武田信玄は過大評価されすぎ!!part3

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888人間七七四年
>>884
えっ?尼子残党が大活躍してたのは元就死去前後の元亀2年であって
信玄上洛戦の時の尼子残党なんてゴミくずレベルだったのに何言ってるんだw
むしろ天正3年には再度の毛利但馬進出の口実に尼子残党が利用され、
危機的状況下の織田は毛利に屈して悔しさを滲ませながら容認してるじゃんよ。
これで味をしめた毛利は、義昭を奉じて再び、丹波の赤鬼との合流を目指すまでに成長。
>>885
両属って・・・無知すぎだな。しかも天正6年すらってどういう意味だよ。
お前タイムスケジュールすら理解できてないだろ?
天正6年は秀吉による但馬平定が完成した年なのも知らんでいい加減なこと書くな。
信玄死去により義昭降伏を経て、義昭の受け入れ先をめぐる織田毛利の交渉で、
義昭の子の義尋に挨拶に来いと言った信長が
ついでに来春に兵を但馬方面へ派兵する意向を示した為、義尋という新大樹公を擁する大義の前に
正面衝突を嫌った毛利が織田が尼子を支援しない条件を勝ち取ったみかえりに
天正2年になって毛利は但馬の支配権から身を引いただけだし
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1328637941/199
それは義昭上洛した時の永禄12年の織田軍の播磨・但馬侵攻の時は
2万の軍勢だったが、天正5年10月に秀吉が京都から播磨へ出発した際は
織田軍与力がなく、ほぼ長浜衆独力で中国へやってきていたから。
そこで秀吉は但馬銀山を早期制圧して資金面の貧弱さを補うべく
播磨から一気に奇襲北上しているが、その際の兵力はたった3000。
永禄12年の時は10日で養父・朝来郡18城を陥落させたが、
天正5年の秀吉軍は18日で両郡を平定して、前野長康に銀山支配を委任してる。
このあまりの強さと速さに出石有子山城の山名祐豊も毛利軍もどうすることもできなかった。
さすが天才秀吉である。完全にビビった山名に出石・城崎・美含・ニ方の4郡を
信長には黙って独断で安堵の条件を出してる裏で、北但馬各地の国人達へ夜も休まず
使者を派遣しまくって秀吉方に付くように説得しまくった結果、
天正6年春には山名氏政が土産をもって秀長の但馬竹田城へ訪問し但馬全域平定。