戦国ちょっと悪い話30

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1人間七七四年
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

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戦国ちょっと悪い話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1321170836/

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戦国ちょっといい話29
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鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
2人間七七四年:2012/02/04(土) 21:28:32.93 ID:99UI8nFM
天正壬午の乱の時の水野さんってどういう立場だったの?
徳川家の家臣だったのそれとも
織田家における家康みたいな立場だったの?
3人間七七四年:2012/02/04(土) 22:32:25.43 ID:oF5PlQzu
  ∧ ∧   
 ( ´・ω・)       >>1 大儀であった!好きなものを取るがよい
 ( ∪ ∪          ただし、自己責任じゃ!何があっても与り知らんぞ!
 と__)__)
                                                     
       ,ハiヽ..         ┌─┐     ┌───┐       ∞         (・ω・)
     ノ"・,,'' ヽミ      /. ̄ ̄.\    │狙撃願│      ∈||∋        ((   )) 
     (。,,/ )  ヽミ〜   ∪⌒∪⌒∪    └───┘        ||         (_)_)
      百段         平蜘蛛    稲富狙撃依頼券  蜻蛉切のトンボ    秋田木像
    (長可付き)     (火薬入り)   (成功率13%)   (プライスレス)(木像守の役職付き)

   ┌┬┬┬┬┐       /\                  __        ┌───┐
   │§§§§│      /   \.    <ニニニ||===   <´゚ノ  `,>《.     │GO! │ 
   └┴┴┴┴┘     .(_ 人 _)              Φ ` ̄ ̄(∞).     └───┘
   利家のそろばん  季節外れの大桃   小豆長光    義姫の手料理   八丈島へのチケット
(利家憑依で守銭奴化) (献上品だお)     (短い)     (毒見禁止)       (片道)

     ←──≪                ┌───┐     ∠二二二ア      ┌───┐
     ←──≪     <ニニニ||===.   │ 山内 │    │  酒  │|     ├───┤ 
     ←──≪                └───┘     ヽ┴┴┴ ′    └───┘
     三本の矢      怪刀痣丸   山内相撲招待券    備前の酒       直江書状
  (お兄ちゃん早すぎる) (眼病注意)  (一両具足とドスコイ!!)  (直家寄贈)   (閻魔様によろしく)
4人間七七四年:2012/02/04(土) 22:50:18.20 ID:WTWtvrgb
>>3
全部死亡フラグwww
5人間七七四年:2012/02/04(土) 23:18:33.68 ID:YfTP6WOu
>>1乙

>>3
これはひどすぎるwww
6人間七七四年:2012/02/04(土) 23:36:19.63 ID:DO9pog0E
>>1
7人間七七四年:2012/02/04(土) 23:50:39.72 ID:0STIO+aA
>>1
>>3
稲富さんの狙撃成功率はもっと高くていいはず
本番じゃなければ
8人間七七四年:2012/02/05(日) 00:13:14.58 ID:AcWh6lWI
>>1

>>3
・・・とりあえずソロバンを貰って行くよ、命は助かりそうだから
ああでも、嫁さんに貯金箱を投げつけられるのか・・・
9人間七七四年:2012/02/05(日) 02:23:41.71 ID:EuL1XOxb
>>1

>>8
拙者は八丈島チケで・・長生きは出来るだろ
10人間七七四年:2012/02/05(日) 10:37:35.07 ID:hv2CRhD6
>>1

>>3
では書状を持っていきましょう
某この書状を届けたら故郷で隠棲するんだ…
11人間七七四年:2012/02/05(日) 11:26:51.77 ID:1dywTG5Q
∧_∧
( ´・ω・) みなさん、お茶が入りましたよ・・・・。
( つ旦O
と松)永) 旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦
12人間七七四年:2012/02/05(日) 16:16:03.55 ID:0zdz7MT7
 小豆長光でいいわ。
13人間七七四年:2012/02/05(日) 16:29:59.59 ID:5GP7uCd9
何年も前のAAに反応しすぎだろw
14人間七七四年:2012/02/05(日) 19:49:34.48 ID:S031iv0F
中野修理康実は九戸政実の実弟だが、九戸の乱の際は南部信直に味方し、その家を存続させた。
だがやはり兄弟を討たれたことに思うことはあったのだろう、信直を恨む様子が折々に見え、そんな吉兵衛に信直も警戒していた。

さて、この中野修理は大男で怪力の持ち主だった。彼は唐竹の中に鉄棒を仕込んだ五寸回りの狩り杖をつねに持ち歩いており
三戸城の石垣を組む時、三十人でも引けないような大きな石が落ちてくるのを
その狩り杖で押さえたという逸話があった。

ある冬の事、信直が三戸にて冬雪の上にて追鳥をして気晴らしをしていた。
信直はかんじきを履いて雪の上を自由に歩いていたが、大男だった中野は雪を踏つぶし、歩くのも難儀しているようだった。
その様子に信直は
「御身はいつも鬼のようだが、こう雪が深くては我には駆けつけられないだろう?」
この言葉に中野は言い返した。

「さてさておかしな事をおっしゃる。御前を手取りにするのは、わが心のままですぞ」
「ほほう、さればわれに追い付いてみよ!」
駆け出す信直、中野は自慢の狩り杖を持ち直し、それを信直のかんじきに当てた。
雪の中にこける信直。中野は
「堪忍せぬぞ!」
とトドメを――刺さなかった。理由は分からない(書いてない)

こうしてこの場は何事もなく終わったが、信直はさらに中野を警戒するようになり、いつか討ってやろうと折を窺っていたが
結局機会が来ることはなかったという。
15人間七七四年:2012/02/07(火) 09:50:48.71 ID:rK+to8i1
>>14
>こうしてこの場は何事もなく終わったが

絶対死人が何人か出てるだろwwww
16人間七七四年:2012/02/07(火) 16:52:03.18 ID:AaiOcSAR
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1008.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3909.html
このあたりで出ている人だが、お安、後に秀の前と呼ばれる女性についてまとめてみたいと思う。

お安は龍造寺胤栄の娘であり、後に龍造寺隆信の養女である。
父の胤栄は水ヶ江龍造寺家当主だったが、病死してしまう。
胤栄の妻は隆信に再嫁し龍造寺家を統合することとなったが、彼女は前の夫を忘れず隆信と不仲であった。
これを憂えた家老小河信安がまだ幼い娘に刃を押し当て、未亡人を諭したのは既に語られているところだが、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3909.html
その娘こそ、まさしくこのお安なのである。

お安は美しく成長し、蓮池城城主の小田鎮光のもとに嫁ぐことになる。
この鎮光の父小田政光は、龍造寺隆信によって見殺しにされて戦死しており、
蓮池城は龍造寺隆信によって占拠、鎮光は筑後に落ち延びたという過去を持っていた。
隆信はそんな鎮光を要衝蓮池城にはおいておけないと考えたのか、
蓮池城を弟長信に渡し、鎮光はお安と共に多久の梶峰城へと移ることとなってしまった。
父祖伝来の地を失った鎮光はこれを恨み、大友宗麟が龍造寺家を包囲したときはそれに呼応して龍造寺家を攻めた。
しかし大友の龍造寺包囲網は瓦解、鎮光はお安を隆信のもとへと戻し自身は筑後へと落ち延びていった。
隆信はお安を使い、鎮光宛てに書状を出させた、改めて詫びるのであれば裏切りを許してやるというのである。
義父の言葉を信じ佐嘉にやってきた鎮光は、そこで隆信により皆殺しにあってしまう。
お安は隆信に謀略の道具として使われたのであった。

鎮光の死後、お安は自害しようとしたが果たせず、次は松浦党の波多氏へ嫁ぐこととなった。
この時からお安は秀の前と呼ばれるようになったという。
秀の前が嫁いだ波多鎮は子がおらず、隆信の孫を養子に受け入れることになった。
さらに九州征伐の折には遅参を豊臣秀吉に咎められ、鍋島直茂のとりなしにより改易を逃れ、以降龍造寺家に従属することとなった。
波多鎮は朝鮮出兵のときも遅参や軍令違反を犯し、秀吉の不興を買ってしまったという。
一方で秀の前もその美貌からか秀吉に目を付けられていた。
秀吉から、名護屋城へ出向くように使者が送られ、やむなく秀の前は名護屋城へと赴いた。
秀の前は秀吉に対して不服従の意思を示す為に、わざと懐剣を落として見せたというが、それが災いして大いに秀吉の不興を買ってしまった。
これらにより波多氏は取り潰し、鎮は常陸へと流されることとなった。
秀の前は佐嘉へと戻り、妙安尼と名乗って仏道に入った。
その後寛永元年(1624)まで生き、79歳で生涯を終えたという。


生涯翻弄され続けた武家の女のちょっと悪い話
ところでまとめブログは龍造寺隆信のところにある小河信安の話とかは本人のところに移した方がいいと思うんだ
17人間七七四年:2012/02/07(火) 20:08:35.34 ID:WsVDhmBh
秀吉から見たら脅す気かこやつ、になるからそりゃ不興買うわな

権力者の我侭への意思表示は難しいとは言え
18人間七七四年:2012/02/08(水) 01:16:01.57 ID:ScRTsdut
ところで姓と名の間に入る「の」なんですけど、
いつから無くなったのでしょうか? みなもと「の」よりとも みたいなやつ
鎌倉ぐらいからなの?お教えくだされ
19人間七七四年:2012/02/08(水) 01:26:32.08 ID:wQpniRje
源ノ頼朝や平ノ清盛の「ノ」って、源ノ朝臣頼朝、や平ノ朝臣清盛、の「朝臣」を略したもの。
なので三傑も朝廷では「平ノ朝臣信長」「豊臣ノ朝臣秀吉」「源ノ朝臣家康」となる。
これは源平藤橘などの「姓」につくもので、織田、羽柴、徳川といった「苗字」には付けない。
20人間七七四年:2012/02/08(水) 01:29:20.58 ID:RFfLsqab
本姓と苗字でググったほうがいい
正直説明が長くなってしまう
21人間七七四年:2012/02/08(水) 01:37:00.96 ID:ScRTsdut
ありがとうございます
早速ググってきます
22人間七七四年:2012/02/08(水) 09:15:33.58 ID:GHyhSYmu
つまり豊臣の秀吉が正しいって事だろ
23人間七七四年:2012/02/08(水) 17:53:55.33 ID:u9i7Iih6
日本の歴史の面白いとこはどれほどの実力者でも朝臣、つまり朝廷秩序の傘下ってことなんだよね
秩序の源泉そのものには誰もなろうとしないのが面白い
24人間七七四年:2012/02/08(水) 18:34:27.27 ID:oFuqcYUp
足利義満とかも源朝臣?
まあ信長の上総介みたいなもんか
25人間七七四年:2012/02/08(水) 19:08:00.15 ID:SCSzMzbt
>>24
二行目はぜんぜん違う
朝臣は姓、上総介は官途名
信長の氏と姓でいうなら平朝臣
足利義昭の官職で言うなら、信長同様にいろいろ歴任してるからアレだけど、
例えば右大臣とか内大臣が相当する
26人間七七四年:2012/02/08(水) 19:16:06.73 ID:RXCrHXjr
上総介は官途じゃなくて受領だろw
27人間七七四年:2012/02/08(水) 19:23:12.91 ID:SCSzMzbt
確かにw
28人間七七四年:2012/02/08(水) 21:50:31.23 ID:aT/7iTip
初カキコついでに、今日の読売のコラムに乗っていた話を一つ。

岡山藩の名君・池田光政は、父親がフキ畑で討ち死にしたため、生涯フキを食べなかった。
あるとき、儒者の熊沢蕃山が軽口を叩いた。
「殿はお幸せですなあ。水田で最後を迎えていたならば、米を召し上がれませぬ。」
これに光政、「うん・・・」 と答え、そのまま黙り込んでしまった。
軽口叩いたつもりがとんでもない地雷を踏んでしまったと、蕃山は深く嘆いた。

しかし、wikiを軽く覗いたら親父さん病死って・・・あるぇー?

命にまつわる話題を軽々しくいった儒者の悪い話
29人間七七四年:2012/02/08(水) 22:08:02.85 ID:aBXe/gc/
欸冬(フキ)畑で討たれたと伝わるは祖父の恒興だな
30人間七七四年:2012/02/08(水) 22:17:00.63 ID:9J7KTrdJ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4354.html
確かに畑で討たれたようだ>恒興
31人間七七四年:2012/02/08(水) 22:39:42.35 ID:fQyb4ZDi
揚げ足取るようだけど祖父は輝政ですがな
32人間七七四年:2012/02/09(木) 10:35:52.29 ID:QurygYdp
っていうかなんで「革新」のグラだと抜刀してるんだろ?
33人間七七四年:2012/02/09(木) 22:16:52.90 ID:aBXjqDek
主の危機に駆けつけない馬廻


天正10年(1582年)6月2日、織田信長の宿泊する京の本能寺を突如として明智光秀の大軍勢が囲んだ。世に言う「本能寺の変」である。
その当時、主の一大事に京に泊まっていた信長の馬廻たちも大急ぎで本能寺、あるいは二条御所に馳せ参じて主と運命を共にした。

しかし、そんな中で主の危機を聞いても駆けつける気が全く無い馬廻の一門が京にいた。
かつて斎藤家の家老として名を馳せ、斎藤滅亡後も信長に抗い続けた日根野弘就とその一族である。
やはり織田家に対して思うところ有りながら仕えていたのか、日根野一門は誰一人として本能寺や二条御所には入らなかった。

本能寺の変を完全に無視した形となった弘就はそのまま近畿に潜伏し、明智光秀が近畿を制した時点で美濃の武将と連絡をとって
去就を相談するなどきな臭い行動を取っていたが、そうこうしている内に羽柴秀吉が光秀を倒してしまったので秀吉に従うことにしたという。
34人間七七四年:2012/02/09(木) 22:22:33.62 ID:rK6pixxF
まあ譜代の家臣じゃないし、心中する義理はないわな・・・
35人間七七四年:2012/02/09(木) 22:33:35.05 ID:9yfUxfhL
破滅の神に愛された男だが討ち死にの危機だけは全て紙一重で回避してる。
36人間七七四年:2012/02/09(木) 22:34:38.48 ID:s9IYfMVL
それいったら心中した馬廻や側近には譜代でないものたちはたくさんいたぞ
37人間七七四年:2012/02/09(木) 22:50:34.93 ID:tPyql/Ry
譜代や一門でも裏切る奴は裏切るしなぁ。なんとも言えん
38人間七七四年:2012/02/09(木) 23:01:58.79 ID:OqJrWzia
有楽斎の悪口はそこまでだ
39人間七七四年:2012/02/09(木) 23:57:16.52 ID:Vh8nGdb6
??「譜代や一門が裏切らないとか都市伝説ですぞ、長慶様」
40\__________/:2012/02/10(金) 00:05:24.83 ID:am62Jfcj
           V

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;;゙、゙、:::. .:.;. ..:.:.:.'''''''''ニ,,,,,,,,__ヾツ
;;;;ヽヽ:. :.:\:.:.:.::::.:.:...、,,,,,,,,,, .. /          
;;;;;;;ヽヽ:.:.::.:.:.:\:.:.:.:.:.:.::::.:.. .,.'
;;;;;;;;;;ヽヽ:.:::.:.:.:.:::` :、,:.:.;;;;;;;;;/;;;`;-,、
;;;;;;;;;;;;;;\\::::::::.:.:.::::`゙゙゙゙゙";;;;;;;;;;;;;;;`;-,、
41人間七七四年:2012/02/10(金) 00:59:05.09 ID:zeYGxm5t
むしろ一門にしてから裏切っちゃう人もいますしね!
42人間七七四年:2012/02/10(金) 10:56:43.06 ID:LLuUviPm
『早々の
  書状、ありがとう。嬉しいです。

昨夜は飲み会の幹事をやったので、後先考えず
                    酒
                     飲んでしまい、
気分が悪くて参っています。

でも今朝は鷹狩りに
         出かけるので、(汗を流して)
夕方には気分良く戻るつもりです。

まだ頭がフラフラしてて、
            いい加減な返信で申し訳ないが、
とりあえず報告した方が良いと思い、お手紙します。    かしこ

牟宇(次女)へ 政宗より』

(さう々々の文、御嬉しく候。夕は取りはやしのため、身をすて、さけのみ申し候て、かいきもおもり、
めいはく申し候。されども、けさ鷹野へまいる事に候て、し合よく晩は、かへり申すべく候。
心ふら々々と候て、あら々々返事申し候。何事も又々文ならでと、筆にのこし申し候。)


え?「読み難い?」「普通に書け?」

二日酔いで、まだベロベロなのに娘へ手紙↓書いた人に言って下さいよ・・・
ttp://i.imgur.com/E6HNE.jpg

参考までに、まともな状態で同じく子供(長男・秀宗)あてに書いた手紙↓
ttp://i.imgur.com/HWYd1.jpg

こんなんで「夕方には治るから!」とか書いても、かえって心配させるだけだと思うのだが。
43人間七七四年:2012/02/10(金) 11:10:50.08 ID:YoYaJi9Z
正真正銘のただの酔っ払いや
44人間七七四年:2012/02/10(金) 11:17:40.65 ID:cLADHG3h
こういう五月雨式に書くの、酔ってたからじゃなくて、女性宛だからだと思うんだが
どうなのその辺。洒脱でいいと思うんだけど
45人間七七四年:2012/02/10(金) 11:45:42.06 ID:tmQlfR2P
酒が脱けてなかったのか、
洒脱だったのか
46人間七七四年:2012/02/10(金) 12:27:05.03 ID:Xw770qHZ
洒落ということで酒の話にオチをつけては
47人間七七四年:2012/02/10(金) 15:43:45.64 ID://qoPT8u
この人はホント自筆の手紙好きだな。やたらあちこちで見つかるし。
筆まめなのか今でいうメール中毒なのか。
48人間七七四年:2012/02/10(金) 18:48:23.67 ID:YoYaJi9Z
手紙が電話やメール代わりの時代だからそれなりの数を書いてるのは当たり前ちゃ当たり前
残っているかまとめられてるかの違いはあるけど
49人間七七四年:2012/02/10(金) 19:22:22.05 ID:sxc7TzH4
いや、エライ人は祐筆使うだろ、普通
50人間七七四年:2012/02/10(金) 20:44:51.39 ID:EhqYxZBZ
公文書はともかく私文書は祐筆使わないケースも結構多いような
51人間七七四年:2012/02/11(土) 14:40:29.82 ID:KeO5E/HC
鮭さまな手紙なんか祐筆なんか使えないなw
52人間七七四年:2012/02/11(土) 19:04:56.97 ID:sW4DJXa8
なんで?
53人間七七四年:2012/02/11(土) 19:07:30.77 ID:8i/aGbsk
>>51
内容のせいかは置いておくとしてw
鮭さまが祐筆使うのって最晩年だけだよな。
54人間七七四年:2012/02/11(土) 19:13:39.32 ID:ENoNMHG7
>>52
最上義光
とGoogleに入力すれば、
最上義光 シスコン
が出てくるから、それでググる
55人間七七四年:2012/02/11(土) 20:07:59.61 ID:sW4DJXa8
調べたら真っ先にニコニコ大百科とアンサイクロペディアが出てきたんだが
まさかとは思うけどこれらを参考にしろ、とは言わないよな
56人間七七四年:2012/02/11(土) 20:22:02.41 ID:0p7mkq1X
>>55
いや、それでいいんだ
57人間七七四年:2012/02/11(土) 22:50:44.86 ID:pXrS+B9s
ここもその二つと大差ないしな
58人間七七四年:2012/02/12(日) 00:12:48.55 ID:1ot4HfJT
それは違う。あっちは記事という形だから固定だがこちらは情報が流動的
あからさまなコピペとかだと突っ込まれるしな
59人間七七四年:2012/02/12(日) 18:17:26.62 ID:CtaZwIfR
アンサイクロペディアは記事によっちゃあネタになってないでただの誹謗中傷レベルの文章になってたりするしなぁ〜
60人間七七四年:2012/02/13(月) 00:44:26.08 ID:IYcbwI9a
ウヨサヨ系と関係のある歴史人物なんて面白くもないネタでメチャクチャだしな
61人間七七四年:2012/02/13(月) 03:50:14.06 ID:ENSG7cdH
まあアンクロとかニコ百科とかのネタ供給先だわな、こっちは。
62人間七七四年:2012/02/13(月) 13:44:42.53 ID:45sTB8QH
そんなアンクロに史実を列挙されちゃう鬼武蔵ってやっぱすげぇよな
63人間七七四年:2012/02/13(月) 19:14:42.23 ID:hQjQL0M6
逸話だから史実とは限らない
64人間七七四年:2012/02/13(月) 20:54:21.42 ID:x2H+Y+fz
関ヶ原の結果、伊予20万石を領した加藤嘉明であったが、伊予の首府である松前城には、
非常に辟易していた。

松前城は東南北の三方は山から遠く、城のまわりは底深き沼地。西は九州に続く青海原。
まさに攻めるに難し、日本第一の城郭と語られていたのであるが、嘉明はこう思った

「なんだこの城は!?海に近いが風が強い日には砂が天に舞上がり砂まみれになり、
波は堤防を越え高波に船も転覆してしまう。
だいたいこの城は波音がうるさい!うるさすぎる!!
もっと静かないい場所に引っ越そう!」

とまあ、波の騒音に耐えかね、領内を巡り新城建築の候補地を探し始めた。
高山という場所は松前城から近いが土地が歪んでいる。
長山、高山、尾崎と見て回ったが、どうも一長一短だ。

…と、ここに温泉宮(現在の道後温泉あたり)の西南のあたり、原田広野の中に山があり、
これは勝山と呼ばれていた、
広地にして水清く、八方に開けた場所である。
南には5,6町隔てて石手川の流れ清く、また南方2,3里隔てたところには加藤家直轄領である
施梨山、西に15,6町隔てた場所には江戸山。
三津の浜までは山が続き、北は御幸寺の山遠く、東は道石手山、湯の山嶺数里続き、湯月の古城を
去ること20町。
素晴らしい地だと確信した。

慶長8年(1603)嘉明はここに、五重の天守を始めとした大規模な築城を始めた。
そして勝山の地名を改め、「松山」と名付けた。
伊予の新たな首府・松山の威容が今まさに出現しようとしていた…

が、この松山城完成を前に、加藤嘉明は寛永4年(1627)、会津40万石に転封となってしまったのである。

とまあそんなこんなで、騒音公害から始まった、伊予松山築上の顛末である。
(伊予郡郷里俚諺集)
65人間七七四年:2012/02/14(火) 08:55:02.60 ID:1qYaWhpg
愛媛から青森ワロス
着るものに困りそう

波音とか電車の音ってなれるよね
線路のそばに住んでた時は割と簡単になれた
66人間七七四年:2012/02/14(火) 09:11:26.45 ID:U6QN2395
福島だって
67人間七七四年:2012/02/14(火) 14:49:13.84 ID:vjybTycZ
輝元「気持ちはわかる」
68人間七七四年:2012/02/14(火) 14:56:46.01 ID:MQj+JgW9
加藤嘉明の会津転封について藤堂高虎関係で過去に出た話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-301.html(いい話)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-839.html(悪い話)
藤堂高虎の真意やいかに
69人間七七四年:2012/02/14(火) 19:27:47.65 ID:wzx/YyyV
まあ会津が要地中の要地の一つなのは間違いなく、それを任せられるというのは
相当の信頼があったと考えるべきではあるな。

あと会津転封を嫌がるというのは、蒲生氏郷の話が下敷きになっているのだろうけど、
アレは政治の中心が京大阪だったところから来るわけで、嘉明の時代はすでに江戸が
天下の中心になっている以上、距離的にも近く悪い話じゃないわな。しかも石高倍増だし。
客観的には栄転と言い切っていいと思う。
70人間七七四年:2012/02/14(火) 20:55:48.67 ID:HcXlr7ru
次が保科なのを考えても悪地じゃないな
71人間七七四年:2012/02/14(火) 21:34:33.28 ID:KkMQV1PE
でも青森と間違える人がいるぐらいだからなぁ…
72人間七七四年:2012/02/14(火) 21:40:24.82 ID:U6QN2395
現代西日本人にとってすら、青森も福島も、十把一絡げの東北の僻地という程度の認識でしかない。
ましてや戦国期の畿内・東海の人にとっては・・・
73人間七七四年:2012/02/14(火) 21:55:37.96 ID:bmsO7vgi
瀬戸内の要衝のほうがはるかに重要だからなぁ。
74人間七七四年:2012/02/14(火) 22:09:03.16 ID:YM1vYQDX
おっと南部さん、相馬さんの悪口はそこまでだ
75人間七七四年:2012/02/14(火) 22:39:46.91 ID:S0x20XI7
>>72
東北人にとっては四国・中国地方も同じ感じだけどね
76人間七七四年:2012/02/14(火) 22:56:37.54 ID:HcXlr7ru
>>72>>75
なんでも地理的要因のせいにするのは良くない
青森と福島の区別がつかないなんて現代日本では無教養なだけ
77人間七七四年:2012/02/14(火) 22:58:38.07 ID:a77TXwQl
米がとれないところなんて人が住む処じゃないっつー扱いでしょう
室町幕府でさえ、畿内と瀬戸内〜明までの交易路抑えとけば良してな感じだし
78人間七七四年:2012/02/14(火) 23:02:07.64 ID:wzx/YyyV
>>77
でさえというか、それは極端な分権思想が先にあった室町幕府が特殊なのであってw
それ以前は鎌倉幕府も朝廷も日本全国を視野に入れて政策も行い政権運営もしている。
79人間七七四年:2012/02/15(水) 00:08:00.15 ID:iFqpuQT1
荘園が乱立してた平安後期から、朝廷と幕府の力関係があやふやだった鎌倉前期、
守護の力が大きくなった鎌倉後期とかを考えると
>日本全国を視野に入れて政策も行い政権運営
こんなものは行政改革の初期に取り上げられた理念やお題目でしかない
地方の勢力が中央の法を骨抜きにしたために結局は「勝手にしろ」と放置される
80人間七七四年:2012/02/15(水) 13:17:52.91 ID:Cbk+Q2Hs
日本って朝廷っていう強力な権威があるのになんで中央集権が根付かなかったんだろうな
81人間七七四年:2012/02/15(水) 14:01:22.66 ID:wqe54H6k
イタリアってローマ法王っていう強力な権威があるのに
なんで中央集権が根付かなかったんだろうな、ですね分かります。
82人間七七四年:2012/02/15(水) 14:38:29.83 ID:YroZKIQ+
アメリカがアフガンを制圧したと言っても
統治は到底不可能なのと同じ
83人間七七四年:2012/02/15(水) 14:57:41.54 ID:MuQLiR9q
>>80
朝廷の人たちが血を嫌がるから
84人間七七四年:2012/02/15(水) 15:06:50.52 ID:0mD2pNqH
>>80
権力と実力がなければしょうがない
85人間七七四年:2012/02/15(水) 21:11:30.56 ID:x279RRWA
何この流れ
マジレスしちゃいけないのか?
86人間七七四年:2012/02/15(水) 21:19:52.36 ID:5ECm0Coy
俺はいつでも本気だぜ!
87人間七七四年:2012/02/15(水) 21:21:03.57 ID:KVCP1MRl
主の仇


大関高増の罠(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4087.html)の後の話。
那須資晴の公認有っての事とは言えあまりにも大田原三兄弟の陰謀によって
理不尽な死に方をした千本資俊の家臣の中には当然の事ながら不満を持っていた者たちが居た。

千本家臣である月次行安に仕える竹原隆業もそんな中の一人である。
ある日、ついに竹原隆業は主の月次行安に「主の仇を取りましょう」と相談を持ちかけたのであった。

しかし、三兄弟の行いがどうであれ他ならぬ那須資晴の裁定であるので逆らった所で詮なき事である。
月次行安は竹原の計画を聞き出すだけ聞き出すと謀反の兆しありとして首を刎ねて那須資晴に献上した。

月次の行動は主君からは賞賛されたが千本の領民からは憎しみを買ってしまったという。
88人間七七四年:2012/02/15(水) 23:39:23.69 ID:10Wi4tg6
架空の話乙
89人間七七四年:2012/02/16(木) 00:35:07.86 ID:OhInSZXN
栃木県の地名って本に書いてあった
90人間七七四年:2012/02/16(木) 01:01:40.62 ID:cJxXb5eY
「月次」を「つきなみ」と読めたら地元民
91人間七七四年:2012/02/16(木) 02:27:10.09 ID:kGejJoTs
地元民ではないが読めると思うぞ
92人間七七四年:2012/02/16(木) 07:40:49.58 ID:3piWmKWf
読み方は全然月並みじゃないと思う
93人間七七四年:2012/02/16(木) 10:03:02.29 ID:uw8zI1Pd
2点
94人間七七四年:2012/02/16(木) 11:47:09.41 ID:UgFsHfQU
でも
92>>>林家木久蔵だな
95人間七七四年:2012/02/16(木) 21:07:00.50 ID:Xby7O+Cm
いやいや。
96人間七七四年:2012/02/17(金) 00:36:37.94 ID:kaxF43qW
天正10年(1582)12月2日、羽柴秀吉は和平を一方的に放棄し柴田勝豊の近江長浜城を攻略。
ここに秀吉と柴田勝家との対立は決定的となり、事態は賤ヶ岳の戦いへと進んでいく。
さて、そんな状況の中の、12月14日付、羽柴秀吉の書状


『前に姫路から取り寄せた材木船のことだが、その方の手の者に任せているのにまだ届かないではないか!
沙汰の限りとはこの事である!早々に申し付けてすぐに届けさせよ!

また前の馬屋の連中に取り寄せさせたかすがいも、まだ届かないではないか!お前は一体何をやっているのか!?
これもまた緊急に届けさせるように!

恐々謹言

             筑前守 秀吉(花押)

十二月十四日
 小西弥九郎(行長) 殿』


戦争を始めたものの秀吉方も物資の輸送が上手くいっていなかったようで、
その怒りやいら立ちを小西行長にぶつけた書状である。

(壱岐文書)

97人間七七四年:2012/02/17(金) 00:54:05.74 ID:cDTBCpUD
九州征伐が終わった後くらいだったらそのまま追放されてたかもしれんな
98人間七七四年:2012/02/17(金) 02:16:18.81 ID:WhdLBxIG
上杉征伐に向かっていた最中のことである。下野国小山で石田三成挙兵の報告をうけた徳川家康は
決戦に備えて三男の秀忠に中山道を西上する様に命じた。サポート役に大久保忠隣や牧野康成、榊原康政
お目付け役として本多正信も帯同したこの部隊は進軍の途上、三成方の真田昌幸が籠る上田城を攻撃した。その際、
窮地に陥った味方を救おうと、忠隣配下の杉浦文勝と康成配下の贄掃部が命令が無いまま兵を動かしたのだが、正信はこれを

「いかに味方を救う為とはいえ、命令も無いのに兵を動かすは軍法違反である。両名に厳しい処罰を与えるべきじゃ。」

と主張した。結果として文勝は切腹し、これに反論した康成は秀忠軍から外された。武功派の忠隣らと、さしたる戦功もなく智謀で出世した
正信とはもともと馬が合わず、この一件がきっかけで不仲が表面化したという。さらに戦後、正信が家康の後継者として二男の結城秀康を推薦したのに対し、
忠隣が秀忠を推した事などもあり、両者の溝はより一層深まっていったという。
99人間七七四年:2012/02/17(金) 02:57:31.97 ID:eA/AexoO
行長って奉行面でもダメな子だったのか?
なんで出世したんだ?
100人間七七四年:2012/02/17(金) 09:20:07.39 ID:VNNWNh//
秀吉の納期要求が無茶なのかもしれないし
これだけじゃなんとも。
101人間七七四年:2012/02/17(金) 11:04:46.79 ID:/fwdFx2z
奉行面でもダメな子だったら、縁故もないのに虎ちゃんと競争させようとは思わないっしょ?
102人間七七四年:2012/02/17(金) 21:53:56.47 ID:xZgGtwx3
無能なら緊急時に催促されたりはせんさ、忘れられるだけ
103人間七七四年:2012/02/17(金) 23:07:07.10 ID:B4ReH7ou
無能なら斬って変えられるか追放されて変えられるだけ
104人間七七四年:2012/02/17(金) 23:20:34.60 ID:sSRZSvrE
羽柴四天王は全員消えたもんな…
105人間七七四年:2012/02/17(金) 23:27:57.37 ID:Ykpwk+mo
しかしこういった不名誉な書状もちゃんと残しておくもんなんだな
106人間七七四年:2012/02/18(土) 04:00:23.24 ID:QAYy5Arr
永正四年、無名の僧のメモ(抜粋)

前年の干戈止まず、また新たに起こったものは数えられない。
夏より地震止まず、年末近くになっていよいよ耐え難くなる。

南海在所はことごとく浸水し(死者は)五万とも十万とも言う。
聞いたところ、伊勢・那智・熊野・熱田・(鎌倉)八幡も破滅に至ったという。

本年当国(相模)の(寺社の)消滅三十五六、甲州七八十、豆州二十、駿州二三十、武州十余。

末世末法。

弥勒菩薩。弥勒菩薩。

(真光院文書)
107人間七七四年:2012/02/18(土) 09:32:00.36 ID:E47TbVU7
>>98
葵三代でのそのシーンよかった
大久保の家臣がいきなり名乗りをあげて
杉浦「主になりかわりお詫びもーす!」
忠隣「ひさかーつ!」
秀忠「何をするぅ〜?(゚д゚)ポカーン」
と自害して忠隣が厳罰命じた正信睨みつけてた
その後次々斬首される兵達の断末魔 それを顔をそむけて聞く西田敏行のいたたまれない表情
108人間七七四年:2012/02/19(日) 17:22:03.32 ID:ab8T0jwT
室町幕府第12代将軍足利義晴誕生


赤松家落日の時(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5907.html)の後の話。
浦上村宗によって全てを奪われたかに見えた赤松義村であったが、彼はまだ復権を諦めたわけではなかった。
義村は京を追われた足利義澄の子である足利亀王丸を引き取って養育していたが、
この子どもの身柄はまだ村宗にはまだ掴まっていなかったのである。

永正17年(1520年)12月、義村は亀王丸を伴って置塩城を脱出し、海路で明石へと渡り衣笠範弘を頼る。
義村はそれから東播磨の諸将に呼びかけて村宗討伐の兵を結集させて最後の賭けに出のであった。

翌永正18年(1521年)2月義村方の先方の赤松村秀・弘岡左京らが室津まで進軍した村宗軍と対峙。
「いよいよ決戦」・・・そう思われた矢先になんと弘岡がそのまま村宗の陣へと駆け込み裏切ってしまった。
いきなりプランが崩壊した義村軍に早くも勝ち目が無くなり、義村は兵を一旦引くことを余儀なくされた。

しかし、ここで優勢である村宗の方から義村へと和議の申し込みが入る。
京都で足利義稙と細川高国の対立が激化しており、高国は新将軍擁立を目論み村宗に連絡して亀王丸の上洛を打診していたのである。
復権への欲が出たか、義村は村宗と誓紙を交わして和睦し、同年7月6日に亀王丸の身柄を高国へと引き渡した。

だが亀王丸の上洛が済んだ後、村宗は誓紙を一方的に破棄し義村の身柄を拘束して幽閉した。
そして9月17日、赤松義村は村宗の放った刺客に襲われ、刺客の一人の左手首を切り落とすなど抵抗したものの切り殺された。
同年12月25日、亀王丸は育ての親の死について知らぬまま上洛してついに征夷大将軍となり、「足利義晴」を名乗った。


余談だが後年、足利義晴は浦上村宗が上洛した時に「将軍襲職の恩人である」としてその再開を喜んでいたと伝わる。
109人間七七四年:2012/02/19(日) 18:43:29.34 ID:MvK+LWGf
養育されていたつもりもなかったのか
110人間七七四年:2012/02/19(日) 19:42:36.24 ID:o7VjYBPQ
赤松家ここで終わったな。二度と守護三国に影響力が及ば無くなった。
111人間七七四年:2012/02/19(日) 20:03:32.05 ID:da2LXFMF
足利義晴自体は影薄いけど、偏諱受けた大名は多いよな

武田晴信、伊達晴宗、尼子晴久、南部晴政
112人間七七四年:2012/02/19(日) 20:35:29.81 ID:2pVPU0wl
>>111
ちょうど黄金世代の親の代だからね
113人間七七四年:2012/02/20(月) 03:29:16.54 ID:Qc+QZG8A
>>111
赤松晴政「赤松義村の子供なのに…」

まぁ大物崩れで晴政が浦上を背後から襲って殺すのも道理だな。
どうせ大物崩れが起こらなかったら晴政も用済みで始末されたはず。
114人間七七四年:2012/02/20(月) 09:13:08.87 ID:x+0Yv8HS
>>108
この時代も面白いよなー
信長の野望はこの時代を舞台にしたゲームを出すべき
蒼天録なんて無かった
115人間七七四年:2012/02/20(月) 11:06:48.87 ID:bkyxPwdY
そうなるともう「信長」の野望じゃなくなるんだけどなw
昔、源平を扱った光栄のゲームあったな〜
116人間七七四年:2012/02/20(月) 12:56:53.14 ID:6iZObSRe
>>108
相手が優勢な場合に和議に応じるのは馬鹿。

117人間七七四年:2012/02/21(火) 22:58:03.98 ID:HvdNzsJ5
>>116
相手が優勢なら当然和議に応じるだろうさ。
むしろまずいのはその後。
118人間七七四年:2012/02/22(水) 07:37:29.17 ID:4CjbdSAD
上杉朝定「相手が劣勢なのに和議するとかありえんよねー」
119人間七七四年:2012/02/22(水) 11:18:16.97 ID:S5QUgtuu
真田パパン「それは時によりけりだ。くくく・・・」
120人間七七四年:2012/02/22(水) 16:02:49.32 ID:lke3g88j
信長から降伏勧告きたら100%罠だな
北畠とか伊勢長島とか遠山城とか...
121人間七七四年:2012/02/22(水) 17:16:15.91 ID:u2zSX/im
>>120
信長は、だいぶ経ってから追放したり処刑したりするから怖い。
家康辺りは、どうやって死亡フラグを回避したんだろう。
122人間七七四年:2012/02/22(水) 17:45:05.07 ID:+4rptUCo
>>121
息子と嫁さんで華麗に回避
123人間七七四年:2012/02/22(水) 19:20:08.89 ID:KoT6ioa6
信長が後になって処分下すのは、基本的にはある程度の猶予期間を見てやってるからだと思うけどね。
まあ、原田直政戦死後の一族とか佐久間の扱いはなんか厳しいし、逆に松永や鬼武蔵なんかには
妙に甘かったりと、やっぱ分かりにくい所はあるけどそこは専制君主だしね。
自分が部下ならとてもそんなのんきなことは言ってられんがw

先天的には短気だけど、後天的に我慢強さを身に付けた感じなのかなあ
124人間七七四年:2012/02/22(水) 19:25:22.18 ID:IzzI10hd
基本的にはベタ甘な人だと思うんだけどねぇ、最後の一線が読み難いだけで>信長
125人間七七四年:2012/02/22(水) 19:55:38.42 ID:WWdpmG+D
どれも事情が違うし、理由が史料によってはっきりしてるものと良く分からんものがあるから
126人間七七四年:2012/02/22(水) 20:46:29.04 ID:6syn9Xdr
謀反気むんむんの弟始末したのは有名だが1度は許されてるし
同じく逆らった異母兄はなんやかんや重用してるしなあ
127人間七七四年:2012/02/22(水) 20:50:15.97 ID:ykV5JpMU
信長って傲慢と思われ勝ちだけど実は潔癖すぎるくらい真面目なだけなんじゃないかな
サボってた侍女皆殺しにしたり城を明け渡したおつやの方始末したり
果たすべき役割を果たさなかった人間にはめっちゃ厳しい
128人間七七四年:2012/02/22(水) 20:57:02.24 ID:o2N5ooPy
単に真面目なだけなら、
自分の仕事をしただけの橋の番人を一方的に殺した鬼武蔵を処罰したんでない

気分屋なのか、なんか自分の中で明確な基準があるのか
129人間七七四年:2012/02/22(水) 21:05:39.42 ID:0oJj7GXS
サボっていた侍女と桑実寺の長老を御成敗、って信長公記には書いているけど、
成敗が必ずしも殺害を意味するわけではないとか読んだことがある
130人間七七四年:2012/02/22(水) 21:12:15.66 ID:+4rptUCo
気難しいは気難しいけど、理不尽な切れ方はあんまり無いよな
131人間七七四年:2012/02/22(水) 21:35:35.39 ID:ykV5JpMU
光秀の我々も苦労が報われた、くらいか?理不尽に切れたのは
松寿丸の時なんかはめっちゃ後悔してたんだっけ
132人間七七四年:2012/02/22(水) 22:15:12.89 ID:i1r93PaG
光秀に我々とか言われると、
お前が武田相手に何か苦労したのかよ!
って俺も思う
133人間七七四年:2012/02/23(木) 00:55:59.20 ID:+q5cxyI7
自分の働き云々より、織田家に対する帰属意識の表れなんじゃないのか。
大事なのは苦労したこと云々よりも、「我々」として自分が織田家に属したことを認めてほしかった。
で、頭から否定されたんで「こりゃあそのうち使い捨てされちゃうな…」と感じたとか。
もちろん信長は純粋に勲功の点で言及したんだが、
光秀は「我々」から疎外されたと思い込んだのかもしれん。
134人間七七四年:2012/02/23(木) 02:46:15.66 ID:+/M09OVv
ただ、その話は逸話の域をでないからな
光秀が冷遇されたとかの真贋は、このスレ的にはどうでもいいことだけども一応な
135132:2012/02/23(木) 03:28:43.65 ID:MbIuBjLK
133さん鋭いね!
確かに光秀の帰属意識って重要ですね。

織田家、朝倉、足利、朝廷、美濃土岐、他の明智家、
どこも光秀の安住の地ではなかった。
なら、やはり自分が1番になるしか…
136人間七七四年:2012/02/23(木) 21:10:09.05 ID:Kfldylgz
富田長繁が早死にしたのが残念でならない
信忠の直属になってれば武田攻めで
森・団・富田のジェットストリームアタックが見れたかもしれないのに
137人間七七四年:2012/02/23(木) 21:33:16.77 ID:qldVGwUm
誰が踏み台になるのだろうか
138人間七七四年:2012/02/23(木) 21:59:47.25 ID:/GFKanVf
>>121
家康はアフターケアがしっかりしている
大久保一族も大名として残しているし
他にも大名でなくても旗本として家名を残したりしている

給料は安いが、終身雇用というのが家康
給料は高いが、何時首切りされるか分からないのが信長・秀吉
139人間七七四年:2012/02/23(木) 22:55:09.40 ID:jZsXXQIw
信長よりも秀吉のほうがよほどアレだものなぁ。
羽柴四天王の末路とか。
140人間七七四年:2012/02/23(木) 23:55:51.09 ID:QMOw5QUH
四天王ってたいていロクな目にあってないような
141人間七七四年:2012/02/24(金) 00:04:18.86 ID:e/Dm3BmV
首切りって言っても信長の場合は追放処分とかの方が多いのに対して
秀吉は切腹とかの方が多いってか
142人間七七四年:2012/02/24(金) 00:22:05.28 ID:3iPXC0k/
尾藤・神子田は自業自得な面もあるからなぁ。あと復帰を願い出るタイミングとかも良くないように感じる。
143人間七七四年:2012/02/24(金) 00:55:21.88 ID:Rb5F36R7
事態が収拾してから、秀吉もご機嫌だろうと想像して頭を下げに来てるからなあ

嫌われるわ
144人間七七四年:2012/02/24(金) 00:59:53.07 ID:N2+z4I5/
そこんとこ体張って復帰嘆願した仙石との違いか
145人間七七四年:2012/02/24(金) 09:11:55.21 ID:ejXwm686
>>144
アフターケアの家康に頼ったのが正解だった
146人間七七四年:2012/02/24(金) 12:07:48.64 ID:i8FD63fq
>>142
信長もよくやってたけど、帰参を許さない程度が妥当な措置だろ。
殺すのは、どうみてもやりすぎ。
147人間七七四年:2012/02/24(金) 17:45:51.42 ID:/jZaIhlV
天正13年(1585)7月、羽柴秀吉は越中の佐々成政を征伐すると、近々北国に発向すると表明。
そして越前領主丹羽長重にその先陣を許した。長重は急ぎ帰国し、軍馬を揃え秀吉の下向を待つ。

8月、秀吉は北伐と称し越前路に来臨。長重は北ノ庄城を発して近江路まで出てこれを迎え、北ノ庄城への
渡御を乞う。秀吉はこれを許諾し、総軍は街道に残した上で、扈従ばかりの人数で北ノ庄城に入城し、秀重からの
饗応を受けた。時に秀吉の、秀重への懇意なことは、まるで父子のようであった。

この時、丹羽家中では一部に、秀吉に対し密かに反逆せんとする企てが進んでいた。
ところが秀吉はその事を以前から気き知っており、しかしそれをいささかも顔に出さず、この饗応に
大いに喜んだ風で、丹羽家の重臣一同(無論反秀吉派も含む)を御前に召し出し、特別に銘々に盃を与える。
そして一同にこう申し下した。

「よいか、国主長重は年若い。お前たちは故越前守(丹羽長秀)の遺訓に違わず、忠義をなして長重を補佐するべし!
万一、彼が幼主であるのを侮り、私意を以って悪事を進める賊臣があるようならば、直ちに首を刎ね、長重の領地は
全て没収する!そうなれば長重は不肖の子であり、お前たちは不義不忠の賊臣である!
固くこの旨を心せよ!」

そう厳命すると長重の方を向いて

「わしからの、そなたの家臣共への命令は今聞いたとおりだ。そなたは若年といっても、これをいささかも忘れてはならない。
そなたの父長秀は、信長公天下創業第一の功臣であり、その英名は天下を恐服させたものだ。
そなたもその父の資質を受け継いでいる風にみえる。謹んで臣下の善悪を究明し、国家の大事を怠るでないぞ!
年頃に至れば朝廷に奏し高官に登用し、これから攻めとる佐々成政の領地を加増し北国一円の主とさせるであろう。
そのつもりであるから、今回の佐々成政に対する先陣も許したのだ。この旨をよくよく理解せよ!」

そう厳命した上で北の庄を発した。

秀吉による、丹羽家中及び丹羽長重に対する牽制と懐柔である。

(丹羽歴代年譜)
148人間七七四年:2012/02/24(金) 17:55:57.59 ID:S+ggb5+t
>>147
逸話をありがとう。
でも、秀重って誰やねん
149人間七七四年:2012/02/24(金) 17:59:01.08 ID:/jZaIhlV
>>148
うわ!2段落目なんてことに…

秀重→長重です。どうしてこんな間違いを。申し訳ない。
150人間七七四年:2012/02/24(金) 18:31:35.09 ID:52PWb2W7
>>147
悪い話?
151人間七七四年:2012/02/24(金) 18:36:41.79 ID:AA7P8lgF
??「北伐と聞いて」
152人間七七四年:2012/02/24(金) 18:36:46.66 ID:OjgstZSl
一応いるぞ、丹羽秀重


丹羽秀重 (????〜1615)

丹羽長秀の弟。大坂夏の陣で幕府方で出て戦死。
153人間七七四年:2012/02/24(金) 18:54:12.21 ID:52PWb2W7
>>151
丞相は三戦板に帰れ
154人間七七四年:2012/02/24(金) 20:05:49.27 ID:a+L0bCZ7
いや、岳飛かもしれんぞwしんかいさんにとっちゃ鬼武蔵みたいなもんかもしれんがw
155人間七七四年:2012/02/24(金) 21:00:44.10 ID:zjFqp70B
>>147
減封されたのってこれが原因?
156人間七七四年:2012/02/24(金) 21:51:56.44 ID:DqvOt9Ce
天正19年正月2日 利休が奥州一揆鎮圧に向かった細川家重臣松井佐渡へあてた手紙
当時忠興と松井康之は二本松にいた

一、 浅野弾正と一緒に二本松に同陣していることは、奇特というか名誉なことです。
   上様(秀吉)の耳にもそのことは入っています。
一、 奥州の一揆が蜂起したのは、ひとえに政宗が謀反を企てているからだと上様のお耳に入れ申しました。
一、 政宗は羽忠(蒲生氏郷)を攻略するつもりのようだが、氏郷が油断しているように見えるので、
   (原文だと羽忠政宗武略之覚悟、羽忠油断無様に被思食候)
   上様は去年二八日中様(秀次)、家康様両名に折紙をよこし、
   そちらへ向かわせることにしました。このことは弾様(浅野長政)へも取次があったと思います。
一、 政宗は去年4日黒川に陣替えして、会津と二本松の間を通行できないようにしてしまった。
   これはまぎれもなく謀反の意図があるということだ。氏郷が会津に無事帰城するまでは、
   政宗が何を言おうと、すべて裏表がある、と上様はおっしゃっていました。
一、 霜台(浅野長政)から政宗へ、ご返事があったことは承っています。上様と全く同じ思し召しです。
   会津への通路を切り取った以上、政宗が何を言っても、申し開きは無理でしょう。
一、 上様は三月一日奥州へ出馬することに決まりました。

この年の1月22日秀長死去、2月28日利休は秀吉に切腹を命じられる
157人間七七四年:2012/02/24(金) 22:22:39.12 ID:RBnHfnfy
利休が凄い真面目に仕事してるな
政宗もインパクトあるが、ここからの利休切腹の唐突さもだな
158人間七七四年:2012/02/24(金) 22:40:42.09 ID:Rb5F36R7
一枚の書状中で浅野の呼び方がコロコロ変わるのが面白いな
159人間七七四年:2012/02/24(金) 23:27:00.54 ID:a+L0bCZ7
原文でも家康は家康なのかな?
160156補足:2012/02/25(土) 01:37:56.69 ID:aPkWpTbf
書き忘れたけどこの年は閏月があって、政宗はその間に秀吉と清州城で会って上洛命令を受ける
2月4日に鶺鴒の花押云々の申し開き。

原文でも政宗は呼び捨て、家康は「家康様」になってます
161人間七七四年:2012/02/25(土) 01:44:40.88 ID:zvE23jAL
政宗の呼び捨て安定っぷり
やはり本人がそう呼ばせた説を採用したくなる
162人間七七四年:2012/02/25(土) 02:32:25.55 ID:Dy7+zov0
政宗は諱呼び捨てされてないと落ち着かないぜwww
163人間七七四年:2012/02/25(土) 03:54:00.98 ID:zhWlN7Cz
これは悪い話…

> 327 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2012/02/24(金) 19:43:54.75 0
> > 150 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2012/02/23(木) 05:53:23.61 0
> > 1583年、クンコリムの反乱
> > http://en.wikipedia.org/wiki/Cuncolim_Revolt
> >
> > 現地のクシャトリアが初めてポルトガル支配にあらがい実力行使をおこなった。
> > 度重なるヒンズー教寺院の破壊と信者弾圧に抗し、イエズス会宣教師や信者を殺害
> > したのだ。
> > 首謀者たちは裁判を経ずにゴア当局により処刑された。
> > 殺害された宣教師は即座に殉教者と認定された(処刑されたクシャトリアたちを、
> > ヒンズー教徒が殉教者として同等に顕彰できるようになったのは、やっと21世紀に
> > なってからだった)。
> >
> > 同じ年の12月、極東の島国から4人の少年を連れた使節がこの「虐殺の町」を訪れ、
> > 世界の至る所で民族の違いを超えてイエスキリストの御名の栄光が輝いていることに
> > 歓喜の涙を流した。


> 328 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2012/02/24(金) 21:48:56.78 0
> 例の4人の運命
> 伊東マンショ: 細川忠興により追放、中津・長崎と転々とした後病死
> 原マルチノ:  マカオに追放
> 千々石ミゲル: イエズス会を退会し転宗するが、大村喜前・有馬晴信とは不仲
>           しまいに晴信の家臣から暴行まで受け不遇のまま死去
> 中浦ジュリアン:キリシタン追放令後捕縛、穴吊りの刑に処され
>          「私はローマに赴いた中浦ジュリアンである」と言い残し惨死
>
> 人間って・・・ねえ
164人間七七四年:2012/02/25(土) 06:50:02.74 ID:xPON8ctP
名門もあって政宗はこの時点で官位は既に左京大夫だし
普通はこっちで呼ばれるものだよな

やっぱり本人も政宗と諱で呼び捨てられるのを気に入ってたのかもな
165人間七七四年:2012/02/25(土) 07:00:19.17 ID:iawcxI+t
諱で呼ばれる俺かっこいい!って本気で思ってそうだな
166人間七七四年:2012/02/25(土) 07:56:41.49 ID:9BQRiRce
正宗
「諱で呼ばれる こいつはすげえぜ」
167人間七七四年:2012/02/25(土) 08:45:29.07 ID:3lD6q11i
>>166
誤植のようで誤植じゃない!不思議!    いくらなんでもメタルダーは古いと思うんだ。

政宗「あ?なんだよ、オメーら、左京大夫とか呼ぶんじゃねえよ。ダチじゃねえか、政宗って呼べよ」
特攻の拓とかあの辺のイメージだなー
168人間七七四年:2012/02/25(土) 10:23:06.30 ID:4CDCr6mD
家康あたりには「気楽に本名で呼ばせてりゃ野望も隠せるだろ」で説明がつくな。しかし他の椰子にまで言わせるってことはよほど名前が気に入っていたのか?
169人間七七四年:2012/02/25(土) 10:26:42.32 ID:AUm7LWfq
政宗「俺の名を言ってみろぉぉぉ!」
170人間七七四年:2012/02/25(土) 11:03:43.55 ID:q0oKbO/f
まさかこのスレで説教ソングの大御所の名前を聞くとは・・・
171人間七七四年:2012/02/25(土) 11:04:27.21 ID:4CDCr6mD
(´・ω・`)「政宗、ちょっと鮭喰って落ち着け」
172人間七七四年:2012/02/25(土) 12:16:30.93 ID:qmD3V5WN
>>171
うざい
173人間七七四年:2012/02/25(土) 12:44:46.24 ID:pFLfCqj2
これから死ぬ相手を呼び捨てにしてたら、そいつは助かり自分が切腹させられた(´・ω・`)
174人間七七四年:2012/02/26(日) 03:12:30.43 ID:uJsb+cgv
武田信玄の愛読書人国記
http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bunken/cn14/pg511.html

酷い書き様だ
175人間七七四年:2012/02/26(日) 13:56:47.92 ID:C/BifgBn
信濃だけはべた褒め、あと肥前は「信濃には劣るけど」良い所ってのは妙な感じだなぁ
176人間七七四年:2012/02/26(日) 13:59:28.28 ID:uVwx2JSz
甲斐は修羅の国だし信濃を取りたかったのも分かる
177人間七七四年:2012/02/26(日) 15:27:10.93 ID:WYWe06Hk
そなたの〜国を攻撃!攻撃!
178人間七七四年:2012/02/26(日) 15:33:30.56 ID:EJ7H3NUN
>>174
甲斐の国、酷過ぎだろ…
生きていける気がせんわ
179人間七七四年:2012/02/26(日) 15:46:23.19 ID:WYWe06Hk
俺の屍を越えていけ
死ぬことを厭わないとか武士の鑑じゃのう
180人間七七四年:2012/02/26(日) 15:57:12.83 ID:wv3l+KzH
近衛信尹の遺書


近衛信尹は、武家との交流が盛んであった公家である。
さて、いよいよ病が重くなったある日、信尹は愛する家族にあてて遺言をしたため、形見分け等を指示するが、
その中に、交流のあった諸大名の名が見える。曰く、

「左衛門大夫(福島正則)・政宗・島津(義弘)にも、似合いの品を、それぞれ遣わしてください」
(原文:左衛門大夫・政宗・島津などへも、似合い候物ども遣り候べく候)(※前後略)

書面上のことではあるが、信尹卿も、政宗は呼び捨てなのであった。
181人間七七四年:2012/02/26(日) 15:58:41.62 ID:LS1qUkbb
さすが政宗、いつでもどこでも誰にでも政宗呼ばわり
182人間七七四年:2012/02/26(日) 16:24:11.52 ID:3E8AIHyW
>179、めんどくさい国とどっちがマシだろ?
183人間七七四年:2012/02/26(日) 16:45:57.50 ID:W34HDr81
めんどくさい国は割といいこと書いて有ると思うがどうだろ
184人間七七四年:2012/02/26(日) 16:46:49.17 ID:w7BONCpA
なんかもう政宗の諱呼びだけで本書けそうだな
185人間七七四年:2012/02/26(日) 17:23:50.23 ID:td1lJUKw
ひょっとして誰からも尊敬されてなかっただけじゃないのか政宗って
186人間七七四年:2012/02/26(日) 17:29:31.61 ID:uVwx2JSz
礼儀の問題だから本人の評価はあまり関係ない
187人間七七四年:2012/02/26(日) 17:58:39.48 ID:s9se1jXv
あの家光からは普通に尊敬されてたしね
188人間七七四年:2012/02/26(日) 18:11:02.54 ID:rQ9VtRx7
まあ端的に言えば

・政宗は生涯改名していないので諱が一番個人特定しやすい
・政宗の目には直接触れない書状である
・諱を使っても政治的問題になりにくかった

などがあったのでしょうな。あと政宗自身がどうも、「政宗」と呼ばれることを
気に入っていたフシがあるw
189人間七七四年:2012/02/26(日) 18:37:03.89 ID:3fxRVRgi
>>174
下野国之風俗多くは気質に清之内之濁を得たる人多して、其清濁流通する事なく、而邪気甚く傍若無人に而

真っ先に某三兄弟が浮かんだけど、思い返してみると下野の武将でまともなのって芳賀さんぐらいだものなあ…
190人間七七四年:2012/02/26(日) 20:29:02.99 ID:u5B7EUMy
芳賀さんも結構汚い手で敵を消すからなぁ。

下野についての評は当たってると思う。
191人間七七四年:2012/02/26(日) 20:30:28.99 ID:w7BONCpA
芳賀さんと大関さんを見てると、大義名分って大事なんだなって身に染みて分かるよねw
192人間七七四年:2012/02/26(日) 20:44:09.93 ID:S1Mvc11t
>>187
尊敬というのとはまた違くね?
193人間七七四年:2012/02/26(日) 22:42:19.41 ID:2sHfvg/k
>>190
>>191
まぁ自分の為か主君の為かってとこで明確な違いがあるから


しかし信濃は評価高いな
あと意外なとこで伊豆も高い
194人間七七四年:2012/02/26(日) 23:04:42.98 ID:S6g8p1ZY
>>193
駿河は散々な言われようだなw
信濃のベタほめぶりがすごいけど、信濃国人を見るに、人国記とは
だいぶ違う気もするけどなあw信濃ほど「独立独行」という言葉が似合う
国もない気がするが。
195人間七七四年:2012/02/26(日) 23:45:38.97 ID:uVwx2JSz
作者が信濃人とか言われてるみたいねw
196人間七七四年:2012/02/26(日) 23:47:17.37 ID:bawa7CvM
197人間七七四年:2012/02/27(月) 06:22:48.70 ID:DQcjLsvg
尾張守護・斯波義達は、守護代・織田達定の反逆を平定し、尾張における主導権を再び回復しすると、
永正11年(1512)、今川氏親の遠州侵略に対し再び反抗を起こし、曳馬城(浜松)を奪還し、さらに池田・入野といった
地域まで横領に成功した大河内貞綱に呼応。斯波家の領国である遠江を回復するため自身が出馬して
これを助けんとした。

が、尾張上四郡を支配する岩倉織田家の織田伊勢守信安は、この遠征に利がないと強く諌めた。
しかし義達はこれを聞かず出馬を強行。ここに斯波義達と織田信安の関係は不和となり、上四郡の兵は
この遠征に参加しなかったため、義達の兵は甚だ少ないものとなった。それでも遠江へと進軍し、
曳馬城に入った。
余談だが織田信安は後に、一族である若き日の信長とも激しく対立することになる。

同年6月。今川氏親は3万の兵で城攻めを行った。

この時曳馬城周辺は大水により、城のまわりは海のような状況で、誰が見ても、とても攻められるような
状況ではなかった。が、氏親は大竹縄数百で繋げた船橋をかけ軍勢をやすやすと城の周囲に展開させ取り囲んだ。

しかし曳馬城は非常に堅固な城で、それでも今川の攻撃に耐え続けた。
そこで氏親は城が高台にあることに目をつけ、阿部金山から金堀師を呼び寄せ城内の水脈を全て掘り抜かせた。
このため城には水がなくなり日々に弱り、8月19日、この日の攻撃で大河内貞綱と、その弟、巨海道綱、
高橋正定、中山監物ら千人あまりが討ち死に、斯波義達は捕虜となり、曳馬城は落城した。

付近の普済寺という禅寺に監禁された斯波義達であったが、今川氏親は「同じ足利一門の好である」として
彼の命を助けた。そのかわり剃髪し出家させ(法名は”安心”であったという)、『今後二度と今川家に対して弓を引かぬ』
との誓紙を書かせ、これをもって尾張へと送り返した。

斯波家の権威を決定的に低下させ、尾張において織田氏に主導権をもたらす画期になったと言われる、
斯波義達の曳馬城合戦の逸話である


(今川家譜)
(名古屋合戦記)
198人間七七四年:2012/02/27(月) 12:20:37.61 ID:cEZRrfY0
権威失墜という意味では処刑より効果的に思えるな
氏親もその辺りまで計算に入れてたんだろうけど
199人間七七四年:2012/02/27(月) 18:17:39.34 ID:VVyLpimU
そうしてついには尾張まで手に入れたのに、信秀に取り返されるんだっけか
200人間七七四年:2012/02/27(月) 19:18:21.47 ID:q9Psp4RX
これは悪い話なのか?
201人間七七四年:2012/02/27(月) 21:14:53.87 ID:E70EFSK8
近衛信尹ってどこか憎めないな
202人間七七四年:2012/02/27(月) 22:03:44.11 ID:tTV2b3R5
その辺、やっぱり公家の元締めって感じだよなぁ・・・
203人間七七四年:2012/02/27(月) 22:08:09.28 ID:p66CsOBG
>>200
斯波義達のかっこ悪い話だろう
204人間七七四年:2012/02/27(月) 22:28:26.32 ID:upxUUCsY
>>197
駿河だけで3万の兵力か?
205人間七七四年:2012/02/27(月) 22:35:27.72 ID:ieRShisD
斯波は三河も領国だったのか
何で遠江に遠征してるんだよ
206人間七七四年:2012/02/28(火) 05:48:47.21 ID:wDt7qkWR
>>204
兵数なんて数倍どころか桁までお手盛りされちゃうこんな世の中じゃ
207人間七七四年:2012/02/28(火) 08:11:33.08 ID:Np68cuS+
直家「ポイズン」
208人間七七四年:2012/02/28(火) 18:02:48.69 ID:lXkFlAqb
あんたの場合、言いたいことも言えなくなるのは相手の方だろ

死人に口無し的な意味で
209人間七七四年:2012/02/28(火) 21:16:36.48 ID:S0HI7cpc
ちょっと直家が格好いいと思ってしまった
210人間七七四年:2012/02/29(水) 20:47:51.29 ID:PSxgbCWY
(´・ω・`)「城においでよ?」
211人間七七四年:2012/03/01(木) 10:23:45.87 ID:KT3qx73I
ノブ「見舞いに来い」
212人間七七四年:2012/03/01(木) 10:27:11.84 ID:qi4wrpEE
義龍「ちょっと調子悪いので」
政宗「早く来なさい」
213人間七七四年:2012/03/01(木) 10:52:04.66 ID:ynHneSwQ
義光「系図を預かって」
214人間七七四年:2012/03/01(木) 12:20:34.79 ID:/Hb4Gsdi
信長「橋の番を命ずる」
215人間七七四年:2012/03/01(木) 20:59:54.90 ID:5gJQONqd
一休「真ん中を渡っていけば・・・」
216人間七七四年:2012/03/01(木) 22:27:52.44 ID:6WgOdf+B
忠興「庭の手入れを命じる」
217人間七七四年:2012/03/01(木) 22:33:10.44 ID:Je+vkUy9
天保八年(1837年)、ある山腹に建つ古寺に一人の男が訪ねてきた。
男  「和尚、実は我が先祖が昔この寺であった戦において討ち死にを遂げておる。
    是非とも供養塔を建てたいのだが如何なものか?」
和尚 「そうでしたか。それでは早速、手筈を整える事と致しましょう。」
そうして建てられた石塚にはこのような碑文が掘られていた。

(意訳)富田長秀、享年二十四才、天正二年二月十四日、中道院に死す。法名「盛雄」。

この寺を訪ねてきた男とは某掲示板に於いて狂犬呼ばわりされている男から数えて
丁度、十代後の子孫を名乗る富田延美という人物、その人であった。
朝倉氏滅亡後、府中を有して越前の統治にあたった富田長繁が陣没してから264年後になって
長泉寺山の山腹に建てられた「富田の首塚」といわれるモノである。

だがこの碑文、色々とおかしな点が多い。まず長秀という名前であるが、
現存の古文書には何れも長繁と明記されており、先祖の名前が違うといったようにいきなりの怪しさ全開っぷり。
更に、長繁が亡くなった日は正確には天正二年二月十八日であり、中道院の堂内や境内で亡くなったのではなく、
長泉寺山頂に陣を構えようとして登頂の最中に配下の小林三郎次郎吉隆の手によって射殺されたのである。
それに加えて、事前に在ってしかるべき筈の法名を名付けたのはこの天保の時代の現住職・秀運であるといういい加減さ。

実はこの時代の系譜製作は出自を盛るのは当たり前、その土地のかっての有力者の子孫を自称する者も多く、
この富田延美という男もそういった類の人物ではなかったのではないかと郷土史研究家は見ているようだ。
勇猛果敢であり、若いながらも領民に慈愛を注ぎ、越前一国を手中に収めようとする野心家として
地元では名高い勇将にあやかろうとした男のちょっと悪い(怪しい)話。

PS.実は富田長繁の子孫の話がもう一つある。こちらの方は富田一族の本来の所領地であった越前坂井郡の兵庫村出身で
現在、福井市に於いて富田病院を経営しておられる子孫の方々である。この家に伝わるボロボロの過去帳には

府中龍門寺城主 當家元祖富田彌六朗長繁 龍閣寺殿圓月中正大居士

といった風に一国一城の主たる者に与えられる法名としては相応しいものが明記されているそうである。
218人間七七四年:2012/03/01(木) 22:57:56.23 ID:nPAQ7sAB
鬼武蔵「やっぱ医者がいいよな」
219人間七七四年:2012/03/01(木) 23:16:05.59 ID:8RFg18Pz
子孫僭称が出てくるほどの人物とは
富田さんを見直し…やっぱいいか
220人間七七四年:2012/03/01(木) 23:22:54.25 ID:wS4HIYG8
ふむ。
221人間七七四年:2012/03/01(木) 23:34:40.10 ID:/Hb4Gsdi
ヒャッハーお手々を消毒だぁ〜
222人間七七四年:2012/03/01(木) 23:37:43.09 ID:GheMC7JU
なんでや!子孫はヒャッハーちゃうやろ!
223人間七七四年:2012/03/01(木) 23:50:08.72 ID:GzdtWAoW
あんなの200年以上がろくに供養されてなかったのは良くないことが有りそう
224人間七七四年:2012/03/01(木) 23:56:22.92 ID:Je+vkUy9
越前のマッド・ドッグの子孫に相応しいニックネームなら
クレイジー・ドクターかドクター・デスってところだな
225人間七七四年:2012/03/02(金) 06:32:47.98 ID:Hg2kjPhG
富田さんの死ぬ前の戦いは窮鼠猫を噛み殺すって感じ。
226人間七七四年:2012/03/02(金) 12:52:43.56 ID:TH/q56Sp
>>224 生死観のほうを受け継いでいれば怖いけど、
刀剣の技のほうを受け継いでいれば、「神のメス」とか地元では評判の医者かもしれないよ。
227人間七七四年:2012/03/02(金) 12:58:04.24 ID:90UfSsXL
患部の裏まで突き抜けるメスとかか
228人間七七四年:2012/03/02(金) 13:57:47.62 ID:qRXfO627
いまも営業してるんだろ?
さすがにそれ以上はやめておこうぜ
229人間七七四年:2012/03/02(金) 15:11:27.96 ID:2mcsdl/m
太く短い人生を送ったえちぜの狂犬さん
一族の生き残りって事は信長の下にいた弟の子孫なのか?
230人間七七四年:2012/03/02(金) 15:15:25.64 ID:Ettz4vE6
>>228
この逸話と子孫の話は第二次世界大戦前に書かれた資料から引っ張り出してきたものなので
おそらくもう子孫の方が経営されてた病院はどうやら無くなっている模様(名称が変わっているのかも)
地元民じゃないんだが朝倉・若狭武田氏に興味があって調べていた中で見つけてきた話です
231人間七七四年:2012/03/02(金) 15:39:22.43 ID:Ettz4vE6
>>229
富田家は1970年の信長に対する金ヶ崎追撃戦において
織田追討軍の第三陣に一千騎を率いて(追討軍総数は二万強程)
出陣するぐらいの武将だったみたいなので
越前国内にそれなりに一族はいたのではないかと思う
(朝倉一門を除けば家中第四番目ぐらいの陣容)
富田長繁に関しては朝倉家臣時代の事跡が不明すぎる
232人間七七四年:2012/03/02(金) 16:04:31.60 ID:fd6kDmRk
そりゃ若いからな、家督を継ぐ前の事績は残りにくい
233人間七七四年:2012/03/02(金) 16:04:35.66 ID:F8VxE6Os
富田は朝倉にとって黒歴史
234人間七七四年:2012/03/02(金) 18:31:45.98 ID:H+reGMuY
>>231
1970年って最近過ぎワロタ
235人間七七四年:2012/03/02(金) 19:14:31.84 ID:hJ6q94Zt
>>234
ベトナム戦争だったのか
236人間七七四年:2012/03/02(金) 20:29:05.42 ID:JFo9OOPD
福井市に富田病院は無い
237人間七七四年:2012/03/02(金) 21:36:24.61 ID:9ZBdD6yC
>>236
今はないみたいだけどこんなの見つけたよ

ttp://kotobank.jp/word/%E5%AF%8C%E7%94%B0%E5%8D%83%E4%BB%A3
238人間七七四年:2012/03/02(金) 22:09:25.46 ID:VznNvrPw
出典があるのかどうかわからないが面白いw


> 891 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/29(水) 15:01:46.70 ID:2WHqJ9N/
> 豊臣秀吉がねね様にいいました。
> 「淀はこの度めでたく、わしの子をみごもったわい!!」
> ねね様はしばらく考えてから、口を開きました。
>
> 「こんな話をご存じですか。
>  狙った熊は決して逃がさない熊撃ちの名人がいた。
>  ところがある日、急いでいたのでうっかりして、
> 猟銃の代わりに傘を持って熊撃ちに出てしまった。
>  そして熊に遭遇。彼はまだ傘と気づかずに猟銃のつもりで傘を構え、
> ひきがねのつもりで傘の持ち手をバーンと引いた。
>  すると熊はパタリと倒れた。見れば心臓を銃弾が直撃…」
>
> 秀吉「そんなバカな!あるとすれば、その弾は他の者が撃ったに違いない」
>
> ねね「そういうことです」

豊臣秀頼の謎
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1163498044/
239人間七七四年:2012/03/02(金) 22:14:34.07 ID:pJtlayRM
とあるブログに載ってたアメリカンジョーク(アフィサイトなのでリンクはあえて貼らない)
>32 守備隊(静岡県) 2007/08/24(金) 13:53:57
>
>88歳のおじいさんが病院にやってきました。
>「先生、聞いてくださいよ!わしの嫁は18歳なんですが、この度めでたく、わしの子
>をみごもったんですよ!!」
>医者はしばらく考えてから、口を開きました。>
>
>「こんな話をご存じですか。狙った熊は決して逃がさない熊撃ちの名人がいた。とこ
>ろがある日、急いでいたのでうっかりして、猟銃の代わりに傘を持って熊撃ちに出て
>しまった。そして熊に遭遇。彼はまだ傘と気づかずに猟銃のつもりで傘を構え、ひき
>がねのつもりで傘の持ち手をバーンと引いた。すると熊はパタリと倒れた。見れば心
>臓を銃弾が直撃…」
>
>「そんなバカな!あるとすれば、その弾は他の人が撃ったに違いない」
>
>
>「そういうことです」
240人間七七四年:2012/03/02(金) 22:19:03.23 ID:VznNvrPw
アメリカンジョークの改変だったのか。スマン。
241人間七七四年:2012/03/02(金) 23:54:54.56 ID:1yp0EhRi
よく出来てるアメリカンジョークだな
思わず感心しちゃった
242人間七七四年:2012/03/03(土) 01:32:28.49 ID:eZmOo4sT
ならんでしょうな

のアメリカンジョークに通ずる上手さがあるな
243人間七七四年:2012/03/03(土) 06:16:11.30 ID:HXmG+Ion
>>231

へぇ〜まだ生まれてないや〜
244人間七七四年:2012/03/03(土) 07:36:20.52 ID:T43T6MHy
天正11年(1583)

羽柴秀吉は7月に大阪に居城を築く。この頃参議に任官し、従四位の下に除し、その権威は添加に振動し、
各地の諸侯は我先にと大阪に馳せ上り彼の謁見を受け、皆その麾下に属した。

そんな中、丹羽長秀だけは越前に移って以来、秀吉に対し音信の使いも登らせず、この年の末になり
冬となっても上洛することも無かった。
これに秀吉は激怒し、使いを越前に派遣し長秀の態度を激しく責めた

『今私は天下の覇権を握った!禁裏を守護し、勅許を受け天下の兵権も掌握した。
そうであるのに長秀は、そんな私との約束に背き上洛してこない。一体どういう理由で私の側に来て
私を輔けないのか!?速やかに上洛せよ!』

この秀吉の言葉を聞き、丹羽長秀は更に激怒した

「秀吉は私のことを何だと思っているのか!?私はこれに返答すべき言葉がある!
汝(秀吉からの使者)は私の家臣を連れて、京に戻るが良い!!」

そして家臣の中から村上次郎右衛門義明を選び、自身の言い分を伝え、秀吉の使いに付けて京へと向かわせた。

義明が上京すると、秀吉はその周りを威儀厳重にしてこれを召し出した。
しかし村上義明はいささかも恐れること無く秀吉の前に出ると、こう声を上げた。

「長秀の言葉はこうです。当国(越前)に移って以来、国務は甚だ多忙であり、またこの北陸の地は雪深く、
冬になれば道を通ることすら容易ではない。その上、天下は既に足下が安定して掌握している。
それ故に私は、安心して在国して足を休めているのだ。

今、あなたが天下の覇権を握るのに、私もおおいに助力した。
それなのにどうしてこのように、私を甚だしく責めるのか!?そこをよく考えていただきたい!」

これを秀吉の前で言い放った義明の勇壮に、祗候の諸大名たちは皆驚き、秀吉の反応を恐れた。
が、この時秀吉は

「…私の言い過ぎであった。汝(秀吉の派遣した使者)も長秀に陳謝せよ」

と、義明に付けて再び越前へと送った。

この秀吉の態度に長秀の怒りも解け、秀吉、長秀は以前のように懇意の間柄になったという。

丹羽長秀が上洛しなかった事からきた騒動に関する記録である。
(丹羽歴代年譜)
245人間七七四年:2012/03/03(土) 12:03:58.61 ID:qXXkHXJx
最後の一文は・・・なぁ?
246人間七七四年:2012/03/03(土) 14:09:23.04 ID:oZ3YvhSI
織田株式会社(新興ブラック企業)
丹羽長秀=部長
秀吉=平社員

20数年後、羽柴財閥(日本一の巨大財閥)
丹羽長秀=子会社社長
秀吉=羽柴財閥総裁

柴田、丹羽、池田と仲良く出来るわけないわ
247人間七七四年:2012/03/03(土) 18:52:46.03 ID:xyzviczL
堺屋太一っぽいな
元記事の長秀を普通に格好いいと思ってしまったけど
248人間七七四年:2012/03/03(土) 19:14:57.35 ID:U+Hrgor7
>>247
だって丹羽家藩祖の公式記録だもんw
249人間七七四年:2012/03/03(土) 20:05:48.83 ID:ho1A3f3c
小山評定後にアッサリ帰った真田
万石も無ければ、将軍にも媚びない喜連川氏
1万500石でも苗木城持ち遠山氏(金さんの親類)
家光側室の町人だった増山氏 米が取れない松前氏など

【陪臣・喜連川ほか】 「小大名」スレ 2 建てました
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1329412330/l10
250人間七七四年:2012/03/03(土) 22:31:48.62 ID:ks7O67HQ
>>249
この包茎、無差別コピペ荒らしか。アク禁申請
251人間七七四年:2012/03/04(日) 00:39:03.31 ID:u550q+Io
>>246
池田恒興は信長の乳兄弟で別格だし目障りだったろうな
小牧長久手の戦いの際に三河への直接攻撃を功にはやった恒興が秀吉に
許可を求めた事になってるけど、秀吉から命令された説もあるんだよな。
そうすると無謀な作戦で死を覚悟した鬼武蔵の遺言に合点がいく
252人間七七四年:2012/03/04(日) 06:02:54.20 ID:6zNwtS2t
森家も目障りだったのかな?
253人間七七四年:2012/03/04(日) 07:40:12.24 ID:eliJJb+0
秀吉個人としてみれば旧織田家中で目障りなのはいなくなったからな
長秀死亡時点で
254人間七七四年:2012/03/04(日) 08:06:20.03 ID:z1dbpBgd
多聞院、天正10年(1582)の記事より

6月29日
『大乗院(尋憲)殿が安土より帰られた。三七殿(織田信孝)から御念の入った御礼を受けたそうだ。
まずは大慶である。
伊勢の御本所(織田信雄)と三七殿との所領に対する存念が一致せず、諸軍勢が未だに集結したままであるという。』

7月6日
『天下の状況、柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽五郎左衛門(長秀)、池田紀伊守(恒興)、堀久太郎(秀政)の、
以上5人によって分捕りのようにされてしまった。
信長の子供たちはいずれも取り立てられなかったという。浅ましい、浅ましい。』

7日
『天下の状況、本所(織田信雄)と三七(織田信孝)との所領に関する論争のため、両人共に三法師の
名代を辞任し、信雄は伊勢を取り、信孝は美濃ばかり。上野殿(織田信包)へは伊賀一円だと言う

柴田勝家は長浜一円二十万石、堀久太郎は城介殿(織田信忠)の子供たちの御守りを命ぜられ、
そのためとして近江の中郡二十万石。丹羽五郎左衛門は高嶋郡と滋賀郡、池田紀伊守は十七所、大阪を取り、
羽柴筑前(秀吉)へは山城国一円、丹波国一円(これは筑前の弟小七郎のもの)、西の丘、勝竜寺以下、
河内にて東ノ山以上、それらが概ね、秀吉の意のままになったようである。

それから下京六条に城を建設するという話だ。ここに三法師を入れ、その名代を置くことはなく、
先の五人、柴田、羽柴、丹羽、池田、堀が常駐して意見申し上げ、盛りたてていくのだとか。

筒井順慶は大和国一円、宇智郡を与えられたそうだ。
これには羽柴秀吉が、筒井が所領できるよう熱心に運動したとのことである。
しかしこれで、大和は今後も静謐が保たれるだろう。

以上、このように相定まったが、かなりの問題が残されたままである。
なにより信長の子息達は大勢いるというのに、何れも全く取り立てられていない。
必ず何らかの狂いが出てくるだろう。』


清須体制の成立前後の、情勢とその分析の記録である。
255人間七七四年:2012/03/04(日) 08:16:59.10 ID:z1dbpBgd
あ、一行目の多聞院は「多聞院日記」です。すいません。
256人間七七四年:2012/03/04(日) 17:43:44.24 ID:NMWqnEVD
>>254
Q太郎パねぇ。清洲会議出てないよなwwww
257人間七七四年:2012/03/04(日) 18:29:51.94 ID:JM5TmENz
名人の立場もかなり微妙なとこだよな。誰からも気を遣われる
258人間七七四年:2012/03/04(日) 20:24:05.38 ID:okSBeQKy
キュッキュキュッキュキュッキュ久太郎はね御守なんだ御守なんだ御守なんだけれど(ゴメン)
259人間七七四年:2012/03/04(日) 20:25:15.00 ID:rACJ8lMi
信長が死んでなければ、長浜は名人のモノ

260人間七七四年:2012/03/05(月) 02:19:21.78 ID:y/4ZV0Ux
高橋名人か
261人間七七四年:2012/03/05(月) 17:29:42.68 ID:DCKxR8Nx
名人と蘭丸は同じ系統な気がするけど、蘭丸には森家の血が流れてるので....
262人間七七四年:2012/03/05(月) 18:15:28.02 ID:c/g9TG66
ヒャッハー!になるとw
263人間七七四年:2012/03/05(月) 20:51:13.58 ID:dNvaIcjz
慶長19年(1614)12月下旬、幕府方と大坂方で和議が結ばれ、大坂冬の陣は終了した。ある者は帰国の準備を進め、
またある者は次なる乱を想定し準備を進める中、ある男が大坂城内の長宗我部盛親を訪ねて来た。

「盛親様、お久しゅうございます。」
「お前は!・・・攻め手に加わっていたか。どの手勢にいたのだ?」
「今は、井伊掃部殿の配下におりまする。」

「そうか。4日の朝、真田丸の戦いにも居たのか?」
「居りました。本日は、あの時に討ち死にした者の遺品を引き取りに参りました。」
「あの戦いで井伊家の者は何人死んだ?」
「名のある者、17人が討ち死にを遂げました。」

「そうか・・・皆の衆、この者の申したことは本当ですぞ!」
盛親は周囲の者にそう言い放つと近習に、戦利品である17本の旗指物を運ばせて、男に渡した。
指物の中に知人のものを見つけ、密かに涙する男を眺めつつ、盛親は言葉を続けた。

「この者の祖父も父も、わが父や兄の用に立ち、その馬前で死んでくれた勇士であった。
それに比べて、わしは・・・ハハ・・・・・・和議成ったばかりでの役目、大儀。杯を取らせる。」
「かたじけなし。」
盛親の杯を飲み干した男は、丁重に礼を返して大阪城を去った。(福留覚書)

男の名は、福留半右衛門。
『福留の荒切り』と呼ばれ、伊予攻めで戦死した福留飛騨の孫で、『蛇もハミもそち寄れ、隼人殿のお通りじゃ』
と、その武勇を童歌にまで称えられ、戸次川の戦いにおいて長宗我部信親とともに死んだ福留隼人儀重の子である。

関が原の戦いの後、牢人となった半右衛門は諸大名を転々としており、大坂の陣の時は井伊家に属し、
戦後は尾張徳川家に仕えて生涯を終えた。

半右衛門自身の生い立ち、戦場における同僚との他愛ない交流、一時期仕えた加藤嘉明家での気に食わぬ上司等、
克明に記された『福留覚書』において大坂の陣、特に夏の陣のことは、淡々と足早に書かれている。
264人間七七四年:2012/03/05(月) 22:45:24.34 ID:hmxE2oEs
旧主と戦ってんだモンな、そりゃー色々思うところもあるだろうしなあ
265人間七七四年:2012/03/05(月) 23:27:18.60 ID:dS8mE8KI
関ヶ原からこっちのgdgdで改易された上に三代に渡る忠臣の家が
今じゃ敵ときたら盛親だって泣く事も笑う事も出来んよなあ…
266人間七七四年:2012/03/06(火) 00:37:40.52 ID:rY59UG3G
しかも本来だったら東軍だったんでしょ
267人間七七四年:2012/03/06(火) 00:39:49.20 ID:zHC8wvM9
盛親さんは過小評価
268人間七七四年:2012/03/06(火) 02:00:37.15 ID:EYPfSLoi
実際のところ親忠兄さんはどれくらい優秀だったんだろうね?
269人間七七四年:2012/03/06(火) 07:38:41.73 ID:4+6SQZHw
夏の陣では盛親は井伊隊と闘っているよな
「徳川方第一の戦功は井伊掃部」とか言って
その際に」長宗我部の忠臣だった男のこともいろいろと思いを馳せたんだろうな
270人間七七四年:2012/03/07(水) 05:04:23.05 ID:L0jQzyS1
天正十年十月、堀秀政宛、柴田勝家書状

『覚

一・羽柴筑前守(秀吉)、約定違反のこと

一・清須において誓い、それぞれに印も押した置目について、秀吉は全く守っていない。
  政治の形が今までと全く変わったことに、庶人は不信を申し立てている。諸国の下々がそのように言っているのは
  当然のことである。政治が分明に、決まった通りに行われていればどうしてこんな事になるだろうか?

  羽柴筑前とこの勝家の間は、、元々は疎遠でなかったはずなのに、この頃では人々も不和だといっている。
  天下の織田家御分国を静謐にするという評定は当然のものなのに、清洲会議以来の秀吉の裁許は、言葉にもならない
  有様である。諸人がこれを不審に思うのも尤もである。
  
一・この勝家自身のことを言わせてもらえば、私は長浜を分配していただいた以外、米一粒、一銭足りとも私していない。
  申次の諸侍から、この事に対して私に嘆いてくるものが聊かあるが、そういった者たちにもその理由を申し使わして、
  道理のあるところをよくよく説明しているので、私の方では知行にも諸侍にも手心を加える事は一切無いのだ。

一・若子様(三法師)の事だが、惟住五郎左(丹羽長秀)より、岐阜に申し上げるべきだとの意見により、各一同の
  兼ねてからの約束通りに、岐阜から安土への御動座をされるようにと、岐阜へも、五郎左へも返事をした。
  その墨付は双方に存在している。

一・今度の上様(信長)のご不慮によって、天下は混乱し治め難き様相となった。未だ四方に敵があるのだから、
  内輪は対立を自重し、上様の行いを引き継ぎ四方に馳せ走る。上様がおられなくてもそのようにするのが
  本来で有るべきなのに、全くそのようになっていない。

  一方で家康の行動を見てみろ。彼は度々の上様の御動座によって、武田一類を尽く討ち果たし、その後の平定を
  仰せつかった。ところが北条が、彼らは上様御在世中は上様の御意に従っていたというのに、状況が変わると
  その態度を一変させ織田の軍を攻め家康と対陣に及んだ。事ここに極まって、天が味方もしてくれたのだろう、
  徳川家の者共は皆で一致してこれに立ち向かい、即座に置い崩し討ち果たした。誠に上様の時より続く軍忠、
  これは上様へのお弔いにもなるもので、かつ天下の誉れ、これに過ぎるものはないではないか!

  しかるにそんな事を考えもせず、御分国の内に私的に新城(山崎城)を建設するなど、様々な我意を通している
  秀吉は一体、誰を敵としているのか!?
  政治を担当するものがそのような事をするのは許されないものである。私と彼との関係が悪いといっても、
  今は心をあわせて、上様のご苦労によって治められた織田家御分国をあい治め、御分国の政治を、たとえ
  上様には及ばなくても、相守るべきなのである。
  このままでは結局共食いをして双方果て、織田家の領国も他人の国になってしまうだろう。
  これは我々一同の本位ではないだけではなく、天道にも背いた行いであろう。
  しかし今、情勢はそのような方向に向かっていることが、無念至極なのである。


                   柴修 勝家(花押)
天正十年十月六日
  堀寿太郎殿』
  

清洲会議の約束を守らず独自行動を拡大する秀吉に対する、柴田勝家の危機感が溢れる書状である。
(南行雑録)






271人間七七四年:2012/03/07(水) 05:24:42.55 ID:L0jQzyS1
ああ、間違いが

下から3行目。×堀寿太郎殿 ◯堀久太郎殿 どうしてこうなったw;
272人間七七四年:2012/03/07(水) 06:59:47.53 ID:1pP/TvnR
>>270
平山優が「天正壬午の乱」で一部を紹介してた手紙だね。

秀吉と勝家が争い始めたせいで、予定されてた織田政権
からの援軍が貰えなくなったとあった。
273人間七七四年:2012/03/07(水) 07:43:57.22 ID:9YCq36jo
>>270
火事場泥棒的に甲斐、信濃掠め取ってる家康褒めてるwww
そこも織田領だから
274人間七七四年:2012/03/07(水) 07:50:37.32 ID:1pP/TvnR
>>273
それは事実誤認。
家康は、ちゃんと織田政権の許可を貰って侵攻してる。
275人間七七四年:2012/03/07(水) 07:56:52.37 ID:4UlnHobY
「援軍を送れないのは〜だからだよ」という勝家の書状か、なるほど

>>274
織田政権っていったい誰?
276人間七七四年:2012/03/07(水) 08:15:35.47 ID:1pP/TvnR
>>275
具体的に侵攻を認める書状を出したのは秀吉。

勝家の手紙でも判るように信長亡き後の織田家は、清須会議の
結果を受けて重臣の合議制で進めることになってた。
だから、織田政権扱いにしてる。
277人間七七四年:2012/03/07(水) 08:23:26.73 ID:2yGOlGLa
あと織田信雄からも織田信孝からも、家康に対して充分な援助ができないことを詫びる書状が出てたりするね。
織田家中では争っていても、対北条に関しては意識が統一されていた。
家康の甲斐信濃侵攻は、織田家の完全な支持のもとの行動だったわけだ。
278人間七七四年:2012/03/07(水) 08:28:48.98 ID:VeIse7g4
うーん、時代に置いていかれた感が漂う文面
279人間七七四年:2012/03/07(水) 08:43:37.32 ID:bmHT1+x3
>>273から漂う家康アンチの臭い
280人間七七四年:2012/03/07(水) 09:45:53.50 ID:iaQ7qK/H
ていうか、上杉や北条が攻めてきてるのに切り取られるがままにしておく方が問題だろ。
「織田から許可取ってないから黙って見てました」じゃ済まん。
281人間七七四年:2012/03/07(水) 10:22:28.35 ID:O9eygUz0
>>277
織田の援軍が、信雄からの三千で終わっちゃったからね。
北条との和睦の時には、ちゃんと信雄、信孝が仲介したけど。
282人間七七四年:2012/03/07(水) 10:41:32.15 ID:N92JjHc1
埋められたり北条にボコられて逃げたりしたからしょうがない
283人間七七四年:2012/03/07(水) 12:16:21.79 ID:iCWn/gbD
肝心の織田家が内部で争いを始めていたから、家康がおいしくいただいてももしょうがない
284人間七七四年:2012/03/07(水) 12:27:57.43 ID:a20rsPRR
鬼武蔵さんが無責任に帰っちゃったのがいかんかったよね、河尻さん滝川さんが惨いめにあったの
285人間七七四年:2012/03/07(水) 13:12:49.90 ID:ouTTO3FR
滝川一益はともかく、
川尻も鬼武蔵も在地武士たちから恨み買いまくりだったからな…
逃げるか殺されるか二つに一つだったと思うよ
286人間七七四年:2012/03/07(水) 13:16:29.11 ID:Wc6mNpzP
鬼武蔵さんならそこは返り討ちにして欲しいところだが、足場が固まってない・
多勢に無勢・自陣は浮き足立ってるってのじゃ逃げるしかないわな。
287人間七七四年:2012/03/07(水) 13:18:32.88 ID:cXUR8w+6
いや、でも家康の甲斐・信濃獲りは、火事場泥棒とかおいしく頂いたとか、そんな
生易しいもんじゃなかったと思うぜ。確かにあの時しかチャンスはなかったとは
いえ、中身を見ると、けっこうムチャしてるから。ここぞとばかりに甲・信に大兵
力を送り込む余力があったわけでもないし。家康にとっても大きな賭けだったんじ
ゃないかと。
失敗して逆に徳川がぶっ潰れてた可能性も十分あったと思う。北条が出てきた後
なんか特にね。完全に数的不利の状況でぶつかったわけで。
当時の徳川にとってある意味、身の丈以上の冒険。

家康って、後に天下とっちゃったからイメージ的にちょっと大物感あるかもしれ
ないけど、独立後は対今川でも対武田でも対北条でも、基本的に相手の方が兵力的
にずっと有利な状況で、辛抱強く戦ってきた立場だったんだから。
288人間七七四年:2012/03/07(水) 13:34:23.20 ID:ouTTO3FR
家康が秀吉に臣従するまでに戦った格下って真田くらいだよな・・・
289人間七七四年:2012/03/07(水) 14:41:17.84 ID:O9eygUz0
>>288
木曾義昌とかもいるよ。

本人が出馬してるケースだと、三河や遠江辺りの
国衆を相手にしてる時くらいかな。
290人間七七四年:2012/03/07(水) 19:55:30.71 ID:2TvwxyNL
その国衆だって今川や武田のついていたような連中だしなあ
291人間七七四年:2012/03/07(水) 20:19:43.49 ID:TTvOZGf5
三河一向一揆
292人間七七四年:2012/03/07(水) 20:20:27.93 ID:TTvOZGf5
真田だって当時は上杉配下だ
293人間七七四年:2012/03/08(木) 09:15:48.51 ID:yyCUGesD
>>287
まぁそれだけのことができるからこそ織田も同盟という関係を続けわけだわね。

使えないならどこより先に信長が潰して自分の手駒置いてただろしうな。
294人間七七四年:2012/03/08(木) 12:58:41.49 ID:jrG9gdRO
家康は武田の後継と認められた穴山(正確には子供が)殺してるし、信長死亡の時点で甲斐、信濃が草刈り場になる事予想して行動してた
295人間七七四年:2012/03/08(木) 14:23:37.02 ID:c1cFwzdh
アンチ乙
296人間七七四年:2012/03/09(金) 00:01:55.07 ID:SuytvLuh
 ある時、毛利元就が能島・因島・来島海賊衆からなる三島村上水軍の船印を見てこう言った。

「能島・因島の船印が“丸の内に上の字”=で、
 来島が“角折敷に三引両”(こんな感じ→《三》)――これは河野氏の紋と同じ、と。
 別に無理に家紋変えてって程じゃないんだが……
 もしよかったら、能島が“丸の内に一”、因島が“丸の内に二”、で来島が三、と
 こうならんか? そうすれば備えの時、(一)(二)《三》と並べられるのだ。
 ちなみにこの一は我が大江氏の祖、一品親王の一の略にして云々――」

 能島村上氏の当主武吉と因島村上氏の当主吉充、
 大手雇い主の気まぐれに対し「何様にも御意次第……」とは答えたものの、
 因島の家臣たちが異議を申し立てた。

「うちと能島だけ紋を変えて、来島は変えない、というのは納得行きません。
 来島は元々の紋を他家の紋に変えたのに、今回はそのままってのはどうかと思います。
 そこで能島をそのままにして、うちを“丸の内に中の字”=、来島を“丸の内に下の字”=にして、
 これで、どうでしょう?」

 これはこれで、と元就承認しかけたが、今度は来島氏がなんて紋に納得するわけが無く。
 元就は「やはり毛利家の下で働くなら“一品”であるべきだ」とか言い出した。
 (当初は希望だった筈がもはや断定口調である)
 武吉と吉充は渋い顔を付き合わせ、

「あの〜、今のうちらの船印を見ただけで敵は腰を抜かす有様で、十分役に立ってますから、
 なんとかそのままにしていただけませんでしょうか?」

 と訴えて紋を変えることは許してもらい、その代わり毛利の分国中でその役儀に従う船は、
 “一品”の船印を立てるように元就は堅く命じたということである。
                                           (三島海賊家軍日記)
297人間七七四年:2012/03/09(金) 17:55:12.82 ID:z1tV09/F
>>270
織田の醜い内ゲバワロタw
298人間七七四年:2012/03/09(金) 18:36:25.19 ID:BfBf6wBK
愛妻家(キョウサイカ)の意外な顔


「急げ、急げ」

 ある時、二代将軍秀忠は駕籠を急がせていた。「大御台所さま、ご危篤」の報告に、一行は全力で駆ける。

 その時、駕籠の外で交わされる私語が、不安と絶望で塞がれつつある秀忠の耳に届いた。

「何で、こんなに急ぐんだ?(何事ニテカ、斯クハ急ギ給ウ)」

「ババァに会いてぇからよ(ババに会イタサニサ)」

 これを聴いた瞬間、秀忠は……何もしなかった。今は、こんな奴等に関わっている時間は無い。

 後日。

「この者どもにございます」

 あの時の私語は誰か、と尋ねる秀忠。平伏する供のうち、私語の二人は即座に特定された。

 平伏する両名に近づく秀忠。

 と、左手を伸ばして一人の襟を掴んだかと思うや、軽々と持ち上げて、右手で抜いた脇差を一突きして、死体を一間ほど放り投げた。直ぐに、もう一人も同じ運命を辿った。

 人間一人を左片手で子猫のように持ち上げ、脇差の一撃で即死させ、二メートル近く投げ飛ばす。

 何のかのと言われても、流石は戦国乱世に生まれた漢の一人であった秀忠の少し意外な素顔。原哲夫先生の劇画で脳内再生できそう。
299人間七七四年:2012/03/09(金) 18:49:06.20 ID:BpYirGwR
平時でも微妙な言なのに危篤の時に言っちゃいかんわな
300人間七七四年:2012/03/09(金) 18:52:54.23 ID:95ErEsJi
秀忠最低だな こんなんだから真田にボコられるんだよ
301人間七七四年:2012/03/09(金) 19:03:52.48 ID:xdg7zsSJ
というかおにいちゃんとお目付を残しておいて無視しとけばよかったんだよ。それなら死人もそう出ないだろうし
302人間七七四年:2012/03/09(金) 19:33:48.01 ID:p9Oe5Dcm
>>300
人格と戦の強弱は別だろ
一致するなら、鬼武蔵が大人格者になってしまう
303人間七七四年:2012/03/09(金) 19:37:24.37 ID:iuyLKmeV
てか、一人目はさすがにちょっとかわいそうなw
304人間七七四年:2012/03/09(金) 19:40:58.49 ID:95ErEsJi
秀忠最低だな こんなんだから家光に嫌らわれるんだよ
305人間七七四年:2012/03/09(金) 19:51:56.19 ID:iuyLKmeV
いやらう?
306人間七七四年:2012/03/09(金) 20:30:00.00 ID:tuniZqdI
一人目哀れ
307人間七七四年:2012/03/09(金) 20:35:09.57 ID:jkEhhClP
>>303>>306
二人目が御台所をババア呼ばわりしたのを窘めなかったから、とか?

しかし秀忠は恐妻家じゃなくて、本当にお江が好きだったんだろうな〜
そうじゃないとこんな話は残らないと思う
308人間七七四年:2012/03/09(金) 21:45:42.27 ID:GC8hBDce
>298
確かに劇画ぽい話だ
参考までに、出典なに?
309人間774年:2012/03/09(金) 23:00:56.90 ID:XVL8xuq0
徳川実紀です。

……ただ、恥ずかしながら孫引きです。自身で原本を確認していません。
310人間七七四年:2012/03/10(土) 00:53:07.13 ID:KmBgeh8D
徳川実紀ならネットでも読めるで
311人間七七四年:2012/03/10(土) 07:31:55.51 ID:hiXetG7a
ん?台徳院実紀付録とかに載っているのか
312人間七七四年:2012/03/10(土) 08:52:35.03 ID:nr+kKRGD
いくらなんでも将軍みずから手打ちにはしないでしょ
313人間七七四年:2012/03/10(土) 14:44:05.59 ID:gn1Ak0E0
暴れん坊将軍の「成敗」が思い浮かんだw
314人間七七四年:2012/03/10(土) 15:28:32.27 ID:Oe+9OC6U
忠興「自らの手で刀の錆にするとかw」
ノブ「トップ自ら手打ちとか無いわ〜」
315人間七七四年:2012/03/10(土) 16:16:35.53 ID:tTNRrV/a
酔った勢いで部下を殺しちゃった人もいるしなw
福島さんとか市松さんとか正則さんとか
316人間七七四年:2012/03/10(土) 18:08:16.22 ID:VgZS4HpH
三才様じゃないんだからw
317人間七七四年:2012/03/10(土) 19:43:16.53 ID:5+KAS7a0
小山評定後にアッサリ帰った真田
万石も無ければ、将軍にも媚びない喜連川氏
1万500石でも苗木城持ち遠山氏(金さんの親類)
家光側室の町人だった増山氏 米が取れない松前氏など

【陪臣・喜連川ほか】 「小大名」スレ 2 建てました
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1329412330/l10
318人間七七四年:2012/03/11(日) 13:33:48.72 ID:JryqpYtz
>>296
一品って毛利家の一文字三星紋のことだよね?
文字で一品と言われるとピンとこなかった。
319人間七七四年:2012/03/13(火) 02:08:04.43 ID:GgYfDcGv
揚げ
320人間七七四年:2012/03/14(水) 00:47:18.60 ID:bNOtUlpF
>>318
その通り、縦に並べた「一品」が「一文字に三ツ星」の紋の原案だと言われています
原文では特に解説もなく“一品の印”となってますが、同じものだと思われます
321人間七七四年:2012/03/14(水) 04:00:26.19 ID:l733RFy3
大江氏の祖の阿保親王が、一品の位にあったから、
それを図案化したんだとさ
だから、一品で普通に通じてたんでしょう
322人間七七四年:2012/03/14(水) 13:53:43.24 ID:GMnnZGtY
漢検「お宝」ザクザク 茶碗・書…公売で1660万円
http://www.asahi.com/national/update/0314/OSK201203130223.html

>▽千利休の弟子の戦国武将・細川三斎(忠興)が箱書きした井戸(いど)茶碗(ちゃわん)
>▽織部焼の生みの親とされる武将茶人・古田織部の茶杓(ちゃしゃく)

三斎様にゲヒ殿ですよ。漢検、金に飽かしてたんだねえw
ちょっと悪いニュースでした。


323人間七七四年:2012/03/14(水) 18:17:16.54 ID:v0yWwbyH
>>322
大阪国税局か…ラスボスが無理矢理取り上げたとかじゃあるまいなw
324人間七七四年:2012/03/15(木) 14:21:34.87 ID:cN5Nyd1E
戸次道雪が亡くなるしばらく前の出来事である。

ある日高橋紹運が戦評定のため戸次道雪の陣営に趣き、評議が終わって酒宴となったころ、どこからとも無く
真っ白なる鷹が飛んできて、庭前の松の梢に止まった。

近習の若侍たちはこれを見て「何としてもあれを捕えよう!」と立ち騒いだが、どうにも方法が見つからず
手を出しかねていた。これを見ていた道雪は

「誰か、鷹の事に心得のあるものはいないのか?」

と尋ねると、早良善内という老人が立ち上がり、厨房の方に走っていくと鳥の肉を一片ばかり取って帰ってきた。
そして庭上に降り立ち、肉を振って静かに鷹を呼ぶ。

と、鷹は肉をめがけて飛び降りてきた。善内、これを巧みに捕らえ拳に据えて、そのまま道雪の御前に出て、

「これは天晴、逸品の鷹でございます!そのうえ白鷹といえば、別して賞翫される特別なもの。
これがただいま、庭の松に止まったというのは、目出度き瑞祥に違いありません!」

そう、大声を響かせた。

道雪はこれを大いに喜び、善内に褒美を与え、そのままその鷹の管理を任せた。


ところが、である。この鷹はそれから2,3日過ぎて、何の病気も怪我もなかったというのに死んでしまった。
後になって人々は、『あれは道雪の卒去の前兆であったのだ』と、噂し合ったそうである。

(伝習館文庫柳河藩政資料)
325人間七七四年:2012/03/15(木) 16:49:06.51 ID:I0JRFr+S
神獣捕まえたからバチ当たって死んだんじゃ....
326人間七七四年:2012/03/15(木) 20:56:41.59 ID:FoO5VTzK
>>324
いわゆるアルビノは虚弱だもんな
327人間七七四年:2012/03/16(金) 01:06:26.53 ID:XtYqNzXR
三島村上水軍の棟梁のうち、因島の村上吉充は
ほぼ同時代を生きた能島の村上武吉と来島の村上通康の高名の影に隠れて今一つ目立たない。
そんな彼の人となりを、因島村上氏の一族の記録から見てみよう。


北九州方面から上方へ来る荷船は赤間関で、防長・豊前から来る廻船は上関で、能島衆が通行を取り締まっていた。
豊後・日向発で伊予方面に向かう荷船は来島衆の、備後方面へ向かう船は因島衆の担当である。
しかし上関や周防大島の衆が豊後沖付近まで出張って荷船から帆別銭(通行料)を取ってしまうことがあり、
それをされると因島衆の収入が減ってしまい、大きな悩みの種であった。

また、因島付近を通行する未取締船にも、小早川家のお膝元である近所の三原港に逃げ込まれてしまい、
仕方なく取立てを諦めることが何度もあった。
因島の当主・村上吉充は腹に据えかねて、この窮状を小早川隆景に訴えた。

「因島は三島の中でも小身なのに、このような仕打ちは我慢できません。
 何卒よくお考えいただいて、違反がないよう御命令を出してください」

「言いたいことはわかりました。ですが、海上のことは村上三家に一任していることですし、こちらからは何とも……。
 それに、海の関を逃げられることもそちらの不手際ではありませんか。新蔵人(吉充)よ、そのような申し出は通りません」

素気無く断られた吉充だが、一度では諦めなかった。
今度は配下の若者たちを動員して一斉に奉行所に訴状を出させたのだ。

しかし、これがまずかった。隆景の逆鱗に触れたのである。
(隆景様御機嫌悪鋪、仰出され候は、)

「三原へ逃げ込んできた船に、いちいち通行料免除をしなければいけないこちらも迷惑なのですよ。
 しかしどこの国の船であろうと、助かりたい一心で飛び込んできた者を助けないのもまた不仁。
 私に船を助けてはいけないと言うのであれば、その方もまた船を襲うことをやめるべきです。
 大体、元就様から過分の恩地を頂いておきながら『小身なのに』とは何ですか。欲張るのはやめなさい。
 海賊と言うものは所詮犬のようなもの。運送の荷船は鹿や猿だ。
 犬が鹿や猿を取ったからと言って、『よしよし、よくやった』と褒めるのは猟師くらいのものだ。
 元来犬の方が横暴なのに、鹿取る犬を誰が当然のようにもてはやそうか」

と因島の驕りを久々に睨みつけたので、吉充は困惑してしまった。
隆景腹心の乃美宗勝や磯兼左近大夫に取り成してもらい、何度も侘びを入れて許してもらったと言う。

これより以前、足利義昭を毛利家が警固することになった時、因島の吉充に漕船及び警固船出動の命が下ったが、
遅刻してしまったことがあり、その時も「隆景様御機嫌そこね、御しかり成され候」

その後、引退もし損ねた吉充は乃美、末長、木谷ら小早川家重臣たちから代わる代わる説教責めにあったそうな。 
毛利・小早川に最も近い村上水軍棟梁の、意外な素顔である。

                                           (三島海賊家軍日記)
328327:2012/03/16(金) 01:16:53.89 ID:XtYqNzXR
訂正:(下から五行目)足利義昭→足利義昭の上使
329人間七七四年:2012/03/16(金) 09:44:48.39 ID:QWlGON1e
逃げられたお前が悪いのだは
戦国時代の道理ってことなのかな?
330人間七七四年:2012/03/16(金) 10:27:30.38 ID:H/43bFj5
>>329
領地を与えられたがその経営の責任も負うのと同じような理屈なんだろう。
帆別銭の権利を与えられたらそれをうまく取るのは権利を与えられた者の責任と。
331人間七七四年:2012/03/16(金) 12:39:58.96 ID:zZxtR2q+
逃げ込んで困るってわかってたら逃げれないように手打てや
自分が下手打ったのに被害者面するんじゃないよ

というのをオブラートに包んで仰っておられる隆景公
332人間七七四年:2012/03/16(金) 16:00:41.41 ID:XA8ucx9+
でも家中内で発生したトラブルを「自分で何とか」したら処罰されるんだけどね
333人間七七四年:2012/03/16(金) 16:30:30.80 ID:Q/aFy+4C
どこまでが判断を仰がなきゃいけない範囲でどこからが自分の裁量の範囲か見極めが要るのは今も昔も変わらんってことかね

清正なら全部判断仰ぐでいいんだろうし
黒田の大殿ならどこまで自分で判断するかまで読み切って仕事与えるんだろうけどさ
334人間七七四年:2012/03/16(金) 16:36:07.97 ID:F4i7WSPY
だからってグーで殴るのはやめてください叔父上
335人間七七四年:2012/03/16(金) 20:54:12.82 ID:YTm1BlJQ
山口玄蕃允正弘(宗永)の家臣・大石平左衛門良定は生涯武功が多く、傷を得ること数々で大きな傷も数箇所にある、そんな武人だった。

彼は「高麗両度ノ役」にも従軍し、ひたすらに武勇に励んだのだが、主君である正弘が誉れ無きために、
せっかくの武功もまったく無意味なものになってしまった。

「やってられるか!!」
帰朝の後、良定は病と称して故郷・近江国大石に退いてしまった。
山口正弘は加賀大聖寺城主に取り立てられた際に再び良定を招こうとしたが、彼がこれに応ずることはなかった。

良定は「高麗」で3人の童女を捕らえて連れ帰り、幾以、津留と名付けていた。残り一人の名は詳らかではない。
彼女らはとても凡下の者のようには見えず、耳に穴が有ったという。

3人のうち津留は、良定の甥で、真壁(赤穂)浅野家の家老となった大石内蔵助良勝の若党・与右衛門の妻となり、
良勝の子・良秀の乳母となっている。
(大石家系図正纂)

この時代の価値観では山口正弘が悪い話かな。
関が原のことを考えれば良定はラッキー&好判断!
336人間七七四年:2012/03/17(土) 02:22:17.13 ID:6iSXT3Vw
>>335
>耳に穴があった
東洋におけるピアスの初見である。
337人間七七四年:2012/03/17(土) 02:23:29.73 ID:oras4JSN
普通、耳に穴はあんだろ
338人間七七四年:2012/03/17(土) 03:07:14.50 ID:YFD4c2fs
佐竹義宣が、伊達政宗、上杉景勝、島津忠恒らと共に徳川家家臣の屋敷での酒宴に参加した時のことである。
義宣はこの時、普段から仲が悪かった政宗と景勝を和解させる為に

「二人とも、この機会に仲直りしましょうよ。ね?」

と何度も言い聞かせた。

これに景勝は応じたが、政宗はといえば

「俺も別に構わんぞ。だが、もし貴殿が幕府に背くような事あらば、俺が直ちに粉砕してやるわ!」

と逆に景勝を挑発した。

「・・・・・・てめぇ」

善意を踏みにじられてしまった義宣は政宗のこの発言にブチギレてしまい、

「上等だよ!だったら、もしお前が幕府に背いた時には、俺か景勝のいずれかか先陣になって
 お前をぶっ潰してやんよ!」

と応酬した。その後、政宗は自身の後継者である忠宗が忠恒に刀を贈った話をきっかけに

「義宣の刀が見たい。」

と言い出したが、義宣は

「誰が見せるか。」

と頑として応じなかった。

「おいおい、お前は何をそこまで用心してんだよ?」

と政宗に問われると

「お前相手に、用心しない訳がないだろうが。」

と返したという。仲介役がケンカの当事者になってしまったお話である。
最後に、この三人の喧嘩をすぐ傍で見ていた忠恒の胸中は如何ばかりか・・・
339人間七七四年:2012/03/17(土) 03:31:25.29 ID:pEH00W7A
www
340人間七七四年:2012/03/17(土) 04:11:18.12 ID:r7ZtpCnm
さすが従兄弟、仲がいい
341人間七七四年:2012/03/17(土) 04:44:19.56 ID:uNP/Qpy5
島津忠恒「従兄弟なら仲良くするべきだし、刀を御披露目して何か都合の悪い事などあるまいキリッ
あぁこんな時に七柱槍同期の直江君がいれば場が収まっただろうに…」
342人間七七四年:2012/03/17(土) 04:59:36.50 ID:afywaHqA
こんなに表面を取り繕うのが下手で武将として大丈夫なのかw
343人間七七四年:2012/03/17(土) 09:54:56.76 ID:McuEaZUB
なんとなく話がすすんでるけど景勝さんひとこともしゃべってないな
344人間七七四年:2012/03/17(土) 10:07:51.64 ID:pspJNCZ6
代わりに怒ってあげた義宣はいい奴
政宗は馬鹿
忠恒は恐らく黒い
345人間七七四年:2012/03/17(土) 10:34:11.64 ID:FUzLXt9Y
>>338
期待に違わぬ流れで安心した
346人間七七四年:2012/03/17(土) 11:03:14.68 ID:8tVuFdRW
>>338
これは…。

ホストの徳川家家臣は胃が痛かっただろうなw
347人間七七四年:2012/03/17(土) 11:35:07.64 ID:fn8GZJRV
従兄弟でも義宣さんはどちらかというと政宗さんとは反りが合わないだろうしね

つか、喧嘩の仲裁ってよっぱど格が上とかじゃないとこんなことになるよね
酔っ払いの喧嘩も止めに入った人がボコボコにされてるのよく見るしw
348人間七七四年:2012/03/17(土) 11:37:53.13 ID:evOgrSns
>>338
でもこの頃にはもう幕府の先陣は
譜代大名は井伊家、外様大名は藤堂家と決まってるんだよな
349人間七七四年:2012/03/17(土) 11:47:27.63 ID:TcCo+wg/
井伊藤堂は将軍の露払い役。徳川本隊の先陣な。
全体の先陣は近隣の大名が勤める物。(例、島原の乱)
350人間七七四年:2012/03/17(土) 11:50:21.46 ID:evOgrSns
成る程そうだよな
351人間七七四年:2012/03/17(土) 13:46:09.14 ID:a5/BpXjG
秀忠が江戸城で政宗、景勝、義宣を招いて茶会を開いたら、政宗が関ヶ原の時の活躍を自慢して険悪な空気になったって話があるけど、
これ、秀忠が仲裁目的で開催した茶会だとしたら気の毒だな
352人間七七四年:2012/03/17(土) 14:23:05.37 ID:WFciijk8
景勝生存中だから秀忠が将軍時代で間違いはないな
353人間七七四年:2012/03/17(土) 14:52:43.90 ID:McuEaZUB
景勝さん無口だからいつも伊達さんが喧嘩ふっかけてんのかな
354人間七七四年:2012/03/17(土) 15:05:10.63 ID:r7ZtpCnm
兼続「と、殿がおっしゃっております」
355人間七七四年:2012/03/17(土) 16:29:25.46 ID:8wkEdfSc
佐竹義宣ももう立派な徳川幕府配下の大名だな
356人間七七四年:2012/03/17(土) 18:36:57.63 ID:q943JvhR
そもそも伊達と上杉以上に、伊達と佐竹は仲悪いだろ
357人間七七四年:2012/03/17(土) 23:07:17.55 ID:ehVTna+S
伊達さんは相馬佐竹上杉蒲生最上木村…敵大杉
358人間七七四年:2012/03/17(土) 23:13:54.77 ID:4VULFOJs
>>357
四面楚歌だなww
359人間七七四年:2012/03/17(土) 23:47:28.93 ID:AYDJTTsS
そもそも義宣と景勝は仲が良くて、二人とも政宗とは仲が悪い
という関係なんだから佐竹上杉と伊達を秀忠が和解させようとした
って方がなんとなく納得できる
360人間七七四年:2012/03/18(日) 10:51:06.53 ID:gjoJoBI7
上杉は上杉で、伊達の陣幕の一件があったりするしなあw
361人間七七四年:2012/03/18(日) 20:53:08.82 ID:Yh2hzR8m
誰だよ、佐竹に仲介役頼んだのw
362人間七七四年:2012/03/18(日) 21:06:07.50 ID:qD2nic9E
私です。
363人間七七四年:2012/03/18(日) 21:35:54.68 ID:5qVzWQfa
>>361
当人たちでも、景勝か政宗に頼むよかまだ可能性はあるだろ、と思ったんだろう…
364人間七七四年:2012/03/18(日) 22:27:02.98 ID:mzZLnm0k
伊達が敵だらけなのは全部まーくんのせいだろw
365人間七七四年:2012/03/18(日) 22:49:35.23 ID:cEK7zCkv
周り全てに喧嘩売って敵にして
徳川に泣き付いたんだっけ
366人間七七四年:2012/03/18(日) 23:00:29.10 ID:XkcCDWo5
東北の信長だな
367人間七七四年:2012/03/18(日) 23:04:56.64 ID:SCH5DpQ9
東北の信長といえば八戸信長だろう
368人間七七四年:2012/03/19(月) 00:27:28.84 ID:lWT0ZPd5
自分から周りに敵を作るって意味では信玄のほうがしっくりくる
369人間七七四年:2012/03/19(月) 00:34:10.40 ID:OJYG1vsn
狙った獲物だけ仕留めるのと
俺ツエーしてるうちに敵だらけになるのとはまた違うから
370人間七七四年:2012/03/19(月) 01:24:36.14 ID:60S1EOYE
>>365
371人間七七四年:2012/03/19(月) 06:41:37.70 ID:6zHsAuUE
そこで武田信長
372人間七七四年:2012/03/19(月) 08:12:07.42 ID:Q0aOKIWH
大河でも最上義光氏が伊達政宗を評して
この仲良し軍団東北で信長気取りで暴れまくった奴は誰だ?
秀吉が許すわけねーだろw って怒ってたしな
373人間七七四年:2012/03/19(月) 10:51:43.03 ID:TbDywp4F
ところでセンゴクで長篠以後の武田は没落してたのは嘘
むしろ産業開発され領土は広がり全盛期よりパワーアップしてた!って回があった
実際のところはどーなんだろ?センゴクってやたら通説に反発するところあるからなぁ
374人間七七四年:2012/03/19(月) 11:05:21.70 ID:/IWNUNz3
>>373
長篠以降は、家康単独で対応されてるから
パワーアップは無いな。
375人間七七四年:2012/03/19(月) 11:07:14.56 ID:kEfc4ZDQ
伊達上杉佐竹に「仲よくしろ」と言い遺したのは家康
376人間七七四年:2012/03/19(月) 12:06:57.42 ID:Lxc3Fc+8
>>373
長篠以降は内政と謀略しか出来なかったんだろ
377人間七七四年:2012/03/19(月) 13:22:18.76 ID:Fgv+RMCy
>>373
そんな回は無いだろ、いろいろやってるから放っとくとヤバイとは言ってたが
378人間七七四年:2012/03/19(月) 14:29:55.22 ID:E27nUpQz
天正十五年(1587)肥後国人一揆勃発。
三加和村田中城主、和仁親長は一揆側として反乱に加わったが、佐々成政の軍勢に攻められ落城。
和仁親長は討ち死にする。

この時、先に城より落ちていた和仁親長の夫人と娘、そして侍女たちは、和仁川の赤池淵のほとりにて
田中場の落城を知り、前途に絶望しここにて自害すると決した。
そして夫人は自分の娘、当時13歳であったという、を手にかけようとしたが、さすがにわが子を自らの手にかけることは
忍びず、自分に付いてきた老僕に、この娘を淵に落として、溺死させるよう命じた。

老僕はあまりのことに恐れ躊躇したが、夫人は何としてもと命じたため、致し方なく彼は、姫を岩の上から淵へと
落とした。

ところがこの姫は一端は沈んだものの、再び浮かび上がり岸へとたどり着いた。
老僕は夫人に攻められ、再び姫を淵へと落とす。しかし姫は再び浮かび上がり、岩へとしがみついた。

これを見て夫人は、自ら水の中に入り、姫の側へと行った。
姫は泣き叫んだ

「母上様!お許し下さい、どうかお許し下さい!」

夫人は姫の頭を縦に持ち、そのまま水に沈めた
「未練です。許してください。許してください。」

姫は、水に沈んだ。

これを見た侍女たちは、それぞれ着物の上から紐で足を縛り、次々に赤池淵に身を投げた。
そして最期に夫人は、あの老僕に

「そなたには今まで、一方ならぬ世話になりました。
もし、生き延びることができたならどうか、私たちの菩提を、弔ってやってください。」

そう言って、娘の沈んだ淵に身を投げた。
その後、夫人の遺体は下流の菊池川の淵に流れ着いたという。


それから、夏の夜になると、赤池淵に不意に楽の音する時があった。
こんな時は、付近の人々は「和仁御前」のお帰りだとして、酒やお供えなどを、淵に投げ込んだのだという。
そんな時は必ず、突然の雨が降ったのだそうだ。

肥後に伝わる、和仁御前の伝承である。
379人間七七四年:2012/03/19(月) 15:12:06.95 ID:4/3O5p70
熊本に住んでるときワニ氏の事を秀吉に最後に逆らった男ってやたら持ち上げてた記憶があるが、秀吉に逆らったんじゃなく佐々に逆らっただけだよな
380人間七七四年:2012/03/19(月) 15:15:44.20 ID:j8QWLsCw
>>336
朝鮮の耳輪の風習はかなり古い
李朝になってからも
「行方不明になった王子を名乗る人物が出たが、耳輪の穴がないので偽物と判明」なんて事件があったり。
381人間七七四年:2012/03/19(月) 18:30:09.34 ID:06h3IzB+
>>379
田中城は豊臣秀吉の命令で小早川・立花・鍋島などの諸将も参加して、2月攻めて
最終的に安国寺恵瓊の謀略で落としてるから。結構頑張ってたんだよ。
当時は和仁親長の子の親実、親範、親宗の3兄弟が守ってたようだけど

母親が南蛮人だったという親宗の話は昔出てたかな。
382人間七七四年:2012/03/19(月) 18:40:23.10 ID:p5WXmmX+
>>378
身を寄せる場所が無くなった武家の夫人娘の最期は悲惨だな
最期に自決する場合と尼になって生き長らえる場合の違いは何なんだろうな
383人間七七四年:2012/03/19(月) 18:50:41.39 ID:ss7sJ+5+
一人くらい生き残らないと真実が後世に伝わらないとか
可能性はゼロに近くとも家名再興の望みを捨てられないとか
そういう理由じゃないかね
384人間七七四年:2012/03/19(月) 18:58:34.05 ID:Ivmhtwy3
>>373
北条なんかを手本に集権的な領国経営に切り替えようと四苦八苦してるのは確かだし、
またそれが出来るようになったのは長篠でうるさい奴らが死んで好き勝手出来るようになったという側面もあると思う

でもだからといって勝頼が素晴らしい手腕を発揮して領国経営が軌道に乗って国力が充実したかといえば、
答えは史実を見ればわかるだろう
385人間七七四年:2012/03/19(月) 19:14:37.21 ID:Fgv+RMCy
>>382-383
単純だけど、進退窮まった(実際の所はともかく本人的に)かどうかってのが結局の所
最大の判断基準じゃないかな、菩提を弔うというのも一つの役割ではあるだろうし。

>>384
結局いろいろやったけどポシャってるしね。それに仙石が主人公である以上
武田の滅亡のくだりで真田昌幸をageるだけageて終盤につなげんといかんしな。
386人間七七四年:2012/03/19(月) 19:35:41.72 ID:06h3IzB+
>>383
和仁氏の一族の一人が立花家で保護されて、
小野和泉の義弟として生き残ってるけどね。
387人間七七四年:2012/03/19(月) 20:31:22.87 ID:ichd3ibl
日向守或時に雀の子巣より下へ落ちたるを見て座を立て庭へ立ち出でける故
家来共は慈悲なる人故定めてもとの如くに巣の中へ入らるる事成んと思ひしに
草履をはき乍ら足にて踏殺されけり 
士は時々むごき事をする者也、と云れし 

明智日向守逆心は数年心掛けし事なりとて、逆心前二年に天下を取って後に方々へ申付候事共を筆記し、
朱印を押したる書物、延宝四年(1676年)に評定所へ出たる事ありとぞ

明良洪範に載ってた話
388人間七七四年:2012/03/19(月) 20:44:32.75 ID:lWT0ZPd5
戻してもあかんと知ってたんだな
でも、自分で育てるのもいやだったんだな
389人間七七四年:2012/03/19(月) 22:08:41.73 ID:QLyXXM0s
>>385
センゴクでは新府城中心に水運を用いたは領国経営を〜みたいに書かれてたけど、韮崎は水運いいのかよって思った
史実の勝頼の内政は信玄以上の重税だからね
そもそもセンゴクは貨幣経済を過大評価しすぎ
390人間七七四年:2012/03/19(月) 22:30:23.47 ID:WHDAXgt5
>>387
意味不明
391人間七七四年:2012/03/19(月) 22:37:22.10 ID:1ip/jwhh
まあわざわざ踏み殺すこともないわなw
392人間七七四年:2012/03/19(月) 23:12:56.18 ID:nwKTHobL
>>387
マンガや小説のワンシーンみたいで好き。
色々想像が膨らむ。
393人間七七四年:2012/03/20(火) 14:23:40.19 ID:z44Su/hZ
大坂夏の陣の後、大坂城の北東にある高槻城の改築工事が行われることになった。
工事に使う材木は近くの大木を切り倒して調達されることになったが、付近の住民たちが、
あの木は龍神様にゆかりのある木だから切らないでほしい、と嘆願した。
しかし、聞きいれらずに大木は切られてしまった。木を切った幕府の侍たちが
その材木の余りを燃やして豆を煮ていると、突然その豆が破裂して飛び出して侍に命中し、
当たり所が悪くて命を落とした。これを聞いた人々は龍神様のたたりだと噂しあった。
394人間七七四年:2012/03/20(火) 15:10:44.62 ID:cBa5CL/V
鳩は豆鉄砲喰らってもビックリするだけなのに・・・
っていうか、爆ぜた煮豆の当たり所が悪くて落命ってのはやはり祟りと思えるはなぁ〜
395人間七七四年:2012/03/20(火) 15:19:31.16 ID:QKirr/8k
豆があたって致命傷になる当たり所ってどこだろなwww
396人間七七四年:2012/03/20(火) 15:24:13.36 ID:JAn5qQX+
むう・・・!これは北斗神拳!!
397人間七七四年:2012/03/20(火) 23:10:28.85 ID:E7r7SMhA
>>380
勉強になった。THX
398人間七七四年:2012/03/20(火) 23:20:47.25 ID:Ll308e81
大坂付近の先進的な土地、しかも江戸時代でもこんな迷信信じられてたのか
399人間七七四年:2012/03/20(火) 23:55:05.83 ID:tSA5jBZJ
>>398
そんな事を言ったら、
東京付近の中心的土地、しかも現代における将門塚の噂はどうなる
400人間七七四年:2012/03/21(水) 12:41:08.80 ID:zFHnS3ob
豆につくカビは致死性の溶血毒(煮ても消えない)を持つことが多いから、
昔なら豆に「あたって」・・・という事はあったのではないだろうか?

いまは機械で一粒一粒検査してるので大丈夫。
401人間七七四年:2012/03/21(水) 23:20:03.39 ID:P6cgc9cP
文明15年、播磨に侵攻した山名政豊は、これを手中に収めたかと思われた。
しかし同17年になると追い落とされていた赤松政則が復活し、蔭木城が陥落するなど山名方は次第に劣勢に立たされていった。

そんな山名方を窮地に追い込んだのは吉川経基の活躍だった。
「初代鬼吉川」「俎吉川」の異名を持つ稀代の猛将が、赤松方の援軍として参陣したのだ。
赤松政則は、吉川家が梶原景時追討の功で得ていた播磨国福井荘、山名に脅かされていたこの荘園の代官職を戦費としてあてがうことでその援護を得ていたのである。

文明19年正月、追い詰められた山名政豊は強く願った。
「わしも援軍が欲しい!絶対に欲しい!」と。

政豊はまず、甥である細川政元を通じて将軍家を動かそうと考え、家臣・垣屋越中守と村上左京亮を京に派遣した。
垣屋・村上の両名は「山名・赤松の戦いを私闘と見なして介入しないという将軍家の方針を改めること」「山名方に援軍を出すこと」を細川家臣・安富ら3人に対し連日連夜、切々と訴え続けた。
が、細川政元の赤松方への肩入れもあって、色よい返事が返ってくることはなかった。

そこで二人は、公正なことで知られる政所執事・伊勢貞宗邸に赴いて、貞宗に訴えてることを考えた。
自分たちの言い分が将軍の耳に達するよう、貞宗の使者と、その口添えを得ようというのだ。

「垣屋らが到着する前に貞宗を説得せよ。山名に同調させてはならぬ。」
細川政元は、安富らを伊勢邸に急行させた。
安富らは「赤松家の忠節ぶり、誰がそのことを知らざるや」と説いて貞宗の心をつかみ、政元の期待に応えたのである。

さて、垣屋・村上がやってきた。
貞宗は安富らを先に部屋に招き入れ、垣屋らを門の外に待たせておいて、安富らと酒宴をはじめてしまった。
山名家の二人がようやく召されたのは、その酒宴もたけなわとなった頃である。
その場はもはや訴訟なんぞできる状態ではなく、二人は大酒宴に酔っ払ってただ帰るほかなかった。
402人間七七四年:2012/03/21(水) 23:22:25.73 ID:P6cgc9cP
「むぅ、正攻法では無理か・・・。ならばわしの華麗な策略で援軍を出させてやろう!」

その頃、備中に勢力を張る細川家の家臣・庄春資の甥の朋輩で、山名家にも近しい山田という男がいた。
山名政豊は彼に目を付けると、あろうことか細川政元の使者に仕立て上げて庄春資の屋敷に下し、密かに
「京兆(政元)は山名への合力のため、備中の庄の軍勢を播州へ呼び寄せることにした。」と言わせたのだ。
すると庄春資は、一族の庄伊豆守に山名政豊救援を厳命し、その軍勢を播州へ進発させたのである。
「してやったり!」ほくそ笑む政豊であった。

とはいえ、策が策である。
某SLGじゃあるまいし、まさかこんなのが成功するとは思えない。
案の定、庄春資と一緒にいた、とある武将に計略を見抜かれてしまった。

「政元様は山田という男を知らず、顔も見たことが無いはずだ!彼の軍勢呼び寄せの密談、信用するに足らぬのではないか?」
疑念を抱いた彼は政元に仔細を尋ねてみたところ、
「かようなこと夢にも知らぬことである!それに山田いう者はいったい誰であるのか!!」
はたして、推量どおりの言葉が返ってきたのである。
彼の建白を受けた庄春資は、播州に向かっていた軍勢を撤兵させた。
(蔭涼軒日録)

援兵を得られなかった山名勢はますます劣勢となっていった。
そして長享2年、山名政豊は夜陰に紛れて書写坂本城を脱出、赤松政則の追撃で多数の死者を出しながら、辛うじて但馬に撤退することになる。
かくして7年に及ぶ政豊の播磨攻めは完全な失敗に帰したのである。
403人間七七四年:2012/03/22(木) 12:36:29.16 ID:Kyp00Ij6
とある武将が実は若き日の○○だった、というオチだと思ったら違った
404人間七七四年:2012/03/22(木) 13:50:12.28 ID:IMrUndkD
「箕輪城落城後の悲劇」

永禄9年、上野の堅城である箕輪城はついに武田信玄によりついに落城し、城主である長野業盛は父業正の遺言通り降伏することなく自害した。
この業盛の妻、藤鶴姫は元は上杉家の出であり、わずかな家臣と共に越後へと逃れようとした。
しかし敵の追っ手がやってきたため家臣たちはその相手をして、姫を先に逃がした。
1人で峠を越えようとした藤鶴姫、しかし女性の身では峠を越えるのは大変であり、お堂のところで少しだけ体を休めた。
すると今来た道の方から「おーい!」と呼ぶ声が。
「もう追っ手がそこまで…。もはやこれまで…。」と彼女はお堂の中で自害した。
しかしその声の主は追っ手からどうにか逃れてきた家臣だった。

哀れ藤鶴姫、彼女が自害したお堂近くを汚すと今でも祟りがあり、鼻血が止まらなくなるという。

(藤鶴姫墓所説明文を元に)

405人間七七四年:2012/03/22(木) 14:56:18.96 ID:He2oWlbg
鼻血が止まらなくなるという...
地味に嫌な祟りだな
406人間七七四年:2012/03/22(木) 20:00:29.54 ID:NwAjg9XY
悲劇のはずなのに…悲劇のはずなのに最後の一行で…
407人間七七四年:2012/03/22(木) 20:01:27.57 ID:Z5dzxfgr
HANAJI
408人間七七四年:2012/03/22(木) 20:40:20.82 ID:/FUPqjpi
逆に試したくなる
409人間七七四年:2012/03/22(木) 21:55:28.45 ID:P25R++O7
たしか年は15か14だぞ。
いまなら中学生だわ。


ほんま、信玄は人でなしだわな・・。





にしてもこんな激戦でやすやすと生き延びた上泉伊勢守てのは?
410人間七七四年:2012/03/22(木) 23:57:27.87 ID:15alBe6a
旭町由来

現在のJR神田駅西口商店街
神田旭町は、出羽秋田藩の藩主、
佐竹右京太夫義宣の屋敷地があったことに由来する。

天和2年(1682)の大火でこの付近一帯が焼失した後、佐竹氏は下谷(現台東区)三味線掘に移転し、その後が町屋となった。
明治二年、このあたりが、慶長九年(1604)から七十数年にわたり、佐竹藩の江戸上屋敷だったという縁で、
当時の役人が佐竹家の家紋『五本骨扇に日の丸』から町名を考えた。

昭和36年(1961)5月、内神田ビル建設の際、その地下3メートルのあたりから「佐竹家」の鐙瓦数枚が出土した。
この瓦は扇に日の丸の紋もあざやかに金箔をほどこし、豪放華麗な桃山文化を継承した江戸初期の大名屋敷を偲ばせるものだった。
この他鳩笛、キセル、塩つぼ、とっくり、盃、印鑑、土人形、木製上水道管など、多数の出土品を数えた。

昭和四十一年(1966)に住居表示が実施されると、内神田二丁目と三丁目の一部となり、旭町の名前は地図から消えた。
現在はその名残として、瓦が出土したビル前に佐竹藩・上屋敷跡地の石碑が、
商店街通りには、佐竹藩2代目当主の義隆が、勧請したことに始まる佐竹稲荷神社がある。


ただし、佐竹の家紋は『五本骨扇に日の丸』ではなく『五本骨扇に月』です。
411人間七七四年:2012/03/23(金) 01:02:31.36 ID:22Qp5/5g
月○は由来しらなきゃ判らないしなぁ〜
まぁ、間違ってるからこそ町名として残らなかったってことなんだろうけど〜
412人間七七四年:2012/03/23(金) 01:15:36.61 ID:Kc+fXu84
白黒や瓦紋でしか見たことなかったんじゃないの?
色なしで丸が書いてあれば大抵の日本人は日の丸と思うよなぁ
中東辺りの国の人は丸といえば月をイメージするらしいけど
しかし単純に佐竹町じゃいかんかったのか
413人間七七四年:2012/03/23(金) 11:01:01.30 ID:HPOwiGDF
>>409
別に信玄が特別残忍ってわけじゃないし、
剣聖が下野したのもこの戦じゃないよ
414人間七七四年:2012/03/23(金) 12:59:24.31 ID:22Qp5/5g
>>413
剣聖が下野したのはいつの戦い以後?
415人間七七四年:2012/03/23(金) 13:22:32.74 ID:s9weI/cZ
>409、ヨーダばりに斬ってはなげ斬っては投げを繰り返したんじゃね?どこぞのアチャーみたいに辺り一面刀差してれば100人ぐらいいけるだろ
416人間七七四年:2012/03/23(金) 13:44:54.95 ID:XYM26r8r
箕輪落城後に流浪が通説じゃないのかなん?
417人間七七四年:2012/03/23(金) 14:10:33.98 ID:22Qp5/5g
>>415
漫画ですまないが、岩明均の「剣の舞」で剣聖が敵兵を攪拌しるわ〜

>>416
箕輪城が落ちた戦の話なのに、剣聖下野がその戦じゃないと言っておられるので聞いてみたのです
418人間七七四年:2012/03/23(金) 17:22:14.82 ID:U/r1annt
剣聖なら大熊とちゃんばらしてたよ
419人間七七四年:2012/03/23(金) 18:06:37.43 ID:KJ7UnLbs
剣聖下野守
420人間七七四年:2012/03/23(金) 18:39:20.98 ID:Dw4U2dfy
落城前の永禄6.7年に諸国を渡ってた印可とか伝承があるとかwikiにあるな
421人間七七四年:2012/03/23(金) 20:30:45.37 ID:33RwmQds
もともと箕輪落城が永録6年とされてたからね
それにすべて軍記物とかの記述でしょ
422人間七七四年:2012/03/23(金) 20:53:35.35 ID:9CJwOXKy
>>389
韮崎は釜無川水運の出発地で釜無川は甲斐東部の水運の笛吹川と駿河に向かう富士川水運と繋がるから水運は良い。
ただ、富士川が駿河まで直通の水運になるのは角倉了以が開削する江戸時代初期だし
韮崎付近と諏訪湖は水運では繋がっていない。
諏訪湖も伊那から遠江にむかう天竜水運はあるけど、信濃中北部とは水運繋がってないと思うんだよね。

武田の領国の中で領国経営考えたら韮崎は良いと思う。
でも武田の領国は元々通商という意味では弁の悪いところで、悪いなりの最適地を探すなら・・・というくらいじゃないかな。
他国が脅威に感じるような利便性は無いと俺は思う。
素人意見を長々と書いてすまんが。
423人間七七四年:2012/03/23(金) 22:11:52.96 ID:1miz6I+B
>>420
達人は危険に近づくことが出来ないというバキ理論だな
424人間七七四年:2012/03/23(金) 22:51:26.76 ID:wOjStYWZ
>>420
つまり、落城以前に武田が怖いから逃げ出したと
425人間七七四年:2012/03/23(金) 23:16:11.89 ID:LJnBqUVY
センゴクのあれはフィクションとしては仕方ない仕込みだと思う
本能寺はやっぱり戦国の一大イベントで、その直前に主人公たちが関わる戦いとその相手が
毛利にせよ武田にせよ「大した相手ではなかった」では物語としては盛り上がりに欠けることになるし
426人間七七四年:2012/03/24(土) 10:28:38.68 ID:cZ9ym3Vj
剣豪なんて戦場じゃなんの役にもたたんよ いってみりゃモンゴル軍にいちいち名乗りをあげて戦いを挑む御家人みたいなもん
427人間七七四年:2012/03/24(土) 10:35:15.28 ID:B5/HXqwR
弾正「うむ、畳でたたみかけるなり種子島で射殺するなりすればよいからな」
428人間七七四年:2012/03/24(土) 11:30:25.82 ID:osEZtxOS
後の剣豪も初陣では何にもできなかったしなあ
429人間七七四年:2012/03/24(土) 11:54:42.80 ID:CkVfZxie
但馬守みたいに突撃してきた七人切って捨てて主君逃す時間稼ぎくらいはできるけど、
一人の力じゃ戦況をひっくり返せない

戦争は結局、アベレージだから
430人間七七四年:2012/03/24(土) 12:33:55.95 ID:JANkHF5J
>>426
その対モンゴル戦争観もいまじゃ覆されているけどね
431人間七七四年:2012/03/24(土) 13:54:55.97 ID:ej/gOXIN
キリシタン大名として有名な高山右近は領民にもキリシタンになるよう布教を熱心に行い、
それに伴って領内の神社仏閣を破壊して仏教徒に迫害を加えるようになった。
領内にあった普門寺にも高山右近の軍勢がやってきて危機的状況におちいった。その時、
寺の中に安置されていた毘沙門天像の憤怒の形相がさらに怒った顔に変貌し、強烈なオーラを放った。
すると、右近の軍勢の陣中に魔風が吹き荒れ、おそれおののいた兵士たちは蜘蛛の子を散らすかのように
逃げ去っていった。こうして、普門寺は破壊の危機をまぬがれたのである。
432人間七七四年:2012/03/24(土) 14:07:45.28 ID:jWhDnIq7
でも右近の土地では神仏のご利益は激減し・・・
日本赤軍のテロリストが10年潜伏できる摩訶不思議な街になってしまった・・。
433人間七七四年:2012/03/24(土) 15:17:22.18 ID:EcmlSvgL
戦国時代の仏像は暴れん坊が多いな
434人間七七四年:2012/03/24(土) 18:20:05.24 ID:Pkwbnu+v
日本各地で鬼が暴れてるんだから仏像もジッとしてられないだろ
435人間七七四年:2012/03/24(土) 20:35:59.24 ID:gls/6TXm
毘沙門天にいっては現世に降臨してるしなw
436人間七七四年:2012/03/24(土) 21:42:18.85 ID:Tt2CeKWB
古くは大根でさえ賊相手に大暴れしたみたいだしな
437人間七七四年:2012/03/25(日) 00:37:02.13 ID:hvIv3oE1
>>432

そういや市橋もご領内潜伏者だな。
438人間七七四年:2012/03/25(日) 06:57:41.14 ID:j14eUIhe
>>429
但馬守の兄は18人斬ったらしいね。
創作、誇張が含まれてるのかもしれないけど。
439人間七七四年:2012/03/25(日) 07:59:20.58 ID:TCC+JbNa
日本刀で無双したきゃ大陸の方でw
尤も戦国時代後半は日本刀対策されていたところも多いんだろうが。
440人間七七四年:2012/03/25(日) 08:48:42.42 ID:YXRoUzl/
日本刀での無双の話って撤退時の乱戦とかが多いような気がする
組織立った戦いの中では活躍の場はあまり無いんだろうけど
441人間七七四年:2012/03/25(日) 09:55:42.83 ID:q4RFNhOj
そんな中でも一番槍とか一番乗りとか何度もやっちゃう武将達ってすごい
剣豪なんて矢弾に当たって城壁から転げ落ちる
442人間七七四年:2012/03/25(日) 12:31:57.02 ID:OTam+gna
一番槍というのは、ただ突撃して無双すればいいんじゃなくて
自分の後ろに二番槍、三番槍と後続の味方が続いてきて始めて成立する。
これは敵の備えに隙を見つけて、そこに的確に味方を導き入れる突破口を開いた功績を賞するもの。
腕っ節と胆力以外に、戦場の空気を読んだ適切な判断力が必要とされるため、
ただの脳筋には難しい。
443人間七七四年:2012/03/25(日) 13:49:18.11 ID:BPbq0J+n
>>439
いわゆる日本の槍と大陸の槍では構造が違う
大陸の槍は日本で言えば袋槍と言われる構造で、
穂の柄側は薄い金属の紙コップみたいな構造で、絵にすっぽりはめて固定する
適当な棒さえあれば槍が簡単に配備できる反面、斬撃に弱い
また突き出すという動作で相手を突く

対して日本の槍は柄との固定方式に茎方式を採用している
つまり日本刀と同じ構造で柄の中程(太刀受と言われる部分)まで鉄の芯が通っていて、それを目釘で固定している
柄は穂の茎に合わせる必要があって一つの穂に一つの柄という管理に面倒くさい反面、
日本刀でも鉄の棒を切って落とすのは困難なため、斬撃で切り落とされにくい
繰り出すという動作で相手を突く
444人間七七四年:2012/03/25(日) 14:36:16.48 ID:YXRoUzl/
繰り出すっていうのは連撃って意味で良いのかな?
445人間七七四年:2012/03/25(日) 14:46:28.99 ID:BPbq0J+n
扱くって言ったほうがピンとくると思うけれど、
本能寺の変時の明智方の部将、誰だったか忘れたが、を討ち取った武士の言い回しだからな
槍は突き出すもんだと思ってはいけない繰り出すもんだ、みたいな話があったからね
446人間七七四年:2012/03/25(日) 14:55:25.72 ID:YXRoUzl/
ああ、添え手は握りこむんじゃなくて滑らせるってことかな
でも槍の扱い方の逸話っててんでバラバラだから使用法に幅のある自由度の高い武器と思ってた
447人間七七四年:2012/03/25(日) 15:07:56.66 ID:BPbq0J+n
まあ流派もいろいろあるし、穂先もいろいろあるから使用法も差異が生じるし、
突くだけじゃなくて柄で叩くとか攻撃法も一つじゃないから一概にどうとは言わんけどね

ただ管槍なんかが出てくる辺り、突くの動作は両腕でエイヤってんじゃなくて、仰るとおり
>添え手は握りこむんじゃなくて滑らせる
ってことだと思う
448人間七七四年:2012/03/25(日) 15:31:05.54 ID:OTam+gna
右手で動かして左手でシコシコするってことだな
449人間七七四年:2012/03/25(日) 18:09:22.35 ID:x1bjeGr/
『信長公記』より信長政権下での詐欺事件

@つつもたせ
近江の永原の隣、野尻郷の東善寺に延念という裕福な住職がいた。
近くの蜂屋郷の八という男は、延念からふんだくってやろうと若い女を雇っていた。

ある雨の暮れ
女「しばらく雨宿りさせていただけないでしょうか」
延念「え〜っと、ちょっと…」
迷惑そうにする延念に構わず女は庭の隅でたき火をし、あたっていた。

そこへ八が押し入ってきた。
八「おや、出家の身で若い女を囲むとはけしからんですなぁ。口外されたくなかったら払うもん払ってもらおうか!」
延念「いや、そんなもの払えないでしょ…」
口止め料を要求する八に対し延念が断ると、八はさらに悪態をついた。

結局土地の代官が八と女を捕え、尋問したうえで処刑した。
450人間七七四年:2012/03/25(日) 18:12:59.57 ID:x1bjeGr/
A霊感商法
インチキ霊験僧「無辺」についてはhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1096.htmlで語られているが
その最期が若干異なるバージョン

(#゚Д゚)「こいつに恥かかせろ!」
信長に霊感商法を暴かれた無辺は、髪をまだらに切り落とされ、縄をかけられ町に追い放たれた。

インチキ霊能力者は見せしめにされ、これで一件落着と思いきや…騒動はこれで終わらなかった。

よくよく調べてみると、無辺は子供ができない女や病気の女に秘法を授けると称して

「へそくらべ」

なるものを行っていたとのことであった。

(#゚Д゚)「…あいつ殺せ。後々のために…」
信長は無辺を指名手配し、間もなく捕え処刑した。


「へそくらべ」は参考にした本だと不明って書いてあるけど、まぁ…
信長ってなんかこういうところ潔癖症なイメージがあるなぁ
451人間七七四年:2012/03/25(日) 19:04:08.53 ID:i3iqrjBA
信玄「臍を合わせるとは難儀な体勢だな」
義隆「全く」
452人間七七四年:2012/03/27(火) 10:18:49.02 ID:jE/JHN0D
讃岐国高松藩主 生駒讃岐守高俊の家臣に、山口彦十郎という侍があった。

山口は長年忠勤を励んだにもかかわらず、俸禄の加増も全くなく、後から取り立てられたものが自分を追い越して
立身していくのに我慢がならず、その事の不満を広言し、ついに出仕を止めてしまった。

生駒高俊はこれに激怒し、山口を捕らえ斬首を命じ、のみならず彼の女房子供まで殺した。
斬首の場において、山口は激しく怒り叫んだ

「お上のなさりように不平を申し上げたのは、この身に覚えのある罪過である。だから処罰の受けるのも
仕方のない事だ。だが何の罪もない妻子まで殺すとはどういうことか!?
そのうえに、侍に切腹させず、斬首にするとはいかなる処遇か。この屈辱、耐え難い!」

そして斬首役の横井二郎右衛門を睨みつけ

「斬り損なうな、見事に斬れよ!我が怨念に力があるなら、近いうちにそのしるしを見るであろう!」

これに横井

「うむ!承知!」

と、山口の首を落とす。その首は2,3間転がると斬られた面を下に立ち横井の方を向き、彼の目をきっと
睨みつけてから、静かに目を閉じた。


斬首をした横井は、自宅に帰った途端狂乱した。
寝ても覚めても、山口が血眼で睨みつけている姿が見え、彼は大声で叫びつつ刀を抜いて、そこらじゅうを
斬って回った。家族の者が何とか取り押さえ、刀を取り上げたが、
「彦十郎よ!殿のご命令で仕方がなかったのだ!許してくれ!許してくれ!」
そう手を合わせ足掻き続け、7日目に死んだ。

その後も山口彦十郎の亡霊は高松城下に現れ続けた。生前と同じ肩衣姿の山口に行き会い、
身がわなわなと震えそのまま病みついて死んでしまったものが14,5人にも及んだ。
このような怪異に生駒家中の者たちは恐れおののき、山口の菩提を弔い供養を行った。
すると城下で山口の姿を見ることはなくなったが、それでも怪異のことは続き、長屋が突然鳴動したり、
城中の大木が風も吹かないのに折れ倒れるなど、不思議なことが数多く起こった。

そして生駒高俊にいつしか邪悪の心が起こり、藩政が乱れ、ついに改易されたのも、この山口彦十郎の
怨念のためであると、人々は噂し合ったとのことである。

(平仮名本・因果物語)
453人間七七四年:2012/03/27(火) 10:39:33.24 ID:0755qksH
関係のない妻子を殺したことを憤っていながら、
命令でやっただけの横井だとか、高松城下の一般人に迷惑をかけるとか
山口酷いな
454人間七七四年:2012/03/27(火) 12:25:57.72 ID:Aaov2+7D
悪霊に道理が分かろうものか
455人間七七四年:2012/03/27(火) 19:26:34.33 ID:I8GjOD58
崇徳院もびっくりだ
456人間七七四年:2012/03/27(火) 20:12:16.74 ID:gKvQg+Sl
弔えばある程度おさまるだけ富田に道理説くよりマシじゃないか
457人間七七四年:2012/03/27(火) 20:20:13.21 ID:e8HIytf9
http://ja.wikipedia.org/wiki/かけひき
小泉八雲「怪談」に載っていた話でちょっと似たようなのがあるが

>「怨霊となって人を呪おうとするには強い末期(まつご)の怨みが必要だが、あの罪人は私の挑発に乗って
>石に噛り付くことのみを念じて死んだ。怨霊となることは出来ないだろう。」
こっちでは祟りは起きなかったようだ
しかし、ラヴォアジエがギロチンで斬首された後、瞬きしたという都市伝説を思い出した
458人間七七四年:2012/03/27(火) 21:37:57.91 ID:+wX57e12
スレ違いだが、幕末の晒し首を取った写真があったんだが、
首が倒れないように左右に盛り土してるのが妙にリアルだったわ・・・
459人間七七四年:2012/03/27(火) 22:17:33.57 ID:lB5ArBAT
でも貴重な資料だね
460人間七七四年:2012/03/27(火) 22:17:43.24 ID:vwP9WnpS
さすがに転がって地べたにゴロンはまずいだろjk、それが殿さまの足元でコンニチワ!ってなったらたぶん切腹モノだろ
461人間七七四年:2012/03/27(火) 22:50:12.12 ID:4HZylCEP
上野国の白岩山にある長谷寺は、坂東三十三ヶ所霊場の十五番札所で、「白岩観音」と呼ばれ親しまれていた。
古くから信仰があり、源義家や新田義貞などの武将の信仰もあつかった。

戦国の時代に入ってもそれは変わらず、天文元年(1532)に上杉憲政が伽藍を整えてからより発展した。

しかしその後、戦国ちょっといい話・悪い話まとめにもある武田の先手、那和無理之助と箕輪の老将、安藤九郎左衛門の戦い(白岩の戦い)
に巻き込まれ、その観音堂は焼失してしまった。
そこで武田勝頼が世無道上人に命じ、天正八年(1580)に観音堂を再建させた。




時はめぐり、時代は昭和。

浜川(現在の高崎市)に住む箕輪城主の長野氏の直系、52代目当主である長野正弘氏がまだ小学生の時、まちに待った遠足の行先が白岩観音であった。
すると父親である弾正氏は、白岩観音が長野家を滅ぼした武田氏によって再建されたものであることを理由に、彼を遠足に参加させなかった。

しかしそれは弾正氏の個人的考えではなく、浜川の長野氏一族は上記の理由により代々白岩観音への参拝を拒み続けてきたのだ。
今でも彼らは白岩観音への参拝をしないという。

(「箕輪城と長野氏」などより)
462人間七七四年:2012/03/27(火) 22:56:00.34 ID:/Ro6vyQq
でも、「弾正」という名前を見ると逃げ弾正、攻め弾正を思い浮かべてしまう
463人間七七四年:2012/03/27(火) 23:20:46.20 ID:SOOqRVvF
爆弾正が最初に浮かぶのは色々毒されたって事なのだろうか?w
464人間七七四年:2012/03/27(火) 23:29:21.45 ID:1kX57yPL
仏閣焼失=爆彈正はこの板的には正しい判断でしょw
465人間七七四年:2012/03/28(水) 10:30:08.78 ID:4QSbrPV6
>>461
神田明神、筑土明神の氏子が成田山新勝寺には行かないのは常識
466人間七七四年:2012/03/28(水) 10:35:14.29 ID:IRw6935b
市川海老蔵暴行事件は、日本橋に成田山新勝寺に関わりの深い市川家にちなんだ
名前の通りをつくろうとしたことにたいする、神田明神の怒り、というネタを思い出した
467人間七七四年:2012/03/28(水) 11:05:46.76 ID:q3xGK0yl
普段は口数がすくないが時に能弁になる薬剤師がでてきそうだなw
468人間七七四年:2012/03/28(水) 11:39:28.71 ID:XRlGRS79
那須氏の子孫だが赤城山に行った帰りに車擦ったわ
日光の権現の怒りを買ったのかもしれん
469人間七七四年:2012/03/28(水) 13:57:07.88 ID:yu/C1NF1
>>468
擦った車の絵を描かせるんだ
470人間七七四年:2012/03/28(水) 14:35:29.34 ID:64EBTHMq
>>468
逆パターンで牛込赤城神社の氏子の旗本、御家人は将軍の日光参拝にお供
する際は穴八幡の氏子として参加したらしい。
471人間七七四年:2012/03/28(水) 14:37:28.68 ID:4ewCEkSn
神様は嫉妬深いってことか
472人間七七四年:2012/03/28(水) 18:59:00.78 ID:kWdZ4wYu
洋の東西を問わず、神様はエロくてヤキモチなもんじゃ
473人間七七四年:2012/03/28(水) 22:30:44.04 ID:nPF0c5D4
>>461
こういう馬鹿に限って家族で伊香保温泉に行ったりするw
474人間七七四年:2012/03/28(水) 22:53:29.34 ID:8QLVghF6
多聞院日記、天正13年(1585)7月5日記事より

『今日の未の刻、大地震が起こった。どうやら火神が動いたようである。
7月の地震は大兵乱の予兆だとされる。また、火神が動くのは中央に怪異が起こるとされ、
天子が亡くなり臣下が滅び、天下人民の多くが死ぬ、とされる大物怪である。

昔、木沢長政は信貴山に城を造り、久しく当国(大和)の闕所を知行していたが、
天文11年(1542)3月17日、不意に滅んでしまった。
その年は正月二十日巳の刻に大地震があった。

それ以来、地震は度々あったがあれほどの大地震は無かったのに、今日の地震は
あの時以来の、地上が滅びるかと思うほどの大地震であった。

今、秀吉は天下に号令し、その権力は昔に聞いたこともないほどである。
しかしそんな彼にも盛者必衰の時が至るのであろうか。沈思沈思。』


巨大な被害をもたらした天正大地震(ちなみにこれで、あの帰雲城が山崩れにより埋没した)に際し、
秀吉の政権の未来に暗雲を感じた、多聞院日記の記事である。
475人間七七四年:2012/03/28(水) 23:38:22.63 ID:v9Q4YQIt
今回の地震で驕りに驕った東電が滅亡してほしい
476人間七七四年:2012/03/28(水) 23:50:39.03 ID:xLNFqQ5A
>>471
仇敵の間柄なんだから、嫉妬というよりは憎悪じゃないか?
477人間七七四年:2012/03/28(水) 23:59:02.07 ID:1eu+jZPU
>>474
その11年後には慶長伏見地震が…
478人間七七四年:2012/03/29(木) 00:01:16.23 ID:WtWAhTqS
>>475
「反乱が怖い。天下普請(電気代値上げ)で各大名や百姓を消耗させて防ごう!」
479人間七七四年:2012/03/29(木) 01:11:43.81 ID:NKUa9wP3
その結果東電に徳政令(公的資金注入)と
480人間七七四年:2012/03/29(木) 08:17:30.60 ID:nlZg1RHl
>>474
未来に暗雲を感じる間も無くお亡くなりになってしまった内ヶ島さん…
481人間七七四年:2012/03/29(木) 11:12:10.01 ID:saK180lJ
>>474
多聞院日記は出納と愚痴と怨み節で構成されているんじゃないかと
たまに思えてくる
482人間七七四年:2012/03/30(金) 00:12:10.34 ID:ai3oDyrm
内ケ島さんより実はもっと可哀想な一族がいる

美濃の実力者だった東一族は遠藤慶隆に下克上されて所領から叩き出された挙句に
内ケ島さんの所に世話になってたら天正大地震で巻き添えを食ってついでに滅亡した。
483人間七七四年:2012/03/30(金) 00:35:28.21 ID:uZzsLn39
天災で一族全滅ってなかなかないよなあ
484人間七七四年:2012/03/30(金) 11:50:19.53 ID:hAl8gyR1
徳川家光が、食欲不振が高じてついに病に臥せったことがあった。
この時幕閣たちは

『誰か家光公の前で大食いをすれば、それに釣られて公も食がお進みになるのではないか?』

と考えた。どうしてそう考えたのかわからないが、ともかく幕閣は大食いをする志願者を募った。

これに応じた御番衆の一人は、「枝柿を100食べます!」と言った。
御前に出して食べさせてみると、家光が見ているので畏まってしまい、柿を種ごと食べてしまった。
家光も驚き、「種を取って食べるが良い」と言うとそれに従って種を取ったが、取った種をまた、
実と一緒に食べてしまった。動顛していたのだろうか。ともかくそうやって柿を種ごと100個、
食べつくした。

次のものは「雉を一羽まるごと、焼き鳥にして食べます。」と言う。
そこで雉の丸焼きを出すと、瞬く間に残らす食べた。
家光はこの両名に褒美を下した。

さて次に御坊主の一人が「私は砂糖を一斤(600グラム)食べます」と言ってきた。
そこで砂糖一斤を出したが、この坊主は半分ほどで挫折してしまった。
これには『いい加減な、出来もしないことをお上に申し上げた』とのことで、改易か遠島の処罰を受けた、
という。

家光の頃の、御前大食い試合の話である。
(異説まちまち)
485人間七七四年:2012/03/30(金) 12:54:00.52 ID:ciK7M5+d
ちょっと信長っぽいエピソードだな
486人間七七四年:2012/03/30(金) 14:53:04.96 ID:rD5g5vO6
砂糖600グラムなら頓挫ですむけど、
塩600グラムだと・・・
487人間七七四年:2012/03/30(金) 17:29:30.36 ID:gSniPDE4
>>484
>『誰か家光公の前で大食いをすれば、それに釣られて公も食がお進みになるのではないか?』
まずこんなトンチキな事考えた奴を処分した方が…
488人間七七四年:2012/03/30(金) 17:49:35.96 ID:X28Ao0Mz
この手のは、あまてらす何とかの時代からの伝統なのでしょうがない
489人間七七四年:2012/03/30(金) 18:52:53.36 ID:/ZEYqYly
これは「大食い大会をやるから見てください」といって将軍を引っ張り出したんだろうか
490人間七七四年:2012/03/30(金) 19:06:26.68 ID:eOtN6ov/
今の力士も拒食症患者の前でやったら
少しはイメージ回復に役立つんじゃないだろうか
491人間七七四年:2012/03/30(金) 22:47:42.37 ID:rrovit1N
>>486
いや、砂糖のドカ食いも血糖値が一気に上がって体調不良を引き起こす。
つか、気絶する可能性も十分あり。

塩のほうは内臓障害おこすから致命的だけどね
492人間七七四年:2012/03/31(土) 01:25:30.18 ID:z6nJVapH
そのころの砂糖600グラムって凄い値段なんだろうな
493人間七七四年:2012/03/31(土) 02:04:29.00 ID:mE7cl2en
磯野家のご先祖様が居れば……
494人間七七四年:2012/03/31(土) 05:07:35.70 ID:nbxFqWwF
大食いなんて見たら食欲減退するだろ
495人間七七四年:2012/03/31(土) 09:40:49.52 ID:UsiWTDOI
食欲無い時に大食いしてる奴がいたらムカつくだけだと思うのだが…
496人間七七四年:2012/03/31(土) 15:39:36.65 ID:3IkdexsP
>>493
あの逸話が中途半端に現実味を帯びてくるなw
497人間七七四年:2012/03/31(土) 16:03:12.76 ID:tfoDIQrL
おはぎ30個だっけ?

サザエさんの姉妹社単行本はぜんぶ実家にあるはずなんだが、
こんど読んでみよう。
498人間七七四年:2012/03/31(土) 21:41:36.69 ID:oZFvW0ZR
江戸初期の侍は何だかんだいって脳筋というか荒っぽい感覚残ってるよね
中期以降はこういう逸話どんどん減っているような
499人間七七四年:2012/04/01(日) 02:45:07.29 ID:Lws+kWvc
北条氏政は1586年、三嶋大社への参拝の際に、同盟関係にあった徳川家康と面会の約束をした。
黄瀬川を越えて、わざわざ北条領まで出向く形となった家康だったが、対面の際は氏政を上座に据えて

「両家の領地の境にある城を破却して境界を無くそうと思います。また、そちらが東北地方に出陣する際には
 私が先手を引き受けましょう。」

と、北条方を喜ばせる事を述べた。宴席が始まると上機嫌になって深酔いした氏政は、家康の膝の上に寄り掛かって脇差を抜き取り、

「若い頃から『東海一の弓取り』と呼ばれた家康殿の刀を取った。この氏政は大功を立てたぞ!」

とはしゃいだという。しかし、そんな中氏政は家中の状況を観察されており、宴席の後家康は

「北条の世も終わりだ。家臣の様子で察しが付く。」

と述べたという。
500人間七七四年:2012/04/01(日) 02:50:53.47 ID:i+qru6Cu
肝心の家臣の様子が分からねぇw
501人間七七四年:2012/04/01(日) 05:44:55.01 ID:RahubMFT
確かに、そこが一番気になるところなのに
502人間七七四年:2012/04/01(日) 09:03:10.24 ID:p4WvLrAk
贈り物の価値がわからずに駄目だこりゃって言われた事もあったな後北条
503人間七七四年:2012/04/01(日) 09:07:14.71 ID:/Ezenwsk
家臣に緊張感が無く緩んでいたとかだろうな
504人間七七四年:2012/04/01(日) 10:07:40.46 ID:nCngcJAr
三河武士や黒田武士なら無言でフクロにしてるレベル
505人間七七四年:2012/04/01(日) 10:11:07.26 ID:HFvgWCYx
GOで家康と氏政が密会してた場面を思い出した
506人間七七四年:2012/04/01(日) 10:13:48.16 ID:1hBpg9gG
悪酔いした主君を止めたり嗜めたりする家臣が一人もいなくて
氏政の腰巾着ばかりだったんだろ。
三河者と真逆。
507人間七七四年:2012/04/01(日) 10:18:54.12 ID:HFvgWCYx
味噌汁エピに続き新たな氏政無能伝説の誕生である
508人間七七四年:2012/04/01(日) 11:06:35.88 ID:nmhyNvdo
氏政、これはアカンわ。無礼ってレベルじゃねーぞ
509人間七七四年:2012/04/01(日) 12:05:54.31 ID:B41cWuil
君主大名の類に属する人が
同盟相手のファイナルウェポン脇差を抜き取り大功立てた(ドヤァ
とか喜んじゃってる時点でもうね・・・w
東海一の弓取りに上座に座らせてもらったうえに領境の城を破却して
おまけに先手まで引き受けるなんて言われちゃったもんだから
家康が事実上の従属宣言でもしてくれたと慢心しちゃったのかな?
家臣も家臣だろ、なんつーかもう終わってるよな、しかも相当深刻なレベルで。
510人間七七四年:2012/04/01(日) 12:26:50.19 ID:6YxfzfBW
氏政「とったどー!」
511人間七七四年:2012/04/01(日) 12:46:31.05 ID:GqwzcjnH
その話、猿の東北征伐に参陣せいつー謎かけかと思っていたがちがったか?
512人間七七四年:2012/04/01(日) 13:15:31.23 ID:kRaE2mQL
>>507
あのエピも氏康以来の椀(汁二回用)をそのまま使ってたら何故かdisられたという説もあるし、前例踏襲を戒めたという見方もあるが
513人間七七四年:2012/04/01(日) 14:05:01.01 ID:j9rxbzsf
こういう話って、徳川が関東に入ってから捏造された可能性もありそうだけどね
514人間七七四年:2012/04/01(日) 14:12:53.25 ID:ZV3FBf7J
四月一日なので、こんなお話を。あ、内容は実際にあるものねw


戸次鑑連(立花道雪)の家臣はみな弓法の心得が深かったが、中でも
四月一日(わたぬき)長蔵、佐藤十三郎、藤村小十郎がその上手とされた。
ある時この三人がうち寄って、矢を当てた時のことについて語り合っていた。

四月一日(わたぬき)長蔵が言うには、「私は26・7間(約50メートル)離れた鳩を、さし矢でもって
『ひゃうふっ』と射殺したぞ!」

次に佐藤十三郎が言うには「私は昨日、屋根にいた雀を、18間(約33メートル)離れた場所から
ふくら矢をもって『ひゃうっは』と射殺したるぞ!」

最期に藤村小十郎は「それがしも、桜馬場にて四寸角(の杭)を、18間離れた場所から剣先の鏃の矢でもって、
矢七筋のうち六つを『ひし』と当てました。そのうち五つは角に当てましたぞ!」

戸次鑑連はこの会話を物ごしに聞いていて、それぞれの矢音の表現がまるで違うことを面白く思い、広間に出ると、
主君が出てきたことに三人はその座を下がって畏まった。
鑑連は彼らにこんな話を始めた

「お前たちが弓の上手であり、細密に命中させる技術を磨いていること、大変良いことである。今後もいよいよ
稽古をして欲しい。ところで先ほどのお前たちの話の中で、矢音の表現が三人とも違っていたな。
しかし、人の聞いている所でそのように間違った事を言っていては恥となる。平家物語などの表現を、
きちんと使って言うべきである。お前たちは記憶力がよく一度聞いたことは忘れない者たちだ。
このついでに習いなさい。

矢音の事は、剣先の鏃の矢で物を射て命中したときは『ひゃうっは』と表現する。射抜いた場合も同様である。
外れたときは『ひゃうする』という音を発したと言う。

狩又の鏃の矢で物を射て当たった場合は『ひゃうふっ』という。射切った場合も同様である。
外れた場合は『ひゃうすか』と言う。

鏑矢にて物を射た時は『ひゃうふっ』と言う。外れた時は『ひすつと言わずして』と言う。

矢頭にて当たった時は『ひゃうし』と射たと言い、外した時は『ひゃうすか』と言う。
矢頭に挟み物をして射た時は『ひゃふはた』と射たと言う。外れた時は『ひすっ』と言う。

四目の鏃にて物を射当てたのは『ひしと射て』と言う。外れは『ひすっと外して』と言う。

匹目の鏃で物を射て当てた場合は『とき射て』と言う。笠懸の矢音、『へし』と射て、と言う。小的の矢音は
『ふしと射て』と言う。三つ的も同様である。大的の矢音は『はたと射て』と言うのだ。

この様な事も、専ら侍の知るべきことである。よくよく覚えておくように。」

これに三人は、殿がこのように親しく座に来てお教えいただき、本当に忝い事だと大いに喜んだという。
(大友興廃記)

しかし矢音だけでこんなに種類があるのですね。こんなの覚えなきゃいけないというのも、
お侍も大変だw
515人間七七四年:2012/04/01(日) 14:23:10.29 ID:bSnAl1rL
外れをスカという語源かな
516人間七七四年:2012/04/01(日) 15:05:55.50 ID:vV6t5JgB
>>513
そんな事を捏造する意味も無いし根拠も無いのに
都合の悪い事は何でもかんでも勝者の捏造かもとか決めつけるな
517人間七七四年:2012/04/01(日) 15:57:26.98 ID:cy34oPKK
根拠は無いけど意味はあるわな。両天秤にかけて婿の家を見捨てた立場だし
ほらこんな家じゃ見限られてもしょうがないですよね?ね?と
婿である当主じゃなく隠居が悪く言われる事が多いあたり怪しいっちゃ怪しいわ
518人間七七四年:2012/04/01(日) 16:20:04.69 ID:EQCEozjr
山岡荘八の小説にも同じような話あるけど作り話に決まってるだろうが
まあ逸話としては面白いが
519人間七七四年:2012/04/01(日) 16:33:12.72 ID:MJ/ZJQnF
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5521.html
こっちでは四月一日の名前はないけど
520人間七七四年:2012/04/01(日) 17:11:52.98 ID:vV6t5JgB
>>517
先手を約束した席の後に「北条の世も終わりだ」と言ってんだぜ
そんなの捏造しても何の利益にもならんわ

>>518
別に大した話でもないのに作り話にする必要はないだろ
521人間七七四年:2012/04/01(日) 18:11:02.07 ID:nmhyNvdo
史実か作り話かなんて話は不毛だから余計に突っ込むの控えるべきでは
重要なのはこういう逸話が残ってるって事実だと思うなー
522人間七七四年:2012/04/01(日) 19:24:10.11 ID:Yhiv/g4y
元弓道部だが矢音にこれだけの種類が有ったとは知らなかった・・・
523人間七七四年:2012/04/01(日) 19:42:44.84 ID:hZbxTPZh
>>514
当たった!


 *     +    巛 ヽ
            〒 !   +    。     +    。     *     。
      +    。  |  |
   *     +   / /   ひゃぅふぅぅぅううぅううっ!
       ∧_∧ / /
      (´∀` / / +    。     +    。   *     。
      ,-     f
      / ュヘ    | *     +    。     +   。 +
     〈_} )   |
        /    ! +    。     +    +     *
       ./  ,ヘ  |
 ガタン ||| j  / |  | |||
524人間七七四年:2012/04/01(日) 21:18:37.42 ID:6RCFa9yw
信玄公『ひゃうっは』
525人間七七四年:2012/04/01(日) 21:27:50.55 ID:fj+OnCsL
鳩「ぎゃーーー」
526人間七七四年:2012/04/01(日) 23:15:37.61 ID:CRU1UQVH
戦国時代の戦場では火事場泥棒のごとく、どさくさまぎれの盗みが横行した。

大坂夏の陣の五月七日に激しい戦闘があった。徳川方寄せ手の武士である安藤右京之進は
味方の兵が下帯もつけていない素っ裸の死体をかついで来るのを目撃したので、「いったい
誰の死骸だ。フンドシもつけていない見苦しい死骸は?」と問いただして確認した。すると、
その死骸は同じ一族の安藤右衛門であった。討ち死にしてからここへ運ばれるまでの短い間に
刀や甲冑だけでなくフンドシまで剥ぎ取られてしまったのである。
527人間七七四年:2012/04/01(日) 23:49:32.67 ID:6YxfzfBW
さぞかし良い褌だったんだろう
528人間七七四年:2012/04/01(日) 23:53:02.82 ID:6ztyx9uY
盗った褌は自分の褌として利用するのだろうか
名のある武将の褌なら価値があるかも知れんが…
529人間七七四年:2012/04/02(月) 00:28:51.23 ID:WdOtsat7
大阪陣図屏風には母娘を拐おうとする三つ葉葵の武者が描かれている
530人間七七四年:2012/04/02(月) 01:05:44.26 ID:A5I5xwBG
どのご子息よ
531人間七七四年:2012/04/02(月) 01:58:16.19 ID:gWA5JB+b
>>530
各大名が足軽とかに貸し出してるやつじゃない? 御貸具足ってやつ
532人間七七四年:2012/04/02(月) 09:51:08.81 ID:wbOZ/ZBD
まとめの『秋月文種と小野九郎右衛門』にあるけど、内応によってあっけなく落ちた古処山城。
要害と書かれていたけど、どのぐらいの要害か皆さんご存知だろうか?
wikiの古処山城には書かれてないけど、古処山の方に記述がある。

ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%87%A6%E5%B1%B1

鎌倉時代、この地を治めた秋月氏の祖原田種雄が本拠地として『頂上』に古処山城を築城(wikiより)
で、この山の標高って859.5 mだったりする。

そりゃ、内応で落とすしかないよなと納得した話。
なお、登山道も整備されていて、一時間半程度の道のりだそうな。
533人間七七四年:2012/04/02(月) 12:44:43.96 ID:T6qtK1za
か…景勝地
そんな高い山に築城する一部始終をこの目で見てみたかった
ケガ人も出そうだし大変なんてもんじゃなかったろうに
534人間七七四年:2012/04/02(月) 16:13:42.38 ID:gbxNgd65
標高差が重要とマジレス
535人間七七四年:2012/04/02(月) 16:37:07.17 ID:b25i5gvc
俺の実家の近くにも山城があるんだけど
戦の時だけ山城にいて普段は平地の屋敷に暮らしてた。

その山城の石垣とかはすぐ近くの古墳を解体して再利用してたらしい。
536人間七七四年:2012/04/02(月) 16:45:33.24 ID:mxjitE2D
>>533
最近の信長の野望で富士山山頂に築城出来たのがあったなw
537人間七七四年:2012/04/02(月) 18:51:18.94 ID:bPaTqvM2
どう考えても流刑地
538人間七七四年:2012/04/02(月) 18:58:26.59 ID:dsJsO2Z6
むしろ死亡確定
539人間七七四年:2012/04/02(月) 19:15:27.65 ID:1qT7XhZs
実は標高1000メートル以上にある山城ってけっこう全国にあるんだよな。
ほとんどは住民の避難用だったらしいが。
540人間七七四年:2012/04/02(月) 19:19:04.73 ID:7zOnnDhu
所謂、城=集会所寄合処ですな。観音寺城なんて諸説入り交じってワケワカメですし
541人間七七四年:2012/04/02(月) 22:47:18.80 ID:0yvmRTSM
平野に唯一ポツンとある丘こそが最重要拠点だ
小牧山、茶臼山
542人間七七四年:2012/04/03(火) 00:07:49.77 ID:xNjPnlaO
戦国より遥か昔の時代でも、
鬼ノ城みたいに結構急峻な山に城作ってたりするからな。
543人間七七四年:2012/04/03(火) 00:15:20.50 ID:rXkSUB3Z
古い神社が山の上にあるのは、古代には拠点に神を祀ったからだとか。
拠点がなくなって神だけが残って神社になると。
544人間七七四年:2012/04/03(火) 00:32:42.34 ID:moON/Nkb
山そのものが信仰の対象でもあるし
545人間七七四年:2012/04/03(火) 16:47:33.39 ID:WQZz4Vfw
天正13年(1585)正月7日、越前大野城主であった金森長近は、羽柴秀吉に
『飛騨の国、攻め取り次第に与える』
との墨付きを得、越前より飛騨に攻めいった。

ところが飛騨の国人たちはこの侵攻に対し同盟を結び強固に抵抗したため、長近は入国することが出来ず、
二度にわたって合戦に打ち負ける有様であった。
この時、とある長瀧寺社僧が

『金森と 銘は打てども 爪切りの 断つに断たれぬ飛騨の細布』

『金森は 袴のまち(両足を分ける部分)にさも似たり 腰が立たねばヒダも取られず』

と詠んで、長近を嘲笑した。

このような状況の中、美濃郡上郡の遠藤慶隆は、長近の嫡男可重の舅であった関係から、長近に対して、
舎弟慶直、同胤元、胤安、その他家来多数を加勢の軍として出し、白川において合戦となった。
しかしこの加勢の軍も、慶直家来鷲見弥五右衛門、遠藤彦次郎などが討ち死にし、一門の胤安も負傷し、
飛騨勢の破竹の勢いに、金森はまたもや敗北したのである。
(濃北一覧)
546人間七七四年:2012/04/03(火) 17:26:58.39 ID:xSWOqCfm
>>541
小牧山に登ると木曽川まで見えるからその重要性がよく分かる
547人間七七四年:2012/04/04(水) 00:53:40.80 ID:W4CIUrd+
金森勢が一気呵成に飛騨を制圧したわけでは無かったんだなあ
548人間七七四年:2012/04/04(水) 08:43:44.40 ID:TPQzzYzN
なんとなく飛騨は人跡未踏の山岳地帯だったイメージがあるし、地勢に明るい地元国人
は手強そうだもんな。
549人間七七四年:2012/04/04(水) 09:49:43.61 ID:kM3xNST2
松倉は一番標高の高い城らしい
実際には裏切りで秀綱は逃げ出したわけだけど、万全の態勢で籠城できていたらどうなっていたかな


奥さんの形見の着物とか残ってるけど、共々落武者狩りにあったんだっけか
親父が色気だして佐々に乗ってなければ、国司夫婦として生涯を終えられたかもなあ
550人間七七四年:2012/04/04(水) 13:53:19.85 ID:Q1lGLKdq
飛騨は美濃より富山に近い印象
体の丈夫そうな人も多かったな
551人間七七四年:2012/04/04(水) 16:14:36.99 ID:yMt2WXRQ
天正12年(1584)、4月9日の長久手の戦いで、池田恒興、森長可らを討ち死にさせてしまった羽柴秀吉軍、
その後家康・信雄連合軍との対峙が続いたが、四月晦日、秀吉は浅野長政を呼んでこう宣言した

「明日、寅の刻(午前3時頃)より家康たちのいる小牧山城に対して決戦を仕掛ける!」

これに秀吉軍の諸将は、翌日の総攻撃に向けて各自準備をしていたが、開けて5月1日、秀吉の発した
命令は驚くべきものであった

「堀久太郎は楽田に留まり、加藤光泰は犬山城を守れ!そして我々は、大垣城に撤退する!」

前日とは全く逆の内容である。だが秀吉はかまわず撤退の部隊配置も尽く細かく指定し、出陣予定だった寅の刻、
大垣に向かって出発した。

秀吉らが宇留目の船橋にかかった頃、殿を任された細川忠興、木村重茲、神子田正治らは「もし敵が追尾してくれば、
一戦して先日の無念を晴らそう!」と勇み、陣払いをしてその場を焼き払い、その煙の下から引き退いた。

徳川軍は小牧山よりこれを見て、「追い打ちをしよう!」と勇み出陣しようとした。が、この時徳川家康はこの状況を見て

「敵は大軍である。大軍の動きは推測しがたい。当然、我々を討つための仕掛けもあると考えるべきだ。
一人もあの敵を追ってはならない!」

と厳命した。しかしその命令より前に、斥候として出陣していた14,5騎がこの撤退する秀吉軍を追いかけ
首10級ほども討ち取った。これに細川忠興の手より弓削将監、園部某などが取って返し猛烈な反撃を加え、
この斥候の騎兵のうち二人が討ち取られて引き返した。これ以外に、撤退する秀吉軍に攻めかかろうとする
敵はなかった。

やがて秀吉が大垣に引き上げたことが確認されると、北畠殿(信雄)もその日小牧山から出て、伊勢河内に帰陣した。

秀吉の、小牧長久手戦線からの撤退の模様である。
(続武家評林)
552sage:2012/04/04(水) 18:00:29.71 ID:u4CGuhOU
今ニュースで山形県の五色温泉の紹介がされていたんだけど、その説明が
「直江兼続が整備し子宝の御利益があるといわれている」って。
なんか御利益薄そうだなと思ってしまった。
553人間七七四年:2012/04/04(水) 18:16:11.10 ID:08A3RUcL
>>536
そんな所に城造っても佐々さんくらいしか城主になれる人おまへんがな
554人間七七四年:2012/04/04(水) 22:35:05.96 ID:DK9u/joP
>>552
大ふへんもの「利益ならここに」

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2727.html
しかしこの山田風太郎も「くノ一紅騎兵」でネタにしている異聞の男装女も
その温泉にはいっていたりして
555人間七七四年:2012/04/04(水) 23:25:11.46 ID:gwy99as4
>>551
和睦してから退陣したんじゃないのか?
556人間七七四年:2012/04/05(木) 12:47:15.27 ID:RLW00KF+
永正3年(1506年)7月、細川政元の武将赤沢朝経は奈良において大規模な荘園の横領を行う。
これを恐れた興福寺は28日、関白九条尚経に、これを止めさせるよう訴え、尚経は天皇を動かし、
勅諚をもって将軍足利義澄に、赤沢朝経を京に召喚するように命じた。ところが…

『8月1日、一昨日の申し渡しについてだが、大樹(将軍)は細川京兆(政元)にその事を伝えていないらしい。
もし伝えて、それを政元が聞き受け無い場合が不安だから、という理由だという。
勅答に対して全く不誠実な態度、天魔の所業、言語道断とはこの事である!』
(尚経公記)


”半将軍”細川政元に対し、将軍すらこれほど憚っていた、という記録である。
557人間七七四年:2012/04/06(金) 15:00:18.29 ID:u+TG/TkE
天文10年(1541)8月、その頃河内高屋城にあった畠山長経は余りにも物荒い大将であり、家老達の言うことも
全く聞き入れようとしなかった。
そのため家中の者たちは毒を酒に入れて長経に進め、これを殺したという。

え?長経が言うことを聞こうとしたなかった家老って誰かって?

木沢長政・遊佐長教「私達ですが、何か?」

質の悪い連中に担がれた殿様の悲劇である。
(足利李世記)
558人間七七四年:2012/04/06(金) 15:26:17.67 ID:oYjeHFnB
この時代の近畿はカオスやな
559人間七七四年:2012/04/06(金) 16:00:47.96 ID:u5iQrIXN
カオスじゃなかったところってどれくらいあるかな?
560人間七七四年:2012/04/06(金) 18:48:36.18 ID:VNxRcHen
史料がろくに残ってないところかな
561人間七七四年:2012/04/06(金) 18:57:22.91 ID:nZd5sPYw
能登の畠山さんとこの遊佐さんも・・・
562人間七七四年:2012/04/06(金) 19:56:08.92 ID:jKsgRWI4
本人は別に史料に特筆されることやってなくても、後世になって巻き添え食うこともあるからなw
謙信ん所の宇佐美さんとか。
武田遺臣がいろいろでっちあげて作った甲州軍学が江戸初期に流行。
それが気に入らない連中がいたんだが、何をトチ狂ったのか対抗手段が
「別の軍学をでっち上げて対抗」というもの。
お陰で、宇佐美さん家は子孫がなかったはずなのに、末裔と自称する奴がでてきたりして、
スーパー軍師うさみんにいつのまにかされてしまったり……。
虚名を愛する人ならいい話になるかもねぇ。
563人間七七四年:2012/04/07(土) 08:41:30.62 ID:CLQf/nBy
小田原の役の時の話。

小田原城を目指すべく、碓氷峠を越えて上州入りした前田利家率いる北国衆は松井田城を攻めるとともに、
一部の軍勢をその近くの支城に向けた。

その1つである幽崖城(西牧城)に対しては、依田康国が攻撃を加えた。

城主である武将多目周防守長定は奮戦するも多勢に無勢、とうとう城を捨てて落ち延びた。

しかし追撃は激しく、長定は近くの山まで逃げるしかなかった。

すると山頂付近に切り立った岩壁(地元では「メンバ岩」と呼ぶ)があり、そこからは藤つるが伸びている。

長定と家来たちはこれ幸いと、この藤つるを伝って岩壁の上まで登ると、追手が来れないように藤つるを全て断ち切った。

しかし翌朝目覚めてから彼らは気づいた。

降りられない・・・。

降りる手立てとなる藤つるは前日に全部切ってしまったのだ。

あわれ長定主従、そこで覚悟を決め、小田原の方角を向いて自害したという。

そんな物語があることから、この山は物語山と呼ばれてるのだそうな。

(下仁田町史)

ちなみにこれとは別の話で、やはり戦国時代に武将(長定かどうかは不明)がメンバ岩の上に
財宝を置いて登るのに使った藤つるを切って自害したという話が伝わっている。

そしてまだメンバ岩の上にはその宝が置いてあるのだそうな。
564人間七七四年:2012/04/07(土) 08:53:37.38 ID:OaBC1W3K
ぜんぜん関係ないけど稲垣メンバーって言葉がさいしょに頭に浮んだ
565人間七七四年:2012/04/07(土) 09:28:29.82 ID:G9LSQU/+
>>562
お前の頭の中もデッチ上げだろ
566人間七七四年:2012/04/07(土) 11:59:46.49 ID:qBvKx9Kl
大名も家臣も仲良しで和気藹々としていた所とかないのか
567人間七七四年:2012/04/07(土) 12:07:36.56 ID:zBzfES9E
小田さんがいるじゃないか
568人間七七四年:2012/04/07(土) 12:53:16.76 ID:RbhDqUk3
敵も攻めてこられない秘境で和気藹々としてて
珍しく戦いに巻き込まれて内応者も出たが仲直りして
祝賀会を開いたら地震で・・・な、あそことか
569人間七七四年:2012/04/07(土) 14:46:32.79 ID:Jqsg6/wY
貧しい土地なら、食うために略奪に出るしかない時代。
豊かな地域は、狙われる。
藹藹のまま飢餓に……。
おまけに鉄砲や硝煙のために万単位で日本人が誘拐され、傭兵あるいは奴隷として海外に売られていたからなぁ。
秀吉は奴隷貿易を禁じたけど、自分が朝鮮侵攻はじめると解禁して、朝鮮人はもちろん同じ日本人もまた売りまくり。
買い手側の外国や教会が問題にするほど悪化。
大阪の陣でもヒャッハーが大規模に行われた。
江戸時代が安定するまでは無理な話だな……。
570人間七七四年:2012/04/07(土) 14:52:00.22 ID:Jqsg6/wY
硝煙→硝石
571人間七七四年:2012/04/07(土) 15:14:01.72 ID:SAE94uEk
もう少し頭の中で整理して書いてくれよ
572人間七七四年:2012/04/07(土) 15:45:56.22 ID:epXzcFgq
戦国時代の負の面は滅多に教えられない。英雄活劇の代用品か何か扱い。
昭和初期には教科書に載っていたことがあるがなぜか憲兵の命令で削除されたり。
(日本人の後世から見て恥ずべき歴史を消したかった?)
歴女とかが知ったら卒倒しそうだな。
573人間七七四年:2012/04/07(土) 16:17:33.32 ID:Gq/XQ005
>566、鮭さまのとこぐらいじゃ
574人間七七四年:2012/04/07(土) 17:57:57.72 ID:dOp01nKO
内だけに絞ってもお決まりの相剋劇やってるやん
575人間七七四年:2012/04/07(土) 20:08:23.15 ID:UGX61zP0
立花さん家とか。流浪している間の愉快すぎる生活。
576人間七七四年:2012/04/07(土) 20:36:53.03 ID:Su2FhBNP
最上家が和気藹々とか、笑えないジョークだ
577人間七七四年:2012/04/07(土) 21:00:32.35 ID:I/luObuU
家康は海外貿易に熱心だが、日本の主要輸出品が奴隷(といっても傭兵の類のようだが)ということをしっかりと
認識していたようで、むしろ国内治安の観点から積極的に輸出していたようである
で、その先で彼らが色々と問題起こしてその苦情が寄せられると「そちらで勝手に処罰して無問題」と返答している
悪く言えば棄民政策を家康は推進していたということになるね
578人間七七四年:2012/04/07(土) 21:08:53.41 ID:kPEwZxhZ
それ大半は戦争奴隷な
国内のウォーモンガーを処理できて取引先も強兵と喜んで本人たちも生きる術を見いだせて、
損する人が居ないじゃないですかー
579人間七七四年:2012/04/07(土) 21:19:08.95 ID:A3Lr17m1
折角戦争をなくせそうなのに
国内に戦争狂が犇いてたら堪ったもんじゃないわなw
580人間七七四年:2012/04/07(土) 22:06:58.12 ID:FSaj1zMw
そう。奴隷と言うより傭兵と呼ぶべき。
ちなみに徳川秀忠がこの傭兵輸出を禁止した時、スペインやポルトガルは
兵員の仕入先がなくなると半ばパニックになってる。
581人間七七四年:2012/04/07(土) 22:12:17.15 ID:ZS80zEIm
山田長政とか海外で活躍した日本人と聞くけど、この人もそういうもんだったんかな
582人間七七四年:2012/04/08(日) 00:28:30.62 ID:7efdzKPA
鬼の住まう国

京を擁する山城国の隣に位置しながら、山がちな地形もありどうにも影の薄い丹波。
戦国時代に至っても強力な戦国大名が登場せず、各地に割拠する国人達が
好き勝手やっていた印象しかない方も多いのではないだろうか。
しかし丹波にも誇るべき点がある。山岳地帯で鍛えられた屈強な兵たちの存在だ。

そして、そんな丹波兵を率いる数多の国人領主の中でも
特に勇猛だった4人の武将である赤井直正・荒木氏綱・波多野宗高・籾井教業。
彼らはいつしか「鬼」の名を冠するようになり、それぞれ
赤井直正は「赤鬼」
荒木氏綱は「荒木鬼」
波多野宗高は「丹波鬼」
籾井教業は「青鬼」
という異名を持っている。
戦国時代、「鬼○○」とか「○○鬼」と称された武将は数多いが、
一国から4人も輩出というのは余り例がない。
しかもそういった渾名を残す武将の多くが統一政権を樹立した
織田・豊臣に縁ある者達であることを鑑みると、
後世大名になれなかった丹波国人からこんなにも「鬼」が出た事は
凄まじいかもしれない。
583人間七七四年:2012/04/08(日) 00:30:38.95 ID:7efdzKPA
これらの「鬼」達は、細川・三好・織田といった中央政権にも容赦なく牙を剥いている。
中でも「赤鬼」こと赤井直正は三好家の出世頭・内藤宗勝(ギリワンの弟)を敗死させたり
信長配下の明智光秀を何度も撃退するなど、丹波に手を出す侵略者をことごとくぶちのめした。
また、彼の配下には2名、「鬼」の名を取った兵士がいたという記録もある。
「荒木鬼」は明智光秀に出仕を請われているし、
「丹波鬼」の子孫からは明治期の司法大臣が出ている等
他の「鬼」達のエピソードにも事欠かない。(まあ青鬼は後世の創作説が有力だけど…)

東部に青鬼、中部に赤鬼・荒木鬼、西部には丹波鬼。
そして彼らに仕える数多の「鬼」と呼ばれる兵士たち。
このように丹波の武将がやたらと鬼呼ばわりされるのには理由があり、
「山」というある種の異界に接する地域には
異界からの来訪者である鬼の伝承が昔から多いという傾向があるらしい(学術的に)。

そこかしこの地域を「鬼」が治める修羅の国…それが、権力者をも手こずらせた丹波国の真の姿である。
584人間七七四年:2012/04/08(日) 02:59:46.05 ID:XgxJjtgq
鬼十河、鬼小島、鬼義重、岡部の黒鬼、鬼柴田、鬼日向、鬼若子、鬼上官、そして忘れてならぬ鬼武蔵とその他諸々と何かどの家中にも一人は鬼の異名持ちがいそうだな
585人間七七四年:2012/04/08(日) 12:41:22.45 ID:u1azFvJp
山縣昌景 「赤レンジャー」
籾井教業 「青レンジャー」
北条綱成 「黄レンジャー」
森 忠政  「桃レンジャー」
大関高増 「黒レンジャー」
586人間七七四年:2012/04/08(日) 14:03:01.95 ID:ach5t1b9
戦隊モノの黒は後で仲間になるパターンだからそいつは駄目だろw
587人間七七四年:2012/04/08(日) 15:35:28.74 ID:rrY4ZeE/
鬼半蔵、鬼作左、井伊の赤鬼
徳川にも判るだけで3人の鬼が居るな
588人間七七四年:2012/04/08(日) 15:41:03.15 ID:aa4Mgblb
>>577
キリスト教の史料に日本人奴隷の末路が「男は犯罪者、女は『不品行』な生業になるしかない」と書いてあるぐらい悲惨。
言葉もわからない土地に、同じ日本人の手によって誘拐され売られたからねぇ……。
欧州に派遣された使節も「同じ日本人なのに……日本民族駄目だ」と書き残しているぐらい、あちこちに奴隷化した日本人が見られた時代だ。
589人間七七四年:2012/04/08(日) 16:13:03.98 ID:XWF8B5fU
奴隷売買するなら異民族ですよね
590人間七七四年:2012/04/08(日) 16:14:49.39 ID:o8g8eHuH
実際に朝鮮人や中国人も売ってるぞ。秀吉が奴隷売買を禁じた後にもやってるわけで。
倭寇なんか日本の国内情勢どこ吹く風、で絶滅させられるまでやってたし。
一応、鎌倉時代からその手の行為は禁令ってのが出てたんだが……。
591人間七七四年:2012/04/08(日) 19:35:29.47 ID:QtwonGTE
儒教的精神論もなにそれな時代だったしねい。元禄以前は本当に修羅の国。

何度もガイシュツだけど朝鮮で拉致された儒学者の姜曰く
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/2014
「生を好み、死を憎むのは人も生き物も同じくするであろうに、日本人だけが死
を楽しみとし、生を憎むのは、一体どうしてなのか」と問うと、
「日本の将官は民衆の利権を独占し、一毛一髪も民衆に属するものはない。
だから、将官に身を寄せなければ、衣食の出どころがない。ひとたび将官の家に
身を寄せてしまえば、この体も自分の体ではない。少しでも胆力に欠けると
見なされてしまったら、どこへ行っても容れられない。佩刀が良くなければ、
人間扱いされない。刀傷が顔の面にあれば、勇気がある者と思い禄を得る。
耳の後ろにあれば、逃げ回るだけの者と見なされ排斥される。それだから、
食に欠いて死ぬよりは、敵に立ち向かって死力を尽くすほうがましである。
力戦するのは、実は自分自身のために計ってそうするのであって、
何も主(公)のために計ってするのではない。」
592人間七七四年:2012/04/08(日) 21:14:00.76 ID:GYeR08Ny
>>587
黒鬼「・・・・」
593人間七七四年:2012/04/08(日) 21:24:14.77 ID:HDyy3QDw
>>591
さすが戦国 江戸時代の平和ボケゆとり武士とは格が違うのぉ
594人間七七四年:2012/04/08(日) 21:26:54.29 ID:f+zyVolD
衣食足りて礼節を知る、という。食いモンがひたすら無かった戦国時代の気風で日本民族が……とか説いても殺されるか売られるだけだろうねw
595人間七七四年:2012/04/08(日) 23:30:59.28 ID:/rMeZA1U
>>585
よい子達に裏切りをおしえるのか。
596人間七七四年:2012/04/10(火) 11:05:56.20 ID:aM2UA5UU
>>585
なにげに桃も黒いよなwww
597人間七七四年:2012/04/10(火) 15:46:49.64 ID:gmWNwROO
山県昌景「赤レンジャー!」
井伊直政「赤レンジャー!」
真田幸村[赤レンジャー!」
北条綱高「赤レンジャー!」
松田康郷「赤レンジャー!」
松浦家足軽の皆さん「赤戦闘員!」
小幡家中「うちもうちも」
榊原家中「井伊になんて負けてられるか!」
598人間七七四年:2012/04/10(火) 16:29:23.42 ID:/cDko8IE
北条の五色備とはなんだったのかw
599人間七七四年:2012/04/10(火) 16:32:42.28 ID:ldEoeDq6
日本最古のゴレンジャー?
600人間七七四年:2012/04/10(火) 18:55:21.92 ID:yeqPT1NN
天正13年(1585)3月、雑賀は羽柴秀吉の武威に屈したが、北雑賀は太田郷の郷民達は抵抗を続け、またそこに
反秀吉の武士たちも集まり、羽柴軍の輜重部隊を襲うなどゲリラ活動を続けた。
これに怒った秀吉は、彼らを滅ぼさんと決意したが、太田は要害の地であり、また郷民たちは弓鉄砲の術に
長けているものが多く、自分たちの士卒が彼ら一揆によって損耗することを恐れた。
そこで秀吉が考えたのは、彼のお得意、水攻めである。
「水攻めで尽く溺死させるのだ!」

秀吉は太田郷の家屋よりも五尺ほど高い堤防の建設を計画し、諸将に命じ、数万の人夫を所々より集め、
太田郷を囲んで周囲十八町(約2キロ)、高さ6間(約10メートル)の堤防を築かせた。
堤防は地際で18間(約20メートル)、天井の馬踏は5間(約8メートル)であったという。

秀吉は毎日、この工事を巡検した。明石与四郎則實が担当した場所は工事の進捗が大変早く、そのことに感じいった
秀吉は即座に、明石に1万石を加増した。
一方近江は甲賀より集めた人夫が、工事規則に違反し大変怠惰だったのを見つけると、その人夫を使っていた
主人だけでなく、主人の親族まで流刑とした。
秀吉の賞罰はこのように尽く迅速なものだったので、人々はみな戦慄し、見な奮起して工事を進めた。

この時増田長盛は秀吉の命を受けて、須磨・明石・兵庫・西宮・尼崎・界津などの船を集め、糧米を紀ノ湊へ運送し、
毎日米千俵、大豆百俵を以って堤を築く人夫に与えた。

さて、この堤防工事がほぼ終わろう、という時である。突然の豪雨に紀伊川が溢れ、建設中の堤防のうち
150間ほどが流されてしまった。
これでは水を貯めるどころではない。しかし秀吉はあきらめなかった。

「前謀を改める時は、味方は術を失うに似たり」

秀吉は再び号令を発した。津々浦々に船を遣わし、俵6・70万をかき集めた。
それら尽くに土を詰め、堤防の流された場所に投げ入れる。これを何日も続けた結果、堤防はついに完成した。

太田郷の家屋には浸り、また羽柴軍は盲船(船上の総矢倉の周囲を厚い盾板で囲った軍船)によって
攻撃を仕掛けたため、大田郷はついに降伏を申し出た。
秀吉は郷の棟梁50人を捕えて磔とし、残党は許した。
しかし船によって太田郷から逃亡した郷士は、松木刑部、同雅楽助など3000人余りに及んだという。

秀吉による、雑賀大田郷水攻めの逸話である。
(武徳編年集成)
601人間七七四年:2012/04/10(火) 19:30:34.53 ID:BIE4xDI6
さすが秀吉、スケールがでかいな
太田郷に篭もってたのが何人いたかわからないけど
3,000人ほど逃げられちゃってるし
ちょっと(コストパフォーマンスの)悪い話?
602人間七七四年:2012/04/10(火) 19:42:48.70 ID:EtvosWfs
けどここまでやられたら反乱とか起こす気に慣れんな
603人間七七四年:2012/04/10(火) 20:10:44.67 ID:RcUtNQbh
祖父の地元(飛騨高山某所)の神社に堀秀政の物と伝わる
甲冑があるんだが、どう見ても戦国期の甲冑じゃない(糸でびっしりの胴丸)
まあ鎧自体は立派なもんだけど、きれいすぎるから
江戸時代に作られた飾り用の古い形式の鎧っぽい
604人間七七四年:2012/04/10(火) 20:34:58.35 ID:nkJH5kYM
>>583
今日東京博物館行ったら、明智光秀の肖像(複製)と
筒井順慶に宛てた丹波攻め催促の書状(本物)があった。
解説文には丹波を織田領にするのに10年もかかったと記載
されてた…
http://uproda11.2ch-library.com/344386cHo/11344386.jpg
605人間七七四年:2012/04/10(火) 20:38:44.05 ID:lm0zGAui
>>603
このスレとの関係は?
606人間七七四年:2012/04/10(火) 20:47:32.84 ID:RcUtNQbh
>>603
誤爆だった…失礼しました
607人間七七四年:2012/04/11(水) 06:43:57.44 ID:c9VH0Kjr
 戦国の世が始まって京の都を諸勢力が奪い合っていた頃、京を守る足軽たちの間では博打が大流行した。
彼らは博打で有り金を使い果たすと装備品の刀や鎧まで賭けてしまったため、足軽の中で装備を完全に
整えているのはわずかという有様になった。
 これでは戦闘に支障が生じるということで、彼らは賭けごとで一文無しになると、京の町人の誰それの
土蔵を博打の対象にした。賭けに負けた者は後日にその土蔵に忍び込んで負けた分の金額分だけ金品を
盗んでくるわけである。こうして、足軽たちは武具や馬具を取られる心配をすることなく、博打に熱中する
ことができるようになったのである。
608人間七七四年:2012/04/11(水) 07:38:03.44 ID:C77nm6JL
賭けに負けたら戦闘中に対象に押し入って蔵を開けてるやん
609人間七七四年:2012/04/11(水) 07:39:57.62 ID:/kfYROdB
乱妨略奪は戦の華でござる
610人間七七四年:2012/04/11(水) 19:25:01.16 ID:z6VDda7i
毎週競馬で負けてる俺の座右の銘は
「人様に迷惑かけての博打はするな、自分の小遣いの責任内で」だ
611人間七七四年:2012/04/11(水) 23:31:44.43 ID:/kfYROdB
文明7年(1475)、あの帰雲城を築いた飛騨の内ヶ島氏初代、内ヶ島為氏は、飛騨国内の一向宗の拠点、
照蓮寺を攻め、これを焼亡させる。この時照蓮寺の9代目、明教僧正は自害したが、彼には2歳になる男子があり、
この子を乳母が抱いて、城の裏手より逃げた。
しかし追手がかかり、北の小白川あたりでついに川一つを挟むところまで迫られた。

ここで追手は乳母にこう呼びかける

「その子が女児であるなら汝に与えよう!しかし男子ならばこの方へ引き渡せ!」

これを聞いて乳母、2,3歩戻って男子を高く差し上げ、男根を後ろの方に引き付けて声高に叫んだ

「これを見給え!女子なり!」

追手の者たちそれを見ると、川を渡ろうともせず

「女子ならば与える!」

と言って立ち帰った。
乳母は大いに喜び、「これも偏に仏の加護でしょう。成長させ給いて、親御様の敵を討たせなければ。」と、
越前まで逃げ、知り合いの僧に頼んで、この団子を永平寺に預けたという。

乳母、とっさにチンコを隠して逃げ延びる。というお話である
(飛騨群鑑)
612人間七七四年:2012/04/12(木) 00:57:17.06 ID:soD3cNDR
団子…
613人間七七四年:2012/04/12(木) 01:03:36.28 ID:T9mtZ0kY
幼児だと思ったら肉団子だった
グロ中尉
614人間七七四年:2012/04/12(木) 03:09:59.63 ID:QeHNKTEg
慌ててたから男根を引き抜いちゃって
気付いたら肉団子になっちゃったって事?
615人間七七四年:2012/04/12(木) 03:17:19.59 ID:ssJxNFoB
これは子息ではなくお土産であるという方便だろう
616611:2012/04/12(木) 06:32:38.05 ID:6NUymN0/
うわ、なんという変換ミスw;
団子→男子です。すいません。
617人間七七四年:2012/04/12(木) 10:53:35.87 ID:tJWO+Ppd
オカルトは嫌いなんですが武将がらみということで。
20年ほど前に山形城で大きなイベントが催されたんだけど、
嵐によってテントが倒壊、死者を出す騒ぎとなってしまった。
宇崎竜童とか出てたような気がする。
さてそのイベントのアトラクションが、なんと「上杉鉄砲隊」。
もろもろ済んだ後、実行委の皆さんが反省するには、
「義光公が必死に守った城に敵の鉄砲隊を入れたのはさすがにマズかったか」
義光公の墓参りをしたところ、穏やかな好天であったがにわかに一陣の風が吹き、
墓の側の大樹を揺らしたそうな。
領民どもの心がけが悪い話。
618人間七七四年:2012/04/12(木) 11:20:58.40 ID:oKu/87il
もう領民じゃないだろw
619人間七七四年:2012/04/12(木) 12:24:58.09 ID:rrvu5g8O
戦国じゃないけど興味深いな
ソース有る?
620人間七七四年:2012/04/12(木) 12:42:36.12 ID:Fw9JkiHE
団子といい領民呼ばわりといい、この流れ激しくワロタw
621人間七七四年:2012/04/12(木) 14:12:05.44 ID:CuGZNsJs
伊達鉄砲隊とかだと何が起きるんだろw
622人間七七四年:2012/04/12(木) 14:38:09.45 ID:tJWO+Ppd
>>619
済まんけど検索ではソース出てこんかった
山形新聞DBは金かかるしなー

家の親父が実行委に入ってて、人が亡くなるような事態で大変だったらしい
多分霞城フェスティバルとか何とかというイベントなんだが
623人間七七四年:2012/04/12(木) 16:45:33.25 ID:VWE1glwJ
お祭りのHPとか見ても過去の事故とか事件は封印して載せないもんだよなw
624人間七七四年:2012/04/12(木) 17:20:00.77 ID:xgidgJcs
>>623
そのようにして、ちょっと悪い逸話として語り継がれるんですねわかります
625人間七七四年:2012/04/12(木) 21:37:59.14 ID:ssJxNFoB
仮に義光が怒っても人が死ぬような真似はしないだろ
義光が殺したような言い方をされて悪い話だ
626人間七七四年:2012/04/12(木) 23:36:53.15 ID:oLfSKLbh
大坂城落城前夜、淀は密かに城を抜け出し友人の秋元長朝の陣を訪れ命を乞うた。
長朝はこれを認め自身の領地である総社に兵糧を運ぶ部隊に淀を紛れさせ送り出した。
淀が総社の地に辿り着くと秋元の手厚い庇護の下、総社の地で何不自由なく暮らしたという。
そんな幸せな日々が続いていたある夜のこと、何を思ったのか淀は一人城を抜け出し、
フラフラと利根川へと向かって行った。
そして利根川の土手の上に立つとそのまま、身を投げて死んでしまったという。
身を投げた理由について地元では、
豊臣家に対する良心の呵責に苦しみ絶望したため身を投げた、とする説や
淀の美貌にハァハァした秋元長朝が無理矢理淀を犯したため、
これを恥じて身を投げた等、さまざまな説が伝わっているのだそうな。

さすがに二人の年齢的に後者の説は無いと思うが…
627人間七七四年:2012/04/13(金) 03:36:56.45 ID:DncWcSEU
元北条家臣で井伊の赤鬼旗下に入った人と淀にどんな接点が?というのは無粋か
628人間七七四年:2012/04/13(金) 12:33:41.86 ID:rYeLWVbw
秋元さんのご近所で、淀の側室仲間の成田の甲斐姫が介在すればなんとか・・・

いやそれも苦しい
629人間七七四年:2012/04/13(金) 14:54:36.55 ID:bhWIZuFB
その淀どののお墓が建っているお寺には、淀どのが使った駕籠と着物があるそうな
いったい誰のものなのやら
630人間七七四年:2012/04/13(金) 15:00:51.27 ID:vO0ydZH9
それ、うちのかあちゃんの、というのはさておき、
生前にそのお寺とか近所に行き来があれば、雨とかで汚れた時のために
着物と駕籠を置いておくというのはあったかもしれない。

淀お茶々は盛大に寄進しまくっているので
そういうお寺は多そうだけど、徳川治世になったあとでもゆかりの品を
とっておいてくれるお寺というのはなかなか。
631人間七七四年:2012/04/13(金) 18:39:21.53 ID:TYX8umqh
明応2年(1493)4月22日、右京兆・細川政元によるクーデター、いわゆる『明応の政変』が起こる。
京では足利義材派の畠山政長、葉室光忠などの屋敷が次々と破壊された。

さてその時、河内に出陣していた将軍足利義材の後室など、将軍家の女性たちは多くが、
義材の姉が尼として入っている通玄寺に避難していたが、クーデター派はこの尼寺にすぎない
通玄寺も襲撃に及んだ。

と、ここで襲撃部隊は残忍な仕打ちをした。
彼らはここに避難していた将軍後室、その女官たち、さらには義材姉をはじめとした寺の尼達まで
衣服を全て剥ぎ取って京の町中に放り出した。

赤裸にされたこの高貴な女性たちは、致し方なく、ある者は筵を身にまとい、ある者は経典を体に巻き付け、
泣き叫びながらあちこちに逃げ惑い、路頭をさまよった。

『北野社家日記』には「前代未聞の事件であり、筆にするのもはばかられる」と、
この事件を憤りを持って記録している。

明応の政変で高貴な女性たちに降りかかった悲劇についての記録である。
632人間七七四年:2012/04/13(金) 19:09:59.14 ID:4RRMKdcj
粥…旨…
633人間七七四年:2012/04/13(金) 19:15:31.52 ID:UNIoX2XR
義材も将軍なのに身一つで政元の陪臣に過ぎない上原元秀に降伏するという屈辱を味わったな
634人間七七四年:2012/04/13(金) 22:02:50.07 ID:JQzYxAtY
さすがに高貴な女性たちの中身には手を出さなかったのか
635人間七七四年:2012/04/13(金) 22:08:37.01 ID:BldyANpm
出されたけどそこまで書き残すのは憚ったんじゃない?
636人間七七四年:2012/04/13(金) 23:22:09.91 ID:CTSV4MoP
尼寺を襲撃して身ぐるみ剥ぐほどの無法者たちだからな…

筆者自身が書き残した通り、「筆にするのもはばかられ」たんだろう
637人間七七四年:2012/04/13(金) 23:39:35.20 ID:bA773MRi
佐竹義重て、大物だけど常陸を統一したのが1591年て遅い
638人間七七四年:2012/04/13(金) 23:53:29.28 ID:JQzYxAtY
豊臣の力がバックになければ常陸の統一も家臣団の近代化もできなかったというのが正直なところじゃなかろうか
北条に頭を抑えられてたからと考えるべきか反北条の旗頭になったおかげで関東の雄になれたと考えるべきか
639人間七七四年:2012/04/14(土) 00:01:41.72 ID:ZNF78dV6
ぶっちゃけ、鬼義重より親父の方が優秀な気がする。北条と上杉の隙をついて立ち回っていたから
鬼義重は確かに武勇に秀でてるけど、北条と全力衝突したおかげで国が疲弊して伊達との二正面戦争になった
640人間七七四年:2012/04/14(土) 00:19:48.94 ID:TZuTI0p8
常陸50万石以上だからなぁ・・・
641人間七七四年:2012/04/14(土) 00:24:36.67 ID:6XoSirec
鉱山もあったしね
しかしこんな防衛しにくそうな国を北条相手によく持ちこたえたもんだ
642人間七七四年:2012/04/14(土) 00:31:27.49 ID:VCjeg8QS
洞中は守るに強く攻めるに弱い。

まあいわゆる常陸統一後も、領内に山ほど不満分子抱えてたっぽいしな、佐竹は。
643人間七七四年:2012/04/14(土) 00:43:47.86 ID:TZuTI0p8
逆に広くて統一されてなかった分、緩衝地域みたいな感じじゃないのかな〜
ものすごく大雑把なイメージだけど、小田原と太田だぜぇwwww
644人間七七四年:2012/04/14(土) 00:45:30.60 ID:6XoSirec
文禄の役での太閤殿下へのご奉公を理由に国人をギリギリ締め上げて権力強化していったあたりの手際は
ちょっと悪い話にふさわしい逸話がたくさんありそうだ
645人間七七四年:2012/04/14(土) 01:01:55.22 ID:foDRrFwu
南部の国人衆を誘きだして謀刹したのは息子だっけ?
646人間七七四年:2012/04/14(土) 06:27:54.41 ID:/tPRX0ru
東北の方は盟主と地主たちによる連合国家という古い形が
秀吉が介入してくるまでは残されてたんだっけ
647人間七七四年:2012/04/14(土) 08:44:07.63 ID:IYpSeiIz
>>642
> 洞中は守るに強く攻めるに弱い。

那須家は正にそんな感じだな

しょっちゅう内紛起こしてるのに防衛戦は異様に強い
648人間七七四年:2012/04/14(土) 08:46:44.38 ID:VCjeg8QS
>>646
秀吉が介入した後も引きずってるな。
佐竹が近世化出来たのは秋田移封後だし、伊達にいたっては幕末までw
649人間七七四年:2012/04/14(土) 12:08:27.34 ID:R4HOLAU6
>>646
最上氏に至っては最後までそういう感じだな。
万石クラスの家臣が各地に割拠している
650人間七七四年:2012/04/14(土) 12:21:46.93 ID:njVVprub
お陰で重臣間の権力争いが手をつけられなくなって改易
同じくモザイク国家の鍋島氏あたりは上手くやったんだがなぁ
651人間七七四年:2012/04/14(土) 13:00:17.11 ID:5ViIOP6R
秋月や相良なんかもひどかったみたいだけど、良くもったよなあ・・・
652人間七七四年:2012/04/14(土) 13:17:46.30 ID:DcLCdfot
南部や安東、葛西・大崎もそんな感じよね>連合国家
そしてどこの家も豪族衆との争いにかなりの労力割かざるを得ず、大きくロスしてる感じ
653人間七七四年:2012/04/14(土) 13:51:15.41 ID:TZuTI0p8
九州の場合は、実際ラスボスさんの兵が乗り込んできちゃって、
有無をいわさず集権化されちゃった感じ?
654人間七七四年:2012/04/14(土) 13:55:30.70 ID:fvRBbQBz
>>653
旧来の領主が駆逐された所は集権化したけど
島津はなぁ
655人間七七四年:2012/04/14(土) 13:55:55.13 ID:6XoSirec
伊達は葛西大崎一揆での荒廃や悪天候、政宗の無謀な家臣団拡大などで苦しかったから
有力家臣を在地に置いて農村立て直さなきゃいけなかったから仕方ない部分は多々ある

もっとも政宗の無謀な家臣団拡大は自業自得としか言いようが無いが、これも葛西大崎の旧臣救済だったりするしなあ
656人間七七四年:2012/04/14(土) 14:31:58.46 ID:1pDIETra
>>649
伊達もな
伊達四十八館(キリッ とか言ってるけど、
要するにそれだけ国力が大臣に掌握されていて、大名の権力が相対的に低いってことだからな
伊達騒動とか幕末のグダグダっぷりはそこら辺が原因の一つ
657人間七七四年:2012/04/14(土) 15:21:25.24 ID:/N87z8EO
ん?大崎一揆ってまーくんの仕業じゃないのw
658人間七七四年:2012/04/14(土) 15:26:38.30 ID:tYwX2YPX
>>655
葛西大崎の旧臣取り込みは、あれでも糠塚の騙し討ちで減らしてる方なんだよなぁ
葛西は巨臣ひとりひとりが小大名クラスだから、家臣の数もえらいこっちゃで
取り込んだ伊達も面倒だったと思う
659人間七七四年:2012/04/14(土) 19:39:02.05 ID:NhfGrRaO
>>649
最上の場合は、蒲生みたいに気前よく領土を与えたんじゃなかったかな。
660人間七七四年:2012/04/14(土) 20:19:58.77 ID:6XoSirec
最上は取り潰しになった経緯がちょっとどころじゃなく悪い話だからなあ
661人間七七四年:2012/04/14(土) 20:58:06.38 ID:ylmZU6Ln
幕府の仲裁無視はさすがにね
662人間七七四年:2012/04/14(土) 22:11:45.52 ID:zw0oFaJ4
>>656
地侍は内心主君なんぞ屁みたいもんだと思ってる連中ばっかだしね
まあそれでも生き残るには仕方ないんだろうけど
地侍が肩を組み合い私心を捨てて主君をもり立てる家中なんてありえないわな。小田家除いて
663人間七七四年:2012/04/14(土) 22:20:43.39 ID:6XoSirec
>>661
幕府の使者に、あんな主君フォローできねえよって言い放つなんて凄いよな
664人間七七四年:2012/04/14(土) 22:47:29.66 ID:6YRFzrCB
>>654
島津は時代は下るけど悪久・光久親子が子沢山の為、養子に出しまくってます。
665人間七七四年:2012/04/15(日) 10:49:41.55 ID:RuBLynEk
毛利配下の備中高松城を羽柴秀吉率いる織田の軍勢に囲まれ、小早川隆景から救援を求められた吉川元春は、家臣たちが

「隆景様は殿にばかり危険な戦いを任せ、自分は出ようともせぬ。この度の戦は隆景一人に任せればよいのだ。」

と隆景に対する不満を述べた際、

「もっともな言い分だが、隆景では秀吉には勝てぬし、兄弟である以上、毛利家の為に見捨てるわけにはいかない。
 皆が行かぬのであれば、自分一人で駆け付け、隆景と命運を共にするまでだ。」

と弟をかばって諸将を説得して出陣した。ところが、この戦いの陣中では作戦を巡って隆景と意見が合わず、

「秀吉は尼子とは違い、油断のならぬ相手です。兄上の様に勇ましさだけで勝てる相手ではありませんぞ。」

と諌める隆景に対し、

「武道の道を心得ていないのは隆景の方だ!」

とやりあうこともあったという。



666人間七七四年:2012/04/15(日) 12:27:52.22 ID:e0n52SGT
仲いいなぁー (棒読み)
667人間七七四年:2012/04/15(日) 12:34:01.01 ID:fASw1y++
五大老と一大名の差がついた瞬間ですね
668人間七七四年:2012/04/15(日) 12:58:53.95 ID:svMjX6vE
クロカン「おれはなにもやってないぞ、なあ・・・」
669人間七七四年:2012/04/15(日) 15:02:39.01 ID:zhs9n4gW
言ってることは正しいけど、一言余計だな
670人間七七四年:2012/04/15(日) 15:37:22.77 ID:TsLrBPtA
兄が知将で弟が勇将の組み合わせが望ましいのだけど・・・
671人間七七四年:2012/04/15(日) 15:45:55.01 ID:g9Qg6pVn
兄弟だからこそうっかり余計なことまで言っちゃうこともある
672人間七七四年:2012/04/15(日) 15:49:41.40 ID:qiYfcUVd
面と向かって言い合える立場は健全
673人間七七四年:2012/04/15(日) 16:21:21.76 ID:I8Xc3Ldo
この事が関が原での家康勝利に繋がる
674人間七七四年:2012/04/15(日) 18:37:03.60 ID:N+/eGGDU
一番仲が良かった兄弟ってどの兄弟なんだろう

北条四兄弟あたりかな
675人間七七四年:2012/04/15(日) 19:09:38.43 ID:zhs9n4gW
信玄は親子ではダメだったけど、
兄弟とはうまく言ってると思う

あと島津と長宗我部
676人間七七四年:2012/04/15(日) 19:21:36.37 ID:Qlc8nAQq
没後の秀吉の暴走ぶりを見ると
秀長は優秀な弟だったと思う
677人間七七四年:2012/04/15(日) 20:56:06.10 ID:MQjp001M
戦国最優秀弟賞があれば秀長さんか信繁さんに決まりだろうなぁ
678人間七七四年:2012/04/15(日) 21:06:45.13 ID:ItPF/cKG
ただ、そのあたりの弟が忠実だったのは、兄の惣領権の強さからくるものでもあるな。
挑戦してもしかたがない、となると忠実に仕えざるを得ない。
679人間七七四年:2012/04/15(日) 22:25:05.85 ID:rkgIvuRz
優秀な弟は目立たない
680人間七七四年:2012/04/15(日) 22:47:25.08 ID:wNebQ6hF
>>679
足利直義は優秀過ぎた...
681人間七七四年:2012/04/16(月) 00:46:32.91 ID:WuITdSTk
元就「元春と隆景が口論したら狭間で隆元が一生懸命宥めることで
2人もちょっと冷静になって御家の安寧も保たれるはずだったのじゃ」
682人間七七四年:2012/04/16(月) 10:22:03.85 ID:pHXvrJ47
そんな役目を負わされた兄君はストレスがマッハで…
683人間七七四年:2012/04/16(月) 11:19:52.43 ID:tjZmyrNA
出来の悪い弟をもった兄隆元?はかわいそうだな
684人間七七四年:2012/04/16(月) 11:27:30.02 ID:wanRi6E7
真田のおにいちゃんはよほど頑丈なんだな
685人間七七四年:2012/04/16(月) 13:49:44.73 ID:/R6bqgoH
>>680
戦がもうちょっと強かったら取って代わることも出来たのにな>直義
686人間七七四年:2012/04/16(月) 13:56:02.48 ID:1cdc2E2+
武田信繁の高評価の元がわかんない……。兄を裏切らず討ち死にしたぐらいでしょ。
兄に忠実である程度の功績、というのなら吉良親貞のように他にもいるし。
少なくとも全国政権の重鎮だった秀長と並べるのはちょっと。
687人間七七四年:2012/04/16(月) 14:30:45.94 ID:dKcmaLND
信虎追放時に家の混乱を防いで兄を支える そして兄を守って死ぬ
家督をめぐって争うことが普通の世の中でこれだけですごいことじゃないか
688人間七七四年:2012/04/16(月) 15:56:32.93 ID:pHXvrJ47
長宗我部さんと武田さんの差は、圧倒的な知名度の差だと思う
つか、まぁ、ラスボス化が目立つようになったのは秀長さん没後だっけ?
689人間七七四年:2012/04/16(月) 16:06:16.84 ID:Xway3Yro
ラスボスの片鱗はその前から見られたけどね
690人間七七四年:2012/04/16(月) 16:20:34.32 ID:WJiZ7HE4
天下人になるまえから性欲爆発してるよね
衆道に興味なかった反動か?
691人間七七四年:2012/04/16(月) 17:09:17.37 ID:smW9lbN/
長浜城主のころから性欲爆発させてたね
ロリにしか興味が無いからコロコロ女を変えやがるラスボス・・・
692人間七七四年:2012/04/16(月) 17:58:37.30 ID:BiP4wWAP
大阪、貝塚の願泉寺住職・宇野道喜の表した「貝塚日記」、天正13年(1585)の記事より

11月11日 夜九ツ半(午前0時頃)地震。この頃『光るもの」を見たものが多い

   29日 夜四ツ半過ぎ(午後10時頃)大地震。10日あまり余震が止まらなかった。京都三十三間堂の
       仏像600体が全て倒れたという。

       飛騨の帰雲という在所は、内ヶ島という奉公衆が居る所であるが、地震で山が揺り崩れ山河の多くが
       崩壊し、内ケ島の在所に大洪水が入り込んで、内ヶ島氏一統、地下人に至るまで残らず死んだという。
       この在所では、たまたま商用で他国に出ていた4人だけが生き残り、泣く泣く在所へと帰っていったそうだ。
       しかしそこは、尽く水没していたという。


天正大地震の、帰雲城崩落、内ヶ島氏滅亡のさいの、生々しい同時代の記録である。


693人間七七四年:2012/04/16(月) 19:04:32.25 ID:Q5lvbiHT
おっそろしい・・・
694人間七七四年:2012/04/16(月) 19:07:50.21 ID:KoJ/lVwr
戦国時代でも宏観異常現象ってのがあったという貴重な証拠だな
695人間七七四年:2012/04/16(月) 19:13:57.77 ID:nxs7NR83
元親兄弟はあんまり知らないけど仲がいい、かはともかく兄に忠実に補佐してた印象
子供の世代は最悪な印象w
696人間七七四年:2012/04/16(月) 19:17:54.14 ID:Xway3Yro
信親さえ生きていれば・・・
697人間七七四年:2012/04/16(月) 19:24:43.96 ID:zggXy0rx
秀久GJ!


698人間七七四年:2012/04/16(月) 19:39:01.23 ID:qHJ1tzLz
秀吉は秀次粛清や、秀長の家断絶で大暴れだからな……。
有力親族残すのが怖かったんだろうか。本家分捕られるって。
699人間七七四年:2012/04/16(月) 19:40:22.36 ID:Xway3Yro
それで家臣に分捕られてんじゃ世話ないな
700人間七七四年:2012/04/16(月) 23:39:11.49 ID:CcmFRLDX
逆に内ヶ島氏以外に災害で滅亡した氏族っていないのかな?
701人間七七四年:2012/04/17(火) 00:18:15.05 ID:U/x2kUY0
蘆名 あのタイミングと相手は災害としか思えない
702人間七七四年:2012/04/17(火) 03:21:59.81 ID:13wDE40U
>>700
内ヶ島が小領主だったからこそ起きた悲劇かもしれない
一族郎党山城に集まって、ってのがないだろうなあ
せめて麓の館に集まるのだろうし

……アメリカの閣議では一人はどっか別の場所にいるらしいが、日本の閣議は大丈夫なんだろうか?
703人間七七四年:2012/04/17(火) 05:25:50.47 ID:65OOtafj
>>702
大坂市長が取って代わるから大丈夫じゃね
704人間七七四年:2012/04/17(火) 07:29:16.16 ID:P2MS7QJ/
>>703
それこそ「悪い話」だw
705人間七七四年:2012/04/17(火) 14:10:29.13 ID:q9V9HcB/
ぽっぽがいきのこったらどーすんだよ!
706人間七七四年:2012/04/17(火) 15:24:32.15 ID:CZw1EhxB
「ちょっと悪い話」じゃすまないなw
707人間七七四年:2012/04/17(火) 19:23:11.61 ID:EepXJIms
政治家の悪口を思い込み程度でも言える時代っていーね。
秀吉時代なら、落書きだけで首がいくつも……。
708人間七七四年:2012/04/17(火) 22:46:33.46 ID:U/x2kUY0
アメリカは閣僚全員集合しないの?
テロで全滅をさけるため?
709人間七七四年:2012/04/17(火) 23:33:08.24 ID:eT5ZBdhf
そろそろスレ違い
710人間七七四年:2012/04/17(火) 23:52:06.48 ID:q9V9HcB/
まあ実際問題としてバカ殿と心中したくないだろうねw
711人間七七四年:2012/04/18(水) 05:25:44.23 ID:arX1voB8
小田家中を馬鹿にするか!
712人間七七四年:2012/04/18(水) 06:48:02.69 ID:2e+IAFa4
>>665
これ逸話を微妙に改変してわざと元春のイメージを悪くさせてるな
隆景と意見が食い違った逸話は秀吉が鳥取城を攻めてる時期の話

いい話31の>>622もsageてないしどうやら同じ投稿者くさい
713人間七七四年:2012/04/18(水) 08:40:28.78 ID:EV4NRU99
>>707
京童の落書にかける意気込みは
ロックすぎるから仕方ない
714人間七七四年:2012/04/18(水) 17:37:10.35 ID:zkqflcjJ
天正5年(1577)、松永久秀が信貴山城に滅びると、織田信長はこの信貴山攻めを行った
佐久間信盛を呼び

「これまでの功績と合わせ、播磨一国を与える」

と伝えた。この頃佐久間信盛は、畿内を始め尾張、西三河などに多くの所領と配下与力を持ち、
これにさらに播磨一国まで加われば、織田宗家に優に対抗できるほどの勢力となる。
当時の佐久間信盛への信長の信頼がどれほどのものか、よく分かる話であろう。

が、信盛はそれを断った

「所領は要りません。それよりも…」

信長所秘蔵の茶道具の一つ、古作の播知釜を望んだのだ。

「それは…」

と信長も躊躇したが、信盛の功績に鑑み、ついにこれを与えた。


後、佐久間信盛はご存知のよう追放される。そしてこの播知釜は、信守の遺品として、息子信栄に伝えられた。
信栄は高名な茶人と成ったが、この父の形見の播知釜で、よく茶を立てたとのことである。

滝川一益が上野に変えて名器を望んだのは、この先例があったためかもしれません。
佐久間信盛と「播知釜」のお話。
715人間七七四年:2012/04/18(水) 19:10:17.20 ID:UfSJgBJt
天正5年頃の播州貰ってもなぁ。
716人間七七四年:2012/04/18(水) 19:12:06.12 ID:uBsgnyg7
まだ反乱分子と戦ってる真っ最中じゃねーかw
717人間七七四年:2012/04/18(水) 19:17:03.28 ID:nhEVvg6w
先例って言っても悪い先例だな
播磨もらってたら中国攻めの司令官が秀吉じゃなくて佐久間になってたかな
718人間七七四年:2012/04/18(水) 19:18:37.69 ID:BmD74JCi
信長からしたら恩賞を与えるってのは名目で播磨攻撃に加わらせたかったのかね
信盛は上手にかわした形だけど、こういう如才のなさが信長をイラつかせてたのかもしれないな
719人間七七四年:2012/04/18(水) 19:57:57.00 ID:mVoHMMA1
佐久間さんは、折檻状に書かれているみたいに自己保守と蓄財の人だったからねー。
勤勉労働が武辺の第一! である信長の下である程度よくもったもんだ。
720人間七七四年:2012/04/18(水) 21:44:21.86 ID:NQiIF4R2
でも追放した後で後悔したんだっけ信長さん
721人間七七四年:2012/04/18(水) 23:06:55.56 ID:vJqaUbHG
佐久間信信に出来なかった事を悔やんでたんだよね
722人間七七四年:2012/04/18(水) 23:07:16.36 ID:vJqaUbHG
佐久間信信に出来なかった事を悔やんでたんだよね
723人間七七四年:2012/04/18(水) 23:46:25.15 ID:zVtg269Z
>>719
ある程度というか家督相続以前から20年以上仕えた最古参なわけで。>佐久間さん
724人間七七四年:2012/04/19(木) 00:28:52.36 ID:IvBU6m9h
信盛に一字与えても長盛だろ
725人間七七四年:2012/04/19(木) 01:12:24.34 ID:dSodJLJ5
>>724
6 名前:名無し曰く、 投稿日:2005/06/10(金) 19:54:41 ID:a+iuMhzz
信長「信盛には我が名より「信」の拝領を許す。
    只今より信信と名乗るがよかろう。」

秀吉「佐久間信信殿は誠に果報者でござるな。」




歴史ゲーム板の『?信長の野望で思わず笑った出来事』スレッドより、信長の野望・覇王伝のレス。
726人間七七四年:2012/04/19(木) 01:19:31.44 ID:IvBU6m9h
知ってる
727人間七七四年:2012/04/19(木) 01:47:51.81 ID:+nMEZfP4
728人間七七四年:2012/04/19(木) 11:20:38.24 ID:qIHoDWZV
>>724
なんJ板における大松みたいな事を言ってんじゃねえよ
729人間七七四年:2012/04/19(木) 11:45:26.06 ID:IvBU6m9h
誰やそいつ知らん
730人間七七四年:2012/04/19(木) 13:43:33.19 ID:ssTJLEyc
適当にググったら信長の偏諱の場合「信」のほうが多いようだ

金森長近
徳川信康
長宗我部信親
香川信景
近衛信基(のち信尹)
細川信良
伊藤長久

丹羽長秀?(父親が長政なので、通字かも)
浅井長政?
731人間七七四年:2012/04/19(木) 13:45:16.25 ID:ssTJLEyc
でも家臣と同盟者の息子じゃ偏諱も異なるか、すまん
732人間七七四年:2012/04/19(木) 22:16:12.30 ID:EjMLXnUs
もう出てたらすみません


「新宮党粛清」

尼子氏はもともと出雲に土着していた国人ではなく近江京極氏の一族で、
京極高秀の子高久が犬上郡甲良庄尼子郷(滋賀県甲良町)を領して以来、尼子氏を名乗るようになった。

明徳三年(1392)、高久の子・刑部少輔持久は出雲守護代に任じられて月山富田城(島根県安来市)に入り、ここに出雲尼子氏が起こる。

その後持久の孫・経久が紆余曲折を経ながらも勢力を拡大し、尼子氏は山陰の一大勢力となっていった。

さて、経久の二男国久とその子誠久・豊久・敬久らは、月山富田城の北麓新宮谷に居館を構えたことから新宮党と呼ばれていた、
尼子氏の勢力拡大は彼ら新宮党の活躍に負うところが多く、特に軍事面では尼子氏の中核をなしていたと言っても過言ではない。

ちなみに経久の嫡男政久が永正十五年(1518)に戦死していたため、経久は天文六年(1537)に孫の晴久に家督を譲っており、
晴久の叔父である国久は大きな発言力を持っていた。

しかし天文二十三年の今日十一月一日、晴久は定例の評議のため登城した国久・誠久・敬久ら新宮党を襲い、ことごとく殺害してしまった。
その際、誠久の五男孫四郎のみは乳母に抱かれて逃れ、のち京都東福寺の僧となる。

尼子氏の軍事的柱石であった新宮党が、なぜこのような形で粛清されたのか原因はいろいろ考えられるが、
一説には毛利元就がいずれ対決する運命にある尼子氏の弱体化を図り、
偽書を用いて新宮党に謀叛の企みありとの風説を流し、晴久を疑心暗鬼に陥れたと言われている。

当時晴久と叔父国久の間には微妙な空気が流れており、元就はそれを上手く煽ったわけである。
事実、新宮党には少々度を超えた言動もあったようで、加えて国政にも口出しをしてくる国久に対し、
当主晴久が次第に面白いからぬ感情を抱くようになっていたのかもしれない。

ともあれ新宮党はここに滅び、尼子氏の屋台骨は大きく傾いた。

見事に計略を成功させた元就は翌年安芸厳島に陶晴賢を破って勢いに乗り、大内氏をも滅して後顧の憂いを絶つと、
次なる侵略の矛先を石見へと向けた。

尼子氏は晴久が永禄三年(1560)十二月に急死したため義久が跡を嗣ぐが、もはや往年の勢いはなくジリジリと毛利軍の侵略を許し、
ついに同九年十一月に元就に降伏開城するという結末を迎えることになる。

なお、尼子氏の重臣山中鹿介は主家再興を目指し、後に京都に隠棲していた勝久を当主として担ぎ出すことはよく知られているが、
夢を果たすことなく播磨上月城で自刃した尼子勝久こそ、この事件の際にたった一人生き残った孫四郎その人である。

733人間七七四年:2012/04/20(金) 08:25:27.37 ID:mCHcNbJA
悪い話かのう? 新宮党粛清で宗家の権力はむしろ高まったはずだが。
晴久が生きてる間は対毛利で連戦連勝だし。
734人間七七四年:2012/04/20(金) 08:48:36.34 ID:r3tUNDmx
毛利の謀略で粛清したとかあれ講談なんだってね
それ聞いてから新宮党粛清に悪いイメージ持たなくなったわ
735人間七七四年:2012/04/20(金) 09:26:07.50 ID:eY6M7kuP
尼子最盛期は晴久の時代だからねー
尼子衰退の最大の理由はやっぱり次代の若さによる経験不足なのかな
736人間七七四年:2012/04/20(金) 12:26:00.59 ID:ikKYCeKD
勝久は新宮党の生き残りだったのか
737人間七七四年:2012/04/20(金) 12:36:52.26 ID:2xEh2nX4
新宮党は独自意識持ちすぎて尼子宗家にとって邪魔な存在でしかなくなってたからな
現に粛清後も尼子の軍事行動は衰えを見せてないし
実情は毛利の井上一族粛清に近い
738人間七七四年:2012/04/20(金) 15:38:37.46 ID:23JmFg1b
タイミングが悪いと御家滅亡の種になるからな、粛清は。
朝倉氏も宗滴以来の敦賀郡司家の権力剥奪を、よりによって信長と喧嘩し始めたタイミングでやっちまったから……。
739人間七七四年:2012/04/20(金) 18:57:47.78 ID:kicHRO09
粛清して権力の一本化、と言えば聞こえはいいが、
要するに一門衆の権力を殺いでいるわけで、
逆目が出たら手足を自ら殺いだに等しいからな。
740人間七七四年:2012/04/21(土) 00:46:57.42 ID:jfwySIXy
服部小平太の墓?の悪い話

静岡県浜松市細江町姫街道長坂付近に服部小平太の墓がある。
服部小平太といえば桶狭間の戦いで毛利新介と共に今川義元を討ち取った彼である。
後に徳川に仕えた小平太は勲功として刑部城周辺の地を治めることになったのだが、天正十五年(一五八七)六月十八日に小平太は神ヶ谷の陣から馬で見回りをしていたところを何者かに殺されたという。
このあたりは今川恩顧の者が少なくなかったことから服部小平太を恨んでいた人物が殺したのでは?と地元では言われているらしい。
以上が桶狭間で戦功を上げた服部小平太が何者かに殺されたという悪い話…

だが待って欲しい。服部小平太は秀次事件に連座し上杉景勝に預けられた後に切腹を言い渡され亡くなっているはずでは?

どうやらここで殺された服部小平太と言われてる人物は服部中保次という服部小平太こと服部一忠とは別人の人物らしいのだ。
「寛政重修諸家譜」の服部中保次の説明で桶狭間で義元の本陣に対し戦功を上げたと書かれていたため服部一忠と混合されたと考えられている。
以上が服部小平太の墓と伝えられていたものが実は別人の墓だったという悪い話である。
741人間七七四年:2012/04/21(土) 08:17:17.87 ID:6LBdcNJp
毛利新介よりもというより大名まで出世してたんだな
要領の悪い一発屋で終わったんだと思ってた

いや連座させられたってことは要領が悪かったって事なのか
742人間七七四年:2012/04/21(土) 11:26:40.24 ID:gz9U3PWZ
あの時の連座は要領で回避できるかどうか・・・
743人間七七四年:2012/04/21(土) 15:05:57.33 ID:APuXXqtw
晩年のトチ狂った秀吉はもう天災みたいなもんだからな。
重税、意地になってやった対外侵略、粛清etc……。
744人間七七四年:2012/04/21(土) 19:38:19.27 ID:vTXnMZyM
個人的に秀次と仲が良かったらしい秀忠と真田兄弟などはお咎め無しだしね
745人間七七四年:2012/04/21(土) 19:50:36.79 ID:hP0IehJ1
家康時代まで生き延びても、今度は改易や大久保長安事件のようなトンデモ連座事件があるからなあ……。
746人間七七四年:2012/04/21(土) 22:09:24.68 ID:VHzgB3G8
竜造寺本家の当主である胤栄が病死した際、竜造寺から攻められ筑後に亡命していた
少弐冬尚が、復権の好機とみて肥前に侵入してきた。これを受け、家中の話し合いにより胤栄の跡を
継いでいた竜造寺隆信は、重臣を集め

「我が代で国が乱れるのは許せぬ。すぐに出兵しよう。そして少弐家を討ったら東を得よう。次に有馬家を
 討てば西は治まる。それが成功したら、今度は隣国に出陣し菊池家や島津家をも従えて、中国、四国にも乗り出すのだ。」

と宣言した。所が家臣から

「まだ国内も治まっていないのに、諸方へ手を出しても敗れるだけです。」

と諌められ、隆信もこの意見に激怒して軍議の場から退出してしまった。この一件で、重臣からは

「あれでは国を治めることは出来ない。」

と嘆かれてしまったという。しかもこの後、かねてより隆信の本家相続を快く思っていなかった土橋栄益に
謀反を起こされてしまったという。 夢を語るには早すぎた隆信の悪い話。
747人間七七四年:2012/04/22(日) 06:57:34.20 ID:UiDyQwDU
>>746
肝心の大友家忘れてますよ隆信さん
748人間七七四年:2012/04/22(日) 10:33:44.01 ID:JYQ44lJM
元就「天下統一を願って、九州統一」
749人間七七四年:2012/04/23(月) 17:36:53.87 ID:jUTmYakp
天文15年(1546)10月のこと、京の内裏に、数千人の土一揆が、天皇に直訴するために押し寄せた事があった!
噂ではこれは、幕府の奉公衆や奉行衆のうち、一揆の相談を受けた2,3人のものが、そうしろろ支持したのだ、
とも言われた。

ともかくも一揆側の直訴内容はこうだ

『幕府が徳政令発布を認めないので、我々は迷惑をしております。どうか朝廷から幕府へ、徳政令を行うように
仰っていただきたい。』

この突然の直訴に慌てた朝廷では、後奈良天皇の御前で緊急会議が行われた。
天皇は内裏に土一揆が乱入することを心配し、「幕府に徳政令を促そうと思うが、どうか?」と発言。
これに勧修寺尹豊などは賛同の意を表した。

しかしこの時、広橋兼秀らが猛然とこれに反対した。
兼秀はいう

「これは間違いなく、後代に悪しき先例を残します!また世上の嘲りをご推察してください!
たとえ一揆が乱入しても、我々が力づくで追い払います!」

このような意見に結局後奈良帝も、直訴を受け入れないことに決定した。
そこで、この時朝廷は、直訴を受けない理由を、土一揆にどう説明したか?その内容はなんと

『正当な訴訟なら白昼に持って来るべきなのに、このように「夜中の強訴」をするとは狼藉千万である。
よって聞き入れるわけにはいかない。』

そもそも内容以前に手続きルール違反だからダメだわ。ということである。これに土一揆は…

『それは尤もである』

と、納得し、帰っていったそうである。


幕府に対してすら傲慢なのに、変なところで素直な土一揆であった。
(兼秀公記)
750人間七七四年:2012/04/23(月) 18:16:01.36 ID:ZWZ3VlM9
>>749
今の政府にはこの気概がないよな。
だから国民に支持されない。
751人間七七四年:2012/04/23(月) 18:50:35.87 ID:x5GWsWje
>>746
まず朝鮮を討ち、その後は明に討ち入る。
明を制覇した後は天竺だ…


権力者が夢を語るのは時と場合による
752人間七七四年:2012/04/23(月) 19:51:28.77 ID:bKLn3Mc/
秀吉の場合、朝鮮や明との仲介に立った部下が
「アホくさい……でも素直にそれいったら首が飛ぶし」
と、本当の事を秀吉にも朝鮮にも伝えなかったせいでさらにややこしくなった気がする。
最初の申し入れも、一回目の講和もそうだし。
753人間七七四年:2012/04/23(月) 23:12:08.92 ID:6Hf2ksHy
「意に沿わなければ首が飛ぶ」というのが統治者としての秀吉の評価
754人間七七四年:2012/04/23(月) 23:18:43.83 ID:ImeF7tag
戦争キチどもを統治するにはそれが一番効率良さそうなんがなんとも……
755人間七七四年:2012/04/24(火) 00:31:02.73 ID:Pa45hJha
まあ大名独裁制の当然の行く末だよな
756人間七七四年:2012/04/24(火) 01:00:16.73 ID:0oEHuCEz
>>746
クマー厨二っぽいけど鍋島による後世の創作だよね...
757人間七七四年:2012/04/24(火) 01:15:24.35 ID:4GNPk3x1
それを言い出したら逸話なんてそんなもんだろって話なわけで
758人間七七四年:2012/04/24(火) 04:12:01.41 ID:b6RY9YD/

初陣のときの逸話として、細川忠興の家臣・武藤太兵衛が忠興の性器(陰嚢)を握り、「人は怖気づいた時は縮むものですが、
殿のは縮んでおりませんな」と笑って述べたため、その直後に忠興に切り殺される。
759人間七七四年:2012/04/24(火) 04:19:36.86 ID:b6RY9YD/
>>698
源頼朝は、息子に遺産を継がせるために、弟を殺しまくって家を支える親族が皆無
760人間七七四年:2012/04/24(火) 06:45:16.95 ID:RWi+8Fen
>>759
秀吉と違って、従兄弟やまた従兄弟はポコポコ残っているじゃない
761人間七七四年:2012/04/24(火) 08:27:50.11 ID:fsg2WA/u
虎と市松って確証がないけど一応従兄弟とまた従兄弟て話じゃなかったっけ?
762人間七七四年:2012/04/24(火) 08:47:41.48 ID:mAdre6UN
>>758
三斎さんは下ネタもダメか…
よくあるパターンの話だし、本質は武人の人だからこのネタはOKかと思ったんだがな〜
763人間七七四年:2012/04/24(火) 09:21:06.36 ID:eTGE8NXx
764人間七七四年:2012/04/24(火) 11:44:27.03 ID:xo5GbirD
>>759
八葉が藩屏になると思ったんだろ
765人間七七四年:2012/04/24(火) 12:07:27.74 ID:WeBW0wgi
初期鎌倉政権は源氏の血じゃなくて頼朝個人のカリスマで
成り立ってたという学者も結構居るからな
義経関連の創作物のお陰で姑息な小心者のイメージが定着してるけど
実際は偉大な人物だったわけだ。
766人間七七四年:2012/04/24(火) 12:19:28.54 ID:5SLou1D5
>>759
頼朝が殺した弟って、義経だけじゃないかね
767人間七七四年:2012/04/24(火) 12:24:35.03 ID:ozBaKjyZ
秀吉がやらかした粛清や対外侵略は、むしろ豊臣子飼いの武将達に内紛呼んだからなあ。
政権支えるための行為なら、それこそ徳川等を狙い撃ちにするはずだけど。
あきらかにおかしかったからな。秀次は追放と自害を受け入れたのに、連座ってレベルじゃない範囲広げて……とか。
768人間七七四年:2012/04/24(火) 12:32:08.59 ID:HNeVQ8nR
>>760
その辺りの血族なんて源氏内じゃ敵と代わらんわい
769人間七七四年:2012/04/24(火) 12:37:25.68 ID:ozBaKjyZ
>>766
範頼も粛清されてなかった?
770人間七七四年:2012/04/24(火) 12:50:01.66 ID:5SLou1D5
>>769
その弟が死んだのは、頼朝公の死後だったと思うが
771人間七七四年:2012/04/24(火) 12:51:27.69 ID:76wVVDVV
ぐぐれ
772人間七七四年:2012/04/24(火) 13:07:17.60 ID:ozBaKjyZ
>>770
いや、講談のネタとして有名な曽我兄弟仇討ち騒動で、頼朝死去の誤報が入ったとき、
鬼y……政子ちゃんに「この私がいるので大丈夫です」と言ったのが謀反の兆しと取られたから、存命中の処置だったはず。
773人間七七四年:2012/04/24(火) 13:28:29.30 ID:tmxNn1P1
源氏で言う身内っていうのは、もっとも近い敵って意味でしか無いからなw
774人間七七四年:2012/04/24(火) 13:36:09.04 ID:Sep8TOvj
足利家も細川家もそうだな。
775人間七七四年:2012/04/24(火) 15:21:01.22 ID:tmxNn1P1
武田、山名、最上、里見あたりもひどい
776人間七七四年:2012/04/24(火) 15:27:52.45 ID:cUQuNfGQ
義久「>>775兄弟仲のよいうちは贋源氏と言いたいのか?」
777人間七七四年:2012/04/24(火) 15:33:23.52 ID:tmxNn1P1
>>776
親父殿が宗家をついで一族をまとめあげるまで酷い惨状なんですけど、島津氏
778人間七七四年:2012/04/24(火) 15:40:58.96 ID:tTZ3T335
徳川家も……。
家康は長男を殺害、次男を冷遇。ただ晩年に生まれた子供達は可愛がったらしいが。
……そういえば三河物語にしかない「本能寺の変で、信長は息子を疑った」というくだりは、
信長が家康長男を殺させた、という話をじーさまが信じてたせいで書いたんだろうか。
779人間七七四年:2012/04/24(火) 15:42:03.66 ID:4bDF0eh8
>>774
足利家は鎌倉時はむしろ仲良いってーか、
庶長子が嫡男の後見や補佐したとか多いのにな
780人間七七四年:2012/04/24(火) 15:44:22.04 ID:4bDF0eh8
>>778
当時の謀反というか、家督乗っ取りの順番としては秀吉が当初三法師担いたように、
正当性のある神輿担ぐというのが常道だっtからじゃないか?
781人間七七四年:2012/04/24(火) 16:02:39.45 ID:h2/iVufX
>>778
次男を冷遇したって・・・またまた御冗談を
782人間七七四年:2012/04/24(火) 16:06:31.73 ID:cUQuNfGQ
結城さんは厚遇されてたよねえ
783人間七七四年:2012/04/24(火) 16:09:50.12 ID:xo5GbirD
同母弟でもライバルになる中で異母弟じゃな。頼朝は希義とは兄弟仲良かったみたいだけど。
784人間七七四年:2012/04/24(火) 16:15:54.13 ID:tTZ3T335
冷遇してたじゃんw
原因はわからんが、対面さえ許さず(信康が無理矢理あわせた)→人質に。
後継者からも外す。
むしろ秀忠らのほうが気を使う事に。
785人間七七四年:2012/04/24(火) 16:18:03.63 ID:xo5GbirD
大名の子供になると母の出自ってかなり重要よ
786人間七七四年:2012/04/24(火) 17:31:00.35 ID:BY1Y6njQ
信長も腹違いの兄が何人もいたはずだよね
787人間七七四年:2012/04/24(火) 17:45:32.41 ID:/lvlPHF+
家光も弟を粛清しているし。権力っていつの時代も人間を狂わせるね。
788人間七七四年:2012/04/24(火) 17:47:45.07 ID:jhfm9YSD
>>784
それは母親の出自が低い上に身持ちが悪く、家康が実際に自分の子かどうか疑ったためであって、
実子として認めた後は、母親の出自から考えればむしろ厚遇されているし、
成人してからは家康は、明らかに秀康を高く信用している。

あと母親の出自から言って、母親の身分の高い異母弟が、それも複数いた以上、
秀康が徳川宗家の家督を継ぐ可能性は最初からほぼなかったし、それは秀康も当然わかっていたこと。
789人間七七四年:2012/04/24(火) 18:11:01.36 ID:/lvlPHF+
徳川家の史料でも、誰を後継者にするかで秀康の名が挙がっているが。
かなり候補がばらけて忠吉の名を挙げる家臣もいた。
790人間七七四年:2012/04/24(火) 18:42:00.00 ID:jhfm9YSD
>>789
関ヶ原の後のアレ?
アレもよく解からんのよね。秀忠は秀吉の生きていた頃から既に、畿内にほぼ駐在している
家康に変わって、徳川の本拠地である江戸城を任されていたし、官位から言っても、誰が見ても
徳川の世継ぎは、秀忠に決まっていたわけで。
それに関ヶ原後、淀殿が関ヶ原の「戦勝祝い」で呼んだのも、家康・秀忠親子だった。外から見ても
家康の跡継ぎは秀忠と思われていたわけだ。

あの後継候補を上げた話って、改めて秀忠が世継ぎであることをアピールするためのイベント、以上のものは
あったのかな、とは思う。
791人間七七四年:2012/04/24(火) 18:46:38.47 ID:BY1Y6njQ
その人物に箔をつけるために言ったのかもね
後継者候補に名が上ったという
792人間七七四年:2012/04/24(火) 18:47:17.82 ID:HNeVQ8nR
秀康が家康に距離を置かれてたのは秀吉の人質の時期があったせいかも
豊臣に近い位置だったせいで心を許せず、かといって粗略には扱えない
秀康はいろいろ難しい立場だったなのによく乗りきったと思う
793人間七七四年:2012/04/24(火) 18:55:35.46 ID:4bDF0eh8
>>787
あれは弟個人というより、弟に漏れなく着いている反現政権・旧派閥家臣の一掃の意味も大きいだろ
中央の反対勢力の御輿になりたくなきゃ、それなりの行動と意志示していないとさあ
794人間七七四年:2012/04/24(火) 19:28:01.42 ID:Tcnhrtaf
信雄と信孝も仲悪かったな。後継問題で喧嘩して、秀吉に付け入られる隙作って織田を結果的に小大名に転落させる。
真偽は不明だが、本当は信孝のほうが兄だったけど、母親が信長の寵愛受けてた側室(つまり信雄の母)に遠慮して遅く生まれた、と届けたとか。
何にせよ、信長の才幹は一代限りだったな。信忠はそれなりに有能だったようだが。
795人間七七四年:2012/04/24(火) 19:49:29.97 ID:WeBW0wgi
親父も有能だったから一代限りってのはちょっと
796人間七七四年:2012/04/24(火) 20:08:44.01 ID:jhfm9YSD
信長という人が抜群に有能だったのは間違いないけど、やはりあの急激な領土拡大は
信長の一代芸と言うべきで、既存の既得権を丸呑みすることで拡大した織田家が、信長の後も
安定したかというのは(信忠が有能かどうかというのを置いても)難しかっただろうな、とは思う。
797人間七七四年:2012/04/24(火) 21:02:44.99 ID:wGx4j7KU
 徳川二代将軍の秀忠は江戸の鉄砲町で刀鍛冶をしている繁慶という男の腕が良いという評判を聞き、
彼の作刀を取り寄せた。その出来があまりにも見事なので秀忠は本阿弥家の者に見せてみた。
本阿弥光悦を輩出した本阿弥家は戦国から江戸時代にかけて刀剣鑑定の家業で有名な一族である。
その本阿弥家の男は刀を一見してすぐさま「これは相州正宗のものでございます」と言った。
正宗は鎌倉時代に活躍した刀工の名前である。
「外れたわ。これは繁慶という男が最近作った刀だ」と言って秀忠は笑った。本阿弥は驚いて
刀に彫られた銘を確かめると、「恥ずかしいことです。しかしながら、今の世にこれほどの刀を打つ者が
いようとは思いませんでしたな」と絶賛した。当の本人の繁慶はこの話を聞いても喜ばず、
「俺の刀が正宗ごときの凡工の作と間違えられるとは」と不機嫌になった。

明治時代になり、大久保一翁という男が繁慶の刀を本阿弥長識に見せると
これもまた、見ただけでこの刀は正宗だと自信たっぷりに答えた。一翁に間違いを指摘されると
本阿弥長識は「正宗を模造して作ったのだから繁慶正宗と称するべきです」と開き直った。

刀剣鑑定のプロの一族が鑑定ミスを繰り返してしまったちょっとかっこ悪い話
798人間七七四年:2012/04/24(火) 21:34:23.26 ID:tmxNn1P1
先祖は素直に過ちを認めたのに、
子孫は開き直りやがったwww
799人間七七四年:2012/04/24(火) 21:36:58.93 ID:LQPLLY1n
本阿弥は何でも正宗にするから困る。
でもリップサービスも仕事のうちだからシカタナイネ


関白近衛信尹と本阿弥光悦も
こんな逸話でもおなじみの二人だが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6318.html

すでにこの時代から本阿弥家が鑑定を「盛る」のはお約束だったと見えて、

あるとき近衛信尹が光悦に所蔵の短刀の鑑定させた時のこと。
光悦はこれを一見して「正宗にございます」と即答したが

実はこの短刀、信尹が光悦をハメるためにわざわざ
京都の刀鍛冶に依頼して寸分違わず模作させた新品だったのだ。

光悦はこっぴどく信尹に叱り付けられ、
しばらくのあいだ近衛邸への出入り禁止になってしまったということだ。
800人間七七四年:2012/04/24(火) 21:40:40.90 ID:mAdre6UN
大久保一翁という男ってククリは、あんまりだと思います^^;
801人間七七四年:2012/04/24(火) 22:01:02.23 ID:LQPLLY1n
>>799の続き

それから二十日あまりも経った頃、
さすがに光悦がいつまで経っても姿が見えないので、ちょっと不安になった信尹公。
使いを出してみると、光悦は病気で寝ていたが、
もう治ったので二、三日中にはお伺いしますとのこと。

さて近衛邸にやって来た光悦に、信尹が先日の話を蒸し返したところ、
光悦は一枚の色紙を取り出した。

「これは以前、信尹さまから頂いたものですが見覚えはございましょうや?」
見てみると確かに信尹の筆である。
信尹が自分が書いたものであることを認めると、光悦ここで種明かし。

「これはわたくしが病と称して引き篭もっている間に書いたニセモノです」
そう言われて信尹がよくよく見返すと、
たしかに似てはいるが違う部分がいくつかある書であった。

光悦「先日の正宗の見間違いも、
   新刀を打つ時に正宗を打とうと心を込めて打ったので、正宗に見えたのです」(ドヤァ


これには信尹公も苦笑いであった。
802人間七七四年:2012/04/24(火) 22:35:18.26 ID:2u9p2p/8
お前ら本当に仲がいいな
もう結婚しろ
803人間七七四年:2012/04/25(水) 00:56:29.39 ID:ukoGj2t7
人取橋の戦いで、伊達・田村の兵力8000人程度。 4年後の摺上原の戦いで2万人?

畠山と大内の領土を併合して、猪苗代が見方に付いた。これで2倍以上か?

それと独眼流政宗で、相馬の重臣を騙し討ちしたことが無いよ。
804人間七七四年:2012/04/25(水) 00:58:40.37 ID:ukoGj2t7
>>796
> 既存の既得権を丸呑みすることで拡大した織田家

これは秀吉だろ。上杉、毛利、徳川、伊達をそのまま残し死後に大乱。

信長は、潰しまくり。佐久間や林もついでに。
805人間七七四年:2012/04/25(水) 01:04:19.80 ID:4ypUVqOj
>759よしみつ「家族殺しは源氏の年中行事だよ♪」
806人間七七四年:2012/04/25(水) 01:25:57.11 ID:1aW69wHh
秀吉も信雄丹羽大友蒲生と短期間で大減封しまくったうえに小早川乗っ取ってるぞ
秀次まで潰してしまったが

権力確立してから寿命までの時間が他に比べ短いというのもあるし
807人間七七四年:2012/04/25(水) 05:41:47.28 ID:VXdQCCzc
信雄はともかく他は相応の理由があるじゃねーか
808人間七七四年:2012/04/25(水) 13:24:13.13 ID:kS06K2bd
理由=俺が気にくわないからみたいなもんか

大友・波多あたりは朝鮮征伐が原因だけど…
809人間七七四年:2012/04/25(水) 14:17:54.67 ID:dCFjanja
既得権丸呑みって徳川幕府までずっとそうなんだけどな。
810人間七七四年:2012/04/25(水) 18:51:32.85 ID:1aW69wHh
>>807
理由が無きゃ潰せんよ
初期の徳川幕府だって一応理由付けはしてる
811人間七七四年:2012/04/25(水) 19:04:26.09 ID:wivtCGN9
信長「追放の理由は、直筆で余す所なく伝えるものだよな」
812人間七七四年:2012/04/25(水) 19:20:38.35 ID:1lUak4IF
考えてみれば、右筆が当たり前のこの自体に直筆の折檻状って律儀だな
別に使者を立てて口頭で処分を伝えるだけでもいいのに
813人間七七四年:2012/04/25(水) 19:31:14.33 ID:VgSLHNA0
>>806
漫画の読みすぎだろ
秀吉は中央集権化にほとんど興味もってないぞ
814人間七七四年:2012/04/25(水) 19:54:31.28 ID:S4zHkS7B
>>812
律儀というよりも、自分で罵詈雑言を書きたくなる位にご立腹ってことなんじゃないかな?
一言いわなきゃ気がすまいってことは我々でもあるじゃないですか〜
815人間七七四年:2012/04/25(水) 23:56:10.93 ID:V/yQIQPG
信長は近江(京東)を引っ掻き回して
秀吉は淀川流域(京西)をハチャメチャにした、
そんなイメージ>既得権
816人間七七四年:2012/04/26(木) 00:50:52.15 ID:EqWOOmgl
>>806
これだけ潰した割には豊臣本家にたいして実入りがないんだよな
太閤蔵入地とかあるとはいうものの
子飼いも関ケ原まではそこそこの中堅大名以下しかいないし、浮いた分徳川前田に持ってかれただけな気がしなくもない
817人間七七四年:2012/04/26(木) 03:49:53.84 ID:w/H5xH0i
前田は豊臣の与党だから大丈夫だと思ったんだろう
問題は徳川に関東まるごとくれてやったことだと思う。あれで抜きん出た勢力になっちまった
家康は東海に留めて関東は上杉・佐竹・豊臣旗本あたりで割るべきだったんじゃないのかね
お互いに牽制させる感じで勢力を拮抗させた方が家康も動きにくいだろう
818人間七七四年:2012/04/26(木) 04:37:47.37 ID:55TkOpAK
まあ、転封を拒否したり統治をミスれば処分できたわけだからなあ
信雄とか佐々成政みたいにさ
本貫地含む自力で取って手塩にかけた領地を取り上げて、
直前までの敵地に移しちゃうわけだから、問題も何も相当に酷い処遇だろ

まあそれをうまく切り抜けた家康のファインプレーだけどな
819人間七七四年:2012/04/26(木) 04:43:10.77 ID:ysZNjGzy
また切り抜けられるだけの下地を北条が作っていたからな。
独自に検地済みだし、佐々のしくじりの元になったような国人層は潰していたか官僚化済だったし。
家康にしても甲斐や駿河で自領化に成功していた経験もあったし。
820人間七七四年:2012/04/26(木) 08:45:46.93 ID:maciCzzR
関東は堀にやる予定だったとか見た覚えがある
小田原征伐のときに病没したから徳川になったんだね
珍説で堀が生きてたら徳川は会津という話もあったからもし実現してれば
伊達徳川の面白い逸話が生まれたかもしれん
821人間七七四年:2012/04/26(木) 10:59:04.74 ID:Go6ipyJ+
俺が秀吉なら東北全部取り潰して家康にくれてやる
関東なんて平将門の時代から何度も中央に反乱起こして
独立志向が強い土地柄なのに危険すぎるわ
822人間七七四年:2012/04/26(木) 11:29:05.06 ID:acoxwNRe
独立思考が強い奴はそれぞれ相手を牽制しあってもらった方が動きとれないと思うがなあ
823人間七七四年:2012/04/26(木) 11:47:34.98 ID:JGJZLesC
家康に関しては長久手で負けたのが全て。
結果論だけなら天下統一が遅れようがなにしようが潰れるまでとことんやるべきだった。
824人間七七四年:2012/04/26(木) 12:26:26.40 ID:93dG/gz8
ずっと徳川を押さえつけられると思ってたとは思えないし
先に家康死ねばどうとでも出来るっておもってたのかなあ
825人間七七四年:2012/04/26(木) 16:11:03.52 ID:mYlh5woA
趣味が薬作りの奴に寿命競争挑む訳ないだろうが
そもそも秀吉の方が年上だろ
826人間七七四年:2012/04/26(木) 16:15:18.59 ID:OExFLsTV
家康を心底信頼するようになったとか?
自分が信長の子弟にやった事を忘れて……。
827人間七七四年:2012/04/26(木) 17:34:04.94 ID:g2SOi90b
秀吉は、臣従後の家康を心底信頼しているんだよね。それこそ小早川隆景と並んで東西の双璧にするくらい。
で、家康の方も秀吉に、心底忠実に仕えている。

秀吉死後も、家康は一般に言われているのとは違い、あくまで豊臣政権の宰相として行動しているし、
関ヶ原も徳川派vs豊臣派というのはやはり間違いで、あくまで豊臣政権内の主導権争いと見るべきだろうね。
それが徳川幕府の開府に至っちゃうのは、その後のいろいろややこしい過程があるわけで。

いい話スレのほうで話に出てたけど、徳川幕府は本当に大阪の陣直前まで、大名の羽柴姓を普通に
許容していた。これは徳川の方には豊臣を滅ぼそうとする積極的な意思はなかった、と見ていいと思うよ。
少なくとも秀吉がやったような、織田家権力の簒奪のような行為は、家康はやっていない。

個人的には大阪の陣の勃発は、冬夏共に豊臣家側の挑発・暴発が大きな理由だと思う。
828人間七七四年:2012/04/26(木) 18:15:12.99 ID:55TkOpAK
それはちょっと好意的にすぎると思うけれど、
当初は豊臣を滅ぼす気はなかったとも思うね
つっぱねまくるんだもん、あいつら
829人間七七四年:2012/04/26(木) 18:57:18.23 ID:30GA2CXF
>>827
>それこそ小早川隆景と並んで東西の双璧にするくらい。

なるほど豊臣両川体制か。
830人間七七四年:2012/04/26(木) 20:01:36.15 ID:iCm/wXfL
秀吉は堀と蒲生に惚れてるとしか思えないくらい重用してたよね
どちらも早世してしまったから重用に値するほど大名としての能力あったのかイマイチ判断できないけど
831人間七七四年:2012/04/26(木) 20:10:17.14 ID:bHClotPq
長谷川秀一も彼らほど優遇はされてないが15万石も貰ってた。信長小姓衆への待遇は悪くないな。

ただし矢部、おめーはダメだ
832人間七七四年:2012/04/26(木) 20:54:29.95 ID:fSlqgVWm
楊枝くらい作ったっていいじゃない
833人間七七四年:2012/04/26(木) 20:59:49.89 ID:Pza89DCr
てゆうか秀忠陰湿
834人間七七四年:2012/04/26(木) 21:08:22.20 ID:Jj3Rx1Ox
>>827>>828
小説に洗脳されたっぽい個人的意見はもう結構です><
835人間七七四年:2012/04/26(木) 21:14:16.49 ID:O15v/WLk
>>834
織田だって最終的には豊臣に下ったんだから
豊臣にだって逆らわずに下るという選択肢はあった
836人間七七四年:2012/04/26(木) 21:44:00.90 ID:YG2lhH9k
>>834
つか普通に現在の有力説だろ>家康は豊臣家を潰す気がなかった
837人間七七四年:2012/04/26(木) 21:56:30.04 ID:iCm/wXfL
家康も「途中までは」潰す気無かったって言わないと
838人間七七四年:2012/04/26(木) 21:57:06.37 ID:NHWyRrLj
そんなもの誰もわからん
いろんなバイアスかかりまくるし
839人間七七四年:2012/04/26(木) 22:02:20.50 ID:w/H5xH0i
>>835
立場が違う。岐阜織田家は関白秀吉に保護されるって形であって降らせたわけじゃない
それに織田家は秀吉の主家だし、三法師は清洲会議以降の秀吉の政治的正統性の担保だった
秀吉が母親と妹を渡してようやく降ってもらった家康と豊臣家じゃ繋がりの深さが違う
豊臣家にしたらそんな縁の薄い相手に降ったところで家を全うできるか不安だったんだろ
そもそも、何かも放り投げるには豊臣家は名も領土も大きすぎた
家康に豊臣家を潰す気があったかどうかなんて不毛だよ。そんなのわからん
それより豊臣家に降伏が可能だったかどうかを考えた方が有意義だと思う
840人間七七四年:2012/04/26(木) 22:25:10.74 ID:9j97hhVT
荒木村重の織田信長への謀反が起こる。
その謀反に味方したものの中に高野聖があり、それが高野山に逃げ込んだ。
信長はその者たちを差し出せと使者を送ったが、高野山では僧徒がこの使者の態度に怒り、これを殺してしまった。
この事態に延長は激怒、『諸国の高野聖を捕えて殺せ!』との命令を発した。

そこで伊勢でも数百人の高野聖やその関係者が捕らえられ、松ヶ島で処刑される事となった。
この処刑を、織田信雄・信孝兄弟が検分した。

処刑は次々と行われ、最後に15歳くらいの少年が引き出された。
この少年が顔を上げる。…と、

「…!!まて!その処刑、待て!!」

織田信雄が突然これを止めた。少年はその容貌、非常に美しく、信雄は彼を見初めてしまったのだ。

「この者は、私の名において助命いたす!」

信雄はそう宣言し、少年の身柄を引き取った。

この様子を見ていた織田信孝は、白子杢右衛門尉というものを呼び出すと、いきなり呟いた

「尻ゆえにこそ命たすかれ」

これに白子はすぐさま

「蜘蛛(ささがに)の 糸あはれにも引き出して」

と、上の句を付けたという。信雄への強い皮肉である。
信雄はこの少年に「道也」と名をつけ寵愛し、彼は信雄のもとで大いに「出頭」したという。

この軍記を書いた作者は、当時の世相をこの様に書いている
『今、諸家では男色に溺れ、佞者を愛し、そういう者に大きな知行を与えて国を乱すものが多数いる。』

傾国の美女ならぬ、傾国の美少年が数多いた時代の記録である
(勢州戦記)
841人間七七四年:2012/04/26(木) 22:46:43.27 ID:8cTFU5HW
>>838>>839
わからんではなくて明らかにわかろうとしていないよねこれ。
842人間七七四年:2012/04/26(木) 23:00:44.06 ID:1+sm0Z9E
のぶおタン…
843人間七七四年:2012/04/26(木) 23:03:56.24 ID:iCm/wXfL
高虎が側近達の衆道狂いに悩まされて禁止するためにあの手この手を考えるちょっと悪い話もあったな
844人間七七四年:2012/04/26(木) 23:07:57.43 ID:O15v/WLk
修道ネタが多いほど資料としての価値の低さを無視して引用されるのが困ったもの
845人間七七四年:2012/04/26(木) 23:20:20.14 ID:bsD0EtDT
尻一つで!!
846人間七七四年:2012/04/26(木) 23:26:24.04 ID:fSlqgVWm
まあここは逸話スレだし
847人間七七四年:2012/04/27(金) 00:30:06.30 ID:cqEC5bYf
>>840
久々に笑ったw
848人間七七四年:2012/04/27(金) 06:55:28.68 ID:q7I+YgjL
史料価値なんて知ったことか!
ってことで角川書店の日本の伝説 35巻をソースにして一つ。

かつて応永の乱の主役たる大内義弘が築いた山口の築山館。
その庭園には「月見の松」なる名木があり、
その月影に映える枝ぶりは代々の当主の心を大いに和ませるものであった。

さて、天文十五年。大内義隆公の御世のことである。
この築山館にて松の枝に掛かる秋月を肴に義隆公が月見の宴を開いていたところ、
館の塀の上に怪しげな影の一つ、蠢くものがあった。
義隆公は大いに怪しみ、急ぎ宿直の者を呼びつけてこれを撃つように命じる。
命ぜられた武士、松原隆則は弓矢を取り出してひょうと射放つと、矢は狙いあまたず影を射抜き、
射抜かれた影はどうと庭へと崩れ落ちた。
この時射殺された影を改めて見ると、それはまごう事なき天花畑の山奥に潜む山姥の姿で、
これを見事退治した松原隆則は大いにその面目を施したという。

だが、常日頃になき妖怪の出没は、周防の人々によからぬ事が起きる予兆を強く感じさせた。
そして果たして五年後の天文二十年、陶晴賢の謀叛により大内義隆公は太寧寺に自刃に追い込まれ、
件の松原隆則も主君を守って遭えなく討ち死にを遂げてしまうのである。

大内家の衰運が妖怪を呼び込んだか、
はたまた妖怪の呪詛が大内家を衰亡に導いたか、
どっちにしてもいい話じゃなさそうなお話
849人間七七四年:2012/04/27(金) 09:10:13.58 ID:iboM5bqg
認知症の婆ちゃんが迷い込んだだけだったりしてな
850人間七七四年:2012/04/27(金) 12:27:53.45 ID:ElSl2FII
>>849
ありうるw
851人間七七四年:2012/04/27(金) 13:09:55.32 ID:ZtKo36gu
どんな家康擁護も「国家安康」の件で霧散するわさ。
さすが権現さまの清々しいほどの言いがかりっぷり。
852人間七七四年:2012/04/27(金) 13:14:48.75 ID:eQGgxCp7
秀吉の墓と神社を壊したりと、徳川にも胸糞悪い行為はたくさんある
853人間七七四年:2012/04/27(金) 13:20:02.81 ID:mH3hU5NW
>>851
むしろ言い訳の仕様がない明らかな侮辱行為なんだけど
分かってやってたなら喧嘩売ってるし自覚無かったら馬鹿だし・・・
854人間七七四年:2012/04/27(金) 13:26:59.04 ID:+nlNigu9
関白を出した家がやる事じゃあないのは確実だね
855人間七七四年:2012/04/27(金) 13:32:18.61 ID:Ss/v7Kb2
>>851
それはギャグって言ってるの(ry
856人間七七四年:2012/04/27(金) 13:42:44.44 ID:I2Ze7eE3
家康ageキモ
857人間七七四年:2012/04/27(金) 13:56:21.98 ID:ENpErOhD
>>829
つまり隆景さんが死亡して、
本家の官僚の三成ともう一方の川と反りが合わず衝突って、
毛利さんとことあんまり変わらないなw
858人間七七四年:2012/04/27(金) 13:59:24.03 ID:zJ1GDEEy
文英清韓が自ら隠し題をしたと言っているのにな
バレないと思ってたなら五山の長老にあるまじき軽慮
859人間七七四年:2012/04/27(金) 14:07:28.59 ID:Yz3XwZ63
清韓も家康と豊臣の功徳を願って隠し入れたと言ってるから悪気はなかったんだろうけど
ご時世柄どう見られるかまで思い至らないのはまずかったな
860人間七七四年:2012/04/27(金) 14:44:55.94 ID:MgQjFGqz
>>853
侮辱行為の割には問題の鐘も鐘銘も削られずに現存してるんだよな
大坂の陣の原因になるくらい気分の悪いもの普通鋳潰すと思うけど
歴史ってその時代ごとに考察が異なってどんどん解釈が変わってくるからな
100年後はまた新事実が浮かび上がってまた解釈が変わってくるかもよ
861人間七七四年:2012/04/27(金) 14:51:27.87 ID:bKWM0im6
確かに非礼だったかも知れないがそれだけで戦争するほどの重大な理由では全くないわな
862人間七七四年:2012/04/27(金) 14:58:44.58 ID:fC+dRdIb
>>860
証拠物件残して正当性を訴えているとか
863人間七七四年:2012/04/27(金) 15:19:52.54 ID:Gr9i8tXX
>>861
戦争に至った理由は交渉役の片桐を大阪城から退去させて、
外交チャンネルを閉じたから、話し合い拒否るなら実力しかないわなとなったためで
鐘銘問題から直接戦争になったわけではない
864人間七七四年:2012/04/27(金) 15:50:56.34 ID:ZS1+6Qn2
退去どころか殺そうとした節さえあるからな
865人間七七四年:2012/04/27(金) 15:52:54.60 ID:zAjmK1Bl
真田パパンでも呼んで知恵袋にすれば切りぬけるかな?・・・その前に大坂城に入れない?
866人間七七四年:2012/04/27(金) 16:03:58.33 ID:ZQP+aBZO
やむをえず敵対したのなら、夏の陣に雪崩れ込むような事はしなかっただろう。
しかも既に故人となった秀吉の墓とか祭られた神社破壊したりしているからな。
867人間七七四年:2012/04/27(金) 16:41:35.64 ID:PxI0WzCr
鐘銘事件は誰が見ても解る、家康の諱に対する非礼だったんだよ。
これが問題化した経緯も、徳川が突然言ってきたのではなく、先ず畿内であの鐘銘を見た人たちが
「家康の文字が使われてる!」って騒ぎになって、それが京都所司代から家康のもとに伝えられ、
そこから幕府からの抗議、という形になった。そのくらい、当時誰でも解るような話だった。

あと秀頼はこの鐘銘事件の真っ最中に、徳川に何の連絡もなく家臣の任官をさせて、徳川の態度を
更に硬化させてる。もうあからさまな挑発といっていい。これに徳川とのパイプ役だった片桐且元への
討伐事件が起こって、これで全面会戦となった。

それと冬の陣の講和では最初から、大阪城は内堀まで含めて埋め立てる事になっていた。
これはもう完全に定説に成ってる(まだ否定してる主な研究者は、小和田先生くらいw)

で、夏の陣は、講和を主導した淀君派の大野治長が、秀頼に近い過激派に襲撃されて
政務をとれなくなり、大阪城の主導権が過激派に握られ、埋め立てた堀の掘り返しや軍事施設の改修、
さらに堺や大和への襲撃を行い、これで会戦。

徳川擁護と言われるかもしれないが、冷静に当時の状況をひとつひとつ見ていくと、
冬の陣も夏の陣も、豊臣家の側で引き起こした面がやっぱり大きいと思うよ。
徳川としては豊臣の家臣化は、例の二条城の対面で既に果たしているわけで、何もなければいまさら
滅ぼさなければならない理由はなかった。
868人間七七四年:2012/04/27(金) 17:44:28.72 ID:pKC5KcaF
家康万歳まで読んだ
869人間七七四年:2012/04/27(金) 18:16:19.62 ID:zAjmK1Bl
大坂城が元凶じゃない?なまじ強い城があるからああなると
870人間七七四年:2012/04/27(金) 18:30:37.16 ID:OK/Dtads
死の直前まであんだけ削った西国大名を心配していた家康が、豊臣家なんつー爆弾を残そうと考えるわけないしな。
ちなみに家康さんの危惧は二百五十年後にあたったよ! 凄いね!
大蔵卿局と面会、片桐は面会ゆるさずの二重態度とか、どうみても待ってましただよね。
871人間七七四年:2012/04/27(金) 18:35:49.71 ID:y6NPW9uw
これだけ新しい研究成果が出ている世の中で、何故未だに、大阪講談ベースの大阪の陣イメージを
墨守したがるのか、その気持ちが先ず解からん。
872人間七七四年:2012/04/27(金) 18:40:41.91 ID:OK/Dtads
新しい研究=本や雑誌売るために、小説めいたモンをもってくる、が多すぎるからだろう。
説得力の無さを問題視すべきだろうw
873人間七七四年:2012/04/27(金) 18:42:55.23 ID:OK/Dtads
ちなみに俺がある雑誌で読んだ新研究()だと、家康じゃなくて秀忠の意志で大阪方を追い込む策謀連打したんだ! とあったな。
根拠はお察しくださいレベルしか提示されないが。
874人間七七四年:2012/04/27(金) 18:51:55.64 ID:y6NPW9uw
>>872
君の言うような「売らんかな」の本や雑誌は、むしろ旧来の俗論ベースばかりなんだが…。
きちんとした研究書や論文の世界では、近年大阪の陣イメージは大きく変わったが、それがさっぱり世間には届かんw
875人間七七四年:2012/04/27(金) 18:52:22.81 ID:ZEl4D971
学会レベルじゃどういう話になってんの?
雑誌の三文論文がどんだけ出回ろうが意味無いでしょ
876人間七七四年:2012/04/27(金) 18:53:12.93 ID:ZEl4D971
キャッシュがすぐ消えてageちまう、すまん
877人間七七四年:2012/04/27(金) 18:56:05.32 ID:uP0GvYR2
豊臣側も強気かつ挑発的な行為を繰り返して何を得たかったんだ?
878人間七七四年:2012/04/27(金) 18:57:55.30 ID:y6NPW9uw
>>875
今の歴史学界隈の基本的な大阪の陣認識は、笠谷和比古先生の「関ヶ原合戦と大阪の陣」に
だいたいまとまってると思うよ。「二重公議論」はともかくとしてw
879人間七七四年:2012/04/27(金) 19:00:17.05 ID:ZEl4D971
>>878
ありがと、未読なので今度読んでみる
880人間七七四年:2012/04/27(金) 19:11:31.92 ID:aRBLUkzS
最近いい話スレもそうだが雑談で潰されすぎだろ。
本格的な議論はよそでしろよ。
881人間七七四年:2012/04/27(金) 19:51:20.78 ID:3opbs+Zy
石見銀山の支配権を巡り、毛利氏と尼子氏が激しく争っていた永禄2年(1559)2月、毛利元就は次男・吉川元春に、
尼子に味方する小笠原長雄の居城・温湯城の攻略を命じた。

しかし、信濃守護家の流れを汲むという長雄の篭る要害は、元春の猛攻をも弾き返し、長男隆元・三男隆景そして
元就自身までもが温湯に出陣、毛利家総出で攻城に当たる事態に陥った。

「父上、申し訳ございませぬ・・・!」
「よい、元春。このまま、お前も攻め手に加われ。かくなる上は土竜攻めじゃ。金掘り衆をもって山腹を掘り進め、
城の本丸まで抜け穴を作り、一気に内側より奇襲をかけよ!」

元就号令のもと、石見銀山の鉱夫が集められ、連日に渡り坑道が掘り進められた、ある日のこと。

「おい、こっちに空洞があるぞ!」
「本当か!?よし、好都合じゃ。そっちを掘れ、掘れ!!」
工事がはかどる、とばかりに喜んだ鉱夫たちが空洞を掘り広げたその先には、

人がいた。

なんと城方でも同じ事を企て、坑道を掘っていたのだ。
「や、やぁ」「お、おぅ」予期せぬトンネル開通を祝い、感動のうちに両者は固い握手を交わし、
・・・となるハズもなく、文字通り日の当たらぬ場所で泥仕合が始まった。

結局毛利軍は城方に撃退され、土竜攻めに失敗。あきらめた元就は普通に兵糧攻めを行うことを決意、
半年近く経った7月下旬、城主・長雄の降伏により、毛利氏が1万2千余の軍勢を動員した城攻めは
ごく平凡な結末を見たという、珍しく元就の策が見事な空振りに終わった話。(毛利元就記より)


この土竜攻めの際、毛利軍は5ヶ所を基点に坑道を掘り進めたが、そのうち3ヶ所で城方との遭遇戦が
発生したそうな。どんだけ穴掘ったんだ。
というわけで邑智郡川本町にお住まいの方、謀神の遺産による突然の落盤にご注意ください。
882人間七七四年:2012/04/27(金) 19:58:46.34 ID:Gr9i8tXX
元就も特別城攻めが上手いわけでもないからなぁ
883人間七七四年:2012/04/27(金) 20:02:37.02 ID:zJ1GDEEy
墨攻とか大河ドラマの風林火山で見たけどこういうの”地聴”というんだっけ?

攻城側の土竜攻めへの籠城側対抗策として、水を溜めた壺の波紋や地面から
聴こえる音から穴を掘ってくる方向を推測して、籠城側は待ち構えたり自らも
穴を掘ったりして迎撃するってやつ
884人間七七四年:2012/04/27(金) 20:15:14.99 ID:eGNHR97R
織田信長を語る上で、外せないのが桶狭間合戦。
合戦前後を含めたエピソードは真偽不明のものまで混在して事かかないが、その中の一つ。

敦盛舞って湯漬け食って飛び出した信長は、熱田神宮に参拝しつつ味方を待つ。
が、相手は大軍で兵士達の意気は上がらない。
そこで信長、十数枚の銭を取り出して、
「天意をうかがおう。ばらまいて表の面が多く出れば勝ちだ」
と、放り投げた。
皆が注視する中、音を立てて落ちた銭は……なんと、一枚残らず表!
これを見た織田兵は勇気百倍、勇んで戦いに望んだという――
……実はこの銭、両面を打ち付けて全部表が出るように細工したもの。
味方を奮い立たせる信長の、知恵であった。

が。
実はこの話、中国・宋代の名将・狄青の逸話とそっくり。
信長公記のような信憑性ある史料には欠片も乗っていないことから、中国の故事を下敷きにした創作なのはまず確実。
信長が故智に倣った可能性はまぁゼロではないだろうが……。
銭絡みだけにマネーしたのか、というオチの悪い話w
885人間七七四年:2012/04/27(金) 20:19:32.98 ID:eQGgxCp7
土竜攻め専門集団を描いた、森秀樹のコミック「ムカデ戦記(だったかな?)」は佳作
未完なのがアレだが
886人間七七四年:2012/04/27(金) 20:45:09.45 ID:BHLm4ZgG
>>884
仕込み乙
大事な合戦前にコソコソ白鷺用意したり銭に細工したりしてる
細かい信長想像したらちょっとワロタ
887人間七七四年:2012/04/27(金) 20:47:31.75 ID:pO/cu9x+
土竜が後のドリルの語源となったのは明白である

民明書房「戦国の土木工事とその影響」
888人間七七四年:2012/04/27(金) 21:00:41.58 ID:C0kjWfgU
民明書房ww
889人間七七四年:2012/04/27(金) 21:06:57.86 ID:DNYqN2Ej
>>887
ちょっと感心してしもた
890人間七七四年:2012/04/27(金) 21:12:55.90 ID:a7TX8uNj
>>866
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4860.html
ここの217のレスを読む限り墓の破壊はしてないようだぞ
891人間七七四年:2012/04/27(金) 21:16:59.06 ID:aRBLUkzS
>>881
尼子は晴久生存中は防衛頑張ってよく持ちこたえてたからなあ
晴久が死んで一気にパワーバランスが崩壊してしまった
892人間七七四年:2012/04/27(金) 21:34:11.86 ID:feGE4p3n
>>884
秀吉で同じような話(江が主人公の歴史番組)をテレビで見たが、
江が秀吉を嫌ったのはこんなにずる賢いことから、ってことになってた

893人間七七四年:2012/04/27(金) 22:05:01.27 ID:DQT7KR/5
>江が秀吉を嫌ったのはこんなにずる賢いことから
この時代だと「故事に倣う謀をするなんて、教養のあるお方」となるのが普通のはずなんだがなぁ
現代との共通点を見出すのは悪いことではないと思うが
当時の文化・教育をガン無視して現代の感性を押し付ける悪癖は何とかならんものか
894人間七七四年:2012/04/27(金) 22:20:57.27 ID:csVhjffg
>>891
義久も頑張った・・・ただ既に詰んでいただけ
895人間七七四年:2012/04/27(金) 22:54:11.64 ID:UxggQZCc
まあ頑張ってもどうしようも無い事ってのもあるからな
896人間七七四年:2012/04/27(金) 22:55:47.89 ID:cBvYqb8m
>>885
金堀衆の話で本当にあったのは松山城攻城戦のみ
897人間七七四年:2012/04/28(土) 01:03:23.64 ID:yJBmqSaU
どこ松山城? ○○松山城多すぎるわw
898人間七七四年:2012/04/28(土) 01:07:26.88 ID:qKG7mcJe
じゃあ、江は伯父さんも嫌いだったのかな?
899人間七七四年:2012/04/28(土) 01:34:10.39 ID:Xj3BDm3o
まああの手のインチキもとい演出って、騙される方も、わかってて騙されてるもんだからねえ。
全部わかった上で、空気を読んで盛り上がる。
戦国時代の人は、神意だなんて単純に喜ぶ段階は、さすがにもう抜けだしてるw
900人間七七四年:2012/04/28(土) 03:26:55.87 ID:Cwtarezc
現代でも水道管の水漏れは地面の音聞いて調べてるんじゃなかったかな?
まぁ、20年位前の話だから今はどうなってるかわからんが〜
901人間七七四年:2012/04/28(土) 08:29:03.00 ID:ADAx9Xiz
水道管のパイプを叩いてその反響音で水漏れを確認するんじゃなかったか
902人間七七四年:2012/04/28(土) 08:36:15.50 ID:XkUnnREn
>>897
武蔵松山城だろ
今は東松山になっているけど
903人間七七四年:2012/04/28(土) 11:32:30.94 ID:GllQPPuK
>>902
東松山と言えば、20年くらい前に見た「さいたま軒」という
ラーメン屋だけは忘れられん。

埼玉県とは言え、コテコテすぎるネーミングだろw
904人間七七四年:2012/04/28(土) 14:19:06.95 ID:lxgRHWqB
『天正6年(1578)10月、荒木摂津守(村重)反逆のこと、方々より注進があった。
信長はこれを聞き及び、
『これはきっと、村重が何者かに騙されているのだ。そうであれば宥めることが出来るはずだ!』
そう考え、松井友閑、惟任(明智光秀)、万見仙千代を10月下旬に遣わした。

村重は家老に対し、彼らと対面し、近いうちに信長のもとに出仕すると言うつもりだ、と伝えた。
しかしこれを聞いた家老は、すかさず諫言に及んだ

「この度の事は、もはやその科を逃れることは出来ません!このまま出仕を止められるべきです!」

村重も内々にそう考えていたので、家老の意見に同調し、使いの三人に対面すると、そう言い切って、
信長への敵対の姿勢をはっきりと打ち出した。

そもそも荒木村重は、信長の厚恩により出頭した者であって、特に摂津一国を与えられ、反逆など
有り様はずもなかったのだが、彼に対して、信長の寵愛する小姓、長谷川藤五郎(秀一)がしきりに慮外を企てた。

ある時のこと、信長が三河岡崎城を訪問した時、それに従っていた荒木村重が門の所立っていたところ、
長谷川は2階から、村重に向かって尿をしかけた。

これに気がついた人が、村重にそのことを伝えたが、村重は「苦しからず」と言ってその場を立ち去ろうとしなかった。

こんな事があったために、謀反に及んだのだ、と言われている。』

つまり、当時信長の寵童であった長谷川の嫌がらせに当初は耐えたものの、これが原因で、そんな長谷川を
重用している信長に対し逆心を抱いたのだ、ということである。

『当代記』より、荒木村重謀反の理由についての記載である。
905人間七七四年:2012/04/28(土) 16:13:06.62 ID:5D9Lsl0e
竹中半兵衛「その程度で逆心とは、なんと器の小さい男」
906人間七七四年:2012/04/28(土) 16:33:07.14 ID:IAX/Zo7P
長谷川がこういう軽薄なことするイメージにピンとこない
逸話レベルとしても人選がどうしてこうなったかに興味
907人間七七四年:2012/04/28(土) 17:14:11.30 ID:Uc5/dZXL
織田家中で重用されてなかったうえに
信長の小姓にまでこんな扱いされたら謀反するかもしれん
908人間七七四年:2012/04/28(土) 20:00:04.57 ID:dNIuXleX
創作臭いが、実際になぜ荒木が謀反したのかって謎が多いからな……。
ボンバーマンと違って……おやだれk(ry
909人間七七四年:2012/04/28(土) 20:04:31.53 ID:43tvGGII
>>906
江戸時代まで残ってた家は悪役に使いづらいからじゃね?
長谷川家って途絶えてたよね?
910人間七七四年:2012/04/28(土) 20:39:47.48 ID:ZWEDU/G3
>>905
先越された
911人間七七四年:2012/04/28(土) 22:59:08.32 ID:w5fKeVgs
秀吉もトイレでわざとおしっこかけられて相手に謝罪させた上で
名前を売っていたらしいがw
912人間七七四年:2012/04/28(土) 23:03:44.21 ID:AHvk82cn
>>867
大河でも葵三代で強硬派の暴走ネタやってたな
浪人衆にしてみれば大坂退去はすかさずおまんまの食い上げになるわけで
そりゃ秀頼出陣なんてできんわな
913人間七七四年:2012/04/28(土) 23:04:06.12 ID:AHvk82cn
>>867
大河でも葵三代で強硬派の暴走ネタやってたな
浪人衆にしてみれば大坂退去はすかさずおまんまの食い上げになるわけで
そりゃ秀頼出陣なんてできんわな
914人間七七四年:2012/04/29(日) 00:00:14.41 ID:KLkzLPcu
>>909
荒木攻めで死んだ万見仙千代あたりで因縁話にする方が分かりやすい気もするなぁ
915人間七七四年:2012/04/29(日) 03:54:30.71 ID:ATFqVyNA
虎姫観音由来

前橋城の西、利根川の流れが城につきあたったところ旧競輪場あたりをお虎が渕とよんでいた。

酒井 重忠の頃、城内にお虎というそれは美しいおなごがいた。
赤城山麓の農家の娘で、重忠が鷹狩りに出た際みそめられ、城に召された。
重忠はたいへん気に入って身近において世話をさせたが、
こうなると奥女中は嫉妬して、とんでもない悪だくみを実行した。
重忠のご飯椀の中に針を忍ばせ、給仕役のお虎はそのお膳を重忠の前に・・・・・・・
こうしてお虎は身に覚えのない罪をきせられ、蛇やムカデをつめた木箱に入れられ利根川の渕に沈められた。

その後、毎年秋には利根川は洪水になり本丸まで川底にしずんでしまった。
人々はお虎の怨念にちがいないと、お虎の霊をお虎稲荷大明神として祭った。
お堂の中には150cmほどの愛らしい観音様と水の神である弁財天を
右には幾重にもとぐろをまいたヘビがまつられており、
ぼけ封じのご利益もある。
916人間七七四年:2012/04/29(日) 07:10:48.72 ID:PGTEv/YS
なんのひねりもないストレートな悪い話だなw
917人間七七四年:2012/04/29(日) 13:50:43.62 ID:yJVimFpK
酒井家は前橋城だけでなく利根川の水害に悩まされ続けて代々転封を願い続けていたらしいが、こんな逸話まであったのか
918人間七七四年:2012/04/29(日) 17:42:46.39 ID:TbMbEuJJ
>>908
中川清秀にハメられただけのような気がしないでもない
919人間七七四年:2012/04/29(日) 20:04:17.48 ID:kO7Fq+5v
ところで秀頼が「退去するお!」と言い出したらタヌキどうしたんだろ?おまけに「蹴鞠の人に蹴鞠教わりたいから江戸にいきたいお」とかいわれたら激しく困らないか?
920人間七七四年:2012/04/29(日) 21:02:40.18 ID:gSoiPg0+
知らんぷりして、大阪城が崩れるまで大砲を撃ちこむだろ
921人間七七四年:2012/04/29(日) 21:43:22.31 ID:k01qHrXV
江戸か京都に屋敷与えて高家扱いで監視つけて無力化できれば
元主家&孫婿殺しの汚名着てまで根絶やしにすることもなかったろう
922人間七七四年:2012/04/29(日) 21:49:00.14 ID:ztjl8+YM
>>920
そんな下衆は天下人にはなれません
923人間七七四年:2012/04/29(日) 22:46:33.67 ID:GvhL4K27
我が身がカワイイだけのお坊ちゃんだったらむしろ扱いやすかっただろ
公家にするなり高家にするなり
924人間七七四年:2012/04/29(日) 23:59:56.41 ID:C2i2Z0vJ
まぁしばらく後に流行り病で急死して貰えば良い話だしね。
925人間七七四年:2012/04/30(月) 01:02:20.86 ID:VCml6z1i
摂関家格だと数千石くらいか
うーん、ほぼ改易クラスだな
926人間七七四年:2012/04/30(月) 03:55:42.38 ID:WH887MC1
>>881
三国志だけど、曹操が官渡の戦いであらかじめ深い塹壕掘っておいて、地下から攻めようとする袁紹軍がその塹壕に堀り当たって顔出してきたとこを撃退してるし古典的な攻防なのかな
927人間七七四年:2012/04/30(月) 07:52:28.40 ID:s7TVgxWO
>>922
厨二かよw
天下人に正義や清廉でも求めているのかね?
928人間七七四年:2012/04/30(月) 08:29:28.95 ID:aH3j7qPl
>>927
いやあ実際の所、どんなことをしても勝てばいい、と思う方が厨二なんだわ。現実世界じゃな。
これは戦国時代でも一緒。
929人間七七四年:2012/04/30(月) 08:39:50.66 ID:s7TVgxWO
>>928
正気かよ・・・
戦国時代を現代的な倫理で見るとかもうね

おめぇはそれでいいや
930人間七七四年:2012/04/30(月) 08:42:51.55 ID:aH3j7qPl
>>929
現代じゃなくて同時代的な目で見てもそうだぞ?
同時代資料を、読める範囲で読んでみるといいよ。当時の倫理観みたいなものが見えてくるから。
勝てばいい、強ければいい、みたいな単純な世界じゃないことが解ると思うよ。
931人間七七四年:2012/04/30(月) 08:50:00.16 ID:Vn7nyXOM
>>929
おまえの言う、どんなことをしても勝てばいいという勢力は
結局のところ一地方勢力で終わっただろ?
少なくとも諸侯を従える天下人になるには「徳」ってもんが必要なんだよ。
大義のない明智光秀についてくる奴がいなかったのもそれと同じことだ。
932人間七七四年:2012/04/30(月) 08:56:30.30 ID:s+tpFYCR
王者と覇者か
933人間七七四年:2012/04/30(月) 09:00:26.36 ID:lTVWKohd
強けりゃいい、なら誰も大義名分に拘らないし、朝廷に官位を要求したりもしないだろ?

「あいつは道理も倫理も通用しない狂犬だ」って思われたら、誰も交渉なんかしてくれない。
道理や倫理の上で同じラインに立てる、って前提があるから同盟も停戦もできる。
934人間七七四年:2012/04/30(月) 09:09:08.60 ID:6U95cMNj
当たり前だが信用できない人間について行く奴はほとんどいないぞ
たとえ自身が討ち死にしてもその分だけ一族に目をかけてもらえられると確信してるからこそ
命を投げ出してるわけだからね
935人間七七四年:2012/04/30(月) 09:14:42.73 ID:bNijGbCe
天正4年(1576)11月25日、伊勢では織田信長・信雄親子による北畠具教ら、北畠一族への粛清事件が起こる。
これに翌天正5年、奈良興福寺にあった具教の弟、北畠具親は伊勢に帰国し、織田に対して反乱を起こす。
しかし間もなく制圧され、具親は逃亡。与党の者たちも多くが捕らえられた。

さて、そんな反乱者に対する処分が続く中、織田信雄の元に3人の捕縛者が引き立てられた。
六呂木某、山福某という者、そして波多瀬三郎という15歳の少年だった。

三人は処刑される事となっていた。だが信雄は波多瀬少年を見るなり気が変わった。それは波多瀬が
『無双の若衆(美少年)』だったからである。信雄は即座に、少年の助命を命じた。

が、波多瀬三郎はこれに

「私達三人は同罪です!三人ともお助けくださると言うのなら、忝いと感謝いたしますが、
私だけが助かっては面目がたちません!ですからどうぞ、殺して下さい!」

これを聞いた六呂木某、山福某は、逆に波多瀬を説得した

「我らは既に老体であり、命は惜しくない。しかしお前はそのような若年ではないか!
構うことはない!お前は御意に従うが良い!」

「嫌です!そんなことは出来ません!」

波多瀬三郎は頑として、助命を受け入れなかった。
そこで信雄も致し方なく、三人を磔とした。

これによって波多瀬三郎は、死後、見事な若者であると大いに名を上げた、とのことである。


信雄、これと似たような話を、、以前にもやっていたのですね。しかもこっちは拒絶されていた
織田信雄、高野聖の処刑にて http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6357.html


織田信雄の助命を拒絶した、波多瀬三郎少年についてのお話である
(勢州軍記)
936人間七七四年:2012/04/30(月) 09:36:42.48 ID:HpWTwJQc
>>931
同盟を破りまくって勢力広げた某守護大名家の末路は家臣や領民にも見放されてみじめなものでしたしね
937人間七七四年:2012/04/30(月) 10:39:55.05 ID:QG51IkwJ
何だか今日は説教臭い爺が多いインターネッツですねw

つーかさ、天下人に必要なのは詐欺師のスキルだと思うよ
秀吉や家康を見てごらん
938人間七七四年:2012/04/30(月) 11:41:57.59 ID:MJhwE1fc
家康ブームでも来てんのw
939人間七七四年:2012/04/30(月) 11:48:55.46 ID:HOUpCekY
世間の皆様までも騙せるというか騙されてやってもいいかって思わせる位のスキルは必要だろ?
嘘吐きってのと、詐欺はまた別だと思うの〜
940人間七七四年:2012/04/30(月) 11:59:40.43 ID:ev5FYQe0
仏のウソを方便と言い、武士のうそを武略と申しますし
941人間七七四年:2012/04/30(月) 12:59:34.92 ID:U5O6L9do
武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候だっけ?
942人間七七四年:2012/04/30(月) 13:25:38.73 ID:egqOaOAq
やくざものの方が約束事には煩いらしいけど。
禁煙宣言して失敗したらそれだけで信用がなくなるそうで…。
943人間七七四年:2012/04/30(月) 14:41:42.49 ID:EOLEZ70Z
それを言った光秀さんの末路は……>武士の嘘〜
944人間七七四年:2012/04/30(月) 15:46:27.81 ID:DGAJnXQb
>>937
秀吉と家康は何か大きな詐欺してたっけ?
毛利減封とかは双方合意の裏取引の結果だしなあ。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3813.html
945人間七七四年:2012/04/30(月) 17:01:59.17 ID:6U95cMNj
>>944
ヒャクマンゴクノオスミツキガーとかじゃあないの
946人間七七四年:2012/04/30(月) 17:05:58.84 ID:oqkp3T+u
>>944
降伏開城したら、責任者以外の命は助けるよ、で実は撫で斬りは秀の得意技じゃ?
947人間七七四年:2012/04/30(月) 17:07:56.11 ID:7mCOxMCs
織田家を立てるフリして天下を横取り、豊臣家を立てるフリしt(ry
948人間七七四年:2012/04/30(月) 17:19:22.63 ID:DGAJnXQb
>>945
お墨付きが信用できなくて一揆煽動をして逆に信用を失った政宗くん

>>946
裏切り者にしか適用してない気がするんだが・・・

>>947
天下のことなんて織田家となにか約束してたっけ?
949人間七七四年:2012/04/30(月) 17:43:06.89 ID:7mCOxMCs
>>948
清洲会議で約束したじゃん。
天下と織田家家督は三法師に、信雄は後見、秀吉らは旧領分配を受けて支えると。
950人間七七四年:2012/04/30(月) 17:47:07.17 ID:aH3j7qPl
清洲会議体制は、賤ヶ岳の前に秀吉と丹羽長秀と池田恒興の談合で、織田家家督を三法師から
織田信雄に変更したことで崩壊しておる。
んで、その秀吉自身が新家督に据えた信雄と対立してしまって、結局自分が織田家権威を克服
せざるを得ない状況になったのが、小牧長久手の後の急激な官位上昇。
951人間七七四年:2012/04/30(月) 17:53:08.69 ID:7mCOxMCs
>>950
秀吉が仕掛けたんだろう。
実際には堀秀政宛書状で、柴田勝家は秀吉らに条件履行をきちんとするよう伝えているが、
それを蹴りまくって挑発したのが秀吉。
952人間七七四年:2012/04/30(月) 18:37:40.61 ID:9ZsGSTK/
勝つにはどんな手管を弄してもいい、大義名分だって手管の一つよ。
とは言えもちろん限度があるよ、あまりに目に余るのは信用無くすよ、くらいの話じゃないのか
953人間七七四年:2012/04/30(月) 18:41:50.18 ID:zHHZQUrx
その手管とやらに周囲が納得するかどうかって話だわな
犬とも畜生とも言え、ってのはそういう覚悟をしろって話だし
954人間七七四年:2012/04/30(月) 19:06:48.29 ID:7mCOxMCs
奴隷市やヒャッハーが当たり前の時代。
もし道義とか人道を重んじる人間がいたら、即死モンだろうなぁ……。
955人間七七四年:2012/04/30(月) 19:21:27.70 ID:9ZsGSTK/
道義や人道「だけ」でも潰れるだろうけど、ヒャッハー「だけ」でも越前の狂犬みたく潰れる
956人間七七四年:2012/04/30(月) 19:26:10.34 ID:jwoU1LD9
そうそう。たしかに弱肉強食、勝つためには手段を選ばず、の時代。
でも野心を実現するには腕力だけではダメで、成功するには大義名分
とか、政治的根回しとか、中間で日和ってる奴らを巻き込む手管とか、
そういうことも必要。

たとえば大阪の陣、ただ戦って大阪方を潰すだけなら、あんなに大阪
方が浪人衆を集めたり大金はたいて兵馬をととのえ戦闘準備を完了さ
せるまで待つ必要はなかった。

本能寺後に秀吉についた者も、秀吉死後に家康についた者も、積極的
にせよ消極的にせよ、みんなある意味、秀吉や家康の天下取りの共犯者。
そんな彼ら共犯者たちの心理的な後ろめたさをなくし、自らを納得させ
る理由を与えてあげる必要があったわけだ。人間誰しも、道義の皮は被
っていたいからね。
悪いのはあっちだ、俺達は悪くない…

秀吉様は右府様のお子らにチャンスをあげたじゃないか。それなのに…
家康様は秀頼君や淀の方様にチャンスをあげたじゃないか。それなのに…

秀吉とか家康は、それがすごく上手かったということ。
957人間七七四年:2012/04/30(月) 20:04:10.81 ID:DGAJnXQb
>>954
当たり前ながら道義を守らない人の方が圧倒的に潰され易いけどね。
958人間七七四年:2012/04/30(月) 20:07:10.68 ID:zD5iAm6f
道義を破って、実力や策謀で正当化するのばっかじゃんw
959人間七七四年:2012/04/30(月) 20:40:08.95 ID:QG51IkwJ
つまるところ、立派な面と人でなしの面、両方を併せ持っていないと生き残れないのが戦国でしょ
960人間七七四年:2012/04/30(月) 20:43:19.96 ID:P/t72GwC
勝てば官軍。数百年後の話だが、テロや強盗辞さない薩摩ら官軍()に徳川は屈服させられている。
道義をありがたがるのは平和な時代の儒者か因果応報論信者ぐらいだろう。
961人間七七四年:2012/04/30(月) 21:27:03.75 ID:O+azzMvZ
家臣なら(自分なりの)道義を通す人はたくさんいたけど、君主となるとそうはいかないね・・。
962人間七七四年:2012/04/30(月) 21:27:17.83 ID:oqkp3T+u
まあ、でも今の薩摩見るとねえ
963人間七七四年:2012/04/30(月) 21:44:50.34 ID:aH3j7qPl
>>960
そのテロや謀略の元締めだった西郷隆盛が、維新後いきなり敬天愛人とか言い出して
徳望の人に成ったのもまた…w;
964人間七七四年:2012/04/30(月) 22:30:26.75 ID:zHHZQUrx
勝てば官軍の論理は大事だが、それだけの人間は結局は案外大成せず、忘れられることが多い
誰にでもわかる理屈だけで世の中は動いてないってことだな
965人間七七四年:2012/04/30(月) 22:46:01.63 ID:SGHW6lCf
勝てば官軍って言うけど実際は官軍になってから倒幕してるよな
やはり正当性を掲げないと誰もついてこないということか
966人間七七四年:2012/04/30(月) 23:26:00.00 ID:s33we3Yn
どっちにつくか迷っている人には正当性は大きな影響を与えるんだろうね。
実力差が明白で、どちらにつけばいいかが明らかなときは正当性だけあってもダメ。
967人間七七四年:2012/05/01(火) 00:24:10.41 ID:+OlgXssV
負けたら錦野御旗は贋物だったことになってたよ
968人間七七四年:2012/05/01(火) 02:41:58.62 ID:5lK5oda0
実際急遽捏造したもんだしな
969人間七七四年:2012/05/01(火) 07:17:43.06 ID:GM8O0LEu
朝廷が認可してるから完全に捏造とは言えないような・・・
それにしてもその錦の御旗を掲げられたくらいで諸大名から見放されあっさり崩壊した幕府軍って一体・・・
970人間七七四年:2012/05/01(火) 07:46:45.86 ID:cX5/FjI5
御旗なんかよりも、慶喜が戦争を嫌がって大阪城から逃げて引きこもったのが敗因じゃん
徳川武士はだらしないのが多かったが、好戦的なのも多かったのに
971人間七七四年:2012/05/01(火) 10:44:57.19 ID:FwBu9XwI
水戸出身の将軍さまだからあからさまに朝敵になるのを嫌がったってのがね〜
972人間七七四年:2012/05/01(火) 14:38:23.79 ID:Y5a3o9ZR
幕末ちょっと悪い話
973人間七七四年:2012/05/01(火) 15:57:57.26 ID:4+HETNJU
信長「総大将が真っ先に逃げるなよw 逃げていいのは殿軍の当てがある時だけ」
974人間七七四年:2012/05/01(火) 17:30:29.82 ID:tvpSzUIJ
ウンコ漏らして逃げれば慶喜の権現様再来説も
信じれるのに(´・ω・`)
975人間七七四年:2012/05/01(火) 18:50:26.14 ID:dBkZC5yt
朝敵になっちゃったら無理w
976人間七七四年:2012/05/01(火) 18:55:00.50 ID:Vjg8wGBJ
北条義時「朝敵って何?食えんのかそれ?」
977人間七七四年:2012/05/01(火) 18:58:14.26 ID:6NnH2+Br
別の帝を践祚させればいい
978人間七七四年:2012/05/01(火) 18:58:20.88 ID:eIYj2gXR
>>974
そんで戒めとして情けない姿を残すんだな 写真に
979人間七七四年:2012/05/01(火) 18:58:33.20 ID:HhTcqvEc
幕府が混乱収拾に朝廷を利用しようとして、その権威を回復させちゃう→倒幕連合に朝廷取られる→あぼん

見事な自滅だよな……。
980人間七七四年:2012/05/01(火) 19:36:45.13 ID:feFTCJFG
幕末の幕府って何によらずくそ真面目なんだよな
勝つことよりも正しさを優先してるかのような対応

権現様を見習ったらどうだと言いたい
981人間七七四年:2012/05/01(火) 20:55:51.82 ID:6cuwpqOj
よし、オレも豚一殿を見習って豚肉好きになろう
982人間七七四年:2012/05/01(火) 21:06:30.82 ID:ftkgtx62
そろそろ次スレ立ててみる
983人間七七四年:2012/05/01(火) 21:07:21.00 ID:ftkgtx62
できた!ここ埋まったら移動してください

戦国ちょっと悪い話31
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1335874012/
984人間七七四年:2012/05/02(水) 00:22:18.99 ID:IBHtN0RP
負けたら全てを失うんだから、そりゃ手段を選ばないでしょ
985人間七七四年:2012/05/02(水) 19:31:06.07 ID:C0MK48jL
慶長9年(1604)11月、高麗より松雲大師と申す僧と、金考瞬と申す唐人二人が来日し、京都に到着した。
これは先年、彼の国に大明国より番手(駐留軍)が置かれたが、その軍勢の、朝鮮民衆への
狼藉があまりにひどいので、高麗王はこれを甚だ迷惑と思い、大明の軍勢が残らず帰国するよう、
日本からも明国に対し意見してもらえないか、という事を願うために渡海したのだという。

この時この松雲大師に、大聖庵の圓耳が会いに来て、仏法についての議論を、互いに筆談で
行ったそうである。
(慶長見聞録案紙)

朝鮮の役のあと、朝鮮が今度は明を牽制するために日本を利用しようとした、
こんな裏外交みたいなものがあったらしい、というお話。
986人間七七四年:2012/05/02(水) 19:38:47.17 ID:7r4En9Ft
助けに来たはずの明軍の略奪すごかったらしいしな
属国哀れナリ、か
987人間七七四年:2012/05/02(水) 19:43:54.14 ID:2ZsWMv3/
本当に朝鮮涙目だな。TERUが書状で書いてる通り、日本軍も略奪しまくり殺しまくり、だし。
地政学的に半島は酷い目に合い易いそうだが……。
988人間七七四年:2012/05/02(水) 19:49:34.27 ID:B+E52SwJ
侵略した側が苦しむのは自業自得だが、被害者のほうがやっぱり酷い目にあうのが戦争。
因果応報論なんて嘘だよ……。
989人間七七四年:2012/05/02(水) 20:00:02.66 ID:8rs3p5QN
>>986
実は属州扱いだったりする

>>988
侵略されなくてもあそこの民衆は酷い扱いうけてるからなあ
日本軍を解放軍と思ってたみたいだし
990人間七七四年:2012/05/02(水) 20:05:34.25 ID:oRFT7Qpx
関ヶ原合戦を調べる際に書状を見るが、とっても役に立つのは三成の書状
現状の説明から作戦計画、各方面に配置する大名とその兵数と致せり尽くせり

逆に一番曖昧模糊なのが家康の書状、数は多いが断片的な説明の留まり、
あくまで褒賞や概略の説明しかしない

後世の研究家にとっては三成の書状が役立が、逆に当時では奪われた場合の
リスクは三成の方が遥かに上であった(実際に二回ほど奪われているようである)
991人間七七四年:2012/05/02(水) 20:16:53.06 ID:7r4En9Ft
>>989
あ、国ですらなかったんですか・・・

にしても不思議なのは、この時点で当初日本軍を解放軍とすら思ってしまうほどに
腐ってた王朝がこの後さらに300年続くことだよね・・・
992人間七七四年:2012/05/02(水) 20:18:34.07 ID:7r4En9Ft
>>990
バカ正直に書き過ぎてて流出した時のあまりのやばさに真田のお兄ちゃんもそりゃ封印するわ?
993人間七七四年:2012/05/02(水) 20:33:23.46 ID:pN6547Qk
三成のの書状は補任の性格まで丸わかりなもんも多いからな
几帳面で胃が弱そうな文書も多いよな
994人間七七四年:2012/05/02(水) 21:22:28.45 ID:MA3tAncb
>>991
正規軍がダメでも義兵を率いて立ち上がる人々はいたわけだから
そういう人たちがなんとかしたんだろう。>300年
995人間七七四年:2012/05/02(水) 22:02:53.24 ID:aH8kcMmz
>>994
そういう人達は平和になったらどんどん追いやられて
また元の腐敗政治に
996人間七七四年:2012/05/02(水) 22:13:06.35 ID:qB0H7iAK
>>869
秀吉は、死に直面してから堀や石垣の強化を図っている。
堀を埋め立てないと、城攻めは無理な状態。
997人間七七四年:2012/05/02(水) 22:13:58.41 ID:0FsTp7/5
李舜臣は日本軍との戦で散って本当に良かったよな
生き残ってたらきっとろくなことになってない
998人間七七四年:2012/05/02(水) 22:28:05.07 ID:cl31kO38
998
999人間七七四年:2012/05/02(水) 23:03:41.43 ID:qB0H7iAK
999
1000人間七七四年:2012/05/02(水) 23:04:07.33 ID:qB0H7iAK
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