信長公記の捏造マンセーを一つずつ暴いていくスレ

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1人間七七四年
信長公記は関八州古戦録等と同等の捏造マンセーで塗り固められている

名前通り信長公をマンセーするために曲解して作られた妄想軍記である
2人間七七四年:2012/02/08(水) 03:14:41.70 ID:HrpbDNHc
松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲

手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
熊見川も同様

森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森の長沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
3人間七七四年:2012/02/08(水) 03:18:42.23 ID:HrpbDNHc
信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述

多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
4人間七七四年:2012/02/08(水) 03:21:02.13 ID:HrpbDNHc
公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
5人間七七四年:2012/02/08(水) 03:47:48.45 ID:KTPiTSxH
オナニーのくせに4つで終わらせんなカス
無能当主武田信玄に比べてずいぶん良心的な数だなw
6人間七七四年:2012/02/08(水) 03:49:38.34 ID:KTPiTSxH
・武田信玄無能伝説


対村上義清

数で勝る村上義清に連戦連敗、板垣信方、甘利虎泰、横田高松といった重臣を数多く死なせる。
上田原では勝ちに奢った板垣が自滅した、と敗戦責任を家臣に転嫁。その後敗戦した後も意地になって数十日も陣を張り続け戦果ゼロ。
砥石崩れはさらに酷く、3分の1程度の村上勢に1000人近い犠牲者を出すという無様すぎる大敗北を喫する。
どうしようもなくなった信玄は真田幸隆に哀願して村上方の矢沢頼綱(幸隆弟)を寝返らせようやく村上を信濃から追い出した。

対上杉謙信

同じ場所で5回も睨みあい戦果ゼロという後世に残る屈指の馬鹿戦を繰り広げたことでも有名。
ここでも武田信繁、諸角虎定といった重臣を失い10数年も続いた上杉攻略も結局頓挫する。
中央情勢どころか東海情勢すらまともに把握できないまま10年間も無駄に時を費やした信玄を擁護するのは難しく、
やむなく最強竜虎の対決とお題目を立てた甲陽軍鑑の作者の苦心たるや察するに余りある。

対今川氏真
桶狭間で今川義元が死んでから既に8年も経ってようやく攻撃を開始。勢力を伸ばしつつあった徳川家康と協力し、
ちゃっかり家康を出し抜こうと考えるも逆に当時20代の徳川家康に出し抜かれ今川北条徳川の三勢力に駿河侵攻を阻まれる。
今川攻めの前に嫡子義信と飯富虎昌を失った犠牲にあまりにも見合わない収穫、結局今川氏真の駿河再復帰はならなかったものの、
北条に敵対されるわ徳川とも不和になるわで周り敵だらけ。無能の上に何も学習しない、息子も用済みとなればポイという非道な信玄であった。

・対織田信長、徳川家康

何も考えず行き当たりばったりで戦争をふっかける無能信玄は義昭の甘い誘惑に乗って後出し勝利を狙い当時最大勢力であった織田信長と敵対。
ところが既に信長と敵対して押されつつあった浅井朝倉がガス欠寸前で織田に対する軍事行動を一旦終息させる。
そんな時期外れの状況でかつ巨大勢力織田信長と直接対決にビビったため信長子分の家康を筆頭に親信長の第三勢力を憂さ晴らしにいじめぬく。
三方が原で家康を2倍とも3倍とも言える兵力で幸先よくレイプしたはいいが野田城攻めに1ヶ月近く費やす。
冬場に1ヶ月近くも長待陣したせいで体が弱ってしまいそのまま撤退することに。欲をかきすぎた人間の末路である。
結局何をしにきたのかわからないまま甲斐に戻ることなく信濃の路上で野垂れ死に。死後お家は信長に滅ぼされるというおまけつきであった。

7人間七七四年:2012/02/08(水) 06:42:05.53 ID:iipCko0E
第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
8人間七七四年:2012/02/08(水) 11:25:22.11 ID:gHOfw26j
毛利の一次史料…?
みんなー!Subが来るぞー!
9人間七七四年:2012/02/08(水) 21:41:52.84 ID:xmeqYL4+
高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
10人間七七四年:2012/02/08(水) 21:54:01.79 ID:xmeqYL4+
公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化。
11人間七七四年:2012/02/08(水) 23:04:59.77 ID:KTPiTSxH
高野山攻めみたいな手取川河野島以上のねつ造文言を真に受けるだがの頭の悪さには賞賛すら送りたいw

高野山側の記録では織田方の主な武将は織田信孝と堀秀政で、本能寺で信長がくたばったから撤退したなどとホラを吹いているが
言うまでもなく天正十年の段階で織田信孝は四国征伐への準備最中、堀秀政は羽柴秀吉への目付として中国地方におり
いずれも高野山への攻撃などできるはずがないwww

そもそも当時の織田信孝は伊勢二郡しか領有しておらず、四国征伐ももっぱら他国の浪人衆頼みという急造軍団。
そんな行き当たりばったりの遠征しかできなかった人間が十万以上の大軍なんか率いられないくらいわからないのか糞だがw

もっとまともな指摘つけろカスw
12人間七七四年:2012/02/08(水) 23:14:56.01 ID:DnEY7AfH
クソスレが1週してだがの面白いギャグが見れるかもと思ったんだがな〜。
13人間七七四年:2012/02/08(水) 23:27:50.66 ID:AQ2BOAEB
一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
14人間七七四年:2012/02/08(水) 23:47:26.93 ID:gHOfw26j
その一次史料って何?ピンチの脚色はわかるけど
15人間七七四年:2012/02/08(水) 23:47:49.62 ID:xmeqYL4+
高野山攻めは天正9年から開始されてるから
とりあえずこの時期からの信孝と堀秀政が
別の戦線にいたことを
一次史料で証明することから始めてもらおうか。
16人間七七四年:2012/02/08(水) 23:51:17.88 ID:Ays/6ctk
信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
17人間七七四年:2012/02/08(水) 23:55:44.15 ID:KTPiTSxH
>>15
おまえマジで知識ないの?w
堀久太郎は天正九年に三介信雄の伊賀征伐に参加していることが公記にきっちり明記されている。

そもそも大前提として、当時の織田信孝は軍を率いての武功がほぼまるでなく、所領が信雄に比べても
格段に少ない北伊勢二郡しかないのに、どうやって十万近くの軍を率いられたのか、そこから証明して貰わんとなw

大体おまえ>>9で高野山が信長を撃退したと書いてあるのはどういうことだ?w
千歩譲って高野攻めが事実としても信長はこの時高野攻めの陣中になんざいないぞ?w
18人間七七四年:2012/02/08(水) 23:59:06.07 ID:DnEY7AfH
・野田福島の戦い
作戦目的:野田城・福島城を落とすことだとするなら敗戦
(この考え方だと他の武将もえらい敗戦が増えてしまうが)

・志賀の陣
浅井朝倉の京乱入・織田領地奪取を防ぐこと
よって織田軍の勝利
19人間七七四年:2012/02/08(水) 23:59:30.44 ID:Ays/6ctk
信長公が援軍用意してたが前線ですでに敗北してたみたいだから援軍取りやめた
このフレーズは信長公記に頻繁に出てくる負けた時の常套句
なんと第一次木津川口の敗戦でも同じ常套句を使って誤魔化してるくらい
20人間七七四年:2012/02/09(木) 00:01:14.89 ID:oetXwm93
>>16
犠牲もほとんどなくただ兵を引いただけのものを敗北とは言わない。
そもそも摂津では親織田の足利家臣であった和田惟政が三好勢の攻撃を抑えている。
おまけに志賀の陣なんて火事場泥棒しようとした浅井朝倉が威勢こいて出てきたはいいが
総大将すらいない宇佐山すら落とせず、信長ご帰還にビビって比叡山に引きこもる有様w

わざわざご丁寧に信長から決戦まじえようとしていたいも関わらず浅井朝倉は拒否るくらいのビビりw
これで信長から和議結んで浅井朝倉がすんなり許したとかどこの架空戦記なんだ?w
21人間七七四年:2012/02/09(木) 00:07:43.19 ID:AZSHpNH0
高遠攻防戦での織田信家戦死を改竄、隠蔽
22人間七七四年:2012/02/09(木) 00:12:17.68 ID:oetXwm93
そもそも公記の記述は何も間違っていない。

信長は元亀元年の志賀では京を守るように軍を展開している。
それは摂津での三好三人衆の軍事行動が活発化してきたことによる野田福島の戦いと、
浅井朝倉が攻めてきたときに京にほど近い志賀坂本付近に陣を敷いたことからも明らか。

信長がいかに京の足利義昭を守護しようと苦心していたかがわかる。
実際、志賀での和議においても足利義昭は一貫して織田信長を支持。わざわざ御内書まで出して和議に奔走している。
領土を一寸たりとも失っていない織田信長が追い込んでる敵を相手に和議をする理由は皆無、ゼロ。

結局危機感を抱いた義昭が御内書まで使って信長に和議を結ばせようとしたというのは合致する事実である。
アホなだがは史料の解釈やその背景すら読めんらしいw
23人間七七四年:2012/02/09(木) 00:15:02.40 ID:ei0QpHfs
信長公記の捏造まとめ

・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森の長沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述

多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
24人間七七四年:2012/02/09(木) 00:23:33.42 ID:oetXwm93

・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽

長家家譜の成立年代は江戸時代、畠山義慶の存在を混同するようなお察し史料
北徴遺文、謙信書状は全て歴代古案によるもの、もちろんこちらも江戸時代のもの

・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き

→和議においても足利義昭は一貫して織田信長を支持。わざわざ御内書まで出して和議に奔走している。
 領土を一寸たりとも失っていない織田信長が追い込んでる敵を相手に和議をする理由は皆無、ゼロ。

 義昭主導による和議であったとする公記の記述に誤りゼロ。
 当時10歳であったホラ吹き大久保の嘘八百を真に受けた情弱による解釈

・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実

→兵糧を運び入れただけで兵に対する記述なし
 そして本願寺はここからわずか2年足らずで降伏、石山退去

・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
 山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように

→信長が高野山にいるわけもない。三七信孝、堀秀政は天正十年ではいずれも別戦線。
 堀の場合天正九年も別戦線で、いざこざがあった程度のものを誇張したオオボラ。
25人間七七四年:2012/02/09(木) 00:25:22.62 ID:ei0QpHfs
>・野田福島の戦い
>作戦目的:野田城・福島城を落とすことだとするなら敗戦
>(この考え方だと他の武将もえらい敗戦が増えてしまうが)

>・志賀の陣
>浅井朝倉の京乱入・織田領地奪取を防ぐこと
>よって織田軍の勝利

プギャwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
流石に壺なんだがwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
26人間七七四年:2012/02/09(木) 00:29:11.79 ID:oetXwm93
上洛スレ60事件とは、2009年5月から6月にかけ、
【武田】2万5千で上洛【信玄】その60スレッドで起きた戦い。
だがが「甲陽軍艦」について知ったかぶりをし、自爆した。
彼が初めて「だが」と呼ばれた事件でもある。

美濃御料所崩れとは、2011年12月、
武田信玄上洛成功 スレッドで起きた戦い。
だがが大敗した。

投票否定事件とは 2011年11月末〜12月にかけ
だがが複数のスレに渡って出没し、自演がバレた事件である。
だがにとっては上洛スレ64事件以来の大敗とも言われる。

http://www26.atwiki.jp/dagamatome/

せっかくの隔離スレだしこれも載せておくか
27人間七七四年:2012/02/09(木) 00:29:34.11 ID:6InGu93O
ついに気が狂ったか
28人間七七四年:2012/02/09(木) 00:30:38.19 ID:oetXwm93
アスペルガーだがってどんな人?
その名の通り、アスペルガー症候群に見られる、頑固・執拗・妄想の激しい人物です。
武田信玄を信奉していて信玄なら天下を取れたと信じ込んでいます。一方で織田信長が大嫌い、徹底的にこき下ろしています。
ちょっとでも武田を叩いたり信長を持ち上げたりする書き込みは絶対に許さないのがだがの信条。
だがは織田厨という人物を目の敵にしています。織田厨は一人しかおらず、武田を叩いたり信長を持ち上げるのは 全て一人の織田厨によるもの と信じ込んでいます。
もちろんあなたも武田を叩いたり信長を持ち上げたりする書き込みをすれば、だがから織田厨の認定を授けてもらえます。
こんなにたくさんの書き込み、一人で書き込むなんて物理的に無理だし、互いに異なる意見をかわしあっているのに同一人物による書き込みとするのは辻褄が合わないのでは…?そんな常識はだがには通用しません。全部織田厨の自演だそうです。
一応社会人のようです。
忙しい合間をぬって織田厨叩きの活動を続けています。大変な執念の持ち主です。


アスペルガーだがはどこに現れるの?
巨大掲示板2chの織田信長、武田信玄に関連するスレに出没します。
板は問いません。主な出没板は戦国板・歴史ゲーム板・日本史板ですが、他にも世界史板や歴史難民板、漫画板など あらゆる板の織田武田関連の話題のあるスレに出没します。
そしてそれらのスレでの都合の悪い書き込みは全て一人の織田厨によるものと思い込んでいます。


アスペルガーだがの書き込みの特徴は?
織田厨と見られる書き込みに対して、全てに反論レスします。律儀にレスアンカー付きで。
例え何ヶ月も前の書き込みであろうと、掘り起こしてレスします。亀レスなどまったく気にしません。
口調はいつも上から目線。とても偉そうな態度で書き込みます。
だがの名前の由来は、「〜だが。」で終わる自己顕示欲の激しい文章を書くことが多いから。
暴言雑言当たり前です。モラルやマナーというものは持ち合わせていません。
強迫性障害と見られ、 レスしなかったら負け と考えています。
まともな議論の時でも、苦しくなると揚げ足取りや知能障害を起こして有耶無耶にしようとします。
別の話題の時でも、「信長はもっと負けてるけどな」などと無理矢理信長の話題に逸らそうとします。そして信長の話になればお決まりの織田厨認定が待っています。
苦しくなると無理な要求を突きつけて自論を正当化しようとするのもだがの常套手段。「武田が負けたって?具体的に武田が負けたと書かれている資料を出せ」etc.


アスペルガーだがはどこに住んでるの?
神奈川県
でも地元の北条は嫌い。
29人間七七四年:2012/02/09(木) 00:36:05.10 ID:odPDArNA
信長公記の捏造まとめ

・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森の長沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述

多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
・高遠城攻防戦での織田信家戦死を隠蔽
30人間七七四年:2012/02/09(木) 00:36:42.44 ID:oetXwm93
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽

長家家譜の成立年代は江戸時代、畠山義慶の存在を混同するようなお察し史料
北徴遺文、謙信書状は全て歴代古案によるもの、もちろんこちらも江戸時代のもの

・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き

→和議においても足利義昭は一貫して織田信長を支持。わざわざ御内書まで出して和議に奔走している。
 領土を一寸たりとも失っていない織田信長が追い込んでる敵を相手に和議をする理由は皆無、ゼロ。

 義昭主導による和議であったとする公記の記述に誤りゼロ。
 当時10歳であったホラ吹き大久保の嘘八百を真に受けた情弱による解釈

・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実

→兵糧を運び入れただけで兵に対する記述なし
 そして本願寺はここからわずか2年足らずで降伏、石山退去

・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
 山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように

→信長が高野山にいるわけもない。三七信孝、堀秀政は天正十年ではいずれも別戦線。
 堀の場合天正九年も別戦線で、いざこざがあった程度のものを誇張したオオボラ。

31人間七七四年:2012/02/09(木) 00:37:58.38 ID:oetXwm93
アスペルガーだがってどんな人?
その名の通り、アスペルガー症候群に見られる、頑固・執拗・妄想の激しい人物です。
武田信玄を信奉していて信玄なら天下を取れたと信じ込んでいます。一方で織田信長が大嫌い、徹底的にこき下ろしています。
ちょっとでも武田を叩いたり信長を持ち上げたりする書き込みは絶対に許さないのがだがの信条。
だがは織田厨という人物を目の敵にしています。織田厨は一人しかおらず、武田を叩いたり信長を持ち上げるのは 全て一人の織田厨によるもの と信じ込んでいます。
もちろんあなたも武田を叩いたり信長を持ち上げたりする書き込みをすれば、だがから織田厨の認定を授けてもらえます。
こんなにたくさんの書き込み、一人で書き込むなんて物理的に無理だし、互いに異なる意見をかわしあっているのに同一人物による書き込みとするのは辻褄が合わないのでは…?そんな常識はだがには通用しません。全部織田厨の自演だそうです。
一応社会人のようです。
忙しい合間をぬって織田厨叩きの活動を続けています。大変な執念の持ち主です。


アスペルガーだがはどこに現れるの?
巨大掲示板2chの織田信長、武田信玄に関連するスレに出没します。
板は問いません。主な出没板は戦国板・歴史ゲーム板・日本史板ですが、他にも世界史板や歴史難民板、漫画板など あらゆる板の織田武田関連の話題のあるスレに出没します。
そしてそれらのスレでの都合の悪い書き込みは全て一人の織田厨によるものと思い込んでいます。


アスペルガーだがの書き込みの特徴は?
織田厨と見られる書き込みに対して、全てに反論レスします。律儀にレスアンカー付きで。
例え何ヶ月も前の書き込みであろうと、掘り起こしてレスします。亀レスなどまったく気にしません。
口調はいつも上から目線。とても偉そうな態度で書き込みます。
だがの名前の由来は、「〜だが。」で終わる自己顕示欲の激しい文章を書くことが多いから。
暴言雑言当たり前です。モラルやマナーというものは持ち合わせていません。
強迫性障害と見られ、 レスしなかったら負け と考えています。
まともな議論の時でも、苦しくなると揚げ足取りや知能障害を起こして有耶無耶にしようとします。
別の話題の時でも、「信長はもっと負けてるけどな」などと無理矢理信長の話題に逸らそうとします。そして信長の話になればお決まりの織田厨認定が待っています。
苦しくなると無理な要求を突きつけて自論を正当化しようとするのもだがの常套手段。「武田が負けたって?具体的に武田が負けたと書かれている資料を出せ」etc.


アスペルガーだがはどこに住んでるの?
神奈川県
でも地元の北条は嫌い。
.
32人間七七四年:2012/02/09(木) 00:39:58.70 ID:oetXwm93
だが、炊事も洗濯も掃除も全部自分でやっていると豪語するも「得意料理は個人情報なので言えません!」
※補注:この日のだが=ID:ClETCkoO


464 名前:名無し曰く、 投稿日:2010/09/10(金) 23:09:49 ID:ClETCkoO
462
目をくれまくって余暇で遊んでやってんだよ、かんしゃしろやゴミニートがww
炊事も洗濯も掃除も全部自分でやって自活してますからw
ゴミニートにはできない芸当だろうがなwww



489 名前:名無し曰く、 投稿日:2010/09/10(金) 23:41:52 ID:FQF1lf74
しかし
炊事も洗濯も掃除も全部自分でやって自活してますからw
とは大きく出たな〜。
それじゃまずは得意料理から聞かせてもらおうか。
プライバシーには関わらんから言えるだろ?w



490 名前:名無し曰く、 投稿日:2010/09/10(金) 23:43:05 ID:ClETCkoO
489
もろにプライバシーじゃねえかよww
誰がいうかぼけw



494 名前:名無し曰く、 投稿日:2010/09/10(金) 23:44:54 ID:FQF1lf74
得意料理言っただけで個人が特定できるわけねえだろw
ま〜た炊事洗濯やってるって嘘ですか〜?w



497 名前:名無し曰く、 投稿日:2010/09/10(金) 23:47:08 ID:ClETCkoO
494
それいったら大学名でも〜とかいろいろ言えちゃうんだしw
個人の情報になる事は可能な限りあかさないんでなwww
せいぜい妄想設定に逃げ込むんだなニートがww



501 名前:名無し曰く、 投稿日:2010/09/10(金) 23:51:23 ID:FQF1lf74
大学名と得意料理なんぞまるで別モンだろが。履歴書に得意料理とか書く欄でもあんのかよw


ちなみに俺は今日貝柱とアスパラガスのホイル焼きを作って食ったわ。
バターと酒で下ごしらえしてな、ポン酢で食うのが美味いんだよ。
お前はどんな料理作れんだよ?言ってみろよ。



504 名前:名無し曰く、 投稿日:2010/09/10(金) 23:53:46 ID:ClETCkoO
501
さあな〜w
いつもどおり妄想設定に逃げ込むんだなw
俺は個人情報あかすのは可能な限りさける方針でなw
馬鹿が妄想設定に逃げ込むのを見るのも楽しいしw
33人間七七四年:2012/02/09(木) 00:50:09.44 ID:V6eR8eQe
俺の得意料理は鮭のバター炒めだ!

さぁ俺を特定してみろだがさんよぉ!
34人間七七四年:2012/02/09(木) 00:50:46.94 ID:6InGu93O
だがの真実とやらを真実とすると
そっから逆転し滅ぼした信長はヤバすぎるな
35人間七七四年:2012/02/09(木) 07:07:16.31 ID:ScEw1e7a
>>17
一次史料は?
高野山攻めは10月中旬以降に開始されてる。
公記ですら信雄を総大将に9月中に伊賀が平定され、
10月に伊賀を見聞にやってきた信長が信雄に会ったりして伊賀から安土に帰ったのは13日。
信孝は一切記録されてない大空白が続くし、
信孝の支配領地は記録が無くて実はよく分かってないのが現実。
ちなみに信雄も実際には直轄地をほとんど持ってない可能性が高く、
越前の一向宗攻めで他国衆に命令していて
伊勢衆は滝川らが命令発給しており、
信孝も他国衆や丹波衆に命令発給していたりする。
36人間七七四年:2012/02/09(木) 09:12:38.01 ID:JrLT4zXT
織田厨がまた負けてるのか
あいかわらず負けると誹謗中傷しかできないでだが連呼で心をおちつかせるw
37人間七七四年:2012/02/09(木) 10:01:05.97 ID:xmxdRIKL
※論破され敗北すると悔し紛れに織田厨は〜と言い出すのがだがの特徴です
38人間七七四年:2012/02/09(木) 10:20:51.92 ID:JrLT4zXT
泣いているのか?織田厨
39人間七七四年:2012/02/09(木) 12:14:11.32 ID:KbCkeYuM
>>38
相変わらずの痛さだなw
精神科医として一言言わせてもらうけれどマジで精神科受診してくれw
絶対に入院勧められるぞww
40人間七七四年:2012/02/09(木) 12:26:43.42 ID:76/hipK8
入院したら治るの?
41人間七七四年:2012/02/09(木) 12:28:27.55 ID:BrL4l8Ly
>>39
こっちにもツンボのキチガイがいるけど
そいつも入院した方がいいの?

軽・中度感音性難聴者のスレ18
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/handicap/1326118750/
42人間七七四年:2012/02/09(木) 14:44:07.52 ID:OfrVaN0+
信長公記の捏造まとめ

・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森の長沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述

多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
・高遠城攻防戦での織田信家戦死を隠蔽
43人間七七四年:2012/02/09(木) 14:48:14.26 ID:OfrVaN0+
もし高野山が織田に制圧されてたなら虐殺の記録があるだろうしな
大体どこでも虐殺ばっかなんだから
44人間七七四年:2012/02/09(木) 16:02:58.66 ID:xmxdRIKL
一次史料は?と聞くと織田厨がどうのと喚くorコピペを張り顔真っ赤になり逃げ回るのがだが
自分以外スレタイに沿ったレスしてないのによくまあ一人カタカタパソコン打てるもんだw
45人間七七四年:2012/02/09(木) 16:06:07.60 ID:arJVy9y5
まあ途中で飽きて放置するだろうね
他にもそういうスレいっぱいあるし
46人間七七四年:2012/02/09(木) 19:02:05.58 ID:SewYKAeC
北条降伏ワロタw
公記は三次史料以下だわw
腹かかえてワロタw
47人間七七四年:2012/02/09(木) 19:31:58.05 ID:HXIU1Rh3
信長公記は北条記や陰徳太平記以下
48人間七七四年:2012/02/09(木) 19:40:43.71 ID:vyaCRTAw
否定できるソースがあるならそれでいいんじゃね
んでもう終わり?早いな
49人間七七四年:2012/02/09(木) 19:53:12.62 ID:iXHNFBup
>>41
そこ見たがマジキチだな
耳だけでなく頭の方もどんどんおかしくなって行くらしい
このスレのキチなど可愛いもんさ
50人間七七四年:2012/02/09(木) 19:57:39.64 ID:e6hyZtGC
織田厨の必死の抵抗むなしく捏造が今日も暴かれていく・・・
51人間七七四年:2012/02/09(木) 21:36:39.58 ID:arJVy9y5
>>50
なんでもいいけど、他のスレの住人にまで迷惑かけるのはやめろよ?
52人間七七四年:2012/02/09(木) 21:43:28.82 ID:TSl3YEOu
お前が言うな
53人間七七四年:2012/02/09(木) 22:05:22.93 ID:arJVy9y5
>>52
誰に言ってるの?
54人間七七四年:2012/02/09(木) 22:05:28.94 ID:vyaCRTAw
>>50
お前マジで精神病なんだな…
55人間七七四年:2012/02/09(木) 23:00:06.15 ID:oetXwm93
>>35
朝っぱらからレスぶちこんどいてソースなしかよw

おまえの言が真実なら、織田軍による高野山攻めは信長の自害とともに中断したという未完で終わり、
そしてその高野山攻めは天正九年から開始されている、とある。

ところがそれにも関わらず総大将である織田信孝は天正十年に高野山攻めを 放 棄 す る 形で四国征伐の軍を編成、
堀秀政も高野山攻めを無視して勝手に帰還、中国征伐に赴く秀吉について行動しているような状況で、
高野山を一向に落とせず苦戦しているのに、それを全く無視するかのような両者の挙動はどう説明するの?

まずはそこだよね?
56人間七七四年:2012/02/09(木) 23:01:08.86 ID:oetXwm93
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽

長家家譜の成立年代は江戸時代、畠山義慶の存在を混同するようなお察し史料
北徴遺文、謙信書状は全て歴代古案によるもの、もちろんこちらも江戸時代のもの

・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き

→和議においても足利義昭は一貫して織田信長を支持。わざわざ御内書まで出して和議に奔走している。
 領土を一寸たりとも失っていない織田信長が追い込んでる敵を相手に和議をする理由は皆無、ゼロ。

 義昭主導による和議であったとする公記の記述に誤りゼロ。
 当時10歳であったホラ吹き大久保の嘘八百を真に受けた情弱による解釈

・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実

→兵糧を運び入れただけで兵に対する記述なし
 そして本願寺はここからわずか2年足らずで降伏、石山退去

・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
 山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように

→信長が高野山にいるわけもない。三七信孝、堀秀政は天正十年ではいずれも別戦線。
 堀の場合天正九年も別戦線で、いざこざがあった程度のものを誇張したオオボラ。

57人間七七四年:2012/02/10(金) 00:58:04.78 ID:R4J4UD8+
高野山攻めに関して高野山の言ってること信じたら、
織田軍13万7000 対 高野山方3万6000
という、とんでもない戦いがあったことになる訳だがw
本能寺の変から100年以上後にできた高野春秋とかよく信じられるよなww
58人間七七四年:2012/02/10(金) 13:20:39.14 ID:dd3cu5ZQ
二見文書とか読むと天正10年2月には織田軍は高野山から撃退されてる為か
大和国で苦戦して紀伊国から叩き出されてるっぽいけどな。
一次史料を見る限り堀も伊賀攻めに参加してるようには思えないし、
公記では信長が伊賀平定後に、伊賀に視察に行って信雄に会ったと書いてるが、
一次史料では行ってない。
かわりに伊勢に1〜2日くらいやってきて誰とも会談せずあらき宮に来てすぐ帰ってる。
59人間七七四年:2012/02/10(金) 13:34:49.96 ID:RHTIrAKN
一次史料で高野山を攻めたとはっきり書かれてるのは松山新介くらいだろ。
堀が伊賀攻めにいたかどうかというのはまた別の問題だが、
少なくとも天正十年で中国方面に派遣されている時点で彼による高野山攻めはなかったと言っていい。

あと高野山自体に紀伊全体を治める地盤はない。あくまで大和方面から高野山を攻めた連中が苦戦した程度のもの。
60人間七七四年:2012/02/10(金) 13:38:04.67 ID:dd3cu5ZQ
それに公記が荒木残党を匿った高野山が悪いと書いているが、
一次史料を見る限り、佐久間信盛が死んで遺品を高野山が預かっていたが、
信長がそれを強制没収しようとしてトラブって、
高野山攻めの陣ぶれが天正9年8/23付けでだされるとしていて、
実際にその日付に細川幽斎が南方への出陣に触れた信長書状があるし、
細川は伊賀攻めには参加してないから高野山攻めだろうね。
61人間七七四年:2012/02/10(金) 14:16:49.25 ID:RHTIrAKN
通達しただけで藤孝が行ったとは書かれてないはずだが・・・
そもそも時期的に細川は鳥取城の秀吉支援している頃だろ
62人間七七四年:2012/02/10(金) 14:21:59.60 ID:ek3aLvrx
武田攻めの為に兵力抽出してしまったのが原因なのか、
武田攻め初日にあたる2/14には高野山包囲網の東の城と呼ばれる大和国多和城に、
高野山側が大反撃を加えて織田側の三好らを討ち取って大損害を与えてる。
これで織田軍の高野山攻めは完全に停滞してしまったと思われるね。
堀が秀吉の元へ行ったとする一次史料は誰から誰に宛てた何日日付のものなの?
63人間七七四年:2012/02/10(金) 15:07:06.77 ID:C4k4m9Zv
武田攻めに兵力抽出されたと
解釈するのは信長公記2/9の
(和泉と河内と大和南部の兵力は高野山に備えて残れ)話に流され過ぎかな。
大和衆が5日出陣の信長に従う為、
上洛に向けて出発したのは、
3/3早朝だから、
まだ大和にいて兵力抽出されてない。
しかも突然信長出陣日が決まったから
同陣することになった近衛も
出陣準備に以っての他に取り乱してる。
64人間七七四年:2012/02/10(金) 17:06:03.87 ID:RHTIrAKN
>>62
公記で普通に御使として使わされてるし山崎にもいるんだが・・・
逆に堀が高野山攻めにいったとする書状は何?

また信孝の名前がないからここにいたんだとする理由も不自然。
たまたま軍役を使わされなかっただけということだって全然ありうるし、
そもそも高野山すら攻め落とせない人間に四国征伐なぞつとまるわけがない。
65人間七七四年:2012/02/10(金) 18:22:37.14 ID:fU3YwMlZ
信長公記が2次資料だとすると義元の馬回り衆云々…とかいうのも嘘になるの?
まさか義元はある日余りにデブ過ぎて陣中で発狂して死んだのが真実とか?

そりゃかつての主君信長を多少マンセーするのは当たり前だろ。

てか徳川はもっとひどいだろ Orz
66人間七七四年:2012/02/10(金) 18:38:47.97 ID:2tU4c4RY
信長は大河内城2ヶ月大包囲で
将来の織田での出世を期待された池田衆のお馬回役朝日孫八郎・波多野弥三郎
丹羽衆の近松豊前守・神戸伯耆守・神戸市介・山田大兵衛・寺沢弥九郎・溝口富助・鈴木主馬允ら
高級幹部20人以上が討ち死に。氏家軍に夜襲をかけたり、信長本陣に肉薄突撃したり
藤堂高虎の兄も大河内城で討ち死に及んで信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
(大河内城の北東の守りを固める阿坂城1万5000包囲では秀吉が左股に矢を受ける大苦戦で
落城させたのは浅井長政が援軍に出していた配下の遠藤喜右衛門の調略によるもの)
信長の危機を知った義昭が北畠との和睦を斡旋し(古簡雑簒)
信雄を人質に取ったことで和睦を拒否ってた水谷刑部少輔が織田との和睦にやっと同意。
追撃されないよう信雄を人質として差し出して京へ帰る他に手が無かった。
伊勢新宮を支配する田丸城って言う北畠三御所の一つで信雄がここに入城するようになってから
織田による北畠支配が本格的にスタートしたのであり、現時点の織田には北畠支配などできてない。

六角重臣達と対立する六角義治に対抗して六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ

やっぱり柴田、蜂屋、森、坂井の4将のうち2人まで朝倉に討ち取られてるから
かなりの戦力ガタ落ちになってんだろうな。
信長公記の著者の太田が書いた太閤記や高麗陣日記や関が原軍記が
デタラメ過ぎて、誰も引用しないシロモノなのに
信長公記だけは絶対に正しいと主張する方が頭が悪い。

元亀4年1月に入ると本願寺が遠三尾濃の一揆の蜂起を命じ
(天正2年8/5の幽斎宛て信長書状にも尾・勢之中一揆を尋ね出して悉く楯切り(思いっきり)しろと命じてる)
岡崎にある勝鬘寺が蜂起予定だし、伊勢長島門徒も岐阜城付近に要害を建設した。
2/17に信玄が野田から撤収したと23日付けで幽斎に信長は言ってるが、
3/6には信玄が秋山に東美濃に織田が攻めてきたから追い払えと命じてる。
(ちなみにこの後に信長の子の御坊主丸を甲府に送ったとされる)
その後も岩村は武田方なので、織田軍はまた岐阜へ敗走したんだろうねw
3/7に義昭が信長の人質を突っ返して断交してるし
京都の大山崎にある山城離宮八幡宮は、信玄の上洛は確実とみて
さっそく諸役免除と禁制発給をお願いしてるし(26日に諸役免除を認めてる)
67人間七七四年:2012/02/10(金) 18:40:00.06 ID:2tU4c4RY
和田は伊丹が反織田で挙兵しないように説得していたんだし、細川と和田は協調して親織田だと見るべきだ。
ちなみに伊丹氏は天正2年4月の本願寺挙兵にも同調して、一向宗の力を借りて7月下旬に伊丹城を奪取し挙兵。
7/20に石山本願寺の中島砦攻撃で荒木軍の大半が戦死し
7/29には伊勢長島攻撃の戦地の信長が本願寺包囲に参加していた光秀に
奪取したばかりで兵糧が乏しい伊丹城は本願寺と連携してるから
即降伏は難しいので遠巻きするかどうかはお前の判断次第と言ってる。
8/3には河内若江城へ遊佐信教・三好康長らが攻めてきたり大和南部でも叛乱が起きまくり。
長島一向衆を大虐殺後は即、大和へ織田軍は進軍。ついで11/15に伊丹氏滅亡。
俺が言ったのはロクに準備なく、丹波攻め人選もいい加減だということ。
丹波国守護代内藤氏や宇津頼重が義昭に付いて、いまだに帰順しないからと言うことで
6/7川勝継氏 6/17小畠左馬助らに内藤らに味方したら成敗するから織田に付いて馳走しろ。
こんな乱暴な命令の書状を出しただけで放置だろ。
とうの信長は本願寺包囲をしつつ、光秀や秀吉などを引き連れて
越前で撫で斬り大虐殺大会に出かけてるだけだし。
9/26に越前虐殺大会から帰ると、万単位の虐殺に大満足してるようで高揚してるのか
思い出したように10/1に赤井直正を討つから光秀派遣したから片岡藤五郎は協力しろ。
そして天正4年1/15に光秀が赤井と波多野に大敗した報が入り、
1/28には石山本願寺に織田軍が敗れる報がやってくる。
ここら辺りの信長公記は安土城建設開始とか書いて完全に隠蔽してる。
さすがに本願寺攻めに失敗し5月の原田(塙)戦死するところは隠蔽できず書いてるが
(つか、書かないと大幅に白紙日程になるのを誤魔化しきれない)
それですら一次史料にはない信長の5/7天王寺突撃大勝利話を持ち出して信長マンセーに摺り変えてる。
5/11勧修寺晴豊らが戦勝祝賀の勅使として摂津国へ下向するやウソ戦果と捏造戦況がバレて
相当な危機感を持った朝廷で12日夜からさっそく朝廷で右大将出陣御祈祷が一週間に渡り開始される始末。
しかもその後におきる木津川口の敗戦も公記得意の信長が後詰めしようとしたが
間に合わなかったと言う岩村城援軍や明智城援軍や高天神城援軍などでも使われた決戦から逃亡正当化の常套文句。
さらに安土城建築の模様を再び書いたりと誤魔化してるが、このあたりから再び、信長は苦境に入り込んでる。
織田軍は伊勢・越前・大和・摂津・和泉・河内で
石山本願寺・三好康長・遊佐信教・一向宗と相変わらず戦い続けてる。
しかも荒木軍が石山本願寺側の中島砦で大半の者が討たれた際の信長は
本願寺を撫で切りできれば、どんだけ被害を受けても構わないなどと書いてるように
軍役をかけてる下々の負担を一切かえりみないアスペ暴君ぶりを発揮。
これでは荒木や松永らが信長に謀反するのも仕方が無いことだ。
多聞院日記3/11でも信長の攻撃で摂津と河内の田地が過分損亡と嘆いている。
天王寺の戦いでの信長の突撃は信長公記にしか登場しない捏造で一次史料や日記など史料的裏付けがありません。
たとえ史実であったとしても信長は最低でも
佐久間信盛・松永久秀・細川藤孝
滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉
丹羽長秀・稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就・馬廻衆の合計3000以上は率いているし
信長に呼応して挟撃してきたのが荒木村重・細川藤孝・明智光秀・三好康長
根来衆・和泉衆・大和衆・山城衆
佐久間信栄・猪子兵介・大津伝十郎・江州衆らだから明らかに織田方は大兵力のはず
68人間七七四年:2012/02/10(金) 18:54:57.11 ID:2tU4c4RY
公記には天文21年(1552年)に桶狭間の戦いがあったと書いている事実w
このため桶狭間の戦い虚構捏造説の根拠にされるw(信秀死去は天文20年もしくは天文21年とされる)

天正9年11/24に信長の子の御坊殿が武田から返却されてきたので犬山城主にしたと
公記には書いてある。そこには信玄が養子にしたいと言うから甲斐へ送っていたと書かれている。
しかし実際は岩村城の養子に信長がねじ込んだ末に、武田軍に大敗して拉致られただけ。
完全に歪曲捏造しまくりなのが公記。
69人間七七四年:2012/02/10(金) 19:10:08.33 ID:2tU4c4RY
第二次木津川口の戦い自体は兵糧搬入成功している以上勝利だからね
毛利側にも本願寺側にも証拠がある

毛利家文書834 小早川隆景書状写
「去六日至木津諸警固乗入、大坂衆申談候、
敵船雖罷出候、舟軍等勿論此方得勝利候」

毛利家文書832 下間頼廉書状写
「諸警固一昨日六日木津浦御着岸候、当寺大慶此事候」

「兵粮両度被入 信長公より九鬼大隅守に被命以大船 川口被塞 雖然打破り 兵粮を入る」
毛利家日記より

討ち取られた武将もいない

野田福島の戦いでは京へ撤退しようとする信長
江口川は水量が多く、水勢もすさまじいものがあり
船でしか渡れない場所なのに、信長は徒歩で渡れる始末。
しかも翌日からはまた徒歩でわたれなくなり
地元民が奇跡だと言い合う。これにより三好軍と本願寺からの
追撃を免れたなどとバカな妄想を書く公記。
他にも道三が討死した報を聞き退却しようとした織田軍であったが
義龍の軍勢が追撃しようとしたところを、
信長が鉄砲を撃っただけで、信長公の勢いに飲まれて追撃する気がなくなるなど
くだらん話が散見されるのが妄想軍記信長公記のウケを狙ったガチなギャグである。
70人間七七四年:2012/02/10(金) 19:28:12.30 ID:t6YU8J3I
すげー 織田厨が木っ端微塵に肉片と化したw
71人間七七四年:2012/02/10(金) 19:49:04.64 ID:k2mui/Yt
ここまで何一つ一次史料無しの妄想長文
暇そうで羨ましい
72人間七七四年:2012/02/10(金) 19:52:53.44 ID:t6YU8J3I
>>6
すげー陳腐な長文乙w
肉片織田厨くん
73人間七七四年:2012/02/10(金) 19:56:15.48 ID:9n58Yd3S
だがの捏造自作自演を観察するスレ
74人間七七四年:2012/02/10(金) 19:58:05.55 ID:t6YU8J3I
まーただが連呼の精神病が発病か
75人間七七四年:2012/02/10(金) 20:10:29.04 ID:YhtStgju
「それだけやったのにみんな負けたの?w」と、逆効果になっているだけのようなwww
76人間七七四年:2012/02/10(金) 20:13:08.43 ID:t6YU8J3I
落ちるとこまで落ちて言い返せないか
77人間七七四年:2012/02/10(金) 20:35:46.05 ID:RHTIrAKN
困ったら自演とコピペ長文はやめろよなw
しかも正しいんならまだしも大嘘ときている

将来での織田での出世を約束された幹部候補が、なぜか丹羽池田の下についてたり、

「将来の織田での出世を期待された池田衆のお馬回役朝日孫八郎・波多野弥三郎〜」

挙句もともと武田に帰属していた遠山が織田に浮気しただけで、なぜか信濃にほど近いところまで信長が直々に軍を出さざるを得ないとか言い出すw

その他の記述も恣意的妄想の塊でまだ民主党のマニフェストの方が信用性あるくらいのもの
78人間七七四年:2012/02/10(金) 20:42:37.65 ID:CQkNKVEP
だが敗れる

だが別スレに行って自演

そこでも論破される

自ら新スレを立てて籠城   ←今ここ
79人間七七四年:2012/02/10(金) 20:50:34.99 ID:p6KAiW81
高野山はまだしも野田福島の陣や滋賀の陣が信長の負けじゃないとかアホすぎる
本願寺も石山を退去しただけで最後まで負けなかったと言ってるのと何も変わらん
80人間七七四年:2012/02/10(金) 20:54:06.70 ID:CQkNKVEP
>>79
志賀の陣で信長がどっかから退去したんですか???
81人間七七四年:2012/02/11(土) 00:00:43.41 ID:D1PzB4Kz
志賀の陣で信長の敗北とみる人間はホラ吹き大久保の術中に見事ハマってる
そもそもあの戦いは遠征中に火事場泥棒しようとした浅井朝倉によるもので、
信長からすれば京、南近江、宇佐山などが防衛できてればそれで勝ち
82人間七七四年:2012/02/11(土) 01:59:58.88 ID:S40fWg5d
滋賀の陣が織田勝利だとよ

またとんでもない説が出たもんだ
そのうち本能寺の変も織田勝利になっちまいそうだな
83人間七七四年:2012/02/11(土) 06:39:17.80 ID:tFxdU5L7
志賀の陣における信長公記は
なんと朝廷から和睦の勅使で
関白が比叡山と朝倉を説得するために下向したことを完全に隠蔽。
朝廷がまとめた人質交換して撤退の話のみ書く始末…
84人間七七四年:2012/02/11(土) 07:47:07.06 ID:hs1I9KqM
◎信長公記

・堂々とか公記の記述の撤退の時に砦取り返されて本当は2回あったのに書いてない
・大した戦果のない姉川が大勝になってる。
・長篠の戦果が十倍以上過大になってる。
・道三との会見では、織田家臣である太田が、信長が織田家臣を連れて帰った後の道三の
「いずれ息子たちは信長の家臣となるだろう」という呟きをなぜか知って書いてる
・河野島の流れとか書いてない
・大良河原では追撃軍に信長が仁王立ちになって鉄砲撃ったら敵が追撃やめた
・稲生では信長が大声あげたら敵が敗走したり、信長が京に上った時に刺客のいる宿に乗り込んで
「殺せるものなら殺してみろ!」と啖呵切って刺客が恐れ入ったりかなり信長万歳な記事が多い

記録ではなく名前通り軍記
85人間七七四年:2012/02/11(土) 08:03:46.22 ID:zXui/DVD
軍記なんてどこの家でもそんなものじゃないの
だからって全部間違ってるわけないし否定できるソースがあるなら否定できるがないなら否定できんわな
86人間七七四年:2012/02/11(土) 09:18:53.60 ID:86UsIwIv
「改ざん」したり「創作を挟んだ」のではなく、「書いてない」ことを捏造というのなら、すべての史料は捏造だなw
87人間七七四年:2012/02/11(土) 12:23:50.60 ID:fMy8nt46
書いてない事を理由にその出来事がなかったという見方をする人がいるから
指摘されているだけだろう
88人間七七四年:2012/02/11(土) 12:31:20.31 ID:0p7mkq1X
そりゃあ書いてなかったらそうなるわな。
89人間七七四年:2012/02/11(土) 12:59:15.28 ID:86UsIwIv
「書いてない」から「無かった」というのは論じる人の問題であって、史料の捏造とは別問題。
捏造派はこれも含めてるからおかしな話になるんだよなぁ。
90人間七七四年:2012/02/11(土) 15:14:16.03 ID:zXui/DVD

                ハ        _
    ___         ‖ヾ     ハ
  /     ヽ      ‖::::|l    ‖:||.
 / 聞 え  |     ||:::::::||    ||:::||
 |  こ ?  |     |{:::::‖.  . .||:::||
 |  え      |     _」ゝ/'--―- 、|{::ノ!
 |  な 何   |  /   __      `'〈
 |  い ?   ! /´   /´ ●    __  ヽ
 ヽ      / /     ゝ....ノ   /´●   i
  ` ー―< {           ゝ- ′ |
        厶-―    r  l>        |
      ∠ヽ ゝ-―     `r-ト、_,)      |
      レ^ヾ ヽ>' ̄     LL/  、   /
      .l   ヾ:ヽ ` 、_      \\ '
     l    ヾ:ヽ   ト`ー-r-;;y‐T^
      |    ヾ `ニニ「〈〉フ /‖. j
91人間七七四年:2012/02/11(土) 15:26:27.30 ID:Pbd/h/yO
>>66みたいに六角義秀を実在としている人が信長公記を捏造呼ばわりとは・・・
92人間七七四年:2012/02/11(土) 15:29:38.39 ID:0p7mkq1X
>>91
そういうとこだけは都合よく持ち出すからなw
奴の思考回路はわけわからん
93人間七七四年:2012/02/11(土) 16:40:34.33 ID:D1PzB4Kz
>>82
戦略目標が達せられている方が一般的に勝ちなんだからどう見ても織田の勝ちだろ。
浅井朝倉は軍を持ち出して比叡山に籠っただけで結果的に何も達成できていない。
当時10歳の大久保が捏造した「天下は朝倉殿が」に騙されているだけ。


そもそも天下の棟梁として足利義昭をかつぎだしている織田信長が勝手に
「今日から天下は朝倉のもん」なんて言い出したら周りがブチギレてついていかなくなるのがオチ。

そんな簡単なことすらわからずにあることないこと書き連ねたのが大久保
誤魔化すようにその後徳川身内の武功話でお茶を濁す有様w
94人間七七四年:2012/02/11(土) 19:17:00.84 ID:So5u+9gj
志賀の陣は軍事的にはまあ引き分け、外交的には織田の勝ち。
95人間七七四年:2012/02/12(日) 00:41:19.48 ID:/zhy9JaG
まあだがは上田原を武田の勝利とか言っている奴だからなあ
例えばノモンハンではソ連軍の方が日本軍より損害多かったけど
だからといって日本軍の勝利とは言わないだろ?
ソ連軍が目的を達成できたが日本軍は出来なかったんだから
まあだがにしてみればノモンハンは日本軍が勝ったとか言いそうではあるが
96人間七七四年:2012/02/12(日) 00:47:18.23 ID:Osrroxt8
>>95
そんな生ぬるいレベルじゃないw

395 :人間七七四年[sage]:2011/12/15(木) 17:37:07.28 ID:dRX6uR2j
桶狭間の戦い直後から翌年にかけて
今川が家臣にかなり感状を出してる。
あきらかに桶狭間の戦いは今川の勝利。
織田はまったく感状を出していない。
義元が病かなにかで死去して撤退しただけ。
97人間七七四年:2012/02/12(日) 06:15:32.98 ID:QJxhPWlz
ここまで来ると凄いなw
太平洋戦争も天皇制を維持しただけ日本は単にアメリカと和平交渉を
しただけだ,とも言いそうw
98人間七七四年:2012/02/12(日) 07:36:02.64 ID:1MKMgnvN
もっとひどい
だがによると賤ヶ岳の戦いは上杉と毛利の代理戦争だと思っている。
110 : 人間七七四年 : 2011/07/12(火) 23:26:16.32 ID:B6lKj8HJ
>>101
信長が死んだだけで数倍の織田軍の侵攻を完全に頓挫させた景勝すげー
輝元すげー元親すげー信長厨頭わりー

112 : 人間七七四年 : 2011/07/13(水) 20:55:52.55 ID:KzHE7mg5
>>110
信長は朝倉義景・浅井長政 久政・三好義継・岩成友通を討ち死にまたは自害。
六角義治・足利義昭・三好長逸・三好政康が追放または行方不明。
もうしばらくしたら願証寺は壊滅三好康長は降伏。

で侵攻していた織田配下の軍団長は何人討ち死にした、何人行方不明になった、
何人降伏した。比べるんだから信長がやった並に出たんだろうね。
日本史における新説なので誰がどうなったのか詳しく教えてくれないか。

114 : 人間七七四年 : 2011/07/13(水) 21:59:06.45 ID:6AMBV+7I
>>112
明智光秀が討死した、柴田勝家も自害に追い込まれた
滝川一益は凹られて追放され、金森も死んだ、佐々成政も打ち破られて追放され
羽柴秀吉も追放された。大身だけでもこの有様

118 : 人間七七四年 : 2011/07/14(木) 22:50:40.31 ID:050Q6geU
>>114
ほうそれは結構。
じぁあその軍団長たちがやられた直前の戦いの名前とやった大名の名前を答えてくれ。
当然やった大名は>>110でお前が言っている上杉・長宗我部・毛利の中からしか選べんぞ。
それとついでに出展も頼むな。

まともに調べるとお前の言った>>114の連中は織田内部の内輪もめでやられただけだからな。
日本史上の新説を期待してるぞ。
119 : 人間七七四年 : 2011/07/14(木) 23:04:58.96 ID:SvlO4iBu
>>118
信長が死んで瞬く間に織田家は滅亡したのに内輪揉めも何も無いよね

羽柴も柴田も毛利や上杉の軍勢の前に屈服を余儀なくされ、明智は味方に裏切られ敗死
滝川は敵に散々に打ち破られ、金森に至っては敵と戦って敗死した
99人間七七四年:2012/02/12(日) 11:24:55.94 ID:bo6mvrkF
うわあ…
じゃあ武田と徳川は滅亡しなかった徳川の勝ちか?
100人間七七四年:2012/02/12(日) 11:53:24.40 ID:pBmvJOGp
薩長に滅ぼされたから関が原は西軍の勝だな
101人間七七四年:2012/02/12(日) 16:21:59.45 ID:MbLadVKE
元亀3年10/5の朝倉景亮書状

先日以◯◯◯◯ 入候之処、御懇之御報、
殊御一書披見本望候、其已後重而可申入之処ニ、
延引非本意ニ候、仍其表如何ニ御座候哉、承度候、乍御六借敷、南方辺之儀、示預候者、
畏可存候、委細林権介可申候之条、不能詳候、恐々謹言

蒲生下野入道殿御陣所
102人間七七四年:2012/02/12(日) 17:30:02.76 ID:MbLadVKE
天正2年正月の公記
朝倉義景や浅井長政らのキンピカ骸骨を酒の肴に宴会した。

史実の信長は?
義昭→六角義賢書状
信長が帰ってきて下さいとか頼んできたけど拒否ってやったわw

そして越前が一向宗に奪われ、
勝頼に岩村城を奪われ
織田の攻勢期は半年持たず…
さらに公記4月に石山本願寺再挙兵につづいて、
石部城を雨に紛れて夜に六角義賢が逃れたと書いてるが、
義賢書状では、
信楽表で大勝利し感状まで出してる。
103人間七七四年:2012/02/12(日) 17:31:55.95 ID:MbLadVKE
訂正
岩村城から出撃し明智城を落城させた。
104人間七七四年:2012/02/12(日) 17:53:40.52 ID:pUG9QtkD
石部と信楽の位置関係くらい知っとけ
105人間七七四年:2012/02/12(日) 18:03:41.75 ID:Rwc1jGiw
続いて高天神城も勝頼に落とされてるね。
106人間七七四年:2012/02/12(日) 18:18:34.31 ID:RPapf7na
ただの太田の年数の読み間違えだろ。

で浅井朝倉はまさか江戸幕府まで生き残ったのか? ああん?
107人間七七四年:2012/02/12(日) 19:11:47.45 ID:sH3PWD7b
>>101
だがよ、それでは朝倉の勧誘工作が熱心だったというだけで
蒲生が寝返ったというソースにはならんぞ・・・
しかも第一線で活躍していた賢秀ではなく隠居寸前の定秀に送ってる時点で、
もうかなり苦しい対応だろ。
108人間七七四年:2012/02/12(日) 20:59:22.93 ID:Rwc1jGiw
蒲生賢秀の娘2人の旦那の
関盛信と神戸具盛は
信長によって幽閉されていたから怒ってたんだろうな。
109人間七七四年:2012/02/12(日) 21:53:04.11 ID:sH3PWD7b
不憫に思って助けたのが賢秀だろ。
大体蒲生は六角侵攻の時に素早く織田に鞍替えるような人間で、
しかも息子の氏郷は信長に重用されているような状態だぞ。

ましてや元亀三年なんて浅井朝倉がジリ貧で織田優勢だったころ、
こんな状況で織田を寝返りしかもジリ貧の朝倉につくというのは、
仮に事実なら時流が読めてないにもほどがあるだろ
110人間七七四年:2012/02/13(月) 06:52:04.12 ID:nZ9GUH/v
蒲生が元亀年間には
織田に仕えていたとするソースは?
111人間七七四年:2012/02/13(月) 15:47:48.91 ID:Brwo6do2
アホかおまえw
112人間七七四年:2012/02/13(月) 19:37:49.12 ID:QKVXOcXr
>>107
>>111

はいはい涙目乙w
113人間七七四年:2012/02/13(月) 20:11:41.28 ID:Brwo6do2
>>112
え、おまえマジで自分が言ったこと理解できてないの?w

おまえが蒲生内応のソースに出したのが元亀三年の奥平貞能宛て山県昌景書状で、ここの
蒲生が織田家から朝倉家に寝返ったという文を根拠に蒲生寝返りを提唱したんだろ?w
それをおまえは自分で>>110で「元亀年間に蒲生が織田に仕えていない」と言いたいかのようなレスをつけて反論。

おまえは自ら挙げた根拠である「蒲生が織田家の朝倉家に対する大敗を受けて朝倉に寝返り」とする根拠(山県書状)を、
>>110のレスで自ら否定したことになるんだけど、その辺わかってるのかな?w
まさか「織田と朝倉の戦争を受けて朝倉に寝返り」なのに「織田と関係のない第三勢力に仕えていた」なんてアホな説を主張したりしないよな?w
114人間七七四年:2012/02/13(月) 20:13:31.39 ID:Brwo6do2
あ、基礎事項だけど元亀って四年までしかないからw
ついでにいうと根拠となる山県書状は元亀三年のものだからw
115人間七七四年:2012/02/13(月) 22:00:59.38 ID:QKVXOcXr
元亀4年=天正元年なのも知らんとかワロタw
つか織田に仕えていた一次史料無いなら
蒲生は中立だったんじゃねーの?
それが朝倉に帰属したいって申し出たから>>101の朝倉側返書なんだろ?
観音寺騒動で負けた六角義治を保護して重臣との間を取り持ち六角の忠臣と言われた蒲生だし、
義昭の上洛にも、甲賀などと並んで尽力してるのが蒲生。
将軍義昭と織田が分解した以上は、
誰が誰に仕えるなんてのはカオスな話だろ。
きっちり一次史料をあげてもらわないとな。
116人間七七四年:2012/02/13(月) 22:03:07.75 ID:QKVXOcXr
なんせ信長の上洛で味方したのが荒木と細川しかいなかったくらい
信長は世間から見限られていたしな
117人間七七四年:2012/02/13(月) 22:08:32.15 ID:TneiZLZ2
そんな奴に滅ぼされた武田は間抜けだな…
118人間七七四年:2012/02/13(月) 22:33:13.57 ID:Brwo6do2
>>115
おいおい本当に大丈夫か?w頭パーになったのか?w
おまえが「蒲生寝返り」の根拠として出した山県昌景書状で
「濃尾勢(織田)が越前勢(朝倉)に敗北した 近江勢は朝倉に同意した」
とあり、織田が朝倉に大敗して近江勢が寝返ったと書かれている。

で、この書状の最後に日野蒲生が朝倉に寝返ったとあり、手紙の内容と合わせて
織田の敗北、武田の躍進を山県が強調している。

つまりわざわざ俺らが探さなくても、蒲生が織田に仕えていたというのは
おまえ自身が出したソースに全部書いてあるんだよwだからマヌケだって言ってんのw
119人間七七四年:2012/02/13(月) 23:30:38.94 ID:+uSZYDLv
だがさん自分の持ち出した書状の内容くらいちゃんと知っとこうや…
120人間七七四年:2012/02/13(月) 23:42:09.48 ID:TLfm7orX
そもそも>>101?のって蒲生の寝返りを示唆するものなの?
仲良くしてくれるとのお報せを一筆まで書いてもらって嬉しいって内容だろ?
その朝倉家臣の寝返りって解釈できんじゃね
こっちから織田に寝返りを打診したら、蒲生がねんごろにしてくれると一筆でまで保障してくれて嬉しい、と
たしかそのあたりで朝倉から織田への離反者がいたよな?
書状を出した人間のその後を知らないからなんともいえないんだが
121人間七七四年:2012/02/14(火) 06:24:08.21 ID:aD8vOyMj
>>118
山県昌景書状の信憑性が無いことをわかっているから、補強できるソースを誰かが探してくれるのを待っているのでは?
122人間七七四年:2012/02/14(火) 06:38:32.09 ID:RRTwUo79
>>121
可能性はあるがかなり苦しい。

そもそも「蒲生が織田から離反した」と明確に書かれているのが山県昌景書状のみ、で
織田から寝返ったことを根拠にソースにしているのにも関わらず、>>115の「蒲生は織田に仕えていない」という根拠を求めようとしたことが誤り。

仮に山県昌景書状が事実であり、蒲生が織田から離反したのが事実であれば>>115での「蒲生が織田に仕えていない」という根拠は崩れ、
仮に>>115の提唱する「蒲生が織田ではなく第三勢力に仕えていた」というのが事実なら、織田から朝倉に寝返ったことを伝えている山県昌景書状は全くのデタラメで、
当然蒲生が織田から朝倉に寝返ったというのも事実無根ということになる。

まああれだ、絶対に両立しない2つの説をだがさんは主張したというわけだ。

123人間七七四年:2012/02/14(火) 06:38:34.93 ID:0AcHdSMl
日付的にも>>101と山県書状は相互に補完し合ってるな。
織田厨が主張する氏郷がすでに信長の娘と婚姻してると主張しながら、
一次史料提出からも逃亡を続けている現状じゃ話にならないな。
124人間七七四年:2012/02/14(火) 06:44:28.91 ID:0AcHdSMl
だいたい織田に仕えてるか、
将軍義昭に仕えてるか
曖昧なままだっただけだし、
六角家臣団も六角氏と義昭上洛派で分裂していたわけで、
明確に織田に仕えていた一次史料が無いなら
中立的様子見だっただけだろ。
125人間七七四年:2012/02/14(火) 06:47:05.92 ID:0AcHdSMl
近江は六角義治と六角義堯で立ち位置が全く違うからな。
126人間七七四年:2012/02/14(火) 08:01:46.52 ID:cso39Fs/
3連投して言い返せないのがそんな悔しいのか…w哀れな奴だな
127人間七七四年:2012/02/14(火) 18:27:23.07 ID:RRTwUo79
とりあえず元亀三年時点での、蒲生氏の拠点日野城がある近江周辺の大名勢力な


織田信長:言うまでもなく織田派。南近江主要街道に位置する拠点を支配。浅井朝倉を虎御前山で防衛。翌年に周辺勢力を滅ぼし躍進。

浅井長政:信長の義弟、反織田派。虎御前山砦以北に押し込められ信長はおろか秀吉すら突破するのが難しい状況。翌年滅亡。

朝倉義景:反織田派。近江に領地はほぼないが、浅井救援のためたびたび近江に出兵。山県昌景書状いわく「蒲生が寝返った」の寝返り先がここ。翌年滅亡。

六角義治:反織田派。義昭上洛の頃に観音寺を追われ南近江の石部城を拠点に反抗を続ける。翌年石部城が落ちて甲斐に逃れる。

六角義堯:反織田派。足利義昭につき甲斐武田や三好らと反信長連合の増強に奔走する。のち上杉や毛利との反信長連合にも奔走。六角義賢から「大本所様」と言われていたらしい。

足利義昭:反織田派。近江に領地はほぼない。信長と対立して周辺勢力と手を組み信長打倒を試みる。が、奔走むなしく翌年に信長に攻められ降伏。京を追われた。


まあ信長以外は悉く反織田派という現状で、蒲生が中立を決め込んだりするのはかなり不自然だよな。
もし「蒲生が中立だった」とするならそれを証明する一次史料が必要。

で、「蒲生が信長以外の第三勢力に仕えていた」とする説だが、見ての通り信長以外は皆反織田派なので
「蒲生が第三勢力から朝倉に寝返った」というのは、山県昌景が奥平貞能に書状で伝えようとした織田の敗北、武田の躍進」に
全く当てはまらず、帰属先が変わっただけで反信長連合の勢力数は何も変わらないという瑣末情報に一変する。
こんなどうでもいい情報を山県が入ったばかりの家臣の激励に使うわけもなく、必然蒲生は織田に仕えていたということになる。

で、もちろん蒲生が寝返り勧誘に応じて朝倉に寝返ったという史料も、それに対して信長が反応したという史料も見当たらず、
結果的に「蒲生は織田に仕えていて、寝返りもなかった」という事実に帰結する。
128人間七七四年:2012/02/14(火) 18:33:39.15 ID:RRTwUo79
おっと失礼、石部城が落ちたのは翌翌年だな
129人間七七四年:2012/02/14(火) 18:38:47.76 ID:RRTwUo79
あと甲斐じゃなくて伊賀か
130人間七七四年:2012/02/14(火) 19:09:09.56 ID:vjybTycZ
あと

>虎御前山砦以北に押し込められ信長はおろか秀吉すら突破するのが難しい状況。

この時は浅井だけでなく浅井・朝倉両軍が兵を出しています。
131人間七七四年:2012/02/15(水) 11:21:23.93 ID:ofDHxfV9
六角義賢から近江の御本所様と敬われた
六角義堯が織田から離反した時期と
蒲生が離反したので朝倉側が返書を出した時期と、
山県書状の時期がほぼ同一期間なんだな。
これは説得力あるな。
そもそも蒲生が義堯に仕えていたとするのが自然な解釈だな。
132人間七七四年:2012/02/15(水) 11:47:25.40 ID:qbzH5BBB
自己擁護【ジコヨウゴ】
自分に対する批判に対し第三者を装って擁護すること。
133人間七七四年:2012/02/15(水) 17:28:53.91 ID:AhVmCmF6
怒った細野藤敦が長野城を奪い取ると
信長は滝川の子を信長の養子にして細野に人質として差し出し味方になってもらった。
この時、関一族の関盛信は信長帰属を良しとせず六角承禎配下の蒲生の近江日野城へ逃亡した。
永禄12年5月北畠四御所の木造氏が北畠内での序列に不満があって織田方へ走るや
北畠は信玄・伊賀・大和へ支援要請し大和三人衆の秋山・沢・芳野らも動員して木造を滅ぼそうとするや
織田も伊勢の神戸・長野に滝川・織田信昌を援軍に派兵し、
北畠が2ヶ月に及ぶ親族同士の殺し合いをして疲弊してると見て取るや信長7万で自ら出兵し
北畠氏を踏み潰そうとやってきた信長は大河内城2ヶ月大包囲で高級幹部20人以上が討ち死に大敗。
撤退での追撃を恐れて信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
伊勢長島一揆でも北畠に関係の南伊勢諸国人は船舶動員に非協力的で
北畠家臣や南朝以来の繋がりがある紀伊半島の土豪連中まで長島一揆に入城してるし
伊豆国方面からも敵大船が伊勢大湊へやってきたと織田側は通報してる。
(弟を近江へ派遣するなど伊勢長島一揆を支援し長政と兵力融通していた日根野弘就に協力してた
北伊勢の自由商業町の山田三方の福島親子とか有名)


134人間七七四年:2012/02/15(水) 17:31:52.23 ID:7Vqb0r2k
蒲生が六角義堯に仕えていたとすると、六角義堯が織田から寝返り、
その反織田派となった六角義堯からさらに反織田派の朝倉に蒲生が寝返ったことになるのだが、
こんな瑣末な話を山県がわざわざ奥平に伝えるの?「信長の話してるんじゃないの?」って思われるのがオチだろ
135人間七七四年:2012/02/16(木) 20:08:05.53 ID:hjAt5Y3i
公記が六角義賢の弟の六角義弼や
六角義秀やその子の義堯の存在を隠蔽してしまった為に、
江戸時代中期に、
六角本家を主張し合う子達が争った際に、
一方的に不利になり存在を疑われた人物なんだよな。
義弼なんて義治と同一人物にされてるし。


濃尾平野と伊勢湾経済圏を持つ信長がチート過ぎなのに
義龍にボロ負け。義興にまでボロ負け
結局、義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が
斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけだし
さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし
本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど
(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてのこと。
さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になるし。
しかも甲賀衆は義昭上洛戦に先立ち6/23には摂津表まで進出して三好三人衆と合戦までしてるし。
しかし9/7上洛戦開始するやいきなり信長は六角義治に大敗して岐阜に戻ってるから
援軍にきた三好三人衆側勢は京へ撤退してるし。
(上洛開始前から松永は三好勢兵力をずっと引き付けて戦っていた)
9/14には再度、天皇から織田へ綸旨が届いて義昭上洛の激励をされ京の御警護まで任されてる。
結局、江州様勢力が義治傘下から後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里らを裏切らせて信長に内応させて箕作城を開城させて観音寺城の背後を遮させた為に
義治は敗走して上洛成功しただけ。
信長の戦下手は神レベルだよな。

136人間七七四年:2012/02/16(木) 20:12:31.50 ID:mOm7Ubha
>濃尾平野と伊勢湾経済圏を持つ信長が
>義龍にボロ負け

濃尾平野の語源もわかってないよコイツw
137人間七七四年:2012/02/16(木) 20:35:32.33 ID:hjAt5Y3i
濃尾平野の大半は織田領なんだが。
海抜測ってみればいい。
138人間七七四年:2012/02/16(木) 22:30:36.98 ID:/sW/LrDV
>>135
負けまくりなのによく尾張に攻め込まれなかったなw
139人間七七四年:2012/02/16(木) 22:54:46.74 ID:Te3msQHv
義興って誰だ?三好の嫡男のことか?
140人間七七四年:2012/02/16(木) 23:18:40.22 ID:asF/s3mY
幼君斎藤義興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。
森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を
美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてkた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は
内通で加治田城・黒田城
織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城
と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは
東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と
農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに
武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし
近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。
そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして
斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
義龍の死の混乱に乗じてわすか
二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。
しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。
結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、
斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。
六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ。

141人間七七四年:2012/02/16(木) 23:19:25.30 ID:asF/s3mY
信長公記にすら記されていない以上は捏造逸話以外のなにものでもない。
などと言いたいところだが、さて信長公記が隠蔽する時は必ず理由がある。
信長公記において家康がすでに同盟者となっていては都合が悪いのだ。
そこで思い出されるのは、信秀死去寸前に今川と和睦してることを隠蔽して、信長の立場が不安定だと捏造してる公記だが、
家康との共同作戦で思い出される史実で、公記が完全隠蔽してる事件がある。
それを隠蔽してる以上は家康がすでに同盟者であっては困る。
あくまで家康は永禄11年の義昭上洛戦以降の同盟者でなくては都合が悪いのだ。

さて以下がその隠蔽である。

永禄9年に信長は近江矢島の義昭を上洛させるためと称して
義昭に斉藤龍興との和睦を申請し義昭が喜んで和睦を斡旋したし
龍興も義昭を「公方様」と呼んで快諾して誓詞を細川藤孝に提出してる。
義昭は信長に藤孝を下向させ上洛の打ち合わせをし、
7月には能登七尾の畠山義綱や大和の十市遠勝にも
来月22日に信長が出陣するから上洛の供をするように命じてる。

これにより尾張・三河・美濃・伊勢四ヶ国の兵を率いて上洛軍を催すこととなった。
しかし出陣当日になると信長が突然出兵できないと言い出す。
これには龍興18歳も信長が臆したと嘲笑し、義秋も信長を糾弾し天下の物笑いとなった。
これにキレた信長が8/29に同盟軍の美濃攻めを突如開始し
木曽川の河野島へ渡川進撃。奇襲に怒った龍興も
すぐさま応戦し河野島へ渡ってきたので織田軍は敗走し川を挟んで対陣。
その翌日から風雨激しく洪水になり閏8月8日の明け方に奇襲を敢行した
龍興側に織田軍は大敗。勝利した斉藤に義昭は改めて上洛を願うが
織田の動向が心配なので上洛は難しいと言われ
翌8月3日に織田と上洛戦を企んだと知った三好長逸3000が
近江坂本へ義昭討伐にやってくる。
8/29は暗夜だったのを幸いに側近4、5人で琵琶湖を渡り
若狭武田の下へ義昭は逃走した。

142人間七七四年:2012/02/16(木) 23:20:51.53 ID:asF/s3mY
1546年 信長初陣。
今川勢相手に何もできずに放火だけしてすぐさま逃げ出す。
後の多数の敗北を髣髴とさせる華々しい初陣であった。
1552年 信長家督継承。
素行の悪さからあちこちで「うつけ」と呼ばれて馬鹿にされ、
やさしかった父親の葬式にろくに服装もととのえないでやってきて
抹香を投げつける親不孝者。家臣失望。後にみんな離反。
守役の平手絶望。「守り立てる甲斐なし」といって自害。
1554年
村木攻め。斉藤道三から援軍もらって城を任せ、残り全軍で多数で攻めて成功。
1555年
叔父信光を使って清洲をだまし討ちにしてのっとる。
信光は用済みとばかりに信長に殺される。
1556年 舅道三が斉藤義龍に謀反され、窮地に陥る。
散々助けてもらってたくせに舅の危機に間に合わず、道三は討ち死に。
信長勢は行きがけの駄賃とばかりに、斉藤勢に攻撃され、あっという間に突き崩され
織田の武将が何人も討ち取られ、森も重傷を負う。たまらず敗走。
この無様な敗戦で尾張で離反相次ぐ。
1560年桶狭間の戦い。敵先陣と本陣を勘違いするというありえないミスを犯す。
先陣と勘違いしながら突っ込んだらいきなり大雨が発生し
今川勢が崩れる。本陣突っ込んだら大将が乗る塗り輿があり、
初めて自分が戦ってるのが本陣だと気づく。
大雨でぬかるんだ大地を逃げ切れなかった義元、織田勢に首を取られる。
1560年
桶狭間の勝ちを実力と勘違いしたか、
美濃にせめこみ、義龍にあっさり撃破される。2回。
1561年
斉藤義龍死亡。美濃は幼君が継ぎ、クーデター騒ぎまで起きるようになる。
信長、これを見て美濃侵攻。
嵐を利用して森部で勝利。
しかし調子にのって14条に攻め込んだら真正面から斉藤勢に撃破される。
織田一族信清の弟戦死して敗走。
軽海で夜まで戦ってなんとか追撃を振り切って逃げ延びる
1562年
14条で弟を死なせたからか信清離反。
尾張小口城を攻めて敗北。側近岩室長門死亡。
1563年
新加納で斉藤勢に敗北。
1565年 鵜沼猿食調略。丹羽のおかげ。
東美濃で武田の一部隊と衝突。あわてて兵を引き、婚姻同盟を申し込む。
堂々砦攻防戦。
砦攻略したと思ったら斉藤勢三千に襲われ死人負傷者多数出してたまらず敗走。
1566年
足利義昭から上洛救援要請来る。
信長はこれを受け、斉藤に和議と領土内通行容認を持ちかけ、斉藤はこれを受諾。
しかし信長は美濃に入るやいやな翻心し、斉藤領土に襲い掛かる。
し か し こ こ ま で し て も 勝 て な い。
攻撃はあっさり斉藤に防がれ、ここまでして騙まし討ちにしたのにあしらわれ
上洛救援も果たせず、「天下の笑い者」になる。
逆上して河野島まで進出するが、斉藤勢に迎撃されたら武具まで捨ててあわてて逃亡。
逃げる途中で洪水に見舞われ死亡者多数。逃げ遅れたものは斉藤勢に虐殺される。


143人間七七四年:2012/02/16(木) 23:22:16.69 ID:asF/s3mY
1567年楠・高岡城の攻略に失敗。
1568年 義昭を擁して上洛開始。
浅井に押され、観音寺騒動で弱体化していた六角を攻略する。
このときは織田のみならず浅井・徳川その他も含めた5万近い大軍であった。
分裂していた三好勢、これに対抗できず京都から撤退。
1569年 北畠を大軍で攻める。しかし見事に敗北。
当時の公卿の日記には「神の戦であろうか?国司達の勝利である。」と記される。
困った信長は和議を持ちかける。北畠これを受諾。信長はあとで謀殺してのっとり。
1570年朝倉にいちゃもんつけて攻め込む。
朝倉と同盟であった浅井はこれに反発。織田を挟撃する。
信長は部下を見捨てて逃亡。金ヶ崎の醜態である。
1570年 姉川の戦い。
従来織田による織田のための宣伝で織田の大勝とされてきた。
しかし織田のいう朝倉浅井一万近く死亡して浅井長政死亡という割には
朝倉の資料では戦死120となり、浅井長政も生きている。
実際は痛みわけと見るのが妥当といわれる。
野田福島の戦い。
数に任せて三好勢を追い詰めるが、それまでの行動から不振をもっていた本願寺が
織田に対して決起。野田福島でこれを迎撃。織田勢は押し返され無様に敗走。
坂本攻防。織田の将である森と織田一族が雁首並べて朝倉浅井勢に討ち取られ
そのまま京都に侵攻される。
志賀の陣。
織田主力と比叡山に陣を敷く朝倉浅井勢対陣。
信長は手も足も出ず、領土奪って困窮させたはずの比叡山に援助を頼み込むが
当然断られる。堅田に派遣した坂井勢はあっさりと朝倉浅井勢に壊滅させられ
打つ手なくなる。
小木江攻防。
信長の弟がこもる尾張小木江を伊勢長島勢攻撃。信長救援送れず見殺し。
周囲を包囲網勢に圧迫され、窮した信長は天皇を介して
朝倉浅井に「朝廷とか公方とか寺社とかその他のことは仰るとおりにいたします」と
無条件降伏に近いこといって和睦。その後しっかり和睦を破る
1571年 伊勢長島第一次。
信長自らが大軍を率いて攻撃するが失敗。
撤退するところを追撃され大敗北。氏家朴全死亡。部隊壊滅。柴田も負傷。
比叡山大虐殺。
先年の志賀の陣の仕返しに比叡山を焼き討ち。もともと敵対させたのは誰だったと思ってるのか。
虐殺焼き討ちは天を焦がし、悪名は天下に響き渡る。
1572年 信長、本隊を率いて朝倉浅井と対陣。
嵐を突いて朝倉勢に陣地を焼き討ちされ、700以上焼失。
信長、横山城から美濃に帰還。
その後朝倉浅井勢、織田勢を攻撃し大利をあげる。
その戦果は常陸にまでとどろき、複数の同時代資料で確認される。
信長、武田織田の両属だった岩村を当主が死んだのをいいことに部隊を派遣してのっとる。
武田、これを受け秋山を岩村に派遣。岩村勢、これに呼応して武田につく。
武田本軍、徳川領土を次々と侵食。織田も援軍を送り、徳川とともに
三方ヶ原におびき出され完敗。
戦死武将50名以上、死者千名〜2千名に達する大敗北。
徳川はこれ以後しばらく三千ほどしか動かせなくなる。
1572年 武田の秋山隊、上村合戦で織田勢を撃破。
1573年
武田の馬場美濃、800余りの兵を率いて東美濃侵攻。
焼き討ちを行って織田を挑発。
信長は一万余りの兵を率いて進出するが、馬場美濃は手勢を率いて
織田勢を急襲し、織田勢敗走。信長は後ろも見ないで岐阜に逃げ込んだらしい。
信長、諸方を敵に囲まれ、「方々手ふさがり」と公記でも嘆かれる。
この状態で将軍義昭離反。
「人質だしますから和睦しましょ」と持ちかけるが拒否される。
天皇を使ってダッシュで和睦してダッシュで美濃に帰る。
信玄死亡。武田勢撤退。反織田勢の反撃計画潰える。
信長、勢いにのって浅井に攻撃をしかけるが撃退される。
144人間七七四年:2012/02/16(木) 23:23:04.64 ID:asF/s3mY
伊勢長島に美濃と尾張の国境を焼き討ちされる。
反撃計画が潰えたことで自壊の始まった朝倉を攻撃して倒す。
朝倉は一門に裏切られての最後であった。
返す刀で浅井も総攻撃して攻略。朝倉・浅井長政・久政の首ははくだみにされたという・・・。
調子にのって伊勢長島を攻撃。
第2次伊勢長島。伊勢長島本城を攻略できず、引き返すところを攻撃され、
一の重臣林家の嫡男林新次郎率いる部隊とその与力を殿にするも
一揆勢の猛攻で壊滅。一揆勢の攻撃で体制を整えることも暖をとることもできず
凍死続出。信長もこれを突っ切って夜に岐阜に逃げ込んだ。
1574年 越前蜂起。
苦労して朝倉を倒して越前を制圧したと思ったら、そのあまりの杜撰な統治に
反発した旧朝倉家臣団が一向一揆と結んで蜂起。
織田の支配層はあるいは叩き出され、あるいは殺され、越前は一揆持ちの国となる。
武田討伐の後の甲斐と非常によく似たパターンであり、懲りない男である。
結局越前が再び信長の手に戻るのはこれよりおよそ2年後。
朝倉攻略から3か月。短い平定であった。
東美濃攻防。
信玄死去後の武田、東美濃に侵攻する。明智城をはじめとして織田方の城を次々に攻略。
信長は三万の大軍でこれを救援に行くも、山県率いる武田勢六千に険路を抑えられ、進むに進めないうちに武田に城を攻略され退却。武田は織田方の東美濃18城を攻略した。
石山本願寺を大軍で攻めるが攻略できず撤退。
武田軍、徳川方の高天神城を攻撃。徳川は織田に救援を要請。
信長の救援は遅遅として間に合わず、高天神陥落。家康失望。
1574年家康の嘆きとか無視して伊勢長島の攻略を開始する。
第三次伊勢長島。
大軍で攻めながらも一揆達の激しい抵抗にあい、兵糧攻め。
三か月ほどこれを続け、一揆勢、餓死者や身投げして死ぬ者続出。
一揆勢信長に降伏し、武装解除して長島を退去する事を受け入れる。
し か し 信 長 は 当 然 の よ う に 約 束 を 破 る。
武装解除した一揆勢が長島を退去する為に出てきた所を大軍で包囲。
大量の鉄砲を打ちこみ、そのあと総攻撃に移る。
し か し こ こ ま で し て も 大 損 害 を 受 け る。
餓死寸前で武装解除もしていた一揆勢、多くが織田勢に虐殺される。
この中で激怒した一揆勢の800余りが、武具もつけず刀しかもってない状態でありながら
信長勢に突撃する。
信長勢数万はこの飢え死に寸前の一揆勢800に突き崩され、打ちのめされ、兄信広達一門10人をはじめとして多くを打ち取られる大損害を受ける。
その一揆800はそのまま織田勢を突破し、多芸山から大阪まで逃げ延びた。
飢え死に寸前の一揆勢800に数万の兵でこれだけ一門を殺され、しかも逃げられるのは前代未聞の成果と言っていい。
逆上した信長、まだ城に残っていた、ろくに動けもしない一揆勢を城ごと全て焼き殺した。
長島近隣住民はこの卑劣なだまし討ちと虐殺を長く恨み、織田勢に宿を貸すのも嫌がるようになり、織田勢はあと後まで苦労する事になる。
武田軍、徳川領土に進攻。家康の主城浜松城下にまで踏み込み、稲を悉く刈り取り、城下町の屋敷も盛大に焼き打ちし、拠点となる城も築城して帰還。
織田は相変わらず救援を送らず。家康絶望。武田への鞍替えを検討
145人間七七四年:2012/02/16(木) 23:25:35.79 ID:asF/s3mY
信長があと10年早く生れていたら全盛期の斉藤に瞬殺されていたのは間違いない

何せ史実で30回くらい敗戦して斉藤が浅井と戦い、また国人が全く統制されておらず
子供が当主で竹中10人ほどに居城奪われる雑魚だから助かっただけだし

146人間七七四年:2012/02/17(金) 03:03:14.76 ID:YNBhM3lU
そんな家臣に城を奪われるような18歳のガキに大敗した信長が、なんで
稲葉や氏家みたいな西美濃三人衆や斎藤利治みたいな一門格に頼られたんでしょうねw


斎藤家中は揃いも揃って酔狂な連中の集まりだったんでしょうか?w
あと相変わらず流れが悪くなるとコピペでごまかす癖つけてますね
147人間七七四年:2012/02/17(金) 03:08:38.59 ID:6OAlbzLr
幼君斎藤龍興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。
森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を
美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてkた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は
内通で加治田城・黒田城
織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城
と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは
東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と
農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに
武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし
近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。
そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして
斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
義龍の死の混乱に乗じてわすか
二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。
しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。
結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、
斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。
六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ
148人間七七四年:2012/02/17(金) 03:27:58.17 ID:YNBhM3lU

長ったらしいコピペしている暇あったら蒲生家が六角義堯に仕えていたってソースはよ持ってこいや
>>131でおまえが言い出して信長公記は大嘘だとか言っておいてこのザマかよ。


さすが反信長連合のやるやる詐欺の薫陶をよく受け継いでいるなだがはw
149人間七七四年:2012/02/17(金) 07:09:35.02 ID:I55wt995
コピペを貼り付ける=だがの敗北宣言だからな
150人間七七四年:2012/02/17(金) 15:07:06.59 ID:6OAlbzLr
信長があと10年早く生れていたら全盛期の斉藤に瞬殺されていたのは間違いない

何せ史実で30回くらい敗戦して斉藤が浅井と戦い、また国人が全く統制されておらず
子供が当主で竹中10人ほどに居城奪われる雑魚だから助かっただけだし

151人間七七四年:2012/02/17(金) 17:24:05.16 ID:6OAlbzLr
信長があと10年早く生れていたら全盛期の斉藤に瞬殺されていたのは間違いない

何せ史実で30回くらい敗戦して斉藤が浅井と戦い、また国人が全く統制されておらず
子供が当主で竹中10人ほどに居城奪われる雑魚だから助かっただけだし




152人間七七四年:2012/02/17(金) 17:33:07.39 ID:6OAlbzLr
信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。
つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。
ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、
信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。
それで11月には岩村城が武田に取り返され、
11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、
加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。
東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。
153人間七七四年:2012/02/17(金) 17:55:46.15 ID:e6aSL3CG
>>152
>>42

>信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて公記の記述が大ウソなのがわかる。

不利になること書かれてるねー
154人間七七四年:2012/02/17(金) 18:30:11.79 ID:6OAlbzLr
信長公記にすら記されていない以上は捏造逸話以外のなにものでもない。
などと言いたいところだが、さて信長公記が隠蔽する時は必ず理由がある。
信長公記において家康がすでに同盟者となっていては都合が悪いのだ。
そこで思い出されるのは、信秀死去寸前に今川と和睦してることを隠蔽して、信長の立場が不安定だと捏造してる公記だが、
家康との共同作戦で思い出される史実で、公記が完全隠蔽してる事件がある。
それを隠蔽してる以上は家康がすでに同盟者であっては困る。
あくまで家康は永禄11年の義昭上洛戦以降の同盟者でなくては都合が悪いのだ。

さて以下がその隠蔽である。

永禄9年に信長は近江矢島の義昭を上洛させるためと称して
義昭に斉藤龍興との和睦を申請し義昭が喜んで和睦を斡旋したし
龍興も義昭を「公方様」と呼んで快諾して誓詞を細川藤孝に提出してる。
義昭は信長に藤孝を下向させ上洛の打ち合わせをし、
7月には能登七尾の畠山義綱や大和の十市遠勝にも
来月22日に信長が出陣するから上洛の供をするように命じてる。

これにより尾張・三河・美濃・伊勢四ヶ国の兵を率いて上洛軍を催すこととなった。
しかし出陣当日になると信長が突然出兵できないと言い出す。
これには龍興18歳も信長が臆したと嘲笑し、義秋も信長を糾弾し天下の物笑いとなった。
これにキレた信長が8/29に同盟軍の美濃攻めを突如開始し
木曽川の河野島へ渡川進撃。奇襲に怒った龍興も
すぐさま応戦し河野島へ渡ってきたので織田軍は敗走し川を挟んで対陣。
その翌日から風雨激しく洪水になり閏8月8日の明け方に奇襲を敢行した
龍興側に織田軍は大敗。勝利した斉藤に義昭は改めて上洛を願うが
織田の動向が心配なので上洛は難しいと言われ
翌8月3日に織田と上洛戦を企んだと知った三好長逸3000が
近江坂本へ義昭討伐にやってくる。
8/29は暗夜だったのを幸いに側近4、5人で琵琶湖を渡り
若狭武田の下へ義昭は逃走した。
155人間七七四年:2012/02/17(金) 22:49:35.21 ID:YNBhM3lU
>>153
そもそも信長公記の成立年代は天正年間で
・当事者の信長が故人
・織田家が天下最大勢力から転落して一大名になっている

から信長に気を使う必要性がゼロなんだよなw
実際裏づけるように金ヶ崎、野田福島、志賀御陣といった箇所も余すことなく書かれている。

むしろ信長公記で一番気を使っているのが徳川家康で、これの裏づけとして

・信長ですら曖昧になっている呼称を一貫して「家康公」表記を徹底
・時代を経て再版されるごとに家康の活躍を記す記述が増えていく
・「信康叛逆の事」として信康事件を記した箇所があったのだが、「信康公御乱心」へと言葉を濁し、ついに記述が全削除される

など特に徳川家康のことに関して記述に気を使っている。信長公記は家康が穴山梅雪とともに伊賀越えをして三河へ戻るところで〆られてる。
156人間七七四年:2012/02/17(金) 23:35:03.99 ID:6OAlbzLr
角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに
第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている)
現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は金子拓氏の最新研究結果によれば70以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。
尊経閣文庫蔵安土日記
信長記の写本だがもっとも古態をとどめている。安土城についての史料的価値が高く他の信長記にない逸話が登場する。
木田梧楼家蔵信長記
本願寺攻めが他の信長記より詳しい。
首巻のある信長記(陽明本など)
信長上洛以前の記録であるが、これは自筆本が後世に伝わってない。
また年次の誤りが異常に多く永禄3年の桶狭間の戦いを天文21年としていたりする。
尊経閣文庫蔵織田記
首巻が他のと違う。が天文13年9月の信秀の美濃攻めで大敗した織田の討ち死に数を50とする。
陽明本などは5000とする為、こちらの方が信憑性が高いと言われる。
内閣文庫蔵安土日記は池田家本系統の写
長篠での鉄炮数を30挺計と書いていたりする。
天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。
太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。
そもそも信長は発給文書が極端に少なく、ほとんど部下へ丸投げなので
信長の業績はまったくわからず、やむおえず太田の著書に頼らざる負えないだけで
信憑性は疑問のシロモノであり、関が原や秀吉の史料は豊富にあるので
太田の記述した関が原や秀吉に関する記述は三次史料以下の扱いである。
157人間七七四年:2012/02/17(金) 23:37:32.03 ID:6OAlbzLr
信長公記は志賀の陣まで
前代未聞の栄誉ある一戦
などと勝利宣言してるから
まったく信用性ゼロ
実際は義昭が必死に調停してくれたから信長は助かっただけ。

そもそも三河物語には和田が参加したなんて書いてない。
3万の朝倉が1万の織田を旗本まで切りくずして朝倉軍が一気に前進していたが、
家康が前面の敵を撃ち、信長の崩れを見て
一気に朝倉奥陣に斬り込んだから
本陣に横撃を受けて朝倉軍が崩れただけ。
志賀の陣でも朝倉軍3万に
織田1万じゃ帰り道を塞がれたらかなわないから和睦したって書いてるし、
信長が兵糧に困るだろうと考えていたら
比叡山から朝倉に米が運ばれてしまったと書かれてる。
その一方で比叡山の騙し討ちを喝破した信長を
さすがの弓取りと称賛してるから
これでも三河物語は信長寄りにかいてるわけだが。

無知長厨乙
信長から御加勢依頼がきて
徳川からは石河家成が織田への援軍で参加してるから。
158人間七七四年:2012/02/17(金) 23:39:12.60 ID:e6aSL3CG
>>155
興味深いですな。
詳しく解説した本とかありますか?
159人間七七四年:2012/02/17(金) 23:40:45.85 ID:6OAlbzLr
信玄が織田に宣戦したのは
明らかにアスペ信長が無意識に挑発しまくってたのがよくわかるな。
それで信玄も堪忍の限界にきて
信玄の死んだ妻の妹が顕如の妻の如春尼だったこともあり
立ち上がっただけに過ぎんのに
信長はなぜか裏切られた!と逆切れw

信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。
つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。
ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、
信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。
それで11月には岩村城が武田に取り返され、
11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、
加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。
東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。


160人間七七四年:2012/02/18(土) 00:31:52.37 ID:X/jUCYje
>>158
あまり本とかは読まないけど藤本氏の本は昔一度読んでわりと興味持てたな。
もう10年近く前のやつだから今の歴史認識の異なるところもあると思うけど。


あとだがよ、いつになったらおまえは一次史料と二次史料と三次史料の区別がつくんだ?
長ったらしいコピペで無知を晒していて楽しいか?
161人間七七四年:2012/02/18(土) 00:33:58.71 ID:X/jUCYje
せっかくだしこれも貼っておこう

アスペルガーだがと呼ばれる、武田信玄を崇め織田信長を嫌っている人物についてまとめたサイト
だがの珍言珍説をまとめていくwikiです。
現行スレ
【みんなの】だがを見守るスレ【アイドル?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1314643159/


前スレ?
【戦国】アスペルガーだが【武田厨・アンチ織田】


主な出没スレ
戦国板
【武田】2万5千で上洛【信玄】その64
【風林】甲斐武田家総合スレ【火山】
【政宗vs信玄】仙台藩百姓vs狂信者アスペルガーだが
日本史板
信玄が長生きしたら、信長、秀吉、家康はただの人
歴史ゲーム板
信長の野望で過大過小されている武将77人目
信長の野望で過大過小されている武将三傑謙信玄用4
三戦板
【関東】武田信玄、北条氏康、上杉謙信【三国志】


ヤフー知恵袋
http://my.chiebukuro.yahoo.co.jp/my/yaikomae


過去のだがの活動について情報をお待ちしております。
.http://www26.atwiki.jp/dagamatome/pages/1.html
162人間七七四年:2012/02/18(土) 00:34:37.39 ID:X/jUCYje
アスペルガーだがってどんな人?
その名の通り、アスペルガー症候群に見られる、頑固・執拗・妄想の激しい人物です。
武田信玄を信奉していて信玄なら天下を取れたと信じ込んでいます。一方で織田信長が大嫌い、徹底的にこき下ろしています。
ちょっとでも武田を叩いたり信長を持ち上げたりする書き込みは絶対に許さないのがだがの信条。
だがは織田厨という人物を目の敵にしています。織田厨は一人しかおらず、武田を叩いたり信長を持ち上げるのは 全て一人の織田厨によるもの と信じ込んでいます。
もちろんあなたも武田を叩いたり信長を持ち上げたりする書き込みをすれば、だがから織田厨の認定を授けてもらえます。
こんなにたくさんの書き込み、一人で書き込むなんて物理的に無理だし、互いに異なる意見をかわしあっているのに同一人物による書き込みとするのは辻褄が合わないのでは…?そんな常識はだがには通用しません。全部織田厨の自演だそうです。
一応社会人のようです。
忙しい合間をぬって織田厨叩きの活動を続けています。大変な執念の持ち主です。


アスペルガーだがはどこに現れるの?
巨大掲示板2chの織田信長、武田信玄に関連するスレに出没します。
板は問いません。主な出没板は戦国板・歴史ゲーム板・日本史板ですが、他にも世界史板や歴史難民板、漫画板など あらゆる板の織田武田関連の話題のあるスレに出没します。
そしてそれらのスレでの都合の悪い書き込みは全て一人の織田厨によるものと思い込んでいます。


アスペルガーだがの書き込みの特徴は?
織田厨と見られる書き込みに対して、全てに反論レスします。律儀にレスアンカー付きで。
例え何ヶ月も前の書き込みであろうと、掘り起こしてレスします。亀レスなどまったく気にしません。
口調はいつも上から目線。とても偉そうな態度で書き込みます。
だがの名前の由来は、「〜だが。」で終わる自己顕示欲の激しい文章を書くことが多いから。
暴言雑言当たり前です。モラルやマナーというものは持ち合わせていません。
強迫性障害と見られ、 レスしなかったら負け と考えています。
まともな議論の時でも、苦しくなると揚げ足取りや知能障害を起こして有耶無耶にしようとします。
別の話題の時でも、「信長はもっと負けてるけどな」などと無理矢理信長の話題に逸らそうとします。そして信長の話になればお決まりの織田厨認定が待っています。
苦しくなると無理な要求を突きつけて自論を正当化しようとするのもだがの常套手段。「武田が負けたって?具体的に武田が負けたと書かれている資料を出せ」etc.


アスペルガーだがはどこに住んでるの?
神奈川県
でも地元の北条は嫌い。
163人間七七四年:2012/02/18(土) 06:59:28.17 ID:1RDBlFbW
天正10年の武田攻めでは侵攻日に起きた浅間山大噴火を隠蔽。
武田滅亡の天意と言われた。
援軍に来た勝頼も諏訪から甲斐へ撤退せざるを得なくなる。
浅間山噴火が京で視認できたのは有史以来この時でわずか二度目。
東に横たわるアルプス山脈を無視して考えた場合、
広島での原爆が京都から視認出来たくらいの距離に相当する。
164人間七七四年:2012/02/18(土) 07:02:43.40 ID:1RDBlFbW
 信長公記によると、
范可とは唐時代の人で止むを得ない事情により父親を殺さざるを得なかった経歴を持つとの事を書いているが ...もちろんそんな人物は中国に存在しません。

義龍が范可の署名を弘治元年12月から署名しており、 公記の記述は辻褄が合わない。
捏造信長公記は父殺しイメージを架空人物まで創造して捏造してまで強調してるが、
実際は重臣達に追放された武田信虎や六角義治らと同じような状態になった際に道三は死ぬ覚悟に決戦を選択したに過ぎ無い。
165人間七七四年:2012/02/18(土) 09:57:47.37 ID:Yxm0GPEE
>>163
史料読んでないのが丸分かりだなw
166人間七七四年:2012/02/18(土) 20:48:28.74 ID:X/jUCYje
そもそも浅間山はしょっちゅう噴火しているわけだがw
例を挙げると戦国だけでも1527、1528、1532、1534、1590、1591、1595年などで
特に1595年から1600年まではほぼ毎年のように噴火している。

もちろんこの間に噴火のせいで他の大名や勢力が滅亡したという記録はない。
武田が噴火ごときで滅亡する脆弱大名というのが露呈しただけw
167人間七七四年:2012/02/18(土) 21:31:40.74 ID:gkVWiPto
>>116
京の公家日記に観測記録が記述される程の大規模噴火は、
1108年の大噴火に続いて武田滅亡のこの時で、
わずかに二回目でしか無い。
168人間七七四年:2012/02/18(土) 21:56:12.31 ID:X/jUCYje
2回しかなかったんなら数ある噴火記録が残ってるとは思えんが・・・
まあそもそも噴火した2月14日以前に既に織田軍が武田領に入っているという重要な事実があるが。
169人間七七四年:2012/02/18(土) 21:56:58.78 ID:gkVWiPto
>>68
定光寺年代記には、
天文19年に尾州錯乱したので、
8月に義元5万騎にて知多へ出陣し12月帰陣と言う誤伝があり、
これが信長公記の桶狭間の戦いの元ネタだったりする。
この風聞を天文21年に移動させ、
天文21年信秀死去(公記は信秀の死去年の明示は都合悪いので隠蔽して誤魔化してる)直後に移動させて創り出された架空話が桶狭間の戦い。
そしてそれが捏造だと判明したのが、
天文12年禁裏修理費献金をしてくれた信秀に、
また献金して貰いたい後奈良天皇が、
天文19年冬に織田と今川の和平を斡旋してる。
義元書状でも12/5に山口左馬助が馳走したので、
信秀の和睦条件の刈谷城返還要求に沿って水野に刈谷城を返還と書いてある。
170人間七七四年:2012/02/18(土) 22:02:27.19 ID:gkVWiPto
>>168
噴火日に始めて侵攻してる。
まだそんな盲信吐いてんのかw
171人間七七四年:2012/02/18(土) 22:22:00.85 ID:Fcm3zUpQ
>>157
志賀の陣は織田の勝ちだろ
だがは何度言ったらわかるんだ?
172人間七七四年:2012/02/18(土) 22:26:51.34 ID:sqbVVh7k
滋賀の陣が織田の勝ちなんていってるのお前だけだよ

武力で討ち負けて屈服してるんだからな
173人間七七四年:2012/02/18(土) 23:08:38.60 ID:Yxm0GPEE
174人間七七四年:2012/02/18(土) 23:21:56.98 ID:Fcm3zUpQ
>>172
また繰り返すが戦争の勝敗は「戦争目的を達成したか否か」だ
織田は領地を一つも失っておらず防衛に成功し逆に浅井朝倉は火事場泥棒に失敗した
どう見ても織田の勝利
175人間七七四年:2012/02/18(土) 23:52:27.25 ID:R8gIN0N6
>>174
六角に領地返還したのにwww
六角から離反した国人に、
旧主が帰ってきても
こちらで領地やるから心配しないでと信長土下座外交状態なのにw
176人間七七四年:2012/02/18(土) 23:52:48.29 ID:X/jUCYje
志賀の陣を織田の負けだって言ってる人って
大体戦線の異なる野田福島を志賀の陣に入れてるよね。
177人間七七四年:2012/02/19(日) 00:09:52.85 ID:MOHEK543
>>175
おまえもしかしてそれ元亀元年十二月十五日付織田信長朱印状の
「国主還附候とも、右の領知に於ては別条あるべからず候」のことを言ってるんじゃないよな?w

一応言っておくけど、これは織田信長に味方した山岡対馬守景佐に出した書状で、
例え国主である江州六角殿(反信長方)が、信長に味方した山岡へ新たに与えられた領地を旧領主に返させたとしても、
領知高(領地から取れる収入)は全てこっちで保証するという意味で、自分に味方してくれた山岡景佐を厚遇するという意味なのにw
178人間七七四年:2012/02/19(日) 00:15:53.40 ID:cXNg1Kg/

禁裏被迎出により和平して大坂を退出した顕如を無視して籠城をした教如。
4/16然共 新御門跡様 御寺内御堅固ニ御拘被成候間 各可御心安候

5/2御門主(顕如)にハ雑賀へ御退出之事候
然者予(蓮如)当寺に残り
可相持思立如此候

天正8年9/11勧修寺晴豊らが教如の説得に成功し、
9/23に教如も
然処内輪逆意之賊
しかれども内輪に逆意はこれ賊徒となってしまうとして
大坂を明け渡す決意をしてるのを公記は隠蔽。
179人間七七四年:2012/02/19(日) 01:24:09.90 ID:TXveJRJQ
んなことまで太田にいちいち言うかよ
太田をなんだと思ってるんだ
180人間七七四年:2012/02/19(日) 05:48:58.62 ID:MOHEK543
むしろそれが信長公記が一時期持てはやされた最たる要因だもの。
余計なこと書いてないから嘘や妄想の余地が入りづらい。

・織田信長は本能寺にて明智光秀に襲われて自害した

・織田信長は本能寺にて明智光秀に襲われて自害した この時森蘭丸という小姓がそばにいて
 「信長様お逃げくだされ」と懇願するも信長は「是非に及ばず」と一蹴した。
 まあ信長は異人も小姓に雇っていてこの時奮戦殊の外うんたらかんたら

どっちが信憑性高いか言うまでもない。
181人間七七四年:2012/02/19(日) 12:54:58.57 ID:P+sErgHu
天正4年の木津川の戦いと天正6年の第二次木津川の戦いの間である
天正5年にも織田軍は毛利と海戦して大敗してるのを公記は隠蔽してる。
謙信の上洛戦に言及があるため天正5年9月23日の手取川の戦いが始まる寸前の書状。

龍谷大学大宮図書館蔵 光佐披露状 江戸浄林寺文書 顕如上人文書簒所収

急度令啓上候 仍今度芸州警護船 早速被相催 歴々衆渡海候
殊為合力 兵糧等厳重之儀 囘申謝候 随而於海上及一戦 敵船悉被打果候事
無比類高名 併上意御威光之故候 当寺門下・紀州兵船相共ニ 抽戦■候
可然様御執成専用候 其節之儀 加太豊前守存知之事候条 可有言上候
就中御太刀一腰金・御馬一疋鹿毛進上之候
聊表祝儀計候 於此上 播州陸路之行 肝要存候 弥可被上意候
北国謙信事 近日越前表 可有出張候 猶以三和之儀 此刻候 甲州之儀
八月中尾濃江必定出馬■■ 一両日已前も申越候 諸国之儀■■分急申候
吉事近々可申入候 此等之旨 宜有披露候 怖々謹言

            七月廿八日 光佐(花押)
  一色駿河守殿
  真木嶋玄蕃頭殿


加太豊前守=鹿伏兎豊前守宗心の血統か?
亀山城主関盛信に従って関軍の先鋒を勤めていた鹿伏兎城(白鷹城)主
信孝が神戸家の養子になると関氏を通じて織田に仕えたが、のち反織田挙兵。
姉川での討死説あり?子の四郎盛氏も天正2年に長島で討死説あり。

神戸具盛(妻は蒲生定秀の娘)
養子信孝を冷遇していた為に元亀2年に山路弾正など家臣が大虐殺され
信長により幽閉されるも義父を頼り日野城へ逃亡し、元亀3年に神戸家は信孝が家督を継ぐ。
ちなみに永禄11年の観音寺城の戦いで蒲生賢秀を降伏させたのはこの人

関盛信(妻は蒲生定秀の娘)
亀山城主。信孝との不和が原因で
元亀4年に信長により幽閉され義父を頼り日野城へ逃亡
嫡子の関盛忠は天正2年の長島討伐で信孝や蒲生賢秀に従い従軍し討死。

織田信孝
信雄は長島滅亡後の天正3年信意に改名するまで
北畠家での支配実績がまったく書状で確認できない。
そのために織田家へ突っ返されていたとする見解もある。
神戸家での信孝はほとんど不明で、信雄以上に謎。

鹿伏兎豊前守宗心・神戸具盛・関盛信・蒲生定秀は反織田でつながっていた。
しかし義昭降伏と浅井・朝倉滅亡を契機に蒲生は織田へ鞍替えし関氏の嫡男も従う。
182人間七七四年:2012/02/19(日) 14:45:40.48 ID:/pcF7kQ1
>>177
はいはい無知乙
景隆か景佐のどちらかわからんわけだがw
六角が戻ることで、
領地が旧持ち主に返還されても、
あなたの領地高は織田で保証するからとなだめてる情けない書状じゃん。
183人間七七四年:2012/02/19(日) 15:12:12.87 ID:TXveJRJQ
蒲生が寝返ったと宣伝して味方をなだめてる情けない書状
織田水軍に勝ったと宣伝して味方をなだめてる情けない書状
184人間七七四年:2012/02/19(日) 15:13:58.18 ID:MOHEK543
>>182
おいおい>>175では「信長が六角に領地を返還した」と書いてあるくせにもうひっくり返すのか?w
そうだよな所詮史料を都合よく解釈して組み立てた妄想理論だもんな。

そもそも山岡氏は景隆にしろ景佐にしろ旧六角家臣なわけで、
彼が旧主を捨ててまで信長に味方したことを信長が高く評価しているわけ。
で、せっかくそんなリスキーな行動してまで信長に味方してくれたのに、和睦によって
六角が好き放題して山岡氏を不遇に追い込んだ時に放置すれば見限られるのは当然なわけで、
おまえの褒賞はどうなっても保証するという朱印状だろw全然意味が違ったなw
185人間七七四年:2012/02/19(日) 16:19:13.24 ID:P+sErgHu
近衛家文書の2/16長政→伊勢七郎左衛門宛てでも信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。
長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べ
山岡家の領地は栗太郡と志賀領であるが、すでに志賀郡が失われているのか、
山岡家が反織田側に内通していたのがわかる。
山岡景友が志賀郡を手中にしていたのか、それとも景隆や景佐も両天秤をかけていたのか。

元亀2年には駿河の富士金山・安部金山・井川金山などが武田金堀衆により本格稼動し始めてる。
といっても、もともと採掘してる武田領の長畑金山を駿河側から掘ったり(井川金山)
武田の早川金山を駿河側から掘ったり(安部金山)
武田の中山金山を駿河側から掘ったり(富士金山)
要するに武田氏が従来の金脈を駿河側から掘って採掘力を2倍に強化したと言うこと。
これで武田の財力基盤はさらに強化されている。

小規模な範囲での興福寺(永禄8年・永禄10年)や浅井氏(永禄9年)の撰銭令の猿真似をした
織田政権は上洛した翌年に撰銭令(永禄12年)を広範囲に出して
多くの悪銭を畿内で流通させインフレ経済崩壊を招いた愚か者。
ミクロレベルでの政策なら一定の成果が上がるが、マクロレベルでやった信長はアホ。
悪貨が良貨を駆逐するの例えどおりに重度に悪銭が畿内に集中し、
他地域では良銭が流通したため畿内→外地域での決済において拒否が続出。
そのため元亀2年辺りに至ると物々交換と言う古代時代に戻ってしまったw
元亀2年から天正8年の時期は信長の命令は無視され決済拒否される悪銭は使用さなくなり
そして天正8年に至ると石見銀の流通が活発化した。
豊臣政権は撰銭令を撤廃し米主体の石高制を採用し河川流通を整備するや
景気低迷を脱して桃山文化の香る時代が招来している。

一方の信長は永禄11年12月の誠仁親王の元服という晴れの舞台において
無礼にも流通拒否される悪銭ばかりを献上して朝廷の公家達を激怒させている。

このように信玄の上洛とは畿内経済の破綻による生活苦による一揆の隆盛。
東国経済の飛躍的向上に裏付けられた時代の流れなのである。
一方、1560年代より島津が大隈の加治木で偽銭製造を開始し
偽造硬貨による信用不安で西国において銭より米が決済に使われる頻度が上がる。
東国では悪銭でない永楽銭が信長の失政で信用低下著しい京銭4文との交換比率になっていた。
この信用不安を解消する手を打ったのは秀吉。
とくに天正大判を発行するなど秀吉の金本位体制は
西欧重商主義と金融資本の概念を先取りしていて驚愕的である。
186人間七七四年:2012/02/19(日) 16:20:34.47 ID:P+sErgHu
永禄11年11月上洛するやさっそく
石山本願寺に礼銭五千貫を恐喝
法隆寺に防築銭千貫余を恐喝
永禄12年2月
堺の代表10人中8人を
自刃に追い込み二万貫の矢銭を恐喝。
尼崎は矢銭拒否により全焼略奪。
8月の織田による山名祐豊の但馬攻略後に
祐豊は堺の金融業者の渡辺宗陽を頼って今井宗久を紹介され
今井宗久が祐豊に年利40%で1000貫文を貸付け
それを信長への礼金として但馬復帰を許してもらってる。
信長が永禄12年からの恐喝集金システムでバブリーだったのも
志賀の陣での敗北までに浪費しまくって全部使ってしまったのだろう。
信長がやたら強気に出て、本願寺まで敵に回してしまったのも
あまりの想像を絶した大集金で舞い上がってマトモな判断力を失っていたのだろう。
永禄13年4月改め元亀元年4月に改元。
朝廷からの荘園返還要求から逃げまくる信長
比叡山の荘園横領しまくりの信長による元亀2年9月比叡山焼き討ち略奪。
元亀3年に奈良内銀子320枚・興福寺銀子100枚・東大寺銀子50枚を上納
しかし金が尽きたのか12月にも再度の要求があり成身院に銀子100枚上納の記録が残ってる。
この年は大和で地震もおきていて大和亡国と呼ばれた。
元亀4年に天皇から乱妨狼藉の禁止・禁中御警固を命じられていたのに、
賀茂から嵯峨まで燃やして恐喝し銀棒300(それぞれ重さ43匁)
銀1300枚受け取り拒否した上京を焼き討ち略奪。下京恐喝(銀800枚)で金品を集める。
織田軍は常に金欠だったんだろうな(ちなみにこれ以前にも京で略奪をやって織田軍と徳川軍が
略奪品を巡り衝突し織田軍が敗北している)
越前加賀で虐殺略奪大会したあとに前田や不破や佐々に越前の寺社領は
先祖の織田神社以外はすべて没収とかやってるし
宗麟とかは商人から借金したりしてるけど
信長の場合は武力をチラつかせて上納を要求する恐喝型だしな。 完全に893
堺、草津、大津の関に代官を置いて税金取ってた信長に対して、
三好や六角や一向一揆はその交通量を激減させ
織田軍の補給や退路を遮断させ疲弊させる戦略だからかなり有効だったと思われる。
京での暴挙は自暴自棄に等しく完璧に物心両面で信長は追い詰められていた証拠だろう。
さらに奈良京都堺尼崎で恐喝略奪をして荒廃させた以上、
これ以上の略奪における大利益をあげるのは難しく、
天正2年春に織田が攻勢をかけるもまた資金難で停滞し各軍が各国で苦戦している。
兵力分散してるのも各軍が各国に現地調達をして軍を養わざる負えないからだろう。
原則は軍役負担者が安堵地から輸送による自給ではあるが、
軍役に次ぐ軍役でとても負担出来るわけもなく現地略奪方式を取らざるを得ない。
織田軍が虐殺したりしてるのも略奪や財産没収が目的だろう。
この略奪モンゴル方式は天正8年の本願寺との和睦まで続く。
あんだけ無理を強いて戦い続けてりゃ軍費だって無くなるだろ。
戊辰戦争でも軍費問題はデカかったんだから。ガキの頃から豊かな生活を親が与えると
大人になっても浪費癖が治らないばかりか酷くなるってのは事実なんだな。
それで金が無くなると虐殺と略奪だもんな。
そいつがアスペ・パワハラ独裁権力者だったから日本は不幸の闇に包まれたってわけだ。
187人間七七四年:2012/02/19(日) 18:41:11.15 ID:TXveJRJQ
よし、>>185-186を現代語訳すると
「私は負けました」
188人間七七四年:2012/02/19(日) 19:34:16.09 ID:NaVswHLf
この程度の長文も読めないとか馬鹿すぎる
189人間七七四年:2012/02/19(日) 20:04:35.15 ID:TXveJRJQ
>>188
そんなに負けた負けた連呼しなくてもいいのにw
190人間七七四年:2012/02/19(日) 20:13:12.48 ID:ynzI9JR/
>>188
文章としてのまとまりが無いから読む気がうせるだけであって、
読めないわけでないのは、
あたりまえであって、法律文書のように一文あたりが異常にながくてさらに句読点の位置もおかしければ
主語述語もしばしば乱れてるし、主張があっちにとびこっちにとびして全体像として理解するのが非常に面倒で
さらにところどころ主観交えて客観性を損ないほんの一行で済むことを無駄に修飾してながくしてる駄文で
さらにコピペも交えるから他のすれ、
でもあったけど「3/23に多聞院は天皇が信長の敵国の神々を祈祷により吹き飛ばした神力であり、人力の及ばないものだと書いている。」
なんて異常な文章も混じるから読む気がしない


な?読む気しないだろ?
上もまとめれば駄文過ぎて読む気がうせるというだけの話
気が向いたら文意そのままに、添削してやるよ


191人間七七四年:2012/02/19(日) 20:40:37.83 ID:jXjzNsMC
>>190の駄文ほど読む価値がまるでない長文は無いなw
織田厨はもうレスしないでくれないかな。
新規に学べる情報も一切出さない荒らしなんだし。
192人間七七四年:2012/02/19(日) 20:47:07.97 ID:ynzI9JR/
546 名前: 人間七七四年 [sage] 投稿日: 2012/02/19(日) 20:34:33.31 ID:jXjzNsMC
噴火被害の上に織田軍の略奪焼き討ち虐殺で
ボロボロだったろうな。

142 名前: 人間七七四年 [sage] 投稿日: 2012/02/19(日) 20:36:00.06 ID:jXjzNsMC
また織田厨得意のあるある詐欺かよ…

640 名前: 人間七七四年 [sage] 投稿日: 2012/02/19(日) 20:37:35.36 ID:jXjzNsMC
糞レスしかしない
織田厨のレスは読む価値すら無い。

随分と目の敵にされてるようですねw
何か嫌な思い出でも御座いますか?w
193人間七七四年:2012/02/19(日) 22:04:26.98 ID:MOHEK543
そらまあ自分が敬愛する信玄が一生かかっても勝てなかったのが信長だからな
194人間七七四年:2012/02/19(日) 23:49:28.51 ID:TXveJRJQ
信玄の何がそこまでいいのか分からん
創作のならともかく
195人間七七四年:2012/02/19(日) 23:58:05.87 ID:ynzI9JR/
そりゃ蓼食う虫もってやつだろ
信玄が蓼かどうかはおいといて
196人間七七四年:2012/02/20(月) 10:57:40.18 ID:1YNqnspj
敵にしても味方についてもロクな結果を招かない時点で
信玄は蓼扱いされても仕方ないな。
197人間七七四年:2012/02/21(火) 02:20:27.06 ID:NHp46UOm
ご自慢の研究成果(笑)のコピペを他所にも持ち出してるようだが規制の元だから
もう少し頭使わないと2chにも居られなくなるよ。

まぁ消えてくれてもいいけどな。
198人間七七四年:2012/02/21(火) 03:54:51.43 ID:aRqvSQFO
織田厨死ね
199人間七七四年:2012/02/22(水) 07:33:11.82 ID:+muXjWwN
公記が隠蔽して一切書かない山陰戦線
信長は援軍として西に兵力派兵する余裕が無かったから、
勝頼は非常に有利な状況だった。
丹波の赤井直正も勝頼に書状を出してたし、
赤井忠家や内藤如安や宇津頼重らが反織田で丹波も毛利や武田に協調してる。
これ信玄の大きな遺産だな。
5月に長篠で武田が無謀な決戦で大敗した為に、
信長は余裕が生まれてしまい、
8月越前一向衆を壊滅させてから、
光秀に丹波侵攻を開始させてる。
波多野ら丹波衆の反撃で光秀は大敗したが。
実際、天正三年3/4には
芸但和与が正式に発足したことに対する織田→小早川への返信で、
信長は但馬はかねてから申し入れているように織田分国であることを承知してるはずだ。
近年はずっと山名祐豊から連絡が来なくなったのは無念だが、
出雲や伯耆の安定の為に、
尼子のいる但馬出兵がどうしても必要なら
仕方が無いと
背後で尼子を支援してる信長もしぶしぶ毛利の但馬での勝手な行動を認めてる。
それだけ信長には余裕が無かったから
露骨に毛利に開戦したく無かった。
信長は毛利に対して内心激怒してただろう。
すでに天正元年12月までに元春が信玄西上のドサクサに織田分国但馬を平定して出雲に帰国しており、
毛利は朝山日乗や安国寺らを織田に派遣し、秀吉を窓口に信長に媚びて敵対行動の誤魔化しをしてた。
うまく信長との間を誤魔化せたのは秀吉と朝山のおかげだと安国寺が12/12に書状を出してる。
以前の但馬窓口は志賀の陣で討死した坂井政尚だった(山名祐豊が帰国し交代するまで但馬此隅山城を占領して但馬統治していた。
朝倉軍が坂井を討死させて織田但馬窓口消失の大金星を挙げる)
天正4年5月までに尼子残党を京へ逃亡させ
毛利は山陰再平定に成功してる。
その一方で山陽道でも織田に内応した備中の三村を毛利は天正3年5月までに平定に成功。
勝頼が長篠で大敗したのはガチでバカ過ぎ。
200人間七七四年:2012/02/22(水) 07:52:56.77 ID:hDeAZiI2
朝っぱらからコピペにご執心のようだが、

長篠合戦が起きない状況なら信長が軍を総出で家康を救援するなんていうことは起こりえないから

家康には三方が原のように適当に援軍をだし、信長の主力軍が総出で西へ向くだけのこと。毛利は勝頼に感謝すべきだな。

勝頼が織田主軍をひきつけなければ、毛利は即刻織田との決戦に持ち込まれて敗北しただろう。
201人間七七四年:2012/02/22(水) 07:58:36.50 ID:hDeAZiI2

最も、その当時毛利が織田に対して誤魔化し、織田を毛利を脅威に捉えていなかったからこその長篠合戦と相成ったわけである。

そもそも長篠なんていうのは武田徳川の戦いであって信長はほぼ無関係である。

その気になれば家康を見捨てて、あるいは気休めの軍だけ送ってあとはがんばれと放棄することだって造作もなかった。

それをせずに長篠で徳川に全面協力を惜しんだのは、織田信長に余裕ができていたゆえである。
202人間七七四年:2012/02/22(水) 08:27:24.77 ID:+muXjWwN
バーカw
但馬の生野銀山利権が存在していたから、
信長は但馬は織田分国だと固執していたのも知らんで、
いい加減なことを書いてるアホ織田厨w
丹波すら平定する力の無い織田が全力で但馬へ向かうとか笑わせんなw
丹波の赤井まで但馬へ毛利支援で出撃してんだから、
まずは赤井を潰してから、
そーいう発言しろよwww
毛利は織田の弱みに付け込みまくり勢力拡大。
信長は東からの脅威に警戒し続け
毛利巨大化を止む無く見ないフリをして西での戦線が拡大しないようにし、
陰で尼子残党支援してた。
そして石山本願寺との天王寺の織田大敗を機に、
毛利は淡路島を占拠し義昭を呼んで石山本願寺に呼応し、
ついに織田への誤魔化し路線から対決する道を選び、
謙信の上洛戦も開始される。
武田が石山本願寺攻めを中止させるために長篠の戦いに発展してしまったが、
信玄末期時代から生野銀山利権を織田から奪った毛利拡大の支援をしていたとも言える。
203人間七七四年:2012/02/22(水) 09:36:06.91 ID:hDeAZiI2
ついに日本語すら読めなくなったのか?w

丹波の赤井に手間がかかったのが当時信長は例によって数々の敵を抱えていて
赤井には明智光秀らの軍勢にしか割けなかったためであって、>>199の長篠がなければーなんて推測など無駄以外の何物でもない。
結局のところ信長が東の防衛を優先した隙間を狙っての毛利の勢力拡大なんだから
東無視できるんなら西に突っ込むのは至極当然。もっとも、そんな主君信長の手を借りずとも
光秀は丹波平定をわずか4年で終わらせるという結果に終わりましたが。

誰かさんは山賊ばかりの信濃に10年以上かかってましたけどねw
204人間七七四年:2012/02/22(水) 09:48:03.97 ID:hDeAZiI2
そもそも光秀の丹波平定が一度失敗に終わったのは、赤井直正が有能だった、というのもなくはないが、
最大の要因は波多野秀治の逆心によるもので、別に光秀が無能だった、赤井すら倒せなかったというわけではない。
実際2度目の丹波平定では波多野を包囲して調略で捕え、赤井悪右衛門直義を降伏させるに至るんだから、
正直赤井直正が生きていようが死んでいようが裏切りで勝っている以上正攻法で勝てるわけもなく大勢に影響なんざない。
205人間七七四年:2012/02/22(水) 09:50:05.44 ID:I4EBoBFL
>>201
は誤字・文意におかしな所が二カ所あるぞ
オマエの方が日本語知らない
厨か?
206人間七七四年:2012/02/22(水) 10:42:53.84 ID:bUPYj0u2
>>199より余程日本語だけどな
文意はほぼ理解できる
>>199は・・・w
>>199に違和感を感じないあたり、>>205もその程度の文章力ってこと
若しくは同一人物であるということ
過去にID変えて自演ばれた人いたなあ・・・だれだっけ?w
207人間七七四年:2012/02/22(水) 13:01:24.61 ID:DBa4RpRU
>>203
丹波の赤井に手間がかかったのが当時信長は例によって数々の敵を抱えていて
赤井には明智光秀らの軍勢にしか割けなかった

へぇー越前一向衆壊滅させてから織田軍が丹波侵攻し、
天王寺で織田が石山本願寺に大敗するまでの期間の織田軍はいったいどんだけの敵と戦ってて余裕が無かったんだよ?
大名の名前をいろいろ挙げてみろよ。

公記は織田の丹波侵攻と大敗を無かったことにしてるほど致命的大敗だけどなw
結局、丹波平定出来たのも、
謙信や赤井直正死去、
手取川で無断逃亡した秀吉が播磨に来て天正5年に秀長が但馬生野銀山を押さえて、
毛利との連絡線が断ち切ったどころか、
西北から丹波侵攻が可能になったからじゃねぇかw
その間に波多野の親類の別所に続き荒木も蜂起。
但馬から播磨三木城包囲に出てた秀長が信長に、
八上城攻めに苦戦中の明智支援の丹波攻め転用命令で
天正7年5/4に西丹波へ侵攻し氷上城攻めしてるが、
秀吉が毛利が来たから至急播磨に戻れなどと織田軍は混乱しまくり。
簡単に織田が丹波平定などしてないわなw
208人間七七四年:2012/02/22(水) 13:06:19.12 ID:DBa4RpRU
>>204
そんで、wiki見て書いてんだろーが
実際には織田の丹波侵攻は三度目の正直で平定だからw
209人間七七四年:2012/02/22(水) 15:13:20.98 ID:BSFpEmKA
姉川の戦いののちも浅井・朝倉はむちゃくちゃ勢いがあって
9/20森可成や織田信治や青地茂綱らを討ったあと、
宇佐山城の守りが固く、そちらからの入京に時間を浪費すると喝破した浅井朝倉は即日、転進して大津を放火し
9/21山科醍醐方面から進軍する迅速な判断力は褒められる。
(24日には信長が下坂本に着陣してる)
そして24日には京の前面である浅井は比叡山青山、朝倉は青山南の壷笠山に陣を敷いた。
その上で京を戦乱に巻き込まないように京を大回りして
(先鋒は入京していたが賀茂別雷神社・離宮八幡宮・知恩院・東寺らに禁制を給して迂回)
長政隊は丹波から嵯峨へ進軍して織田軍後方をかき乱す遊撃を開始してる。
10/20山崎の本願寺が御牧城を攻め取り、
それに呼応した比叡山の浅井・朝倉軍が出撃し、
織田方に組する左京区にあたる織田軍と(義昭奉公衆との説あり)
交戦しつつ修学寺・一乗寺・試楽寺・高野・松ヶ崎などをピンポイント放火してるし、
(義景は元亀2年7/4に六角軍が入京するにあたり、
義賢に洛中を放火しないように書状を送っている)
22日には大坂本願寺が畠山昭高の高屋城を攻め、
若狭武田も織田から離反して武藤や粟谷と挙兵してる。
信長は完全に無策で、家康に援軍派遣の哀願をするしかなかった。
家康は信長に江南を我が物顔で暴れている一揆と六角勢が、
瀬田と草津の間を封鎖するのを防いで退路を維持する役目を負わされた。
信長はというと11/21朝倉軍は坂井政尚と安藤守就の子を討死させ、
同日には伊勢長島でも織田信興が討死と全戦線が崩壊。
11/28朝廷から関白二条晴良が信長の和睦懇願を受けて坂本へきた。
織田の敗北は間違いないんだよな。
水藤真氏が「綸旨・御内書・御下知・信長誓詞と
およそ紙に書くことのできる全てが書かれ、比叡山に与えられた」
と書いているわけだ。
信長はありとあらゆる手段で和睦してもらおうとしてるわけ。
そして朝倉も比叡山に「当表の一和之儀、勅命上意」と書いていて
今谷明氏が朝倉らは「勅命を拒むことができなかった」と書いていて
宮島敬一氏もそれに同意している。
よって大久保の書いてる内容は事実に近いわけだ。
さらに志賀の陣の和睦交渉で、朝倉は信長には他意は無いが、
浅井を見捨てるに忍びずと言ってる。
朝倉には織田への戦意がそもそもない。だから朝倉に奪回意思はそもそも無い。
朝倉にその気が無いのに、
浅井単独で横山や佐和山の奪回は無理。
別に朝倉領でも無いし。
210人間七七四年:2012/02/22(水) 15:15:11.62 ID:BSFpEmKA
10/20山崎本願寺が御牧城を奪って、それに呼応した朝倉・浅井が比叡山から出撃し
織田方に組した一乗寺・試楽寺・高野・松ヶ崎ら左京区に突撃して攻撃してる。
また大坂本願寺も10/22日に高屋城攻め開始。
織田弱しと見て若狭武田氏も武藤・粟谷と共に織田に対して挙兵。
信長はもはや比叡山戦線で手いっぱいになり完全に江南に手が回らなくなり、
家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから
瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請。それで石川家成ら2000を家康が派遣。
11/21伊勢長島で信興が討死。11/26堅田で坂井らが朝倉軍により全滅させられる。
これで完璧に織田軍が追い詰められてしまい、
11/28信長が浅井に土下座5ヶ条の朱印状を出して朝廷から和睦だからと
必死に講和を願うブザマさにまで失墜する。
これは三河物語が書いてる「天下は朝倉殿が取りたまえ。我は2度と望まず」が
正しいことを証明している。 一次資料的な裏づけが揃っているからね。
三河物語では延暦寺が朝倉に兵糧を補給しているので、信長のアテが外れたと書いている。
耶蘇会士日本通信でも「敵(浅井・朝倉)は上坂本および比叡の山の諸山に籠もり、
坊主等は食物および家を供して大いにこれを助け」と書いていて食料不足など書いてない
関白二条晴良が勅命が合意できなければ高野山に隠居するとまで言ってた
山門の難渋にしびれを切らした関白二条晴良は(尋憲僧正の日記)
「もし今回の和議が出来なければ、身共は高野山に上り、隠遁いたす。」
と強硬に言い張って、ついに山門も折れた。
延暦寺に対して綸旨・御内書・御下知・信長の誓詞・山門領すべて安堵(一揆国人達をすべて許す)
およそ紙に書くことができる全てが延暦寺に与えても
なかなか延暦寺は承諾しなかったと水藤真氏も
織田側が和睦に無茶苦茶必死だったことを書いてる。
長政にも勅宣や朝家は神国の要だからと強調した
5カ条の朱印状を信長は提出してるし
12/13に六角にも知行渡すし、浅井に2/3を与えてもよいと信長は言ってる。
織田がボロ負けしたとする大久保の記述が正しいと思われるのは
それ以後もずっと朝倉が優勢な点からもわかる。
211人間七七四年:2012/02/22(水) 15:17:21.64 ID:BSFpEmKA
☆慈敬寺文書の顕如書状2/14付けで慈敬寺が伊藤城を攻略し其の表の面々は此方一味であり
堅田まで属理運、還住由になったとして黄金三十両を進呈している。
2/15松永久秀や岩倉の山本対馬、山中の磯貝、和邇の金蔵坊、勢多の山岡、田中の渡邊らが
10日付で義昭に帰参しさらに静原に山本城を築いて織田に反抗する。
近衛家文書の2/16浅井長政→伊勢七郎左衛門宛てでは信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆(義昭軍)合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
小林吉長も2/17付けで堅田村の郷士達への書状で慈敬寺との入魂専要之旨と述べている。
2/19の義昭書状では★山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯貝新右衛門らまで
悉く取除、明智光秀は儀無正躰候、近邊大略属本意候と書いていて
(2/13における木戸表(大津市)御働として光秀が革島忠宜へ感状を出してる)
浅井長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べている。
琵琶湖最大の商業地の堅田村の郷士達が本願寺や浅井の味方になってしまい
坂本を居城とする明智軍は大津で苦戦し立ち往生しているのがわかる。

2/23筒井城の順慶が春日社参詣に3000人を引き連れてきたため
松永久通が警戒し小規模な衝突もあったようだ。
大神楽や神馬を奉納して成身院に宿泊後にすぐ筒井へ帰る。
2/23信長→細川宛で信長自身が信玄が去る17日に野田表から撤退したので、志賀の一揆蜂起について
蜂屋・柴田・丹羽を出征させ湖を渡らせる。成敗に手間がかかれば世間聞合なので
自分も近日中に佐和山へ出て上洛し畿内を平均すると述べている。
すでに湖経由でないと明智への援軍も上洛できないほど街道封鎖は深刻になっており
大津や草津の関も機能してないはずで近江戦線は崩壊してるのがわかる。
捏造軍記信長公記は柴田と明智らが石山と堅田砦を破り西近江を平定すると書くが、
によると☆のような情勢であるのがわかる。
2/24に革島宛てに光秀が明日から今堅田を攻めると書き(柴田軍が大津に到着したのか?)
2/26義昭に同調し三井寺の光浄院暹慶(山岡景友)ら西近江で挙兵。
2/27には顕如→信玄宛てで江州西路事、此方當門家中慈敬寺以調略属本意候と書いている。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。

3月朔日で柴田が革島宛てに今堅田成敗申し付けと報告してるので攻撃開始したのだろう。
やはり明智軍(光秀は配下の18将を供養してる)は
★のように戦力としては崩壊しているようで、主力は柴田が担っているようだ。
信長は伊丹氏により摂津において中島城の細川が堺へ敗走(信長はさてもさても惜しいことだと悔しがってる)
に続き3/7にはさらに賀嶋城まで落ちて絶言語と動揺している。
3/13には下間頼充が馬場宛で今堅田に篭もっていた馬場親子が敵が取詰にきた時に一戦し粉骨したのを
慈敬寺から報告を受けたと戦功を感謝しているし
3/18に義景が木戸城主佐野十乗坊秀方へ早船で急ぎ加勢した近江高島郡の多胡宗右衛門を褒めていて
3/21には義景→馬場宛でも敵が相働くも十乗坊に立て篭もり粉骨したのを賞して、
佐左馬要害と同等の価値あると言っている。
(佐々木左馬頭とは義昭側の仁木義政で明智軍記では義政は山岡らと石山・堅田に籠城したと書いてある)
4/2には長政も馬場に木戸籠城を褒め称えていて、相次いで織田を粉砕した大勝利を褒めている。
この状況から見るに柴田ら織田軍は、義昭らに敗北を重ねて
信長が兵を集めて援軍に来るのを待っている現実が見える。
大商業地堅田村を一向宗側が取り込んでいるため、
今堅田・石山・佐左馬要害・木戸城十乗坊攻めで織田軍が大敗している。
また明智軍が崩壊していた現状から手間取ると外聞が悪いと気にするほど劣勢の信長は
信玄が帰ったし信長自身が出馬すると言いながら兵力が全然集まらずまったく出馬できないありさま。
松原信之氏が著書で義景本人の天正4年の出撃を
3/11で敦賀までやってきていて、5/10に一乗谷へ帰国したと書いてるから
朝倉先陣は3月中に小谷まできて普請を始めてるはず。
212人間七七四年:2012/02/22(水) 18:20:52.59 ID:W/J6nMCK
長い
要点だけ纏めろ
はい次
213人間七七四年:2012/02/22(水) 18:50:26.39 ID:UN/Nyv06
>>212
信長死ね!信玄最高!
これだけですw
214人間七七四年:2012/02/22(水) 20:15:06.42 ID:gj86/pow
でもオチは「これだけやってて信長に負けるんだぁ(苦笑)」だからなぁ。
215人間七七四年:2012/02/22(水) 20:34:51.69 ID:L1ZfIGsV
信長がやられて三好が京を占領すれば追放されるのは義昭だからね。
追放で済めばの話だけど。
216人間七七四年:2012/02/22(水) 20:45:07.93 ID:A89HLZbl
えっ?相変わらず織田チョンは無知ですね。
三好は義昭に帰順してますが。
217人間七七四年:2012/02/22(水) 23:09:09.93 ID:PUPSZzad
>>67
大和とか河内とか
織田軍が帰った後に
一国亡国とかよく書かれるよな。
まさに疫病神かイナゴの大群だよな織田軍って。
218人間七七四年:2012/02/22(水) 23:09:27.89 ID:hDeAZiI2
>>216
正月早々義昭仮本所の本圀寺襲っておいて何言ってるんだ?
義昭が迎合したのは反信長に属してからだろ。

>>208
一度目のは兼見卿記、三度目のは信長公記からほぼ丸丸取っている。
つか二度目のはこれカウントするのか?1ヶ月またずして摂津平野という別戦線に投入されてる時点で丹波での軍事行動などほぼなかったろ。
まあ二度だろうが三度だろうが最終的に変わり映えないからどうでもいいけど。

やけにwikiに固執しているみたいだが、正直おまえはwiki見た方がいいと思うぞ。
他国の歴史語ってるんじゃないかと思えることが山ほどある。
219人間七七四年:2012/02/22(水) 23:18:53.29 ID:hDeAZiI2
コピペ誤り

>>これは三河物語が書いてる「天下は朝倉殿が取りたまえ。我は2度と望まず」が 正しいことを証明している。

誤りである。当時信長は天下の棟梁として足利義昭を掲げており、志賀陣の和議の際にも義昭が御内書を発給するくらい尽力している。
この和議が事実なら織田信長は天下の棟梁の足利義昭から勝手に朝倉義景に移譲していることになり、義昭の恩を仇で返して面目を丸つぶれにさせることに繋がる。
ちなみに作者の大久保は御年10歳。その後誤魔化すかのように身内の武功話を書き連ねる。

>>11/21伊勢長島で信興が討死。11/26堅田で坂井らが朝倉軍により全滅させられる。 これで完璧に織田軍が追い詰められてしまい、

伊勢方面は滝川一益が、摂津方面では和田惟政が戦線を維持している。
堅田で坂井が討死したが朝倉方も前波を失う被害を出す。
つか美濃尾張は無事なんだから戦線崩壊したら南近江方面に転進すればいいだけ。
なぜ湖南ではなく湖西で戦っているのか理解できていないにわかの考え方

>>浅井長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べている。 琵琶湖最大の商業地の堅田村の郷士達が本願寺や浅井の味方になってしまい

志賀郡と浅井本領の浅井郡は琵琶湖を挟んで対岸に位置する。
信長や第三勢力ひしめくこんな飛び地を少なくとも浅井が独断で取れるはずもない。
裏づけ史料や戦功報告や感状もなく、ただの口から出まかせである。
220人間七七四年:2012/02/22(水) 23:24:38.43 ID:PUPSZzad
伊勢方面は滝川一益が、摂津方面では和田惟政が戦線を維持している。


上記の内容を証明する一次史料を出すように。
221人間七七四年:2012/02/22(水) 23:31:10.21 ID:hDeAZiI2
和田は柴田とともに摂津におかれていることが信長公記にちゃんとある。
つか和田が討たれれば京に三好軍が入ってくるので志賀陣どころではない。

滝川はもっと簡単で、そもそも突破された記述がない。
つかおまえ織田信興がいた古木江城の場所わかって言ってる?
そんな戦線を維持するような重要人物じゃないんだが
222人間七七四年:2012/02/22(水) 23:32:23.26 ID:GHRuAc7S
>>1からの流れでずっと信長公記の信憑性が疑われているのに
信長公記をまるまるソースにしてレスする織田厨っていったい…><
223人間七七四年:2012/02/22(水) 23:42:35.43 ID:hDeAZiI2
>>222
疑っている人が疑っている人だもの。
長島一向一揆の拠点である願証寺と古木江城の位置関係すらわかっていない。


とりあえず地理ができないだがさんに教えておこう。
長島一向一揆の拠点となった伊勢長島は木曽川、揖斐川、長良川の中州に位置し、
古木江城はこれを監視する目的で木曽川の対岸に築かれた城。
つまり長島一向衆の連中は対岸の織田方拠点を落としただけにすぎず、
すぐ近くの織田主要拠点であった津島や桑名にすら手を出せずにこまねいていた時点でお察し。
224人間七七四年:2012/02/22(水) 23:48:04.27 ID:GHRuAc7S
どうでもいいけど俺のレスやID:PUPSZzadのレス読んで本気でだがだと思うか?
文体も思考回路も主張内容も違いすぎだろ。
それから信長公記の捏造の指摘に織田派は部分的にしか答えてないよ
それも答えになってるか分からんけど
225人間七七四年:2012/02/22(水) 23:57:21.96 ID:hDeAZiI2
>>224
凄く簡単な理屈だけど捏造が多すぎて面倒で答えたくないというのが1つ。
わかりやすい例を挙げると

>>家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから 瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請。

石川家成が派遣された理由は三河物語にはない。なお箕作観音寺の一揆衆を突破したのは秀吉と丹羽

>>12/13に六角にも知行渡すし

和議によって信長に味方した山岡対馬の領知高安堵書状を勝手に誤認しているだけ。

とまあ正直多すぎていちいち突っ込むのもめんどい。
一部分だけでも挙げていれば、アテにならんコピペだということはわかるだろ
226人間七七四年:2012/02/22(水) 23:58:56.11 ID:hDeAZiI2
他の人も多く主張しているが、そもそもだがのコピペ通りに事が運べば
信玄が上洛せずとも信長は滅亡の憂き目にあうかのような阿鼻叫喚の惨状で、
歴史が変わってしまうというのもあるが。
227人間七七四年:2012/02/23(木) 00:24:26.35 ID:pfvMYTW5
>>224
だれか偉い学者先生が信長公記は全てアテにならないと言い出したらまたおいで
228人間七七四年:2012/02/23(木) 00:40:56.18 ID:Q///k//9
信長公記は偽書
このスレを読めばわかる
229人間七七四年:2012/02/23(木) 00:49:16.48 ID:Q///k//9
信長公記って本当に同時代の人間が書いた物なんだろうか?
それにしては嘘隠蔽誇張の集約みたいに感じるが…
230人間七七四年:2012/02/23(木) 02:56:44.15 ID:I5Y8Dtbu
信長公記でそう感じるんなら三河物語とか甲陽軍鑑とか読んでられん。
10倍の兵を破るスパルタ軍並みの軍功をさらっと出していたり、
今まで苦戦していた人間があっさり死んだりするとあいつは愚鈍と掌返し
231人間七七四年:2012/02/23(木) 03:13:51.84 ID:Q///k//9
軍艦も三河も信公も似たようなもんだろ
これといって差異をつける根拠を感じない
文体が違うだけ
232人間七七四年:2012/02/23(木) 03:55:18.47 ID:iEALJTpw
感じるとか感じないとか、そんな感情的な事はどうでもいいから。
233人間七七四年:2012/02/23(木) 06:29:02.18 ID:1uU3n+KI
>>232
馬の耳に念仏だと思う。
234人間七七四年:2012/02/23(木) 09:41:59.49 ID://CZoNuN
>>225
そもそも
一揆衆を突破したのは秀吉と丹羽
これ自体が信長公記のデタラメだろ。
当代記にも秀吉や丹羽はこの時期、佐和山や小谷を抑えてると書いてるし。
本多広孝関連史料だと家康の援軍が来たから信長が秀吉を墨俣の抑えに回したと書いてるものもある。
松井忠次史料だと信長の下知によると佐々木が国中の往還を遮ってるから勢田草津で佐々木と戦いまくったと書いてるし
牧野康成らの諸記録にも六角承偵と戦い続けたとでてきてるぞ。
別にこんなところでウソつく理由もない。
235人間七七四年:2012/02/23(木) 11:19:01.28 ID:j4K3awo/
一次資料とか言ってたのに当代記w
信長公記より、よほど慎重に扱わないと駄目な史料だろうが。
236人間七七四年:2012/02/23(木) 11:28:50.68 ID://CZoNuN
文章抜けてた。
当代記は秀吉や丹羽らが、
佐和山や小谷への押さえに付いてると書いた後に、
参、旗本(参=三で徳川旗本)が一揆や照光房らを討ち信長が喜んだと書いてる。

当代記は普通に論文に引用される史料だぞ。
別に特定人物だけを極端にマンセーして中心人物化してはいないし。
信長生前から江戸時代初期までの時代を横断した一大編纂物で
公記より信用できるもんだが。
237人間七七四年:2012/02/23(木) 11:43:26.17 ID://CZoNuN
じゃあ聞くが>>235は徳川の援軍はどこで何してたのか史料を示して教えてくれないか?
238人間七七四年:2012/02/23(木) 12:11:34.99 ID:SMYE1kzO
ケチはつけるが論拠ある対論がまったく持ち合わせてないのが織田厨。
織田厨のソースは自分の願望に過ぎない。
239人間七七四年:2012/02/23(木) 13:37:11.48 ID:iEALJTpw
>>237
まず志賀の陣に徳川が援軍にきていたという史料を出してくれないか
240人間七七四年:2012/02/23(木) 15:40:40.93 ID:n6HUwdIh
織田糞狂い過ぎw
241人間七七四年:2012/02/23(木) 19:34:24.86 ID:I5Y8Dtbu
そもそも>>234が提示している史料だと全部バラバラの動きだろ。
秀吉が小谷に行ったり墨俣に行ったり、そもそも近江戦線で戦っているのになぜ美濃墨俣なんだっていう
三河物語で家康の援軍に来ているのは石川家成で牧野や松井の名前はない。
この石河日向が遣わさると書いて以来消息不明になっているから議論になっているんだろ。

ついでにいうと信長公記で丹羽と羽柴が一揆衆を観音寺山で破って信長本陣へ向かったのが10月20日。
三河物語だともうこの時期の志賀の陣は触れられていない。
242人間七七四年:2012/02/24(金) 00:41:26.69 ID:y4kxUD9h
>>241
お前デタラメ過ぎ
美濃じゃなく尾張の墨俣だ。別名が洲俣と言う場所。
尾張に秀吉が言ったのは、
信長が家康の援軍に感謝する意図もあったみたいだけどな。
三河物語は出陣したメンバー全員はこいつらだよと書いてて、
名前が載ってないならともかく、
ただ出てこないから援軍メンバーじゃないなんてクダラナイ屁理屈言うなよ。
石川家成を大将にして派兵しただけで傘下の将まで言及してないだけ。
そもそも石川以外にも将がいたのは、
あとに出てくるベテラン松平信一の六角氏の箕作城攻略の話でもわかる。
消息不明もなにも、各史料からやはり六角攻めしてたんだろ。
三河物語だともうこの時期の志賀の陣に触れてないも何も、
そもそも姉川の戦いのあとは、一気に飛んで12月から書き始めてるし、
それ以前に家康の援軍が来ていたように解釈できる文章なだけで、
お前の文章があきらかに日本人じゃない変な日本語。
だいたい公記みたいに能弁かつ無断に口数多く脚色してるのと違い、
三河物語は脚色がない短くシンプルな記述だから、
公記なんかよりよっぽど信用できるけどな。
243人間七七四年:2012/02/24(金) 00:58:27.26 ID:QJ+Ed7Wn
>三河物語だともうこの時期の志賀の陣に触れてないも何も、
>そもそも姉川の戦いのあとは、一気に飛んで12月から書き始めてるし、
>それ以前に家康の援軍が来ていたように解釈できる文章なだけで、
>お前の文章があきらかに日本人じゃない変な日本語。

なぁにこの文章
244人間七七四年:2012/02/24(金) 01:28:55.18 ID:y4kxUD9h
それに8/17には三好三人衆が義継の河内古橋城を攻め落とし、
9/8には義継の摂津海老江が三人衆に落とされ
9月から10月にかけて
朝倉らに呼応した西岡一揆1000が下京を襲ったりで、
信長は徳政令連発して京で土下座モードだし、
10月末には畠山の河内高屋城が三好長逸に攻められているのに、
相変わらず信長は援軍すら送れない惨憺たる状況だけどな。
事態は信長にとってどんどん悪化してた。
そんな中で家康は謙信と同盟して信玄と手切れ宣言してるな。
245人間七七四年:2012/02/24(金) 01:52:49.78 ID:IHc0pkDJ
>>242
美濃だろうが尾張だろうがどちらにせよおかしいだろ。
両方とも志賀の陣の戦線から遠く離れているのにそんなところに
秀吉を送る余裕なんて当時の織田にはないはずだし謎行動。

あとすごく勘違いしているようだが後の松平勘四郎の武功は志賀の陣の頃ではなく信長上洛戦の頃のもの。
それが証拠に勘四郎の箕作城攻略の記述の後「松平勘四郎度の手ガラ覚エ、云不及然間、都入ラセ給得バ」
という記述があり、松平信一のおかげで京に入ることができたということを強調している。

結局大久保が「信長上洛戦に続いてまたも三河衆が信長の危機を救ったんだぜ」ってアピールしたいがための挿入で
やはり派遣された石河日向のアテや足取りは全く書かれていないんだが。
246人間七七四年:2012/02/24(金) 20:09:02.04 ID:RgP2wyQu
>>245
信長の上洛戦の頃のものってw
また出典がwikiですか…
扨又ってのはそういうことでまた〜があったって意味だから、
すぐ上の文章に関連するか、
時間の概念として解釈して、
その後にまた、と解釈するかどちらかでしか無い。
永禄元年か二年しかあり得無い。
信長上洛の時の箕作攻めの一次史料を拾うと、
織田上洛軍は石成友通と合戦して尾張に敗走。
織田の帰国を確認した石成が11日に帰国。
13日に昨日箕作城が織田軍に攻め落とされ、観音寺城が夜半に計略で落ちた。
そして次々と12の城が落ちたと出てくる。
14日に理由がわかり16人もの六角重臣が織田に同心していたとしてる。
だから徳川軍なんてまったく関係無いのに無理やり関連づけんなよ。
247人間七七四年:2012/02/24(金) 20:13:06.46 ID:RgP2wyQu
訂正
元亀元年か二年しかあり得無い。


永禄11年の上洛の話を志賀の陣のあとに持ち出してきたんだよ!とかバカな解釈して捏造すんな。
248人間七七四年:2012/02/24(金) 20:39:52.98 ID:AA7P8lgF
どこから突っ込んでいいやらw
249人間七七四年:2012/02/24(金) 23:23:21.37 ID:IHc0pkDJ
>>246
三河物語原文まで載せたのにwikiという発想はどこから来たんだw

>>扨又ってのはそういうことでまた〜

三河物語の本文中で「扨又」がかかっているのは「切而ノボラセ給フ」までだ。
これは志賀の陣の和議を受けて岐阜に引いた信長が再び京へ向かったということを指しているだけ。
それが証拠にその後の記述で「又家康寄○家勢チ。被成リ。」とあり、ここから「其時ハ松平勘四郎殿○。所家中寄人ヲ。」と続いて
松平勘四郎信一の話に繋がる。わざわざ其時と入れていることからしても大久保が志賀の陣の時の話をしていないことは明らか。

結局この部分は「信長は和議を結んで岐阜へ引き、そしてまた京へいった。今回も家康殿は信長の命を被って戦った。」とあり
「三河衆がまた信長を助けた」と大久保がアピールしたいだけで、前に徳川勢が信長を助けたことを懐古しているだけ。

ちなみにその後の記述は「然者此小城ニテカカリ面目ヲ強クシ詮モナシ。是ハ先指置(サシオキ)而。都得切而ノボラントテ。」とある。
これは「他人を差し置いて都を得て上洛せんとして」という意味が容易に取れる。既に京を取った後の志賀の陣の話ならば、まずありえない記述だろう。
250人間七七四年:2012/02/24(金) 23:55:38.53 ID:FWMgDTp5
>>249
曲解キチガイ乙
251人間七七四年:2012/02/25(土) 00:15:19.73 ID:ugiUZ3zV
>>250
せめてもっとましな言い訳しろよだがw
252人間七七四年:2012/02/25(土) 01:32:27.49 ID:pXWPdaJA
他人を差し置いて

上記の言葉をなんで勝手に付けくわえてんだよ?
始めての上洛戦の時なんて解釈にはならんわ。
253人間七七四年:2012/02/25(土) 01:43:00.02 ID:ugiUZ3zV
他人を差し置いて→是ハ先指置(サシオキ)から
都へ上洛しようとして→都得切而ノボラントテから。


そもそも志賀陣の時に松平信一だけで京へ登ってどうするん?
主戦場は近江坂本だし京にはほとんど誰もおらん。別に三好が迫ってきていたわけでもない。
そんな状況で松平信一が京へ入る意味もないし実際入ってない。
254人間七七四年:2012/02/25(土) 07:51:53.10 ID:18+6oyYB
東北国手合請如形到来 の文言のどこに型式に則ってなんてあるんだよ
なんていう武田厨だからなw
無理も無いw
255人間七七四年:2012/02/25(土) 09:21:59.57 ID:80M62cTK
>>253
頭悪っw
信長が箕作城攻撃で停滞してる状況に陥っていて
こんな小城で日を費やしても意味がないから
ここは指し置いて都を攻め登らんと言って箕作城攻めから撤兵した後に松平が箕作城を攻めて落としている。
信長は先に京へ向かったのであって、松平が先に1人で京へ出撃したわけじゃない。
そもそも箕作城を放置して都へ行こうとする時点で、
義昭のいる京が危機的になってる焦りが見える。
256人間七七四年:2012/02/25(土) 11:39:04.30 ID:Jv8uWpd+
>>244
三好は義昭方なので和田や義継が攻められても義昭方の内輪もめでしか
ないんでしょ。
257人間七七四年:2012/02/25(土) 13:07:10.38 ID:G1yd6ctS
>>255
アホかw
浅井・浅倉が京に乱入しそうだったから野田・福島から近江まで戻ってきたというのにw
258人間七七四年:2012/02/25(土) 14:01:43.80 ID:yHd8zryd
>>256
三好三人衆に圧力を加えようと
大友と毛利の和睦を斡旋して失敗したりと
義昭は必死に三人衆の力を削ごうとしてる。
義継と久秀を許すのを義昭は反対していたが
義昭を奉じての上洛戦の時に
六角や蒲生郡や甲賀の国人と松永らは織田に協力していたので
信長が義継と久秀の身柄を見捨てないと上洛開始前に約束していた。
つまり義継は信長派閥の人間。
>>257
普段は絶対に船でないと渡河できない水流激しい江口川に着いた時に
一揆勢が船を全て隠して待ち構えていたのに
信長が退却する時限定でなぜか兵士たちが徒歩でらくらく渡れる浅い水深になり
その後、また徒歩ではとても渡れない水深に戻るスーパー奇跡で
地元民が摩訶不思議なことが起きたと噂しあったと公記にデタラメ妄想を書いて
見事に誤魔化してるから、無事に近江に戻れたとは思えないわけだがwww
259人間七七四年:2012/02/25(土) 15:37:53.46 ID:G1yd6ctS
>>258
なるほど、時系列についての誤りは認めるんだな。
よろしい。
260人間七七四年:2012/02/25(土) 17:22:55.69 ID:ugiUZ3zV
>>255
訳文の誤りがあったことは認めよう。
だがそもそも信長は志賀陣の頃は近江坂本にいてちんたら箕作城を攻める状況でも
京へ登って何かをしようという状況でもないのだが。


最も、箕作城が京へ上洛する通り道にあることを考えたら、信長が放置して京へ登ろうなんて考えるわけもなく
例によってまたもや大久保のホラ吹き全開な感は否めないが。実際すぐ近くの観音寺城は落ちてるし。
261人間七七四年:2012/02/25(土) 17:49:28.89 ID:yHd8zryd
>>259>>260
はっ?何いってんだ?あんた頭がおかしいのか?
262人間七七四年:2012/02/25(土) 18:02:49.28 ID:G1yd6ctS
>>261
また「相手が全て同一人物に見える病」ですか?w
263人間七七四年:2012/02/25(土) 18:07:20.22 ID:yHd8zryd
>>259
家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから
瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請した>>209の話のことはもう忘れたフリかwww

9/20信長が摂津から志賀に到着。
10/4以降、12月まで信長が山城や摂津で徳政令を濫発して人心を得ようと必死w
10/20には比叡山や朝倉や浅井が下山して一条寺、高野、松崎を放火(言継日記)
11/12朝倉らは4万で信長方は8000とのこと(尋憲記)
朝倉らは修学寺や10/21には大津も焼いていて美濃への通路無候と書く(尋憲記)
三河物語は朝倉3万・織田1万以内で岐阜への道も塞がれたと記す。
信長が決戦しようと申し出たのを朝倉がシカトしたのは篠原長房ら三好勢&一揆勢を待っていたから。
10/22三好三人衆山城国御牧城を落城させ、河内国高屋城・烏帽子形城を攻める。
大胡武蔵守との面談によると義昭奉公衆も宇治へ出陣して帰るも、御牧城落城により
奉公衆と尾張衆を率いた秀吉が山城国へ出撃(言継日記)
10/21和田書状によると信長にも通報し、京都御人数残らず仰せ付ける。
南方衆必定京都へ可罷上候として一大事だとする。
10/22若狭武田氏が信長に対し挙兵(言継日記)
三好三人衆の入京を阻止すべく織田必死乙w
10/22義昭側近上野信恵→草刈景継
因幡美作の国人の草刈家文書(父の代から毛利に従っていた草刈景継だったが
新たに帰属した武田高信を厚遇したことに反発し織田へ内応するものちバレて毛利に殺される)
によると信長の朝倉討伐の時に離反した浅井は
京へ攻め入ったと書いてあり、信長の背後を襲ったわけじゃないとわかる。
備前浦上宗景と三好三人衆が播磨三木城を攻めるので草刈景継に浦上攻めを要請する。
青蓮院→下間丹後頼総宛10月末に細川藤孝が青蓮院門跡尊朝法親王に
本願寺との和睦斡旋を哀願してる事実・・・11/13に顕如が和睦受諾。
11/1将軍参賀の集まりが悪く義昭不興(言継日記)
11/5比叡山・朝倉らの京進入の風説に警戒する。
11/6浅井久政が佐和山籠城中の島秀宣に比叡山戦線は何事もなく平穏で
本意案の内と書いている(計画通りだ)
11/21信長が兵糧米を要求通り納付しない場合は徳政免除を停止し
御成敗すると豹変し方針変更して恫喝し始める(光源院文書)
(朝倉家記にも兵糧乏しいので将軍も信長も攻めあぐんでいたと記している)
織田信興が下間頼旦・下間頼盛らが率いる伊勢長島門徒に攻撃され殺される。
11/21柏原合戦などたびたび合戦あり朝倉軍勝利を続ける(夾迎寺文書と正月22日山崎吉家→直江景綱書状)
11/26志賀郡堅田大手口合戦によって織田大敗し坂井政尚や氏家朴全の弟や
郡上両遠藤氏の親織田方の遠藤胤俊らが討死。
(濃北一覧によると郡上勢は500討死し路地は敵だらけなので大徳寺に僧形し隠れ続け
郡上から迎えがきたので帰郷するも胤俊に子息無し)
美濃の飯沼氏が一族39騎が立正寺境内で討死するなど織田方のかなりの決定的大敗だったのが窺える。
顕如の12/3の朝倉義景宛書状でも「毎度勝利を得て珍重」
景健宛「毎度勝利を得て珍重」
義鏡宛「毎度勝利を得て比類無き」と書いてある。
志賀・高島・三浦の門徒も織田を敗走させたことを慈敬寺より丹後法印が聞いたと書く書状あり。
堅田搦手口合戦でも朝倉軍大勝(片岡文書)
堅田構口合戦でも織田軍敗走(松田文書)
この大敗により中山家記によると11/28義昭が三井寺へ移御座、一和之儀を懇望してきたことが
正月22日山崎吉家→直江景綱へ返信した書状にある。
12/7京で大火発生し知恩院里坊や勧修寺や大聖寺などが消失し乱暴狼藉発生し極度に混乱する。
12/9綸旨によって比叡山の山門領の保証が約束される。
伏見宮の記録によると
12/12信長から義昭にも和睦を受け入れてもらうため比叡山にいろいろと書状を出したことを報告。
12/14朝倉・比叡山と信長が和睦。(尋憲記には御下知・信長誓紙・御内書・綸旨などいろいろ出しても
比叡山がなかなか承諾せず難航したとか書かれている)
12/14信玄に宛てて顕如が妻の三条氏が亡くなられたお悔やみの書状を下間丹後頼総に持たせ派遣。
12/15義景から比叡山に勅命上意・六角定頼時代の山門領地を保証する信長の誓書も貰ったと書いてある。
12/16両軍帰国。
264人間七七四年:2012/02/25(土) 18:27:06.71 ID:G1yd6ctS
>>263
それは>>225>>241>>245>>249で論破されています。
265人間七七四年:2012/02/25(土) 18:49:45.31 ID:yHd8zryd
>>264
そのリンク先に一切一次史料による論拠が提示されていませんが?
君が「思った」願望を書き連ねてるだけにしか見えませんが?
266人間七七四年:2012/02/25(土) 19:32:04.99 ID:G1yd6ctS
>>265
三河物語が提示されてるじゃん。
お前にとってどう見えてるかはどうでもいいが、俺はお前と違って自演したりせんよ。
267人間七七四年:2012/02/25(土) 19:54:19.67 ID:mBb94thS
三河物語が一次史料なら
織田厨房も信長が朝倉に土下座したのも認めるってことかw

織田厨以外は三河物語は一次史料じゃないが、
その志賀の陣における記述内容に対して、
一次史料による論証ができていると言っているだけだがな。
268人間七七四年:2012/02/25(土) 20:04:12.53 ID:mBb94thS
>>260
誤りじゃなく織田厨房得意技の捏造歪曲だろw
日本語は正確にな。
269人間七七四年:2012/02/25(土) 20:29:44.89 ID:G1yd6ctS
>>267
一次史料だろうが何次史料だろうが、史料批判は必要。
どんな史料だろうと鵜呑みにはできない。
当たり前の事。

一次史料の意味が分かってないのはお前だけだから。
270人間七七四年:2012/02/25(土) 20:45:35.21 ID:ugiUZ3zV
そもそも>>209にある

>>信長は完全に無策で、家康に援軍派遣の哀願をするしかなかった。
>>家康は信長に江南を我が物顔で暴れている一揆と六角勢が、
>>瀬田と草津の間を封鎖するのを防いで退路を維持する役目を負わされた。

聞いても無意味だろうがこれの出典はどこにあるんだ?
三河物語では家康の援軍石河日向のアテや足取りはない。
松平信一の話は信長上洛戦のころでほぼ確定的。

>>268
日本語を正確にするのはおまえの方だろ
志賀陣の際に誰もいない京に向けて松平信一が向かったなどと捏造を吐いた>>246はもう無視か。
さすが都合のいいところばかり信じつづけて滅んだ無能信玄の信者は違いますね。
271人間七七四年:2012/02/25(土) 21:12:20.61 ID:2CWLs5wQ
あまりにもクズ過ぎる織田チョン…
272人間七七四年:2012/02/25(土) 21:22:09.49 ID:ugiUZ3zV
定期的にID変えてつぶやいていかなくてもいいよだが
273人間七七四年:2012/02/25(土) 22:16:15.69 ID:ajr/Vrk2
ついに織田厨が
信長が朝倉に土下座した事実を公式に認めたか。
274人間七七四年:2012/02/25(土) 22:36:57.95 ID:nOko5alj
流石は名門あちゃくら
1580年くらいには中四国完全制圧するんだろうなあ(^-^)
275人間七七四年:2012/02/25(土) 22:55:47.42 ID:ugiUZ3zV
>>273
三河物語では土下座したんだろ。三河物語では。
276人間七七四年:2012/02/26(日) 06:51:57.72 ID:sAFn6TZH
織田厨自らが三河物語を一次史料と主張した以上は信長土下座は合意事項となったな
277人間七七四年:2012/02/26(日) 09:10:53.83 ID:8/0H8Xt2
それでいいんじゃない?
ネット以外でそういう事いうと馬鹿にされるから控えた方がいいぞ
278人間七七四年:2012/02/26(日) 12:52:47.40 ID:buGz5EPB
そもそも和睦なんだから土下座くらいするだろ・・・
ID:sAFn6TZHは信長をなんだと思ってんだよ。ふんぞりかえって居丈高でいるわけじゃないぞ。
279人間七七四年:2012/02/26(日) 12:55:15.34 ID:buGz5EPB
しかも信長には御内書つき、朝倉も信長へ土下座しただろう。儀礼として当たり前のことだ。
280人間七七四年:2012/02/26(日) 13:10:52.64 ID:buGz5EPB
主題が何もわかっていないID:sAFn6TZH

そもそも三河物語の志賀の陣が誤りと言われる所以は「天下は朝倉殿が取りたまへ」なんていう捏造起請文を大久保が作り上げたせい。
言うまでもなく信長はこの頃足利義昭を奉戴しており、便宜上は足利義昭の家臣と言っても差支えなかった。
だからこそ義昭も信長の和睦に尽力して御内書まで使って和睦を結んだ。にもかかわらず勝手に天下は朝倉殿のものなんて言うのは背信行為、謀叛ともいえる所業。
当然こんな非礼かつ愚かな行動を信長がやるわけもなく、当時大久保が10歳のガキだったことが拍車をかけている。


和睦した時に土下座したかどうかなど些細な問題である。
むしろ和議を結ぶお膳立てをした足利義昭、一応は和睦することになった足利義景に礼を尽くさないというのは
不作法無教養の人間がやること
281人間七七四年:2012/02/26(日) 13:11:43.45 ID:buGz5EPB
足利義景→朝倉義景
282人間七七四年:2012/02/26(日) 13:34:19.77 ID:bfW4a1Zx
ま、土下座ってのはだがの妄想で、信長は義景に直接会ってすらいないけどな。
283人間七七四年:2012/02/26(日) 20:11:14.08 ID:6eOk/AJr
>>263
まさにボロボロだな信長。
大久保の言う通りだわ。
284人間七七四年:2012/02/26(日) 21:25:42.47 ID:QdJHLs1N
>>280

天下の儀、何様にも信長に任置かるるの上は、誰々によらず、上意を得るに及ばず、分別次第に成敗をなすべきの事(天下の政治は何事につけてもこの信長に任せ、誰にも限らず、将軍の上意も得ずに信長の分別により成敗を加えることができること)。
285人間七七四年:2012/02/27(月) 03:04:00.65 ID:lXZTRlWH
>>284
なぜ殿中御掟をいきなり書き出したのかは知らんが、それは逆に三河物語の大嘘を証明するようなもんだぞ。

殿中御掟に見られるように信長は将軍の義昭を奉戴しながら、一方で内輪では将軍権力を削いで行っていた。
つまり将軍をお上に据えておきながら、裏で手足のように操るという従来の支配体制を行おうとしていたわけだ。
そんな信長が傀儡先である義昭の権力や権威を削いで、あまつさえ「天下は朝倉殿のものである」と公言するわけがない。
今まで必死こいて義昭の権力を削いで操り人形にしようとしていたのに、自ら操り糸を切って権益や支配力を切り捨てる愚行
286人間七七四年:2012/02/27(月) 03:55:29.32 ID:TFt9S3Ft
みんななかよくしようよ!
自分の家を良く見せようとするだけだよ!
287人間七七四年:2012/02/27(月) 06:38:24.86 ID:ePiz7tFf
>>285
屁理屈にすらなってないw
天下の儀は信長が執り行うと一方的に宣言してるし、
浅草殿がこれからは天下の儀を執り行うように信長が言って土下座するのは矛盾しない。
288人間七七四年:2012/02/27(月) 07:18:40.53 ID:lXZTRlWH
>>287
あのなぁ、将軍の後ろ盾もないのに一方的に信長が命令して誰がついてくんの?
信長による「天下の儀を行う」というのは、足利義昭ありきのもので、
実際殿中御掟には足利義昭の御内書(公式文書)を信長が検閲すること、信長が書状を添えさせることすら認めさせている。

ここまで信長が将軍に固執していたのに朝倉にそんなうまみをよこすわけもなく、
当然志賀陣の後に朝倉が義昭を奉じて天下の儀を取り持ったという記録も史料もない。
289人間七七四年:2012/02/27(月) 17:59:40.97 ID:jmp8rdSf
>>287
織田信長が行ったという天下の儀の内容、さらにそれを行った事を示し、その上で朝倉が同じ内容を行ったことを示さないと意味が無い
がんばれw
290人間七七四年:2012/02/27(月) 22:27:53.05 ID:WtaUrvcW
織田厨って本格的にキチガイだな
291人間七七四年:2012/02/27(月) 23:25:48.04 ID:jmp8rdSf
反論できないなら黙ってたら?
悔しいのはわかったからさ
292人間七七四年:2012/02/28(火) 08:56:16.92 ID:aYyjA2/4
えっ?天下の儀を朝倉が行うように信長が言った後、
信長は京からも撤退して明け渡してんじゃんw
元亀2年に朝倉が六角に入京した時に放火とかしないようにって命令してるし。
信長が再度、入京するのはその後に比叡山焼き討ちした後だろうがw
しかも信長は京洛内外で強制没収した兵糧を高利で貸す
トイチ金融まで京で始めてるし…
293人間七七四年:2012/02/28(火) 11:37:36.89 ID:Wf7Lty3G
>>292
信長は美濃が本拠地なんだから用が済んだら帰るのが当たり前。
で、朝倉と六角がいつ京に入って天下の儀を行ったの?


>しかも信長は京洛内外で強制没収した兵糧を高利で貸すトイチ金融まで京で始めてるし…

捏造しようとしてるのかガチで史料が読めてないのか判断に苦しむw
294人間七七四年:2012/02/28(火) 14:40:42.87 ID:cGqgvrKY
笑えるのは
信長の失政で金融不安になったからクズ永楽銭が使い物にならず拒否られていた現実から
信長本人も朝廷の献金にクズ永楽銭をあげても
自分が集めるのは米なんだよなw
つうか元亀元年末には米の確保に苦戦して一万以下しか兵が動員できず
朝倉3万に泣き入れた信長w
295人間七七四年:2012/02/28(火) 17:11:08.24 ID:TsvV558m
>>292
その天下の儀は具体的になんなのと聞いてるの
六角に命令した書状も出てないし(日付と誰宛かじゃなくて出展元明記すること、論文では常識)
六角に命令したら天下の儀の行使なのか?
天下の儀を行ってる割に朝倉が入京していない事、またこの天下の儀についての議論にお前が定義するトイチ金融がどう関係するのか明らかにしなさい
またそのトイチ金融とお前が判断した史料の出展元も明記すること
出展元についての要件は前述の通り

>>294
金融不安とは何か、またその原因が信長の政策に求められることを明らかにしなさい
またコメを収奪する側の領主権力である織田信長がコメの確保に苦慮したことを示す史料を明記しなさい
引用については上記の通り


まあ要求するだけ無駄だろうがなwwwwww
296人間七七四年:2012/02/28(火) 19:50:14.05 ID:4i8Z9q4q
日付と誰宛かじゃなくて出展元明記すること、論文では常識)


織田キチガイがこれを実行したことは過去に一切なく、
顕如書状を実例にお手本まで書いて貰ったがガン無視してた現実…
297人間七七四年:2012/02/28(火) 20:50:35.81 ID:Ii4StGct
いくら一次史料でも史実に即してないもの、他の史料であっさり反証されるものはダメだから。
考察の余地がない時点で二次史料より分が悪い。

顕如書状はある意味その典型だわな。
298人間七七四年:2012/02/28(火) 21:10:29.54 ID:TsvV558m
>>296
お前のいう織田キチガイが証明できていないことと、武田厨が証明できていないことはまた無関係
相手関係なく自説を補強すればいいんじゃねえの?
299人間七七四年:2012/02/29(水) 09:17:04.74 ID:pZDY63Ww
残念だけどだがの説はほとんど否定されてる。
それを認めようとしないだけで
300人間七七四年:2012/02/29(水) 13:27:12.66 ID:thUz7sp4
そうだだがさんだがさん
例えば天正十二年付の書状を天正十八年に偽書として作製したばあい、これも一次史料だから内容は真実なの?w
301人間七七四年:2012/03/13(火) 00:22:03.11 ID:L0o9C8Y/
政宗はガチで戦上手

北 大崎 葛西 最上 
東 相馬 
南・西 葦名 大内 畠山 佐竹 二階堂 白河結城 石川 猪苗代
 
これだけガチで敵対して拡張した。


政宗の葦名侵攻と信長の美濃攻略、これで比べると
圧倒的に政宗のが上。

信長は幼君でガタガタの斉藤に敗戦し続けてラッキーパンチで寝返りが出て勝っただけ。

政宗は佐竹や白河、二階堂、石川、相馬、最上、大崎、葛西など全てで150万石にもなるであろう
大連合を自力で突破した。

比較にすらなるまい。
自国の国力と拡張度やそのスピードから考えれば明らかに政宗>>>>信長



これまでの考察で分かった事

氏康>>>>信長
政宗>>>>信長
本願寺、島津>>>>信長
家康>>>>信長
元親>>>>信長

信長が他大名の立場に生れていたら
信玄の場合信濃侵攻に30年かかり生涯を終える
元就の場合安芸一国人のまま生涯を終える
義重の場合常陸の統一すらできず葦名や田村に敗戦して敗死
政宗の場合関柴の戦いで討ち死に
氏康の場合両上杉の大軍に囲まれて戦死
義久の場合土持や相良、伊藤などに負けて敗死
宗麟の場合毛利元就に負けて敗死
元親の場合三好に負けて討ち死に

尾張だから助かっただけ

302人間七七四年:2012/03/13(火) 03:04:34.43 ID:4vCKnl/8
303人間七七四年:2012/03/17(土) 10:06:44.96 ID:m9dkG3Ap
公記は三次史料以下の価値しかねーな
304人間七七四年:2012/03/17(土) 17:30:06.75 ID:LqTkClFB
信長のことはほとんどわからないから
やむなく糞公記を引用するしかない・・・
公記の矛盾には目を瞑ってきたというのが史学会の現実。
305人間七七四年:2012/03/17(土) 17:36:57.41 ID:wfBtLC5w
というチョンだがの妄想なのであった
306人間七七四年:2012/03/17(土) 17:39:14.73 ID:afywaHqA
俺らも「だが軍記」とか書こっか?W
307人間七七四年:2012/03/17(土) 19:05:58.74 ID:9yQlzXDq
信長は実は死んでなかった。

家康と結婚して三代将軍になっていた説もあります。
308人間七七四年:2012/03/22(木) 17:40:31.75 ID:HnlldQre
信長の弟で織田家重鎮にして信忠後見役だった織田信包(息子は尾張守護斯波義銀の娘婿)を始め
織田一門も清州会議から完全排除し専横重臣の秘密会議で織田家の将来を専断してる時点で、
織田家に実権はなく、家臣による下克上が成立し主従関係は完全に逆転した。
他家の人間になった者が本家を継いだ場合は他家に乗っ取られたことになります。
それを防ぐために還俗して本家を継ぐ僧籍の者が縁者には必ずいます。
ちなみに北畠家内において信雄は傀儡でしかなく信雄が織田を継ぐという行為は
北畠家を傀儡にしていた木造家による織田家簒奪の完成なのであります。
多聞院日記6/24から信雄が家督相続して田丸城に入城してるのが判明する。
そして7月に代替わり徳政令を発布しており、津田一安が添状を発給している。そして越前一向宗殲滅戦に向かう。
津田らは茶筅と書状で呼んでおり、滝川一益の取り次ぎで信長へ書状を出している。
天正4年11月に北畠・長野・坂内・大河内らを信雄が粛清することになるが、
原因として挙げられるのは天正4年から義昭が鞆幕府を設立し、
多聞院日記には具教もしくは具房が信雄の家督相続の時期に北畠氏の大和領へ入国していたことが挙げられる。
大和宇陀一揆ら反織田勢力との合流の風聞であり、これが破滅への道となった。
天正4年12月には津田一安が滝川雄利と拓植三郎左衛門らの讒言で誅殺され
伊賀攻めで拓植三郎左衛門が討死すると木造一族の滝川雄利の独裁体制が敷かれ、
織田信包などに指示を出すほどの権勢を持つようになる。
これにより当初からの目標であった木造氏による北畠氏の乗っ取りが完了し、信雄は傀儡化されてしまうのである。
本能寺の変とともに伊勢が混乱状態になり、明智討伐などできず精彩を欠いたのは
信長の内政丸投げにより、土着権力が独自に主従を形成する弊害がモロに出てしまい
織田氏は名目上の主にしかならず、事実上の木造氏のよる支配下にあったからである。
つまるところ天正3年6月に信雄が北畠家督と継ぎ、天正4年11月に反織田で面従腹背の北畠氏粛清するも、
12月には木造氏による支配が完成してしまい、信雄の傀儡化という歴史的推移が見て取れる。
しかも小牧長久手後の雄利は羽柴姓を貰い秀吉政権の一員になってしまうなど信雄を軽視しているのが見事に顕れている。
そもそも雄利の岳父は秀吉方の一益な時点でお察しw
信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に安堵状を発給しまくる始末www
信長がむちゃくちゃ『厚遇していた織田信澄』を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww


309人間七七四年:2012/03/22(木) 23:48:56.22 ID:KJf4wi7Q
縦読みくらい仕込めよ
310人間七七四年:2012/03/23(金) 08:24:21.79 ID:PM26fWgh
斎藤龍興による河野島大勝は大嘘だった



河野島の戦い全文

一去月廿九日織上当国境目へ出張候、其時分以外水迫候て、河表打渡、河野島へ執入候、即時ニ竜興懸向候、依之織上引退、川縁ニ居陣候、
国之者共限堺川詰陣を取続相守候、自出張之翌日、風雨濃水ニ付而、自他不及行候き、漸水引候間、取懸可相果之由令儀定候之処、去八日未明ニ織上敗軍仕候、川へ逃入、
没溺水候者共不知数候、残党於川際少々討候、兵具已下捨候為躰、前代未聞ニ候、不遂一戦退散候之間、数多不討取事無念不少候、雖然此方任存分之条、可御心易候、
織田在陣中可注進申候へ共、無程落居候間、無其儀候、此等之通御伝語可畏存候、可得尊意候、恐惶敬白、

ここからわかる斎藤方の嘘

・行き道は凄く増水していた木曽川をなんなく渡河したにもかかわらず、帰りに水が引いた木曽川を渡る際に溺死者が多数出た点(其時分以外水迫候て、河表打渡、河野島)

・織田方が命令に背いて攻撃した(その前の信長弾劾)にも関わらず斎藤方が木曽川よりさらに先の境川に来ただけで軍を止める織田勢(即時ニ竜興懸向候〜国之者共限堺川詰陣を取続相守候)

・水が引いて斎藤が攻撃をかけようと考えた何日か前、既に織田軍は撤退していたにも関わらず斎藤方がその一部始終を見たと記している点(去八月八日〜前代未聞ニ候)


斎藤方の9割近くの誇張でできた河野島
だがのような無知無能なる人間に対する喧伝、アピールのためにこういった誇張が生まれたのだろう。


311人間七七四年:2012/03/25(日) 00:31:04.59 ID:azxi54O/
信長は織田家を崩壊させただけ。本能寺の変をきっかけに皆織田家として機能せず好き勝手に動いているだけ。
織田家の誰も信孝信雄秀信を当主として機能していない
信長の弟で織田家重鎮にして信忠後見役だった織田信包(息子は尾張守護斯波義銀の娘婿)を始め
織田一門も清州会議から完全排除し専横重臣の秘密会議で織田家の将来を専断してる時点で、
織田家に実権はなく、家臣による下克上が成立し主従関係は完全に逆転した。
他家の人間になった者が本家を継いだ場合は他家に乗っ取られたことになります。
それを防ぐために還俗して本家を継ぐ僧籍の者が縁者には必ずいます。
ちなみに北畠家内において信雄は傀儡でしかなく信雄が織田を継ぐという行為は
北畠家を傀儡にしていた木造家による織田家簒奪の完成なのであります。
多聞院日記6/24から信雄が家督相続して田丸城に入城してるのが判明する。
そして7月に代替わり徳政令を発布しており、津田一安が添状を発給している。そして越前一向宗殲滅戦に向かう。
津田らは茶筅と書状で呼んでおり、滝川一益の取り次ぎで信長へ書状を出している。
天正4年11月に北畠・長野・坂内・大河内らを信雄が粛清することになるが、
原因として挙げられるのは天正4年から義昭が鞆幕府を設立し、
多聞院日記には具教もしくは具房が信雄の家督相続の時期に北畠氏の大和領へ入国していたことが挙げられる。
大和宇陀一揆ら反織田勢力との合流の風聞であり、これが破滅への道となった。
天正4年12月には津田一安が滝川雄利と拓植三郎左衛門らの讒言で誅殺され
伊賀攻めで拓植三郎左衛門が討死すると木造一族の滝川雄利の独裁体制が敷かれ、
織田信包などに指示を出すほどの権勢を持つようになる。
これにより当初からの目標であった木造氏による北畠氏の乗っ取りが完了し、信雄は傀儡化されてしまうのである。
本能寺の変とともに伊勢が混乱状態になり、明智討伐などできず精彩を欠いたのは
信長の内政丸投げにより、土着権力が独自に主従を形成する弊害がモロに出てしまい
織田氏は名目上の主にしかならず、事実上の木造氏のよる支配下にあったからである。
つまるところ天正3年6月に信雄が北畠家督と継ぎ、天正4年11月に反織田で面従腹背の北畠氏粛清するも、
12月には木造氏による支配が完成してしまい、信雄の傀儡化という歴史的推移が見て取れる。
しかも小牧長久手後の雄利は羽柴姓を貰い秀吉政権の一員になってしまうなど信雄を軽視しているのが見事に顕れている。
そもそも雄利の岳父は秀吉方の一益な時点でお察しw
信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に安堵状を発給しまくる始末www
信長がむちゃくちゃ『厚遇していた織田信澄』を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww

312人間七七四年:2012/03/25(日) 09:50:53.11 ID:LnqeCfQZ
武田信玄は過大評価されすぎ!!part3

69 :人間七七四年:2012/02/18(土) 23:46:30.33 ID:R8gIN0N6
>>65
その記述や天正元年9月の第二次長島侵攻での織田軍の退却での追撃で、
元亀2年の退却同様に大打撃を受けて、
信長公の一の長の林新次郎(道政)討ち死にも含めて、
一向一揆論の金龍静氏も、
すでに尾張国海津郡一体はほぼ全てが一向衆化していたと書いてる。
第二次侵攻時において恐怖とパニックで周りが全て敵に見える信長は、
深谷部の近藤氏は禅宗に帰依してたのに一向衆と誤認して攻撃してる体たらく。
海津郡失陥は重大な事件で、
これにより尾張から近江へ行く街道が封鎖されてしまい蒲生は敵中孤立。
蒲生が朝倉に帰属するのもうなづける。
また伊勢大湊に伊豆の大船が着岸していた事実から、
甲相同盟に基づき、
北条水軍まで伊勢湾に支援に来ていた。

第二次長島でこの有様な織田が第三次長島では陸海から包囲している不思議。
313人間七七四年:2012/03/25(日) 16:32:43.63 ID:boSddDYB
>>第三次長島では陸海から包囲している
この時は今までと違い、
信玄が死に、足利将軍も京から追放され大義名分が消えていて
さらに伊勢の背後の大和国を従わせ為に天皇権威にすがって
蘭奢待を切り取りを天皇に願って織田化させて大和守護に原田を配置したので、
北畠もさすがに保身に走って、伊勢水軍を長島包囲に参加させたからだよ。
314人間七七四年:2012/03/25(日) 17:15:31.55 ID:azxi54O/
信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)

おまえのアホコピペから抜粋。

この多聞院日記にある「おおむね羽柴がままの様なり」、かかっているのは清洲会議ではなく旧明智領の褒賞だw
それが証拠にその前文には柴田丹羽池田堀といった織田家臣団の領地配分が事細かに書かれている。

つまり「(山崎の戦いで活躍したため旧明智領の丹波や山城は)おおむね羽柴がままの様なり」となっているだけw
清洲会議の段階で秀吉派閥がなっていないのはその後後継者の三法師秀信が織田信孝のもとにいることからもわかる。

後世の与太話にこじつけて「清洲会議から織田家の乗っ取りが進行していた」と原文無視してアホな妄想繰り広げるだがには恐れ入るw
おまえには一次史料なんて必要ないよ、司馬遼太郎の小説でも読んでればw

ちなみに秀吉と勝家が対立を深めたのは秀吉が京の配置を自分の身内にさせていたり、
置き去りにされていた信雄を担ぎ上げたり、信長葬儀を主催したり、それらを勝家信孝を書状で咎めたりしていた
天正10年の10月〜11月。清洲会議は6月末だから秀吉の乗っ取りなんてまずありえないんだがなw

そもそも秀吉が本気で織田を乗っ取ろうとしてるなら丹羽や池田が無条件でついてくるわけないのに
そこを全て無視しているのが失笑モノ
315人間七七四年:2012/03/25(日) 17:28:47.45 ID:RokUEeZA
>>313
第二次で今の海津市一帯を一揆勢が制圧して伊勢湾の制海権は相変わらず
武田のものですが。

北畠は信長以上の兵力を動員できて織田家の二男まで人質にとっているのに
保身に走るわけが無いので意味不明。

伊勢水軍が武田水軍を伊勢湾からたたき出したソースと
長島より兵力が少ない織田が海津市一帯で一揆勢を撃破したソースをどうぞ。
316人間七七四年:2012/03/25(日) 23:17:07.44 ID:i3iqrjBA
だがそろそろご飯よ
317人間七七四年:2012/03/26(月) 01:27:01.83 ID:/U6IIC5e
一揆勢が蹴散らしたら武田のものなのか?w
一揆勢は別に武田のために織田と戦ってるわけじゃないぞ
318人間七七四年:2012/03/26(月) 02:42:38.59 ID:U9X32x3w
>>315
何度でも言うが、第3次では武田水軍が織田に協力して長島一向一揆を殲滅したってことでいいんだな?
319人間七七四年:2012/03/26(月) 10:16:23.67 ID:gGSsXAd1
信長の危機を知った義昭が北畠との和睦を斡旋し(古簡雑簒)
信雄を人質に取ったことで和睦を拒否ってた
水谷刑部少輔が賛意を取り付け和睦に合意
追撃されないよう信雄を人質として差し出して京へ帰る他に手が無かった。
伊勢新宮を支配する田丸城って言う北畠三御所の一つで信雄がここに入城するようになってから
織田による北畠支配が本格的にスタートしたのであり、現時点の織田には北畠支配などできてない。

織田の矛先をかわすべく家督を具房に譲ってはいたが
実権を握って現役張ってた反織田の具教が織田との和睦を機に出家して引棲しただけで
娘の雪姫の養子になっただけの信雄に家督相続が見えてたわけじゃないから。
信雄が発給しているのは天正3年7/24から「信意」の名前で発給開始している。
つまり天正2年はまったく書状を発給していない。
よって7月の伊勢長島一揆討伐の軍事動員も具房らが主導していると見てよい。
第三次長島侵攻を経た天正3年(1575年)に信雄が北畠家督を得て
田丸城へ入り御本所と呼ばれるようになる(田丸具忠は一ノ瀬御所へ移城)
北畠当主として滝川に差出検地をやらせることで伊勢での実効支配を進めようとしたのだ。
それに対して信雄側の加藤甚五郎に対して熊野勢堀内氏虎が攻撃をかけて激破。
576年正月に鳥屋尾が岐阜に国司の使いとして年賀の挨拶に来るや信長は挑発しまくって威嚇した。
11月北畠具房と四男・徳松丸、五男・亀松丸が共に暗殺される。

第二次長島侵攻直前の天正元年(1573年)9月20日付けの塙直政の書状
信玄の西上中にも岐阜にほど近い新砦の守備をしていた日根野弘就に協力してた
伊勢大湊自由商業町の山田三方の福島親子が船を出していたことが発覚し、のち殺される。
このことからも織田に伊勢水軍が従っていたなかったことがわかる。
茶筅が「具豊」と名前を改めて文書発給を開始したのは天正元年9/20が初見。
大湊中に宛てたものだ。これは長島一向宗攻撃のために伊勢水軍に桑名派遣を命じてる。
そこには「本所よりも固く御申し付けあるべく」とあり、本所とは具教もしくは具房を指しており
信雄より先に本所からも命令文書が発給されているのがわかる。
まさに面従腹背の北畠と伊勢水軍である。
そして林通政を討たれ逃亡中に凍死続出で大敗する織田軍・・・これを受け信雄も天正2年に発給文書ゼロ。


伊勢での織田の支配がスタートしたのは天正3年から。
角明浩氏によれば摂津同様に信長の命令を無視して私戦を繰り返しまくって去就著しい大和衆の統御を
織田家がうまく行えるようになったのは天正2年(1574年)の蘭奢待採取と塙直政の大和守護任官が大きいそうだ。
これにより筒井衆や興福寺を始めとした大和衆の本願寺攻撃への協力が取り付けれるようになり
伊勢長島への有効的な攻撃が可能になったのだと。
(しかし同時に信玄と義昭に内通したが許された松永が
筒井より下の立場に逆転したので不満をもっており大和混乱の火種は残る)
伊勢長島攻略を完了して北伊勢での支配を確立させると信長は南伊勢への関与を強め始めた。
320人間七七四年:2012/03/26(月) 19:42:50.55 ID:/U6IIC5e
木造や滝川を完全無視するだが
321人間七七四年:2012/03/26(月) 19:53:49.61 ID:U9X32x3w
>>319
はやく>>318の質問に答えてくれよ。
322人間七七四年:2012/03/26(月) 19:56:24.67 ID:XvlcQJTF
一つのレスの中に矛盾した内容を書くくらいなら、コピペの継ぎ接ぎなんかしなければいいのに
323人間七七四年:2012/03/27(火) 01:53:46.76 ID:HK84Gk0t
変なところで見栄張るからなだがは
324人間七七四年:2012/03/27(火) 09:21:52.13 ID:FH4x/Ku9
駄目人間だから仕方ない
325人間七七四年:2012/04/03(火) 19:14:22.49 ID:tf0l6zmX
永禄9年の斉藤との戦いと永禄10年の稲葉山城落城の話を
同じ年の出来事のように偽装して記して
河野島の戦いが無かったことに捏造してる
326人間七七四年:2012/04/03(火) 19:15:57.04 ID:tf0l6zmX
義昭を報じて上洛しようとした織田家は初戦で三好軍と戦い岐阜へ敗走した後
多聞院日記永禄11年9月19日京極、朽木、浅井らの使者が観音寺城に
出仕してきて屋形六角義賢に申し上げるには、すでに裏切った箕作の軍勢は一万二千になり、
その上和田山の建部源八兵衛、吉田出雲守等も寝返り義弼(義賢の弟)に味方した、
さらに勢州国司北畠氏が鈴鹿越えで近日当国に入ると伝え聞いており、
これ以上戦を引き延ばせば却って逆襲を招くので降伏してくださいと伝えた。

六角攻略で実は織田家は一切触れられてない衝撃の事実w

公記は例のごとく隠蔽・捏造
327人間七七四年:2012/04/05(木) 16:20:06.32 ID:A/6x4YDJ

武田征伐で諏訪の陣において
織田が占領した筑摩郡深志城の城米を出さしめて
在陣の諸将士に頒ち与えた史実を歪曲して
信長公記は
3/19に信長が諏訪法花寺に着陣。
3/24各在陣致す諸将は給地からの補給に迷惑して困っているので
諸兵の数に従って御扶持米を深志で渡したと書いてあってワロタw
しかも雨や風で凍死者続出で暖もロクに取れてない惨憺たる補給実態の惨状で
さっさと逃げるように3/29には木曽口や伊那口へ
織田各軍が崩壊した補給状態から急いで美濃へ自壊敗走してる。
328人間七七四年:2012/04/05(木) 16:25:49.44 ID:A/6x4YDJ
たしか尋憲記では天正元年3/6に義昭も義継と松永を許して京都にくるのはめでたい。
足利家への奔走を頼むって書いてあるんだよね。
公記の記述から信長に降伏を装いつつ
その裏で義昭への降伏交渉してて3月にまとまり義昭に内応してた。
和田を殺した荒木も同様な真似をしてると思う。
天正元年正月には信長と義昭の対立が表面化しているから、
これは義昭ー三好ー松永の密約を世間に公開し、織田派への圧力を
目的とした行動と考えるのが自然かと。
公記は松永が降伏したのを一年前倒しで記して、信玄との呼応の事実を隠蔽してる。
実際の大和・山城での松永の行動は信長にとってかなり脅威だったからこその歪曲だろう。
ついでに堺・京商人の動向。
まず堺会合衆だが、一般には永禄12年に信長に屈服したと言われるが、事実は違う。
会合衆の長老格天王寺屋津田宗及は日記(天王寺茶会記)によると、 元亀争乱期を
通じて、何度か本願寺や三好と会い、信長が天満森で敗走した直後に本願寺にも
訪問し、御茶を点てている。 逆に織田方とは全く会っておらず、津田が仲間の
会合衆と共に初めて信長に会うのは、天正元年11月京妙覚寺においてである。
元亀期、堺会合衆は二派に分かれ、津田が長老格に対し、信長派今井は新参なので、
反信長派が優勢だったと考えられる。 むしろ今井を残しておいて、裏目が出た時に
対処する商人らしいやり口だったのだろう。 また津田は元亀2年2〜3月京へ赴き、
京町衆と数度会合をもっている。
天正元年4月信長は上京を焼き、町衆の多い下京に自分に従えと命じているため、
京町衆も反信長派になっていたかと。 畿内一円の商人逹は「矢銭」をかけた信長を
嫌い、反信長派の動きをしていたと推定。 資金流通や弾薬物資も、信長よりも反信長
陣営に有利に回っていたと考えられる。
和泉
三好分国として安定。配下領主松浦・寺田・沼間・眞鍋など。
讃岐十河存保が織田に通じた後、誘降を受け入れる。
329人間七七四年:2012/04/14(土) 11:42:51.17 ID:A11Cl47u
信長公記に書いてある
一番最初の信長の上洛における帰り道って
近江守山から八風街道経由で北伊勢通過して尾張だろ。
明らかに六角氏と同盟でもしてないと通過不能。
公記は六角氏と友好関係だったのを隠蔽している。
信長は友好関係だった六角氏にいきなり攻め込むキチガイ
330人間七七四年:2012/04/14(土) 15:06:29.82 ID:A11Cl47u
三河物語で信長記はウソばかりと書かれてるのを知るや
織田厨があれは小瀬甫庵の書いた方を指してるんだ(涙)と
願望を書きまくって発狂しまくってたのは笑えたなw

大久保がわざわざ「あれ」じゃなく「あっちね」などと書いてないのは
世に出回る信長記は全部デタラメばっかと主張してるからに他ならないのにw
331人間七七四年:2012/04/15(日) 09:55:14.03 ID:6lUBxtyu
>>329
>明らかに六角氏と同盟でもしてないと通過不能
という、あなたの前提が間違っているだけでは?
332人間七七四年:2012/04/15(日) 10:13:05.89 ID:7elqlJyd
>>331
だがに正論といても無駄。
スルーしとくのが吉。
333人間七七四年:2012/04/15(日) 17:26:45.10 ID:2X1WObtx
スルーすると今度はID複数使って自演始めるんだけどな
334人間七七四年:2012/04/17(火) 07:28:09.93 ID:P2MS7QJ/
>>333
それはそれで放っておくしかないな。
すぐに間抜けなミスをやらかして総突っ込み受けるってオチだし。
335人間七七四年:2012/04/18(水) 12:20:48.70 ID:TD+/j4BO
こんな信長は嫌だ
http://tiny.cc/-nobunaga
336人間七七四年:2012/04/19(木) 12:28:00.93 ID:McY9FLgr
美濃乗っ取り道三親子二代説が主張された時に
信長公記にそんな記述はないからデタラメとか
反論されてフルボッコにされたが
のちに六角承禎条書写が発見されて
親子二代説が正しかったことに認定されて
公記盲信者学者が大恥さらしてたのは笑えたなぁw
337人間七七四年:2012/04/19(木) 19:00:56.86 ID:z61ix0/M
信長公記に道三一代説なんて書いていないから、
二代説を否定しているわけではないだろうが
338人間七七四年:2012/04/19(木) 19:55:04.80 ID:Euor2ZgY
信長公記の斎藤道三なんて会見して長良川で死んで終わりでしょ確か
339人間七七四年:2012/04/19(木) 23:30:30.98 ID:KSjgjOWE
>>329
六角と友好関係だったという事がどの史料に載ってるの?
340人間七七四年:2012/04/19(木) 23:33:29.79 ID:gq60odRD
>336
確かな史料が無かったのなら反論される。当たり前すぎる話で、恥とか何を言ってるのやら。
341人間七七四年:2012/04/21(土) 14:10:01.06 ID:PKko6Dz2
公記狂信者学者は
公記を持ち出せば
なんでもその時点で論破完了と
脳内帰結するキチガイだからな。
いまだにそういう一次史料を見てない
不勉強学者もいるからタチが悪い。
342人間七七四年:2012/04/22(日) 00:35:57.01 ID:gDm0Q3AN
秀吉や秀次の政治に関しては、いまだ大半が軍記からの想像でしょ。
例えば秀次の不行跡は記録が『多聞院日記』や『兼見卿記』にあるあると
2ちゃんで書かれてても実際に調べると
秀次の罪状に関する公家や朝廷の公式な記録は何一つない。

『大かうさまぐんきのうち』の比叡山狩猟の件も信用できない。

文禄2年(1593)の6月8日に女人禁制の比叡山に女人を引き連れ、殺生禁断の地で狩を行い、
止めようとした僧たちの塩酢の器の中に獲った鹿肉を入れたとあるが、

山科言経の日記『言経卿記』では、
秀次はその日に山科らと聚楽第の山里で琵琶法師の平家物語を聞いてる。
(山里町という山里茶亭を由来とする町名があることからおそらく聚楽第の茶亭)
つか、仮に山里が聚楽第でなかったとしてもそういう事実があれば
山科言経が日記に残してない方がおかしい。
秀次の母親の日秀が秀次供養するために建てた瑞龍寺に
村雲の寺地と「瑞龍寺」の寺号、寺領1000石を与えたのは他でもない後陽成天皇だぜ。
そんな不道徳なことを本当にやってたら天皇がわざわざそんなことをするはずがない。

秀次が「殺生関白」と呼ばれてるのは、『大かうさまくんきのうち』が、
正親町天皇の諒闇中なのに狩りをした秀次を批判する京童の落首を引用しているが初出だよ。
庶民を虐殺したから「殺生関白」と呼ばれてるわけではありません。
しかしこの落書も同時期の記録にその落首が残ってないから信憑性を疑われてる。

【信長公記】の著者である【太田牛一(秀頼に仕えていた)】がデッチあげてデタラメを並べて秀次を悪く書いてるだけ。
三河物語で大久保から信長記はデタラメと叩かれた著者の太田は金をもらって捏造する売文家です。
しかし織田チョンは、あれは太田牛一が書いた信長記だけは除いて批判したものに違いないと
なんら根拠なく妄言を吐く朝鮮脳で白昼夢を主張するキチガイ
逆に川角太閤記では秀次に落ち度はなく、秀吉が老いて耄碌して三成の讒言を真に受けて
秀次を殺したと正反対の内容を書いているなど、所属する立場や思想信条から相手を悪く書く対立が見え
とても史実とは思えないデタラメが横行してます。
(実際には秀吉が耄碌していたとは思えませんし、讒言をしたとする三成の介入も一次史料から証明できません)
ちなみに謀反人の場合は斬首であり、自刃のような自害による名誉を守る行為は許されません。
つまり秀次は名誉の死であり、これを自ら選択したのであれば、恨み腹で秀吉一族に怨念をかけたことになります。
秀吉や秀次の政治に関しては、相手を中傷するために落書など平気でデッチあげてます。
343人間七七四年:2012/04/22(日) 00:38:11.83 ID:gDm0Q3AN


漁夫の利を得た利家の陰謀と考えるのが一番分かりやすいです。

南部根元記には秀次が奥州の仕置きを終えたので平泉を見た
そして最上へ向かい義光がもてなし奉り息女いこまの方を秀次公に参らせる
と書いていてその記述には平泉に寄っているなど書かれており
後世の研究調査から平泉中尊寺には秀次軍令書などの文書が納められていることが発見され
秀次の平泉訪問も事実と確定され南部根元記の記述が極めて事実に基づかれているとされた。
そのため義光の方から進んで駒姫を秀次に差し出したのも極めて事実に近いとされる(伊達成実記とも合致する)
南部は秀吉からの武装解除の一環としての一国一城の破却令により天正20年6月に
領内48城中→破却36城の上で存置12城が許されたとされる。
戸沢は角館の1城のみを残して33城を城破りをしているため南部は破格の待遇である。
前田や蒲生と入魂していたからであろうか。利家は氏郷亡きのちの蒲生家存続にも尽力して
秀次・利家・蒲生・南部・浅野らが日本海から奥羽に影響力を行使しているのがわかる。
そして利家や氏郷らは南部と組んで津軽や安東を田舎者と名護屋陣でいじめていた。
のちに困り果てた津軽の働きかけで親しくなるように浅野が仲介してきたが拒否し
前田などが津軽を辱めたので浅野なども津軽に関して何も言わなくなったと記している。
前田家文書には秀吉→関白宛の文録元年5/18に
来年正月の2月頃に3万を率いて兵庫より乗船し秀次が朝鮮へ渡海する命令がある。
南部信直→織笠但馬守に年不詳9/20で秀次公来年高麗国へ出陣。暦明け候はば上洛と記され
南部も前田騎下として秀次とともに朝鮮へ行く予定だった。
どうやら何らかのこともあって秀次&前田&南部の朝鮮渡海は中止となったようだ。
秀次と親しくなることで朝鮮渡海しないで済むような状況があったのだろうか。
ちなみに黒田如水が朝鮮出兵を自ら申し出るように秀次に忠告したと言う。
文禄4年7月秀次自害と同じ頃、津軽が浅利を支援し戦闘開始されており
安東は進退に窮していると知らせがあり、また最上の小野寺侵略の岩崎合戦が開始される。
伊達と最上が秀次と共謀の罪があるとされたので、世上暗澹なこともあり信直は娘が
安東実季の弟に嫁ぐ予定だったが(利家斡旋らしい)安東から連絡もないし延期した方がいいとしている
このことから当時の奥羽がかなりの混乱下にあり秀次との謀反連動の疑いが強い。
(秀次は伊達や毛利に大金を貸していた。また利家も伊達に金を貸している)
奥南旧指録附載には南部利直は前田&浅野と先代以来親しかったので東軍の立場を鮮明し
最上に加勢したが領内和賀一揆のために最上出羽守に相断り帰陣し一揆を討ったと記されている。
利家は柴田を見捨てただけでなく、親しかった秀次をまったく弁護せず死刑を放置
(その時期の利家は京にいて早世した娘の与免と婚約者だった浅野幸長ばかり擁護、家康は江戸にいた)
利長は姉妹の豪のダンナである秀家を見捨てるなど
有軍を裏切って肥え太る術だけで加賀百万石を築いた天下一の泥棒大名。
ちなみに利家夫妻はお拾いと秀次娘の婚姻仲人に決められていたし
秀次が死んだ後、利家は秀次と親しかったこともあり秀次の伏見の邸宅を貰い、秀次の家臣の一部も併合してる。
利家は秀次の死によって秀頼後見役にのし上って、秀吉亡きのちは事実上の天下人になっていた。
344人間七七四年:2012/04/22(日) 11:20:32.59 ID:NMUkDfhr
利家の陰謀は無理ありすぎ
単純に秀吉が秀頼に跡目継がすために秀次をぶっ殺した。
秀次が生きていれば秀頼なんて目の上のたんこぶだから殺すだけ。
秀次の跡は秀次の子供達が継げばいいからな
345人間七七四年:2012/04/22(日) 17:30:26.44 ID:O4xO0oin
>>単純に秀吉が秀頼に跡目継がすために秀次をぶっ殺した
そんな軍記まるパクりの単純な話じゃねーだろw
秀次権力が他の大名と結びついて
秀吉も脅威になり始めたから
禍根を除こうとしたんだろ。
その際に織田家随一の武辺者として慕われていたために
織田旧臣への影響力が抜群の利家の動向ってのが
非常に神経を使うところなのは事実。
346人間七七四年:2012/04/22(日) 21:59:23.69 ID:NMUkDfhr
>>秀次権力が他の大名と結びついて
>>秀吉も脅威になり始めたから
>>禍根を除こうとしたんだろ。

いや言ってること俺と同じ
当時では秀頼の豊臣家相続の可能性が限りなく薄かった。
それくらい関白秀次の勢力は脅威だった。
だから自分の目の黒いうちに秀次を殺した。で秀頼に後継がせた
347人間七七四年:2012/05/04(金) 17:06:28.81 ID:AYz/tMhP
義昭を報じて上洛しようとした織田家は初戦で三好軍と戦い岐阜へ敗走した後
多聞院日記
永禄11年9月19日
京極、朽木、浅井らの使者が観音寺城に
出仕してきて屋形六角義賢に申し上げるには、
すでに裏切った箕作の軍勢は一万二千になり、
その上和田山の建部源八兵衛、吉田出雲守等も寝返り義弼(義賢の弟)に味方した、
さらに勢州国司北畠氏が鈴鹿越えで近日当国に入ると伝え聞いており、
これ以上戦を引き延ばせば却って逆襲を招くので降伏してくださいと伝えた。

六角攻略で実は織田家は一切触れられてない衝撃の事実w
348人間七七四年:2012/05/04(金) 17:42:49.39 ID:AYz/tMhP
桶狭間は一次資料にないデタラメ
国力でいえば尾張57万石+交易収入+チート献金で織田の方が上

先陣と勘違いして突っ込んだら本陣があって雨や風が吹いたから勝てただけ

三河物語によると雨が降ってる所に織田勢が切りかかってきたので壊乱したとある。
信長公記には信長軍の突撃の前に「俄に急雨石氷を投げ打つように敵の輔に打付」たとある(陽明文庫本首巻)
信長公記にある「天晴るる」は通り雨と風が織田側がいた山の下から
今川本陣のいる山上に流れた、って事だろうな。
つまり今川勢は猛烈な雨と風を向かい側に受けながら織田に襲撃された事になる。
気力十分て事はないな。
実際今川方にしてみれば雨と風を向かい側に受けてる所を襲撃されたから
「水をまくるが如く崩れ」たわけだし、
その混乱の最中にまともに集団行動できてたのが義元の周りにいた300ほどだった

これが実力で勝ったというなら本能寺は実力負け

圧倒的大軍持ちながら偶発的に起きた手薄な所を奇襲されて死んだんだから

政宗レベルなら国力差2倍程度なら偶発的条件に頼らなくても撃退可能
349人間七七四年:2012/05/05(土) 20:09:28.33 ID:kCVGLDGs
☆慈敬寺文書の顕如書状2/14付けで慈敬寺が伊藤城を攻略し其の表の面々は此方一味であり
堅田まで属理運、還住由になったとして黄金三十両を進呈している。
2/15松永久秀や岩倉の山本対馬、山中の磯貝、和邇の金蔵坊、勢多の山岡、田中の渡邊らが
10日付で義昭に帰参しさらに静原に山本城を築いて織田に反抗する。
近衛家文書の2/16浅井長政→伊勢七郎左衛門宛てでは信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆(義昭軍)合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
小林吉長も2/17付けで堅田村の郷士達への書状で慈敬寺との入魂専要之旨と述べている。
2/19の義昭書状では★山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯貝新右衛門らまで
悉く取除、明智光秀は儀無正躰候、近邊大略属本意候と書いていて
(2/13における木戸表(大津市)御働として光秀が革島忠宜へ感状を出してる)
浅井長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べている。
琵琶湖最大の商業地の堅田村の郷士達が本願寺や浅井の味方になってしまい
坂本を居城とする明智軍は大津で苦戦し立ち往生しているのがわかる。

2/23筒井城の順慶が春日社参詣に3000人を引き連れてきたため
松永久通が警戒し小規模な衝突もあったようだ。
大神楽や神馬を奉納して成身院に宿泊後にすぐ筒井へ帰る。
2/23信長→細川宛で信長自身が信玄が去る17日に野田表から撤退したので、志賀の一揆蜂起について
蜂屋・柴田・丹羽を出征させ湖を渡らせる。成敗に手間がかかれば世間聞合なので
自分も近日中に佐和山へ出て上洛し畿内を平均すると述べている。
すでに湖経由でないと明智への援軍も上洛できないほど街道封鎖は深刻になっており
大津や草津の関も機能してないはずで近江戦線は崩壊してるのがわかる。
捏造軍記信長公記は柴田と明智らが石山と堅田砦を破り西近江を平定すると書くが、
によると☆のような情勢であるのがわかる。
2/24に革島宛てに光秀が明日から今堅田を攻めると書き(柴田軍が大津に到着したのか?)
2/26義昭に同調し三井寺の光浄院暹慶(山岡景友)ら西近江で挙兵。
2/27には顕如→信玄宛てで江州西路事、此方當門家中慈敬寺以調略属本意候と書いている。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。

350人間七七四年:2012/05/05(土) 20:11:03.22 ID:kCVGLDGs
3月朔日で柴田が革島宛てに今堅田成敗申し付けと報告してるので攻撃開始したのだろう。
やはり明智軍(光秀は配下の18将を供養してる)は
★のように戦力としては崩壊しているようで、主力は柴田が担っているようだ。
信長は伊丹氏により摂津において中島城の細川が堺へ敗走(信長はさてもさても惜しいことだと悔しがってる)
に続き3/7にはさらに賀嶋城まで落ちて絶言語と動揺している。
3/13には下間頼充が馬場宛で今堅田に篭もっていた馬場親子が敵が取詰にきた時に一戦し粉骨したのを
慈敬寺から報告を受けたと戦功を感謝しているし
3/18に義景が木戸城主佐野十乗坊秀方へ早船で急ぎ加勢した近江高島郡の多胡宗右衛門を褒めていて
3/21には義景→馬場宛でも敵が相働くも十乗坊に立て篭もり粉骨したのを賞して、
佐左馬要害と同等の価値あると言っている。
(佐々木左馬頭とは義昭側の仁木義政で明智軍記では義政は山岡らと石山・堅田に籠城したと書いてある)
4/2には長政も馬場に木戸籠城を褒め称えていて、相次いで織田を粉砕した大勝利を褒めている。
この状況から見るに柴田ら織田軍は、義昭らに敗北を重ねて
信長が兵を集めて援軍に来るのを待っている現実が見える。
大商業地堅田村を一向宗側が取り込んでいるため、
今堅田・石山・佐左馬要害・木戸城十乗坊攻めで織田軍が大敗している。
また明智軍が崩壊していた現状から手間取ると外聞が悪いと気にするほど劣勢の信長は
信玄が帰ったし信長自身が出馬すると言いながら兵力が全然集まらずまったく出馬できないありさま。
松原信之氏が著書で義景本人の天正4年の出撃を
3/11で敦賀までやってきていて、5/10に一乗谷へ帰国したと書いてるから
朝倉先陣は3月中に小谷まできて普請を始めてるはず。

351人間七七四年:2012/05/05(土) 20:22:41.39 ID:kCVGLDGs

今堅田・石山・佐左馬要害・木戸城十乗坊攻めで柴田が落とせずに苦戦してるじゃんw
坂本の明智軍はすでに崩壊してるし。
すでに琵琶湖西岸はことごとく義昭側。
大津で柴田が立ち往生して入京すら出来ず。
2/23に信玄撤退したから上洛する発言してた信長だが、戦況悪化と兵力が集まらず
まったく動けず義昭に土下座交渉を継続する始末。
義昭が信長の人質を突っ返し断交するに及んで、
やっと3月末に信長は上洛するも味方は細川と荒木だけでみんな離反。
自暴自棄の信長は京を地獄にして略奪殺戮しつつ、
天皇に和睦斡旋哀願。
和睦したら即日、背後の六角と一揆衆を攻撃しに帰るほど切迫した情勢。
しかも六角を攻め落とせない。
そのうち信玄死亡情勢が流れる。
すると情勢は織田優位に一変。
天皇の威光と信玄死亡に助けられただけなのが信長

元亀3年10/5の朝倉景亮書状により蒲生家すらも織田を見限るのがわかる。

先日以◯◯◯◯ 入候之処、御懇之御報、
殊御一書披見本望候、其已後重而可申入之処ニ、
延引非本意ニ候、仍其表如何ニ御座候哉、承度候、乍御六借敷、南方辺之儀、示預候者、
畏可存候、委細林権介可申候之条、不能詳候、恐々謹言

蒲生下野入道殿御陣所

山岡家の領地は栗太郡と志賀領であるが、すでに志賀郡が失われているのか、
山岡家が反織田側に内通していたのがわかる。
山岡景友が志賀郡を手中にしていたのか、それとも景隆や景佐も両天秤をかけていたのか。

金も米も尽き兵も集まらなかった織田軍w
元亀4年5/24
信長→池田恒興
恒興とその与力に年貢滞納と軍役怠惰を咎める書状www

元亀4年3/7
信長→幽斎
畿内諸侍の覚悟が(味方かどうか)見分けられない体で通路も同じ状況だと
完全に畿内の諸将が離反しまくりで泣き言を言っている信長www
352人間七七四年:2012/05/06(日) 11:54:53.22 ID:RvpkYr1r
永正8年・10年と尾張守護の斯波義達が今川氏親と戦っているが
なんと大和守・伊勢守の両織田守護代家は一切協力しておらず
完全に実権喪失している事実。
織田両守護代家にとり斯波は象徴的存在に過ぎなくなっていた。
西尾張が根拠地の信秀の東尾張平定たる天文7年の名古屋城攻略と
今川氏豊の追放により尾張南半分を支配下においたわけだが
すでに守護代織田達勝も信秀の行動を応援是認し
10月に名古屋の性海寺への免除書状で支援している。
そして根拠地を自らが文書発給し支配していた
西尾張の勝幡城から信秀は本拠地を名古屋に移転して西三河へ目を向ける。
天文9年には伊勢神宮へ700貫寄進し、朝廷から三河守に任じられ
三河から圧迫を受けていた尾張は信秀の名古屋攻略とともに
劣勢から攻勢に転換し、尾張をほぼ安定化させたため
天文日記10年7/27でも斯波義統が信秀の威信をアテにして
本願寺に対して越前まで討ち入り越前を回復するから
加賀門徒の協力依頼までしているほどの評価が尾張の外へ轟いている。
次に長尾為景が越後守護上杉定美傀儡政権運営していた時と酷似していた状況が一変したことを示す権力変化の証拠がある。
天文12年2/21の達勝安堵状には「弾正忠申調られ出置く上は」と書かれ
天文8年までの従来、東尾張において達勝→信秀と出されてきた発給文書が、
ついに信秀→達勝に順番が逆になってしまう。この逆転現象は巨大な衝撃である。
謙信政権でも苦悩していた守護による政治機構が簡単に解体されていく姿が尾張に生じているのである。
(結局、後継者なく定美が亡くなり、関東管領に就任し上杉を継ぐまで越後統治の正当性が得られなかった長尾氏)
また天文13年の信秀の美濃侵攻では守護斯波義統が禁制を出すなど、信秀支持の姿勢を示している。
9月に美濃立政寺へ禁制を出した織田寛近は岩倉伊勢守の一族であり
守護斯波は言うまでも無く尾張国の大半が信秀の美濃侵攻を支持していたのは間違いない。
ここに信秀による尾張統一が達成されたのである。
353人間七七四年:2012/05/06(日) 11:57:41.04 ID:RvpkYr1r

金も米も尽き兵も集まらなかった織田軍w
元亀4年3/7 信長→幽斎
鉄砲・玉薬・兵糧・金が足らないと嘆いていたり、
畿内諸侍の覚悟が(味方かどうか)見分けられない体で通路も同じ状況だと
完全に畿内の諸将が離反しまくりで泣き言を言っている信長www
元亀4年5/24 信長→池田恒興
恒興とその与力に年貢滞納と軍役怠惰を咎める書状www
しかもそんな離反寸前の池田を咎めたことを後悔した信長は
6/18に恒興の母に対して丹羽郡の一部を加増してるほど家臣に対して土下座外交っぷりw
しかもこれ超レアな天下布武の印まで押してあるしwwwwwwwwww天下布武で家臣へ土下座書状wwww
3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。
354人間七七四年:2012/05/06(日) 11:58:14.45 ID:RvpkYr1r
信長公記が三河物語に較べて信憑性が低いとされる点に
天文11年第一次・天文17年第二次に渡る小豆坂合戦記述がある。
三河物語は第二次の方のみしか記されておらず、今川義元の感状から第二次のみは史実確認が取れる。
信秀は第二次にあたる戦いでは今川の背後にあたる北条氏康に書状を出しているなど
今川を背後から牽制する策をとっており挟撃策を恐れる今川方も抑止的な軍事行動しかできていない。
佐々木城主松平忠倫や松平清定(信秀縁戚)など有力な織田方松平一族も依然として信秀を支持している。
静岡県史も今川の軍勢が天文11年に西三河に進出するなど考えられないと一蹴している。
よって第一次の戦いは公記の捏造であり、三河物語の正しさが証明された戦いである。
ただ信秀が東三河で優勢だったのはたしかで、
水野信元や松平信孝(天文16年9/28には松平広忠を大敗させてる武辺者)
らが織田方として存在している。
天文12年には後奈良天皇に4000貫を献上し(今川は500貫)
従来尾張を支配する守護斯波と守護代大和守の富強ぶりが都でも評判であったが
すでに信秀にとって代わられている事実が見える。
この献上の際には信長の側近の平手が京に出向いているが
本願寺証如に面会してるのがわかる。本願寺側は「門徒に対して一段悪勢の者」と認識しており
丁重に織田外交団を接待しているのがわかる。本願寺との険悪さがすでに存在していた。
また同時期には熱田神宮寺座主も、いままでは大和守の判物を手にいれて満足していたはずなのに
信秀を当殿様と呼び信秀判物を手に入れようとした。
信長公記系に記される信秀に従い出陣し稲葉山の戦いで戦死した清洲三奉行の織田因幡守の子で信友が
守護代大和守の養子として清洲城(斯波氏を傀儡にしてる)へ入城し天文16〜17年・21年に信秀・信長と対抗?
そもそも大和守達勝は天文19年12/17の熱田神宮の書状で存命が確認されるのでデタラメ。
しかも達勝の後継者は勝秀であり、もう何言ってんのかわかりませーんw
そもそも信友なんて一次史料には一切出てこない架空人物としか思えないし。
つうか斯波氏を傀儡にしている大和守を傀儡にしてる信友を
さらに傀儡にしてる孤立してる清洲城の坂井・川尻・織田三位ら重臣達ってストーリーかよwww
ちなみに尾張北を支配していた岩倉織田伊勢守も天文6年に広高が当主であったのが確認できるが
その後、まったく消え去り史料上から消え去っている。信安を追放した信賢とか江戸期の捏造話で存在確認できない。
公記系によると永禄2年に信長が岩倉城を数ヶ月包囲して信賢を降伏させたとするが
言継卿記によるとその時期の信長は上洛して義輝に謁見し、堺・奈良見物してる最中w
355人間七七四年:2012/05/06(日) 11:58:44.29 ID:RvpkYr1r

天文17年11月〜18年の間に信秀と道三は和睦し婚姻同盟し信長の後継者確定。
天文18年11月には藤原信長と署名する初見文書により熱田へ発給している。
天文19年8月に今川5万が尾張へ侵攻とする誤伝が定光寺年代記があり、これが桶狭間の戦いのモデル。
これを信長公記は天文21年に起きた桶狭間の戦いとして脚色した(さらにデタラメ学者は永禄3年の間違いと主張w)
しかし現実では斉藤が織田側になったこともあり
今川と織田は和睦の雰囲気となってきており天文19年冬に天皇が織田と今川の和睦を斡旋しており
信秀側が義元へ和睦してもらいたいなら刈谷城を水野に返還せよとの要求をしており今川はそれを呑んでいる。
それに前後して東条松平甚二郎が織田方へなるなど織田優位なままに三河戦線も終結した。
ちなみに稲本紀昭によると神宮文庫蔵の日記断片簡に天文17〜18年に弾正忠入道・尾張若殿と書かれており
信長は出家した信秀の後見を受けて家督を継いでいる可能性が高い。
そして天文21年3月に信秀は死去する。(信長公記系統では天文18年死去し21年に桶狭間とする操作を行っている)
また守護代達勝もこれに前後して死んでいるようで、天文22年に大和守勝秀の名で唯一の書状が出されている。
天文22年閏正月に平手が信長のアホぶりに失望し自害。信秀が後見につけた4人のうち
青山は稲葉城下で戦死・内藤は謎人物・林は信長を見限り弟支持に回るなど、信長の側近は崩壊。
この糞人格に不安を覚えた道三が4月に信長と会見し、舅だけは婿を見限らない宣言(娘が人質だしなw)
その後、守護斯波義統暗殺・守護代大和守信友暗殺と信長に都合がよい展開になっていたが
守山城主織田孫十郎による信長弟織田喜六郎秀孝殺害
守山城への信長弟の安房守の就任後暗殺されると、信長が逐電していた叔父の孫十郎の守山城主就任許可。
守山城を舞台として信長兄弟達が次々と抹消されていき、
信長に対抗できるのは勢力は達成(信勝・信行)だけになり疑心暗鬼になっていた時に義龍から書状が届いている。
信長の最年長の叔父織田信光暗殺(公記系では不慮の死と書いて誤魔化すが定光寺年代記に害されると書かれている)
天文23年正月、今川攻めをする信長のために道三が兵力を加勢し、水野と信長は知多半島で軍事作戦をする。
岡崎市史によれば1555年から二年の間に三河全域で国人たちの反今川大蜂起が発生しており、信長有利な展開だったという。
しかし1554年に道三が重臣に追放され義龍政権が発足し信長後見役が政権から降りると情勢は一変していく。
1556年4/20に道三が討たれた時に美濃譲り状を貰った信長だったが、義龍の尾張への謀略に悩まされ内乱に陥る。
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ
(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【【美濃は尾張半国を取っている】】と書かれているのである。
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)
当時の斎藤は浅井と戦っていて、六角義治が斎藤と協調しようとするのを、
土岐氏に配慮する六角義賢が、同盟不成立にさせたりと西側が不安定だったから斎藤は南下なんて考えてない。
義龍は信長同様に内政や国内整備や宗教統治政策をまったくやらずに放置した道三の悪政から、
改革を押し進めていたから、尾張を戦わずして勝つの深慮遠謀の策を以って内乱状態にさせて信長を封じつつ、宗教統制を改革中に急死。
356人間七七四年:2012/05/06(日) 12:00:59.53 ID:RvpkYr1r
秀吉や秀次の政治に関しては、いまだ大半が軍記からの想像でしょ。
例えば秀次の不行跡は記録が『多聞院日記』や『兼見卿記』にあるあると
2ちゃんで書かれてても実際に調べると
秀次の罪状に関する公家や朝廷の公式な記録は何一つない。
『大かうさまぐんきのうち』の比叡山狩猟の件も信用できない。
文禄2年(1593)の6月8日に女人禁制の比叡山に女人を引き連れ、殺生禁断の地で狩を行い、
止めようとした僧たちの塩酢の器の中に獲った鹿肉を入れたとあるが、
山科言経の日記『言経卿記』では、
秀次はその日に山科らと聚楽第の山里で琵琶法師の平家物語を聞いてる。
(山里町という山里茶亭を由来とする町名があることからおそらく聚楽第の茶亭)
つか、仮に山里が聚楽第でなかったとしてもそういう事実があれば
山科言経が日記に残してない方がおかしい。
秀次の母親の日秀が秀次供養するために建てた瑞龍寺に
村雲の寺地と「瑞龍寺」の寺号、寺領1000石を与えたのは他でもない後陽成天皇だぜ。
そんな不道徳なことを本当にやってたら天皇がわざわざそんなことをするはずがない。
秀次が「殺生関白」と呼ばれてるのは、『大かうさまくんきのうち』が、
正親町天皇の諒闇中なのに狩りをした秀次を批判する京童の落首を引用しているが初出だよ。
庶民を虐殺したから「殺生関白」と呼ばれてるわけではありません。
しかしこの落書も同時期の記録にその落首が残ってないから信憑性を疑われてる。
【信長公記】の著者である【【太田牛一(秀頼に仕えていた)】】が秀頼マンセーのために
秀次を悪く書いてデッチあげてデタラメを並べて秀次を悪く書いてるだけ。
三河物語で大久保から信長記はデタラメと叩かれた著者の太田は金をもらって捏造する売文家です。
しかし織田チョンは、あれは太田牛一が書いた信長記だけは除いて批判したものに違いないと
なんら根拠なく妄言を吐く朝鮮脳で白昼夢を主張するキチガイ
逆に川角太閤記では秀次に落ち度はなく、秀吉が老いて耄碌して三成の讒言を真に受けて
秀次を殺したと正反対の内容を書いているなど、所属する立場や思想信条から相手を悪く書く対立が見え
とても史実とは思えないデタラメが横行してます。
(実際には秀吉が耄碌していたとは思えませんし、讒言をしたとする三成の介入も一次史料から証明できません)
ちなみに謀反人の場合は斬首であり、自刃のような自害による名誉を守る行為は許されません。
つまり秀次は名誉の死であり、これを自ら選択したのであれば、恨み腹で秀吉一族に怨念をかけたことになります。
秀吉や秀次の政治に関しては、相手を中傷するために落書など平気でデッチあげてます。
357人間七七四年:2012/05/06(日) 12:01:54.77 ID:RvpkYr1r
史実とみた場合、周辺状況をよく見た場合、漁夫の利を得た利家の陰謀と考えるのが一番分かりやすいです。

南部根元記には秀次が奥州の仕置きを終えたので平泉を見た
そして最上へ向かい義光がもてなし奉り息女いこまの方を秀次公に参らせる
と書いていてその記述には平泉に寄っているなど書かれており
後世の研究調査から平泉中尊寺には秀次軍令書などの文書が納められていることが発見され
秀次の平泉訪問も事実と確定され南部根元記の記述が極めて事実に基づかれているとされた。
そのため義光の方から進んで駒姫を秀次に差し出したのも極めて事実に近いとされる(伊達成実記とも合致する)
南部は秀吉からの武装解除の一環としての一国一城の破却令により天正20年6月に
領内48城中→破却36城の上で存置12城が許されたとされる。
戸沢は角館の1城のみを残して33城を城破りをしているため南部は破格の待遇である。
前田や蒲生と入魂していたからであろうか。利家は氏郷亡きのちの蒲生家存続にも尽力して
秀次・利家・蒲生・南部・浅野らが日本海から奥羽に影響力を行使しているのがわかる。
そして利家や氏郷らは南部と組んで津軽や安東を田舎者と名護屋陣でいじめていた。
のちに困り果てた津軽の働きかけで親しくなるように浅野が仲介してきたが拒否し
前田などが津軽を辱めたので浅野なども津軽に関して何も言わなくなったと記している。
前田家文書には秀吉→関白宛の文録元年5/18に
来年正月の2月頃に3万を率いて兵庫より乗船し秀次が朝鮮へ渡海する命令がある。
南部信直→織笠但馬守に年不詳9/20で秀次公来年高麗国へ出陣。暦明け候はば上洛と記され
南部も前田騎下として秀次とともに朝鮮へ行く予定だった。
どうやら何らかのこともあって秀次&前田&南部の朝鮮渡海は中止となったようだ。
秀次と親しくなることで朝鮮渡海しないで済むような状況があったのだろうか。
ちなみに黒田如水が朝鮮出兵を自ら申し出るように秀次に忠告したと言う。
文禄4年7月秀次自害と同じ頃、津軽が浅利を支援し戦闘開始されており
安東は進退に窮していると知らせがあり、また最上の小野寺侵略の岩崎合戦が開始される。
伊達と最上が秀次と共謀の罪があるとされたので、世上暗澹なこともあり信直は娘が
安東実季の弟に嫁ぐ予定だったが(利家斡旋らしい)安東から連絡もないし延期した方がいいとしている
このことから当時の奥羽がかなりの混乱下にあり秀次との謀反連動の疑いが強い。
(秀次は伊達や毛利に大金を貸していた。また利家も伊達に金を貸している)
奥南旧指録附載には南部利直は前田&浅野と先代以来親しかったので東軍の立場を鮮明し
最上に加勢したが領内和賀一揆のために最上出羽守に相断り帰陣し一揆を討ったと記されている。
利家は柴田を見捨てただけでなく、親しかった秀次をまったく弁護せず死刑を放置
(その時期の利家は京にいて早世した娘の与免と婚約者だった浅野幸長ばかり擁護、家康は江戸にいた)
利長は姉妹の豪のダンナである秀家を見捨てるなど
有軍を裏切って肥え太る術だけで加賀百万石を築いた天下一の泥棒大名。
ちなみに利家夫妻はお拾いと秀次娘の婚姻仲人に決められていたし
秀次が死んだ後、利家は秀次と親しかったこともあり秀次の伏見の邸宅を貰い、秀次の家臣の一部も併合してる。
利家は秀次の死によって秀頼後見役にのし上って、秀吉亡きのちは事実上の天下人になっていた。
358人間七七四年:2012/05/06(日) 20:15:46.93 ID:RvpkYr1r
>>353の捕捉
信長をイザという時に役に立たないとして
家康が保険として武田との関係を維持するのを止めて清算したのは天正6年の情勢変化まで待たないとならない。

天正6年9月22日信康の岡崎城へ岡崎衆が信康へ出仕することを家康が突然禁止した時期が
謙信が死去して御館の乱が勃発したのが3月で
6/29には越後府内に勝頼が到着していたが
真田が景虎と北条側の沼田城攻めをしようとしており氏政が不審に思っていたり
8/19には北条が信濃通過するのに制限をかける代わりに
奥信濃まで武田へ譲渡と景勝と縁組する約定が取り交わされ
9月上旬に北条軍が景勝の実家の上田長尾氏の本領たる越後坂戸城を攻めていたが
景勝が坂戸や妻有へ武田軍の援軍が近いと報せていて
(9月下旬に妻有城や赤沢城も武田へ譲渡され兵を入れている)
しかも武田軍は中立的に景勝と景虎を和睦させる努力をしていたのに
6月以来、北条がやっと越後出兵を開始したことを
「遅すぎる」と不満に思ってきていて帰国してしまった。
これらの情勢から家康は北条と武田の同盟破綻を察知して
親武田のチャンネルを持っていた信康を更迭してしまった。
天正7年9月5日の北条と徳川同盟が成立したことで
伊豆と駿河国境で武田と北条が全面戦争に突入すると信康を9月15日に自刃させてる。
北条と武田同盟が存在する限りは武田は強勢を保ち続けると読んでいた家康は
武田との交渉チャンネルを維持してきたんだろう。
万が一の時には家康が隠居して信康に家督を譲渡して
武田騎下として生き延びれる選択肢を持っていたが、
謙信死去で北陸戦線を放置しての上杉内乱や
甲相同盟破綻と北条と家康の同盟は
武田と互角に戦っていける状況の到来を確信させ
信康が用済みになったと言える。
359人間七七四年:2012/05/11(金) 12:15:16.13 ID:R9iBqtKz
織田チョンは根拠もなく、大久保が指摘しているのは太田ではなく甫庵の方だと歪曲するキチガイです。
実際に当時から信長記と呼ばれていたのは太田の方です。
明治14年に町田久成著の我自刊我書に収録された時の題名で
尊経閣文庫信長記の十五巻奥書に信長記と書いてあるのが本来のタイトル。
甫庵の著作は甫庵信長記と呼ばれちゃんと区別されてる。
今は15帖を信長記、首巻が伴ってるのを信長公記としていることを指摘するよ。

角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに
第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている)
現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は金子拓氏の最新研究結果によれば70以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。
天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。
太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。
池田家本系統の太田の内閣文庫蔵信長記には
池田が参加してないはずの長篠に参加したことになってるわけだがw
(大久保もぜんぜん活躍してないヤツが活躍したことになっていたりと指摘してるw)
これが金をもらって捏造する売文家と言われる太田のやり方。
信長公記の著者の太田が書いた太閤記や高麗陣日記や関が原軍記が
デタラメ過ぎて、誰も引用しないシロモノなのに
信長公記だけは絶対に正しいと主張する方が頭が悪い。
太田の信長記や豊国大明神臨時御祭礼記録や内府公軍記を含む
「五代之軍記」なる著作や高麗陣日記や神武天皇征伐秘略や中古日本治乱記なども二次史料にも満たないダメ著。
そもそも信長公記と呼ばれたのは
尊経閣15冊本信長記の奥書に慶長十八年と書かれていて
太田が死んだ年に書かれた池田本系の最終形態だが
それまでの池田本には無い信長長女に言及があり
信康の正妻岡崎殿を信長の元へ送り返したなどと書かれていたり、
信長が金華山(稲葉山)において弓鉄砲で狩りを楽しんで
鹿を78頭射殺して御祝着不斜候と大喜びしてるなど
池田本からさらなる追加記事を登場させている。
これは誰の発注なのか不明だが、適宜、発注者の要求で内容を太田が訂正・改変してるのは事実。

360人間七七四年:2012/05/11(金) 12:19:08.88 ID:R9iBqtKz
訂正

そもそも信長公記と呼ばれたのは
明治14年に町田久成著の我自刊我書に収録された時の題名で
尊経閣文庫信長記の十五巻奥書に信長記と書いてあるのが本来のタイトル。
361人間七七四年:2012/05/11(金) 17:42:32.48 ID:OonvzwfC
森の長沼奪回と関山・三本木侵攻は信長公記のデタラメで一次史料にはまったく存在しないウソ。
森も天正10年4/2に景勝に破れて長沼城を奪われてるわけだがw
(武田への援軍で上杉が派兵した松本房繁が長沼にいたが、
武田滅亡のため越後に撤退した後に森が接収してた)森が奪回した記録はない。
4月には仁科方面や長沼の守りを磐石にとか命令してるし(長沼には島津忠直が滞在)
5月になっても富山は取り返されて残念だが信濃方面の守りは磐石で心配はないとか言ってるし
信濃の守り捨てて越中まで天神山まで出兵するくらい

当時の芋川は武田配下で上杉配下ではない
しかも一豪族が8000も動員できるわけがない。
そもそも上記の話は一次史料で全く証明できないわけだが。
ちなみに軍記ソースありなら滝川も三国峠で上杉に撃退されている
362人間七七四年:2012/05/13(日) 14:15:34.43 ID:mPEJkY0E
元亀3年11/27の山縣書状に
朝倉軍が織田軍を大破したし尾張・美濃衆が数多討死って書いてある
嘘長公記はこれを隠蔽。
この大敗で信長は岐阜へ引きこもり震えていた。
12/22に武田軍が三方が原で大勝。
これらの結果、織田は一万しか動員できないほどに離反されて衰退した。
これを受け1/17信玄からの依頼を受け石山本願寺も四カ国門徒(尾張・美濃・三河・遠江)を一斉蜂起させた。
家康は野田城の武田軍に吉田城で震えて、
岐阜で震えているヘタレ信長の後詰が近日来ると盲信した謙信に泣き書状を書いている。
一方、浅井軍は近江の高島郡を経て滋賀郡を平定。
完全に終わってた信長。
デタラメ公記は北条記以下の糞軍記。
363人間七七四年:2012/05/13(日) 14:40:26.82 ID:/iUkIv5V
だがスレ再開させろ
364人間七七四年:2012/05/13(日) 16:15:50.56 ID:MC5NYEgR
自分のスレを1人でせこせこ妄想しながらあげるだがw
哀れみすら覚える
365人間七七四年:2012/05/13(日) 17:09:41.45 ID:mPEJkY0E
一次史料を見ると朝倉って織田に連戦連勝してるんだよな。
いつも織田が退却したのを見届けて越前へ帰陣してる。
浅井を見捨てるに忍びないって志賀の陣の和睦で言っていて
浅井が滅亡しないようにやってきてるだけで
織田に他意はないって言ってるだけだし。
捏造公記だと朝倉軍を弱く書いてるのが笑えるけどwww
366人間七七四年:2012/05/13(日) 17:58:33.67 ID:MC5NYEgR
連戦連勝しているのに一門の朝倉景鏡が織田に寝返り
そのまた一門の朝倉景健が織田に鞍替えするという矛盾wwww
367人間七七四年:2012/05/13(日) 18:26:55.07 ID:mPEJkY0E
>>366
それは信玄死去して
さらに反織田の旗頭だった義昭も降伏して
完全に時勢が変わったからだろwww
368人間七七四年:2012/05/13(日) 18:29:05.12 ID:MC5NYEgR
信玄が死んでwwww時勢が変わったwwww
信長に何もできずにポックリ逝った信玄1人のためにwwww

100歩譲ってそうだとしても朝倉家が武田家の戦略性を逐一把握してんすかwww
実のない虚しい主張っすねwww
369人間七七四年:2012/05/14(月) 19:02:09.37 ID:z4VstdtG
だがスレ立てるまでage続ける
370人間七七四年:2012/05/22(火) 09:09:03.00 ID:7NrkmGQ1
隠蔽捏造だらけの信長公記

信長公記の5/13に熱田で信長が陣を張り熱田社の八剣宮が酷く荒廃してる様を(癈壌し正体なきを御覧)
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ陣を移し長篠の後詰めに行く記述

多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。

一次史料から5/5に尾張の甚目寺不動坊の証秀が熱田社に剣を奉納している。
5/11に熱田社祝師に信長が三河出陣を前に恒例の御祓いをしてくれと懇請している。
5/15の信長書状から13日に信長が出陣して14日に岡崎に到着していたことがわかる。

つまり武田軍は12日には尾張の僧が織田の戦勝が祈願して熱田の神へ奉納した剣を奪い、
信長の出陣にあたっての戦勝の御祓いを13日にしてもらおうとしていたのに
熱田を焦土と化して挑発している姿がみえる(信長が神仏を恐れず、政教分離していたなどお笑いである)
今までの信長は家康への後詰めにおいて、なんだかんだ理由をつけて
三河までやってこなかった。もしくは間に合わないようにワザと遅く行っていたが、
この完全にメンツ丸つぶれの挑発に
長篠まで行かざる負えなくなったのだろう。
371人間七七四年:2012/05/22(火) 09:27:49.38 ID:7NrkmGQ1
京を支配してる織田の一方的な軍事プロパガンダを聞いて
それを公家が日記に記入してるのであって公家が日記の記述を他人に見せる目的で
故意に情報を曲げて書いてるなんて一度も書いてないだろwww
本願寺攻めに失敗し5月の原田(塙)戦死したあとの信長出陣で勝ったと宣伝してるが
(天王寺の戦い・・・公記には数千挺の鉄砲に狙撃される中を信長が突撃して大勝利したとデタラメを吐く)
5/11勧修寺晴豊らが戦勝祝賀の勅使として摂津国へ下向するやウソ戦果と捏造戦況がバレて
相当な危機感を持った朝廷で12日夜からさっそく朝廷で右大将出陣御祈祷が一週間に渡り開始される始末だし
(同時期の柴田書状には能登・加賀・越中を織田が平均したとデタラメを吐いてる)
姉川の戦いでの言継卿記でも浅井討ち死に、その他8000討ち取りとか書いてる。
また越前以下9600討ち取り(公記ですら浅井の死者1100と書いてるのにw)
そんなに討ち取ったのなら志賀の陣のような体たらくにならんだろう。
長篠の戦いでも大げさな戦果な上に、勝頼も死んだとか書いてるのが信長。
長篠の戦いの信長による戦果捏造宣伝工作
5/26信長書状には「数万を討取った。勝頼の死体も河に漂ってるだろう」などと
誇張しまくりを書いていて5/21の戦い当日付の兼見卿記にも信長が一戦に及んで
数千騎を討死させたと書いてる(騎馬武者だけで数千もいたのかすら怪しいデッチあげぶりw)
つか、こりゃあ武田大騎馬軍団だなw 実際の武田軍の損害については
実際に鉄砲衆を調達してから長篠に従軍した大和国の筒井衆が無事に大和国へ帰り着いた
5/27に記された大和興福寺の多聞院日記の千人ぐらい討死が比較的正しいだろう。
(それですら筒井勢が武勇自慢の宣伝をしている可能性がある。
と言うのも、そんなに圧勝してるなら天正10年の武田征伐を恐れた大和衆が
甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士などと不安を訴えたりするだろうか)
5/24に兼見卿記が記す、光秀と会談した際に聞いた長篠の戦いの話では
「ことごとく討ち果たした」に表現が大幅に後退している。
ちなみに6/13の謙信への信長書状では嘘がすぐバレると思ってか
「数知らず」と書いて討取り数を明言しなくなっている。
さらに家康が駿州へ軍事行動をしていることに触れた後に織田軍は兵糧がまだできてない間は軍を出せないので
(6月の時点では米が尽きていて収穫期の)来たる秋まで動けないと書いている。
織田軍は兵農分離どころか、思いっきり農業スケジュールに左右されている
徳川軍よりも遥かに後進的で古い軍隊組織体制なのがわかる。
家康の知恩院宛て6/22書状でも武田之家討ち果たし候様子を聞いたようですね
などと書いていて討取り数にまったく触れていない。
実は虚報ばかりで討ち取り数すら明言できないのが戦後の織田w
実際にはそんなに討ち取られていない可能性が高い。
372人間七七四年:2012/05/22(火) 09:28:17.01 ID:7NrkmGQ1

>>国半分を制圧したという
織田の大嘘を鵜呑みにして書いてるだけ。そんな織田のホラを信じてたら中国地方どころか
九州まで一遍にすでに制圧完了してたりしてることになるわwwwそんなデタラメ宣伝工作の証明する一次史料はない。
信長は誇張による情報操作を公家相手にかなりやってる。
叡山焼討ちでも言継卿記が3000〜4000人は殺されたと書いてるが、
冷めた目でみてる年代記抄節はおよそ1600余人くらいと誇張に惑わされずに冷静に書いてるしw
だいたい信長は越前一揆を撫で切りした時も
越前府中の街の中は足の踏み場もなく一面が死体で埋めつくされて愉快だわとか誇張しまくり。
>>信濃国半分制圧
まったく具体性にかけていて、テキトーに言ってるだけで信用性ゼロ
いつもの関東まで一遍に申し付けたとか中国どころか九州まで属本意とかと同じ信長の虚言癖。
信長がデタラメを吐いて言ったことを京に常駐してる村井がそのまま伝えただけ
つうか2/7の時点でどう考えたって信濃の半分を手に入れてるわけねーだろw
その2日後の2/9には秀吉が関東の太田へ織田は
すでに中国四国も手に入れたとか言ってるし織田の対外宣伝はまったく信用性ゼロwww
太田牛一の公記にも、あきらかに信長による対外宣伝を真に受けて書いてるようなシーンが何度も出てくる。
特に北陸情勢なんて明らかにそんな話ばっかりで
発信者が有利になるように操作された情報を公記に書いてるだけで事実確認なんてまったくなされてない。
373人間七七四年:2012/05/22(火) 13:08:00.39 ID:ggrXkOVP
ここだがスレにしちまえばいいんじゃね?
374人間七七四年:2012/05/26(土) 18:53:01.91 ID:faJvUfK2
勝った勝ったと捏造戦果の誇張しまくり吹聴
三大嘘吐き戦下手大名って言えば
織田・北条・伊達だよな。
375人間七七四年:2012/05/26(土) 19:16:25.71 ID:ljVAdvEn
豊臣・毛利が断トツ
376人間七七四年:2012/05/26(土) 20:16:49.43 ID:2g0LZ++I
377人間七七四年:2012/05/27(日) 04:42:10.71 ID:pPSaV8Q0
信玄がダントツだろう
378人間七七四年:2012/06/02(土) 10:53:07.07 ID:6ZEqH5Ka
信長の過大戦果吹聴虚言癖は神レベルw
1万討ち取ったとか平気で一桁盛るからなwww
北条も関東縦断して小田原城まで攻め込まれたくせに
その途上で何度も武田に勝った勝った連呼してるアホぶりw
政宗はもうね、関が原で南部に負けていながら
南部が西軍になりそうだから恫喝してやったとか
最上弱すぎとかデタラメ報告が笑える。
379人間七七四年:2012/06/05(火) 12:01:21.55 ID:HkHcu1V1
信玄西上で完全に追い詰められた信長と言う状況の中で
松永久秀が信長に降伏したとか
とんでもないデタラメの大嘘を書いてる時点で
いかに信長が絶望的だったかを窺い知ることができる。
380人間七七四年:2012/06/05(火) 19:22:40.61 ID:RNdRW9oX
10万以上の精鋭で1万の乞食兵を囲んでいるのにもかかわらず
わずか半年でほとんど蹴散らされた信玄率いる包囲網側が
いかに絶望的だったかを窺い知ることができる。
381人間七七四年:2012/06/06(水) 03:27:52.07 ID:th4ouwFa
太田牛一を主人公にしたドラマは面白かったな
382人間七七四年:2012/06/09(土) 18:32:57.01 ID:rdME5fh1
織田チョンは根拠もなく、大久保が指摘しているのは太田ではなく甫庵の方だと歪曲するキチガイです。
そもそも実際に当時から信長記と呼ばれていたのは太田の方です。
信長公記と太田のが呼ばれるようになったのは
明治14年に町田久成著の我自刊我書に収録された時の題名からで
尊経閣文庫信長記の十五巻奥書に信長記と書いてあるのが太田著作の本来のタイトル。
甫庵の著作は甫庵信長記と呼ばれちゃんと区別されてる。
今は15帖を信長記、首巻が伴ってるのを信長公記としていることを指摘するよ。

角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに
第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている)
現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は金子拓氏の最新研究結果によれば70以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。
天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。
太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。
池田家本系統の太田の内閣文庫蔵信長記には
池田が参加してないはずの長篠に参加したことになってるわけだがw
(大久保もぜんぜん活躍してないヤツが活躍したことになっていたりと指摘してるw)
これが金をもらって捏造する売文家と言われる太田のやり方。
信長公記の著者の太田が書いた太閤記や高麗陣日記や関が原軍記が
デタラメ過ぎて、誰も引用しないシロモノなのに
信長公記だけは絶対に正しいと主張する方が頭が悪い。
太田の信長記や豊国大明神臨時御祭礼記録や内府公軍記を含む
「五代之軍記」なる著作や高麗陣日記や神武天皇征伐秘略や中古日本治乱記なども二次史料にも満たないダメ著。
そもそも信長公記と呼ばれたのは
尊経閣15冊本信長記の奥書に慶長十八年と書かれていて
太田が死んだ年に書かれた池田本系の最終形態だが
それまでの池田本には無い信長長女に言及があり
信康の正妻岡崎殿を信長の元へ送り返したなどと書かれていたり、
信長が金華山(稲葉山)において弓鉄砲で狩りを楽しんで
鹿を78頭射殺して御祝着不斜候と大喜びしてるなど
池田本からさらなる追加記事を登場させている。
これは誰の発注なのか不明だが、適宜、発注者の要求で内容を太田が訂正・改変してるのは事実。

383人間七七四年:2012/06/26(火) 20:56:45.73 ID:0ZvK16gC
>>1
■スレッド作成のお約束■
利用者の気分を害する目的、又は利用者を揶揄する目的のスレッド作成は禁止です。
すみやかに当スレの削除依頼を出して下さい。
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http://info.2ch.net/guide/adv.html#saku_guide
384人間七七四年:2012/07/01(日) 08:30:12.28 ID:KxrjUzET
>>310
清洲同盟が信長公記にすら記されていない以上は捏造逸話以外のなにものでもない。
などと言いたいところだが、さて信長公記が隠蔽する時は必ず理由がある。
信長公記において家康がすでに同盟者となっていては都合が悪いのだ。
そこで思い出されるのは、信秀死去寸前に今川と和睦してることを隠蔽して、
信長の立場が不安定だと捏造してる公記だが、
家康との共同作戦で思い出される史実で、公記が完全隠蔽してる事件がある。
それを隠蔽してる以上は家康がすでに同盟者であっては困る。
あくまで家康は永禄11年の義昭上洛戦以降の同盟者でなくては都合が悪いのだ。

さて以下がその隠蔽である。

永禄9年に信長は近江矢島の義昭を上洛させるためと称して
義昭に斉藤龍興との和睦を申請し義昭が喜んで和睦を斡旋したし
龍興も義昭を「公方様」と呼んで快諾して誓詞を細川藤孝に提出してる。
義昭は信長に藤孝を下向させ上洛の打ち合わせをし、
7月には能登七尾の畠山義綱や大和の十市遠勝にも
来月22日に信長が出陣するから上洛の供をするように命じてる。

これにより尾張・三河・美濃・伊勢四ヶ国の兵を率いて上洛軍を催すこととなった。
しかし出陣当日になると臆した信長が突然出兵できないと言い出す。
これには龍興18歳も信長が臆したと嘲笑し、義秋も信長を糾弾し天下の物笑いとなった。
これにキレた信長が8/29に同盟軍の美濃攻めを突如開始し
木曽川の河野島へ渡川進撃。奇襲に怒った龍興も
すぐさま応戦し河野島へ渡ってきたので織田軍は敗走し川を挟んで対陣。
その翌日から風雨激しく洪水になり閏8月8日の明け方に奇襲を敢行した
龍興側に織田軍は大敗。勝利した斉藤に義昭は改めて上洛を願うが
織田の動向が心配なので上洛は難しいと言われ
翌8月3日に織田と上洛戦を企んだと知った三好長逸3000が
近江坂本へ義昭討伐にやってくる。
8/29は暗夜だったのを幸いに側近4、5人で琵琶湖を渡り
若狭武田の下へ義昭は逃走した。

9/13の義昭は謙信へ向けて「京表儀 織田尾張守出勢相違故 
江州矢島儀 弥三好・松永計策共候間 難成安座候之条 若州へ相越 
去八日至越州敦賀退座候 義景馳走候」
などと信長を名指しで非難している。
385人間七七四年:2012/07/14(土) 16:42:02.17 ID:61wPxEL0
デタラメの羅列で読者を洗脳する屑軍記
386人間七七四年:2012/07/14(土) 20:40:18.70 ID:jcPjd3LS
そもそも歴史は勝者によって作られるのだよ
勝者のみが歴史を語る資格があるって事だ
戦国最強織田軍団に徒党を組んで刃向い惨めに滅ぼされた
浅井・朝倉・武田の三馬鹿トリオに歴史を語る資格無し!
387人間七七四年:2012/07/20(金) 08:45:35.71 ID:we6XbcIa
信長公記が天正元年11月に若江城で謀反が起きて三好義継が自刃と書いてるのはデタラメ
実際の義継は三好孫六郎存康と言う名で義昭を上意と呼びつつ
勝頼の高天神城攻略を喜ぶ書状を天正2年8/10付けで穴山に出してる。
元亀元年7月の三好重存(義継)が発給した禁制には孫六郎と書いていて
その時の花押と今回の花押がそっくりである。
松永久秀降伏を一年前倒ししてるだけでなく三好義継の死亡まで捏造。
388人間七七四年:2012/07/20(金) 18:04:38.91 ID:3j7FzVJt
弟が三好孫六郎存保なんだけどなぁw
389人間七七四年:2012/07/20(金) 18:07:32.61 ID:3j7FzVJt
弟じゃね、従兄弟だったわw
390人間七七四年:2012/07/20(金) 21:26:18.59 ID:71KmSPwD
三好孫六郎存康が十河存保と気付かないのは凄いな
元亀元年に重存と名乗っているはずないけど?
391人間七七四年:2012/07/20(金) 21:53:16.61 ID:WnWC74/t
史料を自説に都合の言い様に読み取っていく
だが史観
392人間七七四年:2012/07/20(金) 23:17:58.35 ID:3j7FzVJt
>>390
三好孫六郎が義継しかいないとでも思ったんだろうなw
393人間七七四年:2012/07/22(日) 10:06:50.57 ID:lx3+DRtu
プププ織田厨って相変わらず無知だなw
その時点での十河存保がなんで「高天神城の落城」を喜んでんだよw
立ち位置すら理解できてねーのかよwwwwwwwww
394人間七七四年:2012/07/22(日) 10:55:05.25 ID:D3tJlNg3
あなたは蒲生定秀のときも同じような勘違いをしていたけど、
誘降工作の文書があったからと言って、
それが実現したとは限らないことを理解した方が良いよ。
395人間七七四年:2012/07/22(日) 11:33:11.06 ID:sNKAZc9g
こういうやつが出所の怪しいソースを元に先物投資してコケるんだろうな
396人間七七四年:2012/07/22(日) 13:10:02.80 ID:lx3+DRtu
>>394
なんのことだ?よくわからんから検索してみたが下記の話のことか?
天正4年の木津川の戦いと天正6年の第二次木津川の戦いの間である
天正5年にも織田軍は毛利と海戦して大敗してるのを公記は隠蔽してる。
謙信の上洛戦に言及があるため天正5年9月23日の手取川の戦いが始まる寸前の書状。

龍谷大学大宮図書館蔵 光佐披露状 江戸浄林寺文書 顕如上人文書簒所収

急度令啓上候 仍今度芸州警護船 早速被相催 歴々衆渡海候
殊為合力 兵糧等厳重之儀 囘申謝候 随而於海上及一戦 敵船悉被打果候事
無比類高名 併上意御威光之故候 当寺門下・紀州兵船相共ニ 抽戦■候
可然様御執成専用候 其節之儀 加太豊前守存知之事候条 可有言上候
就中御太刀一腰金・御馬一疋鹿毛進上之候
聊表祝儀計候 於此上 播州陸路之行 肝要存候 弥可被上意候
北国謙信事 近日越前表 可有出張候 猶以三和之儀 此刻候 甲州之儀
八月中尾濃江必定出馬■■ 一両日已前も申越候 諸国之儀■■分急申候
吉事近々可申入候 此等之旨 宜有披露候 怖々謹言

           七月廿八日 光佐(花押)
 一色駿河守殿
 真木嶋玄蕃頭殿

加太豊前守=鹿伏兎豊前守宗心の血統か?
亀山城主関盛信に従って関軍の先鋒を勤めていた鹿伏兎城(白鷹城)主
信孝が神戸家の養子になると関氏を通じて織田に仕えたが、のち反織田挙兵。
姉川での討死説あり?子の四郎盛氏も天正2年に長島で討死説あり。

神戸具盛(妻は蒲生定秀の娘)
養子信孝を冷遇していた為に元亀2年に山路弾正など家臣が大虐殺され
信長により幽閉されるも義父を頼り日野城へ逃亡し、元亀3年に神戸家は信孝が家督を継ぐ。
ちなみに永禄11年の観音寺城の戦いで蒲生賢秀を降伏させたのはこの人

関盛信(妻は蒲生定秀の娘)
亀山城主。信孝との不和が原因で
元亀4年に信長により幽閉され義父を頼り日野城へ逃亡
嫡子の関盛忠は天正2年の長島討伐で信孝や蒲生賢秀に従い従軍し討死。

織田信孝
信雄は長島滅亡後の天正3年信意に改名するまで
北畠家での支配実績がまったく書状で確認できない。
そのために織田家へ突っ返されていたとする見解もある。
神戸家での信孝はほとんど不明で、信雄以上に謎。

鹿伏兎豊前守宗心・神戸具盛・関盛信・蒲生定秀は反織田でつながっていた。
しかし義昭降伏と浅井・朝倉滅亡を契機に蒲生は織田へ鞍替えし関氏の嫡男も従う。

397人間七七四年:2012/07/22(日) 18:14:56.55 ID:6Urbgtel
話を逸らされてしまったな・・・
念のため確認するけど、
だがさんはあくまでも
三好孫六郎存康≠十河存保
と言い張る気?
398人間七七四年:2012/07/22(日) 19:12:30.50 ID:lx3+DRtu
三好重存(義継)の禁制の該当書状は
大日本古文書の東福寺文書1巻134ページ
元亀元年7月に孫六郎の花押があり、
また勝頼の高天神城攻略を喜ぶ書状を
天正2年8/10付けで穴山に出してる書状は於曽家文書で
三好孫六郎存康の花押は上記と完全に一致とのこと。
399人間七七四年:2012/07/22(日) 19:27:00.03 ID:lx3+DRtu
>>394
あぁこっちのことを言ってたのか?
ちょっと調べたが、もともと朝倉の名前が都合悪くなったために証拠隠滅が図られ
書状から掻き消されて○○景亮になっていたんだってな。
そしてほんの数年前に朝倉景亮なる人物が同時代に存在していたのが特定されるまで
誰が出したのかわからなかったとのことらしい。
確かにこの内通書状が信長にバレたらやばかっただろうから
蒲生家では朝倉の名をわざわざ消して曖昧にして子孫後世に書状を伝えたんだろうね。

元亀3年10/5の朝倉景亮書状
先日以◯◯◯◯ 入候之処、御懇之御報、
殊御一書披見本望候、其已後重而可申入之処ニ、
延引非本意ニ候、仍其表如何ニ御座候哉、承度候、乍御六借敷、南方辺之儀、示預候者、
畏可存候、委細林権介可申候之条、不能詳候、恐々謹言
蒲生下野入道殿御陣所

上記を証明するように元亀3年11/27の山縣書状に
朝倉軍が織田軍を大破したし尾張・美濃衆が数多討死って書いてある
織田が朝倉に大敗して近江勢が寝返ったと書かれている。
で、この書状の最後に日野蒲生が朝倉に寝返ったとあり、手紙の内容と合わせて
織田の敗北、武田の躍進を山県が強調している。
嘘長公記はこれを隠蔽。この大敗で信長は岐阜へ引きこもり震えていた。

信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。
つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。
ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、
信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。
それで11月には岩村城が武田に取り返され、
11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、
加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。
東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。
400人間七七四年:2012/07/22(日) 21:16:11.89 ID:6Urbgtel
>>398
>三好重存(義継)の禁制の該当書状
の署名は「孫六郎」としか書いていない。
見ればわかるが、「三好重存(義継)」とは編者の比定に過ぎない。
どちらの書状の孫六郎も十河存保と考えれば矛盾は無くなる。
401人間七七四年:2012/07/22(日) 22:40:51.70 ID:+/L8MCg1
そもそも十河存保は三好家の人間だから少なくとも信長に好意的なわけはないんだがな。
武田信玄が死んだ後に1573年4月19日に柴田勝家を通じて織田信長と接触、
その後反信長方の篠原右京をぶっ殺してはいるが、
結局信長の要請した本家三好の居城である若江城の攻撃は無視する形で中立を保っている。

四国三好が本格的に親信長として活動するのは恩を仇で返した
細川持隆の息子である細川真之が長宗我部元親と協力して三好長治を討死させたあたりからだろ。
仮に十河存保がそれ以前から信長に昵懇にしていたとするなら長宗我部元親と同盟関係であった織田信長が三好侵攻を許すわけない。

立場的に考えても三好孫六郎存康が=十河存保と考えても全然不思議じゃないな。
402人間七七四年:2012/07/22(日) 22:41:25.50 ID:+/L8MCg1
恩を仇で返した、というのは自分たちが、ね
403人間七七四年:2012/07/23(月) 06:33:34.64 ID:/DD2ua37
時系列として、孫六郎重存→義重→左京大夫義継、と名乗った人が再び孫六郎(重存とか存康)を名乗ることが有り得ると思っているのかな?
さらに、十河存保が既にいるのに、三好義継がわざわざ「存康」という同じ読み方をする諱を使うと考えられるのかな?
404人間七七四年:2012/07/23(月) 13:45:19.26 ID:Wex6SwRW
そもそも三好孫六郎存康ときて十河存保を真っ先に切り捨てるのがどうかしてるw
織田弾正忠の記録を見て「これは織田信長ではない」と言うようなもの。
ましてや一度死んだと言う記録がついてる三好義継を候補に持ってくるとか
井沢元彦もびっくりだなw
405人間七七四年:2012/07/25(水) 08:06:00.14 ID:yz5GR6yB
プププ織田厨って相変わらず無知だなw
その時点での十河存保がなんで「高天神城の落城」を喜んでんだよw
立ち位置すら理解できてねーのかよwwwwwwwww


406人間七七四年:2012/07/25(水) 10:33:03.59 ID:HOEUQvoT
存保って織田方だったはずじゃん。
議論で不利になったから、
前提をぶっ壊して信長が見事に騙されていたとか
織田厨は自分の都合で根拠なく歪曲を開始して主張し始めてるわけ?
407人間七七四年:2012/07/25(水) 20:10:14.19 ID:utWqAlsR
織田方だったはず、という思い込みが間違っていると思わないのか?
408人間七七四年:2012/07/25(水) 20:59:43.88 ID:JoJnw8Q+
そもそも長篠期の十河が織田方と言う方がびっくりだな。
志賀の陣の篠原に代表されるように四国三好はむしろ当初反織田方だった。
天正元年の篠原討伐はあくまで積極的な反織田であった篠原を
ぶっ殺したというだけで親織田に転じたわけではない。

これはその後の三好義継攻めで四国三好が信長の要請を揉み潰して河内若江城に
参陣してこなかったことからも明らか。本当に親織田方なら十河と信長が
接触した1573年4月19日の段階で信長に与しているはずだがこれ以降四国三好が
信長と積極的に通じていたと言う記録はほとんどなく、あくまで消極路線を歩んでいただけに過ぎない。

十河含めて四国三好が信長を頼るのは当主の三好長治が長宗我部にぶっ殺された後だろ?
長篠時点では織田武田を天秤にかけて様子見していたとかいくらでも言える。
409人間七七四年:2012/07/26(木) 21:16:14.29 ID:WslD/9b1
かわいそうな織田チョン必死ワロス
410人間七七四年:2012/07/26(木) 21:17:56.94 ID:T2a7oiLZ
と・・・・都合が悪くなるとまた罵倒するだけのだがであった
411人間七七四年:2012/07/26(木) 22:48:03.02 ID:h2+aL9Z/
一度死んだ人間を蘇ったかのように吹聴しただがにふさわしい末路だなw
412人間七七四年:2012/07/27(金) 09:47:43.61 ID:pF2sr1Pu
で、東京大学が
三好重存(義継)による禁制とその花押と
断定したことに対する
一次史料による十河存保との間違いとする織田厨の反論はまだなの?
織田厨に都合がいい願望妄想だけでは話になりませんよ。
413人間七七四年:2012/07/27(金) 18:08:40.29 ID:Ks6PXigE
賢い大学を出せば自分の妄想が現実になると思ったら大間違いだぞ?w
まあ三好孫六郎と聞いて三好義継しか出てこなかった自分の知識を恥じればいいよw
414人間七七四年:2012/07/27(金) 18:55:44.65 ID:Gu+v+Dcd
結局、根拠ゼロの織田チョンの自慰レスなのが見事に露呈w
415人間七七四年:2012/07/27(金) 20:12:08.56 ID:Ks6PXigE
死んだはずの三好義継をわざわざ妄想を成立させるために生き返らせるだがさんほどじゃないよw
「本能寺で信長は死ななかった」と同レベルw
416人間七七四年:2012/07/28(土) 07:55:37.50 ID:8r0d1pbE
最初から読んだが、
信長公記が軍鑑以下の糞っぷりで噴いたw
417人間七七四年:2012/07/28(土) 15:44:31.57 ID:fcXUkfEh
軍鑑よりはマシでは?
418人間七七四年:2012/08/01(水) 10:10:16.97 ID:e6myOOab
最近の甲陽軍鑑は飛躍的に再評価されてきている。
1990年代に国語学者酒井憲ニ氏の大著甲陽軍鑑大成を完成させてからは
柴辻氏なども軍鑑を史料に取り込むなどの風潮が出始めており、
この大著の完成は甲陽軍鑑の評価を一変させ好転させた。
これを読んでいない、または存在を知らない研究者はド素人である。
それどころか桶狭間の戦いにおける
黒田日出男氏を始めとした今川軍の兵が乱捕り中の隙を
織田軍が攻撃した為に義元を討てたとする論拠として軍鑑を援用している。
これは公記の記述を盲信している正面攻撃を元とする藤本正行氏の正面攻撃説や小和田氏の正面奇襲説の
信長の不可解な成功の理由として充分な証明理由となろう。
旧日本陸軍参謀本部の苦肉の発想であった迂回奇襲説はこれにより論破されてしまったのである。
(信長公記が高台の今川軍を低地から出撃した織田軍が正面攻撃して勝ったと書く
現実にはありえない妄想ぶりに参謀本部も頭を抱えた結果、妄想を膨らませ迂回奇襲しかありえないと結論した)
読む場合に注意すべき点は
軍鑑と史実の年記の食い違いがあるので対照年表を見ながら読むべし
ごくまれに偽文書が挿入され操作をしている
特に史実と食い違うのが山本勘助がらみの誤記創作が多いと言う事で
勘助自体が存在しないと言われる所以である
原因は高坂弾正の口述を猿楽者大蔵彦十郎と春日惣次郎が筆記した作品を
小幡景憲がのちに自家のために加筆し歪曲捏造改悪をしていると言われている。
市河文書「武田晴信書状」に山本菅助の名前があり存在が確認され
晴信側近である事がわかり軍鑑では足軽衆である事がわかる。
この文書では勘助と共に原与左衛門尉が足軽大将衆であったのがわかる。
この原の舅が小畠景憲の祖父である虎盛であり東信や北信で活躍しており勘助との関わりが見える。
また小畠景憲は出版する金がなかったから出版出来なかったと言うのが通説だが
出版出来なかった理由が自家に都合がよく改悪捏造したからとも考えられる。
三条藩主稲垣重種が筆写のために借りた軍鑑を宇佐美勝興に書写された時に
無断で密にもう一つ筆写して京都で出版したと言う。
419人間七七四年:2012/08/01(水) 10:56:58.45 ID:60jHFT+3
信長公記も甲陽軍鑑もだがの妄想に比べれば現代メディア並みの信憑性だよw
420人間七七四年:2012/08/01(水) 11:03:58.11 ID:EClukO04
信長公記が一次史料扱いされてるのは祐筆の同時代の日記だからってのがあるんだけどね
これで理解できなきゃ歴史そのものを理解できないわけだから、語るのをやめた方がいい
421人間七七四年:2012/08/01(水) 11:22:47.76 ID:bLtlsacP
>>420
さすがにそれは違うだろ。
太田牛一は信長の祐筆ではないし、信長記も当時のメモを元に後に編集したものであって日記ではない。
422人間七七四年:2012/08/01(水) 11:24:42.67 ID:e6myOOab
>>420
>>一次史料扱いされてるのは
されてない。角川が出版するに当たり販促を兼ねて
「第一級の」って煽り文句を入れたことが素人の誤解の始まり。
大久保忠教も公記はデタラメばっかりって指摘してるし。
423人間七七四年:2012/08/01(水) 18:01:28.94 ID:zZuKPkZU
信長公記が一次史料じゃない、そういう論文だしてきたら?
バカの妄言相手にできるかよw
424人間七七四年:2012/08/01(水) 18:45:00.42 ID:60jHFT+3
そもそも第一級史料と一次史料の区別もつかないアンポンタンがだがw
少なくとも戦国時代では第一級史料なんてつく史料は存在しない。
認定されるほとんどの史料は明治以降w
425人間七七四年:2012/08/01(水) 19:02:51.82 ID:lp4LWnGk
太田は売文家で金を貰って、ありもしない軍功を付けたしているのは信長公記池田本などから判明してるし、
大久保が信長公記はウソばっかで、
功績ない者が功績をあげているように書かれていると指摘してるように、
全く信用できないシロモノ。
426人間七七四年:2012/08/01(水) 19:04:13.29 ID:zZuKPkZU
わかったから公記に史料価値がないって論文だせよ
427人間七七四年:2012/08/01(水) 19:34:18.28 ID:3kjBgMDm
だが理論によると史記や三国志もデタラメばかりで
読む価値の無いクソ資料だからな。
428人間七七四年:2012/08/02(木) 02:28:11.36 ID:CSwNBP3S
しかし一方で三国志演義は史実と言い張るんだよなw
429人間七七四年:2012/08/02(木) 06:52:10.87 ID:3Q7O8lcU
>>428
その該当レスの場所を教えてくれ。
430人間七七四年:2012/08/02(木) 07:27:22.67 ID:CSwNBP3S
信長公記=三国志(捏造と言い張る)
三河物語=三国志演義(史実と言い張る)

解りやすいだろ?
431人間七七四年:2012/08/02(木) 13:29:38.00 ID:ib6Q0zNn
三国志は捏造だろ
その証拠に戦場跡がどこも発掘されていない
432人間七七四年:2012/08/02(木) 16:49:24.71 ID:yG1gSm1R
1800年前の戦場がのこっとるわけないやろw
433人間七七四年:2012/08/02(木) 20:55:40.93 ID:B/cRYN/r
>>430
その発言は何処にあるんだ?
434人間七七四年:2012/08/02(木) 21:01:05.33 ID:cQGjNxrM
>>430
逆だよ。

信長公気が三国志演義
三河物語が正史三国志
435人間七七四年:2012/08/02(木) 21:42:07.41 ID:ypfzE1vF
彦左が三河物語の中で信長記の記述の嘘として、長篠の戦いのところで
・度々の合戦で引けをとったものを鬼神のように書く
・名を上げて国中に知れ渡ってる人を書いてない
・力のないものを大力と書く
とか挙げてるけど、そもそも牛一の信長記の長篠の所には該当する記述が存在しないしな。
一方、甫庵の信長記には徳川と武田の個人的な武勇に関する記述が含まれてる。
普通に読めば、彦左が言ってるのは、甫庵の信長記だって判断せざるを得ないと思うけどな。
436人間七七四年:2012/08/02(木) 22:24:33.06 ID:jA/uicaP
>>435
曲解乙w
大久保は長篠の戦い限定でそう述べてたわけじゃねーよカス
437人間七七四年:2012/08/03(金) 06:49:11.20 ID:MS5XsjVE
438人間七七四年:2012/08/03(金) 08:04:40.88 ID:GpPcg/O/
大久保みたいな大名未満の奴が大名ご用達の信長公記なんて貰えるわけねーだろw
甫庵信長記も当時は信長記って言われていたしなwww

>>435
甫庵云々もそうだが、これはただの大久保の気構えだからね。
「自分の書いたのには偽りはない」って言っているが、その前の志賀の陣は
和議文含めて明らかに創作の類が入っているのがわかりうる。

大久保の評を指して「大久保は絶対正しい」なんて言うのはそれこそ大久保の言う史料を盲信しているとか、
功なき者を功ありとする史料を信じ込むのとまるで同じ。それが嫌だからこそ大久保は最後に
「人様に見せるものではない」として門外不出にしているんだからな。
439人間七七四年:2012/08/03(金) 18:22:54.21 ID:2HLtgDKJ
>>438
大久保は高級旗本だし、当時的にもインテリだから、十二分に信長公記に触れる機会があったと考えていいだろ。
むしろ甫庵信長記以上に。
440人間七七四年:2012/08/03(金) 20:10:51.67 ID:GpPcg/O/
>>439
当時の大久保なんて閑職同然だぞ
大久保家で権勢を振るっていた甥の大久保忠隣が廃されてから
大久保は転落一方。1613年には兄貴の大久保忠佐系が断絶して以降大久保家は大久保忠教の死ぬ直前に大久保忠職が大名復帰するまで受難の時代を迎える。

あと、大久保忠教はインテリでもなんでもない。
楽隠居していたから後々色々イメージを膨らまされた、水戸黄門光圀と同程度の信憑性
441人間七七四年:2012/08/03(金) 20:12:51.93 ID:GpPcg/O/
甫庵信長記云々についても、当時は発刊されてから20年近く経っていて
しかも主要なニーズは庶民層だからな。

庶民層が持っている甫庵信長記と、一部の大名や高級貴族にしか渡されなかった信長公記
当時の大久保がどっちを入手しやすかったかなんてのは一目瞭然。
442人間七七四年:2012/08/03(金) 21:36:37.55 ID:2HLtgDKJ
>>440
当時的な意味ではどう考えてもインテリなんだが

あと、例えば川角太閤記にも「信長記」の事が出てくるが、これもどうやら信長公記のこと。
だいたい同時期成立の川角太閤記の作者が信長公記を把握してて、大久保が信長公記を把握してないとか
ちょっと考えられない。
443人間七七四年:2012/08/03(金) 23:09:27.93 ID:GpPcg/O/
川角太閤記も史料価値自体は低いからなぁ
まあそれが信長公記を指したものだとすれば、=大久保の信長記も
信長公記のものという理屈ができないわけではないが・・・

こればかりは大久保の心中によるところが大きい感も否めない
>>435のような例もあるだけに。ただ大久保ってそんなインテリか?
粗野ではないことは確かだが日記つけてるくらいでそんな文芸古典に通じたなんて
記録はなかったはずだが・・・
444人間七七四年:2012/08/03(金) 23:39:27.09 ID:Dwb/SWCQ
”どう考えた”かが明らかにされてない以上、論ずるに足らない見解だ
同じように”どう考え”てもインテリだという主張で>>442が納得できないようにな
445人間七七四年:2012/08/04(土) 01:40:46.13 ID:MlcrFA79
>>436
長篠に限定しない一連の戦さについて、
・手柄立ててないのに相打ちして手柄を立てた
・大将になったことのない人を大将となった
と嘘を書いてると批判した後に
長篠だけでも嘘が多いとして>>435を挙げてるから
文脈からして長篠に限定して書いてると判断できると思う
446人間七七四年:2012/08/04(土) 08:51:59.61 ID:50RTxYqi
>>445

織田チョンは相変わらずどうせ原文知らんだろうから曲解しても気づかないだろうwと嘘や捏造を書きまくる悪癖をいかんなく発揮してるなw

「長間などの陣にも、せざる高名を相打にしたると言う所もあり」

たったこれだけの文章を抽出してチョン織田厨が拡大解釈の歪曲をしてるだけだろw
>>435の内容はこの文章より先に出てくるがどう読んでも
長間の陣のことだけを限定して書いてるわけじゃない完全な織田厨の捏造。

それ以前にさんざん嘘ばっか書いてるって書きまくったのちに
一例として例えば、長間などの陣にもと書いてあって
しかも長間の陣とは当時はいったい、いつ、どこの戦いを指していたのか不明なのに
勝手に長篠と脳内変換してる始末。
さらに長間などの陣の行のあとも、あきらかにそれとはまったく関わりなく
全般的な内容を指してまた嘘ばっかと書きまくっている事実はどう説明すんだよwww
447人間七七四年:2012/08/04(土) 09:56:22.35 ID:jB3M38jh
鏡でもみてるのか?
448人間七七四年:2012/08/04(土) 10:06:52.90 ID:yCJDpT5Q
原文でも「長シノナドノ陣(イクサ)ニモ、セザル高名ヲ相打ニシタルト云慮モ有」
ってちゃんとあるぞ?どんな三河物語を読んでるんだ?w

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992777/143
449人間七七四年:2012/08/04(土) 10:07:35.59 ID:yCJDpT5Q
これの86右側
450人間七七四年:2012/08/04(土) 10:34:10.10 ID:s7xDE0Tw
原文→当時の読書に読みやすく脳内補正翻訳活字化し印刷→明治人が読めるように再解釈

この流れが理解できないアホがいるとはw
451人間七七四年:2012/08/04(土) 10:35:43.70 ID:s7xDE0Tw
>>448
それ原文なわけないだろアホ乙
452人間七七四年:2012/08/04(土) 10:59:21.34 ID:yCJDpT5Q
>>451
当時の原本とか言い出したら残ってないのがほとんどだろw
少なくとも一般庶民がおいそれと拝見できる場所には残っていない。
あれだろ、読み間違えただけだろ?w違うって言うんならちゃんとソース持ってきてくれw
453人間七七四年:2012/08/04(土) 11:06:31.14 ID:yCJDpT5Q
そもそも仮に長シノの部分が「長間などの陣にも、せざる高名を相打にしたると言う所もあり」
というのが本当だとしたら、猶更おまえの言っていることがおかしいな。

おまえの理屈でいうなら、大久保忠教が「三ヶ一個ハ〜」の否定している部分は
甫庵信長記ではなく信長公記の方で、その根拠として
「長篠で本来いないはずの池田がいると書き加えられた池田信長公記がある」とし、
それを大久保が指摘しているというのが、>>382にもあるおまえの理屈。

仮に「長間などの陣にも、せざる高名を相打にしたると言う所もあり」 というのなら
どこに信長公記がつながるのかわからんな。まさか「長間の陣の意味は分からないけど、
とりあえず信長公記ってことにしよう」なんて妄想こいてるわけじゃないよな?w
454人間七七四年:2012/08/04(土) 11:21:23.53 ID:s7xDE0Tw
無恥過ぎw
武田征伐の動員メンバーも一次史料で証明できないやつらが追加されてるだろアホ乙w
455人間七七四年:2012/08/04(土) 12:27:00.29 ID:yCJDpT5Q
相変わらずご都合主義だなw
武田征伐の織田軍が実際どうだったかなんて徳川の大久保が知ってるわけねーだろw
後世から全部眺められる俺らと一緒にすんなよw

結局ただの妄想で終わったなw
456人間七七四年:2012/08/05(日) 08:07:59.40 ID:K3PFdRFC
いや絶対知ってると思うがw
むしろ身内すら従軍してない戦いを描く太田の方が怪しいわ。
457人間七七四年:2012/08/05(日) 08:14:42.90 ID:yAXPKXQK
武田征伐の時の織田軍の実態を徳川の人間が知らねーわけねーだろw
どれだけ頭湧いてるんだID:yCJDpT5Qはw

頭に血が上ってるんだろうけど、もうちょっと冷静になって考えろ
458人間七七四年:2012/08/05(日) 10:01:04.25 ID:5AvpU/xe
織田厨は何回論破されても機械のように同じ妄想垂れ流すだけだな
一次資料だしてみろよバーカ
459人間七七四年:2012/08/05(日) 14:39:36.52 ID:ByMj0VrI
なんで別行動してる軍の状況を把握してると思えるんだか
それで実態を把握してるなら、秀吉は小西らに謀られる事なかったわな

そういえば信玄は遠江の侵攻も、家臣が勝手にしたことって言い訳してたっけ
つまり別行動の軍隊の状況なんか把握してないって言い訳が通用するってことじゃん
460人間七七四年:2012/08/05(日) 16:13:14.79 ID:BPMOB/Pc
一次史料なんてもうとっくに出てるわなw
あ、第一級史料と一次史料の区別がつかないアスペでしたかw
461人間七七四年:2012/08/08(水) 10:06:05.42 ID:3YNZAJIg
信長公記って明らかに
だいぶ後になってから書かれてるよね。
なんせ塙直政の一族に信長が酷いことしたことから
わざと塙直政の活躍をほとんど公記は書かないようにしてる。
義昭との調停では塙は眼病を押してまで交渉したりして苦労してんのに。
462人間七七四年:2012/08/08(水) 21:07:59.15 ID:vemOuC8Z
信忠に仕えた塙伝三郎がいるじゃん
463人間七七四年:2012/08/09(木) 09:56:24.44 ID:yJzNgvzi
そいつ別系統じゃん。
464人間七七四年:2012/08/09(木) 14:39:23.66 ID:JX8Kl8YV
別系統か親族かって話はまだ決着ついてないだろ
つか塙直政の親族はほとんどが直政と一緒に死んだからな
465人間七七四年:2012/08/10(金) 12:44:13.29 ID:2iN4fl3w
親族であることを匂わすような史料すらないのに、なに屁理屈言ってんだ。
466人間七七四年:2012/08/10(金) 15:55:06.12 ID:ddCDcAq9
そらまあいちいち親族かなんて書かないことも多々あるからな
まあ「塙直政の一族に酷いことをした」なんて眉唾言ってる時点で聞く耳持たんだろうがw
467人間七七四年:2012/08/10(金) 17:03:22.66 ID:5ZOQW+mM
一族どころか部下家人まで指名手配してるし、
書類類まですべて回収してる。
佐久間信盛が死んだ時に高野山に信盛遺品全部要求してるのとおんなじで、
信長は一度嫌うと徹底的に家捜しして全没収する。
468人間七七四年:2012/08/10(金) 17:53:07.58 ID:jmR0+TnE
その指名手配書は?
469人間七七四年:2012/08/10(金) 19:41:13.66 ID:0+7bDDsb
彼流類を匿うだけで罰すると通達を出していて
丹羽ニ介とか塙安弘とか塙孫四郎とか捜索され捕縛されてんじゃん。
塙一類の衆の預り物は紙一枚とて残さず没収と命令してるし
実際に興福寺が塙小七郎の米を没収され困ってるし。
信長の粘着質で執念深いのは異常レベル。
一度疑われたら潔白でも終わりと荒木が言われていたがその通りで、
松永も自分の領域が一揆で大変なので近江への軍役に出発できず
信長から謀反だと激怒されてから微妙な関係になってる。
470人間七七四年:2012/08/10(金) 23:29:11.05 ID:ddCDcAq9
塙安弘は直政と一緒に死んでるだろ。
丹羽や孫四郎に関しては捜索され捕縛されたと言うのはその通りだが
粘着質だの執念深いだのではなく、大和後任であった筒井順慶の権益確保のため。
もちろん直政が戦死したことを受けての事だが、生前の直政が
持っていた権益がデカすぎて、前任者と後任の二重統治で領内混乱するのを防ぐため。

そんな「1人死んだだけで領地が混乱するくらい権力持たせすぎた」って言うんなら
まあその通りなんだがな。
471人間七七四年:2012/08/11(土) 07:14:33.87 ID:mM2VBHfL
下記は君の妄想だろw
デタラメ書いてまで擁護すんなやw
必死すぎキモイ

持っていた権益がデカすぎて、前任者と後任の二重統治で領内混乱するのを防ぐため。
そんな「1人死んだだけで領地が混乱するくらい権力持たせすぎた」
472人間七七四年:2012/08/11(土) 18:40:45.86 ID:EsvqEUNj
信長厨「信長の悪辣さはキレイな悪辣さだからね!」
473人間七七四年:2012/08/11(土) 20:03:11.71 ID:mXfK9XV0
妄想でもなんでもないが
塙一族の寄宿厳禁だのは全て大和統治の後任である筒井順慶から
発せられていることが多聞院日記にあるし、このころから筒井順慶の大和支配が本格化する。

そもそも原田直政本人が立身出世の体現者で、もともと元亀年間では京の一部しか支配してなかったのを
いきなり大和一国の守護を任されるという秀吉、光秀を越えるくらいの
権益を任されている(この時に筒井、井戸、松永久通あたりが原田の支配下にはいる)。

死ぬ1年前の1575年には河内国の行政まで差配すると言う大和、山城一部、河内という
広大かつ重要地域の差配を全て任されていたんだから、
そんな重要人物が死んだら領内が混乱しない方がおかしいだろw
474人間七七四年:2012/08/11(土) 20:14:44.31 ID:mXfK9XV0
>>472
悪辣じゃない、綺麗な所業だと言う気は全くないが、この時代ではこれが普通。
信長公記、多聞院日記などによると、原田直政以外にも一族の塙喜三郎、
塙小七郎、ほか丹羽小四郎(丹羽二介の一族か)が死んでいて、
当主はおろか家臣もほとんど死んでるような状況。

跡を継ぐ安友は幼少で、家臣もほとんどいない家に大和山城河内のような
超重要地域の統治を任せるのは正気の沙汰じゃない。

ただ負けて死んだのに重いのではないか、という意見もあるが
この戦いのせいで明智光秀や筒井順慶が一揆勢の包囲を受けてあわや殺されるところだったからな。

とばっちりで追放された佐久間はともかく、原田の場合はやむなしな面が多すぎ
475人間七七四年:2012/08/12(日) 09:46:32.84 ID:D6vV5Lys

原田直政なんてたった1年しか大和守護やってないのだから
土着国人との関係なんてほとんど成立してない。
あくまで織田政権と言う看板を背負っているからで、
もっと言うと、原田が大和守護をする一年前に
信長が蘭奢待を切り取って威勢を見せ付けて以降、
急速に大和国人が織田に帰順していたったのは角明浩氏が指摘してる。
原田が死んだら領内が混乱すると言うアホな妄想w
原田の看板だけで何ができんだよwww
むしろ原田一族を捕縛したり財産没収したりを大和諸衆に命じる方が混乱するわ。
476人間七七四年:2012/08/12(日) 12:39:38.75 ID:HdlSqWhb
477人間七七四年:2012/08/12(日) 12:56:17.04 ID:D6vV5Lys
>>476
それ俺が書いたレスなんだけどwww
しかも俺は火種が残ると書いているだけなんだが
まさかそれが原田討死すぐの混乱の証拠とか言い出すの?そうなの?
478人間七七四年:2012/08/12(日) 13:03:54.25 ID:HdlSqWhb
よく読め
よく読んでわからんのなら、おまえ自身が自身の文章を理解してないって事
479人間七七四年:2012/08/12(日) 14:29:32.59 ID:Qme1NHCj
織田チョン涙目でワロスw
だいたい死者に口無しで、
敗戦の全ての責任を原田に押し付けただけだろ。
信長「俺の戦略にミスはない。全部原田が悪いニダ」
480人間七七四年:2012/08/12(日) 23:17:28.02 ID:CzrRhgkQ
>>475
原田の権力がなかったとか馬鹿にもほどがあるw
当時の原田は信長直属だった河内若江衆にすら介入できるほどの権力の持ち主

信長の命令が絶対というのはその通りだが、それに反しない状態であれば随時直政が指示できる状況だった。

>>土着国人との関係なんてほとんど成立してない。

だからダメなんだろうがw
原田直政が大和守護に就任する前からでも信長は筒井順慶を通じていたが、
原田直政を大和守護を間に挟む形で大和守護にした。

結局原田が大和支配を強める前に死んだせいで、信長はやむなく筒井順慶を
中心に大和管轄を進める従来の形に戻さざるを得なくなった。
まさかおまえは有力国人と関係が通じていない状態で、そのまま
権益をゆだねようなんて無能丸出しなことは言わないよな?w

>>479
原田が突っ張ったせいで明智筒井が死にかけたのは事実なんだがw
アンチ織田厨って織田で敗因を作った連中には異様に甘いよなw
長篠で突っ込んだ武田勝頼は鬼の首取ったように騒ぐくせにw
481人間七七四年:2012/08/12(日) 23:18:15.14 ID:CzrRhgkQ
×原田直政を大和守護を間に挟む形で大和守護にした。
○原田直政を間に挟む形で大和守護にした。
482人間七七四年:2012/08/13(月) 00:00:18.65 ID:fassznEU
>>479
はいはいわからなかったんだな?
かわいそうに
483人間七七四年:2012/08/13(月) 08:08:10.28 ID:aor9gKiL
原田なんて織田の看板でやってただけだから
原田がいなくても何も困ってないじゃんw
484人間七七四年:2012/08/13(月) 15:49:45.70 ID:qa8tKvms
>>483
原田がいなくなったことで信長は大和支配を従来の筒井順慶に支持を出す
形に戻さざるを得なくなった。当然大和支配は筒井を中心に行われるようになり、
筒井と仇敵の間柄だった松永が謀叛を起こす理由の一つになってるわけだが。
485人間七七四年:2012/08/13(月) 16:37:25.81 ID:Lfz5Dbmp
別に原田が対立関係を緩和していたわけではない。
信玄死後に松永が降伏した時点で、
松永がそれ以前の地位に戻るのは不可能で、
そこに原田は全く関係ない。
その後、信長が蘭奢待を切り取り威勢を見せ付けた。
そして一年後に織田の看板の威勢を背景に原田がきただけ。
原田がいたら松永の謀反が防げたなんてトンデモ理論ワロタw
486人間七七四年:2012/08/13(月) 20:06:48.04 ID:qa8tKvms
主要因だとは思っていないがあくまで要因の一つにはなりうる。
そもそも松永久秀ばかり気にかけているようだが元を正せば筒井順慶だって
反信長の姿勢を取っていた。実際本能寺で信長が死ぬと明智に与しようとしたり
筒井と織田の関係なんてそれこそ薄氷の信頼関係でしかない。

ここに信長はテコ入れの形で原田を入れようとしたが結果論で言えば原田が死んだことで
ついに大和支配は不安定なまま本能寺まで行ってしまった。
織田の看板を原田を背負っていたのは事実だが、その織田の看板で大和衆を
統御して失敗したからこそ、大和統治は不安定なままになってしまったんだがな。
487人間七七四年:2012/08/13(月) 21:42:12.45 ID:le6CMVQ+
488人間七七四年:2012/08/15(水) 13:00:11.44 ID:9TgzxfFa
>>486
筒井は別に反信長じゃない。ただ単に松永と筒井が対立関係だったために
利害関係が複雑になっていただけ。
だいたい筒井定次が信長の三女を娶ってんのに何言ってんだw
筒井が反信長だったなら信長は筒井を抜擢することはありえない。
本能寺で信長死んだ時なんて、森は団の岩村城を奪い取ったり
斉藤が無断で岐阜近辺へ安堵状乱発して乗っ取りを図ったり、
本願寺や一向宗に支援要請しまくったりと
みんな信長の生前の意向なんて無視しまくって自己保身に走ってる。

やむなく任せた筒井じゃなくて原田がいたら
大和統治が安定して本能寺が起きなかったみたいな流れで
書いててお前さ、頭がおかしいだろ?
そもそも信長は石山本願寺との抗争が終結した
天正8年になってから突然に松永に従っていたが
松永死亡後に許されて筒井家臣になっていた者たちを
光秀に命じて処刑しまくって織田の知行地を増やしてる。
これで差出検地や大和城割りとともに完全に大和が平定されているのも知らんのか。
大和統治が不安定なままの根拠を書けよ。
489人間七七四年:2012/08/15(水) 13:40:13.17 ID:fxjiFQEV
まただがが論破されたのか
よくまあこんな長文打つ時間あるな
ニートってやつが羨ましいぜ
490人間七七四年:2012/08/15(水) 16:44:13.71 ID:H1Yzs+qq
織田チョンは執拗に大敗を繰り返すあほ
491人間七七四年:2012/08/15(水) 17:31:25.62 ID:SU8GdJ7a
まるで信玄のようだ、とこういうわけですね
492人間七七四年:2012/08/15(水) 22:01:23.99 ID:RQq7yN8z
>>488

>>大和統治が安定して本能寺が起きなかったみたいな流れで

誰もそこまで言ってねーよwwwおまえほんと極端だなw

>>だいたい筒井定次が信長の三女を娶ってんのに何言ってんだ

天正年間の話だし婚姻関係だから寝返らないとか何寝言ほざいてんのw
婚姻関係結んでたはずの細川に明智は寝返られているし
もっと言えば信長は婚姻関係のあった斎藤を滅ぼしたがwww

>>これで差出検地や大和城割りとともに完全に大和が平定されているのも知らんのか

差出検地は織田政権から任命された奉行衆が行っているが、大和城割は最終的に筒井順慶が主導で行っているんだがな。
織田が明智を通じて大和支配を強めたのは事実だが、これをもって「大和が完全平定された」なんてのは寝言w
筒井定次との婚姻にしても、あくまでより盤石にするために信長が差配したもので、結局筒井の権益はかなり承認されるに至った。
493人間七七四年:2012/08/16(木) 09:27:26.86 ID:57inpfJC
>>492
結局、織田の看板があれば
原田なんていなくても別段変わらないって話だろ。。
494人間七七四年:2012/08/16(木) 11:11:07.79 ID:OlTaw0KG
原田を無理やり持ち上げようとするも、
それを証明できる一次史料もなく、
完全に脳内妄想で執拗に粘着する基地外織田厨w
495人間七七四年:2012/08/16(木) 14:50:34.90 ID:IRlzi+HW
>>493
そもそも筒井は本能寺見てもわかるように「織田が強いから味方してただけ」の他国衆だからな。
松永と対立していたからなんてほざく輩もいるが結果的に筒井はそれだけ織田にとって浅い人物であり
だからこそ織田はわざわざ大和を明智にもある程度委任して統治しようとしている

>>494
多聞院日記も知らない情弱w
496人間七七四年:2012/08/17(金) 00:29:11.64 ID:bWl1RaMn
織田と婚姻してる筒井レベルで織田と浅い関係なら
ほとんど浅い関係ばっかじゃんよwwwアホすぎwww

497人間七七四年:2012/08/17(金) 08:15:45.92 ID:t4iXJmk1
所詮よそ者の連中と婚姻しているだけなんだから浅いに決まってるだろw
丹羽や原田や秀吉のような昔からの付き合いでもなく
ただ便宜上仲良くするための婚姻に何の意味があると言うんだwww

浅井長政や斎藤龍興の事例を知らんらしいなwww
498人間七七四年:2012/08/17(金) 18:34:09.80 ID:KFJLK1+m
ここまで原田がすごいことを証明する一次史料全く無し。
完全に妄想を語ってます。
ほんとうにありがとうございました。
499人間七七四年:2012/08/18(土) 16:21:54.41 ID:9tbnVFGq
は?w
都合の悪いことになると話題を無理やり変えて話をはぐらかすんか?w
中年のくせにアスペルガー発症して馬鹿にされ続けるアホさを恥じるのが先だろ?w
500人間七七四年:2012/08/19(日) 20:50:51.57 ID:A3CcxZt9
>>499
で、一次史料は?
501人間七七四年:2012/08/20(月) 15:34:18.32 ID:UmmF38iS
多聞院日記がでてますがwww

アスペ発症ですか?w
502人間七七四年:2012/08/20(月) 16:41:05.69 ID:LKSDEx9V
バカですかwww
多聞院日記に原田が優秀だなんて
全く書いてねーよwww
503人間七七四年:2012/08/20(月) 17:07:55.03 ID:/aaIoFgU
×書いてない ○見当たらない ◎古文が読めない
参考資料
年々三分?(二)相納申候、其残者致未進候、...
(たった三分しか税をとらなかったのか、 三分収めたら残りは納めることはない。 )
...彼屋敷御棟別ニ到退屈、逐電申候、同者棟別銭半分も御赦免候ハヽ、家をも造申、所も可到繁盛候、...
(棟別銭を半分にしてやったから 新築して繁盛しまくりって書いてあるから )
504人間七七四年:2012/08/20(月) 17:43:20.82 ID:NYa5e2E0
>>502
優秀かどうかはその記述を元に他の人が判断すべきこと。
アホなレスは控えな。

赤母衣衆に選抜され、信長上洛後は山城の行政に携わる。(ただし、この時点では島田や秀吉、丹羽よりは下位)
義昭追放後は南山城の行政を委ねられ、ほどなく大和の行政も委ねられる。
松永、筒井、寺院勢力で錯綜する大和を、信長の力を背景にしてるとはいえ支配を強化してる。
そして天正三年には光秀や秀吉、長秀らと同時に賜姓任官も受けてる。
加賀を任され失敗した簗田よりは楽な状況だったかもしれないが、本願寺攻めで戦死するまで特に失点がないわけで、その経歴を見る限り行政的には十二分に優秀だったとみてよい。
505人間七七四年:2012/08/21(火) 08:54:21.51 ID:a+rJ85dL
原田が抜擢されてのは
ただ単に妹が信長の側室になったからだろ。
そもそも原田が赤母衣衆ってソースなんだ?
だいたい大和守護をたった1年しかやってないのに
国衆の心を掴んでいたわけないと思うが。
むしろ地元の興福寺の武官だった筒井の方が
国衆の事情もよく知っていてうまく織田の意向を反映できただろ。
原田が優秀なら、妹が側室の信長だって
あんなひどい仕打ちはしないだろ。
506人間七七四年:2012/08/21(火) 11:54:27.70 ID:6Wthmmut
ついこないだまで敵だった筒井に大和全部任せるとかリスク高すぎw
原田が死んだあとも明智にある程度委ねている時点で筒井なんて全然信用していない
まあ荒木や別所の件もあるからなw
507人間七七四年:2012/08/21(火) 12:23:16.69 ID:oiTcJsak
>>505
> そもそも原田が赤母衣衆ってソースなんだ?

信憑性について論じれるほど詳しくはないが、高木家文書というやつ。

> だいたい大和守護をたった1年しかやってないのに
> 国衆の心を掴んでいたわけないと思うが。

なんだか意味不明な定義を持ってくるなあ。
松永と筒井が争ってる大和に上位者として入ってきて、信長の力を背景にしてるとはいえその混乱を収めつつあった。
とりあえずはそれで十分だろ。

>>506
信用の有無ではなく、筒井か松永のどちらかに肩入れするよりは、両者を指揮下に置ける存在の方が都合よかったんじゃね?
508人間七七四年:2012/08/21(火) 19:16:06.16 ID:VQtu71Ti
>>507
高木家文書?旗本のやつならあれほとんど江戸時代以降のもんで、
そんなの書いてないし、
高木修吉氏所蔵文書にも該当するような内容のもん無いだろ。
俺が知らない高木文書あるのか。
興味深いので原文転記お願いしますわ。
それとなんか大きな間違いをしてるようだけど、
筒井と協力して対処するように丹波の光秀が任されているし、
山城の細川も補佐やらされてて、
筒井に大和統治を丸投げしてるわけじゃない。
また原田が松永と筒井の対立を解消なんてしてないし、
原田はかなり織田家では古株だから
そろそろそれなりの地位につくのは当たり前で
信長との婚姻関係もあり能力を評価しての大抜擢でも何でもない。
509人間七七四年:2012/08/21(火) 19:30:50.92 ID:oiTcJsak
>>508
高木家文書と高木文書じゃ違うのかな?
原文転載は面倒なんで他者のHPに丸投げ。
ttp://www1.clovernet.ne.jp/kurohoro/his/oda/horos/index.htm

> 筒井と協力して対処するように丹波の光秀が任されているし、
> 山城の細川も補佐やらされてて、
> 筒井に大和統治を丸投げしてるわけじゃない。

なんで筒井に丸投げの話になるんだ?
原田(塙)の間違い?
510人間七七四年:2012/08/21(火) 20:05:03.45 ID:6Wthmmut
そもそもすごく勘違いしているようだが
別に原田が松永筒井の対立を解消したとは一言も言っていない。
ただ原田が死んだことで筒井の権力が大幅に認められて
それが松永謀叛の要因の1つになったというだけであって。

今までは織田の力で原田が大和を統べる地位にあったが
原田が消えたことで筒井に大和統治をある程度委任し
随時明智らが協力するという体制を作らざるを得なかった。

この体制で最も困るのは、筒井と激しく対立していた松永だということ。
511人間七七四年:2012/08/22(水) 07:00:28.65 ID:uhwoS3n/
その高木文書は信憑性に問題があるから
ほとんど取り上げられない。
知らないのも無理はない。
渥美をはじめとして全く名前すら知らんやつらや、
明らかに母衣衆になってないやつらがかなり紛れこんでるなど、
信憑性無視してるからねそれ。
しかも利家の弟が母衣衆になっていたとか、
加賀大納言と利家を敬称にしていたり、
怪しげな内容だから付き合わない方がいい。
512人間七七四年:2012/08/23(木) 11:47:15.67 ID:4cgiEJma
渥美刑部ってやつが
加賀藩時代になってから
公記の記述にある尺限廻番衆を読んで
そいつら実は母衣衆だったんだと捏造して
ついでに自分も母衣衆だったんだぜ!とか
捏造しまくりの文書だろ。
513人間七七四年:2012/08/24(金) 12:13:30.96 ID:KCQHks+/
「御狂」
信長公記に3回登場
日葡辞書による「狂う」の語意=「ふざけたわむれる、遊ぶ」

有岡城攻めと三木城攻めを嫡男信忠に任せた信長。
鷹狩にも飽きたのか、次には「御狂」してしまう。
要は近習・馬廻たちとの戦争ごっこ。これに近衛前久や細川信良も加わる。
前関白や京兆家惣領まで模擬合戦に興じる面白さ。
514人間七七四年:2012/09/09(日) 08:45:42.22 ID:dTcnBZrx
公記は信長の子で、武田に人質にされた織田信房(勝長)の名前を知らず
お坊などと呼称する有様。知らないわけがなくあきらかに太田が書いたものではない。
また信長の長男は塙直政の妹を母として天文23年に生まれた信正であり
(直政がロクに功績もないのに守護に抜擢されたりと厚遇されたのも信長嫡男の叔父という地位から)
塙直政が本願寺包囲中に討ち死にしたことを口実に塙一族から所領を没収し
指名手配をしたので、信正を存在しないことに公記は捏造。
実際は信長が生駒氏と寵愛しはじめた為、信忠を嫡子にするために塙は犠牲となったのだ。
(公記は光秀の妹が信長の寵愛を受けていたが天正9年8/7頃に死去したことも
わざと記さず光秀謀反の遠因まで隠蔽。光秀は直政のような末路を危惧して
多聞院を前にしての光秀は無比類力落也を隠さなかった)
他にも信長の舅として紹介される道三の説明において
斉藤山城道三は元来山城国西岡の松波と云ふ者なりなどと書く
完璧に後世の講談話に影響された致命的デタラメを公記は書いており
道三の父の長井新左衛門と道三の二代の事跡を道三一代の事柄としてしまっていたり
政略結婚のために行われた道三と信長の聖徳寺の会見をデッチあげるなど嘘を書き連ね
濃姫についてまったく知らないなど、逆に濃姫まで架空人物かと疑わさせるほどの
デキの悪い創作をする始末で尾張の隣国なのに美濃について余りにも無知すぎる。
515人間七七四年:2012/09/09(日) 10:38:56.44 ID:mv87DvJr
お前のその妄想より信憑性あるよ
516人間七七四年:2012/10/21(日) 23:21:33.66 ID:l2R4BOAT
保守
517人間七七四年:2012/10/22(月) 08:19:44.56 ID:LHNDWRdu
公記はその当時に生きていた人間が書いたので一級史料です
518人間七七四年:2012/10/23(火) 00:32:21.55 ID:p+p07RLM
信長は地球が丸いことを理解したと書いている。当時の人からしてみれば、地球が丸いなら海が落ちると考えるはずである。重力無重力を理解していないと、丸いという結論には至らないのだから、信長は宇宙があることまで理解していたのだろう。
519人間七七四年:2012/12/09(日) 08:53:12.63 ID:AMx9ggJc
あげ
520人間七七四年:2013/04/20(土) 08:34:16.85 ID:RFfQBFW6
(蒲生郡には義昭を後援していた奉公衆が活動しており、義昭と共闘する信玄に蒲生が呼応する理由は存在する)
比叡山も荘園の奪回を期待して信長を後援してるし
(しかし約束は果たされず元亀元年10/26正親町天皇が信長に荘園を延暦寺に返せと命じてるがやはり無視)
比叡山座主覚恕法親王は正親町天皇の弟で延暦寺炎上後は洛中曼殊院や禁中に滞在して
比叡山再興を掲げる信玄の権僧正任官の斡旋活動をして信玄も僧正号宣下のお礼状を元亀3年10/3に出している。
信長追討綸旨発給の衝撃・・・・本人が関わる綸旨・宣旨を纏めていた勧修寺晴豊の旧蔵記録には
蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→四辻大納言李遠宛て元亀3年9/20付書状
今度叡山炎上のこと、非常に嘆かわしく思っていたところ、法性院僧正が再び叡山を隆盛させるべく
入洛を計画しているとのことを聞き及びました。
叡山復興によって朝家の盛興するべく忠勤を励むとのこと。使者として直接談じ合ってくるように。
蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→恵林寺(武田氏菩提寺)・長禅寺(信玄生母墓所)宛て元亀3年9/20付書状
あなたたちの寺を天皇の勅願所に決めましたので、宜しく国家安全と長久を祈り奉ってください。
これにより天皇は信長に与えた決勝綸旨を破棄し、将軍義昭に呼応する信玄の官軍認定をしたのである。
このことで物資と人の両面で困窮し追い詰められた朝敵信長の自暴自棄の報復が
御所まで類炎するのも辞さない上京焼き討ちによる公家・寺社への乱暴狼藉である。
謙信→長景連宛て元亀4年3/19付け書状を読むと
謙信も信長へ叡山再興をするように約束すれば信玄の大義名分が立たなくなると諭し
朝敵信長がそれを承諾しているのがわかるように、朝敵信長は比叡山の報復圧力に土下座しているのがわかる。
このように官軍武田軍が威風堂々と徳川・織田連合軍を瞬殺して上洛を目指していたのがわかる。
521人間七七四年:2013/04/20(土) 08:38:19.72 ID:RFfQBFW6
元亀4年1/11に僧正法性院信玄→将軍足利義昭側近上野中務大夫(秀政)宛てで 
朝敵信長追討を受けた信玄は 
義兵を起こし大軍が靡かせ発向し家康の大半の要害を破却したと宣言し、 
信長・家康ら逆党を誅伐し天下を静謐にすると言上してる。 
そして叡山での乱逆や、他者を軽んじ公家や寺社の人々を侮り、放言の数々 
洛中洛外を徘徊しみだりに徳分の課役をして砂金財宝を横領しまくり、 
朝倉と信長を和睦させたかたじけない天皇の勅命とそれに類する複数の起請文を捧げたのを 
破って延暦寺を壊滅させるなど悪逆無道を為すなど5か条に渡って 
信長の大罪を弾劾し讒巨乱国を救うと誓っている。 
その檄文を将軍から入手した天皇は日本を救う救世主に感動して、 
信玄の大義名分を筆写し醍醐寺理性院に納めて祈願したほど。 
いかに信長が悪逆無道だったかがわかる。 
醍醐寺理性院に残る天皇の写の日付は1/11だが、甲陽軍鑑では1/7とされている。 
実際に書かれたのは1/7で出されたのが1/11なのかも知れない。 
その後、信長は比叡山座主を厚遇し、まったく人気がなく洛中で孤立した信長は公家に領地やるから直接俺に仕えるよう命じ、
孤立させた天皇には譲位を求めるようになる。
522人間七七四年:2013/04/23(火) 13:07:26.89 ID:U7ygwVJU
官軍武田軍6万と朝敵織田軍1万か・・・
戦すら成立せんな。
523人間七七四年:2013/04/24(水) 00:39:33.33 ID:lyogcWZn
それで武田軍に衝突するまでもなく天下掌握するんだからすげえよな信長
524人間七七四年:2013/04/24(水) 10:53:09.50 ID:HFTEhgcq
信長公記の斉藤道三の記述はデタラメ
六角氏の記述した道三親子2人説の方が正しい。
525人間七七四年:2013/04/26(金) 23:07:44.19 ID:01XLAk6E
>>522
だが理論ではそれで信長が最終的に勝つ
武田軍は信玄がいないと何もできない烏合の衆で
いつの間にか逃亡流浪で数を10分の1以下に減らして負ける雑魚
526人間七七四年:2013/04/29(月) 19:08:01.20 ID:lBr1/xNw
薬師寺の荘園を奪い取って、天皇が返却するように命じても
シカトしていたどころか、臆面も、恐れ多い気持ちすらなく
薬師寺の荘園を潰して、安土城城下町を作ってる時点で
信長のキチガイさは極限に達していたな。
そりゃ神仏の罰を受けるのも当然だわ。
とうぜん安土城は速攻で廃墟と化して、誰も見向きもしなかった。
527人間七七四年:2013/04/30(火) 05:08:50.41 ID:pbvkhoMy
そのわりに織田家は平然と大名として存続を許されたな、どこぞの家と違ってw
528人間七七四年:2013/04/30(火) 07:56:09.33 ID:LyQBWKNm
大名じゃなくて陣屋主です。捏造はやめてください。
しかも秀忠の妻の江のおかげであって
武功じゃなくて、女性による
お情け復興じゃねーかw
529人間七七四年:2013/05/01(水) 04:43:36.24 ID:9yzZtZec
覚えたての言葉使うの好きだねだがさん
でも残念だけど織田は「国主格」→「城主格」だから
「陣屋」扱いだったことは、ただの一度もないんだよw

挙句崇源院のおかげとか、どこのムック本でも読んできたのかっていう珍説まで書いてるしw
織田の血筋がアテにされるのは、秀吉政権からの伝統だし、徳川もそれに習って、
将軍家の息子に織田の娘を輿入れさせているわなw

大名国主陣屋どころか、貧乏旗本になるのも苦労した、直系を遠島流刑にさせられるどこぞの家とは大違いw
530人間七七四年:2013/05/03(金) 22:46:32.15 ID:PdIBjcc3
血筋がアテにされてるなら
信雄が小姓一人しか付き添いを許されず
強制出家させられて秋田へ改易流罪になんてされねーだろ。
家康にも信雄は改易させられてるし。
武功で復興したわけでもねーし
完全に市の娘達のおかげじゃねぇか。
531人間七七四年:2013/05/04(土) 04:11:24.77 ID:P63Om3q2
家康に改易された当初大名やってたのは
羽柴姓まで貰っていた息子であって、信雄はその時捨扶持クラスしか貰ってないじゃん
挙句秀雄は羽柴姓まで貰っていたのに、徳川秀忠の好意で江戸で隠居していたしな。

つうか、本当に市の娘達が織田一族を助けたというのなら
なぜ織田秀信は助けて貰えなかったんだ?w
おまえの説が事実なら、織田家嫡流の人間が、それも2人も見捨てられて
浪人で終生終えるなんてこと、まずないはずだがw

家康は秀吉存命期から信雄のこと助けまくってるし
明らかに家康と秀忠が信雄系を重く見ていた証拠じゃんよw
どこに崇源院が介在する余地あるんだよバーカw
実父を殺した人間の息子で、義理の父親とも敵対していたのが信雄じゃんよ
532人間七七四年:2013/05/04(土) 07:58:02.50 ID:cztiZSu1
市の娘たちは浅井滅亡後は伊勢に住んでたから
北畠信雄と面識あったろうが、秀信と面識なんてねーし
そもそも秀信が成人したところで秀信自身が市の娘なんて知らんだろ。
織田の血統重視なら秀信を改易なんてしねーだろアホw
533人間七七四年:2013/05/04(土) 08:29:28.70 ID:0yMgNg1D
>>528
大名の格の一番下が陣屋大名なんですが。
但し信雄は国主待遇じゃなかったっけ。
534人間七七四年:2013/05/05(日) 12:29:51.54 ID:xqLgDPkZ
国主待遇とする一次史料はまだなの?
535人間七七四年:2013/05/05(日) 12:35:19.02 ID:xqLgDPkZ
ちなみに陣屋主は
大名の家老レベルでしかない。
536人間七七四年:2013/05/06(月) 20:13:00.69 ID:CGmERIrQ
だがさん国主格がなんなのかわかってないでしょ・・・
国主格認定される大名は基本的に従四位以上の官職に任命される
井伊黒田細川という錚々たる大名にしか高官職に就任させてもらえないわけ。
で、織田本家はこの「従四位以上」の認定官職を貰えているわけ。

というか、江戸時代通じて織田家の優遇っぷりは尋常ではなく
国主はおろか陣屋ですらない高家旗本の織田長政系(織田高長)子孫である織田信明が
従四位上左少将という本家に迫るほどの高位官職を貰っている。
まあ普通1家にしか貰えない「高家旗本」が、織田の場合は3家もある時点で既に狂っているがな。

これでも誰かさんは「崇源院のおかげ」とかわけわからんことを言うらしい
大体、崇源院の1人目の旦那である佐治と引き離された理由が
信雄が秀吉に反旗を翻したのが大きな理由とされているんだが・・・
実の父親を殺した男の息子で、義理の父親と対立し、旦那と離縁するきっかけを作った男が信雄
厄病神にしか感じねーだろうな
537人間七七四年:2013/05/07(火) 22:58:35.67 ID:FjaVFht8
信長公記が軍記物とか、おまえの都合のいい妄想はいいからw
義演准后日記によると1598年にはとっくに信長公記の存在が世に認知されており、
学者の藤本正行は家康の呼称や信長の扱い等から底本は日記形式であるとちゃんと学説で発表している
要するにおまえの妄想だの全く意味がないし、多少齟齬があるから史料として未熟というのなら
武田の史料なんて大半嘘つきで史料未満のものばっかりじゃんw
初陣の信玄が誰も落とせない城を落とすという捏造ばかりだしw
538人間七七四年:2013/05/07(火) 23:07:51.06 ID:ZDALyGLr
http://hissi.org/read.php/sengoku/20130507/RmphVkZodDg.html

だがさんせめてIDは変えよう
煽られて悔しいのはわかるけど
539人間七七四年:2013/05/08(水) 12:34:07.83 ID:TtMObdXk
>>536
従4位下でも5万石以下は国主格扱いにはなんねーよアホ
5万石以下なんて旗本レベルじゃんw
540人間七七四年:2013/05/09(木) 20:35:32.88 ID:bRdTtgNY
だがさんまさか国主と国主格が同列だと思っていやせんよね?
5万石以下の国主格なんて親藩大名には山ほどいるんだが・・・
541人間七七四年:2013/05/10(金) 19:11:42.39 ID:dFL4tdOE
>>540
そこまで断言するなら、せめて一次史料のソースを出せよ。
542人間七七四年:2013/05/10(金) 19:47:13.85 ID:EyzXCBDv
そもそも「何々を持って国主とする」などの国主の定義している一次史料ってあるの?
543人間七七四年:2013/05/10(金) 23:46:16.84 ID:Q5vVmc/c
それに関してはだがさんが致命的な勘違いをしているだけ。
「国主格」というのは、簡単に言うと「領土は国主相当じゃないけど、特例で国主並の扱いをするよ」というもので、
大名であれば石高はほとんど関係がない。現に親藩では1万石にも拘らず国主格だと認定されている大名もいる。

国主格という国主と同列に扱われる基準は官位の高さによるもので
国主格大名はほぼ全てが従四位以上の官位を叙任されている。
つまり官位を見ればほとんど一目瞭然。

まあ「5万石以下は旗本レベル」なんて妄想かましているだがさんは
ハナから織田家が江戸幕府から大事にされていた事実から目を背けたいんだろう
自分の大好きな武田家当主は伊豆に流されるわ、高家職にすらなかなかなれんわで
544人間七七四年:2013/05/10(金) 23:58:35.23 ID:Bw9J6be4
まただがが敗北したと聞いて見に来ました
545人間七七四年:2013/05/11(土) 00:14:25.78 ID:dOxyH2XI
age
546人間七七四年:2013/05/11(土) 07:00:10.80 ID:IXIxXGDZ
>>543
で、それを証明する一次史料はまだなの?
547人間七七四年:2013/05/11(土) 22:05:55.82 ID:K7A2cf06
有名人だがって本当にみっともない生き物なんだな
548人間七七四年:2013/05/13(月) 22:29:45.37 ID:gWtohzdi
公記最大の超捏造歪曲は大和国多聞山城にいた松永久秀が
信玄上洛戦の最中に信長に降伏したと偽った超デタラメだろうな。
よほど隠蔽したかったようだ。
549人間七七四年:2013/05/13(月) 23:57:45.67 ID:89ssDqsA
信長公記が正しいなら今川義元は1551年に死んでなきゃならないことになるからな
550人間七七四年:2013/05/14(火) 08:06:28.97 ID:BwZQ9bdd
やっぱ捏造大賞は北条土下座降伏だろw
551人間七七四年:2013/06/08(土) 08:50:32.94 ID:uMSorWbD
信長公記は山岡景隆が山岡家の惣領で
瀬田を支配していたように捏造してるけど、
実際は元亀3年7/18の山岡景祐(景友・暹慶)→飯川・曽我ら幕府側近宛てで
将軍が甲州へ送る使者の真下入道殿が此渡乗船之儀の仰せ付けのこと、
畏まって其の意を得候、
只今に限らず諸公・御衆・其外、下々に至るまで〜と書いていて
明らかに瀬田の支配は山岡景祐なんだよね。
公記では景隆が瀬田を維持してたなどと捏造してるのが笑える。
そんなら天正元年には何で滋賀郡周辺で大苦戦してる光秀への援軍に柴田は陸路が使えず船で行かざるを得なくなってんだw
あきらかに瀬田大橋が織田軍の通行を許さなかったからだろw
552人間七七四年:2013/06/08(土) 12:33:13.49 ID:tKw5MuAF
ソースは?
553人間七七四年:2013/06/08(土) 16:58:12.78 ID:gKxvcYgi
あるわけない
554人間七七四年:2013/06/08(土) 18:06:45.03 ID:tKw5MuAF
それがだがくおりちー
555人間七七四年:2013/06/08(土) 18:47:24.50 ID:A6si8sWK
該当書状が細川家文書に収録してあるのすらしらないあまりにも無知過ぎるザコ織田厨…
556人間七七四年:2013/06/08(土) 19:53:35.12 ID:tKw5MuAF
ねえしw
原文出してみろよwww
557人間七七四年:2013/06/08(土) 19:55:56.61 ID:5c6AlZXN
>>551もまともに読めないアホ織田厨ワロタwww
558人間七七四年:2013/06/08(土) 20:01:28.43 ID:tKw5MuAF
コピペ読むバカとかいるの?
559人間七七四年:2013/06/08(土) 20:06:19.16 ID:0b1zVDsK
何が問題なのかわからない。
その日付の翌日には美作は知らんが玉林の方は信長の浅井攻めに従軍してる。
何らかの事情でその年に義昭の意を受けて還俗していた景友がたまたま瀬田を預っていただけなんじゃないの?
義昭と信長の決裂が決定的になったのは翌年のことだし。
その書状の日付以前から景友が瀬田を支配していたソースはあんの?
560人間七七四年:2013/06/08(土) 20:22:48.01 ID:gKxvcYgi
だがさんくらい史料解釈が達者な方なら
元亀3年の段階で未来を見越して足利義昭が反信長方として行動していたことを予見したり
大して記述されていない人物が重要な立ち位置にいることを予見することくらい
造作もないことだよ
561人間七七四年:2013/06/09(日) 13:06:03.87 ID:l0mLCkc0
そもそも山岡美作景隆と対馬景佐は義昭と信長の上洛戦で抵抗し柳生へ逃亡してる。
その後、義昭は寺社にいた山岡家の景祐を抜擢し厚遇しており
兄らがいつ織田に仕えたか不明。
美作と対馬の弟とされる
備前景猶玉林斎・景之玉林房(暹慶)は同一人物もしくは片方が架空人物
また対馬も景祐と呼ばれていたこともあり判然としない。
>>その日付の翌日には
それは信長公記の記述だよね・・・しかもどちらの玉林かもわざと書かない。架空人物の方じゃないのか?
562人間七七四年:2013/06/09(日) 15:07:03.38 ID:dmi0dJyG
>>561
物の本によると、
吉田文書に元亀二年十二月信盛宛の信長の朱印状が残っていて、
そこに「一、新与力として進藤青地山岡申し付け候。(以下略)」とあるらしいので、
この時までに山岡が信長に降っているのは確かといっていいんじゃないか?
563人間七七四年:2013/06/09(日) 16:34:55.42 ID:l0mLCkc0
その山岡って誰を指してるかわからんでしょ。
一緒に並んで名が出てくる青地で有名どころは、
蒲生賢秀の弟の青地茂綱だが、この人は元亀元年に森可成共々朝倉に討たれてるから、
この時の青地も誰だかわからん。
無論、進藤も誰だかわからん。
勝手に脳内で進藤賢盛と決めつけるやつもいるが、賢盛は永禄12年の北畠攻めに参加してる。
やはり瀬田の支配は景祐であり、
義昭の反織田挙兵により、
信長は景隆を急遽、抜擢せざるを得なかっただけ。
564人間七七四年:2013/06/09(日) 16:52:42.84 ID:l0mLCkc0
そもそも降伏時期を一年前倒しして
元亀3年末に松永降伏して、多聞城へ山岡対馬守を入れたと書いている公記を信じることなんてできんし
565人間七七四年:2013/06/09(日) 19:59:59.18 ID:fq/KIVtN
>>563
> その山岡って誰を指してるかわからんでしょ。

じゃあ景隆兄弟以外のどの山岡なんだって話になるよ。
還俗する前の景祐って線だけは無いと思うぞ?
566人間七七四年:2013/06/10(月) 01:20:03.52 ID:uOPR1OWc
>>564
一次史料信じずにお前の研究を信じろって?w
ハハハ、こやつめ!
567人間七七四年:2013/06/10(月) 14:02:30.32 ID:Eqz+oPs0
その山岡が誰だかわからない→わからんでもない理屈

やっぱり瀬田の支配者は景祐→意味不明

足利と連絡しただけで勝手に支配者認定される不思議
主君の意を受けて外交任される人間なんて糞ほどいる
568人間七七四年:2013/06/15(土) 18:10:13.55 ID:U15dRcAG
1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ
(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【美濃は尾張半国を取っている】と書かれているのである。
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興13歳1562年永禄5年2月27日付け快川和尚→飛騨禅昌寺書状によれば←NEW
信長が美濃へ侵攻するも敗北し追撃を恐れた信長は西美濃の墨俣城で龍興と人質交換して退却したとのこと。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
ボロ負けの連続の信長は信玄の武威を借りたいがため・・・
龍興16歳1565年11月に信玄を恐れていた信長は
苗木遠山氏の娘を貰い受けて養女となして勝頼へ嫁がせて同盟を結ばせて頂いている(重要な外交政策なのに公記が隠蔽している)
これをぶっ壊そうとしたのが後の家康で元亀元年10/8に謙信へ宛てて甲・尾の縁談の儀を事切れるように風諫せしめ候と書いている。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数(義昭による六角義秀・斉藤・織田・徳川・北畠共同上洛作戦が
信長の裏切り斉藤攻め奇襲で失敗し、激怒した三好に近江矢島御所を攻められた義昭は若狭を経て越前へ逃亡・六角義秀失脚)
その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すもまったく美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角義秀主導で浅井と織田の婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
斉藤義竜7回忌法要で美濃の武将達が参列してる中で←NEW
信長がその隙を狙って稲葉山城を奪ったから落城しただけ。
これは快川和尚が実際に7回忌法要の準備をするために4月に甲斐から美濃へ向け出立してることでもわかる。
快川は法要が終わるまで半年間もの間、美濃に滞在してから年末に甲斐の恵林寺へ帰り着いている。
569人間七七四年:2013/06/24(月) 11:50:47.91 ID:Hx40MAQ/
公記ってむちゃくちゃデタラメだよな〜。
信長が秀吉にあげた茶湯道具の数を、
12個も褒美にくれたとか吹いてるが、
今井宗久&今井宗薫宛の秀吉書状に書いてある茶器道具名を見ると実際はたった8個だけwwwwwww
ウソまで吹いて信秀さまありがてぇありがてぇマンセーカッコわりいwww
570人間七七四年:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN ID:+CD0eMbk
まあ公記の天正9年11月に書いてる
秀吉と池田恒興の淡路岩屋出陣なんかも、
尾下成敏氏なんかが天正10年の出来事をズラしてると指摘してるしな…
四国取次ぎが長曾我部派の光秀重臣斎藤から三好派の秀吉に変わる微妙なタイミングだから本能寺の変に関わる操作をしてる意図が窺える。
公記は出来事の年代を弄くりまくって操作してるのは明白だわな。
571人間七七四年:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN ID:5CnUe1QQ
尾下氏は、黒田家文書の阿波攻め関連の文書が
天正九年に比定されてたのを天正十年のものとしたのであって
公記の淡路攻めの記事はそのまま採用してるけど?
どう読み違えたんだ?
572人間七七四年:2013/07/24(水) NY:AN:NY.AN ID:bKZMUs0F
黒田家文書の阿波攻め関連の文書を
公記の天正9年11月に書いてる内容と合致するから
それで比定してたが、尾下氏は公記の日付はおかしいってことで
天正10年に秀吉と池田恒興の淡路岩屋出陣があったと言ってるから
読み違えも糞もないだろ。
573人間七七四年:2013/07/24(水) NY:AN:NY.AN ID:z6Mik7La
実は尾下氏の論文読んで無いんだろ?
あの論文読んでたらそんなレス在り得ない

桐野作人がHPに尾下氏の論文のこと書いてるの見て
適当に理解した気になってるってとこじゃないのか?
574人間七七四年:2013/07/24(水) NY:AN:NY.AN ID:wEe3yzj1
天正9年は鳥取城と忍山城の二方面で秀吉は手持ち兵力で毛利と対峙してるから、
さらなる淡路阿波への出兵は不可能だしな。
どう考えても天正10年だわな。
公記の9年は非現実的。
575人間七七四年:2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN ID:bdf5HbAF
池上裕子氏 〜信長は人的破壊者〜
信長は多くの人を殺害した。
そして「鬱憤を散じた」というのである。
異常に感じるほど残忍なやりかたが多かった。
それでも敵対者は次々と現れ必死に戦った。
戦功を積み重ねても、謀反の心を持たなくても
信長の心一つでいつ失脚するか抹殺されるかわからない
不安定な状況に家臣たちは置かれていた。
一門と譜代重視のもと、譜代でない家臣には
より強い不安感があった。
独断専行的で、合議の仕組みもなく
弁明・弁護の場も与えられず
家臣に連帯がなく孤立的で、
信長への絶対服従で成り立っている体制が
家臣の将来への不安感を強め、謀反を生むのである。
領域支配には譜代と家長権を振るえる子供や弟の登用が中心になる。
自分のそばにいて手足のごとく動き、あるいは自分の意を体して
各地に赴く者たちも譜代であった。
信長の政権の基盤は一門・譜代にあった。
長住は信長の怒りを買って越中を追われ、二度と戻ることはなかった。
もう用済みだったのである。
一度でも失敗すれば、それを理由に存在を否定される。そのようにして国人層の多くが命脈を絶たれた。
576人間七七四年:2013/08/10(土) NY:AN:NY.AN ID:vGlLhTWo
そもそも公記は首巻が終わっての巻一の冒頭からして三好長慶が義輝を殺したと書いていて
もういろいろとダメすぎるだろ。完全に大田本人が書いてねーよ。長慶はとっくの昔に死んでるわ。
大田が書き足したのは安土城完成以後だろ。
577人間七七四年:2013/08/13(火) NY:AN:NY.AN ID:cBsTiumP
私が思うに信長があれほど簡単に畿内での支配が可能になったのは
1561年に 十河一存 斉藤義龍
1562年 三好義賢
1563年 細川晴元 細川氏綱 三好義興
1564年 安宅冬康 三好長慶
と相次いで主要人物が馬鹿みたいな勢いで死んでいき有力者が誰もいなくなっちゃう。
これで畿内は力の空白が生まれたんだな。
特に父祖に劣らず器量に勝りて一度は天下の乱をも相鎮めた人なりと
賞賛された長慶嫡男三好義興が22歳で死去したので長慶がボケ老人になったのが痛かったな。
この畠山高政と六角義賢の挟撃策に三好義興が芥川城で指揮して勝利したことで事実上、
畠山氏と六角氏が決定的に衰退することになり果て将軍を巡るシーソーゲームに終止符が打たれた。
そして三好は分裂崩壊し、大仏を燃やした天皇は激怒し疲弊しきった勢力群の外側にいる信長に上洛を促すことになる。
しかし北条は謙信や信玄らがなかなか死ななかった。これでは関東制覇も難しいだろう。
そういう意味では大内義隆や尼子晴久が死んだ元就もおいしい。
永禄3年に六角軍は北郡征伐に失敗し浅井長政に敗北。これをもって長政は家督を継ぎ六角からの再自立を達成(肥田・野良田の戦い)
六角は斉藤氏と共同しての浅井攻め戦略に移行。
翌年2月には逆に長政が美濃へ進攻する攻勢を示したが
3月に入るや背後から六角軍が進攻し佐和山城を落とされた(斉藤家の竹中重高への六角氏の感状あり)
しかし長政は反転し六角の退路を封鎖する動きを示すことで退却を誘い佐和山城の奪回に成功する。
またこの長期に渡る六角と斉藤との攻防の中で義龍が病死し美濃からの脅威は減少したこともあり、
畠山高政と六角義賢による三好長慶との京を巡る戦いが始まるや、長政は太尾城(米原市)を攻めるなど六角の背後を混乱させた。
このように浅井による北郡造反は畠山への援軍派兵の遅れを誘発し六角弱体化をさらに助長した。
そしてこの攻防は三好の勝利に終わり畠山の没落が確定し、
単体では三好にかなわない六角は三好と和睦を結び京を巡る戦いに終止符を打つ決断をすることになる。
三好政権に服従する義賢が騒動で家臣暗殺をして家中は一時的に統制されたかに見えたが、
義輝が暗殺されるや畠山や奉公衆や反義賢の六角家臣による義昭の近江脱出が図られ、
永禄9年4月になると義昭を左馬頭に任官させ、
一方、三好が働きかけている左馬頭義栄の将軍任命拒否を出させるなど朝廷工作を成功させた上で、
反義賢家臣や畠山や若狭武田や信長や徳川や北畠を率いて義昭が8月に上洛戦開始することになる。
しかし土壇場で信長が義昭が和睦斡旋した斎藤を奇襲する背反をした挙句に大敗し、
この上洛戦自体が崩壊し、三好の後援を受けている義賢の威勢が増し義昭は近江にいられなくなり朝倉を頼り逃げた。
そして信長の裏切りから脈なしと見た朝廷が三好が押す義栄を将軍にしてしまった。
このように義昭問題によりさらに混迷したものの、反義賢重臣たちは奉公衆と協力し、
織田と浅井の婚姻を成立させるなど上洛戦を成功させる手を打ち、
中央政界でも朝廷工作をして反三好+義賢+近衛の勢力と結託し、
ついに永禄10年に当主権限を制限する六角氏式目に同意せざるを得なくなるまで義賢らを追い詰められた。
これが可能になったのは再度、義昭上洛戦をする為であり、斎藤と義賢を凋落させることに成功。
これにより義昭は再度、近江に戻ってくる。
今回は奉公衆の他に大和衆や松永久秀も三好軍を引き付ける為に義昭上洛戦を前に挙兵させるなど辣腕を振るう。
しかしこの近江の反義賢勢力や浅井らを統合指揮して
高いレベルの朝廷工作もやってのけるだけの高い家格の持主が誰なのかわかんないんだよね。
京極は浅井の操り人形に過ぎず六角系家臣は操れないし(天文18年が京極氏奉公人奉書現存最古の発給)
信長公記から消された人物がいるのは間違いない。そもそも浅井氏が挙兵しての天文日記に書かれる
北郡錯乱・国錯乱は天文21年の六角定頼死去翌年であり、この時に浅井久政は六角軍に敗北し六角に従属したわけだが
このような大規模な近江国人を二分する近江国錯乱の理由として考えられるのは
六角義賢を六角氏相続には大きな大問題がはらんでいたのだろう。
六角義賢親子と朝廷との強いパイプを持つ近江の舊主(旧主)との対立・・・この六角分裂が義昭上洛と絡んでいくのである。
578人間七七四年:2013/08/13(火) NY:AN:NY.AN ID:cBsTiumP
258 人間七七四年 sage 2013/07/31(水) NY:AN:NY.AN ID:FFWZMqHW
義昭を報じて上洛しようとした織田家は初戦で三好軍と戦い岐阜へ敗走した後
多聞院日記永禄11年9月19日京極、朽木、浅井らの使者が観音寺城に
出仕してきて屋形六角義賢に申し上げるには、すでに裏切った箕作の軍勢は一万二千になり、
その上和田山の建部源八兵衛、吉田出雲守等も寝返り義弼(義賢の弟)に味方した、
さらに勢州国司北畠氏が鈴鹿越えで近日当国に入ると伝え聞いており、
これ以上戦を引き延ばせば却って逆襲を招くので降伏してくださいと伝えた。
六角攻略で実は織田家は一切触れられてない衝撃の事実w
>>258
当時、信長の上洛戦を支援するために三好義継が河内津田城と久秀がいる大和多聞城を行き来し指揮を執り、
それに呼応していた畠山軍は三好三人衆の経済的権力の源泉である堺で攻防戦を繰り返して三好三人衆を疲弊させていた。
その隙を見て美濃立政寺へ移動した義昭を追って、石成友通が近江へ入り六角承偵親子と戦準備しているのを阻止するため
信長の気がまた変らないうちに義継と久秀が東大寺戦線で一斉反撃に出た。東大寺戦線が崩壊すると京が占領されてしまうので
9/4には再度、石成が東大寺戦線に駆けつけてる。これで兵力不足を見た信長が9/7に上洛戦を開始。
しかし石成は電撃的に近江戦線へ駆けつけて織田軍を9/8に大破し、また東大寺へ戻ってる。
その後に>>258のような流れになったんだな。
三好三人衆は当時、和泉戦線・摂津戦線・河内戦線・大和戦線・近江戦線で大和国人や将軍奉公衆などと戦っていた。

ほかにも松永久秀の弟の子で丹波守護代内藤如安や
長慶が叔母と離縁したことに激怒して反三好に転じていた波多野秀治
反三好の姿勢をずっと貫いていた丹波の赤鬼の荻野直正などが
三好三人衆と戦っていたから丹波戦線もあったよ。
ほぼ三好三人衆は義昭擁立勢力によって完全に反三好勢力に包囲されていたと言っていい。
だから信長の無能ぶりだけが顕著に現れた形だったのに、信長はぜんぶ俺の功績とばかりに得意がっていたチンピラ脳
579人間七七四年:2013/08/13(火) NY:AN:NY.AN ID:cBsTiumP
ちなみに大和に三好軍が侵攻した際に
危機感をもった伊賀では反三好の伊賀惣国一揆が組織されていたし
若狭国は将軍領なので、当然に若狭武田氏も義昭支持にまわってたし
頼みの綱の石山本願寺まで信長上洛支援だったから
三好三人衆は各地で兵力不足に陥り完全に涙目だった。
580人間七七四年:2013/08/13(火) NY:AN:NY.AN ID:fNuEGSHP
>>576
公記は天下執権に対して義輝が御謀反を企てたと書いていて、
明らかに三好側視点で記されていると天野忠幸氏が指摘してるね。

信長は義昭追放後に将軍不在を回避するため義昭嫡男を大樹様と呼ばせて擁立してるが、
三好長慶は義輝追放後に義維を擁立しようとせず、
将軍不在に対して全く気にしなかった。
やはり長慶の方が信長より優れていただろう。
四国畿内13カ国を支配していたのに43歳で長慶が病死したのは痛かった。
581人間七七四年:2013/08/14(水) NY:AN:NY.AN ID:GY03XMFq
2010年くらいまでは信長公記さえちょっと目を通していれさえすれば
戦国板でシッタカできたくらいレベル低かったから
織田厨にとって天国だったろうな。
どんな意見でも公記を証拠に持ち出して論破気取りだったからなw
582人間七七四年:2013/08/14(水) NY:AN:NY.AN ID:6h4kLb54
それで俺は近々『信長公記の嘘』という本を出す事にした
本が出たら是非読んでくれ
583人間七七四年:2013/08/14(水) NY:AN:NY.AN ID:GY03XMFq
>>582
出版社はどこだよw
信長マンセーして一般大衆に迎合したアホ本じゃないと売り上げが伸びないから
出版してくれるようなところないだろw
いまだに上司にするならどの歴史上の人物がいい?で信長が上位に食い込むほど無知なのが歴史好き素人だからな。

そういや三好長慶の内者は身元不明のあやしい奴らの抜擢組だが、
三好三人衆の石成友通も内者上りなんだってな。
松永久秀も前半生が謎で(母が堺に住んでたらしい?)怪しいが
実質、長慶に次ぐNO.2までのし上がってるし
三好長慶の氏素性にとらわれない人事採用と抜擢が、長慶の成功の秘訣だよな。
その点、信長はダメだね。
584人間七七四年:2013/08/14(水) NY:AN:NY.AN ID:qA0DRaxW
だがさん自演は止めてください
585人間七七四年:2013/08/24(土) NY:AN:NY.AN ID:1JUQC9mu
>>580
その妄想、何回目だ
逗子市ストーカー殺人事件・小堤英統みたいなキチガイだな
586人間七七四年:2013/08/24(土) NY:AN:NY.AN ID:EUHfZdvE
事実を直視出来ず目をそらすばかりか、
脳内願望妄想を固く事実だと盲信するキチガイ楽園脳信長厨。
587人間七七四年:2013/08/25(日) NY:AN:NY.AN ID:IMvZ5rX0
582=織田原人なのが>>583を読めばはっきりしてるwww
会話のキャッチボールがちゃんと理解できてれば一目瞭然。
どうして織田原人は他人を装ってレスして、恥ずかしくもなく被害者顔ができるのか。
これは従軍慰安婦のでっち上げによる被害者顔と同じ精神構造ですねw
588人間七七四年:2013/08/25(日) NY:AN:NY.AN ID:I4IhnIox
信長公記の嘘
武田信玄とその信者は現在なら隔離処分されるのが妥当な奇形メンヘラ集団の事実を書いていないこと
589人間七七四年:2013/08/25(日) NY:AN:NY.AN ID:IMvZ5rX0
メンヘラは織田原人の脳内のお花畑のことだアホw
590人間七七四年:2013/08/25(日) NY:AN:NY.AN ID:Ch/oK/rv
ゴミ織田厨荒らしが来ると議論が出来なくなるよな。
591人間七七四年:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN ID:a0MWfe+D
>>583
ん?とうとう自分叩きの自演まではじめたの?w
それだったらちゃんと信玄を貶して信長をほめたたえなきゃ。
というわけで


信長・秀吉・家康>>>>>勝頼>>>(越えられない壁)>>>信玄


っと。

これに反応したら、だがさん確定。
592人間七七四年:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN ID:LzImiiDx
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長  姉川
謙信>>>>柴田  手取川
謙信>>信玄    川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉  84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉     しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉      伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉   小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉            尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川            神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族   中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津       九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦       鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直            天正壬午
仁科>>>信忠  高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀     二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部     戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、
豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない)
にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ
武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も
出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく
やられまくった毛利
593人間七七四年:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN ID:LzImiiDx
これらをもとに能力をつける 
 天下人の家臣団 
   政治  統率  知略 
家康  110 114 108
本多  77 105 80 
酒井  87 95 93
井伊  85 94 93
榊原  50 94 70
大久保 47 83 76
氏康  120 105 108
氏政 96 83 84
政宗  107 97 96
盛氏 86 99 95
元就 96 107 120
小笠原 73 78 60
依田 47 82 86
大須賀 58 82 64
天下人を苦しめた武田家臣団
信玄 97 110 96
馬場 80 93 79
山県 70 99 74
香坂 78 96 85
内藤 79 88 85
秋山 58 85 83
仁科 60 88 69
そのライバル上杉
謙信 87 120 76
景勝 83 100 86
本庄 70 99 59
斉藤 82 93 85
柿崎 30 97 12
須田 78 82 85
山浦 50 86 70
天下人の踏み台にされた雑魚共

       政治  統率  知略
信長(笑)    90 71 86 
秀吉(大 爆 笑)89 13 89
光秀       85 79 80
滝川       70 77 83
柴田       60 83 52

贔屓目にみてもこんなもん
他の連中はこれ以下のカス
織田厨の大好きな
信忠(笑)   50 28 30
蒲生(笑)   60 55 68
丹羽(笑)   70 15 67

カス武将の集まり織田軍
594人間七七四年:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN ID:f5Onxabx
○織田対上杉  謙信生前…1万8000程度の寡兵で柴田&織田家オールスター武将4万以上に正面衝突で大勝
謙信死後…  御館の乱やその後の内戦・新発田の乱につけこんで圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で能登・加賀・越中を火事場泥棒したのに
越中中部で天正8年から天正10年半ばまで2年も足止めされた挙句土肥・小島・須田などに大苦戦しロクな防備もなかった平城の松倉の枝城にすぎない魚津城攻防で上杉が信濃に
派兵した隙をついて 居留守泥棒的に行ったにもかかわらず大苦戦。松倉の須田に手も足も出ずに苦戦し撃退
新発田は完全に新潟から排除されて下越で包囲され逼塞
連発した内戦による瓦解・信濃5000・越中加賀能登越前飛騨(美濃の諸将も援軍に来てた)55000・下越2000・奥州(?)・上野(20000)
から総兵力8万そこそこで動員兵力5000〜8000そこそこの上杉に信濃長沼で敗北越中中部で苦戦した織田軍
上杉37万石程度(御館の乱や新発田の乱で極端に瓦解)に 伊達・芦名・新発田と共同戦線で9倍の兵力差でもって
2年も越中中部〜魚津・松倉のわずかな区間で進めず立ち往生
金森ら飛騨口部隊も松倉に手も足も出ず 森は長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北 新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞
上杉5000〜8000に対して総勢8万そこそこで廻りから総勢で攻め込みまくって勝てなかったのが織田家トップの柴田

武田対織田…
上村合戦…武田の圧勝。東美濃攻防戦…武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方ヶ原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間・平手・滝川・水野・前田兄の大軍2万が敗走、平手・前田兄戦死
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり
長篠の戦い…「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
○武田と徳川…三方が原の戦いで織田の大軍2万&徳川8000を見事正面衝突で敗走させられる
勝頼時代も大いに苦戦し田中城に手も足も出ず高天神城に大苦戦
○織田と徳川…織田は大軍で寡兵の浅井に苦戦し当時の織田四天王の息子の坂井久蔵戦死。
徳川は寡兵で大軍の朝倉に勝利し、瓦解した織田軍を救って引き分けもで持っていく

秀吉…小牧長久手で家康より遥かに戦下手で織田家で最も無能で伊賀攻めに失敗し信長の勘気蒙り縁を切られそうになるアホ信雄に135000の大軍で挑んで
1万人殺される大敗。その後の攻防も二重堀・蟹江・前田・下市場・松ノ木・浜田・長久保・東駒野・河波・神戸攻防で敗北
二重堀合戦では防衛戦にもかかわらず1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられる
蟹江・前田・浜田・下市場・長久保・神戸は秀吉方本陣から程近い距離にあるにもかかわらず見事に寡兵の信雄に奪回される


以上をまとめると上杉>>武田>>>>>>>>徳川>>>>>>織田>>>>>>>>>>豊臣
595人間七七四年:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN ID:f5Onxabx
豊臣…徳川家に滅ぼされる 信長&織田家…光秀に滅ぼされる 徳川家…天下を取る  
武田家…織田・徳川軍に勝ちまくり両家ともに滅亡寸前にまで追い込む 
上杉…武田に大勝する。織田を半分以下の兵力で瞬殺し1800人討ち取る
秀吉…織田で最も雑魚な信雄やアホ輝元に10000人&3000人殺される。滝川に伊勢で蹴散らされまくる 本多500に20000の大軍で敗北する 
北条…滝川18000を瞬殺し6000人ぶち殺す

史実の戦績で本多500>>>>>秀吉軍20000(小牧長久手時の後詰妨害の攻防)
織田徳川16000〜17000>>>>>>秀吉軍135000(決戦しかけたら1万人戦死の大敗)
滝川6000〜8000>>>>>>>秀吉軍60000(天正11年の伊勢の攻防、ゲリラ戦で苦しめられまくり7月まで篭城
(3/4柴田→填島書状、滝川事書本多氏論文)柴田・信孝の降伏で勝ち目なく降っただけ)
だから滝川破った氏直は秀吉の20倍くらいの戦闘力はある

信長や秀吉は畿内・美濃に大苦戦。 家康は瞬殺した。その家康は諏訪高島で北条相手に敗走。
秀吉は信雄相手に7.5倍以上の圧倒的兵力で1万人以上ぶち殺された。
氏直は信雄より遥かに勝る家康相手に諏訪高島・乙骨で勝利し、全体でも引き分けした。
秀吉は6万の大軍を伊勢で滝川に蹴散らされまくり大苦戦。北条は三万で滝川18000を瞬殺し6000人討ち取った。
豊臣家は家康に滅ぼされて滅亡
北条家は江戸期も存続。旧臣らは家康配下で重宝され、統治システムも豊臣ではなく北条家の物が受け継がれた

小田原合戦時の陣立書で全国から215000&佐竹結城里見宇都宮ら2万で235000。
北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。秀吉書状で2、3万。兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前
そんな戦闘で重臣一柳や堀尾の子、前田重臣、平岩弟が戦死し、氏家行継負傷。韮山500に大苦戦し小田原1000程度や忍1000に手も足も出ない。
勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが北条方の兵力が集中した上野・武蔵・下総の諸城落としたおかげ(ちなみに勝ってない。講和開城しただけ)
北条側は主戦派抗戦派割れるなど戦意0で松田大道寺皆川北条氏勝など寝返り・抗戦意思なしで降伏する者ばかりの戦意0の状況
享禄以来年代記によれば豊臣軍は29万。また榊原書状や那須記など50万の大軍。にもかかわらず忍小田原韮山など1000〜500そこそこの拠点も落とせず
兵站維持できるギリギリのところまで追い込まれる

北条>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉

×武田が実力で信長に滅ぼされた
○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒
こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無 今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな

以上をまとめると武田>>>徳川・北条>>>>>>織田>>>>>>>>豊臣
596人間七七四年:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN ID:2JgC16Ye
チート尾張斯波家継ぎながら幼君でガタガタの斉藤領火事場泥棒しようとしたらまけまくり
長島侵攻では3回も敗北し餓死寸前の一揆勢数百を騙まし討ち&数万の大軍で一門10人以上殺されるなど負けまくり
本願寺攻めでも大苦戦し武田にも上村合戦や東美濃攻防で敗北し信玄在世中は追い込まれる一方で滅亡確定、
最後は光秀に殺されて死んだのが信長

最貧国甲斐から二倍も国力ある信濃を山之内上杉や長尾が介入してくる中切り取り
信濃山間や上野山間などキツイ城トップクラスの所をガチンコで落としまくり
最強家康に死の恐怖与え織田家トップ格の佐久間水野平手滝川を蹴散らしまくり
駿河も自国より国力上の北条+今川から切り取り北条の大軍大破して150万石まで領土広げた信玄

どうみても信玄>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信長でしょ。
信長が甲斐に生まれてたらきつい城ランキングトップクラスが立ち並ぶ天嶮の信濃の城をほとんどおとせず終わっただろうし
山之内上杉か諏訪あたりに蹴散らされて終りでしょ。史実で弱体化したクーデター騒ぎの幼君斉藤に負けまくり
長島侵攻戦でも何回も大敗し、餓死寸前の一揆勢数百を数万で騙まし討ちにしたら一門10人以上殺される雑魚だし
信濃の拠点落とせるわけがない。
597人間七七四年:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN ID:4XHubIFF
武田対織田の結果

上村合戦  武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
   ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
   柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
       落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり


武田と織田比較

領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
      どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害  
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
   負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
 
直接交戦結果 上記の通り

天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。

甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死

織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
598人間七七四年:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN ID:Ru3mgi0v
とうとう発狂?
599人間七七四年:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN ID:61JE+fY5
まーた馬鹿織田中のコピペ爆撃が始まった
だがさん徹底的に論破しちゃってくださいよwww
600人間七七四年:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN ID:KMUsE1GN
一般人には発狂しているように見えるけど、
「だが」氏の場合はこれが正常な状態(のようだ)。

本当に発狂したらK5荒らしになるでしょう・・・
601人間七七四年:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN ID:RN47r+XX
またアンチ秀吉の織田ちゅうの爆撃コピペか。
句読点を使うバカコピペはアンチ武田の仕業なのはバレてるしwww
602人間七七四年:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN ID:RN47r+XX
句読点じゃなくて不等号だったw
しかし歴史ゲーム板の低脳らしくワケわからん数値をつけたがる馬鹿さ加減は明らかに織田ちゅうだわな。
603人間七七四年:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN ID:61JE+fY5
まったくだ
はやくだがさん論破してやってよね
604人間七七四年:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN ID:XFdx2kQO
一方的フルボッコ対象に過ぎなかった織田厨に
武田厨論破テンプレなんてあるわけねぇw
605人間七七四年:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN ID:uVMYXPds
>>592からのコピペ爆撃は明らかにだがやSUBのレスの盗用じゃないな。
この質の低い馬鹿レス内容はアンチ秀吉コピペをやってるゲーム板創造スレにも出入りしている織田厨だわ。
606人間七七四年:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN ID:BbZnevQL
だが乙
607人間七七四年:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN ID:/er+1p6d
ゲーム板とこちらに書き込みしてるバカコピペ公害は織田厨だけだから明白すぐるwww
わざとバカな武田厨のフリしても尻尾が丸見え浅はか過ぐるw
608人間七七四年:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN ID:GUUT4+Q+
本当にあほすぎて笑えて繰るよなこのコピペ
だがさんはやく論破してやってよw
609人間七七四年:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN ID:wNHXePZY
実に真っ当な内容だろ思うが。
610人間七七四年:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN ID:uvjqjUS0
同意。
611人間七七四年:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN ID:iKHwr7TO
信長好きな奴って自虐的史観の持ち主ばっかりだよな
612人間七七四年:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN ID:rv0kz3yq
実際武田は同盟詐欺の騙まし討ちと対北条徳川戦の疲弊で滅びただけで
織田が自力で城を落としまくって滅ぼしたわけじゃないからな
唯一抗戦したの仁科だけだしその仁科にも織田信家殺されてるし
613人間七七四年:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN ID:pAD3cj6E
戦わずして逃げる腑抜けばかりだったなwww
614人間七七四年:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN ID:Qn5ErlIR
そりゃ信長が同盟詐欺で騙してて防衛体制解除してたし対徳川北条戦の疲弊もあるだろうしな
そこを規格外の大軍で襲ったら離反の連鎖になっただけでしょ。
615人間七七四年:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN ID:BbZnevQL
アホの武田が自滅しただけってことだな…
616人間七七四年:2013/08/30(金) NY:AN:NY.AN ID:G0e5F3QG
浅間山噴火で自壊したから仕方が無い。
617人間七七四年:2013/08/30(金) NY:AN:NY.AN ID:1ihQ71K/
困ったら噴火の珍説出して逃げるんですよね、在日さん
618人間七七四年:2013/08/30(金) NY:AN:NY.AN ID:SvCpssgt
そりゃ大分県からも空が真っ赤って観測出来るほどの超噴火だからね。
619人間七七四年:2013/08/30(金) NY:AN:NY.AN ID:EHgDfvJu
農作物への被害も一切みられないし、当然なされるべき減免措置も史料が無いけど、大分から見えるほどの大噴火だったんだもんな
620人間七七四年:2013/08/30(金) NY:AN:NY.AN ID:SvCpssgt
そりゃ当時の関東地方には日記が現存してないからね。
でも公家の噴火視認が記述されたほどの噴火が、
日記に記された浅間山噴火はこの時と1108年の上野国壊滅と朝廷に上野国司により報告された時のたった二回だけだから、
その規模たるや想像に難くないよね。
621人間七七四年:2013/08/30(金) NY:AN:NY.AN ID:vKP8VT9L
そんな噴火を物ともせず突き進む織田軍スゲーな
622人間七七四年:2013/08/30(金) NY:AN:NY.AN ID:zSE9PRwc
そりゃ火事場で泥棒行為を喜んでやる犯罪者集団だからね。
そうそう火事場ドロ仲間と言えば、
北条早雲なんかも駿河湾大地震で崩壊した伊豆に攻め込んで、
足利茶々丸の堀越公方家がほとんど組織的抵抗出来ないうちに滅ぼしているな。
623人間七七四年:2013/08/30(金) NY:AN:NY.AN ID:BecjDUzO
北条早雲は機を見るに敏をそのまま絵に描いた男だね
624人間七七四年:2013/08/30(金) NY:AN:NY.AN ID:zSE9PRwc
ただ単に、上野守護代家出身の長尾景春や謙信の祖父の長尾能景らが上野国や武蔵国の主戦場で暴れ回って上杉氏とガチ大戦やりまくってた背後で、
ひそかに早雲がコソ泥してただけだろw
625人間七七四年:2013/08/30(金) NY:AN:NY.AN ID:Hrgn5XJl
早雲は最果ての辺境で悪さしてたレベルだからなー。
長尾能景が平塚近郊までやってきて相模守護代を捕縛したら
早雲のやつビビって伊豆へ逃亡したしなwwwwww
626人間七七四年:2013/08/30(金) NY:AN:NY.AN ID:EHgDfvJu
だな
減免措置の公文書も史料が喪失されただけだし、家忠日記に記載がないのは攻めた徳川に都合が悪いから書かなかっただけだし、
フロイスが言及してないのも同じ理由、火山灰が確認されてないのも江戸幕府が都合悪いからかき集めたわけだし、
英俊の日記にも上井覚兼日記兼見卿記にも記載が無いのはぜんぶぜーんぶ配慮されて闇に葬られたからだもんな
627人間七七四年:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN ID:PBHO/oiF
ttp://www.eri.u-tokyo.ac.jp/VOLCANOES/asama/asama_kiroku/
武田家は本当に噴火で滅んだんだ(棒)
628人間七七四年:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN ID:fKstjVXU
>>627
その表は完全にデタラメ。
そこに出てる9割以上は一次史料に存在しない噴火ばかり。
後代になってから、昔〜時代に噴火があったらしい的な伝説伝聞による信憑性ゼロの噴火記録。
確実にリアルタイム噴火記録が明治より前で存在するのは、
1108年上野国崩壊超絶噴火
武田滅亡時超絶噴火
江戸時代の天明大噴火(これは京で観測されてない規模)
629人間七七四年:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN ID:KY/2I9Zf
>>626
すべての歴史r的出来事にそんだけの史料に載ってるか載ってないかを確認する気かwwwwwwwアホすぐるwww
一次史料を疑う時は、それを否定する史料を提示するなんだが(この場合は甲斐民衆が豊作や平和を喜んでいたとか)
それどころか、公家の日記の噴火記録を補強する宣教師の記述と言う第二の証拠まであるのだから事実であり否定しようがないのにアホか。
630人間七七四年:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN ID:PBHO/oiF
ハイハイ、火山学という科学でデタラメって言ったら何を信じればいいんだろうね
しかも東大を否定とか新しすぎるな
631人間七七四年:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN ID:eoBrglud
東大の研究を嘘乙と言い張るだがwwwwwwwwwww

オマエ何様なんだよ、今すぐ論文で論破してこいや
632人間七七四年:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN ID:+UepPz+6
>>629
何を言ってるんだ
そいつは噴火を信じてるんだぞ?
見方を背後から撃って何がしたいんだお前はw
633人間七七四年:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN ID:KY/2I9Zf
517 人間七七四年 sage 2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN ID:KY/2I9Zf
>>507
浅間山の噴火の「記録」
あくまで後世に伝聞や言伝えや伝説も元に記録された
信憑性ゼロのガセ噴火ネタでも「記録」は「記録」だわなw
つか東大がいつ、その表の噴火が完全に根拠ある噴火記録だとアナウンスしたんだ?
まずそこを証明してくれよ?
しかし見事に単発ID自演の連投だなwww織田厨が自演キチガイ=アンチ秀吉の朝鮮人なのは
もはや明らかだわな。
wikiを追放され、今度はyourpeで曲解編集を開始かよwww複数アカウントで工作荒らし活動やって馬鹿じゃねーかwwww
634人間七七四年:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN ID:KY/2I9Zf
面倒だからコピー貼っとくわ。
635人間七七四年:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN ID:IKO2/cY3
636人間七七四年:2013/09/11(水) 14:45:02.63 ID:oeiPDCMG
信長寄りじゃねえなあ
元々後北条研究者だし専門家でもないからその意味でも論外だな
しかもこれを元に言ってるんだったら一級史料どころではないな
後世に自分勝手の理屈小ネタだけの駄本じゃん
史料的価値は0だな
637人間七七四年:2013/09/21(土) 12:25:52.34 ID:b92cKISi
しかし公記のデタラメっぷりは酷いな。
下手な軍記や家譜にも劣る酷い信憑性だろ
桶狭間合戦が1553年とかw
638人間七七四年:2013/09/26(木) 08:31:21.61 ID:FFMGSG0i
つか赤松七条家の城だから、
織田側は七条城って書状に書いているにも関わらず、
信長公記には上月城と毛利方呼称で書いてる時点で、
豊臣政権時代以降に毛利方に取材した上で書いてるのモロバレじゃんw
一次史料でもなんでもねー。
後から取材して軍記読み物として書いてるんだよコレ。
太田がリアルタイムに直接、見聞きした体験を記したなんて嘘。
639人間七七四年:2013/09/26(木) 11:10:21.88 ID:SjDSLV0I
そりゃ信長公記の作成年代を太田が記しているのを見ても
慶長以降しか存在しないんだから一次史料なわけがない。
640人間七七四年:2013/09/26(木) 12:38:46.78 ID:5IqmUZ4m
というだがの願望なのであった。
641人間七七四年:2013/09/30(月) 08:45:35.55 ID:9ys1InRs
池上氏は、義昭追放後に、公記が
村井が天下所司代に任じられたことについて、
当時の史料で村井を天下所司代と呼んだものはないとして、
豊臣政権時代の京都所司代を太田が知っていた為にそう書いてしまったと指摘している。
642人間七七四年:2013/10/01(火) 23:32:25.83 ID:eFd7j14A
21 :菅沼遼太:2013/10/01(火) 15:05:14.00 HOST:g229.115-65-140.ppp.wakwak.ne.jp<8080><3128><8000><1080>[115.65.140.229]
対象区分:[個人・三種]優先削除あり
削除対象アドレス:
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1380092620/92

削除理由・詳細・その他:
個人の取り扱い
三種
 上記2つに当てはまらない全ての人物
三種:
 誹謗中傷の個人特定が目的である・文意により攻撃目的である

誹謗中傷
三種:
 個人を完全に特定する情報を伴っている。



22 :21:2013/10/01(火) 15:10:35.88 HOST:g229.115-65-140.ppp.wakwak.ne.jp
>>21も削除していただきたいです。


23 :不動 ◆HpcRk2ELiM @削除明王 ★:2013/10/01(火) 18:41:44.52 0
>>21-22
却下。名前だけなら削除対象ではなく、削除する理由なし。

#名前との組み合わせで削除対象になる記述がありません。
#予備知識のない第三者には個人を全然特定できない上に、
#誹謗中傷として扱う記述もありませんでした。
#なお、もし当スレの21を正式に削除依頼しても、削除する理由がないので却下あるのみです。


24 :うんこ:2013/10/01(火) 20:53:49.39 HOST:ntaich067177.aich.nt.ngn.ppp.infoweb.ne.jp
>>23
却下
じゃねぇよボケ
ちゃんと仕事しろよクズ野郎


25 :21:2013/10/01(火) 21:10:10.04 HOST:g71.124-45-254.ppp.wakwak.ne.jp
>>23
手前ら無能な運営の不手際で個人情報が漏れてクレカ変更までやって手間取らせておいて
個人情報晒しも却下とかどんだけ身勝手なんだよクズ
643人間七七四年:2013/10/02(水) 10:07:07.90 ID:BDYhBL2O
執拗に織田チョンが敵視しストーカーし続けていた4年。
しかし笑える現実がwww
実はストーカー対象の小学生に論破されていた…これからは粘着織田チョンの恨の精神が具現化されますw
644人間七七四年:2013/10/02(水) 10:24:26.96 ID:GU+llQ3E
同姓同名の他人に罪を被せようとするだが
子供がクレカ作れるわけないだろ
645人間七七四年:2013/10/02(水) 11:53:26.39 ID:K+y2GQUw
織田厨まーた自作自演と単発ID自演で工作かw
名前を晒して名誉毀損リスクを気にしないのは、
自作自演の狂言話だからだろwww
だから●流出で住所もとっくにわかってたけどwとかデタラメを吐いて回ってるんだろwww
646人間七七四年:2013/10/02(水) 15:22:48.71 ID:4CEVzBwG
拾った人の温情で他の情報さらされてないというのに、そんなに破滅したいの?
647人間七七四年:2013/10/02(水) 15:39:06.04 ID:K+y2GQUw
はいはい虚勢乙wwww情けねぇwww
648人間七七四年:2013/10/02(水) 17:05:36.89 ID:4CEVzBwG
ブゥーメラン!
649人間七七四年:2013/10/03(木) 00:57:14.29 ID:N3qUVYKd
信長公記の捏造マンセーを一つずつ暴いていくスレ

著:菅沼遼太
650人間七七四年:2013/10/03(木) 01:28:07.55 ID:6czzwZpG
>>646
昔とある掲示板に谷川亮太(仮名)と言う奴がいてな
本名くらい大丈夫だろとあっさり晒して、ウキウキで卒業証書も晒したんだよ
そしたら2chで特定作業の嵐が始まって、大学高校に始まり、ついには家族構成や実家、当人の彼女まで晒され
それを見た一部の人間が嫌がらせをされまくって今や訴訟沙汰
だがの書き込み見てたら、当時の谷川君の虚勢を思い出しちゃってね
651人間七七四年:2013/10/03(木) 01:28:44.05 ID:6czzwZpG
されまくって→しまくって
652人間七七四年:2013/10/03(木) 11:18:33.89 ID:p4Oa78z/
>>637>>638>>639>>641
あきらかに太田が武功を捏造する取引で金を要求しながら慶長期に取材して書いた軍記小説だなw
653人間七七四年:2013/10/03(木) 11:59:21.14 ID:KLuPfmK6
これが菅沼遼太君の主張です
654人間七七四年:2013/10/03(木) 20:50:09.47 ID:UUTXCI1e
あああああ
655人間七七四年:2013/10/10(木) 11:01:49.20 ID:Z1Ug+wFm
永禄7年6/17信玄→金山城主長井道利宛書状
井口(斎藤)より攻撃とのことで、信州衆を派遣しようと支度したが退散とのこと。今後も加勢や城米が必要なら言って下さい。
永禄8年11月苗木遠山氏の娘を信長養女として武田と織田の同盟。
永禄9年6/13信玄→岩村遠山左衛門&苗木遠山直廉宛書状
信長や森とも入魂になってきたようで安堵しています。
私は越後を攻めますので約束通り鉄砲衆50人を急いで加勢をお願いします。
ただ苗木殿も出陣準備してるとのことで、
その志しが私に対して浅くは思いませんが、
斎藤勢が森へ攻撃すると聞き及んでいますので、
苗木殿は私への出陣を延期するのが尤もだと思います。

信玄が東美濃の金山城主長井へ兵糧や兵力支援をしていたが、
武田織田同盟により支援を切った為に、
金山城は織田軍の森の手に落ちる。
永禄5年2/27快川→禅昌寺宛で、信長が西美濃で斎藤に敗れ墨俣城で人質を出して斎藤と和議をして帰ったことが書かれているので、
信長は頑強な西美濃攻略を諦め、
武田に養女を差し出すことで同盟を結び、
信玄の力に依存しての東美濃攻略に切り換えていたのがわかる。

永禄7年の竹中らのクーデターのおかげで小牧山城作りの邪魔が斎藤には出来ず、
小牧山城が出来たことで、
尾張丹羽郡小口城や尾張葉栗郡黒田城が自落。
それで永禄8年7月には犬山城が裸城になり自落。
斎藤家にとっては尾張領失陥の大打撃を受けているから、
竹中クーデターは国内外に斎藤の無能と瓦解を示してしまい、
永禄10年9月には伊勢長島へ義龍が逃亡することになる。
犬山城自落からわずか2年で斎藤は崩壊したことからも、
竹中クーデターの美濃内乱の影響力がわかる。

幼君斎藤義興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。
森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を
美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてきた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は
内通で加治田城・黒田城/織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城/城内で内通が出て開城が犬山城
と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と農地が荒廃していた退転状態だった
美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし、近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。
そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
656人間七七四年:2013/11/16(土) 17:43:50.46 ID:9rZNo+I6
信長公記→安土城築城において蛇石と呼ばれる巨石を信長公が巧みに指揮して上まで上げた。
フロイス日本史→指揮に失敗して蛇石が下に落ちて150人の人夫が下敷きになり死んでしまった。

全く正反対の記述が為される時点で、
信長公記が無敵信長マンセー糞軍記なのがわかる。
657人間七七四年:2013/11/17(日) 16:31:17.26 ID:tXxkKvLP
勝者が捏造する歴史についての小和田哲男のコメント
「信長公記だけを読むと信長が常に勝ってばかりいて負けたことが無かったと誤解する」
658人間七七四年:2013/12/02(月) 12:09:28.33 ID:sNu2xTNO
光秀のは差し出し検地で、
秀吉は実地検地でまったく別物じゃなかったっけ?
でもぶっちゃけ、賦課基準って武田・上杉・北条では
通貨の質を守り、貫高制の元ですでにやってたことだよね。最悪、代納として米で収めることもできたし。
知行役や軍役、諸役賦課体制構築に必要なことであり
国の運営の基礎部分が徴税だから。
信長は糞銭でも文句言わずに使え!ってやっちゃったから通貨の信用性崩壊し
商人が米取引を重視してしまい、経済崩壊してしまって貫高制が崩壊してしまったみたいだけど。
その後の信長は徴税や課役に統一基準を作ることをやらずに
制限の無い、好き勝手な負担による酷使を強いて、逆らったら虐殺して回ってたから
惣村一揆と一向一揆が協調し、そこに紀州惣国一揆も参加しての本願寺・高野山連合が信長を滅亡に追いやったけど。
659人間七七四年:2013/12/03(火) 15:46:39.06 ID:T8huy7eS
>>638
信長公記にあね川合戦の事って書いてある時点で
公記は一次史料ではなく軍記小説でしかないんだよ。
リアルタイムに記録されていたのなら、織田と浅井は野村合戦と呼称し、
朝倉なら三田村合戦と記述しないとおかしいんだから。
姉川合戦という呼称は家康が天下の実権を握って以降の呼称で
かなり後になってから織田からではなく、徳川関係者からの聞き取りで書いているのがわかる。
660人間七七四年:2013/12/06(金) 18:34:37.38 ID:Jqkb+lgQ
もう史学界もいい加減、桶狭間の戦いなんて無かったと認めるべき時がきてるね。
ぶっちゃけ天文19年8月に今川義元が駿河・遠江・三河の5〜6万の大軍を率いて
知多郡の織田へ攻めてきたが、信秀が国境を支えて侵攻を許さず12月には今川軍を撤退に追込んでる。
その後、信秀主導で今川と織田は無事を結んで(朝廷は御所修理費などが欲しくて、将軍も三好と戦うために近江・美濃・尾張・駿河の無事を願った)
天文21年に信秀の死を挟み信長が弘治2年3月に今川攻めするまで平和だった。
信長公記は信秀死去を前にずらして天文21年に信長によって桶狭間の戦いが起きたことに順序を逆にしてる。
桶狭間の戦いは信秀によって起されたものであるのは明らかで、
公記は今川の侵攻年と信秀の死去年を交換して調整してる。
現代の史学者は公記の天文21年を書き間違えただけで、実際は永禄3年と書くつもりだったなどと
大きく改変してまで桶狭間の戦いで信長が勝ったなどとウソにウソを重ねて史学者として恥ずかしくないのかねぇ。

そもそも桶狭間の戦いが書いてある首巻自体が、
太田が書いたもんじゃなくて、
作者不明でいつ書かれたものかも不明だからな。
第二次小豆坂の戦いの記述は三河物語からの流用だし、
それ以外の戦記述は捏造妄想戦ばかりで一次史料皆無だし、
道三と信長の会談とか作り話だらけ。
桶狭間の戦いだけは事実なんてムシが良過ぎるわな。
661人間七七四年:2013/12/06(金) 18:58:02.12 ID:nJOTgHrg
桶狭間が無かったって主張するのが史学者として恥ずかしいんじゃないですかね
662人間七七四年:2013/12/06(金) 19:26:12.75 ID:SnCqZ2K8
信長が死んでめでたしめでたし
663人間七七四年:2013/12/06(金) 21:58:20.17 ID:ELI8xvd4
信長公記って信憑性どのくらいの史料なの?
664人間七七四年:2013/12/07(土) 09:58:45.78 ID:5YLGEePJ
天正4年辺りからのあらすじはだいたいあってるが、
内容は信長マンセーする為に捏造歪曲しまくってる程度の信憑性しかない軍記小説。
665人間七七四年:2013/12/07(土) 13:17:44.14 ID:kg51bfIo
安土城築城の記述を長々とやって、
信長が追込まれている事実を隠蔽する馬鹿公記www
666人間七七四年:2013/12/09(月) 08:47:12.58 ID:9V999BQU
織田厨そっ閉じスレやなw
667人間七七四年:2013/12/09(月) 14:53:36.49 ID:HonsSIHP
下記のエピソード全部、公記のデッチ上げ作り話で根拠ゼロ

信長と道三の聖徳寺の会見
織田信光が尾張清洲城を奪い、信長に譲り那古屋城主になる
斯波義銀と吉良義昭の会見
赤塚の戦い
萱津の戦い
稲生の戦い
浮野の戦い
668人間七七四年:2013/12/09(月) 16:17:07.97 ID:HonsSIHP
尾張守護斯波義統は天文13年に稲葉山城攻撃中の信秀の援護射撃で禁制を出したのを最後に守護家は断絶。


清洲城主尾張下郡守護代大和守達勝(天文19年12/17で生存確認できる)の跡を継いだ
大和守勝秀も天文22年に唯一の書状が出されたのを最後に大和守家は断絶。
因幡守家出身で大和守家を継いだとされる織田信友は軍記の架空人物。


岩倉城主尾張上郡守護代伊勢守広高も天文6年に広高が当主であったのが確認できるだけで断絶。
大和守家出身で伊勢守家を継いだとされる信安を追放した嫡男信賢とか
妄想話をデッチあげてるが両人とも軍記の架空人物。


織田信康とその子織田信清も軍記の架空人物。
ただ犬山城自体は斎藤義龍が信長から奪って支配していた可能性が高い。
669人間七七四年:2013/12/09(月) 16:24:10.64 ID:RH+z2p4c
可能性が高い。()
670人間七七四年:2013/12/09(月) 19:43:14.55 ID:J/m3uB8v
一次史料を見る限り、
信長が岩倉織田伊勢守家や
清洲織田大和守家らを相手に、
国内統一戦争をしていたとする証拠が一切ない。
そもそも公記首巻は太田牛一が書いたものですらない。
671人間七七四年:2013/12/10(火) 03:48:21.72 ID:07CgtR8+
菅沼遼太の妄想スレ
672人間七七四年:2013/12/10(火) 08:49:40.20 ID:zkGS0Q56
連呼リアン織田厨発狂
673人間七七四年:2013/12/10(火) 17:24:28.34 ID:ZRy6/ZPV
一次史料を見る限りといいつつその一次史料も出せないからお話にならない
674人間七七四年:2013/12/10(火) 22:44:05.60 ID:J5SzLDwJ
そもそも見て無いのだから仕方が無い
675人間七七四年:2013/12/11(水) 23:39:19.87 ID:Z6J+mVhx
永禄7年7月に三好長慶が死ぬや、
下村信博氏によれば、9月に正親町天皇が勅使立入宗継を信長に派遣してきたので、
信長にとって美濃攻略の大義名分を得た形になり、
横山住雄氏や奥野高広氏によると12月には将軍義輝から信長へ天下統一せよとの御内書が届き、
天皇と将軍から天下のことを任されたと言うことです。
親の信秀の忠勤の遺産が、
天皇や将軍の信長への盲信になったのでしょうが、
信長が全ての者を見下し威圧し、
大虐殺大好きの重度鬱病患者キチガイだとは夢にも思わなかったんでしょうね…
676人間七七四年:2013/12/12(木) 08:23:29.67 ID:7NbDdC9k
.       ,、r‐''''''''''''''''ー 、
      ,r'         `' 、
     /             ヽ
.    / ,             ヽ
   ,,'  ;    ,、、,_  ニニ  ,、」、    俺は嫌な思いしてないから
   l.  :;;;i    ´ .._`ー   ‐''"....|     それに織田豊臣徳川らが糞味噌に叩かれようが俺の知った事ではないわ
   l:,;'"`'、,     ‐=・-;  -・=‐ ;〈     だって全員俺が嫌いな連中だし      
.   ';i l :::i;;,, ::'   ` ̄,:     ̄´ .:゙,   大袈裟に言おうがそいつらが無能でもなんとも思わん
    l;゙、',.::l;;;i     ゚人,,__,,人:..   l,   それは俺の頭の中では信玄公こそ戦国最強の存在だから
    l;;;;`‐;;;;;ヽ     , __ij..__ 、:  l;;;,,  つまり日本人なら武田信玄公を崇めるべき
. ,、rイ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ゝ    `Zエlフ'´ , !;;;;:'
'.:.:.l ll ;;;;;;;;;;;;;;;;;' ,rニン" ` ̄´´ `ノ;;;;;`-、
:.:.:.| l.l  '';;;;;;;;;;;;;;'         ,イ l'''  l `
:.:.:.:| ','、  '''''''''   , ‐---,ェr'".l.|  |  |
:.:.:.:|  ゙、゙、       `''''''''"",ノ l l  .|  |             菅沼 遼太
677人間七七四年:2013/12/12(木) 08:23:50.51 ID:B1SVEDjd
信秀の勤王っぷりは京洛で有名で、
あまりに多額な援助の感謝を表すために、
天皇が勅使をくだすなんて、
前代未聞な感謝の仕方までしたくらいで、
朝廷はをた殿、をた殿って言ってたからね。
当然、信秀の嫡男を贔屓してその成功を後押ししてんのよ。
永禄10年の立入宗継の尾張下向では、
わざわざ誠仁の元服費用を信長に依頼。
これは信長に誠仁の後見人を任せているからで、
これで次期天皇の後見人と言う政治的立場を手に入れ、
信長は超絶チート化してる。
なにせ、信長に従わない者は天皇に従わない賊なのだから。
まさに日本のルールブックそのもの。
678人間七七四年:2013/12/12(木) 08:28:39.05 ID:SCyA9JBM
天皇がそんな強力なら、なんで元服費用を尾張くんだりまで勅使出してせびりに行ったんだろうか
そもそんな強力なら後鳥羽よろしく幕府滅ぼせよと
謎は深まるばかりである
679人間七七四年:2013/12/13(金) 08:39:13.46 ID:4zWOuiHL
軽々しく誠仁の後見は頼めないからな。
最も朝廷を敬う織田弾正信秀の家系なら安心と思ったんだろう。
当時も天皇を尊重しないやつはいなかったし、
官位官職は皆が欲しがった。
しかし荘園横領して経済的自立していかないとならない自力救済の荒廃した社会だった。
土地には多層に渡る利権が混在し朝廷には警察力や裁判能力が無かった。
それゆえに現実問題として天皇の意向を守ることは出来なかった。
しかし尾張の治安を安定させた信秀は強力な経済力と軍事力をすでに保持し余裕があったので、
天皇に勤王する余力があった。
しかし今川などは将軍への挨拶が遅れたことを謝罪していたりと余裕がまるでなかった。
680人間七七四年:2013/12/13(金) 12:29:10.49 ID:qX6Jwedx
すげえな
まるで人の考えがわかっているかのよいな傲慢な憶測
傾聴に値しますな
681人間七七四年:2013/12/15(日) 14:06:12.76 ID:WlGhKTf2
他力本願でなんら武功もないのに、
義昭を伴い上洛してきた信長を大歓迎して、
天皇は信長を副将軍に任じて、
家格を一気に引き揚げてくれた。
そのため義昭が信長を管領に任じても拒絶した。
天皇の織田家贔屓は信秀の勤王を評価してのこと。
まさか信長が上京を放火し桂川に大量の死人が浮かぶ阿鼻叫喚と、
略奪恐喝をして回る大逆無道な暴君とはまだ知らなかった。
682人間七七四年:2013/12/15(日) 15:06:19.79 ID:wI1ugCmj
ネット上で活動する在日チョン工作員に気をつけろ!ってインドネシア人が言っている。
って記事見たけど、こういうとこにも蔓延ってるんかな。
683人間七七四年:2013/12/16(月) 08:49:40.27 ID:t3ihbp/a
そりゃあ全板、全スレでチョンが大活躍しとるがな
684人間七七四年:2013/12/16(月) 09:25:36.50 ID:Rz2AdJqr
ここまで超絶チート機能を付与されながら畿内統一すら出来ずに謀反死ってw
685人間七七四年:2013/12/16(月) 09:58:58.50 ID:LxVY3np4
>>684
君のいう超絶チート機能って何?
戦争弱くて、外交下手で、内政下手で、部下の掌握が下手なんだろ?信長はw
どこがチートなの?
686人間七七四年:2013/12/16(月) 16:30:21.40 ID:tbCEwHcC
そんな無能なのに天皇に目をつけられた織田信長
一方でいいように踊らされた武田信玄以下無能以下の方々
687人間七七四年:2013/12/16(月) 16:32:18.40 ID:+/9qeHcH
菅沼くん笑われとるで
はよ反論せんと
688人間七七四年:2013/12/16(月) 21:12:26.60 ID:pg1U9x77
天皇チートがあれば俺でも天下統一できるレベル。
でも信秀の勤王が評価された結果だから、
俺は天皇チートを手に入れることはできない。
689人間七七四年:2013/12/16(月) 21:17:18.18 ID:LxVY3np4
つまり信長に逆らったものは皆、逆賊、と。
690人間七七四年:2013/12/17(火) 01:01:49.77 ID:Lox6J4bO
あんなの俺でも出来る
ただあいつは運が良かっただけだ
そしてあんなに環境に恵まれてれば誰にでもできる

完全に出来ない人間の逃避だな
691人間七七四年:2013/12/17(火) 01:54:16.41 ID:s/MEVWp6
「親の七光りさえあれば俺が総理になるのは簡単さ」とか楽しい妄想してそうだよな
692人間七七四年:2013/12/17(火) 09:41:43.54 ID:2OBn9H//
実際、アスペ重度鬱キチガイで、
ガキ小姓を選んでは女装して強制セクハラして、
パワハラ圧迫人事管理で貢物や賄賂もらいまくって汚職判決による私刑乱発。
虐殺恐喝でコレクション
こんなクズでもそこそこやれたじゃん。
これ以下のクソクズなんてなかなか日本史をみても見つからないよ。
693人間七七四年:2013/12/17(火) 12:59:48.19 ID:GR0JjfGf
どこの大名にも当てはまりそうなクズっぷりだな
694人間七七四年:2013/12/17(火) 13:40:02.72 ID:mD8myy+9
太田牛一がデタラメ史観を作り上げて信長マンセーしてるのはガチで痛いよな。
義昭は信長より三歳歳下で、
一次史料の義昭書状には、
信長を御父などと呼ぶ書状は無い。
信長公記に載る信長宛の義昭書状にある御父の文字はなんなんだwww
馬鹿馬鹿しい厨二病っぷりで敬称を追加www
695人間七七四年:2013/12/17(火) 16:16:07.36 ID:GFCoJJIK
>>693
アスペ重度鬱キチガイで(親父を追放し)
(春日虎綱という)ガキ小姓を選んでは女装して強制セクハラして(しかも嫁にバレる)
(国人衆から)パワハラ圧迫人事管理で貢物や賄賂もらいまくって(板垣息子や勝沼など)汚職判決による私刑乱発。
(志賀城など信濃で)虐殺恐喝で(敵将の嫁を)コレクションした

武田信玄とかいう奴もいるしなw
696人間七七四年:2013/12/17(火) 17:24:35.21 ID:Lox6J4bO
そんあチート権力を与えた天皇は官位を売って糊口を凌ぐ有様
なんで天皇やら公家やら、まして棟梁として承認された室町将軍が流浪してるんだろうね
不思議だ不思議だ
697人間七七四年:2013/12/17(火) 22:23:11.47 ID:hePuLGqh
>>695
アスペに失礼だろいい加減にしろ!
だがは妄想性人格障害だよ
698人間七七四年:2013/12/18(水) 00:02:45.18 ID:mWTdUeOZ
>>695
へぇwそれ一次史料で証明してみなw無理だろうけどwww
699人間七七四年:2014/01/31(金) 12:25:45.13 ID:DeiE1jpf
結局一次資料って事でFAだな
池上裕子氏ですら信長公記の信憑性はかなり信頼してるし
700人間七七四年:2014/01/31(金) 17:00:14.58 ID:Tq9O1B8B
そうだね。
一次史料ではなく一次資料だね。
701人間七七四年:2014/02/24(月) 22:16:55.46 ID:MOFnjCnH
信長公記が一次資料ならかなり多くの資料も一次資料になっちまうよ。
長篠日記なんて超一級史料だな
702人間七七四年:2014/02/25(火) 02:26:51.02 ID:A/bxKZZO
.  |___
. /    (^ν^) 武田信玄は最強だぜ
/    /    \ 信長秀吉家康は信玄が健在なら晒し首っと
     | |   | |
___/ /__.| |___
   //   //
   (Ξ´  ‘ミ)


.   |J( 'ー`)し 遼太ごめんね突然来ちゃって
.   と ノ お父さんも後から来るわ、話があるって
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. /    (^  )彡  !?
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 /  (    ) 勝手に入ってくんじゃねぇババー!
/    γ⌒\ 俺は今信長厨と戦ってんだ!!!
7``)  / /  \
.`ヽヽ / X  ミ ヽ
  ヽ___ノミ\   \
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
703人間七七四年:2014/03/01(土) 17:05:22.92 ID:h0djITly
加茂郡西部を信長公記は高橋郡と書いている。
これは武功夜話並みに怪しい地名名。
アホ長公記の学者は信長が高橋郡と名付けたなどと笑える言い訳をしている始末www
704人間七七四年:2014/03/01(土) 17:08:40.37 ID:pUH9TpJ/
     _______                     __
    // ̄~`i ゝ                    `l |
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   | |     ___ // ̄ヽヽ // ̄ヽヽ (( ̄))   | | // ̄_>>
   \ヽ、   |l | |    | | | |    | |  ``( (.  .| | | | ~~
      `、二===-'  ` ===' '  ` ===' '  // ̄ヽヽ |__ゝ ヽ二=''
                         ヽヽ___//   日本
         ______________  __
         |菅沼遼太 神奈川         .| |検索|←をクリック!!
          ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄   ̄ ̄
         ◎ウェブ全体  〇日本語のページ
705人間七七四年:2014/03/01(土) 17:18:14.20 ID:I/DuxMwz
学者を否定する便所の落書き
706人間七七四年:2014/03/01(土) 20:45:00.45 ID:JSc9zvWy
>>638>>641>>659>>703

こりゃ甲陽軍鑑の百倍は酷いな…
707人間七七四年:2014/03/02(日) 09:47:46.20 ID:q/aTwSO/
織田を研究してる学者なんていない。
なぜなら内政無視、軍事組織もデタラメで、
金融政策に失敗し貫高制崩壊させた為に、徴税、それに応じた兵站確立と軍役賦課と住民負担上限設定と軍政改革など全く出来なかったアホ組織。
よって織田の組織論なんて全く研究対象としての価値が全くないから。
いるのは根拠なくマンセーして信長英雄視する馬鹿な信長公記研究者だけ。
708人間七七四年:2014/03/02(日) 10:30:26.44 ID:iC0E4hN7
ついに研究者を否定しはじめたw
709人間七七四年:2014/03/02(日) 18:45:06.48 ID:fau/GyEP
研究者というよりも信長公記愛読者の会だからなw
710人間七七四年:2014/03/02(日) 20:17:11.52 ID:NI2WhslN
脇田修を知らんらしい
711人間七七四年:2014/03/02(日) 20:56:59.83 ID:quWG1tTH
信長マンセーを観光集客のネタにしてる岐阜の教育委員会が金を出して研究させてるから、
信長マンセーしか書けるわけないわな。
予算を出す出資パトロンの意向には逆らえない。
712人間七七四年:2014/03/02(日) 21:04:36.24 ID:ZlwHyGyv
トンデモと言うか、オモシロ軍記自体は何も悪くないと思う
ただ
『秀吉や謙信や元就に関する話は全て講談など後世の創作だが信長の信じられない活躍はどうやら本当らしい』
と本気で言っちゃう人達がキモい
713人間七七四年:2014/03/03(月) 01:01:39.66 ID:B7JQA9nS
>>657
たまには良いことを言うな。
714人間七七四年:2014/03/03(月) 03:41:27.77 ID:3OEHrFAx
.  |___
. /    (^ν^) 武田信玄は最強だぜ
/    /    \ 信長秀吉家康は信玄が健在なら晒し首っと
     | |   | |
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   (Ξ´  ‘ミ)


.   |J( 'ー`)し 遼太ごめんね突然来ちゃって
.   と ノ お父さんも後から来るわ、話があるって
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 /  (    ) 勝手に入ってくんじゃねぇババー!
/    γ⌒\ 俺は今信長厨と戦ってんだ!!!
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715人間七七四年:2014/03/07(金) 01:00:46.65 ID:gLIAyZsL
うんち
716人間七七四年:2014/03/08(土) 09:11:42.92 ID:3Z8a5RPz
>>706
こりゃ致命的ミス連発じゃんwww

武功夜話どころの騒ぎじゃねぇじゃんwww
717人間七七四年:2014/04/26(土) 16:28:30.31 ID:GgwHlyl7
信長公記盲信論調作ったのって谷口とかか。
718人間七七四年:2014/05/30(金) 19:59:11.76 ID:jISgeovT
いいえ、事実です。
719人間七七四年:2014/06/01(日) 18:46:13.20 ID:bwvaINws
事実だという根拠は?
720人間七七四年:2014/06/02(月) 12:48:58.41 ID:mwYGkYIC
菅沼w
721人間七七四年:2014/06/09(月) 18:15:13.09 ID:uUVujyuM
おいおい
722人間七七四年:2014/09/15(月) 10:49:39.34 ID:3309oKv2
チャイニーズガールチア

チャイニーズガールチア

チャイニーズガールチア
ディレクター2ndパスポート

街道騒音異臭問題
723人間七七四年:2014/10/07(火) 13:11:37.56 ID:Tg6Efsni
724人間七七四年:2014/10/10(金) 12:15:53.93 ID:2hKe43cy
とりあえず斉藤道三二人説を真っ向から否定している信長公記の記述が
まったく信用できないのは確定しているね。
725人間七七四年:2014/10/10(金) 13:40:08.64 ID:ewNGV0KB
池田由之の生年で考えると公記にある父元助の年齢も怪しいらしいね。
戦国時代とはいえ子作りするには早すぎるとか。
反証として信玄先妻の例他もあるらしいけど信忠と2歳差する方が
無理はない感じかな。
726人間七七四年:2014/10/14(火) 17:55:57.31 ID:kZxTRJHt
公記の記述をそのまま転載して
本を書いたら売れるから
バカ相手に楽して儲けられる
最高の搾取ビジネスが信長関連本
727人間七七四年:2014/10/14(火) 19:18:03.28 ID:Tuc7X/f8
>最高の搾取ビジネスが信長関連本

好例が信長協奏曲だね
信長と織田軍さえ活躍すればいい愚の骨頂みたいな作品
なんであんなに推されているのか理解に苦しむわ
728菅沼遼太:2014/10/19(日) 17:44:38.43 ID:7jBrNPD0
武田軍こそ戦国最強なのにな
729人間七七四年:2014/10/27(月) 18:04:57.58 ID:cRRPOH6S
そもそも公記首巻は誰が書いたのかすら謎で、
江戸時代に忽然と現れたものだから、
完全にデタラメな内容ばかり書いている。
なので全くと言っていいくらい一次史料で証明できない事柄ばかり。
嘘妄想の羅列軍記講談。
730人間七七四年:2014/11/01(土) 15:10:42.31 ID:OtK6mpg+
信長公記で一つ判らない事があるんだけど
桶狭間の年数間違えてるのって何で?

たんなる太田のミス?
それともその時期に今川との衝突があって
混同したとか?
731人間七七四年:2014/11/03(月) 10:28:08.16 ID:puNQTob3
信秀が今川を撃退したことを、信長がやったことに変更したから。
だから信秀の死の時期まで早めて書いてる。
732人間七七四年:2014/11/03(月) 22:38:09.53 ID:jRWLWPrI
と、菅沼遼太史観ではそうなっています
733人間七七四年:2014/11/03(月) 23:08:45.92 ID:oqeIMiUz
菅沼君のアホさ加減が一つずつ暴かれていくスレになってるな
734人間七七四年:2014/11/07(金) 10:48:02.89 ID:mZwa/s7g
桶狭間の合戦が天文21年5月となっていて、
8年もズレてる時点で完全におかしいからなw
信長の初知行宛行文書が天文21年10/21でやっと当主相続してるしwww
だから信秀の死ぬ時期まで前倒し調整www
バレないようにその直後にもっともらしく道三と信長の会見話まででっち上げwww
735人間七七四年:2014/11/08(土) 00:32:39.89 ID:JcCXPpBM
アスペルガーだがの主張とは一致しない歴史↓

・滅亡寸前から逆転は当たり前、滅亡してから逆転も

・大敗で領地拡大を頻発

・信長にとっての敵滅亡は合戦の負けそこない

・攻城失敗で敵降伏も日常茶飯事

・周囲全員敵、寝返り頻発の状況から乞食兵で逆転

・敵しかいない領地も余裕で統治

・ワープで行軍が特技

・負けてるだけで美濃三人衆が寝返った、城から逃亡する龍興も

・上洛しても納得いかなければ謀反起こさせてピンチにしてた

・あまりに逆転しすぎるから撰銭令も失敗扱い

・その失敗でも経済発展

・朝倉が撤退しただけで信玄が天国に飛んでいく

・敵である武田水軍で一向一揆虐殺したことも

・合戦の敗退を負けた勢いで突っ込んで敵滅亡で取り返す

・合戦でピンチになってから敵が滅ぶ方が早かった

・安土城天主閣にいるまま天王寺砦救援した

・甲斐の信玄の上洛に一揆起こりまくりな岐阜城でビビりながら包囲網壊滅

・馬防柵に逃げ込んだだけで武田兵1万くらい討ち取った

・江戸時代が始まったきっかけは信長の合戦敗退

・朝敵認定にしたがって蘭奢待を切り取るというファンサービス
http://www26.atwiki.jp/dagamatome/pages/74.html
736人間七七四年:2014/11/08(土) 18:12:52.48 ID:hAzYm3dR
一次史料を用いたまともな反論が一切できない在日織田ちょんw
737人間七七四年:2014/11/10(月) 11:05:43.30 ID:MQKVE5pN
真面目な話
誰か研究者の人で信長公記の間違いまとめた本書いてくれる人っていないのかな?
738人間七七四年:2014/11/10(月) 12:56:39.03 ID:aBx5SVt6
浅間山噴火して、武田滅亡の怪異とされたら
もうパニックと混乱で戦いすらできんから仕方ない。
なにせまともに戦った武田兵なんて
多聞院日記3/2に織田軍が甲州之衆と戦い100討ち取ったと述べてる高遠城での一点だけだからね。
いずれにしても噴火を契機にして、ほとんど無抵抗で武田が自滅してるから仕方ない。

巨大な威力の天変地異の天災を形容するのに、

公記は天罰
朝廷は神威
教会はデウスの力

それぞれの立場から未曽有の規模の浅間山大噴火を表現してるんだなぁと。
他の大名が滅びる時とは全く違う異質な自然現象が起きてるんだね。
そしてそれが信長破滅と密接に関わるのだから異質中の異質。

他国の大災害を信長は大吉事と喜んで火事場泥をやるために張り切って出陣準備してる辺り
先日の東北大震災でみんなが避難した後に、外国人盗難集団が鉄パイプ装備で家々を荒らしまわって
略奪して回った事件を思い出したわ。
北条早雲が駿河大地震で崩壊した伊豆国を襲撃して
組織的抵抗できない堀越公方から国を奪った時と同様に
武田もほとんど組織的抵抗もできずに災害便乗型強盗武力団に領国を荒らされたのだろう。

宣教師がデウスが起こした信長の反省を促すための驚くべき兆候と恐るべき不思議なこととして、
この噴火による徴候による恐怖から、
哀れな信長がデウスを天地の絶対主として認めることができるようにするために起こしたが、
増長していた信長が陥っている闇があまりにも根深く、
これ程の光も彼に悟りの目を開かせることが出来ずに破滅したと書いてる。
酷いゼウスの災厄の起きた方向へ信長が恐れずに進む姿を不思議がっていたが、

立入左京亮入道道隆佐記で天正十年二月十四日夜に従北方赤雲天下を覆い、
その色の光明は朱の如し。信長大吉事云々。即3月5日に信州表に御出馬。
などと浅間山噴火が起きたことを火事場泥棒できる千載一遇のチャンスと信長は捉え即出陣してる。

多聞院日記で浅間の獄の焼けるは東国の物怪(もののけ)と武田滅亡の怪異という風聞が流れて
武田軍が自壊したようで、武田軍がまともに戦ったと思われる一次史料では、
多聞院日記3/2に織田軍が甲州之衆と戦い100討ち取ったと述べてる高遠城での一点だけだからね。
いずれにしても噴火を契機にして、ほとんど無抵抗で武田が自滅してるから仕方ない。

東北大震災の混乱の最中に攻められるようなもんだ。
739人間七七四年:2014/11/10(月) 12:57:34.46 ID:aBx5SVt6
木曾から援軍要請が来ても武田領へ侵入出来なかった織田軍の噴火日から侵攻開始。
北条氏政が16日付け書状で八王子城へ向けて、甲斐の情報が全く入ってこなくなったと情報途絶を報じる。
19日に勝頼夫人が武田八幡宮に対して、 勝頼に罪がないのにと天意に対して抗議しているが、天意とはまさに天変地異のこと。
織田軍を迎撃すべく出陣してきた武田軍が、全く戦わず撤退したどころか謎の瓦解。
援軍を出し始めた同盟国越後上杉氏にも逃げられる浅間山のある真田領へ勝頼は逃げず、なぜか小山田領に逃げる謎。
甲斐で一番浅間山に近い場所にわざわざ集まり僧たちが人身御供とも言われる観音様に祈りを執行する。
浅間山噴火について丸島和洋氏は、晴豊公記の東方に厚い雲が垂れ込め、空が赤く染まる様子や、
多聞院の浅間山噴火が甲斐信濃敗北の怪異という話を列挙し、 武田勢の士気に大きな影響を与えたことは想像に難くないと評している。
信長の敵国の神を流したって甲斐市一ノ宮を指し、山梨県笛吹市に溶岩が飛び散り宮が流されたって解釈しか出来ないね
塩山向獄禅庵小年代記 天正10年3月
開山徳和之観音堂へ各僧衆御伴申三日三夜奉移と書かれている。
徳和之観音堂とは三富村(旧山梨県東山梨郡)の観音堂で三日三晩の御祈祷をして下山したそうだ。
これは重大な意味を持つ。この村の位置はまさに甲斐・信濃・上野との県境にある。
そして浅間山からも近い。なぜこのタイミングでここに各々の僧が衆を伴って
3日間の山篭りをして祈祷しているのか(山梨県笛吹市の北に位置する事実)
察するに2月中は噴火の影響で近づくことができず、噴火被害者を弔うことができなかったが、
ようやく混乱が落ち着いてきた3月になり、浅間山を望むことができる山上へ登った
各地から僧に伴われた遺族達が被害者を観音様に見立てて鎮魂し、浅間山の荒ぶる神を沈める祈祷をしているのだ。

2/14 浅間山噴火し、空が真っ赤になり、京の空から雪とは異なるものが降って来て、大気圧変化のためか和仁親王が体調を壊す。
2/16 五の宮やひめ宮も相次いで体調を崩されていたことから、この日の夜に病退散のために方違が行われた
(陰陽道における方忌みのこと。浅間山噴火方面からの忌の流入を避けるため)
3/2 多聞院日記によれば織田軍が甲州之衆と戦い100討ち取る(織田の武田攻めの戦果はたったこれだけ。のちに信忠は高遠城に勝頼もいて苦戦したと大ウソを吐く)
3/11 村井が吉田へ御運によって武田侵攻がうまくいったと主張した(織田の実力といわないのは噴火によるラッキーだから。
信長公記でも信長が死んだ天意を棚に上げてw武田の悪政とか因果とか書いて勝頼が天意の罰で滅びたように書くなど、
天意の報復は悪政が呼び込んだ惨事のように他力本願的勝利を匂わす)
しかし吉田は二条御所で俺や公家たちが信長のために千返之御楽で祈祷したからだと対立(噴火は祈祷力!!!天皇すげぇー!)
3/12 多聞院が天候不良と先頃の光物の影響で不安感を募らせる(浅間山噴火とその影響で穀物の不作など先行き不安がる)
3/15 正親町天皇が庭上之作法をやってたらなぜか雨が止んだ。天道之感応奇特だわ〜と公家達か感嘆した(濃尾之暦者って馬鹿じゃんw最近の天皇力すげぇな!)      
3/23 穴山信君が裏切った理由って金子2000枚で買収されたんだってよ!などと多聞院が記録する(噴火で甲斐はどんだけ貧乏な生活に堕ちてるんだよw)
また最近の大風霰飛火逆雨の天候状況は天皇の祈祷力で信長の敵国の神を吹っ飛ばしたからだ(浅間山噴火による飛火や粉塵で日照も良くないようだ。こりゃ甲斐一揆くるな!)
まぁ戦後にはまたその神々も勧請してやろうが、まぁこれできるのは神力だけで、人の力じゃできない技だと書く(もうキチガイ信長と天皇どっち選ぶか決意しろや!)
多聞院の記述には断片的に浅間山噴火後の被害が書かれていて、その被害の大きさから先行きを不安がっている。
740人間七七四年:2014/11/10(月) 12:58:33.97 ID:aBx5SVt6
傍証としてさらに二次資料の信長公記から補填してさらに自説の追加補強
織田軍は遠陣だから兵糧が足りなくならないように わざわざ兵力調整してたのに すぐ軍を解体して逃げるようにして
速攻で甲斐から領国へ帰ったの? なんで甲斐で一揆がおきたの?
当時の甲斐はあきらかに食料不足だよね。これ火山の被害じゃないの?
3/20に木曽や穴山に会い、23日に滝川に関東行きを命じた信長だったが、
兵糧に困窮した織田軍は占領した深志城(松本)の兵糧を
3/24に分配するほど追い詰められてる。
3/26には馬の飼料を北条から貰うほど困窮。
3/28には信忠も甲斐から諏訪へ逃亡。
それですら、人があまりにも寒くて多く死んでいったから、
29日には開陣して諸将はいそいで帰国。 なんで大量に死んでるのかなぁ?
噴火被害で荒廃した甲斐で馬の飼料どころか一切の食料が手に入らず、よって体の熱量不足になり、
おまけに噴煙の影響で天候はボロボロ(3月末なんて5月上旬だし)
もう甲斐から逃亡するしかなくなったからだよね。 そして荒廃した甲斐ではついに一揆が起きて川尻が殺される。

晴豊記 2/14   浅間山噴火し、空が真っ赤になり、京の空から雪とは異なるものが降って来て、大気圧変化のためか和仁親王が体調を壊す。
兼見卿記 2/14  この日の夜に和仁親王が体調を崩す。
立入左京亮入道隆佐記 天正十年二月十四日夜。従北方赤雲天下を覆い、その色の光明は朱の如し。信長大吉事云々。即3月5日に信州表に御出馬。
晴豊記 2/16    五の宮やひめ宮も相次いで体調を崩されていたことから、この日の夜に病退散のために方違が行われた。
        (陰陽道における方忌みのこと。浅間山噴火方面からの忌の流入を避けるため)

フロイス日本史  3/8 豊後からの報告とも照らし合わせて、信長出陣前に起きた浅間山噴火をデウスの示し給うた現象だったのだろうと書く。
フロイスが使ってるのはユリウス暦だから、日本の暦で言うと2月14日。 ttp://maechan.net/kanreki/

兼見卿記 3/11 村井が吉田へ御運によって武田侵攻がうまくいったと主張した(織田の実力といわないのは噴火によるラッキーだから。
        信長公記でも信長が死んだ天意を棚に上げてw武田の悪政とか因果とか書いて勝頼が天意の罰で滅びたように書くなど、
        天意の報復は悪政が呼び込んだ惨事のように他力本願的勝利を匂わす)
        しかし吉田は二条御所で俺や公家たちが信長のために千返之御楽で祈祷したからだと対立(噴火は祈祷力!!!天皇すげぇー!)

多聞院 3/12 多聞院が天候不良と先頃の「光物」の影響で不安感を募らせる(浅間山噴火とその影響で穀物の不作など先行き不安がる)

多聞院 3/23 穴山信君が裏切った理由って金子2000枚で買収されたんだってよ!(噴火で甲斐はどんだけ貧乏な生活に堕ちてるんだよw)
       最近の「大風霰飛火逆雨」の天候状況は天皇の祈祷力で信長の敵国の神を吹っ飛ばしたから(浅間山噴火による飛火や粉塵で日照も良くないようだ。こりゃ甲斐一揆くるな!)
       戦後にはまたその神々も勧請してやろうが、まぁこれできるのは神力だけで、人の力じゃできない技だと書く(キチガイ信長と天皇どっち選ぶか決意しろや!)
       多聞院の記述には断片的に浅間山噴火後の被害が書かれていて、その被害の大きさから先行きを不安がっている。
741人間七七四年:2014/11/10(月) 12:59:15.12 ID:aBx5SVt6
こんな感じだろ。明らかに
公記は天罰 朝廷は神威 教会はデウスの力
上記は同一現象を表現しているだろ。
つか浅間山噴火以外に該当するような事件は他にない。

天正十年二月十四日夜。従北方赤雲天下を覆い、
その色の光明は朱の如し。信長大吉事云々。即3月5日に信州表に御出馬。

たしかに方角はあってないように見えるけど、そもそもこの時に
立入宗継がどこに居たのかわからないよね。観測地点も大問題じゃないかな?
フロイスは安土城の東方と的確な表現をしているよね。
それに「北」って単に方角を指しているだけなのかね?
釈迦が死んだ時に、頭を北向きにして安置された事に由来する北枕など
不吉を予言する際んぽ慣用表現の可能性も捨てきれないよね。
それに2/14で、やはりここにも夜の出来事と書いている。
光明ってのは、のちに多聞院も「光物」と表現してる事象と共通項だよね。
なにより信長は浅間山噴火を火事場泥棒する千載一遇のチャンスと捉え
大喜びして即、信長自身の出馬準備してるのがわかるよね。
当然、信濃・美濃国境にいる信忠の侵攻開始が始まったのも理解できる。

晴豊記が夜の観測で空が赤く見えたと書いていて
フロイスも夜10時から朝方まで見れたって書いてるのだから
同じ浅間山噴火を表しているし、
豊後から見れたって話も同様の徴候って書いてるんだから
別々のことを言ってるような解釈にはならない。


多門院日記の2月14日地震ってのも
こうやって見ていくと浅間山噴火による地震が奈良県までは
少なくとも影響を及ぼしているのがわかるね。
しかも小さな地震ならわざわざ記さないのだから
そこそこの規模の地震が浅間山噴火日に観測されているわけだ。

宣教師が酷いゼウスの災厄の起きた方向へ信長が恐れずに進む姿を不思議がっていたが、
こんなところに回答があったとはw
そうか信長は火事場泥棒が出来るから喜んで東に向かってたのかw
宣教師と信長の認識ギャップはここにあったかw
742人間七七四年:2014/11/10(月) 13:00:10.79 ID:aBx5SVt6
個人的には二次資料だから必ずしも作者の思惑や作為や取捨選択が反映していて正確には書いてないとは言え、
信長公記から読み取れる 兵糧が無くなら無いように人数調整した兵力でありながら、
甲斐は極度の兵糧不足で織田軍が逃げるように甲斐から急いで逃亡するも、
信濃諏訪湖辺りでついに織田軍が凍死続出になってることだな。
5月上旬ともなれば青森県の津軽弘前城でも桜祭りの時期だしな。
極度栄養不良と極度の天候不順が感じ取れる。 浅間山噴火の酷い惨状が読み取れるんだよな。

公記は天罰・朝廷は神威・教会はデウスの力 奈良興福寺は甲斐信濃滅亡の怪異・大風霰飛火逆雨
恐ろしいまでの天変地異が甲斐を襲ったんだろうね。
火焔が飛び散ってきたからこそ一の宮が流されたのかもな・・・・
そりゃあ勝頼も真田領から同盟国上杉へ逃げるのを断念して、
敵である北条を頼って小山田領へ行かざるを得ないよな。

フロイス日本史に浅間山噴火を、
デウスが起こした信長の反省を促すための驚くべき兆候と恐るべき不思議なことと書いてある。
この噴火による徴候による恐怖から、
哀れな信長がデウスを天地の絶対主として認めることができるようにするために起こしたが、
増長していた信長が陥っている闇があまりにも根深く、
これ程の光も彼に悟りの目を開かせることが出来ずに破滅したと書いてる。

浅間山噴火はデウスの実力を示すと思わせるレベルの破壊力と強い光だったのがわかる。


多聞院の浅間山噴火が甲斐信濃敗北の怪異という話を列挙し、 武田勢の士気に大きな影響を与えたことは想像に難くないと評している。
信長の敵国の神を流したって甲斐市一ノ宮を指し、山梨県笛吹市に溶岩が飛び散り宮が流されたって解釈しか出来ないね
塩山向獄禅庵小年代記 天正10年3月
開山徳和之観音堂へ各僧衆御伴申三日三夜奉移と書かれている。
徳和之観音堂とは三富村(旧山梨県東山梨郡)の観音堂で三日三晩の御祈祷をして下山したそうだ。
これは重大な意味を持つ。この村の位置はまさに甲斐・信濃・上野との県境にある。
そして浅間山からも近い。なぜこのタイミングでここに各々の僧が衆を伴って
3日間の山篭りをして祈祷しているのか(山梨県笛吹市の北に位置する事実)
察するに2月中は噴火の影響で近づくことができず、噴火被害者を弔うことができなかったが、
ようやく混乱が落ち着いてきた3月になり、浅間山を望むことができる山上へ登った
各地から僧に伴われた遺族達が被害者を観音様に見立てて鎮魂し、浅間山の荒ぶる神を沈める祈祷をしているのだ。


大日本地震史料 増訂を読めば
文部省と大森氏・今村氏・石本氏・田山氏・武者氏おいう錚々たるメンバーが
天正10年浅間山噴火を支持してるのは確定的じゃねぇかw

江戸時代以前で噴火の記述で一次史料ソースがあるのは
1108年の上野国壊滅報告もあった公家による記述である中右記
そして同じく公家と宣教師の記述がある武田滅亡の噴火
そして江戸幕府の記録にある1783天明浅間山噴火(この時は京からは視認されてないので小規模噴火だろう)
この3つしかないから。
743人間七七四年:2014/11/10(月) 20:50:06.20 ID:Z1k6pT/p
浅間山超噴火が無ければ、
勝頼が佐竹や里見と北条を滅亡させてたよなあ。
天正9年終了時点で沼津に拠点作るまで侵攻していたから、
天正10年には佐竹や里見と呼応して沼津を策源地として兵站を整備し小田原乱入してただろうしな。
744人間七七四年:2014/11/10(月) 21:30:09.36 ID:u5w1kmJk
だからその浅間山大噴火の被害状況をまとめた報告書ぷりーず
武田のでなくても織田でも徳川でも北条でもいいから
745人間七七四年:2014/11/10(月) 21:50:47.00 ID:dIpPYPUS
菅沼君の妄想が次々と暴かれていくスレ
746人間七七四年:2014/11/12(水) 05:58:41.65 ID:H1dNQEYS
信長公記信じなかったら一体何を信用すればいいんですか?
ナンダカンダ言って信長公記が一番信用できる。
747人間七七四年:2014/11/12(水) 10:28:01.32 ID:jubXjMfP
菅沼史観をシンジナサーイ
748人間七七四年:2014/11/12(水) 15:49:48.90 ID:oFsNsQJB
菅沼史観は矛盾が多すぎて信奉するにも難易度高いからな。
749人間七七四年:2014/11/15(土) 14:50:50.85 ID:/7edcSAX
天文16年(1547年)に義輝が尾張斯波氏滅亡を考慮し、
京洛の旧斯波邸を自らの邸として接収した。
事実上、斯波氏はこの時をもって公式に廃絶し滅亡している。

ちなみに一次史料上では清洲城で傀儡になっていた尾張守護斯波義統が
天文13年に稲葉山城攻撃中の信秀の援護射撃で禁制を出したのを最後に
消え去り尾張国における斯波氏の活動は消え去りいち早く信秀により滅亡させられたと考えられている。

清洲城主尾張下郡守護代織田大和守信友は架空人物。
岩倉城主尾張上郡守護代織田伊勢守信安や子の信賢も江戸期の軍記の架空人物。
750人間七七四年:2014/11/15(土) 20:38:10.39 ID:VuUMwqrv
山本勘助も江戸期の軍記の架空人物。
751人間七七四年:2014/11/17(月) 05:01:34.95 ID:uNgyDv27
>>749
お前頭大丈夫か?w
752人間七七四年:2014/11/17(月) 08:30:42.33 ID:f3VNSqYV
>>751
存在が確認できる一次史料を出してみろよwww
753人間七七四年:2014/11/17(月) 12:24:33.78 ID:uNgyDv27
>>752
信長公記があるじゃねえか。
お前馬鹿じゃねえのwwww
754人間七七四年:2014/11/17(月) 12:38:04.41 ID:Tbsr8eIY
菅沼遼太史観をシンジナサーイ
755人間七七四年:2014/11/17(月) 21:02:56.49 ID:f3VNSqYV
軍記講談の信長公記は
覚書や口述記録などの二次資料よりも下だから。
756人間七七四年:2014/11/18(火) 01:50:47.65 ID:JLm9a0cx
>>755
じゃあお前は信長関連史料の何が一次史料だと思ってるの?
その一次史料の名前出してみて。
757人間七七四年:2014/11/18(火) 08:28:39.19 ID:fkoC5eyC
原本確認された書状に決まってんだろアホ
758人間七七四年:2014/11/18(火) 10:43:43.19 ID:mC1g+/Jn
原文読めないのに・・・w
原本・・・w
759人間七七四年:2014/11/18(火) 11:02:08.95 ID:IdZggXDt
>>757
一次史料の名前出せない馬鹿w
760人間七七四年:2014/11/18(火) 13:12:32.69 ID:mC1g+/Jn
>>543
52 名前: 人間七七四年 [sage] 投稿日: 2012/02/14(火) 23:18:24.67 ID:unUmC4Bz
だがの文書理解能力
()内がだがの解釈

年々三分?(二)相納申候、其残者致未進候、...
(たった三分しか税をとらなかったのか、 三分収めたら残りは納めることはない。 )
百性等...人馬借申候得共、致難渋候条、...
(???)
...彼屋敷御棟別ニ到退屈、逐電申候、同者棟別銭半分も御赦免候ハヽ、家をも造申、所も可到繁盛候、...
(棟別銭を半分にしてやったから 新築して繁盛しまくりって書いてあるから )

現在の漢字の意味だけで文章構築してるみたいだなw

はい参考資料ですよーw
761人間七七四年:2014/11/18(火) 13:29:15.78 ID:HeOj7I/i
有名武将だから「1流の資料」ただこれだけ。
あほみたいな、捏造嘘の塊。
762人間七七四年:2014/11/18(火) 20:01:37.95 ID:7EJPbrs3
>>760
全文転記してください
763人間七七四年:2014/11/18(火) 22:54:43.18 ID:mC1g+/Jn
転記したところで読めない人には無価値なので必要ありません^_^
764人間七七四年:2014/11/20(木) 00:13:14.04 ID:xmWlYdEN
毎回、全文転記から逃げ回る織田在日www
765人間七七四年:2014/11/20(木) 08:53:09.56 ID:a3YZ+Na2
んな悪魔の証明の亜種みたいな詭弁使われてもなw
気になるなら自分で調べてこいよw
766人間七七四年:2014/11/20(木) 09:09:25.86 ID:xmWlYdEN
どこが悪魔の証明なんだよwww
ただ単に全文を転記する作業だけじゃねぇかよwww
文意解釈に重要な部分が「…」になってて
意味が良くわからねぇように加工してあるじゃねぇかよ。
それで解釈が間違ってるとか主張しててバカじゃねーのwww
さすが在日織田朝鮮人www
767人間七七四年:2014/11/20(木) 10:19:45.83 ID:iOkKbXWG
織田厨がアホ無知なのは公然の事実
そもそも信長の優れている点すら根拠つきに書いてきた試しがない。
捏造印象操作でしか信長を褒めれないのが織田厨
768人間七七四年:2014/11/20(木) 13:12:55.45 ID:MSaaYm3F
意訳できなくて恥かいたこと相当根に持ってるな
769人間七七四年:2014/11/20(木) 17:04:13.24 ID:tS1pg5Ij
【根切り】信長と一向一揆【虐殺】
57 :人間七七四年[]:2013/12/25(水) 09:22:36.17 ID:rsfdII22
実は顕如をぶっ殺そうとしていたら本能寺の変で信長アボンしてるしなw
信長は本願寺との和睦は計略であり、
殺したかったが時を得ず堪忍してきただけで、
いまやっと思いのままらに滅ぼせる時節だと喜んで、
丹羽に本願寺の家の断絶を命令してる。
6/2早朝に堺を出陣し 鷲の森 へ向かい、
夜には包囲完了し、
本願寺も急いで防備を固めようとしたが急すぎて200人しか集まらず、
3日早朝には顕如も教如も死を覚悟した。
しかし信長と信忠が死んだことを知った丹羽は撤退して信孝と合流するも、
信孝を見限る兵が続出し、80騎しかいなくなり、
本願寺に治安維持に協力を願い出て土下座してんだよな。


http://hissi.org/read.php/sengoku/20131225/cnNmZElJMjI.html


正しくは「鷺」である
なおだがは


59 :人間七七四年:2014/01/03(金) 17:06:23.27 ID:R3gBKNWI
その字、携帯だとないだろ。
あと稙とかも出てこないから困るよな。



と言い訳する(実際には両方とも出る)

http://www26.atwiki.jp/dagamatome/pages/15.html



菅沼遼太は「鷺」と「鷲」の区別もつかないからなあ
770人間七七四年:2014/11/20(木) 20:24:40.05 ID:a3YZ+Na2
766
具体的にどこがどう判読不能か説明してから言えよw
771人間七七四年:2014/11/21(金) 08:32:47.37 ID:Z5h0Wz/4
しょーじき戦国史研究を志す人は、
信長公記を読んじゃいけないわ。
信長を美化しまくった よくできた洗脳書だからね。
772人間七七四年:2014/11/21(金) 23:09:50.06 ID:aQKCPjcF
少なくとも都合のいい部分だけを抜き出して前後の文脈がクルクルパーなお前の妄言よりは億倍信用できるよ
773人間七七四年:2014/11/22(土) 07:24:21.80 ID:Z7S/Uo98
菅沼遼太史観は矛盾の塊だからな
774人間七七四年:2014/11/22(土) 11:07:45.95 ID:LYa5X7eu
>前後の文脈がクルクルパー
言い得て妙だなw
775人間七七四年:2014/12/01(月) 10:00:01.35 ID:NXC9ECCL
>>553
和睦過程がネットには書いてないから無知を晒して、
そー言うバカな妄想をするんだよ。
朝倉や浅井を援助し
かばう比叡山が強硬で、
信長がいくら和睦を申し出ようが拒絶。
紙に出せる約束なら比叡山に、
何でも出しまくったのが信長。
それでもムリで、ついに天皇を利用し、
関白も和睦が成立しなければ、
責任取って高野山に出家すると言われて、
やむなく比叡山が和睦に応じた。
信玄が上洛戦をした時に、
大義名分として、この時に天皇の和睦をしながら、
違約して比叡山を燃やして殺戮したことを挙げて怒ってる。
またこの大義名分の書状は義昭取次ぎ宛に送られたが、
天皇が取り寄せて筆写するほどの感動を与えた。
だから、大久保が書いている内容が極めて事実に近いと言われていて、
どう考えても朝廷の和睦まで隠蔽して、
信長優勢で和睦してやったみたいな記述をしてる
信長公記が全く信用できないのは、
専門書を読めば常識レベル。
776人間七七四年:2014/12/01(月) 14:45:33.91 ID:2ofefyH4
>>769
三国志で「晋」を「普」と書いちゃうくらいのダサさだな
777人間七七四年:2014/12/01(月) 17:28:01.63 ID:xTHpFXtD
キチガイだけだろ
たかが便所の落書きサイト如きの書き込みに
そんな細かい所まで突っ込み入れる奴は
778人間七七四年:2014/12/01(月) 22:36:13.07 ID:FDi6tI8F
同音語ならまだしも鷺と鷲はどうやったら間違えるのかってレベルだな
779人間七七四年:2014/12/02(火) 02:35:35.28 ID:zGQvQJtM
>>777
誤字でここまで騒ぐのがアスぺの特徴でもあるわけで
こんなキチガイが常駐してるからこの板が過疎る最大の理由
780人間七七四年:2014/12/02(火) 20:47:33.20 ID:y2fITIbK
完全論破されてるから
もはや揚げ足取りして
勝利した気持ちになる矮小な
存在にまで堕ちた織田朝鮮人
781人間七七四年:2014/12/02(火) 21:41:00.04 ID:LZZcnLtS
>>780
俺、武田厨だけどお前の事嫌いだよ
レッテル貼られる行為をしてるのはお前だろ
コピペ荒らしは最低な行為だぞ

720 :人間七七四年:2014/12/02(火) 20:44:36.56 ID:y2fITIbK
織田在日がなんどとなく懲りずに
同じことを蒸し返しては毎回論破され
ついには完璧な論破テンプレが完成してしまい
涙目でレッテル中傷しかやれない哀れさ。
782人間七七四年:2014/12/02(火) 21:49:26.85 ID:LZZcnLtS
>便所の落書きサイト如きの書き込み
こんな程度の気概しかないのなら、武田厨騙るのやめろよ
こんな程度の認識しかないのなら、武田スレに書き込むのやめろよ
こんな程度の気もちしかないのなら、戦国板住人に話かけるなよ

で て い け!
783人間七七四年:2014/12/02(火) 23:35:18.37 ID:doz7fGZe
実際武田厨(菅沼遼太除く)が一番可哀想だよな
784人間七七四年:2014/12/03(水) 09:34:30.87 ID:ezHLUEqW
悪口中傷ばっかり書き込んで
自分の品性下劣さを皆さんに紹介してばかりの毎日より、
織田厨にははやく信長のすごいところを一次史料の根拠付きで
説明してもらいたいのだが。
なんで何年もその回答から逃げ続けては、
レッテル貼りと悪口中傷で返答してくるの?
ずっとその点が疑問なんだけど。
なぜなの?
やっぱり日本人じゃないから長文はうまく読めないの?
785人間七七四年:2014/12/03(水) 13:20:45.28 ID:DNAhEUIy
自己紹介
786人間七七四年:2014/12/03(水) 15:22:36.15 ID:oQAHwuEJ
>>784
織田厨っていうの?よく知らんのだが
レス見てると世間知らずの糞ガキって感じがする
実際は無職のおっさんかおばさんなんだけどな
787人間七七四年:2014/12/04(木) 23:08:17.36 ID:GEHFfLeZ
自作自演で自己紹介。
788人間七七四年:2014/12/04(木) 23:45:40.25 ID:CIQcxxOc
織田厨の自作自演には辟易
789人間七七四年:2014/12/05(金) 10:51:43.72 ID:iLA4nEtM
高遠での戦果
信長公記 大将格の頸だけで400余

多聞院日記3/2に織田軍が甲州之衆と戦いで100討ち取ったと述べてる高遠城での一点だけwwwwwwww
790人間七七四年:2014/12/05(金) 12:47:18.97 ID:I5XJuHEt
信長が基地外で織田軍がザルであろうと本能寺までは最大版図を築いた事実に変わりはない。
ちんたら内政やってる暇はないぐらい連戦してるからな。
791人間七七四年:2014/12/05(金) 20:45:51.35 ID:6ksxW72D
畿内平定にすら失敗した信長www
しかし秀吉が一瞬で畿内平定に成功する始末www
792人間七七四年:2014/12/05(金) 20:46:45.91 ID:z/9uJGkn
菅沼遼太はまだその設定を続けるのか
793人間七七四年:2014/12/05(金) 23:56:46.82 ID:xTtf8Lu0
菅沼君1人でキチガイ2役演じるとか迷惑すぎだろ
794人間七七四年:2014/12/07(日) 23:12:59.20 ID:1W9XbKky
>>1
コピペ荒らし、もうやめてください。
795人間七七四年:2014/12/09(火) 13:04:48.92 ID:QNYhHHag
耳川の戦いの大友義統 20歳
本能寺の戦いの織田信長 49歳
摺上原の戦いの芦名義広 14歳
関が原の戦いの毛利輝元 47歳

こいつら家を傾けた4大無能当主だと思うが
養子として入って間もない義広はまだ14歳だったから
家中をまとめられなかったと非難するのは可哀想だ。
796人間七七四年:2014/12/09(火) 13:33:33.64 ID:z/O04SoF
家臣に攻め殺されただけでなく
別な家臣たちに家を乗っ取られた信長が群を抜いてバカだな。
興福寺も信長死んでまだ間もないのにって葬儀すらやらずに
信長遺領の家臣同士の奪い合いかよって呆れてるし。
797人間七七四年:2014/12/11(木) 21:03:21.24 ID:54FcCQlU
信長と輝元は老害だったからねぇ
798人間七七四年:2014/12/11(木) 22:09:13.06 ID:aRF001yf
実子に家を乗っ取られた武田信玄に比べれば数億倍マシな大名ばかりだなwww
敵対した武将の姪を側室に入れるとはさぞ絶倫だったのだろう
799人間七七四年:2014/12/11(木) 22:39:10.16 ID:9FNhVg7O
>敵対した武将の

信忠&信房「わしらは嫁の実家を滅ぼしましたがなにか?」
800人間七七四年:2014/12/11(木) 22:47:27.16 ID:aRF001yf
信忠って許嫁にされていただけで嫁にはしてないだろ
801人間七七四年:2014/12/11(木) 23:29:00.06 ID:iVaAwx1H
輝元は頑張った方だと思う。
関ヶ原の時は北九州、四国、大津に大攻勢を仕掛け、
天下を伺う気概は十分だった。
敗れても雄藩として毛利家をなんとか残した。
意外に人望もあったんじゃないだろうか。

その人生のただ一点の失敗は、満を持して関ヶ原に送り出した毛利秀元に対して
付けた家臣の人選だけだろう。
802人間七七四年:2014/12/18(木) 19:01:56.27 ID:sFBetKHi
坪井氏が成立時期を慶長年間と特定した松平記によれば
佐久間信盛が改易された理由は、
「天王寺に数月対陣し一度も勝利がなかった」からだそうだ。
別に家康マンセーや自家のマンセーとも関わりのない佐久間ネタで
話を盛ったり、創作する必要性もまったくないので
これは事実であろう。
公記はこれを捏造してあたかも
5年在城=石山本願寺包囲網を統括する城に
5年いて前線指揮していたが
結果が出せずに改易になったと誤読するような書き方をしている。
803人間七七四年:2014/12/19(金) 08:53:29.26 ID:PqM5NYsV
そりゃそうだろうね。
佐久間は河内や紀伊や大和に転戦していて、石山本願寺に釘付けにされてねーからな。
公記はワザと佐久間の動きを抹消してでっち上げてる。
没落した佐久間が、池田のように太田にワイロを払えなかったから悪く書かれたんだろうね。
804人間七七四年:2014/12/20(土) 15:32:28.94 ID:84X/2ehf
>>802
決して明かされることがなかった(推測の域を出ないと言い換えてもいい)真実ではなく、実際になされた事実を記述したことが捏造に当たるのか?

> 結果が出せずに改易になったと誤読するような書き方をしている。

単に結果が出せなかっただけでなく、結果を出すべき努力すらしなかったことが原因(単に信長の口実に過ぎないかもしれないけどな)と書かれてる。


>>803
> 佐久間は河内や紀伊や大和に転戦していて、石山本願寺に釘付けにされてねーからな。

あっちこっち転戦させられてることは公記にもちゃんと記述がある。

>>802,803や捏造の典型例。
805人間七七四年:2014/12/20(土) 18:08:34.88 ID:VyXidRCM
>>802
徳川家康が関与した水野信元殺害に関し、松平記は佐久間信盛が不利な書き方をしている。
この3人は何か確執があるんじゃないだろうか?

>『松平記』が記す信元殺害の原因は、秋山信友が攻略した美濃国岩村城を天正3年(1575年)に
>信長が囲城した際、水野領から食料の調達に応じる者があり、これを聞いた佐久間信盛が信長に
>対して、信元の内通を訴えたというものである(巻6)。
806人間七七四年:2014/12/20(土) 23:53:14.44 ID:9RifuGlv
ならば佐久間を酷く言うために信長公記の記述と同じように書くはずだろ。
佐久間を擁護する理由はますます無いじゃないか。
807人間七七四年:2014/12/21(日) 21:55:46.18 ID:FRVNwzEd
たしかにそりゃそうだ。
808人間七七四年:2014/12/22(月) 02:41:48.80 ID:F0ST1Lza
比叡山焼き討ちは嘘
809人間七七四年:2014/12/22(月) 08:17:28.48 ID:AMS5sIKd
焼き討ちの規模については議論が分かれるがウソじゃないし。
織田チョンは恣意的なデタラメばっか書いて信長マンセーしてばかりでアホすぎ。
810人間七七四年:2015/01/24(土) 20:50:55.80 ID:aKQhSW1K
織田信長生誕の地 勝幡城推定復元模型
http://mirai660.net/castle/shobatajyoh_model.html
811人間七七四年:2015/02/12(木) 12:12:24.43 ID:udJ8KTCO
元亀3年7/1付発給文書で信長が松永久秀に
7/7の日付を絶対に厳守して老若の年齢も選ばず
ぜんぶ連れて小谷城へ急いで打ちたって来い。
これ回文だからお前の責任で江南国衆にも厳守させろや。
浅井朝倉に打ちかかるつもりだからな!

この後、久秀は激怒して信長から離反。この事実を信長公記は隠蔽捏造。


元亀3年6/27付けで信長は沖島惣衆へ宛て、
俺が北郡へ出張するから、それにつきお前らは早舟で先に敵地の浦々を襲撃してこい。
早舟3隻をお前らに馳走してやんよ。だからそれでお前自身が必ずやってこい。
林興二左衛門や堅田衆と談合して手立てに及ぶんだぞ。
この時においてこれに精を入れてまじめにやるのが忠節というものだ。

この後、堅田衆も離反するのであったが、これも信長公記は隠蔽捏造。

スーパーブラック企業織田。
812人間七七四年:2015/02/12(木) 12:17:27.11 ID:udJ8KTCO
ちなみに松永久秀には老若の年齢選ばずに連れてくる者たちへ
砦を築くから、その道具もぜんぶ用意して持って来いとも言っている。
無論、褒美はなく、兵糧も自分たちで用意して一週間も期間がないうちに
小谷まで行かないと殺される以上離反するわな。
813人間七七四年:2015/02/12(木) 12:45:55.51 ID:udJ8KTCO
>>808
日吉兵乱記という日吉大宮の9/12付け書状には数千の尾張兵だけがやってきて
大勢の人たちからすべてのモノを剥ぎ取って全裸にするという徹底的な略奪をしたうえで
八王子社殿に放火し八王子山は1000の死者で溢れかえる。
しかし六角氏の国人の長原越前守が尾張兵の大殺戮の中で多くの人を救い、大宮賓殿の消失を阻止したと書かれている。
残念だが日吉神社ですらこのひどい惨状なのに比叡山延暦寺が無傷ということはありえない。
信長擁護に必死なやつらの擁護は史料を無視して願望を書いてるだけだわ。
814人間七七四年:2015/02/12(木) 13:44:47.73 ID:+s6+/MLk
774 :人間七七四年:2015/01/31(土) 00:10:52.80 ID:vzp8E9sG 
『言継卿記』  永禄十二年七月廿七日
晩頭佐藤錫携来、一盞受用了、故一色義龍後家壷可為所持、
可被出之由信長連連被申、一乱之刻被失云々、尚於責乞者可自害云々、
然者信長本妻兄弟女子十六人可為自害、國衆大なる衆十七人、
女子之男以上卅余人可切腹由也、仍中分失弗に治定、今日無事に成了、
佐藤も十七人之内也

>52 :人間七七四年:2015/01/29(木) 10:24:33.13 ID:1V4nkxBH
>一方、信長が敵将方の妻に対してやる行為は、悪質な精神的イジメで自殺に追い詰める精神の凌辱による精神死の強要であった。

> 稲葉山を信長が奪ったあとの話だが、
> 戦乱で失われた壺を義龍妻に出せと繰り返し執拗にいびる信長に
>妻が泣いてもう自害するより仕方ないと決意させたが、
> 旧美濃国主の正妻が鬱になって自害しようとする姿ほどに度を余りに越し過ぎて
>辱められる恥辱に面目丸潰れの濃姫やその親類、一族、美濃有力国人たち17人が騙されたと憤慨結束し
>失業していた佐藤紀伊守も参加しみんなで国内外に知れ渡るよう
> これ見よがしに自害大会するといって信長に抵抗した話が言継日記に佐藤からの話として出ている。
> 濃姫兄弟16人が自害すると喚くそばから、大身国衆17人が続き、
>さらに女子衆が30余人が腹を斬って自殺しようとする者続出の鬼気迫る修羅場となり、
>これ以降、濃姫の存在は一切消え去る…((((;゚Д゚)))))))



原文まだー?
815人間七七四年:2015/02/12(木) 17:11:16.97 ID:KwkuWF5o
また菅沼くんの妄想が炸裂したんか…
816人間七七四年:2015/02/13(金) 11:01:58.30 ID:bjjYkvtc
昨夜の細川家古文書スペシャルで、すでに信長公記の怪しい部分が。

これって触れちゃいけないのだろうか。

細川家文書まだ大量に未解明だが。凄すぎた。
817人間七七四年
梅?