戦国ちょっといい話31

このエントリーをはてなブックマークに追加
1人間七七四年
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話30
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1323607575/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話30
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1328357412/

鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
2人間七七四年:2012/02/16(木) 04:55:33.88 ID:UaABCfw3
余裕の2get
見ろよ>>3の「2getしてやったり」な意気揚々とした書き込みをwww

今度からコイツのことクソムシって呼ぼうぜw
3人間七七四年:2012/02/16(木) 13:55:42.16 ID:hySrv3IV
2get
4人間七七四年:2012/02/16(木) 14:40:17.45 ID:34hWHmhU
∧_∧
( ´・ω・) >>1-3のみなさん、お茶が入りましたよ・・・・。
( つ旦O
と直)家) 旦旦旦
5人間七七四年:2012/02/16(木) 16:58:06.42 ID:UaABCfw3
>>3
よおクソムシ
6人間七七四年:2012/02/16(木) 17:34:45.91 ID:7qrMA57y
>>3からのへんじがない。ただのしかばねのようだ。

あいつら皆,>>4の茶を飲んじゃったんだ。
7人間七七四年:2012/02/16(木) 17:38:04.39 ID:oa0PlSAP
そんな創作童話「なおいえさんちのお茶会」のお話
8人間七七四年:2012/02/16(木) 17:56:52.51 ID:l8SK9sco
俺の立派な>>1モツ
9人間七七四年:2012/02/16(木) 19:22:39.62 ID:vl3UNHlp
つーか、>>3のやさしさに全米は泣くべき
10人間七七四年:2012/02/16(木) 19:28:39.98 ID:aOl8csu4
2getしてやったり
11人間七七四年:2012/02/16(木) 19:30:42.78 ID:+yQW+GXQ
>>3
きっと前世は蘭丸
12人間七七四年:2012/02/16(木) 20:58:28.94 ID:4Eavo7jV
3の兄です
13人間七七四年:2012/02/16(木) 21:17:11.15 ID:sb1lxLvI
>>1おつ!
2月の酒は、雪で冷やした黒ビール〜
14匿名武将茶人さん:2012/02/16(木) 21:21:06.32 ID:Rpcs31Sd
>>13
隠し味を入れておきました。
ささ、どうぞ
15人間七七四年:2012/02/17(金) 01:32:46.83 ID:bChzbeQM
>>12
|||||||||||||||||||||||||||||   ..┳  :||||||||||||||||||||||||||||||
||||||||||||||||||       ┠ +20   :||||||||||||||||||||
||||||||||||||         ┃           |||||||||||||||
||||||||||           ┠ +10       |||||||||||
||||||||          ハ,,ハ            |||||||
|||||||:┣┿┿┿┿  ( ゚ω゚) ┿┿┿┿┫  :||||
||||||||:        /    \         ||||||
||||||||||,,     ⊂  ) ┠ -10つ         |||||||||
||||||||||||||       (_┃⌒ヽ      |||||||||||||||
||||||||||||||||||:       ┠ -20}   ||||||||||||||||||||||
|||||||||||||||||||||||||||||  ノ┻   :||||||||||||||||||||||||||||
          お断りします
16人間七七四年:2012/02/18(土) 01:57:21.99 ID:iQspbUuc
ある時、伏見城の台所で使用人による盗みが多発していた。この事に徳川家康は

「けしからん!」

とたいへん腹を立てていた。これを見た本多正信は

「それはめでたいことです。殿が天下一の大名となり、方々から貢物が届くようになったので、それを盗む者も出たのです。」

と、この様に宥めたという。また、江戸幕府が成立した頃、家康が江戸に滞在する大名達の風紀を取り締まろうとした際にも、考え直す様に進言した。
正信曰く、

「江戸での生活が面白くないものになってしまうと大名を参勤させるのが難しくなり、大乱の元となります。また、
 一代で何もかもお決めになられては後の将軍のやる事がなくなり、その威光が増しません。」

というもので、これを聞いた家康から、

「お前の考えは実に臆病で面白い。」

と笑って了承されたという。 「藩翰譜」



 
17人間七七四年:2012/02/18(土) 08:50:28.30 ID:ONldPFYy
「お前の考えは実に臆病で面白い。」

って褒められた時の複雑な気持ち知りたい
家康も文学的な表現するんだな
18人間七七四年:2012/02/18(土) 14:21:54.32 ID:r2q59HFS
いくらなんでも屁理屈でしょこれ・・
19人間七七四年:2012/02/18(土) 20:42:02.16 ID:6LjI2jpu
信長の葬儀の後、秀吉が信孝の臣斉藤玄蕃允と岡本太郎左衛門に送った手紙の一部


上様重々御褒美御感状、其上但州金山御茶湯道具以下迄取揃被下、
御茶湯雖御政道、我等は被免置、茶湯を可仕と被仰出候事、今生後生難忘存候。
たれやの御人かゆるしものにさせらるへきと存出候へは、昼夜泪をうかめ、御一類之御事迄あたにも不存候事。

信長さまからたびたび褒美や感状をいただき、その上但馬国の金山、お茶の湯道具まで取りそろえてくださった
茶の湯は御政道であるが、我に許可され茶の湯をしていいと仰せられたことは、今生来世まで忘れることはできない
他の人に許されることがあろうかと思うと、昼も夜も涙が浮かび、織田家御一族の事はあだおろそかに思えない


有名な御茶湯御政道という言葉の基になった手紙。全24条あってこれはほんの一部です。
20人間七七四年:2012/02/18(土) 20:51:53.33 ID:7RA/hbEn
主の草履を盗もうとして見つかってしまい美談になった武将がいる。
21人間七七四年:2012/02/19(日) 00:11:19.85 ID:2pVPU0wl
>>19
茶湯の影響力凄いな
へうげもの見て笑っている場合じゃねえ
22人間七七四年:2012/02/19(日) 00:45:20.62 ID:QeuIfr62
関東管領なんか要りませんよ
23人間七七四年:2012/02/19(日) 00:49:04.60 ID:ybTdmQCd
関東管領として差し向けたってことは、関東公方は認めていたってことか?
24人間七七四年:2012/02/19(日) 01:25:42.65 ID:SBCCaWiT
>>23
いや滝川の関東管領云々は信長が任命したなんてわけでなくて
他人がその役割を指して「のようなもの」と説明の為に言っているだけ
25人間七七四年:2012/02/19(日) 02:55:08.13 ID:ek/EaL0+
幕府がなくなってるからその役職の関東管領も無い時代
上杉氏すら名乗っていない
26人間七七四年:2012/02/19(日) 04:54:35.77 ID:RQPh2vj2
むしろ関東においては関東管領どころか古河公方を北条が事実上吸収し、北条家当主が古河公方の権威と機能を執行
していたらしい。
27人間七七四年:2012/02/19(日) 07:46:26.49 ID:RvpQQ9CE
里見も後北条と別個に古河公方の子孫を担いでたからな。

滝川が上野に入った時、関東の諸豪族の出仕を求めたが
後北条の傀儡足利義氏だけは無視されて「一体どーすりゃいいの?」と戸惑う書状残ってるんだよねw
「おめーの席ねーから!」
28人間七七四年:2012/02/19(日) 09:34:07.31 ID:ybTdmQCd
それが織田が高転びして、滝川が燃え尽きて消えて
北条がボコられたあとに弱小大名として何とか残って、
上手く残ったはずの里見が何だかなな理由でブッ潰されて、
扱いに困りましたからこうしましたな感じで
ショボくはされたけど別格扱いで
古河公方が一番本拠に近い辺りで残れたというのも面白い
29人間七七四年:2012/02/19(日) 10:13:46.47 ID:q+L1gSPw
古河公方というより関東公方として元の鞘に収まったような感じ
30人間七七四年:2012/02/20(月) 17:19:56.53 ID:nLmDcz47
天正13年(1585)、越前の丹羽長重は家臣が佐々成政と内通したとの疑いにより、羽柴秀吉によって
改易された。丹羽家の家臣団は解体し皆流浪の身となったが、秀吉は、自分への謀反に関わっていない
忠孝の士は召し出すと伝え、中でも長束正家に対しては、別して自分に仕えるように要請した。

しかし長束正家はこれを固辞し、丹羽長重が転封された若狭に供奉し続けた。
この正家の態度に秀吉は激怒し、丹羽長重がこれをさせていると判断した。そして長重の元に

『お前は長束正家の事に関して、上意に背くつもりか!?』

と疑念を伝えた。これに驚いた丹羽長重は正家を説得し、秀吉のもとに上京させた。
秀吉は正家を召し出すと、以ての外の形相で叱りつける。しかし正家は少しも恐れず、こう、申し上げた

「仮に秀吉公に召しだされたのが、故越前守(丹羽長秀)の御在世の頃であったなら、わたしも有難き仰せであると、
すぐにこれをお受けいたしたでしょう。ですが今、我が主君長重は至って若輩であり、特にこの度、亡主長秀の
封国を召し上げられ、長秀の旧功ももはや効力を持ちません。

このような状況で年若の主を見捨てて、秀吉公の碌を拝領するなど出来る訳がありません!

この度長重が受けたお疑いに関しては、私が今説明したように、長重には全く身に覚えのないものであります。
もしこれで主人長重への疑いが解けないというのなら、私はたとえ、命を奪うとと言われても秀吉公の
御要請を受ける事はできません!」

これを聞くと秀吉はしばらく黙り込んだ。そして表情を和らげ

「お前の言ったこと、全て受け入れよう。長重に罪はない。ただし逃げ去った逆臣共を召し捕らえるまでは、
その旧領は預かり置く。
誓って長重に対して疎意は無い!」

そう懇切に語りかけた。この天下人の言葉に正家は平伏し、ここで秀吉に奉公することとなった。


長束正家が秀吉家臣になった過程である。

(丹羽歴代年譜付録・家臣伝)
31人間七七四年:2012/02/20(月) 17:23:12.36 ID:vI3rFB5f
全盛期の秀吉だな
32人間七七四年:2012/02/20(月) 17:25:52.76 ID:blQA/Yqh
預かったまま返さない所がラスボスだな。
33人間七七四年:2012/02/20(月) 18:28:35.55 ID:UWar5jKR
丹羽家の石高長秀亡くなったあたりの時代はたしか百万石超えてたよな
長重が相当な器量じゃないと秀吉じゃなくて家康だとしても召し上げだろうよ
34人間七七四年:2012/02/20(月) 20:41:14.76 ID:LpPsIjhQ
前田家も利家が秀吉より先に死んでいれば半分以下になってだろうね
かつ関ヶ原まで生きていれば取り潰されたかも
上手い時期に死んだよなあ
35人間七七四年:2012/02/20(月) 20:57:53.49 ID:Lb8o9tNP
家を考えると秀吉より先に死ぬわけにはいかん!と必死に養生してたんじゃないかと思ってしまうw
36人間七七四年:2012/02/20(月) 21:02:35.87 ID:bkyxPwdY
利家さんって、ラスボスの悪行に対してストッパーになったことあるのかしら?
37人間七七四年:2012/02/20(月) 21:32:03.20 ID:G8DkWrOh
長重が1571年生まれで長秀が死んだのは1585年
その時点での長重が相当な器量を見せてたらむしろ警戒されるよな

病床の親父の代わりに出陣したりしてるだけでも立派なもんなのに
38人間七七四年:2012/02/20(月) 22:14:00.81 ID:LX5lPerm
丹羽家が駄目だったのは、長秀に優秀な親戚が居なかったから。
堀家の堀直政や龍造寺の鍋島のように。
同じように蒲生ちゃん家もかわいそう。
39人間七七四年:2012/02/20(月) 22:45:14.72 ID:6vZ1ILT0
でも何とか大名に返り咲いてんだよな
40人間七七四年:2012/02/20(月) 23:02:25.26 ID:IQuINJMQ
>>39
長重は徳川秀忠と「深い仲」だったとかなんとか…
41人間七七四年:2012/02/20(月) 23:18:19.83 ID:G8DkWrOh
長重の母親は織田信広の娘、妻は信長の娘だからな
縁戚に頼るどころか逆に丹羽家が守らなきゃいけなくなってる
42人間七七四年:2012/02/20(月) 23:20:03.85 ID:v4XNkNyx
親も息子も人並みの器量ならば、
跡継ぎは20代後半に作って60歳過ぎで死ぬのが最もいい世代交代だな。
43人間七七四年:2012/02/21(火) 09:24:37.09 ID:KWQMo+UP
>>38
森家の場合は末弟に跡継がすなと長可が言い残したのに
感激されながら継ぐことになったんだっけ

かがみん超優秀
44人間七七四年:2012/02/21(火) 10:05:00.20 ID:1OKi15MZ
>>34
利家は、秀頼の傳役を確保した時点で安全圏だろ。

それまでは、量産型中納言の中でも下位だったのが
大納言に任命されてランク急上昇だしな。
45人間七七四年:2012/02/21(火) 10:08:21.94 ID:3F2J2OTb
柴田から自分にひよったりしているのに、前田頼っちゃうのな
46人間七七四年:2012/02/21(火) 10:18:34.59 ID:Vi4JJYHc
若い頃からの友達だったからというのもあったかもな
47人間七七四年:2012/02/21(火) 12:32:21.49 ID:WDpK0d5P
>>44
秀吉より先に死んでいた場合、傅役だからとか関係なくなるだろ
利家の子じゃ当てにならんし
48人間七七四年:2012/02/21(火) 15:24:43.89 ID:KPCabQ3p
今度は長束正家の丹羽時代

長束藤兵衛藤原正家は近江の産。彼は英才俊逸にて将帥の器量、勇謀は常の人のものではなく、
その上天下無双の算術の使い手であった。

かれは若年の頃から諸国を遊歴し、ある時、未だ小身であった丹羽長秀に、僅かの切米(サラリー)で
召し出された。この時正家は

「一人の食はこれで足ります」

と、長秀に仕えた。

以後、長秀の軍事を助けたが、その戦功、謀才は比類なく、まさに将帥の器量であり、
おいおい加増され、長秀が近江に転封になった頃には千石となった。
しかしそれとて、正家のそれまでの軍忠功労には全く足りない僅かなものであったが、正家は不満を
漏らすこともなく、むしろ諸臣を上回って戦功忠貞にいささかも怠ることがなかった。

天正に至ると、丹羽家世子鍋丸(長重)7歳にいたって、これに補佐の良臣を選ぶこととなった。
長秀は深慮により誰にも相談すること無く、突然正家に1万石を与え、棟梁の職の補佐として、
鍋丸に付くことを命じた。

この大抜擢に丹羽家の諸老臣はこの人事を喜ばないこと、甚だしいものだったという。
しかし正家は実直に長重を補佐した。

この、比較的軽輩であった正家を、俄に重職に付けたことは、後年太閤秀吉が、丹羽長秀の深慮の
素晴らしさであると、徳川家康に物語ったそうである。


(丹羽歴代年譜付録・家臣伝)
49人間七七四年:2012/02/21(火) 15:34:09.28 ID:0g2MJ6pw
最後に負けちゃったから算盤得意な官僚みたいな認識になっちゃったんかね
50人間七七四年:2012/02/21(火) 16:56:36.20 ID:JsKOu3DC
>>49
実際には、軍功は無かったような。
51人間七七四年:2012/02/22(水) 22:45:53.89 ID:T4qMyPMW
その後の守銭奴

上杉景勝の家臣・岡左内定俊は、主家の米沢転封後、その苦しい台所事情を思い上杉家を退転した。

武門名誉の家にあってなお勇名を馳せた左内は、たちまち諸大名から引く手あまたとなったが、左内自身は
「馴染みがあり申すゆえ」と、上杉家以前に仕えていた蒲生氏郷の子・秀行のもとに馳せ参じた。

秀行は、六十万石で会津に復帰すると、左内に知行一万石を与え、猪苗代城代の重職を任せた。
小大名並みの禄を手にするに至った左内だったが、相も変わらず憑かれたように金を貯めこみ、月に二、三度は
例の小判を敷き詰めた上に、素っ裸で寝転がる奇癖を繰り返す日々を送った。


秀行が亡くなり、忠郷の代になったころ、左内も床に伏せたきりになった。
『もはや、これまで』と思い定めた左内は忠郷とその弟・忠知に、「おかげを持ちまして蓄えることが出来申した。」
と書状を添え、忠郷には黄金三万両と正宗の太刀、忠知には三千両に景光の刀と貞宗の脇差を贈った。

残った金も、知人あてに五両・十両と包んで贈った左内の手元には、大きな鋏箱のみが残された。
「この箱は、いかがいたしましょう?」
「焼き捨てよ。上杉を去るに及んでも、やったことだ。世を去るに及んでも同じことよ。」

箱には、山のような借用証文が入っていた。

箱が炎の中に消え、最後の心残りが消えたのを見届けた左内は、静かに息を引き取った。
(増補武辺談他より)
52人間七七四年:2012/02/22(水) 22:51:57.54 ID:FkJRvtkB
>>51
いい話だが、子供とか孫はいなかったのか気になるわ
53人間七七四年:2012/02/22(水) 22:56:47.53 ID:2aJOXZC0
>>51
相変わらず岡左内はかっこ良いな
お金は大好きだけど、お金より価値がある物が何か、きちんと知っている所がかっこいい
54人間七七四年:2012/02/22(水) 23:09:31.57 ID:RQ7L1Xdl
>>48
正家の嫁さんが本多忠勝の妹らしいんだけど
忠勝は正家の助命嘆願しなかったのかね?
55人間七七四年:2012/02/22(水) 23:18:05.51 ID:dfb/uBpK
信之が東軍だった真田は擁護もできるがなぁ
思いっきり西軍に付いた上に伏見攻めの動きがある以上嘆願のしようが無いでしょ
56人間七七四年:2012/02/22(水) 23:27:47.03 ID:2aJOXZC0
>>54
謎が多いんだよな>長束正家の妻
本多忠勝の父は、忠勝が3歳の時に亡くなっているから、異父妹なんだろうがそれでも長束正家と歳が離れていると思うし、真田家と違って積極的な交流をした痕跡は無いし
57人間七七四年:2012/02/23(木) 07:26:40.45 ID:lxGdZQgQ
>>52
蒲生改易後には黒田、津軽と転仕したみたい
58人間七七四年:2012/02/23(木) 07:41:23.83 ID:P4RxIOwS
岡左内ってwikipediaに記事無いのか
岡定俊なのか岡野定俊なのか不明だからか?
59人間七七四年:2012/02/23(木) 07:48:09.58 ID:1uU3n+KI
>>58
諱が不明な場合は、通称や受領名でも問題ない。

そこそこ有名な人でも記事が無いのはよくある。
初回投稿が書籍の丸写しで削除されりすることもあるし。
60人間七七四年:2012/02/23(木) 08:59:52.85 ID:rWmunvUq
札束プールの起源がこんなところに
61人間七七四年:2012/02/23(木) 19:13:36.18 ID:0tI0QjdN
上杉家から退去するさい千両箱山積みにして出奔したのか?
よく野武士に襲われないな
62人間七七四年:2012/02/23(木) 20:07:42.89 ID:3dhPOhoW
>>61
全部人に配るなりして処分したんじゃない?
>焼き捨てよ。上杉を去るに及んでも、やったことだ。
ってあるし、空箱を一度燃やしたと読んだ
63人間七七四年:2012/02/23(木) 20:12:06.78 ID:2ksx7cdF
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-574.html
焼き捨てた話はこれだろう(上杉の武将たちの借金の証文を燃やした話)
64人間七七四年:2012/02/23(木) 20:31:24.83 ID:RKPdtbmy
上杉の窮状をみて退去なら、この性格からして献上してると思う

戦仕度で使いきってるかもしれんが
65人間七七四年:2012/02/23(木) 20:34:14.41 ID:1LgKJCwU
>>64
戦になる前に、既に献上してるじゃないか。
66人間七七四年:2012/02/24(金) 04:14:58.61 ID:JVAjXjAb
大阪に本社を置くスーパーゼネコンの竹中工務店。同社は織田信長の普請奉行だった初代・竹中藤兵衛が1610年(慶長15年)に
名古屋で創業して以来、400年以上も続く老舗中の老舗。代々竹中家が経営に携わり、一族の関連会社などが大半の株式を保有しているため、
「上場に踏み切る可能性は限りなく低いだろう」(準大手証券ストラテジスト)という。

67人間七七四年:2012/02/24(金) 21:45:25.19 ID:zjFqp70B
地元に残る、今川家の忠臣で有名な関口氏広のお話。

義元を追い自殺されたという氏広。しかし武蔵国に落ち延びたという伝説が残っている。
義元亡き後の今川家に見切りを付け、出奔した氏広。彼は武蔵国杉戸を永住の地と定め名主となった。現在も杉戸町には関口氏広の子孫が暮らしている。
68人間七七四年:2012/02/25(土) 02:17:32.07 ID:MF0kr2pE
>>67
関口ひろしって見えて二度見した
69人間七七四年:2012/02/25(土) 14:53:38.68 ID:Ro53h6Zl
その後のスケベエさん

関が原の戦いの際、佐竹家の動向を徳川家康に問われた花房助兵衛職之(職秀)は、「佐竹は動かない」という
見解を示したが、『見解について起請文を書け』との要求を断って「あやつは気が利かぬ」と家康の不興を買ってしまい
大名への出世の機会を逃した。(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-214.html


十数年の歳月が過ぎた大阪冬の陣。
茶臼山に本陣を構えた大御所・家康は、輿に乗って配下を叱咤する老人の姿を眼に止めた。

「あの老武者を見よ!もはや足が萎え果て、馬にも乗れぬゆえ輿に乗っているのであろうに、あの姿勢、声の張りは
ヘタな若武者どもをしのぐわい。いったい何者だ?」
「ああ、あれは助兵衛殿ですな。」
「助兵衛?助兵衛・・・すけのひょうえ・・・花房助兵衛か!まだ健在であったか!!」

関が原の戦いの後、八千石を給され、備中高松に陣屋を構えた花房家は今回、池田忠継の寄騎として
参加を命じられたが、齢六十も半ばを過ぎんとする助兵衛は、嫡男に任せず自ら出陣して来たのだ。

「さすが助兵衛。日々武辺を心がけた者は、あの齢で出陣しても見事な武者ぶりよ。大剛の者と言うべし。」

将としては評価できなかったものの、老いてなお盛んな助兵衛に感心した家康は、池上本門寺の僧になっていた
助兵衛の次男を還俗させ、徳川四天王・榊原家の養子として榊原飛騨守職直と名乗らせ、将軍秀忠の直属に置いた。
(忠士清談・徳川実紀他)

助兵衛は大坂夏の陣後に世を去っていますが、その後、長崎奉行等を歴任した職直は知行二千五百石の
大身旗本に出世しています。これに本家の知行を合わせると一万五百石。
万石を目指した助兵衛の悲願は死後に達成された、というのは言い過ぎでしょうか。

・・・え?「島原の乱」?「抜け駆け」?な、何のことやら拙者にはさっぱり・・・・・・
70人間七七四年:2012/02/25(土) 15:36:45.71 ID:csoDdknR
>>51
>>63
爆発炎上する車を後にして去っていくアクションヒーローみたいに
燃えさかる借金証文の箱の山を後にして退去する岡左内の姿が
脳内再生されたwww
71人間七七四年:2012/02/25(土) 15:38:01.32 ID:FU7Yeoyp
いい話かと思ったら、余計な最後の一行がw
72人間七七四年:2012/02/25(土) 17:22:13.21 ID:Oew1FANc
岡左内「上杉家から(家中の証文を)燃やして参った!」
73人間七七四年:2012/02/25(土) 18:16:06.25 ID:4CDCr6mD
利家が拾いに行きそうだ
74人間七七四年:2012/02/25(土) 18:22:28.36 ID:OwtqLm62
利家も死ぬときに借金の証文燃やしたんじゃなかったか、
75人間七七四年:2012/02/25(土) 21:15:08.01 ID:PVk/WZBd
官兵衛「某も半兵衛殿に殿から頂いた書状を燃やされ申した」
76人間七七四年:2012/02/26(日) 13:41:58.01 ID:C/BifgBn
織田信長「燃やすだけでは駄目だ、灰を水に溶いて飲まないと!」
77人間七七四年:2012/02/26(日) 17:03:23.98 ID:jPMcixWe
天正16年に毛利輝元が上洛した際に、各大名に贈物をした時の記録があるが、
この中では大名には殿を付、その家臣は呼び捨てにしているが唯一、殿が付いている家臣がいた

それは本多忠勝、二木謙一氏はこれを誤記としているが、後世の有名ぶりを見れば忠勝の名は
この当時、既に知れ渡っていたと考えるのも面白い

なお、樣を付けたのは大政所、秀長、信雄というのも面白い話であろう
78人間七七四年:2012/02/26(日) 20:32:22.46 ID:suiKo8Os
信雄さん、その頃は内大臣とかで一応まだ大事にされてたんじゃないのかな〜
79人間七七四年:2012/02/27(月) 09:44:35.42 ID:2uTL7mEW
>>77
忠勝大好きだけど、これって逸話なの?
80人間七七四年:2012/02/27(月) 13:02:57.39 ID:JRFE3uY0
>>79
逸話投下されない時はいつも雑談だからいいんじゃない?
81人間七七四年:2012/02/27(月) 18:03:12.55 ID:Sf4h6eeA
その後のアイキャンフライ

真田家臣の赤沢“I Can Fly”嘉兵衛は、武田崩れ直後に度胸試しで断崖から飛び降り生還したが、真田昌幸に
「大事の時に、命を粗末にするヤツは要らん」と勘当され、第一次上田合戦で首二つを上げ、やっと許された。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1280.html

月日は流れ、無謀な若者に過ぎなかった男は二十余の首を上げ、歴戦の勇士として知られるようになり、
嫁を迎え、息子が生まれ、息子も出仕するようになったある日、その息子・助左衛門が「改めて話がある」
と言ってやって来た。

「父上、私もいよいよ嫁を迎えることになりました。」
「おお、そうか!それはめでたい。して、お前の嫁になってくれるのは、どこの娘さんじゃな?」
「はい、右京どのの姪御にございます。」
「なんだと?!」

右京、すなわち右京局とは小松殿の死後、真田信之の奥向きの世話をしている女性、平たくいえば愛人である。
(幕府をはばかってか小松が忘れられなかったのか、側室にはしていない)要は助左衛門、コネで妻を選んだのだ。

「たわけがっ!それでは加増されても『女房のおかげで立身した』などと言われるわ!お前はそれで良かろうが、
子孫まで面が汚れるわい。侍とは大身も小身もなく、ただ志の良き悪しきをもって評価されるものぞ!

よかろう、わしが槍一本で稼ぎし百六十石、お前のような者には過ぎたる知行よ。これ以上増やすまい。」

それからというもの、嘉兵衛の勤めはサボりがちになり、ときに目を見張る働きを遂げ、少しでも信之から
褒められようものなら、とたんに翌日から病と称して出仕しなくなる有様だった。

嘉兵衛の死後、奉行職まで出世した助左衛門に信之は
「わしは嘉兵衛ほどの男、もっと加増してやりたかったが、あやつめ、見事な奉公ぶりを見せたかと思えば
引っ込んでしまう。加増するスキが無かったわい・・・」と、漏らしたという。

意地と誇りを貫いて知行百六十石で生涯を終えた赤沢嘉兵衛だが、その態度は「真田武士の鑑よ」と称えられ、
その人物像は『真田家御事跡稿』に記され、顕彰されている。
82人間七七四年:2012/02/27(月) 18:07:58.61 ID:0/D8bAFo
真田にもめんどくさいのがいるんだなw
83人間七七四年:2012/02/27(月) 18:41:45.66 ID:MZCWtW+o
あーこれは面白いw
女のコネを潔しとしないということかなw
84人間七七四年:2012/02/27(月) 19:05:09.35 ID:qcNx0GYu
確かに言動が三河者っぽいなw
85人間七七四年:2012/02/27(月) 19:05:22.36 ID:c9xG1UEP
めんどくさいけど嫌いじゃ無いなこういう人
86人間七七四年:2012/02/27(月) 20:00:37.83 ID:p29GpW1l
傍から見る分にはいいけど、
実際同僚として付き合うのは嫌だなあ
87人間七七四年:2012/02/28(火) 01:03:53.09 ID:5xSetJbK
徳川家の話と言われても信じてしまうレベルの、いいめんどくさっぷりw
88人間七七四年:2012/02/28(火) 01:52:55.52 ID:bqMSpXfr
徳川家重臣の井伊直政と、正室の東梅院の侍女との間に生まれた井伊直孝は、その誕生を東梅院に快く思われなかった事から、
父に会うことも叶わないまま上野国下後閑の名主の家で育てられた。そんなある日、直政の命で矢羽などに使う鶏の尾羽を収集していた
井伊家家臣が、直孝の事を知らずに下後閑の屋敷にやって来て、鶏を追い回し始めた。腕白な子供に育っていた直孝は、

「お前たち!一体何をやっているのか!」

と大声で怒鳴りつけたものの無視された。すると今度は槍を持ち出して追い払ったという。その後、その子供が主君の子供だと知った家臣が
謝罪に訪れても中々聞き入れようとはしなかったという。また、11歳の頃には、庄屋に押し入った強盗を斬りつけて捕縛に協力する手柄を立てたという。
89人間七七四年:2012/02/28(火) 02:43:05.05 ID:yAawRpDq
ええっと、家臣の方が鶏を追い回したのか?子供の直孝じゃなくて?
9088:2012/02/28(火) 02:54:24.59 ID:bqMSpXfr
そうです。家臣が直孝を無視して鶏を追い回したんです。分かりにくくてすみません。
91人間七七四年:2012/02/28(火) 03:13:27.83 ID:oZFxJa5R
ひこにゃん拾った人か
92人間七七四年:2012/02/28(火) 08:45:38.91 ID:S0HI7cpc
世が世なら
ひこけっこーだったのか
93人間七七四年:2012/02/28(火) 09:38:01.69 ID:3NnNCM5F
>>88
せめて名主か庄屋か統一しろ
94人間七七四年:2012/02/28(火) 10:19:16.82 ID:+4Yi6I74
やっぱり安物の矢羽根にはニワトリみたいな家禽も使ったのか
95人間七七四年:2012/02/28(火) 11:17:47.49 ID:H5IW6Tej
うむ
96人間七七四年:2012/02/28(火) 14:45:32.74 ID:BbWArl2t
お高いのは鷲とか鳶の羽だっけ?
97人間七七四年:2012/02/28(火) 15:03:50.94 ID:W2HynZFD
>侍とは大身も小身もなく、ただ志の良き悪しきをもって評価されるものぞ!

結局書物にまで名が残った嘉兵衛の方が武士としては正しいかったと言う事か
98人間七七四年:2012/02/28(火) 18:15:51.63 ID:cYlHfcBg
>>93
名主の家と庄屋は違う家のことじゃないのか?

それにしても、まーくんとの↓の逸話でもそうだが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2241.html
ひこにゃんは子どもの頃から勝気な性格だったんだな
99人間七七四年:2012/02/28(火) 23:15:21.33 ID:uhsWr9cB
>>98
曲がりなりにも異母姉妹の義父に対してひこにゃんたらw
100人間七七四年:2012/02/28(火) 23:49:13.47 ID:52K11kNg
宇和島貰ってるのにしつこいジジイだな
101人間七七四年:2012/02/29(水) 17:48:17.35 ID:DN5SVbqq
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦功として出雲を賜った堀尾吉晴月山富田城に入る。
翌年、吉晴の嫡男・忠氏並びにその家臣たちは、島根郡末次郷の極楽寺山を見立て、ここに新たな城を
建設する計画を立てた。

ところが忠氏はにわかに病に侵され、ついに逝去する。忠氏の子、忠晴は未だ10歳にもならなかったので、
この新城築城は中断された。
これを見た堀尾吉晴は家老たちにこう宣言する

「忠晴は未だ稚く、私はすっかり老いてしまった。そして新城を築くことは忠氏の志であり、
父が子の志を継ぐというのは順ならずと言うものである。
しかしこれらは全て私の為のことではない。天下のための事業である!新城築城を止めるべきではない!」

そして建築地を見てまわると、そこでは古より、宇賀ノ宮三所の荒神を祭っており、亀井田村(今の亀田村の事だろうか)、
奥谷の民たちによって春秋の祭りが怠らずに行われ、五穀の成就を祈り奉っていた。
彼らは吉晴に、この神をどうか他所に移させて欲しい、と伝えた。吉晴は「誠に然るべきことではあるが神慮のほども
測りがたい」と、この地の社司・門脇肥前定久を召し、神慮を聞かせ鬮を伺うと、3度まで鬮が当たったので吉晴は大いに喜び、
吉日を選んで宇賀ノ宮三所荒神を、亀田村奥谷の春日大明神のそばに移し、今に至るまで春秋の祭りは怠らないという。

また、築城予定地には巨大な榎があって、これも荒神であると言われていた。またそこは、大人塚といって
古代の人の物だという塚があったのを整地した土地でもあったためか、色々怪異の事が多く起こり、築城工事も
滞った。そこで意宇郡蘆高の神職・松岡兵庫に命じて祈祷をさせ、荒神は島根郡法吉村に移し、大人塚は同郡一成村に
移して、今宮と号し祭った。

その後三日二晩にわたり地割の祈祷を行った。今でも本丸において毎月二十八日に祈祷をするのはここから来ているという。

慶長12年に普請が始まり、同16年までの5年間の工事により、ついに城は完成した。
そして城下の末次、白潟の二邑をもって『松江』と名付けた。この理由は、外国の呉という国に松江という場所があり、
そこには鱸という魚と、ヒ菜という水草があって名物なのだが、これらが城下の宍道湖にもあって同じ無名物であったため、
ここを松江と名付けた、と伝わっている。

この松江城は、湖から東西南北に堀を掘り入れたため船の走らないところはなく、往来自由でしかも後ろに高山を控え
前に大湖をたたえ、まさに天険の要害であった。

ただ、この城は外郭が未だ完成する前に吉晴が死去し、忠晴が家督を継いだといっても未だ幼年であり、
また幕府から特にこれといった仰せもなかったので、外郭の総門、木戸などは未完成のまま、今に至る。
(雲陽志)

出雲らしく、神々に気を使いながら築城したことの解る、松江城普請の記録である。
10288:2012/02/29(水) 17:51:42.20 ID:2dukicO+
上に書いた逸話のその後の話。

わが子の豪傑ぶりを聞いた井伊直政が、直孝との対面を望んだ時の事である。
吹雪が吹き込む寒い縁側で長時間待たされた直孝は、膝に雪が降り積もっても座したまま動こうとせず、
その忍耐力を父に褒められたという。またこの頃、関ヶ原の戦いで腕を負傷していた直政に刀の試し切りを
任された時も、全く臆することなく死刑囚の胴体を斬り落とし、父を大いに喜ばせたという。
こうして12歳にして正式に直政の子供として認められた直孝は、その2年後から徳川家に仕えることになったという。
103人間七七四年:2012/02/29(水) 18:27:50.78 ID:1PP4EUDD
>>101
松江築城の時に人柱にされた娘が『この城をよこせ〜』って言って化けて出て来るのに困った
後の城主の松平何とかさんが

つ コノシロ(魚)

でズバッと解決したなんて話もあるなw

それはさておき松江城いい城だよね、実戦的でいかにも茂助さんらしいというか
104人間七七四年:2012/02/29(水) 21:22:38.27 ID:/B7S0P0A
松江歴史館の説明だと、要害に築城しようとした義晴と平地に築城しようとした忠氏が対立してたけど、
忠氏が死んだ後、義晴が忠氏案を採用して今の場所になった、とのことです。

http://www.matsu-reki.jp/
105人間七七四年:2012/03/01(木) 20:05:25.75 ID:NgYO6Ax3
信長の草履取りであった秀吉が、ある寒い夜、信長の草履を懐で温め置いた。
という話は軍記講談などで有名ですね。
織田信長はこの、猿と呼んでいる下僕の忠志を感じ、彼を草履取り頭に取りたてた。

さてさてこの猿、草履取り頭になってもいつも信長のお供に出るのだが、その供待ちをする時、
他の頭は家の中に上がっていて、配下の草履取りを外に置いておくのだが、猿は草履取りの方を
家の中に置いて、自分が外にあった。
信長はこれを不審に思い猿に正すと、彼が答えるには

「こういったお出かけの際は、殿でありましても戦場とは違い、お気持ちもつい緩んでしまいます。
しかし今は乱世であり、万一にも、敵国よりお命を忍び狙うものがありえぬとも限りません。
ですので私は、その警戒のため外に居りましたわけです。」

この言葉に信長も甚だ感じ入り、永禄7年、初めて録百石を与え、これよりやがて薪奉行となり、
猿は”木下藤吉郎”と名乗った。

秀吉出世物語の、草履を温めた後のお話
(近古武談)
106人間七七四年:2012/03/01(木) 23:17:05.55 ID:nCoXEriq
なるほど
なにかあった時に真っ先に逃げるんだな
107人間七七四年:2012/03/01(木) 23:20:23.44 ID:mVCFcV8X
関係ないけどフロイスが「草履取りをつけておかないとすぐに草履が盗まれるから草履取りが必須」って言ってるね
108人間七七四年:2012/03/01(木) 23:32:10.13 ID:YHOtfoP/
なるほど、ぞうりで
109人間七七四年:2012/03/01(木) 23:41:36.91 ID:xHhsqXYx
>>107
どんだけ草履の価値高かったんだよw
110人間七七四年:2012/03/01(木) 23:46:38.09 ID:cobuNIk8
現代でいう傘みたいなもんだろ、その辺に置いとくとすぐ無くなるみたいな
111人間七七四年:2012/03/02(金) 00:02:35.69 ID:BA7IGUqI
ぞうり泥棒ってやっぱり捕まったら斬首?
112人間七七四年:2012/03/02(金) 00:10:18.96 ID:K9zXgEdp
草履はほとんど使い捨てに近かった。
江戸時代の旅人だと1日履いたら捨てる、というのが基本だった。
113人間七七四年:2012/03/02(金) 00:13:22.16 ID:fd6kDmRk
草鞋でなくてか?
114人間七七四年:2012/03/02(金) 00:23:35.25 ID:pJtlayRM
落語の三人旅というネタでは(上方落語では「江戸っ子」が「大阪の若いもん」に変わっているけど)

旅籠にて
女将「あの、えらく草鞋が汚れてますがの、どういたしますべえ」
旅人甲「なにいってやんでえ。こちとらあ江戸っ子だ。一日履いた草鞋を二度とはくんじゃねえやい。
ぱっぱっとうっちゃっちまえ」
女将「かしこめえりました・・・それからはあ、御脚絆もえかくよごれてますがの」
旅人甲「なにいってやんでえ、こちとら江戸っ子だ。一日はいた脚絆を二度とはくんじゃねえやい。
ぱっぱっとはたいてしまっとけ」
旅人乙「よせやい、しまらねえたんかを切るな」

やっぱり使い捨てに近かったのか
115人間七七四年:2012/03/02(金) 00:49:39.47 ID:49oruZur
いつの世も落語はおもしろいなあ
116人間七七四年:2012/03/02(金) 01:30:14.71 ID:t5PMEi9Y
草履は高価。職人が作って、すげる。
草鞋は安価で使い捨て。素人でも作れる。

なので、フロイスが言ってるのは「草履」。
117人間七七四年:2012/03/02(金) 02:02:40.48 ID:VRaF1ukI
ゾウリムシとワラジムシ、なぜ差が付いた?
118人間七七四年:2012/03/02(金) 02:09:14.34 ID:A/OOFHKh
薪炭奉行の時は貫高だろうから逸話の成立時期が検地以降になるんかね?

>>117
慢心、環境の違い
119人間七七四年:2012/03/02(金) 07:15:03.32 ID:TjRf3S+4
>>117
うまいねえ!落語のたねになりそうだ。ただワラジムシとダンゴムシの区別も問題かも。
120人間七七四年:2012/03/02(金) 08:25:11.09 ID:oUTenr17
つつくと丸くなるのがダンゴ虫で、ならないのがワラジムシ?
121人間七七四年:2012/03/02(金) 09:37:22.46 ID:o4xGzqKG
そう
種としては、ダンゴムシはワラジムシの下位に位置するんだそうな

122人間七七四年:2012/03/02(金) 14:04:57.03 ID:GyHbwyAu
使えるなくなるまで使い倒すお!って利家とかやりそうだけどw
123人間七七四年:2012/03/02(金) 21:55:19.17 ID:5u2jU5ks
>>105

この頃の秀吉は、寝てないんだよ。ほとんど仮眠で信長の一声でいつでも現れる。
124人間七七四年:2012/03/02(金) 22:47:53.28 ID:FigyxGbm
秀吉が本当に草履取りから出世したかどうかは別として
こういう雑用的な役職はまともな方法では家臣になれない身分の人でも
いろんな情報源を持ってる人間や、世に隠れた有能な人材を側に置くためのシステムだったんじゃないかなあ
125人間七七四年:2012/03/03(土) 01:00:59.82 ID:Mx+fYN/T
>>120
そういえば子供の頃ワラジムシの事をゾウリムシと呼んでいたな
地域によって呼び名が違うのかもしれないけど
大人がこの呼び方だと単細胞と言われそうだな
126人間七七四年:2012/03/03(土) 20:06:33.09 ID:ho1A3f3c
小山評定後にアッサリ帰った真田
万石も無ければ、将軍にも媚びない喜連川氏
1万500石でも苗木城持ち遠山氏(金さんの親類)
家光側室の町人だった増山氏 米が取れない松前氏など

【陪臣・喜連川ほか】 「小大名」スレ 2 建てました
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1329412330/l10
127人間七七四年:2012/03/03(土) 21:08:10.35 ID:CQOm02mj
草履取りって頭が居るってコトは雑用全般もこなすのかな?
俺は雑用全般取り仕切る小姓の下に草履専門職として草履取りが一人か二人居るだけだと思ってた
128人間七七四年:2012/03/03(土) 22:16:46.20 ID:yi0XASMz
>>126
消えろ、キチガイ
129人間七七四年:2012/03/04(日) 20:28:04.77 ID:4/MOPlgG
山本常朝
『直茂公が元茂公に、

「身分の上下にかかわらず時節が到れば、
一家が滅びる時も来るのである。
その時、無理に滅ぼすまいとするならば、
いかにも未練がましく、恥を晒すような滅び方をする。
滅びの時節がやって来たと考えられる時には、
きっぱりと滅びの覚悟を決めるべきだ。
そうすると、滅亡を食い止めて、
家が立ち直る方法が見つかるものである」

と話されたとのことである。
この話は、元茂公がよく話されたが、
それを御次男の直朗殿が覚えておられたとのことだ』
130人間七七四年:2012/03/04(日) 22:36:03.31 ID:EbILmyLh
山本常朝とか鍋島って

口だけ番長って感じしかしないんだよね 立派なことをのたまうけど実績がなにもないという
131人間七七四年:2012/03/04(日) 22:42:43.69 ID:Dc0S7bqK
彦左衛門の悪口はやめたまえ
132人間七七四年:2012/03/04(日) 22:50:58.53 ID:BcNEzkJ2
>>130
実績十分じゃないか。お前が無知すぎるだけだよ。
133人間七七四年:2012/03/04(日) 22:52:59.74 ID:gYzq8koS
鍋島さんの実績が無いとか口が裂けても言えない
134人間七七四年:2012/03/04(日) 22:55:33.87 ID:n/K6hlGq
鍋島には実績がない 口が裂けてても言える
135人間七七四年:2012/03/04(日) 23:42:35.68 ID:7Jlvt/nK
山県昌景「口さけ番長とは某のことだ」
136人間七七四年:2012/03/04(日) 23:47:55.80 ID:rACJ8lMi
ω
137人間七七四年:2012/03/05(月) 00:56:00.85 ID:gso5OchV
鍋島さんで実績が無いとか言ったらほとんどの武将の実績が無い事に
138人間七七四年:2012/03/05(月) 01:32:17.96 ID:rVUf/9Qb
沖田畷で死んでりゃよかったのにな 大口叩くならさ
139人間七七四年:2012/03/05(月) 01:44:19.67 ID:U0erznG+
>>129
>その時、無理に滅ぼすまいとするならば、
>いかにも未練がましく、恥を晒すような滅び方をする。
龍造寺季明「…」
140人間七七四年:2012/03/05(月) 01:44:28.84 ID:avqHNjNt
>>135
ワロタwwwwww

ワロタ…
141人間七七四年:2012/03/05(月) 01:45:52.35 ID:rVUf/9Qb
おやおや ここは口が裂けてないのっぺらぼう達の集まるスレであったか
142人間七七四年:2012/03/05(月) 02:42:21.52 ID:VbeqOBAw
>>129
沖田畷で特攻もせずシグルイもせず滅びもせず主君の仇を討てず未練がましくおめおめきのこり
あげく龍造寺を滅ぼし乗っ取り恥を晒したことを見てどう思う?鍋島のホモダチさん?
143人間七七四年:2012/03/05(月) 06:06:28.72 ID:7HH0A2Mg
無能な龍造寺ザマー!
144人間七七四年:2012/03/05(月) 07:18:51.60 ID:L420KZmB
ホント、熊の世話から解放されて絶好調です^^
145人間七七四年:2012/03/05(月) 07:25:30.38 ID:MT9UQiEy
え、なに?このスレ猫でもいるの?
146人間七七四年:2012/03/05(月) 10:39:27.36 ID:a9w0AMbI
三流大名の家臣が書いた葉隠(笑)
147人間七七四年:2012/03/05(月) 12:58:28.07 ID:dt00DVTT
>>138
鍋島は右翼の大将で新納伊集院隊を包囲中
総大将が死んだ状況で次席指揮官が責任放って殉死するとか言い出したら周りが普通止めるだろ
木下昌直の戦死の逸話はこの辺りの経緯をきちんと説明してる
148人間七七四年:2012/03/05(月) 13:13:47.50 ID:XS+sIK1X
鍋島さんを主家簒奪でうまいことやった人と捉えるか、
有能なばかりに貧乏くじを引きまくった人と捉えるか。
個人の感覚の差が出そうだな。

俺は後者だと思ってる。
ご長寿の人に対して、
「周囲が死にまくっても一人で生きなきゃいけなかった気の毒な人だろ。
めでたかねーよ」とコメントしたとか、
最期の断食エピソードとか見ると、
死んだ方がマシって実は思ってたのかな、と
149人間七七四年:2012/03/05(月) 13:38:09.70 ID:1hfdUHya
貧乏くじに近いなw
150人間七七四年:2012/03/05(月) 13:48:25.41 ID:uvm/XWyz
『男の世界は容赦も仮借もない。
相手の命を奪わねば己が殺される』

遠藤周作「決戦の時」より
151人間七七四年:2012/03/05(月) 13:51:35.38 ID:uvm/XWyz
『神も仏も、己れの他に何も信じぬ。余は魔王になるぞ』

遠藤周作「決戦の時」より
152人間七七四年:2012/03/05(月) 15:18:00.46 ID:MT9UQiEy
直茂も確か手紙とかで「もう大名とかやめたい」とか弱音吐いてたよな確か
153人間七七四年:2012/03/05(月) 16:17:52.84 ID:2G8NyXWz
滝川一益的な
154人間七七四年:2012/03/05(月) 18:44:45.59 ID:zEQudMey
なんか分からんけど受験にでも失敗した奴が暴れてるのか?
155人間七七四年:2012/03/05(月) 19:14:58.17 ID:B4NfRMY3
龍造寺の子孫だろ
156人間七七四年:2012/03/05(月) 19:41:48.50 ID:HzapxOHt
島津スレに沸いてる擁護気取りのキチガイだろ
最強だの雑魚だの言いたがるからすぐ分かる
157人間七七四年:2012/03/05(月) 21:31:15.79 ID:IFUgAY6x
猫好きなだけかもしれんぞ
158人間七七四年:2012/03/05(月) 21:53:34.01 ID:9Ilrom6Y
大隈重信の子孫かもしれない
159人間七七四年:2012/03/05(月) 22:06:38.61 ID:uvm/XWyz
司馬遼太郎を愛読するオッサンかもしれない
160人間七七四年:2012/03/05(月) 22:44:33.75 ID:L420KZmB
大隈重信の子孫だとしたら、急に生々しくなるなw
161人間七七四年:2012/03/05(月) 23:14:06.04 ID:MT9UQiEy
クマー
162人間七七四年:2012/03/05(月) 23:34:45.19 ID:eH6Id7Tq
鍋島とかいう三流クズ武将の話題をいつまでもひっぱるとは
暇だな お前らは
163人間七七四年:2012/03/05(月) 23:45:45.89 ID:qmFWlTFY
鍋島家は九州最強^^
164人間七七四年:2012/03/06(火) 00:43:49.54 ID:S8vH3mvB
>>152
足利尊氏的な感じだったのかね?
この世は夢のごとくに候…
猶々とく遁世したく候。…
165人間七七四年:2012/03/06(火) 00:46:53.98 ID:Ou2xcOrg
>>164
つーか直茂さんは竜造寺一門に無理やり持ち上げられた雇われ社長みたいなものだったので、
オーナー一族といっていい竜造寺一門の力が強大すぎて、何をするにも思うように出来ず
とにかく大変だったらしい。

この状況を直茂、勝茂の二代でなんとか集権化に持っていった。
166人間七七四年:2012/03/06(火) 00:54:18.60 ID:vgZXBlrH
>>165
傍系三家とか龍造寺四家が半ば独立状態だったような記憶があるんだが
167人間七七四年:2012/03/06(火) 01:01:17.63 ID:S0PH72L+
>>165
馬場に一族のほとんどを討たれたはずなのに竜造寺一族マジぱねえっすww
168人間七七四年:2012/03/06(火) 09:35:17.47 ID:xtnXeDVC
>傍系三家とか龍造寺四家が半ば独立状態

オーナーの熊さんに雇われたナベ社長が、
オーナーの熊さんだけじゃなく親族の熊さん達にも振り回されるってことじゃ?
169人間七七四年:2012/03/06(火) 09:51:58.50 ID:st9sjtYt
ナベツネこと鍋島
170人間七七四年:2012/03/06(火) 09:56:54.29 ID:O4N1Rj1n
龍造寺一族の家も参勤交代してたんだっけ
他の家もそういう感じだったりはしたの?
171人間七七四年:2012/03/06(火) 10:07:15.93 ID:KBnTqD61
実力がない弱い奴は滅ぶのが当たり前、
それが戦国時代。
龍造寺隆信が戦死したとき、龍造寺は終わってた。
それを鍋島ってカンフル剤使ってその場を凌ぎ、
延命したはいいものの弱いものはしょせん弱いまま。

朝鮮の役で龍造寺政家がめざましい成果を上げておけば
その後の旗色はまったく変わったろうにな。
使えないオーナーでも見捨てない雇われ社長だっただけマシじゃね?
松永とか毛利あたりだったら一族郎党殺してるで。
172人間七七四年:2012/03/06(火) 10:14:43.32 ID:KBnTqD61
>>170
毛利家の岩国藩なんかも、
独立扱いで参勤交代義務とかあったらしいね
173人間七七四年:2012/03/06(火) 10:23:15.41 ID:IRpQTMKq
主君の下には家臣、家臣の下にも部下、妻子、知行地の民といるわけだから、
実力のない者が上に立っていると、下の者が食えなくなる。
ある意味では戦乱時は正直さ(下剋上、謀略含むw)が勝つ時代だ。
平和になるとバカな主君でも、
貯蓄が尽きるまでは食えていける・・・
立花宗茂が、
『戦があったほうがある意味では良い』
と言った逸話があったけど、
そういう意味なんだろう
174人間七七四年:2012/03/06(火) 10:28:49.74 ID:EYPfSLoi
龍造寺のせいで幕末佐賀藩は苦労したんだよな
それでも艱難辛苦の末に日本の近代化に多大なる貢献を果たしたんだよな

薩長土肥の中で唯一取り残されているが早く大河化されて欲しい
175人間七七四年:2012/03/06(火) 10:57:22.87 ID:st9sjtYt
>>171
秀吉も家康もみーんな正義だったんだね!
176人間七七四年:2012/03/06(火) 13:11:25.05 ID:EjFPvdtJ
>>175
正義なんてフィクションの中の存在だぞ
まあ、一族家臣領民を守るためにも弱いということはそれだけで悪行だけどな
177人間七七四年:2012/03/06(火) 13:17:57.66 ID:xHsslAwM
>>170
参勤していたのは龍造寺系じゃない三つの支藩、格の差を付ける為に当初は有用だったけど江戸時代後半はお察し

「人の悪いは鍋島、薩摩。暮れ六つ泊まり、七つ立ち」
散財しない鍋島と島津の大名行列を揶揄した唄だけど
ただでさえ一番の遠国なのに殿様が四人もいたり沖縄からも人夫を集めなけりゃならない家の事情を考えると苦労が偲ばれる
178人間七七四年:2012/03/06(火) 13:20:12.75 ID:KBnTqD61
>>175
正義?
そんなもの、この時代じゃクソの役にも立たんのは、
豊臣秀頼とか織田の息子ども見てれば判るだろ。

秀吉にも家康にも佐賀藩なんか簡単に潰すだけの力があった。
ただ、それだけだよ。
179人間七七四年:2012/03/06(火) 13:32:30.05 ID:KBnTqD61
>>174
佐賀城を直す金すらろくになかったのに、
汽船なんかの研究には湯水のように金を使わせてやり、
佐幕にも倒幕にも靡かず力を蓄えようと考えた鍋島閑叟、
先を見据えたすごい人だと思う。

まあスレ違いだけど
180人間七七四年:2012/03/07(水) 11:53:27.83 ID:+lkwAxUu
秀吉公が木下藤吉郎を名乗っていたころの話。
織田家に仕え足軽百人頭となった籐吉郎。
旧知であった川並衆の協力にも随分と助けられ、
百人頭の身にもなれたので、
蜂須賀、前野、を始めとする川並衆の棟梁たちに、
私が仲介するから、自分と同じく織田家に仕えないかと持ちかけた。
それに対して蜂須賀小六は、

「信長殿は海道に並ぶ者のない勇将ですが、
今日まで御一門を数多く誅殺されています。
あのお方の御気性は雷電のようです。
私どもは生来の無頼者。口舌で立ち回る才がありません。
人夫には相性というものもあります。
折角の御推挙ですが、私どもに信長様にお仕えする気はございません。」

藤吉郎は、今までの川並衆の協力に報いることが出来ず落胆の表情を浮かべる。
そんな藤吉郎に再び小六は言う。

「我ら川並衆は己を知る者のためには、
粉骨の労も惜しみません。
この先、万事において我らの命を預けられる士は、
藤吉郎殿をおいて他にいないと考えます。
我らはこれより貴殿のために犬馬の労も惜しみませんぞ。」

これを聞いた藤吉郎は、

「今は未だ足軽百人頭の身。
川並衆の恩に報いることも出来ませんが、
いずれは必ず立身しこの恩に酬いましょう。」

と応える。
以後の藤吉郎と川並衆の立身出世は皆の知るところである
181人間七七四年:2012/03/07(水) 11:59:03.99 ID:iaQ7qK/H
秀次「」
182人間七七四年:2012/03/07(水) 12:40:09.03 ID:3HlQ/b4G
一箇所だけ「籐」になるのはなんで?
OCRの誤変換?
183180:2012/03/07(水) 13:20:09.41 ID:+lkwAxUu
>>182
すみません、ただの誤字です(笑)
184人間七七四年:2012/03/07(水) 20:39:09.72 ID:LDkL1GG+
立花宗茂が老境の際、養子忠茂から戦における兵の運用に関して問われ、こう語ったらしい。

「例えば、かの上杉謙信公は8千程度の兵を用いて戦をするのが己に適していると言われたそうだ。
かく言う自分は経験上2千程度の兵数が手足の如く操れると感じたものだ。
つまり大将の才、能力に適した兵力は大将の数だけあるという事。
兵力の大小に固執するより己の武の型を見極め、それに見合った兵を揃えたほうが良い結果が得られるだろう。」

過去に遡ると、宗茂が肥後一揆の鎮圧に功を上げ、秀吉から加増しようと言われた際、
「もう自分が戦うに充分な兵力を養える領土は頂いてますので結構です
それより戦の際に、先鋒に使って頂ければ相応の働きをもって答えたいと思います」と断った
そして後の朝鮮役の大一番、碧蹄館にて先陣を任された宗茂の武は日ノ本随一と称えられることになる

さらに遡ると、宗茂が父紹運から初陣の話をうけた時に、
「今の自分の実力では、あえなく討ち死にしてしまうと思います
故にあと1年鍛えた後、改めて一方の大将として出陣したく存じます」と断りを入れた。
それを聞いた周りの家来は、「若殿は臆病なのか」と困惑したがになるが、
後の初陣で立花道雪が見惚れる働きを見せる事になる

一説で戦国一の武人と謳われた男は
戦国一、己の「武」の「分」をわきまえていた男だったかもしれないという話
185人間七七四年:2012/03/07(水) 21:23:43.90 ID:+lkwAxUu
今は悪い意味で使われることが多いけど、
「身の程を知れ」は八幡太郎さま以来の武士の鉄則だからね
素晴らしい
186人間七七四年:2012/03/07(水) 21:38:46.13 ID:s6lfso2I
身の程と美濃尾張は似ている
187人間七七四年:2012/03/07(水) 22:18:33.80 ID:hw1CGF8t
身の程をしりて入らるる領国の美濃ほどよりも繁る身のほと
188人間七七四年:2012/03/07(水) 22:22:59.66 ID:R18vOYAr
三成さん:あの時の加増を蹴ってなければ・・・ギリギリ
189人間七七四年:2012/03/07(水) 22:54:15.06 ID:iaQ7qK/H
?「宗茂は勇気も知恵あるが、大気が足りない(キリッ
190人間七七四年:2012/03/07(水) 23:56:21.17 ID:dpDb6VJ3
八幡太郎さま以来身内でいがみ合い殺し合う源氏はあまり好きになれない
191人間七七四年:2012/03/08(木) 00:01:18.49 ID:u5pf1oVd
鎌倉幕府の主たる役目って知ってるのか?
192人間七七四年:2012/03/08(木) 01:01:24.90 ID:jMaOTgOq
いい国を作ること
193人間七七四年:2012/03/08(木) 02:05:37.74 ID:PwkooUka
1192じゃなくなって1186?に変更されたとか聞いたがw
194人間七七四年:2012/03/08(木) 02:11:21.61 ID:ES9aFVqv
ここやろ、ねーちゃん、ここがいいんやろ(1186)

こうか
195人間七七四年:2012/03/08(木) 02:16:21.14 ID:KVqONy3t
1185年に守護・地頭の任命が朝廷に正式に認められた(強引にだが)のを以って幕府の成立とする意見もあるけど
教科書だと年号を確定させてないんだっけか>鎌倉幕府
196人間七七四年:2012/03/08(木) 05:35:24.37 ID:jN2FpQVG
>>190
そんなこと言ったら朝廷からして上皇と天皇の骨肉争い・・・
197人間七七四年:2012/03/08(木) 07:18:29.17 ID:jN2FpQVG
まさに日本下剋上文化
朝鮮儒教と違って忠に縛られない国風最強(笑)
冗談はおいといて、
まあ朝鮮はガチガチの朱子学派だったから、
武人と商人は蔑まれていたようで、
それで一定の秩序は生まれるんだろうけど、
武人と商人抑えると、技術の発展が遅れるよな
今までの歴史をみると
198人間七七四年:2012/03/08(木) 07:57:22.89 ID:fu0pa3W/
板違いのネタを続けるのはキモい
199人間七七四年:2012/03/09(金) 00:36:29.44 ID:3wApR91s
>>184
子供の頃からそういう分をわきまえていたのか
いい意味でも悪い意味でも子供らしくねえ子供だな
200人間七七四年:2012/03/09(金) 06:43:20.98 ID:tuniZqdI
講談しか知られないような後世ならともかく
宗茂はじめ謙信以上の戦績を誇る武将はゴロゴロいたのに
謙信が引き合いに出されてるってのはどういうことだろ?
201人間七七四年:2012/03/09(金) 07:14:34.84 ID:bK++Nc3J
ゴロゴロ?
越後押さえて信玄とやりあって関東進出して朝廷とパイプある。
有数の戦国大名だろう。信長や秀吉を出さんと気に食わんのか。
202人間七七四年:2012/03/09(金) 07:31:56.70 ID:bEKy7Yoq
宗茂って、島津相手の時は自力で勝ってないし、後は弱い相手にしか勝ってないじゃん。
強敵に勝たないと評価してもらえないよ。
203人間七七四年:2012/03/09(金) 07:35:58.11 ID:rJ3MZDqj
明軍を弱敵といいますかねw;それはいくら何でも認識不足だよ。
204人間七七四年:2012/03/09(金) 07:48:17.90 ID:Zxi+MyjT
逸話に関係ない荒らしは勘弁してくれ。
205人間七七四年:2012/03/09(金) 09:11:04.10 ID:yfMvsasm
>>202
同時代の方々に嫌ってほど評価してもらえてるのは無視かw
206人間七七四年:2012/03/09(金) 09:14:57.10 ID:916SPssJ
>>203
明軍は実際強くないだろ
207人間七七四年:2012/03/09(金) 09:22:55.22 ID:H4zYq7RC
>>206
明は強かった。
半島の兵は弱かった。
野戦では戦国武士が圧倒した。
ただ半島はゲリラ戦、反逆戦には無類の強さを発揮する。
今もなんとなくそうだろ。
208人間七七四年:2012/03/09(金) 15:55:48.27 ID:L1WVTaHd
明が勝った戦いって平壌城の戦い以外にあるの?
あれも小西の自主撤退だけど
209人間七七四年:2012/03/09(金) 16:09:12.76 ID:iwUYsW6I
むしろ元寇と唐入り、朝鮮戦争みると単独では逆境に弱い印象だが
あまり抵抗のない相手を攻めてる場合に無類の強さを発揮して
組織だった相手にはボロボロと言う感じ
210人間七七四年:2012/03/09(金) 16:10:41.59 ID:9bSJpHyb
春休みっすね
211人間七七四年:2012/03/09(金) 16:26:23.22 ID:6RpcrCHh
>>210
なんで?
戦国時代の明や朝鮮の話はスレ違いじゃないだろ
212人間七七四年:2012/03/09(金) 16:51:53.04 ID:LSSvIoBQ
板違いではないがスレ違い
>>184の感想として明の強さの話を延々とするのはどうかと
213人間七七四年:2012/03/09(金) 16:57:07.85 ID:6RpcrCHh
>>212
ちょっと独善的な自治すぎでしょ?
まとめサイトでも雑談もまとめてるし、
オレはそれほどスレ違いには感じないよ
214人間七七四年:2012/03/09(金) 16:57:56.71 ID:L1WVTaHd
ていうかこのスレは日本絡まない外人の話もありだから。
たとえばこのへん
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1387.html
215人間七七四年:2012/03/09(金) 17:02:07.71 ID:OcPAPqUy
とはいえ明や朝鮮の話は興味ないな
正直ウンザリ
ダラダラ続くようなら別にスレ立ててそっちでやってくれたらな…とは思う
216人間七七四年:2012/03/09(金) 17:16:42.31 ID:6RpcrCHh
人それぞれ興味や楽しいとこ違うんだから多少の譲り合いは必要だろ
言うほど明や朝鮮の話題で引っ張ってないし
というか明と朝鮮はこのスレでも、
まとめサイトでも充分範囲内だよ
217216:2012/03/09(金) 17:18:35.95 ID:6RpcrCHh
訂正
戦国武士絡みの明、朝鮮はこのスレの範囲内ね
218人間七七四年:2012/03/09(金) 17:35:50.68 ID:iwUYsW6I
確かに変な我儘だな嫌なら次の逸話出すか出るまでどっか行ってれば良いだけだし
雑談自体禁止なら解るけどね
219人間七七四年:2012/03/09(金) 18:10:55.18 ID:BXGfJCot
その明なんぞ鴨の中の鴨が維新様でごわす。
220人間七七四年:2012/03/09(金) 18:30:37.42 ID:k3Esr2sw
強さ議論か、春休みだなぁ
221人間七七四年:2012/03/09(金) 19:01:16.40 ID:FY2IVQjn
まぁ普通は逆に考えるもんだヨナ。
特にスレ違いでもないし、自分の興味ないネタだからって・・・、自己厨すぎだぞw
唐入りの時の話はなかなか面白い。
日本初の国外戦争だからいろいろ貴重な体験談がある。
222人間七七四年:2012/03/09(金) 20:35:52.31 ID:PbaSczi/
223200:2012/03/09(金) 21:13:58.94 ID:tuniZqdI
謙信は講談ならともかく
実際には関東管領の肩書きで関東出兵したが
武田とも北条とも痛み分けって程度で
宗茂に引き合いに出されるような知名度があったんだろうか
という程度の書き込みだったんだが
224人間七七四年:2012/03/09(金) 22:01:48.33 ID:s6hFpwfF
>>222
明や朝鮮が弱いってのもあるが征伐軍が強すぎるんだよ
面子がまさに戦国オールスターズ。王・長嶋世代とイチロー・松井世代のミックスみたいなもんだし
火縄銃をはじめ武装でも日本軍が勝っていたしね
あそこまでグッダグダな李氏朝鮮の体制であんだけ奮闘した李舜臣は敵ながらアッパレだわ
225人間七七四年:2012/03/09(金) 22:03:49.24 ID:iuyLKmeV
英雄じゃなくて悲劇の将って感じだけどね
226人間七七四年:2012/03/09(金) 22:37:36.14 ID:ri61VKQx
>>223
そもそも、上杉とか武田がたいしたことない、っていうのは、
2ちゃんねる特有のマイナー志向どあって、
一般的には痛々しいってことに気付いとけ
227人間七七四年:2012/03/09(金) 22:44:24.76 ID:EYwoT4Tv
謙信・信玄は、山科けいすけのSENGOKUのイメージがオレには強すぎるwww












228人間七七四年:2012/03/09(金) 23:46:57.57 ID:FY2IVQjn
>>223
上杉謙信が知名度なかったと?
農民や下級武士ならともかく宗茂なら十分情報得てるだろ。
肩書きあるし武田北条と何度もやりあって負けてないんだから。


朝鮮軍がめちゃめちゃ弱かったってのは周知だろうけど、
明軍は組織化されてたみたいだし弱くはなかっただろう。
政治が腐敗してた影響をもろに受けて思い切った作戦ができなかった。
日本軍は戦国時代で戦ばっかしてたから一部プロ化した化け物軍がいた。
2週間で釜山からソウルまでを突っ込んだんだからとんでもないわ。
229人間七七四年:2012/03/09(金) 23:52:38.93 ID:bWxgFkmL
武田北条上杉なんて
結局天下も取れず地方大名で終わったんだから所詮そこまでの評価だろう
徳川幕府のおかげで武田は強かったなんてことになってるけど
230人間七七四年:2012/03/10(土) 00:52:09.09 ID:KmBgeh8D
春休み早く終わらないかな
231人間七七四年:2012/03/10(土) 00:55:16.49 ID:rY5WO/U3
>>229
なんかこういう単純な奴が歴史に興味を持つってのが不思議。
オマエは織田豊臣徳川以外の大名はそこまでの評価で済ますヴァカか?

織田豊臣徳川にしもて紙一重って場面が何度もある。
織田が今川に敗れたり、明智の裏切りがなかったらその後どうなったかわからん。
最後の結果だけで評価するとか・・・。
232人間七七四年:2012/03/10(土) 01:00:12.61 ID:fFej8DwY
なおさら宗茂の評価が下がってしまうw
233人間七七四年:2012/03/10(土) 01:25:04.15 ID:/omDxxWf
明は末期だし、万暦帝の悪政も極まった時期だし弱くても仕方がない。
ヌルハチをフルボッコした野生の名将袁崇煥は文禄・慶長の役が終わった時期でも15歳。
地方長官が規定の半数しか居ない状態でよく戦ったとは思う。
234人間七七四年:2012/03/10(土) 06:47:19.55 ID:QD2rs/39
>>231
俺は武田北条上杉とまとめてくさすつもりはないが
それでも特に謙信は宗茂存命の頃は戦国群雄の中の1人に過ぎないだろうと思う
235人間七七四年:2012/03/10(土) 07:50:08.23 ID:SXHCuWTR
永禄6年(1563)1月、江戸城の守将、太田美濃守康資の上杉方への寝返りにより、安房の里見義弘が侵攻。
ここに第二次国府台合戦が起こる。

7日、大田の寝返りを察知出来なかった江戸城守備の同僚、遠山綱景、富永直勝らはこの恥辱を雪ごうと
無理な戦いを行い逆に百騎ばかりを討たれ大敗、里見軍はこの勝ちに乗じさらに攻勢を仕掛けた!

と、ここに立ちふさがったのが、この軍の大将である北条氏康嫡男・北条氏政である。
彼は遠山たちの軍の敗北を聞くと旗本に

「敵は勝ちに乗じてここまで攻めてくるに違いない!これを断固討つべし!」

そう下知し、少数であるにもかかわらず敵の来襲を待ち構えた。
案の定攻め寄せてきた里見軍を、氏政の旗本衆は勇猛に切り崩す!
その攻勢を止めただけでなく更に押し返し、首四五十を取る大賞を収めた。
この、勝ちに乗じた敵の大軍を、氏政の旗本だけで防ぎきった戦いぶりに、諸卒は
「氏政様は前代未聞の猛大将である」
と大いに感じいった。

さて、氏政は里見を追い返すと直ぐに、父氏康の居る本陣へと向かった。
本陣では未だ氏政の勝利を知らず、諸将を集め遠山たちの敗北にどう対処するかの軍議が行われていた。
そこに入ってきた氏政は先の戦いを報告し

「私は遠山たちが敗北した時、郎党2名を的に紛らせ、向こうの陣中を見てくるようにと命じました。
彼らが帰って報告した所によると、里見軍は遠山たちを討ち取ったことに油断し、その諸軍勢を
国府台に悉く上げ、しかもそこで酒宴を行い千秋萬歳をうたっているそうで、その内の一隊たりとて
敵に備えようとする姿勢すら見えないそうです。

敵が来るとくことを頭から考えず、主人は家来が何処に居るのか、家来は主人が何処にいるのかも
わからない有様だとか。全く、軍規は完全に乱れ、軍隊としての体をなしていません。
これでは義弘の運の末に、災を招かないわけがありません。
今御味方が彼らを急襲すれば、彼らの軍のうち正面の兵は国府台を降りて戦うでしょうが、中軍で
反応できるのは半分程度、後陣にいたってはこの戦いを見物することしかできないでしょう。

しからば、正面の敵は蟷螂の斧に過ぎず、これさえ切り崩せばそれだけで里見軍は崩壊します。
国府台を攻めましょう!私が先陣をつかまつります!」

これを聞いて氏康は考えた。早朝の遠山たちの敗戦は、日の出で朝の光が挿し込むところを、里見軍は
太陽を背にする形で攻め寄せてきた。それに視線が遮られ、それもあって彼らは敗北したのだが、
今は未の刻(午後1時頃)も過ぎ、これからは東にある敵こそ、太陽光線を正面に受ける。

「よろしい!国府台を攻めよ!」

この戦いに北条軍は大勝。里見は多くの重臣や名のあるものを討ち取られた。


北条氏政の奮戦と知略が光る、第二次国府台合戦のお話である。
(鴻台後記)
236人間七七四年:2012/03/10(土) 09:33:19.45 ID:bk4aBLps
これは氏政のイメージが変わるいい話だな。
最後の最後で滅亡したせいでイメージ悪いけど、北条の版図を最大まで広げた
名将のはずなんだよな、氏政
237人間七七四年:2012/03/10(土) 10:06:46.39 ID:3jGOBb4k
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3042.html
まあ、一応、逸話そのものは既出
ちなみに翌永禄7年にも国府台で合戦があったとみられていて、
いままでは1年ほど開きのある両合戦をひとつの合戦として扱われてきた

時系列的には上杉の救援に来た里見勢を国府台で迎撃・撃退
康資の謀反失敗と里見によるその救援と失敗って感じなのかな

まあ、どっちにしろ里見はこれで房総に押し込められるんだけど
槍大膳の息子信茂が生き残っていたら、国府台以後の結果も多少違っていたかな?
238人間七七四年:2012/03/10(土) 16:33:42.91 ID:rxuTqEh7
>>236
武田の版図を最大まで広げた名将→武田勝頼
大内の版図を最大まで広げた名将→大内義隆

こういうのって版図を広げるために無茶をするのが原因なんだろうか。
239人間七七四年:2012/03/10(土) 17:06:52.61 ID:m286eOjF
〜家の版図が最大になってる時って周囲の勢力も巨大になってることが多いからね
240人間七七四年:2012/03/10(土) 17:10:44.15 ID:4zSvJL0n
上の立花さんの話と関連付けるなら、版図の広さにも己の分というものがあるって面もあったろう
元就の訓戒例もあるけど
241人間七七四年:2012/03/10(土) 17:34:09.46 ID:lLG4Kp3L
>>238
この3人が投資トレーダーやったら一気に稼いで一気に破産しそうw
242人間七七四年:2012/03/10(土) 17:44:15.64 ID:F+QGeJxP
>>238
原因 もっと強い奴がいたから
243人間七七四年:2012/03/10(土) 18:26:50.98 ID:UE5C+ZI7
>>238
>大内の版図を最大まで広げた名将→大内義隆
大内の最大版図を築いたのは義弘じゃね?
244人間七七四年:2012/03/10(土) 18:42:41.79 ID:79bp8Zno
義隆の時期は将軍家以上の権勢を誇ってるし
245人間七七四年:2012/03/10(土) 19:42:48.33 ID:5+KAS7a0
小山評定後にアッサリ帰った真田
万石も無ければ、将軍にも媚びない喜連川氏
1万500石でも苗木城持ち遠山氏(金さんの親類)
家光側室の町人だった増山氏 米が取れない松前氏など

【陪臣・喜連川ほか】 「小大名」スレ 2 建てました
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1329412330/l10
246人間七七四年:2012/03/10(土) 22:38:30.21 ID:oD5szhRP
大内は名君を何人も出してるけど早死にしてる印象が
室町期は結構良い当主が続いてるよね
247人間七七四年:2012/03/11(日) 00:12:05.18 ID:8XhthbJx
少弐や大友を相手にして九州で勢力を広げたのはすごいと思うよ
おかげで博多経由の対明貿易でウハウハ
将軍の首を挿げ替えるくらいの影響力を持てたのは、軍事力のみならず財力チートだから
248人間七七四年:2012/03/11(日) 07:11:25.96 ID:H362vKAD
山本常朝
『勝茂公は、いつも、
「いつなんどきでも一万の兵で、
朝鮮に七年在陣できるくらいの用意をしておくべきだ。
それくらいでなければ事も成就しまい。
この次、また外国との戦いが始まったとき、
その用意不足であったということのないように」
と仰せられ、財政、兵糧、のことに大変熱心であった。
会計を扱う役所には、朝鮮在陣の予算が記された帳面もあるということだ』
249人間七七四年:2012/03/11(日) 07:23:37.00 ID:259QrkT0
1万の兵を朝鮮に七年在陣できる用意ってどれくらいを想定してるだろ。
重税となる農民のこと考えてるんだろうか。
250人間七七四年:2012/03/11(日) 07:30:46.37 ID:nSQvUhL1
農民には現地調達させろってことだろうな
251人間七七四年:2012/03/11(日) 07:50:17.31 ID:Zy47v9bq
>>249
兵を減らして、民の税を軽くする。
そりゃ一時的に楽になるが、
外国から侵略されたら地獄を見るぞ
252人間七七四年:2012/03/11(日) 08:02:05.95 ID:sgjepqAp
>>251
「財政、兵糧、のことに大変熱心であった」
とか書いてあるのに、なんで兵なんだよ。

常備軍を置くわけじゃないぞ。
253人間七七四年:2012/03/11(日) 08:41:31.12 ID:aEVHOUnH
鍋島は高禄の分家大量に抱えて藩主の財政基盤弱かったから普段でも苦しかったろうな
254人間七七四年:2012/03/11(日) 08:42:32.20 ID:PcoGMNpL
また口だけ番長の葉隠(笑)か
255人間七七四年:2012/03/11(日) 08:47:57.67 ID:Zy47v9bq
龍造寺さんおはようございます
256人間七七四年:2012/03/11(日) 08:57:59.39 ID:PcoGMNpL
ようヘタレ三流鍋島
257人間七七四年:2012/03/11(日) 10:06:31.81 ID:CJ/f4svu
>>249
>>253
外様の一般的な租税は二公一民で鍋島もだいたい二公一民
二公一民というのは太閤検地での租税率で
朝鮮出兵用の戦力を各大名から吐き出させて維持する為の必要分を算定したもの

だから太閤検地から表高を変えずに税率もそのままなら
とりあえず『朝鮮に兵一万を在陣させる』事が出来る分の単年度予算は最低限確保される
258人間七七四年:2012/03/11(日) 10:20:27.32 ID:JryqpYtz
>>248
これってスローガンだから実際の内情はおそらく違ったんだろうね
でもしっかり財政を管理する指針になるから良いことだと思う
259人間七七四年:2012/03/11(日) 14:07:57.21 ID:aEVHOUnH
二公一民って不作時の年貢減免の時の領主側と村側の損分の負担率じゃなかった?
豊臣家の租税率が二公一民だったわけではないと思ってたんだけど
260人間七七四年:2012/03/11(日) 19:37:56.39 ID:HQ3bK9Dt
損分の負担率ってのが何を指してるのかよく分からないが
豊臣の二公一民は関白殿下が保証する大名の徴税権限範囲を規定したものだろ
一律課税でないのは検見法の運用で自明だ
261人間七七四年:2012/03/11(日) 20:26:49.46 ID:aEVHOUnH
>>260
税を100%取れる年なんて珍しい方で、ほぼ毎年何らかの形で減免の要求が村側から出る
それの調整で織田政権後期に減免量の二公一民化を図っていたっぽい
不作の年に無理やり平年どおりに徴収したら農民逃げちゃうから減免は認めるけど
領主側だけ損分を全部負担するわけにはいかないから損分の2/3に固定するぞってことじゃないかな
豊臣政権もこれを継承している

この二公一民を租税率も同じと解釈する研究者と租税率は別と解釈する研究者が居るんじゃなかったかな
昔読んだ説だから今の最新の説はどうなんだろう
262人間七七四年:2012/03/11(日) 20:49:36.59 ID:cfaPEK+V
あんま詳しい話は他でやってね
263人間七七四年:2012/03/11(日) 21:05:37.73 ID:aEVHOUnH
すまん
その通りだ
264人間七七四年:2012/03/11(日) 22:19:31.10 ID:H362vKAD
>>263
あんたサムライだよ
265人間七七四年:2012/03/11(日) 22:22:46.23 ID:U2JuEww9
小芝居ワロタw
266人間七七四年:2012/03/11(日) 23:49:33.03 ID:X+xLruZo
延々とじゃなきゃ俺は聞きたいよ詳しい話、最近神経質なの多いな。
今日、国府台行ってきたけど女子大やら女子高多いんだな氏政殿にあやかり攻め落としたいものじゃて
267人間七七四年:2012/03/11(日) 23:58:58.25 ID:E8Qu/EDq
>>266
奇遇だな俺も今日嫁子供連れて里見公園にいたぞ
268人間七七四年:2012/03/12(月) 00:20:08.41 ID:FBwhgpDn
オレも税の話には興味そそられたんだが・・・、多少、多少の脱線は大目に見ようやぁ。

史跡とかも結構被害受けたんだろうなぁ。
小田原城の城壁は匠の技で早々に修復したって話を聞いたが。
269人間七七四年:2012/03/12(月) 00:30:20.73 ID:TZMeDNAR
まぁこっち辺りで語ってくれた方が嬉しい人も居るかもしれない

http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1267685156/
270人間七七四年:2012/03/12(月) 00:37:33.10 ID:esPF9Fgq
修復といえば、小早川隆景の肖像画の修復が終わったそうな
271人間七七四年:2012/03/12(月) 00:40:34.93 ID:NBY+hOli
272荒らされたので住人が集まるまで宣伝します:2012/03/12(月) 20:33:13.03 ID:Rr+emi9G
小山評定後にアッサリ帰った真田
万石も無ければ、将軍にも媚びない喜連川氏
1万500石でも苗木城持ち遠山氏(金さんの親類)
家光側室の町人だった増山氏 米が取れない松前氏など

【陪臣・喜連川ほか】 「小大名」スレ 2 建てました
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1329412330/l10
273人間七七四年:2012/03/13(火) 12:17:09.15 ID:cqCta0mb
慶長十四年(1609)、池田輝政の居城、播州姫路城では不可解な怪異が起こっていた。
小刑部大明神というものが城中に現れ、そのため昼夜にわたって静謐という時がなかった。

この為池田輝政は国中から貴僧高僧を集め代わる代わる祈祷をさせたが、そのかいもなく小刑部大明神の祟は
一向に収まらなかった。

と、ここでその頃、圓満寺の明覚阿闍梨道義が殊の外優れた僧であるとの評判を輝政が耳にし、
彼を再三にわたって招致した。最初その招致を辞していた明覚もついに断りきれず、登城し祈祷を行う。

するとこの明覚の前に小刑部大明神が現れ、様々な怪異な姿に変化し明覚を惑わした。
が、明覚はこれに少しも動ずること無く、表情も変えずにこれに接する。

しばらくすると小刑部大明神は怪異の姿をやめ、明覚に対してこのように告げた

「この城内に、八天堂を建立するのだ。さすれば何の恨みがあろうか。」

明覚はこれを聞くと不思議に思って尋ねた

「私は一切経を暗記していますが、あなたの言ったものは聞いたことがありません。”八天堂”とは
一体何なのでしょうか?」

「ただ、名を”八天堂”として、一つの堂を建立すれば、それでいいのだ」

「そういった望みであれば、いと簡単なことです。」

そして明覚は輝政の御前に出て、この事を申し上げた。輝政は早速大工を呼び城内に八天堂なるお堂を
建立。以後、城内に怪異のことは全く起こらなくなったそうである。

姫路城、小刑部大明神の怪異。というお話
(姫陽秘鑑)
274人間七七四年:2012/03/13(火) 20:05:36.39 ID:FIkKbFU0
ただ堂を建てれば良いって
一体何をしたかったのだろうか…
275人間七七四年:2012/03/13(火) 20:38:45.88 ID:BnhQ0bWB
人間の道理が通じないから妖かしなのだよ
276人間七七四年:2012/03/13(火) 21:44:18.30 ID:sw0H6BvQ
姫路はここから発展するんだよ
277人間七七四年:2012/03/13(火) 22:21:39.44 ID:2ag2Di5d
278人間七七四年:2012/03/13(火) 22:25:44.78 ID:3+vATgQV
>>274
敬う姿勢を見せることが大事なんだよ

古事記とか昔話にはこんな話ゴロゴロしてるし
小刑部さんの妹?なんか猪苗代城代を「あいさつに来ない」ってだけで呪い殺してるし↓
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5655.html
279人間七七四年:2012/03/13(火) 22:38:21.69 ID:h09oriPp
>>273
刑部明神も面白い伝承だよな
一応、ぼんやりとした縁起は有って、神様として奉られてるのに、
一般には妖怪だったとして伝わってるという

やっぱり、姫路城自体の起源とかがはっきりしていなく、
さらに支配者が変わりまくったから、どんどん誤伝されてったのかね
280人間七七四年:2012/03/13(火) 22:43:37.46 ID:9DbZxq2U
>>273
「なにそれ聞いたことない、何か希望の様式とかあるの?」
「いや名前名前、そういう名前にしてって話」
っていうやりとりが微妙に細かくてリアルな感じがしてなんか笑える
281人間七七四年:2012/03/13(火) 23:02:31.34 ID:TJwLXqAl
>>273
八天堂って天守にあった神社みたいなことかな?
さい銭箱があって昆布が供えられてた。記帳するノートもあった。
あそこの城の階段は急なんだよな。
宮本武蔵が刀貰う逸話もあったよね。

番町皿屋敷のお菊の井戸も敷地内にあった。
282人間七七四年:2012/03/13(火) 23:14:23.14 ID:NVyoMEcm
>>280
ほのぼのとして良いよね。
283人間七七四年:2012/03/14(水) 00:04:48.75 ID:ZaMfyyet
岡左内の逸話をwikiで見つけたのですが、コピーするのも無粋なので
『雨月物語 貧福論』でググってみてください。
284人間七七四年:2012/03/14(水) 00:13:28.11 ID:ZrXjIjSc
3月14日だし、こんな話を。
「大石信云の土産」

幼い頃に父を亡くした近江国大石の住人・大石信云は、初めは近衛家に仕える外祖父・進藤長治、次いでかつて父と親交の深かった浅野長政によって養育され、浅野采女正長重に仕えることとなった。
また、預けられていた男山八幡宮本坊から得度の前夜に出奔した良云の兄・良勝、初め戸田左門に仕えていた従兄・一定も同じく長重の臣となった。
そして大坂の陣が勃発すると、3人は揃って出陣する。

慶長20年5月7日、浅野長重は、本多忠朝の相備えとして秋田実季、真田信吉らとともに天王寺口の最前線に布陣していた。

その日の戦いは本多忠朝と黒半月の指物を翻した毛利勝永4千との銃撃戦で始まった。
やがて毛利勢が突撃を開始すると、忠朝の前衛の足軽はたちまち追い立てられて70人余りが将棋倒しに討たれ、残る足軽も後陣に崩れかかった。
これを見た毛利勝永は軍を二つに分け、忠朝勢の左右からさらに攻めかかる!
しかし忠朝は左の脇備えで持ちこたえ抗戦したので、勝永はさっと方向を転じて秋田・真田信吉・浅野らの相備七組に襲い掛かっていった。
相備の諸将は激しく揉み立てられ、真田信吉兄弟の備も崩れた。

各々鬨を上げて力戦する中、毛利勢に回避された本多忠朝が突出、小笠原忠脩もまた敵中に乗り込み、自ら手を叩きながら抗戦したが叶わず、忠朝、忠脩ともに戦死、小笠原秀政も負傷して退き死亡してしまう。

この乱戦において浅野長重勢は万死一生の戦いを繰り広げたので、大石一定を含む22人が討ち取られたが、敵の首60を挙げた。
285人間七七四年:2012/03/14(水) 00:15:25.97 ID:ZrXjIjSc
大石信云はこの時首級1を得たが、彼は家老・藤井又左衛門に証人となってもらった上で首を捨てて、更なる勲功を求めて戦場を駆け回った。
しかし、信云は所労のため、陣払いの際に京に留まり療養するはめになってしまった。

が、どうにか回復して江戸に下向、ようやく長重への目通りが叶う。
その際に、彼は皮の枕を「土産」として主君に献上した。

長重は良云の天王寺口での働きを家老の報告によって詳細に知っており、感心すること甚だしかったので
「これは、あの時の敵の首であるな!」と、枕を懇ろに受け取ると、自ら着用の甲冑と、下着等を添え、200石の領地を与えたのである。

一方、大石良勝も首級2を挙げるなどの大功を立てたのだが、故あって故郷・大石に直行し、戦死した一定の妹を娶って3年ほどその地に居住していた。
しかし大坂での働きを知る加藤嘉明と平野長泰の推挙によって浅野家に帰参することとなり、加増を受けた彼は、やがて家老に任じられることになる。

その後も大石兄弟は浅野家に仕え続け、転封となった長重の子・浅野内匠頭長直に従って播州赤穂に移転する。

足軽頭から家老にまで昇り詰めたこの大石内蔵助良勝の、曾孫の名を良雄という。
大石信云の子は大石無人、赤穂義士の後援者として活躍した人物である。

(大石家系図正纂)
286人間七七四年:2012/03/14(水) 00:18:04.46 ID:UxI2M5MJ
>>273
ハッテン堂…?
287人間七七四年:2012/03/14(水) 00:18:59.75 ID:bgTUKg0c
>>283
白話文学の翻案じゃないかな、と思ったけどwikiでは翻案とは書かれてないから
岡左内の逸話であってるのか
288人間七七四年:2012/03/14(水) 00:23:03.77 ID:ZrXjIjSc
しまった・・・。
何ということだ・・・。
信云→良云でお願いします。
289人間七七四年:2012/03/14(水) 00:38:02.64 ID:ZrXjIjSc
乱心してます。
正しくは良云→信云。
大石信云(おおいしのぶこと)です。
本当に申し訳ない。
田村邸で切腹してくるわ。
290人間七七四年:2012/03/14(水) 00:48:42.50 ID:D6qD7RUZ
あら楽し 思いは晴るる 身は捨つる
浮き世の月に かかる雲なし
291人間七七四年:2012/03/14(水) 15:57:09.93 ID:RP6pLKuv
大友家の重臣で、あの武田信玄に『一度会ってみたい』とまで言わせた勇将・戸次道雪は、
柳川状攻めの最中に病死する。時に天正13年(1585)9月11日であった。

さて、その遺言に言う

『我が死体は、立花城にて葬るべし。
五具足を着せ、長刀を添えて、立ったままの形にするべし。』

死してもなお大友家を守らん、との気概であろう。
よって道雪の遺骸は、僅か一千名ほどで筑前の国立花の城に送られた。

その道中には、大友家に対して異心を持つ、野心の武士も多くあったが、彼らもこの葬列は
『あの道雪の開陣である』と心得、葬列に対し矢の一本すら射られることはなかった。

さらに葬儀の時になると、日頃から敵対していいた城主すら。あるいは自ら馬を飛ばし、あるいは遠方のものは
弔いの使者を遣わし、立花城において等しく道雪の死を悼んだ。

この事に人々は、『道雪の死後にいたって、それまで敵対していた人々が、和睦の心を通ぜようとしている。
これは尋常のことではない。』

と、一様に深く感じ入ったとの事である。

”雷神”戸次道雪の、その死後現れた、人々の彼に対する畏敬、についての記録である。
(大友家三代侍附并代々法号)
292人間七七四年:2012/03/14(水) 16:01:08.45 ID:MqJ/7Fxf
坂上田村麻呂も立ったまま葬られたらしいけど、
この遺言は実行されたんだろうか
293人間七七四年:2012/03/14(水) 18:57:32.01 ID:39a3JtoF
294人間七七四年:2012/03/14(水) 19:03:18.86 ID:c0tRlhbh
新潟の雪下しすごい。上杉軍の兵隊は大変だったろうよ
295人間七七四年:2012/03/14(水) 22:52:30.37 ID:MUJ7rU8W
佐々成政「なぁに大したことないさ」
296人間七七四年:2012/03/14(水) 23:33:02.54 ID:P8bMQ9WK
高虎とうまい話


藤堂高虎が伊賀を治め始めた頃であろうか。

ある時、出入りの商人が高虎のもとを訪れ、うまい話を持ちかけた。
「私は、伊賀国の塩を一手に扱いとうございます。
つきましては、もしうちに塩の専売をお許し頂ければ、
毎年銀五百枚を税として上納いたしますが、いかがでしょう?」

それを聞いた高虎は言った。
「お前は我々に物をくれて、我々はお前に金を与える。
そもそもお前はそうして暮らす者であろう。
それが、逆にお前が我々に金を過分にくれるとは、どういうことか。」

「塩を専売させて頂ければ・・・、のお話でございます。」

「塩を専売させれば、塩の値が三倍、四倍になったところで
領民は他所で買うことはできぬ。
お前は我々に毎年五百枚の銀を納めたとしても、
千枚、万枚の利を得るというわけであろう。

これは、お前と我々が一緒に泥棒を働くのと同じことだ。
領民に迷惑をかけて、なんで商人を儲けさせられようか。
領民を不幸にすることは、誰が損をすることになると思うてか。

このような願い出をする者は、即刻、伊賀国を立ち去れぃ!」

高虎は商人を激怒したという。



また、高虎はやみくもに怒ったわけではないようである。
商人は人を騙して利を得ることが常なれど、武人はそれを学ぶべからず、の意を含むのであろう。
                                          (武人百話)
297人間七七四年:2012/03/14(水) 23:45:04.72 ID:jVn5DJ6D
当たり前のことを言っているだけのような気もするが
これで騙される領主などいるのだろうか?
298人間七七四年:2012/03/15(木) 01:10:23.09 ID:BaD66++P
当然のことを当然のこととして処理するのは、
案外難しい
299人間七七四年:2012/03/15(木) 01:25:08.42 ID:9eUA2ZVj
今の政治家でこれだけのことも考えられん奴のほうが多いだろう。
政治家のファミリー企業とかほんと胡散臭い。
土木会社、空港の専属警備会社、委託会社、地方議員だともっと露骨だが。
合法だからアリなんだろう。地方じゃ問題にもならんからなぁ。
300人間七七四年:2012/03/15(木) 07:40:05.36 ID:bV13nwYr
江戸時代には借金のカタに専売を認めるとかザラだったわけだが。
301人間七七四年:2012/03/15(木) 19:32:20.32 ID:vGeg3nA6
家康だったと思うんだけど、
「死ぬ人は先に天国に行ってるだけで、死んだ人も残された人も一緒だよ。」
みたいな歌があったはずなんですがご存じないでしょうか・・。
302人間七七四年:2012/03/15(木) 19:33:02.42 ID:vGeg3nA6
誤爆失礼しますた
303人間七七四年:2012/03/15(木) 19:37:57.86 ID:cN5Nyd1E
>>301
一応答えておくと、家康の辞世の句の一つと言われる

『先に行く あとに残るも同じこと 連れて行けぬをわかれぞと思う.』

ですね。
304人間七七四年:2012/03/16(金) 00:52:25.73 ID:uQM5ToDh
>>303
早すぎ感謝ww
此処の住人はやっぱ優秀だ。
305人間七七四年:2012/03/16(金) 09:12:19.34 ID:4AzurKCN
いやー、それほどでも
306人間七七四年:2012/03/16(金) 10:23:23.72 ID:2Qyr7o/5
そもそも切ったはったの戦国武将が極楽逝けるのか?大河の元就は閻魔様をだましちゃえ!って言ってたが
307人間七七四年:2012/03/16(金) 11:03:15.13 ID:LPBkbP62
阿弥陀仏の無縁の大悲は善悪の分別なく降り注ぐし大丈夫だろ
ちなみに八幡大菩薩の本地は阿弥陀仏
宗教の上でも武士と農民はルーツが同じなのだ
308人間七七四年:2012/03/16(金) 12:00:07.74 ID:MjvXesDU
誰か 書いてたらごめんね 纏めにはなかたようなので
http://www.senganen.jp/nekomori/2011/03/post-1.html
鹿児島仙厳園猫神神社
島津久保公の朝鮮役帰りの猫様を祭る
これより
鹿児島では、茶トラ(黄色の猫)を 年配者はヤス猫という

ひさやすさんの ヤスだったんだねぇ。
309人間七七四年:2012/03/16(金) 12:25:22.31 ID:eH32uaWZ
>>308
猫神社はこのスレでは有名な逸話だ
まとめサイトにあるはず
310人間七七四年:2012/03/16(金) 13:49:59.70 ID:bP7o10Y3
311人間七七四年:2012/03/16(金) 20:46:24.91 ID:MZNZ0V9x
>>251


ミンスの連中に聞かせてやりたい言葉だ。





あ、侵略の手引きしとるだけか。
312人間七七四年:2012/03/17(土) 00:27:42.83 ID:T7hFeBHf
ザルツブルグだっけ?重税して市民のための防壁作ったのは?
313人間七七四年:2012/03/17(土) 01:04:01.87 ID:A4QdRX/4
まとめブログでも似たような論法で政治論議ふっかけてたのが居たが
相手にせんでエエ
314人間七七四年:2012/03/17(土) 07:54:20.20 ID:TC7e/iqc
>>313
国防の重要性など言ってることは間違ってないけど、
たしかに政治議論はスレ違いだな

↓よし、次の逸話お願いします
315人間七七四年:2012/03/17(土) 13:03:38.21 ID:afywaHqA
そーゆーレスが余計なんだっつーの
316人間七七四年:2012/03/17(土) 16:52:02.10 ID:sd3vs+Fk
>>311
自民党は竹島、北方四島、尖閣諸島、全部侵略されるがままだったね。
317人間七七四年:2012/03/17(土) 16:53:26.44 ID:ok5jt9lA
他所でやれと言うのが解からんか
318人間七七四年:2012/03/17(土) 18:22:58.54 ID:nRHtIj8T
匿名掲示板かつ便所の落書なんだから佳いんだよ
319人間七七四年:2012/03/17(土) 18:25:05.89 ID:r7ZtpCnm
言い訳あるか
320人間七七四年:2012/03/17(土) 20:00:46.00 ID:WdE5+nZc
自民党(自由同和会)と民主党(解放同盟)の関係を戦国時代に関連させて言うなら、
西本願寺と東本願寺の違いだろうね
なんだかんだ言ってそのくらいの違いしかねーよ

↓はい、次の逸話お願いします
321人間七七四年:2012/03/17(土) 21:13:28.12 ID:TtzLar+s
いい加減にしろ。
お前ら常識を身に着けるまで書き込むな。
322人間七七四年:2012/03/17(土) 22:04:27.36 ID:I9Z9VjMH
矢印使えばいいってもんじゃない
323人間七七四年:2012/03/17(土) 22:12:09.60 ID:kvsdxu94
自民党の足をひっぱりまくってた左翼とマスゴミのせいだろ
324人間七七四年:2012/03/17(土) 22:24:30.44 ID:I9Z9VjMH
ID変えなくていいから
325人間七七四年:2012/03/17(土) 22:34:41.61 ID:WdE5+nZc
反応しすぎ(笑)
オレは政治の話なんかいらない
戦国武士の話が欲しい
ただ自民党対民主党みたいなプロレスに騙されてる人がいたから、
自民党自由同和会と民主党解放同盟の話をしただけだ。
↓では、次の逸話お願いします
326人間七七四年:2012/03/17(土) 22:41:28.65 ID:TtzLar+s
>>325
二度と来るな。
327人間七七四年:2012/03/17(土) 23:09:33.19 ID:WdE5+nZc
>>326
明治維新以降の本質を言ってなにが悪いのか?
明治以降の話より戦国武士の話が欲しい
↓次の逸話お願いします
328人間七七四年:2012/03/17(土) 23:13:34.08 ID:afywaHqA
スレ違いだから悪いんです。
329人間七七四年:2012/03/17(土) 23:15:31.75 ID:WdE5+nZc
>>328
確かに自由同和会と解放同盟の話はスレ違いだな。
反省するよ
↓では、次の逸話お願いします
330人間七七四年:2012/03/17(土) 23:17:16.56 ID:TtzLar+s
>>329
くどい。
荒らすな。
もう書き込むな。
331人間七七四年:2012/03/17(土) 23:19:28.04 ID:WdE5+nZc
>>330
すまぬがこれだけは譲れねーんだよ
↓次の逸話お願いします
332人間七七四年:2012/03/17(土) 23:20:43.80 ID:afywaHqA
      ハ,,ハ
     ( ゚ω゚ )
333人間七七四年:2012/03/17(土) 23:23:23.11 ID:WdE5+nZc
>>332
すまぬ
迷惑かけてるがこれだけは譲れぬゆえ
↓次の逸話お願いします
334人間七七四年:2012/03/17(土) 23:26:58.37 ID:/MW1s3nM
申し訳ないと思うなら逸話を自分で書いて責任取れ
335人間七七四年:2012/03/17(土) 23:39:37.56 ID:WdE5+nZc
中野杢之助が隅田川でヤクザを斬ったこと

中野杢之助が小舟に乗って涼みに出ると、
同じ船にヤクザ者が調子に乗って船の上から立ちションベンしていた。
杢之助はそれを見て問答無用に、首を斬り落とした。
生クビは川に落ちたから、胴体は素早く人にバレぬようにした。
そして船長には、
「こんことは口外するな。
隅田川の人目のつかんところに、
ヤクザの死体は隠せ。
金ならやるから。」
と言った。
船長は承知して、それ以降、なんの噂も上がらなかったと言う。

葉隠より
336人間七七四年:2012/03/18(日) 02:56:39.11 ID:24AxVwLe
佐竹義宣が八郎潟で猟をした後、義宣が撃った弾が白鳥に命中したものの、死なずに
泳いで逃げたうえ、後を追っていた家臣も白鳥を取り逃がしてしまった。これに苛立った義宣は

「白鳥を取り逃がすとは使えん奴だ!儂が撃ち殺してやる!」

と、この時同行していた家臣の宇都宮帯刀に銃に弾を込めるように命令した。
しかし、帯刀は銃に紙の弾を込めた為に発砲しても家臣は死なず、義宣は益々怒ってもう一度弾を込めるように指示。
すると帯刀は

「銃は平時に人を撃つものではございませんぞ。」

と諫言した。この言葉に我に返った義宣は、家臣を許し、帯刀を

「猟に出て家臣を一人得たのはお前の功績だ」

と称えたという。
337人間七七四年:2012/03/18(日) 03:00:03.41 ID:HcujyE4w
白鳥の後を追っていた家臣っていうのも
実は捕まえる気が無かったんじゃね?
338人間七七四年:2012/03/18(日) 03:02:45.97 ID:GnNxOBxs
干潟とはいえ泳いで逃げたから追った家臣は船でもねぇと追いつかないだろうしな
339人間七七四年:2012/03/18(日) 07:01:34.27 ID:mqjLXVLP
鶴のお吸い物って聞くけど
白鳥って食べてたのかな?
340人間七七四年:2012/03/18(日) 08:14:55.09 ID:OVCW5fx9
>>336
いい話か?…w
341人間七七四年:2012/03/18(日) 09:29:54.04 ID:uyfew7X6
>>339
秀吉が博多の茶会で食べてるらしいよ
あと会津辺りにも記録があるらしい
そんなに珍しいことでもなかったみたい?
342人間七七四年:2012/03/18(日) 12:54:28.17 ID:sO9NNaXa
>>335
さすが葉隠・・・
死狂いは伊達じゃない
343人間七七四年:2012/03/18(日) 13:06:02.15 ID:COuNkRGO
いや伊達だろ
344人間七七四年:2012/03/18(日) 15:17:04.97 ID:tn1PT2P0
大坂冬の陣の布陣図発見、合戦直後に作成か
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120317-00000493-yom-soci

どこぞの大名の作戦立案のための布陣図かと思ったら
市中の人が瓦版感覚で作った布陣図っていうのがなんとも面白い
345人間七七四年:2012/03/18(日) 16:50:23.63 ID:4cthExhU
サッカーのフォーメーションや野球の打順考えるファン並に市中で酒飲みながら論評されてたりしてな
346人間七七四年:2012/03/18(日) 17:19:50.71 ID:71r8N0y1
当時の口コミはすさまじいものがある
347人間七七四年:2012/03/18(日) 20:54:32.89 ID:Yh2hzR8m
>>339
塩漬けにして、主に贈答品に使われたらしい
「しろとり」と呼ばれていたようだ
348人間七七四年:2012/03/18(日) 22:29:52.20 ID:mzZLnm0k
鮭様が仮病をはじめたようです
349人間七七四年:2012/03/18(日) 22:52:28.03 ID:BGiYtDlP
>>347
まむし「なんと!」
爆弾正「これは縁起の良い」
八丈島「早速父上に献上せねば」
350339:2012/03/19(月) 07:29:48.37 ID:6zHsAuUE
>>341>>347
なるほど、全国的に食べられていたんですかね!
塩漬けにすれば日持ちするし

ありがとうございます
351人間七七四年:2012/03/19(月) 14:12:55.78 ID:s5OvXpRq
>>348
無理に最上に絡めなくていいから。
352人間七七四年:2012/03/21(水) 13:07:34.69 ID:Mw6q4DU5
慶長6年(1601)正月のこと。

関ヶ原で没落した丹羽長重の元に、何事か、土井利勝よりの書状が届いた。
これを開いてみてみると、そこには徳川秀忠の内意が記してあった

『内府公(家康)のあなたに対するご機嫌も和らぎ、今こそ復権の機会です。
早々に江戸に出府してください。』

長重はこれを見て甚だ喜び、早速3人の共を連れて江戸へと登った所、芝の町家において不思議なものを見た。
そこには大きな木札に『丹羽五郎左衛門宿』と書かれていたのだ。

不審に思った長重がその家の亭主に尋ねると、亭主曰く「先日、土井大炊頭(利勝)様より、このようにせよと
仰せつかまつりました。」と言う。

そして長重一行はこの宿にて非常な歓待を受けた。そして数日ここに滞留している間に、
小松時代の家臣たちがこの事を聞きつけ毎日のように馳せ訪ね、あっという間に24,5人も集まった。

これも全て秀忠の心遣いであったが、それまでも、家康が長重を許さずにいた間も、秀忠は長重に対し
色々な懇志をずっと示していたのだという。

長重はここでしばらく幽居し、慶長8年3月、常陸古渡1万石を拝領し、ついに大名に復帰した。

(雄藩雑話略抄)
353人間七七四年:2012/03/21(水) 16:02:31.65 ID:KxEtJOQ+
ある時真田信之の近習児玉三助という者が紙子の服で出仕したことがあった。
信之がそれを咎めると、三助は小身ゆえに絹布を調えることもできないと答えた。

そこで信之が「一首吟ずれば金をくれようぞ」と言うと
三助は「いにしへの鎧にまさる紙子には、風のいる矢は通らざりけり」と高吟した。
「約束の金をくれよう」と小判五枚を遣わしたが三助は「約束と違いまする」と言う。
何が違うという信之に三助は「はじめには金を九両と有りしかど、その場になりて五両けんかな」とやり返した。
「くれよう(くりゃう)」と「九両(くりゃう)」を掛けたわけである。

「なるほどそうであった」と打ち興じた信之はさらに四両を遣わした。
354人間七七四年:2012/03/21(水) 16:10:39.79 ID:gQEkI2Ji
>>352
何で秀忠が丹羽にここまでやってくれるかが分からん。
355人間七七四年:2012/03/21(水) 16:23:18.56 ID:UDDredp/
>>353
五両じゃなかったらどう返してたのか気になるな
356人間七七四年:2012/03/21(水) 16:24:37.38 ID:+HX7vOm6
>>353
まとめにあったのと同じかな
357人間七七四年:2012/03/21(水) 16:27:54.93 ID:Z16l+VIV
>>353
あの・・・屁理屈で金たかってません?(笑)
しかもその歌、熊谷直実さんだよね?
358人間七七四年:2012/03/21(水) 16:57:53.74 ID:kBRjxao5
>>354
親父さんと比較される次代の立場にシンパシーでも感じてんじゃね?w
359人間七七四年:2012/03/21(水) 17:02:24.52 ID:Vndyx+ow
年寄役だった中野杢之助は、参勤交代の道中である者に讒言され、
勝茂公の覚えが悪くなり、お目通りを許されなくなった。
勝茂公の病気がひどく重くなったので鍋島常辰が、
「私と志波喜左衛門、そして杢之助は、
勝茂様が御全快なさらぬときは追腹を切ると約束しております。
されば杢之助を御存命中にお目通りかなうようにおはからいくださいますように」
と申し上げたので、すぐに召し出された。
御臨終のとき、鍋島、志波の両氏は、
それぞれ悲しみを表現し、泣いていたが、急に立ち、来客、同藩の者に、
「どなたさまも、古くから御懇意にしていただき、
誠にお礼の申しようもありません。
名残おしめば幾日語り明かしても尽きないでしょう。
『私どもはこれにて失礼いたします』」
と言って通りすぎていった。
いあわせた人はみな涙を落とすばかりであった。
剛勇をもって聞こえた美作守殿さえ声も出せず、
「ああ剛の者よ、剛の者よ」
と言われただけだった。
中野杢之助は最後まで自分を讒言した者のことを憤っていた。
鍋島常辰は家に帰り疲れを休めるため行水し、
しばらく寝て目が覚めてから、
「枝吉利左衛門がくれた毛布を敷いてくれ」
と言い、その上で腹を切った。
介錯は三谷千左衛門だという。
ある人に聞いた話だが、杢之助のいつも持っていた扇子に歌が書かれていた。

惜しまるる とき散りてこそ 世の中の
花も花なれ 人も人なれ
360人間七七四年:2012/03/22(木) 05:08:55.40 ID:fiHwp7T3
既出ネタ混ざってますが

関ヶ原の戦いで徳川秀忠が遅参したのは周知の通りだが、家康は怒って秀忠と会うことを拒んだ。
榊原康政も本多正信や大久保忠隣らと秀忠に従っていたが、家康と秀忠の対立を恐れた康政は家康に会いに行き、
「真田昌幸の上田城攻めを行なっていたのは、江戸から秀忠の美濃方面への進軍を命ずる使者・大久保忠増の到着が遅れたからです!」
「木曽路もまた天候不順で進軍がままならなかったのです!なにとぞ、秀忠公とお会いくだされ!」」
と直訴し、秀忠との面会を乞うた。
本多正純からも同様の陳情がなされ、とうとう家康は使者大久保の遅れを確認しこれを認め、秀忠を労った。

関ヶ原の戦いから一段落した後、軍監として豊臣恩顧の諸侯を統制し、関ヶ原でも抜群の功を上げた本多忠勝・井伊直政と康政が酒を酌み交わすことがあったが、
本多井伊も康政の家康秀忠の仲介こそ一番の功だと康政を労ったそうな。

さて、家康は康政の功を賞し、水戸への加増転封しようとしたが戦功がないと康政はこれを拒否した。
また危うく廃嫡されかねなかった秀忠も康政に感謝し、家康父子は榊原家を粗略に扱わないと約束した。

ここからは江戸時代の康政死後の話になるが、この時の康政の功はやがて生かされることになる。
まず、康政の次男榊原康勝が夏の陣で奮闘のすえ病没したが、この時家老たちは康勝に子はいないと申告した。(本当はいた。)
末期養子が認められていない当時、通常なら改易だったが、平岩家同様、家康は改易を渋り、康勝の兄で大須賀家を継いだ忠政の子(榊原忠次)に榊原家を継がせた。←これで大須賀家断絶
しかし、後に康勝に子がいたのがバレてしまった。しかしそれでも家老だけの処分で済ませ榊原家を咎めることはなかった。
それどころか、姫路十五万石に加増され、井伊直孝の後釜で幕政にも参与した。忠次自身は姫路の新田開発を推進し、和歌を詠む風流人だった。
そして、本来榊原家を継ぐべき康勝の家系(榊原勝政)が不憫だということで旗本に取り立てられた。ただ勝政は加増の予定もあったのに高野山に若くして隠遁してしまった。
ちなみに勝政は立身前は祖父康政と交流のあった加藤清正の子忠広の元で預けられていた。

更に後、榊原忠次(忠政系)の家系が尽きてしまった。
すると今度は康勝系の勝政の孫が榊原本家を相続した。ちなみにちゃっかり旗本榊原家も存続している。

もちろん、康政の関ヶ原の功だけでこのような厚遇が得られたわけではないだろうが、譜代でもあっさり取り潰されてる当時、
家康秀忠の「粗略にしない」という言葉だけで家を保てたともいえる榊原氏は、幕末越後高田藩として一部藩士が彰義隊となった他は官軍に味方した。
361人間七七四年:2012/03/22(木) 06:21:18.04 ID:7UCnkkj2
>>360
官軍になる前に、第二次長州征伐芸備口で井伊家と共に先鋒をつとめて粉砕されたことも書いてやれよ…
362人間七七四年:2012/03/22(木) 11:02:08.37 ID:kW1qKrm5
しかし、本多忠勝の家も榊原康政の家も優遇された類なのに、ひどい体たらくだな
363人間七七四年:2012/03/22(木) 14:22:55.76 ID:PQe7tSLa
武勇→優遇→おぼっちゃま化→叩き上げの新興勢力にやられる(最初に戻る)

歴史はこれの繰り返しみたいなとこがある。
もちろん例外もあるかもしれないが
364人間七七四年:2012/03/22(木) 14:51:22.67 ID:7vpl4NFc
>>363
支那だと北魏、遼、金、元、清の歴代王朝がそんな感じだ
365人間七七四年:2012/03/22(木) 15:12:01.47 ID:2MkI94oD
全部トップの責任にするのはさすがにどうかと
366人間七七四年:2012/03/22(木) 15:19:31.86 ID:PQe7tSLa
>>364
なるほど

自分で法則言っておいてあれだが、
井伊家は井伊直弼までは矢面立っていたから凄いよな
対する島津家も鎌倉以降多少の浮き沈みはあっても大きく没落することはなかったな
名実ともに長年名門でいられる秘訣は何処にあったんだろう?
367人間七七四年:2012/03/22(木) 16:00:41.58 ID:fiHwp7T3
本多家も榊原家も跡継ぎでガタガタ揉めそうな感じだったからね。
榊原家は>>360な感じで忠政系と康勝系が入れ混じってたり幼君だの早世だのが多い。
吉宗の代だって尾張徳川と一緒に倹約令無視して姫路から高田に左遷されたし。

本多家もいちど宗家が断絶した時に大きく減封されてるし、転封も絶えない。

それに比べたら井伊さんずっと彦根だからね。島津もずっと薩摩だったのは言うまでもないことだし。
368人間七七四年:2012/03/22(木) 19:27:01.80 ID:5xjJgmaB
榊原家は康政の甥の照久も
久能山に祀られた家康の墓守となる神官として従二位を与えられ優遇されたよな。
家康の寵臣で照久の膝を枕に没したとの逸話も有るくらいだし。
井伊家も直孝が大老になったりで優遇され、本多家も忠勝の孫に千姫を再婚させるなど
家康から近い所で破格の対応をされている。
369人間七七四年:2012/03/23(金) 18:14:34.51 ID:Ijxnn3bF
大坂冬の陣の時、徳川秀忠の部隊が大坂方の軍勢に攻め立てられて惨敗し、多くの兵が戦死して
淀川の河川敷に打ち上げられた。そこへ唐崎村の船頭の平六という男がやってきて、兵の死体から
金品を盗み取って稼いでいた。そして、川中の洲に頭を突っ込んでいる土左衛門が立派な刀を持っていたので
奪い取ろうと近づくと、その土左衛門はまだ息があったので急いで助け出して看病した。
 平六が助けた武士は何と二代将軍徳川秀忠であった。
 大坂夏の陣が終わって情勢が落ち着いてくると、秀忠は恩人の平六を呼び出した。
秀忠「平六。おもてをあげい。会いたかったぞ」
平六「わしも会いたいと思うてました。助けた時に貸した甚平、まだ返してもろうてないからのう」
秀忠「うむ、甚平は返す。他に欲しいものはないか? 助けてもらった礼として そなたにつかわす」
平六「わいは船頭やさかい、舟がぼろぼろになっているから舟一丁くれや」
秀忠「あいわかった。それだけで良いのか? わしは天下の将軍である。命の恩人には望み次第につかわしたい」
平六「ほーか、それなら言おう。わしら淀川の船頭は言葉が汚いと言って、侍が無礼者呼ばわりして
   斬りつけてくるんじゃ。あれを何とかやめさせてほしい」
秀忠「あいわかった。もっともである」
 秀忠は「淀川の船頭が汚いからといって刀を抜いた侍は切腹の上、お家断絶である」という書き付けを平六に渡した。
言葉遣いについて将軍の許しが出た後、淀川の船頭は言葉が汚いのが名物になって繁昌したそうである。
370人間七七四年:2012/03/23(金) 18:16:27.48 ID:QyZTxs3F
これは司馬さんの小説のなんかで出てきたおぼえあるわー
371人間七七四年:2012/03/23(金) 19:45:48.67 ID:XZZwbUJ3
>川中の洲に頭を突っ込んでいる土左衛門
犬神家をとっさに連想した
372人間七七四年:2012/03/23(金) 20:22:53.76 ID:g6d8lAVy
いかにも司馬遼太郎の考えそうな話だな・・・
373人間七七四年:2012/03/23(金) 20:50:51.00 ID:PyQ/bFDY
もっともらしい話を作るのが上手いんだよねw
司馬ぐらいのホラを吹ける小説家はもういないか
374人間七七四年:2012/03/23(金) 21:06:05.81 ID:1oQ40Y51
>>362
結局四天王で最後まで頼りになったのは、酒井忠次の家だったな。
375人間七七四年:2012/03/23(金) 21:33:06.96 ID:lWLryjXP
そういう後日談が綿々と続くのが歴史語りの面白いとこだね
376人間七七四年:2012/03/23(金) 22:10:11.15 ID:g6d8lAVy
>>373
もっともらしいというか、
微妙に自分の理想をさも史実のように挿入する
個人的には二度と出てきて欲しくないタイプの作家
大衆小説として最高に面白いだけに
377人間七七四年:2012/03/23(金) 22:18:00.29 ID:TSSf4XiN
>>376
だいたいが小人物な悪役を主人公がそれをスカッとやっつけるパターンなんだよねえ>司馬小説

いるいるこんなイヤな上司ってタイプを悪役にもってくるんだよ
378人間七七四年:2012/03/23(金) 22:21:40.47 ID:JlH3zGjI
何だこの展開。
司馬を毛嫌いしてるの多いのか。
小説家に何を求めてるんだか。
史実と小説をごっちゃにする奴が悪い。
読み手の問題だろうに。かって言うな。
379人間七七四年:2012/03/23(金) 22:27:39.10 ID:zjwkTP57
http://ja.wikipedia.org/wiki/くらわんか舟
これだと助けられたのは家康になってるけど、初出は難波戦記あたりらしい

380人間七七四年:2012/03/23(金) 22:59:52.53 ID:g6d8lAVy
>>377
オレはそういう感想は持ってない。
大衆小説のなかにさも史実なように脚色するのが嫌なのさ。
史実と小説一緒にして騙されるほうが悪い論では、
すまないような書き方してるとこあるよ
あの司馬さんは
381人間七七四年:2012/03/23(金) 23:05:09.10 ID:QyZTxs3F
創作で史実のように脚色するって当たり前以前の話なんスけど
382人間七七四年:2012/03/23(金) 23:15:32.99 ID:LgVmBIkq
このスレの話を真に受けちゃうようなのも駄目だけど
疑いすぎたら楽しめないからほどほどにな
383人間七七四年:2012/03/23(金) 23:18:14.60 ID:g6d8lAVy
大衆心理を自身の戦争体験をもとにして、
司馬自身の思想に誘導するような文章を書く天才
だからオレは嫌
他の作家の脚色とは異質にオレは感じるスね
それでも新太閤記の秀吉さまの子供時代は大好きだな
384人間七七四年:2012/03/23(金) 23:24:38.87 ID:9KvUAMN8
司馬遼太郎は影響力がありすぎてあえて読まない、
万人が考える竜馬とか土方とかほぼ司馬だろう、
それだけ作家としての才能が凄いんだろうが、取り込まれるのが怖い。
385人間七七四年:2012/03/23(金) 23:45:15.18 ID:KJ7UnLbs
司馬遼創作といったらwikiの光秀項にも載った「キンカ頭」のことが思い浮かぶけど
巷に流布してる武将の逸話なんかも軍記物の創作だったりする場合が多いから
江戸〜現代まで、どの時点までの創作を逸話として許容できるかって話になるかな

>>384
義経記の作者(一人じゃないだろうけど)と同じレベルで史実と乖離した人物像を一般化させたのは
確かに戦後では彼ぐらいだと思う
386人間七七四年:2012/03/23(金) 23:59:07.22 ID:g6d8lAVy
>>384
戦後、人気の歴史HEROと言えば信長、竜馬だけど、
竜馬人気は確実に司馬遼太郎の力だよな
司馬作品の独特のクセとコッソリ司馬思想導入が嫌なんだけど、
峠や燃えよ剣、読むと気合い入るのは認める
387人間七七四年:2012/03/24(土) 00:22:40.09 ID:jUXvWvb7
200年も経てば、司馬作品の中のエピソードも史実と同じ感じで語られてるってことだわ

というか、多分司馬作品は200年後もおそらく文献として残ってると思うが、
もっとマイナーな作者の作品のなかのエピソードとかどうなってるかわかんねわなぁ〜
388人間七七四年:2012/03/24(土) 00:33:57.10 ID:NBz6mScN
真田幸村みたいなもんだな
389人間七七四年:2012/03/24(土) 01:40:57.30 ID:kAzeNOjO
幸村はある意味正史の存在だからな…
390人間七七四年:2012/03/24(土) 04:15:44.27 ID:09YkLgpw
西郷さん薩長同盟のとき竜馬をイマイチ信用してないんだよなあw
391人間七七四年:2012/03/24(土) 04:45:52.61 ID:DHT0bOLs
厨二って司馬史観とかいって馬鹿にしたがるよね
392人間七七四年:2012/03/24(土) 05:19:48.60 ID:eJ/liSsu
そりゃ高二だろう
厨二なら判官贔屓の司馬節とは相性いい
393人間七七四年:2012/03/24(土) 06:48:04.35 ID:F8SZbvy0
司馬がいなければ北方が替わりだったって程度かな
あと思想と史観が混同されているような

思想も入っているというならば
先に史観に対する思想的な批判を受けてのものだろうという気もする

ここで批判している人間に
自他の史観に批判をしたこともされたことも無いっていうのがどれくらいいるだろうか
394人間七七四年:2012/03/24(土) 06:50:41.27 ID:F8SZbvy0
ところで>>369の難波戦記面白いけど
秀忠が惨敗したのは冬の陣でいいの?
395人間七七四年:2012/03/24(土) 08:27:02.72 ID:ff6Bzy8M
2ちゃんで司馬批判をしてる人って感情的で面白い
小説なんか、面白いか面白く無いかだけでいいんだよ
どんな傑作を読もうが、自分の人生や思想に何の影響もない
396人間七七四年:2012/03/24(土) 09:18:05.34 ID:gls/6TXm
趣旨はわかるが、影響を受ける人間はおるじゃろうにw
397人間七七四年:2012/03/24(土) 09:53:52.51 ID:AonDmINs
司馬遼太郎は娯楽物出身で、たまたま真面目っぽいのがうけて、そっちに転向した人ですよ
久米宏や古館伊知郎と同じ
398人間七七四年:2012/03/24(土) 10:08:34.56 ID:iFwm6R6f
確かに司馬の話を真に受けるのが一番問題だね。
ほんと真田昌幸幸村父子もそうだが、どうでもいいのが過剰評価されちゃう。

小説としては大好きですハイ
399人間七七四年:2012/03/24(土) 10:57:08.36 ID:sbmYM6C0
秋田藩二代藩主、佐竹義隆公の時代のことである。
そこに小貫五左衛門という、微禄の藩士がいた。
五左衛門は妻が幼い娘を残して死んだ。しかし貧乏な上に頼れるような親族もおらず、
一人で娘を育てていた。
城詰めの宿直などがあるときは、娘を葛籠に隠して城中に連れ入った。同僚たちはこの事を知っていたが、
彼に同情して見て見ぬ振りをしていたという。

ところがある時、宿直の夜、まだ4歳であった娘が夜泣きをし、こともあろうかその鳴き声が、藩主義隆公の
耳に入ってしまった。

すぐさま事情は究明された。無断で城中に娘を連れ入れてしまっていたのだ。小貫五左衛門はじめ同僚たちも、
定めし重い処罰がなされるだろうと、皆戦々恐々としていた。
そのうちに義隆よりのお達しがくだされた。そこには、こうあった。


『娘が成長するまで、小貫五左衛門の宿直は免除する』


そして小貫五左衛門や同僚たちへのお咎めは一切なかったそうだ。
(黒甜瑣語)
400人間七七四年:2012/03/24(土) 11:01:54.98 ID:DHT0bOLs
いい話だけど現代ならまちがいなく出世コースからは外れるだろうね。
仕事任せたくとも任せられないし。
401人間七七四年:2012/03/24(土) 11:13:16.58 ID:NlMSR2gr
後の子連れ狼である
402人間七七四年:2012/03/24(土) 11:34:44.71 ID:osEZtxOS
クレイマークレイマーのダスティン・ホフマンを思い出した
ホフマンは育児に傾倒して離婚裁判中にクビになったっけな
403人間七七四年:2012/03/24(土) 11:36:50.68 ID:5f7HNkWT
>>399->>400
明治以前は金の支払いは年末だけだったらしいからな。
ゆったりした社会だったんだよ。
幕末に越後屋(今の三井財閥の祖)が店頭売りを始めた。
ここから瞬時瞬時町なかで金が飛び交うようになっていったそうだ。

ここからは陰謀論だが、三井は古代ユダヤ系渡来人らしいぞ(笑)
宇野正美が言うにはさ
404人間七七四年:2012/03/24(土) 13:29:17.45 ID:jWhDnIq7
>>397
でも梟の城とかなんとか幻術師とか公家侍のお話とか
面白いんだよな。
405人間七七四年:2012/03/24(土) 14:25:42.81 ID:a15XJm0g
宇野正美w
406人間七七四年:2012/03/24(土) 15:57:25.16 ID:oAc8BpWY
阿蘇神社の大宮司家はその名とは裏腹に阿蘇外輪山の外側、矢部に城(岩尾城)と館(浜の館)を構えていた。

この矢部も戦国末期になると島津の侵攻にさらされることになり、
阿蘇大宮司家の幼い兄弟(惟光と惟善)は浜の館から逃れることになる。
このとき逃亡先として阿蘇内輪や豊後などの意見もあったが侍女の小宰相が
「私の田舎(目丸)は草深きところ、そこなら追っ手もおよびますまい」
と提案した事により目丸(浜の館から直線で10数キロ離れた山中)に逃れる事になった。
目丸では当時4歳の惟光と惟善兄弟を2年にわたって匿う事になる。

秀吉の九州征伐により惟光兄弟は浜の館に帰り咲き、兄弟を匿った目丸の山崎家にはその後莫大な恩賞が与えられた。
@肩付茶入「松風」(大宮司家が後奈良天皇勅使烏丸中納言より下賜されたもの)
A惟光用の鎧(子供用)
B琵琶、手鏡、こうがいetc
さらに目丸地区の全家に阿蘇家の家紋「鷹の羽」の使用と郷士の身分が与えられた。
目丸地区では村人全員が島津の襲撃に備え男は「棒術」を女は「薙刀」を身につけており、
郷土芸能「目丸の棒踊り」はこの棒術稽古の名残と言われている…



まあ現在の目丸地区が民家10数軒の限界集落モドキなのは余談
407人間七七四年:2012/03/24(土) 16:02:39.93 ID:oAc8BpWY
余談その2

その後の惟光兄弟は九州征伐後、阿蘇家がとり潰されたため惟光は加藤家に惟善は小西家に預けられる。
しかし惟光は何故か梅北の乱に関わっているとされ、秀吉の命で切腹している。
惟善は関ヶ原後に加藤清正の庇護を受け、徳川幕府より阿蘇大宮司職(一千石)に返り咲いた。
408人間七七四年:2012/03/24(土) 16:33:25.84 ID:wrNJS7ty
>>407
小西家に預けられたコレ善が清正の庇護うけてんの?
これって逆じゃないの?
409人間七七四年:2012/03/24(土) 18:03:34.12 ID:oAc8BpWY
>>408
惟光と惟善の預け先が逆じゃないかって意味かな?
惟光は加藤家であってる。
惟光は加藤領の熊本花岡山で切腹してる。

この花岡山は清正公が何度も訪れて座っていた石とか、西郷隆盛軍が砲台を置いた跡とか、神風連の乱の際の官軍方の墓とか色々歴史遺産があるんだけど、
朝鮮人集落が出来たせいで今は中腹までラブホ街って残念な結果になってる。(東大教授のカンサンジュンもここで育った)
410人間七七四年:2012/03/24(土) 18:11:54.12 ID:NBz6mScN
>>408
ヒント  関が原後
411人間七七四年:2012/03/24(土) 20:33:58.83 ID:kAzeNOjO
肥後一国を治めるなら阿蘇神社との関係は大事だ罠。
412人間七七四年:2012/03/24(土) 22:13:33.08 ID:7ItA0jxh
肥後の国人ってたいていひどい目にあったNE!
413人間七七四年:2012/03/24(土) 22:29:57.98 ID:Ms2LYsAm
城氏とか小代氏、名和氏辺りは大坂にいたおかげで難を逃れたけどね。
まあ小代氏は津奈木に飛ばされ、名和氏も筑前、城氏も筑後に飛ばされたけど
414人間七七四年:2012/03/25(日) 00:11:10.49 ID:XyreI16B
>>412
立花さんにもボコされたし・・・
415人間七七四年:2012/03/25(日) 01:04:36.41 ID:jIjHDLnk
信長像、10年ぶり確認 金沢・泉野菅原神社
http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20120313104.htm

金沢市野町3丁目の泉野菅原神社が所蔵し、10年以上にわたって所在不明となっていた県内唯一の「織田信長画像」が12日までに、
見つかった。
同神社が2000(平成12)年に火災に遭った際、ご神体と宝物を預かった同市本多町3丁目の石浦神社で確認された。
泉野菅原神社は1月に拝殿が再建されたばかりで、氏子らは画像とともに信長ゆかりの神社として広めていく。
発見された「織田信長画像」は、布袴(はかま)姿の信長が畳の上にしとねを敷いて座する姿が描かれ、掛け軸に仕立てられている。
作品に書き加えられる「賛(さん)」がなく、描かれた時期や作者は不明だが、県立歴史博物館によると、県内で唯一の信長像として伝えられる。

泉野菅原神社はもともと、加賀藩2代藩主前田利長の正室永姫(玉泉院)の父である織田信長を徳川幕府時代にひそかにまつっていた
珍しい神社。
織田信長画像は火災の混乱もあって不明となり、当時の宮司も亡くなったことから所在が確認できなくなっていた。

同神社は氏子らの浄財により再建が進められ、今年1月に完成した。14日に執り行われるご神体を戻す神事を前に11日、石浦神社で氏子らがあらためて宝物を確認したところ、信長画像が見つかった。

責任役員の越田智弘さん(73)は「神社再建に合わせて、思いがけず信長像が見つかり縁を感じる」と話した。
泉野菅原神社の現宮司である石浦神社の長谷吉憲宮司は、画像の詳細が不明なことから、専門家に調査を依頼する方針である。

ご神体を移す遷座祭は14日午後7時から行われる。
ご神体を乗せた神輿とともに、神職や責任役員が列を組み、たいまつを掲げて石浦神社から泉野菅原神社までを歩く予定で、近隣住民に神社復興をアピールする。

416人間七七四年:2012/03/25(日) 01:19:47.84 ID:r3MJRmKg
>>415
石浦神社で氏子らがあらためて宝物を確認したところ、信長画像が見つかった。

ん?
417人間七七四年:2012/03/25(日) 08:45:32.47 ID:oNuc8to8
>>394
淀川の船頭の話は高槻周辺の昔話をまとめた本を参考にして書いたのだが、それには冬の陣でボロ負けした時の
話と書かれていた。秀忠がお礼をしたのは夏の陣の後となっていたので、礼をするまで時間がかかっているなと思ったものだ。
418人間七七四年:2012/03/25(日) 09:04:46.50 ID:4Xw68j8D
しかし、難波戦記はよく徳川幕府の時代に出版できてたよね。
大坂方を持ち上げて秀忠をディスなんて、版元ごと潰されそうなもんだが。
419人間七七四年:2012/03/25(日) 19:23:01.36 ID:yxDmPqvw
ある程度の息抜きは認めないと
420人間七七四年:2012/03/26(月) 02:17:40.13 ID:j+J05nrl
徳川幕府の最後がなぁ・・・。
兵器差あってもあそこまでボロ負けは人材いなさすぎる。
250年続いた平和ヴォケとは怖いなぁ。

今の平和ヴォケした日本に
気概のある政治家、軍人がいてくれるといいんだが。
421人間七七四年:2012/03/26(月) 02:27:05.11 ID:7EzmzSkl
何かあったら徳川幕府よりも醜態晒すだろうな
422人間七七四年:2012/03/26(月) 02:41:12.58 ID:U9X32x3w
「お父さんたちはどうして竹島を取り返そうとしなかったの?韓国はそんなに強かったの?」
「いや、日本は韓国より強かったよ。お父さんたちは悪い事はしたくなかったんだ」
「でも、それで島を取られちゃったらダメじゃない?」
「うん、そうだね。お父さんたちは馬鹿だったんだよ」
423人間七七四年:2012/03/26(月) 05:25:48.73 ID:SEd5npfz
憂国してますか?
424人間七七四年:2012/03/26(月) 07:16:57.24 ID:02mo49XW
イエス憂国
425人間七七四年:2012/03/26(月) 09:20:13.94 ID:+5KE+75n
今の平和ヴォケした日本に
気概のある革命家、闘士がいてくれるといいんだが。

「おじさんたちはどうして格差を正そうとしなかったの?資本家はそんなに強かったの?」
「いや、市民は資本家より強かったよ。おじさんたちは悪い事はしたくなかったんだ」
「でも、それで結婚できなくなったらダメじゃない?」
「うん、そうだね。おじさんたちは馬鹿だったんだよ」
426人間七七四年:2012/03/26(月) 09:33:39.86 ID:7nAfP8Wx
サヨクまで登場しだしたな(笑)
信繁さんの言うように、そう簡単に敵方の悪口を言ってはいけないんだよ。
右が貶せば左が現れ、左が貶せば右が現る、だよ
427人間七七四年:2012/03/26(月) 09:47:01.95 ID:7nAfP8Wx
日本刀における鍔は防具として重要だった。
鍔は柄を握る拳だけでなく体全体を保護すると言っても過言ではない。
それだけに侍は鍔には堅く粘りある鍛鉄を使うことが多かった。
それが常識でもあったのだが、
柳生十兵衛は、鍔に赤銅を使っていた。
不思議に思い、これを十兵衛に聞いた人がある。

「銅の鍔では斬りあいの場で、相手の刀に斬りおとされませんか?」

十兵衛
「私は鍔を使いません。
ですから、有っても無くとも同じです」

と答えたという
428人間七七四年:2012/03/26(月) 09:48:24.59 ID:50m6cLxf
>>420
人格のバランスとか事務処理能力って点からみたら幕府の役人のほうが人材いたぞ
429人間七七四年:2012/03/26(月) 10:39:26.69 ID:PJjatf9s
幕府が結んだ条約より、倒幕新政府の奴らの条約の方が不平等だったしな
430人間七七四年:2012/03/26(月) 11:13:33.50 ID:7vSGkZvX
実際のところ、新政府にも幕府の人材が相当流れてるしな。
431人間七七四年:2012/03/26(月) 11:14:13.46 ID:7HtNyiAv
鎖国=国際情勢に無知
ではないのよね。

清朝が白いキリスト教徒に貪られてる
最中だったしな
432人間七七四年:2012/03/26(月) 11:43:58.70 ID:G9NtE2xu
>>427
肋三寸、相打ちは相打ちに非ずって人だからな
皮一枚切られようが先に骨ぶった切っちゃえば勝ちだもんねって凄い考え、さすが音無十兵衛
433人間七七四年:2012/03/26(月) 13:24:58.76 ID:7nAfP8Wx
>>432
同じ一族でも柳生連也は鍔を重視していたらしく、
柳生鍔という強度、デザインともに優れた鍔を作っているから面白い
434人間七七四年:2012/03/26(月) 14:18:44.21 ID:QFevPqLG
>>427
俗に武蔵鍔と言われるナマコ透かしの鍔も
鍔としての用を損じるほど透かしを大きくすることによって
鍔に頼って敵の太刀を鍔元近くで受けることを戒める
武蔵の教えを現した物と聞いたことがある。
435人間七七四年:2012/03/26(月) 18:39:30.24 ID:Dyw1+gkD
柳生さんの家は元服のちょっと前に一人旅に出されるんだっけ?
436人間七七四年:2012/03/27(火) 22:47:17.35 ID:JKyraBzP
天文法華の乱って戦国時代だよね?
何か逸話みたいなのありませんか
437人間七七四年:2012/03/28(水) 15:22:52.75 ID:714QvajF
信長が道三が討ち取られた戦で、一人(天理本信長公記。他系統だと僅かな供回りと)で殿軍したって話はガイシュツ?
ドラマとかだと、大抵は援軍自体が間に合わないって流れになってるけど。
438人間七七四年:2012/03/29(木) 13:11:26.74 ID:c/uzP+DV
山本常朝
『光茂公は、他人の悪口を言う人間が深くお嫌いであった。
呼ばれた家臣が遅れているときに、
「あの者はまだ来ていないのか?」
と、お尋ねになられて、
「まだ来てないですね」
などとお答えすると、
「その方は仲間の者を陥れる気持ちがあるようだ」
と言われたので、
出仕が遅れたときでも、
「どうしたのでしょうか。これから見てまいります」
と言って、使いの者を走らせたということである。
また、
「このような不都合なことをしたのはあの者であるか?」
とお尋ねになったときも、誰々です、と答える者はなかったとのことである。
またあるとき、家臣の伜たちに能の稽古をしていた田中覚兵衛に、
「伜どもは、よく稽古しているか?」
とお尋ねになったところ、
「まだガキでございますから、真面目に稽古もいたしませぬ」
とお答えした。
すると光茂公はおおいに立腹され、
「子供たちを讒言するとは何事ぞ!」
と仰せになり、覚兵衛は浪人を命じられたとのことである』
439人間七七四年:2012/03/29(木) 13:23:00.41 ID:RDqhIMCR
>>438
なんかめんどくせーなー世間話もできない
主君と口をきく時はそれくらい気をつけるべきだということで
暗に君主権の確立を言っているんだろうか
440人間七七四年:2012/03/29(木) 13:42:20.92 ID:zO2tWeqb
正直者がどんどんいなくなりそうだな
441人間七七四年:2012/03/29(木) 14:33:54.19 ID:5wYnrfXs
>>438
戦国時代なら3日で滅ぶレベルの暗君
442人間七七四年:2012/03/29(木) 15:46:15.26 ID:k/ylPaMy
三河武士だったら逆に言い返して主君がいじけるまで罵り続けるんだろうな
443人間七七四年:2012/03/29(木) 16:04:34.07 ID:zfBZS9wQ
>>438
黒田家なら大殿の足元どころか若殿の足元にも及ばぬ愚物よと面罵された挙句浪人命ずる前に退転されるレベル
444人間七七四年:2012/03/29(木) 16:16:18.90 ID:FdSDoLkr
>438
父親が浪人になった子供達がすごく可哀想です。
445人間七七四年:2012/03/29(木) 16:27:55.80 ID:NGmPyFja
先祖代々同じ土地同じ主君に仕える者が多い時代と、
生まれも育ちも違う人間が色んなところから集まる現代企業とも違う。
一概に暗君とするのもどうだろう。
戦時から平治への継ぎ手として、
追腹(殉死)禁止の決定などの大きな仕事をした人だし。
豆知識だが、光茂の追腹禁止は幕府より先
446445:2012/03/29(木) 16:34:01.71 ID:NGmPyFja
訂正します

生まれも育ちも違う人間が色んなところから集まる現代企業とも違う

生まれも育ちも違う人間が色んなところから集まる現代企業とでは違う
447人間七七四年:2012/03/29(木) 16:40:42.67 ID:npynh1lB
謙遜とか軽口の類で禄を奪われちゃあ暗君って言われても仕方ないべ、しかも息子で
448人間七七四年:2012/03/29(木) 17:18:54.11 ID:7/JKjEvN
追腹禁止は幕府より先と言われても…
キリシタンみたいな事すんなよ、としか思えんな。
449人間七七四年:2012/03/29(木) 18:16:31.41 ID:+8rb9o+m
>>438

仲間の者を落としいれる云々から
つまるところ能の稽古をつけていた覚兵衛の言葉に対して
家臣の倅共がまじめに稽古していないのは
覚兵衛の指導が悪いから怠けるのであって監督不行き届き
それを棚に上げて家臣の倅を悪く言うと
倅をバカにされたその親である家臣の機嫌も損ねて家中不和の元になる
よって田中覚兵衛を追放する・・・って理由かな?
この田中覚兵衛って加賀藩の寺津用水の人かな?
微妙に浪人とか年代とか被るんだけど浪人させた時の光茂の年齢が若過ぎるし
450人間七七四年:2012/03/29(木) 19:19:42.20 ID:GZJQ477L
自分の息子のことを「愚息が〜」って謙遜したら首にされそうだな
451人間七七四年:2012/03/29(木) 19:24:10.97 ID:k/ylPaMy
贈り物を「つまらない物ですが〜」で斬首か
452人間七七四年:2012/03/29(木) 22:26:54.83 ID:7SWeA+F6
流石に>>450-451あたりは違う話じゃないか
他人への悪口、それに類する発言を嫌ってたという話だから
謙遜は特に問題ないでしょ

覚兵衛の事案に関しても他人の子供を批判する発言なわけで
これは謙遜とは言わない

かといって、このやり方が正しいとも思わんが
453人間七七四年:2012/03/30(金) 04:41:05.16 ID:r+Jqw7Cl
隠蔽体質のクソ組織が出来上がるだけのような気がする
454人間七七四年:2012/03/30(金) 07:39:23.91 ID:BUTUgq8c
讒言に惑わされる暗君になるのを嫌うあまり疑心暗鬼から行き過ぎちゃったようにも見える
もともとの頭や心掛けは悪くないのかもしれないけど少し病んじゃったかね?
455人間七七四年:2012/03/30(金) 17:12:37.74 ID:y6inf9e2
将来を嘱望された勝茂世子だった父親が早死にし、自身が世子に定まるま
でにいろいろと悶着あったひとだからなあ。

生煮えの米を一度に四升(だったかな?)も食べて平気、なんてのは摂食障害
としか思えないが、どうやら幼時、若君毒殺を恐れた乳母の自炊したもの
だけを食べ続けて、まともな味覚とか満腹感覚が備わらなかったためらしい。
456人間七七四年:2012/03/30(金) 19:01:39.08 ID:Aj8EpCTf
山本常朝
『土山茂右衛門、大木次太夫、石井伊左衛門の四人が連れだち、
川上実相院の如法経会に参詣した。
川上宿の鉄タク長左衛門なる相撲取りも弟子数人を連れ参詣していた。
四人が相撲取りの弟子どもと口論となり、
相手が大勢であったのでフルボッコにされたうえ、
茂右衛門と弥市右衛門は棒で傷を負わされた。
この事件が知れて取り調べられ、
四人ともそれぞれの一門にお預けとなった。
次太夫は茂右衛門に、
「このままでは武士の面目が立たない。
明日明けきらぬうちに仕返ししたい」
と手紙した。
二人は明朝に屋敷を抜け出し長左衛門のところへ仕返しをしかけた。
二人は長左衛門の屋敷へ押し掛けて、
「茂右衛門、次太夫、仕返しに参った。出合え」
と、呼び掛けると家の中から、
「弟子はここにはいないがオレが相手をする」
と、長左衛門が裏口から出てきた。
そこを待ち受けていた茂右衛門が討ち果たした。
そして、
「喧嘩相手は数人いたので相手が誰かわからん。
こうなれば川上宿じゅう残らずなで斬りにしてくれる」
と大声で気を放ったので、他に出てくる者はいなかった。
両人は仕返しを果たして帰った。(1/2)
457人間七七四年:2012/03/30(金) 19:11:29.42 ID:Aj8EpCTf
両人は仕返しを果たして帰った。
後日、茂右衛門と弥市右衛門は切腹。
次太夫は浪人、伊左衛門は閉門ときまった。
茂右衛門は手腹の願いを出して、
左の片腹へ刀を突き立てたとき、
向こう側にいた者が、
「深く突き立てると、腸が出て見苦しくなる。浅く立てられい」
と声をかけられた。
茂右衛門は笑って、
「その方は万事に詳しい情報強者だが、腹を切ったことはまだなかろう」
と答えた。
介錯は中島七左衛門。
茂右衛門は、刀を右に引き回そうとしたが、
回りきらなかったが、七左衛門がエイと気合いをかけ、
その勢いで茂右衛門は引き回したという。
このときの殿の考えは、如法経会の参詣に、
四人とも脇差だけで行ったのは、
武士としての心得を取り違えた者どもであるということだったそうだ』(2/2)
458人間七七四年:2012/03/30(金) 20:31:34.92 ID:mt8S84+M
いい話なのか−?
459人間七七四年:2012/03/30(金) 20:36:35.39 ID:Aj8EpCTf
私の主観ではいい話です(笑)
460人間七七四年:2012/03/30(金) 20:37:48.63 ID:TAgAkjnK

中国の戦国時代の話を書いてた人と同一じゃないの?
461人間七七四年:2012/03/30(金) 20:58:09.04 ID:Aj8EpCTf
>>460
アンタには俺の書く逸話は気にいらないかもしれないが、
あんなスレ違いの中国史荒らしと一緒にしないでくれ。
オレの書く逸話は葉隠に忠実な日本戦国史だよ
462人間七七四年:2012/03/30(金) 21:03:05.65 ID:oyX+sg9O
葉隠(笑)のどこが戦国だよ
しかも鍋島(笑)端から読む気しない
463人間七七四年:2012/03/30(金) 21:09:30.09 ID:Aj8EpCTf
葉隠に戦国時代の逸話書かれてるしな。
それ言ったらこのスレに出る逸話、
葉隠以降の資料から出てる話いくらでもあるよ
龍造寺さんか、他の人か知らないけど、
私怨で粘着は見苦しいよ
464人間七七四年:2012/03/30(金) 21:23:48.14 ID:9je5scW/
島原の乱辺りまでは逸話範囲内なんだろ?
>>456-457の逸話がその辺りに入っているものなら問題ないじゃない
465人間七七四年:2012/03/30(金) 21:38:40.83 ID:TAgAkjnK
江戸時代でしょ
466人間七七四年:2012/03/30(金) 21:40:18.19 ID:ciK7M5+d
江戸時代が駄目なら大坂の陣の話も駄目だな
467人間七七四年:2012/03/30(金) 21:45:11.85 ID:yuhZb3BI
まぁ時期はあまり問題では無い気はするけど
読みにくい、ムダに長い、どこが話の要点かよくわからん、辺りは精進を期待したい
468人間七七四年:2012/03/30(金) 21:58:46.85 ID:gSB4TlUD
ただでさえネタが枯渇しつつあるのに真っ当な投下物にまでいちゃもんつけてたら投稿する人がいなくなる
469人間七七四年:2012/03/30(金) 22:26:10.70 ID:rrovit1N
つーか、江戸期に成立した逸話を否定したら、このスレの9割以上消滅するだろ
470人間七七四年:2012/03/31(土) 00:48:03.50 ID:JEWLYrlD
江戸時代の逸話はいらないよ
471人間七七四年:2012/03/31(土) 01:00:41.34 ID:gms6t0pa
>>464
山本常朝は1659年生まれだからなぁ
472人間七七四年:2012/03/31(土) 01:13:02.51 ID:EJd0zDOx
だからそれより歴史の浅い本が出典の話なんてざらにあるっての
名将言行録とか武功夜話とかどうすんだ
473人間七七四年:2012/03/31(土) 02:39:31.26 ID:fcQBLcsM
まぁ、登場人物は戦国に生きた人のがいいな
474人間七七四年:2012/03/31(土) 03:35:43.36 ID:JEWLYrlD
>>472
それらが書かれたのは江戸期だけど、内容は戦国そのものだろ
葉隠なんて江戸の武士の話じゃん
全然違うよ
475人間七七四年:2012/03/31(土) 06:35:06.38 ID:FWu3Qjsl
>>474
葉隠に収録された島原の乱あたりの逸話まではOKということでいいですか?
476人間七七四年:2012/03/31(土) 08:46:08.42 ID:Q33oSdgV
>>471
ゆとりで平和ボケした武士だなw
477人間七七四年:2012/03/31(土) 14:01:47.31 ID:5LT8mMYh
戦国時代がいつ終わったかの統一見解は学者先生方にも無いんだから
最広義でとっても良いと思うけどね、つまり島原まで
足利義昭追放や、北条滅亡を戦国時代の終わりとする見方もあるし、
それを基準にすると、本能寺や唐入り、関ヶ原から大坂の陣もアウト
478人間七七四年:2012/03/31(土) 14:20:14.87 ID:/BGKpUzg
永正5年(1508)6月、足利義尹(義材)は大内義興らのの援助と細川高国の支持を受け、足利義澄を没落させ入洛、将軍位に復帰。
ここに将軍義尹を細川高国・大内義興が支える体制で、畿内は一定の安定を築けるように見えた。…だが大内義興は直ぐに帰国を望み、
これに将軍足利義尹は勿論、朝廷も大いに慌てその慰留に務めた。
以下、三条西実隆の日記、『実隆公記』より、朝廷側の動きを見てみよう


・7月23日
晴れ。夜になって小雨。
(略)

午後、阿野季綱が来る。大内義興の周防への帰国は決定的だという。帝が勅命で留まるようにおっしゃらないのは好ましくない。
この事について、内々に申し入れをする。帝直筆の女房奉書を発給して頂くこと、そして大内義興のもとに伝奏を派遣して頂くこと、
また私も内々に義興の元に参上するということの詳細などを内談した。そして、夜になってから小直衣に浅葱色の指貫を着て、
義興のいる六角の宿所に向かった。そこで勅書の旨に任せて対話をした。
神代紀伊守(貞綱)が出て来たので、彼に対して重ねて、京に在留することを説得した。そのうちに右大弁相公(勧修寺尚顕)も
やって来て、私と同じく勅命の内容を伝えた。その間のことについては、ここに記すことはしない。

今夜、大内義興の元に参上するという行為をすることに、我々の間にためらいがなかった訳ではない。しかし、確かに世間の称賛や
そしり受けることは確かに堪え難いことだが、今は天下のために、全ての事柄を忘れて行ったのである。
『道を守ることは簡単である。しかし、世評に応じることは難しいことだ』
これは古の賢人の格言であるらしい。実に厄介なことである。浮世の交わりとは誠に無益なものである。

帰宅の途中に、長橋局に直接参上し、勧修寺尚顕と三条西公条も同道した。私の家で、冷泉政為、甘露寺元長、姉小路済継らが、
先の件について聞いてきたので、おおまかな事情説明をした。

・24日
晴れ。
早朝、帝が新大典侍(庭田源子)を通じて、私が昨夜、義興を慰留した件について、色々と感謝の意を伝えられた。

・25日
賀茂在重が来て、大内義興が先日の夜の一件について、大変忝なく思っているということを語った。今日、大内雑掌を召し寄せて、
義興に帝の勅命の詳細を伝えたということらしい。

・28日
晩になって、阿野季綱が使者を送ってきて、

「今日、大内家家臣の陶興房と神代紀伊守(貞綱)らが室町殿(足利義尹)のもとに参上して、もろもろの御裁許を恐れ多い事だと申された」

と伝えてきた。これで大内義興の帰国は確実に無くなった。非常に目出度い事だ。
また、河州での合戦で(義尹派の)尾張守(畠山尚順)が勝利した。実に神妙な事である。

・30日
曇り。夜になってから激しい雨。早朝に賀茂在重が来て、ちょっとした報告があった。

阿野季綱から使者が来て、本日、大内義興が我が家を訪問するという事を、内々に知らせた。

夜になってから、大内義興が太刀を携えてやって来た。彼は先日の夜の事に感謝の意を表した。私は、この訪問について武家伝奏を通じて
詳細を報告する事を語った。義興は神妙なおももちで、重々しく感謝の意を表した。


大内義興は烏帽子をかぶり、自ら携えた太刀を私に贈った。私は、座った敷物の上で大内義興が帰るのを見送って感謝の意を表した。
その後、大内義興が来られた旨を、手紙で勾当内侍(東坊城松子)に報告した。

今日は、玄清庵で宗祇の追善連歌が行われた。私は発句を所望されたので、それを送った。そして、酒一荷三種も送った。

発句の内容はこうである

『とをき世もかゝらは風の葛葉かな』
479人間七七四年:2012/03/31(土) 14:24:06.58 ID:gms6t0pa
>>476
山本常朝は平和ボケを批判している側

>>475
そういうことやね。
480人間七七四年:2012/03/31(土) 17:44:09.21 ID:KZvyduiH
とりあえずゆとり平和ボケの葉隠は排除ってことで
481人間七七四年:2012/03/31(土) 18:33:11.18 ID:mE7cl2en
正直どうでもいい
逸話投下はよ
482人間七七四年:2012/03/31(土) 19:17:19.21 ID:p+D/YpwV
>>478
この辺、西国の歴史の大きな分岐点の一つだよねえ
483人間七七四年:2012/03/31(土) 22:08:57.71 ID:BMM6zWVr
>>482
戻っていれば、尼子の膨張はなかっただろうからねい。
484人間七七四年:2012/04/01(日) 00:53:12.53 ID:kqNjbGIi
義興が存命なうちは経久も大人しくしただろうか
485人間七七四年:2012/04/01(日) 10:09:50.44 ID:s7Ilnh3F
>>478
>『道を守ることは簡単である。しかし、世評に応じることは難しいことだ』
今も昔も、まつりごとは大変だな
486人間七七四年:2012/04/01(日) 11:35:59.37 ID:u7Bu8POR
今の世はマスゴミという奸臣フィルターを通った情報しか得られないからね
まあネットという忍者を俺達は得たわけだけど とりあえず民主党は消滅しろ
487人間七七四年:2012/04/01(日) 13:45:24.02 ID:+TN3W24Y
ネット上が一番偽情報多いけどねw
488人間七七四年:2012/04/01(日) 14:21:18.06 ID:kRaE2mQL
確かに草乱波の巣窟ですね
489 【吉】 :2012/04/01(日) 14:24:39.21 ID:/+mrMRZK
一揆一揆!
490人間七七四年:2012/04/01(日) 14:35:01.74 ID:bSnAl1rL
ピンキリの忍びの中で自分で信用できると思うのを撰べるだけマシかって程度
491人間七七四年:2012/04/01(日) 14:47:36.20 ID:GqWIOQne
「自分が信用できると思う」と「自分が信用したい」の区別をどうやってつけるかが問題だがな
492人間七七四年:2012/04/01(日) 15:06:11.50 ID:WVnUks5a
>>488
上忍(マスコミ)の情報と草ラッパ(ネット)の情報。
結局どちらちも恣意的なものばかりだけどな(笑)
493人間七七四年:2012/04/01(日) 15:08:03.39 ID:nFCEkh1p
マスゴミを勝手に上忍にするなよ
奸臣だよ 奸臣w
494人間七七四年:2012/04/01(日) 16:01:34.77 ID:nKsNx6c7
春ですなあ。
495人間七七四年:2012/04/01(日) 16:54:00.45 ID:u+zE7J70
↑イヤミ登場
わざわざレスすることかね
496人間七七四年:2012/04/01(日) 19:18:59.35 ID:nKsNx6c7
ちょw今年も春が来たことだなあと生温くレスしただけなのに嫌味てw
ま、若いうちは自意識も元気だからねえ。ふ。
497人間七七四年:2012/04/01(日) 20:31:18.29 ID:Lws+kWvc
1571年、北条軍が対陣していた佐竹義重の軍勢による夜襲を受けた際、戦場となった地の農民の一人が
北条方として参戦し、敵の首を取る武功を立てた。そこで氏政は、この農民を

「関八州無双の剛民である。」

と称賛し、『岩井兵庫助』の名前と領地を与えて武士に取り立てた。またこの戦いでは、

「北条軍の武士に助太刀して敵を倒したが、その武士に首を奪われた。」

と訴える農民もおり、氏政はその農民にも褒美を与えるとともに、

「農民ですらこの様な心構えをしているのだ。諸士も自らを省みて恥じ入るであろう。」

と語って家臣を戒めたという。農民から首を奪った武士は恥をかく事となったが、戦勝で機嫌の良かった氏政は

「若輩の身に加え、初陣でもあるから褒めて遣わす。真っ先に切り込んだのは手柄である。」

と声をかける心構えを見せたという。 氏政が部下にプロ意識の徹底を促した逸話である。
498人間七七四年:2012/04/01(日) 21:04:45.40 ID:e+pB7/I0
戦国の農民は怖いな
499人間七七四年:2012/04/01(日) 21:24:55.44 ID:i+qru6Cu
宣教師に戦闘民族と書かれたのも納得。
500人間七七四年:2012/04/01(日) 21:55:36.84 ID:8VnEpluP
合戦の度に落ち武者狩りが跋扈するからなぁ
501人間七七四年:2012/04/01(日) 22:10:07.17 ID:hZbxTPZh
秀吉の九州攻めの真っ最中に、たまたま少数でいた秀吉の兵を襲った命知らずな百姓たちがいた、とフロイスさんが書き残している
502人間七七四年:2012/04/01(日) 22:28:52.09 ID:MKDuo9Yq
戦国期の百姓なんて山賊と紙一重だもんな
503人間七七四年:2012/04/01(日) 23:21:57.46 ID:WVnUks5a
七人の侍でも農家の床の下から武器も鎧も酒もどんどん出てくるもんな(笑)
あの映画の時代設定は戦国時代末期だったっけ?
久蔵と菊千代カッコいい
観てない人は是非観たほうがいいと思う
黒澤明の代表作とされるだけのことはあるから
504人間七七四年:2012/04/01(日) 23:25:29.73 ID:ZV3FBf7J
百姓に限らず、京都市民も合戦で没落した側に対し、隊列を組んで襲いかかることもあった。
まあ戦国期の日本人はみんな危険だということだw
505人間七七四年:2012/04/01(日) 23:33:49.03 ID:WHFrz//e
農民は日和見菌みたいなもんだし
普段は中立だが弱っていると牙をむく
506人間七七四年:2012/04/02(月) 00:24:13.71 ID:WdOtsat7
貴重な収入源だもの
507人間七七四年:2012/04/02(月) 00:56:09.69 ID:keM5NGkX
総見記にあった松永久秀親子の話

 上杉謙信の出兵に合わせて信長に謀反を起こした松永久秀であったが、うまくいかずに居城である信貴城を
包囲されてしまった。激しい攻防戦の末、城方は本丸だけをかろうじて残す有様となった。ここにいたって
覚悟を決めた久秀は共に籠城していた息子の久通に城を脱出して織田信長を倒す工夫をせよと命じた。久通は
父と共に戦って死ぬことを望んで脱出を拒否したが、久秀は叱り付けて強引に脱出させた。
 しかし、久通は途中で織田軍の兵に見つかって討ち取られてしまった。世間の人々は久通のことを
「父親を見捨てて逃げ出した臆病者」と散々に けなしたが、信長だけは「これは弾正がそうさせたので、
所存あってのことだろう」と言って弁護した。
 無念の最期をとげた松永久通であったが、仇敵である信長のおかげで名誉だけは守られたのだ。
508人間七七四年:2012/04/02(月) 01:14:21.83 ID:gQVwQhPd
>>504
それが世界標準の大衆の姿、
日本人のようにいくら増税しても黙々財産差出、ちょっと前は命も差し出し
 自分も自民党(今でも政権党でしょ)や官僚が弱ったらたら略奪したいわ
509人間七七四年:2012/04/02(月) 05:45:16.27 ID:xq6xVPai
>>508
ジミンガー
510人間七七四年:2012/04/02(月) 06:32:41.55 ID:A5I5xwBG
春だな
511人間七七四年:2012/04/02(月) 13:29:59.81 ID:CmuPxSgl
春だな厨が出る季節になったか
512人間七七四年:2012/04/02(月) 13:37:45.83 ID:kqSGgQZj
【テレビ】NHK大河ドラマ「平清盛」の視聴率は今年ワーストとなる11・3%…ちなみに「江〜姫たちの戦国〜」のワーストは13・1%
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1333337316/
513人間七七四年:2012/04/02(月) 14:49:44.07 ID:/BNM8ydf
春だな厨は自分が政治厨と同類だと気付かず上から目線なところが笑える
514人間七七四年:2012/04/03(火) 09:54:11.31 ID:D27BVyBu
春言われた位で…w
515人間七七四年:2012/04/03(火) 18:24:43.45 ID:tmmcW/UN
 大坂冬の陣の時のこと。淀川沿いの富田に屋敷をかまえる大百姓の紅屋の主人は戦況が気になって
外を歩いていた。すると、立派な軍装をした武者が家来を一人連れてよろよろとこちらへ歩いてきた。
よく見るとそれは二代将軍徳川秀忠であった。紅屋は関が原合戦の頃に秀忠と会ったことがあるので
顔を覚えていたのだ。
 秀忠は大坂方との戦に敗れ、逃げ帰る途中であった。空腹のあまり、今にも倒れそうだったため、
紅屋の主人は秀忠を自分の屋敷に連れ帰り、とりあえず地元特産の富田漬けと白御飯をふるまった。
秀忠はおいしそうに富田漬けを食べると「これはまことに戦いにふさわしい功のものかな」と、
つぶやいた。漬物の香と、戦陣の功をひっかけてシャレを言ったわけである。負け戦にあっても
冗談が言える秀忠のセンスに紅屋は感心した。
 これが縁となって紅屋は毎年、富田漬けを将軍家に献上することになった。紅屋に感謝していた
秀忠は富田漬け献上の使者を江戸滞在中は十万石の大名と同じ待遇で歓迎した。この名誉ある使者は
富田で一番働く若者が選ばれたので、富田では怠け者の若者は一人もいなくなったそうである。
516人間七七四年:2012/04/03(火) 18:42:51.98 ID:WQZz4Vfw
こういう話見ると、大阪でも徳川将軍というのはむしろ愛されてたんじゃないか、って気がしてくるなw
少なくとも秀頼にこういう人情味のある話はないだろうし。
517人間七七四年:2012/04/03(火) 18:51:41.15 ID:8k4aSWPk
で、秀忠はどこで誰と戦ったんだろう?
518人間七七四年:2012/04/03(火) 19:32:08.90 ID:D9FkqvBo
そういや秀忠の骨にまで達する鉄砲傷ってのもいつの物なんだろうな?
もしかして隠蔽された秀忠の負け戦ってのがあって、それが逸話に断片として・・・なんてねw
519人間七七四年:2012/04/03(火) 21:56:54.83 ID:7Z0eDPEW
アレか?
大阪の陣の秀忠の役どころは落ち武者で固定なのか?
520人間七七四年:2012/04/03(火) 22:01:00.30 ID:92b4yYIJ
江戸時代の大阪で小噺のテンプレ化してたのかもな
521人間七七四年:2012/04/03(火) 23:08:08.93 ID:auH81pdN
>>516
そりゃあ秀頼の場合、そもそもが市井の人と会う機会が皆無だものw
522人間七七四年:2012/04/04(水) 10:15:39.29 ID:qRcD3eDB
よかった。親子揃って食い逃げする逸話が残ってたらどうしようかと思った。
523人間七七四年:2012/04/04(水) 10:31:04.54 ID:LDVHbAuV
味噌について触れないお前らの優しさに感涙
524人間七七四年:2012/04/04(水) 13:47:35.87 ID:Q1lGLKdq
今福・鴫野の戦い辺りで秀忠を追い回した部隊があったんだろうか?
525人間七七四年:2012/04/04(水) 15:18:33.36 ID:ycNpGPLq
秀忠が最も恐れた男 と呼ばれる訳ですな >追いかけまわした人

秀忠が最も恐れた女は既に確定して微動だにしないので
526人間七七四年:2012/04/04(水) 15:57:29.04 ID:e6dl6SLS
あの女にボッコボコにされてたもんな
527人間七七四年:2012/04/04(水) 20:18:34.15 ID:/Y4aK9nQ
秀忠は幕府方の総大将だろ
なんで冬の陣で負け戦になるんだよ
528人間七七四年:2012/04/04(水) 20:52:47.25 ID:OIS8UZKk
逸話にカリカリしてもなぁ
529人間七七四年:2012/04/04(水) 20:59:26.30 ID:a52eGXdB
それ以前の問題だろう
530人間七七四年:2012/04/04(水) 21:12:39.25 ID:/OjjiM9n
落語の原型みたいなもんだろ
531人間七七四年:2012/04/04(水) 23:55:13.87 ID:oMNyJDFN
意味わかんね
532人間七七四年:2012/04/04(水) 23:59:50.73 ID:/OjjiM9n
逸話=真実 だと思い込んでるから理解できないんじゃないか?
533人間七七四年:2012/04/05(木) 07:30:02.76 ID:ujbcgJNK
秀忠の没後も富田漬けは献上されていなかったのかな?
大百姓の紅屋は記録が残された当時に十万石の待遇を受けていなかったってことになるけど
難波戦記が出たのは没後40年の家綱の時代か

しかしまだ当時の記憶を持っている人も残っている時代だな
534人間七七四年:2012/04/05(木) 11:39:17.87 ID:6CSCzXBF
>>507
信長は弾正のこと好きすぎじゃね
535人間七七四年:2012/04/05(木) 13:58:06.04 ID:9HsZAQOd
そもそも百姓に10万石の待遇というところで...
536人間七七四年:2012/04/05(木) 14:01:41.90 ID:61+rIZWK
10万石の待遇ということは百姓も10万石相当の対応をしなければいけない訳で
事実だったら迷惑すぎるな、家がつぶれるw
537人間七七四年:2012/04/05(木) 15:34:07.00 ID:iKWP7RFD
宿とかもてなしを豪華にしただけだろ?
別に大名同士の付き合いではないから、
>>536の意見の根拠がわからない
538人間七七四年:2012/04/05(木) 18:00:24.24 ID:Z6Cjn42V
> 富田漬け献上の使者を江戸滞在中は十万石の大名と同じ待遇で歓迎した
539人間七七四年:2012/04/05(木) 18:44:31.31 ID:UY00m1Gg
十万石「並」の対応をしたってだけで十万石の大名と待遇が全く同じってわけじゃないと思うが
540人間七七四年:2012/04/05(木) 19:23:28.06 ID:Z6Cjn42V
使者の待遇を普通よりよくしたってだけでしょ
大げさに書いてあるだけでこんなの真に受けても・・・
541人間七七四年:2012/04/05(木) 19:30:41.00 ID:Ap9TDcCh
表高(帳簿上)と実高(実収)の違いのツケを百姓への重税に回して……というのは島原騒動で有名なように後々まで火種になったからなー。
542人間七七四年:2012/04/05(木) 21:12:39.90 ID:XQcpch0F
十万石と聞くと風が語りかけてくる気がする俺は埼玉人
543人間七七四年:2012/04/05(木) 23:34:31.79 ID:5oUaNEQS
饅頭は恐がっとけばいい!
544人間七七四年:2012/04/05(木) 23:58:26.08 ID:M7QzFwXx
>>542
うまい、うますぎる
545人間七七四年:2012/04/06(金) 00:26:13.07 ID:u+TG/TkE
十万石饅頭はともかく、草加せんべいの由来には秀忠が出てくるなw
546人間七七四年:2012/04/06(金) 08:01:55.92 ID:VNITPynh
実際、10万石待遇だったのは対馬の宗氏
一応朝鮮との窓口だからという理由
547人間七七四年:2012/04/06(金) 09:43:13.78 ID:nZd5sPYw
秋田に飛ばされた佐竹さんは家格が決められてなく、
幕府に早く決めてくれるようにお願いしてたなぁ〜
548人間七七四年:2012/04/06(金) 10:36:41.65 ID:30blU4J2
10万石っていうのは准国主あたりか。
549人間七七四年:2012/04/06(金) 11:57:44.56 ID:QC9n+3RX
この手の逸話は、いじめられっ子が妄想の中で仕返ししてるような情けない感じがして好きだw
550人間七七四年:2012/04/06(金) 12:36:30.48 ID:wYCKMMKz
>>549
それだけ江戸時代というのがヒエラルキーのわずかな逆転のない閉塞感のある時代だった証拠では
最近の「江戸時代は穏やかな再生社会」視は偏り過ぎと思うので
551人間七七四年:2012/04/06(金) 12:50:45.76 ID:JX8kqQwn
>>550
明治史観乙
552人間七七四年:2012/04/06(金) 12:56:24.80 ID:u5iQrIXN
紅屋ググったら普通に江戸時代の豪商見たいだな
表向きには富田漬けを献上した日に大勝したから凶作の年でも酒造出来る株を与えられたとなってる
世間一般には冬の陣で兵糧の類を扱ってたら秀忠が逃げてきたので富田漬けのぶぶ漬けを出したと伝わっていると

どちらが正しいのか、あるいはどちらも正しいのかだな
553人間七七四年:2012/04/06(金) 13:45:30.65 ID:NC9eY80A
冬の陣で秀忠が前線出てるようにされてるかがちょっと気になる。
岡山に陣張って前に前田隊他がいるんで何かしっくりこなくて。
554人間七七四年:2012/04/06(金) 14:09:50.98 ID:1KzQhSSC
前田隊は大野冶房らに突破されたりしたから。
この時、幕府首脳らが狼狽したらしくて、笑われているな。
「かかれ対馬(安藤重信)、逃げ大炊(土井利勝)、どっちつかずの雅楽頭(酒井忠世)」
(嫉妬からの創作の可能性もあるが)
555人間七七四年:2012/04/06(金) 15:00:40.58 ID:u5iQrIXN
関ヶ原の家康よろしく戦闘中の味方の後ろで督戦していたが
どうにも被害が大きいので下がらせるために自分から下がりましたって感じなのかな
556人間七七四年:2012/04/06(金) 18:51:26.31 ID:nZd5sPYw
>>552
これが大阪じゃなく京都の大百姓の話だったら・・・ ゴクリッ
やっぱり京の人は恐いなーってなるんだがな〜
557人間七七四年:2012/04/08(日) 14:18:09.65 ID:9PU9FJyJ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5710.html このエピソードと関係がある逸話(だと思う。)

天下統一を果たした豊臣秀吉による慶長の役で朝鮮半島に渡った吉川広家は、加藤清正の籠る
蔚山城が約7万の明・朝鮮連合軍に包囲された際、毛利秀元や黒田長政らとともに救援に駆け付けた。そして、軍議で
総攻撃は翌日と定められていたにも拘らず、敵陣の動揺している様子を見て好機と捉え、自らの判断で出撃しようと考えた。
これを、元は毛利家の外交僧で、秀吉に取り立てられ大名となった安国寺恵瓊から

「勝手に出撃するなど軍法違反ですぞ!」

と制止されると、広家は

「兵法は武士のもの。坊主の指南は無用!」

と言い捨て、兵を進めて敵を撃退するきっかけを作ったという。
558人間七七四年:2012/04/09(月) 12:19:55.42 ID:gLthjQOJ
山本常朝
『寄懸目結の紋は、武藤少弐殿の紋だ。
少弐殿の先祖の武藤検仗頼氏は、
むかし、八幡太郎義家公の奥州征伐時に、朝廷から検仗として派遣された。
その合戦で、頼氏は一番に敵方の大木戸を打ち破る戦功を立てた。
義家公がそれを賞し、打ち破った木戸の形を子々孫々まで長く家紋とせよとおおせになった。
それ以来、武藤少弐殿の家紋となったという。
このことは少弐系図の言い伝えである』
559人間七七四年:2012/04/09(月) 17:28:08.60 ID:O9lQZdmR
明治以前の苗字や家紋の付け方は自由で面白いよね
明治以降は戸籍やら徴兵制の概念が生まれてそういう自由はなくなった、
まあ近代文明の恩恵もあるし、
一概にどちらが自由とは言えないけど
560人間七七四年:2012/04/09(月) 18:55:14.38 ID:gzzjlJ5D
家紋とか戒名とか、自分の名前ですら昔の人のが自由に作って使ってるよな
561人間七七四年:2012/04/09(月) 19:30:14.43 ID:dB0xKlZ3
小田原征伐の続いていた天正18年(1590)6月下旬のこと。本陣に戦況を報告しに訪れた徳川家康に、豊臣秀吉は
このように尋ねた

「徳川殿、お主も聞いているだろうが、忍城のことだ。
石田三成や真田親子らをしても、未だ落城に至っていない。なにか良い手段はないものだろうか?」

家康はこれを聞くと

「忍城は要害の地であり、沼や湿地に囲まれ城も堅固。たとえ力攻めで城を落としたとしても、
こちらにも大きな損害が出るでしょう。
ここは小田原城に籠っている成田氏長に対し、彼の親しい友人から開城を促すのが最善と考えます。」

「それは尤もである」

秀吉はこれに納得し、成田氏長が山中長俊と、連歌の友として非常に親しいと聞くとこれを呼び寄せ、
忍城の開城工作を行うよう命じた。
これに山中長俊は、忍びを使って小田原城内の長氏に密書を送る。
長氏はこれを見ると弟の泰親と相談し、忍城に書状を送った。

7月のある日、忍城に残っていた成田氏長の妻のもとに氏長からの書状が届く。
そこにはこうあった

『連歌の友である山中山城守長俊の取りなしで、秀吉と和を結び降服することに成った。
よって忍城も開城するように。』
その開城条件は、城の城兵には咎めなし、私財もそのまま持ち帰って良い。料金達の財産も安堵する、
と非常に寛大なものだった。

ここに忍城は30日あまりの籠城を終わり、開城に至ったのである。
(行田昔話)
562人間七七四年:2012/04/10(火) 19:34:37.22 ID:38ajTGkk
>>516
大阪の陣での残党狩や一般市民への狼藉はむごかったらしいよ
563人間七七四年:2012/04/10(火) 19:47:21.28 ID:Afv4HCHr
まあ、今の時勢を見るとエタも力持てば威張りくさるんだから、
階級闘争史観はウソだな
564人間七七四年:2012/04/10(火) 19:51:07.69 ID:+tKcKrHq
>>562
流石にやりすぎ、と思った幕府から「誘拐した人間を解き放て」指令が出たあたりが影響とか?
565人間七七四年:2012/04/10(火) 20:02:10.79 ID:Afv4HCHr
黙れドエッタ
566人間七七四年:2012/04/11(水) 06:06:51.92 ID:C77nm6JL
>>564
配下の誰がどこで何人捉えたか
捉えた相手の名前と性齢に居所まで各藩に書き出しさせたんだよね
567人間七七四年:2012/04/11(水) 06:32:38.10 ID:c9VH0Kjr
天正10年5月末、石山本願寺を明け渡し紀州に逃れていた顕如に対して、信長が和睦の約束を
破って三千人の討伐軍を差し向けたとの知らせが深日(ふけ)の里の金乗寺に もたらされた。
金乗寺の門徒総代である了性が付近住民と協力して顕如が逃れるための時間稼ぎをすることになった。
了性は元々は右入道という武将であったが、武士の生き方に疑問を感じて一向宗門徒となった男で、
温厚な人柄と武芸・教養にすぐれていることで知られる人物である。
 同年6月2日、了性は1800名ほどの門徒とともに強い風の吹く峠で待ち伏せし、風上から
大量の灰をばらまいて敵兵の目潰しをした上で、皆で崖の上から石を投げつけて戦った。この作戦は
功を奏して織田軍はいったん退却した。ところが、翌3日に陣容を立て直した織田軍が再び攻めてきた。
今度は布切れで目をおおって万全の対策をしていたため、灰の目潰し作戦は通用せず、たちまち
門徒たちは敗色濃厚になった。ところが、いきなり織田軍は全軍撤退していなくなった。昨日の6月2日に
本能寺が明智光秀の軍勢に襲撃され、織田信長が自害したとの知らせが織田軍に入ったからだ。
 そんなことは知る由もない門徒たちは「阿弥陀様のご加護だ」「了性様のおかげだ」と喜び合った。
 後に、灰をまいて織田軍を撃退した場所を灰賦峠(はいぶきとうげ)と呼ぶようになったそうである。
568人間七七四年:2012/04/11(水) 07:04:49.78 ID:LKbIk1nm
はいはい、わかりました。


なんちて
569人間七七四年:2012/04/11(水) 07:56:56.72 ID:JLUIdyL6
四国攻めの準備もしていたからそのついでに紀州攻めたとか?
深日の宗徒たちも迷惑な話しだな
570人間七七四年:2012/04/11(水) 13:55:29.77 ID:w2kRo52i
>>563
橋下大阪市長と竹中平蔵のことですね
571人間七七四年:2012/04/11(水) 14:11:51.35 ID:zUJmFxTp
地元だがそんな話聞いたこともない……ソースは?
572人間七七四年:2012/04/11(水) 15:40:46.06 ID:c9VH0Kjr
>>571
大阪伝承地誌集成という本に岬町の伝承として載っていた
573人間七七四年:2012/04/11(水) 18:39:44.78 ID:Pdzssr0W
574人間七七四年:2012/04/11(水) 18:59:11.49 ID:i3AsRaLp
史実だと、本能寺前の本願寺と信長の関係は良好で、
雑賀衆は四国攻めに船を提供していたりする。
顕如は石山本願寺退去後、すぐに和歌山駅前にある本願寺鷺森別院に移っているし。

本能寺前に信長と争っていた紀州の勢力は高野山。
575人間七七四年:2012/04/11(水) 19:04:27.08 ID:y8nsyZbw
為政者vs宗教って、民衆の反発招きたくない為政者側からしたらあまり好ましくないもんな
宗教vs宗教となると、ものすごく悲惨なのは現代でも変わってないな
576人間七七四年:2012/04/11(水) 19:05:48.52 ID:vfrypgz6
四国攻めの織田軍を見て勘違いした民衆の間で本願寺攻めの噂がたったりはあったかもな
577人間七七四年:2012/04/11(水) 19:17:04.26 ID:i3AsRaLp
>>573の話だと、東本願寺と西本願寺の争いのために存在しない合戦を
捏造したわけだけど、>>567の話だと東西本願寺とはまるで無関係だから、
>>573の話から合戦話だけをもってきて、縁起話を作り上げた感じなのかな。

>>576
いや、民衆レベルの噂でもそれはないでそ。その軍勢に雑賀衆が参加しているわ、
紀州では顕如の警護に信長が兵よこしたりしているわ、高野山攻めやっているわだし。
578人間七七四年:2012/04/11(水) 22:26:42.57 ID:LKbIk1nm
本多正信の墓は西本願寺にあるのね。

で息子二人のお墓は曹洞宗。

これって徳川家に帰参する為に曹洞宗に改宗してみたものの、
一向宗と和睦後に再度改宗したって事?

それとも帰参した時期にはもう一向宗は無問題だったか?
579人間七七四年:2012/04/12(木) 00:28:28.25 ID:Juk8+p21
三河一向一揆は手打ちになってる
まあその手打ちの条件の超解釈で寺をぶっ壊されるわけだけどな
580人間七七四年:2012/04/12(木) 06:13:46.85 ID:0424ybbj
 関白近衛信尹、本阿弥光悦、男山の滝本坊の松花堂昭乗といえば寛永の三筆として知られる
書の達人であった。ある時、近衛信尹が本阿弥光悦に「三筆の中で優劣をつけるとしたら
どんな順序になるか」と問うてみた。
 それに対し、光悦は「まず……、次は信尹様、その次は松花堂ですな」と答えた。信尹が
「まず……、というのは誰のことか」と尋ねると、光悦は「おそれながら私のことで
ございます」と答えた。

そんなある日、光悦が信尹のもとへ伺候すると、信尹が恐い顔で光悦の手をつかみ、
「おのれは、おのれは、おのれは……」と繰り返した。何やら怒っているようだが、
光悦には怒られる覚えがないので困惑していると、信尹は「なぜそううまく書くのか」
と言って笑いだした。
581人間七七四年:2012/04/12(木) 10:05:13.13 ID:9oDbLyax
絡みづらい関白様だね
582人間七七四年:2012/04/12(木) 20:18:15.42 ID:UN3D05Xw
ラスボスが絡み易いとな!?
583人間七七四年:2012/04/12(木) 21:09:27.46 ID:dlfvWhCc
じゃれあえるくらい仲良しなのかw
584人間七七四年:2012/04/12(木) 22:17:57.25 ID:iGZ6aYLI
こいつらかわいいなw
585人間七七四年:2012/04/12(木) 23:02:42.31 ID:AeAcTy4/
(#´д`)ノノ「おにょれは〜おにょれは〜おにょれは〜…なぜそううまく書くのでおじゃる〜ぅ」
(^ω^;;)「ギブギブ」
586人間七七四年:2012/04/13(金) 10:29:04.09 ID:hAHgGkaC
葉隠から当時の噂話?

山本常朝
『佐々木氏の本家に伝わる系図は、
正統な本家の子孫だという近江のある浪人が持っているらしい。
金泥の巻と呼ばれているそうだ。
この男は、浪人の身でありながら、
今も朝廷から諸太夫に任じられているそうで、
朽木殿、京極殿などは、実は庶子の家筋だという』
587人間七七四年:2012/04/13(金) 10:32:11.46 ID:x2iBvlWM
>>586
六角...
588人間七七四年:2012/04/13(金) 12:30:39.25 ID:HZGSxsW4
沢田源内のことかな
葉隠書いた頃には故人だけど
589人間七七四年:2012/04/13(金) 12:35:39.86 ID:HZGSxsW4
自己解決、六角氏郷のようだ
もっとも沢田同様この人も出自がアヤシイが
590人間七七四年:2012/04/13(金) 16:11:57.26 ID:zAbeeJtz
そもそも本流は京極だろ
591人間七七四年:2012/04/13(金) 22:06:25.85 ID:TYX8umqh
永禄3年(1560)のいわゆる桶狭間の陣のおりに行われた、高名な松平元康(徳川家康)による大高城兵糧入れ。
この作戦、高名な割に内容を知る人は案外少ない。そこでこの、当時19歳の元康の行った作戦概要を見てみよう。

今川義元より、鵜殿長照の籠もる大高城への兵糧入れを命ぜられた松平元康。
しかし大高城の近辺には、その押さえとして、丸根砦や鷲津砦といった要害が織田によって建設されており、
まともに入城しようとすれば、それらの砦の兵の餌食になるだけである。

そこで元康は、わざと大高城より織田領内奥にある寺部と梅ケ坪の砦を攻めた。
このため丸根・鷲津砦から、松平軍への後詰の兵が出撃した。「今だ!」この出兵を確認した
元康は、直ぐ様砦攻めを止め兵糧の運び入れを始める。

彼は先ず、総量450俵(約32.47キロリットル)の兵糧を、馬150頭に、一頭3俵づつ背負わせた。
その上で馬50頭を1グループとして3つのグループに分け、それぞれに50人の兵をピッタリと張り付かせ、
半町(約54メートル)づつ離し、さらに1グループごとに右備えに100名、左備えに100名を配置、
このように小荷駄の周りを兵で囲み、さらに残りの兵力を遊軍として展開させた。

この形で松平軍は織田量を突破にかかる。丸根砦などはこれに気がついたが、後詰の兵を出したため、
元康の好きのない陣形に対応できる兵力がなく、元康が大高城に兵糧を入れるのを、地団駄を踏んで
悔しがるしか無かった、とのことである。

有名な神君大高城兵糧入れのお話
(改正三河風土記)
592人間七七四年:2012/04/14(土) 00:33:34.17 ID:6XoSirec
近江源氏の嫡流は六角で良いだろ
593人間七七四年:2012/04/14(土) 06:32:40.70 ID:/tPRX0ru
糧秣部隊に馬150頭か
馬って結構いたんだな
594人間七七四年:2012/04/14(土) 07:53:41.94 ID:gQuOBZb+
戦国武将で誰が一番強いのかというのは誰しも意見の分かれるところであろう。
ところで戦国武将の中で囲碁は誰が一番強いのだろうか?
『武辺咄聞書』にはこんな話がある。

あるとき、豊臣秀吉は右大臣の菊亭晴季と伏見城で囲碁を打っていた。
その場で徳川家康、上杉景勝たちも観戦していた。
そのときの碁は一手すきにて大変難しくなり、秀吉は色々と考えたが
全く次の手を思いつくことができなかった。
ついには「この判断は 例え隆景でも 無理だろう」と匙を投げてしまった。
観戦していた家康は「まったくその通りで御座います」と相槌をうった。

なぜそこで日海を差し置いて小早川隆景の名が?
もしかして隆景の棋力は日海を上回っていたのだろうか?
595人間七七四年:2012/04/14(土) 08:02:13.14 ID:yinwhYAu
日海って本因坊の始祖である本因坊算砂のことだというのをググって知りました
ありがとう
596人間七七四年:2012/04/14(土) 10:19:45.80 ID:IKcudiJ8
隆景「私の父上は私の10倍強い」
597人間七七四年:2012/04/14(土) 11:09:25.84 ID:WqnHtYUt
>>595
大名最強は隆景、というのが共通認識だったとか
598人間七七四年:2012/04/14(土) 15:17:45.29 ID:ZNF78dV6
与謝野馨氏 「関ヶ原で石田三成敗北は囲碁やらなかったから」
ttp://www.news-postseven.com/archives/20120414_101399.html
599人間七七四年:2012/04/14(土) 20:40:44.48 ID:fFnPjMWn
輝元「神の一手は俺が極めるんだ!」
600人間七七四年:2012/04/14(土) 21:06:02.96 ID:1pDIETra
>>599
浅野長政「わかっとらんな、碁は一人ではうてんのじゃ。碁を打つには二人いるんじゃよ」
601人間七七四年:2012/04/14(土) 21:09:31.58 ID:VCjeg8QS
>>600
『徳川家康が碁をうちたそうにそっちを見ています』
602人間七七四年:2012/04/15(日) 00:21:46.90 ID:GucXoKFF
そういや本因坊秀策って隆景の領内出身だっけ?
三原城で憑かれたか
603人間七七四年:2012/04/15(日) 01:23:58.64 ID:qiYfcUVd
因島あたりだっけか?
604人間七七四年:2012/04/15(日) 01:33:43.09 ID:GxmvjEWO
そう
厳密には因島村上氏の領内だけど
605人間七七四年:2012/04/15(日) 11:24:11.61 ID:tTSfE0hX
 ある年の大晦日の夜、本阿弥光悦が知り合いの富裕な町人のところへ訪ねてみると、その屋敷では
大勢の借金取りがつめかけていた。破産騒ぎでも起こったのかと心配になった光悦は家の者に
何があったのか尋ねた。
「当家のしきたりでは毎年大晦日の夜半から支払いをすることになっております。こうすると、
少々勘定が少なくても文句を言わずに帰ってくれるのでかなりの儲けになるのです」
 この説明を聞いた光悦は顔色を変え、一言も言わずに家に帰り、以後、その町人の家とは交際を絶った。
 その理由について光悦は一族の者たちにこう語った。
「みんな大晦日には支度を整えてめでたく正月を迎えようとしているのに、あの家では私欲のために
ずるいやり方で金を稼ぎ、人々を苦しめている。そんなずるい奴と気づかずに40年以上も交際を続けていたのは
まことに残念である。皆の者、人と付き合う時には気をつけよ」
606人間七七四年:2012/04/15(日) 12:16:16.05 ID:QE8uNCEy
江戸時代には大晦日に借金を返すのが当たり前だったが、この頃はまだだったのか?
607人間七七四年:2012/04/15(日) 12:32:10.70 ID:e0n52SGT
ツケの請求ができるのが大晦日まで、年が明けると前の年のツケはパーになるんじゃなかったっけ?
というか、どこをどうよんでそういう風に思えるん?
608人間七七四年:2012/04/15(日) 12:35:54.66 ID:fASw1y++
>>607
借金はチャラになんねーよ。
翌年の大晦日に繰越。
609人間七七四年:2012/04/15(日) 12:40:16.75 ID:e0n52SGT
支払い期限がのびるだけか、ゴメンナサイ
610人間七七四年:2012/04/15(日) 22:04:16.36 ID:GYnhozLc
年末の銭不足を見越してるんだな、その家は。決済貨幣が、年末には不足した。江戸期には不足が繰り返されて、大阪奉行に町方から何とかしてくれという請願が毎年のように出ている。
611人間七七四年:2012/04/16(月) 17:41:49.46 ID:EwJUCchp
デフレかよ
612人間七七四年:2012/04/16(月) 18:23:22.45 ID:u/sZXR06
インフレ抑制のためでしょ
613人間七七四年:2012/04/16(月) 18:33:24.78 ID:wanRi6E7
別子と足尾が本格稼働すると銅には困らなくなるけどな。欧州までの輸送コストを乗せても安い日本産の銅ってどうよw
614人間七七四年:2012/04/16(月) 19:00:54.25 ID:Q5lvbiHT
まあその分人命を犠牲にしてるんだけどな!
615人間七七四年:2012/04/16(月) 19:08:09.38 ID:nxs7NR83
>>613
銅ってどうよ
616人間七七四年:2012/04/16(月) 19:18:52.42 ID:Xway3Yro
太閤殿下が処罰したそうに>>615殿を眺めておられる
617人間七七四年:2012/04/16(月) 21:38:41.75 ID:PTI4V5nW
まあ、銅しまょう!
618人間七七四年:2012/04/17(火) 00:10:02.43 ID:j8Nr2xGs
銅しようもないですな
619人間七七四年:2012/04/17(火) 01:13:39.99 ID:9GC83tUL
銅でもいいじゃん
620人間七七四年:2012/04/17(火) 01:49:11.80 ID:zGy7jHT7
かっぱー
621人間七七四年:2012/04/17(火) 08:56:27.16 ID:4eyG8ICk
銅?
622人間七七四年:2012/04/17(火) 09:35:53.91 ID:qJiBg222
信長の死後、その後継者となった羽柴秀吉の軍門に下ることを良しとせず、嫡男である吉川元長に
家督を譲って隠居していた吉川元春は、島津討伐を計画している秀吉から

「九州を平定した後に筑前を与えるので出兵してもらいたい。」

と出陣を迫られても拒否し、毛利輝元から

「私の身を思って出陣してほしい。」

と諭されてやむなく承諾した。小倉城の攻略後に悪性の腫瘍を患い、病床に伏すようになったものの
作戦会議の為に陣地を訪れ、安国寺恵瓊が

「今回の戦いで島津家は根絶やしにされるだろう。」

と述べた際、元春は

「九州は遠く、まだ関東も支配下に置いていない秀吉はそれほど多くの兵を割く事は出来ない。
 よって仇敵の間柄でもない島津に対してはいくつかの領地を残し和睦を結ぶだろう。」

と冷静に時勢を読んだという。しかしその一方で、

「元春とは一度会ってゆっくりと話がしたいのう。」

と望む秀吉の招きには、

「誰が行くか。」

と最後まで応じることはなかったという。
623人間七七四年:2012/04/17(火) 11:13:46.76 ID:gRKHUsk3
経家が死んだのがそんなに無念だったのか?
624人間七七四年:2012/04/17(火) 11:31:35.00 ID:WoC244u8
元春と石見吉川氏とはそんなに縁は深くないでそ
625人間七七四年:2012/04/17(火) 12:41:05.65 ID:su0NZJB3
時勢に付いていけなくなった、もしくは付いていかなかった男の意地みたいなもんじゃねーの
まあ、単純にラスボスが気に入らんかった、ってのでもいいと思うがw
626人間七七四年:2012/04/17(火) 13:16:32.86 ID:USGnPtiM
会ってしまえば、人たらしの秀吉にたぶらかされるだろうから、むしろそっちの可能性を恐れたか
627人間七七四年:2012/04/17(火) 15:00:45.30 ID:uaY/PUNr
会見後こんなノリになるんかねw
元春「ワシは関白様を誤解しておったわ! 関白様に合力してもらえば毛利家も安泰よ、はははは」」
628人間七七四年:2012/04/17(火) 15:55:46.08 ID:0ui4hA/A
佐々成政とか本多忠勝とか見ればわかるけど、
秀吉は嫌われるやつからは徹底的に嫌われるタイプ

それと人誑しはスキルだと思うぞ
629人間七七四年:2012/04/17(火) 18:04:20.49 ID:h8Sjk6ve
島津家でも歳久が秀吉を嫌ってたっけか
630人間七七四年:2012/04/17(火) 20:30:39.79 ID:AgrPkaGi
>>625
単に病が酷くて醜態を晒したくなかっただけだろう。
実際九州入ってすぐ死んでるし。
631人間七七四年:2012/04/17(火) 21:16:15.86 ID:USGnPtiM
武闘派ほど秀吉を嫌うんだね
体育会系が文化系を馬鹿にするようなものか
632人間七七四年:2012/04/17(火) 23:53:52.92 ID:zcuscnG/
機知に富んだ立ち居振る舞いを「人をくったやつ」と認識されるのでは
ある意味、裏をかいて生きてきたわけだし
633人間七七四年:2012/04/18(水) 01:14:05.82 ID:18FTWe0b
そんなサルに表裏比興と呼ばれる真田ってよーぽどアレなんだろうなw
634人間七七四年:2012/04/18(水) 02:32:48.56 ID:32vXldrx
武田と真田の誓紙なんて次の月には期限切れだろw
635人間七七四年:2012/04/18(水) 08:28:22.98 ID:c7z4hSEs
織田に至っては二週間
636人間七七四年:2012/04/18(水) 14:09:04.57 ID:0O6ukNrP
北条「同盟は破られる為にあるんですね・・・」
637人間七七四年:2012/04/18(水) 14:32:40.72 ID:WqWHeuV6
意外と有効期限って長いんだね。
638人間七七四年:2012/04/18(水) 16:53:07.05 ID:w9kY1Wvv
>>636
毛利某氏「相手を縛るためにあるのだよ」
639人間七七四年:2012/04/18(水) 17:32:09.62 ID:RHA8pAZi
山本常朝
『勝茂公が江戸城へ登城なさったとき、お供として八兵衛正純が先頭を進んだ。
大下馬から竜の口へまわろうと、同心の後ろを通りかがかったとき、
運悪くも、同心が前の者を打とうと振り上げた棒が、
八兵衛の額に当たって血が流れてしまった。
その瞬間、八兵衛は飛び掛かって、その同心を組み伏せた。
いあわせた同心たちは、棒を振り上げ八兵衛を取り囲んだ。
当方(鍋島家)のお供番の仲間たちも、ひとかたまりとなり刀の柄に手をかけた。
双方臨戦態勢になったとき、警護の御頭衆が駆けつけ、事情を聞き、
「私どもの落度ですね。こちらに処罰をお任せください」
と、その場を治め、事なくすんだとのことである』
640人間七七四年:2012/04/18(水) 17:35:57.97 ID:zVtg269Z
鞘同士が触れ合っても一悶着なんだから
流血までいったらもう斬るしかないんだろうな。
641人間七七四年:2012/04/18(水) 18:05:21.51 ID:CELyd6eG
>>640
そこはこの話のように機転を利かせた仲裁者がいたり、
お互いに譲りあったりで、事無くすませる知恵もあったのだろう。
それでも、いくとこまでいく逸話も数多く残ってるけど
642人間七七四年:2012/04/18(水) 18:12:45.71 ID:bf3w05sb
三歳「もうそういう時代じゃないから無礼はするな、たとえ相手に無礼があってもぐっと我慢だ
    あ、黒田家の連中は別ね、かち合う事があったら殺れ」
643人間七七四年:2012/04/18(水) 18:23:53.74 ID:lhklSbbO
>>642
一行目で終わればいいはなしなのにな・・・
さすが俺達の三斎様!
644人間七七四年:2012/04/18(水) 19:07:42.28 ID:UfSJgBJt
いつも思うが何でそこまで黒田を嫌ってるんだ?
645人間七七四年:2012/04/18(水) 20:19:26.78 ID:mVoHMMA1
黒田が存在するからだろうw
646人間七七四年:2012/04/18(水) 20:23:48.40 ID:82JNew2Y
>>644
黒田長政が関ヶ原後の移封のときに旧領から年貢を徴収したまま移ったので
後任の忠興が抗議したんだけど長政曰く「だが断る」
これで忠興がキレた
647人間七七四年:2012/04/18(水) 20:45:59.83 ID:UfSJgBJt
その辺はわかってるんだけど不倶戴天の敵レベルまで昇華してるのがね
648人間七七四年:2012/04/18(水) 20:56:54.09 ID:4Pxyq8RN
三斎様に怨まれたり、家臣に大殿と比較されまくったり、
ngmsは色々大変だな
649人間七七四年:2012/04/19(木) 00:06:48.24 ID:vosHbob4
三斎の面目丸つぶれだからな>細川に対して黒田がやった事
もちろん黒田にも言い分はあるだろうけどね。

黒田も関ヶ原合戦でだいぶ金を使ったので金が無い。
かといって転封先でそれを回復させるように大きく年貢を取れない。
もし重税を課したら一揆が発生するだろうし、それによって幕府に目を付けられたら厄介だ。

とはいえ「金が無いから細川の所から年貢持っていきますサーセン」なんて言ってしまったら、
今度は黒田の面目丸つぶれ。
しかも長政は昔からの家老その他と折り合いがあまりよくなく、それによるイジリに耐えきれるような性格をして無かったと思われる。
650人間七七四年:2012/04/19(木) 13:27:46.42 ID:9uFPOvIB
まぁ若殿の知恵ではそれが精一杯だったということだ、大殿ならb
651人間七七四年:2012/04/19(木) 13:35:20.68 ID:KSVBLpi+
黒田さんとこは本州と九州でそれぞれかなりの数の軍勢うごかしてるもんね、金かかるわ
652人間七七四年:2012/04/19(木) 14:28:40.34 ID:OpRh/QeX
結局、黒田さんはどうしたんだろうね。
ならまた民衆に税金かければいいや、となったんだろうか。
島原の乱の原因になった板倉氏のような、滅茶苦茶な重税でもまかりとおった時代だからなぁ……。
653人間七七四年:2012/04/19(木) 16:00:52.36 ID:HoVaXfYp
加増転封で博多もあり検地も厳しくしたので財政再建
でも天下譜代や長崎警護を積極的にやったのでずっとカツカツ
654人間七七四年:2012/04/19(木) 16:06:58.34 ID:mOybldeI
>>649
長政の息子は「親父は昔からの家臣に甘すぎ」って嘆いたらしいけどな
さらにその息子が昔からの家臣筋をバッシバシに刈り取ったようだけど
655人間七七四年:2012/04/19(木) 16:19:16.92 ID:a2AADZei
言い分と言うにはちょっとなあ・・・細川も同じような境遇だったんだろうし
656人間七七四年:2012/04/19(木) 16:26:22.43 ID:mOybldeI
上杉も国替えのときに年貢を持って行ってしまったのだっけ
657人間七七四年:2012/04/19(木) 18:50:24.24 ID:yt+Bfc4p
細川さんのとこは貧乏なイメージ
658人間七七四年:2012/04/19(木) 19:01:26.39 ID:ozqURuq1
賤ヶ岳で秀吉相手に勇猛に戦った、鬼玄蕃こと佐久間盛政には二人の弟、安政と源六があった。

彼らも兄に劣らぬ勇者であり、賤ヶ岳の後も秀吉に反抗し続け、佐々成政に、成政が秀吉に降服した後は
徳川家康に仕えた。
が、天正14年(1586)、秀吉が妹朝日のみならず、母親大政所まで送ってきたことに、家康もついに
秀吉への臣従を決意。そして家康は、安政と源六の二人を呼ぶと、申し訳なさそうにこう語った

「そういうわけで私は、秀吉に従うことと成った。このままわしに仕えては、そなた達の、
秀吉に復讐するという願いは叶わないだろう。
そこでそなたたちさえ良ければ、北條殿に仕えてはどうか?」

家康は重臣の榊原康政を北條に派遣し、わざわざ安政と源六の召し抱えを頼んだ。

北條で、二人は大いに厚遇された。北条氏政は彼らの勇猛さを大いに気に入り、また彼らも、
佐竹義宣との常陸江戸崎の合戦、皆川広輝の籠る下野大平城攻めなどで高名をなした。

しかし天正18年(1590)、秀吉の小田原征伐により、ついに北條も滅びる。

安政は弟源六に言った
「我々はいつも秀吉に背いてきた。小田原にあって6年、既に氏政公は御生涯なされた。
われら兄弟が死ぬ時は今であろう。兵たちは、思い思いに逃がすべし。」
源六もこれに同意したが、しかし家人たちは「我々は黄泉までお供をしたいのです!」と、一人も逃げなかった。

彼らは小田原の自分の屋敷の周りに鉄砲狭間を切り、鉄砲揃えた。戦闘の準備である。
間もなく豊臣軍の接収の兵が来る。彼らは武士らしく、それと戦って討ち死にすることを求めたのだ。

と、そこに一人の武士が、屋敷の方に向かってきた。「豊臣の検使がもう来たか!?」一斉に銃を向ける。ところが
「佐久間殿!わしだ!」「榊原殿!?」
それは榊原康政であった。彼は銃で固めたこの屋敷に臆すること無くつかつかと入ると、佐久間兄弟に
「殿のおっしゃったとおりだ。」「殿?徳川様が!?」「そう、殿はお主たち二人を殊の外ご心配なさっていたのだ。

『このように成ったからには彼らは、もはや死ぬしか無いと思いつめているであろう。しかしわしはまだ、彼らを
死なせたくない』

そうおっしゃって、わしをお主らのところに遣わしたのだ。殿はお主たちに、富士の麓に隠れ家も用意された。
まだ死ぬべき時ではないぞ!生きよ!」

佐久間兄弟は感激し、家康の勧めに従って小田原を退去した。
それからしばらくして、佐久間兄弟が生きている事を知った秀吉は、二人の罪を許し(おそらく家康の口添えがあったのだろう)
その後蒲生氏郷に仕え、蒲生家減封の際、秀吉の直臣と成った。関ヶ原では兄弟揃って家康に従い、石田三成の陣に
勇猛に攻め込んだ。その功で大名となり、隣り合った信濃飯山藩、長沼藩の藩祖と成った。

鬼玄蕃の弟たちの、賤ヶ岳のその後、のお話である
(佐久間軍記)
659人間七七四年:2012/04/19(木) 22:47:24.93 ID:hcDwOApk
>>658
何このマンガのようなイイ話( ;∀;)
660人間七七四年:2012/04/19(木) 23:08:49.96 ID:oFtmBiPu
佐久間兄弟も家康も康政も氏政も、みんなかっけぇ
661人間七七四年:2012/04/20(金) 02:44:22.14 ID:+8cc5F2g
がめつくない高虎の話

大坂の陣のあと、徳川家康、秀忠は各将への論功行賞を始めていた。


藤堂高虎のもとへ、本多佐渡守正信がやってきたのはその頃である。

「本日は、藤堂和泉守高虎殿に首を切られに参った。
両御所様は、藤堂殿のこの度の戦における天下無類の働きに対し、
会津に二本松を添えて60万石を与えられるとの御意向であった。
それについて我ら年寄り衆に評議せよとの仰せがあり
みなはそれを了承した。だが、私はこう申し上げたのじゃ。

藤堂殿は他に並ぶ者のない大勇の将、
彼に会津に二本松を添えて60万石に及ぶものを下されては、
千里の野辺に虎を放すことと同じ。
もし少しでも志を失うことになれば、
江戸をも一日で煙にするようなお考えもあるであろう。
ただそのまま居ながら相応に加増し、
子々孫々まで大切にいたすと約束なされるのがよろしかろうと。

こう再三申し上げ、そしてその通りになった。
かくなる上は、憎いやつと思われ、
腹いせに藤堂殿の手に掛けられるであろうと
覚悟のうえ参った。」


じっと聞き入っていた高虎は、顔を上げて言った。
「それはまた、大仰な申しよう。」
そして、笑った。
「はっははは・・・は・は・・」
高虎は酒を勧めて、互いに酌み交わした。
本多佐渡守正信は、機嫌よく帰って行った。

高虎は、
「さすが、日頃の心遣いに身を惜しまぬ正信殿ならでは。」
と感心し、その後は格別に魂をこめて勤めたという。
                             (玉置覚書)


一方、
せっかくの莫大な増封に、物申す者がいたことを知った家中の人々は
いずれも歯ぎしりして残念がったという。
                        (西島筆記高山様留書)
662人間七七四年:2012/04/20(金) 03:19:22.70 ID:YBaXnfWi
これが地味加藤さんの会津移封口添えに繋がるわけだ
663人間七七四年:2012/04/20(金) 08:26:52.91 ID:qtcopGNX
高虎の凄いところは野心はあるのに自分の
分相応な立ち位置をわきまえているところだよなあ。
664人間七七四年:2012/04/20(金) 08:47:31.44 ID:07fEv6Ck
>>663
普通にしてりゃ有能なのに、野心のおもむくままに分不相応な事を企てては失敗し
後を取り繕う時にその最大能力を発揮する人をディスってますね?
665人間七七四年:2012/04/20(金) 08:57:14.55 ID:BczKkJij
>>663
ラスボスの晩年をディスってますね?
666人間七七四年:2012/04/20(金) 09:05:31.38 ID:JYnijqxy
分をわきまえずにより以上を目指す人の方が見てる分には気持ちがいいけど、
あまり係わり合いにはなりたくないww
667人間七七四年:2012/04/20(金) 09:24:15.85 ID:lNBLkX6S
>>663
普通にしてりゃ有能なのに、野心のおもむくままに行動したら何かしらの生物が死に
後を取り繕う事もせずにその殺害能力を発揮する人をディスってますね?
668人間七七四年:2012/04/20(金) 09:27:39.05 ID:mfpa47n7
褒める対象にワシが抜けておるな?
>>660の耳を削ぎ目をくりぬいて首を河原に晒せ
669人間七七四年:2012/04/20(金) 09:33:17.01 ID:gBY8yIqN
>>668
佐久間盛政の娘を、盛政に殺された中川清秀の息子に嫁がせたのは嫌がらせにしか思えないんですが
670人間七七四年:2012/04/20(金) 13:47:45.00 ID:GTSjUJdU
山本常朝
『鍋島舎人助は朝鮮での戦に十三歳で出陣した。
十五歳以上の者しか出陣できない決まりだったようで、
十五歳と申告してお供を許されたそうだ。

これは朝鮮に渡ってからの話になるが、
ある時、加藤清正が舎人助を一目見て、
「この者は鍋島一門だな。やがて屈強の侍になる面構えだ。
ガハハハハハ」
と褒め、舎人助を片手で十度、持ち上げた。
舎人助は、
「帯が食い込んで痛かったけど、なにも言わずにいた」
と、後に話したそうである』
671人間七七四年:2012/04/20(金) 13:56:16.37 ID:gBY8yIqN
672人間七七四年:2012/04/20(金) 14:04:42.01 ID:GTSjUJdU
確認不足すみません
673人間七七四年:2012/04/20(金) 14:28:04.31 ID:GvasngBG
>>664
特技が土下座の人か
674人間七七四年:2012/04/20(金) 14:41:45.00 ID:zzbnPpSe
土下座が特技って北条氏康?
675人間七七四年:2012/04/20(金) 15:29:51.06 ID:uQEUEv3+
爆弾正かと思ったが、そうか、DQ眼竜でもいいのか。
676人間七七四年:2012/04/20(金) 15:37:06.15 ID:23JmFg1b
土下座は無料や!
677人間七七四年:2012/04/20(金) 21:23:06.53 ID:PmQ/LIIL
>>663
まーくんをディスらないでよ
678人間七七四年:2012/04/20(金) 22:04:36.46 ID:eymtWZy2
でも無駄にタイトロープな選択を続けた人生だからこそ政宗って愛されてるとも思う
679人間七七四年:2012/04/20(金) 22:12:33.20 ID:K+s6m37m
伊達家には一子相伝の土下座とか伝わってないのかな
680人間七七四年:2012/04/20(金) 22:44:57.45 ID:+tdQYGzA
伊達本家に電話して聞けばいいじゃん
681人間七七四年:2012/04/21(土) 11:16:21.38 ID:nv9zJcBm
 本阿弥光悦の父、本阿弥光二は刀剣の目利きに優れた男であり、織田信長と親しかったので
毎日のように御前に参上していた。
 その頃、荒木村重の反乱が終息し、村重が所蔵していた名刀「大江」が売りに出された。「大江」は
鎌倉時代の刀鍛冶の郷義弘が作った名刀なので、光二はさっそく買い求めて信長に献上した。しかし、
信長はその刀が元々荒木村重所有の品であることを知ると「謀反人が持っていた刀は不吉である」と言って
返してしまった。
 それを見ていた信長の近侍の者が何としてでもその刀を手に入れたいと思って、光二のことを中傷して
無実の罪を着せようとした。罪人にしてしまえば刀を取り上げるチャンスが生まれると考えてのことであろう。
中傷を真に受けた信長は怒り、光二の身は危うくなった。光二は自分の無実を主張して自宅に引き籠った。
 光二の妻である妙秀はこのままではいけないと思い、信長が加茂山へ鹿狩りに来た際に、妙秀が信長の前に飛び出してきて
信長が乗っている馬にすがりついて夫の無実を訴えた。狩りを邪魔された信長は「憎い女め、離せ!」と叫んで馬上から
妙秀を蹴飛ばしてしまった。しかしながら、妻がこのように直訴してくるのは無実の証拠ではないかと考え直したのか、
翌日に本阿弥光二を呼び出して「妻が直訴してくるのは前代未聞のことだ」と言い、怒りを解いて光二を許した。
682人間七七四年:2012/04/21(土) 11:43:53.39 ID:Gk2tiTTU
暴君ならそこで怒り倍加だがさすが。

しかし・・・主君の忌避した刀持ってもおおっぴらに使えんのじゃないか?
683人間七七四年:2012/04/21(土) 14:20:07.10 ID:tQBmnaPh
使わずにニヤニヤ眺めるに決まってるじゃない
684人間七七四年:2012/04/21(土) 14:25:53.78 ID:75+eKcEm
うがった見方されたら、お前も謀叛起こすつもりなのかと思われかねない。
685人間七七四年:2012/04/21(土) 14:27:13.67 ID:GqapNZLz
山本常朝
『鍋島舎人助に仕えた草履取りの話をしよう。
彼はあるとき、主人の供として諫早家について行った。
その待ち部屋にて諫早石見守の仲間と争いになり、
その相手を斬り殺してしまった。
当然ながら重罪だが、その身の処し方が武士の道に適っていたことから、
お構いなしという裁定になった。
この草履取りは、

「たまたま人間として生まれきて、
これぞという思い出もなく死にゆくのは無念なり。
いずれ死ぬのは同じなら、よし、ひとつ天下を取ってみよう!」

と思い立って、昼夜を別たず計画をひたすら練ったので、
天下取りの計画は十分に練りあがっていた。
ところが、このときふと思ったのが、

「天下取りの計画はしっかり出来上がっているが、
骨を折って天下を取ってみても、政治だなんだと苦労が絶えない。
いずれ死ぬのは同じなら、あくせく苦労ばかりしながら、
一生を終えるのもつまらないことではある。
それよりは、出家して悟りをひらいて、成仏したほうがましかもしれん」

ということだった。
それから出家をし修行に励み、真言宗に入った。
後に「温泉のホッケ」と言われるほど、日本中に名の聞こえた名僧となった。
最後に彼の歌を紹介しよう』

我他彼此と思ふ心のとけぬれば
自己智もなくて無性なりけり
686人間七七四年:2012/04/21(土) 15:02:44.18 ID:DDlMW4oF
えーっと、おとがめなしになった武士道にかなった所作ってなんなんでしょか
野心があったから?
687人間七七四年:2012/04/21(土) 15:12:45.55 ID:WldibdNf
「身の処し方が」と書いてあるんだから野心とは関係なしでしょjk
688人間七七四年:2012/04/21(土) 15:15:28.62 ID:APuXXqtw
葉隠って、朝とか寝る前に死んだイマジネーション練習しとけ、そうすれば何が起こってもなんともなくなるから!
って勧めているかなーり滅茶苦茶な書という印象が……。
689人間七七四年:2012/04/21(土) 15:38:45.58 ID:GqapNZLz
>>688
戦国期の名高い武士はそれが普通の感覚なんじゃない?
信長が好んだ敦盛もそういう意味だし、
戦国武士の辞世はそういう死生感を歌ったものが多いし
死をハッキリ意識するからこそ、生を怠けないようになるんだと思う
690人間七七四年:2012/04/21(土) 15:42:20.53 ID:Nb7gD3Mg
>>688
二次大戦の戦記とかでも、似たようなことを書いてる人多いけどな。
691人間七七四年:2012/04/21(土) 15:48:43.77 ID:Fl+LBbtV
要は、不測の事態が起きても慌てないように普段から想像力を働かせて心の面でも
物理的な面でもしっかり準備をしておきなさい、っていう至極まっとうな教訓でしょ?
当時はそこでの失敗≒死だったからそういう表現になってるというだけで
692人間七七四年:2012/04/21(土) 16:13:20.17 ID:uqf8DUOj
朝倉のじじいとかギリワンさんとかだと最後まであきらめそうにない
693人間七七四年:2012/04/21(土) 16:28:37.39 ID:WldibdNf
思へば此世は常の住処にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月より猶あやし
金谷に花を詠じ栄花は先立て無常の風に誘はるる
南楼の月をもてあそぶ輩も、月に先立つて有為の雲に隠れり
人間五十年、化天の内を比ぶれば夢幻のごとくなり
一度生を受け滅せぬ物のあるべきか
一度生を受け滅せぬ物のあるべきか


敦盛なんだけど、これは日本的死生感なのか?
それとも仏教的死生感というべきか?
とりあえず日本人の心に響くことに違いはないが
694人間七七四年:2012/04/21(土) 16:34:39.34 ID:jJnDt64f
こう言っちゃ何だが、大将と言うよりも兵卒の考え方ではあるな、敦盛は。
695人間七七四年:2012/04/21(土) 16:36:21.75 ID:Q0nRV9Ax
仏教的死生観がベースながらも
四季の風物が溶け込むあたり極めて日本的だと思う
696人間七七四年:2012/04/21(土) 16:56:42.89 ID:WldibdNf
>>695
日本人は四季の移り変わり、
儚さ、哀れさを感じたときに、
なにか触発されるものがある
それは多分、インドや中国の仏教とは違う趣で、
宗教ですら風土や民族性が現れるのは面白いなと思う
697人間七七四年:2012/04/21(土) 17:56:43.31 ID:I63eCJrf
昭和の軍人に剽窃され曲解されたせいでイメージ悪いからな葉隠。
儒教に感化された武士を攻撃したり、処世術をといたり、実際はかなり生臭い書物なんだがw
698人間七七四年:2012/04/21(土) 19:29:47.12 ID:GqapNZLz
葉隠は歴史の表には出にくい、
日常の喧嘩話や世間話の宝庫で面白い。
講談や歴史小説の題材にはならないような逸話も多い。
この時代の武士や僧、相撲取りなどの生活感が伝わってくる書物。
そういう外世話な話も収録されているからこそ、
常朝さんは、葉隠は、あくまでも自分自身の学びのために書きおいたもので、
他者が読めば、遺恨、曲解され悪事にもなるだろうから、
読んだら焼き捨ててくれと言っていた。
結局、書物として残ってしまったけどね
699人間七七四年:2012/04/21(土) 19:44:10.80 ID:TgOT6RJg
所詮ゆとり平和ボケ武士のオナニー妄想だろ
700人間七七四年:2012/04/21(土) 21:03:05.03 ID:Ed+f/q7n
>>698
俺たちのハードディスクみたいなもんか
701人間七七四年:2012/04/21(土) 21:51:12.99 ID:sdQYfheU
常朝さんがすげえ身近に思えてきたぞ
702人間七七四年:2012/04/21(土) 22:03:13.53 ID:LithHzxX
戦国時代の武士って、本当に毎朝新しい褌締めたりしたのかな
703人間七七四年:2012/04/21(土) 22:08:19.69 ID:YrdCBGQ6
江戸時代のそれも鍋島とかいう三流大名のどこの馬の骨ともしれないサラリーマン武士の
僕が考えた最強の戦国武士みたいな!
704人間七七四年:2012/04/21(土) 22:10:55.24 ID:Fl+LBbtV
住み着いてるなあ・・・竜造寺さんの子孫
705人間七七四年:2012/04/21(土) 22:12:28.07 ID:YrdCBGQ6
相当恨まれてる自覚があるようだな 化け猫鍋島はw
706人間七七四年:2012/04/21(土) 23:10:26.07 ID:xWdQLC/W
ネコとクマー 仲良く喧嘩しな
707人間七七四年:2012/04/21(土) 23:16:39.42 ID:pRuPXGGH
猫も熊もどっちも龍造寺では
708人間七七四年:2012/04/21(土) 23:28:29.19 ID:uTDGDoUz
葉隠とかいう三流本がごたごたと御託を並べたてるのが我慢ならん
709人間七七四年:2012/04/21(土) 23:37:29.24 ID:jp0yZn4Y
隆 慶一郎先生ディスってんのかテメー
710人間七七四年:2012/04/22(日) 00:23:21.99 ID:Vf7bKXic
>>654

細川に加えて忠之は久留米有馬とも絶縁している、
筑後川の境界争いに加え黒田騒動の関係者を有馬が多数召抱えなどで悪化
黒田藩内の有馬の立ち退かせるは、有馬は参勤交代で回り道しても黒田領内避けるわ
711人間七七四年:2012/04/22(日) 03:01:33.40 ID:s6r9R5Or
鍋島レベルで三流大名って言ってたら、後世没落した海千山千の大名たちは…
712人間七七四年:2012/04/22(日) 03:42:43.68 ID:8JroDycc
細川さんちは
隣国との友好関係なんぞ存在しえない事のいい例だね
713人間七七四年:2012/04/22(日) 03:46:09.62 ID:ly/QqBMH
お隣の島津とは仲良かったはずだが
714人間七七四年:2012/04/22(日) 05:51:23.85 ID:xoZiHbTX
九州情勢は複雑怪奇だな
715人間七七四年:2012/04/22(日) 07:22:26.96 ID:8cuJkuPw
忠之は三斎様と細川忠利の間の手紙でも頻繁に登場して嘲笑われてたしなあ
政治下手なのに幕閣におもねってみっともねえとか島原で醜態晒しながら口ばっかり達者だとか

細川忠利も幕府の犬と他家から煙たがれてたっぽいが
716人間七七四年:2012/04/22(日) 07:46:35.62 ID:NkGizCmf
>九州情勢は複雑怪奇だな
土井利勝「計算どおり」
717人間七七四年:2012/04/22(日) 12:21:24.05 ID:OWreZPEM
>702、????「もったいない!」
718人間七七四年:2012/04/22(日) 12:42:20.89 ID:QSjrlTUt
ふんどしは元から黄色ければ汚れが目立たなくて良い
719人間七七四年:2012/04/22(日) 12:55:25.91 ID:QL5kkgfh
鎧は赤いほうが良い 返り血が目立たなくなるから
720人間七七四年:2012/04/22(日) 13:04:22.83 ID:QSjrlTUt
同じ考えで18世紀あたりまでの英国陸軍の軍服は
赤色なんだよね。ちと目立つので射的の的になったのは愛嬌だけど
集団戦では無問題。

米国は紺色をえらんだ。血がついても真っ赤にはならないし、
でも手当をするときには場所がすぐわかる。そのそも目立たない。良い事づくめ。
洗濯やら陽の光で色褪せがひどいのは愛嬌。

インド兵には白色を。熱いし、インドの人は白が好き。
今日では皮膚漂白剤なるおそろしい薬がバカ売れするくらい白がすき。
白じゃなかったら兵隊やめるといわれる始末。
染料いらないし安く済むかな、とおもったら
一人被弾で歩兵戦列潰滅しちゃった。まあ愛嬌。
721人間七七四年:2012/04/22(日) 13:39:18.10 ID:bpEUzfT7
イタリアのネタが思い浮かんだがスレ違いだったのでパスw

>>715
三斎さんが人を褒めてる姿が思い浮かばないwww
自分のことですらdisってそうだわ
722人間七七四年:2012/04/22(日) 13:46:05.30 ID:vYucE/X3
大好きな嫁さんでら、ディスってるからなw
723人間七七四年:2012/04/22(日) 13:49:27.76 ID:8GZ2v1sl
幽斎流の子育ては危険ということかw
724人間七七四年:2012/04/22(日) 14:53:49.28 ID:KlS0y9B3
和歌で教育、という自分の趣味まじえた育て方だったのが……。
きちんと家名残したから合格点ではあるんだろうが。
725720:2012/04/22(日) 14:55:23.58 ID:QSjrlTUt
>721
ごめんね。ついつい。
726人間七七四年:2012/04/22(日) 15:06:41.51 ID:8cuJkuPw
三斎様は激情型の多かった戦国武将の中でもほんのちょっと枠を外してる程度で
筆まめだったから逸話が大量に残ってしまってるだけなんじゃないのかな
黒田家の子育ての方が危険というか何してたんだって感じが・・・
727人間七七四年:2012/04/22(日) 15:07:50.01 ID:n+lPJH6W
子育ては守役とかの仕事だよな。それなりに身分ある武士なら。つまり……。
728人間七七四年:2012/04/22(日) 15:10:45.83 ID:MDA2TQWm
三斎様は身内関係以外はまともだろ。
729人間七七四年:2012/04/22(日) 15:29:59.32 ID:iM+YpfoR
>>727
守役を選び命じるのはやはり父上・・・
730人間七七四年:2012/04/22(日) 15:32:56.99 ID:n+lPJH6W
黒田は仕方ない。
子供ん時に荒木の謀反が起こり、説得失敗して捕まえられた→寝返ったと誤解され殺されかける、
という教育空白期+トラウマがあるんだから。
731人間七七四年:2012/04/22(日) 15:33:36.90 ID:n+lPJH6W
説得失敗して→親父が説得に失敗して
732人間七七四年:2012/04/22(日) 15:42:20.97 ID:OWreZPEM
三才さまがいい話に出てくるのはそうないようなw
733人間七七四年:2012/04/22(日) 16:19:09.51 ID:l6ZLaXOV
>>730
それ言うなら細川も
松永の将軍弑逆のゴタゴタで親父が逃げ回り、教育空白期+トラウマがあるじゃん
734人間七七四年:2012/04/22(日) 16:21:32.32 ID:IWdiDFaE
森武蔵も、若くして父と兄を亡くし、織田家が大変な中で育ったトラウマと空白期があるから仕方ないな。
735人間七七四年:2012/04/22(日) 16:38:23.40 ID:bwQoJFtG
地味加藤さんも、幼少期に親父が一向一揆に参加したことで
流浪して馬喰で食いつないでいたから仕方ないな。
736人間七七四年:2012/04/22(日) 17:32:31.54 ID:r+dq3SN4
今日岩手県立博物館で市民向けの日曜講座で「南部重直は暴君か」ってのをやってたんで聴講してきたんだが面白い話をいっぱい聞けたよ。

南部藩の二代目藩主、南部重直は暴君として後世に伝えられている。
譜代の家臣を理由も無く改易し、江戸や上方の巧言令色な新参者を召抱えたり
参勤交代に遅刻して家光の怒りを買い、家を改易の危機に陥れ、
あげくのはてに継嗣を定めぬまま死んだために藩の分割相続の原因を作ってしまった。

・・・っていう世評は正当なのかってのを一次資料に当たりながら検証してくんだけど
リストラの手際が悪かったせいで譜代の家臣からおおいに恨みを買ったってのが真相みたいね。
まー、重直自信も性格にムラっ気があったみたいで正月の将軍への挨拶を仮病でサボって鷹狩りに行くとか色々やらかしてて、
天才でも秀才でもない凡人が重責負わされる苦労ってのが垣間見えて中々面白かった。

特に参勤交代に遅れたってのはよりによって武家諸法度の制定後第一回目のことで、相当家光に怒られたらしいw
原因は病気で体調崩してたから(伝説では側室とケンカして遅れたことになっている)らしいんだけど、
細川家の日記には「伊達政宗でさえ病気を押して遅刻はしなかったのにあいつは何やってるんだ!」と書かれてるらしいw

こんなところまで引き合いに出されるヤツって・・・w
737人間七七四年:2012/04/22(日) 17:36:03.25 ID:8cuJkuPw
細川家は常に他家に厳しいからw
これはちょっと悪い話の方がふさわしいとは思うがその講座聞いてみたかったな
738人間七七四年:2012/04/22(日) 18:23:55.27 ID:R/Ktogxv
それって政宗の死の直前の最後のお勤めだよな?
さすがに悪意や皮肉の意味はないと思うぞ
739人間七七四年:2012/04/22(日) 22:36:06.75 ID:2/h9/3uV
ではここらで、他家に厳しい三歳さまが珍しく?気配りするお話を一つ。

島原の乱で抜け駆けやっちまった、鍋島勝茂。
総責任者の知恵伊豆はそれはもうお冠だったが、
世間では「鍋島やるじゃん」とけっこう高評価だったそうな。

半年余の閉門が解かれて勝茂が世間に出てきた時、
「よっしゃ、お祝いしよう」と真っ先に茶の湯を催した者がいる。
それが、みんな大好き細川三斎様。

三斎様が言うことには、「閉門なんて羨ましい、武門の誉れ」
「鍋島藩邸の前を通りかかった江戸中の人間が
 何でここんちは門が閉まってるの?と思い、
 やがて、鍋島家が一番槍になったことを知ることになる。
 それって、すごいアピールじゃないか」と。

更に、茶の湯を楽しんだ後に催された酒宴で、
当時江戸で流行っていた小唄が演奏された。
その歌詞は、「有馬の城は強いようで弱い。鍋島様にとんと落とされた」というもの
これを聞いた三斎様、
「それじゃ、まるで鍋島勢が弱いみたいに聞こえるだろ」と、
即興で「有馬の城は強いことは強いが」と替えさせたとか。

でも、気配りされた方のナベシマンの方はあまり細かいことを気にしなかったのか、
佐賀では例の小唄は原曲のままで伝わっているそうな。
740人間七七四年:2012/04/22(日) 22:48:47.16 ID:Qm+/7Y6C
一番槍は軍法だの道徳だの持ってきたところで一番槍には変わらんからね


が、葉隠武士の偽らざる気持ちだろうね
741人間七七四年:2012/04/22(日) 22:52:04.95 ID:SIg7ldaM
三斎様の性根の部分は武人だし
島原後の頃にもなると戦乱の世を強く懐かしんでるからこそ鍋島を褒め称えてる
742人間七七四年:2012/04/22(日) 23:00:14.26 ID:sYsRclSj
世間はわかってるな 鍋島は所詮鍋島って
743人間七七四年:2012/04/22(日) 23:22:07.59 ID:8cuJkuPw
三斎様は出陣したかったんだろうなあ
忠利との文通であれこれ心配して忠告しながら手紙で戦場の忠告なんて時間かかりすぎで虚しいと落ち込む三斎様かわいい
744人間七七四年:2012/04/22(日) 23:43:16.82 ID:m+kKtdLC
しっかし知恵伊豆は実戦経験なかったのに、よくも立派に総司令官務めたもんだ
745人間七七四年:2012/04/22(日) 23:44:48.83 ID:Vf7bKXic
>>744
相当手際悪かったと書かれた記録を見たことある
746人間七七四年:2012/04/22(日) 23:51:38.78 ID:HC73udEE
三斎様はよくわからないなあ。
家族には苛烈だし、部下もたまに死ぬけど、
同僚ってか横並び関係の人には優しい話が多い。
嫌いな人には厳しいけど、同僚にはわりと我慢するね
747人間七七四年:2012/04/22(日) 23:59:46.30 ID:N12MMyfo
身分によって扱いが違うのが当然の時代だと思えば不思議じゃないよ
748人間七七四年:2012/04/23(月) 00:03:55.59 ID:LSjZqhBx
>>744
西国無双が補佐してたんだから当然だろ
749人間七七四年:2012/04/23(月) 00:08:14.85 ID:aRBwPCiO
>>747
近代人権史観乙
ぶっちゃけ江戸以前より現代のほうが身分にうるさいぞ
某有名戦国武将や某新撰組有名組員は、
現在で言う被差別部落の出身の可能性が高い
750人間七七四年:2012/04/23(月) 00:15:39.74 ID:+wPVkZ8v
>>742
どっちかっていうと、
「二度も大軍出しといて
なかなか農民押さえ込めなかった幕府プゲラ」って唄だけどな
751人間七七四年:2012/04/23(月) 00:20:58.07 ID:vVlo9W1o
>>749
うさんくさ
752人間七七四年:2012/04/23(月) 00:24:07.49 ID:aRBwPCiO
>>751
胡散臭いと言われたからには実名をあげよう
蒲生氏郷、近藤勇、沖田総司
出生地を調べてみろ
侍の価値は生まれではなく武勇なんだよ
753人間七七四年:2012/04/23(月) 00:26:35.73 ID:vVlo9W1o
>>752
それのどこが現代の方が身分にうるさいって事になるんだ?
754人間七七四年:2012/04/23(月) 00:29:27.07 ID:aRBwPCiO
>>753
アホの部落解放同盟やバカの自由同和会が必死だから
755人間七七四年:2012/04/23(月) 00:31:09.08 ID:vVlo9W1o
意味解らんわ
同和問題への不満を関係無い話でレスされても困るわ
756人間七七四年:2012/04/23(月) 00:34:18.17 ID:aRBwPCiO
>>755
確かにスレ違いはすまなかった。
なら現在より戦国のほうが差別が酷かったという貴方の根拠を教えてくれ
757人間七七四年:2012/04/23(月) 00:38:31.43 ID:vVlo9W1o
>>756
「福島正則が役人の不正を訴えた農民を処刑した」
これが美談として語り継がれるのは現代人の価値観では理解不可能だろう。

しかし、身分が違えば扱いも命の価値も違うというのは、そもそも差別では無いんじゃないの?
「基本的人権」という概念すら無い以上、彼らは差別してる、されてるとは考えてなかったと思う。
漠然とした人間愛は当然あっただろうけど。
758人間七七四年:2012/04/23(月) 00:55:16.43 ID:aRBwPCiO
ごめん
言ってる意味がよんわかんね
759人間七七四年:2012/04/23(月) 01:04:27.72 ID:vVlo9W1o
平社員は社長に頭を下げて挨拶するでしょ?
これを我々は差別だとは捉えないよね?
でも千年後の世界の価値観や法律では差別かもしれない。
760人間七七四年:2012/04/23(月) 01:28:43.09 ID:N6CmgxjQ
そろそろスレ違いの話題で思想のすれ違いを実演するのは止めろ。
761人間七七四年:2012/04/23(月) 01:31:17.39 ID:WZHBp92L
逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ
762人間七七四年:2012/04/23(月) 01:32:09.91 ID:XSiVoayw
差別という発想がなければ差別行為が現実にあってもその実質は認識されない=存在しない、ってことか?
763人間七七四年:2012/04/23(月) 01:42:49.03 ID:WZHBp92L
差別という発想がなければ、
喧嘩をしたら強いほうが勝ったという現実が残るだけ
もちろん、敗者への判官贔屓はある
だけで判官贔屓は決して敗者の正当化ではない
764人間七七四年:2012/04/23(月) 03:41:41.17 ID:9WGqY2XZ
差別がないならならば、なぜ非人なんて身分が王朝期できたの?
765人間七七四年:2012/04/23(月) 03:58:30.08 ID:+ByJlg4u
>>764
差別がないんじゃなくて、差別が問題意識として成立していないって話
基本的人権という思想に影響を受けている俺たちは身分に高低はないという前提があって
その前提が崩れればそれは問題だと思う

しかしそもそも人類すべてが平等ではない、身分があって当たり前という前提だと、
身分に上下があっても何の問題も起きない

だから差別意識がない
766人間七七四年:2012/04/23(月) 04:05:01.77 ID:WZHBp92L
>>764
それは、集団が成立すれば決まりごとを守らない人間を排除するのが、
人間の普遍的な感情だからでしょ

オレは、真実のいわれなき差別はなくすべきだと考えるよ
767人間七七四年:2012/04/23(月) 06:41:56.11 ID:vhWkYTw0
このスレではそんなご大層な事じゃなくて、ちょっとしたいい話をだな
768人間七七四年:2012/04/23(月) 12:19:24.23 ID:+wPVkZ8v
三歳さまのちょっといい話が投下されただけなのに
どうしてこうなった

時代がどうのっていうより、単に忠興って人は
「他人は基本、常にディスる」
「気に入った人の場合、持ち上げてやらないこともない」
「もっと気に入った人だと、判りやすく独占する」
ってことなんじゃね?
忠利も「父は子供のよう」とか言ってるし。
769人間七七四年:2012/04/23(月) 12:51:06.32 ID:mTJNPEl6
三斎様は差別なき公明正大なお方ですよ。

いかなる出自であろうと奥方を覗き見たものは死にましょう
770人間七七四年:2012/04/23(月) 12:52:30.88 ID:sTIstXEs
>奥方
そのぶぶんはほんとの基地外だもんなあ
771人間七七四年:2012/04/23(月) 14:22:09.90 ID:fvJmGV4r
>>769
ああ、そこに関しては平等だなww
772人間七七四年:2012/04/23(月) 17:48:32.95 ID:kw4IlQ/G
下賎な身分のものとの気軽にしゃべったり取り立てたりした信ちゃん……。
773人間七七四年:2012/04/23(月) 21:49:01.04 ID:bpnxxrvA
ノブは人間を道具としてしか見なかったからだよ。
774人間七七四年:2012/04/23(月) 22:02:38.08 ID:jUTmYakp
信長が取り立ててるのは、実は侍身分の人間に限られたりする。
秀吉が過去どうだったのかは解り様がないしな。
775人間七七四年:2012/04/23(月) 22:49:52.78 ID:ciM2z99W
>>768
三斎様はその自分の好き嫌いの理由付けが一々理屈っぽいというのもあるかな
理屈っぽいだけで実際は100%感情のような気がしないでもないが
776人間七七四年:2012/04/24(火) 11:39:31.49 ID:j7ofBqol
太閤様も認める九州の強者竜造寺

山本常朝
『太閤様が薩摩を攻めておられたとき、
軍奉行の人たちから、先陣の竜造寺、鍋島の佐賀勢が軍法に背いた進軍をしているので、
けしからないことでありますから、どうか軍列を正すように、と太閤様に申し上げた。すると、

秀吉公
「戦をするのに決まった型や軍法というものはない。敵に勝つことを軍法とするのだ。
竜造寺は九州でも有名な強者たちである。
きっと、あのままで自信があるのだろう。
なまじ下手なことを言うと恥をかくぞ」

とお叱りになったとのことだ』
777人間七七四年:2012/04/24(火) 11:41:23.35 ID:lDpP4tws
鍋島の者どもはくそ弱いので壊走するだろう
そこで加藤主計がかかっていき(ry
778人間七七四年:2012/04/24(火) 11:50:48.12 ID:h79d/JCj
竜造寺さんの反応早すぎてワロウタw
779人間七七四年:2012/04/24(火) 11:59:52.42 ID:WeBW0wgi
まぁ九州征伐終結後に鍋島は軍隊の体をなして無いと
秀吉から、軍事顧問を派遣され軍制改革を強いられちゃうんですけどね
その後の史実にまでつなげちゃうと悪い話になっちゃうなw
780人間七七四年:2012/04/24(火) 12:08:50.15 ID:4GNPk3x1
軍制改革なんてものがあったのは初耳
781人間七七四年:2012/04/24(火) 12:17:11.53 ID:l29HL47o
鍋島さんちには、軍制というか、
軍団長の規定がない(常に殿が同伴する、分隊を編成できない・しない)、
殿からの命令伝達の方法がいいかげん、伝令が大物の前を乗馬のまま横切ったら斬られるw
背命の処罰の規定が敵前逃亡以外まっったくない
などなど、なかなかワイルドだったみたいだよ。

地方豪族のまま(運よく)大きくなった、という事なんだろうな。
782人間七七四年:2012/04/24(火) 12:22:33.41 ID:uRlci31j
多少なり組織立ってた部分があっても沖田畷できれいさっぱり崩壊しちゃってただろうしな
783人間七七四年:2012/04/24(火) 12:26:27.06 ID:ozBaKjyZ
>>774
職人・芸達者も大好きだよ。天下一だの名人だのの称号は信長が褒美とともに与えて広まったものといわれている。
784人間七七四年:2012/04/24(火) 12:36:10.24 ID:h79d/JCj
>>783
それって部下や同業同士でシノギ削りあわせて業績上げる方法だよな
現代にも有効で、だいたいの企業が使ってる根強いやり方なんだけど、
派閥の発生だったり、人間関係にストレスがたまりやすいやり方でもある
そこは本能寺や清洲会議にも現われてるなって思う
785人間七七四年:2012/04/24(火) 12:38:46.64 ID:ozBaKjyZ
>>784
なんでそれって……に繋がるか謎。
そうなると、秀吉夫妻の夫婦喧嘩仲裁したのも、「常盤御前を殺した先祖の呪い」にかかった乞食に施したのも……とかしちゃうわけ?w
786人間七七四年:2012/04/24(火) 12:41:26.47 ID:aGLi9qSg
織豊ですらやっと昭和後期になってから現代人が理屈こねくり回して
軍団制だ職業軍人だというようになったんだから

研究する人がいない地方大名の軍制なんて殆ど分かってないだろうに
787人間七七四年:2012/04/24(火) 12:45:08.82 ID:ozBaKjyZ
最高機密である軍事制度を含んだ軍事全般って、当時は口伝が主じゃないの?
軍学とかを江戸期にでっち上げる連中がたくさん出たが、これが空論ばっかで役立たずだったのは周知。
788人間七七四年:2012/04/24(火) 12:47:16.72 ID:c+WrngzQ
九州の周りの大名の軍制はどうだったんだ?というのが気にかかってくる
789人間七七四年:2012/04/24(火) 12:48:34.80 ID:h79d/JCj
そんなに無理矢理繋げたつもりはないが・・・
おねへの手紙や乞食への情けは信長の気遣いの話でしょ。
天下一称号は経済政策や技術者の能力向上の話だから
790人間七七四年:2012/04/24(火) 14:32:18.97 ID:tTZ3T335
領主とその支配民の寄せ集めにすぎない軍で、きちんとした編成とか戦術とか無理だと思うが……。
791人間七七四年:2012/04/24(火) 15:16:05.36 ID:4GNPk3x1
封建君主制はどんなに大きくなっても「領主とその支配民の寄せ集め」にすぎないわけだけど
792人間七七四年:2012/04/24(火) 15:26:16.47 ID:76wVVDVV
アメリカ陸軍は州兵の寄せ集め
793人間七七四年:2012/04/24(火) 15:28:04.77 ID:tmxNn1P1
州兵と陸軍は別系統じゃなかったっけ?
794人間七七四年:2012/04/24(火) 15:33:15.73 ID:tTZ3T335
>>791
だから江戸時代で制度が停滞して、いきなり近代化した日本はともかく。
欧州だと国王が常備軍そろえるように変化していったんじゃ?

>>792
州兵も国防総省の管轄下にあるアメリカ国家の軍組織。装備、訓練も統一されている。
歴史的経緯から、平時の指揮権が州知事にあるぐらいじゃ?
795人間七七四年:2012/04/24(火) 16:42:39.44 ID:4GNPk3x1
>きちんとした編成とか戦術
という物を用いず個人技や現場の判断といった物を突き詰めていくのが大名軍のような封建制
厳格に制度化規格化を進めていくのが律令軍や国民国家軍のような集権制という違いがあるのみで
優劣はそれこそ技術革新や陳腐化、人口の増減といった時代の流れで変わっていく
796人間七七四年:2012/04/24(火) 16:55:34.24 ID:zgDSmMTs
農民までキリングマシーンが存在した時代適当に戦ってる軍が弱いとは限らんからなぁ・・・

まぁ弱将の元の軍が弱いのはいつの時代も変わらないというのを体現した方がおいででもあったわけだが
797人間七七四年:2012/04/24(火) 17:10:01.74 ID:/lvlPHF+
日新斎のせんn……教育のお陰で、薩摩兵児は死を恐れないからそんなの無用です。
798人間七七四年:2012/04/24(火) 17:14:07.07 ID:tmxNn1P1
薩摩と土佐は比喩抜きで修羅の国
799人間七七四年:2012/04/24(火) 17:28:30.75 ID:BY1Y6njQ
>>787
城の石落としを本当に石を落とすものだと思ってたらしいなw
800人間七七四年:2012/04/24(火) 20:15:22.14 ID:XUqmZnpg
いまの勢いならまとめブログのエピソード数で鎮西一になれそうな三斎様の話。
(ネタ元は今谷明の本)

土井利勝「こたびの大阪夏の陣の活躍、見事でございました。
大御所様も将軍様もことのほかお喜びです」
忠興「うむ、わざわざのお出ましごくろうにござる」
利勝「こたびの恩賞として、将軍様より忠興様に松平の姓を贈りたいとのこと。謹んで受けられますよう」

忠興「それはありがたきお言葉。だが、断る!」
利勝「!?」
忠興「(自称といえどもも八幡太郎義家公に連なる)徳川姓ならもらってもようござるが」
利勝「そ、それは…(ワシだって名乗りたいわ)」
利勝「しかし九州に重きを成す忠興様がいつまでも羽柴姓というのは風聞も悪く…」
忠興「では、本日より旧姓の細川に復する所存」
利勝「ですが大御所様、将軍様のお顔をお立てになって、ここはなんとか…」
忠興「お気持ちはありがたく、受け取ってござる。だが、断る」
忠興(源氏の名門の姓・細川が、どこの馬の骨とも知れぬ松平姓など名乗れるものか)

この時は羽柴忠興ではなく豊臣忠興だったはず…とか眉唾な箇所はあるものの
三斎さまの(血筋が)いい話。
801人間七七四年:2012/04/24(火) 20:26:53.27 ID:h79d/JCj
明治まで松平姓名乗っていた久松さんが怒るよ

真面目な話すると松平氏って新田の流れの可能性高いんでしょ?
それなら義家公の流れも嘘ではないだろ
802人間七七四年:2012/04/24(火) 20:40:53.06 ID:jhfm9YSD
まあ、仮に嘘ではないにしても超傍流なことは間違いないしなあw
それに室町時代京都で細川がブイブイいわせていた時代は、三河や近江で、京都伊勢氏の被官になって
コソコソやってて、阿波細川が三河守護についてた時代に、「あの松平ってのをなんとかしろ!」って怒られたりw
803人間七七四年:2012/04/24(火) 20:58:32.98 ID:FFWHWAK/
モノホンの源氏末裔の佐竹さんちに、
「松平? 徳川? どこの馬の骨よ」とかディスられてたし
格式だけなら細川の方が上っぽいよな。
804人間七七四年:2012/04/24(火) 20:59:09.84 ID:h79d/JCj
まあ名を成した後は血統にカリスマ持たせる必要も出てくるけど(名を成せば自然と血にカリスマが宿る面もある)、
基本、武家は血筋誇るより武勇と情けがあるかどうかだ。
義家公に武士は己の卑賤をわきまえよ!の教えがあるくらいだし
805人間七七四年:2012/04/24(火) 21:04:25.64 ID:jhfm9YSD
室町時代の松平がどんなだったかといえば、松平一族のうち近江で琵琶湖の湊の奉行やってた人が、
鮒寿司の売買代金で不正していると領民から訴えられるとか、そんな程度の一族だったわけでw
806人間七七四年:2012/04/24(火) 21:08:36.26 ID:h79d/JCj
>>805
で、アナタは2ちゃんで他家を口汚く罵る程度の家柄だというわけだね(笑)
807人間七七四年:2012/04/24(火) 21:17:49.50 ID:jhfm9YSD
>>806
別に罵っているわけではないがw;
忠興のは徳川の圧倒的な権勢があった上での一種の痩せ我慢にすぎないわけだし。

室町期あの程度の、おそらく当時同じ程度の家はいくらでもあった松平氏が、戦国を経過して、天下を取るほどに成った、
という事の不思議さとか時代の凄まじさとかを、こういう話から感じてもいいのではないかな?
808人間七七四年:2012/04/24(火) 21:23:45.86 ID:h79d/JCj
>>807
・・・・あんたスゲーな
自分のレス見返してみなよ
そんな風な観点には読めないが。
だが、そのサッパリとした気性は面白い(笑)
809人間七七四年:2012/04/24(火) 21:26:12.63 ID:cjGGF7Xm
わざわざ家康が改姓してるくらいだからな「松平」姓は
相当イメージが悪かったんだろう
イメチェンして大成功だね家康
810人間七七四年:2012/04/24(火) 21:50:02.02 ID:ChiHxTWq
>>803
八幡太郎義家>>>>>>>>>>>>>>>新羅三郎義光
811人間七七四年:2012/04/24(火) 21:58:55.67 ID:WqLBFTgC
羽柴姓の方が松平姓より酷いと思うけど
単に語感の問題なのか!?
812人間七七四年:2012/04/24(火) 22:08:47.01 ID:tmxNn1P1
徳川相手なら断っても大丈夫
しかし、しかしだ
万が一秀吉相手に断ろうものなら・・・
813人間七七四年:2012/04/24(火) 22:10:17.51 ID:lClNoC5X
>>811
忠興の場合、自分より先に息子の忠利の方が、秀忠から細川性を許された事をむかついていたのかもしれんなw
814人間七七四年:2012/04/24(火) 22:12:55.85 ID:1KuA/7RD
ガチの血統コンプもちの天下人相手に断ったら家が危ないわな…
815人間七七四年:2012/04/24(火) 22:20:37.04 ID:1FAzaDde
けど、細川幽斎って、どこの馬の骨かわからない。
って、説がなかったっけ?
816人間七七四年:2012/04/24(火) 22:27:40.67 ID:WqLBFTgC
自称細川と自称新田か
817人間七七四年:2012/04/24(火) 22:39:22.20 ID:lClNoC5X
>>815
細川幽斎の父親が三淵晴員で、三淵晴員の父親が細川元有(和泉細川氏)で、ああややこしいw
異聞としては足利義晴のご落胤だというが、そうでなくてもまあ、家柄的にはしっかりしてると思う。

そういえば細川幽斎は、信長の上洛の後、細川宗家である京兆家を乗っ取ろうとしたフシがあるとかないとかw
818人間七七四年:2012/04/24(火) 22:41:38.03 ID:h79d/JCj
てゆーか養子文化バリバリだった日本で確かな血統なんて天皇家、一部の高家、社家、伝統芸能家くらいだろうな
819人間七七四年:2012/04/24(火) 22:43:33.92 ID:u3gAmF+A
徳川家も犬の骨から始まって、さらに大奥で雑種大量生産したし
血筋に貴種を取り込むチャンスを全てフイにしたのは雑種のプライドでもあったんかね
現代の徳川さんが外国人と結婚したのも積み重ねた血筋からして仕方ないと納得してしまってる
820人間七七四年:2012/04/24(火) 22:56:28.90 ID:ZScI+8Mx
まぁ、姓を許すだの与えるだのって、別に与える方が驕ってるとか
頂く方が遜ってるっていうよりも、その時その時の現実的な力関係
の確認のための儀式みたいなもんであって、元々どっちの家の方が
格が上だとか由緒があるだとかってのを持ち出すのは野暮というか、
言わない約束でしょって暗黙の了解があったんじゃないかと。
あと、家系の仮冒も、多かれ少なかれお互い様的なところもあって、
いちいち突っ込まないで、まぁそういうことにしておきましょう、
みたいな。

じゃないと、こんな習慣自体が成り立たないでしょ。上も下も栄枯
盛衰いろいろあってぐっちゃぐちゃになった時代だったんだから。
821人間七七四年:2012/04/25(水) 01:28:11.83 ID:1aW69wHh
>>813
忠利は三斎様より幕府から高く評価されてた節もあるから仕方ない
822人間七七四年:2012/04/25(水) 05:36:42.24 ID:96fv0lqu
今は姓も苗字もごっちゃだけど戦国辺りは分けてたろうし
そうすると>>800の話もややこしいよな・・
823人間七七四年:2012/04/25(水) 12:03:49.02 ID:n92hjHvz
三斎さんは三河武士とは別の意味でめんどくさいからな〜
824人間七七四年:2012/04/25(水) 12:15:47.41 ID:7rCINRqj
単純明快ですよー

奥方見に・・・→斬る!
黒田最高!→コロス
825人間七七四年:2012/04/25(水) 12:21:02.22 ID:h01f/8Ql
森忠政は親友なんだっけ? よく付き合えたな、お互い。
826人間七七四年:2012/04/25(水) 12:31:53.66 ID:rYdX8bRm
気分屋もしくは強力な信念の持ち主ほど、
好感を覚える相手には無条件に良くするものだ
これを素直と捉えるか、差別的と捉えるかは、

自由だ
827人間七七四年:2012/04/25(水) 13:59:37.75 ID:seBzc9SU
サバンナ高橋乙
828人間七七四年:2012/04/25(水) 14:01:05.63 ID:fLZ+4sF5
三斎様お友達リスト
蒲生氏郷→真面目で優秀
島津忠恒→優秀DQN
立花宗茂→優秀で良識人
森忠政→優秀だが引っ越し するまでDQN
なんか縁がある人
政宗

とりあえず、癖があって優秀な人って言うのが共通点か?
異論あったら訂正よろしく!
829人間七七四年:2012/04/25(水) 14:05:58.88 ID:yOXu3+kU
>>828
藤堂高虎とも仲よかったはず
これは敵(黒田・地味加藤)の敵(藤堂)は味方、みたいな関係でもあるけど
830人間七七四年:2012/04/25(水) 14:06:32.41 ID:sev6+b2r
>>828
忠興と政宗共通の友人として、旗本の加賀爪忠澄という人がいるな。
忠興はこの人を心底信用していたり、政宗はこの人と殴りあいの喧嘩をしたw
831人間七七四年:2012/04/25(水) 14:12:03.57 ID:dxVXbeQH
七将襲撃事件のころは黒田さんとも仲良くしてたのにね
832人間七七四年:2012/04/25(水) 14:23:24.96 ID:HtrT9Jkl
共通の敵が居ればこそ
833人間七七四年:2012/04/25(水) 15:31:33.10 ID:ZSEvammA
>>829>>830
情報ありがとう!
[続・三斎様お友達リスト]蒲生氏郷→真面目で優秀 島津忠恒→優秀DQN
立花宗茂→優秀で良識人 森忠政→優秀だが引っ越 しするまでDQN
藤堂高虎→敵の敵は味方
加賀爪忠澄→政宗と共通の 友。拳で語る政宗→王義之の写本を半分こした友達。

友達多いな。他人には我慢できるけど、
家族には当たるタイプなのかな。
834人間七七四年:2012/04/25(水) 15:35:16.86 ID:M+sSCbui
そら徳川が皮肉たっぷりに「三成は我々にとっての大功労者w」と言い残すな。
文治憎しの一念で、天敵同士が結んで徳川の味方になるんだから。
原因はラスボスなのに……。
835人間七七四年:2012/04/25(水) 16:37:25.50 ID:VXdQCCzc
>>833
高虎が黒田と仲直りしたら警戒し始めたりしてる
836人間七七四年:2012/04/25(水) 18:17:40.52 ID:fLZ+4sF5
>>395
情報ありがとう!
これ以上はスレチだから、細川スレがよいのかな?

にしても、三斎様の長政嫌いは筋金入りすぎw
長政だけでなく、そのお友達まで警戒するとは。
年貢云々の前からも因縁があったのだろうか。
837人間七七四年:2012/04/25(水) 18:22:26.60 ID:fLZ+4sF5
>>836
アンカーミス
×>>395>>835
838人間七七四年:2012/04/25(水) 18:38:26.29 ID:++oQDEik
利害から発したとはいえ、その利害の継続や別利害の因縁でないのなら
好きにしろ嫌いにしろ情の強い御方だったんじゃね?
ガラシャへの愛を考えれば、その情の強さが増に転じたと思えば理解しやすいんじゃなかろうか。
身内や格下と違って、その情を直接的な行動に訴えられないから、ネチネチとした方向に行くしかなかったとかで。
839人間七七四年:2012/04/25(水) 19:00:11.29 ID:8bqEdcUS
三斎様は精神的幼いんだよ。

つまり三斎様は何歳になろうとも三歳みたいな。


これは忠興、ではなく、
これはさておき、

三斎様の息子って秀吉の「秀」の字貰ってないね。
前田、島津、池田あたりもそうだけど。
840人間七七四年:2012/04/25(水) 19:28:05.00 ID:Q3JQoHVv
>>838
仁者のみよく人を好み、仁者のみよく人を憎む by孔子
ってやつですね
841人間七七四年:2012/04/25(水) 20:57:25.11 ID:sev6+b2r
虎姫の戦い

賤ヶ岳で有名な鬼玄蕃・佐久間盛政が滅んだ時、一人娘である虎姫が残された。

盛政を高く評価していた秀吉は、この虎姫の結婚の仲立ちをした。
結婚相手は何と、その佐久間盛政が賤ヶ岳においてその陣を急襲し討ち死にさせた中川清秀の次男、
中川秀成であった。
秀成の兄、播州三木城・6万6千石の中川秀正が文禄二年(1594)、朝鮮水原城のほとりで
鷹狩りをしていたところを毒矢で射かけられて没すると、秀吉は秀成に家督を継ぐことを
認めると同時に、この結婚を命じたのだ。

中川家では佐久間盛政との戦いで、清秀を始めとして多数の使者を出したこともあって、この結婚に
大いに不満であったが、秀吉の命には逆らえず、秀成は虎姫を迎えた。

しかしこの夫婦の仲は至って良く、嫡男久盛をはじめ、多くの子宝に恵まれた。

慶長15年(1610)1月、7人目の子を妊娠した虎姫は、夫・秀成に願い事をした

「もし今度の子供が男子ならば、その子に盛政の佐久間家を継がせたいのです。」

はたして生まれた子は男子であった。ところが虎姫は産後の肥立ちが悪く、間もなく死んでしまう。
しかし秀成は妻との約束を守った。彼は生まれた子を内記と名付けると、これを佐久間盛政の弟、勝之
(鬼玄蕃の弟たちのその後http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6335.htmlこの話の佐久間源六
に養子に出した。勝之はこの甥を養育し、元服すると『佐久間勝成』を名乗らせ、自分の娘と結婚させた。
ここに盛政流佐久間家の復興は成った。

この後、この新生佐久間家は中川家の親族衆として存続、明治まで至る。

余談だが、虎姫は息子である嫡男の中川久盛にも一つ頼みごとをしていた。それは父、佐久間盛政の
菩提寺を建立して欲しい、ということであった。

彼も母の死後、その約束を果たした。その菩提寺の名は『英雄寺』という。


佐久間盛政の娘、虎姫の、佐久間家のための戦いであった。
842人間七七四年:2012/04/25(水) 21:26:20.78 ID:esZJkMB/
またもイイ話

映画化されてもいいくらいだと思うが
賤ヶ岳の戦犯にされてるから
あまり世間受けしないのかな?
843人間七七四年:2012/04/25(水) 21:41:29.74 ID:GEiclbes
シエや山内妻の活躍なんかが捏造されるのに比べて
こういう実際にあった女性の働きが埋もれるのはもどかしいな
844人間七七四年:2012/04/25(水) 22:18:53.88 ID:VgSLHNA0
毛利家が木津川河口で織田水軍に勝利した翌年の話である。

毛利家は石山本願寺、上杉家と連携して中央の織田勢力を圧迫し始めていた。
そんなおり畿内より毛利家に朗報が入ってきた。

「松永弾正久秀、織田信長に対し謀反!」

誰しもこの吉事を喜んだがこの男だけは冷静にこう言った。

小早川隆景「松永久秀の謀反は少しばかり早すぎた。おそらく本意を遂げずに自滅するだろう。」

それからまもなく松永久秀は大和信貴山城を織田軍に囲まれ
隆景の言葉通りに最後は盛大に自滅して果てたのである。
845人間七七四年:2012/04/25(水) 22:37:39.63 ID:S4zHkS7B
隆景さんのダメ出しは日ノ本一!
846人間七七四年:2012/04/26(木) 01:04:01.37 ID:gKdJ4D5i
直江「ウズウズ」
847人間七七四年:2012/04/26(木) 01:46:43.10 ID:2jF/kqBV
なにをもって早すぎなのか、遅すぎなら分かるが
848人間七七四年:2012/04/26(木) 02:28:33.37 ID:ua7tc4Qs
亀レスだけど忠興が大阪の陣が終わるまで羽柴(豊臣?
の姓を名乗っていたのは意外。。。
849人間七七四年:2012/04/26(木) 05:55:03.33 ID:eBgwy8xf
>>847
まだ別所、荒木が謀反してないからでは?
850人間七七四年:2012/04/26(木) 10:33:18.34 ID:JGJZLesC
>>848
我らが森忠政も大坂の陣まで名乗りは羽柴右近なんだぜ
851人間七七四年:2012/04/26(木) 18:35:27.65 ID:30GA2CXF
>>844
10月10日
松永久秀は死亡する
Dead END
852人間七七四年:2012/04/26(木) 18:38:22.58 ID:6bFgEfsV
前田利長は死ぬまで羽柴姓だったみたいね
利常は家督相続と同時に松平姓をもらったんだっけ?
853人間七七四年:2012/04/26(木) 20:31:01.64 ID:hdrEpwoS
羽柴、松平を与えられているときは前田ではなくなるの?
豊臣氏を前田が称するのはわかるんだけど、
羽柴は氏族名ではなく現代で言うと名字でしょ?

ややこしい(笑)
854人間七七四年:2012/04/26(木) 21:56:39.00 ID:ua7tc4Qs
>>850
へえ〜そうなんだ。
秀吉に恩義を感じていた大名は多いんだな。。。。
それでも豊臣家は滅んでしまう、無常だな。

逆に速攻で羽柴姓または豊臣姓を捨てたのは家康以外は誰だっけ?
855人間七七四年:2012/04/26(木) 22:20:40.51 ID:8cTFU5HW
>>844
その自滅とは意味合いが違うだろw
856人間七七四年:2012/04/27(金) 02:02:46.65 ID:eL82H431
>>409
AV男優の花岡じったはチョンだったな
857人間七七四年:2012/04/27(金) 14:31:19.77 ID:Bw6SwRM9
いくら通名だとしても、
日常使ってる通名でポルノ男優やるとは思えない
芸名だろ
858人間七七四年:2012/04/27(金) 16:10:47.00 ID:VJk8gQbK
このスレの逸話は西暦だと何年〜何年の範囲が適当ですか?
だいたいの目安を教えてください
859人間七七四年:2012/04/27(金) 16:33:53.41 ID:Gr9i8tXX
享徳の乱1455年〜島原の乱1637年。

長くみればこのくらい。多少はみ出ても
その時代を経験した人物や事柄を扱っていればOKな風潮
860人間七七四年:2012/04/27(金) 17:29:24.57 ID:VJk8gQbK
>>859
了解です
861人間七七四年:2012/04/27(金) 18:00:23.66 ID:Hj3IidTn
>>853
厳密に言うなら
羽柴(苗字)朝臣(姓)豊臣(氏)秀吉(名)
になるのか
862人間七七四年:2012/04/27(金) 18:08:24.62 ID:VJk8gQbK
織田(姓)平朝臣(氏)信長(名)
じゃないか?
863人間七七四年:2012/04/27(金) 21:45:40.65 ID:U1ZX4F9X
どっちのスレにもいえるが
ラスボスが登場するとエピソードの締りが全然違うな。
864人間七七四年:2012/04/27(金) 22:59:01.40 ID:jCpxSmpK
 堺の商人今井宗薫の娘はその美しさが評判だったため、豊臣家臣大野治長の弟の大野治房が
見染めて妻に迎えようとしたが、治房の人柄を嫌った宗薫は娘を豊臣家の家老片桐且元の弟の
片桐貞隆に嫁がせた。このため、大野治房は大いに恨み、折りに触れて片桐兄弟の悪口を
豊臣秀頼に吹き込むようになった。
 大坂の陣が起きて片桐兄弟が大坂城を退去すると、貞隆の妻は堺の実家に身を寄せた。これを
知った大野治房は堺に兵を送って貞隆の妻を奪おうとした。このことを片桐貞隆に知らせる者が
いたので、貞隆はすぐさま家来の多羅尾半左衛門と富田太郎助の2人に20名の足軽をつけて
救出に向かわせた。だが、到着した時には堺の今井家は治房の兵に包囲されていた。
 多羅尾たちは包囲を破って今井家に駆け込んだが、貞隆の妻は もはや逃げられぬと覚悟を決め、
下女に屋敷に火をかけるよう命じ、自らは薙刀を構えて多羅尾たちを引き連れて敵陣に乗り込んだ。
そして、彼女は敵兵を3人斬り捨てると、「夫に仕える女の手本にせよ」と叫んで炎上する
屋敷へ飛び込んで命を落とした。この時、彼女は21歳であった。そして、家来の多羅尾、富田、
それに従う足軽20名、全員一歩も退かずに戦死したという。
865人間七七四年:2012/04/27(金) 23:09:44.65 ID:QXGl/nOZ
>>682
んにゃ
平朝臣はおかしいな

平はいわゆる源平藤橘、豊臣の氏
朝臣は真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置と言う昔からの役職等の称号
まあ大和朝廷前も違う姓があったらしいが西洋で言う侯爵、男爵とかの貴族称号かね?

今は姓も苗字も同意だけど昔はきっちり別物らしいよ。
866人間七七四年:2012/04/27(金) 23:11:04.45 ID:Bw6SwRM9
貞隆の妻と多羅尾、富田勢は武家として素晴らしいが、
いい話ではないよね
867人間七七四年:2012/04/27(金) 23:39:34.83 ID:Gr9i8tXX
現代の感覚でいえばな
868人間七七四年:2012/04/27(金) 23:48:25.52 ID:aRBLUkzS
>>864
なんか玉さんの悲劇再びって感じだな
869人間七七四年:2012/04/28(土) 00:20:42.00 ID:GrrOMxVm
>>867
戦国の感覚でも女欲から、
あたら立派な女丈夫と退かない侍が死んだのは悪い話だろ
870人間七七四年:2012/04/28(土) 00:35:50.63 ID:Os/c6xpV
この前信州に旅行した時高遠城で拾った小ネタ

仁科盛信と言えば織田の武田攻めに高遠城で抵抗し、勇名を馳せた武田家一門衆の一人であるが「信盛」と記された資料も散見される。
名前の書き間違えなどよくある事、と言ってしまえばその通りなのだが、自著(祐筆だろうが)らしきものにも「信盛」の名がみられるから少々話は違う

そこで、「盛信」という名が仁科氏の通字「盛」と武田氏の通字「信」の組み合わせである事に着目して資料を見比べると、ある事実が見えてくる
つまり、仁科家当主としての署名には「盛信」の名を用い、武田家一門としての署名には「信盛」を使っていたらしい。

信濃の名跡を継承した信玄の息子のバランス感覚の話。
871人間七七四年:2012/04/28(土) 05:34:56.29 ID:W5iZ7+6T
>>870
武田家がどれだけ恨まれてたかよくわかる話だな
872人間七七四年:2012/04/28(土) 07:59:04.86 ID:BogkPxrH
武田信信殿
仁科盛盛殿
御両名は果報者にござるな
873人間七七四年:2012/04/28(土) 09:16:59.03 ID:jJaoshtj
>>871
織田カスなんて全国から恨まれまくりだもんな
874人間七七四年:2012/04/28(土) 11:10:57.93 ID:mqGn+IEd
>>870
長野県歌「信濃の国」に出てくる仁科の五郎信盛は間違いでは無かったのか
875人間七七四年:2012/04/28(土) 18:42:35.78 ID:vSzXSud1
>>870

大久保忠世「秀康公、秀忠公ともに頭はあの秀吉めの秀!無念至極!!」
鳥居元忠「ん・・ちょっと待て、ならば江戸では康秀、忠秀公にすればよいではないか!」
青山忠成「それイイね!」
大久保忠隣「そもそも筋から言えば広忠公の’忠’の字こそ御名にふさわしからん。」
酒井重忠「若が、それがしと同じ字をお持ちになるのか、よいのぅ・・。」
本多忠勝「あ、殿!鳥居殿がいますっげー事思いついたんです!聞いて聞いて!」

徳川家康「四男からは頭文字’忠’にするんで許して下さい(´;ω;`)」
876人間七七四年:2012/04/28(土) 18:58:26.94 ID:YRGYLJF3
>>871
そら同盟者で縁戚だった信濃衆を騙まし討ち→当主は切腹、女は無理矢理側室に、だからな。
あと志賀城でも城主夫人を恩賞として小山田にやったり、当時としても異常な行為を繰り返してた場所だからな。
877人間七七四年:2012/04/28(土) 20:53:05.93 ID:w5fKeVgs
一揆勢を大虐殺しまくり仏閣を破壊しまくって全国から顰蹙買ってる織田くんなんて名前がいくつあっても足りないな
878人間七七四年:2012/04/28(土) 20:56:49.09 ID:bNpacp1B
>>876>>877
止めい。続きは織田VS武田スレで。
879人間七七四年:2012/04/28(土) 23:10:49.41 ID:MuDI8Epn

加藤家が改易になり
熊本城受け取りの折、立花宗茂の家臣に十時連貞の消息を訊ねている。
勝成と連貞は、肥後一揆の兵糧入れの戦いでともに合言葉を言い合いながら作戦を成功させた仲であるが、
この二人にはそれ以外にも不思議な縁がある。
連貞が江戸の町で暴漢に襲われ格闘した事件を土井利勝に審議されたことが、立花宗茂の大名復活のきっかけである。
その後、宗茂は徳川秀忠に寵用されていく。利勝と勝成は従兄弟。秀忠と勝成は乳兄弟である。
また、宗茂の妻ァ千代が、滞在していたのは、勝成の妹の嫁いでいる加藤家である。もしかしたら、
立花宗茂の大名復活の裏には、なんらかの形で勝成がかかわったのかもしれない。


880人間七七四年:2012/04/28(土) 23:19:56.17 ID:IAX/Zo7P
>>879
経緯分かってればおおよその意味は取れるけど、文章としては成り立ってないぞ・・・
881人間七七四年:2012/04/28(土) 23:22:31.21 ID:Eo27teU1
http://ja.wikipedia.org/wiki/水野勝成
のコピーだろうから
882人間七七四年:2012/04/28(土) 23:27:52.60 ID:OTmvMSx2
ってことは、例の「いい話だ」のキチガイ荒らしがまた湧いてきたってことか…
883人間七七四年:2012/04/28(土) 23:46:28.15 ID:wFQyKKN4
無視だよ
884人間七七四年:2012/04/29(日) 01:11:04.58 ID:w4u9QR0K
腹痛持ちの臨機

信虎のころ、甲州市川に矢作(やはぎ)なにがしという武士がいた。
この矢作、いざ槍合わせとなると腹痛を起こし、隠れて用を足すというのが度々あった。
矢作には名のある首を取るという武功も何度もあったのだが、人々は臆病者と馬鹿にしていた。

福島正成が甲州に乱入した時、信虎は矢作を呼び出すと、人を預けて河内路に向かわせた。
(甲府盆地南部は既に福島らによって占領されていたので、後方攪乱を命じたと思われる。)

信虎がようやく勝利を得た後、矢作はどうしたかと尋ねると、「これこれの働きがありましたが、
ついに館にこもって腹を切りました」ということだった。

信虎曰く、
「あの者を臆病というが、そうではない。あの者は『吹越』を心得ていて、敵の盛んなときは
いくさせず、敵の衰えを見て打ちかかるのだ。そうであるから自分は特に用いたのである。
そうでなければこのような働きはできなかっただろう。間に合わなかったのが残念だ」

といって涙を流したので、余人は恥じ入ったということである。

ストレス性腹痛持ちの、戦の呼吸に通じていたことをうまく生かしたいい話。
885人間七七四年:2012/04/29(日) 01:57:19.22 ID:YRw8jWfq
過敏性腸症候群か
886人間七七四年:2012/04/29(日) 04:01:48.18 ID:lajj7EJG
権現様もIBSか?
887人間七七四年:2012/04/29(日) 12:23:55.58 ID:Po19ra4m
実際には戦争ではよくあることらしいぞ
ヤクザの抗争レベルでも漏らす人はいるというし

それを絵に描かせて後の戒めにするところが英雄の資質だと思う
現に同時代の武士たちがこの件で権現様をディスった話を見たことないし
888人間七七四年:2012/04/29(日) 12:39:31.27 ID:YNPNbj1q
三河武士がdisらないのは確かに不審極まりない
889人間七七四年:2012/04/29(日) 13:10:01.06 ID:GZnnr+Mc
ディスろうと思ったらすでに自らディスってたでござる
890人間七七四年:2012/04/29(日) 14:04:59.24 ID:9/Lr7fox
一応大久保忠世が笑ってなかった?

忠世「おおww殿wwよくぞご無事でwwで、その茶色いものは何ですかなwww」
家康「焼き味噌じゃ!」

こんな事があった後夜襲で武田軍蹴散らす忠世カッコイイ
891人間七七四年:2012/04/29(日) 14:14:03.67 ID:qzH7lcSb
戦場では漏らすほど怖いのが当たり前だろうなぁ……。
実は本当に焼き味噌で、みなの気を紛らわすためにクソ扱いした可能性もある(実話なら)。
892人間七七四年:2012/04/29(日) 14:25:13.57 ID:pX6OK4FY
このとき確か権現様は一騎の状態で武田勢討ちつつ退却してたよな。
恐怖で漏らす以外に、
馬降りて帯といて用足す時間も余裕もないのは確か
893人間七七四年:2012/04/29(日) 14:48:40.47 ID:oxipwqUu
現代でも米軍なんか敵地で食べる事の多い携帯食料の場合
あまり便が出ないような内容になってるらしいしな
894人間七七四年:2012/04/29(日) 14:56:15.88 ID:qzH7lcSb
だが、途中休憩で腹ごしらえして、無銭飲食でババアに追いかけられる余裕はあった権現様。負け戦でもパネェw
895人間七七四年:2012/04/29(日) 14:59:56.95 ID:GZnnr+Mc
ババア「こんなこともあろうかと残飯だしといた。」
896人間七七四年:2012/04/29(日) 15:02:46.79 ID:lajj7EJG
伊賀越えでも催してた気が…
897人間七七四年:2012/04/29(日) 15:23:40.58 ID:HCUtjmm3
脱糞街道を行く
柴遼太郎著
民明書房刊

みんめいしょぼう、を一括変換できない
アップルはやっぱりダメな会社だw
898人間七七四年:2012/04/29(日) 15:24:30.15 ID:nmWn17Xt
家康公は幼少の頃、衆目の前で放尿して今川家の家臣に剛鍛さを感心されたんだよ。
大人になって放尿から脱糞と言う次のステップに進んだと考えられないだろうか?
899人間七七四年:2012/04/29(日) 15:25:49.33 ID:qzH7lcSb
前田利益「呼ばれた気がして」
900人間七七四年:2012/04/29(日) 16:07:46.53 ID:/9X8ZdMc
>>898
次のステップまで進まなくよかったな〜
でも実はあの成分には・・・
901人間七七四年:2012/04/29(日) 16:23:53.73 ID:JycC5Jxc
天海「秀忠様、長命の秘訣は逃食、正直、日湯、陀羅尼、時折ご放糞あそぶ事ですぞぉ」
902人間七七四年:2012/04/29(日) 16:46:59.81 ID:XSm62Ux7
新井白石の『白石先生紳書』より

『近衛信尹の養子にて、後陽成天皇の第四皇子であった近衛信尋公と言えば、御幼少の頃無双の美少年であったので、
伊達政宗、並びに藤堂高虎、柳生宗矩といった人々は、上洛する時は常に、心やすく出入りしていた。』

(応山公(信尋)御幼少の時に、無双の美少年成し故、政宗、并 藤堂泉州、柳生但馬等、常に上洛の時は、
心安く出入り有し。)

『中でも伊達政宗などは、このようにせっせと訪問したため気に入られ、大変に睦まじい仲となって、ひとしお昵懇の
間柄であった。
そうであったので今でも近衛家と伊達家は家礼関係(公家の間の一種の主従関係)を結んでいるのだという。
藤堂高虎は、信尋公の以前の邸宅を造営してさし上げたそうである。』

(政宗などこれを以ってや亦り給ひけん、限りなくむつまじくなりて、一入昵懇の御事也。干今(いまに)御家礼申給ふ。
藤堂此前の亭を造営してまゐらせしなり。)


近衛信尋に対して、柳生宗矩は28歳差、伊達政宗は32歳差、藤堂高虎にいたっては43歳差である。
こんな、孫みたいな高貴で学識豊かな美少年に、戦国乱世を生き抜いたいい年したおっさんたちが
メロメロになっていたわけである。貴種で美形だと、なるほど無敵なのである。

どうでもいいが、ここでもやっぱり伊達政宗の表記は「政宗」である。政宗と書かないといけない決まりでもあったのか?
そんなこともふと考えさせる逸話である。
903人間七七四年:2012/04/29(日) 16:57:52.38 ID:TbMbEuJJ
東の政宗、西の輝元

あと名前で直接書かれてる人っていたっけ?
904人間七七四年:2012/04/29(日) 23:49:20.39 ID:OPrWAALV
近衛家の陽明文庫展(近衛信尹の真筆は圧巻)見てきた
茶道具の一角に、利休や紹鴎・細川親子作の茶杓に混じって福島正則作の茶杓が…
割に小ぶりで可愛い感じで、失礼だが何か意外だったw
まとめでも↓以外茶関係の逸話が見当たらなかったが、彼が茶に親しんだ記録はあるんだろうか?
千利休に気圧された話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1696.html
臨月肩衝の話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5328.html
905人間七七四年:2012/04/30(月) 00:15:13.04 ID:VylLO+TL
落語の荒茶
906人間七七四年:2012/04/30(月) 00:18:28.56 ID:ey9X4Nto
907人間七七四年:2012/04/30(月) 05:01:40.88 ID:+6zj6T2Z
似た噺に「本膳」てのがあるが、これなんぞ幽斎様辺り出すと面白くなりそうだ。
908人間七七四年:2012/04/30(月) 12:37:31.89 ID:ey9X4Nto
まとめブログの管理人さんの紹介していた本を読んでいたら
フロイス「日本史」西九州編第52章には、沖田畷の戦いに出向く龍造寺軍について
「その隊列は見事に配分されていて、まるで彼はヨーロッパの戦術図、ないし(戦術)計画を
入手しているかのようであった。彼は一万二千の戦闘員を率いていたが、彼らは豪華(に装い)、
また清潔で気品があり、戦場で練磨された兵士たちであった。」
と書いてあるらしい

>>776
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4623.html
の権現様やラスボスの感想とずいぶん違う気がする
909人間七七四年:2012/04/30(月) 13:20:51.48 ID:ey9X4Nto
上のは両方ラスボスの感想だった
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4624.html
島原の乱の時の話もあったか
910人間七七四年:2012/04/30(月) 13:59:11.72 ID:VenOIFOI
幕末、西洋風近代軍隊の装いの長州勢をみて、
勝海舟「奴らは紙屑拾いのような格好でやってきた」
911人間七七四年:2012/04/30(月) 14:30:12.64 ID:r628FkdX
>>908
要は沖田畷以前と以後とで変わったってことでそ。
912人間七七四年:2012/04/30(月) 16:13:22.40 ID:7mCOxMCs
完璧なるものは、わずかなほころびで崩れるのだ(ドヤァ
913人間七七四年:2012/04/30(月) 20:18:36.20 ID:HOUpCekY
>>910
それの本当の意味はわかってるんだよね?
914人間七七四年:2012/04/30(月) 20:21:10.15 ID:CT5QVUvk
豊臣秀吉による文禄の役に際して朝鮮に渡った小早川隆景らが、朝鮮の首都である漢城を攻めた時の逸話である。
軍議において、作戦を立案した石田三成が、自信満々に

「小早川殿、この作戦に非の打ち所がありますかな?」

と尋ねると、隆景は

「申し分ない。」

と返答した。しかし、三成から

「秀吉公の命を受け、戦略を合議で決める為に渡海されたのですから、意見を伺いたい。」

と言われた為、

「このままでも勝利は間違いないが、戦というのは何が起こるか分からぬものなので、
 負けた時の事も考えておいてはどうか。」

と述べた。この的確な助言を聞き、無礼を謝して作戦を練り直した三成が

「漢城の近辺に城を築いて万一に備える。」

という案を示すと隆景はただ一言

「よし。」

と告げた。後にこの城は、退却を余儀なくされた際に一時逃げ込む場としておおいに役立ったという。

「名将言行録」
915人間七七四年:2012/04/30(月) 21:08:49.14 ID:pwLwN8mG
>>913
言葉通り受けとめてますが、
本当の意味があるなら教えてください
916人間七七四年:2012/04/30(月) 21:16:19.52 ID:HOUpCekY
紙屑拾いのような格好というのをどうとらえてるかだよな〜
917人間七七四年:2012/04/30(月) 21:19:36.56 ID:pwLwN8mG
>>916
あの・・・貴方の自説なのか、勝海舟自身に紙屑拾いの意に裏があったのかどちらですか?
こっちは真面目に聞いてるんだから、
思わせ振りはやめてほしい
918人間七七四年:2012/04/30(月) 21:25:41.22 ID:dU8qOSTk
その紙屑拾いみたいな格好した連中に10万で挑んで大敗して
終いには江戸城まで明け渡したって事
勝なりにどっちも皮肉った言葉
919人間七七四年:2012/04/30(月) 21:35:26.55 ID:HOUpCekY
紙屑拾いみたいな格好というのは、
船乗りや飛脚やらのようは動きやすい格好って意味で言ってたはず

気品やら絢爛豪華とかとは別の実質本位って意味で使ったと思ったんだが違うかな?
920人間七七四年:2012/04/30(月) 21:35:58.89 ID:dU8qOSTk
でもこれ『花神』の登場人物としての勝の言葉だから実際に言ったと真に受けちゃ駄目よ
921人間七七四年:2012/04/30(月) 21:43:09.08 ID:HOUpCekY
>>920
それだ!
なんか引っかかっててはぐらかしたみたいだったけどw
>>919も「花神」のなかでそう書いてあるはずだw
922人間七七四年:2012/04/30(月) 21:44:37.25 ID:pwLwN8mG
>>919
花神だってさ

これ『花神』発なのか・・・
なんでオレ知ってたんだろ
『花神』読んだことないのに(笑)
923人間七七四年:2012/04/30(月) 21:45:31.31 ID:QG51IkwJ
氷川清話に書いてないの?
924人間七七四年:2012/04/30(月) 22:38:28.98 ID:SGHW6lCf
>>914
三成も隆景と仲いいんだよなあ
隆景いないと唐入りがどうなってたことやら
925人間七七四年:2012/05/01(火) 02:16:26.93 ID:P96Q+a2s
ダレだったか、明治維新前後にアメリカに留学にいって、アメリカ軍が船の横っ腹にペンキで船の番号書いてるのを見て衝撃を受けた
っつー話をどこかで読んだ
その人はもっと旗指物とかみたくちゃんと書かなけりゃいけないと思ってたそうで、「分かればそれでいい」っていう価値観は理解しがたいものだったんだと
926人間七七四年:2012/05/01(火) 10:42:46.21 ID:FwBu9XwI
「坂の上の雲」でそんなんあったが、「アメリカにおける秋山真之」にもあるかもしれん
927人間七七四年:2012/05/01(火) 13:56:03.41 ID:UB2fg7hh
>>914
小西「ありえねえ、なんで大友が先に逃げてんだよー」
928人間七七四年:2012/05/01(火) 15:49:25.24 ID:QIKzliD9
やはり司馬遼太郎の影響は恐ろしいな
929人間七七四年:2012/05/01(火) 16:04:51.52 ID:2LrcEdya
>>928
司馬自身もそれ狙ってたふしがあるよな
娯楽小説という割には司馬の人物評や余談が挿入されすぎてる
930人間七七四年:2012/05/01(火) 16:18:50.30 ID:4+HETNJU
創作と史実の区別がつかないほうが悪いんじゃ……。
まぁ江戸時代の軍談や創作で戦国イメージが固定されているように、昔からのありがちといえばありがちだけど。
931人間七七四年:2012/05/01(火) 16:35:12.35 ID:Y5a3o9ZR
司馬遼太郎のライバルは山田風太郎なんだよ、いまのひとは知らないようだけど
932人間七七四年:2012/05/01(火) 16:44:51.89 ID:cX5/FjI5
司馬遼は史料や関連本を山ほど読み通して小説を書く人だから、
あれもこれも「元ネタがあるんだろうな」と思ってしまう
司馬が小説の巻末に「参考資料一覧」を付けてくれたら良かったのにねぇ
933人間七七四年:2012/05/01(火) 16:45:18.99 ID:2LrcEdya
>>930
本当にそうだろうか?
現実に司馬史観という言葉まであるのだし、
騙されるほうが悪い理論はいただけないな
老若男女、身分学歴問わず様々な人に読まれる作家だからこそ、
オレみたいな意見も出てくるんだと思うぞ
934人間七七四年:2012/05/01(火) 16:49:33.61 ID:4+HETNJU
>>933
騙される、とかいってないしw
小説内で書いた事(史実と見まごうような、リアリティのある話作るのは作家として大事な才能)、史実を普通に語った場合のごっちゃをするほうが悪い。
935人間七七四年:2012/05/01(火) 16:56:04.61 ID:4+HETNJU
小説と史実を勘違い→小説書いた人を逆恨み。

この理屈が正当化されるなら、甫庵さんとかどんだけ恨まれなきゃ駄目なんだって話。
936人間七七四年:2012/05/01(火) 16:59:36.58 ID:2LrcEdya
う〜ん(笑)
例えば夢枕獏が陰陽師を怪力乱神として描いたものを読んでも、
なんの問題もなく読めたし、
あれが陰陽師のリアルな姿だと思う読者がいても問題ないとは思うんだけどな
937人間七七四年:2012/05/01(火) 17:05:55.27 ID:04fPqMum
とりあえず娯楽小説にそこまで信憑性を感じる人間が大量に出るほど、司馬遼太郎スゲーで終わる話ではなかろうか
938人間七七四年:2012/05/01(火) 17:11:59.78 ID:Y5a3o9ZR
うん
939人間七七四年:2012/05/01(火) 17:28:50.75 ID:oQ0IYwf5
有名小説家を叩ける俺、格好いい
940人間七七四年:2012/05/01(火) 17:29:07.59 ID:2LrcEdya
娯楽小説にそこまで信憑性を感じる人間が大量に出るなら、
それは優秀なサブリミナル手法だとも言えるわけで(笑)
プロレタリアート文学なんてジャンルもあるんだし
司馬がプロレタリアート作家という意味ではないのであしからず
941人間七七四年:2012/05/01(火) 17:30:40.72 ID:2LrcEdya
>>939
イヤミはやめてくれ
そんなこと思ってないから

気楽なスレだし、スレ違いだからこのへんでやめとくよ
942人間七七四年:2012/05/01(火) 18:00:12.47 ID:XJF+CH2J
でもさ、一次資料と持て囃される信長公記とか玉葉とかだって日記に過ぎない
筆者の主観や憶測、又聞き、噂話入りまくりなわけじゃん
これらは信用できる資料とされてるが筆者が事実を脚色してたり勘違いしてるとも限らない
今は見つかってないだけでさ。そう考えると創作脚色云々に意味はあるのか疑問に思ってしまう
943人間七七四年:2012/05/01(火) 18:32:06.74 ID:UB2fg7hh
最近でも新たな戦国時代の遺物が初公表されてるあたりまだ眠ってる貴重な史料があるのかもしれない。
944人間七七四年:2012/05/01(火) 18:37:16.82 ID:HhTcqvEc
いい話悪い話スレではあんまりそういうのを煩くいうのも……。
945人間七七四年:2012/05/01(火) 19:33:10.28 ID:feFTCJFG
司馬は作中や後書きやエッセイであれだけこれは小説だから歴史書と勘違いすんなって繰り返してるのに
彼を批判する人達はなぜかそこを読まずにスルーする
どれだけ読み飛ばしてるのか
946人間七七四年:2012/05/01(火) 19:35:25.62 ID:FwBu9XwI
PHPかなんかの文庫の参考資料に司馬遼太郎の小説があったのには吹いたことあったなぁ〜
947人間七七四年:2012/05/01(火) 20:45:58.11 ID:PxpLPNSa
小説家が小説を参考にすることってよくあるよね
司馬の新選組小説も子母澤寛の新選組三部作が元ネタだし
948人間七七四年:2012/05/01(火) 21:01:22.29 ID:9pJCD11x
まぁ自家の大事な記録を軍談丸写しで済ませる、上杉さんとかいるぐらいだし……。
949人間七七四年:2012/05/01(火) 22:31:32.42 ID:+OlgXssV
一次史料と一級資料がごっちゃになってるな
950人間七七四年:2012/05/01(火) 23:55:26.20 ID:4KMc0HQx
所詮俺らだってネットで得た知識が大半だろうからな

中には図書館で史料読んでる人もいるんだろうけど
951人間七七四年:2012/05/02(水) 00:26:54.05 ID:Cm/V+FYC
人間って基本的に流されやすい性質ですからね・・・
司馬遼太郎の作為的な文の意味を理解出来る人もいれば出来ない人もいる
むしろ出来ない人の方が多いんですよ

だから何時まで経っても『大衆』なんすよ。

逸話と作者の創作の融合は、今で言うと『へうげもの』は逸話を自分流にアレンジしてるな
あれは逸話がちゃんとベースとしてあるから作者の嘘にならないんですよね。
勿論創作もあるけど、へうげものはその辺り上手い
それは嘘だろ!wと突っ込み入れた方が逆に
ベースに逸話があったのに驚かされる、事が結構あった。

司馬の場合は『余談では』で自分の考えを物語に挟み込むあたりがヤラシイ
952人間七七四年:2012/05/02(水) 06:40:35.94 ID:i1O9y9cA
まあ嘘の見抜けないへうげ信者は大衆というより愚衆の類だな
953人間七七四年:2012/05/02(水) 07:37:54.33 ID:uWWtO6P8
へうげもの好きはマンガだけ読んでいればいいよ
954人間七七四年:2012/05/02(水) 09:33:58.73 ID:g8TQXHee
それが、漫画読みなのです
955人間七七四年:2012/05/02(水) 10:16:17.26 ID:5kuYBwGE
芝陵が罵られてくやちぃいい
まで読んだ
956人間七七四年:2012/05/02(水) 11:57:06.14 ID:2w/sHRyH
そろそろこっちに移った方が良いかな
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152281475/
957人間七七四年:2012/05/02(水) 21:11:41.82 ID:RgB/IFIX
へうげもので一喜一憂出来るレベルの頭なら、
人生楽しいだろうな。うらやましい
958人間七七四年:2012/05/02(水) 21:23:19.43 ID:C0MK48jL
GWだねえ
959人間七七四年:2012/05/02(水) 21:54:08.60 ID:X8gKuJ2J
子供はめんどくさい
960人間七七四年:2012/05/02(水) 22:16:54.77 ID:Cm/V+FYC
何時の間にかへうげもの信者にされてたでござる
961人間七七四年:2012/05/02(水) 23:14:10.18 ID:lVMcA85s
癖の強い本を例に挙げると、戦国板じゃ漏れなく信者扱いされちゃいます
962人間七七四年:2012/05/03(木) 01:18:25.16 ID:PfhL2z+/
つまり三河武士はこどもだと
963人間七七四年:2012/05/03(木) 01:41:27.10 ID:IOdGeQQN
9センチ砲な意味でな
964人間七七四年:2012/05/03(木) 02:39:22.36 ID:/EHDfYSV
へうげとか仙石は「あえて」の主役を選んだ
作戦勝ちですね。
965人間七七四年:2012/05/03(木) 03:58:59.00 ID:ij3RTfJN
玄人ぶりたい奴を上手いことつかんだな
966人間七七四年:2012/05/03(木) 10:07:17.38 ID:tFWRg2Mw
「玄人ぶりたい奴」って言葉を使いたい奴にも嬉しいことだな
967人間七七四年:2012/05/03(木) 10:25:59.89 ID:I726Njlr
「「玄人ぶりたい奴」って言葉を使いたい奴」って言葉を使いたい奴にも嬉しいことだな
968人間七七四年:2012/05/03(木) 10:27:40.15 ID:bMuAgkLP
せやな
969人間七七四年:2012/05/03(木) 11:16:42.66 ID:xMR3LuCw
この親にしてあの子あり

山本重澄
『剛の者は頼もしい。頼もしい者は剛の者だ。
私が見た事、聞いた事を思い出してもそうであった。
頼もしいという意味は、全てがうまくいっているときは来ないで、
人が落ち目になって苦労をしているときに、こっそりやってきて頼りになる者を頼もしいと言うのだ。
そうした心の持ち主は剛の者であるだろう』
970人間七七四年:2012/05/03(木) 11:18:20.87 ID:FERgvcvS
>>967
必死すぎ
971人間七七四年:2012/05/03(木) 11:21:03.88 ID:I726Njlr
何が必死なんだよ
俺このスレに書き込んだの初めてだぞ
972人間七七四年:2012/05/03(木) 11:28:08.66 ID:oiTzkXk1
ネットでは絶対に退かぬ剛の者をネット剛の者と名付けよう
973人間七七四年:2012/05/03(木) 11:48:32.06 ID:hIBM+xm4
つ ネット弁慶
974人間七七四年:2012/05/03(木) 11:58:01.67 ID:Bo6ZIhoN
江戸時代、幕府では6月16日に行われる「嘉祥」という行事があった。
これは将軍から大名旗本に対し、お菓子を下賜するという行事で、幕府では毎年この日、2万個を超える
各種お菓子を用意したのだという。この行事は、日本の和菓子の発展に多大な影響を与えたとも言われる。

この「嘉祥」、三方ヶ原の「敗戦」を忘れぬよう記念したものとも、あるいは菓子を献上されて戦に大勝したことを
記念したものだとも、由来は色々言われているが、ともかく始まりは、家康が家臣に手ずから菓子を与えるという
ものであった。

しかし徳川家の規模が大きくなるにつけその数は増えていく。天下を取った後は先に書いたように2万個を超えるわけで、
とてもではないが全部手渡しというわけには行かず、そのうちに将軍が手ずから与えるのは最初の何人かだけで、
あとは出仕した大名旗本が自分で取っていく、という形になっていった。

が、そんな中、すべての菓子を自分の手で与えていた将軍が一人あった。徳川秀忠である。
彼は元来の生真面目な性格ゆえか、この行事もきっちりと、最初から最後まで菓子を手渡ししていたそうだ。
そのためこれが終わると、彼は数日間肩や腕に痛みに悩まされた、と記録されている。

ちなみにこの幕府の行事であった「嘉祥」の6月16日は現在、全国和菓子協会により「和菓子の日」とされ、
今も記念されている。

そんな「嘉祥」の、徳川秀忠のエピソード。
975人間七七四年:2012/05/03(木) 12:06:18.86 ID:4oDYZnOV
>>969
フロイス「デスヨネー」
976人間七七四年:2012/05/03(木) 12:15:32.40 ID:Cd+JYlkW
>>974
お菓子か謀反かって言ってお菓子をもらっていくんですね
977人間七七四年:2012/05/03(木) 12:34:18.98 ID:D5ubv9as
>>976
良い話だな

次スレそろそろお願いします
978人間七七四年:2012/05/03(木) 12:37:03.84 ID:Bo6ZIhoN
>>977
いってみる
979人間七七四年:2012/05/03(木) 12:39:34.51 ID:Bo6ZIhoN
ダメだった。どなたか頼みます

↓テンプレ

戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話31
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1329316941/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話31
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1335874012/

鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
980人間七七四年:2012/05/03(木) 12:50:19.36 ID:pINPqc5m
江戸時代に何かのイベントで幕府が町人にまで菓子配った事あったけど
何かは忘れた。最近だと北の三代目も遠足セットみたいなお菓子を
配ってたwww
981人間七七四年:2012/05/03(木) 12:53:26.32 ID:Cd+JYlkW
たててくる
982人間七七四年:2012/05/03(木) 12:53:35.98 ID:oiTzkXk1
我が国でもちょっと前にあったな
定額給付金
983人間七七四年:2012/05/03(木) 12:55:01.08 ID:Cd+JYlkW


戦国ちょっといい話32
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1336017262/
984人間七七四年:2012/05/03(木) 12:55:50.97 ID:FojyimHA
『信長の首』

信長の遺骸は本能寺と共に灰燼に帰したことは誰もが知るところではあるが一説では信長の首は発見されていたと言う話がある。

自称、光秀の従父兄弟である明智左馬助光春は本能寺焼け跡から信長の首と切腹に使用された短刀を得た。
光春は主君光秀に、かつて信長が武田勝頼、朝倉義景、浅井親子の首を罵詈したような真似をさせては世間の同情を得られず逆賊の汚名を着るのは必須と判断し短刀のみを光秀に見せ、信長の首を隠してしまったという。

その後光秀は秀吉に敗れたとの敗報を聞いた光春は坂本城に逃れたが瞬く間に羽柴軍に包囲された。
光春は櫓に上り城内外に「明日明朝に切腹するから今日は皆涼んでおけ」と叫び、翌朝城に火をかけて自刃した。

主君を案じる忠義と最後まで豪胆を見せた光春の良いはなし
985人間七七四年:2012/05/03(木) 17:06:30.62 ID:jyvR1vzb
信長が死んだって証明できない方が辛いような
てかそんな性格だと思われていたのか惟任
986人間七七四年:2012/05/03(木) 18:39:58.97 ID:jR42pSGj
まあ謀反までしたんだから何かしら不満あったんだろうな
→鬱憤晴らす為に首を粗略に扱いかねん…と思われるのは仕方ないような
987人間七七四年:2012/05/03(木) 22:25:27.04 ID:ybS/fF9U
伝明智光春のバニー具足は格好いい
988人間七七四年:2012/05/04(金) 13:18:10.74 ID:hjlAnYZ6
あれはミミズクらしい
989人間七七四年:2012/05/04(金) 15:12:51.85 ID:1prU+2q/
光春=秀満でおk?
990人間七七四年
おk