武田勝頼って信玄以上の名将だったんだな part2

このエントリーをはてなブックマークに追加
1人間七七四年

実は信玄が無能だったというのは言わないお約束
2人間七七四年:2012/01/28(土) 02:00:57.14 ID:rWL6C7vs
長篠では雨でぬかるんだ地面の中で『まるで城攻め』と思わせるような堅固な陣地の中に
数の上でも鉄砲の性能や装備の上でも勝るであろう織田徳川相手に自分から突撃

御館の乱では北条・伊達E葦名とともに景虎支援をせず、景勝に買収されただけでなく、
北条家に対して土下座外交すれば同盟維持できたかもしれんのに駿河伊豆国境や
上野方面で公然と喧嘩をふっかけ、四方を敵に回して猪突猛進
これによって武田の軍役は急増し国人の疲弊と不満は頂点に達する

新府城もあの状況でやるのは…としか。

能力どうこうを超えて基地外すぎるな。

武田が滅んだのは勝頼1人に責任がある


3人間七七四年:2012/01/28(土) 02:01:16.13 ID:rWL6C7vs
長篠は雨でぬかるんだ地面の中で『まるで城攻め』と思わせるような堅固な陣地の中に
数の上でも鉄砲の性能や装備の上でも勝るであろう織田徳川相手に自分から突撃する馬鹿が大将だったから
勝てただけ
しかもその状況ですら8時間も戦われて所々柵破られてたくらいだから
織田軍は雑魚
無能で戦下手な武将な集まり
4人間七七四年:2012/01/28(土) 02:01:53.90 ID:rWL6C7vs
そもそも相手のが2.5倍もの兵力比でしかもこちらから攻め懸けてる時点で勝頼は馬鹿
ぬかるんだ地面とまるで城のような堅固な陣地の中に鉄砲を構えてる敵兵に突っ込む馬鹿はそうそういない
砦どうこうは副次的な物で退却できなかったとか完全に結果論
実際一族衆などは無傷だし勝頼も無事だったんだから


5人間七七四年:2012/01/28(土) 02:11:19.02 ID:xJWJMxCI
まだやんの?
この子とだがの隔離スレにしかならん気がするが
6人間七七四年:2012/01/28(土) 02:13:39.92 ID:HtTJ7m0B
いやなんとなく
7人間七七四年:2012/01/28(土) 02:19:06.07 ID:xJWJMxCI
別にあってもいいけどね、この板って落ちるまでにすごく時間かかるみたいだから…
8人間七七四年:2012/01/28(土) 02:19:30.14 ID:rWL6C7vs
信長は勝頼が馬鹿だから助かっただけ
9人間七七四年:2012/01/28(土) 02:24:02.80 ID:rWL6C7vs
後退路遮断された状態で>>3の状況で戦って退却しても無傷で退却できた部隊があったんだから
勝頼以外が総大将でまともに戦ってたら100%織田の大敗
馬鹿が総大将で運が良かったな

10人間七七四年:2012/01/28(土) 08:12:44.70 ID:P4qhVte5
※信長や勝頼を無能とレスする子がいますがインコのように覚えた言葉を使いたいだけです
皆さん暖かく見守ってあげてください
11人間七七四年:2012/01/28(土) 08:44:58.14 ID:03812Xx3
現代にも通じる話で
会社の資産、社長の声望などフル回転させて実力以上の自転車操業をしている場合
安定して儲かる段階に入る前に社長死亡となると
次の人が以下に有能でも先代と同じことはできないから先代の自転車の回転が速いほど
大きなツケを支払う必要がある

信玄さんの死んだときの状況がいかにも半端なので勝頼の有能無能以前に辛い状況ではある
12人間七七四年:2012/01/28(土) 09:34:53.54 ID:HheSJRHc
長篠は決戦を挑んだ勝頼がバカ
信玄なら撤退を装い、
追撃してきた織田を迎撃撃破してる。
そもそも織田厨は背後を抑えられて撤退出来ないなどとでっち上げしてるバカ。
長篠後には翌年に、武田の命運をかけた一戦を織田とやると書いてるので、
まだまだ信玄の遺産は充分にあり余力があったのだろう。
いよいよ勝頼独自色を出し、
軍政、軍制改革を開始したつもりか、
織田へ復讐する為に手段を選ばず抜擢宣言し、
どんなに身分が低くても、前代には不遇だった者の経緯にはこだわらず
依怙贔屓無しに
武勇のある者は抜擢するとか、
鉄砲の鍛錬の奨励をくどいまでに強調し、
鉄砲手には頬あてまでも用意するように言っている。
かなり入念に砲撃戦を念頭においた指示をしている。
武田領内では火薬臭が漂うような大掛かりな鉄砲鍛錬が行われていたのだろう。
対北条戦で勝頼が暴れてるのも、
佐竹義重が関東一の大鉄砲隊を持っていたのも、
勝頼との協調作戦から学んだ結果だろう。
さらに手取川の戦いの年には、
信長は武田と和議を提案していたのに勝頼は拒否して、
あくまで義昭や本願寺や毛利との協調を選んでいる。
まあ謙信が翌春前に死去したのは想定外か。
毛利も丹波の赤鬼が同時期に死去したのは想定外だろう。
やはり謙信死去と、
朝廷による交渉で本願寺が織田と和睦を受け入れたことが大きい。
武田に取り領土拡大を狙うには北条を侵略する他なく、
この頃になると織田との和睦を働きかけてるのだから。
信長は武田と和睦する匂いをかけて、
織田勝長を返却させるや豹変して武田征伐を開始。
不幸にも浅間山が噴火したために領内混乱し、
後詰めの勝頼が諏訪から甲斐に撤退するハメ
になる。
有史以来、京で浅間山噴火が観測されたのは、今回がわずか二度目の大噴火で、
京では武田滅亡の前兆と見られた。
ただ鉄砲鍛錬にこだわり過ぎているのが勝頼。
本来は城や陣地における防衛戦に重要な鉄砲だが、
重量があり過ぎて、
なおかつ天候に左右されやすいものであり、
運用は限られている。
機を見て目まぐるしく離合集散する同盟関係や傭兵術や重臣調略を軽視し過ぎていたように思われる。
13人間七七四年:2012/01/28(土) 10:37:59.07 ID:cH5KZxRd
武田の命運をかけた一戦を織田とやる(キリッ

現実は徳川さえも突破できなくなり三河から駆逐されていく始末。
14人間七七四年:2012/01/28(土) 11:23:10.82 ID:P4qhVte5
長くて読むの面倒だから読んでないけど
武田は敗けを認めない武士にあるまじき見苦しい方々というのはよくわかった
15人間七七四年:2012/01/28(土) 11:42:21.24 ID:xJWJMxCI
>>15
最期の行www
重臣なのに調略しなきゃならないのかよwwwww
16人間七七四年:2012/01/28(土) 13:06:41.95 ID:cawYGpRJ
織田から和睦の提案なんて、実際にあったの?
出典は何だっけ。
17人間七七四年:2012/01/28(土) 13:10:48.70 ID:VXy4ZCVd
織田厨は相変わらず知識皆無だな
むずかしいことには思考停止し中傷を開始するだけ。
18人間七七四年:2012/01/28(土) 13:22:56.05 ID:P4qhVte5
>>17
つ鏡
19人間七七四年:2012/01/28(土) 15:14:47.42 ID:hYgV0iVj
>>16
出典もなにも戦国遺文武田
たしか4巻だかに載ってる。
つか編纂者の前書きにも和睦の話に言及してたはず。
20人間七七四年:2012/01/28(土) 16:10:50.07 ID:xJWJMxCI
「〜もなにも」←ネット上で馬鹿が良く使う言い回し
同類項:「〜どころか」
それにしても4巻だかとは、随分いい加減だな。
編纂者の前書きとかどうでもいいしw
21人間七七四年:2012/01/28(土) 17:33:03.66 ID:rWL6C7vs
結局勝頼が馬鹿だから助かっただけ。
勝頼が有能で織田が武田を実力で滅ぼしたと言ってる馬鹿は現実を全く理解できていない馬鹿
御館、長篠、新府。
自爆に助けられただけなのが雑魚織田
22人間七七四年:2012/01/28(土) 18:05:28.41 ID:xJWJMxCI
御館の乱で景勝を支援→北条が拡大しすぎて終
長篠で前に出ない→長篠城は落とせても以降ジリ貧で終
新府城を作らない→城下町は広がらず領土統治も不備のまま終
23人間七七四年:2012/01/28(土) 18:05:50.15 ID:xJWJMxCI
間違えた景虎だった
24人間七七四年:2012/01/28(土) 18:12:04.16 ID:rWL6C7vs
>>22
相変わらずお前は馬鹿だな
北条が拡大したら武田の味方が増えるだけだから対織田戦が有利になるだけ
長篠で前にでなきゃ織田が引き上げてからまた徳川領侵略すりゃいいだけ
城下町作るために国人の負担が急増して離反まねくとか本末転倒

もう頭悪すぎて話になんね
25人間七七四年:2012/01/28(土) 18:14:22.01 ID:rWL6C7vs
ID:xJWJMxCIは勝頼以下の馬鹿
26人間七七四年:2012/01/28(土) 19:01:16.57 ID:P4qhVte5
連投するほど悔しかったのか…
皆さんこの通り可哀想な子なんです
大目に見てあげてください
27人間七七四年:2012/01/28(土) 19:13:20.89 ID:xJWJMxCI
さらに北条氏直が信玄の血を引いてるっても勝頼にとってはまずいね〜。
勝頼がちゃんとした嫡子だったらまだ良かったんだけど、誰かさんが嫡子殺しちゃったからねぇ〜?
28人間七七四年:2012/01/28(土) 19:49:24.49 ID:rWL6C7vs
何もまずくない件
29人間七七四年:2012/01/28(土) 19:53:57.56 ID:hYgV0iVj
ガチ馬鹿xJWJMxCI
30人間七七四年:2012/01/28(土) 19:58:35.63 ID:xJWJMxCI
>>28-29
バカだね〜w
武田が不利になれば北条は織田と組んで武田に攻め込むかもしれない。
その資格が氏直にはあるんだよ。信玄が勝頼に諏訪氏を継がせたのと同じくな。
31人間七七四年:2012/01/28(土) 20:17:41.05 ID:rWL6C7vs
んな事気にしてたら同盟なんて組めないだろ
こいつ裏切るかもしれないから明智も羽柴も信用ならんといってんのと同じようなもん。
始めから同盟なんか結ばない方がいいんじゃね
32人間七七四年:2012/01/28(土) 20:27:45.02 ID:cH5KZxRd
北条にとっての甲相同盟は総合不可侵と対上杉に対する同盟でしかない

対上杉の驚異が無くなりそれに加え武田家劣勢となってどうして自家の命運をかけて織田家に宣戦しなくちゃいけないんだ?
33人間七七四年:2012/01/28(土) 20:35:29.18 ID:xJWJMxCI
そうそう。
もっとも織田と戦うことを何よりも優先するなら、武田も上杉はもそうして北条の傘下に入ってしまった方がいいだろうね。
武田の独立は失われるがw

まあ自分で言っててなんだが、そこまで簡単に氏直になびくわけでもないだろうけど。
34人間七七四年:2012/01/28(土) 20:48:20.18 ID:rWL6C7vs
甲相同盟は北条にとって関東攻略のための絶対条件
武田と決裂した時期は関東攻略どころか関東の反北条勢と武田で連携されて押されてる
長篠以降ですら婚姻での同盟関係強化に北条側も承諾してるくらいなんだから
北條側も同盟継続の意思はあったと思われる
それをぶり壊した馬鹿が勝頼
35人間七七四年:2012/01/28(土) 20:59:12.02 ID:9PFowyI4
勝頼を名将にしないと、それを叩いた織田信長、徳川家康が英雄になられへんもんな
36人間七七四年:2012/01/28(土) 21:04:27.15 ID:rWL6C7vs
結局勝頼が馬鹿だから助かっただけ。
勝頼が有能で織田が武田を実力で滅ぼしたと言ってる馬鹿は現実を全く理解できていない馬鹿
御館、長篠、新府。
自爆に助けられただけなのが雑魚織田
37人間七七四年:2012/01/28(土) 21:09:50.76 ID:P4qhVte5
その勝頼は北条や徳川が滅ぼせなかったんだがw
そんな雑魚信長に負けた無能勝頼を滅ぼせなかった北条wwwその北条を滅ぼせない信玄wwwwwwwww
38人間七七四年:2012/01/28(土) 21:13:09.55 ID:rWL6C7vs
北条や徳川との戦いで極度にまで疲弊して新府城築くという馬鹿な政策をやらかし
国人の不満が最高潮に達したから織田が大軍で侵攻する構えになると裏切りが起こりまくって勝てただけ
しかも唯一抗戦した仁科1000以下に50〜60倍の兵力でもって城外戦で最低4時間以上戦われ、
武田より多い被害出して一門まで討ち取られた雑魚
39人間七七四年:2012/01/28(土) 22:56:42.38 ID:XL/KXHWk
別に家康はともかく信長は勝頼が無能扱いされていたころから評価高かったし
40人間七七四年:2012/01/28(土) 23:09:34.40 ID:rWL6C7vs
勝頼が有能とかいってる馬鹿は新田小説かなんかの読みすぎだろ
純粋に事跡を追えばただの馬鹿でしかないのが容易に理解できる
41人間七七四年:2012/01/28(土) 23:38:03.06 ID:xJWJMxCI
それまんま信玄のことだろ。
42人間七七四年:2012/01/28(土) 23:39:48.13 ID:rWL6C7vs
信玄が馬鹿なら上杉戦あたりで戦死してるだろ
家康にも全く歯がたたないだろうし
朝倉勢みたいに蹴散らされるだろうね
43人間七七四年:2012/01/28(土) 23:48:53.37 ID:rWL6C7vs
信玄>>家康>>信長>>>>>>>>>>>>>>>>勝頼
44人間七七四年:2012/01/28(土) 23:53:19.25 ID:rWL6C7vs
長篠では雨でぬかるんだ地面の中で『まるで城攻め』と思わせるような堅固な陣地の中に
数の上でも鉄砲の性能や装備の上でも勝るであろう織田徳川相手に自分から突撃

御館の乱では北条・伊達E葦名とともに景虎支援をせず、景勝に買収されただけでなく、
北条家に対して土下座外交すれば同盟維持できたかもしれんのに駿河伊豆国境や
上野方面で公然と喧嘩をふっかけ、四方を敵に回して猪突猛進
これによって武田の軍役は急増し国人の疲弊と不満は頂点に達する

新府城もあの状況でやるのは…としか。

能力どうこうを超えて基地外すぎるな。

武田が滅んだのは勝頼1人に責任がある
45人間七七四年:2012/01/29(日) 00:12:54.85 ID:4yN9Ir1V
人生全部かけて若造もいいとこの家康を2倍以上の兵力をもってして倒せない無能信玄がなんだって?w
46人間七七四年:2012/01/29(日) 00:32:44.87 ID:JItMBbiX
信玄は倒しまくりましたが?
2.5倍の兵力比で10倍の被害差だから普通に信玄>>>>>家康
信長は姉川で家康以下が確定してるから
信玄>>>>>家康>>信長
47人間七七四年:2012/01/29(日) 00:43:02.15 ID:eYTA/oPV
勝頼が特別有能とは思わないが家督を継いだ状況には同情する。

日本最強クラス経済基盤と人口を抱える織田家が相手なのに反織田派の有力な勢力が本願寺を残して全滅。
しかも本願寺が孤立している以上早期に決戦する必要まである。


おまけに強大な経済支援を受ける徳川が年がら年中攻めてくる。
こんなの相手にすれば否応なく経済的に疲弊し破綻する。
48人間七七四年:2012/01/29(日) 00:46:48.42 ID:eYTA/oPV
姉川の戦いで家康大活躍なんて文久しぶりにみたw
っか何段も織田の構え突破されたとか書いてあるにも関わらず織田の将兵に被害無さ過ぎだろw

なのに朝倉浅井は将兵に被害出過ぎ。
49人間七七四年:2012/01/29(日) 00:49:06.38 ID:JItMBbiX
浅井朝倉長島は勝頼がもたもたやってたから滅んだだけ
さっさと美濃なり三河なり行きまくって倒せば良かっただけ
馬鹿すぎる
しかも長篠、御館、新府と失態続きでも82年まで持ち堪えたんだから
普通に戦ってたらまず滅亡どころか大飛躍を遂げられる環境にあったと思われる
馬鹿が当主で助かったな
50人間七七四年:2012/01/29(日) 00:50:25.08 ID:JItMBbiX
>>48
お前のアホな妄想なんぞ知らん
織田は寡兵の浅井に苦戦して徳川は大軍朝倉に善戦
これは史実で戦闘力徳川>>>織田は確定事項だから。
51人間七七四年:2012/01/29(日) 00:52:42.56 ID:JItMBbiX
>>48
みたいな妄想がありなら長篠では本当は大して武田は死んでなかった。
もし本当に壊滅的被害被ったなら1年か半年くらいで滅亡してるだろうから
って妄想もあり
52人間七七四年:2012/01/29(日) 00:54:59.17 ID:JItMBbiX
織田厨死ね
53人間七七四年:2012/01/29(日) 01:02:03.81 ID:Ok/g+DF8
これはなかなかだが並におちょくりがいのあるKittyGuyですね!
54人間七七四年:2012/01/29(日) 01:05:21.06 ID:JItMBbiX
>>53
低脳は書き込むなボケ
55人間七七四年:2012/01/29(日) 01:06:05.47 ID:JItMBbiX
勝頼は馬鹿だけど織田厨の大好きな雑魚信忠よりはマシ
56人間七七四年:2012/01/29(日) 01:06:24.56 ID:JItMBbiX
信忠は雑魚
57人間七七四年:2012/01/29(日) 01:07:27.18 ID:JItMBbiX
信忠は仁科より遥に戦下手
50〜60倍の兵力比で大損害被って一門まで戦死させた雑魚
58人間七七四年:2012/01/29(日) 01:07:49.41 ID:JItMBbiX
織田厨死ね
59人間七七四年:2012/01/29(日) 01:08:52.37 ID:JItMBbiX
毛利輝元>>>>>>>>>>>織田信忠
60人間七七四年:2012/01/29(日) 01:10:45.43 ID:JItMBbiX
信玄>>家康>>信長>>>>>>>勝頼>>>>>信忠
61人間七七四年:2012/01/29(日) 01:11:35.36 ID:5rpYCe4f
どんだけ必死なんだコイツ
62人間七七四年:2012/01/29(日) 01:12:23.64 ID:JItMBbiX
織田厨は馬鹿
63人間七七四年:2012/01/29(日) 01:19:43.80 ID:eYTA/oPV
いやだったら姉川で死んだ織田側の将官は?

散々苦戦したって割に坂井尚恒くらいしか死んでない割に浅井朝倉の将官の戦死は明らかに多い

普通に考えて13段陣構えて11段突破されて将官の戦死が坂井だけっておかしいだろ。
64人間七七四年:2012/01/29(日) 01:23:20.69 ID:JItMBbiX
11段崩しが史実なんて言ってねえよ
姉川織田軍苦戦は三河物語なんかにも書かれてる
続く滋賀の陣でも降伏する有様だしな
65人間七七四年:2012/01/29(日) 01:24:40.64 ID:JItMBbiX
従来織田による織田のための宣伝で織田の大勝とされてきた。
しかし織田のいう朝倉浅井一万近く死亡して浅井長政死亡という割には
朝倉の資料では戦死120となり、浅井長政も生きている。
実際は痛みわけと見るのが妥当
66人間七七四年:2012/01/29(日) 01:26:45.20 ID:k1jb5RUY
みwかwわ
とでも突っ込まれるのを待ってるのか?
67人間七七四年:2012/01/29(日) 01:30:51.66 ID:JItMBbiX
信長公記も軍記だから似たようなもんだろ
三河物語はいうほど徳川マンセー資料じゃないし
68人間七七四年:2012/01/29(日) 01:34:18.88 ID:9j70Ape4
しかし三河物語を信じるとなると、兵力は織田10000、徳川3000に対して、浅井朝倉が30000ということになってしまいますが…?
69人間七七四年:2012/01/29(日) 01:36:14.64 ID:JItMBbiX
数は石高と周辺敵対状況などから数えだせるから必ずしも軍記を引用する必要ないだろ
70人間七七四年:2012/01/29(日) 01:37:21.20 ID:6i/vdJym
仮に家康の方が信長より強かったのなら本能寺までずっと言いなりになっていたのはなんでだろうね?
信玄や勝頼や秀吉には散々反抗していたあの家康が信長の犬に甘んじていたのは不思議としか言いようがない
71人間七七四年:2012/01/29(日) 01:38:52.81 ID:JItMBbiX
単に石高の問題だろ
雑魚でも数がいりゃ強者に勝てる
あとは義理がたい人間だからだろ
72人間七七四年:2012/01/29(日) 01:42:17.99 ID:JItMBbiX
信長が三河でいたら半年くらいで武田に瞬殺されてただろうな
家康が東にいて本当に助かったのが雑魚織田
73人間七七四年:2012/01/29(日) 01:42:25.55 ID:9j70Ape4
家康が義理がたいwww
74人間七七四年:2012/01/29(日) 01:43:38.43 ID:k1jb5RUY
世の中勝った奴が強い訳だが

途轍もなく無駄な言葉遊びだなw
75人間七七四年:2012/01/29(日) 01:44:52.63 ID:JItMBbiX
家康が義理がたいから武田に何回も侵略されて援軍も送ってくれない役立たずな同盟者でも
裏切らなくて織田は逆に姉川や上洛戦など徳川の手借りまくって助かっただけ
不義理な奴だったら一瞬で手の平覆して信長アボン
76人間七七四年:2012/01/29(日) 01:45:23.42 ID:JItMBbiX
勝ったのは徳川1人
織田も豊臣も負け組み
77人間七七四年:2012/01/29(日) 01:46:24.07 ID:JItMBbiX
信長なんぞ家康がいなきゃ武田か浅井朝倉あたりに瞬殺されただけだろ
家康のおかげで勢力拡張できただけ
78人間七七四年:2012/01/29(日) 01:48:08.23 ID:9j70Ape4
その家康が三河で独立できたのはどうしてだっけね?
家康と手を結ぼうとした尾張の戦国大名はどなたでしたっけ?

あと>>76、武田信玄も負け組だってことを忘れないようにね。
79人間七七四年:2012/01/29(日) 01:48:11.34 ID:6i/vdJym
>>71
信玄や秀吉も圧倒的に石高が上だったけど家康は反抗したが?
あと本当に義理堅いなら約束を反故にして毛利を潰そうとしたのは何でだろうね?
秀吉との約束を反故にして豊臣を潰したのもなんで?
80人間七七四年:2012/01/29(日) 01:52:20.00 ID:JItMBbiX
>>79
元々若い頃は誠実で義理がたい性格だったが
信長や秀吉が非道で悪逆で手腕で勢力広げたからそれを真似るとうまく天下とれると思ったんじゃね
純粋な若者が都会に出てその純粋さをなくすとか世渡り上手になるのとかと同じ事でしょ
信玄は一時的に共同して今川を攻めたけど織田のような強固な同盟ではなかったし
秀吉なんて元々同盟してないから手を切るも糞もないし
81人間七七四年:2012/01/29(日) 01:53:51.81 ID:JItMBbiX
そうでなきゃ氏直の命を救うなんてわざわざするわけないし
82人間七七四年:2012/01/29(日) 01:56:16.35 ID:9j70Ape4
>>80
三河一向一揆で、寺の安全を保障することを条件に和睦しておきながら、和睦するやいなや寺を破壊し、一向宗も禁教
今川攻めの際、信玄から「氏真には断固たる処置をするように」と言われ、承知しておきながら氏真を見逃す

結論 家康はもともと酷薄
83人間七七四年:2012/01/29(日) 02:00:06.43 ID:JItMBbiX
三河一向宗は根絶しないと後々禍根になると思ったんだろ
氏真見逃したのなんてむしろ人情味溢れる措置でどちらも義理堅さを否定する根拠になってないし
84人間七七四年:2012/01/29(日) 02:08:36.25 ID:9j70Ape4
>>83
んじゃ信玄にもそう言えやw
わざわざ約束しといて裏切るなってwww
85人間七七四年:2012/01/29(日) 02:09:43.80 ID:JItMBbiX
何の話してんだ?
86人間七七四年:2012/01/29(日) 02:12:23.23 ID:9j70Ape4
87人間七七四年:2012/01/29(日) 02:13:54.54 ID:JItMBbiX
いったんじゃね?別に大した問題でもないと思うが
88人間七七四年:2012/01/29(日) 02:17:26.04 ID:o2fTiOFg
まあ、戦国時代に義理なんて眉唾
実際のとこ、家康は今川攻めの時に信玄に意地悪されてるから寝返るなんて考えられなかっただけだと思う
89人間七七四年:2012/01/29(日) 02:18:55.49 ID:JItMBbiX
家康は信義に厚い武将だから寝返らなかっただけでしょ
90人間七七四年:2012/01/29(日) 02:20:35.43 ID:9j70Ape4
>>87
言ってねーよボケw
それで後から信玄に「どうして見逃したんだ」って非難されてんだからwww
何も知らないんだなお前
それが大した問題じゃないんなら他の約束も大した問題じゃないことになるしね。

だいたい義理堅かったらそもそも主家を裏切らない。
その主家を討ち取った奴と同盟も婚姻も結ばない。
91人間七七四年:2012/01/29(日) 02:21:59.67 ID:m5oItLbS
氏真って織田信長よりも先に楽市楽座をやってたんだよな。
しかも蹴鞠のプロだったらしいし。
案外無能な人間ではなかったのかも知れん
92人間七七四年:2012/01/29(日) 02:26:31.48 ID:JItMBbiX
>>90
お前が知らんだけだろボケw
氏真みたいな無害な武将を殺す必要ないと判断したから殺さなかっただけ
そんなどうでもいい問題で人の義理堅さが測れてたまるかタコw

今川なんて主家つっても外様中の外様で義元に恩義なんて感じてないだけだろ
お前の論理だと戦国武将はおろかこの世の中に義理堅い人間なんていなくなるな
93人間七七四年:2012/01/29(日) 02:30:51.57 ID:JItMBbiX
家康が義理堅くなかったら三方が原で大敗して即座に武田と和睦
そんで武田と一緒に織田侵攻で織田詰み
そうならなくて良かったな織田厨
94人間七七四年:2012/01/29(日) 02:36:02.85 ID:m5oItLbS
>>93
家康としては織田が敗れた後に武田に降伏するつもりだったんだろうな。
一国を与る当主として、武田に対して徹底抗戦はしないだろうからな
95人間七七四年:2012/01/29(日) 02:36:56.46 ID:o2fTiOFg
桶狭間の後、織田についたのは織田の方が勝つと思ったから
織田の上洛戦や姉川でパシリやったのは、大金積まれていたか織田が強くなって圧力が強かったから
信玄に攻められて武田に寝返らなかったのは、信玄が信用できないから

結論:家康は義理・恩義なんかで動いていない
96人間七七四年:2012/01/29(日) 02:40:19.20 ID:JItMBbiX
桶狭間の後、織田についたのは今川に恩義を感じてないだけ(元々外様)
織田の上洛戦や姉川でパシリやったのは、義理堅い証拠
信玄に攻められて武田に寝返らなかったのは、義理堅い証拠

結論:家康は義理・恩義で動いている
97人間七七四年:2012/01/29(日) 02:43:08.27 ID:JItMBbiX
信玄が信用できないなら信長なんて約束違反、だまし討ちのオンパレードだから話にならないレベル
上洛戦時点では織田は言うほど強くなってないしパシリやる必要もない
98人間七七四年:2012/01/29(日) 02:46:11.37 ID:JItMBbiX
三河武士は義を重んじるというのは常識
決して講談や軍記の類ではない
99人間七七四年:2012/01/29(日) 02:48:46.44 ID:9j70Ape4
>>92
「家康が氏真を見逃したこと」じゃなくて、「家康が信玄との約束を破った事」について言ってんだけど。
話分かってる?
それを信玄に事前に言ってたってんなら史料出してもらおうか。
ついでになんで信玄から非難されてるのかも説明してもらおう。

「義元に恩義なんて感じてない」、これが義理堅い人間の態度と言えるのか?
100人間七七四年:2012/01/29(日) 02:49:18.22 ID:o2fTiOFg
>>97
信玄は盟約中なのに平気で三河に攻めたわけだが、信長が三河にそういうことしたことあったのか?
信玄にそういう仕打ちを受けといて武田に寝返るなんて義理人情持ち出すまでもなくあり得ない

101人間七七四年:2012/01/29(日) 02:50:30.51 ID:9j70Ape4
>>97
都合が悪くなるとなぜか「信長はもっとダメ」という方向に話をそらすよなお前www
上洛戦時点で織田は尾張・美濃、合計100万石を有する大名なんですけど。
これ当時の武田家と互角だよ?
102人間七七四年:2012/01/29(日) 02:56:16.97 ID:JItMBbiX
>>99
松平なんて先方衆の中の先方衆だから今川恩顧ってほどでもないだろ
むしろ人質に言ったりして辛い目に合わされてたし恩を受けていた意識がなかっただけじゃね
だからそんな無害な人間を殺すだの殺さないだので、一時的に共同関係にあっただけの信玄のいいなりになったならないだで
人の義理が測れてたまるかw
>>100
信長は今川やら武田やら国力に勝る中でも散々こき使って援軍も送らないなど
信用というか同盟者としての有益性でいったら最低レベル
しかも他大名や一揆との戦いで騙まし討ちなど卑怯な方法ばかりで信用性0
武田のが遥にマシ
103人間七七四年:2012/01/29(日) 02:56:56.35 ID:aCkkOdbG
三河譜代の忠誠心なんていうのも大半が江戸期以降の捏造だしねえ。

三方が原の敗戦の時なんて、家康がいくら制止しても家臣たちは
全く言うこと聞かず、勝手に武田軍に突っかかっていって惨敗、
家康自身も恐怖に脱糞して逃げるほどの戦いだったのに、城では
先に逃げ帰った家臣たちが「家康は死んだ」と触れて回っていて、
命からがら家康が帰ってきても「おーいクソもらしの大将が生きて
帰ってきやがったぞ、いようクソ大将」とみなで笑っていたらしい。

こんな家臣に囲まれて育ったから、幕府開府後は家臣たちを徹底的に
統制・調教することに力を注いだんだよな。
三河に残ったままで家臣団がいつまでも独立領主の気分でいたら
家康の転化はなかった、秀吉が家康を関東に移封したのは最大の失策、
という人までいるくらいで。
104人間七七四年:2012/01/29(日) 02:57:59.10 ID:JItMBbiX
>>101
圧力で有無を言わさず出陣しなきゃいけないほどの関係なのかとという話だぞ
105人間七七四年:2012/01/29(日) 02:59:56.96 ID:JItMBbiX
>>103
お前の妄想なんぞ知らん
武士は義で動くというのは江戸期もその前も当たり前
じゃなきゃ家臣が主君のために命投げ出したり戦うなんて物理的に不可能
106人間七七四年:2012/01/29(日) 03:01:34.54 ID:m5oItLbS
>>103
それ初めて知ったw
酷い家臣だなw
家康が三河岡崎ではなく静岡に隠居したのも、あながち頷ける話だ
107人間七七四年:2012/01/29(日) 03:02:25.00 ID:JItMBbiX
初めて知ったとか明らかに>>103の捏造だろw
徳川家の家記などでもそんな資料見たことないし
108人間七七四年:2012/01/29(日) 03:06:40.59 ID:o2fTiOFg
>>105
武士が命投げ出して戦うのは、自分の領地守るためです
織田より武田の方が信用できるとか初めて聞いたよw
109人間七七四年:2012/01/29(日) 03:11:54.16 ID:JItMBbiX
>武士が命投げ出して戦うのは、自分の領地守るためです
武士道を全て否定する言葉だな
もう主君なんていない方がいいんじゃね
大阪の陣で暴れまわった大阪方は武士ですらないという事だな
常識で考えれば非道、悪逆、不義理、残忍な織田家が最も信用に足らないのはわかる
それゆえ多くの離反者を出したしな
110人間七七四年:2012/01/29(日) 03:18:05.39 ID:JItMBbiX
軍記でも講談でも家記でも武士が主君のため、家のために命を投げ出して戦うのは書かれてる
利益ばかり追い求める姿は逆に嫌われてる
脚色、美化された部分はあるにせよ、全てが嘘な物を後から作り出すとか不可能
当時を知ってる大久保忠教だって書いてるしな
111人間七七四年:2012/01/29(日) 03:19:42.21 ID:o2fTiOFg
>>106

良くわかんないけどあなた中世・武士の時代に新説をお持ちなんですねw
大坂の浪人衆も豊臣のために戦ったとお考えなんですね
112人間七七四年:2012/01/29(日) 03:21:48.39 ID:JItMBbiX
お前は新説、そして珍説な。
信義なしに利益追求で武士が動くとかアホすぎね
負けると分かってて負ける側につく武士は命と金どっちが大事なのかって話だわな
113人間七七四年:2012/01/29(日) 03:25:25.66 ID:o2fTiOFg
>>112

ではスレチにならないよう聞くけど、甲州崩れの際最後に武田に従った武士が少なかったのはなぜですか?
114人間七七四年:2012/01/29(日) 03:27:43.97 ID:JItMBbiX
元々軍役負担が急増して極度に国人の不満がたまってる所に大軍で敵が攻めてきたら
なだれをうったように離反連鎖がおきたんだろ

勝頼のせいで国が荒れて人心も離れてしまったんだな
115人間七七四年:2012/01/29(日) 03:35:14.66 ID:o2fTiOFg
>>114
信義や恩義で軍役の重さも頑張れよw
武士っていっても今のリーマンとだいたい同じ
社長(大名)が給料(土地)を出してる限りは部下も裏切らない
給料カット(軍役負担アップ)されたり、この会社もうダメと思ったら転職する
信義や恩義で動いてるリーマンなんて少数だ

116人間七七四年:2012/01/29(日) 03:39:41.40 ID:JItMBbiX
>>115
全く反論になってない件
下4行なんて自分の脳内設定語ってるだけじゃねえか。
西欧化・合理主義がもたらされた日本とそれ以前の武士道の生きた日本
同じとか言われてもハァ?としか。

お前の脳だと負けると分かってて負ける側につく奴は命より金のが大事って事な
117人間七七四年:2012/01/29(日) 03:45:36.02 ID:JItMBbiX
理益追及で人が動くようになったのは西欧諸国の影響がもたらされた近代化以降だろ
それ以前は日本は非合理的で基地外勝頼や乃木大将みたいな根性武士が蠢く時代だった。
今と戦国では文化が違い人が違う
118人間七七四年:2012/01/29(日) 03:45:46.37 ID:m5oItLbS
家臣と大名では自ずと考え方に違いが出てくるのではないのか?
大名が義理で動いてたら、家臣や領民はたまったもんじゃないだろ
119人間七七四年:2012/01/29(日) 03:49:00.12 ID:JItMBbiX
そら状況が状況なら義や信念よりも現実を見るだろうけど
武士である限り信義を大事にするのは基本だろ
非道な事をやればその分非難も被るわけだしな
120人間七七四年:2012/01/29(日) 06:31:46.06 ID:4yN9Ir1V
またホラ吹き大久保の被害者ID:JItMBbiXがやってきやがったw

>>50
>>織田は寡兵の浅井に苦戦して徳川は大軍朝倉に善戦

こんなもん神様仏様家康様うちのご先祖様の大久保物語こと三河物語にしかねーよw
当時大久保は10歳かそこら、史料的価値はほぼゼロだ。
しかも信長は大苦戦したと言いながら展開は史料にほぼ全く明記せず、
家康が朝倉の攻撃を追い払っただけで「敵モ即敗軍」とひたすら誤魔化し。

挙句信長は合戦後まで行動を書かれず、合戦後には「今日の戦に勝てたのはおまえのおかげ、天下第一の武功だな」
とまるで将軍か目上の人に言うかのような嘘っぱちのお世辞を捏造して家康マンセーに貢献。

その後の志賀の陣でも信長の行動はほぼオールカットでいきなり松平勘四郎や石河日向の武功話で話をそらす。
こんな史料を鵜呑みにするのは情弱くらいだろw
121人間七七四年:2012/01/29(日) 08:15:58.95 ID:MjI4EK/K
信玄と勝頼よりも生きていた武田信虎ってすごいよな
桶狭間みたいな少数で大群倒したりもしてるし
勝頼に部下として使ってくれと直訴したり
武田信虎を大河でやってほしいわ
信虎こそ勝頼以上信玄以上
122人間七七四年:2012/01/29(日) 08:25:30.62 ID:hIkXER2N
なんかこのスレ見れば見るほど信玄がクズで勝頼が哀れに見えてくる
50過ぎてやっと家康を倍以上の兵で大得意の野戦で蹴散らしたと思えば家康の首すら取れず滅ぼしきれなかったとか
父親追放し息子を自害に追い込む奴だからキチガイとしか言いようがないか
123人間七七四年:2012/01/29(日) 08:41:30.08 ID:eYTA/oPV
領民と武士は年貢を納めるから領地を守るという契約を結んでいる様なもの。

領主は領民に対し最善の選択をとっていくのが義務。
裏切りも鞍替えも恥じるべき行為ではない。


そもそも義理や忠という考えが武士の主流となるのは他国に領地を荒らされなくなった江戸時代だろ。
124人間七七四年:2012/01/29(日) 09:02:42.30 ID:9tO53hZH
武士道の起源たる甲陽軍鑑でも読んで勉強しないとならんな 我々戦国ヲタは
125人間七七四年:2012/01/29(日) 09:15:41.60 ID:4yN9Ir1V
甲陽軍鑑って江戸時代の作なんだから戦国期には通じないだろw
126人間七七四年:2012/01/29(日) 10:10:41.02 ID:D3g33PqJ
もし信虎追放工作が実行前に発覚したらどうなったか?
晴信やそれに加担した家臣は全員切腹は間違いないだろう。
世継ぎは信繁で、父親から穏便に家督を譲られたから父親の方針を踏襲するだろう。
127人間七七四年:2012/01/29(日) 11:53:21.81 ID:T6/iUNSF
>>120
だが脳によると当時いた人が書いたもの意外は全部デタラメだって。
但し信長公記は軍記ものだから信憑性は0。

史記や三国志などの中国の24史や徳川実紀などの後の世代に成立したものは
でたらめしか書いて無いから読む価値すらないんだってよ。
128人間七七四年:2012/01/29(日) 12:30:30.37 ID:4yN9Ir1V
>>127
それでいて1630年以降に書いた三河物語は信じ込むからなw
129人間七七四年:2012/01/29(日) 12:32:48.09 ID:9j70Ape4
だがさんは一次史料・二次史料の定義がわかってないからねぇ
130人間七七四年:2012/01/29(日) 13:30:29.01 ID:0cXZ5JcI
信長厨がまた泣いてるのか
131人間七七四年:2012/01/29(日) 13:32:02.00 ID:9j70Ape4
>>130
だがさんちーっす^^
132人間七七四年:2012/01/29(日) 13:33:39.10 ID:0cXZ5JcI
連呼厨おっつw
133人間七七四年:2012/01/29(日) 13:38:27.97 ID:JItMBbiX
三河物語は当時を知ってる大久保忠教が書いたんだから
充分信憑性あるだろ
圧倒的大軍で寡兵の浅井を壊滅させられず苦戦したのが雑魚織田
徳川いなかったら死んでただろうし
家康を2.5倍の兵力比で10倍もの損害差だった信玄とは比較にすらならん
上村合戦、東美濃攻防、岩村&高遠攻囲戦で織田方の醜態が晒されてるからそれを照明してる
134人間七七四年:2012/01/29(日) 13:40:06.81 ID:JItMBbiX
理益追及で人が動くようになったのは西欧諸国の影響がもたらされた近代化以降だろ
それ以前は日本は非合理的で基地外勝頼や乃木大将みたいな根性武士が蠢く時代だった。
今と戦国では文化が違い人が違う
負けるは分かってて負ける戦をする武将が多いのがその最たる表れ
殉死などという言葉がそれを顕著に表す
135人間七七四年:2012/01/29(日) 13:54:57.41 ID:k1jb5RUY
武士はそりゃ禄のために戦うだろうよ
それこそ一所懸命だ

信義だののために命張ってたら零落する世の中にどんな夢みてんだかw
136人間七七四年:2012/01/29(日) 14:02:23.14 ID:JItMBbiX
命がなくなる可能性が高い戦で金のために戦えるわけないじゃん
命より金のが大切なのかって話しだし
137人間七七四年:2012/01/29(日) 14:06:15.38 ID:KvZWM4JJ
どこの世界だって忠義を第一とした奴はいる
138人間七七四年:2012/01/29(日) 14:25:50.51 ID:JItMBbiX
殉死したり負けるとわかってながら最期まで戦ったり玉砕したりできるのは信念があればこそだ
何でこんな当たり前の事いちいち説明しなきゃいかんのだ
アホすぎる
139人間七七四年:2012/01/29(日) 14:32:21.32 ID:4yN9Ir1V
>>133
姉川の時に10歳で本能寺の変の時に22歳の大久保がどこが当時を知ってるんだばかがw
年齢や家格からして信長と会ったことすら怪しい。だからこそひたすら徳川家臣の武功話でごまかしている。

こんな日記が信憑性あるとか甫庵信長記、甫庵太閤記の方がよっぽど信用できるわw
よほど他の史料をこき下ろしたかったのか批判だけは一丁前のホラ吹きw
140人間七七四年:2012/01/29(日) 14:37:14.23 ID:9j70Ape4
>>136
禄ってのは金じゃなく土地な。
ついでに世界的に見れば金のために命をかけた傭兵もいる。(ハンニバルの兵とか)
141人間七七四年:2012/01/29(日) 14:48:33.87 ID:JItMBbiX
姉川で10歳なら充分信憑性ありだろ
信長公記みたいなマンセー資料でもないし
つーか姉川の徳川奮戦は定説だから
何か反証材料ない限り徳川>>>織田は確定
まあ織田なんざこれに頼らなくてもいつも大軍で敗戦や苦戦ばかりだから自明の事だが
命を捨てても土地や金を求める馬鹿が多いのが武士って事ね
142人間七七四年:2012/01/29(日) 14:55:17.66 ID:JItMBbiX
姉川で織田軍が寡兵の浅井に苦戦してたのは常識
長篠での勝頼自爆と同じ
その常識を無視してわけわからん馬鹿な事いってるのが織田厨
143人間七七四年:2012/01/29(日) 15:00:47.51 ID:4yN9Ir1V
>>141
おまえ三河物語読んだことないだろw
あれこそマンセー史料の賜物だぞww

知名度も実績も微妙な父、大久保忠員の活躍を序章に延々10ページ以上書いてる時点でおかしいと思わないとかw
姉川の織田大苦戦なんてまともな史料にはねーよw
せいぜい「最初の方は浅井が意気盛んであった」くらいのもんだw
144人間七七四年:2012/01/29(日) 15:03:57.87 ID:JItMBbiX
そら大久保一族をマンセーしてるけど徳川家康に関しては崇拝してるほどではない
むしろ不満をぐちぐちいってる感じだし
145人間七七四年:2012/01/29(日) 15:08:00.96 ID:JItMBbiX
金ヶ崎の時は
敦賀郡司朝倉景恒と対立していた
大野郡司朝倉景鏡が援軍を送らず失脚狙いだったから
織田の奇襲が成功しただけだし、
姉川の合戦に関する史料が徳川方には実に豊富にあるのは
徳川方の大勝をよく示している証拠だと水藤真氏も主張してる。
織田が苦戦し、家康の奮闘でなんとか引き分けにもっていったというのは事実だろ。
姉川の戦いのあと朝倉が勝ちとして撤退していったから
織田が横山城を奪取できたんだし、
再度の侵攻で森可成、織田信治、青地茂綱らを討ち、
比叡山での対陣では安藤守就の二男、坂井政尚を討っている。
そもそも朝倉には小谷と山本山の防衛陣地から南には
進出意思がまったく感じられないのであり
横山城や佐和山城の奪回なんてもともと考えてない。
それを欲したのは小身の浅井でしかない。
さらに常に織田より朝倉の方が兵力も多く
志賀の陣での和睦も織田が必死に天皇まで使って頼んでる始末。
信玄の死や義昭の降伏までは朝倉の方が織田より常に優勢なのは明らかだろ
146人間七七四年:2012/01/29(日) 15:12:38.78 ID:KvZWM4JJ
そもそも姉川って浅井が突撃してきたのはいいけど調子に乗ってどんどん攻め込んだせいで戦線が伸びて
その横っぱらを援軍や伏せていた軍達に挟撃されたって話だろ
実際浅井朝倉の武将は死にまくってるけど、織田方で死んだのなんてどこぞの嫡子ぐらいだし
147人間七七四年:2012/01/29(日) 15:17:02.79 ID:JItMBbiX
織田がボロ負けしたとする大久保の記述が正しいと思われるのは
それ以後もずっと朝倉が優勢な点からもわかる。

10/20山崎本願寺が御牧城を奪って、それに呼応した朝倉・浅井が比叡山から出撃し
織田方に組した一乗寺・試楽寺・高野・松ヶ崎ら左京区に突撃して攻撃してる。
また大坂本願寺も10/22日に高屋城攻め開始。
織田弱しと見て若狭武田氏も武藤・粟谷と共に織田に対して挙兵。
信長はもはや比叡山戦線で手いっぱいになり完全に江南に手が回らなくなり、
家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから
瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請。それで石川家成ら2000を家康が派遣。
11/21伊勢長島で信興が討死。11/26堅田で坂井らが朝倉軍により全滅させられる。
これで完璧に織田軍が追い詰められてしまい、
11/28信長が浅井に土下座5ヶ条の朱印状を出して朝廷から和睦だからと
必死に講和を願うブザマさにまで失墜する。
これは三河物語が書いてる「天下は朝倉殿が取りたまえ。我は2度と望まず」が
正しいことを証明している。
三河物語では延暦寺が朝倉に兵糧を補給しているので、信長のアテが外れたと書いている。
耶蘇会士日本通信でも「敵(浅井・朝倉)は上坂本および比叡の山の諸山に籠もり、
坊主等は食物および家を供して大いにこれを助け」と書いていて食料不足など書いてない
148人間七七四年:2012/01/29(日) 15:22:26.82 ID:4yN9Ir1V
そもそも姉川合戦なんてそんな重要な局面じゃないからな。
横山城を包囲された浅井が救援するためにでてきて、囲んでる織田とぶつかっただけ。
曲解大好きなだがからすれば浅井優勢を徳川がひっくり返したとかほざいているが、
そもそも三河物語では浅井朝倉30000に対し徳川が3000の織田10000。
この状況で徳川が頑張ったところで長政でも討ち取らん限り打開不可能なのに大久保はそれをまるまるカット。
にも関わらずスパルタ兵レベルの強さを発揮していきなり敵モ即敗軍と誤魔化して終了。史料というより妄想に近い。

志賀の陣にしても同様で、浅井朝倉は織田のいぬまに京へ攻め込もうと考えるも宇佐山すら落とせず、
信長が神速で返ってくるやいきなり閻魔様でも見たかのように比叡山へ遁走。
挙句堅田では前波景当を討死させてまで裏切り者を追討するご執心っぷり。

結局義昭がチキって和議和議と言いだしたために渋々信長が浅井朝倉と和議を持ちかけたのを、
見ざる聞かざる考えざるのホラ吹き大久保は「天下は朝倉殿がー」と信長の起請文を捏造。
天下どころか畿内すら平定していない信長がこの時点で天下はと言うわけもなく、大久保のホラが残っただけで誰も取りざたしなかったのであった。
149人間七七四年:2012/01/29(日) 15:26:12.50 ID:4yN9Ir1V
そして挙句の果てには別働隊クラスの坂井が討死しただけで織田は即壊滅とするだが。
まるでホラ吹きを無理やり通す大久保にそっくりである。

織田が壊滅するならそのまま近江から逃げればいいだけの事。
幸いにしてこの時点では近江湖南はまだ浅井朝倉の手にはなく十分退避できる位置。
わざわざ街道沿いの城に柴田中川らを入れてまで守備させているためしばらくは安全。
美濃尾張にいたっては誰も攻め込んでいないのだから最悪そこまで逃げればいいだけの事。

逃げなかったのはすなわち織田がそこまで追い詰められていないから。
こんな簡単なこともわからない大久保物語は史料どころか講談にすら劣る愚作品。
150人間七七四年:2012/01/29(日) 15:26:45.85 ID:zN5sjx3M
>>141
おまえは現代人の感覚で命捨ててまで土地守るか?って言ってるみたいだが、
餓死が日常的だった当時、武士にとっては土地を失う=死に近いもの
負けるとわかってて戦ったり、最後玉砕を選んだ武士なんて当時そう多くはない
そういう武士であってもその行為は主君のためではなくて自分の土地と名誉の為
151人間七七四年:2012/01/29(日) 15:31:30.67 ID:JItMBbiX
山の中で百姓でもしながらひっそり生きてた方がいいだろ
敗色濃厚でも戦い続けたり玉砕したりした武士なんていくらでもいるだろうが
そういう奴は命より土地や金が大事な馬鹿ってことな
152人間七七四年:2012/01/29(日) 15:33:37.18 ID:9j70Ape4
>山の中で百姓でもしながらひっそり生きてた方がいいだろ

お前の価値観ではそうなんだろうよ。
153人間七七四年:2012/01/29(日) 15:35:34.72 ID:JItMBbiX
命捨ててまで土地や金守るとか馬鹿すぎね
154人間七七四年:2012/01/29(日) 15:36:22.51 ID:4yN9Ir1V
天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し。

無知でホラ吹きな大久保が捏造した起請文がなぜか有名になっているが、当時の状況を考えればすぐに嘘だとわかる。
志賀の陣が起こった際の元亀元年は信長義昭間の対立関係はまだない。
この時点では第15代将軍足利義昭が権力者で、織田信長はあくまで協力者にすぎない。
これは志賀の陣の和議の際に義昭が信長の肩を持って和議を結んでいることからも明らか。
義昭信長どちらから言い出したかは謎にしても、この義昭信長の協力関係はどの史料にも共通している。

そんな状況で信長は「天下は〜」と公然と言えるだろうか。言えるわけがない。
この時点の天下の主導は足利義昭であって、信長はおつきのパトロンである。
そんな人間が、天下に権力も持っていないのに「天下は朝倉殿が〜」なんていうのは背信行為以外の何物でもない。
信長が天下を譲らずとも、この時点で天下は義昭のもので、信長がどうこう言える立場ではない。

信長がこのような口上をしていたら、義昭はこの時決して信長の肩を持つことはなかったであろう。
義昭が信長に協力したという事実が、大久保の嘘を看破することになった。
155人間七七四年:2012/01/29(日) 15:38:17.76 ID:9j70Ape4
>>153
お前がやってる事に比べたら…w
まあそれにあえて付き合ってやってる俺らも似たようなもんだがねw
156人間七七四年:2012/01/29(日) 15:41:56.74 ID:JItMBbiX
表面上の権力と実質の権力は違う
義昭が信長を従わせてるというのはいわば公家とか公方が表面的に大名を臣下にしてるのと同じ事で
軍事力を実際に握っているのは信長なんだから全く大久保の記述をでたらめとする根拠にならない
157人間七七四年:2012/01/29(日) 15:45:43.59 ID:4yN9Ir1V
>>156
足利義昭は征夷大将軍で武家の棟梁ですが。
領土的にも信長はこの時美濃尾張、伊勢一部近江一部くらいが支配圏のせいぜいで、
天下どころか畿内平定にも届かない程度の領国。加えて義昭という絶対的存在が上にいる。

そして大久保物語こと三河物語は江戸時代の作品。嘘っぱちの確立は99%。
158人間七七四年:2012/01/29(日) 15:48:26.84 ID:4yN9Ir1V
確かに言われているほど足利家の権力そのものはないも同然だったかもしれん。
しかし内実はどうあれ足利を奉じている以上は足利を立てる必要がある。
にも関わらず敵である朝倉に天下をゆだねるような起請文を書くのは愚の骨頂である。
作品の時代背景とか普通に考えたら嘘
159人間七七四年:2012/01/29(日) 15:51:51.65 ID:JItMBbiX
>>157
三河物語は同時代の人間が書いたんだから充分資料的価値あるだろ
信長公記みたいに嘘で塗り固めて大声で敵を追い払ったとか馬鹿なエピソードもないしな
そんだけ領土があれば動乱でくたくたになった畿内なんて連携されでもしない限り
楽勝だろ
征夷大将軍といっても自分の意のままに動かせる軍団を直属でいくつも持ってるわけじゃないから名ばかりだろ
公家とか公方とかと似たようなもん
160人間七七四年:2012/01/29(日) 15:55:44.21 ID:9j70Ape4
×
三河物語は同時代の人間が書いたんだから充分資料的価値あるだろ
信長公記みたいに嘘で塗り固めて大声で敵を追い払ったとか馬鹿なエピソードもないしな


信長公記は同時代の人間が書いたんだから充分資料的価値あるだろ
三河物語みたいに嘘で塗り固めて徳川のおかげで姉川で勝利したとか馬鹿なエピソードもないしな
161人間七七四年:2012/01/29(日) 15:56:57.39 ID:JItMBbiX
織田軍の苦戦を物語る根拠として
浅井軍の先鋒で信長軍に突入した遠藤直経の討ち死に場所があげられる。現在の東上坂町の水田地帯には、
字名で「円藤(遠藤)」と、直経の墓といわれる「遠藤塚」が伝えられている。
こちらも圃場整備事業のため、現在では40m南に移って墓碑が建立されているが、
その位置は信長の本陣よりも南に位置し、浅井軍に攻め込まれ
信長本陣は相当後退を余儀なくされたことを示している。

 遠藤直経は小谷城下の清水谷に居館を有す浅井氏の譜代の家臣で、浅井長政の傅役的存在として長政の信頼は厚かったとされる。
姉川での先制攻撃も直経の策とも言われ、果敢に攻撃し、
織田の武将に成りすまし信長に迫ったが、竹中重治の弟・竹中重矩に見抜かれ、失敗、討ち死にしたとされる。その場所が遠藤塚とされている。
162人間七七四年:2012/01/29(日) 15:58:21.90 ID:JItMBbiX
三河物語は同時代の人間が書いたんだから充分資料的価値あるだろ
信長公記みたいに嘘で塗り固めて大声で敵を追い払ったとか馬鹿なエピソードもないしな
熊見川とか手取川とか信長に都合の悪い部分は全てカットだし
163人間七七四年:2012/01/29(日) 16:08:47.95 ID:9j70Ape4
ついでに

>大声で敵を追い払った

「大声で叱ったところ、もともと敵も味方も身内同士の事だったので、当主の信長を恐れ、最後には退いていった」な。
勝手に改変しないように。


>動乱でくたくたになった畿内

それでも「下の地方(九州)より遥かに豊かで、全てのものが揃っているからこっちで布教した方がいい」
とフロイスが記している程度には豊かだよ。


>征夷大将軍といっても自分の意のままに動かせる軍団を直属でいくつも持ってるわけじゃないから

あれあれ〜?
丹波は義昭に従ってるって言ってなかったぁ?w
キミ義昭の兵力はいくつだって思ってるのよ。そこ明確に出してもらえる?
「何人」って。
164人間七七四年:2012/01/29(日) 16:13:11.85 ID:JItMBbiX
信長公記は偽書。
敵を大声で追い払った。熊見川、手取川の隠蔽。森長可の越後侵攻。
嘘で塗り固められた妄想軍記
畿内は分裂した三好や権威の失墜した足利幕府など動乱の影響でぐちゃぐちゃだから
当時の信長程度の国力なら侵略可能
足利将軍はただの傀儡
北条の傀儡だった足利義氏なんかと同じ
165人間七七四年:2012/01/29(日) 16:50:21.40 ID:JItMBbiX
信長なんぞ家康がいなかったら浅井朝倉武田あたりに瞬殺されてたのは間違いない。
166人間七七四年:2012/01/29(日) 17:01:26.46 ID:5rpYCe4f
>>164
具体的なこと何一つ言ってないなw
三好の権威って何?失墜する以前の将軍の権威は?具体的にどれぐらい低下したの?
信長程度の国力って具体的に?
傀儡とはどんな状態?
両公方が傀儡だったという論証は?
がんばって論述してくれw
「面倒」「そんな事も知らないのか」「常識」「あほらしくて応える気にもならない」で逃げんなよ?w
167人間七七四年:2012/01/29(日) 17:02:25.35 ID:5rpYCe4f
>>164
忘れてた
「織田厨は質問ばかりで何も応えないから相手する価値なし」
「じゃあおまえが論証してみろよ」
も無しだぞw
168人間七七四年:2012/01/29(日) 17:09:09.29 ID:JItMBbiX
信長公記は偽書。
敵を大声で追い払った。熊見川、手取川の隠蔽。森長可の越後侵攻。
嘘で塗り固められた妄想軍記
畿内は分裂した三好や権威の失墜した足利幕府など動乱の影響でぐちゃぐちゃだから
当時の信長程度の国力なら侵略可能
足利将軍はただの傀儡
北条の傀儡だった足利義氏なんかと同じ
169人間七七四年:2012/01/29(日) 17:26:04.65 ID:JItMBbiX
第二次木津川口の戦い自体は兵糧搬入成功している以上勝利だからね
毛利側にも本願寺側にも証拠がある

毛利家文書834 小早川隆景書状写
「去六日至木津諸警固乗入、大坂衆申談候、
敵船雖罷出候、舟軍等勿論此方得勝利候」

毛利家文書832 下間頼廉書状写
「諸警固一昨日六日木津浦御着岸候、当寺大慶此事候」

「兵粮両度被入 信長公より九鬼大隅守に被命以大船 川口被塞 雖然打破り 兵粮を入る」
毛利家日記より

討ち取られた武将もいない
170人間七七四年:2012/01/29(日) 18:31:08.25 ID:hIkXER2N
結局そんな状況で全部巻き返してるのに何言ってんだか…w
171人間七七四年:2012/01/29(日) 19:04:57.97 ID:Ok/g+DF8
もはやネタの領域
172人間七七四年:2012/01/29(日) 19:50:58.10 ID:N3MacPxK
兵糧の運搬>>>>制海権
らしい
173人間七七四年:2012/01/29(日) 20:54:00.67 ID:dnTVATzt
ガダルカナルでも日本軍の兵糧の運搬が成功したから
ガダルカナルでは勝っていたと言うようなもんだな(笑)
174人間七七四年:2012/01/29(日) 21:31:13.91 ID:JItMBbiX
第二次木津川口の戦い自体は兵糧搬入成功している以上勝利だからね
毛利側にも本願寺側にも証拠がある

毛利家文書834 小早川隆景書状写
「去六日至木津諸警固乗入、大坂衆申談候、
敵船雖罷出候、舟軍等勿論此方得勝利候」

毛利家文書832 下間頼廉書状写
「諸警固一昨日六日木津浦御着岸候、当寺大慶此事候」

「兵粮両度被入 信長公より九鬼大隅守に被命以大船 川口被塞 雖然打破り 兵粮を入る」
毛利家日記より

討ち取られた武将もいない
175人間七七四年:2012/01/29(日) 23:24:39.52 ID:4yN9Ir1V
>>173
兵糧運搬しても兵が死んだら意味がないからなw
だがは米粒が兵になるとでも思っているんだろw
176人間七七四年:2012/01/29(日) 23:43:43.53 ID:JItMBbiX
兵なんて死んでないだろ
177人間七七四年:2012/01/29(日) 23:45:30.01 ID:hIkXER2N
だがの頭の中では織田の敵が何かを成功させるとそれが主軸になるからな
178人間七七四年:2012/01/31(火) 06:53:18.31 ID:KspZINyj
九鬼の活躍は一次史料には皆無なのが現実。
対北畠戦や対伊勢長島戦ですら皆無。
九鬼のデタラメ戦果は全く信用でき無いシロモノ。
179人間七七四年:2012/01/31(火) 07:03:54.31 ID:KspZINyj
>>169
信長はこの時期、荒木謀反で朝廷に和睦斡旋土下座中。
第二次木津川戦で毛利に大敗。
結局、この戦線がうまくいくようになるには、
朝廷への信長土下座で、
天皇が教如に二回立て続けの勅命和睦に、
恐れ大いと教如が受け入れたから。
180人間七七四年:2012/01/31(火) 09:13:24.89 ID:hcEq1dYh
謹んで
お断り申し上げます
      ハハ
      (゚ω゚)
     /ヽy/ \
 (゚д゚)|o|=宗=|o|
くリ=ッ=L>L_|ヘヘヘヘ|_亅
じ(ノルハ)Jヒ)」」」」」」(ソ
181人間七七四年:2012/01/31(火) 12:20:10.08 ID:d2q+3d+b
だがスレの新スレ立てて
182人間七七四年:2012/01/31(火) 13:14:48.82 ID:14vrk2x7
天皇へ勅使頼んで何か悪いの?
それできるの承知でみんな喧嘩売ったんだろ?
ひどい言い訳だな
183人間七七四年:2012/01/31(火) 13:21:09.80 ID:v7qAdgtB
>>179
大敗したんなら信長はなんで直後に和睦交渉を打ち切らせたのかな?
教如はただ信長と停戦すればいいだけのところを、なんで石山から退去したのかな?
184人間七七四年:2012/01/31(火) 13:25:22.50 ID:v7qAdgtB
>>182
てか、本願寺は準門跡だから、信長よりよっぽど天皇家に近いはずなんだよね。
信長が右大臣になった後はまだしも。
本願寺の方こそ天皇家を利用しようとすれば信長以上にできたはず。
185人間七七四年:2012/01/31(火) 17:53:11.37 ID:ShleWZdW
>>178
その程度の九鬼に追放された向井やらがなんの役に立つんだろうね
186人間七七四年:2012/01/31(火) 18:33:31.13 ID:+H1YUe+j
むしろ最大の戦犯は足利だろうな。
三好長慶時代に足利義輝が散々朝廷と敵対しまくったせいで朝廷が三好の肩を持った。
おかげで反足利の空気ができてしまい、次に出てきた実力者の信長に対しても朝廷は肩を持つ。
無論信長がある程度朝廷を大切にしていたという点もあるが、
朝廷の反足利風潮によって義昭が信長から離れた後も朝廷は金出せない足利よりもパトロン織田信長を支持。

結局朝廷が信長の肩を持つ以上反信長連合は最終的な大義名分に欠けた。
無論朝廷の支持を得つづけた信長も大したもんだが、バックグラウンドにはある程度外部要因もあったと思う。
187人間七七四年:2012/01/31(火) 18:58:08.70 ID:QyrjWwi9
>>183
和睦を打ち切らしたソースは?
>>185
追放したとするソースは?
188人間七七四年:2012/01/31(火) 19:13:15.44 ID:pOgZGRIS
>和睦を打ち切らしたソースは?

立入宗継記。
189人間七七四年:2012/01/31(火) 19:40:20.18 ID:ShleWZdW
>>187
だがが研究者の名前出してくれてただろ
それすらあたらずに史料よこせ!か?
手間かけさせて煙に巻こうという魂胆が見え見え
190人間七七四年:2012/01/31(火) 19:57:53.32 ID:QyrjWwi9
>>188
原文を書いてくれ。
普通は和睦交渉で時間稼ぎをしてる間に、
信長が宣教師を逮捕し、
畿内のキリシタン信徒を虐殺すると脅迫して最前線の高山右近が
信長に降伏したことで、
最前線化した中川も織田に降伏。
この最中に信長の出陣準備も完了し、
時間稼ぎが必要が無くなったので、
信長は交渉終了し荒木攻めを開始したとする。
しかし毛利に勝ったから、
荒木との交渉を打ち切りしたとする話ははじめて聞いたので興味深いので、
教えて欲しい。
191人間七七四年:2012/01/31(火) 20:01:51.25 ID:ShleWZdW
原文かけって何のためにソース求めたんだよw
192人間七七四年:2012/01/31(火) 20:35:16.91 ID:+H1YUe+j
自らは妄想丸出しのコピペ(しかも自分の過去のレス)をソースにするくせに
他人には一言一句に至るまで正確なソースを要求させる悪癖

そもそも毛利が戦勝しているのなら石山が後に退去する必要もなかったからなw

仮に信長が天皇に土下座して勅命貰って無理やり和睦しようが、木津川で勝っている以上
本願寺は戦勝して兵糧たっぷり兵たっぷりなんだから信長からすれば状況は何も変わらず。
そんな本願寺優勢という状況だとだがの主張にも関わらずその2年後には石山本願寺を退去せざるを得ない、
もはや降伏とすら言っていい条件を顕如と教如が飲む有様w

だがに言わせれば顕如はただお引越しがしたかっただけらしいw
193人間七七四年:2012/01/31(火) 20:44:56.74 ID:pOgZGRIS
>>190
お前が>>187で聞いたのは「和睦を打ち切らせた事」のソース。
それを勝手に「和睦を打ち切った理由は、信長が木津川で毛利に勝ったからである」のソースにすりかえるな。

そして聞くがな、

>信長はこの時期、荒木謀反で朝廷に和睦斡旋土下座中。
>第二次木津川戦で毛利に大敗。

荒木の謀反だけで朝廷に「和睦斡旋土下座中」の信長が、さらに木津川で負けたとしたら、なんで打ち切らせるんだ?
そして俺もいい加減な書き方をしてしまったので訂正しておこう、『信長は朝廷に和睦を斡旋してもらう事を中止させた』。
この時まだ相手方に使者は派遣されていないからな。
だから時間稼ぎにはならないんだよ。


原文?お前の大好きな東京大学史料編纂所のHPで探せよw
194人間七七四年:2012/01/31(火) 21:19:23.19 ID:42dcMk4d
あれって原文じゃなくね?
あれにのってるのは書状を要約したものだろう。
195人間七七四年:2012/01/31(火) 21:41:34.22 ID:14vrk2x7
普通は〜
ってお前のおめでたい頭の中の普通か?
ソース求めて提示されたんだから自分で見てこいよ
196人間七七四年:2012/01/31(火) 21:41:49.21 ID:pOgZGRIS
>>194
君はどういう意味で原文という単語を使ってるの?
197人間七七四年:2012/01/31(火) 21:47:51.27 ID:42dcMk4d
あれは史料を編纂というか複数の物をまとめたというだけで
どの書状やらどの家記家譜等の記録類のどの部分をどういう風にまとめているかは不明
俺はあれにかいてある文を郷土史料やら戦国遺文やらで必死に探したが見つからなかった事がある
198人間七七四年:2012/01/31(火) 21:53:20.24 ID:IDvTfbjO
上洛するのに脱糞家康に無駄な戦力使ってられるかよ
カス(笑)
199人間七七四年:2012/01/31(火) 21:58:42.58 ID:IDvTfbjO
↑は>>122ねっ!
カス(微笑)
200人間七七四年:2012/01/31(火) 22:06:51.04 ID:+H1YUe+j
むしろ当時の家康の勢力考えたら三方が原で一気に徳川滅ぼすくらいしないとダメだろ
201人間七七四年:2012/01/31(火) 22:10:40.39 ID:42dcMk4d
2.5倍の兵力比で10倍もの被害差だったら十分壊滅させてるだろ
本来なら城に籠もられるはずだったのをうまく釣り出せたわけだし
202人間七七四年:2012/01/31(火) 22:21:39.39 ID:pOgZGRIS
>>197
史料については原文のまま。
タイトルに当たる部分や、解釈については作ったもの。
203人間七七四年:2012/01/31(火) 22:37:09.69 ID:42dcMk4d
>史料については原文のまま
それはどの項目から検索できるの?
さっきやったらわからなかったから教えて
204人間七七四年:2012/01/31(火) 23:09:24.71 ID:i22Fx1g1
西上作戦では実際に京都まで行くつもりは信玄にはなかったんじゃないか?
反信長連合の旗頭にされてたけど、信長との決戦(対戦)すら、考えてたかどうか怪しい。
特にあの西上作戦では美濃ですら突く気はなかった気がするけどな。
205人間七七四年:2012/02/01(水) 00:29:55.91 ID:ei4p7SFD
自分が死なない事を見越してるなら徳川領の併合だと思う。
上杉に勝てない、北条も潰せない。
だったら織田の庇護のない徳川領が一番美味い!
206人間七七四年:2012/02/01(水) 00:34:34.35 ID:79jbcrpQ
上杉はともかく北条は押しまくってたし
あのまま戦ってたらどんどん追い込まれていくのは北条の方だろ。
信玄が西上する必要上と対上杉の事から再同盟しただけの事
207人間七七四年:2012/02/01(水) 00:38:11.98 ID:KOYdFyzI
ほう、これは新説ですよ
西に行きたくて北条と結んだんですかw
つまりそのときから上洛を志向したと?w
208人間七七四年:2012/02/01(水) 00:39:48.21 ID:79jbcrpQ
んなもん普通に考えリャわかるだろ東と同盟するって事は東以外の場所に領土広げようとしただけ
209人間七七四年:2012/02/01(水) 00:55:49.13 ID:KOYdFyzI
お前の普通が一般の普通だとでも?w
極めて主観的な物言いだなw
210人間七七四年:2012/02/01(水) 01:14:34.50 ID:PfRtPQXR
今川・北条と婚姻→今川に侵攻
織田と婚姻→徳川・織田に侵攻


信玄に限っては、むしろこれから侵攻しようとするところと同盟結んでるように見えるw
211人間七七四年:2012/02/01(水) 01:15:18.54 ID:PfRtPQXR
ああ、諏訪を忘れてた
212人間七七四年:2012/02/01(水) 02:38:00.33 ID:79jbcrpQ
なりゆき上そうなったのを無理やりこじつけすぎだな
今川と婚姻してから駿河侵攻まで大分あるし
213人間七七四年:2012/02/01(水) 07:16:21.26 ID:gQa0YuUj
こじつけではないような…
妹いるのに無理矢理諏訪攻めたり同盟結んでた徳川に騙し討ちしかけたり
同盟は信玄の油断させる手口じゃね?
悪辣と思われるだろうが信玄からしたら油断する奴がアホだと思ってたのかもしれぬ
214人間七七四年:2012/02/01(水) 07:24:19.70 ID:79jbcrpQ
まんま信長の事じゃねえかw
甲相同盟は一時期除いてずっと続いてるじゃん
215人間七七四年:2012/02/01(水) 09:35:39.27 ID:gQa0YuUj
え?むしろ信長は同盟したら完全に油断するクチじゃね?
甲相同盟なんて今川攻めたら崩壊したじゃん 今川との同盟破棄に嫡男をぶっ殺してるのに
なにいってんだこいつ
216人間七七四年:2012/02/01(水) 12:14:50.99 ID:PfRtPQXR
>>212
ぜんぶ信玄自らの決断によるものだろw
なにがなりゆき上だよ、笑わせんな
217人間七七四年:2012/02/01(水) 12:15:14.86 ID:79jbcrpQ
義信殺害が今川と絡んでるとかアホすぎね
和議を破って騙まし討ちのオンパレード
北条と武田が決裂したのは氏康晩年の一時のみ
それと馬鹿勝頼の失策の時のみ
218人間七七四年:2012/02/01(水) 12:33:05.01 ID:PfRtPQXR
>>217
>義信殺害が今川と絡んでるとかアホすぎね

今川に絡んでないとするとますます信玄の人望がないという事になりますが。


>和議を破って騙まし討ちのオンパレード

よくわかってんじゃんw
219人間七七四年:2012/02/01(水) 12:36:47.74 ID:79jbcrpQ
信長の事に決まってるだろ
卑怯な方法でしか勝てないしまともに戦に勝った事すらないし
220人間七七四年:2012/02/01(水) 15:50:29.15 ID:Ujgz5vln
信玄がまともに戦に勝ったことがあるのか?
同盟破りの不意打ちで勝った戦いしかねえじゃん。
221人間七七四年:2012/02/01(水) 17:27:03.91 ID:KOYdFyzI
>>217
信長の和議を破って騙し討ちって具体的になんだ?
222人間七七四年:2012/02/01(水) 18:37:18.56 ID:79jbcrpQ
1566年 足利義昭から上洛救援要請来る。
信長はこれを受け、斉藤に和議と領土内通行容認を持ちかけ、斉藤はこれを受諾。
しかし信長は美濃に入るやいやな翻心し、斉藤領土に襲い掛かる。

70年代周囲を包囲網勢に圧迫され、窮した信長は天皇を介して
朝倉浅井に「朝廷とか公方とか寺社とかその他のことは仰るとおりにいたします」と
無条件降伏に近いこといって和睦。
その後しっかり和睦を破る

1573年

信長、諸方を敵に囲まれ、「方々手ふさがり」と公記でも嘆かれる。
この状態で将軍義昭離反。
「人質だしますから和睦しましょ」と持ちかけるが拒否される。
天皇を使ってダッシュで和睦してダッシュで美濃に帰る。

第三次伊勢長島。
大軍で攻めながらも一揆達の激しい抵抗にあい、兵糧攻め。
三か月ほどこれを続け、一揆勢、餓死者や身投げして死ぬ者続出。
一揆勢信長に降伏し、武装解除して長島を退去する事を受け入れる。
し か し 信 長 は 当 然 の よ う に 約 束 を 破 る。
武装解除した一揆勢が長島を退去する為に出てきた所を大軍で包囲。
大量の鉄砲を打ちこみ、そのあと総攻撃に移る。
し か し こ こ ま で し て も 大 損 害 を 受 け る。
餓死寸前で武装解除もしていた一揆勢、多くが織田勢に虐殺される。
この中で激怒した一揆勢の800余りが、武具もつけず刀しかもってない状態でありながら
信長勢に突撃する。
信長勢数万はこの飢え死に寸前の一揆勢800に突き崩され、打ちのめされ、兄信広達一門10人をはじめとして多くを打ち取られる大損害を受ける。
その一揆800はそのまま織田勢を突破し、多芸山から大阪まで逃げ延びた。
飢え死に寸前の一揆勢800に数万の兵でこれだけ一門を殺され、しかも逃げられるのは前代未聞の成果と言っていい。
逆上した信長、まだ城に残っていた、ろくに動けもしない一揆勢を城ごと全て焼き殺した。

岩村合戦でも秋山を騙まし討ち

武田攻めでも武田一族家臣を騙まし討ち

糞みてえな人格だな
223人間七七四年:2012/02/01(水) 19:25:24.79 ID:/7cxWLuY
そりゃ信長が褒められてるのは行動力と結果を生むことだもの
人格は昔から評価されてない
224人間七七四年:2012/02/01(水) 19:37:49.11 ID:KOYdFyzI
>>222
どうでもいいお前の主観なんか書かなくていいよ、どうせ読まないから

つかお前の戦術にはまるところだった
信長がどうとか関係ねえ
問題は武田信玄がどうか、だ
225人間七七四年:2012/02/01(水) 20:04:55.64 ID:A8pIw8PA
>信長はこれを受け
>しかし信長は美濃に入るやいやな翻心し

そんな史料はない。
「斉藤側が和睦を承知しようとしているのに信長が承知しない」という書状ならあるがね。
とはいってもこれは斉藤側の書状だから信憑性は疑問。
ついでにこの時、信長が攻めてきて戦ったという記録も斉藤側の書状にしかなかったりする。


>朝倉浅井に「朝廷とか公方とか寺社とかその他のことは仰るとおりにいたします」と
>無条件降伏に近いこといって和睦

そこまで言ってねーよw
ちなみに信長は比叡山に「敵につくか、中立を保てないなら焼くぞ」とも言っている。


>諸方を敵に囲まれ、「方々手ふさがり」と公記でも嘆かれる

原文「方々御手塞の由、下々申し候につきての儀に侯哉」
訳「(信長は)ほうぼう手が塞がっていると下々の者が(足利義昭に)申し上げるので〜」
この和睦を破ったのは信長ではなく足利義昭。


>一揆達の激しい抵抗
→さっさと城に篭っている。

>三か月ほどこれを続け
→1ヶ月ほどしか経っていない。

>武装解除して長島を退去する事を
「武装解除する」なんて言っていない。

>大 損 害 を 受 け る
損害は最大でも1000人。

>武具もつけず刀しかもってない
武具つけてるじゃない。

>一揆勢800に突き崩され、打ちのめされ、
これも妄想。

>その一揆800はそのまま織田勢を突破し、多芸山から大阪まで逃げ延びた
いいえ、この人たちは討ち死にした事が近所の寺社の日記などから分かります。
常識的に考えても全員が突破できるわけがないですね。
226人間七七四年:2012/02/01(水) 20:07:42.56 ID:/7cxWLuY
>>武具もつけず刀しかもってない
>武具つけてるじゃない。
確かにこれはギャグだな
227人間七七四年:2012/02/01(水) 20:49:37.77 ID:79jbcrpQ
1566年 足利義昭から上洛救援要請来る。
信長はこれを受け、斉藤に和議と領土内通行容認を持ちかけ、斉藤はこれを受諾。
しかし信長は美濃に入るやいやな翻心し、斉藤領土に襲い掛かる。

70年代周囲を包囲網勢に圧迫され、窮した信長は天皇を介して
朝倉浅井に「朝廷とか公方とか寺社とかその他のことは仰るとおりにいたします」と
無条件降伏に近いこといって和睦。
その後しっかり和睦を破る

1573年

信長、諸方を敵に囲まれ、「方々手ふさがり」と公記でも嘆かれる。
この状態で将軍義昭離反。
「人質だしますから和睦しましょ」と持ちかけるが拒否される。
天皇を使ってダッシュで和睦してダッシュで美濃に帰る。

第三次伊勢長島。
大軍で攻めながらも一揆達の激しい抵抗にあい、兵糧攻め。
三か月ほどこれを続け、一揆勢、餓死者や身投げして死ぬ者続出。
一揆勢信長に降伏し、武装解除して長島を退去する事を受け入れる。
し か し 信 長 は 当 然 の よ う に 約 束 を 破 る。
武装解除した一揆勢が長島を退去する為に出てきた所を大軍で包囲。
大量の鉄砲を打ちこみ、そのあと総攻撃に移る。
し か し こ こ ま で し て も 大 損 害 を 受 け る。
餓死寸前で武装解除もしていた一揆勢、多くが織田勢に虐殺される。
この中で激怒した一揆勢の800余りが、武具もつけず刀しかもってない状態でありながら
信長勢に突撃する。
信長勢数万はこの飢え死に寸前の一揆勢800に突き崩され、打ちのめされ、兄信広達一門10人をはじめとして多くを打ち取られる大損害を受ける。
その一揆800はそのまま織田勢を突破し、多芸山から大阪まで逃げ延びた。
飢え死に寸前の一揆勢800に数万の兵でこれだけ一門を殺され、しかも逃げられるのは前代未聞の成果と言っていい。
逆上した信長、まだ城に残っていた、ろくに動けもしない一揆勢を城ごと全て焼き殺した。

岩村合戦でも秋山を騙まし討ち

武田攻めでも武田一族家臣を騙まし討ち

糞みてえな人格だな


228人間七七四年:2012/02/01(水) 20:53:18.27 ID:79jbcrpQ
基地外信長マンセー本の信長公記ですら信長の雑魚っぷりと残虐・不義理・卑怯さはありありと描かれている

認めないのは>>225みたいな糞カス織田厨だけ
229人間七七四年:2012/02/01(水) 20:53:18.32 ID:2pv8xurh
>秋山でも
>武田攻めでも

秋山は自業自得 騙してきた相手を騙して何が悪い
武田攻めなんて滅亡寸前に主君差し出すような奴を許すかよ
一度裏切った弟や松永だって許してるのにお前に卑怯と言われないようにするには何回許せばいいの?
お優しい信玄公は誰か許した試しがありましたか?
230人間七七四年:2012/02/01(水) 20:54:58.86 ID:2pv8xurh
>>228
お前自分に同調してくれる人いないのによくそんな喚けるな^^;
231人間七七四年:2012/02/01(水) 20:55:29.37 ID:79jbcrpQ
秋山は騙してなどいない
主君を裏切ろうが卑怯な手段で寝返らせてまとめて切り殺す卑怯さ残酷さは雑魚長特有

信玄は無論大体の戦国大名は卑怯な手段は少ない
信長は自力で戦うと負けてばかりだからだまし討ちばかり
232人間七七四年:2012/02/01(水) 20:56:16.22 ID:79jbcrpQ
>>230
お前に同調してんのもお前とファンネルだけだろうが

内容で勝負しろよカスがwwwwwwww
233人間七七四年:2012/02/01(水) 20:56:48.24 ID:79jbcrpQ
1566年 足利義昭から上洛救援要請来る。
信長はこれを受け、斉藤に和議と領土内通行容認を持ちかけ、斉藤はこれを受諾。
しかし信長は美濃に入るやいやな翻心し、斉藤領土に襲い掛かる。

70年代周囲を包囲網勢に圧迫され、窮した信長は天皇を介して
朝倉浅井に「朝廷とか公方とか寺社とかその他のことは仰るとおりにいたします」と
無条件降伏に近いこといって和睦。
その後しっかり和睦を破る

1573年

信長、諸方を敵に囲まれ、「方々手ふさがり」と公記でも嘆かれる。
この状態で将軍義昭離反。
「人質だしますから和睦しましょ」と持ちかけるが拒否される。
天皇を使ってダッシュで和睦してダッシュで美濃に帰る。

第三次伊勢長島。
大軍で攻めながらも一揆達の激しい抵抗にあい、兵糧攻め。
三か月ほどこれを続け、一揆勢、餓死者や身投げして死ぬ者続出。
一揆勢信長に降伏し、武装解除して長島を退去する事を受け入れる。
し か し 信 長 は 当 然 の よ う に 約 束 を 破 る。
武装解除した一揆勢が長島を退去する為に出てきた所を大軍で包囲。
大量の鉄砲を打ちこみ、そのあと総攻撃に移る。
し か し こ こ ま で し て も 大 損 害 を 受 け る。
餓死寸前で武装解除もしていた一揆勢、多くが織田勢に虐殺される。
この中で激怒した一揆勢の800余りが、武具もつけず刀しかもってない状態でありながら
信長勢に突撃する。
信長勢数万はこの飢え死に寸前の一揆勢800に突き崩され、打ちのめされ、兄信広達一門10人をはじめとして多くを打ち取られる大損害を受ける。
その一揆800はそのまま織田勢を突破し、多芸山から大阪まで逃げ延びた。
飢え死に寸前の一揆勢800に数万の兵でこれだけ一門を殺され、しかも逃げられるのは前代未聞の成果と言っていい。
逆上した信長、まだ城に残っていた、ろくに動けもしない一揆勢を城ごと全て焼き殺した。

岩村合戦でも秋山を騙まし討ち

武田攻めでも武田一族家臣を騙まし討ち

糞みてえな人格だな


234人間七七四年:2012/02/01(水) 20:57:17.30 ID:2pv8xurh
>>231
詭弁すぎワロタ
信玄が汚くないってゲームでのお話ですか?
講談ですら汚い手口書いてるのに
君の脳内大名の解説は結構です><
235人間七七四年:2012/02/01(水) 20:58:30.42 ID:2pv8xurh
>>232
>内容で勝負しろよ

延々とコピペを張り付けるのが内容なのか
知らなかった だがさんの常識はわかりにくいなぁ
236人間七七四年:2012/02/01(水) 20:59:02.75 ID:79jbcrpQ
講談は江戸期に入って書かれた物だから長野に負けたとか下らん話しかないだろ

雑魚長は信長公記ですら雑魚っぷりと卑怯さが書かれているからガチ
237人間七七四年:2012/02/01(水) 20:59:58.50 ID:79jbcrpQ
そもそも>>225は全く反論になってない件
238人間七七四年:2012/02/01(水) 21:00:44.85 ID:2pv8xurh
>>236
信長公記は宛にならないんじゃないの?
自分にとって都合のいい部分だけ認め悪いとこは宛にならないのか
素晴らしい史書ですね!
239人間七七四年:2012/02/01(水) 21:00:54.70 ID:79jbcrpQ
信長は氏康以下
240人間七七四年:2012/02/01(水) 21:01:53.48 ID:A8pIw8PA
>秋山は騙してなどいない

>卑怯な手段で寝返らせて   ←まんま秋山のこと
241人間七七四年:2012/02/01(水) 21:02:02.65 ID:79jbcrpQ
そら信長公記は信長マンセー本だから都合のいいことしか書かれないけど
その公記ですら罵倒されてるんだからリアルにそういう人間だったというだけ
242人間七七四年:2012/02/01(水) 21:02:35.56 ID:2pv8xurh
>>237>>239
これが内容のあるレスか
素晴らしいレスだなw
243人間七七四年:2012/02/01(水) 21:02:48.58 ID:79jbcrpQ
秋山は織田の姫が遠山をのっとろうとするのを防いだだけ
244人間七七四年:2012/02/01(水) 21:03:12.07 ID:79jbcrpQ
織田厨は馬鹿
245人間七七四年:2012/02/01(水) 21:03:53.16 ID:2pv8xurh
>>241
んで甲陽軍艦にある信玄の卑怯なとこは無視と
すごい史書解読だね(棒)
246人間七七四年:2012/02/01(水) 21:04:25.87 ID:79jbcrpQ
誰だそれ
誰と勘違いしてるんだお前
247人間七七四年:2012/02/01(水) 21:05:18.60 ID:2pv8xurh
>>244
小学生みたいなレスだなw
如何に君の頭が幼稚なのかがわかった
248人間七七四年:2012/02/01(水) 21:06:00.35 ID:79jbcrpQ
>>247
お前はボワフラやゾウリムシなどにも劣りそうだがな
249人間七七四年:2012/02/01(水) 21:06:13.00 ID:KOYdFyzI
まんまと乗せられてお前らは

徳川、織田、今川、諏訪、これ全部信玄から切ってるだろ
織田にいたっては思いっきり切れられる始末
徳川も切れてるみたいだが
今川も父親のカタキであるはずの徳川織田について武田と敵対したあたり、腹に据えかねてたんだろう
氏康曰く「代々の例で表裏常無し」の武田一族、面目躍如だなw
250人間七七四年:2012/02/01(水) 21:06:58.26 ID:KOYdFyzI
>>248が中身のあるレスですかw
251人間七七四年:2012/02/01(水) 21:07:51.48 ID:79jbcrpQ
諏訪は山之内上杉と勝手に和議結んだから
織田は岩村勝手に乗っ取ったから
徳川は成り行き上
今川は一緒に徳川攻めようと言ったら断って関係悪くなった
252人間七七四年:2012/02/01(水) 21:07:53.06 ID:2pv8xurh
>>248
立入宗継記は読んだ?
253人間七七四年:2012/02/01(水) 21:08:50.31 ID:79jbcrpQ
信長は騙まし討ちでしか勝ったことがない
254人間七七四年:2012/02/01(水) 21:09:36.67 ID:79jbcrpQ
1566年 足利義昭から上洛救援要請来る。
信長はこれを受け、斉藤に和議と領土内通行容認を持ちかけ、斉藤はこれを受諾。
しかし信長は美濃に入るやいやな翻心し、斉藤領土に襲い掛かる。

70年代周囲を包囲網勢に圧迫され、窮した信長は天皇を介して
朝倉浅井に「朝廷とか公方とか寺社とかその他のことは仰るとおりにいたします」と
無条件降伏に近いこといって和睦。
その後しっかり和睦を破る

1573年

信長、諸方を敵に囲まれ、「方々手ふさがり」と公記でも嘆かれる。
この状態で将軍義昭離反。
「人質だしますから和睦しましょ」と持ちかけるが拒否される。
天皇を使ってダッシュで和睦してダッシュで美濃に帰る。

第三次伊勢長島。
大軍で攻めながらも一揆達の激しい抵抗にあい、兵糧攻め。
三か月ほどこれを続け、一揆勢、餓死者や身投げして死ぬ者続出。
一揆勢信長に降伏し、武装解除して長島を退去する事を受け入れる。
し か し 信 長 は 当 然 の よ う に 約 束 を 破 る。
武装解除した一揆勢が長島を退去する為に出てきた所を大軍で包囲。
大量の鉄砲を打ちこみ、そのあと総攻撃に移る。
し か し こ こ ま で し て も 大 損 害 を 受 け る。
餓死寸前で武装解除もしていた一揆勢、多くが織田勢に虐殺される。
この中で激怒した一揆勢の800余りが、武具もつけず刀しかもってない状態でありながら
信長勢に突撃する。
信長勢数万はこの飢え死に寸前の一揆勢800に突き崩され、打ちのめされ、兄信広達一門10人をはじめとして多くを打ち取られる大損害を受ける。
その一揆800はそのまま織田勢を突破し、多芸山から大阪まで逃げ延びた。
飢え死に寸前の一揆勢800に数万の兵でこれだけ一門を殺され、しかも逃げられるのは前代未聞の成果と言っていい。
逆上した信長、まだ城に残っていた、ろくに動けもしない一揆勢を城ごと全て焼き殺した。

岩村合戦でも秋山を騙まし討ち

武田攻めでも武田一族家臣を騙まし討ち

糞みてえな人格だな
255人間七七四年:2012/02/01(水) 21:09:48.26 ID:2pv8xurh
>>251
釣りにしてはでかい釣り針だな
つまり同盟結んでた相手が非道な手段を用いてきたから泣く泣く信玄は同盟を破棄し滅ぼしたと
ワロタ
256人間七七四年:2012/02/01(水) 21:10:28.92 ID:79jbcrpQ
諏訪は山之内上杉と勝手に和議結んだから
織田は岩村勝手に乗っ取ったから
徳川は成り行き上
今川は一緒に徳川攻めようと言ったら断って関係悪くなった

257人間七七四年:2012/02/01(水) 21:11:21.56 ID:2pv8xurh
>>254
コピペ15回目ぐらい?
自分の頭の幼稚さをそんなに表したいのか
おっさん引きこもりニートのだがさんは
258人間七七四年:2012/02/01(水) 21:13:21.24 ID:A8pIw8PA
>>237
・斉藤と和議を結んで騙し討ち
 →結んでない。戦いがあったかも微妙

・浅井、朝倉、および比叡山を騙し討ち
 →比叡山については同時に「敵対するなら焼く」と明言。浅井は自分から破ってきている

OK?
259人間七七四年:2012/02/01(水) 21:13:31.29 ID:79jbcrpQ
信長があと10年早く生れていたら全盛期の斉藤に瞬殺されてたのは間違いない

何せ史実で義龍には全く歯が立たず龍興の台になって幼君で家中が分裂して浅井が美濃を攻めて
それなのにまともに戦ったら全く歯が立たずボコボコだったんだから
260人間七七四年:2012/02/01(水) 21:15:23.39 ID:79jbcrpQ
信長って斉藤に50回くらい負けてるだろ

相手が浅井に攻め込まれて子供が大将だったから勝っただけ

竹中にも稲葉山奪われる雑魚
261人間七七四年:2012/02/01(水) 21:16:35.81 ID:79jbcrpQ
信長なんぞ家康いなけりゃ1年くらいで瞬殺されてただろ
262人間七七四年:2012/02/01(水) 21:16:47.51 ID:A8pIw8PA
>>259
後半2行が捏造に満ちているのをあえて見逃してやった上で言うが。
その場合、信長に10年分の経験が上積みされるから、それはないよ。
263人間七七四年:2012/02/01(水) 21:18:04.14 ID:79jbcrpQ
信長があと10年早く生れていたら全盛期の斉藤に瞬殺されてたのは間違いない

何せ史実で義龍には全く歯が立たず龍興の台になって幼君で家中が分裂して浅井が美濃を攻めて
それなのにまともに戦ったら全く歯が立たずボコボコだったんだから
264人間七七四年:2012/02/01(水) 21:18:55.83 ID:79jbcrpQ
信長や秀吉は畿内、美濃に大苦戦。

家康は瞬殺した。
265人間七七四年:2012/02/01(水) 21:19:38.90 ID:2pv8xurh
まーただがが論破されたか
論破されるとコピペに走るからなー
今悔しくてキーボード叩いてるんだろうけど
266人間七七四年:2012/02/01(水) 21:20:20.92 ID:79jbcrpQ
信長がまともに戦って勝った戦なんて一つとしてねえよw
267人間七七四年:2012/02/01(水) 21:21:31.31 ID:TFtPrgyA
全盛期の斎藤っていつなんだろう…?w
268人間七七四年:2012/02/01(水) 21:21:46.44 ID:79jbcrpQ
勝頼は馬鹿
信玄の遺産食い潰しただけ
269人間七七四年:2012/02/01(水) 21:22:34.28 ID:2pv8xurh
>>267
信秀と争ってた時…?
270人間七七四年:2012/02/01(水) 21:23:43.90 ID:79jbcrpQ
勝頼は馬鹿
勝頼が死ぬ時点では武田は大大名&北条と同盟、上杉も北陸進出していずれ織田と激突
畿内にもたくさん勢力あった。
そのチャンスを馬鹿な判断で潰したのが勝頼
271人間七七四年:2012/02/01(水) 21:24:56.92 ID:2pv8xurh
NG ID "79"

すげえ数書き込んでてワロタ
流石ニートと名高いだが
272人間七七四年:2012/02/01(水) 21:26:27.32 ID:79jbcrpQ
信長があと10年早く生れていたら全盛期の斉藤に瞬殺されてたのは間違いない

何せ史実で義龍には全く歯が立たず龍興の台になって幼君で家中が分裂して浅井が美濃を攻めて
それなのにまともに戦ったら全く歯が立たずボコボコだったんだから



273人間七七四年:2012/02/01(水) 21:34:36.49 ID:79jbcrpQ
政宗の葦名侵攻と信長の美濃攻略、これで比べると
圧倒的に政宗のが上。

信長は幼君でガタガタの斉藤に敗戦し続けてラッキーパンチで寝返りが出て勝っただけ。

政宗は佐竹や白河、二階堂、石川、相馬、最上、大崎、葛西など全てで150万石にもなるであろう
大連合を自力で突破した。

比較にすらなるまい。
274人間七七四年:2012/02/01(水) 21:37:44.66 ID:79jbcrpQ
濃尾だけで100万石オーバーじゃねぇかw
織田は信秀時代ですらすでに朝廷への献金額も異常だし
織田家のボンボン嫡男に過ぎない時代で趣味ですでに高価な鉄砲を大量所持して
美濃国守の道三がビックリしてたし 幼少の家康を買い取った時の
たかが人質買い取りにしては桁外れの金額を即金で払った財力からしてかなり豊かだろうが。
信長は完全にチートスタートだ。
津島や熱田の海上貿易通商路を押さえた信秀のボンボン息子でお小遣いをたくさん持ってた
吉法師は将軍義輝が六角氏に命じて近江国友村に作らせた鉄砲製造所で試作がようやく完成したばかりであったが
さっそく大量の六匁玉の鉄砲を発注していたので道三との会見においてすでに五百梃の鉄砲と火薬を持ってた。
1543年2月信秀は平手政秀を通じて内裏修造費用4千貫文を貢納。
3年前にも伊勢豊受大神宮仮殿造営費700貫文を献納していたのにも関わらず。
田原城主戸田家臣又右衞門が拉致った松平竹千代を五百貫文の破格の大金でキャッシュ即払いした信秀
超イージーモードの織田家に自ら刃向かうバカはいません。
信長公記の記述する戦はデタラメばっかりです。
信玄は父を追放した権臣たちの操り人形の傀儡として祭り上げられ家臣団による合議体制となった。
信玄がその恐怖から脱したのは村上との敗戦を招いた権臣たちの討ち死にが契機となる。
一方、信長は斎藤道三の後見により確固たる地位を保持しており
三河でも水野を防波堤となし
将来の危険の芽を摘むべく弱者を追い詰め蜂起させて圧倒的戦力で叩き潰し直轄領化を推進していく。
義元は自国と尾張の隔絶した国力差に危機感を抱き
是が非でも三河の安定領国化を成さねばならない追い詰められた状況だった。
尾張より国力の小さい美濃攻略に11年
その後、将軍チートで簡単に上洛できただけ
しかしその後、信玄に滅亡寸前に追いやられるのが信長
甲斐の2倍の国力ある信濃を攻略できた信玄とはレベルが違い過ぎる。
斎藤は当主の相次ぐ死による交代で衰退し美濃国人衆は見限り初めて瓦解期に入っていた。
村上は地の利を占め逆に領土拡大する隆盛期に入っていた。
そんだけ信長が戦下手だという証拠。
そりゃそうだ。信長には敵を外交で一つに絞って
戦力の集中をすると言う軍事の基本すら理解できてない素人。
経済力を背景に負けても負けても侵攻を執拗に続けるだけのバカ。
領土拡大なんて濃尾の平野&湾岸の異常な石高と経済力を背景にすれば楽勝だろ。
むしろ無駄に摩擦と衝突を引き起こして同時に複数国で混乱を起こさせて勝つまで
執拗に攻め込みまくる信長のやり方は無駄に時間を浪費させただけに過ぎない。


275人間七七四年:2012/02/01(水) 21:39:43.24 ID:79jbcrpQ
斯波氏に関しては今川の捕虜になった斯波義達の跡を継いだ
義統が3歳の幼君なのを良いことに守護代織田氏は専横して傀儡に成り下がって実権なし。
信秀は今川義元の弟で捕虜になった斯波義達の娘を娶って尾張に来た今川氏豊を討って
今川の尾張支配の牙城那古野城を奪取するなど今川勢力を尾張国から一掃してる。
織田大和守家の分家で清洲三奉行「織田弾正忠家」の勢威は主家を上回っており押さえられる者はいなかった。
それは大和守家の織田達勝の娘が信秀によって離縁させられてるのでもわかる。
(大和守家織田達勝と三奉行家の「織田藤左衛門家」が共同して信秀に当たっても勝てなかった)
1547年の信秀の稲葉山城攻撃では岩倉方織田伊勢守の一族や中嶋郡の豪族など
尾張北西部の者どもが先鋒をしていて「織田伊勢守家」岩倉織田家家中もすでに傘下に組み込んでいるのがわかる。
さらに朝倉孝景の軍も信秀の援軍にやってきていて
稲葉山城包囲は25000の兵が動員されたほどに信秀の威勢は巨大だった。
稲葉山城攻防において夕闇が迫り一時撤退した油断を突かれて道三の奇襲で破れたものの
次の大垣城攻防戦では道三も驚く速さで渡河した信秀は
電光石火の進軍で火をかけながら稲葉山城方面を急襲しようとしたために
驚いた道三が大垣城攻撃を諦めて撤退してる。
(藤左衛門家もこの時に信秀配下として軍事行動をしており信秀は尾張の大半から動員していた)
「織田伊勢守家」岩倉織田を継いだ織田信安(妹は信秀側室・のち信秀妹を娶る)は
「織田大和守家」から入った人物で幼君を口実に犬山城で後見監視してたのが信秀の弟の信康なわけで、
ぶっちゃけ尾張は信秀がほぼ制していたと言っていい。
1549年正月17日の信秀弟の信康の子の犬山城主織田信清の謀反に至っては信秀が急を聞き即日撃破してるほどの圧勝し
2月25日には何事も無く平穏であり美濃から帰蝶が無事に尾張へ輿入れして信長は強力な後ろ盾を得てる。
3月に入り太原雪斎に安祥城を攻められるが頑強な抵抗をしており
本多忠勝の父が討ち死にするなど今川全軍を撤退に追い込んでる。
11月8日の再攻撃で火縄銃を投入しやっと安祥城を落とせたほど苦労してるので尾張への軍事行動が断念されてる。
安祥城落城も雪斎が非常に攻めづらい城南からの奇襲で
城側は油断しきって防備が甘かったって言う奇略で1日で落としたって話だし。
これはもう信秀の失敗とは言えないよな。
それに三河国碧海郡にあった刈谷城を本拠地にしていた三河の大身と呼ばれた水野信元が信秀側だったから
織田の三河進出の拠点は失ってねーし、結局、信秀は尾張の旗頭として
国内に敵を入れることはなかった(守山崩れの例外があるが)
今川とも竹千代交換して和議が成り信秀の晩年は内外ともに安定してる。
清洲三奉行因幡守家から織田大和守家の織田達勝の養子になったと言われる織田信友は
織田伊勢守家同様にすでに家臣団を信秀に奪われ傀儡守護の斯波義統を擁立していたと言う
一点でかろうじて信秀の主君と言う名目的地位を維持できていたにすぎず軍事的には信秀に屈していた。

父から信長が与えられた名古屋城の税だけでそんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。
大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除の謀略に引っかかっての無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…
276人間七七四年:2012/02/01(水) 21:44:47.19 ID:79jbcrpQ
強圧的な態度でムリヤリ国を纏めた甲斐守護家と国人衆との間は悪化の一途。 甲斐府中は呉越同舟で牽制し合う状況。
しかも、甲斐は山国であるため、越後の半分の石高(20万石)でしかなく、金山などはまだ後世に誇るほど歳出が見込めた訳でもなく
信玄の家督相続当時は甲斐は飢饉が数年前から猛威をふるうまっただ中で高緯度のため冷夏が発生し
飢饉が慢性化し、河川氾濫で田畑は災害にたびたび見舞われ信玄が家督を継いだ時には数年間連続の飢饉により、甲斐の国状は悲惨この上がありません。
信虎はこれらに有効な手立てをうつ所か今川などの外圧もあり戦闘につぐ戦闘。ただでさえ、基盤の脆い甲斐の国政は破綻しています。
信玄の場合、これらを解決する為には豊かな土地の“略奪”が急務であり、国人衆もそれを求めます。
しかし、経済は破綻している武田家ですから、それを為す侵略は困難を極めたはずです。
しなければ、父と同様に追放の憂き目にあいます。父の偏愛を受けた優秀な弟がいますからその危機は尚更です。
また、このような経路を辿ったため、重臣・国人衆の干渉は非常に強いのです。
しかも、村上に負け続けた時にはその危機が更に深まりました(権臣が死んだのは良かったが)貧しい甲斐は侵略だけでは食べていけません。
信玄はのちに信玄堤と呼ばれる堤防を築いたりして創意工夫の上、新田開発に努めます。
(信玄に始まる甲州流防河法・甲州流河除法は幕府の関東郡代として関東全域開発をした伊奈忠次に受け継がれる。北条の関東開発はデタラメです)
後世に代表するような土木技術が甲斐で発達したのは当然といえば当然。 普通にやっていてはお米を採れる環境ではないからです。
地方豪族達との軋轢、家督就任当時の国状において謙信に劣る訳ではありません。

277人間七七四年:2012/02/01(水) 21:52:39.34 ID:A8pIw8PA
ついに発狂してしまったか…
278人間七七四年:2012/02/01(水) 22:06:21.21 ID:2pv8xurh
一回でもソース出されたらすぐ発狂するからな…
流石キモオタ童貞包茎ニートだがw
279人間七七四年:2012/02/01(水) 23:03:07.44 ID:9Y3QYO9O
というかこいつは毎日発狂してるじゃん
280人間七七四年:2012/02/01(水) 23:41:29.22 ID:14DbVxnh
>>1以外が同じスレに一日37回も書き込むなんて基地外すぎる!
281人間七七四年:2012/02/02(木) 00:57:37.10 ID:vMefpIbA
信長って良く足利義昭を殺さなかったね。将軍を殺すことに抵抗があったんだろうか?
一説では松永久秀を家康に引き合わせた時に、
世人が出来ないことを3度(主家殺害、大仏焼き払い、将軍殺し)もやった男だと言ったらしいし。
282人間七七四年:2012/02/02(木) 01:27:16.22 ID:hn5rvsdP
すまんが勝頼・信玄と直接関係ないことはスレ違いとさせてくれぬか
283人間七七四年:2012/02/02(木) 03:31:19.71 ID:4GpJI6qL
勝頼はピンチヒッターにしちゃよくやったんじゃないか?
本命の跡取り息子は乱心した親父がヌッ殺しちまったし
284人間七七四年:2012/02/02(木) 04:56:51.51 ID:R0UVxV6k
>>281
この時点での足利義昭なんて権力のけの字もないから。
朝廷は既に三好、織田と有力大名に媚を売って「武家の棟梁は足利にあらず」を体現しているし、
挙句信長に三職推任を持ち出して征夷大将軍足利義昭がまだ生きているのに将軍職を信長に提示する有様。

こんな超強い信長に喧嘩を売って自滅したのが無能当主武田信玄。
さすがにこんな無能をそのまま史書に記せばお家の恥さらしだと考えたのか甲陽軍鑑では削除添削の雨あられで捏造妄想をちりばめ、
滅亡させた責任を全て勝頼に被せる有様。しかもその出来を頼山陽やら当時の人ですら
「こんな嘘まみれの甲陽軍鑑は情弱しか読まんやろ」と悪態つかれて現代に至る。
まるで現代のどこぞの将軍様伝説と同じ方法。
285人間七七四年:2012/02/02(木) 07:06:42.55 ID:2aef+K0d
勝頼は信玄以上の名将だったか?
戦の神速性は勝頼のが上だが慎重なのは信玄だな
村上にやられるまで信玄も結構アレだったが
286人間七七四年:2012/02/02(木) 10:23:26.11 ID:81+9lkHz
戦略的大劣勢を背負ってスタートって時点でかなりきつい。

戦術で戦略的劣勢を覆すのは容易ではない。
287人間七七四年:2012/02/02(木) 15:00:09.78 ID:7CxguMQw
勝頼は馬鹿
勝頼が死ぬ時点では武田は大大名&北条と同盟、上杉も北陸進出していずれ織田と激突
畿内にもたくさん勢力あった。
そのチャンスを馬鹿な判断で潰したのが勝頼


288人間七七四年:2012/02/02(木) 16:09:46.66 ID:8Tlskitl
信玄は馬鹿
義元が死ぬ時点で織田は豪族レベル、斉藤も竜興が継いでいずれ滅亡
畿内にもたくさん勢力あった。
そのチャンスを馬鹿な裏切りで潰したのが信玄
289人間七七四年:2012/02/02(木) 17:01:57.85 ID:2aef+K0d
そんな馬鹿を嫡男のような位置にすえるとは
余程信玄は自分のことしか考えてない自己中野郎だったんだな
290人間七七四年:2012/02/02(木) 17:17:06.11 ID:81+9lkHz
震源『馬鹿が世継ぎなら私が追放される心配がないから安心だお』
291人間七七四年:2012/02/02(木) 18:15:06.73 ID:eYhTM+AM
>>284
>>三職推任
えっ?信玄が天正10年の本能寺の変寸前まで生きてたとか思ってるほど織田厨って超絶バカ無知なのかよ・・・
292人間七七四年:2012/02/02(木) 18:47:35.68 ID:2aef+K0d
ついに文章を読む力すら無くなっただが
293人間七七四年:2012/02/02(木) 19:16:56.04 ID:AmBVV8wk
義信を殺害したのは信玄の乱心と言わざるをえないな
親父を叩き出したことといい信玄は自分が頭じゃなきゃ気が収まらんのだろう
勝頼より義信の方が家臣国人の信望も高かっただろうに
自分のためなら親父や息子を害すること厭わない信玄がどうして家臣の寝返りを責められよう
信長も家康もそこまでやってないぞ
人は見てるもんだ
小山田穴山なんかも勝頼を見捨て裏切っても悪いとも思わなかったろう
294人間七七四年:2012/02/02(木) 19:27:29.37 ID:eYhTM+AM
永禄8年5月には
今川出身の義信夫人のために信玄が細々と指示して
大々的な祈祷を富士山麓の勝山で行ったりと
今川家への配慮をしているなど信玄は非常に友好的だし
義信重臣の飯富を討った時も、
自分と義信を仲違いさせようとしたから討ったと信玄は書いてる。
信玄は義信を殺す気はまったくなかった。
そもそも義信は急死だろうが。
それに今川との開戦理由も北条→上杉への書状で
今川が上杉と挟撃しようとしたから攻められたのは止む負えないと書いてる。
295人間七七四年:2012/02/02(木) 19:38:53.17 ID:C0Oa9V6g
>>294
第三者でたびたび義昭の城が堅固で織田には簡単に落とせない!という論拠で用いられるフロイスさんは信玄の責にしてまっせ
そういう評価なんだろ
というかですねー、容疑者の言い分そのまま認めるわけですかw
296人間七七四年:2012/02/02(木) 19:40:29.15 ID:n7WTJPjc
臣下の叛意を事前に阻止できた有能な信玄
出来なかった無能勝頼w
さらに上を行くのが臣下に殺された無能信長www
297人間七七四年:2012/02/02(木) 19:53:16.56 ID:2aef+K0d
んでそんな無能に家を継がしちまった信玄さんはさらに上の無能だと
義信が急死とかいう珍説初めて聞いた
298人間七七四年:2012/02/02(木) 20:14:50.13 ID:EXAlqGWe
なんだなんだ
ついに信玄厨になっちまったか
綺麗な信玄とか誰も喜ばないぞ
泣く泣く妹の夫を殺し民が治水もせず可哀想だから名義なく信濃を攻め商人を喜ばす為に奴隷売買をし
謀反をしたら一度も許さず涙を流し功臣を自決に追い込み息子は急死と言い周りに知って欲しくないから何の病状かすら残らず
婚姻結んでる今川を謙信と結んだからって一度も説得せず心を鬼にして攻め一向宗を虐殺した非道な家康に騙し討ちをしかけたのか
可哀想な信玄公…(ToT)優しさを捨てていれば天下なんて軽く取れたのに(ToT)

だがの脳内イメージってこんな感じ?
299人間七七四年:2012/02/02(木) 20:25:58.67 ID:f4bvnJA0
むしろ信玄本人が爆笑しそう>綺麗な信玄
300人間七七四年:2012/02/02(木) 21:03:25.57 ID:8Tlskitl
>義昭の城が堅固で織田には簡単に落とせない!という論拠で用いられるフロイスさん

これ探してるけど見つからないんだよね。
多分、だがの勘違いか捏造。
301人間七七四年:2012/02/02(木) 21:30:33.68 ID:C0Oa9V6g
皮肉だよ
302人間七七四年:2012/02/02(木) 21:37:10.61 ID:8Tlskitl
いや、皮肉として持ち出してるのは分かってるけど、フロイスがそんなこと言ってるのか気になってたから。
303人間七七四年:2012/02/02(木) 22:24:14.21 ID:a3QLjuPN
そんなに綺麗な信玄だったら
まず父親を追放しないと思うの
板垣達に担がれるのを拒否ると思うの
304人間七七四年:2012/02/03(金) 00:44:00.80 ID:2xB5Q6gl
綺麗である必要性はないが、外交政策の食い違いで嫡男を幽閉に見せかけて殺すのは
綺麗とか汚いとか言う前に酷いだろw

この事といい、外交政策といい自分の後の事なんか何一つ考えてなかったとしか思えない
刹那的な快楽主義者の気まである
305人間七七四年:2012/02/03(金) 02:03:45.90 ID:h9JINNho
勝頼は上杉領に逃げずに岩殿に向かったのがまずダメ
確かに城自体は要害だけど後詰もないのに詰むのは目に見えてる
北条夫人をさっさと逃がして信勝と一緒に上州経由で上杉領まで落ち延びるべきだった
306人間七七四年:2012/02/03(金) 06:57:59.02 ID:1a4doiF5
浅間山噴火で真田領は混乱していて上州へ出るのは無理だろう。
307人間七七四年:2012/02/03(金) 10:14:05.52 ID:SBjjFOTQ
クソワロタwww
308人間七七四年:2012/02/03(金) 19:19:14.67 ID:D0JQsEt8
>>304
信玄が義信を殺したとする一次史料はまだなの?
309人間七七四年:2012/02/03(金) 19:57:31.73 ID:lY+ZbTtw
逆に病死した根拠がほぼない件
病状すら残ってないとか怪しすぎるだろ
310人間七七四年:2012/02/03(金) 20:10:49.68 ID:NCI6p6mv
自害のソースって甲陽軍艦だろ?
自害、または病死とかワケわからん説明で死んじゃってるんだよね
病死だったら病気なのに診断すらさせず放置したのかもな カルテ、ってか診断記録がないんだし
病気の記録がないから自害ってのが通説 仮に病で医者をやらず死なせたならそれはそれでかなり酷い父親だな
311人間七七四年:2012/02/03(金) 20:58:44.45 ID:aMX+NgmG
診断書がある大名とかwww
織田厨バカ過ぎてワロス
312人間七七四年:2012/02/03(金) 21:25:06.71 ID:NCI6p6mv
と、バカにはするが否定はしないだがであった
313人間七七四年:2012/02/03(金) 21:29:19.04 ID:wZppriwz
病死なら自害とか書かないだろwww
何のため書いたんだよwww
314人間七七四年:2012/02/03(金) 22:23:01.35 ID:DVSa+gfP
>>312
おいおい
いい加減、誰でもかれでも俺と認定するのはやめたがよくないか?
ま、廃人ニート織田厨君はそうでもしないと自尊心保てないんだろうがなwww
阿呆すぎてワロスww
315人間七七四年:2012/02/03(金) 22:27:02.68 ID:RpYMFeIB
>>314
それより自分がどう認定されてるかを気にした方がいい
316人間七七四年:2012/02/03(金) 22:27:32.18 ID:DVSa+gfP
>>310
下でもいわれてるが、カルテとか診断書なんて
当時の大名でどんだけ残ってると思ってるんだよ
残ってる事例あげてみな
まずむりだろうけどなwww
いつも資料出せずに逃亡する廃人ニート織田厨にはなおさらww
317人間七七四年:2012/02/03(金) 22:29:11.51 ID:DVSa+gfP
>>315
廃人ニート織田厨がぼこぼこにされた腹いせで
誰でもかれでも認定するのを何を気にするって?ww
馬鹿は相変わらずそうやってちんけな無差別認定と捏造でしか自尊心保てないんだろうが
見てて笑えるわwww
それより、カルテ残ってる大名さんの事例まだですかww
318人間七七四年:2012/02/03(金) 22:32:52.12 ID:DVSa+gfP
>>309
軍鑑の記述によれば信玄は義信を数年生かしてる
事件直後の書状でも悪いのは飯富であって義信は無関係だ、と言ってる事からも
信玄は明らかに義信をかばおうとしてる形跡がみえるな
てか、この時代は心労とかで急死する例もあるんだから
義信がそうであってもおかしかないな
ただでさえ衛生状態が現代とは格段に違う状況だしな
319人間七七四年:2012/02/03(金) 22:34:51.58 ID:DVSa+gfP
>>304
だから義信は信玄によって数年生かされているし、
その間に多くの人が両者の間を取り持とうとしたが、
それでも義信は折れなかった、という経緯があるのに
それを無視して何を語ってやがんだかww
さすがに謀殺・粛清・虐殺オンパレードの信長様を崇拝する廃人ニート織田厨は違いますねww
320人間七七四年:2012/02/03(金) 22:38:44.83 ID:DVSa+gfP
>>300
俺そんな事いった覚えないっすけど?
まただれかれ構わず認定ですかww
さすがに織田厨は捏造と認定とマッチポンプと自演に達者でいらっしゃるww
多芸ですねww馬鹿で廃人ニートという意味ではですがww
>>303
普通に信虎の政策ではろくに成果があがらず、国内も乱れてたんで
「綺麗な信玄」とやらだったらこれに普通に心を痛めながら廃立しそうだけどな
321人間七七四年:2012/02/03(金) 22:49:47.84 ID:DVSa+gfP
>>298
諏訪が最初に裏切ってきたから攻め込んだ
治水してない?普通に治水作業やってるけど何をいってんだ?
また織田厨の中の脳内パラレルワールドか?ww
名義無く信濃攻めた?ww当時の戦国大名で名義もって攻めてるのなんてどれだけいたかww
ていうか、信濃豪族連合だって普通に武田領土攻めてるから、何をかいわんやww
謀反をしたら許さず?w義信の事なら数年間普通に生かしてやってるのになww
飯富さんの事だったら仕方ないっしょwwあの状況じゃ被害を最小限にとどめる為には
飯富切るしかなかったわけだしwwてか、義信事件の経緯しらねえのかよww
さすがに粛清マニアの信長の厨さんは廃人ニートらしく発想が飛躍してますねww
義信に関しては数年いかしたばかりか多くの人の仲裁もあったのに義信が折れなかった事はスルーかよww
今川に対して説得せず?ww面白いこというねえww
しっかりと「一緒に徳川攻めようぜ!」と最後通牒的な共同作戦の申し入れしてますけどww
それ拒否された上に今川の上杉同盟がどんどん進んでいったから攻め込む事態になったんですがww
ちなみにいっておくと、武田のほうで遠江に派遣された部隊は当初家康に対する援軍として派遣されたものですからww
武田のほうも「遠江で貴方とあうのが楽しみです」と書状に書いてるように、
遠江に派遣された秋山隊は当初家康との共同作戦のために派遣されたものですからww
それがなんでか衝突しちゃったんで信玄は慌てて秋山を退かせてますのであしからずww

相変わらず廃人ニート織田厨君の妄言はあっさり崩壊ですねww
322人間七七四年:2012/02/03(金) 22:51:21.53 ID:DVSa+gfP
おやおやww全然でてこないな、廃人ニート織田厨君ったらww
あんなに威勢よくだが認定してた廃人ニート織田厨君が
本物の俺が出てきたとたんに消滅しちゃったぞww
ワロスww
323人間七七四年:2012/02/03(金) 22:54:19.10 ID:2xB5Q6gl
>>319
そうですよね。いまでも不可解な状況で「病死」する人はいますもんねw

あともういい加減甲州軍鑑をバイブルのように扱うのは止めよう
読み物としてはいざ知らず資料としてはアレ過ぎるだろ
324人間七七四年:2012/02/03(金) 22:55:59.02 ID:DVSa+gfP
>>297
まわりまわって「不覚人」といわれた信雄さんに家を継いでもらう羽目になった信長さんがなんだって?w
ていうか、笑えるww
義信さんが自殺か病死かは一次資料からは「不明」としか言いようが無い
ていうか、一次資料では自殺とか言われてないんで、普通に考えりゃ病死だと思うけどな
信玄は義信事件発生からしばらくの間、それも数年にわたって義信生かしてる事は確実なんで
そのままみれば「急死した」としか表現しようがないわなww
325人間七七四年:2012/02/03(金) 22:58:40.77 ID:DVSa+gfP
>>323
バイブルのように扱うのやめるなら、
義信の死亡とやらは軍鑑に基づいている「自害」ではなく
一次資料から順当に判断して「病死」とするしかない、って事でFAですよねww
さすがにすぐ自爆してくれてワロスww
ていうかお前、自分が散々連呼してる「義信自害」ってのが何を基にしてるのかも
わかってないだろwwあほすぎてわろすww
326人間七七四年:2012/02/03(金) 23:02:00.67 ID:DVSa+gfP
>>295
容疑者の言い分www
北条が上杉宛に「今川が攻められたのは上杉と組んで武田滅ぼそうとしたからだから仕方ないかもね」と
いってるのが容疑者の言い分ですかww義信事件の容疑者って北条だったんですねww
信玄って義信事件の発覚の時点ですぐさま「義信は無関係だ!」と公式声明して
数年間生かしてる事から考えても、明らかに義信生かそうとしてるんですがww
何が容疑者の発言なんですかねwwあほすぎるwwさすがは廃人ニート織田厨ww
327人間七七四年:2012/02/03(金) 23:06:09.70 ID:DVSa+gfP
>>293
乱心〜?
謀反した人間を数年にわたって生かしてあげた事は確かに常識はずれの温情かもなww
信長は確かにそんな事やってないもんなww謀反した人間はもちろんの事、謀反してない人間も言いがかりつけて殺すもんなww
信長さんにはさらに「一度許したようにみせて、数年たって蒸し返して殺す」という特技があるからなww
場合によっては20年前の事すら蒸し返してくるからなwwまさに信長の家臣でいる事は常に死亡フラグ立ちまくり状態ww
確かに人は見てるもんだなww信長が謀反で死亡したのも、その後誰も織田家守ろうとしなかったのも、
信長の所業みてればそんな気なくして当然だよなww
328人間七七四年:2012/02/03(金) 23:06:26.04 ID:65wAcagp
久しぶりのとてつもない連投
そんなに言い返せなかったのが悔しかったのかw
レスから滲み出てるぞ…w
329人間七七四年:2012/02/03(金) 23:09:58.12 ID:DVSa+gfP
>>288
相変わらず廃人ニート織田厨って時系列滅茶苦茶ですねww
義元死亡時点ではまだ第四次川中島すら起きてないんですがww
謙信大フィーバーによる関東席巻がおきたから
その大勢力を崩すために1567年まで武田と北条は連携して上杉と戦ってるんですがww
それを無視して畿内いけるわけねえだろうがww
さすがに織田厨の妄想世界は常にパラレルワールドですねww
330人間七七四年:2012/02/03(金) 23:11:37.31 ID:DVSa+gfP
>>328
何を言い返せないんだかww
レスしてやってるのにどこをどうやったら「言い返せない」になるのか意味不明ww
そうやって阿呆な脳内変換による勝利宣言が廃人ニート織田厨の妄想世界における自尊心回復運動なのですねww
阿呆すぎてワロスwwさすがは廃人ニートだなww
331人間七七四年:2012/02/03(金) 23:13:14.73 ID:DVSa+gfP
ていうか、俺はろくにこのスレにレスしてないのに
無差別認定して発狂してる廃人ニート織田厨君は、
本物の俺が出た途端に具体論ゼロになって
妄想で勝利宣言とかww
ますます廃人ニートぶりに磨きがかかっててワロスww
332人間七七四年:2012/02/03(金) 23:17:33.01 ID:65wAcagp
またコピペか?学習能力皆無だなだがは
さすがニートとして名高いアホのだが
正論言われて反論出来ないからってあんまりキーボード殴るなよ
333人間七七四年:2012/02/03(金) 23:20:45.58 ID:DVSa+gfP
>>282
阿呆すぎるww
そんなに足利将軍家に権威ないんだったら
それを神輿に担いで畿内入った信長の立場はどうなるんだかww
信長は義昭追放後もその将軍権威に執着して戻ってきてくれるよう要請し、
それを速攻で却下されたら幼児を未来の将軍候補として立てるくらいに
将軍権威に執着してたのに何をいってんだかww
廃人ニート織田厨の妄想世界は相変わらずおかしくて笑いすぎて腹が痛いww
ちなみにいうと、三職推認は信長配下の村井の勇み足であっさりぽしゃったもんなのに
何をいってんだお前ww

その信玄に土下座外交してたのが信長様ですねww
信玄西上で「方々てふさがり」とピーピーいってたのが信長様ですねww
それどころか朝倉浅井本願寺にもやられて志賀陣で「畿内の政治の事はおっしゃるとおりにいたします」という
実質降伏宣言したのも信長様ですねww
生涯離反と粛清と虐殺オンパレードで最後も謀反で崩壊し、400年にわたって悪名で語り継がれたのが信長様ですねww
ちなみに軍鑑は普通に現代じゃ参考になるところが多いと見直されてるのであしからずww
そして信玄は普通にその盛名を称えられ、神となって400年崇められましたとさww
立場違いすぎますよねww
334人間七七四年:2012/02/03(金) 23:23:04.45 ID:DVSa+gfP
>>332
コピペww
さすがに自分で文章かけない廃人ニート織田厨君はいう事が違うなww
そうやって妄想世界で空虚な勝利宣言ばっかしてないで
たまには本物相手にまともな議論してみなよww
お前の妄想と捏造ばっかりの「正論」とやらが「正論」だったためしがねえだろうが廃人ニートww
自分が廃人ニートでそれを指摘されて悔しいからって
他人にそれを押し付けられると思うなよww廃人ニート織田厨君ww
335人間七七四年:2012/02/03(金) 23:29:37.85 ID:DVSa+gfP
>>278
そうやってろくにソース出せたことも無いくせに
本物の俺以外が相手だと必死に認定とかww
さすがに廃人ニート織田厨君は発想が姑息過ぎてワロスww
>>279
毎日もいるわけねえだろうが廃人ニート織田厨ww
お前と違ってそんなに2ch張り付く時間なんかあるわけねえだろww
336人間七七四年:2012/02/03(金) 23:48:18.49 ID:9XnmGPwm
>>326
的外れ
俺が言ってもないことについてグダグダとレスしないでくれる?
337人間七七四年:2012/02/03(金) 23:50:54.06 ID:65wAcagp
以上何一つソースを挙げないだがの妄想でした
はい次
338人間七七四年:2012/02/03(金) 23:51:30.95 ID:DVSa+gfP
>>336
でたな廃人ニート織田厨www
待ち伏せしといてよかったぜww
>>295はお前がいったレスに対する反論だろうがww
お前が書いたレスの内容に対して答えてやって、
しかもそれに反応してるくせに自分はいってないとかwww
さすがに廃人ニートだけあって現実認識能力も低下がいちぢるしいようだなwww
339人間七七四年:2012/02/03(金) 23:52:59.52 ID:DVSa+gfP
>>337
と、思いたがる事でしか自尊心を保てない廃人ニート織田厨の妄言でしたww
本当にお前って本物が相手だと具体論が一切ゼロになって空虚な勝利宣言だけになるよなwww
さすがにゴミ廃人ニートは発想が凄すぎて笑えるwww
340人間七七四年:2012/02/03(金) 23:55:21.32 ID:65wAcagp
今さらだけどだがをNGにしてるからだがの妄言全く見えてないから安心してくれよだが
341人間七七四年:2012/02/04(土) 00:01:45.89 ID:RL/2/ddW
>>340
ワロスww
俺のレスにはそんな言葉入ってないのになww
まあ、お前がそうやって空虚なスルー宣言するならそれでいいんじゃねww
俺は俺の好きなようにお前の無様さと愚論と信長のしょっぱさについてレスしてやるだけだからなww
342人間七七四年:2012/02/04(土) 00:07:51.64 ID:RL/2/ddW
ああ、追記
>>338のレス一部補正
>>326>>295でお前がいったレスに対する反論だろうが、とw
廃人ニート織田厨にはちゃんと説明してやらないと分からないからなwww
343人間七七四年:2012/02/04(土) 00:15:22.43 ID:RL/2/ddW
しかし、本当にこの廃人ニート織田厨は無様でワロスww
いつも通り二つIDセットで登場して、いつも通り具体論ゼロのゴミニートもろだしの空虚な勝利宣言で
いつも通り何も言えずに逃亡する無様さww
本当に何もかもがいつもどおりで馬鹿すぎるwwさすがは廃人ニート織田厨ww
344人間七七四年:2012/02/04(土) 00:18:59.71 ID:wha2sNlP
一体何の話してるのかさっぱり分からん
345人間七七四年:2012/02/04(土) 00:21:40.87 ID:RL/2/ddW
>>262
のぞいてみたけど、どこが捏造に満ち溢れてるんだ?w
織田が美濃攻めで浅井に協力してもらったのも、
義竜に手も足もでなかったのも、
幼君で美濃がクーデター騒ぎまでおきてたくらいがたがただったのも、
全部史実ですが?w本当に織田厨って都合の悪い史実は脳内妄想でなかった事にするのなww
さすがにゴミニート凄すぎてワロスww
>>265
いつも本物の俺が出てきたら具体論ゼロで逃亡するか、
ボコボコにされて発狂してるのが廃人ニート織田厨のお前だろうがww
本当に捏造と妄想と空虚な勝利宣言と阿呆な認定だけはお得意ですねww
さすがゴミ廃人ニートwww

>>271
「本物の俺は」その日にこのスレ書き込んでないけどなww
さすがに廃人ニート織田厨君は一日中張り付いてID変えまくりでレスしてるから
その比じゃないですよねww
346人間七七四年:2012/02/04(土) 00:22:34.49 ID:RL/2/ddW
>>344
レスアンカー見てみればいいんじゃないかなww
廃人ニート織田厨の無様な狂態とそれに対する反論をしてあげてるのよwww
347人間七七四年:2012/02/04(土) 00:28:24.75 ID:RL/2/ddW
>>258
結んでるっつーのww
河野島のいきさつとか完全に隠滅かよww
信長が例によって和睦詐欺で斉藤領土襲い掛かって
無様に追い返されて洪水と追撃で損害受けて逃亡したのはれっきとした史実で書状にあるのに
何を隠蔽工作してんだお前ww
本当に廃人ニート織田厨の妄想世界って現実の史実とかけ離れた妄想パラレルワールドなのなww

比叡山はもともと織田に領土奪われて困窮したのが敵対のはじまりだろうがww
浅井が破ってるってww
浅井は朝倉攻める時は約束云々、というのが仮に無かったとしても
信長が勝手に浅井を家臣扱いして近江の主権者に浅井が追放したはずの京極持ち出したりしてるから
普通に離反されただけだろうがww
なんで信長が勝手に同盟者を家臣扱いして、浅井が納得する義理があるんだよww
先に不義理してんのは信長なのよ、OK?ww
348人間七七四年:2012/02/04(土) 00:33:16.36 ID:RL/2/ddW
>>249
諏訪は先に向こうが盟約違反、
織田は岩村勝手に乗っ取ったから敵対した、
てか勝頼への義昭からの一字拝領と官位叙任も信長が潰してるくせに今更被害者面すんなよww
徳川はもともと徳川と共同して遠江侵攻する予定で派遣した軍と衝突してしまっただけ、
今川は先に上杉と組んで武田包囲しようとしてますからww
>>255
単なる史実だろww
なんで相応の理由があるのに同盟破棄しちゃいけないんだかww
しかも相手が違反行為してる状況でww
第一信長なんかその理屈でいったらぼろぼろだろうがww
349人間七七四年:2012/02/04(土) 01:18:41.71 ID:b6XXOhfX
>>338
その内容が的外れだと言ってる
たかだか二行程度の文章ちゃんと読んでくれる?
350人間七七四年:2012/02/04(土) 01:28:12.56 ID:b6XXOhfX
>>348
徳川先制攻撃しといて織田から仕掛けたとかいうなよwwww
こんな感じでよかですかい?
351人間七七四年:2012/02/04(土) 01:36:25.47 ID:RL/2/ddW
>>349
どこが的外れなんだかwww
お前が容疑者の言だとか言い出したんだろww
ま、いつもどおり具体論ゼロで逃げ出すんだろうけどなww所詮は廃人ゴミニートだなww
>>350
いや、全然よくないなwww
織田が岩村接収したのは武田が西上軍起こす前ですからww
残念でしたww所詮織田厨ニートの妄想などこの程度ww
352人間七七四年:2012/02/04(土) 06:55:58.70 ID:Xj5O4e7E
>>300
そう記述してるよ。
>298
信玄の奴隷売買の一次史料は無いって聞いたことある。
寺社が編纂した記録に一度だけ書かれてるだけとか。
しかも本来なら、
信長のように城に篭って籠城した敵方として皆殺しされるところを助命し、
親族に買わせただけで、
言わば身代金としての側面だったと。
353人間七七四年:2012/02/04(土) 09:34:49.60 ID:a6n6rtik
わかったわかった
354人間七七四年:2012/02/04(土) 09:38:55.22 ID:b6XXOhfX
>>351
的外れかどうかすらも分からないの?
そうか、がんばれ
355人間七七四年:2012/02/04(土) 09:53:38.20 ID:EZd6HVdb
そもそも河野島とか斎藤方の書状にしかないのに何を言ってんだかだがはw
手取川の方がまだマシなくらいの信憑性のなさ。

斎藤は「織田は慌てふためき古今比類なき臆病者」と散々書き散らしているが、
この時織田で討たれた将士も誰もいない。

加えて斎藤は「織田が将軍様の御意向を無視して攻めてきた。将軍は大事だけどこうなっては仕方ない」とかほざく有様。
河野島は濃尾国境付近で木曽川以南は織田領だっつうのw和議を破棄して攻めたのはどっちなんだかw

ちなみにこの河野島の約1年後に稲葉安藤氏家の連中が寝返り、その1月後に稲葉山城が陥落して斎藤家が滅亡。
10代のガキにコテンパンにやられた織田家当主に支持が集まるとは斎藤家臣は随分お馬鹿の集まりだったんですねw
356人間七七四年:2012/02/04(土) 09:57:24.75 ID:EZd6HVdb
それにしても相変わらずだがは中島文書といい山県昌景書状といいすぐに反織田勢力の出した誇張書状を鵜呑みにする
きっと当時織田と敵対した連中もこれくらい必死こいて織田は弱いすぐに滅ぶとか言って家中をまとめてたんだろうなw
357人間七七四年:2012/02/04(土) 12:46:44.92 ID:b6XXOhfX
誇張ならまだしも大嘘も付くからな信玄は
六百年も前の人間の嘘を信じるんだから、幸せだぜだが
358人間七七四年:2012/02/04(土) 13:51:58.64 ID:3DLqgc7N
カルテ残ってても、暗殺されたと言われる蒲生氏郷、
幽閉されて衰弱させられ死亡しても、病死したと云うだが、
自ら閉じこもり部屋から出られないのに、何でも他人のせいにするだが。
359人間七七四年:2012/02/04(土) 14:32:17.80 ID:a6n6rtik
だーがだーがだがアスペの子♪
360人間七七四年:2012/02/04(土) 19:20:26.83 ID:S24m5T0G
だがの言うこといちいち鵜呑みにしてたら尾張統一する前に滅んでるよね
全部運で乗り切ったとか言うならそれはそれで八百万の神の加護でも受けてそうな強運だけど
361人間七七四年:2012/02/04(土) 19:31:46.90 ID:sVI/zZxg
あまりにあっけなく滅んだので信長の周囲が手薄になって本能寺の変が起きた。
信長を討ち取ったのは武田勝頼と言ってもいいだろう。
362人間七七四年:2012/02/04(土) 19:49:26.51 ID:9taq9Z/h
信長がまともに戦って勝った戦なんて一つもねえよw

騙し討ちや自壊、相手が落とし穴に嵌ったとか相手の目に砂ボコリが入って勝てたとかそういうのしかねえしなw
363人間七七四年:2012/02/04(土) 19:56:31.42 ID:S24m5T0G
え?何それ?政宗と間違えてない?
364人間七七四年:2012/02/04(土) 20:02:51.28 ID:a6n6rtik
コッピーペ
365人間七七四年:2012/02/04(土) 20:03:19.58 ID:0UigCObm
だが待って欲しい
>>362が事実だとすると信長は神様に憑かれたレベルの幸運の持ち主という事になる
そんな信長相手では誰がどんな作戦を練ろうが最終的な負けてしまうのではないだろうか?
信玄が死んだり謙信が死んだのもその幸運のせいとなると長生き云々という仮定すら成り立たなくなってしまう
是非あやかりたいものだ
366人間七七四年:2012/02/04(土) 20:04:49.53 ID:0UigCObm
最終的な×
最終的に○
367人間七七四年:2012/02/04(土) 20:47:42.94 ID:Mb886rH6
アスペルガーだがに言わせればまともな戦略や戦術を持たず無闇に戦ばかりしていた信長は最強であり、
孫子の教えどおりに戦略や戦術を駆使した信玄は義清、謙信、氏康に敗北した負け犬ということなんだろう。
しかし信長は名将を通り越して神の領域に達する実績を歴史に残したんだな。

本題に戻るけど高天神城を攻略した勝頼は信玄以上の名将で決定!
368人間七七四年:2012/02/04(土) 20:52:23.39 ID:dv7TE6aQ
織田600万石が、赤井3万石に大敗! 敗走!

って、まるで漫画だな。 。 。

アホすぎる。

さすが戦国最強織田軍

369人間七七四年:2012/02/04(土) 21:22:23.48 ID:a6n6rtik
>>367
孫子なんか旗印にしてる時点でアレだよね
囲碁・将棋で定石を知ってることを自慢してるレベルというかw
370人間七七四年:2012/02/05(日) 00:16:12.92 ID:goJ406vx
しかしだがも衰えたな。全レスも程々に午前1時半には撤退か。
寄る年波には勝てんらしい。
371人間七七四年:2012/02/05(日) 10:19:44.61 ID:L5XxL7UT
>>358
天皇や太閤秀吉も診察した
曲直瀬道三と養子の玄朔くらいしか診察記録なんてないぞ。
どこの医師の診察にも、
病状診断書や処方薬が記録されていると思い込んでる誤解っぷりがひどいなお前って…
372人間七七四年:2012/02/05(日) 11:30:16.85 ID:L5XxL7UT
そもそも一次史料に氏郷が暗殺された噂があるなんて記述すら無い。
373人間七七四年:2012/02/05(日) 14:03:08.98 ID:uluXt67W
不都合あgって幽閉した息子をちゃんと診察させるわけないじゃんw
374358:2012/02/05(日) 15:35:43.42 ID:kGau7NP1
>>371
だが医学天正記よんだの?
375人間七七四年:2012/02/05(日) 16:00:45.34 ID:DVq0q+cy
病死なら自害なんて噂すら出ないんじゃないかなぁ
甲陽軍艦に何で自害もしくは病死なんて書き方だったんだろう
自害じゃ信玄の世間体が悪くなると思ったから書いたのかね
376人間七七四年:2012/02/05(日) 16:04:27.01 ID:vc71hRC4
幽閉されてて他に死因もなさそうだけど
戦死はないだろ
事故死?それこそ怪しまれるだろ
なら義信自ら死を選んだ、つまり自害
それか病気になるんじゃないか
馬に乗ってて落ちてっていうのもありっちゃアリなんだろうが
幽閉されてるのに乗馬してるってのはありえるんだろうか
377人間七七四年:2012/02/05(日) 16:05:01.97 ID:2ThuKmMc
よく知らんが、信玄の家臣団が勝頼に従わなかったらしいじゃん?
部下が従わなきゃ、どうしようもないのでは?
家臣たちは信玄の息子だから支えようとか思わないのかな?
378人間七七四年:2012/02/05(日) 17:06:28.28 ID:E9FYuUis
幽閉したって記述自体が甲陽軍鑑にしか書いてねーじゃんw
一次史料で幽閉したとする史料を出せよw
だいたい義信謀反が露見し義信傅役の飯富虎昌を討った日付からして甲陽軍鑑は思いっきり間違ってるじゃんよw
379人間七七四年:2012/02/05(日) 17:10:13.67 ID:DVq0q+cy
嘘を書く必要あるの?
幽閉してないソースは?
380人間七七四年:2012/02/05(日) 17:48:49.39 ID:4nkgSLnB
自害≒自害命令≒処刑
381人間七七四年:2012/02/05(日) 18:12:00.34 ID:E9FYuUis
>>300
二条城には三つの堀と数ヶ所の新しい稜堡が備えられた。
付近の進路はことごとく封鎖してもいる。
そのものものしさはとても陥落するとは考えられないと
フロイスは報告してるわけだがwww
また都合が悪い史料は存在しないとか、ウソをついてるとか主張してんのかw

武田信玄上洛成功スレで織田厨の得意技にして毎回の常套手段である
反論を恐れて速攻で大量レスを自演投下して
1000レス埋め逃げをまたまたやったから反論をここにレスしとくか。
ちなみにL5XxL7UTとは別人だから、俺は義昭が二条城で籠城した時は
義昭には兵糧が充分にあったと考える見解の相違がある。
つうか二条城の時は充分に準備してから挙兵してるのが義昭。
(吉田卿記にも吉田兼和が3月に所領の吉田郷から二条城の堀を掘る人足を70人も出してるし
鉄砲の火薬造りに使う灰木まで献上してるし、
フロイスも義昭が防衛のために新しい堀を城の回りに造り弾薬を備え兵士を集めていると書いてる)

>>989
>>信長も同条件、それに義昭から戦を仕掛けておいて兵糧がありませんでした
なんてのはとても通用しないな
信長は兵糧が無いだけでなく、金も火薬もない状態。
それで上京を焼き討ちして略奪殺戮恐喝に走った。

義昭は丹波守護代の内藤などが二条城に入るのを受け入れていて
自分から開戦してるので二条城籠城時には丹波から兵糧を入れていたのだろう。
しかし槇島城籠城では毛利から兵糧を貰うつもりだったのがわかる。
槇島城への移転時にかなりの金銀を消費してしまったんだろう。

>>990>>992
>>なんで信玄が死んだ時点で 毛 利 が出てきてんだよwww
毛利は信長が主張する但馬から摂津は織田勢力圏とする主張を
ガン無視して吉川と宇喜多を先鋒に侵攻して火事場泥棒をしまくっていて
義昭からも信玄西上に呼応して輝元が元亀4年2/9に右馬頭に任じられている。
この時期はまだ毛利にも織田軍主力を正面に受けて
軍事決戦をするまでの決意を持っていないので
信玄死去とともに義昭から手を引いている。
>>書状じゃなくて信長公記なw
信長が義昭に出した異見十七条を
当代記は信玄も書状の内容を読んだと記述され
奈良興福寺の尋憲記にも記載されているのも知らんとか無知すぎ。

>>985>>993
>>信玄の死は極秘事項だから朝倉家に伝えるわけがないだろ
4/25飛騨の江馬氏が上杉に信玄死亡の噂があると報告してるし
北条氏は7/14付け書状の内容の中で新当主勝頼と起請文を結んだと書いている。
7/13の信長書状にも信玄が死んだのは間違いないと書かれている。
7/18に槇島城で義昭が降伏し、8/20に奥平氏が家康と離反条件についての密約を結んでいる。
その後、当代記の記述により奥平親子が作手城主の奥平道紋の隙を窺い抜け出したのがわかる。
そして当代記によれば勝頼の援軍が来ないと踏んだ長篠城が9/7開城した。
そして飛騨の姉小路も離反するなど信玄死去の影響は次第に大きくなっていった。
すでに7月中旬ごろにははっきり信玄死亡の情報が世間に知れ渡っている。
朝倉が知らんわけねーだろw
つか信長・家康は信玄死んだ情報を流した方が有利になるのに内緒にする理由なんてないわな。

382人間七七四年:2012/02/05(日) 18:30:25.89 ID:uluXt67W
>二条城には三つの堀と数ヶ所の新しい稜堡が備えられた。
>付近の進路はことごとく封鎖してもいる。
>そのものものしさはとても陥落するとは考えられないと
>フロイスは報告してるわけだがwww

なら史料名出してみ。
書簡なら日付、日本史なら章までな。
383人間七七四年:2012/02/05(日) 18:34:33.69 ID:E9FYuUis
>>382
おおかた「完訳フロイス日本史」でも読んで
フロイスのことは何でも知ってるとか
自信満々にレスしたんだろうなw
想像しただけで笑えるわwww
384人間七七四年:2012/02/05(日) 18:36:29.43 ID:uluXt67W
>>383
また逃げるの?
別にいいけど。
385人間七七四年:2012/02/05(日) 18:59:11.94 ID:vc71hRC4
>>381
他スレのレスをここでするとかどんだけ悔しかったんだよ
386人間七七四年:2012/02/05(日) 19:16:32.80 ID:+Z4YSV0A
いいからNGにぶっこんどけ
そろそろ相手にすること自体が馬鹿らしい
387人間七七四年:2012/02/05(日) 19:23:05.51 ID:fyG170Mc
何を今さら
一周回ってたまにこのバカ丸出しレスを酒のつまみにしたくなる時もあるぐらいだw
388人間七七四年:2012/02/05(日) 20:05:02.63 ID:E9FYuUis
元亀3年
8/18三好義継と本願寺宗徒が信長配下の細川昭元が守る摂津中島城を攻める。
8/28松永久秀父子が上洛を目指し山城木津を攻める。
9月是月に信長が義昭を批判し異見十七箇条と出す。
朝倉が丁野山に要害を築くのに信長は邪魔することもできず城が完成する(総見記)
11月に信長は虎御前山砦から美濃へ逃走したので12月3日に朝倉は越前へ引く(年代記抄節)
ちなみに朝倉記には虎御前山砦に火をかけたと記されている。
12/20義継・久秀ら再度、昭元の中島城を攻める。
元亀4年
2/26信長が義昭に和睦を乞うた。
2/27義継、久秀らがまたまた昭元攻め、ついに昭元が堺に敗走(尋憲記)
3/6義昭が義継と久秀を赦し盟を結んだことを受けて
久秀が京に赴かんとし河内津田に進出(日本耶蘇会年報)
3/7義昭、信長の質子を斥け、之と絶つ(尋憲記)
3/11荒木村重、和田惟長の臣高山重友を誘ひ、惟長を其居城摂津高槻城に攻む、
惟長は山城伏見に敗走する(兼見卿記)
ちなみに3月の細川家記によると義昭が信長追討の御教書の下した先に謙信も含まれる。
389人間七七四年:2012/02/05(日) 21:14:57.43 ID:IQmtNgn9
>>388
やはり朝倉が織田を撃破したとする武田側の書状は事実のようだな。
390人間七七四年:2012/02/05(日) 22:18:09.62 ID:uluXt67W
まーた東大史料編纂所のページから丸コピペですか。
それ鋼文っていってな、史料じゃないから。
そんな事よりはやいとこ>>382の史料提示してくれる?
391人間七七四年:2012/02/05(日) 22:33:13.78 ID:IQmtNgn9
鋼文の中でも覚え書きに関しては、
信憑性が怪しいが、
>>388の出典先は信用できる史料だな。
392人間七七四年:2012/02/05(日) 22:44:00.64 ID:IQmtNgn9
>>388
毛利は信長が主張する但馬から摂津は織田勢力圏とする主張

勘違いだと思われるが、
信長の主張は但馬山名と播磨浦上が俺の縄張りと主張してた。
しかし京以西は本願寺と松永と三好らに握られ、
浦上も義昭に内通開始。
元春は丹波の赤鬼と合流すべく但馬突入。
393人間七七四年:2012/02/05(日) 22:46:17.65 ID:IQmtNgn9
あらら>>381の間違い。

394人間七七四年:2012/02/05(日) 22:51:21.62 ID:U29M33mE
>>392
subおっさん、また醜態を晒してんのかw
395人間七七四年:2012/02/06(月) 06:49:43.47 ID:HF/hCahe
>>388
信長公記が松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲してるのは、
やはり間違いなく事実だなあ。
よっぽどズラしたかったんだろう。
396人間七七四年:2012/02/06(月) 19:01:24.79 ID:fQHh1BjY
武田厨の言いたいことはこう言う事かな

毛利
一万の乞食兵にびっびって義昭に兵糧を渡さなかった。

本願寺
一万の乞食兵にびっびって義昭に兵糧を渡さなかった。
一万の乞食兵にびっびって長島本願寺を切り捨てた。

義昭
とても陥落しそうに無い強固な二条城からなぜか槙島城に移る、そのため兵糧がなくなってしまった。
そして兵糧も無いのに信長に反抗、一万の乞食兵にびっびって野戦もやらずに 信長に降伏。

朝倉
前年信長本隊を単独で破り虎御前山砦もわざと落とさないほどの強勢を誇り
近江の蒲生家まで配下に置いたが(冬姫がどうなったのかは説明無し)
一万の乞食兵にびっびって家臣が次々と離反、刀根坂で惨敗し滅亡。

長島
伊勢湾の制海権は北畠と武田が握っている、という事は第三次攻防戦で
海からも完全に包囲されているのは武田・北畠が織田と共に長島を攻撃しているのがわかる。
石山本願寺・武田・北畠に裏切られるという哀れな最後だった。
397人間七七四年:2012/02/06(月) 19:21:13.82 ID:fMTrrNrY
武田
一万の乞食兵をもうすぐ滅ぼせるというのに当主の体調が悪くなっただけで引き返した。
当主はなぜか一万の乞食兵に滅ぼされるような馬鹿を後継ぎに指名。
398人間七七四年:2012/02/06(月) 23:48:44.76 ID:tcaIYODT
織田の6倍の兵力があったのにビビって攻めることなくくたばった前当主武田信玄の後だからなw
399人間七七四年:2012/02/07(火) 00:43:00.55 ID:QLewB/P9
蒲生なんかも含めて、
大半が織田配下に入ってまだたかだか4〜5年しか経ってない若輩国人ばっかりだし、
蒲生に至っては氏郷含めて、
最低でも男兄弟5人もいたからなぁ。
関ヶ原みたいに両陣営に家を分けるくらいのことは、
戦国時代だからやってただろう。
400人間七七四年:2012/02/07(火) 08:52:25.31 ID:l+oMXANa
>>388
結局、志賀の陣も信長が和睦哀願したから和睦して越前に帰っただけだし、
天正三年末も信長が敗走したから、
朝倉は越前に帰っただけなんだよな。
だから大雪や補給問題で朝倉は帰国しなきゃならないと言う論理は
一次史料において一切、証明できない捏造妄想なんだよな
401人間七七四年:2012/02/07(火) 10:13:40.69 ID:Ya1ABI6f
>>400
その割りに比叡山延暦寺に篭った後は何ら有効な手段を打ててない朝倉・浅井勢。
その後のいわゆる第2次信長包囲網においても年が明けてようやく信長に反旗を翻した義昭を見捨てる。
信玄撤退後、半年もせず滅亡。

朝倉・浅井と織田、どうして立場を逆転されたのか?…慢心・環境の違い?
402人間七七四年:2012/02/07(火) 10:26:22.83 ID:R2Ct6aXj
大雪で道が封鎖され補給が途絶すると言うなら
そもそも浅井はとっくに降伏してるはず。
しかし実際には湖北十ヶ寺によって支援され
本願寺によって北陸門徒も兵糧を運んできたり
比叡山も援助していて兵糧に困ってないし、
武田が郡上八幡経由で浅井に書状を出していたり
朝倉から本願寺に書状を出しているなど
自由往来が可能だった。
織田による包囲封鎖なんて実際には大げさに誇張してるだけ。
姉川の戦いののちも浅井・朝倉はむちゃくちゃ勢いがあって
9/20森可成や織田信治や青地茂綱らを討ったあと、
宇佐山城の守りが固く、そちらからの入京に時間を浪費すると喝破した浅井朝倉は即日、転進して大津を放火し
9/21山科醍醐方面から進軍する迅速な判断力は褒められる。
(24日には信長が下坂本に着陣してる)
そして24日には京の前面である浅井は比叡山青山、朝倉は青山南の壷笠山に陣を敷いた。
その上で京を戦乱に巻き込まないように京を大回りして
(先鋒は入京していたが賀茂別雷神社・離宮八幡宮・知恩院・東寺らに禁制を給して迂回)
長政隊は丹波から嵯峨へ進軍して織田軍後方をかき乱す遊撃を開始してる。
10/20山崎の本願寺が御牧城を攻め取り、
それに呼応した比叡山の浅井・朝倉軍が出撃し、
織田方に組する左京区にあたる織田軍と(義昭奉公衆との説あり)
交戦しつつ修学寺・一乗寺・試楽寺・高野・松ヶ崎などをピンポイント放火してるし、
(義景は元亀2年7/4に六角軍が入京するにあたり、
義賢に洛中を放火しないように書状を送っている)
22日には大坂本願寺が畠山昭高の高屋城を攻め、
若狭武田も織田から離反して武藤や粟谷と挙兵してる。
信長は完全に無策で、家康に援軍派遣の哀願をするしかなかった。
家康は信長に江南を我が物顔で暴れている一揆と六角勢が、
瀬田と草津の間を封鎖するのを防いで退路を維持する役目を負わされた。
信長はというと11/21朝倉軍は坂井政尚と安藤守就の子を討死させ、
同日には伊勢長島でも織田信興が討死と全戦線が崩壊。
11/28朝廷から関白二条晴良が信長の和睦懇願を受けて坂本へきた。
織田の敗北は間違いないんだよな。
403人間七七四年:2012/02/07(火) 10:44:39.32 ID:vDEraOw+
そんな状況で何で敵対勢力が全部滅んだのか
404人間七七四年:2012/02/07(火) 10:45:57.98 ID:R2Ct6aXj
>>401
>>年が明けてようやく信長に反旗を翻した義昭
はいはい無知乙www
元亀2年5/17信玄→松永家臣岡周防宛て書状
「公方様被対信長御遺恨重畳候故、為御討伐」を
2007年に鴨川が信玄の死去後に
信玄が生きているように装って出された書状だと捏造しただけ。

2009年に柴辻が「はぁ?信玄死去後に信玄が出したように装っている
書状は印文「晴信」方朱印を花押の代わりに用いてるものしか無い。
信玄死去後に「花押」で出されたものは皆無なのに、何言ってんだ?」
これで反論もなく議論終了済みだアホw
405人間七七四年:2012/02/07(火) 10:56:12.69 ID:R2Ct6aXj
>>404の内容を根拠として関係書状を全部、
信玄死去後に鴨川がズラす強引な手法で
元亀3年5/13義昭御内書→法性院(信玄)宛て
「天下静謐之馳走」に及ぶべきであると書く書状まで
ムリヤリ元亀4年に移動させただけ。

最初は衝撃的な内容で話題に上がっていたが
2009年にはすでに飽きられた内容。
406人間七七四年:2012/02/07(火) 11:50:42.78 ID:3N8ocRAF
>>403
そんなだらしない織田に浅井の磯野や宮部に阿閉らが寝返って、朝倉は刀根坂のワンパンで崩壊、浅井も後を追うように滅亡とか不思議だよな
407人間七七四年:2012/02/07(火) 12:55:42.94 ID:R2Ct6aXj
山本山城の阿閉貞征が寝返ったのは信玄死んで、義昭も降伏後じゃねぇか。
宮部に至っては、まだ国人ですらないもっと下の存在でしかない。

507 :人間七七四年:2012/01/03(火) 12:33:23.06 ID:2A+2oEWw
信長は浅井のことを「小身だから物の数ではない」と
いつでも滅ぼせる宣言をしておきながら、ずっと苦戦し
滅ぼせず。
姉川の戦い前夜の6/22には八相山の退口で
その小身の浅井単独如きに織田は背後を噛み付かれて敗走。
朝倉軍がその後にやってきたので勢いづいて
姉川の決戦。織田は浅井に負けそうになり、
朝倉を破った家康に助けられる始末。
磯野員昌が織田軍を猛攻したとする説もあるが、
それを裏付けるように、
朝倉が帰国後に織田が横山と佐和山を攻撃。
磯野の佐和山城を織田が猛攻したが見事に撃退されてる。
ちなみに水藤真氏によると横山城はわずか一ヶ月前に整備を開始したばかりのものでしかなかったと言う。
まぁ砦レベルだろうね。そもそも横山には将自体が配置されておらず、
攻め落とされたとも書いておらず、整備も中途半端なことだから浅井側が放棄しただけだろう。

509 :人間七七四年:2012/01/03(火) 13:00:26.43 ID:2A+2oEWw
ちなみに佐和山城は、志賀の陣のあとに朝廷斡旋講和の条件として
尋憲記に「人質を取り交わし、信長方より持ち候城々、
浅井方より持ち候城々、いづれは割り、いづれは持ち候て」
とあって城割りの条件に沿って破却されたものを
年明けになって織田が横領しただけ。
それを長政が磯野の内通と疑ったので小谷城へ入れてくれず
若狭武田に磯野が頼ったが、長政が武田にも謀反を報せたので
行き場を失い織田に降った(島記録)

水藤真氏が「綸旨・御内書・御下知・信長誓詞と
およそ紙に書くことのできる全てが書かれ、比叡山に与えられた」
と書いているわけだ。
信長はありとあらゆる手段で和睦してもらおうとしてるわけ。
そして朝倉も比叡山に「当表の一和之儀、勅命上意」と書いていて
今谷明氏が朝倉らは「勅命を拒むことができなかった」と書いていて
宮島敬一氏もそれに同意している。
よって大久保の書いてる内容は事実に近いわけだ。
さらに志賀の陣の和睦交渉で、朝倉は信長には他意は無いが、
浅井を見捨てるに忍びずと言ってる。
朝倉には織田への戦意がそもそもない。だから朝倉に奪回意思はそもそも無い。
朝倉にその気が無いのに、
浅井単独で横山や佐和山の奪回は無理。
別に朝倉領でも無いし。
408人間七七四年:2012/02/07(火) 13:15:32.49 ID:B+/ewNXW
信玄死んだだけで今まで押してた相手に降伏し寝返るのか
素晴らしい時代だな
409人間七七四年:2012/02/07(火) 13:33:07.16 ID:l+oMXANa
信玄死去は時勢の変化そのものだからな。
410人間七七四年:2012/02/07(火) 14:43:33.15 ID:J0G+6Q0R
信長が死んだだけで織田家があっという間に崩壊したのと同じ事だろ
411人間七七四年:2012/02/07(火) 14:55:23.22 ID:tsJTs5+V
信忠も死んでるその後光秀も死んでる
412人間七七四年:2012/02/07(火) 14:59:31.63 ID:J0G+6Q0R
光秀は生きてた方が織田家にとって悲惨な結果になるだろw
織田家首党を殺したんだから
413上杉謙信:2012/02/07(火) 15:05:37.82 ID:sVv91E0v
勝頼は、勘助の子供だよ。
414人間七七四年:2012/02/07(火) 16:52:21.96 ID:q+ExRxP4
>>400
朝倉が滅んだのは天正1年です。

>>404
挙兵したという意味で反旗を翻したと言ってるのを論点ずらししないように。

>>407
>浅井のことを滅ぼせず。

滅ぼせてまーす

>磯野員昌が織田軍を猛攻したとする説もあるが、それを裏付けるように、朝倉が帰国後に織田が横山と佐和山を攻撃。

城攻めをすることがなんで直前に猛攻されたことの裏づけになるんでしょーか?
意味がわかりませーん

>横山城は整備も中途半端なことだから浅井側が放棄した
>佐和山城は織田が横領した

有利だったら放棄しないし、横領もされないし、すぐに取り返せると思いまーす

>>410
全然崩壊してないじゃん

>>412
論点ずらし乙!
415人間七七四年:2012/02/07(火) 17:27:36.52 ID:I3FxQoXe
>>405
また芝辻か?w
あの人の武田氏研究ってのちゃんとよめw
読めばそんな断言できないからw
416人間七七四年:2012/02/07(火) 19:14:16.98 ID:R2Ct6aXj
2/15久秀や岩倉の山本対馬、山中の磯貝、和邇の金蔵坊、勢多の山岡、田中の渡邊らが10日付で帰参。
静原に山本城を築いて織田に反抗する。
2/23筒井城の順慶が春日社参詣に3000人を引き連れてきたため
松永久通が警戒し小規模な衝突もあったようだ。
大神楽や神馬を奉納して成身院に宿泊後に筒井へ帰る。
2/23信長→細川宛で信長自身が信玄が去る17日に野田表から撤退したので、志賀の一揆蜂起について
蜂屋・柴田・丹羽を出征させ湖を渡らせる。成敗に手間がかかれば世間聞合なので
自分も近日中に佐和山へ出て上洛し畿内を平均すると述べている。
すでに湖経由でないと上洛もできないほど近江戦線は崩壊してるのがわかる。
2/26義昭に同調し三井寺の光浄院暹慶ら西近江で挙兵し
柴田と明智が彼らの石山と堅田砦を破り西近江を平定すると
信長公記録は書くが、慈敬寺文書の顕如書状によると
2/14付けで慈敬寺が伊藤城を攻略し其の表の面々は此方一味であり
堅田まで属理運、還住由になったとして黄金三十両を進呈している。
小林吉長も2/17付けで堅田村の郷士達への書状で慈敬寺との入魂専要之旨と述べている。
2/27には顕如→信玄宛てで江州西路事、
此方當門家中慈敬寺以調略属本意候と書いている。
2/19の義昭書状でも山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯貝新右衛門らまで
悉く取除、明智光秀は儀無正躰候、近邊大略属本意候と書いていて
(2/13における木戸表(大津市木戸)御働として光秀が革島忠宜へ感状を出してる)
近衛家文書の2/16長政→伊勢七郎左衛門宛てでも信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。
長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べ
2/24に革島宛てに光秀が明日から今堅田を攻めると書き
三月朔日で柴田が革島宛てに今堅田成敗申し付けと報告してる。
やはり明智軍(光秀は配下の18将を供養してる)は
戦力としては崩壊しているようで、主力は柴田が担っているようだ。
3/7の信長は伊丹により摂津において中島城の細川が堺へ敗走に続き
賀嶋城まで落ちて絶言語と動揺している。
3/18に義景が木戸城主佐野十乗坊秀方へ早船で加勢した
近江高島郡の多胡宗右衛門を褒めていて
3/13には下間頼充が馬場宛で今堅田に篭もっていた馬場親子が敵が取詰にきた時に一戦し粉骨したのを慈敬寺から
報告を受けたと戦功を感謝しているし
3/21には義景→馬場宛に敵が相働くも十乗坊に立て篭もり粉骨したのを賞している。
佐左馬要害と同等の価値あると言っている。
4/2には長政も馬場に木戸籠城を褒め称えていて、相次いで大勝利を褒めている。
この状況から見るに柴田ら織田軍は今堅田は何とか攻め落とせた可能性はあるが、
堅田村を一向宗側が取り込んでいるため無力化にはほど遠く、
しかも今堅田に続く十乗坊攻めでは逆に織田軍は大敗しているのがわかる。
また手間取ると外聞が悪いと気にするほど劣勢の信長は
信玄が帰ったし信長自身が出馬すると言いながらまったく出馬できないありさま。
417人間七七四年:2012/02/07(火) 19:25:06.19 ID:q+ExRxP4
>>416
まず日本語のお勉強をしないとね。
418人間七七四年:2012/02/07(火) 19:27:04.96 ID:eKJXOUV4
浅井朝倉足利にすら手こずり今にも死にそうだった信長を
倒せないまま放置していた当代一の馬鹿当主が武田信玄ということはよくわかりました。
419人間七七四年:2012/02/07(火) 19:30:45.58 ID:O1yX/4rx
>>407
>山本山城の阿閉貞征が寝返ったのは信玄死んで、義昭も降伏後じゃねぇか。
朝倉単独で織田の本隊を撃破しわざと虎御前山砦を落とさないほどの余裕があるんだよ
しかも蒲生家が朝倉に従い他の近江の織田方もいっせいに離反したんだよね
織田にとっては信玄が来てる時より状況は悪化している。
それなのに1万の乞食兵に朝倉・浅井からどんどん離反者が出たわけだ。
たかが武田が帰り義昭が自爆しただけでどうしてこうなるの。

>横山城は整備も中途半端なことだから浅井側が放棄した
横山が落ちて江南の浅井領と完全に分断ちゃったけど。
浅井にとって横山以南はどうでもいい領土なんだろうね。
という事は浅井にとって磯野はどうでもいい存在だったという事になるな。

>織田が横山と佐和山を攻撃。
こんな事できません、なぜなら義昭を担ぎ出さなきゃいけないほど
姉川で軍が崩壊してるから。

>佐和山城
双方だよね、織田が破棄した城はどこ。

しかし勝頼は馬鹿だよな。
武田厨によると長島一向一揆を織田に協力して攻めてるからね
一体なに考えてたんだろうな。
420人間七七四年:2012/02/07(火) 19:36:47.57 ID:eKJXOUV4
だがの妄想に使われる学者の名前が不憫でならんなw
ここまでくると名誉棄損にあたるだろ
421人間七七四年:2012/02/07(火) 19:50:48.03 ID:MlxwkYH0
毒電波m9(^ω^)きんもーっ☆
422人間七七四年:2012/02/07(火) 19:51:52.28 ID:/TxgHbBG
公記→今堅田砦を攻略したから西近江全域は平定できた。
まさに歪曲の見本だなワロタw
423人間七七四年:2012/02/07(火) 20:01:53.71 ID:eKJXOUV4
ID変えて誤魔化さないでくださいねだがさんw
424人間七七四年:2012/02/07(火) 20:35:18.49 ID:4X4OtFo5
むしろ湖北十ヶ寺に周囲を囲まれている横山城が敵の大海にポツリと孤立した孤城でしかない。
だから横山城から虎御前砦まで、
左右に敵の攻撃から守る土塀を築いた道を造って往来しないと危険過ぎて連絡不能だった。
425人間七七四年:2012/02/07(火) 21:09:16.85 ID:4X4OtFo5
>>416
実際、公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメだしね。
426人間七七四年:2012/02/07(火) 21:46:54.93 ID:4X4OtFo5
>>416
摂津中嶋城が落ちた時の信長は、
さてもさても惜しいことだと悔しがってる。
つうか信長上洛した時に、
畿内において、
荒木と細川以外は誰も集まらず、
織田が畿内国人達から完全に見放されているのがむちゃくちゃ笑える。
しかも伊丹の織田への謀反を阻止する説得を和田がした事を信長が褒めていたのに、
その和田を襲わせた荒木w
さらに和田とその家族ら80名を救助して伏見へ送った細川と言う
なんとも仲の悪そうな二人。
1/27に顕如が朝倉へ赤井直正が京表へ行くことを承知したとか、
三好と相談して事を整えるとも書いていて、
いよいよ織田は破滅に向かって驀進してたよな。
信玄が一ヶ月長生きしてたら、
間違いなく信長は岐阜で討ち死にしてた。
427人間七七四年:2012/02/07(火) 21:53:19.70 ID:q+ExRxP4
基本的な位置関係がわかってなさそう
428人間七七四年:2012/02/07(火) 22:18:24.95 ID:eKJXOUV4
デタラメと言いながら具体的な史料は決して提示しないだがw
まあ山岡景友くらいじゃもはや大勢にはさして影響ないから大して変わらんけど。
兄貴の山岡景隆はもう織田方だし
429人間七七四年:2012/02/07(火) 22:46:35.48 ID:GmdGYD/1
〜だったら間違いなく信長は

随分な回数で死にかけるな信長はwww
演義の曹操かよwww
430人間七七四年:2012/02/07(火) 22:49:58.26 ID:GmdGYD/1
あれ?何で信長の話になってんの?
勝頼は?信玄と比べてどうなん?
431人間七七四年:2012/02/07(火) 23:39:15.24 ID:oJ2JtPfe
だがってsubと同一人物だよね?
432人間七七四年:2012/02/07(火) 23:40:16.23 ID:eKJXOUV4
>>430
信玄が当代一の無能なので必然的に勝頼の方が上
433人間七七四年:2012/02/07(火) 23:54:06.25 ID:3/Z5/Wv4
後継者育成に関しては、信玄も信長も似たようなもんだなw
まだ生存中に家督を譲ってた信長の方が信玄よりちょっとは上かな?
434人間七七四年:2012/02/07(火) 23:58:27.06 ID:q+ExRxP4
どこが似たようなもんなのか分からん。
435人間七七四年:2012/02/08(水) 00:00:20.42 ID:eKJXOUV4
・武田信玄無能伝説


対村上義清

数で勝る村上義清に連戦連敗、板垣信方、甘利虎泰、横田高松といった重臣を数多く死なせる。
上田原では勝ちに奢った板垣が自滅した、と敗戦責任を家臣に転嫁。その後敗戦した後も意地になって数十日も陣を張り続け戦果ゼロ。
砥石崩れはさらに酷く、3分の1程度の村上勢に1000人近い犠牲者を出すという無様すぎる大敗北を喫する。
どうしようもなくなった信玄は真田幸隆に哀願して村上方の矢沢頼綱(幸隆弟)を寝返らせようやく村上を信濃から追い出した。

対上杉謙信

同じ場所で5回も睨みあい戦果ゼロという後世に残る屈指の馬鹿戦を繰り広げたことでも有名。
ここでも武田信繁、諸角虎定といった重臣を失い10数年も続いた上杉攻略も結局頓挫する。
中央情勢どころか東海情勢すらまともに把握できないまま10年間も無駄に時を費やした信玄を擁護するのは難しく、
やむなく最強竜虎の対決とお題目を立てた甲陽軍鑑の作者の苦心たるや察するに余りある。

対今川氏真
桶狭間で今川義元が死んでから既に8年も経ってようやく攻撃を開始。勢力を伸ばしつつあった徳川家康と協力し、
ちゃっかり家康を出し抜こうと考えるも逆に当時20代の徳川家康に出し抜かれ今川北条徳川の三勢力に駿河侵攻を阻まれる。
今川攻めの前に嫡子義信と飯富虎昌を失った犠牲にあまりにも見合わない収穫、結局今川氏真の駿河再復帰はならなかったものの、
北条に敵対されるわ徳川とも不和になるわで周り敵だらけ。無能の上に何も学習しない、息子も用済みとなればポイという非道な信玄であった。

・対織田信長、徳川家康

何も考えず行き当たりばったりで戦争をふっかける無能信玄は義昭の甘い誘惑に乗って後出し勝利を狙い当時最大勢力であった織田信長と敵対。
ところが既に信長と敵対して押されつつあった浅井朝倉がガス欠寸前で織田に対する軍事行動を一旦終息させる。
そんな時期外れの状況でかつ巨大勢力織田信長と直接対決にビビったため信長子分の家康を筆頭に親信長の第三勢力を憂さ晴らしにいじめぬく。
三方が原で家康を2倍とも3倍とも言える兵力で幸先よくレイプしたはいいが野田城攻めに1ヶ月近く費やす。
冬場に1ヶ月近くも長待陣したせいで体が弱ってしまいそのまま撤退することに。欲をかきすぎた人間の末路である。
結局何をしにきたのかわからないまま甲斐に戻ることなく信濃の路上で野垂れ死に。死後お家は信長に滅ぼされるというおまけつきであった。
436人間七七四年:2012/02/09(木) 16:12:15.67 ID:pukfYSiw
結局のところ、無能なのか有能なのかどっちなの?
437人間七七四年:2012/02/09(木) 16:16:08.26 ID:arJVy9y5
>>436
どこに有能・無能のラインを引くかは分からんが
信長>勝頼>>>信玄
は確定
438人間七七四年:2012/02/09(木) 23:02:31.84 ID:0Z2jGrGX
信玄と秋山のせいで勝頼はあんなことになってしまった
439人間七七四年:2012/02/11(土) 11:32:21.32 ID:9LNdKG2z
信長と家康にケンカ売ったから武田は滅んた
信玄の残した負の遺産が勝頼に降りかかった。
440人間七七四年:2012/02/11(土) 12:21:45.23 ID:fMy8nt46
勝頼という馬鹿が大将で助かったのが信長
441人間七七四年:2012/02/12(日) 00:31:46.29 ID:sH3PWD7b
むしろ信玄が大馬鹿で助かったのが信長
信玄が有能な存在だったら信長は岐阜待たずして滅んでる
442人間七七四年:2012/02/12(日) 01:43:43.16 ID:ngrCPoVy
まあ信玄の天下取り構想なんて老いて耄碌してからの誇大妄想だからなー。
若いまともだった頃は天下取ろうなんて思ってなかったし。
443人間七七四年:2012/02/12(日) 03:05:31.16 ID:epzLfQvn
名将なら、長篠の戦いの惨敗をやってないし、
そもそも、国力を顧みずに織田氏との抗争にのめり込んで
木曽氏のように国人層に重税を化して離反を招いて
さらには人質を殺してさらに人心が離れるような体たらくぶり どこが名将なんだか。
444人間七七四年:2012/02/12(日) 10:06:37.86 ID:A2+3bBh1
>>443
信玄との比較だから。
馬鹿でも大馬鹿と比べれば利口でしょ。
445人間七七四年:2012/02/12(日) 14:01:27.22 ID:sH3PWD7b
>>442
しかも当の信長は苦境を脱した後で信長と対立しはじめたからな
勝ち馬に乗りたいだけのゲスイ根性が武田を滅ぼした
446人間七七四年:2012/02/12(日) 14:14:27.41 ID:pBmvJOGp
前の信長は信玄の間違いか?
447人間七七四年:2012/02/12(日) 14:38:10.28 ID:sH3PWD7b
ごめ、言い方悪かった
信玄が信長と対立した時既に当の信長は苦境を脱した後ってこと
448人間七七四年:2012/02/12(日) 15:01:01.38 ID:NUdVvOfV
>>443
同意
木曾から取ってた人質を殺した時、家臣は「だめだこいつ…」と思ったに違いない
勝頼は涙目でちくしょう!って感じで自暴自棄的にやったんだろ
嫡男はまだしも母と娘はそのまま人質として取ってた方が良かった
悉く殺したら復讐戦として戦意上げるだけ
木曾が離反するころには勝頼はもう自暴自棄でヒス起こして火病ってたんだろう
新府から逃げるときに人質を焼き殺したのは完全に終わりが見えた時の行動のひとつとして仕方ないかもしれないが
その時点でも従っていた者にも改めて「だめだコイツ…」と思わせただろう
最後の小山田の裏切りの一因もこれだろう
449人間七七四年:2012/02/12(日) 16:21:04.96 ID:MbLadVKE
じゃあ黒田如水の子を殺すように命じたバカ長はどうなるんだw
しかもそれが名将長政に成長する辺り、
男色だけで出世する信長直参衆じゃ長政は価値なしだったかw
450人間七七四年:2012/02/12(日) 16:33:21.22 ID:oUqJXL9D
ほんでも生きてると分かった時は涙を流して喜んだからね
これが勝頼だと子のみならず匿った連中の首を悉く刎ねてただろうね
451人間七七四年:2012/02/12(日) 17:07:02.47 ID:pUG9QtkD
>>443
簡単なことだ。
信長がそれ以上の名将だった。
452人間七七四年:2012/02/12(日) 20:40:45.27 ID:68DCr2bf
長政は死んどいた方が良かったんじゃねえかな
出奔した家臣に嫌がらせするような奴だし
453人間七七四年:2012/02/12(日) 23:15:44.67 ID:bpo0PQvE
長篠で勝ったから信長が名将とかアホすぎる

丸で城みたいに堅固な陣地&かなり数的不利&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面

こんな所に飛び込んでいく馬鹿が総大将だったから勝てただけ。

しかもその状況ですら8時間以上戦われて所々柵が破られたりしてるんだから
勝頼みたいな馬鹿が総大将じゃなく普通に戦術的勝負やらせてたら圧勝してただろ
454人間七七四年:2012/02/12(日) 23:17:01.94 ID:bpo0PQvE
長篠では雨でぬかるんだ地面の中で『まるで城攻め』と思わせるような堅固な陣地の中に
数の上でも鉄砲の性能や装備の上でも勝るであろう織田徳川相手に自分から突撃

御館の乱では北条・伊達E葦名とともに景虎支援をせず、景勝に買収されただけでなく、
北条家に対して土下座外交すれば同盟維持できたかもしれんのに駿河伊豆国境や
上野方面で公然と喧嘩をふっかけ、四方を敵に回して猪突猛進
これによって武田の軍役は急増し国人の疲弊と不満は頂点に達する

新府城もあの状況でやるのは…としか。

能力どうこうを超えて基地外すぎるな。

武田が滅んだのは勝頼1人に責任がある
455人間七七四年:2012/02/12(日) 23:17:44.19 ID:bpo0PQvE
長篠は決戦を挑んだ勝頼がバカ
信玄なら撤退を装い、
追撃してきた織田を迎撃撃破してる。
そもそも織田厨は背後を抑えられて撤退出来ないなどとでっち上げしてるバカ。
長篠後には翌年に、武田の命運をかけた一戦を織田とやると書いてるので、
まだまだ信玄の遺産は充分にあり余力があったのだろう。
いよいよ勝頼独自色を出し、
軍政、軍制改革を開始したつもりか、
織田へ復讐する為に手段を選ばず抜擢宣言し、
どんなに身分が低くても、前代には不遇だった者の経緯にはこだわらず
依怙贔屓無しに
武勇のある者は抜擢するとか、
鉄砲の鍛錬の奨励をくどいまでに強調し、
鉄砲手には頬あてまでも用意するように言っている。
かなり入念に砲撃戦を念頭においた指示をしている。
武田領内では火薬臭が漂うような大掛かりな鉄砲鍛錬が行われていたのだろう。
対北条戦で勝頼が暴れてるのも、
佐竹義重が関東一の大鉄砲隊を持っていたのも、
勝頼との協調作戦から学んだ結果だろう。
さらに手取川の戦いの年には、
信長は武田と和議を提案していたのに勝頼は拒否して、
あくまで義昭や本願寺や毛利との協調を選んでいる。
まあ謙信が翌春前に死去したのは想定外か。
毛利も丹波の赤鬼が同時期に死去したのは想定外だろう。
やはり謙信死去と、
朝廷による交渉で本願寺が織田と和睦を受け入れたことが大きい。
武田に取り領土拡大を狙うには北条を侵略する他なく、
この頃になると織田との和睦を働きかけてるのだから。
信長は武田と和睦する匂いをかけて、
織田勝長を返却させるや豹変して武田征伐を開始。
不幸にも浅間山が噴火したために領内混乱し、
後詰めの勝頼が諏訪から甲斐に撤退するハメ
になる。
有史以来、京で浅間山噴火が観測されたのは、今回がわずか二度目の大噴火で、
京では武田滅亡の前兆と見られた。
ただ鉄砲鍛錬にこだわり過ぎているのが勝頼。
本来は城や陣地における防衛戦に重要な鉄砲だが、
重量があり過ぎて、
なおかつ天候に左右されやすいものであり、
運用は限られている。
機を見て目まぐるしく離合集散する同盟関係や傭兵術や重臣調略を軽視し過ぎていたように思われる。


456人間七七四年:2012/02/12(日) 23:48:39.93 ID:pUG9QtkD
そのコピペ飽きた
457人間七七四年:2012/02/12(日) 23:57:00.03 ID:pBmvJOGp
だれかが読んでくれると信じてるんだろうな
458人間七七四年:2012/02/13(月) 00:07:05.06 ID:4ugpyJ86
織田厨の毎度毎度の同じ妄想垂れ流しに比べればマシ
459人間七七四年:2012/02/13(月) 00:29:06.03 ID:TLfm7orX
目糞鼻糞を笑う
460人間七七四年:2012/02/13(月) 00:32:38.50 ID:Brwo6do2
武田信玄がもし有能だったら

信濃の山賊ごときに10年もかからなかった

川中島みたいな極貧領土をめぐって上杉謙信と10年乳繰りあうこともなかった

桶狭間で今川義元が死んだ時点で今川の駿河、遠江を攻め取ることができた。


武田信玄上洛成功という絶好の機会を逃し、あまつさえ織田信長の台頭を許し、
その織田信長に家を滅ぼされたというのはもはやギャグ。
461人間七七四年:2012/02/13(月) 00:38:51.20 ID:brwuaVRZ
>>460
もっと言えば最初から上洛目指して西に領土を拡大してただろうな。
462人間七七四年:2012/02/13(月) 00:40:21.41 ID:4ugpyJ86
当時の武田の状況での信濃攻略は飛騨の三木家が斉藤滅ぼすのと同じくらい難易度高いだろw

強圧的な態度でムリヤリ国を纏めた甲斐守護家と国人衆との間は悪化の一途。 甲斐府中は呉越同舟で牽制し合う状況。
しかも、甲斐は山国であるため、越後の半分の石高(20万石)でしかなく、金山などはまだ後世に誇るほど歳出が見込めた訳でもなく
信玄の家督相続当時は甲斐は飢饉が数年前から猛威をふるうまっただ中で高緯度のため冷夏が発生し
飢饉が慢性化し、河川氾濫で田畑は災害にたびたび見舞われ信玄が家督を継いだ時には数年間連続の飢饉により、甲斐の国状は悲惨この上がありません。
信虎はこれらに有効な手立てをうつ所か今川などの外圧もあり戦闘につぐ戦闘。ただでさえ、基盤の脆い甲斐の国政は破綻しています。
信玄の場合、これらを解決する為には豊かな土地の“略奪”が急務であり、国人衆もそれを求めます。
しかし、経済は破綻している武田家ですから、それを為す侵略は困難を極めたはずです。
しなければ、父と同様に追放の憂き目にあいます。父の偏愛を受けた優秀な弟がいますからその危機は尚更です。
また、このような経路を辿ったため、重臣・国人衆の干渉は非常に強いのです。
しかも、村上に負け続けた時にはその危機が更に深まりました(権臣が死んだのは良かったが)貧しい甲斐は侵略だけでは食べていけません。
信玄はのちに信玄堤と呼ばれる堤防を築いたりして創意工夫の上、新田開発に努めます。
(信玄に始まる甲州流防河法・甲州流河除法は幕府の関東郡代として関東全域開発をした伊奈忠次に受け継がれる)
後世に代表するような土木技術が甲斐で発達したのは当然といえば当然。 普通にやっていてはお米を採れる環境ではないからです。
地方豪族達との軋轢、家督就任当時の国状においてはハンパないレベル
463人間七七四年:2012/02/13(月) 00:48:57.60 ID:Brwo6do2
ないないw

>>461
甲陽軍鑑で馬場が「徳川家康を傘下に入れていれば、我が国は九州まで勢力を伸ばせたでしょう」って
発言があるけどあれちょっとした皮肉だよなw
徳川家康がいれば天下にほど近い勢力になったのを、信玄ごときじゃこの程度ですよって言ってるようなもんだからなw
464人間七七四年:2012/02/13(月) 00:50:04.04 ID:TLfm7orX
又コピペですよ奥さん
465人間七七四年:2012/02/13(月) 01:27:11.37 ID:cgQJpKVz
俺みたいな軽い戦国ファンにはこのスレ面白い
466人間七七四年:2012/02/13(月) 02:50:54.53 ID:w6K6PmXo
中のガタガタ具合は長尾景虎も中々に酷い物があるぞw
467人間七七四年:2012/02/15(水) 12:29:47.41 ID:VjSjtrkQ
>>463
家康が幕府を開いたのを知ってて書いてるだけの話だろ。
468人間七七四年:2012/02/15(水) 13:16:10.86 ID:wyankHOZ
>>413
だから織田厨は勝頼を必要以上に持ち上げるんだよ 
相手の自爆で勝てただけってのを自覚してるから
469人間七七四年:2012/02/15(水) 13:18:45.24 ID:wyankHOZ
訂正 
>>453
470人間七七四年:2012/02/15(水) 13:30:12.77 ID:VjSjtrkQ
460:人間七七四年 02/13(月) 00:32 Brwo6do2 [sage]
織田信長がもし有能だったら

美濃の山賊ごときに10年もかからなかった

石山みたいな極貧領土をめぐって本願寺顕如と10年乳繰りあうこともなかった

桶狭間で今川義元が死んだ時点で今川の駿河、遠江を攻め取ることができた。


武田信玄上洛戦で死去という絶好の機会を逃し、あまつさえ光秀、秀吉の台頭を許し、
その光秀、秀吉に家を滅ぼされたというのはもはやギャグ。
471人間七七四年:2012/02/15(水) 14:54:03.19 ID:MuQLiR9q
>>470
間違いだらけやなー。
信長が尾張を統一したのは1559年。
1560年は桶狭間。
1567年に稲葉山城陥落。
石山は日本最大クラスの金持ち。
三河はどこいっちゃったの?
なにをもって機会を逃したとか言ってるのかしらんが、しっかり勢力伸張してますよ。
光秀と秀吉を取り立てたのは信長だしね。
472人間七七四年:2012/02/15(水) 16:33:07.92 ID:AhVmCmF6
>>381
4/30越中の河田長親→謙信側近吉江資堅宛てで
織田・徳川へ遣わした飛脚の情報によると
信玄死去は必定だと述べているので
信長らも5月初頭には信玄の死去は察知してるはず。
>>388
>>3月の細川家記によると義昭が信長追討の御教書の下した先に謙信も含まれる。
やっぱり義昭による甲越和与が成立してるのは間違いないようだね。
>>395
松永久秀の子が大和多聞山城を信長に渡したって話も
一年ずれることになると、織田は河内から久秀、
大和からは久秀の子、丹波からは久秀の弟の子の内藤によって
京へ圧力を加えられていたことになるな。
摂津からは三好・本願寺が圧力を加えているし。
>>416
>>2/23筒井城の順慶が春日社参詣に3000人を引き連れてきたため
松永久通が警戒し小規模な衝突もあったようだ。
大神楽や神馬を奉納して成身院に宿泊後に筒井へ帰る。

元亀4年初頭では筒井が松永を圧倒してたなんてデマかせだったんだな。
郡上市の遠藤が美濃市の鉈尾を軍備増強改修を開始したと書かれてるね。

>>471
道三が討死した時に美濃国譲り状をもらってるから美濃平定まで11年じゃね。
信長は道三の後ろ盾に依存してたから
義龍が美濃の内政改革を断行するため
謀略で尾張が内紛だらけになって、信長は美濃侵攻どころじゃねくなったけど。
>>石山は日本最大クラスの金持ち
そんな話は聞いたことないが。
473人間七七四年:2012/02/15(水) 17:37:27.77 ID:7Vqb0r2k
だがらしい嘘まみれのレスだなw

>>その光秀、秀吉に家を滅ぼされたというのはもはやギャグ。

おいおい織田秀信や織田信雄は完全無視かよw

無知なだがに教えておいてやるが本能寺以後の織田家は
秀信系、信雄系、老犬斎系、有楽斎系が敵味方両軍に分かれて戦うことを常としたため
織田家そのものが崩壊したというのは明治維新の版籍奉還まで待つほかない。

織田の嫡男に一族丸ごと根こそぎ滅ぼされたどっかの無能大名とは違うんだよw
474人間七七四年:2012/02/15(水) 17:40:24.02 ID:7Vqb0r2k
621 :人間七七四年:2012/02/07(火) 19:56:30.90 ID:eKJXOUV4
お互いの顛末

織田家
本能寺の変で信長と信忠が死ぬ
関ヶ原で豊臣準一門だった秀信が改易され信忠系は絶える。
信孝は賤ヶ岳のgdgdで自害してこれ以降信孝系も絶える。
信長弟では老犬斎と有楽斎の家系が奮闘して大名に。
信長子息では織田信雄が最終的に大名に返り咲く。これ以降信雄系が信長子孫の主流に。
七男信高、九男信貞が関ヶ原の戦功などで旗本に取り立てられる。


武田家
武田征伐によって武田勝頼、仁科盛信、武田信勝、武田信廉、葛山信貞、武田信豊、一条信龍ら数えきれないほどの一族衆が多く死ぬ。
武田勝頼には信勝の他にも勝親という子供がいたらしいが、そのまま歴史の表舞台から消えている。
武田勝頼の兄である義信は廃嫡され、男子なし。その弟の武田竜芳は息子を逃がして自害、息子の信道は後に高家旗本になる。
その弟の信之は夭折。ここまで勝頼の兄たち。仁科盛信の子孫たちはのちに徳川旗本となったようだ。
弟の葛山信貞は甲斐征伐で死亡しこの家系はここで断絶。そのまた弟の武田信清はかつての仇敵上杉家を頼るという屈辱的な対応を迫られた。
勝頼の父信玄にも山ほど弟がいたが、長篠で死んだ武田信実の子孫が旗本に取り立てられる以外は目立った躍進はなし。


まとめ

織田家は大名として織田信雄系、老犬斎系、有楽斎系など主流三家を残し安泰。
旗本としても信高系、信貞系ほか数家が残った。

武田家は仁科五郎、武田竜芳、武田信実の家系が旗本として残ったものの、
それ以外の家系は概ね断絶あるいは他家の家臣へと転向するなどして、大名に返り咲いた家系はゼロ。
475人間七七四年:2012/02/15(水) 17:53:50.40 ID:MuQLiR9q
>>472
>>3月の細川家記によると義昭が信長追討の御教書の下した先に謙信も含まれる。

言うまでもない事だが、細川家記は 軍 記 物 です。

>織田は河内から久秀、大和からは久秀の子、丹波からは久秀の弟の子の内藤によって京へ圧力を加えられていた

松永は筒井すら倒せてませんが。
河内には久秀の領地がありません。

>摂津からは三好・本願寺が圧力を加えているし。

本願寺は挙兵しておりません。

>道三が討死した時に美濃国譲り状をもらってるから美濃平定まで11年

アホかw
美濃攻略を始めてすらいないのにwww

>信長は道三の後ろ盾に依存してたから

依存してたら後ろ盾を失った後に尾張を平定できてません。

>>石山は日本最大クラスの金持ち
>そんな話は聞いたことないが。

さすがに無知すぎ。
どれだけ信者がいると思ってんだよw
476人間七七四年:2012/02/15(水) 18:27:50.17 ID:sxxt4+Vv
濃尾だけで100万石オーバーじゃねぇかw
織田は信秀時代ですらすでに朝廷への献金額も異常だし
織田家のボンボン嫡男に過ぎない時代で趣味ですでに高価な鉄砲を大量所持して
美濃国守の道三がビックリしてたし 幼少の家康を買い取った時の
たかが人質買い取りにしては桁外れの金額を即金で払った財力からしてかなり豊かだろうが。
信長は完全にチートスタートだ。
津島や熱田の海上貿易通商路を押さえた信秀のボンボン息子でお小遣いをたくさん持ってた
吉法師は将軍義輝が六角氏に命じて近江国友村に作らせた鉄砲製造所で試作がようやく完成したばかりであったが
さっそく大量の六匁玉の鉄砲を発注していたので道三との会見においてすでに五百梃の鉄砲と火薬を持ってた。
1543年2月信秀は平手政秀を通じて内裏修造費用4千貫文を貢納。
3年前にも伊勢豊受大神宮仮殿造営費700貫文を献納していたのにも関わらず。
田原城主戸田家臣又右衞門が拉致った松平竹千代を五百貫文の破格の大金でキャッシュ即払いした信秀
超イージーモードの織田家に自ら刃向かうバカはいません。
信長公記の記述する戦はデタラメばっかりです。
信玄は父を追放した権臣たちの操り人形の傀儡として祭り上げられ家臣団による合議体制となった。
信玄がその恐怖から脱したのは村上との敗戦を招いた権臣たちの討ち死にが契機となる。
一方、信長は斎藤道三の後見により確固たる地位を保持しており
三河でも水野を防波堤となし
将来の危険の芽を摘むべく弱者を追い詰め蜂起させて圧倒的戦力で叩き潰し直轄領化を推進していく。
義元は自国と尾張の隔絶した国力差に危機感を抱き
是が非でも三河の安定領国化を成さねばならない追い詰められた状況だった。
尾張より国力の小さい美濃攻略に11年
その後、将軍チートで簡単に上洛できただけ
しかしその後、信玄に滅亡寸前に追いやられるのが信長
甲斐の2倍の国力ある信濃を攻略できた信玄とはレベルが違い過ぎる。
斎藤は当主の相次ぐ死による交代で衰退し美濃国人衆は見限り初めて瓦解期に入っていた。
村上は地の利を占め逆に領土拡大する隆盛期に入っていた。
そんだけ信長が戦下手だという証拠。
そりゃそうだ。信長には敵を外交で一つに絞って
戦力の集中をすると言う軍事の基本すら理解できてない素人。
経済力を背景に負けても負けても侵攻を執拗に続けるだけのバカ。
領土拡大なんて濃尾の平野&湾岸の異常な石高と経済力を背景にすれば楽勝だろ。
むしろ無駄に摩擦と衝突を引き起こして同時に複数国で混乱を起こさせて勝つまで
執拗に攻め込みまくる信長のやり方は無駄に時間を浪費させただけに過ぎない。

477人間七七四年:2012/02/15(水) 18:28:37.89 ID:sxxt4+Vv
斯波氏に関しては今川の捕虜になった斯波義達の跡を継いだ
義統が3歳の幼君なのを良いことに守護代織田氏は専横して傀儡に成り下がって実権なし。
信秀は今川義元の弟で捕虜になった斯波義達の娘を娶って尾張に来た今川氏豊を討って
今川の尾張支配の牙城那古野城を奪取するなど今川勢力を尾張国から一掃してる。
織田大和守家の分家で清洲三奉行「織田弾正忠家」の勢威は主家を上回っており押さえられる者はいなかった。
それは大和守家の織田達勝の娘が信秀によって離縁させられてるのでもわかる。
(大和守家織田達勝と三奉行家の「織田藤左衛門家」が共同して信秀に当たっても勝てなかった)
1547年の信秀の稲葉山城攻撃では岩倉方織田伊勢守の一族や中嶋郡の豪族など
尾張北西部の者どもが先鋒をしていて「織田伊勢守家」岩倉織田家家中もすでに傘下に組み込んでいるのがわかる。
さらに朝倉孝景の軍も信秀の援軍にやってきていて
稲葉山城包囲は25000の兵が動員されたほどに信秀の威勢は巨大だった。
稲葉山城攻防において夕闇が迫り一時撤退した油断を突かれて道三の奇襲で破れたものの
次の大垣城攻防戦では道三も驚く速さで渡河した信秀は
電光石火の進軍で火をかけながら稲葉山城方面を急襲しようとしたために
驚いた道三が大垣城攻撃を諦めて撤退してる。
(藤左衛門家もこの時に信秀配下として軍事行動をしており信秀は尾張の大半から動員していた)
「織田伊勢守家」岩倉織田を継いだ織田信安(妹は信秀側室・のち信秀妹を娶る)は
「織田大和守家」から入った人物で幼君を口実に犬山城で後見監視してたのが信秀の弟の信康なわけで、
ぶっちゃけ尾張は信秀がほぼ制していたと言っていい。
1549年正月17日の信秀弟の信康の子の犬山城主織田信清の謀反に至っては信秀が急を聞き即日撃破してるほどの圧勝し
2月25日には何事も無く平穏であり美濃から帰蝶が無事に尾張へ輿入れして信長は強力な後ろ盾を得てる。
3月に入り太原雪斎に安祥城を攻められるが頑強な抵抗をしており
本多忠勝の父が討ち死にするなど今川全軍を撤退に追い込んでる。
11月8日の再攻撃で火縄銃を投入しやっと安祥城を落とせたほど苦労してるので尾張への軍事行動が断念されてる。
安祥城落城も雪斎が非常に攻めづらい城南からの奇襲で
城側は油断しきって防備が甘かったって言う奇略で1日で落としたって話だし。
これはもう信秀の失敗とは言えないよな。
それに三河国碧海郡にあった刈谷城を本拠地にしていた三河の大身と呼ばれた水野信元が信秀側だったから
織田の三河進出の拠点は失ってねーし、結局、信秀は尾張の旗頭として
国内に敵を入れることはなかった(守山崩れの例外があるが)
今川とも竹千代交換して和議が成り信秀の晩年は内外ともに安定してる。
清洲三奉行因幡守家から織田大和守家の織田達勝の養子になったと言われる織田信友は
織田伊勢守家同様にすでに家臣団を信秀に奪われ傀儡守護の斯波義統を擁立していたと言う
一点でかろうじて信秀の主君と言う名目的地位を維持できていたにすぎず軍事的には信秀に屈していた。

父から信長が与えられた名古屋城の税だけでそんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。
大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除の謀略に引っかかっての無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…

478人間七七四年:2012/02/15(水) 18:46:28.33 ID:MuQLiR9q
>>476
無駄な文章ばっかりだなぁ。

>超イージーモードの織田家に自ら刃向かうバカはいません

おんなじ織田家が刃向かってます。
そもそもお前自身「将来の危険の芽を摘むべく弱者を追い詰め蜂起させて」って書いてるじゃねーかw

>一方、信長は斎藤道三の後見により確固たる地位を保持しており

>>475

>尾張より国力の小さい美濃

たった3万石の差でこんなこと言われてもねぇ。

>将軍チートで簡単に上洛できた

六角も朝倉もできてませんが。
そもそもチートであるならなぜ信玄は手に入れようとしなかったのかね?
将軍の重要性にすら気づいていなかったのかな?

>甲斐の2倍の国力ある信濃を攻略できた信玄

信濃はまとまっておらず、甲斐武田氏以上の国力を持った勢力はいなかった。
一方、美濃は斉藤氏によって1つにまとめられていた。
その美濃からの侵攻をはねのけつつ尾張を統一し、美濃も取ったのが信長。

>信長には敵を外交で一つに絞って戦力の集中をすると言う軍事の基本すら理解できてない

以前と言ってることが全く違うな。
捏造にしろコロコロ言ってる事変えてっと信用されねーぞ?

>無駄に摩擦と衝突を引き起こして同時に複数国で混乱を起こさせて勝つまで
>執拗に攻め込みまくる
>無駄に時間を浪費させただけに過ぎない

信玄のことですね。わかります。
479人間七七四年:2012/02/15(水) 18:49:17.92 ID:wyankHOZ
斉藤って代替わりしてガタガタだったよな
信濃は攻めにくい山城だらけで途中で関東管領やら影虎やら妨害入りまくり
信長じゃ三十年かかっても攻略無理だな
480人間七七四年:2012/02/15(水) 18:54:41.69 ID:MuQLiR9q
>>479
んじゃあ代替わりしだ織田家もガタガタだね。

>関東管領やら影虎やら

それを合わせても信玄の方が兵力多かったけどね。


で、山城を使うまでもなく野戦で敗退した信玄の評価はどうなるのかな?
481人間七七四年:2012/02/15(水) 19:12:34.53 ID:7Vqb0r2k
濃尾だけで100万石オーバーということになると、
武田信玄の生涯実績を織田信長で当てはめるなら
「苦労してようやく斎藤家を滅ぼし上洛しようとしたが寿命で病死」というくらいの
実績しかないことになるが・・・
482人間七七四年:2012/02/15(水) 19:24:34.66 ID:wpLu620M
そうか斉藤龍興なみのアホだったな信長は
生き延びたのは運がよかっただけだね
483人間七七四年:2012/02/15(水) 19:33:22.85 ID:MuQLiR9q
>>482
なるほど
竜興=信長>勝頼>>>信玄か
484人間七七四年:2012/02/15(水) 19:54:19.77 ID:wpLu620M
また織田厨の妄想が始まったか
485人間七七四年:2012/02/15(水) 19:57:45.64 ID:7Vqb0r2k
・武田信玄無能伝説


対村上義清

数で勝る村上義清に連戦連敗、板垣信方、甘利虎泰、横田高松といった重臣を数多く死なせる。
上田原では勝ちに奢った板垣が自滅した、と敗戦責任を家臣に転嫁。その後敗戦した後も意地になって数十日も陣を張り続け戦果ゼロ。
砥石崩れはさらに酷く、3分の1程度の村上勢に1000人近い犠牲者を出すという無様すぎる大敗北を喫する。
どうしようもなくなった信玄は真田幸隆に哀願して村上方の矢沢頼綱(幸隆弟)を寝返らせようやく村上を信濃から追い出した。

対上杉謙信

同じ場所で5回も睨みあい戦果ゼロという後世に残る屈指の馬鹿戦を繰り広げたことでも有名。
ここでも武田信繁、諸角虎定といった重臣を失い10数年も続いた上杉攻略も結局頓挫する。
中央情勢どころか東海情勢すらまともに把握できないまま10年間も無駄に時を費やした信玄を擁護するのは難しく、
やむなく最強竜虎の対決とお題目を立てた甲陽軍鑑の作者の苦心たるや察するに余りある。

対今川氏真
桶狭間で今川義元が死んでから既に8年も経ってようやく攻撃を開始。勢力を伸ばしつつあった徳川家康と協力し、
ちゃっかり家康を出し抜こうと考えるも逆に当時20代の徳川家康に出し抜かれ今川北条徳川の三勢力に駿河侵攻を阻まれる。
今川攻めの前に嫡子義信と飯富虎昌を失った犠牲にあまりにも見合わない収穫、結局今川氏真の駿河再復帰はならなかったものの、
北条に敵対されるわ徳川とも不和になるわで周り敵だらけ。無能の上に何も学習しない、息子も用済みとなればポイという非道な信玄であった。

・対織田信長、徳川家康

何も考えず行き当たりばったりで戦争をふっかける無能信玄は義昭の甘い誘惑に乗って後出し勝利を狙い当時最大勢力であった織田信長と敵対。
ところが既に信長と敵対して押されつつあった浅井朝倉がガス欠寸前で織田に対する軍事行動を一旦終息させる。
そんな時期外れの状況でかつ巨大勢力織田信長と直接対決にビビったため信長子分の家康を筆頭に親信長の第三勢力を憂さ晴らしにいじめぬく。
三方が原で家康を2倍とも3倍とも言える兵力で幸先よくレイプしたはいいが野田城攻めに1ヶ月近く費やす。
冬場に1ヶ月近くも長待陣したせいで体が弱ってしまいそのまま撤退することに。欲をかきすぎた人間の末路である。
結局何をしにきたのかわからないまま甲斐に戻ることなく信濃の路上で野垂れ死に。死後お家は信長に滅ぼされるというおまけつきであった。
486人間七七四年:2012/02/15(水) 19:59:27.78 ID:89xkpB50
うわぁ ショボイ長文コピペしてやんの
487人間七七四年:2012/02/15(水) 20:05:39.90 ID:89xkpB50
>>485
必死に考えたんだね〜 よくできたね〜僕ちゃんw
488人間七七四年:2012/02/15(水) 20:18:29.38 ID:Yv+Hge63
自演失敗しとるがな

しかし相変わらずこのスレは流れがいつも一緒だな
489人間七七四年:2012/02/15(水) 20:35:18.95 ID:sxxt4+Vv
当時の武田の状況での信濃攻略は飛騨の三木家が斉藤滅ぼすのと同じくらい難易度高いだろw

強圧的な態度でムリヤリ国を纏めた甲斐守護家と国人衆との間は悪化の一途。 甲斐府中は呉越同舟で牽制し合う状況。
しかも、甲斐は山国であるため、越後の半分の石高(20万石)でしかなく、金山などはまだ後世に誇るほど歳出が見込めた訳でもなく
信玄の家督相続当時は甲斐は飢饉が数年前から猛威をふるうまっただ中で高緯度のため冷夏が発生し
飢饉が慢性化し、河川氾濫で田畑は災害にたびたび見舞われ信玄が家督を継いだ時には数年間連続の飢饉により、甲斐の国状は悲惨この上がありません。
信虎はこれらに有効な手立てをうつ所か今川などの外圧もあり戦闘につぐ戦闘。ただでさえ、基盤の脆い甲斐の国政は破綻しています。
信玄の場合、これらを解決する為には豊かな土地の“略奪”が急務であり、国人衆もそれを求めます。
しかし、経済は破綻している武田家ですから、それを為す侵略は困難を極めたはずです。
しなければ、父と同様に追放の憂き目にあいます。父の偏愛を受けた優秀な弟がいますからその危機は尚更です。
また、このような経路を辿ったため、重臣・国人衆の干渉は非常に強いのです。
しかも、村上に負け続けた時にはその危機が更に深まりました(権臣が死んだのは良かったが)貧しい甲斐は侵略だけでは食べていけません。
信玄はのちに信玄堤と呼ばれる堤防を築いたりして創意工夫の上、新田開発に努めます。
(信玄に始まる甲州流防河法・甲州流河除法は幕府の関東郡代として関東全域開発をした伊奈忠次に受け継がれる)
後世に代表するような土木技術が甲斐で発達したのは当然といえば当然。 普通にやっていてはお米を採れる環境ではないからです。
地方豪族達との軋轢、家督就任当時の国状においてはハンパないレベル
490人間七七四年:2012/02/15(水) 21:24:12.30 ID:7Vqb0r2k
相変わらず無知すぎる解釈だな

さすが織田を滅ぼしたのは明智光秀、豊臣秀吉だと言っただけのことはあるw

織田宗家を滅ぼしたのは徳川家康だ、よく覚えておけ糞だがw
491人間七七四年:2012/02/15(水) 21:30:35.26 ID:MuQLiR9q
>>489
3万8千石しかない飛騨と22万石の甲斐では比べものにならん。
甲斐はもともと守護の武田家の領土。
世襲で受け継がれてる国だから、信虎みたいな大改革を試みない限りまず追放の危険はない。
で、改革はあきらめつつ、方針としては

>信虎は戦闘につぐ戦闘

>信玄は豊かな土地の“略奪”

と、父と同じ道を歩んだ。
しかし戦いに関してはあまり上手くなく、兵力で劣る村上に敗れた。
492人間七七四年:2012/02/15(水) 21:35:42.36 ID:7Vqb0r2k
そもそも信玄の家督相続状況が全戦国大名と比べてもよすぎるくらいの好条件だからな。
織田信長、徳川家康、今川義元、毛利元就、三好長慶・・・信玄より悪条件悪状況で家督継いだ大名などいくらでもいる


・・・・とまあ、お粗末なコピペにマジレスするのもあれだがなw
493人間七七四年:2012/02/15(水) 21:37:33.62 ID:sxxt4+Vv
村上って2戦以外負けまくってるんだがな

しかも上田原は侵略側にしては兵力比1.4倍だし敵陣ど真ん中での板垣の首実検が原因だろ

戦闘後とどまり続けてるのは武田軍

滋賀の陣が織田の勝利なら上田原の勝利も武田軍
494人間七七四年:2012/02/15(水) 21:38:11.63 ID:sxxt4+Vv
濃尾だけで100万石オーバーじゃねぇかw
織田は信秀時代ですらすでに朝廷への献金額も異常だし
織田家のボンボン嫡男に過ぎない時代で趣味ですでに高価な鉄砲を大量所持して
美濃国守の道三がビックリしてたし 幼少の家康を買い取った時の
たかが人質買い取りにしては桁外れの金額を即金で払った財力からしてかなり豊かだろうが。
信長は完全にチートスタートだ。
津島や熱田の海上貿易通商路を押さえた信秀のボンボン息子でお小遣いをたくさん持ってた
吉法師は将軍義輝が六角氏に命じて近江国友村に作らせた鉄砲製造所で試作がようやく完成したばかりであったが
さっそく大量の六匁玉の鉄砲を発注していたので道三との会見においてすでに五百梃の鉄砲と火薬を持ってた。
1543年2月信秀は平手政秀を通じて内裏修造費用4千貫文を貢納。
3年前にも伊勢豊受大神宮仮殿造営費700貫文を献納していたのにも関わらず。
田原城主戸田家臣又右衞門が拉致った松平竹千代を五百貫文の破格の大金でキャッシュ即払いした信秀
超イージーモードの織田家に自ら刃向かうバカはいません。
信長公記の記述する戦はデタラメばっかりです。
信玄は父を追放した権臣たちの操り人形の傀儡として祭り上げられ家臣団による合議体制となった。
信玄がその恐怖から脱したのは村上との敗戦を招いた権臣たちの討ち死にが契機となる。
一方、信長は斎藤道三の後見により確固たる地位を保持しており
三河でも水野を防波堤となし
将来の危険の芽を摘むべく弱者を追い詰め蜂起させて圧倒的戦力で叩き潰し直轄領化を推進していく。
義元は自国と尾張の隔絶した国力差に危機感を抱き
是が非でも三河の安定領国化を成さねばならない追い詰められた状況だった。
尾張より国力の小さい美濃攻略に11年
その後、将軍チートで簡単に上洛できただけ
しかしその後、信玄に滅亡寸前に追いやられるのが信長
甲斐の2倍の国力ある信濃を攻略できた信玄とはレベルが違い過ぎる。
斎藤は当主の相次ぐ死による交代で衰退し美濃国人衆は見限り初めて瓦解期に入っていた。
村上は地の利を占め逆に領土拡大する隆盛期に入っていた。
そんだけ信長が戦下手だという証拠。
そりゃそうだ。信長には敵を外交で一つに絞って
戦力の集中をすると言う軍事の基本すら理解できてない素人。
経済力を背景に負けても負けても侵攻を執拗に続けるだけのバカ。
領土拡大なんて濃尾の平野&湾岸の異常な石高と経済力を背景にすれば楽勝だろ。
むしろ無駄に摩擦と衝突を引き起こして同時に複数国で混乱を起こさせて勝つまで
執拗に攻め込みまくる信長のやり方は無駄に時間を浪費させただけに過ぎない。


495人間七七四年:2012/02/15(水) 21:38:44.50 ID:sxxt4+Vv
斯波氏に関しては今川の捕虜になった斯波義達の跡を継いだ
義統が3歳の幼君なのを良いことに守護代織田氏は専横して傀儡に成り下がって実権なし。
信秀は今川義元の弟で捕虜になった斯波義達の娘を娶って尾張に来た今川氏豊を討って
今川の尾張支配の牙城那古野城を奪取するなど今川勢力を尾張国から一掃してる。
織田大和守家の分家で清洲三奉行「織田弾正忠家」の勢威は主家を上回っており押さえられる者はいなかった。
それは大和守家の織田達勝の娘が信秀によって離縁させられてるのでもわかる。
(大和守家織田達勝と三奉行家の「織田藤左衛門家」が共同して信秀に当たっても勝てなかった)
1547年の信秀の稲葉山城攻撃では岩倉方織田伊勢守の一族や中嶋郡の豪族など
尾張北西部の者どもが先鋒をしていて「織田伊勢守家」岩倉織田家家中もすでに傘下に組み込んでいるのがわかる。
さらに朝倉孝景の軍も信秀の援軍にやってきていて
稲葉山城包囲は25000の兵が動員されたほどに信秀の威勢は巨大だった。
稲葉山城攻防において夕闇が迫り一時撤退した油断を突かれて道三の奇襲で破れたものの
次の大垣城攻防戦では道三も驚く速さで渡河した信秀は
電光石火の進軍で火をかけながら稲葉山城方面を急襲しようとしたために
驚いた道三が大垣城攻撃を諦めて撤退してる。
(藤左衛門家もこの時に信秀配下として軍事行動をしており信秀は尾張の大半から動員していた)
「織田伊勢守家」岩倉織田を継いだ織田信安(妹は信秀側室・のち信秀妹を娶る)は
「織田大和守家」から入った人物で幼君を口実に犬山城で後見監視してたのが信秀の弟の信康なわけで、
ぶっちゃけ尾張は信秀がほぼ制していたと言っていい。
1549年正月17日の信秀弟の信康の子の犬山城主織田信清の謀反に至っては信秀が急を聞き即日撃破してるほどの圧勝し
2月25日には何事も無く平穏であり美濃から帰蝶が無事に尾張へ輿入れして信長は強力な後ろ盾を得てる。
3月に入り太原雪斎に安祥城を攻められるが頑強な抵抗をしており
本多忠勝の父が討ち死にするなど今川全軍を撤退に追い込んでる。
11月8日の再攻撃で火縄銃を投入しやっと安祥城を落とせたほど苦労してるので尾張への軍事行動が断念されてる。
安祥城落城も雪斎が非常に攻めづらい城南からの奇襲で
城側は油断しきって防備が甘かったって言う奇略で1日で落としたって話だし。
これはもう信秀の失敗とは言えないよな。
それに三河国碧海郡にあった刈谷城を本拠地にしていた三河の大身と呼ばれた水野信元が信秀側だったから
織田の三河進出の拠点は失ってねーし、結局、信秀は尾張の旗頭として
国内に敵を入れることはなかった(守山崩れの例外があるが)
今川とも竹千代交換して和議が成り信秀の晩年は内外ともに安定してる。
清洲三奉行因幡守家から織田大和守家の織田達勝の養子になったと言われる織田信友は
織田伊勢守家同様にすでに家臣団を信秀に奪われ傀儡守護の斯波義統を擁立していたと言う
一点でかろうじて信秀の主君と言う名目的地位を維持できていたにすぎず軍事的には信秀に屈していた。

父から信長が与えられた名古屋城の税だけでそんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。
大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除の謀略に引っかかっての無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…


496人間七七四年:2012/02/15(水) 21:39:16.57 ID:sxxt4+Vv
当時の武田の状況での信濃攻略は飛騨の三木家が斉藤滅ぼすのと同じくらい難易度高いだろw

強圧的な態度でムリヤリ国を纏めた甲斐守護家と国人衆との間は悪化の一途。 甲斐府中は呉越同舟で牽制し合う状況。
しかも、甲斐は山国であるため、越後の半分の石高(20万石)でしかなく、金山などはまだ後世に誇るほど歳出が見込めた訳でもなく
信玄の家督相続当時は甲斐は飢饉が数年前から猛威をふるうまっただ中で高緯度のため冷夏が発生し
飢饉が慢性化し、河川氾濫で田畑は災害にたびたび見舞われ信玄が家督を継いだ時には数年間連続の飢饉により、甲斐の国状は悲惨この上がありません。
信虎はこれらに有効な手立てをうつ所か今川などの外圧もあり戦闘につぐ戦闘。ただでさえ、基盤の脆い甲斐の国政は破綻しています。
信玄の場合、これらを解決する為には豊かな土地の“略奪”が急務であり、国人衆もそれを求めます。
しかし、経済は破綻している武田家ですから、それを為す侵略は困難を極めたはずです。
しなければ、父と同様に追放の憂き目にあいます。父の偏愛を受けた優秀な弟がいますからその危機は尚更です。
また、このような経路を辿ったため、重臣・国人衆の干渉は非常に強いのです。
しかも、村上に負け続けた時にはその危機が更に深まりました(権臣が死んだのは良かったが)貧しい甲斐は侵略だけでは食べていけません。
信玄はのちに信玄堤と呼ばれる堤防を築いたりして創意工夫の上、新田開発に努めます。
(信玄に始まる甲州流防河法・甲州流河除法は幕府の関東郡代として関東全域開発をした伊奈忠次に受け継がれる)
後世に代表するような土木技術が甲斐で発達したのは当然といえば当然。 普通にやっていてはお米を採れる環境ではないからです。
地方豪族達との軋轢、家督就任当時の国状においてはハンパないレベル

497人間七七四年:2012/02/15(水) 21:44:12.88 ID:/qmRG7+Q
え?二回?村上の城攻めを敗北カウントするなら
信長なんてどんだけ敗北が増えるかわからんレベルw
498人間七七四年:2012/02/15(水) 21:46:36.90 ID:sxxt4+Vv
信長って斉藤に50回くらい負けてるだろ

相手が浅井に攻め込まれて子供が大将だったから勝っただけ

竹中にも稲葉山奪われる雑魚が相手
499人間七七四年:2012/02/15(水) 21:47:35.80 ID:sxxt4+Vv
織田600万石が、赤井3万石に大敗! 敗走!

って、まるで漫画だな。 。 。

アホすぎる。

さすが戦国最強織田軍

500人間七七四年:2012/02/15(水) 21:49:01.86 ID:WFtshaOB
>>493
戦争の勝敗は戦争目的を達成出来たかどうかだと何度言ったらわかるんだ?だがは
志賀の陣において織田軍はどこの拠点も敵に落とされなかったから明らかに織田の勝利
一方の上田原の武田は村上軍の撃破に失敗しさらに拠点の一つすら落とせなかった
よって武田の負け
501人間七七四年:2012/02/15(水) 21:52:11.72 ID:MuQLiR9q
また派手な敗走の仕方だなw
黙って消えれば目立たないのに、自分から負けたー負けたーって宣伝しながら去ってくれるからな、だがさんは。
502人間七七四年:2012/02/15(水) 22:05:35.02 ID:sxxt4+Vv
戦争の勝敗は戦争目的を達成出来たかどうかだと何度言ったらわかるんだ?馬鹿は
志賀の陣において織田軍は浅井朝倉軍の撃破に失敗しどこの拠点も落とせなかったから明らかに織田の敗北
一方の上田原の武田は拠点の一つも村上におとされなかった
よって武田の勝ち
503人間七七四年:2012/02/15(水) 23:05:09.16 ID:WFtshaOB
>>502
とりあえずだがはそれぞれの目的が何かを良く考えてからレスしような
504人間七七四年:2012/02/15(水) 23:13:00.47 ID:sxxt4+Vv
領土を広げることが目的
505人間七七四年:2012/02/15(水) 23:13:01.49 ID:/qmRG7+Q
なるほど朝倉への土下座が信長の戦争目的達成だったのか。
おまけに六角義賢に領地を返還して、
六角から離反した者に、
旧主が戻ってきても、
お前の生活が困らないよう領地やるからとか
土下座書状を出さざる得ないカッコ悪さ発揮が信長の戦争目的達成か。
506人間七七四年:2012/02/15(水) 23:18:47.02 ID:MuQLiR9q
・上田原の戦い

攻撃側 武田
守備側 村上

結果;武田は領土を増やせなかった。よって武田の負け。



・志賀の陣

攻撃側 浅井・朝倉
守備側 織田

結果:浅井・朝倉は領土を増やせなかった。よって織田の勝ち。
507人間七七四年:2012/02/16(木) 02:14:06.94 ID:Te3msQHv
そもそも少し考えればわかる話なんだがな

仮に織田が攻撃方で浅井朝倉が守備型なら姉川の時と同様湖東か湖北が主戦場になる。
当然だ、織田が攻めて浅井朝倉が自領自拠点を守るんだからな。

ところが志賀の陣の戦場は近江坂本含む湖西で、当然ながらこんなところに浅井領も朝倉領もない。
それどころか志賀での対峙前に浅井朝倉は織田方拠点である宇佐山を攻め取ろうとする有様。

これで織田が攻めたとかいうのは、馬鹿と池沼しか思わないこと
508人間七七四年:2012/02/16(木) 06:56:32.10 ID:O+w2CaSp
宇佐山攻めたも何も半日しか攻めてないじゃん。
無力化させて背後を襲われる危惧が無くなったから山科へ進軍しただけだろ。
509人間七七四年:2012/02/16(木) 09:15:30.26 ID:arnn5aip
>>488
自演?お前が普段やりまくってるからって人まで自演認定すんなよ連呼厨
ただの二連投だ 
510製薬:2012/02/16(木) 13:44:06.94 ID:t/AE2tUv
武田家のボンクラ2人の比較スレなんだから、
癇癪信長は関係ねぇーだろ。

2人の家督相続時を入れ替えて考えれば良いんだよ!
板垣に担がれて甲斐相続した勝頼は、
村上とは互角で戦えるだろうが、
それ以前に諏訪を騙し討ち出来ない程度の知能。
信玄が1572年に家督継いだら、その時の重臣の専横に勝てず、
長篠まで重臣主導でやはり上田原のように敗戦、
さらに撤退せずに潰滅するかも…
511人間七七四年:2012/02/16(木) 15:14:32.55 ID:mOm7Ubha
>>508
>無力化させて
>進軍した

どう見ても攻撃側です
本当にありがとうございました
512人間七七四年:2012/02/16(木) 18:45:32.22 ID:Te3msQHv
まあ信長を挟撃してーってのが浅井朝倉の案にあるんだから宇佐山ごときに時間は費やせんと言うのはわかるけどな。
どっちにしろ浅井朝倉が火事場泥棒しようとして信長にビビって比叡山に籠るという情けない結果になったけど。
513人間七七四年:2012/02/16(木) 20:32:09.91 ID:hjAt5Y3i
>>510
諏訪と武田と村上で共同軍事活動してたのに
勝手に関東管領上杉を
諏訪が招き入れたから
村上と武田が
上杉と諏訪と開戦したって話なのも知らんとは…無知過ぎ
514人間七七四年:2012/02/17(金) 06:02:16.98 ID:YNBhM3lU
でそこで村上も分捕ってやろうと考えるのが信玄だよなw
上田原できっちり負けるというのも信玄らしさがよくでてるよ
515人間七七四年:2012/02/17(金) 09:35:56.72 ID:bbLPu5C3
513無知乙

信直時代から管領上杉と武田は友誼を得てる
516人間七七四年:2012/02/17(金) 17:26:05.02 ID:TAKahgdf
外野が口を出すのも何だが、
それと信濃侵略を認めるのとは、また違ってくるだろ。
517人間七七四年:2012/02/17(金) 20:40:53.23 ID:MElVXE2Q
>>513
関東管領山内上杉の軍と武田が戦い始めると
やたら関東管領軍が弱いのはなぜなんだろ?
518人間七七四年:2012/02/17(金) 22:55:36.61 ID:9hbqlLOG
>>510
信玄が1572年に家督継いで重臣主導なら長篠で家臣に押されて撤退してたはず
519人間七七四年:2012/02/18(土) 06:18:44.02 ID:yOm0/hxt
長篠は退いたらジリ貧の負け確定って状況だぞ
武田は守る戦いに決定的に慣れてないし
520人間七七四年:2012/02/18(土) 09:56:39.74 ID:E47TbVU7
>>518
上田原は負けは負けだけど大した負けじゃないと思うが
あれも板垣が暴走したって話あるよね
521人間七七四年:2012/02/18(土) 13:25:16.06 ID:NtpPGeuQ
>>520
家臣の暴走をとめられない信玄wwwwwwwwwwわrwwwろwwwすwww
522人間七七四年:2012/02/18(土) 13:47:20.88 ID:wAEevzHe
家臣の暴走で死ぬ信長wwwwwwwwwwわrwwwろwwwすwww

って返して欲しい?
523人間七七四年:2012/02/18(土) 14:08:20.59 ID:NtpPGeuQ
別に信長にも思い入れないから返していいですよwwwwww
524人間七七四年:2012/02/18(土) 14:08:38.21 ID:t6B3Qmoc
あなたの心に信長へのこぷれっくすがあることがよくわかる返しですね
525人間七七四年:2012/02/18(土) 14:16:53.58 ID:wAEevzHe
気があうな 信長はカス
526人間七七四年:2012/02/18(土) 15:34:10.41 ID:XcLIWaU2
信玄信者って韓国人?同じ臭いがするのね。
527人間七七四年:2012/02/18(土) 16:30:48.48 ID:wAEevzHe
やっぱり信長厨か キムチ臭いと思ったぜ
528人間七七四年:2012/02/18(土) 18:33:12.72 ID:JrMmGQ3r
こうして韓国人以外誰もいなくなった
529人間七七四年:2012/02/18(土) 20:55:30.13 ID:FFYuFTW/
>>521
信虎追放の経緯から、板垣と甘利は目の上のたんこぶ。
討ち死にしたことで、むしろ晴信の権力は強まったはず。
530人間七七四年:2012/02/18(土) 21:02:05.38 ID:AsQ2oSF5
勝頼って上杉や佐竹と組んで結構北条を苦しめてたんだよな。
531人間七七四年:2012/02/18(土) 22:29:25.42 ID:sqbVVh7k
駿河伊豆国境地帯の会戦では当初は勇み進んでるけど結局81年になると興国寺や
長窪、沼津など攻められるか落とされるかでしかも上野でも北条の調略で離反がおき
甲斐にも攻め込まれる始末。
徳川の高天神城攻めに後詰送れなくなったからエネルギーの限界が来てる
武田が財政困難になったとしたら長篠での損害や多方面作戦による軍役の異常な増大が
主要因で景勝から貰った金なんてすぐ尽きるだろ。つきなきゃ国人の不満増大抑えられるし瓦解は起こらん

最期まで武田優勢一辺倒だったわけではない
532人間七七四年:2012/02/19(日) 01:05:09.49 ID:cXNg1Kg/
>>531
高天神城側が勝頼に援軍いらないと申し出ていたから武田軍が来ないのは当たり前。
財政破綻のソースは?
533人間七七四年:2012/02/19(日) 01:11:58.81 ID:NaVswHLf
そら離反の連鎖は財政破綻というか国人の疲弊が根本原因にあるんじゃないの?
534人間七七四年:2012/02/19(日) 08:12:45.61 ID:hLmwNxis
浅間山噴火を隠蔽して
武田歴代の悪政の報いで滅んだを連呼するバカ長公記が財政破綻の出典ソースですか?

じゃあ信長が死んだのも悪政の報いが早速やってきたのが原因ですねw
535人間七七四年:2012/02/19(日) 14:04:27.12 ID:TXveJRJQ
ある時は勝頼は新府城つくったりして財政疲弊させたからバカだと言い、今は逆の事を言う。
だが氏はさ、まず自分の中での意見まとめてから来なよ。
536人間七七四年:2012/02/19(日) 17:04:32.83 ID:P+sErgHu
>>新府城つくったりして財政疲弊
えっ?財政疲弊のソースはまだなの?
537人間七七四年:2012/02/19(日) 17:31:17.52 ID:cSujqfdx
>>534
浅間山の噴火といっても小噴火で生産力の大きな減少をきたすようなものではない。
538人間七七四年:2012/02/19(日) 17:38:58.68 ID:ynzI9JR/
>>536
武田の税制について論じた論文でも読めば?
539人間七七四年:2012/02/19(日) 17:59:22.07 ID:P+sErgHu
>>537
京の公家のリアルタイム大噴火記録は
1108年とこの武田侵攻日の大噴火記録のわずか二つしか無い。
そもそも他の噴火記録は1783年の幕府記録を除けば
信憑性が疑われている後世の記述がほとんど。
>>538
逃げるのか?
540人間七七四年:2012/02/19(日) 18:02:26.73 ID:ynzI9JR/
>>539
お前が?
俺が説明するより論文をお前が読んだ方が納得できるだろ
541人間七七四年:2012/02/19(日) 18:50:42.01 ID:TXveJRJQ
>>536
それがないとするなら、>>2で提示された勝頼sage要素が1つなくなる。
スレタイ通り、勝頼は信玄以上の名将だったという証明の第一歩になるな。
542人間七七四年:2012/02/19(日) 19:05:40.26 ID:aZH+ptXT
信玄は無茶はするけど無理はしない、慎重なキチガイ。
勝頼は、無理な情勢で無茶しなければならなかった残念で強過ぎた人。

無理な情勢が誰の賜物か云うまでもない。
543人間七七四年:2012/02/19(日) 19:20:51.56 ID:cSujqfdx
>>539
織田の侵攻日に噴火が起きたとしたら、敵地で兵站の伸びきった
織田軍の方に振りに作用するはず。
その窮地にあるはずの織田軍に一方的に虐殺されたのだから
滅ぶべくして滅びたとしか評価できない。
国力の差は圧倒的だったのだろう。
544人間七七四年:2012/02/19(日) 19:43:34.69 ID:P+sErgHu
>>543
織田領国内に被害がないのに
なんで織田の兵站が影響うけるんだよw
そもそも浅間山の位置すら理解できてないワロタw
信州上州国境だぞ。北信濃や甲斐といった武田本国周辺が
混乱して勝頼が撤退してしまっただけ。
545人間七七四年:2012/02/19(日) 20:01:02.76 ID:TXveJRJQ
>>544
まず武田領内に被害があったという史料を出そう。
546人間七七四年:2012/02/19(日) 20:34:33.31 ID:jXjzNsMC
噴火被害の上に織田軍の略奪焼き討ち虐殺で
ボロボロだったろうな。
547人間七七四年:2012/02/19(日) 21:36:25.52 ID:MOHEK543
そもそも浅間山噴火の前に武田征伐は始まってるんだが。
例を挙げると武田方の下条信氏が弟で家老でもある下条氏長に追放されて河尻秀隆の軍勢を城に入れたり、
噴火当日の日には森勝蔵、団忠正らが小笠原信嶺を降伏させている。

だがは織田信忠、滝川一益の出兵記録を指して
「浅間山噴火の前に織田軍の征伐は行われていない」と主張しているんだろうが、
正直この2人総大将と軍監だから一番最後に出陣するのは当然なんだけどな。
548人間七七四年:2012/02/19(日) 22:02:30.01 ID:2xtpG8BT
だがさんてゲームみたいに全ての人員が一斉に同じ日に出陣すると思ってる?
549人間七七四年:2012/02/19(日) 22:17:10.52 ID:+bA7LScj
>>543
織田の侵攻とほぼ同時に浅間山噴火があったのなら、心理的に動揺するのは武田方じゃないかな?
織田は浅間山とか知らんだろうし。
550人間七七四年:2012/02/19(日) 22:18:45.68 ID:jXjzNsMC
>>547
一例も何も
それ一次史料じゃねぇだろ無知乙w
551人間七七四年:2012/02/19(日) 22:19:47.60 ID:MOHEK543
一次史料の定義もわからないだがさんちーっすw

そういう時は第一級史料っていうんですよ
本当に社会人やってるんですか?w
552人間七七四年:2012/02/19(日) 22:37:29.44 ID:jXjzNsMC
プププ第一級史料w
全く意味を成さ無い空虚かつ不誠実な言葉だな。
角川文庫が現代語訳信長公記の販促に使用した
苦し紛れの誤魔化しじゃねーかwww
553人間七七四年:2012/02/19(日) 22:40:53.01 ID:MOHEK543
第一級史料ってのは絶対過ぎるくらい重要な史料のことを指すんだよw
わかりやすく言うなら明治政府以降の公的史料は大体これだ

で、一次史料っていうのが出来事当時に書いた「ほぼ全ての史料」を指す。
だから信憑性に関係なく安土桃山にできてれば一次史料に分類されるんだよw

定義もわからずに難しい言葉を使いたがるとか中学生かよ
554人間七七四年:2012/02/19(日) 22:42:39.80 ID:MOHEK543
そもそも一次史料二次史料なんていうのは成立年代、著者の人間関係で分類されて
信憑性があるかないかなんていうのはまた別の問題。

にもかかわらずそれをごっちゃにしているから馬鹿を見るんだよだがはw
山県昌景書状や小島明氏文書で散々嘘情報で痛い目見ただろw
555人間七七四年:2012/02/19(日) 22:45:21.22 ID:2xtpG8BT
久しぶりに来てみたらまただがフルボッコされてて吹いたwww
知識じゃMOHEK543さんには勝てないんだから大人しくしてりゃあいいのに…w
556人間七七四年:2012/02/19(日) 22:46:35.35 ID:MOHEK543
>>555
自分だって知識ないからそんなに強気には出れんけどな。
だがの場合信長秀吉を意図的に貶めるというのがなければ案外嘘まいててもバレんかもしれん
まあ無理な話だが
557人間七七四年:2012/02/19(日) 23:03:00.67 ID:jXjzNsMC
バーカ
第一級史料発見なんてのは、
幕末や戦前の今まで知られて無かった史料や手記などが発掘された時に、
自称して世間認知度を高めようとしてる時だけだ。
なんでそれが400年前の軍記編纂物に適用されんだアホw
編纂物である以上は公記は二次史料以下なのは確定してる。
つうかこれだけ一次史料と矛盾する記述を指摘されてんのに、
まだしょーも無い主張するか池沼織田マンセー狂信者くんはw
558人間七七四年:2012/02/19(日) 23:54:24.63 ID:TXveJRJQ
>>554
だがは分かってて用語の意味を捏造してっから。
559人間七七四年:2012/02/20(月) 00:04:32.85 ID:J3hQE44W
>>558
むしろそっちの方が気が楽でありがたいくらいだけどな


>>557
ま、いじわるするようで悪いが第一級史料の正確な定義というのはまだ定まっていないんだよ。
さっき挙げた公文書なんかがよく分類されるときにこの名称が上がると言うだけでね。

で、短慮なだがに説明すると、二次史料というのは「同時代以外の」人間が編纂したもの。
つまり信長公記が二次史料以下だという証明をする時には、著者である太田牛一が信長と面識がない別時代の人間、
あるいは著者が太田牛一ではない別時代の別人の人間である必要がある。

ついでにいうと君が口を酸っぱくして言う「他の史料との矛盾」だが、これの大小で一次二次を分類されることは絶無。
おまえの大好きな武田信玄の家臣が嘘八百を書いた山県昌景書状だってちゃーんと一次史料扱いされてるだろ?w
で、結局これを裏付ける蒲生氏の朝倉への寝返りを記した史料はあったかい?w
560人間七七四年:2012/02/20(月) 08:22:45.31 ID:DiRFT6kh
同時代人であっても後から思い出して書きつけた覚書は一次史料にはならない。
当然、信長公記も後から編纂したから一次史料になるわけもない。
また自分の都合で恣意的に一次史料を否定することは出来ない。
否定するには他の史料を裏付けにして主張しなければならない。
信長に都合が悪いものは全部ウソだと根拠なく主張する織田厨は池沼
561人間七七四年:2012/02/20(月) 15:17:15.10 ID:fK43ENl4
まあだがさんの場合は信玄に、というより自分に都合の悪い史料を捏造扱いしちゃうけどね
562人間七七四年:2012/02/20(月) 18:31:13.20 ID:M74H6Oxu
52 名前: 人間七七四年 [sage] 投稿日: 2012/02/14(火) 23:18:24.67 ID:unUmC4Bz
だがの文書理解能力
()内がだがの解釈

年々三分?(二)相納申候、其残者致未進候、...
(たった三分しか税をとらなかったのか、 三分収めたら残りは納めることはない。 )
百性等...人馬借申候得共、致難渋候条、...
(???)
...彼屋敷御棟別ニ到退屈、逐電申候、同者棟別銭半分も御赦免候ハヽ、家をも造申、所も可到繁盛候、...
(棟別銭を半分にしてやったから 新築して繁盛しまくりって書いてあるから )

現在の漢字の意味だけで文章構築してるみたいだなw

563人間七七四年:2012/02/20(月) 19:08:06.07 ID:J3hQE44W
>>560
おいおい信長公記がどうやってできたのかも知らんのか?
年老いて隅っこに追いやられた爺さんの懐古妄想で書いた三河物語とは違うんだぞ?

ついでにいうと同時代編纂物は大体一次史料に分類されることが多い。
秀吉の一代記である天正記とか、フロイス日本史にしてもそう。
つか一次史料だけで歴史観が作れるなら歴史学者なんざいらんよ。
参考にする度合が違うだけ。

>>また自分の都合で恣意的に一次史料を否定することは出来ない。

否定も何も山県書状による蒲生氏の織田離反は当の山県昌景本人が「らしい」という疑問形で記述しているんだが。
それを事実としたいんなら他の史料による裏づけがなければ認められないのは当然だろう。
564人間七七四年:2012/02/20(月) 19:40:20.38 ID:QfK8xKdP
>>560
三河物語も大久保が後から思い出して書いてんだぞ
おまえ三河物語は一次資料って言ってただろう、完全に論理が破綻しているな。

中国正史である24史はデタラメといっているレベルだからしょうがないか。
565人間七七四年:2012/02/22(水) 15:50:37.00 ID:BSFpEmKA
三河物語が一次史料なのではなく
三河物語の志賀の陣の記述を
裏付けるだけの一次史料があると言うことだアホが。
逆に一次史料から公記のデタラメが証明できると言うこともある。
566人間七七四年:2012/02/22(水) 18:22:06.45 ID:W/J6nMCK
その一次史料って何?
567人間七七四年:2012/02/22(水) 20:43:33.34 ID:A89HLZbl
相変わらず織田チョン見苦しいぞw
568人間七七四年:2012/02/22(水) 21:21:50.41 ID:GHRuAc7S
姉川の戦いののちも浅井・朝倉はむちゃくちゃ勢いがあって
9/20森可成や織田信治や青地茂綱らを討ったあと、
宇佐山城の守りが固く、そちらからの入京に時間を浪費すると喝破した浅井朝倉は即日、転進して大津を放火し
9/21山科醍醐方面から進軍する迅速な判断力は褒められる。
(24日には信長が下坂本に着陣してる)
そして24日には京の前面である浅井は比叡山青山、朝倉は青山南の壷笠山に陣を敷いた。
その上で京を戦乱に巻き込まないように京を大回りして
(先鋒は入京していたが賀茂別雷神社・離宮八幡宮・知恩院・東寺らに禁制を給して迂回)
長政隊は丹波から嵯峨へ進軍して織田軍後方をかき乱す遊撃を開始してる。
10/20山崎の本願寺が御牧城を攻め取り、
それに呼応した比叡山の浅井・朝倉軍が出撃し、
織田方に組する左京区にあたる織田軍と(義昭奉公衆との説あり)
交戦しつつ修学寺・一乗寺・試楽寺・高野・松ヶ崎などをピンポイント放火してるし、
(義景は元亀2年7/4に六角軍が入京するにあたり、
義賢に洛中を放火しないように書状を送っている)
22日には大坂本願寺が畠山昭高の高屋城を攻め、
若狭武田も織田から離反して武藤や粟谷と挙兵してる。
信長は完全に無策で、家康に援軍派遣の哀願をするしかなかった。
家康は信長に江南を我が物顔で暴れている一揆と六角勢が、
瀬田と草津の間を封鎖するのを防いで退路を維持する役目を負わされた。
信長はというと11/21朝倉軍は坂井政尚と安藤守就の子を討死させ、
同日には伊勢長島でも織田信興が討死と全戦線が崩壊。
11/28朝廷から関白二条晴良が信長の和睦懇願を受けて坂本へきた。
織田の敗北は間違いないんだよな。
水藤真氏が「綸旨・御内書・御下知・信長誓詞と
およそ紙に書くことのできる全てが書かれ、比叡山に与えられた」
と書いているわけだ。
信長はありとあらゆる手段で和睦してもらおうとしてるわけ。
そして朝倉も比叡山に「当表の一和之儀、勅命上意」と書いていて
今谷明氏が朝倉らは「勅命を拒むことができなかった」と書いていて
宮島敬一氏もそれに同意している。
よって大久保の書いてる内容は事実に近いわけだ。
さらに志賀の陣の和睦交渉で、朝倉は信長には他意は無いが、
浅井を見捨てるに忍びずと言ってる。
朝倉には織田への戦意がそもそもない。だから朝倉に奪回意思はそもそも無い。
朝倉にその気が無いのに、
浅井単独で横山や佐和山の奪回は無理。
別に朝倉領でも無いし。
569人間七七四年:2012/02/22(水) 21:22:41.77 ID:GHRuAc7S
10/20山崎本願寺が御牧城を奪って、それに呼応した朝倉・浅井が比叡山から出撃し
織田方に組した一乗寺・試楽寺・高野・松ヶ崎ら左京区に突撃して攻撃してる。
また大坂本願寺も10/22日に高屋城攻め開始。
織田弱しと見て若狭武田氏も武藤・粟谷と共に織田に対して挙兵。
信長はもはや比叡山戦線で手いっぱいになり完全に江南に手が回らなくなり、
家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから
瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請。それで石川家成ら2000を家康が派遣。
11/21伊勢長島で信興が討死。11/26堅田で坂井らが朝倉軍により全滅させられる。
これで完璧に織田軍が追い詰められてしまい、
11/28信長が浅井に土下座5ヶ条の朱印状を出して朝廷から和睦だからと
必死に講和を願うブザマさにまで失墜する。
これは三河物語が書いてる「天下は朝倉殿が取りたまえ。我は2度と望まず」が
正しいことを証明している。 一次資料的な裏づけが揃っているからね。
三河物語では延暦寺が朝倉に兵糧を補給しているので、信長のアテが外れたと書いている。
耶蘇会士日本通信でも「敵(浅井・朝倉)は上坂本および比叡の山の諸山に籠もり、
坊主等は食物および家を供して大いにこれを助け」と書いていて食料不足など書いてない
関白二条晴良が勅命が合意できなければ高野山に隠居するとまで言ってた
山門の難渋にしびれを切らした関白二条晴良は(尋憲僧正の日記)
「もし今回の和議が出来なければ、身共は高野山に上り、隠遁いたす。」
と強硬に言い張って、ついに山門も折れた。
延暦寺に対して綸旨・御内書・御下知・信長の誓詞・山門領すべて安堵(一揆国人達をすべて許す)
およそ紙に書くことができる全てが延暦寺に与えても
なかなか延暦寺は承諾しなかったと水藤真氏も
織田側が和睦に無茶苦茶必死だったことを書いてる。
長政にも勅宣や朝家は神国の要だからと強調した
5カ条の朱印状を信長は提出してるし
12/13に六角にも知行渡すし、浅井に2/3を与えてもよいと信長は言ってる。
織田がボロ負けしたとする大久保の記述が正しいと思われるのは
それ以後もずっと朝倉が優勢な点からもわかる。


570人間七七四年:2012/02/22(水) 21:23:09.41 ID:GHRuAc7S
☆慈敬寺文書の顕如書状2/14付けで慈敬寺が伊藤城を攻略し其の表の面々は此方一味であり
堅田まで属理運、還住由になったとして黄金三十両を進呈している。
2/15松永久秀や岩倉の山本対馬、山中の磯貝、和邇の金蔵坊、勢多の山岡、田中の渡邊らが
10日付で義昭に帰参しさらに静原に山本城を築いて織田に反抗する。
近衛家文書の2/16浅井長政→伊勢七郎左衛門宛てでは信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆(義昭軍)合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
小林吉長も2/17付けで堅田村の郷士達への書状で慈敬寺との入魂専要之旨と述べている。
2/19の義昭書状では★山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯貝新右衛門らまで
悉く取除、明智光秀は儀無正躰候、近邊大略属本意候と書いていて
(2/13における木戸表(大津市)御働として光秀が革島忠宜へ感状を出してる)
浅井長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べている。
琵琶湖最大の商業地の堅田村の郷士達が本願寺や浅井の味方になってしまい
坂本を居城とする明智軍は大津で苦戦し立ち往生しているのがわかる。

2/23筒井城の順慶が春日社参詣に3000人を引き連れてきたため
松永久通が警戒し小規模な衝突もあったようだ。
大神楽や神馬を奉納して成身院に宿泊後にすぐ筒井へ帰る。
2/23信長→細川宛で信長自身が信玄が去る17日に野田表から撤退したので、志賀の一揆蜂起について
蜂屋・柴田・丹羽を出征させ湖を渡らせる。成敗に手間がかかれば世間聞合なので
自分も近日中に佐和山へ出て上洛し畿内を平均すると述べている。
すでに湖経由でないと明智への援軍も上洛できないほど街道封鎖は深刻になっており
大津や草津の関も機能してないはずで近江戦線は崩壊してるのがわかる。
捏造軍記信長公記は柴田と明智らが石山と堅田砦を破り西近江を平定すると書くが、
によると☆のような情勢であるのがわかる。
2/24に革島宛てに光秀が明日から今堅田を攻めると書き(柴田軍が大津に到着したのか?)
2/26義昭に同調し三井寺の光浄院暹慶(山岡景友)ら西近江で挙兵。
2/27には顕如→信玄宛てで江州西路事、此方當門家中慈敬寺以調略属本意候と書いている。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。

3月朔日で柴田が革島宛てに今堅田成敗申し付けと報告してるので攻撃開始したのだろう。
やはり明智軍(光秀は配下の18将を供養してる)は
★のように戦力としては崩壊しているようで、主力は柴田が担っているようだ。
信長は伊丹氏により摂津において中島城の細川が堺へ敗走(信長はさてもさても惜しいことだと悔しがってる)
に続き3/7にはさらに賀嶋城まで落ちて絶言語と動揺している。
3/13には下間頼充が馬場宛で今堅田に篭もっていた馬場親子が敵が取詰にきた時に一戦し粉骨したのを
慈敬寺から報告を受けたと戦功を感謝しているし
3/18に義景が木戸城主佐野十乗坊秀方へ早船で急ぎ加勢した近江高島郡の多胡宗右衛門を褒めていて
3/21には義景→馬場宛でも敵が相働くも十乗坊に立て篭もり粉骨したのを賞して、
佐左馬要害と同等の価値あると言っている。
(佐々木左馬頭とは義昭側の仁木義政で明智軍記では義政は山岡らと石山・堅田に籠城したと書いてある)
4/2には長政も馬場に木戸籠城を褒め称えていて、相次いで織田を粉砕した大勝利を褒めている。
この状況から見るに柴田ら織田軍は、義昭らに敗北を重ねて
信長が兵を集めて援軍に来るのを待っている現実が見える。
大商業地堅田村を一向宗側が取り込んでいるため、
今堅田・石山・佐左馬要害・木戸城十乗坊攻めで織田軍が大敗している。
また明智軍が崩壊していた現状から手間取ると外聞が悪いと気にするほど劣勢の信長は
信玄が帰ったし信長自身が出馬すると言いながら兵力が全然集まらずまったく出馬できないありさま。
松原信之氏が著書で義景本人の天正4年の出撃を
3/11で敦賀までやってきていて、5/10に一乗谷へ帰国したと書いてるから
朝倉先陣は3月中に小谷まできて普請を始めてるはず。
571人間七七四年:2012/02/22(水) 21:24:12.71 ID:bUPYj0u2
まとめ
信玄は多くの負債を残した
武田厨は信長にコンプを持っている
572人間七七四年:2012/02/22(水) 21:26:35.26 ID:v3FvSKLF
>>570
          ______
          r〃〃〃 f7⌒ろ)
           l‖‖‖ ||   f灯
            |‖‖‖ ||   | |
            |儿儿儿._」⊥厶
           〔__o____o_≦ト、
.          i / ⌒  ⌒  ヽ )
          !゙ (・ )` ´( ・)   i/
          |  (_人__) ∪ | \
          \  `ー'    /  / ー- 、
.          ,ィ(⊆≧リ≦⊇)〃   /     rク\
.       /   | ̄r少}¨ ̄〃   /    /′ ヽ
      〃 l   |  l| | l| 〃    /     /    └ヽ
     / E  l  |l | |l/″   /      !  厂    \
    く,  Y   ! l」fレト!    /       | /        1
    丿  |   | 丿} じ’  /      | /         |
   /     l   | `¨      /      レ′        |

             真の思考停
573人間七七四年:2012/02/22(水) 21:29:38.40 ID:WWdpmG+D
>>571
一方、秀吉は信長の遺産を受け継いだ(騙し取った)おかげで天下統一を成し遂げることができた。
574人間七七四年:2012/02/22(水) 23:03:09.08 ID:PUPSZzad
嘘長公記が超デタラメ吐きまくりの捏造ぶりにワロタw
575人間七七四年:2012/02/22(水) 23:07:55.84 ID:W/J6nMCK
>>567
一次史料を出せないのに一次史料とか言っちゃう子って…
まーた捏造か
576人間七七四年:2012/02/22(水) 23:24:04.52 ID:hDeAZiI2
そもそも三河物語の志賀の陣などいい加減すぎるくらいいい加減。
信長の顛末より松平勘四郎の武功話の方が3倍近く長かったり、
なぜか志賀の陣が12月から始まって信長がいきなり降伏していたりする。

挙句御内書まで出すほど足利義昭が織田-浅井朝倉間の和議に尽力していたにもかかわらず、
天下は朝倉殿がー、と恩を仇で返すどころか自分が今までやった将軍奉戴を全否定するかのような所業を行い、
見る人が見ればすぐに嘘とわかる陳腐な妄想起請文を捏造する有様。

挙句この妄想を誤魔化すために石河日向守や松平勘四郎の話を持ち出したり、
「近頃は(甫庵)信長記なるものが流行っておるようだがあれは嘘ばかり」と何の脈絡もなく他の史料批判をする
大久保のゲスっぷりと姑息さがにじみ出ている場面。
577人間七七四年:2012/02/22(水) 23:59:23.12 ID:9Ec+Dbah
一次史料とは実際に体験した者の日記、せいぜい回想記まで。
人から聞いた、世間で言われてることを書いた、想像で記した、こういうものは二次資料または偽書、ゴミクズ書です。
一次史料にも後者が混じっているであろうことは想定しなきゃならない。
歴史は後に都合よく改変される。
見るに値するのは改変される前の物だけ。
578人間七七四年:2012/02/23(木) 00:03:32.62 ID:I5Y8Dtbu
二次史料がアテにならんと言うのはわからなくもないが一次史料の検証もちゃんとすべきだぞ。
一次史料至上主義になるとだがみたいに書状に振り回されて意見がコロコロ変わるから
579人間七七四年:2012/02/23(木) 00:04:40.64 ID:qP+G5L5/
二次史料以下はスイーツ歴史書・ドラマ、空想歴史ファンタジー小説・漫画、信長どころか市までが刀や槍を振って敵を倒していくアクションゲームと同じです。
>>578
その通り。
580人間七七四年:2012/02/23(木) 00:17:43.25 ID:qP+G5L5/
一次資料中の一次史料が他人についてリアルタイムに記した書
家臣を評価すべき主君が家臣に発給した命令書感状
そこにすら偽りが潜んでいる
日記回想記であっても碌を食む家臣の主君主家についての書も信用ならないがそこでしか知れないものもあるから始末が悪い
581人間七七四年:2012/02/23(木) 04:02:35.32 ID:iEALJTpw
>>577
>人から聞いた、世間で言われてることを書いた

おいおい、多聞院日記とかそのへん全否定かよ
582人間七七四年:2012/02/23(木) 08:34:17.51 ID://CZoNuN
一次史料を否定するには、
一次史料を以って反論しなければならない。
織田厨は否定の根拠を
自分が(そう思うから)という願望で否定してるだけのキチガイ
恣意的に都合が悪い一次史料を次々と否定してるだけの池沼。
583人間七七四年:2012/02/23(木) 11:01:24.86 ID:12cpADm9
↑それお前だけじゃね?
お前の持論で否定して勝手にファビョってるのに気づいてないのかw
584人間七七四年:2012/02/23(木) 11:36:12.71 ID://CZoNuN
翻訳
信長公記だけが正しい
他家の一次史料は全部ウソだらけで信用できない糞史料。
こんなクズなキチガイ理論を持ち出すのは戦国板に数いる厨のうちわずかに織田厨だけ。
まったく議論が成立しない池沼。
585人間七七四年:2012/02/23(木) 12:09:41.48 ID:SMYE1kzO
たしかに他家の厨房ですら
一次史料がデタラメとはさすがに主張しないよな…
織田厨の狂いっぷりは飛び抜けてる。
586人間七七四年:2012/02/23(木) 13:39:42.37 ID:iEALJTpw
んじゃ、一次史料の天皇の書状に信長は古今無双の名将ってあるから、信長>>>(超えられない壁)>>>信玄は確定な。
587人間七七四年:2012/02/23(木) 19:33:33.31 ID:Y9BN10eS
>>579
だから中国の正史、24史は全部デタラメという事でいいんだな。
588人間七七四年:2012/02/28(火) 02:29:20.69 ID:ngs5jTUP
二次や三次資料は三段論法で洗脳するための要素がはいってるからな

あの人は○○だ
○○な人は悪い人だ
あの人は悪い人だ

董卓は酒池肉林の宴をした
酒池肉林の宴をする人は悪い政治家だ
董卓は悪い政治家だ

呂布は裏切った
裏切る人は悪い人だ
呂布は悪い人だ

曹操は残酷だ
残酷なのは悪い政治家だ
曹操は悪い政治家だ

劉備は悪い政治家と戦った
悪い政治家と戦うのは英雄だ
劉備は英雄だ

司馬懿は劉備の曹氏を倒した
英雄である劉備の敵を倒すのは良い事だ
司馬懿は良い事をした            ←コレを導き出すための洗脳本が精子三国死
589人間七七四年:2012/02/28(火) 04:50:43.56 ID:Ii4StGct
正史三国志で曹操が残酷な政治家だって書かれてるの初めて見たけどな
大体曹操って董卓倒そうとしているじゃん?その論法でいえば曹操こそいい政治家だろ
590人間七七四年:2012/02/28(火) 08:31:30.14 ID:aYyjA2/4
>>586
信秀が多額の献金してたから天皇は元々織田贔屓。
信秀死去寸前の頃に
信秀の為に義元と和睦させた際にも、
義元に城を信秀に譲渡させて献金期待したり、
岐阜攻略成功前から
信長の上洛をむちゃくちゃ応援してたし、
リップサービスな褒め言葉は御所造営料や多額献金や荘園回復の下心があったから。
>>587
中国の正史は、新王朝が、
自らの統治の正当性を主張する為に、
前王朝の歴史を編纂すると言う性質なので、
歪曲があるのが当たり前。
それに対して講談話は異民族王朝に対抗した漢民族の正当性を強調した内容だったり。
また中国史書は誇張癖や英雄神秘性が強調される(信長が怒鳴ると敵が逃げるとか、信長の時だけ船でないと渡れない河を徒歩で渡れるようになる選ばれた人間の奇跡を記述する信長公記にも共通する)
紀元前の話なんて明らかに講談話に近い。
591人間七七四年:2012/02/28(火) 08:46:33.44 ID:Ii4StGct
今みたいな正規雇用の軍隊じゃあるまいし半農半兵くらいの足軽じゃあビビっても仕方ないやろ
言葉合戦とか威嚇の空銃撃が平然と行われていた時代だぞ?
592人間七七四年:2012/02/28(火) 09:14:53.71 ID:aYyjA2/4
>>591
えっ?
信長の時だけ限定なのにwww
593人間七七四年:2012/02/28(火) 11:43:44.52 ID:Wf7Lty3G
>>590
で、天皇が「あれはリップサービスだ」って言ってる一次史料は?w
594人間七七四年:2012/02/28(火) 12:00:55.56 ID:H5IW6Tej
あはw
595人間七七四年:2012/02/28(火) 12:23:38.67 ID:Ii4StGct
>>592
いやそれこそ完全なリップサービスだろ
川幅が大きく冷たいだけで流れが激しいからとは書いてないし、
流れが激しい川とか徒歩で渡れないなら舟でも渡れねーよ、エンジンがあるわけでもないのによ。

結局本来舟で渡るくらいの大きな川を信長が舟隠されたことに怒ったのか慌てたのか強引に徒歩で渡っただけ。
でそれを聞いた地元の住民が「(普段は舟使って渡るのに)徒歩で渡るとは奇特不思議なこともあるもんだ」って言っただけなんだけど
596人間七七四年:2012/02/28(火) 12:24:11.38 ID:Ii4StGct
渡っただけ→渡らせただけ
597人間七七四年:2012/02/28(火) 15:05:32.40 ID:jx3bLjUX
斎藤に超連敗してた信長に天皇が嫌味www
598人間七七四年:2012/02/28(火) 15:46:15.59 ID:ngs5jTUP
>>589
自分に反対する政治家や部下はみんな処刑したって書いてある
599人間七七四年:2012/02/28(火) 15:51:03.40 ID:ngs5jTUP
>>590
あからさまなウソは書かないんだよ
人間や政治家が当たり前のようにする事を大げさにかきたてるだけ
一方の人についてやったと書き、もう一方の人についてやらなかったり
わざわざもっともらしい理由を付けて美化すれば
片方は悪人で片方は聖人に早変わり

>>588では
曹操も司馬懿も同じ粛清を行ってるんだけど
曹操については、自分に反対する人間を粛清したと悪者のレッテルを張って
司馬懿については、その曹操の悪の手下を排除して素晴らしい政権を作ったと
美化するように書いてある
600人間七七四年:2012/02/28(火) 17:20:04.94 ID:en/JDCBR
>>597
涙ふけよ
601人間七七四年:2012/02/29(水) 16:24:46.28 ID:GTiFHqaG
武田信玄は、自分の領地内の治安維持さえできれば良いという常識の地侍達に対して
対外戦争をするための兵役を課した点では、当時としては革新的な考え方だったけど
さらに織田が自分が倒されるかも知れないリスクを背負って
自由競争を活発化させ、戦力を育てる戦略を取ったから負けたんだよ
武田信玄が王としたら織田信長は魔王に近いから
602人間七七四年:2012/03/01(木) 01:05:01.07 ID:e+XQBTJs
絶対王政みたいにトップがすべての土地と人民を支配するって考えは
日本では大和朝廷ぐらいしかなかったんだよね
603人間七七四年:2012/03/01(木) 01:09:53.91 ID:25BDkv5w
>>602
絶対王政って言うか律令国家な
公地公民って言って国家が戸籍を管理する制度
その後に、農奴を私有財産と認めるようになり地侍や大名が群雄割拠し始める
中には惣村と言う自治をスローガンにした団体があったけど
実は大和朝廷のコピーみたいなもんだろ
本願寺の僧侶も元を辿れば都会の官僚だからな
604人間七七四年:2012/03/01(木) 03:27:38.08 ID:wj/Y9JLj
小宮山友晴の三弟の又七は兄と一緒に滅亡寸前の勝頼のもとに出向いたが友晴か勝頼かどっちかに生き延びるよう説得されたって話がある。
又七とやらは武田滅亡後どうしたんだ?徳川に仕えたのか?
小宮山昌親という人物が友晴の弟らしくこの人物は徳川に仕えている。
又七と昌親は同一人物?
605人間七七四年:2012/03/01(木) 03:49:26.31 ID:2wDwV9iq
友晴の次弟はもともと僧侶で、天目山の合戦のあと亡骸の埋葬、回向をし
後には家康の命により景徳院の住持となった。

三弟の又七郎は兄とともに勝頼との最後を願ったが、勝頼の主命により
母ら家族を護って落ちるように説得され、天目山から逃れた。

又七郎のその後は自分は知らない。家康に仕えた武田遺臣の名なら
「甲州古文書」か「徳川家康文書の研究」「甲斐志料集成」でもあたって
調べてみてくれ。
何か分かったら教えてねw

何しろこれらに名前を遺した秋山、土屋、小宮山等々の人々って
たくさん居るんだ・・・。
606人間七七四年:2012/03/01(木) 19:20:50.43 ID:wj/Y9JLj
小宮山友晴のWikipediaには「弟に拈橋、小宮山昌親、小宮山忠道がいる。」ってある。
又七郎=昌親なんじゃないの?

あと後に徳川の旗本になる初鹿野昌次って一揆に巻き込まれていなければ勝頼に従って死ぬ予定だったらしいな。
一揆が領地で起こってそれの対処で勝頼に合流できなかったらしい。
607人間七七四年:2012/03/01(木) 19:45:41.19 ID:3KoVm+3g
>>602
絶対王政はトップが全ての土地と人民を支配するって考えじゃないけどね
608605:2012/03/01(木) 23:59:39.39 ID:2wDwV9iq
>>604
放り投げは何なんで自分でも調べて見た。
「天正壬午甲信諸士起請文」の御近習衆の項に「小宮山又七」という名はあった。

とにかく小宮山又七は「天正壬午・・・・」に確かにその名が記載されてるので
「その後は家康に臣としての起請文を出し、徳川家に仕えた」
というコトでOKだと思う。

で、自分はwikiを見ないほうだし、なので、言うのも何だが
又七が昌親なのか、忠道なのかまでの判断はできない。
609人間七七四年:2012/03/02(金) 02:26:21.08 ID:AQF2XL5P
>>607
>>602がいいたいのは、そこじゃないとおもうんだが
610人間七七四年:2012/03/02(金) 16:58:09.91 ID:eBEI0YJV
信玄の周りの老臣が足引っ張って滅亡に・・・
滅びの美学の鏡だね。
611人間七七四年:2012/03/02(金) 22:30:48.17 ID:lzus6KhW
ここって
信玄はカス
信長もクズ
て結論出てるけど

じゃ
誰が優秀だったか?
誰が自分にとっての神大名か?
は、誰一人として
そこは言わないんだな

なんかお互いけん制し合ってるみたいで
小賢しいのが失笑だわw
てか、みんな性格汚いなw

あ、俺はどうなんだって?
俺は、本多平八郎忠勝
612人間七七四年:2012/03/02(金) 22:45:43.32 ID:vG6kHt4O
誰もんなこたぁ言ってねえだろ
信玄は普通に凄いが信長はそれより遥かに凄かったとは言ってるけど
613人間七七四年:2012/03/02(金) 23:11:20.55 ID:Op0Z8yo3
公記が六角義賢の弟の六角義弼や
六角義秀やその子の義堯の存在を隠蔽してしまった為に、
江戸時代中期に、
六角本家を主張し合う子達が争った際に、
一方的に不利になり存在を疑われた人物なんだよな。
義弼なんて義治と同一人物にされてるし。


濃尾平野と伊勢湾経済圏を持つ信長がチート過ぎなのに
義龍にボロ負け。龍興にまでボロ負け
結局、義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が
斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけだし
さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし
本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど
(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてのこと。
さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になるし。
しかも甲賀衆は義昭上洛戦に先立ち6/23には摂津表まで進出して三好三人衆と合戦までしてるし。
しかし9/7上洛戦開始するやいきなり信長は六角義治に大敗して岐阜に戻ってるから
援軍にきた三好三人衆側勢は京へ撤退してるし。
(上洛開始前から松永は三好勢兵力をずっと引き付けて戦っていた)
9/14には再度、天皇から織田へ綸旨が届いて義昭上洛の激励をされ京の御警護まで任されてる。
結局、江州様勢力が義治傘下から後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里らを裏切らせて信長に内応させて箕作城を開城させて観音寺城の背後を遮させた為に
義治は敗走して上洛成功しただけ。
信長の戦下手は神レベルだよな。
614人間七七四年:2012/03/02(金) 23:26:28.19 ID:C9jRBwTB
>>611
堂々巡りの核心を突いていて良いこと言っているよな

>>612
信玄も信長も評価していて大人の発言だよな

>>613
ゴミレスいらね
荒らしは消えろ
615人間七七四年:2012/03/02(金) 23:30:56.05 ID:Op0Z8yo3
1546年 信長初陣。
今川勢相手に何もできずに放火だけしてすぐさま逃げ出す。
後の多数の敗北を髣髴とさせる華々しい初陣であった。
1552年 信長家督継承。
素行の悪さからあちこちで「うつけ」と呼ばれて馬鹿にされ、
やさしかった父親の葬式にろくに服装もととのえないでやってきて
抹香を投げつける親不孝者。家臣失望。後にみんな離反。
守役の平手絶望。「守り立てる甲斐なし」といって自害。
1554年
村木攻め。斉藤道三から援軍もらって城を任せ、残り全軍で多数で攻めて成功。
1555年
叔父信光を使って清洲をだまし討ちにしてのっとる。
信光は用済みとばかりに信長に殺される。
1556年 舅道三が斉藤義龍に謀反され、窮地に陥る。
散々助けてもらってたくせに舅の危機に間に合わず、道三は討ち死に。
信長勢は行きがけの駄賃とばかりに、斉藤勢に攻撃され、あっという間に突き崩され
織田の武将が何人も討ち取られ、森も重傷を負う。たまらず敗走。
この無様な敗戦で尾張で離反相次ぐ。
1560年桶狭間の戦い。敵先陣と本陣を勘違いするというありえないミスを犯す。
先陣と勘違いしながら突っ込んだらいきなり大雨が発生し
今川勢が崩れる。本陣突っ込んだら大将が乗る塗り輿があり、
初めて自分が戦ってるのが本陣だと気づく。
大雨でぬかるんだ大地を逃げ切れなかった義元、織田勢に首を取られる。
1560年
桶狭間の勝ちを実力と勘違いしたか、
美濃にせめこみ、義龍にあっさり撃破される。2回。
1561年
斉藤義龍死亡。美濃は幼君が継ぎ、クーデター騒ぎまで起きるようになる。
信長、これを見て美濃侵攻。
嵐を利用して森部で勝利。
しかし調子にのって14条に攻め込んだら真正面から斉藤勢に撃破される。
織田一族信清の弟戦死して敗走。
軽海で夜まで戦ってなんとか追撃を振り切って逃げ延びる
1562年
14条で弟を死なせたからか信清離反。
尾張小口城を攻めて敗北。側近岩室長門死亡。
1563年
新加納で斉藤勢に敗北。
1565年 鵜沼猿食調略。丹羽のおかげ。
東美濃で武田の一部隊と衝突。あわてて兵を引き、婚姻同盟を申し込む。
堂々砦攻防戦。
砦攻略したと思ったら斉藤勢三千に襲われ死人負傷者多数出してたまらず敗走。
1566年
足利義昭から上洛救援要請来る。
信長はこれを受け、斉藤に和議と領土内通行容認を持ちかけ、斉藤はこれを受諾。
しかし信長は美濃に入るやいやな翻心し、斉藤領土に襲い掛かる。
し か し こ こ ま で し て も 勝 て な い。
攻撃はあっさり斉藤に防がれ、ここまでして騙まし討ちにしたのにあしらわれ
上洛救援も果たせず、「天下の笑い者」になる。
逆上して河野島まで進出するが、斉藤勢に迎撃されたら武具まで捨ててあわてて逃亡。
逃げる途中で洪水に見舞われ死亡者多数。逃げ遅れたものは斉藤勢に虐殺される。

616人間七七四年:2012/03/02(金) 23:31:54.86 ID:Op0Z8yo3
1567年楠・高岡城の攻略に失敗。
1568年 義昭を擁して上洛開始。
浅井に押され、観音寺騒動で弱体化していた六角を攻略する。
このときは織田のみならず浅井・徳川その他も含めた5万近い大軍であった。
分裂していた三好勢、これに対抗できず京都から撤退。
1569年 北畠を大軍で攻める。しかし見事に敗北。
当時の公卿の日記には「神の戦であろうか?国司達の勝利である。」と記される。
困った信長は和議を持ちかける。北畠これを受諾。信長はあとで謀殺してのっとり。
1570年朝倉にいちゃもんつけて攻め込む。
朝倉と同盟であった浅井はこれに反発。織田を挟撃する。
信長は部下を見捨てて逃亡。金ヶ崎の醜態である。
1570年 姉川の戦い。
従来織田による織田のための宣伝で織田の大勝とされてきた。
しかし織田のいう朝倉浅井一万近く死亡して浅井長政死亡という割には
朝倉の資料では戦死120となり、浅井長政も生きている。
実際は痛みわけと見るのが妥当といわれる。
野田福島の戦い。
数に任せて三好勢を追い詰めるが、それまでの行動から不振をもっていた本願寺が
織田に対して決起。野田福島でこれを迎撃。織田勢は押し返され無様に敗走。
坂本攻防。織田の将である森と織田一族が雁首並べて朝倉浅井勢に討ち取られ
そのまま京都に侵攻される。
志賀の陣。
織田主力と比叡山に陣を敷く朝倉浅井勢対陣。
信長は手も足も出ず、領土奪って困窮させたはずの比叡山に援助を頼み込むが
当然断られる。堅田に派遣した坂井勢はあっさりと朝倉浅井勢に壊滅させられ
打つ手なくなる。
小木江攻防。
信長の弟がこもる尾張小木江を伊勢長島勢攻撃。信長救援送れず見殺し。
周囲を包囲網勢に圧迫され、窮した信長は天皇を介して
朝倉浅井に「朝廷とか公方とか寺社とかその他のことは仰るとおりにいたします」と
無条件降伏に近いこといって和睦。その後しっかり和睦を破る
1571年 伊勢長島第一次。
信長自らが大軍を率いて攻撃するが失敗。
撤退するところを追撃され大敗北。氏家朴全死亡。部隊壊滅。柴田も負傷。
比叡山大虐殺。
先年の志賀の陣の仕返しに比叡山を焼き討ち。もともと敵対させたのは誰だったと思ってるのか。
虐殺焼き討ちは天を焦がし、悪名は天下に響き渡る。
1572年 信長、本隊を率いて朝倉浅井と対陣。
嵐を突いて朝倉勢に陣地を焼き討ちされ、700以上焼失。
信長、横山城から美濃に帰還。
その後朝倉浅井勢、織田勢を攻撃し大利をあげる。
その戦果は常陸にまでとどろき、複数の同時代資料で確認される。
信長、武田織田の両属だった岩村を当主が死んだのをいいことに部隊を派遣してのっとる。
武田、これを受け秋山を岩村に派遣。岩村勢、これに呼応して武田につく。
武田本軍、徳川領土を次々と侵食。織田も援軍を送り、徳川とともに
三方ヶ原におびき出され完敗。
戦死武将50名以上、死者千名〜2千名に達する大敗北。
徳川はこれ以後しばらく三千ほどしか動かせなくなる。
1572年 武田の秋山隊、上村合戦で織田勢を撃破。
1573年
武田の馬場美濃、800余りの兵を率いて東美濃侵攻。
焼き討ちを行って織田を挑発。
信長は一万余りの兵を率いて進出するが、馬場美濃は手勢を率いて
織田勢を急襲し、織田勢敗走。信長は後ろも見ないで岐阜に逃げ込んだらしい。
信長、諸方を敵に囲まれ、「方々手ふさがり」と公記でも嘆かれる。
この状態で将軍義昭離反。
「人質だしますから和睦しましょ」と持ちかけるが拒否される。
天皇を使ってダッシュで和睦してダッシュで美濃に帰る。
信玄死亡。武田勢撤退。反織田勢の反撃計画潰える。
信長、勢いにのって浅井に攻撃をしかけるが撃退される。
617人間七七四年:2012/03/02(金) 23:32:45.46 ID:Op0Z8yo3
伊勢長島に美濃と尾張の国境を焼き討ちされる。
反撃計画が潰えたことで自壊の始まった朝倉を攻撃して倒す。
朝倉は一門に裏切られての最後であった。
返す刀で浅井も総攻撃して攻略。朝倉・浅井長政・久政の首ははくだみにされたという・・・。
調子にのって伊勢長島を攻撃。
第2次伊勢長島。伊勢長島本城を攻略できず、引き返すところを攻撃され、
一の重臣林家の嫡男林新次郎率いる部隊とその与力を殿にするも
一揆勢の猛攻で壊滅。一揆勢の攻撃で体制を整えることも暖をとることもできず
凍死続出。信長もこれを突っ切って夜に岐阜に逃げ込んだ。
1574年 越前蜂起。
苦労して朝倉を倒して越前を制圧したと思ったら、そのあまりの杜撰な統治に
反発した旧朝倉家臣団が一向一揆と結んで蜂起。
織田の支配層はあるいは叩き出され、あるいは殺され、越前は一揆持ちの国となる。
武田討伐の後の甲斐と非常によく似たパターンであり、懲りない男である。
結局越前が再び信長の手に戻るのはこれよりおよそ2年後。
朝倉攻略から3か月。短い平定であった。
東美濃攻防。
信玄死去後の武田、東美濃に侵攻する。明智城をはじめとして織田方の城を次々に攻略。
信長は三万の大軍でこれを救援に行くも、山県率いる武田勢六千に険路を抑えられ、進むに進めないうちに武田に城を攻略され退却。武田は織田方の東美濃18城を攻略した。
石山本願寺を大軍で攻めるが攻略できず撤退。
武田軍、徳川方の高天神城を攻撃。徳川は織田に救援を要請。
信長の救援は遅遅として間に合わず、高天神陥落。家康失望。
1574年家康の嘆きとか無視して伊勢長島の攻略を開始する。
第三次伊勢長島。
大軍で攻めながらも一揆達の激しい抵抗にあい、兵糧攻め。
三か月ほどこれを続け、一揆勢、餓死者や身投げして死ぬ者続出。
一揆勢信長に降伏し、武装解除して長島を退去する事を受け入れる。
し か し 信 長 は 当 然 の よ う に 約 束 を 破 る。
武装解除した一揆勢が長島を退去する為に出てきた所を大軍で包囲。
大量の鉄砲を打ちこみ、そのあと総攻撃に移る。
し か し こ こ ま で し て も 大 損 害 を 受 け る。
餓死寸前で武装解除もしていた一揆勢、多くが織田勢に虐殺される。
この中で激怒した一揆勢の800余りが、武具もつけず刀しかもってない状態でありながら
信長勢に突撃する。
信長勢数万はこの飢え死に寸前の一揆勢800に突き崩され、打ちのめされ、兄信広達一門10人をはじめとして多くを打ち取られる大損害を受ける。
その一揆800はそのまま織田勢を突破し、多芸山から大阪まで逃げ延びた。
飢え死に寸前の一揆勢800に数万の兵でこれだけ一門を殺され、しかも逃げられるのは前代未聞の成果と言っていい。
逆上した信長、まだ城に残っていた、ろくに動けもしない一揆勢を城ごと全て焼き殺した。
長島近隣住民はこの卑劣なだまし討ちと虐殺を長く恨み、織田勢に宿を貸すのも嫌がるようになり、織田勢はあと後まで苦労する事になる。
武田軍、徳川領土に進攻。家康の主城浜松城下にまで踏み込み、稲を悉く刈り取り、城下町の屋敷も盛大に焼き打ちし、拠点となる城も築城して帰還。
織田は相変わらず救援を送らず。家康絶望。武田への鞍替えを検討し始める



618人間七七四年:2012/03/02(金) 23:33:53.58 ID:Op0Z8yo3
信長公記は捏造軍記

・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森のキ沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述

多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
・高遠城攻防戦での織田信家戦死を隠蔽
・堂々とか公記の記述の撤退の時に砦取り返されて本当は2回あったのに書いてない
・大した戦果のない姉川が大勝になってる。
・長篠の戦果が十倍以上過大になってる。
・道三との会見では、織田家臣である太田が、信長が織田家臣を連れて帰った後の道三の
「いずれ息子たちは信長の家臣となるだろう」という呟きをなぜか知って書いてる
・河野島の流れとか書いてない
・大良河原では追撃軍に信長が仁王立ちになって鉄砲撃ったら敵が追撃やめた
・稲生では信長が大声あげたら敵が敗走したり、信長が京に上った時に刺客のいる宿に乗り込んで
「殺せるものなら殺してみろ!」と啖呵切って刺客が恐れ入ったりかなり信長万歳な記事が多い

619人間七七四年:2012/03/02(金) 23:34:36.67 ID:Op0Z8yo3
信長公記にすら記されていない以上は捏造逸話以外のなにものでもない。
などと言いたいところだが、さて信長公記が隠蔽する時は必ず理由がある。
信長公記において家康がすでに同盟者となっていては都合が悪いのだ。
そこで思い出されるのは、信秀死去寸前に今川と和睦してることを隠蔽して、信長の立場が不安定だと捏造してる公記だが、
家康との共同作戦で思い出される史実で、公記が完全隠蔽してる事件がある。
それを隠蔽してる以上は家康がすでに同盟者であっては困る。
あくまで家康は永禄11年の義昭上洛戦以降の同盟者でなくては都合が悪いのだ。

さて以下がその隠蔽である。

永禄9年に信長は近江矢島の義昭を上洛させるためと称して
義昭に斉藤龍興との和睦を申請し義昭が喜んで和睦を斡旋したし
龍興も義昭を「公方様」と呼んで快諾して誓詞を細川藤孝に提出してる。
義昭は信長に藤孝を下向させ上洛の打ち合わせをし、
7月には能登七尾の畠山義綱や大和の十市遠勝にも
来月22日に信長が出陣するから上洛の供をするように命じてる。

これにより尾張・三河・美濃・伊勢四ヶ国の兵を率いて上洛軍を催すこととなった。
しかし出陣当日になると信長が突然出兵できないと言い出す。
これには龍興18歳も信長が臆したと嘲笑し、義秋も信長を糾弾し天下の物笑いとなった。
これにキレた信長が8/29に同盟軍の美濃攻めを突如開始し
木曽川の河野島へ渡川進撃。奇襲に怒った龍興も
すぐさま応戦し河野島へ渡ってきたので織田軍は敗走し川を挟んで対陣。
その翌日から風雨激しく洪水になり閏8月8日の明け方に奇襲を敢行した
龍興側に織田軍は大敗。勝利した斉藤に義昭は改めて上洛を願うが
織田の動向が心配なので上洛は難しいと言われ
翌8月3日に織田と上洛戦を企んだと知った三好長逸3000が
近江坂本へ義昭討伐にやってくる。
8/29は暗夜だったのを幸いに側近4、5人で琵琶湖を渡り
若狭武田の下へ義昭は逃走した。
620人間七七四年:2012/03/02(金) 23:35:27.10 ID:Op0Z8yo3
政宗はガチで戦上手

北 大崎 葛西 最上 
東 相馬 
南・西 葦名 大内 畠山 佐竹 二階堂 白河結城 石川 猪苗代
 
これだけガチで敵対して拡張した。


政宗の葦名侵攻と信長の美濃攻略、これで比べると
圧倒的に政宗のが上。

信長は幼君でガタガタの斉藤に敗戦し続けてラッキーパンチで寝返りが出て勝っただけ。

政宗は佐竹や白河、二階堂、石川、相馬、最上、大崎、葛西など全てで150万石にもなるであろう
大連合を自力で突破した。

比較にすらなるまい。
自国の国力と拡張度やそのスピードから考えれば明らかに政宗>>>>信長



これまでの考察で分かった事

氏康>>>>信長
政宗>>>>信長
本願寺、島津>>>>信長
家康>>>>信長
元親>>>>信長

信長が他大名の立場に生れていたら
信玄の場合信濃侵攻に30年かかり生涯を終える
元就の場合安芸一国人のまま生涯を終える
義重の場合常陸の統一すらできず葦名や田村に敗戦して敗死
政宗の場合関柴の戦いで討ち死に
氏康の場合両上杉の大軍に囲まれて戦死
義久の場合土持や相良、伊藤などに負けて敗死
宗麟の場合毛利元就に負けて敗死
元親の場合三好に負けて討ち死に

尾張だから助かっただけ
621人間七七四年:2012/03/02(金) 23:36:13.29 ID:Op0Z8yo3
信長が家康の立場で独立し、家康が信長の立場で独立したら
信長は武田どころか今川氏真に瞬殺され家康は史実どおり畿内や美濃を瞬殺していたのは間違いない

何せ史実で今川氏真クラスの龍興に大敗を繰り返し今川氏真クラスの朝倉義景にも負けまくったけど
敵がアホすぎてなんとかなっただけ

一方家康は信長や秀吉が苦戦した畿内や美濃を瞬殺したしな

信長なんて家康がいたから助かっただけ
今川氏真に勝てたのも武田を抑えられたのも上洛戦も畿内平定戦も家康いなけりゃ何もできなかった。
姉川でも磯野勢らにおされまくり崩壊寸前だったけど徳川の善戦で何とか引き分けに持ち込めただけ
三方が原でも最も雑魚だったのが織田の援軍
家康がいなけりゃ1ヶ月で武田に瞬殺されてたのは間違いない

622人間七七四年:2012/03/02(金) 23:36:49.56 ID:Op0Z8yo3
徳川家康は過小

西三河で一地方小領主として独立して以来吉良今川朝倉北条豊臣と常に圧倒的大勢力に武力で打ち勝ち
天下を取った最強武将だからオール120くらいが妥当

北条氏康は過小

信玄謙信の最強武将&両上杉の12万の大軍、今川佐竹里見といった列強の包囲網にあった状態で
版図を大幅に拡張させたから全能力100越えのチート能力が妥当

氏康は今川、武田、両上杉、長尾、里見、佐竹、結城、成田、上田、長野
宇都宮、梁田、那須、小山、太田、小田、皆川、大田原、酒井、千葉、由良

その他大勢の関東諸侯に打ち勝ち、関東を手中にした。包囲網が張られた状態で勝ち抜き、実力で関東に覇を唱えた。

信長は、圧倒的国力を持つ織田家を継承し、畿内や美濃は雑魚や分裂勢力しかいないにも関わらず、
浅井朝倉武田斉藤本願寺長島一揆雑賀衆北畠赤井等に敗戦し続け、家を滅ぼした。



氏康>>>>>>>信長
623人間七七四年:2012/03/02(金) 23:38:47.14 ID:VdzIuN5H
バーカ
624人間七七四年:2012/03/03(土) 00:30:55.70 ID:rEYdOKkQ
対斎藤の調略による切り崩しや
信長に見捨てらたような孤立した対浅井対峙での軍事的才覚。
やっぱり秀吉は天才。
あと家康の野戦能力も天才的。
彼らがいたのが信長にとってむちゃくちゃラッキーだったとは思う。
625人間七七四年:2012/03/03(土) 02:17:00.52 ID:5lB0BvoL
家康や秀吉を従える信長が無能なら2人が直接信長を廃して自分がとってかわるのが戦国時代。
存命期間中に彼ら2人を完全に抑え込んでいた信長は天才
626人間七七四年:2012/03/03(土) 04:14:28.32 ID:trHTvsrD
オール120ってなんだよwww

もしかして20代の若造の年に
達観したものを持ってたっていうのだろうか
627人間七七四年:2012/03/03(土) 09:57:48.31 ID:zzSEb8QE
>>624
武田厨によると秀吉は本能寺の後毛利に散々に負けて屈服した程度だからな
柴田も同じで上杉に屈服して賤ヶ岳で代理戦争をやっているぐらいだし。
628人間七七四年:2012/03/03(土) 10:05:20.40 ID:oLOUQ1zm
スレチなんだけど、ぼくおじゃまさせてもらいます m(_ _)m

今、ぼく行方不明中なんです・・・

ぼくのことを心配している人たちも頑張っているのだけど、
もっと、もっと、沢山のひとにしってもらわないと見つからないんだって・・・
ぼくの動画もあるんだよ・・ttp://youtu.be/IERsFdY104E


かわいいチラシもあるんだよ。とっても見やすいの・・見てください。
      ttp://sakuraweb.homeip.net/uploader/src/up175653.pdf
ぼくのことを検索してほしい・・みつけてほしい・・おねがいします・・・

                   行方不明中の九州盲導犬協会所属 盲導犬アトムより

 
 ★「盲導犬とのよりよい暮らしを考える会のブログ」 で、署名活動をしています。
   ご協力の程、宜しくお願い申し上げます。
   
   ttp://ame※blo.jp/mo※udouken※-yori※yoi-ku※rasi/

  直接URLを貼るとはじかれてしまいました。
  ※を省略していただけませんでしょうか。
  重ねがさねお手数をおかけしますが宜しくお願い申し上げます
629人間七七四年:2012/03/03(土) 10:11:59.09 ID:egsnv6Pu
>>627
そんなレス見たことないよ。
どこに該当レスあるの?
630人間七七四年:2012/03/03(土) 10:42:30.81 ID:FBAxoE6z
信長は兵糧の現地調達方式で
各軍がバラバラに各国に侵攻して
軍を養う戦力分散
多方面戦線で非効率で略奪主体。
秀吉は近江衆で算学などができる奉行を取り立てて巨大兵力を集中投入できる兵站技術を開発した為に位攻めと言う戦い方で速攻で天下統一した。
631人間七七四年:2012/03/03(土) 11:09:10.67 ID:zzSEb8QE
>>629
もし信玄が死なずに西上を続けていたら・・・ 3
の100あたりから
dat落ちしてけどログ速は残ってる
ttp://logsoku.com/thread/toki.2ch.net/sengoku/1308832685/

賤ヶ岳で代理戦争は付け足しだけど毛利と上杉に屈服してるから
自動的にそうなるな。
632人間七七四年:2012/03/03(土) 12:04:24.99 ID:FBAxoE6z
>>631
そのスレの該当レス番を書けよ。
633人間七七四年:2012/03/03(土) 12:56:52.96 ID:zzSEb8QE
>>632
100あたりからと書いているけど。
634人間七七四年:2012/03/03(土) 13:36:30.45 ID:5lB0BvoL
119 : 人間七七四年 : 2011/07/14(木) 23:04:58.96 ID:SvlO4iBu [1/1回発言]
>>118
信長が死んで瞬く間に織田家は滅亡したのに内輪揉めも何も無いよね

羽柴も柴田も毛利や上杉の軍勢の前に屈服を余儀なくされ、明智は味方に裏切られ敗死
滝川は敵に散々に打ち破られ、金森に至っては敵と戦って敗死した


これだな
635人間七七四年:2012/03/03(土) 13:47:35.43 ID:ROMWvNAt
>>634
wwwwww
また新たな伝説となったなだがさんwww
636人間七七四年:2012/03/03(土) 14:19:50.00 ID:iCWYGOXI
信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ
(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され
森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に
安堵状を発給しまくる始末www
織田信澄を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww
637人間七七四年:2012/03/03(土) 18:14:07.71 ID:sOhsX6pC
どこの家も主君と嫡子が消えたら大混乱は必至だと思うが……
信玄信義(勝頼)が仮に何の準備もなく同時に死んだらどうなるかw
638人間七七四年:2012/03/03(土) 18:44:24.71 ID:UjSlQ31J
>>635
まさかの金森長近二人説……w
639人間七七四年:2012/03/03(土) 19:12:44.46 ID:ROMWvNAt
>>637
もっと重い
現当主とその上の最高権力者、しかも日本の1/3〜1/2くらいの統治者でもあるからね
今川義元と氏真が同時に死んだよりもう少し重い
640人間七七四年:2012/03/03(土) 20:07:01.27 ID:sOhsX6pC
>>639
いや、果たして家臣団は瓦解せずに変わらず残り滓みたいな主家を支えるだろうか?って事よ
641人間七七四年:2012/03/03(土) 20:41:42.36 ID:y20Z0A1r
>>637
武田の場合はどんな事態になっても忠義あふれる家臣しかいないのでだいじょうぶなのれす
642人間七七四年:2012/03/03(土) 22:57:59.92 ID:5lB0BvoL
>>641
そのわりに信長の息子が攻めてきたときは裏切り三昧だったのに・・・

>>639
関ヶ原の戦い前に徳川家康と徳川秀忠が一気に消えるくらいかな。
ついでに結城秀康あたりも消えるとなおわかりやすい。
643人間七七四年:2012/03/03(土) 23:24:55.16 ID:UjSlQ31J
>>642
武田家にじゃなくて信玄に対しての忠義があふれてたから仕方ないね(棒)
644人間七七四年:2012/03/11(日) 13:32:10.63 ID:JaT77AIf
実は信玄が無能だった
645人間七七四年:2012/03/11(日) 13:45:45.28 ID:cweA6pHR
だがが来るぞ!
646荒らされたので、住人誘致中:2012/03/12(月) 22:57:42.63 ID:IDDrPZi6
小山評定後にアッサリ帰った真田
万石も無ければ、将軍にも媚びない喜連川氏
1万500石でも苗木城持ち遠山氏(金さんの親類)
家光側室の町人だった増山氏 米が取れない松前氏など

【陪臣・喜連川ほか】 「小大名」スレ 2 建てました
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1329412330/l10
647人間七七四年:2012/03/14(水) 14:29:49.93 ID:s2QLjLGA
信忠の武田遠征軍って
美濃、尾張と一部近江のみの信忠直下部隊だけだっけ?

後々信長が近江と遊軍つれて来てたけど、
武田を滅亡させたのは信忠の軍だけだよね
648人間七七四年:2012/03/14(水) 15:11:43.18 ID:2DWvYdRW
武田はほとんど自落
まともに抗戦する奴なんかいなかったし。
信忠が滅亡させたわけではなく勝頼の自爆と北条と徳川のおかげ。
649人間七七四年:2012/03/14(水) 15:14:10.73 ID:/+h9dlUs
信長の戦略勝ちってことだな
650人間七七四年:2012/03/14(水) 19:30:49.02 ID:Y7dM48bu
だがその通説には疑問が(ry
651人間七七四年:2012/03/14(水) 19:50:22.93 ID:s2QLjLGA
自滅って言っても
外圧が無けりゃ余裕だったんだろ?
652人間七七四年:2012/03/14(水) 22:08:15.79 ID:2DWvYdRW
別に余裕って程でもない
81年段階で徳川には高天神城を攻略され、北条には宇津木などを調略され
駿河口でも長窪、興国寺などを攻撃・攻略され甲斐にも侵攻を許してる
653人間七七四年:2012/03/14(水) 22:43:19.90 ID:ILlQxYV4
それって、外圧じゃねぇ?
654人間七七四年:2012/03/14(水) 22:46:45.95 ID:2DWvYdRW
ボクシングでいえば一対2でも何とか五分にやり合ってた強靭ボクサーが
別方向から10人くらいまとめてかかって来てオワタwってなっただけ
655人間七七四年:2012/03/14(水) 22:50:41.12 ID:/+h9dlUs
2vs1じゃボクシングの例えになってないだろwアホw
656人間七七四年:2012/03/14(水) 22:53:59.37 ID:v0yWwbyH
五分にやりあってた?何年の事を言ってるんだ?
657人間七七四年:2012/03/14(水) 23:09:51.93 ID:2DWvYdRW
北条徳川相手に五分にやりあってた。

別に喧嘩でも何でもいい

一々論点と関係ないのにつまらん揚げ足取らないでくれ
レス面倒
658人間七七四年:2012/03/14(水) 23:11:12.79 ID:v0yWwbyH
>>657
何年の事かって聞いてるんだが。
659人間七七四年:2012/03/14(水) 23:14:59.97 ID:jVn5DJ6D
外圧をかけられるような外交状態にした信玄が元凶
660人間七七四年:2012/03/15(木) 14:34:12.40 ID:mVb1NFzw
信玄の代で勝負は着いてたってことか
661人間七七四年:2012/03/16(金) 11:47:25.15 ID:LuBt/ZXJ
そりゃそうだ
勝頼スタート時点から勝ちうる方法はほとんどない
ちゃんと機能する包囲網をつくる見込みがない以上武田は勝てまへん
662人間七七四年:2012/03/16(金) 20:35:34.17 ID:xXSXLbkU
武田が本格的に不利になったのは本願寺が朝廷の和睦勅命二連チャンに恐れ多いと応じてから。
少なくとも長篠の敗北までの武田は常に織田を圧倒しつづけてる。
敗北後は劣勢にはなったが、謙信の西進に助けられていたこともあり
同時期に武田も徳川攻めするなど攻勢的行動を続けてる。
また北条との同盟が崩壊後に多方面に敵を抱えても健在。
結局、浅間山大噴火が
武田滅亡の前兆と噂されて自壊による崩壊。
663人間七七四年:2012/03/16(金) 20:40:30.46 ID:b2v25DSj
実力だけでなく天運にも見放されてたのか武田…
664人間七七四年:2012/03/16(金) 20:42:41.58 ID:wlpJ1jay
>>662
噴火が武田滅亡の前兆とうわさされていたという一次史料は?
665人間七七四年:2012/03/16(金) 23:34:36.86 ID:yHBMxIIQ
鳥居助衛門が憎いんですね? わかります。
666人間七七四年:2012/03/17(土) 09:48:56.84 ID:m9dkG3Ap
実際、長篠後の武田が、
まだ脅威だったのは
信長が和睦を乞い願って、
勝頼が拒否ったことでわかる。
石山本願寺の勅命和睦が無ければ、
織田は武田に攻め込むことすら出来なかっただろうね。
667人間七七四年:2012/03/17(土) 12:03:28.46 ID:ck6mLUUB
でも結局は信長の思い通りになあったしな…
駄目だな武田…
668人間七七四年:2012/03/17(土) 14:55:23.38 ID:GWxNmzWX
勝頼の時代、武田の領地は減少していない…
むしろ、遠州など徳川領地に武田の勢力を根付かせ拡大を図っている。
信玄亡き後の家臣団も多く残っており武田は強さは健在だ。
しかし、跡目問題のギクシャク感があり意見がまとまらなかったのが原因だな
669人間七七四年:2012/03/17(土) 15:44:15.96 ID:LqTkClFB
>>664
多聞院日記にも甲斐・信濃が滅亡する時に起きる怪異と都から大和まで伝わったと書いてあるな。
これでは大きく兵の士気に関わるわな。
670人間七七四年:2012/03/17(土) 17:26:30.38 ID:ck6mLUUB
噴火で甲斐信濃の住民が動揺したってことを書いてる史料はないの?
671人間七七四年:2012/03/17(土) 17:29:41.60 ID:PT5rKYXS
なるほど多門院日記な
何年何月何日の条だ?
672人間七七四年:2012/03/17(土) 17:38:40.29 ID:afywaHqA
武田攻めの日付知らんのかいな
673人間七七四年:2012/03/17(土) 18:52:31.77 ID:9yQlzXDq
武田勝頼は実は死んでなかった。
伝説が残っていますよね。
海を渡ってチンギスハーンになって江戸に幕府を開いた。
674人間七七四年:2012/03/17(土) 22:39:05.50 ID:O51JVjhi
長篠の戦いって結局誰が支持して誰が反対したんだろうね?

俺は結局のところ勝頼本人が決戦論者だったと思う。
「今回の戦いを危ぶむものもいるが」という勝頼の書状があるらしいので反対派がいたのは確か。
山県馬場内藤はやはり反対していたのではないか?
あの突撃は自決的な突撃だったようにしか見えない。

ただ勝頼の意見を支持した人間がいないとも思えない。
親族衆、土屋、原、小山田、先方衆は賛成だったのだろうか?反対だったのだろうか?
675人間七七四年:2012/03/17(土) 23:28:29.15 ID:/LiRLDTG
普通に考えリャあんなとこ突っ込むなんてアホだとわかるのにそれができないのが戦国時代の猪武者達

いわば戦時中の日本のアメリカとの絶大な国力差を軽視した精神主義の軍人達と同じ。
676人間七七四年:2012/03/17(土) 23:33:29.45 ID:pRLwnihg
特に勝頼は本来武田家督を継ぐ立場じゃ無かったからな。
そういう人間が継ぐと必ず必要以上に無理をするものだよ。
敢えて強がって織田の和睦要請を拒否したり。
677人間七七四年:2012/03/18(日) 00:17:10.47 ID:JyTvi1PZ
勝頼が1577年に信長の和睦要請を拒否したのってあまり知られていないけど個人的にはこれはかなりの大失策だと思う。
実際あの時の勝頼はああするしかなかった。
長篠の戦い以上の失策。
678人間七七四年:2012/03/18(日) 00:24:20.74 ID:uTK9bpux
守勢に徹していればジリ貧で早晩信長に圧倒されるであろう状況
積極攻勢で絶対に勝つことのみが武田の生き残る唯一の道
WW2の日本に似ているとも言える
死中に活を求めるべく奮励したんだろうが適わず滅びた勝頼の生涯を大河ドラマにしてほしい
…と思っていたが最近のNHKにはドラマ化してほしくないな
小説でも読んどくか
679人間七七四年:2012/03/18(日) 00:30:53.34 ID:uTK9bpux
>>677
失策だろうな
信玄のせいでもあるが周りが敵ばかりで最大の敵と和睦できるなら藁にもすがる勢いで飛びつくべきだった
甲佐同盟を生かして北条領を侵食していくことに専念すべきだった
680人間七七四年:2012/03/18(日) 03:11:35.59 ID:JyTvi1PZ
>>679
甲佐同盟って1579年だろ?
77年の時点では武田と北条は同盟関係だが
681人間七七四年:2012/03/18(日) 06:29:28.60 ID:yLW92acW
和睦ったって、本当の和睦なのかよ?
永遠に仲良くするわけでもないんなら、
やってられないよな。
682人間七七四年:2012/03/18(日) 06:37:18.48 ID:i+ml8TrP
和睦と言うよりほぼ降伏勧告に近いな
683人間七七四年:2012/03/18(日) 06:48:10.69 ID:l6hP5WdY
>>677
手取川で大勝し能登加賀が上杉化。
本願寺や毛利も絶好調。
武田も呼応して徳川攻めしとる年。
そんな状況で織田と和睦するわけない。
まさか丹波守護代で松永弟の子の内藤定政が倒れ、
松永への援軍が出せずそのまま死去して
それに乗じて光秀が丹波にやっと足掛かりを設置出来るようになったり
翌年には丹波の赤鬼赤井直政や謙信が死去するなんて、
まったく予想出来ない。
それまでの織田は国人乱立の丹波すら攻略不能だったほどヘッポコぶりなのに和睦するわけが無い。
その後の情勢も別所、荒木と大規模謀反を喰らいまくりで、
武田が越後後継問題に介入する余裕を与えまくり。
石山本願寺の勅命和睦まで織田の優位は確立してない。
684人間七七四年:2012/03/18(日) 10:31:25.81 ID:dn78M9Bn
UNNTARAKANNTARA
685人間七七四年:2012/03/18(日) 12:25:10.35 ID:JyTvi1PZ
>>683
それでもこの時の武田にとって織田と和睦することは最大の敵が消えることになる。
それに上杉謙信が長生きしていても実際織田政権をひっくり返すなんて無理な話だしな
686人間七七四年:2012/03/18(日) 12:35:04.22 ID:qYioVtvd
手取川の大敗で、
石山本願寺包囲総大将の佐久間信盛まで柴田の増援に派遣して守らせてるし、
謙信の動きに備えて信長も中国戦線へ行くことすら出来ない件
明らかに信長涙目で、
武田の徳川攻めに織田が援軍が全く出せない状況なのに和議に応じるわけが無い。
しかも六角義堯主導の越甲相同盟で背後は安泰。
687人間七七四年:2012/03/18(日) 16:08:49.96 ID:w3wCI5es
上杉に対して警戒が必要だったのはわかるが、手取川て大敗したっけ? ていうか手取川て小競り合い規模でしょ
688人間七七四年:2012/03/18(日) 16:44:03.44 ID:90wSHKkm
だが史観では上杉の大勝
689人間七七四年:2012/03/18(日) 17:59:27.81 ID:SNUJsJET
あんだけの織田オールスター武将で加賀に出兵してるのに信長がいないなんて誰が指揮統御できんのよW
柴田が越権行為して信長直轄武将まで指揮してたのか?信長が現地の柴田(8/8には手取川へ柴田は渡河済み)に防衛を命じてあるから
お前も相談して防衛してくれ。もし防衛できそうにない状況なら織田軍を動員することになる。決して見放さないと
上杉から離反した水越左馬助に信長が伝えてる書状だ。しかし結局、9/15には七尾城が落城してしまい
上記の情勢は明らかに現地の柴田や水越では防衛できない状況になっており水越に約束したように信長が織田本軍を率いて
秀吉・丹羽らと共にやってきて大敗。9/23には上杉軍が加賀国湊川まで追撃を兼ねて南下。9/27には逃げ帰った信長が美作
の江見為久へ秀吉を派遣する旨を伝える。信長が留守中の政治は二条城築城など村井貞勝が準備執行をやってるのがわかる。
信長が京か安土城にいた一次史料はない。信長がいなかったから松永親子の謀反が現実化してしまい
やっと9月29日になってから松永への対処を信長はやっているが明らかに手を打った時期は遅きに逸してる。
明らかに信長は北陸から逃げ戻ってきてる証拠。 8月17日には久秀が石山本願寺包囲から大和へ離脱して
本願寺包囲に大和衆が抜けた穴が空いてしまったのに松永討伐が出来ないまま放置は
上杉軍への対処に信長が出撃したからだろね。ちなみに謙信の能登加賀攻略に呼応して勝頼も遠江で徳川と対陣してんだよね。
謙信の越後撤退を知ったのか10月20日に武田軍も撤退。結局、大兵力を上杉への対処に充てた織田軍による援軍派遣徳川には無かった。
徳川はその後すぐに浜松城の譜請を大動員してやってる。徳川にとってもいまだ武田軍はかなりの脅威だから浜松城のさらなる
防御力向上を図ったんだろう。松永攻略は北陸に行ってない明智光秀、細川、筒井が大和へ先発し後詰めで信忠がやって来てるのがわかる。
松永すら対処できずに放置なのにさらに遠方の石山本願寺や紀州に信長がいるわけない
ちなみに閏7月13日に信長は安土下向してるし本願寺方面には松永離脱と同日に
信長が和泉に着陣した筒井と佐久間が話し合って協力するように伝えてるから信長が京や
石山本願寺にいて指揮をとっているとは思えないし手取川の前後の京には光秀が入っている。
また北陸には秀吉、丹羽、滝川、稲葉らが行ったとされるが、大敗した為に滝川や稲葉の戦後の動きは不明だし
柴田も消極的だし、秀吉も中国へ赴任した際はかなり貧弱な兵力だった為に播磨で苦戦続き。
明らかに織田軍の動きが鈍い。1月16日には佐久間信盛と柴田の防備慰労として
北陸へ松田監物を派遣してるところから佐久間を本願寺攻めから抽出して対上杉防衛に転用しないといけない
ほど追い詰められていた。本願寺攻めは代わりに信忠が配置されてる。松永攻めで損害が出た丹波攻めの光秀には
細川の増援が決まったな。3月27日には 黒田頼りの秀吉の三木城攻めに対して状況によっては信長自身の出馬があると言い、
状況とは謙信が死んだ風聞があることを指摘してる。結局、謙信死んだのが確定した為か戻ってきた佐久間に信長自身の出馬を反対され代わりに信忠が派兵されることになる。
松永の 片岡城攻略で明智軍に「大勢損」が出たのに苦戦してないとかあり得ないわけだが。
それに当時の謙信と勝頼は義昭主導の甲越相一和が成立してたから上野や信濃で緊張なんて無かった。
しかも北条からも謙信が上洛するなら北条の援軍も派遣したいと申し出てるしな。
柴田や佐久間は織田家の宿老ではあっても秀吉、丹羽、滝川、稲葉ら信長直臣に命令する立場にない。
彼らを命令できるのは信長だけ(そもそも柴田は目付けの前田や佐々らに監視されている)
また柴田軍はかなり被害をこうむったから本願寺攻め総指揮官の佐久間がやってきて専守防衛してたんだろう。
稲葉や滝川の活動も見えなくなり彼らは負傷していたのではないか?また織田軍全体でも天正5年末から
天正7年まで活動が鈍りまくっている。
690人間七七四年:2012/03/18(日) 18:07:54.88 ID:71r8N0y1
>>689
歴ゲ板で即バレしただがさんちーっす^^
691人間七七四年:2012/03/18(日) 18:08:20.31 ID:SNUJsJET
上杉に大敗したのか兵力の立て直しに時間がかかり過ぎている。
手取川の後、京防衛だった最後の無傷戦力たる明智軍団を投入して松永相手に明知軍まで大損害を出したのちも
丹波の明智・播磨の秀吉三河の徳川・越前の柴田・和泉の筒井・摂津の佐久間 これらの戦域で増援が必要だったのに全然
信長は増援派兵できない。彼ら自身も戦力不足で天正7年までロクな実績を挙げてないね。丹羽・滝川・稲葉らを遊ばせていたのか?
上杉相手に殿を勤めて大損害&負傷で動けなかったのだろう。光秀が幸運なのは謙信に続いて丹波の赤井直正が死去したこと。
越山すると言ってしない時が何度となくあるし数週間だけ北関東に来てからさっさと越中出馬に出向くなんてしょっちゅうやってる。
越相同盟の時も北関東への謙信の出馬は北条との対立には該当してない。
歴代古案の謙信の書状と北徴遺文がある。詳細は謙信の書状に詳しく書いてある
史料が少ないだけで否定するなら、戦国時代のほとんどの合戦が非実在戦争になるぞw
厳島合戦や河越合戦はなかったのか。一次史料による否定ができない限り、いくら粘着して適当にケチをつけても無駄
その前後に明らかに勢力図が変わってるし、織田はわざわざ本願寺攻め総責任者の佐久間まで引っ張り出してまで、
越前防衛に必死。謙信が死んだ情報が入って始めて織田軍の播磨への援軍が実行されてるように、手取川ののちも信長は謙信を恐れて
警戒してるのが現実。信長公が援軍用意してたが前線ですでに敗北してたみたいだから援軍取りやめた
このフレーズは信長公記に頻繁に出てくる負けた時の常套句。第一次木津川口の敗戦でも同じ常套句を使って誤魔化してるくらい。
織田軍はその後、戦力不足で天正7年までロクな実績を挙げられないんだ?佐久間信盛が追放された時に信長は柴田も功績を
全然挙げられず「越前一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、この春加賀へ侵攻し平定した」と書いている。
天正8年春にやっと加賀へ侵攻してるほど動きが鈍いのはなぜ?謙信は天正6年3月に死んでる。
あまりに柴田率いる北陸軍の損害が大きすぎて加賀にすら満足に侵攻できない状態なのが露呈してるんだけど。
柴田が秀吉や光秀どころか小身の池田恒興までがはなはだしい武功を挙げているので
武功がない柴田が焦って加賀を制圧したと信長は佐久間への糾弾で言っている。つまり、本願寺との和睦成立で加賀へ侵攻できたのではなく
秀吉や光秀らと違い手取川での敗戦で損害の大きい柴田軍が焦っていたのであって
そこに本願寺との抗争で加賀侵攻ができなかったとする言い訳は信長のこの発言により成立しないのである。
もしこれ以上の加賀への侵攻に遅れが生じていたなら佐久間同様に柴田も改易されていたのは明白で
そこに本願寺が〜と言う言い訳が成立しないのは明らか。
もっとも一向宗というより、すで家臣に組み込まれているので上杉軍ではあるが。
滝川・稲葉らが重症を負ったようで当分の間、登場しなくなる。しかも各地で苦戦する織田軍は
まったく援軍が派遣できないまま各戦線で劣勢。公記筆者の太田は北陸情報に疎いので柴田に関する記述もほとんどない
前線からの捏造報告を鵜呑みにしてる記述している。秀吉は公記ではそのこともあるから秀吉は中国戦線で昼夜を問わず駆け回って
働いたと書いてる。もっとも太田は太閤秀吉が手取川の大敗に参加してないと捏造記述した可能性はあるが。それは大かうさまくんきのうちでの
秀吉マンセーぶりからすればありうる。そのためか公記では秀吉が毛利に敗れた記述も隠蔽している。
>>一向衆側が何の記録も残してないのは何でだ?
義元は殺したとされるほどの桶狭間の戦いを証明できる書状がないのは何でなの?
だからって桶狭間の戦いは実在しなかったよねとは言わないよな?天災や戦災などで書状なんて消失してしまったのも多いのに
一向宗側に残ってないからおかしいなんて暴論すぎ。しかも歴代古案に証拠があるにも関わらず。
それにメディアが発達し民衆の知識も戦国とは比べものにならない近代の
大東亜戦争においては数々の敗戦を完璧に隠蔽してたぞ。もっと言うとアメリカに知らされないように大地震すら隠蔽された。
1943年9月10日鳥取地震・1944年12月7日東南海地震・1945年1月13日三河地震
まぁアメリカにはバレてたがな・・・それどころか台湾沖航空戦という勝ち戦がデッチ挙げられたりしたし。
だから大きな大敗や災害ほど周辺国への影響を考えて隠蔽されるのが普通だ。
692人間七七四年:2012/03/18(日) 18:40:12.43 ID:dn78M9Bn
こっちにもいた(;´д`)↑
693人間七七四年:2012/03/18(日) 19:06:19.36 ID:ApI8EWqt
信玄や謙信の上洛戦での織田圧迫のおかげで、
西に目を向ける余裕が織田には無くなり、
毎回真空地帯に成り下がるから
毛利はかなり美味しいよな〜。
694人間七七四年:2012/03/18(日) 23:16:30.77 ID:dn78M9Bn
飯ウマー↑
695人間七七四年:2012/03/20(火) 11:03:56.82 ID:oD4HdCX2
>>677
それ、確かのその時の勝頼の心情が、
どこかの神社に歌が奉納されてるよ(どこの神社かは失念、すまん)
意味は、
「和睦した方がいいというのはわかってるけれど、
この勢いはどうしようもなく、とめられない」
って内容。

私が読んだ解説によると、
大名家の方針転換は、家中に分裂を招きかねない大事件であり(例:義信事件)
勝頼が織田と和睦(同盟)するという方針転換を、
武田家中は受け入れることができず、
勝頼は和睦したかったが、それをあきらめたのだろう、ということだった。
説得力はあったのを覚えている。
696人間七七四年:2012/03/21(水) 19:31:13.56 ID:AeJG14I8
>>695
でも、1579年か80年から甲江和与なんてものが進められたらしい。
もっとも、信長は使者と会うことすら拒否したようだが。
あと勝長(信房とも)の返還もこの甲江和与の1つだったらしい
697人間七七四年:2012/03/21(水) 20:57:22.82 ID:4wxyYEzL
信玄が恩を仇で返す不忠者だったことを信長は忘れていなかっただけ
698人間七七四年:2012/03/21(水) 22:06:32.25 ID:7eCA2h6w
信長が岩村城を奪い武田織田の友好関係が崩壊したんだろうが。
699人間七七四年:2012/03/21(水) 22:13:10.96 ID:sMBCX1Sm
遠山家は、いい緩衝地帯だったのにな。
700人間七七四年:2012/03/21(水) 23:15:21.96 ID:/ktOkX1a
>>698
ソースは??
701人間七七四年:2012/03/22(木) 00:28:18.27 ID:ieEGFzhf
保科政直は織田に寝返ろうとしていたというが本当だろうか?
信長公記には「場内に火を放って織田方に転じようとし、この計画を小笠原信嶺に知らせた」というが本当だろうか?
本当だったら武田滅亡後になんらかの対応がありそうだが。
702人間七七四年:2012/03/22(木) 01:12:53.54 ID:Crvr8vOq
>>677
ただの時間稼ぎだろ
長曽我部へのやり口を見るに
703人間七七四年:2012/03/22(木) 02:04:46.08 ID:oTUDgxq/
>>701
保科って最前線だしすぐ投降してなかったっけ
弟の内藤昌月も勝頼の討死前にさっさと投降してるし
やっぱ信濃出身の外様だから仕方ないよな
704人間七七四年:2012/03/22(木) 02:35:08.01 ID:yTL0JhCO
>>702
時間稼ぎなんてする必要なくね?
甲江和与の頃はもう信長が直接脅威となる勢力はほとんどなくて
まともにやりあってるのは毛利と本願寺くらい。
あの上杉ですら手取川の後に信長本隊との直接対決を避けている。
仮に武田が血気盛んに攻めてきたとしても、せいぜい徳川のところに攻め入る程度。
信長からすれば許す道理も交渉する道理もない。ただの時間の無駄。
旗色不透明だったけど今日から織田方になりますーで、おまえら喧嘩スンナ方針に転じた長宗我部、三好との対外路線とは全然異なる
705人間七七四年:2012/03/22(木) 15:28:47.17 ID:UTrR8qZb
何か最近信玄の負の遺産を強調する奴多いけど
上杉景勝や今川氏親、毛利元就、当の武田信玄辺りが跡継いだ時に比べりゃ
ヌルゲーにしか思えないけど
706人間七七四年:2012/03/22(木) 18:10:46.93 ID:2MkI94oD
景勝 勝頼より厳しいが、これよりマシなのがヌルゲーというのは大間違い
氏親 ゴタゴタはあるが滅亡には程遠い状態
元就 同上
信玄 安泰

勝頼 日本統一をもくろむ日本最大の勢力と、領地は小さいとはいえ後の天下人が率いる勢力にケンカを売り、直後に動けなくなった状態
707人間七七四年:2012/03/22(木) 19:28:42.24 ID:ieEGFzhf
>>703
同じ外様でも依田は家康に誘われても「勝頼公が生きている限りお仕えできない」って言ったらしい。

>>706
まあ、景勝よりはよっぽどマシな状況だったな。
実際、1574年は明智城や高天神城を攻め落としているし、浜松城下を蹂躙している。
708人間七七四年:2012/03/22(木) 19:35:43.11 ID:L/mqwM1H
織田信長のスタートラインも厳しかったな。
同族争い勃発、織田家当主が勤めるはずの熱田への書状発給を弟に奪われるほど。
自分自身が陣頭に立ち、槍振るって戦う雑兵働きまでしてのしあがるところから。
709人間七七四年:2012/03/22(木) 19:47:05.39 ID:HnlldQre
濃尾だけで100万石オーバーじゃねぇかw
織田は信秀時代ですらすでに朝廷への献金額も異常だし
織田家のボンボン嫡男に過ぎない時代で趣味ですでに高価な鉄砲を大量所持して
美濃国守の道三がビックリしてたし 幼少の家康を買い取った時の
たかが人質買い取りにしては桁外れの金額を即金で払った財力からしてかなり豊かだろうが。
信長は完全にチートスタートだ。
津島や熱田の海上貿易通商路を押さえた信秀のボンボン息子でお小遣いをたくさん持ってた
吉法師は将軍義輝が六角氏に命じて近江国友村に作らせた鉄砲製造所で試作がようやく完成したばかりであったが
さっそく大量の六匁玉の鉄砲を発注していたので道三との会見においてすでに五百梃の鉄砲と火薬を持ってた。
1543年2月信秀は平手政秀を通じて内裏修造費用4千貫文を貢納。
3年前にも伊勢豊受大神宮仮殿造営費700貫文を献納していたのにも関わらず。
田原城主戸田家臣又右衞門が拉致った松平竹千代を五百貫文の破格の大金でキャッシュ即払いした信秀
超イージーモードの織田家に自ら刃向かうバカはいません。
信長公記の記述する戦はデタラメばっかりです。
信玄は父を追放した権臣たちの操り人形の傀儡として祭り上げられ家臣団による合議体制となった。
信玄がその恐怖から脱したのは村上との敗戦を招いた権臣たちの討ち死にが契機となる。
一方、信長は斎藤道三の後見により確固たる地位を保持しており
三河でも水野を防波堤となし
将来の危険の芽を摘むべく弱者を追い詰め蜂起させて圧倒的戦力で叩き潰し直轄領化を推進していく。
義元は自国と尾張の隔絶した国力差に危機感を抱き
是が非でも三河の安定領国化を成さねばならない追い詰められた状況だった。
尾張より国力の小さい美濃攻略に11年
その後、将軍チートで簡単に上洛できただけ
しかしその後、信玄に滅亡寸前に追いやられるのが信長
甲斐の2倍の国力ある信濃を攻略できた信玄とはレベルが違い過ぎる。
斎藤は当主の相次ぐ死による交代で衰退し美濃国人衆は見限り初めて瓦解期に入っていた。
村上は地の利を占め逆に領土拡大する隆盛期に入っていた。
そんだけ信長が戦下手だという証拠。
そりゃそうだ。信長には敵を外交で一つに絞って
戦力の集中をすると言う軍事の基本すら理解できてない素人。
経済力を背景に負けても負けても侵攻を執拗に続けるだけのバカ。
領土拡大なんて濃尾の平野&湾岸の異常な石高と経済力を背景にすれば楽勝だろ。
むしろ無駄に摩擦と衝突を引き起こして同時に複数国で混乱を起こさせて勝つまで
執拗に攻め込みまくる信長のやり方は無駄に時間を浪費させただけに過ぎない。
710人間七七四年:2012/03/22(木) 19:47:37.18 ID:HnlldQre
斯波氏に関しては今川の捕虜になった斯波義達の跡を継いだ
義統が3歳の幼君なのを良いことに守護代織田氏は専横して傀儡に成り下がって実権なし。
信秀は今川義元の弟で捕虜になった斯波義達の娘を娶って尾張に来た今川氏豊を討って
今川の尾張支配の牙城那古野城を奪取するなど今川勢力を尾張国から一掃してる。
織田大和守家の分家で清洲三奉行「織田弾正忠家」の勢威は主家を上回っており押さえられる者はいなかった。
それは大和守家の織田達勝の娘が信秀によって離縁させられてるのでもわかる。
(大和守家織田達勝と三奉行家の「織田藤左衛門家」が共同して信秀に当たっても勝てなかった)
1547年の信秀の稲葉山城攻撃では岩倉方織田伊勢守の一族や中嶋郡の豪族など
尾張北西部の者どもが先鋒をしていて「織田伊勢守家」岩倉織田家家中もすでに傘下に組み込んでいるのがわかる。
さらに朝倉孝景の軍も信秀の援軍にやってきていて
稲葉山城包囲は25000の兵が動員されたほどに信秀の威勢は巨大だった。
稲葉山城攻防において夕闇が迫り一時撤退した油断を突かれて道三の奇襲で破れたものの
次の大垣城攻防戦では道三も驚く速さで渡河した信秀は
電光石火の進軍で火をかけながら稲葉山城方面を急襲しようとしたために
驚いた道三が大垣城攻撃を諦めて撤退してる。
(藤左衛門家もこの時に信秀配下として軍事行動をしており信秀は尾張の大半から動員していた)
「織田伊勢守家」岩倉織田を継いだ織田信安(妹は信秀側室・のち信秀妹を娶る)は
「織田大和守家」から入った人物で幼君を口実に犬山城で後見監視してたのが信秀の弟の信康なわけで、
ぶっちゃけ尾張は信秀がほぼ制していたと言っていい。
1549年正月17日の信秀弟の信康の子の犬山城主織田信清の謀反に至っては信秀が急を聞き即日撃破してるほどの圧勝し
2月25日には何事も無く平穏であり美濃から帰蝶が無事に尾張へ輿入れして信長は強力な後ろ盾を得てる。
3月に入り太原雪斎に安祥城を攻められるが頑強な抵抗をしており
本多忠勝の父が討ち死にするなど今川全軍を撤退に追い込んでる。
11月8日の再攻撃で火縄銃を投入しやっと安祥城を落とせたほど苦労してるので尾張への軍事行動が断念されてる。
安祥城落城も雪斎が非常に攻めづらい城南からの奇襲で
城側は油断しきって防備が甘かったって言う奇略で1日で落としたって話だし。
これはもう信秀の失敗とは言えないよな。
それに三河国碧海郡にあった刈谷城を本拠地にしていた三河の大身と呼ばれた水野信元が信秀側だったから
織田の三河進出の拠点は失ってねーし、結局、信秀は尾張の旗頭として
国内に敵を入れることはなかった(守山崩れの例外があるが)
今川とも竹千代交換して和議が成り信秀の晩年は内外ともに安定してる。
清洲三奉行因幡守家から織田大和守家の織田達勝の養子になったと言われる織田信友は
織田伊勢守家同様にすでに家臣団を信秀に奪われ傀儡守護の斯波義統を擁立していたと言う
一点でかろうじて信秀の主君と言う名目的地位を維持できていたにすぎず軍事的には信秀に屈していた。

父から信長が与えられた名古屋城の税だけでそんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。
大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除の謀略に引っかかっての無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…
711人間七七四年:2012/03/22(木) 19:49:44.85 ID:HnlldQre
焔硝の製法である古土法だと大量生産ができずに普及が進まなかった(当時は明との交易は禁止されていた)

信玄なども1555年正月に焔硝について触れている書状がある。

1549年太原雪斎が信秀の安祥城を攻略した決め手も奇襲した際の鉄砲だと言われてる。

良質のインド産の焔硝をポルトガル商人から輸入できるようになってから大量運用が可能になる。

ちなみに1567年信長が岐阜城を落したのと同時期に

宗麟が司教宛てに毛利への硝石の輸出禁止と

毎年良質な硝石200斤の大友への輸出を航海指揮官ピタン・モールに頼んで欲しいと依頼しているほどの戦略的な軍事物資。

信秀が死ぬ2年前の1549年に信長が近江の国友村に高級品の火縄銃500丁を注文しており、

道三との正徳寺会見でその鉄砲を大量所持していて道三が驚いたとの記述があるが、

希少価値が高い硝石の在庫がそんなにあったのだろうか・・・

もしあったのなら尾張国に集まる経済力と富は突出していてとてつもないものだったろう。

712人間七七四年:2012/03/22(木) 19:54:31.46 ID:CaB5adI6
信玄も若い頃は上田原で劣勢の村上軍相手に痛い目みて、あやうく殺されかけている。
そういう経験を(相対的に)恵まれた勝頼はせず、きたのが挽回不能の長篠の大敗だからね……。
信長や家康のような叩き上げの粘りも手に入れられなかった。
軍鑑は事実関係に関しちゃ悪質な嘘・捏造オンパレードだけど、後世の後知恵で書かれただけあって、
強すぎる大将はあやうい、というのは確かに一理が。
713人間七七四年:2012/03/22(木) 20:28:07.92 ID:HnlldQre
殺されかけた????
714人間七七四年:2012/03/22(木) 20:33:58.72 ID:hd40NetK
「信長以外に味方はいないんです。貴方に見捨てられたらウチは滅亡しますから助けて!」となきついておいて後になって背後を襲った信玄。
そんなしぶとさが勝頼にあれば、なりふりかまわず講和でもして時節を待って逆襲したかも。
715人間七七四年:2012/03/22(木) 21:06:59.23 ID:ieEGFzhf
長篠の戦いで決戦を主張したのって結局誰なんだろう?
勝頼は「今回の戦いを危ぶむ者もいる」という書状を出しているから、反対派はいたんだろうな。

軍鑑にある山県馬場内藤が反対したというのは間違いじゃないと思う。
あの突撃は死に場所を求めた突撃にしか思えないし。
ただ、跡部長坂が決戦論を主張したというのはおかしいな。
ここは跡部長坂に対するネガティブキャンペーンかもしれない。
長坂は長篠の戦いに従軍していないようだし。跡部は実際に賛成したのかもしれないが。

実際は勝頼本人が決戦を主張していたんじゃないの?
あと先方衆が決戦を支持していたって話を聞いたことがあるがどうなんだろう?
親族衆は不明。
716人間七七四年:2012/03/22(木) 22:19:01.31 ID:+7T9d6Cc
>>700
元亀3年7/7付けで信玄が小里氏の背後に信長の後援があり残念でならないがとりあえず許すと見て見ぬフリをする方針にしたことを述べていて
織田との抗争にならないよう配慮してたら
信長が11/15に岩村城を奪った小里内作へ書状を出してる。
明らかに信玄は信長との信義を守っていたら裏切られてる。
>>708
またデタラメをデッチあげてるな!
毎回毎回アホみたいによくデタラメばっかり織田厨って書けるな。
熱田への書状発給を弟に奪われるほどって書いてるが、
そもそも信秀時代からの先例の踏襲でしかないもんで
信長が熱田の主流たる西加藤家への安堵判物発給であり
弟は東加藤家への発給をしてるだけの分掌でしかない。
717人間七七四年:2012/03/22(木) 22:30:16.55 ID:HnlldQre
>>716
ソース乙
やはり織田厨とは違うな。
718人間七七四年:2012/03/22(木) 22:40:16.71 ID:2MkI94oD
>>717
自演乙
719人間七七四年:2012/03/22(木) 22:45:35.01 ID:HnlldQre
違いますけど?
別にそう思いたいならいいけど。
720人間七七四年:2012/03/22(木) 22:55:49.67 ID:HnlldQre
当時の武田の状況での信濃攻略は飛騨の三木家が斉藤滅ぼすのと同じくらい難易度高いだろw
強圧的な態度でムリヤリ国を纏めた甲斐守護家と国人衆との間は悪化の一途。 甲斐府中は呉越同舟で牽制し合う状況。
しかも、甲斐は山国であるため、越後の半分の石高(20万石)でしかなく、金山などはまだ後世に誇るほど歳出が見込めた訳でもなく
信玄の家督相続当時は甲斐は飢饉が数年前から猛威をふるうまっただ中で高緯度のため冷夏が発生し
飢饉が慢性化し、河川氾濫で田畑は災害にたびたび見舞われ信玄が家督を継いだ時には数年間連続の飢饉により、甲斐の国状は悲惨この上がありません。
信虎はこれらに有効な手立てをうつ所か今川などの外圧もあり戦闘につぐ戦闘。ただでさえ、基盤の脆い甲斐の国政は破綻しています。
信玄の場合、これらを解決する為には豊かな土地の“略奪”が急務であり、国人衆もそれを求めます。
しかし、経済は破綻している武田家ですから、それを為す侵略は困難を極めたはずです。
しなければ、父と同様に追放の憂き目にあいます。父の偏愛を受けた優秀な弟がいますからその危機は尚更です。
また、このような経路を辿ったため、重臣・国人衆の干渉は非常に強いのです。
しかも、村上に負け続けた時にはその危機が更に深まりました(権臣が死んだのは良かったが)貧しい甲斐は侵略だけでは食べていけません。
信玄はのちに信玄堤と呼ばれる堤防を築いたりして創意工夫の上、新田開発に努めます。
(信玄に始まる甲州流防河法・甲州流河除法は幕府の関東郡代として関東全域開発をした伊奈忠次に受け継がれる)
後世に代表するような土木技術が甲斐で発達したのは当然といえば当然。 普通にやっていてはお米を採れる環境ではないからです。
地方豪族達との軋轢、家督就任当時の国状においてはハンパないレベル
721人間七七四年:2012/03/23(金) 06:54:15.39 ID:3B1OK8PB
織田厨死亡
722人間七七四年:2012/03/23(金) 12:26:27.87 ID:3m1iz9cS
重臣達が反対したのなら、決戦自体に及べないよ。
馬場らが勝手に離陣しても咎められなかったのが信玄期からの武田の体質。
軍議の時点では今までみたいに勝てる、と思ってたんだろう首脳部全員が。
織田軍が今度こそ背後の不安なく決戦を考えていたこと、酒井忠次らの奇襲が敢行されたことは、後世後から見たからわかること。
軍鑑のように、その場にいなかった人間や勝頼に敗戦の責任を押し付けるのはどうみても捏造。
723人間七七四年:2012/03/23(金) 17:12:23.40 ID:qb9GwioL
当時の大名に絶対的権力なんてない。重臣連が反対してたら何もできない。
無理押しすればそれこそ信虎のように追放されるのがオチ。
織田・豊臣政権通じて近世化された大名の時代ですらしばしば家臣と大名が対立してぐだぐだになるぐらい。
まして武田では・・・
724人間七七四年:2012/03/23(金) 22:10:39.07 ID:HV1L5gB/
たぶん主力が織田徳川軍を食い止めている間に長篠城を落とすという作戦だったんじゃないかねえ
しかし酒井別働隊によって根本から覆されてしまったと
725人間七七四年:2012/03/23(金) 22:20:53.16 ID:PM26fWgh
武田方が突撃したのが砦陥落より前だからそれは絶対にない
しかもあんなとこ突っ込んで8時間以上戦ってボロボロになった状態で背後取られてたら無事に退却できるわけないし
砦どうこうは勝敗の決め手になってないのは明らか
ようは圧倒的兵力差&高性能鉄砲の待ち構える中&城みたいな堅個な陣地&雨でぬかるんだ地面
こんなとこに無茶して突っ込んだから負けただけ
726人間七七四年:2012/03/23(金) 22:52:30.04 ID:QyZTxs3F
>>725
砦陥落より前だからこそ>>724なんじゃん。
727人間七七四年:2012/03/24(土) 04:53:00.34 ID:WQHqTAr/
>>722
小田原攻めの際、馬場が牧野島から出陣してきた話を武田当主の権力の弱さに結びつけるのは強引すぎ
長坂が後方にいたって話は別人だし、決戦前の勝頼の手紙は状況判断が出来ておらずイケイケだし
内藤なんかはまず反対だったろうな

代替わりしたばかりで権力が弱かったのは事実だろうが、よく言われる国人領主の連合体だからというのは間違いで、この時代の武士は代替わりでもめない方が珍しい(しかもトップダウンな組織ほどもめやすい)


728人間七七四年:2012/03/24(土) 11:23:29.59 ID:JjBZX7Z1
>>726
長篠城を落とす前に砦に奇襲がかけられたからって
ようは圧倒的兵力差&高性能鉄砲の待ち構える中&城みたいな堅個な陣地&雨でぬかるんだ地面
こんなとこに突っ込んでいい事にはならないでしょ
こんなとこで8時間以上戦ってボロボロに傷ついた状態でも
勝頼ら一族衆はちゃんと退却はできてるわけで。
729人間七七四年:2012/03/24(土) 14:41:43.66 ID:leFhu3pS
背後を扼されたんだから、正面の敵を突っぱねないと逃げる事すらままならないだろう。
先鋒衆が大損害出したから、親族衆は離脱できたんだよ。
結果と原因があべこべ。
730人間七七四年:2012/03/24(土) 14:51:33.29 ID:F1MddXfG
軍鑑じゃ美談に仕立てている(あるいは話全体が、軍学のための捏造?)家臣の命令違反の数々と、それを咎められない信玄。
決戦が馬鹿だ、と考えている重臣がいたらそれこそ勝手に離脱しちゃっているよな。
もっとも武田の大損害は退却中に発生しているわけだから、勝手に逃げた途中で討ち死にしただけかもしれんが。
それが覚悟の特攻とまた美化されただけで。
731人間七七四年:2012/03/24(土) 14:54:11.51 ID:ckPCWmhp
そもそも穴山や信廉がいたところと馬場山県がいたところは全然違うな
おまけに酒井の奇襲が決定打にならなかったとすると、武田軍の連中が
「勝てる勝てる余裕だろ」と調子こいて攻めさせるように仕向けた織田信長の作戦勝ち。
勝頼が無能だとか、突っ込むのが悪いってのは結果論。結局ほとんど誰も反対せず決戦したんだから。
732人間七七四年:2012/03/24(土) 14:58:00.77 ID:F1MddXfG
信玄が有利に戦えたのは畿内の反織田勢力が織田の主力の足をひっぱっていてくれたから。
信玄自身は、多分それを知っていたから有利な状況でも朝倉が疲弊して退陣したのに激怒したんだろう。
でも重臣達はそれを理解せずに戦えば勝てる、織田弱いとか思い込んでたのかな。
実際、高天城後詰とか織田の動きは鈍かったしこれまでは。
733人間七七四年:2012/03/24(土) 15:08:08.94 ID:tM9Oxnpe
武田は信玄、勝頼揃って無能。凡人。。。。。。。。。。。。

過大評価したがる信者が多い。。。。。。。。。。。。。。

毛利や島津や徳川が生き残っていることからも、武田の無能ぶりは際立つ。。。。。。。。。

武田、今川、北条、上杉、佐竹、伊達・・・・・・・・・・・・東日本は全部過大評価。。。。。。。。。。。。。。。
734人間七七四年:2012/03/24(土) 15:14:05.01 ID:F1MddXfG
前提として「織田方の兵力が大きかった」という事を現場の武田軍が知っていたのか、という事自体も疑問なんだが。
信長公記だと、織田徳川軍はわざと敵に見づらいように窪地に段々に陣を敷いた、とある。
武田の重臣達が全てを見通せるエスパーだったのならともかく、大敗予見して特攻したとかは珍説すぎて信憑性が全く感じ取れないんだが。
735人間七七四年:2012/03/24(土) 15:26:33.82 ID:JjBZX7Z1
>>729
何意味のわからん事言ってるの?
圧倒的兵力差&高性能鉄砲の待ち構える中&城みたいな堅個な陣地&雨でぬかるんだ地面
こんなとこ突っ込んで8時間以上戦った後に退却した方が
普通に最初から退却するより損害少なくて済んだとか頭大丈夫か??
背後なんて取られてない
後ろ取られてたらボロ傷で退却できるわけないんだから
>>731
勝頼の自爆負けだろ
あんなとこ突っ込むような猪武者が総大将で助かったな
信玄が相手だったら
家康や北条みたいに撤退or素通りしてく振りして野戦につり出されて終り
信長なんて子供にすら大敗する程度でまともに戦に勝ったことねえしなw
736人間七七四年:2012/03/24(土) 15:29:50.95 ID:JjBZX7Z1
>>734
お前相変わらず馬鹿だな
捏造軍記の信長公記だけ採用して
軍艦の重臣がこぞって反対したのが捏造扱いなんだから
長篠なんて勝頼が馬鹿だから負けただけ
織田なんて姉川で徳川以下の実力が確定
実際斉藤武田本願寺長島など圧倒的大軍で寡兵の敵に負けた事しかねえしなw
737人間七七四年:2012/03/24(土) 15:35:05.52 ID:JjBZX7Z1
>>732
信長が畿内でほろぼされなかったのは徳川が武田の足を抑えていてくれたからの間違いな
上洛戦滋賀の陣姉川金ヶ崎など要衝で助けられっぱなし
徳川いなけりゃ織田なんて武田に瞬殺されてたろ
実際上村合戦東美濃攻防戦岩村&高遠攻囲戦三方が原と常に圧倒的大軍で寡兵の武田に大敗&大苦戦&大損害
長篠は勝頼が馬鹿すぎて助かっただけ
その状況ですら8時間以上戦われ、柵も所々突破されてるんだから織田勢雑魚すぎだろ
738人間七七四年:2012/03/24(土) 15:36:12.98 ID:GYLOGfb2
まぁ戦争なんて結果論だからね。
負けたから捏造含んでいろいろ叩かれちゃう。
信長だって、桶狭間や天王寺でまともにやったら負ける状況で勝ったゆえ名将と賞賛されたけど。
順調に負けていれば勝頼並に不当にまで貶められてただろうさ。
武田の場合、軍学で出世したい連中の捏造が絡んでかなり複雑な貶めになっているがw
739人間七七四年:2012/03/24(土) 15:38:37.21 ID:JjBZX7Z1
>>738
桶狭間‥先陣と勘違いしたら本陣がたまたま運よくあって雨と風が運よく吹いたから勝てただけ
天王寺‥公記にしかない一次資料で確認不可
こんなもんが実力なら本能寺は実力で信長は負け
圧倒的大軍動員できたのに光秀に奇襲されて死んで全て崩壊させただけなんだから
740人間七七四年:2012/03/24(土) 15:40:23.61 ID:JjBZX7Z1
長篠で勝ったから信長が名将とかアホすぎる

丸で城みたいに堅固な陣地&かなり数的不利&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面

こんな所に飛び込んでいく馬鹿が総大将だったから勝てただけ。

しかもその状況ですら8時間以上戦われて所々柵が破られたりしてるんだから

勝頼みたいな馬鹿が総大将じゃなく普通に戦術的勝負やらせてたら圧勝してただろ

長篠では雨でぬかるんだ地面の中で『まるで城攻め』と思わせるような堅固な陣地の中に

数の上でも鉄砲の性能や装備の上でも勝るであろう織田徳川相手に自分から突撃

御館の乱では北条・伊達E葦名とともに景虎支援をせず、景勝に買収されただけでなく、

北条家に対して土下座外交すれば同盟維持できたかもしれんのに駿河伊豆国境や

上野方面で公然と喧嘩をふっかけ、四方を敵に回して猪突猛進

これによって武田の軍役は急増し国人の疲弊と不満は頂点に達する

新府城もあの状況でやるのは…としか。

能力どうこうを超えて基地外すぎるな。

武田が滅んだのは勝頼1人に責任がある
741人間七七四年:2012/03/24(土) 15:42:37.56 ID:JjBZX7Z1
>>738
信長はまともにやったら勝てる圧倒的優位な状況で斉藤朝倉浅井本願寺長島など常に大敗や大苦戦だよ
結局圧倒的大軍で勝てる状況だったのに光秀に奇襲されて織田家を崩壊させただけ。

信長の弟で織田家重鎮にして信忠後見役だった織田信包(息子は尾張守護斯波義銀の娘婿)を始め
織田一門も清州会議から完全排除し専横重臣の秘密会議で織田家の将来を専断してる時点で、
織田家に実権はなく、家臣による下克上が成立し主従関係は完全に逆転した。
他家の人間になった者が本家を継いだ場合は他家に乗っ取られたことになります。
それを防ぐために還俗して本家を継ぐ僧籍の者が縁者には必ずいます。
ちなみに北畠家内において信雄は傀儡でしかなく信雄が織田を継ぐという行為は
北畠家を傀儡にしていた木造家による織田家簒奪の完成なのであります。
多聞院日記6/24から信雄が家督相続して田丸城に入城してるのが判明する。
そして7月に代替わり徳政令を発布しており、津田一安が添状を発給している。そして越前一向宗殲滅戦に向かう。
津田らは茶筅と書状で呼んでおり、滝川一益の取り次ぎで信長へ書状を出している。
天正4年11月に北畠・長野・坂内・大河内らを信雄が粛清することになるが、
原因として挙げられるのは天正4年から義昭が鞆幕府を設立し、
多聞院日記には具教もしくは具房が信雄の家督相続の時期に北畠氏の大和領へ入国していたことが挙げられる。
大和宇陀一揆ら反織田勢力との合流の風聞であり、これが破滅への道となった。
天正4年12月には津田一安が滝川雄利と拓植三郎左衛門らの讒言で誅殺され
伊賀攻めで拓植三郎左衛門が討死すると木造一族の滝川雄利の独裁体制が敷かれ、
織田信包などに指示を出すほどの権勢を持つようになる。
これにより当初からの目標であった木造氏による北畠氏の乗っ取りが完了し、信雄は傀儡化されてしまうのである。
本能寺の変とともに伊勢が混乱状態になり、明智討伐などできず精彩を欠いたのは
信長の内政丸投げにより、土着権力が独自に主従を形成する弊害がモロに出てしまい
織田氏は名目上の主にしかならず、事実上の木造氏のよる支配下にあったからである。
つまるところ天正3年6月に信雄が北畠家督と継ぎ、天正4年11月に反織田で面従腹背の北畠氏粛清するも、
12月には木造氏による支配が完成してしまい、信雄の傀儡化という歴史的推移が見て取れる。
しかも小牧長久手後の雄利は羽柴姓を貰い秀吉政権の一員になってしまうなど信雄を軽視しているのが見事に顕れている。
そもそも雄利の岳父は秀吉方の一益な時点でお察しw
信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に安堵状を発給しまくる始末www
信長がむちゃくちゃ『厚遇していた織田信澄』を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww
742人間七七四年:2012/03/24(土) 15:48:42.08 ID:JjBZX7Z1
1546年 信長初陣。
今川勢相手に何もできずに放火だけしてすぐさま逃げ出す。
後の多数の敗北を髣髴とさせる華々しい初陣であった。
1552年 信長家督継承。
素行の悪さからあちこちで「うつけ」と呼ばれて馬鹿にされ、
やさしかった父親の葬式にろくに服装もととのえないでやってきて
抹香を投げつける親不孝者。家臣失望。後にみんな離反。
守役の平手絶望。「守り立てる甲斐なし」といって自害。
1554年
村木攻め。斉藤道三から援軍もらって城を任せ、残り全軍で多数で攻めて成功。
1555年
叔父信光を使って清洲をだまし討ちにしてのっとる。
信光は用済みとばかりに信長に殺される。
1556年 舅道三が斉藤義龍に謀反され、窮地に陥る。
散々助けてもらってたくせに舅の危機に間に合わず、道三は討ち死に。
信長勢は行きがけの駄賃とばかりに、斉藤勢に攻撃され、あっという間に突き崩され
織田の武将が何人も討ち取られ、森も重傷を負う。たまらず敗走。
この無様な敗戦で尾張で離反相次ぐ。
1560年桶狭間の戦い。敵先陣と本陣を勘違いするというありえないミスを犯す。
先陣と勘違いしながら突っ込んだらいきなり大雨が発生し
今川勢が崩れる。本陣突っ込んだら大将が乗る塗り輿があり、
初めて自分が戦ってるのが本陣だと気づく。
大雨でぬかるんだ大地を逃げ切れなかった義元、織田勢に首を取られる。
1560年
桶狭間の勝ちを実力と勘違いしたか、
美濃にせめこみ、義龍にあっさり撃破される。2回。
1561年
斉藤義龍死亡。美濃は幼君が継ぎ、クーデター騒ぎまで起きるようになる。
信長、これを見て美濃侵攻。
嵐を利用して森部で勝利。
しかし調子にのって14条に攻め込んだら真正面から斉藤勢に撃破される。
織田一族信清の弟戦死して敗走。
軽海で夜まで戦ってなんとか追撃を振り切って逃げ延びる
1562年
14条で弟を死なせたからか信清離反。
尾張小口城を攻めて敗北。側近岩室長門死亡。
1563年
新加納で斉藤勢に敗北。
1565年 鵜沼猿食調略。丹羽のおかげ。
東美濃で武田の一部隊と衝突。あわてて兵を引き、婚姻同盟を申し込む。
堂々砦攻防戦。
砦攻略したと思ったら斉藤勢三千に襲われ死人負傷者多数出してたまらず敗走。
1566年
足利義昭から上洛救援要請来る。
信長はこれを受け、斉藤に和議と領土内通行容認を持ちかけ、斉藤はこれを受諾。
しかし信長は美濃に入るやいやな翻心し、斉藤領土に襲い掛かる。
し か し こ こ ま で し て も 勝 て な い。
攻撃はあっさり斉藤に防がれ、ここまでして騙まし討ちにしたのにあしらわれ
上洛救援も果たせず、「天下の笑い者」になる。
逆上して河野島まで進出するが、斉藤勢に迎撃されたら武具まで捨ててあわてて逃亡。
逃げる途中で洪水に見舞われ死亡者多数。逃げ遅れたものは斉藤勢に虐殺される。

743人間七七四年:2012/03/24(土) 15:49:54.62 ID:JjBZX7Z1
1567年楠・高岡城の攻略に失敗。
1568年 義昭を擁して上洛開始。
浅井に押され、観音寺騒動で弱体化していた六角を攻略する。
このときは織田のみならず浅井・徳川その他も含めた5万近い大軍であった。
分裂していた三好勢、これに対抗できず京都から撤退。
1569年 北畠を大軍で攻める。しかし見事に敗北。
当時の公卿の日記には「神の戦であろうか?国司達の勝利である。」と記される。
困った信長は和議を持ちかける。北畠これを受諾。信長はあとで謀殺してのっとり。
1570年朝倉にいちゃもんつけて攻め込む。
朝倉と同盟であった浅井はこれに反発。織田を挟撃する。
信長は部下を見捨てて逃亡。金ヶ崎の醜態である。
1570年 姉川の戦い。
従来織田による織田のための宣伝で織田の大勝とされてきた。
しかし織田のいう朝倉浅井一万近く死亡して浅井長政死亡という割には
朝倉の資料では戦死120となり、浅井長政も生きている。
実際は痛みわけと見るのが妥当といわれる。
野田福島の戦い。
数に任せて三好勢を追い詰めるが、それまでの行動から不振をもっていた本願寺が
織田に対して決起。野田福島でこれを迎撃。織田勢は押し返され無様に敗走。
坂本攻防。織田の将である森と織田一族が雁首並べて朝倉浅井勢に討ち取られ
そのまま京都に侵攻される。
志賀の陣。
織田主力と比叡山に陣を敷く朝倉浅井勢対陣。
信長は手も足も出ず、領土奪って困窮させたはずの比叡山に援助を頼み込むが
当然断られる。堅田に派遣した坂井勢はあっさりと朝倉浅井勢に壊滅させられ
打つ手なくなる。
小木江攻防。
信長の弟がこもる尾張小木江を伊勢長島勢攻撃。信長救援送れず見殺し。
周囲を包囲網勢に圧迫され、窮した信長は天皇を介して
朝倉浅井に「朝廷とか公方とか寺社とかその他のことは仰るとおりにいたします」と
無条件降伏に近いこといって和睦。その後しっかり和睦を破る
1571年 伊勢長島第一次。
信長自らが大軍を率いて攻撃するが失敗。
撤退するところを追撃され大敗北。氏家朴全死亡。部隊壊滅。柴田も負傷。
比叡山大虐殺。
先年の志賀の陣の仕返しに比叡山を焼き討ち。もともと敵対させたのは誰だったと思ってるのか。
虐殺焼き討ちは天を焦がし、悪名は天下に響き渡る。
1572年 信長、本隊を率いて朝倉浅井と対陣。
嵐を突いて朝倉勢に陣地を焼き討ちされ、700以上焼失。
信長、横山城から美濃に帰還。
その後朝倉浅井勢、織田勢を攻撃し大利をあげる。
その戦果は常陸にまでとどろき、複数の同時代資料で確認される。
信長、武田織田の両属だった岩村を当主が死んだのをいいことに部隊を派遣してのっとる。
武田、これを受け秋山を岩村に派遣。岩村勢、これに呼応して武田につく。
武田本軍、徳川領土を次々と侵食。織田も援軍を送り、徳川とともに
三方ヶ原におびき出され完敗。
戦死武将50名以上、死者千名〜2千名に達する大敗北。
徳川はこれ以後しばらく三千ほどしか動かせなくなる。
1572年 武田の秋山隊、上村合戦で織田勢を撃破。
1573年
武田の馬場美濃、800余りの兵を率いて東美濃侵攻。
焼き討ちを行って織田を挑発。
信長は一万余りの兵を率いて進出するが、馬場美濃は手勢を率いて
織田勢を急襲し、織田勢敗走。信長は後ろも見ないで岐阜に逃げ込んだらしい。
信長、諸方を敵に囲まれ、「方々手ふさがり」と公記でも嘆かれる。
この状態で将軍義昭離反。
「人質だしますから和睦しましょ」と持ちかけるが拒否される。
天皇を使ってダッシュで和睦してダッシュで美濃に帰る。
信玄死亡。武田勢撤退。反織田勢の反撃計画潰える。
信長、勢いにのって浅井に攻撃をしかけるが撃退される。
744人間七七四年:2012/03/24(土) 15:50:28.04 ID:JjBZX7Z1
伊勢長島に美濃と尾張の国境を焼き討ちされる。
反撃計画が潰えたことで自壊の始まった朝倉を攻撃して倒す。
朝倉は一門に裏切られての最後であった。
返す刀で浅井も総攻撃して攻略。朝倉・浅井長政・久政の首ははくだみにされたという・・・。
調子にのって伊勢長島を攻撃。
第2次伊勢長島。伊勢長島本城を攻略できず、引き返すところを攻撃され、
一の重臣林家の嫡男林新次郎率いる部隊とその与力を殿にするも
一揆勢の猛攻で壊滅。一揆勢の攻撃で体制を整えることも暖をとることもできず
凍死続出。信長もこれを突っ切って夜に岐阜に逃げ込んだ。
1574年 越前蜂起。
苦労して朝倉を倒して越前を制圧したと思ったら、そのあまりの杜撰な統治に
反発した旧朝倉家臣団が一向一揆と結んで蜂起。
織田の支配層はあるいは叩き出され、あるいは殺され、越前は一揆持ちの国となる。
武田討伐の後の甲斐と非常によく似たパターンであり、懲りない男である。
結局越前が再び信長の手に戻るのはこれよりおよそ2年後。
朝倉攻略から3か月。短い平定であった。
東美濃攻防。
信玄死去後の武田、東美濃に侵攻する。明智城をはじめとして織田方の城を次々に攻略。
信長は三万の大軍でこれを救援に行くも、山県率いる武田勢六千に険路を抑えられ、進むに進めないうちに武田に城を攻略され退却。武田は織田方の東美濃18城を攻略した。
石山本願寺を大軍で攻めるが攻略できず撤退。
武田軍、徳川方の高天神城を攻撃。徳川は織田に救援を要請。
信長の救援は遅遅として間に合わず、高天神陥落。家康失望。
1574年家康の嘆きとか無視して伊勢長島の攻略を開始する。
第三次伊勢長島。
大軍で攻めながらも一揆達の激しい抵抗にあい、兵糧攻め。
三か月ほどこれを続け、一揆勢、餓死者や身投げして死ぬ者続出。
一揆勢信長に降伏し、武装解除して長島を退去する事を受け入れる。
し か し 信 長 は 当 然 の よ う に 約 束 を 破 る。
武装解除した一揆勢が長島を退去する為に出てきた所を大軍で包囲。
大量の鉄砲を打ちこみ、そのあと総攻撃に移る。
し か し こ こ ま で し て も 大 損 害 を 受 け る。
餓死寸前で武装解除もしていた一揆勢、多くが織田勢に虐殺される。
この中で激怒した一揆勢の800余りが、武具もつけず刀しかもってない状態でありながら
信長勢に突撃する。
信長勢数万はこの飢え死に寸前の一揆勢800に突き崩され、打ちのめされ、兄信広達一門10人をはじめとして多くを打ち取られる大損害を受ける。
その一揆800はそのまま織田勢を突破し、多芸山から大阪まで逃げ延びた。
飢え死に寸前の一揆勢800に数万の兵でこれだけ一門を殺され、しかも逃げられるのは前代未聞の成果と言っていい。
逆上した信長、まだ城に残っていた、ろくに動けもしない一揆勢を城ごと全て焼き殺した。
長島近隣住民はこの卑劣なだまし討ちと虐殺を長く恨み、織田勢に宿を貸すのも嫌がるようになり、織田勢はあと後まで苦労する事になる。
武田軍、徳川領土に進攻。家康の主城浜松城下にまで踏み込み、稲を悉く刈り取り、城下町の屋敷も盛大に焼き打ちし、拠点となる城も築城して帰還。
織田は相変わらず救援を送らず。家康絶望。武田への鞍替えを検討し始める
745人間七七四年:2012/03/24(土) 15:55:01.22 ID:JjBZX7Z1
領土拡張率ランキング

         家督相続年  相続時勢力圏  最終勢力圏  勢力拡大率
1宇喜多直家    1555年     0万石    30万石      ∞
北条早雲     1460 0 万石   25万石      ∞ 
3徳川家康     1560年     2万石    1790万石     895倍
4最上義光    1533年     1万石  54万石      54倍  
5津軽為信    1540年    0,7万石  24万石     34倍
6葦名盛氏    1532年?     2万石    60万石      30倍
7伊達政宗    1585年     15万石    180万石     13倍
8武田信玄   1541年    14万石    130万石      9倍
9上杉謙信    1548年     23万石   178万石       8倍
10毛利元就    1526  10万石    60万石     6倍 
11北条氏康    1541年     45万石    180万石      4倍

最下位 織田信長 30万石    0           0倍



ちなみに領土拡張スピードなら
短期間で包囲網打ち破った伊達政宗>>>>>>雑魚信長
746人間七七四年:2012/03/24(土) 15:59:55.21 ID:JjBZX7Z1
大雪で道が封鎖され補給が途絶すると言うなら
そもそも浅井はとっくに降伏してるはず。
しかし実際には湖北十ヶ寺によって支援され
本願寺によって北陸門徒も兵糧を運んできたり
比叡山も援助していて兵糧に困ってないし、
武田が郡上八幡経由で浅井に書状を出していたり
朝倉から本願寺に書状を出しているなど
自由往来が可能だった。
織田による包囲封鎖なんて実際には大げさに誇張してるだけ。
姉川の戦いののちも浅井・朝倉はむちゃくちゃ勢いがあって
9/20森可成や織田信治や青地茂綱らを討ったあと、
宇佐山城の守りが固く、そちらからの入京に時間を浪費すると喝破した浅井朝倉は即日、転進して大津を放火し
9/21山科醍醐方面から進軍する迅速な判断力は褒められる。
(24日には信長が下坂本に着陣してる)
そして24日には京の前面である浅井は比叡山青山、朝倉は青山南の壷笠山に陣を敷いた。
その上で京を戦乱に巻き込まないように京を大回りして
(先鋒は入京していたが賀茂別雷神社・離宮八幡宮・知恩院・東寺らに禁制を給して迂回)
長政隊は丹波から嵯峨へ進軍して織田軍後方をかき乱す遊撃を開始してる。
10/20山崎の本願寺が御牧城を攻め取り、
それに呼応した比叡山の浅井・朝倉軍が出撃し、
織田方に組する左京区にあたる織田軍と(義昭奉公衆との説あり)
交戦しつつ修学寺・一乗寺・試楽寺・高野・松ヶ崎などをピンポイント放火してるし、
(義景は元亀2年7/4に六角軍が入京するにあたり、
義賢に洛中を放火しないように書状を送っている)
22日には大坂本願寺が畠山昭高の高屋城を攻め、
若狭武田も織田から離反して武藤や粟谷と挙兵してる。
信長は完全に無策で、家康に援軍派遣の哀願をするしかなかった。
家康は信長に江南を我が物顔で暴れている一揆と六角勢が、
瀬田と草津の間を封鎖するのを防いで退路を維持する役目を負わされた。
信長はというと11/21朝倉軍は坂井政尚と安藤守就の子を討死させ、
同日には伊勢長島でも織田信興が討死と全戦線が崩壊。
11/28朝廷から関白二条晴良が信長の和睦懇願を受けて坂本へきた。
織田の敗北は間違いないんだよな。
747人間七七四年:2012/03/24(土) 16:00:45.98 ID:JjBZX7Z1
山本山城の阿閉貞征が寝返ったのは信玄死んで、義昭も降伏後じゃねぇか。
宮部に至っては、まだ国人ですらないもっと下の存在でしかない。

507 :人間七七四年:2012/01/03(火) 12:33:23.06 ID:2A+2oEWw
信長は浅井のことを「小身だから物の数ではない」と
いつでも滅ぼせる宣言をしておきながら、ずっと苦戦し
滅ぼせず。
姉川の戦い前夜の6/22には八相山の退口で
その小身の浅井単独如きに織田は背後を噛み付かれて敗走。
朝倉軍がその後にやってきたので勢いづいて
姉川の決戦。織田は浅井に負けそうになり、
朝倉を破った家康に助けられる始末。
磯野員昌が織田軍を猛攻したとする説もあるが、
それを裏付けるように、
朝倉が帰国後に織田が横山と佐和山を攻撃。
磯野の佐和山城を織田が猛攻したが見事に撃退されてる。
ちなみに水藤真氏によると横山城はわずか一ヶ月前に整備を開始したばかりのものでしかなかったと言う。
まぁ砦レベルだろうね。そもそも横山には将自体が配置されておらず、
攻め落とされたとも書いておらず、整備も中途半端なことだから浅井側が放棄しただけだろう。

509 :人間七七四年:2012/01/03(火) 13:00:26.43 ID:2A+2oEWw
ちなみに佐和山城は、志賀の陣のあとに朝廷斡旋講和の条件として
尋憲記に「人質を取り交わし、信長方より持ち候城々、
浅井方より持ち候城々、いづれは割り、いづれは持ち候て」
とあって城割りの条件に沿って破却されたものを
年明けになって織田が横領しただけ。
それを長政が磯野の内通と疑ったので小谷城へ入れてくれず
若狭武田に磯野が頼ったが、長政が武田にも謀反を報せたので
行き場を失い織田に降った(島記録)

水藤真氏が「綸旨・御内書・御下知・信長誓詞と
およそ紙に書くことのできる全てが書かれ、比叡山に与えられた」
と書いているわけだ。
信長はありとあらゆる手段で和睦してもらおうとしてるわけ。
そして朝倉も比叡山に「当表の一和之儀、勅命上意」と書いていて
今谷明氏が朝倉らは「勅命を拒むことができなかった」と書いていて
宮島敬一氏もそれに同意している。
よって大久保の書いてる内容は事実に近いわけだ。
さらに志賀の陣の和睦交渉で、朝倉は信長には他意は無いが、
浅井を見捨てるに忍びずと言ってる。
朝倉には織田への戦意がそもそもない。だから朝倉に奪回意思はそもそも無い。
朝倉にその気が無いのに、
浅井単独で横山や佐和山の奪回は無理。
別に朝倉領でも無いし。
748人間七七四年:2012/03/24(土) 16:02:04.65 ID:JjBZX7Z1
2/15久秀や岩倉の山本対馬、山中の磯貝、和邇の金蔵坊、勢多の山岡、田中の渡邊らが10日付で帰参。
静原に山本城を築いて織田に反抗する。
2/23筒井城の順慶が春日社参詣に3000人を引き連れてきたため
松永久通が警戒し小規模な衝突もあったようだ。
大神楽や神馬を奉納して成身院に宿泊後に筒井へ帰る。
2/23信長→細川宛で信長自身が信玄が去る17日に野田表から撤退したので、志賀の一揆蜂起について
蜂屋・柴田・丹羽を出征させ湖を渡らせる。成敗に手間がかかれば世間聞合なので
自分も近日中に佐和山へ出て上洛し畿内を平均すると述べている。
すでに湖経由でないと上洛もできないほど近江戦線は崩壊してるのがわかる。
2/26義昭に同調し三井寺の光浄院暹慶ら西近江で挙兵し
柴田と明智が彼らの石山と堅田砦を破り西近江を平定すると
信長公記録は書くが、慈敬寺文書の顕如書状によると
2/14付けで慈敬寺が伊藤城を攻略し其の表の面々は此方一味であり
堅田まで属理運、還住由になったとして黄金三十両を進呈している。
小林吉長も2/17付けで堅田村の郷士達への書状で慈敬寺との入魂専要之旨と述べている。
2/27には顕如→信玄宛てで江州西路事、
此方當門家中慈敬寺以調略属本意候と書いている。
2/19の義昭書状でも山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯貝新右衛門らまで
悉く取除、明智光秀は儀無正躰候、近邊大略属本意候と書いていて
(2/13における木戸表(大津市木戸)御働として光秀が革島忠宜へ感状を出してる)
近衛家文書の2/16長政→伊勢七郎左衛門宛てでも信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。
長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べ
2/24に革島宛てに光秀が明日から今堅田を攻めると書き
三月朔日で柴田が革島宛てに今堅田成敗申し付けと報告してる。
やはり明智軍(光秀は配下の18将を供養してる)は
戦力としては崩壊しているようで、主力は柴田が担っているようだ。
3/7の信長は伊丹により摂津において中島城の細川が堺へ敗走に続き
賀嶋城まで落ちて絶言語と動揺している。
3/18に義景が木戸城主佐野十乗坊秀方へ早船で加勢した
近江高島郡の多胡宗右衛門を褒めていて
3/13には下間頼充が馬場宛で今堅田に篭もっていた馬場親子が敵が取詰にきた時に一戦し粉骨したのを慈敬寺から
報告を受けたと戦功を感謝しているし
3/21には義景→馬場宛に敵が相働くも十乗坊に立て篭もり粉骨したのを賞している。
佐左馬要害と同等の価値あると言っている。
4/2には長政も馬場に木戸籠城を褒め称えていて、相次いで大勝利を褒めている。
この状況から見るに柴田ら織田軍は今堅田は何とか攻め落とせた可能性はあるが、
堅田村を一向宗側が取り込んでいるため無力化にはほど遠く、
しかも今堅田に続く十乗坊攻めでは逆に織田軍は大敗しているのがわかる。
また手間取ると外聞が悪いと気にするほど劣勢の信長は
信玄が帰ったし信長自身が出馬すると言いながらまったく出馬できないありさま。
749人間七七四年:2012/03/24(土) 17:21:27.43 ID:ckPCWmhp

そもそも長篠合戦含む一連の武田の軍事行動はは本来武田VS徳川の戦いで
織田は本来与り知らぬこと。それを家康が三方が原で自爆したから心配性になって仕方なしに出てきたのがこの時の信長なのに

「撤退するフリをして追撃してきた軍団を倒せば勝てる、信玄ならできる」と真顔で言っちゃう武田信者w

武田が撤退するんなら信長が長篠に留まる理由はゼロ。適当な理由をつけて本国に帰るだけw
750人間七七四年:2012/03/24(土) 17:29:59.00 ID:ckPCWmhp
信長の対武田に対するやる気のなさは長篠布陣図からも見て取れる。

何重にも巡らせた柵を用いて織田徳川連合軍からの攻撃をほぼ不可能のものとし、あくまで守勢に徹している。
実際の合戦でも攻撃は全て武田側から行われ、織田は常にそれを凌ぎ切る形で敵を捌いている。
前日の奇襲案に対しても武田軍に攻撃を仕掛ける別働隊のほとんどが徳川軍で織田は金森を目付につけただけ。


ある意味ではだがの言うとおり、武田家の武将が無能集団でなければ、長篠の戦いは本来起こりえなかったともいえる。
751人間七七四年:2012/03/24(土) 17:42:06.71 ID:JjBZX7Z1
つまり圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面&まるで城みたいな陣地
こんなとこに無謀に突っ込んできたから勝てただけ。
勝頼がアホすぎただけだから助かっただけ。
この状況ですら8時間以上戦われ、柵を所々破られているくらい武田は名将ぞろいだったんだから
普通に戦ってたらまず武田が圧勝してたのは間違いない。
信玄が総大将なら三方が原や三増峠みたいにわざと退却してつり出し⇒撃破
これで雑魚織田軍は大破、信長も戦死
こんな流れになってたのは間違いない
何せ信長が戦下手すぎるのは対斉藤朝倉姉川長島浅井北畠本願寺武田などで否という程証明されている
752人間七七四年:2012/03/24(土) 17:44:47.13 ID:JjBZX7Z1
あと長篠で武田が撤退して織田が撤退したら
徳川の織田への信頼はガタ落ちして武田に靡くのは目に見えてるからね
ただでさえ一方的にこき使うばかりで援軍よこさない織田に嫌気がさしていたんだから。
家康が義理固い武将だから助かっただけで普通の大名ならとっくに寝返っているだろこんな役立たずの同盟者
753人間七七四年:2012/03/24(土) 18:44:40.58 ID:ckPCWmhp
天正年間の信長優勢期に寝返りかますって随分都合のいい妄想だな。
そんなんで寝返るくらいなら三方が原の後にとっくに降伏しているだろw

挙句長篠で勝頼のせいと言いながらいの一番に突っ込んで戦死した山県、馬場ら武田重臣連中。
見苦しいことこの上ない評価だな。結局自分たちも信長にしてやられた凡骨。
武田は斎藤本願寺、朝倉にすら遠く及ばない、せいぜい徳川相手に弱いものいじめしているのがお似合いだよw
754人間七七四年:2012/03/24(土) 18:49:34.66 ID:ckPCWmhp
武田の戦下手は長篠に始まったことではない。

村上相手には同じ甲斐源氏の同門であった板垣甘利ほか多くを戦死させ、
斎藤朝倉はおろかたかが信濃の一国人領主相手にボコボコにされるという屈辱を受けた。

当然それより上の大名家との戦争などは目も当てられず、弟信繁、諸角他多くの家臣が川中島に散り、
あの今川氏真相手ですら戦争前から嫡男と重臣ほか数名を殺さなければならないという犠牲を払う。
一般的には今川侵攻を巡る対外政策の食い違いによるものとされているが、
信玄のあまりの弱さは嫡男義信にすら心配されるほどであったとも言える。

結局今川重臣のサボタージュがあったにもかかわらず駿河1国を取れたころは信長が上洛かますという余裕っぷりで、
信玄は苛立ったものの結局徳川相手に3倍の兵力で弱い者いじめしかできなかったという
なんとも情けない末路であった。
755人間七七四年:2012/03/24(土) 19:00:34.63 ID:I6AEhTsy
>>753
つまり、勝頼を止めることができなかった馬場山県にも責任がある、と言いたいのか?

あと馬場山県を無能扱いしているが山県は明智城攻めの時に織田軍の先陣を撃破しているぞ。
馬場も三方ヶ原後、別働隊を率いて東美濃で信長を破っている
756人間七七四年:2012/03/24(土) 19:05:19.63 ID:I6AEhTsy
>>722
親族衆と先方衆が賛成であったならば馬場山県らが反対であっても決戦は普通に考えられると思うが
「今回の決戦を危ぶむ者もいる」という勝頼の書状があるから反対派がいたことは明らか
757人間七七四年:2012/03/24(土) 19:19:55.82 ID:ckPCWmhp
>>755
当たり前だろ。主君が誤ったことをすれば家臣が諌めるのも当然。
あと明知城の字が違う。そっちの明智城は岐阜県中部にある全く別の城。

山県が攻めたのは明知城で岩村城のすぐ傍。場所を見れば一目瞭然だが、
明知城、岩村城ともに美濃国恵那郡に位置し、信長のいる岐阜からは遠く離れている。むしろ信濃国に近い。
山県が破った、馬場が蹴散らした、とあるが、内実かなり怪しい。出典が甲陽軍鑑なのもあるが。

>>756
まずないと言っていい。
親族衆や先方衆が賛成であったというが実際被害の少なかったのは親族衆であり、
山県馬場のような譜代家臣は最後まで戦った挙句、戦争でも激戦地が予想される場所に布陣している。

少なくとも譜代家臣が積極的に攻撃をかけている以上、戦争に関して言えばほぼ賛成であったことからも明らか。
反対派がいるのなら、むしろ穴山、信廉あたりの親族衆が反対をしたとみるのが自然であろう。
実際穴山は長篠後に高坂から弾劾されたという逸話を記しているものもあるしな。
758人間七七四年:2012/03/24(土) 19:30:07.56 ID:ckPCWmhp
甲陽軍鑑全てを否定するのは早計だが、少なくとも対織田戦線においてはかなり矛盾が生じている

まず、長篠の戦いの開戦、反対主張であるが、
甲陽軍鑑は勝頼とその近臣衆が積極的に開戦を主張し、馬場山県といった老臣連中が反対したとある。

だが既に>>755にも挙がっている通り、甲陽軍鑑ではその前の東美濃における対決で、
内情はどうあれ山県馬場は織田軍を撤退させて東美濃における武田家の支配圏拡大に成功させている。

つまり甲陽軍鑑を丸丸鵜呑みにした場合、山県馬場の両名は
「東美濃で自ら余裕勝ちしたとされる信長に対して、長篠でビビッて決戦を反対した」という全くおかしな行動をしていることになる。

それを無視して時勢の読めない勝頼や近臣衆が突っ込んだのが悪い、というのが甲陽軍鑑の主張であるが、
当の勝頼やその側近連中はその後対織田に対しての和睦など織田家との関係を重視していることは史料からでも明らかであり、

むしろ時期尚早と考える武田近臣衆を押しのけて山県馬場ら譜代家臣が強引に織田との決戦を始めたとする見方の方がまだ理にかなっている。
759人間七七四年:2012/03/24(土) 19:35:01.61 ID:jxFf+R3N
>>756
真っ先に突撃したのは譜代衆。
さらに親族衆や先鋒衆らまでしっかり突撃している。
反対していたら自分達の兵なんて動かさない。それが当時の武田。
当主が強いたら追放喰らう。
760人間七七四年:2012/03/24(土) 19:39:32.33 ID:n8Cx0s5Y
信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述がある。
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。

勝頼がいくら信長が戦下手だからって
ナメ過ぎてたった15000で勝てると増長してたのが武田滅亡スイッチだし
武田が3万くらい動員して9時間に渡り攻勢に出てたら織田なんて踏み潰してた。
鉄砲三段なんて捏造話を作って圧倒しましたイメージを必死に創造してたようだけど。
まあ手取川でエア大敗したほどの弱織田軍だしねぇ。
しかも丹波の一国人の赤井直正にまで大敗したのが織田軍。
義龍や信玄や謙信や元就や直正が死んで超ラッキーだったよね。

遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに
信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを
信長は引きずっているのがわかる。
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられたわけだしな。
長篠では甲州兵の勇敢さを恐怖を骨の髄まで味わったんだろうな。
織田が圧倒的兵力になったのは
包囲していた本願寺が天皇の和睦を受け入れた天正8年8月以降。
それでも紀伊の高野山が織田に抵抗していて
織田は攻めあぐんでいる。結局、高野山は本能寺の変まで
山内に織田軍の進入を許さず凌ぎきってしまった。
761人間七七四年:2012/03/24(土) 19:40:02.10 ID:n8Cx0s5Y
天正7年初頭にも勝頼が毛利と荒木と本願寺を救うために
織田戦力を分散するために家康攻めで出陣OK返事出してんだよな。
その時に輝元が宗麟に足を引っ張られたごときで
武田との約束を破り正月16日出陣を無期延期にしやがったから
合同作戦じゃなくなって武田単独で
景虎自刃した3/24を過ぎてからの
4月より遠江高天神・国安(掛川市)を荒らしてて
信長も急いで摂津戦線から安土へ帰国してる。
いそぎ本願寺や荒木もこのチャンスに出撃せよと毛利に要求するが
まったくのヘタレぶりを露呈したために、
これを見た宇喜多・南条らも毛利を見限り、
天正8年になると荒木が破れ、本願寺も朝廷の勅令和睦を飲んでしまい
武田と毛利の滅亡が確定した。
しかし本能寺の変のおかげで毛利は滅亡を免れた。
結局、毛利がありえないくらいヘタレだから
織田を討つチャンスを何度も自らぶっ壊してる。
ちなみに8月末に厩橋北条高広が北条から武田へ服属先を変えたことをきっかけに
9/5北条と徳川が同盟したことを受けて武田内通の罪で信康が9/15に自害させられてる。
武田は佐竹らと同盟して北条を圧倒。伊豆浦でも武田水軍は北条水軍を圧倒し連戦連勝。
氏政は「このままでは北条は滅亡に向かう」
「上州は武田のものになってしまう」などと武田を恐れまくる。
しかし同時期に石山本願寺が勅命和睦命令の連投に恐れ多いと受託してしまう。
それでも天正9年末まで北条を圧倒し続け伊豆まで攻め込み里見氏も同盟参加。
徳川も高天神城をやっとの思いでなんとか攻略できたが、そこまででしかなかった。
所詮、家康は穴山とどっこいどっこい程度の実力しか無い。
天正10年の織田の攻撃のタイミングが浅間山噴火とシンクロして武田が崩壊しただけ。

元亀4年の信玄西上の時の織田は金も火薬も兵糧も無いので幽斎に調達するように命じたが
無理だったから、信長自らが指揮して京で恐喝略奪して凌いだ。
同じように幽斎には長篠の戦い寸前の時期にも信長が今回は鉄砲の玉薬だけだが
調達を要求していて、この時は調達できるようになっていたのが
5/12の幽斎書状への5/15信長返書書状でわかる。

5/20には玉薬が到着したようで信長はそれに関して「祝着だ」と大喜びし
家康はいよいよ陣城に籠城して討ってでない体制を構築して長篠城落城の危機に焦り
5/20夜に酒井忠次らによる鳶ヶ巣山砦襲撃計画を発動したために
勝頼の攻勢を生み出し、さっそく5/21に長篠の合戦が起こってる。
そして5/26岐阜に戻るやさっそく幽斎に詳報して感謝してる。

つまり信長は火薬到着待ちをしていたので
勝頼は19日までに信長を攻撃してれば勝てた。
13日に出馬し、14日に岡崎に信長は到着してた。
762人間七七四年:2012/03/24(土) 19:40:34.82 ID:n8Cx0s5Y

>>761に付け加えるとして5/15書状の内容から
鉄炮放と玉薬の調達の報告だとわかるんだが、
鉄炮放とは砲手を意味しており、実際には細川が
玉薬と鉄砲の使い手を雇っていることを意味してる。
これは5/17付多聞院日記にも伝聞内容のためにタイムラグがあるものの
信長の命令で筒井が鉄砲衆50名を派遣と記しており
細川や筒井らが堺あたりから鉄砲衆を雇い入れて派兵してると思われる。
それを佐々や前田や塙らに配分して率いさせたと考えられる。
(当時の武士は鉄砲を扱わず百姓・足軽・雑兵のような身分に使わせてる)

また6/13付けの信長から上杉への書状において兵糧の調達が不充分なので
織田軍は撤退したとも述べていて、対陣長期化も織田軍は望んでいなかった。
武田が対陣を続けていたら、織田は長篠城を見放して和議を結ぼうとしただろう。
8/13には秀吉が兵糧を調達していて、信長はそれを小谷城で受け取って
越前一向一揆を討伐に向かっており、
数万人規模の老若男女の区別ない越前一円での大虐殺大会と大略奪を開始し9/26に帰還する。
10月初頭には石山本願寺が織田と和睦しようとするが、
信長がホントかどうかわからんからしばらく様子を見てから朱印を与えてやるとか余裕をぶっこくが
翌年1月に吉川に支援を願っていた赤井氏に呼応した波多野氏との挟撃で
明智軍が大敗北&摂津でも石山本願寺に織田軍がダブル敗北を喰らうw
763人間七七四年:2012/03/24(土) 19:45:16.43 ID:jxFf+R3N
ID変えてまで過去に捏造間違いを指摘されたコピペを繰り返すのは、いつものアスベ君か?
764人間七七四年:2012/03/24(土) 19:47:22.95 ID:OE+udG7l
誰って事はレス見りゃ一発でわかるんだからわざわざID変えなくともな
765人間七七四年:2012/03/24(土) 19:55:05.21 ID:ckPCWmhp
織田軍全体の鉄砲放の玉薬を全部細川幽斎が補えるわけがない。

挙句5月15日の細川文書を「発注要求」と勘違いする読解力のなさ。
5月20日の細川文書で信長は細川の発注に対して「褒めただけ」であり、
わずか5日(内実はもっと少ない)で全部発注するというのは全くの見当違いである。

実際には5月15日には幽斎は既に発注をほぼ完了していて、それを褒めたついでに戦況報告をしたのが20日。
これを裏付けるように同じ細川文書には18日に戦闘があったという旨が記載されている
766人間七七四年:2012/03/24(土) 19:55:25.69 ID:SztnxUhT
自殺攻撃かけるぐらいなら、暗愚な主君放り出すか敵に寝返るのが戦国武士の常道。
当主追放や命令違反しても我を通した前歴のある武田重臣団が、このときだけ江戸時代に好まれた儒教武士になるのはいかにも嘘くさい。
ましてその場にいなかった、信玄以来の譜代を新興の奸臣とでっち上げるあたりもうね・・・。
767人間七七四年:2012/03/24(土) 20:09:46.80 ID:nYUpEQcT
>>758
おまえ捏造捏造って馬鹿にして軍鑑読んでないだろ

>内情はどうあれ山県馬場は織田軍を撤退させて東美濃における武田家の支配圏拡大に成功させている。

山県馬場は命に従って戦っただけ。それと長篠開戦の賛成反対がどうして関係するのか意味不明
軍鑑には、東美濃・高天神で勝ったばかりに長篠で反対できない空気が出来たって書いてある

>当の勝頼やその側近連中はその後対織田に対しての和睦など織田家との関係を重視していることは史料からでも明らかであり、

長篠惨敗後も、しばらくは織田徳川と決戦決戦ってわめいて重税と軍制改革に励んでますが

>>759

>真っ先に突撃したのは譜代衆

真っ先に突撃したからといってどうして開戦賛成になるのか意味不明

>反対していたら自分達の兵なんて動かさない。それが当時の武田。
>当主が強いたら追放喰らう。

この手の主張よく見るが、長篠の頃は信虎の時代とは明らかに変わってる
山県・内藤・春日・土屋あたりは抜擢組で信玄との個人的な結びつきが強い
遺言で勝頼支えろと言われている以上勝手なことするとは思えない
勝手なことするとしたら親類衆だろ
768人間七七四年:2012/03/24(土) 20:14:20.55 ID:VCnGKGK+
その場にいなかった人間を悪者にして、重臣達は突然に殉死馬鹿と化す。
これ信じるとしても、別の意味で武田家が凄まじい愚か者の集まりだったことになっちまうよな。
それこそこれまで滅亡しなかったのが不思議なレベルのw
769人間七七四年:2012/03/24(土) 20:16:24.37 ID:RMYUfSjb
兵を動かす権限のあった連中は軒並み賛成だっただろうな。でないと武田の構造上戦う事自体できない。

反対したのは発言力のない小身連中だったと考えるほうがまだ辻褄があう。
770人間七七四年:2012/03/24(土) 20:18:15.76 ID:nYUpEQcT
>>766
馬場の出陣の話は、大事な戦なのに参加できないのは無念!って言って参加しただけの話だろ
命令無視して退却する話とは全く話が違う
武田の為に働く気がないなら、長篠で殿軍買って出ないだろ

>ましてその場にいなかった、信玄以来の譜代を新興の奸臣とでっち上げるあたりもうね・・・。

長篠の際の長坂釣閑斎宛書状は別人宛らしいよ
771人間七七四年:2012/03/24(土) 20:20:26.62 ID:nYUpEQcT
>>769

ずっと勝ち続きで反対しようにも反対し辛い空気があったって軍鑑に書いてあるじゃん
772人間七七四年:2012/03/24(土) 20:20:38.48 ID:RMYUfSjb
だいたい軍鑑っていろいろおかしい所あるけど、その主張信じるとしても口述した春日虎綱(高坂昌信)自身は長篠にいなかっただろう。

伝聞としても居る人間といない人間を間違えるのはおかしいし、まして信玄以前からの譜代衆の経歴を捏造する理由も意味不明。
本当だったら讒言以外何者でもないな。
773人間七七四年:2012/03/24(土) 20:21:41.27 ID:RMYUfSjb
>>771
その軍鑑自体が異常なわけだが。いろいろ新説(珍?)となえて信憑を見直す動きはあるが、どれも???なレベル。
774人間七七四年:2012/03/24(土) 20:23:47.63 ID:ckPCWmhp
>>767
内情はどうあれ、ってちゃんと付け加えただろ
勝頼の命に従おうが、自身が積極的に参加してようが全く同じこと。
山県馬場といった重臣連中が東美濃、高天神の支配権拡大に貢献した。

で、長篠で反対したというのがかなりの妄言。信長との直接対決はそれこそ東美濃でも起こりうる話であり、
わざわざ長篠に限って反対だったというのはいかにも嘘くさい

>>長篠で反対できない空気が出来たって書いてある

本当に山県馬場が反対派だったのなら、どうして激戦地となる場所に陣取ったんでしょうね。

>>真っ先に突撃したからといってどうして開戦賛成

突撃した時点で山県も馬場も勝頼に同調したのと同じ。
嫌なら帰るなり寝返るなり、後方待機なり方法はいくらでもあった
775人間七七四年:2012/03/24(土) 20:27:43.27 ID:nYUpEQcT
>>774

>わざわざ長篠に限って反対だったというのはいかにも嘘くさい

軍鑑には山県馬場等が織田との決戦自体に反対だったとはどこにも書いてない
長篠の地形・状況・軍備が不利だからまだ自重すべき反対している

>本当に山県馬場が反対派だったのなら、どうして激戦地となる場所に陣取ったんでしょうね。

武田は関ヶ原の石田三成並みに参加の武将の布陣もお任せだったってことですかw
776人間七七四年:2012/03/24(土) 20:29:40.68 ID:RMYUfSjb
だいたい軍鑑では、穴山や信豊を切腹させろとか、それこそ先鋒衆にすぎない真田と領地をとっかえろとか、まさにデタラメな善後策を虎綱が言ったことになっているが。

これがどんだけ無茶で空想的なことかは、いうまでもない。
(本貫地を剥奪される真田が出世を喜ぶどころかぶちきれる)
しかもその理由が長篠で逃げたことだが、実際には相手方記録でも親族衆(特に信豊勢)はしっかり戦っていて状況に反する。
激しい疑問符ばかり。
777人間七七四年:2012/03/24(土) 20:30:33.73 ID:ckPCWmhp
軍備で言うなら東美濃でも同じことだろ。
まあいずれにせよ山県馬場が最終的に勝頼に同調して負けた時点で
勝頼のせいなんて口が裂けても言えないだろう
778人間七七四年:2012/03/24(土) 20:34:33.28 ID:nYUpEQcT
>>776

真田じゃなくて小幡な
穴山・信豊切腹の話はたしかに眉唾
ただ親類衆の戦死がほとんどいないのも事実だからなあ
779人間七七四年:2012/03/24(土) 20:36:34.90 ID:nYUpEQcT
>>777
軍鑑が捏造だとしても、かといって勝頼に同調したということにはならないだろ
勝頼側近と内藤等が対立してたのは事実なんだし
780人間七七四年:2012/03/24(土) 20:36:53.84 ID:RBkZlTBv
えー。軍鑑品第五十二では御一戦は無用です、と戦闘継続自体をみんな反対したのに、
勝頼・跡部・長坂ら軍艦捏造被害者の会の皆様だけがやっちゃうよ、と決めたことになっているわけだが……。
うん、ありえんわ。
781人間七七四年:2012/03/24(土) 20:43:25.99 ID:RBkZlTBv
もし合戦前の時点で、織田の総力や以前の畿内情勢を気にしての及び腰からの変化等を全て把握して負ける、とわかってたらもう人間技じゃない罠。
まさに後知恵からの捏造、としか思えん経緯で描かれているのが軍鑑。
782人間七七四年:2012/03/24(土) 20:44:21.43 ID:JjBZX7Z1
>>753
これまででも家康は一方的にこき使う信長の仕打ちに不満を抱いていたのは
長篠時の鞍替えを検討している徳川の史料でわかる
三方が原では援軍一応派遣してはいてくれたしな
家康が義理堅いから助かっただけなのが信長
西三河小領主から一向宗や吉良・今川の大軍北条朝倉秀吉西軍豊臣など
強敵や大軍に打ち勝って天下を取った戦国最強武将家康に勝ちまくり風前の灯火に追い込んだのが武田
>>754
武田は1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない兵力比で山間の攻略の難しい城や領土を切り取りまくり
最強家康や強国北条、そして大軍織田なども蹴散らしまくった最強勢力
織田なんぞ上村合戦や東美濃攻防戦でボコボコにやられてる上に
岩村&高遠攻防戦でも大苦戦したから論外
何せ信長が戦下手すぎるのは対斉藤朝倉姉川長島浅井北畠本願寺武田などで否という程証明されている
>>757
東美濃攻防って一次資料にもあったろ
もう忘れたふりかwww
>>758
会戦自体に賛成なのと
圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面&まるで城みたいな陣地
こんなとこに無謀に突っ込んでいくのに賛成なのとは全く別問題

>>766
それは単にお前の常識
家や主君に忠義をつくすのが武士
武田勝頼が長篠で壊滅的打撃を受けながらも武田家臣は1582年まで総崩れのように裏切る事はなかった。
この事から武田は長篠でたいしたダメージを受けなかったかお前の常識が間違っているかどちらか
>>768
単に主君に忠実だっただけ
光秀みたいな奸臣しかいない雑魚織田家とは違うだけ
その光秀にすら人が集まらなかった事実が主君に忠義を尽くすのが武士としての基本姿勢という事を裏付けている
783人間七七四年:2012/03/24(土) 20:50:21.34 ID:nYUpEQcT
>>781

軍鑑あげるまでもなく合戦直前の信長と勝頼の書状比べてみれば、どちら客観的に戦況を把握していたか一目瞭然
信長「わざわざ四カが要害から出て前に出てきたので包囲殲滅できる」に対し勝頼「相手は打つ手がないみたいなのでこちらから突撃してやる」だからね・・・。
784人間七七四年:2012/03/24(土) 20:52:57.85 ID:JjBZX7Z1
>>769
根拠のない妄言乙
総大将は勝頼である以上わかるのは勝頼が突撃命令だしただけ
勝頼が馬鹿なのは長篠だけでなく御館の乱や新府築城、無理な中央集権で失敗し
領国を崩壊させた事からも明らか
>>774
主君が自分の不満ある方針や戦術、戦略的決定する度に寝返ってたら戦国時代なんて成り立たんわw
北条が越相同盟締結時反対してた氏政が寝返ったか??
>>776
親族衆がまともに戦ったソースよろ
>>777
馬場や山県は無茶な命令出されても忠実に従って死んでいっただけ
硫黄島や神風で玉砕した日本兵みたいなもん
しかも圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面&まるで城みたいな陣地
こんな状況下で8時間以上戦い続けて柵も破りまくったんだからいかに名将ぞろいだったかがわかる
>>780
主観でも決め付け乙
785人間七七四年:2012/03/24(土) 20:57:00.70 ID:DgVWae/X
ダレに対しての書状なのか分からないが、味方の士気高揚のために自軍有利に語るのは普通だろ
実際に書き手がそう思っていたかは別で
786人間七七四年:2012/03/24(土) 20:59:36.62 ID:JjBZX7Z1
ようは勝頼が馬鹿だから負けただけなのが長篠。
重臣連中を同罪にするのが間違い。>>783にみられるように戦況を把握してないんだから
787キツネのレックス:2012/03/24(土) 21:07:59.12 ID:JKUy8otl
勝頼って四男だよな。
つまり、次男と三男にも軍団を持たせたいんだが

どこいったよ
788人間七七四年:2012/03/24(土) 21:22:26.66 ID:fDZU9+Q+
>>785
長篠後も、つまり山県馬場亡き後も織田との決戦に鼻息が荒い勝頼の書状みると、勝頼が長篠決戦主導してたようにしかみえない
789人間七七四年:2012/03/24(土) 21:36:56.67 ID:I6AEhTsy
>>776
でも親族衆はほとんど死んでいない。
これはまともに戦っていない、ということではないのか?
まあ切腹の件はありえないが

790人間七七四年:2012/03/24(土) 21:40:02.22 ID:DgVWae/X
>>788
負けたからといって及び腰になってたらそれこそ士気にかかわるだろ
791人間七七四年:2012/03/24(土) 21:59:48.05 ID:I6AEhTsy
>>787
二男は盲目
三男は10歳くらいで死んだ
792人間七七四年:2012/03/24(土) 22:06:59.07 ID:I6AEhTsy
長篠の戦いは結局山県馬場は反対だったんだろうな。
ただそれは織田との決戦自体をしないべきと言ったわけではなく、>>775が言うように軍備などの問題によるもの。
「東美濃で勝っていながら長篠で反対?おかしい」って言う意見があるがそういうこと。
793人間七七四年:2012/03/24(土) 22:07:08.97 ID:fDZU9+Q+
>>790
敵が手立てを失ってるから突撃すると書いて本当にその通り突撃してんだから士気の為なんて言い訳は見苦しい
794人間七七四年:2012/03/24(土) 22:19:12.68 ID:fDZU9+Q+
山県→信玄の元小姓で兄売ってでも武田の為に仕える
内藤→信虎に追放された後の活躍が認められて兄を差し置いて上野まかされるほどの抜擢を受けた
土屋→信玄の元小姓で兄弟揃って武田に殉じた金丸家出身
馬場→勝頼を逃がすため殿軍買ってでる、織田に評価されるほど

こんな連中が勝頼が開戦と決めた以上、敵前で戦わずして退却するわけがない
皆、開戦には反対でも武田の為に懸命に戦ったってとこだろう
795人間七七四年:2012/03/24(土) 22:22:19.38 ID:DgVWae/X
>>793
書状書いた時点では鼓舞のためだった
実際戦場をみると突撃がベストだったと判断した
だから突撃した

結果的に行動は同じだが、決定したのがどの時点かなどお前ごときに、むろん俺にもわかる分けなかろう

796人間七七四年:2012/03/24(土) 22:24:58.41 ID:fDZU9+Q+
>>795
始めから突撃する気でなければ長篠城包囲陣崩して山を降りて設楽原に出てこないだろ
797人間七七四年:2012/03/24(土) 22:33:55.41 ID:JjBZX7Z1
そもそも書状の内容が勝頼の意思ではなく、単に士気高揚のためである根拠が出されていない件
書状通りの行動を勝頼が取ったんなら書状の内容が本心だったとみるのが妥当
根拠なくいちゃもんつけるとかそれこそ妄想にすぎん
798人間七七四年:2012/03/24(土) 23:06:51.17 ID:I6AEhTsy
馬場山県内藤も開戦に反対であってもここまでの損害になるとは思っていなかっただろうな
799人間七七四年:2012/03/24(土) 23:20:47.68 ID:ckPCWmhp
>>782
>>長篠時の鞍替えを検討している徳川の史料でわかる

三方が原で援軍派遣したから降伏を考えなかった徳川が
信長自ら出張ってくれたことを無視して劣勢の勝頼に寝返るのか。
大局観とかまるで無視している思考だね

>>天下を取った戦国最強武将家康に勝ちまくり風前の灯火に追い込んだのが武田

その戦国最強徳川家康を家臣同前に扱っていたのが信長なんだがw
ついでに言うと風前の灯火なんていうのは完全なる妄想。徳川家中で三方が原の後に沈んでいた連中は誰もいない。
なんせ信玄は徳川領の山間部を霞め取っただけで結局浜松すら落とせなかった凡骨だからなw

>>東美濃攻防って一次資料にもあったろ

一次史料でわかる東美濃攻防戦、上村合戦は明知城の遠山氏を武田方が攻囲して、
織田軍が助けに行こうとしたけど向こうの勢いが強いから岐阜に帰ってきましたということだけ。

山県が織田軍をボコボコにしたというのは例によって甲陽軍鑑の妄想で、これを示す史料はないw

もともと岩村城に代表されるように東美濃遠山氏はその時その時で織田武田を行ったり来たりする勢力で、
信長からすればただ見捨てただけに過ぎない。
800人間七七四年:2012/03/24(土) 23:31:11.14 ID:ckPCWmhp
大体当主が馬鹿だったから家臣は責任がないというのは問題外。
当主に資質が足りなければこれを家臣や重臣が補うのは当たり前。
本来家に尽くし主君に尽くすとはそういうことであり、主君の操り人形などもってのほか。

結局本来の家臣の本分を忘れて勝頼の集団突撃に付き従った山県馬場は凡才。
本能寺という未曽有の危機を乗り越えた織田家臣団とは比べるべくもない。
801人間七七四年:2012/03/24(土) 23:43:51.13 ID:I6AEhTsy
>>799
>浜松さえ落とせなかった
三方ヶ原後攻め込めば100%陥落したぞ。
802人間七七四年:2012/03/24(土) 23:50:34.78 ID:JjBZX7Z1
>>799
三方が原時点ではまだ少し信頼してたけど長篠時点ではもう織田家に嫌気がさしていただけ。
ただでさえ一方的にこき使うばかりで援軍よこさない織田に嫌気がさしていたんだから。
家康が義理固い武将だから助かっただけで普通の大名ならとっくに寝返っているだろこんな役立たずの同盟者
家臣同然にできた(これも織田厨の妄想)はただ単に織田が動乱の影響で空白地に近い畿内を火事場泥棒したから
優位に立てたというだけ。常に寡兵の家康に助けられっぱなしで逆に寡兵の家康が困っていても援軍よこさない愚骨ぶりw
東美濃攻防や上村は書状などに裏づけがとれるから史実
>>800
家臣が大名のある戦略方針に反対してたとしても最終決定出すのは大名なんだから
大名の戦略的判断や政策ミスがあったからといって家臣にまで責任があるとするのが間違い
本能寺の変で織田家を崩壊させた糞雑魚織田家臣など論外
803人間七七四年:2012/03/24(土) 23:52:49.23 ID:sGjNaDwq
だがが湧いてくると不思議なことに他の関係ないスレでも訳のわからん荒らしが湧いてくるな。
804人間七七四年:2012/03/24(土) 23:53:51.17 ID:JjBZX7Z1
織田家は本能寺で崩壊して家臣団は崩壊されただけ。本能寺の変をきっかけに皆織田家として機能せず好き勝手に動いているだけ。
信長の弟で織田家重鎮にして信忠後見役だった織田信包(息子は尾張守護斯波義銀の娘婿)を始め
織田一門も清州会議から完全排除し専横重臣の秘密会議で織田家の将来を専断してる時点で、
織田家に実権はなく、家臣による下克上が成立し主従関係は完全に逆転した。
他家の人間になった者が本家を継いだ場合は他家に乗っ取られたことになります。
それを防ぐために還俗して本家を継ぐ僧籍の者が縁者には必ずいます。
ちなみに北畠家内において信雄は傀儡でしかなく信雄が織田を継ぐという行為は
北畠家を傀儡にしていた木造家による織田家簒奪の完成なのであります。
多聞院日記6/24から信雄が家督相続して田丸城に入城してるのが判明する。
そして7月に代替わり徳政令を発布しており、津田一安が添状を発給している。そして越前一向宗殲滅戦に向かう。
津田らは茶筅と書状で呼んでおり、滝川一益の取り次ぎで信長へ書状を出している。
天正4年11月に北畠・長野・坂内・大河内らを信雄が粛清することになるが、
原因として挙げられるのは天正4年から義昭が鞆幕府を設立し、
多聞院日記には具教もしくは具房が信雄の家督相続の時期に北畠氏の大和領へ入国していたことが挙げられる。
大和宇陀一揆ら反織田勢力との合流の風聞であり、これが破滅への道となった。
天正4年12月には津田一安が滝川雄利と拓植三郎左衛門らの讒言で誅殺され
伊賀攻めで拓植三郎左衛門が討死すると木造一族の滝川雄利の独裁体制が敷かれ、
織田信包などに指示を出すほどの権勢を持つようになる。
これにより当初からの目標であった木造氏による北畠氏の乗っ取りが完了し、信雄は傀儡化されてしまうのである。
本能寺の変とともに伊勢が混乱状態になり、明智討伐などできず精彩を欠いたのは
信長の内政丸投げにより、土着権力が独自に主従を形成する弊害がモロに出てしまい
織田氏は名目上の主にしかならず、事実上の木造氏のよる支配下にあったからである。
つまるところ天正3年6月に信雄が北畠家督と継ぎ、天正4年11月に反織田で面従腹背の北畠氏粛清するも、
12月には木造氏による支配が完成してしまい、信雄の傀儡化という歴史的推移が見て取れる。
しかも小牧長久手後の雄利は羽柴姓を貰い秀吉政権の一員になってしまうなど信雄を軽視しているのが見事に顕れている。
そもそも雄利の岳父は秀吉方の一益な時点でお察しw
信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に安堵状を発給しまくる始末www
信長がむちゃくちゃ『厚遇していた織田信澄』を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww
805人間七七四年:2012/03/24(土) 23:54:49.38 ID:dhACTUQK
>>739
天王寺の戦いでの信長の戦術は実に理に適っているぞ?
鉄砲大部隊に対しては縦隊突撃が一番効果的
この頃はまだ銃剣がなかったので縦隊で一丸となって突撃してきたら鉄砲隊がこれを防ぐ手段はなかった

んで一番ダメなのが長篠の武田軍のような小部隊の逐次投入
これでは一気に突破することは出来ず各個撃破されて終わりだ
まあ戦闘ドクトリンが織田と武田ではこれだけ差があったってことだな
806人間七七四年:2012/03/24(土) 23:56:23.16 ID:sGjNaDwq
だがの居ない時は他のスレでも荒らしが湧かない。

いやー不思議なもんだねえ。
807人間七七四年:2012/03/24(土) 23:59:03.60 ID:JjBZX7Z1
桶狭間‥先陣と勘違いしたら本陣がたまたま運よくあって雨と風が運よく吹いたから勝てただけ
天王寺‥公記にしかない。一次資料で確認不可
こんなもんが実力なら本能寺は実力で信長は負け
圧倒的大軍動員できたのに光秀に奇襲されて死んで全て崩壊させただけなんだから

808人間七七四年:2012/03/25(日) 00:01:06.05 ID:azxi54O/
1546年 信長初陣。
今川勢相手に何もできずに放火だけしてすぐさま逃げ出す。
後の多数の敗北を髣髴とさせる華々しい初陣であった。
1552年 信長家督継承。
素行の悪さからあちこちで「うつけ」と呼ばれて馬鹿にされ、
やさしかった父親の葬式にろくに服装もととのえないでやってきて
抹香を投げつける親不孝者。家臣失望。後にみんな離反。
守役の平手絶望。「守り立てる甲斐なし」といって自害。
1554年
村木攻め。斉藤道三から援軍もらって城を任せ、残り全軍で多数で攻めて成功。
1555年
叔父信光を使って清洲をだまし討ちにしてのっとる。
信光は用済みとばかりに信長に殺される。
1556年 舅道三が斉藤義龍に謀反され、窮地に陥る。
散々助けてもらってたくせに舅の危機に間に合わず、道三は討ち死に。
信長勢は行きがけの駄賃とばかりに、斉藤勢に攻撃され、あっという間に突き崩され
織田の武将が何人も討ち取られ、森も重傷を負う。たまらず敗走。
この無様な敗戦で尾張で離反相次ぐ。
1560年桶狭間の戦い。敵先陣と本陣を勘違いするというありえないミスを犯す。
先陣と勘違いしながら突っ込んだらいきなり大雨が発生し
今川勢が崩れる。本陣突っ込んだら大将が乗る塗り輿があり、
初めて自分が戦ってるのが本陣だと気づく。
大雨でぬかるんだ大地を逃げ切れなかった義元、織田勢に首を取られる。
1560年
桶狭間の勝ちを実力と勘違いしたか、
美濃にせめこみ、義龍にあっさり撃破される。2回。
1561年
斉藤義龍死亡。美濃は幼君が継ぎ、クーデター騒ぎまで起きるようになる。
信長、これを見て美濃侵攻。
嵐を利用して森部で勝利。
しかし調子にのって14条に攻め込んだら真正面から斉藤勢に撃破される。
織田一族信清の弟戦死して敗走。
軽海で夜まで戦ってなんとか追撃を振り切って逃げ延びる
1562年
14条で弟を死なせたからか信清離反。
尾張小口城を攻めて敗北。側近岩室長門死亡。
1563年
新加納で斉藤勢に敗北。
1565年 鵜沼猿食調略。丹羽のおかげ。
東美濃で武田の一部隊と衝突。あわてて兵を引き、婚姻同盟を申し込む。
堂々砦攻防戦。
砦攻略したと思ったら斉藤勢三千に襲われ死人負傷者多数出してたまらず敗走。
1566年
足利義昭から上洛救援要請来る。
信長はこれを受け、斉藤に和議と領土内通行容認を持ちかけ、斉藤はこれを受諾。
しかし信長は美濃に入るやいやな翻心し、斉藤領土に襲い掛かる。
し か し こ こ ま で し て も 勝 て な い。
攻撃はあっさり斉藤に防がれ、ここまでして騙まし討ちにしたのにあしらわれ
上洛救援も果たせず、「天下の笑い者」になる。
逆上して河野島まで進出するが、斉藤勢に迎撃されたら武具まで捨ててあわてて逃亡。
逃げる途中で洪水に見舞われ死亡者多数。逃げ遅れたものは斉藤勢に虐殺される。

809人間七七四年:2012/03/25(日) 00:01:58.99 ID:azxi54O/
1567年楠・高岡城の攻略に失敗。
1568年 義昭を擁して上洛開始。
浅井に押され、観音寺騒動で弱体化していた六角を攻略する。
このときは織田のみならず浅井・徳川その他も含めた5万近い大軍であった。
分裂していた三好勢、これに対抗できず京都から撤退。
1569年 北畠を大軍で攻める。しかし見事に敗北。
当時の公卿の日記には「神の戦であろうか?国司達の勝利である。」と記される。
困った信長は和議を持ちかける。北畠これを受諾。信長はあとで謀殺してのっとり。
1570年朝倉にいちゃもんつけて攻め込む。
朝倉と同盟であった浅井はこれに反発。織田を挟撃する。
信長は部下を見捨てて逃亡。金ヶ崎の醜態である。
1570年 姉川の戦い。
従来織田による織田のための宣伝で織田の大勝とされてきた。
しかし織田のいう朝倉浅井一万近く死亡して浅井長政死亡という割には
朝倉の資料では戦死120となり、浅井長政も生きている。
実際は痛みわけと見るのが妥当といわれる。
野田福島の戦い。
数に任せて三好勢を追い詰めるが、それまでの行動から不振をもっていた本願寺が
織田に対して決起。野田福島でこれを迎撃。織田勢は押し返され無様に敗走。
坂本攻防。織田の将である森と織田一族が雁首並べて朝倉浅井勢に討ち取られ
そのまま京都に侵攻される。
志賀の陣。
織田主力と比叡山に陣を敷く朝倉浅井勢対陣。
信長は手も足も出ず、領土奪って困窮させたはずの比叡山に援助を頼み込むが
当然断られる。堅田に派遣した坂井勢はあっさりと朝倉浅井勢に壊滅させられ
打つ手なくなる。
小木江攻防。
信長の弟がこもる尾張小木江を伊勢長島勢攻撃。信長救援送れず見殺し。
周囲を包囲網勢に圧迫され、窮した信長は天皇を介して
朝倉浅井に「朝廷とか公方とか寺社とかその他のことは仰るとおりにいたします」と
無条件降伏に近いこといって和睦。その後しっかり和睦を破る
1571年 伊勢長島第一次。
信長自らが大軍を率いて攻撃するが失敗。
撤退するところを追撃され大敗北。氏家朴全死亡。部隊壊滅。柴田も負傷。
比叡山大虐殺。
先年の志賀の陣の仕返しに比叡山を焼き討ち。もともと敵対させたのは誰だったと思ってるのか。
虐殺焼き討ちは天を焦がし、悪名は天下に響き渡る。
1572年 信長、本隊を率いて朝倉浅井と対陣。
嵐を突いて朝倉勢に陣地を焼き討ちされ、700以上焼失。
信長、横山城から美濃に帰還。
その後朝倉浅井勢、織田勢を攻撃し大利をあげる。
その戦果は常陸にまでとどろき、複数の同時代資料で確認される。
信長、武田織田の両属だった岩村を当主が死んだのをいいことに部隊を派遣してのっとる。
武田、これを受け秋山を岩村に派遣。岩村勢、これに呼応して武田につく。
武田本軍、徳川領土を次々と侵食。織田も援軍を送り、徳川とともに
三方ヶ原におびき出され完敗。
戦死武将50名以上、死者千名〜2千名に達する大敗北。
徳川はこれ以後しばらく三千ほどしか動かせなくなる。
1572年 武田の秋山隊、上村合戦で織田勢を撃破。
1573年
武田の馬場美濃、800余りの兵を率いて東美濃侵攻。
焼き討ちを行って織田を挑発。
信長は一万余りの兵を率いて進出するが、馬場美濃は手勢を率いて
織田勢を急襲し、織田勢敗走。信長は後ろも見ないで岐阜に逃げ込んだらしい。
信長、諸方を敵に囲まれ、「方々手ふさがり」と公記でも嘆かれる。
この状態で将軍義昭離反。
「人質だしますから和睦しましょ」と持ちかけるが拒否される。
天皇を使ってダッシュで和睦してダッシュで美濃に帰る。
信玄死亡。武田勢撤退。反織田勢の反撃計画潰える。
信長、勢いにのって浅井に攻撃をしかけるが撃退される。
810人間七七四年:2012/03/25(日) 00:02:20.58 ID:azxi54O/
伊勢長島に美濃と尾張の国境を焼き討ちされる。
反撃計画が潰えたことで自壊の始まった朝倉を攻撃して倒す。
朝倉は一門に裏切られての最後であった。
返す刀で浅井も総攻撃して攻略。朝倉・浅井長政・久政の首ははくだみにされたという・・・。
調子にのって伊勢長島を攻撃。
第2次伊勢長島。伊勢長島本城を攻略できず、引き返すところを攻撃され、
一の重臣林家の嫡男林新次郎率いる部隊とその与力を殿にするも
一揆勢の猛攻で壊滅。一揆勢の攻撃で体制を整えることも暖をとることもできず
凍死続出。信長もこれを突っ切って夜に岐阜に逃げ込んだ。
1574年 越前蜂起。
苦労して朝倉を倒して越前を制圧したと思ったら、そのあまりの杜撰な統治に
反発した旧朝倉家臣団が一向一揆と結んで蜂起。
織田の支配層はあるいは叩き出され、あるいは殺され、越前は一揆持ちの国となる。
武田討伐の後の甲斐と非常によく似たパターンであり、懲りない男である。
結局越前が再び信長の手に戻るのはこれよりおよそ2年後。
朝倉攻略から3か月。短い平定であった。
東美濃攻防。
信玄死去後の武田、東美濃に侵攻する。明智城をはじめとして織田方の城を次々に攻略。
信長は三万の大軍でこれを救援に行くも、山県率いる武田勢六千に険路を抑えられ、進むに進めないうちに武田に城を攻略され退却。武田は織田方の東美濃18城を攻略した。
石山本願寺を大軍で攻めるが攻略できず撤退。
武田軍、徳川方の高天神城を攻撃。徳川は織田に救援を要請。
信長の救援は遅遅として間に合わず、高天神陥落。家康失望。
1574年家康の嘆きとか無視して伊勢長島の攻略を開始する。
第三次伊勢長島。
大軍で攻めながらも一揆達の激しい抵抗にあい、兵糧攻め。
三か月ほどこれを続け、一揆勢、餓死者や身投げして死ぬ者続出。
一揆勢信長に降伏し、武装解除して長島を退去する事を受け入れる。
し か し 信 長 は 当 然 の よ う に 約 束 を 破 る。
武装解除した一揆勢が長島を退去する為に出てきた所を大軍で包囲。
大量の鉄砲を打ちこみ、そのあと総攻撃に移る。
し か し こ こ ま で し て も 大 損 害 を 受 け る。
餓死寸前で武装解除もしていた一揆勢、多くが織田勢に虐殺される。
この中で激怒した一揆勢の800余りが、武具もつけず刀しかもってない状態でありながら
信長勢に突撃する。
信長勢数万はこの飢え死に寸前の一揆勢800に突き崩され、打ちのめされ、兄信広達一門10人をはじめとして多くを打ち取られる大損害を受ける。
その一揆800はそのまま織田勢を突破し、多芸山から大阪まで逃げ延びた。
飢え死に寸前の一揆勢800に数万の兵でこれだけ一門を殺され、しかも逃げられるのは前代未聞の成果と言っていい。
逆上した信長、まだ城に残っていた、ろくに動けもしない一揆勢を城ごと全て焼き殺した。
長島近隣住民はこの卑劣なだまし討ちと虐殺を長く恨み、織田勢に宿を貸すのも嫌がるようになり、織田勢はあと後まで苦労する事になる。
武田軍、徳川領土に進攻。家康の主城浜松城下にまで踏み込み、稲を悉く刈り取り、城下町の屋敷も盛大に焼き打ちし、拠点となる城も築城して帰還。
織田は相変わらず救援を送らず。家康絶望。武田への鞍替えを検討し始める

811人間七七四年:2012/03/25(日) 00:11:41.85 ID:azxi54O/
元亀3年10/18付け河田宛の謙信書状による反論でありその文中には「遠山号岩村認候処 城主取合 敵数多討捕 敵追払候」
と抜き出して柴辻が論を展開してるだけなので忠実に一字一句の抜き出しも付け足しもしてないので
別に歪曲したり捏造などしてない。そしてこの柴辻への反論はまったくなされてなく
無血開城論などすでに廃れた話で現在は誰も無血で譲渡されたなど書いてない。
さらに武田方の遠山氏が勝ったなどとこちらは一度も書いてないのに「織田にボッコボッコにされ」などと得意がっててバカ丸出しの織田厨だが
結局、この信玄死去に至る経過において岩村城周辺でボッコボッコにされまくったのは織田方な事実はスルーw
ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、
信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。それで11月には岩村城が武田に取り返され、
11/9にはその戦功として信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。
ちなみに苗木城主遠山直廉の娘は高遠城主武田勝頼と永禄9年に12歳前後で婚姻していて、
勝頼後継者の信勝を産んだが死んでしまった。信玄が元亀3年に絵馬と鍋山らの呼応を得て
木曾勢による飛騨攻めした際に直廉も参加し、その時の矢傷を受けたのがもとで亡くなった。
7/7に信玄は岩村城の景任と苗木城の直廉宛に小里を時期を見計らって成敗するように言っており
苗木城も武田方だった。だから後年に勝頼の明知城攻めの時も妻の実家の苗木城だけ攻められなかった。
苗木城も武田方だったんだろうね。
どう考えても織田が岩村城を奪回して秋山を討つまでは苗木城が織田方として持ちこたえていられるわけがない。信勝に弓を引くとか考え難い。
松永久秀の元から土岐頼芸(妻は六角義賢姉妹)も美濃に帰国したから武田軍が来たら土岐郡も反織田で呼応挙兵するのは間違いないよ。
郡上八幡の遠藤に岐阜にほど近い鉈尾城の修築をさせてるぜって義景に信玄が11/19に手紙出してるし
(信長を敵として戦ってるとも書いてる)
10/3に甲府を出撃し信長と開戦するや早くも完全に岐阜城を射程圏内に収めてる。
12/12には岩村に兵を移動させたから来春は美濃攻めるよと宣言し、12/22に三方ヶ原で織田徳川連合軍を大敗させ
12/28には義景に信長滅亡の時がやってきたと信玄は書いてるし、1/11には義昭に信長を絶対に許してはならないと信玄は決断を促してる。
完全に信玄が情勢を操ってる。義昭が村井屋敷を包囲して先制攻撃したのは御湯殿上日記にあるし、
信長親子が頭を剃り、武器も持たずに謁見して和睦したいとするのはフロイス書簡にある。
細川に信長はお前も人質に出せって義昭が言ってるんだぜ!とか喚いたり愚痴りまくってるだけじゃんw
上洛した時は荒木と細川しか味方に参加するやつがいなくて、信長は細川に贈り物まで贈って大喜びして関心を買う
普段は横柄なのに困った時だけ媚びる卑しさを露呈。
美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を岩村城攻め感状だと横山住雄氏が指摘してるわけだがw
お前は信長に都合悪い話はぜんぶ認めないキチガイなのは明白なんだがw
遠山氏は一向宗の美濃安養寺や飛騨照蓮寺の影響を受け、西美濃は大垣を中心に湖北の湯次誓願寺や福勝寺の影響下にあった。
加治田(富加町)・津保(関市)・鉈尾(美濃市)を帰属させた信玄と伊勢門徒による岐阜城までわずか三里に新要害建設し日根野を入れたりと
美濃織田領国は崩壊前夜にあった。また信長方の反撃に対して3/6に信玄が秋山虎繁に東美濃へ出陣命令を下し
当代記によると信長の息子の御坊丸を甲府へ送ったとする。そしてこの時期において松原信之氏が著書で義景本人の元亀4年の出撃を
3/11で敦賀までやってきていて、5/10に一乗谷へ帰国したと書いてるから朝倉先陣は3月中に小谷まできて普請を始めてるはず。
812人間七七四年:2012/03/25(日) 00:11:51.84 ID:azxi54O/
木曽考にでてる美濃の一郡なんてバカでかい話を信じないよな?
8/7山村三郎九郎宛て三木攻め感状における内容を見ても加増なんて話は出てこない。
岩村城の攻防は激しく感状を出した後に再奪回されたりしてる。11/15に信長が岩村城を取ったと聞いたから
私も出陣する。川尻と信広から聞いてくれと小里に書状を出してる。しかしその日付以前に再び武田が岩村城を奪回して
11/9に山村らに感状を出してる。これにより岩村城の武田所属が確定し、
信玄も岩村城に兵を移動させたから来春は美濃攻めると書いてる。岩村城は11/14よりもう少し早く開城してるだろう。
その報告を信長が得て11/12に赤沢、11/15延友に急いで替地をあてがう書状を出して動揺を押さえようとしてる。
岩村城攻防では武田所属を確定させた軍事的結果を出した川尻と信広もやってきての
上村合戦みたいなものがあった可能性も高い。
813人間七七四年:2012/03/25(日) 00:31:11.51 ID:+Jrf5OMi
>>801
それをしなかったんだから信玄は無能
浜松攻めてもなぜか利なしと考えた信玄の無策。

結局その徳川のせいで奥平は寝返り長篠合戦になったんだから
信玄は馬鹿と言わざるを得ないな
814人間七七四年:2012/03/25(日) 00:52:42.17 ID:PzJJhQtO
都合が悪くなるとコピペで流そうとするよなだがは。
815人間七七四年:2012/03/25(日) 00:57:01.43 ID:1+c87/sx
>>796
敵援軍に包囲される可能性のこしたまま敵の城を囲み続けるかよ
そのほうがおかしいだろ

>>797
たまたま鼓舞のために使った言葉が実現した
偶然を否定するのはいいが、それ相応の根拠があるんだろうな?
妥当といいつつ、妥当だという論理が全く示せてないだろうが
いうなれば、妥当だとお前が思っているというだけの話

事実を抜き出せば、書状で突撃するよと書きました、戦場で突撃したとされている
これだけだ
ムリから結びつけてるのはお前じゃないのか?
816人間七七四年:2012/03/25(日) 01:03:39.64 ID:oYiZ8VUg
>>813
余勢を駆って一気に一乗谷まで攻め込んだ信長や北の庄まで攻め込んだ秀吉とはそこが違うよな
817人間七七四年:2012/03/25(日) 01:18:15.51 ID:PzJJhQtO
だが他スレへ逃亡。
818人間七七四年:2012/03/25(日) 07:30:25.37 ID:azxi54O/
>>815
相変わらず馬鹿だな
書状の内容が嘘という根拠がない
しかも書状の内容通りの行動を勝頼がした
この事から書状の内容は真実と見るのが当たり前
根拠なく鼓舞目的とかにこじつけるのはただの妄想

お前の論理だと信長が戦勝や拠点占領の報告をした一次資料類なんかも全部鼓舞目的でいいな
819人間七七四年:2012/03/25(日) 08:32:20.50 ID:1+c87/sx
>>818
本心だという根拠自体ねえだろ
無理から結び付けてる根拠もな
なんで関連させて捉えるのか、その必要性は、根拠は
そんな言うならこれらを明らかにしろよ
鼓舞目的の可能性もあらあな
他の安堵状なり禁制なりで実効支配が確認されなければ、その可能性は否定できんわ
820人間七七四年:2012/03/25(日) 08:38:35.99 ID:azxi54O/
本心だという根拠=その通りの行動をした
書状に本心以外の事を鼓舞目的として書いたという根拠なし
書状の内容が嘘でまかり通るなら信長が書いた書状の内容も全部嘘
鼓舞目的喧伝目的でまかり通る。
よって勝頼が長篠での自爆行動は重臣ではなく勝頼の判断だった事が馬鹿でもわかる
821人間七七四年:2012/03/25(日) 08:41:12.81 ID:azxi54O/
信長が勝った戦なんて全部鼓舞目的や喧伝目的で言っただけだろw
長篠の勝ちなんて口からでまかせの喧伝目的に決まってるし
勝頼も長篠直後でも軍動かしまくってるしそんな大勝したにしては誰も寝返ってないしなw
822人間七七四年:2012/03/25(日) 08:43:32.84 ID:azxi54O/
信長がどこどこを滅ぼしたなんて全部鼓舞&喧伝目的
他の史料も織田信者が後世に全て改ざんしただけ
そんな大勢力圏持ってたにしては家康が天下とって織田幕府なんて開かれなかったんだから
823人間七七四年:2012/03/25(日) 08:48:04.79 ID:azxi54O/
あと長篠後も勝頼は織田への戦意まんまん
この事からいえるのは書状の内容通り織田への突撃を考えるような猪武者だったか
勝頼が長篠で大敗したというのは嘘で、織田への恐怖を微塵も持っていないかどちらか
長篠で武田が大敗したのが嘘というのは容易に考えられる
重臣連中が勝頼の政権に邪魔で殺す目的で突撃させただけとかな
824人間七七四年:2012/03/25(日) 08:56:41.38 ID:YXRoUzl/
だとしたら重臣失ったあげくに織田の攻勢時にあっさり家臣に離脱されまくってあっけなく滅んだ最悪の無能当主になるんじゃね?
825人間七七四年:2012/03/25(日) 11:20:02.14 ID:j1fQoCsh
馬場山県内藤土屋のうち、誰かが生き延びてそのまま1582年に至った場合、織田に寝返る可能性はある?
俺はこの4人はまあ裏切りはないだろうと思う。途中で逃げ出すかもしれないが。
826人間七七四年:2012/03/25(日) 11:29:23.16 ID:boSddDYB
>>824
武田滅亡の三ヵ月後に後追いで信長親子が下克上されて虐殺され
織田が別の家臣にさらに下克上されて当主の座をダブル簒奪された織田って・・・
827人間七七四年:2012/03/25(日) 11:52:19.68 ID:kwxCEiK3
>>815
軍鑑は捏造捏造と言って、せっかく残ってる書状の内容もひねくれた読み方しか出来ないんだから、
武田の歴史は貴方の頭の中でご自由に作って下さいとしか言えないな

>>821
>勝頼も長篠直後でも軍動かしまくってるしそんな大勝したにしては誰も寝返ってないしなw

二俣と岩村に援軍送れなかったし、死んだのは老臣だけではなくダメージはどう見ても大きい

>>825
生きてても跡部・長坂とうまくやれず左遷されてるんじゃない?
一応、山県・馬場の子の最後は戦死したのか降伏後処刑されたのか不明
山県の従兄弟が寝返っている
土屋昌続の弟だけ最後まで重臣で天目山で殉じている
828人間七七四年:2012/03/25(日) 12:01:37.63 ID:boSddDYB
>>765
お前の翻訳が完全なデタラメw
12日の藤孝の書状を読んだ信長が返答した15日付書状において
「鉄炮放同玉薬之事 被申付之由尤候」と書いてあることから、
細川文書を大量に所蔵している熊本大学の稲葉氏と熊本日日新聞社の共同研究でも
藤孝が書状を出す12日までの間に、京都で藤孝が射手と火薬を調達するために奔走し
その藤孝の調達報告に信長が喜んでいる書状としてるぞ。
信長の初歩的な段階にある鉄砲隊を機能させる上で藤孝は重要な役割を果たしたとしてる。
そしてそれらが長篠に届いたことで21日に戦いが勃発し、
藤孝が調達に骨を折った鉄砲隊による勝利を一刻も早く藤孝に報告したのが
5/26に信長が「即時切崩、数万人討果候」と過大戦果報告してる書状。
即時どころか9時間近い武田の猛攻だったがw
このあとに勝頼の首はまだ見つからないが河を漂流している死体の中に混じってるか。
なんと言っても甲・信・駿・三の軍兵残らず殺したからね。
そもそも信玄が忘恩したのが悪いし、勝頼も同じ糞人格だからな。
などとデタラメにデタラメを重ねる糞人格者信長。
実際は、信長が困ってるのを救うために信玄が織田と本願寺の和睦交渉をしてやってる最中に
信長は小里氏を後援して岩村城を奪取しようと企み、信玄はそれを察知するも
残念なことだと嘆息しつつ、見なかったことにして、織田との同盟に配慮してたら
岩村城を奪い取って自分の息子を城主に据える暴挙をして信玄を反織田陣営にしたのが信長。
忘恩なのは明らかに信長の方だしw
829人間七七四年:2012/03/25(日) 13:12:16.36 ID:3SJHYoUv
長篠の武田軍って何手も入れ替わって粘り強く戦っているんだよ。
軍鑑他の悪質な史料や創作捏造交じりにあるような、厭戦気分だの自殺攻撃だのが指揮官層にあったとは思えない。
(玉砕死した部隊なんてない。新手と交代している。損害は退却戦になってから)
武田軍全体の意志が強固な決戦にあったのは確か。
信長にしてやられたのが悔しいのか、創作では凄い勝頼や側近に(不在な人間にまで)責任押し付けているけど。
これって一番武田を貶しているよな。
830人間七七四年:2012/03/25(日) 13:25:30.98 ID:3SJHYoUv
軍鑑というおかしいのを信じるなら、高坂は裏切りそう。
だってこいつ、堂々と「領国の過半を北条にやって、その配下になれ」と放言している(ことになっている)ぐらいだぞ。
ガチでいってたらそれこそ自分が切腹命じられるレベル。
831人間七七四年:2012/03/25(日) 13:57:48.55 ID:WwACDTog
>>829

あのさ、軍鑑読んでないくせにデタラメ書かないでくれる?
厭戦気分とか自殺攻撃なんてどこにも書いてない
不在の側近のソースも出してね
領地の過半もあげるなんてどこにも書いてません
甲陽軍鑑ちゃんと買って読んでから書き込みしてね
832人間七七四年:2012/03/25(日) 13:59:45.56 ID:3SJHYoUv
>>831
具体的にいってみ?w
勝頼と側近二人以外反対したのに、三人が勝手に決めたとか。
ここは死に戦だから若い者は逃げろと馬場が言ったくだりとか。
お前が知らないだけじゃね?w
833人間七七四年:2012/03/25(日) 14:01:50.49 ID:3SJHYoUv
>>831
軍鑑の長篠敗戦後の高坂()の五箇条意見のくだりでも、
はっきりと駿河・遠州は氏政にさし上げて〜と、他のありえないほどの無茶な要求と並んでいった(事にされているw)わけだが。
834人間七七四年:2012/03/25(日) 14:02:46.26 ID:azxi54O/
圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面&まるで城みたいな陣地
こんな状況下で9時間以上戦い続けて柵も破りまくったんだからいかに名将ぞろいだったかがわかる。また
・勝頼が「相手は打つ手がないみたいなのでこちらから突撃してやる」
・勝頼が「今回の織田との一戦を危ぶむ者がいる」と書いている
・武田一族衆は戦死者皆無
・武田譜代衆は信玄たたき上げ
山県→信玄の元小姓で兄売ってでも武田の為に仕える
内藤→信虎に追放された後の活躍が認められて兄を差し置いて上野まかされるほどの抜擢を受けた
土屋→信玄の元小姓で兄弟揃って武田に殉じた金丸家出身
馬場→勝頼を逃がすため殿軍買ってでる、織田に評価されるほど
・勝頼は長篠戦後も信長と乾坤一擲の決戦をやるつもりでいると書状に書いている
・勝頼が長篠戦後も重税&軍制改革に臨み、書状の内容が嘘でなく勝頼の意思である事がわかる

これらの事実から勝頼が織田の待ち構える陣地に無謀に突撃していった事が主な敗因であると容易に想像がつく
家臣の連中がどうだったとかどうとかはただの妄想
わかるのは譜代衆は皆命を賭して戦ったという事だけ
835人間七七四年:2012/03/25(日) 14:05:23.65 ID:3SJHYoUv
まぁこの捏造五箇条の中でも一番無茶なのは、戦死した馬場らの息子に権限相続させるな、というあたりだ罠。
当時の武士が命がけで戦うのは、死後も家が立っていけるからというのが大半。
これ否定したら、それこそ武田は戦わずして自壊している。
後世の捏造でしかありえん。高坂()が武田潰したいのならともかく。
836人間七七四年:2012/03/25(日) 14:06:31.24 ID:WwACDTog
>>832
具体的もなにもおまえが軍鑑に書いてないことをでっち上げてるだけじゃないか
厭戦気分と自殺攻撃書いてあるとこ教えてね?
不在の側近のソースは?
駿河遠江で過半ですか?過半は訂正しろよ
837人間七七四年:2012/03/25(日) 14:08:57.68 ID:3SJHYoUv
>>836
だから書いてあるって。
お前こそなんで書いてないと断定した?w
もろ長篠戦のくだりだぞ。
当時、長坂は別の場所にいて、それに当てた勝頼の当時の書状が実在。
そんな基本知識も無く、自分の妄想に都合悪いからって否定してるだけか?
訂正する理由ないな、領国の過半じゃん。
838人間七七四年:2012/03/25(日) 14:13:17.48 ID:3SJHYoUv
軍鑑捏造で特に酷いのは馬場の最後。
わざわざ撤退できたのに、敵の前に戻って刀に手もかけず首取らせたとかある。
これこそありえねぇw
839人間七七四年:2012/03/25(日) 14:15:15.58 ID:WwACDTog
>>837
ここで何度もでてるが長篠直前の長坂宛の書状は別人宛 との説が有力
軍鑑の長篠の章に自殺攻撃やら厭戦気分とかどこに書いてあるか早く教えてね
駿河遠江で過半って過半の意味知ってますか?早く訂正してね
840人間七七四年:2012/03/25(日) 14:18:45.26 ID:azxi54O/
>>838
60過ぎの老将なんだからありうるだろw
あんな老い先短い老人の首取った取ったってよろこんでるのが織田
841人間七七四年:2012/03/25(日) 14:19:14.56 ID:3SJHYoUv
アスベの「だが」じゃあるまいしすぐばれる捏造なんてしないよw
明らかな捏造を指摘してはいるがなw
842人間七七四年:2012/03/25(日) 14:56:07.41 ID:flZ2MKpi
軍鑑よりさらに成立年代が遅く信憑性もアレな朝倉始末記でも
新興の悪い側近のいう事ばかり利く暗君VS老臣という構図をでっち上げている。
ある意味で創作のデフォルトだろう。
843人間七七四年:2012/03/25(日) 15:05:42.11 ID:flZ2MKpi
武田(河窪)信実ら親類衆も長篠では討ち死にしている。
たまたま主戦場で(史料にはっきり名が残るような)戦死が出なかった、というだけで親類衆筆頭クラスを切腹させよ、とかも。
後になって親類衆からさえ寝返りが出たことから逆算した創作としか。
史実として、勝頼や武田家に殉じて討ち死にすらした人たちを悪役にするあたり、もう何か含む物があったとしか思えない。
844人間七七四年:2012/03/25(日) 15:05:53.97 ID:azxi54O/
実際によくある構造だったって事だろうな
武田なんかもその一例だったってだけだろう
845人間七七四年:2012/03/25(日) 15:10:00.64 ID:azxi54O/
武田信実が戦死したのは鳶ノ巣山砦の攻防。これは陣地に突撃して散っていった攻防とは場所が違う
長篠主戦場では親類衆はろくに戦死していない。
後から親類衆から寝返りが出た事実・長篠で親類衆はろくに戦死していない事から
よく言われる親類衆の勝手な退却が敗北に拍車を欠けたといってもいいだろう
846人間七七四年:2012/03/25(日) 15:31:49.93 ID:hG/9rXDF
まぁ……武田からすればどこかで決戦しないとジリ貧。
信玄が、有用な同盟者だった信長の背後を突然襲ったのも結局は恐怖感からだろう。
何しろ動員力二百程度にまで家督相続のごたごたで落ち込んだ信長(武田のちょっと大身家臣レベル)が、一代というか半代で何カ国も切り取ったわけだ。
それこそ化け物か何かに見えてたんじゃないのか。
どっかで大打撃を与えないと飲み込まれるっていう危機意識があったから創作なんかと違って武田軍は何時間も波状突撃をつづけたんだろう。
847人間七七四年:2012/03/25(日) 15:43:56.12 ID:azxi54O/
>>846
元亀3年7/7付けで信玄が小里氏の背後に信長の後援があり残念でならないがとりあえず許すと見て見ぬフリをする方針にしたことを述べていて
織田との抗争にならないよう配慮してたら信長が11/15に岩村城を奪った小里内作へ書状を出してる。
明らかに信玄は信長との信義を守っていたら裏切られてる。
相手は打つ手がないみたいなのでこちらから突撃してやると勝頼は息まいているから
むしろ敵軍を侮っていて負けただけ
長篠後ですら信長と乾坤一擲の決戦をやると書いているからな
848人間七七四年:2012/03/25(日) 15:45:17.31 ID:azxi54O/
信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述がある。
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。

勝頼がいくら信長が戦下手だからって
ナメ過ぎてたった15000で勝てると増長してたのが武田滅亡スイッチだし
武田が3万くらい動員して9時間に渡り攻勢に出てたら織田なんて踏み潰してた。
鉄砲三段なんて捏造話を作って圧倒しましたイメージを必死に創造してたようだけど。
まあ手取川でエア大敗したほどの弱織田軍だしねぇ。
しかも丹波の一国人の赤井直正にまで大敗したのが織田軍。
義龍や信玄や謙信や元就や直正が死んで超ラッキーだったよね。

遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに
信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを
信長は引きずっているのがわかる。
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられたわけだしな。
長篠では甲州兵の勇敢さを恐怖を骨の髄まで味わったんだろうな。
織田が圧倒的兵力になったのは
包囲していた本願寺が天皇の和睦を受け入れた天正8年8月以降。
それでも紀伊の高野山が織田に抵抗していて
織田は攻めあぐんでいる。結局、高野山は本能寺の変まで
山内に織田軍の進入を許さず凌ぎきってしまった。


849人間七七四年:2012/03/25(日) 15:45:49.97 ID:azxi54O/
天正7年初頭にも勝頼が毛利と荒木と本願寺を救うために
織田戦力を分散するために家康攻めで出陣OK返事出してんだよな。
その時に輝元が宗麟に足を引っ張られたごときで
武田との約束を破り正月16日出陣を無期延期にしやがったから
合同作戦じゃなくなって武田単独で
景虎自刃した3/24を過ぎてからの
4月より遠江高天神・国安(掛川市)を荒らしてて
信長も急いで摂津戦線から安土へ帰国してる。
いそぎ本願寺や荒木もこのチャンスに出撃せよと毛利に要求するが
まったくのヘタレぶりを露呈したために、
これを見た宇喜多・南条らも毛利を見限り、
天正8年になると荒木が破れ、本願寺も朝廷の勅令和睦を飲んでしまい
武田と毛利の滅亡が確定した。
しかし本能寺の変のおかげで毛利は滅亡を免れた。
結局、毛利がありえないくらいヘタレだから
織田を討つチャンスを何度も自らぶっ壊してる。
ちなみに8月末に厩橋北条高広が北条から武田へ服属先を変えたことをきっかけに
9/5北条と徳川が同盟したことを受けて武田内通の罪で信康が9/15に自害させられてる。
武田は佐竹らと同盟して北条を圧倒。伊豆浦でも武田水軍は北条水軍を圧倒し連戦連勝。
氏政は「このままでは北条は滅亡に向かう」
「上州は武田のものになってしまう」などと武田を恐れまくる。
しかし同時期に石山本願寺が勅命和睦命令の連投に恐れ多いと受託してしまう。
それでも天正9年末まで北条を圧倒し続け伊豆まで攻め込み里見氏も同盟参加。
徳川も高天神城をやっとの思いでなんとか攻略できたが、そこまででしかなかった。
所詮、家康は穴山とどっこいどっこい程度の実力しか無い。
天正10年の織田の攻撃のタイミングが浅間山噴火とシンクロして武田が崩壊しただけ。

元亀4年の信玄西上の時の織田は金も火薬も兵糧も無いので幽斎に調達するように命じたが
無理だったから、信長自らが指揮して京で恐喝略奪して凌いだ。
同じように幽斎には長篠の戦い寸前の時期にも信長が今回は鉄砲の玉薬だけだが
調達を要求していて、この時は調達できるようになっていたのが
5/12の幽斎書状への5/15信長返書書状でわかる。

5/20には玉薬が到着したようで信長はそれに関して「祝着だ」と大喜びし
家康はいよいよ陣城に籠城して討ってでない体制を構築して長篠城落城の危機に焦り
5/20夜に酒井忠次らによる鳶ヶ巣山砦襲撃計画を発動したために
勝頼の攻勢を生み出し、さっそく5/21に長篠の合戦が起こってる。
そして5/26岐阜に戻るやさっそく幽斎に詳報して感謝してる。

つまり信長は火薬到着待ちをしていたので
勝頼は19日までに信長を攻撃してれば勝てた。
13日に出馬し、14日に岡崎に信長は到着してた。
850人間七七四年:2012/03/25(日) 15:46:17.53 ID:azxi54O/
付け加えるとして5/15書状の内容から
鉄炮放と玉薬の調達の報告だとわかるんだが、
鉄炮放とは砲手を意味しており、実際には細川が
玉薬と鉄砲の使い手を雇っていることを意味してる。
これは5/17付多聞院日記にも伝聞内容のためにタイムラグがあるものの
信長の命令で筒井が鉄砲衆50名を派遣と記しており
細川や筒井らが堺あたりから鉄砲衆を雇い入れて派兵してると思われる。
それを佐々や前田や塙らに配分して率いさせたと考えられる。
(当時の武士は鉄砲を扱わず百姓・足軽・雑兵のような身分に使わせてる)

また6/13付けの信長から上杉への書状において兵糧の調達が不充分なので
織田軍は撤退したとも述べていて、対陣長期化も織田軍は望んでいなかった。
武田が対陣を続けていたら、織田は長篠城を見放して和議を結ぼうとしただろう。
8/13には秀吉が兵糧を調達していて、信長はそれを小谷城で受け取って
越前一向一揆を討伐に向かっており、
数万人規模の老若男女の区別ない越前一円での大虐殺大会と大略奪を開始し9/26に帰還する。
10月初頭には石山本願寺が織田と和睦しようとするが、
信長がホントかどうかわからんからしばらく様子を見てから朱印を与えてやるとか余裕をぶっこくが
翌年1月に吉川に支援を願っていた赤井氏に呼応した波多野氏との挟撃で
明智軍が大敗北&摂津でも石山本願寺に織田軍がダブル敗北を喰らうw

851人間七七四年:2012/03/25(日) 15:56:21.10 ID:wa/QZ/X5
どの武田も織田に敵わない。
伊達より先に破れた武田は無能。。。。。。。。
852人間七七四年:2012/03/25(日) 15:58:17.80 ID:azxi54O/
領土拡張率ランキング

         家督相続年  相続時勢力圏  最終勢力圏  勢力拡大率
1宇喜多直家    1555年     0万石    30万石      ∞
北条早雲     1460 0 万石   25万石      ∞ 
3徳川家康     1560年     2万石    1790万石     895倍
4最上義光    1533年     1万石  54万石      54倍  
5津軽為信    1540年    0,7万石  24万石     34倍
6葦名盛氏    1532年?     2万石    60万石      30倍
7伊達政宗    1585年     15万石    180万石     13倍
8武田信玄   1541年    14万石    130万石      9倍
9上杉謙信    1548年     23万石   178万石       8倍
10毛利元就    1526  10万石    60万石     6倍 
11北条氏康    1541年     45万石    180万石      4倍

最下位 織田信長 30万石    0           0倍



ちなみに領土拡張スピードなら
短期間で包囲網打ち破った伊達政宗>>>>>>雑魚信長

853人間七七四年:2012/03/25(日) 16:03:47.03 ID:oYiZ8VUg
>>823
じゃあ何で秋山を見殺しにしたんだよw
854人間七七四年:2012/03/25(日) 16:07:03.53 ID:azxi54O/
信秀は天文10年(1541年)、伊勢神宮遷宮の際、材木や銭七百貫文を献上だけでなく
朝廷に献金した金額ランキング
1 織田信秀 四十万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
2 大内義隆 二十一.四万疋 天文四年(1535) 即位費
3 大内義隆 十万疋 天文六年(1537) 不明
4 三好長慶 六万疋 弘治三年(1557) 大葬費
5 今川義元 五万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
ぶっちぎりのトップは信長の父親である織田信秀で、
彼は何と「ライバル」である今川義元の10倍近い金額を献金しています。
「四十万疋(=4千貫)」っていくらだよ??ということになりますが、
北条氏の軍制では700疋で兵隊を1年に1人雇えたらしいので、
だいたい600人を1年間雇えるくらい

ただ焔硝の製法である古土法だと大量生産ができずに普及が進まなかった(当時は明との交易は禁止されていた)
信玄なども1555年正月に焔硝について触れている書状がある。
1549年太原雪斎が信秀の安祥城を攻略した決め手も奇襲した際の鉄砲だと言われてる。
良質のインド産の焔硝をポルトガル商人から輸入できるようになってから大量運用が可能になる。
ちなみに1567年信長が岐阜城を落したのと同時期に
宗麟が司教宛てに毛利への硝石の輸出禁止と
毎年良質な硝石200斤の大友への輸出を航海指揮官ピタン・モールに頼んで欲しいと依頼しているほどの戦略的な軍事物資。
信秀が死ぬ2年前の1549年に信長が近江の国友村に高級品の火縄銃500丁を注文しており、
道三との正徳寺会見でその鉄砲を大量所持していて道三が驚いたとの記述があるが、
希少価値が高い硝石の在庫がそんなにあったのだろうか・・・
もしあったのなら尾張国に集まる経済力と富は突出していてとてつもないものだったろう。

信秀による実質的な尾張統一完成が稲葉山城攻撃につながったと言われてるからね。
ロクに優秀でもない林・佐久間・平手を付けられた信長が与えられた名古屋城の税だけで
そんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。

まだガキだった時の信長のお小遣いで超高級品だった鉄砲500が買える尾張の財力だったり、
信秀から尾張ほぼ一国60万石+美濃大垣城+三河水野信元を引き継ぎ、
しかもむちゃくちゃ優しい道三が貢献とか
信長ほどチートスタートな大名っていないよな。

超過保護大名斎藤道三
信長「お父さん知多半島の今川軍の城が気になって眠れません…」
道三「おぅおぅ他ならぬ婿の頼みとあっては何とかせねばな!して場所は?」
信長「松平家忠が村木城にいて水野信元が私に援軍要請してるが私では…」
道三「わかった。ワシの手勢の安藤守就を那古野城に援軍に派兵してやろう」
信長「有難う御座います!このご恩必ず返します」
義龍「なんで尾張のために美濃兵の血を流さないとならんのか?クソ爺を殺すしかねーな!」
855人間七七四年:2012/03/25(日) 16:10:17.88 ID:azxi54O/
信長が神戸氏に大敗した永禄8年に市を六角氏の斡旋で浅井に嫁がせ協力を取り付けて
やっと近江浅井からの挟撃の軍事的圧力のおかげで翌9年に信長は西美濃の調略に成功し
10年近くかけてやっと永禄10年に美濃を奪うことができたくらい信長は戦の下手くそだからね。
そもそも信長公記はデタラメだらけだしね。例えば伊勢なんて簡単に平定したみたいに書かれてるけど
永禄10年(1567年)に滝川を先鋒に4万で伊勢侵攻したが
仁木氏勢力圏の楠城の山路弾正の籠城&神戸氏への支援として
白子からの伊勢水軍・鳥羽からの志摩水軍&鈴鹿の関氏の他に
長島門徒・高田門徒・天台宗信徒に呼応して美濃で氏家・安藤・稲葉が謀反の噂が流れ。
さらに支流支援として北畠氏は鳥屋尾石見を使者として信玄とも
協調し徹底抗戦したから滝川を放置して信長は逃亡してるし、
永禄11年11月の伊勢攻めでは去年の屈辱からかおよそ武士とは言えない略奪暴行大虐殺をしまくって南下するも苦戦。
結局戦闘行為で力でねじ伏せることを諦め神戸氏に人質として信孝と信包を与えて縁戚化させるしかなかった。
(情勢的には10/18義昭征夷大将軍になったり10/28松永久秀が幕府に降伏するなど
続々と幕府に帰順降伏していて六角義秀や仁木義政らの影響も受けている神戸氏は義昭への協調姿勢に転じた)
織田軍は永禄12年春には安濃津城前面まで来ながら抵抗が激しく信長は逃走してる。
この頃、長野氏やその家臣の細野氏や雲林院氏らが家中で内紛を起しており、
(もともと具藤は暗愚だから長野氏の養子に迎えることに細野・雲林院は大反対だった)
それに乗じて織田軍はやっと進出し長野具藤は長野城を放棄して実家の北畠氏へ逃げ、
細野藤敦から離反した弟達の尽力により神戸友盛の娘を娶っていた信包が入城した。
怒った細野藤敦が長野城を奪い取ると滝川の子を信長養子にし
細野へ人質として渡し味方になってもらった。 関盛信は信長帰属を良しとせず六角承禎の近江日野城へ逃亡。
永禄12年5月北畠四御所木造氏が北畠内での序列に不満があり織田方へ走るや
北畠は信玄・伊賀・大和へ支援要請し大和三人衆秋山・沢・芳野らも動員して木造を滅ぼそうとする
織田も伊勢神戸・長野に滝川・織田信昌を援軍派兵し滝川三郎兵衛が
九鬼を買収し一部の志摩水軍が北伊勢反北畠連合に寝返る。
北畠が2ヶ月に及ぶ親族同士の殺し合いをして疲弊してると見て取るや信長7万で自ら出兵し
北畠氏を踏み潰そうとやってきた信長は大河内城2ヶ月大包囲で高級幹部20人以上が討ち死に大敗。
撤退での追撃を恐れて信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
伊勢長島一揆でも北畠に関係の南伊勢諸国人は船舶動員に非協力的で何度も信長の要請をシカトしてるし
彼らは北畠家臣や南朝以来の繋がりがある
紀伊半島の土豪連中まで長島一揆に入城してるし伊豆国方面からも敵大船が伊勢大湊へやってきたと
織田側は通報してる(日根野弘就に協力してた自由商業町の山田三方の福島親子とか有名)

856人間七七四年:2012/03/25(日) 16:11:12.41 ID:azxi54O/
信長は大河内城2ヶ月大包囲において本田親康の船江城の陥落は難しいとして避けたら奇襲される始末。
さらに曽原城の天花寺氏と挟撃されるわ、氏家ト全も蜂屋般若之助ら36人討死と壊滅的打撃を受ける。
滝川軍も逆激を受けて谷底に落ちまくるなどして壊滅。
大河内城攻防は周囲の支城からの夜昼なき奇襲を受けまくり
北畠は信長から信雄を人質にとってるが北畠は信長に人質を1人も出さず。
しかも嫡男信忠と次男信雄の2人だけは母が生駒氏だとされているためその価値は非常に高い。
信忠が死ぬなどでうまくやれば織田家乗っ取りさえも可能。
すばらしいカードを手に入れたが長島一向一揆を鎮圧後に伊勢掌握のために
具教暗殺&暗愚具房のため逆に弱体化させられる。
明らかに不平等な交渉だがそのおかげで織田軍は退却の時に追撃を受けずにすんだ。
退却時にボコボコにされて織田軍の将が討死するケースはたくさんあるからね。
安全に退却させてもらうためには人質提出は止むをえない。
信雄を人質に取ったことで水谷刑部少輔が賛意を取り付け和睦に合意。
具教は具藤と一緒に三瀬谷城へ隠棲したが暗に妻の実家の六角氏の支援を受けている。
北は宮川の険路・南は吉野や紀州に連なる南朝以来の結束を持つ土豪達の住むところ
西は大樹海に覆われる要害に地で伊賀国人とも連絡が取れた。
隠棲するや家臣達が具教を慕って集住しあっという間に城下町が形成されたくらい反織田だった。
船江城の者どもは信長の帰国を狙って銃撃し激怒した信長が曽原城の天花寺に
船江城破却を命じるや拒否し破却中の織田軍を伊賀衆で襲撃し壊滅させる。
信長は曽原城を攻撃するが苦戦し付け城を築くがまったく落ちず
逆に四五百森に潮田長助らが防御施設を作り対抗。結局、信長は破却どころか一城たりとも落せず。
具教が背後で伊勢長島一向一揆を支援していたのは
紀伊の熊野新宮の豪族で熊野水軍最強と言われた堀内氏善(新宮城主)らに支援要請してたのでもわかる。
井上専正入道教順は本願寺顕如の客将になる。家城之清は槍主水と呼ばれ勇名で鳴っていた。
ちなみに志摩水軍で北畠家臣だった小浜景隆は土屋貞綱の元で武田水軍創設に尽力。

1575年に信雄が家督を得て田丸城へ入り御本所と呼ばれるようになる(田丸具忠は一ノ瀬御所へ移城)
北畠当主として滝川に差出検地をやらせることで伊勢での実効支配を進めようとしたのだ。
それに対して信雄側の加藤甚五郎に対して熊野勢堀内氏虎が攻撃をかけて激破。
具教の差し金ということで信長が徹底調査すると
以前に鳥屋尾満栄が信玄に使いし信玄の上洛の時は岡崎まで大船団を派遣し迎えると約していたことが発覚。
1576年正月に鳥屋尾が岐阜に国司の使いとして年賀の挨拶に来るや信長は挑発しまくって威嚇した。
11月北畠具房と四男・徳松丸、五男・亀松丸が共に暗殺され
同日朝に次男・長野具藤、三男・北畠親成、北畠房兼、大河内教通、大河内具良、
波瀬具祐、波瀬具通、岩内光安、坂内具義は
信雄の妻の千代御前(雪姫)が兄達にぜひ会いたいと騙されて田丸御所に呼び出され暗殺。
坂内御所では坂内具房・霧山御所では城代・北畠政成・波瀬具通が殺されたことで
北畠氏は完全に指導者を失うことでやっと伊勢国を鎮定するまでは北畠氏の支配はうまくいかなかった。
剣豪国司と言われた具教ももっとも信用する藤方慶由の嫡男である藤方朝成の家臣達の挨拶と聞いて
完全に油断していたそうで短刀しかもっていなかった。
のち息子が主家に不忠したことにショックを受け藤方慶由は自害。
鳥屋尾満栄は具房の妻子(具房嫡男昌教はのち本願寺へ)を助け出すことに成功し
具教の弟で大和興福寺別当にいた北畠具親は伊賀吉原氏の支援により
還俗し1577年蜂起した際に合流し川俣の戦いで戦死。具親は国司家復興と打倒信長を掲げ毛利客将になった。
857人間七七四年:2012/03/25(日) 16:12:15.14 ID:azxi54O/
家督を具房に譲ってはいたが実権を握って現役張ってた具教が織田との和睦を機に出家して引棲しただけで
娘の雪姫の養子になっただけの信雄に家督相続が見えてたわけじゃないから。
家督相続は長島一揆を織田が壊滅させ初めてパワーバランスの変化が生じて信雄が田丸城に入った時であって
それまでは具房が北畠当主だから。
吸収されたのは当主と同格の御所様が乱立していた北畠首脳陣をことごとく汚い暗殺で抹消したからで
それまではまったく織田が北畠を吸収できるような状況じゃなかった。
逆に言えば武力でも政治でも北畠を屈服させられず、汚い手段を執らない限り現状打開すら織田には無理だった。
どんな状況かを見分けられずすべてを混同し同一視するのは馬鹿のやること。人質を出すことの本質が理解出来てないね。
そもそも信雄小学5年生がいきなり娶るわけないだろ。 当初は雪姫の養子として入っただけだから。
具房の養嗣子にすらなってない。つーかのちに信雄が北畠を乗っ取った事実に引きずられて
信長が最初から北畠を乗っ取るつもり前提とか誤解してるだろ。
あの時点でそんなこと計画してないし長島一揆を鎮圧するまではそんなのそもそも無理だから。
北畠氏の本拠は多気御所と呼ばれた霧山城でそこは具房の妻の兄である北畠政成が城代として守り
具教らは最前線の大河内城で出張して指揮してた。
特に家城之清の武略は凄まじいもので織田軍をガンガン打ち破りまわり手におえなかった。
さらに南方には伊勢新宮を支配する田丸城ってのがあってだな。
ここも北畠三御所の一つで信雄がここに入城するようになってから織田による北畠支配がスタートしたと言うべきもの。
織田軍は大河内城さえ落とせずアホみたいに討ち死にしまくりだった。
一隊を霧山城方面に送ったが政成の妻は松永久秀で大和国人を引き連れて援軍にやってくるなどで織田軍はボロボロ。
しかも北畠・松永・信玄はつながっていた。
ちなみに信虎が以前、北畠軍を率いて志摩から九鬼を追い払ってるなど同じ源氏ゆえか元々親しい。
信雄がきた後も伊勢湊を支配する鳥屋尾満栄が信長が伊勢水軍を長島一揆に使おうとするのに
非協力的で雑賀水軍などを攻撃しなかったりさらに反織田の者達が集まってきた曽原城。
ここは具房がやってくると戦わず降伏するなど織田に対して自作自演をやってる。
しかもこいつらすぐ松阪城の前身にあたる砦を具教御所様の許しを得たと言って集まってくるが
ここは大河内城のすぐ南で田丸城の北方にある場所で反織田やってる。
そもそも具教らが暗殺された時に大規模な北畠一族の広範囲にわたる
騙し討ちがあった事からも織田の北畠支配がうまく言ってなかったのがわかる。
ちなみに伊勢国司記略や津市史や安濃郡誌や北畠氏の研究などが出典
858人間七七四年:2012/03/25(日) 16:45:53.01 ID:1+c87/sx
>>820
なんども言ってるだろ?
たまたま行動と鼓舞の文言が合致したんだよ
それよりその二つを結び付けるべき根拠は何だよ

後な、オダガーオダガーうっせえんだよ
武田の事いってんだろうが能無し
859人間七七四年:2012/03/25(日) 17:17:44.55 ID:azxi54O/
本心だという根拠=その通りの行動をした
書状に本心以外の事を鼓舞目的として書いたという根拠なし
書状の内容が嘘でまかり通るなら信長が書いた書状の内容も全部嘘
鼓舞目的喧伝目的でまかり通る。
よって勝頼が長篠での自爆行動は重臣ではなく勝頼の判断だった事が馬鹿でもわかる

信長が勝った戦なんて全部鼓舞目的や喧伝目的で言っただけだろw
長篠の勝ちなんて口からでまかせの喧伝目的に決まってるし
勝頼も長篠直後でも軍動かしまくってるしそんな大勝したにしては誰も寝返ってないしなw

信長がどこどこを滅ぼしたなんて全部鼓舞&喧伝目的
他の史料も織田信者が後世に全て改ざんしただけ
そんな大勢力圏持ってたにしては家康が天下とって織田幕府なんて開かれなかったんだから

あと長篠後も勝頼は織田への戦意まんまん
この事からいえるのは書状の内容通り織田への突撃を考えるような猪武者だったか
勝頼が長篠で大敗したというのは嘘で、織田への恐怖を微塵も持っていないかどちらか
長篠で武田が大敗したのが嘘というのは容易に考えられる
重臣連中が勝頼の政権に邪魔で殺す目的で突撃させただけとかな
860人間七七四年:2012/03/25(日) 17:18:14.79 ID:azxi54O/
圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面&まるで城みたいな陣地
こんな状況下で9時間以上戦い続けて柵も破りまくったんだからいかに名将ぞろいだったかがわかる。また
・勝頼が「相手は打つ手がないみたいなのでこちらから突撃してやる」
・勝頼が「今回の織田との一戦を危ぶむ者がいる」と書いている
・武田一族衆は戦死者皆無
・武田譜代衆は信玄たたき上げ
山県→信玄の元小姓で兄売ってでも武田の為に仕える
内藤→信虎に追放された後の活躍が認められて兄を差し置いて上野まかされるほどの抜擢を受けた
土屋→信玄の元小姓で兄弟揃って武田に殉じた金丸家出身
馬場→勝頼を逃がすため殿軍買ってでる、織田に評価されるほど
・勝頼は長篠戦後も信長と乾坤一擲の決戦をやるつもりでいると書状に書いている
・勝頼が長篠戦後も重税&軍制改革に臨み、書状の内容が嘘でなく勝頼の意思である事がわかる

これらの事実から勝頼が織田の待ち構える陣地に無謀に突撃していった事が主な敗因であると容易に想像がつく
家臣の連中がどうだったとかどうとかはただの妄想
わかるのは譜代衆は皆命を賭して戦ったという事だけ
861人間七七四年:2012/03/25(日) 18:09:39.97 ID:qbgls5qV
負け戦でいかにうまく逃げるか、損害を抑えるかで真価が出るからな。
損害の膨大さで武田軍の鍍金がはがれたのがよくわかる。
862人間七七四年:2012/03/25(日) 18:49:34.00 ID:azxi54O/
あんな基地外のような状況で戦って大損害受けない軍団など存在しない
こんなもんで実力が測られては適わん
863人間七七四年:2012/03/25(日) 18:52:35.50 ID:WwACDTog
親類衆以外で主な武将で死んでないの小山田と小幡くらい
普段、後方にいたはずの重臣中の重臣、原が死んでるのは文字通り背水の陣強いてたからじゃないか
退路が川で逆八の字だったから退却戦は凄惨を極めた
こんなんで開戦に反対が出なかった訳がない
864人間七七四年:2012/03/25(日) 19:34:51.12 ID:PzJJhQtO
日曜も2chに書き込むお仕事か。
だがも仕事熱心なことだな。
865人間七七四年:2012/03/25(日) 19:36:19.41 ID:ANYi3gYV
織田と喧嘩し続ければ、いずれ国力差で潰されるのは自明。
敵対を選択して、妥協を許されないところまでやっちまった時点で信玄の代で滅亡は約束されたようなもの。
866人間七七四年:2012/03/25(日) 19:39:28.88 ID:j1fQoCsh
>>827
山県の息子の昌満という人物は兵を率いて勝頼を守ろうとしたらしいが勝頼は昌満を疑ったらしい。
馬場の息子は昌房という人物がいるが自害、討死、降伏後処刑などの説がある。
867人間七七四年:2012/03/25(日) 19:44:25.05 ID:azxi54O/
>>865
つまり国力の大きい相手と交戦しようとした大名は皆判断ミスで無能、滅亡に向かって突き進んでいるという事ね
わかります
868人間七七四年:2012/03/25(日) 19:54:39.14 ID:WwACDTog
>>865
後世からみてるから織田は膨張の一方だなんて吐けるんだよ
長篠時でも、織田は越前・本願寺の見張りに近畿・北近江の兵は全部は動かせなかったんだから上杉さえなんとかすれば武田はそこまで不利じゃない
仮に圧倒的不利だったとしても秀吉に互角以上の戦いをした家康がいるじゃないか
869人間七七四年:2012/03/25(日) 19:55:03.46 ID:boSddDYB
甲陽軍鑑も元ネタに利用したと言われる
天正6年成立の長篠日記によると
9時間近い武田の攻勢の結果
織田・徳川連合軍3万側は6000の被害。
武田15000側は7000の被害。
死傷率で言えば織田側はボロボロだったが陣城で引きこもってたから、その地点を維持することができただけだろ。
武田方はまだ2万近く動員できる余剰兵力が本国には存在してるから
謙信に対して信長は「武田追撃できなかったのは兵糧がなかったから」と言い分けしてるが、武田にビビってたからってのが真相だな。
870人間七七四年:2012/03/25(日) 19:57:18.56 ID:boSddDYB
>>865
なるほど明智光秀さんの石高は信長より大きかったとは初耳だな。
秀吉は100万石越え程度だったが見事に織田を傀儡にして操ったな。
871人間七七四年:2012/03/25(日) 19:59:04.24 ID:0AzK3jhe
>>870
信長直轄の領土というのが怪しくなって来たからな
872人間七七四年:2012/03/25(日) 20:06:07.27 ID:06Dp1ShQ
「信長に見放されたら当家滅亡」っていう信玄生存時の、講和斡旋願いの泣きつきが事実になっちゃったな。なんという皮肉。
873人間七七四年:2012/03/25(日) 20:16:40.94 ID:0JW/cp2c
敵である信長を貶めて憂さ晴らしするのはわかる。
家康を万歳するのも家臣団の再就職先だから仕方ない。
でも身内やボスを不当に貶めるのは感情的にも理解不能。
軍鑑捏造した連中って何考えてたんだ・・・
874人間七七四年:2012/03/25(日) 20:22:28.81 ID:azxi54O/
軍艦が捏造という根拠
信長を貶めているという根拠
家康を万歳しているという根拠
身内やボスを不当に貶めているという根拠
それぞれが何も出されてない件
875人間七七四年:2012/03/25(日) 20:42:00.13 ID:1+c87/sx
>>859
もうコピペしか出来ないんだな
今度はそれをいつ使う機会があるんだろうな
876人間七七四年:2012/03/25(日) 20:45:33.57 ID:0JW/cp2c
アスベだがは昔からコピペだけ。年表レベルの間違いも直さず、しぶしぶ過ち認めたのさえ使い倒し。
だから板公認でヲチられ病人と認定されているわけでな。
877人間七七四年:2012/03/25(日) 20:49:13.17 ID:azxi54O/
>>875
はあ???
お前の反論にもならん糞レスにわざわざレスつける必要ないと思ってコピペにしたんだがね
反論してほしきゃちゃんと根拠や論拠だして普通に『反論といえるレベルの』レスを書いてくれ
878人間七七四年:2012/03/25(日) 20:49:25.69 ID:+Jrf5OMi
まだコピペだけの方がマシだろうな。
ただのマルチ荒らしと思われるだけで済むから

時折変な妄想をおっぱじめて赤っ恥書いてその後にコピペをするから
ただのバカと思われるw
879人間七七四年:2012/03/25(日) 20:58:54.76 ID:j1fQoCsh
>>873
武田旧臣が信長を嫌うのはごく普通のことだろう。
寝返った連中は別として。

んで、かつての敵はいえ武田旧臣を積極的に召し抱えた家康によい印象を持つのも普通に考えられる話。
880人間七七四年:2012/03/25(日) 21:10:46.10 ID:PzJJhQtO
>>878
コピペだけだと単価が上がらないんだろう。
時折違うことも書いておかないとひろゆきから手を抜いてると思われる。
881人間七七四年:2012/03/25(日) 21:23:44.41 ID:azxi54O/
軍艦が捏造という根拠
信長を貶めているという根拠
家康を万歳しているという根拠
身内やボスを不当に貶めているという根拠
それぞれが何も出されてない件
882人間七七四年:2012/03/25(日) 21:30:48.72 ID:+Jrf5OMi
>>880
そうだといいがなw
883人間七七四年:2012/03/25(日) 22:18:39.60 ID:azxi54O/
天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。

甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
884人間七七四年:2012/03/25(日) 22:57:45.54 ID:j1fQoCsh
徳川家における武田旧臣の地位は武田で言うならば原小幡多田横田みたいなもんか?
885人間七七四年:2012/03/25(日) 23:31:49.80 ID:azxi54O/
依田は天正壬午〜佐久平定戦、真田との攻防などで大活躍して
松平性与えられるまで出世している
886人間七七四年:2012/03/26(月) 07:03:05.95 ID:/U6IIC5e
武田を見限り徳川についた家臣達
887人間七七四年:2012/03/26(月) 11:27:09.06 ID:Hia5s1sR
>>886
依田は見限ってないだろ
初鹿野なんかも一揆に巻き込まれて勝頼に合流できなかったと言われているし
888人間七七四年:2012/03/26(月) 15:44:16.08 ID:OZvfW4RL
つうか、ちょっと時代を辿れば譜代衆って信虎が取り立てた他国モノとか低身分層じゃん。
それが当主追い出して、信玄はおれらが立てたっていばりくさった程度。
軍鑑の捏造しまくりはともかくとして、身勝手に振舞っても不思議じゃないわ。
筋目がよっぽど正しい本当の譜代である連中や、親族と折り合いが悪くても……。
889人間七七四年:2012/03/26(月) 20:24:36.92 ID:K+mbW5JX
つーか勝頼って子飼いの家臣はいたのか?
890人間七七四年:2012/03/26(月) 21:39:34.92 ID:KmdvlGCi
>>888
例えば誰のことだか書いてもらわないとさっぱりわからん
891人間七七四年:2012/03/27(火) 00:15:25.42 ID:XFMRlCxp
>>890
おそらく原小幡多田横田のことと思われ
892人間七七四年:2012/03/27(火) 00:37:38.45 ID:dFjEXP52
>>891
長篠の頃、重臣といえる武将はいないね
893人間七七四年:2012/03/27(火) 01:28:02.84 ID:3xJPeXbg
源清光が甲斐源氏の祖で
その息子達の逸見氏・武田氏・加賀美氏・安田氏・浅利氏が諸支族祖となった。
源清光の爺さんが源頼朝の爺さんと兄弟という関係

逸見氏の一族には飯富

武田氏からは板垣氏、甘利氏 若狭武田氏 真理谷氏 仁科氏

加賀美氏には秋山、小笠原、南部家がいる。この南部は陸奥のね
小笠原家はさらに三好氏を輩出させる

安田氏・浅利氏は戦国時代では没落

で、武田家の宗家が源清光の筆頭となって継いでいくのだが
実際は逸見氏と武田氏の兄弟は双子で争っていた。逸見氏の方が兄だったらしい。

上杉禅秀の乱で武田は敗北して甲斐から逃亡、甲斐は守護不在の状況になって
国人達の反乱でめちゃくちゃになる。ここで力を付けてきたのが小山田氏で甲斐随一の国人に成長する。
そんな中、幕府と鎌倉府は守護不在の甲斐を治めるべく
幕府は穴山家に養子に出ていた武田一門を武田に復帰させて守護につけようとするが
鎌倉府は武田の代わりに甲斐を治めていた逸見氏をそのまま守護につけようとする。
結果、穴山・武田と逸見氏の守護争いが起きて、逸見氏の有利に動いていたが
信濃の守護小笠原家の援助で穴山・武田の勝利、武田家は守護職に戻る。
その後、小笠原の援助で甲斐に来ていた守護代の跡部と穴山の争いが起きて跡部が勝利。
甲斐の武田氏は跡部の専横時代を迎える。

つまり、この段階で武田家が守護に復帰できたのは小笠原家と跡部氏のおかげで
武田家は権力がなく操り人形になるわけよ。
こんなどうしようもない甲斐武田家を復活させたのが信虎とその親父である。

この武田家の歴史をみれば、長篠後の勝頼の改革はかなり難しい
勝頼と同じように中央集権化を目指した信虎も裏切られて自滅するのであった。
これは、こういう土地柄のせいなのね





894人間七七四年:2012/03/27(火) 01:54:09.79 ID:dFjEXP52
>>893
戦国時代なんてどこもそんなもん
跡部は一時没落してなかったっけ
長篠の頃の重臣っていったら跡部の他に山県・原・土屋・内藤・香坂なんだからその辺が勝手なことする根拠を書いてもらわないと
信玄が中央集権化目指してなかったかのような書き方もデタラメだし

895人間七七四年:2012/03/27(火) 13:45:30.44 ID:vXZG3m3o
>>892
身勝手行動の代名詞・馬場は源氏の流れだけど他国から流れて信虎に取り立てられた他国衆の出。
重臣じゃない? 当主追放するほど力もってた連中だぞ。
896人間七七四年:2012/03/27(火) 17:25:32.47 ID:hHOCc8Cl
>>895
馬場だって始めから重臣だったわけじゃない
他の譜代・在地領主を差し置いて抜擢されて重臣になってる
重臣がでかい顔してるような武田だったら板垣クラスの家は成敗されないし
手取川で勝手に退却した身勝手武将がいる織田が近代的で勝手に出陣(抜け駆けレベルだろ)した馬場のいる武田が前近代的だっていうのは矛盾してる
897人間七七四年:2012/03/27(火) 17:32:06.85 ID:lfw0677L
だから新参・他国衆や低身分層が抜擢されたのは信虎時代。
信玄の家督継承が国人の反発で保守化・反動化したって話だろう。
で、身勝手やる部分だけがきっちり残って史実の始末となったと。
898人間七七四年:2012/03/27(火) 18:56:53.56 ID:wFphm9Qy
どちらも、織田、徳川に負けた凡人。無能。。。。。。。。。。。
武田厨はバァカだな。
899人間七七四年:2012/03/27(火) 19:27:10.95 ID:K2o2yPAx
再就職先で軍学捏造が成功したお陰で過大すぎる評価もらっているが。
そういう特殊事情がない実情直視だけだったら、朝倉浅井と同じかそれ以下程度で評価固定だっただろうね。
ある意味凄く幸運な家だ。
900人間七七四年:2012/03/27(火) 20:27:26.29 ID:0wxOj73M
まあ落とした城の夫人を恩賞として部下にやる、という事が史書に堂々と載っているヒャッハー大名ですから。
後に苗木城でもやって、そのせいで信長のおばさんがとばっちりで殺されてたな。殺した信長もどうかと思うが。
901人間七七四年:2012/03/27(火) 20:39:37.03 ID:IOZrMTGt
>>899
意味がよくわからん
具体的にどの軍学がどう武田の捏造で、それは何を根拠にそういえるのか説明してくれ。
902人間七七四年:2012/03/27(火) 20:42:03.25 ID:VLeWut+G
苗木→岩村
903人間七七四年:2012/03/27(火) 20:43:27.22 ID:VLeWut+G
あれ、ID変ってる。
>>900書き込んだのね。
904人間七七四年:2012/03/28(水) 09:46:49.76 ID:eWlIFm3a
もう信玄の前にボロクソにされた信長を擁護できず論破されたから
信玄死後10年という長篠や御館の乱や本願寺勅命和睦などの状況変化を経たのちの武田滅亡を持ち出して
信玄のせいで滅亡したと曲解して信玄を貶すキチガイ理論でしか
反論できない織田厨。
信長なんて武田滅亡三ヵ月後には下克上で親子そろって殺され一ヵ月後には
秀吉に織田を専横され実質、織田政権滅亡じゃねぇかw
905人間七七四年:2012/03/28(水) 10:08:47.29 ID:ZXdOXSOS
その程度の政権にコッパ微塵に滅ぼされた最強武田騎馬軍団っと
906人間七七四年:2012/03/28(水) 10:54:25.34 ID:LPmebqHz
信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述がある。
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。

遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに
信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを
信長は引きずっているのがわかる。
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられたわけだしな。
長篠では甲州兵の勇敢さを恐怖を骨の髄まで味わったんだろうな。
907人間七七四年:2012/03/28(水) 11:16:42.09 ID:UrgzvLC7
日の本一と言われてからわずか数日で滅ぼされた雑魚武田w
その後は仇敵の上杉家やら家臣であった大久保家に乞食する武田w

織田と違って大名として残れなかった武田w
908人間七七四年:2012/03/28(水) 12:03:31.30 ID:LPmebqHz
織田家は本能寺で崩壊して家臣団は崩壊されただけ。本能寺の変をきっかけに皆織田家として機能せず好き勝手に動いているだけ。
信長の弟で織田家重鎮にして信忠後見役だった織田信包(息子は尾張守護斯波義銀の娘婿)を始め
織田一門も清州会議から完全排除し専横重臣の秘密会議で織田家の将来を専断してる時点で、
織田家に実権はなく、家臣による下克上が成立し主従関係は完全に逆転した。
他家の人間になった者が本家を継いだ場合は他家に乗っ取られたことになります。
それを防ぐために還俗して本家を継ぐ僧籍の者が縁者には必ずいます。
ちなみに北畠家内において信雄は傀儡でしかなく信雄が織田を継ぐという行為は
北畠家を傀儡にしていた木造家による織田家簒奪の完成なのであります。
多聞院日記6/24から信雄が家督相続して田丸城に入城してるのが判明する。
そして7月に代替わり徳政令を発布しており、津田一安が添状を発給している。そして越前一向宗殲滅戦に向かう。
津田らは茶筅と書状で呼んでおり、滝川一益の取り次ぎで信長へ書状を出している。
天正4年11月に北畠・長野・坂内・大河内らを信雄が粛清することになるが、
原因として挙げられるのは天正4年から義昭が鞆幕府を設立し、
多聞院日記には具教もしくは具房が信雄の家督相続の時期に北畠氏の大和領へ入国していたことが挙げられる。
大和宇陀一揆ら反織田勢力との合流の風聞であり、これが破滅への道となった。
天正4年12月には津田一安が滝川雄利と拓植三郎左衛門らの讒言で誅殺され
伊賀攻めで拓植三郎左衛門が討死すると木造一族の滝川雄利の独裁体制が敷かれ、
織田信包などに指示を出すほどの権勢を持つようになる。
これにより当初からの目標であった木造氏による北畠氏の乗っ取りが完了し、信雄は傀儡化されてしまうのである。
本能寺の変とともに伊勢が混乱状態になり、明智討伐などできず精彩を欠いたのは
信長の内政丸投げにより、土着権力が独自に主従を形成する弊害がモロに出てしまい
織田氏は名目上の主にしかならず、事実上の木造氏のよる支配下にあったからである。
つまるところ天正3年6月に信雄が北畠家督と継ぎ、天正4年11月に反織田で面従腹背の北畠氏粛清するも、
12月には木造氏による支配が完成してしまい、信雄の傀儡化という歴史的推移が見て取れる。
しかも小牧長久手後の雄利は羽柴姓を貰い秀吉政権の一員になってしまうなど信雄を軽視しているのが見事に顕れている。
そもそも雄利の岳父は秀吉方の一益な時点でお察しw
信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に安堵状を発給しまくる始末www
信長がむちゃくちゃ『厚遇していた織田信澄』を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww
909人間七七四年:2012/03/28(水) 12:07:44.88 ID:LPmebqHz
武田はほとんど自落
まともに抗戦する奴なんかいなかったし。
織田が滅亡させたわけではなく勝頼の自爆と浅間山噴火と北条と徳川のおかげ。
何せ織田が圧倒的大軍で侵攻したら離反の連鎖が出て勝てただけ
織田は唯一抗戦した仁科1000以下に城外戦でケチョンケチョンにされた雑魚
910人間七七四年:2012/03/28(水) 12:08:26.55 ID:LPmebqHz
天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。

甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
911人間七七四年:2012/03/28(水) 12:13:25.33 ID:LPmebqHz
武田は滅んでねえだろw
仁科の家系などが徳川直臣として重用され名家として存続w
織田は信長の死と当時に皆織田家とは関係なく勝手に行動して一気に崩壊。
信雄信孝‥神戸北畠の人間で本家織田家とは別
信包‥政権争いのカヤの外
秀信‥幼すぎて実権なし。秀吉にいいように利用されて傀儡化
織田家臣達は誰も彼らを織田家当主として扱う事なく織田家は瓦解w
織田を簒奪した豊臣も徳川に大敗し、天下は徳川の物へ
912人間七七四年:2012/03/28(水) 12:37:51.11 ID:ZXdOXSOS
まーたコピペか
913人間七七四年:2012/03/28(水) 14:16:24.90 ID:/1vBje5i
甲州軍学でっち上げた連中がいろいろ害毒垂れ流したな。
江戸時代にはこれがだめだって連中もいたんだけど……その反応の仕方が斜め上つっきるレベル。
信玄ら持ち上げる捏造が気に入らないから、こっちは謙信らを持ち上げて対抗してやれ!
という……こうしてできたのが越州軍学。
謙信を軍神とし、宇佐美氏を軍師に仕立てたのはこの捏造から。
どっちも所詮、空論でっちあげだから、権力の保護がなくなるとすぐ廃れたが。

……ちなみにこの捏造軍学をガチの戦史として教えていた近代国家軍があった。
国粋主義が酷くなった時期の日本軍。
ええ、「階級が上にいくほど馬鹿になる」と揶揄された時代に陸大で教えていた。
(旧軍は武田上杉関連のみならず、ほかでもいろいろ間違った通説でっち上げたが)
914人間七七四年:2012/03/28(水) 14:19:01.25 ID:LPmebqHz
>>913
ソースお願いします
915人間七七四年:2012/03/28(水) 14:22:53.87 ID:/1vBje5i
>>914
帝国陸軍参謀本部編纂「日本戦史」。これ、いろいろ間違った通説の元ネタになって有名な奴だけど?w
無知乙か、くやしいから質問攻めにする気? 次は何?w
916人間七七四年:2012/03/28(水) 14:27:29.91 ID:LPmebqHz
だから日本戦史が武田上杉の軍学を捏造したって根拠を出せって言ってんだが
917人間七七四年:2012/03/28(水) 14:28:09.97 ID:/1vBje5i
話はそれるが、毛利氏由来(日本最古とも自称)とする闘戦経なる兵法書も本当に教えていた。
孫子コンプレックスが見られる偽書の疑いある奴だが、教え方もかなり意味不明だったそうだ。
918人間七七四年:2012/03/28(水) 14:29:07.63 ID:/1vBje5i
>>916
はあああ? 誰もそんな書き込みしてないじゃん。
捏造されたものを、旧軍が掘り出して本当に戦史として教えてましたといってるんだが。
お前がこっちのレスの基本文さえ読み違えるのまで相手にできんぞwwww
919人間七七四年:2012/03/28(水) 14:30:51.33 ID:LPmebqHz
>>918
武田上杉の軍学が捏造されたとするソース
それを掘り起こして日本戦史が本当に戦史のように教えてきたというソース
それぞれだせっつってんだろうがw
920人間七七四年:2012/03/28(水) 14:39:53.27 ID:714QvajF
軍鑑の第四次川中島とかの「そんな軍隊移動は物理的、地形的に無理!」「お前らの通信索敵技術はレーダー時代並かよ」な講談レベルの数々って江戸時代の人間でも悟りそうな気がするんだが。

あれか、気づいても言ってはいけない和の精神ってやつか。
921人間七七四年:2012/03/28(水) 14:47:53.51 ID:LPmebqHz
具体的にどの記述の事かくらい書けよ
922人間七七四年:2012/03/28(水) 17:07:33.41 ID:ZXdOXSOS
読んでなくて分からないので教えてくださいって言えよ
本当に無知は罪だな
923人間七七四年:2012/03/28(水) 17:09:46.84 ID:LPmebqHz
残念だけど信玄死後も長篠の敗戦までは
武田優位は揺るいでないから
信長は結局、
信玄に屈辱を味わったまま死んだ事実か変わらないんだ。

遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに
信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを
信長は引きずっているのがわかる。

元亀4年の信玄西上の時の織田は金も火薬も兵糧も無いので幽斎に調達するように命じたが
無理だったから、信長自らが指揮して京で恐喝略奪して凌いだ。
同じように幽斎には長篠の戦い寸前の時期にも信長が今回は鉄砲の玉薬だけだが
調達を要求していて、この時は調達できるようになっていたのが
5/12の幽斎書状への5/15信長返書書状でわかる。
5/20には玉薬が到着したようで信長はそれに関して「祝着だ」と大喜びし
家康はいよいよ陣城に籠城して討ってでない体制を構築している信長のヘタレぶりにより
長篠城落城の危機に焦り5/20夜に酒井忠次らによる鳶ヶ巣山砦襲撃計画を発動したために
勝頼の攻勢を生み出し、さっそく5/21に長篠の合戦で織田徳川3万との戦が起こってる。
そして5/26岐阜に戻るやさっそく幽斎に詳報して感謝してる。
つまり信長は火薬到着待ちをしていたので
勝頼は19日までに信長を攻撃してれば勝てた。
13日に出馬し、14日に岡崎に信長は到着してた。

連戦連勝の圧倒ぶりを誇る武田軍は足助城・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
公記によるとたった15000で出陣して(実数は六千から一万と言われている)
本願寺への義理も充分に果たしたし
ここまでの破竹の勢いでの戦果で満足して帰国すべきだった。
そもそも岡崎城主信康家臣で岡崎町奉行を務めていた大岡弥四郎が
勝頼に通謀し足助城から岡崎に武田軍を招きいれようとしたので奥三河へ勝頼が出てきてる。
しかし発覚してしまい岡崎突入を断念し、ニ連木城・長篠城方面に転進したとされる。
武田の軍事計画が狂ってしまった以上は長居は無用だった。
長篠城攻撃はとりあえず予定を変えたレベルの思いつき。
勝頼は戦略的な方針計画が大きく変更になっているのに
撤退せずに泥縄的に軍事行動を続ける過信による誤判断が大敗につながった。
924人間七七四年:2012/03/28(水) 19:12:14.62 ID:qz5A99IC
長篠の敗戦まで優位に合った割りに、信玄生存中対信長包囲網で信長を滅亡寸前まで追い込んだあと情勢をひっくり返された武田は何をやってたんだ???w
925人間七七四年:2012/03/28(水) 19:19:51.34 ID:LPmebqHz
信玄しんで包囲網勢が劣勢になっただけ
926人間七七四年:2012/03/28(水) 19:34:47.62 ID:PF3E/51L
まあいくら武田遺臣らが捏造を続けても歴史の本筋までは捏造できない。
「じゃあなんでそんな凄い家があんな惨めな最期になったんよ?」という疑問を交わす為に
「勝頼とその側近が悪かった」と捏造。

……本当は信玄すら崇拝してなかったんだろうな。
勝頼はいうまでもなく信玄の息子。
悪い側近とされた跡部らは、信玄家督相続初期から外交内政に名を見せる譜代側近。
それらを貶めて恥じる所ないんだから。
927人間七七四年:2012/03/28(水) 19:39:21.29 ID:UrgzvLC7
もともと甲陽軍鑑なんていうのは滅びた大名家の負い目に関する処置。

だから自分が仕えた信玄を立派とし、武田家を滅ぼしたのは勝頼のせいにし、
間接的に武田と戦った徳川に対してベタ褒めして家康さんあんたは偉いと太鼓判したいだけの史料。
928人間七七四年:2012/03/28(水) 19:41:52.25 ID:LPmebqHz
本能寺で滅亡した領土拡張率0の雑魚大名が何かしゃべってるな
929人間七七四年:2012/03/28(水) 19:43:59.74 ID:PF3E/51L
リアルタイムでの勝頼評価は「信玄の遺法をよく守っている」なのに。
捏造するにしてももう少し方向を考えろ、と思うわ。
930人間七七四年:2012/03/28(水) 20:04:22.32 ID:d8yJeESn
戦う前に兵士が疲労して自滅するわw な車懸とか啄木鳥戦法とか。軍学で真面目に教えてたのかね。
それとも創作だとわかってて黙ってうなずいていたのか。
931人間七七四年:2012/03/28(水) 20:47:05.16 ID:yNSrzCiW
軍鑑捏造捏造ってわめいたところでじゃあ実際どうだった?っていうと武田の歴史は雲を掴むような話になるけど
一時史料で軍鑑の記述を裏付けるものは多いのに軍鑑アレルギー持ってる奴って何なの
932人間七七四年:2012/03/28(水) 20:49:59.41 ID:d8yJeESn
具体的には?>多い

どころか、一級資料の妙法寺記や高白斎記と反する所ばかりじゃん。
有名どころの上田原合戦や戸石崩れも、年次さえ間違い・勘介()の策略で武田が勝ったことにしちゃったり。
正当な評価としかw
933人間七七四年:2012/03/28(水) 20:54:57.26 ID:LPmebqHz
軍艦が他の軍記に比較して捏造多いという根拠もないし
他の軍記に比べて過大に評価されているという根拠もない
所詮はいつもの奴の妄想
934人間七七四年:2012/03/28(水) 20:58:47.29 ID:ZXdOXSOS
なんで他の軍記との比較に話すり替えてんだ?
935人間七七四年:2012/03/28(水) 21:01:10.97 ID:yNSrzCiW
>>932
勝頼の話でいえば内藤に対する起請文
勝頼側近と内藤が対立してたことが裏付けられている
山本勘助だって馬場美濃守に史料がほとんどないとこからして戦専門武将と考えれば架空の存在とは言い切れない

高坂の若い頃の記述や高坂の五ヶ条の進言みたいなのは後世の改竄の可能性高いって思ってるよ
軍鑑の冒頭あたりに、記憶が定かでないので細かいことは自信がない〜みたいなこと書いてあるんだからあまり野暮なツッコミいれてもしょうがないと思うんだ
936人間七七四年:2012/03/28(水) 23:13:08.74 ID:65fNjcvZ
馬場山県内藤が決戦に反対したということを否定できる根拠ってなにもない。
長坂は長篠の戦いにいないということを証明したとされる長坂への書状というのは別の長坂某への書状らしいし。

しかし実際に反対だったとして、馬場山県内藤土屋はどんな心境だったんだろう?
反対とはいえ史実のような損害にはなると思っていなかったのだろうか?
それとも悲観して本当にあのような水盃をやったのだろうか?
937人間七七四年:2012/03/28(水) 23:18:06.71 ID:LPmebqHz
圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面&まるで城みたいな陣地
こんな状況下で9時間以上戦い続けて柵も破りまくったんだからいかに名将ぞろいだったかがわかる。また
・勝頼が「相手は打つ手がないみたいなのでこちらから突撃してやる」
・勝頼が「今回の織田との一戦を危ぶむ者がいる」と書いている
・武田一族衆は戦死者皆無
・武田譜代衆は信玄たたき上げ
山県→信玄の元小姓で兄売ってでも武田の為に仕える
内藤→信虎に追放された後の活躍が認められて兄を差し置いて上野まかされるほどの抜擢を受けた
土屋→信玄の元小姓で兄弟揃って武田に殉じた金丸家出身
馬場→勝頼を逃がすため殿軍買ってでる、織田に評価されるほど
・勝頼は長篠戦後も信長と乾坤一擲の決戦をやるつもりでいると書状に書いている
・勝頼が長篠戦後も重税&軍制改革に臨み、書状の内容が嘘でなく勝頼の意思である事がわかる

これらの事実から勝頼が織田の待ち構える陣地に無謀に突撃していった事が主な敗因であると容易に想像がつく
家臣の連中がどうだったとかどうとかはただの妄想
わかるのは譜代衆は皆命を賭して戦ったという事だけ
938人間七七四年:2012/03/29(木) 00:04:33.70 ID:7iGIvLua
圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面&まるで城みたいな陣地 に
突撃するのはクルクルパーだよ。何で名将なのよ?
939人間七七四年:2012/03/29(木) 00:13:27.58 ID:jxuVXH9O
武田って織田に滅ぼされたんだし。。。。。。。。。
凡人ですよ。
940人間七七四年:2012/03/29(木) 01:08:09.20 ID:1qnjxYhx
ごく普通に軍艦は他史料とも突き合わせて
慎重に検証するのが重要だってことでイイじゃん。

941人間七七四年:2012/03/29(木) 01:09:20.43 ID:1qnjxYhx
書き忘れた。

それ以前に、未だに「勝頼は陣代」って書き散らしている
童門センセイをどうにかしてください。
942人間七七四年:2012/03/29(木) 02:10:26.93 ID:L8cai3Mu
童門先生は歴群で言えば津野田閣下に匹敵する逸材だからね、仕方ないね
943人間七七四年:2012/03/29(木) 12:51:53.90 ID:RAQUqt98
軍鑑はダメだろ…平山が大恥かいてるのに
都合が悪いと出版社の要望に答えただけで事実と異なると宣って
新書の戯言はお前が書くなって思ったわ
944人間七七四年:2012/03/30(金) 21:58:57.18 ID:5ZbU3v0J
阪神の小宮山が小宮山友晴、あるいはその親族の子孫の可能性はあるだろうか?
945人間七七四年:2012/03/30(金) 22:47:41.87 ID:fw9+bD7E
同じ苗字ってだけで「子孫の可能性」なんて言ってたら・・・www
946946:2012/03/31(土) 13:57:25.85 ID:eMaEBCjd
横レスすいません。

長篠の合戦後、武田勝頼は2万の軍勢を率いて
徳川領内に侵攻してきたという話を聞いたことがあるんですが、
この話についてご存知の方がいらしたら教えてください。
お願いします。
947人間七七四年:2012/03/31(土) 16:54:18.53 ID:dvrizD73
あの尼さんが書いたという日記は?
けっこう当時の空気というか雰囲気を伝えてるんじゃないの?理慶尼記だっけ?
「みんなおやめなさいと言ったのに突撃しちゃったのね、勝っちゃんカワウィ〜ソゥー」
「勝っちゃん悪い子じゃないのよ、周りに悪い人がいたのよ」みたいな
948人間七七四年:2012/03/31(土) 20:28:43.97 ID:BrBnantW
>>946
長篠の合戦後、2万の兵を率いて遠江の小山城を攻めていた徳川軍を撤退させたって話がある。
949946:2012/04/01(日) 00:21:20.05 ID:ufOhUnnI
>>948
ありがとうございます。
950人間七七四年:2012/04/01(日) 11:43:01.91 ID:oc/2eH8y
天正10年の武田攻めを語るスレ 4
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333154364/
951人間七七四年:2012/04/01(日) 13:42:03.86 ID:+TN3W24Y
軍鑑って、戦国期を通して名将と呼ばれる人間が一回か二回やればいいほうの劇的勝利を、侍大将や足軽大将が何度もやったように捏造しているね。
そんな強い武田がどうしてあの程度で終わったの? 最後はあんなんだったの?
という言い訳も捏造含み。
信玄以来の譜代が馬鹿でした、といえないから勝頼が取り立てた新興側近だと同胞の経歴さえでっち上げ。
まぁ、戦のでっち上げは戦国期じゃ当たり前の宣伝術だったけど、平和になった時代の処世でまでやるのはねぇ……w
952人間七七四年:2012/04/01(日) 13:55:06.58 ID:e+6uJlH/
お前のアホな妄想はアンチ信玄版でどうぞ。
953人間七七四年:2012/04/01(日) 14:00:38.82 ID:oSEv2uDc
そんなの信長公記も含めて軍記類すべてに言えることだ馬鹿w
954人間七七四年:2012/04/01(日) 18:49:40.11 ID:Hp5aKgl8
信玄の初陣まで捏造(史実では味方だった場所で華麗に勝ったことに)したあたりガチで信玄をどう思っていたかは……w
955人間七七四年:2012/04/01(日) 20:53:27.60 ID:Hp5aKgl8
>信長公記

これ同時代人が書き残した一級資料じゃん。
武田でいえば妙法寺記や高白斎日記に相当(軍鑑の捏造がバレ続けているのもこれらに全く反するからという面が)。
講談・軍談の中の武田しか認められず、等身大や史実の武田は見たくないのか……?
956人間七七四年:2012/04/01(日) 20:54:39.34 ID:e+6uJlH/
信長公記は捏造軍記

・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森のキ沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述

多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
・高遠城攻防戦での織田信家戦死を隠蔽
・堂々とか公記の記述の撤退の時に砦取り返されて本当は2回あったのに書いてない
・大した戦果のない姉川が大勝になってる。
・長篠の戦果が十倍以上過大になってる。
・道三との会見では、織田家臣である太田が、信長が織田家臣を連れて帰った後の道三の
「いずれ息子たちは信長の家臣となるだろう」という呟きをなぜか知って書いてる
・河野島の流れとか書いてない
・大良河原では追撃軍に信長が仁王立ちになって鉄砲撃ったら敵が追撃やめた
・稲生では信長が大声あげたら敵が敗走したり、信長が京に上った時に刺客のいる宿に乗り込んで
「殺せるものなら殺してみろ!」と啖呵切って刺客が恐れ入ったりかなり信長万歳な記事が多い

957人間七七四年:2012/04/01(日) 20:56:47.91 ID:e+6uJlH/
信長公記にすら記されていない以上は捏造逸話以外のなにものでもない。
などと言いたいところだが、さて信長公記が隠蔽する時は必ず理由がある。
信長公記において家康がすでに同盟者となっていては都合が悪いのだ。
そこで思い出されるのは、信秀死去寸前に今川と和睦してることを隠蔽して、信長の立場が不安定だと捏造してる公記だが、
家康との共同作戦で思い出される史実で、公記が完全隠蔽してる事件がある。
それを隠蔽してる以上は家康がすでに同盟者であっては困る。
あくまで家康は永禄11年の義昭上洛戦以降の同盟者でなくては都合が悪いのだ。
さて以下がその隠蔽である。。永禄9年に信長は近江矢島の義昭を上洛させるためと称して
義昭に斉藤龍興との和睦を申請し義昭が喜んで和睦を斡旋したし
龍興も義昭を「公方様」と呼んで快諾して誓詞を細川藤孝に提出してる。
義昭は信長に藤孝を下向させ上洛の打ち合わせをし、7月には能登七尾の畠山義綱や大和の十市遠勝にも
来月22日に信長が出陣するから上洛の供をするように命じてる。

これにより尾張・三河・美濃・伊勢四ヶ国の兵を率いて上洛軍を催すこととなった。
しかし出陣当日になると信長が突然出兵できないと言い出す。
これには龍興18歳も信長が臆したと嘲笑し、義秋も信長を糾弾し天下の物笑いとなった。
これにキレた信長が8/29に同盟軍の美濃攻めを突如開始し木曽川の河野島へ渡川進撃。奇襲に怒った龍興も
すぐさま応戦し河野島へ渡ってきたので織田軍は敗走し川を挟んで対陣。
その翌日から風雨激しく洪水になり閏8月8日の明け方に奇襲を敢行した
龍興側に織田軍は大敗。勝利した斉藤に義昭は改めて上洛を願うが
織田の動向が心配なので上洛は難しいと言われ翌8月3日に織田と上洛戦を企んだと知った三好長逸3000が
近江坂本へ義昭討伐にやってくる。8/29は暗夜だったのを幸いに側近4、5人で琵琶湖を渡り若狭武田の下へ義昭は逃走した。
958人間七七四年:2012/04/01(日) 20:56:59.75 ID:e+6uJlH/
角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている) 現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は金子拓氏の最新研究結果によれば70以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。
尊経閣文庫蔵安土日記
信長記の写本だがもっとも古態をとどめている。安土城についての史料的価値が高く他の信長記にない逸話が登場する。
木田梧楼家蔵信長記
本願寺攻めが他の信長記より詳しい。
首巻のある信長記(陽明本など)
信長上洛以前の記録であるが、これは自筆本が後世に伝わってない。
また年次の誤りが異常に多く永禄3年の桶狭間の戦いを天文21年としていたりする。
尊経閣文庫蔵織田記
首巻が他のと違う。が天文13年9月の信秀の美濃攻めで大敗した織田の討ち死に数を50とする。
陽明本などは5000とする為、こちらの方が信憑性が高いと言われる。
内閣文庫蔵安土日記は池田家本系統の写
長篠での鉄炮数を30挺計と書いていたりする。
天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。
太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。
そもそも信長は発給文書が極端に少なく、ほとんど部下へ丸投げなので
信長の業績はまったくわからず、やむおえず太田の著書に頼らざる負えないだけで
信憑性は疑問のシロモノであり、関が原や秀吉の史料は豊富にあるので
太田の記述した関が原や秀吉に関する記述は三次史料以下の扱いである。
信長公記は志賀の陣まで 前代未聞の栄誉ある一戦などと勝利宣言してるからまったく信用性ゼロ
実際は義昭が必死に調停してくれたから信長は助かっただけ。
そもそも三河物語には和田が参加したなんて書いてない。
3万の朝倉が1万の織田を旗本まで切りくずして朝倉軍が一気に前進していたが、
家康が前面の敵を撃ち、信長の崩れを見て 一気に朝倉奥陣に斬り込んだから
本陣に横撃を受けて朝倉軍が崩れただけ。 志賀の陣でも朝倉軍3万に
織田1万じゃ帰り道を塞がれたらかなわないから和睦したって書いてるし、
信長が兵糧に困るだろうと考えていたら比叡山から朝倉に米が運ばれてしまったと書かれてる。
その一方で比叡山の騙し討ちを喝破した信長をさすがの弓取りと称賛してるから
これでも三河物語は信長寄りにかいてるわけだが。信長から御加勢依頼がきて
徳川からは石河家成が織田への援軍で参加してるから。
959人間七七四年:2012/04/01(日) 20:58:19.91 ID:e+6uJlH/
公記は天正10年の武田攻めでは侵攻日に起きた浅間山大噴火を隠蔽。
武田滅亡の天意と言われた。
援軍に来た勝頼も諏訪から甲斐へ撤退せざるを得なくなる。
浅間山噴火が京で視認できたのは有史以来この時でわずか二度目。
東に横たわるアルプス山脈を無視して考えた場合、
広島での原爆が京都から視認出来たくらいの距離に相当する。
信長公記によると、
范可とは唐時代の人で止むを得ない事情により父親を殺さざるを得なかった経歴を持つとの事を書いているが ...もちろんそんな人物は中国に存在しません。
義龍が范可の署名を弘治元年12月から署名しており、 公記の記述は辻褄が合わない。
捏造信長公記は父殺しイメージを架空人物まで創造して捏造してまで強調してるが、
実際は重臣達に追放された武田信虎や六角義治らと同じような状態になった際に道三は死ぬ覚悟に決戦を選択したに過ぎ無い。

公記には天文21年(1552年)に桶狭間の戦いがあったと書いている事実w
このため桶狭間の戦い虚構捏造説の根拠にされるw(信秀死去は天文20年もしくは天文21年とされる)
天正9年11/24に信長の子の御坊殿が武田から返却されてきたので犬山城主にしたと
公記には書いてある。そこには信玄が養子にしたいと言うから甲斐へ送っていたと書かれている。
しかし実際は岩村城の養子に信長がねじ込んだ末に、武田軍に大敗して拉致られただけ。
完全に歪曲捏造しまくりなのが公記。
第二次木津川口の戦い自体は兵糧搬入成功している以上勝利だからね
毛利側にも本願寺側にも証拠がある
毛利家文書834 小早川隆景書状写
「去六日至木津諸警固乗入、大坂衆申談候、敵船雖罷出候、舟軍等勿論此方得勝利候」
毛利家文書832 下間頼廉書状写
「諸警固一昨日六日木津浦御着岸候、当寺大慶此事候」
「兵粮両度被入 信長公より九鬼大隅守に被命以大船 川口被塞 雖然打破り 兵粮を入る」
毛利家日記より

討ち取られた武将もいない

野田福島の戦いでは京へ撤退しようとする信長 江口川は水量が多く、水勢もすさまじいものがあり
船でしか渡れない場所なのに、信長は徒歩で渡れる始末。 しかも翌日からはまた徒歩でわたれなくなり
地元民が奇跡だと言い合う。これにより三好軍と本願寺からの 追撃を免れたなどとバカな妄想を書く公記。
他にも道三が討死した報を聞き退却しようとした織田軍であったが義龍の軍勢が追撃しようとしたところを、
信長が鉄砲を撃っただけで、信長公の勢いに飲まれて追撃する気がなくなるなど
くだらん話が散見されるのが妄想軍記信長公記のウケを狙ったガチなギャグである。
960人間七七四年:2012/04/01(日) 20:59:32.51 ID:e+6uJlH/
信長公記はデタラメだらけだしね。例えば伊勢なんて簡単に平定したみたいに書かれてるけど
永禄10年(1567年)に滝川を先鋒に4万で伊勢侵攻したが仁木氏勢力圏の楠城の山路弾正の籠城&神戸氏への支援として
白子からの伊勢水軍・鳥羽からの志摩水軍&鈴鹿の関氏の他に
長島門徒・高田門徒・天台宗信徒に呼応して美濃で氏家・安藤・稲葉が謀反の噂が流れ。
さらに支流支援として北畠氏は鳥屋尾石見を使者として信玄とも協調し徹底抗戦したから滝川を放置して信長は逃亡してるし、
永禄11年11月の伊勢攻めでは去年の屈辱からかおよそ武士とは言えない略奪暴行大虐殺をしまくって南下するも苦戦。
結局戦闘行為で力でねじ伏せることを諦め神戸氏に人質として信孝と信包を与えて縁戚化させるしかなかった。
(情勢的には10/18義昭征夷大将軍になったり10/28松永久秀が幕府に降伏するなど
続々と幕府に帰順降伏していて六角義秀や仁木義政らの影響も受けている神戸氏は義昭への協調姿勢に転じた)
織田軍は永禄12年春には安濃津城前面まで来ながら抵抗が激しく信長は逃走してる。
この頃、長野氏やその家臣の細野氏や雲林院氏らが家中で内紛を起しており、
(もともと具藤は暗愚だから長野氏の養子に迎えることに細野・雲林院は大反対だった)
それに乗じて織田軍はやっと進出し長野具藤は長野城を放棄して実家の北畠氏へ逃げ、
細野藤敦から離反した弟達の尽力により神戸友盛の娘を娶っていた信包が入城した。
怒った細野藤敦が長野城を奪い取ると滝川の子を信長養子にし
細野へ人質として渡し味方になってもらった。 関盛信は信長帰属を良しとせず六角承禎の近江日野城へ逃亡。
永禄12年5月北畠四御所木造氏が北畠内での序列に不満があり織田方へ走るや
北畠は信玄・伊賀・大和へ支援要請し大和三人衆秋山・沢・芳野らも動員して木造を滅ぼそうとする
織田も伊勢神戸・長野に滝川・織田信昌を援軍派兵し滝川三郎兵衛が
九鬼を買収し一部の志摩水軍が北伊勢反北畠連合に寝返る。
北畠が2ヶ月に及ぶ親族同士の殺し合いをして疲弊してると見て取るや信長7万で自ら出兵し
北畠氏を踏み潰そうとやってきた信長は大河内城2ヶ月大包囲で高級幹部20人以上が討ち死に大敗。
撤退での追撃を恐れて信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
伊勢長島一揆でも北畠に関係の南伊勢諸国人は船舶動員に非協力的で何度も信長の要請をシカトしてるし
彼らは北畠家臣や南朝以来の繋がりがある
紀伊半島の土豪連中まで長島一揆に入城してるし伊豆国方面からも敵大船が伊勢大湊へやってきたと
織田側は通報してる(日根野弘就に協力してた自由商業町の山田三方の福島親子とか有名)
961人間七七四年:2012/04/01(日) 21:01:08.49 ID:e+6uJlH/
信長は大河内城2ヶ月大包囲において本田親康の船江城の陥落は難しいとして避けたら奇襲される始末。
さらに曽原城の天花寺氏と挟撃されるわ、氏家ト全も蜂屋般若之助ら36人討死と壊滅的打撃を受ける。
滝川軍も逆激を受けて谷底に落ちまくるなどして壊滅。
大河内城攻防は周囲の支城からの夜昼なき奇襲を受けまくり
北畠は信長から信雄を人質にとってるが北畠は信長に人質を1人も出さず。
しかも嫡男信忠と次男信雄の2人だけは母が生駒氏だとされているためその価値は非常に高い。
信忠が死ぬなどでうまくやれば織田家乗っ取りさえも可能。
すばらしいカードを手に入れたが長島一向一揆を鎮圧後に伊勢掌握のために
具教暗殺&暗愚具房のため逆に弱体化させられる。
明らかに不平等な交渉だがそのおかげで織田軍は退却の時に追撃を受けずにすんだ。
退却時にボコボコにされて織田軍の将が討死するケースはたくさんあるからね。
安全に退却させてもらうためには人質提出は止むをえない。
信雄を人質に取ったことで水谷刑部少輔が賛意を取り付け和睦に合意。
具教は具藤と一緒に三瀬谷城へ隠棲したが暗に妻の実家の六角氏の支援を受けている。
北は宮川の険路・南は吉野や紀州に連なる南朝以来の結束を持つ土豪達の住むところ
西は大樹海に覆われる要害に地で伊賀国人とも連絡が取れた。
隠棲するや家臣達が具教を慕って集住しあっという間に城下町が形成されたくらい反織田だった。
船江城の者どもは信長の帰国を狙って銃撃し激怒した信長が曽原城の天花寺に
船江城破却を命じるや拒否し破却中の織田軍を伊賀衆で襲撃し壊滅させる。
信長は曽原城を攻撃するが苦戦し付け城を築くがまったく落ちず
逆に四五百森に潮田長助らが防御施設を作り対抗。結局、信長は破却どころか一城たりとも落せず。
具教が背後で伊勢長島一向一揆を支援していたのは
紀伊の熊野新宮の豪族で熊野水軍最強と言われた堀内氏善(新宮城主)らに支援要請してたのでもわかる。
井上専正入道教順は本願寺顕如の客将になる。家城之清は槍主水と呼ばれ勇名で鳴っていた。
ちなみに志摩水軍で北畠家臣だった小浜景隆は土屋貞綱の元で武田水軍創設に尽力。

1575年に信雄が家督を得て田丸城へ入り御本所と呼ばれるようになる(田丸具忠は一ノ瀬御所へ移城)
北畠当主として滝川に差出検地をやらせることで伊勢での実効支配を進めようとしたのだ。
それに対して信雄側の加藤甚五郎に対して熊野勢堀内氏虎が攻撃をかけて激破。
具教の差し金ということで信長が徹底調査すると
以前に鳥屋尾満栄が信玄に使いし信玄の上洛の時は岡崎まで大船団を派遣し迎えると約していたことが発覚。
1576年正月に鳥屋尾が岐阜に国司の使いとして年賀の挨拶に来るや信長は挑発しまくって威嚇した。
11月北畠具房と四男・徳松丸、五男・亀松丸が共に暗殺され
同日朝に次男・長野具藤、三男・北畠親成、北畠房兼、大河内教通、大河内具良、
波瀬具祐、波瀬具通、岩内光安、坂内具義は
信雄の妻の千代御前(雪姫)が兄達にぜひ会いたいと騙されて田丸御所に呼び出され暗殺。
坂内御所では坂内具房・霧山御所では城代・北畠政成・波瀬具通が殺されたことで
北畠氏は完全に指導者を失うことでやっと伊勢国を鎮定するまでは北畠氏の支配はうまくいかなかった。
剣豪国司と言われた具教ももっとも信用する藤方慶由の嫡男である藤方朝成の家臣達の挨拶と聞いて
完全に油断していたそうで短刀しかもっていなかった。
のち息子が主家に不忠したことにショックを受け藤方慶由は自害。
鳥屋尾満栄は具房の妻子(具房嫡男昌教はのち本願寺へ)を助け出すことに成功し
具教の弟で大和興福寺別当にいた北畠具親は伊賀吉原氏の支援により
還俗し1577年蜂起した際に合流し川俣の戦いで戦死。具親は国司家復興と打倒信長を掲げ毛利客将になった。

9/26に越前虐殺大会から帰ると、万単位の虐殺に大満足してるようで高揚してるのか
思い出したように10/1に赤井直正を討つから光秀派遣したから片岡藤五郎は協力しろ。
そして天正4年1/15に光秀が赤井と波多野に大敗した報が入り、
1/28には石山本願寺に織田軍が敗れる報がやってくる。
ここら辺りの信長公記は安土城建設開始とか書いて完全に隠蔽してる。
さすがに本願寺攻めに失敗し5月の原田(塙)戦死するところは隠蔽できず書いてるが
(つか、書かないと大幅に白紙日程になるのを誤魔化しきれない)
それですら一次史料にはない信長の5/7天王寺突撃大勝利話を持ち出して信長マンセーに摺り変えてる。
962人間七七四年:2012/04/01(日) 21:01:45.37 ID:e+6uJlH/
信長公記が三河物語に較べて信憑性が低いとされる点に
天文11年第一次・天文17年第二次に渡る小豆坂合戦記述がある。
三河物語は第二次の方のみしか記されておらず、今川義元の感状から第二次のみは史実確認が取れる。
信秀は第二次にあたる戦いでは今川の背後にあたる北条氏康に書状を出しているなど
今川を背後から牽制する策をとっており挟撃策を恐れる今川方も抑止的な軍事行動しかできていない。
佐々木城主松平忠倫や松平清定(信秀縁戚)など有力な織田方松平一族も依然として信秀を支持している。
静岡県史も今川の軍勢が天文11年に西三河に進出するなど考えられないと一蹴している。
よって第一次の戦いは公記の捏造であり、三河物語の正しさが証明された戦いである。
ただ信秀が東三河で優勢だったのはたしかで、
水野信元や松平信孝(天文16年9/28には松平広忠を大敗させてる武辺者)
らが織田方として存在している。
天文12年には後奈良天皇に4000貫を献上し(今川は500貫)
従来尾張を支配する守護斯波と守護代大和守の富強ぶりが都でも評判であったが
すでに信秀にとって代わられている事実が見える。
この献上の際には信長の側近の平手が京に出向いているが
本願寺証如に面会してるのがわかる。本願寺側は「門徒に対して一段悪勢の者」と認識しており
丁重に織田外交団を接待しているのがわかる。本願寺との険悪さがすでに存在していた。
また同時期には熱田神宮寺座主も、いままでは大和守の判物を手にいれて満足していたはずなのに
信秀を当殿様と呼び信秀判物を手に入れようとした。
信長公記系に記される信秀に従い出陣し稲葉山の戦いで戦死した清洲三奉行の織田因幡守の子で信友が
守護代大和守の養子として清洲城(斯波氏を傀儡にしてる)へ入城し天文16〜17年・21年に信秀・信長と対抗?
そもそも大和守達勝は天文19年12/17の熱田神宮の書状で存命が確認されるのでデタラメ。
しかも達勝の後継者は勝秀であり、もう何言ってんのかわかりませーんw
そもそも信友なんて一次史料には一切出てこない架空人物としか思えないし。
つうか斯波氏を傀儡にしている大和守を傀儡にしてる信友を
さらに傀儡にしてる孤立してる清洲城の坂井・川尻・織田三位ら重臣達ってストーリーかよwww
ちなみに尾張北を支配していた岩倉織田伊勢守も天文6年に広高が当主であったのが確認できるが
その後、まったく消え去り史料上から消え去っている。信安を追放した信賢とか江戸期の捏造話で存在確認できない。
公記系によると永禄2年に信長が岩倉城を数ヶ月包囲して信賢を降伏させたとするが
言継卿記によるとその時期の信長は上洛して義輝に謁見し、堺・奈良見物してる最中w
963人間七七四年:2012/04/01(日) 21:30:09.55 ID:YOOMA/fo
また「捏造がバレて、自分が間違いだと謝罪したコピペも使いまわす」アスベだがか……w
964人間七七四年:2012/04/01(日) 23:35:06.77 ID:qn5tl48s
よーし続きはこっちだ

アンチ武田信玄板
http://jbbs.livedoor.jp/study/11687/
965人間七七四年:2012/04/02(月) 12:52:49.99 ID:26r+r6Uo
アンチっていうより武田ファンを自任しながら、史実>講談・作り話な連中を笑っているんだと思うが。
むしろ真面目で史実好きな武田ファンに創作ファンがあざ笑われている印象。
966人間七七四年:2012/04/02(月) 13:58:49.07 ID:L8/5FmlV
創作の武田を史実とは違う、というだけでアンチ扱いって必死すぎて……。
その上に捏造や嘘がばれたコピペをマルチし続けるのが武田厨のデフォルトなのか?
967人間七七四年:2012/04/03(火) 14:07:05.74 ID:dBDrxvrF
軍鑑で史実の敗戦を軍学のお陰で勝った、と捏造して信玄を不敗に仕立てながら、
一方で勝頼を強すぎる大将はよくない、と腐す。
このあたりもデタラメで整合性がないな。
百戦百勝は実はよくないことだ、というのはそれこそ信玄が好んだ孫子の時代から言われていることなんだが……。
軍鑑ほど(まっとうな)武田を馬鹿にしたものはないと思うよ本当に。
968人間七七四年:2012/04/03(火) 15:38:00.68 ID:ecieIv7/
ソースなしの妄想は自分のノートにどうぞ。
969人間七七四年:2012/04/03(火) 21:36:56.96 ID:Aa27p+Ak
ソースなしの妄想をコピペするのはやめてくださいねだがさん
970人間七七四年:2012/04/04(水) 11:19:59.31 ID:E7UXBqod
センゴクで武田滅亡編が始まったが、これ参考になるよね?
971人間七七四年:2012/04/04(水) 14:33:35.23 ID:o7duMeBA
漫画は漫画。それを信じるのは軍鑑や講談を信じるも同然。
出典有りの部分なら信じていいかもしれんけど。
誰かさんみたいに出典を言いながら実は全部捏造、という事は流石に漫画家はやらんと信じたいw
972人間七七四年:2012/04/04(水) 19:41:10.61 ID:uTNBRBom
鳥取城編はやけに出典出しまくっていた気が
973人間七七四年:2012/04/04(水) 20:17:08.56 ID:1fWQvA0y
娯楽に何を求めてるんだお前らは
974人間七七四年:2012/04/04(水) 21:29:21.70 ID:ATkvfzrk
センゴク、勝頼が新しい国作りに励んでるみたいな書き方してるけど、
信玄時代の踏襲+重税しかやってねえだろって突っ込みたくなった
徳川にじり貧で重税・軍役負担増加しかしてないのに、中央集権とか
抽象的な表現で持ち上げて贔屓の引き倒しもいいところ
975人間七七四年:2012/04/05(木) 14:27:32.41 ID:W3TLRQZE
勝頼が史実でやった改革って、鉄砲重視にシフト(鉄砲訓練の懈怠を罰則化、軍役で鉄砲重視)とかの書状が実在してたな。
はっきり罰則を課す姿勢は、国人連合体からの脱却を狙ったといえなくもないが……。
976人間七七四年:2012/04/05(木) 16:33:51.96 ID:A/6x4YDJ

元亀2年には駿河の富士金山・安部金山・井川金山などが武田金堀衆により本格稼動し始めてる。
といっても、もともと採掘してる武田領の長畑金山を駿河側から掘ったり(井川金山)
武田の早川金山を駿河側から掘ったり(安部金山)
武田の中山金山を駿河側から掘ったり(富士金山)
要するに武田氏が従来の金脈を駿河側から掘って採掘力を2倍に強化したと言うこと。
これで武田の財力基盤はさらに強化されている。

977人間七七四年:2012/04/05(木) 17:22:21.11 ID:azAvYYzE
武田は信玄期から重税かけまくり。
棟別銭は隣国の数倍だし、雑多な税も多数。
……にもかかわらず駿河ゲットした穴山氏あたりはすげえ金持ちなんだよな。
経済要地を直接支配できなかった旧体制度をどうにかできれば、もうちょっと長生きできたかもしれん。
978人間七七四年:2012/04/05(木) 19:39:23.82 ID:Ap9TDcCh
軍鑑では数万の織田徳川軍を三百とか五百とかで蹴散らした事になってる武田の名将達、長篠じゃ手を抜いてたのかな。
最初から逃げ腰だし。

……まぁ、軍鑑の内容は捏造だからしかたn(ry
979人間七七四年:2012/04/05(木) 19:52:03.48 ID:j+4GliOz
信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述がある。
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。

遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに
信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを
信長は引きずっているのがわかる。
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられたわけだしな。
長篠では甲州兵の勇敢さを恐怖を骨の髄まで味わったんだろうな。

天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。

甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
980人間七七四年:2012/04/05(木) 20:02:57.13 ID:j+4GliOz
残念だけど信玄死後も長篠の敗戦までは
武田優位は揺るいでないから
信長は結局、
信玄に屈辱を味わったまま死んだ事実か変わらないんだ。

遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに
信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを
信長は引きずっているのがわかる。

元亀4年の信玄西上の時の織田は金も火薬も兵糧も無いので幽斎に調達するように命じたが
無理だったから、信長自らが指揮して京で恐喝略奪して凌いだ。
同じように幽斎には長篠の戦い寸前の時期にも信長が今回は鉄砲の玉薬だけだが
調達を要求していて、この時は調達できるようになっていたのが
5/12の幽斎書状への5/15信長返書書状でわかる。
5/20には玉薬が到着したようで信長はそれに関して「祝着だ」と大喜びし
家康はいよいよ陣城に籠城して討ってでない体制を構築している信長のヘタレぶりにより
長篠城落城の危機に焦り5/20夜に酒井忠次らによる鳶ヶ巣山砦襲撃計画を発動したために
勝頼の攻勢を生み出し、さっそく5/21に長篠の合戦で織田徳川3万との戦が起こってる。
そして5/26岐阜に戻るやさっそく幽斎に詳報して感謝してる。
つまり信長は火薬到着待ちをしていたので
勝頼は19日までに信長を攻撃してれば勝てた。
13日に出馬し、14日に岡崎に信長は到着してた。

連戦連勝の圧倒ぶりを誇る武田軍は足助城・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
公記によるとたった15000で出陣して(実数は六千から一万と言われている)
本願寺への義理も充分に果たしたし
ここまでの破竹の勢いでの戦果で満足して帰国すべきだった。
そもそも岡崎城主信康家臣で岡崎町奉行を務めていた大岡弥四郎が
勝頼に通謀し足助城から岡崎に武田軍を招きいれようとしたので奥三河へ勝頼が出てきてる。
しかし発覚してしまい岡崎突入を断念し、ニ連木城・長篠城方面に転進したとされる。
武田の軍事計画が狂ってしまった以上は長居は無用だった。
長篠城攻撃はとりあえず予定を変えたレベルの思いつき。
勝頼は戦略的な方針計画が大きく変更になっているのに
撤退せずに泥縄的に軍事行動を続ける過信による誤判断が大敗につながった。
981人間七七四年:2012/04/05(木) 20:07:10.96 ID:j+4GliOz
圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面&まるで城みたいな陣地
こんな状況下で9時間以上戦い続けて柵も破りまくったんだからいかに名将ぞろいだったかがわかる。また
・勝頼が「相手は打つ手がないみたいなのでこちらから突撃してやる」
・勝頼が「今回の織田との一戦を危ぶむ者がいる」と書いている
・武田一族衆は戦死者皆無
・武田譜代衆は信玄たたき上げ
山県→信玄の元小姓で兄売ってでも武田の為に仕える
内藤→信虎に追放された後の活躍が認められて兄を差し置いて上野まかされるほどの抜擢を受けた
土屋→信玄の元小姓で兄弟揃って武田に殉じた金丸家出身
馬場→勝頼を逃がすため殿軍買ってでる、織田に評価されるほど
・勝頼は長篠戦後も信長と乾坤一擲の決戦をやるつもりでいると書状に書いている
・勝頼が長篠戦後も重税&軍制改革に臨み、書状の内容が嘘でなく勝頼の意思である事がわかる

これらの事実から軍艦の内容通り勝頼が織田の待ち構える陣地に無謀に突撃していった事が主な敗因であると容易に想像がつく
982人間七七四年:2012/04/05(木) 20:33:47.73 ID:2EgH+bCd
飢饉などの災害に加えて、重税や軍役による民の苦しみが妙法寺記ではしばしば記録されている。
国力に見合わない戦争を親父の代から休む間もなくやってたんだから、小手先の改革じゃ破綻するのも当然だ罠。
983人間七七四年:2012/04/06(金) 01:30:02.12 ID:+hPQLhqi
>>947
理慶尼記には「当時に書かれたモノでは無いので」?」という疑惑がある。
984人間七七四年:2012/04/06(金) 03:14:51.52 ID:3YnWSQUF
>>981
そんな悪条件なのに玉砕突撃をしかけた首脳陣はどんだけ無能なんだ?
現場の兵の強さは間違いないんだろうけどさ
985人間七七四年:2012/04/06(金) 08:36:41.64 ID:3NOR6MU/
兵が強いんじゃなくて指揮官の指揮能力が優れているんだろ
勝頼の書状や軍艦の記述など反対者がいた事は確定的なんだから首脳陣の誤判断とするのは誤り
過去スレで散々言われてる事を何回繰り返すのか?
986人間七七四年:2012/04/06(金) 12:28:20.43 ID:3YnWSQUF
>>985
指揮系統も優秀となると、勝頼の無能っぷりが更に際立つわけだね?
987人間七七四年:2012/04/06(金) 13:16:35.13 ID:1KzQhSSC
>>985
反対者がいたのに突っ込んだのは、首脳陣の大多数が攻撃賛成だったからだろ。
なんでそこで勝頼と現場にいなかった側近のせいだけに摩り替わるのか謎。
軍鑑の完全捏造部分じゃん。
まだ他の野史の「少なくとも主観的には武田首脳は勝ち目がある、と判断して突っ込んだ」系のほうがマシ。
988人間七七四年:2012/04/06(金) 14:16:04.90 ID:+ebOBtox
トータルとして戦国通しても珍しいパーフェクト負けを喫した恥ずかしさから敗戦責任者をでっち上げ。
ただし別に捏造した不敗()の名将信玄と、そのスーパー配下達を汚したくないからとばっちりがあちこちに。
総体的に見れば武田の大敗という意味合いは全く変らないわけだが。

……の、割には織田徳川方にもかなり損害が出た! ともでっち上げたな。
989人間七七四年:2012/04/06(金) 14:23:28.54 ID:+ebOBtox
ま、信玄以来の疲弊した領国・遅れた体制・周囲は敵ばかりの悪化した戦略状況。
これらが重なっていれば、信玄が生きていようが間違いなくいずれあぼんしたんだろうが。
990人間七七四年:2012/04/06(金) 15:15:16.01 ID:3NOR6MU/
>>987
お前はちゃんと過去スレ読んでるのか>>750-810
一度収束した議論始めから蒸し返すとかアホすぎね
991人間七七四年:2012/04/06(金) 15:17:30.72 ID:3NOR6MU/
圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面&まるで城みたいな陣地
こんな状況下で9時間以上戦い続けて柵も破りまくったんだからいかに名将ぞろいだったかがわかる。また
・勝頼が「相手は打つ手がないみたいなのでこちらから突撃してやる」
・勝頼が「今回の織田との一戦を危ぶむ者がいる」と書いている
・武田一族衆は戦死者皆無
・武田譜代衆は信玄たたき上げ
山県→信玄の元小姓で兄売ってでも武田の為に仕える
内藤→信虎に追放された後の活躍が認められて兄を差し置いて上野まかされるほどの抜擢を受けた
土屋→信玄の元小姓で兄弟揃って武田に殉じた金丸家出身
馬場→勝頼を逃がすため殿軍買ってでる、織田に評価されるほど
こんな連中が勝頼が開戦と決めた以上、敵前で戦わずして退却するわけがない
皆、開戦には反対でも武田の為に懸命に戦ったってとこだろう
・勝頼は長篠戦後も信長と乾坤一擲の決戦をやるつもりでいると書状に書いている
・勝頼が長篠戦後も重税&軍制改革に臨み、書状の内容が嘘でなく勝頼の意思である事がわかる

これらの事実から軍艦の内容通り勝頼が織田の待ち構える陣地に無謀に突撃していった事が主な敗因であると容易に想像がつく
992人間七七四年:2012/04/06(金) 15:20:21.65 ID:3NOR6MU/
信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述がある。
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。

勝頼がいくら信長が戦下手だからって
ナメ過ぎてたった15000で勝てると増長してたのが武田滅亡スイッチだし
武田が3万くらい動員して9時間に渡り攻勢に出てたら織田なんて踏み潰してた。
鉄砲三段なんて捏造話を作って圧倒しましたイメージを必死に創造してたようだけど。
まあ手取川でエア大敗したほどの弱織田軍だしねぇ。
しかも丹波の一国人の赤井直正にまで大敗したのが織田軍。
義龍や信玄や謙信や元就や直正が死んで超ラッキーだったよね。

遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに
信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを
信長は引きずっているのがわかる。
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられたわけだしな。
長篠では甲州兵の勇敢さを恐怖を骨の髄まで味わったんだろうな。
織田が圧倒的兵力になったのは
包囲していた本願寺が天皇の和睦を受け入れた天正8年8月以降。
それでも紀伊の高野山が織田に抵抗していて
織田は攻めあぐんでいる。結局、高野山は本能寺の変まで
山内に織田軍の進入を許さず凌ぎきってしまった。
993人間七七四年
天正7年初頭にも勝頼が毛利と荒木と本願寺を救うために
織田戦力を分散するために家康攻めで出陣OK返事出してんだよな。
その時に輝元が宗麟に足を引っ張られたごときで
武田との約束を破り正月16日出陣を無期延期にしやがったから
合同作戦じゃなくなって武田単独で
景虎自刃した3/24を過ぎてからの
4月より遠江高天神・国安(掛川市)を荒らしてて
信長も急いで摂津戦線から安土へ帰国してる。
いそぎ本願寺や荒木もこのチャンスに出撃せよと毛利に要求するが
まったくのヘタレぶりを露呈したために、
これを見た宇喜多・南条らも毛利を見限り、
天正8年になると荒木が破れ、本願寺も朝廷の勅令和睦を飲んでしまい
武田と毛利の滅亡が確定した。
しかし本能寺の変のおかげで毛利は滅亡を免れた。
結局、毛利がありえないくらいヘタレだから
織田を討つチャンスを何度も自らぶっ壊してる。
ちなみに8月末に厩橋北条高広が北条から武田へ服属先を変えたことをきっかけに
9/5北条と徳川が同盟したことを受けて武田内通の罪で信康が9/15に自害させられてる。
武田は佐竹らと同盟して北条を圧倒。伊豆浦でも武田水軍は北条水軍を圧倒し連戦連勝。
氏政は「このままでは北条は滅亡に向かう」
「上州は武田のものになってしまう」などと武田を恐れまくる。
しかし同時期に石山本願寺が勅命和睦命令の連投に恐れ多いと受託してしまう。
それでも天正9年末まで北条を圧倒し続け伊豆まで攻め込み里見氏も同盟参加。
徳川も高天神城をやっとの思いでなんとか攻略できたが、そこまででしかなかった。
所詮、家康は穴山とどっこいどっこい程度の実力しか無い。
天正10年の織田の攻撃のタイミングが浅間山噴火とシンクロして武田が崩壊しただけ。

元亀4年の信玄西上の時の織田は金も火薬も兵糧も無いので幽斎に調達するように命じたが
無理だったから、信長自らが指揮して京で恐喝略奪して凌いだ。
同じように幽斎には長篠の戦い寸前の時期にも信長が今回は鉄砲の玉薬だけだが
調達を要求していて、この時は調達できるようになっていたのが
5/12の幽斎書状への5/15信長返書書状でわかる。

5/20には玉薬が到着したようで信長はそれに関して「祝着だ」と大喜びし
家康はいよいよ陣城に籠城して討ってでない体制を構築して長篠城落城の危機に焦り
5/20夜に酒井忠次らによる鳶ヶ巣山砦襲撃計画を発動したために
勝頼の攻勢を生み出し、さっそく5/21に長篠の合戦が起こってる。
そして5/26岐阜に戻るやさっそく幽斎に詳報して感謝してる。

つまり信長は火薬到着待ちをしていたので
勝頼は19日までに信長を攻撃してれば勝てた。
13日に出馬し、14日に岡崎に信長は到着してた。