武田信玄の天下取りの難易度は高すぎ

このエントリーをはてなブックマークに追加
1人間七七四年
武田家相続時、甲斐20万国+金山 、飢饉・河川の氾濫で土地は貧弱

甲斐で同規模の力を持ち武田家と勢力を2分していた小山田家とは同盟関係で
小山田は北条氏と武田家を天秤に掛けていた

父信虎は中央主権化を進め、甲斐の国人達の反発に合い追放されて信玄が擁立される
つまり、クーデターを起したのは名門の板垣甘利飯富、その操り人形だったのが家督相続時の信玄

当時の武田家は、守護としての家柄しか価値がなかった。
父信虎以前の守護武田家は守護代跡部氏の専横で権力はなく無能
そんな甲斐の国を、敵対する国人や武田家一門と戦いフルボコにして統一したのが信虎
大暴れしたおかげで、国人に嫌われ追放される一因になる。
2人間七七四年:2012/02/29(水) 23:35:54.79 ID:6CAH7EtU
   ∩___∩         |
   | ノ\     ヽ        |
  /  ●゛  ● |        |
  | ∪  ( _●_) ミ       j
 彡、   |∪|   |        J
/     ∩ノ ⊃  ヽ
(  \ / _ノ |  |
.\ “  /__|  |
  \ /___ /
3人間七七四年:2012/03/01(木) 04:46:28.86 ID:WRXMXXhR
20万国あれば世界征服できそう。
4人間七七四年:2012/03/01(木) 08:36:16.84 ID:gNEkuh+e
秀吉は0万石からスタートしたんだよ
5人間七七四年:2012/03/01(木) 09:56:55.22 ID:zCgsKIkQ
せめて信長が天下取っていたらこのスレも多少は信じる人がいたかもしれない。
現実は足軽階級出身の秀吉が取ってしまい大半の引き継ぎ大名が
「天下取れなかったのは甘え」と言われてもおかしくないくらいの待遇に
6人間七七四年:2012/03/01(木) 11:52:39.40 ID:W+Q3pgbc
秀吉は天下なんぞ取ってない。
一時的に大勢力だっただけ。三好なんかと同じ。
7人間七七四年:2012/03/01(木) 13:39:04.39 ID:2EkE9jxy
信玄より難易度低い大名ってどのくらいいるの?
8人間七七四年:2012/03/01(木) 13:57:53.00 ID:gNEkuh+e
秀吉は0万石だから、大名全員という事になる
9人間七七四年:2012/03/01(木) 15:59:55.73 ID:Q/caQzqz
>>6
在日さんちーっす
10人間七七四年:2012/03/01(木) 16:49:02.68 ID:yBztHtrE
秀吉は、そこにあるものを乗っ取って天下を取っただけでしょ
11人間七七四年:2012/03/01(木) 18:42:28.16 ID:nhkJHqRX
秀吉は天下なんぞ取ってない。
一時的に大勢力だっただけ。三好なんかと同じ。
豊臣幕府なんぞ開かれなかったんだから。
12人間七七四年:2012/03/01(木) 19:01:36.71 ID:XAJR3b4K
>>11
幕府なんてのは江戸も末期になってから使われだした単語だが
分かるかチョン君?
13人間七七四年:2012/03/01(木) 19:03:10.40 ID:43V7daEB
秀吉が天下(形だけ)取れたのは光秀や信長が馬鹿だったおかげ。
信長が愚行を繰り返し謀反だらけで寡兵の光秀に瞬殺され、光秀もまんまと反逆者の汚名被ったから味方多く集まっただけ。

14人間七七四年:2012/03/01(木) 19:05:54.07 ID:LuNwKMZ+
秀吉は天下なぞ取ってない。
徳川の太平の世が作られたというのが歴史的事実。
15人間七七四年:2012/03/01(木) 19:08:51.25 ID:oDcpEzYd
秀吉みたいなゴミ武将が関東に派遣されてたら氏直の天才的采配で戦死してただろーな
16人間七七四年:2012/03/01(木) 19:12:25.89 ID:SrcPpCZB
秀吉は卑怯だからな

人格的にも能力的にも三傑どころか普通の地方大名の器ですらないだろ

自分の無能も棚に上げて滝川をムリヤリ締め出したし
17人間七七四年:2012/03/01(木) 19:15:36.99 ID:MP/g5Wgh
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。
まあ織田家にいなかったら埋もれてたのは確実だな

毛利は79年以降南条や宇喜多に足止め喰らわされてたしそもそも家中統制力が弱い原始的国人連合だからな
調略がうまくいったのもその毛利内で外様中の外様といえる
しかも秀吉は一夜城だの水攻めだのおお返しだの大げさな逸話が天下人になったことで過剰に伝わっただけの事だろう
あんなのは中身のないパフォーマンスみたいなもん。
おお返しなんて結局予めの準備あってやっとなせるわざだし
水攻めも時間や費用やらがやたらかかる上に紀伊太田や忍城、竹ヶ鼻城を正攻法で瞬殺できないのは終わってる
城の普請に関しても敵の眼前にすばやく拠点築くなんて特に珍しくもない
どこの大名でもやってる
貢献したといっても織田家中で考えるとごく一部分
織田が当主の能力や運、状況に恵まれたから拡張した要素の方が遥かに大きい
18人間七七四年:2012/03/01(木) 19:17:49.31 ID:I5VI8ybj
秀吉ははっきり言って過大どうこうのレベルじゃないな

下手したら凡将。よくて普通の良将。奥州で言えば石川昭光、二階堂盛義レベル
19人間七七四年:2012/03/01(木) 19:19:50.63 ID:I5VI8ybj
徳川家臣団でいえばせいぜい柴田康忠、保科正直レベルだろw
大久保兄弟や家康の支援受けつつも佐久を自力統一した松平康国には完敗だろ
葦名執政金上の方が有能かもしれんな
織田が当主の有能さや運、状況に恵まれたから家臣に過大なスポット当たってるだけ
実際有能な子飼登用なんて珍しくもなんともない。領地がどんどんふえればそいつらにやる知行も雪だるま式に増える。
大体有能な人材なんてどこにでも転がってるだろ。ある地域一辺倒に固まってるなんて妄想でしかないから。
はっきりいって運と口先だけの男。そういうなあなあ政権だから当人死んだらすぐ崩れた。


20人間七七四年:2012/03/01(木) 19:22:51.09 ID:If3l8HIy
なんせできもしない朝鮮出兵などする馬鹿だからな
国内での平定戦も戦うたびに醜態さらしまくってるし。
ゴミだと思う。
21人間七七四年:2012/03/01(木) 19:39:49.73 ID:pTuUlM2N
※秀吉失態集※

・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%か50%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる
22人間七七四年:2012/03/01(木) 19:41:35.68 ID:Q/caQzqz
19:03〜19:22の間に物凄い連レスですね
ID変えてるのがバレバレだよチョン君w
そんな秀吉にぼろ負けしたカス共が情けないなwww
23人間七七四年:2012/03/01(木) 19:42:37.17 ID:Pu0wNn8h
秀吉が凄いとか言ってる奴は歴史理解する知能もてんただの馬鹿
24人間七七四年:2012/03/01(木) 19:44:18.75 ID:Q/caQzqz
はい>>20で自分はチョンだと発表
そんな考えしかできないから日本に首都を落とされ明に泣きつく事しかできないんだよw
25人間七七四年:2012/03/01(木) 19:45:19.12 ID:Q/caQzqz
>>23
そんな知能のかけらも感じられないレスじゃ説得力ないぞ
国語を勉強しなさいチョン君
26人間七七四年:2012/03/01(木) 19:45:31.43 ID:yFvbV94g
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚


27人間七七四年:2012/03/01(木) 19:47:41.05 ID:Q/caQzqz
>>26
その兵力差を揃えるのが戦w
チョン特有の負け惜しみか
持ちこたえた?へーへーそれで勝てたの?
勝ってから言おうねチョン君^^負け犬の遠吠えは惨めだよ^^
28人間七七四年:2012/03/01(木) 19:48:38.72 ID:VZ6OKA+k
そういう優位な状況は秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。

長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、真田
石川の場合は秀吉の威信が強大になっていたのが大きく小笠原は石川が小笠原の人質もって逃げたから寝返った。
水野は元々外様だし石川と同じく秀吉の威信が高まりすぎたのが原因だろうな。
どれも秀吉が自力で作ったというより運よく強大な勢力を持てたのと元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ
29人間七七四年:2012/03/01(木) 19:49:35.15 ID:VZ6OKA+k
よく秀吉は城攻めの達人とか人たらしの名人とか言われるがこれも間違い。
>>28にみられるようにどこの大名でも漁夫の利を狙うような芸当はやってるし
城攻めに関しても鮮やかと言われるのは対中国戦くらいだろう。しかも水攻めといい兵糧攻めといい
時間や金ばかり無駄に浪費した下策でこんなもんは織田家が経済的に圧倒的なものをもってるから
なせる芸当。少数しか兵のいない忍城や竹ヶ鼻城、紀州の城を正攻法で瞬殺できないのは終わってる
30人間七七四年:2012/03/01(木) 19:51:17.05 ID:Q/caQzqz
>>28
で、その兵力獲得するまで周りは何してたの?バカが兵力整えるの指くわえて見てたの?人質も外交も秀吉がやった事なのに運なの?
チョン君は頭が悪すぎて理解できないんだね
可哀想に 惨めすぎて憐れさすら覚える
31人間七七四年:2012/03/01(木) 19:52:13.47 ID:GmDIm+8h
葦名、佐竹>田村>伊達>相馬、白川、最上>石川、二階堂>猪苗代>大崎、葛西>>>>>>>>秀吉
32人間七七四年:2012/03/01(木) 19:55:19.13 ID:BQ6jeyq8
秀吉が天下(形だけ)取れたのは光秀や信長が馬鹿だったおかげ。
信長が愚行を繰り返し謀反だらけで寡兵の光秀に瞬殺され、光秀もまんまと反逆者の汚名被ったから味方多く集まっただけ
33人間七七四年:2012/03/01(木) 19:55:48.80 ID:Q/caQzqz
>>29
んで城に籠ってた奴は秀吉に勝てたの?
毛利なんかボロボロだったけど?w
結果的に勝ってるのにピーピー文句叫ぶのは負け犬だけだよ^^
>>31
秀吉より上のそいつらは何してたの?ゴミ同士で争ってたよねw
そんなに凄いならどっかで一大勢力築いてるからw
秀吉にゴマする書状しかないよwww
34人間七七四年:2012/03/01(木) 19:56:40.72 ID:Q/caQzqz
>>32
その馬鹿に滅ぼされた武田朝倉浅井達は?w
馬鹿以下のクズの集まりだったのかw
35人間七七四年:2012/03/01(木) 19:57:05.19 ID:BQ6jeyq8
83年に滝川が降ってない時期にもう城を明け渡したと嘘ついたり
84年に伊勢南半分すら完全には平定してないのに伊賀伊勢全て平定したと言ったり
紀州の敵勢が攻めて撃退しただけなのにもう既に国内に攻め込んで多数討ち取って平定目前だと言ったり
尾張の小幡城にノータッチなのに2の丸まで攻め落としたと言ったり奴のいう戦果は滅茶苦茶
秀吉が外様大名系にいう戦果ははじめから嘘っぱちと疑ってかかった方がいい。
36人間七七四年:2012/03/01(木) 19:57:45.91 ID:BQ6jeyq8
毛利は79年以降南条や宇喜多に足止め喰らわされてたしそもそも家中統制力が弱い原始的国人連合だからな
調略がうまくいったのもその毛利内で外様中の外様といえる
しかも秀吉は一夜城だの水攻めだのおお返しだの大げさな逸話が天下人になったことで過剰に伝わっただけの事だろう
あんなのは中身のないパフォーマンスみたいなもん。
おお返しなんて結局予めの準備あってやっとなせるわざだし
水攻めも時間や費用やらがやたらかかる上に紀伊太田や忍城、竹ヶ鼻城を正攻法で瞬殺できないのは終わってる
城の普請に関しても敵の眼前にすばやく拠点築くなんて特に珍しくもない
どこの大名でもやってる
貢献したといっても織田家中で考えるとごく一部分
織田が当主の能力や運、状況に恵まれたから拡張した要素の方が遥かに大きい


37人間七七四年:2012/03/01(木) 19:58:08.84 ID:BQ6jeyq8
秀吉が天下(形だけ)取れたのは光秀や信長が馬鹿だったおかげ。
信長が愚行を繰り返し謀反だらけで寡兵の光秀に瞬殺され、光秀もまんまと反逆者の汚名被ったから味方多く集まっただけ
38人間七七四年:2012/03/01(木) 19:58:47.09 ID:BQ6jeyq8
徳川家臣団でいえばせいぜい柴田康忠、保科正直レベルだろw
大久保兄弟や家康の支援受けつつも佐久を自力統一した松平康国には完敗だろ
葦名執政金上の方が有能かもしれんな
織田が当主の有能さや運、状況に恵まれたから家臣に過大なスポット当たってるだけ
実際有能な子飼登用なんて珍しくもなんともない。領地がどんどんふえればそいつらにやる知行も雪だるま式に増える。
大体有能な人材なんてどこにでも転がってるだろ。ある地域一辺倒に固まってるなんて妄想でしかないから。
はっきりいって運と口先だけの男。そういうなあなあ政権だから当人死んだらすぐ崩れた。

39人間七七四年:2012/03/01(木) 19:59:33.10 ID:JmQgDGy8
その馬鹿が天下取るのを指くわえて見てたクズしかいないんだな
さすがだなチョンは そんなんだから勝手に崩壊したんだろうけど
40人間七七四年:2012/03/01(木) 20:00:02.43 ID:BQ6jeyq8
秀吉は織田信雄より戦下手。
信雄家臣の木造親子や吉村氏吉に大敗したし。
41人間七七四年:2012/03/01(木) 20:00:43.19 ID:BQ6jeyq8
秀吉が天下(形だけ)取れたのは光秀や信長が馬鹿だったおかげ。
信長が愚行を繰り返し謀反だらけで寡兵の光秀に瞬殺され、光秀もまんまと反逆者の汚名被ったから味方多く集まっただけ
42人間七七四年:2012/03/01(木) 20:01:01.32 ID:BQ6jeyq8
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。
まあ織田家にいなかったら埋もれてたのは確実だな

毛利は79年以降南条や宇喜多に足止め喰らわされてたしそもそも家中統制力が弱い原始的国人連合だからな
調略がうまくいったのもその毛利内で外様中の外様といえる
しかも秀吉は一夜城だの水攻めだのおお返しだの大げさな逸話が天下人になったことで過剰に伝わっただけの事だろう
あんなのは中身のないパフォーマンスみたいなもん。
おお返しなんて結局予めの準備あってやっとなせるわざだし
水攻めも時間や費用やらがやたらかかる上に紀伊太田や忍城、竹ヶ鼻城を正攻法で瞬殺できないのは終わってる
城の普請に関しても敵の眼前にすばやく拠点築くなんて特に珍しくもない
どこの大名でもやってる
貢献したといっても織田家中で考えるとごく一部分
織田が当主の能力や運、状況に恵まれたから拡張した要素の方が遥かに大きい
43人間七七四年:2012/03/01(木) 20:01:26.79 ID:BQ6jeyq8
葦名、佐竹>田村>伊達>相馬、白川、最上>石川、二階堂>猪苗代>大崎、葛西>>>>>>>>秀吉

44人間七七四年:2012/03/01(木) 20:01:29.25 ID:JmQgDGy8
戦下手に従属したアホしかいないのか
チョンの頭では最終的に勝った事がないからわからないのも無理はないけど
45人間七七四年:2012/03/01(木) 20:02:35.95 ID:BQ6jeyq8
最終的に勝ったどうこう言うなら家康最強

信長は光秀に殺された雑魚

最強家康に死の恐怖植えつけた信玄最強
46人間七七四年:2012/03/01(木) 20:04:16.20 ID:JmQgDGy8
その信玄は自分の体調も管理できずくたばりましたが
だいたい三万もいたのに家康を滅ぼせませんでしたが武田は
47人間七七四年:2012/03/01(木) 20:05:52.92 ID:0x3VtrVt
信玄は実質的に信長も家康も滅ぼしていた。よって天下人も同然

信長なんて浅井朝倉などに追い詰められて滅亡寸前だったしな
信玄の死を朝廷権力に救われただけ
48人間七七四年:2012/03/01(木) 20:06:51.04 ID:0x3VtrVt
姉川の戦いののちも浅井・朝倉はむちゃくちゃ勢いがあって
9/20森可成や織田信治や青地茂綱らを討ったあと、
宇佐山城の守りが固く、そちらからの入京に時間を浪費すると喝破した浅井朝倉は即日、転進して大津を放火し
9/21山科醍醐方面から進軍する迅速な判断力は褒められる。
(24日には信長が下坂本に着陣してる)
そして24日には京の前面である浅井は比叡山青山、朝倉は青山南の壷笠山に陣を敷いた。
その上で京を戦乱に巻き込まないように京を大回りして
(先鋒は入京していたが賀茂別雷神社・離宮八幡宮・知恩院・東寺らに禁制を給して迂回)
長政隊は丹波から嵯峨へ進軍して織田軍後方をかき乱す遊撃を開始してる。
10/20山崎の本願寺が御牧城を攻め取り、
それに呼応した比叡山の浅井・朝倉軍が出撃し、
織田方に組する左京区にあたる織田軍と(義昭奉公衆との説あり)
交戦しつつ修学寺・一乗寺・試楽寺・高野・松ヶ崎などをピンポイント放火してるし、
(義景は元亀2年7/4に六角軍が入京するにあたり、
義賢に洛中を放火しないように書状を送っている)
22日には大坂本願寺が畠山昭高の高屋城を攻め、
若狭武田も織田から離反して武藤や粟谷と挙兵してる。
信長は完全に無策で、家康に援軍派遣の哀願をするしかなかった。
家康は信長に江南を我が物顔で暴れている一揆と六角勢が、
瀬田と草津の間を封鎖するのを防いで退路を維持する役目を負わされた。
信長はというと11/21朝倉軍は坂井政尚と安藤守就の子を討死させ、
同日には伊勢長島でも織田信興が討死と全戦線が崩壊。
11/28朝廷から関白二条晴良が信長の和睦懇願を受けて坂本へきた。
織田の敗北は間違いないんだよな。
水藤真氏が「綸旨・御内書・御下知・信長誓詞と
およそ紙に書くことのできる全てが書かれ、比叡山に与えられた」
と書いているわけだ。
信長はありとあらゆる手段で和睦してもらおうとしてるわけ。
そして朝倉も比叡山に「当表の一和之儀、勅命上意」と書いていて
今谷明氏が朝倉らは「勅命を拒むことができなかった」と書いていて
宮島敬一氏もそれに同意している。
よって大久保の書いてる内容は事実に近いわけだ。
さらに志賀の陣の和睦交渉で、朝倉は信長には他意は無いが、
浅井を見捨てるに忍びずと言ってる。
朝倉には織田への戦意がそもそもない。だから朝倉に奪回意思はそもそも無い。
朝倉にその気が無いのに、
浅井単独で横山や佐和山の奪回は無理。
別に朝倉領でも無いし。
49人間七七四年:2012/03/01(木) 20:07:10.31 ID:JmQgDGy8
え?wこりゃ珍説だwww
滅ぼしかけてたのに信玄一人死んだら一年もたたずそいつら返り討ちにされたがw
50人間七七四年:2012/03/01(木) 20:07:49.45 ID:0x3VtrVt
10/20山崎本願寺が御牧城を奪って、それに呼応した朝倉・浅井が比叡山から出撃し
織田方に組した一乗寺・試楽寺・高野・松ヶ崎ら左京区に突撃して攻撃してる。
また大坂本願寺も10/22日に高屋城攻め開始。
織田弱しと見て若狭武田氏も武藤・粟谷と共に織田に対して挙兵。
信長はもはや比叡山戦線で手いっぱいになり完全に江南に手が回らなくなり、
家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから
瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請。それで石川家成ら2000を家康が派遣。
11/21伊勢長島で信興が討死。11/26堅田で坂井らが朝倉軍により全滅させられる。
これで完璧に織田軍が追い詰められてしまい、
11/28信長が浅井に土下座5ヶ条の朱印状を出して朝廷から和睦だからと
必死に講和を願うブザマさにまで失墜する。
これは三河物語が書いてる「天下は朝倉殿が取りたまえ。我は2度と望まず」が
正しいことを証明している。 一次資料的な裏づけが揃っているからね。
三河物語では延暦寺が朝倉に兵糧を補給しているので、信長のアテが外れたと書いている。
耶蘇会士日本通信でも「敵(浅井・朝倉)は上坂本および比叡の山の諸山に籠もり、
坊主等は食物および家を供して大いにこれを助け」と書いていて食料不足など書いてない
関白二条晴良が勅命が合意できなければ高野山に隠居するとまで言ってた
山門の難渋にしびれを切らした関白二条晴良は(尋憲僧正の日記)
「もし今回の和議が出来なければ、身共は高野山に上り、隠遁いたす。」
と強硬に言い張って、ついに山門も折れた。
延暦寺に対して綸旨・御内書・御下知・信長の誓詞・山門領すべて安堵(一揆国人達をすべて許す)
およそ紙に書くことができる全てが延暦寺に与えても
なかなか延暦寺は承諾しなかったと水藤真氏も
織田側が和睦に無茶苦茶必死だったことを書いてる。
長政にも勅宣や朝家は神国の要だからと強調した
5カ条の朱印状を信長は提出してるし
12/13に六角にも知行渡すし、浅井に2/3を与えてもよいと信長は言ってる。
織田がボロ負けしたとする大久保の記述が正しいと思われるのは
それ以後もずっと朝倉が優勢な点からもわかる。

51人間七七四年:2012/03/01(木) 20:08:22.12 ID:0x3VtrVt
☆慈敬寺文書の顕如書状2/14付けで慈敬寺が伊藤城を攻略し其の表の面々は此方一味であり
堅田まで属理運、還住由になったとして黄金三十両を進呈している。
2/15松永久秀や岩倉の山本対馬、山中の磯貝、和邇の金蔵坊、勢多の山岡、田中の渡邊らが
10日付で義昭に帰参しさらに静原に山本城を築いて織田に反抗する。
近衛家文書の2/16浅井長政→伊勢七郎左衛門宛てでは信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆(義昭軍)合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
小林吉長も2/17付けで堅田村の郷士達への書状で慈敬寺との入魂専要之旨と述べている。
2/19の義昭書状では★山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯貝新右衛門らまで
悉く取除、明智光秀は儀無正躰候、近邊大略属本意候と書いていて
(2/13における木戸表(大津市)御働として光秀が革島忠宜へ感状を出してる)
浅井長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べている。
琵琶湖最大の商業地の堅田村の郷士達が本願寺や浅井の味方になってしまい
坂本を居城とする明智軍は大津で苦戦し立ち往生しているのがわかる。

2/23筒井城の順慶が春日社参詣に3000人を引き連れてきたため
松永久通が警戒し小規模な衝突もあったようだ。
大神楽や神馬を奉納して成身院に宿泊後にすぐ筒井へ帰る。
2/23信長→細川宛で信長自身が信玄が去る17日に野田表から撤退したので、志賀の一揆蜂起について
蜂屋・柴田・丹羽を出征させ湖を渡らせる。成敗に手間がかかれば世間聞合なので
自分も近日中に佐和山へ出て上洛し畿内を平均すると述べている。
すでに湖経由でないと明智への援軍も上洛できないほど街道封鎖は深刻になっており
大津や草津の関も機能してないはずで近江戦線は崩壊してるのがわかる。
捏造軍記信長公記は柴田と明智らが石山と堅田砦を破り西近江を平定すると書くが、
によると☆のような情勢であるのがわかる。
2/24に革島宛てに光秀が明日から今堅田を攻めると書き(柴田軍が大津に到着したのか?)
2/26義昭に同調し三井寺の光浄院暹慶(山岡景友)ら西近江で挙兵。
2/27には顕如→信玄宛てで江州西路事、此方當門家中慈敬寺以調略属本意候と書いている。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。

3月朔日で柴田が革島宛てに今堅田成敗申し付けと報告してるので攻撃開始したのだろう。
やはり明智軍(光秀は配下の18将を供養してる)は
★のように戦力としては崩壊しているようで、主力は柴田が担っているようだ。
信長は伊丹氏により摂津において中島城の細川が堺へ敗走(信長はさてもさても惜しいことだと悔しがってる)
に続き3/7にはさらに賀嶋城まで落ちて絶言語と動揺している。
3/13には下間頼充が馬場宛で今堅田に篭もっていた馬場親子が敵が取詰にきた時に一戦し粉骨したのを
慈敬寺から報告を受けたと戦功を感謝しているし
3/18に義景が木戸城主佐野十乗坊秀方へ早船で急ぎ加勢した近江高島郡の多胡宗右衛門を褒めていて
3/21には義景→馬場宛でも敵が相働くも十乗坊に立て篭もり粉骨したのを賞して、
佐左馬要害と同等の価値あると言っている。
(佐々木左馬頭とは義昭側の仁木義政で明智軍記では義政は山岡らと石山・堅田に籠城したと書いてある)
4/2には長政も馬場に木戸籠城を褒め称えていて、相次いで織田を粉砕した大勝利を褒めている。
この状況から見るに柴田ら織田軍は、義昭らに敗北を重ねて
信長が兵を集めて援軍に来るのを待っている現実が見える。
大商業地堅田村を一向宗側が取り込んでいるため、
今堅田・石山・佐左馬要害・木戸城十乗坊攻めで織田軍が大敗している。
また明智軍が崩壊していた現状から手間取ると外聞が悪いと気にするほど劣勢の信長は
信玄が帰ったし信長自身が出馬すると言いながら兵力が全然集まらずまったく出馬できないありさま。
松原信之氏が著書で義景本人の天正4年の出撃を
3/11で敦賀までやってきていて、5/10に一乗谷へ帰国したと書いてるから
朝倉先陣は3月中に小谷まできて普請を始めてるはず。



52人間七七四年:2012/03/01(木) 20:09:27.00 ID:0x3VtrVt
今堅田・石山・佐左馬要害・木戸城十乗坊攻めで柴田が落とせずに苦戦してるじゃんw
坂本の明智軍はすでに崩壊してるし。
すでに琵琶湖西岸はことごとく義昭側。
大津で柴田が立ち往生して入京すら出来ず。
2/23に信玄撤退したから上洛する発言してた信長だが、戦況悪化と兵力が集まらず
まったく動けず義昭に土下座交渉を継続する始末。
義昭が信長の人質を突っ返し断交するに及んで、
やっと3月末に信長は上洛するも味方は細川と荒木だけでみんな離反。
自暴自棄の信長は京を地獄にして略奪殺戮しつつ、
天皇に和睦斡旋哀願。
和睦したら即日、背後の六角と一揆衆を攻撃しに帰るほど切迫した情勢。
しかも六角を攻め落とせない。
そのうち信玄死亡情勢が流れる。
すると情勢は織田優位に一変。
天皇の威光と信玄死亡に助けられただけなのが信長
53人間七七四年:2012/03/01(木) 20:10:03.17 ID:JmQgDGy8
そして結果は浅井も朝倉も仲良く首だけになりました
一方武田は徳川すら滅ぼせず死んだ
54人間七七四年:2012/03/01(木) 20:11:31.07 ID:JmQgDGy8
朝廷を擁立してる信長に喧嘩を売ったのに朝廷を使われる事を予測できなかったアホ=浅井朝倉
でおk?
55人間七七四年:2012/03/01(木) 20:11:56.57 ID:0x3VtrVt
元亀3年10/5の朝倉景亮書状

先日以◯◯◯◯ 入候之処、御懇之御報、
殊御一書披見本望候、其已後重而可申入之処ニ、
延引非本意ニ候、仍其表如何ニ御座候哉、承度候、乍御六借敷、南方辺之儀、示預候者、
畏可存候、委細林権介可申候之条、不能詳候、恐々謹言

蒲生下野入道殿御陣所

近江で信長が支配していたのは主なところで
佐和山・横山・観音寺(一時奪回されたりしてるが)・大津・坂本など
琵琶湖南岸に沿った街道沿いだけであり、その南は六角支配下である。
また天野川以北は湖北十ヶ寺一揆支配圏を構成しており
姉川南部ですら、いまだに安定統治が為されていないのが織田。
大津を維持していた山岡景隆の弟の山岡景友が義昭から山城半国守護になり
近江で有力な山岡家まで分裂してる始末。
秀吉が旧浅井領の一職支配を任されたわけだが
実際は浅井が支配していた全域を任されたわけじゃなくて
浅井が滅亡した時点で浅井が実効支配していた地のみの支配だった。
そのため先の天正元年8月に降伏した山本山城の阿閉氏
(伊香郡の一部・浅井郡菅浦&大浦下庄)
については秀吉には与えられず、阿閉氏は信長直参扱いになっている。
よって秀吉が与えられたのは坂田郡(天野川以北)から
浅井郡を挟んで伊香郡(木之本町)以南の地域でのみ秀吉発給文書がある。
この部分はそのまま湖北十ヶ寺一揆支配圏内であり、要するに秀吉がいた横山城や虎御前城は敵中に孤立した
大海に囲まれた小島のようなものでしかなかった。
「織田軍が攻略済みの佐和山や横山も街道沿いなように」と書いてるわけだが読めないのか?
さて朝倉は西近江幕府奉公衆高島七頭と抵抗し背後の敦賀へ織田軍が進撃できないようにしてる。
浅井は湖北十ヶ寺一揆から軍事&兵糧支援をしてもらい篭城。
六角は三雲氏など南近江国人達(蒲生を除く)や一揆衆に支えられ、
天正元年4/11鯰江城の六角と挙兵した百済寺を攻撃のため義昭と和睦するや即進撃。
9月鯰江城が落城するも石部城へ後退。
天正2年4/13六角義賢が石部城で抵抗後に三雲氏の本拠地の信楽に向けて退城し、
この時に敵を追い払った山中山城に感状を12/24に出してる。
(この間に勝頼が美濃明智城と遠江高天神城を攻略し、信長は越前での一揆を危惧)
信長が近江で維持してるのは面では無く点でしかない。
多胡宗右衛門ら高島七頭らに邪魔されて琵琶西岸を北上して朝倉の退路を断つ動きすら一切取れなかった。
だからちょっと信長が京に入ったり岐阜へ帰るとすぐ彼らや六角や一向宗がゲリラ化して京への通路に砦を築いて背後を脅かす。
山城北部は義昭配下の山本・磯貝・渡辺ら 南は淀城に石成友通 南山城は真木島 木津川辺は松永
元亀3年12月には三好康長・篠原自遁・大和守らが大山崎で禁制出す。
山城東部は義昭に山城半国守護に補任された山岡道阿弥が一揆と連合してるし、
山城西部の西岡一揆の主力は36国人で構成する西岡被官衆だし、
どう考えても荒木や細川が領地を維持していたとは思えない。
12/12に信玄は当年過半任存分候と言っていて
美濃の過半は武田方になったといってるし。
だからこそ来春の岐阜攻撃だからね。
信玄が言ったように、まさに信長滅亡の時がきたんだよ。

近衛家文書の2/16長政→伊勢七郎左衛門宛てでも信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。
長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べ
山岡家の領地は栗太郡と志賀領であるが、すでに志賀郡が失われているのか、
山岡家が反織田側に内通していたのがわかる。
山岡景友が志賀郡を手中にしていたのか、それとも景隆や景佐も両天秤をかけていたのか。
56人間七七四年:2012/03/01(木) 20:12:38.98 ID:0x3VtrVt
最終的に勝ったどうこう言うなら家康最強

信長は光秀に殺された雑魚

最強家康に死の恐怖植えつけた信玄最強

信玄は実質的に信長も家康も滅ぼしていた。よって天下人も同然

信長なんて浅井朝倉などに追い詰められて滅亡寸前だったしな
信玄の死を朝廷権力に救われただけ
57人間七七四年:2012/03/01(木) 20:13:30.11 ID:0x3VtrVt

9/20信長が摂津から志賀に到着。
10/4以降、12月まで信長が山城や摂津で徳政令を濫発して人心を得ようと必死w
10/20には比叡山や朝倉や浅井が下山して一条寺、高野、松崎を放火(言継日記)
11/12朝倉らは4万で信長方は8000とのこと(尋憲記)
朝倉らは修学寺や10/21には大津も焼いていて美濃への通路無候と書く(尋憲記)
三河物語は朝倉3万・織田1万以内で岐阜への道も塞がれたと記す。
信長が決戦しようと申し出たのを朝倉がシカトしたのは篠原長房ら三好勢&一揆勢を待っていたから。
10/22三好三人衆山城国御牧城を落城させ、河内国高屋城・烏帽子形城を攻める。
大胡武蔵守との面談によると義昭奉公衆も宇治へ出陣して帰るも、御牧城落城により
奉公衆と尾張衆を率いた秀吉が山城国へ出撃(言継日記)
10/21和田書状によると信長にも通報し、京都御人数残らず仰せ付ける。
南方衆必定京都へ可罷上候として一大事だとする。
10/22若狭武田氏が信長に対し挙兵(言継日記)
三好三人衆の入京を阻止すべく織田必死乙w
10/22義昭側近上野信恵→草刈景継
因幡美作の国人の草刈家文書(父の代から毛利に従っていた草刈景継だったが
新たに帰属した武田高信を厚遇したことに反発し織田へ内応するものちバレて毛利に殺される)
によると信長の朝倉討伐の時に離反した浅井は
京へ攻め入ったと書いてあり、信長の背後を襲ったわけじゃないとわかる。
備前浦上宗景と三好三人衆が播磨三木城を攻めるので草刈景継に浦上攻めを要請する。
青蓮院→下間丹後頼総宛10月末に細川藤孝が青蓮院門跡尊朝法親王に
本願寺との和睦斡旋を哀願してる事実・・・11/13に顕如が和睦受諾。
11/1将軍参賀の集まりが悪く義昭不興(言継日記)
11/5比叡山・朝倉らの京進入の風説に警戒する。
11/6浅井久政が佐和山籠城中の島秀宣に比叡山戦線は何事もなく平穏で
本意案の内と書いている(計画通りだ)
11/21信長が兵糧米を要求通り納付しない場合は徳政免除を停止し
御成敗すると豹変し方針変更して恫喝し始める(光源院文書)
(朝倉家記にも兵糧乏しいので将軍も信長も攻めあぐんでいたと記している)
織田信興が下間頼旦・下間頼盛らが率いる伊勢長島門徒に攻撃され殺される。
11/21柏原合戦などたびたび合戦あり朝倉軍勝利を続ける(夾迎寺文書と正月22日山崎吉家→直江景綱書状)
11/26志賀郡堅田大手口合戦によって織田大敗し坂井政尚や氏家朴全の弟や
郡上両遠藤氏の親織田方の遠藤胤俊らが討死。
(濃北一覧によると郡上勢は500討死し路地は敵だらけなので大徳寺に僧形し隠れ続け
郡上から迎えがきたので帰郷するも胤俊に子息無し)
美濃の飯沼氏が一族39騎が立正寺境内で討死するなど織田方のかなりの決定的大敗だったのが窺える。
顕如の12/3の朝倉義景宛書状でも「毎度勝利を得て珍重」
景健宛「毎度勝利を得て珍重」
義鏡宛「毎度勝利を得て比類無き」と書いてある。
志賀・高島・三浦の門徒も織田を敗走させたことを慈敬寺より丹後法印が聞いたと書く書状あり。
堅田搦手口合戦でも朝倉軍大勝(片岡文書)
堅田構口合戦でも織田軍敗走(松田文書)
この大敗により中山家記によると11/28義昭が三井寺へ移御座、一和之儀を懇望してきたことが
正月22日山崎吉家→直江景綱へ返信した書状にある。
12/7京で大火発生し知恩院里坊や勧修寺や大聖寺などが消失し乱暴狼藉発生し極度に混乱する。
12/9綸旨によって比叡山の山門領の保証が約束される。
伏見宮の記録によると
12/12信長から義昭にも和睦を受け入れてもらうため比叡山にいろいろと書状を出したことを報告。
12/14朝倉・比叡山と信長が和睦。(尋憲記には御下知・信長誓紙・御内書・綸旨などいろいろ出しても
比叡山がなかなか承諾せず難航したとか書かれている)
12/14信玄に宛てて顕如が妻の三条氏が亡くなられたお悔やみの書状を下間丹後頼総に持たせ派遣。
12/15義景から比叡山に勅命上意・六角定頼時代の山門領地を保証する信長の誓書も貰ったと書いてある。
12/16両軍帰国。
58人間七七四年:2012/03/01(木) 20:14:53.86 ID:JmQgDGy8
んでそいつらは信長に滅ぼされたと
最終的に勝ったうんぬんなら武田をほろぼした信長最強か
59人間七七四年:2012/03/01(木) 20:16:37.89 ID:0x3VtrVt
最終的に勝ったどうこう言うなら家康最強

信長は光秀に殺された雑魚

最強家康に死の恐怖植えつけた信玄最強

信玄は実質的に信長も家康も滅ぼしていた。よって天下人も同然

信長なんて浅井朝倉などに追い詰められて滅亡寸前だったしな
信玄の死を朝廷権力に救われただけ

60人間七七四年:2012/03/01(木) 20:17:45.35 ID:0x3VtrVt
政宗はガチで戦上手

北 大崎 葛西 最上 
東 相馬 
南・西 葦名 大内 畠山 佐竹 二階堂 白河結城 石川 猪苗代
 
これだけガチで敵対して拡張した。


政宗の葦名侵攻と信長の美濃攻略、これで比べると
圧倒的に政宗のが上。

信長は幼君でガタガタの斉藤に敗戦し続けてラッキーパンチで寝返りが出て勝っただけ。

政宗は佐竹や白河、二階堂、石川、相馬、最上、大崎、葛西など全てで150万石にもなるであろう
大連合を自力で突破した。

比較にすらなるまい。
自国の国力と拡張度やそのスピードから考えれば明らかに政宗>>>>信長

61人間七七四年:2012/03/01(木) 20:18:33.01 ID:0x3VtrVt
領土拡張率ランキング

         家督相続年  相続時勢力圏  最大勢力圏  勢力拡大率
1宇喜多直家    1555年     0万石    30万石      ∞
小笠原貞慶    1582年     0万石    13万石    ∞
徳川秀忠     1602年     0万石   日本全土    ∞
4徳川家康     1560年     2万石    1790万石     895倍
5結城晴朝    1558年     1万石   23万石    23倍  
6佐竹義重    1570年     8万石  150万石  17倍
7上杉景勝    1578年     8万石  120万石    15倍
8菅沼定利    1562年     1万石   13万石     13倍
9武田信玄   1541年    14万石    130万石      9倍
10上杉謙信    1548年     23万石   178万石       8倍
11北条氏康    1541年     45万石    180万石      4倍

最下位 織田信長       30万石    0        0倍
62人間七七四年:2012/03/01(木) 20:18:47.89 ID:JmQgDGy8
んでその朝廷権力を信長が手にいれるのを指をくわえて見てたのが他の雑魚
信玄は徳川すら滅ぼせず死亡、これが事実
そして武田は信長に滅ぼされた、これも事実
よって信長>>>>>>>>>>信玄
はい論破 敗北を知りたい
63人間七七四年:2012/03/01(木) 20:19:30.22 ID:0x3VtrVt
信長公記は捏造軍記

・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森の長沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述

多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
・高遠城攻防戦での織田信家戦死を隠蔽
・堂々とか公記の記述の撤退の時に砦取り返されて本当は2回あったのに書いてない
・大した戦果のない姉川が大勝になってる。
・長篠の戦果が十倍以上過大になってる。
・道三との会見では、織田家臣である太田が、信長が織田家臣を連れて帰った後の道三の
「いずれ息子たちは信長の家臣となるだろう」という呟きをなぜか知って書いてる
・河野島の流れとか書いてない
・大良河原では追撃軍に信長が仁王立ちになって鉄砲撃ったら敵が追撃やめた
・稲生では信長が大声あげたら敵が敗走したり、信長が京に上った時に刺客のいる宿に乗り込んで
「殺せるものなら殺してみろ!」と啖呵切って刺客が恐れ入ったりかなり信長万歳な記事が多い

64人間七七四年:2012/03/01(木) 20:20:54.69 ID:JmQgDGy8
また信長秀吉最強が確定してしまったか
信玄なんかがゴミなのは地元で言われてるからな
甲府郷土館に書いてあったよ
65人間七七四年:2012/03/01(木) 20:22:42.42 ID:WOanc2J1
最終的に勝ったどうこう言うなら家康最強

信長は光秀に殺された雑魚

最強家康に死の恐怖植えつけた信玄最強

信玄は実質的に信長も家康も滅ぼしていた。よって天下人も同然

信長なんて浅井朝倉などに追い詰められて滅亡寸前だったしな
信玄の死を朝廷権力に救われただけ

66人間七七四年:2012/03/01(木) 20:23:46.24 ID:WOanc2J1
政宗はガチで戦上手

北 大崎 葛西 最上 
東 相馬 
南・西 葦名 大内 畠山 佐竹 二階堂 白河結城 石川 猪苗代
 
これだけガチで敵対して拡張した。


政宗の葦名侵攻と信長の美濃攻略、これで比べると
圧倒的に政宗のが上。

信長は幼君でガタガタの斉藤に敗戦し続けてラッキーパンチで寝返りが出て勝っただけ。

政宗は佐竹や白河、二階堂、石川、相馬、最上、大崎、葛西など全てで150万石にもなるであろう
大連合を自力で突破した。

比較にすらなるまい。
自国の国力と拡張度やそのスピードから考えれば明らかに政宗>>>>信長

67人間七七四年:2012/03/01(木) 20:23:53.91 ID:JmQgDGy8
そんな妄想を抱きながら現実は信長に殺される武田一門であった…
68人間七七四年:2012/03/01(木) 20:24:15.58 ID:WOanc2J1
領土拡張率ランキング

         家督相続年  相続時勢力圏  最大勢力圏  勢力拡大率
1宇喜多直家    1555年     0万石    30万石      ∞
小笠原貞慶    1582年     0万石    13万石    ∞
徳川秀忠     1602年     0万石   日本全土    ∞
4徳川家康     1560年     2万石    1790万石     895倍
5結城晴朝    1558年     1万石   23万石    23倍  
6佐竹義重    1570年     8万石  150万石  17倍
7上杉景勝    1578年     8万石  120万石    15倍
8菅沼定利    1562年     1万石   13万石     13倍
9武田信玄   1541年    14万石    130万石      9倍
10上杉謙信    1548年     23万石   178万石       8倍
11北条氏康    1541年     45万石    180万石      4倍

最下位 織田信長       30万石    0        0倍
69人間七七四年:2012/03/01(木) 20:25:20.15 ID:WOanc2J1
北条氏康は過小

信玄謙信の最強武将&両上杉の12万の大軍、今川佐竹里見といった列強の包囲網にあった状態で
版図を大幅に拡張させたから全能力100越えのチート能力が妥当

氏康は今川、武田、両上杉、長尾、里見、佐竹、結城、成田、上田、長野
宇都宮、梁田、那須、小山、太田、小田、皆川、大田原、酒井、千葉、由良

その他大勢の関東諸侯に打ち勝ち、関東を手中にした。包囲網が張られた状態で勝ち抜き、実力で関東に覇を唱えた。

信長は、圧倒的国力を持つ織田家を継承し、畿内や美濃は雑魚や分裂勢力しかいないにも関わらず、
浅井朝倉武田斉藤本願寺長島一揆雑賀衆北畠赤井等に敗戦し続け、家を滅ぼした。



氏康>>>>>>>信長
70人間七七四年:2012/03/01(木) 20:25:51.51 ID:JmQgDGy8
ここまで同じことしか言えない武田擁護を見て
いかに武田が無力なのかがわかるな
現実は家すらなくなっている
これが事実 武田はどうあがいても織田に勝てないw
71人間七七四年:2012/03/01(木) 20:26:03.73 ID:WOanc2J1
信長が家康の立場で独立し、家康が信長の立場で独立したら
信長は武田どころか今川氏真に瞬殺され家康は史実どおり畿内や美濃を瞬殺していたのは間違いない

何せ史実で今川氏真クラスの龍興に大敗を繰り返し今川氏真クラスの朝倉義景にも負けまくったけど
敵がアホすぎてなんとかなっただけ

一方家康は信長や秀吉が苦戦した畿内や美濃を瞬殺したしな

信長なんて家康がいたから助かっただけ
今川氏真に勝てたのも武田を抑えられたのも上洛戦も畿内平定戦も家康いなけりゃ何もできなかった。
姉川でも磯野勢らにおされまくり崩壊寸前だったけど徳川の善戦で何とか引き分けに持ち込めただけ
三方が原でも最も雑魚だったのが織田の援軍
家康がいなけりゃ1ヶ月で武田に瞬殺されてたのは間違いない

72人間七七四年:2012/03/01(木) 20:28:27.04 ID:LdrCddxb
信長が他大名の立場に生れていたら
信玄の場合信濃侵攻に30年かかり生涯を終える
元就の場合安芸一国人のまま生涯を終える
義重の場合常陸の統一すらできず葦名や田村に敗戦して敗死
政宗の場合関柴の戦いで討ち死に
氏康の場合両上杉の大軍に囲まれて戦死
義久の場合土持や相良、伊藤などに負けて敗死
宗麟の場合毛利元就に負けて敗死
元親の場合三好に負けて討ち死に

尾張だから助かっただけ
73人間七七四年:2012/03/01(木) 20:29:18.24 ID:LdrCddxb
島津は伊藤相良土持大友龍造寺豊臣遠征軍民軍など圧倒的大軍の敵を壊滅させ続けた。

織田は斉藤長島一揆北畠朝倉浅井本願寺武田赤井雑賀衆などに圧倒的大軍の味方を壊滅させられ続けた。


島津>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>織田

74人間七七四年:2012/03/01(木) 20:29:55.68 ID:LdrCddxb
他大名が信長の立場で生れていたら
家康 史実どおり畿内美濃を瞬殺
島津 史実どおり寡兵でも大軍撃破
氏康 史実どおり寡兵で大軍撃破&政略を利用して領土拡大
信玄 史実どおり負けをほとんどせず畿内や美濃の雑魚を瞬殺
元就 史実どおり謀略を駆使して分裂状態の斉藤や畿内を併合
元親 史実どおり小勢力でも他大勢力を戦に打ち勝ち併呑
75人間七七四年:2012/03/01(木) 20:32:25.98 ID:Jt1GrC+6
信長があと10年早く生れていたら全盛期の斉藤に瞬殺されていたのは間違いない

何せ史実で30回くらい敗戦して斉藤が浅井と戦い、また国人が全く統制されておらず
子供が当主で竹中10人ほどに居城奪われる雑魚だから助かっただけだし

76人間七七四年:2012/03/01(木) 20:33:36.01 ID:Jt1GrC+6
当時の斎藤は浅井と戦っていて、
六角義治が斎藤と協調しようとするのを、
土岐氏に配慮する六角義賢が、
同盟不成立にさせたりと西側が不安定だったから、
斎藤は南下なんて考えてない。
義龍は信長同様に内政や国内整備や宗教統治政策をまったくやらずに放置した道三の悪政から、
改革を押し進めていたから、
尾張を内乱状態にさせて信長を封じつつ、
宗教統制を改革中に急死。
77人間七七四年:2012/03/01(木) 20:39:08.90 ID:iNBPJknJ
信長公記にすら記されていない以上は捏造逸話以外のなにものでもない。
などと言いたいところだが、さて信長公記が隠蔽する時は必ず理由がある。
信長公記において家康がすでに同盟者となっていては都合が悪いのだ。
そこで思い出されるのは、信秀死去寸前に今川と和睦してることを隠蔽して、信長の立場が不安定だと捏造してる公記だが、
家康との共同作戦で思い出される史実で、公記が完全隠蔽してる事件がある。
それを隠蔽してる以上は家康がすでに同盟者であっては困る。
あくまで家康は永禄11年の義昭上洛戦以降の同盟者でなくては都合が悪いのだ。

さて以下がその隠蔽である。

永禄9年に信長は近江矢島の義昭を上洛させるためと称して
義昭に斉藤龍興との和睦を申請し義昭が喜んで和睦を斡旋したし
龍興も義昭を「公方様」と呼んで快諾して誓詞を細川藤孝に提出してる。
義昭は信長に藤孝を下向させ上洛の打ち合わせをし、
7月には能登七尾の畠山義綱や大和の十市遠勝にも
来月22日に信長が出陣するから上洛の供をするように命じてる。

これにより尾張・三河・美濃・伊勢四ヶ国の兵を率いて上洛軍を催すこととなった。
しかし出陣当日になると信長が突然出兵できないと言い出す。
これには龍興18歳も信長が臆したと嘲笑し、義秋も信長を糾弾し天下の物笑いとなった。
これにキレた信長が8/29に同盟軍の美濃攻めを突如開始し
木曽川の河野島へ渡川進撃。奇襲に怒った龍興も
すぐさま応戦し河野島へ渡ってきたので織田軍は敗走し川を挟んで対陣。
その翌日から風雨激しく洪水になり閏8月8日の明け方に奇襲を敢行した
龍興側に織田軍は大敗。勝利した斉藤に義昭は改めて上洛を願うが
織田の動向が心配なので上洛は難しいと言われ
翌8月3日に織田と上洛戦を企んだと知った三好長逸3000が
近江坂本へ義昭討伐にやってくる。
8/29は暗夜だったのを幸いに側近4、5人で琵琶湖を渡り
若狭武田の下へ義昭は逃走した。
78人間七七四年:2012/03/01(木) 20:39:58.21 ID:25BDkv5w
家康 信友に殺される
島津 信友に殺される
氏康 信友に殺される
信玄 信友に殺される
元就 信友に殺される
元親 信友に殺される
79人間七七四年:2012/03/01(木) 20:40:00.28 ID:iNBPJknJ
公記が六角義賢の弟の六角義弼や
六角義秀やその子の義堯の存在を隠蔽してしまった為に、
江戸時代中期に、
六角本家を主張し合う子達が争った際に、
一方的に不利になり存在を疑われた人物なんだよな。
義弼なんて義治と同一人物にされてるし。


濃尾平野と伊勢湾経済圏を持つ信長がチート過ぎなのに
義龍にボロ負け。龍興にまでボロ負け
結局、義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が
斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけだし
さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし
本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど
(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてのこと。
さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になるし。
しかも甲賀衆は義昭上洛戦に先立ち6/23には摂津表まで進出して三好三人衆と合戦までしてるし。
しかし9/7上洛戦開始するやいきなり信長は六角義治に大敗して岐阜に戻ってるから
援軍にきた三好三人衆側勢は京へ撤退してるし。
(上洛開始前から松永は三好勢兵力をずっと引き付けて戦っていた)
9/14には再度、天皇から織田へ綸旨が届いて義昭上洛の激励をされ京の御警護まで任されてる。
結局、江州様勢力が義治傘下から後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里らを裏切らせて信長に内応させて箕作城を開城させて観音寺城の背後を遮させた為に
義治は敗走して上洛成功しただけ。
信長の戦下手は神レベルだよな。

80人間七七四年:2012/03/01(木) 20:42:51.35 ID:kak70K9f
信玄は国も貧困、山間で移動も大変、周辺は強国ばかり。領土面積当たりの石高が低い甲斐や信濃で 山之内上杉の大軍を破ったり村上、小笠原らとガチで
ぶつかり合い長尾も介入してくる 状況で信濃を取った点や北条との抗争で駿河を取った事、距離的にさほど
攻め込みやすいと言えない徳川領を押しまくり追い詰め、東美濃も侵略した事
など見るにやはり軍略はピカイチだろう。負けがかなり少ないのも大きい。
上田原も板垣の敵陣のど真ん中での首実験が原因だし逆にその状況から反撃して
何人も討ち取っている。信長は大軍で弱体化した小勢力に何回も負ける
斉藤、本願寺、伊勢長島一向一揆。姉川でも大軍で寡兵の浅井に
痛打を加えられず。 大良河原、14条、河野島、伊勢長島第一次、伊勢長島第2次、
屈服した志賀の陣、800の敵に数万の兵で一門を10人殺された伊勢長島第3次。
戦は大した事ない。その分調略や政略でカバーしてる。
版図拡張と言っても山間部出身で周りも強国、国も貧困で京への距離もある武田や
関東出兵や武田との対戦を余儀なくされ国内も反乱やら蘆名の介入やらで
大変、武田以上に京まで遠く雪による制約も大きく関東、信濃、奥州、北陸
多方面戦略を展開してた上杉とは条件が違いすぎる
織田は美濃、尾張で信玄の最大版図くらいになる国力。北伊勢含めばもっと上がる。
幼君でガタガタな斉藤はクーデター起こるぐらいだったし相当弱体化してた。
尾張は石高的にかなり条件の良い国 京から遠くも無く近くもない程よい位置でもある。
京の動乱に巻き込まれず濃尾両国を有すれば思い立ったら上洛できる位置。 西は木曽・揖斐川の大河に守られ
東と結べば背後に敵無し。尾張、伊勢、畿内等は国高の高さの割りに
領土面積が狭く平野部が多く移動も楽。美濃も地形的に東から侵略されずらく
武田の本拠地も遠い。周りの大名も今川義元は運良く戦死 跡継ぎの氏真は暗愚
松平家は独立 同盟で後方の安全を確保
斉藤家の義龍は早死して、跡継ぎの龍興は暗愚
朝倉家の朝倉義景は惰弱で暗愚の代名詞のような大名
六角家は観音寺騒動や対浅井の敗戦で弱体化しきっていた
三好家は分裂状態で統制が取れずバラバラ
織田と本格的に戦う前に信玄は病死 跡継ぎの勝頼は猪武者
織田と本格的に戦う前に謙信は病死 その後上杉家は内乱で自滅
足利義昭も信長の所に来た

当時の武田の状況での信濃攻略は飛騨の三木家が斉藤滅ぼすのと同じくらい難易度高いだろw

強圧的な態度でムリヤリ国を纏めた甲斐守護家と国人衆との間は悪化の一途。 甲斐府中は呉越同舟で牽制し合う状況。
しかも、甲斐は山国であるため、越後の半分の石高(20万石)でしかなく、金山などはまだ後世に誇るほど歳出が見込めた訳でもなく
信玄の家督相続当時は甲斐は飢饉が数年前から猛威をふるうまっただ中で高緯度のため冷夏が発生し
飢饉が慢性化し、河川氾濫で田畑は災害にたびたび見舞われ信玄が家督を継いだ時には数年間連続の飢饉により、甲斐の国状は悲惨この上がありません。
信虎はこれらに有効な手立てをうつ所か今川などの外圧もあり戦闘につぐ戦闘。ただでさえ、基盤の脆い甲斐の国政は破綻しています。
信玄の場合、これらを解決する為には豊かな土地の“略奪”が急務であり、国人衆もそれを求めます。
しかし、経済は破綻している武田家ですから、それを為す侵略は困難を極めたはずです。
しなければ、父と同様に追放の憂き目にあいます。父の偏愛を受けた優秀な弟がいますからその危機は尚更です。
また、このような経路を辿ったため、重臣・国人衆の干渉は非常に強いのです。
しかも、村上に負け続けた時にはその危機が更に深まりました(権臣が死んだのは良かったが)貧しい甲斐は侵略だけでは食べていけません。
信玄はのちに信玄堤と呼ばれる堤防を築いたりして創意工夫の上、新田開発に努めます。
(信玄に始まる甲州流防河法・甲州流河除法は幕府の関東郡代として関東全域開発をした伊奈忠次に受け継がれる)
後世に代表するような土木技術が甲斐で発達したのは当然といえば当然。 普通にやっていてはお米を採れる環境ではないからです。
地方豪族達との軋轢、家督就任当時の国状においてはハンパないレベル
81人間七七四年:2012/03/01(木) 20:44:31.65 ID:kak70K9f
織田600万石が、赤井3万石に大敗! 敗走!

って、まるで漫画だな。 。 。

アホすぎる。

さすが戦国最強織田軍
82人間七七四年:2012/03/01(木) 21:30:16.38 ID:unds0GPk
あへw
83人間七七四年:2012/03/01(木) 21:46:53.09 ID:QhhHud3g
おい
84人間七七四年:2012/03/02(金) 00:18:01.04 ID:5AbHVLN3
足利義昭を軽んじるつもりはないと言いつつ、足利義昭の協力者であった織田信長が領内に少し入るや否や不意打ちで攻撃。
しかも身内の坊さんに必死に弁解を書かせた斎藤龍興。

こんな二枚舌大名についてく家臣がいるわけもなく、翌年に彼は美濃を追われた。
そしてなぜか18歳のガキにコテンパンにやられた(だがの主張)信長に斎藤家臣がこぞって付き従うという有様
85人間七七四年:2012/03/02(金) 01:29:51.09 ID:DTFMq1d+
幼君斎藤義興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。
森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を
美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてkた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は
内通で加治田城・黒田城
織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城
と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは
東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と
農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに
武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし
近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。
そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして
斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
義龍の死の混乱に乗じてわすか
二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。
しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。
結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、
斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。
六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ。
86人間七七四年:2012/03/02(金) 01:31:07.88 ID:DTFMq1d+
織田雑魚長が光秀に離反されたのも織田が諸大名相手に圧倒的に劣勢だったからだろうな

雑魚長が勝ってたら離反なんてされるわけねえしw


87人間七七四年:2012/03/02(金) 02:25:38.55 ID:+BRuH/wQ
そんな雑魚長以下の実績しか残せない奴しかいない日本の戦国時代ってなんなんだろうな・・・
88人間七七四年:2012/03/02(金) 05:04:23.85 ID:/Skly6v+
信長 ルーズベルト
家康 チャーチル
信玄 東条英機
89人間七七四年:2012/03/02(金) 07:19:53.46 ID:Y5cpdE5j
天下を取れなかった大名達が嫉妬をひたすら書き込むスレになっちまったな
そんなに弱いのにどうやって領地拡大したんだろうな
まあ結局信玄も天下取りは無理って結論だな
90人間七七四年:2012/03/02(金) 08:42:11.59 ID:5AbHVLN3
年齢的に考えてもまだ今川義元の方が天下取りの可能性あるわな。
信玄が見栄張って西に行こうとした時が52歳。義元が尾張目指したのが42歳。10年近く差がある。
史実通りのことを考えたら長慶と義龍がすぐにくたばるから尾張三河遠江駿河もあれば美濃の斎藤くらい余裕だろ。

実績的にも年齢的にも信玄は有力大名に比べたら数段劣る。
信長より長生きなのにこのザマだもの
91人間七七四年:2012/03/02(金) 09:37:50.40 ID:TpT83lMr
信長 スターリン
秀吉 エジョフ
家康 フルシチョフ
信玄 トロツキー
92人間七七四年:2012/03/02(金) 20:44:09.59 ID:U60yyYD4
永禄2年 甲州で年初と年末に雪代水や大雨で田地や家や村が流され川除普請が行われる。

永禄3年 5/19義元急死。6/5臨済寺にて盛大に葬儀が行われる。
甲州で大雨と疫病がはやってボロボロな年になる。

永禄4年 6月氏真が元康の逆心と判断。

永禄5年 家康が三河一向一揆に悩まされるようになる。
甲州でやっと疫病が収束するも11月から日照り。

永禄5年に行った検断が原因で、
6年正月から反松平の三河一向一揆が蜂起した
吉良氏などが一揆背後にいたようで、
東三河は駿河化したと書いてるくらいで、
家康は岡崎の維持すら苦戦している。
義元の死に乗じた家康が自立した時こそ
歯肉なことに、かえって三河の今川化促進されたと言える。

永禄6年12月以降、天野氏・飯尾氏、堀越氏など
相次いで今川を離反自立する遠州錯乱が開始され今川衰退始まる。

今川の衰退は永禄6年12月から始まるとされていて
遠州錯乱とか遠州?劇と呼ばれる
遠江での相次ぐ反氏真
国人達の自立行動により
三河と駿河が連絡を取れなくなり三河孤立。
その隙に家康が永禄7年6月に吉田城を徳川方にしてしまった。

義元は重臣達との合議体制を敷いていたが
氏真は三浦正俊や小野道好ら側近を重用し独裁した為に、
遠江曳馬城主飯尾連竜が、
犬居城主天野景泰・元景父子、二俣城主松井宗恒ら
政権から外された遠江の国人重臣達を誘い今川から離反した。
しかし駿河衆の今川への団結は強く離反もおきず。
93人間七七四年:2012/03/02(金) 21:26:27.44 ID:Y5cpdE5j
ん?今川スレにするの?
94人間七七四年:2012/03/02(金) 23:07:16.90 ID:qVLUcSY0
実際、家康は遠江の内乱に介入しようとしたが、失敗してるように
信玄による駿河侵攻で今川家臣21人内応の神業で呆気なく駿河が落ちることが無けれ、
家康が遠江を手に入れることは不可能だっただろう。
信玄の内応技は凄まじいもんで、
謙信配下の大身重臣北条や本庄まで離反させてるほど、
ありえないSSS人物まで内応させてるよな。
95人間七七四年:2012/03/02(金) 23:14:47.52 ID:iUx2asx4
>>90
周りが今川北条上杉と囲まれてたから武田の難易度は他より高いんだよ
対織田ってのも難易度を高くしている
96人間七七四年:2012/03/02(金) 23:14:54.26 ID:Op0Z8yo3
本庄は元々自立性の高い阿賀北国人だし
北条高広は元々上野で離反繰り返し続けたからあまり根拠にならないような
北条にも篭絡されたり、そうかと思えば北条を裏切ったりしてるし
97人間七七四年:2012/03/02(金) 23:22:53.99 ID:rjfBGBF2
>>94
家康は小早川と吉川を寝返らせて天下取っている
信玄の場合調略したはいいがそれを対上杉の勝利に結びつけられなかったのが痛い
98人間七七四年:2012/03/02(金) 23:36:32.63 ID:C9jRBwTB
99人間七七四年:2012/03/02(金) 23:37:36.56 ID:C9jRBwTB
まだ連投しているよ
キチガイは怖いね
100人間七七四年:2012/03/03(土) 00:03:28.66 ID:cIYYdFSv
正論述べたら荒らしか。
妄想や願望垂れ流すだけの馬鹿織田厨に比べたら遥にマシだと思うわ
101人間七七四年:2012/03/03(土) 00:33:22.82 ID:OX2I5gse
(お前にとって)正論

102人間七七四年:2012/03/03(土) 00:40:22.43 ID:9KgO9dSJ
>>95
そういう言い訳ってどうかと思う。
「○○が隣にいたから厳しい」
みたいな言い訳は見苦しい。条件はそれぞれ違うのは当然。
103人間七七四年:2012/03/03(土) 00:43:30.41 ID:rEYdOKkQ
越後での北条の最初の離反って
花ヶ前の史料誤訳だし、
北条の離反は信玄によるもので、
離反した直後にも信玄はレター出してる。
104人間七七四年:2012/03/03(土) 02:19:37.01 ID:5lB0BvoL
そもそも今川義元が隣にいるってなら信長も同じだからな。
せめて違う地方にいればまだ信玄も格が上がった。
105人間七七四年:2012/03/03(土) 02:19:51.05 ID:d1/+iNLo
三国同盟で海への道絶ったからなw
106人間七七四年:2012/03/03(土) 03:23:13.16 ID:cupIZagB
織田は斉藤今川に囲まれただけ、その斉藤は身内闘争と六角と敵対して動けず
武田は上杉北条今川斉藤

信長はチョロすぎw
107人間七七四年:2012/03/03(土) 03:28:07.19 ID:yRNGo9g4
上杉も今川も身内闘争してんじゃん。
ついでに織田も。
その間信玄は何してたんですか???
108人間七七四年:2012/03/03(土) 03:34:21.98 ID:5lB0BvoL
斎藤今川の圧力に耐えながら尾張をあらかた平定して両家を無力化させた信長
今川北条の圧力を無視して上杉と戦いロクな土地も手に入れられなかった信玄

・・・・

差は歴然
109人間七七四年:2012/03/03(土) 04:05:16.38 ID:cupIZagB
>>107
信玄自体が身内闘争の根元なんだがwww
110人間七七四年:2012/03/03(土) 10:15:30.80 ID:egsnv6Pu
本庄の離反で動けない謙信の隙を狙って駿河侵攻開始してるあたり
信玄は隙がないな。
111人間七七四年:2012/03/03(土) 11:00:21.36 ID:ROMWvNAt
西美濃三人衆の離反で動けない竜興の隙を狙って稲葉山城奪取してるあたり
信長は隙がないな。
112人間七七四年:2012/03/03(土) 11:01:40.12 ID:OpYJPIIS
そんな隙ができるまで動かないから53にもなって信長以下の領土しかないんだよ
113人間七七四年:2012/03/03(土) 11:28:32.20 ID:4ST/TCqX

顕正新聞 平成24年2月5日号「原発全廃特集号」

原発は日本を滅ぼす、即時全廃せよ
人のDNAを破壊、国土を居住不能にする
代替は天然ガス・コンバインドサイクルで十分
惨禍もたらすを知って推進するは犯罪

ttp://d.hatena.ne.jp/kensho01/20120208/1328718592
114人間七七四年:2012/03/03(土) 11:55:25.90 ID:iCWYGOXI
公記が六角義賢の弟の六角義弼や
六角義秀やその子の義堯の存在を隠蔽してしまった為に、
江戸時代中期に、
六角本家を主張し合う子達が争った際に、
一方的に不利になり存在を疑われた人物なんだよな。
義弼なんて義治と同一人物にされてるし。


濃尾平野と伊勢湾経済圏を持つ信長がチート過ぎなのに
義龍にボロ負け。龍興にまでボロ負け
結局、義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が
斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけだし
さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし
本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど
(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてのこと。
さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になるし。
しかも甲賀衆は義昭上洛戦に先立ち6/23には摂津表まで進出して三好三人衆と合戦までしてるし。
しかし9/7上洛戦開始するやいきなり信長は六角義治に大敗して岐阜に戻ってるから
援軍にきた三好三人衆側勢は京へ撤退してるし。
(上洛開始前から松永は三好勢兵力をずっと引き付けて戦っていた)
9/14には再度、天皇から織田へ綸旨が届いて義昭上洛の激励をされ京の御警護まで任されてる。
結局、江州様勢力が義治傘下から後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里らを裏切らせて信長に内応させて箕作城を開城させて観音寺城の背後を遮させた為に
義治は敗走して上洛成功しただけ。
信長の戦下手は神レベルだよな。

115人間七七四年:2012/03/03(土) 11:57:12.75 ID:iCWYGOXI
信玄は国も貧困、山間で移動も大変、周辺は強国ばかり。領土面積当たりの石高が低い甲斐や信濃で 山之内上杉の大軍を破ったり村上、小笠原らとガチで
ぶつかり合い長尾も介入してくる 状況で信濃を取った点や北条との抗争で駿河を取った事、距離的にさほど
攻め込みやすいと言えない徳川領を押しまくり追い詰め、東美濃も侵略した事など見るにやはり軍略はピカイチだろう。負けがかなり少ないのも大きい。
上田原も板垣の敵陣のど真ん中での首実験が原因だし逆にその状況から反撃して何人も討ち取っている。
信長は大軍で弱体化した小勢力に何回も負ける 斉藤、本願寺、伊勢長島一向一揆。姉川でも大軍で寡兵の浅井に痛打を加えられず。
大良河原、14条、河野島、伊勢長島第一次、伊勢長島第2次、屈服した志賀の陣、800の敵に数万の兵で一門を10人殺された伊勢長島第3次。
戦は大した事ない。その分調略や政略でカバーしてる。
版図拡張と言っても山間部出身で周りも強国、国も貧困で京への距離もある武田や
関東出兵や武田との対戦を余儀なくされ国内も反乱やら蘆名の介入やらで
大変、武田以上に京まで遠く雪による制約も大きく関東、信濃、奥州、北陸
多方面戦略を展開してた上杉とは条件が違いすぎる
織田は美濃、尾張で信玄の最大版図くらいになる国力。北伊勢含めばもっと上がる。
幼君でガタガタな斉藤はクーデター起こるぐらいだったし相当弱体化してた。
尾張は石高的にかなり条件の良い国 京から遠くも無く近くもない程よい位置でもある。
京の動乱に巻き込まれず濃尾両国を有すれば思い立ったら上洛できる位置。 西は木曽・揖斐川の大河に守られ
東と結べば背後に敵無し。尾張、伊勢、畿内等は国高の高さの割りに
領土面積が狭く平野部が多く移動も楽。美濃も地形的に東から侵略されずらく
武田の本拠地も遠い。周りの大名も今川義元は運良く戦死 跡継ぎの氏真は暗愚
松平家は独立 同盟で後方の安全を確保
斉藤家の義龍は早死して、跡継ぎの龍興は暗愚
朝倉家の朝倉義景は惰弱で暗愚の代名詞のような大名
六角家は観音寺騒動や対浅井の敗戦で弱体化しきっていた
三好家は分裂状態で統制が取れずバラバラ
織田と本格的に戦う前に信玄は病死 跡継ぎの勝頼は猪武者
織田と本格的に戦う前に謙信は病死 その後上杉家は内乱で自滅
足利義昭も信長の所に来た

当時の武田の状況での信濃攻略は飛騨の三木家が斉藤滅ぼすのと同じくらい難易度高いだろw

強圧的な態度でムリヤリ国を纏めた甲斐守護家と国人衆との間は悪化の一途。 甲斐府中は呉越同舟で牽制し合う状況。
しかも、甲斐は山国であるため、越後の半分の石高(20万石)でしかなく、金山などはまだ後世に誇るほど歳出が見込めた訳でもなく
信玄の家督相続当時は甲斐は飢饉が数年前から猛威をふるうまっただ中で高緯度のため冷夏が発生し
飢饉が慢性化し、河川氾濫で田畑は災害にたびたび見舞われ信玄が家督を継いだ時には数年間連続の飢饉により、甲斐の国状は悲惨この上がありません。
信虎はこれらに有効な手立てをうつ所か今川などの外圧もあり戦闘につぐ戦闘。ただでさえ、基盤の脆い甲斐の国政は破綻しています。
信玄の場合、これらを解決する為には豊かな土地の“略奪”が急務であり、国人衆もそれを求めます。
しかし、経済は破綻している武田家ですから、それを為す侵略は困難を極めたはずです。
しなければ、父と同様に追放の憂き目にあいます。父の偏愛を受けた優秀な弟がいますからその危機は尚更です。
また、このような経路を辿ったため、重臣・国人衆の干渉は非常に強いのです。
しかも、村上に負け続けた時にはその危機が更に深まりました(権臣が死んだのは良かったが)貧しい甲斐は侵略だけでは食べていけません。
信玄はのちに信玄堤と呼ばれる堤防を築いたりして創意工夫の上、新田開発に努めます。
(信玄に始まる甲州流防河法・甲州流河除法は幕府の関東郡代として関東全域開発をした伊奈忠次に受け継がれる)
後世に代表するような土木技術が甲斐で発達したのは当然といえば当然。 普通にやっていてはお米を採れる環境ではないからです。
地方豪族達との軋轢、家督就任当時の国状においてはハンパないレベル
116人間七七四年:2012/03/03(土) 11:58:09.75 ID:iCWYGOXI
濃尾だけで100万石オーバーじゃねぇかw
織田は信秀時代ですらすでに朝廷への献金額も異常だし
織田家のボンボン嫡男に過ぎない時代で趣味ですでに高価な鉄砲を大量所持して
美濃国守の道三がビックリしてたし 幼少の家康を買い取った時の
たかが人質買い取りにしては桁外れの金額を即金で払った財力からしてかなり豊かだろうが。
信長は完全にチートスタートだ。
津島や熱田の海上貿易通商路を押さえた信秀のボンボン息子でお小遣いをたくさん持ってた
吉法師は将軍義輝が六角氏に命じて近江国友村に作らせた鉄砲製造所で試作がようやく完成したばかりであったが
さっそく大量の六匁玉の鉄砲を発注していたので道三との会見においてすでに五百梃の鉄砲と火薬を持ってた。
1543年2月信秀は平手政秀を通じて内裏修造費用4千貫文を貢納。
3年前にも伊勢豊受大神宮仮殿造営費700貫文を献納していたのにも関わらず。
田原城主戸田家臣又右衞門が拉致った松平竹千代を五百貫文の破格の大金でキャッシュ即払いした信秀
超イージーモードの織田家に自ら刃向かうバカはいません。
信長公記の記述する戦はデタラメばっかりです。
信玄は父を追放した権臣たちの操り人形の傀儡として祭り上げられ家臣団による合議体制となった。
信玄がその恐怖から脱したのは村上との敗戦を招いた権臣たちの討ち死にが契機となる。
一方、信長は斎藤道三の後見により確固たる地位を保持しており
三河でも水野を防波堤となし
将来の危険の芽を摘むべく弱者を追い詰め蜂起させて圧倒的戦力で叩き潰し直轄領化を推進していく。
義元は自国と尾張の隔絶した国力差に危機感を抱き
是が非でも三河の安定領国化を成さねばならない追い詰められた状況だった。
尾張より国力の小さい美濃攻略に11年
その後、将軍チートで簡単に上洛できただけ
しかしその後、信玄に滅亡寸前に追いやられるのが信長
甲斐の2倍の国力ある信濃を攻略できた信玄とはレベルが違い過ぎる。
斎藤は当主の相次ぐ死による交代で衰退し美濃国人衆は見限り初めて瓦解期に入っていた。
村上は地の利を占め逆に領土拡大する隆盛期に入っていた。
そんだけ信長が戦下手だという証拠。
そりゃそうだ。信長には敵を外交で一つに絞って
戦力の集中をすると言う軍事の基本すら理解できてない素人。
経済力を背景に負けても負けても侵攻を執拗に続けるだけのバカ。
領土拡大なんて濃尾の平野&湾岸の異常な石高と経済力を背景にすれば楽勝だろ。
むしろ無駄に摩擦と衝突を引き起こして同時に複数国で混乱を起こさせて勝つまで
執拗に攻め込みまくる信長のやり方は無駄に時間を浪費させただけに過ぎない。
117人間七七四年:2012/03/03(土) 11:58:54.41 ID:iCWYGOXI
斯波氏に関しては今川の捕虜になった斯波義達の跡を継いだ
義統が3歳の幼君なのを良いことに守護代織田氏は専横して傀儡に成り下がって実権なし。
信秀は今川義元の弟で捕虜になった斯波義達の娘を娶って尾張に来た今川氏豊を討って
今川の尾張支配の牙城那古野城を奪取するなど今川勢力を尾張国から一掃してる。
織田大和守家の分家で清洲三奉行「織田弾正忠家」の勢威は主家を上回っており押さえられる者はいなかった。
それは大和守家の織田達勝の娘が信秀によって離縁させられてるのでもわかる。
(大和守家織田達勝と三奉行家の「織田藤左衛門家」が共同して信秀に当たっても勝てなかった)
1547年の信秀の稲葉山城攻撃では岩倉方織田伊勢守の一族や中嶋郡の豪族など
尾張北西部の者どもが先鋒をしていて「織田伊勢守家」岩倉織田家家中もすでに傘下に組み込んでいるのがわかる。
さらに朝倉孝景の軍も信秀の援軍にやってきていて
稲葉山城包囲は25000の兵が動員されたほどに信秀の威勢は巨大だった。
稲葉山城攻防において夕闇が迫り一時撤退した油断を突かれて道三の奇襲で破れたものの
次の大垣城攻防戦では道三も驚く速さで渡河した信秀は
電光石火の進軍で火をかけながら稲葉山城方面を急襲しようとしたために
驚いた道三が大垣城攻撃を諦めて撤退してる。
(藤左衛門家もこの時に信秀配下として軍事行動をしており信秀は尾張の大半から動員していた)
「織田伊勢守家」岩倉織田を継いだ織田信安(妹は信秀側室・のち信秀妹を娶る)は
「織田大和守家」から入った人物で幼君を口実に犬山城で後見監視してたのが信秀の弟の信康なわけで、
ぶっちゃけ尾張は信秀がほぼ制していたと言っていい。
1549年正月17日の信秀弟の信康の子の犬山城主織田信清の謀反に至っては信秀が急を聞き即日撃破してるほどの圧勝し
2月25日には何事も無く平穏であり美濃から帰蝶が無事に尾張へ輿入れして信長は強力な後ろ盾を得てる。
3月に入り太原雪斎に安祥城を攻められるが頑強な抵抗をしており
本多忠勝の父が討ち死にするなど今川全軍を撤退に追い込んでる。
11月8日の再攻撃で火縄銃を投入しやっと安祥城を落とせたほど苦労してるので尾張への軍事行動が断念されてる。
安祥城落城も雪斎が非常に攻めづらい城南からの奇襲で
城側は油断しきって防備が甘かったって言う奇略で1日で落としたって話だし。
これはもう信秀の失敗とは言えないよな。
それに三河国碧海郡にあった刈谷城を本拠地にしていた三河の大身と呼ばれた水野信元が信秀側だったから
織田の三河進出の拠点は失ってねーし、結局、信秀は尾張の旗頭として
国内に敵を入れることはなかった(守山崩れの例外があるが)
今川とも竹千代交換して和議が成り信秀の晩年は内外ともに安定してる。
清洲三奉行因幡守家から織田大和守家の織田達勝の養子になったと言われる織田信友は
織田伊勢守家同様にすでに家臣団を信秀に奪われ傀儡守護の斯波義統を擁立していたと言う
一点でかろうじて信秀の主君と言う名目的地位を維持できていたにすぎず軍事的には信秀に屈していた。

父から信長が与えられた名古屋城の税だけでそんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。
大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除の謀略に引っかかっての無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…
118人間七七四年:2012/03/03(土) 16:13:00.11 ID:OpYJPIIS
回りは強国で土地が貧困→なら貧民らしくおとなしくしとけば良かったね 信州の国人と暗愚の氏真滅ぼして終わっちまった
信長はチートスタートで負けまくり→でも負けまくってる割には領地が広がってるよね チートだからなんなの?

まあいいわけを並べられても結局無理だったって話だな
貧しい云々なら結果論で秀吉さいきょー
119人間七七四年:2012/03/03(土) 23:01:46.17 ID:5lB0BvoL
普通に考えれば負けまくってるのに領土増えるってちゃんちゃらおかしいけどな。
戦争に負けまくってロクな戦果も実力も持ってない人間を主君と崇めて生死を共にするんだから。

秀吉とか池田みたいな連中なら「信長を信奉崇拝していた」なんて無理やりな理屈も可能だけど、
稲葉や蒲生みたいな他国衆がいきなり信長見て「この人は超戦下手だけど大丈夫」なんて呑気なこと言ってられるわけないし。
120人間七七四年:2012/03/03(土) 23:12:26.38 ID:iCWYGOXI
普通に考えて800万石も領土あったら織田家が瓦解するわけないわな

負けまくって調略や自爆の成功で何とか領土増やせるわけないというなら
あんな大勢力なのに光秀の離反なんて起こるわけないし
光秀が離反して討たれたのが史実なんだから諸大名相手に優勢に戦ってたなんて非常疑わしい事実だ。
121人間七七四年:2012/03/03(土) 23:17:49.62 ID:wcnoKR4o
結局、みんな織田の財産目当てに従ってただけなんだよな。
122人間七七四年:2012/03/03(土) 23:19:11.42 ID:5lB0BvoL
光秀に離反される前まで優勢じゃなければ光秀が信長討ったくらいで朝廷がすり寄ってくるわけがないんだが。
本能寺前まで織田が武田を滅ぼし上杉を追い詰め毛利が和議を考え始めるくらいでなければ、
その後の秀吉の大躍進もなく織田家は家臣ともども歴史の溝に消えて戦国乱世に逆戻りするのがオチ
123人間七七四年:2012/03/03(土) 23:23:23.29 ID:5lB0BvoL
>>121
織田の経済力と武力に従い頼っていたのは事実だね。
結局秀吉の専横の最たる要因は本能寺で主君と当主が討たれ国が混乱したのに、
主たる織田家がこれを収める手段も力もなかったということ。
加えて山崎の戦いに代表されるように本来織田家がやるべき領内の収拾や家臣との連絡差配を
織田家家臣の秀吉が偶発的とはいえやり遂げたこと。

結局織田家家臣たる秀吉の決定に同僚の織田家家臣や主筋の織田家すら従ったということが、
羽柴織田の権力関係を逆転させる契機になった
124人間七七四年:2012/03/03(土) 23:23:25.47 ID:iCWYGOXI
光秀が離反するなんて織田家が優勢だったならおこるわけないし
本能寺前まで武田を滅ぼし上杉を追い詰めてたなら
甲斐信濃が草刈場になって織田武将がけちょんけちょんに蹴散らされるわけないし

秀吉が大躍進したのが史実ならそんな状況で徳川に天下取られるはずもない
125人間七七四年:2012/03/03(土) 23:24:08.93 ID:iCWYGOXI
普通に考えて800万石も領土あったら織田家が瓦解するわけないわな

負けまくって調略や自爆の成功で何とか領土増やせるわけないというなら
あんな大勢力なのに光秀の離反なんて起こるわけないし
光秀が離反して討たれたのが史実なんだから諸大名相手に優勢に戦ってたなんて非常疑わしい事実だ。


126人間七七四年:2012/03/03(土) 23:25:28.21 ID:iCWYGOXI
織田が大勢力だったなら織田幕府が開かれてるわな
徳川が強かったから天下とった
事実はそれだけ
127人間七七四年:2012/03/03(土) 23:25:59.43 ID:5lB0BvoL
まあそもそも光秀は離反じゃなくて謀叛だから優勢とか関係ないから。
誰かに寝返ったんじゃなくて自分が天下の棟梁となるべく動いただけ。
つか本能寺前の家康なんて完全に信長のコバンザメ状態で、
織田が躍進しなければ徳川が天下を取るどころか武田の前に一家心中するところだった
128人間七七四年:2012/03/03(土) 23:27:53.76 ID:iCWYGOXI
謀反も離反も変わらん
結果として本人を裏きるというだけ
織田が信頼に足るなら離反おきるわけないってんなら光秀の離反も同じ事
信長は家康がいたから勢力広がっただけ
天下取れたのがその証左
129人間七七四年:2012/03/03(土) 23:29:38.64 ID:iCWYGOXI
信長が家康の立場で独立し、家康が信長の立場で独立したら
信長は武田どころか今川氏真に瞬殺され家康は史実どおり畿内や美濃を瞬殺していたのは間違いない

何せ史実で今川氏真クラスの龍興に大敗を繰り返し今川氏真クラスの朝倉義景にも負けまくったけど
敵がアホすぎてなんとかなっただけ

一方家康は信長や秀吉が苦戦した畿内や美濃を瞬殺したしな

信長なんて家康がいたから助かっただけ
今川氏真に勝てたのも武田を抑えられたのも上洛戦も畿内平定戦も家康いなけりゃ何もできなかった。
姉川でも磯野勢らにおされまくり崩壊寸前だったけど徳川の善戦で何とか引き分けに持ち込めただけ
三方が原でも最も雑魚だったのが織田の援軍
家康がいなけりゃ1ヶ月で武田に瞬殺されてたのは間違いない


130人間七七四年:2012/03/03(土) 23:30:17.00 ID:5lB0BvoL
徳川家康が信長に協力したのは好意的に見ても信長上洛、金ヶ崎、姉川、志賀の陣、武田征伐の5回だけ。
三方が原や長篠にいたってはその信長に救援を仰いでいる。
こんな状態で信長は家康が育てたというのは狂気の沙汰。

家康がいなかったときの信長はどうやって勢力伸ばしたんでしょうね
131人間七七四年:2012/03/03(土) 23:30:33.50 ID:iCWYGOXI
関が原の内応とか調略の成功は戦の勝ち負けと直結しない事なんて馬鹿でもわかるだろ
132人間七七四年:2012/03/03(土) 23:32:29.25 ID:5lB0BvoL
武田信玄が恐れ徳川家康が人質に甘んじるしかなかった今川義元を
織田信長は一撃のもとに本陣を潰して討ち取ったというまぎれもない史実。

信長がいなければ家康は一生今川家臣でいただろう。
あるいは殺されたかもしれないな、父の広忠のように。
133人間七七四年:2012/03/03(土) 23:33:19.39 ID:22EC3h05
安国寺がとっくに
人徳ない信長が家臣に見捨てられ
転落すると予想してたし
信長なんて運だけで成り上がっただけ。
134人間七七四年:2012/03/03(土) 23:34:05.47 ID:iCWYGOXI
・織田厨の馬鹿妄想

調略の成功をムリヤリ合戦での勝利と一緒にする

調略っつうのは事前の工作や金品や自家の統制支配力などで成功するかどうか決まる事も理解できない馬鹿

赤井戦での波多野離反、播磨での離反&国人蜂起、関が原での西軍の内応

例をあげればキリがない

織田厨馬鹿はそういう事が全く理解できず負けた史料を無視

戦で負けてたら調略されるはずはないなどと勝手に妄想
斉藤が幼君で家中でクーデター騒ぎおきる程、おまけに浅井とも激しく交戦してたのを無視


馬鹿は死んでくれ
お前の好きな雑魚長は美濃を火事場泥棒しただけ
135人間七七四年:2012/03/03(土) 23:34:40.05 ID:5lB0BvoL
希望的観測に尾ひれがついてたまたま運よく当てただけの安国寺。
そんな慧眼がありながら身内の吉川広家や福原広俊の意図を読めずに家康に捕まったマゾ僧侶
136人間七七四年:2012/03/03(土) 23:35:15.34 ID:iCWYGOXI
経過や中身を考慮せず結果だけ桶狭間運良く手薄な今川本陣に勘違いして突っ込んだ信長強い論理でいうなら
動員力ならはるかに光秀上回るにも関わらず本能寺で手薄な陣を運悪くつかれ死んだ信長雑魚
と言う事
先陣と勘違いして突っ込んだら本陣があって雨や風が吹いたから勝てただけ
三河物語によると雨が降ってる所に織田勢が切りかかってきたので壊乱したとある。
信長公記にある「天晴るる」は通り雨と風が織田側がいた山の下から
今川本陣のいる山上に流れた、って事だろうな。
つまり今川勢は猛烈な雨と風を向かい側に受けながら織田に襲撃された事になる。
気力十分て事はないな。
実際今川方にしてみれば雨と風を向かい側に受けてる所を襲撃されたから
「水をまくるが如く崩れ」たわけだし、
その混乱の最中にまともに集団行動できてたのが義元の周りにいた300ほどだった
これが実力で勝ったというなら本能寺は実力で光秀に負け
光秀よりも遥に圧倒的大軍持ちながら偶発的に起きた手薄な所を奇襲されて死んだんだから
137人間七七四年:2012/03/03(土) 23:35:38.36 ID:9KgO9dSJ
>>129
○○クラスって誰が決めたん?
138人間七七四年:2012/03/03(土) 23:36:12.07 ID:iCWYGOXI
信長が家康の立場で独立し、家康が信長の立場で独立したら
信長は武田どころか今川氏真に瞬殺され家康は史実どおり畿内や美濃を瞬殺していたのは間違いない
何せ史実で今川氏真クラスの龍興に大敗を繰り返し今川氏真クラスの朝倉義景にも負けまくったけど
敵がアホすぎてなんとかなっただけ
一方家康は信長や秀吉が苦戦した畿内や美濃を瞬殺したしな
信長なんて家康がいたから助かっただけ
今川氏真に勝てたのも武田を抑えられたのも上洛戦も畿内平定戦も家康いなけりゃ何もできなかった。
姉川でも磯野勢らにおされまくり崩壊寸前だったけど徳川の善戦で何とか引き分けに持ち込めただけ
三方が原でも最も雑魚だったのが織田の援軍
家康がいなけりゃ1ヶ月で武田に瞬殺されてたのは間違いない
139人間七七四年:2012/03/03(土) 23:36:30.96 ID:ROMWvNAt
>>122
京都を支配してる人には誰でも擦り寄るのが朝廷です。

そして>>124>>131が見事に矛盾
140人間七七四年:2012/03/03(土) 23:36:38.67 ID:5lB0BvoL
>>134
自分で言ってて気づかないとか痴呆かよ

>>調略っつうのは事前の工作や金品や自家の統制支配力などで成功するかどうか決まる

自家の統制支配力なんて要は武力。
つまり武力による圧力がなければ調略も寝返りも成功しない。
自分で証明しちゃってるな、信長には武力も金品もあったということを
141人間七七四年:2012/03/03(土) 23:39:58.49 ID:iCWYGOXI
>>140
自分の家を統制する力ってのは調略を仕掛ける相手に対しての事
斉藤みたいにクーデター起こるほどバラバラになってたら内応起こりやすくなる
滅亡期の葦名なんかも同じ
武力どうこうは関係ない
戦に負けてても調略でひっくりかえした例なんてたくさんある
142人間七七四年:2012/03/03(土) 23:40:40.69 ID:ROMWvNAt
>>133
安国寺は秀吉とのパイプ役という立場を活かして出世したい売国僧。
毛利の手前「さっさと織田に従った方がいい」とは書けず、苦し紛れに「公家になって高ころび」なんて事を書いてよこし
「俺の取次ぎ役の秀吉はすげー使える奴だよ!だから毛利は俺を頼った方がいいよ!」と書く
そして見事に秀吉の家臣となり毛利から嫌われる
ちなみに3年5年のうちに高転びするはずが、10年間も持ったため安国寺の発言は大ハズレ
143人間七七四年:2012/03/03(土) 23:41:23.16 ID:5lB0BvoL
斎藤家が幼君だったことも浅井と激しく交戦していたというのも全て後付、敗者の言い訳。
斎藤龍興の家督相続は13歳、織田信長は18歳で両方にそこまでの大差はなく、
しかも斎藤は浅井という小勢力との小競り合いに対し信長はやがて義龍と義元という2大勢力の抗戦を迫られている。
状況的に見ても織田の方が数段不利なのに力量不足を他人や状況のせいにする。

反織田厨がよく使う手ですね
144人間七七四年:2012/03/03(土) 23:43:57.82 ID:5lB0BvoL
>>141
内応というのは基本的に家臣たちが自家のことと状況を考えて選択する代物。
例え斎藤がボロボロであろうと織田がそれ以下の統制力なら織田に内応などでるわけがない。
それはつまり斎藤が統制を怠り織田が統制をしっかりしていたというだけのこと
145人間七七四年:2012/03/03(土) 23:45:43.44 ID:iCWYGOXI
幼君でクーデター騒ぎ、内応の嵐だったの無視か。
なら本能寺で光秀に討たれたのも実力で負けた、でいいな
結果からいや信長なんて織田家を崩壊させただけ
義龍が本格的に美濃侵攻した事あったっけ?

光秀謀反は織田家に見限りをつけたから、でいいな
織田家が信頼に足るなら付き従うはずなんだから

146人間七七四年:2012/03/03(土) 23:50:31.20 ID:ROMWvNAt
>>145
>幼君でクーデター騒ぎ、内応の嵐だった

クーデターや内応が起きた理由が「幼君だったから」だと書いている一次史料をどうぞ。


>義龍が本格的に美濃侵攻した事あったっけ?

ちょっと何言ってるんだか分からないw


>織田家が信頼に足るなら付き従うはず

自分が一番になりたい人は着き従いませんね(ニッコリ
一番になりたいわけじゃなくても、好き勝手やりたい人や、織田家が嫌いでかつ感情的な人、および情勢が読めないバカな人
という可能性もありえますね
147人間七七四年:2012/03/03(土) 23:51:01.93 ID:5lB0BvoL
>>幼君でクーデター騒ぎ、内応の嵐だったの無視か

それは信長も経験した道です。ハードル越えられなかったのは龍興の力量が足りなかったからです

>>本能寺で光秀に討たれたのも実力で負けた

戦略的に考えれば光秀の本能寺時における采配は信長を凌駕していたと言っていいでしょう。

>>結果からいや信長なんて織田家を崩壊させただけ

信雄も秀信も信孝も信包もいるので崩壊にはあてはまりません。

>>義龍が本格的に美濃侵攻した事あったっけ?

対立を深めたというのは事実です。寿命が先に来ましたが。

>>光秀謀反は織田家に見限りをつけたから

なにかしらの理由はあるでしょうね。
148人間七七四年:2012/03/03(土) 23:53:09.08 ID:XwP/48/0
浅井、朝倉、松永、三好、本願寺らをどう処遇したのか。そしてなによりあの足利義昭を本気でもり立てる腹積もりがあったのか。

やはり足利幕府の管領になり、朝倉、松永、三好、本願寺らを徐々に粛清していく方策であろうか
149人間七七四年:2012/03/03(土) 23:55:47.61 ID:9KgO9dSJ
信長批判する奴って「信長は○○だっただけ」って言い方好きだよな。

その○○がスゴいんだろといつもツッコミたくなる。
150人間七七四年:2012/03/03(土) 23:58:22.25 ID:OpYJPIIS
だがの話聞いてるとそんだけアホな信長が尾張を纏め上げ美濃を制し上洛して
あちこち敵にまわし滅亡どころか浅井朝倉滅ぼし畿内の反抗した奴等を一掃し本願寺を退去させたのは
全部運だったのか 凄いね(笑)
赤松が従属したのも力があるんじゃなくて運だったんだね
151人間七七四年:2012/03/03(土) 23:59:02.73 ID:iCWYGOXI
>>146
>クーデターや内応が起きた理由が「幼君だったから」だと書いている一次史料をどうぞ。
んなもん一次資料によらなければならない理由はない
子供が当主だったら不利なのは当たり前
しかもクーデターや内応が起きた事実が重要なのであって幼君と繋がってなくても問題ない
>ちょっと何言ってるんだか分からないw
誤記です。尾張ね
>自分が一番になりたい人は着き従いませんね(ニッコリ
>一番になりたいわけじゃなくても、好き勝手やりたい人や、織田家が嫌いでかつ感情的な人、および情勢が読めないバカな人
>という可能性もありえますね
なら離反や調略の成功も戦の勝ち負けと繋げて考えるのは間違い
>>147
>それは信長も経験した道です。ハードル越えられなかったのは龍興の力量が足りなかったからです
論点ずらし乙
美濃攻略がしやすかったか否か論じてるだけだから
>戦略的に考えれば光秀の本能寺時における采配は信長を凌駕していたと言っていいでしょう
正気ですかwただ手薄なとこだけ狙った本能寺がw
>信雄も秀信も信孝も信包もいるので崩壊にはあてはまりません
信雄 信孝…分家
秀信…幼すぎて秀吉の大義名分に利用されただけ
形式的にはともかく実質でいえば結果的に織田家を崩壊させただけ
>なにかしらの理由はあるでしょうね。
なら信長に付き従った国人も同じですね
戦の勝ち負けと直結するわけないのは普通に考えればわかる
152人間七七四年:2012/03/04(日) 00:10:59.91 ID:zxR+8M4f
まあ幼君が不利なのは政宗が葦名を滅ぼすので証明されてるな 続々と寝返ってるし
その幼君にすら政宗は風向きがよくなきゃ負けていたが…w
まあ幼君だからで、って言っても美濃に力を注げるように手配した信長の手際もあるんじゃね
浅井や六角は周りの事で忙しかったから美濃には手が出せないし
伊勢は滝川が詰めてるし三河は家康と結べたのも信長の手際だし
153人間七七四年:2012/03/04(日) 00:14:47.92 ID:UcSlsOtY
幼君斎藤義興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。
森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を
美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてkた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は
内通で加治田城・黒田城
織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城
と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは
東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と
農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに
武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし
近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。
そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして
斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
義龍の死の混乱に乗じてわすか
二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。
しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。
結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、
斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。
六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ
154人間七七四年:2012/03/04(日) 00:16:20.72 ID:UcSlsOtY
当時の斎藤は浅井と戦っていて、
六角義治が斎藤と協調しようとするのを、
土岐氏に配慮する六角義賢が、
同盟不成立にさせたりと西側が不安定だったから、
斎藤は南下なんて考えてない。
義龍は信長同様に内政や国内整備や宗教統治政策をまったくやらずに放置した道三の悪政から、
改革を押し進めていたから、
尾張を内乱状態にさせて信長を封じつつ、
宗教統制を改革中に急死。
155人間七七四年:2012/03/04(日) 00:37:25.00 ID:RwsG7Lq9
>>151
正気も何も戦争で一番重要なのはいかに有利な状況を作って戦いにもちこめるかどうかだから。
本能寺の時は信長、信忠が京に両方揃っていて、光秀は毛利攻めへの援軍という大軍を動かしても不自然がない状況だった。
加えて京の周りは丹波や近江坂本といった明智領で信長が逃亡しづらい状況でもある。
この状況を得て1日も待たずして即信長を討ち取り天下取りにいったんだから光秀の慧眼は評価すべきだろ。
秀吉が山崎に返ってこなけりゃ明智家が蹂躙していてもおかしくなかった。
156人間七七四年:2012/03/04(日) 00:55:05.69 ID:UcSlsOtY
反逆者の汚名負うんだから秀吉来なくてもどの道アボーンだろ
柴田滝川丹羽池田徳川その他諸大名は主殺しの汚名をおった者につくわけない
戦略的に見てこんな大きな失態はない
157人間七七四年:2012/03/04(日) 02:54:48.73 ID:UcSlsOtY
信長公記にすら記されていない以上は捏造逸話以外のなにものでもない。
などと言いたいところだが、さて信長公記が隠蔽する時は必ず理由がある。
信長公記において家康がすでに同盟者となっていては都合が悪いのだ。
そこで思い出されるのは、信秀死去寸前に今川と和睦してることを隠蔽して、信長の立場が不安定だと捏造してる公記だが、
家康との共同作戦で思い出される史実で、公記が完全隠蔽してる事件がある。
それを隠蔽してる以上は家康がすでに同盟者であっては困る。
あくまで家康は永禄11年の義昭上洛戦以降の同盟者でなくては都合が悪いのだ。

さて以下がその隠蔽である。

永禄9年に信長は近江矢島の義昭を上洛させるためと称して
義昭に斉藤龍興との和睦を申請し義昭が喜んで和睦を斡旋したし
龍興も義昭を「公方様」と呼んで快諾して誓詞を細川藤孝に提出してる。
義昭は信長に藤孝を下向させ上洛の打ち合わせをし、
7月には能登七尾の畠山義綱や大和の十市遠勝にも
来月22日に信長が出陣するから上洛の供をするように命じてる。

これにより尾張・三河・美濃・伊勢四ヶ国の兵を率いて上洛軍を催すこととなった。
しかし出陣当日になると信長が突然出兵できないと言い出す。
これには龍興18歳も信長が臆したと嘲笑し、義秋も信長を糾弾し天下の物笑いとなった。
これにキレた信長が8/29に同盟軍の美濃攻めを突如開始し
木曽川の河野島へ渡川進撃。奇襲に怒った龍興も
すぐさま応戦し河野島へ渡ってきたので織田軍は敗走し川を挟んで対陣。
その翌日から風雨激しく洪水になり閏8月8日の明け方に奇襲を敢行した
龍興側に織田軍は大敗。勝利した斉藤に義昭は改めて上洛を願うが
織田の動向が心配なので上洛は難しいと言われ
翌8月3日に織田と上洛戦を企んだと知った三好長逸3000が
近江坂本へ義昭討伐にやってくる。
8/29は暗夜だったのを幸いに側近4、5人で琵琶湖を渡り
若狭武田の下へ義昭は逃走した。

158人間七七四年:2012/03/04(日) 07:37:45.58 ID:FUbinTAk
正しく戦国大名を理解していれば幼君とかあまり関係無いことは理解できるはず。

戦国時代には集権化出来た大名の方が少数。つまり、有力豪族の代表者としての大名が多かったということ。
国の有力豪族がバラバラにならない為、そして利益を守る為に代表者を擁立してまとまるという構図は、代表者が大人でも子供でも関係無い。
集権化していない多くの大名とは有力豪族の利害調整者なのだから。
159人間七七四年:2012/03/04(日) 09:09:39.42 ID:fxbAPplD
正直信長を貶めれば貶めるほど最大石高が及ばない信玄が滑稽に見えるからやめた方がいいよ
福島から避難の子ども、入園断られる 山梨の保育園

東京電力福島第一原発の影響で昨年、福島県から山梨県内に避難してきた子どもの保育園入園が
「原発に対する不安が他の保護者から出た場合、対応できない」 という理由で断られていたケースがあったと、
甲府地方法務局が2日発表した。

法務局によると、自宅近くの公園で子どもを遊ばせようとした際、近くの住民から避難者であることを理由に
「遊ばせるのを自粛してほしい」 と言われたこともあったという。

法務局は風評による偏見・差別をしないよう、ポスターを掲示し、自治体広報紙に広告を掲載するなどの
救済措置をとった。

 4. http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1330766757/l50
 3. http://logsoku.com/thread/uni.2ch.net/newsplus/1330738312/
 2. http://logsoku.com/thread/uni.2ch.net/newsplus/1330710672/
 1. http://logsoku.com/thread/uni.2ch.net/newsplus/1330700944/
161人間七七四年:2012/03/04(日) 11:32:13.36 ID:RwsG7Lq9
>>156
織田家股肱の重臣とかはそうかもしれんが、織田について日が浅い連中は情勢次第では明智につく可能性も高い。
実際明智が兵を多く割いていた近江方面では信長娘婿の蒲生氏や上洛時からの家臣であった山岡氏なんかは反明智を貫いたが、
旧浅井家臣の阿閉氏や京極氏なんかは明智についたし、若狭でも若狭武田氏なんかは明智についてる。

摂津衆でも中川高山といった連中は帰趨を決めかねていたから、秀吉が来なければ明智についた可能性も高い。大和筒井氏も同様。
細川が明智につかなかったのは明智を見限ってたからというよりは実質当主となった忠興が信忠信長の薫陶を多く受けていたからであって。

結局のところ織田家重臣連中が手をこまねけば近江、摂津、大和、あと混乱中の美濃なんかも明智になびく可能性があったわけで、
そうなったら明智の天下が一気に近づく。
162人間七七四年:2012/03/04(日) 11:50:38.61 ID:UcSlsOtY
>>158
ハイハイ、よかったね、秀信も秀頼(関が原)も幼くても幼くなくても結局まとまれなくて
残念。家康が結局実力で天下取れてよかったねハイハイ
163人間七七四年:2012/03/04(日) 11:53:13.01 ID:UcSlsOtY
当時の斎藤は浅井と戦っていて、
六角義治が斎藤と協調しようとするのを、
土岐氏に配慮する六角義賢が、
同盟不成立にさせたりと西側が不安定だったから、
斎藤は南下なんて考えてない。
義龍は信長同様に内政や国内整備や宗教統治政策をまったくやらずに放置した道三の悪政から、
改革を押し進めていたから、尾張を内乱状態にさせて信長を封じつつ、宗教統制を改革中に急死。
幼君斎藤義興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。
森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を
美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてkた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は
内通で加治田城・黒田城
織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城
と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは
東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と
農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに
武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし
近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。
そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして
斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
義龍の死の混乱に乗じてわすか
二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。
しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。
結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、
斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。
六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ
164人間七七四年:2012/03/04(日) 11:55:20.81 ID:UcSlsOtY
つーか織田厨論理だと信長は戦略的に大失態やらかして殺されて織田家を崩壊させたんだから雑魚だろ
結果でも経過でも
165人間七七四年:2012/03/04(日) 11:56:23.25 ID:UcSlsOtY
公記が六角義賢の弟の六角義弼や
六角義秀やその子の義堯の存在を隠蔽してしまった為に、
江戸時代中期に、
六角本家を主張し合う子達が争った際に、
一方的に不利になり存在を疑われた人物なんだよな。
義弼なんて義治と同一人物にされてるし。


濃尾平野と伊勢湾経済圏を持つ信長がチート過ぎなのに
義龍にボロ負け。龍興にまでボロ負け
結局、義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が
斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけだし
さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし
本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど
(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてのこと。
さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になるし。
しかも甲賀衆は義昭上洛戦に先立ち6/23には摂津表まで進出して三好三人衆と合戦までしてるし。
しかし9/7上洛戦開始するやいきなり信長は六角義治に大敗して岐阜に戻ってるから
援軍にきた三好三人衆側勢は京へ撤退してるし。
(上洛開始前から松永は三好勢兵力をずっと引き付けて戦っていた)
9/14には再度、天皇から織田へ綸旨が届いて義昭上洛の激励をされ京の御警護まで任されてる。
結局、江州様勢力が義治傘下から後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里らを裏切らせて信長に内応させて箕作城を開城させて観音寺城の背後を遮させた為に
義治は敗走して上洛成功しただけ。
信長の戦下手は神レベルだよな。

166人間七七四年:2012/03/04(日) 12:20:21.73 ID:RwsG7Lq9
>>164
織田家が崩壊したのは信長死後
つまりおまえの理屈でいえば信長に刃向い結果的に武田家を崩壊させた武田信玄は雑魚
上杉謙信も信長と敵対して死後お家が混乱して滅亡寸前までいったから上杉謙信も雑魚ということになるな。
もちろん裏で信長と敵対して死後にお家がピンチになった毛利元就も雑魚
死後に松永や三好三人衆が暴れてお家を崩壊させた三好長慶も雑魚
死後に家康にお家を乗っ取られた挙句お家を滅ぼされた豊臣秀吉も雑魚ということになる。
167人間七七四年:2012/03/04(日) 12:24:53.20 ID:RwsG7Lq9
そして武田厨はこの例を出すとなぜか「武田が滅んだのは信玄のせいではない、勝頼が馬鹿だったから」と言い出す。
ならば当然織田家が羽柴豊臣家に従う一大名に転落したのも、関ヶ原で改易されたのも信長ではなく信雄に起因するということはなぜかわからない。
168人間七七四年:2012/03/04(日) 12:33:37.26 ID:Zcri+O07
>>161
結局は畿内の制圧に手間取ったのが致命的だった>光秀
しかし石山にいた四国遠征軍はどうするつもりだったんだ?
169人間七七四年:2012/03/04(日) 12:37:22.29 ID:RwsG7Lq9
>>168
四国征伐軍はもともと急造軍団だから光秀からすれば特に怖くはなかったかと。
実際四国征伐軍の中でも三好康長、織田信張なんかは領内平定のために軍を離れて任地に戻っているし、
恩賞目当ての他国衆を抱えていたのもあって変後は一気に離散したから信孝と長秀の直臣衆くらいしか残ってなかった。
170人間七七四年:2012/03/04(日) 12:48:55.80 ID:UcSlsOtY
>>166
信長の死と同時だろ
神戸と北畠は分家。秀信は幼すぎて実権なし。
あと>>155の理屈に対する反論だぞ?
171人間七七四年:2012/03/04(日) 13:25:06.40 ID:RwsG7Lq9
>>170
別に何も反しないが。
光秀の謀叛をそのまま放置すれば織田家はいずれ明智家に蹂躙されたであろうという話であって。
神戸と北畠が分家というなら君の大好きな武田信玄の跡を継いだのは誰かね?武田義信か?
上杉謙信の跡を継いだのは誰かね?謙信の実子か?
172人間七七四年:2012/03/04(日) 13:29:00.76 ID:RwsG7Lq9
ちなみに織田家の当主権力の変遷を語るんなら本能寺だけじゃなくて山崎もセットで考えないとダメだよ。
主君信長と当主信忠が同時に死んで織田家が揺らいだのに、それを肝心の織田家が立て直せず、
織田家家臣の羽柴秀吉が立て直して、それに織田家は追従するだけだったというのが大事だからね。
偶発的とはいえ危急の時に織田家一家臣の決定に織田家が従うだけだったというのが豊臣織田の権力逆転の契機だから。
173人間七七四年:2012/03/04(日) 13:35:50.32 ID:A2J6gYJs
また変なのが湧いてきたな
174人間七七四年:2012/03/04(日) 13:55:00.74 ID:FUbinTAk
>>162
それらの統治形態の違いがわからないなら戦国時代スレに書き込まない方がよろしい
175人間七七四年:2012/03/04(日) 14:33:17.88 ID:UcSlsOtY
>>174
幼君どうこうの話をしてるのに統治形態どうこうとか論点ずらし乙
>>172
それが建前だったが秀吉は織田に政権戻すどころか秀信利用して諸大名や織田家臣を味方につける大義名分にしただけ
実質的には織田家は信長の死で終り
>>171
だから
>正気も何も戦争で一番重要なのはいかに有利な状況を作って戦いにもちこめるかどうかだから
この部分についての反論だって。

神戸や北畠は残っても織田家がおわった事にかわりない
秀信は幼すぎて実権なしなんだから
秀信を立てるなんて形式上の話
いわば実力のない公家とか公方とかが表面上大名を家臣にしてるのと同じ
176人間七七四年:2012/03/04(日) 14:37:01.76 ID:FUbinTAk
>>175
集権化してない多くの大名は豪族連合の利害調整者という言葉に反論しないで秀信だなんだと論点ずらした奴がよく言うわ
177人間七七四年:2012/03/04(日) 14:38:28.13 ID:UcSlsOtY
>>176
馬鹿かお前
幼君である事の有利不利を論じてるのに大名の一遍論持ち出すとか頭大丈夫か?
178人間七七四年:2012/03/04(日) 14:38:53.05 ID:UcSlsOtY
信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ
(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され
森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に
安堵状を発給しまくる始末www
織田信澄を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww

179人間七七四年:2012/03/04(日) 14:43:21.10 ID:UcSlsOtY
政宗の葦名侵攻と信長の美濃攻略、これで比べると
圧倒的に政宗のが上。

信長は幼君でガタガタの斉藤に敗戦し続けてラッキーパンチで寝返りが出て勝っただけ。

政宗は佐竹や白河、二階堂、石川、相馬、最上、大崎、葛西など全てで150万石にもなるであろう
大連合を自力で突破した。

比較にすらなるまい。
180人間七七四年:2012/03/04(日) 14:44:33.73 ID:UcSlsOtY
濃尾だけで100万石オーバーじゃねぇかw
織田は信秀時代ですらすでに朝廷への献金額も異常だし
織田家のボンボン嫡男に過ぎない時代で趣味ですでに高価な鉄砲を大量所持して
美濃国守の道三がビックリしてたし 幼少の家康を買い取った時の
たかが人質買い取りにしては桁外れの金額を即金で払った財力からしてかなり豊かだろうが。
信長は完全にチートスタートだ。
津島や熱田の海上貿易通商路を押さえた信秀のボンボン息子でお小遣いをたくさん持ってた
吉法師は将軍義輝が六角氏に命じて近江国友村に作らせた鉄砲製造所で試作がようやく完成したばかりであったが
さっそく大量の六匁玉の鉄砲を発注していたので道三との会見においてすでに五百梃の鉄砲と火薬を持ってた。
1543年2月信秀は平手政秀を通じて内裏修造費用4千貫文を貢納。
3年前にも伊勢豊受大神宮仮殿造営費700貫文を献納していたのにも関わらず。
田原城主戸田家臣又右衞門が拉致った松平竹千代を五百貫文の破格の大金でキャッシュ即払いした信秀
超イージーモードの織田家に自ら刃向かうバカはいません。
信長公記の記述する戦はデタラメばっかりです。
信玄は父を追放した権臣たちの操り人形の傀儡として祭り上げられ家臣団による合議体制となった。
信玄がその恐怖から脱したのは村上との敗戦を招いた権臣たちの討ち死にが契機となる。
一方、信長は斎藤道三の後見により確固たる地位を保持しており
三河でも水野を防波堤となし
将来の危険の芽を摘むべく弱者を追い詰め蜂起させて圧倒的戦力で叩き潰し直轄領化を推進していく。
義元は自国と尾張の隔絶した国力差に危機感を抱き
是が非でも三河の安定領国化を成さねばならない追い詰められた状況だった。
尾張より国力の小さい美濃攻略に11年
その後、将軍チートで簡単に上洛できただけ
しかしその後、信玄に滅亡寸前に追いやられるのが信長
甲斐の2倍の国力ある信濃を攻略できた信玄とはレベルが違い過ぎる。
斎藤は当主の相次ぐ死による交代で衰退し美濃国人衆は見限り初めて瓦解期に入っていた。
村上は地の利を占め逆に領土拡大する隆盛期に入っていた。
そんだけ信長が戦下手だという証拠。
そりゃそうだ。信長には敵を外交で一つに絞って
戦力の集中をすると言う軍事の基本すら理解できてない素人。
経済力を背景に負けても負けても侵攻を執拗に続けるだけのバカ。
領土拡大なんて濃尾の平野&湾岸の異常な石高と経済力を背景にすれば楽勝だろ。
むしろ無駄に摩擦と衝突を引き起こして同時に複数国で混乱を起こさせて勝つまで
執拗に攻め込みまくる信長のやり方は無駄に時間を浪費させただけに過ぎない。

181人間七七四年:2012/03/04(日) 14:46:28.85 ID:UcSlsOtY
斯波氏に関しては今川の捕虜になった斯波義達の跡を継いだ
義統が3歳の幼君なのを良いことに守護代織田氏は専横して傀儡に成り下がって実権なし。
信秀は今川義元の弟で捕虜になった斯波義達の娘を娶って尾張に来た今川氏豊を討って
今川の尾張支配の牙城那古野城を奪取するなど今川勢力を尾張国から一掃してる。
織田大和守家の分家で清洲三奉行「織田弾正忠家」の勢威は主家を上回っており押さえられる者はいなかった。
それは大和守家の織田達勝の娘が信秀によって離縁させられてるのでもわかる。
(大和守家織田達勝と三奉行家の「織田藤左衛門家」が共同して信秀に当たっても勝てなかった)
1547年の信秀の稲葉山城攻撃では岩倉方織田伊勢守の一族や中嶋郡の豪族など
尾張北西部の者どもが先鋒をしていて「織田伊勢守家」岩倉織田家家中もすでに傘下に組み込んでいるのがわかる。
さらに朝倉孝景の軍も信秀の援軍にやってきていて
稲葉山城包囲は25000の兵が動員されたほどに信秀の威勢は巨大だった。
稲葉山城攻防において夕闇が迫り一時撤退した油断を突かれて道三の奇襲で破れたものの
次の大垣城攻防戦では道三も驚く速さで渡河した信秀は
電光石火の進軍で火をかけながら稲葉山城方面を急襲しようとしたために
驚いた道三が大垣城攻撃を諦めて撤退してる。
(藤左衛門家もこの時に信秀配下として軍事行動をしており信秀は尾張の大半から動員していた)
「織田伊勢守家」岩倉織田を継いだ織田信安(妹は信秀側室・のち信秀妹を娶る)は
「織田大和守家」から入った人物で幼君を口実に犬山城で後見監視してたのが信秀の弟の信康なわけで、
ぶっちゃけ尾張は信秀がほぼ制していたと言っていい。
1549年正月17日の信秀弟の信康の子の犬山城主織田信清の謀反に至っては信秀が急を聞き即日撃破してるほどの圧勝し
2月25日には何事も無く平穏であり美濃から帰蝶が無事に尾張へ輿入れして信長は強力な後ろ盾を得てる。
3月に入り太原雪斎に安祥城を攻められるが頑強な抵抗をしており
本多忠勝の父が討ち死にするなど今川全軍を撤退に追い込んでる。
11月8日の再攻撃で火縄銃を投入しやっと安祥城を落とせたほど苦労してるので尾張への軍事行動が断念されてる。
安祥城落城も雪斎が非常に攻めづらい城南からの奇襲で
城側は油断しきって防備が甘かったって言う奇略で1日で落としたって話だし。
これはもう信秀の失敗とは言えないよな。
それに三河国碧海郡にあった刈谷城を本拠地にしていた三河の大身と呼ばれた水野信元が信秀側だったから
織田の三河進出の拠点は失ってねーし、結局、信秀は尾張の旗頭として
国内に敵を入れることはなかった(守山崩れの例外があるが)
今川とも竹千代交換して和議が成り信秀の晩年は内外ともに安定してる。
清洲三奉行因幡守家から織田大和守家の織田達勝の養子になったと言われる織田信友は
織田伊勢守家同様にすでに家臣団を信秀に奪われ傀儡守護の斯波義統を擁立していたと言う
一点でかろうじて信秀の主君と言う名目的地位を維持できていたにすぎず軍事的には信秀に屈していた。

父から信長が与えられた名古屋城の税だけでそんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。
大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除の謀略に引っかかっての無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…

182人間七七四年:2012/03/04(日) 14:46:30.88 ID:FUbinTAk
>>177
お前幼君だからしか書いてないじゃん。幼君の何が不利なのか論じたのかよ
183人間七七四年:2012/03/04(日) 14:49:26.57 ID:UcSlsOtY
>>182
子供が当主だったら不利なのは当たり前だろ
子供は大人に比べて知能知識体力経験全てにおいて圧倒的に劣る
子供が大人と同等の土俵で戦うのが困難なのは現代でも昔でも同じ事
滅亡期の葦名や豊臣、本能寺後の織田みりゃわかる
184人間七七四年:2012/03/04(日) 14:51:53.86 ID:FUbinTAk
>>183
全部一緒くたにしてる辺り終わってるな。ゲームの知識乙。
185人間七七四年:2012/03/04(日) 14:52:27.11 ID:UcSlsOtY
>>884
具体的な反論もできない逃亡乙
186人間七七四年:2012/03/04(日) 14:52:46.36 ID:UcSlsOtY
信玄は国も貧困、山間で移動も大変、周辺は強国ばかり。領土面積当たりの石高が低い甲斐や信濃で 山之内上杉の大軍を破ったり村上、小笠原らとガチで
ぶつかり合い長尾も介入してくる 状況で信濃を取った点や北条との抗争で駿河を取った事、距離的にさほど
攻め込みやすいと言えない徳川領を押しまくり追い詰め、東美濃も侵略した事
など見るにやはり軍略はピカイチだろう。負けがかなり少ないのも大きい。
上田原も板垣の敵陣のど真ん中での首実験が原因だし逆にその状況から反撃して
何人も討ち取っている。信長は大軍で弱体化した小勢力に何回も負ける
斉藤、本願寺、伊勢長島一向一揆。姉川でも大軍で寡兵の浅井に
痛打を加えられず。 大良河原、14条、河野島、伊勢長島第一次、伊勢長島第2次、
屈服した志賀の陣、800の敵に数万の兵で一門を10人殺された伊勢長島第3次。
戦は大した事ない。その分調略や政略でカバーしてる。
版図拡張と言っても山間部出身で周りも強国、国も貧困で京への距離もある武田や
関東出兵や武田との対戦を余儀なくされ国内も反乱やら蘆名の介入やらで
大変、武田以上に京まで遠く雪による制約も大きく関東、信濃、奥州、北陸
多方面戦略を展開してた上杉とは条件が違いすぎる
織田は美濃、尾張で信玄の最大版図くらいになる国力。北伊勢含めばもっと上がる。
幼君でガタガタな斉藤はクーデター起こるぐらいだったし相当弱体化してた。
尾張は石高的にかなり条件の良い国 京から遠くも無く近くもない程よい位置でもある。
京の動乱に巻き込まれず濃尾両国を有すれば思い立ったら上洛できる位置。 西は木曽・揖斐川の大河に守られ
東と結べば背後に敵無し。尾張、伊勢、畿内等は国高の高さの割りに
領土面積が狭く平野部が多く移動も楽。美濃も地形的に東から侵略されずらく
武田の本拠地も遠い。周りの大名も今川義元は運良く戦死 跡継ぎの氏真は暗愚
松平家は独立 同盟で後方の安全を確保
斉藤家の義龍は早死して、跡継ぎの龍興は暗愚
朝倉家の朝倉義景は惰弱で暗愚の代名詞のような大名
六角家は観音寺騒動や対浅井の敗戦で弱体化しきっていた
三好家は分裂状態で統制が取れずバラバラ 織田と本格的に戦う前に信玄は病死 跡継ぎの勝頼は猪武者
織田と本格的に戦う前に謙信は病死 その後上杉家は内乱で自滅 足利義昭も信長の所に来た

当時の武田の状況での信濃攻略は飛騨の三木家が斉藤滅ぼすのと同じくらい難易度高いだろw
強圧的な態度でムリヤリ国を纏めた甲斐守護家と国人衆との間は悪化の一途。 甲斐府中は呉越同舟で牽制し合う状況。
しかも、甲斐は山国であるため、越後の半分の石高(20万石)でしかなく、金山などはまだ後世に誇るほど歳出が見込めた訳でもなく
信玄の家督相続当時は甲斐は飢饉が数年前から猛威をふるうまっただ中で高緯度のため冷夏が発生し
飢饉が慢性化し、河川氾濫で田畑は災害にたびたび見舞われ信玄が家督を継いだ時には数年間連続の飢饉により、甲斐の国状は悲惨この上がありません。
信虎はこれらに有効な手立てをうつ所か今川などの外圧もあり戦闘につぐ戦闘。ただでさえ、基盤の脆い甲斐の国政は破綻しています。
信玄の場合、これらを解決する為には豊かな土地の“略奪”が急務であり、国人衆もそれを求めます。
しかし、経済は破綻している武田家ですから、それを為す侵略は困難を極めたはずです。
しなければ、父と同様に追放の憂き目にあいます。父の偏愛を受けた優秀な弟がいますからその危機は尚更です。
また、このような経路を辿ったため、重臣・国人衆の干渉は非常に強いのです。
しかも、村上に負け続けた時にはその危機が更に深まりました(権臣が死んだのは良かったが)貧しい甲斐は侵略だけでは食べていけません。
信玄はのちに信玄堤と呼ばれる堤防を築いたりして創意工夫の上、新田開発に努めます。
(信玄に始まる甲州流防河法・甲州流河除法は幕府の関東郡代として関東全域開発をした伊奈忠次に受け継がれる)
後世に代表するような土木技術が甲斐で発達したのは当然といえば当然。 普通にやっていてはお米を採れる環境ではないからです。
地方豪族達との軋轢、家督就任当時の国状においてはハンパないレベル
187人間七七四年:2012/03/04(日) 15:00:27.09 ID:FUbinTAk
>>185
豪族連合代表者と中央集権した大名を同一視してる時点で知識的にアウト。

有力大名の対立を幼君という言葉に押し付けてる時点でアウト。

まあ、ゲームもマンガも全部戦国大名って言葉で片付けられて同じように扱われるから仕方ないけどな。
お前みたいに勘違いしてる奴は沢山いる。恥なくてもいいから勉強しろ。
188人間七七四年:2012/03/04(日) 15:01:00.39 ID:RwsG7Lq9
少なくとも幼君と言うからには元服前、あるいは急遽元服せざるを得ない状況じゃないとな。
蘆名義広は摺上原の時に14歳、豊臣秀頼は関ヶ原の時8歳、織田秀信は本能寺の時に2歳。

一方の斎藤龍興は家督相続時が13歳で美濃を追われたのが20歳だから立派な大人でしょ。
織田信長の家督相続が18歳で上杉謙信も19歳だからどう見ても及第点。
まともな判断力すら養う暇がなかった前者3人と同列視するのは誤りとしか言えない。
それなら信長も幼君扱いできる。
189人間七七四年:2012/03/04(日) 15:02:25.85 ID:RwsG7Lq9
秀信は3歳だった
190人間七七四年:2012/03/04(日) 15:06:31.48 ID:UcSlsOtY
>>187
>豪族連合代表者と中央集権した大名を同一視してる時点で知識的にアウト。
中央集権化してようがしてまいが代表者である事に変わりない
知識知能体力経験圧倒的に劣る子供が代表、トップでうまくつとまるわけがない

>有力大名の対立を幼君という言葉に押し付けてる時点でアウト。
お前の頭がアウト
出てけ死ねカス

二度とくんな糞カス織田厨
191人間七七四年:2012/03/04(日) 15:08:09.03 ID:UcSlsOtY
戦国大名が幼君にも大人と同じように勤まるって


どんな馬鹿だwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
192人間七七四年:2012/03/04(日) 15:09:27.77 ID:FUbinTAk
まともに反論出来なくて悔しいから連投とかガキかよ
193人間七七四年:2012/03/04(日) 15:09:30.49 ID:UcSlsOtY
普通の大名は政務や軍事に元服後行うのが慣例なのに
元服の存在意義すら否定する、子供でも戦国大名が大人と同じように務まるって



どんな馬鹿だwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
194人間七七四年:2012/03/04(日) 15:10:15.99 ID:FUbinTAk
>>193
下克上全否定してんの?
195人間七七四年:2012/03/04(日) 15:10:39.47 ID:RwsG7Lq9
>>175
>>この部分についての反論だって。

おまえ本当に何もわかってないんだな。
本能寺の時に信長は軍を率いていない。そして信長のいる京の周りはほぼ全て明智領。
その信長の下に信忠が急遽やってきて、織田家当主と織田信長が手薄な京に揃うという状況ができた。
で他の織田軍は遠征中でしばらく帰ってこない。手元にいるのは自分の軍だけ。

信忠が京に入ったのが6月1日。ここから光秀が1日待たずして変を決行したのが6月2日の未明。
信長と信忠をほぼ確実に消せて、かつ逃亡しづらく安全も確保できる一瞬の隙を見逃さずに実行した慧眼が評価されると言ってるんだろ。

196人間七七四年:2012/03/04(日) 15:10:42.72 ID:UcSlsOtY
>>192
お前の糞レスが反論とか笑わせるなクソ馬鹿織田厨が
何のために元服や幼少期に戦にでないか考えてから来い
カスが
197人間七七四年:2012/03/04(日) 15:11:49.64 ID:RwsG7Lq9
>>それが建前だったが秀吉は織田に政権戻すどころか秀信利用して諸大名や織田家臣を味方につける大義名分にしただけ
  実質的には織田家は信長の死で終り

だからおまえはアホなんだ。本能寺と山崎含め明智討伐を一緒に考えるから問題なんだよ。
極端なことを言えば信長信忠が討たれても信雄や信孝が光秀を討てば何の問題もないの。
これからは信雄や信孝が信長様の跡を継ぐんだな、と周囲に認識されて終わりなの。

秀吉が偶然にもこの織田家がしなきゃならない領土の安定と明智の討伐を主導したから権力関係が逆転した。
これをしなかったことに信長の責任はない。死んでるんだから。
そしてこれをしなかった時点で信長以前の織田家は織田家と筆頭重臣達の寄合連合と化しただけ。
この時点では織田家は崩壊していない。以後の展開と一緒くたにするのが間違い。

まさに「武田信玄が喧嘩売ったから武田家が滅んだ」と同じ理屈だろ。
おまえがそれを否定すればするほど織田家の崩壊と信長は無関係ということを証明するだけ。
198人間七七四年:2012/03/04(日) 15:12:05.23 ID:UcSlsOtY
>>195
そんな状況で戦った信長はカスだな
199人間七七四年:2012/03/04(日) 15:12:37.78 ID:FUbinTAk
>>196
有力家臣とか専横とかいう言葉がなんであるか考えてから書き込めゴミ
200人間七七四年:2012/03/04(日) 15:13:39.77 ID:FUbinTAk
なんか戦国大名が専制君主だと勘違いしてる馬鹿が非常にウザいな。
201人間七七四年:2012/03/04(日) 15:15:06.57 ID:UcSlsOtY
>極端なことを言えば信長信忠が討たれても信雄や信孝が光秀を討てば何の問題もないの。
>これからは信雄や信孝が信長様の跡を継ぐんだな、と周囲に認識されて終わりなの。
分家が主家は滅亡
>秀吉が偶然にもこの織田家がしなきゃならない領土の安定と明智の討伐を主導したから権力関係が逆転した。
>これをしなかったことに信長の責任はない。死んでるんだから。
信長が打たれなきゃ織田家は崩壊しなかった
よって織田滅亡は信長の責任
>そしてこれをしなかった時点で信長以前の織田家は織田家と筆頭重臣達の寄合連合と化しただけ。
>この時点では織田家は崩壊していない。以後の展開と一緒くたにするのが間違い。
実質的には織田滅亡は信長の死と同時
>まさに「武田信玄が喧嘩売ったから武田家が滅んだ」と同じ理屈だろ。
最初からそういってる馬鹿に対してなぞらえてるだけですが?
>おまえがそれを否定すればするほど織田家の崩壊と信長は無関係ということを証明するだけ。
信長が死んで織田家は崩壊
これが事実
202人間七七四年:2012/03/04(日) 15:15:58.64 ID:RwsG7Lq9
>>198
戦うも何も光秀が敵となった以上信長に逃亡という選択肢はない。
仮にそうしたとしても信長は軍がないんだから光秀に抗するすべを持たない。
だからあきらめて腹切ったの、勝頼の小山田の裏切りとほぼ同じ。

>>199
だからその専横を許したのは信長のせいじゃないの。
危急の時に対応できず「今の織田家では織田家臣の安全も領国の安泰もできません」と証明した
信雄と信孝など生き残った織田家の連中の責任なの。
そこで秀吉が光秀を討って領内を安定させて「俺がやってやりますよ」と発言力と実行力を示したのがそもそもの始まり。
203人間七七四年:2012/03/04(日) 15:16:11.09 ID:UcSlsOtY
国人の代表だろうが
専横だろうが子供に大人と同等の力で勤まるわけねえだろ馬鹿が
204人間七七四年:2012/03/04(日) 15:19:13.24 ID:UcSlsOtY
>>202
だから有利な状況作った云々の話してんだろうが
205人間七七四年:2012/03/04(日) 15:19:16.36 ID:FUbinTAk
>>203
顔色見て頷くだけなら子供でも大人でも同じ。
下手に権力を振るうと殺されるから何もしない。大人でも子供でも同じ。
そこから上手く抜け出せた人間だけが毛利元就のように大成した
206人間七七四年:2012/03/04(日) 15:20:11.42 ID:RwsG7Lq9
>>201
>>最初からそういってる馬鹿に対してなぞらえてるだけですが?

はいはい後釣り宣言お疲れ様です。
おまえのコピペは今に始まったことじゃないから。

>>信長が打たれなきゃ織田家は崩壊しなかった

それは=織田家は信長ありきのものと発言しているだけ。
神様じゃないんだから信長もいずれ死ぬ。その時に残った織田一門が当主権力を確立できなければ
そのまま誰かに乗っ取られかねないなんてすぐにわかる話。それがたまたま予期せずきただけの事。

>>分家が主家は滅亡

日本語でおkだがそもそも分家が主家の跡を継いだ例はいくらでもある。
おまえの大好きな武田家や上杉家、そしてのちの徳川将軍家も決して例外ではない。
207人間七七四年:2012/03/04(日) 15:22:04.30 ID:UcSlsOtY
>>205
だったら子供にも大人と同じように政治や軍事の場に出しまくるべきだな
つうか豪族の代表者が調整の機能しか持ってないなんていってるなんてお前だけだよ
国人連合だろうが豪族を率いて外征や防衛してるだろ
208人間七七四年:2012/03/04(日) 15:22:04.39 ID:RwsG7Lq9
>>204
有利な状況だろ。おまえ何を勘違いしてるの?
・信長を討っても皆外征中ですぐには帰ってこれない
・信忠もいて両方消せば織田家は揺らぐ
・京の周りは明智領で信長が逃亡しても手の内にある。
・毛利攻めの御達しにより大軍を動かしても警戒されない

以上
209人間七七四年:2012/03/04(日) 15:23:28.21 ID:UcSlsOtY
>>208
だから信長が不利な状況作ったカスだって言ってんだろうが
210人間七七四年:2012/03/04(日) 15:23:52.54 ID:FUbinTAk
>>207
豪族連合が戦争できないなんて書いてないのに馬鹿なんだな。
211人間七七四年:2012/03/04(日) 15:24:54.21 ID:RwsG7Lq9
結局ID:UcSlsOtYは結論ありきでしゃべりたいだけ。
信長のせいで織田家は崩壊してるから信長は信玄以下だと言いたいだけ。

馬鹿な奴だ織田家は明治時代まで大名家として直系で生き延びているのに。
信雄ですらきっちり織田家を後世まで繋げているのに喧嘩売って家滅ぼした勝頼は信雄以下。
親子そろって織田家に勝てない凡骨武田家。
212人間七七四年:2012/03/04(日) 15:26:41.24 ID:RwsG7Lq9
>>209
信長からすれば光秀は家臣なんだから不利でもなんでもない。
偶然に偶然が重なってたまたま一瞬隙を見せただけ。
その刹那の隙に針を通すかのように光秀の決断が早く対処できなかっただけ。

ちなみに信長信忠どちらか討ち漏らすとその時点で光秀は終了
213人間七七四年:2012/03/04(日) 15:27:22.23 ID:UcSlsOtY
>>210
ほんと馬鹿だな
国人の代表が外征や防衛行ったり政務おこなったり立派に行動してんだろうが
で、これが大人と子供同等に務まるとか馬鹿かといってんの
子供に軍率いて大人と同様に戦わせて見ろ
そんな軍隊どこにもねえよカスw
214人間七七四年:2012/03/04(日) 15:30:30.45 ID:UcSlsOtY
>>211
武田滅亡の原因は全て信玄が作ったとか
武田は滅んだからカスだとかいつも連呼してるお前よりマシだよ
>>212
結果論乙
光秀に酷い態度しておき
その上その武将の気持ちも読めず警戒を怠ったんだから
信長が圧倒的な不利な状況を作ったも道義
215人間七七四年:2012/03/04(日) 15:31:04.46 ID:FUbinTAk
>>213
元服もしてない子供が軍隊率いたなんてどこに書いてあるの?
後見人ってしってる?こうけんにんって読むんだよ。幼君が元服するまで(元服後も権力を振るう場合も多いけど)代わりに戦争したりするんだよ。戦争はせんそうって読むんだよ。
216人間七七四年:2012/03/04(日) 15:32:38.51 ID:RwsG7Lq9
斎藤龍興は13歳で元服
元服は大体12歳から16歳の間に済ませる
元服した以上龍興は成人男性
よって龍興は幼君ではない。

217人間七七四年:2012/03/04(日) 15:34:29.19 ID:UcSlsOtY
>>215
お前は幼君でも関係ないって主張してるんだろうが
だったら軍率いても政務おこなっても子供は大人と同等に勤まり
家中のまとまりも大人が当主でも子供が当主でも関係ないとかほざいてるんだろうが
秀信の後見人秀吉は織田家再興しませんでしたね
218人間七七四年:2012/03/04(日) 15:35:23.50 ID:RwsG7Lq9
>>216
もともと大名家なんだから滅亡した以上は凋落と言わざるを得ないな。
今まで国主としてふるまっていた人間が一介の地侍らと同列に扱われるんだから。
それは大名国主として一番やっちゃいけないタブーだしそんなことをした武田家は咎められて当然。

>>光秀に酷い態度しておき

江戸時代の講談から拾ってきたのか?
京の周りに土地を与えるとか優遇している証拠。
扱いでいえば北陸に飛ばされた柴田勝家の方がよほど酷い。
秀吉は近江に領地貰える程度には優遇されている。
219人間七七四年:2012/03/04(日) 15:36:49.76 ID:FUbinTAk
>>217
全部一まとめにするそのゆがんだ思考回路はどうしようも無いな。
陶晴賢は主君殺して違う主君立てたけど、これはお前の理論ではどうなるの?
220人間七七四年:2012/03/04(日) 15:37:44.30 ID:RwsG7Lq9
秀吉が再興するのは大名としての織田家。
天下を平定したのは秀吉個人の実力だから実権まで返す必要性はない。

つか再興しなけりゃ織田家が大名として生きながらえることはないんだが。
221人間七七四年:2012/03/04(日) 15:39:52.75 ID:UcSlsOtY
>>218
だから織田家も滅亡してんだろうが
秀信が実権なし分家のみ
信長の死と同時に
秀吉に乗っ取られて終了

光秀謀反は信長に責任がないといいたいのか?
波多野の母見殺しにしたり

信長に離反した多くの武将と同様
信長の人間性に問題があるんだから信長のせいで圧倒的不利な状況を作り
殺され織田家を滅亡させた馬鹿
222人間七七四年:2012/03/04(日) 15:42:02.46 ID:UcSlsOtY
>>219
しらね興味ねーし
>>220
秀信を当主としてかかげたんだから実権も秀信にかえさなきゃ織田家のために秀吉が動いていた事にならない
再興されたのは信長の死の大分あとね
信長の死の時点では崩壊
223人間七七四年:2012/03/04(日) 15:44:08.73 ID:UcSlsOtY
結論
信長は領土拡張率0のカス
信玄は大幅に版図広げた名将
終り
224人間七七四年:2012/03/04(日) 15:45:51.27 ID:RwsG7Lq9
>>221
江戸時代の講談の見すぎ
光秀の丹波討伐は調略によって開城したとあるだけで
ここで光秀が母親見捨てて殺されたなんて講談のフィクション世界にしか書かれてないこと。

>>秀信が実権なし分家のみ

そもそも秀信は嫡流じゃなくて分家。
当主の信忠から後継者指名受けてないし側室腹なんだから当然だろ。
つまり本能寺の後の織田家は分家しか残っていない。

つかいつまで秀吉に乗っ取られて終了って言いたいんだろうなw
思考停止して武田>織田なんて言いたい気持ちはわかるが、
大名家として残らなかった以上武田は信玄勝頼ともども信長信雄の下。
そういや以前高家旗本は大名より格上だから武田の方が織田より上なんて浅ましいことも言ってたっけw
実は信長子孫にも高家旗本いるからそれでもトントンなんだけどなw
225人間七七四年:2012/03/04(日) 15:47:39.20 ID:FUbinTAk
>>222
ついに底の浅さが見えたな。
逃げるならそのウザい無駄な長文も一緒にやめて欲しいものだ。
226人間七七四年:2012/03/04(日) 15:47:41.02 ID:RwsG7Lq9
>>222
当主として掲げられたんなら秀信も当主らしいことをしなきゃならんだろ。
少なくとも後見人となった信雄には当主代行としての責務がある。
その責務を放棄して織田秀信を擁した秀吉に敵対したんだから信雄が自分で権利放棄したも同然
227人間七七四年:2012/03/04(日) 15:50:17.23 ID:UcSlsOtY
>>224
どちらにせよいままでの信長の横暴な振る舞いから信長に問題があったのは間違いない
自分の責任で圧倒的不利な状況作って死んだんだから戦略的に大失態
何にせ織田主家は秀吉にいいように利用されて崩壊
織田家としての行動は信長の死で終り
残ったのは信長の死から大分あとになってだから信長は領土拡張率0
228人間七七四年:2012/03/04(日) 15:52:38.80 ID:RwsG7Lq9
・いままでの信長の横暴なふるまいの一次史料くれ

・家臣である光秀を信長が敵に据えて戦略を考える理由をくれ

・織田信雄、織田信孝、織田信包を無視する理由をくれ
229人間七七四年:2012/03/04(日) 15:53:26.92 ID:UcSlsOtY
>>225
興味もないどうでもいい反論にレスつける必要なし
>>226
どの道織田家のために秀吉が動いていた事にならない
どんな理由があれ秀吉は織田家から実権うばい織田家を利用しただけ
230人間七七四年:2012/03/04(日) 15:54:37.40 ID:FUbinTAk
>>229
興味がないんじゃなくて今まで主張してきたのと正反対になるから言えないんだろ。
それとも本当に無知で知らないかのどちらか。
231人間七七四年:2012/03/04(日) 15:55:22.77 ID:RwsG7Lq9
>>229
織田のために動いたとするなら秀信に大領を与え信雄すら許して息子に領地を上げた時点で
秀吉は織田家のために動いている証明にはなるんだが。

あ、まさか秀吉が織田家のため「だけに」動いていると勘違いしてるのか?w
232人間七七四年:2012/03/04(日) 15:55:46.60 ID:kaZRC431
信長と光秀が仲悪かったソースは実は一つもない
ほとんどが後世の創作である
233人間七七四年:2012/03/04(日) 15:56:56.60 ID:UcSlsOtY
>>228
めんどくさい奴だな
だがに散々論破されてたんだからだがに聞いたら
じゃ織田を背く奴が絶えなかったのは何が理由といいたいの?
信長の人間性に問題があったに他ならない
謀反散々これまでされてたのにまだ懲りず学習せず光秀に殺されるとかアホすぎだろ
戦略家として最低ランクだな
有利な状況作るどうこうでいえば

>織田信雄、織田信孝、織田信包を無視する理由をくれ
散々書きましたが?
234人間七七四年:2012/03/04(日) 16:00:09.14 ID:UcSlsOtY
>>232
ソースよろ
>>231
織田秀信に実権返さず自分が天下人の地位についた時点で利用しただけなのはわかる
立派に主家に背く行為だな
もう秀吉の行動は織田家とか関係なくなってきてる
>>230
だからしらねって上で書いてんだろうが
235人間七七四年:2012/03/04(日) 16:00:38.51 ID:RwsG7Lq9
>>233
>>散々書きましたが?

どこに書いたのか聞きたいくらいなんだがなw
この3人無視しなけりゃ信長死んで織田の終わりなんていう結論にはならんよ。

>>謀反散々これまでされてたのにまだ懲りず学習せず光秀に殺される

信長が家臣にされたのは明確なものは全て離反だけ。
多種多様に情勢が変わるのを見て織田から離れて別の勢力につこうとした家臣、大名ばかり。
信長殺して自分がそれになりかわろうとしたのは光秀ただ1人だけ
236人間七七四年:2012/03/04(日) 16:03:07.38 ID:RwsG7Lq9
>>234
当主が幼少で考慮して信雄を後見人に据えたのに後見人が弟といざこざ起こしているようじゃダメだろ。
主家に背くも何も主筋の秀信には秀吉は別に何も叛いていない。後見人は自分からその地位を下りた。
237人間七七四年:2012/03/04(日) 16:03:46.92 ID:UcSlsOtY
>>235
もうめんどくさいから>>180あたりから読み直してくれ
謀反も離反も裏きり行為だから関係ない
多くの裏きり者出しながらそれが読めず
すきだらけの所を襲撃されて殺されたんだから信長の責任
238人間七七四年:2012/03/04(日) 16:04:50.21 ID:RwsG7Lq9
妄想丸出しでソースも明示しないコピペのどこを読むの?w
239人間七七四年:2012/03/04(日) 16:06:24.04 ID:UcSlsOtY
>>236
どんな理由があれ秀吉が今まで仕えてた織田家から実権奪って
実質的にトップの座を奪い秀信に当主としての地位を返さなかったんだから
立派な叛意だな
240人間七七四年:2012/03/04(日) 16:06:53.64 ID:UcSlsOtY
>>238
お前の事じゃねぇかw
241人間七七四年:2012/03/04(日) 16:11:27.22 ID:9ProO077
おまえらもたまには歌舞伎でも見なさい

本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)
近松半二・三好松洛・竹田因幡・竹田小出・竹田平七・竹本三郎兵衛等の合作。
近松門左衛門の「信州川中島合戦」を先行作としている。
明和3年(1766年)1月14日より大坂・竹本座にて。同年5月、大坂中の芝居で歌舞伎にて初演される。
武田信玄と上杉謙信の争いを題材とした諸作品の代表作とされ、今日では四段目切の「十種香」「奥庭」が
良く上演される。
外題は、支那の故事「二十四孝」を趣向として取り入れている所からきている。


「初段」
「室町御所」「同奥殿」:武田家の重宝・諏訪法性の兜を長尾家が返さないことから不和が続いている両家の
和解の為に、室町将軍家の仲立ちで武田家の世継ぎ・勝頼と長尾家の息女・八重垣姫の縁組が整えられ
た。だが、北条氏時と村上義清の陰謀によって将軍足利義晴が暗殺され、容疑が両家にかかる。信玄と謙信
はそれぞれ、3年の内に暗殺者を捕らえることが出来なかったら子息の首を差し出すことを誓う。
「二段目」
「下諏訪明神」:暗殺犯の手掛かりが得られぬままに3年が経過した。そんなある日、諏訪明神の境内で悪者
に絡まれて困っていた百姓の蓑作は武田の奥家老板垣兵部に救われ、誘われるままに彼の旅宿へ向かう。
又、村の乱暴者横蔵は、賽銭や奉納の太刀を盗もうとするのを長尾の家来に見咎められ、これを殺害するが、
なぜか長尾景勝は横蔵を救う。横蔵が動かした境内の力石の下からはいわくありげな老人が現れ、横蔵と再
会を約して別れる。
「武田信玄館」:信玄の館には、3年経っても暗殺犯を捕らえられなかった時の約束どおり、世継ぎ・勝頼の首
を受け取る為の上使として、村上義清が訪れていた。母の常盤井御前は、身代わりを連れてくるという板垣
兵部の言葉を頼りに、勝頼と愛人の腰元・濡衣を逃がそうとするが見つけられ、盲目の勝頼は潔く切腹して
果てる。兵部が身代わりとして勝頼と瓜二つの蓑作を連れてきたのはその直後であったが、この有様を見た
彼は口封じに蓑作を殺そうとして、逆に主君の信玄に刺される。実は、切腹して果てたのは御家乗っ取りを
企む兵部がすりかえた彼の子であり、蓑作こそが真実の勝頼であった。断末魔の兵部は、愛人の後を追お
うとする濡衣から刀を奪って我が腹へ突き立て、諏訪法性の兜を長尾家から取り戻すことを懇願しながら息
絶える。勝頼は窶し姿のまま、濡衣と共に信州へと旅立つ。
「三段目」
「桔梗ヶ原」:武田家の名軍師と謳われた故・山本勘助には横蔵と慈悲蔵の二人の遺児がいるが、老母は
なぜか乱暴者の横蔵を可愛がって慈悲蔵には辛く当たり、兄のいうままに慈悲蔵の赤子を捨てさせ、兄の
子・次郎吉を我が子として育てさせている。
慈悲蔵が桔梗ヶ原に捨てた子を、偶然通りかかった武田の家臣・高坂弾正夫婦と長尾の家臣・越名弾正
夫婦が見つける。迷子札に「山本勘助」とあるのを見た二組の夫婦は、子供を蔓に山本勘助を味方につけ
ようとして取り合い、高坂夫妻の手に落ちる。
「山本勘助住家」:高坂の妻・唐織は山本家をたずねあて、子供を返すかわりに仕官を依頼するが、母の
言いつけを守る慈悲蔵はこれを拒絶し、吹雪の中を出かける。たまりかねた女房のお種が門口に置き去りに
された子を抱き上げるや、慈悲蔵の投げた懐剣によって子供は殺される。
慈悲蔵が出かけたのは、母の命令に従って筍堀りをする為であったが、掘り当てたのは曰くありげな箱であった。
どこからともなく現れた横蔵がこの箱を奪おうとして争いになるが、ここへ母が現れて横蔵へ死装束を与え、いつ
ぞや彼が諏訪明神で長尾景勝に助けられたのは、景勝の身代わりにするつもりであったと因果を含めて詰め
腹を切らせようとする。横蔵はこれを拒み、右目を抉って人相を変えると、前から武田信玄に仕えていたこと、
自分の子として慈悲蔵夫婦に育てさせていたのは義晴の忘れ形見である松寿君であり、慈悲蔵の掘り当て
た箱の中身は足利家の白旗であったことを明かす。
一方、慈悲蔵は長尾家に仕えて直江山城頭と名乗っていたが、母だけにそのことを打ち明け、景勝と瓜二つ
の兄を身代わりにしようと考えていたのであった。横蔵は父の名前である山本勘助を継ぎ、軍法の巻物は弟に
譲る。


242人間七七四年:2012/03/04(日) 16:11:34.93 ID:9ProO077
「四段目」
「道行似合女夫丸」:勝頼の蓑作と濡衣は薬売りに身を窶し、信州へ向かう。
「十種香」「奥庭」:濡衣は八重垣姫の腰元となり、勝頼は花作り蓑作として謙信の家来となる。会ったことも
ない許嫁の死を悲しむ八重垣姫は毎日勝頼の絵姿に十種香を手向け、回向を欠かさないが、絵姿そのまま
の蓑作を垣間見、激しい恋心に捉われる。濡衣が諏訪法性の兜と引き換えに仲立ちに応じた為に姫はその
正体を悟り、2人は出会えたことを喜び合う。
ここへ謙信が現れ、塩尻の景勝への使いを勝頼に命じる。父が、使いにかこつけて勝頼を殺害するつもりである
と悟った八重垣姫は泣いて謙信に縋るが、謙信はこれに応じず、濡衣をも捕まえて引っ立ててゆく。
許嫁の命を助けたい一心の八重垣姫は、奥庭の祭壇に祀られた諏訪法性の兜を手に取り、押し頂いて祈り
を捧げる。兜には諏訪明神のお使いである白狐が宿り、姫はその霊力に守られながら勝頼のもとへ危機を知ら
せに駆けつけてゆくのであった。
「五段目」
将軍暗殺の犯人は斎藤道三であった。彼は花作り関兵衛として信州へ入り込み、長尾家へ匿われている
将軍の御台所をも銃殺しようとしたが、実の娘・濡衣が身代わりとなって死ぬ。実は、長年に渡る武田家と
長尾家の確執は全て将軍暗殺犯を燻り出す為の計略であった。道三は、黒幕が村上氏と北条氏であるこ
とを打ち明けて自害する。
村上氏と北条氏は滅ぼされ、晴れて勝頼と八重垣姫は夫婦となる。
243人間七七四年:2012/03/04(日) 16:13:53.45 ID:RwsG7Lq9
織田信長(死亡)−織田信忠(死亡)−織田秀信(関ヶ原で改易)

       −織田信雄(大和で大名復帰、江戸時代に生き残る)

       −織田信孝(弟といざこざおこして死亡)

       −織田信高(七男、のち高家旗本に)

       −織田信貞(九男、のち高家旗本に)

織田信包(信長弟、丹波で大名として存続)

織田長益(信長弟、摂津大和で大名として存続)


武田信玄(死亡)−武田勝頼(死亡)−武田信勝(死亡)

       −仁科盛信(死亡)−仁科信基(のち徳川旗本)
               −仁科信貞(のち徳川旗本)

       −武田竜芳(死亡)−武田信道(徳川家臣)−5代後−武田信興(高家旗本)

       −武田信清(上杉家臣)

武田信実(信玄弟、死亡)−武田信俊(のち徳川旗本)
244人間七七四年:2012/03/04(日) 16:16:25.69 ID:RwsG7Lq9
>>239
光秀の謀叛によって既に天下のトップは織田家ではなく明智家です。朝廷ですらそう思っていた節があります。
よってもちろんのことながら清洲会議以降の織田家は天下のトップじゃなくて天下に数ある大名家の1つです。
だから秀吉は秀信に対して大名家としての織田家の実権を返却しました。
245人間七七四年:2012/03/04(日) 16:18:37.64 ID:RwsG7Lq9
>>240
自分は考えや妄想をコピペ連投をした覚えはありませんが。
まあ武田厨の発言を全てまとめたレスくらいはありますけどw
246人間七七四年:2012/03/04(日) 16:20:24.66 ID:UcSlsOtY
>>244
秀吉は織田家の家臣なんだから織田家のために行動しなきゃいけない
その織田家当主は秀信なんだから実権を秀信に戻さなければ
織田の家臣として行動した事にはならない
で実質はどうかというと天下とりの大義名分として利用して
申し訳のように少しの土地を与えてただけ
立派に織田家への叛意だな
247人間七七四年:2012/03/04(日) 16:22:29.09 ID:UcSlsOtY
>>245
むしろほとんどのレスが妄想や願望ですが。
武田滅亡の理由は信玄が全て作った、とか勝頼が何も悪くないとか
反論されて論破されても時間がたつとまた同じ妄想の垂れ流し
機械を相手にしてるみたいだな
248人間七七四年:2012/03/04(日) 16:25:26.56 ID:W6YBj3gj
>>233
結論だしたんだからいい加減消えれば?
249人間七七四年:2012/03/04(日) 16:26:37.55 ID:UcSlsOtY
>>248
テメェが消えろカス
スレタイ読め
250人間七七四年:2012/03/04(日) 16:31:26.27 ID:RwsG7Lq9
>>246
知識がないとこうも曲解まみれになるんですね。
織田秀信が当主になったのは清洲会議による指名。
でこの段階で織田家の人間の領地は織田信孝の美濃、織田信雄の伊勢尾張、織田秀信に貰えた近江1万石のみです。
織田家の実権が及ぶのはたったこれだけ。その後信孝は兄といざこざ起こして死に、秀勝は病死。
信雄はのちに秀吉秀信と対立して小牧を起こし、領地が尾張と伊勢一部まで減ります。

つまり織田家の中で秀吉が返上すべき領土は美濃のみなんだから美濃を返却されるのは当然のこと。
まさか全部の領土を織田家に返すなんて馬鹿げたこと言わないでくださいね。
本能寺の変で織田家の実権が及ぶ範囲は大きく狭まったんですから。
251人間七七四年:2012/03/04(日) 16:33:16.20 ID:RwsG7Lq9
>>247
勝頼が何も悪くないなんて一言も言った覚えはありませんが。
武田家の滅亡理由で責められるべき要因が信玄>勝頼というだけであって。

まあさような曲解を続けていれば論破しただの他人の主張を意図的に変えるだのくらい
造作もないことでしょうが
252人間七七四年:2012/03/04(日) 16:37:03.03 ID:UcSlsOtY
>>246
織田家家臣である秀吉は文字通り織田という家に仕えるべき存在
織田家の家臣である以上織田家のトップに従わなくてはならない
清洲会議では秀信を織田家をのっとる大儀名分として利用し
織田家の諸侯を味方につけ織田家を完全に利用
たかが家臣の1人が実権を織田家に返さず自分がトップとして君臨した時点で
織田を乗っ取ったも同然。立派な叛意
253人間七七四年:2012/03/04(日) 16:39:37.10 ID:UcSlsOtY
アンカミスった>>250
254人間七七四年:2012/03/04(日) 16:40:29.45 ID:W6YBj3gj
>>249
まだ話したいなら結論なんていうべきじゃなかったな
255人間七七四年:2012/03/04(日) 16:43:04.98 ID:RwsG7Lq9
>>252
その肝心の織田家のトップが本能寺の変から清洲会議まで不在だったことと、
トップとなった秀信を後見して権力を握っていた信雄がその地位を下りて秀吉と対立したことは
どう説明つける気なんでしょうか?w

結局残った後見人の織田信雄が後見人という地位を下り秀吉と対立して講和した時点で、
織田家の実権などもはや形骸化していたんだがね。
256人間七七四年:2012/03/04(日) 16:46:14.19 ID:TwSxi/Tu
信長信忠がいなくなった織田家なんてアホでもオワコンだって解るだろ
家への忠誠とか時代がズレてるとしか
257人間七七四年:2012/03/04(日) 16:47:25.97 ID:UcSlsOtY
>>255
不在だからといってそれを利用して自分がトップになってはいけない
後継者を秀信と定めたからには秀信の家臣として行動しなければ叛意も同然
信雄がどうこうしたから秀吉が許されるというわけではない
見方によれば信雄をまんまと利用して織田家から実権奪っただけとする事もできる
258人間七七四年:2012/03/04(日) 16:48:45.90 ID:RwsG7Lq9
>>256
正確には信長信忠がいなくなって揺らいだ織田家を残った織田一門が立て直せなかったことがオワコン化の原因。
信長と信忠が死んで織田家の支配力がなくなったと世に公言した、信長信忠の跡を継いで事態を収めるということを
信雄信孝ができなかったこの一連の事態が一番マズかった。
259人間七七四年:2012/03/04(日) 16:49:31.47 ID:fxbAPplD
織田家のことだけでこんだけ揉めるんだから武田じゃ天下なんか無理だな
260人間七七四年:2012/03/04(日) 16:50:26.34 ID:UvGX3OQP
ID:UcSlsOtYは言葉遣いが汚いので荒らしにしか見えない
議論がしたいなら相手を尊重すべきだと思うよ
261人間七七四年:2012/03/04(日) 16:50:31.63 ID:UcSlsOtY
>>258
だから実質的に織田家は本能寺の変の時点で崩壊してるといってるんだよ
神戸も北畠も分家
秀信は幼すぎて実権なし。利用されただけ
262人間七七四年:2012/03/04(日) 16:55:43.94 ID:fxbAPplD
つまり信長信忠が生きてれば天下統一できたってこと?
263人間七七四年:2012/03/04(日) 16:55:56.43 ID:RwsG7Lq9
>>257
秀吉がトップに君臨したのはもっと後だ。
少なくとも織田家家臣としての秀吉の繋がりは清洲会議で薄まっていたと言っていい。
ただえさえ信長信忠が死んで揺らいだ織田家を立て直すことができた織田一門が出なかったんだから。

で清洲会議で織田秀信が当主になり、後見人の織田信雄が実質織田家を仕切ることになったはいいが、
弟といざこざ起こすわ、その弟もまた自分が秀信を飾りにして実権を握ろうと考えていたんだから始末の悪く、
結局織田家当主、あるいは当主代行らしいことは何一つやらなかったといってもいい。

こんな状況で信雄信孝に忠誠を誓わせるというのは江戸時代の価値通念で、
秀吉が決して悪意満々じゃなかったことは時流に翻弄された幼少の織田秀信を取り立てて地位を与えたことからも明らかだろ。
264人間七七四年:2012/03/04(日) 17:00:42.64 ID:RwsG7Lq9
>>261
分家も何も秀信は認知されなかったんだから
信長信忠が死んで信雄信孝にでも当主の座が回ってくるかもしれない状態だろ。
特に信長はもう49歳なんだから本能寺なくても当時としてはいつ死ぬかわからん状態。

結局それは信長と信忠が死ねば織田家は回りえなかったという証明だけで
織田家が崩壊した理由をこの2人に帰責するのは無茶もいいとこだ。
立て直すべき手段と実行力を信雄信孝になかったのが一番辛かった。
信長にも責任がないわけではないがな。全部押し付けるのはさすがに論点がかわる。
265人間七七四年:2012/03/04(日) 17:02:46.45 ID:UcSlsOtY
>>263
薄まったのではなく忠義を忘れてはいけないのに
秀吉が意図的に織田家の家臣から織田家を利用してトップの座を狙っただけで
秀信が当主なんだから織田家に仕える秀吉は織田秀信に従わなくてはならない
秀吉が織田家臣としての地位を忘れ信雄信孝の争いに付け込み
まんまと織田をのっとっただけ。秀吉は織田家に対して立派に叛き
当主の座を奪い取った。
秀信や信雄には申し訳程度に少しの土地を与えただけ
秀吉は織田家臣なんだから織田家当主でもない自分が当主のように君臨して
全てをうばい取った時点で立派な叛意
266人間七七四年:2012/03/04(日) 17:06:21.72 ID:UcSlsOtY
>>264
もし信雄や信孝が織田を継ぐとなれば
話は別だが彼らはあくまで他家へ養子として出された存在なので
北畠や神戸は文字通り織田ではない。当たり前
実質的に織田家は本能寺で崩壊していたも同然
267人間七七四年:2012/03/04(日) 17:08:56.11 ID:RwsG7Lq9
>>265
とりあえず江戸時代の忠義観念をなくせ。
信長信忠が死んだ以上織田家家臣の安全と領国安泰をするのは信雄や信孝の役目。
特に両者を殺して織田家を崩壊させようとする明智光秀の討伐は第一懸案だった。

にもかかわらず結局予期せぬ事態だったとはいえ信雄信孝は結局織田家臣の安全も領国の安定も光秀の討伐も満足に達成していない。
で、この時点で秀吉が織田家当主の代行するかのように光秀を討ち領国を安んじると言うのが既に異常状態で、
当然織田家当主の地位は大きく求心力を欠かしている。その後の清洲会議で織田家の将来を決める場に信雄信孝が参加できなかったのがその証左。

結局信雄信孝が織田家当主の求心力支配力を回復できなかったがために、本能寺前の織田家当主と、
織田秀信が家督を継いだころの織田家当主の支配力はもはや別物と言っていい。
よって秀信には幼いながらも美濃大領を与えた時点で秀吉のやることはほぼ達せられている。
いらないのならそのまま追放すればいいだけだからな。
268人間七七四年:2012/03/04(日) 17:08:58.76 ID:p5UwQuWt
織田家、尾張60万石+経済商業都市津島や熱田を支配し貿易港あり
+斉藤家動けず、今川飢饉で動けず

武田家、>>1
269人間七七四年:2012/03/04(日) 17:11:03.19 ID:TwSxi/Tu
>>265
色々と言いたいが一つだけ
秀吉ばかりクローズアップしてるが他の織田有力家臣はどうよ?

求心力の無くなった織田家にひたすらわんわんおしてたか?
270人間七七四年:2012/03/04(日) 17:11:33.68 ID:RwsG7Lq9
>>266
他家へ養子に出された本家の人間が復姓して本家を継ぐのは別に例外ではない。
あの武田家上杉家ですらそうであるし、特にこの時点では織田秀信の存在が認知されていないのだから
信長信忠が死ねば順当に考えて織田家の家督は信雄のものと言っていい。

その当然予想しうる状況でありながら立て直す手段も実行力もなかったのは辛いと言わざるを得ない。
挙句その本来織田家がやるべき仕事を家臣の秀吉に代行されるんだから。
271人間七七四年:2012/03/04(日) 17:16:51.33 ID:UcSlsOtY
>>267
家臣は文字通り家に仕えるべき存在
家臣だからといって主家の混乱に付け込んで実権を奪い取る事は立派な反逆行為
本能寺後なぜ光秀に付き従う人間が少なかったのか考えればわかる
他家に養子に出された存在の人間が織田家当主としての地位もないのに
織田を盛りたてよなどと難題すぎる
織田家が残ってる以上家臣達は織田家に従うのが道理
清洲会議での問題も織田家臣の会合として行われたのがその証左
秀信は幼いとはいえ当主の座についたんだから
織田家臣である秀吉は秀信をトップに織田家を盛り立てなくてはならないが
した事といえば織田を利用して自分の権力確立に役立てただけ
程度の差こそあれこれは織田家に叛く行為
272人間七七四年:2012/03/04(日) 17:21:48.46 ID:RwsG7Lq9
>>271
理屈に矛盾が生じている。
織田信雄、織田信孝が他家の養子であり織田家の当主たる資格を得られないのならば、
織田秀信が認知されていない以上織田家は崩壊したも同然と言うことになる。

にもかかわらず一方で秀吉は織田家家臣なのだから忠義をつくせと言う。
信雄信孝も認められず、秀信は認知されていない、断絶して崩壊した織田家に秀吉が忠義を尽くすのかね?


織田家が残っていると言うならば、清洲会議で初めて認知された織田秀信以外にも家督を継ぐ可能性のあった織田一門がいるということになる。
つまり織田信雄や織田信孝のことであり、変の情報を知れば彼らが織田家として事態を牽引することが重要なのは誰が考えてもわかる話。
273人間七七四年:2012/03/04(日) 17:22:37.92 ID:TwSxi/Tu
>>270
勝頼は出戻りだっけか?
元は母方の名跡継いでたよな
274人間七七四年:2012/03/04(日) 17:22:46.18 ID:UcSlsOtY
>>269
だから最初から本能寺の時点で織田家は崩壊したといってるけど?
>>270
>他家へ養子に出された本家の人間が復姓して本家を継ぐのは別に例外ではない。
例外ではなくても実際復姓してないからあくまで彼らは他家の人間
>信長信忠が死ねば順当に考えて織田家の家督は信雄のものと言っていい。
信雄は北畠の人間
織田家臣は信雄をトップとして動いていないし信雄が織田当主として織田家臣
達に命令したりと、織田信雄をトップとした織田家が機能する様子は見られませんが
他家の人間が、まして当主の座にもついてないのに織田家当主として政務などを行う事等できるはずもない
275人間七七四年:2012/03/04(日) 17:24:07.81 ID:kaZRC431
だが俺の立てたスレ荒らすな!
他のスレ行け!
276人間七七四年:2012/03/04(日) 17:25:37.82 ID:UcSlsOtY
>>272
当主たる資格を得られないとは言ってない
当主たる資格がある事と実際当主である事は別
他家の人間で当主としての地位もないのに当主として織田をまとめよなどと無理な話
秀吉はその状況に付け込み織田家を乗っ取っただけ
277人間七七四年:2012/03/04(日) 17:25:39.71 ID:TwSxi/Tu
>>274
ではあれか、貴殿崩壊した物に忠を尽くせと申すか?
お前鬼畜かw
278人間七七四年:2012/03/04(日) 17:26:50.57 ID:UcSlsOtY
>>277
建前上は秀信が当主なんだから秀信に忠義を尽くすのが秀吉の責
279人間七七四年:2012/03/04(日) 17:29:43.28 ID:w52IkB9a
武田厨によると秀吉は毛利に屈服しているから織田に忠誠を誓う必要は無く
毛利の指示通り動いていただけでしょ。

明智も毛利に踊らされ信長を討ったはいいが毛利傘下になった秀吉に負けてしまい
毛利に裏切られる事になったわけだし。

柴田も上杉の傘下になっているし、織田家は毛利と上杉の勢力争いで消えたらしい。
280人間七七四年:2012/03/04(日) 17:30:22.20 ID:RwsG7Lq9
>>274
いくら他家に行ったからといって完全に北畠神戸の家の者扱いされるわけじゃない。
特に信雄の方は父信長の命令で北畠家を断絶させてお家乗っ取りまでしているし、
信長が死ぬ前の御馬揃えでは信忠の後に続き信雄が明らかに織田家一門衆であると認知させようとしている。

>>他家の人間が、まして当主の座にもついてないのに織田家当主として政務などを行う事等できるはずもない

せめてある程度の対処はすべきだったな。
実際に参加して仇討に貢献した信孝はともかく信雄は実績も何もない。
で織田家が1つに纏まらなきゃいかん時期に利益優先でいざこざ起こしたり秀信を自身が傀儡にしようとしたり、
ゴタゴタがあまりにも続きすぎた。まあおおよそ信雄に起因するとも言えなくはないが。
281人間七七四年:2012/03/04(日) 17:30:57.19 ID:WAorcmBS
>>275
俺がたてたスレだから
282人間七七四年:2012/03/04(日) 17:31:06.19 ID:UcSlsOtY
>>279
そんな主張してませんが?
他の人とごっちゃにしないでくれ
283人間七七四年:2012/03/04(日) 17:32:31.07 ID:RwsG7Lq9
>>276
織田信長と織田信忠が倒れたらしいということはほとんど皆に伝わっているんだから
信長の息子の織田信雄や織田信孝が勝手に権力行使しようとしても咎められる人はいない。
いるとすれば信長や信忠本人だろうが、危急の時に息子弟が独断で対処しようとしたくらいで処罰できるとも思えない。
つか実際は死んでるし。
284人間七七四年:2012/03/04(日) 17:35:13.82 ID:UcSlsOtY
>>280
この場合重要なのは形式上どうかという事
戦国時代長子が優先的に家督相続されるのと同じ事
彼らは実質的にはともかく形式上は他家の人間
どちらにせよ信長の死の時点で信雄がトップとして機能していた論拠はない
285人間七七四年:2012/03/04(日) 17:39:43.24 ID:UcSlsOtY
>>283
信雄信孝が権力行使しても皆が従わなければ意味がない

で、ごたごたの末織田旧臣は信雄信孝をトップとして織田家が存続する事なく
秀信が奉られて利用されただけ
286人間七七四年:2012/03/04(日) 17:41:18.07 ID:RwsG7Lq9
>>284
形式上も何も信長信忠がいなくて秀信が認知されていないんだから本来は信雄が継ぐのは当然のこと。
ましてや御馬揃えで織田家一門衆として名が通っている人間なら猶更。

>>どちらにせよ信長の死の時点で信雄がトップとして機能していた論拠はない

ないからダメなんだって言ってるんだよw
あったら織田信雄のもとで織田家臣が行動して、で全て丸く収まる
287人間七七四年:2012/03/04(日) 17:44:41.74 ID:RwsG7Lq9
>>285
従う従わないと言うよりは、姿勢を見せるべきだったというのが原因。
特に信雄は信孝と違って光秀討伐に何もしていないと咎められるのもそれのせい。
実際信孝が主導したわけではなく、あくまで光秀討伐に参加したと言うだけだが、
それでもそこが評価されるのは討伐して織田を再興しよう、という意思が見て取れるから。

>>秀信が奉られて利用されただけ

肝心の信雄信孝がそれをしようとしたフシがあるから。
ある意味秀信は最大の被害者ともいえる。
288人間七七四年:2012/03/04(日) 17:47:52.82 ID:UcSlsOtY
>>286
織田家の家督が信雄の元にあるといった>>270に対して反論してるんだけど?
北畠家の人間として、織田家臣たちにも織田当主として認識されない人間が
資格があるから織田当主として振る舞えなんて土台無理な話
289人間七七四年:2012/03/04(日) 17:50:51.38 ID:UcSlsOtY
>>287
姿勢を見せたのかも知れないし見せてても見せなくても資格があるだけで
実質上当主としての地位にいなかった事に変わりはない
信雄信孝がどうしようが、秀吉がそれを利用して織田家を乗っ取った事実に変わりはない
290人間七七四年:2012/03/04(日) 17:52:39.19 ID:RwsG7Lq9
>>288
北畠家の人間が御馬揃えで織田家当主たる信忠の次に来ると思うか?
信雄が父や兄のいた織田家を捨ててかつて滅ぼした北畠家を取ると思うか?

後者はともかくとして、前者の御馬揃えは認知度としては十分すぎるくらいある。
まがりなりにも信長の息子なんだから簡単な話父の仇討といえば名分もある。
当主として振る舞うことは現実不可能にしても、意欲くらいは見せるべきだった。

が、まあその後の当主秀信の時の後見人になったときの方がアレなのかもしれんが
291人間七七四年:2012/03/04(日) 17:56:54.11 ID:UcSlsOtY
>>290
そら他家に養子に出され北畠姓だったんだから形式上は北畠だった事に変わりはない

本能寺後信雄が織田当主として機能していないと言ってるんだけど?
292人間七七四年:2012/03/04(日) 17:58:26.20 ID:RwsG7Lq9
>>289
乗っ取りなんていうのは所詮結果的なこと。
信雄信孝がいざこざなり、派閥争いなり煽って、
その結果織田家臣がそっちのけにされていた秀信擁する秀吉についただけ。

そもそも利用したという点で見れば天正13年に秀吉が関白に任じられて朝廷官位のTOPとなった時点で
朝廷とのパイプもあるから織田家なんて見捨てればいいだけのこと。
それをせずに丁重に扱っている時点で利用したという見解もあてはまらないし、
秀吉が積極的に織田家を乗っ取ろうとしていないということは対立側の柴田勝家らの動きを見れば一目瞭然。
293人間七七四年:2012/03/04(日) 18:01:29.95 ID:RwsG7Lq9
>>291
機能しなかったからダメだったって何回言わせるんだよ。
信長の息子で秀信も認知されていない以上嫡流の断絶から分家筋の信雄に当主の座が回ってくるのは想定できるだろ。
そこで信雄が有効な立ち回りと姿勢ができていれば清洲会議で秀信が当主になれたかどうか怪しい。

形式上はなんて言ったらキリがないな。危急の時に信雄は北畠の継いでるからなんて細かいことを気にする場合じゃない。
294人間七七四年:2012/03/04(日) 18:04:43.97 ID:UcSlsOtY
>>292
>乗っ取りなんていうのは所詮結果的なこと。
結果からいえば乗っ取りです
>信雄信孝がいざこざなり、派閥争いなり煽って、
>その結果織田家臣がそっちのけにされていた秀信擁する秀吉についただけ。
秀信を当主としてかかげて織田家臣を味方につけた
>そもそも利用したという点で見れば天正13年に秀吉が関白に任じられて朝廷官位のTOPとなった時点で
>朝廷とのパイプもあるから織田家なんて見捨てればいいだけのこと。
見捨てると当初の名分に傷がつくからじゃないの?
>それをせずに丁重に扱っている時点で利用したという見解もあてはまらないし、
元が織田家臣なんだから織田家臣として行動しなくてはならないのは自明
織田秀信の命令に従い織田秀信を当主として実権を織田に戻さず
自分がトップになった時点で叛意
>秀吉が積極的に織田家を乗っ取ろうとしていないということは対立側の柴田勝家らの動きを見れば一目瞭然。
秀吉の名分やら金品やら色々な要素に釣られて皆味方についただけじゃないの
295人間七七四年:2012/03/04(日) 18:07:32.84 ID:UcSlsOtY
>>293
だから織田信雄は当主じゃないっていってるじゃん
機能しなかったのは織田家臣たちにそう認識されなかっただけで
全て信雄の責任というわけでもない
他家の人間という形式こそが重要
長子優先で相続させるのと同じ
信長が後継者として指名してたなら別だけど
296人間七七四年:2012/03/04(日) 18:18:52.64 ID:RwsG7Lq9
>>294
>>秀信を当主としてかかげて織田家臣を味方につけた

そもそもこれやったの秀吉だけじゃないからな。
江戸期の講談だと徳川の印籠よろしく秀信を切り札に出して秀吉が諸将をーなんてくだりがあるが、
実際は協議の上で織田秀信が当主になったんだから皆それを承知済み。
つか講談では勝家は信孝を推してることになってるが両者は元服くらいしか繋がりがなく、
逆に信孝は秀吉とは山崎で一緒に戦った縁もあるからかえって秀吉有利になるだけだぞ。

>>見捨てると当初の名分に傷がつくからじゃないの?

ないわけではない。が利用するだけして終わり以上の考えがなければ秀信の美濃10万石付与は完全に蛇足ですわ。

>>織田秀信の命令に従い織田秀信を当主として実権を織田に戻さず

織田秀信がそのような命令を出したのならまだしも出したという史料はあったか?
信雄は後見人を自ら下りたし、信孝は死亡している。戻せと言われていないのに戻す必要はないし、
そもそも織田秀信の当主就任当時の織田家当主の権力は全盛期と比べると衰退している。

>>秀吉の名分やら金品やら色々な要素に釣られて皆味方についただけじゃないの

清洲会議以降で織田家の主力派閥になろうとしたのはむしろ柴田や信孝。
その証拠に信孝は岐阜に秀信を半ば幽閉して実権握る気満々だったし、
勝家も出遅れずと清洲会議で得た織田家準一門としての立場を駆使して信孝と連携しはじめている。
逆に秀吉は一連の動き見ているとこの対応にかなり遅れている。
ようやく秀吉が自分の養子である秀勝(信長息子)を喪主として信長の葬儀を主導して
織田家の家臣達を取り込もうと奔走しはじめたりするのも大分あと。
297人間七七四年:2012/03/04(日) 18:20:16.08 ID:RwsG7Lq9
>>295
だからその長子もいないんだから信雄以外に誰が後継ぐのって状態でしょ。
誰も申し出をしないから織田家は後継ぎがいなくて指揮系統も一本化しないから各々勝手に動き出したんだから。
まあそれをする間もなく秀吉が動いたってのもあるといえばあるんだけど。
298人間七七四年:2012/03/04(日) 18:56:26.88 ID:kD5y7mqx
信雄さんは家臣から無能扱いだったから仕方ないんでないの?
実際に自分の立場も分からず最終的に身代は1万石とかにまでなってるんだから>織田家
秀信に美濃10万石あげた秀吉はまだ織田家を存続させてる
299人間七七四年:2012/03/04(日) 19:17:05.46 ID:eFi8rwAk
>>174
信長は織田家による領地支配を全く考えていなかった。
完全に内政丸投げ。
織田軍統一の規則自体がまるで無く
しかも一職支配権を与えて丸投げするから、
勝手に在地国人たちと主従を結んでいるにすぎ無い。
そのために大規模謀反が多発。
結果、信長死んだら織田の命を無視する一職支配権者が自立乱立したために
秀信を擁して専横されて
家臣と主従関係が逆転し下克上されて織田は引きずり落とされた。
一職支配権とは簡単な話、
室町幕府における守護設置みたいなもん。
300人間七七四年:2012/03/04(日) 19:22:46.18 ID:UcSlsOtY
>>297
誰もいないから信雄という理屈にはならない
現に織田家臣達は信雄を主君として動いていない
資格があるだけで中身は何もない張子の虎
>>296
秀吉がやったかどうか論じてるから秀吉以外どうこうは関係ない
秀信に申し訳程度に領土あげただけ
>信雄は後見人を自ら下りたし、信孝は死亡している。戻せと言われていないのに戻す必要はないし、
>そもそも織田秀信の当主就任当時の織田家当主の権力は全盛期と比べると衰退している
衰退してようがしてまいが
秀吉は織田家家臣だから主君のために動き戦うのが道義
自分が権力者不在&織田家混乱に付け込んでトップの地位についていい事にはならない
でも結果的に皆秀吉に篭絡された事には変わりないんだから
301人間七七四年:2012/03/04(日) 19:42:23.48 ID:RwsG7Lq9
>>300
肝心の信雄がそれらしいことを何もしていないんだから当たりまえ。動きようがない。
だから柴田のように動けず待機していた連中も多い。まあ明智が近江方面に兵を多く割いたと言うのもあるが。

>>秀信に申し訳程度に領土あげただけ

これは何度も言うがどこがそうなんだ?
10万石というのは豊臣家臣が一生涯かけて貰えた土地。
にもかかわらず秀信はいきなりわずか11歳で貰っている。
ちなみに10万石というと豊臣一門衆が貰える領土。

>>秀吉は織田家家臣だから主君のために動き戦うのが道義

壊れた機械のように何度もつぶやいているがその主君がいなかったんだからどうしろって話だろ。
いない主君に尽くして命令を待てとでもいう気か?

>>自分が権力者不在&織田家混乱に付け込んでトップの地位に

そもそも秀吉は織田家のトップについていない。織田家のトップには依然秀信がいるんだから当たり前。
秀吉は豊臣家として朝廷の官位を駆使して天下のトップに君臨しているの。
織田家は本能寺のごたごたや秀吉の引き抜き工作で与力を一体化するなりして勝手に衰退しただけ。
それこそ秀吉に取り入り秀吉の庇護を受けなければ存続すら際どいくらいにな。
302人間七七四年:2012/03/04(日) 20:28:30.95 ID:UcSlsOtY
>>301
秀信は本来織田家当主になるべき人間
秀吉は織田家家臣なので秀信のために奔走し実権は全て秀信に帰すべき
それを考えると10万石そこそこというのは申し訳程度
主君は秀信
信長の死の時点では無主だがその後の重臣会議で秀信と決まったからには
秀信を主として行動しなくてはいけない
織田家をいわば簒奪したも同然
形式上の秀信が幼いのをいい事に好き放題やって天下取りに利用しただけ
303人間七七四年:2012/03/04(日) 20:40:17.11 ID:RwsG7Lq9
>>302
本当に江戸時代の感覚が抜けてないな。

>>秀吉は織田家家臣なので秀信のために奔走し実権は全て秀信に帰すべき

こんなこと戦国時代で言ってたら笑われるぞ。
ましてや秀吉の場合関白宣下という朝廷のお墨付きまで貰っている。
もはや誰が見ても豊臣家>織田家であったということは明らか。

>>織田家をいわば簒奪したも同然

日本語がおかしい。織田家を簒奪したというのなら簒奪相手は織田秀信か織田信雄。
つまり秀吉にとっては簒奪した相手など残すだけ無駄どころか自身に危害が及ぶだけなので殺すしかない。
もちろん簒奪したからには織田家なんて存在しないか織田家当主に羽柴秀吉が就任するかのどちらか。
しかも織田家は天下を取っちゃいないしむしろ本能寺後はかろうじて残ったと言っていいくらいの窮状。

そういう時は吸収って言う言葉を使ってほしいね。
言ってしまえば羽柴秀吉の豊臣改姓は衰退する織田家との決別みたいなもので、
事実上この段階で朝廷に認められた豊臣家と織田家が別箇に存在している。

で旧織田家臣達が衰退する織田家を見限り、隆盛著しい豊臣家に鞍替えしただけ。
畿内中国濃尾などなどにひしめく数多の家臣や豪族たちが織田を見限り豊臣を支えたというだけのこと。
304人間七七四年:2012/03/04(日) 21:23:06.74 ID:UcSlsOtY
>>303
家臣は文字通り家に仕えるべき存在
家臣だからといって主家の混乱に付け込んで実権を奪い取る事は立派な反逆行為
本能寺後なぜ光秀に付き従う人間が少なかったのか考えればわかる
他家に養子に出された存在の人間が織田家当主としての地位もないのに
織田を盛りたてよなどと難題すぎる
織田家が残ってる以上家臣達は織田家に従うのが道理
清洲会議での問題も織田家臣の会合として行われたのがその証左
秀信は幼いとはいえ当主の座についたんだから
織田家臣である秀吉は秀信をトップに織田家を盛り立てなくてはならないが
した事といえば織田を利用して自分の権力確立に役立てただけ
程度の差こそあれこれは織田家に叛く行為

朝廷どうこうは秀吉が実権握った後なんだから反逆でない事を証明する事にはならない

>日本語がおかしい。織田家を簒奪したというのなら簒奪相手は織田秀信か織田信雄。
>つまり秀吉にとっては簒奪した相手など残すだけ無駄どころか自身に危害が及ぶだけなので殺すしかない。
秀吉は彼らを利用したんだから彼らになんらかの待遇を与えないと
外聞が悪すぎ批判を被るからというだけ

>もちろん簒奪したからには織田家なんて存在しないか織田家当主に羽柴秀吉が就任するかのどちらか。
>しかも織田家は天下を取っちゃいないしむしろ本能寺後はかろうじて残ったと言っていいくらいの窮状。
そら始めは織田系統のごたごたから始まってそれを利用した秀吉に実権奪われただけ

>で旧織田家臣達が衰退する織田家を見限り、隆盛著しい豊臣家に鞍替えしただけ。
家臣たちは信長の死と同時に織田家を実質的に見限り
皆好き勝手やり始めた
信雄を当主とするでもなし秀信を当主とするでもなし
結局利を求めてくちゃくちゃな状態に戻っただけ
秀吉はそれを利用して多くの諸侯を味方につけ織田家を事実上乗っ取った。
>畿内中国濃尾などなどにひしめく数多の家臣や豪族たちが織田を見限り豊臣を支えたというだけのこと。
そう。つまり織田家は本能寺時点で実質的に崩壊状態にあったといっていい
305人間七七四年:2012/03/04(日) 21:30:14.69 ID:kD5y7mqx
>>299
信長もそんなんしてたらいずれ地方で軍団長どもが
謀反を起こすということを考えてなかったのか?それとも
ワザと反乱させてまとめて葬るつもりだったのか?

その第一号にされたのがあの明智さんだったと考えたら
本能寺の変も説明できなくもないな。
306人間七七四年:2012/03/04(日) 21:33:20.50 ID:kD5y7mqx
まあ秀吉も信孝切腹させたり、その母親を死刑にしたりと
主家を結構抑圧してるのは確か。その報いなのか大坂の陣で
豊臣は滅亡したのかもしれん。


307人間七七四年:2012/03/04(日) 21:52:11.33 ID:RwsG7Lq9
>>304
だからおまえはいい加減江戸時代のカビ臭い儒教思想を改めろ。
家臣が家に代々仕えるというのが常識化したのは1683年の徳川家綱による殉死禁止令から。
それ以降は主が死ねば家臣は好き勝手やるのが常識で主が死んで家を離れたりするのも多い。
戦国期の人間に家臣は家に仕えるのが常識だからずっと尽くせというのはおまえの自己満足以外の何物でもない。

>>他家に養子に出された存在の人間が織田家当主としての地位もないのに織田を盛りたてよなどと難題すぎる

既に御馬揃えや伊賀攻めに始まる認識から織田信雄は織田家一門衆であり信忠に準じる立場だったというのは周知の事実。
ある程度のおぜん立てがあったにもかかわらずそれを危急の時に有効活用できなかった信雄はその程度の才能だったということ。
秀信が認知されておらず、信長も当時としてはいつ死んでもおかしくないご時世にこれはダメ。
信忠死んだら織田家は終わりというのが具現化しただけにすぎない。

>>程度の差こそあれこれは織田家に叛く行為
>>朝廷どうこうは秀吉が実権握った後なんだから反逆でない事を証明する事にはならない

織田家の当主は秀信なんだからそれを庇護した秀吉は織田家に背いてすらいない。
当主が後見人の信雄とするなら信雄は小牧以前に尾張に戻って秀吉と絶縁している。
実質織田信雄が織田家家臣としての秀吉を追放罷免したのと同義で、罷免された家に尽くす義理はない。

>>家臣たちは信長の死と同時に織田家を実質的に見限り。皆好き勝手やり始めた

好き勝手やったというのはおまえの妄想。実際は領土保全と敵対勢力や一揆に備えるために国元へ戻ったのがほとんど。
ところが織田家家臣が家臣としてやるべきことをやっているのに主君が不在で誰もそれ以上何をしていいかわからず待機していただけ。

>>秀吉はそれを利用して多くの諸侯を味方につけ織田家を事実上乗っ取った。

肝心の織田家が衰退して内輪もめしている中で権力を持った人間にすがりつくのは領主なら当然。
秀吉が意図してやったわけではなく勝手に織田家がそうなっただけのこと。

>>そう。つまり織田家は本能寺時点で実質的に崩壊状態にあったといっていい

それは君の「清洲会議での問題も織田家臣の会合として行われたのがその証左」という発言と矛盾するねw
都合よく理屈を回すからこうなるんだよw
308人間七七四年:2012/03/04(日) 22:22:52.43 ID:qBNMMpwJ




名前:
E-mail:
内容:
信長の好い加減な統治により、
家臣らが軍閥化していた。
信長の死によって簡単に、
大身家臣が安易に自立できるだけの在地と一職支配家臣の主従関係が成立していた。
信長と在地国人には統治の仕組みは存在せず、
織田政権が脆く崩壊する構造だった。
織田テキトー政権は、そもそも足利幕府に寄生してただけ。
いずれ大身家臣が信長を下克上するのは当然の結果。
なぜなら家臣と在地が主従であり、
在地と織田に内政政策による介在がなく、従って主従関係が無い。
光秀の命令を聞いて信長を殺す軍隊であり
軍隊は信長を主人だと思ってない。
家臣の力量、懐柔、苦楽を共にする戦友家中が戦闘集団である。
> 池上裕子著「織豊政権と江戸幕府」より
>
> 「(佐久間盛信への)折檻状から読み取れるように、信長自身は所領の大きさに比例して、
> 家臣一人ずつの軍役数を定めると言う方法をとっていない。家臣をどれだけ抱えるかは
> 各自に任されていた。
> これは鎌倉・室町期の武士たちの有り方と類似で、北条・武田らが所領貫高に比例して
> 軍役数を決定した方法といちじるしい対照を成す。
> 従って武篇道と戦果が問題となる。
>
> (中略)
>
> 信長は信盛親子に続いて、家老の林通勝(秀貞)、安藤守就親子、丹羽右近も追放した。
> それは信長の権力強化の表れのようにも見える。これをもって中世の武家権力と違って、
> 信長が家臣の所領に対し干渉しているとか、領域統治能力を問うているとかと評価して、
> 信長の権力は新しいとみる見方もあるがいかがであろうか。
>
> 信長は家臣を大名に任じて分国を統治させ、各方面ごとの総大将を任命して統一戦争を
> 戦っていかなければならない。
> 拡大する家臣団と支配領域に対応した家臣団編成、軍役賦課・軍事力編成が
> なされていないからこそ生じた問題であろう。
> それを武篇道の督励で対応しようとしたのが追放策であろう。
> それは、信長自身が武篇道に邁進して土地支配制度と知行制の整備を怠ってきたことに
> 原因があるのであって、逆に信長の限界を示すべきものとみるべきであろう。
>
> この問題の解決は秀吉の課題となる。
309人間七七四年:2012/03/04(日) 22:52:21.09 ID:RwsG7Lq9
領内整えるまでに死んだとか拡大速度が急すぎたと言うのがいろいろあるが・・・
正直絶対王政みたいな中央集権化は統一政権でないと厳しい。
織田政権は統一政権じゃないのだから当然当主権力そのものは旧来と変わらなかっただろ。

あと佐久間は書状にもあるとおり折檻だから追放じゃないぞ。
条件提示して佐久間が落胆して追放を選んだと言うだけ。
一度信長に刃向っておきながら大した武功もなくいつまでも筆頭家臣面している林は信長的に考えれば追放されて当然。
310人間七七四年:2012/03/04(日) 23:21:55.22 ID:UcSlsOtY
>>307
カビくさいんじゃなくてお前がそれを認めてない脳なだけ
家を盛り立てるのが家来ってその文字から馬鹿でもわかるだろ
なんでこんな当たり前の事でもめるかね
当主が死んで代替わりの時期に毎回裏切りの嵐ばかりだったらどこの大名も代替わりの時期に
滅亡しまくり
全国津々浦々見ても当主がしんでも家来が家に従わなくなる行為は叛意以外の何者でもない
織田家臣団が信雄を盛り立てなかったのが悪いだけ
秀吉をはじめとする織田家臣団が自分の利益ばかり考えて主家をないがしろにしたから
織田家は本能寺の変の時点で機能しなくなったも同然
>織田家の当主は秀信なんだからそれを庇護した秀吉は織田家に背いてすらいない。
当主に対し家来が好き勝手やって実権を秀信に返さず天下人として君臨し申し訳程度に領土を与えただけ

311人間七七四年:2012/03/04(日) 23:25:11.35 ID:UcSlsOtY
>好き勝手やったというのはおまえの妄想。実際は領土保全と敵対勢力や一揆に備えるために国元へ戻ったのがほとんど。
>ところが織田家家臣が家臣としてやるべきことをやっているのに主君が不在で誰もそれ以上何をしていいかわからず待機していただけ。
コピペね
信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ
(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され
森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に
安堵状を発給しまくる始末www
織田信澄を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww

>肝心の織田家が衰退して内輪もめしている中で権力を持った人間にすがりつくのは領主なら当然。
>秀吉が意図してやったわけではなく勝手に織田家がそうなっただけのこと。
ようは皆織田家家臣という意識がなくなったわけだ。本能寺と同時にな
皆好き勝手動いてるだけで
信雄も秀信も当主として命令に従うわけでなく自分の利益追求に邁進してただけ
織田家は実質終り
312人間七七四年:2012/03/04(日) 23:42:36.52 ID:RwsG7Lq9
>>310
>>家を盛り立てるのが家来ってその文字から

当時は家=主君なので何の問題もありませんが。
つか一次史料でもわかる基礎事項だぞ殉死禁止令ってのは。

>>当主が死んで代替わりの時期に毎回裏切りの嵐ばかりだったらどこの大名も代替わりの時期に滅亡しまくり

そのまま後継ぎに仕えるかその家を離れるかは家臣当人の自由。
わかりやすい事例を挙げると豊臣秀吉が死んで徳川家康に付き従った大名が多いのはまさにこの世相をよく表している。
つかおまえの大好きな武田家は当主の弟以外ほぼ全て寝返りと言う稀に見る寝返り頻発劇で滅亡したのにそんなことも知らなかったの?w
おまえの考えで言うなら武田家臣は当主の勝頼に尽くさなきゃならないんだよな?w死んでも尽くさなきゃならないんだよな?w

>>秀吉をはじめとする織田家臣団が自分の利益ばかり考えて主家をないがしろにしたから

散々言われている、肝心の主家が存在してない。

>>当主に対し家来が好き勝手やって実権を秀信に返さず天下人として君臨し申し訳程度に領土を与えただけ

当主秀信自身に実権はない。実権を持っているのは後見人たる信雄。
信雄が小牧の時に秀吉と絶縁して秀吉を織田家から義絶した。
秀信に罪はないので大名としての織田家を後に再興した。

>>ようは皆織田家家臣という意識がなくなったわけだ。本能寺と同時にな

当主がいないので家臣は動けません。


よほど悔しいのか?w
自分の大好きな武田家が家臣に再興すらしてもらえず、その辺の地侍と同じ旗本止まりなのに
自分の大嫌いな織田家が家臣はおろかよそ者の家康にすら再興してもらえて大名になったことがw
313人間七七四年:2012/03/05(月) 08:09:58.36 ID:Za3oA9uC
ちょっと覗いてみたら、アンチ秀吉のチョンが全力でファビョるスレでワロタw
314人間七七四年:2012/03/05(月) 10:42:52.88 ID:sYXH9z4R
だってだがやSUBがチョンだもの
ある意味当然の流れともいえるw
315人間七七四年:2012/03/05(月) 19:52:55.82 ID:mIzfIuAd
武田は浅間山噴火が
武田滅亡の天意とされた為に離反と言うより離散しただけ。
信長はその政権自体がデタラメかつテキトーだから
家臣の下克上が起きるのは時間の問題だった。
それは安国寺の予想からも明らか。
信玄死んだ直後に重臣が専横したわけじゃないし、
あくまで主家を盛り立てていたし、
謙信死去後に後継者争いは起きても、
争いを利用して主家を下克上しようとするものは重臣にはいなかった。
あくまで主家を盛り立てようとしていた。
しかし信長は旧体制のままで、
なおかつ遺徳もなく
よって家臣の心も掴んでおらず、うわべだけの関係でしかなかった。
316人間七七四年:2012/03/05(月) 20:54:01.11 ID:xKiRciRJ
武田当主がいるのに噴火にビビって国元にトンズラした弱小武田軍団w
あいや、実は信長にビビったのかもしれないなw
317人間七七四年:2012/03/05(月) 21:35:51.60 ID:qmFWlTFY
武田家臣にとっての重要度

噴火が起こったので家に帰る事>>>>>>>武田家が滅ぼされて領主が織田家に変わる事
318人間七七四年:2012/03/05(月) 22:06:32.33 ID:UIyKBHiA
織田家の存続を考えていたのは、”お江”だけだった
319人間七七四年:2012/03/05(月) 23:37:26.33 ID:9YJ753Hj
>>315
保科や真田が武田をもり立てようとしていたか?
320人間七七四年:2012/03/05(月) 23:53:10.32 ID:B+fFZj2V
だがにとって織田家に刃向かわない頑張りなど無きに等しいんだろ
321人間七七四年:2012/03/06(火) 00:35:48.81 ID:RqB4QnOY
小山田一族を謀殺しないと国人衆力ありすぎ
家臣粛清しないから増長を招いた
322人間七七四年:2012/03/06(火) 02:00:49.56 ID:ThIFFc3e
         ___
       /     \ 
      /   \ , , /\ 家臣とは文字通り家に仕える者、盛り上げる者のことだお
    /    (●)  (●) \   つまり豊臣秀吉は織田家家臣なのだから清洲会議で決まった織田秀信に最後まで尽くすのは当然のことだお
     |       (__人__)   |  これを怠った挙句織田家を乗っ取るなんて言語道断だお、不義不忠だお、武士の道義に反する卑賤の人間だお
      \      ` ⌒ ´  ,/    所詮織田家はうわべだけの付き合いで信長の遺徳なんてこれっぽっちもないお
.      /⌒〜" ̄, ̄ ̄〆⌒,ニつ
      |  ,___゙___、rヾイソ⊃
     |            `l ̄
.      |          |


        / ̄ ̄\   
      / ∪    \      ____
      |::::::        |   /      \  
     . |:::::::::::  ∪  |  / ⌒   ⌒  \      武田家が崩壊したのは浅間山の噴火のせいだお               
       |::::::::::::::    |/  (●) (●)   \   これはもはや武田家滅亡が天意であり避けられない事態だったのだお
     .  |::::::::::::::    } |    (__人__)     | よって武田家の当主である勝頼を見捨てて家を守るのは不忠でもなんでもないお 
     .  ヽ::::::::::::::    } \   ` ⌒´     _/    武士の道義?家臣は家に尽くすのが当然?大名家が滅びるのにそんなこと言ってられないお
        ヽ::::::::::  ノ   |           \
        /:::::::::::: く    | |         |  |
-―――――|:::::::::::::::: \-―┴┴―――――┴┴――  
         |:::::::::::::::|ヽ、二⌒)
323人間七七四年:2012/03/06(火) 06:55:08.15 ID:bRKrzyQ/
内ヶ島氏でもあるまいに
噴火で滅亡てマヌケすぎワロスwww
324人間七七四年:2012/03/06(火) 08:44:19.00 ID:PtjxH7Wb
信長は家臣に下克上されたアホ
しかも信長死後一ヶ月経たずに
別な家臣に織田家を専横される始末。
信長の統治体制がクソなのが原因であり、
織田後継体制の話し合いにすら織田一門は信長の息子も含めて列席すら許されず除け者扱いw
325人間七七四年:2012/03/06(火) 09:24:41.94 ID:tIuQZ8yO
織田一族が既存の土地に執着する古い豪族の連合体で
武田家などは集権化が比較的進んでいたことが判明しているんだよね
織田一族の領域では在地構造がそのまま温存されたり
私的な関係や便宜的な寄子寄親関係で適当に済ませてるケースが非常に多いが
武田家の領国では代官支配や主城主を中心とした再編成が多く見られる
ざる統治だったので、ちょっと体制を整備しようと
取り敢えず重臣2人のクビ斬ってみたら、反動で連続謀反が起き死亡ってとこじゃね
織田に離反が多いのも私的な主従関係を築いて一蓮托生な国人が多いから。
326人間七七四年:2012/03/06(火) 09:55:11.51 ID:bRKrzyQ/
信長がアホであればアホであるほどそれに滅ぼされた武田が惨めだな
327人間七七四年:2012/03/06(火) 09:56:13.39 ID:tIuQZ8yO
>>徒手空拳の秀吉や光秀が手柄を挙げて異例の出世ができた。
国人連合体の他の大名組織では絶対に有り得ない出世と抜擢。

そもそも明智光秀って無名なのに信長から抜擢されたわけじゃねーじゃん。
光秀は足利義昭の姉婿の若狭の武田義統の姉妹を母にしてたし、
信長公記にも光秀は朝廷と強い繋がりがあったと記され
朝廷工作に必要な人材だったわけで
義昭配下の幕臣だった細川幽斎や和田惟政と光秀は同じ立ち位置。
信長の抜擢もクソもねーじゃん。
光秀の正室は不明。ガラシャを生んだ継室も出自がよくわかってない。
ただ細川家とガラシャは婚姻してるのでいずれにしても身分は高かったと言われてる。

尾張生まれの秀吉は織田配下で算術系能力が必要な奉行職をやっていたようだし
信長公記初登場の義昭を奉じて上洛の時点で
すでに一軍の将として佐久間信盛や丹羽長秀と同列で書かれてるし
浅野長勝の養女と結婚できる身分を持ち合わせてるし
美濃にも人脈が存在していて岐阜城を占拠した竹中重治や
流通業者も兼ねていた川並衆の蜂須賀正勝や前野長康にも顔が利いていた。
それなりの立場を持っていたとしか思えない。

本庄の乱が勃発するまで在地国人家臣らを信用し人質すら取らずにいたが
本庄の乱をきっかけに親しい者達からも人質を取り在地国人豪族を完全に統制下においたから
それ以降は家臣の謀反が無くなり版図の支配も安定している。
晩年まで謀反だらけの信長では勝ち目は無いだろうね。

謙信の抜擢と信任を受けた新参者
織田との最前線の鎮将として能登支配の牙城七尾城将だった鯵坂長実
近江出身で古志長尾家を相続した富山城将や沼田城将を歴任した河田長親(のちに北陸方面総司令官)
安田氏の家督を相続した河田長親の弟の堅親
魚津城の戦いで死んだ近江出身の吉江資堅(子は中条の家督を相続した景泰)
河田長親に至っては謙信が署名した白紙の書状を50枚以上持っており、
謙信の名で臨機応変に書状を出して命令をする権限も所持。
他国出の者を抜擢した謙信が反発を覚悟して
無理やり越後国内の有力領主の跡を継がせたりしてるのに連絡役なわけないだろ…。
そういや信玄が抜擢した春日改め高坂弾正は単なる百姓の子だったよな。
白紙委任状でナニができるかを考えれば、どれほどの権限、信頼かわかろう
328人間七七四年:2012/03/06(火) 09:56:30.05 ID:tIuQZ8yO
有力な織田直参の柴田や丹羽や池田の跡に世襲を認めず
秀吉や光秀ら他国者に継がせるようなもんだな。
土着国人領主の影響力を排除し謙信側近官僚による直轄化への動き。
謙信は最初河田堅親に中条の家督を継がせようとしたが
中条家中の反発が激しくて失敗したんだよ。
しかし謙信はあきらめずのちに吉江景泰を中条の家督に入れ込むことに成功したわけだ。
謙信は在地領民を掌握している国人領主は北条や本庄のように離反の危険性が高い為に
他国者を取り立てて側近官僚としてネジ込んでるんだよ。
他国者だから在地領民との代々の繋がりがない官僚だな。
在地領民と領主を切り離し官僚化させて中央集権化していくのは豊臣政権になると激しくなるが、
謙信は安堵権を利用して国人領主割拠の解体を始めてる。
しかも河田も吉江も鯵坂も重臣の地位をまったく世襲してない。
それに天正3年軍役帳において後継者の1位の景勝に続いて
2位 山浦上杉国清(養子として信濃村上国清をネジ込む)
3位 上条上杉景信(この古志長尾景信のこと。こいつの跡を河田長親が継ぐ予定ですでに古志衆が付けられていた)
4位 上条上杉政繁(能登畠山氏の出説あり。この後は能登畠山義春が継ぐ予定)
こんな感じで家格の序列で在地領主権のない他国者が上位になるように仕向けられてる。
家中と在地領主権の改革が実行されてるのは明白なんだけど。
こういう在地領主には不利益になることを実行してた時期の上杉軍はいまいち奮わなかったけど
この天正3年の家格序列を基礎とした軍役をかけてからの上杉軍は異常に強い軍になって北陸制圧までしてる。
謙信がもうちょっと長く生きていたら完全に官僚化がなされていたよ。
残念だったのが上杉景信が謙信より長生きしてしまったことか。
景信から河田への古志長尾の反発を抑え込んでの継承が完遂していれば
上田長尾との対立の歴史が消え御館の乱の勃発を防げていた。
それに吉江景泰は中条の家督を継承したが中条の領地には一切赴任してないと言われている。
常に側近官僚としての立場で景勝の代になっても変わらなかった。
ちなみにまだ18歳だった吉江景泰は7位ね。
武田はすでに信虎がかなり新人採用しまくってたから抜擢の土壌が成熟してるからね。
だいたい武田五名臣からして他国者ばかりだし。
近江出身で六角に仕えていた横田高松 美濃出身の多田満頼 下総出身の原虎胤
実在は不明だが諸国流浪の山本勘助。
そういや原虎胤に父を討たれて駿河から流浪してきた北条綱成を採用した北条氏綱なんかも大抜擢されたよな。
329人間七七四年:2012/03/06(火) 09:57:28.31 ID:tIuQZ8yO
>>河田は嫡男が世襲してるんだが。夭折したがな
お前さ、河田には養子がいるのも知らんのかwww
そもそも岩鶴丸以外にも2人の実子と2人の養子がいたとも言われてる。
江戸時代には河田一族で本家分家争いまで起きてる。
ちなみに岩鶴丸の跡を継いだのは従弟で養子の源七郎。
だが世襲してないから古志長尾氏の栖吉衆を引き継ぐことはなかった。

天正5年12月杉家家中名字尽において鯵坂長実は越中国扱いとなっており
能登国には上条政繁・直江景綱・長沢光国・平子房長らが派遣衆として能登国衆と名を連ねている。
そのために鯵坂長実は天正5年には能登国から元々の任地であった越中新庄城へ戻っており七尾城には
いなかったとされる (天正6年謙信死去してまもなく鯵坂長実が能登国衆から血判状を取っているのがわかる)
御館の乱では景虎派と思われる越後小千谷の国人だった平子和泉守が城代だった
能登甲山城を景勝側の鯵坂長実が攻撃しているのがわかる。
もちろん鯵坂長実の親類縁者も子孫も地位の世襲などを感じさせるものは何もない。

中条へ養子に入った吉江景泰は祖父・父・兄・祖父の兄弟の息子達と共に越中魚津城で玉砕したが
(祖父はこの時に孫で中条入りした景泰に景勝に貰った領地の一部を譲渡する約束をしてる)
子の中条三盛10歳が残されており、のち景勝の会津入りにも従っているわけだが
これは越中魚津城において一族の大半が景勝のために玉砕したのを哀れんで特例で存続が許されただけ。
そもそも上杉家の家法ではどんな重臣であっても15歳に満たない後継者は領地を没収し、成人された後に継げるかどうか政治的判断される。
しかし特別な功績を挙げた場合のみ恩情が加えられる制度で働かない重臣や国人は衰退するようになっている。

例えば天正三年の「謙信軍役帳」において譜代・旗本の三条城主山吉豊守は序列はかなり低いものの景勝に次ぐ軍役を背負わされている。
35歳で死去した彼には子が無く13歳の弟しかいなかったものの叔父景久の後見を条件に
山吉豊守の多年の軍功と謙信への忠節から特別に先祖伝来の領地半分と三条城を没収されたものの家名存続のご恩を得られた。
ちなみに三条城には神余親綱が城主として治めることになった。

信長にはこんな制度もないだろうが。
それなのに信長が中央集権を目指したとかありえねーから。
330人間七七四年:2012/03/06(火) 10:00:23.69 ID:bRKrzyQ/
どこの安価?武田が織田に滅ぼされた事実に反論できず悔しすぎてついに幻を見出したかw
331人間七七四年:2012/03/06(火) 12:53:45.45 ID:D3AfMGjX
>>325
なあ・・・・集権化が進んでいたのなら何で長篠で穴山とかが主君見捨てて真っ先に逃げ出したんだ?
332人間七七四年:2012/03/06(火) 13:28:22.81 ID:CAoPIaiq
長篠で次々と自爆的突撃と言う
無謀かつバカな方針への抗議だろ。
そんなアホな戦い以前には、
そういう出来事は起きてない。
333人間七七四年:2012/03/06(火) 13:58:31.46 ID:ThIFFc3e
そもそもお家のために討死した連中の残りを匿ったり丁重に扱うことくらい信長ですらやってることだからな。
若干20歳くらいのくせに丹羽池田より領地貰った森長可なんてこの典型だし、
坂井政尚や佐久間信盛の息子たちは信忠側近にして順調に出世コースだったのにw
334人間七七四年:2012/03/06(火) 13:58:57.76 ID:FjSo9Y/4
>>331
だがを擁護するわけではないが、集権化が進むことと主君を裏切ることは直接は関係ないよ。
335人間七七四年:2012/03/06(火) 14:00:47.76 ID:FjSo9Y/4
>>333
原田さん一族の扱いは酷いけどな。
336人間七七四年:2012/03/06(火) 14:10:35.66 ID:ThIFFc3e
>>335
あまり知られていないが原田直政には兄貴がいてな、塙伝三郎って人がそうなんだが、
この人は信忠について武田方面で活躍して、本能寺で信忠とともに散っている。
天王寺合戦では直政以外にも一族衆が多く死んでいるから、単純に兄の方に一本化したかっただけなんじゃね?
337人間七七四年:2012/03/06(火) 14:31:39.24 ID:CAoPIaiq
たしか兄かどうかはわからんはずじゃ?
塙一類を匿うことを厳しく禁止し
塙からの預かりものは紙一枚でも信長に差し出せ!と命じてるし、
塙一類だけでなく、
塙の部下の丹羽ニ介などの代官にも逮捕命令出すほど徹底的に捕縛令を出してるし。
338人間七七四年:2012/03/06(火) 17:49:30.99 ID:tIuQZ8yO
各国最盛期を演出した大名と跡を継いだ不肖の息子達

駿河 英主 今川氏親(北条早雲の姉の子で死没1526年)兄氏輝(〜1536年)の死後に家督争いに勝った
義元は補佐役太原雪斎(〜1555年)が死んだ後は迷走して歴史上でもレアなもっとも恥ずかしい大名の野戦での敗死。

越前 英主 朝倉孝景(〜1548年)
息子義景は補佐役朝倉宗滴(〜1555年)が死んだ後は迷走して最後は従兄弟に裏切られる。

南近江 英主 六角定頼(〜1552年)
息子義賢は最有力重臣で人望もあった後藤賢豊を惨殺し家臣から見放され浅井への内通を許し
六角氏当主権限を縮小する六角氏式目に署名させられた(観音寺騒動1563年)

美濃 英主 斎藤義龍(〜1561年)
13歳で家督を継いだ息子龍興は稲葉山城を家臣に乗っ取られたアホで家督継承しわずか6年で亡国。

跡を継いだ息子はみんな暗君だったと言える。

結果 主家の尾張守護代清洲織田家が衰退期に入り
清洲三奉行・織田家が商業都市津島や熱田を支配し隆盛拡大発展期に入り
円滑に家督を継いだ信長は実に運がいい男と言える。
しかも信長が1556年の斉藤道三の死から1567年に美濃掌握し11年で
尾張57万石+美濃54万石=111万石になり上がり、この濃尾平野に覇権を確立した時点で周囲を圧倒した勢力になっていた。 また三好長慶が死去し分裂紛争中の三好三人衆や松永久秀らの暴虐ですでに三好政権は瓦解。

一方、北条氏康・上杉謙信ら隆盛期を迎えた各家に囲まれた信玄は家督継承し1542年に信濃侵攻を開始し
1553年に村上義清が謙信の元へ敗走し信濃を11年で掌握し(しかも村上家も領土が膨張しており勃興期を迎えていた)
甲斐22万石+信濃40万石=62万石と信玄は自分の領地の2倍の石高の地を併呑する奇跡を成し遂げている。
キツイ城ランキングを見ると信濃の山城ばかり目立つ。武田軍の精強さと攻城の苦労がわかる。
ttp://utsu02.fc2web.com/tozanranking1.html
339人間七七四年:2012/03/06(火) 18:17:05.03 ID:ZNmJZFaO
そんな信濃甲斐は信忠に一月でやられたわけですが…
まあ条件は厳しいな だからこそのスレタイ
回りが強いから無理ってこった
340人間七七四年:2012/03/06(火) 18:23:13.14 ID:tIuQZ8yO
まぁ信長親子はたった一日で織田を滅ぼして
武田滅亡からわずか三ヶ月で後追い自刃してるけどな。
341人間七七四年:2012/03/06(火) 18:25:59.61 ID:TKn5WMb9
信忠ってまともに倒したの仁科1000程度だけじゃん
その戦い(城外戦)ですら織田信家戦死。
これで倒したとか笑わせるなと。
そのほかの連中は戦わずに逃亡・降伏。
342人間七七四年:2012/03/06(火) 18:31:25.26 ID:TKn5WMb9
光秀に瞬殺された信忠は赤井直正以下
343人間七七四年:2012/03/06(火) 18:37:07.09 ID:mhh4ssEC
>>339
当時の甲斐の状況が厳しすぎたってことだろ
あと国人を纏めるのが
344人間七七四年:2012/03/06(火) 18:39:07.16 ID:TKn5WMb9
信玄は国も貧困、山間で移動も大変、周辺は強国ばかり。領土面積当たりの石高が低い甲斐や信濃で 山之内上杉の大軍を破ったり村上、小笠原らとガチで
ぶつかり合い長尾も介入してくる 状況で信濃を取った点や北条との抗争で駿河を取った事、距離的にさほど
攻め込みやすいと言えない徳川領を押しまくり追い詰め、東美濃も侵略した事
など見るにやはり軍略はピカイチだろう。負けがかなり少ないのも大きい。
上田原も板垣の敵陣のど真ん中での首実験が原因だし逆にその状況から反撃して
何人も討ち取っている。信長は大軍で弱体化した小勢力に何回も負ける
斉藤、本願寺、伊勢長島一向一揆。姉川でも大軍で寡兵の浅井に
痛打を加えられず。 大良河原、14条、河野島、伊勢長島第一次、伊勢長島第2次、
屈服した志賀の陣、800の敵に数万の兵で一門を10人殺された伊勢長島第3次。
戦は大した事ない。その分調略や政略でカバーしてる。
版図拡張と言っても山間部出身で周りも強国、国も貧困で京への距離もある武田や
関東出兵や武田との対戦を余儀なくされ国内も反乱やら蘆名の介入やらで
大変、武田以上に京まで遠く雪による制約も大きく関東、信濃、奥州、北陸
多方面戦略を展開してた上杉とは条件が違いすぎる
織田は美濃、尾張で信玄の最大版図くらいになる国力。北伊勢含めばもっと上がる。
幼君でガタガタな斉藤はクーデター起こるぐらいだったし相当弱体化してた。
尾張は石高的にかなり条件の良い国 京から遠くも無く近くもない程よい位置でもある。
京の動乱に巻き込まれず濃尾両国を有すれば思い立ったら上洛できる位置。 西は木曽・揖斐川の大河に守られ
東と結べば背後に敵無し。尾張、伊勢、畿内等は国高の高さの割りに
領土面積が狭く平野部が多く移動も楽。美濃も地形的に東から侵略されずらく
武田の本拠地も遠い。周りの大名も今川義元は運良く戦死 跡継ぎの氏真は暗愚
松平家は独立 同盟で後方の安全を確保 斉藤家の義龍は早死して、跡継ぎの龍興は暗愚
朝倉家の朝倉義景は惰弱で暗愚の代名詞のような大名 六角家は観音寺騒動や対浅井の敗戦で弱体化しきっていた
三好家は分裂状態で統制が取れずバラバラ
織田と本格的に戦う前に信玄は病死 跡継ぎの勝頼は猪武者
織田と本格的に戦う前に謙信は病死 その後上杉家は内乱で自滅 足利義昭も信長の所に来た

当時の武田の状況での信濃攻略は飛騨の三木家が斉藤滅ぼすのと同じくらい難易度高いだろw
強圧的な態度でムリヤリ国を纏めた甲斐守護家と国人衆との間は悪化の一途。 甲斐府中は呉越同舟で牽制し合う状況。
しかも、甲斐は山国であるため、越後の半分の石高(20万石)でしかなく、金山などはまだ後世に誇るほど歳出が見込めた訳でもなく
信玄の家督相続当時は甲斐は飢饉が数年前から猛威をふるうまっただ中で高緯度のため冷夏が発生し
飢饉が慢性化し、河川氾濫で田畑は災害にたびたび見舞われ信玄が家督を継いだ時には数年間連続の飢饉により、甲斐の国状は悲惨この上がありません。
信虎はこれらに有効な手立てをうつ所か今川などの外圧もあり戦闘につぐ戦闘。ただでさえ、基盤の脆い甲斐の国政は破綻しています。
信玄の場合、これらを解決する為には豊かな土地の“略奪”が急務であり、国人衆もそれを求めます。
しかし、経済は破綻している武田家ですから、それを為す侵略は困難を極めたはずです。
しなければ、父と同様に追放の憂き目にあいます。父の偏愛を受けた優秀な弟がいますからその危機は尚更です。
また、このような経路を辿ったため、重臣・国人衆の干渉は非常に強いのです。
しかも、村上に負け続けた時にはその危機が更に深まりました(権臣が死んだのは良かったが)貧しい甲斐は侵略だけでは食べていけません。
信玄はのちに信玄堤と呼ばれる堤防を築いたりして創意工夫の上、新田開発に努めます。
(信玄に始まる甲州流防河法・甲州流河除法は幕府の関東郡代として関東全域開発をした伊奈忠次に受け継がれる)
後世に代表するような土木技術が甲斐で発達したのは当然といえば当然。 普通にやっていてはお米を採れる環境ではないからです。
地方豪族達との軋轢、家督就任当時の国状においてはハンパないレベル
345人間七七四年:2012/03/06(火) 18:40:11.69 ID:1qHPBwh2
三行でおk
346人間七七四年:2012/03/06(火) 18:50:45.19 ID:tIuQZ8yO
まぁ信長が延命していたとしても
悪逆の限りを尽くしてから軍を引き上げた信長だし
その後に信濃や甲斐がまともに治められたとは思えないけどな。
織田軍が撤退すると反発した国人たちが一斉蜂起って
はっきり言ってパターン化してるでしょ。
その鎮圧戦からがホントのスタート。
越中や能登で開始した一城を残して城割りと、
去就が怪しい国人を近江や美濃に呼び出して虐殺をしていたりと
信長は越前での失敗を繰り返してるし、
実高40万石以上と呼ばれた別所の謀反や
それ以上といわれた摂津一円荒木らのような巨大謀反まで引き起こすバカだからな。
347人間七七四年:2012/03/06(火) 18:52:50.47 ID:ZNmJZFaO
そんな事をちまちまやってたんじゃ天下なんかとてもとても
内政なら大谷休泊にでも任せれば良かったね
滅んじゃ意味ないわ
348人間七七四年:2012/03/06(火) 18:53:41.91 ID:ZNmJZFaO
>>346
で、即鎮圧と
簡単だな
349人間七七四年:2012/03/06(火) 19:32:32.23 ID:ThIFFc3e
         ___
       /     \      織田信長は恵まれた立地と周りの大名家の衰退にかこつけたラッキー野郎だお
      /   \ , , /\     畿内の雑魚大名が相手にもかかわらず10年近くも平定に費やした信長は凡骨以下だお
    /    (●)  (●) \  挙句同格の領土を持ちながら内面ズタズタだった幼君斎藤龍興に何年も手こずる戦下手だお   
     |       (__人__)   | 信長が大勢力を築けたのは朝廷の威光と信玄が死んだからだお、だから最期はロクな死に方しなかったお  
      \      ` ⌒ ´  ,/    
.      /⌒〜" ̄, ̄ ̄〆⌒,ニつ
      |  ,___゙___、rヾイソ⊃
     |            `l ̄
.      |          |


        / ̄ ̄\   
      / ∪    \      ____
      |::::::        |   /      \  
     . |:::::::::::  ∪  |  / ⌒   ⌒  \       武田信玄公は今川義元と同盟して信濃の豪族集団を攻めて要害を落とし信濃を手に入れたお               
       |::::::::::::::    |/  (●) (●)   \    強きを避けて弱きをくじく、戦国大名の常識だお、これを怠るのは戦国大名として失格だお
     .  |::::::::::::::    } |    (__人__)     | 上杉謙信や北条氏康がいたからちょっと苦戦したけど義元死んで弱った今川家を潰したおかげで大勢力になったお
     .  ヽ::::::::::::::    } \   ` ⌒´     _/    周り囲まれて濃尾100万石オーバーの信長と同盟を結んだ?向こうがうるさいから仕方なく結んだだけだお
        ヽ::::::::::  ノ   |           \
        /:::::::::::: く    | |         |  |
-―――――|:::::::::::::::: \-―┴┴―――――┴┴――  
         |:::::::::::::::|ヽ、二⌒)
350人間七七四年:2012/03/06(火) 19:34:13.17 ID:6AmJX+3w
武田厨の言い訳は信長以上
これは認めざるを得ない
結局結果だよな
351人間七七四年:2012/03/06(火) 20:39:05.91 ID:D3AfMGjX
>>338
その今川義元にビビって弱い者イジメしか出来なかったのは誰だ?
352人間七七四年:2012/03/06(火) 20:41:52.16 ID:mhh4ssEC
いやだから
信玄がいかに名将でも甲斐で成功することは無理ってことよ

地理的に天下を取るチャンスがあったのは
今川や近畿周辺の大名とその家臣、他は毛利・大内ぐらい

島津や伊達なんて近畿から遠すぎて無理
上杉北条も織田がいたから無理なんだよ
要は、近畿を抑える大将の職が、足利→三好→織田→豊臣→徳川と移っただけ
これは戦争で決まったものではなく、政争で移ったもの
戦争なんてきっかけに過ぎない
353人間七七四年:2012/03/06(火) 21:08:23.59 ID:D3AfMGjX
>>352
謙信と不毛で無益な戦いをせず美濃に侵攻していればチャンスはあったと思うぞ?
その頃の信長は尾張で内戦状態だったし
まあ信玄にしてみれば国力で互角の斎藤と戦うのは怖かったんだろうな
まだ国力が下の謙信相手なら勝てると踏んだと
354人間七七四年:2012/03/06(火) 21:30:06.85 ID:mhh4ssEC
>>353
いや、信濃を制圧して上杉と敵対、上杉を無視して美濃攻めなんて無理だろw
つーか、武田から攻められるなら斉藤かも武田を攻められるわけよ
甲斐信濃だけじゃ、国力とか美濃とじゃ勝負にならんのよ

で、なんで信長は信玄相手に下手に出て貢物を捧げて同盟を維持しようとしたの?
結果、信玄が同盟を破って織田と敵対するわけだが

だから信玄の天下取りの難易度が高いって言うか
武田は天下取りレースのスタート地点にも立てない国力と地理的な不利さなんだよね
355人間七七四年:2012/03/06(火) 21:33:00.07 ID:FjSo9Y/4
>>354
> で、なんで信長は信玄相手に下手に出て貢物を捧げて同盟を維持しようとしたの?

別に信長が一方的に下手に出てたわけではない。
356人間七七四年:2012/03/06(火) 21:41:28.18 ID:ZNmJZFaO
そりゃフロイスが京で信玄の噂のこと書いてたから武田は強い事で有名だったんだろう 強いならなるべく相手にはしたくないだろ
実際だがの神格化は置いといて治水とかに精を出し上杉や北条、今川と戦い上野に出兵して悪い話はほぼ無し そりゃ局地戦は異常に強いべ
でも領地取ったらそこの治政に少しorかなり長い間専念する・一度互角以上に戦うと将がバタバタ死ぬからなかなか領地が広がらない広がらない
天下取るには謙信が出家してどっかいっちまってたらというifが一番現実的かもしれん 北条今川に背後任せりゃ越後取って越中加賀までいける
357人間七七四年:2012/03/06(火) 21:46:31.26 ID:/j3CXVHa
信玄は斎藤に書状と金を送って
美濃はあなたがお納め下され
私は絶対に迷惑をかけません
とか言ってるな
どんだけびびりなんだよw
国力が五分の相手には土下座ww
358人間七七四年:2012/03/06(火) 21:47:50.42 ID:YUCRcz8o
京、大坂という首都圏を抑えた織田家と山ばかりの過疎地の武田家じゃあ
人口で100倍ぐらい差があったんじゃね?
359人間七七四年:2012/03/06(火) 21:57:10.70 ID:D3AfMGjX
>>354
謙信との和睦を一方的に破ったのは信玄だぞ?
第二次川中島の結果武田は犀川以南を確保出来たわけだ
国力的にも美濃といい勝負だろう

しかし信玄はそこで満足すればいいものを目先の欲に駆られてバカなことをしでかしてしまった
またその頃の美濃は道三と義龍の対立による内戦状態
いくらでも付けいる隙はあったろう

結局信玄に足りないものはチャンスを掴む能力
基本的に目先のことしか見えていない
これが信長秀吉家康との最大の違いだと俺は思う
360人間七七四年:2012/03/06(火) 22:13:35.66 ID:ovefRygn
>>354-355
日本である程度の身分がある人をを訪ねる場合、絶対に贈り物が必要だとフロイスが書いている。
それがないとそもそも会う事ができないと。
ちなみに彼らは上洛直後の信長に会おうととして、なけなしの銀の棒3本を持って行こうとしたが、これは「信長に差し出し得る物ではまったくなかった」そうだ。
信玄は家格がいいし、100万石の大名なんだから、相応の贈り物が必要だろう。
361人間七七四年:2012/03/06(火) 22:36:01.83 ID:mhh4ssEC
だから、甲斐と信濃で
どうやって今川や上杉や斉藤と戦うのよw
信玄は最善の一手を打っていたと思うぞ
当時は電話もなく、まともな情報収集手段はない
先を読む、戦略を立てるなんていまより酷い博打になる
斉藤と上杉を天秤に掛けたら、村上に喧嘩を売った分、対上杉になるわけ

そもそも、斉藤と武田の不戦盟約>>357と上杉との和睦>>355の時期がどうなのか?
この辺、どうなのよ、ソース出してくれw

一度、上杉と敵対しているなら、内と織田とその他に問題を抱える斉藤とは不戦で、
対上杉しか、武田が戦える相手はいないわけよ
そりゃ、この時期に斉藤を戦えば天下を取るチャンスはあっただろうが
甲斐と信濃で、周りに上杉北条今川がいて天下を取りにくとかアホだぞw

まず、武田は国力や地理的に天下を取れる立場・状態じゃない、ことを理解してね
362人間七七四年:2012/03/06(火) 23:14:44.36 ID:6AmJX+3w
その前に、お前は日本語の文法を理解してくれ
363人間七七四年:2012/03/06(火) 23:17:01.42 ID:ThIFFc3e
せめて義元が死んでから早めに侵攻すべきだったな。
信長が美濃取ってようやく腰を上げているのは遅すぎ
364人間七七四年:2012/03/07(水) 16:00:20.27 ID:uzI62JdV
親今川路線から脱却するのに嫡子とその教育係を消すような大事にしてるのに
そんな迅速な方針転換出来るわきゃねーだろw
365人間七七四年:2012/03/07(水) 17:34:06.28 ID:GFue1o2u
そりゃそうだな、美濃を攻めるより海がある今川を叩くのは当たり前
366人間七七四年:2012/03/07(水) 18:15:09.75 ID:Jq9a6Rn1
毎回上野戦線を無視する馬鹿がいるのはなぜだろうな
367人間七七四年:2012/03/07(水) 20:14:49.51 ID:h82CK3j1
>>361
だから今川とは同盟縁戚関係だしその今川の仲介によって謙信とも和睦したわけだ
さらに大局見れば今川はあくまで尾張侵攻が主目的だったし謙信は関東&越中が主戦場
両者が武田領に攻め入る可能性はかなり低いと思うぞ

となれば内紛が起こっている美濃に攻め込む絶好の機会じゃないか?
道三と義龍の仲はすでに修復不可能のレベルだし侵攻ルートにいた木曽はすでに屈服していた
第二次川中島の疲れを癒し雪解けを待って春に攻め入れば成功率は高いと思うぞ?
368人間七七四年:2012/03/07(水) 20:21:35.66 ID:e+nMZ5HS
>>366
そんなところを攻めていた信玄が凡骨
369人間七七四年:2012/03/07(水) 20:57:17.20 ID:GFue1o2u
>>367
第二次の頃だと、武田は上田原の敗戦で軍と家臣団の再編をしているから美濃攻めなんて無理でしょ
信濃平定したのが1553年、第一次がその直後、第二次が55年
まだ、北信濃は安定せず寺の取り合い、信濃の地盤は強固じゃない、国造りの最中かと
そして、54年の三国同盟で北条と連携して上杉長尾と対決するのは当たり前

とりあえず、長尾が朝廷を使って武田を賊軍扱いしたんだから同盟なんて無理
370人間七七四年:2012/03/07(水) 22:15:44.50 ID:h82CK3j1
>>369
信長は美濃制圧の翌年に上洛戦を開始したぞ?
あと同盟は無理だが不戦は可能だと思う
謙信の性格上自分から和睦を反故にする可能性は低いし
問題は北条からの支援要求だがここら辺は適当にあしらえばいいだろう
371人間七七四年:2012/03/07(水) 22:27:31.95 ID:GFue1o2u
>>370
家臣団の筆頭が板垣だったわけよ
同レベルの甘利も消えたから根本的に家臣団と組織の再編が行われた、時間は掛かるでしょう
あと、信長は尾張の美濃で全国トップの勢力になったわけ
甲斐と信濃だけの武田が動けるわけねーでしょ、規模が違う
372人間七七四年:2012/03/07(水) 22:30:42.39 ID:QTi5NvNr
まあそこに東海でも加えなきゃ無理だな…
373人間七七四年:2012/03/08(木) 09:25:05.22 ID:OZl+ZbeS
結局信玄は天下取り無理って事でFA?
374人間七七四年:2012/03/08(木) 13:10:44.84 ID:fymKnuqb
FA
どこをどう改変しても上洛すらままならない
375人間七七四年:2012/03/08(木) 16:53:54.53 ID:m/STKjkR
信玄じゃなく、武田家じゃ天下は無理でFA

裏技で、徳川みたいに織田家の属国になって
本能寺のどさくさで織田から天下を奪うか
秀吉死後、関ヶ原を起すかのどっちか
376人間七七四年:2012/03/08(木) 21:41:54.23 ID:aCUiasCV
信玄の人となりだけでどうにかなるモノでもないしね
空想漫画なら、人物だけで天下統一できちゃうんだろうけどさ
太田道灌は、天下人徳川秀忠に劣っていたか?
377人間七七四年:2012/03/08(木) 21:46:31.17 ID:80VOA52E
別に信玄自ら槍を取ったりするわけでもないからな。
結局戦争をするのは武田家の皆様で信玄除いた武田家の皆様は長篠でフルボッコ
信玄がいてもそう変わらん
378人間七七四年:2012/03/08(木) 22:46:59.00 ID:m/STKjkR
>>377
だから、信玄も織田とまともにやったら勝ち目がないから避けてたんでしょう
信玄の戦略みてたら、西上戦は
織田包囲網を利用して織田徳川領を蹂躙するのが目的だったとおもうね

後、信玄は国人衆の寄り合い体制の限界も分かってた
そもそも、親父の信虎はこれを嫌って中央集権化を目指したわけだからな
これをみていた頭の良い信玄は自分の限界も理解していたと思うね

尼子家も同じで独立心の強い国人に苦労していた
経久は自分の息子達を国人とくっ付けて操ろうとしたが
逆に、息子達が国人豪族側に利用されて尼子家の崩壊を早めた
孫の尼子晴久は武田信虎勝頼と同じように脱寄り合い体制を捧げて、中央集権化を目指す
まず、尼子家の主力である新宮党の解体、叔父の国久親子を討ち、自らの軍事力を得る
結果、言うことを聞かなかった国人達に武力で抑えて尼子家の最盛期を迎える。
一見、中央集権化は軌道に乗ったかという所で晴久は病死、その後の尼子家はあれw
勝頼も中央集権化を行い失敗して終るw
尼子と武田はよく似てると思うね
信玄と尼子経久もw
379人間七七四年:2012/03/08(木) 23:16:55.85 ID:g+9jzjru
武田の名跡をついだのも徳川
北条の血が絶えることが無かったのも徳川のおかげ

関東民は徳川に感謝しないとね
380人間七七四年:2012/03/08(木) 23:29:34.70 ID:UC045lkB
天下取りの野心なんか無かったんじゃないの?
織田攻めが成功したとしても寿命の間に天下取るのは不可能だろ。
381人間七七四年:2012/03/08(木) 23:45:32.22 ID:KgRJnrTD
長篠で勝ったから信長が名将とかアホすぎる

丸で城みたいに堅固な陣地&かなり数的不利&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面

こんな所に飛び込んでいく馬鹿が総大将だったから勝てただけ。
しかもその状況ですら8時間以上戦われて所々柵が破られたりしてるんだから
勝頼みたいな馬鹿が総大将じゃなく普通に戦術的勝負やらせてたら圧勝してただろ

長篠では雨でぬかるんだ地面の中で『まるで城攻め』と思わせるような堅固な陣地の中に
数の上でも鉄砲の性能や装備の上でも勝るであろう織田徳川相手に自分から突撃
御館の乱では北条・伊達E葦名とともに景虎支援をせず、景勝に買収されただけでなく、
北条家に対して土下座外交すれば同盟維持できたかもしれんのに駿河伊豆国境や
上野方面で公然と喧嘩をふっかけ、四方を敵に回して猪突猛進
これによって武田の軍役は急増し国人の疲弊と不満は頂点に達する

新府城もあの状況でやるのは…としか。
能力どうこうを超えて基地外すぎるな。武田が滅んだのは勝頼1人に責任がある



長篠は決戦を挑んだ勝頼がバカ信玄なら撤退を装い、追撃してきた織田を迎撃撃破してる。
そもそも織田厨は背後を抑えられて撤退出来ないなどとでっち上げしてるバカ。
長篠後には翌年に、武田の命運をかけた一戦を織田とやると書いてるのでまだまだ信玄の遺産は充分にあり余力があったのだろう。
いよいよ勝頼独自色を出し、軍政、軍制改革を開始したつもりか織田へ復讐する為に手段を選ばず抜擢宣言し、
どんなに身分が低くても、前代には不遇だった者の経緯にはこだわらず依怙贔屓無しに
武勇のある者は抜擢するとか、鉄砲の鍛錬の奨励をくどいまでに強調し鉄砲手には頬あてまでも用意するように言っている。
かなり入念に砲撃戦を念頭においた指示をしている。
武田領内では火薬臭が漂うような大掛かりな鉄砲鍛錬が行われていたのだろう。
対北条戦で勝頼が暴れてるのも、佐竹義重が関東一の大鉄砲隊を持っていたのも、
勝頼との協調作戦から学んだ結果だろう。さらに手取川の戦いの年には、信長は武田と和議を提案していたのに勝頼は拒否して、
あくまで義昭や本願寺や毛利との協調を選んでいる。
まあ謙信が翌春前に死去したのは想定外か。毛利も丹波の赤鬼が同時期に死去したのは想定外だろう。
やはり謙信死去と、朝廷による交渉で本願寺が織田と和睦を受け入れたことが大きい。
武田に取り領土拡大を狙うには北条を侵略する他なく、
この頃になると織田との和睦を働きかけてるのだから。信長は武田と和睦する匂いをかけて、
織田勝長を返却させるや豹変して武田征伐を開始。不幸にも浅間山が噴火したために領内混乱し、
後詰めの勝頼が諏訪から甲斐に撤退するハメになる。
有史以来、京で浅間山噴火が観測されたのは、今回がわずか二度目の大噴火で、
京では武田滅亡の前兆と見られた。
ただ鉄砲鍛錬にこだわり過ぎているのが勝頼。本来は城や陣地における防衛戦に重要な鉄砲だが重量があり過ぎて、
なおかつ天候に左右されやすいものであり、 運用は限られている。
機を見て目まぐるしく離合集散する同盟関係や傭兵術や重臣調略を軽視し過ぎていたように思われる
382人間七七四年:2012/03/08(木) 23:53:06.53 ID:KgRJnrTD
信長なんぞ家康がいたから助かっただけ
織田軍は姉川で徳川以下の実力が確定してる上
東美濃攻防戦や上村合戦などでボコボコにやられ
ビビリまくって援軍出さない始末

信玄じゃなくても山県や馬場あたりが総大将でも瞬殺できそうだな
城のような堅個な陣地&相当の数的不利&高性能鉄砲&ぬかるんだ地面
この中に突出していくような馬鹿が総大将だから助かっただけなのが信長
383人間七七四年:2012/03/08(木) 23:54:21.04 ID:CAxByioi
織田の侵食受けてる状況下の信濃国人の賦役で
甲府盆地のみを守る新府城作ってんだもんなあ
384人間七七四年:2012/03/09(金) 00:08:18.33 ID:WLFaGlIn
山県馬場が総大将なら瞬殺とか言ってるわりには、長篠でバカ正直に鉄砲がたっぷりいる陣地に突っ込んでるのがその両名なんだがw
両名が突っ込まなければ犠牲は回避できたわけで、就任してまもない当主を支えるのは家臣の役目だろw
まさか江戸時代の講談じゃあるまいし、勝頼に謗られたから武田家の犠牲より己のプライドや意地を通したって馬鹿の見本みたいな死に方をしたという気か?w
385人間七七四年:2012/03/09(金) 00:17:23.56 ID:OEDmIwwh
そら総大将の命令なんだから聞かないと軍規違反だろ
大体最近の説で撤退時に多く討ち取られたとか言ってる学者は穴山始めご親類衆が
命令無視して勝手に撤退したから壊滅的被害を被ったとか言ってるんだから
命令違反はそれだけ軍全体に影響するんだろ
少なくとも軍艦では重臣連中は止めたことになってる上に>>382の状況で戦っても
柵を破られ、8時間以上も戦われていたくらいだったんだから
この場合は勝頼の糞判断で将官を多く死なせたから負けただけ。
もう少し冷静な判断ができる奴が総大将だったら織田軍なんてけちょんけちょんにされてたと思う
勝頼が馬鹿なのは長篠以外の御館の乱、新府築城などでもわかるから論ずるまででもない
386人間七七四年:2012/03/09(金) 00:24:58.21 ID:WLFaGlIn
それを止められなかったというのなら、それは山県馬場の軍事手腕もその程度だっただけ。
たまたま当主の勝頼が生き延びたからよかったものの、死んでたらどうする気だったんだかw
そもそも勝頼がよほど暴君でもない限り軍議くらいするわけで、当然勝頼が「よし無策で突っ込め」って言ったところで
他の奴が誰も命令聞かなきゃ意味ないわな。

命令を聞いて実行したということは、その馬鹿で無知な勝頼の方針に、山県馬場が賛同したというだけのこと。
賛同できんのなら穴山みたいにトンズラすればよかった。実際穴山はその後も許されているしな。
387人間七七四年:2012/03/09(金) 00:33:34.76 ID:OEDmIwwh
んなもん総大将の命令は絶対なんだからそれに従っただけ。
家臣は助言や説得はできても最終的決定は総大将が出すというだけ
馬場山県は基地外勝頼の発狂自殺の中でも戦線を放棄せず最期まで勇敢に戦って死んだだけ
大体兵を機微よく引いたり出したりするなんて常識で考えれば普通の事なのに
城攻めするみたいな感覚で堅固な陣地とぬかるんだ地面と高性能鉄砲と圧倒的数的不利の中突っ込むなんて
馬鹿しかやらない。大体老臣の言う事なんて耳に入らず自我を通しすぎて負けただけ
馬場や山県等は軍事的才覚がありながら当主に恵まれなかった悲運の名将だな
388人間七七四年:2012/03/09(金) 00:37:08.41 ID:d2K2H5Dn
>>384
長篠は、中央の内藤がなぜか総崩れして後方の軍が大混乱
前線に出ていた山県と真田兄弟の軍が孤立していしまう
軍を引けなくなった山県真田隊、突撃して自爆したが正しい見解
問題はなぜ内藤隊が混乱したか

馬場は殿で十分活躍したよ

後、武田軍が織田徳川に戦闘を仕掛けたのは、退却するための退路確保が目的
山県真田隊等が織田徳川軍を威嚇して抑えているうちに、本体の勝頼軍を退却させる作戦。
徳川の別働隊が、長篠城を包囲していた武田の砦を落とした時点で、武田の作戦は失敗していた
このままだと、織田徳川軍の本体と、長篠城と徳川別働隊の挟み撃ちに合うから
武田は撤退するしか道はない
389人間七七四年:2012/03/09(金) 00:37:37.81 ID:WLFaGlIn
おいおい山県や馬場はボランティアで武田勝頼に奉公しているんじゃないぞ、だがw
当然山県や馬場にもおのおの家臣や一族がいるわけで、勝頼の打ち出した策が馬鹿で無知だと思うなら従わなければいいだけ。
それこそ撤退するなり、織田に寝返るなり、やりようはいくらでもある。

それをせずに山県も馬場も勝頼の酔狂な集団自殺につきあったというのなら、山県も馬場も発狂自殺したかった、してもいいと思っただけ。
「勝頼様に背くなんてできない」「間違いでも異論は言えない」なんて考えていたのなら、それは山県も馬場もそこで死ぬ程度の才覚だった。
武田は主従ともども馬鹿の集まりだったということ。
390人間七七四年:2012/03/09(金) 00:41:50.25 ID:WLFaGlIn
>>388
つまり武田家中全員が信長の掌で踊っていたというだけなんだね。
ついでにいうと徳川の別動隊だけじゃない。織田の別働隊もいるから。
金森長近がこれに加わってる。
391人間七七四年:2012/03/09(金) 00:47:25.55 ID:OEDmIwwh
相変わらずお前は馬鹿だな
家臣というのは主君や家のために動くの
利のため中心に動くなんていってるのお前だけ
大体主殺しの光秀がなぜ汚名被ったか、小山田がなぜきられたか、信長が他家からの内応者を嫌ったか
普通に考えりゃわかるだろ
大体ね、武士なんて命かけるのはお金のためだけだったらわざわざ危ない戦場とか勝つ可能性低い方ついて戦ったりなんてできません
家を守りたいとか主君のために尽くしたいとかそういう気持ちがあるからできるの
戦時中の軍国主義中の「欲しがりません勝つまでは」とかそういう精神みりゃわかるだろ
大体お前の論理だと負けるのに負ける可能性高い方ついて戦争する奴とか皆馬鹿の集まり
日本全国馬鹿ばかりだな
392人間七七四年:2012/03/09(金) 00:50:12.33 ID:OEDmIwwh
>>390>>388
ハイハイ妄想乙
信長は酒井の献策を採用しただけ
砦襲撃は酒井のおかげ。
しかも後方押さえられた状況で前方の敵に向かって突出して自爆しても勝頼やら無傷のまま退却できた部隊が存在するくらいなんだから
普通に戦わずに撤退してたらほとんど無傷のまま退却できた
それを勝頼の発狂のせいでめちゃめちゃになっただけ
何が何でも実力勝ちにしたいらしいが結局勝頼が馬鹿すぎて助かっただけなのが信長
393人間七七四年:2012/03/09(金) 00:51:57.49 ID:d2K2H5Dn
>>390
踊らされてはいない
この戦いは、武田が長篠城を早く落とすかそれを織田徳川が阻止するかの問題なんだよね
結果、武田軍が壊滅したのは結果論でたまたまでしかない

織田徳川の別働隊が到着した時点で、武田の作戦はタイムオーバーで負け
織田徳川は、武田に長篠を落とされたら、引くしかないのね
今度は持久戦で織田徳川が長篠を落とす番になると、武田の別働隊が応援にきて
織田徳川を挟み撃ちにするから
394人間七七四年:2012/03/09(金) 00:52:46.92 ID:podCwrxK
>>391
これは面白いこと言い出しましたよ
光秀が何故裏切ったのかあなたはご存知だと
未だ定説とすらないにもかかわらず、あなたは”普通に考えれば”分かるとおっしゃる
ぜひとも”普通に考え”た、その推論をお聞かせください
395人間七七四年:2012/03/09(金) 00:54:18.58 ID:OEDmIwwh
>>394
裏切ったか、ではなく、主殺しした事でなぜ汚名を負ったか、です。
396人間七七四年:2012/03/09(金) 00:55:14.15 ID:d2K2H5Dn
>>392
いやだから、退却するのに織田徳川の陣の目の前を通らないといけないのよ
そのための退路確保で山県真田内藤は前に出て戦ったの
397人間七七四年:2012/03/09(金) 00:57:06.79 ID:WLFaGlIn
そんなこと言ってるのはおまえだけだぞ
小山田が斬られたのは武田の甲斐中枢にいたからで寝返ろうが寝返るまいが一緒。
明智が主殺しの汚名を被ったのは体制が整った江戸時代になってから、変当時は明智に同乗して勝ち馬を得ようとした連中もいる。
信長が他家からの内応者を嫌った?ソースよこせよw稲葉、安藤、蒲生、明智、荒木、皆元は他家の家臣だぞw

>>家を守りたいとか主君のために尽くしたいとかそういう気持ちがあるからできるの

家を守りたい、主君のために尽くしたいんならそれこそそこは勝頼の暴挙を止めなきゃいかんわw
特にお前が言うには勝頼は馬鹿で無知で集団自殺に近い作戦を立てていたんだろ?w
なら止めなきゃ勝頼が死んじゃうんだけど、止めなかったってことは勝頼も死んでいいって思ってたの?
それ家に対する翻意だよ、山県馬場は謀叛者なの?
398人間七七四年:2012/03/09(金) 00:57:36.69 ID:OEDmIwwh
>>396
何を根拠にそんな妄想してんの?
しかも退路確保のためにわざわざ陣地に突っ込んで自爆するって正気ですか?
399人間七七四年:2012/03/09(金) 00:57:40.27 ID:WLFaGlIn
400人間七七四年:2012/03/09(金) 00:59:59.42 ID:WLFaGlIn
>>392
それは=信長が採用しなければ実行されなかった策。
しかも酒井の策に信長は自分の家臣連れて行っていいよと太鼓判まで押してる。
いかに酒井の策がよくて、信長の柔軟性溢れる思考が読み取れるね。

勝頼と一緒に集団自殺しようとした山県馬場とは大違いだな。
勝頼には信長のような思考が、山県馬場には酒井のような機知が必要だったw
401人間七七四年:2012/03/09(金) 01:00:41.09 ID:OEDmIwwh
>>397
光秀に味方する奴が少なかったのはなんで?
細川も筒井も与力格といっていいのに何で味方しないの?
柴田も秀吉もなぜ打つ姿勢みせたの?
谷口氏の本に書いてたぞ。
だから止めようとしても止められなかっただけだろって何回言わせるの?
まさか老臣が総大将より偉くて決定権あるとでも思ってんの?
402人間七七四年:2012/03/09(金) 01:02:07.29 ID:WLFaGlIn
>>396
まさかとは思うが、関ヶ原の島津を参考に組み立てた妄想じゃないよな?
あれは島津義弘が撤退経路として選んだ伊勢街道が徳川方にあっただけ。
別に義弘は家康に攻撃して撤退しようとしたわけじゃないからな?w
403人間七七四年:2012/03/09(金) 01:03:12.65 ID:OEDmIwwh
>>400
ようは勝頼の自爆と酒井の献策で勝てただけ
まともに武田とぶつかったの見ると上村合戦といい東美濃攻防戦といい
岩村&高遠攻囲戦といい、長篠前の攻防といい織田はいいとこなし
404人間七七四年:2012/03/09(金) 01:07:35.27 ID:OEDmIwwh
ID:d2K2H5Dn
こいつ昔見た事ある
軍記とかを都合よく組み合わせて無理ヤリツジツマをあわせようとする馬鹿だろ
織田厨以下のカス
405人間七七四年:2012/03/09(金) 01:08:07.11 ID:WLFaGlIn
>>401
>>光秀に味方する奴が少なかったのはなんで?

いきなり「俺信長討ったから味方して」って言って誰がついてくるんだよw
冗談だろ、誤報だろって思うのが普通。情報の裏もないのに俺味方するわーって言っている奴はそうおらん。

>>細川も筒井も与力格といっていいのに何で味方しないの

細川が味方しないのはあたりまえだぞ・・・細川家の当主忠興は信忠から偏偉貰うくらいの昵懇だった。
それがいきなり光秀から「信長討ったから味方して」なんて言ってきても細川は織田の忠臣。
時勢を見てもまだまだ光秀優位と言えないのに無理して味方する必要はない。

>>柴田も秀吉もなぜ打つ姿勢みせたの?

打つ姿勢を見せたのは秀吉だけだぞ?
勝家は自領に留まって帰趨を見ていただけ。

>>だから止めようとしても止められなかっただけだろって

止められないんならその程度の才覚です。
止めたくなるくらい反対していたのに結局従って死んだのならその程度の才覚です
信長の敵じゃないです
406人間七七四年:2012/03/09(金) 01:11:25.04 ID:WLFaGlIn
>>403
強いのは信長なんだから織田の末端なんざそうでもねーだろ。
特に上村、東美濃なんて時流で適当に主家変えまくった遠山家の位置。
そんな織田に従う領主1個攻めたくらいで戦績誇られてもなw

高遠攻囲戦なんて死んだの織田信家だけだし、それとも
仁科盛信、小山田昌行以下、武田家の死んだ武将を挙げていった方がいいか?w
407人間七七四年:2012/03/09(金) 01:12:44.15 ID:OEDmIwwh
>いきなり「俺信長討ったから味方して」って言って誰がついてくるんだよw
>冗談だろ、誤報だろって思うのが普通。情報の裏もないのに俺味方するわーって言っている奴はそうおらん。
味方しないはいいけど秀吉について仇討ちに燃える武将のが多かったね

>細川が味方しないのはあたりまえだぞ・・・細川家の当主忠興は信忠から偏偉貰うくらいの昵懇だった。
>それがいきなり光秀から「信長討ったから味方して」なんて言ってきても細川は織田の忠臣。
>時勢を見てもまだまだ光秀優位と言えないのに無理して味方する必要はない。
お前自身忠臣とか恩を受けたとかそういう要素を認めてるのに
武田家臣に勝頼に反抗を求めるのはなんで?
>打つ姿勢を見せたのは秀吉だけだぞ?
>勝家は自領に留まって帰趨を見ていただけ。
俗説だと勝家は討伐に行きたくて行けなかったとなってるけど違うの?

>止められないんならその程度の才覚です。
>止めたくなるくらい反対していたのに結局従って死んだのならその程度の才覚です
>信長の敵じゃないです
つまり織田家臣団も残虐・非道・人を人とも思わないような繰り返される信長の愚行を止められなかったカスと。
408人間七七四年:2012/03/09(金) 01:15:58.52 ID:OEDmIwwh
>>406
上村合戦東美濃攻防戦は織田方3万ほどで馬場圧倒的寡兵の馬場や山県に翻弄されまくって敗戦
高遠も絶対的に兵力差が物をいう城外戦でもって兵力比50〜60倍で一門の1人が戦死した上に最低4時間以上戦われ
仁科は信濃のヒーローとして歌にも歌われるほどの伝説に残る人物と化す
どうみても織田勢はカス
409人間七七四年:2012/03/09(金) 01:18:49.51 ID:podCwrxK
>>395
早とちりしたわりぃ
410人間七七四年:2012/03/09(金) 01:33:37.78 ID:OEDmIwwh
姉川の戦いののちも浅井・朝倉はむちゃくちゃ勢いがあって
9/20森可成や織田信治や青地茂綱らを討ったあと、
宇佐山城の守りが固く、そちらからの入京に時間を浪費すると喝破した浅井朝倉は即日、転進して大津を放火し
9/21山科醍醐方面から進軍する迅速な判断力は褒められる。
(24日には信長が下坂本に着陣してる)
そして24日には京の前面である浅井は比叡山青山、朝倉は青山南の壷笠山に陣を敷いた。
その上で京を戦乱に巻き込まないように京を大回りして
(先鋒は入京していたが賀茂別雷神社・離宮八幡宮・知恩院・東寺らに禁制を給して迂回)
長政隊は丹波から嵯峨へ進軍して織田軍後方をかき乱す遊撃を開始してる。
10/20山崎の本願寺が御牧城を攻め取り、
それに呼応した比叡山の浅井・朝倉軍が出撃し、
織田方に組する左京区にあたる織田軍と(義昭奉公衆との説あり)
交戦しつつ修学寺・一乗寺・試楽寺・高野・松ヶ崎などをピンポイント放火してるし、
(義景は元亀2年7/4に六角軍が入京するにあたり、
義賢に洛中を放火しないように書状を送っている)
22日には大坂本願寺が畠山昭高の高屋城を攻め、
若狭武田も織田から離反して武藤や粟谷と挙兵してる。
信長は完全に無策で、家康に援軍派遣の哀願をするしかなかった。
家康は信長に江南を我が物顔で暴れている一揆と六角勢が、
瀬田と草津の間を封鎖するのを防いで退路を維持する役目を負わされた。
信長はというと11/21朝倉軍は坂井政尚と安藤守就の子を討死させ、
同日には伊勢長島でも織田信興が討死と全戦線が崩壊。
11/28朝廷から関白二条晴良が信長の和睦懇願を受けて坂本へきた。
織田の敗北は間違いないんだよな。
水藤真氏が「綸旨・御内書・御下知・信長誓詞と
およそ紙に書くことのできる全てが書かれ、比叡山に与えられた」
と書いているわけだ。
信長はありとあらゆる手段で和睦してもらおうとしてるわけ。
そして朝倉も比叡山に「当表の一和之儀、勅命上意」と書いていて
今谷明氏が朝倉らは「勅命を拒むことができなかった」と書いていて
宮島敬一氏もそれに同意している。
よって大久保の書いてる内容は事実に近いわけだ。
さらに志賀の陣の和睦交渉で、朝倉は信長には他意は無いが、
浅井を見捨てるに忍びずと言ってる。
朝倉には織田への戦意がそもそもない。だから朝倉に奪回意思はそもそも無い。
朝倉にその気が無いのに、
浅井単独で横山や佐和山の奪回は無理。
別に朝倉領でも無いし。
411人間七七四年:2012/03/09(金) 01:34:31.16 ID:OEDmIwwh
10/20山崎本願寺が御牧城を奪って、それに呼応した朝倉・浅井が比叡山から出撃し
織田方に組した一乗寺・試楽寺・高野・松ヶ崎ら左京区に突撃して攻撃してる。
また大坂本願寺も10/22日に高屋城攻め開始。
織田弱しと見て若狭武田氏も武藤・粟谷と共に織田に対して挙兵。
信長はもはや比叡山戦線で手いっぱいになり完全に江南に手が回らなくなり、
家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから
瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請。それで石川家成ら2000を家康が派遣。
11/21伊勢長島で信興が討死。11/26堅田で坂井らが朝倉軍により全滅させられる。
これで完璧に織田軍が追い詰められてしまい、
11/28信長が浅井に土下座5ヶ条の朱印状を出して朝廷から和睦だからと
必死に講和を願うブザマさにまで失墜する。
これは三河物語が書いてる「天下は朝倉殿が取りたまえ。我は2度と望まず」が
正しいことを証明している。 一次資料的な裏づけが揃っているからね。
三河物語では延暦寺が朝倉に兵糧を補給しているので、信長のアテが外れたと書いている。
耶蘇会士日本通信でも「敵(浅井・朝倉)は上坂本および比叡の山の諸山に籠もり、
坊主等は食物および家を供して大いにこれを助け」と書いていて食料不足など書いてない
関白二条晴良が勅命が合意できなければ高野山に隠居するとまで言ってた
山門の難渋にしびれを切らした関白二条晴良は(尋憲僧正の日記)
「もし今回の和議が出来なければ、身共は高野山に上り、隠遁いたす。」
と強硬に言い張って、ついに山門も折れた。
延暦寺に対して綸旨・御内書・御下知・信長の誓詞・山門領すべて安堵(一揆国人達をすべて許す)
およそ紙に書くことができる全てが延暦寺に与えても
なかなか延暦寺は承諾しなかったと水藤真氏も
織田側が和睦に無茶苦茶必死だったことを書いてる。
長政にも勅宣や朝家は神国の要だからと強調した
5カ条の朱印状を信長は提出してるし
12/13に六角にも知行渡すし、浅井に2/3を与えてもよいと信長は言ってる。
織田がボロ負けしたとする大久保の記述が正しいと思われるのは
それ以後もずっと朝倉が優勢な点からもわかる。
412人間七七四年:2012/03/09(金) 01:35:13.88 ID:WLFaGlIn
>>407
忠臣=主君の言うことなんでも聞く家臣じゃないぞ?
例えば本能寺の後の伊賀越えを決断させたのは本多忠勝だ。
彼は家康の忠臣ともいえる存在だが、君の言う忠臣通りなら、忠勝はそこで家康と一緒に腹切って死んだだろうな。

>>俗説だと勝家は討伐に行きたくて行けなかったとなってるけど

討つ姿勢ってのはせめて攻撃するアピールくらいはしてもらわないと。
勝家の姿勢は信雄より酷いぞ。明智領に行ってすらいない。

>>つまり織田家臣団も残虐・非道・人を人とも思わないような繰り返される信長の愚行を止められなかったカス

明智光秀なんか典型だけど、皆乗り気で止める気ナッシングだから。
413人間七七四年:2012/03/09(金) 01:36:36.37 ID:OEDmIwwh
☆慈敬寺文書の顕如書状2/14付けで慈敬寺が伊藤城を攻略し其の表の面々は此方一味であり
堅田まで属理運、還住由になったとして黄金三十両を進呈している。
2/15松永久秀や岩倉の山本対馬、山中の磯貝、和邇の金蔵坊、勢多の山岡、田中の渡邊らが
10日付で義昭に帰参しさらに静原に山本城を築いて織田に反抗する。
近衛家文書の2/16浅井長政→伊勢七郎左衛門宛てでは信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆(義昭軍)合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
小林吉長も2/17付けで堅田村の郷士達への書状で慈敬寺との入魂専要之旨と述べている。
2/19の義昭書状では★山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯貝新右衛門らまで
悉く取除、明智光秀は儀無正躰候、近邊大略属本意候と書いていて
(2/13における木戸表(大津市)御働として光秀が革島忠宜へ感状を出してる)
浅井長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べている。
琵琶湖最大の商業地の堅田村の郷士達が本願寺や浅井の味方になってしまい
坂本を居城とする明智軍は大津で苦戦し立ち往生しているのがわかる。

2/23筒井城の順慶が春日社参詣に3000人を引き連れてきたため
松永久通が警戒し小規模な衝突もあったようだ。
大神楽や神馬を奉納して成身院に宿泊後にすぐ筒井へ帰る。
2/23信長→細川宛で信長自身が信玄が去る17日に野田表から撤退したので、志賀の一揆蜂起について
蜂屋・柴田・丹羽を出征させ湖を渡らせる。成敗に手間がかかれば世間聞合なので
自分も近日中に佐和山へ出て上洛し畿内を平均すると述べている。
すでに湖経由でないと明智への援軍も上洛できないほど街道封鎖は深刻になっており
大津や草津の関も機能してないはずで近江戦線は崩壊してるのがわかる。
捏造軍記信長公記は柴田と明智らが石山と堅田砦を破り西近江を平定すると書くが、
によると☆のような情勢であるのがわかる。
2/24に革島宛てに光秀が明日から今堅田を攻めると書き(柴田軍が大津に到着したのか?)
2/26義昭に同調し三井寺の光浄院暹慶(山岡景友)ら西近江で挙兵。
2/27には顕如→信玄宛てで江州西路事、此方當門家中慈敬寺以調略属本意候と書いている。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。

3月朔日で柴田が革島宛てに今堅田成敗申し付けと報告してるので攻撃開始したのだろう。
やはり明智軍(光秀は配下の18将を供養してる)は
★のように戦力としては崩壊しているようで、主力は柴田が担っているようだ。
信長は伊丹氏により摂津において中島城の細川が堺へ敗走(信長はさてもさても惜しいことだと悔しがってる)
に続き3/7にはさらに賀嶋城まで落ちて絶言語と動揺している。
3/13には下間頼充が馬場宛で今堅田に篭もっていた馬場親子が敵が取詰にきた時に一戦し粉骨したのを
慈敬寺から報告を受けたと戦功を感謝しているし
3/18に義景が木戸城主佐野十乗坊秀方へ早船で急ぎ加勢した近江高島郡の多胡宗右衛門を褒めていて
3/21には義景→馬場宛でも敵が相働くも十乗坊に立て篭もり粉骨したのを賞して、
佐左馬要害と同等の価値あると言っている。
(佐々木左馬頭とは義昭側の仁木義政で明智軍記では義政は山岡らと石山・堅田に籠城したと書いてある)
4/2には長政も馬場に木戸籠城を褒め称えていて、相次いで織田を粉砕した大勝利を褒めている。
この状況から見るに柴田ら織田軍は、義昭らに敗北を重ねて
信長が兵を集めて援軍に来るのを待っている現実が見える。
大商業地堅田村を一向宗側が取り込んでいるため、
今堅田・石山・佐左馬要害・木戸城十乗坊攻めで織田軍が大敗している。
また明智軍が崩壊していた現状から手間取ると外聞が悪いと気にするほど劣勢の信長は
信玄が帰ったし信長自身が出馬すると言いながら兵力が全然集まらずまったく出馬できないありさま。
松原信之氏が著書で義景本人の天正4年の出撃を
3/11で敦賀までやってきていて、5/10に一乗谷へ帰国したと書いてるから
朝倉先陣は3月中に小谷まできて普請を始めてるはず。
414人間七七四年:2012/03/09(金) 01:37:19.40 ID:WLFaGlIn
>>408
>>上村合戦東美濃攻防戦は織田方3万ほどで馬場圧倒的寡兵の馬場や山県に翻弄されまくって敗戦

ソースは甲陽軍鑑とか言わないでね?

>>最低4時間以上戦われ

奥平信昌は同程度の兵力差で2週間以上持ちこたえてます。
4時間で落ちたとか城攻めの体を成してないです。ただの集団玉砕ですわ。
415人間七七四年:2012/03/09(金) 01:38:43.59 ID:WLFaGlIn
で、反論できなくなったら妄想コピペに逃げるだが

信長がいかに不利でどうしようもなかったとすると、それすら倒せなかった信玄は凡骨以下。
仮に信長を倒せて上洛しても、朝倉義景にすら討たれる無様な最期を遂げただろうなw
416人間七七四年:2012/03/09(金) 01:41:01.16 ID:OEDmIwwh
>>412
なんで俺のいう忠臣は主君でもない信長と一緒に死ななきゃいけないのかよくわからんが
つまり信長と一緒に虐殺・騙し討ち等愚行を繰り返し人望を失い多くの離反者を出し
それが元で織田家を崩壊させた同級の戦犯という事だな
まだ止めようとしてた分馬場や山県のがマシ
417人間七七四年:2012/03/09(金) 01:44:29.22 ID:OEDmIwwh
>>414
無知長厨乙
仁科勢は玉砕覚悟で外に打って出てこの>>408の戦果だから信忠は雑魚すぎる
418人間七七四年:2012/03/09(金) 01:50:32.15 ID:Qi42oJGt
で、今回はどこの文章付け加えたor削った?
お前前科あるから文章コピペしても信じられんのだわ
419人間七七四年:2012/03/09(金) 01:52:49.95 ID:WLFaGlIn
>>417
玉砕するしかできなかったのに伝説だの言われても。
しかも織田信家って岩倉織田家の出身だから厳密な一門じゃないし。
まだ伊勢長島の玉砕劇の方が被害多いんだけど・・
420人間七七四年:2012/03/09(金) 02:03:07.22 ID:OEDmIwwh
玉砕するしかってアホですか。
他の連中が領土捨てて逃亡・降伏企てる中
基地外のような兵力比かつ絶対的数が物をいう城外戦で信家戦死
しかも武田側軍記だと信忠軍の方が被害が多い事になっている程
信濃のヒーローとして歌にも読まれる程受け継がれるようになった事
どうみても仁科>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信忠です

421人間七七四年:2012/03/09(金) 02:04:17.36 ID:OEDmIwwh
ちなみにこんな圧倒的大軍があったんだから勝てて当たり前です
こんななんでもない戦闘、しかも野戦でけちょんけちょんにされてるんだから終わってる
422人間七七四年:2012/03/09(金) 02:12:23.69 ID:OEDmIwwh
1565年9月28日に織田への味方をして孤立奮闘してた
加治田城の佐藤紀伊守親子って信長に会って
感涙にむせび言葉も無いほど感激してありがたがったんだけど
翌29日に龍興が信長と決戦に出てきたら、
佐藤紀伊守親子を見捨てて信長逃亡しちゃうんだよな・・・
佐藤紀伊守が斉藤に出してた人質の娘が串刺しにされたのに。
結局のところ息子は斉藤軍の前に討死するし
岐阜陥落後に佐藤は用済みとばかりに隠居を強制され
加治田城は養子名目で送り込まれた
斎藤新五郎により乗っ取られちゃうし。

稲葉山を信長が奪ったあと
戦乱で失われてしまった名物の壺を義龍妻に
絶対に隠し持ってるだろ!さし出せと執拗にいびる信長に
無いものは無い・・・と義龍妻がもう自害するより仕方ないと決意したが、
信長に冷遇されている面目丸潰れの濃姫や
その親類、一族、美濃有力国人たち17人が結束し
失業していた佐藤紀伊守も参加し、
これ以上嫌がらせを続けるなら美濃国衆共みんなで自害するといって
信長に抵抗した話が言継日記に佐藤紀伊守から聞いた話として出ている。

朝廷の高位にいる殿上人の言継に佐藤紀伊守が
さびしい身の上についてグチって憤懣をブチまけているほど信長は冷酷。
そもそもその後の佐藤忠能は史料上では行方不明扱いで抹消されてる・・・
三次史料の堂洞軍記によると伊深村でひっそり野たれ死んだみたいだが。
ちなみに伊深村は織田軍の佐藤信則の領地だから
完全に領地を奪われて追放されてる…可哀想に。
423人間七七四年:2012/03/09(金) 02:14:30.25 ID:OEDmIwwh
>>414
元亀3年10/18付け河田宛の謙信書状
遠山号岩村認候処 城主取合 敵数多討捕 敵追払候
などと書いてあって織田と武田の間で
数多討ち取るような戦火が東美濃であったのは間違いないと柴辻氏が指摘してる。
また信玄三河から信濃へ撤退する6日前の
元亀4年3/6に秋山虎繁に東美濃出陣を命じていて
本願寺から朝倉出陣予定を聞いた信玄による
実質上の美濃侵攻の先鋒を兼ねていた。
同時に近江甲賀では武田信虎が義昭の命を奉じて軍勢を募り始めていた。
424人間七七四年:2012/03/09(金) 02:16:04.90 ID:OEDmIwwh
斎藤って野戦では信長に全勝無敗なんだよな。
明らかに稲葉山城乗っ取り以降の
家臣離反が滅亡原因だよな。
西美濃衆と東美濃衆の対立を調整できる人材がいなかったのが痛い。
龍興の寵愛が東美濃衆に偏っていたのと、
西美濃衆が六角勢の協調しての
近江浅井衆との戦役で負担過大だったこともあるんだろう。


425人間七七四年:2012/03/09(金) 02:28:31.41 ID:OEDmIwwh
佐々木哲も朝倉義景が近江南部に領地を持っていたからこそ、
義輝が殺された時に朝倉が主導して義昭を近江南部に逃がすことに成功したと論証してるな。
義景が六角出身の養子で、
六角義秀死去後に
義景が花押を六角氏様に変更してるし。
六角出身の仁木義政が義昭が義景邸を訪問した際に、
義景の後見人として振舞っていたり。
426人間七七四年:2012/03/09(金) 02:30:48.27 ID:OEDmIwwh
信長は援軍として西に兵力派兵する余裕が無かったから、
勝頼は非常に有利な状況だった。
丹波の赤井直正も勝頼に書状を出してたし、
赤井忠家や内藤如安や宇津頼重らが反織田で丹波も毛利や武田に協調してる。
これ信玄の大きな遺産だな。
5月に長篠で武田が無謀な決戦で大敗した為に、
信長は余裕が生まれてしまい、
8月越前一向衆を壊滅させてから、
光秀に丹波侵攻を開始させてる。
波多野ら丹波衆の反撃で光秀は大敗したが。
実際、天正三年3/4には
芸但和与が正式に発足したことに対する織田→小早川への返信で、
信長は但馬はかねてから申し入れているように織田分国であることを承知してるはずだ。
近年はずっと山名祐豊から連絡が来なくなったのは無念だが、
出雲や伯耆の安定の為に、
尼子のいる但馬出兵がどうしても必要なら
仕方が無いと
背後で尼子を支援してる信長もしぶしぶ毛利の但馬での勝手な行動を認めてる。
それだけ信長には余裕が無かったから
露骨に毛利に開戦したく無かった。
信長は毛利に対して内心激怒してただろう。
すでに天正元年12月までに元春が信玄西上のドサクサに織田分国但馬を平定して出雲に帰国しており、
毛利は朝山日乗や安国寺らを織田に派遣し、秀吉を窓口に信長に媚びて敵対行動の誤魔化しをしてた。
うまく信長との間を誤魔化せたのは秀吉と朝山のおかげだと安国寺が12/12に書状を出してる。
天正4年5月までに尼子残党を京へ逃亡させ
毛利は山陰再平定に成功してる。
その一方で山陽道でも織田に内応した備中の三村を毛利は天正3年5月までに平定に成功。
勝頼が長篠で大敗したのはガチでバカ過ぎ。

天正5年9/10の丹羽長秀書状に
能登の百姓ことごとく謙信一味、末森まで通路封鎖されたと書いている。
末森は能加国境の主要通路を擁する交通の要衝。
これですでに七尾が落ちているのを織田は知っているはずで、
知らずに進軍してたらすでに七尾が落ちていたと知ってあわてて退去したところで背後を襲われたので無く、
七尾が落ちていたのを知った上で北上を続け11/3に上杉と正面から挑んで大敗したのだろう。
公記の加賀出兵記述は、
目的も状況推移も何も書いておらず意味不明の記述。
尚且つ、わざわざ記述した意味がわからん上にかなり短い内容。
あきらかに文章の大幅削除されている。

太田牛一の記述は基本でたらめだらけだが
北陸・関東方面には特に極端に疎いからな
柴田の動きとか全然詳細に書かれてないし
芋川らが信濃で奮戦してる書状があるのに森が越後まで侵攻したとか
氏政が関東を放棄して織田に前面降伏したとか頭おかしいレベルw

天正2年4/13六角義賢が石部城で抵抗後に三雲氏の本拠地の信楽に向けて退城し、
この時に敵を追い払った山中山城に感状を12/24に出してる。
この間に勝頼が美濃明智城と遠江高天神城を攻略し、信長は越前での一揆を危惧
長篠の戦いの前年ですら、武田がむちゃくちゃ有利に戦ってるからね。
北条も織田を敵と言ってるし。
そもそも危機的な北条は越中で謙信の背後を突いてもらいたい一心で
永禄3年に氏康が永正3年からの禁制を撤回して
石山本願寺に関東での亡命寺社の帰国と保護を認めると約束しちゃったからな。
北条は何かあったら一向一揆を起こされるため完全に武田と本願寺の奴隷モードなんだよ。
だから氏政は氏康を暗殺してまで甲相同盟を復活させた。
427人間七七四年:2012/03/09(金) 02:33:32.65 ID:OEDmIwwh
誓願寺文書7号元亀3年9/10付けで下間正秀が十ヶ寺惣衆中に宛てた内容を見ると
御屋形様(六角氏)が一向衆を観音寺城に入城させている。 六角氏が近江で盛り返している。
その後、甲越和与まであと少しで成立するという謙信の書状が元亀三年十月六日付書状にあるし
北と東と言えば上杉と武田以外に該当しないし天正元年10月書状で
東北国手合わせと書いてるのも同盟がすでにある証拠でしょ、
天正3年11月で東北国併せ畿内が登場するが、
すぐに登場する去る夏に越後へ向かわせた使いが早速帰国したと出てくるし
東北国とは謙信が関係してると思うのは普通でしょう。
天正4年7月に木津川での勝利を誉めた義昭が「その次、輝虎言上〜」と書いたり
謙信とはかなり親しいから北は明らかに上杉を差してる。
武田と上杉の和与が天正2年はありえんだろ。タイミングが意味不明だし。
謙信が北陸を西に進むように路線変更したのは義昭から上洛要請が来た永禄9年以降なのは明らかだし
さらに永禄11年3月に甲越相の同盟を義昭が斡旋してる。
謙信も北条と和睦して上洛したいって言ってる。
該当書状を天正2年と主張する根拠は東を勝頼のことと解釈するからで、
残念ながら勝頼が同盟に関わるのは長篠で大敗後に北条や上杉とより強固な同盟を望むようになってからで、
それが天正4年からの義堯主導の甲越相一和への再度の機運であり
これをもって謙信が再び上洛を目指すようになり翌天正5年に加賀まで謙信の勢力圏になるわけだ。
天正2年ではあまりに唐突過ぎるどころか意味不明。

吉川元春に宛てた(天正元年)十月十日付足利義昭御内書でも言及されてるのだから
天正元年で構わないじゃないか。
そのあとに言及してるのは天正4年5月になってからの義昭の東国動座に絡んでであり
河田伊豆守(謙信配下河田の父?)を使者に長景連宛てで(謙信に仕えている)
海路難合期(日本海?)なんで御延引していること
それを聞いた毛利側が義昭の東国行きを阻止すべく、安国寺ら義昭の入国を拒んできた方針を
元春がひっくり返し撤回し義昭を鞆へ呼ぶことにしたことに絡むだけ。
まあ天正2年になってから上杉と武田が同盟してもまったく意味ないしな。
義昭はその同盟成立により信長へハッキリと決別した契機に思えるし元年だろうね。
それに文章だとその日付よりだいぶ前に同盟成立が成されてるようだから
どっちにしろ元年成立は動かないだろうね。

3/23義昭は京都聖護院門跡道澄を通じて小早川と浦上宗景の出陣を命じる(成?堂古文書)
4/21一向衆の懇望による和議が成立し謙信が春日山へ帰城。
8月再び、謙信は越中出陣し加賀朝日まで侵攻したのち武田攻めするどころか8/下に帰国し年内は完全休養宣言。
10月に謙信が神保弥次郎の相続を認め、神保が日宮城に復帰完了し謙信の越中平定完了。
謙信が信長を無視して武田を一切、攻めようとしない事実


428人間七七四年:2012/03/09(金) 02:36:44.84 ID:OEDmIwwh
元亀3年10/5の朝倉景亮書状

先日以◯◯◯◯ 入候之処、御懇之御報、
殊御一書披見本望候、其已後重而可申入之処ニ、
延引非本意ニ候、仍其表如何ニ御座候哉、承度候、乍御六借敷、南方辺之儀、示預候者、
畏可存候、委細林権介可申候之条、不能詳候、恐々謹言

蒲生下野入道殿御陣所

近江で信長が支配していたのは主なところで
佐和山・横山・観音寺(一時奪回されたりしてるが)・大津・坂本など
琵琶湖南岸に沿った街道沿いだけであり、その南は六角支配下である。
また天野川以北は湖北十ヶ寺一揆支配圏を構成しており
姉川南部ですら、いまだに安定統治が為されていないのが織田。
大津を維持していた山岡景隆の弟の山岡景友が義昭から山城半国守護になり
近江で有力な山岡家まで分裂してる始末。
秀吉が旧浅井領の一職支配を任されたわけだが
実際は浅井が支配していた全域を任されたわけじゃなくて
浅井が滅亡した時点で浅井が実効支配していた地のみの支配だった。
そのため先の天正元年8月に降伏した山本山城の阿閉氏
(伊香郡の一部・浅井郡菅浦&大浦下庄)
については秀吉には与えられず、阿閉氏は信長直参扱いになっている。
よって秀吉が与えられたのは坂田郡(天野川以北)から
浅井郡を挟んで伊香郡(木之本町)以南の地域でのみ秀吉発給文書がある。
この部分はそのまま湖北十ヶ寺一揆支配圏内であり、
要するに秀吉がいた横山城や虎御前城は敵中に孤立した
大海に囲まれた小島のようなものでしかなかった。
「織田軍が攻略済みの佐和山や横山も街道沿いなように」と書いてるわけだが読めないのか?
さて朝倉は西近江幕府奉公衆高島七頭と抵抗し背後の敦賀へ織田軍が進撃できないようにしてる。
浅井は湖北十ヶ寺一揆から軍事&兵糧支援をしてもらい篭城。
六角は三雲氏など南近江国人達(蒲生を除く)や一揆衆に支えられ、
天正元年4/11鯰江城の六角と挙兵した百済寺を攻撃のため義昭と和睦するや即進撃。
9月鯰江城が落城するも石部城へ後退。
天正2年4/13六角義賢が石部城で抵抗後に三雲氏の本拠地の信楽に向けて退城し、
この時に敵を追い払った山中山城に感状を12/24に出してる。
(この間に勝頼が美濃明智城と遠江高天神城を攻略し、信長は越前での一揆を危惧)
信長が近江で維持してるのは面では無く点でしかない。
多胡宗右衛門ら高島七頭らに邪魔されて
琵琶西岸を北上して朝倉の退路を断つ動きすら
一切取れなかった。
だからちょっと信長が京に入ったり岐阜へ帰るとすぐ
彼らや六角や一向宗がゲリラ化して
京への通路に砦を築いて背後を脅かす。

山城北部は義昭配下の山本・磯貝・渡辺ら 南は淀城に石成友通南山城は真木島 木津川辺は松永
元亀3年12月には三好康長・篠原自遁・大和守らが大山崎で禁制出す。
山城東部は義昭に山城半国守護に補任された山岡道阿弥が一揆と連合してるし、
山城西部の西岡一揆の主力は36国人で構成する西岡被官衆だし、どう考えても荒木や細川が領地を維持していたとは思えない。
12/12に信玄は当年過半任存分候と言っていて美濃の過半は武田方になったといってるし。
だからこそ来春の岐阜攻撃だからね。信玄が言ったように、まさに信長滅亡の時がきたんだよ。

近衛家文書の2/16長政→伊勢七郎左衛門宛てでも信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。 長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べ
山岡家の領地は栗太郡と志賀領であるが、すでに志賀郡が失われているのか、
山岡家が反織田側に内通していたのがわかる。
山岡景友が志賀郡を手中にしていたのか、それとも景隆や景佐も両天秤をかけていたのか。
429人間七七四年:2012/03/09(金) 02:37:50.64 ID:WLFaGlIn
端役の武将1人殺して皆死んだ挙句
地元の歌でも仁科の五郎信盛と名前も間違えられて、
信濃のヒーローねぇ・・・・

他の他府県でももっとましなヒーロー作るぞ・・・
430人間七七四年:2012/03/09(金) 02:37:58.18 ID:OEDmIwwh
今堅田・石山・佐左馬要害・木戸城十乗坊攻めで柴田が落とせずに苦戦
坂本の明智軍はすでに崩壊
すでに琵琶湖西岸はことごとく義昭側。
大津で柴田が立ち往生して入京すら出来ず。
2/23に信玄撤退したから上洛する発言してた信長だが、戦況悪化と兵力が集まらず
まったく動けず義昭に土下座交渉を継続する始末。
義昭が信長の人質を突っ返し断交するに及んで、
やっと3月末に信長は上洛するも味方は細川と荒木だけでみんな離反。
自暴自棄の信長は京を地獄にして略奪殺戮しつつ、
天皇に和睦斡旋哀願。
和睦したら即日、背後の六角と一揆衆を攻撃しに帰るほど切迫した情勢。
しかも六角を攻め落とせない。
そのうち信玄死亡情勢が流れる。
すると情勢は織田優位に一変。
天皇の威光と信玄死亡に助けられただけなのが信長
431人間七七四年:2012/03/09(金) 02:43:05.44 ID:WLFaGlIn
挙句自分の妄想コピペで矛盾生じちゃっているよ

>>428 近衛家文書の2/16長政→伊勢七郎左衛門宛てでも信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
>>430 2/23に信玄撤退したから上洛する発言してた信長だが

近日中には濃尾に入るよと言いながら、一週間もしないうちに三河から撤退した信玄
浅井が虚勢を張って嘘をつき、その嘘を真に受けて信玄が嘘をつく・・・嘘と嘘の塗り固めあいが
自らの身を滅ぼす羽目になった反織田勢力・・・
432人間七七四年:2012/03/09(金) 03:34:15.66 ID:OEDmIwwh
当時の当主は北畠具房(具教の嫡男)であり
まず北畠具教と木造具政(晴具三男・具教の弟)の内訌において
木造が織田の力を借りて内訌を有利に運ぼうとしたことが挙げられる。
北畠に苦戦した織田は義昭の和睦調停において茶筅を人質に出して安全撤退した。
(北畠は人質を出してない)その時に茶筅の安全を守るため織田家から津田一安が付けられ、
木造からは滝川雄利(木造一族)と拓植三郎左衛門(木造重臣)が警護に付けられた。
さて成長し茶筅が「具豊」と名前を改めて文書発給を開始したのは天正元年9/20が初見。
大湊中に宛てたものだ。これは長島一向宗攻撃のために伊勢水軍に桑名派遣を命じてる。
そこには「本所よりも固く御申し付けあるべく」とあり、本所とは具教もしくは具房を指しており
信雄より先に本所からも命令文書が発給されているのがわかる。
そして具教や具房の奉公人である山室氏(9/16・10/13・10/14・10/16・10/29)や
鳥屋尾氏(10/13・10/16・10/19・10/晦)によって大湊への軍事動員書状が発給されてる。
9/20頃に伊豆の敵船が大湊入り津田一安が現地入りして糾明に乗り出し大湊諸衆と交渉してる。
しかし大湊の船主たちが軍事動員に反対して拒絶している姿が山室氏の書状で判明する(太田家古文書)
つまり大湊の船主の総意は織田に従いたくないという大前提が見て取れる。
また天正元年11月15日に山田三方中と北監物に信雄は文書発給しており
大意としては両御所様御同前に北監物(伊勢大神宮御師)の息子の
福島左京亮(皇大神宮御師)の跡職相続を認めたもの。
これも9/16・9/22・10/22に山室氏から奉書が発給済みのもの。
天正元年の信雄の具豊名での発給文書はこの3通のみ。
このように信玄が死去し義昭が追放された後になってやっと信雄の発言力が多少向上してるに過ぎない。
ここに至っても伊勢水軍が織田に服属してないのが理解できる。
次ぎに信雄が発給しているのは天正3年7/24から「信意」の名前で発給開始している。
つまり天正2年はまったく書状を発給していない。
よって7月の伊勢長島一揆討伐の軍事動員も具房らが主導していると見てよい。
天正3年に伊勢新宮を支配する田丸城って言う北畠三御所の一つで信雄がここに入城するようになってから
織田による北畠支配が本格的にスタートしたのであり、現時点の織田には北畠支配などできてない。
伊勢長島一揆でも北畠に関係の南伊勢諸国人は船舶動員に非協力的で何度も信長の要請をシカトしてるし
彼らは北畠家臣や南朝以来の繋がりがある
紀伊半島の土豪連中まで長島一揆に入城してるし伊豆国方面からも敵大船が伊勢大湊へやってきたと
織田側は通報してる(長島にいた日根野弘就に協力してた自由商業町の山田三方の福島親子とか有名)



433人間七七四年:2012/03/09(金) 03:34:41.54 ID:OEDmIwwh
武田水軍は土屋や岡部らによって作られ駿河清水に拠点が作られた(戦国遺文武田1496・1515・1625)
もともとは北条の梶原水軍を仮想的にしたものだ(本光国師日記)
元亀2年には伊勢水軍から小浜氏や向井氏を招集してるが(1748・1789)
北条との同盟によって仮想敵が徳川へ変更される。
元亀3年10月からの徳川攻撃では武田水軍も高天神城攻略にも出動していたとされ、
11/27付には武田水軍(伊勢水軍)が海賊田原表(徳川領)放火候などと
三河田原表襲撃の計画があったのがわかっている(1995)
天正2年遠江国今切に武田の兵糧船が現れ徳川の船で取り囲んだが徳川方の寺島が討死させられてる(当代記)
6月には武田が兵糧を北条領から調達しようとして北条方に押収され
翌月から武田が船手判を発行することで解決してる(静岡県史資料8の773・785)
小川雄氏は今切では伊勢から武田領への兵糧の回送が行われていたり、
三河田原表襲撃などから、武田伊勢水軍が海上でも徳川を圧倒しつつあったと論証してる。
天正7年9月に駿河用宗城が徳川に攻略され遠江へ進出することがなくなった武田伊勢水軍は(3178)
天正8年4月より北条水軍を相手に伊豆で圧倒しており(3331・3332)
北条方の水軍根拠地まで攻め込まれてる(3534・3535・3536・3372)(静岡県史資料8の1394)
要するに伊勢水軍によって織田と徳川水軍は圧倒されており、武田の兵糧の海上輸送は磐石なんだよ。
元亀4年10月朔日の勝頼書状の戦武2184において
小浜氏は3000貫文と書かれ、他に同心や被官を束ねて水軍を組織してるし、
天正7年10月16日の勝頼書状の戦武3178において向井氏が1000貫文と書いてる。
また幕府旗本の中島与五郎家には天正4年10月に三河大崎の中島与五郎重次が
武田水軍に敗れ相良浦で討ち死にしたと記録されている。
武田水軍が織田や徳川水軍を圧倒しており、伊勢から駿河の制海権を得ていたのは間違いないだろう。
武田水軍が勝った資料は存在するが、織田水軍や徳川水軍が勝った資料はいままで一切見た事が無い。
反論したければ、織田や徳川水軍が優勢だったとか、
織田や徳川水軍の石高を挙げるのが筋だろう。
織田軍ご自慢の九鬼水軍のソースを早く出してもらおうかwww
まったく一次史料なんてないデタラメばっかりだけどなwww

434人間七七四年:2012/03/09(金) 03:40:57.29 ID:WLFaGlIn
味方だと思っていた武田伊勢水軍に長島を焼け野原にした挙句、なぜか仇敵の信長に
いらねーからやるよといってあっさりと譲り渡された長島門徒の悲劇
435人間七七四年:2012/03/09(金) 07:28:36.29 ID:bP6K7sWt
そんな織田に滅ぼされた武田はつくづく惨めだな
436人間七七四年:2012/03/09(金) 12:29:13.79 ID:tQ25nrJF
結局何を言ってもそうなっちゃんだよなぁ。
437人間七七四年:2012/03/09(金) 19:14:13.21 ID:LyCV4Ak4
武田家四名臣の一人。春日弾正忠虎綱。高坂弾正忠昌信。
 本名の春日姓で出仕し、改名して一時(香坂)高坂姓、後日また春日の姓も名乗っているため春日と高坂名が混在しています。 
 甲斐、石和の農家春日家に生まれ16歳で武田信玄の奥近習となり、使い番、侍大将を経て川中島の合戦時には信濃海津城の城代。
 地下人(農民)出身でありながら譜代の家臣を抜いて一代で9千貫を領する重臣にまで取り立てられた武田家家臣中一の出世頭です。
 春日源五郎は初め信玄の近習として仕え、格別に寵愛されました。 信玄が近習の弥七郎に手を付けたとして源五郎が腹を立てたのに対し、
 「弥七郎には言い寄ったが腹痛持ちなので断られた。今までも弥七郎を伽に寝させたことは無い。これからも無い。そのように疑わないでくれ」 となだめたり言い訳している信玄の誓詞が現存しています。
438人間七七四年:2012/03/09(金) 21:32:58.97 ID:oDiESzwG
>>378
尼子は家臣達が必死になってお家再興しようとしてたけどね
しかし武田家臣の場合それなりに気にしていたのが大久保長安くらいで他の連中は完全に忘却の彼方

>>392
酒井別働隊の存在に全く気づかなかった武田家臣達は無能すぎる
439人間七七四年:2012/03/09(金) 21:39:56.01 ID:qNZdqtWP
何を根拠にきずかなかったとか妄想してんの?
しかも砦なんか落とされても退却に成功してるからさして大きな敗因になっていない
ただ馬鹿の勝頼が発狂して飛び込んだから負けただけ
440人間七七四年:2012/03/09(金) 21:45:35.30 ID:Qi42oJGt
日本語1からやり直せ
きずくとか恥ずかしすぎ
441人間七七四年:2012/03/09(金) 21:51:32.46 ID:qNZdqtWP
>>440
具体的に返答せず揚げ足取りしかできねーカスは出てけこの糞カスが
442人間七七四年:2012/03/09(金) 21:52:50.81 ID:qNZdqtWP
>>420
よぇぇぇなー信忠って。 。 。

信雄いかなんじゃね、今まで勝てたのなんて信長の用意した圧倒的優位な条件と兵力のあかげだし。
443人間七七四年:2012/03/09(金) 21:53:49.77 ID:qNZdqtWP
信長公記は捏造軍記

・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森のキ沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述

多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
・高遠城攻防戦での織田信家戦死を隠蔽
・堂々とか公記の記述の撤退の時に砦取り返されて本当は2回あったのに書いてない
・大した戦果のない姉川が大勝になってる。
・長篠の戦果が十倍以上過大になってる。
・道三との会見では、織田家臣である太田が、信長が織田家臣を連れて帰った後の道三の
「いずれ息子たちは信長の家臣となるだろう」という呟きをなぜか知って書いてる
・河野島の流れとか書いてない
・大良河原では追撃軍に信長が仁王立ちになって鉄砲撃ったら敵が追撃やめた
・稲生では信長が大声あげたら敵が敗走したり、信長が京に上った時に刺客のいる宿に乗り込んで
「殺せるものなら殺してみろ!」と啖呵切って刺客が恐れ入ったりかなり信長万歳な記事が多い


444人間七七四年:2012/03/09(金) 21:54:24.08 ID:qNZdqtWP
信長公記にすら記されていない以上は捏造逸話以外のなにものでもない。
などと言いたいところだが、さて信長公記が隠蔽する時は必ず理由がある。
信長公記において家康がすでに同盟者となっていては都合が悪いのだ。
そこで思い出されるのは、信秀死去寸前に今川と和睦してることを隠蔽して、信長の立場が不安定だと捏造してる公記だが、
家康との共同作戦で思い出される史実で、公記が完全隠蔽してる事件がある。
それを隠蔽してる以上は家康がすでに同盟者であっては困る。
あくまで家康は永禄11年の義昭上洛戦以降の同盟者でなくては都合が悪いのだ。

さて以下がその隠蔽である。

永禄9年に信長は近江矢島の義昭を上洛させるためと称して
義昭に斉藤龍興との和睦を申請し義昭が喜んで和睦を斡旋したし
龍興も義昭を「公方様」と呼んで快諾して誓詞を細川藤孝に提出してる。
義昭は信長に藤孝を下向させ上洛の打ち合わせをし、
7月には能登七尾の畠山義綱や大和の十市遠勝にも
来月22日に信長が出陣するから上洛の供をするように命じてる。

これにより尾張・三河・美濃・伊勢四ヶ国の兵を率いて上洛軍を催すこととなった。
しかし出陣当日になると信長が突然出兵できないと言い出す。
これには龍興18歳も信長が臆したと嘲笑し、義秋も信長を糾弾し天下の物笑いとなった。
これにキレた信長が8/29に同盟軍の美濃攻めを突如開始し
木曽川の河野島へ渡川進撃。奇襲に怒った龍興も
すぐさま応戦し河野島へ渡ってきたので織田軍は敗走し川を挟んで対陣。
その翌日から風雨激しく洪水になり閏8月8日の明け方に奇襲を敢行した
龍興側に織田軍は大敗。勝利した斉藤に義昭は改めて上洛を願うが
織田の動向が心配なので上洛は難しいと言われ
翌8月3日に織田と上洛戦を企んだと知った三好長逸3000が
近江坂本へ義昭討伐にやってくる。
8/29は暗夜だったのを幸いに側近4、5人で琵琶湖を渡り
若狭武田の下へ義昭は逃走した。
445人間七七四年:2012/03/09(金) 21:55:14.09 ID:qNZdqtWP
誓願寺文書7号元亀3年9/10付けで下間正秀が十ヶ寺惣衆中に宛てた内容を見ると
御屋形様(六角氏)が一向衆を観音寺城に入城させている。 六角氏が近江で盛り返している。
その後、甲越和与まであと少しで成立するという謙信の書状が元亀三年十月六日付書状にあるし
北と東と言えば上杉と武田以外に該当しないし天正元年10月書状で
東北国手合わせと書いてるのも同盟がすでにある証拠でしょ、
天正3年11月で東北国併せ畿内が登場するが、
すぐに登場する去る夏に越後へ向かわせた使いが早速帰国したと出てくるし
東北国とは謙信が関係してると思うのは普通でしょう。
天正4年7月に木津川での勝利を誉めた義昭が「その次、輝虎言上〜」と書いたり
謙信とはかなり親しいから北は明らかに上杉を差してる。
武田と上杉の和与が天正2年はありえんだろ。タイミングが意味不明だし。
謙信が北陸を西に進むように路線変更したのは義昭から上洛要請が来た永禄9年以降なのは明らかだし
さらに永禄11年3月に甲越相の同盟を義昭が斡旋してる。
謙信も北条と和睦して上洛したいって言ってる。
該当書状を天正2年と主張する根拠は東を勝頼のことと解釈するからで、
残念ながら勝頼が同盟に関わるのは長篠で大敗後に北条や上杉とより強固な同盟を望むようになってからで、
それが天正4年からの義堯主導の甲越相一和への再度の機運であり
これをもって謙信が再び上洛を目指すようになり翌天正5年に加賀まで謙信の勢力圏になるわけだ。
天正2年ではあまりに唐突過ぎるどころか意味不明。

吉川元春に宛てた(天正元年)十月十日付足利義昭御内書でも言及されてるのだから
天正元年で構わないじゃないか。
そのあとに言及してるのは天正4年5月になってからの義昭の東国動座に絡んでであり
河田伊豆守(謙信配下河田の父?)を使者に長景連宛てで(謙信に仕えている)
海路難合期(日本海?)なんで御延引していること
それを聞いた毛利側が義昭の東国行きを阻止すべく、安国寺ら義昭の入国を拒んできた方針を
元春がひっくり返し撤回し義昭を鞆へ呼ぶことにしたことに絡むだけ。
まあ天正2年になってから上杉と武田が同盟してもまったく意味ないしな。
義昭はその同盟成立により信長へハッキリと決別した契機に思えるし元年だろうね。
それに文章だとその日付よりだいぶ前に同盟成立が成されてるようだから
どっちにしろ元年成立は動かないだろうね。

3/23義昭は京都聖護院門跡道澄を通じて小早川と浦上宗景の出陣を命じる(成?堂古文書)
4/21一向衆の懇望による和議が成立し謙信が春日山へ帰城。
8月再び、謙信は越中出陣し加賀朝日まで侵攻したのち武田攻めするどころか8/下に帰国し年内は完全休養宣言。
10月に謙信が神保弥次郎の相続を認め、神保が日宮城に復帰完了し謙信の越中平定完了。
謙信が信長を無視して武田を一切、攻めようとしない事実
446人間七七四年:2012/03/09(金) 21:57:48.05 ID:qNZdqtWP
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を西美濃国衆の安藤と竹中に半年にわたり占領される(龍興とその寵臣東美濃衆追放劇)
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。

六角義秀が主導する義昭上洛戦を反故にした信長を龍興が「臆して天下の笑い者になった」と嘲笑し
逆キレした信長による河野島の織田敗戦劇により三好の反撃を受け義昭は若狭へ逃亡。
この信長ビビリ事件により上洛計画が崩壊し六角義秀が失脚してしまい
三好の後援を受ける六角義治による国人弾圧の結果、観音寺騒動が勃発し六角氏が弱体化。
ちなみに六角義治に対抗して六角重臣達が奉じる六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書六角重臣三雲宛て和田惟政披露状)
その話に西美濃の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功しているなど上洛成功までのシナリオは六角義秀によるもの。
信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたし、上洛成功も信長独力でのことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
(義秀の死に絶句して義治らが帰国するのを憂慮してる信長の書状があり、
この後に浅井長政も離反しているのが確認できる)
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけだし
それでさえ、家康がいなければ信長は死んでた。姉川の戦いを織田圧勝などと捏造してるが
朝倉・高島七頭・一揆連合軍が9/20には宇佐山城攻めを開始し織田信治と森可成を討死させ
21日には山科までやってきて志賀の陣になり、朝倉軍が大敗した姿などまったくない。
信長は「朝倉殿が天下をとってください。我に望みなし」の土下座降伏してる。
ちなみに義秀の後継者の義堯も信玄西上戦に合わせて信長から離反。


447人間七七四年:2012/03/09(金) 21:59:05.23 ID:podCwrxK
またコピペかよw
誰かが読むとおもってんの?w
448人間七七四年:2012/03/09(金) 21:59:11.16 ID:qNZdqtWP
公記が六角義賢の弟の六角義弼や
六角義秀やその子の義堯の存在を隠蔽してしまった為に、
江戸時代中期に、
六角本家を主張し合う子達が争った際に、
一方的に不利になり存在を疑われた人物なんだよな。
義弼なんて義治と同一人物にされてるし。


濃尾平野と伊勢湾経済圏を持つ信長がチート過ぎなのに
義龍にボロ負け。龍興にまでボロ負け
結局、義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が
斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけだし
さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし
本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど
(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてのこと。
さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になるし。
しかも甲賀衆は義昭上洛戦に先立ち6/23には摂津表まで進出して三好三人衆と合戦までしてるし。
しかし9/7上洛戦開始するやいきなり信長は六角義治に大敗して岐阜に戻ってるから
援軍にきた三好三人衆側勢は京へ撤退してるし。
(上洛開始前から松永は三好勢兵力をずっと引き付けて戦っていた)
9/14には再度、天皇から織田へ綸旨が届いて義昭上洛の激励をされ京の御警護まで任されてる。
結局、江州様勢力が義治傘下から後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里らを裏切らせて信長に内応させて箕作城を開城させて観音寺城の背後を遮させた為に
義治は敗走して上洛成功しただけ。
信長の戦下手は神レベルだよな。

449人間七七四年:2012/03/09(金) 22:00:14.40 ID:qNZdqtWP
>>447
この程度の長文も読めないとか恥ずかしすぎだろ
歴史を語る資格なし
450人間七七四年:2012/03/09(金) 22:01:42.47 ID:qNZdqtWP
政宗はガチで戦上手

北 大崎 葛西 最上 
東 相馬 
南・西 葦名 大内 畠山 佐竹 二階堂 白河結城 石川 猪苗代
 
これだけガチで敵対して拡張した。


政宗の葦名侵攻と信長の美濃攻略、これで比べると
圧倒的に政宗のが上。

信長は幼君でガタガタの斉藤に敗戦し続けてラッキーパンチで寝返りが出て勝っただけ。

政宗は佐竹や白河、二階堂、石川、相馬、最上、大崎、葛西など全てで150万石にもなるであろう
大連合を自力で突破した。

比較にすらなるまい。
自国の国力と拡張度やそのスピードから考えれば明らかに政宗>>>>信長



これまでの考察で分かった事

氏康>>>>信長
政宗>>>>信長
本願寺、島津>>>>信長
家康>>>>信長
元親>>>>信長

信長が他大名の立場に生れていたら
信玄の場合信濃侵攻に30年かかり生涯を終える
元就の場合安芸一国人のまま生涯を終える
義重の場合常陸の統一すらできず葦名や田村に敗戦して敗死
政宗の場合関柴の戦いで討ち死に
氏康の場合両上杉の大軍に囲まれて戦死
義久の場合土持や相良、伊藤などに負けて敗死
宗麟の場合毛利元就に負けて敗死
元親の場合三好に負けて討ち死に

尾張だから助かっただけ
451人間七七四年:2012/03/09(金) 22:02:34.54 ID:qNZdqtWP
信玄は国も貧困、山間で移動も大変、周辺は強国ばかり。領土面積当たりの石高が低い甲斐や信濃で 山之内上杉の大軍を破ったり村上、小笠原らとガチで
ぶつかり合い長尾も介入してくる 状況で信濃を取った点や北条との抗争で駿河を取った事、距離的にさほど
攻め込みやすいと言えない徳川領を押しまくり追い詰め、東美濃も侵略した事
など見るにやはり軍略はピカイチだろう。負けがかなり少ないのも大きい。
上田原も板垣の敵陣のど真ん中での首実験が原因だし逆にその状況から反撃して
何人も討ち取っている。信長は大軍で弱体化した小勢力に何回も負ける
斉藤、本願寺、伊勢長島一向一揆。姉川でも大軍で寡兵の浅井に
痛打を加えられず。 大良河原、14条、河野島、伊勢長島第一次、伊勢長島第2次、
屈服した志賀の陣、800の敵に数万の兵で一門を10人殺された伊勢長島第3次。
戦は大した事ない。その分調略や政略でカバーしてる。
版図拡張と言っても山間部出身で周りも強国、国も貧困で京への距離もある武田や
関東出兵や武田との対戦を余儀なくされ国内も反乱やら蘆名の介入やらで
大変、武田以上に京まで遠く雪による制約も大きく関東、信濃、奥州、北陸
多方面戦略を展開してた上杉とは条件が違いすぎる
織田は美濃、尾張で信玄の最大版図くらいになる国力。北伊勢含めばもっと上がる。
幼君でガタガタな斉藤はクーデター起こるぐらいだったし相当弱体化してた。
尾張は石高的にかなり条件の良い国 京から遠くも無く近くもない程よい位置でもある。
京の動乱に巻き込まれず濃尾両国を有すれば思い立ったら上洛できる位置。 西は木曽・揖斐川の大河に守られ
東と結べば背後に敵無し。尾張、伊勢、畿内等は国高の高さの割りに
領土面積が狭く平野部が多く移動も楽。美濃も地形的に東から侵略されずらく
武田の本拠地も遠い。周りの大名も今川義元は運良く戦死 跡継ぎの氏真は暗愚
松平家は独立 同盟で後方の安全を確保
斉藤家の義龍は早死して、跡継ぎの龍興は暗愚
朝倉家の朝倉義景は惰弱で暗愚の代名詞のような大名
六角家は観音寺騒動や対浅井の敗戦で弱体化しきっていた
三好家は分裂状態で統制が取れずバラバラ
織田と本格的に戦う前に信玄は病死 跡継ぎの勝頼は猪武者
織田と本格的に戦う前に謙信は病死 その後上杉家は内乱で自滅
足利義昭も信長の所に来た

当時の武田の状況での信濃攻略は飛騨の三木家が斉藤滅ぼすのと同じくらい難易度高いだろw

強圧的な態度でムリヤリ国を纏めた甲斐守護家と国人衆との間は悪化の一途。 甲斐府中は呉越同舟で牽制し合う状況。
しかも、甲斐は山国であるため、越後の半分の石高(20万石)でしかなく、金山などはまだ後世に誇るほど歳出が見込めた訳でもなく
信玄の家督相続当時は甲斐は飢饉が数年前から猛威をふるうまっただ中で高緯度のため冷夏が発生し
飢饉が慢性化し、河川氾濫で田畑は災害にたびたび見舞われ信玄が家督を継いだ時には数年間連続の飢饉により、甲斐の国状は悲惨この上がありません。
信虎はこれらに有効な手立てをうつ所か今川などの外圧もあり戦闘につぐ戦闘。ただでさえ、基盤の脆い甲斐の国政は破綻しています。
信玄の場合、これらを解決する為には豊かな土地の“略奪”が急務であり、国人衆もそれを求めます。
しかし、経済は破綻している武田家ですから、それを為す侵略は困難を極めたはずです。
しなければ、父と同様に追放の憂き目にあいます。父の偏愛を受けた優秀な弟がいますからその危機は尚更です。
また、このような経路を辿ったため、重臣・国人衆の干渉は非常に強いのです。
しかも、村上に負け続けた時にはその危機が更に深まりました(権臣が死んだのは良かったが)貧しい甲斐は侵略だけでは食べていけません。
信玄はのちに信玄堤と呼ばれる堤防を築いたりして創意工夫の上、新田開発に努めます。
(信玄に始まる甲州流防河法・甲州流河除法は幕府の関東郡代として関東全域開発をした伊奈忠次に受け継がれる)
後世に代表するような土木技術が甲斐で発達したのは当然といえば当然。 普通にやっていてはお米を採れる環境ではないからです。
地方豪族達との軋轢、家督就任当時の国状においてはハンパないレベル
452人間七七四年:2012/03/09(金) 22:02:34.94 ID:WLFaGlIn
お家を滅ぼした武田勝頼は織田信雄以下
あの信雄ですら必死に秀吉家康に這いつくばってつかまり
紆余曲折を経て最終的には5万石の領土を貰った。


一方の勝頼は2万人の兵を率いていながら1ヶ月後にはわずか40騎
真田小山田が勝頼を招こうとしたが、真田は北条に通じ、小山田は織田に寝返って襲撃などやりたい放題。
信濃にいた連中も信玄誰それと言わんがごとくこぞって織田に寝返り、
滅亡後は徳川家臣の大久保を除いて誰1人武田家の再興を考えず、それどころか
徳川家康が「うちの息子今日から武田姓にするからヨロシク」と乗っ取り行為を平然とやろうとする有様。

親子揃って織田信長、信雄親子に手も足も出ない無能当主揃いの武田家
453人間七七四年:2012/03/09(金) 22:03:41.82 ID:qNZdqtWP
信長が家康の立場で独立し、家康が信長の立場で独立したら
信長は武田どころか今川氏真に瞬殺され家康は史実どおり畿内や美濃を瞬殺していたのは間違いない

何せ史実で今川氏真クラスの龍興に大敗を繰り返し今川氏真クラスの朝倉義景にも負けまくったけど
敵がアホすぎてなんとかなっただけ

一方家康は信長や秀吉が苦戦した畿内や美濃を瞬殺したしな

信長なんて家康がいたから助かっただけ
今川氏真に勝てたのも武田を抑えられたのも上洛戦も畿内平定戦も家康いなけりゃ何もできなかった。
姉川でも磯野勢らにおされまくり崩壊寸前だったけど徳川の善戦で何とか引き分けに持ち込めただけ
三方が原でも最も雑魚だったのが織田の援軍
家康がいなけりゃ1ヶ月で武田に瞬殺されてたのは間違いない

454人間七七四年:2012/03/09(金) 22:04:54.65 ID:qNZdqtWP
信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ
(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され
森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に
安堵状を発給しまくる始末www
織田信澄を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww

信雄>>>>>>>>>>>信長(大爆笑)
455人間七七四年:2012/03/09(金) 22:05:11.44 ID:WLFaGlIn
一方当の武田信玄は今川氏真に苦戦した無能当主なのであった
456人間七七四年:2012/03/09(金) 22:08:14.30 ID:qNZdqtWP
今堅田・石山・佐左馬要害・木戸城十乗坊攻めで柴田が落とせずに苦戦
坂本の明智軍はすでに崩壊
すでに琵琶湖西岸はことごとく義昭側。
大津で柴田が立ち往生して入京すら出来ず。
2/23に信玄撤退したから上洛する発言してた信長だが、戦況悪化と兵力が集まらず
まったく動けず義昭に土下座交渉を継続する始末。
義昭が信長の人質を突っ返し断交するに及んで、
やっと3月末に信長は上洛するも味方は細川と荒木だけでみんな離反。
自暴自棄の信長は京を地獄にして略奪殺戮しつつ、
天皇に和睦斡旋哀願。
和睦したら即日、背後の六角と一揆衆を攻撃しに帰るほど切迫した情勢。
しかも六角を攻め落とせない。
そのうち信玄死亡情勢が流れる。
すると情勢は織田優位に一変。
天皇の威光と信玄死亡に助けられただけなのが信長
457人間七七四年:2012/03/09(金) 22:11:08.54 ID:WLFaGlIn
今堅田・石山・佐左馬要害・木戸城十乗坊攻めで柴田が落とせずに苦戦
坂本の明智軍はすでに崩壊
すでに琵琶湖西岸はことごとく義昭側。
大津で柴田が立ち往生して入京すら出来ず。
2/23に信玄撤退したから上洛する発言してた信長だが、戦況悪化と兵力が集まらず
まったく動けず義昭に土下座交渉を継続する始末。
義昭が信長の人質を突っ返し断交するに及んで、
やっと3月末に信長は上洛するも味方は細川と荒木だけでみんな離反。
自暴自棄の信長は京を地獄にして略奪殺戮しつつ、
天皇に和睦斡旋哀願。


ここまで追い詰められていた信長に手も足も出なかったのが無能信玄。
さすが6万の兵力を持っていながら乞食兵1万率いる信長に手も足も出なかっただけはある。
戦国大名で最も暗愚な大名、武田信玄。浅井朝倉足利の奮闘を全てフイにして信長が立ち直ったのは
ほかならぬ武田信玄のおかげであったと言っても過言ではない。
458人間七七四年:2012/03/09(金) 22:14:08.97 ID:qNZdqtWP
信長があと10年早く生れていたら全盛期の斉藤に瞬殺されてたのは間違いない

何せ史実で義龍には全く歯が立たず龍興の台になって幼君で家中が分裂して浅井が美濃を攻めて
それなのにまともに戦ったら全く歯が立たずボコボコだったんだから

459人間七七四年:2012/03/09(金) 22:15:00.40 ID:qNZdqtWP
政宗はガチで戦上手

北 大崎 葛西 最上 
東 相馬 
南・西 葦名 大内 畠山 佐竹 二階堂 白河結城 石川 猪苗代
 
これだけガチで敵対して拡張した。


政宗の葦名侵攻と信長の美濃攻略、これで比べると
圧倒的に政宗のが上。

信長は幼君でガタガタの斉藤に敗戦し続けてラッキーパンチで寝返りが出て勝っただけ。

政宗は佐竹や白河、二階堂、石川、相馬、最上、大崎、葛西など全てで150万石にもなるであろう
大連合を自力で突破した。

比較にすらなるまい。
自国の国力と拡張度やそのスピードから考えれば明らかに政宗>>>>信長

460人間七七四年:2012/03/09(金) 22:16:02.18 ID:qNZdqtWP
幼君斎藤龍興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。
森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を
美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてkた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は
内通で加治田城・黒田城
織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城
と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは
東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と
農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに
武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし
近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。
そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして
斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
義龍の死の混乱に乗じてわすか
二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。
しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。
結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、
斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。
六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ
461人間七七四年:2012/03/09(金) 22:18:02.98 ID:WLFaGlIn
思い起こせば、信長の前半の歴史は全て信玄がアホなおかげで助かっている。

武田信虎・信玄父子が今川義元に手も足も出ず和議を結んだから、今川義元は尾張へ進んだ。
挙句討ち取られてそのまま今川家が壊滅。徳川家康の独立まで許してしまった。

織田信長はその後美濃攻めに着手、同格の斎藤相手に一進一退の状況を作り、
東から桶狭間のごとく大勢力がくればひとたまりもなかったが、信玄はその絶好の好機に謙信と乳繰りあい氏真の失笑を買っていた。


織田信長が美濃に上洛した後、武田信玄は今川上杉徳川北条と周囲全て敵に囲まれるという愚行を犯す。
このため武田信玄は織田信長には敵対されたくないと同盟を持ちかけ、このおかげで信長は上洛に専念することができた。


織田信長が上洛した後、敵対勢力の連動攻撃を受けるが全て凌いでいた。しかし戦力に余裕はなく東から敵が来れば危うい状況であったが、
呆けた信玄は「坊主になって戦の仕方を忘れた」とのたまい自領に引きこもり、最後に漁夫の利を得ようとした挙句死亡という何一つ戦果を挙げずに撤退する。
信玄の愚行に期待して手を緩めた足利浅井朝倉は落胆し、信長の攻撃に抵抗できずに滅亡すると言う有様であった。
信玄が暗愚だったおかげで、信長は窮地を脱したのである。
462人間七七四年:2012/03/09(金) 22:21:15.42 ID:podCwrxK
>>449
すりかえんなw
目新しい内容なら読むわw
他すれで散々批判されたコピペを誰が読むかっていってんだよw
463人間七七四年:2012/03/09(金) 22:22:37.03 ID:qNZdqtWP
島津は伊藤相良土持大友龍造寺豊臣遠征軍民軍など圧倒的大軍の敵を壊滅させ続けた。

織田は斉藤長島一揆北畠朝倉浅井本願寺武田赤井雑賀衆などに圧倒的大軍の味方を壊滅させられ続けた。


島津>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>織田
464人間七七四年:2012/03/09(金) 22:26:07.56 ID:WLFaGlIn

信玄のアホっぷりは、息子の勝頼にも例外なく継がれていた。

伊勢長島では味方であるはずの長島門徒を武田最強の伊勢水軍によって撃滅。
その跡地を信長に譲渡すると言う愚行を犯した。

長篠では主従ともども酒井の動きに誰一人気づかず、前後に敵を抱えるという戦術における大失態を演じ、
発狂した武田は集団自殺とも取れる酔狂な策で織田信長と戦い、当然のごとくボコボコにやられた。


長篠以降は織田どころか徳川にすら苦戦し、味方の救援要請にも満足に応じることができないという有様であった。
挙句金に目がくらんで上杉景勝と和睦し北条に絶縁される。周囲全て敵という信玄の頃から何も学んでいない証拠である。


挙句その敵対した織田北条徳川に三方から攻められ、頼みの綱であった上杉には無視されると言う惨めすぎる大敗北を喫す。
ついには家臣や一門衆にすら裏切られ、40騎という数のもとで逃避行する羽目になったが、
結局何も考えず行き当たりばったりなためにあっさり織田軍に見つかり自害すると言う羽目になった。

結局武田家は信玄勝頼という2代続いた無能当主のために滅亡した。
一方織田家は信長信雄という英邁な当主が2代続いたがために、家臣の身分から立身出世して大名として残るに至った。
465人間七七四年:2012/03/09(金) 22:40:41.04 ID:oDiESzwG
>>439
気づいていたら奇襲喰らってないだろ
466人間七七四年:2012/03/09(金) 22:44:32.67 ID:oDiESzwG
>>463
その島津は旧織田家臣たちが出張ってきたら全くいいところなくやられたぞ?
467人間七七四年:2012/03/09(金) 22:47:55.52 ID:Qi42oJGt
つまりそんな相手の寝首すらかかれず最終的に跡継ぎにコテンパンにやられた武田家は大したことないと
468人間七七四年:2012/03/09(金) 23:00:19.30 ID:qNZdqtWP
武田はコテンパンにやられていない
コテンパンにやられたのは信忠
数が絶対的にものをいう野戦で
圧倒的兵力差で一門の1人討ち取られて大損害出して最低に見積もって4時間以上戦われる始末

仁科が10000くらいもってまともに戦ってたら信忠は大敗してただろうな
469人間七七四年:2012/03/09(金) 23:02:40.00 ID:qNZdqtWP
武田陣から砦への伝令が遅れただけかもしれないし
どちらにしても大軍と陣地に無謀に突っ込んで大打撃を受けた状態でも
長篠から無傷で退却してる部隊が存在するから
砦どうこうは大して重要ではない
勝頼の発狂で皆が死んだだけ
あの基地外のような不利な状況下で馬場や山県はじめとする武田軍は8時間以上戦って
柵も所々突破できるほど名将ぞろいだったんだから総大将が馬鹿じゃなかったら織田軍は瞬殺されてたのは間違いない
470人間七七四年:2012/03/09(金) 23:03:45.40 ID:qNZdqtWP
濃尾だけで100万石オーバーじゃねぇかw
織田は信秀時代ですらすでに朝廷への献金額も異常だし
織田家のボンボン嫡男に過ぎない時代で趣味ですでに高価な鉄砲を大量所持して
美濃国守の道三がビックリしてたし 幼少の家康を買い取った時の
たかが人質買い取りにしては桁外れの金額を即金で払った財力からしてかなり豊かだろうが。
信長は完全にチートスタートだ。
津島や熱田の海上貿易通商路を押さえた信秀のボンボン息子でお小遣いをたくさん持ってた
吉法師は将軍義輝が六角氏に命じて近江国友村に作らせた鉄砲製造所で試作がようやく完成したばかりであったが
さっそく大量の六匁玉の鉄砲を発注していたので道三との会見においてすでに五百梃の鉄砲と火薬を持ってた。
1543年2月信秀は平手政秀を通じて内裏修造費用4千貫文を貢納。
3年前にも伊勢豊受大神宮仮殿造営費700貫文を献納していたのにも関わらず。
田原城主戸田家臣又右衞門が拉致った松平竹千代を五百貫文の破格の大金でキャッシュ即払いした信秀
超イージーモードの織田家に自ら刃向かうバカはいません。
信長公記の記述する戦はデタラメばっかりです。
信玄は父を追放した権臣たちの操り人形の傀儡として祭り上げられ家臣団による合議体制となった。
信玄がその恐怖から脱したのは村上との敗戦を招いた権臣たちの討ち死にが契機となる。
一方、信長は斎藤道三の後見により確固たる地位を保持しており
三河でも水野を防波堤となし
将来の危険の芽を摘むべく弱者を追い詰め蜂起させて圧倒的戦力で叩き潰し直轄領化を推進していく。
義元は自国と尾張の隔絶した国力差に危機感を抱き
是が非でも三河の安定領国化を成さねばならない追い詰められた状況だった。
尾張より国力の小さい美濃攻略に11年
その後、将軍チートで簡単に上洛できただけ
しかしその後、信玄に滅亡寸前に追いやられるのが信長
甲斐の2倍の国力ある信濃を攻略できた信玄とはレベルが違い過ぎる。
斎藤は当主の相次ぐ死による交代で衰退し美濃国人衆は見限り初めて瓦解期に入っていた。
村上は地の利を占め逆に領土拡大する隆盛期に入っていた。
そんだけ信長が戦下手だという証拠。
そりゃそうだ。信長には敵を外交で一つに絞って
戦力の集中をすると言う軍事の基本すら理解できてない素人。
経済力を背景に負けても負けても侵攻を執拗に続けるだけのバカ。
領土拡大なんて濃尾の平野&湾岸の異常な石高と経済力を背景にすれば楽勝だろ。
むしろ無駄に摩擦と衝突を引き起こして同時に複数国で混乱を起こさせて勝つまで
執拗に攻め込みまくる信長のやり方は無駄に時間を浪費させただけに過ぎない
471人間七七四年:2012/03/09(金) 23:04:52.28 ID:qNZdqtWP
斯波氏に関しては今川の捕虜になった斯波義達の跡を継いだ
義統が3歳の幼君なのを良いことに守護代織田氏は専横して傀儡に成り下がって実権なし。
信秀は今川義元の弟で捕虜になった斯波義達の娘を娶って尾張に来た今川氏豊を討って
今川の尾張支配の牙城那古野城を奪取するなど今川勢力を尾張国から一掃してる。
織田大和守家の分家で清洲三奉行「織田弾正忠家」の勢威は主家を上回っており押さえられる者はいなかった。
それは大和守家の織田達勝の娘が信秀によって離縁させられてるのでもわかる。
(大和守家織田達勝と三奉行家の「織田藤左衛門家」が共同して信秀に当たっても勝てなかった)
1547年の信秀の稲葉山城攻撃では岩倉方織田伊勢守の一族や中嶋郡の豪族など
尾張北西部の者どもが先鋒をしていて「織田伊勢守家」岩倉織田家家中もすでに傘下に組み込んでいるのがわかる。
さらに朝倉孝景の軍も信秀の援軍にやってきていて
稲葉山城包囲は25000の兵が動員されたほどに信秀の威勢は巨大だった。
稲葉山城攻防において夕闇が迫り一時撤退した油断を突かれて道三の奇襲で破れたものの
次の大垣城攻防戦では道三も驚く速さで渡河した信秀は
電光石火の進軍で火をかけながら稲葉山城方面を急襲しようとしたために
驚いた道三が大垣城攻撃を諦めて撤退してる。
(藤左衛門家もこの時に信秀配下として軍事行動をしており信秀は尾張の大半から動員していた)
「織田伊勢守家」岩倉織田を継いだ織田信安(妹は信秀側室・のち信秀妹を娶る)は
「織田大和守家」から入った人物で幼君を口実に犬山城で後見監視してたのが信秀の弟の信康なわけで、
ぶっちゃけ尾張は信秀がほぼ制していたと言っていい。
1549年正月17日の信秀弟の信康の子の犬山城主織田信清の謀反に至っては信秀が急を聞き即日撃破してるほどの圧勝し
2月25日には何事も無く平穏であり美濃から帰蝶が無事に尾張へ輿入れして信長は強力な後ろ盾を得てる。
3月に入り太原雪斎に安祥城を攻められるが頑強な抵抗をしており
本多忠勝の父が討ち死にするなど今川全軍を撤退に追い込んでる。
11月8日の再攻撃で火縄銃を投入しやっと安祥城を落とせたほど苦労してるので尾張への軍事行動が断念されてる。
安祥城落城も雪斎が非常に攻めづらい城南からの奇襲で
城側は油断しきって防備が甘かったって言う奇略で1日で落としたって話だし。
これはもう信秀の失敗とは言えないよな。
それに三河国碧海郡にあった刈谷城を本拠地にしていた三河の大身と呼ばれた水野信元が信秀側だったから
織田の三河進出の拠点は失ってねーし、結局、信秀は尾張の旗頭として
国内に敵を入れることはなかった(守山崩れの例外があるが)
今川とも竹千代交換して和議が成り信秀の晩年は内外ともに安定してる。
清洲三奉行因幡守家から織田大和守家の織田達勝の養子になったと言われる織田信友は
織田伊勢守家同様にすでに家臣団を信秀に奪われ傀儡守護の斯波義統を擁立していたと言う
一点でかろうじて信秀の主君と言う名目的地位を維持できていたにすぎず軍事的には信秀に屈していた。

父から信長が与えられた名古屋城の税だけでそんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。
大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除の謀略に引っかかっての無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…


472人間七七四年:2012/03/09(金) 23:05:22.02 ID:qNZdqtWP
信長があと10年早く生れていたら全盛期の斉藤に瞬殺されてたのは間違いない

何せ史実で義龍には全く歯が立たず龍興の台になって幼君で家中が分裂して浅井が美濃を攻めて
それなのにまともに戦ったら全く歯が立たずボコボコだったんだから
473人間七七四年:2012/03/09(金) 23:06:26.33 ID:qNZdqtWP
信長は山県、馬場、家康より弱い。

信玄は山県、馬場、家康よりずっと強い。

謙信は信玄より強い。

謙信>>信玄>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信長

474人間七七四年:2012/03/09(金) 23:07:38.78 ID:qNZdqtWP
当時の斎藤は浅井と戦っていて、
六角義治が斎藤と協調しようとするのを、
土岐氏に配慮する六角義賢が、
同盟不成立にさせたりと西側が不安定だったから、
斎藤は南下なんて考えてない。
義龍は信長同様に内政や国内整備や宗教統治政策をまったくやらずに放置した道三の悪政から、
改革を押し進めていたから、
尾張を内乱状態にさせて信長を封じつつ、
宗教統制を改革中に急死。
475人間七七四年:2012/03/09(金) 23:08:21.86 ID:qNZdqtWP
信長なんて家康がいたから助かっただけ
今川氏真に勝てたのも武田を抑えられたのも上洛戦も畿内平定戦も家康いなけりゃ何もできなかった。
姉川でも磯野勢らにおされまくり崩壊寸前だったけど徳川の善戦で何とか引き分けに持ち込めただけ
三方が原でも最も雑魚だったのが織田の援軍
家康がいなけりゃ1ヶ月で武田に瞬殺されてたのは間違いない

家康が義理堅いから信長は助かっただけ
何回武田に攻められて援軍要請出しても援軍よこさない
徳川は織田のために援軍出しまくってるのに
こんな役に立たない同盟者普通なら見捨てるだろうに
織田が畿内平定できたのは全て家康の功績

476人間七七四年:2012/03/09(金) 23:09:51.36 ID:bP6K7sWt
ここまでコピペ
とりあえず生まれた地を言い訳にする武田はアホだとわかりました
477人間七七四年:2012/03/09(金) 23:10:30.84 ID:qNZdqtWP
        政治  統率  知略
信長(笑)    90 71 86 
秀吉(大 爆 笑)89 35 89
光秀       85 79 80
滝川       70 77 83
柴田       60 83 52

贔屓目にみてもこんなもん
他の連中はこれ以下のカス
478人間七七四年:2012/03/09(金) 23:12:06.67 ID:qNZdqtWP
徳川家臣団でいえば
本多>井伊、榊原、酒井>大久保>鳥居、大須賀康高、依田>岡部正綱、本多広孝、小笠原>平岩、本多重次
>石川家成>諏訪、保科、柴田康忠>雑魚織田武将(笑)、岡部長盛
479人間七七四年:2012/03/09(金) 23:20:27.49 ID:ukYCPuWx
とんでもない荒らしが湧いてるが2ちゃんでは評価の低い政宗だけど
やっぱりすごい人というのは同意。最上はともかくあの名将佐竹義重相手に
あそこまで有利に事を進め滅亡寸前まで追い込んだのはすごいと思う?
織田厨の人たちは信長が甲斐武田に生まれてたらどうなったと思うのか?
480人間七七四年:2012/03/09(金) 23:43:43.28 ID:oDiESzwG
>>469
>砦どうこうは大して重要ではない

武田は何のために軍事行動を起こしたかちょっと考えてみ
481人間七七四年:2012/03/09(金) 23:49:56.12 ID:bP6K7sWt
>>479
その仮定自体無意味だと思うが
信玄や政宗が尾張に生まれたら?とかいう仮定されたら何をし出しどういう政策を取る?
生まれた場所で出来る政策国人が違いすぎてただの妄想になるから無意味
政宗が義重を追い詰めた?人取橋で追い散らされ瀕死の蘆名に勝つ以外何した?具体的にソース付きでどうぞ
482人間七七四年:2012/03/10(土) 00:04:20.76 ID:UzxofApy
金ヶ崎の時は
敦賀郡司朝倉景恒と対立していた
大野郡司朝倉景鏡が援軍を送らず失脚狙いだったから
織田の奇襲が成功しただけだし、
姉川の合戦に関する史料が徳川方には実に豊富にあるのは
徳川方の大勝をよく示している証拠だと水藤真氏も主張してる。
織田が苦戦し、家康の奮闘でなんとか引き分けにもっていったというのは事実だろ。
姉川の戦いのあと朝倉が勝ちとして撤退していったから
織田が横山城を奪取できたんだし、
再度の侵攻で森可成、織田信治、青地茂綱らを討ち、
比叡山での対陣では安藤守就の二男、坂井政尚を討っている。
そもそも朝倉には小谷と山本山の防衛陣地から南には
進出意思がまったく感じられないのであり
横山城や佐和山城の奪回なんてもともと考えてない。
それを欲したのは小身の浅井でしかない。
さらに常に織田より朝倉の方が兵力も多く
志賀の陣での和睦も織田が必死に天皇まで使って頼んでる始末。
信玄の死や義昭の降伏までは朝倉の方が織田より常に優勢なのは明らかだろ

織田がボロ負けしたとする大久保の記述が正しいと思われるのは
それ以後もずっと朝倉が優勢な点からもわかる。

10/20山崎本願寺が御牧城を奪って、それに呼応した朝倉・浅井が比叡山から出撃し
織田方に組した一乗寺・試楽寺・高野・松ヶ崎ら左京区に突撃して攻撃してる。
また大坂本願寺も10/22日に高屋城攻め開始。
織田弱しと見て若狭武田氏も武藤・粟谷と共に織田に対して挙兵。
信長はもはや比叡山戦線で手いっぱいになり完全に江南に手が回らなくなり、
家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから
瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請。それで石川家成ら2000を家康が派遣。
11/21伊勢長島で信興が討死。11/26堅田で坂井らが朝倉軍により全滅させられる。
これで完璧に織田軍が追い詰められてしまい、
11/28信長が浅井に土下座5ヶ条の朱印状を出して朝廷から和睦だからと
必死に講和を願うブザマさにまで失墜する。
これは三河物語が書いてる「天下は朝倉殿が取りたまえ。我は2度と望まず」が
正しいことを証明している。
三河物語では延暦寺が朝倉に兵糧を補給しているので、信長のアテが外れたと書いている。
耶蘇会士日本通信でも「敵(浅井・朝倉)は上坂本および比叡の山の諸山に籠もり、
坊主等は食物および家を供して大いにこれを助け」と書いていて食料不足など書いてない
織田軍の苦戦を物語る根拠として
浅井軍の先鋒で信長軍に突入した遠藤直経の討ち死に場所があげられる。現在の東上坂町の水田地帯には、
字名で「円藤(遠藤)」と、直経の墓といわれる「遠藤塚」が伝えられている。
こちらも圃場整備事業のため、現在では40m南に移って墓碑が建立されているが、
その位置は信長の本陣よりも南に位置し、浅井軍に攻め込まれ
信長本陣は相当後退を余儀なくされたことを示している。

 遠藤直経は小谷城下の清水谷に居館を有す浅井氏の譜代の家臣で、浅井長政の傅役的存在として長政の信頼は厚かったとされる。
姉川での先制攻撃も直経の策とも言われ、果敢に攻撃し、
織田の武将に成りすまし信長に迫ったが、竹中重治の弟・竹中重矩に見抜かれ、失敗、討ち死にしたとされる。その場所が遠藤塚とされている。
483人間七七四年:2012/03/10(土) 00:06:01.53 ID:UzxofApy
他大名が信長の立場で生れていたら
家康 史実どおり大勢力相手に勢力拡張&畿内美濃を瞬殺→天下統一
島津 史実どおり寡兵でも大軍次々撃破
氏康 史実どおり寡兵で大軍撃破&政略を利用して領土拡大&圧倒的大軍の包囲網でも突破
信玄 史実どおり負けをほとんどせず畿内や美濃の雑魚を瞬殺
元就 史実どおり謀略を駆使して分裂状態の斉藤や畿内を併合
元親 史実どおり小勢力でも他大勢力を戦に打ち勝ち併呑
484人間七七四年:2012/03/10(土) 00:07:15.05 ID:UzxofApy
禁裏被迎出により和平して大坂を退出した顕如を無視して籠城をした教如。
4/16然共 新御門跡様 御寺内御堅固ニ御拘被成候間 各可御心安候

5/2御門主(顕如)にハ雑賀へ御退出之事候
然者予(蓮如)当寺に残り
可相持思立如此候

天正8年9/11勧修寺晴豊らが教如の説得に成功し、
9/23に教如も
然処内輪逆意之賊
しかれども内輪に逆意はこれ賊徒となってしまうとして
大坂を明け渡す決意をしてるのを公記は隠蔽。

天正4年の木津川の戦いと天正6年の第二次木津川の戦いの間である
天正5年にも織田軍は毛利と海戦して大敗してるのを公記は隠蔽してる。
謙信の上洛戦に言及があるため天正5年9月23日の手取川の戦いが始まる寸前の書状。

龍谷大学大宮図書館蔵 光佐披露状 江戸浄林寺文書 顕如上人文書簒所収

急度令啓上候 仍今度芸州警護船 早速被相催 歴々衆渡海候
殊為合力 兵糧等厳重之儀 囘申謝候 随而於海上及一戦 敵船悉被打果候事
無比類高名 併上意御威光之故候 当寺門下・紀州兵船相共ニ 抽戦■候
可然様御執成専用候 其節之儀 加太豊前守存知之事候条 可有言上候
就中御太刀一腰金・御馬一疋鹿毛進上之候
聊表祝儀計候 於此上 播州陸路之行 肝要存候 弥可被上意候
北国謙信事 近日越前表 可有出張候 猶以三和之儀 此刻候 甲州之儀
八月中尾濃江必定出馬■■ 一両日已前も申越候 諸国之儀■■分急申候
吉事近々可申入候 此等之旨 宜有披露候 怖々謹言

            七月廿八日 光佐(花押)
  一色駿河守殿
  真木嶋玄蕃頭殿


加太豊前守=鹿伏兎豊前守宗心の血統か?
亀山城主関盛信に従って関軍の先鋒を勤めていた鹿伏兎城(白鷹城)主
信孝が神戸家の養子になると関氏を通じて織田に仕えたが、のち反織田挙兵。
姉川での討死説あり?子の四郎盛氏も天正2年に長島で討死説あり。

神戸具盛(妻は蒲生定秀の娘)
養子信孝を冷遇していた為に元亀2年に山路弾正など家臣が大虐殺され
信長により幽閉されるも義父を頼り日野城へ逃亡し、元亀3年に神戸家は信孝が家督を継ぐ。
ちなみに永禄11年の観音寺城の戦いで蒲生賢秀を降伏させたのはこの人

関盛信(妻は蒲生定秀の娘)
亀山城主。信孝との不和が原因で
元亀4年に信長により幽閉され義父を頼り日野城へ逃亡
嫡子の関盛忠は天正2年の長島討伐で信孝や蒲生賢秀に従い従軍し討死。

織田信孝
信雄は長島滅亡後の天正3年信意に改名するまで
北畠家での支配実績がまったく書状で確認できない。
そのために織田家へ突っ返されていたとする見解もある。
神戸家での信孝はほとんど不明で、信雄以上に謎。

鹿伏兎豊前守宗心・神戸具盛・関盛信・蒲生定秀は反織田でつながっていた。
しかし義昭降伏と浅井・朝倉滅亡を契機に蒲生は織田へ鞍替えし関氏の嫡男も従う。


485人間七七四年:2012/03/10(土) 00:07:54.41 ID:UzxofApy
永禄11年11月上洛するやさっそく
石山本願寺に礼銭五千貫を恐喝
法隆寺に防築銭千貫余を恐喝
永禄12年2月
堺の代表10人中8人を
自刃に追い込み二万貫の矢銭を恐喝。
尼崎は矢銭拒否により全焼略奪。
8月の織田による山名祐豊の但馬攻略後に
祐豊は堺の金融業者の渡辺宗陽を頼って今井宗久を紹介され
今井宗久が祐豊に年利40%で1000貫文を貸付け
それを信長への礼金として但馬復帰を許してもらってる。
信長が永禄12年からの恐喝集金システムでバブリーだったのも
志賀の陣での敗北までに浪費しまくって全部使ってしまったのだろう。
信長がやたら強気に出て、本願寺まで敵に回してしまったのも
あまりの想像を絶した大集金で舞い上がってマトモな判断力を失っていたのだろう。
永禄13年4月改め元亀元年4月に改元。
朝廷からの荘園返還要求から逃げまくる信長
比叡山の荘園横領しまくりの信長による元亀2年9月比叡山焼き討ち略奪。
元亀3年に奈良内銀子320枚・興福寺銀子100枚・東大寺銀子50枚を上納
しかし金が尽きたのか12月にも再度の要求があり成身院に銀子100枚上納の記録が残ってる。
この年は大和で地震もおきていて大和亡国と呼ばれた。
元亀4年に天皇から乱妨狼藉の禁止・禁中御警固を命じられていたのに、
賀茂から嵯峨まで燃やして恐喝し銀棒300(それぞれ重さ43匁)
銀1300枚受け取り拒否した上京を焼き討ち略奪。下京恐喝(銀800枚)で金品を集める。
織田軍は常に金欠だったんだろうな(ちなみにこれ以前にも京で略奪をやって織田軍と徳川軍が
略奪品を巡り衝突し織田軍が敗北している)
越前加賀で虐殺略奪大会したあとに前田や不破や佐々に越前の寺社領は
先祖の織田神社以外はすべて没収とかやってるし
宗麟とかは商人から借金したりしてるけど
信長の場合は武力をチラつかせて上納を要求する恐喝型だしな。 完全に893
堺、草津、大津の関に代官を置いて税金取ってた信長に対して、
三好や六角や一向一揆はその交通量を激減させ
織田軍の補給や退路を遮断させ疲弊させる戦略だからかなり有効だったと思われる。
京での暴挙は自暴自棄に等しく完璧に物心両面で信長は追い詰められていた証拠だろう。
さらに奈良京都堺尼崎で恐喝略奪をして荒廃させた以上、
これ以上の略奪における大利益をあげるのは難しく、
天正2年春に織田が攻勢をかけるもまた資金難で停滞し各軍が各国で苦戦している。
兵力分散してるのも各軍が各国に現地調達をして軍を養わざる負えないからだろう。
原則は軍役負担者が安堵地から輸送による自給ではあるが、
軍役に次ぐ軍役でとても負担出来るわけもなく現地略奪方式を取らざるを得ない。
織田軍が虐殺したりしてるのも略奪や財産没収が目的だろう。
この略奪モンゴル方式は天正8年の本願寺との和睦まで続く。
あんだけ無理を強いて戦い続けてりゃ軍費だって無くなるだろ。
戊辰戦争でも軍費問題はデカかったんだから。ガキの頃から豊かな生活を親が与えると
大人になっても浪費癖が治らないばかりか酷くなるってのは事実なんだな。
それで金が無くなると虐殺と略奪だもんな。
そいつがアスペ・パワハラ独裁権力者だったから日本は不幸の闇に包まれたってわけだ。

486人間七七四年:2012/03/10(土) 00:08:33.77 ID:UzxofApy
領土拡張率ランキング

         家督相続年  相続時勢力圏  最終勢力圏  勢力拡大率
1宇喜多直家    1555年     0万石    30万石      ∞
小笠原貞慶    1582年     0万石    13万石    ∞
徳川秀忠     1602年     0万石   日本全土    ∞
4徳川家康     1560年     2万石    1790万石     895倍
5結城晴朝    1558年     1万石   23万石    23倍  
6佐竹義重    1570年     8万石  150万石  17倍
7上杉景勝    1578年     8万石  120万石    15倍
8菅沼定利    1562年     1万石   13万石     13倍
9武田信玄   1541年    14万石    130万石      9倍
10上杉謙信    1548年     23万石   178万石       8倍
11北条氏康    1541年     45万石    180万石      4倍

最下位 織田信長       30万石    0        0倍

487人間七七四年:2012/03/10(土) 00:09:17.30 ID:UzxofApy
角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに
第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている)
現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は金子拓氏の最新研究結果によれば70以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。
尊経閣文庫蔵安土日記
信長記の写本だがもっとも古態をとどめている。安土城についての史料的価値が高く他の信長記にない逸話が登場する。
木田梧楼家蔵信長記
本願寺攻めが他の信長記より詳しい。
首巻のある信長記(陽明本など)
信長上洛以前の記録であるが、これは自筆本が後世に伝わってない。
また年次の誤りが異常に多く永禄3年の桶狭間の戦いを天文21年としていたりする。
尊経閣文庫蔵織田記
首巻が他のと違う。が天文13年9月の信秀の美濃攻めで大敗した織田の討ち死に数を50とする。
陽明本などは5000とする為、こちらの方が信憑性が高いと言われる。
内閣文庫蔵安土日記は池田家本系統の写
長篠での鉄炮数を30挺計と書いていたりする。
天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。
太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。
そもそも信長は発給文書が極端に少なく、ほとんど部下へ丸投げなので
信長の業績はまったくわからず、やむおえず太田の著書に頼らざる負えないだけで
信憑性は疑問のシロモノであり、関が原や秀吉の史料は豊富にあるので
太田の記述した関が原や秀吉に関する記述は三次史料以下の扱いである。

信長公記は志賀の陣まで前代未聞の栄誉ある一戦などと勝利宣言してるからまったく信用性ゼロ
実際は義昭が必死に調停してくれたから信長は助かっただけ。

そもそも三河物語には和田が参加したなんて書いてない。
3万の朝倉が1万の織田を旗本まで切りくずして朝倉軍が一気に前進していたが、
家康が前面の敵を撃ち、信長の崩れを見て 一気に朝倉奥陣に斬り込んだから
本陣に横撃を受けて朝倉軍が崩れただけ。志賀の陣でも朝倉軍3万に織田1万じゃ帰り道を塞がれたらかなわないから和睦したって書いてるし、
信長が兵糧に困るだろうと考えていたら比叡山から朝倉に米が運ばれてしまったと書かれてる。
その一方で比叡山の騙し討ちを喝破した信長をさすがの弓取りと称賛してるからこれでも三河物語は信長寄りにかいてるわけだが。

信長から御加勢依頼がきて徳川からは石河家成が織田への援軍で参加してるから。
488人間七七四年:2012/03/10(土) 00:10:25.43 ID:UzxofApy
信長は大河内城2ヶ月大包囲で
将来の織田での出世を期待された池田衆のお馬回役朝日孫八郎・波多野弥三郎
丹羽衆の近松豊前守・神戸伯耆守・神戸市介・山田大兵衛・寺沢弥九郎・溝口富助・鈴木主馬允ら
高級幹部20人以上が討ち死に。氏家軍に夜襲をかけたり、信長本陣に肉薄突撃したり
藤堂高虎の兄も大河内城で討ち死に及んで信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
(大河内城の北東の守りを固める阿坂城1万5000包囲では秀吉が左股に矢を受ける大苦戦で
落城させたのは浅井長政が援軍に出していた配下の遠藤喜右衛門の調略によるもの)
信長の危機を知った義昭が北畠との和睦を斡旋し(古簡雑簒)
信雄を人質に取ったことで和睦を拒否ってた水谷刑部少輔が織田との和睦にやっと同意。
追撃されないよう信雄を人質として差し出して京へ帰る他に手が無かった。
伊勢新宮を支配する田丸城って言う北畠三御所の一つで信雄がここに入城するようになってから
織田による北畠支配が本格的にスタートしたのであり、現時点の織田には北畠支配などできてない。

六角重臣達と対立する六角義治に対抗して六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ

やっぱり柴田、蜂屋、森、坂井の4将のうち2人まで朝倉に討ち取られてるから
かなりの戦力ガタ落ちになってんだろうな。
信長公記の著者の太田が書いた太閤記や高麗陣日記や関が原軍記が
デタラメ過ぎて、誰も引用しないシロモノなのに
信長公記だけは絶対に正しいと主張する方が頭が悪い。

元亀4年1月に入ると本願寺が遠三尾濃の一揆の蜂起を命じ
(天正2年8/5の幽斎宛て信長書状にも尾・勢之中一揆を尋ね出して悉く楯切り(思いっきり)しろと命じてる)
岡崎にある勝鬘寺が蜂起予定だし、伊勢長島門徒も岐阜城付近に要害を建設した。
2/17に信玄が野田から撤収したと23日付けで幽斎に信長は言ってるが、
3/6には信玄が秋山に東美濃に織田が攻めてきたから追い払えと命じてる。
(ちなみにこの後に信長の子の御坊主丸を甲府に送ったとされる)
その後も岩村は武田方なので、織田軍はまた岐阜へ敗走したんだろうねw
3/7に義昭が信長の人質を突っ返して断交してるし
京都の大山崎にある山城離宮八幡宮は、信玄の上洛は確実とみて
さっそく諸役免除と禁制発給をお願いしてるし(26日に諸役免除を認めてる)



489人間七七四年:2012/03/10(土) 00:11:23.27 ID:UzxofApy
和田は伊丹が反織田で挙兵しないように説得していたんだし、細川と和田は協調して親織田だと見るべきだ。
ちなみに伊丹氏は天正2年4月の本願寺挙兵にも同調して、一向宗の力を借りて7月下旬に伊丹城を奪取し挙兵。
7/20に石山本願寺の中島砦攻撃で荒木軍の大半が戦死し
7/29には伊勢長島攻撃の戦地の信長が本願寺包囲に参加していた光秀に
奪取したばかりで兵糧が乏しい伊丹城は本願寺と連携してるから
即降伏は難しいので遠巻きするかどうかはお前の判断次第と言ってる。
8/3には河内若江城へ遊佐信教・三好康長らが攻めてきたり大和南部でも叛乱が起きまくり。
長島一向衆を大虐殺後は即、大和へ織田軍は進軍。ついで11/15に伊丹氏滅亡。
俺が言ったのはロクに準備なく、丹波攻め人選もいい加減だということ。
丹波国守護代内藤氏や宇津頼重が義昭に付いて、いまだに帰順しないからと言うことで
6/7川勝継氏 6/17小畠左馬助らに内藤らに味方したら成敗するから織田に付いて馳走しろ。
こんな乱暴な命令の書状を出しただけで放置だろ。
とうの信長は本願寺包囲をしつつ、光秀や秀吉などを引き連れて
越前で撫で斬り大虐殺大会に出かけてるだけだし。
9/26に越前虐殺大会から帰ると、万単位の虐殺に大満足してるようで高揚してるのか
思い出したように10/1に赤井直正を討つから光秀派遣したから片岡藤五郎は協力しろ。
そして天正4年1/15に光秀が赤井と波多野に大敗した報が入り、
1/28には石山本願寺に織田軍が敗れる報がやってくる。
ここら辺りの信長公記は安土城建設開始とか書いて完全に隠蔽してる。
さすがに本願寺攻めに失敗し5月の原田(塙)戦死するところは隠蔽できず書いてるが
(つか、書かないと大幅に白紙日程になるのを誤魔化しきれない)
それですら一次史料にはない信長の5/7天王寺突撃大勝利話を持ち出して信長マンセーに摺り変えてる。
5/11勧修寺晴豊らが戦勝祝賀の勅使として摂津国へ下向するやウソ戦果と捏造戦況がバレて
相当な危機感を持った朝廷で12日夜からさっそく朝廷で右大将出陣御祈祷が一週間に渡り開始される始末。
しかもその後におきる木津川口の敗戦も公記得意の信長が後詰めしようとしたが
間に合わなかったと言う岩村城援軍や明智城援軍や高天神城援軍などでも使われた決戦から逃亡正当化の常套文句。
さらに安土城建築の模様を再び書いたりと誤魔化してるが、このあたりから再び、信長は苦境に入り込んでる。
織田軍は伊勢・越前・大和・摂津・和泉・河内で
石山本願寺・三好康長・遊佐信教・一向宗と相変わらず戦い続けてる。
しかも荒木軍が石山本願寺側の中島砦で大半の者が討たれた際の信長は
本願寺を撫で切りできれば、どんだけ被害を受けても構わないなどと書いてるように
軍役をかけてる下々の負担を一切かえりみないアスペ暴君ぶりを発揮。
これでは荒木や松永らが信長に謀反するのも仕方が無いことだ。
多聞院日記3/11でも信長の攻撃で摂津と河内の田地が過分損亡と嘆いている。
天王寺の戦いでの信長の突撃は信長公記にしか登場しない捏造で一次史料や日記など史料的裏付けがありません。
たとえ史実であったとしても信長は最低でも
佐久間信盛・松永久秀・細川藤孝
滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉
丹羽長秀・稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就・馬廻衆の合計3000以上は率いているし
信長に呼応して挟撃してきたのが荒木村重・細川藤孝・明智光秀・三好康長
根来衆・和泉衆・大和衆・山城衆
佐久間信栄・猪子兵介・大津伝十郎・江州衆らだから明らかに織田方は大兵力のはず

490人間七七四年:2012/03/10(土) 00:13:29.59 ID:UzxofApy
2/15久秀や岩倉の山本対馬、山中の磯貝、和邇の金蔵坊、勢多の山岡、田中の渡邊らが10日付で帰参。
静原に山本城を築いて織田に反抗する。2/23筒井城の順慶が春日社参詣に3000人を引き連れてきたため
松永久通が警戒し小規模な衝突もあったようだ。大神楽や神馬を奉納して成身院に宿泊後に筒井へ帰る。
2/23信長→細川宛で信長自身が信玄が去る17日に野田表から撤退したので、志賀の一揆蜂起について
蜂屋・柴田・丹羽を出征させ湖を渡らせる。成敗に手間がかかれば世間聞合なので
自分も近日中に佐和山へ出て上洛し畿内を平均すると述べている。すでに湖経由でないと上撃烽ナきないほど近江戦線は崩壊してるのがわかる。
2/26義昭に同調し三井寺の光浄院暹慶ら西近江で挙兵し柴田と明智が彼らの石山と堅田砦を破り西近江を平定すると
信長公記録は書くが、慈敬寺文書の顕如書状によると2/14付けで慈敬寺が伊藤城を攻略し其の表の面々は此方一味であり
堅田まで属理運、還住由になったとして黄金三十両を進呈している。
小林吉長も2/17付けで堅田村の郷士達への書状で慈敬寺との入魂専要之旨と述べている。
2/27には顕如→信玄宛てで江州西路事、 此方當門家中慈敬寺以調略属本意候と書いている。
2/19の義昭書状でも山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯貝新右衛門らまで、悉く取除、明智光秀は儀無正躰候、近邊大略属本意候と書いていて
(2/13における木戸表(大津市木戸)御働として光秀が革島忠宜へ感状を出してる)
近衛家文書の2/16長政→伊勢七郎左衛門宛てでも信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。
長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べ
2/24に革島宛てに光秀が明日から今堅田を攻めると書き
三月朔日で柴田が革島宛てに今堅田成敗申し付けと報告してる。
やはり明智軍(光秀は配下の18将を供養してる)は
戦力としては崩壊しているようで、主力は柴田が担っているようだ。
3/7の信長は伊丹により摂津において中島城の細川が堺へ敗走に続き
賀嶋城まで落ちて絶言語と動揺している。
3/18に義景が木戸城主佐野十乗坊秀方へ早船で加勢した
近江高島郡の多胡宗右衛門を褒めていて
3/13には下間頼充が馬場宛で今堅田に篭もっていた馬場親子が敵が取詰にきた時に一戦し粉骨したのを慈敬寺から
報告を受けたと戦功を感謝しているし
3/21には義景→馬場宛に敵が相働くも十乗坊に立て篭もり粉骨したのを賞している。
佐左馬要害と同等の価値あると言っている。
4/2には長政も馬場に木戸籠城を褒め称えていて、相次いで大勝利を褒めている。
この状況から見るに柴田ら織田軍は今堅田は何とか攻め落とせた可能性はあるが、
堅田村を一向宗側が取り込んでいるため無力化にはほど遠く、
しかも今堅田に続く十乗坊攻めでは逆に織田軍は大敗しているのがわかる。
また手間取ると外聞が悪いと気にするほど劣勢の信長は
信玄が帰ったし信長自身が出馬すると言いながらまったく出馬できないありさま。
元亀3年
8/18三好義継と本願寺宗徒が信長配下の細川昭元が守る摂津中島城を攻める。
8/28松永久秀父子が上洛を目指し山城木津を攻める。
9月是月に信長が義昭を批判し異見十七箇条と出す。
朝倉が丁野山に要害を築くのに信長は邪魔することもできず城が完成する(総見記)
11月に信長は虎御前山砦から美濃へ逃走したので12月3日に朝倉は越前へ引く(年代記抄節)
ちなみに朝倉記には虎御前山砦に火をかけたと記されている。
12/20義継・久秀ら再度、昭元の中島城を攻める。
元亀4年
2/26信長が義昭に和睦を乞うた。
2/27義継、久秀らがまたまた昭元攻め、ついに昭元が堺に敗走(尋憲記)
3/6義昭が義継と久秀を赦し盟を結んだことを受けて
久秀が京に赴かんとし河内津田に進出(日本耶蘇会年報)
3/7義昭、信長の質子を斥け、之と絶つ(尋憲記)
3/11荒木村重、和田惟長の臣高山重友を誘ひ、惟長を其居城摂津高槻城に攻む、
惟長は山城伏見に敗走する(兼見卿記)
ちなみに3月の細川家記によると義昭が信長追討の御教書の下した先に謙信も含まれる
491人間七七四年:2012/03/10(土) 00:15:18.18 ID:UzxofApy
公記には天文21年(1552年)に桶狭間の戦いがあったと書いている事実w
このため桶狭間の戦い虚構捏造説の根拠にされるw(信秀死去は天文20年もしくは天文21年とされる)

天正9年11/24に信長の子の御坊殿が武田から返却されてきたので犬山城主にしたと
公記には書いてある。そこには信玄が養子にしたいと言うから甲斐へ送っていたと書かれている。
しかし実際は岩村城の養子に信長がねじ込んだ末に、武田軍に大敗して拉致られただけ。
完全に歪曲捏造しまくりなのが公記。

第二次木津川口の戦い自体は兵糧搬入成功している以上勝利だからね
毛利側にも本願寺側にも証拠がある

毛利家文書834 小早川隆景書状写
「去六日至木津諸警固乗入、大坂衆申談候、
敵船雖罷出候、舟軍等勿論此方得勝利候」

毛利家文書832 下間頼廉書状写
「諸警固一昨日六日木津浦御着岸候、当寺大慶此事候」

「兵粮両度被入 信長公より九鬼大隅守に被命以大船 川口被塞 雖然打破り 兵粮を入る」
毛利家日記より

討ち取られた武将もいない

野田福島の戦いでは京へ撤退しようとする信長
江口川は水量が多く、水勢もすさまじいものがあり
船でしか渡れない場所なのに、信長は徒歩で渡れる始末。
しかも翌日からはまた徒歩でわたれなくなり
地元民が奇跡だと言い合う。これにより三好軍と本願寺からの
追撃を免れたなどとバカな妄想を書く公記。
他にも道三が討死した報を聞き退却しようとした織田軍であったが
義龍の軍勢が追撃しようとしたところを、
信長が鉄砲を撃っただけで、信長公の勢いに飲まれて追撃する気がなくなるなど
くだらん話が散見されるのが妄想軍記信長公記のウケを狙ったガチなギャグである
492人間七七四年:2012/03/10(土) 00:32:52.96 ID:aUT9xMS6
そんな信長に負けた顕如と勝頼・・・・
そんな信長に勝てなかった信玄・・・・


武田厨言い訳集

【寿命のせい説】
信玄が死んだから信長は生き延びた、信玄が生きていたら信長は信玄に討たれたという説。もう53歳と立派な御爺さんの信玄の寿命をアテにしたり、
織田家臣達の寝返りをアテにするなどとにかく他力本願な主張がこの説。

【勝頼のせい説】
江戸時代の甲陽軍鑑からの伝統、跡を継いだ勝頼とその周辺が無能だったため武田家が滅亡したという説。
嫡男義信を廃嫡し勝頼を後継者に据えたのは他ならぬ信玄なのは触れない約束。
挙句筆頭重臣だった跡部をつい最近まで「勝頼に言い寄って権勢を振るった新参の佞臣」と捏造していた。

【土地のせい説】
武田家の領する甲斐が信長の領した尾張よりも国土が貧弱だったため天下が取れなかったという説。
甲斐源氏武田家の名門を根底から覆す説。織田信長が最初から尾張一国を領したという誤解がまかり通っていることも多い。

【謙信のせい説】
長尾上杉家の当主で戦国最強と謳われた上杉謙信が武田信玄の邪魔をしたから天下が取れなかったよという説。
上杉謙信が戦国最強というのは江戸時代になってからの認識で、当然そんなことはない。関東豪族や能登畠山にも一時的に苦戦していた。

【義景のせい説】
反信長連合の一員であった朝倉義景が無能で信長に抗しきれなかったため、武田信玄の進軍が上手くいかず天下に届かなかったという説。
この説のために朝倉義景=無能という認識が当然のように広がってしまった。他家の領主のふんどしで相撲を取ろうとする武田信者の浅ましさが見て取れる。

【穴山のせい説】
武田家一門衆である穴山信君が無能で足を引っ張ったために武田家が天下を取れなかったと言う説。しばしば長篠や武田征伐の挙動が挙げられる。
他人の大名家どころか自家の家臣の管理すらできていなかった武田家の杜撰っぷり、人物を見極める視野の狭さが見て取れる。

493人間七七四年:2012/03/10(土) 00:34:56.01 ID:n1xzPldB
>>479
全く無意味な仮定
個々人のイメージに大きく依拠するもので正解などない

どんな有利な不利な状況であれ、大大名と呼んで差し支えない程勢力広げたんだから名将
ただどっかの武田厨みたいに天下とれただの、戦国最強だの脚色すると批判されるだけの話
494人間七七四年:2012/03/10(土) 01:04:25.06 ID:UzxofApy
領土拡張率ランキング

         家督相続年  相続時勢力圏  最終勢力圏  勢力拡大率
1宇喜多直家    1555年     0万石    30万石      ∞
小笠原貞慶    1582年     0万石    13万石    ∞
徳川秀忠     1602年     0万石   日本全土    ∞
4徳川家康     1560年     2万石    1790万石     895倍
5結城晴朝    1558年     1万石   23万石    23倍  
6佐竹義重    1570年     8万石  150万石  17倍
7上杉景勝    1578年     8万石  120万石    15倍
8菅沼定利    1562年     1万石   13万石     13倍
9武田信玄   1541年    14万石    130万石      9倍
10上杉謙信    1548年     23万石   178万石       8倍
11北条氏康    1541年     45万石    180万石      4倍

最下位 織田信長       30万石    0        0倍
495人間七七四年:2012/03/10(土) 01:07:25.01 ID:UzxofApy
東武士は大方強敵どもなり
上方の弓矢すえになりたる国ども
上方衆恩も存ぜず強き弱きの弁えもなく義理をも恥をも捨て候て
信州(武士)弓矢功者の事は、侍の事は申に及ばず、百姓まで勝負のすべをよく存じたる
信州弓箭つよき事、大形ならざるに付、忰者・中間まで武勇をたしなみ、にげおつる者さのみ無之して
関東の儀、昔より弓箭国と申は、まず武蔵は武の蔵とやらん承及候。(中略)よき武士あまた候て、(中略)弓矢巧者、手柄武士達際限なく御座候事、老若共に沢山なる儀は、積もられぬ程にて候
(『甲陽軍鑑』)

今度上様(織田信長)東国御出馬付、当国(大和国)衆自昨日上洛
(中略)
甲斐、越後之弓矢天下一之軍士之由風聞、一大事之陣立也
(『蓮成院記録』)
496人間七七四年:2012/03/10(土) 01:09:31.47 ID:gSzvonGD
>>491
当時は「現在の年号と年度」をちゃんと日本中の武士が知ってたのか疑問なんだけど。
今と違って西暦も使われて無いし、現在の年号と年度をいちいち京都に確かめる事も出来ない。
地方によって年度に狂いが出て当然だと思うぞ。
497人間七七四年:2012/03/10(土) 01:10:27.75 ID:UzxofApy
あんだけの織田オールスター武将で加賀に出兵してるのに
信長がいないなんて誰が指揮統御できんのよW
まさか柴田とか言わないだろうなw
柴田が越権行為して信長直轄武将まで指揮してたのかね?
それは9/1現在の情勢で、信長が現地の柴田(8/8には手取川へ柴田は渡河済み)に防衛を命じてあるから
お前も相談して防衛してくれ。もし防衛できそうにない状況なら
織田軍を動員することになる。決して見放さないと
上杉から離反した水越左馬助に信長が伝えてる書状だ。
しかし結局、9/15には七尾城が落城してしまい
上記の情勢は明らかに現地の柴田や水越では防衛できない状況になっており
水越に約束したように信長が織田本軍を率いて
秀吉・丹羽らと共にやってきて大敗。
9/23には上杉軍が加賀国湊川まで追撃を兼ねて南下。
9/27には逃げ帰った信長が美作の江見為久へ秀吉を派遣する旨を伝える。
信長が留守中の政治は二条城築城など村井貞勝が準備執行をやってるのがわかる。
こんな感じだろうね。結局、信長が京か安土城にいた一次史料は出せないわけだ。
もっとも信長がいなかったから松永親子の謀反が現実化してしまいやっと9月29日になってから松永への対処を信長はやっているが
明らかに手を打った時期は遅きに逸してる。明らかに信長は北陸から逃げ戻ってきてる証拠。
8月17日には久秀が石山本願寺包囲から大和へ離脱して
本願寺包囲に大和衆が抜けた穴が空いてしまったのに
松永討伐が出来ないまま放置は
上杉軍への対処に信長が出撃したからだろね。
ちなみに謙信の能登加賀攻略に呼応して勝頼も遠江で徳川と対陣してんだよね。
謙信の越後撤退を知ったのか10月20日に武田軍も撤退。
結局、大兵力を上杉への対処に充てた織田軍による援軍派遣が徳川には無かった。
徳川はその後すぐに浜松城の譜請を大動員してやってる。
徳川にとってもいまだ武田軍はかなりの脅威だから浜松城のさらなる防御力向上を図ったんだろう。
松永攻略は北陸に行ってない明智光秀、細川、筒井が大和へ先発し
後詰めで信忠がやって来てるのがわかる。
しかし信長公記は秀吉や丹羽ら北陸出兵組まで松永攻めに動員されたとする。
公記は実にウソくさい。
498人間七七四年:2012/03/10(土) 01:13:08.91 ID:UzxofApy
松永すら対処できずに放置なのにさらに遠方の石山本願寺や紀州に信長がいたとかワロタw
ちなみに閏7月13日に信長は安土下向してるし
本願寺方面には松永離脱と同日に信長が和泉に着陣した筒井と佐久間が話し合って協力するように伝えてるから
信長が京や石山本願寺にいて指揮をとっているとは思えないし
手取川の前後の京には光秀が入っている。
また北陸には秀吉、丹羽、滝川、稲葉らが行ったとされるが、
大敗した為に滝川や稲葉の戦後の動きは不明だし
柴田も消極的だし、秀吉も中国へ赴任した際はかなり貧弱な兵力だった為に播磨で苦戦続き。
明らかに織田軍の動きが鈍い。

1月16日には佐久間信盛と柴田の防備慰労として
北陸へ松田監物を派遣してるところから
佐久間を本願寺攻めから抽出して対上杉防衛に転用しないといけないほど追い詰められていた。
本願寺攻めは代わりに信忠が配置されてる。
松永攻めで損害が出た丹波攻めの光秀には細川の増援が決まったな。
3月27日には
黒田頼りの秀吉の三木城攻めに対して状況によっては信長自身の出馬があると言い、
状況とは謙信が死んだ風聞があることを指摘してる。
結局、謙信死んだのが確定した為か戻ってきた佐久間に信長自身の出馬を反対され
代わりに信忠が派兵されることになる。

松永の 片岡城攻略で明智軍に「大勢損」が出たのに苦戦してないとかあり得ないわけだが。
それに当時の謙信と勝頼は義昭主導の甲越相一和が成立してたから
上野や信濃で緊張なんて無かったわけだが。
しかも北条からも謙信が上洛するなら北条の援軍も派遣したいと申し出てるしな。
柴田や佐久間は織田家の宿老ではあっても
秀吉、丹羽、滝川、稲葉ら信長直臣に命令する立場にない。
彼らを命令できるのは信長だけ(そもそも柴田は目付けの前田や佐々らに監視されている)
また柴田軍はかなり被害をこうむったから本願寺攻め総指揮官の佐久間がやってきて専守防衛してたんだろう。
稲葉や滝川の活動も見えなくなり彼らは負傷していたのではないか?
また織田軍全体でも天正5年末から天正7年まで活動が鈍りまくっている。
上杉に大敗したのか兵力の立て直しに時間がかかり過ぎている。
手取川の後、京防衛だった最後の無傷戦力たる明智軍団を投入して松永相手に明知軍まで大損害を出したのちも
丹波の明智・播磨の秀吉
三河の徳川・越前の柴田・和泉の筒井・摂津の佐久間
これらの戦域で増援が必要だったのに
ぜんぜん信長は増援派兵できないからなぁ。
彼ら自身も戦力不足で天正7年までロクな実績を挙げてないね。
丹羽・滝川・稲葉らを遊ばせていたのか?
上杉相手に殿を勤めて大損害&負傷で動けなかったんじゃないかな。
光秀がラッキーだったのは謙信に続いて丹波の赤鬼赤井直正が死去したことだな。

越山すると言ってしない時が何度となくあるし
そもそも数週間だけ北関東に来てからさっさと越中出馬に出向くなんてしょっちゅうやってる。
そもそも越相同盟の時も北関東への謙信の出馬は
北条との対立には該当してない
499人間七七四年:2012/03/10(土) 01:17:09.59 ID:UzxofApy
歴代古案の謙信の書状と北徴遺文があるって散々書いてあるだろ
詳細といえば謙信の書状に詳しく書いてあるじゃねーか 手取川の史料が少ないだけで否定するなら、
戦国時代のほとんどの合戦が非実在戦争になるぞw厳島合戦や河越合戦はなかったのかよ。
一次史料による否定ができない限り、いくら粘着してテキトーに思いついたケチをつけても無駄だけどな。
その前後に明らかに勢力図が変わってるし、織田はわざわざ本願寺攻め総責任者の佐久間まで引っ張り出してまで、
越前防衛に必死こいてるし、謙信が死んだ情報が入って始めて織田軍の播磨への援軍が実行されてるように、
手取川ののちも信長は謙信を恐れて警戒してるのが現実だからなw
なんせ本願寺に和睦させて頂くまでは手取川で敗れたダメージがありすぎて
加賀に一切侵攻できなかったと>>961で言い訳してるのはあなた本人でしょ。
それなのにいきなり逆切れするとか頭おかしくねw
信長公が援軍用意してたが前線ですでに敗北してたみたいだから援軍取りやめた
このフレーズは信長公記に頻繁に出てくる負けた時の常套句だからw
なんと第一次木津川口の敗戦でも同じ常套句を使って誤魔化してるくらい。
とりあえず織田を擁護したいなら最低でも信長公記くらい読もうよバーカwww
じゃあなんで織田軍はその後、
戦力不足で天正7年までロクな実績を挙げられないんだ?
上杉の4倍の国力があったなんて妄想まで書いてるわりに
佐久間信盛が追放された時に信長は柴田も功績をぜんぜん挙げられず
「越前一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、この春加賀へ侵攻し平定した」と書いている。
天正8年春にやっと加賀へ侵攻してるほど動きが鈍いのはなぜ?
謙信は天正6年3月に死んでるんだよ。
あまりに柴田率いる北陸軍の損害が大きすぎて加賀にすら満足に侵攻できない状態なのが露呈してるんだけど。
柴田が秀吉や光秀どころか小身の池田恒興までがはなはだしい武功を挙げているので
武功がない柴田が焦って加賀を制圧したと信長は佐久間への糾弾で言っている。
つまり、本願寺との和睦成立で加賀へ侵攻できたのではなく
秀吉や光秀らと違い手取川での敗戦で損害の大きい柴田軍が焦っていたのであって
そこに本願寺との抗争で加賀侵攻ができなかったとする言い訳は
信長のこの発言により成立しないのである。
もしこれ以上の加賀への侵攻に遅れが生じていたなら
佐久間同様に柴田も改易されていたのは明白で
そこに本願寺が〜と言う言い訳が成立しないのは明らか。
もっとも一向宗というより、すで家臣に組み込まれているので上杉軍ではあるが。
500人間七七四年:2012/03/10(土) 01:17:31.35 ID:UzxofApy
>>誰も討ち死にしてない
討死してないが滝川・稲葉らが重症を負ったようで当分の間、登場しなくなる。しかも各地で苦戦する織田軍は
まったく援軍が派遣できないまま各戦線で劣勢。
>>野田福島の戦いや志賀の乱でもちゃんと記述がある
お前がwikiを読んでるだけで信長公記をまったく読まずにケチつけてるのがはっきりわかった。
信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ。敗北してる手取川の戦いを隠蔽している可能性は高いし
そもそも筆者の太田からして、北陸情報に疎いので柴田に関する記述もほとんどないし、
>>774>>785のように前線からの捏造報告を鵜呑みにしてる記述している。
>>秀吉に一切のお咎めを与えない
お前は信長公記を読んでないからそういうことを平気で発言する。
公記ではそのこともあるから秀吉は中国戦線で昼夜を問わず駆け回って働いたと書いてる。
もっとも太田は太閤秀吉が手取川の大敗に参加してないと捏造記述した可能性はあるが。それは大かうさまくんきのうちでの
秀吉マンセーぶりからすればありうる。そのためか公記では秀吉が毛利に敗れた記述も隠蔽している。
>>一向衆側が何の記録も残してないのは何でだ?
義元は殺したとされるほどの桶狭間の戦いを証明できる書状がないのは何でなの?
だからって桶狭間の戦いは実在しなかったよねとは言わないよな?天災や戦災などで書状なんて消失してしまったのも多いのに
一向宗側に残ってないからおかしいなんて暴論すぎ。しかも歴代古案に証拠があるにも関わらず。
それにメディアが発達し民衆の知識も戦国とは比べものにならない近代の大東亜戦争においては数々の敗戦を完璧に隠蔽してたぞ。
もっと言うとアメリカに知らされないように大地震すら隠蔽された。
1943年9月10日鳥取地震・1944年12月7日東南海地震・1945年1月13日三河地震
まぁアメリカにはバレてたがな・・・ それどころか台湾沖航空戦という勝ち戦がデッチ挙げられたりしたし。
だから大きな大敗や災害ほど周辺国への影響を考えて隠蔽されるのが普通だ。
501人間七七四年:2012/03/10(土) 01:21:22.68 ID:UzxofApy
    政治  統率  知略 
家康  110 114 108
本多  77 105 80 
酒井  87 95 93
井伊  85 94 93
榊原  50 94 70
大久保 47 83 76
氏康  120 105 108
氏政 96 83 84
政宗  107 97 96
盛氏 86 99 95
元就 96 107 120
小笠原 73 78 60
依田 47 82 86
大須賀 58 82 64
502人間七七四年:2012/03/10(土) 01:22:55.54 ID:Xn0XPEQg
503人間七七四年:2012/03/10(土) 01:23:29.59 ID:UzxofApy
        政治  統率  知略
信長(笑)    90 71 86 
秀吉(大 爆 笑)89 35 89
光秀       85 79 80
滝川       70 77 83
柴田       60 83 52

贔屓目にみてもこんなもん
他の連中はこれ以下のカス
信忠(笑)   50 28 30
蒲生(笑)   60 55 68
丹羽(笑)   70 15 67

カス武将の集まり織田軍w
504人間七七四年:2012/03/10(土) 01:24:54.61 ID:UzxofApy
領土拡張率ランキング

         家督相続年  相続時勢力圏  最終勢力圏  勢力拡大率
1宇喜多直家    1555年     0万石    30万石      ∞
小笠原貞慶    1582年     0万石    13万石    ∞
徳川秀忠     1602年     0万石   日本全土    ∞
4徳川家康     1560年     2万石    1790万石     895倍
5結城晴朝    1558年     1万石   23万石    23倍  
6佐竹義重    1570年     8万石  150万石  17倍
7上杉景勝    1578年     8万石  120万石    15倍
8菅沼定利    1562年     1万石   13万石     13倍
9武田信玄   1541年    14万石    130万石      9倍
10上杉謙信    1548年     23万石   178万石       8倍
11北条氏康    1541年     45万石    180万石      4倍

最下位 織田信長       30万石    0        0倍

505人間七七四年:2012/03/10(土) 01:26:17.00 ID:UzxofApy
領土拡張率ランキング

         家督相続年  相続時勢力圏  最大勢力圏  勢力拡大率
1宇喜多直家    1555年     0万石    30万石      ∞
北条早雲     1460 0 万石   25万石      ∞ 
3徳川家康     1560年     2万石    1790万石     895倍
4最上義光    1533年     1万石  54万石      54倍  
5津軽為信    1540年    0,7万石  24万石     34倍
6葦名盛氏    1532年?     2万石    60万石      30倍
7伊達政宗    1585年     15万石    180万石     13倍
8武田信玄   1541年    14万石    130万石      9倍
9上杉謙信    1548年     23万石   178万石       8倍
10毛利元就    1526  10万石    60万石     6倍 
11北条氏康    1541年     45万石    180万石      4倍

最下位 織田信長 30万石    0           0倍



ちなみに領土拡張スピードなら
短期間で包囲網打ち破った伊達政宗>>>>>>雑魚信長
506人間七七四年:2012/03/10(土) 02:15:31.51 ID:2/PQlWs4
そしてその信長に勝てなかった信玄はさらにザコと
507人間七七四年:2012/03/10(土) 07:59:05.36 ID:Jk5rPVgi
信長が49の時の領土>>>謙信が49の時の領土>>>信玄が49の時の領土

これが現実
家康にすら勝つことができず信長が出張る必要すらなかった田舎者武田
現実を見えずにピーピー騒ぐのが武田信者 だから武田信者の騒ぐ事は信憑性0 信長公記のが余程正しい
ついでにアホ宗をマンせーし始めるあたり救いようがない
508人間七七四年:2012/03/10(土) 10:56:48.33 ID:ZHp1AGGD
>>437
信長が身分に関係なく抜擢なんてしてないよね。
なんせ秀吉の初登場史料として有名な、
永禄8年11月2日付け
坪内利定宛の信長安堵状の副状を秀吉が出すという話で、
一次史料ですでに信長の側近として、
のちの堀秀政みたいな立場になってる。
信長公記の秀吉初登場では、
上洛軍ですでに一軍の将だし
どこを見ても身分が低かった証拠は無い。
509人間七七四年:2012/03/10(土) 11:01:22.25 ID:Jk5rPVgi
秀吉の正式な出自知ってんの?
510人間七七四年:2012/03/10(土) 11:01:38.05 ID:UzxofApy
信長が49の領土って0だろ
本能寺で死んで織田家を崩壊させただけ。
領土拡張といいつつ、最期だけ特別に無視し、死ぬ前の都合よい時点で考えようとするのが織田厨クオリティ
511人間七七四年:2012/03/10(土) 11:05:33.23 ID:UzxofApy
領土拡張率ランキング

         家督相続年  相続時勢力圏  最終勢力圏  勢力拡大率
1宇喜多直家    1555年     0万石    30万石      ∞
北条早雲     1460 0 万石   25万石      ∞ 
3徳川家康     1560年     2万石    1790万石     895倍
4最上義光    1533年     1万石  54万石      54倍  
5津軽為信    1540年    0,7万石  24万石     34倍
6葦名盛氏    1532年?     2万石    60万石      30倍
7伊達政宗    1585年     15万石    180万石     13倍
8武田信玄   1541年    14万石    130万石      9倍
9上杉謙信    1548年     23万石   178万石       8倍
10毛利元就    1526  10万石    60万石     6倍 
11北条氏康    1541年     45万石    180万石      4倍

最下位 織田信長 30万石    0           0倍



ちなみに領土拡張スピードなら
短期間で包囲網打ち破った伊達政宗>>>>>>雑魚信長
512人間七七四年:2012/03/10(土) 11:06:45.86 ID:UzxofApy
領土拡張率ランキング

         家督相続年  相続時勢力圏  最終勢力圏  勢力拡大率
1宇喜多直家    1555年     0万石    30万石      ∞
徳川秀忠     1602年     0万石   日本全国     ∞   
3徳川家康     1560年     2万石    1790万石     895倍
4井伊直政    1571年    0,4万石   23万石     50倍  
5本多忠勝    1540年    0,4万石  21万石     49倍
6榊原康正    1532年?     0.3万石    18万石      48倍
7松平康国    1583年     0.3万石    15万石     47倍
8武田信玄   1541年    14万石    130万石      9倍
9上杉謙信    1548年     23万石   178万石       8倍
10毛利元就    1526  10万石    60万石     6倍 
11北条氏康    1541年     45万石    180万石      4倍

最下位 織田信長 30万石    0           0倍



513人間七七四年:2012/03/10(土) 11:17:36.63 ID:Jk5rPVgi
>>510
え?アホ?死んだ時信長に従ってた領土は誰のものなの?
これだから言語障害者は困るわwww
514人間七七四年:2012/03/10(土) 11:22:00.52 ID:Jk5rPVgi
まあ仮に0だとしてもチンゲンの武田は0の信長に滅ぼされ武田の復興を願った真田達は信長に命乞いし惨めに従属
だががいくら喚こうが織田>>>>>>武田は周知の事実w
噴火のせい?信玄が長生きしたら?織田に悉く家臣を殺され惨めに命乞いした事実は消えませんw
515人間七七四年:2012/03/10(土) 11:30:41.25 ID:UzxofApy
>>513
信長の物ではない。
信長が死んだ途端、信長の家臣は織田家として機能せず皆好き勝手に行動しまくるだけ。
神戸北畠は分家であって織田家ではない。秀信は幼すぎて実権なし。
現に織田武将達は信雄信孝秀信を当主として機能していないから実質織田家は崩壊。
信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ
(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され
森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に
安堵状を発給しまくる始末www
織田信澄を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww
>>514
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信長という事ね
そして信玄>>>家康は確定だから
信玄>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信長
信長に滅ぼされたのは勝頼
信玄とは無関係
516人間七七四年:2012/03/10(土) 11:34:04.61 ID:Jk5rPVgi
>>515
はいはい
言い訳見苦しすぎワロス
そんな織田に滅ぼされた武田惨めだな
信玄は関係ない?医者つきの癖に自分の寿命も把握できず結局徳川すら滅ぼせなかったアホのどこが?
信玄が家康に勝った?勝つってのは滅ばなかった方の事だよ?
家康>信長>アホ信玄なのは確実
517人間七七四年:2012/03/10(土) 11:37:36.83 ID:UzxofApy
滅ぼされたのは状況判断能力糞な勝頼のせいでその勝頼ですら織田徳川を長篠直前まで
圧倒的に勝ちまくっていた。
徳川は織田が全然援軍よこさないので鞍替えを検討し始める始末
信玄が西上を始め包囲網勢が圧倒的に織田を追い込み始め滅亡寸前の危機で
信玄の死と朝廷権力で助けられただけのが織田
天下を取った最強家康が生涯最も苦労し辛酸をなめさせられたのが武田
518人間七七四年:2012/03/10(土) 11:37:58.48 ID:UzxofApy
領土拡張率ランキング

         家督相続年  相続時勢力圏  最終勢力圏  勢力拡大率
1宇喜多直家    1555年     0万石    30万石      ∞
北条早雲     1460       0 万石   25万石      ∞ 
3徳川家康     1560年      2万石    1790万石     895倍
4最上義光     1533年     1万石    54万石      54倍  
5葦名盛氏    1532年?     2万石  105万石     52.5倍
6津軽為信    1540年      0.7万石    24万石      30倍
7伊達政宗    1585年     15万石    180万石     13倍
8武田信玄   1541年    14万石    130万石      9倍
9上杉謙信    1548年     23万石   178万石       8倍
10毛利元就    1526  10万石    60万石     6倍 
11北条氏康    1541年     45万石    180万石      4倍

最下位 織田信長 30万石    0           0倍



ちなみに領土拡張スピードなら
短期間で包囲網打ち破った伊達政宗>>>>>>雑魚信長
519人間七七四年:2012/03/10(土) 11:49:20.23 ID:UzxofApy
道三の美濃統治は不安定なもので、
木曽川長良川の大洪水と六角や朝倉や織田の攻撃による相次ぐ戦乱により、
美濃で大量の餓死者でた天文21年6月に六角が頼芸支援で攻め込んだ。
この戦いののち道三は頼芸を追放するが
越後で長尾氏が上杉の支配機構を解体出来なかったように、
斎藤氏も土岐氏の支配機構は解体できず
かと言って道三には民政の新しい施策も全くなく結局、
重臣達により国主たる資格なしとして、
天文23年3月に道三も隠退に追い込まれる。
そして最後は甲斐を追放された信虎と同じく
追放か抗戦かの選択で道三は抵抗を選び討ち死にした。
ちなみに1554年に道三が隠退した翌年に
義龍が范可の署名を弘治元年12月から署名しており、
捏造信長公記は父殺しイメージを押し付けてるが
この使用し始めた段階ではあくまで道三は隠退しただけで死んでないし
父を殺した范可なんて人物も史記などにも存在しない捏造。

道三独裁から重臣たちによる擁立となった義龍政権は行政を刷新し
1558年を中心に義龍は施策を次々に打ち出し
最高意志決定機関の宿老制が完成し、
用水相論の裁許を重臣連署で解決(用水相論解決は一揆的結合の浅井などでも見られる)
立政寺の門前の池で鵜を飼い網を引くのを禁止した制札も連署。
これは土岐氏の官僚機構を
国人合議制により斎藤の元に奉公人制を確立させ吸収していく動きであった。
永禄三年には印判状という文書形式を導入。
知行あてがいも貫高制が導入され
重臣合議制斎藤氏の知行軍役体系が構築されていく。
さらに上洛し将軍相判衆になり美濃国主に正式に認められ、
伊勢や近衛との縁組など家格を上げる努力をしているあたりは
越後統治の正当性を求めて対立する国人を取り込みたい長尾家と同じ動きである。
信長にはできない状態の中で義龍の矢継ぎ早の改革は評価されるべきだろう。
さらに道三への援軍でやってきた信長を危険視し、
弘治三年4/19付け高政書状(義龍)などで
末盛城主織田武蔵守信成に(信勝。通称だと弟の信行)
書状を出すなど尾張での反信長蜂起を策動し改革の邪魔をさせないよう信長を牽制。
520人間七七四年:2012/03/10(土) 11:50:50.73 ID:UzxofApy
斎藤氏が短命で滅亡したが行政文書は義龍時代に集中して遺っている。
下々の意見をすくい取り自ら政を重臣に諮る英邁な主君であるのは間違いない。
信長とはえらい違いだ。
この改革の中で別伝の乱という宗教対立が起きる。道三は日蓮宗だったが、最後まで厚遇姿勢のままで、
土岐成頼や政房や斎藤妙椿や妙純などの妙心寺派を統制できなかった。
この宗教権威への介入のため義龍は妙心寺四派のうちの霊雲派の別伝を保護し伝燈寺を開創した。
禅宗寺院の寺統権を新設された寺燈寺に任命するやいなや
土岐や斎藤に創建され尊崇を受けて来た東海派の瑞龍寺が反発。
これに同調し聖沢派や龍泉派も怒る。
そして彼らは崇福寺の快川紹喜の主導で永禄四年1/5尾張犬山の瑞泉寺に出国して会議を行い対抗。
義龍は通達は別伝が勝手にやったこととして撤回したが、
別伝の僧籍削除には断固反対し
義龍は別伝に勅願寺と紫衣着用を奏請し、さらに4/30には将軍義輝にもこれに福書してもらうことで対抗。
しかし対立中に義龍が5/11急死してうやむやになり出国していた諸老も帰国し別伝が逐電。快川は甲斐に行った。
義龍の急死で斎藤氏の宗教統制の挫折となったのは痛かった。
しかし信長がただの不良からヤクザの親分になっただけに比べて義龍は名君であるのは間違いない。

内政すらロクにやってないアホ長と違って義龍は優秀だな。
幼君の龍興が稲葉山を乗っ取られたりと
美濃国衆が斉藤を見限り始めたりと信長はホントに運がいいな。
考えてみたら長尾家も家格を引き上げたり、
将軍から朝倉孝景に続いて白傘袋や毛氈鞍覆を下賜してもらうことで守護の同格の権利を認めてもらい
天皇から治罰綸旨を頂いていながら
為景は家格の高い上条に組みする国人と対抗した挙句に結局、上杉方に敗北してるし、
景虎時代にも同じことをして上杉行政府たる公銭方の爆弾を抱え
越後が完全統一できたのは天正3年に新発田・竹俣が謙信政権に参加した時とされてる。

信秀の時代にはすでに斯波守護権力は完全に解体されてるし
家格も財力を背景に朝廷工作して三河守まで貰ってるし
(のち三河守を家康に取られて自分が格下になったことを知り慌てた信長・・・)
すべてを解決して信長に引き継ぐ時には
道三の後ろ盾、義元とは家康を返却した時に和睦してるし
その後には内裏修繕費用を献上してもらいたい天皇の仲介により、今川方が信秀の要求に従い水野へ城を譲渡する形で信秀と和睦同盟してる。
信秀は嫡男のために心配がまったくない状態にして死んでる。
521人間七七四年:2012/03/10(土) 12:34:04.64 ID:hwrqYYWl
家康をほろぼしていれば信玄も家康の上にきた
でもまああ信長の壁は一生越えられねーな
息子があのザマだし
522人間七七四年:2012/03/10(土) 12:37:50.08 ID:ZHp1AGGD
高天神城落城後に退却した勝頼だったが、
9月にまた来襲し家康はまた信長に助けて〜と泣き。
豪雨で増水して武田退却。
信長はいまさらになり出陣して武田討とうとしてたのに!と高天神城落城後と同じ発言に徳川家臣ドン引き
翌年には武田軍が尾張奥深く熱田まで侵攻し挑発
面子丸潰れの信長はやむなく三河へ。
細川に鉄砲手と火薬と鉄砲を調達するように命じるなど最初から陣地引きこもりの考え。
しかも兵糧も少なく、
ある程度したら退却するつもりだった信長。
(謙信に兵糧がないので追撃しなかったと述べてる)
徳川は酒井などが必死に武田と織田を戦わせようとしてる。
信長公記は酒井の意見をワザと信長が却下して秘密漏洩しないように
ひそかに呼びつけ酒井に同意した信長はすごいと歪曲
523人間七七四年:2012/03/10(土) 12:42:38.19 ID:Ntode1xZ
53にもなって生涯かけたもの全てぶつけやっと家康に勝ったが滅ぼすに至らなかった信玄
長篠までは圧倒したとか言っているが長篠以降は普通に押し返されてる
圧倒じゃなくて物量差でごり押ししてたのが長篠でキレただけ
それ以降は格下の徳川に7年押されっぱなしの武田
辛酸を舐めた?妄想乙 ソース出せよ
524人間七七四年:2012/03/10(土) 12:56:36.62 ID:bVnwjk/A
そもそも三方が原のアレは敗戦らしい敗戦もなかった
家康が敗戦したことに対する戒めだから
相手が信長だろうが氏真だろうがやってる
525人間七七四年:2012/03/10(土) 13:25:42.77 ID:V36Rogp8
信長家康秀吉ら他の戦国大名と比べ
親父から甲斐一国を継ぐという有利な位置にあったにもかかわらず
結局信濃一国しか取れずに終わった凡将。
当時どこの大名も敵対勢力に囲まれており信玄だけが厳しい状況にあったわけではない。
信玄没後の家臣団の脆さからもその弱さがうかがえるw
526人間七七四年:2012/03/10(土) 14:06:59.35 ID:F+QGeJxP
そういや長篠の別働隊が酒井の提案ってのはなんの史料に書いてあることなの?
オレ例によって徳川の捏造じゃないのかと疑ってるんだけど。
527人間七七四年:2012/03/10(土) 14:14:20.93 ID:UzxofApy
濃尾だけで100万石オーバーじゃねぇかw
織田は信秀時代ですらすでに朝廷への献金額も異常だし
織田家のボンボン嫡男に過ぎない時代で趣味ですでに高価な鉄砲を大量所持して
美濃国守の道三がビックリしてたし 幼少の家康を買い取った時の
たかが人質買い取りにしては桁外れの金額を即金で払った財力からしてかなり豊かだろうが。
信長は完全にチートスタートだ。
津島や熱田の海上貿易通商路を押さえた信秀のボンボン息子でお小遣いをたくさん持ってた
吉法師は将軍義輝が六角氏に命じて近江国友村に作らせた鉄砲製造所で試作がようやく完成したばかりであったが
さっそく大量の六匁玉の鉄砲を発注していたので道三との会見においてすでに五百梃の鉄砲と火薬を持ってた。
1543年2月信秀は平手政秀を通じて内裏修造費用4千貫文を貢納。
3年前にも伊勢豊受大神宮仮殿造営費700貫文を献納していたのにも関わらず。
田原城主戸田家臣又右衞門が拉致った松平竹千代を五百貫文の破格の大金でキャッシュ即払いした信秀
超イージーモードの織田家に自ら刃向かうバカはいません。
信長公記の記述する戦はデタラメばっかりです。
信玄は父を追放した権臣たちの操り人形の傀儡として祭り上げられ家臣団による合議体制となった。
信玄がその恐怖から脱したのは村上との敗戦を招いた権臣たちの討ち死にが契機となる。
一方、信長は斎藤道三の後見により確固たる地位を保持しており
三河でも水野を防波堤となし
将来の危険の芽を摘むべく弱者を追い詰め蜂起させて圧倒的戦力で叩き潰し直轄領化を推進していく。
義元は自国と尾張の隔絶した国力差に危機感を抱き
是が非でも三河の安定領国化を成さねばならない追い詰められた状況だった。
尾張より国力の小さい美濃攻略に11年
その後、将軍チートで簡単に上洛できただけ
しかしその後、信玄に滅亡寸前に追いやられるのが信長
甲斐の2倍の国力ある信濃を攻略できた信玄とはレベルが違い過ぎる。
斎藤は当主の相次ぐ死による交代で衰退し美濃国人衆は見限り初めて瓦解期に入っていた。
村上は地の利を占め逆に領土拡大する隆盛期に入っていた。
そんだけ信長が戦下手だという証拠。
そりゃそうだ。信長には敵を外交で一つに絞って
戦力の集中をすると言う軍事の基本すら理解できてない素人。
経済力を背景に負けても負けても侵攻を執拗に続けるだけのバカ。
領土拡大なんて濃尾の平野&湾岸の異常な石高と経済力を背景にすれば楽勝だろ。
むしろ無駄に摩擦と衝突を引き起こして同時に複数国で混乱を起こさせて勝つまで
執拗に攻め込みまくる信長のやり方は無駄に時間を浪費させただけに過ぎない。

528人間七七四年:2012/03/10(土) 14:16:43.03 ID:UzxofApy
斯波氏に関しては今川の捕虜になった斯波義達の跡を継いだ
義統が3歳の幼君なのを良いことに守護代織田氏は専横して傀儡に成り下がって実権なし。
信秀は今川義元の弟で捕虜になった斯波義達の娘を娶って尾張に来た今川氏豊を討って
今川の尾張支配の牙城那古野城を奪取するなど今川勢力を尾張国から一掃してる。
織田大和守家の分家で清洲三奉行「織田弾正忠家」の勢威は主家を上回っており押さえられる者はいなかった。
それは大和守家の織田達勝の娘が信秀によって離縁させられてるのでもわかる。
(大和守家織田達勝と三奉行家の「織田藤左衛門家」が共同して信秀に当たっても勝てなかった)
1547年の信秀の稲葉山城攻撃では岩倉方織田伊勢守の一族や中嶋郡の豪族など
尾張北西部の者どもが先鋒をしていて「織田伊勢守家」岩倉織田家家中もすでに傘下に組み込んでいるのがわかる。
さらに朝倉孝景の軍も信秀の援軍にやってきていて
稲葉山城包囲は25000の兵が動員されたほどに信秀の威勢は巨大だった。
稲葉山城攻防において夕闇が迫り一時撤退した油断を突かれて道三の奇襲で破れたものの
次の大垣城攻防戦では道三も驚く速さで渡河した信秀は
電光石火の進軍で火をかけながら稲葉山城方面を急襲しようとしたために
驚いた道三が大垣城攻撃を諦めて撤退してる。
(藤左衛門家もこの時に信秀配下として軍事行動をしており信秀は尾張の大半から動員していた)
「織田伊勢守家」岩倉織田を継いだ織田信安(妹は信秀側室・のち信秀妹を娶る)は
「織田大和守家」から入った人物で幼君を口実に犬山城で後見監視してたのが信秀の弟の信康なわけで、
ぶっちゃけ尾張は信秀がほぼ制していたと言っていい。
1549年正月17日の信秀弟の信康の子の犬山城主織田信清の謀反に至っては信秀が急を聞き即日撃破してるほどの圧勝し
2月25日には何事も無く平穏であり美濃から帰蝶が無事に尾張へ輿入れして信長は強力な後ろ盾を得てる。
3月に入り太原雪斎に安祥城を攻められるが頑強な抵抗をしており
本多忠勝の父が討ち死にするなど今川全軍を撤退に追い込んでる。
11月8日の再攻撃で火縄銃を投入しやっと安祥城を落とせたほど苦労してるので尾張への軍事行動が断念されてる。
安祥城落城も雪斎が非常に攻めづらい城南からの奇襲で
城側は油断しきって防備が甘かったって言う奇略で1日で落としたって話だし。
これはもう信秀の失敗とは言えないよな。
それに三河国碧海郡にあった刈谷城を本拠地にしていた三河の大身と呼ばれた水野信元が信秀側だったから
織田の三河進出の拠点は失ってねーし、結局、信秀は尾張の旗頭として
国内に敵を入れることはなかった(守山崩れの例外があるが)
今川とも竹千代交換して和議が成り信秀の晩年は内外ともに安定してる。
清洲三奉行因幡守家から織田大和守家の織田達勝の養子になったと言われる織田信友は
織田伊勢守家同様にすでに家臣団を信秀に奪われ傀儡守護の斯波義統を擁立していたと言う
一点でかろうじて信秀の主君と言う名目的地位を維持できていたにすぎず軍事的には信秀に屈していた。

父から信長が与えられた名古屋城の税だけでそんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。
大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除の謀略に引っかかっての無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…
529人間七七四年:2012/03/10(土) 14:17:30.92 ID:UzxofApy
信玄は国も貧困、山間で移動も大変、周辺は強国ばかり。領土面積当たりの石高が低い甲斐や信濃で 山之内上杉の大軍を破ったり村上、小笠原らとガチで
ぶつかり合い長尾も介入してくる 状況で信濃を取った点や北条との抗争で駿河を取った事、距離的にさほど
攻め込みやすいと言えない徳川領を押しまくり追い詰め、東美濃も侵略した事
など見るにやはり軍略はピカイチだろう。負けがかなり少ないのも大きい。
上田原も板垣の敵陣のど真ん中での首実験が原因だし逆にその状況から反撃して
何人も討ち取っている。信長は大軍で弱体化した小勢力に何回も負ける
斉藤、本願寺、伊勢長島一向一揆。姉川でも大軍で寡兵の浅井に
痛打を加えられず。 大良河原、14条、河野島、伊勢長島第一次、伊勢長島第2次、
屈服した志賀の陣、800の敵に数万の兵で一門を10人殺された伊勢長島第3次。
戦は大した事ない。その分調略や政略でカバーしてる。
版図拡張と言っても山間部出身で周りも強国、国も貧困で京への距離もある武田や
関東出兵や武田との対戦を余儀なくされ国内も反乱やら蘆名の介入やらで
大変、武田以上に京まで遠く雪による制約も大きく関東、信濃、奥州、北陸
多方面戦略を展開してた上杉とは条件が違いすぎる
織田は美濃、尾張で信玄の最大版図くらいになる国力。北伊勢含めばもっと上がる。
幼君でガタガタな斉藤はクーデター起こるぐらいだったし相当弱体化してた。
尾張は石高的にかなり条件の良い国 京から遠くも無く近くもない程よい位置でもある。
京の動乱に巻き込まれず濃尾両国を有すれば思い立ったら上洛できる位置。 西は木曽・揖斐川の大河に守られ
東と結べば背後に敵無し。尾張、伊勢、畿内等は国高の高さの割りに
領土面積が狭く平野部が多く移動も楽。美濃も地形的に東から侵略されずらく
武田の本拠地も遠い。周りの大名も今川義元は運良く戦死 跡継ぎの氏真は暗愚
松平家は独立 同盟で後方の安全を確保
斉藤家の義龍は早死して、跡継ぎの龍興は暗愚
朝倉家の朝倉義景は惰弱で暗愚の代名詞のような大名
六角家は観音寺騒動や対浅井の敗戦で弱体化しきっていた
三好家は分裂状態で統制が取れずバラバラ
織田と本格的に戦う前に信玄は病死 跡継ぎの勝頼は猪武者
織田と本格的に戦う前に謙信は病死 その後上杉家は内乱で自滅
足利義昭も信長の所に来た

当時の武田の状況での信濃攻略は飛騨の三木家が斉藤滅ぼすのと同じくらい難易度高いだろw

強圧的な態度でムリヤリ国を纏めた甲斐守護家と国人衆との間は悪化の一途。 甲斐府中は呉越同舟で牽制し合う状況。
しかも、甲斐は山国であるため、越後の半分の石高(20万石)でしかなく、金山などはまだ後世に誇るほど歳出が見込めた訳でもなく
信玄の家督相続当時は甲斐は飢饉が数年前から猛威をふるうまっただ中で高緯度のため冷夏が発生し
飢饉が慢性化し、河川氾濫で田畑は災害にたびたび見舞われ信玄が家督を継いだ時には数年間連続の飢饉により、甲斐の国状は悲惨この上がありません。
信虎はこれらに有効な手立てをうつ所か今川などの外圧もあり戦闘につぐ戦闘。ただでさえ、基盤の脆い甲斐の国政は破綻しています。
信玄の場合、これらを解決する為には豊かな土地の“略奪”が急務であり、国人衆もそれを求めます。
しかし、経済は破綻している武田家ですから、それを為す侵略は困難を極めたはずです。
しなければ、父と同様に追放の憂き目にあいます。父の偏愛を受けた優秀な弟がいますからその危機は尚更です。
また、このような経路を辿ったため、重臣・国人衆の干渉は非常に強いのです。
しかも、村上に負け続けた時にはその危機が更に深まりました(権臣が死んだのは良かったが)貧しい甲斐は侵略だけでは食べていけません。
信玄はのちに信玄堤と呼ばれる堤防を築いたりして創意工夫の上、新田開発に努めます。
(信玄に始まる甲州流防河法・甲州流河除法は幕府の関東郡代として関東全域開発をした伊奈忠次に受け継がれる)
後世に代表するような土木技術が甲斐で発達したのは当然といえば当然。 普通にやっていてはお米を採れる環境ではないからです。
地方豪族達との軋轢、家督就任当時の国状においてはハンパないレベル
530人間七七四年:2012/03/10(土) 14:25:28.74 ID:UzxofApy
信長よりも遥に戦巧者&天下を取った家康が武田に大敗し討ち取られた武将達。
死の恐怖を植えつけられたのは間違いない。
徳川時代に徳川の家臣によって編集された四戦紀聞で書かれてる武将達。
其外両旗奉行安藤木工助基能・米津小大夫政信を始め加藤九郎兵衛景元・天野麦右衛門政景・
宇野三十郎政秋・服部源兵衛保正・榊原摂津守忠次・中根彦三郎・近藤宮内吉成・小川伝九郎・
夏目長三郎・山田甚五郎重吉・同角之丞・長谷川紀伊守正長・弟藤九郎英一・志村弥左衛門秀次・
中根市左衛門正直・門奈善三郎真友・渡辺十右衛門永・同新九郎・鈴木伝八郎・弟又六郎・
大村弥三郎・荒川甚太郎・権田久助・大橋刑部・野々山藤兵衛政安・原田藤左衛門種友・
杉浦次郎兵衛・大河内源五左衛門・石川小太夫・河澄源五重経・小笠原新九郎康元・同三郎兵衛・
秋山甚十郎・松平弥右衛門・石川半三郎正俊・江原亦助・河合弥五兵衛・加藤比根丞・其弟源四郎・
松山久内・杉山久助・石原十度右衛門・原久蔵・平井新三郎・児島源一郎正重・同与助・同善九郎・
堀川彦作・小笠原七郎右衛門・大久保新蔵忠寄・外山小作正重・松平主税・木村弥七郎安綱等。
後、織田の援軍として一手の将である平手をはじめとする織田武将家臣も死んでる

徳川もまだこの時はそれほど有名な武将が少ない。
4天王など徳川で有名になる武将達の活躍はこれ以降のものが多い。
それでも遠江の重要拠点二俣を任せられていた中根をはじめとし、
メンツには結構城持ちや奉行といった面々が入っている。
織田の援軍の一将である平手も死んでるし、織田方の被害も軽くみれない。
531人間七七四年:2012/03/10(土) 14:33:04.79 ID:UzxofApy
領土拡張率ランキング

         家督相続年  相続時勢力圏  最終勢力圏  勢力拡大率
1宇喜多直家    1555年     0万石    30万石      ∞
北条早雲     1460       0 万石   25万石      ∞ 
3徳川家康     1560年      2万石    1790万石     895倍
4最上義光     1533年     1万石    54万石      54倍  
5葦名盛氏    1532年?     2万石  105万石     52.5倍
6津軽為信    1540年      0.7万石    24万石      30倍
7伊達政宗    1585年     15万石    180万石     13倍
8武田信玄   1541年    14万石    130万石      9倍
9上杉謙信    1548年     23万石   178万石       8倍
10毛利元就    1526  10万石    60万石     6倍 
11北条氏康    1541年     45万石    180万石      4倍

最下位 織田信長 30万石    0           0倍



ちなみに領土拡張スピードなら
短期間で包囲網打ち破った伊達政宗>>>>>>雑魚信長
532人間七七四年:2012/03/10(土) 14:37:06.53 ID:UzxofApy
信長があと10年早く生れていたら全盛期の斉藤に瞬殺されてたのは間違いない

何せ史実で義龍には全く歯が立たず龍興の台になって幼君で家中が分裂して浅井が美濃を攻めて
それなのにまともに戦ったら全く歯が立たずボコボコだったんだから

533人間七七四年:2012/03/10(土) 15:26:53.29 ID:aUT9xMS6
>>525
武田は当主、後継者、家臣団揃って織田に遠く及ばないからな。

優秀な家臣団を率いて天下の最大勢力に上り詰めた織田信長と
弱った今川やだまし討ちで信濃1国しか取れなかった武田信玄

愚鈍だ暗愚だと罵られながらしぶとく生き残り最終的に5万石の大名としてお家を残した織田信雄
自身の才覚のなさに気づかず周辺勢力と戦い続けて最終的に攻め込まれてお家を滅ぼした武田勝頼

信長亡き後という危急の事態に適材適所し、残存した織田家と協力して天下統一までこぎつけた織田家臣団
信玄亡き後に衰退一方で勝頼の集団自殺につきあい、滅亡した武田家を誰一人再興しなかった武田家臣団
534人間七七四年:2012/03/10(土) 15:35:11.03 ID:V36Rogp8
もし信玄が信長の環境にいたら天下を取れたかというと疑わしい
信長の様に常備軍や貨幣経済、有能な人材の取り立てを行っていたであろうか?
おそらくは桶狭間で今川義元に瞬殺されていたものと思われる
535人間七七四年:2012/03/10(土) 15:35:55.73 ID:2/PQlWs4
10年前に生まれるって事は信秀が13歳で孕ませるのか
その時期に正室居たのかね?
536人間七七四年:2012/03/10(土) 15:46:58.58 ID:UzxofApy
    政治  統率  知略 
家康  110 114 108
本多  77 105 80 
酒井  87 95 93
井伊  85 94 93
榊原  50 94 70
大久保 47 83 76
氏康  120 105 108
氏政 96 83 84
政宗  107 97 96
盛氏 86 99 95
元就 96 107 120
小笠原 73 78 60
依田 47 82 86
大須賀 58 82 64
        政治  統率  知略
信長(笑)    90 71 86 
秀吉(大 爆 笑)89 35 89
光秀       85 79 80
滝川       70 77 83
柴田       60 83 52

贔屓目にみてもこんなもん
他の連中はこれ以下のカス
信忠(笑)   50 28 30
蒲生(笑)   60 55 68
丹羽(笑)   70 15 67

カス武将の集まり織田軍w
537人間七七四年:2012/03/10(土) 15:47:59.54 ID:UzxofApy
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も2500〜3600倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長  姉川
謙信>>>>柴田  手取川
謙信>>信玄    川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉  84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉     しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉      伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉   小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉            尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川            神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族   中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津       九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦       鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直            天正壬午
仁科>>>信忠  高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀     二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部     戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
これらを元に数値をつける
120 上杉謙信
110  武田信玄
100 徳川家康
  
  
 97 北条氏康 太原雪斎 山県昌景 上杉景勝 柴田勝家
 96 武田勝頼 明智光秀 葦名盛氏 田村清顕 本多忠勝
 95 本庄繁長 伊達政宗 織田信長 毛利元就
 94 佐竹義重 北条綱成 滝川一益
 93  立花道雪 北条氏直 相馬盛胤
 92 織田信忠
 91 島津家久 伊達政宗
 90 島津義弘 長宗我部元親 黒田孝高
    酒井忠次 真田幸村 朝倉宗滴


 70 羽柴秀吉

538人間七七四年:2012/03/10(土) 15:49:14.21 ID:UzxofApy
神流川では上野衆が奮戦して氏邦を退けたにもかかわらず
実戦経験がかなり乏しい北条氏直に完膚なきまでにやられた滝川

加賀平定に四年も費やし手取川でボロクソに負け内乱で相当疲弊し
新発田の乱が起き蘆名も介入してる状態の上杉も滅ぼせない柴田

信玄にボロクソに負ける家康に大軍で挑んで緒戦で負け長久手でボロ負けし
本多忠勝500に足止め喰らいその後の攻防も終始苦戦する秀吉

家康にあっけなく討ち取られる森、池田

国内が疲弊してる上に勢力的にさほど大きくなく多方面に敵がいる上杉に
魚津を取り返され越中に釘付けにされる佐々

本能寺前ですら寡兵の上杉にボコボコにされて長沼奪われ、本能寺後寡兵の上杉に信濃から追いされる森 
甲斐の一揆で殺される川尻

わずか3万石程度の赤井に敗戦した光秀

こんな雑魚が織田家トップクラス(笑)

539人間七七四年:2012/03/10(土) 15:49:47.49 ID:UzxofApy
領土拡張率ランキング

         家督相続年  相続時勢力圏  最終勢力圏  勢力拡大率
1宇喜多直家    1555年     0万石    30万石      ∞
北条早雲     1460       0 万石   25万石      ∞ 
3徳川家康     1560年      2万石    1790万石     895倍
4最上義光     1533年     1万石    54万石      54倍  
5葦名盛氏    1532年?     2万石  105万石     52.5倍
6津軽為信    1540年      0.7万石    24万石      30倍
7伊達政宗    1585年     15万石    180万石     13倍
8武田信玄   1541年    14万石    130万石      9倍
9上杉謙信    1548年     23万石   178万石       8倍
10毛利元就    1526  10万石    60万石     6倍 
11北条氏康    1541年     45万石    180万石      4倍

最下位 織田信長 30万石    0           0倍



ちなみに領土拡張スピードなら
短期間で包囲網打ち破った伊達政宗>>>>>>雑魚信長

540人間七七四年:2012/03/10(土) 15:50:57.07 ID:UzxofApy
※秀吉失態集※

・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる


541人間七七四年:2012/03/10(土) 15:51:41.16 ID:UzxofApy
政宗はガチで戦上手

北 大崎 葛西 最上 
東 相馬 
南・西 葦名 大内 畠山 佐竹 二階堂 白河結城 石川 猪苗代
 
これだけガチで敵対して拡張した。


政宗の葦名侵攻と信長の美濃攻略、これで比べると
圧倒的に政宗のが上。

信長は幼君でガタガタの斉藤に敗戦し続けてラッキーパンチで寝返りが出て勝っただけ。

政宗は佐竹や白河、二階堂、石川、相馬、最上、大崎、葛西など全てで150万石にもなるであろう
大連合を自力で突破した。

比較にすらなるまい。
自国の国力と拡張度やそのスピードから考えれば明らかに政宗>>>>信長



これまでの考察で分かった事

氏康>>>>信長
政宗>>>>信長
本願寺、島津>>>>信長
家康>>>>信長
元親>>>>信長

信長が他大名の立場に生れていたら
信玄の場合信濃侵攻に30年かかり生涯を終える
元就の場合安芸一国人のまま生涯を終える
義重の場合常陸の統一すらできず葦名や田村に敗戦して敗死
政宗の場合関柴の戦いで討ち死に
氏康の場合両上杉の大軍に囲まれて戦死
義久の場合土持や相良、伊藤などに負けて敗死
宗麟の場合毛利元就に負けて敗死
元親の場合三好に負けて討ち死に

尾張だから助かっただけ


542人間七七四年:2012/03/10(土) 15:52:49.09 ID:UzxofApy
信長が家康の立場で独立し、家康が信長の立場で独立したら
信長は武田どころか今川氏真に瞬殺され家康は史実どおり畿内や美濃を瞬殺していたのは間違いない

何せ史実で今川氏真クラスの龍興に大敗を繰り返し今川氏真クラスの朝倉義景にも負けまくったけど
敵がアホすぎてなんとかなっただけ

一方家康は信長や秀吉が苦戦した畿内や美濃を瞬殺したしな

信長なんて家康がいたから助かっただけ
今川氏真に勝てたのも武田を抑えられたのも上洛戦も畿内平定戦も家康いなけりゃ何もできなかった。
姉川でも磯野勢らにおされまくり崩壊寸前だったけど徳川の善戦で何とか引き分けに持ち込めただけ
三方が原でも最も雑魚だったのが織田の援軍
家康がいなけりゃ1ヶ月で武田に瞬殺されてたのは間違いない

543人間七七四年:2012/03/10(土) 15:53:24.82 ID:UzxofApy
政宗はガチで戦上手

北 大崎 葛西 最上 
東 相馬 
南・西 葦名 大内 畠山 佐竹 二階堂 白河結城 石川 猪苗代
 
これだけガチで敵対して拡張した。


政宗の葦名侵攻と信長の美濃攻略、これで比べると
圧倒的に政宗のが上。

信長は幼君でガタガタの斉藤に敗戦し続けてラッキーパンチで寝返りが出て勝っただけ。

政宗は佐竹や白河、二階堂、石川、相馬、最上、大崎、葛西など全てで150万石にもなるであろう
大連合を自力で突破した。

比較にすらなるまい。
自国の国力と拡張度やそのスピードから考えれば明らかに政宗>>>>信長
544人間七七四年:2012/03/10(土) 15:55:19.82 ID:UzxofApy
他大名が信長の立場で生れていたら
家康 史実どおり畿内美濃を瞬殺
島津 史実どおり寡兵でも大軍撃破
氏康 史実どおり寡兵で大軍撃破&政略を利用して領土拡大
信玄 史実どおり負けをほとんどせず畿内や美濃の雑魚を瞬殺
元就 史実どおり謀略を駆使して分裂状態の斉藤や畿内を併合
元親 史実どおり小勢力でも他大勢力を戦に打ち勝ち併呑


545人間七七四年:2012/03/10(土) 15:56:20.03 ID:UzxofApy
徳川家臣団でいえば、
本多>酒井、榊原、井伊>水野、依田信繁、大久保兄弟>松平康国、鳥居元忠、大須賀康高、石川数正
>菅沼、小笠原貞慶、岡部正綱 >石川家成、奥平、木曽義昌>諏訪頼忠
>平岩、柴田康忠、保科正直>>>>>>雑魚織田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>馬鹿織田廚

546人間七七四年:2012/03/10(土) 16:20:17.19 ID:V36Rogp8
信玄>>>>>家康 三方が原
信玄厨の信玄評価がこれしかなくてワロタ
547人間七七四年:2012/03/10(土) 16:25:30.57 ID:2/PQlWs4
だって、彼らのよりどころってそこ以外ないし

何せ格下にボロックソに負けるぐらいだからな
548人間七七四年:2012/03/10(土) 16:28:23.72 ID:UzxofApy
三方が原以外でも侵攻戦で押しまくってる上に
三方が原は普通なら城に籠もられて厄介な所を野戦で大破、壊滅的被害を与えたのは強すぎる
相手は天下人最強家康
こんな凄い用兵できるの信玄以外にそうそういまい
信長なんぞ家康に助けられっぱなしで姉川で徳川以下なのが露呈したから論外
549人間七七四年:2012/03/10(土) 16:29:59.68 ID:aUT9xMS6
>>546
他に誇れるものがないからなw
まだ若輩で天下どころか領国3つも取れない駆け出しの家康をいじめることしかできなかったのが信玄。
しかも兵力は武田信玄の方が3倍も上。
徳川家康が3万の兵を率いていたら武田信玄は瞬殺されていた、と徳川厨にだがみたいな人がいたら切替される程度の楽勝
550人間七七四年:2012/03/10(土) 16:34:13.28 ID:UzxofApy
家康が3国なのは信玄が強すぎただけ
しかも2.5倍の兵力比で10倍もの被害差&有力武将ことごとく戦死の大敗
家康は姉川、吉良今川一向宗などその頃から相当強いレベルだったのは間違いない
信長が家康の立場にいたら間違いなく戦死していただろうな
家康は負けたとはいえ良く戦ったと褒められていたが
織田の援軍(佐久間などの一級部隊)は全く役立たずだったし
家康が瞬殺した畿内や美濃に大苦戦した雑魚軍団
551人間七七四年:2012/03/10(土) 16:35:36.44 ID:2/PQlWs4
信玄は強すぎるから自分の苦手な義清が居ない間の略奪も察知されてかなり優勢なくせにボロックソに負けて重臣失っちゃうんだよね
552人間七七四年:2012/03/10(土) 16:36:32.99 ID:aUT9xMS6
そんな戦国最強の家康はなぜ信長に従っていたんでしょうね。
信長が雑魚なら信玄と手を組んで信長の領土を切り取るのが戦国大名。
無能で雑魚な大名をヨイショできるほど戦国時代は甘くない。
事実信長は後半家康の手をほとんど借りずに勢力拡大に走った。


天下人徳川家康を従えた最強大名の織田信長。
所詮信玄は生涯かけても徳川荒らししかできなかった凡骨大名
553人間七七四年:2012/03/10(土) 16:38:08.79 ID:UzxofApy
相手が子供じゃない分信長よりもマシ
しかも回数が段違いだしな
兵力比にしても侵攻側にしては1.4倍で言うほど開いていないし
554人間七七四年:2012/03/10(土) 16:40:07.66 ID:aUT9xMS6
だからそんな雑魚大名の信長に天下最強の家康がパシリしていた理由に答えらえない武田厨。
まあ父親を追放し弟を見殺しにし嫡男をぶっ殺した武田信玄に人心なぞあるわけもないがw
555人間七七四年:2012/03/10(土) 16:40:51.34 ID:UzxofApy
>そんな戦国最強の家康はなぜ信長に従っていたんでしょうね。
家康が義理固いから助かっただけ
>信長が雑魚なら信玄と手を組んで信長の領土を切り取るのが戦国大名。
そんな信長みたいな卑怯な輩ばかりじゃないのが戦国時代
>無能で雑魚な大名をヨイショできるほど戦国時代は甘くない。
織田家が本能寺後よいしょされなかったのは無能で雑魚だったからだね
>事実信長は後半家康の手をほとんど借りずに勢力拡大に走った。
圧倒的大勢力だったから当たり前
>天下人徳川家康を従えた最強大名の織田信長。
従えたなんて書いてるのは仮想戦記だけ
>所詮信玄は生涯かけても徳川荒らししかできなかった凡骨大名
最強家康に恐怖植え付けて信長を滅亡寸前に追い込んだところでしんだのが信玄
556人間七七四年:2012/03/10(土) 16:42:23.17 ID:UzxofApy
信長なんて家康がいたから助かっただけ
今川氏真に勝てたのも武田を抑えられたのも上洛戦も畿内平定戦も家康いなけりゃ何もできなかった。
姉川でも磯野勢らにおされまくり崩壊寸前だったけど徳川の善戦で何とか引き分けに持ち込めただけ
三方が原でも最も雑魚だったのが織田の援軍
家康がいなけりゃ1ヶ月で武田に瞬殺されてたのは間違いない

家康が義理堅いから信長は助かっただけ
何回武田に攻められて援軍要請出しても援軍よこさない
徳川は織田のために援軍出しまくってるのに
こんな役に立たない同盟者普通なら見捨てるだろうに
織田が畿内平定できたのは全て家康の功績
557人間七七四年:2012/03/10(土) 16:46:05.52 ID:aUT9xMS6
家康が義理堅いなんて初耳だな
旧主今川家をあっさり倒し、信長が死んだら遺領をくすね取るような人間。
挙句秀吉が死んだら秀頼ガン無視で天下取りに走りあまつさえ秀頼を殺した。

>>織田家が本能寺後よいしょされなかったのは無能で雑魚

あれ織田秀信や織田信包や織田長益はおまえの歴史認識にはないのか?
あ武田の間違い?失礼しましたw

>>従えたなんて書いてるのは仮想戦記だけ

500%信長の信長による信長のための戦いに当主まで駆り出されておいて何言ってんのw
おまえがさっきいった姉川なんてモロそうじゃん。無関係なのに信長にパシられる家康w

>>最強家康に恐怖植え付けて信長を滅亡寸前に追い込んだところでしんだのが信玄

信長の野望でもやっててください
558人間七七四年:2012/03/10(土) 16:49:41.96 ID:aUT9xMS6
武田家の嫌われっぷりは滅亡後の各大名家の動向を見ても明らか。

旧武田家臣だった保科土屋真田といった連中は誰一人武田家の再興を考えることなく、
挙句の果てに徳川家康に「今日からうちの息子が武田家の当主な」と家名をあっさり奪われる有様。

武田信玄の孫はその後大久保長安に仕えるが大久保事件に連座してあっさりと配流。
ようやく武田信玄のひ孫やしゃごの代になってお情けの高家旗本入り。

秀吉や家康ですら再興し丁重に遇された織田家とは月とスッポン。
いかに織田信長と武田信玄の遺徳に差があるかがわかる。
559人間七七四年:2012/03/10(土) 16:51:34.23 ID:UzxofApy
家康が義理固くなかったら敵対勢力の旧臣を大量に召抱えたり
何回武田に攻め込まれて援軍も来ず窮地になっても裏切らなかったり
騙し討ちや無駄な殺傷をほとんどしなかったり人徳溢れる行為を繰り返すはずもない
秀信や信包、長益も家康が義理堅いから助かっただけ
彼らはよいしょなんてされず政権争いに利用されただけ
自分勝手な同盟関係でも文句いわず信長を見捨てなかった所が不義理な信長なんかと大違い
560人間七七四年:2012/03/10(土) 16:53:11.61 ID:UzxofApy
徳川家康は過小

西三河で一地方小領主として独立して以来吉良今川朝倉北条豊臣と常に圧倒的大勢力に武力で打ち勝ち
天下を取った最強武将だからオール120くらいが妥当

北条氏康は過小

信玄謙信の最強武将&両上杉の12万の大軍、今川佐竹里見といった列強の包囲網にあった状態で
版図を大幅に拡張させたから全能力100越えのチート能力が妥当

氏康は今川、武田、両上杉、長尾、里見、佐竹、結城、成田、上田、長野
宇都宮、梁田、那須、小山、太田、小田、皆川、大田原、酒井、千葉、由良

その他大勢の関東諸侯に打ち勝ち、関東を手中にした。包囲網が張られた状態で勝ち抜き、実力で関東に覇を唱えた。

信長は、圧倒的国力を持つ織田家を継承し、畿内や美濃は雑魚や分裂勢力しかいないにも関わらず、
浅井朝倉武田斉藤本願寺長島一揆雑賀衆北畠赤井等に敗戦し続け、家を滅ぼした。



氏康>>>>>>>信長
561人間七七四年:2012/03/10(土) 16:53:20.89 ID:aUT9xMS6
その三者を丁重に扱ったのは秀吉なんだけどw
織田秀信に至っては秀吉と昵懇であったがために高野山に追放。
挙句旧主の秀吉の遺児秀頼をわざわざぶち殺してまで天下統一。
才覚はともかく義理堅い部類には入らねーよw
562人間七七四年:2012/03/10(土) 16:56:23.64 ID:aUT9xMS6
無知な上に知識もないだが。
せめて自分の大好きな武田家の顛末くらい知っておけよw
大名になるどころかお情けの旗本止まり、挙句高家旗本は3代目にして柳沢吉保に乗っ取られるという
哀れな顛末を下ってるんだから。信玄のご先祖様もさぞやお嘆きだろうw
563人間七七四年:2012/03/10(土) 16:56:33.54 ID:UzxofApy
無能で雑魚だから織田一門連中は本能寺後いいように利用だけされて
政権争いの蚊帳の外
一方武田旧臣連中は徳川の旗下に入って大活躍して旗本になったり
松平姓与えられる者までいましたとさ。
564人間七七四年:2012/03/10(土) 17:05:57.18 ID:aUT9xMS6
武田旧臣なんて随分広く範囲取ったねw
大方徳川吉宗に仕えた土屋氏を持ち出したいんだろうけど

前もって言っておくけど、土屋氏は秀忠の傍仕えを経て徳川家臣として出世してるからな。
で、武田旧臣じゃなくて武田一族はどうなのよw
565人間七七四年:2012/03/10(土) 17:12:00.49 ID:UzxofApy
武田一族は織田一族と違って人口が少ないから比べられるわけがありません
武田旧臣の保科、依田、諏訪、木曾、屋代、朝比奈あたりはちゃんと出世している
依田に至っては松平姓与えられる程
566人間七七四年:2012/03/10(土) 17:16:00.49 ID:aUT9xMS6
おまえねぇ、武田旧臣と織田一族じゃそりゃ武田旧臣の方が多くて当然だろw
武田一族は人口少ないって人口少なくなった理由は何よ、滅ぼされたからだろ。
織田旧臣の羽柴秀吉が天下取ったから偉いっていうくらいの見栄張った主張だぞそれ
567人間七七四年:2012/03/10(土) 17:18:53.90 ID:UzxofApy
織田も実質滅ぼされたようなもんだけど織田は家康が人間的にできた人物だから運よく命とられずに済んだだけ
しかも元から人数大違いだしな
568人間七七四年:2012/03/10(土) 17:19:43.08 ID:aUT9xMS6
・・・・・
569人間七七四年:2012/03/10(土) 17:21:16.44 ID:aUT9xMS6
ま、まあそういう側面がないとは言えませんねさすが家康様(棒)
570人間七七四年:2012/03/10(土) 17:27:50.85 ID:UzxofApy
家康が義理固くて人間的にできた人物なのは三河物語など徳川の史料みりゃ一目瞭然
信長は信長マンセー公記ですら残虐さがよくわかるように書かれてる
571人間七七四年:2012/03/10(土) 17:31:47.37 ID:Ntode1xZ
三河物語…?ああ、家康マンセー公記の
572人間七七四年:2012/03/10(土) 17:45:29.21 ID:UzxofApy
三河物語は大久保が徳川への不満をごちゃごちゃ書いたり
家康を一方的にマンセーするために書かれた物ではない
個々の合戦の細かい経緯とかはともかく人物評とかおおまかな部分で
当人を知ってる人間の叙述を否定する根拠はない
573人間七七四年:2012/03/10(土) 17:47:19.30 ID:VBAouX60
こいつだがなの?でもだがって家康信者だったっけ?
574人間七七四年:2012/03/10(土) 17:49:28.94 ID:fjrMYItU
一時間で50レスってマジキチ
575人間七七四年:2012/03/10(土) 17:51:36.94 ID:F+QGeJxP
>>573
信長を貶め、信玄をたたえる
このためならなんだってやっちゃう
それが、だが
576人間七七四年:2012/03/10(土) 17:54:58.33 ID:UzxofApy
発端は>>375-378
の毎回同じ織田厨の妄想
武田派はこれに反論&織田厨の手法を真似た妄想&罵倒でやり返しただけの事
577人間七七四年:2012/03/10(土) 17:57:48.53 ID:V36Rogp8
信長が天下取りの地固めをしたおかげで秀吉家康は天下を取れた
秀吉が検地、刀狩り、キリシタン追放などの施策を行ったおかげで
徳川長期政権の礎となった
こうしてみると家康は信長秀吉と比べると格が下がる
さらに言えば信長がもし存在しなかったら秀吉は大名になれず家康は今川家の家来に過ぎなかった
おそらく天下を取っていたのは中央に近い毛利あたりで武田は地方豪族のまま終わっていたであろう
578人間七七四年:2012/03/10(土) 18:02:59.40 ID:UzxofApy
信長がいなかったら
今川が尾張侵食⇒尾張は半分くらい切り取った所で斉藤と衝突
家康は今川先鋒として活躍し重きをなされるようになる
武田は今川との同盟路線を貫くか今川と対決するかの2択
秀吉は埋もれておしまい
それだけの事
579人間七七四年:2012/03/10(土) 18:03:18.74 ID:A6gjOUSa
信長が存在しなければそもそも天下を目指す大名なんていたのかという問題がある
580人間七七四年:2012/03/10(土) 18:04:52.85 ID:UzxofApy
今川は東海道一の弓取りで天下に最も近い存在
毛利は中央にむかわず包囲網に苦戦して停滞してたからどの道天下はない
武田も徳川も天下に近い存在だったのは変わりない
581人間七七四年:2012/03/10(土) 18:08:46.25 ID:Ntode1xZ
だがの言う天下は三好レベルの天下臭いな
それじゃあ信長には勝てないわ
582人間七七四年:2012/03/10(土) 18:58:37.50 ID:2/PQlWs4
>>581
それは三好長慶に失礼だろ
だがの天下は甲信地方だけなんだから
583人間七七四年:2012/03/10(土) 19:06:59.89 ID:OZckBTqZ
しかし、まぁ空想の話だから
結論はつかないよねw
お互いを厨扱いして誹謗中傷しあうだけのスレになる
584人間七七四年:2012/03/10(土) 19:12:22.12 ID:Ntode1xZ
>>582
なるほど
確かに失礼だった
585人間七七四年:2012/03/10(土) 20:14:53.38 ID:V36Rogp8
信玄の器じゃ信濃一国が精いっぱいだったんだな
586人間七七四年:2012/03/10(土) 21:05:32.89 ID:aUT9xMS6
てかだがにしてもそうなんだけどなんで斎藤義龍ってこんなに持ち上げられているんだろうな。
信長が全く歯が立たなかったとか言う割に死亡年が1561年。
言うまでもなく前年まで信長は今川と戦ってたわけでいきなり今川との戦も癒えないまま1年で美濃落とせたらそれこそ神だろ
587人間七七四年:2012/03/10(土) 21:53:54.72 ID:IDCcZiDE
信長の視点でしか斉藤攻めをみないから、こんな適当な話になるのよw

天下布武や岐阜の命名等、信長の斬新的な政策を打ち出したのは、信長の軍師であり教育係の沢彦ね
この沢彦は美濃土岐氏出身で明智光秀と同族の快川紹喜と兄弟の契りを結び、快川紹喜は武田信玄に招かれた斉藤と武田の外交僧
弟子には伊達政宗の教育係の虎哉宗乙がいる。
この織田家の影の指導者沢彦が死去すると、同族で関係が深い明智光秀が織田家の権力を継ぐ
その後、本能寺の変が起きる要因として、武田征伐で甲州の寺にいた快川紹喜は織田家の焼き討ちに合う。
このことが同族で関係の深い明智の謀反に繋がった説。

織田の沢彦・明智光秀と斉藤武田の快川紹喜の繋がりは、当時の織田斉藤武田の関係、戦国時代の最重要事項ではないかと思う。

斎藤道三が義龍に討たれ、織田信長が美濃に出兵し抗争状態となっていた時、領国を接する信玄は美濃情勢に介入しており
斎藤・織田双方と友好的関係を築いていた。
この三国の中心で暗躍していたのが、沢彦と快川紹喜の義兄弟である。
そして美濃三人衆や竹中や光秀も裏で活躍する


588人間七七四年:2012/03/10(土) 21:56:48.86 ID:2/PQlWs4
つまり信玄の目線でしか見れない奴の話は見るだけの価値が無いって事か
良く解った
589人間七七四年:2012/03/10(土) 22:05:47.82 ID:F+QGeJxP
>>587
サワヒコスゲー
590人間七七四年:2012/03/10(土) 22:42:05.40 ID:vXie4bth
>>586
たぶん信玄が土下座した相手だからだがは持ち上げているんだろうな
だいたい美濃が楽勝で攻略出来るのなら何で信玄はそれをしなかったんだろうね?
謙信相手に不毛な戦いやる暇あったのなら片手間に出来るだろ
591人間七七四年:2012/03/10(土) 22:52:19.38 ID:aUT9xMS6
土下座嫌いとか厨房かよ
信長だって朝廷には土下座くらいすっぞw
592人間七七四年:2012/03/10(土) 23:38:39.31 ID:PyQM/oBj
義龍に信玄が土下座って、
何の話のことだ?
妄想?
593人間七七四年:2012/03/10(土) 23:44:34.10 ID:F+QGeJxP
>>797
だがさんまたID変えッスかwww


信長は信玄と謙信、どっちが脅威だったの?
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1295693653/

797 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/03/10(土) 23:41:54.82 ID:PyQM/oBj
砦落としても、その先の武田軍を攻撃するには重量40キロはあったとされる武装で、
敵前渡河しないとならんからリスクあり過ぎ。
はっきり言って側面から武田を攻撃するのは不可能。


wwwwwww
594人間七七四年:2012/03/10(土) 23:59:56.15 ID:gViPzPDI
世の中不景気、大震災で
大変な時期なのに

ここだけは平和だな〜( ̄◇ ̄;)
595人間七七四年:2012/03/11(日) 01:14:24.57 ID:0GqmK1cC
>>592
それで楽勝で攻略出来るはずの美濃に何で信玄は攻め込まなかったの?
だが理論に則ればそういう疑問が起こっても不思議ではないよな?
信玄は50万石はあろうかという美濃よりも北信濃の狭い土地の方が重要と思ってたの?
だとしたらとんだ間抜けだな
596人間七七四年:2012/03/11(日) 01:17:26.58 ID:cMUUwJls
時間と距離の問題だろ。
前後の領域が全て武田方ならともかく
甲斐から美濃に向けて細長く領土形成して維持するなんて地勢的に無理
597人間七七四年:2012/03/11(日) 01:24:40.02 ID:JaT77AIf
信玄が調略外交戦争経営が下手糞だったから身動きできなかっただけじゃねーの?
598人間七七四年:2012/03/11(日) 01:45:54.21 ID:JaT77AIf
信濃平定のミスで上杉の出兵を無用に呼び込み
北条との2正面作戦まで強いられたあたりなど
アホとしか言いようがない
信長の様に後背の安全を確保するということが出来なかったのかとw
599人間七七四年:2012/03/11(日) 02:20:45.05 ID:il6/SbLq
挙句駿河平定の時も氏真に先手を打たれ上杉と結びつこうとしたり北条と連絡取ったりと散々な目にあったからな信玄
たまたま今川家臣がサボタージュかましたからよかったものの・・・
600人間七七四年:2012/03/11(日) 03:26:58.70 ID:iiS6htXU
>>595
いやw
信長は尾張60万石と日本最大の経済都市と港があるから美濃攻めが可能なわけで
武田は甲斐と信濃一部だけで50万石もないんだけどw
こんな国力で美濃攻めする方がアホかと
601人間七七四年:2012/03/11(日) 03:58:40.71 ID:cfaPEK+V
わざわざ諏訪という味方を切ってるからな。
信玄が成功する方法は1つ、信虎へのクーデター計画をチクって重臣を追放してしまうこと。
信虎の予定してた体制がうまくいって重臣もいなくなれば武田家強化は間違いない。
失敗すれば信玄ごと追放されるバクチではあるが。
602人間七七四年:2012/03/11(日) 05:08:14.99 ID:cMUUwJls
諏訪が上杉と和睦して武田との盟約を事実上破棄した事を毎回無視する織田厨であった
ほんと念仏みたいに毎回進歩がないね
603人間七七四年:2012/03/11(日) 09:09:05.44 ID:0GqmK1cC
>>600
だが理論によれば美濃攻略は楽勝らしいから問題ない
604人間七七四年:2012/03/11(日) 16:53:21.98 ID:iiS6htXU
>>603
どんな理論だよwwww
605人間七七四年:2012/03/11(日) 17:37:07.16 ID:il6/SbLq
だが理論による信長の躍進撃

武田信玄
反信長、6万の兵力を所持。加治田、ツボ等等美濃衆を調略済み
徳川は死に体で早期降伏がほぼ確定している

朝倉義景(+浅井長政)
反信長、信長との一戦に大勝し近江衆をほぼ掌握、蒲生氏を寝返らせる
浅井氏の連動して織田信長への反攻作戦を整える

足利義昭
反信長。すでに方々に信長打倒の檄を飛ばす。自身も堅牢二条城で籠城作戦を展開
丹波衆や三好、松永と連動して信長に対抗

本願寺顕如
反信長、本願寺総帥。武田信玄の上洛作戦にともない伊勢長島、尾張、美濃、三河の一向衆を一斉蜂起させる作戦を通知

六角義賢
反信長。近江鯰江城を起点に織田方の一揆を煽る。兵力は数万とも。浅井朝倉と連動



織田信長
同盟者の徳川家康が織田を離れて武田に降伏するのが必至
朝倉と一戦交えたせいか近江衆がほぼ寝返る。娘婿の蒲生にまで
美濃衆は信玄の調略済みでいつ寝返るかわからない状態
領国全てで一揆、一向一揆が発生秒読み
所持兵力は乞食兵1万


ここから信長が勝つ
606人間七七四年:2012/03/11(日) 18:04:14.50 ID:ADO3/QG/
>>605
この時点ですでに氏郷が信長の娘婿だったとする一次史料を何度も織田厨に聞いてるんだけど、
解答はまだなの?
607人間七七四年:2012/03/11(日) 19:46:54.07 ID:cfaPEK+V
>>606
>>50
ソース出せ

原文出せ

原文を全部出せ

日付と宛名も出せ

その史料は捏造だ! 参考 http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1328637941/


そのくせ自分は>>45のように部分的に抜き出しつつ恣意的な解釈、および捏造を加える
要するに手の施しようがないので、ネタとして楽しむしかない
608人間七七四年:2012/03/11(日) 19:52:26.06 ID:il6/SbLq
>>606
一次史料にはないね、まあ仕方のないことだけど。
二次史料だと一番有名なのが武家事記か。
他にその時期を記したもの(蒲生が何年に結婚したかという史料)がないからそうなっているだけ。
別に一門だから寝返らないという根拠はないよ、浅井長政なんかそうだし。


ただまあ、蒲生が朝倉に寝返ったというのがそもそも根拠に乏しい。
君は前に朝倉景亮宛て蒲生下野入道書状を前に出してたけど、あれじゃあ勧誘工作以上の証明にはならない。
せめて実際に蒲生が朝倉について行動したという史料がないと
609人間七七四年:2012/03/11(日) 19:52:49.29 ID:0GqmK1cC
>>606
それよりお前の理論では楽勝に取れるはずの美濃に何で信玄は攻め込まなかったか答えろ
610人間七七四年:2012/03/11(日) 20:35:16.27 ID:cMUUwJls
美濃がそんな攻めやすいとか取りやすいとか信玄にわかるものなのかね
あと時間と距離の問題だろ。
前後の領域が全て武田方ならともかく
甲斐から美濃に向けて細長く領土形成して維持するなんて地勢的に無理
611人間七七四年:2012/03/11(日) 20:43:36.79 ID:iiS6htXU
なにやってるんだよw
議論していたのは、村上撃破、第2次川中島の1555年の段階で、ありえないけど奇跡的に武田は長尾上杉と停戦して同盟を結ぶ
そして、武田は美濃を攻略できるかだろ?w

信長の美濃攻略は1556年道三の死以前から始まっている、59年に尾張統治。
1560年今川撃破、61年に斉藤義龍死去。ここから、本格的に美濃攻略が開始される。
尾張60万石と日本最大の経済都市と貿易港をもつ織田はは内乱状態の斉藤を攻略するのは簡単
1567年の稲葉山城の戦いで斎藤龍興を伊勢長島に敗走させ、尾張美濃を領すろ当時最強大名になった。

信玄も川中島で長尾上杉と対決しつつ、道三死後56年あたりから、美濃情勢に介入している。
問題は第2次川中島の1555年の時に、道三と対決するってことでしょw
無理だよw、北信濃で豪族と長尾上杉が組んで大暴れしていて信濃も完全に平定できていないから国力も50万石あるかどうか
そもそも、信玄は、こういう泥沼の戦いをやって、やっと信濃を平定したのw
スタートが甲斐が>>1の状況だったから、この泥沼の戦いは避けれない
だから、信玄の天下取りの難易度が高いわけ
612人間七七四年:2012/03/11(日) 20:49:07.60 ID:DjphQraZ
つまり、信玄も手が出せなかった美濃を落とした織田信長最強と
613人間七七四年:2012/03/11(日) 20:55:37.79 ID:cfaPEK+V
とりあえず誰が誰にレスしてんのか明確にしてくんないかな
614人間七七四年:2012/03/11(日) 20:55:53.66 ID:il6/SbLq
>>信長の美濃攻略は1556年道三の死以前から始まっている

織田信勝、織田信友、織田信賢を無視するだがw
615人間七七四年:2012/03/11(日) 21:01:16.15 ID:JaT77AIf
信玄も川中島で長尾上杉と対決しつつ、道三死後56年あたりから、美濃情勢に介入している。
問題は第2次川中島の1555年の時に、道三と対決するってことでしょw

上杉を敵に回さなきゃ美濃攻略出来たのにな
要するに調略外交がド下手なんだよ
616人間七七四年:2012/03/11(日) 21:41:47.17 ID:0GqmK1cC
>>610-611
だからだが理論によれば無能な信長でも美濃は簡単に奪取出来るってことだろ?
じゃあ何で信玄はそんな美濃を取りに行かず謙信と不毛な戦いをしていたのかってこと
617人間七七四年:2012/03/11(日) 21:43:44.27 ID:cMUUwJls
まともに>>610-611も読めないでよくそんな糞レスつけれるね
>>610-611をよく読みなおすべし
618人間七七四年:2012/03/11(日) 21:44:38.30 ID:tCL6Awp2
>>616
まぁ彼は早い話遠まわしに信玄はそんな簡単な事も出来ない無能だって証明したかっただけなんだろ

奴は新手のツンなのかね?
619人間七七四年:2012/03/11(日) 21:53:30.34 ID:cMUUwJls
アホすぎる
低脳にも程がある
620人間七七四年:2012/03/12(月) 11:25:29.01 ID:8aB85Yi2
>>601
>わざわざ諏訪という味方を切ってるからな。
信繁の軍隊で脅して呼び出して、騙し討ちの暗殺をした上に姪をレイプして愛人確保だもんな。
運悪く男の子を産んでしまい、諏訪衆はその子(勝頼)に忠誠誓ってお家分裂とか馬鹿すぎ
621人間七七四年:2012/03/13(火) 01:03:06.16 ID:k/5pqqvf
武田の美濃進出が遅かったのは地形の問題もあるのでは
美濃入ったら背水の陣状態で北信濃や甲斐への対応が出来なくなる
一方、北信濃は比較的軍が動かしやすかったんじゃないか
622人間七七四年:2012/03/13(火) 03:05:05.68 ID:4vCKnl/8
623人間七七四年:2012/03/13(火) 03:21:00.99 ID:6vnCsvHc
>>621
まあ、北信濃は山とは言え行軍し難いとも言えなくはない。が、りんごとそばしか育たない不毛の土地なんだよな・・・・・
おまけに謙信召還になるし。妙高豪雪バリアーのおかげで謙信が信濃占領まではないけど。
624人間七七四年:2012/03/13(火) 06:50:44.82 ID:Mf9WTjU+
甲斐を北に行けば
すぐ北信濃なのに
北信濃放置して美濃に行くなんてアホだろ。
625人間七七四年:2012/03/13(火) 12:41:32.37 ID:4EnPsJJw
美濃に行くなら、関東に行った方が良いような。
626人間七七四年:2012/03/13(火) 16:14:14.42 ID:L0o9C8Y/
美濃がそんな攻めやすいとか取りやすいとか信玄にわかるものなのかね
あと時間と距離の問題だろ。
前後の領域が全て武田方ならともかく
甲斐から美濃に向けて細長く領土形成して維持するなんて地勢的に無理
627人間七七四年:2012/03/13(火) 18:03:44.27 ID:H06QSqGm
一方信忠軍はあっけなく信濃に侵入しております
628人間七七四年:2012/03/13(火) 18:22:07.13 ID:L0o9C8Y/
高遠の戦いで50〜60倍の兵力比で絶対的に兵数が物を言う城外戦で大損害だして信濃の伝説になった雑魚信忠がどうかしたか?
信ヤボでいえば統率20くらいだろこんな戦下手

北条や徳川との攻防で疲弊しきった所をこれみよがしと圧倒的大軍で襲ったら
離反の連鎖になってまともに抗戦したのが仁科1000以下になったから運よく勝てただけ。

美濃侵攻と似たようなもん。
629人間七七四年:2012/03/13(火) 18:30:21.57 ID:L0o9C8Y/
信長が甲斐に生れていたら諏訪か高遠あたりに瞬殺されてたのは間違いない

何せ斉藤義龍に圧倒的国力で大敗し続け龍興にも負け続け調略工作も満足にできず

対浅井戦の疲弊と不景気で戦わずに降伏した者達ばかりの軍隊に15回くらい負け続けてたし

しかも相手は子供w
630人間七七四年:2012/03/13(火) 18:42:50.04 ID:L0o9C8Y/
信長なんて
権威の失墜した足利将軍家&三好六角山名細川等の長い動乱の影響でクタクタになった
雑魚しかいない空白地帯に近い機内や
子供が当主でクーデター騒ぎまで起きまくってた美濃を火事場泥棒しただけ

そんな家康に瞬殺された雑魚ども相手に苦戦&敗戦し続け、全て失った雑魚
631人間七七四年:2012/03/13(火) 19:16:16.14 ID:eiQg3xv1
家康に瞬殺?家康が天下取る頃には三好も足利も六角もいないぞ?w
632人間七七四年:2012/03/13(火) 19:30:16.09 ID:nBKk4yFG
経済観念も戦争目的や手段も全く違う信長と信玄を比べるのか意味不明
633人間七七四年:2012/03/13(火) 19:48:55.76 ID:CULBPy3f
>>627
そりゃ、木曽が裏切ったから
あと穴山も裏切り、北条織田徳川と4Pしたからあっさり逝った


でも、北信濃は放置できないよ。本能寺の変後、旧武田領内で旧武田家臣や領民が
大暴れして、河尻秀隆や森とかがフルボコにあうw
統治に失敗して、ゲリラとかやられると自滅するのが信濃って国柄
滝川一益も本能寺の変の後、北条とやりあって圧倒していたのに、ほんの些細なミスを犯し
その隙を付いて事態を混乱させようとするのが上野や北信濃の国人w
滝川は上野と北信濃を捨てて自国に戻ろうとするが、信濃を通過して逃げ延びるのに
かなり苦労したようだ。家康の加賀越え以上に面白そうな展開にw

家康が真田の上田を落とせなかったのが信玄の苦労をよく表していると思う
信濃はめちゃくちゃ厄介な地域だったんだとね
634人間七七四年:2012/03/13(火) 20:07:00.05 ID:L0o9C8Y/
>>633
滝川一益事書や戦後の第三者的人物が書いたと思われる書状でも読め
緒戦で上野勢10000は奮戦して氏邦の鉢形衆を退けている
本戦で氏直本軍と滝川本体の対決で
北条がわざと寡兵で出てやられたふりをして敵を深く誘い込んで四方から囲って殲滅するのがはっきり書かれてる
滝川軍は瓦解などしていない。北条に敗れたから関東から引いただけ
滝川側の記録の滝川事書ですら負けた言い訳的な事は何も書いていない
お前が言ってる妄想は江戸期の講談などが元のデタラメ
635人間七七四年:2012/03/13(火) 20:16:39.24 ID:CULBPy3f
>>634
北条視点なんてどうでもいいのw
上野と北信濃についてね

本戦で負けたキッカケは、それだけじゃねーの
北条より、地元と国人が怖くて逃げ出したんだろw
636人間七七四年:2012/03/13(火) 20:28:13.06 ID:L0o9C8Y/
>>635
ハイハイ、妄想乙
それ講談でしか書かれてない
北条が実力勝ちしただけ
ようは織田家の人材のレベルが低かっただけ
637人間七七四年:2012/03/13(火) 20:38:07.01 ID:cK34siDO
金山掘りつくされてきたから無理じゃね?
経済政策が上杉、北条より遅れてたように思う。
638人間七七四年:2012/03/13(火) 20:51:28.19 ID:eiQg3xv1
そら滝川だけじゃあ北条の大軍に勝つのは難しいわ
家康ですらほぼ全戦力投入してギリギリだったのに
639人間七七四年:2012/03/13(火) 20:54:38.03 ID:L0o9C8Y/
北条は特別大軍ではない
小田原合戦時で34500、天正壬午の若御子陣の氏直隊で20000程度
昔は5万とかアホみたいな数字が使われてたけど軍記や講談がソースだし全くあてにならん
640人間七七四年:2012/03/13(火) 21:02:46.58 ID:eiQg3xv1
滝川軍ってほぼその半分くらいだろ確か。
そら難しいで。
641人間七七四年:2012/03/13(火) 21:10:35.58 ID:CULBPy3f
家康が真田の上田を落とせなかったのが信玄の苦労をよく表していると思う
信濃はめちゃくちゃ厄介な地域だったんだとね
642人間七七四年:2012/03/13(火) 21:17:25.51 ID:L0o9C8Y/
滝川は滝川家記の事書で18000。滝川本軍が8000で上野衆が10000
ちなみに神流川合戦記など他の軍記類だと信濃勢が加わり34000としてるものもあるくらい。
643人間七七四年:2012/03/13(火) 21:27:55.55 ID:bw8RYsSc
本能寺の変後の
北条と徳川の甲斐信濃侵略の時の対陣の時って
徳川が圧倒的に兵力が少ないながら
強気で対陣してたら
上杉や真田まで介入しそうになったから
北条が折れて家康に譲歩しただろ。
644人間七七四年:2012/03/13(火) 21:33:44.43 ID:L0o9C8Y/
一次資料類だと徳川1万 
北条は他の方面はともかく若御子陣だけだと2万程度だから
そこまで圧倒的でもない
645人間七七四年:2012/03/13(火) 21:34:29.80 ID:6vnCsvHc
>>628
>高遠の戦いで50〜60倍の兵力比で絶対的に兵数が物を言う城外戦で大損害だして信濃の伝説になった雑魚信忠がどうかしたか?
あいかわらず捏造が酷いな。
本気で信じる馬鹿がいるとでも思ってんのかw
646人間七七四年:2012/03/13(火) 21:36:52.29 ID:L0o9C8Y/
>>645
郷土史にちゃんと書いてあります

織田信家戦死して信濃の伝説になって歌に歌われたくらいなんだから相当な苦戦だったんだろうね
信長公記は例のごとく苦戦をなかったかのように書いてるけど
647人間七七四年:2012/03/13(火) 21:47:04.88 ID:6vnCsvHc
織田信家戦死が大損害www

で?大損害の内訳は?当然数ぐらい把握してるよな?
たまにはソースもちゃんと提示してね。
648人間七七四年:2012/03/13(火) 21:49:14.89 ID:gmj2J8Y3
>>646
何が書いてあるんだ?
その伝説になったとかいう歌か?
649人間七七四年:2012/03/13(火) 21:51:46.75 ID:L0o9C8Y/
そら一門格が戦死したら大損害だろ

50〜60倍の兵力比で絶対的に兵数が物を言う城外戦で大損害だして信濃の伝説になった

普通の武将なら10分くらいで終わりそうな戦闘に最低で見積もって4時間も戦わされてる時点で雑魚

信ヤボでいえば統率20くらいだろこんな戦下手
650人間七七四年:2012/03/13(火) 21:52:45.41 ID:L0o9C8Y/
     政治  統率  知略
織田信忠 56 18 23

こんなもん。
651人間七七四年:2012/03/13(火) 21:54:27.81 ID:L0o9C8Y/
大好きな信忠を貶されて案の上織田厨が発狂しましたw
652人間七七四年:2012/03/13(火) 21:55:11.32 ID:WDCx6eG3
>>648
だがの自演が失敗した伝説になった書き込みがそのうち出てくるんじゃね?w
653人間七七四年:2012/03/13(火) 21:58:37.14 ID:L0o9C8Y/
織田厨の好きな武将リスト

信長、信忠、丹羽、堀、秀長、水野、佐竹

その中でも筆頭が信長、信忠。
654人間七七四年:2012/03/13(火) 23:00:44.16 ID:eiQg3xv1
織田信家が一門衆www
信長の祖父の祖父くらいで別れた挙句、信長期は対立関係にあった岩倉織田氏の出身である信家が一門衆w
おまえ甲斐武田氏と若狭武田氏を同列に扱うかのような所業だぞそれはw
655人間七七四年:2012/03/13(火) 23:00:44.78 ID:up/UxoHx
真田昌幸>家康>信玄
こういうことか
656人間七七四年:2012/03/13(火) 23:04:30.44 ID:L0o9C8Y/
信長から遠くても一門は一門
出自なんて関係ない
657人間七七四年:2012/03/13(火) 23:08:46.88 ID:L0o9C8Y/
徳川の尾張松平とか紀州徳川の者でも徳川一門に変わりないのと同じ事
658人間七七四年:2012/03/13(火) 23:14:48.16 ID:eiQg3xv1
出自が遠い一門なんて他人同然
紀州徳川家の当主が尾張松平の遠い親戚の死を受けて家が傾くか?
大損害って、要はそういうことだから。

織田信家が織田家になくてはならない人物だった、
織田家でとても重要な役割を果たしていた、というソースがないと大損害とは言えんねぇw
659人間七七四年:2012/03/13(火) 23:21:47.15 ID:L0o9C8Y/
相変わらずお前は馬鹿だな

信長なんて自分の子でもない信包とか信澄とか指揮権与えまくってるのに
いかに血のつながりの意味がわかる
血縁関係のある者や養子として入った者だけが家を継ぐ権利がある
謙信の後を景勝が継いだのと同じ事

本家徳川家からみたら遠くても重要な存在なの

信忠が好きだからって贔屓で妄言して持ち上げるのは大概にしてくれ
660人間七七四年:2012/03/13(火) 23:24:09.62 ID:L0o9C8Y/
大体徳川の当主の継承だってとおい血縁関係であっても普通に行われてるじゃねえかw
661人間七七四年:2012/03/13(火) 23:30:08.29 ID:eiQg3xv1
>>659
それは徳川家の事例であって、織田家の事例の証明にはならない。
信包や信澄が指揮権を貰っていたと言うのなら、その死を大損害とする織田信家にも
当然独自の指揮権が付与されていたんだよな?wあるならぜひ出してもらいたい
662人間七七四年:2012/03/13(火) 23:34:08.89 ID:L0o9C8Y/
戦国一般での話しを持ち出してやったのに家ごとの事例に置き換えるとか頭悪いな

織田家は違うというならそれこそ証明するように
あと一問の存在の重要性を語ってるのに指揮権どうこうの話に起きかえるとか論点ずらし乙

もう信忠が好きで好きでしょうがないですっていっちゃえよwwwww
663人間七七四年:2012/03/13(火) 23:34:38.93 ID:eiQg3xv1
ちなみに徳川家の記述がだがから出たので補足しておくと、
徳川将軍家から見た親藩大名は全て徳川家の始祖家康公の子孫に限り、
家康の流れを経ない松平家(つまり先祖で徳川家康の家と繋がってる、家康の異父弟の家系など家康の血を継がない者)は
江戸時代に一門衆とみられず譜代大名と扱われているのだが・・・・

これが信長の子孫でも弟でもない織田信家を血縁で重用されたとする根拠になりうるのかね?w
664人間七七四年:2012/03/13(火) 23:36:46.39 ID:eiQg3xv1
>>662
徳川の例を出したのがマズかったなだがw
徳川は家康公の血をひいていない者は一門と認めていない。
信長もまた同義で、御馬揃えで一門衆として率いてきた連中は
信長の子孫、信長の父信秀の子孫のみに限定している。

で、この状況で織田信安の子孫という別系統の織田信家を一門衆とする根拠は?w
665人間七七四年:2012/03/13(火) 23:37:47.47 ID:L0o9C8Y/
>>663
でも譜代として扱われているんだから十分重用なんじゃないの?
一門衆でただの足軽格なんてそうそういないだろうし
666人間七七四年:2012/03/13(火) 23:40:50.75 ID:L0o9C8Y/
>>664
七兵衛信澄(津田信澄)、源五(織田長益)、又十郎(織田長利)、勘七郎(織田信弌)、中根(織田信照)、竹千代(織田信氏)、
周防(木下嘉俊?)、孫十郎(織田信次の息子?)

こいつらは??
667人間七七四年:2012/03/13(火) 23:41:09.78 ID:eiQg3xv1
>>665
譜代大名と言っても親藩ではないからな。
徳川家中でいえば本多、井伊、酒井、平岩などなどの徳川家臣と同列。
つまり家臣と同格の扱いを受けている時点で一門衆として認められているかと言われるとほぼNO
668人間七七四年:2012/03/13(火) 23:48:39.67 ID:L0o9C8Y/
>徳川は家康公の血をひいていない者は一門と認めていない。
でも当主から当主から継承される時でいうと、
その代の当主から見てとおいとおい縁戚でも普通に継承されてるけど?
669人間七七四年:2012/03/13(火) 23:50:33.47 ID:eiQg3xv1
>>666
信氏以外は皆信秀で繋がってるじゃん。
信澄は信秀の孫だし、孫十郎と勘七郎も信秀の甥(勘七郎は女系だが)、他は皆信秀の子供達だしな。
織田信氏は藤左衛門家だけど父親が伊勢で戦死しているし信勝の遺児よろしく手元に置いているんじゃないのか?
670人間七七四年:2012/03/13(火) 23:54:02.96 ID:eiQg3xv1
>>668
徳川家は長続きしたから遠くの家から養子に来たりする人間もいるけど、
基本的に養子になる人間の生家は徳川家康の血を引いている家から来ている。
つまり徳川家親藩の人間の当主に、徳川家康の血をひいていない人間が居座ると言うのはほぼありえない。

織田家は織田信秀を、徳川家は徳川家康を基準に一門衆がおおよそ纏まっていると言っていい。
671人間七七四年:2012/03/13(火) 23:54:36.45 ID:L0o9C8Y/
>>669
??こいつらは一門衆じゃないといいたいの?
672人間七七四年:2012/03/13(火) 23:59:30.51 ID:eiQg3xv1
>>671
御馬揃えで信忠、信雄に続いてるしほぼ一門衆だろう。
残りに続いている人間を見てもほとんどが信秀ひいては弾正忠家に繋がりのある、昵懇にしている織田氏ばかり。
これを見ても弾正忠家が織田信長の一門として扱われていたことは想像にかたくない。

で、件の織田信家は信安の息子で、かつ岩倉織田氏。一応信秀とは先祖で繋がっているけど、
信長時代に対立しているし一門からはほぼ除外されていたといってもいいんじゃない?
家康の異父弟の家系みたく姓は同じだけど認識されてないというパターンだと思うが。
673人間七七四年:2012/03/14(水) 00:03:09.90 ID:M9chG3yQ
なんで一門だと主張した側がそれを論証せずに、相手に一門でないことを論証させてんの
674人間七七四年:2012/03/14(水) 01:28:42.03 ID:ZHTjiDAz
一門って言うか
源清光の子孫が甲斐源氏の祖で
その息子達の逸見氏・武田氏・加賀美氏・安田氏・浅利氏が諸支族祖となった。
源清光の爺さんが源頼朝の爺さんと兄弟という関係

逸見氏の一族には飯富

武田氏からは板垣氏、甘利氏 若狭武田氏 真理谷氏 仁科氏

加賀美氏には秋山、小笠原、南部家がいる。この南部は陸奥のね
小笠原家はさらに三好氏を輩出させる

安田氏・浅利氏は戦国時代では没落

で、武田家が宗家が源清光の筆頭となって継いでいくのだが
実際は逸見氏と争っていた時期があって勢力で勝った武田氏が上という立場に





675人間七七四年:2012/03/14(水) 01:36:10.48 ID:ZHTjiDAz
こうやってみると、血統は繋がっているんだなとw

板垣甘利がなんで武田家で立場が高かったのかってことや
676人間七七四年:2012/03/14(水) 02:58:50.54 ID:v0yWwbyH
>>674-675
乙。
こんなスレでもたまーにこういうためになる話が聞けるんだよね。
677人間七七四年:2012/03/14(水) 06:49:29.03 ID:F4VcILk2
信家が岩倉出身なんて一次史料で証明されない話を自信満々に語る時点で織田チョンは無知
678人間七七四年:2012/03/14(水) 06:51:27.01 ID:k1AW/XzE
乙ー

つまり、だが理論によると、甲斐源氏の一門である板垣を村上にぶち殺された信玄は糞雑魚ってことだね
679人間七七四年:2012/03/14(水) 06:52:31.06 ID:k1AW/XzE
>>677
んじゃ、信家が弾正忠家だって一次資料でお前が説明しろよ。
お前が言い出したんだからできるんだろ?
680人間七七四年:2012/03/14(水) 07:18:35.34 ID:dEeuAY3t
また>>677のような惨めに負け惜しみを叫ぶだがであった
681人間七七四年:2012/03/14(水) 10:33:28.64 ID:v0yWwbyH
その場の言い返ししかできないからなーだがさんは。
大局観の無さは信玄と似てるかも。
682人間七七四年:2012/03/14(水) 14:45:14.22 ID:KgjauPsz
信濃から日本海側沿いに京に行くとなると、時代にもよりけりだが
上杉、一向衆、浅井・朝倉・六角・三好と攻めなきゃいかん
一方、太平洋側だと
徳川、織田、一向衆・伊賀衆・甲賀六角・三好。
途中で美濃へと上れば、一向宗と伊賀は回避できるけど。

内陸は山。めちゃくちゃ山wwwwwwwwwwwwwwww
あの辺りに住んでる俺が言うんだから間違いないwwwwww
それでも信玄は三河へ 現在の国道153(旧・飯田街道?)を伝って度々攻め上って
三河を脅かしたみたいだ。
しかし、この道、峠だからwwwwwww周りは山すぎるwwwwww
今は道も整備されてトンネルもいくつかあるけど、
当然、当時はトンネルなんぞ無かっただろうし、山を越えたんだろう。
海沿いの平野部から行軍しないとなると中央アルプスを抜けなきゃならんwwwww
難易度高すぎるだろwwwwwwww
だが、あんな甲斐の山奥から愛知県の三河の一部分を侵略して
尾張近くまで食い込んできた信玄は単純にすごいと思うwwwwwwwww
愛知県に武田家の城とかあるんだぜwwwwwwwwワロスだよwwwwwwww
683人間七七四年:2012/03/14(水) 14:52:40.01 ID:jVn5DJ6D
信玄様が本当に名将なら楽勝
684人間七七四年:2012/03/14(水) 19:22:06.91 ID:37/S08JW
織田チョンとか言い出したけどチョンはだがの方だよねwwww
685人間七七四年:2012/03/14(水) 19:22:14.91 ID:ogf6gqQ1
そもそも織田信家自身が一次史料にほとんど出てこない
だがが紹介している織田信家の高遠討死は織田系図のエピソードで
ここに信安の子供であると断定されている。織田信安は当然弾正忠家ではない

織田信家の一次史料を提示するならだがが先に出すべき
信家の高遠討死がまず一次史料に確認されていないからな。
686人間七七四年:2012/03/14(水) 20:27:55.93 ID:XQur0jE3
>>685
織田系図は複数あるから
どの系図か教えてくれ
687人間七七四年:2012/03/14(水) 20:38:44.61 ID:M9chG3yQ
え?
知らないで言ってたの?
688人間七七四年:2012/03/14(水) 21:04:34.84 ID:v0yWwbyH
>>686
その程度のレベルで口出せる件じゃないから。
おとといおいで。
689人間七七四年:2012/03/14(水) 21:24:08.85 ID:2WVTlClK
簡単にまとめると
・織田信家の父親は織田信安でほぼ確定(どの織田系図も全てこう)
・織田信安の父親には織田敏定、織田敏信と複数説ある

つまるところ織田信安は織田信秀と別の家系であることが濃厚で
織田信安の官位も伊勢守、ほぼ確実に信秀と別系統と見て間違いない
690人間七七四年:2012/03/14(水) 21:40:29.71 ID:tY43MyS4
だがの言う一次史料とやらの信憑性がさらに稀薄になったな
だが自身が無知だから仕方ないけど
691人間七七四年:2012/03/14(水) 21:44:25.45 ID:M9chG3yQ
一次史料二次史料そのものは内容の信憑性を担保する指標じゃないぞ
692人間七七四年:2012/03/14(水) 21:52:39.14 ID:v0yWwbyH
>>691
いや、みんな分かってるよ
だが以外は
693人間七七四年:2012/03/14(水) 22:15:01.11 ID:2DWvYdRW
信忠厨のオナニースレ
694人間七七四年:2012/03/14(水) 22:26:14.62 ID:SQ2mZyZs
信長厨が「武田信玄の天下取りは難易度高い、織田はラッキー野郎」と言うのか
ずいぶん手抜きな工作だな
695人間七七四年:2012/03/14(水) 22:44:25.81 ID:2DWvYdRW
だがの偽者自演とかマジヘタクソすぎて萎えるw
696人間七七四年:2012/03/14(水) 23:35:19.11 ID:I6jGvK7X
信忠が指揮した戦いの結果は

岩村城の戦い→兵糧攻めを敢行、秋山の夜襲を返り討ちにし岩村城陥落○
信貴山城の戦い→圧倒的大軍で強襲、松永は爆死して陥落○
上月城の戦い→毛利軍と膠着状態に陥り信長の命で撤退、味方の上月城は陥落×
武田征伐→電光石火の信忠軍の猛攻により武田は瞬殺、歴史上類を見ない完勝○
二条城の戦い→明智の大軍を前に奮闘するが衆寡敵せず玉砕×

戦績としてはまあまあって感じじゃね?
697人間七七四年:2012/03/15(木) 00:03:32.61 ID:V+j3GzMZ
無難すぎて他に目立つ要素がない、というのが概ねの評価だろう。

ただ織田家としては信雄の方が知名度も逸話も多くて影が濃い
698人間七七四年:2012/03/15(木) 01:46:08.66 ID:XCIIXVA+
無難とソツなくこなすは違う言葉だぞ?
699人間七七四年:2012/03/15(木) 02:00:23.84 ID:V+j3GzMZ
そういえばそうだった
700人間七七四年:2012/03/15(木) 02:08:53.16 ID:VhEP7BFK
信忠には大軍を率いる器がある
701人間七七四年:2012/03/15(木) 02:43:54.57 ID:G4DhePcz
どうみてもない

まだ秀忠とかのがマシ

岩村攻囲戦とか勝頼の援助もえられない状態の秋山に半年も持ち堪えられて騙し討ちで勝つのがやっと。
武田征伐は元々武田が北条や徳川との戦闘で弱りきった所を圧倒的大軍で襲ったら離反の連鎖になって
まともに抗戦した仁科1000以下に絶対的に兵力数が物をいう城外戦でもって大損害を出し
一門の1人を討ち取られ普通なら10分くらいで終わりそうな戦闘を最低で4時間以上戦われ信濃の伝説として歌にも残ってしまう醜態ぶり

のぶやぼでいえば

 政治  統率  知略
 50 23 56

こんなもん
702人間七七四年:2012/03/15(木) 02:48:17.94 ID:G4DhePcz
信康>仁科>景勝>氏政>>勝頼>秀忠>>輝元>>>>>>>>>信忠(笑)
703人間七七四年:2012/03/15(木) 02:52:04.81 ID:G4DhePcz
信長は信康が信忠より遥かに優れているのを妬ましく思い、家康に命じて殺させた。
これが真実
704人間七七四年:2012/03/15(木) 03:04:34.46 ID:G4DhePcz
秀忠は、10万20万単位の大規模城攻めを、2倍そこそこの兵力比で短期間に終わらせた。

信忠は、3000そこそこの、長篠敗戦後士気がガタガタで援軍も見込めない秋山勢に8〜10倍くらいの兵力差で半年かかっても自力では勝てなかった。

秀忠>>>>>>>>>信忠
705人間七七四年:2012/03/15(木) 03:41:59.04 ID:V+j3GzMZ
で、織田信家を一門とするソースはまだかね?w
706人間七七四年:2012/03/15(木) 07:50:27.94 ID:gWTeOFof
>>701
やっぱりゲーム脳だったかこいつ
架空戦記が大好きなわけだ
707人間七七四年:2012/03/15(木) 08:17:11.72 ID:G4DhePcz
戦国時代なんて武器も戦略も単純だしゲームみたいなもんだろ
708人間七七四年:2012/03/15(木) 08:20:42.14 ID:RTQl3yrE
>>706
書き方からしてそうだろ。
察してやれよw
709人間七七四年:2012/03/15(木) 08:51:47.52 ID:G4DhePcz
昔の人なんてあんま物事を複雑に考えないしな
軍記とか読んでたら論理性が乏しいし
710人間七七四年:2012/03/15(木) 16:44:18.02 ID:Rqvluh/g
アスペルガーだがは2chが雇ってるプロ固定と呼ばれる煽り屋の一人。
金をもらって荒らすのが仕事。
711人間七七四年:2012/03/15(木) 17:29:18.54 ID:KNcsXnJG
今、暴れているのはだがじゃないよ。前に同じ話しでやりあった事あるから。
捏造するにしては稚拙で幼稚。
発狂武田厨演じるただの構ってチャン的な荒らしだろ。

だがならランチェスター理論だの持ち出さないとw
712人間七七四年:2012/03/15(木) 17:31:51.42 ID:3lTNwoyz
>>709
現代人もそうだろ
お守りとか、地鎮祭とか、宝くじとか、不謹慎とか、ペットとか
713人間七七四年:2012/03/15(木) 18:19:59.07 ID:hBTzJcUp
現代人のが頭はいいだろ
発明したり開発したり複雑な事件を解決したり
714人間七七四年:2012/03/15(木) 18:50:33.00 ID:V+j3GzMZ
エリート層はそうだけど一般民衆レベルなら何もかわっとらんよ
715人間七七四年:2012/03/15(木) 19:43:40.43 ID:3lTNwoyz
>>713
そうだろうね
ただ問題になってるのは、複雑に考えずに非論理的な判断を下すって話じゃないの?
716人間七七四年:2012/03/15(木) 20:36:57.65 ID:Y7b0yw16
荒唐無稽な逸話とかを当時のエリート層が信じていたのか不明だよ
俺らみたいな馬鹿はそういうの好きだから信じる
だから、都合が良いから作ったものかもしれない
717人間七七四年:2012/03/15(木) 21:14:07.45 ID:hBTzJcUp
現代の評論や論文みたいな複雑で論理に乗っ取った思考や価値観は戦国期の書物や書状などには見られない

元々日本には合理主義がなく、西洋に比べて非常に感覚的な思考を持つ民族だったのだろう。
源氏物語みたいなのがいい例
718人間七七四年:2012/03/16(金) 08:20:51.11 ID:PAw420KI
それはそれで良い文化の様な気もするね。
逸話や伝記などは、そこから得られるのはなのか、と言う歴史的観点から
見る、こちらがわの器量が問われるんじゃないかと思う。
719人間七七四年:2012/03/16(金) 17:35:10.36 ID:0DALNylB
西洋は西洋で未だに万物は神様がお作りなさった
とかいった類の造物主論を大真面目に語ってる奴らがいるけどな

西洋=合理的じゃなくシビアな面が違うだけ
720人間七七四年:2012/03/16(金) 18:22:12.00 ID:zFlSJdye
欧米のテスト問題

人間の発祥は何か?
答え 猿○ 土くれ○ 神○  日本だと「猿」しか○もらえないよねwww
721人間七七四年:2012/03/16(金) 21:37:30.84 ID:imVRfvQk
そりゃあ日本人もいまだに神仏を拝んでるからな
722人間七七四年:2012/03/16(金) 21:40:02.82 ID:mopMCYg/
>>717
ん?ここは本当に戦国スレなのか?
戦国時代は超合理的だけどな。刀で切り合っていた!!とか言わないよね?
723人間七七四年:2012/03/16(金) 21:50:01.24 ID:w5icV05l
近代合理主義は西洋からもたらされたものって日本史の授業で習った記憶があるし
戦時中の日本ですら非合理的な精神論とか根性論がまかり通り
戦後ですら野球部は水を飲むなとか坊主にしろとかに象徴されるような非合理的な事がまかり通っているんだから
それより遥か昔の日本なんてめちゃくちゃ感覚的な民族だったに違いない。
武田勝頼の自爆も近年は色々後ろ付けされて色々説明がなされるようになったが
むしろ昔のような冷静な判断力に欠いた猪武者だったという評価の方が史実に近い気がする

そもそも日本のような単一民族の島国では言葉が通じないという事がなく
なあなあな話あいでも事足りてしまうという事がある
現代でも英語は日本語に比べて論理的で分かりやすい
そして中国の漢文も古文に比べ論理的
対して日本語は論理性が相対的に乏しく、色々な解釈が可能で難しいのもその一つの現れであろう
724人間七七四年:2012/03/16(金) 22:24:57.46 ID:wlpJ1jay
英語漢文のどこが論理的で、日本語のどこが論理性に乏しいんだ?
どこかで聞きかじった知識じゃないのか?
725人間七七四年:2012/03/16(金) 23:44:46.18 ID:13vPOkQ1
つーか、戦国時代の軍師が兵法家や築城家な時点で
日本の戦争や文化思想教養が漢民族に劣っていたのは明白だよなw
信玄ですら、三国志をや孫子の兵法を愛読して、諸葛孔明のファンというミーハーっぷり

つまり、中世が終るまで日本は、まともな戦争をしてこなかったと
この辺を考えると、信玄や信長秀吉家康は近世の大名だったのかなと
726人間七七四年:2012/03/17(土) 00:03:20.96 ID:0/YanLtU
>>721
化学とか生物の博士様に限って造物主論者だからな
西洋が倫理的とか合理的なんてそれこそ未開の東洋人の思い込みだw

日本人は特に何事も最新こそ最良、古い物は悪しき物ってチープな思考回路を持ちがちだから余計にだ
727人間七七四年:2012/03/17(土) 03:12:47.76 ID:/LiRLDTG
近代合理主義って西洋からもたらされたものだと学校で習ったぞ
英語漢文は日本語に比べて曖昧で解釈が分かれる部分が少ない
これは現代文の時間に受験指導の先生から習った事
実際英語の論文を日本語訳で読んでみればわかる
源氏物語始め古典なんて現代語訳に直してみても普通に曖昧というか論理性なさすぎて意味不明だからな
728人間七七四年:2012/03/17(土) 03:24:05.15 ID:/LiRLDTG
日本語: 主語がない・重複が多い・適切な用語でない・意味曖昧・形容の範囲や因果関係が不明
729人間七七四年:2012/03/17(土) 04:31:04.33 ID:afywaHqA
だがが居なくなったと思ったら変なやつらが現れた
730人間七七四年:2012/03/17(土) 08:40:39.46 ID:wfBtLC5w
だがじゃねえの?
信玄でうまく現実逃避できなくなったからわけ解らん事ほざきはじめたんだろ
731人間七七四年:2012/03/17(土) 08:42:55.59 ID:UH6wUUrh
話をそらすために関係ない火種を投下するのは奴のいつもの手口だよ

で、最初の話をみんなが忘れた頃にしれっと出してくる。
732人間七七四年:2012/03/17(土) 08:50:11.01 ID:PT5rKYXS
つまり今必死になって織田信家一門説の史料を探してるという事か
733人間七七四年:2012/03/17(土) 09:57:12.89 ID:m9dkG3Ap
結局、織田信家が岩倉織田家出身のソースが出せずに誤魔化し続ける織田チョンの自演工作ワロタw
はやくソースはwikiでした。すいませんって謝って土下座しちゃえよw
734人間七七四年:2012/03/17(土) 15:03:13.11 ID:YH1UuwvU
結局、織田信家が織田一門のソースが出せずに誤魔化し続ける武田チョンの自演工作ワロタw
はやくソースはwikiでした。すいませんって謝って土下座しちゃえよw
735人間七七四年:2012/03/17(土) 15:33:27.23 ID:LqTkClFB
織田厨がバカなのは岩倉織田家の末期なんて
有名無実でなんら史料がないほどに消え去った存在で
公記のデタラメを真に受けて岩倉織田家は北尾張一円を支配する
強大な勢力だとか語っちゃう池沼なんだからw
しかも織田信家が岩倉家とか完全にアホ。
>>654のアホ発言なんて完全に岩倉への養子説のさらに飛躍したアホの思い込みだよな。
つーか信秀の弟で犬山織田家の信康ってのがいるが(信秀の命で伊勢守家を監視してた)
そいつの子供が広良(與康)と言って、信長の美濃攻略の際に美濃十九条城主となっており
さらにその息子が信家だから、信定→信秀→信長→信忠 信定→信康→広良→信家で完全に一門衆だわな。
736人間七七四年:2012/03/17(土) 16:25:40.75 ID:LqTkClFB
>>689
毎回の如く、どうせ相手はウソつても気づかないだろうと思って
シッタカしてデタラメを吐きまくるなよキチガイ織田厨w

一次史料で信安の存在は確認できない架空人物
信安が信賢によって岩倉城を追い出した記述は
江戸期の二次史料にしか出てこないデタラメ
そもそも岩倉伊勢守織田家の当主で
一次史料から確認できるのは
天文6年に妙興寺に夫丸2人を免除した書状を出した広高が
伊勢守の当主と推定されているのみ。
しかも信長が岩倉城を包囲して降伏を受けたとする時期を
一次史料で調べると言継卿記に信長が堺・奈良見物して
将軍義輝に謁見してる時期だと今谷明氏が指摘していて矛盾する。
737人間七七四年:2012/03/17(土) 21:51:56.01 ID:9hqzUCkv
>>723
学校で習った記憶が〜
野球部は・・・・だから〜
〜違いない。

アホ

日本に合理主義が無かったのなら戦国大名も起こらず、石高の収益による
領土の拡大なんて旧体制の争いがずっと続いただろうね。
経済なんて観念形成できずに、収奪のみの武田だらけ。

>そもそも日本のような単一民族の島国では言葉が通じないという事がなく
光秀が何故重要されたのかでいいから調べてみろ。
738人間七七四年:2012/03/17(土) 22:23:23.15 ID:/LiRLDTG
>>737
具体的な反論もできず批判・罵倒しかできないアホ乙
739人間七七四年:2012/03/17(土) 22:53:13.86 ID:PT5rKYXS
割符は合理主義の賜物だと思うが
他にも各地の相場差で利益上げるようなこともしてる
大名で言えば権力の集中が図られると、統一基準(貨幣、枡)の統一化の志向が見られる

そもそも論文と小説を比べるのが是と思って・・
あぁなるほど、自分が論理的でないから日本人もそうだということか
なるほど、説得力があるな
740人間七七四年:2012/03/17(土) 23:31:19.79 ID:n96vdnTK
だが、今日もひろゆきの忠実な犬として2ch盛り上げ工作ご苦労。
戦国板みたいな過疎板しょっちゅう書き込んでるのはだがとsubくらいだからな。もちろんどっちも2chのプロ固定。
だが札幌の2ch関連企業にして2ch最高幹部であるFOXこと中尾嘉宏が代表を務める株式会社ゼロ所属のsubの方は
家宅捜査食らって以降姿を見ないな。奴もとうとう逮捕されたか?
だがも逮捕は間近だな!
741人間七七四年:2012/03/17(土) 23:40:06.27 ID:/LiRLDTG
西欧と比較しての話だし割符や権力の統一化どうこうは誰かが意図的に作り上げたというより
自然とできていったものだろうし
戦国期に書状でも記録でも何でも複雑な論理性や合理性が垣間見れる産物なんて皆無じゃん
合戦で勢力差があるのに負けそうな方ついたり、城を枕に討ち死にしたり、現代人の感覚からしたらありえないだろ

今の日本から見て北朝鮮が精神主義的でアホにみえるのと同じ事だよ
軍国主義下の日本ですら客観的な判断能力がなく圧倒的に国力差にあるアメリカに喧嘩吹っかけ
中国〜南アジア〜東南アジア〜ミクロネシアまで広大な戦線を自分から広げて
欲しがりません、勝つまでは、みたいな精神主義・全体主義的な軍部がまかり通っていたんだし
それより遥か昔の日本なんてどれだけ感覚的、情緒的な民族だったろうか
742人間七七四年:2012/03/18(日) 00:19:44.71 ID:1vwpJ5QJ
>>741
割符制度が自然と出来上がる土壌が存在したという事だろ?
お前がそう断定するのに信憑性を担保するほどのどれほどの文書に当たったというんだ?
当時において勢力差を正確に把握できていたのか、後世の人間の把握が実情を完全に捉えているのかなどなど色々問題がある

あとな、人間って普段ヒューリスティックに判断を下してるのが殆どでな
二重価格の問題とか、サブリミナルの問題とか、衆議院で民主党が大勝したとか、例示すれば現代人も暇がない
翻って西洋をみても、現代でもキリスト教が跋扈し、9・11でもアメリカ自演陰謀論が噴出、エリア51、過去においては魔女裁判
合戦をとりあげてるから、アラモ砦の戦いとかな

WW2でアメリカに資源供給を止められて、そのままだと自滅しか道がないって側面も把握してるか?
743人間七七四年:2012/03/18(日) 02:29:30.38 ID:i+ml8TrP
>>735
相変わらず空しい反論がこだましているなだがw
織田信家が織田信安の子供だということは現在残っているほぼ全ての織田系図で確定しているのw
それを否定したいんなら織田信家は○○の子供です、というのをちゃんと出さなきゃいかん、がんばれよw

ちなみにおまえが言っている織田信康(信秀弟)の家系にいる織田信家ってのは織田宗圓といって全くの別人だぞw
あまりじかに見る機会は少ないかもしれんが信雄系の天童藩家系図正本にきっちりと宗圓とある。
どのみち織田信長は弾正忠信秀を始点としてその子、弟、甥までしか一門と認めていないことがはっきりと御馬揃えで顕示しているから、
そんな信秀の弟の孫みたいな傍流を一門扱いするわけないんだけど。
744人間七七四年:2012/03/18(日) 02:30:47.35 ID:i+ml8TrP
正本じゃねぇ副本だわ訂正
745人間七七四年:2012/03/18(日) 03:16:52.45 ID:+pdYVjv3
>>742
じゃあ逆に聞くけど現代の評論や論文みたいに複雑で論理的に物事を説明したり考えたり
してる事が読み取れる文書や文章などをあげてみてよ。絶対にないから
数学とか論理学とかああゆう小難しい学問が必要とされないくらい単純な時代だったの。
明治維新で日本人が刀を捨て学問に励むようになってから知的レベルや文化レベルは格段に上がったんだし
それまでの日本人なんて原始人と現代人の中間みたいなもんだろ。
家電もない電車もない車もない、会社もないパソコンもない
どうみても現代の日本に比べて情緒的・感覚的。
土壌ってのはそういう仕組みが必然的に求められる環境があったというだけで
そこで実際暮らしている人間は未開的・未発達。
例えば猿みたいな劣化知能を持った物でも火を炊いたりすみわけしたり群れを作ったり一定の秩序や合理性があるのと同じ事
あと資源止められようがあんな小さい島国が広範な戦線&超巨大国敵に回すとか馬鹿
こういう時局を客観的に見れない人物をもっと単純化した例が武田勝頼
昔であれどこどこの国がどのくらいの規模でどのくらいの国力かなんておおよそはわかるんじゃないの?
戦国武将達も情報収集に努めないといけないし
周りの大名こぞって敵になって攻められたりしても命投げ出して家のために戦う武将がいるのは
今の現代人の観念と異なる武士固有の精神主義的思考を持ってるからとしか考えられまい
746人間七七四年:2012/03/18(日) 07:15:01.52 ID:l6hP5WdY
系図なんて幕府の命で歴史編纂が開始され、
ついでに藩史を作った
江戸時代に作られた捏造だらけのシロモノじゃねーかw
一次史料による裏付けがない好い加減なもんだからw
747人間七七四年:2012/03/18(日) 08:20:10.49 ID:i+ml8TrP
>>746
一次史料がないんなら、織田信家が一門とする説はどこから出たんだ?
お家直伝の系図が全部異なる、というからには信憑性抜群の史料を持っているんだよね?w
748人間七七四年:2012/03/18(日) 08:36:38.79 ID:+QtSpIQi
>>741
頭の悪い奴だな。とりあえずコテ付けてくれないか?

>合戦で勢力差があるのに負けそうな方ついたり、城を枕に討ち死にしたり
君の理論だと、桶狭間や河越夜戦、関ヶ原の合戦はロマン求めて戦った結果のまぐれ勝ち、
鳥居元忠は自己満のために死んだメンヘラとなるわけだ。

>それより遥か昔の日本なんてどれだけ感覚的、情緒的な民族だったろうか
で?具体的な戦国時代の話しは?
今まで君がしてきている事は、戦国時代と関係のない話しを当て嵌め、そうだっただろう、そうに違いない、
そうじゃないか?と言った、君の希望論であって具体的な戦国時代の話しは何もない。
君は知らないだろうが、戦国時代の侍と江戸期の侍の考えも戦い方も根底から違うとか知らないだろ。

信玄が近世大名言ってる時点でアウト。
孫子は信玄だけが読めた貴重な本(キリッ 
こう思ってるだろ。信玄はあくまで荘園制度延長線上の典型的な古い大名。
牛馬に至るまで略奪せりと書かれるぐらい略奪しなけりゃ軍を維持できなかったぐらいだ。
749人間七七四年:2012/03/18(日) 12:41:44.64 ID:qYioVtvd
系図に書いてあるから正しいなんて
どの学者もそんな妄言吐かないぞ。
なんせ系図職人が金貰って、それなりに見える捏造系図を作成してた時代だからな。
尾張上四郡の守護代の家系たる岩倉の家系なんだよ!なんて自称して由緒正しいと捏造しただけだろw
750人間七七四年:2012/03/18(日) 12:51:35.37 ID:1vwpJ5QJ
>>745
なんで逆に聞くのか非常に論理的じゃないな

それらは技術での後進性についての言及にはなっても、日本人が合理的か論理的かという問題への答えではない

戦わずして滅ぶ、戦って滅ぶ、後者を選んだという事だろ?
お前の好きな合理的なはずの白人どももアラモ砦の戦いしてるからな?
或いは雪山で遭難して人肉を食うことへの批判みても、合理的じゃないな
751人間七七四年:2012/03/18(日) 16:40:37.43 ID:QFyzWFbD
>>749
だったら織田信家が織田広良(與康)の子どもという一次資料を出せよ。
752人間七七四年:2012/03/18(日) 17:35:50.28 ID:SNUJsJET
>>748
お前本気議論する力もろくにないのに書き込むなタコ
論理的・合理的・客観的なのが武士の特性なら
>合戦で勢力差があるのに負けそうな方ついたり、城を枕に討ち死にしたり
こんな事せず勝ちそうな方つくか城放りだして逃亡すればいいだけ
戦国期より後の方が現代人の気質に近いに決まってんだろ馬鹿が
原始時代と徳川時代どっちが現代人に近いか考えてみろカス
技術が後進的って事は後進的な技術でも事足りる状況環境=複雑な諸問題が存在しないか
存在していても現代などに比べたら大した事ないというだけ
合理主義や論理は元々複雑な問題を単純化・系列化するために生み出された事もしらねーだろ馬鹿が
戦って滅びるくらいなら勝ちそうな方つくか戦わずに逃亡すればいいだけ
これができないのが武田勝頼なんかと同じ精神主義・全体主義者
戦時中の日本とか今の日本から見た北朝鮮が非合理的で精神主義的なのと一緒
普通に見てこんな当たり前の事もわからならスレくんなタコが
753人間七七四年:2012/03/18(日) 17:38:37.80 ID:dn78M9Bn
スゲー(^^;)(;^^)一騎討ちやってんの↑
754人間七七四年:2012/03/18(日) 17:38:51.94 ID:Xnwpokpo
信玄厨の特技、ID変えw
755人間七七四年:2012/03/18(日) 17:40:11.87 ID:71r8N0y1
おーいいぞいいぞ
荒らしの立てたスレが別の荒らしどもによって埋められていく
756人間七七四年:2012/03/18(日) 18:50:26.77 ID:1vwpJ5QJ
>>752
武士がどうだかなんか言ってねえだろ
現代人と同じように合理的な部分、論理的な部分があるってだけだ

決まってる、考えろ、だけ、馬鹿、〜とおなじ
全部論理性のかけらもないな
なるほど、すくなくとも現代人であるお前は論理的ではないようだ
だから、お前も戦国人並という事だ
757人間七七四年:2012/03/18(日) 19:22:31.79 ID:ApI8EWqt
家系図通りなら秀吉は天皇の子だなw
758人間七七四年:2012/03/18(日) 21:16:47.75 ID:6vgoZhL2
戦国板は本当勉強になりますね。他のスレより長文が多いし。
759人間七七四年:2012/03/18(日) 22:32:15.68 ID:/3x70wEY
戦国時代に城を枕に討ち死にのほうが珍しく、圧倒的に寝返りが多い。
なぜかというと大名としてもその地を支配していてる国人や小領主ごと味方にした方が争いが起きずに支配しやすいから。
これが戦国時代に何度寝返っても許される理由であり、中々勢力が広がらない理由でもある。
ちなみに城を枕に討ち死にを選ぶのは、今の家に忠節を尽くしたいという珍しい武将か、城に派遣されてきてその土地に土着の影響力がない城主とか、特異な事例の場合。
760人間七七四年:2012/03/19(月) 00:17:31.56 ID:SHkHVlNt
まーたしかに
戦国時代は100年以上続いたわりに、大幅な人口激減はしていないみたいだよな
三国志とか、中華の人口が半分以上激減して、ここでオリジナルの漢民族は絶滅したと言われる

日本の戦国時代の悲惨さって、一般人より国人豪族の一族が悲惨なだけでしょ
761人間七七四年:2012/03/19(月) 10:29:55.74 ID:UMJnlblh
結局織田信家が信長の一門衆であることが認められずに発狂するだがであった
762人間七七四年:2012/03/19(月) 21:27:22.75 ID:DWUIeAYs
>>752
>こんな事せず勝ちそうな方つくか城放りだして逃亡すればいいだけ
つくづく頭の悪い奴だな。猿か?
もう一度言うが、桶狭間や河越夜戦、関ヶ原は運で勝敗が決まったのか?
まずはそれを答えろ。

>戦国期より後の方が現代人の気質に近いに決まってんだろ馬鹿が
気質?話しが変わってんだが。真正か?
戦国知らない奴として、レベルの低い話しするが、戦国後期は戦が産業として
確立していた事ぐらい知っているよな?
何も知らん馬鹿に最初から説明すんの面倒だな・・・・
763人間七七四年:2012/03/19(月) 22:16:39.95 ID:WVz2xnGz
現代人が合理的なら国境紛争もなく戦争も無く貧困も飢餓もあらゆる犯罪もないユートピアがうまれてらあな
764人間七七四年:2012/03/20(火) 09:06:11.06 ID:++4zCtFQ
>>759
それは日本が西洋諸国と違って言葉も通じるし文化風習も極端には異ならず
極端なやり方嫌うなあなあな気質だっただけ
無駄に殺傷する例が少なくても命を張って主君に尽くしたりするのが大和武士
>>762
関係ない話して話そらそうとする馬鹿とは話する気にもなれんね
桶狭間⇒先陣と勘違いして突撃したらたまたま本陣があって雨や風が都合いいタイミングで吹いただけだから運
河越⇒知らない
関が原⇒島津の記録で小早川離反前から東軍優勢、徳川本軍も温存されてたから実力
気質の話で何も変わっていない
人間は時代が進むにつれて現代の人間の気質に近くなってきたなんて進化の過程みりゃわかるだろ
原始人と現代人どっちが合理的気質や考え強く備えてるか考えてみろよ
猿⇒原始人⇒中世武士⇒江戸武士⇒現代人と段々知能が発達して合理主義的思考ができるようになったのが人間
戦時中でも合理性客観性に欠けた精神論や全体主義がまかりとおっていたんだから
遥か昔の中世武士が合理性を遥かに欠いた民族だったのなんて間違いない
彼らの持つ合理主義なんて猿でも群れを作ったりえさ取りを工夫して行う事に毛が生えた程度のもの
>>763
程度問題の事いってんのに馬鹿乙
765人間七七四年:2012/03/20(火) 09:30:49.37 ID:EboTh5zQ
>>764
そんなに文化も言語も変わらない古代ローマ帝国は殺戮しまくりですが?
文化大革命、ポルポト、魔女裁判、殺戮しまくりですが?

おいおい、戦国時代の人間は原始人じゃねえだろ
しかも合理的かどうかという問題を知能に摩り替えてるし
H2Oの昇華を捉えて、中間の蒸発をも昇華というようなもんだぞ

で、先生が言って以外に根拠無いのか?ん?
766人間七七四年:2012/03/20(火) 11:22:46.92 ID:E1UGPRMC
>>764
気質の問題ではなく支配形態の問題。

古くから土着してる農民が村を守るために軍隊並みの武装をしていたのが戦国時代。それを国人や小領主がまとめていた。
大名とはそれらを守るという契約の元に味方につける。
もし国人や小領主を無視してその下の農民を支配しようとすれば国人一揆が起きる。農民から不当に搾取しようとしても国人一揆ご起きる。契約を反故すれば寝返られる。敵の方が強そうで自分達が危ないと思えば寝返られる。

これは土地とそこに住まう農民を守るための当時の統治者の常識人。
主君に忠誠とか江戸時代に朱子学を使って徳川に従順な武士を作るために導入された思想だから。
767人間七七四年:2012/03/20(火) 12:58:32.12 ID:++4zCtFQ
支配形態なんて後の時代の人が後ろ付けでどうこう研究しているだけで
それが意識して作られたわけでなく自然とできていっただけ
主君に忠誠を尽くすというのは武士としての基本
信義を重んじ貫く姿勢がないと金がいくらもらえても死ぬ可能性高い戦で一生懸命戦う気
なんて到底なれない
明智光秀がなぜ反逆者の汚名を負う事になったのか少し考えればわかる
ある軍事活動を行う場合大義名分が必要だったりするのも戦国武士が実利的な側面より
形を重んじる連中だったのが自然と読み取れる
ただ大名があまりにも暴君だったり国人領主を疲弊させると勝頼みたいに背かれるだけ
信長から離反が多かったのも非人道的な殺傷や盟約反故が多く人望がなかったから。
768人間七七四年:2012/03/20(火) 13:03:43.99 ID:++4zCtFQ
現代の政治家でもアホな事言ってたり人格糞だろたたかれるのと同じ事だろ
戦国時代も今の原始版くらいの単純な構造しかないし武器も戦略も単純だし
ゲームみたいなもんだろ
皆頭も悪く合理主義なんて原始人に毛が生えた程度だし機械もないし
書物も書状も記録も何も論理性がなくて単純な事しか書かれてないし
769人間七七四年:2012/03/20(火) 13:12:25.34 ID:++4zCtFQ
珍しいというわりには毎回合戦でよく死んでるだろうが
織田でいえば森父&乱丸や坂井など。武田でいえば相木や岡部など外様でも城を枕に死んだし
合理性追求するなら追い詰められても切腹なんてする必要ねーしな
武士道というのは江戸期のみならずずっと源平時代からあった当たり前の観念だろ
裏切ったりするとたたかれるのは当たり前だよ
大名からしたらいざという時簡単に裏切るような奴は役に立たないし使いたくもない
770人間七七四年:2012/03/20(火) 14:04:27.55 ID:E1UGPRMC
痛いとこ突かれて慌てて三連投とか・・・

源平の武士の忠誠は土地あってこそ。そんなことも知らんのか。
771人間七七四年:2012/03/20(火) 16:46:47.98 ID:8IGvqSTQ
そうそう!
土地って重要だよね。
有給休暇はあったのかな?
772人間七七四年:2012/03/20(火) 21:51:35.42 ID:9eV98qhP
>>764
君は自分で自分が何を言ってるのか、分からなくなってるようだから簡単に要約しよう。
『勝てる戦以外は逃げるのが合理的』>>752での君の意見ね。
で、圧倒的な状況でありながら逆転勝ちした戦は>>764で言う、まぐれってわけだ。 
じゃ、聞くけど、10倍近い兵力差の桶狭間や河越夜戦、吉田郡山城の戦いを逃走してたらどうなったかな?
合理的に考えられなかったから戦ったのではなく、勝てると見込んだからこそ戦いを挑んだ。
兵ってのは強制徴用されて戦場に狩り出されてるとでも思ってるのかな?

まあ、『勝つほうにつくのが合理的』ってのは、多くの豪族がしてるけどな。
自分が腹を切る事で無駄に戦を減らし、交渉をスムーズにするってのは、自己を交渉材料にさえ考えれる
実に合理的な考えとは、言えないのかな?

ま、君は強制されたと言うだろうね。

中世武士は合理性求めて、刀なんてすぐ捨てたんだけどな。
刀<大刀<薙刀<槍<弓<鉄砲 戦国時代の武士手習いはこうだ。
刀は首を刈る時以外は使うなとされてる。むしろ江戸時代の刀萌えのが実に非合理的だ。

>>770
一所懸命の語源とか知らないんでしょ。
773人間七七四年:2012/03/21(水) 08:25:59.92 ID:avv+EL9q
>>771
盆と正月は行動自由だったけど、他はないんじゃね?

>>772
言ってる事は大体賛同できるが、10倍もの敵を相手にしたら、流石に考えるだろ。
桶狭間にしても川越夜戦にしても、実際にそんなに差がないだろうし、吉田郡山は
様子見だけど大内軍も布陣していたし。
でもまあ、烏合の衆とはよく言うが、不利になれば即逃げの豪族もいただろうし、
日本ではそれも有りだし、要は真面目に働いてくれる武将がどんだけいたかじゃな
いかと思う。
そう言う意味では、鎌倉時代の一族郎党は結束固かったんだろうなぁと思う。

刀が一番は現代人問いか、刀を差しているのが武士みたいな江戸時代以降の考えだ
よなぁ。
少し考えてみれば、刀で直接戦うより、来る前に弓や鉄砲で倒した方が被害がない。
774人間七七四年:2012/03/21(水) 22:07:57.92 ID:miPMsGbD
>>773
結束も何も鎌倉時代の戦は数人同士の戦も多くあったんだけど・・・
775人間七七四年:2012/03/21(水) 23:26:11.07 ID:tcl/vnBT

再現…

コノヤロ足に噛みつきやがった!

やめでケロ!

テメー明日になったら兄さん加勢に来るがらただじゃおがねぞ((怒))

ってな感じですね(^-^)
776人間七七四年:2012/03/22(木) 10:36:07.49 ID:eMZqicGe
ソースが必要ない妄想だけで語る時は無職織田厨が水を得た魚のようだw
777人間七七四年:2012/03/22(木) 11:04:27.13 ID:yTL0JhCO
あれだがさん仕事はどうしたんっすか?w
確か銀行員でしたよね?銀行は今日平日だから仕事ありますよw
778人間七七四年:2012/03/22(木) 12:35:23.12 ID:EG8bLURa
>>774
ん?
俺が言いたかったのはその事じゃないけど、当時は基本的に行動が数日単位
だし、その通りだと思う。

>>775
まさしくそんな感じでは?w
779人間七七四年:2012/03/22(木) 18:33:04.48 ID:OAEmMUl/
鉄砲や火薬欲しさに万単位の日本人が外国に売り飛ばされていた時代だぞ。
内陸部でも、兵士を食わせるために奴隷市が当たり前に展開されていた。
庶民が一番悲惨だった時期じゃないのか……。
780人間七七四年:2012/03/22(木) 19:00:54.21 ID:Qn7e95Oi
>>779
農村が普通に武装して自分達を守る支配者と交渉していた時代。

搾取の対象で無理やり戦に駆り出された可哀想な農民というのはかなり古い通説。
781人間七七四年:2012/03/22(木) 19:03:37.25 ID:H0t8QOY3
武装蜂起といっても内部留保とでも言うべき搾取しきれなかった生産がある富裕な所だけだろ
武田のところは絞りすぎて逃げるしかないまで追い詰めてるし
782人間七七四年:2012/03/22(木) 19:07:44.09 ID:qRpnRyWs
農村の離散だって珍しくなかった時代だしね。
荒廃しすぎたんで税免除して……とかは上杉あたりでも見られる処置。
生きるだけで大変な時代。
古い通説()とかどんだけ歴史知らずだよ。
783人間七七四年:2012/03/22(木) 19:28:12.78 ID:L/mqwM1H
フロイスによると日本の戦は食うための戦。食いモンとか略奪するのが主目的。
朝鮮出兵、大阪の陣でも略奪ヒャッハーの世界だしなぁ……。
784人間七七四年:2012/03/22(木) 20:13:52.15 ID:Qn7e95Oi
農地が荒廃したり農民が逃散したり耕作放棄して一番困るのは税が入らなくなって徴兵も出来ない支配者。

どんだけ歴史知らずだよ。
785人間七七四年:2012/03/22(木) 20:17:53.38 ID:CaB5adI6
>>784
お前がな。相手の支配者が困ることをする戦術的意味合いもあった。
小早川隆景が残した戦訓書にも、春夏秋冬こんなもん狙って乱暴略奪するんだ、と書いてあるぐらい。
786人間七七四年:2012/03/22(木) 20:30:11.60 ID:XPuTFJ8u
信玄も略奪しまくってたな。
略奪自体が軍事行動の目的だった説もあるぐらい。
妙法寺記や高白斎日記にもその旨の記述がある。
もっとも誘拐され奴隷売りされたのは庶民だけじゃないが。
志賀城落とした時、信玄は城主夫人を恩賞として部下にやったり武士階級だって……。
787人間七七四年:2012/03/22(木) 20:33:03.26 ID:Qn7e95Oi
たこくの乱取りと自国の支配をごっちゃにしてる時点で歴史知らず確定。
788人間七七四年:2012/03/22(木) 20:35:30.78 ID:hd40NetK
意味不明の煽り逃げに入るぐらいなら、最初から知ったかしないほうが……w
789人間七七四年:2012/03/22(木) 20:39:46.04 ID:xdq27fob
「ここで乱暴や略奪は禁止」という立て札(禁制)出す代わりに、寺社や村々に金出させるのも戦国大名の稼ぎの状態だったな。
790人間七七四年:2012/03/22(木) 20:47:19.88 ID:AhhtQQ1D
・略奪せずに食える生産力がある
・他国から略奪対象にされない防衛力がある

この二つを満たした地域って当時まずなかったんだろうな。
791人間七七四年:2012/03/22(木) 21:31:33.01 ID:H0t8QOY3
>>784
なのに農民を逃がしていた武田は無能と、こういうわけですよね
792人間七七四年:2012/03/22(木) 22:07:34.71 ID:ha1vK1e1
>>782
>荒廃しすぎたんで税免除して……とかは上杉あたりでも見られる処置。
こうやってデマって広がるんだなー
793人間七七四年:2012/03/22(木) 22:14:48.10 ID:ffjuDU0p
武田最強説は捏造です。

信長公記巻八 4、長篠 三州長篠御合戦の事

このように武田勢が総軍入れ替わりで突入してきたのに対し、織田・徳川勢は一将たりとも前に出さず鉄砲のみで応じた。
そして足軽であしらいつつ徐々に敵勢を追い崩し、そのあとで人数を突入させていった。
五番手には馬場美濃守信春勢が押し太鼓の音とともに攻めかかってきたが、結果は上と同様であった。
5月21日日の出の刻から始まり、織田勢が東北東をさして戦ったこの戦は未刻Nまで続いた。その間武田勢は諸卒を突入させたが、
そのたびに織田・徳川勢に討ち果たされて次第々々に無人となっていった。それでも生き残った将兵は武田勝頼の旗の下に集まり、
敗戦を悟って鳳来寺の方角へ退却をはじめた。信長公はそのときを逃さず、陣をくずして総軍を乱進させ、これを追撃した。
この戦で討ち取られた首は、よく見知られた分だけでも山県昌景、小幡信貞、横田備中、川窪備後、真田源太左衛門信綱、土屋惣造昌次、
甘利藤蔵、杉原日向、名和無理介、仁科、高坂又八郎昌澄、奥津、岡部、竹雲、恵光寺、根津甚平、土屋備前守、和気善兵衛、馬場信春など
多数にのぼった。なおこのうち馬場信春の働きは比類のないものであった。この者達をはじめとして武田勢はこの一戦で数多の将兵を失い、
討死した者の数は一万にも達したO。その中には山に逃げ入って飢え死にした者や、橋から川へ落とされて水死した者も多く含まれていた。
794人間七七四年:2012/03/22(木) 22:15:42.94 ID:ffjuDU0p
武田の天下取りは武田信玄自体凡人なのでムリ。
795人間七七四年:2012/03/22(木) 22:19:21.26 ID:ha1vK1e1
>>793
最近じゃ、後方の鷲津砦を榊原が落として、浮き足立った武田がバラバラになって追撃されて
軍が崩壊って説もあるな。
796人間七七四年:2012/03/22(木) 22:36:51.44 ID:HnlldQre
信長公記は捏造軍記

・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森のキ沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述

多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
・高遠城攻防戦での織田信家戦死を隠蔽
・堂々とか公記の記述の撤退の時に砦取り返されて本当は2回あったのに書いてない
・大した戦果のない姉川が大勝になってる。
・長篠の戦果が十倍以上過大になってる。
・道三との会見では、織田家臣である太田が、信長が織田家臣を連れて帰った後の道三の
「いずれ息子たちは信長の家臣となるだろう」という呟きをなぜか知って書いてる
・河野島の流れとか書いてない
・大良河原では追撃軍に信長が仁王立ちになって鉄砲撃ったら敵が追撃やめた
・稲生では信長が大声あげたら敵が敗走したり、信長が京に上った時に刺客のいる宿に乗り込んで
「殺せるものなら殺してみろ!」と啖呵切って刺客が恐れ入ったりかなり信長万歳な記事が多い
797人間七七四年:2012/03/22(木) 22:37:48.77 ID:HnlldQre
信長公記にすら記されていない以上は捏造逸話以外のなにものでもない。
などと言いたいところだが、さて信長公記が隠蔽する時は必ず理由がある。
信長公記において家康がすでに同盟者となっていては都合が悪いのだ。
そこで思い出されるのは、信秀死去寸前に今川と和睦してることを隠蔽して、信長の立場が不安定だと捏造してる公記だが、
家康との共同作戦で思い出される史実で、公記が完全隠蔽してる事件がある。
それを隠蔽してる以上は家康がすでに同盟者であっては困る。
あくまで家康は永禄11年の義昭上洛戦以降の同盟者でなくては都合が悪いのだ。

さて以下がその隠蔽である。

永禄9年に信長は近江矢島の義昭を上洛させるためと称して
義昭に斉藤龍興との和睦を申請し義昭が喜んで和睦を斡旋したし
龍興も義昭を「公方様」と呼んで快諾して誓詞を細川藤孝に提出してる。
義昭は信長に藤孝を下向させ上洛の打ち合わせをし、
7月には能登七尾の畠山義綱や大和の十市遠勝にも
来月22日に信長が出陣するから上洛の供をするように命じてる。

これにより尾張・三河・美濃・伊勢四ヶ国の兵を率いて上洛軍を催すこととなった。
しかし出陣当日になると信長が突然出兵できないと言い出す。
これには龍興18歳も信長が臆したと嘲笑し、義秋も信長を糾弾し天下の物笑いとなった。
これにキレた信長が8/29に同盟軍の美濃攻めを突如開始し
木曽川の河野島へ渡川進撃。奇襲に怒った龍興も
すぐさま応戦し河野島へ渡ってきたので織田軍は敗走し川を挟んで対陣。
その翌日から風雨激しく洪水になり閏8月8日の明け方に奇襲を敢行した
龍興側に織田軍は大敗。勝利した斉藤に義昭は改めて上洛を願うが
織田の動向が心配なので上洛は難しいと言われ
翌8月3日に織田と上洛戦を企んだと知った三好長逸3000が
近江坂本へ義昭討伐にやってくる。
8/29は暗夜だったのを幸いに側近4、5人で琵琶湖を渡り
若狭武田の下へ義昭は逃走した。
798人間七七四年:2012/03/22(木) 22:38:49.06 ID:HnlldQre
角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに
第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている) 現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は金子拓氏の最新研究結果によれば70以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。
尊経閣文庫蔵安土日記
信長記の写本だがもっとも古態をとどめている。安土城についての史料的価値が高く他の信長記にない逸話が登場する。
木田梧楼家蔵信長記
本願寺攻めが他の信長記より詳しい。
首巻のある信長記(陽明本など)
信長上洛以前の記録であるが、これは自筆本が後世に伝わってない。
また年次の誤りが異常に多く永禄3年の桶狭間の戦いを天文21年としていたりする。
尊経閣文庫蔵織田記
首巻が他のと違う。が天文13年9月の信秀の美濃攻めで大敗した織田の討ち死に数を50とする。
陽明本などは5000とする為、こちらの方が信憑性が高いと言われる。
内閣文庫蔵安土日記は池田家本系統の写
長篠での鉄炮数を30挺計と書いていたりする。
天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。
太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。
そもそも信長は発給文書が極端に少なく、ほとんど部下へ丸投げなので
信長の業績はまったくわからず、やむおえず太田の著書に頼らざる負えないだけで
信憑性は疑問のシロモノであり、関が原や秀吉の史料は豊富にあるので
太田の記述した関が原や秀吉に関する記述は三次史料以下の扱いである。
信長公記は志賀の陣まで 前代未聞の栄誉ある一戦などと勝利宣言してるからまったく信用性ゼロ
実際は義昭が必死に調停してくれたから信長は助かっただけ。
そもそも三河物語には和田が参加したなんて書いてない。
3万の朝倉が1万の織田を旗本まで切りくずして朝倉軍が一気に前進していたが、
家康が前面の敵を撃ち、信長の崩れを見て 一気に朝倉奥陣に斬り込んだから
本陣に横撃を受けて朝倉軍が崩れただけ。 志賀の陣でも朝倉軍3万に
織田1万じゃ帰り道を塞がれたらかなわないから和睦したって書いてるし、
信長が兵糧に困るだろうと考えていたら比叡山から朝倉に米が運ばれてしまったと書かれてる。
その一方で比叡山の騙し討ちを喝破した信長をさすがの弓取りと称賛してるから
これでも三河物語は信長寄りにかいてるわけだが。信長から御加勢依頼がきて
徳川からは石河家成が織田への援軍で参加してるから。

公記は天正10年の武田攻めでは侵攻日に起きた浅間山大噴火を隠蔽。
武田滅亡の天意と言われた。
援軍に来た勝頼も諏訪から甲斐へ撤退せざるを得なくなる。
浅間山噴火が京で視認できたのは有史以来この時でわずか二度目。
東に横たわるアルプス山脈を無視して考えた場合、
広島での原爆が京都から視認出来たくらいの距離に相当する。
信長公記によると、
范可とは唐時代の人で止むを得ない事情により父親を殺さざるを得なかった経歴を持つとの事を書いているが ...もちろんそんな人物は中国に存在しません。
義龍が范可の署名を弘治元年12月から署名しており、 公記の記述は辻褄が合わない。
捏造信長公記は父殺しイメージを架空人物まで創造して捏造してまで強調してるが、
実際は重臣達に追放された武田信虎や六角義治らと同じような状態になった際に道三は死ぬ覚悟に決戦を選択したに過ぎ無い。
799人間七七四年:2012/03/22(木) 22:39:46.00 ID:HnlldQre
公記には天文21年(1552年)に桶狭間の戦いがあったと書いている事実w
このため桶狭間の戦い虚構捏造説の根拠にされるw(信秀死去は天文20年もしくは天文21年とされる)
天正9年11/24に信長の子の御坊殿が武田から返却されてきたので犬山城主にしたと
公記には書いてある。そこには信玄が養子にしたいと言うから甲斐へ送っていたと書かれている。
しかし実際は岩村城の養子に信長がねじ込んだ末に、武田軍に大敗して拉致られただけ。
完全に歪曲捏造しまくりなのが公記。
第二次木津川口の戦い自体は兵糧搬入成功している以上勝利だからね
毛利側にも本願寺側にも証拠がある
毛利家文書834 小早川隆景書状写
「去六日至木津諸警固乗入、大坂衆申談候、敵船雖罷出候、舟軍等勿論此方得勝利候」
毛利家文書832 下間頼廉書状写
「諸警固一昨日六日木津浦御着岸候、当寺大慶此事候」
「兵粮両度被入 信長公より九鬼大隅守に被命以大船 川口被塞 雖然打破り 兵粮を入る」
毛利家日記より

討ち取られた武将もいない

野田福島の戦いでは京へ撤退しようとする信長 江口川は水量が多く、水勢もすさまじいものがあり
船でしか渡れない場所なのに、信長は徒歩で渡れる始末。 しかも翌日からはまた徒歩でわたれなくなり
地元民が奇跡だと言い合う。これにより三好軍と本願寺からの 追撃を免れたなどとバカな妄想を書く公記。
他にも道三が討死した報を聞き退却しようとした織田軍であったが義龍の軍勢が追撃しようとしたところを、
信長が鉄砲を撃っただけで、信長公の勢いに飲まれて追撃する気がなくなるなど
くだらん話が散見されるのが妄想軍記信長公記のウケを狙ったガチなギャグである。
800人間七七四年:2012/03/22(木) 22:42:59.62 ID:HnlldQre
かなりの兵力比&まるで城みたいな堅個な陣地&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
こんなとこにムリヤリ突っ込んでいくような猪武者が大将だから負けただけ
むしろその状況ですら8時間以上戦われ所々柵も破られてるくらい武田は名将ぞろいだったんだから
普通に総大将が馬鹿じゃなく戦ってたら武田が圧勝だったのは間違いない。
背後押さえられた状況で&上記の戦闘で疲弊しまくった状況でも勝頼ら一族衆は退却できたんだから
砦奇襲はそう重要な要素ではない
801人間七七四年:2012/03/22(木) 22:45:50.34 ID:HnlldQre
信長は援軍として西に兵力派兵する余裕が無かったから、
勝頼は非常に有利な状況だった。
丹波の赤井直正も勝頼に書状を出してたし、
赤井忠家や内藤如安や宇津頼重らが反織田で丹波も毛利や武田に協調してる。
これ信玄の大きな遺産だな。
5月に長篠で武田が無謀な決戦で大敗した為に、
信長は余裕が生まれてしまい、
8月越前一向衆を壊滅させてから、
光秀に丹波侵攻を開始させてる。
波多野ら丹波衆の反撃で光秀は大敗したが。
実際、天正三年3/4には
芸但和与が正式に発足したことに対する織田→小早川への返信で、
信長は但馬はかねてから申し入れているように織田分国であることを承知してるはずだ。
近年はずっと山名祐豊から連絡が来なくなったのは無念だが、
出雲や伯耆の安定の為に、
尼子のいる但馬出兵がどうしても必要なら
仕方が無いと
背後で尼子を支援してる信長もしぶしぶ毛利の但馬での勝手な行動を認めてる。
それだけ信長には余裕が無かったから
露骨に毛利に開戦したく無かった。
信長は毛利に対して内心激怒してただろう。
すでに天正元年12月までに元春が信玄西上のドサクサに織田分国但馬を平定して出雲に帰国しており、
毛利は朝山日乗や安国寺らを織田に派遣し、秀吉を窓口に信長に媚びて敵対行動の誤魔化しをしてた。
うまく信長との間を誤魔化せたのは秀吉と朝山のおかげだと安国寺が12/12に書状を出してる。
天正4年5月までに尼子残党を京へ逃亡させ
毛利は山陰再平定に成功してる。
その一方で山陽道でも織田に内応した備中の三村を毛利は天正3年5月までに平定に成功。
勝頼が長篠で大敗したのはガチでバカ過ぎ。

天正5年9/10の丹羽長秀書状に
能登の百姓ことごとく謙信一味、末森まで通路封鎖されたと書いている。
末森は能加国境の主要通路を擁する交通の要衝。
これですでに七尾が落ちているのを織田は知っているはずで、
知らずに進軍してたらすでに七尾が落ちていたと知ってあわてて退去したところで背後を襲われたので無く、
七尾が落ちていたのを知った上で北上を続け11/3に上杉と正面から挑んで大敗したのだろう。
公記の加賀出兵記述は、
目的も状況推移も何も書いておらず意味不明の記述。
尚且つ、わざわざ記述した意味がわからん上にかなり短い内容。
あきらかに文章の大幅削除されている。

太田牛一の記述は基本でたらめだらけだが
北陸・関東方面には特に極端に疎いからな
柴田の動きとか全然詳細に書かれてないし
芋川らが信濃で奮戦してる書状があるのに森が越後まで侵攻したとか
氏政が関東を放棄して織田に前面降伏したとか頭おかしいレベルw

天正2年4/13六角義賢が石部城で抵抗後に三雲氏の本拠地の信楽に向けて退城し、
この時に敵を追い払った山中山城に感状を12/24に出してる。
この間に勝頼が美濃明智城と遠江高天神城を攻略し、信長は越前での一揆を危惧
長篠の戦いの前年ですら、武田がむちゃくちゃ有利に戦ってるからね。
北条も織田を敵と言ってるし。
そもそも危機的な北条は越中で謙信の背後を突いてもらいたい一心で
永禄3年に氏康が永正3年からの禁制を撤回して
石山本願寺に関東での亡命寺社の帰国と保護を認めると約束しちゃったからな。
北条は何かあったら一向一揆を起こされるため完全に武田と本願寺の奴隷モードなんだよ。
だから氏政は氏康を暗殺してまで甲相同盟を復活させた。
802人間七七四年:2012/03/22(木) 22:47:50.99 ID:HnlldQre
信長公記が三河物語に較べて信憑性が低いとされる点に天文11年第一次・天文17年第二次に渡る小豆坂合戦記述がある。
三河物語は第二次の方のみしか記されておらず、今川義元の感状から第二次のみは史実確認が取れる。
信秀は第二次にあたる戦いでは今川の背後にあたる北条氏康に書状を出しているなど
今川を背後から牽制する策をとっており挟撃策を恐れる今川方も抑止的な軍事行動しかできていない。
佐々木城主松平忠倫や松平清定(信秀縁戚)など有力な織田方松平一族も依然として信秀を支持している。
静岡県史も今川の軍勢が天文11年に西三河に進出するなど考えられないと一蹴している。
よって第一次の戦いは公記の捏造であり、三河物語の正しさが証明された戦いである。ただ信秀が東三河で優勢だったのはたしかで、
水野信元や松平信孝(天文16年9/28には松平広忠を大敗させてる武辺者)らが織田方として存在している。天文12年には
後奈良天皇に4000貫を献上し(今川は500貫)従来尾張を支配する守護斯波と守護代大和守の富強ぶりが都でも評判であったが
すでに信秀にとって代わられている事実が見える。この献上の際には信長の側近の平手が京に出向いているが
本願寺証如に面会してるのがわかる。本願寺側は「門徒に対して一段悪勢の者」と認識しており
丁重に織田外交団を接待しているのがわかる。本願寺との険悪さがすでに存在していた。
また同時期には熱田神宮寺座主も、いままでは大和守の判物を手にいれて満足していたはずなのに
信秀を当殿様と呼び信秀判物を手に入れようとした。
信長公記系に記される信秀に従い出陣し稲葉山の戦いで戦死した清洲三奉行の織田因幡守の子で信友が
守護代大和守の養子として清洲城(斯波氏を傀儡にしてる)へ入城し天文16〜17年・21年に信秀・信長と対抗?
そもそも大和守達勝は天文19年12/17の熱田神宮の書状で存命が確認されるのでデタラメ。
しかも達勝の後継者は勝秀であり、もう何言ってんのかわかりませーんw
そもそも信友なんて一次史料には一切出てこない架空人物としか思えないし。
つうか斯波氏を傀儡にしている大和守を傀儡にしてる信友を
さらに傀儡にしてる孤立してる清洲城の坂井・川尻・織田三位ら重臣達ってストーリーかよwww
ちなみに尾張北を支配していた岩倉織田伊勢守も天文6年に広高が当主であったのが確認できるが
その後、まったく消え去り史料上から消え去っている。信安を追放した信賢とか江戸期の捏造話で存在確認できない。
公記系によると永禄2年に信長が岩倉城を数ヶ月包囲して信賢を降伏させたとするが
言継卿記によるとその時期の信長は上洛して義輝に謁見し、堺・奈良見物してる最中w
803人間七七四年:2012/03/22(木) 22:54:06.60 ID:HnlldQre
天文17年11月〜18年の間に信秀と道三は和睦し婚姻同盟し信長の後継者確定。
天文18年11月には藤原信長と署名する初見文書により熱田へ発給している。
天文19年8月に今川5万が尾張へ侵攻とする誤伝が定光寺年代記があり、これが桶狭間の戦いのモデル。
これを信長公記は天文21年に起きた桶狭間の戦いとして脚色した(さらにデタラメ学者は永禄3年の間違いと主張w)
しかし現実では斉藤が織田側になったこともあり
今川と織田は和睦の雰囲気となってきており天文19年冬に天皇が織田と今川の和睦を斡旋しており
信秀側が義元へ和睦してもらいたいなら刈谷城を水野に返還せよとの要求をしており今川はそれを呑んでいる。
それに前後して東条松平甚二郎が織田方へなるなど織田優位なままに三河戦線も終結した。
ちなみに稲本紀昭によると神宮文庫蔵の日記断片簡に天文17〜18年に弾正忠入道・尾張若殿と書かれており
信長は出家した信秀の後見を受けて家督を継いでいる可能性が高い。
そして天文21年3月に信秀は死去する。(信長公記系統では天文18年死去し21年に桶狭間とする操作を行っている)
また守護代達勝もこれに前後して死んでいるようで、天文22年に大和守勝秀の名で唯一の書状が出されている。
天文22年閏正月に平手が信長のアホぶりに失望し自害。信秀が後見につけた4人のうち
青山は稲葉城下で戦死・内藤は謎人物・林は信長を見限り弟支持に回るなど、信長の側近は崩壊。
この糞人格に不安を覚えた道三が4月に信長と会見し、舅だけは婿を見限らない宣言(娘が人質だしなw)
その後、守護斯波義統暗殺・守護代大和守信友暗殺と信長に都合がよい展開になっていたが
守山城主織田孫十郎による信長弟織田喜六郎秀孝殺害
守山城への信長弟の安房守の就任後暗殺されると、信長が逐電していた叔父の孫十郎の守山城主就任許可。
守山城を舞台として信長兄弟達が次々と抹消されていき、
信長に対抗できるのは勢力は達成(信勝・信行)だけになり疑心暗鬼になっていた時に義龍から書状が届いている。
信長の最年長の叔父織田信光暗殺(公記系では不慮の死と書いて誤魔化すが定光寺年代記に害されると書かれている)
天文23年正月、今川攻めをする信長のために道三が兵力を加勢し、水野と信長は知多半島で軍事作戦をする。
岡崎市史によれば1555年から二年の間に三河全域で国人たちの反今川大蜂起が発生しており、信長有利な展開だったという。
しかし1554年に道三が重臣に追放され義龍政権が発足し信長後見役が政権から降りると情勢は一変していく。
1556年4/20に道三が討たれた時に美濃譲り状を貰った信長だったが、義龍の尾張への謀略に悩まされ内乱に陥る。
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ
(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに美濃は尾張半国を取っていると書かれているのである。
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)
804人間七七四年:2012/03/23(金) 02:58:47.98 ID:3ykb0bGF

木曽川を隔てて美濃側、尾張側の河野島で斎藤・織田両軍が対峙したにもかかわらず、
斎藤軍は自ら激流の木曽川を渡って織田に攻撃し、織田軍はなぜか川のないところを渡河
しようとして溺死者多数、討死多数というお粗末すぎる作り話を坊主に送った手紙が中島文書河野島の戦い
805人間七七四年:2012/03/23(金) 03:31:22.79 ID:3ykb0bGF
河野島の戦い全文


一去月廿九日織上当国境目へ出張候、其時分以外水迫候て、河表打渡、河野島へ執入候、即時ニ竜興懸向候、依之織上引退、川縁ニ居陣候、
国之者共限堺川詰陣を取続相守候、自出張之翌日、風雨濃水ニ付而、自他不及行候き、漸水引候間、取懸可相果之由令儀定候之処、去八日未明ニ織上敗軍仕候、川へ逃入、
没溺水候者共不知数候、残党於川際少々討候、兵具已下捨候為躰、前代未聞ニ候、不遂一戦退散候之間、数多不討取事無念不少候、雖然此方任存分之条、可御心易候、
織田在陣中可注進申候へ共、無程落居候間、無其儀候、此等之通御伝語可畏存候、可得尊意候、恐惶敬白、

ここからわかる斎藤方の嘘

・行き道は凄く増水していた木曽川をなんなく渡河したにもかかわらず、帰りに水が引いた木曽川を渡る際に溺死者が多数出た点(其時分以外水迫候て、河表打渡、河野島)

・織田方がキレた(だが史観>>797)にも関わらず斎藤方が木曽川よりさらに先の境川に来ただけで軍を止める織田勢(即時ニ竜興懸向候〜国之者共限堺川詰陣を取続相守候)

・水が引いて斎藤が攻撃をかけようと考えた何日か前、既に織田軍は撤退していたにも関わらず斎藤方がその一部始終を見たと記している点(去八月八日〜前代未聞ニ候)


斎藤方の9割近くの誇張でできた河野島
だがのような無知無能なる人間に対する喧伝、アピールのためにこういった誇張が生まれたのだろう。
806人間七七四年:2012/03/23(金) 06:57:13.11 ID:3B1OK8PB
織田チョンさんはなんで同時期の足利義昭方の書状を転記しないのw
807人間七七四年:2012/03/23(金) 08:23:04.33 ID:PM26fWgh
斎藤龍興による河野島大勝は大嘘だった



河野島の戦い全文

一去月廿九日織上当国境目へ出張候、其時分以外水迫候て、河表打渡、河野島へ執入候、即時ニ竜興懸向候、依之織上引退、川縁ニ居陣候、
国之者共限堺川詰陣を取続相守候、自出張之翌日、風雨濃水ニ付而、自他不及行候き、漸水引候間、取懸可相果之由令儀定候之処、去八日未明ニ織上敗軍仕候、川へ逃入、
没溺水候者共不知数候、残党於川際少々討候、兵具已下捨候為躰、前代未聞ニ候、不遂一戦退散候之間、数多不討取事無念不少候、雖然此方任存分之条、可御心易候、
織田在陣中可注進申候へ共、無程落居候間、無其儀候、此等之通御伝語可畏存候、可得尊意候、恐惶敬白、

ここからわかる斎藤方の嘘

・行き道は凄く増水していた木曽川をなんなく渡河したにもかかわらず、帰りに水が引いた木曽川を渡る際に溺死者が多数出た点(其時分以外水迫候て、河表打渡、河野島)

・織田方が命令に背いて攻撃した(その前の信長弾劾)にも関わらず斎藤方が木曽川よりさらに先の境川に来ただけで軍を止める織田勢(即時ニ竜興懸向候〜国之者共限堺川詰陣を取続相守候)

・水が引いて斎藤が攻撃をかけようと考えた何日か前、既に織田軍は撤退していたにも関わらず斎藤方がその一部始終を見たと記している点(去八月八日〜前代未聞ニ候)


斎藤方の9割近くの誇張でできた河野島
だがのような無知無能なる人間に対する喧伝、アピールのためにこういった誇張が生まれたのだろう。


808人間七七四年:2012/03/23(金) 08:23:34.77 ID:UujSxOF4
長くて読む気にならないな・・・。
809人間七七四年:2012/03/23(金) 12:19:44.52 ID:3m1iz9cS
捏造や初歩間違いだらけだからな。指摘されても同じコピペの繰り返しw
ヲチのアイドルの一人やでぇ。
810人間七七四年:2012/03/23(金) 12:22:57.31 ID:3m1iz9cS
>>792
史実だぞ。
府中などの荒廃を理由に、諸役・税を免除した文書が実在。
ただし重要な財源だったらしい青苧だけは免除せず、というリアルなもの。
811人間七七四年:2012/03/23(金) 17:24:10.26 ID:4PZRFuVW
>>794
信玄は秀才って感じのインテリエリートみたいだから天才ではない


ヒトラーみたいな人間だったら甲斐からでも天下を取れたかもね

で、戦国時代で天才だったってのはいないな

三国志でも曹操ぐらいだ
信長なんてよくて袁紹レベル、こいつもエリートで周りのおかげで大きくなっただけ
戦国時代に曹操レベルの天才が同時期に現れていたら袁紹と同じでやられてたよ
いなかったから、天下統一寸前までいけたわけ

明智は天才肌と言ってよかったかな
812人間七七四年:2012/03/23(金) 17:30:19.19 ID:+ZyPbgYE
>>792
豊臣も尾張に対して向こう三年間無税(全部だったか、一部だったかは忘れた)にしてその間に復興させろと、武田も似たような命令を出してる
普通にあること
813人間七七四年:2012/03/23(金) 19:28:52.71 ID:qb9GwioL
そもそも信玄は本気で上洛する気あったのか?
織田の背後狙い易いように他勢力たきつけるための口実じゃないの?
将軍家直々の和睦を反故にして上杉の背後をやっぱり襲った信玄が、本気で幕府護持なんて考えていたとは思えんし。
814人間七七四年:2012/03/23(金) 21:23:34.05 ID:L0I+f8+9
>>810
なんて文書?
815人間七七四年:2012/03/23(金) 21:34:25.67 ID:+ZyPbgYE
日付は?誰宛?って続くんだろ
普通はそんな聞き方せんわな
パンピーならなおのこと
816人間七七四年:2012/03/23(金) 21:39:36.07 ID:4PZRFuVW
>>813
大内氏は一時、山口県から上洛して近畿内に領地を獲得し権力を握ったけど
地元を留守にして長期の京滞在は無理だったようね
足利と対決して本格的に天下を取ろうとしたけど、尼子が攻めてきて戻るしかなかった
817人間七七四年:2012/03/23(金) 23:09:17.09 ID:i9YpPNlr
オータオタオタ
818人間七七四年:2012/03/24(土) 14:40:31.73 ID:leFhu3pS
>>814
上杉文書永禄3年5月13日付。新潟県ホムペの歴史項目でも言及されている有名なやつだぞ。
これ以上調べたいなら図書館いってくれ。
819人間七七四年:2012/03/24(土) 17:36:02.40 ID:DHT0bOLs
信玄はガチホモ
信長の後背を狙ってた
820人間七七四年:2012/03/24(土) 21:27:17.63 ID:JjBZX7Z1
領土拡張率ランキング

         家督相続年  相続時勢力圏  最終勢力圏  勢力拡大率
1宇喜多直家    1555年     0万石    30万石      ∞
北条早雲     1460 0 万石   25万石      ∞ 
3徳川家康     1560年     2万石    1790万石     895倍
4最上義光    1533年     1万石  54万石      54倍  
5津軽為信    1540年    0,7万石  24万石     34倍
6葦名盛氏    1532年?     2万石    60万石      30倍
7伊達政宗    1585年     15万石    180万石     13倍
8武田信玄   1541年    14万石    130万石      9倍
9上杉謙信    1548年     23万石   178万石       8倍
10毛利元就    1526  10万石    60万石     6倍 
11北条氏康    1541年     45万石    180万石      4倍

最下位 織田信長 30万石    0           0倍



ちなみに領土拡張スピードなら
短期間で包囲網打ち破った伊達政宗>>>>>>雑魚信長
821人間七七四年:2012/03/25(日) 13:00:12.05 ID:azxi54O/
S 伊達政宗
A 織田信長 徳川家康 三好長慶
B 葦名盛氏 豊臣秀吉 北条早雲 毛利元就 島津義久
C 上杉謙信 大友宗麟 今川義元 本多忠勝 柴田勝家 斉藤道三 明智光秀
822人間七七四年:2012/03/26(月) 09:36:07.14 ID:LvJx0M6M
☆ 武田信玄
SS 武田家臣団
S 伊達政宗
A 織田信長 徳川家康 三好長慶
B 葦名盛氏 豊臣秀吉 北条早雲 毛利元就 島津義久
C 上杉謙信 大友宗麟 今川義元 本多忠勝 柴田勝家 斉藤道三 明智光秀
823人間七七四年:2012/03/26(月) 10:14:03.69 ID:ghwyuKY+
なんでもランクや数値にしたくなるっていう・・・。
またゲーム脳か。
824人間七七四年:2012/03/26(月) 19:49:14.00 ID:FYpUE1ye
歴史ゲームオタは歴史ゲームのスレに行けばいいのに。
825人間七七四年:2012/03/26(月) 19:50:42.00 ID:nLEb17kA
歴ゲー板からも追い出されたこまったちゃんか。
もしくはいつもの間違い捏造だらけコピペの病人かw
826人間七七四年:2012/03/26(月) 19:55:33.08 ID:U9X32x3w
>>825
>>1からしてそいつの線が濃厚だしな。
827人間七七四年:2012/03/26(月) 19:58:44.10 ID:/U6IIC5e

Q:よくわからない長文コピペがいっぱい貼られているんだけど?

A:アスペルガーだがという人物によるものです。
 彼は武田信玄が大好きで織田信長、豊臣秀吉が大嫌いです。
 特に自分の大好きな武田家を滅ぼしそれ以降日陰者にした織田家を恨んでいます

http://www26.atwiki.jp/dagamatome/
828人間七七四年:2012/03/26(月) 20:04:33.32 ID:Z2xcVyCs
S 伊達政宗
A 織田信長 徳川家康 三好長慶
B 葦名盛氏 豊臣秀吉 北条早雲 毛利元就 島津義久
C 上杉謙信 大友宗麟 今川義元 本多忠勝 柴田勝家 斉藤道三 明智光秀

829人間七七四年:2012/03/27(火) 01:31:53.23 ID:3xJPeXbg
とりあえず>>1から話を戻して展開させると

源清光が甲斐源氏の祖でその息子達の逸見氏・武田氏・加賀美氏・安田氏・浅利氏が諸支族祖となった。
源清光の爺さんが源頼朝の爺さんと兄弟という関係

逸見氏の一族には飯富

武田氏からは板垣氏、甘利氏 若狭武田氏 真理谷氏 仁科氏

加賀美氏には秋山、小笠原、南部家がいる。この南部は陸奥のね
小笠原家はさらに三好氏を輩出させる

安田氏・浅利氏は戦国時代では没落

で、武田家の宗家が源清光の筆頭となって継いでいくのだが
実際は逸見氏と武田氏の兄弟は双子で争っていた。逸見氏の方が兄だったらしい。

上杉禅秀の乱で武田は敗北して甲斐から逃亡、甲斐は守護不在の状況になって
国人達の反乱でめちゃくちゃになる。ここで力を付けてきたのが小山田氏で甲斐随一の国人に成長する。
そんな中、幕府と鎌倉府は守護不在の甲斐を治めるべく
幕府は穴山家に養子に出ていた武田一門を武田に復帰させて守護につけようとするが
鎌倉府は武田の代わりに甲斐を治めていた逸見氏をそのまま守護につけようとする。
結果、穴山・武田と逸見氏の守護争いが起きて、逸見氏の有利に動いていたが
信濃の守護小笠原家の援助で穴山・武田の勝利、武田家は守護職に戻る。
その後、小笠原の援助で甲斐に来ていた守護代の跡部と穴山の争いが起きて跡部が勝利。
甲斐の武田氏は跡部の専横時代を迎える。

つまり、この段階で武田家が守護に復帰できたのは小笠原家と跡部氏のおかげで
武田家は権力がなく操り人形になるわけよ。
こんなどうしようもない甲斐武田家を復活させたのが信虎とその親父である。

この武田家の歴史をみれば、長篠後の勝頼の改革はかなり難しい
勝頼と同じように中央集権化を目指した信虎も裏切られて自滅するのであった。
これは、こういう土地柄のせいなのね

この歴史の結果をみて信玄の戦略は無難な協調性のある政策なんだよね
外より内の戦いがメインだったのではないか?
830人間七七四年:2012/03/27(火) 02:12:20.45 ID:dFjEXP52
>>829
オブ・板垣信憲・長坂清繁・穴山信友→成敗
甘利・浅利→同心衆一部取り上げ
領地ほぼ全体にわたり棟別銭・田地銭の課税
全部信玄がやったことですよ?
831人間七七四年:2012/03/27(火) 03:51:32.58 ID:bwbJ+Qam
甲斐って馬しかいないよね。
ときどき人も歩いてるくらいでようするに僻地マニアってだけだろ
832人間七七四年:2012/03/27(火) 08:15:28.40 ID:CDIDQ0ko
甲斐で馬は見たこと無いなぁ、鹿はあるがw

>>830
信玄がやったのは確かだけど、その地盤を作ったのは先代と先々代って話し
でしょ。
833人間七七四年:2012/03/27(火) 13:47:47.36 ID:vXZG3m3o
信虎追放して、国人一揆持ちの国になったからな信玄期で。
いわゆる近世化の流れに対する反動として武田が動くのも、むしろ当然では。
834人間七七四年:2012/03/27(火) 14:34:19.08 ID:/4jFKP70
謙信ごときに勝てないぐらいで信玄なんてたかが知れてる
835人間七七四年:2012/03/27(火) 17:11:07.63 ID:vXZG3m3o
普通に勝てないだけならともかく、将軍家直々の和睦を破って騙まし討ちしても勝てないんだからねぇ。
836人間七七四年:2012/03/27(火) 17:17:23.45 ID:lfw0677L
そもそも天下取りという視野自体、信玄がもっていたか疑問。
せいぜい信長の後追い、真似で考えるようになった程度だろう。半生の行動を見るに。
837人間七七四年:2012/03/28(水) 08:20:34.66 ID:5bF08lS9
当時は領土拡張が主で、天下統一まで考えていたのはまれじゃね?
838人間七七四年:2012/03/28(水) 14:49:49.45 ID:714QvajF
我らは領土のために戦するが、日本人は食うために戦をする。

みたいなことをフロイスさんがいってたような。
839人間七七四年:2012/03/28(水) 18:35:41.10 ID:bADP3cST
そもそも、天下統一とか天下布武は宗教的な言葉ね
これは信長の軍師の沢彦という坊主の発想

今の考え方だと天下統一って言葉はそのまま全国制覇だけど
当時の発想は宗教の統一だったと思うね
当時の宗教の布教とは、教えを説いて洗脳するより、他教を武力で弾圧して潰すのが基本だった
この辺の発想が信長の天下統一、信長は過大評価だよ
840人間七七四年:2012/03/28(水) 19:37:32.65 ID:PF3E/51L
現実に信長は武力で宗派統一なんかしてないが……。
ソースは? 全くの初耳なんだが。
天下の概念がもっと狭かったとかいう異説レベルですらない妄想?
841人間七七四年:2012/03/28(水) 20:37:28.50 ID:bADP3cST
>>840
天下統一や天下布武って発想は信長のモノではない
沢彦の考えね

岐阜命名から天下布武ってのは一連の事業なんだよね
この辺、アホな歴史作家は無視をする

信長を語る上で、なんで沢彦の名前が上がって来ないかが意味不明なんだよ
これも信長は天才という虚像を作り上げたいからだろうね
とりあえず沢彦についてしらべろw
842人間七七四年:2012/03/28(水) 20:49:50.20 ID:yNSrzCiW
よく言われる織田が近代的で武田が前近代的って話、根拠がさっぱりわからない
そもそも豊臣徳川政権が示すとおり武士政権が中央集権国家ではない
843人間七七四年:2012/03/28(水) 20:51:06.71 ID:d8yJeESn
>>841
ソースっていわれているんだが。
お前の妄想ってだけ?
844人間七七四年:2012/03/28(水) 20:54:46.41 ID:9bTylXEo
天下より食い扶持。それが地方の現実。
武田の奴隷市は普通より相場が高くて、親族が身内救済なかなかできなかったぐらい強欲。
845人間七七四年:2012/03/28(水) 23:10:29.23 ID:bADP3cST
>>843
だから沢彦について調べろw

それもできんのかボケ
846人間七七四年:2012/03/28(水) 23:16:24.34 ID:yu/C1NF1
>>845
自分で言い出した事は自分で史料提示しなきゃ。
それができないと「ソース無し」と笑われても仕方ないぞ。
847人間七七四年:2012/03/29(木) 08:16:46.62 ID:ucc9+Yfo
>>845
説を出しといて自分で調べろってのはなぁ。
妄想と言われてもしょうがないんじゃね?
848人間七七四年:2012/03/29(木) 10:14:29.89 ID:VGWzTKHn
信濃一国さえ治められない器だから
謙信を呼び込んでしまったというのが正解
信長さんなら抑えきって美濃に侵攻してた
849人間七七四年:2012/04/01(日) 12:03:02.66 ID:oc/2eH8y
天正10年の武田攻めを語るスレ 4
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333154364/
850人間七七四年:2012/04/01(日) 13:44:06.54 ID:+TN3W24Y
と、いうかせっかく成立した将軍家からの和睦(将軍は長尾に上方で助力して欲しかった)を、信玄が自分から蹴ってだましうちにしたりしたんだよね。
かなり略奪しまくったようだけど、結局長尾をまた敵対させただけ。
851人間七七四年:2012/04/01(日) 14:40:49.25 ID:oSEv2uDc
信濃守護だから信濃防衛すんのは当たり前だろ。
信長の場合は奴隷にする以前に撫で切り虐殺だからな・・・
852人間七七四年:2012/04/01(日) 14:46:08.55 ID:+TN3W24Y
>>851
防衛じゃなくて武田から侵攻したんだが……。
しかも騙まし討ち略奪は越後にまで及んだんだが。
すぐに反撃食ったけど。
853人間七七四年:2012/04/01(日) 14:51:52.60 ID:+TN3W24Y
ちなみに信玄が信濃守護職貰ったのは、長尾との和睦の代償。
つまり騙し取ったもんになる。
854人間七七四年:2012/04/01(日) 16:15:18.14 ID:Mg9mnIry
騙されたから騙し返して徹底報復が織田だが。
武田は自分から騙しを仕掛けるほうだしなw
不利になった武田が講和を許されなかったのも、信玄の騙まし討ちが原因。
855人間七七四年
なんで国人同士の国境紛争のイザコザ如きレベルの
どっちが約束を破ったか判定できないような話を
すべて信玄が騙したって話に歪曲すんだよw

第三次川中島の後に和睦したわけだが、
その後、義輝から非難の書状がくるまで
上杉も武田も一次史料を見る限り軍勢を一切出してない。
結局、国境での諍いレベル。

非難に対して武田側は「謙信が海野まで侵入して放火した」と反論してる。
どっちもどっちの話で、反武田方の豪族が火でもかけたら
上杉の仕業か?ってなるようなもん。
この反論の翌年に謙信が上洛しているし、
謙信と義輝の間には信頼関係もあって
義輝が謙信の肩を持つのは、有る程度仕方が無い話だしな。