戦国ちょっといい話28

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1人間七七四年
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話27
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1307622844/

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鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
2*:2011/08/04(木) 21:29:29.46 ID:1FE8Acpw
<,,`∀´,,> ニダー
3人間七七四年:2011/08/04(木) 21:54:12.46 ID:2HCX4rPF
>>1
4人間七七四年:2011/08/05(金) 00:34:49.08 ID:fHsnbfjJ
総合]毎週金曜 午前0:45〜1:28(木曜深夜)

タイムスクープハンター「髪結いちょんまげ騒動記」
http://hayabusa.2ch.net/test/read.cgi/livenhk/1312455261/
5人間七七四年:2011/08/05(金) 00:53:16.19 ID:9gCYktPg
>>1
6人間七七四年:2011/08/05(金) 09:40:36.65 ID:JBrn15IF
 *     +    巛 ヽ
            〒 !   +    。     +    。     *     。
      +    。  |  |
   *     +   / /   イヤッッホォォォオオォオウ!
       ∧_∧ / /
      (´∀` / / +    。     +    。   *     。
      ,-     f
      / ュヘ    | *     +    。     +   。 +
     〈_} )   |
        /    ! +    。     +    +     *
       ./  ,ヘ  |
 ガタン ||| j  / |  | |||
7人間七七四年:2011/08/05(金) 20:10:57.23 ID:uSfP1kRp
見事!見事!
8人間七七四年:2011/08/05(金) 20:55:35.96 ID:UJFAqzzJ
大儀である。茶を服すがよいぞ。
  ∧ ∧   
 ( ´・ω・)                                     
 ( つ旦O
 と__)__)  旦    
       福島原発産放射性汚染水油入り  
9人間七七四年:2011/08/05(金) 22:24:15.21 ID:JuJf4xbl
>>8
政宗「今度俺んちで鉄砲の試し撃ちするからお前も来いよ」
10人間七七四年:2011/08/06(土) 22:17:13.33 ID:vHAMXvP6
豊臣秀吉の死後、政権奪取をもくろむ徳川家康と豊臣家臣の石田三成の対立が激化する中、
関東地方から上洛の途上だった榊原康政は、伏見城下にいた家康を三成が襲撃を計画している事を知り、
昼夜を問わない行軍で近江国瀬田までたどり着いた。そこで家康がまだ無事である事を知ると、
関所を設けて3日間京への通行を禁じた。その理由は足止めされた旅人と共に進軍し、敵に大軍だと思わせる事が目的だった。
さらに、京に入った康政は蔵から多額の資金を取り出して、兵達に

「徳川軍6万人分の兵糧が必要だ。」

と言いふらしながら京周辺の商店の食料を買い占める様に指示した。結果、市中には

「徳川軍は数十万の軍勢で上洛している。」

という噂が流れ、三成は襲撃を中止し、康政もその知略を称えられたと言う。
榊原康政、噂で家康を守ったいい話。
11人間七七四年:2011/08/07(日) 06:12:28.52 ID:UWhz9p3U
1560年頃の越後での話である。
地侍だった人が重臣の家来に殺されてしまった…家族が頭に来た

重臣は金銀をわけあたえた。
戦国ならではの美談だね
12人間七七四年:2011/08/07(日) 06:14:33.65 ID:xAA5//Th
まだ生きてたのか
13人間七七四年:2011/08/07(日) 08:52:57.35 ID:+jQ4VG/v
>>11
同じ越後でも兼続は頭にきた家族をブッ殺したよな
14人間七七四年:2011/08/07(日) 09:49:52.99 ID:vjWmdxxg
>>13
だからその話だろ
15人間七七四年:2011/08/07(日) 11:42:23.21 ID:+jQ4VG/v
そうなんや
16人間七七四年:2011/08/07(日) 11:49:18.07 ID:kKQGHti+
兼続だっていきなりぶっ殺したわけじゃないよ
詫びいれて懐柔をしようとしたらクレーマーだったでござるって話だからな
やりすぎではあるけど究極のクレーマー対策ではある
17人間七七四年:2011/08/07(日) 12:10:31.89 ID:5E8nqrEV
島津忠恒の嘆願により死一等減じられ、八丈島へ流されることになった宇喜多秀家は、忠恒への謝礼として、
近臣の玉川伊予守義則を譲った。
備前中納言に仕えて上方で武芸百般を修め、馬術・弓術の名手である義則は、たちまち忠恒の寵臣となった。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2333.html
しかし血気に逸る島津家の若侍たちは、主君の近くに侍る上方武士に白い目を向けた。

ある時、菩提寺の福昌寺へ参拝した忠恒のお供をした義則は、同じくお供の若侍たちに絡まれた。
「山門の脇に、大きな石灯籠がござったな。あの灯籠を、持ち上げてみて下されや。」

さすがの義則も、これには難を示した。
「あの大灯籠を持ち上げるのは、なかなか容易ではござるまい。」
「ふん!上方育ちの、行跡柔和なることよ。」
「・・・そこまで言われては、やらざるを得ませんな。」

やむなく義則は、大灯籠に取り掛かった。「ぬおぉぉおお―――――――――――――――っ!!!」

“歯噛をなし持被候へば、冬の事にて候に、足の指の又より血朱になりてみえし”と薩藩旧伝集が記す
恐ろしい形相になりながら、義則は灯籠を持ち上げる事に成功し、安堵した。

「よ、良かった・・・本当に良かった・・・」
「・・・ほ、ほんに良かったのう!これで貴殿の面目も立ったわけじゃ。」

「わしが『良かった』と申したのは、その事ではない。おぬしらの事じゃ。

持ち損じたならば、恥じて我が身を処するのはもちろん、わしを挑発し、恥を見届けたおぬしらを
ただでは置かぬところであった。余計な血を見ず済んだゆえ、『良かった』と申したのよ。
向後このような試しは、互いのために無用に願いたい。」

若侍たちは深く悔い、その後、義則を白い目で見る者はいなくなったという、
泳いで参った人の旧臣、薩摩隼人に意地を見せた話。
18人間七七四年:2011/08/07(日) 12:26:47.09 ID:Yaf95qM8
あやうく非常に悪い話になるところだったな
19人間七七四年:2011/08/07(日) 13:24:33.84 ID:zd38BlLF
大陸に鼎を持とうとして腰を折った王だか皇帝がいたよな
20人間七七四年:2011/08/07(日) 15:20:48.83 ID:/OD7HNgu
つか悪久のおかげで秀さん助かったのか。いい奴じゃないか悪久
嫁とのあれこれでDQN扱いだが、実はああしても仕方ない事情があったと違うか
21人間七七四年:2011/08/07(日) 15:34:57.80 ID:Lk/DsDSX
施政者としてはいいんじゃないか
一部家中についてはアコギで近世化のやり方としては強引かもだけど、
領民を苦しめていたりはしていないんじゃ?
22人間七七四年:2011/08/07(日) 17:20:42.63 ID:KHi948p1
>>19
秦の武王だったっけ?
策士の張儀を毛嫌いしてたし、男らしいよね
23人間七七四年:2011/08/07(日) 18:41:37.00 ID:8hjGYwD0
単に骨折しただけじゃなくてそれが基で若死にして国が乱れちゃったからな
軽率の謗りは避けられん
24人間七七四年:2011/08/07(日) 18:44:09.58 ID:ATvjPugI
>>21
家久と細川忠興は一部をネタにして大げさにしてる
25人間七七四年:2011/08/07(日) 19:00:00.42 ID:rqE5heeK
悪さんは、季節外れに「これから茶を植えたいから茶の実を持ってこい」と言う無茶な命令に、侏儒ドンとあだ名される薩摩の知恵者が「連れてきました
この婆さんが、我が郷で一番の茶飲みです」ととんちで答えたら、罰することなく済ませたりしてるしね
そもそも、季節外れの時期に茶の実を持ってこいと言うな、という突っ込みはしない方向でよろしく
26人間七七四年:2011/08/07(日) 21:29:35.40 ID:VVU32IOu
アニメの一休さんで将軍様が突然狩りをするから近隣の百姓に獲物を集めさせろと例によって
わがまま言いだして困った新右衛門さんがこれまた例によって一休さんに助けを求めたら
百姓たちをそれぞれ鎌とか鍬を持ってこさせて「これが彼らの『得物』です」と答えて
やりこめた話を思い出した。これも元ネタがあるんだろうなあ
27人間七七四年:2011/08/08(月) 13:30:33.50 ID:mRuPZpwu
ちょっといい男(性的な意味での話ありますか?
28人間七七四年:2011/08/08(月) 15:17:14.10 ID:uTGcN1aw
永禄7年(1564)正月11日、三河一向一揆、上和田の戦いでのことである。

一揆軍の攻勢に味方が危機と聞いた徳川家康は、単騎でその救援に向かった。
しかし一揆軍の優勢は止まらず、ついに家康自身も危機的な状況になった。
この時家康には二発も鉄砲の弾が命中したが、鎧が頑丈であったため助かったという。

さて、その時

一揆軍の中に、土屋長吉重治という者がいた。
彼は家康の姿を見ると激しく狼狽し、叫んだ

「私は宗門に味方している!しかし、今まさに主君が危機にあるというのに、
それを助けないというのは不本意というものではないか!
もしこの事で地獄に落ちる事になろうと、私はそれを厭わない!」

土屋は、味方である一揆軍に攻撃を仕掛けた。

突然に裏切りに一揆軍は動揺した。家康はこの機を逃さず巧みに指揮をし、
ついに危機から脱出する。

土屋は味方への突撃の後、討ち死にした。

戦後、家康は石川守成に土屋の死骸を探させた。
そして運ばれて来た遺体の手を取り、激しく嘆き悲しんだ。

家康は上和田の地に土屋の墓を作り、彼を篤く弔ったという。

一揆に参加し敵対していながら、自分の命と引き替えるかのように主君家康の危機を救った、
土屋重治についての逸話である

(徳川実紀)
29人間七七四年:2011/08/08(月) 18:12:33.53 ID:R6zgO21k
死に損だよな?
30人間七七四年:2011/08/08(月) 18:29:43.68 ID:qipLCUJJ
そもそもそれだけの忠心があるのなら一揆に参加するなよと
まあ複雑な心境だったんだろうけどさ
31人間七七四年:2011/08/08(月) 19:04:12.30 ID:kXLIvt+k
主君救ったのが死に損だったら、死に損じゃない討ち死に探すのは難しくないか?
まあ、だったら最初から一揆側につくなよというのはあるかもしれないけど
信仰ってのは難しいからなあ
32人間七七四年:2011/08/08(月) 19:49:57.15 ID:/8Bv8BFK
身内を取り立てたとかはないの?
墓だけで済ましたのか?
33人間七七四年:2011/08/08(月) 19:54:27.38 ID:JDPturvg
身内は一揆勢に居て死んでるんじゃね?
34人間七七四年:2011/08/08(月) 21:29:23.99 ID:9NWWZRhY
後の四万五千石である
35人間七七四年:2011/08/08(月) 21:43:45.45 ID:6nC3OKPw
こういう三河武士的な話、やっぱりいいなあ
頑固で陰険で閉鎖的って欠点込みでもそう思う
36人間七七四年:2011/08/08(月) 22:24:25.61 ID:CdzVoE2n
なんか三河のめんどくさい人達の話を聞いていると
徳川家というより家康個人に忠誠を誓っているように見える人が多い希ガス
人質時代から一緒に苦労した人とかなのか?
37人間七七四年:2011/08/08(月) 22:47:13.97 ID:OWs3tzcB
話がそれてすまんがやっぱ足利の三河軍団もそんな連中だったんかねえ?
38人間七七四年:2011/08/09(火) 02:47:38.88 ID:Togfk+uu
>>37
三河幡豆郡今川荘が苗字の地である今川氏の今川了俊の『難太平記』は、
主家への自分たちのそれまでの忠義を強調し子孫へもそれを求め、ライバルはケチョンケチョンに
描き、さらに「子孫以外に読むな。門外不出」と言いつつ世間の目を意識しまくった描写で、
事実了俊の生前から世間で読まれていたフシがあるなど『三河物語』の大久保彦左衛門
そっくりの行為をしている。

というか、大久保彦左衛門は今川了俊を真似した部分があったと思われる。
武将としては了俊のほうがだいぶ器は大きいがw
39人間七七四年:2011/08/09(火) 10:24:22.68 ID:eQJaVZCO
三河一向一揆って

家康本陣と対決

主君に弓は向けられねえ!

なんだか三河者らしい行動に出る

がテンプレになってるよな。
40人間七七四年:2011/08/09(火) 17:30:39.76 ID:csQRiIQs
『戦国武士は「恩の死はせねど、情の死はする」といって、
知行をたくさんくれた主人が死んでも自分は死なないが、
「この男こそわが主人」と惚れた主人のためなら死ぬのである。
これをひっくり返せば、気に入らない奴をやっつけるためならいくらでも死ぬということである』
津本陽 武将の運命 朝日文庫 より抜粋

前に読んだこの一節を思い出した。
著者の想いが入りすぎているきらいはあるが、
戦国武士にはそういう一面もあると言えると思う。
葉隠には恩だの情だの分別するな!と言われそうだけど
41人間七七四年:2011/08/09(火) 18:39:22.74 ID:V+frVMj+
必死で敵に立ち向かう家康を見て、はたと目が覚めたんだろうか。
俺は主君のために死ぬつもりだったのに今まで何やってたんだろう、みたいな。
42人間七七四年:2011/08/09(火) 19:08:14.13 ID:6yE62ni4
一揆に参加することで門徒としての筋を通し、主君をかばって死ぬことで家臣としての筋を通した。ということか。
43人間七七四年:2011/08/09(火) 23:15:40.33 ID:mKoL+rOT
一揆に参加することで主君を裏切り、主君をかばって死ぬことで門徒として中途半端。ということでもある。
44人間七七四年:2011/08/09(火) 23:17:39.71 ID:csQRiIQs
理屈だけで生きられる人間はいない
45人間七七四年:2011/08/09(火) 23:25:44.75 ID:RbH50BIh
逆に一向一揆を潰す為の埋伏の毒だったのだと考えればいい
家康の姿が見える所まで敵を引っ張ってきて・・・
やっぱり主君を裏切れませんといって一揆勢に襲い掛かる
46人間七七四年:2011/08/09(火) 23:26:41.62 ID:Togfk+uu
徳川家康が未だ竹千代と呼ばれ、駿府で人質生活を送っていた頃のことである。

ある日竹千代は駿府の大祥寺という禅寺に、20羽程の鶏が走り回っているのを見て、
そこの僧に

「あの中から1羽貰えないだろうか?」

と尋ねる。するとこの僧

「どうぞどうぞ。1羽と言わず全部でも差し上げますよ!
全くこいつらは、菜園を荒らす困った連中なのですが、勝手に生まれ育ってしまい、
しかたなくこのように飼っているのです。」

と、心底困ったように答えた。
竹千代はこれを聞いて笑いつつ

『ああ、この僧は鶏卵を食べるということをしないのだ』

と、心のなかで感心した。

のち、竹千代が徳川家康と名乗り、駿河も支配するようになったころ、
家康はこの僧を召し出し、殊勝な者であるとして寺領を寄進したそうである。
(徳川実紀)

そんな、竹千代と鶏と僧侶のお話
47人間七七四年:2011/08/10(水) 00:53:22.76 ID:oPuZlGL1
家康さんの記憶力と賞罰のさじ加減の絶妙さは相変わらずパネェな
48人間七七四年:2011/08/10(水) 01:15:06.49 ID:QKfHhj5l
決められた事を当たり前のように守れる人は尊敬できる。
平和な現代ですら、信号を守れなかったり人の物を勝手に取ったりする人が多いのに
社会全体が荒れてた当時にして、当たり前のように戒律を守れてるこの僧は偉いと思う
49人間七七四年:2011/08/10(水) 01:27:51.75 ID:IagGc+WZ
この頃に鶏卵を食べる食文化が定着してたのかは知らないが
卵食べる事でしか間引くって思考が成り立ってない時点で鶏自体を食べる食文化は無いよな
竹千代は鶏を貰って何をしたかったのだろうか
50人間七七四年:2011/08/10(水) 02:01:56.91 ID:oPuZlGL1
少なくとも、卵食わない僧が殺生するわけないやん。
51人間七七四年:2011/08/10(水) 02:11:12.88 ID:2aWrYBAY
>49
家康の少年時代だし、鷹の代わりに飼うつもりだったのかもしれない
52人間七七四年:2011/08/10(水) 02:12:55.91 ID:xiojDyaQ
まあこの時代鶏というと闘鶏だな。
53人間七七四年:2011/08/10(水) 02:20:02.93 ID:7jJ+1hSY
この時代にも野良鶏がいたのか
54人間七七四年:2011/08/10(水) 03:52:12.84 ID:aJICWtWQ
>>51
ハムテルみたい
55人間七七四年:2011/08/10(水) 05:05:36.67 ID:IagGc+WZ
>>52
龍王丸「どうだ竹千代この鶏は横綱級だぜ」
孕石「可哀相ですよ龍王丸、コイツんち貧乏だから鶏なんて持って無いんですよ」
竹千代「…鶏くらい持ってるよ」
龍王丸「じゃあ今度お前と俺の鶏で闘鶏しようぜ」
そして20羽の鶏で龍王丸の鶏を八つ裂きにしてギャフンと言わせた訳か…
そう考えると僧への恩賞は妥当だな
56人間七七四年:2011/08/10(水) 12:10:02.96 ID:tWE7rq+K
戦の最中に寺かどっかに泊まって
「初めに鶏が鳴いたら起こせ」って命じて、
やたら早く鳴いたけどそれで起きたのが勝利のきっかけ
だったって話無かったっけ?
57人間七七四年:2011/08/10(水) 12:26:58.67 ID:YRGpQ71L
無名〜小大名だとやっぱり美談って作られもしないのかな
58人間七七四年:2011/08/10(水) 12:31:17.74 ID:DPHMhRrZ
美談が作られるのは徳川系大名に多いね、支配者側だから当然か
59人間七七四年:2011/08/10(水) 14:32:38.51 ID:eUwDCpG6
>>54
同じこと思ったw
鷹匠に憧れて訓練したら超凶暴ニワトリに…
60人間七七四年:2011/08/10(水) 15:44:43.82 ID:iuiiTAk2
>>57
作られても知られてないのでは
無名だけに
61人間七七四年:2011/08/10(水) 16:02:40.81 ID:MjsPKO0q
もしも小大名だったら、、、【和気藹々1】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1273053429/l15
戦国〜江戸期の独立系小大名に関するスレです。

命をかけて籠を護る、20人ばかりの大名行列とか
数人の腰元が奥の全てを執り行うとか楽しくね?
62人間七七四年:2011/08/10(水) 17:15:41.65 ID:dGbiFb6G
別にいい話じゃないけど小ネタ

佐賀藩といえばまず浮かぶのは有名な化け猫騒動だろう
じゃあその佐賀藩の藩祖である鍋島直茂自身はネコをどう思っていたのだろうか
それが意外にも高くかっていたようだ

鍋島直茂「ネコほど重宝なものはない。家のネズミを防ぐためならどんな工夫をするよりも
       良いネコを連れてくるのが一番だ」
63人間七七四年:2011/08/10(水) 23:03:31.30 ID:DPId/KRA
>>62
あら意外 確かにうちも猫飼ってる時期にねずみ見たことない 猫は重宝する動物だよね
しかしそれなのに、今も鍋島藩士の子孫の人は猫飼ってないんだってね

これだけじゃなんなので、徳川秀忠のいい話 wikiにもあったのでその文を抜粋

大坂の陣の後のことであるが、弟・徳川義直と共に能を観劇している最中に地震が起こり
周囲がパニックを起こしかけた時に「揺れは激しいが壁や屋根が崩れる兆候はない→下手に動かないほうが安全」
と素早く判断して対応を指示し、混乱と被害を抑えている。

秀忠は小さい頃に、暴れ牛が入ってきても微動だにしなかったらしいから
終始沈着冷静な人物だったのかな でも時々短気だけど
64人間七七四年:2011/08/10(水) 23:18:04.45 ID:QKfHhj5l
秀忠は戦がらみの話を見る限り、冷静な人とは思えないんだが……
突然の事態には強い人なんだろうか。
指揮官として軍勢を率いるより、小隊を率いた方が才能を発揮するタイプだったのかも?
65人間七七四年:2011/08/10(水) 23:20:56.88 ID:DPId/KRA
惜しむらくは、その機会に恵まれなかったのがね いきなり大軍の将任されてるし
その前に参加した戦いって、初陣の小田原の役くらい? 
秀忠は名君であっても名将ではないんだよなあw でもそういうギャップ込みで秀忠好きなんだけど
66人間七七四年:2011/08/11(木) 00:56:53.07 ID:T78i7rQ+
早い時期に生まれていれば戦の面でも才能を発揮できていたのかも
67人間七七四年:2011/08/11(木) 03:06:11.14 ID:SAjhFFYa
秀忠は今までの逸話見る限りじゃ鋭利な能吏的イメージが強いな
あまり将軍様って感じじゃないや
68人間七七四年:2011/08/11(木) 03:55:55.20 ID:Ayx5XGqg
前田利家はある時、若い衆を集めて語った。

「昔、織田家と斎藤家が争っていたときの事だ。
 夏の夕暮れ時に両軍が睨み合って居ったのだが、
 織田家の佐久間久右衛門という剛の者が近くに居った者達に『田を結べ、田を結べ』と囁いたのだ。
 言われた連中も了解して敵に怪しまれぬように槍を持ったまま稲を結んで12間ほど引き下がった。
 間も無く、斎藤方の兵が突進してきたのだが稲に躓いて、たちまち15人ほど討ち取られてしまった。
 これに参った斎藤方はこれより50日は兵を出さなかったとさ。
 ・
 ・
 ・
 と、さて、ここまで語っておいて何だがな、お前達、こういう話はうっかり聞くようなもんじゃないぞ。」
69人間七七四年:2011/08/11(木) 08:16:27.84 ID:BdJKr394
間抜けな戦争w
70人間七七四年:2011/08/11(木) 09:50:43.64 ID:2hBMj8Eh
間抜けだけど今から敵方をヒャッハーするぜってテンションあげている時にこんなのあったら普通に引っかかると思う
71人間七七四年:2011/08/11(木) 16:34:24.91 ID:6ayPABIR
>>68
途中で脱落してたら
「大将の話最後まで聞けコラ。最近の若いもんはry」
とみせしめに串刺しだったとオモ
72人間七七四年:2011/08/11(木) 21:59:35.79 ID:BC0UACuH
「細川越中殿ご内室、大坂屋敷にて自害!」
「上杉軍、最上領へ押し入る気配あり!伊達殿・堀殿、最上家へ後詰との事!」
「豊後にて大友義統、挙兵!黒田如水殿、これと対する由!」
「加藤主計殿、肥後にて小西摂津弟・隼人正と戦に入った模様!」
「・・・・・・!」
慶長5年(1600)7月、石田三成挙兵の報を受け、上杉征伐から取って返した徳川家康のもとに
各国から来る報告は、急を告げるものばかりであり、家康とその周囲の機嫌は思わしくなかった。

そんな時、家康家臣の中山大和守という、坊主頭なのに僧籍に入っていない男が、弁慶の格好をして
(木材で七つ道具まで作る凝りよう)、一尺六寸の大指物を背負い、額に赤い鉢巻を締め、取次の者に
「中山大和守、参上!殿にお取次ぎ願いたい!!」と、音声で名乗った。

常々おどけ者として知られる男だけに「また大和殿のなさることよ。」と誰も取り合わなかったが、
その大音声は家康の耳まで届いており、目通りが許された。

御前にまかり出た中山は、腰の脇差を外して、家康に見せた。
「これぞ今度、石田治部の首取る脇差なり〜!」
言うが早いか脇差を抜いた中山、「やっ!やっ!そいやっ!!」と、三度続けて突く真似をしたあげく、
庭に飛び出し大立ち回り?を始めてしまった。

機嫌の悪かった家康も、これには大笑いして気分をほぐし、落ち着いて対三成の策を練る事ができた。
(慶長年中卜斎記より)

この中山大和守、元は下野宇都宮氏の一門だったという。関が原の戦いの後は家康の御伽衆となり、
家康の良き話相手として、皆から『談伴(たんはん)』と呼ばれ、楽しい老後を過ごしたそうな。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-581.html

かと言ってただの道化者ではなく、慶長4年1月、三中老の家康詰問の時に、奉行衆が家康屋敷を
攻めるとの噂が流れた際には、本多三弥正重と
「いっそ、石田治部に降参・・・するフリして、近づいて刺してやろうぜw」などと話していたという。
73人間七七四年:2011/08/11(木) 22:33:27.15 ID:IAMtFCWD
1541年、少弐家に仕える竜造寺家は、肥前国小城を拠点とする千葉胤連と主家を結びつけて
日之江城城主の有馬家に対抗する事を画策した。この方針の下、竜造寺家の重臣だった鍋島家の
次男坊は、4歳で胤連の養子となった。事実上の人質であり、小城に来て間もない頃、胤連から

「もし叶うなら、家に帰りたいのではないか?」

とこの少年に尋ねたが、

「帰りたいですが、貴方は返せないでしょう。」

と大人びた返答をした。これを聞いて大物になるだろうと確信した胤連に、この少年は大切に育てられ、
家臣や領地まで与えられたという。この少年は後に竜造寺家を背負って立つ事になる鍋島直茂である。

鍋島直茂4歳頃の逸話である。
74人間七七四年:2011/08/12(金) 04:40:47.82 ID:GonQ/GCT
ひねておるなw
75人間七七四年:2011/08/12(金) 12:43:34.73 ID:xXOg0fub
>>72
なんか一途すぎて逆にユーモラスって感じだなw
三河者にはよくあることと思ったら宇都宮氏一門って名家出身なのね
76人間七七四年:2011/08/12(金) 13:05:00.53 ID:nhM7i+8j
>>73
養子に入る時にその心得とかは言い聞かせられてはいたんだろうが、この問いに対して
この答えは、単に言いつけを守るだけじゃなくちゃんと意味を理解してないと出てこないもんな。
77人間七七四年:2011/08/12(金) 21:16:06.19 ID:kvYsXv6g
>>72
中山さん可愛いなw こういう緊張の場を解きほぐせる人って貴重だよね
78人間七七四年:2011/08/13(土) 00:03:59.78 ID:Hiaz1mgo
紀州守護、畠山尚順が野辺氏を改易しようとしたところ、野辺氏はこれに反抗し自らの紀州平須山城に立て篭もった。
畠山尚順はこれを討伐せんと河内に居た息子の稙長に使いを出し、守護代遊佐長教を派遣させ自らも出陣した。
一方の平須山城方にも日高地方に勢力を誇った湯河直光一党が応援に入った。
この湯河氏の一族に業阿弥という法師が居たのだが、この男が一策を献ずる。

業阿弥「私が河内からの使者と偽り、本陣に入り込み畠山尚順を討ち取りましょう。」

かくして、業阿弥は使者に化けて、易々と本陣に入り込むことが出来たのだが、問題が一つあった。

業阿弥「いずれが畠山尚順か・・・」

業阿弥は畠山尚順の面体を知らなかったのである。
しかしながら、業阿弥は床机に腰をかけ兵に指示を与えている者に目をつけた。

業阿弥「(この者が尚順に違いなかろう)こちらが河内からの書状にございます。」

と、書状を渡すが、その者は尚順ではなく遊佐長教であった。
そうとは知らず、業阿弥は長教が書状を開いた隙を狙い、二の太刀まで斬りつけたものの、
頭を丸め、鎧の上に僧服を着ていた尚順に後ろから斬られ、その場で絶命した。
業阿弥は倒れても目を見開き長教を睨み続けており、陣中の者もなんと名誉な勇士かと感嘆し
業阿弥の血を指につけ嘗める者まで居たという。

尚順は無傷であったが、実際に采配を取り仕切っていた長教が重傷を負った畠山方の動揺は相当なものであった。
さらに、そこに城方が夜襲をかけて来た為、尚順も長教もそれぞれの本拠に撤退せざるを得なくなったのである。
79人間七七四年:2011/08/13(土) 20:45:54.68 ID:rqi45c4P
>>78
最後まで使命を果たそうとするとはあっぱれ。
写真やらがないこの時代、人の識別とかは苦労したんだろうなぁ。
80人間七七四年:2011/08/13(土) 21:51:14.60 ID:GYOAaQo2
戦国最後の徒花、大坂夏の陣も果てたその日の夕暮れ。徳川秀忠は、旗本の今村伝四郎を呼んだ。

「お前は本日、兜首を二つ取ったそうではないか。」
「・・・はっ。」
「だが首帳では、お前の武功は“首一つ”と記録されている。これでは手柄の立て損ではないか。
なぜ正しく申し出ぬ?」

「実は拙者、本日真っ先を駆けましたが、早々に乗馬が鉄砲に当たりまして。」
「ほう。」

「徒歩で戦う拙者を見て、青山忠俊殿配下の近藤忠右衛門殿が、『良く働くのう。わしの馬を使え。』
と、乗っていた葦毛の馬を貸して下さいました。再び乗馬を得た拙者は、首尾良く敵を一人討ち取ることが
出来ましたが、その後下馬して戦っているうちに、馬を敵に盗まれてしまいました。

借りた馬を盗られた拙者は、『取り返さずば、生きて戻らず』と思い定め、取った首を近藤殿に預けて
徒歩で敵中深く分け入ったところ、幸運にも馬盗人を見つけ、これをも討ち取ることが出来ました。」
「ふむ。」

「ですが徒歩で首を取れたという事は、馬を借りずとも首を取れたという事。逆に近藤殿は、馬があれば
首を取れたやも知れませぬ。ゆえに、その首を近藤殿の物とし、首帳には記しませんでした。」


「誰かある。明かりを持てい!!」
運び込まれた燭台を手に取った秀忠は、伝四郎を呼び寄せた。

「もっと近う寄れ!お前のような真の強者はな、こうやって良く顔を見覚えておくべきなのだ。」
“首一つ”の男は旗本多くある中で、大いに面目を施した。(徳川実紀より)

今村伝四郎正長、ときに二十六歳。家康が若武者たちの不甲斐無さを嘆いたと言われる大坂の陣だが、
武士の誇りも意地も、そしてそれを遇する心もまだ生きていた、そんなお話。
81人間七七四年:2011/08/13(土) 22:00:13.40 ID:kC6Ww9zJ
安心・安定の秀忠クオリティだな
82人間七七四年:2011/08/13(土) 22:16:45.12 ID:BP8twgTw
今村さんかっけえ…自分のこともそうだが、相手のことも考える武士って最高だよね
そして秀忠もちゃんと評価してくれる人なんだよなあ そこんところは家康譲りか
83人間七七四年:2011/08/14(日) 21:34:58.09 ID:LJCDN4Pi
いかにも恥を知ってる武士って感じだな。心根が卑しくない
こういう振る舞いは源平・南北朝の武士は真似できないね。あいつらなら100%首二つと申告する
84人間七七四年:2011/08/14(日) 21:37:26.58 ID:ShiRuC79
その場合は、どっかでもう一つ首とってきて帳尻くらいは合わせるさ
85人間七七四年:2011/08/14(日) 21:50:08.63 ID:DhcnHnMb
今村伝四郎正長か、地元近くのマイナー偉人の登場だ
下田奉行を長く勤めた人で、文官っぽいイメージを持っていたけど
武勇も優れていたんだな
86人間七七四年:2011/08/15(月) 00:22:29.49 ID:BeXho3SF
家康だったら首2以上の評価はしても首3以上の評価はしないだろうな
そうじゃ無いと普段から首3以上取ってる人間がやってらんねぇってなるから
秀忠は普段厳しい癖に人柄に惚れたらホイホイやっちゃう感じがある
それで古参連中から相当妬まれた坊さんとか剣術家とか御書院番頭とかいるし
87人間七七四年:2011/08/15(月) 00:36:27.25 ID:PIq/ftzB
鍋島直茂が息子の勝茂と共に毛利輝元の屋敷に招待された時の事である。宴席で勝茂は輝元に

「勝茂殿、この場で謡(うたい)を披露して貰えぬか?」

と求められたが、「・・・・・・」

全く謡おうとはしなかった。見かねた直茂が

「そ、某が代わりに謡いまする!!」

と謡い出した為、その場はしらけずにすんだものの、屋敷に戻った勝茂は

「父上の謡が可笑しくてしょうがなかった。」

と母の陽泰院に語ったのである。すると陽泰院は

「そなたが謡わないからじゃ。」

と叱責し、直茂も家臣を通じて、

「こういう時の為に稽古しているのだから、以後あの様な事がない様にせよ。」

とたしなめたのだった。 息子のフォローにまわった直茂のいい話。

ちなみに、勝茂には笑われた直茂だったが、輝元からは

「田舎者だと思っていたが、礼儀を知っている。」

と以外にも賞賛されたという。


88人間七七四年:2011/08/15(月) 00:38:25.97 ID:RtKDHikd
これは勝茂の悪い話でもいいんじゃねーのw
89人間七七四年:2011/08/15(月) 00:50:48.29 ID:LNrrdclm
何で歌わなかったんだろう勝茂 輝元嫌いだったの?
90人間七七四年:2011/08/15(月) 01:07:35.81 ID:EAmhqRYT
いきなり歌えといわれても、素面だったり気が乗らなかったりしてると
難しいと思うなー
91人間七七四年:2011/08/15(月) 01:07:54.62 ID:TpO4hKBC
カラオケが嫌いだったんだよ
92人間七七四年:2011/08/15(月) 01:10:57.24 ID:8bNDRU9e
謡いみたいな芸者の業って賤しいこととされてたからじゃね
93人間七七四年:2011/08/15(月) 01:49:38.73 ID:g8QnWfFG
カラオケ歌いたくないから歌わなかったら礼儀しらずで、
それをフォローしたら立派だと誉められる。
人間関係は現代とかわらないな。
悪い意味でめんどくさい
94人間七七四年:2011/08/15(月) 02:09:55.86 ID:BeXho3SF
直茂「息子に敢えて社交辞令を教えず宴会に誘う事で俺の覚えもよくなり息子も教育できて一石二鳥、輝元と息子と面目?はて…」
95人間七七四年:2011/08/15(月) 09:38:46.12 ID:VMYCWJ+0
>>92
室町以降の謡(というか能)は他の芸より一段上の扱いを受けていて
直茂も習っていいる様に基礎教養の一つくらいの認識だった。
96人間七七四年:2011/08/15(月) 10:39:49.94 ID:iqE/T8aC
直前に史記で趙の恵文王と秦の昭襄王が会見する話を読んじゃったんじゃね?
97人間七七四年:2011/08/15(月) 10:49:47.28 ID:WVXmKLRL
歌えと言われて歌ったら芸人みたいでかっこ悪いじゃん?
98人間七七四年:2011/08/15(月) 11:25:19.98 ID:g8QnWfFG
この場では直茂と輝元の価値観が一致したけど、
勝茂の行動を評価する武将もたくさんいそう
99人間七七四年:2011/08/15(月) 13:32:22.17 ID:OQg08i8C
屋敷に招待されてるのに気の利いた頓知も無く黙って拒否るだけじゃ誰も好評価せんよ
おまけに直茂はワザと謡の下手なふりして場を和ませたんじゃないかと思う
100人間七七四年:2011/08/15(月) 14:17:33.52 ID:8bNDRU9e
でも輝元と勝茂って立場的にはそんなに変わらないわけだろ
将軍家ならともかく、輝元程度のご機嫌伺いなんてできるかとでも思ってたんだろう
101人間七七四年:2011/08/15(月) 14:21:51.46 ID:vOpK5owu
だとしたらつまらない意地をはって宴をぶち壊しにしかけ
さらに後始末を親に丸投げした悪い話にならないか。
102人間七七四年:2011/08/15(月) 14:37:53.58 ID:CK8igihU
まあ秀吉とか家康なら断わられても逆に勝茂をフォローするくらいの器量はありそうだがな
103人間七七四年:2011/08/15(月) 17:54:10.92 ID:v/ANKqqB
結論:そもそも謡を所望するテルが悪い
104人間七七四年:2011/08/15(月) 18:21:11.81 ID:LZkkqcYM
えー、それは輝が気の毒。

ホームパーティーに来た育ちのいいボンボンがいて、
たぶん、歌だって一通り習ってるはず。
褒めていい気分にさせてあげるためにも、
「ちょっと歌って」ぐらい言うよ、ホストとしてはさ。
105人間七七四年:2011/08/15(月) 19:41:32.46 ID:o3fwW92s
>>104
逆じゃね?
普通なら遠路はるばる来てくれたゲストに対してホストが余興を用意するでしょ
まぁ、立場とか考慮してないんだけど

個人的には謡わなかったことより、後で乳を平気で笑っちゃうところにイラッとする
106人間七七四年:2011/08/15(月) 19:42:55.93 ID:o3fwW92s
乳→父だった ゴメン
107人間七七四年:2011/08/15(月) 19:46:02.29 ID:aJIdJnNH
>>100
輝と勝茂だったらやっぱり輝の方が一応立場的には上だと思う。
年齢的にも1世代は違うしね。

まぁこの話的には、直茂の言う事が結論で良いんじゃないかね。
どうせ勝茂ももう少ししたら能が好きな将軍(秀忠)を仰ぐ事になるんだから、
ここで練習でもしとけば良かったと思うがw
108人間七七四年:2011/08/15(月) 20:02:09.86 ID:FgtRwKt0
慶長7年(1602)、細川幽斎は妻の麝香を伴い、わが子忠興の得た新領・豊後を訪れた。
著名人である幽斎に、ひと目会おうと多くの客が詰めかけ、その中には島津龍伯入道義久の姿もあった。

幽斎と龍伯、二人の関係は複雑である。歌道の師弟であり、秀吉政権への申次だった恩もある。
秀吉の過酷な要求を、弟・歳久を、かばい尽くしてくれなかった恨みもある。
が、今日は、細川家の人々も、島津家の人々も、小倉城に設けられた宴席において和気藹々と過ごした。

宴もたけなわとなったころ、細川家家老の有吉立行が龍伯に頼みごとをした。
「龍伯さまは、世に聞こえし一節切(竹の一節だけで作った小さめの尺八)の名手であられるとか。
拙者共などでは、このような場でなければ聞くことも出来ますまい。是非にお聞かせ下され。」

「よかろう、しからば所望に任すべし。・・・ただ笛吹くだけでは芸が無いのう。下野、相伴いたせ。
隆達節じゃ。」
「はっ、では、僭越ながら・・・」

有吉の求めに快く応じた龍伯は、重臣の島津下野守久元(忠長の子)にも小唄を歌わせた。

“♪尺八の 一節切こそ 音のよけれ 君と一夜は 寝も足らぬ・・・”
(「一」節切の尺八の「音」色は満足ですが、貴方と「一」度「寝」ただけでは満足できません。)

尺八の澄んだ音色と、朗々と歌い上げる恋歌に、両家の侍はしみじみと聞き入った。(細川家記より)


相手が歌の師匠とはいえ、戦国最強ひきこもりだってこれぐらい出来るんだから
勝茂が両親にイロイロ言われても仕方あるまいよ。
109人間七七四年:2011/08/15(月) 20:52:31.93 ID:Oh7YHTDI
島津は古い家だから教養はあるんだよ。
人付き合いは下手だけど。
110人間七七四年:2011/08/15(月) 22:22:59.48 ID:LNrrdclm
>>(「一」節切の尺八の「音」色は満足ですが、貴方と「一」度「寝」ただけでは満足できません。)
この一文読んで、幽斎と龍白のいけない関係を連想してしまった自分が嫌になった
111人間七七四年:2011/08/15(月) 22:59:55.25 ID:M7rJYNUr
>>110
尺八だけにな
112人間七七四年:2011/08/16(火) 00:33:16.09 ID:/G3yC2m8
日新斎の仕込みはさすが
113人間七七四年:2011/08/16(火) 00:35:01.21 ID:lfJNhWHr
悪久「一見義久のいい話に見える本件、しかし年代を見てみよう……
おわかり頂けましたかね、明らかに島津安堵の直後です
最近まで家康には病の為上洛出来ませんって言ってたよね?
速攻で宴会旅行とかあり得んだろ、取り繕う気ゼロかよ」
忠興「わかる、その気持ちなんか理解出来る」
114人間七七四年:2011/08/16(火) 01:13:59.57 ID:fGoh/kIE
NGMS「親父たちの若い頃とは違うってことを理解して欲しかったですよね」
115人間七七四年:2011/08/16(火) 13:11:33.45 ID:FONKuQyg
宗茂「ハッハッハ、そうひねた考えをせずともよろしいではありませんか両名士らしくていい話ですよ。
   ところで料理がまだ出てきておりませんがまだでしょうか?」
116人間七七四年:2011/08/16(火) 13:33:12.04 ID:fGoh/kIE
十時連貞「殿・・・本日の昼餉は雑炊でゴニョゴニョ」
117人間七七四年:2011/08/16(火) 19:36:52.18 ID:g/RkSG76
偉大なる父を持つ二代目が集まった所で
いい話か悪い話か判断つかない秀忠の話

天正18年、徳川家康が江戸入城
その折りに、秀忠がその地を巡覧していた時、田安稲荷という神社を参詣した所
その神木として橙の木が植えられたのを見て歓喜した

何故なら、『橙』は『代々』と同音である為、その神社を『代々世を継ぎ栄える宮』と称賛し
以降、田安稲荷を『世継稲荷』と命名したという

ちなみに巡覧していた時、十七件ほどあった民家には一人を除いて後はみな畑仕事をしていた為
その残っていた一人、飯田喜兵衛という村人が案内したので、その地を『飯田町』と名付けたらしい
(名付け親は家康という説もある)

あの親にしてこの子ありというお話
118人間七七四年:2011/08/17(水) 02:26:48.94 ID:nqIb0fhq
家康はタヌキのくせに稲荷神社に何かと縁があるな
そして秀忠巡閲中だろうとスルーする村人ハンパねえッス
まあ現代でもお偉方巡閲中は仕事してるフリを尊ぶ会社はあるけども
119人間七七四年:2011/08/17(水) 02:41:05.66 ID:ptAt8PIa
しかし御三卿の田安家は嫡男死亡
定信含めた他の2子は養子に行っちゃって、
一橋家から養子をもらうから、
世継ぎに恵まれたとは言えないような
120人間七七四年:2011/08/17(水) 17:06:13.18 ID:hF/llaZ0
関東に入ってまもない頃だろうし、まだまだ北条支配の気風もあったんだろう
それでも、それ以降も一揆とかないんだよな
121人間七七四年:2011/08/17(水) 20:48:06.59 ID:C/obvjCI
関が原の戦いの時のこと。いわゆる『島津の退き口』の際、島津義弘は福島正則の陣中を横切った。
百戦錬磨の正則は、死兵と争う愚を避け、家臣に深追いを禁じたが、正則の養子・正之など一部の将は
これを猛追した。

中でも穴沢某なる武者の勢いは凄まじく、大長刀をあたかも小枝の如く右に薙ぎ、左に払って道を作り、
義弘目がけてまっしぐらに迫ってきた。
「あれは尋常の武辺者ではない。大蔵、お前で無ければ相手になるまい。征けっ!」
「承った。」
義弘の指名に一言で応じた中馬大蔵少輔壱重方は、前線に飛び出ると自慢の強弓を番え、「来い!!」
と、穴沢に呼びかけた。

「おい、本当に向かって来たぞ。中馬殿、早く矢を射ぬか!」
「まだまだ。」
同僚の心配する声をよそに、中馬は微動だにしなかった。
「中馬殿!」「まだ!!」
もはや穴沢の顔がハッキリと分かる距離になっても、中馬は矢を射ようとしない。

ついに目前に迫った穴沢は、大長刀を一閃させ、中馬の弓を真っ二つに斬り折った。

と同時に、穴沢はバタリと倒れ伏した。その胸板には、中馬の放った矢が深々と突き立っていた。
(想古録より)


実はこの零距離弓術こそが、『良き敵』のみに使用する中馬大蔵必殺の技であり、彼は戦に臨んで
矢を二筋しか持って行かなかったという。
122人間七七四年:2011/08/17(水) 21:08:07.47 ID:5Cq6PbZZ
大坂の冬の陣で活躍した薙刀使いの穴沢主殿助と関係あるの?
123人間七七四年:2011/08/18(木) 00:34:53.40 ID:B764rqvz
>>73 の逸話で千葉家へ養子として送り込まれた鍋島直茂は鍋島家に戻った後、
独立勢力として動いていた竜造寺家の当主、隆信に仕える事になった訳だが、1569(永禄12)年3月
大きな危機が訪れた。竜造寺家の本拠地である村中城が、豊後の大友宗麟の大軍に包囲されたのである。
多くの家臣は

「このまま戦っても勝ち目はありません。ここは降伏するか、筑後へ逃げましょう。」

と隆信に提案した。そんな中で直茂だけは、

「城中に裏切り者が出なければ簡単には城が落ちる事はありません。戦うべきです。」

と発言した。隆信も直茂の意見に賛同したものの、不安が拭いきれず、念の為占ってみる事にした。
すると一計を案じた直茂は、事前に占いを行う泰長院の住職である震龍に、

「『城を去らないのが吉、去るのが凶。』だと言うように」と要請した。

その結果、震龍がその通りに占って見せた為、その場は逃げずに篭城する事で決まった。
竜造寺軍は4月、中国の毛利家による大友領侵攻への対応に迫られた宗麟と和睦を結ぶ事に成功した。
村中城は翌年も再び大友軍に包囲されたが、この時は直茂が自ら夜襲で大友軍に大打撃を与え、やはり和睦に持ち込んだという。

占いで弱気な家臣を黙らせた、直茂のかっこいい話。
124人間七七四年:2011/08/18(木) 01:19:49.18 ID:A18oTpXS
そうかなぁ…?
まぁ、いいけどさ
125人間七七四年:2011/08/18(木) 01:27:52.86 ID:DJ+3M4DL
直茂公の運がいい話か
126人間七七四年:2011/08/18(木) 02:52:17.35 ID:honRDmw9
とことん世渡り上手というかなんというか
127人間七七四年:2011/08/18(木) 08:58:21.15 ID:CGWfRhLy
>>121
そこは普通に種子島使うべきだろ
戦国時代は成功した厨2病は語り継がれるが、きっと何万何千もの厨2病患者の屍の上に築かれた栄誉なんだろうな…
義弘も若かりし時に刀じゃ無く大剣もってヒャッハーしようとしたら大怪我負ってたな…
128人間七七四年:2011/08/18(木) 09:56:16.34 ID:pENoDK33
戦が始まる前の心得としてはごもっともだが
戦中なら自分が最も自信のある武具を用いるのがベターでないかい
129人間七七四年:2011/08/18(木) 10:18:31.20 ID:5lML0jXz
>>124-126
カッコいいってのは確かに違う気もするが、これは運じゃなくて時間さ稼いでれば毛利にしろ島津他勢力にしろ
後ろに敵がいっぱいいる大友ならどこかは必ず動くってとこまで読み切ってるだろう。
どっちかという周りが単細胞ばっかりの中、一人だけものが見えてる人間の気苦労を感じるわ。
頭のキレる人間が真っ向から論破しちゃうとどうしても反発勢力が生まれるから、どうにかしてうまく乗せて
こいつら使わなきゃ、ってことじゃないか。
130人間七七四年:2011/08/18(木) 11:57:50.79 ID:bRnA5TpI
>>121
中馬 大蔵少輔 壱 重方 だよな?


この壱ってなんだ?
131人間七七四年:2011/08/18(木) 12:22:53.26 ID:uiONzrgf
>>130
つい、中馬大蔵少輔・壱、中馬大蔵少輔・弐、中馬大蔵少輔・参…と続くのを想像してしまったw
132人間七七四年:2011/08/18(木) 20:09:35.90 ID:N1SgclVI
義弘「中馬が量産の暁には徳川など(ry
133人間七七四年:2011/08/19(金) 05:52:01.27 ID:drJIDQhw
中馬「殿の食事なぞ(ry

134人間七七四年:2011/08/19(金) 13:47:16.82 ID:vSpXtfY8
>>132-133
仲良すぎだろ二人共
135人間七七四年:2011/08/19(金) 20:51:42.44 ID:LciVYVec
中馬大蔵も食うに困って藩庫に入る年貢米を奪って居直ってみたり、
義弘が見初めた娘を見に行かせたら「ワシの嫁だった」(←勿論まだ知り合いでもない)と報告して嫁にしちゃったり、
西日本一のめんどくさい侍だよなw

これに対抗できるのは三河もんか曲淵庄左衛門ぐらいだろうな
136人間七七四年:2011/08/19(金) 21:13:59.83 ID:m4CNpvlm
作佐と鳥居元忠を合わせた感じ
137人間七七四年:2011/08/19(金) 21:21:28.79 ID:vSpXtfY8
>>135
それ、面倒臭いって類かな? 扱いに困る というのもまた何か違うし
138人間七七四年:2011/08/19(金) 21:33:17.01 ID:v0YceKF1
>>135
めんどくさいというかただの人格破綻者のような

めんどくさいというのは一応根本に主君愛なり自頑固さみたいな自分なりの哲学あってのものだけど
こいつの場合は自分の欲望最優先なだけで本人なりの哲学とかなしに主君に迷惑かけてるだけでないかい
139人間七七四年:2011/08/19(金) 21:43:32.47 ID:vSpXtfY8
義弘が関ヶ原から退散した時に
殿は馬乗ってるんだから、肉食うなって言って、渡さなかったのもこいつだっけ?
140人間七七四年:2011/08/19(金) 22:39:53.03 ID:vXom+iIq
こんなのが居るんじゃ悪久も部下を処分したくなるわな
141人間七七四年:2011/08/19(金) 22:49:11.39 ID:l/VpIR0q
もし既出だったらゴメン。初カキコです。
慶長の役、蔚山城の戦いにおける一幕。

完成間近の蔚山城は明・朝鮮による5万7千もの大軍に囲まれた。
篭城側は加藤清正をはじめとしたわずか2千、
兵糧も尽き水の手も押さえられ、落城寸前のところに現れた援軍は
毛利秀元、黒田長政らからなる2万だった。

いよいよ明・朝鮮軍による蔚山城への総攻撃が始まると、
援軍も敵軍の背後を衝くべく動き出した。
そのとき、毛利秀元の軍勢より二引両の馬印を掲げた一軍が躍り出し、
颯爽と、縦横無尽に敵を蹴散らしてゆく。
後続の軍勢もこれに続き、ついには、約三倍もいた敵軍を敗走せしめた。

この様子を蔚山城から見ていた加藤清正は、
鬼神のごとき働きをした、あの二引両の馬印の大将を招いて曰く。

清正「貴殿の馬印は遠目には目立たないし、勇将には似合わない。
   変えたほうがいいのではないか?」
大将「そっすか。では主計頭(清正)殿の馬印を賜りたい」
清正「それは嬉しいお申し出! ぜひ使ってくだされ!」

二引両の大将は、吉川広家。
広家は以降、清正から贈られた銀の九本馬簾の意匠をアレンジし、
赤の十三馬簾(婆々羅)として用いることになる。
関ヶ原でやきもきする毛利秀元たちの前に立ちはだかったのも
このド派手な馬印だった。
142人間七七四年:2011/08/19(金) 22:57:56.57 ID:vSpXtfY8
ググってみたけど、やはり赤は派手だねぇ

清正 絶体絶命のピンチなのに、そこ気になるとか、結構余裕じゃね?
143141:2011/08/19(金) 23:27:52.48 ID:l/VpIR0q
>>141ですが書き忘れです。
これじゃ清正がケチつけたような話になっちまう。
清正は広家を招いたときにちゃんと援軍のお礼言ってます。
話の流れで馬印のことに話題が及んだだけ。
たぶん清正も感心するほど勇猛だったから、
もっとカッコイイ馬印使えばいいのに、てことだと思う。

>>142
俺も画像見たときつい赤面したw

あと、うっかりageてスンマセンした。
144人間七七四年:2011/08/20(土) 03:18:33.37 ID:nVPNeU8d
>127
ぶっちゃけ種子島は不発の危険性があるので・・・
弓なら弦が切れない限りは大丈夫だし。
零距離射撃にこだわらなければ別にいいんだけどね。

ギリギリまで引き付けるのは威力と「絶対外れない距離で射る」ってのが狙いなのかな。
145人間七七四年:2011/08/20(土) 03:43:48.08 ID:KoKBEFF1
>>141
携帯ヤシの木という言葉が頭に浮かぶアレですか
146人間七七四年:2011/08/20(土) 14:41:11.05 ID:RQvdJyJN
>>87
テル「よのために鍋島直茂が小唄を披露した事しかと書き留めよ」

右筆「ハハッ」
147人間七七四年:2011/08/20(土) 14:43:20.82 ID:G5OFN2wp
テルの唄
148人間七七四年:2011/08/20(土) 14:51:38.27 ID:aV3tdLDy
鍋島家家臣某
「毛利家では宴席で徳利を叩き歌うと聞いています。両家の友好を祝し、叩いて頂きたい」
149人間七七四年:2011/08/20(土) 16:18:06.98 ID:eLbC0xMl
TERU
「残念ながら当家ではおじい様の言いつけで歌舞音曲の類はちょっと」
150人間七七四年:2011/08/20(土) 16:56:08.66 ID:7Vn6ZGyX
鍋島直茂が絵師を呼び、慶長の役は蔚山城の戦いで勇戦する加藤清正の、等身大の絵を描かせた。

「殿、下絵ができました。これでいかがですかな?」
「どれどれ………いや、ダメだ。加藤殿の姿を、もっと大きく描け。」

「はぁ……では、これぐらいですかな?」
「まだまだ。今一層、丈高くせよ。」
「ではこれぐらい?」
「まだまだ、もう少し大きくせよ。」

こんなやり取りが数刻も続いて、ようやく直茂は「うむ、良く似ておる。」と納得した。
「いやいや殿、これもう人間じゃないでしょ?!」

清正の姿は、城門ほどの背丈に描かれていた。

「何を言う!わしは、かの蔚山の戦いでは援兵の第一陣を仰せつかり、朝鮮・明軍を押しのけ掻き分け、
ようやく城門に近づいた。

加藤殿も、このような敵に囲まれて久しく城に篭もり、苦しみ衰えているであろうと思っておったが、
かの御仁は我らの姿を認めるや否や、喜び勇んで城門を開き、みずから先を切って敵に駆け入ったわ。

鬼神の天より降るとはまさにあの事。その意気、我らをも圧し、その姿、門一杯に見えたものよ。」


「へへ…今日のアンタの背中、デッカく見えるぜ……」は現代だけじゃない、という話。
151人間七七四年:2011/08/20(土) 17:06:22.45 ID:3uflP1B0
> 清正の姿は、城門ほどの背丈に描かれていた。

真柄十郎左衛門「俺より少し小さいくらいか」
152人間七七四年:2011/08/20(土) 17:07:38.63 ID:s+nwuQ5f
大豪院邪鬼かよ
153人間七七四年:2011/08/20(土) 18:49:26.36 ID:vU6hV/RG
誰だっけ…って男塾か?
154人間七七四年:2011/08/20(土) 19:14:25.00 ID:MBX5VQ++
登場したときは成人男性の何倍かはありそうな巨躯だったのに
畏怖の一言で片付けてしまったアレか
155人間七七四年:2011/08/20(土) 19:36:18.67 ID:qE58xJjl
闘気で巨大に見えるという男塾の正しさが証明されてしまったな
156人間七七四年:2011/08/20(土) 21:45:52.92 ID:yNAa3gac
NGMS「なにィ! 援軍に駆けつけこの戦局を切り開いたは我というに(ry」
栗山「殿、空気読もうや」
広家「あ、加藤殿、馬印ください」
157人間七七四年:2011/08/20(土) 23:22:12.65 ID:ESku/hhC
後藤又兵衛「じゃNGMS様の兜の角も城門並みにでかくしましょうか
      河に身を沈めても判るようにねw」
158人間七七四年:2011/08/20(土) 23:38:25.12 ID:kkAlWRMa
茂安や家信が清正に感謝されてるのはやっぱ鍋島勢が先陣だったんだな
159人間七七四年:2011/08/21(日) 01:15:40.75 ID:EmIpp6OI
主君替え、三人目

浅井家の家臣でありながら、小谷城攻めで織田信長の軍門に下らざるをえなかった
磯野員昌は、なるほどひとかどの武将であった。
与右衛門の、浅井家・阿閉家での刃傷沙汰を不問に付し、
その実力のみを認め、八十石で召抱えてくれたのだ。

ここにきてようやく、初めての録を得た与右衛門の働きようといったら。
いよいよ本領発揮である。が、
現場で血と汗を流す与右衛門のあずかり知らぬところで、
織田信長による主君の入れ替えが粛々と行われていた。

信長の甥、織田(津田)信澄を磯野員昌の養子とし、
員昌自身は隠居するよう命が下ったのだ。
「右近さまというお子もあるのに・・・・」
与右衛門は、員昌の胸中をおもんばかった。

磯野家家臣のほとんどはほぼ流動的に、若くてそこそこ綺麗な織田信澄の家臣となった。
与右衛門もまたしかり。
「俺とひとつしか違わねえや」
与右衛門、十九歳の頃であった。



数年後、員昌は信長によって追放される。
信澄に家督を全て譲るように命じられたが、これを拒絶したためとも言われる。
やがて板島城主となった藤堂与右衛門高虎は、
員昌の子、右近を千石で召し抱え、大阪の役ではさらに三百石を加増したのであった。



160人間七七四年:2011/08/21(日) 01:23:23.28 ID:ucfN/SHp
主君替えシリーズ好きだ
高虎は餅の件といい、本当に昔受けた恩を忘れないなあ
161人間七七四年:2011/08/21(日) 03:11:39.41 ID:EmIpp6OI
何っ回も見直すのに、いつもどこかを間違えてます。
×録  ○禄
すみません。
162人間七七四年:2011/08/21(日) 06:48:31.53 ID:C6IJfvDM
晩年成功する人はなんというか昔のことを忘れないなあ〜
家康さんとか。
べっべ別に孕石モンドのことではないから。
163人間七七四年:2011/08/21(日) 08:49:06.41 ID:+oAipI1t
主水セレクション
164人間七七四年:2011/08/21(日) 09:56:13.85 ID:yelZnl6P
太閤電化も松下を取り立てたし・・。
165人間七七四年:2011/08/21(日) 10:08:54.07 ID:sT971X2h
ここで出ている逸話など見ると、黒田長政は母里太兵衛といつも喧嘩しているように見えるが、
何のかんのいって長政は太兵衛が大好きなのである。

長政の嫡男・万徳丸袴着の時の逸話は既に出ているが(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1508.html)、
それから数年後、万徳丸の鎧着にて、
初めて甲冑を身につけた若殿さまの雄姿を目にして太兵衛、
「これはなんとも立派なお姿で、亡き先代如水様の雄姿が思い出されます」
と涙を流し、長政も、
「本当に亡き父上にそっくりだ!」
と涙を流して喜んだそうな。

万徳丸は袴着も鎧着も母里太兵衛につけてもらったようです。
どちらにしろ、如水死後の話ですし、長政ご指名かと思われます。
太兵衛が数々の我儘を許容され、家中随一の知行高を与えられていたのも、
結局のところ、長政に好かれていたからなんだろうなと思います。
166人間七七四年:2011/08/21(日) 10:35:18.12 ID:gfohy1lf
単純な好き嫌いで語るのはちょっと…
平面的な小ぎれいな話にしすぎ
浅い
167人間七七四年:2011/08/21(日) 12:39:35.61 ID:ucfN/SHp
>>164
電化と松下でパナソニック? と思っちゃった

長政は後藤又兵衛の件だって
あれは又兵衛が好きすぎて、他のところに行くんじゃねえ こっちに帰ってこい
というアプローチなんだなきっと
168人間七七四年:2011/08/21(日) 13:04:49.11 ID:ztD4EdN3
口の悪いツンデレだらけの黒田家か……
169人間七七四年:2011/08/21(日) 13:25:56.12 ID:H9Z+luVy
後藤又兵衛の出奔は細川の引き抜き工作だったフシがある。
そのため余計にこじれた感じ。
170人間七七四年:2011/08/21(日) 18:11:25.35 ID:tscG6SzT
>>164
昔の「失敗を」忘れないって意味じゃないのか?
171人間七七四年:2011/08/21(日) 18:47:37.85 ID:oTVtAY72
母里と後藤がいなけりゃ馬鹿殿だな
172人間七七四年:2011/08/22(月) 00:52:33.49 ID:7cJTMLZh
殺さないで
173人間七七四年:2011/08/22(月) 10:52:49.66 ID:u9qyDYfN
佐竹義宣の養子義隆は、徳川家康に「律儀に過ぎる」と言われた養父にならい、常に紋付袴をまとい、
人と話す時は家臣であっても必ず正座、朝起き、飯を食い、政務を執り、晩に奥で眠る時刻を
一日たりとも変えない、という暮らしぶりだった。

「いや〜我らが殿の謹厳実直なることよ!御前で下手な真似をすればどうなるか、
恐ろしゅうて殿の前ではロクに物も言えぬわい。」
「まことに、まことに。」

小姓たちのグチを聞いていた老臣の一人が、おかしくなって彼らの会話に割り込んだ。

「殿が恐ろしいものかよ!先代の義宣様と比べれば、猫のようなものじゃ。わしらの若いころは、
義宣様の前で物言うどころか、あのお方の顔もまともに見たことが無いわい。

先々代の義重公はなお恐ろしく、戦に臨んで勇猛果断なること鬼神の如し。あれが常陸の鬼義重よ
と、家中どころか関東中の、敵も味方も恐怖したものじゃ。」(秋藩温故談)


佐竹家歴代の威厳を示すいい話…ではあるのだが、「へうげもの」で義宣の茶席に呼ばれた家臣が
ビビりまくったあげく漏らしてたの思い出した。
174人間七七四年:2011/08/22(月) 13:33:50.18 ID:Nl0TbRdq
瀬戸内水軍の本拠地大三島には日本総鎮守こと大山祇神社があって、戦国時代の有名人もたくさんの武具を奉納している。
毛利家はもちろん大内家、河野家、秀吉など、瀬戸内で戦った一族は一通り。
さて、そんな中に一振りだけ、どう考えても不自然というか、お前はなぜここに来たと言いたくなる人物がいる。

伝・山中鹿之助奉納

大山祇神社の宝物館に行くと、こんな刀が展示されている。
何かにつけて神仏に祈ってるイメージの鹿之助だが、もろに毛利の影響下にある当時の大三島まで行って尼子再興を祈ったのかと思うと感慨深い。
さすがは全三島大社の総本山、日本総鎮守……と言いたいけど、時の支配者の敵対勢力の残党から武運長久を祈られる側はいい迷惑だったろうな。
175人間七七四年:2011/08/22(月) 19:04:03.85 ID:javTJQiQ
まあ、大三島支配してた能島村上氏も
厳島の戦いからずっと毛利家一筋ってわけじゃなくて
元就死去前後に大友や三好と通じて、その死後に毛利へ反抗したりしてるから
その頃に鹿之助が渡ってた可能性もあるな
176人間七七四年:2011/08/22(月) 20:00:56.63 ID:14mtRMja
>>173
そういえば佐野天徳寺が「武田信玄や上杉検診の前に出たら恐ろしすぎて顔も上げられなかった。
それに対して秀吉様は自分たちにも気軽に声をかけて親しく接してくれる。だから秀吉様は
天下を取れたんだ」みたいなこと言ってたなあ。

佐野天徳寺の言うことの是非はともかく、戦国真っ最中の武将の言うのはとにかく怖かったようだ。
177人間七七四年:2011/08/22(月) 20:28:35.57 ID:LeErMJHC
謙信には唐沢山城攻められて殺されそうになったし、
信玄には理不尽な理由で弟殺されたからだろ、
太閤殿下の方が恐ろしいはわ
178人間七七四年:2011/08/22(月) 20:53:31.14 ID:bceoqKQC
殿下はニコニコ顔で恐ろしいこと言うから油断ならねぇw
でも親しみやすい雰囲気ではあったんだろうな
179人間七七四年:2011/08/23(火) 00:35:53.14 ID:5fiVScwc
太閤殿下はニコニコしながら誰とでもすぐに仲良くなって、そのまま笑顔で相手を刺し殺せるんだろうなぁ
180人間七七四年:2011/08/23(火) 00:49:28.90 ID:bgcvNuHW
勝新秀吉思い出しちゃう
181人間七七四年:2011/08/23(火) 01:36:45.85 ID:XfRyRlVv
秀吉は逸話一つ一つを抜き出して見ると、
「良くも悪くも個性的な人だったんだなあ」っていう感想を持つことが多いけど
全体を通して見ると腹の内が全然読めなくて怖い
182人間七七四年:2011/08/23(火) 01:37:39.28 ID:ARP0znoU
>>180
ありゃどう見ても信玄だわw
183人間七七四年:2011/08/23(火) 01:40:12.38 ID:HyUQH3XY
秀吉は信長の悪い部分を反面教師にして天下取ったからな
そして家康も秀吉の悪い部分を反面教師にして天下を治めたと
184人間七七四年:2011/08/23(火) 12:22:33.57 ID:MdjHtWb8
戦場の鬼武蔵を見た人のその姿を絵にしたらどんなイラストになるんだろうな?
鬼武蔵の姿を見て生還した人がいればだけど
185人間七七四年:2011/08/23(火) 18:19:07.32 ID:bqosklXE
>>181
そうか?
186人間七七四年:2011/08/23(火) 18:47:41.87 ID:LnNVAI9i
やっぱラスボスより家康のほうがいいと思うわ。
佐竹家と違ってめんどくさい人たちのおかげで忠言愚痴切腹騒ぎなんでもあり。
本人は短気だったみたいだけど家康に忠言して恨まれたとか左遷されたって話聞いたことがないわ。
187人間七七四年:2011/08/23(火) 19:12:46.10 ID:YPkKUyu8
家康はその場で即断するというより、
根回しをしっかりやるタイプだからな。
だから太閤の指示をあっさり翻すなどの大きな腹黒さはあっても、
小さな所ではあまり言ったりしないね。
188人間七七四年:2011/08/23(火) 20:12:10.12 ID:bgcvNuHW
>>186
それで思い出した、常山紀談に載っているというお話

秀忠が将軍の頃に、太田某という人を雇って「お前に五百石与える」と折紙与えたら
太田某、その折紙を秀忠に投げ返して席を立ってしまった

死罪にしてくれようかとばかりに物凄い剣幕の秀忠に、同席していた井上正就が
「いやいやいや、その前に駿府に言って、大御所様にもお伺いを立てましょうよ」と恐る恐る宥める
秀忠も「それもそうだな」と考えなおして、井上を駿府に遣わした

大御所家康、この話を聞いて

『太田は誠に無礼なり。凡、賞罰中らざれば、下の恨むるは常の事にて、太田も無礼とは知りたらん。
己が身を捨てて諫むる心なるべし。臣下の直言して諫むる者、怒りに逢ひて刑罰せられ、
家を滅ぼし、大軍の中にかけ入る者は、多くの身を全うして功名を立つる故に、昔より諫臣を忠の第一とす。
然るに今、太田にあたふる禄、賞に中らざるや…』

太田のやったことは無礼だけど、太田はそれを知ってて命がけで秀忠を諫言したんだよ
そういう臣は大切にしなければならない そもそも太田に五百石じゃそりゃ怒るわ
あいつもまだまだ人を見る目ないなー と家康さん思ったかもしれない
その後、遣いの井上に「太田某は三千石与えよ」と指示して、秀忠も言われる通りにしたそうな

話の締めに「台徳院殿、井上には『汝が詞によりて孝行を知り、賞罰の道をわきまへたり』と仰せ有りて、
左文字の刀を賜りけり」 と記す

書いてて思ったけどこれ、秀忠がまだまだ未熟な悪いお話かもしれん
189人間七七四年:2011/08/23(火) 20:56:54.48 ID:IqGfXAPc
『身命を惜しまず』掲載の話

紀州藩附家老・安藤直次は、紀州頼宣は元より、尾張義直、水戸頼房の徳川御三家当主から信頼され愛されていた。
老いた直次が三人に従い、江戸城内紅葉山へ登った時、頼宣が右手をとり、義直が左手をとり、頼房が腰を押した事は、
幕閣、初藩士に広く知られていた。

そんな直次が、最晩年になってからの出来事。

江戸城中でとある儀式が営まれた時、水戸頼房の装束の袖に伊達政宗の烏帽子が引っ掛かり落ちてしまった。
政宗は公の場で恥ずかしい思いをし大いに怒った。
儀式の後にこの顛末を聞いた直次は、下城すると直ちに政宗の屋敷へ出向いた。
政宗が諸大名の前で怒りを露わにした事を、頼房に詫びさせねば徳川御三家の威信に関わるからである。

政宗の家臣が、政宗は病気で会えないと伊達屋敷の玄関で断ると、
「病気でも結構、御床へ参上致す」と家来たちを押しのけ、政宗の寝所へ押しかけた。
驚いて飛び起きた政宗に大声で
「中納言(政宗)殿には、本日の城中でのおふるまい、大きな心得違いをしておられる。
水戸殿は亡き御主君である家康公の御子なるぞ。
直ちに水戸殿へお越し召されお詫びに出向かれよ。ご同道つかまつる!」と告げた。
政宗は直次の全身から漲る異様な殺気に圧倒されつつ逆らったが、
「とにかくお仲直りなさるべし。早く袴を召されよ」と、有無を言わさぬ勢いで身支度を整えさせ水戸屋敷へ連行させた。
直次と共に頼房の御前に出た政宗は、
「本日は政宗が心得違いを致し、無礼つかまつった。何卒今まで通り思し召されたしとて、参上致しました」と詫びを入れ、
頼房は快く受け入れて何事もなく終わった。

この時に政宗が無礼な振舞いをしたら、直次は政宗をその場で刺殺し自分も死ぬつもりであった。


何事にも命懸けで相対する安藤直次のちょっといい話
190人間七七四年:2011/08/23(火) 21:49:38.21 ID:cHaZT6su
いい話だ

戦国時代の名参謀、竹中半兵衛の話である。
信長包囲網の当時は織田家は、包囲されて苦労していた。
近江最戦線を任された羽柴秀吉は竹中半兵衛に信長より
命じられた要所鎌の刃城を守る樋口三郎兵衛の調略を命じ、
竹中半兵衛は必死に樋口三郎兵衛を説き伏せ
織田家に寝返らせる事に成功したのである。
鎌の刃城により近江戦線は安定し後の姉川の戦いに繋がっていく。
そして織田家は姉川の戦いで勝利を収めたのであった。


そんなん後世に作られた捏造に決まってんだろ
wikiに書いてる竹中の逸話とか削除しとけよ
191人間七七四年:2011/08/23(火) 21:51:17.64 ID:+5gSCeqg
ねつ造と決めつけるからには、本当は違うという確信があるんですよね?
よければ根拠を示していただけますか?
192人間七七四年:2011/08/23(火) 21:51:49.48 ID:cHaZT6su
史料だしてくれないかな。
出せねー癖に何ほざいてんだ
193人間七七四年:2011/08/23(火) 22:12:49.51 ID:Zi6V6ZpH
またいつものあいつか。スルーで。
194人間七七四年:2011/08/23(火) 22:22:40.57 ID:cHaZT6su
あれは俺が書いた記事だが捏造を正々堂々と載せてるのは
まとめもかわらんしな。
名将言行録だとか載せてる奴までいやがる
195人間七七四年:2011/08/23(火) 23:18:25.50 ID:HyUQH3XY
>>189
政宗が九死に一生を得たいい話だな
本当に具合悪くて勘気を抑えられなかった可能性もあるけども
政宗が絡んだ面子をかけたチキンレースはテンプレ化してるな
196人間七七四年:2011/08/23(火) 23:36:10.16 ID:5fiVScwc
史実スレじゃなく逸話スレなんだがなぁw
197人間七七四年:2011/08/23(火) 23:37:58.39 ID:kQohL8+b
>>189
さすが帯刀さんはカッコいいな
政宗も帯刀さんにあっちゃかなわねー
198人間七七四年:2011/08/24(水) 00:31:52.30 ID:NQCPxybx
>>1のスレルールも読めない奴が史料を読めるとは思えないな
199人間七七四年:2011/08/24(水) 00:37:15.42 ID:3LEPh/kC
>>188
太田某さんて誰だろう
秀忠の家臣に太田姓って誰がいたっけ?
200人間七七四年:2011/08/24(水) 01:25:11.70 ID:03e9R+xW
>>199
太田資宗かな?
201人間七七四年:2011/08/24(水) 07:53:19.31 ID:2UugBWCn
>>200
wikiによると資宗は家康存命中だったら15,6歳だから、他の太田さんじゃないかな?

まあ逸話だからね
202人間七七四年:2011/08/24(水) 08:25:35.19 ID:03e9R+xW
>>201
微妙に時代が合わないかな?とはオレも思ったんだけど
秀忠に結構な厚遇で召抱えられた太田某という辺りは合ってるんじゃないかと

あの逸話が十代前半の少年の話だとしたら
相当のバカか大物かのどちらかだろうな
203人間七七四年:2011/08/24(水) 12:27:15.90 ID:g2fxC7UO
その帯刀さんも1605年で2300石しかもらってなかったからなぁ。
秀忠はケチな家康と他の家臣に遠慮したのかも。
秀忠が500石と言って、家康が3000石と正せばどこからも文句は来ないだろうしな。

買いかぶりすぎだろうけど。
204人間七七四年:2011/08/24(水) 12:50:56.46 ID:gHdvGeYG
俺様は若年とはいえお梶の甥なんだから、高禄で雇え!ってことなんじゃね?
205人間七七四年:2011/08/24(水) 12:56:03.43 ID:FRXAyI5o
>>203
帯刀もすぐに加増されたけどね
しかも自分だけ家康の手違いで周りの半分しか貰えてなかったことに
文句の一つも言わずに黙っていたというところが、この人のいい所
206人間七七四年:2011/08/24(水) 13:42:46.31 ID:mHjK+aWp
前から聞きたいと思ってたことがあるんだけどさ
政宗が死んだ時に家光が江戸、京都を巻き込んだものすごい服喪をやったじゃん
アレってどれぐらい凄いことか分かる人いる?

家康、秀忠は多分質素に済ませただろうけど、
例えばその後の将軍の葬式や天皇崩御の時はどうだったのか、とか
207人間七七四年:2011/08/24(水) 13:53:50.69 ID:eG/ZbfIq
>>206
当時の評判に「秀忠の時と同じくらい」ってのがあったから、実際に秀忠の服喪に匹敵したかはともかく、
世間的に同等に見られたのは確かなのだろう。実質上の国葬だったのだろうね。

ただこれは、秀忠が死ぬ前に政宗に「家光のことを頼む」と遺言していて、家光も世間もその事を知っており、
政宗が家光の、一種の公的後見人だったことが大きいと思われる。
208人間七七四年:2011/08/24(水) 17:04:20.61 ID:3LEPh/kC
秀忠って、位牌以外は新調するなと遺言で言っていたらしいけど
それでも物凄かったんだろうな
209人間七七四年:2011/08/24(水) 17:05:05.26 ID:NQCPxybx
さすがに将軍だからな
それに家光って派手好きだし
210人間七七四年:2011/08/24(水) 17:20:14.22 ID:3LEPh/kC
あと政宗がよっぽど好きだったんだろうと
お忍びでお見舞いに行くほどだし
211人間七七四年:2011/08/24(水) 17:35:27.13 ID:f9UVLGRP
政宗もさすがに将軍相手にひどい無茶をしないだけの分別はあるし
家光にとっての政宗は、なんか他所ではワケの分からんこといろいろしてるらしいけど
目の前にいるこいつは楽しいおじいちゃんだな、って感じだろうか。
212人間七七四年:2011/08/24(水) 17:41:21.00 ID:3LEPh/kC
でも政宗、秀忠に会いに行く約束してたのに
二日酔いだからと仮病使ってたりするじゃん
まあ、二日酔いのヘロヘロ状態で会いに行くのもそれはそれで失礼なんだろうけど
213人間七七四年:2011/08/24(水) 17:42:15.15 ID:P/fM8fj+
家光の大好きな権現様の武勇伝を戦国の生き残りの政宗がリスペクトして
いろいろ聞かせてくれたからって感じかね、家光が政宗を贔屓したのって
214人間七七四年:2011/08/24(水) 20:07:34.85 ID:w3TsDkLu
家光の「生まれながらの将軍」宣言は
政宗が進言したといわれているからな
215人間七七四年:2011/08/24(水) 21:11:19.80 ID:Zmhm4+Ck
家光は年寄りの逸話好きで、まるでいい話スレ・悪い話スレ住人みたいな人だな
216人間七七四年:2011/08/24(水) 22:01:32.09 ID:xstQA5jN
実際、激動の時代を生き抜いた人が近所にいたら
根掘り葉掘り聞きたくなるよな
217人間七七四年:2011/08/24(水) 22:12:54.06 ID:3LEPh/kC
戦争を経験したおじいちゃんの話を聞く孫って感じか
218人間七七四年:2011/08/24(水) 22:13:25.15 ID:mHjK+aWp
そっか、秀忠のはちゃんと大々的なのをやったんだ
苦労人なんだから遺言ぐらい聞いてやれよと思わないでもないがw
219人間七七四年:2011/08/24(水) 22:23:11.77 ID:3LEPh/kC
でもやっぱり、二代目将軍の葬儀が質素なのは流石にアレだと思ったんだろう
生母の江も火葬で凄く豪華だったから尚更
220人間七七四年:2011/08/24(水) 23:12:07.17 ID:f9UVLGRP
宋の華元が主君の文公が亡くなる時に遺言で厚葬を禁じたのにそれを破り
盛大に行って一部から批判されたなんてのもあるな。

殉死を禁じる遺言を破った例も結構あるし、この辺は自分の死の間際になっても
なお周囲を気遣うほどの主君だからこそ逆にそれは聞けないって感情もあるのかもしれない。

関係ないけど上の宋の主従で思い出した、この時代に宋が楚に攻められて首都包囲された時に
鳥居強右衛門とよく似た話があったよね。
勝頼の立場の楚の荘王は使者を殺さず許したというのが大きく違うけど、信玄や弟達
だったら教養あったからこの話も当然知ってただろうし強右衛門を殺すようなことはしなかった
だろうなあ、と思ったりする。
221人間七七四年:2011/08/25(木) 00:23:52.42 ID:uY06rW9f
>>220
日本と中国は似ている部分も異なる部分もある
中国でそうしたからって必ずしも日本でも同じことをするのが美徳とは限らないでしょ

例えば、周公旦は人材を求めて人が訪れたときには食事の最中でも髪を結っている途中でも対応に出向いた
これは美徳とされている
ところが日本では平将門が藤原秀郷が訪れたときに同じことをやって、「こんな軽率な大将では大事は成せない」
と見限って敵に回ることになった、ここでは不徳とされているわけだ
222人間七七四年:2011/08/25(木) 00:30:14.69 ID:p2OQSlW5
信玄の場合は鳥居さんに「援軍は来ない」なんて言わせずに
無言で鳥居さんのバラバラ死体を城の中に放り込んできそうなイメージ
223人間七七四年:2011/08/25(木) 07:37:47.01 ID:5Fjze/9k
単に成功した人物の行いを「徳がある」とか「善」とし、
失敗した人間のしたことを「不徳」「悪しき行い」と言っているだけじゃないの
224人間七七四年:2011/08/25(木) 11:40:46.14 ID:lesJgVgs
>>222
死体を見せて援軍なんて来ないと分からせれば開城したはずなのに
何で本人に言わせたんだろww
長篠城さえ落としてればあんな惨敗は避けられたのに・・・
225人間七七四年:2011/08/25(木) 12:06:27.04 ID:zNErPRFN
だから勝頼さんなんだろ・・・
226人間七七四年:2011/08/25(木) 12:17:15.68 ID:U/rq7m5G
死体みせても援軍が来るか来ないかは判断つかないからね
とはいえ、磔の状況で援軍は来ないと言っても素直に信じられないと思うが
227人間七七四年:2011/08/25(木) 12:28:27.81 ID:4uu251es
勝頼「めんどくさい事で有名な三河者に
命乞いさせることに成功したら父を超えられる…!」
228人間七七四年:2011/08/25(木) 12:31:46.53 ID:SKXQCTOn
本当に三河者なんだろうな・・・
229人間七七四年:2011/08/25(木) 14:10:14.87 ID:prBPLEgH
コンビ誕生

栗山備後守利安と母里但馬守友信は、黒田如水が若い頃から側近くで使っていた。
その頃栗山は善助、母里は萬助と呼ばれていたが、如水は両人とも将来見どころのあると思い、
いつか取り立ててやろうと思った。が、問題がひとつ。もちろん母里萬助に、である。

母里萬助はいつも無分別に粗暴なことばかり言い廻り、人間として非常に問題があった
(萬助は無分別に荒き事のみ言廻り、大方人外の體なれば)
そのため朋輩たちもうんざりし、我慢も限界という状況であったそうだ。だいたい母里但馬という人は、
大人になり立身してからも、とんでもないやらかしが多かったのに、まして子供の頃なんてどれほどだったか、
想像がつくでしょう?(年たけ立身仕りてさへ、笑止なる事多し。まして童の時は、思ひやられたり)
とにかく黒田家の大問題児だったと言うことですね

さて一方の栗山善助だが、こちらは少年の頃からおとなしく、道理を良くわきまえ、日常の過ごし方も
年来の功者のようであった。
彼は15の頃から如水の側近くで使われていたが、その頃から何かことが起こった時に一言意見を
言わせてみても、聞くほどに優れた意見であったと言う。
こちらは黒田家の若き秀才でありエリートであったわけです。

こんな問題児と秀才の二人をある時、黒田如水が静かな場所へと呼び出した。そして彼らに言うには

「お前たち二人を取り立てたいと思うんだ。だからこれからは善助は兄、萬助は弟として、ほんの僅かなことでも
話しあって、お互い支えあうようにしてほしい。善助はおとなしくて、萬助はいたずらものだ。
萬助、今後見放すこと無く、兄として善助を引き立ててくれよ?」

そう言われて男気に感じたか、萬助は即座に承知をし畏まってこれを受けた。
と、そう簡単にこれを承知できないのが善助である。

「それはできません」「どうしてだ?」
これに栗山善助、秀才らしく理路整然と答える

「突然のお申し出ですが、私は自分一人の取り回しさえ満足に出来ていません。
そうであるのに兄として人の指南など、やって良い訳がありません。それ故、達てお断り申し上げます。」

如水、これを聞いて自分の目が間違っていないことを知った。
『ああ、かねてからこいつは自分の身の程を知っている人間だと思っていたが、ここまでしっかりしているとは。
これはどうしたって萬助の奴の兄になってもらわないと!』
そう思い善助に対し日を変え場所を変え、事あるごとに了承してくれるよう頼んだ。頼み込んだ。
これに善助もついに根負けし、これを承知した。すると如水は案文を調え誓紙を二枚書かせ、
1枚は善助、萬助の二人が交換し、残りの1枚ずつは「これは、後日の証文にしておくよ」と、如水が受け取った。

幾星霜の時が流れる。
黒田如水に死が近づいていた。

如水は、今や黒田家を支える重臣となった栗山備後、母里但馬の二人を密かに呼び出した。
そしてしみじみと言う

「お前たち、俺の指図に背かず今に至るまであの時の約束を守ってくれていること、ありがとう。
かえすがえすも嬉しいよ。
これからもお互い相談しながら筑前守(長政)を引き立ててやってくれ。」
そして2枚の紙を取り出し

「これはあの時の誓紙さ。本当なら今はもう返すべきだと思うのだが、最後まで約束を守ってくれた
頼もしい誓紙だからな、冥土まで持って行こうと思ってる。俺が死んだらさ、お守りとして棺の中に
入れておいてくれ。」

そう笑いながらそれを、大切そうに懐に中に入れたという。

栗山備後と母里但馬が義兄弟になったいきさつと、その後のことである。
(古郷物語)
230人間七七四年:2011/08/25(木) 19:10:49.98 ID:idDN7PFP
>>221
その平将門と藤原秀郷の日本外史バージョンでは
髪を整えず飯を食いながらでむかえ、しかも、落ちた飯を自分で拾って食べた
おかげで藤原秀郷に見限られた、てことになっているが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4607.html
この話の老婆なら米を大事にしてくれた、と喜ぶかもしれん
231人間七七四年:2011/08/25(木) 19:44:19.29 ID:kdpfwAcR
将門公の時代から三秒ルールがあったのかもしれないな
232人間七七四年:2011/08/25(木) 20:16:30.09 ID:4EXmYpDS
都人目線での評価だからなー
藤原的には「ないわーww」でも
東国基準では合理的なヘアスタイルだったかもしれん

>落ちた飯を自分で拾って食べた
自 分 で 拾ったのがNGだったんじゃね?
233人間七七四年:2011/08/25(木) 20:24:50.26 ID:idDN7PFP
>>232
「源平盛衰記」では自分で払いのけただけだから、おそらく「自分で」がNGだったっぽい
「日本外史」では、「拾うて之を食う」になっているから、「食べた」までがNGのような気がする
234人間七七四年:2011/08/25(木) 20:33:59.95 ID:R//Cz7aJ
両人の立場の違いってのが大きいのでは。
周公旦は食客より遥かに身分が高いから、髪を結ってる途中でも逢ってくれれば感激されるが
平将門と藤原秀郷だったら同格に近いから、無礼だと怒られる。
235人間七七四年:2011/08/25(木) 21:50:10.76 ID:umOpofXB
片や宰相(実質的に統治者として見られていた)と就職活動中の浪人の会話。
片や戦乱や政争に臨んでる時代の有力者同士の会話。

しかも中国の食客は時代が下る毎に立場が下がる仕様の、ローマで言えば高級奴隷みたいな立場。
一番食客が重んじられた春秋近隣の話とは言え、周公旦クラスとでは流石に足下にも及ばない。

状況がこれだけ違えば意味合いも違ってきて当然だ罠。
現代だって就職活動中の人間に会社役員が「食事中でも構わないなら」と会うのと、
会合に来た取引先や支配下企業の役員に会社役員が「食事中でごめんねーw」とやるのとでは話が違う。
236人間七七四年:2011/08/26(金) 10:36:37.94 ID:VLpOzuAJ
寛永10年(1633)8月、徳川家光は品川沖で新造の御座船『安宅丸』の進水式を行なった。

百丁の櫂、四百人の水夫を用いたという巨船の進水式は、松平信綱・阿部忠秋などの重臣が早船で
周囲を警護する中、伊達政宗親子・池田光政・毛利秀就ら江戸在番の大名を招き、大々的に行なわれた。

無事に進水式が終わり、祭事を行なって船の魂入れをした後、品川の海岸で酒宴が開かれた。

「♪舟より御下りなば、拷訴(拷問)を致そう。」「♪拷訴と言わば、捨身の行。」
「♪命を取ろう。」「♪命を取るとも、ふっと下るまじ。」

酒宴の座興で、池田光政は伊達忠宗と組んで、能楽『自然居士』
(説法者・自然居士が、人買いの舟に乗り込み、売られようとしている子供たちを救う、という筋書き)
の謡をして、喝采を浴びた。続いて、金森重頼が仁王のマネをして受けを取った。

「…お船方にとりてはァ…お船祝いがござんするゥ…フゥフゥ…蓬莱山は、ハヒー沖の船で…ゼェゼェ……」
「もういい…!もう…休めっ…!秀就……!」
“松平(毛利)長門守秀就は、ふとり過たる人ゆへ大黒舞を舞ひしが、誠にふつつかなれば、
舞果てずして止みぬ。”(徳川実紀)

「さ、されば次は、それがしが領内に伝わる須古踊りを仕る!」
名乗り出たのは、鍋島勝茂だった。
エイヤットウ「♪あわずばかえれ かえれきみ このほどに さだめことばを まちれども……」
踊る勝茂の姿を、家光はじめ一同は黙って見つめた。

「……うっ……くっ………ぐっ、ぐははははははははははっ!!!」
見つめていたのだが、厳格をもって知られる池田光政が、真っ先にこらえ切れず吹き出したのに釣られて
爆笑の渦に包まれ、宴は盛会のうちに果てたという。


よかったね直茂さん、息子さんはしっかり成長(?)してますよ…
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5695.html
237人間七七四年:2011/08/26(金) 17:29:10.72 ID:RYodRbID
立花宗茂ちょっと良い話  門を託される(1)

慶長11年、御書院番頭(将軍の親衛隊長)として二代将軍秀忠に召し出された立花宗茂、駿府から江戸に出てきた
大御所家康に拝謁した際、徳川家に仕える心得を尋ねられた。
「天下は安泰なる今、さしたる役にも立たぬ身。御門の一つなりとお守りし、御酒でも頂戴し、千秋楽を謡い舞おうと勤めております」
「聞きしに勝る武辺者よのう」
宗茂の返事に満足した大御所は、江戸城の天守に登ることを許した。
これに対し、旗本たち、ことに三河以来の名誉の旗本たちは、密かに不平を漏らした。
代表的な例としては、三河者の魂とも言うべき、この人の話が有名である。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4314.html
その後、奥州棚倉において3万5000石まで加増された宗茂は、大阪冬の陣では、豊臣最強の将毛利勝永の動きを封じ、
夏の陣においては大野治房による自爆的突撃で、壊乱しかけた秀忠の本陣を守り通した。以降、宗茂に対する陰口は
ピッタリとやんだ。
何故なら、大御所本陣を守るはずの天下の旗本が、無残なまでの敗走し、三河者の魂と呼ばれた槍奉行ですら、
打ち捨てられた旗を拾って転進するのが精一杯という有様だったからだ。
238人間七七四年:2011/08/26(金) 17:30:46.53 ID:RYodRbID
立花宗茂ちょっと良い話  門を託される(2)

元和2年、三傑最後の巨木、大御所倒れるの報が天下を駆け巡ると世上に様々な風聞が流れた。
ある者は福島正則の、またある者は奥州王”伊達政宗”の、またある者は島津の反乱を囁やき、
江戸城内に不穏な空気が流れた。そんな中、家康の見舞いに秀忠は、馬廻衆と共に強行軍で駿府
に向かった。
駿府に到着し、拝謁を願った秀忠は、家康の代理人たる本多正純に詰問された。
「天下の将軍たる大樹様が、軽々しく江戸を空にするとは何事か、と大御所様は仰せです。
まもなく本復する故、直ちに江戸にお帰りをとの・・・・・・」
「城の大手は、立花左近将監に託したと伝えていただきたい。その上で、帰れと言われれば、
仰せに従おう。疾く取り次がれよ!」
秀忠の気迫に押された本多正純が「江戸城の大手を立花左近将監に託した」との秀忠の言葉を
病床の家康に告げると、一瞬、絶句した家康は次の瞬間、笑い出した。
「我れが大樹に及ばざるは、この一事に尽きるか・・・・・・よし大樹と会見いたそう」
秀忠と会見した家康は、終始、上機嫌だった。
239人間七七四年:2011/08/26(金) 20:59:13.14 ID:2/fmLTF6
>>236

輝元のときは気位があってワザと踊らなかったのか
下手で馬鹿にされるから踊れなかったのかと二通り見れたけど
今度は秀就を助けるためにワザと下手に踊ったか
それとも本当に下手だったのか、この前の逸話と並べてみると面白いね


240人間七七四年:2011/08/26(金) 21:14:51.27 ID:sLZeWD61
>>236
自分はわざと下手に踊って流れを変えたとみたい
勝茂も大人になったんだろうか
それはそれとして、光政さんの爆笑姿がなんかツボったw 楽しそうだなあ
241人間七七四年:2011/08/26(金) 21:23:53.49 ID:3Ti9DVXE
もしも、直茂パパンが信之兄さん並みに短命だったら、「お前は何故、あのような下手な踊りを披露したんだ?」と説教食らってたと思うんです
242人間七七四年:2011/08/26(金) 21:34:46.46 ID:ruwEWR6Z
徳川家光がいたからじゃない?別に勝茂側には毛利のご機嫌うかがう必要もないわけで
江戸期の外様大名って将軍の寵を競ってお互いにライバル心むき出しだったからさ
243人間七七四年:2011/08/26(金) 21:35:58.85 ID:sLZeWD61
それなら政宗が一番変になってないとおかしい!
244人間七七四年:2011/08/27(土) 00:04:39.15 ID:DU5wA9HS
つか光政ってこの面子の中じゃ一番年下だよな
それが爆笑って非礼じゃないのか
245人間七七四年:2011/08/27(土) 00:21:26.24 ID:M1RyOch3
まあそれは野暮ってもんだよ
246人間七七四年:2011/08/27(土) 01:54:12.32 ID:eUzoBoEv
>>234
事実政宗は一番変じゃないかw
247人間七七四年:2011/08/27(土) 11:28:51.21 ID:lu7mFZz6
>>237-238
譜代でもないのに宗茂への信頼度の高さはすごいなぁ・・・
家光も結構贔屓してたし
248人間七七四年:2011/08/27(土) 12:29:57.75 ID:5pZiCbOM
外様で信用あるのって藤堂もだよな
藤堂は関ヶ原から忠節を尽くしてるけど立花は敵対してたのにすごいね
249人間七七四年:2011/08/27(土) 13:11:53.27 ID:1ki89kUV
秀忠と宗茂はとにかくウマがあったらしい。
それに秀忠にとって宗茂は外様というより、自分が取り立てた家臣だしね。
250人間七七四年:2011/08/27(土) 13:22:22.12 ID:YuvQd5wn
家光の二大贔屓の外様だもんな、まーくんと宗茂は
秀忠もか?
251人間七七四年:2011/08/27(土) 13:23:43.13 ID:2phoVTJq
土井利勝に「上田への国替えをお願います。」と言って受け入れたという仙石忠政は贔屓だったんだろうか。
252人間七七四年:2011/08/27(土) 13:23:45.12 ID:YuvQd5wn
あ、秀忠は三斎か
253人間七七四年:2011/08/27(土) 13:35:00.26 ID:98HikQDi
>>252
鍋島忠茂と丹羽長重も
254人間七七四年:2011/08/27(土) 16:43:21.86 ID:9ItczVCG
大御所だと誰だろ、高虎とまーくん?
255人間七七四年:2011/08/27(土) 16:53:26.23 ID:PADwzSYL
>>229
母里の人外の體ってどんなんなんだ
かぶきまくって人に見えなかったとかそんなのか?
256人間七七四年:2011/08/27(土) 17:05:59.01 ID:6pTFi6De
人か物の怪かという姿形の事じゃなくて、素行振る舞いが常識外れ
当時の人の思考からするとぶっ飛んだ考えの人
世間体の体、体を成すの体
257人間七七四年:2011/08/27(土) 17:23:04.39 ID:GtND0Z/i
つまり母里さんは
ニコ厨がネタにしまくってるチャージマン研!みたいな人なのか
258人間七七四年:2011/08/27(土) 17:30:45.20 ID:6pTFi6De
チャー研はキチ○イなんかじゃないやい!
259人間七七四年:2011/08/27(土) 17:34:22.50 ID:YuvQd5wn
>>254
あと最上家親とかか
260人間七七四年:2011/08/27(土) 18:19:57.68 ID:PADwzSYL
>>256
ただ今のところ出てる話では根は真面目そうだよな
関羽や張飛あたりの侠客のイメージになるのか?
261人間七七四年:2011/08/27(土) 18:39:04.50 ID:6pTFi6De
栗山を関羽、母里を張飛とみると二人の間柄も性格もそんな感じだね
262人間七七四年:2011/08/27(土) 19:47:47.09 ID:Yc1d3TBo
>>254
悪久じゃね。あの島津家の曲者の中で唯一の親徳川派だし。
263人間七七四年:2011/08/27(土) 21:03:01.05 ID:RPGVeP2o
戦国いい話の前に…

【集団ストーカー犯罪】とは、

加害者達が集団で、被害者を鬱病や統合失調症に仕立て上げ、
社会から抹殺しようとする凶悪な犯罪です。

この犯罪は海外でも存在し、アメリカではテレビでも報道され、
【生命倫理に関する大統領諮問委員会】も開かれています。

日本では20年以上も隠蔽され続け、年間自殺率3万人以上と増加の一途。
一刻も早く集団ストーカー犯罪を規制する法律が必要です。

264人間七七四年:2011/08/27(土) 22:21:30.42 ID:0U1S1nwa
前田利常「将軍家から嫁をもらいつつガチ喧嘩(謀反疑惑)もやる、ついでに人の家をフルチンで闊歩する、これぐらいできてこそ将軍家の真の友人というものだ」
265人間七七四年:2011/08/27(土) 22:25:09.34 ID:1dynxkfS
こんなところにまで人権擁護法案の工作員が…
266人間七七四年:2011/08/27(土) 22:48:36.80 ID:YuvQd5wn
>>264
前田利常は幕府に目を付けられないように睨まれないようにと恭順な態度示し、
鼻毛伸ばしたりアソコを見せたりしてアホを演じた苦労人だからな
267人間七七四年:2011/08/27(土) 23:02:13.31 ID:/uyGzAn+
鼻毛チ○コ殿はあらゆる意味ですごいよな
268人間七七四年:2011/08/27(土) 23:07:44.91 ID:1ki89kUV
利常「参勤交代の途中で食ったダンゴがあまりに美味かったので、それを作ったババアを金沢まで拉致しました!」
269人間七七四年:2011/08/28(日) 00:16:17.62 ID:RHYqlsNf
そもそも幼名が当主(犬千代)と犬猿の仲になれと言わんばかりの猿千代だったからな。
しかもその名前になった由来も、じつはラスボスが利家の側室に勝手に手をつけて産ませた子だったんじゃないか説まで出てたというし。
まさに生まれついての苦労人w
270人間七七四年:2011/08/28(日) 00:41:42.63 ID:b849g2Fj
自分の子生まれるのすら苦労してるのに
よそで手をつけた女がそんな簡単に妊娠するものかいな
秀頼すら怪しまれているのにねぇ
271人間七七四年:2011/08/28(日) 00:57:51.38 ID:vNTeeaAV
不倫の方が妊娠率は高いらしいけどねえ
272人間七七四年:2011/08/28(日) 07:52:40.43 ID:TpDurZmV
秀忠「ほんの出来心で浮気した時に限って妊娠判明というのは稀に良くある事」
273人間七七四年:2011/08/28(日) 11:36:08.19 ID:RA89/r4g
ラスボスの隠し子だったら養子にする利長さんの器量がただ事じゃねえw
274人間七七四年:2011/08/28(日) 11:45:06.05 ID:b849g2Fj
保科正之って本当に秀忠の子だったのか疑問だ
家光が江の子供じゃないと言及する輩は後を立たないのに
周りから常に監視されている江の子供すら、そんなこと言われて
側室でない、他の男と充分接触あっても不思議ではないその女の子供が
なんで秀忠の子としてすんなり受け取られているのか甚だ疑問なんだが
正之は本当に秀忠の子かって疑問に思ってる学者さんているの?
いないのならどんだけ杜撰なんだ
275人間七七四年:2011/08/28(日) 12:17:09.28 ID:ZHdetznJ
そもそも前田利常自体が、利家が名護屋出張中にうっかり女中に手を出してその過ちで生まれた子だし。
ちなみに利常生母の寿福院(千代)は、利家正妻の芳春院(まつ)とガチで仲が悪かったそうなw
276人間七七四年:2011/08/28(日) 12:35:46.41 ID:8mRTkC67
ある日、前田利常が目付衆を呼んで命じた。
「金沢城下の侍が、側妾を小屋敷に召し置いており、これを『囲い女』などと呼んでおるそうな。
もっての外である。いったい誰と誰がそんな事をしておるのか、調べて参れ。」

さっそく目付衆は調査に乗り出し、とりあえず調べのついた五、六人の名を書き付け、利常に報告した。
報告を受けた利常は、重臣の津田玄蕃を呼んだ。

「こやつらが『囲い女』を持っておるとか。この中で、妻子のある者はおるか?」
「(いかん、妻子持ちが囲い女など、けしからんとお考えか?)さ、さあ・・・良く覚えておりませぬ。
調べて報告致します。」

数日後、再び玄蕃は利常に呼ばれた。先日の書き付けの、幾人かの名に印が付けられていた。

「この者ども、妻子を持っていよう。」
「・・・・・・!」
「ふふ、わしが妻子持ちを罰すると思っているな?逆だ。連中は、自宅で『山の神』を祭らねばならぬ。
よって女を外に置いておるのだろう。もっともな事だ。
独身者はそうではない。女を置くに、誰はばかる事ないはず。外に囲うなど、もっての外である。」

玄蕃が『囲い女』持ちの男に利常の言葉を伝えると、心底を見透かされた男たちは、何とは無しに
女を囲うのをやめたという。(微妙公夜話より)


( ;∀;) イイハナシナノカナー?
277人間七七四年:2011/08/28(日) 12:44:18.01 ID:YNTzrsME
何時の世も嫁さんはおっかないと言う事か、家内だけにナンチテ( ´w`)
278人間七七四年:2011/08/28(日) 13:05:01.71 ID:RzaCxoKu
>>274
そりゃ家光が一目見て、俺の親父(大御所様)にくりそつと思ったからじゃないかw
そりゃ秀忠が認知御するはず無い罠。
家光同様、自分の親父の子供だもの。
279人間七七四年:2011/08/28(日) 13:07:10.47 ID:lbMHfbc+
>>278
そういう俗説極まるものをここで自慢気に言われても困る
280人間七七四年:2011/08/28(日) 13:08:55.64 ID:jqU02deL
たいして高尚でもないし、戦国からはみ出た話じゃないんだからケンケンいってやんなよ
281人間七七四年:2011/08/28(日) 13:36:51.08 ID:b849g2Fj
>>278
加賀辺りは詳しくないんだが、山岳信仰だったの?
山の神は女を嫌いというけど
282人間七七四年:2011/08/28(日) 13:40:42.98 ID:ZHdetznJ
>>281
嫁さんのことを俗に「山の神」っていうんだよ。
283人間七七四年:2011/08/28(日) 13:47:28.41 ID:prw/VQVG
ちなみに「容貌が醜く、嫉妬深い」とされるのが一般的>山の神
284人間七七四年:2011/08/28(日) 13:58:02.42 ID:b849g2Fj
>>282-283
ああ、そういう意味なのか ありがとう
つまり隠語ってこと?
285人間七七四年:2011/08/28(日) 14:13:32.80 ID:l2fB0eCC
>>274
将軍の乳母の侍女だと将軍以外の男との接触はダメとかでね?
286人間七七四年:2011/08/29(月) 00:12:53.95 ID:XjaPiXcv
高遠城の戦いの後、二の丸の城将であった保科弾正忠正直は、森長可によって軟禁された。

「やぁ森殿、今日は朝から騒がしいですな。何ぞ騒動でもありましたかな?」
「おお、保科殿!実は上方より、こんな書状が届きましてな。」
長可は書状の一部を手で隠しつつ、正直に見せた。

“武田逍遥軒並びに保科弾正○○の事”
「さて、○○の部分は何と書いてあるでしょうか?」「…まあ、ロクな事は書いてありますまいな。」
「正☆解〜!」
長可が手をどけると、そこには

“誅罰”の二文字があった。

「!!で、では今朝からの騒ぎは……」

「左様。すでに、わが手の者が逍遥軒のもとに向かっておる。しかし保科殿、貴殿の安否は心易かれ。
貴殿をも誅罰するつもりであれば、何でこの書状を見せようか?
この事、上方には報告しておらぬが、きっと信長様にお願いして貴殿の命、続かしめん!」

「も、森殿……!」

一種の信頼すら芽生えた二人だったが、直後に本能寺の変が起こると長可は旧領に帰って
二度と信濃に現れず、長可去った後、正直も祈願寺の僧の勧めによって滝川一益に仕え、
森家と保科家が再び交わる事はなかった。(赤羽記)

まあ、槍弾正Jrが殺しの軍団・森家の仲間入りしてヒャッハーするのも見たかった気はする。
287人間七七四年:2011/08/29(月) 00:13:29.12 ID:YQOn2IMO
うめぇwwwwwwwwwwwww
288人間七七四年:2011/08/29(月) 00:14:25.01 ID:YQOn2IMO
誤爆につき介錯をお願いいたす
289人間七七四年:2011/08/29(月) 00:15:40.13 ID:G7S70noy
いい…話?
290人間七七四年:2011/08/29(月) 00:39:12.81 ID:gvRheARJ
てっきり油断させといてぶっ殺すのかと思ったら
普通に助けてあげたからいい話だなー
291人間七七四年:2011/08/29(月) 00:41:38.74 ID:6GU0T4ht
信長の命令無視した上に事後承諾取り付けたる!
なんて、信長に気に入られてるのをかさに着て傍若無人な振る舞いしてたのが良い方向に発揮された良い話じゃないか。
しかし、鬼(畜)武蔵さんは
「ヒャッハーお前なかなかやるじゃねえか、気に入ったぜ!」
的な台詞が似合いすぎて困る
292人間七七四年:2011/08/29(月) 01:00:02.25 ID:VnHIVZzA
気に入らない奴らは皆殺しだけど
見所のある敵は家臣に取立てる
ある意味信長のやり方を忠実に守ってるとも言える
293人間七七四年:2011/08/29(月) 02:03:26.55 ID:ZNcONyn1
久しぶりに鬼武蔵キター。
毎回ほとんど似たような話しなのに、テンション上がるー。
294人間七七四年:2011/08/29(月) 02:17:14.63 ID:bpRQGDGi
鬼武蔵的には敵陣営の人間でも
戦の上手そうな奴はウェルカムなのか
295人間七七四年:2011/08/29(月) 02:24:23.86 ID:wAjyQQcS
しかしまぁ毎度毎度出展が違うのにキャラがブレないのは感心する。
296人間七七四年:2011/08/29(月) 02:31:22.87 ID:du+DpSpI
しかし遺言状?を読んで感動して
「きっと父も弟も戦で死んだから、戦が嫌いになったんでしょうね」
といった学者か小説家がいたとか前に見たような
297人間七七四年:2011/08/29(月) 05:27:38.20 ID:Ebs0gaA+
この人はちょっぴりSATSUGAIが好きなだけで、器の大きさを感じさせる逸話も結構あるんだよな。
298人間七七四年:2011/08/29(月) 13:26:18.36 ID:Z+30jwXX
スレチだが今週の『信長の忍び』に森長可(12歳)が出てきた
「後に戦国時代を代表する狂戦士となる男である」と解説されてたw
299人間七七四年:2011/08/29(月) 14:31:46.92 ID:v2bcXCOi
長可は最期の呆気無さがなぁ
300人間七七四年:2011/08/29(月) 15:05:02.26 ID:ztDFfdd0
潔くていいじゃないかw
まさに武士の鑑
301人間七七四年:2011/08/29(月) 16:13:00.58 ID:6+cu9AVu
小牧長久手で勝って欲しかった。 残念。
302人間七七四年:2011/08/29(月) 18:34:03.26 ID:mrKx5V3J
生き延びていた
303302:2011/08/29(月) 18:39:11.12 ID:mrKx5V3J
失礼
生き延びていたらどこか地方で3、40万石くらいの大名になっていたかな。
304人間七七四年:2011/08/29(月) 18:43:49.94 ID:G7S70noy
>>296
小和田哲男の『戦国武将の手紙を読む』でそんな風に語ってたような
娘は武家に嫁がせず、医者とかに嫁がせてくれとか
弟を跡取りにするのは嫌です とかこんなの自分だけで充分だよ…と思ったのかな
305人間七七四年:2011/08/29(月) 18:54:50.40 ID:HzqxeYRg
>>299
ヒャッハーらしい見事な死にざまじゃないか。
306人間七七四年:2011/08/29(月) 18:57:07.72 ID:G7S70noy
額に矢があたって即死して
その死体を乗せたまま帰ってきた馬も凄いよね
307人間七七四年:2011/08/29(月) 20:13:21.85 ID:jXdCAcjL
>>298
以前出たカードゲームといい、
鬼武蔵さんの方向性がかなり固まったな
308人間七七四年:2011/08/29(月) 20:15:00.19 ID:ztDFfdd0
>>298
マジかw買おうかなw
309人間七七四年:2011/08/29(月) 21:02:07.02 ID:xy074avB
>>296>>304
> しかし遺言状?を読んで感動して
> 「きっと父も弟も戦で死んだから、戦が嫌いになったんでしょうね」
> といった学者か小説家がいたとか前に見たような

それは読み方を間違っていて、実際の鬼武蔵の遺言内容はそんなしおらしいものではなく、
鬼武蔵が秀吉に要求したのは、忠政には美濃の森家を継がせるのではなく「京の政権中枢で」使うように。
妹も「京で(政権に関わっている人間に)嫁がせるように」と、
政権に直接つながることを強く意識した遺言なのだ、って解釈を見たことがある。
310人間七七四年:2011/08/29(月) 21:07:03.66 ID:HzqxeYRg
つーか戦が嫌になったんだろう、とか長久手前の言動とか見ても絶対思えねーもんなあ
311人間七七四年:2011/08/29(月) 23:42:30.97 ID:r7XzikOY
「戦が嫌になったような気がしていたが別にそんなことはなかったぜ!」
鬼武蔵の蛮勇が戦国を終結させると信じて…!
ご愛読ありがとうございました!
312人間七七四年:2011/08/29(月) 23:57:37.69 ID:FD7l8JTH
願望なんだろうけど三河武士も鬼武蔵には震えたみたいなこと書きこむ奴が必ずいるよな
現実にはその三河武士に殺されたんだが
313人間七七四年:2011/08/29(月) 23:59:46.19 ID:G7S70noy
震えるというより、うわぁ…来ちゃった みたいなもんだろうね
314人間七七四年:2011/08/30(火) 00:03:36.21 ID:tHRXCUMQ
>>312
まあ、後に家康が関ヶ原の時に「小牧長久手の時の鬼武蔵と比べたら、宇喜多秀家や石田三成なんて
全然怖くないだろ?」って言ってるから、三河武士の間でも相当の強敵と認識されてたのは確かなんでしょ。
315人間七七四年:2011/08/30(火) 00:03:59.93 ID:gfhI0sv4
史料じゃなくて軍記物で構わないが
鬼武蔵に徳川勢がビビッた記述がどこかにあるの?
316人間七七四年:2011/08/30(火) 00:05:25.34 ID:vH9RoNlh
鬼武蔵=なまはげ みたいな扱いだったじゃね
317人間七七四年:2011/08/30(火) 00:15:54.25 ID:wmpEUQrC
>>312
殺されたことと、その対象をどう思っていたかには何の因果関係もないのだが
318人間七七四年:2011/08/30(火) 00:21:06.71 ID:ZAKvhNZB
家康が最も恐れた男が何人も居ることを考えれば三河武士がブルってもおかしくはない
319人間七七四年:2011/08/30(火) 00:22:04.68 ID:ZstUeY06
家康が恐れたって書けば、箔がつくと思ったのかねぇ
逆に言えばそれだけ家康が凄いってことだな
320人間七七四年:2011/08/30(火) 00:25:24.47 ID:4HyhmfHc
今夜はヒストリーの小牧長久手特集で
鬼武蔵の中の人が線の細いイケメンだったのにはワロタ
321人間七七四年:2011/08/30(火) 00:56:01.87 ID:X6ReRoqo
>>306


でその馬も馬で2度の大阪の陣に当主乗せて出征したそうな。
322人間七七四年:2011/08/30(火) 00:56:50.66 ID:9ZKHsBRQ
>>320
そんなのあったのか、観たかった。
323人間七七四年:2011/08/30(火) 06:23:02.63 ID:tKkzn3B6
>>319
結果、家康が恐れた男が量産されることに
324人間七七四年:2011/08/30(火) 08:20:49.14 ID:4HyhmfHc
>>319
まあ、名誉なことではあるわな

>>322
次週は利休切腹
325人間七七四年:2011/08/30(火) 08:29:25.71 ID:M/cqqEo8
しかし鬼武蔵の話に対するスレの反応は凄まじいな
鬼武蔵も何百年後に自分のことがこういった風に語られるとは思わなかっただろう
326人間七七四年:2011/08/30(火) 11:18:28.72 ID:1PuwfGWi
本当にねー
信忠政権はどんなカオスになるのか見てみたかったな
327人間七七四年:2011/08/30(火) 12:18:28.24 ID:9Ioi+nb0
豊臣の時代とは違って、滝川や佐々あたりが大手を振って歩き
堀とか蒲生なんかの若手が育っていくなかで
ヒャッハーし続けるのかねぇ
328人間七七四年:2011/08/30(火) 12:25:45.15 ID:PM9EGkEh
堀、蒲生、森の中央か…
胸熱だな
329人間七七四年:2011/08/30(火) 13:04:33.82 ID:OI072jz5
鬼武蔵一番若いな。本能寺がなかったらな。。。
森家の人(や馬)は討ち死に(や桃)しない限り基本とんでもなく長生きだから、
本当に織田政権の中枢に入ってたんだろうな。
330人間七七四年:2011/08/30(火) 13:09:03.49 ID:is4UR8tU
え?あの能筋がか?
勿論、イヤミで言ってんだろうけどさ
331人間七七四年:2011/08/30(火) 13:19:37.97 ID:is4UR8tU
脳筋だす
332人間七七四年:2011/08/30(火) 13:22:30.56 ID:nD3D3d3K
信忠では普通に秀吉に乗っ取られるでしょう秀頼から政権乗っ取った家康のように
鬼武蔵は生きてれば豊臣の大老格だったかもな
こうやって鬼武蔵の逸話見ると人物がでかいな聞いてて気持ちいいくらいのレベル
333人間七七四年:2011/08/30(火) 13:33:25.31 ID:Xu0pIq0L
>>332
どこを立て読み?
334人間七七四年:2011/08/30(火) 13:44:56.03 ID:ZstUeY06
鬼武蔵のような人は、あまり権力もったない方がいいような
上にいきすぎたら、本格的に止める人がいなくなっちゃう
335人間七七四年:2011/08/30(火) 14:07:32.59 ID:BfDmu/lj
信長の加護あっての話だろ
336人間七七四年:2011/08/30(火) 15:30:54.14 ID:yTmLaSgN
>>332
>信忠では普通に秀吉に乗っ取られるでしょう秀頼から政権乗っ取った家康のように

それはないな。本能寺の変が起きなければそんな力は持ってないだろう。
337人間七七四年:2011/08/30(火) 16:53:40.28 ID:JGEayxhL
>>286の書状は信長かそれに近い筋から出たものなんだろ?
それを若手エリートの筆頭格とはいえ、覆
せるものなん? なんか変だな。
338人間七七四年:2011/08/30(火) 18:01:38.46 ID:WIbINKtQ
>>337
息子の信忠さんからして知ったこっちゃないわと速攻かけて武田潰してるし、そもそも信長の寵愛を楯に、色々好き放題やってた鬼武蔵だから、
「全くこいつは好き勝手やりやがるなあ」
くらいで済むと考えててもおかしくない
339人間七七四年:2011/08/30(火) 18:18:28.99 ID:tHRXCUMQ
三河一向一揆も永禄7年(1564年)になると一揆から吉田現太郎左衛門、蜂谷半之丞、石川善五左衛門、同半三郎、
本田甚四郎といった面々が離脱、家康の優位が決定的になっていった。
さて、この頃一揆の主力の籠っていた土呂の本宗寺は、先に降服した面々を通して、家康に対し講和を
働きかけた。そこで出してきた降伏の条件は3つ

第一・この度一揆に参加した諸侍達の本領安堵のこと。
第二・真宗の道場ならびに僧俗共に、元のように立て置かるべきこと。
第三・一揆の張本人、一命を助けられるべきこと。

この条件を受け入れてもらえれば、今後家康に対し忠節をなし、未だ抵抗を続ける上野城も自分たちで攻め落とし、
さらに諸方の残党たちも尽く退治し、忠勤をなす。
土呂の一揆勢はこう言ってきたのだ。

この事を老臣・大久保忠俊より聞かされた徳川家康は即座にこれを拒絶する意向を示した。
徳川家中を二分するほどの内乱を起こした一揆勢にとってあまりにも都合が良すぎる、そう思ったのだ。
が、ここで大久保忠俊が強いて言上した

「殿の御憤は御尤の事です。しかし、ここはよくよく、今後のことも含めてお考えください!

第一に、このように国中騒動に及んでいるうちに、もし他国から攻め込まれれば、内外の敵に挟まれ
御家の存亡は計りがたく、例えそういったことがなかったとしても、考えてみてください、今度の一揆の
勃発により去年の冬以来我が御家は、他国に進出することが出来なくなりました。
これは非常に嘆かわしい状況です。

そもそも、今度の一揆に遺恨を言うなら。この常源(忠俊)こそ1番でしょう。
私はこの一揆との戦いで子供や孫たちを始め、親類たちが数多く討死致しました。
この老齢になってからの私の嘆き悲しみは、言葉にすることもできません。
ですが、これも全て殿様の御為である以上、例え子供たち全てが相果てるような事になろうと、
決してそれを厭うものではありません。

その上で申し上げます。なにとぞ一揆共の御願いを、言った通りに了解され、残らずお宥しなされてください。
そして一日も早く、再び御家が他国に進出できる態勢を整えてください!」

そう、涙を流して訴えた。

家康はこの大久保忠俊の言葉に深く感じ入り、しばらくしてつぶやくように言った。
「いかようにも、お前の良きようにせよ。」

これにより2月28日、ついに和平整う。三河一向一揆はついに収束した。

大久保忠俊が、家康に講和を受け入れさせた事の逸話である
(三州一向宗乱記)
340人間七七四年:2011/08/30(火) 19:29:41.25 ID:IgoapiSr
忠俊さんは、この人の行動がひとつ違ったら徳川の行く末が全く違っただろう
っていう分岐点に必ずいた気がする。
341人間七七四年:2011/08/30(火) 21:08:57.19 ID:hUKiH2sX
でも、この後、家中の一向宗徒を強制改宗させた上で、
「真宗の道場、元のように」更地にしちゃったんだよね。
一向一揆を半年程度で後腐れなく収めたケースとしては
いい話なんだろうけど。
342人間七七四年:2011/08/30(火) 21:10:46.01 ID:ZstUeY06
むしろそれだけで済んで良かったんじゃないのかな
343人間七七四年:2011/08/30(火) 21:21:47.38 ID:4HyhmfHc
>>341
面白いなー
344人間七七四年:2011/08/30(火) 21:24:31.88 ID:o7d314sJ
>>341
一向宗の道場というのは、記録などでも「城」と表現されることがあるように、大規模な堀と土塁を要した
要害設備だったと言っていい。なので領主としては何にかあればそこに篭られては困るので、破却は
領主の立場としてはしょうがなかったと思うよ。
345人間七七四年:2011/08/31(水) 01:13:41.78 ID:txKEWVJ3
偽和睦は家康の得意技だろ。
346人間七七四年:2011/08/31(水) 01:16:34.62 ID:ItUf5VjX
50年経ってもなw
347人間七七四年:2011/08/31(水) 01:25:16.75 ID:hGB7AKfa
更にこのときの事を根に持ってあとで大久保一族を・・・gkbr
まさに安心の家康クオリティー
348人間七七四年:2011/08/31(水) 01:33:18.92 ID:zCy8ZROv
そんな無理矢理悪い話に持っていかんでも
349人間七七四年:2011/08/31(水) 02:04:34.51 ID:IpxZHOjQ
ちなみに一応言っておくと、大阪冬の陣の和睦に関しては内堀の埋立も含めて最初からの条件通りだったと
現在はほぼ証明されている。
350人間七七四年:2011/08/31(水) 07:38:35.51 ID:mLoQ80MG
それ本当かよw


てか徳川家の元通りってのは怖いなw
351人間七七四年:2011/08/31(水) 08:02:18.93 ID:SJXJRt7D
武士の嘘を武略といい、坊主の嘘を方便というからな
この時代だまされた方が悪いと言うことなんだな
352人間七七四年:2011/08/31(水) 13:29:43.45 ID:vTv6p+M0
>>341
26歳のやることじゃねぇよなw
後の大坂攻めの破却の件を彷彿とさせる無理やり加減が恐ろしいww

>>348
悪い話?
いい話だろ、武士的には。
353人間七七四年:2011/08/31(水) 13:48:49.52 ID:II1bBQ/N
別にそれくらい当たり前のことだよw
354人間七七四年:2011/08/31(水) 13:58:39.55 ID:v+j4tj8Q
>>352
そんなに褒めるなよw
355人間七七四年:2011/08/31(水) 15:52:49.19 ID:fG7f1JDA
>>350
>徳川家の元通りは恐ろしい

三歳「3回粗相をしたら、その家臣は元通りにしてやろう」
356人間七七四年:2011/08/31(水) 16:16:44.55 ID:LQ7cubPB
偽和睦というと信長が有名だけど江戸期以降の儒学に慣れた基準からすればけしからんってなるわけね
まあ大坂の陣に関しては>>349の言うとおりなんだけど、意外と知らない人多いみたいだねぇ
ただ有能さというものがお行儀の良さよりも優先される、実力主義の時代だったんだよな
357人間七七四年:2011/08/31(水) 18:20:08.66 ID:mangm6AO
主君替え、四人目の嫁と息子

本能寺で織田信長が明智光秀に討たれると、
甥の織田信澄は内通の疑いをかけられ殺された。
嫁が明智の娘だったからである。

さて、山崎の合戦で勝利した羽柴軍秀長のもと、
三千石を拝する藤堂与右衛門高虎を頼って、女が訪ねてきた。

「信澄殿の嫁ごだと!?
信澄殿といえば、俺がどんなに頼んでも八十石しかくれなかったではないか。
いったいどのツラさげて参ったか?信澄殿の嫁!」

見ればわずかな供を連れ、人目を忍ぶ女がいた。
懐には二歳になる子を隠し抱いている。
「・・・・不憫じゃ。」

高虎は、母子を保護し、子を芦尾庄九郎と名乗らせた。
高虎の庇護のもと、成人した庄九郎がさすが大器の片鱗を見せ始めた頃、
徳川家の千姫が豊臣秀頼に輿入れすることになった。
庄九郎の母が明智の娘で、教養も才能もあるとして
千姫の上臈に抜擢された。すると、
庄九郎は母と共に秀頼のもとに行ってしまったのである。
「よりによって秀頼殿とは・・・」

しかし、時流は容赦ない。
豊臣家は滅びた。

徳川家康の腹心として、大坂の役の戦後処理に忙殺される高虎を頼って、
男が訪ねてきた。

「庄九郎だと!?
庄九郎といえば、さあこれからという時に
とっとと秀頼殿のところへ行ってしまったではないか。
いったいどのツラさげて参ったか!信澄殿の息子!」

見れば、昔日の若武者の面影はすでになく、
投降兵の姿があるばかりだった。
「・・・・不憫じゃ。」

高虎は家康に、庄九郎の助命と家名の存続をとりなした。

庄九郎は織田昌澄と称し、
子孫は旗本として二千石を拝領するようになったという。
358人間七七四年:2011/08/31(水) 19:56:46.72 ID:qRwCc0U/
高虎さん、無職の俺にも御慈悲を
359人間七七四年:2011/08/31(水) 20:06:11.33 ID:RSCAwxlF
高虎www
360人間七七四年:2011/08/31(水) 20:18:58.47 ID:zCy8ZROv
美談ではあるけど、こんなに優しくて大丈夫か心配になる
361人間七七四年:2011/08/31(水) 20:54:55.98 ID:pSa3ZAk7
高虎って優しくて弱い石垣職人のイメージが定着した
362人間七七四年:2011/08/31(水) 20:55:24.22 ID:LE7hJ10d
まあ自分も色々苦労したしねえ
363人間七七四年:2011/08/31(水) 21:05:47.31 ID:kyQAoyB/
受け入れた高虎はさすがの器量だけど、これなにげに信澄の嫁の人を見る目と決断がすごい話
でもあるよな。

いくら出世街道にのりつつある高虎とはいえ待遇への不満を理由に出て行った旧臣を頼るか?
織田・明智両方の縁をたどればもっと安易な道はいくらでもあったはずなのにこの選択はすごい。
さすが光秀の娘といったところか、ガラシャのすぐ下の妹なんだね。
364人間七七四年:2011/08/31(水) 21:12:43.95 ID:hwkPySbX
たんに信澄の旧臣の中で、高虎が出世頭だったからでは
より大きな大名にすがったほうが同情してくれる可能性も高いだろうし
365人間七七四年:2011/08/31(水) 21:16:58.42 ID:k3MJQfyD
高虎の立ち位置が安全だったってのもあるんじゃない?
明智を討った秀吉の弟の直臣だし。つか父親を討った男の弟の部下を頼る気になった奥方様がすごいな
366人間七七四年:2011/08/31(水) 22:11:05.03 ID:glJgJGDD
やっぱ、お玉ちゃんの姉妹だぜw
367sage:2011/09/01(木) 00:54:00.60 ID:2OZgzHLc
防災の日&毛利隆元の命日らしいので

天文七年二月下旬から三月上旬にかけて、山口では火事が多発していた。
二月二十五日、二十七日、翌月三月三日、七日と、放火なのか事故なのかはわからない。
なかでも三月七日に本町で発生した火事は「七日、本町家百はかり燃候」と記録されている。

この大火事のときに、鎮火のために奔走した集団がいた。
去年の天文六年十二月に、山口に人質としてやってきた毛利隆元が従えていた者達である。
隆元の山口での人質生活を書き留めている「毛利隆元山口滞留日記」には、

「此方衆走あひ、火をしつめられ候、其時内藤彦太郎殿爲御使、御館様御褒美にて候」

と記されており、具体的に何をどうしたのかは書かれていないが、大内義隆から褒美をもらうほど活躍したらしい。

のちに「優柔不断」と父・元就に評されてしまう隆元だが、一大事という時には部下を適切に動かすことはできたのだ。
まあ、隆元が自主的に動いたんじゃなくて「人手が足りないから手伝って!」とか言われたからかもしれんけど。

山口で人質中の隆元十六歳と、その配下のちょっといい話。
368人間七七四年:2011/09/01(木) 00:56:23.45 ID:2OZgzHLc
あ、ごめんあげちゃった。
369人間七七四年:2011/09/01(木) 01:03:57.55 ID:6aZ2QESu
隆元の逸話きたー 16歳で凄いなあ
防災の日と隆元の命日が一緒なんだ 災いを防ぐ日なのに…
370人間七七四年:2011/09/01(木) 01:55:43.80 ID:YDkSPVnw
子孫が後の消防士である
371人間七七四年:2011/09/01(木) 06:15:18.50 ID:gjgHNumR
隆元の指揮下で動いてたというより
勝手に消火活動に奔走してたって感じの文だな
372人間七七四年:2011/09/01(木) 07:33:41.12 ID:5chSyWAG
>>370
火付け役だろ
>>371
頑張れば若さまの評判も良くなるからね
373人間七七四年:2011/09/01(木) 09:59:58.04 ID:MpLLgyi8
>>371
だよな
毛利隆元が指導力を発揮したなら具体的に書くはず、毛利側の史料なんだから
374人間七七四年:2011/09/01(木) 13:04:44.59 ID:uZMT+ztT
>>357
忠興を頼るという選択肢はなかったのかな?
375人間七七四年:2011/09/01(木) 13:15:40.61 ID:4v9I92Fg
>>374
山崎の戦い直後なら珠は幽閉されてたんだし、受け入れてくれるとは思ってなかったんじゃね?
376人間七七四年:2011/09/01(木) 14:31:14.71 ID:UklXVgq1
>>374
丹後まで行くのが大変(ほぼ山道)な上、丹波方面は残党狩りで治安かなり悪いぞ
母子連れの少人数で行くのは無理
377人間七七四年:2011/09/01(木) 14:46:28.28 ID:/MDj4qXf
小牧・長久手の戦いで、秀吉方について戦っていた池田恒興(勝入)が
家康家臣の永井伝八郎(直勝)に討ち取られた事はご存じの通り。
その経過は、安藤直次が勝入に槍を付けて、直勝にさし招かれた若武者・伝八郎が首を討ったもので
そしてそれを正直に報告した伝八郎と、クサイ芝居をして功を譲った直次という
これだけみると、過去にもこちらで挙がっている清々しい戦場の友情譚である。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-684.html

…が、事の真相はどうやらもっと深〜いものであったらしい。

実はこの戦前に、主君・家康から直々に直次にお達しがあった。
「井伊万千代(直政)に手柄を立てさせるように、よろしく援助してやってくれい」
戦歴が浅い為、目の中に入れても痛くない直政の事を頼まずには居られなかったのであろう。
可愛い直政にチョッカイを出そうと、その小姓部屋に忍び込んだとも言われる「敵」直次に頼み込む始末。

そして決戦の場。
直次は勝入に槍を付けて半死状態にした所で、後方から詰めている筈の直政に首を討たせようと、「万千代、万千代!」と叫んだ。
すると予期せぬ方角から武者が襲いかかり、あっという間に勝入の首を掻き斬った。
その人物こそ伝八郎であり、前髪の頃は直政と同じ「万千代」という童名の持ち主だったのだ。

永井伝八郎直勝とはどのような人物か?
「すぐれたる美童」だった伝八郎は、家康の長男・信康に見染められ児小姓として寵愛されていた為
後に家康の直臣となった際も、家康からも目をかけられた。
機転が利き、軽やかな身のこなしで勇敢な為、この度の戦で初めて母衣衆に抜擢された。

一説(『武野燭談』)に、直次と伝八郎は衆道の契りを結んでいたと伝えられ
(※余談ではあるが、かの「三島由紀夫」は伝八郎の子孫だそうだ)
伝八郎としてみれば、直次が自分に敵将の首を譲ってくれるのだと思い飛びかかったに違いない。
(万千代違いだったが、伝八郎なら丁度いい。伝八郎にも誤解させたままでおこう)と直次が思ったかどうかはわからない。
いずれにしても、伝八郎にとっては棚からぼたもちである。

その頃、本来の「万千代」はどうしていたかというと…

直次の思いは何のその、井伊隊の主将でありながら組下をどこかへ置き忘れて、敵陣深く攻め入り
一騎駆けよろしく池田隊と組みうちし、直次の助太刀もイラネとばかりに
勝入の黒母衣を組み伏せ、首を掻き斬っていたとさ。
もちろん直次に、「物主たるもの組下を置き去りにして一人働きするものではない!」と叱られました。
378人間七七四年:2011/09/01(木) 15:01:41.36 ID:r6KjBAj3
万千代違いワロタw

なんかかわいいな 俺が呼ばれてる!と思って勇んで駆けてくるの
379人間七七四年:2011/09/01(木) 15:46:01.49 ID:35n8IDR5
>>377
戦場の話なのに微笑ましいのは何故だろう
それにしても安藤さんはアッー!方面も抜かりがないねw
長久手では井伊隊のあげた首級がパネェし
「我に遅れたる者は男じゃねー」
と飛び出して行った直政には最初から援助なんていらんわ
という感じだね
380人間七七四年:2011/09/01(木) 19:09:12.83 ID:eYunOiCa
しかし無理に衆道ネタ入れないでいいよ
381人間七七四年:2011/09/01(木) 19:14:05.26 ID:3+7HXbDB
「覇王の家」でも信康が寵愛していた家臣だから、家康も目をかけていたって描写だったなー。
382人間七七四年:2011/09/01(木) 19:23:52.76 ID:5saW7Eok
衆道関係をはっきりさしといた方が背景が分かるからいい
この時代は嗜みだったんだし
383人間七七四年:2011/09/01(木) 19:49:11.06 ID:eYunOiCa
はっきりしているならともかく
衆道ネタを書きたいために書いているようにしか見えない
384人間七七四年:2011/09/01(木) 20:01:07.31 ID:dm3WrxJx
滝川一益が桑名城で読書をしていると庭に雷が落ち、家臣が大騒ぎしたが、

「うろたえるんじゃあないッ! 滝川武士はうろたえないッ!」

と顔色一つ変えずに読書を続けたという。また、厩橋城主だった頃は一着しか無かった服が
洗濯中で全裸で過ごしていた所に来客が来た際も

「私の服が乾くまで待っていてもらえ。」

と服が乾くまで待たせたという。以上、「名将言行録」より滝川一益の豪胆さを示す逸話である。
385人間七七四年:2011/09/01(木) 20:11:26.79 ID:6aZ2QESu
褌も一着…?
386人間七七四年:2011/09/01(木) 20:13:10.40 ID:5saW7Eok
>>383
だから逸話スレだろ
387人間七七四年:2011/09/01(木) 20:22:07.74 ID:iYm2bJ12
一軍の将にもなって着物一枚ってことはないだろwww
「俺は将門とは違うぜ〜www」的なパフォーマンスだべwww
388人間七七四年:2011/09/01(木) 20:24:23.46 ID:6aZ2QESu
この時の来客って名前があったような
池田恒興だったかな 違ったかな
389人間七七四年:2011/09/01(木) 20:33:13.56 ID:ggVz8YZP
>>383
別に断定的に書いてあるわけでもないのに何が気に入らんのだ
390人間七七四年:2011/09/01(木) 20:38:38.66 ID:tr+CvJPh
名将言行録の該当箇所には「諸将」としか書いてなかった
391人間七七四年:2011/09/01(木) 20:42:49.72 ID:c0sAsYNR
今日は池田勝入の脇役祭か?
392人間七七四年:2011/09/02(金) 00:32:59.02 ID:NkInj7FZ
出遅れた感もあるし、いい話か微妙だが引き続き池田勝入

池田恒興の家臣に、森寺政右衛門忠勝という男がいた。恒興の守役と言うべき藤左衛門秀勝の子であり、
若いころから恒興に仕え、伊木清兵衛忠次とともに恒興の両腕たる男であったが、「常山紀談」に
『優れたる荒者』と書かれるように武勇に優れ、そして荒々しい男だった。

ある日、恒興が政右衛門に徳利を見せた。「どうじゃ!備前焼の逸品だとか。稲葉一鉄にもらった物だ。」
徳利を見た政右衛門、一言「ニセモノですな。」
「何だと!?」
「今ごろ一鉄殿は、さぞかし笑っておりましょう。にっくき奴輩ですな。この徳利を一鉄殿の目の前で
割ってやったら、さぞかし痛快でしょうな。」
「そりゃそうだが、さすがに無礼だろ。というか、あの一鉄の前でそんな事、やれるモンならやってみろ。」

恒興の言葉を聞くが早いか、政右衛門は徳利を抱えて飛び出した。
「…いかん!アイツの気性では、本当にやりかねん!」

ようやく気づいた恒興だったが、時すでに遅し。屋敷の門前まで出てハラハラしながら待っていると、
政右衛門が五体満足で駆け戻って来た。「せ、政右衛門!お前、無事だったか!」
「おう、殿!これを御覧あれ!!」
政右衛門は懐から、首だけになった徳利を差し出した。
「やりやがったぁぁああ!!」

「使者と申して一鉄殿に対面し、縁側の柱に徳利を叩きつけて、木っ端微塵にしてやりましたわい。
『そやつを捕らえろ!!』と叫んだ一鉄殿の顔、殿にも見せてやりとうござるな。まあ、縁側に出ていた
おかげで、こうして逃げ延びて参りました。」
「な、何という事を……」

「殿が悪うござる。およそ人の主たる者、一言たりとも慎みあるべし。わしの発言は確かに無礼でしたが、
それを『やれるものならやってみろ』などと侍が言われれば、たとえ骨を刻まれようと、やらいでか!
今回、帰って来れたのも運が良かっただけ。以後、ご自重あれ。」
393人間七七四年:2011/09/02(金) 00:38:47.83 ID:qltNker9
悪い話の方が良い気もするがw
394人間七七四年:2011/09/02(金) 01:05:13.46 ID:L6/ZS2/d
主君の失言に対し身をもって諌めた…といえば良い話なんだろうけど
そもそも政右衛門の偽物指摘が発端だからなあw
395人間七七四年:2011/09/02(金) 01:53:04.32 ID:2wEtdf1N
殿の胃腸がマッハ
396人間七七四年:2011/09/02(金) 02:22:38.95 ID:dqmKRenL
>今回、帰って来れたのも運が良かっただけ。以後、ご自重あれ。

これ一瞬恒興の言葉かと思ったら、割った本人の言葉なのかよw
397人間七七四年:2011/09/02(金) 02:58:07.90 ID:wNbJCAQ6
正直、どの辺がいい話か分からない
>>394の解釈にしても、失言ってほどでもないと思うしなぁ…
398人間七七四年:2011/09/02(金) 05:36:09.56 ID:hSSto5aG
政右衛門の度胸がいい話
399人間七七四年:2011/09/02(金) 05:56:11.51 ID:+Xlvpj6r
で、本当に偽物だったのかな?
400人間七七四年:2011/09/02(金) 06:39:41.89 ID:obEJMzYV
>>392
めんどくせえええええええ
401人間七七四年:2011/09/02(金) 07:17:33.71 ID:Os8P/mhs
一鉄の反応からして本物だったような気がw
402人間七七四年:2011/09/02(金) 11:18:58.56 ID:1KCWKsp9
>>377
司馬遼太郎の覇王の家にも載ってたな。
永井伝八郎の事を他人に思われ慣れた者の厚かましさというものかもしれないって、けっこう酷く書かれてたけどw
403人間七七四年:2011/09/02(金) 12:28:49.28 ID:RpXRtaE/
>>402
あの場合は、永井の取った行動も最もな事だし仕方ないと思うけどなw
冷静になって、あれは自分を呼んだのではなく井伊万千代の事だったと気付いたはずだが
その後に権現様に直次殿からの貰い首と正直に言って褒められたエピも良い
404人間七七四年:2011/09/02(金) 16:17:33.80 ID:J6MLLiZh
>>402
覇王の家をして読み返したけど、何故あんなに永井に厳しいんだろ
永井も家康に正直に事情を話したと文中に書いてるくせに
他人に想われ慣れた者の厚かましさとか
首を討ったのは確かなのに
譲り受けていわばけろりとしていたなんて書いたり。
逆に直政に対しては
その美貌は婦人にも稀なほどとか想い人のように好意的w
家康との衆道も、徳川家のみならず
町人まで知ってる事実とか断定しちゃってる

405人間七七四年:2011/09/02(金) 16:25:21.91 ID:DmRk64gg
>>404
子孫の三島由紀夫か分家筋の永井荷風が嫌いだったのかもしれんなw
406人間七七四年:2011/09/02(金) 16:35:25.50 ID:Y5sC0jWl
>>384
ちょっとシュトロハイム入ってるなw
407人間七七四年:2011/09/02(金) 16:51:24.97 ID:RpXRtaE/
>>405
それ自分も思ったw
408人間七七四年:2011/09/02(金) 18:41:10.75 ID:C9EFOOU5
>>404
エッセイ等よめばよく分かるが、
司馬は「欲深い人間」が死ぬほど嫌いなんだよ。
金銭欲、名誉欲、領土欲等を人一倍持ってると司馬に判断された人間は糞みそに悪く書かれちゃう。

反対に、司馬がヒーローを書く時は、多少無理があっても
「無欲で、自分の力を試したい・公平な世の中を作りたいという原動力で生きた人」として作っちゃうわけ。

だから、大封を得ても質素な生活を貫いた井伊直政には甘いし、
黒田官兵衛なんか暗黒面のエピソードを完全にスルーして「無欲で明るいクワンピョウエ」なんて無理あり過ぎる美化をしちゃうw
409人間七七四年:2011/09/02(金) 18:46:11.15 ID:DmRk64gg
> 金銭欲、名誉欲、領土欲等を人一倍持ってる

この要素で真っ先に思い浮かぶのは太閤殿下だなw
410人間七七四年:2011/09/02(金) 18:47:16.72 ID:64WNbTQ7
大阪人に太閤=悪の発想はできません
411人間七七四年:2011/09/02(金) 19:17:24.29 ID:p64izSXP
太閤殿下は欲深いというのとはひとつ上の次元にいる気がする
良くも悪くも
412人間七七四年:2011/09/02(金) 20:00:55.44 ID:xNNneUWv
言われてみれば、司馬センセの作品に出てくる直政は、家康のお気に入りの名家の美男子であることがやら強調されてる気がする。
413人間七七四年:2011/09/02(金) 20:12:35.41 ID:pl1wOrqD
>>412
まあ、実際にそうだったようだけどな
414人間七七四年:2011/09/02(金) 20:19:43.14 ID:BFHfy2D5
>>408
お前も司馬同様にレッテル貼りが好きなんだなw
415人間七七四年:2011/09/02(金) 20:38:42.36 ID:9cpoU8IS
秀吉が衆道を辞めさせるために若い娘たちの下着を規制した話し教えてください
416人間七七四年:2011/09/03(土) 03:01:52.54 ID:C6/r1ovK
後藤又兵衛が朝鮮へ出兵した際の逸話である。又兵衛が進軍中、前方の黒田軍の先鋒部隊から
声を上げた。これを聞いた又兵衛は

「味方が負けた。救援せねば」と発言した。

共にいた黒田長政から
「何故そんな事が判るのだ?」と尋ねられると、

「声が次第に近づいてくるのが退却している証拠です。」と説明し、

遠方の戦場から立ち上がる砂ぼこリを見て、
「迫る敵が立てるほこりは向こうからこちらへかけて黒々と見え、逃げる際のほこりは
 遠くなるので白く見えるものです。あれに見えるほこりは白いので敵の敗北でしょう。」

と語った事もあり、いずれもその通りだったという。また、朝鮮軍の拠点である晋州城を攻める際、
加藤清正と共に厚い板で防御を固めた「亀甲車」という戦車を開発。これに自ら乗り込んで城を攻撃し、勝利に貢献したという。
417人間七七四年:2011/09/03(土) 04:43:38.35 ID:uKuLvphp
史料出せ
418人間七七四年:2011/09/03(土) 05:09:45.40 ID:raVuSVMO
>>417
そういうスレじゃない
あればモアベターくらいなもんだ
419人間七七四年:2011/09/03(土) 05:48:37.75 ID:uKuLvphp
史料ねーなら捏造だろうが、捏造してんじゃねーぞ
420人間七七四年:2011/09/03(土) 05:53:26.66 ID:JKEKkIT4
「逸話」って言ってんのに…
421人間七七四年:2011/09/03(土) 06:24:00.62 ID:zIE4mU9e
ちょっと上にも同じやついたじゃない。無視無視。
422人間七七四年:2011/09/03(土) 06:25:34.81 ID:uKuLvphp
捏造を垂れ流すのか。徹底して抗議していくからな
423人間七七四年:2011/09/03(土) 06:47:02.13 ID:fSOJRert
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
424人間七七四年:2011/09/03(土) 06:54:26.59 ID:uKuLvphp
このスレで注意してるやつがいないからここでやらせてもらいますね
425人間七七四年:2011/09/03(土) 07:24:58.17 ID:Peg9ghtR
>>424
マジでキモチ悪いから死ねよキチガイ
426人間七七四年:2011/09/03(土) 07:43:03.02 ID:uKuLvphp
気持ち悪いのは捏造垂れ流している人ですね。
427人間七七四年:2011/09/03(土) 07:52:30.63 ID:XKWm4KLa
428人間七七四年:2011/09/03(土) 08:03:59.75 ID:81XZEsGI
電波を垂れ流しているお前のがキモいよ
429人間七七四年:2011/09/03(土) 08:09:28.85 ID:uKuLvphp
電波って、史料も出さずに捏造している人のこと?
それなら電波だよね。歴史的に。
430人間七七四年:2011/09/03(土) 08:18:09.32 ID:fhSR0+ix
史料提示する必要はないけど、軍記物だろうが近所の寺の縁起だろうが元ネタのある話にしてほしい

最上家とか創作多すぎだろ
431人間七七四年:2011/09/03(土) 08:21:11.59 ID:XKWm4KLa
亀甲車の件は清正記巻第三(http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771449/の184-185)に記述があるよ
432人間七七四年:2011/09/03(土) 08:31:27.26 ID:rkmmBAxo
>>431
ありがとう
後世の軍記物だね
433人間七七四年:2011/09/03(土) 08:50:56.54 ID:DIJ4yLYf
朝鮮王朝実録にも
「又作大櫃以藏兵, 下爲四輪車, 賊數十人着鐵甲, 擁鐵楯, 推車薄城, 以大鐵錐鑿城」と
それらしき記述があったり。
434人間七七四年:2011/09/03(土) 08:53:28.45 ID:uz/LElpf
>>432
何か問題がある? ここはお伽話でも問題ないスレだよ?
普通に幽霊話とかあるし。
435人間七七四年:2011/09/03(土) 09:08:11.32 ID:43VZMkpJ
>>433
ほうほう
436人間七七四年:2011/09/03(土) 09:17:35.42 ID:u7NiVGto
自作のクソ小説でも書いていて、資料収集をこのスレ任せにしているバカがいるのかもしれんね
437人間七七四年:2011/09/03(土) 09:25:53.41 ID:ghZpOZWt
>>436
鬼の作左でもここのレスが使われたりしたしありえるかもしれんねw
438人間七七四年:2011/09/03(土) 11:11:08.55 ID:GemYUzuB
いや、結構冗談抜きでここの逸話って歴史本とかに良いように使われてますよ。
以前見た長宗我部の歴史本とかでもマンマ使われてたのも見た事ある。
皆さんがどれだけ歴史本とかに目を通してるか分からないけど
ああ言う歴史本の編集者が労力をかけずに武将の逸話を簡単に見れる所がここだから

自分が興味がある戦国武将でしか見てないから他の武将とかは解らないが
かなりの確率で文体とかニュアンスを変えたりして利用されてるよ、ここ
編集側からしたらこれほど旨い場所はないよ、勝手に逸話が量産されてくるんだから

417とかじゃないけど俺も提示出来るのなら出した方がいいと思う。
それが思い出せないとか難しかったなら『確か○○で見た』とかでもいいと思う
439人間七七四年:2011/09/03(土) 11:40:29.79 ID:IugRXrva
任意でいいでしょ
提示がなくてもよし、あればなお良し
現状通りで何の問題もない

というかそこらへんはっきりし過ぎると場合によっては著作権で問題になりそう
440人間七七四年:2011/09/03(土) 11:50:33.57 ID:7TwTTPuz
コンビにの\500本とかだと見るなあ
441人間七七四年:2011/09/03(土) 12:27:56.32 ID:GemYUzuB
別に強要してる訳じゃないが、昔の資料とかで著作権とかは全然大丈夫でしょ
問題なのはそういった歴史本編集側が
ここのソースが不明なものを平然と載せるのが問題だし
それにその逸話の出所を知ってる人は<<431みたいに何らかのフォローが入るしね。

このスレがそういった関係者に悪用されてる事は周知しておいた方がいいと思う。
442人間七七四年:2011/09/03(土) 13:14:39.18 ID:kDYAdMJQ
そもそもそういう歴史本(笑)て
妄想や小説書き連ねた物でしょ
443人間七七四年:2011/09/03(土) 13:31:23.59 ID:GemYUzuB
>>442
茶化すな
444人間七七四年:2011/09/03(土) 13:44:22.49 ID:uVeW1VoF
でも正直2chって元々そういうところで
三流歴史ネタ本ってそういうもんだし
普通のねらーならそこらへんは織り込み済みで書き込んでると思うよ?
445人間七七四年:2011/09/03(土) 15:22:04.52 ID:IugRXrva
>>441
古文書とかなら大丈夫だけど、編集物や研究書にも著作権はあるから面倒くさいんだよ
言ってしまえばこのスレのネタの数々にも著作権は発生してる、権利者を特定できないだけでね

戦国武将の迷言みたいな新書なり文庫からネタを引っ張ってきたとして、
その本の著作権者が意義を申し立てたら場合によっては対応しなければならない可能性もある
本当に安全だと言えるのは、著作者(編集物の編集者)が死んでから五十年たったものだけ
日本ゆえにそこまで問題にはならないだろうけれど、
あんまりこれだ、と明言しまくるのは余計なトラブルを招くだけだと思う

とはいえ諸々の理由でネタ元を明かしたい人だっているだろうから、
現状維持を支持する
446人間七七四年:2011/09/03(土) 17:24:17.98 ID:Chp/OXCx
むしろ編集がネタ元を知りたがっているだけのように見える。
447人間七七四年:2011/09/03(土) 19:25:23.32 ID:XotMuuQv
流用されることと出典の明示の必要性に何の関係があるのか分からん。
というかむしろここで罠でウソ書いて採用されるというのも面白いくらいだが
さすがに一般読者に迷惑かかるから良くないな。

数年前に某ネトゲの検証記事でファミ通がそれやらかして軽く祭になったっけ。
448人間七七四年:2011/09/03(土) 22:58:02.58 ID:9ENzCk8J
まあここに書いてあるのも、どっかのサイトからコピペしただけってのもあるし。
そもそも、コンビニで売られてるような本は
昔の本の焼き直しってのが多いよ。もちろん出版社は違うわけで・・・
けっこう出版界ってそんなもの。
ネットだからって盗作されている訳じゃない。盗作の材料にネットが増えただけ。
449人間七七四年:2011/09/03(土) 23:02:27.27 ID:Ifk51JxE
盗作かインスパイアーか
それが問題だ。
450人間七七四年:2011/09/03(土) 23:56:16.80 ID:v3hUVUgJ
元ネタへの敬意ってやつk
451人間七七四年:2011/09/04(日) 00:51:22.58 ID:wv0cFwbX
>>448
同意。
昔細川忠興公の逸話を
書き込んだ事があるが、
元ネタは、Googleで検索して
「おっ、まだ書かれてないし
スレが盛り上がるかもだし
とりあえず書いてみっか」
という考えで逸話書いたし
細かい事気にせず
逸話を楽しめる現状の形でいいかと。
452人間七七四年:2011/09/04(日) 04:31:52.84 ID:Pg3N7EMe
脚色や独自解釈が過ぎるのもアレだけど
そこら辺は皆わかってワイワイやってるのがこのスレの良い所だもんな
DQN四天王だって為政者としては立派な人達だってわかった上で皆ネタにしてんだしね
453人間七七四年:2011/09/04(日) 06:27:02.91 ID:i2lD06Jt
一人か二人なんか引っかかるんだが
454人間七七四年:2011/09/04(日) 10:34:01.23 ID:BZvGkTZF
とりあえず創作は止めよう

あくまでも逸話を紹介するスレなんだから
455人間七七四年:2011/09/04(日) 11:00:24.56 ID:WYjtFUz0
つか、創作なんてしている人がいたんだ・・・
456人間七七四年:2011/09/04(日) 11:13:14.45 ID:i0k4tUol
戦国武将に2ちゃん語もしゃべらせられないこんな世の中じゃ
457人間七七四年:2011/09/04(日) 11:19:04.78 ID:XCrDs8dV
2ちゃん語はポイントだけしゃべらせればいいと思うんだ^^
終始2ちゃん語で語られると読み難くくてしかたない
あと台詞調の語りも書き手の自慰臭が激しすぎるときが多いよね〜
458人間七七四年:2011/09/04(日) 11:30:42.86 ID:BZvGkTZF
>>455
ある大名家のファンの方々がね・・・
459人間七七四年:2011/09/04(日) 11:44:01.08 ID:WYjtFUz0
ちょ、気になる書き方w
460人間七七四年:2011/09/04(日) 11:45:22.40 ID:alSrCokm
>>452
でもまーくんは優秀な部分はすっかり忘れてて単なるDQNになってたけど
この間の大震災でいろいろまーくん作の防災対策がいくつか出てて思い出した。
461人間七七四年:2011/09/04(日) 12:29:51.13 ID:UuF0Kzeq
この前テレビでやってたけど
この度の津波で、ぎりぎり来なかった境目にいくつが神社が建てられていて
調べてみたら、ちょうど綺麗に連なっているんだよね びっくりした
慶長三陸地震で発生した津波や、貞観年津波などで学習して作ったんだろうと知って感動した
462人間七七四年:2011/09/04(日) 14:54:25.92 ID:zfplFunb
後藤又兵衛のお話を

大阪冬の陣の事。慶長19年(1614)12月16日、幕府軍による備前島からの大筒の攻撃で、砲弾が大阪城本丸の
淀殿の居間の櫓を打ち壊し、侍女数名が即死するという事態に至った。
これに恐怖した淀殿は秀頼に和議を勧めた。だが秀頼は強い難色を示し、結論は出ない。
そこで大野治長は大広間に組頭以上の者たちを集め、この事を協議させた。

と、ここで進み出て声を上げたのが後藤又兵衛基次である。彼はいう

「もし近い内に徳川軍の総攻めが行われれば、我々牢人衆は討ち死にするでしょう。
同じく、仮に和議になっても、籠城している我々牢人衆は責任を取り腹を切らされるでしょう。
だが討死も切腹も、どちらであっても豊臣家のお役に立って死ぬ、名誉あることことなので、
この点を心配することはありません。

秀頼様は、和議後の牢人衆の立場がどうなるかが心配で、これに反対しておられるのでしょうが、以上の理由により
その心配は無用なのです。
私としてはむしろ、家康の身の安全を願うばかりです。」

最後の言葉は、主戦派の将軍秀忠と違い和議を進めようとしている家康に何かあれば講和は成立し得ない、
なので和議が纏まるまで家康の無事を祈っているのだ、ということだろうか。

これに賛同者も出て、治長はこの意見を淀殿に申し上げ検討したそうである。
(慶長見聞記)
463人間七七四年:2011/09/04(日) 20:21:53.74 ID:UU7jyu51
ほいじゃそれがしも地味兄ちゃんのお話を。

永禄六年(1563年)七月、将軍家の仲裁によって毛利と大友の和睦が成立し、
毛利隆元が防州から出雲へと向かう途上のこと。
隆元は途中、厳島に滞在していた聖護院道増(将軍・足利義輝の使者)に挨拶した。

「長いこと防府に駐屯してたので、愚父・元就にずっと会っておらぬのですよ。
日に日に老い、さぞ疲れも溜まっていることだろうと心配しておりましたが、
将軍様の調停で大友との和睦が成立したので、
やっと父に会いに行くことができて、最高に嬉しく思っています。
大友征伐が完遂できなかったのは本意ではありませんが、
ともあれ、父に会えるのは喜びのきわみでございます」

さらに数日後、吉田郡山の麓に到着した。
帰城して4、5日なりとも休息をとってから出立しましょうと言う家臣に、隆元、

「長らく父上のお顔を見ていないのだから、大友と和睦がなったうえは、
できるだけ急いで父上のもとに見参すべきだ!
父上はこの六・七年ほど、出雲の大敵・尼子に対峙して、
お眠りになるにも席をお空けにならず、食事をなさるにも味をお忘れになるほど、
心身を削っていらっしゃるのだ。
それなのに子の私が、一人だけ楽をするために家に帰ろうなど、
不孝もはなはだしく、天に顔向けできることではない!」

と言って目の前の家城には立ち寄りもせず、一路出雲を目指した。
人々は口々に隆元の孝心を賞賛したそうな。

大友征伐に意外にもイケイケだった隆元。
どんだけ父ちゃんが恋しいねん、というお話。
まあ、会う前に死んじゃうんですけどね。
464人間七七四年:2011/09/04(日) 20:35:01.98 ID:UuF0Kzeq
>>463
隆元本当にお父さん大好きなんだなあ…尊敬しているというよりお父さん子な印象だ
大友征伐したかったとか、さらっと物騒なこと言ってるが、やはり隆元も戦国時代の人間なんだな

>>まあ、会う前に死んじゃうんですけどね。
何たる悲劇…
465人間七七四年:2011/09/04(日) 20:36:18.72 ID:JRaYkgNT
新薬発見


文禄の役が終わった頃の話。
天草のセミナリオに1人の男がやってきた。
男は自分の故郷の田舎に教会を建て、そこで一生をデウスの教えのために捧げたいのだと言う。
宣教師が理由を尋ねると、男は「デウスは驚くべき異常な方法で自分の命を救ってくださったからだ」と言った

男の語るところによると――
彼は朝鮮で重病にかかり、周囲の者たちから見捨てられていた。
折からの兵糧不足により食べる物もなかったので、男はなんと、懐に入れてあったロザリオを食べて飢えをしのいだ。
これが効いたのかはまったく分からないが、男は数日間生き延び、病状は回復し、日本に帰ってくることができた……と、フロイス日本史は伝えている。
466人間七七四年:2011/09/04(日) 20:46:34.91 ID:mMDiDCCN
食べれるような材質だったのかい!
467人間七七四年:2011/09/04(日) 20:48:35.45 ID:AP2omeEr
木喰上人もびっくり
468人間七七四年:2011/09/04(日) 20:54:37.77 ID:trfjbcS8
朝鮮では砂が食えるようになるそうだからロザリオだって食えるだろう
469人間七七四年:2011/09/04(日) 21:00:51.39 ID:DBIsXMPf
食べられるロザリオってなんだろ
革でできていたのか?
470人間七七四年:2011/09/04(日) 21:04:56.28 ID:alSrCokm
多分手羽先が二つ縛ってあって十字架っぽくなっていたロザリオ
471人間七七四年:2011/09/04(日) 22:50:54.38 ID:s89fuxTg
病は気からっていうし、信仰心もバカには出来ないな
しかし出典がフロイスか
472人間七七四年:2011/09/04(日) 23:32:28.80 ID:qW//eUqF
いやお土産用に大事にとっておいた朝鮮人参だろうね
473人間七七四年:2011/09/05(月) 00:02:50.96 ID:g/4LWtxw
米沢藩では飢饉対策で家を食べられるようにしていたな。
474人間七七四年:2011/09/05(月) 00:21:13.99 ID:nklGYT/Q
欧州だと岩塩でロザリオ作ることもあるで
この時期にそれが日本に伝わってたかは怪しいけど
475人間七七四年:2011/09/05(月) 00:57:26.45 ID:5szuz5Tr
食べられて薬にもなる・・・鰹節じゃな!(某三河者
476人間七七四年:2011/09/05(月) 02:55:52.58 ID:lyIP4fpg
忍者のまきびしも非常食だったという話があるな
477人間七七四年:2011/09/05(月) 02:57:56.02 ID:67lIseDQ
鰻の骨を上げてクルスにw
478人間七七四年:2011/09/05(月) 03:37:17.43 ID:tyky81fe
>>457
2chなんてほとんどが書き手の自慰行為だろ
ニュー速の話だが、歴史スレで三成ageのレスを連投しまくってた2,3人が全員(大阪府)だったしなw
ここだって一部の詳しい人間を除いたら大して変わらん
信者がエピ書いてアンチがちゃちゃ入れまくってるだけだからなw
479人間七七四年:2011/09/05(月) 03:40:50.16 ID:k/UOiZkz
>>476
ひしの実は普通に食えるよ
480人間七七四年:2011/09/05(月) 03:57:10.62 ID:HzJyI8Kr
へーキリシタンも忍者もサバイバラーだな
まさか僧侶の数珠とかも?
481人間七七四年:2011/09/05(月) 08:27:59.87 ID:ijHiF5Ol
数珠の材料は櫨(ハゼ)の木の種で作られてるから栄養価もある非常食として食われてたみたいよ
482人間七七四年:2011/09/05(月) 21:13:40.11 ID:HzJyI8Kr
へー
まさか巫女がお払いに使うのとかも?
483人間七七四年:2011/09/05(月) 22:13:39.29 ID:xZCj+Eth
自分の給料日毎に出る社報に載ってた逸話を一つ。まとめにも載ってなかったので書いてみる。
北条氏康の掟の話から

自分の領内を家臣達ともに視察しながら歩いていた氏康はある時、掟を書いた立て札を見つけます。

この立て札、民たちの悪事などを戒めるための掟を書いたものなのですが、周りを見回すとこういう掟を書いた立看板が行く所々で立っていて目立つので、ふと氏康は家臣たちに訪ねます。

氏康「なんで戒めの掟を書いた立て札がこんなに沢山立っているんだ?」

家臣「はい。それは最近、領民たちが悪事を働く事が多くなり、それを取り締まる回数が増えたためでございます。その為、掟を増やしたのです」

と家臣は理由を説明します。すると氏康は答えます。

氏康「バカモン!領民たちが悪事に手を染めるというのはよほどの理由があってのことだ。ましてや悪事を働ける程、領内は治安が悪いと言うことだ。それにそのような掟を出し続け、政を行うお上にも責任の一端があるということだ。」
    
   「人はな、どうしてもやるなと言われた事はやりたくなる質な上に反発もするものなのだ。それに掟というのは多ければよいと言うものではない。多ければ行動に制約が出るうえに色々と我慢をせざるえないし、そしてそれら全て守るにはどうしても限度がある。」

   「ならば、いっそ守るものは少ない方が民も自由が効く上に、反発も少なくて済む。それに掟を連続で出すということはそれだけ政がうまく行っていない事と同じなのだ。お上がだす掟というのは我らの政の能力を問われている部分でもあるのだ」

(原文はもう少し長かった上にうろ覚え気味だったので要約しました。スマソ)

これを聞いた家臣は一理あると納得して掟の数を減らしたのだという。

484人間七七四年:2011/09/05(月) 22:22:03.62 ID:XaMtUpvR
社報にこんなのが載るとか、どういう会社なんだ いいなあ
後北条は規律に厳しい反面、こういうゆとりも持たせるんだね
そういや、誰かが久しぶりに小田原来た時立て札見て
「こんなに掟が多くなってるなんて 昔はこんなんじゃなかったのに」と嘆いた話なかったっけ?
485人間七七四年:2011/09/05(月) 22:48:18.96 ID:ijHiF5Ol
>>482
御幣は今じゃ紙で作られてるけど元々はニワトコやクルミやマツの樹の皮で
作られてたから一年たったら古くなった御幣は煮て食うか燃やして処分
(厄災的な意味であまり作られた年に非常食にするのは宜しく無い)
486人間七七四年:2011/09/05(月) 22:50:39.03 ID:9dpStkQl
劉邦「法は三章のみ」

それはそうと御幣餅なら食えそうだ
487人間七七四年:2011/09/06(火) 00:21:23.30 ID:jT3E161s
秀吉がまだ「きれいな秀吉」だった頃の話。


ある日、秀吉はロレンソ了斎に冗談めかしてこう言った。
「側室を持つ事さえ許されるならキリシタンになるのもやぶさかではないんだがな」
「わかりました、許可しましょう。
 殿は地獄に落ちるでしょうが、殿がキリシタンになれば他の多くの者もキリシタンになって、デウスに救われるでしょうから」
これを聞いた秀吉は、満足そうに大笑いしたという。
488人間七七四年:2011/09/06(火) 00:44:47.37 ID:dav9PBig
なんか笑いながら切れそうで怖いんだが…
489人間七七四年:2011/09/06(火) 02:46:56.39 ID:xlVS43IW
ラスボス化した秀吉でも一本筋の通った言い分なら笑い飛ばすと思うよ
一度でも殺すリストに入った奴らはちょっとした事でもアウトだけど
490人間七七四年:2011/09/06(火) 03:27:00.71 ID:LWDbcZgS
文章長ったらしくして、胡散臭い事入れる役人は
古今東西を問わないんだろうなぁ。
491人間七七四年:2011/09/06(火) 07:25:23.02 ID:J7fJkpsZ
>>483
その逆バージョンなら知ってる
492人間七七四年:2011/09/06(火) 08:59:36.71 ID:rmDO18Rz
ロレンソって誰の事?
493人間七七四年:2011/09/06(火) 13:34:29.14 ID:KZlNvCnY
戦国時代初期の播磨では、一向宗は固く禁じられていた。
赤松氏が禁教政策をとっており、その厳しさは、蓮如の跡を継いだ実如が
「総じて赤松と申す者は、御一宗に怨をなし、播磨一国の尼入道に念仏をさえ心安く申させぬ者にて候」
と嘆くほどであった。

そんな中、山科本願寺に何と赤松政則がやってきたのである。

実如は、敵対する大大名の当主の突然の訪問に驚きながらも、自らもてなしたのだが、政則は機嫌を損ねて帰っていった。
「???」
訳がわからなくなる実如。
「えっ?なんで怒って帰ったの?そもそも何をしに来てたの??」

真相を調べるとこうであった。
赤松政則は実如秘蔵の名馬「ちぢみ栗毛」を欲しており、何度も譲り渡しを申し入れたが埒があかず、ついに痺れを切らし、
かくなる上は自ら貰い受けに出向かん!と本願寺を訪れたのだった。
しかし、取次の下間上野があの馬は実如が大変大事にしているものであるから、渡すなんてことありえないだろうと判断して、
政則がこれを欲しがっていることも、直談判するためにやって来たことも、実如には一切伝えていなかったのだ。

これを知った実如は、下間の思慮の足りなさを叱り、
「播磨一国の尼入道が安心して念仏ができるようになるのであれば、名馬どころか、自分が売られても惜しいとは思わない。」
と、周囲の反対を押し切って政則に「ちぢみ栗毛」を進呈した。

名馬の効果は覿面で、播磨での禁教は解かれ、一向宗は大いに広まったが、名馬を手にした政則は間もなく病にかかり、命を落としてしまった。
(栄玄記)
494人間七七四年:2011/09/06(火) 13:42:20.93 ID:2IPCdcl9
下げマンならぬ下げ馬
495人間七七四年:2011/09/06(火) 13:49:35.08 ID:1GMLn5sr
的盧だったりして
496人間七七四年:2011/09/06(火) 14:55:34.90 ID:wJtlgc53
>>492
ロレンソはそのまま了斎のこと
元琵琶法師だから姓はない。
497人間七七四年:2011/09/06(火) 18:10:23.27 ID:3s40ZfNQ
どこがいい話・・
498人間七七四年:2011/09/06(火) 18:17:38.80 ID:1GMLn5sr
>>497
結果的に偶然正則が死んだけど普通に『ちょっと』いい話でしょ

実如の対応はもちろん、正則にしたって和解のきっかけを求めてた政治的行動だろうし
余計な気を回した下間が空気読めなかったのがまずいだけ
499人間七七四年:2011/09/06(火) 18:37:04.78 ID:3s40ZfNQ
>>498
額面通りに考えると口すら聞かない宿敵の馬を貰い受けようと
厚かましくも寺に乗り込んで手厚いもてなしを受けたが目的は達せず不機嫌で帰り
結局馬を送って和したものの(祟りで?)死んだって悪い話だろ・・。
出店の資料が本願寺の息がかかってる気がするけどw
500人間七七四年:2011/09/06(火) 18:53:37.15 ID:1GMLn5sr
>>499
そういう解釈でも成り立つからそれはそれでいいけど、少なくとも実如のいい話としては
成り立ってるんだからそんな目くじら立てんでもええがな
501人間七七四年:2011/09/06(火) 19:00:10.10 ID:3s40ZfNQ
>>500
戦国としてはいい話・・・なのか?って気もするけど、
目くじら立てたつもりはないんだが、スマソ
502人間七七四年:2011/09/06(火) 19:40:11.32 ID:vM+SORV5
しかしちぢみ栗毛って名前は何だか卑猥だな
503人間七七四年:2011/09/06(火) 19:41:34.26 ID:FMAob7Di
ttp://portal.nifty.com/kiji/110829147245_1.htm
こんな喫茶があるんだな
家康はもとより、鷹狩り好きな武将が集まりそうな所だ
504人間七七四年:2011/09/06(火) 22:46:05.99 ID:wJtlgc53
江戸期の上田藩内にこんな話が伝わっていた。
「真田幸隆が箕輪に走る前、その領地は藩内の甲石・原・横尾の三村
 千六、七百貫文(石高にして三、四千石)であった。」

その証にとされていたのはこの三村にのみ正税のほかに外田役米として
米八十九石(甲石二十八石・原三十四石・横尾二十六石、およそ300俵)が課せられていたことであった。
幸隆がこの地を去り、その主家であり小県の一帯を支配していた海野氏が滅んでも
その支族妻子の危急を忍びなく思った村々の者たちは年々それだけの物を供し続けた。
それが綿々と続き遺習となって残ったのがその役米であるという。
505人間七七四年:2011/09/07(水) 10:46:40.03 ID:KUKgR7vu
名将の備え

関が原の戦い前夜、家康が桃配山に到着するまで諸侯は思い思いに陣取っていたが、ある夜、諸陣が
にわかに騒がしくなることがあった。寝入っていた寺沢広高も、「ご注進!」の声に起こされたが、広高は
「もう聞いとるわい。」と言って再び寝てしまった。

実は広高、騎馬の士六人、徒歩の者六人を『物聞き』と称して、三交代で四六時中見張らせており、
戦場のわずかな異常も逃さず、その夜もいち早く、夜討ち等ではない事を知ったのだという。



この騒ぎの翌晩、加藤嘉明の陣で、一人の不審者を捕らえた。
「怪しい奴め!忍びが当家を探りに来たか、それとも火付けでもする気だったか?
いずれにせよ殿、斬って捨てましょう!」

「いいや。その者は主君のために死をも恐れず、わが陣に入り込んで来たのだ。許してやれ。
ところで、わが陣は備えを怠っているのか?」
「…いいえ………」
「ならば、なおさら斬る必要はあるまい。こやつが如何にしようと、わが陣を窺い知る事は出来ぬからな。
一人放したところで、勝敗は変わらぬわい。」(常山紀談)
506人間七七四年:2011/09/07(水) 19:58:17.68 ID:5n/Xdbo3
>>493
この人もなかなか面白い人だよな
自分で刀を打って褒美に与えたり、猿楽師を取り立てようとして追放されたりと
まさか赤松氏再興の旗印にした連中はこれほど濃い人物になるとは思ってなかったろうなw
507人間七七四年:2011/09/07(水) 20:22:49.86 ID:VfstGE8H
赤松政則というと某戦国ゲームでネタにもならない低能力振り当てられてたイメージが強いんだよなあ
508人間七七四年:2011/09/08(木) 22:50:36.89 ID:Qtfkw5vQ
藤堂高虎の好きなもの



藤堂高虎は晩年、子孫のために二百か条を超える家訓を残した。
その『高山公遺訓二百ヶ条』は現代でも読むことが出来るが、
中にはちょっと面白い家訓もある。
どんなものかと言うと・・・・・・


第59条
急いで走り出す時は三尺手ぬぐいを手から離すなよ!あと刀の差し方とかも心得があるから。


第179条
忙しい時には足袋は履いちゃダメ。雪駄もダメ。厚着はだめだけど胴服は着ろ。あとその上に三尺手ぬぐいを帯にして巻くんだ!


第186条
急な追いかけ者があったとするよな?近道があって両側が崖で細くなってるところを通るとするよな?
こんなときに役立つのが三尺手ぬぐい!
首にかけて両端を引っ張りながら釣り合いをとって早足で行けば通りやすいぞ!
このテクは一本橋でも使えるからな!
あと三尺手ぬぐいが無いときは刀の下げ緒や縄切れでも出来るぞ!




なぜそんなに3尺手ぬぐいをプッシュするのか?
なぜ186条はそんなに具体的なのか?
現代の我々にそんな疑問を残したまま、
子孫に三尺手ぬぐいの便利さを伝え残した
高虎のちょっといい家訓でした。
509人間七七四年:2011/09/08(木) 22:57:00.54 ID:LxGWDFav
多分三尺手ぬぐいに何度も命を救われたんだろう
510人間七七四年:2011/09/08(木) 23:11:21.61 ID:1Tg/0MqW
高虎さんの遺訓は面白いよな
修羅場をくぐりぬけてきた感が溢れてる
511人間七七四年:2011/09/08(木) 23:24:25.15 ID:Bfk7YGmo
ちょっと三尺手ぬぐい買って来るわ
512人間七七四年:2011/09/08(木) 23:37:16.37 ID:aHCAwStZ
藤堂家の者は代々三尺手ぬぐいを肌身離さず持ち歩かなきゃならないのか
将軍に拝謁する時にも懐に入れてたりしたのかな?w
つーか第59条はよく意味が分からんのだが、どういう事なんだ?
513人間七七四年:2011/09/08(木) 23:40:34.56 ID:An+sFjjZ
59条は急いで走り出して汗掻いても三尺手拭いがあれば拭けるとかだったりしてw
514人間七七四年:2011/09/08(木) 23:45:02.05 ID:SQ86wvqK
俺の雄臭い三尺手拭いコレクションの話題と聞いて飛んできました
515人間七七四年:2011/09/08(木) 23:50:11.89 ID:9E2t5uxO
これ以降、藤堂家では三尺手ぬぐいが流行したのかな
516人間七七四年:2011/09/08(木) 23:51:19.17 ID:tJHSZLtm
というか戦国の話に三尺手ぬぐいは結構出てくるから、戦場の必須アイテムの一つだったのは間違いない。
517人間七七四年:2011/09/09(金) 00:14:59.69 ID:GQDIxff8
戦場のお供に三尺手ぬぐいか
518人間七七四年:2011/09/09(金) 00:31:01.73 ID:bG0sHAHA
汗を拭ったり拭いたりするだけじゃなく、包帯のかわりにしたりロープの代わりにもするからな
519人間七七四年:2011/09/09(金) 00:37:32.44 ID:Q4gMti3q
そういや忍たま乱太郎で、厚めの布を濡らしてかけておけば鉄砲の弾も防げる、って言ってたけどどうなんだろう
520人間七七四年:2011/09/09(金) 00:58:00.36 ID:dqha3VdV
手ぬぐいに水を含ませておいて、
行軍途中に喉が渇いたとき、絞って喉を潤す、という活用法もあるらしい。
521人間七七四年:2011/09/09(金) 02:13:15.58 ID:1FySuIFt
それだと手ぬぐいも乾いていそうなもんだがな
522人間七七四年:2011/09/09(金) 02:53:40.02 ID:rkEVr8x+
早雲寺殿廿一箇条からみると馬鹿馬鹿しい
523人間七七四年:2011/09/09(金) 03:01:55.22 ID:6ILDxmNR
切れた鼻緒の代わりにもなるしな >手ぬぐい

>>522
北条氏綱の五ヶ条の御書置からみるとなお馬鹿馬鹿しい
524人間七七四年:2011/09/09(金) 03:23:14.44 ID:/yAKlicF
遺稿と思うからであって、内容的には
タイガー憶えておくと、ちょっと便利なワンポイントアドバイス集みたいなもんだろ
525人間七七四年:2011/09/09(金) 15:53:44.30 ID:n6ObS52O
一生残しとく文章はでかい字で書け、老眼になったとき困るからな!
                             『高山公遺訓二百ヶ条』

まぁあれだ黄素妙論なみに実用的な豆知識本だと思えば
526人間七七四年:2011/09/09(金) 16:13:20.99 ID:z/J0KVfQ
酒は朝呑んだほうがいい(キリッ)もたいがいだがなwww
527人間七七四年:2011/09/09(金) 16:21:00.54 ID:z/J0KVfQ
日新斎いろは歌で育ってるはずの悪久・・・・
528人間七七四年:2011/09/09(金) 16:28:36.54 ID:DzyEg6ny
>>525
人生哲学とかとは違うけど案外こういう言われないと気づかない系は役に立つのかもね
おれも日記小さい字で書いちゃってるし
529人間七七四年:2011/09/09(金) 17:02:36.67 ID:Y9EBk0n3
>>525
それって、執筆中のネタ探しのために昔の記録とか引っ張り出したら
字が小さくて読めなかったんだろとツッコミたい
530人間七七四年:2011/09/09(金) 17:18:54.66 ID:ZDNdDD0A
幻庵おほえ書きの方が実用的な訓話にみえるんだが
531人間七七四年:2011/09/09(金) 17:33:02.69 ID:GQDIxff8
幻庵さんの嫁に行く一族の娘へのアドバイスは、現代でも通じるレベルじゃなかろうか
物凄く細かいこと言ってるけど、嫁に行く不安な娘にとっては、むしろ細かい方がありがたいだろうし
532人間七七四年:2011/09/09(金) 18:08:17.93 ID:ku3svFfE
>>529
高虎は晩年は目が見えなくなったから
533人間七七四年:2011/09/10(土) 03:02:00.51 ID:P5sLVp+Z
>>529
まあリアルな感想という意味では存在価値がないわけではない
534人間七七四年:2011/09/10(土) 11:59:21.23 ID:K/zqXgpB
細川幽斎は北ノ庄城の戦いの後、柴田勝家を自刃に追い込んだ豊臣秀吉から一首求められた。

「昨日まで 城を修理する 勝家も 今日は柴たく 灰となりける」と詠んだ。

「城の修理」に勝家の官称修理亮を、「柴たく」に柴田をかけ、「灰となりけり」で自刃した後、城が炎上した様子を伝えている。(『細川家記』)
535人間七七四年:2011/09/10(土) 12:21:33.79 ID:sc9LLtbF
誰が上手い事を言えと…って言うか秀吉から一首求められて(上手い事言ってくれと)だもんなw
こう言うのがすっと出るってやっぱり凄いわ〜
536人間七七四年:2011/09/10(土) 18:58:32.80 ID:C9BqRf5U
元和三年将軍家より真田信之へ御達しがあった。
来る五月十八日に将軍徳川秀忠が江戸桜田の真田屋敷へ御成りになるとの事である。

その頃信之と親しかった信州小諸の石川高政は国元へ帰ろうとしていた。
高政は将軍家の信任も厚い人物なので信之は手紙に狂歌を添えて送った。
「信濃路に 急ぐ旅人心あらば 十八日の御幸待たなん」
高政は大いに感銘し、秀歌にはお返しの歌もないとそのまま江戸にとどまり、御相伴に出た。

さて十八日に秀忠へ信之が作法によってお茶を差し上げるときのこと。
信之は秀忠の前で釣棚に月代をぶつけてしまった。
それを高政が「この次は釣棚の下をビロードでお張りなされよ。」と言うと
秀忠はたいそう好機嫌であった。
537人間七七四年:2011/09/10(土) 21:59:26.77 ID:wjGnBWla
確認したが見落としていて既出だったらゴメン。


大河真っ直中、今が旬な関ヶ原の戦いの少し前の話。
徳川家康は筆まめとして知られるが、秀忠の正室であるお江に送った手紙で
ねぎらいの言葉を綴った中で、返信に困る様な事も書いている。

「井伊直政と云う男は、冷静沈着で洞察力に優れている。
日頃は口数が少ないので気が引けるように見えるが、実行力も抜群。
自分が考え違いや評議違いをして、それがマズイ結果になりそうだと判断すると、
他人のいない所を見計らって意見をしてくれるのだ。
故に、何事も先ず直政に内々に相談するようになった。本当に頼りになる男だ」

・・・・・・息子の奥さんへの手紙なのに(重要なので2度言った)・・・・・・重臣の惚気?
悪い話ではないし、信頼のおける良い重臣に恵まれたという意味でもいい話で。
538人間七七四年:2011/09/10(土) 22:59:08.22 ID:E185qRnC
惚気だ。間違いなく惚気だw
539人間七七四年:2011/09/10(土) 23:26:55.10 ID:uUoO7g+J
>>537
江にまで直政自慢をせずにはいられない権現様がカワユス
しかし何故か言い訳っぽいところもあるな
540人間七七四年:2011/09/10(土) 23:45:37.93 ID:KUy7QKX0
>>537
どこからそんな話になったんだろ?
前後の内容が気になる
541人間七七四年:2011/09/11(日) 00:15:19.49 ID:t05RecCE
家康にとっては三河の連中は面と向かってアレコレ言うが
直政は陰で夫を支えて立ててくれるくれる出来た嫁みたいなものなんだろうな(アッー!的な意味含む)
お江さんにも秀忠に自分と直政のようなそういう風に接して欲しいと物語っているんだと好意的にレス
542人間七七四年:2011/09/11(日) 00:16:45.26 ID:+DVZwpoV
秀忠と直政の仲を取り持とうとしてるのかね?
543人間七七四年:2011/09/11(日) 00:21:59.85 ID:sg1oUdc/
年齢的には直政さん次代を担う人だったしね
活躍の場はむしろ関が原よりもずっと後のはずだったんだろうなあ
544人間七七四年:2011/09/11(日) 00:30:27.41 ID:LVc1gLIL
>>543
直孝がしっかり跡を継いでくれたね
545人間七七四年:2011/09/11(日) 00:38:51.95 ID:mzrKLuRu
そういえば、直孝も寡黙で口数が少ない代わりに発言には重みがあって
声を掛けて貰っただけで、それを自慢する人がいたというエピがあったな
546人間七七四年:2011/09/11(日) 10:23:43.22 ID:Cj8dV0d0
>>545
直江「殿がわかるわかると言っておられます」
547人間七七四年:2011/09/11(日) 10:43:52.71 ID:h21GiDRZ
主君替え、五人目

馳走するというので訪れた林次郎兵衛宣清の家で
与右衛門に振舞われたのは、大好物の鮒寿司であった。
大喜びで鮒寿司を頬張っていると、表で馬のいななきと男の声がする。
「もしや、追っ手か?!」
とっさに与右衛門は身構えた。心当たりは・・・・ありすぎる。
「慌てるな。小一郎様からのお使者じゃ。」

羽柴小一郎秀長が与右衛門に会いたいという。
秀長の屋敷に向かう道中ももどかしい。
「もしかして、もしかして、もしかして、もしかして・・・!!」
与右衛門の期待は否が応でも高まった。


会うなり、秀長は与右衛門を見上げて言った。
「三百石でどうじゃ。
まずは仕事ぶりをみてからじゃ。働き次第で加増するぞ。」
昨日まで八十石でがたがた言っていた与右衛門である。
一も二もない。
「よろしくお願いいたします!!」


以来、十五年。
与右衛門は、影に日向に秀長を支えた。
秀長は、腕っぷしはもとより、打てば響く与右衛門を頼みとした。
秀長が約束をたがえることはなく、戦功を重ねる与右衛門はやがて
粉河一万石の城持ちになった。
名は高虎と改めた。

縁起物として鮒寿司は、藤堂家の祝い膳に必ず出されるようになったという。


築き上げた確固たる主従関係は、秀長の病死をもって解消される。
秀長は養子秀保と大和大納言家の事後を高虎に頼んで、世を去った。

高虎は家老である。
守るべき新主君は若干十八歳。高虎はいつまでも泣いていられなかったのである。


後年、秀長の墓の荒廃ぶりを嘆いた高虎は家康の許可を得て、
大徳寺大光院にそれを移した。
江戸年間に大光院が焼失すると、藤堂家が再建したという。




548人間七七四年:2011/09/11(日) 14:10:18.88 ID:QNtIbW2n
>>537
そんな手紙あったんだ 前後が気になるからそっちも紹介してほしい
お江さんの手紙も少ないけど、お江さん宛ての手紙ってのも結構希少だと思う

>>547
運命の主人秀長さんがついに来たか 林さんが手配してくれたのかな
徳川家との関係も好きだけど、やはり高虎さんは秀長さん主従の時代がイキイキしてるなあ
549人間七七四年:2011/09/11(日) 15:01:09.99 ID:mzrKLuRu
>>548
家康から江への手紙だと他にも
秀忠と江の結婚翌年の大地震の見舞いの手紙やら
1612年に、薬草について書かれた手紙などがあるね
550人間七七四年:2011/09/11(日) 15:09:55.87 ID:QNtIbW2n
>>549
薬草は初めて聞いたな 竹千代にこういうのが効くよ みたいな内容?

1612年といえば、秀忠が碁に夢中になりすぎる みたいな手紙(実物は確認してないが)を江が家康に送って
家康がそれに対して、まあ碁は暇つぶしにもなるし
かくいう自分もハマってるから、多めにみてやって な返書送ったとは聞いたけど

「我等中年の頃迄棋を一向に不存、人にうつさえ無用の物、
気詰まりにて役に立たぬ事とばかり存じ、人の好み候は虚け
者に存候所、近年覚え候へば雨降り徒然の慰にもなり先達て
虚気者と存候者を相手に致候・・・」(慶長17年・1612・2月25日)

でも家康さん、昔から碁やってたよね 浅野長政さんとのアレの件もあるし
551人間七七四年:2011/09/11(日) 15:51:44.90 ID:mzrKLuRu
>>550
ドクダミの効力について説いていて、何かあったら煎じて飲むようにと書いているのだけど
2月25日だから同日の手紙だね
何しろ「ドクダミ」という名やその効力は、家康によって日本で初めて紹介されたらしい

秀忠と碁といえば忠興を思い出すw
552人間七七四年:2011/09/11(日) 16:01:43.29 ID:mzrKLuRu
551の内容についてブログに書かれている方がいたので拝借

一、身の嗜の事、人に好き嫌ひ、得手・不得手これある事にて候、とかくものの片よらぬ様に致させ候事、
たとへば四季の花色々様々に咲候で、何れも詠めこれあり候、その中にどくだみと申す草、花も香りも悪敷ものにて、
何の用にも立ち申さざる草のやうなれども、湿の薬(どくだみ)は煎じて用ひ候ば、能薬にて候、
その如く何藝にても人の覚え候事は承置(知)、何ぞの時、入用のことあるものにて候(ry

家康もなかなか良い舅だったようだ
553人間七七四年:2011/09/11(日) 16:10:34.48 ID:QNtIbW2n
>>551-552
ドクダミと家康にそんな話が… 家康の知識ぱねぇ
秀忠と碁の話なら、伊達さんの話も好きだけど、忠興のはどんな話だろう

家康はお江さんに結構いろいろしてくれてるよね
源頼朝が運慶に命じて作らせて、北条政子に送った阿弥陀如来像を
お江さんの為にわざわざ鎌倉から江戸にもってきてるし
ちなみに今、その像はお江さんの死後、徳願寺の本尊になってる
554人間七七四年:2011/09/11(日) 16:30:29.99 ID:/gJKilDF
『井伊軍志』にも直政が関ケ原前に生死をさまよう高熱を出して倒れたときに
医師の薬が全く効かなかったけど家康から拝領した薬を用いたら
あっという間に熱が下がってみるみる内に回復したとあった
それも家康が調合したのかな
555人間七七四年:2011/09/11(日) 16:42:18.59 ID:11YGOsIK
家康の薬は本当に信用があったらしいね。細川忠興が、重臣が病気になったとき、わざわざ家康の所に
薬もらいに行ってる。まるで総合病院のようだw
556人間七七四年:2011/09/11(日) 16:44:49.14 ID:31+eHpRa
家光も大病した時家康の薬で全快してるよね
557人間七七四年:2011/09/11(日) 16:50:33.01 ID:QNtIbW2n
家光が家康を崇拝してるのは
病気で寝込んでいたら、家康の薬で治ったってのがあるから
自分の病弱な身体を治してくれる神様のような存在ってのもあるんだろうなあ
558人間七七四年:2011/09/11(日) 17:09:47.84 ID:bqinJKrm
薬マニアの為政者ってのも珍しい話だよなw
不老不死や長生の為の薬をお抱えの医師だの魔術師・錬金術師に作らせるって感じのはまあ聞くけど
当人が凄腕薬剤師なんてのは余り覚えが無い
こうしてみると、その家康に認められたオリジナルレシピの養命酒ってマジで効いたんだろうな・・・
559人間七七四年:2011/09/11(日) 17:32:36.55 ID:9StCs8+2
家康調合の薬っていまでも残ってるよな
展覧会で見たよ
なんだか怪しげ…とか思ってすまんかったw
560人間七七四年:2011/09/11(日) 17:40:46.65 ID:QNtIbW2n
あの時代の医学ってどれほど発達していたんだろうか
乳幼児の死亡率も高いし、戦で亡くなるし、生き残ってもその時の負傷が原因でやっぱり亡くなる
不治の病と言われていた病気も沢山あっただろうからなあ
自分が生き残る為にも、医学に精通した方がいいと思っても不思議じゃなさそうな
それでも家康の精通ぶりは尋常じゃないんだけどさw
561人間七七四年:2011/09/11(日) 17:46:18.47 ID:7IiSEk3Z
多少はプラセボ効果入ってる気もするが。
恐れ多くも家康公の調合なさったお薬じゃ、
わざわざ某のために・・・なんと有難い事じゃ、と気持ちが上向く、と。
今も昔も病は気から、だかんねー(薬効自体を否定するわけではない)
562人間七七四年:2011/09/11(日) 18:06:36.87 ID:gR/wETPx
薬の調合の得意な政治家というのなら中国の漢代にはやたら居るけどね。
豪族の基本教養だったのと、尚書の採用試験で方薬の腕を問われたため。
医薬関連の、自ら調合したと見られる逸話や伝承持ちが、立伝されてる人だけでも二桁居る。
有名どころだと、漢方の父張仲景あたりも普通に政治家。
563人間七七四年:2011/09/11(日) 19:28:08.30 ID:7xBdOxLd
>>540
江は嫉妬深いから、秀忠のアッーを大目に見てくれということだよ
564人間七七四年:2011/09/11(日) 19:41:59.59 ID:31wRXxdD
>>547
藤堂はホント世話になった人に義理堅いなあ
565人間七七四年:2011/09/11(日) 20:14:17.00 ID:DYCHgwfV
>>563
江が秀忠のアーッに文句を言う話なんて俗説でもないよ

現代人や一般人にも理解できる話と有名な話しか脚色されない、ということだろうねw
566人間七七四年:2011/09/11(日) 21:03:15.62 ID:QNtIbW2n
>>565
殿いつのお江さんは、正信と秀忠がデキてると勘違いしてたなあw
まあその正信は、家康にガチラブというおまけつきなんだけど…
567人間七七四年:2011/09/11(日) 21:09:35.16 ID:DYCHgwfV
小山長門守と秀忠の逸話?なんか妻妾たちとの話より情熱的でさ・・・・・
小山が他の男と会っていて秀忠が怒るとかいう

もちろんその話に江は絡まず
568人間七七四年:2011/09/11(日) 21:24:06.82 ID:Gqjw6M+x
寛永3年(1626)9月、徳川秀忠正室・江(崇源院)は、夫と息子・家光が上洛する中、病に倒れた。

「私はもうダメです。」
「御台様、何を仰せになります!」
「いいえ。自分の体の事は分かる。…頼みがあります。私が死んだら、すぐに荼毘に付して下さい。」
「そ、それでは死に顔も見る事かなわぬ、秀忠様がお嘆きになりましょう!?」

「確かに、私の死が京の秀忠様に伝われば、あの方は『必ず遺体を留め置け。帰着の上、対面する』
と、仰せになるでしょう。

ですが、病み衰え、死後の変化が加わった遺体など見せては、あの方にさらなるお嘆きを与えるだけ。
そしてそれは、私の恥じるところでもあります。」

9月15日、江は息を引き取った。左右の者はその遺命を良く守り、同月18日、遺体は荼毘に付された。
(甲子夜話より)


戦国大名の娘、二代将軍の妻、三代将軍の母が最後に見せた、女の意地の話。
今日久しぶりに大河を見た後、気がついたらコレを書いていた。反省はしている。
569人間七七四年:2011/09/11(日) 21:30:54.03 ID:QNtIbW2n
>>568
ありがとう 反省なんかしなくていい
とあるブロクで初めてこれ読んで泣けたなあ
自分の遺骸の損傷を見られたくないという女心の前に
遺族の気持ちが先行してるってところがね
あと実際荼毘に付されたの10月18日なんで、死後一月経ってるんだよ
570人間七七四年:2011/09/11(日) 21:32:35.51 ID:DYCHgwfV
>>568
嫉妬深い話と後継者争いの話以外で
江が主人公として登場するほぼ唯一の逸話と言われるアレか

この逸話の冒頭部分に「(夫婦の)御なか殊に睦じくおわしましける」
と書いてあるんだよな
571人間七七四年:2011/09/11(日) 22:02:53.16 ID:RNe/HsJd
当時は冷蔵技術も何もないから、死体腐ってドロドロになっちゃう
そりゃ見られたくないよねw
572人間七七四年:2011/09/11(日) 22:28:16.33 ID:t05RecCE
遺命に従わず遺体を持って帰ってしまい
最後の最後で主君道雪の名に泥を塗った立花家臣団
気持ちは判らんでは無いんだが
573人間七七四年:2011/09/11(日) 22:35:43.05 ID:vlWfXuwD
>>572
新当主のご命令ですぞ・・・
574人間七七四年:2011/09/11(日) 22:48:14.28 ID:t05RecCE
道雪は家臣たちが新当主宗茂の言うことを聞くか
自分の遺命を守るかどうか試したのかもしれないなあ
道雪亡き後の家臣団を纏め上げられるか
試練を与えられた宗茂って話だったのかもね、結果は見事だったわけだ。
575人間七七四年:2011/09/11(日) 22:55:00.24 ID:QNtIbW2n
この時の荼毘、かなり盛大なんだよね
肝心の秀忠は二条城行幸中で、死に目に会えないってのがまた…
亡くなる三日前の9月12日に、佐竹義宣さんが西の丸に登城して見舞ってたりする
こんな時もしっかり義理堅い義宣さん
576人間七七四年:2011/09/11(日) 23:51:11.33 ID:RYc8rAXG
高さ2尺5寸の大手門とか、刃渡り24cmで柄の長さ150cm余りの「大まさかり」とか、変な物が続出の「播州太平記」にあった話ですが・・・。
雌馬を用いた計略で羽柴勢に煮え湯を飲ませた、淡河(おうご)定範の最期。


三木城の合戦の折、城へ兵糧を運び込もうとした毛利の援軍は、平田の付城を攻撃。
この戦いは駆けつけた羽柴勢と、三木城を打って出た別所吉親勢との激突に発展。別所方は壊滅し、多くの士卒を失ってしまう。
この時の別所勢には淡河定範の姿もあったが、すでに主従5騎を残すばかりになっていた。
細道を伝って三木城へ落ち行く定範主従に敵兵二十騎余りが迫り来る!

「我々はこのように手負いの身であるから、新手の騎馬武者と戦ってもいいように駆け倒され、むざむざと犬死することは必定。
そこで、これより一つの計略を行う。」
定範は郎党にそう囁くと、主従5人は手を組んで、互いに刺し違えた風を装って一箇所に倒れ伏した。

これを見つけ、「かの淡河定範の首を切り高名手柄にせん」と、我先に首を取ろうとする追っ手たち。
定範主従は伏しながらその敵兵たちを切り払うと、たちまち5人を倒してしまう。
追っ手がこれに大いに驚き、うろたえ回る所を切り払い、追いかけては切り立てたものだから、追っ手は散り散りに逃げ失せてしまった。

そして主従5人は討ち取った敵兵5人の首を前に並べ、列座して腹を掻っ捌いた。
それぞれ太刀の鎬を大地に付き、柄頭を自分の腹に差し込み、ことごとく生きたようにして息絶えたのであった。

敵勢はこれを見て、「淡河定範主従5人誠に恐るべし。雌馬の計略といい、今度の計略といい、村上天皇の後胤・淡河弾正の最期憐れむべし」
と、惜しまぬものはいなかった。
577人間七七四年:2011/09/12(月) 00:17:47.96 ID:3OmkYz3N
1587年、黒田家の領地の豊前で土豪達の反乱が起こった。この頃黒田家に身を寄せていた
水野勝成は、土豪方の城である長岩城攻めに参加していたと言われており、苦戦して一旦退却する事になった
黒田軍の最後尾で敵の追撃を防ぎ、何とか無事に引き揚げたのだが、この時同僚の後藤又兵衛が

「最後尾の殿を務めたのはこの俺だ!」と言うのを聞いた。すかさず勝成は
「チョット待ちな。又兵衛殿、嘘はいけねーな。」

そう言うと戦場で拾った赤い布切れを見せ、

「この布切れは又兵衛殿の羽織の裾の一部で、敵の槍で切り落とされたものだ。
 これを俺が持っている・・・つまり、この俺こそが真の殿だったってことよ!」

「ぬぬぬ・・・」

これには又兵衛も反論できず、勝成が殿である事を認められたという。勝成、24歳の頃の逸話である。
578人間七七四年:2011/09/12(月) 05:46:32.50 ID:ZhiCQcnQ
高橋留美子作品のキザな二枚目を思い出した
579人間七七四年:2011/09/12(月) 08:28:05.63 ID:QKtGmgE2
いや遠山の金さんだと思う、手直しするとこんな感じかね

勝成「おぅおぅおぅおぅ!さっきから黙って聞いてりゃピーチクパーツク、嘘はイケねぇな又兵衛ェ」
又兵衛「だったらその殿とやらを連れて来て貰おうか!」
部下A「そーだそーだ、殿とらやらを連れてこい」
勝成「はァ?殿を連れてこいだァ、だったら目ェかっぽじってよ〜く見やがれ!、この赤い羽織りの切れ端を!見忘れたとは!言わせねぇぞ!!」
又兵衛「!!」
部下A「!!」
長政「!!アナタはあの時の!」
又兵衛「ははぁー」
勝成「裁きを申し渡す…」

長政「…」
勝成「表を上げな長政の坊ちゃんよォ」
長政「殿…いえ、勝成様…」
勝成「おめぇさんの努力実を結ぶといいなぁ、あとおとッつぁんを大切な…」
長政「は、はい!ありがとうございます」




ところで水野勝成ってどんな武将でしたっけ?
正義の刃を振るって問答無用で悪を斬る感じの人?
580人間七七四年:2011/09/12(月) 09:28:17.97 ID:qUuiY04c
暴れん坊
581人間七七四年:2011/09/12(月) 09:37:29.56 ID:GVBPda64
ほら貝の上手い坊さんを家臣にしようとしたが断られたので
井戸に生き埋めにして亡霊供養する羽目になったDQNらしいよw

殿は城井谷城崩れの時に田んぼに落ちてでも運良く殺されず
帰りに又兵衛が目立つからと捨てた緋色の羽織を拾って
それがしが殿だって言ったという話しだったっけ?
582人間七七四年:2011/09/12(月) 09:52:45.84 ID:eUxskxhl
>>579
ちょっと話が変わるけど彼の水戸のご老公一行は諸国を漫遊しすぎて
当時の代官の人数をとうに超えた人数の悪代官を成敗してるらしいね
583人間七七四年:2011/09/12(月) 10:03:32.03 ID:mvjzbvpi
黄門様も代官も代替わりしているから大丈夫
584人間七七四年:2011/09/12(月) 11:25:09.06 ID:XeaCdmJ9
この逸話、勝成のバージョンもあったのか。知らんかった
585人間七七四年:2011/09/12(月) 13:41:03.51 ID:GVBPda64
そういえば原弥左衛門か
586人間七七四年:2011/09/12(月) 14:29:53.65 ID:cgdnPTv0
光圀さんって、諸国の藩主や家老に尊敬されてる描写が多いけど、史実の光圀さんもそうだったのか?
587人間七七四年:2011/09/12(月) 14:58:05.20 ID:1iGvsCvH
若い頃は遊廓で豪遊したり、辻斬りしたり、他人の屋敷に忍び込んで梅の木を盗んだりしてる
あと大日本史の編纂で有名だけど、そのせいで藩の財政を悪化させている

水戸黄門に出てくる悪代官とあんま変わらん
588人間七七四年:2011/09/12(月) 15:12:48.32 ID:a1/Lx+88
噂の八公二民ですね
しかも重税の原因たる大日本史編纂が終わるのが幕末という…
589人間七七四年:2011/09/12(月) 15:25:25.71 ID:GVBPda64
リアル水戸黄門は成敗される代官が実は善人と

これ+代替わりなら582にも納得
590人間七七四年:2011/09/12(月) 15:29:32.21 ID:bM3EUKHk
>>588
幕末どころか明治だよ>編纂が終わるの
1906年(明治39)年だから編纂開始から250年以上
591人間七七四年:2011/09/12(月) 15:38:01.56 ID:Tw+3pTIx
>>590
20世紀になってようやく完成したのか・・・。
592人間七七四年:2011/09/12(月) 15:46:23.16 ID:a1/Lx+88
>>590
明治だったか、修正トンクス
文化的にはいい話だが、なんというかこう、水戸藩の百姓にとっては…
593人間七七四年:2011/09/12(月) 15:52:43.70 ID:3OMkSgwW
戦国じゃなくて江戸、それも末期の話だけど武家の女性読んだら
水戸藩ってえらい規律っつーか引き締めが厳しかったみたいね
周りより相当貧乏だったのかな
594人間七七四年:2011/09/12(月) 21:40:31.07 ID:7MTCed6f
美味しんぼに紀州藩の年貢もかなり重税だったって書いて
あったけどほんまかいな
595人間七七四年:2011/09/12(月) 22:17:01.54 ID:twftW/CR
天領の農民は他と比べて楽だったとはなんかの資料で見たけど、
なんの資料かは忘れたw
596人間七七四年:2011/09/12(月) 22:21:35.75 ID:a1/Lx+88
新井白石が実質税率が三割弱とか言ってたような
597人間七七四年:2011/09/13(火) 06:16:08.71 ID:ltswKjNZ
>>594
税率が高くたって、脱税したら一緒。
表向きの石高より実際の石高が高いなんて後期の米沢藩みたいなこぼれ話もあるし
幕府には低い石高を届けて(検地がなければ新田の石高なんか誰にもわからん)、
高い税率にしとけば、色々と節約出来る。

以上、脳内ソース
598人間七七四年:2011/09/13(火) 08:13:08.04 ID:FO+/qCeV
節約の意味を調べようね^^
599人間七七四年:2011/09/13(火) 09:46:24.65 ID:iacclD5E
>>579
鼻糞丸めてクスリだから飲めや、と恩人の娘に飲ませる善人
600人間七七四年:2011/09/13(火) 10:28:29.54 ID:/9LP5Rq5
長州藩は表石高37万石で税率73%とかだけど
実質石高は120万石だっけ

こんな山だらけの国のどこにそんな田んぼがあるのかと思うが
棚田造りに頑張ったのかね
601人間七七四年:2011/09/13(火) 10:46:10.51 ID:wbRXzd/R
瀬戸内海の干拓で米を増産したそうだ。
ただ本当に石高が120万石分あったわけじゃなくて、塩、紙、蝋燭なんかの特産物の生産を奨励した結果
120万石並みの経済力を得るに至った、という話
602人間七七四年:2011/09/13(火) 11:11:54.25 ID:/gp4nOGx
江戸時代の実質石高は実際には地租だけでなく商業収入も含めた全体の生産高
603人間七七四年:2011/09/13(火) 19:50:27.73 ID:wbRXzd/R
万治元年
信州真田家の隠居一当斎こと真田信之は八月下旬より体調を崩し、病床にあった。
家臣が薬をすすめたところ
「自分の長命は万人に優れ、命を惜しんでいるかの様だ。決して医術の及ぶところではない。
 自分はすでに十分生き延びて、近頃大内記(信政)が卒去し、その後を継ぐ右衛門(幸道)は今四歳である。
 旧臣各々は各自補佐し守り立てて、子孫万歳を唱えるように。」と言って
十月十七日、行年九十三歳で卒去した。

この時一当斎辞世の一句
『何事も移れば変わる世の中を 夢なりけりと思ひ知らずや』
604人間七七四年:2011/09/13(火) 20:35:15.83 ID:ZRlc/94m
>>601
周防岩国市民ですが、吉川氏が入る前と江戸末期では平地面積が全然違いますよ。
県内各所でこのペースでやっていれば、農業の税収だけで120万石は軽いと思います。
つか、江戸時代初期時点で広島藩を上回っていたって話もありますし。
ただ、本によっては米だけで120万石に達していた、って説もありますがこれは流石にないと思います。
海を干拓した岩国では塩気が強くて米が作れず、綿や蓮根を作っていました。
他の干拓地も米は出来なかったと思います。
605人間七七四年:2011/09/14(水) 02:56:21.41 ID:qysaLTQZ
岩国吉川と聞いて飛んできましたw
やっぱ益田元祥さんの手腕は幕府がほしがるだけのことはあったのか。

思い出しついでに関ヶ原決戦の日も近いので、関ヶ原の因縁を思い起こさせる話を一つ。
岩国の藩祖吉川広家は、関ヶ原で兵を動かさなかった。
結果、毛利家は改易こそ免れたものの、大減封に苦しんだ。
広家はそのうちの周防岩国を領したが、
本藩の主戦派から裏切りを恨まれたのか、支藩ではなく陪臣扱いされ続け、
毛利宗家・岩国吉川家は次第に疎遠になっていく。
吉川家は、江戸時代を通じてその名誉回復が悲願となっていた。

さて幕末の動乱期、長州藩主毛利敬親と岩国領主吉川経幹との間で
ようやく両家の関係修復、協調融和が図られていた。
京都の政局で重要な位置を占めていた長州藩は、8・18政変で失脚、
池田屋事件にも触発されて禁門事変を起こし敗退、幕府より長州征討の号令がかかる。
このとき、幕府軍参謀の西郷隆盛と長州藩庁の間を取り持ったのが吉川経幹、その人だった。
第一次長征は禁門事変首謀者の処断などで手打ちとなり、
長州藩の不戦敗に終わったが、藩主父子の命は助けられた。
なにやら既視感を覚える流れである。だが続きがある。

幕府はこの処分に満足せず、第二次長征を企てた。
幕府側につくそぶりを見せながら回答を引き延ばしていた経幹は、
宗家敬親の使節が幕府に捕縛されるに及んで、「幕府への信義もこれまでか」と決戦を表明、
開戦すると、岩国兵は国境の芸州口で幕府軍を相手に奮戦した。
将軍徳川家茂の薨去により休戦となるが、事実上は長州勢の大勝利。
長州側は引き伸ばし工作の間に薩長同盟を通じて武備を整え、迎撃の用意を固めていたのだった。
関ヶ原の「空弁当」を思い出されたい。吉川は時間稼ぎにも定評がある。

その翌年、経幹は病に倒れ、天下の行く末を見届けられぬまま、ついに帰らぬ人となる。
しかし毛利敬親の厳命によって、その死は堅く秘された。
新政府が樹立し、倒幕戦争が激化する裏で、敬親は動いた。
吉川家を末家にする許しを得、吉川経幹叙任のために奔走した。
ここに至ってようやく岩国は「藩」として認められ、
永くわだかまりのあった宗家の手によって、吉川家積年の悲願が叶えられた。

吉川経幹は生きているものとして初代藩主の栄誉に浴し、死の二年後に喪が公表された。
経幹の代にしてようやく、吉川の長く苦しい関ヶ原の戦いが幕を閉じたかのようである。

時代的にスレチなうえに長文ゴメンネ。
606人間七七四年:2011/09/14(水) 06:11:52.62 ID:k/3N0HH4
逆に幕末に戦場で主家を裏切った井伊や藤堂との違いを考えてしまう
607人間七七四年:2011/09/14(水) 07:15:42.26 ID:AoIFB3Nu
江戸200年を超えてお家の名誉回復かぁすごいね
200年も平和な時代が続けばボケてしまいそうなのにね
608人間七七四年:2011/09/14(水) 07:36:45.28 ID:7X7GyN5m
長州藩は毎年正月に藩主と跡継ぎが関が原の恨みを忘れないように儀式がなんちゃらかんちゃらって風雲児たちで読んだなぁ。
609人間七七四年:2011/09/14(水) 07:59:49.18 ID:kNTD8Sfz
まだ時期尚早
610人間七七四年:2011/09/14(水) 08:03:45.97 ID:HOGNww7X
ほんとにあった儀式なのかね
幕末のどさくさで捏造したようにも思えるわ
江戸時代はヘタレ藩として評価されていたからさ
本当はヘタレじゃないもん(´・ω・`)の後付っぽい
611人間七七四年:2011/09/14(水) 15:56:08.82 ID:XV/KFg4o
前に、利常は下の話しかないのかというコメントがあったので
脱がない利常の話 でも男色ネタ注意 既出だったらごめん

加賀中納言前田利常の児小姓に、九蔵という美少年がいた
筑前守前田光高、ようするに息子は、前々からその九蔵が欲しくて欲しくてたまらなかったが
どうしても父に面と向かってお願いできず
ついに利常の側近、竹田市三郎に相談して、市三郎から利常にお願いしてみた

その利常の反応は
「そんなに欲しけりゃ、自分で直接言えばいいのに」

しかし光高、それでも躊躇してなかなか願えず、ただただ市三郎に頼むばかり
そんなある夜、たまたま利常と光高が同席することがあり
敷居際にいた市三郎が
「筑前守様、例の件をお願いなさっては…」ときっかけを作ってくれた

後押しされた光高、勇気を振り絞って
「父上…九蔵を、私に下さい!」と願い出て、利常もそれを了承し
めでたく美少年九蔵は、父から子へ譲渡されたのであった
(松梅語園)

ここまで躊躇するって、光高にとって利常はどういう風に見えていたんだろう
612人間七七四年:2011/09/15(木) 01:26:15.31 ID:B4f6fVaP
直接おねだりしたらまた「じゃーん」とかやられると思ってたんじゃないの
613人間七七四年:2011/09/15(木) 01:27:33.04 ID:X9cJJGcw
確かに、父親から「じゃーん」なんてされたら嫌だな…
614人間七七四年:2011/09/15(木) 01:44:31.27 ID:V439AW3k
ついでに正妻の珠姫を虐めて死なせた乳母に、報復として蛇責めでいびり殺すようなサド体質だからな。
その上露出狂で美少年趣味で鼻毛。
たしかに息子でもあまり近づきたくないw
615人間七七四年:2011/09/15(木) 11:18:35.71 ID:SJMbkTnk
でも名君ってオチまであるからな
616人間七七四年:2011/09/15(木) 18:17:58.93 ID:X9cJJGcw
Sで露出狂で美少年好きで鼻毛で名君か
なんかまとめちゃいけない設定まとめちゃった感じだな
617人間七七四年:2011/09/15(木) 19:55:52.69 ID:doU4rY8z
織田信長は、平時の夜には配下の猛将・勇士を招き、若い小姓や近習に、その武辺話を聞かせた。
ところが若者たちは昼間の疲れからか、しばらく話を聞くと居眠りを始める者、話を聞くこと自体を嫌がり、
「拙者、ちと所用を思い出しまして・・・」などと口実を設け、逃げる者がほとんどだった。

そんな中、鶴千代という小姓だけは、時間になると「待ってました」とばかりに信長や話し手の近くに座り、
話が深夜に及んでも、身を乗り出して熱心に武辺話に耳を傾けるばかりか、
「そ、それをどう致したのですかっ!?」とか「それは何ゆえ、そのような事になったのでしょう?」
と、話の先をしきりに催促した。

また、鶴千代は一回聞いた話を驚くほど良く覚えており、
「以前のお話と、つじつまが合いませぬな。なぜ違ってきたのでございましょう?」
などとツッコミを入れるので、かえって話し手が閉口させられ、やりにくい事この上なかった。

その夜の話し手・稲葉一鉄も、武辺話が終わって鶴千代らが退出した後、信長と顔を見合わせた。
「すまぬな、一鉄よ。どうも鶴千代だけは、おれも扱いかねるわ。」
「いや、しかし信長様。あの鶴千代、ただ者ではございませぬ。必ずや衆に優れた者となりましょうぞ。」
「うむ、おれもそう思う。あやつは目つきからして、尋常ではないわ。」


その後、武辺話の最中に居眠りをしていた者は、信長の近習の任を解かれ、出世することはなかった。
口実を設けて立ち去った者は暇を出され、親元へ帰された。

ひとり鶴千代は、信長の婿にまでなって出世を重ね、会津九十二万石の大大名にまで成り上がった。
すなわち、蒲生氏郷である。(藩鑑より)
618人間七七四年:2011/09/15(木) 20:18:17.73 ID:CIBVxVbA
ガモウうじさと
619人間七七四年:2011/09/15(木) 21:23:37.59 ID:Fc11k8N9
嫌味ったらしいのは子供の頃からなのか
620人間七七四年:2011/09/15(木) 21:26:21.77 ID:X9cJJGcw
最近読んだちょごろー先生の武将列伝で
物凄く絶賛されてたなガンモ 先生こういうのが好きなの?
621人間七七四年:2011/09/15(木) 21:31:29.99 ID:X2uopfih
グーグーガンモの元ネタである
622人間七七四年:2011/09/15(木) 21:40:09.32 ID:O3B3TDip
そういや西美濃三人衆の中で一鉄だけ生き残ったんだな
そしてこういう脳筋DQNじゃない話しが残っていてちょっとホッとした
623人間七七四年:2011/09/16(金) 00:06:07.80 ID:oJyoXN/l
これ既出だったっけ? 悪い話ではないと思うのでこちらに


徳川家康が大御所として駿府にいるころ
ある年茄子が不作で大変高価になったところ、家康がたわむれて、

「当国で一番高いのは富士、二番目が愛鷹山、三番目が茄子だの」

といったのが、いつのまにか初夢の
「一富士二鷹三茄子」と付会されたという

初夢のは色々説があるけど、家康公がいたのでつい
624人間七七四年:2011/09/16(金) 07:52:30.43 ID:B35dlLEV
このセンス、さすが大御所www
625人間七七四年:2011/09/16(金) 10:15:37.99 ID:AcYH9ZQe
>>623
縁起の良い初夢の話は権現様の文言が元になっているのは知っていたが
愛鷹山から鷹になったのか
鷹狩が好きだったからだと思っていた
当時の茄子ってやっぱり高かったのか?
626人間七七四年:2011/09/16(金) 12:22:06.39 ID:IjqqNn1F
え、これギャグだったのかw
知らんかったw
627人間七七四年:2011/09/16(金) 15:57:47.64 ID:MBwsl8jj
>>617
人質なのに娘婿になるとかどんだけ優秀なんだよ
ま人質なのに跡継ぎ候補になった景虎さんには負けるが
628人間七七四年:2011/09/16(金) 16:15:16.89 ID:3DDRXnf4
>>627
信長の下に名門の子弟がたくさんいてその中で断トツの出世してるのでよほどの努力家なんだね
629人間七七四年:2011/09/16(金) 16:27:00.08 ID:DFSCORkZ
>>627
名門蘆名の後継者になった蘆名盛隆とか
今川一門の娘を娶った権現様とか
人質といってそこまで悪い扱いを受けるものでもなかったり。
630人間七七四年:2011/09/16(金) 17:42:03.95 ID:IdJp0cNs
将来の幹部候補としての側面もあるしね
631人間七七四年:2011/09/16(金) 18:46:49.29 ID:oJyoXN/l
>>625
茄子自体は奈良時代からあるけど、茄子は傷つきやすい野菜なので
遠方に届けたりするのには不向きだったみたい
駿河の三保では早出し栽培というのをしていたらしい

茄子は暑さに強いが寒さに弱い、夏季やハウス栽培向きの野菜なので
油紙を張った障子で囲って促成栽培していたみたいよ
手間暇かかるし、傷付きやすいから、初物の茄子は高価なのかね
632人間七七四年:2011/09/16(金) 21:52:21.80 ID:AcYH9ZQe
>>631
豆知識dです
しかし家康も上手い事言ったね
633人間七七四年:2011/09/17(土) 00:14:13.52 ID:/Qv2qDHD
>>617
「うむ、おれもそう思う。あやつは目つきからして、尋常ではないわ。」

殿いつの氏郷で再生された
634人間七七四年:2011/09/17(土) 01:53:06.10 ID:6PEg4hKy
清正さん度胸ありすぎ

蔚山城は未完成で宿舎もろくに無かったため二の丸三の丸に、
新たに寝場所だけでも構築しようと清正が現場を見回っていた所、民軍の石火矢がとんできた。

この石火矢は清正の小姓の上半身を吹き飛ばし下半身だけその場に残した。

その場に居た者は顔面蒼白となり我先に逃げんと正に本格的な混乱状態に陥ろうとしたその時

『動くなっ』
っと清正は叫んだ。周りがΣはっとする中こう続けた。

『動いてはならぬ。わしもみなも命が惜しいのは同じじゃ。わしの動きがあぬうちは身動きするな!』

そういったすぐ後にニ発目の石火矢が清正の頭上を通り過ぎその先に落ち、退路に大きな穴を作った。

『よし、退け!』

こうして大きな犠牲を出さずに退けたという。
清正曰わく、
『何度かあの攻撃を受けて退いている、故に退路は当然狙われる。』

と言う事だ。

粉砕された小姓を横目にやたらと冷静な清正さんまじ鬼将軍。

しかしこの民の使っている攻城兵器(?)の石火矢とは一体どんな兵器だったのか?

小姓を吹き飛ばしたり大きな穴作ったりと大砲並の性能を持ってる気がする…。

635人間七七四年:2011/09/17(土) 01:57:05.01 ID:bPVqIrbU
大砲そのものや
636人間七七四年:2011/09/17(土) 02:19:34.72 ID:6PEg4hKy
清正「隠して置いたのさ」

蔚山城の攻防は日本軍の勝利に終わり蔚山城は解放された。
城内に駆けつけた飯田と森本は清正と再会し

「二度とお目にかからないのではないかと存じていたのに、御運を開いて下され、ありがたく存じまする」

と清正の生存に喜び泣いた。清正も二人の手を取りともに涙したという。

飯田「題目の旗が見えなかった為、最早と思っておりました。」

清正「いや…あの旗は私の旗としてこの地では有名になりすぎてしまった。
敵にあの旗を見せてはかえって「清正あり」と敵の士気を高めてしまう事になる。だから隠しておいたのだ」


清正、敵の士気を考え旗を隠すお話。
637人間七七四年:2011/09/17(土) 08:47:35.51 ID:bPzQxXC+
武将も出てきますが、神仏または里人のいい話。

岐阜県瑞浪市に、泥を塗って祈ると病が治るといわれる「田中泥薬師」という
仏像がある。「泥を拭うと祟られる」とも伝えられていたが、2008年、長年の
祈願で溜った泥を落として、本体を改めて供養した。

http://www.47news.jp/CN/200810/CN2008102501000591.html

泥薬師となった由来はこう伝えられている。

天台宗に近しい武田信玄が勢力を伸ばした影響で、東濃では薬師如来を尊崇する
人が増えた。織田信長が美濃を蚕食されることをいつまでも座視する筈もなく、
武田方を押し返し始める。

「武田寄りの寺社は消毒だぁ〜」。尖兵となったのは神仏など畏れない兼山城主の
森長可である。

里人は薬師様を土中に隠して鬼武蔵から守り、後に掘り出してからも、泥をなすり
つけて病や苦しみを身代りに引き受けてくれることを祈ったという。

私事ながら、瑞浪の東隣の明智町(現恵那市)が私の故郷で、明知城が武田に落と
されたのが勝頼に代替わりした後の天正2年。明知と瑞浪を結ぶ山間部に、武田の
西進を防ぐ付城があったらしいので、この由来譚はその頃の伝承のようです。

http://www8.ocn.ne.jp/~kanko/doroyakushi/doroyakushi.html
638人間七七四年:2011/09/17(土) 09:25:35.49 ID:J7zEeC8P
こういう素朴な話、好きだなあ
639人間七七四年:2011/09/17(土) 15:31:18.82 ID:1V+5uW7a
その死亡フラグって何?
640人間七七四年:2011/09/17(土) 15:33:21.56 ID:1V+5uW7a
誤爆すまんかった
641人間七七四年:2011/09/17(土) 15:50:15.36 ID:z3eqTmVy
織田家でも有数のヒャッハー武士なのに、出陣の時にお供を連れていかない事…とかかな
642人間七七四年:2011/09/17(土) 16:01:08.82 ID:+5LVXMQx
>>634
下半身だけとかうわぁ…確かにそりゃ逃げ出したくなるわ
しかし清正はこういう時は恐ろしく冷静だな
643人間七七四年:2011/09/17(土) 18:08:43.11 ID:n9D4MUWj
関が原の戦いの後、芸・備四十九万八千石の大大名となった福島正則は、家中随一の武辺者・可児才蔵吉長に
二千石の知行を与えて普請役を命じた。が、才蔵は
「オレは槍で禄を取ってるんで、スキやクワで禄を取る気はありません。普請役が無ければ、少禄でも結構。」
と言い放った。

仕方なく正則は、才蔵の知行を元のまま千石に留め置き、代わりに広島城本丸御門の番を命じた。
しかし、齢五十を超える才蔵は体力的にキツいのか、不寝番の際の明け方には、例の先だけはキラリと光る槍を
石垣に立てかけると袴を脱ぎ捨て、横になっていたという。


そんなある日、正則の側小姓が、今日も今日とて寝転がる才蔵のもとに、ウズラを持って来た。
「可児どの、これは殿が鷹狩りで獲ったものです。『才蔵に与えよ』との御意により、お持ちしました。
どうぞ、お受けくだされ。」

小姓の口上を聞いた才蔵は、すぐに跳ね起き、あわてて袴を履き直すと、天守に向かって正座して、
「殿。御礼の儀は、直ちに伺って申し上げまする。」と言って、ウズラを押し頂いた。

立ち上がった才蔵は、憤怒の形相を小姓に向けた。
「おのれ、若輩なればとて、何たるうつけ者か!殿の御意ならば、なぜ最初にそれをオレに言わぬ?!
よくもこの才蔵に、殿の御意を寝ながら聞かせおったな!ガキで無ければ、タダでは置かぬところじゃ!!」

肝を潰して逃げ帰った小姓は、この件を同輩に話したが、やがて一件は正則の耳にも達し、呼び出された小姓は
才蔵に怒られた顛末を正則に打ち明けた。

「才蔵が正しい。それはお前の不調法というものだ。芸・備両州の侍ども、残らず才蔵のごとくありたいものよ。
さすれば、わしに怖いものなどあるまいに。」(武道初心集より)
644人間七七四年:2011/09/17(土) 18:29:04.06 ID:fHFsc2Z4
うーん、あの下とか書いた封筒用意すればいいの?
645人間七七四年:2011/09/17(土) 18:45:47.16 ID:MIwLEsn9
>>644
御意ゆえ畏まって聞くようにと最初に言って
聞く側に身だしなみを整える余裕をもたせろってことだろ。
646人間七七四年:2011/09/17(土) 19:01:29.17 ID:+4T7mbGT
才蔵は市松のところでやりたい放題でイキイキしてんなw
過去の主替えが無駄にならなかったようで、何より
647人間七七四年:2011/09/17(土) 19:32:04.76 ID:HClEs3c3
団右衛門も市松の元では肌が合ったのか楽しそうだったのに
旧主の口出しで長く居られなくなったのが悔やまれる
648人間七七四年:2011/09/17(土) 19:38:19.89 ID:ccoQJHoK
>>639
オレにもようやく親友ができたんだよ
オレが困ってるときも、みんながそっぽを向く中、必死になって助けてくれるし、
まさしく真の友と言ってもいい

今度2人だけでゆっくりとお茶を飲む約束をしたんだ
宇喜多直家っていうヤツなんだけどね
649人間七七四年:2011/09/17(土) 19:55:08.68 ID:LaNmFhSi
>>648
良き友をもたれてうらやましいかぎり。

私は此度、殿より橋の番を命じられましたよ。目立たぬ仕事ですが忠実に勤めていく所存です。
650人間七七四年:2011/09/17(土) 20:08:58.93 ID:+kj6IoRw
>>647
市松のとこなら又兵衛も気持ちよく働けたかもしれないなw
651人間七七四年:2011/09/17(土) 20:24:39.57 ID:nhliwxMN
>650
又兵衛は正則に禄ふっかけて断られた逸話あるだろ
だから多分無理
652人間七七四年:2011/09/17(土) 20:30:34.03 ID:bEV2lLZR
これで酒さえ飲まなけりゃなぁ
653人間七七四年:2011/09/17(土) 20:34:09.31 ID:+5LVXMQx
結構好き勝手してはいても
こういう時はちゃんとするんだなあ
654人間七七四年:2011/09/17(土) 22:34:29.59 ID:g0AErNOf
>>652
でも酒で失敗しない市松とかただの名君じゃねーか
655人間七七四年:2011/09/17(土) 22:50:31.83 ID:3HNZaz0Z
一度でいいから見てみたい
飲めぬ市松、よき殿よ
歌丸です
656人間七七四年:2011/09/17(土) 23:26:33.17 ID:yk14zRps
タイムトラベル出来るなら正則に抗酒剤を暫く飲ませたいw
657人間七七四年:2011/09/17(土) 23:37:14.76 ID:+5LVXMQx
>>656
その前に、どんだけヤバくなるのか一度見てみたい
658人間七七四年:2011/09/18(日) 00:43:54.03 ID:A+jZ7Nm/
>>639
む?城門が開いているではないか!
真田め、恐怖のあまり門を閉めるのを忘れおったな!
よし、全員城内に突撃じゃあああ!
真田を血祭りにあげるのだ!
659人間七七四年:2011/09/18(日) 00:46:19.15 ID:MiedZmwc
>>658
演義の空城計
司馬懿「まて、あわてるなこれは孔明の罠だ」
逆ならよかったのに
660人間七七四年:2011/09/18(日) 01:10:59.96 ID:HIjefIxw
>>639
今日、細川越中の奥方見ちゃった…
661人間七七四年:2011/09/18(日) 02:25:33.82 ID:YAwX/2RE
福島正則の家臣に、草野介惣という、正則と同郷の者がいた。
長年わずかな切米扶持で仕えていたが、正則の安芸備後への国替えに伴い、めでたく五人扶持・三十石取りとなった。
が、彼は不満であった。その不満のたけを訴状にしたため、正則に提出した。

「この度、新たに家臣となった木造大膳殿には二万石をくだされたとか。
というのに、この私は伊予より長年ご奉公しておりますのに、こんな僅かな切米では
皆の笑いものになり、迷惑至極です!!」

要するに「給料上げろ!」ということである。

この訴状を読んだ正則、怒るどころか、殊の外ご機嫌にお笑いになり、周囲の者にこう語った。

「あの介惣は、大の横着者でな。知行などくれてやれば、百姓に酷くあたり、使い潰してしまうだろうよ。
だから知行など少しでも与えられるものではないわ。
それになあ、介惣め、果報の傷だとか言ってるアレな、皆は名誉の槍傷だと思っているようだが、
あれは奴の親が持っていた杖に突かれて偶然に出来た傷だし、
前に酒奉行にしてやった時など、奴はもう大酒飲みでなあ、酒を盗むわ飲むわ…
どうにも仕方がないので、油奉行にしてやったのさ」

そう言って、さんざんにお笑いになったが、
まあ、そこまで言うなら…ということで、十人扶持・三十五石に加増するよう申し付けられたという。

(福島大夫殿御事)
662人間七七四年:2011/09/18(日) 02:39:25.20 ID:YAwX/2RE
すまん字間違ってた。正しくは、(福島太夫殿御事)
663人間七七四年:2011/09/18(日) 02:46:33.65 ID:4tBC+t5n
>前に酒奉行にしてやった時など、奴はもう大酒飲みでなあ、酒を盗むわ飲むわ…
どの口がこんなことを言うんだwww
664人間七七四年:2011/09/18(日) 03:57:30.52 ID:uzXP7b/v
酔ってないときの市松の公平さと
部下への目配りのよさはたいしたものだよね

ほんと、酒さえ飲まなければなあ…
665人間七七四年:2011/09/18(日) 05:20:12.88 ID:jnVmzl4K
いやこれはほめられる話じゃないと思うがww
666人間七七四年:2011/09/18(日) 10:39:23.07 ID:fhuZXmXN
主君替え、六人目

思えば不遇な子であった。
太閤秀吉から豊臣秀長の養嗣子に秀保をと薦められたとき、
秀長には先に養子仙丸がおり、慈しんで育てていたという。
仙丸は藤堂高虎に貰い受けられることになったが、
秀保が秀長を父と呼んだのは三年に満たなかった。

仙丸が高虎とともに秀保の名代として文禄の役に参戦し
「小藤堂」と異名をとる活躍を見せている頃、
秀保は「兄に習って」「兄を真似て」と枕詞のつく批判を受けていた。
秀保の兄は関白秀次である。


凶暴にして残忍な秀保は大和十津川で不慮の死を遂げる。
短い記録に詳細はつまびらかでないが、まことしやかにその死に様が伝わっている。

ある時、静養と遊山をかねて吉野に出かけた秀保は、面白い余興を考えた。
五十丈の岩の上から深淵へ飛び、また戻って来られたら褒美をとらせるという。
これはと思う者を連れてきては次々と飛ばせたが、誰一人戻らない。
と、ある者が進み出て
「殿、岩の真上よりそれがしが飛ぶのをご覧ください」と秀保を誘い出し、
言うが早いか、秀保を抱きかかえると二人して深淵へと飛び込んだのだ。


「俺がおそばにおったなら!!」
悲報を聞き、高虎は嘆き、悔やんだ。泣いて、泣いて、泣いた。

秀保が死んだあと、秀吉の処置は迅速だった。
跡継ぎがいない大和豊臣家は領土没収のうえ、取り潰しとなったのだ。

「ここと思う家があれば、せいぜい口添えいたす。申し出よ。
 わしは武士をやめる。」
高野山に入る決意をした高虎は家臣に告げた。
しかし、家臣たちは誰一人動かなかった。
高虎の心変わりを信じ、固唾を呑んでその動向を見守った。


しびれを切らしたのは、秀吉であった。
「直臣にするというのに、いつまで高虎は拗ねておるのか!」
高野山への二度目の使いに、生駒親正をおくったのだった。


667人間七七四年:2011/09/18(日) 10:41:30.96 ID:fhuZXmXN
今、気がついた。
これ悪い話です。すみません。
668人間七七四年:2011/09/18(日) 10:58:15.95 ID:TRikOPIi
暴君を道連れに死んだ忠臣のいい話とも受け取れるけど。
669人間七七四年:2011/09/18(日) 13:55:29.84 ID:wJJfZMBU
秀保の悪評って兄秀次のそれと同様に事実か疑わしいけどな
兄と全く同じ理由で消されたという印象が拭えない

それにしても小姓に抱きかかえられて諸共に転落死とか尋常じゃないなあ
670人間七七四年:2011/09/18(日) 14:13:18.69 ID:NQgN2Q85
謀殺という気がする
小姓の出自が知りたいなあ
671人間七七四年:2011/09/18(日) 14:25:11.38 ID:mI2DShE7
その小姓三河出身だったりしてな
672人間七七四年:2011/09/18(日) 14:26:12.74 ID:yLI8rgU/
まあ普通に考えて秀次事件の余波だったのだろうな。
しかし秀長の元々の養子だった仙丸がいるのに、それに継がせず数少ない豊臣親藩の
大和豊臣家を潰すってのも、よくよくのことだな。
673人間七七四年:2011/09/18(日) 15:20:42.21 ID:HIjefIxw
そう思うとやっぱり悪い話だなあ
674人間七七四年:2011/09/18(日) 15:28:01.27 ID:fYmYZmSQ
なお秀保の変死が文禄四年(1595)4月16日、秀次の高野山への追放が同年7月8日って順番
秀吉にその気があるならば大和大納言家の存続もできた

でも既に秀吉の中では兄弟ともに命運は定まっていたようだな
675人間七七四年:2011/09/18(日) 15:38:32.70 ID:w/zRP8e7
秀次ぬっ殺すのはまだわからんでもないんだけど
大和大納言家を潰す意義がわからない。
やっぱりもう正常な判断が出来ないほどラスボスの頭はアレだったんだろうか。
676人間七七四年:2011/09/18(日) 15:45:44.27 ID:HIjefIxw
もう秀頼以外、豊臣の血が残るのが嫌だったんじゃないかね
677人間七七四年:2011/09/18(日) 16:00:55.70 ID:G2YGzmqm
主家を兄弟喧嘩させた挙句に乗っ取った先例があるからな
678人間七七四年:2011/09/18(日) 21:55:30.30 ID:vj8SI16d
ラスボスさんの爺馬鹿が炸裂した結果の謀殺か
679人間七七四年:2011/09/18(日) 22:11:49.53 ID:mI2DShE7
秀保はこのスレでもあまり逸話は出てこないし資料も少ない暗殺なら優秀だったからかもしれん
一族すべて健在だと本家220万石秀次家100万石大和大納言家100万石しかも秀次は関白だし
豊臣一族団結されたら家康も手を出せなかったかもしれんな太閤ももったいないことをしたもんだ
680人間七七四年:2011/09/18(日) 22:16:11.67 ID:jxu+7tuf
>>666
>高野山への二度目の使いに、生駒親正をおくったのだった。
おそらくこの時の縁で高虎さんは生駒さんちの後見人っぽい立場につくのかな?
681人間七七四年:2011/09/19(月) 07:19:37.88 ID:HLSZEFxf
つまり、生駒さんのいい話だったのか
682人間七七四年:2011/09/19(月) 11:32:57.78 ID:jANUAsI9
>679
そもそも団結が難しい。
生きていれば秀次と秀頼の間で権力闘争が起きていただろう。
家康に利するかどうかは不明だが。
683人間七七四年:2011/09/19(月) 16:03:50.57 ID:/ADoIa4N
>>679
秀長の子供なら、伯父さんの子供って建て前の秀頼を支えてくれるかもしれんが
秀保って人は、秀吉の一門じゃない人の子供だろ?
(木下の一門じゃないか?)
かえって揉めるもと。
秀頼(もっといえば淀君)の存在が豊臣を滅ぼしたって言うべきだろ。
木下家の力をフルに使ってそれなりの地位についたのに
急に方針転換したら軋轢が出て当たり前
684人間七七四年:2011/09/19(月) 16:31:28.55 ID:PO9jLuz4
秀次事件で家康の支持者が増えたってのもあるしな
685人間七七四年:2011/09/19(月) 18:10:09.85 ID:u2b41KZT
>>683
いや、秀保は秀吉系統の血の人だよ
秀次・秀勝・秀保は、秀吉の姉の子ども

木下家は、ねねさんの血筋の方だ
686人間七七四年:2011/09/19(月) 18:13:35.73 ID:waerbzUL
>>683
ねねの兄木下家定の子たち(小早川秀秋とか)と秀吉の姉(智)の子たちである
秀次や秀保を混同してるぞ

687人間七七四年:2011/09/19(月) 21:11:47.47 ID:6Y7YshfA
>>684
三齋とか山内一豊とか、
秀次寄りの大名にしてみりゃ
「ラスボスやりすぎ耄碌しすぎ」
「秀頼のせいであんなことになったんだし、義理ねえよ」
てことになるもんなー。
ラスボスの親ばかはホント高くついたよな
688人間七七四年:2011/09/19(月) 21:18:28.85 ID:u2b41KZT
さすがの三斎様もちょっと引いただろうな
689人間七七四年:2011/09/19(月) 21:28:21.17 ID:WQpJAZ5A
豊臣さんはいっぱいいるし別にいいやー的な
690人間七七四年:2011/09/19(月) 21:31:26.43 ID:ZQij8pHh
賜姓はまた別枠でね?
691人間七七四年:2011/09/19(月) 22:21:24.76 ID:vKA6lAol
一豊は蔵入地の件で怒られて朝鮮送りにされそうになってるしね
692人間七七四年:2011/09/19(月) 22:25:39.43 ID:0oNT8kKI

利休切腹で三歳は豊臣を見限ってるだろ
693人間七七四年:2011/09/21(水) 07:14:55.77 ID:snatQOpk
加藤清正が天草一揆と対峙していたある夜、軍評定の後の雑談で森本儀太夫一久が、こんな事を言った。

「およそ組み討ちは力によるものではござらぬ。心を強く保てば、あとはやり方次第で易きものにござる。」
清正は、これをたしなめた。
「組み討ちは危ない!勇に誇る時は必ず仕損じると言うぞ。自重せよ。」

翌日、清正の前で馬を進めていた儀太夫に、徒歩武者が襲いかかって来た。
「儀太夫・・・!!」

清正の心配をよそに、儀太夫は悠々と愛馬を操って武者の攻撃をかわすと、武者の横合いからブチかました。
サッと馬から下りた儀太夫、立ち上がろうとする武者に組み付き、サッサと首を取ってしまった。

「どうですかな?昨夜言った通りでしょう!」
これには清正も苦笑しつつ、儀太夫に褒美を与えた。(常山紀談より)
694人間七七四年:2011/09/21(水) 07:40:50.91 ID:GjRgkw45
馬で踏むとかじゃないんだなあ
武士ってなんか首刈り族みたい
695人間七七四年:2011/09/21(水) 09:35:43.07 ID:VY08ydiH
>>694
ラオウと黒王号じゃあないんだから
696人間七七四年:2011/09/21(水) 10:16:23.73 ID:/xCtEaT8
>首刈り族
あながち間違いじゃないw
697人間七七四年:2011/09/21(水) 10:23:35.51 ID:4AlNVTah
死亡フラグをやすやすとブチ折るとは・・・こやつ出来る・・・!
698人間七七四年:2011/09/21(水) 12:04:44.46 ID:88cbQwRb
馬って東北のデカ馬やサラブレットをイメージしてるんだろうけど、
当時の日本産馬はかなり小さい。大河の影響がデカイのか。
699人間七七四年:2011/09/21(水) 12:14:26.59 ID:vknQY13h
儀太夫と覚兵衛はガチ
700人間七七四年:2011/09/21(水) 12:16:04.85 ID:0WiXwZJO
>>698

「一般に体高が低い」ということと、「大きな馬が居なかった」というのはイコールではない。
平均身長と最大身長は全く別物。

それに
> 当時の日本産馬はかなり小さい
ここが大きな間違い。当時の日本産馬はポニーと呼ばれたが、「ポニー」とは「肩までの高さが147センチ以下の馬」
の事。世界的にも平均的といっていいし、当時の日本人の平均身長から考えれば、これだけでも
かなり大きい。

それに当時は、将官クラスの乗る馬は軍馬として特に選別され調練され育てられたもの。
人を踏みつぶすほど大きなものがいても全く不思議ではない。
701人間七七四年:2011/09/21(水) 13:37:29.66 ID:RkqfITeI
検索サイトのBINGで宮崎の馬の写真が貼ってあったけど
ポニーのイメージよりは大きかったな
702人間七七四年:2011/09/21(水) 13:37:58.31 ID:I3LYrDQT
ばんえい競馬に出るようなポニー(道産子はポニー系)なら足軽を踏みつぶせるな
703人間七七四年:2011/09/21(水) 14:17:42.88 ID:4AlNVTah
ばんえい競馬の馬は
道産子ベースにペルシュロンやシャイアーなんかの洋種をかけあわせた、
もはや原形をとどめていない魔改造馬だと何度言えば(ry
704人間七七四年:2011/09/21(水) 14:30:32.62 ID:aAeaE65s
土佐犬みたいなもんだからな>ばんえい競馬の馬
目的に特化されているから。
705人間七七四年:2011/09/21(水) 15:59:48.19 ID:aUsIrToX
戦国期だか鎌倉期だかの馬が130位なんだっけか
706人間七七四年:2011/09/21(水) 16:09:34.42 ID:I3LYrDQT
戦国時代にばんえい馬持って行ったらどういう反応するか見てみたい気がする

気性が温和しいから軍馬には向かないかもしれんけど
707人間七七四年:2011/09/21(水) 17:17:19.60 ID:4Af65pId
力勝負の競馬なんて他に類を見ないし、もっとばんえい競馬の人気が出てほしいけど、
よく考えると、ここはそんなことを力説するのに相応しくない戦国板なのだった
708人間七七四年:2011/09/21(水) 17:24:45.52 ID:Zo/DbgJC
洪水

1578年、信長が中国攻めに出陣しようとしたところ、京で洪水が起こった。
鴨川をはじめとした川があふれ、京の町は水浸しになり、溺死者がでるありさまであった。
しかし京の住人たちは信長の性格をよく知っていたので、数百そうの舟をこいで信長のところまでやってきて出陣を助けたという。
709人間七七四年:2011/09/22(木) 02:33:06.20 ID:Fbtukd8+
>>708
1578年というと上月城への援軍かな?あれは信長自身ではなく信忠だったけど。
710人間七七四年:2011/09/22(木) 03:00:21.96 ID:+f6Z7oAE
ばんえい馬と言えば、実物よりラオウ号や慶次の馬を想像してしまう。
おとなしい性格だし、動物園とかで乗馬させて欲しい。

>>700
ポニーってのは思ってるより意外に小さいもんだぞ。
いくら昔は身長低かったとは言え、
ポニークラスに踏み潰される小人は前戦には出んだろうw
711人間七七四年:2011/09/22(木) 05:40:42.89 ID:dvtbTxEL
>>694は倒れた相手を馬で踏むことを想定してるから、140cm台の馬でも十分だろう。
712人間七七四年:2011/09/22(木) 07:07:34.77 ID:+rym/qHz
わかってるとは思うけれど、馬の体長は肩までの高さな
713人間七七四年:2011/09/22(木) 08:06:45.94 ID:jxvH0+Dh
動物園などのポニーはシェトランドポニー(体高100cm)ぐらいな。
それの1.5倍はある訳で結構デカイ。
714人間七七四年:2011/09/22(木) 09:01:47.95 ID:pGhSMI5I
競馬2かと思ったぜぇwww
715人間七七四年:2011/09/22(木) 11:10:01.37 ID:DNBYWPoX
木曽馬は本当に小さいよ。大きいというのは無理ありすぎ。
ただ、小さいから弱いというわけではない。
人間一人くらい楽々跳ね飛ばすパワーはあるよ。
木曽馬での流鏑馬見たことあるけど、まさに豆タンクという感じで凄い突進だ
716人間七七四年:2011/09/22(木) 13:50:50.82 ID:xZ5khMxS
実物で見ると小せぇ、カワイイって思うよなw
あれでも倒れてる人を踏みつけるぐらいできるだろうけど、
馬の気性から言ってそういうの命令してできるもん?
腕とかなら踏み潰れるかもしれんけど、胴体とか重さが足りないような。
踏みつける訓練でもしなと無理じゃないか。

立ってる人を故意に前蹴り、カカト落としとかはせんでしょw
勢いに任せて胸筋で跳ね除けるって感じじゃないかな。
717人間七七四年:2011/09/22(木) 19:25:12.04 ID:SeXg4Wz7
ポニーってのは品種じゃ無くサイズが147cm以下の馬の事なのな
動物園のふれあいコーナーとかの愛玩用ポニーを想像してる方が多いと思うが
乗馬クラブとかで疾走する乗馬用ポニーを見ればイメージが変わると思う
スポーツバイク並みには様になってるし格好悪いってイメージは払拭できるはず
718人間七七四年:2011/09/22(木) 19:30:21.82 ID:4E8OMKHb
そもそも、戦用に鍛えられたり、改良された馬って廃れたんじゃなかったっけ?
719人間七七四年:2011/09/22(木) 20:54:39.39 ID:TWKhlefW
社報に載ってた信長公の話をば。

織田軍は実力主義で有名ですが、使える部下・使えない部下を評価するわかりやすい基準があったようで曰く、

信長「生まれながらにして天才と言われる奴は俺は信用せん(好かんだったかも?)。ちゃんと努力してなるべくしてなった奴の方がまだ信用できる」

なのだという。

また、信長公があえて傾奇者であろうとする理由も載ってましたので載せときます。こんな理由からだそうで、

信長「世の中、馬鹿正直なのもいいが、そればかりではものの本質が見えてこない。だから少し傾いて見れば、見えにくかった本質も見えてくるものだ」という。

少しうろ覚え気味で書きましたが、信長の人物評価基準と傾奇者であろうとする理由がよくわかる話でした。
720人間七七四年:2011/09/22(木) 21:27:21.96 ID:VCVuhM6V
信長様は叩き上げだもんなぁ
ヤンキー上がりの成り上がり社長みたいな感じか
椎名がそんな漫画を描いてた…気のせいだな
721人間七七四年:2011/09/22(木) 21:49:17.57 ID:TnRSfX/0
>>720
結局SFになったなアレ
722人間七七四年:2011/09/22(木) 22:40:18.33 ID:Xqqni615
「大将の条件」

ある夜話に徳川家康が本多豊後守にこう語った
「大将たる者は物事に臨んで大器量を旨とすべきである。心に余裕を持ち、
大節さえ誤らなければ、他の細かい事は忘れてよい。心があまりにも鋭いと人との交わりが難しくなる。
獣には人の役に立つ牛馬もいるし、逆に害をなす虎狼もいるのだ。人間の悪い点も時には役に立つ。
信玄や謙信は疑心から家臣を滅ぼした。しかしそれは良くない事だ
わしの父が病気の時、一族や譜代の多くの者が敵方や日和見に回り、幼いわしを助けなかった。
ところがわしに武運が回ってくるとみなそのことを忘れたように集まって軍忠に励んだ。
わしも昔のことを知らぬ顔で出迎えた
信玄や謙信のようにわしは昔のことを根に持たない。それが大将にとって大切な器量である。」
723人間七七四年:2011/09/22(木) 22:51:50.48 ID:OwsqW06x
本多豊後って広孝か

それにしてもよく言うわw
都合の悪いことは忘れてしまったようだな家康公
724人間七七四年:2011/09/22(木) 23:14:29.61 ID:PGtBiq3l
お前も息子がかわいいかぁ〜(怨
725人間七七四年:2011/09/22(木) 23:41:21.83 ID:Fbtukd8+
>>723

この手の家康の訓戒話は江戸中期頃に作られた話が多いのだが、
その時代、武田信玄は儒教的価値観ではいわずもがなの極悪人だが、上杉謙信も越後軍記などの
軍記物では、子供の頃あまりの凶暴さに長尾家の重臣たちが「こんな凶悪な子供は寺に入れようね」
と無理やり坊主にされるのだが、その幼少の頃の恨みを忘れず、成長して挙兵すると彼を寺に入れた
重臣たちを皆殺しにしたことになってる。

そういう信玄謙信の軍記物でのイメージが世間に広まった上で、はじめてこういった逸話が成立したと
見たほうがいいだろうね。
726人間七七四年:2011/09/22(木) 23:42:38.38 ID:8gkZ9pyq
>>724
思わず笑った。
家康ってこんな事言うような可愛げあるのかな
727人間七七四年:2011/09/23(金) 00:13:07.70 ID:5APFghmK
信長あたりだったら酒井さんは切腹か
728人間七七四年:2011/09/23(金) 00:16:48.52 ID:IOUHzGU7
信康の場合は、家臣の讒言で斬ったってわけじゃなくね?
729人間七七四年:2011/09/23(金) 00:31:34.31 ID:9jw5HCXA
怒りっぽいとか色々言われる家康だけど
家臣を手打ちにしたことはないよね
730人間七七四年:2011/09/23(金) 00:52:32.01 ID:MmsOJugJ
>>729
ただ伝わってないだけの可能性もなきにあらず
731人間七七四年:2011/09/23(金) 00:54:44.76 ID:4FmrEjlZ
>>730
そりゃまそうだがw
ただ家康は剣術も相当の腕前だけど、それは攻撃ではなく身を守るためのものと
実際に割り切っていたようだね。
732人間七七四年:2011/09/23(金) 01:18:07.20 ID:KAnJlAJ+
4万の島津勢に対し、高橋紹運が700人余りの兵と共に岩屋城に立てこもった時の事である。
家臣の杉山山城を「山城殿」と言って呼び寄せ、

「この城は後20日と持たないだろう。そこで頼みがある。」と告げた。

主君からいきなり「殿」と呼ばれ、その理由が判らず山城が戸惑っていると

「その方の家は先祖をたどれば我が高橋家より上の家柄。今は立場が変わって主従となったが、
 前々から同輩であった様な親しみを覚えていた。最後の役目に当たり、成功したら領地を与える
 と言った所で絵空事でしかないので、『殿』をつけて呼ばせてもらってその方を軽んじていないという
 私の心を表し、せめてもの褒美としたいのだ。」

と語り、

「そして頼みとは、死に臨んで心残りとならぬよう、敵中にいる次男の直次を宝満城に送り届けるか、
 さもなくば殺してくださらぬか。」

と頼んだのである。紹運のこの心遣いに打たれた山城は、敵中を突破して無事に直次を宝満城へ連れて行ったという。

以上「名将言行録」より、高橋紹運の家臣への最後の恩賞を与えた話である。
733人間七七四年:2011/09/23(金) 01:47:38.49 ID:bS5pBE+R
家康は恨みを忘れないよね。忘れたふりはするけど。

孕石さんにもしっかり復讐してるし。
734人間七七四年:2011/09/23(金) 02:36:21.59 ID:IxfCaneP
>>732
やべえ・・・直次殺されてたかも知れんのか親父の命令で
735人間七七四年:2011/09/23(金) 03:51:19.13 ID:ZAxMlNoT
>>692
三斎は大阪の陣で豊臣が滅亡するまで賜った羽柴姓を名乗っているから
そうでもないんじゃねえ。
736人間七七四年:2011/09/23(金) 03:52:56.25 ID:yTdXORKZ
>>730
防御と言うのも念のため程度じゃないかな
本気で天下を狙うような大将なら、
部下に舐められないためとか、武家の本分を忘れないためといったメンタルの部分が大きいんじゃないかと
義輝とか義元とか信長とか、実際に戦闘になった時点で詰んでる筈
伊賀越えでは「鍛えといて良かったぁぁ」ぐらい思ってたかも知れんがw
737人間七七四年:2011/09/23(金) 05:29:49.80 ID:7wOoCzhm
黒田長政「大将自身が戦うなんてありえない」
最上義光「ですよねー」
738人間七七四年:2011/09/23(金) 06:51:43.45 ID:2Sb+cY4k
>>736
そりゃそうだろ
侍レベルからの攻撃武器は弓と槍(長巻きの人もいたそうだが)
刀は基本的に補助。

家康って今川の侍大将してた時期もあるんだろ?その頃は単騎駆けくらいしてたんじゃね
739人間七七四年:2011/09/23(金) 08:23:27.23 ID:4aoJAivx
侍大将とはいっても徳川軍を率いる立場だからなー
小勢の指揮官じゃないだろ
740人間七七四年:2011/09/23(金) 09:09:56.29 ID:15PkwuGw
>>733
まぁ本気で覚えてないものは「忘れてしまった」だけで「忘れた」とはいわないだろう。
741人間七七四年:2011/09/23(金) 11:17:53.47 ID:XPjrNm50
>>722
今川氏真「竹千代の奴め、そんなに褒めるなよ照れるじゃ無いか」
742人間七七四年:2011/09/23(金) 13:23:24.65 ID:xdzODYrt
氏真って家康と主従逆転した時、家康の事なんて呼んでたんだ?
やっぱ普通に「上様」、「大御所」かな
743人間七七四年:2011/09/23(金) 13:30:16.58 ID:JIYhbnwK
>>729

出来なかっただけだろ
君主権が弱いからな > 松平家
744人間七七四年:2011/09/23(金) 13:34:17.15 ID:5APFghmK
家臣は宝だ、だからだろ
745人間七七四年:2011/09/23(金) 13:36:38.44 ID:EMcjw50Q
>>742
官位で呼ぶとか(ナイフ様とかウフ様とか)
746人間七七四年:2011/09/23(金) 15:18:54.74 ID:Esd3zcNH
>>729
なんとなくだけど、若いときは作左や忠次が、年取ってからは正信が諌めて、
手打ちなんてできなかった気がする
747人間七七四年:2011/09/23(金) 16:54:22.82 ID:72ntIoG9
信長は、後に超ビッグになったので忘れられがちだけど、親父死んで尾張がカオスだった頃は
兵数百人単位の合戦で、自ら血槍振るってのガチバトルを経験してるはず
748人間七七四年:2011/09/23(金) 17:32:18.87 ID:cPVlTb2H
>>743
松平家は確かに君主権が弱かったけれども、家康は違う
家康は戦国でも珍しい専制君主的な大名だよ
徳川に改称して三河一向一揆鎮圧した以降だとそれが如実
749人間七七四年:2011/09/23(金) 19:53:56.66 ID:4aoJAivx
一般的には関東入府以降、君主独裁になったって言われてね?<徳川家
750人間七七四年:2011/09/23(金) 20:22:55.44 ID:y/iVCRT7
>>738
これは家康存命中に描かれた関ヶ原合戦図屏風だけど
大半がその補助武器を抜いて突進して行ってるな。
http://history.harikonotora.net/img/200-61.jpg

補助というか状況に応じて使い分けたってところだろ。追撃をかけるときのように
機動力重視になると刀が便利なようだな。
751人間七七四年:2011/09/23(金) 20:45:11.92 ID:v90FH10I
まぁ取っ組み合いになる乱戦じゃ槍は邪魔だよなぁ
752人間七七四年:2011/09/23(金) 21:49:10.72 ID:alkcyFKp
>>749
家康は五ヶ国時代すでに自力で一律の検地が出来るほど強大な君主権を確立している。
関東での施策は五ヶ国時代の延長線上だと今は捉えられているね。
三河時代から強力な君主直属軍を整備したことも含めて、少なくとも三河統一以降、あの時代でも最も強い
君主権を確立していた大名が家康だと考えていいと思うよ。
753人間七七四年:2011/09/23(金) 21:50:09.50 ID:ai/cLeMO
さすがに刀が補助ってことはないだろw
どんな戦闘を前提に言ってんだか。
754人間七七四年:2011/09/23(金) 22:46:57.05 ID:IOUHzGU7
歴史魂って雑誌に載ってたんだけど
頑固一徹って、稲葉一鉄さんの頑固な性格から生まれたんだね 知らなかった

戦国時代起源の言葉ってどれくらいあるんだろう
755人間七七四年:2011/09/23(金) 22:53:53.85 ID:P1SjRLwf
俗説OKなら
洞ヶ峠
元の木阿弥
天王山
勝って兜の緒を締めよ
人は城、人は石垣
敵に塩を送る
外堀を埋める(別に大阪の陣に限ったことではないが)
青田刈り(戦国時代のいやがらせにもあるが、単に青田買いの間違いの可能性も)
756人間七七四年:2011/09/23(金) 23:09:30.51 ID:Er46AJAw
青田刈りって徒然草になかったっけ
757人間七七四年:2011/09/23(金) 23:13:05.38 ID:alkcyFKp
他には
ヤマカン(山本勘助より)
一富士二鷹三茄子

現在は使われていないが、江戸時代、女にもて過ぎる事に困って女から逃げまわるような男のことを
「逃げ弾正」(高坂昌信の通称)と呼んだそうな。
758人間七七四年:2011/09/23(金) 23:27:15.25 ID:pxCOf3yg
高坂弾正ホモ弾正!
759人間七七四年:2011/09/23(金) 23:30:40.26 ID:4FmrEjlZ
「知らぬ顔の半兵衛」が竹中半兵衛だったな(俗説)

>>758
一応言っておくと例の武田信玄書状、高坂弾正の名前は後世になって後から書き加えられたものらしいぞ。
760人間七七四年:2011/09/23(金) 23:32:42.23 ID:IOUHzGU7
>>755
やはり結構あるね
あと、小田原評定・伊達男・火蓋を切る・百万一心・知らぬ顔の半兵衛 なんてのも載ってた

>>757
内容知らず「逃げ弾正」だけ聞くと、松永久秀かと思ってしまう
761人間七七四年:2011/09/23(金) 23:33:57.19 ID:FHjM22p9
ちょっと空気読まずに逸話

「清正の茶碗」

ある日加藤肥後守清正が茶会を催したが、その際使った名物茶碗を出したままにしておいた所、
小姓の一人がその茶碗を誤って落として割ってしまった。
一同は驚いたが、その一人を庇う為に口裏を合わせ誰が割ったのかは絶対に言わないと誓いあった。しばらくして清正が席に戻ってみると自慢の茶碗が見事に砕けているので怒り出し小姓達に誰が割ったのか問い詰めた。
しかし、小姓達は誓い合った通り誰一人として返事せず、更に怒った清正は
「お前達は何という臆病者だ。いずれの父も立派な武功者であると言うのに
お前達はその父の名を汚すものである」と怒鳴った。
762人間七七四年:2011/09/23(金) 23:34:46.18 ID:FHjM22p9
(続き)すると、加藤平三郎という14歳の小姓が顔を上げ、
「何故、私達が父の名を汚す臆病者でしょうか」と問うと清正はいよいよ怒り、
「名物の茶碗を砕いた事を咎められ、切腹を申し付けられるとでも思い、
命惜しさに壊した者の名を言わないのだろう、だから臆病者なのだ」
すると平三郎は
「私達の中にはそのような臆病者はおりません、割った者の名を言わないのは名物とは言え、たかが茶碗の為に私達の大切な仲間が咎められるは忍びないからです
いざ戦が起きれば茶碗など何の役にも立ちませんが、私達は命を捨てて敵と戦い、
主君に代わり討死する事ができます。どんな名物茶碗よりも私達一人の方が大事です」
と答えた。清正はこの平三郎の言葉に感心して咎める事をやめ、褒美を与えたという
763人間七七四年:2011/09/24(土) 00:11:21.38 ID:5H94sX+P
木村又蔵
764人間七七四年:2011/09/24(土) 00:54:16.91 ID:pvC5RjK+
>>757
一応言っておくけど、高坂昌信が女にモテたなんて話もないからな
765人間七七四年:2011/09/24(土) 00:57:13.24 ID:VsrrnGOU
>>764
ただ、どうも江戸期の早い段階で「高坂弾正は美男子」という認識は広まっていたらしいぞ。
766人間七七四年:2011/09/24(土) 01:09:38.50 ID:iho0bFyf
>>765
例の信玄からの書状があったからだろうな
その上に逃げ弾正なんた渾名が付いていたから俗説で広まったもの
767人間七七四年:2011/09/24(土) 09:49:27.63 ID:qncmHgdD
茶碗を割ったら褒美がもらえた。うめぇ。
768人間七七四年:2011/09/24(土) 10:27:57.09 ID:bQCWV6kR
でもこれって平時の役には立ってませんよね?
こんなの普通じゃ考えられない……!
769人間七七四年:2011/09/24(土) 11:22:16.26 ID:5Qs/ILwg
天正四年のことである。

将軍足利義昭より急ぎ織田領への侵攻を求められていた上杉謙信は、
椎名氏と神保氏を滅ぼし、一向宗から越中の諸城を奪った後にこれと和睦し、
さらに矛先を転じて能登越中二国の守護畠山氏の領国、能登国と攻め入ろうとした。
上杉方は海路の進軍を選び、先ず目指すは越中にある畠山領、湯山続甚が守る森寺城を目指す。

しかし、である。
森寺城の手前、阿尾城を望むほどになったところ、上杉方の軍船の船足が突如止まった。
凪でもなく、潮の流れが悪いわけでもない。奇怪千万の自体である。
船団にあった上杉家臣鰺坂長実はこれを怪しく思い、これぞ人外の仕業に違いないと断じた。
ならば元凶たる妖を退治してくれんと、長実は雨晴の浜に上陸して早速探求を開始する。
すると果たして、浜辺の松の間には如何にも怪しげな地蔵がにこにこと笑みを浮かべて佇んでいるではないか!
「えいや、正体見たり!」
ずんばらり、と迷わず長実は太刀を一閃! 不埒な地蔵の首を撥ねると、たちどころに船団は船足を取り戻した。
かくして目的地に辿り着いた上杉勢はあっという間に森寺城を攻め落とし、七尾城への道を切り開いたのだった。

以後、雨晴の浜にある地蔵は海難から船を守る首切地蔵として地元の人に崇められ、
今も雨晴駅の一角に祭られているのだと言う。
770人間七七四年:2011/09/24(土) 15:56:47.44 ID:tevZKHcK
この悪魔ッ!
771人間七七四年:2011/09/24(土) 19:37:22.06 ID:nEB1ACg+
地蔵の首をはねるところがいい話に水を差してるな
なんとなく後味悪いというか
現存する地蔵も首がないと言うことかなんか縁起悪そうだが
772人間七七四年:2011/09/24(土) 20:41:51.25 ID:SniT0OrV
関係ないけど、今日夕方の番組で愛知の「丹羽さん」と「大道寺さん」が出てきた

やっぱり一族の子孫とかそんな感じなのかな
773人間七七四年:2011/09/24(土) 20:45:26.17 ID:t2MAHlBB
そういえば

> 上杉謙信は、
> 椎名氏と神保氏を滅ぼし

椎名高志先生はこの越中椎名氏に繋がるのだろうか?
774人間七七四年:2011/09/24(土) 21:13:44.90 ID:tevZKHcK
林檎やへきるや誠さんもか
775人間七七四年:2011/09/24(土) 21:42:03.33 ID:+eRsVoUO
名字だけでそういう話題を切り出したらキリがないわ。鈴木さんとか。
776人間七七四年:2011/09/24(土) 21:54:19.63 ID:IdSP05vP
>>588
明治39年ですぞ、完成は。
777人間七七四年:2011/09/24(土) 23:31:51.35 ID:Cs1cejuI
小田原陣の際、上州松井田をを真田勢が攻めた時のことである。

真田勢の接近を知った北条勢は人数を出し、両軍は碓氷峠の盤根石というところで両軍はぶつかりあった。
この時真田勢はまず真田信繁が敵を追い崩し、その後真田信幸が下知して峠の坂上へ引き上げを図った。
真田勢の殿は大熊勘右衛門と水科新介であったが、北条勢は食いついて後を追ってきた。

坂上からこれを見た真田昌幸は言った。
「これは危険な殿である。両人共に討たれるであろう。」
すると大熊勘右衛門の兄大熊五郎左衛門が答えた。
「何の差支えもありますまい。」

その時信幸が下知して鉄砲を激しく撃ち掛けさせ
赤沢加兵衛というものが追撃の指揮を執っていた北条勢の二人の黄母衣の武者うちの一人を撃ち倒したため
大熊、水科の両名は無事に人数を引き取ることがえきた。。
778人間七七四年:2011/09/25(日) 00:02:50.03 ID:fyGLA/zw
えきた。。
779人間七七四年:2011/09/25(日) 01:13:50.35 ID:e+G4sWWf
勘右衛門っていうのは大熊朝秀の息子かな?
780人間七七四年:2011/09/25(日) 11:01:49.57 ID:rtLlarGm
主君替え、七人目

茶筅髪に羽織といういでたちで、大木長右衛門、居相孫作らわずかな家臣と共に
高野山にて念仏三昧の日々を送っていた藤堂高虎のもとに
生駒親正は老体をおして、太閤秀吉の命を高虎に伝えに来た。
ひとしきり秀吉の思いを伝えると、足を崩す。
「どうあっても否と申すか。」
「ありがたきおおせなれど、どうかお察しくだされ。」
「秀長殿なら、兄上をお助けしたいと思うであろうに・・・。」
高虎は天を仰いだ。


高虎は下山し、秀吉の直臣となった。
高虎を待っていたのは、伊予板島七万石と、
離散せず紀伊・大和国付近に仮住まいしていた家臣たちであった。
彼らは歓喜して高虎を迎えた。

しかしここにきて、大木長右衛門、居相孫作および服部竹助は憂慮していた。
「殿は我らに千石ずつくださるとおっしゃるがの。」
「我らに、例えば十人分の働きができるかの。」
「・・・・ま、できぬこともないが、今は十人の勇士を雇うことが先決じゃの。」
彼らは、加増を断り、七万石の屋台骨を築くことに奔走したのだ。

高虎は領民をいたわり、城を作り、街を作った。
高虎は四十歳になっていた。

慶長の役では、誰とは言わぬが武功争いであわや抜刀というすったもんだもあったが、
高虎は豊臣諸将の中で、着実に地歩を固めていった。
その、慶長の役のさなかに、太閤秀吉が崩御する。

さて、日本軍帰還任務をだれに当たらせるか。
徳川家康は高虎を推挙した。
「それがしのような者には、とても務まりませぬ。」
辞退する高虎に、なおも家康は言った。
「ぜひに」

秀長の在りし頃、家康に初めて我が名を名乗った日のことを
高虎は思い起こしていた。
781人間七七四年:2011/09/25(日) 17:09:50.39 ID:L4XAY/73
>>760
伊達男の語源が政宗だってよく言われるけど、あれ嘘らしい。
よくは分からんが言語学的に語変化をたどると伊達さんと伊達男との間には因果関係が存在しないんだと。
782人間七七四年:2011/09/25(日) 17:35:48.25 ID:ZjyZfsG3
語源的には「立てる」だそうで
でも「伊達」という漢字を当てるようになったのは政宗クンが由来だそうな
783人間七七四年:2011/09/25(日) 20:05:07.58 ID:T+TDs7ZG
>>780
ここは自作小説を披露するコーナーではないので…
784人間七七四年:2011/09/25(日) 22:44:59.17 ID:SgqshKk1
>>780
高虎は道三や松永さん辺りと比べりゃ
全然毒が無いなあ。
奸臣扱いさるのは
鳥羽伏見での子孫の立ち回りと
小説で解りやすい悪役として
散々使われてきた影響が
デカイな。
785人間七七四年:2011/09/26(月) 02:11:56.43 ID:tgvQREMY
背もデカイ
786人間七七四年:2011/09/26(月) 02:40:52.90 ID:BcQgayq/
>>784
高虎さんは主殺しとか謀殺とかの役を持ってないからな。
まぁ高虎は結局生き残った側だから、
記録がどうしても良い方に寄るというのもあるだろうけど。
787人間七七四年:2011/09/26(月) 17:55:36.51 ID:ySNBKEb2
徳川家康公が三方ヶ原で敗れて撤兵した際に、家臣たちは家康公の左右を護って敵を防いだ。
その後で誰が家康公の側にいた、誰はいなかったということで討論が起きた。
家康公は諸将の刀を差し出させそれを確かめると誰々は右に、誰々は左に居たということを明瞭に指し示した。
家康公は後でこういった争いが起きることを予知して馬上から唾をあらん限り左右に吹き掛けていた。
そのため刀身にのこった汚点の有無を見ることで誰が従ったかの虚実を確かめ右か左に居たかも判断できたのである。
軍が戦意を喪失し旗色が既に乱れていたときに後のことを気遣う余裕があった。その非凡さを想い見るべし。
想古録、昌平黌の教授古賀侗庵談
788人間七七四年:2011/09/26(月) 18:12:42.86 ID:3RY+7dMU
漏らしながら唾もはき散らかしてたのかこの人は…
789人間七七四年:2011/09/26(月) 18:51:20.74 ID:2Z9ldu9Z
逸話につっこむのも無粋だと思うが…嘘くせぇぇぇw
790人間七七四年:2011/09/26(月) 19:13:09.04 ID:bXtP2px0
※本当は味噌が付いていました
791nttkyo282235.tkyo.nt.ngn.ppp.infoweb.ne.jp:2011/09/26(月) 19:39:41.23 ID:8SrM7hzp
その状況想像したら拭いたwwww
792人間七七四年:2011/09/26(月) 19:40:44.94 ID:XxN9Zeuy
唾ならそんなに明白に跡残らんだろうと思ったが
味噌なら納得だな
793人間七七四年:2011/09/26(月) 19:42:24.03 ID:z1D/fM+W
戦国の永源はるかさんみたいだな
794人間七七四年:2011/09/26(月) 20:15:30.41 ID:HZfBWMQP
>>788,791
戦場でうんこもらしながら部下という部下に唾吐きまくる家康・・・
795人間七七四年:2011/09/26(月) 21:11:54.91 ID:JjFwZ8bL
作左「との!刀は武士の魂!それに唾を付けるとは(ry」
忠世「ホントはトイレ我慢して唾飛ばしてただけだというに。」
796人間七七四年:2011/09/26(月) 21:21:57.54 ID:v9VmSKVZ
なにこれ汚い、と刀を手入れしてしまった奴涙目
797人間七七四年:2011/09/26(月) 21:22:12.50 ID:ggiaxP0y
当時は唾=汚いという意識は、現代ほどはないのでは
798人間七七四年:2011/09/26(月) 21:31:41.52 ID:uuTvkJfh
俵藤太が矢に唾をかけて、大百足を退治していたけど、
これは清める行為なのだろうか
799人間七七四年:2011/09/26(月) 22:20:30.45 ID:W88m3/Tn
ムカデは人の唾に弱いという迷信があるだよ
800人間七七四年:2011/09/26(月) 22:36:07.65 ID:+sQd4ybX
>798
たしか大ムカデの吐く火で眉毛が焼かれそうになったので、眉に唾を付けて
ついで矢に唾を吐いて射掛けたとか。
この話は「眉唾」の語源になっていたはず。
あと、狐や狸に化かされないように眉に唾をつけるとか
唾には霊力があるってお話
801人間七七四年:2011/09/26(月) 22:39:51.45 ID:qKpWGIGX
家康公が出たので、それじゃあこちらも 既出だったらごめん

とある戦いで敵地深く侵入した時、索敵の斥候が家康にこう告げた
「この草原の前方右に、かなり広い湿地帯がございます
誤って馬などに乗り入れますと、ぬけなくなる恐れがございますので、御用心が肝要かと」

この報告を聞いた家康は、一瞬前進を躊躇した
敵はもしかして、その湿地帯に誘い込み、罠にかかったところを一斉攻撃してくるかもしれない
もしそうなれば、大勢の味方が命を落としてしまう

しかし敵城は間近 今更引き返すことも出来ず、味方は後ろから何も知らずに続いてくる
そこで家康は伝騎を次々と出して、後方部隊に知らせたが、どうも徹底した様子が見えなかった

それを見た家康は何を思ったのか、突然一騎で駈け出した

驚いた近時が慌てて後を追ったが、たちまち家康は件の湿地帯に向かって一直線に駈け出し
そのまま泥沼の中に身投げした
折からの初夏のこと、泥沼からやっと這いでた家康は、泥人形のようであったという

「殿が深田に落ちて泥だらけになったぞー!」

「あやうく一命を取り落とすところであったそうだぞ!」

このような知らせがたちまち全軍に伝わり、湿地帯への注意はこうして徹底され
その後始まった敵兵との遭遇戦で、深田に落ちて討ち取られた者は一人もいなかったという
802人間七七四年:2011/09/26(月) 22:40:26.19 ID:9eCCnqlO
古事記にも唾に力があるという話があるらしいな
803人間七七四年:2011/09/26(月) 23:31:25.36 ID:HUoOVcQR
佐々木希の唾なら・・・
804人間七七四年:2011/09/26(月) 23:44:59.10 ID:rTS+ATew
>>719
社報の元ネタはなんなの?会社の人の脳内じゃないよね?
805人間七七四年:2011/09/27(火) 00:01:02.09 ID:1LbuvmqO
>>803
武田信繁さんがこっそりとスレを去られました・・・
806人間七七四年:2011/09/27(火) 00:24:04.41 ID:smuu77Ef
>>801
これ出処は何?
807人間七七四年:2011/09/27(火) 00:43:00.08 ID:zOqBHobV
>>802
古代日本の酒は処女が米だか麹だかを噛んでペッてしたものを発酵させたやつだしな
808人間七七四年:2011/09/27(火) 01:35:48.54 ID:22/lDceb
口噛み酒だな
麹で発酵させて酒を造るのは曹操さんの開発した酒造り技術が輸入されてからだっけ?
809人間七七四年:2011/09/27(火) 01:44:09.32 ID:HmAljcdv
曹操自身が発明者は南陽の郭芝だといっているのにいくら訂正しても、
上奏した曹操も凄い

曹操が作った
に脳内変換される奴多すぎて困る。
810人間七七四年:2011/09/27(火) 17:00:39.76 ID:WDFfIYSD
だが台所の神様?が口から御馳走吐いて月読をもてなしたら
「汚い無礼な!」って首はねたと言う話もあるしやはり汚いと言う概念はあったんじゃないか
811人間七七四年:2011/09/27(火) 18:21:41.38 ID:bzRX7qE4
酒の改良法について上奏したり、禁酒令を出したり、憂いを晴らすものは杜康(酒)のみと言ったり、

それはそうと、清酒の始まりググったら、山中鹿之助の息子が偶然発見し、それが鴻池家の繁栄の基礎を築いたとか
ほんまかいな
812人間七七四年:2011/09/27(火) 18:33:29.45 ID:lggnDk1x
>>811
清酒は少なくとも平安時代には存在しているので、それは伝説の一種だろうね。
813人間七七四年:2011/09/27(火) 19:55:31.85 ID:47hSjyui
まあ鴻池がみつけたのは低温殺菌だわな
様は日持ちのする日本酒ができると
814人間七七四年:2011/09/27(火) 21:11:04.01 ID:SfoeI6Uk
青山忠俊は徳川家光の守役であったが、家光が成長してからも直言を繰り返し、ついに改易・配流となった。
のちに家光は己の行いを後悔し、忠俊を呼び戻したが、忠俊はこれを断った。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4666.html

それに代わって、忠俊に連座して蟄居した者たちが再出仕を許された。特に嫡男の宗俊は、父譲りの実直さを
認められ、書院番・大番頭と昇進を重ねていった。
青山家が再び家光の信頼を得たのを見届けた忠俊は、配所で66年の生涯を閉じた。



それから何年か後、青山因幡守宗俊は、将軍家光の呼び出しを受けた。
「お前の所領3千石に、信州小諸2万7千石を加えて、3万石とする。」
「ははーっ!有難き幸せにございまする!」

「お前の父は、わしの幼き時より犬馬の労をいとわず尽くしてくれた。しかし若き日のわしには、
その事が分からず、良き忠臣を配所で死なせてしまった。その事、未だに悔やまれてならぬ。
ここに青山家を大名に復す。宗俊よ、忠俊がわしに仕えたのと同様に、竹千代(家綱)に仕えよ。」

「ははっ!・・・亡き父も・・・さぞや・・・・・・」
眼からあふれるものを平伏して隠し、ようやく落ち着いて退出しようとする宗俊に、再び家光が声をかけた。

「あぁ宗俊よ、今一つ命じる!お前はこれより下城した後は、どこにも立ち寄ってはならぬ。
まっすぐに帰宅して忠俊の位牌に、この事を伝えるのだ。良いな、頼んだぞ。」

宗俊は、もはや涙を隠すこともなく退出した。(榊原日記他より)
815人間七七四年:2011/09/27(火) 23:45:01.95 ID:syAC0ltj
君子豹変か
家光=DQNというイメージだったけど少し修正w
816人間七七四年:2011/09/27(火) 23:53:46.92 ID:u47H4fz5
ちょっといい話というか、ちょっとほのぼの父子話。

天正六年。
織田信忠が岐阜城で飼っていた四羽の鷹の子が、いずれもいい感じに育った。
いい感じに育てあげた鷹匠は、近頃めずらしいお手柄である。

七月二十三日。
信忠はこの鷹を鷹匠の山田と広葉の二人に持たせて安土へ届けた。
信長はその中から一羽を受け取り、あとの三羽は信忠に返してやった。
鷹匠二人には「育てるのは大変だったろう」と労りの言葉をかけたうえ、銀子五枚ずつに衣服を添えて与えたので、鷹匠は大感激しながら帰っていった。

十月十四日。
信長は信忠の鷹を使い、長光寺山で鷹狩りを行なった。
鷹が獲物を捕らえた為、信長は上機嫌だったという。

信長が鷹を献上される事自体は珍しい話ではないんだけど、一羽だけ受け取る例は珍しい。
817人間七七四年:2011/09/28(水) 00:08:36.53 ID:1zoL4d+g
信長って送られたもの少しだけ貰って残りは返すこと多いよね
息子からはともかく北条から馬送られてほとんど送り返すとか
大名相手には礼儀知らずと取られたりしないのかな
818人間七七四年:2011/09/28(水) 00:13:57.52 ID:dUleUS2Q
時は三方ヶ原の戦いの直前。
徳川家康の家臣が、軍勢を率いて織田家の加勢のため近江に向かっていた。
ダガシカシ、武田信玄が迫っているとの報が届き、慌てて引き返した。
「信玄が来襲するまでに、すぐに浜松に帰らねば!」
と急く家臣たち。だが、軍勢を率いている武将が
「このちかくに浅岡さんっていう弓矢の名人がいてさー、一度行ってみたかったんだよね。」
「との、まさか・・・。」
「寄 り 道 し て よ っ て い く ぞ。」
マイペースである。おまけにその武将がその弓の名手浅岡に教わったのは弓ではなかった。
射掛けという弓の手袋の緒の正式な結び方を教わったのである。
いや、結べたら何でもええやんという周りの家臣のツッコミに、当人は

「もし、今度の合戦で討ち死にした時、射掛けが正式じゃなかったら哂われるやん。」

と答えたとか。彼は三方ヶ原でまっさきに戦端を開いた。
その男とは、徳川家のナンバー・ツーといっても過言ではない人、
西三河衆を率いる石川数正だった。
819人間七七四年:2011/09/28(水) 00:27:59.12 ID:IArBNC1c
そうか数正さんはマイペースな人だったんか
つーかこれは良い話なのかwww
820人間七七四年:2011/09/28(水) 00:46:22.43 ID:Ye6uONLy
>>814
いい話なんだけど、どうせなら元通りの五万石にしてやればいいのにと思ったw
821人間七七四年:2011/09/28(水) 01:40:57.61 ID:BnJeMsMb
>>814
>「宗俊よ、忠俊がわしに仕えたのと同様に、竹千代(家綱)に仕えよ。」

「蟄居になって配所で死ね」って意味ですか?
822人間七七四年:2011/09/28(水) 02:37:50.84 ID:2I2MgonG
>>760
伊達さん絡みで。楽天が新球団の名前を一般公募した時に
“伊達男”=楽天ダンディーズ
と無い知恵を絞ってハガキを出したら、御存知の結果でした。

あれって、最初からイーグルスが決まってて、耳目を集める為の出来レースだったの?
823人間七七四年:2011/09/28(水) 02:42:57.96 ID:oe8+gQSw
出来レースかどうかは知らんが、イーグルスとダンディーズなら俺はイーグルスを選ぶよ
824人間七七四年:2011/09/28(水) 02:46:41.11 ID:X2LCCbDB
じゃあ俺はダーティーズを推す
825人間七七四年:2011/09/28(水) 02:52:21.18 ID:2I2MgonG
>>823
認めます。でもパ・リーグには鷹とカモメ(千葉)があって、鳥が3球団では…と考えたから。

本当にスレ違いです。
ゴメンなさい。
826人間七七四年:2011/09/28(水) 05:29:10.83 ID:AEMAoSma
政宗が伊達男の代名詞と言われても首肯、政宗がダンディーかと言われると首を傾げたくなる。
伊達男とダンディーって違うくね?傾きものの方が伊達男に近いニュアンスな気が。
827人間七七四年:2011/09/28(水) 05:45:00.34 ID:zfcktFr6
>>814
改易の原因の半分は春日局の讒言を家光が真に受けたからなんだよな
828人間七七四年:2011/09/28(水) 13:27:59.68 ID:pC8wEAvU
>>827
井上正就が殺された事件も春日が絡んでなかったっけ?
829人間七七四年:2011/09/28(水) 18:34:41.18 ID:HvgZyHiS
>>826
片目斬り落とし事件。
伊達男と言わずしてなんと言おうか
830人間七七四年:2011/09/28(水) 19:06:35.42 ID:kWXCF/D3
春日局オソロシス
831人間七七四年:2011/09/28(水) 20:53:35.84 ID:7IbfHc1p
楽天のエロ紳士たち。
832人間七七四年:2011/09/28(水) 22:00:36.67 ID:dUleUS2Q
長篠の戦いでのこと。

織田方や武田方も味方内での中は良くなかった(主に幹部)ようだが、徳川方にも雑兵の中で喧嘩する者が現れた。
長年はりあってきた武田勢との正念場である、徳川の幹部たちは当然これを憂慮した。
当然三河武士たちである。喧嘩をあらゆる(暴力的)措置をとって止めようとしたのであろうが、
ダガシカシ、一向にうまくいかなかった。

そこで一計を案じたのが鳥居元忠である。
「兵どもに楊枝を使え、と伝達すればよろしかろう。」
ポカーンな家康。つまり喧嘩を沈めるために「お前ら歯ぁ磨けよ!」と言う訳である。
元忠が言うには、
「もめるときの人間の顔は醜いもの。されば楊枝を携帯させ、身だしなみに気を使うようにさせれば、
 おのずと素行も良くなる。」
とのこと。

なんだか現代の先生の「ボタンは第2ボタンまで閉めろ!」というお説教に近い気がする。
これが実行されたかは不明(というか史実かどうかすら怪しい)だが、
元忠、意外と三河武士の中では相手の心を考えたり読み取ったりするのが得意であったのかもしれない。

833人間七七四年:2011/09/28(水) 22:18:37.48 ID:VoH0GepN
>>828
井上正就の子息と鳥居成次(徳川忠長の家老)の娘の縁談を春日局が持ってきたため、
もともとの縁談を正就が取り消したところ、仲介役だった豊島信満が面目を潰されたことを
怒り、正就は殺されてしまう。という流れだったはず。
834人間七七四年:2011/09/28(水) 22:27:26.94 ID:HvgZyHiS
>>832
商品棚の奥に鏡を設置したら万引きが減った・・・という話を思い出したw
835人間七七四年:2011/09/28(水) 22:56:25.47 ID:xvr4lmRN
「てめえ、口が臭えんだよ!」
「何だと!やんのかゴラア!!」
836人間七七四年:2011/09/28(水) 22:58:27.90 ID:pC8wEAvU
本多忠勝も、身だしなみを整えろと言っているし
三河武士はそういう気質も多いのかな
837人間七七四年:2011/09/28(水) 23:13:24.32 ID:GLMLxktH
首を取られた時に備えて化粧して出陣する武士もいるくらいだから
「武士なら見苦しくない格好をしよう。」みたいな認識はあったんじゃないだろうか。」
838人間七七四年:2011/09/29(木) 00:26:26.81 ID:XUBRYC9d
まあ雑兵足軽に至るまで徹底させる所がいいのではw
839人間七七四年:2011/09/29(木) 01:22:03.24 ID:owLIQX+T
家康自身も意外にも武士の身だしなみ(嗜み)にうるさかったりするんだよな
万が一の場合に備え、頭には香を焚き込んでおけとか言ったり
840人間七七四年:2011/09/29(木) 01:58:46.66 ID:zanImqqh
家康の衣類や鎧は、同時代的にもかなりド派手なんだよね。
全身黄金の鎧なんて秀吉でも付けないようなもの作ってるしw
どうも家康は後の質素倹約の時代に、地味な感じにキャラクターを変更された観がある。
841人間七七四年:2011/09/29(木) 02:12:27.00 ID:T+cE2pzF
ワシ等普段から質素倹約してんじゃん
だもんで戦装束ぐらい着飾るだらぁ
お前等もやってみりん
842人間七七四年:2011/09/29(木) 04:03:19.76 ID:+0TDz4Pk
桶狭間ん時の大高城に金色の鎧着て兵糧搬入したんだっけな。目立つよなあ
843人間七七四年:2011/09/29(木) 06:12:14.80 ID:UxUhVSAl
ガンダムシリーズに出てくる百式のモデルが家康公だからな。
嘘だけど
844人間七七四年:2011/09/29(木) 07:03:23.68 ID:v2ygL4Kk
家康って、普段節約して合戦では出し惜しみしないのが武士の姿って考えだと思う。
関ヶ原の頃のキラキラした若武者に苦言を呈する逸話と整合性取れないけど。
845人間七七四年:2011/09/29(木) 08:05:29.16 ID:JxBp5y97
>>843
一瞬納得しかけたw
846人間七七四年:2011/09/29(木) 09:22:38.85 ID:zanImqqh
>>844
家康みたいな大将がそうするのと、組頭レベルがキラキラした武装をするのはやっぱ違うんじゃないかね?
前の悪い話スレにあった一条さんの逸話じゃないけど、やっぱ下の人間が派手な武装するのは
集中的に狙われて損だと思ったw
847人間七七四年:2011/09/29(木) 09:36:33.15 ID:+m92HzHL
家康に然り、政宗に然り、クロカンに然り、早雲に然り、
こいつらは倹約家であってケチではないからね
節制をして貯蓄に励んでも、いざというときの出し惜しみはしないタイプ

ケチってのは、銭を連れて戦争へいけと嫁さんにマジギレされた前田利家みたいな人のことだからなw
848人間七七四年:2011/09/29(木) 10:41:41.80 ID:s2tN12eE
>>844
キラキラ通としては「そのキラキラは違うんだよ」とか言いたくなるんじゃね
849人間七七四年:2011/09/29(木) 12:22:05.43 ID:Rcwy8hs3
なにそれ可愛い
850人間七七四年:2011/09/29(木) 12:28:32.26 ID:CYQQUAaN
そのキラキラはキライってか
851人間七七四年:2011/09/29(木) 17:37:06.38 ID:XUBRYC9d
あまり関係ないが戦国武将の馬印も金が多いね。
852人間七七四年:2011/09/29(木) 18:23:37.06 ID:UxUhVSAl
動乱期の武士の遺訓みると、
最近の若い侍は茶の湯なんぞに金使って・・・
みたいな人多いからな。
戦があるのが常な時代の武士は武具にこそ金使うのがデフォなんだろうね
853人間七七四年:2011/09/29(木) 18:29:56.91 ID:7couifVY
直江状が本物として、山城守が三河者の家康に
「上方の武士は茶器などを集めているが、田舎武士は武具に金をかけるのだ」
と言っているのに違和感あったが、家康も派手好みだったのか
854人間七七四年:2011/09/29(木) 19:02:36.28 ID:s2tN12eE
>>853
侘び茶が広まってない地域だと茶の湯というと闘茶のイメージが強かったんじゃね?
855人間七七四年:2011/09/29(木) 19:43:36.01 ID:9Wn8sJjR
馬印は寧ろキラキラ目立たないいかんのじゃないか?
856人間七七四年:2011/09/29(木) 19:52:59.63 ID:6Svqa0cw
家康の馬印に赤丸が書いてある金の扇があったと思うけど、あれは何故傾けてるんですかね?
857人間七七四年:2011/09/29(木) 20:21:08.65 ID:+m92HzHL
扇子は91度以上180度未満で開くから、
片側を垂直に立てた棒にくくりつけると、片側は水平にも垂直にもならないから
858人間七七四年:2011/09/29(木) 20:30:22.28 ID:cyH9kFXl
>>856
棒に閉じた扇を括って扇を開くと自然とあの傾いた形になる
元々アドリブで作った馬印だし、弦を担いでその傾いた形から変える必要性がなかっただけかと
859人間七七四年:2011/09/29(木) 22:06:14.75 ID:xCOFNUC4
武者は目立って自分の手柄をアピールしてなんぼ。
目立つと敵の的になるのは当たり前で、敵に狙われるぐらいに自分の馬印を有名にしなくちゃいけない。
860人間七七四年:2011/09/29(木) 23:41:38.44 ID:kIudkm3p
「小さな旗指物」

上杉謙信の家臣に北条長国という武将がいた。彼の旗指物は白い練り絹に黒い蟻の絵を描いた一尺四方という小さいものだった
ある時謙信が長国に何故そんな小さい旗指物を使っているのか尋ねた所、長国は
「私は戦の時は進む時には必ず一番駆けをし、退く時には必ず殿を勤める覚悟でいます。
つまり戦場で常に敵の一番近くにいるのですからこの程度の大きさでも充分敵の目に入るだろうと思い、使っているのです。」と答えた。
謙信はこの答えに深く感心し、頷いたという。
861人間七七四年:2011/09/29(木) 23:51:46.99 ID:u3Ew21Iu
初鹿野伝右衛門「ですよね〜」
862人間七七四年:2011/09/30(金) 01:29:24.11 ID:yhcwoWM8
国崩しきたああああああ
【歴史】大友宗麟が製造 最古の国産大砲か? ロシアの博物館に展示
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1317296597/
863人間七七四年:2011/09/30(金) 13:59:44.52 ID:V5py4wHV
キタジョウさん?
864人間七七四年:2011/09/30(金) 19:05:21.11 ID:Yk1NRgcF
仙石「戦場で地味なかっこしてるヤツって何なの?」
865人間七七四年:2011/09/30(金) 21:38:24.89 ID:Moxt7eI8
あなたは派手というか五月蝿いでしょ
866人間七七四年:2011/09/30(金) 21:43:25.53 ID:xxQAilDg
地味な格好で殿つとめるのと
派手な格好で真っ先に逃げるのと
867人間七七四年:2011/09/30(金) 22:10:19.73 ID:Dvjq8KxX
鈴まみれ仙石さんは当時でも周りから
「幾らなんでもあいつ必死過ぎじゃない?^^;」とか思われなかったのだろうか
868人間七七四年:2011/09/30(金) 22:21:55.80 ID:BrC6ALvo
北条長国って誰だと思ったら北条景広か
869人間七七四年:2011/09/30(金) 22:32:47.26 ID:YOGY7AUu
吉川元春の深謀



太閤秀吉の九州攻めの際、安国寺恵瓊が吉川元春の陣を尋ねた。元春は折しも病気中であったため出雲、石見の諸将も多く来ていた。
そこで元春と恵瓊を中心に諸将達が軍談義をしたが、恵瓊が
「島津はここ数年、我が物顔に九州を暴れ回っていたが、来春にでも太閤殿下がご出馬されれば、たちどころに一門根絶やしとなるだろう」
と言うと、一座の諸将も同意した。所が元春のみが異議を唱えた。
「いかに太閤殿下と言えども、そう簡単に島津を根絶やしには出来ぬ。天下は未だに殿下の手中に納まり切れてなく、
このような時期に何年も大軍を九州に置くことは出来ない。かと言って島津には名将が多く、地の利もあるのだから短期決戦でもそうは勝てまい。
しかし島津とて完全に勝ちきる事は不可能なのだから、一度決戦してから最低薩摩、大隅を確保するための和平交渉に出るだろう。
太閤殿下も島津は仇敵ではないのだから、今までに切り取った国を返せば、根絶やしになどせず、薩摩大隅の領有を認めてやるに違いない。」
結果的には元春の予想した通りになり、恵瓊達は元春の深謀に大いに感服したと言う。
870人間七七四年:2011/09/30(金) 22:45:22.94 ID:cYjFeDWS
思うに仙石さんは軍監という役割には向かない人だったんだと思う
871人間七七四年:2011/09/30(金) 22:54:42.71 ID:PMTpUpUj
>>864
その逸話読んだ時、こいつがんばってるアピールし過ぎうぜえと思ったのは俺だけじゃないはず
872人間七七四年:2011/09/30(金) 23:29:53.12 ID:IV74X+lV
まあ、頑張ってるアピールしなければ御終いな状況だしな
873人間七七四年:2011/09/30(金) 23:37:29.33 ID:EkLvusEg
アピールだけでなく本当に頑張ったしな
874人間七七四年:2011/09/30(金) 23:41:34.53 ID:G8M61ZWB
尾藤知宣が最後どうなったか知らない奴多すぎ
875人間七七四年:2011/09/30(金) 23:49:42.74 ID:f9HgjpJW
そういやラスボスって島津にしても佐々、北条、長宗我部あたりも許してるよな。

北条は家康への配慮かな?
佐々は二度目はなかったけど。
876人間七七四年:2011/10/01(土) 00:15:00.63 ID:TfC3dsY+
北条は許されるまで氏直が持たなかったという話が。
結局河内佐山一万石…
877人間七七四年:2011/10/01(土) 00:19:42.17 ID:2aFH7PPE
>>876
狭山藩庁の狭山陣屋から、きっちり障子掘が発見されたのはやっぱり北条だなw
878人間七七四年:2011/10/01(土) 00:25:52.26 ID:YkmngnrG
実績と信頼の障子掘。ただし手入れが面倒
879人間七七四年:2011/10/01(土) 01:52:05.12 ID:EMucW1XH
弟の太田氏房も後を追うように死んでるのが怪しい
秀吉というより家康がなんかしたような気がする
880人間七七四年:2011/10/01(土) 02:27:19.57 ID:rUza4jNS
そうか?家康にとって婿である氏直はキープしたいカードだったと思うぜ
881人間七七四年:2011/10/01(土) 02:38:40.67 ID:v/Z1mi6o
>>847
利家は信長のお気に入りを切って追放されてもそれでもどうしても
信長に仕えたくて二年間浪人で貧乏暮らしをしてこたえてるから
でしょう。
他のメンツはそこまでのビンボーを味わっていないからね。
882人間七七四年:2011/10/01(土) 03:48:35.90 ID:AijPZDUr
関ヶ原合戦の後、逃亡していた石田三成・小西行長・安国寺恵瓊の三名が方々で捕らえられ、洛中で引き回しの上斬首に処せられることになった時のことである。

その時正則は、この三人に小袖を二枚づつ贈られ、受け取らせた。

これに三成は特に心を動かされ「大夫殿のお心遣い、深く感じ入りました」と悦び、その小袖に着替えた。
そしてその小袖姿で洛中を引かれ、三条河原で首打たれたということである。

(福島太夫殿御事)
883人間七七四年:2011/10/01(土) 07:06:46.35 ID:XmL9vE6y
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3079.html

家康の時とはえらく対応が違うなw
番使が「上様」と言わなかったら素直に礼を述べたんだろうか。
884人間七七四年:2011/10/01(土) 13:10:56.10 ID:kszt1gKF
三成と正則の仲って実際どうだったのかね
講談的には文武の両極で頭の天辺から足の爪先まで嫌いな対立構図になりがちだが
885人間七七四年:2011/10/01(土) 14:21:21.82 ID:cGtB0+zg
三成を好きだった武将の方が少ないんだろう
豊臣家臣としての主張は三成のほうが筋通ってるのに
あれだけ離反されたんだから
886人間七七四年:2011/10/01(土) 14:24:46.22 ID:2aFH7PPE
> 豊臣家臣としての主張は三成のほうが筋通ってるのに

そこは議論があると言うか、先に秀吉の遺命を破ったのは三成の方だというフシがある。
少なくとも秀吉が死んだ途端、対家康の政治闘争を始めたのは間違いなく三成。
887人間七七四年:2011/10/01(土) 14:35:28.74 ID:M5eha+Wg
>>885
好き嫌いで陣営選んでるわけじゃないんだな
基本的に家を残すために勝ちそうな方についているたくさんの家来を養う責があるわけだし
正則も福島家存続のためには(豊臣見捨てても)是非も無しみたいな書状残ってたろ?
888人間七七四年:2011/10/01(土) 15:39:33.19 ID:VaiSmuLA
西国大名でさえそうなんだから、東北がカオスになっても不思議はないな
伊達と佐竹が関ヶ原直前に和睦に向けて使者のやり取りしてるんだぜw
889人間七七四年:2011/10/01(土) 16:29:39.02 ID:cGtB0+zg
>>887
それは大坂の陣じゃない?
関ヶ原は福島が徳川の味方しなければ状況は全く変わってくるはず
890人間七七四年:2011/10/01(土) 16:41:33.35 ID:Gedb5xCM
>>887
最後は好き嫌い
891人間七七四年:2011/10/01(土) 16:50:46.54 ID:EenNPniL
小野寺義道さんが猛然と頷いています
892人間七七四年:2011/10/01(土) 17:02:35.74 ID:g7M+xTMV
>>889
三成が豊臣家主流になると結局正則にとってはマズい
893人間七七四年:2011/10/01(土) 17:27:07.88 ID:g7M+xTMV
初めてのヨーロッパ

天文20年、フランシスコ・ザビエルが日本から離れる際、山口で洗礼を受けさせた日本人ベルナルドとマテウス(本名不詳)を連れてインドまで行った。
その翌年ザビエルはポルトガルのイエズス会に
「この二人の日本人に対し、出来るだけ丁重にもてなし、教会やら学校といった欧州の珍しい事物を視察させてやるべし
そして彼等を帰国させて日本人にその事を伝えさせるのだ。日本の貴族は海外旅行しないからこの二人が恐らく日本人で初めて欧州に行く事になるだろう。
他の信徒達にも欧州旅行を進めたが断られてしまった。だからとりあえずこの二人をローマに送ってその翌年帰国と言う風に計らってもらいたい。」
という紹介状を書いた。しかしマテウスはインドで死に、ベルナルドは欧州に行ってローマやポルトガルのコインブラまで行ったが、
結局そこの教会学校で死んでしまい、日本人初の欧州旅行者として帰国出来ずじまいだった
894人間七七四年:2011/10/01(土) 17:29:53.31 ID:n0fjwKYT
突き詰めれば
石田三成が生きてたから関ヶ原の戦いが起こって、そして西軍が負けた。
豊臣家の安泰を真剣に福島公が望んでいたのなら三成公と淀君は暗殺しとくべきだった
895人間七七四年:2011/10/01(土) 18:03:09.10 ID:AR4WGD0V
なにこの正則的思考w
896人間七七四年:2011/10/01(土) 18:21:21.06 ID:QLNmfwXs
前田上杉宇喜多毛利島津と各個撃破されておしまいw
897人間七七四年:2011/10/01(土) 19:37:32.87 ID:KTfOlJ3q
>>893
これは悪い話というか残念な話なのでは…
外国に行った人といったら、まーくん絡みのあの人思い出すけど
せっかく帰ってきたのにやっぱり残念なことに
898人間七七四年:2011/10/01(土) 20:48:16.43 ID:HsnVRuGy
何となく思いついた

【突撃四天王】
・最上義光
・蒲生氏郷
・黒田長政
・井伊直政
899人間七七四年:2011/10/01(土) 21:05:46.97 ID:8VUJVezQ
【ネット】 「韓国は、日本をコピーしまくり」動画が話題に…各国のネットユーザーに、嫌韓が広まりつつある★6
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1317463987/l50



↓まだ見てない方はどうぞ↓

日本語版
http://www.youtube.com/watch?v=sW4H2PGj6JU&feature=player_detailpage
英語版
http://www.youtube.com/watch?v=FaOCQ9AQyP0&feature=player_detailpage
900人間七七四年:2011/10/01(土) 21:10:39.39 ID:VaiSmuLA
>>898
四天王というからには五人いなければ駄目だぞ
901人間七七四年:2011/10/01(土) 21:35:30.31 ID:YMA5xABP
上杉謙信や立花道雪も突撃四天王に推薦してみる

これで四天王は五人に・・・



あるぇ?
902人間七七四年:2011/10/01(土) 21:39:04.81 ID:eHM/UbKG
小早川隆景も結構突撃型だったよな
903人間七七四年:2011/10/01(土) 21:45:55.60 ID:9e6bD10n
その部下の乃美宗勝も何度も一騎打ちで兜首上げてる猛者
904人間七七四年:2011/10/01(土) 22:36:49.58 ID:nEPELKqS
部下というか、陪臣ならいくらでも突撃型はいるでしょう
905人間七七四年:2011/10/01(土) 22:47:10.72 ID:9e6bD10n
一応毛利の方面軍も担った城主で水軍大将
906人間七七四年:2011/10/02(日) 00:47:32.52 ID:DbFoKHop
以下、とある武将の送った書状の訳文(一部虫食いの為要約)である。誰が書いたか当ててみよう。



『常識知らずとは思いますが、あまりにもそちらの様子が気遣わしく思いましたので一筆したためました。

 一つ、早くも寒い季節になってまいりましたが、いかが達者でお過ごしでしょうか? 
 一つ、普請の方はどこまで進みましたか? 
 一つ、気分はいかがですか? 事細かにお聞かせください。
 一つ、私はこちらへ下ってきて、大体予定通りに進んでいます。ご安心ください。

 しかしながら私が再び世間に出ることを、貴方は笑われることでしょう。
 されど釈迦も再び人の世を出られ、遙か遠くまで広まる教えを作られたと言われています。
 そういうことですから、私は昔も今も四六時中、事を成すことばかり考えていました。

 定めなき世の習いですので、もう貴方に会えなくなるかもしれないと思うと、心引かれる思いがします。
 ただし、また定めなき世なだけに、普請の済んだ貴地で再会できるかもしれません。

 あまりにも伝えたい事が多くて筆の止めどころがありませんが、どんな事も書き残しておきます。恐惶謹言』



署名は“半(塙) 団右衛門 勝忠”。
大坂入城の直前(慶長19年9月29日)に、親しい知人に宛てたものと思われる。
諱がよく知られた直之ではなく勝忠なのは、
旧主・加藤嘉明(長い間、茂勝と名乗っていた)の偏諱を使い続けていたのだろうか?

豪傑の意外と繊細な一面が垣間見える一通である。
907人間七七四年:2011/10/02(日) 00:52:02.46 ID:haK3YWe/
おせち商戦スタート 復興支援へ東北の味覚も 注目「KIZUNA」
http://sankei.jp.msn.com/economy/news/111001/biz11100112060011-n1.htm

これ(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3420.html)思い出した。
もう今年もそんな季節なのか・・・。
908人間七七四年:2011/10/02(日) 03:39:12.68 ID:9ybos65E
主君替え、八人目

何としても主君秀長に恥をかかせるわけにはいかなかった。

徳川家康と豊臣秀吉の和議が成立し、ようやく家康が上洛の運びとなった頃であった。
聚楽第のそばに家康の館をつくるよう命じられた秀長は、
縄張りと造営を高虎に任せた。
「まずもって、万が一のことがあってはならぬ。」
高虎は、華麗な秀吉好みより、堅固な屋敷造りを心掛けた。
「ここはやはりどうしても台所門が欲しい。欲しい、が。」
当初の予算はとうに使い切っている。
高虎は私財をつぎ込んで、台所門と外溝を造った。

上洛を果たした家康は、その屋敷を見ていたく感服した。
「さては、さすが秀長どの。よう心得てござる。」
「いえいえ、それがしは、ただこの者に命じただけ。
 なお、台所門はこの者の私財を投じておる由にございます。」
促されて、高虎は大声で名乗った。
「藤堂与右衛門高虎にございます!」
三十一歳の時である。
高虎は家康から長光の刀を賜ったのだった。


今や事は急を要していた。
その日の朝、家康は高虎を呼んで告げた。
「朝鮮に行って、在陣している方々に早く帰帆の工夫を考えるよう、伝えてもらいたい。」
そして、その晩。
「高虎殿は近いうちに出航するであろうな。」
家康は、言い残したことがあるから来て欲しいと、高虎のもとに使いを遣った。
しかし、使いは手ぶらで帰ってきた。
すでに高虎は博多に向けて出航したあとだったと言うのだ。
「そうであった!」
家康は手を打ち、こう言ったという。
「わしはやつが与右衛門と称しておる時から知っている。
 秀吉公の見立てで、どう出世してきたかもな。
 万事に早きこと、かくのごとし。只者ではないわ。
 若い者どもにも見習ろうてほしいものじゃ。」

それからの高虎の歩みは、徳川家康とともにあった。
さながら中学の歴史教科書の年表の見出しのごとくである。


外様で唯一、家康の臨終に侍ることを許された藤堂和泉守高虎は
その時、津藩二十八万石の藩主になっていた。
909人間七七四年:2011/10/02(日) 04:40:58.83 ID:0Y6gSLwG
藤堂高虎って家康に
「国に危険あらば藤堂を一番手とせよ。」
とまで言われてるんだよねぇ。後宗教変えたり。
910人間七七四年:2011/10/02(日) 08:08:51.22 ID:7MyDJQes
幕末に生きた藩祖の縁

津軽為信は南部系久慈氏に生まれて大浦家に婿入りしたとも、大浦家の血筋とも
言われるが、津軽統一後は大浦家に近衛尚通の落胤がいたという伝えに着目して、
その孫である近衛前久の猶子となり、本姓を藤原に変え京都政界に足場を築いた。

それから300年近く過ぎた幕末。弘前藩本国は当初、奥羽越列藩同盟寄りだったが、
藩京都屋敷御用人を任された西館孤清は、鳥羽伏見の戦い等で倒幕側優勢と知る。
付き合いが続いていた近衛家から、勤王に励むべしという朝廷の令書と、近衛家の
教書をいただいた西館は帰国して藩論を新政府側に統一した。

最後の功名稼ぎに南部領に侵攻して撃退される(野辺地戦争)なんてことがあった
ものの、戊辰戦争では官軍側だったということが考慮されて弘前城は破却を免れ、
江戸時代の天守が残る数少ない名城として現在も残っている。

西館の墓は江戸の旧下屋敷横の寺にあり、有志が今月25日に120回忌法要を開いた。
(青森県の地方紙「東奥日報」より)。


主家が滅んで再仕官を繰り返しただけなのに、鳥羽伏見で幕府側→討幕側に寝返っ
たら「藩祖に似たり」と罵られた藤堂家とか、宮中で煙草を1本失敬したら「血は
争えんな」と天皇陛下にからかわれて学者に先祖の経歴調べを頼んだ蜂須賀家とか、
藩祖がやったことというのは虚実、善悪含めて影響が大きいようです。
911人間七七四年:2011/10/02(日) 08:49:26.71 ID:yRyBcZbg
藤堂家が一番手にされた理由が分かった
行軍は間違いなく速くなるな
要地を占領して陣地造りとかも向いてそう
問題は先頭が始まってからだが

もう一つ早起きは三文の得ならず
早出は三十万石の得と言うわけだな
早起きしても遅刻魔の俺は今日悟った
しかし手遅れになった頃でないと仕事がはかどらないんだよな
912人間七七四年:2011/10/02(日) 08:50:09.08 ID:yRyBcZbg
四行目は先頭じゃなく戦闘だ
913人間七七四年:2011/10/02(日) 10:14:03.33 ID:SpA2YS9Q
しかも津藩は藩主じゃなくて、在城の家臣団の判断で官軍についてるしな
914人間七七四年:2011/10/02(日) 11:17:46.86 ID:qtrqLuxi
>>906
団右衛門は豪傑と言われるわりに結構人間臭いところがあって好きだなあ
915人間七七四年:2011/10/02(日) 12:48:42.47 ID:jJXvuh5t
>>904
最上義光
蒲生氏郷
黒田長政

小早川秀秋?
(一応、国持ちなのに半島で斬りまくったらしいし)
916人間七七四年:2011/10/02(日) 13:32:21.30 ID:51esCWXX
秀秋は生まれるタイミングを間違えた
もしくは早死にし過ぎた
917人間七七四年:2011/10/02(日) 13:56:40.08 ID:NITRYeJl
突撃型の大将は戦国前期のほうが多い気がするが(鉄砲の普及率の関係で)
後期の武将のほうが強く印象に残るな
918人間七七四年:2011/10/02(日) 14:04:32.25 ID:SHeRS1zE
半島で蹴りまくった人も
919人間七七四年:2011/10/02(日) 14:11:34.00 ID:jJXvuh5t
>>917
やっぱり、創業者は綺麗ごとじゃ務まらんからじゃね?
晴信に一騎駆けの伝説が少ないのは、お父さんから権力基盤毎貰える、継承者の立場だったからだろ。
920人間七七四年:2011/10/02(日) 14:11:57.87 ID:mlmumIff
秀秋は関ヶ原では動くの遅いからなあ
921人間七七四年:2011/10/02(日) 18:25:03.08 ID:YXecC1yN
経験則


慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いも間近な信濃の出来事。
東軍の森忠政の家老である各務元正の軍が森家と領を接する西軍の真田昌幸の動きを牽制する為、国境付近の警備を請け負っていた時の話である。
病床に臥せり既に指揮を執れる状態では無かった元正は何か思う所があったのか息子たちを集めると一つ助言をした。

元正「真田の軍勢が弱々しく兵を退いても味方の先手の備えを崩して包囲しようとしてはいけない。
    こういう時は横に回りこませてある兵に味方が不意打ちを受ける事があるからだ。」

こうした元正の助言を受けて守備の任に就いた各務軍。
現れた真田の兵に鉄砲を撃ち込むと割りとあっさりと引き下がったが、元正の言うとおりに侮る事無く備えを崩さずに決して追いかけない。
その後も何度か真田軍が現れたがその度に鉄砲を撃って追い返すといった事が繰り返され、各務軍はさしたる被害を出すこと無く適当にあしらうだけで守備の任を果たしたのであった。
922人間七七四年:2011/10/02(日) 19:01:17.21 ID:0pPwHX/l
かがみんの遺訓か・・・(ノД`)・゜・。
923人間七七四年:2011/10/02(日) 19:16:21.83 ID:2NwQR/ht
>>874

あれねえ。けっきょく尾藤さんとセンゴクの違いは何だったんだろう。
秀吉自身の好き嫌い&虫の居所とかかね
924人間七七四年:2011/10/02(日) 19:48:53.44 ID:TxoZzs2z
戦場には立たなくても大体パターンで何が起きるか読めるんだろうな、各務さん。
925人間七七四年:2011/10/02(日) 19:53:34.46 ID:8qK17HA3
>>923
仙石→家康の斡旋+陣借りして武功をあげる
尾藤→戦終わってから謝りに来る
926人間七七四年:2011/10/02(日) 20:12:55.48 ID:PimrdnBO
例えば、又左も信長の勘気を蒙った時は陣借りして手柄を何度も立ててようやく許してもらってるわけだし。
なんの手柄もなく、ただ許せ、って端的に言って「お前が俺を追放したのは間違いだってわかっただろ」って
言うようなもんだと思う。

使えねーんで首にした奴が、半年位して何の前触れもなく出社してきて、元通りに雇えっていきなり言ってきた
ようなもんだろ。正直、常識はずれだと思うぜ。
一方センゴクは系列子会社の有力社長の元でプロジェクト成功させて、その功績をもって、
以前の失敗の埋め合わせにこういう功績を挙げました、復帰させて下さい、ってその子会社の社長に口利き
してもらって訪ねてきたようなもの。 復帰させる理由もたつし、理由があるのに無碍に断れば社長の顔を
潰すことにもなる。 きちんと外堀から埋めていけば、首にしたほうだってまー許してやろうか、って話になる。
927人間七七四年:2011/10/02(日) 20:58:48.60 ID:BAOI441A
卜伝ドラマが割と面白かったので、卜伝のお話

武者修行中のある日、近江の坂本から舟で琵琶湖を渡っている時
同じく武者修行中の武芸者もまた、その舟に乗っていた

「俺は今日まで立ち合い勝負で負けたことない!」と自慢話に花を咲かせる武芸者
最初はスルーしていたが、だんだん鬱陶しくなってきたのか
「俺も負けたことないんだけどー」とその男を挑発しだした

剣術は何流だと聞かれ、無手勝流と答える卜伝
ならば勝負だ! ということになり、船頭に頼んで近くの小さな島へ寄ってもらうことに
そして相手が先に、その島に上陸したのを見届けた卜伝は

船頭の手にしていた櫂をヒョイと手に取り、島を一突きした

舟はそのままゆらゆらと、男を小島に残したまま、一気に沖へと向かっていきましたとさ

「これが、無手勝流の極意なり!」
928人間七七四年:2011/10/02(日) 21:28:27.80 ID:UAk0WxbK
落語の「巌流島(岸柳島)」そのままじゃないか、と思ったら
塚原卜伝由来と言われているのか
929人間七七四年:2011/10/02(日) 22:49:11.26 ID:K84TBHeL
武芸者はちゃんと帰れたのだろうか?
930人間七七四年:2011/10/02(日) 23:27:28.12 ID:Jbuh2CPu
これまた随分使い古されたのをドンと持ってきたな
931923:2011/10/02(日) 23:39:30.54 ID:JWHRoVqT
>>925
>>926

なある。勉強になりました。
尾藤さんは小田原攻めの2年前に大和で病死って説もあるのね。
932人間七七四年:2011/10/02(日) 23:49:16.18 ID:lOYUDStY
>>928
『武芸小伝』に出てるよ。
933人間七七四年:2011/10/03(月) 00:06:53.57 ID:vmiEx/n8
大友宗麟が製造 最古の国産大砲か?
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/265908

ソーリンの知名度更にUPか
934人間七七四年:2011/10/03(月) 00:12:42.62 ID:P8UOUO3r
935人間七七四年:2011/10/03(月) 00:14:41.04 ID:vmiEx/n8
>>934
あ、既出だった ごめんよ
936人間七七四年:2011/10/03(月) 03:26:06.33 ID:8DAtZJ1J
>>925
山上宗二は戦の直前に北条陣営から逃げてきたからあんな事に・・・
937人間七七四年:2011/10/03(月) 18:46:42.49 ID:EBKeU9Xu
大坂夏の陣において永見新右衛門は、衆目を驚かす活躍を見せた。しかしそれは抜け駆け等、軍令違反を
重ねてのものであり、軍法に照らし合わせた結果、新右衛門には切腹が命じられることになった。

そんな時、新右衛門の実父である今村彦兵衛が、首級を持って戦功の報告に現れた。
これを聞きつけた本多佐渡守正信は、急いで彦兵衛のもとに駆け寄った。

「でかした、彦兵衛どの!実は、これこれ、こういう事になっておる。どうじゃ、その戦功に換えて
上様(徳川秀忠)にお願いする儀があろうが。ん?」
「急に言われても、申し様がございませぬ。ましてや、一たび他家へ養子に出した子の事など。」

「ええいッ、頭の固い・・・!」
そこで正信は花籠を取り寄せると、彦兵衛の持って来た首を入れて派手に飾り立て、秀忠の首実検に及んだ。

「やっ、立派な首ではないか。これは誰の取った首だ?」
「今村彦兵衛が上げたる首にございます。」
「なに、彦兵衛の?・・・よし、彦兵衛を呼べ。」

御前にまかり出た彦兵衛に、秀忠は諭すように言った。「おお、彦兵衛よ。若い者が功に逸り、色々致すは
当然のことだが、老年のお前がこのように功を誇るは無用のことに思うぞ。以後、自重せよ。」

横で聞いていた正信は、この時とばかりに飛び出した。

「聞いたな、彦兵衛どの?!『若い者が功に逸り、色々致すは当然』との仰せじゃ。つまり、抜け駆けした
新右衛門も、当然の行いゆえ御免、との思し召しよ。何をしておる、早く御礼を申し上げぬか。」
「!・・・上様、ご厚情のほど、深く御礼申し上げまする!」

「佐渡め。」
言葉尻をとらえられた形の秀忠だったが、二人をとがめるような事はせず、苦笑して席を立つのみだった。

その後、新右衛門は謹慎を命じられたが、謹慎が解かれると加増を受けたという。(徳川実紀より)
938人間七七四年:2011/10/03(月) 19:20:09.18 ID:kkOtqHJj
佐渡守とんち話
939人間七七四年:2011/10/03(月) 19:31:06.77 ID:S9YHBjws
加増されてよかったね
940人間七七四年:2011/10/03(月) 19:45:43.35 ID:f/4o4xvD
いい人だな 正信
941人間七七四年:2011/10/03(月) 20:55:04.71 ID:7dRvxrP6
すごいほんわかする正信だ
942人間七七四年:2011/10/03(月) 21:35:10.54 ID:S2w8xHJ1
なのに息子と孫は冤罪で改易。
配流先の居室は窓や戸を打ち付けられて蒸し風呂状態。
そのまま無念の死・・・・
943人間七七四年:2011/10/03(月) 22:34:33.94 ID:6uN1OnSv
正純ならそのまま切腹させそう
944人間七七四年:2011/10/03(月) 23:16:59.96 ID:S9RO6UXB
新右衛門さんよかったね
945人間七七四年:2011/10/04(火) 01:01:16.92 ID:l/Pf5y3w
正信は腹黒いだのなんだの言われているけど
ちゃんといい話も残ってるんだよなー 信之兄さんにも優しかったし

秀忠はこれ言われるまでは、罰しようと考えていたのかな?
でも正信に言われちゃって、仕方ねーなーと思ったのかね 雰囲気が良い話だ
946人間七七四年:2011/10/04(火) 01:31:50.79 ID:ibnDz7zs
秀忠のちょっと厳し過ぎるんじゃね?って罰を正信が腹芸で止める話は他にもなかったっけ?
947人間七七四年:2011/10/04(火) 02:53:05.04 ID:xSmuQ+RP
S守さんマジいい人過ぎるw
948人間七七四年:2011/10/04(火) 11:17:00.76 ID:RuYlgtUU
本多さんの味方作りじゃねえの?
949人間七七四年:2011/10/04(火) 13:04:53.62 ID:ozMkke3o
軍令違反を咎めないといけない立場の秀忠と腹黒正信によるやらせかもしれん
950人間七七四年:2011/10/04(火) 13:14:10.74 ID:igl6I+jS
サドは腹の中は真っ黒だけど、
それを私利私欲に使わないから嫌いにはなれないな

同僚だったらウザいと思うのは間違いないがw
951人間七七四年:2011/10/04(火) 13:24:12.42 ID:/28pMXmp
清正の虎退治異聞

朝鮮の陣でのことである。加藤家の足軽某が、虎にくわえられて連れ去られてしまった。
虎はすぐには食おうとはせず、鼠をいたぶるようにじゃれていたが、いつしか寝てしまう。
そこで足軽が腹や脇の下を撫でてやると、気持ちよさそうにしている。足軽が周囲を見回すと、
木々に蔦葛が絡まっていた。このツタを噛み切って伸ばして、その先で虎の「キン」を撫でてやったら
熟睡してしまった。足軽はツタの先を木に結わえ、もう片方を虎のキンにくくりつけた。
そこでダッシュして逃げようとしたところ、虎は目覚めて襲いかかろうとしたが、くくりつけられた
ツタが締まってキンが潰れてしまい絶命したという。

無事帰還した足軽は仲間を呼んで虎の死骸を持ち帰った。

清正は足軽を大いに褒め、侍に取り立ててやった。そして「きん玉」という苗字をつけてやったという。


参謀本部編「朝鮮の役」より引用
原典は「吉田物語附尾」
952人間七七四年:2011/10/04(火) 13:33:40.59 ID:1ega2uXN
落ちで笑った
褒美で金玉だから回りは笑えないだろうからきついだろうなw
953人間七七四年:2011/10/04(火) 13:54:01.78 ID:m8/6VeaV
子孫が残っていたら間違いなくいじめられる
954人間七七四年:2011/10/04(火) 14:01:31.96 ID:/HDIGoBr
金玉と緊玉を掛けて……たりはしないかな、やはり
955人間七七四年:2011/10/04(火) 14:03:54.98 ID:PUmLoT9A
金玉さんは昭和まで残って改姓してる
956人間七七四年:2011/10/04(火) 15:06:26.17 ID:oThxZfUm
>>955
そうなのか
でも営業だと、名前だけでウケが取れるから「もったいないな」と思わなくもないw
957人間七七四年:2011/10/04(火) 15:57:32.27 ID:Qz9MqGUu
【人権侵害救済法案・外国人参政権はTPPから始まる】

TPPという日本崩壊必至の協定に野田内閣は交渉参加しようとしている
11月12日のAPEC首脳会議でアメリカと大筋合意の予定

TPPは、市場アクセス 工業、繊維・衣料品・農業、 貿易円滑化、政府調達
知的財産権、電気通信、金融、投資、環境、労働力など、24の作業部会で「自由化」がテーマ

アジア地域などから安い労働力が大量に入り
賃金低下・失業・社会保障費の増大と、日本社会は崩壊
外国人参政権や人権救済法案は簡単に成立する

政府・政党・地元議員へ反対の意思を伝えよう

検索⇒ ここ変だろう? ウィキリークス 米国公電「TPPで日本と韓国を潰せる」

TPPに反対抗議する奥様★ 1
ttp://toki.2ch.net/test/read.cgi/ms/1317472962/l50
958人間七七四年:2011/10/04(火) 16:10:42.46 ID:Y4fG9gwC
虎丸とかにしてあげればいいのに
いくらなんでも金玉はあんまりです(´;ω;`)
959人間七七四年:2011/10/04(火) 18:01:02.40 ID:MWv32dzc
これで名前が均(ひとし)になったら、暗殺された上、バラバラにされかねない
960人間七七四年:2011/10/04(火) 20:00:57.47 ID:+EgqQdzO
>>951
たぶんこうだ。
加藤清正「式部(榊原康政)どの、馬印をお貸しいただきかたじけない。」
榊原康政「いやいや、なんの・・。それよりウチの殿の命名がさ・・」
加藤清正「!・・・新しい・・・。われも習わん。」
961人間七七四年:2011/10/04(火) 21:32:40.78 ID:VJX4jmh7
津軽に残った石田三成の血筋

関ヶ原の戦いで津軽為信は東軍に加わったが、嫡子の信建は大阪城にいて、
豊臣秀頼の小姓を務めていた。西軍敗れるの報が伝わると、小姓仲間だった
三成次男・重成を連れ帰り、津軽で匿った。

重成は後に杉山源吾と名を変えた。子孫は家老も出す藩重臣となり、通字は
「成」を使った。墓などでは豊臣姓を名乗った。
962人間七七四年:2011/10/04(火) 21:47:27.55 ID:VJX4jmh7
>>961の続き

信建は1607年、為信死去の直前に夭逝し、2代藩主は弟の信枚が継いだ。
彼が1610年頃に正室に迎えた辰姫=辰子は高台院(ねね)の養女になって
いたとはいえ、三成の三女だった。

直後に家康養女の満天姫を正室として迎えたため、辰姫は側室に退き、
関ヶ原の戦功で加増された上野国大舘に暮らして大舘御前と呼ばれた。
その後も2人は睦まじく、信建は参勤途中に大舘に立ち寄った。

妻2人は各々男児を産んだが、3代藩主は辰姫が生んだ信義が継いだ。
後に御家騒動の火種にもなるが、信枚の遺志が強かったと言われる。

満天姫が産んだ信英は旗本→黒石藩祖として遇されたが、福島家からの
連れ子だった大道寺直秀は悲劇的な最期を遂げる。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-534.html
963人間七七四年:2011/10/04(火) 22:07:02.93 ID:VJX4jmh7
>>962

辰姫と初期弘前藩については、弘前市本社の「陸奥新報」で今春から、
郷土史家の田澤正氏が「津軽信建と『津軽の江』」という大河ドラマに
ちなんだ連載をしている。信義は「じょっぱり殿様」と言われるくらい
良くも悪くも我が強い藩主だった。田澤氏は「祖父は家康に挑んだあの
三成であるという自負から自由に行動したといわれる」と記している。

他にも弘前は城の稲荷社で密かに祀った像が明治になって豊太閤坐像と
判明したり、「大坂屋」という御用菓子商が「冬夏」なんていう菓子を
藩主に献上していたりする。

http://www.city.hirosaki.aomori.jp/gaiyo/bunkazai/shi/shi20.html

南部氏から必死こいて切り取った津軽を安堵してくれた豊臣政権に心底
感謝していたのだろうと思われる。

弘前藩は御家騒動が起きまくりだったのに、公儀が北辺の安定を重視した
ためか、改易はもちろん、一時検討された転封もなかった。
964人間七七四年:2011/10/04(火) 22:40:25.42 ID:iCqeDVeC
津軽藩って弘前城に確か秀吉奉ってたりしたよな
965人間七七四年:2011/10/04(火) 23:13:19.92 ID:dtRA/sGh
後は津軽は近衛の関係者扱いになってるから、
公家+朝廷に手を出しづらかったのかもしれない。
966人間七七四年:2011/10/04(火) 23:19:31.48 ID:ZDhfc0BI
ヒゲ殿は関羽を尊敬してたから義にあつい
その精神を汲んで
967人間七七四年:2011/10/04(火) 23:58:13.99 ID:k1UPp5jt
津軽は隣の佐竹に金を借りたり人馬をやりくりしてもらったりしているが、貧乏だったのか?
968人間七七四年:2011/10/05(水) 00:59:19.98 ID:wZjgziK+
969人間七七四年:2011/10/05(水) 01:04:41.51 ID:TGrm3AK4
名前からして在日だし
金玉均とか一応教科書に出てくると思うんだが
970人間七七四年:2011/10/05(水) 05:06:01.58 ID:Uh4EZWYz
>>966
気に入った女の旦那を殺したり、その女に抵抗されて殺したりする人だけどな
971人間七七四年:2011/10/05(水) 13:12:42.57 ID:jifG1Ana
>>965地元の小説や稗史では、為信の軍師である沼田祐光(面松斎)が天海と
親しかったとされることが多い。さらに関ヶ原で為信とともに東軍に随行し、後に
家老を務めた服部康成という人物がいて、家康が鬼半蔵の一族を監視役を兼ねて
送り込んでいたという説もある。

旧恩への義理と外交を使い分けて、うまく世渡りした印象。西軍人脈だけだと
叛意を疑われかねないが、徳川から重臣と正室を迎えていれば警戒されにくい。
972人間七七四年:2011/10/05(水) 13:23:29.48 ID:jifG1Ana
>>971この津軽のハットリくんは、のび太ならぬ3代藩主・信義の大ぼらの
尻拭いをさせられたことがある。

江戸城年賀で「金沢城の六尺太鼓は日本一」と聞いた津軽信義は「弘前では
その程度は子供の玩具。城内には十尺に余る太鼓がある」と口走ってしまう。
居合わせた諸大名が「されば雪解けを待って見届け役を送ろう」と衆議一決
したため、焦った信義は国元へ早馬を走らせた。

「何とかしてよ、ハットリくん」「またでござるか、ノブヨシ氏」。

服部康成は急いで大太鼓を作らせ、春に間に合わせた。弘前入りした検使は
大太鼓の現物を見届けて、唖然としながら帰って行ったという。

4代藩主・信政はこの大太鼓を本所上屋敷に運び込み、隅田川を越えて響き
渡る轟音は江戸名物になった(弘果という地元企業のHPより)。

今でも夏の弘前ねぷた&青森ねぶた祭では、打ち手の背丈より大きい太鼓が、
山車とともに市街を巡行します。
973人間七七四年:2011/10/05(水) 13:47:18.49 ID:FY+B0z0m
のぶよし。をプロデュース
974人間七七四年:2011/10/05(水) 13:49:17.54 ID:kgb62dC/
やたら長い大根とかじゃなくて良かったな
975人間七七四年:2011/10/05(水) 15:54:02.13 ID:rgO8GD7Y
弘前ねぷた見に行ったら太鼓の上にサラシ巻いたおにゃのこが4人くらい乗って叩いてた
あれはよいものだ
976人間七七四年:2011/10/05(水) 17:46:07.19 ID:Vqj51m+Z
よくある小咄なら
「俺の地元にはこんなでっかい太鼓があるんだぞ」
「それなら俺の地元にはこんなでっかい牛がいるんだぞ」
「そんなでっかい牛がいるもんか」
「いなきゃその太鼓の皮を貼れないじゃないか」
977人間七七四年:2011/10/05(水) 17:53:06.62 ID:w121xO+F
>>972
実際には太鼓なんて作らず見届け役に
くのいち忍法の肉接待と忍法黄金色の菓子折り
が炸裂している
978人間七七四年:2011/10/05(水) 20:00:59.15 ID:CxokdZHx
>>972
本所七不思議の1つ、津軽の太鼓に繋がる話かな
火事の時板木を鳴らすのが普通なのに、津軽屋敷からは何故か太鼓の音がしたってやつ
979人間七七四年:2011/10/05(水) 22:08:01.78 ID:Pq0DlnoY
他にも伊達の殿様がホラ吹いて豆鉄砲を作ってたよな
「座敷で蝿を射つのに使う」とか言って

あと佐竹の殿様も「秋田の蕗は傘に使える」とか言っちゃって、
領民狩りだして大きな奴を国中探しまわった話もあったな
980人間七七四年:2011/10/05(水) 23:04:16.51 ID:yydEK/k4
そろそろ新スレ立ててくる
981人間七七四年:2011/10/05(水) 23:06:30.95 ID:yydEK/k4
ERROR!ERROR:新このホストでは、しばらくスレッドが立てられません。またの機会にどうぞ。。。

ダメだったorzどなたか頼みます

↓スレタイ
戦国ちょっといい話29

↓テンプレ
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話28
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1312460445/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話28
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1316313208/

鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
982人間七七四年:2011/10/05(水) 23:26:50.52 ID:qoB6B7iW
立ててみる
983人間七七四年:2011/10/05(水) 23:28:30.43 ID:qoB6B7iW
次スレ
戦国ちょっといい話29
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1317824861/
984人間七七四年:2011/10/05(水) 23:29:30.49 ID:oDFgQz/y
>>983
おつ
985人間七七四年:2011/10/05(水) 23:31:51.24 ID:vCQvQ9L4
>>983
乙です
986人間七七四年:2011/10/05(水) 23:39:55.53 ID:yydEK/k4
>>983
ありがとうございます。乙です
987人間七七四年:2011/10/05(水) 23:55:47.00 ID:vCQvQ9L4
じゃあ埋めがてらに一つ 林羅山が詠んだ詩の話 男色注意


『羅山林先生別集』に収録されている一篇
別集というのは、少年期の作品や故あって人に示さなかった詩文を集めたものなんだそうな


酒力茶煙莨蕩風 少年座上是仙童
遠公不破邪婬戒 男色今看三咲中

酒の酔で心も浮かれ、茶を沸かす煙と莨(タバコ)の煙が混じり合う
そんな寛いだ所で、仙童のように美しい少年を相手にしているお二人さん
廬山の寺で禁足の誓いを立てていた遠公(慧遠)が、陶淵明、陸修静の二人を見送って、
不覚にも虎渓を渡ってしまい、三人で大笑いしたという中国の故事がありますよね
邪淫を遠ざけると誓ったこの私も、今日思わず男色の戯れに間近に接してしまいましたよ 呵呵


江戸初期の代表的儒学者 林羅山が男色の戯れを目撃してしまったが
「虎渓三笑」を持ってきて、明るく笑い飛ばし狂歌まで詠んじゃったお話

ちなみに羅山が少年期に師事した建仁寺の雄長老(英甫英雄)も、
男色を詠った狂歌が数多くあるそうです
988人間七七四年:2011/10/06(木) 01:43:55.30 ID:2bmyTOtQ
では、それがしも埋めついでに


細川忠興「部下は将棋の駒と思え」


息子が、
「これから私は、部下に対してどのような態度で臨めばよろしゅうございますか?」
と訊いた。

忠興は、
「部下は将棋の駒と思え」
と答えた。

将棋の駒はそれぞれの働きがある。飛車はよき補佐役、角は思い切って仕事を進める重役、金銀は忠実な中間管理職、桂馬や香車は思い切って仕事をする現場のリーダーだ。

が、忠興はこう付け加えた。
「しかし、いちばん大事にしなければいけないのは歩だ。歩を大事にしない王はやがて窮地に陥る」
息子はなるほどと、忠興の教訓をありがたく聞いた。
989人間七七四年:2011/10/06(木) 01:47:05.05 ID:rXhls0dl
駒だから斬り捨てても問題ない
990人間七七四年:2011/10/06(木) 01:53:05.83 ID:/qUTLlU9
>>989
タイトル見て普通にそういう話だと思ってしまった
991人間七七四年:2011/10/06(木) 01:55:22.40 ID:l4X+SU6h
大将自ら物理的に切り捨てるのはちょっと…
992人間七七四年:2011/10/06(木) 07:41:29.11 ID:7NUeXXS4
あの頃は「王将」はまだ無くて、両方とも「玉将」なんだけどな
993人間七七四年:2011/10/06(木) 09:12:03.28 ID:2bmyTOtQ
「玉」将取ったら、間違いなく斬られるなw
994人間七七四年:2011/10/06(木) 12:45:01.93 ID:nDSlQofM
息子はなるほどと、忠興の人格をおそろしく思った。
995人間七七四年:2011/10/06(木) 14:11:30.04 ID:Vd2+vfHw
つか玉将って翡翠のことだっけ?
996人間七七四年:2011/10/06(木) 17:10:21.65 ID:1elV2x6J
>>987
ホモはホモを呼ぶってか
まあとりあえずスレ違い
997人間七七四年:2011/10/06(木) 20:01:44.60 ID:+X/qmYan
>>995
とりあえず「玉」将は三歳様にとって金剛石より名物茶器より大切と思われ
998人間七七四年:2011/10/06(木) 21:14:23.04 ID:q/z4KD1l
片倉重綱と真田幸村の話
999人間七七四年:2011/10/06(木) 21:38:58.88 ID:pfNwKjAz
999
1000人間七七四年:2011/10/06(木) 21:45:32.80 ID:jIQDKy2p
1000
10011001
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
.    | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
   /`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
  l  {  .、          /      
  ',  ` ''  '       rTヲ
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