で罠を張ってた
から後詰なんて自殺しにいくようなもんで、そんな所危険すぎていかなかっただけ。
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし状況も兵力比も大阪の陣とは違い過ぎる
563 :
人間七七四年:2013/07/20(土) 14:44:10.31 ID:vgqKBFR+
>>562 おいキチガイ在日君よ。顔文字なんて使ってキャラ変えたのかwww
564 :
人間七七四年:2013/07/20(土) 23:29:13.32 ID:jf5j4piO
>>554 豊臣方は事前に周辺地域から兵糧を大量に買い占め、備蓄は充分。
が、徳川方は豊臣方より倍の兵数なのだから、兵糧の消費量は2倍必要で、しかも2倍早く消費しちまう。
普通に考えて、先に兵糧窮乏に陥るのは徳川方。
しかも、季節は冬で農閑期。
周辺から兵糧を調達しようにも、既に豊臣方が買い占め済。
略奪しようがない。
豊臣方は難攻不落の大坂城に篭り、徳川方が消耗し切って撤退を余儀なくされるのを、ただ待ってればいいだけ。
こうなれば、徳川の威光は著しく失墜だし、もう二度と大坂城攻めはできない。
今度赤っ恥かいたら、政権崩壊の危機だからな。
弾薬兵糧不足云々は、徳川方も同じ。
565 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 00:18:07.83 ID:euSePEPh
で、惨敗とはどうなっとんねん
566 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 00:34:17.56 ID:hUmQ/eaw
家康は11月28日に小堀政一に蔵米8万石と豊臣氏の没収知行米5万8千石を兵糧とするように命じている
567 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 02:12:04.71 ID:z/jg604Z
>>>それでも落とし方は「決まっていて」
>>↑それ定番だったら
>定番とは言っていない
>高尚すぎて悪かったな
>だがにかまうなよ。マジキチはスルーこれ常識。
高尚なのに抽象論とか、確かに偏差値45以下っぽいけど、
ある程度やり取りできるなら、暇潰し相手に活用する、
高い社交性を持ってるもんでごめんなw
568 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 03:11:51.46 ID:euSePEPh
引きこもって飯喰ってれば勝てたのになぜ豊臣は負けたのだ
569 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 12:27:51.27 ID:W4gNfsLA
そういうの考える度に、「籠城には小城に少数精鋭のが良いのでは?」
と思っちゃうんだよな、、、
長篠・伏見とか他家でもあるよな?
570 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 12:31:43.76 ID:NujmEwqj
伏見は城の規模に対して軍勢が不足してたけどね。
適正な籠城だと吉田郡山とか砥石城もあるな
571 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 12:34:24.25 ID:u6cn4nEj
どっちも兵数が他の敵との戦いとか多方戦略で不足してただけで、たまたまその城にいた兵が少なかっただけで
用意できるならもっといっぱい兵つめて篭城してるだろ
572 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 14:55:11.69 ID:W4gNfsLA
目一杯だとある程度劣勢に成ったら
離反者続出しそうだから
ちょっと少ないくらいが、兵糧も少なくて済むし
必死で守るんじゃないの?
573 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 16:50:00.71 ID:hUmQ/eaw
熊本城も惣構を放棄しているな
574 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 23:15:25.25 ID:4n30Lyuq
こいつは歴史上、一番汚いクズだわ。
こんな卑怯で陰湿な奴はいない。
カス中のカス。
575 :
人間七七四年:2013/07/22(月) 09:24:07.36 ID:HlF9Iybk
自分がリスクを負わないように
義元、信長、秀吉など権力者側について媚び諂いながら、
内心は面従腹背し、その死を待ち
たちまちその息子を料理して領地を拡大させる宿り木や寄生虫みたいなヤツだよね。
576 :
人間七七四年:2013/07/22(月) 10:12:13.80 ID:Oa6TXQ+3
そういわれりゃそうだなw まあ寄生された奴らがそろって没落してるあたり死亡フラグだな
577 :
人間七七四年:2013/07/22(月) 12:28:25.05 ID:RYaMlD3d
有能だから重用されてきただけだろ
問題ありとすれば、主君よりも政治家としても人格的にも優れていたこと
578 :
人間七七四年:2013/07/22(月) 12:41:25.31 ID:EoqzpDR/
寄生する相手が居なくなったら搾取する養分が絶えて速攻で死んだ家康w
579 :
人間七七四年:2013/07/23(火) 00:18:14.51 ID:Gpua+Yg2
>>574 誰のファンかは知らないが歴史上一番汚いはないわ〜。
歴史を知らなさすぎる
自分は家康公を卑怯とも陰湿とも思わない
まじで司馬遼の小説だけで言ってるならスレ違いだ。司馬遼のスレに書き込め。
ここは小説スレじゃないからな。
家康公って自分が天下取るとは思ってなかたと思う
秀吉存命時から虎視眈々と天下を狙ってたはない。
やる夫系スレで作者の人が家康は豊臣政権で鎌倉幕府の執権のような立場を最初は思い描いていたんじゃないかっておっしゃてて
自分もそういう風に考えてたからその説には凄い納得したな。
年齢的にも年だしいきなり天下取りを目指すより、豊臣政権での圧倒的な優位な立場の確保の方が安全だ。
実際いつから天下が見え出したのか?
580 :
人間七七四年:2013/07/23(火) 01:11:39.86 ID:9vluJl/t
てかアンチ久しぶり〜〜
581 :
人間七七四年:2013/07/23(火) 01:37:19.94 ID:Gpua+Yg2
アンチが騒ぐような出来事でもあったのか?
ニュースは選挙のことばかりだし
582 :
人間七七四年:2013/07/23(火) 02:46:58.59 ID:XmIZShEE
>>579 家康が計算高い偽善者であり卑劣な謀略家なのは、史跡を追えば明々白々。
こんな俗物が、自分の上に誰もいなくなったら、醜い権力欲を剥き出しにして暴走するのは、自然の道理だ。
尤も、それは秀吉も同じなのだが。
583 :
人間七七四年:2013/07/23(火) 03:10:19.06 ID:uqHchKPg
歴史上一番汚い奴が創った幕府が260年も続くかってのw
584 :
人間七七四年:2013/07/23(火) 03:23:25.86 ID:XmIZShEE
お目出度い考えだな。
創設者の人格とその政権の永続性とは、何の因果関係もない。
要は、絶対的な力関係の差と正当性と社会情勢の追い風があれば、政権は長期化する。
幕府権力が衰退し、大政奉還に至ったのは、当時の徳川将軍の人格に問題があった訳ではないのだがな。
絶対的な力関係の差と正当性と社会情勢に変化があったためだ。
585 :
人間七七四年:2013/07/23(火) 09:17:20.86 ID:5w/dgHhd
>>582 家康の上に誰もいなくなるように関白を粛清したり筆頭大老に任命したのは秀吉自身だしな
家康が要求したわけでもなく秀吉が自由意思でやったんだから非難するのは筋違いだろ
586 :
人間七七四年:2013/07/23(火) 09:41:44.78 ID:GMOUi6WM
論拠のない抽象論するほど、切羽詰ったアンチが居ると
スレも盛上って良いなw
>秀吉存命時から虎視眈々と天下を狙ってたはない。
小牧長久手辺りから見え始めるだろ?
兄弟分として劣勢跡取りと勝ったんだぞ?
587 :
人間七七四年:2013/07/23(火) 10:49:23.09 ID:kWuP5Ma4
小牧長久手の話題は秀吉厨が無理矢理妄想で擁護して
それにキレたアンチが反論で荒れる流れになるからやめとけ。
588 :
人間七七四年:2013/07/23(火) 15:24:35.25 ID:9ItSJlX6
当時の人には豊臣が汚すぎて家康がクリーンに見えたんだろ
589 :
人間七七四年:2013/07/23(火) 22:11:54.44 ID:9vluJl/t
謀略家としては秀吉のほうがはるかに上だろう
三法師を担いでいつの間にか織田政権を掠め取るあたり家康には真似できない
家康のやり方はトラブルが起こったのを治めてのし上がっていくやり方
方広寺鐘銘事件は自分から事を起こそうとしたが拙劣もいいところ
590 :
人間七七四年:2013/07/23(火) 22:19:03.74 ID:wUsLz8M2
似たようなもんだろw
先が短い焦りは仕方ないし。
(信長の老後見たかったなw)
591 :
人間七七四年:2013/07/23(火) 22:37:58.57 ID:Gpua+Yg2
>>584 自分が書いてる内容理解できてるか?
誰かの言葉を受け売りしてない?言葉が空回りしてる風だぞ
592 :
人間七七四年:2013/07/23(火) 22:49:09.41 ID:FfNNsnRx
>>589 方広寺もしかけたのは豊臣側じゃなかったっけ
593 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 01:50:31.31 ID:6zNbbvLT
>>589 >>592 最初に喧嘩売ったのは豊臣
どうやら家康と秀忠で豊臣についての処遇は温度差があったみたい
>家康のやり方はトラブルが起こったのを治めてのし上がっていくやり方
これには同意
594 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 02:07:16.34 ID:p+RxWqJt
会社というか組織ってそんなもんだろ
誰にデモできるようなことしても、価値がない
誰にもできないことをするから重宝がられるし、アイツすげーと感心されて発言力が増す
595 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 06:28:40.06 ID:KnYC22ps
豊臣が全て悪い
世を乱す輩の処罰は征夷大将軍の職務
四海泰平の基はひとえに大将軍の武威による
596 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 08:26:59.54 ID:Xcpwllfj
なるほど
597 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 09:26:23.10 ID:HOlAKFDY
在日チョンの肥田まりスレは相変わらず平常運転だな。
さすが全スレで最も荒れない家康スレwww
598 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 12:09:36.40 ID:CceI7eP8
なるほど
599 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 12:36:08.89 ID:bKZMUs0F
豊臣政権の奴らには恨を持って答えるニダ
600 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 22:38:22.03 ID:Eqfbyncj
>>589 方広寺もしかけたのは豊臣側じゃなかったっけ
初耳かも知れんから概要かキーワード教えて!!
601 :
人間七七四年:2013/07/25(木) 01:03:36.54 ID:06M8z7F+
602 :
人間七七四年:2013/07/25(木) 06:02:32.74 ID:TJaXzJUQ
ま、秀吉亡き後の豊臣家のトップが、世間知らずの能無し女では、家が滅びるのは当然の帰結。
秀頼自体が、大野治長の胤で出来た子なのだから、豊臣家なんて滅びて万々歳だ。
603 :
人間七七四年:2013/07/25(木) 06:53:20.18 ID:7v8v35D1
>>601 岡崎塾歴史教室講師って一次史料ではなく摂戦実録なんてしょーもないもん使って
郷土出身の家康の壮絶な正当化擁護マンセーやってるのかw
>>602 はいはい馬鹿の極地だなお前。
秀吉が種なしとするデッチ上げからくる妄想話を持ち出すとか
さすが在日w
604 :
人間七七四年:2013/07/25(木) 16:15:09.69 ID:JuKSuIf0
6本指よりも、種無しのほうが圧倒的に多いけどなw
605 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 00:14:35.59 ID:JfeIl9aX
>>595 平安な世になっていたのに、
己が野心家の為にいたずらに大乱を起こした奸臣が家康だろ。
なんせ家康には大義がない。
豊臣政権の家臣同士の争いとか事実の歪曲をしているが、
そもそも本当に大老筆頭として豊臣を守る為に反乱を鎮圧しようとしたなら、
輝元や三成らに対抗して、
新5大老5奉行制を宣言して、豊臣政権の枠組みを守ろうとする大義名分を用意するのが当然だし、
最悪でも戦後に前田や小早川あたりを大老にして、
武断派からも奉行を出す有力者連盟による公論制は護持するのが筋だが、
家康のやったことは政権の枠組みの破壊しかやってない。
明らかに専制独裁→簒奪の流れがみえみえw
606 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 00:59:39.42 ID:nuDm173Q
平安な世になっていませんでしたけどw
馬鹿すぎて泣けてきた…
607 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 01:31:58.69 ID:JfeIl9aX
608 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 02:10:14.01 ID:OExxCfHA
>>605 > 平安な世になっていたのに、
606の指摘どおり平安な世になんてなってない
> 己が野心家の為にいたずらに大乱を起こした奸臣が家康だろ。
> なんせ家康には大義がない。
> 豊臣政権の家臣同士の争いとか事実の歪曲をしているが、
事実豊臣政権内の政治主導権争いだが?
> そもそも本当に大老筆頭として豊臣を守る為に反乱を鎮圧しようとしたなら、
> 輝元や三成らに対抗して、
> 新5大老5奉行制を宣言して、豊臣政権の枠組みを守ろうとする大義名分を用意するのが当然だし、
大義名分は用意した
あと五大老五奉行制は独裁者の秀吉がいてはじめて機能する仕組みなので、秀吉死去後は破綻して当たり前
そもそも五大老五奉行は秀吉が決めたとされてるので、家康が新しく五大老五奉行を作ったら
それこそ石田達から責められる。秀吉の遺志を蔑にしたと。
605は家康が新しく五大老五奉行を作ってもそれは筆頭大老として当たり前の行為と認識してくれるけど
対抗者の石田らはそう認識しないよ。むしろ家康を責める材料が出来て喜ぶ
> 最悪でも戦後に前田や小早川あたりを大老にして、
> 武断派からも奉行を出す有力者連盟による公論制は護持するのが筋だが、
公論制なんて初めてきいた
あと、秀吉の希望は秀頼を頂点とした政権なので五大老五奉行による合議制を望んでない
> 家康のやったことは政権の枠組みの破壊しかやってない。
> 明らかに専制独裁→簒奪の流れがみえみえw
秀吉存命時から豊臣政権は秀吉による独裁なのだが?
簒奪に関しては結果だけ見れば確かに簒奪だな。ただ秀吉にも言えるが。
605は秀吉ファンと見せかけて実際はそうじゃないだろ
秀吉を隠れ蓑に家康叩きはやめろ
609 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 02:20:16.18 ID:OExxCfHA
605=584か?
歴史理解できてるとはとても思えないんだが
あとなんでこのスレが朝鮮人認定されてるんだ?本気でわからん
ID:JfeIl9aXは自分がどこかで朝鮮人認定されて悔しいからこのスレに当たりちらしてるのか?
ただ単に夏休みだから厨が湧いてるだけなのか?
610 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 04:49:22.93 ID:I5REkCBp
馬鹿はスルーしとけよ。
荒らしにかまうヤツも荒らしだ。
611 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 06:24:48.42 ID:UAWDOE0S
征伐された秀吉嫌いで共通するからでしょ?w
世界的には家康公が一番
日本人らしくて人気あるはずなのに、、、
612 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 11:07:27.45 ID:KqAPAkmb
家康公はもっと人気があるべきっていうけど、
人気があったらあったらで、改造されないかと不安になるな。
坂本竜馬や講談ヒーロー達がまさにそれだし。
613 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 11:19:36.54 ID:bdf5HbAF
信長体制とは無政治無内政体制ともいうべきもので、とても国家の体を為してない
単なるあらっぽい下克上大名のレベルからの昇華は認められない。
それに家臣団編成、軍役賦課・軍事力編成がなされていないからこそ生じた問題であろう。
それを武篇道の督励で対応しただけの蒙昧ぶりが信長。
信長自身が武篇道に邁進して土地支配制度と知行制の整備を怠ってきたことに
原因があるのであって、逆に信長の限界を示すべきものとみるべきであろう。
信長は分国法すら作る知識も能力も無かった。
また甲州の治水技術は関東開発に役に立ったが織田は治水をやらないために後世に残る織田治水などは一切残らなかった。
秀吉が治水をしているのも田畑開発、水害防止、大坂から京への海上経済通商政策を理解しているから。
兵農分離の先駆けは天正13年卯月22日付けの秀吉朱印状が嚆矢。
紀州の雑賀・根来を討ったときに刀狩りを命じていて
その際に頭領の者を選んで皆殺し、平百姓は許すと書いていて
明確に兵と農を区別して国人指導層を殺し、武器を没収して完全な農民にしている。
これにより専業武士と農民が区分けされ秩序が生まれ国内は安定を迎えた。
信長にはそういう思考はなく皆殺しの撫で切りや根切りや磔など残虐な極刑による地域消滅政策。
秀吉は農村の生産力確保維持政策が基本にある。
秀吉の平和安定のための物流革命と言えば、信長死ぬや早くも
天正10年10月には京の出入口に設けられていた関所を廃止し(禁裏領率分関)、
信長のやり方の否定を開始し、次々と経済振興策を繰り出し始め、
ついには「公家武家地下商人に至っては諸役を止め、座を破らる。
これに依りて悦ぶ者多く悲しむ者少なし」などと秀吉の政策は激賞され、
「日本国の諸役、京のみいり(関銭)、兵庫の関、津々役儀かくのごとく往古より有り来る役さへあがり候処」と宣言し昔からあり続けた税の免除を開始。
「日本国諸役悉く上げ申し候処」
関所や港で商品にかける役銭をはじめとして日本国中のすべての役の賦課権を没収するまでに至り、空前の活況を示した。
信長のもとで関所や座の組合が経済活動を押さえ付けていたが(薄と言う公家が牛にまで税を賦課していたのも秀吉が完全廃止した)
これにより自由往来と自由通商が可能となり瀬戸内海から伏見〜京への河川流通網整備のため大河治水が開始された。
これが桃山文化と呼ばれ日本各地で城下町が整備され、
日本史史上最も派手で豪勢な時代と言われている。秀吉の下、インフラ整備と経済活況化への資本投入による民心安定策である。
さらに秀吉は太閤検地と身分法令において人口戸籍まで作らせて言わば国政調査をしている。
例えば伊達が朝鮮出兵で飛ばされている間を狙って石田豊前守にやらさせたりしてる。
また朝鮮出兵は看羊録によれば国内で変事を起こさせないように兵を消耗させ
戦国の気風がある荒々しい武将どもの内乱意識を消す戦後処理を謀る意図があったとする。
また土木工事も諸大名の経済力を奪い取ると同時にインフラ整備と経済活性政策であった。
614 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 11:19:55.66 ID:bdf5HbAF
秀吉は帝国主義・重商主義の世界史的な流れを理解し
大陸進出により、日本が強国で植民地化が不可能だと悟らせた。
看羊録には、秀吉の朝鮮出兵は諸大名の力を削いで
戦乱や領地を望む心を奪うためと書いている。
戦国の機運を終わらせるためには強権発動も必要なのだろう。
〜キリシタンはさらに悪質で領主層を惑わす〜と秀吉は書状に書いている。
秀吉が給付した領地の主人は変更することはあるが、其の地の農民の移動はない。
それなのにキリシタン大名が秀吉の許可も得ずに領地の寺社を勝手に燃やしたり略奪するのは許されない。
宣教師の企みを喝破できたのは日本の中でいまはまだ私だけだ」と言っている。
信長のようにただ単に興味本位で珍しい新しい物好きで宣教師を厚遇してるバカとは違う。
また高山右近が高槻に続き転封先の明石で寺社を破壊してたのを施薬院全宗が秀吉にチクったことで
激怒した秀吉が博多でポルトガル人の奴隷売買を糾弾したり、
牛馬は人間に仕え有益な動物なのになぜ食べるのか?と言ってたが、
(秀吉の基本思考・・・ポルトガル船でも純粋な交易のためなら寄港するのも問題なし、
秀吉から2000貫以上を給付される者がキリスト門徒になる場合は自分の許可を得よ。
それ以下の者の場合、日本の宗派は八宗あるが、キリスト教が加わり九宗になっても大して変わらんから
信教の自由は保障し何を信じようが構わない。但し、秀吉から給地を与えられた者が、権力を以って
庶民にキリスト教信者になることを強制したら罰する。)
小田原城を降伏に追い込み奥州仕置きをしようとする秀吉は
天正18年8/10に関東にも刀狩り令をだし、その中において
人を売買することを禁止し、天正16年以来で人を売買した者は
すべて返却するように命じ、売る者も買う者も処罰すると宣言している。
このことから高利貸しが政権運営する北条が滅亡するまで頻繁に奴隷売買をしていたことがわかる。
信長のような蒙昧暗愚の暴君と秀吉の差は天地の開きがある。
重商主義的・帝国主義的な植民地化がすでにフィリピンにまで押し寄せている中で
秀吉のみがキリシタンの野望を喝破し、逆に朝鮮への遠征を行うことで
日本の武威を知らしめ、陶工などを連れ帰り現在に至る名産品を生む。
秀吉は明確に日本人民の安全を謀り世界に対する武力誇示と同時に
国内混乱要因の武士層のストレスを解消させる政策を実行(神風連の乱や西南戦争を見れば明治政府の武士への扱いの苦心もわかる)
615 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 11:22:53.10 ID:Rv6KzWdA
朝鮮川近くにカエレ
616 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 11:41:33.63 ID:bdf5HbAF
家康は単に政権を盗んだだけ。家康にはなんらの功績もない。
>>608 >>平安な世になんてなってない
>>613>>614 >>事実豊臣政権内の政治主導権争いだが?
>>605 >>独裁者の秀吉がいてはじめて機能する仕組みなので
違う。もともとは秀吉の専制君主的な政権だったが、政権永続を考えて秀頼の補佐のために
五大老五奉行を整備していったんだ。
それを己が野望のために秩序破壊して国内闘争へ仕向けたのが家康。
>>、家康が新しく五大老五奉行を作ったらそれこそ石田達から責められる。秀吉の遺志を蔑にしたと。
なに言ってんの馬鹿なの?
西軍による奸臣家康の追討に対して大義名分として新五大老五奉行による枠組みで応じるのが正当性の維持に必要だ。
それは秀吉が秀頼を守るために大老などが責任を負う合議体制の継続を意味する。
しかし家康は前田を脅し、上杉を征伐しようとし、毛利の体制破壊のために干渉し、宇喜多家臣を煽った。
体制破壊者そのものじゃねぇか。
>>五大老五奉行による合議制を望んでない
バッカw当の秀吉が臨終間際まで大老たちに忠誠を誓わせ、自分の残した体制を守るように言ってるだろw
>>ただ秀吉にも言えるが。
はっ?信長体制とは無政治無内政体制ともいうべきもので、とても国家の体を為してない
単なるあらっぽい下克上大名のレベルからの昇華は認められない。
とても同列には語れないのは
>>613>>614を読めば明らか。
617 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 12:03:15.80 ID:bdf5HbAF
池上裕子氏 〜信長は人的破壊者〜
信長は多くの人を殺害した。
そして「鬱憤を散じた」というのである。
異常に感じるほど残忍なやりかたが多かった。
それでも敵対者は次々と現れ必死に戦った。
戦功を積み重ねても、謀反の心を持たなくても
信長の心一つでいつ失脚するか抹殺されるかわからない
不安定な状況に家臣たちは置かれていた。
一門と譜代重視のもと、譜代でない家臣には
より強い不安感があった。
独断専行的で、合議の仕組みもなく
弁明・弁護の場も与えられず
家臣に連帯がなく孤立的で、
信長への絶対服従で成り立っている体制が
家臣の将来への不安感を強め、謀反を生むのである。
領域支配には譜代と家長権を振るえる子供や弟の登用が中心になる。
自分のそばにいて手足のごとく動き、あるいは自分の意を体して
各地に赴く者たちも譜代であった。
信長の政権の基盤は一門・譜代にあった。
長住は信長の怒りを買って越中を追われ、二度と戻ることはなかった。
もう用済みだったのである。
一度でも失敗すれば、それを理由に存在を否定される。そのようにして国人層の多くが命脈を絶たれた。
618 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 12:22:20.93 ID:fWsEHefZ
池上の糞論文なんて学説の一つであり少数派にすぎないのに普遍的事実のように語るとかアホかと
619 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 12:27:47.69 ID:QyLWgT1v
朝鮮出兵なんて馬鹿な戦を
>帝国主義・重商主義の世界史的な流れを理解し 大陸進出により、日本が強国で植民地化が不可能だと悟らせた。
>看羊録には、秀吉の朝鮮出兵は諸大名の力を削いで 戦乱や領地を望む心を奪うためと書いている。
>戦国の機運を終わらせるためには強権発動も必要なのだろう。
>国内で変事を起こさせないように兵を消耗させ
>戦国の気風がある荒々しい武将どもの内乱意識を消す戦後処理を謀る意図があったとする。
>また土木工事も諸大名の経済力を奪い取ると同時にインフラ整備と経済活性政策であった。
こんなすり替え方してマンセーの流れに入れ替えるとか馬鹿すぎる。その結果が豊臣崩壊じゃねぇかw
620 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 12:37:05.63 ID:QyLWgT1v
秀吉厨のデタラメ
>>「一次史料を見ると信長も1万〜3万くらい
>>兵糧や衛生管理や屎尿対策の壁で一戦場3万が動員限界とされたのが戦国時代」
天正3年5/15奥平書状で織田徳川で7万騎動員してるのがわかる
毛利軍も高松攻防時5万と秀吉が本能寺後の書状で書いてる
柴田も上杉討伐の時45000の大軍を動員してるのが享禄以来年代記でわかる
手取川合戦では織田軍は主力級総メンバー連れており、少なくとも長家家譜のように4万越えはしてるはず
国力に対して課されるのが動因数で国力があっても大軍を集結できない大名なんていねぇよクズw
一揆とか国が疲弊・瓦解してるだけだろうがw
軍なんて鎌倉や南北朝時代の戦争でも動員されてるだろ
織田の場合は戦線が複数あったから一箇所に超大規模の大軍が集結しなかったというだけだし
信長公記基準だとかなり大軍動員してるし島津も大友も動員してる(耳川や水俣城攻防戦など)
足利軍30万騎とか書いてあるね。
多聞院日記や兼見卿記をみると15万とか10万とか天正5年で動員してるし
戦国期より遥かに兵站技術が遅れた鎌倉や南北朝戦争でも数十万の大軍が一遍に動いてるのに
兵の動員数に限界数値があるわけねーだろアホ
ローマ軍や清とか中国の王政はどうなるんだよ馬鹿がw
621 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 12:50:43.10 ID:H7qgiw2h
622 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 13:10:23.15 ID:I5REkCBp
だがはスルーしとけよ
623 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 13:52:28.90 ID:QyLWgT1v
なんで負けたかって言えば、そもそも秀吉から政務を委託された正当な大老であり、豊臣家を蔑ろにしていたわけでもない
家康を討つことには大義名分が少なく、家康が会津討伐に向かうため畿内を離れたというチャンスに機械的に
反応してしまい、自陣営の体制を構築する前に挙兵してしまったこと。
実態としては、明智光秀の本能寺の挙兵に近いものがあった。
会津征伐に飛びつかず、もっとじっくりと待つ必要があったと思うよ。勿論その場合は家康も着々と体制がためをしてくるが、
そこは政治力の勝負だ。
むしろ政治力の勝負を諦めたために関ヶ原がおこったとも言える。
そもそも合議の結果何かを決定するのは家康の役割だし、
前田は豊臣家にすら無断帰国したのだから謀反を疑われて当然だし
上杉も穏便に処理しようとした家康の提案を蹴って、武装して割拠状態になったのでこれも謀反とされて当然
島津や毛利や宇喜多の家中の争いを喜んだ?そんな証拠は一切ない。というか介入すら最低限だ。
北政所にいたっては自分から西の丸を家康に譲ってるし
大名への加増は三成ら奉行衆もそれこそ「合意」してる
ついさっきまで秀吉という専制独裁者が君臨していた政権において
合議を破った専制独裁者という非難そのものが馴染まないんだよ
秀吉自身は一度も合議による政権運営なんてしたことがないから
普通の大名からすれば誰も見たことがない体験したことがないものを破ったと言われてもピンとこない
それに三成の家康批判は一歩間違えれば秀吉批判にも取られかねない危険な主張だ
三成が家康に名前を変えて秀吉の専制独裁を批判していると受け取れば豊臣のため三成を討伐することに何も問題はない
624 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 18:50:43.59 ID:MAPiXPLi
そもそも徳川が体制ぶち壊したとかいうけど
ぶち壊されるような体制とか諸将の配置にしなきゃよかっただけじゃん
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり自分から家康が天下取りやすい状態作っといて
ぶち壊したも糞もねーじゃん
625 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 18:59:42.32 ID:MAPiXPLi
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻を進めている。
自分の死後を見据え、最有力大名徳川家との融合を企図したものだ。
秀頼・千姫の間に出来た世継ぎが、徳川家の傀儡になる事は、
秀吉が認識していて当然。
実は反徳川的な行動を起こし、豊臣家を滅亡に導いた輩こそ、
秀吉の意思に背いた不忠といえる。
秀頼・千姫の間の子は世継ぎになるわけで。
徳川の血が、豊臣宗家に組み込まれるわけだけど。
実際融合されなかったのは、邪魔をした者がいたから。
そしてそのせいで、豊臣滅亡。不忠でしょ。
千姫は正室なので、当然千姫との間の子が世継ぎでしょ。
そうなれば、政権における徳川家の影響力が増す
626 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 19:55:22.21 ID:fWsEHefZ
豊臣家が滅ぼされたのは単に秀吉が馬鹿だったからというだけ。
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。
こんな体制じゃあっさり崩壊して当然
627 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 20:35:10.59 ID:VV3/4KhI
冷静に見ると、秀吉の生前に最も良い思いをした人が秀吉の死という現実に上手く対応できなかっただけ
つまり、三成と淀
律儀な家康をして秀吉の政治と豊臣家は徹底的に潰すしかないと覚悟を決めさせたのがこの二人
628 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 22:34:03.34 ID:PLSaPMri
三成がいなかったらもっと家康の暴走が酷くなるだけなんだが。
家康と伊達・蜂須賀・福島ら3大名家との間に交わされていた婚姻の密約は
同盟の締結を意味し、秀吉の取り交わした誓詞においてこの種の私婚は堅く禁じられていたとしている
1/21大阪の大老・奉行たちは3中老(中村・生駒・堀尾)を使者として家康の元に遣わし家康のかどを詰問
弁明のかなわぬ時は大老の列から取り除くと申し入れる
家康は大阪よりの糾問使に対し家康は伏見屋敷を増強し変にそなえる
豊臣系武将や榊原・本多らもこの事態をきいてかけつけ伏見の徳川屋敷には大軍勢が集結しこのため大阪の5奉行は逆にきわめて厳しい立場となり
家康を糾問するどころか5奉行側が家康にわびをいれるというめちゃくちゃな形での解決となる
この後前田利家など大老、奉行衆と家康との確執はぬきがたくなり細川忠興はそれを仲介する
家康の暗殺計画が奉行衆らによって企てられ家康は向島に城を移す
利家が死亡し、今度は武功派7将によって三成襲撃計画が起こり、家康は公儀にのっとり武力行使をやめさせる
石田三成襲撃事件本質が蔚山篭城戦をめぐるものであるとわかる(3/19 5大老連署状)
この問題の解決により家康は「天下殿」という世評を受ける(多聞院日記)
そのような中9月に大阪へ家康が赴いた際、暗殺計画があることを増田より告げられる。前田・浅野・大野らが首謀
この一件より家康は伏見より大阪西の丸へ移り天守閣を築造して、自らが秀頼と並び立つ立場であると天下に誇示する
家康は先の暗殺計画の謀議者の摘発に乗り出し土方・大野を配流処分とし
浅野は奉行職を解任し国許へ蟄居とする
また加賀前田家や細川忠興にも追求の手を伸ばし利長の挙兵反乱の疑いを詰問し
10/3西の丸に諸将を収集し北陸討伐令を出す。細川は家康へ恭順の意を示し家康に誓詞を出しさらにその三男忠利を江戸に送り人質とする
前田は弁明するが母芳春院を江戸に送る事を求められる
このように家康は自分のやる事は詰問されても自力で排除し奉行衆を屈服させようとし
他者の行いは徹底的に詰問して敵対勢力を一つ一つ潰すやり方で無理矢理豊臣家を崩壊させた張本人
豊臣が滅ばないためには家康に大封与えない事が一番
秀吉に恭順した時点でもってた三河遠州駿河信濃佐久諏訪伊那と甲斐の100万石程度にとどめるか
信濃3郡と甲斐を無理矢理没収するのが一番手っ取り早い解決方法
また直接婚姻を結んでいない大名家も徳川家と親交があったようだ
島津家の場合慶長3年11月に義久が伏見家康邸を訪れる、後日その返礼として家康が義久を訪れる(大村市兵衛重頼古戦術書附)
これを知った三成は義弘・忠恒は朝鮮帰国後博多において三成より譴責を受け、そのため義久が義弘・忠恒に対し
「内府様へ参候事、又私宅へ入御之事、曾別心有之儀不申入、又不承候」と起請文を出すまでの騒ぎとなる
家康と島津家の間に梵舜や近衛前久・信伊が介在し両者の間を取り持つ
三成からの譴責に対する起請文は単なる見せ掛けである事が家康が義弘・忠恒の私宅をわずか4日後に訪問している所からわかる
また慶長4年1/9家康の差配によって島津家へ五万石の加増が「朝鮮し川表」における「御忠孝無比類、依之為褒美」与えられる
これも三成は反対するが家康によって強行される
対する三成と島津の関係は、島津は豊臣政権への服属以来、三成に細心の注意を払い接してきた人物であった。
島津領太閤検地の総責任者であり島津領豊臣倉入地の代官を務める三成は島津家への影響力が非常に大きく
三成の意向はすなわち豊臣政権の意向であった。
だが島津と家康が接近する中、三成とは距離が置き始めていた。それは慶長4年3/9忠恒が、三成が最も信頼し、
島津家内部で三成に最も協力的であった島津家老伊集院幸琉を誅殺した事に現れている
これは先学の指摘するとおり、島津家の豊臣政権からの離脱の第一歩といえよう。そしてこれは秀吉死去後の豊臣政権内部での三成の地位の弱体化なくしては
起こり得ない事であった
629 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 22:38:57.12 ID:PLSaPMri
忠恒の幸柳誅殺行動に対し三成は「御立腹」で、義久は三成に「幸柳生害之儀、今度得御意急二仕出し候之処と存候」と言い訳にもならない弁明をしながら
「又八郎(忠恒)短慮之仕立、言語同断不及是非候」、「曲事深重二候」と三成の腹立ちに同調し、それを懸命に鎮めようとしている
さらに後日銀子十枚を贈答する。しかしこの前後の忠恒宛の書状で義久が忠恒をこの件で叱責した形跡は見られず、成敗そのものには異存はなかったと思われる
この事件以来三成から島津家への書状はなくなり疎遠になってきているのがわかる
さらにその後「庄内の乱(幸琉の子忠真の反乱)」において家康は終始島津家の立場に立ち、乱の収拾に尽力する
関が原の合戦直前まで島津家は家康の指示を尊重する形で乱の処理を行い家康の対応は島津家にとって大方において満足すべきものだった
家康もまたこの乱の処理を契機に諸大名への軍事動員権を行使するなど「公儀」としての立場を獲得していく
結局三成が馬鹿だったというより豊臣政権の国力から考えたら
ハナクソみたいな国力しかなかった徳川を焼け太りさせたのが豊臣政権崩壊の原因としかいいようがない
いちゃもんつけて信濃や甲斐を蔵入り地にするなり木下とか秀勝とか極力秀吉に近い者封じるべきだったとしかいいようがない
あと秀次も殺したのは大きな痛手。秀頼成人まで秀次に後見させるなりすればこんな事態はさけられたはず
関が原をおこしてしまった時点で西軍の負けは確定しているように語り結果三成は無能とののしるやからがいるが
それはあくまで結果論としかいいようがない
関が原会戦時の三成人数書立や慶長見聞集、真田文書を見ると西軍は畿内だけで18万も集まり
小早川や朽木らの離反を差しいても単純に東軍の兵力を圧倒している
これでは兵力的に考えても陣地でも東軍を粉砕する兵力として十分すぎる
負けたのは総大将であり戦局を決定できる大軍を有しながら大坂に居座り何もせず改易された輝元や
軍勢派遣を止めたとされる吉川や秀元ら毛利一族のせいとしかいいようがない
東軍には三成憎しの武功派と家康が外交や婚姻で懐柔した伊達・蜂須賀などが付いたのに対して
西軍には上杉・毛利・宇喜多や5奉行のほかの連中・さらに畿内・西国の諸将が多く付いている
三成襲撃事件後三成が失脚し、家康は「天下殿」という世評を受け、
その後に暗殺計画の企て摘発により前田利長・浅野・細川を屈服させ相当な権力を確立したと思われた後ですら
これだけ多くの味方が三成には付いたという事は諸侯は内心では家康のやり方は無茶苦茶で豊臣政権をあからさまに犯すやり方をしてると考えた証拠だろう
ただ総大将としての三成の地位は家康に対抗できるものでなく、毛利輝元も総大将引き受けながら何もせず大厳封食らうヘタレぶりで
西軍は木っ端微塵になった。
関が原の戦いに関する再検討(白峰旬)
関が原の戦いにおける支戦(黒田孝高、最上義光、前田利長ら両主力軍が関係しない戦い)
においては自己の所領の拡大を目的とし、家康の本来の思惑や政治・軍事目的とは別次元で動いた戦いであった。
その証左として関が原の本戦(9/15)終了後も加藤清正が宇土城を攻撃したり伊達政宗が福島城を攻撃したりしているのは
家康のためではなくそれぞれの支配権の拡大をはかった物であり、まさに領土の拡大は切り取り次第という戦国時代の論理である事から、秀吉が
惣無事例で禁止したはずの私戦が公然と復活した事を意味していた。(中略)
石田・毛利軍の戦いも家康主導軍の戦いも公戦の形を取っているが、その本質は敵対する派閥の軍事力を相互に叩きのめす事を目的とした私戦であった。
(中略)両陣営とも太閤様御置目を持ち出して互いに相手がそれに背いたとして非難している点である
石田・毛利連合軍の戦略で注目される点は、早くも慶長5年7/26の時点で家康主導軍が東国から西上する事を想定していた事でそれを近江国内の瀬田・守山の間に展開する毛利輝元の軍勢2万余で迎撃する構想を立てていた事である
さらに宇喜多・小早川も山城国内の醍醐・山科・近江国内の大津に引き続き陣取りをしている状況を報じているので
毛利・宇喜多・小早川の軍事力が家康主導軍を迎撃する主力戦力であった事がわかる。
630 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 22:46:50.84 ID:PLSaPMri
あのタイミングで三成が挙兵しなきゃ家康の無茶苦茶なやり方で次々いちゃもんつけられて
前田や浅野やらみたいに次々降伏するだけの話だし
秀頼成人までまだ時間があるし既に天下人という世評を受け武功派連中により三成失脚、
家康は諸将の意向無視で勝手に婚姻同盟派閥形成するし島津への倉いり地問題やらで散々恩売ったりしてるし
関が原の戦いも美濃口の防衛要請無視しまくって四国やら伊勢湾やらどうでもいいところに軍送った輝元のアホさ加減で負けただけだし
美濃口に大軍で援軍きてたら東軍は木曽川の防壁と美濃の秀信や木造などに阻まれて進む事など到底適わないだろうし
畿内方面に展開してる部隊だけなら西軍のがずっと多いはずだから西軍に戦力の集中を考案できる優秀の戦略眼もった武将がトップなら
東軍など一網打尽にできたはず。 総大将輝元がアホみたいなところに軍進めたり
肝心の決戦で軍動かさなかったり馬鹿みたいな行動したおかげで三成は寡兵で戦わなくてはならなくなり西軍は大敗した
正則の弟の福島高晴が長島へ籠城してる中で西軍の毛利軍は鍋島隊を長島への備えに配置して攻めずに関が原へ急行してる。
関が原を無視して、長島城を落として尾張国に雪崩れ込み背後を襲う戦略をつかわなかったのは
それだけ長島城が堅固だったと言うことだろうけどそもそもなら、なんで伊勢攻略軍なんて編成したんだよって話だよな。
素直に、岐阜城を策源地に尾張に攻め込んでれば良かったじゃんwってもんで。
やっぱり毛利ってのは戦略眼がまるで無い。
笠谷氏は「関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制」で 「豊臣政権とその崩壊」の最後の一文
>こうして家康に敵対する勢力はことごとく退けられ、あるいは圧迫され政権はいまや家康の独裁の様相を呈してきた。
言葉は違うが、彼は第一章を丸々使って 「主君の嫡男を差し置いて、それ以上に徳川家康が権力を笠に豊臣家を無視して独断で政治をできるほど強かった」
という意味のことを書いてますよ まさか読んでないとか有り得ないとは思うけど、
関ヶ原前後の状況についてよくまとまった良い本だから一読をお勧めする
631 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 00:01:50.92 ID:Qgc210UF
>>624 秀吉の対外様大判振る舞いは、後の大陸侵攻を前提にしていたから。
つまり、国内で外様を肥大化させても、大陸を秀吉恩顧大名の草刈場にして大領を与え、
相対的に国内の外様の領土を小さくする思惑。
が、当然の帰結で大陸侵攻は大失敗して、豊臣恩顧大名は寸土の土地も得られず、ただ単に莫大な軍事費と労力を無駄にしただけ。
これはまさに、元寇後の鎌倉幕府の窮状と瓜二つで、とてもじゃないが、政権はもたない。
こんな絶好の機会を、天下への野心満々の俗物・家康が見逃す筈もない。
所詮秀吉なんて、信長が9割方固めた天下を掠め取っただけのCOOレベルの器の武将。
こいつにCEOの仕事はできない。
秀吉の評価は、秀長という有能な武将の助力に拠る「かさ上げ」分がとてもデカイ。
だから、秀長亡き後の政権運営はボロボロ。
豊臣政権は所詮平家政権レベルの糞だから、家康に簒奪されても当然。
632 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 02:01:02.44 ID:bV8vx06u
石田三成のファンはこんなところまで来て三成ageか
家康=悪
三成=正義
絶対にこれが大前提の論を組み立てるよね。いかに三成が優秀で清廉潔白か
そしてその他は馬鹿や腹黒いか
別の所でも毛利の所為で負けたって喚いてるのいた
三成の策は完璧だったのにって
家康からしたら三成がいちゃもんつけてくるからっていう思考には至らないのか?
上杉や宇喜多家を煽ったっていうけどそれこそ小説じゃないか
頑張って三成にいいような論文も探してコピペしたみたいだが、それも一つの論のうちだということだ
あと笠谷氏が関ヶ原関係で注目されてるのは関ヶ原関係で出した著作がたまたま当たっただけだったような?
笠谷氏はもともと幕藩体制の組織論がご専門のはず
その笠谷氏でも方広寺の鐘銘事件は、家康によるいちゃもんという説は取ってないのだが?
この事件も家康によるいちゃもんていう論調は学術的には最近みない
秀長も豊臣の栄光はこの人のお蔭ってされて反対に秀吉がsageられてるが
秀長贔屓すぎる
633 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 02:03:38.31 ID:0bMuOHtp
まー当たり前だが、法治による民主国家でない以上、合議だの誓紙だのは意味ないわな。
事実、実力による発言力の差は厳然として存在するわけで。
事実、大坂の役では旧主の恩もなんのその。全国の大名は大坂に弓引いたわけで。
現代の道徳観や価値観で、善悪判断する事自体がナンセンス。
634 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 02:10:07.71 ID:ZsTVz0Fl
三成がいちゃもん付ける前から家康好き勝手やりまくってるからなぁ
余りにも目に余ったから三成がいちゃもんつけただけでしょ
635 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 02:18:08.35 ID:vtHWIq+x
東軍には三成憎しの武功派と家康が外交や婚姻で懐柔した伊達・蜂須賀などが付いたのに対して
西軍には上杉・毛利・宇喜多や5奉行のほかの連中・さらに畿内・西国の諸将が多く付いている
三成襲撃事件後三成が失脚し、家康は「天下殿」という世評を受け、
その後に暗殺計画の企て摘発により前田利長・浅野・細川を屈服させ相当な権力を確立したと思われた後ですら
これだけ多くの味方が三成には付いたという事は諸侯は内心では家康のやり方は無茶苦茶で豊臣政権をあからさまに犯すやり方をしてると考えた証拠だろう
実際三成は蔚山城攻防での論考交渉の際や島津家倉入り地加増問題など
一貫して豊臣の倉入り地の維持・諸大名の倉入り地や石高増加反対や家康と諸大名との会合を糾問したりと
豊臣家のために動いているのに対し家康は五大老の許可なく私婚で諸大名取り込んだり島津の倉いり地問題や庄内の乱の協力などで積極的に
諸大名を取り込み豊臣家のためなどではなく自勢力拡大・専横を行っているのは明らかで
その証拠に三成襲撃事件後三成が失脚し、家康は「天下殿」という世評を受け、
その後に暗殺計画の企て摘発により前田利長・浅野・細川を屈服させ相当な権力を確立したと思われた後ですら
これだけ多くの味方が三成には付いている
むしろ東軍についた諸大名の方が三成憎しの個人的感情やらで凝り固まっているにすぎずまとまっていたとする根拠がない
西軍の敗因はあくまで毛利家の美濃口への援軍要請無視・優先順位低く要害の構えられた伊勢方面軍編成による戦力分散
・毛利一族が総大将にかかわらず不戦・毛利輝元出陣なし・小早川の離反と
毛利のあまりのヘタレぶりで負けただけにすぎない
また直接婚姻を結んでいない大名家も徳川家と親交があったようだ
島津家の場合慶長3年11月に義久が伏見家康邸を訪れる、後日その返礼として家康が義久を訪れる(大村市兵衛重頼古戦術書附)
これを知った三成は義弘・忠恒は朝鮮帰国後博多において三成より譴責を受け、そのため義久が義弘・忠恒に対し
「内府様へ参候事、又私宅へ入御之事、曾別心有之儀不申入、又不承候」と起請文を出すまでの騒ぎとなる
家康と島津家の間に梵舜や近衛前久・信伊が介在し両者の間を取り持つ
三成からの譴責に対する起請文は単なる見せ掛けである事が家康が義弘・忠恒の私宅をわずか4日後に訪問している所からわかる
また慶長4年1/9家康の差配によって島津家へ五万石の加増が「朝鮮し川表」における「御忠孝無比類、依之為褒美」与えられる
これも三成は反対するが家康によって強行される
対する三成と島津の関係は、島津は豊臣政権への服属以来、三成に細心の注意を払い接してきた人物であった。
島津領太閤検地の総責任者であり島津領豊臣倉入地の代官を務める三成は島津家への影響力が非常に大きく
三成の意向はすなわち豊臣政権の意向であった。
だが島津と家康が接近する中、三成とは距離が置き始めていた。それは慶長4年3/9忠恒が、三成が最も信頼し、
島津家内部で三成に最も協力的であった島津家老伊集院幸琉を誅殺した事に現れている
これは先学の指摘するとおり、島津家の豊臣政権からの離脱の第一歩といえよう。そしてこれは秀吉死去後の豊臣政権内部での三成の地位の弱体化なくしては
起こり得ない事であった
忠恒の幸柳誅殺行動に対し三成は「御立腹」で、義久は三成に「幸柳生害之儀、今度得御意急二仕出し候之処と存候」と言い訳にもならない弁明をしながら
「又八郎(忠恒)短慮之仕立、言語同断不及是非候」、「曲事深重二候」と三成の腹立ちに同調し、それを懸命に鎮めようとしている
さらに後日銀子十枚を贈答する。しかしこの前後の忠恒宛の書状で義久が忠恒をこの件で叱責した形跡は見られず、成敗そのものには異存はなかったと思われる
この事件以来三成から島津家への書状はなくなり疎遠になってきているのがわかる
さらにその後「庄内の乱(幸琉の子忠真の反乱)」において家康は終始島津家の立場に立ち、乱の収拾に尽力する
関が原の合戦直前まで島津家は家康の指示を尊重する形で乱の処理を行い家康の対応は島津家にとって大方において満足すべきものだった
家康もまたこの乱の処理を契機に諸大名への軍事動員権を行使するなど「公儀」としての立場を獲得していく
上記のように三成は一貫して家康の専横を弾劾しまくり家康は豊臣の秩序を崩壊させようと動いているのは明白
個人的感情と私利私欲で豊臣家への恩を忘れ徳川の犬に成り下がった馬鹿な豊臣武功派連中と
圧倒的大軍と総大将としての地位がありながらなにもしないどころか関係ない方面に軍を出し後詰援軍要請無視し続けたアホ輝元によって
豊臣政権は崩壊した
636 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 02:21:35.52 ID:zQdfDbko
そもそも徳川が体制ぶち壊したとかいうけど
ぶち壊されるような体制とか諸将の配置にしなきゃよかっただけじゃん
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり自分から家康が天下取りやすい状態作っといて
ぶち壊したも糞もねーじゃん
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻を進めている。 自分の死後を見据え、最有力大名徳川家との融合を企図したものだ。
秀頼・千姫の間に出来た世継ぎが、徳川家の傀儡になる事は 秀吉が認識していて当然。
実は反徳川的な行動を起こし、豊臣家を滅亡に導いた輩こそ秀吉の意思に背いた不忠といえる。秀頼・千姫の間の子は世継ぎになるわけで。
徳川の血が、豊臣宗家に組み込まれるわけだけど。実際融合されなかったのは、邪魔をした者がいたから。そしてそのせいで、豊臣滅亡。不忠でしょ。
千姫は正室なので、当然千姫との間の子が世継ぎでしょ。そうなれば、政権における徳川家の影響力が増す
豊臣家が滅ぼされたのは単に秀吉が馬鹿だったからというだけ。
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。
こんな体制じゃあっさり崩壊して当然
637 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 02:24:54.05 ID:zQdfDbko
>>西軍の大義名分が失われたとするのは何の関係もない毛利輝元を担いだからだろうが
大義名分なんて家康側にははなからなさすぎる
禁止された私婚をどうどうと執り行うどころかそれに対する大老連署での詰問に対し軍事力行使で奉行衆を逆に謝らせ
この後前田利家など大老、奉行衆と家康との確執はぬきがたくなり細川忠興はそれを仲介する
家康の暗殺計画が奉行衆らによって企てられ家康は向島に城を移す
利家が死亡し、今度は武功派7将によって三成襲撃計画が起こり、家康は公儀にのっとり武力行使をやめさせる
石田三成襲撃事件本質が蔚山篭城戦をめぐるものであるとわかる(3/19 5大老連署状)
この問題の解決により家康は「天下殿」という世評を受ける(多聞院日記)
そのような中9月に大阪へ家康が赴いた際、暗殺計画があることを増田より告げられる。前田・浅野・大野らが首謀
この一件より家康は伏見より大阪西の丸へ移り天守閣を築造して、自らが秀頼と並び立つ立場であると天下に誇示する
家康は先の暗殺計画の謀議者の摘発に乗り出し土方・大野を配流処分とし
浅野は奉行職を解任し国許へ蟄居とする
また加賀前田家や細川忠興にも追求の手を伸ばし利長の挙兵反乱の疑いを詰問し
10/3西の丸に諸将を収集し北陸討伐令を出す。細川は家康へ恭順の意を示し家康に誓詞を出しさらにその三男忠利を江戸に送り人質とする
前田は弁明するが母芳春院を江戸に送る事を求められる
このように家康は自分のやる事は詰問されても自力で排除し奉行衆を屈服させようとし
他者の行いは徹底的に詰問して敵対勢力を一つ一つ潰すやり方で無理矢理豊臣家を崩壊させた張本人
豊臣が滅ばないためには家康に大封与えない事が一番
秀吉に恭順した時点でもってた三河遠州駿河信濃佐久諏訪伊那と甲斐の100万石程度にとどめるか
信濃3郡と甲斐を無理矢理没収するのが一番手っ取り早い解決方法
島津など他大名にも接触しまくり恩を売りまくり
はっきりいって徳川方には大儀名分も糞もあったものじゃなく
無理やり無茶苦茶なやり方で豊臣家を崩壊させたにすぎん
あのタイミングで三成が挙兵しなきゃ家康の無茶苦茶なやり方で次々いちゃもんつけられて
前田や浅野やらみたいに次々降伏するだけの話だし
秀頼成人までまだ時間があるし既に天下人という世評を受け武功派連中により三成失脚、
家康は諸将の意向無視で勝手に婚姻同盟派閥形成するし島津への倉いり地問題やらで散々恩売ったりしてるし
関が原の戦いも美濃口の防衛要請無視しまくって四国やら伊勢湾やらどうでもいいところに軍送った輝元のアホさ加減で負けただけだし
美濃口に大軍で援軍きてたら東軍は木曽川の防壁と美濃の秀信や木造などに阻まれて進む事など到底適わないだろうし
畿内方面に展開してる部隊だけなら西軍のがずっと多いはずだから西軍に戦力の集中を考案できる優秀の戦略眼もった武将がトップなら
東軍など一網打尽にできたはず。
総大将輝元がアホみたいなところに軍進めたり
肝心の決戦で軍動かさなかったり馬鹿みたいな行動したおかげで三成は寡兵で戦わなくてはならなくなり西軍は大敗した
正則の弟の福島高晴が長島へ籠城してる中で西軍の毛利軍は鍋島隊を長島への備えに配置して攻めずに関が原へ急行してる。
関が原を無視して、長島城を落として尾張国に雪崩れ込み背後を襲う戦略をつかわなかったのは
それだけ長島城が堅固だったと言うことだろうけどそもそもなら、なんで伊勢攻略軍なんて編成したんだよって話だよな。
素直に、岐阜城を策源地に尾張に攻め込んでれば良かったじゃんwってもんで。
やっぱり毛利ってのは戦略眼がまるで無い。
638 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 02:36:21.30 ID:GAKXSKq/
三成とかカスすぎて家康公の相手としては役不足
639 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 03:06:50.57 ID:CKikC1nQ
というか繰り返し「三成に多くの味方がついた」って言ってるけど
「三成に」ついたソースってあるの?
通説だと増田だか長束だかの関所封じで
多数の軍団がなし崩しで西軍に組み込まれたって話だけど
640 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 17:08:15.29 ID:1dmCtmCl
秀吉や秀次の政治に関しては、いまだ大半が軍記からの想像でしょ。
例えば秀次の不行跡は記録が『多聞院日記』や『兼見卿記』にあるあると
2ちゃんで書かれてても実際に調べると
秀次の罪状に関する公家や朝廷の公式な記録は何一つない。
『大かうさまぐんきのうち』の比叡山狩猟の件も信用できない。
文禄2年(1593)の6月8日に女人禁制の比叡山に女人を引き連れ、殺生禁断の地で狩を行い、
止めようとした僧たちの塩酢の器の中に獲った鹿肉を入れたとあるが、
山科言経の日記『言経卿記』では、
秀次はその日に山科らと聚楽第の山里で琵琶法師の平家物語を聞いてる。
(山里町という山里茶亭を由来とする町名があることからおそらく聚楽第の茶亭)
つか、仮に山里が聚楽第でなかったとしてもそういう事実があれば
山科言経が日記に残してない方がおかしい。
秀次の母親の日秀が秀次供養するために建てた瑞龍寺に
村雲の寺地と「瑞龍寺」の寺号、寺領1000石を与えたのは他でもない後陽成天皇だぜ。
そんな不道徳なことを本当にやってたら天皇がわざわざそんなことをするはずがない。
秀次が「殺生関白」と呼ばれてるのは、『大かうさまくんきのうち』が、
正親町天皇の諒闇中なのに狩りをした秀次を批判する京童の落首を引用しているが初出だよ。
庶民を虐殺したから「殺生関白」と呼ばれてるわけではありません。
しかしこの落書も同時期の記録にその落首が残ってないから信憑性を疑われてる。
【信長公記】の著者である【【太田牛一(秀頼に仕えていた)】】が秀頼マンセーのために
秀次を悪く書いてデッチあげてデタラメを並べて秀次を悪く書いてるだけ。
三河物語で大久保から信長記はデタラメと叩かれた著者の太田は金をもらって捏造する売文家です。
しかし織田チョンは、あれは太田牛一が書いた信長記だけは除いて批判したものに違いないと
なんら根拠なく妄言を吐く朝鮮脳で白昼夢を主張するキチガイ
逆に川角太閤記では秀次に落ち度はなく、秀吉が老いて耄碌して三成の讒言を真に受けて
秀次を殺したと正反対の内容を書いているなど、所属する立場や思想信条から相手を悪く書く対立が見え
とても史実とは思えないデタラメが横行してます。
(実際には秀吉が耄碌していたとは思えませんし、讒言をしたとする三成の介入も一次史料から証明できません)
ちなみに謀反人の場合は斬首であり、自刃のような自害による名誉を守る行為は許されません。
つまり秀次は名誉の死であり、これを自ら選択したのであれば、恨み腹で秀吉一族に怨念をかけたことになります。
秀吉や秀次の政治に関しては、相手を中傷するために落書など平気でデッチあげてます。
641 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 17:08:45.12 ID:1dmCtmCl
史実とみた場合、周辺状況をよく見た場合、漁夫の利を得た利家の陰謀と考えるのが一番分かりやすいです。
南部根元記には秀次が奥州の仕置きを終えたので平泉を見た
そして最上へ向かい義光がもてなし奉り息女いこまの方を秀次公に参らせる
と書いていてその記述には平泉に寄っているなど書かれており
後世の研究調査から平泉中尊寺には秀次軍令書などの文書が納められていることが発見され
秀次の平泉訪問も事実と確定され南部根元記の記述が極めて事実に基づかれているとされた。
そのため義光の方から進んで駒姫を秀次に差し出したのも極めて事実に近いとされる(伊達成実記とも合致する)
南部は秀吉からの武装解除の一環としての一国一城の破却令により天正20年6月に
領内48城中→破却36城の上で存置12城が許されたとされる。
戸沢は角館の1城のみを残して33城を城破りをしているため南部は破格の待遇である。
前田や蒲生と入魂していたからであろうか。利家は氏郷亡きのちの蒲生家存続にも尽力して
秀次・利家・蒲生・南部・浅野らが日本海から奥羽に影響力を行使しているのがわかる。
そして利家や氏郷らは南部と組んで津軽や安東を田舎者と名護屋陣でいじめていた。
のちに困り果てた津軽の働きかけで親しくなるように浅野が仲介してきたが拒否し
前田などが津軽を辱めたので浅野なども津軽に関して何も言わなくなったと記している。
前田家文書には秀吉→関白宛の文録元年5/18に
来年正月の2月頃に3万を率いて兵庫より乗船し秀次が朝鮮へ渡海する命令がある。
南部信直→織笠但馬守に年不詳9/20で秀次公来年高麗国へ出陣。暦明け候はば上洛と記され
南部も前田騎下として秀次とともに朝鮮へ行く予定だった。
どうやら何らかのこともあって秀次&前田&南部の朝鮮渡海は中止となったようだ。
秀次と親しくなることで朝鮮渡海しないで済むような状況があったのだろうか。
ちなみに黒田如水が朝鮮出兵を自ら申し出るように秀次に忠告したと言う。
文禄4年7月秀次自害と同じ頃、津軽が浅利を支援し戦闘開始されており
安東は進退に窮していると知らせがあり、また最上の小野寺侵略の岩崎合戦が開始される。
伊達と最上が秀次と共謀の罪があるとされたので、世上暗澹なこともあり信直は娘が
安東実季の弟に嫁ぐ予定だったが(利家斡旋らしい)安東から連絡もないし延期した方がいいとしている
このことから当時の奥羽がかなりの混乱下にあり秀次との謀反連動の疑いが強い。
(秀次は伊達や毛利に大金を貸していた。また利家も伊達に金を貸している)
奥南旧指録附載には南部利直は前田&浅野と先代以来親しかったので東軍の立場を鮮明し
最上に加勢したが領内和賀一揆のために最上出羽守に相断り帰陣し一揆を討ったと記されている。
利家は柴田を見捨てただけでなく、親しかった秀次をまったく弁護せず死刑を放置
(その時期の利家は京にいて早世した娘の与免と婚約者だった浅野幸長ばかり擁護、家康は江戸にいた)
利長は姉妹の豪のダンナである秀家を見捨てるなど
有軍を裏切って肥え太る術だけで加賀百万石を築いた天下一の泥棒大名。
ちなみに利家夫妻はお拾いと秀次娘の婚姻仲人に決められていたし
秀次が死んだ後、利家は秀次と親しかったこともあり秀次の伏見の邸宅を貰い、秀次の家臣の一部も併合してる。
利家は秀次の死によって秀頼後見役にのし上って、秀吉亡きのちは事実上の天下人になっていた。
642 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 17:42:23.74 ID:1dmCtmCl
西の丸には北政所の住居もあるから政治的に無縁ではないよ。
そもそも内府たがい条でも北政所を追い出して住んだと家康は糾弾されてるわけで西の丸掌握にはクリアしないとならん問題。
豊臣譜代と淀は秀頼を推参する立場において利害一致してるから隠然たる力はあるだろ。
積極的ではなくあくまで隠然。
秀頼の命として淀が言った形式もまだ落ち着かない政治体制下での政治問題化は大坂城で掌握指導にむけて厄介事でしかない。
表向きは浅野、内むきは孝蔵主と言われていたくらい大坂城の中枢は分権されていたほど。
女だから軽視するのはアホな考え。
もともと戦禍が起きても御所内なら兵火が及ばないだろうってことで
秀頼のために秀吉が聚楽第に代わり造営したのが京都新城で、七将クーデターの時に大坂城を不法占拠した家康の圧力で
北政所が新城へ出た後に家康が北政所がいた場所に住んだ。北政所は自分がもっとも影響を及ぼせる京に移ったわけだ。
その後の慶長5年6/18には早くも北政所が豊国社に増田と玄以も社参してるのが反家康の端緒と言われてる。
西軍は義演准后日記などで秀頼様衆と書かれているので世間的にも公認されてる。
岐阜城が落ちて美濃まで武断派が占拠したのを知った北政所は8/29より
禁裏に戦禍が及ぶのを案じて城の兵備を破壊し始めてるだけ。
大津城攻めが開始されると義演准后日記に9/9秀頼様祈祷代として金二十両・銀三枚が来ると書かれており
西軍戦勝の祈祷に大坂城の金が使われてるのがたびたび見受けられる。
大津城を開城させるため京の北政所は孝蔵主、大坂の淀殿は饗庭局、高野山は木食上人を投入し一致協力し
和睦後は大坂への人質として京極忠高を受け取る。
西軍敗北と聞くと9/17北政所は裸足で御苑内の勧修寺晴子の屋敷に逃げる。
9/22に京都新城へ北政所は戻る。言経卿記・孝亮宿禰記などで9/26に家康が大坂城へ入り秀頼と和睦をなすとしている。
10/14北政所側近の孝蔵主が罪に問われないように祈祷していたが、この日ついに不問になり西洞院時慶ら公家衆も安堵する。
10/15大坂と江戸の問題が処理され淀の供応で家康と和解し論功交渉スタート
19日秀忠・忠吉が前田玄以とともに豊国社へ参拝。
家康も北政所や淀の罪が問えないどころか饗庭局も不問。
さらに難航していた孝蔵主の処分まで不問にしないと秀頼の名で論功行賞すら行えなかったのが現実。
643 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 17:43:21.87 ID:1dmCtmCl
内府たがい条にも北政所が住んでたのを追放して家康が住んだと糾弾されてるように
北政所への接し方や秀頼(及び母)を敬う態度についても糾弾されてるわけで
西軍には彼女らの存在により
より強い正当性が追加されてると言うことであって
遺令による衆議を否定してない。
いや基本的には彼女らより衆議の方が優先される。
なぜなら彼女らは大坂城における内むきを取り仕切るもう1つの権威たる存在であり
表向きの権力である衆議とはその性格を異にしてる。
家康が大坂城を掌握するには力だけでは無理で内むきの権威を懐柔しなくては謀反人解除が達成されないと言うこと。
そこに豊臣譜代たる秀吉や北政所の子飼い武断派の重要性が出てくるわけ。
しかもその連署には家康の専横による前田や上杉への態度まで糾弾されていて
彼ら2大老の謀反人解除と言ってもよい内容。
これが発せられるや会津征伐軍は解体され
堀や最上と共同で上杉を攻める予定だった前田家も家康の指示を待たずに帰国してしまったために
上杉の脅威の前に堀まで西軍に内通を開始。
母を江戸に人質に取られていた前田利長はやや家康寄りの態度を示すが
前田兄弟は東西分離策をもって秀頼親衛隊たる立場だった利政は西軍側で挙兵。
644 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 18:11:24.89 ID:jmBBs1wd
長文凄いけど、誰か反応してる人居るの?
長文以外読んでるけど、引用されてたりで読返したい文無いのだがw
>人気があったらあったらで、改造されないかと不安になるな。
その程度なら、お漏らし事件隠蔽してるってのw
645 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 23:24:32.52 ID:S+3O497z
646 :
人間七七四年:2013/07/28(日) 00:57:34.73 ID:OL+KK3QT
そもそもこの文書は大老でも奉行でもない現場組に読んでもらうために作ったのだが
現場が不満を抱えているのは朝鮮出兵や秀次事件といった秀吉生前のことであって死後のことではない
そのため三成一派だけが内輪で盛り上がって他が白けてしまうという皮肉な結果をもたらしてしまった
現場と官僚の意識のズレを象徴している間抜けな文書とも言えるだろう
647 :
人間七七四年:2013/07/28(日) 14:09:16.60 ID:22J20ZsG
秀吉の人事には全く整合性が無いからな。
家康を恐れて、関東へと追い払ったのだから、政権から遠ざければいいもんを、
逆に政権中枢に入れて、己の死後の政務代行まで委ねてるんだから、アホ過ぎて話にもならん。
この失政は、徳川幕府が衰退し滅ぶ契機となったのと同じく、黄金の愚策だ。
関東に追い払うなら、既存の三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の分に伊豆を加えた程度の領土を与えりゃいいもんを、
精神的負い目があったからか、大加増の250万石って、足利尊氏と同じ徹を踏む無能ぶり。
関東以東制覇後、豊臣一族が次々と減っていってしまい、
その穴埋めの為、泥縄的に外様大名を政権中枢に入れなければ、政権運営ができないと思ったんだろう。
まさに「猿」知恵レベル。
648 :
人間七七四年:2013/07/28(日) 14:31:38.57 ID:6SOkJLLD
家康があんなに長生きするなんて完全な想定外だから仕方がない。
さらに小早川隆景が想定外の早さで死んだのも誤算だったろう。
隆景生前の毛利・小早川の領地合計は家康にも匹敵していた。
この毛利小早川連合+宇喜多これに上杉と前田も居れば完全に徳川など押さえ込めたと考えるだろう。
649 :
人間七七四年:2013/07/28(日) 16:44:57.83 ID:jh3UKsQt
>この毛利小早川連合+宇喜多これに上杉と前田も居れば完全に徳川など押さえ込めたと考えるだろう。
徳川=敵 その他の大名(毛利・上杉・前田・宇喜多)=豊臣の味方って思考自体おかしい
宇喜多はともかく毛利や上杉は別に親豊臣ってわけではない
本気で上記のような考えだったのなら、そら豊臣負けるわって自分はなる
650 :
人間七七四年:2013/07/28(日) 18:15:19.39 ID:6SOkJLLD
統一政権において
実質、ベスト5の首脳陣入りが保障されている
毛利・前田・上杉・宇喜多は明らかにこの体制を
太閤の遺制を元に維持しようとしていたのは間違いない。
しかし家康はそれを崩壊させることを企み平時に乱を呼び込んだ。
651 :
人間七七四年:2013/07/28(日) 20:07:14.25 ID:nv8nlrIQ
直江って最近、義と愛の武将とか呼ばれてんのか?五分くらい笑いが止まらなかった
652 :
人間七七四年:2013/07/28(日) 20:41:53.55 ID:bRvMPU+H
前田とか史実で攻めるそぶりを見せたらすぐ降伏したヘタレアホ大名なんか家康の相手にもならんだろ
史実では小早川も毛利も宇喜多も上杉も前田も(一応家康が暗殺疑惑の件で敵視し攻め込んだ)西軍方・豊臣方であったのに
あっさり崩壊したのが豊臣家。誰が生きてようが関係なく、家康に200万石以上&大老筆頭&チート官位&伏見城と
好条件すぎるのを自ら献上した秀吉が馬鹿すぎただけ。史実で毛利も小早川も全く役に立たなかったどころか家康に天下献上してるもんな
653 :
人間七七四年:2013/07/28(日) 21:05:07.55 ID:mLw1YcS0
そもそも徳川が体制ぶち壊したとかいうけど
ぶち壊されるような体制とか諸将の配置にしなきゃよかっただけじゃん
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり自分から家康が天下取りやすい状態作っといて
ぶち壊したも糞もねーじゃん
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻を進めている。 自分の死後を見据え、最有力大名徳川家との融合を企図したものだ。
秀頼・千姫の間に出来た世継ぎが、徳川家の傀儡になる事は 秀吉が認識していて当然。
実は反徳川的な行動を起こし、豊臣家を滅亡に導いた輩こそ秀吉の意思に背いた不忠といえる。秀頼・千姫の間の子は世継ぎになるわけで。
徳川の血が、豊臣宗家に組み込まれるわけだけど。実際融合されなかったのは、邪魔をした者がいたから。そしてそのせいで、豊臣滅亡。不忠でしょ。
千姫は正室なので、当然千姫との間の子が世継ぎでしょ。そうなれば、政権における徳川家の影響力が増す
豊臣家が滅ぼされたのは単に秀吉が馬鹿だったからというだけ。
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。
こんな体制じゃあっさり崩壊して当然
654 :
人間七七四年:2013/07/28(日) 21:25:43.61 ID:LGwVxmxk
秀吉は、家康は黒田官兵衛と違って温厚な人だから天下は狙わないだろう、と言っていた
実際秀吉の死後、律義者・家康は五大老五奉行の枠組みというより秀吉の信頼に縛られ、
天下を取るための直接行動に出るに出られずにいた
そんな家康に助け舟を出したのは石田三成
三成は秀吉と違って家康を信頼せずむしろ猜疑の眼で家康を見ているので、
家康にとってはずっと行動しやすくなった
秀吉の遺命をいくつか破って見せると秀吉と違って器の小さい三成は簡単に逆上して挙兵した
後年家康は、自分は天下に手出ししにくくて困っていたが三成のお陰で天下を取れた、と回顧した
655 :
人間七七四年:2013/07/28(日) 23:18:07.67 ID:eJQ2+a18
家康は秀吉の前では、見事な演技で猫被ってたからな。
秀吉レベルの知能では、家康の面従腹背を見抜けないのは当たり前。
で、五大老筆頭にまで引き立てて、政権簒奪のお膳立てをしてしまう間抜けぶり。
関ヶ原で家康側に付いた連中は、殆どが朝鮮の地で辛酸を舐めて、何の果実も得られなかった奴等。
コイツ等は、国内に乱を起こして、朝鮮で得られなかった果実を、国内で得ようとしていた連中。
その打算が、家康の天下簒奪の野心と利害が一致して、豊臣政権は瓦解した訳だ。
何の国家ビジョンも無かった秀吉は、単純な版図拡張策しか思い至らず、
実現不可能な大陸征服を実行に移したが為に、計画大頓挫で政権崩壊の芽を自ら植えつけた稀代の間抜け。
世間一般では、徒手空拳から天下人に成り上がった大英雄扱いだが、
その99%は信長の成果の流用。
しかも、世の流れを逆行させて、国民搾取の硬直した停滞社会に戻してしまう低能ぶり。
秀吉なんぞ、何から何まで信長の足元にも及ばん。
そんな秀吉の施策を一部真似、一部反面教師とした家康は、運だけで天下を取った凡人。
家康の肝の小ささは、関ヶ原や夏の陣での見苦しい狼狽ぶりで明らかだ。
656 :
人間七七四年:2013/07/29(月) 01:31:02.78 ID:cIyHeH/N
信長レベルの知能では、家臣の裏切りを見抜けず命を落とし天下統一事業が挫折するのは当たり前
657 :
人間七七四年:2013/07/29(月) 05:17:44.72 ID:XPWBFfiu
三成がいなかったらもっと家康の暴走が酷くなるだけなんだが。
家康と伊達・蜂須賀・福島ら3大名家との間に交わされていた婚姻の密約は
同盟の締結を意味し、秀吉の取り交わした誓詞においてこの種の私婚は堅く禁じられていたとしている
1/21大阪の大老・奉行たちは3中老(中村・生駒・堀尾)を使者として家康の元に遣わし家康のかどを詰問
弁明のかなわぬ時は大老の列から取り除くと申し入れる
家康は大阪よりの糾問使に対し家康は伏見屋敷を増強し変にそなえる
豊臣系武将や榊原・本多らもこの事態をきいてかけつけ伏見の徳川屋敷には大軍勢が集結しこのため大阪の5奉行は逆にきわめて厳しい立場となり
家康を糾問するどころか5奉行側が家康にわびをいれるというめちゃくちゃな形での解決となる
この後前田利家など大老、奉行衆と家康との確執はぬきがたくなり細川忠興はそれを仲介する
家康の暗殺計画が奉行衆らによって企てられ家康は向島に城を移す
利家が死亡し、今度は武功派7将によって三成襲撃計画が起こり、家康は公儀にのっとり武力行使をやめさせる
石田三成襲撃事件本質が蔚山篭城戦をめぐるものであるとわかる(3/19 5大老連署状)
この問題の解決により家康は「天下殿」という世評を受ける(多聞院日記)
そのような中9月に大阪へ家康が赴いた際、暗殺計画があることを増田より告げられる。前田・浅野・大野らが首謀
この一件より家康は伏見より大阪西の丸へ移り天守閣を築造して、自らが秀頼と並び立つ立場であると天下に誇示する
家康は先の暗殺計画の謀議者の摘発に乗り出し土方・大野を配流処分とし
浅野は奉行職を解任し国許へ蟄居とする
また加賀前田家や細川忠興にも追求の手を伸ばし利長の挙兵反乱の疑いを詰問し
10/3西の丸に諸将を収集し北陸討伐令を出す。細川は家康へ恭順の意を示し家康に誓詞を出しさらにその三男忠利を江戸に送り人質とする
前田は弁明するが母芳春院を江戸に送る事を求められる
このように家康は自分のやる事は詰問されても自力で排除し奉行衆を屈服させようとし
他者の行いは徹底的に詰問して敵対勢力を一つ一つ潰すやり方で無理矢理豊臣家を崩壊させた張本人
豊臣が滅ばないためには家康に大封与えない事が一番
秀吉に恭順した時点でもってた三河遠州駿河信濃佐久諏訪伊那と甲斐の100万石程度にとどめるか
信濃3郡と甲斐を無理矢理没収するのが一番手っ取り早い解決方法
また直接婚姻を結んでいない大名家も徳川家と親交があったようだ
島津家の場合慶長3年11月に義久が伏見家康邸を訪れる、後日その返礼として家康が義久を訪れる(大村市兵衛重頼古戦術書附)
これを知った三成は義弘・忠恒は朝鮮帰国後博多において三成より譴責を受け、そのため義久が義弘・忠恒に対し
「内府様へ参候事、又私宅へ入御之事、曾別心有之儀不申入、又不承候」と起請文を出すまでの騒ぎとなる
家康と島津家の間に梵舜や近衛前久・信伊が介在し両者の間を取り持つ
三成からの譴責に対する起請文は単なる見せ掛けである事が家康が義弘・忠恒の私宅をわずか4日後に訪問している所からわかる
また慶長4年1/9家康の差配によって島津家へ五万石の加増が「朝鮮し川表」における「御忠孝無比類、依之為褒美」与えられる
これも三成は反対するが家康によって強行される
対する三成と島津の関係は、島津は豊臣政権への服属以来、三成に細心の注意を払い接してきた人物であった。
島津領太閤検地の総責任者であり島津領豊臣倉入地の代官を務める三成は島津家への影響力が非常に大きく
三成の意向はすなわち豊臣政権の意向であった。
だが島津と家康が接近する中、三成とは距離が置き始めていた。それは慶長4年3/9忠恒が、三成が最も信頼し、
島津家内部で三成に最も協力的であった島津家老伊集院幸琉を誅殺した事に現れている
これは先学の指摘するとおり、島津家の豊臣政権からの離脱の第一歩といえよう。そしてこれは秀吉死去後の豊臣政権内部での三成の地位の弱体化なくしては
起こり得ない事であった
658 :
人間七七四年:2013/07/29(月) 05:21:12.74 ID:XPWBFfiu
忠恒の幸柳誅殺行動に対し三成は「御立腹」で、義久は三成に「幸柳生害之儀、今度得御意急二仕出し候之処と存候」と言い訳にもならない弁明をしながら
「又八郎(忠恒)短慮之仕立、言語同断不及是非候」、「曲事深重二候」と三成の腹立ちに同調し、それを懸命に鎮めようとしている
さらに後日銀子十枚を贈答する。しかしこの前後の忠恒宛の書状で義久が忠恒をこの件で叱責した形跡は見られず、成敗そのものには異存はなかったと思われる
この事件以来三成から島津家への書状はなくなり疎遠になってきているのがわかる
さらにその後「庄内の乱(幸琉の子忠真の反乱)」において家康は終始島津家の立場に立ち、乱の収拾に尽力する
関が原の合戦直前まで島津家は家康の指示を尊重する形で乱の処理を行い家康の対応は島津家にとって大方において満足すべきものだった
家康もまたこの乱の処理を契機に諸大名への軍事動員権を行使するなど「公儀」としての立場を獲得していく
結局三成が馬鹿だったというより豊臣政権の国力から考えたら
ハナクソみたいな国力しかなかった徳川を焼け太りさせたのが豊臣政権崩壊の原因としかいいようがない
いちゃもんつけて信濃や甲斐を蔵入り地にするなり木下とか秀勝とか極力秀吉に近い者封じるべきだったとしかいいようがない
あと秀次も殺したのは大きな痛手。秀頼成人まで秀次に後見させるなりすればこんな事態はさけられたはず
関が原をおこしてしまった時点で西軍の負けは確定しているように語り結果三成は無能とののしるやからがいるが
それはあくまで結果論としかいいようがない
関が原会戦時の三成人数書立や慶長見聞集、真田文書を見ると西軍は畿内だけで18万も集まり
小早川や朽木らの離反を差しいても単純に東軍の兵力を圧倒している
これでは兵力的に考えても陣地でも東軍を粉砕する兵力として十分すぎる
負けたのは総大将であり戦局を決定できる大軍を有しながら大坂に居座り何もせず改易された輝元や
軍勢派遣を止めたとされる吉川や秀元ら毛利一族のせいとしかいいようがない
東軍には三成憎しの武功派と家康が外交や婚姻で懐柔した伊達・蜂須賀などが付いたのに対して
西軍には上杉・毛利・宇喜多や5奉行のほかの連中・さらに畿内・西国の諸将が多く付いている
三成襲撃事件後三成が失脚し、家康は「天下殿」という世評を受け、
その後に暗殺計画の企て摘発により前田利長・浅野・細川を屈服させ相当な権力を確立したと思われた後ですら
これだけ多くの味方が三成には付いたという事は諸侯は内心では家康のやり方は無茶苦茶で豊臣政権をあからさまに犯すやり方をしてると考えた証拠だろう
ただ総大将としての三成の地位は家康に対抗できるものでなく、毛利輝元も総大将引き受けながら何もせず大厳封食らうヘタレぶりで
西軍は木っ端微塵になった。
関が原の戦いに関する再検討(白峰旬)
関が原の戦いにおける支戦(黒田孝高、最上義光、前田利長ら両主力軍が関係しない戦い)
においては自己の所領の拡大を目的とし、家康の本来の思惑や政治・軍事目的とは別次元で動いた戦いであった。
その証左として関が原の本戦(9/15)終了後も加藤清正が宇土城を攻撃したり伊達政宗が福島城を攻撃したりしているのは
家康のためではなくそれぞれの支配権の拡大をはかった物であり、まさに領土の拡大は切り取り次第という戦国時代の論理である事から、秀吉が
惣無事例で禁止したはずの私戦が公然と復活した事を意味していた。(中略)
石田・毛利軍の戦いも家康主導軍の戦いも公戦の形を取っているが、その本質は敵対する派閥の軍事力を相互に叩きのめす事を目的とした私戦であった。
(中略)両陣営とも太閤様御置目を持ち出して互いに相手がそれに背いたとして非難している点である
石田・毛利連合軍の戦略で注目される点は、早くも慶長5年7/26の時点で家康主導軍が東国から西上する事を想定していた事でそれを近江国内の瀬田・守山の間に展開する毛利輝元の軍勢2万余で迎撃する構想を立てていた事である
さらに宇喜多・小早川も山城国内の醍醐・山科・近江国内の大津に引き続き陣取りをしている状況を報じているので
毛利・宇喜多・小早川の軍事力が家康主導軍を迎撃する主力戦力であった事がわかる
659 :
人間七七四年:2013/07/29(月) 05:31:31.76 ID:XPWBFfiu
あのタイミングで三成が挙兵しなきゃ家康の無茶苦茶なやり方で次々いちゃもんつけられて
前田や浅野やらみたいに次々降伏するだけの話だし
秀頼成人までまだ時間があるし既に天下人という世評を受け武功派連中により三成失脚、
家康は諸将の意向無視で勝手に婚姻同盟派閥形成するし島津への倉いり地問題やらで散々恩売ったりしてるし
関が原の戦いも美濃口の防衛要請無視しまくって四国やら伊勢湾やらどうでもいいところに軍送った輝元のアホさ加減で負けただけだし
美濃口に大軍で援軍きてたら東軍は木曽川の防壁と美濃の秀信や木造などに阻まれて進む事など到底適わないだろうし
畿内方面に展開してる部隊だけなら西軍のがずっと多いはずだから西軍に戦力の集中を考案できる優秀の戦略眼もった武将がトップなら
東軍など一網打尽にできたはず。 総大将輝元がアホみたいなところに軍進めたり
肝心の決戦で軍動かさなかったり馬鹿みたいな行動したおかげで三成は寡兵で戦わなくてはならなくなり西軍は大敗した
正則の弟の福島高晴が長島へ籠城してる中で西軍の毛利軍は鍋島隊を長島への備えに配置して攻めずに関が原へ急行してる。
関が原を無視して、長島城を落として尾張国に雪崩れ込み背後を襲う戦略をつかわなかったのは
それだけ長島城が堅固だったと言うことだろうけどそもそもなら、なんで伊勢攻略軍なんて編成したんだよって話だよな。
素直に、岐阜城を策源地に尾張に攻め込んでれば良かったじゃんwってもんで。
やっぱり毛利ってのは戦略眼がまるで無い。
笠谷氏は「関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制」で 「豊臣政権とその崩壊」の最後の一文
>こうして家康に敵対する勢力はことごとく退けられ、あるいは圧迫され政権はいまや家康の独裁の様相を呈してきた。
言葉は違うが、彼は第一章を丸々使って 「主君の嫡男を差し置いて、それ以上に徳川家康が権力を笠に豊臣家を無視して独断で政治をできるほど強かった」
という意味のことを書いてますよ まさか読んでないとか有り得ないとは思うけど、
関ヶ原前後の状況についてよくまとまった良い本だから一読をお勧めする
660 :
人間七七四年:2013/07/29(月) 09:55:44.94 ID:oQaorLut
首謀者は輝元
三成はオマケ
三成は美濃近江ラインの重要性を認識
毛利家は家臣がそれぞれ派閥化して方針が定まらなかったため
アホ輝元は戦略的視点に欠けていた(小早川吉川ら兄弟時代からの派閥確執が余計ひどくなっていた)
そこに家康や長政が和睦詐欺や毛利を敵だと思ってないよ嘘アピの謀略をかけてきて
輝元はとうぶん家康の西上はないわwと多方面へ兵力を分散し
肝心の美濃近江戦線を放置するアホぶり。
家康も福島らが三成包囲したわ詐欺にひっかかり
急いで西上してしまったことで
輝元は腰がひけて、家康は和睦してくれる&毛利を敵だと思ってない発言を盲信して騙される。
そもそも毛利が下手を打ったために大津城が東軍に落ちたのが致命的
毛利の無能さは神
輝元が首謀者だったが、大坂城を明け渡すために
大坂城内を説得した功で極刑を免れる。
そのため武断派が嫌っていた三成・小西らがスケープゴートにされる。
これで豊臣家臣同士の諍いにまで矮小化することで戦後の
ソフトランディング謀り、家康の謀反を問う義戦の性格が消滅した。
勝者の論理が適用されたのだ。
第二次大戦での日本の東亜開放の人種戦争の大義が消されたように。
光成氏も輝元の迅速な大坂城入りは
事前に準備をし終えて出撃する準備が完了してないと
不可能な速さだと指摘してる。
明らかに毛利が首謀者でなければあんな一大挙兵はできない。
決戦する前に西軍勝利は約束されたようなもんだったからな
当の総大将輝元が馬鹿じゃなきゃ100%西軍勝利の戦いだったし
白峰旬「関が原の戦いに関する再検討」
加藤清正は関が原の戦い直後9/24に「天下之様子」は「関が原表之合戦」では「輝元方敗軍」と報じているので
毛利輝元が大阪城にいて関が原の戦場に出向いていないにもかかわらず「輝元方敗軍」としているのは毛利輝元が西軍のトップであり
首謀者であったとみなされていた事を示している
661 :
人間七七四年:2013/07/29(月) 09:56:28.67 ID:oQaorLut
毛利家内への介入と分断を図る家康が目指す覇権へ抵抗するために
会津征伐をチャンスに毛利は反家康行動に踏み切った。
家康は上杉が気になり当分上洛ができないと判断し、
その隙に自力でも家康に対抗できるよう自己のために領土拡大を謀った。
光成氏は毛利の領土拡大と西軍の反家康行動は両立しないなどとは、まったく書いておらず完全に歪曲。
〜光成氏の主張〜
家康と組んだ秀元の別家創設で輝元から毛利領の1/4獲得を狙っていた(出雲や石見なので吉川は長門へ飛ばされる)
その後の交渉で出雲から長門や周防や父の遺領に変更になりながら、やむなく妥結した。
輝元は遺領問題で天下の人々はどうおもうだろうか?と毛利の外聞を非常に気にしてる。
家康や秀元によって恥をかかされたと認識してるから輝元も上杉征伐を最後のチャンスと思ったんだろうね。
さて輝元が在国してて、家康が会津へ出発すると大坂は大老不在になってしまうことから
秀家は会津へ行かずに在京。秀家の代わりに会津へ行ったのは詮家。
ちなみに毛利は吉川と安国寺が会津へ従軍予定。
7/5の豊国神社参拝での武運長久を秀家が行ったことに関しても
肝心の詮家が出発した後にそれをやるのはおかしいとされ、
しかも家康が介入した宇喜多騒動の主役の1人の詮家を会津へ派兵したのは
西軍挙兵において家中で邪魔になるであろう詮家の弊害を恐れ
事実上、秀家による家康の下への放逐行為であると考えられる。
そして秀家は大谷と親しいので、大谷の決起も秀家の士気の高さに引っ張られたとされてる。
6/16の家康出立直前の6/8〜10頃に輝元は領国へ向け出立
6/17日夜に広島に着いているわけだが、7/2に家康が江戸城着を経て
7/12付け三奉行の輝元への上坂要請文が7/15に輝元の元に到着した可能性が高く、
待ち構えていたように即日のうちに輝元は家中を率いて広島から船を出したと考えられ
7/17夜には秀元が大坂西の丸を占拠してしまうなど迅速に家康のいた場所が制圧されてる。
明らかに出兵の準備のために帰国してたとしか思われないわけで
輝元は6月の時点で家康を油断させるために領国へ帰ってるとされる。
そして七将襲撃の時に輝元ー三成ラインが敗北した原因である
家康側による大坂占領と伏見城の治部少丸包囲と真逆の行動を開始するなど戦訓を生かしている。
ちなみに7/19秀忠が江戸より会津へ出陣。7/21家康が江戸から会津へ出陣。
よって光成氏は下記のように書いているわけだ。
「この決起に輝元が直接関与していた可能性は高い」
「藩祖輝元の反幕府的活動をあからさまに証明する史料が隠滅された蓋然性は高かろう」
しかも慶長5年6月・7月の挙兵への道程における三成の関与について光成氏はまったく書いていない。
これでも光成氏が輝元首謀を主張してないと歪曲して強弁するならお前は完全に文盲かキチガイw
662 :
人間七七四年:2013/07/29(月) 09:58:01.41 ID:oQaorLut
美濃は最初から西軍だし尾張侵攻も毛利主力の伊勢攻略軍による北上。
しかも伊勢を毛利が占領する意思を輝元は表しており、
増田が何を言おうが関係ないとまで言って野心を露わにしてる。
首謀者輝元は幼君秀頼を利用して軍事も主導して専制独裁をしていて
前線指揮官の1人でしかない三成はそれを黙認する機関でしかないのが実態で奉行に復帰してるかどうかすら疑問。
しかも輝元へ三成は直接意見を言えずに、増田を経由している始末。
秀頼に会ってないどころか大坂城にも一度も行ってない三成が首謀者だっていう一次史料が無いどころか
首謀者と思われるような傍証も感情の吐露も三成にはまったくない。
しかも蟄居ではなく、隠居で減封も改易もなく、家督譲渡された息子は秀頼に仕えることが許され、
秀次事件に連座した前野長康や浅野長政(幸長は能登国津向配流)
前田と家康暗殺を企てたとして甲斐の領地と家督を息子に譲り
武蔵府中に出て監視され謹慎させられた浅野長政よりも
三成はかなり罪が軽かった。別段、政治に執着してるわけでもなく、不満を抱いてるわけでもない。
前野長康や浅野長政の失脚を見てれば いつ政争の舞台から失脚しようが浮沈の覚悟もあって当然だろうね。
そして一年以上に渡り、三成はおとなしく生活していて事を起こすような証拠はまったくない。
嫡男の石田重家(三成が実父正継のために建立した寺である寿聖院の三代目を継ぎ生存)
次男の石田重成は津軽重臣として生存。
津軽2代藩主正室の辰姫として生存(子が津軽3代藩主信義)
三成首謀説は大老にもなった若狭酒井忠勝が主導して造られた東国太平記が
三成と兼続の陰謀話の証拠として登場させたのが発端だからw
それには現在では偽書状認定されている原書が存在しない書状が記載されてる。
6/20三成→兼続書状・7/14三成→兼続書状がそれ。
これはのちに続武者物語にも転載され一般化され根付いたもの。
三成と直江がすべて悪いと汚名を着せられたことと、
陰徳太平記を書いた岩国藩の香川景継が、
吉川家の意向を受けて、関ケ原軍記大成などの軍記類に偽書状を元ネタに
吉川の主張を隠密裏に盛り込む活動をして毛利は被害者ぶった史観を作りあげただけ。
三成と直江首謀→三成首謀→三成と輝元首謀→輝元首謀と
だんだんと三成の関ヶ原での権力が疑問視されてきてるのが流れだ。
また毛利は首謀者として改易させられ輝元の罪も問われる予定だったが、島津征伐が議題に上がったので
輝元は先鋒にすることになり減封になったのであり、偽書状のように広家のおかげで輝元が助命されたわけじゃない。
663 :
人間七七四年:2013/07/29(月) 09:59:47.85 ID:oQaorLut
それさ、謀議に関わってない蜂須賀が裏に輝元がいることに早くも感づいてる証拠だよ。
だってまだ輝元は15日に広島を出発したばかりなのに蜂須賀は嗅ぎつけてる。
また、細川らが家康へ憎い三成が蜂起するとさかんに嘘を吹聴してまわってる。
(西軍本隊は毛利を主軸にした伊勢方面軍であったが、
武断派が三成憎しで大垣へ北進)
あとね内府たがい条に署名してる三奉行に三成は入ってない。
光成氏は奉行の書状が15日に輝元に届くや
待ちかねていたように急ぎ即日出発。
明らかに出発準備が完了していた。
淀、利長、三奉行は
三成と大谷が蜂起と家康にフェイクする陰で
輝元を大坂に招き入れて 家康が蜂起を過小評価させることに成功。
そもそも三成は直接、輝元へ意見が言えず増田経由であるのに
三成首謀者なわけもない。だいたい三成は家康派になっており、
三成の兄の屋敷を家康へ提供するなど、家康へ恭順しているため
なんとしても武断派は三成を敵にしたてる必要性があった。
一方の輝元は毛利分封問題などで家康への敵愾心と悔しさをあらわしている。
また北政所なども西軍派で、それを動かせるのは地位的にも輝元であっても
三成じゃないだろう。
7/12に三奉行が輝元の大坂入りを要請
決起を打ち明けられ同意を求められた家政が
16日に輝元へ書状を出しただけだろ。
淀や利長や三奉行は三成と大谷の挙兵と言うフェイクで
家康を騙して時間稼ぎをしているうちに大津城を手に入れ
瀬田の大橋を確保し、伏見城を落城させて
やっと佐和山の三成との連絡線を確保できたんだし。
三成の挙兵ですぐ輝元が大兵を率いて大坂入城できるのかね?
しかも大兵の船舶まで準備せずにいきなり
物凄い速さで大坂についてるのは光成氏も指摘してる。
輝元が三成に指示も何も三成からして
三成→増田へ書状→増田から輝元へとやり取りしていて
輝元に直接書状を出せない立場なのが三成だから
そんなもん元からあるわけないだろ。
664 :
人間七七四年:2013/07/29(月) 10:02:20.07 ID:oQaorLut
蜂須賀の書状って、
最も伝えたい、訴えたいことを書くことが多い追って書きに、
なおなお両人(三成と大谷)御同意の儀、初者雑説と存、
などと書いていて、
石田と大谷の逆意をただの雑な噂に思っていたら、
安国寺から聞いた旨によると、
東国へ向かう兵達を指し留めていると聞いて驚いたと書いていて、
三成らの挙兵は根拠ない噂だと楽観してたらが、
毛利から安国寺がやってきて、
毛利が会津征伐に行く諸将の軍を差し止めてると聞いて驚いた。
などと書いていて、
実は蜂須賀が聞いていた三成らの挙兵は噂レベルであって、
実際は輝元が会津へ行く諸大名の軍隊を通行止めにしてる首謀者っぷりの事実に、
蜂須賀が驚いて急ぎ書状を出し、
自分は昵懇してる間柄だと強調して輝元に考え直せと再考を促してるだけだよ。
三成らが悪いだけで
輝元は悪くないから、
考え直せば許されるよって、
蜂須賀が輝元の面子を潰さない話術でうまい言い訳を提案してるに過ぎないのは、
追って書きを読めば明らか。
軍記に書かれる三成が会津へ行く諸大名の軍隊を差し止めてる話も、
実は当初は毛利が差し止めてるのが史実だったとわかる書状。
関が原から半年前の慶長4年末の三成→相良宛書状は
退隠してた三成が漆の桶を貰ったことへの感謝の書状だが
そこには京洛の静謐を喜び、九州での庄内の乱も平定されたことに
安堵している三成の姿があり、家康の統治を評価しているのがわかる。
三成が首謀者というのはまったく考えられない。
事実、細川の記録にある細川ガラシャが自決した際のガラシャの側女の報告でも、
三成らが捕らえにくる風聞が原因なんだよね。
だから大坂城から実際に誰の命でとらえにきたか不明で、
あくまで風聞レベルであり、 三成が挙兵した証拠は一切出てこない。
水野伍貴も三成は家康派だったとしている。
なんでいきなり三成が反家康の首謀者になって準備してたなんてでっち上げが信じられるんだ。
そもそも家康は武断派からの暗殺から縁戚の三成を守るために、
結城秀康まで護衛につけてあげてるし、三成は大坂の三成屋敷や三成の兄の屋敷まで提供して、
前田利長らの暗殺から家康を守っている。
そもそも看羊録には前田利長が家康を暗殺しようとして
同士を募った際に、景勝・秀家・清正・忠興・義宣・政宗が血盟したが
三成がそれを家康に通報して、家康襲撃を阻止したと書いている。
その後、家康が忠興に金を貸したり、豊後杵築6万石加増したりして味方化してるな。
そして七将による三成襲撃では、七将が家康に三成を死刑もしくは引き渡し要求する中で
家康が三成をかばって、結城秀康に警護させて佐和山までの道中で、七将に襲撃されないようにしてる。
三成がそのまま大坂に残っていたら、また七将に襲われる大事件が勃発する恐れが高い以上は仕方がない手打ち。
看羊録によれば、佐和山への移動には目的がちゃんとあり
これは家康が対前田のために、三成に北陸防衛を任せたと書いている。
665 :
人間七七四年:2013/07/29(月) 10:06:01.60 ID:oQaorLut
それなら家康が三成の嫡男を秀頼奉公として許している理由もわかる。
実際、家康が抗争していた相手は毛利・上杉であり、三成にはそれほど他意がなかったし
三成にも家康への敵対心はなく、七将と対立しているに過ぎない。
つまり挙兵ってのも上杉が滅亡したら、次ぎは自分の番だと自覚した輝元が
七将を手なずけて会津攻めを開始した家康への敵対を表明したのであり、
三成自身の意思はまったく関係なく、毛利が家康を油断させるために
三成の挙兵だと宣伝して、家康が叛乱を過小評価する誤算を呼び込んで
その隙に伏見城を奪い、勢多の大橋の無傷奪取に成功し大津城も影響下に置くことに成功した。
三成はどちらかと言うと、泥縄的に巻き込まれたと言っていい。
だから三成にはまったくと言って動きを顕わす一次史料が存在しない。
そして反応の鈍い家康と違い反感を持つ七将は三成の挙兵と聞いて反応して上洛していった。
朝鮮出兵は、叛意ゆたかな諸将を疲弊させる目的もあって、行われたもので
秀吉存命時には、朝鮮出兵反対だったが、秀吉死後に国内で支配を確立させたら
毛利や秀家らを朝鮮に派遣して疲弊させるつもりだった。
秀吉は朝鮮に中国・九州のものどもを転封させ、関東のものを西国へ転封させるつもりだった。
朝鮮人を日本で労働させ、日本人は兵隊として朝鮮へ行かせる計画だった。
秀家の先祖は百済人。配下が秀家に謀反したのを責めない家康を小人だと世間が言っていた。
庄内の乱で義弘の兵が疲弊したのを家康は喜んでいた。
輝元の性格は朝鮮人に似ている。朝鮮人の大内の下僕の家柄。
毛利の外交を一手に担う安国寺の周囲は朝鮮人ばかりが囲んでいる。
彼らが内乱を起こせば、朝鮮への再出兵は無くなる。
こんな内容が書かれていて、三成と家康は協調していて、小西と三成が憎い清正が内乱を欲している。
毛利や秀家は家康に屈したら、朝鮮出兵へ行かされる末路なので反抗するしか道はない。
看羊録は一次史料だし、清正との対立から三成は家康の為に働いてたと書いてるし、
家康に命令されての弱体化政策の朝鮮出兵を毛利が回避する為に
家康を排除するしか無いって話でしょ。しかも中立的視点で、
関が原後の国内における変な捏造史観に影響を受けていない点で優れているでしょ。
白川亨氏は家康が秀吉の遺令に背いた時に糾弾のために使者を差し向けた大老や奉行に、
当時、朝鮮からの撤兵指揮の為に九州にいた三成は含まれないどころか三成が帰ってくるや、
違背した婚姻である忠輝と政宗の娘の 五郎八姫を容認するかのように政宗を茶会に呼んで歓待してる。
というのも忠輝の母の於茶阿は家康の寵愛を受け、徳川家の奥向けの一切を支配しており、
強い政治力を持っていたがその兄の山田上野介は三成の重臣であり
兄の子の山田隼人正は三成長女と婚姻していて、家康と三成は於茶阿方を通じて姻戚関係であり、
浅野家譜と慶長見聞録にも利長らの家康暗殺を 増田らが通報したのは三成の差し金だと記され、
三成の邸にいた家康がより安全な三成の兄の邸を提供され退避してる。
その後に、北政所を西の丸から追い出して、そこに天守を築いて家康は移り住んだ。
佐和山隠居の三成が武断派から襲われないように
護衛に結城秀康を付けたりしており(三成は帯刀していた正宗を護衛感謝の証に秀康に贈ってる)
白川亨氏も家康暗殺に加わったとされた 浅野長政が所領の甲斐蟄居ではなく、
武蔵府中に蟄居にさせられた事と対比して、浅野より姻戚関係にある三成の方を家康は信用していたと指摘してる。
関が原後に親戚の孝蔵主が甥を茶阿に送り届け 息子忠輝の家老にして甥を取り立ててる。
三成が家康との姻戚関係を重視して協調していたのがよくわかる。
輝元に唆された大谷に風聞を流されて、何時の間にか三成は西軍に巻き込まれていた。
ただ三成→直江書状が偽書状でなければ、
三成と直江が挟撃策を狙っていたと認めざるを得ない。
666 :
人間七七四年:2013/07/29(月) 10:08:21.72 ID:oQaorLut
極刑の輝元の罪を問わない&家督強制譲渡すれば改易免れる条件が、
島津征伐で輝元が先陣をやるってことだったからな。
しかも毛利の山陽道側の城は後陣の徳川諸将が接収予定だった。
清正や官兵衛が独力で島津を圧倒したから
島津が家康に泣き入れた結果、
輝元は先陣やらずにすんだけどな。
景勝は家督譲渡や島津攻めの先鋒と言った条件が一切無かった講話だったことから見ても
輝元が首謀者だったのは間違いない。
また伏見城落城翌日に西軍首脳の北政所と輝元が豊国社で戦勝祈願 をしているがやはり三成は豊国社で祈願すら一切やってない。
北政所と親しい醍醐寺の座主義演が吉川ら毛利の東軍への降参を卑怯卑怯と罵っているなど首謀者毛利のあり得ない行動に、
毛利に賛同していた者たちは憤激していたし、
首謀者毛利の裏切りを受けて北政所が関が原後に京での東軍の乱暴を避けて後陽成天皇生母の屋敷に逃げ込んだ
これらの北政所人脈と三成も全く無関係。
三成と全く接点のない北政所の動きを追うと、慶長5年6/18には早くも北政所が豊国社に増田と玄以も社参してるのが反家康の端緒と言われてる。
西軍は義演准后日記などで秀頼様衆と書かれているので世間的にも公認されてる。
岐阜城が落ちて美濃まで武断派が占拠したのを知った北政所は8/29より
禁裏に戦禍が及ぶのを案じて城の兵備を破壊し始めてるだけ。
大津城攻めが開始されると義演准后日記に9/9秀頼様祈祷代として金二十両・銀三枚が来ると書かれており
西軍戦勝の祈祷に大坂城の金が使われてるのがたびたび見受けられる。
大津城を開城させるため京の北政所は孝蔵主、大坂の淀殿は饗庭局、高野山は木食上人を投入し一致協力し
和睦後は大坂への人質として京極忠高を受け取る。
西軍敗北と聞くと9/17北政所は裸足で御苑内の勧修寺晴子の屋敷に逃げる。
9/22に京都新城へ北政所は戻る。言経卿記・孝亮宿禰記などで9/26に家康が大坂城へ入り秀頼と和睦をなすとしている。
10/14北政所側近の孝蔵主が罪に問われないように祈祷していたが、この日ついに不問になり西洞院時慶ら公家衆も安堵する。
10/15大坂と江戸の問題が処理され淀の供応で家康と和解し論功交渉スタート
19日秀忠・忠吉が前田玄以とともに豊国社へ参拝。
家康も北政所や淀の罪が問えないどころか饗庭局も不問。
さらに難航していた孝蔵主の処分まで不問にしないと秀頼の名で論功行賞すら行えなかったのが現実
667 :
人間七七四年:2013/07/29(月) 10:10:37.26 ID:oQaorLut
三成なんてただの最前線指揮官に過ぎないだろ。
どこに首謀者の面影があるんだよ?
三成は真田や上杉を味方に引き込んだくらいしか役に立ってないし、
真田も上杉もほとんど戦域外で無意味だったじゃん。
西軍の主戦力は毛利じゃねーか。
三成の美濃戦線なんて閑職もいいところの囮左遷人事じゃん。
西軍首脳陣ははじめから美濃は見捨てるつもりだったとしか思えんし。
在日の豊臣政権憎しは想像を絶するな…
看羊録で朝鮮人のような毛利とageられまくってるから
毛利擁護もしっかりやるんだなw
家康が毛利や宇喜多らを弱体化させる目的で渡海させての朝鮮再出兵を阻止する為に日本を内乱分裂させようと
朝鮮人ブレーンで安国寺らを囲んで関ヶ原を起こしたと書いてるしな。
どう考えても朝鮮人に扇動されたバカ毛利が首謀者なんだよな。
まあ三成が首謀者なら増田経由で輝元に意見を伝えてもらうなんてことする必要ないしね。
むしろ無職三成より現役奉行の増田の方が地位が上だろな。
三成が首謀者なら三成が秀頼を補佐して大坂城で指示をして、
輝元が野戦軍総司令官として家康と対決してるはずだろう。
輝元がいないから毛利軍は迷走したんだしな。
つか、三成首謀者なら秀頼出馬は有り得ただろ。
輝元が首謀者だったから、秀頼が出馬した後に、
大坂城を毛利に占拠される危険性を警戒して秀頼出馬が不可能だっただけだろ
668 :
人間七七四年:2013/07/29(月) 10:13:14.59 ID:oQaorLut
最近は福島ら武断派がまったく私怨ない上杉攻めに積極参加した謎にスポットを当てられてるな。
会津征伐で関東へ進軍してる中で、忠興が三成は謀反する謀反すると讒言を続けてたり
三成挙兵の噂を聞くや、待ってましたとばかりに上杉征伐を忘れて、家康を放置して上洛開始。
このことから輝元と武断派は最初からグルだったとする可能性がでてきた。
そのために福島の領国の尾張どころか福島の弟がいる長島を前に進軍ストップしてたり、
関が原で福島ら武断派に対して毛利は戦を回避したという行動にでた。
武断派は三成を陥れようと流言と讒言をやり、
三成をかばう家康を遠ざけて、三成挙兵のでっち上げをした。
毛利も当然、武断派へ便宜を図り美濃への援軍もださなかった。
武断派は三成を大垣で包囲したと嘘を吐いて家康をおびき出すなど
武断派の策謀が目立つ。
輝元と武断派の話し合いは武断派の謀略なので
家康には伝わらず、輝元は大幅減封と当主の座の剥奪と
島津攻めの最前線の役目を負わせられ
武断派が構想した毛利と上杉の強化の策は失敗したっていう。
策に溺れた武断派の姿がみえる。
たしかに毛利は武断派との戦いを徹底的に回避してるね。
毛利と武断派(黒田が中心で)との間で密約があったかもな。
毛利としては、どうしても三成を巻き込みたかったし、
武断派は三成を追い込んで挙兵させ討伐したいって言う思惑があったろう。
朝鮮出兵阻止のために
日本を内乱にさせるように仕向けた
朝鮮人に操られた馬鹿輝元
実際、看羊録に記されてるし。
毛利は朝鮮人に似てるとも書いてる。
アンチ秀吉の在日織田厨だからでしょ。
いくら秀吉を貶そうとも耶蘇会の1584年の年報にも
はっきりと「一般人民の声によれば、秀吉は何事においても
彼の前任者信長より遥かに優れている」と当時の日本での世評において激賞されていたことを記している。
669 :
人間七七四年:2013/07/29(月) 12:50:22.74 ID:oQaorLut
東夷を征討するという東国武家社会の正統性を手に入れることになる征夷大将軍に家康は任命される。
しかし家康には天皇の命令(勅定)によって私闘禁止(天下静謐)を執行する権利は任されなかった。
己が欲望のために専横し平時に乱を起こしたから
ちゃんとした賊徒征伐と認定されなかった結果、
その権利を天皇から貰ってないのだろうが。
そりゃあそうだ秀吉政権は朝廷を奉っており、
豊臣が賊徒になることなどありえないからな。
賊討伐の許可もなく、勝手に大坂の陣の戦乱の私闘を家康は起こした。
大坂夏の陣では女子供の区別なく20万人虐殺した悪党が家康。
それは明治維新において徳川が不法に全国を支配した朝敵認定されてるのでもわかる。
徳川が賊でもない摂関家当主秀頼を殺した朝敵であり、
それを指摘された時に、幕府はロクな反論すらできないことが判明。
徳川宗家自らが認めて蟄居した事実は変わらないわ。
670 :
人間七七四年:2013/07/29(月) 20:31:56.59 ID:eJ0espSs
万年ニートは暇で良いな( ´,_ゝ`)
671 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 00:13:16.93 ID:ixcAgxkO
秀吉と家康の政権の明暗は、子種の有無だな。
672 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 00:25:22.28 ID:Obs9ybc0
はぁ?ちゃんと秀頼がいたけど?
秀次も立派に関白としてやってたし秀吉が一族殺すような馬鹿だから滅ぼされただけ
673 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 00:35:35.61 ID:8tPDq0Qn
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。
豊臣家が滅ぼされたのは単に秀吉が馬鹿だったからというだけ
674 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 00:55:10.97 ID:eBnhWq3h
>>672 秀吉の精液は種無しで秀頼は秀吉の子ではないというのが最近の研究の結果だよ
675 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 01:06:10.72 ID:Obs9ybc0
>>674 はいはい馬鹿の極地だなお前。
秀吉が種なしとするデッチ上げからくる妄想話を持ち出すとか
さすが在日w
676 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 01:16:06.60 ID:eBnhWq3h
>>675 秀吉の精液が種無しだったのはデッチ上げじゃなくて最近の研究で明らかになってるよ。
嘘だと思ったら最近の本読んだりインターネットって調べてみるといいよ。
677 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 01:20:05.00 ID:Obs9ybc0
>>676 そんなもんない。河原ノ者〜とか軍記と妄想で書き連ねたデッチ上げ本くらいでしかねぇしw
678 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 02:01:55.79 ID:4fT4XtOA
河原ノ者・非人・秀吉は酷い内容だったなぁ
ほとんどが軍記の引用でできててたまに一次資料が出てくると思ったら肝心な所読みおとしてたりしてるし
679 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 09:21:51.95 ID:zfvcgeVV
てか隔世遺伝って概念もない
リアル浅井長政知らない秀頼元服世代が
命掛けようなんて思わないだろw
680 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 11:41:42.58 ID:hLk578s2
6才で死んだ実子の羽柴秀勝 (石松丸)もいるから種無しってことはないし
16:人間七七四年 08/13(土) 21:39 fciW2Rm8
>>11 豪姫の姉って誰のこと?
宇喜多直家の妻を妾にしたと言う記述は毛利の捏造史料にしか出てこないデタラメ。
毛利は宗麟を女好きと捏造記述したりと毛利の敵だった側をむちゃくちゃ悪く書きまくってる。
しかし実際に幼女をレイプ目で見ていた輝元を危険視して匿った挙げ句に婚姻させたが
それでも諦めずに輝元が隙をみて略奪して子を生ませ
その夫を隆景が暗殺してるのはリアル史実w
残念だが光成氏も寵愛を受けた記述があるのは毛利の捏造軍記である陰徳記のみで
一次史料には無いと否定してるわけだがw
相変わらず在日毛利厨って無知だな。
22:人間七七四年 08/14(日) 15:00 p7pjEErP [sage]
>>11>>19 摩阿姫のことを言ってるようには思えない内容なんだが?
摩阿姫は非嫡出子の可能性が高く普通は利家夫婦の子とカウントしない。
そのため12歳の時に柴田への人質に出され北ノ庄城へ送られ
佐久間十蔵と婚約済みである以上はすでに非処女だし。
その摩阿姫が人質として京へ送られたのは1586年であり14歳の時。
しかも秀吉の側室として関係を持つ可能性があるのは
1587年9月に聚楽第が完成して、そこで摩阿姫が起居してからだから15歳。
しかし摩阿姫は病身であり子供が秀吉との間に出来てないが、
のちに万里小路充房との間に利忠を生んでる。
元々、人質の立場であって秀吉の好みからではないから
秀吉が手をつけたかどうかすら怪しい。
>>妾にした時その娘は数え歳でまだ十二歳
>>現代の年齢の数え方だと11歳
これwikiの1585年に秀吉の側室になったデタラメ記述から盗用した挙句に
秀吉を貶すために悪意ある文章を書いただけだろw
こんなの前田家の保身のための人質なんだから
糾弾すべきは秀吉じゃなくて前田夫妻の方だろ。
在日は無知なだけでなく捏造歪曲までやるから気持ち悪いわ。
26:人間七七四年 08/15(月) 09:22 p9qSTrsV
そもそも秀吉が好色だったのかどうかすらも怪しい。
衆道をやってないなら好色だったんだろ!的な江戸庶民の妄想の産物だろ。
30:人間七七四年 08/16(火) 12:48 aZlCHDd0 [sage]
>>1 好色を証明するソースは無い。 唯一あげるとすれば信長がねねに出した書状くらいだが
それだけでは好色と大げさに言われるほどの内容じゃない。
そもそも子姓をはべらし衆道など性に奔放熱心だった信長や家康の方がはるかに側室も圧倒的に多いし子供も大量にいる。
むしろ子姓も侍らすことをせず能をやったり、オッサン達と軍記話をして楽しむことが多かった多趣味な秀吉は性欲があまり無かったから子作りに熱心じゃ無かったんじゃないかな。
38:人間七七四年 11/18(金) 20:44 umlTHGZA [sage]
女好き最強は中華の後宮並みと言われた信長だな。
秀吉は信長や家康と違い ガキあんまりいないから 女好きって軍記講談話に惑わされてるだけで、
実際にはエロより800人いたと言う御伽衆との会話ばっかり楽しんでいたと考えられる。
42:人間七七四年 08/23(木) 10:51 4cgiEJma [sage]
中国みたいな後宮つくってたのは明智軍記で1000人の女性を囲ってたとされる信長だけ
だから信忠をはじめ母が誰だかわからん子ばっか。基本的に戦国時代は一夫多妻制じゃないからね。
秀吉が側室をたくさん持ってたと誤解してるやつもいるけど
あれは人質として差し出させて厚遇してる姿をアピールしてただけ。
秀吉が手をつけてないのは子供ができなかったことでもわかる。
それを秀吉の種なし&秀頼の父は別人説をデッチ上げてるのは在日。
47:人間七七四年 06/22(土) 10:56 5xspctLN
そもそも秀吉が女好きの変態みたいに書いてんのは陰徳記って言うもんを編集した毛利の捏造だから。
宇喜多秀家が厚遇されてんのは、秀家の母が秀吉に寵愛されてるからとか、
嫉妬して秀家を貶している醜い毛利
681 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 19:38:26.15 ID:01UGwgTN
アスペルガーだがとは?
だがの信条
嘘も言い続ければ本当になる
生息地
HOST:ntaich063200.aich.nt.ngn.ppp.infoweb.ne.jp
愛知県安城市
これによりSubと同一人物であることが判明
レスの特徴
@織田信長や織田家を蔑むレス
A武田信玄や武田家を讃えるレス
B協調性の無い自己顕示の強いレス
Cスレを荒らすための煽り挑発が著しいレス
D「織田厨」という言葉を連呼するレス
E自作自演一人芝居しているレス
F嘘と偽りによる妄想レスでソースは一切無し
レスの戦術
かまってちゃんのため相手をしてくれる人をコピペ爆撃で燻り出し発見次第にスレ荒らしを展開
戦国板三大事件
上洛スレ64の自演自爆事件
64検証スレの歴史改変事件
歴ゲー板の創造・天道の屈辱
信野暮の武将FILEから戦国時代の知識を獲得
だがの主観により事実を捻じ曲げて覚えたため日本の教科書を排撃
平日休日関係なく24時間2chに常駐して見えない敵と永遠に戦い続ける
今日のアスペルガーだが
自演ID爆撃活動記録一覧
ID:Obs9ybc0
0時〜1時と13時〜18時
ttp://hissi.org/read.php/sengoku/20130730/T2JzOXliYzA.html ID:hLk578s2
11時〜12時
http://hissi.org/read.php/sengoku/20130730/aExrNTc4czI.html
682 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 23:58:26.18 ID:iboX6TL/
だがって相当やべぇなw
683 :
人間七七四年:2013/07/31(水) 00:17:59.08 ID:Qpijsv9P
それを必死に追掛けてるヤツも
なかなかヤヴァいってのが社会的判断だけどなw
俺にも他スレでは
何年も個人攻撃されてるヤツ(1匹)居るけど
隣のスレでどんな書込みしてるのかすら興味ないわw
684 :
人間七七四年:2013/07/31(水) 01:20:17.30 ID:Y1U/HHgv
685 :
人間七七四年:2013/07/31(水) 08:25:40.84 ID:h6BuM1Tr
>>684 最後の方に「家康は信長や秀吉の時代に天下を取れなかったから二人より能力が低い」とか残念なこと言ってる奴がいて萎えたわ
686 :
人間七七四年:2013/07/31(水) 12:43:24.48 ID:FFWZMqHW
>>680 陰徳太平記は正則を酒狂いで家臣を自刃させたりする愛を知らない大工の子と書いてたり、
天野の武勇を聞いて宗茂が召し抱えた後に、正則が天野を召し抱えようとして
宗茂に先約ありと聞いて遺恨に持ち、朝鮮陣で何かと正反対の意見を吐き険悪だから
広家と長政が酒席に読呼んで和解を斡旋したが、武勇の家臣ときた宗茂と1人で来た正則。
酒の肴に宗茂が踊りながら正則の前に来たので,鴻門の会のようになり
険悪になったが広家と長政がうまく収めたとか、
秀吉死後に三成や増田が増長し始皇帝死後の趙高のようだと書いたり真偽不詳の嘘話多過ぎ。
しかも肝心な関ヶ原は書いてないからそんな悪評の三成と輝元が組んだり、
自称名将の広家が関ヶ原で下手うって、長政偽書状まで偽造して
広家のおかげで毛利が存続できたストーリーを作ったのかわからん。
そのくせ、やたら長政と親しいアピールがウザい。
江戸で動けなかった家康…黒田親子の家康へ協力しろ書状を再三にわたり無視してただろ伊勢にいた広家…
正則の悪評の元ネタの大半が陰徳太平記だからな…
よほど安芸の主人になった福島を毛利は逆恨みしてたんだろうなあ。
正則がアホ馬鹿だとイメージされてきた代表的エピソードの数々の出典って毛利捏造軍記だったとは…
正則の印象を変えなきゃならんね
687 :
人間七七四年:2013/07/31(水) 14:14:52.76 ID:DPPHxrE/
>信長や秀吉の時代に天下を取れなかったから二人より能力が低い
2代くらいの天下目指さなかっただけ何だけどなw
688 :
人間七七四年:2013/08/01(木) 23:48:46.03 ID:nETffo2I
秀吉秀長兄弟は「種無し」なのに、秀頼を秀吉の実子だと寝言ほざいてる低能には呆れる。
秀吉も秀吉で、中高年にもなれば、自分が「種無し」だと気づきそうなもんだが、淀が間男と不貞交尾して孕んだ赤の他人の子を実子だと、簡単に信じてしまう低能ぶりは底なしだ。
689 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 00:07:06.66 ID:iJgNSO1e
はいはい馬鹿の極地だなお前。
秀吉が種なしとするデッチ上げからくる妄想話を持ち出すとか
さすが在日w
690 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 10:48:29.74 ID:OqBaIJE9
>>684 パネリストに津川雅彦が出てたんだ。
大石内蔵助は嫌だな。
鳥居さん(足軽の方の強右衛門も含めて)や夏目吉信のような生き残る為の自己犠牲なら感動するけど、
滅びの美学というのは性に合わねぇ。
691 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 17:30:25.61 ID:yVSc22/N
在日って執念深いな
692 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 21:49:21.67 ID:FPJEC8GM
>>688 簡単に信じられないから数々の親馬鹿な行いをやって
自分を誤魔化して信じようとしていたんだろ
涙ぐましくもあり、狂気じみてもいた数々の行いを
693 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 23:41:37.59 ID:SZYJnX2K
おまいら妄想はそこまで
694 :
人間七七四年:2013/08/03(土) 00:00:07.85 ID:2VbhS/6Z
6才で死んだ実子の羽柴秀勝 (石松丸)もいるから種無しってことはないし
豪姫の姉って誰のこと?
宇喜多直家の妻を妾にしたと言う記述は毛利の捏造史料にしか出てこないデタラメ。
毛利は宗麟を女好きと捏造記述したりと毛利の敵だった側をむちゃくちゃ悪く書きまくってる。
しかし実際に幼女をレイプ目で見ていた輝元を危険視して匿った挙げ句に婚姻させたが
それでも諦めずに輝元が隙をみて略奪して子を生ませ
その夫を隆景が暗殺してるのはリアル史実w
残念だが光成氏も寵愛を受けた記述があるのは毛利の捏造軍記である陰徳記のみで
一次史料には無いと否定してるわけだがw
相変わらず在日毛利厨って無知だな。
摩阿姫のことを言ってるようには思えない内容なんだが?
摩阿姫は非嫡出子の可能性が高く普通は利家夫婦の子とカウントしない。
そのため12歳の時に柴田への人質に出され北ノ庄城へ送られ
佐久間十蔵と婚約済みである以上はすでに非処女だし。
その摩阿姫が人質として京へ送られたのは1586年であり14歳の時。
しかも秀吉の側室として関係を持つ可能性があるのは
1587年9月に聚楽第が完成して、そこで摩阿姫が起居してからだから15歳。
しかし摩阿姫は病身であり子供が秀吉との間に出来てないが、
のちに万里小路充房との間に利忠を生んでる。
元々、人質の立場であって秀吉の好みからではないから
秀吉が手をつけたかどうかすら怪しい。
>>妾にした時その娘は数え歳でまだ十二歳
>>現代の年齢の数え方だと11歳
これwikiの1585年に秀吉の側室になったデタラメ記述から盗用した挙句に
秀吉を貶すために悪意ある文章を書いただけだろw
こんなの前田家の保身のための人質なんだから
糾弾すべきは秀吉じゃなくて前田夫妻の方だろ。
在日は無知なだけでなく捏造歪曲までやるから気持ち悪いわ。
そもそも秀吉が好色だったのかどうかすらも怪しい。
衆道をやってないなら好色だったんだろ!的な江戸庶民の妄想の産物だろ。
好色を証明するソースは無い。 唯一あげるとすれば信長がねねに出した書状くらいだが
それだけでは好色と大げさに言われるほどの内容じゃない。
そもそも子姓をはべらし衆道など性に奔放熱心だった信長や家康の方がはるかに側室も圧倒的に多いし子供も大量にいる。
むしろ子姓も侍らすことをせず能をやったり、オッサン達と軍記話をして楽しむことが多かった多趣味な秀吉は性欲があまり無かったから子作りに熱心じゃ無かったんじゃないかな。
女好き最強は中華の後宮並みと言われた信長だな。
秀吉は信長や家康と違い ガキあんまりいないから 女好きって軍記講談話に惑わされてるだけで、
実際にはエロより800人いたと言う御伽衆との会話ばっかり楽しんでいたと考えられる。
中国みたいな後宮つくってたのは明智軍記で1000人の女性を囲ってたとされる信長だけ
だから信忠をはじめ母が誰だかわからん子ばっか。基本的に戦国時代は一夫多妻制じゃないからね。
秀吉が側室をたくさん持ってたと誤解してるやつもいるけど
あれは人質として差し出させて厚遇してる姿をアピールしてただけ。
秀吉が手をつけてないのは子供ができなかったことでもわかる。
それを秀吉の種なし&秀頼の父は別人説をデッチ上げてるのは在日。
そもそも秀吉が女好きの変態みたいに書いてんのは陰徳記って言うもんを編集した毛利の捏造だから。
宇喜多秀家が厚遇されてんのは、秀家の母が秀吉に寵愛されてるからとか、
嫉妬して秀家を貶している醜い毛利
695 :
人間七七四年:2013/08/03(土) 00:10:32.68 ID:xcV9eblV
羽柴秀勝 (石松丸)が秀吉の実の子である確証は、どこにも無い。
石松丸の肖像画は、秀吉に全く似てない。
696 :
人間七七四年:2013/08/03(土) 00:34:12.57 ID:pLlCEl7Y
浅井長政からの隔世遺伝という言い訳があるだろw
以下、誰にも読まれない長文書く罰ゲーム。
コピペかも知れんけどw
697 :
人間七七四年:2013/08/03(土) 06:31:19.96 ID:NqXj00D0
頼朝と家康は、日本史上の大悪人。
698 :
人間七七四年:2013/08/03(土) 10:50:55.29 ID:cE3iY8A5
>>695 竹生島奉加帳にちゃんと記されてるだろ。
699 :
人間七七四年:2013/08/03(土) 22:43:15.82 ID:jNjI6Jbf
記録には権力者に都合が悪い事実は記録されない真理くらい知っとけ。
700 :
人間七七四年:2013/08/03(土) 22:54:35.36 ID:jENINx2A
でも種なしだとか秀勝や秀頼や鶴松が実子じゃないなんていってるの
軍記講談引用がほとんどの河原の者・非人・秀吉のアホ学者くらいだろ
そんなもん記録にも史料にも載ってないし学説でも全く少数派にすぎん。
あんなもん参考にするならまだ江戸期の講談のがマシだわ
701 :
人間七七四年:2013/08/03(土) 22:59:25.62 ID:jNjI6Jbf
好き者で荒淫の秀吉が手をつけた側室は数知れず。
が、懐妊したのは淀だけ。しかも2回も。
成人した秀頼の体躯は堂々たる大柄で、秀吉とは似ても似つかぬ体格。
秀頼が秀吉の胤でないのは明らかだ。
そうなると、必然的に夭折した鶴松も、秀吉の胤では無い帰結となる。
702 :
人間七七四年:2013/08/03(土) 23:20:23.28 ID:3+vTEY+j
浅井長政に似たんだろ。隔世遺伝さ
703 :
人間七七四年:2013/08/03(土) 23:21:54.85 ID:3+vTEY+j
てもう↑で書かれてたw
704 :
人間七七四年:2013/08/03(土) 23:31:03.70 ID:jENINx2A
6才で死んだ実子の羽柴秀勝 (石松丸)もいるから種無しってことはないし
豪姫の姉って誰のこと?
宇喜多直家の妻を妾にしたと言う記述は毛利の捏造史料にしか出てこないデタラメ。
毛利は宗麟を女好きと捏造記述したりと毛利の敵だった側をむちゃくちゃ悪く書きまくってる。
しかし実際に幼女をレイプ目で見ていた輝元を危険視して匿った挙げ句に婚姻させたが
それでも諦めずに輝元が隙をみて略奪して子を生ませ
その夫を隆景が暗殺してるのはリアル史実w
残念だが光成氏も寵愛を受けた記述があるのは毛利の捏造軍記である陰徳記のみで
一次史料には無いと否定してるわけだがw
相変わらず在日毛利厨って無知だな。
摩阿姫のことを言ってるようには思えない内容なんだが?
摩阿姫は非嫡出子の可能性が高く普通は利家夫婦の子とカウントしない。
そのため12歳の時に柴田への人質に出され北ノ庄城へ送られ
佐久間十蔵と婚約済みである以上はすでに非処女だし。
その摩阿姫が人質として京へ送られたのは1586年であり14歳の時。
しかも秀吉の側室として関係を持つ可能性があるのは
1587年9月に聚楽第が完成して、そこで摩阿姫が起居してからだから15歳。
しかし摩阿姫は病身であり子供が秀吉との間に出来てないが、
のちに万里小路充房との間に利忠を生んでる。
元々、人質の立場であって秀吉の好みからではないから
秀吉が手をつけたかどうかすら怪しい。
>>妾にした時その娘は数え歳でまだ十二歳
>>現代の年齢の数え方だと11歳
これwikiの1585年に秀吉の側室になったデタラメ記述から盗用した挙句に
秀吉を貶すために悪意ある文章を書いただけだろw
こんなの前田家の保身のための人質なんだから
糾弾すべきは秀吉じゃなくて前田夫妻の方だろ。
在日は無知なだけでなく捏造歪曲までやるから気持ち悪いわ。
そもそも秀吉が好色だったのかどうかすらも怪しい。
衆道をやってないなら好色だったんだろ!的な江戸庶民の妄想の産物だろ。
好色を証明するソースは無い。 唯一あげるとすれば信長がねねに出した書状くらいだが
それだけでは好色と大げさに言われるほどの内容じゃない。
そもそも子姓をはべらし衆道など性に奔放熱心だった信長や家康の方がはるかに側室も圧倒的に多いし子供も大量にいる。
むしろ子姓も侍らすことをせず能をやったり、オッサン達と軍記話をして楽しむことが多かった多趣味な秀吉は性欲があまり無かったから子作りに熱心じゃ無かったんじゃないかな。
女好き最強は中華の後宮並みと言われた信長だな。
秀吉は信長や家康と違い ガキあんまりいないから 女好きって軍記講談話に惑わされてるだけで、
実際にはエロより800人いたと言う御伽衆との会話ばっかり楽しんでいたと考えられる。
中国みたいな後宮つくってたのは明智軍記で1000人の女性を囲ってたとされる信長だけ
だから信忠をはじめ母が誰だかわからん子ばっか。基本的に戦国時代は一夫多妻制じゃないからね。
秀吉が側室をたくさん持ってたと誤解してるやつもいるけど
あれは人質として差し出させて厚遇してる姿をアピールしてただけ。
秀吉が手をつけてないのは子供ができなかったことでもわかる。
それを秀吉の種なし&秀頼の父は別人説をデッチ上げてるのは在日。
そもそも秀吉が女好きの変態みたいに書いてんのは陰徳記って言うもんを編集した毛利の捏造だから。
宇喜多秀家が厚遇されてんのは、秀家の母が秀吉に寵愛されてるからとか、
嫉妬して秀家を貶している醜い毛利
705 :
人間七七四年:2013/08/03(土) 23:40:37.01 ID:jNjI6Jbf
松の丸殿、冬姫、千利休の娘etc.
秀吉の好色ぶりは当時も現代でも常識。
706 :
人間七七四年:2013/08/03(土) 23:47:16.96 ID:jENINx2A
そもそも秀吉が女好きの変態みたいに書いてんのは陰徳記って言うもんを編集した毛利の捏造だから。
宇喜多秀家が厚遇されてんのは、秀家の母が秀吉に寵愛されてるからとか、
嫉妬して秀家を貶している醜い毛利
707 :
人間七七四年:2013/08/03(土) 23:48:56.85 ID:PQCNx8T1
だから当時には隔世遺伝なんて概念自体が
あったのか無かったのかの問題だろう?
10行以内で誰か考察してくれよw
708 :
人間七七四年:2013/08/03(土) 23:57:43.56 ID:2VbhS/6Z
秀吉の身長が低かった史料
秀頼が大柄だった史料
あと、小柄からも大柄はちゃんと生まれるという至極当たり前の事象
論破どうこう以前にマジレスするのも馬鹿らしい
709 :
人間七七四年:2013/08/04(日) 00:16:38.23 ID:qgLmYRAQ
史料云々を語る前に、普通に本読め。
秀吉が小柄でなかったとか、秀頼が大柄でなかったとする既製本は、一部フィクションを除きどこにも存在しない。
既製本は、誰かさんが大好きな「史料」に依拠している常識さえ理解できんのだから、オツムのレベルの低さは、学習能力ゼロの麻生太郎並みだ。
710 :
人間七七四年:2013/08/04(日) 00:20:07.09 ID:EReeYI3E
本といってもソース元が重要なわけで、講談ソースである事柄がかかれてたら、そりゃ講談レベルの信憑性しかないわけで。
骨格とかが発見されてDNA鑑定がちゃんとなされているなら、まぁわかるが、そうでないなら全く話にならんよ。
後そもそも秀吉が種なしかどうかが問題なわけで、秀吉が種なしで秀頼秀勝鶴松が実子じゃないとか
一部のアホ学者くらいしか主張してないし、勿論そんな史料もないし
711 :
人間七七四年:2013/08/04(日) 00:23:48.25 ID:qgLmYRAQ
なら、秀吉の小柄な体型や秀頼の大柄な体型を否定している既製本出せ。
これで、あっさり論破完了。
秀吉の種無しは、側室にバンバン子を産ませていた家康と比べても明らかだ。
712 :
人間七七四年:2013/08/04(日) 00:30:21.78 ID:Gr/2H0kG
奇声本だすまでもなく、秀吉が小柄という事を示す史料が無いで否定される
あるなら出してみ?
ん?w
713 :
人間七七四年:2013/08/04(日) 00:51:29.88 ID:tmfllJjg
はいはい馬鹿の極地だなお前。
秀吉が種なしとするデッチ上げからくる妄想話を持ち出すとか
さすが在日w
そもそも秀吉が女好きの変態みたいに書いてんのは陰徳記って言うもんを編集した毛利の捏造だから。
宇喜多秀家が厚遇されてんのは、秀家の母が秀吉に寵愛されてるからとか、
嫉妬して秀家を貶している醜い毛利
714 :
人間七七四年:2013/08/04(日) 01:57:34.96 ID:tgiSuYg+
秀吉に種があるとかないとかどうでもいいわ、よそでやれ。
ここは家康公のスレだ
715 :
人間七七四年:2013/08/04(日) 20:18:37.54 ID:gXeFW2dr
秀頼が秀吉の実子であるためには、
1.秀吉には子どもを作る能力があり、多くの女性たちと交わったが偶然子どもはできず、
淀と交わったときにその能力が発揮された
2.秀吉には子どもを作る能力があり、伝えられている秀吉像とは正反対に女と交わることを避けてきたが、
淀と交わって子どもを作った
のどちらかであるが、どちらも考えにくい
特に2.は、世継ぎを渇望してきた天下人としてはほとんどありえない
そこで、
3.秀頼は秀吉の実子ではないが、実子であると信じたい人達が頑なにそう主張している
と考えるのが一番妥当ということになる
716 :
人間七七四年:2013/08/04(日) 20:57:50.49 ID:vhCqApUB
1秀吉が女好きのエロジジイみたいに書いてるのは陰徳記などの講談でソースなし
2秀吉はさほど性欲を発揮したりしてない。が、一応秀勝鶴松秀頼と子息はいるにはいる。
3秀頼が秀吉の実子ではないというのは一部のアホ学者がかたくなに信じ込んでいる史料には一切みられない妄言
と考えるのが一番妥当ということになる
717 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 13:07:27.00 ID:+JW1NWGB
千利休の娘の話なんて完全に妄想話じゃん。
古田織部の息子九郎八から長宗我部の旧臣だった十市縫殿助が聞いた話を纏めて
1653年に十市縫殿助物語という物語を作ったとか信憑性ないだろw
秀吉が鷹狩りで山を歩いていたら偶然に30歳ババア利休の娘を見かけるとかありえなぇだろw
秀吉を悪人として描いていて明らかに中立性を欠いた妄想話。
718 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 19:05:29.66 ID:CyVFYXId
秀頼の本当の父親は大野治長というのが最近のもっぱらの説だよ
719 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 19:16:50.61 ID:xUV3tRY0
そんな珍説一部の馬鹿学者しか唱えていない
720 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 22:21:01.97 ID:0m1QHuCz
朝廷を脅迫し秀吉の神号を剥奪し、自分は東照大権現の神号のキチガイ家康。
しかも南朝の忠臣だった新田の名前を盗んで源氏顔。
721 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 23:07:03.01 ID:uFiIS5V5
豊臣家による盤石な政権体制を築けなかった秀吉が悪い。
家康公が260年の礎を築いたことへの妬みか?
江戸幕府が二代三代で盤石になったなんて野暮なツッコミはなしな
722 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 23:23:59.00 ID:xUV3tRY0
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。
豊臣家が滅ぼされたのは単に秀吉が馬鹿だったからというだけ
723 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 23:26:24.45 ID:xUV3tRY0
なんで負けたかって言えば、そもそも秀吉から政務を委託された正当な大老であり、豊臣家を蔑ろにしていたわけでもない
家康を討つことには大義名分が少なく、家康が会津討伐に向かうため畿内を離れたというチャンスに機械的に
反応してしまい、自陣営の体制を構築する前に挙兵してしまったこと。
実態としては、明智光秀の本能寺の挙兵に近いものがあった。
会津征伐に飛びつかず、もっとじっくりと待つ必要があったと思うよ。勿論その場合は家康も着々と体制がためをしてくるが、
そこは政治力の勝負だ。 むしろ政治力の勝負を諦めたために関ヶ原がおこったとも言える。
そもそも合議の結果何かを決定するのは家康の役割だし、前田は豊臣家にすら無断帰国したのだから謀反を疑われて当然だし
上杉も穏便に処理しようとした家康の提案を蹴って、武装して割拠状態になったのでこれも謀反とされて当然
島津や毛利や宇喜多の家中の争いを喜んだ?そんな証拠は一切ない。というか介入すら最低限だ。
北政所にいたっては自分から西の丸を家康に譲ってるし大名への加増は三成ら奉行衆もそれこそ「合意」してる
ついさっきまで秀吉という専制独裁者が君臨していた政権において合議を破った専制独裁者という非難そのものが馴染まないんだよ
秀吉自身は一度も合議による政権運営なんてしたことがないから
普通の大名からすれば誰も見たことがない体験したことがないものを破ったと言われてもピンとこない
それに三成の家康批判は一歩間違えれば秀吉批判にも取られかねない危険な主張だ
三成が家康に名前を変えて秀吉の専制独裁を批判していると受け取れば豊臣のため三成を討伐することに何も問題はない
そもそも徳川が体制ぶち壊したとかいうけどぶち壊されるような体制とか諸将の配置にしなきゃよかっただけじゃん
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり自分から家康が天下取りやすい状態作っといて
ぶち壊したも糞もねーじゃん
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻を進めている。自分の死後を見据え、最有力大名徳川家との融合を企図したものだ。
秀頼・千姫の間に出来た世継ぎが、徳川家の傀儡になる事は、秀吉が認識していて当然。
実は反徳川的な行動を起こし、豊臣家を滅亡に導いた輩こそ、秀吉の意思に背いた不忠といえる。秀頼・千姫の間の子は世継ぎになるわけで。
徳川の血が、豊臣宗家に組み込まれるわけだけど。実際融合されなかったのは、邪魔をした者がいたから。そしてそのせいで、豊臣滅亡。不忠でしょ。
千姫は正室なので、当然千姫との間の子が世継ぎでしょ。そうなれば、政権における徳川家の影響力が増す
724 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 00:40:04.43 ID:IqKbXRpy
信長も秀吉も歴史に存在しなくとも家康もとい松平元康が各地を倒して天下統一してたろうな
725 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 16:19:01.71 ID:POzSKnfy
家康みたいな糞老人があそこまで長生きして
しかも嫉妬と欲望と権力欲とあらゆる劣情に塗れた
キチガイ偏執狂老人という醜い正体を隠していたからだな。
まさか統一した公儀政権に対してもっとも責任がある大老筆頭でありながら
ありとあらゆる妄念に負けた腐れ老人家康が平時に乱を起こし
史記などで描かれる極悪人の典型である天下を盗む所業・・・幼君に対して専横奸臣に変り果てるなんて
誰も予想できなかったからな。
726 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 16:37:05.43 ID:4hWKMMHn
外様と言うけど秀吉には殆ど外様しかいないし
元々大封を持った外様を配下に取り込んでいった訳だから、彼らが手柄を立てれば更に封土を増やすしかない
秀次の件も、秀頼とどちらかを除かなければ秀吉の死後に内訌が起きて天下が崩壊するのは火を見るより明らか
思い切って秀次側を殲滅したのは正しい判断だったと言える
問題は秀吉死後に政権を運営出来るほどの人物がいなかった事にある
と言うか家康に一任していたが、その家康が反旗を翻した訳だからどうしようもない
だからと言って他に任せられる人物がいなかったのも事実
所詮豊臣家は奇術的な手法を用いて僅か10数年で作り上げた家
僅かな期間で築いたものは僅かな期間で潰れるのは摂理だろう
727 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 17:13:57.42 ID:/7Ga+veK
秀吉は譜代いまくりでしょ
尾張衆の前野・蜂須賀や加藤や、秀吉子飼い系の福島加藤など尾張衆に加え長浜衆一杯で叩き上げ武将だらけ。
譜代衆だから外様に大封やったんじゃなくてただ単に他力本願でなあなあな同盟みたいな関係で
トップにたっただけでいわば公家とか朝廷みたいなもんで武力で押さえつけたわけじゃなく
そんな力秀吉にはなくて上杉毛利宇喜多木曽小笠原石川水野佐竹十河河野大友佐竹芦名真田等
敵勢力の敵が味方をしたから成っただけのハリボテ政権だから崩れさっただけ。
大体家康なんて天正12年初頭の徳政連発・木曽小笠原石川水野真田とそれによる軍事機密露見による領国崩壊で
めちゃめちゃな状況なのに これで母や妹人質に出す程雑魚なんだからどうしようもない
つうか外様系でも宇喜多なんてもう直家が死んだ時点で秀吉領との一体化が進められてたし
毛利や上杉も、最初から秀吉に敵対せずに協力した時点で家康よりも遥かに豊臣に忠義的。
僅かな期間で築いたとか書いてるけどそれは別に徳川も織田も細川も三好も大内も何も変わらんからいいわけにならん
織田に仕えてる時点での秀吉は家じゃないのかって話だし
728 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 17:18:25.26 ID:YkoKY1bt
豊臣家は僅かな期間どころか長浜時代から15年も20年もかけてようやく築かれたもの。
というか、秀吉の毛利宛書状とか見ると、子供の頃からかなり重要な立場として織田家に仕えていたようだし
一次資料初見も重臣しか名をつらねない領土安堵状に名前添えてるのが見える。
秀吉の譜代に尾張やその近辺の美濃などの出身者が多いのも、秀吉が尾張一国時代からかなりの基盤持ってた証拠で、太閤記の出世話がデタラメばかりなのがわかる
729 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 17:34:50.87 ID:4hWKMMHn
いや、20年や30年は「たった」だから
割りと新興である松平家ですら家康で百数十年9代目になる
他の大名は200年、300年がざらだ
そもそも譜代と言うのは代を重ねた家の事を言う
豊臣家は秀頼で僅かに2代目
他の大名とはとても比較にならない
1代目で大名どころか天下人になってしまった豊臣家はあまりにも突飛な存在で無理がある
730 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 17:44:07.77 ID:YkoKY1bt
100年重ねようが200年重ねようが関係ねーよ
室町期からの旧守護勢力なんて衰退してて次々新興勢力によって倒されてる時代に
昔からいるからどうとか短期間で成ったからどうとか語るとかアホですか。
家が成ってからの年月と、一人ひとりの仕えている武将の忠誠心とどう関係あるかちゃんと論じてくれよ
昔から、自分の親の親の代から何代も仕えてようが、自分の代になってやっと子飼いとして仕えようが、忠誠心も
何も変わらん
つうか昔から仕えてる家臣の方が変に自立心強くて言う事聞かなかったり謀反起こしたりしてるだろ
松平の譜代なんて三河一向一揆で家中半分に寝返ったり武田の譜代系も言う事聞かなかったりしてるだろうが
自分の代になって士官した子飼いなんて家臣として一番扱いやすい部類だわw
731 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 17:53:28.17 ID:WvUcqZ2Z
200年も遡ったらそれこそ武田も毛利も北条も他地域にいた頃まで遡るんじゃないの。
そんな昔の頃の話持ち出して譜代だの長い歴史があるだのいって何か意味があるのかね
732 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 18:10:34.48 ID:yWedq2AD
なんか論点ずれてないですか(震え声)
733 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 18:37:14.70 ID:POzSKnfy
家康の将軍任官と同じ慶長8年(1603年)、池田輝政が右近衛権少将に任じられているが、
これは「豊臣朝臣輝政」としての任官である。
また同年山内一豊が従四位下に叙せられ土佐守に任官しているが、
これも「豊臣朝臣一豊」としての叙任である。
また、これも慶長8年(1603年)のこと、加藤清正主計頭から肥後守に転任しているが、
同時にそれまでの「平朝臣清正」から「豊臣朝臣清正」である。
武断派が徳川将軍に対して対決姿勢を示しているのである。
しかし、その後、有力親豊臣大名は次々と死去していくのである。
734 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 18:47:24.14 ID:YkoKY1bt
次々と死んでいくって山内はともかく加藤と池田は大分後だしさっさと家康を三成らと協力して潰さなかった自分らが馬鹿なだけ。
関が原の前でも猶予期間は大分あったわけだし家康もう老人もいい所だぞ
家督ももうとっくに秀忠に渡してるし
735 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 18:49:21.81 ID:kisFwZWb
徳川の犬に成り下がった彼らに家康と対決する気なんてないだろ
あったら関が原か、もしくはそのあと死ぬまで10年以上あるしとっくにやってる
736 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 18:50:00.19 ID:yWedq2AD
家康さえ潰せば豊臣家は安泰だという風潮 万理ない
737 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 19:00:45.80 ID:POzSKnfy
老いぼれ家康なんてちょっと待ってりゃ死ぬと思っていたら
自分らが変死するアホどもが武断派
738 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 19:09:29.23 ID:WvUcqZ2Z
そんなもんいいわけにならん。家康を打つ時間ならいくらでもあったわけだし
彼らが死んでも彼らの子供はちゃんと生きてるわけで。
739 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 22:28:37.76 ID:E8F+roxm
ぶっちゃけ、家康公死んでたらまた戦国初期に逆戻りだわな
740 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 22:54:45.55 ID:ilzGFSzG
だから秀吉厨は家康を罵倒しながらも、
家康に私心を捨ててひたすら豊臣を支え続けることを期待するしかないというジレンマに陥る
しかも秀吉自身は私心の塊みたいな奴だったし
741 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 12:31:32.21 ID:WVNwzxQ4
日本史上最低最悪の人格を持つ幼君を圧迫し死に至らしめた腹黒奸臣家康
しかも朝廷を守る新たな新姓として作られた豊臣姓を根絶やしにし、
秀吉の神号を朝廷を責めて剥奪し墓を暴き、自分は凍傷大権現なんて神号を要求。
平家一族や執権北条一族が絶えるのは仕方がないが、豊臣は滅ぼされる理由がない。
おまけに大坂で20万人を虐殺する日本史上最大の、効率的かつ冷酷な大量虐殺者が家康
742 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 15:15:07.09 ID:LNjJbi3V
信康が生きていればな、ってぼやいたのってどこ見ればわかる?
関ヶ原行軍中によくぼやいてたらしいけど
743 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 17:40:14.95 ID:psv6yQkk
744 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 17:45:22.27 ID:psv6yQkk
よく見たらWikiに出典載ってるじゃねーか(憤怒)
745 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 18:27:10.29 ID:ro9CawBV
信康が生きてたらどうなんだろうね
秀吉と徹底抗戦主張してお家断絶になってたのかもしれんし
勇猛だけじゃ秀康と同じになる
746 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 18:40:46.99 ID:psv6yQkk
秀康と同じと言っても秀康って致命的な落ち度になる話がなくね?
747 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 20:07:31.94 ID:gezlIUz8
748 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 20:20:07.20 ID:+pINC54i
河原ノ者・非人・秀吉のアホ学者だろ
軍記引用がメイン・論拠を示さない妄想で文章を埋め尽くし
秀吉初見史料や天正11年の毛利宛書状や信長公記の初登場なども無視して
軍記引用・一次資料曲解しまくり秀吉をコジキだったとかアホな妄言書いてる馬鹿
749 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 21:14:27.82 ID:gezlIUz8
石松丸の父親は秀吉ではないのですか?
石松丸の父親の秀吉が種なし??
750 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 22:08:44.48 ID:F9FLbwp2
信康生きてたら家康公長生きしなかったと妄想する。大ピンチだった背中に出来た腫れ物でおっ死んでたと予想。
死後に秀吉が信康にあの手この手で襲いかかる…
751 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 22:15:10.93 ID:QOI18/NT
信康が生きてようが死んでようが家康の生涯に対して影響ないだろ
関が原や小牧長久手や大阪の陣など合戦の際に大将任せるべき人間が一人増えて多少有利になるかどうかって程度
大局には全く影響ないと思われる
752 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 22:38:45.78 ID:psv6yQkk
講談的に考えれば東山道軍を率いた信康が関ヶ原に参陣して東軍がフルメンバーで西軍と対決……ってことになるだろうが、
実際には超電撃的に信濃の各地を完全攻略して使者の到着無しで美濃に到着するぐらいしか参陣する方法がないからなあ
753 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 03:57:49.39 ID:I30PseYA
信長の娘婿、生きとったら影響でかいで
754 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 04:03:50.66 ID:EGW3kDnh
信長の娘婿と言われても、それでどんな影響力や力があるのかよくわからんのだけど。
娘婿なんて何人もいるんじゃ?
755 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 04:16:48.21 ID:I30PseYA
三河の弱小時代の家中にでかい後ろ盾持った一派が出来上がるわけだから影響ないわけないだろ
756 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 04:49:07.86 ID:EGW3kDnh
何それ?でかい後ろ盾って織田家?元々同盟してるし関係ないじゃん。
一派って何?それが徳川家中でどう影響及ぼすの?
論拠は何?全部妄想じゃん。
757 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 04:59:47.92 ID:I30PseYA
君の頭の悪さまでは面倒見きれんわ
758 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 05:31:34.94 ID:EGW3kDnh
まぁ妄想でグダグダ言ってる奴よりは遥かにマシだと思うが。
759 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 13:36:42.01 ID:CUvpFplY
まぁあの信長を油断させといて窮地に陥れる
くらいの立場はあるけどなw > 浅井長政
760 :
人間七七四年:2013/08/15(木) 21:21:46.29 ID:/rMjAfqs
見方が原前に寝返っててザマァな城主って誰なの?
761 :
人間七七四年:2013/08/16(金) 04:46:23.43 ID:pQNqiBG2
関ヶ原の戦いの時に忠吉に先陣切らせるみたいな話があったらしいけど、どこに載ってる?
少なくとも徳川実記には無かったと思うんだけど
762 :
人間七七四年:2013/08/17(土) 16:14:21.99 ID:5ru45AeK
色々、『井伊家慶長記』『黒田氏関原記』『東西記』『武家事紀』等
763 :
人間七七四年:2013/08/19(月) 21:00:13.85 ID:OQlSwnNy
764 :
人間七七四年:2013/08/19(月) 21:05:04.74 ID:OQlSwnNy
>>761 >>762 勝てば官軍、君らの読んでる書物は捏造だらけですよ。
日本書紀や、古事記を歴史書と思ってる学者もいますが、
ヤマタノオロチって誰??????・・・オロチは純日本人で征服した渡来人朝廷が捏造だよ。
こ れ 歴 史 の 初 歩
765 :
人間七七四年:2013/08/19(月) 21:08:49.18 ID:OQlSwnNy
浅学の君達へ
だから・・・学会では文献と呼ぶ。歴史書では無いのです。
766 :
人間七七四年:2013/08/24(土) 11:59:17.19 ID:0nHXLc2j
>>764 2chには正史は捏造だとして、自分の妄想を正しいと信じている人のほうが多い
こ れ 2 c h の 初 歩
767 :
人間七七四年:2013/08/24(土) 12:05:51.02 ID:LAT4J9qL
カス織田厨によるアンチ豊臣政権のクソ自演活動キモ過ぎて寒いわwww
768 :
人間七七四年:2013/08/28(水) 13:57:22.92 ID:d0cENLDb
皇室の菊紋の下から徳川家の葵紋…京都・二条城
dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/japanese_history/?id=6088963
769 :
人間七七四年:2013/08/28(水) 18:11:55.90 ID:i9i2w0f3
徳川家の旗本先手役って旗本ってイメージがしないんだけど実際どういう役割と言ったらいいんでしょうか?
ウィキにはのちに大番が旗本先手役の役割を果たすとか書いてあるけど大番と先手役は戦歴を見る限り全く別物に見えます。
770 :
人間七七四年:2013/08/28(水) 19:10:42.29 ID:jJFQF4bO
大番に戦歴がないのは、単に大番成立後に家康が旗本を投入する局面がなかっただけ
なお、秀忠については岡山の戦いで大番・書院番を投入している
771 :
人間七七四年:2013/09/01(日) 21:50:40.65 ID:PHetkTLn
テスト
772 :
人間七七四年:2013/09/02(月) 19:56:39.96 ID:VIsPnWy4
■元弘の変(1331〜1333年)当時の後に室町幕府の支配層(三河武士団)■
【岡崎市】
・足利宗家、屋敷(大門屋敷)、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・仁木氏(足利一族、幕府執事、守護職)、城(仁木城)
・細川氏(足利一族、管領家、守護職)、3つの城(細川御前田城、細川城山城、細川権水城)
・斯波氏(足利一族、管領家、奥州管領家)の屋敷(跡地に永源寺)
・上地氏(足利一族、細川氏分家)、城(上地城)
・上地氏(足利一族、仁木氏分家)
・高氏(足利被官、室町幕府執事、守護職)、高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡に建てられる
・上杉氏(足利被官、関東管領家、守護職 )、屋敷(日名屋敷)
・倉持氏(足利被官、奉公衆、屋敷(便寺屋敷)
・粟生氏(足利被官)、2つの城(秦梨城、秦梨城山城)と2つの屋敷(梅藪屋敷、西熊屋敷)
【豊田市】
・上野氏(足利一族、奉公衆)
・中条氏(足利被官、守護職、奉公衆)、城(金谷城)
【西尾市】
・西条吉良氏(足利一族、将軍御一家)、城(西条城)
・奥州吉良氏(足利一族、奥州管領家、関東公方御一家)、城(東条城)
・一色氏(足利一族、四職家、九州探題、守護職)
・今川氏(足利一族、将軍御一家、九州探題、守護職)、城(今川城)
・荒川氏(足利一族、戸賀崎氏分家、守護職、奉公衆)、城(戸ヶ崎城)
・饗庭氏(足利被官、奉公衆)、城(饗庭城)、饗庭氏直(花一揆総大将)
【豊橋市】
・石橋氏(足利一族、将軍御一家、守護職)
【新城市】
・設楽氏(足利被官、奉公衆)
・富永氏(足利被官、奉公衆)
773 :
人間七七四年:2013/09/14(土) 11:53:24.72 ID:yQwEaNfy
質問ですが
徳川家の家紋は三つ葉葵ですが、元来(家康が徳川と名乗るもしくは生まれる以前の)の松平家の家紋も三つ葉葵でいいでしょうか?
違うとしたら、家紋は変えてもいいのでしょうか。
(私も菊の御紋に変えてもいいのですが・・・冗談)
ヨロシクお願いします。
774 :
人間七七四年:2013/09/14(土) 13:00:24.05 ID:Zs4exhVd
Wiki見ればわかることだが、
・元々家紋は三つ葉葵だったよ説
・5代目長親の時に家臣から貰ったよ説
・7代目清康の時に家臣から貰ったよ説
がある
775 :
人間七七四年:2013/09/15(日) 20:27:30.40 ID:PPsRBurG
将軍にしてやった水野勝成に感謝せず不当な低評価をしたクズ
776 :
人間七七四年:2013/09/15(日) 21:39:41.39 ID:Rd2VpX/m
↑意味不明w
777 :
人間七七四年:2013/09/15(日) 22:54:41.83 ID:Tg02GUgI
■有史以来、武蔵国にあった御所号は全3ヶ所
鎌倉時代
・吉見御所(埼玉県吉見町)
源範頼(三河守)の息子、源範円(正法寺(三河国宝飯郡)僧侶)が移り住む
範円の息子(為頼)から吉見氏と名乗る
現在も、吉見姓は愛知県蒲郡市(源範頼の本拠)が日本一多い
室町時代
・世田谷御所(東京都世田谷区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬)を祖する奥州吉良氏、三河国生まれ吉良治家(初代奥州管領、吉良貞家の息)が移り住む
戦国時代
・蒔田御所(横浜市南区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬)を祖とする奥州吉良氏、吉良頼康が移り住む
■家康入城前の江戸城主は富永直勝
三河国設楽郡富永保を本貫とする三河富永氏
家紋は木瓜に足利二つ引両(太平記、多々良浜の戦いの功労により、家紋に足利二つ引両を与えられる)
先祖は源頼義の家来、鶴岡八幡宮社職家の三河伴氏の平松氏、源義家の郎党No.2 三河伴氏の伴助兼
778 :
人間七七四年:2013/09/15(日) 22:57:08.52 ID:Tg02GUgI
■日光山
源頼朝がその母方の三河の藤姓熱田大宮司家(愛知県岡崎市)の出身者を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた
源頼朝
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)→娘(由良御前)→源頼朝
母方の三河の藤姓熱田大宮司家の出身者(源頼朝の従兄弟)
寛伝(寛典・観纒とも、額田僧都、式部僧都と称された、日光山満願寺19世座主)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝
年表
・1142年、生まれる
・叔父の三河法橋裕範(源頼朝の母の弟)、粟田口法眼長暹(源頼朝の母の弟)を頼って滝山寺(愛知県岡崎市)で仏門に入る
・仁和寺で修行
・1182年、源頼朝の推挙により日光山満願寺19世座主になる
・宗徒と面会する際、御簾を半分にしか上げず紛紜、2ヶ月で三河国(愛知県岡崎市)に戻る
・菩提寺の滝山寺(愛知県岡崎市)僧侶になり、66郷を領し精舎一区を創建する
・鑁阿寺奥院の法界寺に、宋版の一切経を納める(後に一切経は、足利義氏により鑁阿寺に)
・高野山御影堂に大鐘を施入する
・1201年、頼朝公の3回忌、滝山寺内に惣持禅院を創建し、本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩を安置する
・惣持禅院に供僧10人を常置し10町の土地を寄進する
779 :
人間七七四年:2013/09/15(日) 22:58:35.63 ID:Tg02GUgI
■日光山
源頼朝がその母方の三河の藤姓熱田大宮司家(愛知県岡崎市)の出身者を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた
源頼朝
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)→娘(由良御前)→源頼朝
母方の三河の藤姓熱田大宮司家の出身者(源頼朝の従兄弟)
寛伝(寛典・観纒とも、額田僧都、式部僧都と称された、日光山満願寺19世座主)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝
年表
・1142年、生まれる
・叔父の三河法橋裕範(源頼朝の母の弟)、粟田口法眼長暹(源頼朝の母の弟)を頼って滝山寺(愛知県岡崎市)で仏門に入る
・仁和寺で修行
・1182年、源頼朝の推挙により日光山満願寺19世座主になる
・宗徒と面会する際、御簾を半分にしか上げず紛紜、2ヶ月で三河国(愛知県岡崎市)に戻る
・菩提寺の滝山寺(愛知県岡崎市)僧侶になり、66郷を領し精舎一区を創建する
・鑁阿寺奥院の法界寺に、宋版の一切経を納める(後に一切経は、足利義氏により鑁阿寺に)
・高野山御影堂に大鐘を施入する
・1201年、頼朝公の3回忌、滝山寺内に惣持禅院を創建し、本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩を安置する
・惣持禅院に供僧10人を常置し10町の土地を寄進する
・1205年、死去する
780 :
人間七七四年:2013/09/15(日) 23:06:34.94 ID:PPsRBurG
勝成がいなきゃ北条如きにボコられて秀吉と戦うことすら出来なかった戦下手、それが家康
781 :
人間七七四年:2013/09/17(火) 20:30:55.88 ID:3b00OabL
どこ戦だよw
782 :
人間七七四年:2013/09/20(金) 22:23:25.35 ID:QwUEktdR
783 :
人間七七四年:2013/09/24(火) 23:35:14.82 ID:4EFzqN6L
家康すでに死んでますが・・・生まれ変わりはいるみたいだけどw
784 :
人間七七四年:2013/09/25(水) 19:21:44.27 ID:kaZC6dOt
どーでもいいわw
785 :
人間七七四年:2013/09/28(土) 19:36:07.94 ID:ZzG3Pejm
最近、土井利勝が気になるだけど(ご落胤ではないとは思ってるw)、なにかいい本ご存知ないですか?
まあ、土井利勝というか江戸初期の幕府のあれこれというか
786 :
人間七七四年:2013/10/01(火) 17:30:35.98 ID:rP1rQzzz
家康ってビビリなんだよ
利便性ある橋や馬車の認可毎年却下してた。
秀吉はそんなことしない
器が違うんだよー信長の顔見て過ごしてきてたからねw
787 :
人間七七四年:2013/10/01(火) 17:56:49.36 ID:g5OuR5g9
つ千住大橋・六郷大橋
牛車も存在したし
788 :
人間七七四年:2013/10/02(水) 07:27:22.72 ID:igEQ/x7H
橋って大井川の事でしょ?人足雇わないと濡れる場所
789 :
人間七七四年:2013/10/02(水) 08:40:16.66 ID:E4uje40F
大井川の場合、橋を架けても流されるだけじゃないかな
790 :
人間七七四年:2013/10/02(水) 11:36:45.92 ID:K+y2GQUw
技術力で言えば可能。
川幅に関しては錦帯橋の基礎技術がすでに当時からあったし
水量の猛威には厳島神社などでもやっているが
木板を全部はずしてしまう回避方法があった。
791 :
人間七七四年:2013/10/02(水) 12:58:54.87 ID:rYtihYmO
錦川は大した川ではない
792 :
人間七七四年:2013/10/02(水) 20:38:57.68 ID:p9WaMgEc
家康の変なゆるキャラあるよね
変すぎてなえた
793 :
人間七七四年:2013/10/02(水) 23:29:45.55 ID:XGFZuGnh
徳川イエヤスたんが可愛すぎて
生きてるのが辛い
794 :
人間七七四年:2013/10/03(木) 00:13:14.59 ID:E+ikbqW2
じゃあ死ねよ
795 :
人間七七四年:2013/10/03(木) 07:24:55.61 ID:9J00lgk+
796 :
人間七七四年:2013/10/04(金) 23:52:57.89 ID:YNYICQay
やりましたわね、イエヤスさん
はい、お姉さま
797 :
人間七七四年:2013/10/05(土) 20:25:03.19 ID:Y0mvGuBV
神君家康公がすごいとこは小牧・長久手の戦いの戦いじゃない
圧倒的不利な甲州信州合併した時だ
何倍もの北条軍を蹴散らした
あれが無ければ秀吉と対等に戦えなかった
798 :
人間七七四年:2013/10/05(土) 20:32:10.77 ID:kynXjaVm
小牧長久手の戦いでは徳川方の甲斐・信濃衆は大方領国に残されて北条の変心と
上杉の信濃侵攻の留守を任されてたから関係ない
そもそもほとんどが信雄軍と秀吉軍の交戦で家康は8000そこそこを連れて来ただけ(当代記・御当家記念録・御年譜徴考・家忠日記など)
大久保兄弟、鳥居、岡部、石川家成、平岩、保科その他多くの徳川家臣の活躍は徳川史料には一切見られない
江戸期の講談とか軍記などでは別だがな
799 :
人間七七四年:2013/10/05(土) 20:35:06.13 ID:ryOR+pkn
天正壬午は北条2万に徳川1万で2倍程度だし
元々川尻が殺されて滝川が北条と戦ってる間に
武田旧臣達を一杯抱えてて甲斐に足がかりがあったからな。
北条からしてみりゃ本国からの距離的問題や上杉・佐竹・徳川の三方面を敵に回すリスクもあったし
800 :
人間七七四年:2013/10/06(日) 06:01:58.94 ID:TyYFMuKP
だがはスルーで
801 :
人間七七四年:2013/10/06(日) 09:02:01.29 ID:KBomKo9Q
>>798 秀吉が上杉に北信濃侵攻を命じ、
秀吉が佐竹に北条攻めを命じて、
完全に秀吉の大戦略により王手がかけられていたからな。
この状況に恐れをなした信濃諸将は秀吉の調略で寝返り始めて、
ついには信雄も本拠地の長島まで秀吉軍がやってきた為に降伏。
家康は完全に秀吉に追い詰められた。
そして信雄を斡旋役に少しでもマシな降伏ができるように条件闘争交渉をするしか道が残されてなかった。
そんな無駄なあがきに家康最大の家臣だった石川まで秀吉に調略されて面目丸潰れにされる始末。
802 :
人間七七四年:2013/10/06(日) 09:36:17.07 ID:/p1L55ww
>>完全に秀吉の大戦略により王手がかけられていたからな
全くかけられていない。
信濃の諸侯が寝返ったのは天正12年春(木曽)と戦争終結後の天正13年夏〜秋にかけてで
時期が全くずれてるし真田は天正壬午の時の徳川の恩賞問題で勝手に寝返っただけ。
木曽は天正12年春時点で離反してるし小笠原も真田も離反したのは翌13年であり家康が小牧長久手の戦い(秀吉との戦い)中に恩賞約束なんてしてねぇよクズ
天正10年〜11年にかけて小笠原や真田は家康の支援受けて勢力拡張し天正壬午の頃安曇筑摩の全域支配を任せる予定だったが
天正11年12年と連続で上杉との麻績・青柳の戦いに敗れるなど北信濃方面の拡張が滞り翌年小笠原は石川の人質連れてビビリまくって秀吉の下に参じたのと
天正壬午の恩賞問題やら沼田割譲問題やらで離反しただけで秀吉との戦いにおける恩賞なんて全く関係ない。そもそも秀吉との戦闘の部隊は美濃尾張伊勢が主なのに
なんで関係ない信濃で恩賞だされるんだよアホ
石川は小笠原が人質連れて離反したから離反しただけ(織豊政権と東国、小笠原貞慶考)
ついには信雄も本拠地の長島まで秀吉軍がやってきた為に降伏。
家康は完全に秀吉に追い詰められた。
803 :
人間七七四年:2013/10/06(日) 09:37:45.10 ID:/p1L55ww
>>ついには信雄も本拠地の長島まで秀吉軍がやってきた為に降伏。
信雄は降伏なんてしてねーよボケ。
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は
天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
804 :
人間七七四年:2013/10/06(日) 09:39:16.73 ID:/p1L55ww
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
実際秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
徳川方は8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯の小城2箇所くらいしか放棄してない
しかも小牧山周辺の砦には秀吉方の留守居部隊2万以上いて、徳川方が動けば小牧山の陥落は必至で動けなかっただけだし、
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で罠を張ってた
から後詰なんて自殺しにいくようなもんで、そんな所危険すぎていかなかっただけ。
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし状況も兵力比も大阪の陣とは違い過ぎる
尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
805 :
人間七七四年:2013/10/06(日) 09:41:18.75 ID:/p1L55ww
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
806 :
人間七七四年:2013/10/06(日) 09:43:15.37 ID:3yU0sdF1
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
807 :
人間七七四年:2013/10/06(日) 09:46:19.41 ID:3yU0sdF1
>>しかし信雄と家康は秀吉との正面衝突を恐れ城から出ず
恐れてるのは明らかに秀吉の方
家康・信雄は圧倒的に兵力に劣る上、楽田の留守居2万や美濃の後詰部隊放置して
加賀野井・竹鼻にむかったら別働隊に追撃されるなり小牧山襲撃されて退路たたれるなりしてアボーン
>>一益はロクに兵も物資も持ってないので、これには家康も動き夜通し鉄砲を打ち込み、
滝川からすれば物資はすぐ近くの秀吉陣からもたらされると思ったんだろう
>>すぐにヘタレ一益の蟹江城は矢玉の準備もロクになく戦意喪失し降伏。
滝川がヘタレなのではなく秀吉がビビッて放置したから降るしかなくなったのが滝川
7/3まで持ちこたえているがこれも秀吉が見捨てただけからってだけの話だろ
秀吉は三河方面への攻撃を想定していたのに結局この合戦の失敗で延期して信雄戦にきりかえる事になったんだから明らかに秀吉の失態
>>和議は難航してる間にも信雄最有力家臣の木造長政の戸木城が半年の籠城の末に10月末に開城し信雄唯一の南伊勢の拠点も消失。
これは木造記(軍記物)の造り話。ちなみに秀吉も7月には木造の事に触れてるのに
この時は何も触れていないし中川定成・佐久間正勝・土方雄良・雑賀松庵こいつらより
貫高で勝る連中も普通に人質出していない。木造記は具政を具康としてるくらいでただの軍記の信憑性だし別名木造軍記ともいうもの
>>清洲城へ11/9に入ったが何ら策なく、各戦線への援軍すら出せない諦観状態。
そりゃ8000そこそこで8万も10万もの秀吉軍とガチンコでやりあうなんて無理
そんな勝って当たり前の状況と兵力差で苦戦しまくって1年無駄にしたのが秀吉
>>もう1人の最有力家臣の滝川雄利の浜田城も秀吉軍の付け城に包囲されており救援不可能。
戸木も小牧山も松ノ木も小牧山周辺の砦郡も似たような状況で落とされなかったのにこれで勝ったような事いわれても
>>11/11書状では信雄が種々懇望と書いてある。これに恐怖した信雄は家康の支援が望めないと悟り降伏。11/12に講和成立。
あくまで秀吉が言ってる事なんでおおいに疑問
9月にも信雄が人質を出して懇望してきたけど許さなかったとか書いてるけど
なんで秀吉は11月になったら許すのかって話だし
>>重臣たちと供に人質を出し、慌てた家康も秀康を人質に差し出して秀吉勝利のうちにこの戦役は終了した。
ビビリ信雄が勝手に和議を結んだから大義名分失って和睦せざるをえなくなっただけ
>>(家康側家臣の書状では養子と書くが、秀吉の書状にははっきり人質と書かれている)
秀吉の書状なんて全部自分に都合いいことしかかかれてないし
家康領国が天正大地震と離反の連鎖と徳政連発で困窮してる状態ですら母と妹を人質に出した程のヘタレぶりかましたのが秀吉
>>三河竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃そ疲弊したと記しており
家康領国は合戦前や合戦当初から徳政連発で十分困窮してるのがわかる
元々貧国ばかりだし上杉や北条の変心に備え大部分の兵力を領国に残してたからな
>>信雄と家康は秀吉の大軍による本格南下に、蛇に睨まれた蛙状態で氷のようにカチカチ。
そんな史料にない妄想いわれても
>>秀吉軍の前に野戦回避し無策なまま籠城を続けた挙句に王手となり、
野戦回避してたのはむしろ家康がいた小牧山避けてしかも小牧山からでられないように
まわり砦で囲いまくって2万も残して一方で自分はこそこそ家康の出てこれない
木曽川筋の諸城圧倒的大軍で攻めるだけだった秀吉の方
>>家康はまったく歯が立たないで清洲でふるえていた。
7倍もの兵力比で歯がたつも立たないも糞もない
>>無条件降伏を飲む形で集結
母と妹差し出すのが無条件降伏とかアホですか
808 :
人間七七四年:2013/10/06(日) 09:47:00.43 ID:3yU0sdF1
>>つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ
>>家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。
傍観って小牧山周辺をガチガチに砦と2万もの兵力で囲われてるのに
放置して他地域にいけるわけないだろアホ
>>つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに
>>竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。
加賀野井城陥落は家康にとって地理不案内の上に圧倒的兵力差&小牧山留守居部隊がいたってだけ
竹が鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より。加賀の井を抜かないと
竹鼻を救援するなんて無理
>>しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい
>>完全に戦略的大敗を決定づけたのが加賀の井城→竹鼻城落城の一連の流れ。
竹鼻陥落から5か月もたった後での事持ち出されても。
そもそも戦略的大敗も糞もない圧倒的兵力比&信雄領国寝返りばかりの圧倒的有利な状況なんだから
勝って当たり前。そんな戦闘で長久手二重堀戸木松ノ木蟹江など負けまくって自力では1年かかって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
>>7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw
蟹江合戦当初の6/16はまだ秀吉が大垣あたりにいたと思われる。大垣から蟹江なんて半日もかからんだろ
伊勢の楠本から大阪まで2日程度で移動してるし
>>すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として
>>南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。
南伊勢楽に切り取れたのは関や神戸・田丸・信包など地元勢力が秀吉の味方についたのと
池田に対応するため家康が尾張に転進したおかげ
>>秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。
勝つまで2か月も経ってるな。しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで
>>そんなの去勢張ってるだけで見事なまでに85年中(天正13年)は
天正13年家康が領国内問題で離反した対真田の敗戦と同じく前年離反した木曽や
天正13年離反の小笠原への対応などで困窮したおかげで秀吉にとって圧倒的優位な状況
が生まれるがこの状況ですらまだ家中では主戦派が主だったが秀吉派であった石川・水野の離反と
軍事機密露見と天正大地震と天正11年からの徳政連発で困窮した家康は従わざるをえなくなっただけ
しかもそんな今川氏真でもかてそうな圧倒的優位な状況で母と妹人質に出したのが秀吉
>>紀伊雑賀・根来衆や佐々成政や長宗我部や保田(佐久間)安政や遊佐河内守を家康は見捨ててるじゃんw
そら信雄と一緒に和議結んでるのに勝手に盟約違反する馬鹿はいないだろ
>>家康が優位なんてバカなことはない。しかも酒井・石川まで人質を秀吉に取られているのに。
そもそも国力やら状況が糞みたいに秀吉有利なんだから家康優位なわけないだろアホ
石川も徳川方史料だろ天正12年秀吉との対決時でもすでに秀吉に篭絡されつつあったし
>>しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ
>>15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
これは単に陣夫として輸送や調達など非戦闘業務が主と本多氏が定本徳川家康で書いてるな
家康は兵力8000そこそこだからな(当代記・家忠日記その他合戦記や家記・家譜)
残りは信雄の兵力だし
>>秀吉は前田へ援軍を派遣したりと余裕ありすぎ。
7〜8倍もの圧倒的兵力差で兵力が余りまくらないわけないだろアホ
そんな勝って当たり前の兵力で苦戦しまくり尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
809 :
人間七七四年:2013/10/06(日) 09:48:09.50 ID:3yU0sdF1
>つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ。
>家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。
策もなくも糞もこの時の秀吉の狙いは書状に「必家康後巻可仕儀にて候間」書いてるように後詰決戦行う事だから
秀吉からしたらまんまと目論見が外れた結果
家康にしてみれば少ない兵力で木曽川越えの木曽川地域に移動する方が馬鹿
>つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに
>竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。
竹鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より。加賀の井を抜かないと
竹鼻を救援するなんて無理。そして大河を越えて少ない兵力で敵地へ飛び込むとかそれこそ馬鹿
>しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい 秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい
この2城が落ちてから長島が攻撃にさらされるまで半年もかかりその間神戸や長久保、蟹江などで敗戦する醜態ぶり
>7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw
滝川が蟹江・下島・前田の三城を奪ったのは6月13日。また九鬼嘉隆も船で進軍
蟹江は清洲と長島を分断する位置にあった事から秀吉側からすれば大チャンスだった。
秀吉は10日頃まで尾張で戦い25日でも伊勢にいるのが書状で確認が取れる
どうみても大チャンスにまんまと手をこまねいていただけ
>すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として
>南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。
>他にも小島民部や榊原や朝成藤方や長野左京や水谷や河北佐助や恒川次助らに伊勢壱志郡を与えている。
当たり前。南伊勢半分は津15万石の信包が秀吉につき、池田と森が予想に反して家康に付いたから家康らが尾張に転進せざるをえなくなったから楽に蹂躙できただけ
>秀吉の和睦条件は信雄と家康や石川から人質を取ることであり
>それを最終的に家康らが拒否しただけの話。秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリ
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
>でも結局、この条件で半年経たずに土下座することになるのが、信雄と家康。
信雄がへタレて勝手に和睦したから助かっただけ
>羽柴秀長の大軍南下の中で吉村又吉郎の独力でそれが可能なようには見えないけどな。
お前の主観なんて聞いてない
>まぁ11/10の信雄→吉村でいきなり長久保落居を聞いたと書いてるだけで
アホですか????長久保の城が落居じゃなきゃ長久保の何が落ちたというんだ?
>そんなの去勢張ってるだけ
真田との攻防や北条との同盟関係強化に努め秀吉との対決に備えている
しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
家康は十月二十八日に浜松評定を行った結果秀吉に対する強硬論派が過半を占め
また岡崎や東部の普請を始め、軍法の改革に着手し三河国衆の婦女子を遠州に移す段取りをしている
また本多重次を新たな岡崎城代に任命するなど秀吉に対して抗戦を想定している
また天正14年初頭に秀吉は上杉景勝にあてて家康討伐にあたり軍勢派遣を要請している
一貫して秀吉は家康への討伐、そして家康は秀吉に対する抗戦を想定していたが
母と妹を人質に送ってきたから上洛しただけ
>>583 木造が編纂しようが所詮は江戸期の軍記
誰々が降ったとかの注進が事細かになされていて木造に関しても7月頃書状で述べられているのに
降伏時だけ何も触れられないとか明らかに不自然
また土方雄良・雑賀松庵この二人より大身(織田信雄分限帖)の吉村氏吉、澤井雄重、森晴光、平手大炊
小坂孫九郎、天野雄光も人質を要求されていない。信包が秀吉方は家忠日記にある
木造が北畠領において実質的に権力の頂点にあったのは本能寺前の頃
この頃は全く権力関係が異なり、いわば外様中の外様みたいなもの。夏ごろ秀吉に寝返りを画策してたようだしな
>信雄がすでに懇望して侘び言を言ってきてるので、戦いはもう終わると書いてるし。
家康も書状でもうすく勝ちで終わると書いている
810 :
人間七七四年:2013/10/06(日) 09:48:59.90 ID:3yU0sdF1
信雄がそんな追い詰められてるなら家康が美濃方面に石川派遣して秀吉方を攻撃するわけないし
あと秀吉の納馬の先が大阪ではなく縄生だというソースは?
ただ程近くの場所に一時退却するだけで納馬なんていわないだろ
あと当代記や三河物語でも信雄が勝手に和議を結んだので家康もそれに従うほかなくなったと書いている
講談だろうとなんだろうと成立年代も木造記と同じ
木造側に不利な要素だからといって木造の軍記を引用してた馬鹿に
秀吉側に不利な要素だからといって秀吉軍記引用がどうとか突っ込まれる言われはない
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状の事か。
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけだろうが
実際秀吉の予定とは全く別 何の根拠にもならんよ
楽田留守居部隊放置して東美濃やら多方面にただでさえ少ない兵力さいて
転進したら楽田留守居部隊や美濃方面留守居部隊に追撃されて撃破されるか
小牧山やら清洲陥落させられてゲームオーバ。美濃なんて高木や遠山・小里など一部除いて秀吉方
で背後の木曽も春に秀吉に寝返ってる状況
木造記って別名木造軍記ともいうものなんだが?ソースは伊勢北畠氏の研究 木造記成立の論考
>>土蔵や11/18利家にまで秀吉は語ってんじゃんよ。
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
>>信雄と家康がすでに追い詰められているのを
>>秀吉は知っていたからもうすぐ、この戦いはじき終わると終戦までのビジョンを
>>持っていて、見通しが付いていただけの話。そしてきっちり講和条件に秀吉は人質を取ってるし。
>>家康らに戦局を挽回する力はまったくないのだから。
小牧山や戸木や松ノ木ですら圧倒的大軍&周囲砦でガチガチな状況で落ちなかったのに
なぜ砦築いただけで勝ったかのように語るのか不明
>>だからさぁ、それ砦をたんまり構築して桑名表を制圧して長島を威圧してる体制を構築したから納馬すると言ってるだけで
>>信雄を完全に八方塞りにしてんじゃんよ。秀吉は信雄を追い詰めてんだよ。
敵中孤立の戸木や周囲砦ばかりの小牧山や松ノ木ですら攻め崩せなかったのに
桑名や浜田や長島落としてもないのに制圧とか追い詰めてるとかアホかと。
>>あとは放置してても信雄は降伏するしかない状況で王手してる。
信雄が降伏したのは勝手にヘタレただけで降伏するしかない状況という根拠は全くなく
長島なんて秀吉が落とせなかった上記3城よりも遥かに堅固だから防戦なんて余裕
>>11/13には長島にも押詰城々数ヶ所と書いてて完全に包囲してる。
包囲しただけで城が落ちるなんて妄想もいいところ。三木に2年も要した雑魚秀吉じゃ尚更
>>しかも納馬先として大坂ではなく、伊勢国の縄生城で秀吉が越年する姿勢に信雄が恐れて懇望してんのがわかる。
秀吉が越年するなんて秀吉が本心で考えたかどうかではなく秀吉からみた信雄の考えってだけだろ
信雄が秀吉が越年して城を攻める「様子」を見て取ってなどと秀吉が法螺ぶいているが丹羽宛では大阪に兵を納めるといっているし
>>そして信雄の実子や有楽斎の実子など人質に取る条件だし。
信雄が勝手に和議結んだから当たり前
>>つうか太田牛一の書いた太閤記は軍記であり、自分の仕えた秀頼の正当性を強調して
>>秀次を貶しまくるなど曲解を平気で書いててまったく史料として扱えない糞講談なのも知らんのか?
木造記を引用する馬鹿に言われたくないわ
>>家康は長島救援のために秀吉軍を引き付けるために軍事行動を東美濃で起こすことすらできずに
>>清洲城で震えて信雄の降伏を傍観してただけなんだから。
なぜ攻められている長島を無視して他地域に転戦するのか不明
ただでさえ圧倒的の大軍の秀吉は一部隊を東美濃に派遣して余裕で対応だろ
んで家康の後詰の心配のなくなった秀吉は長島攻略に専念できる絶好の状況創出だな
震えていたなんて史料は全く存在しない
>>まぁ家康の妄想どおりに北条軍が援軍に来たら
仮想敵国なのに来るわけねえだろアホ
>>伊木、池田・荒尾どころか土蔵や11/18利家にまで秀吉は語ってんじゃんよ。
>>完全に周知の事実だよ。
>>そもそも11/6に実際に加藤嘉明に縄尾(縄生)・桑部の両所に譜請を申しつけてる。
秀吉の書状は伊勢で越年し長島を攻略する、ではなく伊勢で越年し長島を攻略する様子を信雄が見て取って
等と信雄の目線を秀吉が勝手に推測してるだけで秀吉は納馬する予定なのが実際
そこにたまたま信雄が和議にのったから助かっただけ
811 :
人間七七四年:2013/10/06(日) 09:49:42.43 ID:3yU0sdF1
>>そもそも秀吉がまじかに陣を構築して家康を小牧に押し込めてる状態じゃんよ(4/10付書状)
そんな状況で全く攻められず攻めたら大敗したのが秀吉
>>顕如上人貝塚御座所日記でも敗軍したが、「秀吉の覚悟が堅固なのでやがてもちかためられ」
>>などと書いていて秀吉がまったく動揺せずに将帥としての威厳で纏めてしまったために
覚悟が堅固とか言ってる割に急いで楽田修築やら砦普請で防衛ガチガチに固めて
思いっきり持久戦体制に入ってる。圧倒的兵力差がありながら。それほど負けが痛かった証拠
顕如がいたのは思いっきり秀吉領国だから秀吉に都合いい捏造のフィルターで歪曲された情報が入っただけだろ
>>家康は勝利の戦果の拡大に失敗してる(勝利に酔い上洛の言葉まで家康は出して策もなく無為に過ごす・・・)
そんなもん我彼の圧倒的戦力差ってだけだろなんせ兵力比7倍くらいだからな
>>しかも顕如は1万余り討死の報は間違いで、のちに3000討死とわかったと訂正を入れてる。
>>(兼見卿日記4/13に尾州表から注進があり9日に秀吉敗戦したとのこと。
>>しかし追って注進があり秀吉在所も問題ないとのことで京都での騒動も終わったと書いてある)
なぜ最初の注進が間違いで後の沙汰(噂(堀氏訳は噂であって注進ではない))が本当なのか不明
しかもこれ以外の史料はこぞって戦死者1万人多くて2万としてるし
秀吉側に都合いい情報ばかり捏造して書かれるイエズス会年報や日本史などでも1万
また秀吉同盟者の小早川書状でも1万。そもそも家康は身内にあてた手紙でも1万といってるわけで
3000等と歪曲して書かれてるのは顕如日記のみ
>>4/13付けでも細川配下の松井も池田らの戦死ごときでは「此表御よわみにもならない」と書いてるし、
そんなもん弱気な言葉書く馬鹿がいるかアホw士気にかかわるだろうが
>>稲葉も「討たれたものの、はたもとのささわりには少しもならない」と楽観してる。
そら13万もいればそのうち1万死んでもまだ圧倒的優勢な兵力に変わりないってだけだろ
秀吉は9/23羽柴秀吉訓戒書で木下兄弟戦死残りの連中の討ち死にが大変迷惑だと書いている
外聞迷惑、於秀吉非可失面目儀候間、手討に可致候と秀次に怒りをぶつけており
自分の失態を秀次になすりつけているが(滝川の蟹江合戦も同じ)それだけ敗戦の精神的実質的損害は大きかったという事
>>それどころか同時期には秀長や筒井勢によって伊勢の松か島城が降伏して伊勢でさらに劣勢になってるのが家康と信雄。
松ヶ島は三月に崩壊した伊勢戦線の続きで長久手合戦と直接の関係も糞もないのに何が「それどころか」だ
神戸田丸信包関など地元諸将の帰参と家康の尾張転進で楽に蹂躙できただけの続きの戦だろうがw
>>秀次敗戦でもまったく秀吉陣営の圧倒的優勢ぶりに変化はない。
兵力比の差ってだけだろ
>>秀次を秀吉は若輩者と呼んでるし、秀吉本軍との綿密な連絡をせずに
>>無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは非難されて当然だろう。
>>(4/11付で岩崎城攻め大勝利のところ、即、岡崎面へ深々に相動いたので勝利を失ったと敗戦理由を書いてる)
深々は別に非難のニュアンスはない。家康も長州我部あてに深々と働く事肝要とか言ってる
あと深々と働いた「ので」敗戦したとは書いていない。深々と働き敗戦したとは書いてる。因果関係を直接文中に見出す接続詞はない
4/8秀吉→丹羽長秀 池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる
812 :
人間七七四年:2013/10/06(日) 09:52:10.67 ID:KUCL13aI
>>同時期には秀長や筒井勢によって伊勢の松か島城が降伏
松ヶ島は三月に崩壊した伊勢戦線の続きで長久手合戦と直接の関係も糞もないのに何が「それどころか」だ
神戸田丸信包関など地元諸将の帰参と家康の尾張転進で楽に蹂躙できただけの続きの戦だろうがw
>>秀次敗戦でもまったく秀吉陣営の圧倒的優勢ぶりに変化はない。
兵力比の差ってだけだろ
>>秀次を秀吉は若輩者と呼んでるし、秀吉本軍との綿密な連絡をせずに無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断
>>4/11付で岩崎城攻め大勝利のところ、即、岡崎面へ深々に相動いたので勝利を失ったと敗戦理由を書いてる)
深々は別に非難のニュアンスはない。家康も長州我部あてに深々と働く事肝要とか言ってる
あと深々と働いた「ので」敗戦したとは書いていない。深々と働き敗戦したとは書いてる。因果関係を直接文中に見出す接続詞はない
4/8秀吉→丹羽長秀 池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどう
とさせているのがわかる。4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてればこんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に
楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる。しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後。すぐ軍ださなかったor
のろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした。正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさと
ついてるから朝に動けば絶対間に合ったのに。軍事的才能がなさすぎる。敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で
負け、本戦で7倍以上の兵力差がありながら相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあと
だらだらと木曽川筋の城を攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った
大チャンスも無駄にし夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを荒らしまわったら信雄が
びびって降伏したから勝てただけ
>>5/2に秀吉は犬山を加藤光泰、羽黒を山内一豊、楽田から春日井郡の戦線を掘秀政に、尾口西南を稲葉に委任して
>>2万を置いて納馬し帰っていったのに、それでも手が出せないほど劣勢なのが家康・信雄。
は?楽田から敗走して加賀野井・竹鼻攻撃に移ってるのに何が納馬なんだ?馬鹿か?
>>秀吉が帰る理由も5/2の隆景書状には小牧山要害に家康らが籠もって出てこないから無為に過ごすのも無駄なので
>>2万置いて帰り、秋に再度手立てに及ぶと書いてあり、秀吉が秋からの軍事行動で決着をつけるスケジュールなのがわかる。
例のごとく信雄に大敗した話はひた隠しで都合いい情報しか書かれてないのが秀吉書状。正確には家康を攻めたら1万も損害だして圧倒的大軍が
あるけど自分じゃ戦闘がゴミカスレベルに弱すぎて攻められませんってのが正解。家康は城から出てこないどころか蟹江合戦でも長久手合戦でも
ちゃんと動いている
>>しかも信雄・家康軍は香曽我部に15000討ち取ったと捏造戦果を書いて長宗我部の畿内出陣を願ってるほど追い詰められてる。
捏造戦果を書くことが追い込まれてる証拠なら秀吉は家康の百倍追い込まれてる証拠なのが佐竹その他宛書状でわかる
813 :
人間七七四年:2013/10/06(日) 09:52:40.99 ID:KUCL13aI
>>5/5には加賀野井城が攻められ、松ノ木城では外構えを放棄して本城籠城するように命じるなど信雄・家康勢は圧されっぱなしで5/6に加賀野井城を落とされ
間宮らの反撃や蟹江の敗戦など含めると一進一退だろ。松ノ木や戸木も結局落ちなかったし木曽川以西の家康が寡兵で後詰行動起こすには危険な地域を圧倒的大軍
を使ってこれ見よがしに攻めてただけなのが秀吉。ヘタレぶりを晒してるだけ。
>>秀吉ははやく加賀野井城に後詰めに来ないかな〜叩き潰してやるのにwと余裕ぶり。
なぜ後詰誘引に失敗し二重堀でも大敗した秀吉が余裕なのか意味不明
>>5/7になっても香曽我部に池田らを討ち取り1万討ち取ったから(前回は15000と書いてたのにw)はやく摂津・播磨へ討ち出るように言っていて、かなり家康・信雄勢が追い詰められて
戦闘では寡兵なら援軍なしに抗戦無理だろ。
>>5/14にも長宗我部に援軍を哀願し、5/24には包囲された竹鼻城への後詰めに関して北条から援軍が来たら
そりゃ圧倒的兵力が劣るから単独で後詰なんて無理だろ。楽田で留守居兵も残されてるんだし
>>6/2には竹鼻城の注進は虚偽に違いない(水攻めのこと?)、松ノ木城は本城が小さいから援軍出さないなどと豹変するし。
単に信雄の情報収集能力が劣っていたか兵力が集まらなかっただけだろ
>>この戦況により信雄の本拠地長島城攻略が視野に入ることになる。
長島なんて伊勢方面から攻め立てればいいだけだからはじめから視野に入ってるだろ
>>この圧勝ぶりから秀吉は6/4に佐竹に書状を書いてる。
ただ家康がでてこれない木曽川流域わずか3城をこれみよがしに圧倒的大軍で攻めただけ。蟹江敗戦・二重堀敗戦・松ノ木敗戦・戸木敗戦で完全に尾張方面の拡張は滞ってる
>>そして秀吉は住吉屋宗ニや山上宗ニや津田宗及を招き美濃墨俣で茶会を開いて豪遊。
小田原合戦の時と同じでただのパフォーマンスだろ
>>そして秀吉は滝川が勝手に行動してるのを無視して帰って行った。
滝川は秀吉の意思だろ。そもそも家臣なんだから勝手に行動するわけないし単独行動なら九鬼がついてくるわけない。蟹江から秀吉陣の大垣なんて寸での距離だし谷口氏や愛知県史資料編も秀吉の敵地分断作戦や
尾張方面の攻撃の前哨戦と位置づけているし秀吉は三河方面攻撃計画を諸大名あてにつづってるし長島も東西から攻撃可能になるし滝川退城で秀吉は三河方面攻撃を断念して延期してるし
>>お前の書いてることは家康擁護にはまったくなってないぞwいかに秀吉が戦略レベルで家康の動きを完全に封じてしまってるかを
>>よく知らしめることしか書いてないw 家康は長宗我部が秀吉の背後を襲ってくれない限り、戦局の打開への道がまったく見えてない。
戦略も糞もない。当初から7倍もの圧倒的兵力差&信雄領国寝返りの続出&家康徳政で困窮状態で戦ってたんだから
そんな半月で瞬殺できそうな状況で1年費やして自力では尾張半分すら切り取れず信雄のヘタレ具合に助けられただけなのが秀吉
>>しまいには北条の援軍がもうすぐ来るからなどと妄言で、味方を繋ぎ止めてる始末。
そら長宗我部が敵になったら大変だからそのくらいするわ
>>上杉相手にも苦戦して信濃諸将の離反を食い止めるのに必死の家康が
>>秀吉とまともに戦うなんてことは不可能で楽田に秀吉がいる時は小牧山で籠城。
秀吉のまともに戦えないような圧倒的兵力差で秀吉に1万もの圧倒的損害を与え1年一杯粘ったのが家康と信雄
>>伊勢に秀吉がやってきたら、清洲で引きこもるだけじゃん。
ゲームじゃあるまいし7倍ほどの圧倒的兵力差で戦えるわけないだろアホ
>>秀吉は秀長とニ軍で有機的結合した軍事作戦が展開できるが、信雄と家康は合同して一軍を形成して引きこもりしてるだけ。
んでそれが何がすごいの?兵力に圧倒的に恵まれながら苦戦しまくりって最高に雑魚だろ
>>一方の秀吉は開戦と同時に、今戦役の集結を見通している。
実際にその8か月後に終結した戦闘でいかに秀吉の見通しが楽観的なのかがわかる事だ
>>戦いは開始した時点である程度の終戦構想が見えてないと泥縄的になってしまう。
終戦構想を妄想していたがそれが現に妄想と化し信雄のヘタレという幸運に助けられただけなのが秀吉
814 :
人間七七四年:2013/10/06(日) 09:53:19.36 ID:KUCL13aI
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康が怖くて出てこれなかっただけ。大体20町ほどの至近距離で7倍もの圧倒的兵力差でまともに攻められない秀吉が蟹江後詰なんかできるわけがない
>>これも一次史料にまったくない細川家の自称捏造。
家忠日記にあるし神子田がこの後名前がなくなるから史実
>>「其外軍兵一万余討死則敗軍、然共筑州覚悟堅固之故」の真横に「已後ノ沙汰ハ三千討死ト云々」って
長久手町史資料編には書いていない。しかも真横に書いてる時点で書き足しがミエミエ
>>噂レベルの話の場合は顕如日記には雑説と書くが、この文にはそんなことは書いてない。
沙汰を噂とアンチ家康の堀氏ですら訳している。注進などと妄想するのはお前だけ。注進という時は注進と書かれているのが普通。家康書状信雄書状秀吉書状でもそう
>>違う場所へ転戦しただけだろw
どこに転進したのは史料をもって詳しく
>>そこには二重堀なんて出てこないぞ。
二重堀と書いてなくても敗北の体にて撤退といってるから二重堀の敗戦が史実だと容易に想像がつく
>>それで秀吉側を見れば5/9の書状によれば秀吉は小牧の家康がぜんぜん出てこないから
小牧山から出て池田勢を思いっきり撃破しただろうが。小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境 。
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したから攻められなくなったのに家康が取り合わないって馬鹿妄想もいいところだな
>>付け城を三箇所申し付けた
あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
>>加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
>>秀吉の攻勢を家康らは引きこもって無策なまま、
間宮らが南伊勢で反撃しまた蟹江でも二重堀でも大勝。松ノ木・戸木も秀吉軍撃退
>>ひたすら長宗我部の援軍に秀吉背後を襲って貰いたくて必死に自軍有利の捏造を書いてるだけで
自軍有利な情報書いてるだけなの秀吉書状だろ
>>信張の言ってることがまるでデタラメなのがわかる。
普通に家康討伐しにきて1万人も戦死者出す大敗して退却なんだから全然デタラメじゃないだろ
>>むしろ家康が消極的でビビっている反面、信雄の方が秀吉にビビってない。
そして信雄以上に信雄に対してびびってるのが秀吉
>>だいたい秀吉は体調が悪く大坂へ帰ったのも虫気の治療のためで(腹痛の一種)
そんな史料ありません。見舞いの事なら陣中見舞いってだけ。大体大阪に帰る理由に滝川退城を秀吉書状であげてるじゃねぇかw蟹江で敗戦して諦めて帰っただけだわ
>>8/2には摂津有馬で一週間ほど湯治してるのが顕如日記でわかるのに
湯治なんて病気の時以外でも健康維持のために行うだろ。家康でも。
>>「秀吉が負けた」からと池沼のように曲解の連続連呼。
実際に蟹江で負けて諦めて退却してる
>>家康は追い詰められ完全に絶望的だったのが現実。
そんな絶望的な状況で自力では尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
815 :
人間七七四年:2013/10/06(日) 13:40:38.62 ID:3yU0sdF1
>>それに伊賀や伊勢でもすでに開戦初頭からだいぶ蹂躙していたし(池田の犬山奪取で戦略変更したが)
伊賀はフロイスの日本史だかイエズス会年報によると戦わず降伏しただけだし
伊勢も家康が尾張に転進したおかげと神戸田丸信包関など地元諸将が秀吉の味方についたから楽に蹂躙できただけ
>>詳しい情勢を知らない遠方への対外外交で誇張するのは信長だってやってる。
信長の比ではない程秀吉は基地外じみたはったり誇大喧伝
>>でも身内への書状で秀吉が書く内容と一緒にするのはおかしいだろ。
上記のように身内宛書状でも士気高揚のためデタラメハッタリばかりなのが秀吉書状
>>本当に大活躍なら、それを機に家康が後詰めするなり、信雄の粘り籠城が継続するだろ。
>>独力で秀長の大軍南下が阻止できないだろ。
家康は清洲方面固めてただけだろ。信雄は示威行動にビビって和議を結んだだけで
家康も名文を失いそれに従わざるをえなくなっただけ
>>この家康と信雄と家康の対陣中の書状をみるとちゃんと〜城と書いてるじゃん。
>>長久保にはそれがない。秀長が南下したあとに長久保の陣の守備兵でも蹴散らしただけじゃないかね。
落居って言葉がこの攻防の中何回か使われてるが城が落ちたとき以外使用されていない上に
織田・徳川方が蟹江落としたときも城という言葉省略で落居といってるし秀吉も「城」という言葉省略しまくってる
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる お前は全体的に秀吉側に都合のいい妄想しか言えない馬鹿だから1から勉強し直せ
>>ヘタレないように軍事支援するのが家康の役目のひとつだろ。無策傍観で信雄もこりゃダメだと悟ったんだろ。
むしろ浜田も長島も桑名も砦に囲まれて苅田行われただけで和議結ぶ行動をヘタレじゃないと見る方が不思議
上記の城より小規模のはずの小牧山や松ノ木・敵中孤立の戸木ですら落ちなかったのに
>>そんな想定してない。間に大坂で土下座して秀吉配下同然になった
そんなら天正13年秋の浜松会議で主戦派多数になったりしないし融和派石川が身の危険を感じて出奔したりしない
北条との関係強化や真田攻撃など行っているしな
ちなみに天正14年初頭段階でも秀吉は家康討伐を考えていたのが各資料でわかる
>>信雄が入っていて(秀吉の雑賀攻めに信雄も参加)秀吉方の人質要求を家康に出すように伝えたりと
>>完全に信雄を折衝道具としての条件闘争をしているだけ。外交技術として強気の姿勢を示してるだけ。
いやいや何の史料だったか忘れたが実際に迎撃計画はあったな
>>実際は、佐々や長宗我部や紀州勢を家康は見捨ててる。
そりゃ和議を勝手に反故にして単体で秀吉に歯向かう程馬鹿じゃないだろ
>>しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してる
これは単なる小荷駄隊要因。家康の軍勢は夏に半分を返していて夏の対陣のときわずか1万たらずだったのが
当代記や家忠日記でわかる
>>そんなの去勢張ってるだけで見事なまでに85年中(天正13年)は
>>紀伊雑賀・根来衆や佐々成政や長宗我部や保田(佐久間)安政や遊佐河内守を家康は見捨ててるじゃんw
虚勢じゃないから秀吉が母と妹出すまで上洛拒否を貫き実際に城の普請や修築や軍備整備なども行っている
>>だから家康を見限って木曾小笠原真田水野石川らが出奔した結果となったんであって
木曽は前年小笠原との領土内の問題で離反。真田も北条との上野問題で離反
小笠原は石川が小笠原の人質連れて出奔したから離反。石川は小牧長久手時で
すでに篭絡されつつあったから家康が同盟者を見捨てたこととは直接関係ない
816 :
人間七七四年:2013/10/06(日) 17:05:15.13 ID:PUdL3Xoy
菅沼君は早く高認の勉強しよう
また落ちるぞ
817 :
人間七七四年:2013/10/06(日) 18:14:04.99 ID:Vrim/7NG
また反日織田厨のキチガイコピペ爆撃か。
818 :
人間七七四年:2013/10/06(日) 18:28:10.52 ID:gBqy6a9c
サニーグレープ!
819 :
人間七七四年:2013/10/06(日) 19:39:16.87 ID:DJjWVZIz
なんで1レスがこんなにも長いのか
820 :
人間七七四年:2013/10/06(日) 20:18:47.62 ID://dIdbFt
短かったらスルー見極め大変になるだろ?w
821 :
人間七七四年:2013/10/07(月) 03:13:06.83 ID:2a8/IAoq
テスト
822 :
人間七七四年:2013/10/07(月) 03:20:35.01 ID:2a8/IAoq
テスト
823 :
人間七七四年:2013/10/12(土) 16:07:51.24 ID:28gZk25j
いい加減コピペクチョンは死ねよ
824 :
人間七七四年:2013/10/15(火) 02:20:24.86 ID:PhRl2lRL
825 :
人間七七四年:2013/10/18(金) 11:08:19.89 ID:wTIfarT9
国土は万里の雲海を隔てていれども、我らの領域は誠に近し。
外交上の社交辞令なのか、家康公が心からそう思ったのか分らないけど、
よっぽどアダムスを気に入ったのかね。
826 :
人間七七四年:2013/10/23(水) 00:58:08.56 ID:/tZAUT3U
徳田
家入
万代
里崎
八雲
827 :
人間七七四年:2013/10/23(水) 19:55:08.08 ID:DzT1Q/wb
徳川秀忠の遺言が
徳川家が天下を取って、まだ日も浅い。
今まで制定した法令も完全なものとはいえない。
近いうちに、これを改正しようと思っていたが、
不幸にしてその志を果たすことができない。
私が死んだあとは、少しもはばかることなく、これを改正せよ。
と、あるらしいのですが、ソースはどこでしょうか?
828 :
人間七七四年:2013/10/24(木) 07:27:44.13 ID:0KNR1rSS
829 :
人間七七四年:2013/10/24(木) 22:15:45.70 ID:1J4ogyF3
>>828 ありがとうございます、確認いたしました
830 :
人間七七四年:2013/10/31(木) 16:59:36.16 ID:hmS+joYV
関東移封で350万石
武田旧臣を雇いまくりで征夷大将軍
831 :
人間七七四年:2013/11/01(金) 02:41:19.80 ID:eBXgpzRf
今川義元公と家康公はどっちが太ってたんだろな。どちらも尋常じゃないくらい丸かったらしいが
832 :
人間七七四年:2013/11/02(土) 12:19:27.47 ID:8T05o2/E
真面目に話すと一番太っているのは間違いなく豊臣秀頼
体重43貫(約161kg)という記録がきちんと残っているので確実だろう
家康は大坂の陣でも馬に乗って移動できたので実際は太っていない
833 :
人間七七四年:2013/11/02(土) 14:09:24.79 ID:1B/uX1D2
義元がデブってのは完全に後世の創作だよな
834 :
人間七七四年:2013/11/02(土) 20:12:32.14 ID:NxMT40cm
義元が太ってるってのは確か完全に講談の類
家康の場合は……太りすぎて自分で帯を締めれないってのがどこ出典だったか忘れた
835 :
人間七七四年:2013/11/02(土) 20:50:35.01 ID:1B/uX1D2
家康の場合、晩年まで水練したり鷹狩したりしてるから極端な肥満ではないだろう。
同時代史料だとドン・ロドリゴの「秀忠より色黒くはなく肥満していた」と言う話くらいだろうか
836 :
人間七七四年:2013/11/02(土) 22:42:22.76 ID:qVNUhkHS
家康公は丸かったでおk?
837 :
人間七七四年:2013/11/03(日) 08:38:28.39 ID:ONF7OZkx
肥満で馬が乗れなくて
輿に乗ってたっていうのがもうウソだもんな。
輿に乗れる程の家格を許されていた証拠なだけなのにな。
さらに輿の色により、さらに家格格差があるけど。
838 :
人間七七四年:2013/11/03(日) 09:38:24.38 ID:WcF/FEFN
>>832 秀頼のそれはソースが明良洪範だからそのまま信じるのはアレかと。
長澤聞書は信じられるかもしれんけど。
839 :
人間七七四年:2013/11/05(火) 21:40:36.60 ID:tn33Yvu+
土井利勝が家康の落胤である事が徳川実記に記載されているらしいのですが、載っているのはどこくらいでしょうか?
840 :
人間七七四年:2013/11/05(火) 22:07:29.26 ID:apWnIUmP
23時からの知恵泉は、家康公であるぞ<`ヘ´>
841 :
人間七七四年:2013/11/07(木) 21:47:19.14 ID:BoqO4vjK
信康切腹は最近の諸説では父子相克だとよく聞くのですが?
諸兄の意見を聞かしてください
842 :
人間七七四年:2013/11/07(木) 22:03:06.36 ID:Ld5rJ57A
信康事件の詳細は不明としか言いようが無いですが
古い安土日記には「三州岡崎三郎殿逆心之雑説申候」と書いてあったり
堀秀政宛の家康書状にも「三郎不覚悟付而、去四日岡崎を追出申候」とあるので
信康になんらかの問題があったのは確実でしょう。
843 :
人間七七四年:2013/11/08(金) 15:50:01.57 ID:BbSDnskA
簡潔に信長に嫌われてたからじゃない?
844 :
人間七七四年:2013/11/08(金) 17:41:54.52 ID:+jAbPOjy
>>842 なるほど
>>843 徳川家は従属的とはいえ家臣でなく同盟者だったので
そこまで信長が命を下せたか?って疑問が残るよね
845 :
人間七七四年:2013/11/08(金) 18:00:33.92 ID:ktmJJLoq
信長が命じたという説は近年では否定的ですね
事件の流れ自体は、家康は信康を処断せざるを得なかったが、
織田の従属大名と化していた家康の立場では信長の婿でもあるから
相談して許可を得たと言うのが真相でしょう
問題は家康と信康と何が原因で対立するに至ったのが良く判らない所。
史家は、家忠日記の虫食い個所から想像を膨らませたりしてるけど
正直決定打が無いんですよねぇ…コレ
846 :
人間七七四年:2013/11/08(金) 19:36:33.04 ID:obMpDsOt
それまで毎年行っていた信長と家康共同の鷹狩が、
これ以降はふっつり途絶えているので、信長が何らかの形で関与していたと見られる
847 :
人間七七四年:2013/11/08(金) 19:55:16.74 ID:Sst9+FAj
強制離婚させて娘を尾張に送り帰させて婚姻同盟という同格待遇を解除してるだろ。
848 :
人間七七四年:2013/11/09(土) 09:17:34.28 ID:r+Ssiv08
ちょうど江甲同盟の話が浮上してきた時期だからね。
849 :
人間七七四年:2013/11/09(土) 12:50:52.03 ID:uQo2Yytt
甲江和与を同盟交渉とするのは無理がありすぎだな
しかも信長には完全にスルーされてるし
850 :
人間七七四年:2013/11/09(土) 13:04:13.67 ID:xaIEsehE
実際、信長は天正10年に木曽氏が
援軍要請を出すと言う変事による急変が起きるまでは
武田を攻めるようなマネは一切しないで避けているどころか
織田信房が武田から織田へ返還され、
景勝も、なんで俺に黙って織田と武田の同盟を結んでるんだよ!ふざけんな!
などと抗議の書状を出してるしね。
851 :
人間七七四年:2013/11/09(土) 13:30:14.38 ID:uQo2Yytt
なんだだがだったのか
以後全スルー
852 :
人間七七四年:2013/11/09(土) 16:50:46.14 ID:sllwJW3k
853 :
人間七七四年:2013/11/12(火) 16:38:39.57 ID:ZZxXwCir
信長駿河遊山?の為に
大枚はたいて整備された街ってどこ?
854 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 18:32:13.00 ID:4tpy/m2e
まぁー、信長と婚姻同盟を結んだ
浅井も北畠も武田も
信長に騙されて激怒してるしな。
家康も激怒してたんだろうね。
855 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 20:39:05.41 ID:FFI+JaK0
■源頼朝・足利義兼と三河の熱田大宮司家
系図:藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡)
☆源頼朝、★足利義兼
藤原実範
・藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令) →@へ
・藤原季綱(三河国司)
・三位女→高橋惟康(伊勢新二郎大夫、三河国加茂郡高橋庄(後に八条院領)領主)
・他多数
@藤原季兼
・藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡)) →Aへ
・藤原憲実(法眼)→藤原仲経(玄番助大夫、美濃国土岐多良庄地頭)
・女子→二階堂行政(鎌倉幕府の政所令・後に別当)
A藤原季範
・藤原範忠(後白河院北面、熱田大宮司、室は美福門院女房上総) →Bへ
・藤原範信(式部丞、上野介、星野大宮司、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司、初代星野氏(三河国宝飯郡星野)) →Cへ
・藤原範雅(後白河院上北面、熱田大宮司)
・祐範(三河法橋祐範、三河国滝山寺層、頼朝支援者)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
☆由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進、征夷大将軍)
★女子(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人、上総介)
・女子(源師経室、師経の伯母は待賢門院女房、姉妹は待賢門院官女、上西門院乳母一条)
・他多数
B藤原範忠
・藤原忠季(刑部丞、蔵人)→藤原忠兼(備中守)→海東忠成(猶子、大江広元の四男、初代海東氏)
・野田清季(野田二郎大宮司、三河国野田城主)→野田朝季(鷹司冠者)→野田朝氏(室は足利義兼の娘)
・藤原能季(相模守)
・寛伝(額田僧都、日光山満願寺19世座主、三河国滝山寺僧)
★女子→足利義兼(八条院蔵人)
・他
C藤原範信
・藤原範清(検非違使、上西門院蔵人、星野左衛門大夫、頼朝右大将拝賀先駆)
・藤原憲朝(八条院判官代、駿河守、尾張国海東荘地頭、初代千秋氏(三河国設楽郡千秋))
・藤原信綱(駿河守)
・藤原信雅(高松院蔵人)
・他
856 :
人間七七四年:2013/11/15(金) 22:04:51.34 ID:FFI+JaK0
■源頼朝・足利義兼と三河の熱田大宮司家
系図:藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡)
☆源頼朝、★足利義兼
藤原実範
・藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令) →@へ
・藤原季綱(三河国司)
・三位女→高橋惟康(伊勢新二郎大夫、三河国加茂郡高橋庄(八条院領目録にあり)領主)
・他多数
@藤原季兼
・藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡)) →Aへ
・藤原憲実(法眼)→藤原仲経(玄番助大夫、美濃国土岐多良庄地頭)
・女子→二階堂行政(鎌倉幕府の政所令・後に別当、初代二階堂氏)
A藤原季範
・藤原範忠(後白河院北面、熱田大宮司、三河国滝山寺大檀那、室は美福門院女房上総) →Bへ
・藤原範信(式部丞、上野介、星野大宮司、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司、初代星野氏(三河国宝飯郡星野)) →Cへ
・藤原範雅(後白河院上北面、熱田大宮司)
・祐範(三河法橋祐範、三河国滝山寺僧、頼朝支援者)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
☆由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進、征夷大将軍)
★女子(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人、上総介)
・女子(源師経室、師経の伯母は待賢門院女房、姉妹は待賢門院官女、上西門院乳母一条)
・他多数
B藤原範忠
・藤原忠季(刑部丞、蔵人)→藤原忠兼(備中守)→海東忠成(猶子、大江広元の四男、初代海東氏)
・野田清季(野田二郎大宮司、三河国野田城主、初代野田氏(三河国設楽郡野田))→野田朝季(鷹司冠者)→野田朝氏(室は足利義兼の娘)
・藤原能季(相模守)
・寛伝(額田僧都、日光山満願寺19世座主、三河国滝山寺僧)
★女子→足利義兼(八条院蔵人)
・他
C藤原範信
・藤原範清(検非違使、上西門院蔵人、星野左衛門大夫、頼朝右大将拝賀先駆)
・藤原憲朝(八条院判官代、駿河守、尾張国海東荘地頭、初代千秋氏(三河国設楽郡千秋))
・藤原信綱(駿河守)
・藤原信雅(高松院蔵人)
・他
857 :
人間七七四年:2013/11/17(日) 18:36:47.79 ID:fqj1jfUb
日本人は家康型多いからこの人の生き方って非常に参考になるんだよね
若いうちは信長だの秀吉だの言ってて滑稽だけどね
858 :
人間七七四年:2013/11/17(日) 19:03:13.88 ID:tXxkKvLP
イジメや引きこもりや対人恐怖症だろうが、
長生きして、虐めたヤツが死んだ後に、
墓を蹴り飛ばせれば最後の勝ちだからね。
家康みたいに秀吉の墓を暴き盗掘やったように。
まぁこの流れは家康の盟友信長が主上の志波氏や足利氏を潰した悪事を倣ったもんなんだろーけど。
859 :
人間七七四年:2013/11/17(日) 22:43:06.11 ID:v3KNTCHa
>>858 荒らしにレスするのもあれだがw秀吉がやった秀次事件の所業はどうなのよ
三英傑全員大なり小なりあくどいことはやってる(てか戦国武将に綺麗も何もないだろ)
こんなひどいことしたのよこの人!ひどいでしょ!ってするのは滑稽だと思う
歴史スレでこういうこと言い出すということは歴女か?
秀吉の名前出してるけど秀吉のファンでもなさそうだな
本当に秀吉のファンならこんなこと言い出さない
ブーメランで自分に返ってくるからな
860 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 06:54:42.31 ID:LQxs6XoY
>>859 秀吉の秀次誅殺は、己の政権の強化に逆行する愚策。
よって評価に値しない。
大なり小なりのあくどさは、政敵の弱体化させたのなら評価されるが、己の政権基盤を弱体化させてる間抜けでは話にならんと言うこった。
861 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 07:59:24.81 ID:tj5DFdSi
秀吉が織田家を簒奪したやり口や信雄を無理矢理いちゃもんつけて改易したやり方や信孝を殺したのに比べれば家康は遥かにかわいいものでしょ
862 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 08:49:40.47 ID:XA/ANQKg
まーた在日チョン織田厨が荒らしてんのか。
ほんとキチガイだな。
863 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 09:00:14.78 ID:pWNQjydl
>>861 それを言うなら、家康もって事になりループするだけ
結局、三人の内の誰が好きかは好みの問題だろうな
864 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 10:48:11.98 ID:jyLU5Ncb
秀吉が正統な織田家として岐阜を与えて盛り上げた織田嫡孫家の秀信を野垂れ死させ潰したのは家康だろ。
関が原の時に秀信も信雄も改易してるし。
そもそも秀吉への恩もあり、大坂陣に至るギリギリまで大坂城にいて豊臣家を擁護してたのは信雄だし。
あきらかに織田家は豊臣擁護。
865 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 10:54:32.99 ID:jyLU5Ncb
義昭は復権させて帰京させたのも秀吉。
家康みたいに関白の命に従い移封に応じていれば信雄は改易することも無かったのに、
家康が移封の準備を開始してるのを見た領民や部下相手に、
信雄は移封は絶対に無いから安心しろ!なんて関白の面目を潰した愚行で改易されたが、
秀信を嫡孫家にして織田の流れを絶やさなかったし、
期間を置いてから信雄も呼び戻しているし。
866 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 11:15:10.52 ID:lwidQtq8
織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康が織田に復讐www
信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
流石武田正嫡の武田信道が日本本土から隔離されて
宇喜多秀家と同レベルの冷遇をされただけはあるなw
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許しているけど
唯一存続を許さなかったのが武田だもんな。
挙句の果てには自分の息子に武田氏始祖の武田信義の名前をもじって名付け
まるで己の息子が武田始祖であるかのような振る舞いをしている有様
しまいには信玄直系を大久保事件にかこつけて無一文で伊豆大島に配流し
結局武田信道は伊豆大島で生涯を終えてしまうんだよね。
後北条や織田、羽柴ですら石高を貰って徳川幕府の体制下にいたことを考えると
家康の武田に対する扱いは極めて冷酷と言わざるを得ない
867 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 11:17:50.03 ID:yFwMr6za
家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛容だからな
前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが)
島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて
島津を助けてやったし
上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし
殺されてるのはほんの一部にすぎないしね
看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。
看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別
主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...
関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
868 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 11:18:05.64 ID:jCn5CVqQ
だーがー
869 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 11:19:44.86 ID:8R2UeAp4
なんで負けたかって言えば、そもそも秀吉から政務を委託された正当な大老であり、豊臣家を蔑ろにしていたわけでもない
家康を討つことには大義名分が少なく、家康が会津討伐に向かうため畿内を離れたというチャンスに機械的に
反応してしまい、自陣営の体制を構築する前に挙兵してしまったこと。
実態としては、明智光秀の本能寺の挙兵に近いものがあった。
会津征伐に飛びつかず、もっとじっくりと待つ必要があったと思うよ。勿論その場合は家康も着々と体制がためをしてくるが、
そこは政治力の勝負だ。 むしろ政治力の勝負を諦めたために関ヶ原がおこったとも言える。
そもそも合議の結果何かを決定するのは家康の役割だし、前田は豊臣家にすら無断帰国したのだから謀反を疑われて当然だし
上杉も穏便に処理しようとした家康の提案を蹴って、武装して割拠状態になったのでこれも謀反とされて当然
島津や毛利や宇喜多の家中の争いを喜んだ?そんな証拠は一切ない。というか介入すら最低限だ。
北政所にいたっては自分から西の丸を家康に譲ってるし大名への加増は三成ら奉行衆もそれこそ「合意」してる
ついさっきまで秀吉という専制独裁者が君臨していた政権において合議を破った専制独裁者という非難そのものが馴染まないんだよ
秀吉自身は一度も合議による政権運営なんてしたことがないから
普通の大名からすれば誰も見たことがない体験したことがないものを破ったと言われてもピンとこない
それに三成の家康批判は一歩間違えれば秀吉批判にも取られかねない危険な主張だ
三成が家康に名前を変えて秀吉の専制独裁を批判していると受け取れば豊臣のため三成を討伐することに何も問題はない
そもそも徳川が体制ぶち壊したとかいうけどぶち壊されるような体制とか諸将の配置にしなきゃよかっただけじゃん
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり自分から家康が天下取りやすい状態作っといて
ぶち壊したも糞もねーじゃん
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻を進めている。自分の死後を見据え、最有力大名徳川家との融合を企図したものだ。
秀頼・千姫の間に出来た世継ぎが、徳川家の傀儡になる事は、秀吉が認識していて当然。
実は反徳川的な行動を起こし、豊臣家を滅亡に導いた輩こそ、秀吉の意思に背いた不忠といえる。秀頼・千姫の間の子は世継ぎになるわけで。
徳川の血が、豊臣宗家に組み込まれるわけだけど。実際融合されなかったのは、邪魔をした者がいたから。そしてそのせいで、豊臣滅亡。不忠でしょ。
千姫は正室なので、当然千姫との間の子が世継ぎでしょ。そうなれば、政権における徳川家の影響力が増す
豊臣家が滅ぼされたのは単に秀吉が馬鹿だったからというだけ。
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。
こんな体制じゃあっさり崩壊して当然
870 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 11:20:43.86 ID:yFwMr6za
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。
その後妹も同じように殺されてる。
秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
871 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 11:21:17.23 ID:8R2UeAp4
清洲での宿老合意の原則を無視する秀吉は信長生存時からの織田家の敵と戦うことをせずに
宿老会談で政策をはかることもなく、ことごとく勝手に政策を決めていく。
そして一刻もはやく安土へ三法師を移動させることを策する(安土が再建され畿内が静謐になるまで待てない秀吉)
五畿内ことごとく人質を取って磐石な体制を構築する秀吉。
信雄有利の大河切りを秀吉は支持し、信孝有利な河切りの境目を否定し兄弟対立を煽る秀吉。
柴田は双方からちゃんと話を聞いて、奉行を派遣して話合おうと提案している。
堀は三法師ともども岐阜にいるらしい(信雄の千福の仕官話の書状から考えると丹羽も?)
柴田は堀に宿老全員合意の原則を掲げて安土へ御座を移す話をしている。
秀吉の勝手な葬儀が事実上の宣戦布告。それの批判を受けて秀吉が誰が天下の主になるか腕比べしようと挑発。
石川数正への書状によれば、重臣対立の結果、
安土へ三法師がこないことで長く、織田家督者が実質空位で立っていない状態になってので
信雄を安土へ入れ御代にするなど織田主君を秀吉の意のままに廃君し別に擁立する暴虐ぶりを発揮。
(良識に従えば三法師のいる信孝や柴田側にこそ大義名分が存在する)
しかも信孝を降伏させたあとに三法師まで人質として取っている秀吉。
信雄を擁立したが完全に傀儡で、秀吉の息がかかった者が国々の仕置きを申し付けられており
信雄はその者の専横を怒り斬っている。
秀吉にとっては、義昭がやってきたから信雄はもういらないという態度か。
9/3柴田→丹羽
若子様の事は丹羽、池勝、我らはご近所とも言うべき者。
せめて仰せの如くにしてくれ。我の意を知っている衆までお越しして
もし不慮が起こったらおのおのの沽券に関わることなので
重ねて申し談じてよくよく御分別するべき。
(これ追而書なので、一番したの段の続きの話で、柴田が一番伝えたいこと)
三七郎殿(信孝)は大河切りにすると三郡まで尾張になるので川切りを主張
三介殿(信雄)は国切りを主張し同意ない。
我ら4人の奉行を境目に出して究明することがいいと兄弟に返事した。
三介殿は貴殿の書状にあるように同意してくれたので
なにぶんにも申し談じて裁判していこう。羽柴・池勝は程遠い間柄。
あなたと我らは同前に申し談ずべく候。
若子様は御幼少なので上方がとくりと落ち着いて、御座所も御普請が定まってから
申し談じて、各一同の同意を得てから上国するのがめでたい。これは境目の返事の時に兄弟にも伝えた。
10/14の晴豊記
茶筅と三七郎が上洛してきて明日の信長葬礼を抑えに出ると言う噂がある。
秀吉の葬儀に関して信孝から糾問があったのか 10/18付けで信孝の臣に秀吉が返書。 柴田と我らの間柄について何を聞いたのかね?
信孝様と三助様の両人が名代を争っていたから清洲で宿老が談合して信忠の御子を取り立てた。そして清洲から岐阜へ御供して信孝様に若君を預けた。
日数程無くして安土へ若君を移参らせると信孝様が言ったのに、いまだにその儀は御座なく候こと。
(多聞院日記7/8には三法師が上洛して諸大名衆礼とある) 名代を争い御主に事欠くことで迷惑した。秀勝も15.6歳の武者なので
御主にしようという話もあったが、私の養子でもあるので御主にさせることは誰が申すことであってもありえません。
ご兄弟や宿老衆の御悪を請け申すことは迷惑です。 信孝様が信長の仇を討てたのは私のおかげです。 濃州にかんして堀久太郎を岐阜御城に上置申し候へども
御国を人質ともども信孝様へ進上したじゃないか。 尾州も人質も三助様に全部渡した。
坂本を持とうとするのは天下を包み候て、筑前が天下の異見を申すことか
さらに志賀郡まで持てばと思い、迷惑に感じて丹羽に渡した。
御仏事に関して御兄弟から返事もなく、宿老衆からも仏事の沙汰がなかった。
天下の外聞はいかがかと思いやった。
872 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 11:22:34.47 ID:8R2UeAp4
10/6 柴田→堀
秀吉批判の書状 清洲において誓った置目の条々に相違している。 仕置きを一向変えて、諸人は不審がっている。
静謐の評定をするのは無論のことなのに清洲以来、裁許に及ばず、諸人の分別になっている。
若子様の移動の件は、各一同に兼ねての約諾の如く御座を移すことを岐阜への丹羽にも返事している。四方に敵がいるので、それらを討ち果たし平均するのが
御弔なのに、それに手を付けず分国内に私構新城、種々に渡り雅意。 誰を敵と想定してこのようなことをしているのか。
我らの間柄が悪くてもこの情勢のもとでは入魂して 信長公が苦労して治めた分国のお仕置きをして
守るべきところを共食いして相果てるつもりなのか。本意にあらず。
家康は天正10年10/5に信雄が清洲会議で受領した尾張領のうち三河内で織田領に編入されている地域の返還を要求。
12/22に家康は秀吉に「信雄引立御申候事」を賛同してるが
引き立ててやることなどと信雄に対して秀吉や家康は思いっきり上から目線である
佐々成政も天正11年6/17付けで伊勢国司に御座り候、御息様を秀吉が御指南申儀候
と専横する秀吉・池田・丹羽らによる伊勢国司を傀儡にした政治体制に触れている。
信長が家臣に虐殺されるやありえない速さで織田家は解体していくのである。
いかに生前から信長が人心を得ていなかったかがわかる。
そもそも信孝を降伏させて三法師を秀吉が人質に取ってから三法師2歳が一次史料からいっさい行方不明になる。
突然史料上に現れるのが天正16年4月で9歳の時。はたして7歳も成長した三法師が信忠の息子と同一人物だと
自信をもって答えられる者などおらず誰もわからないだろう。
丹波亀山城を与えられた秀吉の養子だった信長の息子の秀勝も小牧長久手の戦いまでは確認できるが
その後行方不明どころか、いつのまにか丹波亀山城主が秀勝(木下秀勝)にすり替わってる。
それが判明するのが天正13年10月に浅井江(お市の娘)と婚姻した事実から別人だとわかる。
616 :日本@名無史さん:2013/09/14(土) 03:10:16.09
1/17秀吉→小早川 25日に三介殿が安土へ上国し即、御家家督に据えた。
4/12秀吉→小早川 滝川と柴田が信雄に謀反したのですぐに滝川を成敗した。
5/21信雄判物 前田玄以を京都奉行に申しつける。筑前にに尋ね、何事も筑前の申す次第にあい極めること。
11/21の家忠日記 小田三介殿が御腹めされた風聞を聞く。
2/14家康→毛利 信雄・秀吉らが公方様御帰洛を御請することを伝える。
3/3信雄→小川 自筆で申すがここのところの働きは余りにも是非なく、無念だ。
3/6信雄→吉村 津河・岡田ら、こいつら余りにもほしいままに仕置きするから成敗した。
3/7信雄→香宗我部 羽柴天下をほしいままに働き是非に及ばず。羽柴に心合う者三人を切った。
3/7織田信張→香宗我部 同上
3/8顕如上人貝塚御座所日記 三介殿が四人切り、筑州もっての外腹たちて詰問の使者を出すが すでに15日には尾州表に軍を出す予定だそうだ。
3/9兼見卿記 斬られた者は筑州諸式国々仕合申付の人なり。この注進を聞き筑州もっての他立腹。すでに勢州へ出陣。
3/10晩に及んで羽柴上洛、諸勢ことごとくまかり上がり尾州へ出陣。
信雄が秀吉を父に仕える如く態度で従っていたため信雄を三法師の守役にしてから清洲会談開始。
そもそも清洲会談の時点で池田や丹羽らを味方につけて派閥を形成して
秀吉のおもうがままに会談を主導。
結果、秀吉(秀長も京以西から河内まで)が大版図を獲得し領国を形成
(大和一円も貰った筒井も秀吉に入魂になっているなど多数派工作を進めていた)
信雄と信孝が名代を争っていたから、結局、三法師後見役も決めていない。
873 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 11:24:03.09 ID:8R2UeAp4
清洲での宿老合意の原則を無視する秀吉は信長生存時からの織田家の敵と戦うことをせずに
宿老会談で政策をはかることもなく、ことごとく勝手に政策を決めていく。
そして一刻もはやく安土へ三法師を移動させることを策する(安土が再建され畿内が静謐になるまで待てない秀吉)
五畿内ことごとく人質を取って磐石な体制を構築する秀吉。
信雄有利の大河切りを秀吉は支持し、信孝有利な河切りの境目を否定し兄弟対立を煽る秀吉。
柴田は双方からちゃんと話を聞いて、奉行を派遣して話合おうと提案している。
堀は三法師ともども岐阜にいるらしい(信雄の千福の仕官話の書状から考えると丹羽も?)
柴田は堀に宿老全員合意の原則を掲げて安土へ御座を移す話をしている。
秀吉の勝手な葬儀が事実上の宣戦布告。それの批判を受けて秀吉が誰が天下の主になるか腕比べしようと挑発。
石川数正への書状によれば、重臣対立の結果、
安土へ三法師がこないことで長く、織田家督者が実質空位で立っていない状態になってので
信雄を安土へ入れ御代にするなど織田主君を秀吉の意のままに廃君し別に擁立する暴虐ぶりを発揮。
(良識に従えば三法師のいる信孝や柴田側にこそ大義名分が存在する)
しかも信孝を降伏させたあとに三法師まで人質として取っている秀吉。
信雄を擁立したが完全に傀儡で、秀吉の息がかかった者が国々の仕置きを申し付けられており
信雄はその者の専横を怒り斬っている。
秀吉にとっては、義昭がやってきたから信雄はもういらないという態度か。
信雄追放について
イエズス会日本報告集
御本所と称される信雄に別な国を授けることにしたが
父の形見なのでと申し出た。
関白殿はただちに、その所領も他の国も有することまかりならぬ。
汝はただ1人の召し使いのみを残し置く。
中略
じつに従順な姿勢で願ったというのに。
日本史
関白はその返答に激怒し領国を持つことを禁止し
1人の草履持ちだけしか家来を伴うことを禁止し
中略
関白はただ1人の小者と称せられている若者しか
仕えることを許さなかった。そして日本の最果ての地に流された。
家康の関東移封がもはや現実のものとして準備が開始される中で
信雄も移封の噂が流れ、領内では諸道具の運び出しの準備が開始されたが
信雄は7月朔付け書状でも神に誓ってありえないと書き
準備する者ははりつけの刑にするとまで言っている。
さらに小田原攻めの時に清洲城や星崎城は小早川隆景に接収されている(長島城は地震で崩壊している)
そして尾張伊勢は秀次に与えられ、流された信雄は8月には常真と号して出家した。
秀吉の野心を嗅ぎ取って柴田や信孝が政治闘争をしているのがわかる。
それで秀吉が三法師を一方的に廃して信雄3を擁立。
逆らう者はすべて謀反人とレッテル貼って叩きつぶす。
その後、信雄は秀吉への屈辱から家康の後援を得て戦うと
秀吉は信雄を長島城へ追い詰めて屈服させてる。
そして北条戦では家康の岡崎城には吉川広家を入れて接収し
関東移封を拒否できないようにしている。
信雄の場合は最初から秀次を入れるために信雄を潰すつもりだったのだろう
三法師を廃止し坂本城へ幽閉し織田家滅亡
木造家の傀儡北畠信雄政権樹立
秀吉の意を執行する家臣を信雄が殺したのでいちゃもんつけて攻め込む
小田原陣後に信雄を小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放
秀吉が朝鮮役での大陣容を見せ付けたいがために旧主筋だった信雄を呼び出し息子に秀の名を与え秀雄と称させ5万石の領地を与える。
874 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 11:30:35.24 ID:jyLU5Ncb
豊臣秀頼も織田秀信も殺した家康を無理くり擁護するとかバカ過ぎ。
女子供を問わず大坂20万人虐殺した家康の狂気…
875 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 11:54:48.68 ID:tj5DFdSi
秀信をいつ家康が殺したんだよアホ
大阪20万どうこうもデタラメばかり書かれてる宣教師の妄想日記じゃねーか
876 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 16:57:36.89 ID:Y8OGXGb1
秀吉厨と家康厨が罵り合うのは懐かしいパターンだが、長文厨が何もかも台無しにするw
877 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 17:25:22.24 ID:ztHh6P0h
なんでこうも要約の能力にかけるんだろうね、コピペするバカは
878 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 17:29:50.92 ID:jCn5CVqQ
そりゃだがは最初から荒らすのが目的だもの
内容は突っ込みを入れてもらう為に隙だらけにして
かまって貰えればそれで満足
最後はコピペ爆撃でスレ潰してお終いさ
879 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 17:30:58.20 ID:LQxs6XoY
>>869 領地の石高が段違いで、しかも政権の中枢と政権から失脚という二重のハンディキャップがあるのに、
「政治力」も糞もねぇだろ。
思考停止して何年だ。
しかも、五大老の一人にすぎない家康と専制独裁者の太閤秀吉の政治手法を同一視して、釣ろうとしている姑息さ。
まさに有象無象。
880 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 18:20:40.13 ID:ZuV2GyS0
>>879 横からだけど、とりあえず家康が「五大老の一人にすぎない」ってことはないと思う
浅野家文書の秀吉の遺言が有効なら家康は政務における秀頼の代行者にして豊臣政権の首座と認識していいと思うぞ?
881 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 18:54:18.87 ID:LQxs6XoY
家康は大老筆頭で秀吉から政務代行を委託されてはいるが、それは家康の独裁権付与とイコールではない。
豊臣政権には、様々な法規の網があり、家康といえども、それは犯せない。
が、秀吉死後、家康は平然とそれを犯し、専横の限りを尽くし、政権簒奪の野望を隠そうとはしなかったので、
上杉の直江状や三成の上方挙兵につながった訳だ。
こんなの、一々書き込むに及ばない初歩知識。
882 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 19:01:45.99 ID:ZuV2GyS0
何十年前の史観でしょうか
883 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 19:38:32.48 ID:0MslJx/Q
基地外織田チョンがまた秀吉を貶して、
捏造歪曲家康マンセーしてるのか。
日本人を大量に虐殺した信長や家康には優しい癖に、
朝鮮人を大量虐殺した秀吉は絶対許さないニダ!!!だからわかり易いw
もう少し工夫しろよ。
884 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 23:01:37.22 ID:lcSD88/O
まあ、信長も秀吉も家康も下剋上で主家を追い落とした点に関しては似たようなものだけど
主家の方から仕掛けさせて上手く大義名分を立てた信長や、いつの間にか上手く乗っ取りに成功した秀吉に比べて
大義名文を立てる事も、さりげなく乗っ取る事も失敗し
形振り構わず主家に襲い掛かって潰してしまった家康はやはり一歩劣ると言わざるを得ない
ただ、それでも上手く時流を捉えて汚名をも覆い隠し政権を打ち立てた政治性はやはり凡庸ではなかったと言える
そして家臣や後継者に恵まれたと言う点では織田や豊臣などは比較にならない
885 :
人間七七四年:2013/11/18(月) 23:44:51.45 ID:lwidQtq8
信長も秀吉も家康も棚ボタで領土伸ばしたという点では何も変わらんよ。
信長の場合は畿内の有力者が次々に死んで、足利嘉昭が訪問して格好の名分を得る
秀吉の場合は光秀が信長や信忠を殺し、光秀が主殺しの汚名を負ったおかげで格好の名分を得る
家康の場合は秀吉・利家らが病死して、名分はなかったものの石田らと武功派らの対立によって、
主家崩壊のチャンスを得る
三人とも偶然の連続で勢力が拡張したにすぎない
886 :
人間七七四年:2013/11/19(火) 06:51:58.88 ID:5PMoO4vn
主家の方から仕掛けさせて上手く大義名分を立てた信長って…
織田宗家や斯波や足利への謀反にどんな大義名分を信長が唱えたんだ?
ひょっとして太田牛一に信長公記で自己正当化するように
信長が依頼したとか言い出してんの?
887 :
人間七七四年:2013/11/19(火) 15:40:29.80 ID:IU7zCCvU
>>886 そんなもんあるわけないよ。
また一次史料あるある詐欺をやるつもりだろw
888 :
人間七七四年:2013/11/19(火) 15:44:15.05 ID:IU7zCCvU
>>880 中井氏
一般に秀吉は自分の死後、秀頼成人までの政務代行者を家康に委ねた、との見方がされることが多い。
これは浅野家文書の「豊臣秀吉遺言覚書」等の記述が典拠になっているが、
原文を素直に読むと、あくまで家康は政務執行者の一人として位置づけられている。
秀吉の死後、三成はくどいほど、
十人衆(いわゆる五大老・五奉行)での合議を強調し、
秀吉薨去後の誓詞にも盛り込んでいる。
889 :
人間七七四年:2013/11/19(火) 16:19:16.49 ID:M60PagYG
実際、十人の合議が果てしなく煩わしかったことが家康に天下を取らせる動機を与えた
天下を取っちゃえば有無を言わさず独断で決められるから
890 :
人間七七四年:2013/11/19(火) 16:48:29.73 ID:FEeUSwrF
十人の合議で決まったのは、朝鮮からの撤退しかないんじゃない
891 :
人間七七四年:2013/11/19(火) 17:41:12.15 ID:01YUppte
ぶっちゃけ死の直前の秀吉が錯乱しすぎてて、つじつまの合わない遺言を
乱発したのが混乱に拍車をかけたな
892 :
人間七七四年:2013/11/19(火) 18:59:07.81 ID:5b4ZQVSb
>>888 本多氏、宮本氏は十人衆での合議制になったのを三成らの画策があったものと推測しているが。
あと、遺言の原文を素直に読んでも明らかに政務執行者の一人として位置づけられているとは読めないんですがねえ……
それ、なんて言う本か教えてくれない?読みたくなってきた
893 :
人間七七四年:2013/11/21(木) 11:03:16.75 ID:UimDDhod
武田旧臣で籠城と調略の天才だった依田信蕃がいなかったら、
甲斐府中でビビって引きこもっていた家康は北条に大敗して甲斐も信濃も手に入れることは出来なかった。
依田信蕃はもっと評価されるべき名将。
894 :
人間七七四年:2013/11/21(木) 13:34:00.62 ID:IPRauWoH
まぁ全て依田のおかげかはわからんが、依田は武田軍団内でも随一の名将だからな。
孤軍奮闘の田中城で結局最後まで徳川方相手に粘り勝ったし、天正壬午やその後の佐久郡平定戦でも大活躍したからね。
895 :
人間七七四年:2013/11/21(木) 15:25:09.79 ID:YqHetXFo
豊臣と依田の動きで逆に儲けたけど、本能寺の時の徳川ってかなり危機的状況だったよな
あのまま明智が健在で美濃近江辺りで戦線が膠着していたら
珍しく素早い動きを見せた北條に裏から突き上げられて滅亡に瀕するところだった
896 :
人間七七四年:2013/11/21(木) 17:05:55.67 ID:s17UwsEC
家康の威圧にもまったく屈せず勝頼死去確認と穴山からの開城勧告を得てやっと開城したほど徹底抗戦したので、
依田の旧武田遺臣からの信用性抜群だったのが幸いして調略がうまくいっていたからね。
特に信濃に進出していた北条軍の背後を遮断するべく佐久郡に戻ってきた依田が
9/28真田家を調略したのは大金星
これがおきて北条は窮してしまい、1ヶ月後の10/29には北条と徳川の和睦成立だからね。
9/13の段階では宇都宮氏を相手に家康は劣勢のあまり、
秀吉と丹羽長秀と柴田勝家がもうすぐ援軍にくるから北条なんて掃討できる
などと、大ウソを吐いてまで、自陣営が見限られないように必死に佐竹など北関東連合を繋ぎとめてるほど劣勢だったからね。
897 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 08:54:20.69 ID:ECZkvuS1
>>896 天正12年戦役でも秀吉に圧倒されヤバくなった家康は、
長曾我部らに対して、
もうすぐ北条の援軍がくるから!
とか言い出して白昼夢願望を語り始めたよなw
だいたいウソ援軍話を家康が言い出した時は超劣勢で、
他大名に見限られないよう、
繋ぎ止める為の虚勢。
898 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 09:22:29.90 ID:DiBeaoar
>>天正12年戦役でも秀吉に圧倒されヤバくなった家康
全く圧倒されてねーよアホ
楽田留守居部隊放置して東美濃やら多方面にただでさえ少ない兵力さいて
転進したら楽田留守居部隊や美濃方面留守居部隊に追撃されて撃破されるか
小牧山やら清洲陥落させられてゲームオーバ。
美濃なんて高木や遠山・小里など一部除いて秀吉方
で背後の木曽も春に秀吉に寝返ってる状況
木造記って別名木造軍記ともいうものなんだが?ソースは伊勢北畠氏の研究
木造記成立の論考
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
小牧山や戸木や松ノ木ですら圧倒的大軍&周囲砦でガチガチな状況で落ちなかったのに
なぜ砦築いただけで勝ったかのように語るのか不明
敵中孤立の戸木や周囲砦ばかりの小牧山や松ノ木ですら攻め崩せなかったのに
桑名や浜田や長島落としてもないのに制圧とか追い詰めてるとかアホかと。
信雄が和議に応じたのは勝手にヘタレただけで降伏するしかない状況という根拠は全くなく
長島なんて秀吉が落とせなかった上記3城よりも遥かに堅固だから防戦なんて余裕
包囲しただけで城が落ちるなんて妄想もいいところ。三木に2年も要した雑魚秀吉じゃ尚更
秀吉が越年するなんて秀吉が本心で考えたかどうかではなく秀吉からみた信雄の考えってだけだろ
信雄が秀吉が越年して城を攻める「様子」を見て取ってなどと秀吉が法螺ぶいているが丹羽宛では大阪に兵を納めるといっているし
なぜ攻められている長島を無視して他地域に転戦するのか不明
ただでさえ圧倒的の大軍の秀吉は一部隊を東美濃に派遣して余裕で対応だろ
んで家康の後詰の心配のなくなった秀吉は長島攻略に専念できる絶好の状況創出だな
震えていたなんて史料は全く存在しない
>>まぁ家康の妄想どおりに北条軍が援軍
仮想敵国なのに来るわけねえだろアホ
899 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 09:24:37.12 ID:DiBeaoar
そりゃ圧倒的兵力が劣るから単独で後詰なんて無理だろ。楽田で留守居兵も残されてるんだし
長島なんて伊勢方面から攻め立てればいいだけだからはじめから視野に入ってるだろ
>>この圧勝ぶり
圧勝ってただ家康がでてこれない木曽川流域わずか3城をこれみよがしに圧倒的大軍で攻めただけじゃん
蟹江敗戦・二重堀敗戦・松ノ木敗戦・戸木敗戦で完全に尾張方面の拡張は滞っているのに。
>>美濃墨俣で茶会を開いて豪遊。
小田原合戦の時と同じでただのパフォーマンスだろ
>>そして秀吉は滝川が勝手に行動してるのを無視して帰って行った。
滝川は秀吉の意思だろ。そもそも家臣なんだから勝手に行動するわけないし単独行動なら九鬼がついてくるわけないし
蟹江から秀吉陣の大垣なんて寸での距離だし谷口氏や愛知県史資料編も秀吉の敵地分断作戦
や尾張方面の攻撃の前哨戦と位置づけているし秀吉は三河方面攻撃計画を諸大名あてにつづってるし
長島も東西から攻撃可能になるし滝川退城で秀吉は三河方面攻撃を断念して延期してるし
>> 家康は長宗我部が秀吉の背後を襲ってくれない限り
戦略も糞もない。当初から7倍もの圧倒的兵力差&信雄領国寝返りの続出&家康徳政で困窮状態で戦ってたんだから
そんな半月で瞬殺できそうな状況で1年費やして自力では尾張半分すら切り取れず信雄のヘタレ具合に助けられただけなのが秀吉
>>しまいには北条の援軍がもうすぐ来るからなどと妄言で、味方を繋ぎ止めてる始末。
そら長宗我部が敵になったら大変だからそのくらいするわ
>>上杉相手にも苦戦して信濃諸将の離反を食い止めるのに必死の家康が
>>秀吉とまともに戦うなんてことは不可能で楽田に秀吉がいる時は小牧山で籠城。
秀吉のまともに戦えないような圧倒的兵力差で秀吉に1万もの圧倒的損害を与え1年一杯粘ったのが家康と信雄
>>伊勢に秀吉がやってきたら、清洲で引きこもるだけじゃん。
ゲームじゃあるまいし7倍ほどの圧倒的兵力差で戦えるわけないだろアホ
>>秀吉は秀長とニ軍で有機的結合した軍事作戦が展開できるが、信雄と家康は合同して一軍を形成して引きこもりしてるだけ。
んでそれが何がすごいの?兵力に圧倒的に恵まれながら苦戦しまくりって最高に雑魚だろ
>>一方の秀吉は開戦と同時に、今戦役の集結を見通している。
実際にその8か月後に終結した戦闘でいかに秀吉の見通しが楽観的なのかがわかる事だ
>>戦いは開始した時点である程度の終戦構想が見えてないと泥縄的になってしまう。
終戦構想を妄想していたがそれが現に妄想と化し信雄のヘタレという幸運に助けられただけなのが秀吉
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康が怖くて出てこれなかっただけ。大体20町ほどの至近距離で7倍もの圧倒的兵力差でまともに攻められない秀吉が
蟹江後詰なんかできるわけがない
>>これも一次史料にまったくない細川家の自称捏造。
家忠日記にあるし神子田がこの後名前がなくなるから史実
>>「其外軍兵一万余討死則敗軍、然共筑州覚悟堅固之故」の真横に「已後ノ沙汰ハ三千討死ト云々」って
長久手町史資料編には書いていない。しかも真横に書いてる時点で書き足しがミエミエ
>>噂レベルの話の場合は顕如日記には雑説と書くが、この文にはそんなことは書いてない。
沙汰を噂とアンチ家康の堀氏ですら訳している。注進などと妄想するのはお前だけ。
注進という時は注進と書かれているのが普通。家康書状信雄書状秀吉書状でもそう
>>違う場所へ転戦しただけだろw
どこに転進したのは史料をもって詳しく
900 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 09:25:39.29 ID:deg8vHDj
小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
信雄は伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる。完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
901 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 09:27:39.30 ID:deg8vHDj
秀吉は
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/440-447 のように領国中の兵力総動員して短期決戦に臨んだが、秀吉の指揮采配能力があまりにもクズすぎたせいで
わずか16000の雑魚信雄・徳川勢に10000人殺された上に、その後の攻防でも下記のように膠着状態に陥ってる。
長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候 羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる 秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど完全に持久戦の態勢に入っている4/12松井→紹安 一戦に池田親子・
森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候 4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候 4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人
が出た 4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた。播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた5/2信雄→不破広綱
今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが美濃
に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り
討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣した
ので近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
902 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 09:29:24.67 ID:N8uKLdSz
小牧長久手の戦いでは徳川方の甲斐・信濃衆は大方領国に残されて北条の変心と
上杉の信濃侵攻の留守を任されてたから北条との同盟自体ほとんど関係ない
そもそもほとんどが信雄軍と秀吉軍の交戦で家康は8000そこそこを連れて来ただけ(当代記・御当家記念録・御年譜徴考・家忠日記など)
大久保兄弟、鳥居、岡部、石川家成、平岩、保科その他多くの徳川家臣の活躍は徳川史料には一切見られない
江戸期の講談とか軍記などでは別だがな
そもそも南伊勢も美濃も尾張の一部、木曽谷まで会戦そうそう織田方から羽柴方に寝返ってるってて
残りの地域でしか戦闘は行われてないじゃん
領国から遥かに離れた戸木城も秀吉方は敗北
秀吉方本陣から近距離の松ノ木城でも秀吉方は敗北(4月〜6月頃は戦闘が確認でき、信雄方から何回も戦功を賞されてる)
二重掘合戦では信雄方に奇襲くらって楽田から敗走(4月下旬→5月上旬にかけて)
おまけに前田・下市場・浜田・蟹江・長久保あたりは秀吉方本陣の大垣・伊勢浜田などから近距離にある拠点なのに信雄方に奪回されてる
信雄や家康は降伏なんてしてない
一時講和停戦しただけ。翌年も家康なんか浜松会議で抗戦する気まんまんなくらいに軍議開いたり
北条との同盟強化や諸城普請、人質収集など会戦に備え、秀吉方も秋には着々と出兵計画進めていたが
直前の天正14年春になったら秀吉がビビッて織田信雄に取り成し仲介を必至に依頼して、おまけに母と妹を人質に出して
「ワシに従ってくれ〜」とばかり土下座してきたので余りにかわいそうになった家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と離反の連鎖で領国軍事機密露見&天正11年からの徳政連発で極度に疲弊してたのに
ビビリまくってたのが実態
903 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 09:36:08.71 ID:N8uKLdSz
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
904 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 09:36:11.50 ID:o7M4rO4L
菅沼遼太
905 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 09:37:08.36 ID:N8uKLdSz
>>天正12年戦役でも秀吉に圧倒されヤバくなった家康
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけ
実際秀吉の予定とは全く別
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
906 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 09:38:44.40 ID:deg8vHDj
>>家康は追い詰められてた
それは完全に秀吉の方だな
何せ長久手合戦後は7倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず長久保戸木松ノ木東駒野河波二重彫り蟹江浜田など砦クラスの小城軍で負け続け
尾張半分すら切り取れなかったんだからこのままガチンコ戦闘継続してたら秀吉は戦死してたのは間違いない
907 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 09:48:21.27 ID:6TsXZpDH
秀吉・織田徳川方史料で各城郭攻防が激しく行われているのがわかる
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じる
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12秀吉→八重羽・富田・津田 木造の城がいまだ落ちず小島と相談して砦を4つ設けるよう指示
田丸・榊原・小島に申し付けるよう指示したので相談するように指示
4/12秀吉→榊原・小島・田丸 木造の砦は2箇所は小島、一箇所は田丸、一回書は榊原が申し付けるよう指示
各自相談し城中の者を一人も逃さないよう普請を堅固に申し付ける事を指示
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが敵に数多手負い死人が出た
4/23信雄→吉村 今尾口へ秀吉方兵力が出撃してきた旨を了承 吉村へ必ず加勢を申し付ける旨を伝える
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
908 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 09:50:30.52 ID:6TsXZpDH
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
信雄→吉村 秀吉が其の表(松ノ木)出兵してきたため信雄より加勢を使わす事を約束。伊勢方面の事を申し付けるため
本日(5/3)信雄が小牧より長島へ帰った事を伝える
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/5 信雄→吉村 松ノ木の加勢と防衛について詳細に命じる
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
7/10信雄→吉村 浜田城築城を申し付ける。出来次第長島へ帰城する旨を伝える
7/10信雄→吉村 尾張から伊勢まで南下して放火した
7/12家康→木造 戸木城への兵糧搬入が困難である。戸木城を堅固に守るよう指示
7/14秀吉→津田 浜田之古城を信雄方が攻略した旨を了承。信雄方にとって菅生砦へのつなぎの城になるだろう
との考えを示す。明日美濃へ行くので神戸城で大方申し付けたならば、神戸城の一柳・小野木は美濃の秀吉陣所
へ来るよう指示
909 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 09:56:10.70 ID:oWNN1djU
困ったら コピペ爆撃 菅沼君
910 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 09:58:26.95 ID:q2CJ7xDN
>>家康が優勢だったなんて歪曲意外にあり得ないのにチョンは馬鹿だなワロスw
羽黒で大敗、小牧長久手で1万人戦死の大敗、戸木・松ノ木・河波・神戸・二重堀・蟹江・浜田で敗北
ちなみに兵力差は7倍ほどもあり信雄方は合戦当初から尾張でも美濃でも伊勢でも寝返りでまくりの圧倒的秀吉有利な状況
>>家康は八方塞がりで秀吉の攻勢に常に籠城してただけで、其の間に味方がどんどん切り崩されていっただけじゃんw
秀吉が切り崩したの木曽川筋の家康が出てこれないわずかな城だけだろ
他東駒野・河波・松ノ木・戸木・蟹江・二重堀・神戸・浜田など各城郭で敗北
結局秋になって秀吉が諦めて納馬しようとしてたところに信雄がヘタレ和睦してきて助かっただけ
>>秀吉がいなくなると、ちょっかいを出すが秀吉が来ると逃亡
むしろ至近距離で滝川が蟹江・前田・小口など奪って家康と決戦する大チャンスなのに
信雄と家康にビビッて逃げてったの秀吉だろ。滝川が蟹江合戦起こした当初最低でも至近距離の大垣にいたのに
いつでも後詰できるのにしなかったのは秀吉が小牧長久手で1万人も戦死する大損害だしたからヘタレビビリまくって逃げてただけ
>>根本的な解決策はなく、時間稼ぎ籠城してるだけ
家康単体では8000そこそこしか軍出せないのに根本的な解決できるわけねーだろアホ
911 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 10:00:09.74 ID:N8uKLdSz
佐竹や毛利や上杉相手にデタラメ戦果書きまくって必死に家康の味方にならないよう気遣っていたのは秀吉の方じゃん
912 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 10:02:27.87 ID:QqvIlzPb
>>911 秀吉の戦果捏造はガチで悪質だからな。
3月26日⇒佐竹
尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
4月8日秀吉⇒毛利輝元
伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww
5月9日 秀吉→毛利輝元
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww
9/8秀吉→丹羽、前田 9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね
で、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた
11/13
家康が懇望してきたので同意してやった
なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認??????
明らかにデタラメ
>>が、圧倒的戦力をもっていた秀吉が4/8の小牧長久手で敗れるまで勝利まじかと書くのは普通だろ。
なら9月や11月に秀吉が勝利まじかと書いていたって勝利が近い信雄を追い詰めた状況の証明には全くならないわけで。
しかも家康も春頃勝利眼前・上洛まで程なくとか秋にも勝利まじかと書いていて全く追い詰められて焦ってる文面ではない
913 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 10:05:17.45 ID:ZRoUk6ZW
フロイスの日本史とかも秀吉が史料を改竄しまくったせいで、歪曲された情報がそのままあたかも史実かのように書かれてるからね
>> 根来衆は秀吉に対して幾つか無礼を働き、ある陰謀をたくらんでいた
明らかに秀吉サイドの目線で、根来衆からいえば明らかに秀吉が自分らを迫害
>>秀吉は伊勢に入ると敵の諸城を包囲し始め、幾ばくかの苦労をしたが、武力をもってそれらを次々と陥落せしめ
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
>>敵方は長島と称する一城を残し国を挙げて彼に引き渡してしまった
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
>>秀吉の軍勢は同所(伊賀)から異常な迅速さをもって尾張に進撃し、犬山城はたちまち降伏
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
914 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 10:06:32.95 ID:ZRoUk6ZW
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
>>三河の国主は夜に入ってからその新しい小牧城を出、天明を待って羽柴の甥の陣地を襲撃した。
明け方に行われたのは秀吉方先遣隊と池田勢との間で行われた岩崎城の戦いであって、家康が秀次の陣地を襲撃し合戦になったのはそれより大分後の
巳〜午の刻。
>> 三河の国主はこの勝利を博すると小牧城に戻った。すると羽柴(秀吉)はただちに2万の兵をもって同城を包囲するように命じた
そんな事全くやっておらず、小牧方面から目をそらして、大河に挟まれた進退の自由の利かない木曽川筋のデルタ地帯に家康・信雄を誘いだして
殲滅しようと岐阜城の秀勝につけた田中・伊藤・谷・石川・藤県に対し、岐阜から木曽川筋を長島に向かい12キロほど南下した所にある大浦城
への加勢を命じている(4/11秀吉→伊藤・田中・谷・石川)また、木造攻撃中の小島・榊原・田丸らに加勢する目的で津田・富田・八重羽らを派遣して
(4/12秀吉→津田・富田・八重羽)明らかに小牧方面への進出を諦め、伊勢や尾張北西部に戦局を転換しようとしている
>>こうした戦闘がすでに終わった頃になって、越前加賀能登から三万近い軍勢が羽柴を助けるために到着したが、秀吉はもはやそれだけの
>>大援軍は必要なしと認め、ただちに引き返させた。
>>羽柴がこのたびの戦いのために大阪を出発した後、根来及び雑賀と称する仏僧らは、彼の不在に乗じ、約1万五千名が一団となって出撃し羽柴が大阪に築いた新しい都市を
>>すべて焼き滅ぼしてしまおうと決意した。大阪を占拠した上はかつて信長が五年も六年も攻囲したかの石山本願寺の僧(顕如)を再びそこに
>>おらしめる事にした。敵(僧兵)は徐徐に前進し途中幾つかの場所を破壊したり焼いて行ったので、四日ないし五日かかった。
915 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 11:06:35.21 ID:solHjjjG
なんでこんな必死なの?
916 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 11:33:12.38 ID:qhTtPg1g
うわ、またアンチ秀吉&三成の在日織田半島人がハビョってんのかよ・・・
こいつ自由自在にID変更できるキチガイだからタチが悪いわ。
917 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 12:44:10.38 ID:solHjjjG
どこらへんが織田と関係あるんだ?
918 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 13:12:59.83 ID:R/1BiOvh
>>917 おいおい志賀の陣の解釈で馬脚を表したのを忘れたフリかよw
subレスをパクって武田厨を装って荒らしした時と、
自分が考えてレスした内容が正反対の内容で織田チョンなのが露呈してただろwww
ここでは徳川厨のフリをして秀吉叩き、
三成叩きの時は徳川厨や毛利厨を使い分けて荒らしまわってんじゃんよ。
上杉叩きの時は伊達厨を装って論破されたら、
突然、最上厨のフリを開始して直江叩きを始める始末。
織田に非難がいかないように工作してきたが、
ついに本丸が織田チョンだったのがバレてしまったwww
919 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 15:43:10.55 ID:qhTtPg1g
>>(天下ハ朝倉(義景)殿持給え。我ハ二度望ミ無」ト起請ヲ書給ひて、無事ヲツクリて岐阜ヱ引給ふなどとデタラメをデッチ上げている
武田厨を装い、キチガイ爆撃コピペをして荒らしまわっていたが、ついに織田厨チョンの顔を現したかwww
勝手に俺の武田レスをコピペしまくってあちこちには貼っては、追い討ち自演で荒らし認定してまわんじゃねぇよカス織田在日チョン。
俺は不等号なんてガキくさいもん使って序列なんてつけないわ。つか俺のコピペから織田厨として一番不都合な部分は編集削除してんのなw
パクるなら下記みたいにキッチリ全文コピペしろや! つか絶対にコピペしない文章とかあるのは何でwww
どこに家康の勝利なんて書いてる馬鹿がいるんだよwww
家康と信長が大好きでわざわざ引っ越してまで三河安城市に住んでるならもう少し調べてから書けよwww
おっとw信長にへスレ住人の怒りが向かないように自分は武田と徳川が好きなフリをしてる在日君だったよな〜。
あくまで武田寄りの大昔のレスをコレクトして、大量投下し武田厨を荒らし認定しつつ、
在日チョンとしては決して譲れない秀吉・三成擁護レスにはムキになってスレごと埋め立てする勢いで超大規模投下レスをしてるんだもんな。
つか教科書まで捏造して自演したりとお前面白いなwww
秀吉が嫌いな為に家康擁護・信長大好き・武田厨は荒らしの罪を擦り付ける愛知県民らしい行動だなwww
そいつは武田厨を装い、武田厨のとっくの昔の過去レスを編集して大量爆撃コピペした後に
必ず武田厨をキチガイ荒らし認定追討ちレスを付ける自演キチガイ在日織田厨。
特徴は誰でも彼でも自分の意に沿わないレスは全部、だがの書き込みとして排除しまくり、
WIKIや外部に議論サイトを作り、そこに誘導してリモートホスト(IP)盗みや危険サイトへのリンク貼る犯罪予備軍。
さらにわざわざ工作スレをあちこちの板に作ってまわる粘着ストーカー。織田厨だと思われないように工作しているが、
信長より秀吉の方が優秀とするレスには真っ赤になって発狂し常軌を逸っしたレス埋め行為の火病を発症する。
また豊臣政権や光秀や三成の擁護にも火病を発症させ、ムキになって家康・輝元・信雄擁護で口から泡を吐く。
日本史板・ゲーム歴史板・三戦板・歴史難民板のすべての秀吉・三成・関が原・朝鮮出兵スレをコピペ爆撃で崩壊させた真性反日織田チョン。
昔から自分の意に添う正義の意見以外には悪のレッテルを貼り人格攻撃し排除する基地のため怖くてレスできないと文句を言われるや
自演呼ばわりして単発IDの異常な連投で正当化。そもそもSABからして2人以上存在していて、会津の石高で争いあった人たちを
みんな纏めてSAB呼ばわりし、札幌や横浜在住と言ってた人々をみんなSABと決めつけるアホ
愛知の安城が住所と言うのも安城のデパートの話やら豊橋貶しをしてる別人をSAB扱いしただけのことで
そもそもSABってのもWIKIで信玄や謙信のホモネタで荒らし編集してる人(こいつも信長ホモネタは絶対に書かなかった)
を指してSABとレッテル貼っただけのことで、それと戦国板に登場するSABとの関連性はまったくないのに同一視。
さらにSABは信玄や謙信の悪口は絶対に書かなかったなどと、ホモネタ荒らし行為を隠蔽し、むりくりSAB=だがとレッテル二重貼りまでやる始末。
だいたいだがからして二人以上いたのは明白で、それをだがの自演だと論理飛躍しないとつじつまがあわず、そこにSAB同一までくっつけて狂いすぎ
920 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 16:50:29.50 ID:70Khb1Ly
家康は主家を滅ぼした大悪党!
921 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 17:22:19.57 ID:4P+yE56J
浪花節で国は統治できんよ
922 :
人間七七四年:2013/11/23(土) 22:10:09.18 ID:KGqIacMb
こいつは最強の卑怯者。
こんなバカを慕うものの気が知れない。
923 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 00:00:13.09 ID:D2CCJtof
924 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 04:10:53.84 ID:Y/NYbijY
自分の意に沿わぬ相手に片っ端から、
subとかSOHOとかだがとか菅沼などと
レッテルを貼って回る習性を持つ低い知性のバカは1人しかいないだろw
単発ID自演クソ偏執狂ストーカー君w
925 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 05:56:14.79 ID:D2CCJtof
つまり思い込みね
どうもありがとう
926 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 09:55:07.85 ID:sEjJO/OL
レッテルを貼りをやるのは劣等感から。
927 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 15:45:57.09 ID:F8iMPQoW
家康公スレを陳腐なレスで汚すなカスども
928 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 15:46:37.01 ID:MlVCURBH
まさに織田チョンだとか織田猿って言ってる奴がそうだろうね<劣等感
929 :
人間七七四年:2013/11/24(日) 21:09:05.76 ID:XHes4n21
雑兵と斬合うバカ部将が多いスレだなぁ(;¬_¬)
930 :
人間七七四年:2013/11/25(月) 14:31:29.11 ID:vo9XPfP6
鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇) 門葉とその他国別一覧
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、愛知県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、愛知県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■その他
【三河国】安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、愛知県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
【三河国】足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、愛知県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
【武蔵国】比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
【相模国】和田氏(相模国三浦郡和田)
【相模国】二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、愛知県岡崎市))の妹
【下総国】結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
【常陸国】八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、愛知県豊田市)地頭
【伊豆国】北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
【京武者】一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
【京武者】大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、愛知県知立市)
【京武者】三善氏
931 :
人間七七四年:2013/11/25(月) 14:32:44.23 ID:vo9XPfP6
室町幕府の支配層一覧(三河つながり優遇) 国別内訳
【三河国】西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、愛知県西尾市)
【三河国】東条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、愛知県西尾市)
【三河国】今川氏(三河国幡豆郡今川、愛知県西尾市)
【三河国】石橋氏(三河国設楽郡石橋、愛知県新城市)
【三河国】高氏(三河国額田郡菅生、愛知県岡崎市)
【三河国】仁木氏(三河国額田郡仁木、愛知県岡崎市)
【三河国】細川氏(三河国額田郡細川、愛知県岡崎市)
【三河国】斯波氏(三河国碧海郡矢作、愛知県岡崎市)
【三河国】一色氏(三河国幡豆郡一色、愛知県西尾市)
【武蔵国】畠山氏(武蔵国男衾郡畠山)←初代畠山義純は三河国生まれ
【上野国】渋川氏(上野国群馬郡渋川)←初代渋川義顕は、同母兄の足利家氏と共に滝山寺(愛知県岡崎市)で出家(板倉右衛門入道)
【上野国】山名氏(上野国多胡郡山名)←初代山名義範の実父は、矢田城主(三河国幡豆郡矢田、愛知県西尾市)の矢田義清
【山城国】京極氏(山城国葛野郡京極)←京極高秀(佐々木道誉の嫡男)親子は三河国額田郡下和田郷(愛知県岡崎市)の領主
【美濃国】土岐氏(美濃国土岐郡)
【丹波国】上杉氏(丹波郡何鹿郡上杉)←事実上の初代上杉頼重の屋敷あり(日名屋敷、愛知県岡崎市)
【播磨国】赤松氏(播磨国播磨郡赤松) ←善住寺(豊川市)に赤松円心親子の墓あり、赤松円心は一時、赤田和城(愛知県岡崎市)に隠れ住む
【出自不明】伊勢氏
932 :
人間七七四年:2013/11/27(水) 09:04:54.04 ID:HpSkOeSL
テスト
933 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 16:01:19.68 ID:Qg2oxZvN
家康が朝鮮渡ってたら
北京侵攻とは行かずとも
半島の地盤固めまで成功してたんじゃないかって思う
戦役の功で本国も大加増されて、
そこからは史実より容易な形で秀吉死後天下統一の流れとか
934 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 00:24:21.65 ID:LtWtVHJr
ただでさえ兵糧不足なんであれ以上兵数送るなんて無理
935 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 00:31:25.12 ID:0RMIh1UB
半島に家康や黒田如水や小早川隆景等の老練たちが赴いたら状況が変わってたかもね?
あ、隆景は行ったけど途中で逝っちまったな
936 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 00:43:13.38 ID:LEYcDt8r
如水も行ったけど無断帰国で切腹命令出かかったじゃないですかやだー
937 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 07:56:15.98 ID:21AFGnTx
タイムラグがありすぎるから主将である秀吉が渡海しないと駄目だな
938 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 09:04:37.96 ID:9SvfSkE9
ヨレヨレのボケ爺が現地行ったらもっと悲惨なことになるぞ
939 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 10:07:52.89 ID:IlOda5uf
そういえば家康は秀吉が渡海することをかなり心配してるね
秀吉にもしものことがあったら日本は大変なことになるからそれならば自分が代わりに渡海するとまで言い切ってる
940 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 10:23:51.47 ID:pquSfrTk
そりゃ遺言残して死んでもあれだけの混乱だから
一切ないままま死んだら、即座に乱世だな
941 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 10:30:34.13 ID:48tVDIFF
当時はまだ利家が元気に派閥作ってブイブイ言わせてたからな。
942 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 11:18:01.87 ID:21AFGnTx
秀吉の遺言は死の直前あたりでチョロチョロ変わって周囲を混乱に陥れてたし
943 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 21:15:35.88 ID:qGBti7FF
944 :
人間七七四年:2013/12/05(木) 11:57:44.51 ID:EMfHfe29
■源頼朝・足利義兼と三河の藤姓熱田大宮司家
系図:藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))
☆源頼朝、★足利義兼
藤原実範
・藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令) →@へ
・藤原季綱(三河国司)→藤原悦子(鳥羽天皇乳母)
・三位女→高橋惟康(伊勢新二郎大夫、三河国加茂郡高橋庄(八条院領目録にあり)領主)
・他多数
@藤原季兼
・藤原季範(蔵人所雑色、初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡)) →Aへ
・藤原憲実(法眼)→藤原仲経(九条院蔵人、玄番助大夫、美濃国土岐多良庄地頭)
・女子→二階堂行政(鎌倉幕府の政所令・後に別当、初代二階堂氏)
A藤原季範
・藤原範忠(後白河院北面、大宮司、三河国滝山寺大檀那、室は美福門院女房上総) →Bへ
・藤原範信(式部丞、上野介、大宮司(星野大宮司)、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司、初代星野氏(三河国宝飯郡星野)) →Cへ
・藤原範雅(後白河院上北面、大宮司) →Dへ
・藤原範綱(大学助大夫)
・藤原範智 (法眼、園城寺)→三位局(源実朝御所縫殿別当)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)
・粟田口長暹(法眼、三河国滝山寺、仁和寺、守覚法親王近習)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
☆由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進、征夷大将軍)
★女子(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人、上総介)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)
・女子(源師経室、師経の伯母は待賢門院女房、姉妹は待賢門院官女、上西門院乳母一条)
B藤原範忠
・藤原忠季(大宮司、刑部丞、蔵人所雑色)→藤原忠兼(備中守、大宮司)→海東忠成(猶子、大江広元の四男、初代海東氏、大宮司)
・野田清季(大宮司(野田二郎大宮司)、三河国野田城主、初代野田氏(三河国設楽郡野田))→野田朝季(鷹司冠者)→野田朝氏(大宮司、室は足利義兼の娘)
・藤原能季(相模守)
・藤原範高(検非違使、蔵人所、大宮司)
・寛伝(額田僧都、日光山満願寺19世座主、三河国滝山寺)
・任暁(仁和寺)
★女子→足利義兼(八条院蔵人)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)
C藤原範信
・藤原範清(検非違使、上西門院蔵人、星野左衛門大夫、頼朝右大将拝賀先駆)
・藤原憲朝(八条院判官代、駿河守、初代千秋氏(三河国設楽郡千秋))→藤原範俊(左馬助、大学助、源実朝近習)
・藤原信綱(駿河守、尾張国海東郡地頭)
・藤原信雅(高松院蔵人)
・藤原憲行
・藤原実豪(延暦寺権僧正)
D藤原範雅
・藤原範高(検非違使、蔵人所、大宮司、藤原範忠に養子入り)
・藤原範経(大宮司)
945 :
人間七七四年:2013/12/06(金) 11:17:17.09 ID:dyOfntJL
家康って皇国史観で評価を落とされてるっていうけど、
大正時代の児童向け絵本を集めた本を見てみたら、源頼朝が神武天皇と楠木正成と同列で描かれてたり、
彦左が家康公を助けて御褒美貰ったという絵本もあったりとか、
皇国史観って実際のところは武家社会をどんなふうに評価していたのか、イマイチよく分らない。
そもそも、頼朝の弟である義経自体、講談とはいえ昔から現代まで永遠のヒーローと不動の評価をされてるのに。
946 :
人間七七四年:2013/12/06(金) 12:06:12.68 ID:Jqkb+lgQ
>>945 皇国史観なんて北畠親房の神皇正統記の歴史観が反映されてんだろ。
947 :
人間七七四年:2013/12/07(土) 12:32:30.40 ID:4r5dKol6
あるとしか言えない―赤城山徳川埋蔵金発掘と激闘の記録(糸井重里)
水野家をはじめ、 数多くの人たちが、多額の資金と時間をつぎ込んで、探しても見つけられなかった。
徳川埋蔵金・・・
ないとしか言えない=誰もが見つける事が出来ない=誰もがゴール出来ない
頭のおかしそうな奴とか、不細工・メガネ・デブの三拍子そろったオタク等の社会で虐げられている奴らが、自分こそはトップランナーだなんて気持ちになれる埋蔵金。
948 :
人間七七四年:2013/12/07(土) 17:36:53.73 ID:glWnfOkx
>>946 もし、そうだとしたら北畠某さんを軽蔑するわw
あんなの適当なでっち上げじゃん。
教育を受けてきた旧の公家・武士階級なら相手にしないだろ
949 :
人間七七四年:2013/12/07(土) 18:21:44.02 ID:kg51bfIo
いやいや、北畠親房は、北条執権政治とかも評価しているし
水戸学でも幕府の正当性の裏づけとして神皇正統記は評価されてるよ。
950 :
人間七七四年:2013/12/07(土) 20:41:07.04 ID:glWnfOkx
951 :
人間七七四年:2013/12/07(土) 20:44:21.09 ID:glWnfOkx
携帯ユーザー ですいません
申し訳有りませんが次スレお願いします
すいませんでした
952 :
人間七七四年:2013/12/10(火) 23:38:00.60 ID:fI+RSJG3
■源頼朝・足利義兼と三河の藤姓熱田大宮司家
系図:藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))
☆源頼朝、★足利義兼
藤原実範
・藤原成季
・藤原季綱(三河国司) →@へ
・藤原季重
・藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令) →Aへ
・藤原行綱
・興義
・実慶
・三位女→高橋惟康(伊勢新二郎大夫、三河国加茂郡高橋庄(八条院領目録にあり)領主)
@藤原季綱
・藤原友実→女子→源頼政
・藤原実兼→藤原通憲(信西)
・藤原悦子(鳥羽天皇乳母)
・他多数
A藤原季兼
・藤原季範(蔵人所雑色、初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡)) →Bへ
・藤原憲実(法眼)→藤原仲経(九条院蔵人、玄番助大夫、美濃国土岐多良庄地頭)
・女子→二階堂行政(鎌倉幕府の政所令・後に別当、初代二階堂氏)
B藤原季範
・藤原範忠(後白河院北面、大宮司、三河国滝山寺大檀那、室は美福門院女房上総) →Cへ
・藤原範信(式部丞、上野介、大宮司(星野大宮司)、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司、初代星野氏(三河国宝飯郡星野)) →Dへ
・藤原範雅(後白河院上北面、大宮司) →Eへ
・藤原範綱(大学助大夫)
・藤原範智 (法眼、園城寺)→三位局(源実朝御所縫殿別当)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)
・粟田口長暹(法眼、三河国滝山寺、仁和寺、守覚法親王近習)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
☆由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進、征夷大将軍)
★女子(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人、上総介)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)
・女子(源師経室、師経の伯母は待賢門院女房、姉妹は待賢門院官女、上西門院乳母一条)
C藤原範忠
・藤原忠季(大宮司、刑部丞、蔵人所雑色)→藤原忠兼(備中守、大宮司)→海東忠成(猶子、大江広元の四男、初代海東氏、大宮司)
・野田清季(大宮司(野田二郎大宮司)、三河国野田城主、初代野田氏(三河国設楽郡野田))→野田朝季(鷹司冠者)→野田朝氏(大宮司、室は足利義兼の娘)
・藤原能季(相模守)
・藤原範高(検非違使、蔵人所、大宮司)
・寛伝(額田僧都、日光山満願寺19世座主、三河国滝山寺)
・任暁(仁和寺)
★女子→足利義兼(八条院蔵人)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)
D藤原範信
・藤原範清(検非違使、上西門院蔵人、星野左衛門大夫、頼朝右大将拝賀先駆)
・藤原憲朝(八条院判官代、駿河守、初代千秋氏(三河国設楽郡千秋))→藤原範俊(左馬助、大学助、源実朝近習)
・藤原信綱(駿河守、尾張国海東郡地頭)
・藤原信雅(高松院蔵人)
・藤原憲行
・藤原実豪(延暦寺権僧正)
E藤原範雅
・藤原範高(検非違使、蔵人所、大宮司、藤原範忠に養子入り)
・藤原範経(大宮司)
953 :
人間七七四年:2013/12/14(土) 14:16:00.17 ID:cihRZ0fH
954 :
人間七七四年:2013/12/16(月) 20:27:00.97 ID:Ip9gRuU1
|/-O-O-ヽ| ブツブツ・・・
| . : )'e'( : . |
` ‐-=-‐
/ \
||\ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \
||\\. \ ∧_∧
||. .\\ \ ( ;´Д`) (まーた始まったw)
. \\ \ / ヽ.
. \\ / .| | |
. \∧_∧ (⌒\|__./ ./
( ´,_・・`)目合わせるなって ∧_∧
. _/ ヽ \ ( ) 死ねや
955 :
人間七七四年:2013/12/19(木) 11:17:59.21 ID:ClNnE9dm
御三家がめっちゃもうアレっていうね
956 :
人間七七四年:2013/12/20(金) 09:39:07.38 ID:tZx+qC9F
菅沼遼太 アスペルガーだが アホ 自演 2013年8月2日 必死チェッカー 対立煽り失敗事件
957 :
人間七七四年:2013/12/25(水) 11:05:38.67 ID:GDL/dKIY
聖夜で御座るぞ!!
958 :
人間七七四年:2013/12/25(水) 23:05:34.05 ID:JrRDbH0f
聖夜でも家康公は動じず
959 :
人間七七四年:2013/12/26(木) 00:09:13.13 ID:anS56voP
我々的な聖なる日で御座る _(_^_)_
適当な女にはクリスマスで誤魔化してるがw
960 :
人間七七四年:2013/12/26(木) 00:18:21.08 ID:f0AumOe2
権現様の誕生日か
961 :
人間七七四年:2013/12/28(土) 00:32:37.73 ID:4vMeyJ2w
今の日本があるのも家康公のおかげや
962 :
人間七七四年:2013/12/28(土) 22:27:55.38 ID:McOE9EzB
相変わらず家康って全く人気ないな。
963 :
人間七七四年:2013/12/29(日) 14:26:23.36 ID:TbGNcQK/
南無東照大権現
964 :
人間七七四年:2013/12/29(日) 19:22:39.67 ID:Sh4xOuoZ
贅六とかうぜぇよキモいAAてめぇらだな。
人気ないのも南無もてめぇらだな。
てめぇら図に乗るんじゃねぇよ。捏造偏向歪曲するんじゃねぇよ。生きてる価値ねぇからさっさと死ねカス。
965 :
人間七七四年:2013/12/31(火) 01:04:30.06 ID:apNGafRH
お前ら新春ワイド時代劇「影武者 徳川家康」って見る?
966 :
人間七七四年:2013/12/31(火) 08:37:20.15 ID:QqqdQG+p
家康って棚ぼた人生だったからつまらん。
魅力無さ過ぎて叩く気すら起きんわ。
967 :
人間七七四年:2013/12/31(火) 11:53:00.70 ID:PCWD06r+
信長秀吉の方が遥かに棚ボタ他力本願実力0じゃん
968 :
人間七七四年:2013/12/31(火) 12:33:20.15 ID:AFL763Ir
ミエミエの煽りに反応するとか…
969 :
714:2014/01/01(水) 13:40:05.62 ID:0OgfhXM8
970 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 10:00:47.11 ID:VCnSPRyX
秀忠の小物っぷりはかなり笑えるのに
971 :
人間七七四年:2014/01/03(金) 15:12:04.16 ID:hngnG96z
影武者とか奇を衒ったものじゃなく、普通のドラマが見たかったんだがな
972 :
人間七七四年:2014/01/05(日) 17:42:28.61 ID:fLpD0ibI
家康ファンもアンチも誰も得しないドラマだよなあれ
973 :
人間七七四年:2014/01/05(日) 23:07:41.58 ID:dPa3OBrV
家康公がポンポコラーメンを食べたら
974 :
人間七七四年:2014/01/06(月) 23:51:46.30 ID:R3vaWDR8
とりあえず城内の警備悪すぎw
975 :
人間七七四年:2014/01/07(火) 16:34:42.26 ID:ZSJXhgWj
小早川が最高で秀忠も良かった
悪役や道化が出来る役者は希少だな
ミッチーは相変わらずミッチーで浮いてた
976 :
人間七七四年:2014/01/08(水) 22:45:44.09 ID:mda6SzMU
大河の家康はヒストリア観た限りではあまり悪く描かれる事は無さそうだな
977 :
人間七七四年:2014/01/09(木) 12:41:28.41 ID:lTzAw/6C
>>965 聖人に描かれても悪狸に描かれても
無条件に家康公が好きな私ですが
他人は流石に無いわー
御大の名を語られても…
冒頭で死んでしまったそれが全て
978 :
人間七七四年:2014/01/09(木) 20:16:05.54 ID:COvirKxU
静岡に帰省したついでに久能山東照宮に小学生以来で初詣に行って来たけど
売店にこんにゃくの味噌田楽が100円とお手ごろ価格で販売してたのはやっぱアレかな
「糞ではない!焼き味噌じゃ!」
との家康公の言葉に捩ったものだったんかな
久能山は思ったより小ぢんまりだったけど日本平からの富士山の眺めは最高だった
979 :
人間七七四年:2014/01/09(木) 22:55:18.33 ID:P5zrJuC4
『天元実記』という史料は、どの本で読めるのでしょうか?
980 :
人間七七四年:2014/01/10(金) 00:10:26.27 ID:Z9YweU6+
刊行されていないので国立公文書館で閲覧するとか
981 :
人間七七四年:2014/01/10(金) 18:03:17.47 ID:TCelWHhG
>>980 そうなのですか
写本でしょうから読むのも難しそうです
ありがとうございました
982 :
人間七七四年:2014/01/10(金) 18:23:42.03 ID:JiiDYPnZ
徳川家康って武田信玄をお手本にしてたにしては弱くない?
大坂冬の陣、夏の陣でも浪人集団に凄い手間取って、結局掘埋めるっていう休戦条件超えたズルして勝っただけだし、さらに遡れば関ヶ原の戦いも寝返りしてもらってやっと勝ったってとこでしょ。
何か武田信玄や織田信長みたいにこの武将にしてこの戦いの勝利ありって印象がないんだよね。弱いけど長生きだけって印象が強い。
983 :
人間七七四年:2014/01/10(金) 18:44:55.14 ID:Z9YweU6+
負けない戦いをしたということ
984 :
人間七七四年:2014/01/10(金) 19:35:53.03 ID:qUt+MbFw
信玄はともかく信長なんてまぐれ勝ちみたいな戦いばっかりだしな
家康と同盟結んでなかったら姉川の戦いは間違いなく負けてた
985 :
人間七七四年:2014/01/10(金) 19:41:55.78 ID:g1R8y0kx
寝返りしてもらってやっとワロタ
そういう程度の認識の人にはそう見えるんだな
986 :
人間七七四年:2014/01/10(金) 19:43:24.51 ID:9kXGrZ30
大坂の陣や関ヶ原合戦で苦戦してたのなんて藤堂とか黒田とかほんの一部の雑魚武将だけで
大方は押しまくってたじゃん
987 :
人間七七四年:2014/01/10(金) 19:46:19.52 ID:GJQixxGv
木津川口砦の戦い→徳川方の勝利(木津川口砦占拠)
今福・鴨野の戦い→徳川方の勝利(鴨野の拠点を占拠)
博労淵の戦い→徳川方の勝利(博労淵砦占拠、大阪方の守将平子正相戦死)
野田・福島の戦い→徳川方の勝利(野田・福島の拠点占拠)
その後豊臣方は残りの拠点も放棄して大阪城に逃亡
後厭戦気分になってるのはむしろ豊臣方だわな
12/15に淀殿が人質として江戸に行く替わりに、篭城浪人のための加増を条件とした和議案が豊臣方より出され、家康はこれを拒否
また大阪方は弾薬・兵糧も不足しだし、大筒を打ち込まれると即座に和睦交渉に乗っかる。
また、朝廷から後陽成上皇の命により、17日に広橋兼勝と三条西実条を使者として家康に和議を勧告した。家康はこれも拒否し、
あくまで徳川主導で交渉を進めた。
988 :
人間七七四年:
>>982 ズルをしたというのは、兵力で負けていても敵将の首取ったから勝ち、みたいな戦い方だろう