1 :
人間七七四年:
2 :
人間七七四年:2011/07/21(木) 14:58:00.58 ID:m09uMRje
細作を「さいさく」と読むのは間違いらしいですが、本当ですか?
前スレで質問したのですがスルーされてしまって…
3 :
人間七七四年:2011/07/21(木) 15:42:37.55 ID:FpH7iXc2
前スレの最後のへんはね・・・
それは置いといて、忍者って意味で使うなら「さいさく」で合ってると思う
「細作り」って送り仮名つければ「ほそづくり」で細く作るって意味だけど
4 :
人間七七四年:2011/07/27(水) 14:31:01.15 ID:YZZmsLrL
高校時代のことですが、山口県の高校に通っていたんだけど
大島のほうから通ってきていた村上くんが「先祖が信長の野望に出ているかも」と言っていましたが
「村上いえば武田信玄の近くの武将だから嘘だろう」とみんなで相手にしませんでした。
今思うと海賊の方の村上がいたのを思い出しました。
村上くんの家はたしか酒屋だったとおもうので関係ないとおもいますが
海賊の方の村上って最後はどうなったのでしょうか?
5 :
人間七七四年:2011/07/27(水) 14:43:25.95 ID:BH09dtBe
>>4 毛利に服属した能島村上氏は関ヶ原後は長州藩御船手組
6 :
人間七七四年:2011/07/31(日) 14:08:34.95 ID:xE2VJVw6
一次資料一次資料って連呼する奴なんなの?特にIFスレなのに連呼する奴。
普通に当人の気持ちなんて資料に乗ってる筈がねえと思うんだけど。
一次資料は教科書作るには必要だが、IFスレやレスでこの人物が取るべき根拠として用いる物でもねえだろ。
当時の常識や過去の似た様な事例から推測することも必要だと思う。第一、改竄された物だったらどうすんだよ?
俺の親父なんて真実は公式文書には残らないとまで断言してる。
当時の人間が、「あ、この事実はそのまんま残したらやべえわwwwwww」で嘘を書いてる可能性は十分考えられるんだが?
7 :
人間七七四年:2011/07/31(日) 15:14:18.82 ID:qcSnurm3
一次資料以上に価値のある資料が存在しないから仕方ない
空想で議論しても水掛け論になるだけだし
少なくともお前の親父の言葉よりは信頼できる
8 :
人間七七四年:2011/07/31(日) 15:21:49.03 ID:wihRKvpL
妄想を根拠にIF語るならそれこそ自分で小説でも書いてろって感じだな
9 :
人間七七四年:2011/07/31(日) 15:42:58.13 ID:xE2VJVw6
>>7 じゃあ公式文書はほぼ確実に事実と受け取って何の問題も無い訳?
常識的に考えたらおかしい様なことでも?
10 :
人間七七四年:2011/07/31(日) 15:52:42.97 ID:PcBAs8cc
>>9 一次資料も当時の人の誤認や故意に異なる事を記述していることはある
ただし、それを否定するには別の一次資料を引き合いにだす事を求められる
二次資料を元に一次資料を否定するならば、それは膨大な検証作業と
なぜ、その一次資料が事実と異なる内容を記述したかという合理的な説明
さらに自論に対する批判を論破する理論構築を行わなければならない
11 :
人間七七四年:2011/07/31(日) 16:42:17.55 ID:27QM8Dgn
こういう質問が来ると夏休みを感じるねえ
12 :
人間七七四年:2011/07/31(日) 18:49:44.01 ID:Q+pzqqSu
>>5 萩藩士として村上氏がやってきているなら末裔の可能性は充分あるわけですね。
ありがとうございました。
13 :
人間七七四年:2011/07/31(日) 21:54:35.87 ID:9gS4Fmd0
>>9 公文書ってのをそもそも勘違いしてると思われる
いついつに誰々を何々に任じる(辞令)、とか
誰々はこれこれいう罪を犯したので罰する(判決・判例)、とか
そういうのが公式文書って奴
その書類の性格上、嘘を付くメリットなんて殆ど無い
ただし、一次資料に公文書が含まれるのは確かだけど、私文書も当然含まれる
14 :
人間七七四年:2011/07/31(日) 23:50:30.95 ID:wr+bHr8e
日記なんかは一次資料でかつ私文書の筆頭だわな
こちらは執筆者の誤解や偏見から伝聞に改ざんまで様々
15 :
6:2011/08/02(火) 10:38:56.17 ID:IkY5qjWi
>>9 公文書ってのはいわゆる当時の政権が纏めた歴史書みたいなのは入らないの?
後、判決文だけど、誰々が謀反を企んでいた為切腹を申し付けた、ってのがあったとして
その謀反を企んでいたと記された人物が、状況的に謀反をする状況とは考えらず、同時代の人間の
義理堅い云々と言う評価が残されていたら、無実や謀略の可能性の方が高い、と考えるのが自然じゃねえかな?
16 :
人間七七四年:2011/08/02(火) 12:31:03.98 ID:o12crti/
>>15 それは「事実」のレベルが異なる
そのたとえで言うのなら、公文書に記された
「人物Aは、謀反を理由に処刑された」ということが事実
事件(謀反)が本当のことなのかどうか、の真偽はまた別の問題
17 :
人間七七四年:2011/08/02(火) 12:33:28.99 ID:lr5r6NgA
>>15 お前は一次資料と公文書を勘違いしていると考えられる。
あと
> その謀反を企んでいたと記された人物が、状況的に謀反をする状況とは考えらず、同時代の人間の
> 義理堅い云々と言う評価が残されていたら、無実や謀略の可能性の方が高い、と考えるのが自然じゃねえかな?
そういう傍証が多くあればそうなる。ただ、この質問の意味はさっぱり解からん。
18 :
人間七七四年:2011/08/02(火) 12:42:18.26 ID:4zFg7zfW
海賊衆というか水軍衆と大名の関係を教えて下さい。
河野は大名でありながら河野水軍は瀬戸内海に勢力を持っていたと聞きます。
村上水軍は河野の傘下ながら、厳島の戦いのように他家の争いにも関与するなど独立色が強く見えます
一方で、武田水軍といわれるように大名家の名を冠した水軍も存在しています。
こういう大名家の水軍も村上水軍のように単なる協力者的な立場だったのでしょうか?
それとも武田信玄の傘下の国人のような一定の支配下だったのでしょうか?
19 :
人間七七四年:2011/08/02(火) 12:59:11.56 ID:izc3DB9v
>>18 国人だって元々は自立性が強かったのが大名との力のバランスが変化して支配下に
組み込まれて行く訳で、それと同じでしょう。
20 :
人間七七四年:2011/08/02(火) 13:47:11.19 ID:jnxqwzSd
伊勢、三河、駿河らの国々にいた水軍出身者が信玄の招きに応じて、武田水軍になった
よって武田水軍は村上や九鬼のような土着のものではないので、信玄の支配下にあったと見ていい
21 :
人間七七四年:2011/08/02(火) 14:07:11.52 ID:o12crti/
ケースバイケースとしか言えないなあ>水軍衆の地位
22 :
人間七七四年:2011/08/02(火) 14:30:12.00 ID:lr5r6NgA
水軍に限らず戦国大名の配下には、半独立と言っていいほど自立性の強いものから
主家に完全に従属しているものまで様々。そのへんが徐々に整理され家中に統合されていく過程が
近世化という現象。
23 :
人間七七四年:2011/08/02(火) 18:15:07.08 ID:ziu5X49r
>>20 信玄が水軍を必要としたのは駿河に進出する前後だろうから伊勢や三河はともかく駿河の者は
土着じゃないの?それとも将来の駿河進出を期してあらかじめ招聘しといたの?
24 :
人間七七四年:2011/08/02(火) 18:35:24.51 ID:Xyv6cBgZ
東海道の水軍は伊勢水軍を雇用した傭兵みたいなもの
自然、東海道では水軍同士がガチでやりあった例は少ない
25 :
人間七七四年:2011/08/02(火) 18:35:41.35 ID:0IghadM4
>>23 河野や村上、九鬼のように、水軍として完結した組織としての参入ではなく
出身がどこであろうがあくまで個々の技術者としての参加なんだから、話は全然
違うだろ。少しは考えろ。
26 :
人間七七四年:2011/08/02(火) 18:58:28.04 ID:ziu5X49r
>>25 だから全部個人なのかと確認したんだろが。頭悪いな。
27 :
人間七七四年:2011/08/02(火) 19:33:29.90 ID:2zlQR8IA
皆様ありがとうございます。
向井正綱・向井忠勝親子は今川水軍→武田水軍→徳川水軍となり
最終的には6000石の旗本だそうです。
おなじような海賊稼業で名を馳せた水軍武将でも
徳川に仕えた向井は大出世し、毛利に仕えた村上は辺境で没した。
戦国時代は運ですなあ。
28 :
人間七七四年:2011/08/02(火) 20:49:59.82 ID:SuTAACId
九鬼も三田に移されちゃったしなー
29 :
人間七七四年:2011/08/02(火) 20:52:41.07 ID:K1mWLxAQ
ネットで時たま見かける、今川氏真の
「それは私に関係のある話ですか?」の元ネタ(逸話?)がどんなものか教えてください。
30 :
人間七七四年:2011/08/02(火) 22:01:14.25 ID:TFl9cWLd
>>27 村上武吉の場合は独立傾向が強かったのが裏目に出たと思われる。
31 :
人間七七四年:2011/08/02(火) 22:54:36.96 ID:F7lQq65R
水軍といっても普段は漁業や交易をやってたらしいからねえ。
大名の領地内で漁業の独占権を得てた代わりに有事には協力する。
町衆とそれ程大差はないかと。
32 :
人間七七四年:2011/08/02(火) 23:50:43.44 ID:HEo8Ei4K
四方を海に囲まれてるんだから海賊も多かった気がする。
33 :
人間七七四年:2011/08/03(水) 06:47:57.81 ID:SHUBxNg5
どうしても気になるので二つ質問したいです。
・もし竹中半兵衛が長生きしていたらどうなっていたでしょうか?
天下取っても、官兵衛みたいに野心もなさそうだから冷遇されそうにもないし、唯一朝鮮出兵を止めることが可能だったのかな?
もう一点は…
・前田利家がもっと生きていたら?
関ヶ原の戦いはなかったんでしょうか?
34 :
人間七七四年:2011/08/03(水) 07:18:41.22 ID:CsbWvo1z
ifスレでも立てて同好の士と好きに妄想してください
35 :
人間七七四年:2011/08/03(水) 10:40:15.88 ID:r1wRZeOi
そもそも竹中半兵衛が「軍師』として活躍したというのは後世の創作。
実態は良くも悪くも信長から秀吉に付けられた与力武将の一人にすぎん。
36 :
人間七七四年:2011/08/03(水) 12:40:12.83 ID:BROvF78Z
>>33 朝鮮出兵、というか唐入りは秀吉個人の野心はもちろんだけど、
治安改善・雇用対策という側面を持ってる、つまりは公共事業だね。
でなぜ治安が悪化したかといえば雇用が悪化したからで、
失業者が増えたのは国内で戦争がなくなって派遣社員ならぬ派遣武士がリストラされたから。
その問題に対する豊臣政権の答えが増税してその金で普請やら戦争やらの公共事業。
つまり放置の許されない重要政策なのであって、止めるとか止めないとかそういう問題じゃない。
ちなみにその問題に対する徳川政権の答えは、敗者の黙殺。
37 :
人間七七四年:2011/08/03(水) 12:51:09.90 ID:DCJo884R
>>36 >ちなみにその問題に対する徳川政権の答えは、敗者の黙殺。
全然違う、家康の頃は傭兵として海外に、その後は大開発による帰農が江戸幕府の回答
農民になるのが嫌で浪人していた奴も一杯いるけど
38 :
人間七七四年:2011/08/03(水) 15:56:46.12 ID:DZw4xjWH
家康が幕府主導で海外へ傭兵派兵政策をやってたと言うソース下さい
39 :
人間七七四年:2011/08/03(水) 17:01:51.98 ID:POzY5TNw
>>37 きれい事言ってんじゃないよ腹黒たぬき
サラリーマンやってた人間が、
はい明日から仕事ないんで農業でもやって下さい
と言われて食っていけると思ってんの?
家康は腹の底では、あはは、邪魔くさいの死んで欲しいのら
と思ってた
40 :
人間七七四年:2011/08/03(水) 17:06:44.92 ID:r1wRZeOi
ID変えながら遊ぶなクソガキ
ID:BROvF78Z
ID:POzY5TNw
41 :
人間七七四年:2011/08/03(水) 17:08:59.62 ID:BROvF78Z
42 :
人間七七四年:2011/08/03(水) 18:00:28.45 ID:DCJo884R
>>38 渡航を積極的に推し進めたという話はないが、渡航邦人が犯罪を働いたら好きに処分して良いとある
つまりそういった連中が海外に大量に流出している事を認識していたということ
43 :
人間七七四年:2011/08/03(水) 18:37:19.80 ID:sJjdeuON
>>39 当時はいまみたいに百姓が国にゆすったりたかったりできないから農作は大変だったろうなあ。
凶作は自己責任。工業や商業の税が再分配される現代はなんと幸せなことか。
44 :
人間七七四年:2011/08/03(水) 18:52:52.79 ID:eMwORmEd
>>43 豊臣政権は検地と共に税収向上のために
畿内の進んだ技術の全国への輸出をしていたし
豊臣大名も各地で導入してた。
城下町と治水などで石高の目覚しい向上があり
中間搾取の不正も無くしている。
対して徳川幕府は国内自給経済と海禁政策で商業を軽視し経済成長モデルによる資本主義の発達を阻止し
職にあぶれた不逞牢人が跋扈し世情不安で世直し待望で溢れ
その矛盾が島原の乱・寛永の大飢饉・由井正雪の慶安の変で爆発してる。
45 :
人間七七四年:2011/08/03(水) 18:57:08.87 ID:DCJo884R
色々言いたいけど、そういうスレではないので言いません
46 :
人間七七四年:2011/08/03(水) 19:08:07.49 ID:eMwORmEd
豊臣政権の大消費社会による経済拡大と領地の大開発による
石高の上に胡坐をかいていたら
時と共に貧しくなっていったのが徳川政権。
北条がなんら開発してなかった幕府の膝元たる
江戸近郊の田舎を開発しただけで
雇用対策なんて言い出すのは捏造。
そもそも江戸の人口増加こそが
地方の民力の大疲弊から農村が抱えられない人口の
首都への逃亡に他ならない。
豊臣時代には見られなかった地方の疲弊ぶりだ。
そして江戸開発は幕府の政争の具となって
老中の失脚狙いの事業停止などが相次いでいて
まさに失政続きの腐敗ぶりだった。
これも豊臣政権には見られないものだ。
47 :
人間七七四年:2011/08/03(水) 19:21:54.41 ID:DZw4xjWH
徳川幕府のせいで
くだらない政争とヘタクソ外交と経済オンチと
無責任解決先送りや働かない公務員
なんて日本の体制を決定づけたからなー
48 :
人間七七四年:2011/08/03(水) 19:50:02.36 ID:Z4lK3hT+
アンチ徳川のキチガイが一人でID変えつつ連投中
49 :
人間七七四年:2011/08/03(水) 20:36:16.10 ID:cVdoFE/Y
日本の戦国時代は欧州におけるルネサンスと(構造的には)良く似ている気がします。
・気候の温暖化で農業生産力が高まり地方の諸勢力が経済的に自立可能に。
・結果として従来の支配者(皇帝・教皇・領主・大名)以外の諸勢力(都市・傭兵集団・寺・たたら場とか)が武装し自治を確立
・戦争(小競り合いから大規模なものまで)も頻発したが一方で文化も発達(戦争遂行も文化の向上も生産力が高くないと不可能)
・宗教が自治確立や戦争の道具になった(石山本願寺による一向宗勢力拡大・領地獲得と支配の安定を狙った宗教改革)
・農業製品の数が過剰になると貨幣の価値が増大。商業に強い所が有利になる(これはこの時代に限った話ではないですけれど)
素人の浅知恵ですのでかなり的はずれな事を言っているかもですがこの認識はどうなのでしょうか?
もちろん戦国時代とルネサンスが全く同質の物だとは思っていません。構造として見た時に似ていると感じただけです。
50 :
人間七七四年:2011/08/03(水) 21:11:13.70 ID:5ksAIaWJ
>>49 そうすると応仁の乱を始め戦争も多かったけど東山文化なども花開いた室町時代を無視するつもり?
51 :
人間七七四年:2011/08/03(水) 21:16:58.52 ID:S6K4QzpT
>>49 会田雄次さんはあんたと全く同じようなことを言ってたなぁ。
かなり古典的な説だけど。
まあ、室町時代から戦国にかけて少し気温が高くなったのは事実らしい。
52 :
人間七七四年:2011/08/03(水) 21:44:13.12 ID:cVdoFE/Y
>>50さん
それに関しては中世末期の欧州も同じかなと思います。
ルネサンスに入る前から前兆はあったのだと思います。
同様に室町末期には戦国時代の前兆があったのではないかと。
欧州でも日本の朝廷と同様に教皇の権威が失墜していきます。
>>51さん
同じ事を言っている人がいた事自体ビックリです。浅知恵から出た質問なので・・・
しかも古典的なのですね。勉強し直します。
53 :
人間七七四年:2011/08/03(水) 22:33:40.40 ID:DZw4xjWH
その無理やり欧州史と関連づける史観は昔からあったでしょ。
特に90年代にはその流れは戦国史まで巻き込み
政教分離で中世から近世への扉を開いた革命児信長とか90年代の信長マンセーにつながった駄論。
西欧マンセ−思考で無理やり西欧史観を日本史に当てはめるのは20世紀だけで終わらせろ。
54 :
人間七七四年:2011/08/03(水) 22:54:29.50 ID:POzY5TNw
>>40>>48 とりあえず、言いがかりと現実逃避はやめろ腹黒たぬき
秀吉と後北条の猿真似しかできない経済オンチ家康
これは大半の知識人の見解であり、変わりようのない事実だ
なんで捏造しようとするのか分からん
55 :
人間七七四年:2011/08/03(水) 22:57:18.71 ID:cVdoFE/Y
うーん。別にこの論は西欧マンセー思考から出した物ではありません。
寧ろその逆で私個人としては日本のヒューダリズムや
西欧のヒューダリズムをそれぞれ別個の特殊な物と看做したり
どちらかに重きを置いて語る史観に反抗する意図を持って書いたつもりです。
同じ脳を持った人間ですから文化や生産力の発展には一定程度の共通性が
あるのではないかと思って建てた推論です。
56 :
人間七七四年:2011/08/03(水) 23:05:32.44 ID:5ksAIaWJ
>>55 それが西洋人の作った史観に則した歴史の見方だと指摘されてる訳だな。
57 :
人間七七四年:2011/08/03(水) 23:16:45.21 ID:cVdoFE/Y
>>56 なるほど。確かに唯物史観自体は西洋人であるマルクスが生み出した
思想ではありますが普遍性のある思想の様に思われます。
生産力に応じて社会が発展する。
別にこの考え方自体は何かを特別視したものではありません。
西洋を特別視して見るのと西洋生まれの思想を用いて推論を立てるのとでは
意味が大きく違うのではないでしょうか?現代の日本人が普通に扱っている
科学や計算方法も西洋やインド・中国等の外国由来の物ですし。
58 :
人間七七四年:2011/08/03(水) 23:29:51.60 ID:599/Lz64
どんなに離れているものでも、探せば似通った部分はある
同時に、会わない部分も当然ある
比較するのなら、似ている部分と似ていない部分の双方を挙げないと
都合のいい主観の論にしかならないよ
59 :
人間七七四年:2011/08/03(水) 23:41:31.74 ID:5ksAIaWJ
>>57 ごもっともな部分もある。でも数学を始め自然科学は普遍的だが、社会科学は必ずしもそうではない。
だからそれを比較研究する文化人類学が成り立つ訳で。
60 :
人間七七四年:2011/08/04(木) 00:08:07.85 ID:WXGvyUz7
>>58さん
仰る通りですね。違う部分を即座に持って来れない所に浅知恵と
私の論の稚拙さがあり反発を呼んでいるのでしょう。そこはやはり
勉強不足から生じている物です。長々と偉そうにすみませんでした。
>>59 そうですね。でもやはり文化人類学で得られた結果も唯物史観の修正・補強に
利用されている様に思います。というか唯物史観や社会学の定義・意義とかを
語り過ぎるとスレチになるのでこの辺にしておきます。
61 :
人間七七四年:2011/08/04(木) 00:17:55.97 ID:86vVobln
51だが、
そう何でもかんでも叩くのは建設的ではないよ。
>>49の見方にも、正しいところと、間違っているところがある。
どこが正しくて、ここが間違ってるとか言ってあげればいいんでない?
62 :
人間七七四年:2011/08/04(木) 00:35:40.65 ID:WXGvyUz7
あああ。すみません。肝心な事なのに忘れていました。
間違っている部分を指摘してくれると有難いです。
批判の中から進歩というものは生まれると思うので。
>>61さん
会田雄次さん調べました。彼の主張(歴史以外)には共感出来るものが多くて
驚きました。こんな人も居るのですね。今日は眠いのでここまでにします。
63 :
人間七七四年:2011/08/04(木) 01:44:35.53 ID:9dzV/rs5
殿様から、戦功で500石から1000石に加増すると言われた場合、加増分の500石は秋の収穫時まで待たなければいけないのですか?それとも、500石分の米かお金は速やかに貰えたのですか?
64 :
人間七七四年:2011/08/04(木) 04:05:40.69 ID:FKuFDjkf
なんで板名が戦国時代(仮)なの?
65 :
人間七七四年:2011/08/04(木) 04:19:45.30 ID:kM6a1sr0
夏だわあ
66 :
人間七七四年:2011/08/04(木) 05:10:22.50 ID:wyX/u8dv
次スレから他板のFAQスレにあるような注意書きテンプレに加えようかね
【質問者の心得】
・まずは検索してみましょう。簡単な検索でわかるようなことも結構あります。
・質問してもすぐに回答は出てきません。ゆっくり待ちましょう。
・質問に対して必ず回答があるわけでも、必ず正解が存在するわけでもありません。
答えてもらえなくても粘着しない。
・「○○と××、戦ったらどっちが強い?」などの比較質問は、人によって評価が違うので正解無し。
「○○がもし長生きしていたら歴史はどう変わる?」などのifを問う質問も人によって評価が違うので正解無し。
よってこの手の質問は不毛な議論を招くので禁止。
【回答者の心得】
・なるべく出典、参考文献などを明らかにしましょう。
・正確さを欠く回答があっても煽らずに冷静に補足してあげましょう。
・回答を出すのにレスを多く使いそうな質問は、適切なスレに誘導してあげましょう。
・あくまで質問に対する回答なので、議論と考察はほどほどにしましょう。
こんな感じで
67 :
人間七七四年:2011/08/04(木) 09:57:36.09 ID:HbSvako8
>>63 500石分の領地が貰える
収穫期までは当然出費だけ
68 :
人間七七四年:2011/08/04(木) 10:33:08.00 ID:gjgsfj31
まあ普通は領地からの収穫を担保に、金融業者から融資させるんだけどね。
69 :
人間七七四年:2011/08/04(木) 12:32:08.72 ID:US6qeXlB
元領主が転封される時に
蔵を封印して行くか
蔵の中の全てを持ち去るかによる。
命令者の指示が特になければ自己判断でOK
例
蒲生・上杉・黒田は全部持って移動
掘・細川は置いて行ったっぽい
転封費用がかなりかかるので持って行くのが当たり前のような気がするが。
ちなみに掘は転封費用を前田と上杉から借りてるほどバカで、
借金返済を上杉から促されて上杉の悪口を言っている。
細川も黒田にキレて、黒田家の船を略奪しようとした。
あとで悪口言ったりキレたりするくらいなら蔵の中のものは持って行くに限る。
誰も金を返してくれないし
蔵を封印した後にそこに移封してきた大名に請求しろと言われるだけだし
当然儲かった金は自分のものだから返すわけもない
70 :
人間七七四年:2011/08/04(木) 13:36:28.53 ID:9dzV/rs5
皆様ありがとうございます。
実はCSで功名ヶ辻を観ていて、一豊が50石の時には家来やその家族を食べさせる米がなくなるぐらい貧乏だったのに、信長から200石に加増された次の場面では馬も家来も増えていたので、信長から差額分の米か金をもらったのだと思ってました。
加増分を担保にお金を借りるのが普通だったのですね。
71 :
人間七七四年:2011/08/04(木) 16:01:13.45 ID:mYhYutNS
>>36 返事遅くなってすみません…
なるほど…国内の不安定な情勢を考えたら誰も止められなかったわけですね。
天下統一して武士が溢れて専業武士の維持費が厳しくなり雇用が悪化するのはわかりましたが。
なぜ治安悪化したのかは検討がつきません。
やはり雇用と被りますが職がなくなったことによる暴動や一揆が原因でしょうか?
72 :
人間七七四年:2011/08/04(木) 17:14:41.28 ID:vb7fHqhq
不逞牢人が都市部へ流入すると治安が劇的に悪化するからね。
73 :
人間七七四年:2011/08/04(木) 17:37:06.28 ID:2HCX4rPF
暴動や一揆まではいかないとしても、
暴行、盗み、押し買いのリスクが上がる
それに戦場では略奪をしてるわけで、
つまり強盗のプロがゴロゴロしてるようなもので
74 :
人間七七四年:2011/08/04(木) 19:46:40.67 ID:JHz2X2O/
たしかに最近で言うと戦後に朝鮮人の済州島の非差別部落の連中が身分差別から逃れるために
大量に日本に密入国して各地に朝鮮人街をつくったけど
その地域を中心に暴力団が組織されて治安が悪化しているなあ。
75 :
人間七七四年:2011/08/04(木) 20:20:49.98 ID:P73unRZS
福岡とか大阪の鶴橋とか?
76 :
人間七七四年:2011/08/04(木) 22:02:28.03 ID:mYhYutNS
>>72-73 レスありがとうございます。
末端の足軽兵士なんてゴロツキと変わらなかったって言いますし。
現代で言うなら、ニートや浮浪者が犯罪行為を頻発に行ってたってことになりますね…
77 :
人間七七四年:2011/08/05(金) 15:08:33.29 ID:mFrCJmlB
>>76 ニートや浮浪者は勤労意欲のないORできない状態にある人
リストラ強盗は勤労する気はあるけど職場の見つからない人のヒャッハー
78 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 05:29:43.07 ID:XKPfc6pZ
キリシタンの宣教師と仏教の僧侶って面識とか交流ってあったんでしょうか?
全く正反対でなおかつ異教徒ではありますが。
79 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 08:15:18.92 ID:Tce+ocfF
既出だとは思うのですが、教えてください。
浅井長政の読み方は昔は「あさい」が一般的だったと思うのですが、今はそろって「あざい」
になっていますよね。何かある時期に新事実の発見でもあったのですか?
同じく北政所も昔は「ねね」が多かったのが今はみなが「おね」と読んでます。
80 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 08:18:47.01 ID:qfqeY8Sc
>>78 宗論といって、どちらの教えが正しいか議論してた。
>>79 滋賀県に残ってる地名の読み方がアザイだから。
当時の文書にネネと書くものがないから。
81 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 08:51:05.43 ID:XKPfc6pZ
>>80 ありがとうございます。
ググってみたら、ロレンソ了西っていうキリシタン宣教師が反キリシタン僧侶の朝山日乗と討論して論破して朝山日乗を怒らせたと書いてあったけど。
宗論する時キリシタンは仏教をどう論破したんでしょうかね?
82 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 09:13:38.02 ID:8EW34pzy
詭弁と屁理屈じゃね
ギリシャだったかローーマだったかの時代からそういう技磨いてたし
83 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 09:18:06.89 ID:6dC85YIy
そもそも宗教自体が詐欺だしなあ。神仏を持ち出すとなぜか犯罪扱いにならない。
84 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 10:16:11.87 ID:yqQw3NHY
>>79 北政所は手紙の署名が「ね」の一文字だからって話だけど、イニシャルのような感じで
一文字しか書かなかったんじゃないの、というのが俺の意見だ。
85 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 12:02:57.63 ID:IAabU3Eq
小官みたいのもんか
86 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 12:09:33.12 ID:nnxk/gJA
>>81 > ググってみたら、ロレンソ了西っていうキリシタン宣教師が反キリシタン僧侶の朝山日乗と討論して論破して朝山日乗を怒らせたと書いてあったけど。
> 宗論する時キリシタンは仏教をどう論破したんでしょうかね?
論破ってのはキリシタン側の記録にしか無く、ほかの中立的な人間はそういうことを一切
記録していないことは認識しておくべき
87 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 12:55:06.33 ID:6dC85YIy
某創価学会の本でもよそを論破して大勝利って記述が多いよな
88 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 15:23:28.07 ID:JzPmSMGV
でもキリスト教って日頃から議論慣れしててノウハウ蓄積あるからなあ
ガチで議論したらキリスト教側の方が有利だろ。
それに神って人格ではなく=宇宙意志みたいなもんだし
そこに死んだ人間が帰るとか言われたら
現代人でも信じるやついるだろ
89 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 15:51:11.62 ID:tidTvBUU
日本人は農民からして理屈屋で布教が大変とも言ってるがな
90 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 16:38:35.51 ID:6Dgv8Jyi
宣教師「信ジルモノハ救ワレマース、くりすちゃんニナリマショー」
百姓「信じない奴は?」
宣教師「地獄行キデース、デモ安心シテ下サイ、死ヌマデニ悔イ改メレバおkデス」
百姓「親父すっげぇ良い奴だったけど、もう死んでいない。親父は仏教徒だったから地獄行きか?」
宣教師「・・・」
みたいな話だったよな
たしかまとめサイトに詳しい話があったはず
91 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 17:31:10.38 ID:XKPfc6pZ
もう日本人は文明、文化、民族のアイデンティティーを持ってたから仏教僧侶を論破したってのはあっちの勝手な都合で。
結局は平行線だったのが現実なんだね。
キリスト教が広まったのは当時のアフリカ、インド、東南アジア、南アメリカなど原始的なとこでしか信仰が容易にに行き渡らなかっただけで。
92 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 17:32:52.89 ID:yqQw3NHY
>>90 そういう流れではっきりとそうだと言うマホメットはある意味すごいよな。
>>88 そんな宇宙意思なんて話、中世の宣教師に言ったら鼻で笑われんじゃないのか。
93 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 17:41:41.52 ID:JzPmSMGV
話も聞かずに排除しようと弾圧するのではなく
興味を持ってそう言うふうに疑問をぶつけてくるから日本人は聡明だと言ってるのが宣教師だぞ。
だいたい論破しようとやってくる仏教に詳しいやつほど一度納得されてしまうとキリスト教布教に熱心になってる。
94 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 18:13:08.69 ID:r7RCLov3
>>80 >>84 ありがとうございます。よろしければ続いての疑問ですが
「アザイ」「オネ」読みであることが昔からある資料で分かっていたのなら、なぜ
「アサイ」「ネネ」と昔は発音されていたのですか?
それと、それがいつなぜ改められたのですか?
誰か影響力の強い人が、「これまで間違った読み方していたけど、今度からは正しい
読み方に改めようよ」と提唱したのでしょうか。割と最近のことだと思いますが。
95 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 18:15:53.42 ID:JzPmSMGV
アサイはアザイと読むのが正しいと主張したのは小和田だな
96 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 18:21:29.18 ID:XKPfc6pZ
朝山日乗がフロイスからルシファーと称されちまったのは、始めからキリスト教に排他的だったからか…
97 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 18:25:46.06 ID:nnxk/gJA
>>94 「アザイ」は小和田が「現在地元ではそういう発音だから当時もそうだ」と言っているにすぎんよ。
あと「オネ」も文書でそう書かれているが、それが即そう呼ばれていたとは限らん。
はっきり言うとどれも確証のない想像の範疇でしか無い。
98 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 18:32:19.05 ID:6dC85YIy
文章で「ね」と残っていて
おみつ おふね おたえ
とかみたいに「お」をつけて「おね」って感じ?
だとしたらマ・クベ大佐が女で戦国時代なら「おま」になっちまうね。
99 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 18:43:57.97 ID:yqQw3NHY
>>94 「おね」と書いたものは無い。「ね」と署名した手紙から本名は「ね」の一文字だろうという想定。
それで女性には「お」を付けて呼ぶのは慣習だから「おね」と呼ばれた筈、という話。
でもその説を受けて、名前の一文字だけ署名する事はあるけど「ね」なんて名前はあり得ない、
という反論もある。
>>98 女の子だったらそうだ。
100 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 19:02:30.33 ID:AlAtHCRJ
>>49 構造として似ている、はちょっと不正確で、正しくは、
西洋史において、ルネサンスの意義・特徴的な事象と、対応するかのようなことがらが、
戦国期の日本にもある、ということではないでしょうか。
確かに西洋史と日本史は、部分的に切り取ってきて、ある観点の元に比較すると、
対応しているように見えることがよくあります。
この点について一番詳しく書いているのは、松岡正剛の『情報の歴史』だと思います。
ただ彼の場合、日本でのルネサンスに対応する事象を、江戸前期に見出してますけど。
大局的な観点から、日本史と西洋史を比較しているのは、梅棹忠夫の『文明の生態史観』です。
どちらの本も、あなたにとっては非常に参考になるかと思います。
101 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 19:05:56.98 ID:AlAtHCRJ
102 :
人間七七四年:2011/08/07(日) 18:35:41.72 ID:JlkAhTn3
鉄砲は槍や弓等と違って、かなり高価な武器だから、やっぱりそれなりの地位にある将兵(中級武士?)じゃないと、持たせてもらえなかったの?
103 :
人間七七四年:2011/08/07(日) 19:01:39.52 ID:Yaf95qM8
時期と鉄砲の種類による。
十匁以上の大口径銃は熟練技術が必要なので士分かそれに準じる専業軍人が使い
さむらい筒とよばれる。
三匁以下なら反動も少なく扱いやすいので農民兵に持たせて得れ
特に慶長の役では即席銃兵として大量投入した。
また早期の配備数が少ない時期は三匁でも家中で技量に優れたものに使わせていた。
104 :
人間七七四年:2011/08/07(日) 21:47:40.50 ID:JlkAhTn3
>>103レスどうも、なるほど時期によって結構、違うんですね。
105 :
人間七七四年:2011/08/08(月) 08:22:59.51 ID:d2FyiNsH
>>100さん
ご丁寧な回答ありがとうございます。
まさか参考文献まで紹介してくれるとは有り難い限り。
早速Amazonで注文させてもらいます。
106 :
人間七七四年:2011/08/09(火) 01:29:28.71 ID:A9aw8iTk
107 :
人間七七四年:2011/08/09(火) 12:04:22.20 ID:RXc9VgBg
戦国時代に寺社勢力として東大寺・延暦寺・本願寺・興福寺などいろいろあります。
宗教勢力を敵に回したリスクは本願寺の名前ばかり語られていますが
本願寺以外の寺社は兵の動員戦力は小規模だったのでしょうか?
延暦寺なんて武装化の先駆けなイメージですし
ずっと宗教勢力のなかで勢威を誇っていたわりに
あっさり織田信長に焼かれています。
108 :
人間七七四年:2011/08/09(火) 12:05:23.76 ID:RXc9VgBg
あと僧兵としても根来寺のほうがよっぽど有名ですし。
109 :
人間七七四年:2011/08/09(火) 12:17:21.38 ID:9m1PEj9M
そもそも寺社の自前の武装は平安末期から鎌倉中期くらいまでがその全盛で、室町〜戦国期は
守護や戦国大名の寺社領横領と、それに伴う寺社被官の武士化・武家被官化によって
著しく低下している。
延暦寺は信長以前に足利義教にも細川政元にも焼き討ちを受けている。
ここから見ても室町期の寺社の武力・及び権威の低下は自明のものかと。
110 :
人間七七四年:2011/08/09(火) 16:28:26.85 ID:RXc9VgBg
ありがとうござます。信長や松永久秀以外にも遠慮なく放火する強者がいたんですね。
まさに生臭坊主どもに天罰が下ったわけですなあ。
そんな中で新興宗教の本願寺は独自の荘園を持たないので大寺社のようなダメージがない。
一方でうまく国人や政情不安を利用して信者を増やしたりして躍進したのは対照的ですね。
宗教面でも下克上みたいなことがおきてますね。
111 :
人間七七四年:2011/08/09(火) 17:24:09.08 ID:9m1PEj9M
延暦寺や当時の仏教を生臭だのなんだのってのは攻撃を仕掛けた方のプロパガンダに
すぎないということは認識しておくべき。
比叡山を始めたとした当時の大寺は、僧だけでなく宗徒及び非宗徒の俗人まで包括した
実態として大都市であり、俗世的側面が大きいのも当然。
あと被支配民から見れば信長を始めとした武家の過酷な支配よりも、寺社の支配のほうが
諸権利の法的保護などがしっかりしていて、武士よりも寺社の支配の方がありがたかった。
そういう面も知っておくべき。
112 :
人間七七四年:2011/08/09(火) 17:55:57.77 ID:hzDvANnX
>>111 おおむね賛同だが、逆に武士階級への偏見も強まっているような
寺社の統治が武士よりも緩やかだったり優しかったりするとも限らないしねえ
むしろ、中世前期までは武士よりも寺の方が行政能力に優れていた面があるんだよ
言い換えれば、武士よりも支配は強く厳しかったということでもある
武士(俗世権力)の統治技術が向上して聖界権力に並び、さらに越えていく過程が戦国時代
あと、当時の寺社に堕落の傾向があったのもプロパガンダだけでなく事実
だからこそ鎌倉から室町戦国まで、仏教内部からも改革運動が起こっている
113 :
人間七七四年:2011/08/09(火) 18:52:54.53 ID:DCFD4lIo
>>111>>112 その辺は各種意見があるという感じで良いと思う
一面的な結論は出ないし、出すものでもない
114 :
人間七七四年:2011/08/09(火) 21:48:27.40 ID:14hd3oLD
武家の位には、なぜ少納言や准大臣という位がないのですか?
115 :
人間七七四年:2011/08/10(水) 11:36:32.26 ID:Y+wHjsN9
実務系じゃないから武士に似合わないと忌避されたとかじゃね
博士とかも武士は就任しないし
116 :
人間七七四年:2011/08/10(水) 12:05:21.40 ID:4OzU3Hen
織部だって武士に似合わないじゃない?
117 :
人間七七四年:2011/08/10(水) 12:08:20.81 ID:Y+wHjsN9
そういう意味じゃない
118 :
人間七七四年:2011/08/10(水) 12:45:20.66 ID:xiojDyaQ
つーか少納言は公家の本家本道である太政官の官職だからな。
武士にとって僭称する意味は殆ど無いし、武士で、同じく太政官官職である
左大臣右大臣、大納言中納言参議を名乗ったのは正式に官位を受けたものだけだ。
そして大名が正式に太政官官職を得る場合、最低でも四官等のうち二番目である次官(すけ)以上で、
それよりワンランク下の判官(じょう)のカテゴリにある少納言には当然任官することはなく、
また大名家臣も武士である以上、太政官官職を求める意味は無い。
そういうわけで少納言を名乗る武士がいなかったわけだ。
119 :
人間七七四年:2011/08/12(金) 06:47:41.06 ID:blRCnz/T
役職も官位も戦国時代の時は何も価値がなかったんですよね?
それでも朝廷から貰っていたのはなんでなんでしょうか?
120 :
人間七七四年:2011/08/12(金) 08:18:12.16 ID:6W4iN03g
価値があったからわざわざもらいました
121 :
人間七七四年:2011/08/12(金) 09:34:57.95 ID:blRCnz/T
>>120 戦乱の世に何かメリットはあったんですか?
平和な世なら価値はあると理解できますが。
122 :
人間七七四年:2011/08/12(金) 12:13:46.01 ID:S42lCQTX
幕府、朝廷から守護職、国司官位などの役職、官位をもらうことで
その地を支配する事を幕府朝廷に認められたと示し
領国支配の正当性や侵略戦の大義名分に使われたり
123 :
人間七七四年:2011/08/12(金) 12:32:58.68 ID:tO+kAS0Z
大義名分ではないでしょうかね。
いくら下克上とは言っても流石に何でもかんでもありだったという訳ではなく
正統性の確保は大切だったのでは。平和な社会とそうでない社会で用途が違うのでしょう。
124 :
人間七七四年:2011/08/12(金) 12:53:16.18 ID:D3XekP+6
>>119 戦国時代に「大義名分の無意味」という事例は多くあったけど中期には
まだ多少大義名分を戦略に利用する風潮があった。
西日本の火薬庫大名の大内は周防介の家系ながら
大陸貿易利権で対立していた細川と張りあうことに熱心だったので
細川の右京太夫に対抗して左京太夫を欲して
従三位大内義興、従二位大内義隆どちらも任官されている。
他にも少弐(武藤)と対立していたときは大宰大弐に任官されることで大宰少弐討伐の大義名分としている。
乱世といえど大勢力な上に大義名分があれば国人の懐柔も容易になる。
例えば田手畷の戦いで敗戦した大内は大宰大弐に就任後、龍造寺を懐柔して少弐を滅ぼしている。
戦術で負けて戦略で勝った例があります。いくら合戦がうまくても戦略的不利は覆すのは難しい。
そんなわけで大スポンサーの大内が健在なころは官位に需要があった。
なので後奈良天皇は「金で官位を任命するのは嫌」と上から目線だった。
ところが大内が部下に弑逆される事件が勃発すると、「やっぱ大義名分意味ないじゃん」
と周囲が再認識してしまい、大金を貢いでまで官位を欲するより軍備増強に目を向けられるようになった。
需要がなくなると朝廷は財政難が深刻化し、次の正親町天皇の時代になると
「官位買ってください」の年中閉店セールの紳士服屋状態。
即位式で2000貫献金をした毛利はものすごく感謝されて家系はたいしたことないので従四位どまりだったものの
死後、従三位を贈位されている。(明治以降どさくさに紛れて正一位にもなってますが・・・)。
献金しまくり、公家援助しまくりの大内親子が死後贈位されかったのと比較すると
朝廷の対応が雲泥の差です。
125 :
人間七七四年:2011/08/12(金) 20:26:03.24 ID:pdkg/9hn
126 :
人間七七四年:2011/08/12(金) 20:33:31.33 ID:N6WYNreQ
ほとんど優越感的なものじゃないの?
ベンツ買って自己満足みたいな
127 :
人間七七四年:2011/08/12(金) 22:19:09.93 ID:7PA2spys
>>126 そのベンツに憧れる女が多数いることもお忘れなく。
本州最果ての安東や南部といった辺境の勢力でさえ
朝廷や幕府から官位をもらうことに熱心だったわけで。
128 :
人間七七四年:2011/08/13(土) 13:28:42.88 ID:3YBXq9in
>>124 少し前には中央でも最大の権力者細川晴元が江口合戦の結果実質三好長慶にとって代わられた。
そして大内も部下に殺された。これは守護代などに取って代わられ、
再起を図って抗争中の守護大名たちを大きく落胆させたからな。
将軍を擁立しあっていた二大守護が揃って落ちぶれるとは誰が想像できただろうか?
129 :
人間七七四年:2011/08/13(土) 20:04:54.08 ID:KUKj+pM6
>>125 ふ〜ん。よく知ってるね。ネット(笑)で調べたんだ?
130 :
人間七七四年:2011/08/14(日) 11:32:17.05 ID:ShiRuC79
131 :
人間七七四年:2011/08/14(日) 13:11:54.50 ID:ou0mQLTM
132 :
人間七七四年:2011/08/14(日) 13:22:31.82 ID:8ApSEc4I
岡山城じゃさすがにメジャー過ぎる
133 :
人間七七四年:2011/08/14(日) 13:28:10.33 ID:ou0mQLTM
134 :
人間七七四年:2011/08/14(日) 18:49:38.99 ID:gHBeTanZ
現存天守の城が残っている地域を「うらやましい地域」と思っていたけど
最近は廃城令に従わなかった「ずるい地域」と考えるようになった。
なんでも鑑定団である出品者の具足が数十万の値がついたのをみていた祖父が
「うちにも藩主様から賜った先祖代々の具足があったが戦時中に鉄の供出として差し出した。
蔵に隠して続けていたこういう持ち主の方が賢いんだろうけど感心はしない」
って愚痴っていたのを聞いてから価値観変わった。
完全なひがみだけどな
135 :
人間七七四年:2011/08/14(日) 19:17:54.12 ID:JsVzeP31
価値ある建造物を必死に残した人々が居たことを知ればそうは思わなくなるんじゃね。
屋敷家財一切手放して国宝天守を後世に伝えた者の子孫は
俺の物にならない国宝残すより財産残してくれよと話し聞くたびに思ってるけどなw
136 :
人間七七四年:2011/08/14(日) 23:25:09.45 ID:lbiseKdE
信長が尾張が嫌いで越前人を自称してたとか、秀吉が尾張嫌いだったとか
そういう話を聞いた事があるんですが本当なんですかね?
137 :
人間七七四年:2011/08/15(月) 00:19:40.99 ID:vYOXz3w9
多分ここの誰も聞いたこと無い話じゃないかな
138 :
人間七七四年:2011/08/15(月) 00:42:40.28 ID:eQsDrIBO
>>135 姫路城が残ったのは瓦を売るつもりが、その価値も無かったからだけどな。
139 :
人間七七四年:2011/08/15(月) 02:30:45.66 ID:lWLS46eH
>>134 うちの地元は戦国時代は無名ですが幕末では有名な長州の萩市です。
ところが城下町を観光名所にしているわりに幕末を観光にしているよそと比較すると人気はいまいちです。
せめて大河ドラマを誘致するか城に復元天守閣があればなあとはおもいます。
山口県知事と萩市長は高速道路の誘致しか眼中になく郷土史に全く関心を示しません。
先日も会津を支援した際に会津若松市長から嫌味を言われたのに会津観光史学の嘘を指摘するどころか
場を取り繕うためにぺこぺこ謝罪して先祖の英霊を冒涜していました。
萩は県庁所在地からも外れ開発から取り残されたおかげで偶然武家屋敷が多く残っていますが
一般的に歴史建造物が多く残っている地域は住民と行政が努力して保存している事が多いみたいです。
決して「ずるい地域」ではなく「みんなで守り抜いてきた素晴らしい地域」であると思います。
140 :
人間七七四年:2011/08/15(月) 09:02:31.76 ID:p9qSTrsV
>>139 政宗マンセーだけで喰っている人間だらけなので仙台観光史学は存在するが
そんなんで喰っていけない会津には会津観光史学など存在せず愚か者山口県民の妄想です。
141 :
人間七七四年:2011/08/15(月) 11:57:15.20 ID:yjsBa3lZ
まぁ金で史学すら捻じ曲げる威力を持ち
捏造本を出しまくってボロ儲けできるのが政宗本。
142 :
人間七七四年:2011/08/15(月) 12:33:58.12 ID:d1oXIkYF
醜いスレチですね
143 :
人間七七四年:2011/08/15(月) 14:00:39.35 ID:AwIBUc1d
アホチョン工作員はスルーな
144 :
人間七七四年:2011/08/15(月) 23:49:34.98 ID:RA5fHkbg
でもたしかに賢いとずるいは紙一重というか、コインの表裏な気もするな。
後世の我々からすれば、お上の目をごまかしてでも貴重な史料を残してくれた人に
感謝するものの、愚直に命令に従って取り壊したり破棄したりした人は、ある意味
バカを見た正直者ってわけで、それも報われない。
145 :
人間七七四年:2011/08/16(火) 00:19:33.79 ID:Or4X5UZA
スレの流れ的にやや関連することになりますが
安土城の焼失原因として有力な説として以前は織田信雄が放火した説が有力と聞きました。
最近ではどのような原因が考えられていますか?
146 :
人間七七四年:2011/08/16(火) 00:29:33.81 ID:7rKKDA/c
>>145 織田信雄の放火は俗説以外の何者でもない。
最近の一番有力な説は「誰がやったかわからない」。
まあ、安土城下で暴動が発生してそのあおりで燃えた、なんてことを考える研究者もあり、
個人的にもそんなものだろうと思っている。
147 :
人間七七四年:2011/08/16(火) 00:44:58.84 ID:1YAUIuku
元ネタはフロイスの日本史だが
確かもうひとつ証言があったような・・・
148 :
人間七七四年:2011/08/16(火) 12:48:01.36 ID:+y0NZgiS
黒田基樹氏の『戦国関東の覇権戦争』を読んだら、1561年の謙信の関東侵攻に関して、
「北条方を堅持していた上田朝直の軍勢が〜岩付太田氏の軍勢と合戦している」と書いてあったけど、
Wikipediaには「謙信に呼応し北条氏を離反している。〜謙信が関東から撤兵すると、再び北条氏に帰参を許されている」と書いてある。
どっちが正しいの?
149 :
人間七七四年:2011/08/16(火) 13:05:29.10 ID:7rKKDA/c
Wikipediaを信じるバカ
150 :
人間七七四年:2011/08/16(火) 13:25:11.18 ID:IN0zrivc
>>148 Wikipediaはあまり信用してはいけない代物
自分の知識が正義と思い込んでいる素人も書き込んでいる
そしてそれを判定する人も無知な人が多いという状態
本気で気になるなら史料を漁るが吉
151 :
人間七七四年:2011/08/16(火) 13:59:14.84 ID:+y0NZgiS
>>149-150 ご忠告ありがとうございます
ですが質問の答えを知らないならレスしなくて結構ですよ
152 :
人間七七四年:2011/08/16(火) 14:05:01.11 ID:IN0zrivc
>>151( ID:+y0NZgiS )
お前馬鹿か?
Wikipediaの方が嘘だからこんな書き方しているんだろ?
松山合戦も知らない愚か者めが
153 :
人間七七四年:2011/08/16(火) 14:17:11.19 ID:11TqLaqf
2択で片方否定されてるのに答えが来ないとかww
154 :
人間七七四年:2011/08/16(火) 14:22:00.20 ID:1YAUIuku
wikiを否定する根拠となる文書を挙げれば一発じゃね?
155 :
人間七七四年:2011/08/16(火) 14:23:32.83 ID:IN0zrivc
アレなんだろ?
ID:+y0NZgiSは正解を判断する知識すらないから人の言うことは全て信じられないのだろうよ
それともID:+y0NZgiSはWikipedia信者なのか?
だとしたらどんなに素晴らしい答えを教えてあげても自分に都合が悪い答えは全否定だな
156 :
人間七七四年:2011/08/16(火) 14:53:58.77 ID:+y0NZgiS
>>155 正解を判断する知識が無いから質問スレに来ているのですし、そのための質問スレのはずですが?
>>150の書き方では一般論に過ぎないので正誤の判断はつきませんね。
Wikipediaが100%全て完全にデタラメだと主張するなら別ですが、
その場合、Wikipediaの上田朝直の項目に書いてある扇谷上杉に仕えていた事や三増峠の戦いに加わった事もデタラメになるのでしょうか?
あと、自分に都合が悪い答えとは何でしょうか?
上田朝直が一度北条に屈して以降、北条方であり続けたのか謙信に靡いたかにより、自分にどういう不利益が生じるのか想像がつきません。
>>154氏の言うとおりでしょう。
157 :
人間七七四年:2011/08/16(火) 14:58:38.34 ID:IN0zrivc
>>156 馬鹿につける薬無し
君の場合ここで質問にはまだ早いということ
もう少し基礎知識つけてから出直しておいで
そもそも君が読んだという黒田基樹氏の『戦国関東の覇権戦争』に出展があるはずだが?
そこは無視か?
Wikipediaに出展があるのか?
あるなら出してみろ
158 :
人間七七四年:2011/08/16(火) 15:10:11.87 ID:+y0NZgiS
>>157 どちらも参考文献は上げられていても出展までは書いてありません。
あなたは煽るだけが目的の残念な人のようなので、もうレスしなくていいですよ。
159 :
人間七七四年:2011/08/16(火) 15:23:45.17 ID:IN0zrivc
>>158 >どちらも参考文献は上げられていても出展までは書いてありません
参考文献があるならどちらが正解か自分で調べられるだろ
これで質問は自分で解決できるから終了
先に煽ってきたのはお前の方(
>>151)だから人のせいにするなよゴミくず
何でも人に頼って自分で努力しようとしないゴミに限って文句は上から目線
そして人に教えを請う姿勢が微塵も感じられないのもお決まりのパターン
ID:+y0NZgiSは人として恥を学ばれよ
160 :
人間七七四年:2011/08/16(火) 16:07:36.57 ID:+y0NZgiS
レスしなくていいと言ってるのに。
最初に煽ってきたのはバカという言葉を使った
>>149。
>>150はWikipediaに対する一般論で回答になっていない。
故に
>>151は正論。
参考文献を入手して逐一当たるほどの時間は流石に無いので、ここで聞いているのですが?
そもそも
>>159は質問スレの存在意義をどのようにお考えなのでしょうか?
あ、やっぱり答えなくていいですよ。
あなたは他人を口汚く罵るのが大好きなだけの人間なのは、よく分かりましたから。
レスしなくていいと書くのは、これで三回目になるので、いい加減学習してください。
161 :
人間七七四年:2011/08/16(火) 16:35:22.65 ID:IN0zrivc
>>160 涙目の必死のごねまくり発言乙!
>最初に煽ってきたのはバカという言葉を使った
>>149。
ID見たら分かるがそれは俺ではない
ID:+y0NZgiSは俺が発言したと思って勘違いしちゃったんだろ?
可哀想なくらい恥ずかしい奴
>故に
>>151は正論。
自己保身乙!
お前は
>あなたは煽るだけが目的の残念な人のようなので、もうレスしなくていいですよ。(
>>158)
とか言っているが俺の書き込み(
>>150)のどこに煽りがあるのか教えてもらえるかな?
まあお前の支離滅裂の思考では無理だろうな
>あなたは他人を口汚く罵るのが大好きなだけの人間なのは、よく分かりましたから。
お前よりも謙虚だから安心したまえ
さっきも書いたがID:+y0NZgiSは人として恥を学ばれよ
>いい加減学習してください。
もう質問なんかどうでもいいんだろ?
ただ単に知識が無くて悔しいから書き込んでいるだけなんだろ?
お前みたいな奴を荒らしというわけだ
それすら気が付かないとは哀れとしか言いようがない
ここは質問スレなんだがお前は悔しくてたまらないみたいだからあと1回だけ泣言を書きたまえ
さあどうぞ ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
162 :
人間七七四年:2011/08/16(火) 16:56:25.74 ID:Or4X5UZA
>>146>>147 ありがとうございます。
本能寺の変で統治が乱れた途端に北斗の拳のように火事場泥棒をする民衆・・・
近江のような都会でも当時の民衆は民度が低いんですね。
163 :
人間七七四年:2011/08/16(火) 18:35:17.57 ID:7rKKDA/c
>>162 > 近江のような都会でも当時の民衆は民度が低いんですね。
領民に滅んだ領主に心中する義理はない。特に近江は織田政権にさんざん搾取された
地域だし。安土城は信長が近江一国に大規模にかけた賦役で建設されたものだ。
関ヶ原の後だって、例えば石田三成の領地では、領民によって石田関係者への
襲撃が起こってる。支配権を失い没落するとは、そういうことだ。
164 :
人間七七四年:2011/08/16(火) 18:50:07.35 ID:11TqLaqf
城下や二、三の丸はほぼ無傷で天守だけ燃えてるから、軍事行動の一環のように思うけどね
165 :
人間七七四年:2011/08/16(火) 21:37:25.84 ID:/t55SrjO
この板で聞いて良いものでなかったら申し訳ないのですが、戦国時代の武士が身につけていた物を勉強したくて資料を探しております。
と、言っても鎧兜よりもその下に着ている物だったり、鎧兜の素材だったりと言う少々ズレた所が知りたいのですが、なにか良い本はないでしょうか?
出来れば今でも手に入る本だと有難いです。
もしよろしければ皆様お勧めの本をお教えねがいます。
166 :
人間七七四年:2011/08/16(火) 21:40:16.05 ID:SX122kkf
167 :
人間七七四年:2011/08/16(火) 23:15:51.41 ID:/t55SrjO
>>166 早速のレスどうも有難うございます!
なるほど解りやすそうですね!
写真が少ないのは残念ですが、写真が多い本はまた別に探したりして何冊か揃えたいと思います!
168 :
人間七七四年:2011/08/17(水) 10:44:31.48 ID:+7YfkUTI
>>148 http://www.water.sannet.ne.jp/u-takuo/matuyamazyo.htm 永禄4年(1561)関東管領山内上杉憲政から管領職を譲り受けた上杉謙信は、9万人ともいわれる大軍をもって松山城に来攻し、上田朝直は敗れて安戸城へ退いた。
上杉謙信は太田三楽斎資正に岩槻と共にこの城を守らせた。
上田朝直を中心とする北条方は上杉謙信が関東を引き揚げた同4年11月、北条氏康が北条相模守氏政・大石源三氏照・北条左衛門大夫綱成を将として、3万余騎をもって松山城攻めを行なった。
いったんは軍を引いた北条方であったが、翌5年11月、さらに松山城を攻め、かつ越後の上杉謙信を牽制するため甲斐の武田信玄の援軍を得ることになった。
信玄は2万5千余騎をもって9月に上野に侵入し、11月には武蔵へ進出して松山城に至った。
信玄が到来してから2か月後、武蔵国住人勝式部少輔を城中に入れて急ぎ和睦に成功し、城将の上杉憲勝は降伏した。
169 :
人間七七四年:2011/08/17(水) 11:04:01.23 ID:Ez8p6PNr
江戸時代の「同心」は戦国時代の「足軽」と聞いたのですが、
本当ですか。
170 :
人間七七四年:2011/08/17(水) 11:15:56.82 ID:H9u3GUfF
>>169 そう。徳川家は幕府成立後足軽を皆同心と呼んだ
171 :
人間七七四年:2011/08/17(水) 14:07:42.31 ID:Ez8p6PNr
>>170さん ありがとう。
「同心」って以外と身分が低かったのですね。
172 :
人間七七四年:2011/08/17(水) 14:49:57.93 ID:3afE4Xia
>>171 だって町奉行所の同心の下には私的に雇ってる岡っ引きとか下っ引きしかいないんだよ。
町方の他にも千人同心とか伊賀同心とか色々いたけど。
173 :
人間七七四年:2011/08/17(水) 16:30:40.27 ID:SW9nP3E7
豊臣秀吉は財政が困窮した大名に金を渡して
公共事業をやられせていたと経済関係の本にありましたが本当でしょうか?
ググってもそういう話は出て来なかったんですが・・・・
174 :
人間七七四年:2011/08/17(水) 17:06:52.46 ID:1Yt09h4a
本当。
城下町や治水灌漑の設計や造営などをやらせていた。
田中角栄の日本列島改造論みたいなもん。
だからバブル時代で茶道や絵画など文化的にも発展していたし
都市部での大量消費を支える流通のために河川流通網も発達した。
175 :
人間七七四年:2011/08/17(水) 17:18:54.05 ID:H9u3GUfF
嘘だよ。そんな記録は一切無い。
176 :
人間七七四年:2011/08/17(水) 19:51:28.82 ID:zzxvK4lp
中小の国人衆や豪族は大体、どれぐらいの兵力を動員できたんだろう?
地方によっては差はあると思うけど、小勢力で大体100〜200、中規模勢力で、多くてやっと500ぐらい?
177 :
人間七七四年:2011/08/17(水) 20:14:40.00 ID:IK31RLwp
掌握している領民の数による、としか言い様がない。
178 :
人間七七四年:2011/08/17(水) 22:24:50.96 ID:i2QWR5i1
戦国時代の人って、今みたいに近眼の人は少なかったんですか?
肖像画などで眼鏡かけてるのをみたことないです。
しかめっ面で相手をみたりして、いろいろトラブルもあったと思いますが。
179 :
人間七七四年:2011/08/17(水) 23:17:47.15 ID:3afE4Xia
>>178 戦国時代には眼鏡無いからかけてる肖像画は偽物だ。現代と違って遠くを見る機会は多いし、
近眼の人は少なかったと想像する。
180 :
人間七七四年:2011/08/17(水) 23:23:52.86 ID:SW9nP3E7
>>174 秀吉自らが公共事業を行って
そこに大名が商人を送り込み自領内の産物を売っていたということですか?
181 :
人間七七四年:2011/08/18(木) 00:01:05.78 ID:ugGaPzbn
182 :
人間七七四年:2011/08/18(木) 00:19:08.65 ID:OOSlRiR/
>>179 家康はメガネを所有していた
おそらくは大御所時代であろうが
ただ、当時のメガネは手で持つタイプなので、
肖像画には描かれない
183 :
人間七七四年:2011/08/18(木) 00:37:29.19 ID:sn8NxRd2
184 :
人間七七四年:2011/08/18(木) 00:55:54.81 ID:94lWaVIw
後天性の近眼てこと?
そういや家康の側室の西郷局は極度の弱視だったというが
この人が家康の庇護のもとで、同じく目の悪い人を集めて面倒みる
今で言う介護施設を作ったと聞いた
185 :
人間七七四年:2011/08/18(木) 05:28:18.40 ID:iI2sK1nr
>>180 畿内の最新技術の全国への輸出のようなもんだね。
豊臣大名が各地に配置されて
治水灌漑した河川の近くを要害に城下町を造営し
城下町には町人や商人が住む区画を作り
商人を誘致し城下の活性化を図り
それを豊臣傘下に入った外様大名たちも三成らの指南で計画都市たる城下町を作り
豊臣政権から取次と支配の認可を受けたことを背景に独自勢力に近い傘下国人たちを各大名家は支配することで安定を図り検地を断行し
朝鮮出兵中の力の空白を利用し大名領国内で人口調査をして日本全土の形を理解把握した。
186 :
人間七七四年:2011/08/18(木) 09:33:14.36 ID:NbwgiJ+h
187 :
人間七七四年:2011/08/18(木) 11:33:37.05 ID:uiONzrgf
>>185 >>186 自作自演はいいから、具体的な史料を出せよ。
そんな政策の行われた具体的史料は一切無い。
日本における全国規模の自由流通経済の発展は、政策的に見ても江戸時代からだ。
秀吉のやったことは京にあった米相場を大阪にもってきて、大阪への富の集中を測ったことくらいだ。
秀吉の基本政策は富の収奪であり、拡散ではない。
違うというなら史料を出せ。勝手な妄想はいらないんだよ。
188 :
人間七七四年:2011/08/18(木) 13:10:38.08 ID:RRjcYOE3
>>186 在日と非難するなら史料持ってくれば一発じゃないか?
こういうときって必死だなwwwって言っている奴の方が必死なんだよな
189 :
人間七七四年:2011/08/18(木) 13:13:13.93 ID:RRjcYOE3
武田信玄に天下統一が出来るの?
250 :人間七七四年[sage]:2011/08/18(木) 09:27:53.86 ID:NbwgiJ+h
>>249 じゃあ誰がカッコいいんだよw
【本能寺の変】明智光秀/惟任日向守を語る3
966 :人間七七四年[sage]:2011/08/18(木) 09:30:51.56 ID:NbwgiJ+h
>>961 じゃあなんで父や兄が弟に対して
自分より地位が高い貴人のように実名敬避俗して
大本所様なんて呼んでるのか説明しろよw
【疑問】スレ立てるまでもない質問8【戦国時代板】
186 :人間七七四年[sage]:2011/08/18(木) 09:33:14.36 ID:NbwgiJ+h
>>175>>181 在日必死すぎワロタw
信長の政権構想
407 :人間七七四年[sage]:2011/08/18(木) 09:36:01.37 ID:NbwgiJ+h
史料を出すだがの方が信用されてるよな。
基本的に論破されてる方は人格攻撃やレッテル貼りで
悪印象をつけようと必死になってる敗者なのが戦国板の特徴。
【臼井城の戦い】上杉謙信が北条に戦略的勝利
112 :人間七七四年[sage]:2011/08/18(木) 09:37:45.97 ID:NbwgiJ+h
そもそも北条厨が一次史料を出して論じたことは過去に一度もない。
毛利元就って明らかに実力未知数だよね
190 :
人間七七四年:2011/08/18(木) 13:14:25.33 ID:RRjcYOE3
618 :人間七七四年[sage]:2011/08/18(木) 09:38:49.28 ID:NbwgiJ+h
毛利厨=在日はしつこさだけは織田厨並みの無職だからねぇ。
毛利厨・北条厨のソースは軍記のみ
36 :人間七七四年[sage]:2011/08/18(木) 09:40:38.48 ID:NbwgiJ+h
軍記やwikiが一次史料だと思ってるのが毛利厨や北条厨や織田厨だからね。
城址巡りの旅 其の拾弐
489 :人間七七四年[sage]:2011/08/18(木) 09:42:01.01 ID:NbwgiJ+h
脳の疾患を疑ってみるべきだから
脳の検査をオススメする。
事実だとしたらいまの東北の太平洋側は幽霊だらけになってる。
【ジャイアン】家康ほど面白くない武将がいたか
234 :人間七七四年[sage]:2011/08/18(木) 09:44:34.84 ID:NbwgiJ+h
家康は火事場泥棒と弱い者イジメしてただけだからな。
秀吉と家康はどちらが悪者か? その3
813 :人間七七四年[sage]:2011/08/18(木) 09:47:35.55 ID:NbwgiJ+h
むしろ勝率はかなり高いし
機を失わない速決的な行軍と決戦をする迅速さは秀吉に似てる。
岡崎城が落ちたのも別に信秀が悪いわけじゃないし。
【佐竹・小田】常陸下野の戦国大名【宇都宮・小山】
791 :人間七七四年[sage]:2011/08/18(木) 09:50:25.77 ID:NbwgiJ+h
宇都宮城を見学に行ったら史料に
宇都宮城主に1年間だけ浅野がなってたけどマジ?
毛利と大友の北九州攻防戦を語ろう
859 :人間七七四年[sage]:2011/08/18(木) 09:52:13.98 ID:NbwgiJ+h
軍記やwikiと一次史料の見分けがついてないから平気でレスするんだろうね。
【謙信】臼井城について【潰走】
141 :人間七七四年[sage]:2011/08/18(木) 10:21:30.82 ID:NbwgiJ+h
臼井城攻めの指揮官って誰なんだろうな。
顕景ってやっぱり上杉景勝の幼名なのかな?
他には
書状の署名の誤読なのか変名で顕景と名乗っていた事があるのか足利長尾顕長とする説
上野国から越後へ逃亡後にほとんど記録がない総社長尾顕景とする説
>>下平が感状をもらって賞されてる。
実は長岡市立中央図書館蔵で広居又五郎も顕景から4/20付けで白井城での戦功の感状をもらっている。
あと一部書籍で混乱があるようだが長尾顕景を長岡市の書状では総社では無くのちの景勝のことだとしている。
北条系の研究してる学者の記述って大半が顕景を総社長尾顕景って書いてる気がする。
個人的には越将も統御できる高い立場にいる者なので景勝だと思うが、
謙信が参陣を求めていた場所が足利長尾氏の館林城なので
早めに参陣した諸将を率いて先発した軍の指揮官として足利長尾氏だとしてもおかしくないんだよな。
191 :
人間七七四年:2011/08/18(木) 13:15:49.12 ID:RRjcYOE3
【謙信】臼井城について【潰走】
142 :人間七七四年[]:2011/08/18(木) 10:40:51.90 ID:NbwgiJ+h
キタジョウ高広は佐竹義昭から輝虎の越山への努力を賞して、輝虎と討った旧小田領の常陸国沼崎郷や前野郷を佐竹から宛行われた。
また高広は永禄12年の時点で、後北条に宛行われていたのか伊豆国稲取郷や片瀬郷をすでに領有していた。
他にも信玄とも私通してる。謀反してすぐに信玄から書状をもらってるし、越相同盟後も信玄と連絡してる。
長野を滅ぼして上野国西部を切り取った武田と入魂してんだよな。
謙信が利根川以西を防衛範囲に考えていないのか
高広からの誤報を信じていたのか、佐野や関宿方面ばかりを
気にしていて、佐竹の参陣を待ってる姿が情報伝達の混乱を示している。
しかも佐竹義昭死去の隙をみて小田が佐竹攻めしたので
謙信が義重支援で小田城を攻め落としてあげたのに
義重がその後に非協力的なのも理不尽。
謙信が高広を天魔の所業と怒ってるのもうなずける。
【臼井城の戦い】上杉謙信が北条に戦略的勝利
114 :109[sage]:2011/08/18(木) 10:45:17.06 ID:NbwgiJ+h
>>113 それ俺が過去に一次史料を翻訳して書きこみしたやつだから。
俺が過去にレスしたのを再利用しただけなんだがwww
【輝宗】伊達氏を語ろう 2【稙宗】
922 :人間七七四年[]:2011/08/18(木) 10:55:09.68 ID:NbwgiJ+h
そうかが必死なだけだから。
武田厨と織田厨が争うスレ
96 :人間七七四年[sage]:2011/08/18(木) 10:57:04.45 ID:NbwgiJ+h
>>91 それコピペだし、その前の文章がコピペされてないから
冒頭からイミフになってる。
【吉川】毛利一族を語る【小早川】
546 :人間七七四年[sage]:2011/08/18(木) 10:58:39.92 ID:NbwgiJ+h
結城秀康死後に弱体化した時期の越前松平氏の奴隷になるなんて毛利貧弱すぎw
毛利衰退の原因は、元就が作っている件
532 :人間七七四年[sage]:2011/08/18(木) 11:24:14.88 ID:NbwgiJ+h
>>530 日本語として意味不明。
現実が認められずに
お前ついに頭がとんだのか?
どう見てもとても必死です。本当にありがとうございました。
おまけにやっぱり馬鹿やってwikipediaからブロックされたsubでしたね。
192 :
人間七七四年:2011/08/18(木) 13:51:28.60 ID:p6eo2ZTe
他でやれ
193 :
人間七七四年:2011/08/18(木) 14:53:24.17 ID:NbwgiJ+h
>>188>>189>>190>>191 いやぁストーカー気質は怖いねぇ。
わざわざ荒らし行為で他人への迷惑も考えないアスペ在日毛利厨って。
>>187 はぁ?自分はソース出さずに他人にはソース出せってw
そもそも秀吉が主導した天正検地→文禄の検地
そして関が原からまもなく行った慶長検地において
確実に各国の生産力が上がっているのは領内が開発され豊かになってきたから。
文禄の検地も人掃令による戸籍調査も抵抗勢力を朝鮮へ出してる隙にやってる間に調査してる。
在日くんが富の収奪と歪曲してるのは荘園の廃止や国人の陰田など不正蓄財を解体して
全国平等にしてる政策を曲解して富の収奪と言ってるだけ。
むしろ農業先進国の伊勢を中心に発達した農業技術が豊臣恩顧大名を通じて全国へ波及し
水攻めで用いた大土木技術や平地での防御力向上のための石垣技術などの軍事技術が民生用に転用され
隣国大名への領土拡張から領内開発への取り組みを促し
各地で豊臣恩顧大名を通じて灌漑技術がなかった地域まで領国開発ブームが起きた。
秀吉は一国一城令の前身になる破却令を出して無駄な軍事費の削減をさせて
平地に土木建築をさせて行政を整備させたりと中世から近世への扉を開き
秀吉により桃山文化が完成し朝鮮陶法も導入されるなど日本美術史に高く評価され
都市での大消費社会を作り文化の黄金期を現出させている。
家康は秀吉のやったことのただの劣化模倣に過ぎない。
194 :
人間七七四年:2011/08/18(木) 14:55:22.03 ID:zP+tp6cT
まあ相手になにか資料を出させ続けて
それの揚げ足を取るだけのほうがいろいろ楽だよな。
195 :
人間七七四年:2011/08/18(木) 20:38:53.82 ID:ISpUnTPQ
>>187 http://www.bunka.pref.iwate.jp/rekishi/rekisi/data/azuchi_2.html >蒲生氏郷(がもううじさと)や浅野長政(あさのながまさ)の勧めもあり、
>居城を岩手郡仁王(におう)郷不来方(こずかた)に南進させることを決定します。新都市「盛岡」の誕生です。
>盛岡が選ばれた理由は、(1)北上川の水運が利用できる交通の要衝であったこと、
>(2)北方の渋民(しぶたみ・盛岡市)や沼宮内(ぬまくない・岩手町)などを経由して九戸城に達する街道沿いであったこと、
>(3)北上川と中津川に囲まれた花崗岩(かこうがん)台地からなる天然の要害であったこと、などが挙げられます。
北国の最果ての南部家の築城や土木整備などにも
豊臣政権は関与してたよ。
196 :
人間七七四年:2011/08/18(木) 20:44:45.52 ID:bDsIJ7NF
前スレの終わりあたりから変なのが居ついたな
197 :
人間七七四年:2011/08/19(金) 00:47:55.14 ID:IbjPCE99
Subに構うからだよ
どこのスレでも無視されて暇でいるから相手すると10年でも20年でも絡んで来るぞ
198 :
人間七七四年:2011/08/19(金) 01:22:18.40 ID:gZwOFPTR
いちいち構うから喜んで絡んで来る
揚げ足とって来ても、なんだsubか、で論破完了なんだから構うな。
199 :
人間七七四年:2011/08/19(金) 01:42:22.73 ID:12COgRp3
アフリカのソマリアやコンゴ、かつてのアフガンといった国々は現代に置いてリアル戦国状態と
なっていますが、それらの国内の諸勢力が悉く子供をさらって強制的に洗脳して殺人マシーンにしたり、
女は性奴隷にしたり、支配下の部落を些細な理由で根斬りするような輩ばっかなのは何故でしょうか?
日本の戦国時代にしても捕らえた住人を奴隷として売ったり、住民ごと皆殺しにした事例はありますが、
根斬りは領内の場合は実際に幾度も蜂起したり、敵国の場合もこれからの戦を有利にする為の見せしめ的側面の方が
多いようですし、奴隷に至っては諸大名によって落差が大きく、大友や有馬のように派手にやった所と
謙信のように実際は買い戻させることを見越して嫌がらせ的に行った程度の大名も居ます。
信長はやってたんですかね?あまり聞きませんが。
とにかく内戦状態にしては実は一般市民はそこそこ平和だったとか、名君限定で法的な保護を受けれたとか
日本の戦国時代はそれほど悲惨では無かったらしいです。大名にしても自領の民が栄えていれば
他領の民衆を取り込むのに有利と言う側面もあって基本領民は大切にした方がいいと言う考えだったようです。
翻ってアフリカの国々は自勢力下、他勢力下関係なくの乱取りし放題の無秩序状態。名君0な状態。
こんなことやりまくってたら、仮に自勢力が天下取ってもそも民衆の支持は得られないし、また内戦時代に
戻るのは目に見えてるんですが?日本は戦国だったからこそ、乱世の英雄的人物が多数表れたのに
ソマリアやコンゴでは現れないのでしょうか?単純に民度の差なんでしょうか?
長々と書きましたが皆さんのお考えをお聞かせ下さい。
蛇足.そういや前中日新聞にソマリア内戦の記事があって読んでみたら「現代のソマリアは
いわば戦国時代である。だが悲しいことにこの国には信長も家康もいない。」と書いてあったのが印象に残ってます。
200 :
人間七七四年:2011/08/19(金) 04:03:15.98 ID:0R8q54gQ
大友や有馬はそんなことやってない。
奴隷狩りは島津がやってたことだ。
201 :
人間七七四年:2011/08/19(金) 05:30:30.61 ID:j3uISLjQ
202 :
人間七七四年:2011/08/19(金) 05:59:06.91 ID:2jG+oRmU
毛利元就って明らかに実力未知数だよね
620 :人間七七四年[sage]:2011/08/19(金) 03:45:34.08 ID:0R8q54gQ
層価毛利の捏造ぶりは異常
初期設定がチートな大名
48 :人間七七四年[sage]:2011/08/19(金) 03:47:58.54 ID:0R8q54gQ
織田厨必死過ぎw
武田信玄に天下統一が出来るの?
256 :人間七七四年[sage]:2011/08/19(金) 03:52:18.73 ID:0R8q54gQ
信玄の周囲は村上を始めとして領土が拡大を始めた勃興期に当たってるからね。
信長の周囲は応仁の乱後の混乱を制して富国強兵させ活躍した英主達が死んだりと衰退期に入った大名ばかりだったけど。
【疑問】スレ立てるまでもない質問8【戦国時代板】
200 :人間七七四年[]:2011/08/19(金) 04:03:15.98 ID:0R8q54gQ
大友や有馬はそんなことやってない。
奴隷狩りは島津がやってたことだ。
上杉謙信が戦国最強に決定(武田・北条・織田を圧倒)
475 :人間七七四年[sage]:2011/08/19(金) 04:14:51.06 ID:0R8q54gQ
>>474 謙信がやってることは誰でもやってるとするなら例えば同地域とも言える条件が揃う東日本エリアで他には誰がやってるのか列挙してくれないか?
あと妻子や親を埒って誰のことを言ってんの?
大友氏について語ろう2
478 :人間七七四年[sage]:2011/08/19(金) 04:19:02.44 ID:0R8q54gQ
財政難の打開策としてキリスト教保護による貿易と寺社領の没収は
大友の政策における両輪の関係だよな。
【臼井城の戦い】上杉謙信が北条に戦略的勝利
124 :人間七七四年[sage]:2011/08/19(金) 04:23:01.80 ID:0R8q54gQ
北条厨って無知だから議論が成立しない
信長の政権構想
415 :人間七七四年[]:2011/08/19(金) 04:25:12.81 ID:0R8q54gQ
無計画、無秩序、無軌道な拡大で崩壊への道を無闇に突き進んだバカ大名信長
上杉謙信の真の宿敵は北条氏康・氏政
440 :人間七七四年[sage]:2011/08/19(金) 04:32:28.13 ID:0R8q54gQ
義昭と信長の上洛と京から三好松永の排除を謙信は支持してたからね。
そして義昭が信長と対立すると義昭は信玄を支持してたから不信感が謙信にはあったが武田を背後から攻める真似はしなかった。
信玄死後に義昭側近の六角義堯が謙信との関係を再構築したから上洛戦が開始された。
203 :
人間七七四年:2011/08/19(金) 07:53:51.55 ID:8FCX6swf
関係ない書き込みやめろよ
日記帳でやれ
204 :
人間七七四年:2011/08/19(金) 08:00:21.49 ID:2jG+oRmU
【中二病】 だがvsSub 【精神病】
826 :人間七七四年[sage]:2011/08/19(金) 00:08:39.78 ID:8FCX6swf
>>821 さすがだがアンチ、自演汚いな汚い
829 :人間七七四年:2011/08/19(金) 07:52:29.17 ID:8FCX6swf
オフ会なんてする気がないんだから、なんとでも言えるわな。
205 :
人間七七四年:2011/08/19(金) 08:05:24.71 ID:pZqzxJ92
荒らしがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!
206 :
人間七七四年:2011/08/19(金) 08:49:26.79 ID:0R8q54gQ
>>201 ウソだと主張するなら大友や有馬がやっていたと証明するソースを出してみろよw
いくら探しても絶対に無理だけどなw
そうやって自分にとって不都合な意見には
レッテル貼りや人格攻撃やストーカー粘着荒らし行為で対抗とは幼稚だな。
207 :
人間七七四年:2011/08/19(金) 08:54:18.47 ID:2jG+oRmU
レッテル?つ【キチガイ謙信厨】
208 :
人間七七四年:2011/08/19(金) 09:04:49.23 ID:iQxX70yH
そういうのは他でやれ
209 :
人間七七四年:2011/08/19(金) 09:57:03.37 ID:d24D4HTq
>>199 民族が違うし、隣村の住人とも言葉が通じなかったりするアフリカと
ほぼ均一な日本社会は違うから
210 :
人間七七四年:2011/08/19(金) 10:03:31.48 ID:WWlfHKes
大友が奴隷貿易なんてやってたなんて大ウソ
むしろ宗麟は病院や学校や身寄りの無い子供のための施設を作ってる。
奴隷貿易やってたのは島津。
211 :
人間七七四年:2011/08/19(金) 10:50:13.19 ID:2jG+oRmU
上杉謙信の真の宿敵は北条氏康・氏政
442 :人間七七四年[]:2011/08/19(金) 09:01:28.35 ID:0R8q54gQ
>>441 病的ストーカー粘着偏執狂荒らしは非常に気持ち悪いねぇ
凸凸凸日本の城総合スレ凸凸凸Part16避難所
136 :人間七七四年[]:2011/08/19(金) 09:03:02.91 ID:0R8q54gQ
米子城の再建こそ急務
【中二病】 だがvsSub 【精神病】
831 :人間七七四年[]:2011/08/19(金) 09:06:25.68 ID:0R8q54gQ
以前にオフ会はどこでもいいと言ってたから
札幌すすきののサイバーシティビルで待ち合わせと指定したら逃亡したのがアンチだがの方じゃねぇかwww
秀吉が大苦戦した中国戦線【対毛利・両川】2
495 :人間七七四年[]:2011/08/19(金) 09:19:35.88 ID:0R8q54gQ
嫌いって言うより恨だな。
あの民族には時間の経過による風化と言う概念がない。
毛利衰退の原因は、元就が作っている件
533 :人間七七四年[]:2011/08/19(金) 09:29:40.40 ID:0R8q54gQ
>>528 隆景や安国寺が義昭を毛利領に呼ぶのに消極的な一方で
積極的な元春が義昭との窓口をやってたから義昭も毛利が有利になるように各国を毛利方にしてたからね。
決断できない毛利に痺れをきらした義昭側近の六角義堯が義昭の越後行きを策したら
それを知った毛利は義昭の力によって今まで毛利方になった各国国人達が毛利に失望し一挙に離反するのを恐れて
急遽、義昭を毛利が奉ずるのはとても名誉があることだと言い出して義昭を急いで毛利領内に呼んだ。
毛利と大友の北九州攻防戦を語ろう
861 :人間七七四年[sage]:2011/08/19(金) 09:39:04.08 ID:0R8q54gQ
Google先生に聞いてパクってきただけなんだろ。
だから陰徳太平記に書かれている内容だったなんて夢にも思ってない無知が毛利厨。
212 :
人間七七四年:2011/08/19(金) 11:24:07.89 ID:WWlfHKes
在日層価の毛利厨がまた暴れてるのか。相変わらず懲りないな。
>>185 矢田俊文も謙信時代の越後にはまだ灌漑農業が伝播されてないと言ってるな。
その一方で広隆寺文書で永禄10年9/7に
細川昭元が広隆寺に対して植林灌漑を命じてるように畿内では開始されてるのがわかる。
213 :
人間七七四年:2011/08/19(金) 15:19:23.72 ID:PeaZlTSu
>>210 あまちゃんだねえ。
クリスチャンに改宗した者には保護を、改宗を拒んだ者には奴隷の道を、だよ。
文書としての証拠が残っていないのは、秀吉が人身売買禁止令を出して「ヤバイ」と殆どの証拠を隠したからだよ。
このあたりの当時の事情はいろいろな研究者が本で出しているから、
「ソースを出せ」君も一冊くらい読んだらどうかな。
214 :
人間七七四年:2011/08/19(金) 15:28:25.04 ID:0R8q54gQ
>>213 デタラメばっかり書いてバカじゃないの?
215 :
人間七七四年:2011/08/19(金) 16:21:48.64 ID:eVOJTyir
ID:0R8q54gQ=スレ荒らし常習犯=アスペルガーだが=戦国板の嫌われ者
オマエの悪事は露見しているわけだから黙ってろ
216 :
人間七七四年:2011/08/19(金) 17:38:59.97 ID:eFUSD2G+
紀州についてなんですが、紀北(和歌山市あたり)は鈴木家が治めていたみたいですが、南紀(串本や熊野)は誰が治めていたのでしょうか?
217 :
人間七七四年:2011/08/19(金) 18:02:46.45 ID:gZwOFPTR
紀伊は誰が治めていたとかではなく国人の群雄割拠だね
紀北の代表的国人が雑貨衆の鈴木氏や土橋氏や根来衆で
南紀代表は湯川氏や熊野水軍の堀内氏
218 :
人間七七四年:2011/08/21(日) 01:19:45.18 ID:C1H78yUu
スレ違いかもしれませんが
弘前藩の実高ってどのくらいのもんだったんでしょう?
表高が4万7千石で実高が33万石とありましたが
他の大名に比べて乖離が激しすぎる気がするのですが。
219 :
人間七七四年:2011/08/21(日) 02:34:00.71 ID:13SjjhjI
悪とはつまり何なのですか?
220 :
人間七七四年:2011/08/21(日) 04:11:38.96 ID:8rTQCL9R
>>218 まず、津軽の石高が30万石って言われるようになったのは4代信政の頃ね。
実高自体は25〜30万石位はあった。ただ凄まじく無理して開拓しまくった結果。
元々津軽は平野部が広く、また同時に大規模に工事せねば農地として使えない未開拓地が多かった。逆を言えば開発余力があった。
で、藩政が成立し、大規模なインフラ整備が可能となった後、限界以上まで開拓した。
おかげで豊作の時は良いけど水不足や冷害に極端に弱くなる羽目に。
221 :
人間七七四年:2011/08/21(日) 04:22:16.29 ID:HQDO6Y8/
大阪の陣で家康軍は大阪城の南側(天王寺とか)から攻めているんですけど、西側は海、北側は天満川があって困難だとしても、東側から攻めるという戦略は無かったんですか?
家康は京都に寄ってて奈良経由だとしても、奈良街道だけでなく大阪城の東に出る八尾道・奈良道といった道もあると思うんですが…わざわざ準備万端な真田丸とかがある南側から攻めるのはどうかと
222 :
人間七七四年:2011/08/21(日) 05:18:31.94 ID:YESlVsEc
東側は大阪環状線に沿うように猫間川という川が流れて湿地帯だったのだ
大軍を展開できる地形ではありません
223 :
人間七七四年:2011/08/21(日) 06:27:22.74 ID:Hx4ugWOL
>>219 川合伸旺さんとか菅貫太郎さんとか田口計さんとかは登場してきた瞬間無条件で悪の権化
224 :
人間七七四年:2011/08/21(日) 12:58:58.88 ID:/cKrNZwF
大阪冬の陣の真田丸攻撃についての2つの疑問です。
1,何故、大阪城周辺で豊臣に協力した村民などの家族を捕らえて、銃弾避けの
人間の盾として前田軍は利用しなかったのでしょうか?
利家の加賀での一向宗撫で切りや尼崎での荒木一族や重臣の家族を蒸し焼き
バーベキューにするなど住民虐殺は、お家芸だと思うのですが?
2、真田丸へあんな無様な攻撃をして死傷者続出させたということは、前田家は、
潜在的な豊臣派だったのでしょうか?
225 :
人間七七四年:2011/08/21(日) 13:16:00.73 ID:/sD4WuKw
>>224 1.上の徳川家がそれなりの仁義を弁えているから
2.挑発されて頭に血が上ったから
226 :
人間七七四年:2011/08/21(日) 14:10:25.27 ID:/cKrNZwF
>>225 ありがとうございます。
1のFAは
前田家としては、意図はあったが上位者の徳川家の意向として
人間の盾作戦は禁止されていたということですね。
2のFAは
挑発されたために竹束などの防弾装備無しで攻撃してしまった
ということですね。
それにしても前田家では大筒などの遠距離攻撃兵器は用意して
いなかったのでしょうか?いくらドケチの利家の血を引くとはいえ
人と違って、経費はかからない報だと思うのですが?
227 :
人間七七四年:2011/08/21(日) 15:19:56.53 ID:/sD4WuKw
228 :
人間七七四年:2011/08/21(日) 15:49:29.84 ID:5ry5YKvH
>>226 徳川への恭順の意をしめすための戦いだから、
武力の誇示に最適=大筒
そんなもん持っていたら、有無を言わせず確実に改易。
229 :
人間七七四年:2011/08/21(日) 16:02:08.23 ID:/sD4WuKw
>>226 「前田家譜」には家康が利常に塹壕を掘り、土山を築き、砲撃せよと命じているので
大砲は保有していた
230 :
人間七七四年:2011/08/21(日) 16:21:24.59 ID:C1H78yUu
>>220 でも余力があったといっても同じように
開発が進んでいなかった久保田藩ですら
表高との乖離は2倍でしたし、棚田などで頑張った長州藩ですら
3倍がいいところだったのに7倍ってのはどうなんでしょう?
231 :
人間七七四年:2011/08/21(日) 20:37:40.99 ID:BMSBgfr+
あと、意外なことに江戸中期(寛文年間前後)以後、幕府が諸藩が新田開発によって石高が増えたと報告しても却って喜ばなくなったという事情もある。
表高が上がると、一見して幕府はその藩への負担増加を命じることが出来るようになって有利になると思われがちだが、
江戸城における席次とかの格式の変動はしばしば大名間のトラブルになった(A藩が40万石から60万石に増えて、50万石のB藩を越してしまうと、B藩より上の待遇を要求するA藩とそれに不満なB藩がトラぶる)ため、
大名統制上却って不都合が多いと考えられるようになった。
だから、歴史教科書にもしばしば登場する1664年以後表高の引き上げはほとんど行われなくなる。
232 :
人間七七四年:2011/08/23(火) 02:02:18.59 ID:SkdGpncy
>>230 津軽の石高が飛躍的に上昇したのは、津軽平野北部(岩木川下・中流域)を拓いたのが大きい。
津軽平野北部はへたすれば並みの藩ほどの面積があるけど、戦国期から江戸最初期はほとんど未開地。
そこを限界以上に開発し、胸まで水に浸かるような不適な土地まで、使える土地は全て使う勢いで水田にした。
その結果があの石高。もちろん岩木流域以外の地域の開拓や殖産が進んだってのもあるし、検地が3年かけて念入りに行われたってのもあるかと。
久保田藩について言えば、銀・銅や木材など米以外の移出品があったおかげで
津軽みたいなコメ一辺倒の無茶苦茶な開発はしなかったし(つうか津軽がおかしかった)
銀等の枯渇以降の新田開発が必ずしも上手くいかなかったって事情もある。
233 :
人間七七四年:2011/08/23(火) 19:33:00.56 ID:bgcvNuHW
戦国時代の大名など、奥方と一緒に入浴することはなかったのでしょうか?
変な意味ではないのですが、あの時代の入浴はどういう概念だったのかと思って
234 :
人間七七四年:2011/08/23(火) 22:09:02.55 ID:Q2Js0ELz
>>233 偉い人は体を洗う係の人がいます。奥方とは入りません。
裸になるのはハシタナイので浴衣を着たまま入ります。
あれ、江戸時代はそうなんだけど戦国時代はどうかな。
235 :
人間七七四年:2011/08/23(火) 22:11:38.93 ID:1s6zHRya
つーか戦国期は湯船ではなく基本蒸し風呂だ
236 :
人間七七四年:2011/08/24(水) 02:50:03.56 ID:WQhwvaBR
戦国時代って、トイレはどうしてたんでしょう。
特に鎧を着たとき。
合戦中でなくとも鎧は着ないといけない時があると思うんですが・・。
ひょっとして某三河武士さんのような垂れ流し?
237 :
人間七七四年:2011/08/24(水) 02:59:41.04 ID:qUytTXfl
当世具足の佩楯は簡単にとれるから
よっぽど切羽詰まって無い限り漏らす心配は無い
238 :
人間七七四年:2011/08/24(水) 09:19:29.92 ID:OL5NEIqw
合戦時の袴は尻で合わせるようにしているので、そのままできる
239 :
人間七七四年:2011/08/24(水) 11:20:20.73 ID:NQCPxybx
そうそう、股の所を縫いあわせてないからな
合わせ目をずらせば小も大も余裕
240 :
人間七七四年:2011/08/24(水) 11:56:02.16 ID:kudEFQLY
逆に考えるんだ。
チンコ部分に穴を開けておき
どっかの先住民みたいにペニスケースをつけるんだ。
んで戦闘中に小便を発射して敵に先制攻撃をry
ここまで書いていて自分のあほらしさがいやになる
241 :
人間七七四年:2011/08/24(水) 12:44:34.77 ID:8onPI8rE
雑兵なら下半身は脛当てと褌だけの人もいるからウンコシッコは楽。
えらくなるとさすがに褌一丁でウロウロできないからね。
242 :
人間七七四年:2011/08/24(水) 13:24:30.23 ID:J63ovrss
戦国時代(室町含む)の大名の居館について質問です。
館は大抵、応接間である会所と、生活スペースに分かれていますが、
政治は何処でやっていたのでしょうか?
会所や他の生活スペースじゃない殿舎に、会議室や書斎、各部署の部屋なんかがあったという理解でいいんでしょうか?
また、大名の館についていい本があったら教えて下さい。
243 :
人間七七四年:2011/08/24(水) 13:41:30.80 ID:eG/ZbfIq
244 :
242:2011/08/24(水) 15:24:10.05 ID:J63ovrss
>>243 ありがとうございます。本読んで勉強してみます!
245 :
人間七七四年:2011/08/24(水) 17:01:21.72 ID:NQCPxybx
>>241 だがな、雑賀の山口兄弟ってのが居てな
弟は武士らしく完全武装なんだが、
アニキは褌一丁に兜だけという素晴らしい格好で大坂夏の陣を戦ったそうなw
なんで兜だけはしていたかというと、討ち取られて首だけになったら武士として扱ってくれるからとか
246 :
人間七七四年:2011/08/24(水) 19:58:06.22 ID:ss8fOGdH
何十何百、ときには何千何万がウンコしまくるんだから臭かったろうなあ。
籠城戦ともなれば城の外も内もウンコだらけだろうな。
247 :
人間七七四年:2011/08/24(水) 20:08:02.96 ID:3LEPh/kC
そういう糞尿を、城攻めしてくる敵方にぶっかけるやり方もあったよね
あと、熱々の粥をぶっかけるとか 長期籠城でなけりゃ最強の武器だなあ
248 :
人間七七四年:2011/08/24(水) 20:16:56.73 ID:kudEFQLY
讃岐ではうどんの茹で汁を利用していたそうな
249 :
人間七七四年:2011/08/24(水) 20:26:42.01 ID:3LEPh/kC
讃岐の籠城戦の主な兵糧はうどんなのか…
250 :
人間七七四年:2011/08/24(水) 20:32:27.14 ID:Ox1Fi84b
兵糧はあるけど水不足で落城か
251 :
人間七七四年:2011/08/24(水) 20:36:34.51 ID:3LEPh/kC
それなんてイタリア
252 :
人間七七四年:2011/08/25(木) 00:31:09.73 ID:JdOUxvTc
糞尿の最も効果的な使い方は敵方の井戸に放り込むことだよ。
大抵の人間はそれで下痢起こすからな。
253 :
人間七七四年:2011/08/25(木) 14:58:18.44 ID:7ADDfEbw
うんこは立派な資源で、ちゃんとリサイクルされてたってどっかのテレビで見た
254 :
人間七七四年:2011/08/27(土) 17:12:42.21 ID:2IniNcDS
越後の龍
独眼竜など
竜と称した、称された武将は他に居ないでしょうか?
255 :
人間七七四年:2011/08/27(土) 17:15:39.01 ID:pu00VaDj
橋龍
256 :
人間七七四年:2011/08/27(土) 22:20:29.85 ID:Xdfa75ks
俺竜
257 :
人間七七四年:2011/08/27(土) 23:14:02.18 ID:vioMhoaW
下間頼の竜
258 :
人間七七四年:2011/08/28(日) 01:19:18.24 ID:H0jY4/bA
徳川家康は癇癪持ちだったって本当?
確かに息子達は癇癪持ちが多かったけど
本人はあまりそういうエピソードを聞かない。
実際のところはどうだったんすか?
259 :
人間七七四年:2011/08/28(日) 01:27:45.09 ID:b849g2Fj
短気ではあるな
短気になったら、作左がそれ以上に怒るけど
260 :
人間七七四年:2011/08/28(日) 11:04:11.50 ID:jJtXxCSF
>>258 元来気性が激しいのを、自分の意思の力で抑え込んでいた印象を受けるかな
261 :
人間七七四年:2011/08/28(日) 11:07:12.43 ID:+uY8046W
>>258 イライラすると爪を噛む癖があったと言われている。
262 :
人間七七四年:2011/08/28(日) 11:09:37.45 ID:+uY8046W
>>258 浜松城で信玄を待ち構えてたらスルーされて、カッとなって釣り出されたから三方原で大敗北した。
「糞では無い、味噌じゃ!!」のエピソードの時の事だ。
263 :
人間七七四年:2011/08/28(日) 11:42:03.64 ID:U8MvTJZP
>>258 生簀をぶっ壊された時だったか、
ブチギレて奥に引っ込んだと思ったら、しばらくしたら出てきて
「お前の言うことは最もだから今後は改める」とかいう人だからな
生来は短気だろうが、意志の力で押さえ込める人
偉大なる凡人
264 :
人間七七四年:2011/08/28(日) 20:21:40.41 ID:6/kYsAG9
戦国時代もデブ女が美人扱いだったのでしょうか?
265 :
人間七七四年:2011/08/28(日) 22:08:53.55 ID:4GldpCZq
デブの基準による
266 :
人間七七四年:2011/08/29(月) 00:36:55.68 ID:G7S70noy
よく大名が別の家の娘を養女にして婚姻させてるけど
養女にした時点で実子とほとんど変わらない存在になるの?
267 :
人間七七四年:2011/08/29(月) 11:16:58.31 ID:xy074avB
「格」としてはそのとおり。
あと、婚姻の目的は、要は家同士のつながりの問題。
嫁を介して嫁ぐ家の人間も大勢婚家に入ってくるのだ。
あまり個人の問題として捉えないほうがいい。
268 :
人間七七四年:2011/08/29(月) 19:48:05.09 ID:G7S70noy
>>267 なるほどなるほど 重要なのは婚姻によって起こることなのか
ありがとー
269 :
人間七七四年:2011/08/29(月) 22:11:24.38 ID:RpTKm/Xg
>>264 ふくよかで面長な顔で細目が人気あった。
お市の方なんか今で言うとドブス顔。
270 :
人間七七四年:2011/08/30(火) 14:39:05.78 ID:gmlT74c8
忍城ですが石田三成が自滅しただけで甲斐姫が活躍したわけではないし、
小田原が先に降服したのでうやむやになっただけで勝ったわけではない。
なんで甲斐姫が石田三成を倒したみたいな話になっているのでしょうか?
271 :
人間七七四年:2011/08/30(火) 14:41:24.53 ID:40JhRlc7
その方が萌えるからだ!!
272 :
人間七七四年:2011/08/30(火) 14:41:41.53 ID:gmlT74c8
なら仕方ねえな。
273 :
人間七七四年:2011/08/30(火) 14:55:50.51 ID:ZstUeY06
大抵の小説でも、甲斐姫はすみっこでギャーギャー言ってて
成田さんがうるせーなーと思いながらも放っておいて、黙々と籠城頑張ってるな
274 :
人間七七四年:2011/08/30(火) 14:57:41.65 ID:tHRXCUMQ
そもそもこれによって戦に関する三成の評判が凋落し最後までそれを取り返せなかった事を考えれば、
その点に置いて決定的なボロ負けである。
275 :
人間七七四年:2011/08/30(火) 15:26:08.42 ID:BfDmu/lj
別に凋落してないんじゃね
276 :
人間七七四年:2011/08/30(火) 18:53:53.18 ID:5nDUwzTF
長宗我部信親は信長から左文字の刀を貰ったとありますが、この刀は今川義元が持っていた左文字の刀と同じものなんでしょうか?
277 :
人間七七四年:2011/08/30(火) 20:39:24.22 ID:bRAQlOsb
雑誌で秀頼に関白に任命させようという朝廷が考えていたらしいですが可能だったんでしょうか?
関白になれば豊臣を攻撃したら朝敵になるので徳川も手が出せないってあったんですが・・・
278 :
人間七七四年:2011/08/30(火) 20:47:44.44 ID:ZstUeY06
もともと五摂家しか就任できなかった関白職を
秀吉が武家関白制で豊臣家世襲にしちゃったのを
関ヶ原以降、徳川が関白権を朝廷に返したんだからなあ
また朝廷が豊臣にやるってのもどうだろう
五摂家にとっちゃ、関白権が戻ってきたのは喜ばしいことだし、二度とこんなことがないようにと
むしろ渡さない方向に行くと思うんだけど
朝廷がそこまで豊臣護る理由はないと思うんだが
279 :
人間七七四年:2011/08/30(火) 20:48:11.93 ID:o7d314sJ
>>277 関白に任命すると言っても、それはいつの段階なのか、また「朝廷」とは具体的に誰のことなのか、
関ヶ原後豊臣から関白職を取り戻した五摂家がそれに同調するとは全く思えん。
あと朝敵と言っても、武家政権というものはたとえ天皇上皇であっても「謀反」があれば討伐するもの。
それに関しては前例もある。ましてや関白など、意にも介さないだろう。
というかそれなんて雑誌だ?
280 :
人間七七四年:2011/08/30(火) 20:55:22.70 ID:ZstUeY06
天皇側が謀反は、後醍醐天皇がいい例かな
鎌倉幕府を倒そうとして返り討ちにあって流罪だもの
天皇すらこうなんだから、一関白じゃあ恐れるべきでもないんだろうね
281 :
人間七七四年:2011/08/30(火) 21:11:08.24 ID:bRAQlOsb
>>279 歴史街道の9月号だったと思います
大坂の陣特集で義演準后日記に関白職にする気だったってあったんですが
あんまり信憑性ないんですかね・・・?
282 :
人間七七四年:2011/08/30(火) 21:26:36.52 ID:o7d314sJ
>>281 それはそういう動きがあったというより、噂、雑説のたぐいかと。
283 :
人間七七四年:2011/08/30(火) 21:30:36.08 ID:ZstUeY06
日記や手紙は、ソース元が判断しにくいからなあ
公家さんの日記は「聞いた話なんだけど、これこれこういうことがあったそうな」って言うのが多いし
284 :
人間七七四年:2011/08/30(火) 22:30:57.70 ID:gmlT74c8
大寧寺の変で左大臣の三条公頼もあっさり殺されているからなあ。
地方の守護代ですら官位なんてクソ食らえだったのに
武家最大の実力者である家康にどれほど効果があったことやら。
285 :
人間七七四年:2011/08/31(水) 00:17:56.73 ID:/1lOqFyt
>>281 義演のほかにも、毛利輝元が国許に秀頼関白就任が近いらしいと報じていたり、
承兌が秀頼のもとに勅使が派遣された=関白就任か?と推測しているとのこと。
摂家(関ヶ原合戦後に関白となった九条兼孝の兄弟)出身の義演からして
「秀頼卿関白宣下之事、仰せ出さると云々、珍重々々」と書き記しているあたり、
当時の人々が慶長七〜八年頃にはかなり現実味のある話として秀頼関白就任の
可能性を認識してたんじゃないかな。
確かに武家関白制はここで崩壊するんだけど、秀頼のもとへは大坂の陣直前まで歳首を
賀する勅使が派遣されていたし、秀頼の家臣団が幕府を介さずに叙任されるなど、朝廷と
豊臣家との関係は良好に推移していたので、可能性のひとつとしてはありえたんじゃないか?
(もちろん年を経るごとに豊臣氏には不利になっていく状況ではあったが)
秀頼の立場については、徳川氏や諸大名、朝廷との関係など時期によってもかなり評価が変わってくるし、
一概には中々言いがたいとは思うけどね。
286 :
人間七七四年:2011/08/31(水) 09:20:53.53 ID:cI1+0VPq
287 :
人間七七四年:2011/08/31(水) 15:25:36.03 ID:zCy8ZROv
>>285 後々、禁中並公家諸法度で、関白を選ぶのは将軍になる辺り
そういうのを危惧したのかと思っちゃうな
288 :
人間七七四年:2011/08/31(水) 23:56:57.35 ID:WizKcHtF
戦国時代の食事について調べてるんですが
意外なことに最も容易に手に入れられる炭水化物である
ドングリの記述ってあまりないですよね?
もしかして忌避されていたのですか?
289 :
人間七七四年:2011/09/01(木) 00:23:16.17 ID:rJHTTpJy
290 :
人間七七四年:2011/09/01(木) 00:35:10.83 ID:CQsAp1Ya
栗や樫の樹を切ってしまって、食料にできるほどなかったのかも
291 :
人間七七四年:2011/09/01(木) 01:13:43.50 ID:6aZ2QESu
季節限定だから というのも有りか?
292 :
人間七七四年:2011/09/01(木) 01:16:52.55 ID:euntdNLg
根本的に不味い
飢饉のときでもない限り食いたくない
293 :
人間七七四年:2011/09/01(木) 01:32:20.19 ID:4xp8mB1D
特に食い物関係の本読んでなくても、
栗は兵士の携帯食にされたり、出陣の儀式に使われたりで目にするが
ドングリはみないっちゃみないな。やっぱりまずいからかな
294 :
人間七七四年:2011/09/01(木) 02:55:50.48 ID:qr5v5ug2
穀物食えないほど貧しかったわけじゃないし
飢饉でもない限り食べないわな
295 :
人間七七四年:2011/09/01(木) 03:52:18.33 ID:y4+tQfuB
>>285 慶長7・8年だと、
まだ形式上は家康以下全国の武士は豊臣の家臣だったからじゃね?
296 :
人間七七四年:2011/09/01(木) 08:14:22.35 ID:G6S1oyG1
二重公儀だからね
297 :
人間七七四年:2011/09/01(木) 23:47:02.16 ID:Ma+bjslp
ドングリは不味かったから食べられなかったんですね。
298 :
人間七七四年:2011/09/01(木) 23:53:40.26 ID:4xp8mB1D
百姓の城(避難所)に保存食として備蓄してたら
夫を無くした母子が勝手に食っちまったので
村で相談して殺したちゅう記録があるとは、さっき読んだ本にあった。
299 :
人間七七四年:2011/09/02(金) 00:07:25.84 ID:DmRk64gg
それはわらびではないか?
300 :
人間七七四年:2011/09/02(金) 00:17:49.02 ID:/tsr3TT+
大河ドラマで、大名の奥さんが夫のことをよく「殿」って呼ぶけど
公家さんの奥さんは夫のことなんて呼んでたんだろう
301 :
人間七七四年:2011/09/02(金) 01:04:35.57 ID:DL9eKdu4
>>299 そう言われるとそうだったかも
やべ、もうすでに積み本にまぎれて探し出せない
302 :
人間七七四年:2011/09/02(金) 15:46:36.70 ID:i0t0eR7t
303 :
人間七七四年:2011/09/03(土) 15:40:36.70 ID:A4GFxQhY
テレビで、縄文人が食べていたというドングリをクッキー状にしたものを再現していたが、意外に美味いと言ってたな。
ホントか知らんが。
304 :
人間七七四年:2011/09/03(土) 17:40:06.48 ID:akHi88yC
あんなものは現代人が現代の味覚で美味しく作ってるだけだからな
305 :
人間七七四年:2011/09/03(土) 20:18:46.72 ID:bR1O3CSB
その通りだ。おしんブームの時の観光地の大根飯美味いと一緒だ。
そもそも縄文時代の味付けは判らん。
306 :
人間七七四年:2011/09/04(日) 07:18:17.80 ID:S4apyYjm
椎の実なら素でも食せるけど他のドングリはあく抜きがめんどいから。
307 :
人間七七四年:2011/09/05(月) 11:27:40.04 ID:2JZmdfBV
戦国時代の大名たちは商人から借金していたみたいですけど
滅亡した大名家の借金ってどうなっていたんでしょうか?
308 :
人間七七四年:2011/09/05(月) 16:07:40.36 ID:njnPOJIw
解散した会社の株券と一緒だよ
309 :
人間七七四年:2011/09/05(月) 16:52:42.85 ID:oZme1fzC
家が無くなったら当然全部パーだよ
殿様が「借金返すのやーめた」て言ってもパーだし
商人も大変です
310 :
人間七七四年:2011/09/05(月) 17:35:18.75 ID:2JZmdfBV
ありがとうございます。
それなら傾いた家には金を貸せませんね。
大名の方も野戦などで大きく負けて信用不安になると再起を計ろうとしても
資金調達ができないので弱り目に祟り目。やはり信用第一ですね。
ん?戦国時代の借金はその多くが拒否する権利なんてありませんよ
312 :
人間七七四年:2011/09/05(月) 18:13:54.10 ID:2JZmdfBV
なら小田氏治みたいな勝てないのになんどもギャンブルするのが近所にいると悲惨ですね。
313 :
人間七七四年:2011/09/05(月) 21:19:00.74 ID:mrtimebo
天庵様は一生懸命領民守ってたから周りも頑張って支援してたんだよ
314 :
人間七七四年:2011/09/06(火) 04:17:54.02 ID:3AGZ5d7J
雑賀衆の子孫で雑賀さんという方々がいらっしゃいますが、彼らは鈴木重秀(孫一)の子孫にあたるのでしょうか?
315 :
人間七七四年:2011/09/06(火) 10:23:50.29 ID:xd+iknxR
可能性はありますがそれだけの情報では判断付きません。
316 :
人間七七四年:2011/09/06(火) 12:29:02.85 ID:LKFpRDpw
雑賀衆の頭領が鈴木孫一なので、鈴木という姓ではない場合孫市とは関係ないか、関係あっても傍流だと考えられます
317 :
人間七七四年:2011/09/06(火) 13:37:35.92 ID:1cRdTjSe
可能性は極めて低いです
318 :
人間七七四年:2011/09/09(金) 17:59:27.29 ID:4L0oEspe
毛利元就は人質として長男隆元を周防に送っていたそうですが
大内義隆とホモ関係になった隆元はいつの間にか安芸へ帰国しています。
そして毛利元就は大寧寺の変で陶晴賢に同調したものの、後に離反して厳島の戦いになるわけですが
その間、大内には人質を送っていなかったのでしょうか?
319 :
人間七七四年:2011/09/11(日) 23:10:41.00 ID:Nm5zd+ft
せめて男色と書こうよ。
320 :
人間七七四年:2011/09/12(月) 00:36:23.73 ID:TtmrQvAh
毛利隆元は大内義隆に気に入られて吉田郡山城の戦いの前には帰国を許されている。
後に嫁として大内義隆の養女(厳密には内藤興盛の実娘)を娶り婚姻関係もできてるね。
毛利側からその後も別の人質を出していたかどうかはわからん。
肉体関係を考慮すると陶晴賢と毛利隆元も穴兄弟。穴兄弟は義兄弟みたいなもんだから人質なんて野暮だよな。
321 :
人間七七四年:2011/09/12(月) 01:14:45.11 ID:0u5vzncz
322 :
人間七七四年:2011/09/12(月) 01:42:16.35 ID:1SIU/0Ug
籠城戦の時
姫や侍女はどうしているんだろうか
323 :
人間七七四年:2011/09/12(月) 01:43:56.31 ID:ORTb75nW
負傷兵の治療とか、具足の修理とか、ご飯作りとか
324 :
人間七七四年:2011/09/12(月) 01:48:50.51 ID:1SIU/0Ug
落城した場合そいつら侍女はどうなるんでしょうか
325 :
人間七七四年:2011/09/12(月) 01:52:02.88 ID:Bttpa0/G
突入してきた兵士たちが……。
326 :
人間七七四年:2011/09/12(月) 01:52:56.77 ID:1SIU/0Ug
強姦、捕虜として売り払う
という感じでしょうか
327 :
人間七七四年:2011/09/12(月) 02:12:53.49 ID:z/EZ5cgl
身分の高い女は大事な商品、傷物にしてどうする(戦の後、親戚が身代金を払って引き取るのが普通)
落城の場合も、監察が来る前に金目のものをかき集めるのに忙しく女をかまってる暇はないと思う
328 :
人間七七四年:2011/09/12(月) 02:24:51.69 ID:j3bi6vuF
>>320 隆元が帰ってきたのは郡山城の戦いの後だろ?
329 :
人間七七四年:2011/09/12(月) 14:34:09.69 ID:a1/Lx+88
落城の仕方によるだろうな
降伏勧告や開城交渉をしているのならば、
当然籠城側の安全保障も条件に含まれてるから大丈夫
力攻めにしたって、人質たる奥方や姫の身の世話をする人は必要だし、
侍女は侍女でそのままだと思うぞ
330 :
人間七七四年:2011/09/12(月) 16:54:45.81 ID:4yZ/5bmI
身分の高い武家の娘や奥方は落城前に逃がすか、敵方に交渉して保護してもらうのが普通だな
逃がせられない時は自決する
身分の低い女らは自力で逃げるしかないから雑兵の餌食になる
だから家によっては家族が殺してしまう事もあったようだ
全国の城に、ここで姫が堀に飛び込んだ、ここで姫が自決したって話があるよ
332 :
人間七七四年:2011/09/12(月) 20:50:26.21 ID:a+jcZLow
>>331 ただ、その手の伝説もどこまで本当か?という問題はあるよ
333 :
人間七七四年:2011/09/13(火) 01:09:53.24 ID:v0ZnwD/G
うちの周りの城には無いな。その手の話。
334 :
人間七七四年:2011/09/13(火) 23:46:10.35 ID:dleuj1d5
単なる伝説だろうと言われてたけど、
実際に骨が出てきて大騒ぎになったうちの地元。
335 :
人間七七四年:2011/09/14(水) 00:27:34.50 ID:HIXkIEG6
うちの周りにもいっぱいあるな
336 :
人間七七四年:2011/09/14(水) 01:21:33.23 ID:XnMlIinj
>>334 伝説に聞く、と思ったら殺人事件だったんですね。
337 :
人間七七四年:2011/09/14(水) 11:38:55.06 ID:6B35RWbI
享徳の乱は西の応仁の乱と比較してあまりに知名度が低いです。
戦国時代の発端の要因の一つなのに
「西の応仁、東の享徳」という風に同列扱いされないのはなぜですか?
338 :
人間七七四年:2011/09/14(水) 11:57:21.20 ID:0SOlKv5h
徳川家康の六男で伊達政宗の娘ムコになった松平忠輝のことなんですけど、
18歳ぐらいの若さで北信濃12万石に合わせて越後の大部分63万石をあわせて
実に75万石ももらってますよね?いくらなんでも貰いすぎじゃないですか?
なんかウラがあるんでしょうか教えて下さい
339 :
人間七七四年:2011/09/14(水) 13:03:51.74 ID:xLjmcO/l
>>338 家康は嫌っていたというからわざと大封を与えて、隙を見せたら取り潰すつもりだったのかもしれん。
340 :
人間七七四年:2011/09/14(水) 13:12:41.12 ID:SdpJdJEe
>>339 そもそも家康が嫌っていたという話を疑えよ
341 :
人間七七四年:2011/09/14(水) 13:17:15.70 ID:XV/KFg4o
その頃の忠輝の官位ってどれくらいだったっけ
家康の息子はどれもこれも官位高いから、官位にふさわしい扱いだったとかは?
342 :
人間七七四年:2011/09/14(水) 13:44:13.67 ID:Nq22haQq
北の藩屏という立場だったから>忠輝
343 :
人間七七四年:2011/09/14(水) 14:04:30.27 ID:xLjmcO/l
>>340 裏があるのかという質問に沿った方向で回答してみた。
>>341 官位は従五位下 上総介または従四位下 左近衛権少将。叙任の時期は判らん。
越後を加増されたのが慶長15年(1610)。その頃の他の兄弟はこうなってる。
2男の結城秀康は越前67万石を貰い下総結城郡と合わせて75万石。官位は従三位 権中納言だが既に
死んでる。嫡子の忠直が相続した。
4男の松平忠吉は尾張清洲52万石、従三位 左近衛中将・薩摩守だが既に死んでる。弟の9男徳川義直が
後を継いで尾張藩になる。
5男の武田信吉は甲州武田氏の名跡を継いで常陸国水戸25万石。官位は不明。既に死んでる。
7男の松平松千代は既に死んでる。長沢松平家を継ぎ、深谷藩主だったが兄の忠輝が後を継いだ。
8男の松平仙千代は重臣平岩親吉の養子となったが既に死んでる。
10男の徳川頼房は紀州藩祖だがこの頃は駿河駿府藩50万石、従四位下常陸介らしい。
11男の徳川頼房は水戸25万石、従四位下左衛門督。
344 :
人間七七四年:2011/09/14(水) 14:23:36.22 ID:0SOlKv5h
>>339 >>340 >>341 >>342 >>343 お返事ありがとうございます!
徳川兄弟を並べてよく見るとそんなに突出したあつかいでもなかったでしょうか
やはり天下人の息子だからこれぐらいはもらっても罰は当たらないってことですかね
よくわかりました ありがとうございました
345 :
人間七七四年:2011/09/14(水) 14:50:44.18 ID:xLjmcO/l
でも忠輝だけ弟の家督を相続してるんだよね。普通は無い事だよ。
結城秀康と松平忠吉は関ヶ原の功績を評価されての事だから、
それ無しでの63万石加増はやっぱり大きい。尾張藩の表高が62万石、
紀州藩が55万5,000石だからね。
346 :
人間七七四年:2011/09/15(木) 06:12:06.07 ID:jkGVRAM7
大名と馬廻りならどちらが待遇がよかったのでしょうか?
これは江戸時代の大名と旗本などと並列しますが…馬廻りや旗本の方が大名より石高が少なくとも優遇はされていたんでしょうか?
外様だとしても城持ちの大名の方が物理的に優遇されてる気がしてならないのですが。
347 :
人間七七四年:2011/09/15(木) 10:24:14.37 ID:YsrB+xbC
「誰から」の大名と馬廻りに対する優遇なのか
物理的に優遇、とはいったい何を指すのか
この辺ちゃんと書かないと答えようが無いんじゃない?
348 :
人間七七四年:2011/09/15(木) 11:55:05.57 ID:dluxoLWn
優遇ったって、政治的な権利もあれば領地・俸給(金銭)面での待遇もあるしねえ
349 :
人間七七四年:2011/09/15(木) 19:10:23.98 ID:jkGVRAM7
>>347 口が足りなくてすみません。
大名:信長
馬廻り:赤母布衆、黒母布衆
大名:秀吉
馬廻り:黄母布衆
などです。
350 :
人間七七四年:2011/09/15(木) 20:05:05.24 ID:H8D0IDTH
>>349 ????
信長(大名)と前田利家(母衣衆)の待遇を比べるってこと?
利家の待遇を決めるのが信長だろ。
待遇を決める人と待遇を受ける人を天秤にかけて、
どちらが待遇がよかったのでしょうか?って、そんなアホな質問があるかよ。
羽柴秀吉(大名・長浜城主)と前田利家(母衣衆)のうち、
どっちが信長からよい待遇を受けてたかっていうのならわかるが。
351 :
人間七七四年:2011/09/15(木) 20:05:49.94 ID:DJACFEZX
>>349 www
質問したいわけじゃないだろ?
元ネタを想像すると、
徳川時代の千石取りの大身旗本は1〜2万石程度の大名よりは裕福だったという世間話から
戦時下の馬廻りと大名の比較をしたいみたいだが、
戦時下なら、他国の奴が正確な石高なんて知る由もなく
ましてや大名の馬廻り程度の俸禄が本当のところ幾らなんて知る由もなし。
352 :
人間七七四年:2011/09/20(火) 21:07:11.16 ID:wB7/x9eD
,.――――-、
ヽ / ̄ ̄ ̄`ヽ、
| | (・)。(・)| 服部半蔵って忍者だったの?
| |@_,.--、_,>
ヽヽ___ノ
353 :
人間七七四年:2011/09/20(火) 21:42:08.78 ID:cZ6UPRIg
354 :
人間七七四年:2011/09/20(火) 23:50:02.89 ID:Jj7i2vbX
この時代の忍術ってどういうものだったんすかね?
織田信雄は伊賀衆は魔物だとか言ってたようですし
355 :
人間七七四年:2011/09/21(水) 00:10:35.42 ID:HU7/5ub6
>>354 山彦の術、五遁の術、陰中陽の術、狸退きの法、忍び熊手、蜘蛛梯子、水蜘蛛 などなど
356 :
人間七七四年:2011/09/21(水) 01:53:25.38 ID:/xCtEaT8
>>354 情報収集・工作と破壊工作
今で言うとスパイと特殊部隊を足して二で割ったような感じ
357 :
人間七七四年:2011/09/21(水) 04:06:13.22 ID:COhcwgNe
戦国時代の眼鏡は大内義隆がザビエルから送られて大名の間で普及したらしいですが、
眼鏡を持っていた武将はどのくらいいたのでしょう。
358 :
人間七七四年:2011/09/21(水) 05:24:01.57 ID:hKvUpGeU
有名所だと足利義晴、織田信長、徳川家康らは所持してたが
日本では製造できなかったから大名クラスや大身の武将に限られてたんじゃね
359 :
人間七七四年:2011/09/21(水) 15:29:01.81 ID:zJ62T9Jt
>>352 . 、___________
、> .|
>________ .|
 ̄ .|./_ _\ | | ____________
| / ヽ/ ヽ | | /
. | | ・ | ・ | V⌒i | ケムマキは肝付家の
_ |.\ 人__ノ 6 | <
\ ̄ ○ / | お抱え忍者だぞ
. \ 厂 \
/ _____/  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄, -/へ/\/`- 、
/./ ./o i. \
360 :
人間七七四年:2011/09/21(水) 23:55:21.42 ID:FFnOWAUA
>>354 基本ゲリラ戦術。
大軍相手にはベトコン戦法。バンジステークやスパイクボールといった
戦術で大軍を相手取っていたと思われ。
361 :
人間七七四年:2011/09/22(木) 00:38:41.85 ID:DlNWIy+R
ここの板の住民って半分以上史学科?
362 :
人間七七四年:2011/09/22(木) 01:40:43.98 ID:lRk50TRF
>>354 ちょっと古いけど大和永享の乱の越智維通(1435討たれる)の戦い方だと
幕府の討伐軍来る(10月15日)→城を自焼して南部山間部に撤退
→討伐軍勝利宣言して都に凱旋→幕府軍の屯営を夜襲して壊滅(12月29日)
…みたいな戦い方してる、伊賀の乱もこんな感じじゃないかな
363 :
人間七七四年:2011/09/22(木) 07:04:45.77 ID:+rym/qHz
364 :
人間七七四年:2011/09/22(木) 08:41:55.25 ID:7CvEOtDm
>>360 俺がバンジステークやスパイクボールを知ったのは南国少年パプワくん
365 :
人間七七四年:2011/09/22(木) 08:57:00.66 ID:BBBKz9+p
忍者といえば戦国時代より江戸時代だな
島原の乱くらいの忍者は史料も多いしなんといっても千葉ちゃん影の軍団よか派手ww(汗
366 :
人間七七四年:2011/09/23(金) 00:08:23.49 ID:qxT8YrZj
すいません、戦場で敵の矢を防いだりする大きな木の板みたいなのあるじゃないですか?
少しに斜めに立てられて突っ張り棒があって、そのうしろに兵が隠れたりして
あれって名前あるんですか?
それともただの矢避けの板とか呼んでたんですか?
367 :
人間七七四年:2011/09/23(金) 00:09:06.48 ID:4FmrEjlZ
368 :
人間七七四年:2011/09/23(金) 00:14:51.23 ID:qxT8YrZj
盾って、人が手に持つやつじゃなくて戦場にしかける巨大なやつも盾ですか
まぁ日本には西洋みたいな盾なんてありませんし、日本の盾は設置型があたりまえだったのかも
再度質問ですがじゃあ唯一手に持つ盾と言えそうな、火縄銃を防ぐのに使った
竹を沢山束ねた物を持って移動したりしてるのを戦国漫画やドラマで
見るんですが、あれも盾ですか? 竹盾とか火縄避けとか別の名前ありましたか?
369 :
人間七七四年:2011/09/23(金) 00:17:45.34 ID:4FmrEjlZ
>>368 携帯用には「手盾」というものがあった。鉄砲に対処するため鉄板が貼られたりしてた。
竹を束ねたものはそのまま「竹束」と呼んだ。
370 :
人間七七四年:2011/09/23(金) 00:19:36.46 ID:qxT8YrZj
素早い回答ありがとうございました
371 :
人間七七四年:2011/09/23(金) 01:35:30.03 ID:Z6jSFUkI
本当に基本的な質問です。非武装・民間人である農村農民が戦火に巻き込まれる事はあったんですか?
あの場所は稲があるからと避けてと、お互いの武将が戦地を決めて争う方が、米の収穫と経済は安定ですよね。
田畑を荒らして、誰が得?が質問の肝です。
372 :
人間七七四年:2011/09/23(金) 01:46:16.97 ID:4FmrEjlZ
>>371 > 非武装・民間人である農村農民
ここが既に根本的な間違い。農民はみんな武装していたし、「村」とは自治自衛の軍事組織である。
373 :
人間七七四年:2011/09/23(金) 01:49:36.23 ID:Z6jSFUkI
>>372 ありがとうございます。
じゃ、鎌や鍬が武士の刀の意味合いなんですか?
374 :
人間七七四年:2011/09/23(金) 01:50:17.38 ID:obp8ehvr
>>371 基本的に民間人に何の意味も無いし、非武装の農村など有りません。
武将の立場からすれば自分の領地でない所の米がどうなろうと知った事では有りません。
余所の田畑から刈り取ってくれば自分らの得です。
375 :
人間七七四年:2011/09/23(金) 01:51:38.35 ID:obp8ehvr
>>373 純粋な農民は居ない。農民でも刀を使う者もいれば槍を使う者もいる。
376 :
人間七七四年:2011/09/23(金) 01:52:01.89 ID:4FmrEjlZ
>>373 刀も槍も鉄砲も装備している。武器だけなら武士と変わらない。
377 :
人間七七四年:2011/09/23(金) 02:01:47.50 ID:Z6jSFUkI
>>371の質問者です。
連答ありがとうございました。農村のイメージが今、崩壊いたしました。
378 :
人間七七四年:2011/09/23(金) 02:13:03.62 ID:Z6jSFUkI
>>371です。
農村のイメージを改めた上での質問です。
百姓一揆は悲惨なイメージだったんですが、それだけ武具を備えていたのなら、領主と五分に渡る権力抗争と考えて良いのですか?
379 :
人間七七四年:2011/09/23(金) 02:18:34.09 ID:4FmrEjlZ
>>378 そもそも惣村が領主権力と対立する勢力だと考えるのは間違い。
戦国大名権力を構成する一員が惣村だった。
380 :
人間七七四年:2011/09/23(金) 02:20:47.84 ID:obp8ehvr
>>378 戦国時代はそうです。名主に当たる有力農民と下級武士の区別はハッキリしたものでは有りません。
秀吉の刀狩りの時に農村の武器は取り上げられ、武士と農民の区別を明確化した、という事になってます。
実際にはそんなに徹底したものでは無かったような話も有り、よく判りませんが。
381 :
人間七七四年:2011/09/23(金) 02:33:25.29 ID:Z6jSFUkI
>>380 質問した直後に刀狩りのワードを思い出しました。379様も回答ありがとうございました。
382 :
人間七七四年:2011/09/23(金) 11:05:37.85 ID:6PeMQmkZ
松平広忠について教えて下さい。
「息子を人質に差し出した弱い松平の当主」という雰囲気で語られています。
いくら先代から家を傾かせて今川の庇護下に入ったとはいえあまりに評価が低くないでしょうか?
織田らの侵攻も退けた勢力だし、
西三河だけでも石高では北東北の雄である津軽氏と比較しても勝っています。
相対的に激戦区だったから評価が低いだけで
絶対評価なら東北の大名勢には全く引けをとらない立派な勢力だとおもいます。
383 :
人間七七四年:2011/09/23(金) 11:40:37.90 ID:tmW8Gn+7
>>382 彼の場合は一代で三河を統一した清康と、江戸幕府を打ち立てた家康の間に挟まれた故の悲劇と言えます
384 :
人間七七四年:2011/09/23(金) 13:18:49.79 ID:alkcyFKp
>>380 「刀狩り」は武器を取り上げるのではなく身分的差異の可視化、つまり百姓身分の武器『携帯』の禁止
(保持自体ではなくあくまで携帯)が主眼だったと現在では考えられている。
その証拠に関ヶ原の時東寺領に木材の伐採に来た石田軍が、「武装した」百姓たちに追い払われている。
江戸初期でも、槍や弓どころか鉄砲まで揃えた村同士の紛争が記録されているし、そこから見ても
刀狩りは武器の排除が目的ではないし、そんな事は不可能だった。
おそらく刀狩りと豊臣身分法令はセットで、その目的も上からの支配の強要と言うより、村にありながら
武家被官として存在し、村の自治や権力構造を脅かす在村給人の排除があったと言われている。
つまり下からの要請があったということやね。
385 :
Q之助:2011/09/23(金) 14:02:00.88 ID:Z6jSFUkI
>>380 農村の質問者です。このスレは本当、勉強になりますね。
今後はQ之助として質問しますので、こんな基本的なことを…と笑ってやって下さい。
386 :
Q之助:2011/09/23(金) 14:12:37.49 ID:Z6jSFUkI
早速です。光秀と三成って同じ匂いがするのですが、やはり武功で名を挙げていないと、他の武将ならの信頼は得られないものでしょうか?
387 :
人間七七四年:2011/09/23(金) 14:14:30.87 ID:H4EkceW/
君もう来ないほうがいいと思う。
388 :
人間七七四年:2011/09/23(金) 17:34:55.08 ID:cPVlTb2H
光秀の武功はガチですがな・・・
389 :
人間七七四年:2011/09/23(金) 19:24:56.91 ID:kfsFLG3z
三成だって一番槍挙げるくらいの武勇の士だったという史料もあるし
390 :
人間七七四年:2011/09/23(金) 19:40:36.88 ID:rbNTb0ux
>>386 武闘派とか文治派って小説の話だぞww
明智とか石田のクラスで武功で名を上げてないなんてありえない話
天下分け目の合戦の片方の主役をなんだと思って(ry
391 :
人間七七四年:2011/09/24(土) 01:07:47.65 ID:iUNFe5cv
光秀って鉄砲の名手ってことで朝倉家に使えてなかったっけ?
392 :
人間七七四年:2011/09/25(日) 10:15:50.32 ID:KpYhmCMY
>>4>>12 村上武吉の末裔は未だにその周防大島に在住しており
村上武吉の墓も周防大島にある。
明治以降に村上姓に便乗した可能性もあるけど本当に末裔の可能性も高いかと。
393 :
人間七七四年:2011/10/04(火) 00:09:45.23 ID:4rQRUTn0
信長公記の『丹羽兵蔵御忠節の事』に出てくる丹羽兵蔵は、丹羽長秀の一族ですか?
蜂屋、金森の二人はこの頃から重要されていたのでしょうか?
394 :
人間七七四年:2011/10/04(火) 00:37:51.06 ID:Vca+8Ae6
丹羽長秀と丹羽氏勝はまったく別系統やね
395 :
人間七七四年:2011/10/05(水) 02:01:50.39 ID:HxwQFb0c
大名の収益構造はどのようになっていたのでしょうか?
大名によって色々違いそうですが……
詳しく紹介している本があれば教えてください。
396 :
人間七七四年:2011/10/05(水) 10:46:17.05 ID:BQFh/pAN
車とかの移動だってダルいのにテクテク歩いて戦争に行ったんだな。
昔の人ってもの好きだったんだなw
とっとと降参して楽になりゃいいじゃねえか
397 :
人間七七四年:2011/10/05(水) 10:50:39.90 ID:vCQvQ9L4
戦に勝たないとおまんま食えないから
生きるために戦ってるんだよ
398 :
人間七七四年:2011/10/05(水) 13:19:00.93 ID:qOA1cRGo
徳川家康は江戸城を築城した際に開発に関わっていた大工を皆殺しにしたという説を聞いたことがあるのですが、
これって本当なのでしょうか?
本田宗一郎がこの噂を受けて徳川家康を嫌っていたというエピソードもどこかで見ました。
詳しく紹介している書籍などあれば御教え頂きたいです。
399 :
人間七七四年:2011/10/05(水) 14:43:18.44 ID:EKoMT8uD
結論としては大嘘
天下普請で外様大大名総動員で作った城の
末端大工殺して意味あるのか常識で考えてみよう
400 :
人間七七四年:2011/10/05(水) 14:50:33.99 ID:fr86DeD6
大工限定とか、
その時点でその噂を流した奴は無知ってのがわかるくらいの嘘。
築城・改修の工程を勉強しなおせって言っといて。
401 :
人間七七四年:2011/10/05(水) 15:14:04.55 ID:yydEK/k4
そもそも江戸城の「完成」は徳川家光の時代。
江戸城は家康の関東入府から何次にもわたって改築改修が繰り返された。
そのたびに大工殺すのか?って話w
402 :
人間七七四年:2011/10/05(水) 17:38:13.74 ID:9VUXr1z3
ただ、機密のために大工を殺すってのは築城伝説としてはありふれたもの
それが江戸城にもつけられたってだけでしょうね
403 :
人間七七四年:2011/10/05(水) 19:41:48.73 ID:biUvn4kj
江戸城は太田道灌が一人で設計施工をしたんだぜ
くらいの嘘をつけよ
404 :
人間七七四年:2011/10/05(水) 20:15:38.82 ID:YA5IzgGV
あっし、こないだサウナ入ってたらとなりのヤクザみたいなオッサンたちが
徳川家康は城を建てるたびにかわいい幼女をいっぱい人柱として埋めてたって
いってめちゃくちゃ非難してましたよ
405 :
人間七七四年:2011/10/05(水) 20:33:38.65 ID:vCQvQ9L4
人柱伝説なんて、それこそ色んな所にあるからなあ…
406 :
人間七七四年:2011/10/05(水) 22:41:47.16 ID:DNVD/nel
でも、江戸城の場合は本当に人骨が発見されてるんだよな
407 :
人間七七四年:2011/10/05(水) 22:52:13.04 ID:bfAkXqtW
墓場つくったやつ始末した始皇帝とかチンギスみたいな話だな
408 :
人間七七四年:2011/10/06(木) 03:45:32.54 ID:zpuCp++Q
>>399 重複質問ゴメン。細川氏の熊本城は?熊本でも結構、耳にしますが同類の築城伝説ですか?
409 :
人間七七四年:2011/10/06(木) 12:12:29.79 ID:x8l5XZv4
勘違いしてるみたいだけど城を設計するのは大工じゃなくて武士
現場の監督監修するのも武士であり、大工がやるのは作事
秘密の抜け穴とかならともかく、一大公共事業である城作りの
作事しかしない大工を皆殺しにしても無意味な上に
有益な技能職人である大工を大量に殺すのは損害でしかない。
410 :
人間七七四年:2011/10/06(木) 12:54:18.58 ID:W0Huwsqj
そもそも城の作事には軍役により大量の領民も動員される。安土城築上の時には近江一国の領民に
広範な軍役がかけられて作事に動員された。
411 :
人間七七四年:2011/10/06(木) 14:51:21.05 ID:HSo2eGuj
>>409 そこが違う
作事のうち、土木工事は領民の仕事
江戸城クラスなら大工がもちろん入るけど、中世城郭だと領民が全てやって大工が入らないなんてこともザラ
だから大工だけを殺しても意味が無く、
殺すなら、江戸城の場合だと述べ何万人の自分の民を殺し尽くさねばならない
412 :
人間七七四年:2011/10/06(木) 14:54:05.73 ID:sMnvK8lo
高虎さんがまっさきに殺されちゃうな
413 :
人間七七四年:2011/10/06(木) 15:48:29.19 ID:x8l5XZv4
>>411 広義の普請のうち、建築が作事で、土木が狭義の普請というなら分かるが
作事に土木が含まれるってどういうこと?
414 :
人間七七四年:2011/10/06(木) 19:15:17.79 ID:QI2r+2U/
415 :
人間七七四年:2011/10/06(木) 22:46:50.56 ID:rDXanS8Z
>>414 有り得ない
将軍様の居城に人夫の死体埋めるなんて常識的に考えられない
416 :
人間七七四年:2011/10/06(木) 22:49:36.75 ID:K/Xbl5EY
人骨が出てきた伏見櫓のある吹上御苑周辺は、家康が江戸城に入る前は坪根沢といい16もの寺院があった
そこに埋葬されていた人骨が出てきただけじゃね?
417 :
人間七七四年:2011/10/07(金) 00:26:47.10 ID:X42R2b/f
騎馬武者についてですけど宣教師の記述した書物に西洋の騎士は馬上で戦うけど
日本の騎士は戦う時は馬から降りるって書いてあったそうです。
武田の騎馬隊などは有名だけど歩兵戦が支流だったんでしょうか?
あと鉄砲隊は射撃はうまいが動きが非常に鈍いとも言ってたそうです。
418 :
人間七七四年:2011/10/07(金) 01:33:40.25 ID:+vlfRV/D
フロイスの日本覚書ね
簡潔に書いてあるから直訳すればそんな感じだけど意訳するならば
我らの騎士は(下馬を恥辱と考えるのでいつも)馬上で戦う。
日本の武士は(防衛戦など下馬が有利な)戦闘時は(徒歩になることを厭わず)
下馬して戦う、なぜならば(昔からそうやっているので気にしない言わば)習慣だから。
という感じで完全否定しているわけでもない
419 :
人間七七四年:2011/10/07(金) 17:16:23.37 ID:wU2z9yss
すごいな、原語とかからの判断?
420 :
人間七七四年:2011/10/07(金) 17:30:39.99 ID:BBdjlda1
妄想に決まってるだろ
421 :
人間七七四年:2011/10/07(金) 18:30:43.73 ID:dJXJ1ux4
スレチですが、戦国時代でなくてよいのですが、あらゆる武器を使えた事で有名な武将っていませんか?
前田利家、加藤清正は槍で有名、雑賀孫一は銃で有名、武蔵や小次郎や新撰組は剣で有名
そうじゃなくて本当に剣も槍も弓もなんでもできて武芸十八般右に出るモノ無しみたいな
422 :
人間七七四年:2011/10/07(金) 18:33:40.29 ID:BBdjlda1
細川幽斎 徳川家康 立花宗茂
423 :
人間七七四年:2011/10/07(金) 18:34:48.58 ID:7xbDpYH1
424 :
人間七七四年:2011/10/07(金) 18:46:25.44 ID:dJXJ1ux4
おぉ、東日本最強の忠勝と対をなす西日本最強の宗茂様ですね、弓矢が得意なのは
知ってますけど剣や槍もできたんですか?
家康は完全に初耳です、あの人そんな武芸達者なんですか?
正直健康マニアの策略家としか思ってませんでした。
425 :
人間七七四年:2011/10/07(金) 18:49:27.16 ID:7xbDpYH1
それは反徳川色が濃厚な明治の大阪講談で作られたイメージにすぎん
426 :
人間七七四年:2011/10/07(金) 18:49:53.45 ID:MtmHJ/QG
>>剣術、砲術、弓術、馬術、水術等の武術について一流の域に達していた。
家康のwikiより
427 :
人間七七四年:2011/10/07(金) 19:42:34.30 ID:+vlfRV/D
家康は免許皆伝コレクターだから
実戦はというと弓の腕前は信長公記で賞賛されてたりする
428 :
人間七七四年:2011/10/07(金) 21:42:16.97 ID:MtmHJ/QG
晩年でも鉄砲の腕は全く衰えてなかったというし
太ってたってのも、力士のようにほとんど筋肉だったというからな
腕や足を切断されて生き延びた武将って誰かいます?
430 :
人間七七四年:2011/10/07(金) 22:19:37.14 ID:MtmHJ/QG
作左かな
431 :
人間七七四年:2011/10/07(金) 22:31:12.87 ID:AVw9fuY6
ヽ(´ー`)ノ
(___)
| |〜〜
◎ ̄ ̄◎ ころころ〜
432 :
人間七七四年:2011/10/07(金) 23:43:38.43 ID:oiuYE2hb
>>421 松本政信や塚原高幹はほとんどの武器が使えたようだ
それぞれが流派として残っている
元々は飯篠家直が完成させたそうだか、家直を武将と言っていいのかは分からん
433 :
人間七七四年:2011/10/08(土) 07:32:06.55 ID:NwBpuUvH
長威斎は人の上で指揮するって立場ではなかろうな
ただ、周辺豪族からは一目置かれていたようだ
434 :
人間七七四年:2011/10/10(月) 00:23:21.73 ID:29Z2QS9h
三成の陣営にあった大砲(3〜5門)は国産でしょうか?19万石でも揃えられる値段なんですかね。
435 :
人間七七四年:2011/10/11(火) 10:47:15.40 ID:S0Z/U+SV
436 :
人間七七四年:2011/10/11(火) 19:41:45.44 ID:b16Ak0VH
宗麟が大砲を国産化したから
そのノウハウは豊臣政権がゲットしてたんじゃないか?
437 :
人間七七四年:2011/10/11(火) 20:46:34.46 ID:MN4ulZ0A
>>435 歴史家の小和田哲男氏によると家康は関ヶ原で西洋のフランキ砲を使ったそうです。
438 :
人間七七四年:2011/10/11(火) 23:17:34.09 ID:ioS59G9O
家康のは難破したオランダ舟の大砲パクったんだっけか
439 :
人間七七四年:2011/10/12(水) 04:46:10.20 ID:+TH718fO
すみません。ちょっとウィキっても分からんことがあったので…。
毛利家家臣、国司元相についてなのですが
「槍の鈴の免許を与えられた」らしいんですが、これってどういう意味ですか?
「槍の鈴」っていう武器の使用許可?それともなんかの技や流派?
もしくは槍に鈴を付けることを認められたってこと?
分かる方は教えてください。
440 :
人間七七四年:2011/10/12(水) 10:45:03.32 ID:W1fJxaI+
441 :
人間七七四年:2011/10/12(水) 10:50:51.37 ID:HjMxor4F
>家康は小田原陣の段階で大筒部隊使ってるな。本多忠勝に率いさせて。
ありゃ軍記物の話
史実ではない
442 :
人間七七四年:2011/10/12(水) 11:13:37.96 ID:W1fJxaI+
>>441 軍記じゃないぞ?「新編武蔵風土記稿」だ。昌平坂学問所地理局によって実地調査された
綿密な学術書だぞ?
というか忠勝が鉢形城攻めで大筒を使用したことを否定した話は聞いたことがないが?
それは何処の誰が言ってたんだ?
443 :
人間七七四年:2011/10/12(水) 12:29:21.35 ID:iAmcWc3I
>>434 時代的にフランキ砲だと思うがすでに国産化してるので国産の可能性が高い
通常の軍備としてはフランキ砲5門は20万石には不釣合いだが、
関ヶ原後に摂取された佐和山城の金蔵は空だったと言う逸話があるように
この一戦に全てを賭けていたのなら揃えられも不思議ではない。
444 :
人間七七四年:2011/10/12(水) 15:30:38.77 ID:szKXOQvQ
445 :
人間七七四年:2011/10/12(水) 17:24:20.63 ID:o41V0kha
土屋昌恒について詳しく知りたいのですが、お勧めの本ってありますか?
446 :
人間七七四年:2011/10/12(水) 19:51:53.13 ID:TTNUncco
>>435 >>443 回答アリガトウです。記録が無いのはなんともですね。
三成の大砲は戦後没収されて平和になった頃に農耕具にでもなったんでしょうな
大阪の陣の時に城に向けて使用された事があったとしたら実に皮肉です。
447 :
人間七七四年:2011/10/13(木) 10:43:39.33 ID:F7db3KD5
大坂の陣で豊臣方は佛狠機砲(朝鮮で鹵獲したとか)と国産の木製砲を結構保有していたそうだから
三成も鹵獲したか、もしくは豊臣家から下賜されたのではないだろうか
三成の分限と立場を鑑みるに、それが自然に思う
448 :
人間七七四年:2011/10/14(金) 22:11:13.72 ID:8a8aPquF
今川義元は足利将軍家に対して横領など敵対行為を働いたと聞きましたが
御連枝の今川家がこのような幕府を否定する背信行為を行ったのはかなり大事件だとおもいます。
討伐令とか発令されなかったのでしょうか?
449 :
人間七七四年:2011/10/15(土) 03:21:29.27 ID:snwYC65p
義元の頃は将軍が度々流亡し、室町殿の不在が発生していたぐらいで
幕府の権力などは地方に及ぶものではなかった
全国各地の勢力は幕法などお構い無いに好き放題していたし(そもそも勝手な領地拡大や官位受領などは御法度もいいところ)
今更義元が何かしたところで幕府は相手にしている余裕などない
450 :
人間七七四年:2011/10/15(土) 09:52:46.05 ID:rImv+iET
明文化したのは今川くらいだけど実質的には日本中で行われてることだからな
451 :
人間七七四年:2011/10/16(日) 12:53:56.91 ID:1jl+/a2q
>>実質的には日本中で行われてることだからな
それは違うだろ。それだけ国主の権威を強くならないと施行できない
452 :
人間七七四年:2011/10/16(日) 17:00:19.45 ID:WBwSAiUb
姫たちの野望 八幡和郎 講談社刊に
高台院は積極的に西軍を援助したが
淀殿は控えめだったのは妹のお江に
遠慮したのかと言う説を読んで
目から鱗が落ちる思いがした
某方面からフルボッコされそうな説だがこれ本当?
453 :
人間七七四年:2011/10/16(日) 17:13:33.96 ID:V3Tkw5bE
本当も何も仮説に仮説を重ね過ぎてる。
妄想の域だな
454 :
人間七七四年:2011/10/16(日) 17:55:36.34 ID:7mSiY5S8
>>452 何で家康にデカいツラさせてまで江に遠慮する必要が有るんだよ。
455 :
人間七七四年:2011/10/16(日) 22:41:19.85 ID:Hn9jM1Cs
ソースもなしに突然飛び出してくる珍説って一体何なんだろう
書き手も突っ込まれたら困るだろうに
456 :
人間七七四年:2011/10/16(日) 23:13:02.32 ID:vDBIl7Xa
前田利家は四男にも関わらず信長の力によって
家督を継ぐ事が出来ましたけどこれってどうなんでしょう?
結果的に前田家は大大名まで成長しましたが
他の織田家臣から批判などはなかったんでしょうか。
いくら実力主義の時代とはいえ3人も兄達を押し退けさせた信長の対応は
どう考えてもやり過ぎだと思いますが・・・
457 :
人間七七四年:2011/10/16(日) 23:19:15.88 ID:rcpRKC+Q
ホモ長さんは犬に突かれてたから仕方ない
458 :
人間七七四年:2011/10/17(月) 00:12:33.14 ID:6/NtTHgh
俺の息子養子にやるから継がせろ、お前の息子は廃嫡の上に家臣扱いだから
ぐらいやっちゃうところだからそれくらいは問題ない
もちろん力関係とどれだけの利益を得られるか天秤にかけての決断だし
459 :
人間七七四年:2011/10/17(月) 01:22:03.01 ID:Sen0xpkc
>>456 家の相続に介入して自分の都合のいい人物を当主に押し込もうとする
これは中世を通じて下は国人から上は大名までどこでもあったことです
特に上が臣下の家にやる場合は、それによって家来の家を服従させ
君主権力を増大させようという目論見からのもので、室町将軍は
守護大名家に同じことをやっているし、大名はその下にやるしで
で、介入によって排除された側は大人しく従うか、余所の協力を得て
家を割って内乱に突入するか
室町時代のお家騒動は大抵これ それが極まったのが応仁の乱
460 :
人間七七四年:2011/10/17(月) 11:08:34.48 ID:BChysWUA
宗家の人間を養子に押し付けるとか、宗家に忠実な別の家臣を養子に押し付けるとか
そういった事はどこの大名もやっていたね
弟にすげ替えるぐらいならまだ好意的な方だ
461 :
人間七七四年:2011/10/18(火) 22:25:07.75 ID:q/uRfrkF
当時としては普通に行われてたんですね。
462 :
人間七七四年:2011/10/18(火) 22:37:21.89 ID:5bBQCIu7
>>461 真田昌幸も三男だから信玄の命令で武藤氏に養子に入ってるしなぁ。
長兄・次兄が死んだから真田家に戻ったけど。
463 :
人間七七四年:2011/10/19(水) 00:20:29.37 ID:kytWeZ8h
昌幸の武藤家継承は、超優秀な昌幸を外様家臣の親族衆で終わらせたくないって意味の方が強いと思う
464 :
人間七七四年:2011/10/19(水) 00:38:47.78 ID:P4a3WS2y
意味合いはぜんぜん違うよな
465 :
人間七七四年:2011/10/19(水) 00:40:16.23 ID:AaBeaVVp
いや昌幸を押し込まれた武藤家の視点で見ろよ。
466 :
人間七七四年:2011/10/19(水) 00:46:35.48 ID:kytWeZ8h
武藤家に嫡流がいたのかどうか不明だからな
この時代は廃絶寸前の名家って結構あるよ
武藤家の家臣や扶養されてる女子老人からすれば
信玄お墨付きのスーパーエリートが上司、家長になるわけで、大歓迎だろう
467 :
人間七七四年:2011/10/19(水) 00:48:10.08 ID:c/frY2zZ
昌幸が大好きなんだな
468 :
人間七七四年:2011/10/19(水) 00:51:55.25 ID:AaBeaVVp
>>466 その割に真田を継いだ後の武藤の家督は安堵されてないらしいが。(wikipediaソースだけど)
469 :
人間七七四年:2011/10/19(水) 00:55:42.43 ID:kytWeZ8h
>>468 目的は昌幸の抜擢なんだろ
武藤家は既に形骸化していたと思われる
470 :
人間七七四年:2011/10/19(水) 00:56:26.53 ID:P4a3WS2y
跡継ぎ夭折で断絶寸前の武藤氏には願ったりじゃないの
昌幸返還後も適当な人物がいなかったのか60代の大叔父が継いでるし
471 :
人間七七四年:2011/10/19(水) 01:35:20.61 ID:AaBeaVVp
>>469 自分で
「武藤家の家臣や扶養されてる女子老人からすれば
信玄お墨付きのスーパーエリートが上司、家長になるわけで、大歓迎だろう」
と書いておいて形骸化していたと思われるとはどういう事だ?
472 :
人間七七四年:2011/10/19(水) 01:38:52.81 ID:kytWeZ8h
>>471 キミが
>>465で言うような
昌幸の武藤家継承に文句を言うような奴はすでに武藤家にはいなかったのではないかという話だ
>>470の話もあわせれば、軍役に耐えられる男子はいなかったんだろ
473 :
人間七七四年:2011/10/19(水) 01:48:17.19 ID:kytWeZ8h
それと、wikiの真田昌幸に書いてある武藤家の所領が安堵されてないってのは
昌幸が武藤家の所領を持ったまま真田も継いだのではなくて
真田帰還にあたって武藤家の領地は返還したって話だと思うよ
で
>>470になるんだろ
474 :
人間七七四年:2011/10/19(水) 02:01:14.38 ID:AaBeaVVp
>>473 俺は見所あるから昌幸に武藤の所領を与えたのなら、何故取り上げたのかと言ってるのだ。
475 :
人間七七四年:2011/10/19(水) 02:04:32.90 ID:kytWeZ8h
>>474 そりゃもっと領地の大きい真田を継ぐからだろw
武田家は大盤振舞いするほど領地は多くないからな
476 :
人間七七四年:2011/10/19(水) 02:28:06.16 ID:AaBeaVVp
でも武藤はどうせ先の無い60代の大叔父に継がせたんだろ。
お前さんの言う「武藤家の家臣や扶養されてる女子老人」からすればお先真っ暗だろう。
477 :
人間七七四年:2011/10/19(水) 02:44:56.15 ID:kytWeZ8h
478 :
人間七七四年:2011/10/19(水) 03:25:42.40 ID:AaBeaVVp
ふむ、そういう事なら納得しよう。
479 :
人間七七四年:2011/10/19(水) 11:15:25.48 ID:WWX9xAHh
近藤武藤
あわせてコンドーム藤
480 :
人間七七四年:2011/10/19(水) 20:05:27.23 ID:zrwxfdR6
武家でも公家でも断絶した家を復活させたって話よく聞くけど
そのまま長く続いたり、一代限りで結局また無くなったりと、こういうのも栄枯盛衰を感じる
お家を維持するって本当に大変なことなんだな
481 :
人間七七四年:2011/10/19(水) 23:17:23.49 ID:w0qg+f8m
家というのは法人だからね。今の会社に近い。
482 :
人間七七四年:2011/10/19(水) 23:49:44.76 ID:oF9lIl0g
>>481 それゆえに下からの圧力で藩主が押し込められたり、全く血縁のない養子が
次々迎えられたりというケースが出てくるんだよね
483 :
人間七七四年:2011/10/20(木) 00:03:28.05 ID:72Gec9Ki
>>482 星新一の殿様の日を思い出す
仕事は家老が全部やってくれるから、別に殿様って要らないのでは?
でも神輿のない祭りなんてないし 結局殿様は神輿・飾りのようなものなんだな
と淡々と脳内で殿様が言ってた
484 :
人間七七四年:2011/10/20(木) 00:23:12.75 ID:lS/vZICK
そりゃ江戸時代後半だ
485 :
人間七七四年:2011/10/20(木) 01:23:57.30 ID:2Qk9YAQk
イメージと違い、江戸後期でも殿様というのはものすごく忙しい。幕府の方から善政するようにという
圧力もあるし、藩内人事にも恐ろしく気を使わないといけないし、何より諸事務の決済は
やはり殿様自身がしないといけない。
その上に幕府や藩の儀式儀礼の主催、私的な家としての祭祀などもあり、藩官僚のサポートがあっても
殺人的なスケジュールだった。
暇で時間を持て余している殿様、というのは、実際には殿様ではなく、隠居後の姿ですな。
486 :
人間七七四年:2011/10/20(木) 15:09:11.02 ID:feoBhw4K
社長が暇に見えるのと一緒だな
487 :
人間七七四年:2011/10/20(木) 19:57:05.24 ID:CBTwXWIs
小藩の殿様の方が、いくらか余裕というか余暇はあったのかな
488 :
人間七七四年:2011/10/21(金) 00:13:47.10 ID:r7txd6tf
精神的な余裕はないと思うぞ
大企業や官僚に睨まれないようにしなければならない中小企業の社長みたいなもんで
489 :
人間七七四年:2011/10/21(金) 00:32:19.66 ID:dhbAbzlO
>>487 喜連川は殿様自ら伊達公をお出迎えするくらいだから結構忙しいんじゃないか。
大藩の支藩だと代官に全部お任せで仕事は無い場合も有る。
490 :
人間七七四年:2011/10/21(金) 07:14:55.88 ID:WlvAoQMT
気をきかせて伊達公が迂回すると
わざわざ江戸まで追いかけてくるくらいだからなw
491 :
人間七七四年:2011/10/21(金) 09:57:29.66 ID:HLT8mDzs
譜代小藩なら出世競争に忙しそう
492 :
人間七七四年:2011/10/21(金) 13:41:52.32 ID:lGjBBHpz
徳川幕府の中核になる譜代小藩や大身旗本のお殿様は、若いころに大番役などの見習いとして入ってくると、
先輩から下人と変わらない扱いをされて、徹底的に殿様根性を叩き直されたのだそうな。
それに江戸中期以降はお勉強しないと家格だけではまともに出世できないから、毎日とにかく大変だったらしい。
493 :
人間七七四年:2011/10/22(土) 17:03:24.89 ID:4FQ5FoZU
よく豊臣はどうしたら勝てたか的なスレがありますが、
それ以前に家康がすでに他界していたら、または野心を持たなかったら、
豊臣公儀は存続できたのでしょうか。
494 :
人間七七四年:2011/10/22(土) 17:25:51.77 ID:lMTZN3Jc
文章よく嫁よ
495 :
人間七七四年:2011/10/22(土) 17:30:25.32 ID:MInnI0Qd
そもそも、家康が関ヶ原以降、将軍就任だ朝廷対策だとやっていた時に
豊臣って何してたっけ?
496 :
人間七七四年:2011/10/22(土) 18:19:24.90 ID:lMTZN3Jc
スマン誤爆したみたいだ
497 :
人間七七四年:2011/10/22(土) 18:35:08.38 ID:vTLLwXIw
>>452 高台院が宇喜多の戦勝のために祈願したとする記録や孝蔵主一門の動向から実際は西軍を支援していたという説はない訳ではないが、
淀の話に関しては全く聞いたことが無い。
498 :
人間七七四年:2011/10/22(土) 22:57:23.28 ID:KbY6IvKI
質問というか疑問ですが
歴史の本よんでたんですが壇直政っていう人は一時期、秀吉・光秀よりも出世頭で
3カ国守護だったってあったんですがこの人ってあんまり有名でないですよね
499 :
人間七七四年:2011/10/22(土) 23:34:18.79 ID:/fID3Ug8
有名だよ
500 :
人間七七四年:2011/10/22(土) 23:46:03.43 ID:pN8OVt3b
塙じゃないのか?
501 :
人間七七四年:2011/10/23(日) 00:13:10.18 ID:zlZStP2Q
苗字ちがってました
502 :
人間七七四年:2011/10/23(日) 18:04:54.26 ID:cebuiqP0
>>498 影薄いのは信長の全盛期前に戦死したからかな
M文庫から出てる織田信長の家臣団って本で詳しく書かれてるから、読んでみるといいかも
503 :
人間七七四年:2011/10/24(月) 03:00:39.04 ID:nL9jXRrK
質問というか、武将を取り扱った時代小説でオススメを紹介して下さい。
司馬遼太郎先生のは大体読んでしまったので、それ以外でお願いします!
後、出来れば青空文庫からオススメいただけると嬉しいです(>_<)
ちなみに、青空文庫の阿部一族は読みました!!
よろしくお願いします!
504 :
人間七七四年:2011/10/24(月) 03:07:09.20 ID:khw6fITr
そうすると吉川英治の「宮本武蔵」か。
阿部一族のような全くのフィクションで良ければ藤沢周平が良いかも。
505 :
人間七七四年:2011/10/24(月) 03:32:00.94 ID:nL9jXRrK
>>504 宮本武蔵!有名な作品ですよね!!
知名度が高すぎて逆に避けてました(笑)
この機会に読んでみます。
藤沢周平先生は江戸〜ってイメージが強いですね、戦国あるかしら。
フィクションでもノンフィクションでも構いませんよ!
506 :
人間七七四年:2011/10/24(月) 03:34:25.72 ID:khw6fITr
あ、戦国時代限定だったのか。それは失礼した。
時代小説って言うと江戸時代のイメージが……。(俺だけかな)
507 :
人間七七四年:2011/10/24(月) 03:42:21.40 ID:khw6fITr
記憶違いかと思ってググってみたけど、「阿部一族」も江戸時代だよね。
全くのフィクションかと思ったら史実に基づいて脚色してるらしい。
508 :
人間七七四年:2011/10/24(月) 07:47:17.68 ID:36nKeSY3
青空あんまないだろ
図書館行って隆慶一郎の影武者徳川家康か池波正太郎の真田太平記あたりか
509 :
人間七七四年:2011/10/24(月) 12:13:10.69 ID:tPnACA/Y
青空文庫って著作権フリーだろ、歴史小説が流行る前の作家しかいないんじゃ?
上の人が言う通り図書館の方がいいと思うよ
吉川英治、山岡荘八、海音寺潮五郎、新田次郎らの大御所あたりからとか
510 :
人間七七四年:2011/10/24(月) 19:31:08.58 ID:36nKeSY3
長編小説をネットで読むと目に負担かかりそうだし
本のがいいよ
511 :
人間七七四年:2011/10/24(月) 19:39:37.46 ID:uAZicEAC
青空文庫は縦書きツールで読んでも辛い
やはり本が一番 話をまとめて販売されないかな
512 :
人間七七四年:2011/10/24(月) 21:41:09.43 ID:nL9jXRrK
503です!
言葉が足りなくてすいませんでした。
青空文庫あんまり無いんですね(゚o゚;;
助言下さった通り、図書館いってみます!
滝口康彦先生の小説あるかな〜
513 :
人間七七四年:2011/10/26(水) 18:50:09.00 ID:xsMFpwuL
>>498 塙の一族が信長によって悲惨な目にあってるから
太田も彼についてほとんど記述してないので
まったく目立たないのよ。
514 :
人間七七四年:2011/10/27(木) 11:44:51.06 ID:UOxMaS6t
他国に攻め込んだりする際に留守居役を仰せつかる武将を選ぶ基準は何を基に判断されるのですか?
一門衆が優先だったり年老いた老齢の武将が指名されやすいのでしょうか
又、居留守役は合戦で手柄を挙げられる訳ではないので指名された武将からは不満のようなものは出なかったのでしょうか?
515 :
人間七七四年:2011/10/27(木) 12:02:11.05 ID:OILTKwKA
>>514 その時その時の状況によるのだから一定の基準なんてない。
まあ基本、攻めこむ場合、その方面に関係の薄い人間が当てられることが多い、というのはある。
その選定に関しては、現代の人事も一緒だが、その人間の置かれている状況次第で
不満が出る場合も、でない場合もある。
516 :
人間七七四年:2011/10/27(木) 14:13:47.65 ID:WW8IYM1c
>>514 国元の采配や警備、後方担当等の多彩な仕事を行う必要があるので
それなりに老巧かつ有能な人物が求められる
そういう人物はそれなりに年食っているので、年長者が選ばれる例は多い
目端の利いた大名ならその重要性を理解しているので、功績として認められる
517 :
人間七七四年:2011/10/27(木) 16:01:51.21 ID:UOxMaS6t
518 :
人間七七四年:2011/10/29(土) 19:53:22.66 ID:t8dZ8fbV
補給の重要性を骨身にしみて理解しているから留守居を軽視はしない、する側もされる側も。
軽視するようなところは淘汰されて無くなる
519 :
人間七七四年:2011/10/29(土) 21:55:42.21 ID:QCPNV+8x
地元の大名の場合で少し調べてみたが、留守居役は確かに一門か老将だな
520 :
人間七七四年:2011/10/29(土) 23:03:22.22 ID:M5wjq8MQ
中国史では世の中が安定し出すと
乱世で活躍した功臣を皇帝が色々な理由をつけて改易したり処刑することがありますが
戦国時代の終わり頃にもその後の憂いを絶つために
明らかにこじつけで改易や処刑された有名人はいるのでしょうか?
521 :
人間七七四年:2011/10/29(土) 23:47:26.93 ID:Hz30HU7y
>>520 豊臣恩顧の福島正則とか、加藤清正の息子とか。
家康の知恵袋本多正信の嫡子正純とか。
天下のご意見番大久保彦左衛門の大久保氏も大久保長安事件で一度改易されている。
522 :
人間七七四年:2011/10/30(日) 00:12:20.67 ID:FD7GC37j
有名所ではこの3人だな
織田-譜代のおじちゃん
豊臣-茶人
徳川-釣り天井
523 :
人間七七四年:2011/10/30(日) 00:22:19.71 ID:17zPE6cd
>>521 正則も正純も改易理由は自業自得だけどな
どちらも武家諸法度破ったんだし
524 :
人間七七四年:2011/10/30(日) 01:32:08.52 ID:cit3+9Ee
清正の子供のそれも微妙だけどな
質問すれだから深入りはなんだが
525 :
人間七七四年:2011/10/30(日) 03:07:33.07 ID:+Sme72tS
正信はそれを恐れてあまり領地求めなかったんだっけ?
526 :
人間七七四年:2011/10/30(日) 09:38:18.94 ID:HGbriStF
>>524 そもそも肥後加藤家改易は家光の時代だぜ?粛清とか豊臣恩顧とかそんな政治的意味はもはや
さらさら無いわ。
あまつさえ改易当時の加藤家は家中がバラバラで天下のダメ藩として有名だった
あんなものを豊臣恩顧潰しなんて言うのは、豊臣中心視観か明治後の反徳川史観の戯言
527 :
人間七七四年:2011/10/30(日) 09:57:10.29 ID:cit3+9Ee
だから粛清の例としてどうかと疑問を投げかけたんだが
528 :
人間七七四年:2011/10/30(日) 11:43:34.07 ID:HGbriStF
529 :
人間七七四年:2011/10/30(日) 16:55:25.76 ID:17zPE6cd
>>525 ずっと一万石程度の扶持だったんだっけ
息子にも、あまり高い扶持を求めると破滅するから自重しろって言っていたのにな
530 :
人間七七四年:2011/10/30(日) 19:29:13.36 ID:CXoqs80Z
ただ、正信が活躍していたころの、幕府という組織でなく家康に雇われた個人ではなく
秀忠期以降の組織の一員として活動する時代になれば、功績に対しては恩賞を受け取らざるを得ない面もある
さらに言うと、領地というのは役職に関する経費も含まれているから、大権は握っているけど領地は少ないでは勤まらなくなった
531 :
人間七七四年:2011/10/30(日) 20:13:33.70 ID:hk8m8xx8
関が原で七手組が西軍にいますが豊臣はこのことで責任追及とかなかったんですか?
532 :
人間七七四年:2011/10/31(月) 17:59:19.73 ID:Xtk0Dpwf
豊臣のために叛徒西軍を討ったが大義名分なので、
豊臣ともめるのは大きな損出であり、あえて事を大きくする必要は無いですね
また七手組は徳川方に情報を流す両属状態だったという説もあります
533 :
人間七七四年:2011/10/31(月) 18:25:56.97 ID:npjyO3qz
そもそも七手組には徳川旧臣の青木一重や、三成の挙兵をいち早く家康に知らせた伊東長実もいるんだしな。
534 :
人間七七四年:2011/11/01(火) 11:48:21.90 ID:ix7mGHUg
質問です。
植木悦は江戸時代前期に藤堂家に仕えた家臣との事ですが、
彼が記した「慶長軍記」はどれくらい信用できますか?
535 :
人間七七四年:2011/11/01(火) 11:55:46.87 ID:32TslEVb
536 :
人間七七四年:2011/11/01(火) 12:08:29.28 ID:Zg8l4xOI
大雑把に言えば甲陽軍鑑や北越軍談と同程度
軍学書として書かれているので著者の思想を仮託している部分も多いと思われる
537 :
人間七七四年:2011/11/01(火) 20:14:35.70 ID:32TslEVb
宣教師が日本の馬に触れた記述を現在、手に入る書籍で知りたいのですが
書名を教えてくれませんでしょうか(できればページ数も)
538 :
人間七七四年:2011/11/01(火) 20:47:50.14 ID:Zg8l4xOI
松田毅一著「フロイスの日本覚書」111p〜115p
539 :
人間七七四年:2011/11/02(水) 00:02:33.71 ID:X6+u0ZRY
当時の馬には草鞋が履かされてたみたいだね。西洋では蹄鉄打ってるけどみたいな記述を覚えてる
540 :
人間七七四年:2011/11/02(水) 00:29:13.28 ID:S7eZUr9+
西洋馬は湿地帯原産で蹄が弱いからな、日本やモンゴル馬は蹄が硬く常時の保護は要らない。
戦国板で元服前の子供の死亡率は50%とか戦国時代の平均寿命は30歳ってのを見かけましたが
そういうソースや資料があるんでつか( ´・ω・)
542 :
人間七七四年:2011/11/04(金) 11:40:12.92 ID:LtAOmLBE
勿論ない
正確な統計を取れるようになったのは戸籍制度が施行された明治以後
数字を出してる研究家は恐らく過去帳から何人分かのデータを集めて統計を取っているかと
543 :
人間七七四年:2011/11/04(金) 16:07:13.30 ID:Q1uuvDfd
築山殿とか早川殿の「殿」ってどういう意味合いがあるんですか?
殿様の殿だし、なんか奥様みたいな感じなんですか?
544 :
人間七七四年:2011/11/04(金) 16:14:43.92 ID:CF6HGvx9
545 :
人間七七四年:2011/11/04(金) 23:15:00.42 ID:UyBPmfWH
でも、敬称としての「殿」は同格か格下に付けるのが一般的だよね
だから果たして時代劇みたいに家臣が君主の奥方に「築山殿」とか「淀殿」とか言うものなのだろうか?
「築山様」とか「淀様」などと呼んでいたのではなかろうか
546 :
人間七七四年:2011/11/05(土) 09:41:42.03 ID:ruW94rpx
そら自分とこの主人の奥さんには奥方様だの御廉中様だの言ってただろ。
逆に自分の主人やその奥さんでもないのに様付けるのはおかしい。
547 :
人間七七四年:2011/11/05(土) 12:49:24.00 ID:P0/ABD0K
>>545 >>546のいうとおり奥方様や、子がいれば御母堂様と呼んでいただろう。
築山殿も淀殿も後世の呼び名だろう。
本名も当然あるが、限られた者しか知らない。
そのため女性の本名が伝わりにくくなっている。
548 :
人間七七四年:2011/11/06(日) 12:34:40.57 ID:nhorEP+V
>>545 当時他者からでも淀殿、築山殿ではなく「淀の方」「築山の方」だっただろうな。
名前をはっきり言わないのが礼儀。
後世の呼び方が「殿」なのは無位無官なのが大きいだろうな。
549 :
人間七七四年:2011/11/06(日) 12:48:59.14 ID:DKttp0DR
「家忠日記」には築山殿を「信康御母さま」としている
何と言うか、直球
550 :
人間七七四年:2011/11/06(日) 15:27:22.00 ID:xvX60fbv
「淀之上様」だな。
551 :
550:2011/11/06(日) 15:33:47.25 ID:xvX60fbv
552 :
人間七七四年:2011/11/06(日) 20:40:40.08 ID:uUY7vAKA
この板は戦国なのに1400年代が少ないのは何故?
553 :
人間七七四年:2011/11/06(日) 23:16:22.90 ID:ophdQUoz
俄のオタが多いから、ゲームや漫画に出て来ない年代は興味がない
554 :
人間七七四年:2011/11/07(月) 03:33:36.83 ID:7Q2CemWW
研究者も史料も少ない時代だし興味持っても茨の道やね
555 :
人間七七四年:2011/11/07(月) 09:06:42.40 ID:diKLUiP6
戦国前期なんて史料の一番少なくなる時代だからな。
その頃の記録を残す主体が戦国後期には殆ど滅んじゃったわけで
556 :
人間七七四年:2011/11/07(月) 11:07:39.52 ID:fwJRbPv+
家にもよるだろうけど
15世紀が隆盛期で16世紀には落ちぶれて細々と生き延びていた家も多い
まあ、資料が少ないのは間違いないが
557 :
人間七七四年:2011/11/07(月) 11:34:15.01 ID:EgFeSe/A
>>556 大名家としては没落しちゃってるから、大名としての記録が消えちゃってるんだよね。
記録を残すっていうのもものすごい労力と金のかかる仕事だから。
558 :
人間七七四年:2011/11/08(火) 00:13:28.62 ID:5Agj6vgv
第二次大戦中、およそ人間とは思えないほど異常な戦果をあげた人がたまにでてくるけど、戦国時代で化け物としか言えないような武将っていましたか?
559 :
人間七七四年:2011/11/08(火) 00:26:06.87 ID:A12B+gG2
軍記でよければいくらでも
560 :
人間七七四年:2011/11/08(火) 00:37:32.48 ID:rcuB83en
>>558 初陣で二十数人の一向一揆兵を槍で突き殺した森長可とか
561 :
人間七七四年:2011/11/08(火) 11:34:07.07 ID:ue5TiMdB
秀吉の七手組はいつ頃、創設されたのでしょうか
562 :
人間七七四年:2011/11/08(火) 12:01:04.24 ID:n09TjbWT
>>561 小牧長久手の講和の後、青木一重が徳川家から秀吉の黄母衣衆、かつ1万石になってからとして、
おそらく早くて天正14年頃かな。
まあ豊臣家のこの手の組織は七手組に限らず、構想があってそうしたと言うよりなんとなくそんな実態が
出来たものが後から名前を付けられる、なんてものばかりなのでいつから七手組が成立したのかは
よくわからん。
563 :
人間七七四年:2011/11/08(火) 16:35:55.50 ID:RfgzvGg9
秀吉「御馬回り七頭」と名付けようとおもうがどうか?
三成「上様、馬回り衆は八名おりますが・・」
秀吉「おお、そうであった、では速水を筆頭にして、以下七頭としようか」
「何となくかっこいいからだよ」ってCMがあったのを思い出した。
564 :
人間七七四年:2011/11/08(火) 17:11:13.62 ID:ue5TiMdB
いや、伊達家文書の小田原陣立から天正18年までは無いと確認していたけど
それより先は不明か
家康の大番が6組あるから、7組にしたのかな
565 :
人間七七四年:2011/11/08(火) 22:53:07.97 ID:PIloPmTj
秀吉の定紋は五三桐ですか?五七桐ですか?
肖像画とか見ると両方あるものでよくわかりません。
566 :
人間七七四年:2011/11/08(火) 23:04:18.03 ID:OiTlmvfT
秀吉の定紋は太閤桐と思うが、これは五七なんじゃない?
567 :
人間七七四年:2011/11/08(火) 23:16:56.44 ID:PIloPmTj
>>566 ああ太閤桐って聞いたことあります。
太閤っていうぐらいだから、天下取る前と後で桐紋が違うという簡単なことだったんですかね。
ありがとうございます。
568 :
人間七七四年:2011/11/08(火) 23:22:59.95 ID:d0ZyDstj
569 :
人間七七四年:2011/11/08(火) 23:31:32.57 ID:PIloPmTj
>>568 おお、これは初見。
ありがとうございます。
ちょっとググって楽しみます
570 :
人間七七四年:2011/11/09(水) 00:33:54.27 ID:f2RCi+IB
こち亀で、民が太閤桐を無断使用するもんだから禁止令を出したってあったけど本当?
571 :
人間七七四年:2011/11/09(水) 00:53:01.01 ID:G0Gdab2D
そんな甘っちょろい政権じゃないよ豊臣政権は。
そんな事する奴がいたら周辺住民まで含めて皆殺しだわ
572 :
人間七七四年:2011/11/09(水) 01:01:34.57 ID:5hH6dW84
江戸時代の桐紋のことだろ
573 :
人間七七四年:2011/11/09(水) 01:13:44.89 ID:G0Gdab2D
江戸期でも徳川も五七桐紋をつかってるわけだから、そんな物無断使用したら大変なことに成るな。
574 :
人間七七四年:2011/11/09(水) 02:04:32.29 ID:5hH6dW84
知らない事なら無理して答えなくていいよ
575 :
人間七七四年:2011/11/09(水) 18:57:23.25 ID:TRDRPKXu
民というか武家も含めてだが天正年間末に秀吉が菊紋と桐紋の故なき使用を禁じている。
576 :
人間七七四年:2011/11/10(木) 08:30:57.82 ID:ZVrJHl9m
菊紋は戦前まで無断使用禁止だったったけ?
あと諱に仁を入れるのもダメだったっけ?
577 :
人間七七四年:2011/11/11(金) 00:42:26.38 ID:sVCtl4wP
質問
なんか立花宗茂と伊達政宗で料理対決してたらしいってどこかで聞いたんだけど、ソース元が分からないんだが
誰か知ってる人いない?
578 :
人間七七四年:2011/11/11(金) 12:21:13.48 ID:D4Nk5wF8
>>573 徳川は桐紋下賜を拒否したんじゃなかったっけ?
579 :
人間七七四年:2011/11/11(金) 16:13:05.18 ID:ctd/C8xp
質問
土屋昌恒について詳しく知りたいんだけど、お勧めの本とかありますか?
580 :
人間七七四年:2011/11/13(日) 10:52:22.71 ID:rfN/2h9A
サッカーゲームで公家や大名のチームを作りたいと思ってます。
戦国当時、蹴鞠が得意だった人達を教えてください。
581 :
人間七七四年:2011/11/13(日) 15:38:00.20 ID:1S2s1492
582 :
人間七七四年:2011/11/13(日) 17:05:55.42 ID:A1SGMeju
南蛮人の船って九州どまりで
堺へは九州から別の船が来ていたと聞いたのですが本当でしょうか?
583 :
人間七七四年:2011/11/13(日) 18:47:01.40 ID:1JpItkdA
584 :
人間七七四年:2011/11/14(月) 09:47:52.98 ID:v0hyesZd
大名家の役職・格式やら、軍の構成やら、組織構造が概観できるような参考書籍を教えてください
585 :
人間七七四年:2011/11/14(月) 15:07:48.64 ID:RFIN2+mf
>>584 「戦国大名家 家臣団組織図 (戦国大名血族系譜総覧)」
国立図書館にあるよ、ぜひ行ってくれ。
586 :
人間七七四年:2011/11/14(月) 16:18:46.53 ID:v0hyesZd
587 :
:2011/11/15(火) 19:19:53.85 ID:h2xTNAq2
「はじめからわかる日本史」っていう参考書使ってるんだけど、誤植っぽいの見つけた
桃山文化のページなんだけど、
「今もなお続く茶道は、桃山文化期の人物 千利休が、村田珠光以来の侘茶を受け継ぎ、茶道として大成させました」
千利休って侘茶を確立した人じゃないの?
588 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 19:24:26.34 ID:YAGnxBSk
誤植じゃねえよ。それで正しい
589 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 19:58:48.57 ID:h2xTNAq2
教科書、語句集では、千利休は侘茶を大成したて書いてある
590 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 20:08:18.36 ID:ahTww5yV
>>582 うん
とりあえず堺まで南蛮船が来たって事はほぼ無い
591 :
人間七七四年:2011/11/15(火) 20:51:49.05 ID:/ypy4Rzm
>>589 村田珠光が始めた侘茶を利休が大成した。
間違ってないな。
592 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 11:29:40.22 ID:sHELwq4a
戦国武将下っ端ならともかく、それなりの地位の武将がが三国史演義の逸話に登場する武将みたいに
戦場で前線にたって無双するのはありえないとおもいます。
五分や劣勢の情勢で敵の猛攻や追撃で戦死することはしかたないにしても
勝ち戦なのに前に出て負傷したり討ち取られたら笑いものかと思います。
前線にしゃしゃり出て無様に討ち取られたり致命傷を負った間抜けな武将はどのくらいいるのでしょうか?
593 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 12:03:51.26 ID:B6N5xRgl
おっと井伊直政の悪口はそこまでだ
594 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 12:05:43.65 ID:+HAiG0aj
鉄砲に狙い撃ちされおっ死んだ島左近のほうが間抜けだな。
595 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 12:10:56.74 ID:aZNWNgqu
>戦場で前線にたって無双するのはありえないとおもいます。
んー残念
596 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 12:45:08.72 ID:os3ZlZ+V
謙信「ごめんね自ら太刀打ちしちゃってごめんね」
氏康「額に刀傷つくってごめんね」
信長「自ら首取りして、少数で突撃して、鉄砲撃ってごめんね」
家康「焼き飯漏らしながら弓無双してごめんね」
秀忠「遺骨調査したら骨に達する鉄砲傷あってごめんね」
ありえない時代でごめんねw
597 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 12:55:11.96 ID:B6N5xRgl
まあでも、
二、三千くらいの部隊の場合は部隊長クラスも戦うことって結構多いよね
598 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 13:49:52.70 ID:aZNWNgqu
日本の場合配下の者より危険な場所に身を置くってのは上官の宿命みたいな物だからね
上の人間が率先して相手の一番強い部分へ突っ込むしかないんだ
兵法の類にもそう書いてあるしな
599 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 14:48:16.63 ID:os3ZlZ+V
>>592 無線などの連絡手段の無い時代だから
状況を的確に把握したいなら前線を見回らなければならないし
自身の指揮能力を最大限発揮したいならやはり前線付近に立たなければならない
その中では当然戦闘に巻き込まれることはあるし
率先して前に出れば士気爆上がり、臆せば味方に舐められる訳で、
戦国時代の戦いは先鋒同士の戦いで勝敗が決することがほとんどだが
そういう状況なら、前者は有力な選択肢になる。
部隊長クラスならなおさらであり、また一軍程度の士気や指揮が
問題にならないような大戦は戦国時代でも限られてるので
将が前線に立つのがあり得ないと言うのがそもそも間違い
600 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 15:56:56.35 ID:NQeTn2Yh
歴史の雑学本に
侍でも馬に体型や技術的な問題で乗れない人はいて
そうした人は代わりに輿で移動することもあった
って記述があったのですが
戦国時代にも馬に乗れないから
輿で移動してたような大名や武将っていたんでしょうか?
601 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 15:59:36.49 ID:eJ9GH13w
大谷吉継
602 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 16:19:09.70 ID:t+3W3r+t
この時代は「日にち」をどのように言っていたのでしょうか?
例えば「一週間前」とか「三ヶ月後」とか。
こういう週、ヶ月というシステムは1800年代頃からでしたよね?
603 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 16:28:24.73 ID:ycdYXdde
戦国期の商業や貨幣経済について、具体的な本が欲しいです
学者の持論を長々と語ってるのではなくて、具体例の多い本はありませんか
604 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 16:45:51.65 ID:pfv9mNz/
605 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 16:50:39.18 ID:os3ZlZ+V
>>600 雷に打たれ半身不随と言う伝説のある立花道雪や、
ライ病だったといわれる大谷吉継
肥満のため、もしくは下に準じて見栄のため輿にのっていた竜造寺隆信
自身は戦場では普通に馬に乗っていたが
高い身分として輿で公の場に出ることを許されていて戦場にも携帯した今川義元
あたりが有名な所ですかね
>>602 月や日にちは普通にありましたが、太陰暦ですが。
曜日は安息日のあるユダヤキリストイスラム教圏の習慣ですので開国以後ですね。
606 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 17:08:23.82 ID:t+3W3r+t
>>605 「一週間」の区切りが無いだけで「一日」「一ヶ月」のような言い回しは存在したのですね。
ということは今なら「二週間後」とかなら「十四日後」という表現になるのでしょうか。
ともかく後は自分で調べてみます。
ありがとうございました!
607 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 19:18:38.02 ID:sCKVsJ7k
608 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 20:44:21.32 ID:7e8r3tS9
安土城の大手門付近にも信長の屋敷はあったのですか?
本丸だけですか?
609 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 21:11:01.77 ID:ure1ff5i
誰だったか大将が前に出るなって家臣に怒られてた気がしたけどなぁ。
>>606 10日毎の単位である旬は殷の時代から使われている。戦国時代の日本にもあった筈。
でもひと月30日を上旬・中旬・下旬に分ける使い方で1旬後みたいには言わないと思う。
610 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 22:25:50.08 ID:SVFaI2Ip
>>602 >>606 当時は太陰暦基準だからねぇ。
現在使われてる十六夜(いざよい)とか十五夜(じゅうごや)とか三日月、弓張り…
といった単語も普通に使っていた様子。現代みたいに何日、だけじゃなく何夜、という表現も度々したようだ。
ちなみに毛利元就の三子教訓状には「霜月廿五日」と書いてあるが
伊達政宗が江戸時代に入って出した手紙には「十月十七日」と記されてるよ。
611 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 22:31:11.43 ID:ure1ff5i
そういえば昔は昼と夜は違う時間なので数える時も別だった。
三日三晩と言えば昼が三日と夜が三晩という感覚。
612 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 22:37:17.41 ID:Kh0kiZZu
干支や時間などもくわしく
613 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 23:36:03.11 ID:SRbjiTFo
騎馬隊は敵の近くまで行ったら降りて戦ったとか輸送隊だったみたいなこと聞くけど、誰が言い出したの?
614 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 23:39:34.20 ID:ure1ff5i
くわしくって言われても……。季節によって時間の長さが変わる不定時法とか?
夜明けと日暮れによって区分される昼と夜をそれぞれ6等分していた。
季節によって昼と夜の長さが変わるから、時間も伸びたり縮んだりする。
江戸時代はそうなんだけど、戦国時代はどうだろう?
干支も殷の時代からあるので普通に使われていた。いわゆる「えと」の動物とは
本来は全く関係がない。殷では王族の生まれた日の干を名前にしたらしい。
乙の日に生まれたら天乙とか太乙って感じ。
干だけだと10しかないので日付を表すのに不便なので十二支と合わせて使った。
これなら60日(二ヶ月)表示出来る。
615 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 23:48:08.09 ID:G6y8FUWw
616 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 23:50:34.76 ID:pfv9mNz/
>>613 甲陽軍鑑とかルイス・フロイスとか雑兵物語とか
もっとも雑兵物語が騎馬突撃を最近(江戸時代初期)では珍しいとしているので
徹頭徹尾そうだった訳ではない
617 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 23:52:31.39 ID:+HAiG0aj
雑兵物語では西国の人間は騎馬隊の運用が解っていない、みたいなことも書いてるな。
618 :
人間七七四年:2011/11/18(金) 00:07:26.94 ID:LQKHX91o
619 :
人間七七四年:2011/11/18(金) 03:30:11.98 ID:fUFUo62q
鈴木スレもなんか信者というよりは完全に「大先生」扱いなのが
多いもんな。鈴木大先生のいうことを知らないなんてシロウトですねとか
普通に言われる・・
620 :
人間七七四年:2011/11/18(金) 06:25:36.63 ID:ATuljyzi
織田研究者は妄想が入るから読む価値に値しない。
621 :
人間七七四年:2011/11/18(金) 08:05:01.45 ID:Lx4/uABD
>>617 でも東国武士は船戦が下手
とも言ってたな、雑兵物語で
622 :
人間七七四年:2011/11/18(金) 14:51:10.83 ID:GAsBLxDw
そりゃあ瀬戸内水軍ほどに育成する必要性が東国には無かったから仕方ないだろ
623 :
人間七七四年:2011/11/18(金) 15:32:17.72 ID:89yDSU13
当時関東平野は湿地や入り組んだ小川が多く、水軍がいたともいうぞ。
鹿島神宮や香取神宮が拠点になっていたとか。
それに江戸湾と利根川(現在の江戸川)の状況を考えたら里見や北条は
ある程度水軍もっていないと不利だろ、事実北条は房総南部の一部を一時領有していた。
624 :
人間七七四年:2011/11/18(金) 16:20:00.30 ID:Lx4/uABD
当時霞ヶ浦や印旛沼は大きかったし、
江戸湾の重要性も知ってる
当然法帖や里見を始め水軍を持ってたのも知ってる
でも瀬戸内に比べるのは烏滸がましいよ
625 :
人間七七四年:2011/11/18(金) 16:28:17.46 ID:+FfA8rVJ
水軍の大きな活躍の場が東京湾周辺しかない東国と
瀬戸内海他内海と湾だらけの西国を比較したら
雑兵物語で、東国武者は馬術すげーぞ、
いやいやその代わり西国の奴は舟戦うめーから
ちゅう記述も普通に納得できると思うけどな
626 :
人間七七四年:2011/11/18(金) 16:33:31.72 ID:+FfA8rVJ
武田が強力な北条水軍に対抗するための武田水軍創設の時に
わざわざ伊勢水軍ヘッドハンティングしてきたとかな
627 :
人間七七四年:2011/11/18(金) 16:33:59.67 ID:ivvhjxQM
馬の産地といえば東国だしな。
628 :
人間七七四年:2011/11/18(金) 17:11:28.15 ID:Lx4/uABD
北条も熊野水軍からヘッドハンティングしたり、
伊勢の豪商に軍船発注したりしてるからね
629 :
人間七七四年:2011/11/18(金) 17:24:32.07 ID:xuq/+ZVE
在来種の原産は殆ど西国
東国のは品種が絶えてよく分かってないものが多い
630 :
人間七七四年:2011/11/18(金) 17:27:45.54 ID:Lx4/uABD
汗血馬を手に入れた朝廷は速攻、信濃に送ってたけどなー
631 :
人間七七四年:2011/11/18(金) 23:25:28.74 ID:XGCFgvBl
>>629 西国でもウシウマとか居たがなぁ
そもそも日本の馬は大陸由来だろ。
早くから大陸と交流があった西国に入ったのが定着したのであって、
そこから派生したのを在来種と言うのならそりゃ原産は西国だわな。
ちなみに道産子は本州との往来が始まった後に奥州から南部馬が渡って適応したものだ。
今は立派な在来種。
そういや南部って虎貰ってたよなー。
アレ繁殖に成功してたら日本に在来種の虎が出来てたかも(笑
ちなみに今回の震災で大きく取り上げられた相馬の野馬追いも、元は平将門の軍事演習。
普段は畑耕してるおっちゃんが年に一度、鎧を着て颯爽と馬を駆る姿は
流石、坂東武者と言わざるおえまい。マジカコイイ。
632 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 00:54:09.76 ID:Ely8dbuB
> そういや南部って虎貰ってたよなー。
元ダチョウ倶楽部のリーダー 南部虎弾を連想した
633 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 01:26:51.74 ID:CKjBL0wh
流れぶった切って質問するが、「傳永」って名前、何て読めばいいんだ?
俺のご先祖様なんだが、家系図に読みが残ってない。
「つてなが」でいいんだろうか。
634 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 02:33:35.75 ID:oZs//48J
>>633 「でんえい」じゃないのかなあ?法名っぽい。
635 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 06:33:08.96 ID:55/YDnGg
小学館の漢和辞典によれば、人名で使う場合は以下の読み方がある
ただ、つぐ、つた、のぶ、のり、よし、つたえ、つとむ
ただなが、つぐなが、のぶなが、のりな、よしなが この辺りじゃないかな
636 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 07:57:18.95 ID:Wt3lEaYq
>>631 細かいが魏志倭人伝には馬はいないとなってるが本当なんだろかね。
古墳時代にはいっぱい骨が出るからたくさんいたんだろうがその前の弥生で
確認出来ないというのはそれまでいなかったのがいきなり古墳時代にワサッと増えたんだろうか。
馬文化が流入して一気に広がったというのはわかるが同時に馬自体も入ってきたのかなぁ。
そう簡単に全国に増えない気もするが。
それと記紀には神話にも登場するからこれも後にいっぱいいるのを
昔からいたみたいに結びつけちゃったんだろうか、おもろいとこなんだよね。
虎が繁殖してたら日本人はなかったかもしれないな・・猛獣がいなくてヨカタ・・
637 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 10:18:22.07 ID:Z1ny/Hlw
西国で馬の放牧で有名だった国ってドコなの?
そういや群馬県には野生化した馬がかなりいたから
群馬って名前が生まれたそうだね。
彦根城の博物館にある馬の群れの絵の解説だかに書いてた。
638 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 13:02:46.80 ID:oZs//48J
>>637 諸国牧
下野国 朱門馬牧
常陸国 信太馬牧
下総国 高津馬牧、大結馬牧、木島馬牧、長洲馬場、浮島牛場
上総国 大野馬牧、負野牛牧 新屋牧
安房国 白浜馬牧、粉師馬牧
相模国 高野馬牛牧
駿河国 岡野馬牧、蘇弥馬牧
備前国 長嶋馬牛牧
近都牧
摂津国 鳥養牧、豊後国牧、為奈野牧
近江国 甲賀牧
丹波国 胡麻牧
播磨国 垂水牧
大宰府
639 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 14:22:12.03 ID:mphb2X7D
甲斐や出羽や陸奥は?
南部の地名の八戸とか
640 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 14:33:33.25 ID:oZs//48J
>>639 勅旨牧
> 『延喜式』によれば、勅旨牧は信濃(16ヶ所)・甲斐(穂坂牧、真衣野牧、柏前牧の3ヶ所)・上野(9ヶ所)・武蔵(4ヶ所)の
> 計4ヶ国に設置され、前2ヶ国は左馬寮、後2ヶ国は右馬寮の管轄下であった。なお、承平年間には武蔵国で2ヶ所
> 増設されている。なお、追加された2牧は宇多院・陽成院の所持していた牧が勅旨牧に編入されたと言われている。
> 特に宇多院は信濃・武蔵両国を分国として国司の任免権にも関与していたと言われているために、勅旨牧の経営に
> 何らかの関与したとする見方もある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%85%E6%97%A8%E7%89%A7
641 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 14:44:02.32 ID:oMymUpjF
武将の正式な名前、諱は普段使われないと聞きます そこで例えば、長篠の戦いの時の
織田信長公を武田勝頼の家臣、山県昌景はなんと呼んでたかなあと思ったんですが、
みなさんの意見をお聞かせください ワタクシが考えて思いついたところは、
近江殿or様・・・・居城安土城が近江にあったので
尾張殿or様・・・・もともと尾張出身なので
弾正忠殿or様・・・当時の官位
信長or信長殿or様・・・敵なので諱の呼び捨てもアリ?
織田殿or様・・・名字で
上総介殿or様・・・昔名乗ってた官位?
その他 うつけ殿 第六天魔王 三郎 アホウ 鉄砲魔 上様 天下殿
642 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 14:47:50.15 ID:6cN1g2jN
643 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 15:33:49.05 ID:VTtL2GS7
作者とか書かれた年代がアレなのであまり参考にはならないが
武田側史料の甲陽軍艦 記述
此女子は、信長父弾正忠在生の時、美濃国ない木勘太郎と云侍を婿に仕り、…とある。
644 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 16:49:33.08 ID:Wt3lEaYq
山県が誰と話して呼ぶかにもよるな。
それと会話のニュアンスにもよる。
ただ結局自分がいろいろ思いついたことを自慢
したかっただけなんだろな。
645 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 16:49:47.88 ID:c9qBJoka
>>641 よほど憎しみとかなければ、敵でも普通は敬意を払う
646 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 17:02:28.71 ID:oIFC6aoR
岐阜公くらいかと
647 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 17:10:55.18 ID:55/YDnGg
弾正とか弾正忠あたりじゃね
648 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 17:31:35.40 ID:hXwX0FVz
信長の家臣は公記を読む限り
信長公・勝頼などと呼んでるようだから
実は戦国期も後期になると
諱とかも関係なかったんじゃね?
649 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 18:05:57.28 ID:u8cQ3udG
後世に書かれたものは第三者視点なので諱でもかまわない。
650 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 18:31:44.98 ID:hXwX0FVz
後世って言っても1611年だぞ。しかも織田家に仕えていた太田牛一だし。
651 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 18:47:11.10 ID:u8cQ3udG
だから家臣時代に近いころに書かれた初期信長公記は
信長のことを上様と記述してるだろ
652 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 19:08:53.81 ID:hXwX0FVz
いや初期なんて普通に「信長」と呼び捨てにしてるんだが・・・
653 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 19:22:51.96 ID:u8cQ3udG
初期って首巻とかじゃなくて残存する公記の中では最も古いと考えられる安土日記の事
654 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 19:59:04.73 ID:oMymUpjF
みなさんお返事いっぱいありがとうございます!
けっこう適当にその場その場で決まってたみたいなかんじでしょうか
よくわかりましたありがとうございました
655 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 20:57:33.21 ID:zXokhk9S
雑賀孫市って忍者だったの?
656 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 20:59:23.54 ID:P3QAiw6+
違います
657 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 21:15:44.19 ID:scbvgryI
最初って?
安土日記って
天正6年1月1日〜天正7年8月6日までしか遺って無いだろ…
658 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 22:32:53.26 ID:+5ZMSP4f
>>657 信長公記は複数あってそれぞれ内容が少しずつ異なる事は知ってるよね?
歴女のオニャノコたちはガチムチ男同士のアナルセック。。。じゃなくて衆道についてどう思ってるんでつか( ´・ω・)
660 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 22:51:43.15 ID:nW/5jVVX
BLと同一視して盛り上がってます。
661 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 23:30:00.99 ID:Wt3lEaYq
初期ってのは公記の最初、永禄11年あたりってことじゃないのか。
一般的な池田本は確かに最初は「信長」でだんだん「信長公」になってくる。
そしてまた「信長」になったりするが「御動座」とか将軍に使ってた表現になったり
系統によっていろいろではある。
「上様」ってのは73年以降に目立ってきてるが池田本ではあまり
使われてなかったんじゃないかな。
普通は死後だと本人に対する失礼という意味も減じてくるから
諱でも使われるけどね。
要はケースバイケースでルールなんかないってことだ。
662 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 23:46:12.15 ID:u8cQ3udG
信長公記が何度か書き直されていることって意外と知られて無いんだな
663 :
人間七七四年:2011/11/19(土) 23:52:52.01 ID:Wt3lEaYq
今東大が税金使って調査しててその
中間報告みたいなのは見た。
記録の確認で「意味については知らない」と断ってるところが
さすがではある。
つまり都合の悪い書き直し、書き換え、事実が判明しても
知らないよってことだよね。
オマンマの食い上げになるからそのあたりは研究者の
好きにしてってことか。
664 :
人間七七四年:2011/11/20(日) 10:10:58.11 ID:6HyfvM6J
普通は死後だと本人に対する失礼という意味も減じてくるから
諱でも使われる
それはウソ。
信長は死後に
総見院殿と呼ばれるから。
665 :
人間七七四年:2011/11/20(日) 12:30:18.50 ID:gOj1xzGP
信長公記はパッチワークじゃね?
牛一が各時代に記録したものを後で再編集したとしたら
同じ人物を指す名称がまばらでも可笑しくない。
666 :
人間七七四年:2011/11/20(日) 13:44:01.15 ID:MHlhfLI4
牛一が編集指揮してれば統一するだろ
実際は太田は関与しておらず
織田家と関係ない売文家複数人による編集だろ。
同じ人物を指す名称がばらばらだと言う指摘に対して
返答が「パッチワークだから」って苦し杉www
667 :
人間七七四年:2011/11/20(日) 14:15:43.47 ID:Ki0NGH8E
まあ呼び捨てにしてる時点で
織田家臣じゃないよなあ
668 :
人間七七四年:2011/11/20(日) 16:01:34.80 ID:d7fD+WBX
公記には普通の解説書が多いからちゃんと読んでみればいいと思うよ。
牛一さんが書いた時点?では秀吉の家臣になってるし
その後各家の求めに応じて編集し直した時点で先方とのかねあいが
でてくる。
だから、信長、家康公、とか無難な客観的な表現で通してるのは
そこから何かを読み取ろうとはなかなかできない、一種の記号みたいなもので。
太田は関与してない、というのは同一筆跡をどう説明するのかな。
669 :
人間七七四年:2011/11/20(日) 19:38:44.34 ID:dEYclyI6
同じ筆跡?
そんな精査やってないぞ。
筆跡鑑定家って誰なの?
670 :
人間七七四年:2011/11/21(月) 00:06:23.27 ID:ihnqvo5s
>>669 少なくとも4つは自筆と言われてるでしょう。
自分で見ても鑑定もしてないからこれ以上は言えないが。
あと奥付もあったかな。
これが「精査」されてないというのならあやまるけど。
もしかして最新の精査で最も古い部類のものも「牛一」の
自筆でなくすべて写本とかになってるのか。
だったら、その「原本」とかに話は戻るわな。
671 :
人間七七四年:2011/11/21(月) 00:40:17.30 ID:75GDT1KS
>>670 それはどの書状と安土日記を比較してんの?
672 :
人間七七四年:2011/11/21(月) 12:42:45.86 ID:9Z3+hQxR
正式な鑑定なんてやってないよ。
そもそも牛一自筆の研究中って言うよりも、
そもそも信長研究がやっと正式にスタートしたばかり。
金子拓・横山住雄・谷口克広・和田裕弘・岡田正人・
高木叙子・竹本千鶴・松田之利・土山公仁などが先頭にたって
多くの信長記(公記ね)の保存先に頼んで見せてもらい、
世間一般にも呼びかけて信長の一次史料を
苦労しながら収集してる状態。
あんたも信長に一次史料を持ってたら連絡いれてやれ。喜ぶぞ。
いまの計画だと平成25年3月までに有る程度の結果を出す予定。
信長の文書は極端に少ないだけでなく、織田家自体が文書類発給が伝統的に少ない。
大日本史料などで編纂される上杉や島津や毛利などの大量文書が無いから
やっと信長についての収集が開始されたばかり。
いままでの信長研究なんて子供の遊びレベルで
90年代の信長革命児マンセーの妄想の残照でしかない。
本格的な文書研究にも至ってない状態。
いま信長研究家と言われてるヤツの大半はいい加減。
673 :
人間七七四年:2011/11/21(月) 23:10:15.53 ID:T+h5Go0Q
死後戒名は玄田牛一に改名なりますた
674 :
人間七七四年:2011/11/22(火) 10:30:15.51 ID:iULrAdn+
江戸時代の赤穂の殿様の刃傷沙汰みたいなのって秀吉の大阪城時代に
なかったんですか?
統一されて事実上、戦国終わって間もないので隣の領地同士の怨恨とか
江戸時代よりありまくりそうなんですが
675 :
人間七七四年:2011/11/22(火) 13:26:37.72 ID:aBK5WX1u
間違ってたら悪いが、4つの自筆、というのは池田、ケンクン、11年だけの、無題の
数年分、と4つじゃなかったっけ。
他に太田日記、くんきのうち、とか自筆と言われてるから
このあたりは共通した筆跡かと思ってた。
これら自筆と言われているのが「正式な鑑定してない」
というのは驚くが、それは自明だからってことじゃないの?
そういう「正式な鑑定」をしてないのを遊びというのなら
ぜひ鑑定してほしいものだけど。
それと自分はもってないが、知人の知人、で持っているのがいて
大学から問い合わせは来るそうだが公開済のしか見せないそうな。
どうしてかはおして知るべし。
「苦労しながら収集」というと自分たちが正義で見せない
旧家が悪いようだが「どうして見せてもらえないか」を考えない限り
永久に「遊びの研究」からは抜け出せないだろね。
安土日記ってのは行間にいろいろ書いてあるののことでしょう。
これは写本の中で一番古い、みたいに言われるけど自筆かどうか
ってのはそういえば聞いたことないなぁ。なんかいろいろ推測は
されてるんだっけかな。
676 :
人間七七四年:2011/11/22(火) 13:57:31.59 ID:RU4N8mbH
太田本人が出した現存書状と精密筆跡鑑定をしたわけじゃないし。
677 :
人間七七四年:2011/11/22(火) 14:26:03.02 ID:aBK5WX1u
なるほどな。
というと史学において自筆とか言われるものは全て
鑑定してあるのだろうか。
それと「した」とは言えるが「してない」とはなかなか言い切れない
ものじゃないのかね。
この場合牛一自筆と呼ばれる4つの信長記の「精密筆跡鑑定」
がなされてないというのは一体何を主張するものなのだろう。
金子たちがそれを指して「今までは遊び」というのなら
本当にぜひ鑑定して確定してほしいものだ。
これは25年まで待たずにできるものだろうしね。
678 :
人間七七四年:2011/11/22(火) 17:53:27.18 ID:FQN5cS57
建勲神社本と池田本が同じ筆跡だからって理由だけで
太田の自筆と言ってるだけだろ。
その時点でまともな調査をしてないのが露呈してて
完全に終わってる。
奥書の太田の無駄話まで
丸々写筆してる可能性を考慮してないし、
そもそも筆者が太田に仮託して書いてる可能性もある。
そもそも首巻からして仮託だし。
679 :
人間七七四年:2011/11/22(火) 18:15:16.96 ID:G4TrwpSO
ソース無しはノーサンキュー
戦で出た何千という遺体を処理する人(エタ・非人みたいな人)がいたみたいですが、遺体は全部土葬したんでつか( ´・ω・)
処理する人達は誰かに雇われて対価が支払われたんでつか( ´・ω・)
もしかしてボランティアでつか( ´・ω・)
681 :
人間七七四年:2011/11/22(火) 22:20:04.93 ID:SUwfsCgU
勝った側の遺体は味方の手によって埋葬されます
負けた側の遺体は放置しておくと伝染病の発生源になるので
主に土地の持ち主である農民と僧侶が埋葬します
682 :
人間七七四年:2011/11/22(火) 23:28:51.34 ID:aBK5WX1u
農民はその時刀や甲冑やカネメのものは
略奪するんだよな。
683 :
人間七七四年:2011/11/23(水) 00:42:40.12 ID:Emb6MDOt
684 :
人間七七四年:2011/11/23(水) 08:44:15.72 ID:G2B1HuRS
一方的に死者・負傷者が多かった野戦は何処ですか?
数が怪しい半島征伐は抜きで。
685 :
人間七七四年:2011/11/23(水) 08:45:31.30 ID:t+A9w713
>>684 野戦で一方的・・・ 長篠の戦いですかな?
686 :
人間七七四年:2011/11/23(水) 09:29:37.01 ID:xH549lC5
規模で言えば関ヶ原だな。あれは本当に一方的。
687 :
人間七七四年:2011/11/23(水) 09:40:14.82 ID:hXULUX+H
一向一揆が蹴散らされた諸戦
688 :
人間七七四年:2011/11/23(水) 16:30:07.97 ID:whMoY8Mf
姉川の戦いの織田軍だろ
家康がいなかったら信長死んでた。
689 :
人間七七四年:2011/11/23(水) 16:51:28.48 ID:hDqP+rZv
三方ヶ原の徳川は?
>>688 それとっくに否定された江戸時代の作り話
690 :
人間七七四年:2011/11/23(水) 17:10:42.44 ID:eb6isYf3
>>684 一方的にってことなら沖田畷じゃないかな
691 :
人間七七四年:2011/11/23(水) 17:15:42.98 ID:YCc7bOn/
692 :
人間七七四年:2011/11/23(水) 17:16:31.64 ID:pVqALr/7
>>689 大体、1対5
後、姉川は通説は怪しいとしながらもそれに替わる説は無い
693 :
人間七七四年:2011/11/23(水) 17:28:01.21 ID:whMoY8Mf
>>689 どんな論拠内容で否定されたのか教えてくれ。
694 :
人間七七四年:2011/11/23(水) 18:02:25.29 ID:+YVYc7v+
姉川はどんな戦いか一次資料上ではよく分からないからな
すぐに双方軍を動かして志賀の陣が起きてるから
大損害の出たような戦いじゃないとは推測されてるが
695 :
人間七七四年:2011/11/23(水) 19:44:24.72 ID:jaNJglXV
>>692 否定するのに新説が必須ということにはならないよ
696 :
人間七七四年:2011/11/23(水) 19:46:13.03 ID:Foxw4HOm
>>695 否定するのに根拠と新説は必須だよ。
新説のないものは否定とは言わない。ケチをつけているだけだ。
697 :
人間七七四年:2011/11/23(水) 19:53:16.40 ID:jaNJglXV
>>696 根拠は必要だが新説は必ずしも必要ではないよ
698 :
人間七七四年:2011/11/23(水) 19:55:17.70 ID:jaNJglXV
追加
そもそも、否定の証明と親説の証明は別物だからね
定説を否定したからって新説が必ずしも正しいという根拠にはならないのだから
(定説も新説も両方間違っている可能性は普通にありうる)
699 :
人間七七四年:2011/11/23(水) 20:35:57.41 ID:pVqALr/7
否定するだけというのは気楽な話だけどね
700 :
人間七七四年:2011/11/23(水) 22:11:32.50 ID:lAy9M/ZE
一方的負けまくりといえば小笠原一族
長時・・塩尻峠で大敗
貞慶・・石川数正とともに家康を裏切る
秀政・・無断参戦して重傷
忠脩・・無断参戦して戦死
長行・・長州征討で敵前逃亡し江戸幕府を滅ぼす
701 :
人間七七四年:2011/11/23(水) 22:32:37.49 ID:35DGlZF/
姉川の話ね
wikiiにもあるけど、通説通りの壊滅的大敗だとしたら
その後すぐに大規模な合戦やってる浅井・朝倉の立ち直りが早すぎるし
三河物語では和田惟政とか参加した事になってる武将が実際は京で政務に励んでて書状出してる記録が残ってたり
参加・不参加の実情すら怪しいという事になってるので
損害・参加兵力どっちも水増ししてるのは間違いない
702 :
人間七七四年:2011/11/24(木) 08:13:02.25 ID:B2sIX7xK
三河物語はあまり信用がならんが
では公記はどうかというとこれも大した勝利では
ない感じだ。
もっと圧勝ならそう書けばいいわけだし多くて
やっぱり1000ぐらい討ち取ったってとこかなぁ。
・・結構圧勝か・・
703 :
人間七七四年:2011/11/24(木) 11:50:02.27 ID:IYQvsod4
議論活発になってすみませんが、
聞きたかったのは、
野戦での追撃殲滅戦の損耗率についてです。
籠城戦だと守備側全滅も稀ではないですよね、
その点、野戦だとある程度損害が出た時点で敗走がはじまります、
日本の野戦でも殲滅戦になることはあるのか?です。
704 :
人間七七四年:2011/11/24(木) 11:55:30.98 ID:IYQvsod4
三方ヶ原で何故武田は追撃しなかったのか、
桶狭間や沖畷では大将首とった時点で休戦したのか、
農民の落武者狩りの前に何故、追撃しないのか。
705 :
人間七七四年:2011/11/24(木) 12:02:42.49 ID:ezAP1k1j
>>703 『日本の軍事革命』という本にそのものズバリの一覧表が載っているからそれを読むといい
706 :
人間七七四年:2011/11/24(木) 13:08:44.28 ID:IYQvsod4
707 :
人間七七四年:2011/11/24(木) 13:09:52.57 ID:sP7mHC0x
自分は戦わないくせに後ろからせっつく督戦隊って
楽そうでいいよなあ
708 :
人間七七四年:2011/11/24(木) 13:21:38.84 ID:IYQvsod4
負けてる時は、最後まで戦場に残るべきなのに?>>督戦隊、戦目付
709 :
人間七七四年:2011/11/24(木) 14:20:00.87 ID:F9F4EJHV
信長公記は志賀の陣まで
前代未聞の栄誉ある一戦
などと勝利宣言してるから
まったく信用性ゼロ
実際は義昭が必死に調停してくれたから信長は助かっただけ。
710 :
人間七七四年:2011/11/24(木) 14:20:15.40 ID:foNt+8fr
>>703 参加兵数や損害数の確かな史料は残ってないので
損耗率は正直出しようが無い
軍記物の不確かな数字に推測に推測を重ねて出すくらい
>>704 桶狭間:殲滅には兵力不足
沖田畷:乱戦であり、さらに地形的にも追撃は難しい
三方ヶ原:後半は夜戦なので追撃不可
長篠:片翼包囲な上に築城陣地戦で余力があり追激で大戦果
軍記物を参考すればこんな感じ
711 :
人間七七四年:2011/11/24(木) 14:50:42.77 ID:F9F4EJHV
そもそも三河物語には和田が参加したなんて書いてない。
3万の朝倉が1万の織田を旗本まで切りくずして朝倉軍が一気に前進していたが、
家康が前面の敵を撃ち、
信長の崩れを見て
一気に朝倉奥陣に斬り込んだから
本陣に横撃を受けて朝倉軍が崩れただけ。
志賀の陣でも朝倉軍3万に
織田1万じゃ帰り道を塞がれたらかなわないから和睦したって書いてるし、
信長が兵糧に困るだろうと考えていたら
比叡山から朝倉に米が運ばれてしまったと書かれてる。
その一方で比叡山の騙し討ちを喝破した信長を
さすがの弓取りと称賛してるから
これでも三河物語は信長寄りにかいてるわけだが。
712 :
人間七七四年:2011/11/24(木) 18:42:31.46 ID:B2sIX7xK
なんかケチョンケチョンに思えるがなぁ、織田軍の描写。
713 :
人間七七四年:2011/11/24(木) 19:09:35.57 ID:FovqXBf7
それは織田軍最強説みたいな先入観からだろう
714 :
人間七七四年:2011/11/24(木) 19:21:09.37 ID:PK1WymQn
志賀の陣は彦左衛門どころか徳川軍自体が参加していないのにどうやって詳細を知ったのか?
この時点でうさんくささ爆発
715 :
人間七七四年:2011/11/24(木) 19:24:37.29 ID:ezAP1k1j
後年の徳川には織田家からのリクルート組もなんぼでもいるんだから、それこそ情報源なんてよりどりみどりだろ。
716 :
人間七七四年:2011/11/25(金) 02:27:59.51 ID:PmwlmwGs
age
717 :
人間七七四年:2011/11/25(金) 03:00:15.64 ID:R5v//hbc
>>714 無知長厨乙
信長から御加勢依頼がきて
徳川からは石河家成が織田への援軍で参加してるから。
718 :
人間七七四年:2011/11/25(金) 08:24:45.49 ID:M7IPTXQl
>>634-635 遅くなったが回答ありがとう。
祖父の名前と音が通じる「ただなが」で名乗ることにするわ。
>>634 「藤原傳永」だから、多分諱じゃないかなと思う。
法名はちゃんと別に書いてるし、先祖で出家したらしき人はちゃんとそう書かれてる。
てかネット凄いな。
調べてみたら、先祖の上司まで特定できたぞ…
719 :
人間七七四年:2011/11/25(金) 09:00:32.51 ID:+GBf8miE
凄く強い人、猛将なんていなかった というのは本当でしょうか?
複数のサイト、テレビ、本の情報をまとめると
東日本最強本多忠勝、西日本最強立花宗茂、鬼の示現流島津義弘、豊臣の龍虎加藤清正と福島正則
など戦国ゲームでも有名な猛将英雄はたくさんいますがそんなの全部フィクションらしいんですよね
1.そもそも有名な人達は皆、当主や大名でそういう重要人物は前線に出ないで後方の本陣の
安全圏で指示を出したり前線の様子を聞くだけで自分で槍を持って戦わない、軍の勝利が本人の強さと評価されただけ
2.そもそも当時の戦死者の七割は弓矢で残り三割の槍も農民歩兵が隊列を組んだ集団長槍戦法で、所詮戦争は集団戦
一個人が槍を持って敵を一人一人倒すというの事態、フィクションである。
3.下級武士から武功を立てて大名に上り詰めた人でもそれこそ若い時にちょっと目立つ成果を上げたかもしれないが
やはり出世すれば前線から離れるし武功は運の要素もあるから、やはり皆がイメージする猛将ではない。
4.実際の戦死者のほとんどが農民から徴兵した歩兵なので、戦国時代は農民同士を殺し合わせて武家の人は高見の見物
で、ゲームや物語にあるような勇ましい猛将様なんていない。
5.戦国時代の資料の多くは江戸時代に描かれたモノで、戦国時代という凄絶な時代故に小説家が脚色したり、武士が後世に
カッコよく自分の事が残るようウソ記録を残した結果、今の猛将英雄イメージができたと言わざるを得ず
根本的に戦争というものは一個人の武力がどうこう言うものではない
自分は英雄好きなのでできればウソであって欲しいのですが、誰か弁護できませんか?
720 :
人間七七四年:2011/11/25(金) 09:18:04.86 ID:6L4UV24m
>>719 >鬼の示現流島津義弘
その頃示現流あったのかなぁ。
>根本的に戦争というものは一個人の武力がどうこう言うものではない
ウッディ大尉もアムロにそう言ってるじゃん。
721 :
人間七七四年:2011/11/25(金) 10:16:41.37 ID:1K9C6qlz
>>719 時代は違うけど圧倒的な戦績を誇る大村益次郎が常に後方にいて戦果をあげたように
前線にでなくても采配はできる。ただ士気高揚や情報伝達の兼ね合いで前にたつこともある。
でもグスタフ・アドルフのように圧倒しておきながら突出して戦死することもあるから戦場は怖いね。
722 :
人間七七四年:2011/11/25(金) 10:39:50.72 ID:KrBvNm51
大村益次郎は軍事革命後だからちょっと事情が違うような……
>>719 関ヶ原の合戦で黒田長政と細川忠興が互いの軍功(馬入れ)を確認し合ってる
井伊直政と松平忠吉二騎で最前線に出て鉄砲打ちかけて一番槍を名乗ってる
どちらも”武将が最前線に出ること”を軍功としているわけで、1)には当てはまらないなぁ
つか武将が一番良い装備してんだよな、そいつが前にでないで雑兵が本気だすかというと……
723 :
人間七七四年:2011/11/25(金) 10:43:38.36 ID:FUVqFeLa
アニメゲームのイメージから現実的なったけど、
今度は逆方向に触れ幅が大きくなった感じか
両方修正してやら無いといけないからめんどくさい状況だなw
724 :
人間七七四年:2011/11/25(金) 11:43:23.79 ID:a7C5qOKR
関ヶ原の井伊の一番槍は捏造だからなあ
725 :
人間七七四年:2011/11/25(金) 18:52:12.24 ID:4m9QYn6T
正論も混じり合ってて面倒臭いから、結論急がずにそのまま色々勉強重ねるのが一番かもね
とりあえず戦争や軍事、集団と個人、組織などなどについて圧倒的に理解が足りない
まずは組織論から始めて見るのが宜しいかと
726 :
人間七七四年:2011/11/25(金) 21:10:52.04 ID:UHoEpYcf
727 :
人間七七四年:2011/11/26(土) 01:30:52.87 ID:tw2UYmVi
まぁ面倒臭いからな、アニメゲーム小説の弁護も出来ないし。
728 :
人間七七四年:2011/11/26(土) 02:39:28.13 ID:DPw1/h2X
>>726 お前心底気持ち悪いな。
そんな事を意気揚々と書ける神経が。
729 :
人間七七四年:2011/11/26(土) 08:14:52.50 ID:/eLe8PUp
ここは質問スレだ
そろそろそれ相応のスレに移動してやっとくれ
730 :
人間七七四年:2011/11/27(日) 01:20:18.50 ID:XH8+ajgg
当時の道も公共事業(城普請など)の一部として作られたのでしょうか??
道を確保するために築城や城攻めを行うって事は、それ以外は獣道なんでしょうか??
731 :
人間七七四年:2011/11/27(日) 13:18:11.94 ID:qvVAizmf
名も無き小路ならいっぱいあったと思うよ
ただ、そういった小路を必死で抑えた所で軍の機動にはあまり役に立たない
なぜなら軍隊ってのは大量の人と物資を行き来させるものだから
そして軍隊が通れる道ならば、物流の中心として経済も活発になる
大名が確保しようとした道は、そういった比較的大きい道
あと信長が道筋を変えさせたり、信玄や謙信が軍用道を作ってたみたいだけど、
基本的には昔からある道を使ったり、それを整備するくらいじゃないかな
732 :
人間七七四年:2011/11/27(日) 14:19:45.36 ID:m+7MKXD6
道路自体は律令体制の頃からこつこつ作ってる
733 :
人間七七四年:2011/11/27(日) 18:03:32.68 ID:DF/Rs0F5
ただし、日本の古代の道路は平安にはいるころから廃れて言ったらしい
代りに物流の中心を担ったのが河川などの水路(陸路がなくなったわけではないが)
そして平安末に武士が台頭して戦争が頻発してくるようになると、
進軍路としての陸路が再び整備されていくようになる
734 :
人間七七四年:2011/11/28(月) 08:57:33.83 ID:K1ERT2yj
そして徳川期には実質公然の「ウラ道」として
街道に準ずる道となっていく。
これは「人の行き来」を目的としたもので
少し時代がズレるんだが古くから「こっそり移動用」
の道筋があったことは推定できる。
735 :
人間七七四年:2011/11/28(月) 15:45:02.52 ID:XlM133ss
お尋ねしますが、DQNの政宗さんは、よく秀吉・家康・利家らと茶会、花見
数奇ごっこに招かれますが何か魅力あったのでしょうか?
遊んでみたらコイツ面白いって事ですか。それとも国元にいると陰謀企画するから
近くで監視状態なのか教えてください
736 :
人間七七四年:2011/11/28(月) 16:04:51.15 ID:3OrtQZit
政宗は大大名なんだから在京・在阪していればその手のイベントに招かれて当然。
というか招かれない方が問題。
737 :
人間七七四年:2011/11/28(月) 16:47:06.63 ID:MyTdCdZU
でも五大老にも奉行にも選ばれてないのに、待遇よくね?
738 :
人間七七四年:2011/11/28(月) 18:10:53.42 ID:R3FqHsyL
>>731>>732>>733>>734 なるほど、ありがとうございます。
主要街道を制圧して連絡網を断つって言いますけど、脇道があるわけだから意味ないですよね?
連絡なら軍勢や荷駄がいらないですし…
739 :
人間七七四年:2011/11/28(月) 19:40:22.87 ID:K1ERT2yj
>>738 連絡網を断つとはあまり言わないように思うけどね。
ってか、自陣のマイナーな小路は相手は知らないから
相手の知ってそうな街道ー道を断つというのは十分に有効とは思う。
要は自領かどうか、入るのか出るのか、という個別の問題がからむから
ケースバイケースにはなるよね。
敵陣を走っていたら普通は捕まるしね。
740 :
人間七七四年:2011/11/29(火) 00:27:16.77 ID:N6ImEKS1
軍事用語で言うところの連絡とは単なる情報の伝達だけではなく
拠点同士の補給や行軍が可能かどうかも意味するのだよ
連絡線を断つと言う事は、他拠点からの物資輸送や援軍を断つと言う意味に通じる
まあ、軍事用語でなくてもそう言う意味も含まれているけどね↓
れん‐らく【連絡/ × 聯絡】 国語
[名](スル)
1関連があること。「一見何の―もない 二つの事件」
2気持ちや考えなどを知らせること。情 報などを互いに知らせること。また、そ の通知。「―をとる」「本部に―する」
3二つの地点が互いに通じていること。 また、異なる交通機関が一地点で接続し ていること。「私鉄と―する駅」「―橋」
741 :
人間七七四年:2011/11/29(火) 11:42:04.93 ID:Z0Fu1nsT
>>740 一般論じゃなくて当時そういう作戦を建てたという記録は
あんまり聞かないなぁということ。
ゲームや仮想戦記の主人公がそういう風によく話してた
というのかなと思っててね。
742 :
人間七七四年:2011/11/29(火) 11:58:15.52 ID:0kWIMvnc
小路は小さい分、物資輸送に問題点が多く、負担も大きい
743 :
人間七七四年:2011/11/29(火) 13:06:38.77 ID:D1ZK1C3s
人の出入りを厳しく監視しろ系の一次資料は山ほど残ってるし
完全に封鎖は無論難しいが、移動、連結に不便な脇道の使用を強制するなら
時間もかかるし費用もかかるし危険も伴うわけでそれはそれで十分効果がある
極端な話、現代の大国アメリカや島国日本も国境を完全に封鎖できはしないが
不法移民や麻薬をフリーパスさせるか?させないだろ。という、
少しは常識で考えろよという話になる。
744 :
人間七七四年:2011/11/30(水) 22:50:11.02 ID:FxWH8S+G
御三卿は、10万石の賄料を貰い、家臣は幕府からの派遣とのことですが、御三卿からも家禄を貰っていたのでしょうか?
また、どれくらいの人数の家臣がいたのでしょうか?
745 :
人間七七四年:2011/12/02(金) 19:03:41.90 ID:axhTwQtP
伊達稙宗の頃と政宗の頃を比較して
最大版図はどちらのほうが広かったのでしょうか?
746 :
人間七七四年:2011/12/02(金) 23:11:22.14 ID:l7yZV8j6
最大版図でいうなら、政宗じゃないかな
747 :
人間七七四年:2011/12/02(金) 23:54:29.15 ID:Alj1CJPI
違う時代の勢力範囲は比較しても無意味
体制が違うから何とも言えないし
資料があるなら直轄地だけで考えれば何とか比較できるかもしれんが
748 :
人間七七四年:2011/12/03(土) 08:56:47.38 ID:SqJCQSdL
>>745 従属を版図に含めたら稙宗の方はかなり広くなるから稙宗じゃね?
749 :
人間七七四年:2011/12/03(土) 22:05:00.95 ID:YaW2XNAx
上杉謙信が守護になった時、白傘袋と毛氈鞍覆を貰ったってあるけど、これなんなの?
毛氈鞍覆ってのは座布団みたいなもんだと思うけと、白傘袋って? 雨の日にさす傘を入れる白色の細長い袋のこと?
750 :
人間七七四年:2011/12/04(日) 00:56:32.35 ID:VlUtaLj8
751 :
人間七七四年:2011/12/04(日) 12:15:17.65 ID:TabApGNd
すると……やっぱただの袋か
昔の用具だからどんだけ奇抜なもんかと勘繰ったけど
まあそらそうだわな
752 :
人間七七四年:2011/12/05(月) 12:39:24.49 ID:rHMzMzlX
戦国時代って警察みたいな機関あったのでしょうか?
名前とか調べてみても検非違使くらいしか見つからなくて、でもこれ鎌倉時代のものっぽいので気になりまして。
753 :
人間七七四年:2011/12/05(月) 13:01:05.45 ID:aE+4fP+R
守護は警察です
754 :
人間七七四年:2011/12/05(月) 13:21:36.70 ID:gCQ2o7yn
もともと警察権のみだった守護が、室町期になり軍事、徴税権まで併せ持つようになって「守護大名」化した。
戦国大名の権力のあり方も基本この延長線上にあり、戦国大名の義務として警察行為がある。
755 :
人間七七四年:2011/12/05(月) 13:23:19.81 ID:kwJtP6aX
当時の警察は
第二条補足
場合によっては抹殺することも許される
というトンデモナイ条項があったらしいぜ
756 :
人間七七四年:2011/12/05(月) 15:28:16.61 ID:6JIN1p6y
どこの時空刑事やねん
757 :
人間七七四年:2011/12/05(月) 17:49:39.16 ID:A1U4NQsT
>>753-754 なるほど、守護が警察だったんですね。
という事は警察署みたいなのは無くて、その大名家に仕えるお侍さんに報告すれば出動してくれるみたいな感じで解釈していいんですか?
(ドラマとかでお奉行さまー!みたいな感じのノリでくるやつ)
>>755 戦国の時代なのであまり驚きはしないっすが、現代の考えだとものっそ恐ろしいっすw
無罪の人間でも殺したりするような悪い人も居そうだなあ。
758 :
人間七七四年:2011/12/05(月) 17:56:42.78 ID:RYZw1RGu
>>757 交番がなくて、市に警察署が1つだけみたいなイメージかと
要請するにも手間がかかるし、来てくれるのも手間がかかる、とにかく時間がかかる
だから村人が武装をして常に身構えてるわけです
759 :
人間七七四年:2011/12/06(火) 01:17:48.24 ID:jPWWJiVE
>>758 ありがとうございます疑問が全て解けました。
となると解決の早い遅いや治安も大名の腕によるところも強そうですね。
760 :
人間七七四年:2011/12/06(火) 02:05:04.06 ID:xlvWJKrK
江戸時代だって江戸ですら正規の警察官の同心は数える程しかいなかったしな
761 :
人間七七四年:2011/12/06(火) 15:28:06.27 ID:prH4RoLn
江戸は治安の良い平和都市?だから
戦国の地方農村なんかと比べるとおかしくなるけけどね。
762 :
人間七七四年:2011/12/11(日) 16:01:38.66 ID:jDhv03MI
美濃大井城の藤井宗常、宗守という兄弟がいるそうなんだけど
この兄弟の官位とか通称とかっていうのはやっぱり伝わっていないのかな。
昔は諱じゃなくて通称で呼び合ってたんだから、記録に残るのも諱より通称だと思ったんだけど、ネットじゃさっぱり
763 :
人間七七四年:2011/12/12(月) 02:10:55.13 ID:L2JmkxU+
諱ってどういうときに使うの?
公式な書類のサインの時?
764 :
人間七七四年:2011/12/12(月) 12:31:26.97 ID:WhvTvc1Y
あとは誓詞や祈願書とかの神様にかかわる文章とか
765 :
人間七七四年:2011/12/12(月) 12:51:17.24 ID:NjpbSeSC
サインだけじゃなくて手紙の文面にも使われるよ
766 :
人間七七四年:2011/12/12(月) 16:14:25.25 ID:IGFJXMfy
>>765 この場合の手紙は、親と子の間で交わしたものだな。
767 :
人間七七四年:2011/12/14(水) 06:13:52.27 ID:2bFIwkKw
てことは、あんまり書類や手紙を書かない人だと諱が不明な武将とかいるのか
有名なのに諱は不明な武将とかいる?
768 :
人間七七四年:2011/12/14(水) 12:07:03.55 ID:RBpRrwUp
ぶった切りですみません
以前から武田信玄の後裔について調べているのですが、
どなたか信玄五男の仁科盛信の子(長男)とされる
「仁科信基」の実在に関する根拠資料について御存じありませんでしょうか?
ウィキペディアには、後に4100石の旗本になり現在も家系は続いている、
などと記載があるのですが、個人的に調べた限りでは、
史料上仁科信基が存在したというものが見当たりません。
「仁科」家という大身旗本の存在も確認できませんでした。
ttp://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/sub1-3.htm このサイトの武田氏の項目の一番下に同じ疑問が呈されています。
もし仁科信基の典拠を御存じの方がいらしたらご教示くださるとありがたく存じます。
769 :
人間七七四年:2011/12/14(水) 16:01:35.98 ID:yXh0I1Ks
仁科信基(秀基)の子孫が江戸幕府に、
信玄の直系子孫だということと、家系図に信基を書き加えることを申し出て認められ、仁科を名乗り旗本に加えられた。
幕府もいいかげんな証拠では旗本に加えたりはしないだろうし、大正時代に叙勲もされないだろう。
旗本になったのは「寛永諸家系図伝」が完成した後と考えられる。
・信基が家康と対面した時は偽名を使っていた。
・子孫が名のり出るまでは、信基直系は歴史上消えていた(記録がない)。
(素直に考えれば)ということじゃないだろうか。
770 :
人間七七四年:2011/12/14(水) 16:38:29.46 ID:RBpRrwUp
>>769 ご回答ありがとうございます。
ただ寛永諸家系図伝に記載がないだけなら、その理解でよいと思うのですが、
1812年完成の「寛政重修諸家譜」にも記載がないことの説明がつかないように思います。
(寛永諸家系図伝にも記載がないことは、ウィキペディアの「仁科盛信」にも記載されています。)
幕末も間近な1800年代以降に「仁科」と名乗りを変えたということがありうるでしょうか。
また自分が調べた限りでは、そもそも幕末時点でも「仁科」なる大身旗本がいたという史料が見当たりません。
こうなるとウィキペディアの「大正時代に叙勲」というのも何を根拠にしているのか…。
しかし、ウィキペディアの信基の記載は、「明治時代に大坂に移住」とまで書かれていて、
根拠もなくこんなことを書くだろうかとも思います。
ちなみに旧武田家家臣の子孫で作られている武田旧恩会の顧問を仁科盛信17世の方が務めていらっしゃいますが、
林姓なので、おそらく上総武田家を頼って落ち延びたとされる仁科信正の後裔だと思われます。
あと1812年成立の甲斐国史にも、仁科盛信の後裔については記載がありません。
実在が怪しいともいわれる、旗本でもなんでもない武田勝頼の三男勝三についても記載している甲斐国史が、
(仁科信基が実在するなら)4100石の大身旗本の系譜について記載しないとは考えがたいのですが…。
771 :
人間七七四年:2011/12/14(水) 16:49:56.27 ID:RBpRrwUp
すみません。
上の6行目(寛永諸家系図伝にも記載がないことは、ウィキペディアの「仁科盛信」にも記載されています。)
は (寛政重修諸家譜にも記載がないことは、ウィキペディアの「仁科盛信」にも記載されています。)
の誤記です。
申し訳ございませんでした。
772 :
人間七七四年:2011/12/14(水) 19:59:53.14 ID:yXh0I1Ks
>>770 少し調べてみたら
八王子史の武田宗家に関する記述では、
信玄の盲目の次男の一子(信正)と孫(信道)が、勝頼死去の後伊豆大島に流されたが、
家光13回忌の恩赦で江戸に戻ることができた。
その後、柳沢吉保(彼も武田の血筋)の口添えもあり、
信道の子・信興が500石・表高家として旗本に列せられた。
この家系が以後武田宗家として現在に至る〜とあった。
このことから考えると4100石は確かにあまりにも不自然だね。
信基のことは作られた歴史か・・??
773 :
人間七七四年:2011/12/14(水) 20:53:21.85 ID:RBpRrwUp
>>772 どうもありがとうございます。
武田一門関連の旗本では、寛政譜によると信玄の弟河窪信実の系統が、
信実の子信俊のとき1610石、後に加増されて最大5710石にまでなっている例もあるので、
信基の石高が高いことだけではなんとも言い難いところもあるのですが、
何の事跡もない仁科信基が、いきなり3100石というのは確かに不自然な気もします。
もっと言えば、信基の系譜はウィキペディアの記載以外ではそもそも事跡が全く分からないのが非常に疑問です。
「仁科信基」の名前自体は、吉川弘文館「戦国人名事典」の仁科盛信の欄に、
「子女に信基…がいるというが確認できない」と記載されているので、何かの史料に載ってはいるのだと思うのですが、
ウィキペディアの妙に詳しい仁科信基の経歴やら系図(「仁科氏」の項目に記載があります)は、
何を出典として書かれているのか、自分が調べた限りでは全くわかりません。
(過去の編集履歴には、信基の子孫は、「明治時代に子爵になり貴族院議員になった」という記載もありましたが、
調べたところ、「仁科」姓の貴族院議員は存在しませんでした。)
履歴を見てみると、仁科信基がらみの新情報は、どうも全部同じ人が編集しているようなので、
この人に聞ければ早いのかもしれませんが…。
スレ違いだったらすみません。
ずいぶん長いこと、疑問に思っていることなので、どなたか「仁科信基」の出典について
ささいなことでもご存知の方がいれば、教えてくださると助かります。
774 :
人間七七四年:2011/12/15(木) 12:52:26.84 ID:jSOTpVV9
慶長見聞書について説明できる人はいますでしょうか
三浦浄心の慶長見聞集、幕府編纂の慶長見聞録とは異なるもののようですが
775 :
人間七七四年:2011/12/15(木) 14:14:36.87 ID:QFgISP7F
>>772 >勝頼死去の後伊豆大島に流されたが
大久保長安事件に連座して流罪なんですね
776 :
人間七七四年:2011/12/17(土) 13:56:36.31 ID:D6DL9JV6
北畠と畠山
北にいる方が畠山って変じゃないですか?
777 :
人間七七四年:2011/12/17(土) 14:34:08.74 ID:ZY4I4UKa
浪岡北畠氏ならどの畠山より北にいますがなにか
778 :
人間七七四年:2011/12/17(土) 16:45:21.00 ID:2L5Ivl1A
上杉謙信の家臣に北条がいるけど、北条氏からの寝返りですか?
779 :
人間七七四年:2011/12/17(土) 17:03:45.89 ID:51M9sQB0
多分北条高広とかそのあたりのことだと思うけど
あれは「きたじょう」さんであって、「ほうじょう」さんではありません。
血筋的には、安芸の毛利氏と同族です。
経歴的には、北条(ほうじょう)氏に寝返ったり、上杉に帰ってきたりを繰り返してます。
780 :
人間七七四年:2011/12/17(土) 17:04:00.96 ID:ZY4I4UKa
先祖は大江毛利氏のきたじょうさんです。
781 :
人間七七四年:2011/12/17(土) 18:52:36.41 ID:MeZrXIOl
だから北条に属していたときは、
喜多条なんて変えさせられてたりする
まあ紛らわしいからな…
782 :
人間七七四年:2011/12/17(土) 19:50:10.90 ID:3DFjjHzu
伊勢さんが北条なんて名乗ったから、いけないんじゃないですかー
783 :
人間七七四年:2011/12/17(土) 20:05:00.48 ID:1R6QVEl0
先祖代々名乗ってきた苗字を先代から名乗り始めた方に遠慮させられたんだからなあw
784 :
人間七七四年:2011/12/17(土) 20:16:26.39 ID:51M9sQB0
まぁ、当時の人って、秀忠に書き間違えられて、黒金さんが「鉄」(くろがね)さんに変わったり、
自分の名字を諸角、両角、室住と気ままに署名したり、
あんまり漢字の正確さにこだわりがなかったようにも思えるけどね
785 :
人間七七四年:2011/12/17(土) 20:33:44.66 ID:3DFjjHzu
当て字を使ったら、いつの間にかそっちで通っていたってこと、よくあるしね
786 :
人間七七四年:2011/12/18(日) 13:26:12.97 ID:3rzzFW8W
水原さんの当て字は逆に分かりにくかったから元に戻ったんだろうか
787 :
人間七七四年:2011/12/19(月) 00:03:13.27 ID:dKBhxLhK
北条、中条
上杉に足りないのは南条さん、東条さん、西条さん
788 :
人間七七四年:2011/12/19(月) 00:45:50.30 ID:SFCW9r8C
>>787 みなみじょうさんもひがしじょうさんもにしじょうさんも全部いるぞ
789 :
人間七七四年:2011/12/19(月) 01:17:11.27 ID:xF8F0E9I
上条下条もいるから隙が無いな上杉家
790 :
人間七七四年:2011/12/19(月) 05:09:41.91 ID:dKBhxLhK
すげーな上杉
上と下までいるのかよ
791 :
人間七七四年:2011/12/19(月) 09:34:53.21 ID:LMmEXHUg
「上」と「条」で上条?
おめーをこれから「ジョジョ」って呼んでやるぜ!
792 :
人間七七四年:2011/12/20(火) 17:04:13.93 ID:IE0tZoem
上条(かみじょう)なら京の地名であるからおそらくいるはず。
793 :
人間七七四年:2011/12/20(火) 17:59:03.07 ID:TvgdCrGg
筑前国続風土記24巻の岩屋古城の項目を読んでいるのですが、
「岩屋賓満を取立なば名城たるべしと〜」や「賓満を居城とし、岩屋を端城とせり。」といった文章がでてきます
文脈から城のような気がするのですが、この「賓満」って何だかわかる方いませんか?
旧字体でフォントつぶれてて読みにくいので「賓」じゃないかもしれません
794 :
793:2011/12/20(火) 18:21:08.87 ID:TvgdCrGg
すいません、自己解決しました。宝満城でした
795 :
人間七七四年:2011/12/20(火) 18:28:30.22 ID:+lHyTqHA
796 :
793:2011/12/20(火) 18:43:31.72 ID:TvgdCrGg
>>795 地図ありがとうございます。宝満山=竈門山なんですね
風土記でも竈門山城の項目で宝満城について説明してたので疑問が解けました
797 :
人間七七四年:2011/12/20(火) 19:43:18.40 ID:Gwfr4y+x
戦国で凄い逸話持ってる最強っぽい軍てどこでしょう?
上杉軍と武田騎馬軍団が最強とか無敗とか言われるけど逸話が無いせいで凄さが分かりません
むしろ織田鉄砲隊が打ち破ったとか引き立て役
島津軍の鬼の引き口とか
戦国じゃないけどスパルタ兵の300人でペルシャ100万の軍勢と三日間戦い四日目でようやく全員死亡とか
そういう凄い逸話を持った軍て関ヶ原の島津軍以外でありますか?
798 :
人間七七四年:2011/12/20(火) 19:45:09.02 ID:B+ErHbqZ
まず「最強」とかいう変な価値観に疑いを持とう。
799 :
人間七七四年:2011/12/20(火) 19:56:21.38 ID:XaSiufI9
上条の城は上条城か
じょうじょうじょう
800 :
人間七七四年:2011/12/20(火) 19:56:51.33 ID:Gwfr4y+x
すいません、最強の定義とか、どこが最強かとかじゃなくて、最強っぽい
それぐらい凄い逸話を持っているという意味でお願いします
つまり
「おいおいどこの最強部隊だよ、そいつら人間か!?」
みたいな感想になるような事を挙げていって欲しかったです
801 :
人間七七四年:2011/12/20(火) 20:09:24.82 ID:gK8ZNiza
関八州古戦録とか活字で読めるから読んでみれば?
802 :
人間七七四年:2011/12/20(火) 20:18:21.21 ID:Z1lg78jb
>>800 たぶん実際の歴史とコミックや小説、映画との区別がついてないだろうから
コミックスレや時代小説スレで聞いたほうがいいと思うよ。
ここは、逸話、なんて想像や妄想についてはあまり誰も
知らないだろうから。
803 :
人間七七四年:2011/12/20(火) 20:37:30.70 ID:IE0tZoem
三国志などは史書でも敵の数が一桁か二桁多く記述されているのか
酷い軍勢を少数で倒したかのような記述がありますし、
あまり詳しくないですが戦国時代でもかなり数字が脚色されているような
合戦は探せばあるでしょうね。
804 :
人間七七四年:2011/12/20(火) 22:45:45.06 ID:2lhdLLq/
>>800 関ヶ原の時に徳川秀忠率いる3万の軍勢を手玉に取って決戦に間に合わないようにした真田昌幸とか、
大阪夏の陣で家康の本陣に突撃してビビらせた真田幸村とか、そういう話でしょ?
805 :
人間七七四年:2011/12/20(火) 23:02:50.76 ID:B+ErHbqZ
全部創作だな。
島津の退き口もただの潰走に過ぎない。全滅しなかったのは運が良かったというだけ。
創作だからこそかっこ良く見えるだけで、現実では全く大したことはない。
806 :
人間七七四年:2011/12/20(火) 23:12:28.68 ID:a2MpWj0Z
60近い松本備前が300人くらい討ち取った話とか。
807 :
人間七七四年:2011/12/20(火) 23:25:28.65 ID:2lhdLLq/
こういう逸話ってのは運も含めて結果が全てだからねぇ。
戦術なのか運なのかは問題ではないだろ。
808 :
人間七七四年:2011/12/20(火) 23:32:53.53 ID:IE0tZoem
質問内容は逸話の有無なので、
あえて言えば凄そうな逸話を紹介するのが模範的な解答であって、
蘊蓄としては面白いかもしれませんが史実では云々、逸話の信憑性云々は
この質問の解答としては少し検討違いかと。
逸話の例としてスパルタの話を出しているんですし。
809 :
人間七七四年:2011/12/21(水) 00:17:14.92 ID:7n5wYKxz
逸話レベルの最強を求めるなら戦国よりも太平記あたりを読むべきだな。
スーパー殺戮マシーンが何人も出てくる。
810 :
人間七七四年:2011/12/21(水) 00:34:26.20 ID:nPOVPZ8Y
そのスーパー殺戮マシーンから適当に二、三人見繕って書けば良いんじゃないかと思うが、
肝心の質問者があちこちマルチポストしたあげく姿を消したようだ。
811 :
人間七七四年:2011/12/21(水) 01:01:04.79 ID:1pb3PAl9
質問です。
戦国時代はまだ呪術の類を信じている人がいたと思うのですが、
大名が敵対する人物を呪殺するために僧侶や山伏を集めて
大規模な祈祷をさせるようなことはあったのでしょうか?
812 :
人間七七四年:2011/12/21(水) 01:28:08.51 ID:oWz44n2t
>>811 信玄がよくやってました。
戦争前に氏康・氏政の滅亡を祈願したり
813 :
人間七七四年:2011/12/21(水) 01:29:28.00 ID:7n5wYKxz
>>811 味方を鼓舞したり、敵への懲伏のための祈祷は一般的に行われていた。
上杉謙信には祈祷僧に対し「祈祷が足りない。こっちは命がけで戦っているのだからお前も寝ずに祈祷しろ!」
と叱責する書状が残ってる。
814 :
人間七七四年:2011/12/21(水) 06:35:19.16 ID:aC8T5Ia4
運がいい大名は誰だろう
815 :
人間七七四年:2011/12/21(水) 08:26:31.27 ID:FRhxTsgO
816 :
800:2011/12/21(水) 09:01:51.69 ID:1eD5GRVz
>>801~
>>810 レスありがとうございました
>>810 >肝心の質問者があちこちマルチポストしたあげく姿を消したようだ。
気を悪くさせたならすいません
ただ「その質問は○○へ行け」と書かれたりすぐついたレスが否定的なものだったので
場違いなのかと思って他の歴史関係のスレッドにも書きこんで質問しました
817 :
人間七七四年:2011/12/21(水) 15:21:09.39 ID:6DcMLV2V
>>811 レスにあるようにやってたんだが、それで相手が滅亡したりすると
僧が「祈祷料値上げしろ」「勝ったのは僧だ」「領地くれ」と言い出すかもしれないし
あくまで儀式的なもので、大規模、というと鎌倉の時のような
ことはなかったんじゃないかな。
818 :
人間七七四年:2011/12/21(水) 15:31:33.35 ID:FRhxTsgO
>>817 東大寺が大内義隆に強請りまくっていたような
819 :
人間七七四年:2011/12/21(水) 17:44:46.15 ID:1pb3PAl9
820 :
人間七七四年:2011/12/21(水) 19:22:37.65 ID:ej0LArfF
日本に最初に上陸した白人女性、黒人女性の記録はありますか?
821 :
人間七七四年:2011/12/21(水) 20:04:06.79 ID:Q/awfNtG
どこで聞けばいのかわからないのでこちらで質問します
とある映画の中で、戦国時代の最後の大戦、大阪夏の陣と大阪冬の陣での
豊臣家vs徳川家で、
「豊臣側に付く大名の中で真田家が一番豊臣家(秀頼や淀殿)を守る意思が固い」と
いうような印象を受けました
実際に真田丸や、真田家、その家臣達は大阪城(豊臣家)を守るために壮絶な死を遂げています
ここで質問ですが、それほどまでに真田は死ぬ覚悟で豊臣家に付いていく
ほどの忠誠を立てていた「史実」での主な理由は何でしょうか?
822 :
人間七七四年:2011/12/21(水) 20:16:58.99 ID:Usg3Tb9D
「豊臣側に付く大名の中で真田家が一番豊臣家(秀頼や淀殿)を守る意思が固い」
この部分が史実では確認できませんので、後に続くご質問もお答え出来ません。
823 :
人間七七四年:2011/12/21(水) 20:26:15.40 ID:Q/awfNtG
>>822 失礼しました
とある映画で、豊臣家滅亡後の大阪城を受け継いでいたのが何と真田家だったのです
これにより、
「豊臣側に付く大名の中で真田家が一番豊臣家(秀頼や淀殿)を守る意思が固い」
という考えに至りました
824 :
人間七七四年:2011/12/21(水) 20:30:06.38 ID:7n5wYKxz
>>823 その時点ですでにSFとしか言い様が無いと思います。
825 :
人間七七四年:2011/12/21(水) 20:31:58.23 ID:A50RNlJV
大坂の陣当時の真田家当主は真田信之な訳ですが・・・息子2人も徳川方で参戦してますし・・・
となれば、その映画はフィクションという事なのではないでしょうか?
826 :
人間七七四年:2011/12/21(水) 20:35:25.01 ID:mmSpBMdo
マジレスすると豊臣家にもっとも忠誠を尽くしていたのは真田の活躍に隠れてしまった
真の実力者、毛利勝永ではなかろうか
827 :
人間七七四年:2011/12/21(水) 20:38:44.13 ID:Of2UvCch
秀頼の乳兄弟の木村さんも忘れないで
828 :
人間七七四年:2011/12/21(水) 20:47:08.59 ID:c7nPyfOO
>>821 徳川本陣まで食い込んだこと、関が原での足止め、本能事後の抗争などなどで、徳川に抵抗して戦果を収めてるという逸話
忠義というのはむしろ後付
弱い忠義の士が壮絶な討ち死により、強い忠義の士が壮絶な討ち死にのほうがお話として悲壮感もあってもりあがる
と、いうながれで忠義っていう設定になってるんじゃなかろうか
まあ実際そういう忠義な話があるのかもしれないが、上みたいに考えても納得できるんじゃないか?
829 :
人間七七四年:2011/12/21(水) 20:59:33.28 ID:Usg3Tb9D
>>823 休戦期間中に信繁が大坂から義兄に宛てた手紙の中では
「思わぬことで戦になり大阪方に付きました。奇怪なことだと思われたでしょう」と書いている。
もちろん敵対することになり迷惑をかけている実家に遠慮しての言い回しではあるが
逆に言えば奇怪(おかしなこと)と書けるという事は、大阪方に味方するのが当然という理由や義理は、
姉の夫という身近なものでも知らない、もしくは無かったと推測することができる。
830 :
人間七七四年:2011/12/21(水) 21:06:13.07 ID:nPOVPZ8Y
>>821 タイトルをハッキリさせるべきだが、いずれにしても創作としか言いようが無い。
真田丸を作った真田幸村は史実では真田信繁であり、徳川についた兄、信之とは違って、
徳川の世には身の置き所の無い立場だった。豊臣とともに滅ぶしかなかった訳だ。
それは長宗我部盛親とか後藤又兵衛なども同じだが、真田程には有名でなかったので
映画の主人公にはなれなかったというだけの事。
>>816 スレ違い、板違いと言われるのはしょうがないね。史実を離れた話を所望したんだから。
それで俺が何処かに書いた宇梶剛士の話はどうなの?
831 :
人間七七四年:2011/12/21(水) 21:25:06.79 ID:6DcMLV2V
真田は一族を二つに分けて徳川豊臣どっちにもついて
どっちが勝っても家が残るようにしてた。
だから「忠誠」というよりは好戦的に「武功を狙った」というほうが
シンプルではあるだろう。
また、壮絶、覚悟、などやけに美化した表現が多いけど
戦いとは普通はそういうものだし数時間で負けてるから
そんなに言われてるほどたいしたことでもない。
撤退する時の言葉とかも妙にカッコよく捉えられてるけど
単に「負け惜しみ」というところ。
これは直江あたりにも言えることなんだけどね。
832 :
人間七七四年:2011/12/21(水) 21:57:38.51 ID:NwiS4Ema
兄貴に何でもいいから士官の口利きをしてくれとか、泣きついてなかったっけか >信繁
豊臣への忠節と言うよりは、もう他に行き場もないから最後っ屁って感じだと思うぞ
833 :
人間七七四年:2011/12/21(水) 22:01:38.94 ID:nPOVPZ8Y
>>832 あほか。仕官どころか高野山に軟禁されてんのに。
834 :
人間七七四年:2011/12/21(水) 23:19:15.65 ID:oWz44n2t
>>819 なぜそんな理解になるのか分からないけど、
調伏と呪詛は同じ意味だからね
835 :
人間七七四年:2011/12/21(水) 23:27:00.63 ID:1eD5GRVz
>>830 1対100で喧嘩したのはガチで凄いと思います、ありがとうございました
ちなみに板垣恵介の達人列伝という本だとスタミナの問題で達人でも30人
相手に勝つのがやっとらしいのでよほど相手が弱くない限り宇梶剛士の喧嘩術
は格闘技の達人のさらに上位に位置するのでしょう
バーリトゥードでもやっていたら有名選手になってたかもしれませんね
836 :
人間七七四年:2011/12/22(木) 00:12:21.10 ID:F5GcXW5c
>>835 バラエティ番組での話によると、向こうも数は多くても内心ビビってたんで、オリャーって行ったら蜘蛛の子を
散らすように逃げたらしいです。
837 :
人間七七四年:2011/12/22(木) 00:12:39.48 ID:jUyr65Cq
>>833 だから軟禁先から兄貴へのお手紙の中で
二人の間に交流があったことくらい知ってるでしょ
838 :
人間七七四年:2011/12/22(木) 00:20:26.12 ID:F5GcXW5c
>>837 だから本当なら仕官を頼む以前に軟禁から解放されるように頼む所だろ。
許しを乞う事もしないで仕官したいなんて虫の良い話が有るか!!
839 :
人間七七四年:2011/12/22(木) 00:22:28.09 ID:ASyxVd0S
>>834 正確に言うと調伏は悪人を改心させ仏法に帰依させる行為のことだから
呪詛の類とは違うし仏典でもそこは明確に区別されてる
時として相手を殺す場合もあるがそれは
悪人をこの現世では命を奪い来世で仏法に帰依させ救うという調伏の仕方に過ぎないし
これは『涅槃経』などの経典にも説かれている
一応、調伏とは違って本当に相手を苦しめるためだけの行為である呪詛もあるけど
これはあまり表だってやってたとは思えない
それなりに仏教への教養があったはずの上杉や武田が
そこを混同してたとはちょっと考え難い
840 :
人間七七四年:2011/12/22(木) 09:24:52.36 ID:ISwhaZPx
原義とは異なる意味で使われるようになる言葉って普通にあると思う
841 :
人間七七四年:2011/12/22(木) 10:54:51.74 ID:LfcX9W4R
信玄や謙信がお互いを「仏法に帰依させ救」いたいと願って調伏してたのか
ちょっと考えれば分かる話なのにw
842 :
人間七七四年:2011/12/22(木) 13:56:44.63 ID:Awg875Bh
843 :
人間七七四年:2011/12/22(木) 14:00:54.19 ID:HwiZYMdr
早い時期に嫡男が生まれて成長していたら(小田原で初陣飾れるくらいの年頃で)、
関ヶ原の戦いとそれに続く大坂の陣は無かったと考えていいんだろうか。
それとも、その後淀との間に生まれる秀頼との間で結局は似たような
経緯を辿ったんだろうか。
冬休みに帰省してきた厨房の従兄弟に聞かれて自分でも気になった。
秀吉の配下で日本全国レベルでの政治ビジョン持っているような人材がいれば、
戦いに至らせずに豊臣の治世を成立させられたのかな。
844 :
人間七七四年:2011/12/22(木) 14:21:51.70 ID:yFFNXlTl
そういう立ち位置だと、三成の名前が上がりそうだけど
三成の政治手腕でできたのかどうか…
845 :
人間七七四年:2011/12/22(木) 14:32:27.57 ID:wbCmUAoh
>>842 これだと石田でも良かったんじゃないか
というか寧ろ石田三成じゃないとおかしい
豊臣家では五大老、関ヶ原での西軍大将
知名度と武勇で真田を選んだとしか思えない
846 :
人間七七四年:2011/12/22(木) 14:34:31.51 ID:z74BLa2d
いっとくけどIFは答え出ないよ
847 :
人間七七四年:2011/12/22(木) 14:35:32.64 ID:wbCmUAoh
西軍大将は毛利輝元だった
848 :
人間七七四年:2011/12/22(木) 16:44:33.02 ID:ASyxVd0S
>>841 私はあいつが個人的に憎いわけではありません
正義のために悪いあいつを神仏の力で救って欲しいんです
後、私たちは正しいことをしているので悪い人たちに負けないようにしてください
という名目でしてもらうのが調伏の類
あいつが憎くて仕方がないんです
どうにかしてあいつを呪い殺したいんです滅亡させたいんです
という名目でしてもらうのが呪殺や呪詛の類
少なくとも調伏と呪詛では祀る本尊も違えば儀式内容も違うため
寺院側は明確に使い分ける必要があることだから
仮にそこら辺を知らないで大名が適当に依頼してても
寺院側は文脈から判断してどっちかをしてるはず
普通は世間体を気にするなら調伏の名目で依頼すると思うけど
公的に「呪詛」や「呪殺」の名目で寺院に依頼している人がいた可能性もあるから
そこら辺は否定しきれないけどね
自分が知る限り、多くの大名は調伏の名義だったと思うんだが
849 :
人間七七四年:2011/12/22(木) 16:52:14.99 ID:ASyxVd0S
そういう質問があったわけでないしスレの趣旨から外れるからもうしないけど
当時でも寺院や僧侶は意図的に使い分けていた言葉だから
調伏と呪詛が全く同じという認識は理解として間違いって話ね
当時の一般民衆や権力者がどれだけ意識していたか
もしくは知っていたかは全く別問題だけどね
少なくとも
>>819はわざわざ呪詛と調伏を使い分けて話しているし
そういう認識の上で話してたんだろうから間違いってわけではない
850 :
人間七七四年:2011/12/22(木) 18:40:55.22 ID:PfvOHCTh
秀吉の下には家康と言うすごいビジョンも能力もあったのがいて
これに豊臣政権をまかせたんだが
裏切られた時点でアウト。
秀吉や秀頼にポコポコ男子がいたら別の話だろうが
それがうまく家康から人質とって裏切れないように
しててどうかというとこかな。
まったくイフなんだけどね。
ちょっとは面白いか。
851 :
人間七七四年:2011/12/22(木) 22:48:09.93 ID:F5GcXW5c
>>843 嫡男つまり北政所の子ならば、いかに秀吉でも廃嫡出来ないので安泰の可能性が高い。
852 :
人間七七四年:2011/12/23(金) 17:37:10.05 ID:6aoiX+FV
家康がやってるなぁ・・
茶々との間に生まれた子は徳川に養子に出されたりして。
そうすると家康もまた作戦が難しくなったろうな。
853 :
人間七七四年:2011/12/23(金) 20:18:35.88 ID:5ck8nFSA
於次秀勝よろしく死んでもらえばいい
854 :
人間七七四年:2011/12/23(金) 21:22:15.68 ID:7PU6Y+ew
大老奉行制は幼君秀頼の下で豊臣政権が運営されるように秀吉がとった苦肉の策。
これが無ければ外様の大大名が政権に参与する事は無くなり、
二頭体制の勢力争いが発端となる内紛である関ヶ原は起こりようが無い。
家康は豊臣政権内での権力を巧妙に利用して味方を増やし、且つライバルを潰していった。
いくら大封を領しているとは言え、一大名家であっては同じようには出来ない。
少なくとも彼一代で豊臣家を潰すなんていう真似は到底無理だろう。
秀吉死後に大大名たちが徐々に中央政権から離れて独立していく可能性はあるけど。
寧ろ問題なのは取次である浅野・増田・石田の三人。
取次として大大名を下につけた彼らが増長する方が危険。
855 :
人間七七四年:2011/12/24(土) 23:44:18.46 ID:sFZQER3V
戦国大名のほとんどは天下統一を目指していなかったそうですが
統一を目論んでいた大名は信長以外、具体的に何家が挙げられるでしょうか?
856 :
人間七七四年:2011/12/25(日) 02:06:52.51 ID:/2jv068B
足利将軍家
857 :
人間七七四年:2011/12/25(日) 14:29:06.75 ID:E6Ei/OEs
家康様。
明日誕生日だ。
858 :
人間七七四年:2011/12/25(日) 19:14:32.39 ID:8kvaR82B
戦国時代で和歌や漢詩の名手として知られていた武将はいるでしょうか?
859 :
人間七七四年:2011/12/25(日) 20:56:21.42 ID:SMAAy7mw
畿内以外の大名で天下を意識していたのは、信長以外だと武田信玄、上杉謙信、尼子経久などがそうだったと
考えられる。
860 :
人間七七四年:2011/12/25(日) 21:37:31.35 ID:g2K58TyL
南光坊天海
861 :
人間七七四年:2011/12/25(日) 22:34:28.23 ID:QwR5gIKc
862 :
人間七七四年:2011/12/26(月) 14:28:46.19 ID:6ySSGuLW
>>858 まず思いつくのは織田信秀。
名古屋城を奪取するにあたり、名古屋城主の今川氏豊と「歌」による文通を続け、
ついに氏豊からの招待を受けた時に屈強の配下を伴い入城し、即効で城を奪った。
863 :
人間七七四年:2011/12/26(月) 14:48:28.30 ID:LdVEqifJ
>>862 名手じゃなくて「好き」のレベルだろ信秀は。
歌の名手で武将といえばまず東常縁だ。
864 :
人間七七四年:2011/12/26(月) 16:29:53.15 ID:6ySSGuLW
東常縁が戦国武将か・・・うーん・・・・
865 :
人間七七四年:2011/12/26(月) 16:34:51.57 ID:6ySSGuLW
いや、すまん。
俺は「戦国時代は明応の政変から説」を支持しているから、時代が違うと思ってね。
866 :
人間七七四年:2011/12/26(月) 19:06:22.42 ID:9YtJ2Df8
具体的に歌や詩をはってくれるとうれしいが。
867 :
人間七七四年:2011/12/26(月) 19:10:08.30 ID:wWA4Qwth
868 :
人間七七四年:2011/12/26(月) 21:11:35.30 ID:/5Ln4VyZ
佐川田昌俊、小堀政一
869 :
人間七七四年:2011/12/26(月) 21:17:56.44 ID:NlUFjt6t
>>858 漢詩というと直江兼続なんかも戦国武将のなかでは有名かな。
三好長慶などにしてもそうだけど、基本的に当時の武将はこういったスキルは
かなり高い
870 :
人間七七四年:2011/12/26(月) 21:18:07.78 ID:9AaqD6BF
>>865 俺も基本的には明応の政変論者だが、関東に関しては享徳の乱まで遡るのはありかと。
戦国時代の始期を応仁の乱から明応の政変に繰り下げたのは室町幕府中央の権威が存在していたから。
一方、関東は室町幕府の直接統制下になく鎌倉府の下にあった訳だが、中央の明応の政変に相当するのが関東管領上杉憲忠暗殺だと思う。
871 :
人間七七四年:2011/12/26(月) 22:00:37.09 ID:IMacZv3A
戦国時代は織田信長が元服してから豊臣家が滅びるまでです(キリッ)
872 :
人間七七四年:2011/12/26(月) 23:13:33.53 ID:9YtJ2Df8
>>870 そういうのよく聞くね。
関東の学者は享徳に始まりを持っていって
西より先に戦国に突入した、進んでたみたいな。
武士の起源とかもそうだけど微妙に東西で学説とか
解釈が分かれてたりするのは根拠がわかったりするから面白い。
最近は東国の戦国大名の本がよく出てるけどなんか
ちと拡大解釈してるような感じはするんだ。
そんなに歴史の中心にいたり動かしてたわけでもないだろうにね。
873 :
人間七七四年:2011/12/26(月) 23:24:17.40 ID:LdVEqifJ
>>872 > 西より先に戦国に突入した、進んでたみたいな。
アホか。そんな解釈してるお前の方に関東コンプレックスしか感じないわ。
874 :
人間七七四年:2011/12/27(火) 00:19:51.80 ID:tYipOkiR
制度面が進んでいたというのは定説ではあるが
比較対象の西国大名が未だに研究不足でようわからん
875 :
人間七七四年:2011/12/27(火) 09:44:52.25 ID:cNhEIrvT
文明8年の長尾景春の乱からが
関東戦国時代の開幕だろう。
これで関東は修正不能の完全なカオスになった。
876 :
人間七七四年:2011/12/27(火) 13:05:00.39 ID:O1/dARaZ
でも室町政権って建部の新政が始まったと同時に南北朝の騒乱が起き
完全な南北統一が終わる前に享徳の乱が発生しているんだよね
初めから混乱状態にあって、戦国時代も延長戦でしかない気もするのだが
877 :
人間七七四年:2011/12/27(火) 13:48:51.54 ID:GOmLx8fm
878 :
人間七七四年:2011/12/27(火) 13:49:05.70 ID:mhunsbe2
義満が奥羽を鎌倉府統治にしちゃう妥協っぷりが
関東の戦国への導火線になってるからね。
それで東日本が鎌倉府のもんだから自分勝手にやらせてもらうわ!
なんて鎌倉公方が思ってたし、義持もそれでいいやって放任。
そこにくじ引き将軍義教が全国は俺のもんじゃ〜とばかりに強圧的。
そんで鎌倉府を潰して、俺の子を鎌倉公方にするべw
そこで結城の乱が起きて、その戦勝祝勝の鴨の子を眺めて楽しむ会で
義教が殺され、越後上杉や利根川以東のやつらが
鎌倉公方を復興してくれー。じゃあ復興させっか!となったら成氏暴発だもんなw
そこに景春が山内上杉の勢力の半分近く引き連れて謀反し成氏と共闘し
その後のドンパチで早雲・為景・信虎が暴れ出すとか花火と燃料をあげすぎw
879 :
人間七七四年:2011/12/27(火) 14:26:17.84 ID:sF1ufOOW
>>859 遅レスだが当時の天下=畿内ってことだと思うのだが。
880 :
人間七七四年:2011/12/27(火) 14:58:07.89 ID:2S9o3xOV
>>873 別に自分の解釈じゃなくて普通の本に書いてあると思うが。
自分は877じゃないが少し極論っぽいが
戦国の定義によるとは思ってる。
それと東西で解釈が全然違うのは今後
大河で話題になるから面白いとは思うけどね。
881 :
人間七七四年:2011/12/27(火) 19:11:39.90 ID:ZKo+/957
享徳の乱を提唱した峰岸純夫とその弟子たちの本には、
「関東の戦国時代突入は、西より先」とは確かに書いてあるが
「進んでる」などと妄言はどこにも書いてはいないだろうな
882 :
人間七七四年:2011/12/27(火) 23:21:22.19 ID:2S9o3xOV
883 :
人間七七四年:2011/12/27(火) 23:50:20.58 ID:9T7Nw7hg
>>882 時間的に先を、進歩的意味合いで「進んでいる」ととるのは違うと思うが
884 :
人間七七四年:2011/12/27(火) 23:59:53.78 ID:ZKo+/957
885 :
人間七七四年:2011/12/28(水) 00:06:54.79 ID:zk9j6BGl
>>882 お前日本人じゃないだろ
子供でもそんな解釈しない
886 :
人間七七四年:2011/12/28(水) 00:51:23.91 ID:5jxEWvsw
この場合一番間違ってるのは
>>882の歴史観だな。
一般常識から勉強しなおしたほうがいい。
887 :
881:2011/12/28(水) 01:01:37.41 ID:qFyiZKB8
888 :
人間七七四年:2011/12/28(水) 08:43:31.27 ID:ax4lKcLn
西国住人がプライドを傷つけられ、
怒って噛みついてるだけの話だな。
889 :
人間七七四年:2011/12/28(水) 10:55:46.00 ID:ytd0werF
東国国家論・権門体制論のような学閥絡みの論争中は
東西どちらががどれだけ優越してるかなんて話題は頻発してた
890 :
人間七七四年:2011/12/28(水) 11:47:10.20 ID:S1d0v7sy
2chで東西対決に持っていこうとする奴は高確率でチョン
891 :
人間七七四年:2011/12/28(水) 12:56:04.40 ID:suNE31ye
言い出しの872は、進んでた、というだけで「進歩的意味合い」
なんてどこにも書いてないんだけどね。
873や883がそういう解釈をすることこそ
コンプレックスだと思うのだけど。
自分は尾張出身だしどっちでもいいから
889のようなおっさんだが。
ところで権門という言葉自体が関東に多く見られる気がする。
なにかこう、朝廷とか将軍に対抗したいようなとこがあるというか。
892 :
人間七七四年:2011/12/28(水) 16:39:28.63 ID:1gMNYxkk
現在は関東中心だけど
やっぱり当時は畿内が日本の中心でなにかと先行していたんじゃねえの?
893 :
人間七七四年:2011/12/28(水) 17:12:10.09 ID:5jxEWvsw
2ちゃんで自分語りを始める奴は100%信用出来ない
894 :
人間七七四年:2011/12/28(水) 21:31:53.99 ID:qFyiZKB8
問題は、「ある本・学者が○○と言ってる」のが事実か否か、それだけだ。
嘘や間違いを書けば、そりゃ叩かれる。
質問スレなんだから。
ましてや、「西国住人がプライドを傷つけられ」だの、
「そういう解釈をすることこそコンプレックス」だの、
素人のエセ心理学で深読みするのは、全くの無内容としか言いようがない。
事実だけ書けばいい。
895 :
人間七七四年:2011/12/28(水) 21:42:52.94 ID:suNE31ye
事実をどう解釈するかで、享徳とか応仁、明応と
いろんな説がある、というのが基本だと思うが。
事実かどうかの質問じゃなく、どう解釈するか、という
質問にはいろんな説を紹介するのが普通だろう。
おかしなチャチャが入ってあれなんだが
873みたいなレスが一番困ると言うことだな。
896 :
人間七七四年:2011/12/29(木) 00:47:36.70 ID:51ZYrfic
あとはお国自慢板でやってもらうとして、
次の方どうぞ
897 :
人間七七四年:2011/12/29(木) 00:51:49.33 ID:3Lny+CX4
898 :
人間七七四年:2011/12/29(木) 15:16:41.74 ID:ex5iZjOT
福屋宛光秀書状の年代比定は天正九か十年かどっち?
899 :
人間七七四年:2011/12/29(木) 17:45:05.41 ID:bTwHSLVc
>>875 長尾景春の乱自体が享徳の乱の「起承転結」の転じゃないか。
900 :
人間七七四年:2011/12/30(金) 17:28:42.76 ID:QkeIm9d2
901 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 11:56:10.40 ID:hrBLKNkr
戦国時代と言われるまでに争い事が日本中で巻き起こった理由を教えてください。
902 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 12:22:39.97 ID:WGenGiM4
義教が殺されて
幕府も鎌倉府も大空位時代を経て、
双方に幼君が擁立されて、
完全に権力が管領らに移ったから。
903 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 12:35:58.00 ID:OW60Be7N
>>901 生産力の向上により農民層の力が強まり相対的に支配層の力が弱まったからというのが通説
904 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 13:40:38.01 ID:7Dmr82ek
>>903 それ司馬遼太郎時代の通説だろ
最近じゃ小氷河期や災害時代説が解明されて
食料不足や秩序崩壊による混乱から各地で戦乱が起き、
(一昔前までは2毛作などは生産力の向上をあらわしているとされていたが、
近年では生産力減少を補うために開発されたやり方だというのが定説化されてる)
各地の地方大名達がそれぞれの地域を統合して地域秩序を形成していき、
やがてそれら地方大名達が形成していた地域秩序の上に乗っかる形で
豊臣政権が惣無事による日本統一を達成したというのが
現在の定説のはず
905 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 14:33:54.81 ID:jBIi9Wvg
>>904 最近小氷期説言ってる人いないでしょw
気候要因説で言えば、中世温暖期説の方が主流だよ
906 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 14:35:32.53 ID:tddURZHR
>近年では生産力減少を補うために開発されたやり方だというのが定説化
これ 詳しくわかる資料はありませんか?
つか二毛作成立は9-10世紀に遡るから小氷河期と一致しませんよね
そこらの解釈が知りたいので……
907 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 15:08:35.49 ID:BNFbhdyD
定説って総意と同じぐらい怪しい
908 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 15:49:11.20 ID:aEVH4OsC
氷河期を疑われるのは足利義持時代の異常な低気温と長雨。
これで大量の餓死が生じたが、これも商人による人災であり
商人・高利貸しが価格高騰に操作して被害拡大したものだとされている。
この日本弱体化が朝鮮軍による対馬攻撃を呼び込む。
基本的に人災によって餓死が起きるのであり
生産力自体がどんなに飢饉でも領民を喰わせるだけの地力はある。
現在の1億2500万人は無理だが。
あと西洋で起きた大噴火の火山灰が大気に舞ったから
天候悪化し小氷河期になったとする説もあるね。
ただ飢饉や餓死ってのは圧倒的に東国に多い。
一般的に東国の長雨と西国の旱魃が恐れられている気象だったが
西国では溜め池により解決できた反面で、
東国の特に標高が高い地での長雨ってのは冷害、
平野部では大洪水を発生させるため致命的。
基本的に畿内以西では司馬の説は正しいように思えるが
東国では信玄の土木河川工事に代表されるような
統一権力による治水が要求されたように思える。
堯舜禹の治水伝説なんてのもわかる話。
909 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 16:35:02.08 ID:hrBLKNkr
>>902 権力が管領らに移ったからというのが戦国時代幕開けとなる切欠になったですね。
強大な存在が無くなり、権力が管領らに分散されたため、権力者同士が争うようになっていったとう感じでしょうか。
>>903 農業生産力の向上により、支配構造にも変化が生じたのですね。
当時の支配構造を想像するのに必要な知識がまだ当方乏しいものでして、
支配層の何の力が弱まり農民層の何の力が強まったのか、何か例がありましたら教えてください。
>>904-907 小氷河期/温暖化期説などもあるんですね。戦国時代となった要因に気候も関与してるなんて面白いです。
小氷河期説では、食料を求めて民衆が争ったという見解なのですね。
温暖化期説を採る場合は、どのような見解になるのでしょうか?豊作だと争いは起きなさそうですが、
温暖化すぎて作物不足だったのでしょうか?
>>908 金融市場の政策の失敗なども争いの種を生んだ原因の1つなのですね。
さらには自然災害もあったりなど、戦国時代は様々な要因が折りに折り重なってたんですね…。
勉強になります。
910 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 16:55:07.88 ID:OW60Be7N
>>909 温暖化で生産力が上がる→土地を持つ農民の力が強くなる
↓
人員(軍事力)と年貢(税収)の根源である強くなった農民層(惣村)を
直接支配する国人層の力が強まる
↓
上に乗っかってるだけの幕府や守護の言うことなんか聞いてらんねー
俺らの方が力が強いんだから上に立ってやる
↓
全国的な下克上の時代
教科書的な戦国時代説明はこんな感じ
911 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 17:04:55.64 ID:aEVH4OsC
支配構造にも変化ってのはやはり
畿内における惣村一揆や一向一揆のように
民間レベルで力を蓄えて、守護層の命令に対して
抵抗するようになったことが挙げられる。
これは農業技術の向上により
石高の飛躍的向上があったと考えられる。
それと共に渇水時の河川の水止め争いが近江などで頻発し、
その解決策を幕府が出すが、現状を把握してるわけでなく現地では無視される。
それを話し合いにより、円満解決した浅井などが
六角や京極ら守護権力に抵抗する惣村コミュニティーを形成する。
これは一向宗も同じで守護に対抗するために組織されたもの。
村単位での自主独立に近い感じ。
摂津や和泉などは逆に商業都市による自治に進化。
その一方で西国は将軍や大内へ意見・抵抗するための
国人一揆という古い体質が毛利手動で生きながらえているのは
大内氏などが彼らに弱腰で帰属してもらいたい側ゆえ
緩やかで、温暖な気候ゆえにぬるかったのだろう。
この大国に対抗するべく組織された国人一揆は南関東でも存在していたが、
いち早く戦国に突入していた関東ではさっさと解体されている。
912 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 17:44:55.48 ID:kM6X99Yn
>>900 愛宕の直後、というのは?
何かその証明はできてましたっけ。
913 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 18:38:29.09 ID:kM6X99Yn
連で悪い。
宇宙物理の最新ぽい説でガンマ線とかそういう宇宙線が
具体的に全地球的に影響を及ぼしたというのがかなりの短い
スパンでわかってきてて数年のうちにも細かい気温みたいなのが
説明できるのかもしれないのだよね。
異常気象みたいなのはそんなに突発で大被害をもたらしたわけで
もなくすべての原因を気象や飢饉に持っていくのは少し違う
解釈になっていくのかもしれない。
914 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 20:55:42.85 ID:hrBLKNkr
>>910-911 こういう経緯だったのですね。
とても分かりやすかったです。ありがとうございました。
915 :
人間七七四年:2011/12/31(土) 21:36:24.94 ID:E98n4YHv
農業先進国の畿内の民力と
商業先進国の畿内の商力が、
自治権獲得の動きを示した。
地方では守護代が国人たちと組んで、
在京する守護への納税をチョロまかした。
管領家や将軍家の後継を巡って徒党、派閥化し闘争。
すると自派に付くなら守護代でも国人でも誰でも身分を引き上げる約束を乱発。
守護代を守護にしてやるなどと言い出して、
斯波の被官だった守護代の織田や朝倉らの立場が強化されていく。
916 :
人間七七四年:2012/01/01(日) 15:46:14.43 ID:W2OMtoZJ
>>912 手紙は現存しているし、日付は5月28日になっている。
愛宕百韻は24日だから直後だろ。
信長の命で秀吉に合力することと
その後でそちら方面に行くから、なにかおいしいものをよろしく・・・
こんな内容。
917 :
人間七七四年:2012/01/01(日) 16:13:13.69 ID:RemgNBFE
>>916 現存してないだろ
写しだろ残ってるの
だから「自」と「尉」のくずし字を誤写したんじゃないかって説がでてきたんだし
まあ個人的には天正十年だと思うけど
天正九年じゃ織田・毛利の状況に合致してないし
918 :
人間七七四年:2012/01/02(月) 08:27:30.39 ID:NCBGxDXr
>>917 藤田が九年説だっけ。
「証言〜」に載ってるのかな、それ、見てみないといかんな。
愛宕百韻も今は7〜28日ぐらいが一般的な説じゃないのかね。
だから降りてきてすぐに行動したみたいな。
これも実はよくわからないんだけどな。
919 :
人間七七四年:2012/01/02(月) 15:44:16.40 ID:feNYyGQd
守護代から大名になったのは織田、朝倉、長尾あたりが有名どころか
逆に守護が領国に帰って大名になったケースも多いのかな? 今川とか畠山がそんなん?
920 :
人間七七四年:2012/01/02(月) 16:56:39.14 ID:78FsLkHH
武田や小笠原なんてそうじゃないかな。
921 :
人間七七四年:2012/01/03(火) 10:50:14.04 ID:9QeJ8QKe
>>905 つーか最近では海底地層学からの時代別温度の調査が行われ、
中世は偉く寒い時代だったって事が判明した事が小氷河期説の論拠だろ
922 :
人間七七四年:2012/01/03(火) 13:14:32.75 ID:HQF+G/g0
>>921 海底累積物コアから中世の小氷期が確認された、なんて話は聞いたことがないけど……
つか小氷期(LIA)てのは「期間中の気温低下が1℃未満に留まる、北半球における弱冷期」(IPCC)
って定義されてるわけで、東京(年平均15.6℃)と新潟(13.2℃)の差ほどもなかったりする
現在、中世小氷期は局地的気候変化の範囲内、って判断されてると思うよ
923 :
人間七七四年:2012/01/04(水) 08:28:36.24 ID:ywUyqCw3
昨日テレビでやった映画にんたま、のシリアスな戦場シーンで大筒の砲弾が草むらで
バウンドして射程外まで届き、草むらに水を流し込み沼地にしてバウンドを防ぐ
っていうシーンがあったけど鉄の砲弾って草むらでバウンドするんですか?
子供向けギャグ漫画でも一応は真面目な合戦場面での事なので質問しました。
924 :
人間七七四年:2012/01/04(水) 09:37:20.03 ID:FznhNkcF
925 :
人間七七四年:2012/01/08(日) 00:00:16.81 ID:mgCYJcG2
信長の鉄砲に対向する為に、防弾チョッキみたいなものは着なかったの?
926 :
人間七七四年:2012/01/08(日) 00:04:19.92 ID:LRLmi7QB
鎧を着てますがな
927 :
人間七七四年:2012/01/08(日) 13:23:32.56 ID:lDaZ0YDe
南蛮胴具足で一応は防御可能だけど、
西洋も東洋も同じく、銃器の発達と共に鎧は廃れていく運命なのさ
928 :
人間七七四年:2012/01/08(日) 17:47:44.21 ID:wc1iV5yB
まあ、日本人は特に防御軽視する傾向が強いからな
欧州では鎧が廃れる代わりに工兵や重火器が発達していくわけだが
929 :
人間七七四年:2012/01/08(日) 21:01:18.66 ID:W/13sAdu
日本には竹束という軽くて防弾性に優れたチート防具があったから
930 :
人間七七四年:2012/01/08(日) 21:08:41.88 ID:GJSROX7Y
草履や他の部分に使うような紐の寿命はどのくらいだったのでしょうか?
931 :
人間七七四年:2012/01/09(月) 00:27:16.61 ID:ASeFSQgs
藁と木綿や綿の紐とはまたぜんぜん違う。
草鞋なんかは基本使い捨てで、武士だとひとつの合戦で履きつぶす感じ。
932 :
人間七七四年:2012/01/09(月) 15:30:10.56 ID:rMrhsbUm
>>930 鼻緒が切れたら手ぬぐいを切って紐の代わりにして応急処置してた
って戦前生まれのじっちゃが言ってた
933 :
人間七七四年:2012/01/10(火) 17:30:22.73 ID:5A/E64Ij
戦国時代の兜で、側頭部に飾りが付いてる物がありますが、
どのように付けてるの。 接着材?
934 :
人間七七四年:2012/01/10(火) 17:39:01.56 ID:k1jYGRTe
935 :
人間七七四年:2012/01/10(火) 17:41:38.48 ID:1cggC8JG
持ち運びの時は取り外せるんだよな、あれ
936 :
人間七七四年:2012/01/10(火) 17:47:32.13 ID:k1jYGRTe
937 :
人間七七四年:2012/01/10(火) 18:28:52.01 ID:FeJOvQMB
938 :
人間七七四年:2012/01/11(水) 08:26:19.06 ID:dGtlP9Py
戦国時代の都市を見るとあまり周辺を城壁で囲っているようなものがありませんが、
何か地理的な理由があったのでしょうか?
939 :
人間七七四年:2012/01/11(水) 10:09:36.26 ID:imi153d0
蘆名盛興が伊達輝宗に次男の蘆名家への養子要請してた書状見つかった
らしいですね。
940 :
人間七七四年:2012/01/11(水) 10:43:48.36 ID:5l+Vj7je
>>938 城壁都市は国家間、民族間での戦争が頻発する地域でより発達するものであり
異民族による根こそぎ略奪や、他国家による総奴隷化を防ぐもので
日本も統一国家の出来る前は城壁都市の原型である環濠集落が基本であったが
その後の日本の戦争はほとんどが内戦であり、極端に言えばやくざの縄張り争いに近い物で
新しいシノギを壊滅させる馬鹿は居ないので、一時的な略奪暴行を回避できる規模の
城や寺や山などの避難所があれば城壁都市を築かなくとも事足りた訳だ
それを踏まえて質問の戦国時代は末期になると内乱から踏み出し国家乱立の体をなし
さらに城下町が発達し守るものが増えると、総構えという、簡易城壁都市が出てくるが
すぐに戦乱が終わり城壁都市まで発達する必要性がなく終わった。
2次的な要因として地震が多い、高温多湿なため城壁で囲ったら蒸し風呂になる等もある
941 :
人間七七四年:2012/01/11(水) 13:04:51.44 ID:0oeaCwWv
942 :
人間七七四年:2012/01/11(水) 16:24:44.63 ID:a1Fv7SHC
>>938 惣構えというのは土塁と堀で囲まれた城壁都市と解釈してもらっていい。
943 :
人間七七四年:2012/01/11(水) 16:35:00.85 ID:i+p19M1p
戦国時代の鎧って、どれくらいの強度があったんだろう
944 :
人間七七四年:2012/01/11(水) 17:32:58.89 ID:npDQ3DqI
>>922 違う違う
近年における海水準曲線の変動推移調査によると
気候の温暖化における海水面上昇は1110年頃に最高潮を向かえ
これ以降の年代から海水面は急速な衰退期に入っており、寒冷期の始まりが示されており
やがれそれは戦国時代となる15、16世紀でバリア海退とよばれる海水面減退の頂点を迎えており、
戦国時代が寒冷時代であった事を示している
そして、16世紀末から海水面は再び上昇に転じていき、小氷河期は終わりを告げる、というのが
海水準曲線から見た日本戦国時代の気候的背景であって
これを見る限り日本戦国時代は寒冷時代の極点を背景としていた事がうかがわれるぞ
945 :
人間七七四年:2012/01/11(水) 18:26:55.65 ID:n7higtCE
>>944 パリア海退って鎌倉末期(14世紀)じゃない?
海水準曲線変動から見れば戦国時代(16世紀)は海進してる
だから戦国寒冷期の反証にしかなってないと思うのだけど……
946 :
人間七七四年:2012/01/11(水) 18:33:28.13 ID:npDQ3DqI
>>945 なんで?
バリア海退と戦国時代日本気候の関係は普通に山本氏とフォアブリッジ氏に基づいてるが
君のは何が論拠?
てか、こっちも16世紀末、つまり戦国時代終焉期には上昇してると書いてる
君のいってる事は正直、相手のいったことから抜き出して自分に都合よく反証とさせてるだけにみえるけど?
とりあえず論拠頂戴
947 :
人間七七四年:2012/01/11(水) 19:08:43.13 ID:n7higtCE
>>946 >戦国時代が寒冷時代であった事を示している
山本武夫先生、こんなこと言ってったっけ???
根拠も何も、戦国時代まっただ中(16世紀中旬)には海進おきてるじゃん
「これを見る限り日本戦国時代は寒冷時代の極点を背景としていた」
…なら、この海進の原因は何??
つか16世紀末から北半球の寒冷化が始まり、17世紀にはアルプスの氷河成長が問題になったのに
あなたの説(16世紀が寒冷時代の極点)によれば、暖かい時期はどこにあるの??
948 :
人間七七四年:2012/01/11(水) 23:12:06.71 ID:UNKBaRjn
つーか、どの中世寒冷期説も微妙なんだよな
樹の年輪を分析しても、文書から見た異常気象の分析でも、
どの時代が最も寒かったかとか、研究によって食い違う
949 :
人間七七四年:2012/01/12(木) 00:12:55.55 ID:YRGr66DA
記録の多い戦国後期からは温暖化はだいたい一致してるが
どこが谷かはまだ確定はしていない
冷害の記録も暖かいことが原因の長雨だったりとかな
950 :
人間七七四年:2012/01/12(木) 01:31:19.64 ID:sNnW6cTh
…
>>944、946は”パ”リア海退じゃなく”バ”リア海退?の話をしてるな……
951 :
人間七七四年:2012/01/12(木) 15:08:21.77 ID:Q0JlhDl9
952 :
人間七七四年:2012/01/15(日) 00:39:11.81 ID:jhjNW+yM
戦国時代の東北と中世ヨーロッパってどちらの血縁関係がより複雑なの?
あと戦国と少しずれてるけど江戸時代の農民が閑農期に微分積分で遊んでたってのは本当なの?
たまに2chで聞くけどどうも信用できない
953 :
人間七七四年:2012/01/15(日) 00:47:11.55 ID:/GzKCLv8
954 :
人間七七四年:2012/01/15(日) 04:11:48.32 ID:PnXnnzPl
>>952 2ちゃんで聞いて信用出来ないことを2ちゃんで尋ねるって馬鹿かお前は
955 :
人間七七四年:2012/01/15(日) 09:06:56.05 ID:Z3q2/nh7
>>952 そういう農民さんがいたのは記録にあるけど
「みんなが」というわけではない。
微分積分というかパズルの解き方ってことで
自分で努力工夫したと言う話があるということね。
それと江戸時代の数学ー和算自体はかなり進んでいたのは事実。
だから寺子屋なんかで先生が「これはとけるかな」みたいなのは
やてたろうし、中には賢いのが自力で解いちゃったかもしれない。
そういうのは田畑の面積、年貢の歩合、と実用にもなったから
今のわしらよりよほど実用的であった、ということね。
このぐらいでいいかな。
956 :
人間七七四年:2012/01/15(日) 09:26:40.29 ID:jhjNW+yM
>>954 同じ2chでもvipとかνで聞いた話だからさ
>>955 ありがとう
おらが村の秀才ならまだしも、殆どの農民がかなりの数学できたんだぜ!的な書き方が信用できなかったんだ
957 :
人間七七四年:2012/01/15(日) 10:28:14.54 ID:L4NFrw4P
義務教育が敷かれてる現代ですら微積分できない人が大勢いる事を考えれば分かるかと
958 :
人間七七四年:2012/01/15(日) 19:46:43.37 ID:OUNrAj+H
今は室内で仕事してる人が多いけど昔は
山や海で働いてたから逆に数学と言うか
天文気象力学算数みたいなのは体で覚えた
必需ルールでもあってそれはある意味今以上って
言い方もできるかも知れないんだよね。
田畑の水運なんてのは村の運命にも関わるし
段々畑だと台形立方体の体積分割とかそういうのも
関係してくるかもしれない。
おらが村の秀才の尊敬のされ方は尋常じゃなかったろうなぁ。
959 :
人間七七四年:2012/01/15(日) 21:52:31.68 ID:tIPswftl
>>958 だが、基本的に和算はパズル以上のものでは無い。和算が出来ても同好の士以外には尊敬もされない。
実用って言ってもせいぜい鶴亀算みたいのくらいだろう。
960 :
人間七七四年:2012/01/15(日) 23:35:44.64 ID:79GQvJVc
暦とか和算で作られているんだけどなー
961 :
人間七七四年:2012/01/16(月) 00:10:13.02 ID:vJMlLGjE
暦は一般人が勝手に作っていい物じゃないだろ。
962 :
人間七七四年:2012/01/16(月) 12:08:54.52 ID:CbQsCTY0
958だけど、タネをいつまくかとか実用的なものは
必要でしょう。だから暦でなく気象天文にしたのだけど
そういう私暦みたいなのは計算はされてたとは思うよ。
963 :
人間七七四年:2012/01/16(月) 13:10:00.92 ID:C//vCHAb
和算は実用的なものだよ
年貢の換算や検地、堤防や水路などの土木計算、揚水装置の設計、天文や地図作成の測量など
色々な面で使用されていた
むしろ数学の研究が本格化したのは維新後に西洋数学が入って来てから
964 :
人間七七四年:2012/01/16(月) 13:13:57.33 ID:ELgndS79
私暦=myカレンダー みたいなもの??
自分の予定表作るのにExcelのマクロ計算使います、って言ってるくらい無理が……
965 :
人間七七四年:2012/01/16(月) 16:39:30.94 ID:CbQsCTY0
>>964 田んぼといっても日当たりは違うわ
場所、地域、地方によって違うし
同じ品種でも収穫手法が当然違ってくるでしょう。
だから村総出で順番に稲刈りする時でも
「もう3日あと」とか経験則で数えて判断してたということね。
早いと少なくなるし遅いと台風が来るかもしれん。
公式の暦とは別に実用段階でのマイ暦を作ってたろうな
ということで、別に無理とかそういう問題じゃないのだけどね。
966 :
人間七七四年:2012/01/16(月) 17:03:58.07 ID:ELgndS79
>>965 >経験則で数えて判断してたということね
それのどこに”和算”の入る余地が……
967 :
人間七七四年:2012/01/16(月) 22:57:18.52 ID:vJMlLGjE
>>965 >経験則で数えて判断してたということね。
そういうのは種まき爺さんのような雪形などとして伝承してるけど、和算と何の関係が?
968 :
人間七七四年:2012/01/16(月) 23:10:25.38 ID:EN6BA9ZV
969 :
人間七七四年:2012/01/16(月) 23:58:58.89 ID:0eQUYzYm
つーか算数使わなくても足りる日常の習慣に
わざわざ和算だのマイ暦だの使ってたら、逆にバカとしか思えないがw
970 :
人間七七四年:2012/01/17(火) 03:00:35.02 ID:usP3r4si
武田家の御旗と楯無は今現在は喪失されてしまったのでしょうか?
971 :
人間七七四年:2012/01/17(火) 03:12:48.94 ID:ONrrEHat
菅田天神社の小桜韋威鎧鎧じゃだめなの?
972 :
人間七七四年:2012/01/17(火) 20:53:38.04 ID:lyjZIa1X
公家も剣術習っていたというけど
剣の達人の公家ってどんな人がいる?
973 :
人間七七四年:2012/01/18(水) 14:56:37.65 ID:zespbTXx
974 :
人間七七四年:2012/01/19(木) 15:35:16.66 ID:9WEAwUVo
>>972 北畠は代々そっち方面で有名。
公家でありながら、後に戦国大名に名を連ねる。代表格は北畠具教。
975 :
人間七七四年:2012/01/20(金) 09:02:38.93 ID:DHmDQ/T8
このまえの信長番組で火縄銃の値段がポルトガル人から買った時は
一丁1000両(1150万円) 量産化に成功した信長は一丁1000文(50万円)
ってやってたんですけど、これだと計算上は
1両が1万1500円、1文が500円ですよね? 小判一枚が一万円札、最低通貨の1文が500円玉感覚なんですか?
そうなると23文で1両になっちゃいますよね?
この時代の通貨単位や価値について教えてください
※以前本で読んだ時(これも内容メチャクチャ)
1文
1朱 (1部の4分の1、何文なんだよ)
1部=250文
1貫=4部=千文
1両=4貫=16部=4千文
(両は金貨銀貨の数え方なので銀1両、小判1両、大判1両かで変わる)
976 :
人間七七四年:2012/01/20(金) 14:49:22.19 ID:aM4rQmP3
室町時代の15世紀後半〜16世紀中頃
一文は100円程度。
一貫文(1000文)が約10万円
一両に相当する金4匁〜4匁5分が30万円
*大判が金45匁で作られ、後にこれが小判10枚相当ということから
一両という貨幣は当時は無いから重さで取引されていた。
当然金の質に差があるからどこの産かで価値は違う。
銀は当時から金の5分の一ほど。
これで行くと
>>974の金額はデタラメということになるが??
977 :
人間七七四年:2012/01/20(金) 14:52:40.06 ID:aM4rQmP3
978 :
人間七七四年:2012/01/20(金) 15:03:00.25 ID:UQIfc1yt
979 :
人間七七四年:2012/01/20(金) 16:05:15.50 ID:n2O+vQTX
信長の撰銭令(1569)だと金10両=銭15貫文、銀10両=銭2貫文
当時の金銀銭交換レートを反映してると思うからコレを元にして……
都(1582頃)豆腐一丁3文 ナス10個で一文 日払い日当20枚くらい
「時代を超えて野菜の値段はそうは変わらない」と思うので”ナス”基準で以下計算
現在スーパーで長ナス一本50円、つまり信長は一丁ナス10000個→50万円相当で購入
これは
>>975の数字にあってるね
で、種子島時尭は1挺金1000両で購入(1543)これは銭150万ナス1500万個
つまりナス換算で一丁7億5千万円で買ったことに……
なんか「1000両=1150万円」の計算の元が気になるねぇ
980 :
人間七七四年:2012/01/20(金) 17:03:02.80 ID:IXuB1Hw5
ナス換算は初めて聞いたな、おもしろい。
魚も記録が残ってるからできそうだな、イワシレートとか。
江戸は長いしテレビなんかだとかなり後期のプライスだから
戦国には合致しないだろうなぁ、300年立ってるし。
ソバは固定で末期に値上がりしたからわかりやすいのだけど
やはり外食だからか米レートとは結構違ってくるよね。
信秀が寄進したのが3000貫とか信長が本願寺に
要求したのがそのぐらいとか、それだと一貫10万以上というのは
ちと高すぎるようにも思うのだよね。
仕事人さんは1両で引き受けるけどそれ思うとゴルゴさんは
ぼったくってるよな。
最初は1000万ぐらいだったけど最近はいくらぐらいになってるのかな、
ヒットマン料?
981 :
人間七七四年:2012/01/20(金) 17:06:48.05 ID:HmIo6lKP
一両の価値は上でも出ているように何の品目の物価を基準にするかで大きく違ってくる
金自体の価値も現代は下がってるし米等もエンゲル係数が馬鹿高かった時代
その中では職人の日給から算出した30万〜50万円が感覚的に一番しっくり来ると思うよ
ただ物価も現代と違って京と関東で2倍の差が付く場合があるとか
地域格差が大きいとかも考慮に入れないといけないが
982 :
972:2012/01/20(金) 17:23:06.05 ID:F6rZ1Vrs
>>974 遅レスごめん そうか北畠さんがいたか ありがとー
983 :
人間七七四年:2012/01/20(金) 18:28:16.20 ID:lrtMNoma
精銭1枚1文で換算するので鐚銭だと1貫4000枚か。
これじゃあ決済や持ち運びにも苦労するな。
外人との取引は高額決済(金や銀や米札)や相応の価値のある輸出品との物々交換だったのかなあ?
984 :
人間七七四年:2012/01/20(金) 20:15:24.78 ID:mOG4Q2mM
かつて見たアニメで
昔は私的に作った硬貨も価値が大幅に下がるだけで
市場で使用可能だったと描かれていたのですが
戦国時代にはそうした硬貨はどの程度出回っていたのでしょうか?
985 :
人間七七四年:2012/01/20(金) 21:41:51.05 ID:UQIfc1yt
私鋳銭ね
いわゆる「びた一文まからない」のびた一文ってのが私鋳銭含むびた銭(=粗悪な銭)
それこそ、大名や時代によって換金率や使用の有無まで変わってくるから、
一概にどうとかは言えないな
986 :
人間七七四年:2012/01/21(土) 07:48:07.83 ID:e9B5AfmV
今日明日で、京都・伏見、大津・膳所・石山あたりを周ります。
987 :
975:2012/01/21(土) 08:26:38.16 ID:rEEHK+rj
詳しい情報ありがとうございます
それで、また別の番組で言っていた事で、信長は平氏の子孫だと言うのですが
とある歴史マンガにて「我が織田家は源氏の流れをくむ由緒ある家柄、それをあいつら〜〜」
夢幻の如く(信長がモンゴルにて)「俺の先祖の者がチンギスハンと名乗りかつてこの地を治めたのでな、子孫の俺がまた来たわけだ」
複数のマンガで織田家は源氏の子孫ということになっていますがどっちが正しいのでしょう? ちなみに番組では
平氏を倒したのは源氏、それを倒したのが平氏の子孫の北条、それを倒したのが源氏の子孫の足利
それを倒したのが平氏の子孫の信長、それを倒したのが源氏の子孫の光秀
それを倒したのが平氏の子孫を名乗った秀吉、それを倒したのが源氏の子孫の家康、と言ってました
秀吉も平氏じゃなくて「実は俺は源氏の子孫で」って言ってませんでしたっけ?
それで「俺は本来源氏の人間だから」っていう名分で足利家の養子になろうとしたんじゃ……
母親が将軍家に奉公に行った時に間違いが起きて母が身ごもってしまって、その時生まれたのが自分だと言ったとか
連続質問すいません
988 :
人間七七四年:2012/01/21(土) 08:51:22.31 ID:/LEmYAYT
最近では忌部氏と言われとるね
989 :
人間七七四年:2012/01/21(土) 09:00:02.58 ID:b5GfBEbl
平信長でしょ
990 :
人間七七四年:2012/01/21(土) 12:27:33.41 ID:GA35w0jv
まあ実際の出自はともかく信長が平氏を強く意識していたのは間違いない
991 :
人間七七四年:2012/01/21(土) 14:33:52.84 ID:OkTlvihO
織田は藤原を名乗っていた。
信長も尾張統一以前の文書には「藤原信長」の署名がある。
1571年には「平信長」となった。
平親実から始まる家系図もこのころ作られたんじゃないの?
家系図はホントにいいかげん。
992 :
人間七七四年:2012/01/21(土) 15:05:56.87 ID:rJgb+r7o
>>991 > 平親実から始まる家系図もこのころ作られたんじゃないの?
それはなんとも言えない。元々平姓だったのが何らかの理由で一時的に藤原を名乗っていた
という可能性もこの時代考えられる。
993 :
人間七七四年:2012/01/21(土) 17:28:13.54 ID:LH+pqmVQ
994 :
人間七七四年:
乙