【西軍】関ヶ原の戦い総合スレ16【東軍】

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1人間七七四年
130年あまり続いた戦国時代晩期の合戦である「関ヶ原の戦い」。
東西両軍合わせて20万人もの動員を繰り出した、想像を超える大規模なものだったにも関わらず
わずか数時間の戦闘で勝敗が決したという希有な戦い。
全国津々浦々から名立たる武将・智将が一同に会した、戦国屈指のドラマ「関ヶ原」を
あらゆる角度から検証するスレ第十六弾です。
次スレは>>980>>990あたりで

過去ログ
関ヶ原の戦い総合スレ
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1106458926/
関ヶ原の戦い総合スレ2
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1108139654/
【西軍】関ヶ原の戦い総合スレ3【東軍】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1124859382/
【西軍】関ヶ原の戦い総合スレ4【東軍】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1127129116/
【西軍】関ヶ原の戦い総合スレ5【東軍】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1129471584/
【西軍】関ヶ原の戦い総合スレ6【東軍】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1135858991/
【西軍】関ヶ原の戦い総合スレ6【東軍】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1142346577/
【西軍】関ヶ原の戦い総合スレ8【東軍】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1145149465/
【西軍】関ヶ原の戦い総合スレ9【東軍】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1149346897/
【西軍】関ヶ原の戦い総合スレ10【東軍】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152870727/
【西軍】関ヶ原の戦い総合スレ11【東軍】
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1176221394/
【西軍】関ヶ原の戦い総合スレ11【東軍】 ※12
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1194438306/
【西軍】関ヶ原の戦い総合スレ13【東軍】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1214108230/
【西軍】関ヶ原の戦い総合スレ14【東軍】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1253350983/
【西軍】関ヶ原の戦い総合スレ15【東軍】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1264805400/
2人間七七四年:2011/05/12(木) 07:20:48.62 ID:oOv8TIDA
3人間七七四年:2011/05/13(金) 08:22:01.18 ID:R07/ha/S
四本健光「島津氏と関ヶ原合戦 −島津義弘の参戦事情と徳川の島津処分」(『鹿児島大学教育学部研究紀要』18巻<人文社会科学編>、1966年12月25日発行)

藤井治左衛門『関ヶ原合戦史料集』(新人物往来社、1979年9月20日発行)

池田公一「相良頼房と関ヶ原合戦」(『戦国史研究』19号、1990年2月28日発行)

會田康範「石田・上杉共謀説について」(『戦国史研究』23号、1992年2月29日発行)

笠谷和比古『近世武家社会の政治構造』(吉川弘文館、1993年2月25日発行)

笠谷和比古『関ヶ原合戦―家康の戦略と幕藩体制』(講談社、1994年2月1日発行)

西本誠司「関ヶ原合戦前の島津氏と家康」(『戦国史研究』34号、1997年8月25日発行)

宮本義己「徳川家康の人情と決断−三成゛隠匿″の顚末とその意義」(『大日光』70号、2000年3月26日発行)

笠谷和比古『関ヶ原合戦四百年の謎』(新人物往来社、2000年6月10日発行
4人間七七四年:2011/05/13(金) 08:24:17.02 ID:R07/ha/S

藤井尚夫『フィールドワーク関ヶ原合戦』(朝日新聞社、2000年9月15日発行)

笠谷和比古『関ヶ原合戦と近世の国制』(思文閣出版社、2000年12月20日発行)

林千寿「関ヶ原合戦における細川家−その動向と動機」(『熊本史学』76・77合併号、2000年12月20日発行)

石田明夫「神指城と関ヶ原−上杉影勝の城づくり」(『会津若松市史研究』3号、2001年発行)

宮本義己「徳川家康の豊臣政権運営−「秀吉遺言覚書」体制の分析を通して」(『大日光』74号、2004年3月26日発行)

山本博文『江戸時代の国家・法・社会』(校倉書房、2004年8月20日発行)
5人間七七四年:2011/05/13(金) 08:26:18.01 ID:R07/ha/S

布谷陽子「関ヶ原合戦の再検討―慶長五年七月十七日前後」(『史叢』73号、2005年9月30日発行)

宮本義己「内府(家康)の公儀掌握と関ヶ原合戦」(『大日光』76号、2006年3月17日発行)

白峰旬「関ヶ原の戦いに関する時系列データベース―城郭関係史料を中心として」(『愛城研報告』10号、2006年8月発行)

福田千鶴『淀殿』(ミネルヴァ書房、2007年1月10日号発行)

光成準治「関ヶ原前夜における権力闘争−毛利輝元の行動と思惑」(『日本歴史』707号、2007年4月1日発行)

三池純正『敗者から見た関ヶ原合戦』(洋泉社、2007年5月22日発行)

土居聡朋「関ヶ原合戦における四国侵攻と武井宗意」(『地方史研究』57巻4号、2007年8月1日発行)

田端泰子『北政所おね』(ミネルヴァ書房、2007年8月10日発行)

布谷陽子「関ヶ原合戦と二大老・四奉行」(『史叢』77号、2007年9月30日発行)

笠谷和比古『戦争の日本史17 関ヶ原合戦と大坂の陣』(吉川弘文館、2007年11月1日発行)

笠谷和比古『関ヶ原合戦』(講談社学術文庫、2008年1月10日発行)

笠谷和比古「関ヶ原合戦余聞−「三成、家康屋敷に逃げ込む」の嘘」(『本』33巻2号、2008年2月1日発行)

平井上総「関ヶ原合戦と土佐長宗我部氏の改易」(『日本歴史』718号、2008年3月1日発行)

宮本義己「内府(家康)東征の真相と直江状」(『大日光』78号、2008年3月31日発行)
6人間七七四年:2011/05/13(金) 08:28:35.02 ID:R07/ha/S

白峰旬「関ヶ原の戦いに関する再検討」(『別府大学大学院紀要』10号、2008年3月発行)

三宅正浩「「秋長」書状の年代比定をめぐって―関ヶ原合戦と蜂須賀家政」(『ヒストリア』210号、2008年6月10日発行)

太田浩司『近江が生んだ知将 石田三成』(サンライズ出版、2009年3月1日発行)

光成準治『関ヶ原前夜―西軍大名たちの戦い』(日本放送出版協会、2009年7月30日発行)

高橋明「会津若松城主上杉景勝の戦い・乾―奥羽越における関ヶ原支線の顛末」(『福大史学』80号、2009年10月30日発行)

林千寿「慶長五年の戦争と戦後領国体制の創出―九州地域を素材として」(『日本歴史』742号、2010年3月1日発行)

水野伍貴「秀吉死後の権力闘争と会津征伐」(和泉清司編『近世・近代における地域社会の展開』岩田書院、2010年3月31日発行)

桐野作人『関ヶ原島津退き口―敵中突破三〇〇里』(学研新書、2010年発行)

大西泰正「宇喜多騒動をめぐって―光成準治著『関ヶ原前夜』第五章への反論―」(『日本史研究』573号、2010年5月20日発行)

水野伍貴「佐和山引退後における石田三成の動向について」(『政治経済史学』530号、2010年12月22日発行)

白峰旬『新「関ヶ原合戦」論―定説を覆す史上最大の戦いの真実―』(新人物往来社、2011年3月22日発行)

7人間七七四年:2011/05/13(金) 17:56:07.05 ID:Nvcsl8+b
左近や兼続って、大して役に立って無いよな。
8人間七七四年:2011/05/13(金) 23:25:04.29 ID:zg7sWHRw
兼続はまあ上杉存続に奔走したが、左近は速攻で討ち死にしたからな。
9人間七七四年:2011/05/14(土) 12:25:35.08 ID:dqVz8wAm
蒲生頼郷や蒲生郷舎の方が頑張ってるよな。
10人間七七四年:2011/05/14(土) 12:39:04.97 ID:wlKL+Cdz
左近は杭瀬川の戦いがピーク
11人間七七四年:2011/05/15(日) 08:21:33.18 ID:FR8Kw0q/

白峰旬「慶長5年の上杉景勝VS徳川家康・伊達政宗・最上義光攻防戦について : 関が原の戦いに関する私戦復活の事例研究(その1)慶長5年の上杉景勝VS徳川家康・伊達政宗・最上義光攻防戦について : 関が原の戦いに関する私戦復活の事例研究(その1)」

(『史学論叢』2010年3月発行)
12人間七七四年:2011/05/16(月) 22:02:20.40 ID:5T8fSrIl
戦国武将
家紋・旗・馬印FILE100って本が571円と安かったので惹かれて買ったんだけど
意外と楽しめて面白い

ところで疑問なんですが合戦時の兵員数と言うのは荷駄人足とかも含んでいるの?
13人間七七四年:2011/05/16(月) 22:05:20.65 ID:5T8fSrIl
5/18にNHK歴史秘話ヒストリアで島津の敵中突破やりますね
14人間七七四年:2011/05/16(月) 22:30:10.18 ID:hsJFQuGs
島津が万全な状態で参戦したら面白かったのに
15人間七七四年:2011/05/16(月) 22:44:25.93 ID:CkMvs51R
>>12
含む
16人間七七四年:2011/05/17(火) 14:30:46.30 ID:DX8eZ/L1
>>14
万全な状態というのは
義久が軍勢を率いて東軍として参加するということになると思う
17人間七七四年:2011/05/17(火) 17:13:43.71 ID:dqcHzz/T
>>16
地元の不穏分子が大喜びで挙兵するなw
18人間七七四年:2011/05/17(火) 23:07:45.22 ID:XT3HfaaB
>>16
どっちかって言うと悪久じゃね?
19人間七七四年:2011/05/18(水) 18:49:39.13 ID:xEjmfFTV
白峰旬「慶長5年7月〜同年9月における石田・毛利連合政権の形成について」(『別府大学紀要』第52号、2011年2月発行)
20人間七七四年:2011/05/19(木) 07:23:34.20 ID:8U7m1WFD
つか西軍に味方した大物大名って軒並み問題抱えてるよな
毛利、宇喜多、長宗我部…
上杉ぐらいか…なんとかまとまってたのは
21人間七七四年:2011/05/19(木) 08:59:13.43 ID:Vn8ORvPP
上杉は藤田を追放したから
22人間七七四年:2011/05/19(木) 12:44:47.67 ID:cX1Dbesu
藤田さんは末路を考えると上杉に残ってた方がマシだったのではと思わなくはない
23人間七七四年:2011/05/19(木) 12:48:58.24 ID:WpXvErRg
藤田さんは上杉に残っても、別の形で大騒動を繰り広げただろう。
有能だけど生きた時限爆弾みたいな人だからな。
24人間七七四年:2011/05/20(金) 08:14:52.00 ID:Ftkg3kUP
岡、坂崎の末路もろくなもんじゃない
戸川も微妙
25人間七七四年:2011/05/24(火) 17:15:00.60 ID:x2B+igSv
【関ヶ原】陣幕に床几スタイルでお茶が飲める「武将カフェ」。期間限定でオープン ★3
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/mitemite/1306046832/
26人間七七四年:2011/05/28(土) 06:29:29.42 ID:W4XRo8Wr
ディレクターチェアは快適だけど
床几は結構苦痛だよな
27人間七七四年:2011/05/30(月) 10:41:45.65 ID:Pkgwr/4z
http://mitubaaoi.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=13144240

上のトピックでのS氏のカキコミについてどう思う?
28人間七七四年:2011/05/30(月) 10:56:11.75 ID:3S4BNHdO
時計なんてものがない当時の間隔で、厳密な時間の共有なんぞ不可能
せいぜい、お天道様がてっぺんにある午の刻がなんとか信用できるかどうか

ついでにいうと終わったという認識も、戦局の転換か、相手の総崩れか、
残敵掃蕩までかというのも各自の立場と認識で変わる

徳川史観というのは筆者の遠慮位はあるだろうが、徳川家の組織的な関与
なんていうのは一笑に付して良い
29人間七七四年:2011/05/30(月) 11:23:43.52 ID:Pkgwr/4z
>>28
ありがとう。
じゃあS左衛門氏の上にあげたトピックでのカキコミは概ね正しいってことでいいのかな?(白峰旬批判を含めて)
30人間七七四年:2011/05/30(月) 11:35:29.68 ID:wrjG+g3k
>>29
概ね信じていいと思うよ。
というか徳川史観なるものを強調する本や研究者はまず信用しないほうがいいw
31人間七七四年:2011/05/30(月) 14:13:42.54 ID:J0nF25fc
ところがそれなりに、やっと出た詳細な研究、みたいに喜んでる
カキコもよく見かけるな。
ところでこの白峰って誰?
32人間七七四年:2011/05/30(月) 15:17:40.74 ID:PEgHwMRt
別府大学文学部史学科准教授 白峰旬
33人間七七四年:2011/05/30(月) 17:04:05.18 ID:J0nF25fc
もうちっと過去の論文とかそういうの。
34人間七七四年:2011/05/30(月) 17:45:05.40 ID:3S4BNHdO
35人間七七四年:2011/05/30(月) 19:28:27.56 ID:bbztFqsE
宗茂さえ本戦にきてれば…

秀忠率いる本隊ごと蹴散らしただろうに
36人間七七四年:2011/05/30(月) 19:58:42.87 ID:3S4BNHdO
大して意味はない
37人間七七四年:2011/05/30(月) 20:14:30.64 ID:Du1h7wQE
家康が西軍についてたら西軍が勝ってた
38人間七七四年:2011/05/30(月) 21:50:35.95 ID:J0nF25fc
>>34
さんきゅ。
お城系の人なんだね。九州のそういう研究会ってのは有名なのあるのかな。
39人間七七四年:2011/05/30(月) 23:53:07.94 ID:HsPxsbER
秀吉は小早川を優遇しすぎたんだよ

毛利の分断工作としては成功だったけど、全国規模で見ると徳川の圧勝に終わってしまったじゃないか
40人間七七四年:2011/05/30(月) 23:57:26.56 ID:GTxDEYZW
三成が家康排斥の為に豊臣を二分する戦なんて起こさなければ家康は豊臣の家臣のままで豊臣も存続しただろうに・・・
41人間七七四年:2011/05/31(火) 00:15:59.33 ID:6ou96sCR
「豊臣家康」あるいは「豊臣秀忠」が「豊臣家当主」になっていた可能性が高いな。
42人間七七四年:2011/05/31(火) 00:27:01.88 ID:PeCJjNhj
低いと思う。外様は外様。姓を与えられても一門じゃない。
徳川政権の松平姓といっしょ。
43人間七七四年:2011/05/31(火) 01:16:57.25 ID:yddycHYT
>>40
そうしたら徳川が実効支配することになる。徳川執権制なのか豊臣関白が徳川を
征夷大将軍に任ずるのかはよく分からないけど。

>>42
豊臣譜代じゃ官僚機構維持できない・・・もし徳川が代理支配しない/できないなら
室町幕府並みの弱体政権で50年ぐらいで第二次戦国時代に逆戻りだろ。
44人間七七四年:2011/05/31(火) 15:36:18.04 ID:BRyEv1mY
2〜3代目の力も重要だろうけど、徳川の場合は家康のお膳立てが
すごかったからね。
家康が関が原直後あたりに死んでたらそれこそ二都並立状態で
その後の人物の出現によって歴史は変わったろうからどうなってたか。
心配なのはすでに海外勢が日本に来てたからそれらに利用されたりすると
ちとヤバいことになってたかもしれないな。
45人間七七四年:2011/06/01(水) 12:20:35.44 ID:M7xlD8LE
>>40
あそこまで巨大な勢力を持っていたら何が何でも自分の天下になるように行動するだろ
自分のモノになったら当然豊臣の姓を使っていたとしても代える罠
46人間七七四年:2011/06/01(水) 12:53:02.52 ID:5aWpvo8j
>>45
関ヶ原以前の石高じゃ無理。関ヶ原の仕置きで豊臣本家の領地を削って諸大名に与えたり豊臣の金銭収入源を自分の物にしたりして豊臣恩顧の大名が全員集まっても徳川に対抗できないだけの力を付けてから初めて武家の棟梁としての力を持ったのであって、
関ヶ原が無ければ豊臣の家老以上の力は持てなかった。
47人間七七四年:2011/06/01(水) 16:11:33.87 ID:YqZsSXdP
決戦が無かった場合、豊臣方を難癖つけてひとつひとつ潰していくんだろうけど
時間的に間にあったかどうか怪しいかな
48人間七七四年:2011/06/01(水) 16:22:02.26 ID:oz/p/Zyz
ある程度潰したら豊臣に喧嘩吹っかけて反抗勢力を糾合させて一網打尽とかかねぇ
49人間七七四年:2011/06/02(木) 00:50:06.83 ID:NOEZpUIx
>>46
デカい対抗勢力を一つずつ削っていく
そのたびに配置換えして領地を広げていくだろう
まあ家康ならどうにでもできる
50人間七七四年:2011/06/02(木) 01:03:44.96 ID:tW1x+F2V
とにかく関ヶ原というのは圧勝どころではない、歴史上類を見ないほどの爆勝で、
この爆勝が家康に豊臣家を越える権威を与えた。
51人間七七四年:2011/06/02(木) 01:37:00.83 ID:aW9eAr90
>>50
関ヶ原だけじゃ豊臣の権威を上回れないんだけどね・・・
52人間七七四年:2011/06/02(木) 01:55:14.38 ID:gvrQhRGC
こら、揚げ足をとらない
53人間七七四年:2011/06/02(木) 02:01:20.43 ID:7nwe4C7s
>>50
関ヶ原は所詮豊臣の内紛。
その後の仕置きが徳川天下の要因。
54人間七七四年:2011/06/02(木) 10:21:55.04 ID:tW1x+F2V
>>51
将軍宣下以前に既に、天下の主催者は家康だという認識は広く行き渡っている。
そもそも関が原後の大改易は家康の名前で出している。豊臣家に既にそんな権能は無い。

関が原後、たしかに豊臣家にも権威は残ったが、それは非常に形式的なもので
実質に置いて家康以上の権威ではない。
55人間七七四年:2011/06/02(木) 12:15:19.12 ID:1buKfsAh
関ヶ原後の安堵状や宛がい状とか家康の名前で出してないって有名な話じゃないの?
56丁ο児 ◆Kd2TSsZIFU11 :2011/06/02(木) 19:16:36.75 ID:An5i4iLN
豊臣家に誰もが飽き飽きしていたんじゃないかな?
頭のぼけた老人に二回も渡海させられて、
恩賞は無し。
太閤亡き後、安定的なリーダーを望むのは、至極当たり前の事。
57人間七七四年:2011/06/02(木) 19:44:49.24 ID:7nwe4C7s
関ヶ原は家康が豊の筆家老じゃなければ戦にもならなかった。
豊臣恩顧の大名が家康につかないから。
58人間七七四年:2011/06/02(木) 21:49:29.01 ID:EnpxYd3R
白峰旬「慶長5年の上杉景勝VS徳川家康・伊達政宗・最上義光攻防戦について−関ヶ原の戦いに関する私戦復活の事例研究(その1)−」(『史学論叢』第40号、別府大学史学研究会、2010年3月)
白峰旬「慶長5年の九州における黒田如水・加藤清正の軍事行動(攻城戦と城受け取り)について−関ヶ原の戦いに関する私戦復活の事例研究(その2)−」(『史学論叢』第41号、別府大学史学研究会、2011年3月)
白峰旬「直江状についての書誌的考察」(『史学論叢』第41号、別府大学史学研究会、2011年3月)
59人間七七四年:2011/06/04(土) 15:52:34.82 ID:UCmwxY6N
なんか自費出版本が出てるねぇ。
60人間七七四年:2011/06/04(土) 16:02:56.37 ID:F9wWWqou
関ヶ原ってこれ以上土地開発されないように何らかの制限を作った方が良いね
もうすでにあるのかもしれんが…
61人間七七四年:2011/06/04(土) 16:30:10.14 ID:UCmwxY6N
長久手あたりがひどいことになちゃったからね。
家康の見た景色はもう戻らない・・
62丁ο児 ◆Kd2TSsZIFU11 :2011/06/05(日) 11:46:29.10 ID:qkU9wE7Q
合戦場を保存する必要はない。
天下分け目の戦が行われたとしても、例外ではない。

63人間七七四年:2011/06/07(火) 20:22:30.58 ID:ViimGW8m
上杉が最上をさっさと片付けてたら伊達の動きも変わってたと思うんだ
64人間七七四年:2011/06/07(火) 20:24:10.29 ID:pstm/cO1
上杉にそんな機動力があるかよ
65人間七七四年:2011/06/07(火) 20:37:01.92 ID:c6kQRR0Q
上杉が南下したら面白かったのに
66人間七七四年:2011/06/07(火) 20:51:36.11 ID:YGhCyh5I
最上が相手なら謝って済む問題だけど
徳川に逆らったらマジ殺される
67人間七七四年:2011/06/07(火) 21:52:33.39 ID:UbVL005O
>>65
間違いなく結城秀康に虐殺されただろうな
68人間七七四年:2011/06/07(火) 23:22:41.68 ID:7a4kGkvN
>>63
抑えを除いてほぼ全力で攻めたのにあれが精いっぱい

>>61
2000年の頃はまだ建物も少なかったけど
困ったものだ
69人間七七四年:2011/06/08(水) 00:44:16.40 ID:y0ZfqlX3
人口増えてるわけでもないのに宅地だけは増えるのな
70人間七七四年:2011/06/08(水) 06:12:40.41 ID:rNXB+Q/X
昔と違って嫡男ですら家をでてしまう御時勢だ
71人間七七四年:2011/06/09(木) 00:14:30.05 ID:D3hzl8UQ
出生率が下がって全体の人口が増えていないだけで、
30〜40代の購買層は多いんだから宅地が増えるのは当然。
72人間七七四年:2011/06/09(木) 13:22:06.04 ID:iNT9eErF
長久手あたりの景色は宅地でなくて、万博とかリニアの話ね。
名古屋の守山区は今でも唯一地下鉄のない区で開発されないからタカを
くくってたんだがあんなもん作りやがって。

それと土地や需要があるからといって宅地が増えるかというとそれは
別の話で、マンションみたいに空中へ伸びたりするほうが多いみたいだね。

>>68
平和公園とか一社のあたりはほんの30年ぐらい前までは江戸時代とそうはかわらん
ぐらい。田んぼばっかりだった。あれから通るたびに変わっていったもんなぁ。
桶狭間のあたりもそうなんだけどね、ってなんの話・・だ
73人間七七四年:2011/06/10(金) 00:31:20.21 ID:rMNgrWLq
宅地開発や条例も購買者が居なけりゃ意味が無いに決まってんだろ。
みんながみんなマンションに住むとでも思ってんのか。
74人間七七四年:2011/06/14(火) 15:35:22.23 ID:VwWa9sb8
webの読物としては面白いな

http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/index.html
75月孔雀:2011/06/15(水) 14:26:32.23 ID:BFxDfeI0
家康は、三成の挙兵をどこまで、想定していたか?
76人間七七四年:2011/06/15(水) 15:53:00.44 ID:mbYlshyL
>それは一般論の話をしてんだけど。
>対策をしていない=想定していない の図式は常に成立するわけではない。
>なので、対策をしていなければ同じ事、という事にはならない。
彼の考えがよくわからないので何とも言えんな。
77人間七七四年:2011/06/15(水) 18:40:49.81 ID:ijr37OZi
>>76
その粘着荒らし毛利厨がまず頭がおかしいから議論が成立しない。
78人間七七四年:2011/06/15(水) 19:24:39.01 ID:00JrrHt9
>>75
してない。と言うか単独で挙兵しても石田が馬鹿なだけだし。
毛利挙兵にビビったんじゃない?「本気でやるの?」みたいな。
79人間七七四年:2011/06/15(水) 20:42:01.50 ID:Gmmoz3UV
破滅しかけたけど天下を取れたから結果オーライ
80人間七七四年:2011/06/15(水) 21:02:49.01 ID:CGSEpr5j
>>75
大坂要路の人心を得たと家康は思っていたから
三成が挙兵しても同調するやつはいないだろうから
義弘の兵を入れた伏見城による支援があれば
大津城は佐和山兵だけでは落とせないと想定していた。
しかし大坂が裏切り大津城の京極も大坂に面従腹背してしまい、
敵味方がわからなくなった伏見城では義弘の入城すら拒否するほど疑心暗鬼になった
81人間七七四年:2011/06/15(水) 21:55:51.95 ID:mbYlshyL
こっちで続けなされ。

425 名前:人間七七四年 :2011/06/15(水) 20:05:19.82 ID:ijr37OZi
>>423 普通にレスを追っていけば、論に付強としての傍証がいろいろ出て補強されてると思うけど?

『三成に西軍を指揮する権限なんかない。』
根拠は三成は蟄居中。家康に対する弾劾状や輝元の添え状には三成の連署はない←君に意見だよね。

『ある。三成が蜂起し、家康を誤算せしめたからだ。』
7/17の別所吉治宛書状などに三成・長束・増田・徳善院の連署で罪なき上杉征伐〜と書いて連署してる。
同日付の真田宛書状には長束・増田・徳善院・前田が連署してるから
ただ単に三成には他にやるべきことがあり分業してるだけ。
別紙として内府たがいの状、また別紙として大老宇喜多秀家、輝元連署状が同日付けで添付される形式。

『家康が誤算した、という記録は?』
7/22に秀忠も滝川に大坂奉行が雑沙汰を申してきてるが別儀無いと言っており
7/23の家康書状でも三成と大谷が才覚をもって方々へ書状を廻している雑説があるから進軍ストップと最上に伝えてる。
家康は明らかに三成と大谷が敵ととらえている。
7/27に至っても榊原が安東に淀や大坂三奉行が上洛するように言っている。
7/29になって奉行まで裏切ったのを知り黒田長政に池田輝政と相談するように言ってる。
等々>>378で説明があるね。

でさ、誤算ではなくすべて計算通りだとする根拠を追求されたないから
>>414みたいな意味不明な逃げレスになるんだよね。つまりケチつけてるだけで君にはなんら意見がないわけだ。


426 名前:人間七七四年 :2011/06/15(水) 20:09:10.13 ID:ijr37OZi
>>424
あははwついに自演毛利厨携帯Ver.も降臨してきたねw
急度の解釈で単発ID自演で誤読誤読と捏造を喚いたりどうしようもないクズw

>>349の指摘に従って消えろよクソ荒らし。


427 名前:人間七七四年 :2011/06/15(水) 20:20:32.22 ID:tf1mEA66
>>425
要は、『家康は誤算した』という記録が出れば良い。
第三者目線で、家康公が過小評価しなさってた、でも良い。

>7/22に秀忠も滝川に大坂奉行が雑沙汰を申してきてるが別儀無いと言っており
>7/23の家康書状でも三成と大谷が才覚をもって方々へ書状を廻している雑説があるから進軍ストップと最上に伝えてる。
>家康は明らかに三成と大谷が敵ととらえている。
>7/27に至っても榊原が安東に淀や大坂三奉行が上洛するように言っている。
>7/29になって奉行まで裏切ったのを知り黒田長政に池田輝政と相談するように言ってる。
>等々>>378で説明があるね。

この文章のどこから、家康が誤算した事を汲み取れるのか丁寧に教えて欲しい。

それと、どうしても自演にしたいらしいが、その必要がどこにある?
こちらの要求に全く答えられないキミに自演をかます必要は全くない。

82人間七七四年:2011/06/15(水) 22:50:46.52 ID:mbYlshyL
関ヶ原研究の基礎本となる笠谷氏『関ヶ原合戦と大坂の陣』
「家康は小山の評定の時点では、大坂奉行衆が反家康の弾劾運動を
 主導しているということには思いは至っておらず、(中略)増田
 長盛ら豊臣奉行衆を信じていたようで〜」
また、小山評定のあと、7月29日付黒田宛て家康書状で「大坂奉
行衆が裏切ったと(上方から)通報があったので、重ねて相談しな
くてはと思っていたが〜」と書き送っている。
第一、奉行衆は家康と毛利に三成謀反を通報している。この時点で
は本人たちも三成の挙兵をただのクーデターと考えている。
83月孔雀:2011/06/15(水) 22:53:50.86 ID:BFxDfeI0
要点をまとめてください。
84人間七七四年:2011/06/15(水) 23:03:54.53 ID:KGHGyxgW
小山会議前の7月21日細川忠興の書状には石田と毛利が同心していることを告げる文面がある
細川が知っていることを家康が知っていないはずがない
85人間七七四年:2011/06/15(水) 23:20:15.93 ID:uVZpBgQz
>>84
知っていないはずがない理由は?
86人間七七四年:2011/06/15(水) 23:30:09.96 ID:KGHGyxgW
>>85
細川は関東宇都宮辺りにいて、家康は江戸にいて一里飛脚を置いて彼等に情報を伝達していた
つまりこの情報は家康発ということになる
87人間七七四年:2011/06/15(水) 23:53:17.57 ID:mbYlshyL
毛利は国許にいた。
奉行衆は大坂にいる。
大坂が西軍についたことは大きい出来事
88人間七七四年:2011/06/16(木) 00:12:10.20 ID:Gi/A1RhI
>>82
笠谷の認識には矛盾がある。
7/24、家康等が小山到着。
同日、鳥居の使者から伏見城が包囲された旨が伝えられたとある。
であれば、この時点で毛利同心の状況を把握している事になる。
89人間七七四年:2011/06/16(木) 00:21:11.06 ID:HBEYB2Ht
毛利は奉行じゃないよ。
90人間七七四年:2011/06/16(木) 00:29:25.77 ID:Gi/A1RhI
そうだね、確かに毛利は奉行じゃないね。
言い方を変えよう。

小山評定の時点で、
>三成の挙兵をただのクーデターと考えている。
という認識にはならない、という事。
91人間七七四年:2011/06/16(木) 00:34:18.64 ID:HBEYB2Ht
ん?
ただのクーデターだと思っていたのは奉行衆の話。
「クーデターが起きた。助けて」と毛利や徳川に送ったのが奉行衆。
そして家康も奉行衆は淀殿や前田家同様に自分の味方だと認識していた。
奉行衆本人たちも徳川に助けを求めているのに、彼らの気持ちより先に
家康が「あいつらもいずれ裏切るんだ」と想定していましたというのは
どうなのかな。
92人間七七四年:2011/06/16(木) 00:42:02.54 ID:Gi/A1RhI
話が噛んでいない事を今理解した。
本人たち=家康等と認識していた、スマン。

笠谷の言う、二段階論に疑問を持っていたもんで。
93人間七七四年:2011/06/16(木) 02:11:30.46 ID:tnccIKLp
そもそも淀や奉行が三成が謀反したと家康に通報していたため
毛利や奉行とかが三成に組みしたたぐいの話を家康は
三成や大谷による雑説として捉えていて
小山評定の時の家康はそれらを不確かなウソ情報だと考えている。
伏見城攻撃においても包囲される以前に家康に出した書状にはおそらく毛利らが敵になったような詳細がわからぬものだったのだろう。
そのため落城の心配を一切してない家康は伏見城への後詰めや支援などを京極らにまったく命じてすらいない。
しかもその後になっても榊原なんかも奉行や淀は家康の味方で上洛して三成を討つように言ってると安東らに伝えてる。
それが一変するのが、7月末における奉行らが三成に同心したから輝政と相談しろと黒田長政に家康が通報した書状からで
その後に藤堂に出した家康書状で福島や田中らとも相談をもったのがわかる。
94人間七七四年:2011/06/16(木) 02:32:17.71 ID:Gi/A1RhI
>>93
あれ、こっちに引っ越したんだ。これは助かる。
そんな事より、先にこっちの回答を待ってるよ。(>>81

キミの論拠に史実性を確認した後、議論をする準備は十分にあるよ。

>>7/22に秀忠も滝川に大坂奉行が雑沙汰を申してきてるが別儀無いと言っており
>>7/23の家康書状でも三成と大谷が才覚をもって方々へ書状を廻している雑説があるから進軍ストップと最上に伝えてる。
>>家康は明らかに三成と大谷が敵ととらえている。
>>7/27に至っても榊原が安東に淀や大坂三奉行が上洛するように言っている。
>>7/29になって奉行まで裏切ったのを知り黒田長政に池田輝政と相談するように言ってる。
>>等々>>378で説明があるね。

>この文章のどこから、家康が誤算した事を汲み取れるのか丁寧に教えて欲しい。
95人間七七四年:2011/06/16(木) 02:43:10.00 ID:tnccIKLp
>>94
でさ、君の具体的反論を聞こうか?
まず君はどの点をどういった史料を提示して反論するの。
君のスタンスはどの立場か明示しようや。
俺の反対なら
家康は大規模反乱を予測してた←途中から反論が怖くてうやむやにし始めてたね。
三成には指揮権はなかった←これへの反論には君は反論してこなかったね。
これになるのかね?
まず君も自分の意見とそれの論拠を明示してから議論に移ろうよ。
まともな頭をしてればこの説明を理解できるよね?
96人間七七四年:2011/06/16(木) 02:46:32.43 ID:Gi/A1RhI
>>95
それは、リセットさせてください、という申し出で良いのかな?
つまり、>>81には回答出来ません、という敗北宣言と認識して良い?

とりあえず寝ます。
97人間七七四年:2011/06/16(木) 02:50:02.79 ID:tnccIKLp
>>96
はいはいまた毛利厨得意の逃げ口上ですねw
批判が怖くて自分の意見や立場を明示できないとかアホですか?
そんなことじゃディスカッションできないだろ。
そういうのを荒らし行為って言うんだよ。
98人間七七四年:2011/06/16(木) 03:30:36.74 ID:DCorsGmw
 
「正義」の概念が違う日本人と付き合えるか

http://s1.shard.jp/deer/0202/1/111_3.html

日本には完全に異なる二種類の民族がいる。
それは、大和朝廷以来、離合集散を繰り返し、最終的に「徳川一族」となって、
世襲的に権力を維持している民族と、
その他の、「いじめられ民族」だ。
だが、この権力側の徳川一族は歴史的に卓越した偽装工作技術を有しており、
特に、その「ゆでガエル」方式いじめにおいては、被害者は、「ほめ殺し」に会い、
実際に物理的、社会的に抹殺される。
だが、誰もそのいじめを感じない。
この徳川一族は、生まれた時から、「一族の繁栄」、「部外者のいじめ」、
「偽装工作による善人の演出」が正義だと信じ込まされており、
教育や、強制で表面上は反省するように見えても、絶対に信念を変えない。
それが、「赤穂浪士」であり、「蘇我兄弟」の物語になる。
だから、政治改革がどうのこうの、「政権交代」がどうのこうの、と議論しても、
世の中は、まったく違う次元で物事が進んでいる。
「バカは死ななきゃ治らない」という言葉が身にしみてくる。
99人間七七四年:2011/06/16(木) 07:26:18.09 ID:HBEYB2Ht
2chで勝ちも負けもあるかよ・・・。
お互い情報交換して議論深めればいいだろ。
subはそういうところが餓鬼だな。

>>94
>>94については>>93の回答でほぼOKだと思うけど。
増田からの報告も「三成大谷挙兵の雑説」だし。
吉川も三成の挙兵に毛利は加担していない旨を書き送っている。
どこまでの規模の挙兵なのか情報が錯綜していたんだと思うよ。
家康は政権執行部の中で大坂にいた奉行衆は味方と認識していた→
その奉行衆が内府違いの条々を発する。

政権執行部が家康の正当性を否定する内府違いの条々は効果絶大で、
東北では最上表で会津征伐軍が帰陣を始めるなどの混乱を見せる。
伊達は井伊らにでかい態度を取り、「お前らだけに言うけど、内府
が調子こいてるからこんなことになるんだよ。大坂を渡す訳にいか
ないので、奉行衆にわび入れて謀反に加わらないよう説得したほう
いいぞ(手遅れ)」と書き送る。豊臣に弓引いたはずの上杉は「公
儀(豊臣)のため」と伊達や最上と組んで関東攻めを計画する。
10094:2011/06/16(木) 07:41:09.51 ID:sCy91ywa
>>97
こちらが逃げるという事は、そちらが優位という事だなぁ。
逃げ出して話をリセットしたい所だけど、このままナントカ頑張るとするよ。
で、>>94の回答を頼む。

>>99
レスサンクス。sub本人からの解説が重要なので申し訳ない。
>>93の時系列については、当方も認識しております。
101人間七七四年:2011/06/16(木) 08:57:07.74 ID:tnccIKLp
>>99
俺さぶじゃないから。むしろだがと誤解される方が圧倒的に多いし。
それと一切、論拠も持論もない相手だから一度たりとも情報を得られなかったので議論自体が成立しない相手だから。
単にケチつけて私怨で絡んでくるだけの存在。
>>100
はいはい時系列も何もお前知らなかったじゃねーかwww
知ってたとする証明レスを教えてもらおうかwww
それと>>95に回答しようや。
102人間七七四年:2011/06/16(木) 09:23:17.87 ID:tnccIKLp
しかしさすがに笑いが止まらんw
なにが当方も認識してますだよw
お前がアホなこと言ってきたから反論として俺が教えてやったんじゃねーか。
もはや晒しageだろこれw
103人間七七四年:2011/06/16(木) 10:52:02.86 ID:u9Ps6jYa
石田ごときが家康に逆らう時点でおかしいんだよ

新人議員が小沢に逆らうようなもんだわ

無駄な争い起こしやがって
104人間七七四年:2011/06/16(木) 10:53:35.13 ID:gki1zJx3
いつものSubだな
105人間七七四年:2011/06/16(木) 14:57:37.59 ID:RmCa8zYV
長文レスなど読む気もしない
106人間七七四年:2011/06/16(木) 18:39:46.55 ID:aa9hyWQI
なんで小早川秀秋って豊臣裏切ったみたいな扱いになってんのかね。
関ヶ原時点で見たら内府豊臣家康vs無職石田三成で、どっちも豊臣家臣なのに。
107人間七七四年:2011/06/16(木) 20:20:44.70 ID:d2ieftoi
後で家康が豊臣を滅ぼしたから
108人間七七四年:2011/06/16(木) 21:30:34.52 ID:aa9hyWQI
豊臣滅亡まで冷静に見れば小早川秀秋は別に豊臣を裏切ってないってわかりそうなもんだけどな。
109人間七七四年:2011/06/16(木) 21:53:09.62 ID:cAB8nhct
豊臣はともかく西軍から寝返ったのは確かだからな。まあその寝返りも関ヶ原当日ではなく、
その前日の松尾山占拠の時点だが。
110人間七七四年:2011/06/16(木) 22:31:40.14 ID:d2ieftoi
冷静に見る人が少ないから
111人間七七四年:2011/06/16(木) 23:51:40.39 ID:HBEYB2Ht
>関ヶ原時点で見たら内府豊臣家康vs無職石田三成で
関ヶ原時点で見れば、正式には豊臣家三成&毛利&宇喜多VS豊臣への
反逆者家康。家康はこれを武力で跳ね返した
112人間七七四年:2011/06/17(金) 00:07:45.84 ID:wGW1Mnai
>>111
それは単純すぎじゃないか?
113100:2011/06/17(金) 00:08:23.93 ID:PSFEohst
>>101 【豊臣恩顧どもはカス】 スレから復習。

293 :人間七七四年:2011/06/11(土) 18:15:17.54 ID:gmFnaRDq
そもそも秀吉の肉親でもなんでもない三成にバクチを打つ権利などない
三成は自分が豊臣一族に列せられる存在であると思い上がっていた
豊臣家の家臣としては最悪の部類に入るのは間違いない
296 :人間七七四年:2011/06/11(土) 18:38:15.05 ID:hDgfP5BB
>>293
えっ?権利がない?
三奉行が連署した家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状や
それに同意した西軍の総大将毛利輝元や秀家の沿え状もあるのにw
それとも輝がバカ過ぎて内容も理解できずに認可したのかな?
297 :人間七七四年:2011/06/11(土) 18:44:51.78 ID:G+yeD+CJ
ないな。
公には蟄居中であり、弾劾状にも連署していない。
301 :人間七七四年:2011/06/11(土) 19:53:56.21 ID:gmFnaRDq
>>296
君の言う弾劾状や沿え状に三成には西軍を指揮する権利があると書いてあるの?
家康の罪状がどうこうなんて関係ないんだよ
三成に豊臣を仕切る権利なんてないという話をしているわけ
輝だって三成が実質大将とか言い出して毛利軍に命令することなんて認可していない
そういう意味では輝はバカ過ぎて三成に騙された被害者と言えるだろう
302 :人間七七四年:2011/06/11(土) 20:07:11.54 ID:FIKGJKLJ
アホや。三成が挙兵したら
みんな従ったから大規模挙兵が成立したわけで
三成には広範囲に指揮する力はないとタカを括っていた家康は
小規模反乱想定していたのとは違い
大規模挙兵になってしまい誤算が生じたわけで
その現実を無視して関係ないとか歪曲にもほどがある。
いわば、先んじられれば人に制せられ、先んじれば人を制すだ。
303 :人間七七四年:2011/06/11(土) 20:14:31.39 ID:yxjtugvr
家康が、反乱とやらの規模を想定していたソースは何?
304 :人間七七四年:2011/06/11(土) 20:22:15.74 ID:FIKGJKLJ
三成が挙兵するのを想定していた家康は
伏見城の籠城戦で時間を稼げると思ってた
しかし挙兵が大規模になりすぎて江戸城から動けず、敵味方把握や情勢分析をして慎重になってしまい
尾張にいた福島らが早く来いやって督促され
美濃を攻めて味方の証を立てろと言ったわけだが。
305 :人間七七四年:2011/06/11(土) 20:35:54.56 ID:yxjtugvr
いや、君の推測はいいから。
家康が、『規模はこれくらいだろ。』と想定した記録だよ。
君の主張の核が事実に基づかないのでは話にならないからね。

こちらの主張は、上記>>303以降100レス以上に渡って不変だよ。
これに優先するキミの質問があるのなら、レス番と根拠を教えてくれないかな?

それと時系列については常識というか、
関ヶ原関連の本を持っていたら誰でもわかるでしょ。
もちろん暗記はしてないけどね。鬼の首を取ったような話になるとは思えないんだけど。
114人間七七四年:2011/06/17(金) 06:21:52.51 ID:retsV4ED
>>111
内府豊臣家康が豊臣の反逆者?意味わからん
115人間七七四年:2011/06/17(金) 07:10:12.37 ID:HkBPQFtj
家康が「俺らは秀頼様のために戦うぞ。三成が無理矢理大坂を占拠した」と叫んでも、
公式的には内府ちがいの条々で反逆者
116人間七七四年:2011/06/17(金) 08:03:59.07 ID:XawRiDoE
反逆者三成の側が出したものを鵜呑みとか・・・
117人間七七四年:2011/06/17(金) 08:07:56.81 ID:5zFaDz7A
三成も詐術くらいは平気で使うだろうに
118人間七七四年:2011/06/17(金) 08:39:24.70 ID:wGW1Mnai
クーデターした三成を「公式」っていうのはアレだな
119人間七七四年:2011/06/17(金) 09:17:49.29 ID:HkBPQFtj
家康は政権のお墨付きをもらって会津征伐に向かったが、内府ちがいの
条々はその正当性をはく奪するもので公式的には家康が逆賊。奉行衆が
連署しているのはそういうこと。欺術と呼ぶなら、家康の会津征伐も同
じ。
120人間七七四年:2011/06/17(金) 11:10:46.68 ID:nKa5hFtq

関ヶ原の戦いは、完全なでっち上げだった。

http://s1.shard.jp/deer/0203/39/266_1.html

日付は、平将門の乱に年月日とも一致させていた。
121人間七七四年:2011/06/17(金) 20:48:54.22 ID:wGW1Mnai
>>119
どっちも詐欺だな
122人間七七四年:2011/06/17(金) 22:20:27.58 ID:WUmznvdZ
家康の政権のお墨付きの前提条件が厳しいものがあるけどね。
400年後にこうして弁護に使える程度に役立たせる事もできたわけだから、意味あるんだろうね。
123人間七七四年:2011/06/17(金) 22:24:42.23 ID:2c0vB8ZD
まあ、会津遠征は奉行・大老の両方が認可してるが、
弾劾状は奉行のみなので家康の方がマシじゃないかな。
会津遠征だけが悪いから弾劾された訳じゃないけど。
124人間七七四年:2011/06/17(金) 23:15:43.65 ID:3J+q2wZD
形式的に結論を言えば、どちらも有効。
内府違いの条々で、家康の正当性を否定する事は出来ない。
家康は豊臣に弓を引いてはいないので、逆賊も非該当。
敢えて言うなら、非公式に奸臣。
125人間七七四年:2011/06/18(土) 02:42:44.65 ID:7KsF13TU
【文化財】関ヶ原合戦絵巻。石田陣営に38式歩兵銃をもつ男(画像有)
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/mitemite/1306046832/
126人間七七四年:2011/06/18(土) 08:08:52.00 ID:lAC2lbn1
詐欺師vs詐欺師
127人間七七四年:2011/06/18(土) 08:35:06.24 ID:DbLM/8+A
a
128人間七七四年:2011/06/18(土) 08:59:33.06 ID:el+qOiu5
>>123
在坂している輝元・秀家からも別に書状が出されているよ。
129人間七七四年:2011/06/18(土) 10:40:39.85 ID:H+c0J8fq
>>124
大坂城中枢の西の丸を奪われ
奉行衆と輝元・秀家によって内府たがひの条で
上杉征伐の不当性と秀吉の遺訓を逸脱した罪をあげられ
家康の正当性なんて完璧に失われてる。
さらに伏見城まで奪われ朝廷のある京まで押さえられた以上、家康は天下の謀反人。
130人間七七四年:2011/06/18(土) 11:04:13.70 ID:H+c0J8fq
家康にはたがひの条に対抗して
自分も正義を天下に訴える激文や反論を出すだけの
正当性も大義名分もなかった。
131人間七七四年:2011/06/18(土) 11:15:13.81 ID:R/h8h4Hk
>>130
何言っているんだが、受けて立つという時点で防衛という
名の正義が確立する
132人間七七四年:2011/06/18(土) 11:20:47.68 ID:JFPa3Yzq
>>131
むしろ受けて立ったら反逆になるよ。
大坂にいる大老奉行による弾劾状なんだから。
あくまで公式にはの話で諸大名がどう受けとるかは
別の話だけど。
133人間七七四年:2011/06/18(土) 12:06:00.42 ID:R/h8h4Hk
>>132
いや、弾劾状と同時に武力に訴えているのなら、それは既に実力行使であり、
それに力で対抗するのは立派な防衛行為
134人間七七四年:2011/06/18(土) 12:46:49.98 ID:JFPa3Yzq
論点がおかしくなってるけど、会津征伐における
上杉の状況と同じ。防衛行為だとかは関係なく、
豊臣政権から弾劾され、家康は会津征伐軍を率い
る正当性を失った。
135人間七七四年:2011/06/18(土) 13:17:50.71 ID:H+c0J8fq
>>131>>133
頭おかしいよお前
防衛=正義とか意味不明。
136人間七七四年:2011/06/18(土) 13:42:38.67 ID:R/h8h4Hk
>>134
それは豊臣政権とは何かという認識によって異なる
当時、実権を握っていた家康=豊臣政権という考えもできるわけだ

>>135
受けて立つ方が正義というのは、普遍的なもんだよ
137人間七七四年:2011/06/18(土) 14:05:00.50 ID:VhtSpwFl
家康によって二奉行一大老が逼塞に追い込まれたが、
大老奉行制自体が廃止になったわけじゃない。
少なくとも二大老三奉行は変わらず豊臣政権の中枢であり、
家康=豊臣政権だなんていう認識は勝手な誤ったイメージでしかないな。
138人間七七四年:2011/06/18(土) 14:13:29.62 ID:H+c0J8fq
>>136
家康=豊臣政権なんて考え方はできない。
秀頼様と母の淀を五大老と奉行衆が支える政治体制。
その体制を家康がぶち壊そうとしてるだけ。
受けて立つ方が普遍的に正義なら会津征伐における景勝が正義で家康が悪かよ…


そもそも家康=豊臣政権・受けて立つ方が普遍的に正義
と言う二つは同時に満たすことはできず完全に矛盾しまくって破綻してる。
139人間七七四年:2011/06/18(土) 14:18:14.30 ID:R/h8h4Hk
>>137
二大老三奉行の内、宇喜多は見習格、奉行二人は家康の補佐と遺言覚書にある
毛利は家康との間に毛利からは親子、家康からは兄弟の仲と言う誓詞を交わしており、
その意味で家康がトップという形は取られている
140人間七七四年:2011/06/18(土) 14:19:46.37 ID:R/h8h4Hk
>>138
弁明を求める家康に断り状出したじゃない
外交的妥協を拒否したことになる
141人間七七四年:2011/06/18(土) 14:22:47.17 ID:wCWnE7nm
淀と秀頼が三成に付かなかった時点で豊臣の認識は大老奉行の権力争いとしか見ていなかった。
どっちが正当かなんて無意味な論争。
142人間七七四年:2011/06/18(土) 14:23:45.67 ID:H+c0J8fq
>>140
直江状を出した方が正義なのか?
143人間七七四年:2011/06/18(土) 14:30:57.35 ID:R/h8h4Hk
>>142
外交的解決を打診して断られたから、軍事的解決
手順はしっかり家康は踏んでいる
144人間七七四年:2011/06/18(土) 14:31:25.07 ID:Kuc3gdVx
>>134
厳密な形式論で言えば、家康の正当性を取消す事は出来ないよ。
理由は、三奉行連署の添状に秀頼の署名がないから。
145人間七七四年:2011/06/18(土) 14:31:47.53 ID:Sla/82PL
どっちが正当かなぞいう虚しい論争は個人スレかなんかでやってろ
146人間七七四年:2011/06/18(土) 14:32:08.15 ID:H+c0J8fq
>>141
秀頼の奉公衆が三成に従って出陣してるし
そもそも大坂城二の丸が豊臣政権の政治中枢であり、
そこを失った時点で家康は下野させられたも同然。
関ヶ原後に輝元から二の丸を明け渡してもらうまで
家康が毛利領安堵のウソをつき続けたのもそのため。
147人間七七四年:2011/06/18(土) 14:34:42.62 ID:R/h8h4Hk
>>146
豊臣政権の政治中枢は聚楽第や名護屋城や伏見城の時もあったね
148人間七七四年:2011/06/18(土) 14:35:43.67 ID:H+c0J8fq
>>143
そんなの前例すらなく意味不明。お前がいま考えてだけだろ。
他に似た事例を列挙してくれ。
>>144
そもそも秀頼の署名がないなら何も認可されないなんてルール自体が存在しない。
149人間七七四年:2011/06/18(土) 14:37:10.66 ID:R/h8h4Hk
>>148
外交の結果として戦争が起きる
これが理解出来ないと言われても
150人間七七四年:2011/06/18(土) 14:41:20.40 ID:H+c0J8fq
>>147
利家も利長に自分の死後、大坂から3年は離れるなと遺言してるほどに重要。
利長がその遺言を無視して領国に帰った為に
代わりに大坂城西の丸に入った家康により前田は謀反の罪を問われた。
生殺与奪の権の源泉たる大坂城西の丸を維持する重要性とはそう言うこと。
151人間七七四年:2011/06/18(土) 14:44:44.31 ID:H+c0J8fq
>>149
家康の会津征伐における上杉が正義なのか?
152人間七七四年:2011/06/18(土) 14:46:50.59 ID:Kuc3gdVx
>>148
>そもそも秀頼の署名がないなら何も認可されないなんてルール自体が存在しない。
下位の者(三奉行)が、上位の者(家康)の正当性を否定するなら、
政権の首長たる秀頼の署名は必要でしょ。これが不要なら何でもありになるけど。
153人間七七四年:2011/06/18(土) 14:49:40.05 ID:jx1RVFUF
直江状と同時期の外交交渉でノーってなったから豊臣政権の決定として会津征伐が
決定したわけだから・・・・

直江状を却下したから不正義なら、豊臣政権全体が不正義になっちゃうなw
154人間七七四年:2011/06/18(土) 14:53:04.26 ID:Sla/82PL
上杉征伐においてはそういった文書が出てるのかな?

155人間七七四年:2011/06/18(土) 14:53:26.21 ID:H+c0J8fq
>>152
それいま思いついた話レベルのデタラメだろ。
豊臣譜代と言っていい奉行達は家康の家臣じゃないから家康の立場が上位とか別に拘束されないし。
しかも輝元と秀家も同意署名して会津征伐の暴挙を糾弾し、景勝の身分回復までやって家康の立場がひっくり返って逆転してる。
156人間七七四年:2011/06/18(土) 14:55:06.11 ID:JFPa3Yzq
奉行衆の連署による書状ということをもっと重視すべきでは。
関ヶ原研究の諸本でも違いの条々の影響の大きさは通説化しているけど。
157人間七七四年:2011/06/18(土) 14:58:09.30 ID:H+c0J8fq
>>153>>154
受けて立つ側が普遍的に正義とかバカな理論を作り出すから矛盾することになるんだよね。
それに直江状はちゃんと究明するように言ってるだけで対話解決を拒絶した文章じゃない。
158人間七七四年:2011/06/18(土) 14:59:26.27 ID:Kuc3gdVx
>>155
厳密な形式論でと言っているんだけど。
三奉行の添状は、政権の意思という点では形式的に不十分なんだよ。

159人間七七四年:2011/06/18(土) 15:02:09.53 ID:H+c0J8fq
>>158
元服すらしてない7歳の秀頼に署名させるわけねーだろ屁理屈たれんなアホ
160人間七七四年:2011/06/18(土) 15:03:07.99 ID:VhtSpwFl
>>139
「御奉行五人にも御成候へ、又おとな五人之内へも御入候て、
諸職おとなしく、贔屓偏頗なしに御肝煎候へと」
大老と奉行との調整役を命じられているが、見習いなんてどこにも書いてないんだけど。
奉行についても
家康は伏見で行われている業務の調整・相談役「諸職御肝煎」として置かれているわけで、
留守居の前田・長束が家康の補佐をしろだなんて一言も書いてない。
毛利が誓詞を交換したのは七将襲撃事件での反家康方敗北によって行われたもので、
本来の力関係を表すような代物じゃない。

意訳された文を適当に解釈するからこんな間違いをするんだよ。

まぁ、家康に与えられた権力の方が大きかったのは間違い無いが、
そもそも決定事項には奉行の承認が必要であり、
家康が重要事項を独断で決定して良いなどという権利は与えられていない。
その家康が豊臣政権そのものだなんていうのはあまりにも出鱈目な認識。
161人間七七四年:2011/06/18(土) 15:06:43.82 ID:Kuc3gdVx
>>159
秀吉お墨付きの筆頭大老を否定する政変だよ。
元服してないから、秀頼の署名は不要なんて理由にならないよ。
162人間七七四年:2011/06/18(土) 15:13:58.25 ID:H+c0J8fq
>>161
じゃあ聞くけど
秀吉の遺命で秀頼補佐として大坂城に詰めるのが前田と宇喜多で
伏見は権力集中を避けかわりばんこに交代で毛利て徳川が任じられていた。
その前田を家康が脅迫する時に秀頼の署名があったのかね?
家康より余程、前田や秀吉の養子で大坂在勤の秀家の方が豊臣政権における正当性があるんだが。
163人間七七四年:2011/06/18(土) 15:14:10.65 ID:JFPa3Yzq
奉行の発給文書が政権の意思を示しているのは
一般的な見解だと思うけど。秀頼が元服してい
るしていないは関係なく。
だから毛利宇喜多は別に書状を発している。
三成には軍資金を出さなかったというのも負けた
からで、そんなことはあり得ないと思うよ。
家康は逆境を跳ね返して勝利したのであって、
大規模挙兵を願ったり想定していたわけではなく、
ずっと正当性を持っていたわけでもない。
164人間七七四年:2011/06/18(土) 15:54:03.98 ID:Kuc3gdVx
>>162
前田・上杉の際は、大老奉行制に基づく手続は正当でしょ。
豊臣政権の政策として成立している。
家康の場合は明らかに異例なケース。
秀頼の署名なくば、弾劾状は家康罪状の羅列だし、添状は単なる檄文。
だからこそ、関ヶ原は豊臣政権下の私闘の位置付けであり、
戦後も豊臣家は西軍と無関係足り得た。
165人間七七四年:2011/06/18(土) 15:59:03.35 ID:JFPa3Yzq
前田上杉への詰問は正当な手続きで、家康弾劾はおかしいという根拠は。
166人間七七四年:2011/06/18(土) 16:07:49.78 ID:Kuc3gdVx
おかしいなんて言ってないよ。
秀頼の署名があれば、奉書としての形式は整うので正当なものになる。
あくまで、筆頭大老である家康の立場・正当性を、形式で否定するのなら、
厳密には不十分だという話。
167人間七七四年:2011/06/18(土) 16:16:09.46 ID:JFPa3Yzq
前田や上杉の詰問が秀頼の署名入りで行われた
というのも聞いたことがないが。
168人間七七四年:2011/06/18(土) 17:04:37.08 ID:Kuc3gdVx
その詰問状で、前田上杉の正当性が失われるものでもない。
求められているのは、詫びるか否か。
その切り口で言うなら、弾劾状及び添状で家康の正当性は否定されないよね。
169人間七七四年:2011/06/18(土) 17:31:46.59 ID:5ZsuX1ab
キチガイ粘着の毛利厨がまた無茶苦茶な論理を持ち出してるな。
毎回論破された挙句に根拠ゼロのケチを付け始める。
しかもまーた「おかしいなんて言ってない」とか曖昧な言葉を使って自分の意見を不明瞭にしてきてるしwww
秀次が死んだ後に出した誓約書には太閤の御法度・御置目を尊守する・違背した者は我々一同相談し成敗
自分に分別が無かったら司法担当の者たちの衆議に服する等々の誓約書を出してる。
そして家康は違背し司法の者達の衆議に服さないので成敗される立場になったわけだ。
そしてその司法と衆議とは下記のメンバーである。
宇喜多(義兄として逃れあるまじき間柄)と前田が下国せず秀頼の傅役として特別な地位にいて
しかも利長は秀頼に近侍し輔弼する奏者で利政は秀頼警護の詰番衆。
それに次ぐ者として家康・隆景・輝元・三成・長盛らは同格の地位とされている。
家康は謀反人・隆景は死去・利長も遺命を破り勝手に下国したから謀反人。
よって秀頼を補佐する秀家・輝元・三成・長盛が豊臣政権の意思そのものであり家康に一片の正義もない。
家康が専断により前田と上杉を謀反人に仕立て上げた手法よりも、
衆議で家康を謀反人にした秀家・輝元・三成らの方がより正式な手続きと故太閤の遺令を遵守してる。
170月孔雀:2011/06/18(土) 17:50:21.40 ID:73eSCF6b
要点だけ言え
171人間七七四年:2011/06/18(土) 17:51:26.51 ID:Kuc3gdVx
>>169
であれば、関ヶ原は豊臣VS徳川の構図という事だね。
豊臣政権が家康を敵性大名と見做すわけだから。
そうすると、戦後の豊臣家の待遇が説明出来なくなるんだけど?
是非、>>169を踏まえた上で、豊臣政権が西軍と無関係足りえた理由を説明してもらえないか?
172人間七七四年:2011/06/18(土) 18:03:09.33 ID:JFPa3Yzq
家康も「秀頼のため」をうたって戦ったわけだから、
当然豊臣の関与があっても叩き潰せない。
だからうやむやにする。
敗軍の逆賊三成には軍資金も出していないと認定する。
そこまでの権力確立にも至っていない。
大坂城に入っていて、「私たちは関与していません」
は本来はありえない話だよ。
173人間七七四年:2011/06/18(土) 18:41:36.65 ID:Kuc3gdVx
>>172
それは、家康の正当性が存在する場合の立てつけ。

>>169のように、家康の正当性が豊臣政権に完全否定され、
敵性大名として認識されるなら、その説明では不足。
174人間七七四年:2011/06/18(土) 19:34:21.43 ID:JFPa3Yzq
豊臣家にたいして何かしたら大義名分が嘘だった
ことになってしまうよ。西軍の方が公儀軍であっ
たことを認めることになる。
まぁ、こんな史料に基づかない話を続けてもしょ
うがないが、内府違いの条々の影響の大きさは研
究者の認めるところだよ。
逆にただの愚痴はき文ならわざわざ全国に発する
意味がないんだけどね。
175人間七七四年:2011/06/18(土) 21:18:06.44 ID:DbLM/8+A
宮本義己「徳川家康の豊臣政権運営−「秀吉遺言覚書」体制の分析を通して」(『大日光』74号、2004年3月26日発行)

176人間七七四年:2011/06/18(土) 21:18:27.78 ID:k6YtoPlA
>>174
秀吉死後、家康の野心は明らか。
その点で、『内府違いの条々』の意義が大きいのは勿論認めるよ。
ただ形式的な話として、これと添状では家康の正当性を否定する事は出来ない、
と言いたいだけ。(>>144

研究者の間では、>>169の言うように家康が謀反人として認められているのかい?
笠谷の読んだけど、そんな事書いてなかった気がする。支持するわけじゃないけど。
177人間七七四年:2011/06/18(土) 22:05:40.93 ID:wCWnE7nm
なんだ。毛利厨が必死になって三成の正当性を主張してたのか。
石田も徳川もお互いが正当性を主張しただけで、それによって諸勢力諸大名が靡いたということもないただの大義名分の掲げ合い。こんなものを持ち出してどっちが正しいとかアホかと。
しかも正当性ということなら豊臣恩顧の大名に奉行の座を追われた石田三成が何言ってもしょーもない。
178人間七七四年:2011/06/18(土) 22:32:31.69 ID:wCWnE7nm
秀吉死後の体制は羽柴家康が在京して政務をとり、長束増田が実務担当。
これは秀吉の遺言で、秀吉が羽柴家康に政権運営を任せたのは明らか。
179人間七七四年:2011/06/18(土) 22:40:11.50 ID:Sla/82PL
伏見の在番は前田じゃなかったか


180人間七七四年:2011/06/18(土) 22:44:57.88 ID:wCWnE7nm
>>179
一、奉行五人の内、徳善院・長束大両人は一番にして、残る三人内一人宛伏見城留守居の事。内府惣様留守居の事。
181人間七七四年:2011/06/18(土) 22:52:41.43 ID:lAC2lbn1
羽柴家康?
182人間七七四年:2011/06/18(土) 22:56:16.70 ID:wCWnE7nm
てか、秀吉の死後に家康が天下取りの野望をあらわにしたから三成が家康を排除しようとしたとか寝言を言う奴がいるんだけど、三成は秀吉の死後僅か9日後に家康と親しい浅野長政以外の奉行に起請文を取り付けてる。
これは三成が内府ちがいの条々で批判した「大名小名深重契約せしめ、誓詞など堅く御停止の事」という、大名間の私的な盟約の禁止に違反している。
183人間七七四年:2011/06/18(土) 22:59:27.78 ID:wCWnE7nm
>>180
羽柴内大臣
もしくは
正二位内大臣豊臣朝臣家康
184人間七七四年:2011/06/18(土) 23:15:15.86 ID:VhtSpwFl
>>182
おいおい、ひょっとして毛利輝元から四奉行宛の起請文前書案の事か?
これはその後大老から奉行に対して差し出される起請文の案文なんだけどw
「伏見ハ内府御座候て、諸職被成御肝煎候へと」ってーのも
政権運営を任せたなんて話じゃない。
徳善院は前田だしなw
なんていうか、2chで聞きかじった事を間違えて覚えた典型って感じだな。
185人間七七四年:2011/06/18(土) 23:24:03.27 ID:wCWnE7nm
>>184
徳善院が前田だから何?
186人間七七四年:2011/06/18(土) 23:36:38.51 ID:R/h8h4Hk
>>184
「肝煎」の解釈は結論出ていなかったはずだが
187人間七七四年:2011/06/18(土) 23:44:44.12 ID:el+qOiu5
つうか、政治的に西軍が政権を掌握したかどうかの話で、三成とか毛利も
好き勝手やってるじゃんという話も、家康が肝煎りだったかどうかもこの
場合あまり関係ない。

>>176
謀反人と言う言葉に過敏になってるのかもしれないけど、西軍は自分たちを
公儀と呼び、家康を徒党の大将みたいな呼び方している。
西軍は奉行だけ、大老だけ、奉行・大老一緒など書状も使い分けて発していて、
大名の改易、知行宛行なども行い、家康抜きの政権運営をしている。
188人間七七四年:2011/06/18(土) 23:51:24.65 ID:wCWnE7nm
何時も、内府、天守までも御上り候わんと仰せられ候えば、気遣い無く、上せ申すべし

これが全権移譲じゃなくて何なのか
189人間七七四年:2011/06/19(日) 00:00:04.89 ID:xG3xLDjI
>>187
謀反人てのは、Subの言葉をそのまま借りただけ。
190人間七七四年:2011/06/19(日) 00:08:51.67 ID:viCv5hEb
>>186
所謂政権の重要な決定事項は個別に定められていて、
伏見で前田や長束を中心に行われていたのは日常業務であり、
家康はその「御肝煎」だったという事。
「御肝煎」自体は広義に責任者という意味もあるが、
利家が「惣廻御肝煎」、宇喜多も奉行・大老の「御肝煎」とされており、
この場合はお世話係とか相談役といった意味合いが強い。

>>188
個別に取り決めがあるのに何でそれだけで全権委譲になるのか分からんが、
それだと大坂城に対して同様の権利を与えられている利家は
秀頼の代理人として最大の権力を握った事になってしまうんだけどな。
191人間七七四年:2011/06/19(日) 00:26:43.76 ID:OWCFFJIr
>>190
豊臣政権に専門職なんてあったかな
五奉行も明確に職務が分割していたわけではないし
192人間七七四年:2011/06/19(日) 06:47:55.65 ID:8umVHSlt
>>190
関東東北は徳川と上杉でやってね。
みたいなザックリした豊臣政権がそんな細かいこと決めてるわけないじゃん
193人間七七四年:2011/06/19(日) 09:36:03.22 ID:wqK+hg+W
家康に正当性があろうがなかろうがどっちにしろ豊臣政権ってどうしようもない政権だったってわけだな
三成とかなんでこんなの必死こいて守りたかったんだろ?
194人間七七四年:2011/06/19(日) 10:11:15.40 ID:4XUsNeqB
自分を失脚させた家康を潰して
家康が主導する現体制をぶち壊し
自分がより上位に立てる体制に変えようとしただけ
195人間七七四年:2011/06/19(日) 10:23:24.44 ID:MdlJdzb5
ところで基本的なところだけど、西軍勝ってたらその後はどうなってたん?
196人間七七四年:2011/06/19(日) 12:17:16.62 ID:YJtiJ7bu
豊臣政権が続く
197人間七七四年:2011/06/19(日) 12:32:30.89 ID:Ihkq2+L9
>>195
東国遠征が出来るかどうかによる。
自分は
福島さんと最上さんだけがとばっちりを受けて後は群雄割拠状態になると思う。
198人間七七四年:2011/06/19(日) 12:54:51.99 ID:ADIqB2ct
>>195
関ヶ原出陣組と大坂城守備組でモメるだろ・・・前者は戦功を主張するし
後者は秀頼様をお守りしていたと主張するだろうし・・・

普通に考えれば前者のほうが偉そうに出来るけど・・・当然兵力損耗している
だろうからね・・・醜い争いなりそうだw。

>>197
ムリじゃん?
半年後ぐらいに雁首粗揃えて東軍西軍みんな秀頼の前で謝るとか・・・
199人間七七四年:2011/06/19(日) 14:10:17.18 ID:8umVHSlt
>>194
三成は勝手に失脚した
200人間七七四年:2011/06/19(日) 14:48:24.48 ID:viCv5hEb
>>191-192
財務に関しては五奉行が担当し、家康・利家の請取を貰う事となっており、
目安に関しては富田、寺西ら十人衆、
直訴に関しては大老の合議で行う事などと決まり事は色々あるが、
基本的には実務を奉行が行い、その確認を家康・利家両人に取るという物が主。

五奉行に関しても石田・増田が諸侯の取次、前田が寺社・京の取締り、長束が財政。
(浅野は秀次事件や伊達からの絶縁状によって失脚するので、富田や大谷らが入ったり
するようになるが、基本的にこの四人は変わらない。)
201人間七七四年:2011/06/19(日) 15:06:32.08 ID:1CBXRb0F
二大老・四奉行制と呼ぶ、西軍が豊臣政権を掌握した時期の研究もある
202人間七七四年:2011/06/19(日) 15:45:59.14 ID:C0YbIN8x
大坂城在勤してない前田に続いて、上杉、さらに徳川が失脚しただけ。
関ヶ原敗報により大坂城から出た瞬間に毛利失脚。
大坂城を握る者が大義名分を掲げることができる。
そんなことは当たり前。
家康は三成が挙兵しても大津城や伏見城が落ちるわけねーから大坂城も安心と思って出陣したら見事に大坂城を奪われた。
なんせ家康の会津征伐にあわせて輝元も広島城へ帰っていったからね。
これは家康を安心させる為の罠だと言われてる。
なぜならその後の三成と安国寺の談合から輝元の反転大坂城行きが
あまりに迅速かつ話がうまく行き過ぎてるから。
203人間七七四年:2011/06/19(日) 16:09:51.66 ID:MkEV40Bg
西軍、大老、輝元・景勝・秀家 と四奉行。
東軍 大老、家康と後継者の利長 と一奉行。

これで、西軍勝てないのがおかしい・・・
204人間七七四年:2011/06/19(日) 16:13:35.02 ID:8umVHSlt
大老の国力は横並びじゃないから
205人間七七四年:2011/06/19(日) 16:33:33.49 ID:U+0dZEmV
それは毛利が致命的バカで自爆したから。
206人間七七四年:2011/06/19(日) 16:38:34.56 ID:Ch0JmLUW
そもそも関ヶ原における毛利の戦略目標は「豊臣」によって奪われた
東瀬戸内から北九州にかけての勢力の回復であり、
そんな毛利を味方に引き入れた三成の腹の中も見え過ぎるほど透けて見えるという物である。
207人間七七四年:2011/06/19(日) 16:46:29.79 ID:ADIqB2ct
徳川+前田=256+83=339万石
毛利+宇喜多+上杉=120+57+120=297万石

駄目だこりゃ。上杉は最上だとか伊達とかのお相手で忙しいし・・・
208人間七七四年:2011/06/19(日) 16:58:00.21 ID:+Ofe4YWS
宇喜多も騒動で弱体化して
まだ大して時間たってないしな
209人間七七四年:2011/06/19(日) 17:14:46.01 ID:1CBXRb0F
前田を東軍にカウントできるかどうか。
210人間七七四年:2011/06/19(日) 17:17:00.25 ID:U+0dZEmV
>>187
そうだよね、宇喜多内でも明石が戸川への書状であなたは家康の勝手にすべきだと言うが
自分らは秀頼様御勝手にすべきだと考えていると言っていて
家康側に豊臣の旗の下に戦っていたなんて証拠はまったくない。
>>191
>>豊臣政権に専門職なんてあったかな
誰も専門職とか書いてないだろ?
ひょっとして重要な決定事項は個別に定められていての文面の捏造解釈かい?
>>194
直接失脚させたのは秀吉の遺令を無視して不法クーデターを起した武断派だから。
>>206
>>「豊臣」によって奪われた東瀬戸内から北九州にかけての勢力
はっ?信長と宗麟連合に蹴散らされただけだろ。デタラメ吐いてんじゃねーよ毛利厨。
>>207
利長はお世辞にも家康を積極支援したとはいえないぞ。利政は積極的に石田支持して行動していたが。
>>208
明石は上方で勇名な武将を多く新たに召し抱えたから無問題って言ってる。
211人間七七四年:2011/06/19(日) 18:30:19.07 ID:yufQNOJz
宇喜田騒動以降って家康はかなり奉行スルーしたからな。
つまり、家康は今の日本の首相と似たような事していた事になる。

違いは豊臣家の財源っつー、埋蔵金が実際にあった事かな。
212人間七七四年:2011/06/19(日) 19:23:20.29 ID:C0YbIN8x
でさ>>144>>176はそろそろ同時期前後に
7歳の秀頼が家康が行った行動を認可署名した発給文書は見つかったのかい?
まさか秀頼が署名した発給文書がまったくない事実を隠してそう主張してるんじゃないだろうね。
それでは君には論拠がまったくなく、受け入れたくない事実に対してケチをつけてる荒らし行為でしかなくなるからね。
相手の意見を否定するに足る論拠を提示さないと反論もできず議論にすらならないといい加減に理解しようね。
>>188
前田は大坂城天守に登る権利を持ってる。
つまり家康は秀頼のいる大坂城に来るな!伏見城で黙って潤滑油の役割をやってれと言われてるだけ。
そしてその前田を恫喝した家康は会津征伐中には伏見城が落ちるわけないとタカをくくっていた。
確かに吉川も伏見城が落ちる以前には家康にびびっていて黒田親子に輝元は騙されただけとか弁明の手紙出してるが
伏見城が落城した後は黒田親子が逆に吉川を味方に付けようと必死に伊勢にいる吉川宛に手紙の返事全然来ないけど?とか
家康はすでに駿府まで出陣した(大嘘)とか説得しまくりだが無視されてるうちに安濃津城まで毛利軍に落とされてる。
213人間七七四年:2011/06/19(日) 19:32:01.14 ID:wqK+hg+W
つか大義名分得といて何であんなに無様に毛利は敗北したの?
214人間七七四年:2011/06/19(日) 19:39:25.16 ID:wqK+hg+W
結果的に西軍は大阪城を手に入れ、堂々と家康を糾弾した
そこまでやっておきながら全く東軍は崩れず、逆に大義名分を持ってるはずの西軍が崩れまくった訳だ
こう書くと大義名分ってなんなんだろうって話になるね(笑)
215人間七七四年:2011/06/19(日) 19:46:27.31 ID:wqK+hg+W
という事で大義名分は西軍にあって東軍に全くなかったと主張するのは良いけどなんでそれが全く影響を持たなかったのかと言うことも説明して欲しいね
216人間七七四年:2011/06/19(日) 19:46:44.67 ID:C0YbIN8x
毛利が欲をかきまくり各地の城を押さえようと兵力を分派しまくって増田とかから不信感を買ったから。
そのくせ初のいる大津城ではびびって本丸の確保に二の足を踏み
三ノ丸確保しただけで駐留毛利兵力も過小過ぎて
見事に京極高次の東軍決起を防げずに戦略を破綻させまくって
大津城攻略をせざるおえなくなり関ヶ原本戦に宗茂や秀包が間に合わないアホぶりも晒している。
217人間七七四年:2011/06/19(日) 19:58:18.32 ID:OWCFFJIr
>>216
別に家康が来ることを見越して攻めていた訳ではないんだが
218人間七七四年:2011/06/19(日) 20:05:31.51 ID:C0YbIN8x
輝元がなぜ関ヶ原に来なかったのかと言えば、火事場泥棒的手法で各地の城に兵力の分派をやりまくり
手元に兵力がまったくなかったから。
大津城へ攻略にあたり兵力増強要請にも輝元は元康の部隊(遅れて上京してきた宗茂や秀包の九州勢を併合)しかもうないと答えてる。

関ヶ原本戦で負けたらまったく意味のないことをやる戦略的失策をやってた。
219人間七七四年:2011/06/19(日) 20:55:29.21 ID:8SHnf9P3
瀬戸内沿岸から東軍の勢力を駆逐するって事は海上交通路の安全確保にもつながるんだから、あながち失策とも言えんと思うが。
まあ毛利の真意はどうあれ。
220212:2011/06/20(月) 01:12:41.27 ID:0JQ97Ejm
>>212
今頃レスされたので、正直驚いたよ。

まず、キミの問いかけについての回答は、今のところNoだね。
帰宅してから、ネットで調べてみたが見当たらないね。
今度しっかりと調べてみるよ。

でね。そもそも何か大きな誤解をしてないかな?
『内府違いの条々』、及び『添状』の有効性は否定してないよ。(>>124>>166
家康の正当性を無効し得るか否か、という事に絞ってる。(>>144
言うまでもなく、『〜条々』は家康罪状を並べ、『添状』で西軍挙兵経緯と秀頼への
忠節を掲げているわけでしょ?現代風に言えば、訴訟を起こした段階。
『結審=家康の正当性無効』とするには秀頼の署名が必要という事が言いたいのね。
花押なり黒印でもいい。
最初からずっと同じ事を主張してるんだけど、全く理解してなかいみたいだね。

ところで、>>169>>177で言ってる事が真逆なのはなぜ?
誰も毛利の話などしてないのに、特定IDを毛利厨と呼んでる人は同一としか
思えないんだけどなぁ。
221人間七七四年:2011/06/20(月) 01:13:46.81 ID:0JQ97Ejm

× 名前:212
○ 名前:144、176
222人間七七四年:2011/06/20(月) 01:28:55.73 ID:kIYzP2wx
>>220
秀頼の花押とか直筆にこだわるのはいかがかと思うんだよね。
上杉だって追討を受ける際に秀頼が署名したなんて話は聞かない。
家康が政権筆頭の立場にいたのは分かるが、上杉なら署名がいらなくて
家康だと必要になるなんて話はないと思うけどね。
223人間七七四年:2011/06/20(月) 01:45:58.19 ID:xWaC5SL9
>>220
>>169を見れば家康の正当性は完全に否定されたのがはっきりしてるでしょ。
現代風に言えば訴訟を起こしてる段階ってバカバカしい完全に屁理屈w
会津征伐される時の景勝が訴訟を起こしてる段階なのかね?
会津征伐に元服してない幼い7歳の秀頼の署名があったのかね?
それに家康に正当性がいのは宇喜多家臣明石の発言からもはっきりしてる。
そして秀頼の署名を調べて見つからないなどと今更言い出してるってことは
そもそも最初から論拠も根拠もなく
単なる思い付きレベルで秀頼の署名と言い出してケチをつけてるに過ぎないのが露呈。
>>169>>177が同一人物が書いたと思えるとは
お前が日本語に不自由な池沼だと証明してるな。
224人間七七四年:2011/06/20(月) 01:55:47.60 ID:0JQ97Ejm
>>222
わかりにくかったのなら、申し訳ない。
署名がないから無効とは言ってないんだよ。
それで西軍参加が不法になるわけではない。

ただ一点、『家康の正当性無効』について、
豊臣家の意思表示がなければ、これを確定させる事は出来ない、
という話。家康の非違性を西軍がぶち上げるのは勝手。
だからこそ、戦後に豊臣家が無関係足り得た。
225人間七七四年:2011/06/20(月) 02:01:35.27 ID:0JQ97Ejm
>>223
例え話に噛みついても仕方ないのでは?
なぜ宇喜多家臣明石の発言が絶対正しいと言える?

少なくとも、こちらはキミの問いかけには回答したわけだから、
>>171に回答してもらいたいものだ。
226人間七七四年:2011/06/20(月) 02:11:03.16 ID:xWaC5SL9
>>224
宇喜多秀家の戦勝祈願にねねが側近の大谷母を送っている。
三成の謀反を通報したはずの三奉行と淀が実は家康を騙していて三成と輝元を大坂入城させていたのが露呈。
そのため誤認し伏見城への手当てが遅れて落城。
豊臣譜代とも言うべき政権運営実務の奉行らが家康を糾弾し大老の輝元や秀家も同意。
特に秀頼の義兄にして大老の秀家は秀吉から無関係でいられない立場と見込まれ大坂在勤とされていた。
三成配下として秀頼旗本も参加。
秀頼の警護役で秀頼の旗本まとめ役だった利政も反徳川で挙兵。
227人間七七四年:2011/06/20(月) 02:12:15.78 ID:0JQ97Ejm
>>223
例えが面白そうだから、追加していいかな。

上杉の場合は、
家康が訴訟を起こしたけど、景勝が出廷しなかったので、
政権が強制執行かけた状態だね。
228人間七七四年:2011/06/20(月) 02:15:53.34 ID:0JQ97Ejm
>>226
それで何を言いたいのかわからないんだけど?
詳しく解説してくれないかな?及び、>>171の回答もお願いします。

仕事があるので、もう寝ますね。
229人間七七四年:2011/06/20(月) 02:18:13.09 ID:xWaC5SL9
>>225
秀忠隊を待たずに関ヶ原決戦をするハメになり武断派が活躍し過ぎて
戦後に徳川専制ができなくなり
武断派+徳川連合政権体制になったから
家康も武断派に妥協せざるおえなくなった。
一時的な利害関係で家康と結んだ武断派も憎き三成を葬った後は家康の味方ではなくなって豊臣存続し徳川との共存を目指していたし。
だから武断派主要人物が次々に死んでからやっと大坂陣が開始できた。
230人間七七四年:2011/06/20(月) 02:30:50.51 ID:xWaC5SL9
>>227
だからお前が言うには強制執行を正当化する秀頼の署名が必要なんじゃなかったのかよwww
そもそも会津征伐は衆議の合意を得ていない専断で厳密には秀吉の遺命にも反している。
しかし大坂城を実効支配している正当性で前田や上杉を謀反人に仕立て上げることに成功したわけだ。
これと同じことを三成らは大坂城で衆議の合意の上で執行し家康を謀反人にしたわけだ。
そして上杉の汚名を衆議で取り消ししたわけだ。
お前が家康の会津征伐を大義名分があると言うなら
当然に三成らが家康を謀反人にしたのも大義名分があり、上杉が名誉回復し家康が謀反人になったのも当然なわけだ。
しかしお前は矛盾することに家康は大義名分があるが三成には秀頼の署名がないから大義名分がないなどとむちゃくちゃを主張してる。
頭が悪いとしか言いようがない。
231人間七七四年:2011/06/20(月) 05:08:02.59 ID:IMdCvtou
毛利厨ってほんとバカだな。
>>224とか読むと完全に言葉遊びに過ぎず
論破されると言葉の意味を微妙に変えて
最初に言った定義から外れてるのも認識せずに
言い逃れを繰り返してるだけ。
232人間七七四年:2011/06/20(月) 06:59:53.68 ID:0JQ97Ejm
>>229
>>171の質問内容をキチンと理解してますか?
・キミの言う通り、家康の正当性が完全否定されるならば、
家康は謀反人と化し、敵性大名となる。
・即ち、関ヶ原は豊臣VS徳川の構図となる。
・であれば、戦後に豊臣家が西軍と無関係足り得た理由は何?

大体、家康が敵性大名になるならば、(豊臣)武断派自体に意味がなくなるでしょ。
この条件下、東軍に与した時点で武断派のグルーピングは消滅。
彼らは既に徳川派だよ。>>229の内容は、イキナリ破綻するけど。

>>230
強制執行は、国権の発動であり、そもそも正当なんですけど
出廷した側(家康)の主張を実現する強制力が働くわけ。
なるほど、議論で悪魔の証明を要求してくるレベルなわけだ。
繰り返すけど、大義名分というか、『内府違いの条々』及び『添状』
の有効性は否定してないよ。(>>220>>224
大義名分がないなんて、一言も言ってない。
議論相手の主張は正確にね。捏造は良くない。

大体、家康の正当性を完全否定し、謀反人扱いしてる研究者はいるのかい?
相も変わらず、キミの妄想としか思えないけど。
233人間七七四年:2011/06/20(月) 07:40:19.25 ID:jhlOmzuw
だから結局家康に正当性が失われたのに全く東軍陣営が同様せず、正当性を得た筈の西軍陣営の方が崩れまくった理由について一切触れないから全く説得力がないんだよ
234人間七七四年:2011/06/20(月) 07:42:56.58 ID:jhlOmzuw
毛利がどうとかで誤魔化そうとしてるけどそれとは無関係に東軍陣営が総崩れすべきじゃないか
東軍の豊臣恩顧大名が殆ど動かなかったのはおかしいだろ
235人間七七四年:2011/06/20(月) 07:50:31.58 ID:jhlOmzuw
まさか東軍に味方したのは全員三成が憎かったんだみたいな講談話を信じてるのか?
236人間七七四年:2011/06/20(月) 09:17:36.45 ID:HbeDwmr9
そもそも西軍なるものは岐阜城陥落に時点で事実上崩壊している。
岐阜城攻防戦は2次大戦におけるミッドウェーでありノルマンディーだった。
岐阜城が落ちた後は西軍に取ってもはや、どう負けるかという方法を決める過程。

関ヶ原の決戦は、西軍敗北の確認セレモニーに過ぎない。
237人間七七四年:2011/06/20(月) 12:05:59.74 ID:6JQ0zXII
三成は勝てるつもりだった。
238人間七七四年:2011/06/20(月) 13:00:37.89 ID:IMdCvtou
>>232
まーた悪魔の証明とかくだらん言葉を持ち出してんのアホ乙
別に大義名分のある方にみんなが付くとは限らないじゃん
三成憎しや利害で結束してるんだから武断派が大義に背くとは当たり前だし
大義がある方が常に勝つわけでもない。
家康に大義名分がないから、輝元を騙して大坂城を手に入れようとしてたんだし。
そして大坂城へ入城するとすぐに輝元を処分したわけだ。
大坂城を手に入れれば正当化されるからね。
しかし武功を挙げた武断派との連合政権となってしまったので豊臣を滅ぼすこともできなくなっただけ。
239人間七七四年:2011/06/20(月) 13:22:07.21 ID:qyADX/Aw
ワロスワロス
240人間七七四年:2011/06/20(月) 13:37:39.90 ID:jhlOmzuw
>>238
大義名分がない方が完全に団結して大義名分がある方が崩れたってそれは結局大義名分じゃなかったんだろ
241人間七七四年:2011/06/20(月) 13:43:43.46 ID:jhlOmzuw
つか全然説明になってないな
なんでその大義名分が全く影響なかったのか?
東軍全員三成が憎かったんだと本気で思ってるみたいだし(笑)
242人間七七四年:2011/06/20(月) 13:47:35.32 ID:jhlOmzuw
つか関ヶ原後に反徳川派閥が全く出てこなかったのは何故
諸侯連合政権というぐらい徳川の勢力は強くなかったのに
243人間七七四年:2011/06/20(月) 13:49:26.14 ID:Cdz7ZL6p
三成が正しいという前提に立つから矛盾が出るんだよ
244人間七七四年:2011/06/20(月) 13:57:00.22 ID:xWaC5SL9
>>232
とりあえず
強制執行は国権の発動・出廷した側の主張を実現する強制力
上記を規定保証する近代憲法なんて豊臣政権はいつ作ったのか教えてくれないか?
それともお前の脳内妄想世界のルールなのか?
245人間七七四年:2011/06/20(月) 14:06:39.35 ID:xWaC5SL9
大義名分で飯は喰えないし
大義名分で憎悪は消えないだろ。
大義名分は利害得失を超越できないことも知らんのか?
暴力団に大義名分が通用するのか?
対立構造はすでに利家対家康の時から存在してるもので、
三成挙兵から対立構造が生成されたわけじゃないことも知らないとは驚いた。
大義名分よりも対立の経緯が優先されるに決まってんだろ。
だから三成が死んだ後の武断派は必ずしも家康の味方だったわけじゃなく
家康も征夷大将軍になって豊臣政権から離脱し幕府を作っていくんじゃないか。
ほんとバカバカしいことを言い出すんだな。
246人間七七四年:2011/06/20(月) 14:08:29.56 ID:xWaC5SL9
>>240
俺も毛利の最強池沼バカぶりは理解できないよ。
247人間七七四年:2011/06/20(月) 14:09:20.74 ID:FPXoglq0
家康=暴力団

これがすべて
248人間七七四年:2011/06/20(月) 14:13:33.78 ID:jhlOmzuw
だから反逆者認定食らおうが全く動じることなく逆に認定した側から裏切りが出るなんてレベルの利害ってなんなんだって話だよ
そもそも利家対家康の時は必ずしも関ヶ原と同じ対立構造だった訳じゃないし
249人間七七四年:2011/06/20(月) 14:21:35.19 ID:jhlOmzuw
それだけ三成嫌われてたなら秀吉に殉死したほうが余程豊臣が残る可能性が高かったと言っていいレベルだわ
250人間七七四年:2011/06/20(月) 14:25:41.53 ID:FbL5HBPK
つか、大義名分て話だったか?
家康が謀反人認定される話じゃなかったっけ?

恩顧は当たり前だが、利害だけで謀反人に味方はしないだろ
251人間七七四年:2011/06/20(月) 14:26:07.67 ID:jhlOmzuw
もひとつ言うとなんで家康が豊臣を離脱して独自の政権作って行くことを別に家康の味方じゃない武断派大名は黙ってみていたの
252人間七七四年:2011/06/20(月) 14:27:19.17 ID:xWaC5SL9
>>248
毛利内が秀元や安国寺と吉川が内部対立してたからだろ。
問題児吉川広家は輝元とも仲が悪かったし自立したくて仕方がなかったが抑えつけられていた経緯もある。
大金を貸し付けて恩を施したり信長以来の家臣達から大ぶへん者と慕われたりと
利家との個人的友誼があるんだから完全に同じじゃないのは当たり前。
つかそのくらいも知らないから文句をつけても実例はあげられないんだろw
毎回書いてることが抽象的で曖昧だからなw
253人間七七四年:2011/06/20(月) 14:34:43.27 ID:xWaC5SL9
>>250
大義名分が利害得失を超越できるなら天皇が武家を実質的にも従えてし南北朝の争いも起きないよ。
>>251
だから老人家康が死ぬまでは妥協して共存共栄を図ってたら先に恩顧が次々死んだだけだろ。
家康だって恩顧が次々死んで自分が長生きできたから豊臣を滅ぼせたに過ぎない。
254人間七七四年:2011/06/20(月) 14:45:50.09 ID:FbL5HBPK
でなくてさ、家康が豊臣家から全否定され、謀反人認定されても、
福島・加藤は家康の味方をすんのかね?
255人間七七四年:2011/06/20(月) 14:52:26.34 ID:jhlOmzuw
一応吉川だって朝鮮攻めとかそういうのには大過なく従ってるのに家康討伐命令にのみ反逆するってのもおかしな話
後大阪の陣以前に秀頼が家康に挨拶しにいった時点で臣従してることになってるんだが
そん時にはまだ恩顧は生きてるし、突然急に行える筈がないんだからそこまでで全く反応がないのもな
承久も南北朝も結局大義名分を持った側が武士の恩賞を保証しなかったという理由がある
そういう風に具体的になんで豊臣の名分は効果が全くなかったのかをちゃんと説明しろって事
256人間七七四年:2011/06/20(月) 14:52:33.15 ID:xWaC5SL9
福島は黒田長政に踊らされただけだし
利家に付いていた清正は関ヶ原で必ずしも家康側に付いたわけじゃない。
むしろあえて上方に上らずにいたに等しい。
257人間七七四年:2011/06/20(月) 14:56:12.90 ID:jhlOmzuw
黒田も豊臣恩顧じゃん
加藤は家康に味方したかはともかく、小西を攻撃してる以上西軍についてる訳でもない
名分があるのにこの有様は酷すぎるよ西軍
258人間七七四年:2011/06/20(月) 14:56:17.42 ID:FbL5HBPK
おーい、全然回答になってないぞー
259人間七七四年:2011/06/20(月) 14:59:13.84 ID:jhlOmzuw
西軍についてないというか西軍とは明らかに対決してるだな
260人間七七四年:2011/06/20(月) 15:04:15.06 ID:xWaC5SL9
>>255
えっ?じゃあ吉川が朝鮮軍に味方すれば良かったわけ?まったく同列には語れん話を比較してバカなんじゃないか?
そもそも吉川は伏見城陥落前に黒田宛に輝は家康に敵意ないとレターしたが、
伏見城陥落後は強気になり黒田親子からのレターを無視しまくってるわけだが。
しかも吉川は伊勢で黒田が尾張にいたから手紙が届かない可能性はない。
吉川は関ヶ原で戦況有利な方に付くつもりで様子見してただけでもともと反逆を企ててたわけじゃない。
関ヶ原後に秀元は東軍に付くよう言われたが、和睦の話は知らんと拒否して帰ってるし。
突然急にって…秀頼の妻が誰だか知らんようだな。
お前の主張だと大義名分があれば飯が喰えるんだろ?
大義名分があれば利害得失を超越できるんだろ?
なんで利害得失の最たるものである恩賞の話を持ち出すのかね?
俺は再三に渡り、利害得失を超越できないと主張してるんだが頭がおかしいのかね?
261人間七七四年:2011/06/20(月) 15:08:01.38 ID:FbL5HBPK
つまり、家康が豊臣家から謀反人認定されても、
福島は、黒田に踊らされただけだから、家康の味方をするわけね

加藤は、必ずしも家康に味方したわけじゃないから、家康の味方をするわけか

意味わかんないんだけどな
262人間七七四年:2011/06/20(月) 15:21:49.09 ID:jhlOmzuw
>>260
別に朝鮮に味方する必要はないが家康に味方する必要もないだろ。豊臣の大義名分があるならさ
伏見落として強気の広家が結局利敵行為する羽目に何故なったのかって話だよ
更に具体的に家康に味方する事の利益を説明しろよって話
逆臣認定の東軍が動揺しない上に西軍側から裏切りが類発する程の利害ってなんなんだって話
秀頼の妻がどうとかって何?
263人間七七四年:2011/06/20(月) 15:24:08.37 ID:jhlOmzuw
つか大義名分なんて利害には勝てないとかいいながら大義名分がないから毛利を大阪から追い出せなかったとか連合政権にせざるを得なかったとかどっちなんだよって話
264人間七七四年:2011/06/20(月) 15:25:37.47 ID:xWaC5SL9
>>257
だから憎悪や利害得失で動いてるから恩顧だからみんな右習えじゃねーって主張してるのに日本語理解できないかね?
黒田長政なんて明らかに家康側だし、俺はそれを違うと主張した覚えもない。
清正はもともと反家康の利家側にいたので会津征伐には否定的ではあるが反三成・小西である為に西軍には参加しないだけのこと。
そもそも家康は坂東の儀を扱い、毛利と隆景が坂西の儀を扱う形だったので東国を中心に個人的友誼を作っていた大名も多く
さらに三成大谷蜂起初期に、淀や三奉行から家康に謀反したから上洛せよとレターがきた後の小山会議で
山内一豊を筆頭に東海道の豊臣恩顧が城を明け渡してしまっている。
その後に内府たがいの条がきてもすでに遅きに逸してる。
265人間七七四年:2011/06/20(月) 15:28:07.14 ID:jhlOmzuw
攻撃してるんだから参加しないってレベルじゃないと言ってるだろうが
266人間七七四年:2011/06/20(月) 15:31:29.59 ID:jhlOmzuw
東軍は結局利害で右ならえなのに名分で西軍は右ならえじゃないと
だから家康に味方すると西軍に味方するのではどういう利害の違いがあるって言うんだよ
それ具体的に説明しろよ
267人間七七四年:2011/06/20(月) 15:32:20.34 ID:FbL5HBPK
まぁ、あれだ
とりあえず、弾劾状で家康を全否定し、
謀反人に仕立ててる学者はいないだろ

お前さんの珍説として、ガンバってくれたまえ
268人間七七四年:2011/06/20(月) 15:36:08.75 ID:jhlOmzuw
仕方なしに家康に味方したという状況ならそれこそ西軍のように怠慢行為や内通行為みたいなのがあってもいいとおもうんだけどな
269人間七七四年:2011/06/20(月) 15:42:57.73 ID:xWaC5SL9
>>262
つうか糞毛利厨のお前はほんと気持ち悪いな。
自分は一切、具体的説明も回答しないでひたすら難癖つけまくり粘着でさ。
秀頼の署名見つかったのかよ?早く探せよ。
輝元や秀元や安国寺らと自立したい吉川は仲が悪いから対立的行動だってするだろ。
ちなみに広家が関ヶ原後に2カ国貰えるところを辞退して毛利本家安堵を願ったってのも最近の研究じゃ怪しい話になってきてるからな。
それに当時は東西に親子兄弟を分けて生き残りを図っているから必ずしも東軍の方は盤石だったわけじゃない。
藩譜ではことごとく家康が勝つと思ってたとか書いてるがな。
>>263
大坂城=大義名分が無ければ政権を指導できないからだろ。
だから輝元を騙して明け渡させた。
輝元が秀頼と大坂城に籠城したなら家康は大義名分をもって論功行賞をすると言う立場の逆転ができなくなるので完全勝利にはならん。
270人間七七四年:2011/06/20(月) 15:46:52.80 ID:kIYzP2wx
「石田三成、毛利輝元など反家康派は「内府ちかひの条々」を出して
家明日のこれまでの恣意的政治行動を激しく非難した。このことによ
り家康の政治的正当性ははく奪され、上杉景勝討伐も中止せざるを得
なくなった」白峰旬『新関ヶ原合戦論』2011
271人間七七四年:2011/06/20(月) 15:47:01.04 ID:jhlOmzuw
じゃあなんで大阪城の西軍は家康と同じようにしなかったの?
272人間七七四年:2011/06/20(月) 15:51:19.87 ID:jhlOmzuw
家康が結局手に入れた大義名分を存分に生かす事が出来て三成が全く出来なかった理由はなんだ
273人間七七四年:2011/06/20(月) 15:56:44.72 ID:xWaC5SL9
もうマジできめぇわ。
自演して大量質問粘着。
自分は一切、具体的説明はしないし
質問は黙殺し続けるだけ。
俺の意見を必死に否定しても
お前の意見が正しいとはならないのにバカか。
無職のお前と違い俺はそろそろ仕事に戻らんとだからまたな。
274人間七七四年:2011/06/20(月) 15:58:11.99 ID:jhlOmzuw
具体的な利益論が欲しい
後大義名分が西軍にあるのに何故東軍側も勝てそうなんで判断が出来たのかと言うことも
275人間七七四年:2011/06/20(月) 16:01:59.85 ID:kIYzP2wx
忠興が加藤嘉明と小山に引き返すと、家康は「この前は上方へ出陣すると言った
けど、『上方一統』した上は、まず江戸に在城するよう」命じた。
                             『綿考輯録』

『上方一統』は大老や奉行の離反が確実となったことを指すと考えていいと思う。
兵力的な問題だけではなく、大坂城が西軍についたことも含まれると思う。
8月3日に政宗が井伊らに宛てた書状では、三成らは大坂を掌握しようとするだろ
うから、人をやって奉行衆を諌めるべきだと大坂の離反を防ぐよう提言している。
家康が政宗に通報した時点で奉行衆の離反を知っていたのか、知らなかったのかは
微妙なタイミングだが、知っていて教えなかったのなら、家康はそれを隠していた
可能性もある。政宗が信用できないだけに。
276人間七七四年:2011/06/20(月) 16:03:16.95 ID:jhlOmzuw
つか西軍が大義名分を得て東軍は謀反軍になったというのはお前さんの理屈で納得は出来るんだよ
具体的だし
ただなんでそれで結局西軍が勝てなかったのかというのが全く意味不明だからな
東軍全員が三成に恨みもってた訳ないだろうし
利益利益って具体的にどういう利益なのかっつうのもわからんし
西軍陣営に裏切り続出した理由もわからんし
277人間七七四年:2011/06/20(月) 16:08:10.56 ID:IMdCvtou
毛利厨のゴキブリ自演の相手をするのは時間の無駄だとあれほど・・・
>>270>>273が登場するや>>276のように平気な顔して
>>お前さんの理屈で納得は出来るんだよ
なんて恥ずかしくもなく口走るんだぜwww
明らかに自分の意見を言えと言われると
まったく意見が言えないのがこのキチガイのキチガイたる所以だから。
278人間七七四年:2011/06/20(月) 16:10:25.27 ID:jhlOmzuw
結局なんで勝てなかったのかは説明出来ないと
結局どっちが勝つかって値踏みされてる時点で西軍が持ってる大義名分なんてって事になるわな
279人間七七四年:2011/06/20(月) 16:11:44.77 ID:jhlOmzuw
まあ結局の所西軍の大義名分なんて全然たいしたもんじゃないだろうって事だとしか
280人間七七四年:2011/06/20(月) 16:23:08.56 ID:jhlOmzuw
そもそも当初の条件だけ見れば圧倒的に東軍不利ましてや大義名分が西軍側にあるなら尚更
それなのに全く東軍陣営はたいして動揺せず家康に付き従ったってのは余程の事だろうに
その説明が憎悪だろうとか利益だろうとか言われてもな
結局西軍は周りからナメられててその名分も周りから見れば怪しいものでしかなかったっつう事じゃないの?
281人間七七四年:2011/06/20(月) 16:23:48.48 ID:qyADX/Aw
判官贔屓って本当に面倒くさいな
282人間七七四年:2011/06/20(月) 16:31:15.11 ID:jhlOmzuw
別に理由は憎悪でも利益でもいいかも知れないが具体的なのが欲しいよ
別に東軍全員が三成恨んでたわけないし利益なら余程の利益になるだろうし
283人間七七四年:2011/06/20(月) 16:32:18.94 ID:IMdCvtou
ゴキ毛利厨が「急度」の解釈で思いっきり自演してたのがバレてるし
秀頼の署名なんて無いのに平気で家康の会津征伐はOKだが、
三成や輝元は秀頼の署名ないからダメとか矛盾してるとか
突っ込まれると平気で開き直るキチガイゴキなんだぜ。
>>113の時だってゴキのマネして
じゃあ>>三成は自分が豊臣一族に列せられる存在であると思い上がっていた
って言うソース出せよwwwって俺なら理不尽な要求するね。
それにコピペに下記の内容を意図的に隠蔽してるし
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1255151293/425

ゴキは執拗に粘着して相手が嫌気をさすまでケチをつけまくり
最後にレスしたヤツが勝ちだと思ってんのよ。
そのゴキの思想は下記レスのリンク先で存分に発揮されてる。
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1255151293/349
どやゴキの根拠も具体例も欠如した>>278>>279>>280の妄想レスの数々。
これがゴキや。何が主張したいのかまったくわからない虚文駄文ぶり。
このクソ文で自分の勝利宣言とするつもりだろうw
しかしその不明瞭な主張にはまったく根拠も具体例も無い。
いい加減に論法の勉強して欲しいわな。
284人間七七四年:2011/06/20(月) 16:39:19.13 ID:IMdCvtou
さてここからゴキ毛利厨が自分の意見をはっきりと
具体的な例をあげて主張しますので御期待してください。
285人間七七四年:2011/06/20(月) 16:44:44.17 ID:IMdCvtou
あっそれとゴキ毛利くんさー相手の意見に対して
反論や否定をする時は論拠をちゃんとつけてください。
自分は一切質問に答えないでバカみたいに質問攻めをするのは
バカのやることなんで。
つうか質問にもちゃんと品位と良識を持ってね。
ゴキは根拠もなくケチをつけたりイチャモンつけたりと低レベルな文句ぶりを発揮してるからね。
286人間七七四年:2011/06/20(月) 16:45:00.00 ID:jhlOmzuw
まあ結局家康と輝元、三成の勢力の差だわな
287人間七七四年:2011/06/20(月) 16:46:49.40 ID:FPXoglq0
毛利一門が参戦しなければ
西軍は勝っていた。
288人間七七四年:2011/06/20(月) 16:48:26.98 ID:IMdCvtou
>>286
ゴキ君、はやく自分の意見を発表しなさい。
そのレスは何を意図したレスなのか根拠とともに陳述しなさい。
289人間七七四年:2011/06/20(月) 16:49:18.91 ID:FbL5HBPK
よっぽど悔しかったんだなー
290人間七七四年:2011/06/20(月) 16:50:53.38 ID:jhlOmzuw
結局豊臣家の名分なんてそれ自体はたいしたもんじゃなくてだれがそれを利用するかが重要だってこと
根拠
なんだかんだで東軍は全員家康に最後までついてったが西軍は瓦解しました
以上
291人間七七四年:2011/06/20(月) 16:50:56.92 ID:IMdCvtou
FbL5HBPK=jhlOmzuw
相変わらず回答を避ける同じ思考回路wwwさすがゴキゴキくん。
292人間七七四年:2011/06/20(月) 16:53:45.81 ID:jhlOmzuw
つかやっぱり東軍が勝って西軍が負けたと言う以上の根拠はないと思うわけだよ
293人間七七四年:2011/06/20(月) 16:54:13.18 ID:IMdCvtou
なんら語れないアホゴキぶりに失笑www
294人間七七四年:2011/06/20(月) 16:58:22.37 ID:IMdCvtou
おいゴキ
ちゃんと論述しろよ。
「〜と思いました」じゃ小学生以下だぞ。
感想文かよwww
295人間七七四年:2011/06/20(月) 17:07:07.57 ID:jhlOmzuw
西軍は当時の首都である近畿圏を押さえ、諸大名の妻子を人質に取る事も可能という物理的な面で有利なのは間違いないしその上で正当な豊臣家の支援があったとするならば名分的に西軍が有利になり、諸大名もその条件の元動くはず
でも結局は東軍陣営は全く動く事なく逆に西軍陣営の方が崩れてしまった
この事から結局西軍の得た物と言うのは敵からみても味方からみても日和見組からみてもお世辞にも大したものではないのが分かる
その結果として名分を得たのは事実としてもそれは薄弱なものである
296人間七七四年:2011/06/20(月) 17:18:05.90 ID:IMdCvtou
おいゴキ、
その発言のどこにお前がケチをつけていた対立相手との争点があんだよ?
対立相手は別に大義名分が大したもんだなんて主張してなかったはずだぞ。
薄弱かどうかも争点になってない。
お前はただケチが付けたかっただけで粘着してたんか?
お前の主張がまったくもって不明瞭。
なんで対立相手に粘着してケチつけていたかも不明。
297人間七七四年:2011/06/20(月) 17:21:59.39 ID:jhlOmzuw
結果的に東軍が謀反軍になったってのは後世の感覚であって当時としては全くそんな事はなかったって話
家康が謀反人だなんて馬鹿馬鹿しい話だってこと
298人間七七四年:2011/06/20(月) 17:22:35.30 ID:IMdCvtou
>>295
でさゴキさ〜
単に事実の羅列ならわざわざ書かなくていいから。
299人間七七四年:2011/06/20(月) 17:25:59.42 ID:FPXoglq0
立派な謀反人ですよ。
300人間七七四年:2011/06/20(月) 17:26:25.39 ID:IMdCvtou
>>297
ゴキさ、その結果を出すに至るまでの
根拠やソースや判断材料を出せって言ってんだよアホなの?
当時の感覚について詳しく陳述してくれよ。
なんで結論に至る経緯を書けないの?
301人間七七四年:2011/06/20(月) 17:27:41.16 ID:yLYdT8+G
というか、大坂を手に入れたから西国の大名が
東へ行くのをやめて西軍に属した。
東北では会津征伐軍が解体され、家康も許可前に
帰国した諸将に強く出られない。最上や伊達すら
も上杉に通じる動きを見せた。
302人間七七四年:2011/06/20(月) 17:31:09.29 ID:jhlOmzuw
判断材料は結局東軍陣営が動揺する事なく西軍陣営の方が瓦解したと言う事
家康が謀反人と言う感覚が当時にもあったならこんな結末にはなりえんだろう
303人間七七四年:2011/06/20(月) 17:32:50.36 ID:jhlOmzuw
>>301
でなんで結局西軍の方が先に瓦解したのかという説明をよろしく
304人間七七四年:2011/06/20(月) 17:39:31.03 ID:FPXoglq0
大義名分を掲げたからこそ毛利を担ぎ出すことに成功し、
西軍は多くの兵を集めることができたのですよ。
戦略の1ファクターに過ぎないのです。
大義名分=勝利ではないですよ。
305人間七七四年:2011/06/20(月) 17:41:26.77 ID:IMdCvtou
>>302
じゃあゴキさ、家康がなんで謀反人じゃないなら
家康は大老・奉行たがいの条を出して
正々堂々と大義を掲げて相手を謀反人呼ばわりしなかったんだ。おかしいじゃないか。
306人間七七四年:2011/06/20(月) 17:44:13.09 ID:IMdCvtou
>>303
なんで会津征伐軍が先に瓦解したのか教えて
家康が圧倒的有利ならニ方面作戦やれただろ。
伊達・最上・佐竹・堀・蒲生などで上杉をフルボッコさせればいいんだから。
おかしいじゃないかゴキくん。
307人間七七四年:2011/06/20(月) 17:44:40.91 ID:jhlOmzuw
とは言うが曲がりなりにも主君の名分を得てかつ相手の名分を無意味にまでしといて結局その程度かよって感じだな
結局毛利に裏切りが出たし西軍大名も殆どやる気ないまま終わったし
豊臣の名分が大した事ないならなんだかんだで勝者の家康が豊臣に気を使った理由もないしな
308人間七七四年:2011/06/20(月) 17:52:37.34 ID:FPXoglq0
小身者が街頭演説で大義名分叫ぶより
大身者が裏で根回しした方が勝ったというだけだろ。
309人間七七四年:2011/06/20(月) 17:54:01.59 ID:NsVr3x9/
関ヶ原なんて豊臣政権内の権力争いなんだから、どっちが謀反軍とかどっちの言い分が正しいかなんて詮索しても無意味。

石田三成が正当で家康が謀反軍とか泣きながら強調してる奴はただのバカだろ。
310人間七七四年:2011/06/20(月) 17:55:20.88 ID:jhlOmzuw
>>305
謀反人として三成以下斬首したけどな
逆に家康はそういうのを出せない程追い詰められてるのに何故西軍は押し切れなかったのか?
>>306
つか物理的条件だけなら東軍圧倒的不利って書いたじゃん
更にそれに名分まで西軍有利なら普通西軍勝ってたろう、でもそうでないからという話
311人間七七四年:2011/06/20(月) 18:02:17.70 ID:FbL5HBPK
豊臣政権内の権力争いではなく、豊臣軍と謀反軍の争い




と騒いでる奴がいるわけだ
312人間七七四年:2011/06/20(月) 18:02:46.12 ID:yLYdT8+G
>>307
正当性を失った家康はあくまで西軍は豊臣政権とは
別物、秀頼を救うとしてギリギリで諸将をまとめて、
勝利した。だから、戦後に豊臣を潰す訳にはいかない。
東軍の多くは会津征伐で家康に従って東に下った大名。
すでに独自の判断で行動しにくくなっている。

最初から終始東軍有利だなんて思ってる人もいるのかな。

313人間七七四年:2011/06/20(月) 18:11:53.11 ID:jhlOmzuw
東軍はむしろ不利だったなんて既に言ってるだろうが
それなのに何故勝てたのかという理由の一つが結局西軍への豊臣政権の支援が薄弱であると東軍や西軍の諸大名が理解していたという事だろうって事
314人間七七四年:2011/06/20(月) 18:19:08.64 ID:jhlOmzuw
なりゆき上家康に従ってるだけなら怠慢行為や内通行為があってもおかしくないのにむしろ豊臣家の大義名分の下に集まった筈の西軍の方にその兆候があったからなぁ
315人間七七四年:2011/06/20(月) 18:19:25.20 ID:yLYdT8+G
西軍への政権の支援が薄弱?
根拠は
316人間七七四年:2011/06/20(月) 18:28:04.64 ID:jhlOmzuw
>>315
大阪城に西軍を入れ、御先手組まで関ヶ原に出している、そこまでしてるのに東軍に動揺があまりみられなかったんだから結局豊臣家が本気じゃないと思われてたって事かな
317人間七七四年:2011/06/20(月) 18:36:30.57 ID:yLYdT8+G
東軍に動揺が見られないのと支援が薄弱というのは別では。
318人間七七四年:2011/06/20(月) 18:39:41.89 ID:jhlOmzuw
家康は政権と西軍が別物と言う理由で諸大名をギリギリ纏めてたんだろ?
それで実際に政権がしっかり西軍を支援してたならそれをみても東軍が動揺しないのはおかしいじゃん
319人間七七四年:2011/06/20(月) 18:45:34.95 ID:yLYdT8+G
>>318
君のいう政権って何を指すの?
320人間七七四年:2011/06/20(月) 18:47:42.20 ID:jhlOmzuw
豊臣家
321人間七七四年:2011/06/20(月) 18:56:17.90 ID:yLYdT8+G
政権というのは、秀頼を推戴する二大老四奉行による実質運営
部分を指すのが一般的では。
322人間七七四年:2011/06/20(月) 19:06:28.76 ID:jhlOmzuw
そうじゃなくて豊臣家自身の事だろ
それが正当な政権だと東軍諸大名が考えてるならなんで家康についてるのかって話だし
323人間七七四年:2011/06/20(月) 19:31:52.21 ID:jhlOmzuw
政権の支援じゃなくて豊臣家の支援と言った方が良かったな
ごめん
324人間七七四年:2011/06/20(月) 19:39:00.81 ID:yLYdT8+G
東軍の受け止めはまた別でしょう。
ただ、東軍と呼べるかはわからない黒田如水は「天下の儀について、
輝元さまが大坂に入って御意見するのはめでたい。こうなれば秀頼
さまに別心するものはいないでしょう」と書状を出してるけど。
325人間七七四年:2011/06/20(月) 19:42:55.87 ID:jhlOmzuw
かと言って結局如水も西軍に味方した訳でもなし。
326人間七七四年:2011/06/20(月) 20:04:11.60 ID:jhlOmzuw
実際状況だけみてみれば諸大名が西軍に軒並み雪崩こんでもおかしくない状況な訳で
結局なんでそういう状況にならなかったんだろうね
327人間七七四年:2011/06/20(月) 20:36:29.21 ID:EL2jgsep
家康にそれだけの力があったから
328220:2011/06/20(月) 21:35:29.02 ID:kNk1diWZ
帰宅してみれば随分レスが進んでて驚いたな。
ざっと読んだけど、>>232については、今朝からほとんど変化なさそうだね。
質問は変わらず一つ。
>・キミの言う通り、家康の正当性が完全否定されるならば、
> 家康は謀反人と化し、敵性大名となる。
>・即ち、関ヶ原は豊臣VS徳川の構図となる。
>・であれば、戦後に豊臣家が西軍と無関係足り得た理由は何?

これの回答らしきは>>238みたいだね。
二番煎じで申し訳ないけど、なぜ突然『謀反人』が『大義名分』にすり替わる?
そもそもこの質問の流れは>>169>>171。キミ自身が、家康を謀反人と断じている。

>家康は謀反人・隆景は死去・利長も遺命を破り勝手に下国したから謀反人。(>>169)

大義名分の有無と、謀反人に該当するか否かは、全く意味が違うでしょ。
『大義名分有りや無しや』ではなく、『謀反人に該当するや否や』で再回答して欲しい所。
もちろん、キミに都合が悪いなら強要はしないけどw
329人間七七四年:2011/06/20(月) 21:53:10.16 ID:PzNDmxWS
ところで基本的なところだが上杉は西軍?
330人間七七四年:2011/06/20(月) 22:09:00.82 ID:kIYzP2wx
>>329
会津征伐時は豊臣VS上杉
三成挙兵後は西軍
直江が本庄繁長に「公儀のためと思い、奪われた白石城のことは忘れて
伊達との和睦を続けろ」と書状を送っている。
上杉の認識は西軍が秀頼を推戴する公儀。
景勝も上方の奉行衆に「関東攻めをしたいけど、伊達と最上が慮外に様子見を
している」と説明している。伊達や最上は上杉に従うのが当たり前なのにという
考え方。上杉は徳川とともに東国の締まり役と考えられるので、豊臣政権の幹部
としての行動を貫いている。
331人間七七四年:2011/06/20(月) 22:19:40.24 ID:EL2jgsep
つまり、東軍にとって家康のいない豊臣政権なんて鼻糞以下の存在だったということだな
332人間七七四年:2011/06/20(月) 22:28:03.49 ID:jhlOmzuw
極一部の西軍以外の間違い
333人間七七四年:2011/06/21(火) 00:38:17.56 ID:fP9vArQd
>>331
最上も伊達も上杉に従う姿勢を見せている。
ただ、上方の情勢が分からないために中途半端な態度をとる。
その状況下での景勝書状。
上杉はより小さい最上のほうを先に攻撃して屈服させようとする。
この時点で伊達は上杉と和睦中で、最上からの援軍要請にも慎重な
態度で最上の息子を一時軟禁している。
334人間七七四年:2011/06/21(火) 01:02:28.33 ID:EFOktHUe
輝元を総大将に据えながらみんなバラバラに動き回った結果だろ?西軍の敗北は
335人間七七四年:2011/06/21(火) 03:16:00.84 ID:57OKUn5h
>>326
いくら西軍が2大老3奉行に豊臣の名前を冠したところで
現実に西軍を仕切っている(少なくとも一番目立っている)のが名前の記載されていない三成だからな
西軍は大義名分と実態運用が致命的なまでに乖離しすぎている
大義名分というのはそれに従った運用が現実になされて初めて意味のあるものだ
むしろ西軍の実態運用は三成が黒幕として謀反を起こしたという東軍の大義名分に正当性を与えている
西軍の中で三成に騙されたと感じた大名は内通をするだろうし
逆に東軍は自分達の大義名分が正しかったと確信して真面目に戦うだろう
西軍の掲げた大義名分というのは所詮は紙の上のものでしかないわけ
336人間七七四年:2011/06/21(火) 06:08:52.31 ID:hrWQa2rq
つかさっきから必死に伊達と最上は上杉に従おうとしてるんだ。だから西軍が正当なんだと主張したいのがいるみたいだが、結局実際に従わなかった訳で…
337人間七七四年:2011/06/21(火) 06:11:25.43 ID:hrWQa2rq
実際に内府違いで上杉が正当になったと言うのなら奥羽大名全部率いて徳川領に攻めいるぐらいやれないとダメだろ
338人間七七四年:2011/06/21(火) 06:55:56.91 ID:iJT59+dx
>>328
>>276で「東軍が謀反軍になった」と認めたんじゃなかったのか。
完全に敗北宣言を出した後に
なんで東軍が勝ったのかわからないって質問形式で言ってるだけなのに
その後に開き直ってわからんないからお前が間違ってる!みたいなバカバカしい主張へ変化し始めていくいくから笑える。
>>335
>>283のリンク先に三成が署名してるものがあると言ってるのにも関わらず黙殺し
相変わらず名前が記載されてない黒幕三成とかデタラメを吐いてるのが笑える。
>>336
会津征伐で最上口にやってきた南部や安東らは三成挙兵で瓦解し、最上は上杉に従うとの書状を出し、
伊達も和睦へ動き出してる。家康の謀反人化により、様子見で両天秤をかける方向への変化がある。
家康は坂東の大名の取り次ぎ役で個人的友誼の積み重ねがあったはずなのにね。
三成が好きでもなかったし、毛利への隷属化を嫌った黒田如水や加藤清正らも火事場泥棒的に領土拡大を目論んでたに過ぎんし
事実、九州平定寸前になりそれを危険視した家康が急いで島津侵攻にストップをかけたわけだ。
それに家康は会津征伐に行くにあたり、蜂須賀や生駒など必ずしも家康のやり口に賛同しなかった諸将の幼い嫡子を戦習いと称して半ば拉致って連れていくことで嫡子を人質にしたり
小山会議では細川情報である輝元蜂起を隠して、淀や三奉行から三成が謀反したから早く上洛して討伐しろと言われたと騙してるし
その際に東海道の恩顧大名の池田や田中や中村や堀尾や山内や福島などは城を家康に明け渡してしまってる。
そしてそこには利家vs家康だけでなく秀次事件による影響まで生じてる。
朝鮮遠征での憎悪以外にもいろいろと西軍に従えない私利私欲があった。
それは吉川広家も同じで、豊臣政権から冷遇されたり過少評価させられたり
政権から除外されたものたちの家康を使ったクーデターだったわけた。
だから家康も三成らの政権を揺するべく蔵入地をやるとか伊達には百万石やるとか欲望をばらまいた。
しかし三成らは秩序を守る側だからそういうばらまきはあまりやらなかった。
しかし輝元が領土拡大を狙っていくので大義名分に綻びが生じるなど西軍が憎悪で統一されてないだけに弱さがあった。
339人間七七四年:2011/06/21(火) 07:04:58.98 ID:iJT59+dx
内府たがいの条や大義名分が神レベルの強制力があり
憎悪や欲望を消し、みんなが宗教のように慕い従う絶対の真理で
全国の大名が家康を見捨てる
そんなことは誰も主張してないのに
上記の状況にならないからお前の言ってることはおかしいって言うバカバカしい基地害論法がまず小学生レベルの思考
340人間七七四年:2011/06/21(火) 07:22:44.52 ID:hrWQa2rq
結局豊臣政権には最早力が無く、三成もアホだったから西軍が負けたって事か
341人間七七四年:2011/06/21(火) 07:25:05.10 ID:hrWQa2rq
むしろ西軍見捨てた大名の方が多かったと言うのが何とも…
所詮秀吉以外の豊臣大名は家康にはとても及ばなかったんだなぁ
342人間七七四年:2011/06/21(火) 07:28:55.80 ID:hrWQa2rq
結局として最上は上杉に反抗し、東軍は毛利が参加するとわかっても動揺せず、大勝利した訳で…
逆にそこまで西軍圧倒的有利状況からあんな大惨敗になったのか
343人間七七四年:2011/06/21(火) 07:34:32.29 ID:hrWQa2rq
要は家康を謀反人にする事は出来たけど全く効力はなく、逆に三成への憎しみのせいで東軍は一致団結出来たって事でいいのね
344人間七七四年:2011/06/21(火) 07:35:24.43 ID:iJT59+dx
だから毛利がバカな自爆したからだろ
345人間七七四年:2011/06/21(火) 07:39:40.74 ID:hrWQa2rq
毛利の馬鹿な自爆ってなんぞや
岐阜攻め当たりから東軍猛反撃し始めてるけど何かやらかしてるっけ?
346人間七七四年:2011/06/21(火) 07:43:16.91 ID:hrWQa2rq
つか東軍が瓦解しなかったのは三成への憎しみと三成がしっかり諸大名に利益を約束しなかったせいって訳か
そりゃ負けるわ
347人間七七四年:2011/06/21(火) 07:45:38.32 ID:fP9vArQd
>340 :人間七七四年:2011/06/21(火) 07:22:44.52 ID:hrWQa2rq
>結局豊臣政権には最早力が無く、三成もアホだったから西軍が負けたって事か
>344 :人間七七四年:2011/06/21(火) 07:35:24.43 ID:iJT59+dx
>だから毛利がバカな自爆したからだろ
こういうのは全く意味ないし、お前は何様なんだよという感じがする。
結局は三成が嫌い、毛利が嫌いなどの個人的な理由で議論しているのかと
いう受け止めもされる。やめたらどうだ。

>>345
岐阜城陥落が東軍「猛反撃」のターニングポイントだと認識しているのか。
よく分かっているじゃないか。それまでは西軍が有利だったんだよ。
348人間七七四年:2011/06/21(火) 07:51:30.55 ID:hrWQa2rq
だから何で東軍が逆転出来たのかって話だな
その理由として西軍が得た名分が大したものじゃなかったんじゃないかとか、三成がしっかりと恩賞を約束しなかったんじゃないかとか色々有るんじゃないか
史料を重視するのは当然だけどかといって史実を軽視しちゃ行けないだろう
いくら最上が上杉に臣従する旨の書状出したとしても結局最上は上杉に反抗した訳で…
349人間七七四年:2011/06/21(火) 08:02:04.74 ID:iJT59+dx
はっ?
関ヶ原決戦開始寸前の時点の布陣を見て
メッケルも西軍勝利と断定したほどなんだが。
むしろ西軍が絶対に勝つ状況でありながら負けたのは毛利がバカだからだろ。
三成に呼応した真田により、秀忠を足止めしたアドバンテージを相殺した
京極の謀反で大津城三の丸から追い出されたのも毛利軍で、
おかげで宗茂や秀包らが関ヶ原に投入できなくなるなどバカさ加減が神レベル。
大津城が謀反の可能性があるから謀反しないように伏見城攻撃から外して押さえの役目を担って毛利軍が派遣されたように
当初から大津城が謀反を起こす可能性は指摘されてきたのに、輝が各地に兵力を分派しまくり城を接収しまくりの野心を出したから大津城三の丸は兵力不足
逆に家康に従って会津に行って当主がいない留守居役だけの各地の城が
当主に問い合わせるまで待ってくださいって言うのを、じゃあお前は東軍だなってやり方やってりゃ反発喰うのは当たり前だろ。
坂西の取り次ぎ役の輝が清正や忠恒に上洛するようにレターしたがシカトされるなど
三成や大谷からしたら毛利にはガッカリだろうよ。
清正か忠恒のどちらかを上洛させたら、双方が相手の出方を窺って備えてた状況から解放されたのに。
特に義弘まで西軍化させた三成からしたら毛利には失望だろ。
そりゃあそうだ、輝は書状で自分の部下か何かみたいに清正や忠恒を呼ぼうとしてんだから。
350328:2011/06/21(火) 08:04:10.96 ID:YcT974hU
>>338
それ、別人だよ。
内容精査すればわかると思うけど。
勝手に自演認定して、逃げたければ、どうぞ。
こちらは、過去キミを追い払った事しかないので、いつもの事なだけだ。
仕事なのでこれで一旦失礼するね。
351人間七七四年:2011/06/21(火) 08:07:09.95 ID:fP9vArQd
>だから何で東軍が逆転出来たのかって話だな
その通り。「逆転」なんだよ。西軍が大坂を占拠し、西国の多くの大名がこれ
に加担した。家康は軍事力で西軍による政権を瓦解させていった。
岐阜城の合戦は諸大名が東軍になびくターニングポイントにもなっている。

最上は上杉に反抗した訳でなく、上方の状況が分からないために明確な行動を出せず
にいたために上杉の軍事的圧迫を受けた。
東国では東軍の反撃を知った伊達が最上に援軍を送ることを決断した。越後の堀らも
上杉と通じており、前田の越中への侵攻も計画されたが、一転して越後一揆勢を攻撃
し始める。
352人間七七四年:2011/06/21(火) 08:07:35.37 ID:k0dhL8u5
>>349
メッケル云々は法螺なんだが
353人間七七四年:2011/06/21(火) 08:07:42.13 ID:hrWQa2rq
そのメッケルの都市伝説を今更信じてるって言うのもどうかと思うんだがな…
とりあえず功績は全部三成の物、悪いのは全部毛利つうのも
毛利関係なくたかが19万石の三成に真田や島津が西軍に味方してくれたとでも?
354人間七七四年:2011/06/21(火) 08:11:19.16 ID:hrWQa2rq
>>351
岐阜はそんだけ重要地点だったって事ね
しかしそんな状況でよく東軍纏め上げてたな家康
355人間七七四年:2011/06/21(火) 08:11:31.67 ID:fP9vArQd
三成って意外に好かれているよ。
三成が蟄居させられた時は輝元が「涙止まらない」と書状を送っているし、
島津義弘も三成に世話になった口で、厳しく指導されながらもついていって
る。真田は三成に「西軍蜂起を事前に教えてくれよ」と愚痴っていることか
らもつながりが深いと見える。
江戸時代に言われたほど三成は嫌われ者ではない。
356人間七七四年:2011/06/21(火) 08:13:58.81 ID:hrWQa2rq
そりゃ好意は持ってたのかも知れないけどかと言ってそれで三成に味方する事でもないだろ
もし三成への友情だけで決起したのならその2人は大名としてどうかと思うぞ
357人間七七四年:2011/06/21(火) 08:14:29.70 ID:iJT59+dx
>>348
ぜんぜん違う。
最上が上杉に反抗したんじゃなくて
最上は上方の事態がどうなるか両天秤で様子見したいからとにかく時間稼ぎしてたら
伊達がさっさと上杉側にすり寄ったから
上杉側で猶予の時間を打ち切り最上攻め確定になっただけ。
そして伊達は東軍の南部にちょっかいを出すようになる。
北陸も堀が大坂方にも内応したりと両天秤化が激しくなる。
東軍が一致団結していたなんてデタラメ。
内府たがいの条で謀反人の仲間にされた武断派や旧秀次派が三成てめぇは許さねぇ!と怒り狂ったって言うのも当然あるだろう。
358人間七七四年:2011/06/21(火) 08:18:38.33 ID:hrWQa2rq
結局三成への憎しみせいじゃないか
つか最初は西軍が有利だったと言ってる癖に何で有利な西軍と不利な東軍が両天秤にかけられるってのもおかしな話
359人間七七四年:2011/06/21(火) 08:20:07.61 ID:fP9vArQd
>>356
そこで西軍政権論が出てくるのでは。
>>357
南部も東軍かは不明。伊達も安東も挙動を疑っている。
全国の大名がこういう中途半端な状態にあるのであり、「俺は
東軍」「俺は西軍」なんて確固たる意志を持っているのは、だ
んごになって集まっている福島らの西上軍(岐阜城攻撃までは
疑心暗鬼)と上方の一部の軍。
360人間七七四年:2011/06/21(火) 08:22:29.24 ID:hrWQa2rq
岐阜陥落がターニングポイントって事ね
361人間七七四年:2011/06/21(火) 08:41:35.20 ID:hrWQa2rq
状況だけみればとっくに西軍の目を出してもおかしくないのに東軍の岐阜陥落まで旗を曖昧にし続けた大名が多かったのは何故だろうか
362人間七七四年:2011/06/21(火) 08:44:53.79 ID:iJT59+dx
えっ?メッケルは実際に関ヶ原に参謀達を連れて行って現地でそう言ってるんだが
まーた自演バレバレw
関ヶ原は毛利が西軍総大将として戦に介入してたら西軍の勝ちは確実だったのは間違いない。
363人間七七四年:2011/06/21(火) 08:52:35.97 ID:hrWQa2rq
あんな素人がみても西軍有利だとわかる陣図みてそんな事言われても困ったろう日本人参謀
後関ヶ原って西軍にとっても不慮の戦だろうに
364人間七七四年:2011/06/21(火) 08:56:14.38 ID:iJT59+dx
今度は岐阜城陥落がターニングポイントとか自分の今までの意見とまるで違うのにすり寄って
さも自分の意見みたいに言ってるしバカ気持ち悪い毛利厨www
ほんと自分の意見持ってないんだなw
365人間七七四年:2011/06/21(火) 09:01:18.90 ID:hrWQa2rq
岐阜城陥落までは西軍圧倒的有利状況
それなのに西軍が勝ちきれず逆転を許したのは何故かって話
366人間七七四年:2011/06/21(火) 09:02:14.71 ID:k0dhL8u5
>>362
どうみても胡散臭い
メッケルが配陣図だけで勝敗を論じるような素人と見なしているぞ、この話
367人間七七四年:2011/06/21(火) 09:04:50.65 ID:fP9vArQd
>>361
刻々と変化している中で、どういう状況の時点を指して言っているのか分か
らないが、西軍が挙兵したから会津征伐軍は解体され、西軍につくため参集
した軍勢も多かった。
態度を鮮明にしないのは上方の状況が分からないのもある。
現代のわれわれのようにほぼリアルタイムで情報を知ることができるわけ
ではないし。
徳川と二頭であった前田も大坂を離れると政権中枢から外された。上杉も同
様に帰国すると謀反の疑惑をかけられて政権を離脱した。徳川も会津征伐に
向かうと西軍の挙兵を許し、会津征伐の軍勢を率いる政権のお墨付きを失っ
た。一方で、一定程度の軍勢を持つ徳川方が上方を奪い返す可能性もある。
徳川が本当に秀頼のために戦うと言うのを信じた大名もいただろうし、福島
らは集まっていただけに互いにけん制し合って流れのままに西軍攻撃に向か
った感もある。家康が上方を奪い返すと、豊臣政権に代わる新たな政権を立
ち上げると考えた大名もいたかもしれない。いろんな可能性があるから、み
んな態度を明確にできない。
368人間七七四年:2011/06/21(火) 09:10:54.39 ID:hrWQa2rq
モルトケ軍事学は政治を重視するものねえ
369人間七七四年:2011/06/21(火) 09:41:54.84 ID:On7grwKz
>>365
上方各地を転戦中の部隊が城攻めに苦戦して集結に手間取り
予定戦場が大幅に後退してしまったため
岐阜を攻略される羽目となった。
主力を投入した伊勢方面ですでに苦戦していた。
結果的に西軍の戦略ミスとなった。
370人間七七四年:2011/06/21(火) 19:19:53.45 ID:IpEWWD1a
秀忠遅参で負けてたとしたら今頃真田はすごい扱いをされてるわけか。
しかし両者どっちも勝算があったような感じなんだけどそのあたりはどうだったんだろう。
371328:2011/06/21(火) 20:41:27.65 ID:wEYATtaV
>>338
結局、>>328の回答はもらえるのかな?
自演認定は結構なんだが、キミが回答していない事には何ら変わらないよ。
>>232から質問は変わらない。
>>・キミの言う通り、家康の正当性が完全否定されるならば、
>> 家康は謀反人と化し、敵性大名となる。
>>・即ち、関ヶ原は豊臣VS徳川の構図となる。
>>・であれば、戦後に豊臣家が西軍と無関係足り得た理由は何?

>これの回答らしきは>>238みたいだね。
>二番煎じで申し訳ないけど、なぜ突然『謀反人』が『大義名分』にすり替わる?
>そもそもこの質問の流れは>>169>>171。キミ自身が、家康を謀反人と断じている。

>>家康は謀反人・隆景は死去・利長も遺命を破り勝手に下国したから謀反人。(>>169)

>大義名分の有無と、謀反人に該当するか否かは、全く意味が違うでしょ。
>『大義名分有りや無しや』ではなく、『謀反人に該当するや否や』で再回答して欲しい所。

自演認定結構なんだけど、何の意味があるんだろ?
仮に自演するなら、『家康は謀反人』と認める発言は絶対しないでしょ。
まして、未だこうしてキミを追いこんでるのにw
372人間七七四年:2011/06/21(火) 20:44:32.10 ID:hrWQa2rq
>>370
細川幽斎や京極高次…
373人間七七四年:2011/06/21(火) 21:27:43.73 ID:wEYATtaV
>>372
実は、sub(>>338:ID:iJT59+dx)の自演でしょ?
後々、同一時間帯に書き込んだ事を根拠として自演認定をするための埋伏。

subが議論の相手側に、埋伏の自演を仕込むのは有名な話。
【伊達政宗の凄い所って何?】で露見。
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1265962700/262-263

>>233以降のレス応酬も不自然なんだよね。
一見、subに反論しているように見えるが、結局subの主張を主導している。
374人間七七四年:2011/06/21(火) 21:33:17.99 ID:iJT59+dx
>>371
ひょっとして俺に質問してんの?
また屁理屈垂れて言葉を弄ぶのかくっだらねぇw
大義名分として違背した罪状を条をもって非難された者は謀反人と捉えていいよ別に。
家康はそれに対して反論や弁解すら出来ずに武力で押し切って大坂城に入って豊臣の領地を勝手に分配し自己正当化したんだから。
>>368
モルトケは理由を知り、それなら納得として
改めて情報や謀略といった分野の重要性を訴えてるわけだが。
>>369
安濃津城攻略した時点ですでに岐阜城が攻略されてたからね。
このまま長島一揆で有名になった長島城攻略をするのも無駄だろうし。
そしてこの時点での吉川らは家康はこっちに来ないんじゃないかと思ってたような楽観さがあって
輝元も安濃津城を毛利軍だけで支配しようとしてたようでそれの邪魔をする奉行をウザがって駐留を続けてる。
楽観視する広家も黒田親子からの東軍勧誘をひたすら無視しまくり、長政は家康はすでに駿府まできたと嘘を言ってる。
一方の家康は岐阜城陥落・美濃表で数千人討ち取り
大敗走した宇喜多・石田・小西・島津が大垣城に逃げ込んだのを道を塞ぎ包囲中と言う報告を受けて急ぎ大垣城を水攻めにするべく出陣を決意する。
つまり過大報告を受けて明らかに勝利寸前と誤認した家康も騙されて出陣してる。
家康出陣が西軍に伝わると伊勢にいた広家らは三成と合流すべく近江に向かい大垣城の後詰めとして南宮山に布陣する。
ちなみに最近の説として、なぜ家康が関ヶ原で戦ったのかと言う話の中で
広家が偽りの和睦交渉で本領安堵をもらうことで誘き出しての翌朝の決戦になったと言うのがある。
関ヶ原本戦でも漁夫の利を得ようとしてたら、毛利の下山がないことを怪しんだ小早川陣内での疑心暗鬼に家康の銃撃が駄目押しで小早川が東軍化したために
毛利が出る幕がなくなり
広家は本領安堵約束を生かすことにしたのだとする。
だから秀元は撤退中に東軍から仲間になれと言う話に「和睦の話は知らない」と言って佐和山城攻めにも参加せずに大坂城へ撤退したんだと
375人間七七四年:2011/06/21(火) 21:34:33.60 ID:wEYATtaV
図星か。慌てて出てきたw
376人間七七四年:2011/06/21(火) 21:36:37.01 ID:iJT59+dx
>>373
ほんとヒマなやつだな。モルトケの話で口裏合わせて自演してんのお前なんじゃないのかw
つうか自演できるんならモルトケの件でウザイから今日こそやりたいわ。
377人間七七四年:2011/06/21(火) 21:40:09.13 ID:iJT59+dx
>>375
慌ててってw
俺、>>374の長文を書いてたから>>372までしか読んでなかったし…もう陥れようとする気満々だな。
議論で負けると下劣にも自演工作で陥れようとするクズっぷりワロタw
378人間七七四年:2011/06/21(火) 21:40:46.33 ID:wEYATtaV
>>376
別にいいけどね。
お互い、自演の証明は出来ないわけだから。
これを読んだ第三者がどう感じるかに任せるよ。
379人間七七四年:2011/06/21(火) 21:41:27.00 ID:wEYATtaV

× >>376
○ >>377
380人間七七四年:2011/06/21(火) 21:42:57.92 ID:wEYATtaV
>>377
議論で負けた?
結局>>328の回答をせずに逃げてるのは、キミだけど。
381人間七七四年:2011/06/21(火) 21:45:19.17 ID:iJT59+dx
いやいや
だから大義名分から非難されて反論できない家康は謀反人でいいって言ってるだろアホ
382人間七七四年:2011/06/21(火) 21:47:30.54 ID:wEYATtaV
>>381
ほらほら、ちゃんと何の話をしてるのか確認したないと。

>・キミの言う通り、家康の正当性が完全否定されるならば、
> 家康は謀反人と化し、敵性大名となる。
>・即ち、関ヶ原は豊臣VS徳川の構図となる。
>・であれば、戦後に豊臣家が西軍と無関係足り得た理由は何?
383人間七七四年:2011/06/21(火) 22:06:30.43 ID:iJT59+dx
豊臣vs武断派+徳川でしょ。
そしてその後は勝てば官軍ってやつだ。
秀吉の遺命を破って婚姻しようが
衆議に従わずにクーデターしようが
武断派は開き直ることは可能だからね。
西軍を裏切った秀秋なども北政所様のためにやったと自己正当化できるし、
死んだ人間を悪人にして全ての責任を負わせればよい。
それがいわゆる政治と言うやつだろう。
実際、家康は欲望をバラまきまくって味方になるよう勧誘しまくりだからね。
秀秋には上方で2カ国とか如水には九州切り取り自由とか清正には筑後肥後とか
細川には丹後但馬とか九鬼には南伊勢五郡とか政宗には百万石とかね。
西軍はこういうマメに書状を出しまくることをしなかったのが痛いな。
大老なんだから輝元が自由に清正や忠恒に上方に二カ国とかテキトーな約束しまくれば良かったんだよ。
384人間七七四年:2011/06/21(火) 22:12:08.92 ID:zqLLPBCy
曹操は献帝を廃さなかった。
だから董承の曹操暗殺計画には荷担していなかった。
という話になるのかどうか。
385人間七七四年:2011/06/21(火) 22:25:25.60 ID:wEYATtaV
>>383
>豊臣vs武断派+徳川でしょ。
違う。
家康が謀反人確定ならば、武断派、少なくとも加藤・福島は
家康に味方しない。
豊臣に弓を引いた時点で、武断派のグルーピングは消滅する。
徳川が豊臣の敵性ならば、これに味方した時点で徳川派だ。

武断派が家康に味方をしたのは、家康にも正当性があるからに他ならない。
そこで>>144に戻る。もし、弾劾状に秀頼の署名なりがあれば、確かに
家康の正当性は消滅する。

加藤・福島は豊臣に弓弾くよ、という思考なら、ある意味この議論は終了するけどねw
386人間七七四年:2011/06/21(火) 22:32:30.09 ID:zqLLPBCy
なんか話が堂々巡りしているな。
387人間七七四年:2011/06/21(火) 22:41:26.38 ID:/qRbmKtu
最初の頃は参加してたけど、仕事から帰ってきて100レス近く進んでたりすると
さすがに全部見ようとは思えなくなるな。
388人間七七四年:2011/06/21(火) 22:42:18.32 ID:kw4LG/+C
ところで景勝が国もとの仕置きを兼続に一任して大坂に居座ってたらどうなった?
389人間七七四年:2011/06/21(火) 23:03:10.48 ID:hrWQa2rq
とりあえずモルトケとメッケルがごっちゃになってるぞ
所謂関ヶ原のメッケル発言ってそういう発言をしたって言う記録がないんだって話だからなあ…
390人間七七四年:2011/06/21(火) 23:06:19.76 ID:hrWQa2rq
一応金吾に関白の位をやると言うような条件出してるんだけどね
全く信用されなかったけど
西軍も一応こういうばらまきはやってるんだよな
391人間七七四年:2011/06/21(火) 23:10:02.75 ID:fP9vArQd
西軍は上杉にも越後をやると言ってるし、堀は上方で所領を与えるとしていた。
392人間七七四年:2011/06/22(水) 00:39:39.42 ID:PW8LPK4H
>>385
関ヶ原の最初の一歩は福島の徳川との婚姻なんだけど。
普通に、福島は政権に対して喧嘩売ってるのとも見えるだけど。

まあ、そんな状態でも豊臣”家”には忠誠はあるとも思えるのが頭が痛い。
ぶっちゃけ、秀吉と大政所と秀頼以外武断派の面々は遠慮の必要性が感じられなかったじゃねーの?

それを指して、豊臣政権に弓矢向けてないとは解釈の相違になるとがな。
まあ、それはともかくとして福島は徳川幕府への道を舗装した一人だとは否定しがたいと思うわけだが。

393人間七七四年:2011/06/22(水) 01:35:24.00 ID:k78ZR89l
>>392
何の話をしてるのかな?
その話が、どう『家康の正当性消滅』に繋がるの?

万が一、加藤・福島が豊臣家に弓を引いたとしても、
豊臣VS徳川の構図は変らないよ。二人が裏切り者になるだけ。
>>385
>豊臣に弓を引いた時点で、武断派のグルーピングは消滅する。
>徳川が豊臣の敵性ならば、これに味方した時点で徳川派だ。
394人間七七四年:2011/06/22(水) 01:39:06.72 ID:k78ZR89l
↑訂正
× 万が一、加藤・福島が豊臣家に弓を引いたとしても、
○ 徳川が謀反人の前提ならば、万が一、加藤・福島が豊臣家に弓を引いたとしても、
395人間七七四年:2011/06/22(水) 01:46:34.30 ID:0UHLqtbz
互いがあら探しするだけでなんら進展がない議論だな。
396人間七七四年:2011/06/22(水) 01:58:25.57 ID:i9664OeW
争いの片方に豊臣を持って来た時点で詰んだ。
関ヶ原は、豊臣政権内の権力争い。

これ以上、進展しようがない罠。
397人間七七四年:2011/06/22(水) 02:08:56.62 ID:0UHLqtbz
豊臣政権内の争いに端を発しているのは
間違いないが、政権から家康が正当性を
否定された状態で戦ったのが間違いかと
いうとそうではない。
西軍が家康抜きで政権運営したのは事実
だし、家康が東軍諸将に造反の不安を抱
いていたのも指摘されている。
奉行衆の書状でダメなら秀頼の署名があ
っても変わらない。本人が出陣すれば別
だが大坂の陣ですら出陣していないからなあ。
398人間七七四年:2011/06/22(水) 05:16:46.79 ID:FEJdPw6x
豊臣政権という確固たる政権が存在して、それに家康が反逆しているという発想が間違いなんだよ
そもそも秀吉の死によって三職は全て空白になり、豊臣が政権である公的な根拠はなくなった
秀吉の死後はあくまで諸大名の寄り合い所帯としての豊臣家が存在していただけだ
それを大老とかもっともらしい名前をつけてさも政権であるかのように装っていたにすぎない
政権でなくなった豊臣家が統治を実施するには武威だけが頼りだから家康ら外様大大名たちを政権に招聘するしかなかった
だいたい家康の正当性が否定されたとか言っている奴がいるが
家康の正当性というのは秀吉自身が豊臣家に招聘したという事実が根拠なんだよ
正当性を否定するには秀吉の権威を否定するか、秀吉が招聘した事実そのものを否定するしかない
そんなことは奉行や他の大老がいくら紙に書いたところでうまくいくわけがない
399人間七七四年:2011/06/22(水) 06:59:00.08 ID:Jg+rtLuS
>>385
本気で言ってるのか?
秀吉の遺命を破って婚姻した者達に共する武断派も家康の共犯者として糾弾されてるのに。
しかも利家存命中に糾弾された際に言い訳できずに蜂須賀は認めてんだぞ。
謀反人にされた武断派はさらに「三成許せねぇ」と闘志が湧いただろうから彼らと家康を離反させる道が失われた点で言えば失敗だったかも知れないが。
>>390
一奉行の三成が約束しても輝元か秀家の添状が無ければ執行力はなく無意味。
それは井伊らから広家がもらった毛利本領安堵の書状も同じでまったく意味を為さないのと同じ。
だから不安な輝元は家康自筆か井伊らに直接会いたいと言ってる。
しかし家康は毛利が東軍のためになんら忠孝を示してないから出さなかった。
そもそも家康が大量に出したその手の書状に比べて西軍は圧倒的に少ないし重要人物にしか出してない。
家康は美濃の国人などにすら出してるほど細かい筆まめぶりで
謀反人扱いされて上杉の動向が見えない&武断派の去就がわからないため江戸から動けない時の家康の危機意識の高さが現れてる。
その江戸から動けないことが伊勢進攻中の広家らに楽観論を生ませた。
400人間七七四年:2011/06/22(水) 07:11:09.70 ID:Jg+rtLuS
>>393
会津征伐では同一化勢力と見做してよい武断派勢力と家康勢力は内府たがいの条が出てからは完全に別物。
だから謀反人になった家康は武断派の動きを図れず江戸から動けずにいた。
岐阜城陥落し大垣城に三成や秀家らを包囲し勝利間違いなしと聞くまで
家康は江戸から動けないどころか上杉の動きを気にして、
上杉が打ち出てきたらすぐ行くと言って美濃表よりも白河表に対して備えてるほど。
>>398
秀吉死後の豊臣政権が公的には存在してないなんて話は聞いたことがない。
家康が征夷大将軍になり幕府を開いた時点でさえ
大坂と江戸で公儀が並立してる論が唱えられているほどなのに。
401人間七七四年:2011/06/22(水) 07:13:12.74 ID:dAaIdc30
東軍全部と婚姻してる訳じゃないし、逆に家康と婚姻関係をもってる加藤清正に対して何もしてないけどな
402人間七七四年:2011/06/22(水) 07:24:47.93 ID:k78ZR89l
>>397
関ヶ原は、最初から最後まで一貫して豊臣政権内の権力闘争だよ。
戦後に豊臣政権が倒れたわけでも、新政権が樹立されたわけでもない。
家康は依然として豊臣政権の大老であり続け、戦中に政権外の人間=謀反人
になったわけでもない。

>>399
いや、だからその話が『家康の正当性消滅』にどう繋がるの?
少し脱線に付き合うとしても、武断派は豊臣家に弓を引いたわけではない。

仕事なので外しますが、一応。
>下劣にも自演工作で陥れようとするクズっぷりワロタw (>>377
ここ2日間のような事はないと思うけどw
403人間七七四年:2011/06/22(水) 07:30:34.39 ID:dAaIdc30
つかそうなったら西軍に内応する奴とか出てもおかしくないのにみんながみんな三成許せねえで一致団結するって現実感がない
404人間七七四年:2011/06/22(水) 07:33:55.07 ID:dAaIdc30
まあ結局その程度の理由で弓引いて良いと思えるなら豊臣政権の権威なんてないようなもんだな
ましてや恩顧大名達が
405人間七七四年:2011/06/22(水) 08:11:08.64 ID:Jg+rtLuS
>>401
問罪使が家康を糾弾しに行った時にはまだ清正と清浄院は婚姻してないし清正は利家側の立場だから。
>>402>>403
家康の立場はいわば下野させられた西郷や法務卿江藤のような状況。
西南戦争に西郷が勝ったとしたら関ヶ原で家康が勝った状況に近いかもな。
武断派自身は豊臣に弓を引いた意識が無くとも手順に乗っ取り衆議で秀吉の遺命に背いた謀反人にされてる。
だからこそ激しく怒った武断派は三成への闘争心を余計に駆り立てられたとは思うが。
>>404
ん?敗北宣言+開き直りか?不思議な文章だな。
406人間七七四年:2011/06/22(水) 08:19:23.78 ID:dAaIdc30
結局三成の陰謀が透けて見れられてたのは間違いない訳で結局それ程大したものではなかったのは間違いないだろう
407人間七七四年:2011/06/22(水) 08:27:22.66 ID:Jg+rtLuS
>>406
えっ!?そうなのか?なぜそう言えるんだ?
408人間七七四年:2011/06/22(水) 08:32:56.11 ID:dAaIdc30
つか豊臣家が本格的に参戦するとすればさらに200万石の戦力が西軍についていく訳なんだからそうなったら東軍は戦わずして瓦解するはず
結果的にそうならなかったんだから最初の内はともかく結局次第にそういった事情を見透かされていっただけな訳だ
だから次第に東軍が一致団結して西軍に内応や怠慢が出てくるようになったと
409人間七七四年:2011/06/22(水) 08:39:30.26 ID:dAaIdc30
しかし明確に家康を謀反人にしたと言うのにまともに地方大名にそれを伝える事ができなかったって
こんなんでまともに豊臣政権は運営されてたとか言えるんだろうか
410人間七七四年:2011/06/22(水) 08:39:52.91 ID:Jg+rtLuS
>>408
意味わからん7歳の幼君に何を期待してんだ…
大坂城が西の丸が政治中枢だぞ。
家康も輝元もそこで豊臣政権の政策を指示してるし
輝元から大坂城を譲らせる時の文面にも西の丸って書いてある。
411人間七七四年:2011/06/22(水) 08:45:14.49 ID:Jg+rtLuS
>>409
それぞれに利害得失や親類関係があるから
それぞれの嗜好や立場で所属する旗なんて変わるだろ。
変事が起きたことで利益を得るチャンスと捉えるか
変事が起きたことで御家存続の危機と捉えるヤツでもまた行動は違うし
御恩を受けた対象や家中の殿を優先するかで忠孝だってそれぞれに基準が違う。
412人間七七四年:2011/06/22(水) 08:55:07.73 ID:dAaIdc30
西の丸に入って家康を弾劾した毛利は正当なら
その西の丸に入ってた家康が決めた上杉討伐も正当だった訳だ
要は西の丸に入った奴が正義になるってのが諸大名達にも理解出来たんだろう
逆に家康が西の丸に再入城出来ればそれでおしまい程度の名分でしかないんだよ西軍の大義名分は
で結局岐阜陥落で西軍の旗色が一気に悪くなったから東軍寝返りが相次いだと
413人間七七四年:2011/06/22(水) 08:56:58.61 ID:4pkrqRnN
会津征伐は秀頼の署名がなくても豊臣政権VS謀反人上杉であり、上杉が従わなかったから
豊臣政権に正当性がないという議論にはならない。
同じように家康弾劾も秀頼の署名がないからといってその効力を否定できるものではなく、
武断派が西軍についていないことを理由に「違いの条々」の公式性を否定もできない。
上杉家を見ると西軍=公儀という認識だとはっきり分かる。
414人間七七四年:2011/06/22(水) 08:59:12.98 ID:dAaIdc30
豊臣対徳川と言う体制ならばもう徳川は豊臣家内の正当性を得る事はできないけれど
徳川が再び豊臣家内の正当性を得る事が出来る可能性があり、かつそれが目的であるならばやっぱり豊臣家中争いになると思うんだけど
415人間七七四年:2011/06/22(水) 09:05:51.41 ID:dAaIdc30
>>413
で結局その上杉討伐が内府違いで否定されたように内府違いも否定する事は出来る訳だ
つか結局家康弾劾のせいで結局豊臣家に決定能力がないって言うのを示してしまっただけな気がする
416人間七七四年:2011/06/22(水) 09:15:18.89 ID:Jg+rtLuS
>>412
だから家康の専横とは言え西の丸で決定した会津征伐は公儀として行われたと前々から言ってる。
ただその後に西の丸で輝元らによる内府たがい条で衆議により否定され上杉の名誉は回復された。
「それでおしまい程度」ならたかが三成程度小身が蜂起したくらいで最終的に10万近くの兵力が集まらないと思うが。
岐阜陥落で西軍の旗色が悪くなったとは思えない。
むしろ捏造戦果に騙された家康が急いで大垣方面までやってきた時に空気が変わったと思われる。
謀反人にされた家康には決死の決戦覚悟があったが、
西軍内には御家存続の手法を弄する者がいたからね。
そこが戦国を生き抜いてきた家康の凄みであり、
家康の息子や孫世代武将とは違うシビアさがある。
西軍総大将輝元は関ヶ原寸前になってまでも雑説があれば報告してくれと西軍への謀反の噂を調べさせてるように味方を疑ってる始末。
しかし実際は広家自身が裏切り者だったわけだ。
いや広家が関ヶ原に家康を招き入れた策謀だった説なら話は別だが。
417人間七七四年:2011/06/22(水) 09:22:05.97 ID:dAaIdc30
だから結局上杉討伐が否定されたのと内府違いも否定する事は出来る
要は大阪城西の丸に入れば良いだけの話だからな。
公儀として一度は決まった上杉討伐を否定しちまった時点で豊臣家に公儀決定なんかその程度のものだし、家康弾劾もその程度のものだと示してしまってる
そうならなかったらもう後は家康と輝元、三成どちらが上かと言う話になる
418人間七七四年:2011/06/22(水) 09:23:26.27 ID:4pkrqRnN
岐阜城陥落は大きいと思うよ。
伊達も関ヶ原の結果を知る前に最上救援に動いているし、堀も一揆討伐を本格化させている。
あと、豊臣家に決定能力がなくても、豊臣家を推戴しなければ政権としての正当性は持たない。
419人間七七四年:2011/06/22(水) 09:23:57.89 ID:Jg+rtLuS
>>414>>415
むしろ家康は豊臣家なんて潰して自由にやりたかっただろう。
しかし秀忠が真田に足を引っ張られたために
武断派が活躍し過ぎて妥協せざる負えなかったわけだ。
武断派にしてみれば大坂城さえ奪回出来れば、
内府たがい条を否定して全て三成が悪いと捏造歪曲が可能だと分かっていたし
それが政治であり勝てば官軍と言うやつだろう。
この時点をもって家康と武断派の利害は必ずしも一致しなくなる。
これが江戸と大坂での公儀並立へ向かっていく原因となる。
420人間七七四年:2011/06/22(水) 09:32:15.36 ID:dAaIdc30
よくわからんけど武断派が功績上げたら豊臣家を残さなくてはいけなくなったってどういう事だ?
もしその方式なら家康はむしろ戦力温存出来たんだから得だろ?
421人間七七四年:2011/06/22(水) 09:38:30.13 ID:Jg+rtLuS
>>417
会津征伐は奉行の諫めを無視したものであり衆議の同意を得ていないから手続きとして正当とは言い切れない。
そこがのちに正当な手続きとして出された内府たがい条で否定される根拠になってる。
関ヶ原後に家康が意のままに豊臣家の領地まで論功行賞で指図できたりする事態は
もう衆議と言う秀吉の遺命を否定された状態でそれ以前の秩序が崩壊し
自由に大名同士が婚姻ができるなど
家康による豊臣政権の解体のスタート。
まったく別な事態になっており
そこで武断派が豊臣を守るために家康との共存を図る新しい政治状況が始まる。
関ヶ原後に福島正則の家康への使いが門番に辱められ自刃したのに激怒した正則が、
門番の上役の家人を殺すように家康に要求して困惑させた事件も
正則による家康牽制と見る研究者もいるくらい。
422人間七七四年:2011/06/22(水) 09:39:27.09 ID:dAaIdc30
つか家康の目標が最終的に豊臣家を滅ぼす事だとしてもあの段階でやろうだなんて思わないだろ普通
豊臣家の大老として上杉討伐しに行く途中で反家康同盟が挙兵してよし豊臣家潰すぞーってどんだけだよ
423人間七七四年:2011/06/22(水) 09:49:25.17 ID:Jg+rtLuS
>>418
最上救援とは言え実際には派遣された伊達軍は山形城もしくは長谷堂城に入城するわけでもなく
明らかに旗色を鮮明にしていないどころか、
一方で和賀に支援を出して東軍南部攻めまでやってる。
これがために百万石の約定は反故にされる。
家康から最上&伊達はよく協調するように言われてることもあり、政宗はアリバイ作りとしてやったに過ぎない。
アリバイ作りは伊達に限らずかなりやっている話だから奇とも思わないが。
なお南部が東軍か西軍かで論争すると長いのでスレ違いが続く可能性があるので伊達の件も含めてここでは争わない。
該当スレでやりなら別だが。
堀も内府たがい条の出た最初期には西軍との内通を臭わせたが、
その後は必ずしも西軍の態度を取り続けたような軍事行動はしてない。岐阜城陥落が契機になったとは思えない。
424人間七七四年:2011/06/22(水) 09:52:56.24 ID:dAaIdc30
>>421
正当かどうかは関係ないだろ
要は例え家康が大阪城を奪回したとしてもそれを撤回する事が出来ないような条件が必要なんだよ
425人間七七四年:2011/06/22(水) 10:05:13.02 ID:Jg+rtLuS
>>420
そもそも三成憎しで遺令無視をやっちまったものの福島らに豊臣家滅亡を望む気持ちは無いだろう。
義母とも思う北政所が悲しむような豊家滅亡を福島らはやらんだろう。
さらに関ヶ原後に徳川との力関係が逆転した豊臣家によって福島らは己が存続の保証であり延命の盾に見えただろう。
そして老人家康の方が早く死ぬと計算していたからこそ現状を是認していたに過ぎない。
>>422
家康は恫喝により前田、上杉を従え秀頼を傀儡にして豊臣政権の乗っ取りを図っていた→内府たがい条→秀忠らと西軍を撃破して、
会津征伐を決定させた専横時より、より踏み込んで豊臣政権破壊を最も理想と考えたろうが
実際は武断派大活躍で大領を分け与えることになり、西国には飛ばして遠ざけたが
それらの勢力を気にして豊臣政権をゆっくり解体させる手法を取らざる負えなくなった。
その意味では関ヶ原圧勝のアドバンテージがうまく活用できなくなった武断派の活用は一方では大誤算であった。
426人間七七四年:2011/06/22(水) 10:06:25.38 ID:dAaIdc30
一応揚げ足取られる前に言っとくが正当って手続きの事な
名分とは関係ないぞ
427人間七七四年:2011/06/22(水) 10:08:34.70 ID:Jg+rtLuS
>>424
大武力の暴力に刃向かえる条件って何?
相変わらず無理なことを要求してバカじゃねぇの?
ケチつけたからって自分の意見が正しくなるわけじゃねーっての。
428人間七七四年:2011/06/22(水) 10:09:07.44 ID:dAaIdc30
つか未だに加藤、福島が北政所と親しかったと言う奴いたんだ
429人間七七四年:2011/06/22(水) 10:13:14.41 ID:dAaIdc30
>>427
条件は一つ、豊臣家がどんな状況でも西軍を支援し続けると言う事
そうなれば家康は豊臣家内の正当性を得る事が出来ない以上豊臣家の敵であり続けるしかない
まあ無理だったから西軍の大義名分は結局弱いものでしかなく負けてしまったって事
430人間七七四年:2011/06/22(水) 10:16:49.11 ID:Jg+rtLuS
>>426
だいたいね秀吉の遺令が衆議と言う手続きなんだから正当性と言う意味で非常に大きな意味がある。
しかし武力を背景に関ヶ原に勝って西の丸に入った家康らには遺令なんて守るつもりがまったくないんだから条件もへったくれも無いだろ。
三成がすべて悪い&力が正義って強攻策で突破して開き直って
論功行賞を意のままに指導指図し家康が新たな主従関係構築に盗用し始めてんだから。
431人間七七四年:2011/06/22(水) 10:19:27.01 ID:dAaIdc30
論功行賞事態は豊臣家の敵を討伐したという名目でやってる
だからこそ豊臣家の領地から削れたし、三成を謀反人として処刑したんじゃないか
432人間七七四年:2011/06/22(水) 10:20:35.97 ID:dAaIdc30
つか西軍が勝ったとしても豊臣家の領地は削らないと行けない
じゃなきゃ論功行賞出来ない
433人間七七四年:2011/06/22(水) 10:23:39.20 ID:Jg+rtLuS
>>429
御家存続策を黙殺し
あくまで大義名分を掲げて
家康に豊臣家が滅ぼされる
愚直行為に何か意味あんのか?
中国の偉い人物の真似事でもすんのかアホが。
大義名分で飯が喰えるかって前にも言っただろ池沼。
434人間七七四年:2011/06/22(水) 10:33:02.82 ID:Jg+rtLuS
>>429>>431>>432
もはやお前の論点すら不明。なにが言いたいんだ?自分の意見を持ってないお前はフラフラと他人の意見を流用して
さも自分の意見のように言ったりで脳が腐ってるとしか思えない。
秀吉の遺令たる衆議に図って論功行賞したんじゃなくて家康が指導指図した論功行賞。
西軍の場合は西の丸にいた輝元は勝手に無断でそんな加増約束してない。
俺は勝つためにはガンガン加増約束しとくべきだったと思っているが。
もっとも輝元自身の領地欲の反動で加増約束しないだけのような気もするが。
435人間七七四年:2011/06/22(水) 10:34:40.31 ID:dAaIdc30
>>433
家康がもう豊臣家の正当性を得る可能性が無くなったのならその通り豊臣家を滅ぼすしかないんだからお前の言う武断派がついていく筈がないじゃん
つか大義名分で飯が食えるかってその大義名分そのものが豊臣家なのに…
436人間七七四年:2011/06/22(水) 10:46:20.06 ID:dAaIdc30
衆議って家康は入ってないの?
437人間七七四年:2011/06/22(水) 10:52:58.19 ID:Jg+rtLuS
>>435
だから大坂城西の丸に家康が入ったんだろ。
しかも結局は内府たがい条への反論もせずに開き直った。
武断派も遺命を破った者とそれに組した者たちと言う言わば家康の共犯者なんだから利害が一致してる間は共闘体制が生まれる。
だからその大義名分を旗印に小身の三成が大谷や安国寺を抱き込み10万近くの兵力を集められただろ。
しかし事が決してしまった以上は>>433のように敗戦処理に移行し軟着地点を見いだす道として武断派は利用価値があったわけだ。
だからこそその後に大坂と江戸の2公儀並立と言う新しい政治状況が生まれる。
438人間七七四年:2011/06/22(水) 10:54:51.28 ID:Jg+rtLuS
>>436
衆議に景勝が入らないのか?と言う程の愚問。しかも今更の発言。
439人間七七四年:2011/06/22(水) 11:00:29.32 ID:dAaIdc30
>>435
だから家康はまた正当性を勝ちとる事が出来た訳だ
西軍の名分はその程度でしかない
結局反論しなかったのは西の丸を手に入れれば正当性を取り戻せるのがわかってたからだろ
だから東軍諸将も家康に従った
そもそも内府違いを否定したから三成を謀反人として処刑したんだろ
440人間七七四年:2011/06/22(水) 11:01:39.10 ID:dAaIdc30
×>>435
>>437
441人間七七四年:2011/06/22(水) 11:06:02.14 ID:Jg+rtLuS
>>439
やっぱりお前は頭がおかしいわ
俺に反論粘着し続けて論破されまくってるのに
その俺の反論内容をたびたび持ち出してきては
それを根拠に自分の意見を肯定しまくり
今回も「だから」とかありえねーよ…
お前さ、マジで精神病院に行った方がいいわ。
毛利厨って気持ち悪いわー。
442人間七七四年:2011/06/22(水) 11:07:55.28 ID:dAaIdc30
>>438
だろ?だから上杉征伐を衆議を得てないと言う理由で否定するならこの内府違いもその理由で否定されないといけない
だからこういうのを正当化するには遺命とかそういうのを超越した豊臣家自身の決断がなければいけない
443人間七七四年:2011/06/22(水) 11:10:09.18 ID:dAaIdc30
関ヶ原で勝つまでは反豊臣で大阪城に入ったら親豊臣になるってアクロバティック過ぎるって思わないのか?
444人間七七四年:2011/06/22(水) 11:19:50.08 ID:Jg+rtLuS
もうわけわからんwww
毛利厨キチガイ過ぎwww
大坂城西の丸で衆議の合意を得る前に専横気味の大老家康により押し切られ前田も上杉も謀反人にされた。
それでもやむなく公儀の命として執行された。
内府たがい条は西の丸での遺命通りに衆議により徳川を謀反人にした。
そして公儀の命により上杉は名誉回復し、
上杉も公儀のために戦う方針になってる。
そしてそれに対して開き直り正当化するには家康は西の丸に入らないとならないと言う理屈が理解できてないのに>>439みたいな発言をしたわけ?w
445人間七七四年:2011/06/22(水) 11:22:52.05 ID:Jg+rtLuS
>>443
勝てば官軍って言葉を知らないの?

446人間七七四年:2011/06/22(水) 11:28:02.14 ID:dAaIdc30
>>444
だから家康がまた西の丸に入れば正当化されるんだから内府違いなんて結局その程度のものだろ?
なんか間違ってるの?
447人間七七四年:2011/06/22(水) 11:30:21.73 ID:dAaIdc30
>>445
つまり勝ちさえすれば充分官軍になれる余地があったしそれは周知だったって話だろ
448人間七七四年:2011/06/22(水) 11:35:39.18 ID:Jg+rtLuS
前田や上杉を次々に謀反人にする250万石の大大名家康相手に
三成が大義名分を掲げて大谷や安国寺を抱き込み10万近くの大兵を集めて互角に戦ったことを指して
「その程度の大義名分」とか言いまくるアホには何を言ってもムダだなー。
いやもう仕事だからどうでもいいわ。
勝手に喚いてろよ
449人間七七四年:2011/06/22(水) 11:39:53.55 ID:dAaIdc30
三成がどうだろうが最終的にひっくり返えされた以上その程度だろう
つか三成の大義名分なんかよりよっぽど毛利、宇喜多が立ち上がったと言う方が大きいだろうに
この二家も豊臣家の忠義以上に家康への危機意識の方が強かったろうし
450人間七七四年:2011/06/22(水) 12:04:25.19 ID:6T0PkkjS
あのさ、シロウトで悪いが武断派というのは西側と戦う時点で、VS三成はともかく
秀頼が背後にいる以上は豊臣家に対する謀反みたいな形式にはなるわけでしょう。
にもかかわらず普通に戦ってるということは、秀頼さまは三成にたぶらかされている、
悪逆三成を征伐するということは豊臣家への忠心、みたいな建前を持ってたのかな。

正当性、という言葉が出てたけどこれは勝ってしまえばなんとでもなるし
後で歴史を振り返る我々は両者の思惑とか比較できるのだけど
その時点で本人たちが何をどう考えてたか、はまずちと整理しておく必要が
あると思って。

家康ですら、武断派が最後まで自分と行動を共にするかはわからない。
例えば三成たちがウソでも「秀頼さまご本陣」とか噂を立てればその場で本当に
西軍に攻めかかれたかはむつかしいとは思うんだ。
なので、その正当性というか建前と本心がどうなっていたか。
イケイケ武闘派だから腹黒い家康が口先でたぶらかすのは簡単、なんて
考え方もあるが、それだと三成のほうが負けはしたが忠臣みたいになってしまう。

状況としては家康の方が複雑だったとは思うのだけど、よく勝ったな、とか
そういう風にも思えてね。
451人間七七四年:2011/06/22(水) 12:14:41.17 ID:v3f/1Tav
 
関ヶ原の戦いは八百長戦争だった。

http://s1.shard.jp/deer/T/1600/10.html

日付は、完璧に、平将門(たいらのまさかど)の乱から設定されていた。
452人間七七四年:2011/06/22(水) 12:16:58.96 ID:dAaIdc30
>>450
まず秀頼は背後にはいない
名目上はともかく実質的にはそうだし幼君なんだからみんなわかりきってる。
となると西軍追っ払って大阪西の丸に入れば豊臣家内での正当性を得る事が出来る訳で、そんな大げさには考えてはいなかったんじゃないか
むしろ西軍が近畿を抑えてると言う物理的な不利の方が深刻だったと思うよ
453人間七七四年:2011/06/22(水) 12:18:21.85 ID:0UHLqtbz
だから政権の意思は奉行大老で作られる。
454人間七七四年:2011/06/22(水) 12:58:02.94 ID:Wd33bmh2
東西共に幼君に侍る君側の奸を討つって叫べる状況だもんねえ
455人間七七四年:2011/06/22(水) 13:28:54.87 ID:6T0PkkjS
>>452
となると豊臣家の価値というか実力というかそういうのはどうなるのだろう。
秀吉の死で三職不在とかなった時点でもうなんの価値もなくてあとは
単なる政権争いってことになるのかな。

とすると豊臣家に対する御恩とかその後の笠谷なんかの言う二重公儀制での
豊臣家の実質的価値&権力というのがうまく説明できないような。
関ヶ原以降に武断派はちゃんと秀頼とか豊臣家に奉公を近いつつも
徳川にも隷属するということになるんだけど、そのあたりの秀吉生前からの
立ち位置みたいなのがちとよくわからなくて。

正当性とか御恩とかそういうのをうまく利用した家康の独壇場としか
思えなくなるのだよね、関ヶ原ってのは。
456人間七七四年:2011/06/22(水) 13:49:04.21 ID:9Fmve91i
>>449
どの研究者も家康に対抗できる戦力を動員した三成の手腕を評価してる。
誰も輝元らが立ち上がった力によるものだなんて歪曲してるやついないよ。
そもそも輝元自らが呼びかけた坂西の大名の清正や忠恒らはシカトしてるし
大友再興軍に呼応するものもなく敗退とむしろ失策ばっかり。
でさ、毛利ゴキってさ、以前は「内府ちかひの条々」をまったく認めてなかったが
>>270のレスを読んだ瞬間に、>>276で驚くことに
>>西軍が大義名分を得て東軍は謀反軍になったというのはお前さんの理屈で納得と言って
さも自分の意見も同意であると言わんばかりの態度を取り始め>>277で俺様に
「あっ?それお前の意見じゃねーだろ論破されたwww」と指摘されるや
「内府ちかひの条々や大義名分なんてたかがその程度」と言う苦肉の反論を持ち出しただけだろ。
だからお前はそのちっぽけなセコ過ぎるプライドにかけて三成が大軍を動員したのも
「その程度」と歪曲しないきゃならない悔しさがにじみ出てますよ。
>>450
>>226なんか参考になるよ。三成のほうが負けはしたが忠臣だよ実際。だから江戸幕府では徹底的に
三成の評判を落すような逸話が作られ、各藩の藩史どころか家譜にまで
「最初から家康が勝つと思ってた」とか「東軍に付こうと思ってた」とか「直江と三成が悪謀」とか
そういう論法などと共に中傷されるようになる。しかし一方で福島らの末路を笑う皮肉も生まれたが。
>>452
あれ、それ丸々、お前がケチを付けまくってことごとく論破された相手の言説でしょ。例えば>>169とか。
またゴキ毛利厨得意のいつのまにか自分の言論に盗用して堂々と盗人猛々しいマネをしてんの?
ゴキは相変わらず無知だから散々に突っ込まれてきたから自分の意見を一切出さず
認識に違いだけを持ち出して具体的な結論をさも自分の意見のように振舞うトップクラスの基地害。
ただ一つ違うのは家康らは秀次死後に秀頼のために作った
遺令による制限がある大老奉行制を破壊して開き直ることで
偽りの正当性という豊臣政権を去勢解体する方向に大きく歪める行為をしただけ。
>>453
大坂西の丸にいる大老と奉行の衆議でね。
>>454
武断派は秀吉の遺令の衆議に従わずクーデターしてる側だけどな。
457人間七七四年:2011/06/22(水) 14:07:29.11 ID:9Fmve91i
>>455
秀吉という強制力が死んだあとに
利家という重しが残っていた間はなんとか維持できていた。
しかし利家が死去すると、ずっと燻っていた秀吉政権における
我慢していた不満を家康が代弁することで不満家たちの支持を得ていくことになる。
不満家たちにとって250万石の絶大な強制力がある家康と近づくことは
己の不満の解消や表舞台への参加の実現への道だったわけだ。
そして家康が戦乱を呼べば恩賞による領地拡大も得られる。
そういった現状不満な連中による政府クーデターな面がある。
大領を抱える秀次の死さえなければ、このひどくいびつな幼君補佐のための
外様大名の政権参加による多頭政治は招かなかった。
しかし秀吉にしてみれば家康がそんなに長生きするとも思ってなかっただろうし
利長が大坂城西の丸での秀頼補佐を投げ捨てて領国に帰ることも計算外。
458人間七七四年:2011/06/22(水) 14:55:29.17 ID:0UHLqtbz
subも大老奉行が仲間になることで上方を占拠し、西軍が正当性を
得られたことを過小に見てはいけないよ
459人間七七四年:2011/06/22(水) 15:00:46.46 ID:9Fmve91i
ちなみに秀次は義父の秀吉が唐入りで忙しい時に朝廷に内緒で献金
ヤバイから外征軍の総大将を引き受けるように如水からアドバイスあったのにやったことは
逆に秀次と一緒に朝鮮へ来春に渡海予定だった前田や南部(おそらく最上も)の朝鮮渡海を中止させた。
それをみて伊達が秀次に歩み寄り毛利や細川ともども大金を借りまくったりして支持を拡大させてた。
さらに諸大名から自分に忠誠を誓わせる誓紙を取るなど疑われるようなことを平気でやってる。
秀吉が全力を傾けていた朝鮮出兵の方針で対立してたのは間違いない。
駒姫を側室にいした最上に至っては上杉や伊達や佐竹と違い朝鮮出兵を免れたどころか、
朝鮮出兵中に小野寺侵略(岩崎合戦)して失敗したのを不問にしてもらったりしてる。
また前田と南部が共謀して安東からの浅利氏の独立を策謀し安東を支持する三成ら奉行らと対立し
上洛した浅利頼平が突然死するや安東の毒殺説まで持ち出して粘着していた。
秀次が死んだのは利家にも責任の一端がある。
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1255967241/418
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1255967241/422-423
460人間七七四年:2011/06/22(水) 15:01:32.43 ID:dAaIdc30
三成が言った大義名分が簡単にひっくり返されるものだからね
具体的に三成の手腕とやらを挙げて貰わないと
461人間七七四年:2011/06/22(水) 15:08:51.83 ID:dAaIdc30
三成が忠臣かとか家康が悪党がどうかなんてどうでもいいだろ
結局西軍の大義名分がどの程度の盤石さだったかが議論だろ
でお前も言ってる通り大阪西の丸に入ってしまえば簡単にひっくり返される程度のもの
そんなんだから西軍が負けたって事だろうが
462人間七七四年:2011/06/22(水) 15:10:10.12 ID:cLrpG1Xr
ヒント 西軍に有力な外様大名の多くが集まった
463人間七七四年:2011/06/22(水) 15:13:06.52 ID:9Fmve91i
はっ?お前に意見をまず根拠付きで明白にしろって以前にも言っただろ?
なに逃げ続けてんだよアホゴキ。
いくら論破したところでお前はそれを自分の意見に刷りかえるだけだろ。
だって認識の違いで結果は同じようになったと誤魔化すだけなんだからなwww
お前の汚い手口はバレバレなわけwww
おいゴキそもそも当時は大坂と呼ばれてて大阪じゃないから。
まず初歩的な理解すら欠如してる無知さ加減を反省しる!
464人間七七四年:2011/06/22(水) 15:18:11.66 ID:9Fmve91i
つーか10万の西軍を集めた相手に対して
「手腕は?」
10万以上の西軍による挟撃の危機を
「簡単にひっくり返る」
などとバカバカしい発言をする時点で糞。
どんだけお前に軍略の才があるんだwww孔明かwww
結果的に家康が勝利したのを後世に知ってるからいい加減なお前の発言があるだけで
御家を二つに分けて両天秤にかけての情報戦をやってた当時の人々は
生き残りに必死だったわけだが。
465人間七七四年:2011/06/22(水) 15:31:07.85 ID:dAaIdc30
畿内を抑えると言ったように最初は圧倒的に西軍優勢だったのにそこから逆転食らう時点でそこまで手放しに誉めていい7もんでもないだろ
だからせめて大義名分の上で怪しい所があったんだろって事
別にこれは三成でもどうしようもないことだしな
466人間七七四年:2011/06/22(水) 15:35:42.36 ID:9Fmve91i
>>465
はぁ?お前はなんで他人の意見を否定するのに
毎回何度言われても一切、具体例を挙げずに否定するわけ?
おいゴキさ、他人の言葉をしっかり読んで理解しろや!
お前はまず根拠を挙げて他人の意見を否定するなり、反論するなり質問するなりしろよ。
毎回、お前の書く内容は情報量がまったくない屁理屈だけの空虚な駄文であってちっとも勉強にならん糞なんだよ。
467人間七七四年:2011/06/22(水) 15:41:14.49 ID:FCBro222
>>465
岐阜城だな。
後、地味に伊勢と田辺城。
大津で止め刺された感じ。

今更だが、西軍からすれば大津落ちるまで美濃で踏ん張って、東軍は落ちるまでのひとかせぎ程度だったかもね。

関が原の合戦って。
468人間七七四年:2011/06/22(水) 15:54:18.25 ID:dAaIdc30
結局として秀頼が幼君である以上どうやっても確固たる正当性なんか得られないんだよ
だから機内を抑え、大阪城を抑えというような状況で東軍、西軍両天秤にかけるなんで状況が生まれたんだ
469人間七七四年:2011/06/22(水) 16:04:11.82 ID:9Fmve91i
>>467
美濃で踏ん張るのは無理。主力が大和から伊賀→伊勢と進軍してたから。
そして秀元と益田の家臣がケンカしたりで毛利軍内で紛争がおきて
輝元から「敵がやってくると言うのに内輪でケンカしてる場合か?内々の大事になるだろ!」
などと広家を叱責してる書状を出してる。
そして安濃津城陥落後に輝元は毛利が支配しようとしたが横槍を入れられ
奉行の増田の野郎いかが申し候か!と怒ってる。
大津城が離反したのも、すでに伏見城攻撃中から大津離反の可能性が指摘されて
伏見城攻撃隊から広家らが分派され瀬田に砦を構えて大津の離反を防止する策が
実行されていた。
その後に輝元が隆景旧臣である井上らが派遣されて大津城接収が行われるが
初らがいるニの丸などの接収に毛利がビビり三の丸だけ占拠したが
輝元がアチコチに手を広げて各地を接収しまくってて兵力が足らず
元康(遅れてきた宗茂や秀包ら)の軍しか輝元が自由に動かせる軍がもはや無くて
案の定、大津城が離反したのでやむなくそれを大津城攻略に派遣したから輝元が持てる兵は無くなった。
はっきり言って毛利の失策に次ぐ失策で関が原の大敗を招いただけで
岐阜城陥落はまったく関係ない。家康も戦果の面で半ば騙されて大垣城までやってきているわけで
あとは決戦への両者の気構えの問題であり、家康には覚悟があったし、西軍総大将の輝元はボンボンで欠如していたから
軍を統御できずに自爆瓦解した。
しかも広家のもらった安堵状には戦で抜きん出た忠義を示したら家康の自筆安堵状を出すと
書かれており、戦でまったく東軍のために働かず、佐和山城攻めにも参加してない毛利が
どんな根拠があって本領安堵になると言えるのかって言う最強バカぶりを発揮。
470人間七七四年:2011/06/22(水) 16:08:44.72 ID:9Fmve91i
>>468
正当性があれば絶対に両天秤にかけられないと言う驚愕的宇宙の法則のソースはまだなの?
471人間七七四年:2011/06/22(水) 16:15:39.86 ID:dAaIdc30
家康が再び豊臣体制のトップに建てると言う可能性があったからだろ
豊臣家自身が確固たる決意で家康を弾劾してるならもうそれは不可能だが輝元、三成らだけでやっているなら可能性はある
五大老五奉行制に関係なく大阪西の丸にいる人間が豊臣政権を握ると言う事がみなわかっていたから純粋に東軍と西軍が天秤にかけられたんだろ
そうでなければ西軍の方に豊臣家が足される訳だから比較になるはずがない
472人間七七四年:2011/06/22(水) 16:24:22.05 ID:9Fmve91i
>>471
さっきからずっと永久ループでつまんないんだけど。
せめて俺が書いた>>469くらいの情報量で根拠なり具体例をあげてくれよ。
はっきり言うとお前の「〜と思う」感想文はもういらないんだ。
多少は知識ある議論がしたいんであってお前の幼稚なレスには心底飽きてるんだ。
473人間七七四年:2011/06/22(水) 16:26:19.21 ID:0UHLqtbz
家康が秀頼さまのためと言ってる書状見たことあれば誰か挙げて。
西軍は乱発しているけど
474人間七七四年:2011/06/22(水) 16:38:21.11 ID:dAaIdc30
豊臣家自身が最後まで家康を弾劾仕切れなかった
結局家康が勝てば西軍が謀反人になった
要は豊臣家が家康との対決姿勢を取らなかった以上、西軍はナメられる事になった
475人間七七四年:2011/06/22(水) 16:51:06.55 ID:dAaIdc30
家康が関ヶ原の段階で豊臣家を潰したがってたってどういう論拠なんだろう
476人間七七四年:2011/06/22(水) 16:51:16.86 ID:9Fmve91i
>>474
>>471
お前と会話するとレスが同レベルに落ちちゃうぜw
はやく>>469みたいな知識を持ち合っての議論がしたいワァ。
477人間七七四年:2011/06/22(水) 16:54:42.68 ID:9Fmve91i
>>475
相手を否定する時は「〜や〜と言った例の数々の根拠から自分はこう結論するわけだが」
このようにしろと過去に何回言われてんだアホゴキブリくん。
478人間七七四年:2011/06/22(水) 16:59:22.77 ID:dAaIdc30
関ヶ原は家康に取っては不意の事だし、その状況で無理やり豊臣を潰すのは無理があるだろう
秀頼を弾劾するような書状とかもないし
479人間七七四年:2011/06/22(水) 17:40:39.62 ID:cLrpG1Xr
家康はやる気満々だろ。そもそも乱を起こそうと火付けまくってるというのに。
480人間七七四年:2011/06/22(水) 18:08:41.78 ID:6T0PkkjS
>>457
ふむ。
とするとシンプルに西西合戦で家康が非常にうまくやったみたいには
思うのだけど、前にどっかのスレでそういうのは結果論みたいに言ってる人が
いたものでね。

ほんで、秀吉の死後すぐに豊臣内不満派は家康と結びついたのだけど
そういうのが最初に言ったどこまでクーデター的な意識を持っていたのかなって。
あくまで大義名分は豊臣家のためなんだけどどうも秀頼とか西側だけで考えると
やっぱり謀反的な意味合いも強く感じるし。

クーデター的な不満派と家康の利害が一致した、というのはそうなんだろうけど
両者どこまでそれを意識してたのだろう。つまりお互いがお互いを「利用してやれ」
みたいなね。
自分はすべてにおいて家康が一枚も二枚も上だったとは思う。
ほんで忠臣なのは三成じゃないか、みたいに。
勝てばなんとかって言われそうだけどね。
481人間七七四年:2011/06/22(水) 18:51:39.44 ID:BKq3uAaQ
全然クーデターでもないし。
失脚したのも三成だけだし。
482人間七七四年:2011/06/22(水) 20:02:25.86 ID:FCBro222
>>481
裁判で負けそうで、軍事力で政権の主要官僚をおいかけまわしたのは、クーデタじゃないのはたしかだな(w

紛いで、なおわるいというべきか。
483人間七七四年:2011/06/22(水) 21:53:54.31 ID:KHP4u6M7
毛利は、織田の中国攻め以降、四国・九州〜小田原征伐に動員されて
文禄・慶長の役もフル参加で主力(全軍の20%)と、長期間戦いづめで、
兵力も財政も疲弊しきってるはずなのに、よく関ヶ原でこんだけの兵力
集められたもんだと、逆に驚く。
484人間七七四年:2011/06/22(水) 22:40:37.71 ID:FEJdPw6x
逆に考えろ
長期間戦いづめで兵力も財政も疲弊しきってるから本戦で戦えなかった
数合わせのカカシとして突っ立っているために集めただけで
家康との戦いは関ヶ原でも大坂城でも色々と理屈こねて避けざるを得なかった
485402:2011/06/22(水) 23:10:35.57 ID:kQPUciEO
>>405
帰宅したら、またしてもレスが100近くも進んでる。
長く関ヶ原スレにいるが、不自然過ぎて笑えるw
もしかしてレス進行させて、逃亡しようとしてるのかな?
確かに、他に面白そうなネタが出始めてるから、
やめたかったらそれでもいいよ。

あまりにも進行してるので、まずはこちらの質問の復習(>>371
>・キミの言う通り、家康の正当性が完全否定されるならば、
> 家康は謀反人と化し、敵性大名となる。
>・即ち、関ヶ原は豊臣VS徳川の構図となる。
>・であれば、戦後に豊臣家が西軍と無関係足り得た理由は何?

>>400
>会津征伐では同一化勢力と見做してよい武断派勢力と家康勢力は内府たがいの条が出てからは完全に別物。
>だから謀反人になった家康は武断派の動きを図れず江戸から動けずにいた。

この文章から、上記質問の回答は全く結びつかないけど?

>>405
>武断派自身は豊臣に弓を引いた意識が無くとも手順に乗っ取り衆議で秀吉の遺命に背いた謀反人にされてる。

『武断派が謀反人にされてる』ソースを希望したい。
武断派が豊臣家に弓引く可能性として、議論の需要なポイント。
486人間七七四年:2011/06/22(水) 23:27:44.61 ID:4pkrqRnN
>・キミの言う通り、家康の正当性が完全否定されるならば、
> 家康は謀反人と化し、敵性大名となる。
>・即ち、関ヶ原は豊臣VS徳川の構図となる。
>・であれば、戦後に豊臣家が西軍と無関係足り得た理由は何?
sabが答えたかは知らんが、君は何度も同じ質問をしてるので俺が二度ほど答えた。
487人間七七四年:2011/06/22(水) 23:34:06.99 ID:kQPUciEO
>>486
何度も同じ質問をしているのは、subの明確な回答がないからですな。

ちなみに、あなたの回答レスを教えて頂いて良いですか?
488人間七七四年:2011/06/23(木) 00:03:57.46 ID:No+qtfYc
>>487
少なくとも>>172>>312で答えた。
489人間七七四年:2011/06/23(木) 00:11:52.78 ID:h/lCvRpt
>>488
>>172には、>>173でレスをお返ししていますね。
>>312については、こてちらのレスにアンカがついてなかったので、
読んでませんね。これから前後のレスと合わせて読ませてもらいます。
490人間七七四年:2011/06/23(木) 00:23:17.12 ID:h/lCvRpt
>>488
>>312
>正当性を失った家康はあくまで西軍は豊臣政権とは
>別物、秀頼を救うとしてギリギリで諸将をまとめて、
>勝利した。だから、戦後に豊臣を潰す訳にはいかない。
>東軍の多くは会津征伐で家康に従って東に下った大名。
>すでに独自の判断で行動しにくくなっている。

冒頭から、正当性がない事を前提としたレスですね。
私は、『正当性がある』とする立場なので話が噛んでません。
そして、正当性がないとする理由をsubに求めているのです。(>>485

一つ確認させてもらいますが、あなたも関ヶ原は豊臣VS徳川、だと?
491人間七七四年:2011/06/23(木) 01:09:48.50 ID:No+qtfYc
正式に言えば、関ヶ原は豊臣VS徳川になる。
それは上方、そして豊臣公儀を占拠した西軍が徳川を政権から除外したから。
二大老・四奉行による公儀はこの間に大名家の改易、知行宛行を行うなど機能して
おり、その役割を否定することはできないと思う。
秀頼の署名がなければ家康を否定できないというのは論拠が不明で、会津征伐にも
秀頼の署名があったとは聞かない。署名はなくとも、西軍は多くの書状で秀頼様へ
の忠節や太閤の恩を強調している。
豊臣公儀を掌握する西軍が自分たちを公儀、家康を徒党とみている以上、公式的には
徳川は除外された存在と見るべきと考える。

一方、東軍から見ればそれは認めがたい事実。
家康も現時点では豊臣公儀の力を借りなければ諸将をまとめることはできない。
ゆえに決して豊臣家を否定せず、「我らは豊臣に弓引くのではなく奸臣どもを討
つんですよ」と、表現は変だが釈明をしながら戦っている状態。
492人間七七四年:2011/06/23(木) 02:14:24.07 ID:h/lCvRpt
>>491
>正式に言えば、関ヶ原は豊臣VS徳川になる。
>それは上方、そして豊臣公儀を占拠した西軍が徳川を政権から除外したから。
これは初耳。豊臣家の意思表示がなければ無意味。形式上も実態上も、
関ヶ原の対立軸に豊臣家が入ることはない。

>二大老・四奉行による公儀はこの間に大名家の改易、知行宛行を行うなど機能して
>おり、その役割を否定することはできないと思う。
これは認める。

>秀頼の署名がなければ家康を否定できないというのは論拠が不明で、会津征伐にも
>秀頼の署名があったとは聞かない。
『内府違いの条々』及び『添状』は最初から有効だと言っている。(>>124
ただし、その本来の目的である、家康非違性の列挙と西軍参加の呼び掛けについて有効。
これを以て、同じく公儀お墨付きの家康正当性を解除する事は出来ない。
この西軍勝手の宣戦布告書で、家康正当性を解除出来るとする論拠の方が不明。
仮に秀頼の署名なり花押があれば、これは豊臣家の宣戦布告書であり、
確かに家康の正当性は消滅する。
会津征伐も同様。別に上杉の正当性を問うてないだけ。
これに係わりなく征伐を執行しているだけの話。

逆に。>>371のように、家康が完全否定され謀反人と化した場合。
豊臣家から謀反人=政権外の人間とされた家康が、再び豊臣政権の大老足り得る
法的根拠は何なの?再任の書状でも発給されたの?
493人間七七四年:2011/06/23(木) 02:53:36.24 ID:YOVJVKLD
>>491
>それは上方、そして豊臣公儀を占拠した西軍が徳川を政権から除外したから。
別に秀頼が上方や公儀を占拠しろと命令したわけでもない
西軍が勝手に占拠して勝手に除外宣言をしているだけだ

>二大老・四奉行による公儀はこの間に大名家の改易、知行宛行を行うなど機能して
>おり、その役割を否定することはできないと思う。
例えば西軍の自称する公儀は細川を改易にしたり大友を九州の大名に復帰させたりしているが
細川は忠興本隊はもちろん幽斉側も抵抗して戦っているし、大友も九州から追い返されている
これはむしろ西軍の自称する公儀が機能していないことを意味する

>秀頼の署名がなければ家康を否定できないというのは論拠が不明で、会津征伐にも
>秀頼の署名があったとは聞かない。署名はなくとも、西軍は多くの書状で秀頼様へ
>の忠節や太閤の恩を強調している。
署名はなくとも、会津征伐の場合は秀頼が西の丸に来て兵糧と軍資金を家康に下賜している
西軍の蜂起に対して同様の儀式があったとは聞かない
それに西軍だって豊臣公儀の力を借りなければいけないんだから書状で秀頼や太閤への忠義を強調するのは当たり前でしょ
書状に忠義を記すだけなら誰でも出来るのに何故それで西軍が公儀になるのかが不明

>「我らは豊臣に弓引くのではなく奸臣どもを討つんですよ」と、表現は変だが釈明をしながら戦っている状態。
別に変な表現でもなんでもない
秀頼が三成たちに対して「蜂起して家康を討て」と命令したわけではないことは明らかだ
奸臣が不法に上方を占拠しているので討伐すると主張することには何の問題もない
494人間七七四年:2011/06/23(木) 03:52:38.95 ID:npsLXV2L
横から悪いが、関ヶ原は豊臣VS徳川、というのは正式というか結果論というか
実情だわな。

ただ、492さんの言うように、対立軸に豊臣家が入ることはない、というのは
鋭い言い方なんだが、では関ヶ原はどういう争いなの?

豊臣家の意思表示、とはなんなのでしょう。
幼君で意思はないんでしょう、とすると、豊臣家、とは簡単に表現できないのじゃないかな。

自分は492さんの解釈には全面的に同意なんだけど、正当性、とか、根拠、
というのを問うというのはちとわからないところがある。

結局、建前と本音の違いで、493さんの言う「なんの問題もない」というのが関ヶ原の
実情じゃないのかな。

だからこそ、西軍の中で彼ら自身がどう考えていたか、が関ヶ原の対立軸であり
家康を話にからませないほうがかえってわかりやすくならない?

というわけで、どうして関ヶ原が起きたの?家康がいなくても起きてた?
とか、考えると関ヶ原は理解しやすいんじゃないのかな。

あくまで、家康の私心によって利用された西軍どうしの争いである、って
したほうが明確じゃないのかな。
正当性とか根拠とかいうから妙におかしくなって議論になってる気がする。
495人間七七四年:2011/06/23(木) 07:35:23.22 ID:tLrHWMdH
豊臣家の意思表示は基本的にないでしょ。
前田家は傅役と奏者と大阪城の詰番をやっている。
いうなれば、豊臣家自身をまかされたようなもんで、利家自身が
豊臣家の意思代行をしていたとの解釈じゃねーの?

言うなれば、利家死亡後、意思表示ができないから家康も三成も好き勝手したというべきか。
一番好き勝手したのは、死亡直後に一応政争レベルをもう一歩前進させたのは武断派だけど。
496人間七七四年:2011/06/23(木) 07:55:42.84 ID:V2ZOU5dk
>>480
秀吉の遺した御掟・御掟追加などの基本法や五大老・五奉行制を
家康が解体していくのを知ってる武断派からすれば
クーデター的な意識はあったと思う。家康との婚姻を詰問された蜂須賀は言い訳できず認めてるし
そもそも七将襲撃なんてまさにクーデターで、これも三成に対して行われたのではなく、
奉行衆に大して行われたもんで、三成1人が蟄居することで
反家康側の奉行達が連座されることを免れるように配慮したもの。
対家康においてそこに解決にむけた安国寺と上杉と毛利の連携がすでにみえる。
そのため三成のみが蟄居になったのを知り輝元は「むなくそ悪いわ!」って言って家康への敵愾心を露わにしてる。
というのも同時進行で家康は秀元の父の遺領の相続に対して秀吉の遺令と称して毛利内での相続問題に介入してて、
そこに家康と領地をより多く奪おうとする秀元の連携が見え隠れしてて、輝元は元康と相談したりしてる。
家康側は「長門と周防の一部(出雲+伯耆+隠岐の合計石高分+周防元清遺領)と安芸・備後の元清遺領を
秀元に配分するべきだとして譲らず、福原が秀元に諫言したり秀元が周防の国人に騒ぎを起させて恫喝してる。
家康は秀元を利用して着々と毛利内の分断を図っていて、輝元は家康に対して怒り狂ってるのが見える。
会津征伐ってのは家康の上杉弱体化分断工作がうまくいかなかったから実力行使に出ただけ。
クーデター側は反家康側内がどんどん分断化や協調体制の各個撃破されていくのを見ているはずなんだよ。
徳川内の分断化にむけた介入による反撃ができないところに反家康側の弱さがあった。
ゴキブリ毛利厨にはこういう議論ができない。レスが幼稚で相手をするとこちら側までレスのレベルが落ちる。
497人間七七四年:2011/06/23(木) 08:20:56.76 ID:V2ZOU5dk
秀次が死んだ後に出した誓約書には太閤の御法度・御置目を尊守する・違背した者は我々一同相談し成敗
自分に分別が無かったら司法担当の者たちの衆議に服する等々の誓約書を出してる。
そして家康は違背し司法の者達の衆議に服さないので成敗される立場になったわけだ。
そしてその司法と衆議とは下記のメンバーである。
宇喜多(秀頼とは義兄として逃れあるまじき間柄)と前田が下国せず秀頼の傅役として特別な地位にいて
しかも利長は秀頼に近侍し輔弼する奏者で利政は秀頼警護の詰番衆の長(西軍として三成軍下に配属されてる)
それに次ぐ者として家康・隆景・輝元・三成・長盛らは同格の地位とされている。
家康は謀反人・隆景は死去・傅役利長も遺命を破り勝手に下国したから謀反人として家康により断罪された。
よって責任能力が欠如した7才の秀頼の政務を肩代わりする秀家・輝元・三成・長盛が
豊臣政権の意思そのものであり家康に一片の正義もない。 家康が重臣合議制の原則を逸脱して専横専断により
秀吉の遺命で秀頼に輔弼奏者する前田と秀吉に在国を許された上杉を謀反人に仕立て上げた手法よりも、
衆議で家康を謀反人にした秀家・輝元・三成らの方がより正式な手続きと故太閤の遺令を遵守してる。
それゆえ秀頼義兄宇喜多の戦勝祈願にねねが側近の大谷母を送っているし、秀頼警護役の利政も反徳川で挙兵。
三成の謀反を通報したはずの三奉行と淀が実は家康を騙していて三成と輝元を大坂入城させていたのが露呈。
そのため誤認し伏見城への手当てが遅れて落城し情勢が一変した。
(広家も伏見城攻撃に苦戦中と言う局面においてのみ黒田に輝元は今回の謀反に関係ないと言い訳していた)
ゴキこそ家康に豊臣が後援していた証拠だせよwww
家康の書状を読むと、秀頼様のためとか公儀のためなんて論法じゃなくて
家康個人に対する忠義を喜んでいる書状ばっかりなわけだがwww
498人間七七四年:2011/06/23(木) 08:28:51.46 ID:V2ZOU5dk
だからね。
毛利が欲深くアホバカすぎたから関が原で大敗してしまったのは確実なの。
どうやっても弁解不能なレベルなんだよ理解できたかなゴキ君。
まぁゴキ毛利君は関連スレでことごとく無知を晒しまくって
論破されまくりだから今回も知らなかったことばかりだろうから勉強になってよかったね。

499人間七七四年:2011/06/23(木) 08:48:22.12 ID:d3SV6KD3
>>492
秀頼の署名が必要とする根拠がいまだ出されていない。
上杉の正当性は問うていないの意味がはっきりしないが、
いろんな書状にあるように、上杉は「逆心」の釈明するた
めの上洛を拒否した。逆心は豊臣に対するもの。

>>493
勝手に占拠して勝手に宣言したのが大老奉行だから問題。
家康が行うのは正当で秀頼のお墨付きがあるが、西軍がやる
のは勝手で豊臣家も認めていないとする根拠は。
500人間七七四年:2011/06/23(木) 09:47:18.51 ID:V2ZOU5dk
>>499
上杉に関しては直江の言い分として「讒言者の言葉が事実かどうか御糾明もせずに
一方的に上杉を謀反人にするのはおかしい。まずその発言が事実か調べるのが先。
こちらは秀吉から在国を許されてるのに、なんでそれが謀反なんだ笑えるwww」
こんな感じで、明らかに家康は上杉を陥れようと謀っているのを
上杉側は知っていて上洛したら何をされるかわかったもんじゃない。
そして5/7に長束・増田・中村・生駒・堀尾ら連署で家康宛に(かなり家康を立てて気を遣っている)
・秀頼様の取立ての儀により、家康公も上方にいて天下静謐を仰せ付けていれば良いのであり
遠国へのことは各人たちを差し遣わせばよいだけのこと(衆議の一致を見てないのは明らか)
・直江のことは不届きで御立腹はもっともだが、いままで何の戦いもやってないし田舎者だから
不調法ゆえこんな感じなんです。だから今年の出馬は遠慮し来春の出馬がもっともです(強行するのに大義すらないと言える)
・秀吉様が亡くなられてからいかほど下々が出入りしても御分別をもって接してきたのにこのたびは早速、
戦を仰せ付けるのは日本に傷を付けるようなもんだと下々が存じてます(前田の下国を暗に言ってるのか)
・そもそも秀頼様は若年なんです。だから家康公がいてこそ諸人が重々しく秀頼公を奉るのです。
それなのに今、下向するのは家康公が秀頼公をお見捨てしたと下々は存ずるでしょう是非とも今年の戦は遠慮してください。
(家康は秀頼を見捨てたも同然の行為をしている)
・飢饉で不作続きなのです。兵糧をどうするつもりなんですか。来春まで延期してください。
(大坂から軍資金や軍糧が出たのも家康の威を恐れたから)
明らかに家康の恣意的暴挙で上杉を討つつもりなのは明らかで、そこをのちに内府たがいの条で突かれてる。
家康の命令が是認されうるのは大坂西の丸にいて大老として行動している時のみであり、
大坂から出ていくのはもはや秀頼様を見捨てたことに等しい。そして輝元が同時期に広島へ下国するのは批判されてない。
家康は輝元が広島へ帰ったので安心して会津征伐へ向かう。そしてそこから三成挙兵→輝元のあまりに手際の良い大坂着。
これによって三成と輝元がすでに挙兵準備していたと疑われている。
501人間七七四年:2011/06/23(木) 10:03:33.65 ID:V2ZOU5dk
ゴキ毛利厨さんなんで自演してんのw
h/lCvRpt=YOVJVKLD
傍証の数々を挙げてやったぞ。
これでもまだ屁理屈と認識の違いによるすり替えで誤魔化すの?
502人間七七四年:2011/06/23(木) 11:33:58.50 ID:d3SV6KD3
>>499
珍しくここではsubとだいたい意見が合うが、君も指摘するように
西軍挙兵はあまりに鮮やかで、この時の輝元はもっと評価されてい
いと思う。家康と父兄の契りを交わさせられたのにこれをあっさり
裏切って猛スピードで大坂に入り、弾劾に回るあたりなかなかのく
せ者ぶり。
503人間七七四年:2011/06/23(木) 12:10:19.61 ID:V2ZOU5dk
>>483>>484
豊臣政権レベルの財政能力ある者も家内改革も出来てない
旧体制のままの毛利は効率が悪く秀次や如水から朝鮮出兵費用の大借金をしてる。
政宗や忠興も秀次や如水から大借金してるな。
細川も借金があると言われてるが、秀次からの借金は家康が肩代わりして払ったから
秀次事件に巻き添えにならずに済んだし、七将クーデターの後に忠興に
家康は太閤蔵入地の代官早川長政の管理下の杵築6万石を勝手に忠興に加増して財政を助けてる。
関が原後に豊前と豊後中津などを加増されて来た忠興は再検地をしない緩やかな統治をしていたら
九州で飢饉が起こったりで忠興は借金したり茶器を売ったりして農民救済に宛てた。
そのために検地の鬼だった筑前福岡の黒田家から細川家へ農民の逃亡が相次い仲違いすることになる。後藤又兵衛の件もあるが・・・
(長政が中津城から兵糧を全部もって福岡へ移った為に、忠興が空の倉庫を見て激怒し
博多へ行く船を襲撃準備を開始したって言うから、上杉と堀の言い分もそもそもはっきりした
決まりがないんだろうな。蒲生も上杉と同じことをやったらしいし)
504人間七七四年:2011/06/23(木) 12:32:25.33 ID:/IEUABNi
のちに長束に加勢した前田玄以も会津征伐中止要請してるね。
明らかに家康の野心に感づいて阻止しようとしてる。
そもそも七将が襲撃した時は毛利軍が次々と伏見を目指して上がってきてたから家康も他の奉行は罪に問わず三成のみの処分に済ます合意を反故できなかった。
この際の毛利上杉の共闘体制は厳島神社に残る書状で証明されてるよね。
だから家康はまずは上杉を叩く方針に切り替えた。
それを奉行達が全力阻止しようとしたが止められず
上杉を救うために輝元と三成ら奉行衆が挙兵した。
家康は兄弟の契りを結んだ輝元の裏切りの可能性を見破れなかったが、輝元は三成失脚に涙したって言うし。
長政や正則が家康と婚姻を結んでいるが、
忠興は財政面で家康の援助を受けていたのか!しかも6万石もかよ。
バカなWiki脳の毛利厨がいないといろいろと関ヶ原への構図について議論ができてよいな。
505人間七七四年:2011/06/23(木) 15:21:27.37 ID:ZPx6qYIs
こういうところが、subのダメなとこだな。
意見が違う人間は徹底的にこき下ろす。
相手や周囲を納得させようという気がない。
良いことを言ってもただの頭おかしいやつにしか見えない。
同じ意見のときは迷惑きわまりない
506人間七七四年:2011/06/23(木) 15:37:39.18 ID:rasqE8mZ
裏切りに対する報い、それは時を越えて地震という形で現れた。
国を守るためにしか争わなかった安芸は自然災害皆無。
というか、気候が穏やかな土地は武将も弱いし、なんらかの影響は確実にあるな。
507人間七七四年:2011/06/23(木) 16:23:21.37 ID:5RtaqCN5
福島や黒田は三成やっつけたら自分が
奉行に成れると思ってたのかね
508人間七七四年:2011/06/23(木) 16:24:52.50 ID:/M0QBm5+
>>506
鎌倉幕府も小田原北条もスタートは伊豆だもんね
プチ民族大移動みたいなものかもしれん
蛮族が豊かな地に流れ込むみたいな
509人間七七四年:2011/06/23(木) 20:13:46.75 ID:YOVJVKLD
>>499
>家康が行うのは正当で秀頼のお墨付きがあるが、西軍がやるのは勝手で豊臣家も認めていないとする根拠は。

>>493に書いてあるだろ
会津征伐では秀頼が西の丸に来て兵糧と軍資金を家康に渡している
西軍の蜂起に対して同様の儀式はなく兵糧も軍資金も渡されていない
署名の有無なんてどうでもいい、こちらの方がより重要なことだ
510人間七七四年:2011/06/23(木) 20:19:36.39 ID:/IEUABNi
そもそも8/18の秀吉死去寸前の8/5に家康が出した起請文にある
多数派工作で徒党を組まない誓いを
9/2の毛利家臣内藤書状内で
家康が破ったことから奉行と対立したとして輝元が兵を出していたりと
意識的に家康は秀吉の遺令を破り続けているわけだ。
利家に婚姻の件で糾弾された時には家康は非を認めて譲歩したが
利家死去を契機に七将クーデターで家康は大坂城を手中に収めてしまい
輝元は広家を呼んだが大坂城奪回が不可能だった。
そのため三成・増田・大谷・前田玄以・輝元・景勝らは屈服し家康は伏見城まで手に入れた。
輝元は三成だけの責任に帰して解決を図った後ろめたさから三成に対し涙してる。
そして家康を親と輝元は呼び屈服。
大坂伏見を支配した家康に対して景勝や利長が国元へ帰国するや
家康は利長を謀反人とし屈服させ、
毛利家中を家康は秀元を使ってかき回し
宇喜多騒動にも介入し、そして会津征伐を開始。
もうむちゃくちゃやってるのが家康で、
すでに大老奉行制は形骸化して事実上の家康指導体制になってしまって家康の乗っ取りは完成寸前になっている。
この不利な状態からひっくり返そうとしたのが蟄居していた三成の決起。
家康もまさか大坂伏見が奪回されるなど思いもよらなかった。
511人間七七四年:2011/06/23(木) 21:52:03.13 ID:ZPx6qYIs
>>509
西軍に与えていないとするソースはあるの?
奉行衆は弾薬などは公儀から出すと島津らに伝えている。
512492:2011/06/23(木) 21:55:43.68 ID:NeW5AYRK
>>499
いまだにと言われると、キツイですね。睡眠も仕事も大事ですから。
せめて一日くらいは待って下さいな。

で、>>492にキチンと述べてます。
>『内府違いの条々』及び『添状』は最初から有効だと言っている。(>>124
>ただし、その本来の目的である、家康非違性の列挙と西軍参加の呼び掛けについて有効。
>これを以て、同じく公儀お墨付きの家康正当性を解除する事は出来ない。
>この西軍勝手の宣戦布告書で、家康正当性を解除出来るとする論拠の方が不明。
>仮に秀頼の署名なり花押があれば、これは豊臣家の宣戦布告書であり、
>確かに家康の正当性は消滅する。

上杉の正当性を問うていない、は文章そのままです。
『〜の条々』及び『添状』についても、家康の正当性を問題にせず、
単なる宣戦布告書とするならば、秀頼署名は不要です。

逆に、これはどう考えますか?(>>492
>>371のように、家康が完全否定され謀反人と化した場合。
>豊臣家から謀反人=政権外の人間とされた家康が、再び豊臣政権の大老足り得る
>法的根拠は何なの?再任の書状でも発給されたの?
513485,492:2011/06/23(木) 22:29:14.31 ID:NeW5AYRK
>>405>>501
で、中傷、自演認定、長文レスでの誤魔化し等々も結構だけど、
そろそろこちらの質問の回答をしてもらえないか?
いつぞやキミは議論を望んでいたが、結局逃げ回ってるだけなのか?

>>171>>232>>328>>371>>382>>402>>485 と同じ質問を
繰り返しているわけだけど。

主たる質問の復習。
>>・キミの言う通り、家康の正当性が完全否定されるならば、
>> 家康は謀反人と化し、敵性大名となる。
>>・即ち、関ヶ原は豊臣VS徳川の構図となる。
>>・であれば、戦後に豊臣家が西軍と無関係足り得た理由は何?

>>400
>会津征伐では同一化勢力と見做してよい武断派勢力と家康勢力は内府たがいの条が出てからは完全に別物。
>だから謀反人になった家康は武断派の動きを図れず江戸から動けずにいた。

この文章から、上記質問の回答は全く結びつかないけど?

>>405
>武断派自身は豊臣に弓を引いた意識が無くとも手順に乗っ取り衆議で秀吉の遺命に背いた謀反人にされてる。

『武断派が謀反人にされてる』ソースを希望したい。
武断派が豊臣家に弓引く可能性として、議論の需要なポイント。
514人間七七四年:2011/06/23(木) 22:52:36.93 ID:No+qtfYc
>>512
>上杉の正当性を問うていない、は文章そのままです。
これは上杉が大老のまま征伐を受けたと言う意味かな?

>>・キミの言う通り、家康の正当性が完全否定されるならば、
>> 家康は謀反人と化し、敵性大名となる。
>>・即ち、関ヶ原は豊臣VS徳川の構図となる。
>>・であれば、戦後に豊臣家が西軍と無関係足り得た理由は何?
どうしてもサブに回答を求めたいようだが、
曹操と献帝を家康と秀頼に例えると分かりやすい。天子に利用価値がある、
または依然として大義名分がある以上は利用し続ける。天子も軍事力を持
つ宰相には従わざるをえない。これはあくまで個人的な見解だが、こうい
う例は歴史上よくあることじゃないかな。
515人間七七四年:2011/06/23(木) 23:18:45.58 ID:NeW5AYRK
>>514
>これは上杉が大老のまま征伐を受けたと言う意味かな?
違いますね。上杉の正当性については議論していない、という意です。

>曹操と献帝を家康と秀頼に例えると分かりやすい。
これも違いますよね?
・献帝VS曹操の構図にはなっていない。(董承VS曹操)
・曹操は後漢丞相の立場を失ってはいない。(subの前提は、家康は完全否定され謀反人)
寧ろ、家康に正当性が有る場合に近似してるんですけど。

せっかくなので、私の質問にも回答してもらえませんか?
>>371のように、家康が完全否定され謀反人と化した場合。
>豊臣家から謀反人=政権外の人間とされた家康が、再び豊臣政権の大老足り得る
>法的根拠は何なの?再任の書状でも発給されたの?
516人間七七四年:2011/06/23(木) 23:44:18.59 ID:No+qtfYc
史学的な議論でなくディベートになっているからどうにも前に
進まないのではないかな。

>違いますね。上杉の正当性については議論していない、
>という意です。
意味がよく分からない。何が言いたいの?
上杉はどういう立場で討伐を受けたのか。

>曹操は後漢丞相の立場を失ってはいない
天子が誅殺の詔を発したことは正史にもみえる。
暗殺が成功していれば立場どころか存在がなくなる。
最後の質問は再回答に値しない。
517人間七七四年:2011/06/23(木) 23:47:55.96 ID:NeW5AYRK
理由も付さず、再回答に値しないで切り捨てるなら、
こちらもあなたに回答する義務はありませんね。
518人間七七四年:2011/06/23(木) 23:53:34.29 ID:No+qtfYc
そうひねくれないで。
家康が再び権力を掌握できたことの理由について、曹操と献帝の関係を
はじめ歴史上よくあることだと回答した。
君はそれに反論したが、それに対して俺も再反論した。
この部分を崩さないと、家康が再び権力を掌握した理由をもう一回答えな
きゃいけないという話にはならないでしょう。
519人間七七四年:2011/06/23(木) 23:57:40.65 ID:No+qtfYc
細川家臣・松井康之らが加藤家臣に送った書状

越中(細川忠興)身上の儀、秀頼様より曲事に思し食さるるの由候て、
丹後隣国衆、城請取に指し越され〜
(主君の忠興は、秀頼様より法に反したと思われることがあり、隣国の
諸将を城の受け取りによこした)
520人間七七四年:2011/06/24(金) 00:00:13.56 ID:mgnweUsw
>>509
すまんな、俺、6/15に家康が会津出発の挨拶で秀頼に謁し告別した時に金と米を下賜されたって言う話は知ってるが
その一次史料を知らんのよ。ぜひ教えて欲しいんだ。
しかも秀頼がわざわざ家康に会いに西の丸へ出向いたって言う話なんて聞いたこともない。

>>512>>513
>>『内府違いの条々』及び『添状』は最初から有効だと言っている
有効であり、家康は反論すらできなかった以上は家康は完全に謀反人だよな。

5人の奉行、5人の大老で誓紙連判して時間もまだ経ってないのに前田を責め人質は取るわ
景勝になんら罪もないのに太閤様の置目に背き、その理を申したのに出馬した。
知行についても自分に召し置いているのは言うに及ばず、我々に取り次ぎすらしないのは
違背であり、豊臣に忠節無き者にも知行してる。
伏見城に太閤が置いた留守居役を追い出し自分の配下を入れ
大小大名を問わず誓紙のやりとりをしてはならないのに数多のやりとりをしている。
政所様を追い出し居住し自分に味方する者の人質を国元へ返し、違背の婚姻は数知れず。
扇動して徒党を作り、内縁関係の八幡の検地まで免除した。
誓紙を少しも守ろうとせず太閤様の置目に背き、このように一つ一つ果てていくのに
秀頼様を取り立てるなど信じられないことだ。

これ有効ならはっきりしてんじゃん>>497のメンバーにより
家康とその徒党(武断派)は豊臣政権から排除された謀反人だってことが。
そもそもお前自身>>276で東軍は謀反人になったと自分で納得してたじゃんw

>>戦後に豊臣家が西軍と無関係足り得た理由は何?
三成を討った武断派は豊臣家を滅ぼすことを望んでないからだ。そして勝てば官軍で三成が全て悪いで解決を図った。
そして関が原後の没収高の80%は豊臣系大名に配分されたと笠谷和比古が言っているように
家康には豊臣系大名と敵対することの不利を悟っていたので二重公儀制と言う方向で妥協する。
521人間七七四年:2011/06/24(金) 00:00:45.31 ID:fyaTcb0A
挑発も結構だが、そういうのをひねくれるとは言わないよ。
あなたも、subと同類のようだ。普通の議論が出来るかと思ったが残念。

私の質問なら>>492であなたに先行してると思うが?
522人間七七四年:2011/06/24(金) 00:11:22.01 ID:kFulFo0r
>>521
挑発したつもりはないけど、気に障ったならごめんね。
>>492で先行しているとのことだけど、>>518では足りないのかな。
@君の質問に対してA俺が回答した。それに君がB反論し、俺がC再反論した。
Cに対する反論がないままなので、また@に戻って質問に答えろと言われても困る。
おかしいかな。
523人間七七四年:2011/06/24(金) 00:35:20.20 ID:fyaTcb0A
>>520
>『内府違いの条々』及び『添状』は最初から有効だと言っている。(>>124
>ただし、その本来の目的である、家康非違性の列挙と西軍参加の呼び掛けについて有効。
>これを以て、同じく公儀お墨付きの家康正当性を解除する事は出来ない。
>この西軍勝手の宣戦布告書で、家康正当性を解除出来るとする論拠の方が不明。
>仮に秀頼の署名なり花押があれば、これは豊臣家の宣戦布告書であり、
>確かに家康の正当性は消滅する。

一文だけ抜粋して、また誤魔化すんだね。
>>276はキミの自演でしょ?もうクイズを始めるのはやめてねw

キミの言う通り、家康が豊臣に対する謀反人になるならば、
その謀反人に味方し豊臣に弓を引いた時点で、豊臣武断派の
グルーピングは消滅する。豊臣恩顧ではなく、既に徳川派だ。

>三成を討った武断派は豊臣家を滅ぼすことを望んでないからだ。
よって、この理由は成立しない。最初から(豊臣の)謀反人には味方しない。


その笠谷は、家康に正当性がないだの、謀反人だのとは触れていないが?
524人間七七四年:2011/06/24(金) 01:43:10.08 ID:mgnweUsw
>>523
>>キミの自演でしょ
どう考えてもお前の思考そっくりなわけだがwww
>>233>>234>>235>>240>>241>>242>>248>>249>>251>>255>>257>>259>>262>>263>>265>>266
>>268>>271>>272>>274>>276>>278>>279>>280>>282>>286>>290>>292>>295>>297>>302>>303
>>307>>310>>313>>314>>316>>318>>320>>322>>323>>325>>326>>332
やっぱりお前自身が>>276で東軍は謀反人になったと自分で納得してんじゃんw
525人間七七四年:2011/06/24(金) 01:46:21.83 ID:kFulFo0r
>>523
>これを以て、同じく公儀お墨付きの家康正当性を解除する事は出来ない。
根拠は。
>この西軍勝手の宣戦布告書で、家康正当性を解除出来るとする論拠の方が不明。
ただの勝手な宣戦布告であれば、佐和山にいる時に大谷と二人で出せばいい。
2大老4奉行がそろっている時点で発しているのだから、なぜそれが効力を発しないのか
説明しなくてはいけない。秀吉在世中から、大老や奉行が政権の命を下すことが多々あった。

>>519で挙げた史料のように、改易された細川家中の者さえ、西軍が「(君の言う)勝手」に
やったことでも「秀頼様が曲事に思しめした」と受け止めている。西軍による家康排除は、秀
頼の積極的な思いが乗っているかどうかは別として、玉を手にした政権による政治行為であり、
繰り返しになるけど、「正式には」家康は謀反人。家康はそれを武力と声望、統率力で跳ね返
した。豊臣政権内での争いのように見えるのは彼の声望や武力に従う大名も多かったからだと
考える。
526人間七七四年:2011/06/24(金) 01:47:08.17 ID:kFulFo0r
>>524
subも落ちつけよ
527人間七七四年:2011/06/24(金) 01:52:18.28 ID:mgnweUsw
もうね屁理屈はいらないから。勝てば官軍なんて誰でも知ってる話だしwww
笠谷和比古は二重公儀制とはっきり書いてるじゃん日本語読めないのかwww
>>497>>500>>520でさんざん論拠をこちらは挙げてるわけだが
それでも認めたくないなら、それを論破する論拠のソースくれよ。
お前の「〜と思う」ってのは必要ないし、相手を否定するなら否定するだけの論拠も出せ。
あと秀頼がわざわざ家康に会いに西の丸へ出向いたって言う話の一次史料教えてくれ。
528人間七七四年:2011/06/24(金) 01:54:27.49 ID:fyaTcb0A
>>524
キミは議論そのものよりも、自演かどうかの方が大事なのか?w

でもね、こちらの要望は>>171以降変化なく、キミの回答を待ち続けたわけだ。
そこで自演する意味はなんなんだ?
レスが大量に進行して話がボケ、相手の居ぬ間に自演認定、中傷三昧。
この大量のレスで利益を得ているのが誰なのかは一目瞭然。
でもって、キミは前科持ち。

subが議論の相手側に、埋伏の自演を仕込むのは有名な話。
【伊達政宗の凄い所って何?】で露見。

http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1265962700/262-263

流石にクイズ出された時は腹抱えたわw
529人間七七四年:2011/06/24(金) 02:07:16.74 ID:fyaTcb0A
>>525
先程は失礼しました。
仕事があるので、これで就寝します。
もし許されるなら、先程のと合わせ、
明日改めてレスするのでご容赦頂きたい。
530人間七七四年:2011/06/24(金) 02:12:45.39 ID:fyaTcb0A
>>527
論破してるけどw
まぁ、キミとの議論よりも他の人との方が楽しそうだな。
531人間七七四年:2011/06/24(金) 02:50:05.77 ID:mgnweUsw
>>528
お前自身が>>276で東軍は謀反人になったと自分で納得してるのがバレたら
>>キミは議論そのものよりも自演かどうかの方が大事なのか?
とか言っちゃうんだw議論上重要な発言じゃねぇかwww

>>171の回答は古今東西共通で勝てば官軍だって言ってんだろwww
>>埋伏の自演を仕込むのは有名な話
それお前だろw
リンク先の見たが、あちこちのスレをまたいで大量にレスしてる人間達の中から
たまたま重複した極一部のスレのレスだけを抽出して抜き出してるだけじゃねぇかw

お前はなんで一切、ソースや具体的論拠を一切出さないで
「〜思う」ばっかり書いて論破した気分になってんの?
相手のレスにはひたすら根拠なくケチをつけてるだけで
なぜか自分の意見が肯定されてると妄想してるが
お前の意見には一切、具体例もソースもないんだぞ?
ぜんぶ「〜思った」だけ。
532人間七七四年:2011/06/24(金) 03:22:53.34 ID:mgnweUsw
だいたい9/2に美濃で勝利した美濃郷士の高橋修理を三成は厚く賞して
当座の軍用金として黄金200枚を贈るから受領するべしって書状あるわけで
たかが郷士1人を相手に黄金200枚なんて超大金をとても三成個人で負担できるもんじゃないんだが?
533人間七七四年:2011/06/24(金) 05:26:37.08 ID:197cO2zw
>>503
これさ、以前から疑問なんだけど、何で豊前中津12万石程度の黒田孝高に
毛利家他に大名貸しできるほど蓄財できたんだろう?

いくら太閤検地でなく差出で表高<<<実質石高だったとしてもだ、
ここも毛利同様、四国〜九州〜文禄・慶長と連続で動員されてるし、
九州征伐ではかなり無理して4000人(当時6万石程度)連れてってるしで、
いつも石高オーバー気味の兵力参加で財政的に大丈夫なのかと

孝高は軍事的な意味でのテクノクラートではあっても、内政家として
特別な経験があるわけではないし、ひたすら倹約一筋ケチケチ作戦で
何とかなるものなのか、それとも誰か財政の指南役でも家中にいたのか
534人間七七四年:2011/06/24(金) 08:44:28.30 ID:kItyo8g5
>>533
今じゃ斡旋横領とか賄賂と思われることも
昔じゃ当たり前の行為だし、
豊臣政権では毛利への取次役を如水やってたから付け届けとかいろいろ贈られたんじゃないか?
それに当時の金利は京の高利貸し業者で月1割とかやってるから儲かるんじゃないか?
北条は京の高利貸しを模倣したような感じで組織としてやってたみたいだし、
織田家にいた時から兵をできる限り雇わなかったケチケチで有名な利家も政宗や忠興や堀に金貸してるが財テクや金の運用をやるのが好きな商人気質な金好き武士もいたんだろう。
堀は越後転封費用を前田から借りた。
もっとも利家は死ぬ時に当家の味方をした者には借金チャラにしてやれば、
さらに味方を募れるからって利長に遺言してる。
いざと言う時に味方になるようにする道義的拘束力も金を貸すことには含まれているようだ。
しかしまぁ上杉家では武士も田畑を耕していたので秀吉の命令で会津転封が決まると
田畑を管理せずに耕作してた武士まで会津に行ったから田畑が荒地になってて堀の収入が激減し上杉からも堀は借金したが、
その返済を迫られた堀が逆恨みし家康に上杉謀反を主張して借金踏み倒しを狙ったらしい。
上杉家内では蒲生氏配下から移ってきた岡佐内なんて金貸しまくってたら「あいつは武士じゃねぇ商人だ」とか借りた側が陰口叩いてるから評判悪くなるが、
その一方でいざ大事と言う時に惜しげもなく金を使う豪気さがあるのは美談にもなるね。
535人間七七四年:2011/06/24(金) 09:00:37.58 ID:kFulFo0r
慶長6年4月21日今井宗薫宛て伊達政宗書状
「私からお願いしたいのは、秀頼様が御幼少の間は、江戸でも伏見でも、内府様の
 そばにしっかり置いて思慮分別のあるよう成人させることです。また、いかに太
 閤様の子とはいえ、日本の仕置きができる人ではないように内府様が見るのであ
 れば、2、3カ国でも与えて、なりなりに遇すればいいでしょう。唯今は大坂に
 ただ置かれているだけで、何かの時分に馬鹿な連中が出てきて、秀頼様を主にし
 て謀反を起こすようなことがあり、そいつらのために何も知らない秀頼様が切腹
 してしまえば、太閤様の御霊のためにも悪いことだ」
これは関ヶ原の戦いを踏まえ、再度の秀頼擁立による挙兵を懸念したものと理解できる。
秀頼を大将としてもなお「謀反」と呼んでいるところに、関ヶ原で勝利した家康の権勢が
うかがえる。
536人間七七四年:2011/06/24(金) 09:10:44.51 ID:kItyo8g5
封権制から脱皮しまともな家内改革ができてればある程度の蓄財は可能なわけで
むしろ毛利や伊達のように大借金体質の方が少数派で異常。
財政に明るい人間がおらず破綻財政で利息を払うだけの自転車操業に転落してたとしか思えない。
逆に算盤を持ち歩いて算学に明るいのが利家や清正。秀吉も算学に明るかったようだ。
武門が算学なんてって軽視されてた戦国の世でも兵糧から兵数や大規模土木造営で自分の頭で計算できるってのは実は重要なことで
個人の武術から軍事組織への発展に欠かせないもんで、
だからこそ三成や大谷みたいに武士でありながら算学に明るい貴重な吏僚派が全国の検地や朝鮮への補給や膨大な豊臣財政の管理運用で政権を実務指導するようになり武断派と立場が逆転したんじゃないかな。
清正や如水が関ヶ原に行かずに東西から逸脱したとも取れる独自行動で九州席巻をやってのけるのも
鼻が利く計算ができる野心ある人間ならではの依存しない独立心なんだろうね。
537人間七七四年:2011/06/24(金) 09:23:18.40 ID:kItyo8g5
>>524
例え埋伏の毒とかでも
さすがにそんなに膨大なレス数で
ひたすら粘着しケチをつけまくらないだろ…自分で自分の発言を貶す膨大なデメリットばっかじゃん。
しかも明らかに言説が>>523と同じだし。
>>528はあまりに見苦しい釈明だな。
538人間七七四年:2011/06/24(金) 12:32:03.67 ID:kItyo8g5
>>519>>535
やはり家康が秀頼に対して忠義心なんて出してないのが露呈してるじゃん。
豊臣のために家康が働いたなんて意識はこれっぽっちも無い。
前に西軍宇喜多家臣の明石の「あなた方は家康の御勝手にすべきと言うが、私たちは秀頼様の御勝手にすべきだと考えています」って書状も証拠にあげられてたよね。
家康の書状も家康個人への忠義を喜ぶ書状だらけで単に利害一致の不逞な(禁止されていた)徒党を組んでるだけで、
西軍の書状のように太閤の御恩忘れまじきとか秀頼様への忠義とか公儀のためなんて発言はしてない。
539人間七七四年:2011/06/24(金) 20:43:31.77 ID:Uy6lO6eo
テロリストほど大儀やら忠義やらを叫ぶからな
正当な豊臣遠征軍である東軍は西軍と同レベルの主張をする必要はない
自分達が豊臣を代表しているのは口に出す必要もないほど当然のことであり
反乱者に対して忠義の有無を水掛け論することは自分達の品位を汚す行為にしかならない
家康の書状も会社の上司が部下の仕事振りを個人的に褒め称えるくらいの書状でちょうどよいんだよ
書状にいちいち太閤の御恩忘れまじきとか秀頼様への忠義なんて書いたらカルト宗教集団みたいで気持ち悪いだろ
西軍は心の底で自分達が謀反軍であることに負い目を感じているから気持ち悪いくらいに恩義だの忠義だのを書き連ねて
それが逆に胡散臭さを増幅させて内通者を出してしまった一因となった
540人間七七四年:2011/06/24(金) 20:44:59.31 ID:b5b3nGpn
>>538
発言と本心は別だろw
541人間七七四年:2011/06/24(金) 21:01:58.46 ID:rNL7T5rE
結局は、偉大なる家康公が謀反人にされるわけもないし、
西軍に裏をかかれて想定外の事態に陥るわけもないーとい
うところから語ってる感じがするな。
史料を出して語りましょう。

542人間七七四年:2011/06/24(金) 21:07:02.25 ID:kItyo8g5
>>539>>540
論破されて反論不能になったから
ついに開き直ったかw
相変わらず具体的根拠も箇条書きの論拠もなく「俺は〜だと思う」レベルの妄言乙
543人間七七四年:2011/06/24(金) 21:33:12.42 ID:qzBaKJ3y
史料も嘘付くけどね
544人間七七四年:2011/06/24(金) 21:41:13.72 ID:PKEiqJhD
>>543
お前の方がずっと嘘つき
545543:2011/06/24(金) 22:28:43.65 ID:qzBaKJ3y
>>544
自分、これまでのスレとは全く関係ないんだが
546529:2011/06/24(金) 22:35:56.40 ID:ZVk1nuUZ
>>522
お待たせしました。
>>499
>上杉の正当性は問うていないの意味がはっきりしない
・景勝、家康のケースともに形式的には有効です。ですから、どちらも
署名は不要です。これは最初からそのように述べてます。(>>124
・ただし、家康の場合。『内府違いの条々』と『添状』に家康正当性解除の
 意味を持たせたいのなら、秀頼の署名が必要だと言う話です。
・景勝の場合は、その議論は関係ない、という事です。

・家康の正当性を具体的に言い換えるならば、豊臣政権の大老である事ですね。
 大義名分など抽象的な話は、双方に言い分があるので、お互いに否定する事は
 不可能です。
・『内府違いの条々』と『添状』は宣戦布告書であり、家康罷免に係わる文書 
 ではありません。
・これに、家康罷免の効力を持たせようとすれば、豊臣家が家康に宣戦布告
すれば良いわけです。つまり、秀頼の署名なり花押があれば。

>>516
>天子が誅殺の詔を発したことは正史にもみえる。
>暗殺が成功していれば立場どころか存在がなくなる。
・『曹操暗殺が成功すれば』、に対比させるならば、『家康が討死すれば』が該当
 しますね。意味のない対比じゃありませんか?
・『内府違いの条々で家康の正当性はなくなり謀反人となる』を対比させても、
献帝が董承に血署を渡すことで、曹操の正当性はなくならず、後漢丞相の立場を
全く失っていませんよね。
・繰り返しますが、家康の正当性が継続している場合の方が近似してますよ。

長文、失礼しました。
547528、529:2011/06/24(金) 22:49:40.53 ID:ZVk1nuUZ
>>531
正直、自演の話はどうでもいいんだけどね、一応。
>>171に始まり、只今現在においても、私は家康の正当性を主張しているわけだ。
そういう状況下で、>>276にような自演をするメリットって何があるのかな?
キミに降参する自演をカマせて、何の意味があるの?

どうせレスするなら>>523の本論に反論する方が建設的だと思うけど?
548人間七七四年:2011/06/24(金) 23:46:06.09 ID:kFulFo0r
>>546
>景勝、家康のケースともに形式的には有効です。
ん?よく分からない。どういうケースでどういう風に有効になったの?
何の出来事を指しているのかが分からない。

>献帝が董承に血署を渡すことで、曹操の正当性はなくならず、後漢丞相の立場を
>全く失っていませんよね。
たしかに献帝の密命と、公に発布した内府ちがひの条々は別かもね。
帝の関与が明らかになったとしても、曹操はそのまま献帝を使い続けている。
秀頼のケースも同じじゃないかな。
549人間七七四年:2011/06/25(土) 00:00:28.92 ID:fErW7lWR
>>541
結局も何も家康は西軍に対して勝利したわけだろ
家康が完全な謀反人だというなら謀反人を相手にしても敗北してしまうほど西軍には正当性がなかったことになる
家康が謀反人で西軍が公儀なら何故公儀の方から内通者が続出して敗北したのかを説明しなければいけない
西軍の書状に恩義や忠義が書かれてあることなんて何の説明にもなっていない
よく言い訳に用いられるのは三成への私怨があるけど
私怨で謀反人に肩入れするということは結局西軍にはその程度の権威しかなかったことには変わりない
史料を出して語れというがあらゆる史料が家康が勝利したことを記しているわけで
まず最初にこの絶対的史実を西軍正当説を打ち出す前にきちんと説明できなければ単なる判官贔屓にしかならない
それを『内府違いの条々』と『添状』がどうこうで誤魔化しているのが実情では相手にする方もからかうしかないわけだ
550人間七七四年:2011/06/25(土) 00:11:18.98 ID:t/Ib/25x
>>548
『内府違いの条々』と『会津征伐』に関してですね。あなたの文章からです(>>491)。
>秀頼の署名がなければ家康を否定できないというのは論拠が不明で、会津征伐にも
>秀頼の署名があったとは聞かない。
これらに、秀頼の署名がなくても問題ないという事です。
(ただし『内府違いの条々』が家康正当性を解除する場合には必要、というのが私の主張)

献帝については、その利用価値以上に後漢皇帝という重みがあります。
一概に秀頼と同じテーブルでは考えられないのでは?
『内府違いの条々』と『会津征伐』に関してですね。
551人間七七四年:2011/06/25(土) 00:13:32.60 ID:t/Ib/25x
↑最後の一文は不要でした。
552人間七七四年:2011/06/25(土) 00:19:11.68 ID:t/Ib/25x
>>549
横レスですみませんが、
余りにも釣り餌然として見えるのが心配です。

私の自演認定をされて、悪口雑言を受ける可能性があります。
553人間七七四年:2011/06/25(土) 00:32:43.06 ID:zzuhxERp
>>549
正当性があれば常に勝利するのが戦ではない。
君の言うように豊臣政権は秀吉の死で一気に求心力を落とした。
家康にしたがって会津征伐に行った連中は、いろんな思惑で家康に従った
と考えるべき。もちろん家康のほうが正しいという武将もいただろう。軍
事力・声望に従ったものもいただろう。豊臣家から一気に徳川家への転換
を期待したものもいただろう。「秀頼に疑われて改易された」と認識した
細川家の松井らはそれでも九州で奮戦する。また政宗のようなのは徳川へ
の転換への期待が書状から見てとれる。
「最終的に東軍が勝った」こんなのは正当性を語る上では根拠にならないよ。

>>550
会津征伐と家康征伐は何が違うのかな。
554人間七七四年:2011/06/25(土) 00:39:36.84 ID:t/Ib/25x
>>553
>会津征伐と家康征伐は何が違うのかな。
その質問が、主題である『内府違いの条々による家康正当性有無』
にどう繋がるのかわかりません。
会津征伐に秀頼の署名は不要と回答した以上、無用の質問です。

主題から外れるのは許していただきたい。
555人間七七四年:2011/06/25(土) 00:47:20.04 ID:zzuhxERp
>>554
会津征伐は豊臣政権をやむを得ず離反した上杉を討つためのもの。
君の言うように、家康を追討するに秀頼の署名が必要ならば、大老で
ある上杉の討伐にも秀頼の署名入りの討伐令が必要なのでは。
556人間七七四年:2011/06/25(土) 00:55:56.62 ID:t/Ib/25x
>>555
逆です。家康追討のために秀頼の署名は不要です。宣戦布告書ですから。
家康の正当性を解除するためには必要だ、と主張しています。
もう一度>>546を読まれた方が良いと思います。
557人間七七四年:2011/06/25(土) 01:01:58.94 ID:zzuhxERp
なんか意味が分からなくなってきたな。
俺の理解力が乏しいのかもしれないが。
豊臣政権が家康を追討するのと、家康の正当性をなくすのは違うのかい?
558人間七七四年:2011/06/25(土) 01:07:44.93 ID:t/Ib/25x
違います。
豊臣家の意思が追討に反映されてるか否かで、
家康の正当性有無は変わります。
559人間七七四年:2011/06/25(土) 01:20:47.02 ID:zzuhxERp
>>558
豊臣政権は奉行・大老の連署で諸大名に命を発してきた。
それは分かっていると思うけど、それがこの時だけ豊臣家の
意思が反映されていないから無効だとする根拠はあるのかな。
ディベートする気はないんだ。史料的な根拠などを挙げて話して
くれると助かるよ。
560人間七七四年:2011/06/25(土) 01:27:00.07 ID:t/Ib/25x
>>559
途中から参入してきたのはそちらですよね。
ディベートする気はないんだ、ってオカシイですね。
スルーして下さって、結構ですよ。

もう一つ。昨日、あなたの質問についてはとりあえず回答した。
今度はこちらの質問に答える番では?(>>518>>522
561人間七七四年:2011/06/25(土) 01:32:03.99 ID:zzuhxERp
>>560
>途中から参入してきた

>今度はこちらの質問に答える番では?
どれが質問?
562人間七七四年:2011/06/25(土) 01:33:49.04 ID:t/Ib/25x
>>561
本当に失礼な人ですね〜。
再回答に値しない、とまで言いましたよね。
自分で調べるのが礼儀でしょ。
563人間七七四年:2011/06/25(土) 01:43:24.13 ID:t/Ib/25x
>>561
>>途中から参入してきた
私のsubへのレスに対し、参入してきましたよね。(>>514
564人間七七四年:2011/06/25(土) 01:52:41.04 ID:zzuhxERp
>>562
失礼なことを言ったのなら申し訳ないが、
>今度はこちらの質問に答える番では?(>>518>>522
と俺のレスを引いていたので、意味が分からなかったよ。

君が引いている>>514、それが回答だよ。曹操と献帝の関係とは別だと
しても、家康は豊臣政権を使いながら天下の仕置きをすることに利用価
値を認めているし、強大な軍事力を持つ家康を秀頼は受け入れねばなら
ない。

2chは1VS1の場じゃないんだから途中から入ってきたとか関係ないん
じゃないかな。言葉を転がすだけじゃなくて、根拠となる史料を出しなが
ら語りませんか?という提案なんだけどな。松井らや政宗の書状に対する
見解も示していないようだし。
565人間七七四年:2011/06/25(土) 02:23:08.99 ID:t/Ib/25x
>>564
キミと同じで、根拠となる史料でお願いします。
豊臣家が、家康を謀反人としてその正当性を解除したならば、
戦後に何らの手続きなく大老に復職させる事は組織として有り得ない。

>松井らや政宗の書状に対する見解も示していないようだし。
何か見解を示さなくてはいけなかったんですか?

勿論、自説に史料を要する場合には、それを用意しますよ。
566人間七七四年:2011/06/25(土) 02:48:43.48 ID:T7cyHbB5
そもそも「家康の正当性の解除」なんて言う意味不明なもんを持ち出してきてるのが論破されている証明なんだよ。
豊臣政権には大老を排除するのに秀頼の署名が必要だなんて法的根拠自体が無いんだから。
相変わらず一次史料による解除条件の証明もないどころか、
会津征伐にあたり家康のために秀頼が西の丸に来たとする一次史料要求すら無視。
だいたい遺令に背き衆議にも従わない家康は内府たがいの条で完全に下野させられ政権から排除されたのは明らかなんだから。
よって西の丸に家康の代弁者も存在しないわけで
それでも家康が大老として政権の意志を反映できたなんて法的どころか現実的にもおかしい論法。
しかも会津征伐前に西の丸から出て行くのは秀頼を見捨てることだとの指摘を無視したのは家康本人。
まぁまったく史料による裏付けや論拠や根拠に基づかない
今思い付いたレベルの「〜と思う」と言う幼稚な屁理屈粘着だけなんで
そもそも議論が成立してないわけだが。

567人間七七四年:2011/06/25(土) 03:04:13.44 ID:t/Ib/25x
出だしから負け犬じみたセリフだと思ったら、subでしたか。
無関係者(もしくは埋伏)を自演認定して、勝ち誇ってて楽しいかい?
そのレスも大半が身に覚えがないしね。

キミ自身も本当のところはわかっているはず。
自分には絶対ウソはつけないからね。

とりあえず寝ます。
568人間七七四年:2011/06/25(土) 03:10:00.94 ID:T7cyHbB5
しかも「戦後に何らかの手続きなく大老に復帰〜」とか意味不明な条件をさらに重ねて持ち出してくる始末。
その「何らかの手続き」が必要とは
どこの法的根拠に明示されているんだ?
そんな条件はどこにも散見されない。
そりゃあそうだ、下野した西郷らが西南戦争で勝ったら家康みたいに復帰したろう。
結局、根拠がまったくない「正当性の解除」や「何らかの手続き」と言う屁理屈のための造語を脳内設定で作り出さないと反論すら出来ないのが現実なんだよ。
そこに一次史料による裏付けがあるならわかるが、何にも無いんだから空虚そのものでお話にもならない。
だからマトモな頭をしてたら>>557みたいにわからなくなるのは当たり前。
そりゃあそうだ、具体的根拠が存在してないんだから
後はわざと認識をひたすらズラして誤魔化して逃げてるだけで根拠が無い以上は統一した判断基準も無いからズラされたらわからなくなるのは当たり前。
さらに毎回>>565のように逃げてるだけで一次史料による根拠を提示することは一切ないから
ワザとズラした認識で噛み合わない屁理屈粘着を執拗に繰り返すだけで議論が成立するはずもないわけだ。
そしてひたすら一次史料を提示してくる側の意見を黙殺したりケチをつけてるだけ。
569人間七七四年:2011/06/25(土) 03:17:02.24 ID:T7cyHbB5
>>567
はっ?いま目が覚めたからレスしてるわけだが。
埋伏とかバカじゃないのかw
自分で自分の意見を貶すとかそんな非効率な真似するわけねーだろ。
自分の自演がバレたら埋伏などと言い出して逃げるのは見苦しいぞ!
570人間七七四年:2011/06/25(土) 06:20:57.32 ID:ZaAXFFxg
>>553
西軍正当説の最大の問題点は単に家康が勝ったことではなく西軍本体から内通者が出て家康が勝ったことだよ
色々な思惑があろうともそれを飛び越えて団結させるのが正当性なのに関ヶ原にいる軍さえまとめられないのなら最初から西軍に公儀としての正当性などなかったことにしかならない
秀吉が死んで求心力が落ち諸将が自分本位の行動を取っていたことは認めるのにそれを権威の低下に繋げることだけを執拗に否定するのは意味がない
571人間七七四年:2011/06/25(土) 07:56:02.29 ID:zzuhxERp
家康主導軍は、「内府ちかひの条々」が出されたことにより公儀性を失ったまま関ヶ原の戦
いに勝利したため、その後は、新たな徳川公儀の成立に向けて豊臣公儀を一挙に排除すること
ができず、大坂城にいる豊臣秀頼と政治的妥協をせざるを得なくなった。(中略)
「内府ちかひの条々」が出されたあとは関ヶ原の戦いに至るまで、政治的正当性を剥奪されて
非公儀としてのスタンスに立たされていた点こそ、関ヶ原の戦い後に二重公儀体制が成立した
根本的な要因であった、と考えられる(白峰旬・別府大教授『新「関ヶ原合戦」論』2011)
572人間七七四年:2011/06/25(土) 08:05:16.02 ID:zzuhxERp
>>570
>権威の低下に繋げることだけを執拗に否定するのは意味がない
否定していない。
豊臣政権の権威が低下したから正当性が失われるというのはおかしい。
>関ヶ原にいる軍さえまとめられないのなら最初から西軍に公儀としての正当性などなかったことにしかならない
勝利したことと正当性の問題は切り離さないといけないよ。
573人間七七四年:2011/06/25(土) 08:09:49.79 ID:T7cyHbB5
「正当性の解除」や「何らかの手続き」の一次史料によるその存在の法的根拠を早く出せよ。
いくらお前が認めたくなかろうが西軍は正当性を満たしてるとさんざん説明してきている。
西軍に正当性が無いとお前が主張するなら当然に、なぜ正当性がないのか一次史料を用いて具体的な説明をしろ。
そして逆に家康に正当性があるとする一次史料による具体的説明を要求する。
そもそも正当性を一次史料を使って説明すればいいのであって
なんで「権威の低下」なる新しい造語を作り出して正当性の正否の判断をしてんだ?まったく関係ないだろ誤魔化すなよ。
権威が低下しようが上昇しようが正当性がそれに応じて白黒変化するたぐいのもんじゃなかろうが。
正当性や名分より利害得失の方が優先されると以前からさんざん指摘してきたし
勝てば官軍になり結果的に正当化されるとも指摘してきたわけだが。
関ヶ原の結果から遡って西軍に正当性が無いと曲解するのがそもそもおかしい。
その結果を知らない当時の諸大名は御家存続の為に家を分けての両天秤をしてるのであって
西軍に正当性がないから家康に付いたわけじゃない。
お前の歪曲は発端から経緯までの一次史料による証明から逃げまくり関ヶ原の結果論から遡る極めて歪な真似をして「〜と思う」となんら一次史料によらずに個人の感想文に終始するからだ。
574人間七七四年:2011/06/25(土) 08:11:46.92 ID:Yo8KJpTP
史料厨
575人間七七四年:2011/06/25(土) 08:29:13.37 ID:DH0dSvML
>>574
ご苦労詐欺厨
576543:2011/06/25(土) 09:10:37.43 ID:USGZE1JB
二重公儀論は疑問
577人間七七四年:2011/06/25(土) 10:09:39.39 ID:zzuhxERp
疑問疑問言ってるけど、その根拠を示してはいかがか。
578543:2011/06/25(土) 11:12:01.20 ID:USGZE1JB
関ヶ原合戦後の豊臣家が全国に何がしかの強制力を発揮できた?
579人間七七四年:2011/06/25(土) 11:21:02.67 ID:KmZxkT+n
関ヶ原で東軍についた豊臣恩顧の大名は家康の家臣ではない。
関ヶ原後の仕分けで豊臣の領地を削りつつ東軍に参加した豊臣恩顧の大名を満足させつつ徳川の領地を増やした。
これによって豊臣と恩顧の大名が全員集まっても徳川に逆らえない下地ができた。
そこで征夷大将軍に就任して武家の棟梁として徳川が公儀となる。

では豊臣は何なのか。

諸大名への影響力を見るに徳川の征夷大将軍就任後は公儀とは言い難い。
580人間七七四年:2011/06/25(土) 11:34:10.70 ID:zzuhxERp
>諸大名への影響力を見るに徳川の征夷大将軍就任後は公儀とは言い難い。
個人的感想の域を出ない。
笠谷氏は豊臣家の諸大名への影響力について、根拠を示した上で二重公儀体制と
呼ぶべきものが存在したと主張している。疑問とするなら、どの点が疑問なのか
具体的に挙げるべきでは。
『歴史読本』2007年8月号は合戦研究の動向がまとめられたもので、関ヶ原
合戦については、笠谷氏の論を中心にまとめられている。笠谷氏の論への批判的
研究に関しても掲載してあるが、関ヶ原以前の政権の在り方などであり、二重公
儀体制への批判的研究は記されていない。その後批判的研究があるのであればぜ
ひ読みたいので教えてもらいたい。
581567:2011/06/25(土) 11:41:39.09 ID:bakiRB54
567
>>573
>「正当性の解除」や「何らかの手続き」の一次史料によるその存在の法的根拠を早く出せよ。
『正当性の解除』は、キミの主張から引用したわけだけど。(>>129)単語表現は変えたが。
自分に要求してどうするw
>家康の正当性なんて完璧に失われてる。

正当性の解除、あるいは否定でもいい。正当性が失われている、でもいい。
つまり、家康が謀反人、あるいは大老を罷免されている証明は、確かに一次史料
で確認したい。『内府違いの条々』の条文ですら、家康を謀反人とは述べていない。
研究者で、家康を謀反人として断定しているのも見た事がない。
今回は敢えてそれを要求しないでいたけど、自分で史料を要求したわけだ。
是非とも、お願いしたい。
582567:2011/06/25(土) 11:44:05.37 ID:bakiRB54
>>573
二つ目。
『何らかの手続き』
存在の法的根拠も何もない。キミの言う『正当性を失った家康』が、戦後、大老に
再任されるには、『何らかの手続き』があったはずでしょ。それを示してくれ、
と言っているだけ。別に、これはもともとキミに対して行った質問でないから、
回答してくれなくてもいいけどね。(>>492>>515>>565
こちらは、家康に正当性があるとする立場。秀吉在世の時から一貫して大老で
有り続けていたとしている。継続している以上、家康再任の書状等はない。
583543:2011/06/25(土) 12:04:56.78 ID:USGZE1JB
>>580
本多隆成が「定本徳川家康」で二重公儀体制はあっても、家康将軍就任から秀忠将軍就任までの
短い期間しか無いとしている
584人間七七四年:2011/06/25(土) 12:08:10.91 ID:bakiRB54
>>583
横レスですみません。
名前欄に自分のレス番を入力していると、
私の自演認定を受け、悪口雑言を受ける可能性が高いです。

IDが変らないのなら、入力しない方が賢明です。
まぁ、なくても自演認定していますけどねw
585543:2011/06/25(土) 12:09:30.95 ID:USGZE1JB
ちなみに自分としては笠谷氏は家康本軍を実戦力がないとしているが、
これは所領高と有事の編成をごっちゃにしている軍事素人の勘違いと
断言できる
586人間七七四年:2011/06/25(土) 12:12:10.94 ID:zzuhxERp
>>583
なるほど。詳しい根拠が不明なので分からないが、秀忠将軍就任までの
二重公儀を認めているなら、関ヶ原スレで語るには十分ではないかな。
587543:2011/06/25(土) 12:16:55.65 ID:USGZE1JB
>>586
語るのはね、それが定説とするのは疑問だが
588人間七七四年:2011/06/25(土) 12:21:04.09 ID:zzuhxERp
>>587
二重公儀は定説と呼んでいいくらいのものだとは思うが、徳川の将軍世襲が
宣言された慶長10年以降、諸大名の伺候が見られなくなっているのを見て
も、徐々に徳川幕府のほうに諸大名がなびいた様子が見られるね。
589543:2011/06/25(土) 12:25:56.66 ID:USGZE1JB
>>588
それは公儀として見ているのか、豊臣家として見ているのかによるが
政権として幕府に比する行為を行ったかの点を笠谷氏は述べていない

どちらかというと、徳川家や他の大名への関わり方を中心に述べている
590543:2011/06/25(土) 12:29:57.98 ID:USGZE1JB
まぁ、豊臣秀頼が朝廷に金を与えたり、法隆寺の争いに介入しているのが、
これは公家としての行為と見るべきだと思う
591人間七七四年:2011/06/25(土) 13:13:19.50 ID:RkVNW3+o
日光山
592人間七七四年:2011/06/25(土) 14:11:37.09 ID:2KNgV/l+
>>581>>582
ただの屁理屈で得意の逆質問で逃げを図ってるだけ。
正当性の解除に秀頼の署名ある文書が必要と主張していたから
その法的根拠の一次史料を出さないと君の意見が論拠を失う。
>>573は自分に自分で要求してると言う屁理屈は通用しない。
また「謀反人」と言う単語が使われてないから謀反人じゃないと極論を吐くのも
キチガイじみている。すでに太閤の遺令をことごとく違反した罪を弾劾されて
政権から排除されて以上は謀反人に他ならない。
>>500ですでに警告され>>520で断罪された事実を納得できないなら謀反人にならない法的根拠こそ示してもらいたい。
しかも自分でも>>276で認めて置きながら、指摘されるや埋伏とか言い出すのは卑劣極まりない。
復権するのに「何らかの手続き」がお前は必要だと主張したから質問しているのであり
太閤の御置条にもそんな法的根拠は存在しない。
そしてこちらは数々の傍証で論拠を提示するも、意地でも絶対に納得しないお前は
たびたび存在しないものを出せと要求して逃げ続けている。
そして逆にお前は一切、一次史料によらない発言を繰り返しているだけ。
さらに自分の意見を根拠付きで明示せず曖昧なため、
都合が悪くなると自分もその意見を間違いだとは言ってないと、反論者の意見をさも自分の意見のように主張したり
反論者の提示したソースにタダ乗りして、そこで理不尽な認識の違いを捏造して
反論者のソースまで自分の発言に援用するキチガイぶりを繰り返してるだけ。
>>583
やっぱり存在してるんじゃねーかwww
593人間七七四年:2011/06/25(土) 14:18:47.40 ID:2KNgV/l+
>>584
ん?二重公儀体制を肯定してる意見になんでお前が自分と同意見だから自演と思われるとか言い出すんだよ・・・
すると>>583>>584は同一人物で、単にミスったから後づけで
「存在してたけど短い期間だけ」と条件を足して開き直ってたのかwww
>>586>>588
そのとおり。
>>589
二重公儀制のキモは関が原後の没収高の80%は豊臣系大名に配分されてしまい
西国の大半が豊臣恩顧大名で占められてしまったことにある。そのために家康は大坂から出て
伏見。しかし公家を中心に秀頼擁護の動きがなお支持を得ていて
それにより家康は江戸へ移動して政治を行うことになる。
徳川秀忠の娘千姫を嫁がせたのも豊臣恩顧による徳川との融和政策へ歩み寄りに他ならない。
その二重公儀が弱体化していくのは、恩顧らが老人家康の死ぬのを待っていたら逆になり
豊臣恩顧大名の相次ぐ死去により、次第に軍事バランスが崩壊していったから。
それでも慶長10年には内大臣だった秀頼は右大臣になり、
後任として秀忠が内大臣になったり序列をはっきりさせおり、家康が早くに死んでればどうなったかわからない。
594人間七七四年:2011/06/25(土) 14:55:51.51 ID:bakiRB54
>>592
>その法的根拠の一次史料を出さないと君の意見が論拠を失う。
そもそも宣戦布告書なんだから、家康の罷免についての効力は存在しない文書。
それとも罷免を要求する文言でも入っているかい?
『内府違いの条々』と『添状』に秀頼の署名があれば、これは豊臣家の宣戦布告書になる。
家康が大老の地位を失い謀反人になるのは自明の理。これがわからないわけあるまい。

>自分に自分で要求してると言う屁理屈は通用しない。
よく読直してみなよ。キミの発言を拾い上げた上で指摘している。
第三者にも十分判断可能。
>>「正当性の解除」や「何らかの手続き」の一次史料によるその存在の法的根拠を早く出せよ。(>>573
で、>>129
>>家康の正当性なんて完璧に失われてる。
>>さらに伏見城まで奪われ朝廷のある京まで押さえられた以上、家康は天下の謀反人。
正当性が失われているのを、まず高らかに吠えたにはキミだぞ。
595人間七七四年:2011/06/25(土) 14:59:29.04 ID:bakiRB54
二つ目
>「謀反人」と言う単語が使われてないから謀反人じゃないと極論
謀反人という単語は便宜上使っただけ。『〜の条々』に豊臣家に対して謀反を企てた
という罪状は列挙されていないし、この時点で謀反を企んだとする研究者はいるのかい?

>>520については、>>523で回答している。

自演については、>>547をどうぞ。
596人間七七四年:2011/06/25(土) 15:03:45.85 ID:zzuhxERp
>>594
落ちつこう。
「内府ちがいの条々」が宣戦布告文なら、家康を謀反人と見ていると考えて差し支えないんじゃないかな。
「内府は豊臣の味方だけどぶっつぶそう」なんて宣戦布告普通に考えてありえないでしょ。
597人間七七四年:2011/06/25(土) 15:13:53.20 ID:bakiRB54
>>596
キミはまず>>565の史料を出してからにしてはいかが?
こちらはキミの質問には回答した。誠意がないと思うが。
598人間七七四年:2011/06/25(土) 15:24:45.09 ID:zzuhxERp
自信があるならどんどん回答したらいいと思うけど。
質問返しは答えられない証拠じゃないのかな。

大老に復職させた書状があるかとのことだけど、大老なんて役職は当時は
ないし、いわゆる五大老というのは、秀吉が他大名と区別して特権を与え
た大大名たちであり、制度ではないんだよ。
599人間七七四年:2011/06/25(土) 15:39:36.25 ID:bakiRB54
>>598
質問がえしではなく、キミの設定したルールに則ったつもりだが。
>>518>>522

>大老に復職させた書状があるかとのことだけど、大老なんて役職は当時は
>ないし、いわゆる五大老というのは、秀吉が他大名と区別して特権を与え
>た大大名たちであり、制度ではないんだよ。

それでも結構。大老奉行の位置づけについては、別の機会に。
家康を豊臣家の謀反人としてその正当性を解除しながら、何らの手続きなしに
戦後の領地配分等の国政を行わせるなどは、組織運営上有り得ないと言っている。



600人間七七四年:2011/06/25(土) 15:43:33.26 ID:bakiRB54
↑なので、豊臣家に対する謀反人家康を、豊臣政権の国政に復させる
文書なり、記録を史料として提示してもらいたい。
601人間七七四年:2011/06/25(土) 15:50:19.84 ID:T7cyHbB5
>>597はバカで無知だから一切、史料的な裏付けもなく屁理屈粘着してるだけだからな。
それでいて質問には答えたとか驚愕的な発言をするんだから頭が逝かれてる。
しかも家康の正当性を解除するのに秀頼7歳の署名が必要だって意味不明な主張するから
秀頼の署名がないと家康の正当性が解除できないなんて条は太閤の遺令には存在してない。
それでも主張するなら一次史料出せとの要求に対して
いやいやあなたが先に家康の正当性を解除したって曲解を開始。
そんな言い分が通るわけなかろう。
なぜなら内府たがいの条で家康の正当性がなくなったって話とまるで内容が違うからだ。
幼君ゆえ政務を肩代わりしての衆議による弾劾で家康が断罪され上杉が名誉回復したわけだ。
それなのに家康の正当性を解除することができるのは西の丸で政治を委託された衆議であるのに
幼君の秀頼を持ち出さないと正当性が解除されないと言い出すのは辻褄があわない。
しかも西の丸に秀頼がわざわざ家康を訪ねてきた話のソースすら出さずに逃げているくせにだ。
会津征伐において秀頼が署名する必要は無いと言ったくせに
今度は秀頼の署名が必要とか何言ってんだよ。
602人間七七四年:2011/06/25(土) 15:57:15.66 ID:bakiRB54
>>601
>しかも家康の正当性を解除するのに秀頼7歳の署名が必要だって意味不明な主張するから
>秀頼の署名がないと家康の正当性が解除できないなんて条は太閤の遺令には存在してない。
>>546ご参照。

> 主張するなら一次史料出せとの要求
>>594ご参照

>西の丸に秀頼がわざわざ家康を訪ねてきた話のソースすら出さずに逃げているくせにだ。
別人のレスです。>>547ご参照。

>会津征伐において秀頼が署名する必要は無いと言ったくせに
>今度は秀頼の署名が必要とか何言ってんだよ。
再び>>546ご参照。
603人間七七四年:2011/06/25(土) 15:58:03.18 ID:zzuhxERp
>>599
だからね、文書にそう言うのはないんだよ。
役職じゃないんだから。あえて言うなら、毛利が大坂城を明け渡した
ことと解釈してもいいんじゃないのかな。
これも何度も言っているけど、家康は豊臣の持つ正当性に、豊臣は家康
の軍事力に妥協しなくてはいけない。白峰氏も両者の妥協を指摘してい
るよ。
604人間七七四年:2011/06/25(土) 16:12:48.09 ID:bakiRB54
>>603
あのね。そんなことはわざわざ説明不要。
阿部勝則や堀越祐一の研究でそんな事は自明。
五大老は秀吉と血縁や情で繋がった大大名としており、
国政レベルでの権力を執行する機関として位置付けている。

でね、ついこちらも出しちゃったけど、研究者の名前で威を
借りるなら、議論なんてしない方がいい。
それはキミの主張ではなく代弁だ。
参考の紹介、ありがとうございます、という話。カッコ悪いと思わない?
605人間七七四年:2011/06/25(土) 16:15:12.44 ID:T7cyHbB5
>>602
おいおいw
ひたすら逃げまくりワロタwww
606人間七七四年:2011/06/25(土) 16:16:55.85 ID:bakiRB54
>>605
逃げてるかどうかは、このレスを追って読めばわかる。
第三者に判断は委ねるよ。
607543:2011/06/25(土) 16:19:32.65 ID:USGZE1JB
>>593
二重公儀論の根拠が乏しいと本多氏は指摘しているが
後、本多氏はもしあるとしたらとして、基本的に二重公儀論は否定している

仮定の上での論考を説明されても困るんですが
608人間七七四年:2011/06/25(土) 16:20:47.58 ID:zzuhxERp
>>604
その通り。俺は新説・奇説を唱えているのではないよ。
すでにある研究を踏まえて「自分ではそれに対してこう思う」というのが
普通じゃないのかな。論文を読んでも、先行研究者の名前を出してこの人
がこう指摘しているというのはごく普通のこと。それが何か問題なのかな。
サブの挑発に乗ったのか知らないが冷静さを失っているようだね。
609人間七七四年:2011/06/25(土) 16:22:15.03 ID:2KNgV/l+
>>604
また論難されて苦し紛れに反論者の意見にタダで乗っかかってバカじゃないのか?
それにただ名前を挙げるだけなら君みたいに
読んでなくても名くらいは挙げられるよねw
ちょっとネットで調べたら下記くらいの名前は軽く挙げられるもんねえ。

桑田忠親「豊臣氏の五奉行制度に関する考察」(『史学雑誌』46巻9号、1935年)

山本博文「豊臣政権の『指南』について―浅野長政と伊達政宗―」(『論集きんせい』11号、1989年5月)

阿部勝則「豊臣五大老・五奉行についての一考察」(『史苑』49巻2号、1989年9月10日)

阿部勝則「豊臣政権の権力構造」(『武田氏研究』10号、1993年4月30日)

堀越祐一「豊臣「五大老」・「五奉行」についての再検討―その呼称に関して―」(『日本歴史』659号、2003年4月1日)

宮本義己「家康と秀吉―内府゛律義”の真相―(『大日光』69号、1999年2月26日)

小林厚太「豊臣氏五奉行について−特に発給文書の形成を中心に―」(『鴨台史学』7号、2007年3月31日)

堀越祐一「知行充行状にみる豊臣「五大老」の性格」(『國學院大學紀要』48巻、2010年2月14日)

610人間七七四年:2011/06/25(土) 16:27:47.47 ID:bakiRB54
>>608
これ以上話を逸らすつもりはない。キミの言う質問返しにも回答しない。
大老が国政レベルの権力を執行する機関なのは、阿部の解説を待つまでもない。
ここからは繰り返し。
この執行機関に返り咲けた(敢えて復職は避ける)文書なり、記録をお願いしたい。
>>599>>600
611人間七七四年:2011/06/25(土) 16:29:54.64 ID:bakiRB54
>>609
なるほど、そういう手があるのか。
勉強になったよ、ありがとう。
612人間七七四年:2011/06/25(土) 16:35:14.90 ID:zzuhxERp
>>610
返り咲いた文書はない。必要がないから。大坂城を奪い返したことで
全部チャラ。
こちらも繰り返すけど、武力で大坂を取り返した家康は豊臣家が西軍に加担
したことを目をつぶり、むしろ加担していなかったことにしないと、自分も
都合が悪い。文書なんか残したら逆に「一度はずされたけど許してもらいました」
と言う証拠を残すようなものだよ。
613人間七七四年:2011/06/25(土) 16:40:42.00 ID:bakiRB54
>>612
ない、という事で了解した。
加えて、結局キミの主張が言葉転がしということでも了解した。
614人間七七四年:2011/06/25(土) 16:41:31.80 ID:zzuhxERp
俺もだが、こういう史料なしの推測に推測を重ねる議論は無意味なんだよね。
復職した文書がないと、正当性を失ったことにならないというのはこれも推測に
過ぎないし。「内府ちがいの条々」は宣戦布告だとすると、家康の正当性を認め
たまま討伐するというおかしな展開になる。だから西軍は家康の正当性を否定し
たうえで、檄文を発したととらえるのが普通だと思うけど、その見解を示さずに
ひたすら事後の話を求められてもなあ。
615人間七七四年:2011/06/25(土) 16:45:21.76 ID:2KNgV/l+
>>607
本多隆成は慶長10年秀忠将軍就任までのごく短い期間は積極的ではなくとも認めてるじゃん。
>>610
だから西の丸にいて正当性ある輝元との書状で
家康は輝元を騙してまで西の丸を明け渡すように言ってんじゃん。
なんとか正当性を持つ輝元との軍事衝突を避けるために
毛利安堵とデタラメを吐いてね。
そして西の丸に入ると早速、主客転倒し輝元への処分を発表するわけだ。
616人間七七四年:2011/06/25(土) 16:48:21.83 ID:zzuhxERp
>>613
俺はたびたび史料を提示しているはずだけど?
もうひとつ示すと、九州では毛利が大友を送り込んだとき、
木付城が政権から与えられた。木付は細川家のもので、松井康之が
守備していたが、「(大友が)ここを知行として拝領し、受け取りに来る」
と加藤清正の家臣に送っている。
加藤清正はこれについて「そちらの城は秀頼様から大友へ与えられ、大友が
上関までくだってきた」と松井らに書き送っている。
617人間七七四年:2011/06/25(土) 16:49:05.59 ID:T7cyHbB5
>>613
それ自分自身のことだろw
そもそもお前は一度たりとも一次史料を出して語ったことないじゃないか。
いつも「〜と思う」と言う都合がよい妄想だけで論拠もない。
だから議論すら成立しない。
618543:2011/06/25(土) 16:54:12.61 ID:USGZE1JB
>>615
基本的にはないという論調だよ
慶長16年が江戸幕府にとって一つの画期とはしているが
619人間七七四年:2011/06/25(土) 16:59:42.62 ID:td98LqSy
本多氏は豊臣から徳川への移行期をどうとらえてんの?
620人間七七四年:2011/06/25(土) 17:00:13.34 ID:bakiRB54
>>615
輝元に正当性がある、というのも意味がわからんが。
なぜだ?

>>616
こちらの質問(>>599>>600)について、史料がない、という意。

>>617
キミも関係ない史料は出すが、肝の史料は出していないぞ。(>>581
621人間七七四年:2011/06/25(土) 17:05:13.95 ID:zzuhxERp
>>616
一応回答はしたけど、そもそも質問の「復職した文書が必要だ」というのは根拠がない。
そう言われても困るだろうが、明らかに正当性を否定する内府ちがいの条々などの史料に
大使、復職した文書がないから政権から外されるなんてことはなかったという論法は相当
な裏技的論法だよ。
622543:2011/06/25(土) 17:08:16.22 ID:USGZE1JB
>>619
通説通りに関ヶ原合戦後に実権を完全に握り、幕府を開くことで名分も確立した、かな
まぁ、別に高い本でも無いので買って読んでください
623人間七七四年:2011/06/25(土) 17:11:19.28 ID:2KNgV/l+
家康が謀反人だろうと西の丸に入れば勝てば官軍で正当化できるということ。
そもそも謀反人と徒党を組んだ武断派は
例えば福島正則なんかはそもそも豊臣譜代だし、
家康が自分への忠誠を喜ぶ書状ばかりなのと違い、
8/24正則→浅野長政の恩顧同士の書状のやり取りで
正則が「秀頼様のため」と言っているように
三成憎しの正則と家康とは思惑がズレていて
この豊臣譜代を利用して西の丸に入ってしまえば正当化できるようになるということ。
しかし逆に彼らを家康は利用したために二重公儀への道を開かざるおえなくなった。
つまり家康が正当化を得られる条件に武断派が必要であり
彼らが西国の大半を握っている以上は二重公儀の選択肢しかないんだよ。
624人間七七四年:2011/06/25(土) 17:15:13.62 ID:td98LqSy
>>622
ありがとう。家康好きでない人間には高いけどね。
関ヶ原あたりにもう少しページさいてくれたら買いたいが。
625人間七七四年:2011/06/25(土) 17:15:22.43 ID:bakiRB54
>>621
まず前提が違う。こちらは、正当性を否定していない立場。
>正当性を否定する内府ちがいの条々などの史料

そう言われても困るかもしれないが、
>復職した文書がないから政権から外されるなんてことはなかったという論法
とは、全く言っていない。あくまで、大老継続性を示す一助として捉えている。
逆アプローチでは考えていない。
対して、正当性が解除=謀反人となった場合、復職の法的根拠は存在するのか、
という話(>>512)。ないという事で了解した、という話。
626人間七七四年:2011/06/25(土) 17:19:09.10 ID:bakiRB54
>>623
書籍に詳しそうなキミ(>>609)に聞きたいんだが、
家康を謀反人とした研究者の名前を教えて欲しい。
627人間七七四年:2011/06/25(土) 17:27:46.81 ID:bakiRB54
>>626
途中で切れた。

西軍の正当性については、これまで触れてこなかったが、
そもそも西軍はクーデターで成立した非合法政権。
豊臣政権の本流としての正当性には疑義がつく。

・非合法であること(当然、三成の決起は適法ではない)
・武力行使であること。
・権力の異動が発生し、下位の者が権力を掌握する事。

西軍が正当だという理由は何なんだ?
628人間七七四年:2011/06/25(土) 17:37:22.97 ID:T7cyHbB5
>>627
バカじゃないのか?
なにが非合法だよ。秀吉の遺令を遵守してない非合法行為を繰り返したのは家康であり
秀吉の遺令の通りに旧に復さんとして三成は決起し
秀吉の遺令のとおりに西の丸で衆議にはかって家康を謀反人として弾劾したんだろうが。
そしてそれはキッチリ>>500>>520で説明されてるだろ。
それにお前は>>276で謀反人だと認めているじゃないか。
お前はなんら一次史料を出さずに返答を避け逃げ続けてるだけだろ。
629人間七七四年:2011/06/25(土) 17:42:25.77 ID:bakiRB54
>>628
確かに、家康は非合法行為を行ったが、西軍の非合法性とは関係ない。
家康が非合法だったからと言って、西軍が合法化される理由には全くならない。
家康の非合法を訴えたのは、非合法政権である西軍。

繰り返すが>>276は別人。(>>547
630人間七七四年:2011/06/25(土) 17:43:29.56 ID:zzuhxERp
>>625
ないものをあるとは言えないのでそれでいいよ。
あとは君がこれまでに溜まった諸史料や質問への見解と回答
をしてくれ。
631人間七七四年:2011/06/25(土) 18:48:32.33 ID:KmZxkT+n
未だに三成が秀吉の遺命を守るために決起したとか思ってる奴がいる事に驚きを禁じえない
632人間七七四年:2011/06/25(土) 18:54:37.54 ID:td98LqSy
へうげものの関ヶ原なかなかおもしろいな。
633人間七七四年:2011/06/25(土) 21:10:29.09 ID:T7cyHbB5
>>629
非合法政権は利家死去に乗じて
早速に三成を排除した7将武断派+家康の大坂・伏見占拠クーデターじゃねぇかよ。
その歪な外様家康の武威による威嚇を背景に私化公儀独占による専横と約定破り
衆議を無視して秀頼様を見捨てた会津征伐。
この状況から太閤様が遺令による衆議と言う正常な状態に復したのが三成ら豊臣譜代吏僚らによる行政奉行たち。
>>631
少なくとも三成挙兵により結果的に敗れたとは言え、
家康の完全乗っ取りの野望を挫折させることに成功してる。
座視して上杉滅亡となれば遺令破りと他大老に介入したり屈服させたりに成功しており
豊臣家はすぐにも廃される可能性が高い。
634人間七七四年:2011/06/25(土) 21:14:33.83 ID:cBkXNEkv
( ゚д゚) 、ペッ!
635人間七七四年:2011/06/25(土) 21:16:19.39 ID:YFR/fDGz
宮本義己氏の主張の要約

家康は何も悪くない、豊臣家大老(奉行)の一人として忠実に会津攻めに行っただけなのに、
石田三成が難癖をつけて家康攻撃をはじめた。当時の日本の政局が大混乱したのは
三成のせいである。

宮本義己「徳川家康の豊臣政権運営−「秀吉遺言覚書」体制の分析を通して」(『大日光』74号、2004年3月26日発行)

宮本義己「内府(家康)の公儀掌握と関ヶ原合戦」(『大日光』76号、2006年3月17日発行)

宮本義己「内府(家康)東征の真相と直江状」(『大日光』78号、2008年3月31日発行)
636人間七七四年:2011/06/25(土) 21:20:09.31 ID:KmZxkT+n
>>633
関ヶ原より前の完全乗っ取り野望て何?
637543:2011/06/25(土) 21:26:45.45 ID:USGZE1JB
>>623
本多氏は豊臣氏が西国大名に命令を下した事実はなく、
逆に幕府は間接統治などではなく、手伝普請やキリシタン禁令を通じて
明確に西国大名に命令を下す立場にあったとしている
638629:2011/06/25(土) 21:29:38.19 ID:h59dPkT7
>>633
結論から言うと、全く該当しない。

7将+家康の構図はナンセンス。家康は調停者の立場。
7将襲撃は、非合法な武力行使までは該当するが、7将が政権の
権力を掌握したわけではない。

有り得ないが、仮に7将+家康を同一扱いにしても、当然非該当。
利家亡き後、名実ともに最大権力者は家康。7将襲撃後もその地位は不変。
権力の異動は発生していない。
639人間七七四年:2011/06/25(土) 21:50:45.73 ID:T7cyHbB5
>>635
関ヶ原へ至る過程をまったく理解してない。家康には明確な意志により
意識的に太閤の御条を破りまくってる。
>>636
>>496>>497>>504>>510
>>637
征夷大将軍として武家に命令する権利を公使した事実だけをもって二重公儀は否定できない。
むしろ家康には関ヶ原勝利後も豊臣家を滅ぼす能力がなく豊臣家を主家として論功行賞をしているし
豊臣家も徳川家に従っていない。
家康が早期に死んでいれば秀頼は秀忠よりも右大臣と内大臣の差で凌駕し関白職への道も開けていた。
>>638
喧嘩両成敗の原則を無視して三成だけを蟄居にし、7将を罰しないなど私曲し遺令に公然と反して徒党を組んだのが家康。
640人間七七四年:2011/06/25(土) 22:00:01.19 ID:h59dPkT7
>>639
だから、家康のクーデターに該当すると言いたいのかい?

@非合法であること
A武力行使であること。
B権力の異動が発生し、下位の者が権力を掌握する事。

有り得ないが仮に家康を対象として検討しても、Bに該当しない。
家康は、事件前後で最大権力者であり続ける。クーデターには該当しない。
641543:2011/06/25(土) 22:08:04.41 ID:USGZE1JB
>>639
幕府が西国大名に命令したに加えて、開幕以後の豊臣家が西国大名に命令を行っていないのだが
そんな豊臣家を徳川家に臣従していなかったとは言えるが、公儀とはとても言えない
642人間七七四年:2011/06/25(土) 22:09:13.87 ID:kF20wm7g
本間宏氏「慶長五年「白河決戦」論の誤謬」(『福島史学研究』第89号、2011年3月)
643人間七七四年:2011/06/25(土) 22:16:16.78 ID:T7cyHbB5
大老間に上下の差など付けてないぞ。
しかも衆議で決めて、それに服さない大老はみんなで相談して討伐することにも言及されてるから輝元や秀家らも参加した以上は
下が上の家康を討つことはクーデターじゃない。

それを言うなら特に秀頼の後見役として特別な地位を任された前田家に対して
謀反と称して恫喝した家康こそ下位の者が権力を握ったと言えるだろ。
しかも内府たがいの条でも上杉家に並んで前田家に対する家康の所行に触れられているしな。
644人間七七四年:2011/06/25(土) 22:28:45.58 ID:h59dPkT7
>>643
まず、クーデターが何か、もっとよく勉強しようよ。
その後でもう一度、自分の文章を読み返すといい。赤面ものだよ。

大老間に上下をつけてないのは形式的な話。
実質的な最大権力が異動すれば成立する。
キミ自身も家康の権力について語っているよね。(>>633
>その歪な外様家康の武威による威嚇を背景に私化公儀独占による専横と約定破り

非合法な石田挙兵を契機としたクーデターで成立したのが西軍政権。
この非合法政権による『内府違いの条々』と『添状』に、豊臣政権本流である
家康の正当性を否定できるのか、って事だよ。
645人間七七四年:2011/06/25(土) 22:30:06.30 ID:T7cyHbB5
>>641
秀頼は若年ゆえ関白や将軍にまだ任命されておらず、直接命令をする権利をまだ手に入れてない事実を指して二重公儀じゃないと言うのは曲解。
実際のところ秀頼の官職は常識外れに早く順当に上がっており秀忠すら抜いており
このまま推移すれば関白に任じられると思われていたし、事実その他大名家にはない特別待遇を証明するように官位も上がっていた。
従って当然、豊臣家は徳川家には仕えておらず
豊臣恩顧大名が徳川家との折衝交渉の取次までやったりしているし
関ヶ原後の家康は論功行賞を豊臣の大老としてやっているのは上下関係を明確に示している。
関ヶ原後に上洛した上杉主従も家康よりも先に秀頼に挨拶したわけだし
646人間七七四年:2011/06/25(土) 22:34:34.44 ID:IQPwf8cT
会社の役員が違法に会社を私物化した事を理由に
同じ役員が全員でその役員を解任する事を決めるのをクーデターだなんて聞いた事も無い。
647人間七七四年:2011/06/25(土) 22:39:55.61 ID:KmZxkT+n
>>639
いや、だから関ヶ原以前の完全乗っ取り野望て何?
648人間七七四年:2011/06/25(土) 22:40:01.22 ID:h59dPkT7
>>646
そりゃそうだね。
取締役の解任は、株主総会の議決事項だから。
649人間七七四年:2011/06/25(土) 23:01:03.80 ID:zzuhxERp
史料に基づく議論がないね
650人間七七四年:2011/06/25(土) 23:23:43.41 ID:IQPwf8cT
>>648
ここで言ってる例えが取締役会での動議を指しているのか、
株主総会で承認される事を指しているのかくらい普通馬鹿でも理解できるよね。
まともな議論を避ける為に態々そんな恥ずかしい事言ってるの?
家康が発動した強権は完全に違法な物であり、
それを以て家康が事実上の最高権力者であった等という事はあまりに馬鹿らしい。
もちろん、西軍諸将の誰かがその家康に取って代わる意思があったなんていう史料も無い。
三成が挙兵したのならクーデターだと言えるが、
二大老・三奉行が行っている以上、これをクーデターだなんて言うのはあまりに馬鹿らしい。
651543:2011/06/25(土) 23:26:22.15 ID:USGZE1JB
>>645
直接命令できる権利がなければ、それはどう見ても公儀ではない
ちなみに開幕後に豊臣家が西国大名に間接命令として自家の命令を伝えたという話もない

関ヶ原後から開幕まで家康は豊臣政権の大老としてだったかもしれない
しかし、公儀としての実権はほぼ徳川家が握っており、開幕後はそれがそのまま幕府に移った
652人間七七四年:2011/06/25(土) 23:42:35.68 ID:h59dPkT7
>>650
取締役会で解任決議出来るのは、代表取締役だけだが。
ヒラ役員解任は、株主総会の決議事項だよ。

もう一回、クーデターを調べてみなよ。自分の屁理屈がわかるから。



653人間七七四年:2011/06/26(日) 00:00:08.93 ID:iP0Y2QHX
豊臣に次ぐ筆頭株主の家康と有象無象株主の二大老三奉行が同等の発言権とかないわー。
現代の会社でもないわー。
654人間七七四年:2011/06/26(日) 00:04:10.29 ID:Ds6SW8Ys
タイのタクシン政権がクーデターで倒されたけど、
タクシンはかなり違法性の高い権力者
655人間七七四年:2011/06/26(日) 08:34:53.48 ID:c7AwlTJC
>>649
何か問題でも?
656人間七七四年:2011/06/26(日) 10:10:37.65 ID:HyTxSKJm
慶長6年4月21日今井宗薫宛て伊達政宗書状
「私からお願いしたいのは、秀頼様が御幼少の間は、江戸でも伏見でも、内府様の
 そばにしっかり置いて思慮分別のあるよう成人させることです。また、いかに太
 閤様の子とはいえ、日本の仕置きができる人ではないように内府様が見るのであ
 れば、2、3カ国でも与えて、なりなりに遇すればいいでしょう。唯今は大坂に
 ただ置かれているだけで、何かの時分に馬鹿な連中が出てきて、秀頼様を主にし
 て謀反を起こすようなことがあり、そいつらのために何も知らない秀頼様が切腹
 してしまえば、太閤様の御霊のためにも悪いことだ」

豊臣政権から大友氏に対し、木付城が与えられた。木付城は細川家のもので、
松井康之が守備していたが、「(大友が)ここを知行として拝領し、受け取り
に来るので覚悟しなくてはいけない」と加藤清正の家臣に送っている。
加藤清正はこれについて「そちら(木付)の城を秀頼様から与えられた大友が
上関までくだってきた」と認識している。

上杉家の直江兼続が本庄繁長に「面白くないこともあるだろうが、天下への奉
公と思い、奪われた白石城のことは忘れ、公儀さえよいと言うならば伊達との
和睦を続けろ」と指示している。
上杉の認識は西軍が秀頼を推戴する公儀。
景勝も上方の奉行衆に「関東攻めをしたいけど、伊達と最上が慮外に様子見を
している」と説明している。伊達や最上は公儀方の上杉に従うのが当たり前な
のにという考え方。実際にこの時期の伊達や最上は上杉方に寄りつつある状況
にあった。上杉は徳川とともに東国の締まり役と考えられるので、豊臣政権の
幹部としての行動を貫いている。
657人間七七四年:2011/06/26(日) 10:51:22.05 ID:XZMKwyXq
大老家康の命令による会津征伐が内府たがいの条により消滅すると
安東氏なども家康に許可されていた蔵入地からの流用を止めて領国に引きこもり
奥羽の豊臣公儀となった上杉を家康のために攻めなくなり
最上も伊達も上杉との和睦交渉へシフトしている。
家康に従ってるのは森忠政や忠興のように家康から新知拝領してるような者か遺令に背いての婚姻関係。
そして一番の目的は朝鮮以来の三成憎しなのは明白で
内府たがいの条以来、家康が江戸で味方まで裏切るのではないかと疑心暗鬼になってる中で
西軍の主力が北伊勢に迫る中で三成憎しで、理解不能にも伊勢救援への援軍すら出さずに
三成のいる美濃大垣を目指して北上する福島ら武断派の行動を見ればわかる。
家康が江戸から動かないと断定した広家は楽観論の元に黒田の書状をシカトしまくり
ついには家康は駿河まで来てると大ウソまで付いてるが広家はそれも無視して返事も書かない。
家康の書状には自分への忠誠を喜び私的な徒党作り書状ばかりであり、武断派の思惑とかけ離れているのがわかる。
8/24の福島→秀忠と中山道を進む浅野長政宛でも福島は美濃攻略の報告で秀頼様に良きようにと言ってるし
正則は関が原前には織田秀信の助命を、後には家康に伊奈昭綱の切腹を要求するなど必ずしも家康に従ってないし
10/2の清正→浅野幸長書状でも関が原で悪逆人を討ったのはお手柄と言ってるなどすべて三成が悪いで決着しようとしている。
>>538>>571 
三成は敗れたものの結果的に大老奉行制形骸化による事実上の家康指導体制の打破に成功した。
それは三成を討った武断派は豊臣家を滅ぼすことを望んでないからだ。
そして勝てば官軍で三成が全て悪いで解決を図ることで家康に隙を与えず牽制し
関が原後の没収高の80%は豊臣系大名に配分されたと笠谷和比古が言っているように
家康には豊臣系大名と敵対することの不利を悟っていたので二重公儀制と言う方向で妥協する。
武断派は豊臣公儀を擁護し守り立てていく方向を示した。それは秀頼への参賀でも証明される。
そして老人家康の死を待ち秀忠の娘千姫を人質として大坂に入れさせるなどしたが
武断派の方が次々に死去し軍事バランスが大きく変化してしまった。
658人間七七四年:2011/06/26(日) 11:13:06.09 ID:1gH8Exhf
誰に何を言いたいのか、わけワカラン
安価くらいつけろや、カス
659人間七七四年:2011/06/26(日) 12:10:05.40 ID:XZMKwyXq
そもそも数千人討ち取られ大垣城に逃げ込んだ三成・小西・秀家・義弘を包囲して
道も完全封鎖したって報告で騙された家康が俺がいないところで三成に勝って勝負終わっちまうヤベエ!って話で
家康が大垣は水攻めするからお前ら行動停止。俺ら父子を待ってから動けよ!って急いで西上しただけの話で、
関が原でも武断派が先鋒やって、そのまま長政の調略もあり大勝利しただけの話で
実質的に家康はほとんど何もやってないに等しい以上は戦後状況で武断派が重きをなし発言力が高まるのは必定。
9/16に如水が藤堂高虎へ宛てた書状には
5日に会った使者が今こちらに着いたわ。その後のこっちの状況だけど
豊後で大友義統を破ったわ。それで論功行賞の話なんだけどさぁー
小倉表に出馬し隙が出来しだい清正と相談し関門海峡を越えて広島を取ろうと思ってて
井伊が言っていたように長政には秀家の領地をもらえるように取り成ししてくれ。
清正と私の所領については切り取った領地分を家康の取り成しで
秀頼様から拝領して貰えるように井伊に言うのが肝要に存じてる。
とにかく息子長政は上方で知行を貰い、私とは別家扱いにしてもらうように頼む。

領地の過大要求しまくりで、のちに輝元降伏を受けて島津攻めまでやろうとするのが如水と清正。
あくまで秀頼様を全面に掲げての独自行動に脅威を抱いた家康が島津攻めストップをかけるわけだ。
秀頼ではなく家康への忠義による徒党化こそ家康は欲しいのであるが公然とそれを否定し
明らかに勝利後において徒党化解消と秀頼公儀の秩序の中に家康を押さえ込もうとする意図がすでに書状に現れてる。
これが二重公儀の成立への背景であり、奉行への反発が原動力であり家康への盲目的忠誠心など武断派にはない。
遺令破りの七将クーデターでは三成を含め奉行衆全員の追放を願ったし、これは利害が一致し家康との徒党化があった。
(三成の次に憎まれていたのは増田だが毛利・上杉の抵抗もあり三成だけの責として妥協した家康にも彼らは不満だった)
彼らは三成を討ち日ごろの不満を解消し大坂西の丸へ入ることで
豊臣恩顧譜代としての立場も用いて名誉回復し秀頼公儀を推戴していこうとの意思があるだけ。
660543:2011/06/26(日) 13:11:03.94 ID:rZOzvN2m
>>659
笠谷氏の二重公儀論は
関ヶ原で家康本軍は役立たず→豊臣恩顧大名だけが活躍→恩顧大名権力大→西国大名は家康の支配受けぬ
という流れだが、

・この家康本軍が役立たずという前提が所領と編成を一緒くたにした、軍事素人の勘違い
・先鋒が豊臣恩顧なのも前線に近い大名が先鋒という慣例に基づくもの
・実際には先鋒中央には井伊と忠吉がいて、宇喜多や島津と当初からガチで戦っている

ので前提の論拠が崩壊しているのである
にしても笠谷氏だけでないが、「日本戦史」を否定しつつ、配陣図は「日本戦史」を引用し続けるのは勘弁して欲しい
661人間七七四年:2011/06/26(日) 13:41:08.38 ID:82XdYI4b
徳川信者にすれば本田さんのいうような色あせた公儀体制論は耳に心地いいだろうな
662人間七七四年:2011/06/26(日) 13:54:34.24 ID:BIYtF2Bi
思考停止乙
663人間七七四年:2011/06/26(日) 14:09:32.06 ID:985muy5S
清正は関ヶ原の結果を知った後に書いた10/2の浅野書状で始めて行動がハッキリするんだよなー。
宇土城の二の丸まで取り詰めたから程なく落城するだろうから
そしたら大坂から妻子を盗み出した宗茂が柳川城にいるからこれを討つって。
だから如水と談じているのは事実だけど
関ヶ原前には東西どっちに着いたのかハッキリさせてない。
宇土城も関ヶ原後に攻めてるとしか思えない。
内府たがいの条によって会津征伐が違法化されて家康が江戸に帰るに及んで
以降の九州や奥羽や北陸の在地滞在中の諸大名って
もはや家康の為に動いていなくて
現地での独自判断に終始して清正は如水と並んで武断派ですら無いんだよなー。
664人間七七四年:2011/06/26(日) 14:28:08.29 ID:jAo9djsB
>>644
成立過程が非合法である事実は、どこまで行っても拭えない。
これを正当化するためには、豊臣家の御墨付を得る事。

司馬懿は郭太后に曹爽解任の令を得、ソンティはプミポン国王の
支持を得るなど、歴史上でもクーデター政権は正当性を確定させている。

内府違いの条々は、正当化されていない非合法政権による文書。
家康は、依然として豊臣政権の正当な大老であり、謀反人は見当違い。
確かに、秀頼の署名か花押でもあれば、謀反人になるだろう。




665人間七七四年:2011/06/26(日) 14:28:42.56 ID:985muy5S
>>660
忠吉に付いてる井伊らは単なる目付や軍監だ。
それに忠勝も前線にいたのも知らんのか?
彼らはともに関ヶ原で大した働きはやってない。
それどころかザコ島津寡兵にやられる井伊隊w
のちに徳川が何ら功無きを誤魔化す為に島津の流れ弾に当たったのが元で死んだ井伊を軍記などで持ち上げただけ。
それは徳川譜代の石高の低さでも証明できる。
徳川は火事場泥棒とハッタリだけの軍だからね。
三成憎しで豊臣譜代武断派が活躍し大坂に入って七将クーデターの遺令無視の悪行を棚に上げて秀頼に参内したから
謀反人家康の罪状が消えただけ。
しかし大坂は武断派がいるし
伏見は公家勢力が秀頼の官位をガンガン上げて擁護するから
家康は江戸や駿府を拠点にせざる負えなくなっただけ。
666人間七七四年:2011/06/26(日) 14:37:42.12 ID:985muy5S
>>664
衆議無視の専決や七将クーデター支援や婚姻多数派工作など秀吉の遺令を次々に破り幼君秀頼の権威に傷をつけまくった家康にはなんら正当性は無い。
秀吉の遺令どおりに衆議による政権運営に戻した三成らは公儀として活動しており
家康は自分の私的な徒党を組織してるだけで何ら正当性が無いから会津征伐の違法を告発されるや江戸で疑心暗鬼に駆られる始末。
福島らが三成憎しで打ち破った棚からぼた餅に過ぎないのが家康。
667人間七七四年:2011/06/26(日) 14:42:24.76 ID:jAo9djsB
まず、七将をクーデターと言ってる時点で知識不足。
既出だが、家康の違法行為と、西軍の非合法は無関係。

西軍贔屓でアンチ家康なのは理解するが、事実は事実として認める事は重要。
でなければ、キミの主張はクズ同然。
668543:2011/06/26(日) 14:48:15.65 ID:rZOzvN2m
>>665
井伊の先手は宇喜多と戦い、井伊本隊と忠吉は三千の島津と戦っている
そこに目付だからとか、軍監だからという観点は存在しない

していないとなったのは「日本戦史」が「関原御合戦進退秘訣」という島津
贔屓の講談本を参考にしたから
669人間七七四年:2011/06/26(日) 14:57:30.66 ID:985muy5S
>>667
史料を用いて反論してくれないかね?
>>668
井伊の活躍など一次史料にはまったく窺わせるものは無いし、
武断派大名も井伊らに対してお手柄とか誉めるような記述も皆無。
670人間七七四年:2011/06/26(日) 15:10:21.45 ID:jAo9djsB
>>669
何の史料が必要なのかわからないが、
一般的に、普遍性のある事実については勘弁してもらたい。
例えば、君の>>666にある
・衆議無視の専決
・婚姻多数派工作
・秀吉の違令を次々に破る

これらは議論の前段として、一般的な共通認識と捉えている。
こちらが明らかに妄想を根拠にしている、と思われるものにして頂きたい。
671人間七七四年:2011/06/26(日) 15:13:30.22 ID:jAo9djsB
↑追加

言葉の意味を正確に理解した上で使って欲しい。
君のクーデターに関する理解は明らかに間違えているので、
議論が成立しない可能性がある。
672人間七七四年:2011/06/26(日) 15:13:53.38 ID:HyTxSKJm
質問されるたび、戦後に豊臣家が家康を復帰させた書状を示せと質問返し
していた人はどこに行ったんだろうか。
673人間七七四年:2011/06/26(日) 15:22:55.17 ID:2mS4lZQX
そもそも家康が「事実上の最高権力者」になったのは関ヶ原以降なんだけどな。
利家死後の混乱に乗じて本来以上の権力を行使しようとしただけ。
こういった事が常態化し、既成事実化すれば「事実上の最高権力者」と言えるだろうが、
関ヶ原までは正に家康が力ずくで「事実上の最高権力者」になろうとしている真っ只中であり、
それを公儀構成メンバー全員に否定されたのだから、
そこに家康を正当化する理由はまるで無くなってしまう。
674人間七七四年:2011/06/26(日) 15:23:32.84 ID:985muy5S
>>670>>671
いえ一般共通認識ではなく
さんざん一次史料を提示して論を展開した結果、反論できなくなったお前と言う状況になり共通認識になっただけです。
そしてお前は回答を避けまた一般的・普遍的などと誤魔化し逃げ発言をしてるだけです。
675543:2011/06/26(日) 15:26:13.23 ID:rZOzvN2m
>>669
関ヶ原合戦の戦功の一次史料は家康が小早川とその家老稲葉に出したのと、
井伊や本多が黒田如水にだした書状に長政の戦功を賞したくらい

つまり一次史料を参考にした場合、殆どの将は活躍しなかったことになるな
676人間七七四年:2011/06/26(日) 15:34:47.90 ID:jAo9djsB
>>672
たぶん今日は休日出勤で、今休憩時間のようです。

>>674
そもそも一次史料を要する主張をしていないから。
主張に必要だった史料は内府違いの条々と添状だけ。
後は、普遍性の高い事実を基に主張をしている。
もし、妄想や推測を根拠にしているものがあったらレス番を教えて欲しい。

とはいえ、結局>>644>>664を崩せなければ、キミの主張は全て無意味になる。
677人間七七四年:2011/06/26(日) 15:35:08.74 ID:985muy5S
>>675
いやいや清正や如水や家康などは
関ヶ原や美濃表での戦いで武断派を誉めてますけど?でも井伊なんて単なる家康への取次レベルの扱いしかされてません。

678人間七七四年:2011/06/26(日) 15:38:21.16 ID:HyTxSKJm
>>676
「復職の書状出すのが先」と言い続けて避けてきた質問や史料への見解を
示してくれないのはなぜなのだろうか。
679人間七七四年:2011/06/26(日) 15:38:38.17 ID:985muy5S
>>676
相変わらず見苦しいねw
そもそもお前は一次史料なんて出した試しすらないじゃないかw
680543:2011/06/26(日) 15:41:23.05 ID:rZOzvN2m
>>677
具体的な史料を明示してね
681人間七七四年:2011/06/26(日) 15:45:23.56 ID:985muy5S
>>678
まー豊臣譜代の武断派が遺令破りを黙殺したまま返り咲いた時点で
わざわざ秀頼が武断派に復職の書状を出すわけもないのに屁理屈こねてケチつけただけだからね。
7歳の幼君に自筆書状がないとおかしいと主張しておいて会津征伐には秀頼の自筆書状はいらないとかわけわからん理屈をこねてるし。
そのくせ自分で認めたのを指摘されたら埋伏だ!とか、
西の丸に秀頼が家康を訪ねたって史料出せと指摘されたら、それ書いたの俺じゃないから知らんとか
もうgdgdすぎて滅茶苦茶で終始一貫せずwww
682人間七七四年:2011/06/26(日) 15:46:23.05 ID:HyTxSKJm
関ヶ原を境に家康が完全に公儀権力を確立し、豊臣家の公儀としての権力が
全くなくなったとしたら、関ヶ原で何が起こったと解釈すべきなのだろうか。
683543:2011/06/26(日) 15:47:03.09 ID:rZOzvN2m
>>677
後、井伊は家康家臣という点も忘れないように
684人間七七四年:2011/06/26(日) 15:50:04.42 ID:985muy5S
>>680
俺のレスではないが>>657のレス内の書状なんかでも誉めてる。
さあ次は君が井伊が武功あげた証拠だしてね。
685人間七七四年:2011/06/26(日) 15:58:08.41 ID:985muy5S
>>683
おかしいなあ。関ヶ原後の吉川広家も井伊への書状で井伊の武功を一切称えてないなぁ。
686543:2011/06/26(日) 16:00:55.64 ID:rZOzvN2m
>>684
慶長5年10月2日は三成討ったのは見事ですねの意味だね、浅野は南宮山にいたけど、
それ以前の書状城は本戦前だし

ちなみに岐阜城攻めについては秀忠から忠勝にその功を
褒める九月五日付書状がある
687人間七七四年:2011/06/26(日) 16:02:12.88 ID:985muy5S
>>676
休日出勤で今休憩時間って何でお前が詳しく知ってんだよ自演乙としか…
688543:2011/06/26(日) 16:02:20.91 ID:rZOzvN2m
>>685
そりゃそうだ、あれは南宮山の抑えに井伊もいることにしているのだから
689人間七七四年:2011/06/26(日) 17:37:00.58 ID:XZMKwyXq
>>663
清正は9/22から宇土城攻めをやってるのが9/23付け如水書状でわかるよ。
指摘の通り、すでに柳川表に宗茂が戻ってきているようで如水と一緒に攻めるようで
鍋島が加勢してこようが働くのは苦しからず覚悟だと言ってる。
また清正は東よりの御左右はこれ無く候哉、承度候。
と書いており家康の指図によらずに行動してるのがわかる。
続く9/24の清正→鍋島書状で輝元が大坂下城するわけだがと言って鍋島へ降伏勧告と柳川攻めを要求してる。
だから鍋島直茂が家康の勝利を予言して西軍として伊勢へ進出していた勝茂を関が原前に離脱させた話も怪しい。
>>675
秀秋の重臣の平岡頼勝は正室の従兄弟の黒田長政の調略に稲葉がオマケで着いてきただけ
しかも小早川先陣を預かる重臣の松野重元が西軍で説得は難航していて
毛利がまったく動かないことに不信感&家康の銃撃でやっと下山。
長政と浅野幸長が「我々は(家康ではなく)北政所様の為に動いている」などの話まで持ち出したらしいし。
9/22の黒田如水書状で浅野・田中・藤堂・長政にお手柄と書いてたりするね。
>>683>>686
9/28の結城秀康→政宗書状では田中吉政の他に家康配下の石川康通の手柄を家康が褒めてるのがわかる。
だから井伊にそれに該当するものが存在しない以上は証明不能。
>>688
井伊隊って田中吉政や福島や藤堂や宇喜多直盛らより背後にいただろ軍監だし。
いろいろと捏造だらけだから井伊の動きは便利だなw
徳川としては神君の神算鬼謀マンセーで井伊大活躍ストーリーにしないとまずいんだろ。
690543:2011/06/26(日) 18:27:51.45 ID:rZOzvN2m
>>689
「関原始末記」に忠吉と井伊が宇喜多島津と戦ったとある
まぁ、一次史料ではないとか言うんだろけど、一次史料を絶対視したら
まともな合戦経過なんて記述できんのに
691人間七七四年:2011/06/26(日) 18:37:45.00 ID:XZMKwyXq
>>690
小山会議において東海道諸将が城を家康に献上して三成討つべしと主張しているが
慶長年中ト斎記は城の提出を正則としている。
関原始末記は山内一豊としている。
両者の史料を比較した場合、どちらがまだ信憑性があるかと問われた場合、慶長年中ト斎記の方だろう。

福島の功績を意図的に抹消してるのが関原始末記。
関原始末記は若狭国小浜藩主の酒井忠勝が作らせた単なる軍記。
692543:2011/06/26(日) 18:57:47.19 ID:rZOzvN2m
>>691
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E5%A7%8B%E6%9C%AB%E8%A8%98/
後、国史大辞典でも参考史料としていたな
他には竹中本関原御合戦記や東西記も忠吉・井伊が島津と戦ったとあるな

で、二重公儀制は定説ではないで宜しいですね
693人間七七四年:2011/06/26(日) 19:25:00.85 ID:rkL6VFgF
本多氏も石田大谷の謀反から豊臣公儀としての家康追討
って言ってるし、豊臣系大名に頼らざるを得ず、彼らを
大幅加増したこと、関ヶ原後はあくまで秀頼の政務代行
者だったことを指摘している。
どこまでが二重公儀かという議論ならこのスレじゃなくなる。
694人間七七四年:2011/06/26(日) 19:40:36.58 ID:iP0Y2QHX
大幅加増ったって、家康自身の加増に比べれば屁みたいなもんだからなぁ。それで豊臣恩顧の発言権が増したかと言えば、仕置きの結果家康に全く逆らえなくなった。
695人間七七四年:2011/06/26(日) 19:49:42.93 ID:985muy5S
>>692
全部軍記じゃねぇかw
つうか軍記の意味も知らんで書いてるんだな…こりゃあ恥ずかしい。
そりゃあ軍記でも参考史料にはあげるだろ…
家康に恩を売りまくった豊臣譜代武断派の三成死後の秀頼推戴擁護と言う状況が生まれ
幕府に対する公家の秀頼を使った厚遇による牽制政策もあり
二重公儀体制になっていたのも明らかだし。
696人間七七四年:2011/06/26(日) 19:59:53.81 ID:985muy5S
>>694
えっ?具体的には何を差してんの?
ソース付きで書いてネ!
697人間七七四年:2011/06/26(日) 20:22:30.11 ID:iP0Y2QHX
>>696
清正52万石、福島49万8200石、嘉明20万石、黒田52万3000石、池田52万石、浅野32万石。

豊臣65万7400石、毛利37万石、上杉30万石、島津56万石。

結城67万石、徳川400万石。

強いのどこだろう?
698543:2011/06/26(日) 20:38:56.53 ID:rZOzvN2m
>>693
つまり笠谷氏の唱える二重公儀論は定説でないで良いですね
>>695
関原始末記は覚書と書いてあるでしょ
>家康に恩を売りまくった豊臣譜代武断派の三成死後の秀頼推戴擁護と言う状況が生まれ
>幕府に対する公家の秀頼を使った厚遇による牽制政策もあり
>二重公儀体制になっていたのも明らかだし。
前スレ読めよ、笠谷氏の二重公儀論は明確な論証ゼロだぞ
699人間七七四年:2011/06/26(日) 20:49:23.09 ID:rkL6VFgF
>>698
そうですねって俺が言えば定説じゃなくなるの?
なぜ聞かれたのかわからないが、個人的な意見を言えば
やはり徳川将軍の誕生で、武家支配権は本来の征夷大将軍
の下に移っていったのでは。ただ、豊臣家がただの一大名
だとも思えないけど。
700人間七七四年:2011/06/26(日) 20:49:26.50 ID:82XdYI4b
個人的な恨みでもあるのかこいつはwww
701人間七七四年:2011/06/26(日) 20:55:57.69 ID:rB/SXqx5
里見12万2千石
702人間七七四年:2011/06/26(日) 21:13:18.99 ID:iP0Y2QHX
>>700
徳川に滅ぼされた大名の足軽だった事が名誉な家の末裔とかじゃないの?
703543:2011/06/26(日) 21:41:38.31 ID:rZOzvN2m
>>699
さあ、ただあなたではないのでしょうが、どっかの誰かが
二重公儀論を定説だと言いはったんでね
704人間七七四年:2011/06/26(日) 21:50:39.95 ID:rkL6VFgF
>>703
それは俺や君が判断することなのか?
定説かどうか聞かれても困るんだが。
subか誰かに対するものを八つ当たりしたあ
げく、開き直って「さあ」と言われても。。。
705543:2011/06/26(日) 21:52:30.37 ID:rZOzvN2m
>>698
訂正、前スレでなく前レスね
後、家康と本多・井伊の間で書状で褒賞をしなければならない仲でもないし
功績は忠吉も含めた三者が加増されている点からも明らかだし(本多は忠朝が立藩)
706543:2011/06/26(日) 21:58:20.47 ID:rZOzvN2m
>>704
するのもしないのも自由と考えている
個人として定説という基準が例えネット上でも確立すると後々面倒なものと考えている

後、八つ当たりと思われたようなので、その点は謝罪します
707676:2011/06/26(日) 23:31:35.66 ID:8sDquh+h
>>672
キミは、>>486でsubの代わりに回答してきたんでしたね。
質問返しと言いますが、それ以降、私がキミに対して行った質問は最後まで
1つだけですよ。(>>492
他には回答レスの確認(>>487)、主張の立ち位置の確認(>>490)だけです。
キミの質問は多かったので数えませんでしたが、こちらの1つの質問に対し、
それだけ質問を被せてきたわけです。それを質問返しとは失礼な話ですね。

最終的に、あなたの質問に答え、こちらの質問にも回答してもらいました。(>>560
回答は満足いくものでした(>>612>>613)ので、これ以上キミと議論するつもりは
ないので、悪しからず。

subみたいなのは、一人で十分ですw
708676:2011/06/26(日) 23:47:42.50 ID:8sDquh+h
>>681
まぁ、イロイロと述べてるみたいだけど、
それで、キミが>>644>>664を崩せたわけじゃないから問題なしだね。

しかし、妄想には依拠していないけど、一次史料を使っていない主張を
崩せないのもどうなの?w

>>129以降、500レス以上に渡り、キミが費やしたエネルギーたるや、
気の毒だなとは思うよ。
709人間七七四年:2011/06/26(日) 23:59:42.89 ID:HyTxSKJm
>>707
君はこう答えている。
>復職した文書がないから政権から外されるなんてことはなかったという論法
>とは、全く言っていない。あくまで、大老継続性を示す一助として捉えている。
>逆アプローチでは考えていない。
君は家康がずっと公儀の立場にあった点の証明ができていない。
こちらはすでに西軍の公儀性の傍証となる上杉や奉行衆の書状、松井や
加藤の書状などを示しているよ。
そういう挑発的な文言を入れるのは大人げないよ。
710人間七七四年:2011/06/27(月) 00:07:13.59 ID:iXWfa8Zx
>>697
このスレに限ったことではないが池田を豊臣恩顧の列に入れるのはおかしいと思う
そもそもどこまでを豊臣恩顧にするのかは曖昧で各自が都合のいい範囲に解釈してしまうが
武断派でも池田と細川は子飼いで取り立てられたわけでもないし加藤・福島・浅野と並べての豊臣恩顧にはすべきでないだろう
711人間七七四年:2011/06/27(月) 09:00:52.94 ID:TUmWfydk
武断派とつるんでいる織豊系武将二代目世代(輝政や忠興など)は基本的に豊臣恩顧と見なされて並んで記述されてるだろ。
秀吉から加増してもらったり引き上げてもらってるんだから。

しかし一次史料を一切用いず屁理屈だけで
毎日最後まで居続けてレスを続け勝利宣言する粘着力は凄いな気持ち悪いけど。
712人間七七四年:2011/06/27(月) 11:05:34.62 ID:HRtk62p/
マケオシミ乙
713人間七七四年:2011/06/27(月) 12:34:35.07 ID:5OzUQKns
スレが伸びているときはキチガイが中身のない事をわめいている時。

スレが伸びないときのほうが中身のある会話をしている。


いかにも2ちゃんだねえ。
714人間七七四年:2011/06/27(月) 12:52:36.37 ID:cjcbYCpD
二重公儀制を定説というか正しいように言う人が多いねぇ。
白峰とかの本に書いてあるのを鬼の首でもとったように引用してるけど
笠谷の焼き直しというか特に新味はないんじゃないか。
論文全部読んでるわけじゃないから違ったら悪いが。

秀吉の影響が強すぎるのと家康恩顧の勢力の数からいって
二大政党のようになるのはわかるんだが、公儀、とまでいうのは
過大評価がすぎるように昔からずっと思ってるんだよな。
史料なんかだと建前もあるから、へへ〜っ、としてるけど
家康が実際に政事を行うのとは違って、あくまで儀式儀礼的なもの
それも西側内部の、というぐらいにしか評価できないんだけどな、豊臣公儀、っての。
715人間七七四年:2011/06/27(月) 12:54:48.92 ID:TUmWfydk
>>712
負け惜しみも何もないだろ。
だって一次史料も具体的論拠も一切書かずに
ひたすら「俺が〜と思う」から正しいと執拗に粘着してるだけの相手なんだから。
そして次々に論拠としてあげられる傍証を「俺は〜と思う」ので認めないだけなんだから。
そして不都合な指摘には「書いたの俺じゃない」で逃げまくり
論拠を出せと要求されると「お前が出せ」とオウム返しするだけ。
しかも要求内容は小学一年生秀頼君の自筆署名と言うむちゃくちゃな要求。
そして有益な情報は一切提供せずにひたすら堂々巡りの粘着で生産性皆無の読む価値すらない駄文のみなんだから
716人間七七四年:2011/06/27(月) 13:13:13.31 ID:jhC07ihp
まあ秀吉の遺言を残したところでそれを行わせる官僚組織が出来ていないんじゃ
意味がなかったってことだね
717人間七七四年:2011/06/27(月) 14:02:58.88 ID:mZAJWzyt
ふむ過去レスをいろいろ読んだ。
まず>>696の質問は仕置きの結果家康に全く逆らえなくなったとすることのソースを要求してるのに
なぜか回答で豊臣大名の石高列挙を開始して逃げているね。
しかもそれならなぜ筑前細川・豊後岡中川・米子中村・松江堀尾
土佐山内・備前秀秋・和泉小出・浜田古田・鹿野亀井・阿波蜂須賀などなどを書かないのだ?
関が原後の没収高の80%は豊臣系大名に配分されてしまい
日本全土の3分の2は外様系大名と豊臣系大名の領地である。
特に西国はすべて外様系大名で、そのうち8割が豊臣系大名の領地である。
では聞くが徳川400万石と言うのは事実なのか?詳細説明を要求する。
>>698
覚書は後世の都合がいい解釈でしかないぞ。そんなこともわからんのか。
そもそも東国太平記などの軍記の元ネタも同様に若狭国小浜藩主の酒井忠勝が集めた覚書なわけだが。
で、なにやら二重公儀について話しているようだがそもそも
>>635で二重公儀否定に2008年のものを転用。
>>571を見ると二重公儀肯定は白峰旬・別府大教授『新「関ヶ原合戦」論』2011年である。
続いて>>714で偉そうに発言してるが、そもそも読んでいるかどうかも疑わしい。
なぜなら実際に内容についてまったく具体的に語っていない。それどころか>>604において
>>研究者の名前で威を借りるなら、議論なんてしない方がいい。それはキミの主張ではなく代弁だ。
などと喚いて内容議論を回避する予防線を張っている。
しかもそのくせ研究者の名だけを出して威としてるのはその発言をしている二重公儀否定してる側と言う皮肉ぶりだ。

さらに秀頼の書が必要らしいが、そもそもそんな幼児が署名した書状なんて戦国期も含めて存在してるのか。
俺が知る範囲で言えば佐竹義重が幼い頃から聡明で
10歳頃に父に代わって実際の政務を行っていたことを裏付ける手紙があると言うのが限界なのではないだろうか。
それより幼い児童に強制的に書かせること自体が非現実的だと思うが。
718人間七七四年:2011/06/27(月) 14:33:15.44 ID:iXWfa8Zx
>>565
>戦後に何らの手続きなく大老に復職させる事は組織として有り得ない。

東軍が大坂を奪還した時点で西軍の公儀は最初から遡ってなかったことになったの
内府違いの条々もこの時点から謀反人の世迷言になったわけ
だから処分取り消しとか復職とかの書状や手続きなどありえないことはわかるね?
でも裏を返せば東軍が大坂を奪還する前までならば西軍は公儀であり内府違いの条々は罷免状になる
東軍が勝利する前と後を区別しろ・後の結果で前の公儀を否定するな、と言えば西軍公儀説の意味も分かりやすいと思う
もっとも君が西軍公儀や内府違いの条々による罷免を否定する気持ちも分かるよ
輝元が大坂に入城してから退去するまでの期間はわずか2ヶ月あまりしかない
2ヶ月しか存続していないのに公儀と呼べるのか?と考えるのも無理はないだろう
じゃあ何ヶ月存続すれば公儀かそうじゃないかの区別が付くのか?と言われればそんなボーダーラインを引くのは不可能だ
だから蜂起してから2ヶ月間の西軍は公儀だった、その後の西軍は敗北になって謀反人に格下げされたと考える方がスッキリするでしょ
719人間七七四年:2011/06/27(月) 16:24:24.09 ID:5OzUQKns
『笠谷氏の二重公儀体制論には、時期的な経過を考慮に入れられていないという点で大きな問題が
あるといえよう。もしあえて二重公儀体制と言うとすれば、それは徳川公儀の出発点となった
慶長八年二月の将軍任官から、せいぜい慶長十年四月の秀忠の将軍襲職までの期間であろう。
それ以降は度重なる御手伝普請や諸政策を通じて、次第に徳川公儀の優位性が明らかになっていった。
とりわけ第一節で述べたように、徳川公儀の確率に向けて、慶長十六年が大きな画期となった。

そのような時期的な経過を考慮すれば、大阪の陣で豊臣氏が滅びるまで二重公儀体制だったとすることは
できないであろう。そもそも、秀頼の豊臣公儀には政治権力としての実態が乏しかったのであるが
大坂の陣に際して、豊臣方からの度々の誘いにもかかわらず、これという大名がただの一人も大阪城に
入城しなかったところに、徳川公儀の圧倒的な優位性と豊臣公儀の形骸化とが端的に現れていると言えよう。』

(本多隆成 著 『定本 徳川家康』より)
720人間七七四年:2011/06/27(月) 18:20:15.66 ID:mZAJWzyt
>>719
早速、ネットでコメントを漁って継ぎ足し編集してきたのかw
しかし残念ながらそれらの文章はすでに既出であり
二重公儀を主張してる側からも>>615などで指摘されているもので目新しくない内容だね。
二重公儀肯定側からも秀忠の将軍襲職以降、豊臣恩顧大名の相次ぐ死去により豊臣公儀が形骸化していったと認めているし、
本多氏も慶長八年二月の将軍任官を徳川公儀成立へ向けてのスタート地点と述べており、
その時点での主たる公儀はいまだ豊臣公儀であるということ。
つまり本多氏も二重公儀の存在自体は否定してないと言うことだ。
二重公儀肯定派も大阪の陣で豊臣氏が滅びるまで二重公儀体制だったとは一度たりとも主張してないのだから。
参考
定本徳川家康 本多隆成 2010/11
新「関ヶ原合戦」論 白峰旬 2011/03
721人間七七四年:2011/06/27(月) 18:32:34.21 ID:5OzUQKns
>>720
おまえ家康の将軍就任以前の「豊臣公儀」の主体が、徳川家康その人だったってこと解ってるか?
722人間七七四年:2011/06/27(月) 19:05:25.41 ID:TUmWfydk
>>721
バカ言うなやwww
豊臣公儀の主体は秀頼に従う家康と豊臣恩顧大名と豊臣外様大名だろうが。
すでに大老と奉行による衆議秩序は崩壊しており
家康の政権内での身分を保障するもんはなく
従って恩顧大名も家康と同格で牽制勢力となっている。
>>705
いやいや家康から石川康道は誉められてるんだが、本多や井伊は誉められない仲ってどんな根拠だよ…
しかも功無き次男結城秀康でさえ大加増なのだから
中山道を進んだ三男将軍秀忠と同母で関ヶ原にただいただけの四男忠吉だって秀康と同じくらいは普通に加増されるのが自然だろ。
そもそも忠吉が関ヶ原でなにやってたか不明だし島津豊久を討ち取ったことすらいかがわしい。
しかも先陣が追撃戦を行ってる状況で
家康本陣に向かってきた島津の…
しかも捨てガマリになった豊久を討ち取ったとするならやはり井伊や忠吉は後陣にいた根拠にすらなる。
井伊は娘婿の忠吉のおかげで優遇加増だし、
そもそも長政らの監軍としての目付や
輝元と長政の講和交渉の長政と家康の間の奏者としての取次の功績や
土佐入国の山内一豊や島津との和睦の取次の功績で6万石加増されただけ。
忠勝に至っては加増なしの桑名移封でその後の桑名は長男忠政が継いでる。
次男忠朝が5万石で旧領を宛て別家として諸流に分けさせられ取り立てられただけ。
忠勝も家康の息子の外戚になってればその藩塀として井伊のような加増になってたのに…
723人間七七四年:2011/06/27(月) 19:08:35.20 ID:n4Npw92o
「内府ちがいの条々」と題する十三か条にわたる家康への弾劾状が公表され、
三奉行の連署、もしくは毛利輝元・宇喜多秀家連署の書状で、諸大名の動員
が行われた。こうして事態は三成・吉継の謀反ということではなく、家康追
討のための豊臣公儀による権力の発動へと転じたのであった。
本多隆成 著 『定本 徳川家康』

十月十五日に秀頼と淀殿から饗応があり、和睦したとも。
724人間七七四年:2011/06/27(月) 19:31:13.76 ID:n4Npw92o
subが言うように豊臣恩顧たちが徳川と互角に牽制役になったとも
思えないけど、本多氏は、家康が秀頼の政務代行者だったことから
知行あてがいの文書を発給できなかったという藤井譲治氏や笠谷氏
の研究成果を踏襲していて、関ヶ原後直ちに政権を完全掌握したと
は言ってないな。
725人間七七四年:2011/06/27(月) 20:34:50.07 ID:TUmWfydk
豊臣恩顧が牽制勢力じゃなけば
武断派「内府様がもう豊臣滅ぼしていいよ♪」
家康「マジで?OK♪」って話で
関ヶ原後にあんだけ苦労して政治的に固めていき家康死去ギリギリまでかけて謀略までやらないだろ…
726人間七七四年:2011/06/27(月) 20:44:30.91 ID:n4Npw92o
説明の意味がよくわかんないが、どの程度の牽制になるかだよな。

727人間七七四年:2011/06/27(月) 21:01:52.70 ID:bSNi+8Yx
>>718
西軍が正当性を持つ前提の主張だね。
こちらは、西軍が三成挙兵を契機とした非合法のクーデター政権であり、
正当性がないという立場。(>>644>>664
西軍の正当性を証明できなきゃ、無駄な長文。

>処分取り消しとか復職とかの書状や手続きなどありえない(>>718
理由もたった一言で終わり。
『家康は、豊臣政権の正当な大老として継続性を持つから。』

西軍が非合法性を持つのが一番スッキリするでしょ。
728人間七七四年:2011/06/27(月) 21:28:19.75 ID:TUmWfydk
>>727
でたよw
義重の話で論難されたら
秀頼の署名の件をガン黙殺とかwww
729人間七七四年:2011/06/27(月) 21:39:02.32 ID:bSNi+8Yx
>>728
何の事かよくわからんけど、
西軍の正当性有無は、根幹の問題でしょ。

これを崩せなきゃ、全ての主張が無意味。
730人間七七四年:2011/06/27(月) 21:53:34.79 ID:jhC07ihp
ぶっちゃけ、勝った奴だけが正義ってことだろ
731人間七七四年:2011/06/27(月) 22:05:01.12 ID:r6gyzlIM
俺は悪の帝王だなんて言う訳ないんだから、誰だってそれなりの正当性くらい持ってる
732人間七七四年:2011/06/27(月) 22:19:23.76 ID:3AF7SKOw
>>730>>731
まぁ、そういう議論ではないんだけどね。
733人間七七四年:2011/06/27(月) 22:22:05.19 ID:/ARiI2im
>>717
80%のソースよろ
734人間七七四年:2011/06/27(月) 22:47:07.28 ID:COXcBac6
いい加減にしろ!
家康のやった事は調略じゃなくて謀略
大義名分などない偽造捏造の逆臣
これで結論出てる
735人間七七四年:2011/06/27(月) 22:53:12.63 ID:7/a7YihB
詐欺乙
736人間七七四年:2011/06/27(月) 23:24:24.11 ID:3AF7SKOw
>>727
家康が復職した書状はないというのを根拠に西軍は正当性がなかったという
主張かな。
737人間七七四年:2011/06/27(月) 23:53:56.13 ID:iXWfa8Zx
>717
>幼い児童に強制的に書かせること自体が非現実的だと思うが。

仰る通り署名を書かせることさえ非現実的
まして秀頼が戦場に行くことなんてもっと有り得ない非現実的なこと
よく秀頼が関ヶ原に行けば東軍は戦えないとか抜かす奴がいるが正気の沙汰じゃないよな
秀頼は西軍の人質ではないのだから大坂城を戦いの場にすることさえやってはいけないこと
秀頼が関ヶ原に行けばとか西軍が大坂城に篭城すれば勝てるとか言っている奴はマジで頭がおかしいだろ
738人間七七四年:2011/06/27(月) 23:57:44.31 ID:3AF7SKOw
島津忠恒宛て島津義弘書状
「(伏見城攻撃など)すべてはかばかしくないので、三成は秀頼様に呼び戻された」
「秀頼様ご奉公のため、お家のため、恥辱を顧みずに(官位では下の)御奉行の下知に従ってきた」
739人間七七四年:2011/06/28(火) 01:19:19.72 ID:HhwRnb72
>>727>>729
そのお前の主張はすべて屁理屈による「俺は〜と思う」が論拠であり
一次史料による傍証すら一切出さずに逃げてるだけだろうが。
そもそも家康の書状において三成ら衆議を反乱軍呼ばわりしているソースを出して欲しい。
また内府たがいの条が出されてから関が原の戦いまでの期間に
家康が大老として命令しているソースも出して欲しい。
だいたい内府たがいの条が出されるや最上・堀と共に
会津攻め予定だった前田家まで大老家康の命を無視して勝手に引き返したから
越後遺民一揆に苦しんだ堀まで西軍内通を開始する始末じゃんw
もう大老じゃなくなった証拠だろ。
>>728
まぁ小学1年生の秀頼と同じ年齢で
評議決済の認可の署名している嫡男なんてソースは出せないだろうね。

>>733
笠谷和比古『関ヶ原合戦と大阪の陣』
740人間七七四年:2011/06/28(火) 01:45:41.27 ID:7Rw2ukbg
屁理屈ってのは、第三者に理解出来ない理屈。

主張は極めてシンプル。
一般常識的な事象であるクーデターに、関ヶ原を当てはめただけ。
クーデターは辞書引けば誰でもわかる。関ヶ原も特別変わった史実を
はめ込んだわけじゃない。普遍性の高い事実で十分。

西軍政権は非合法で合致し、豊臣家の御墨付がないから豊臣政権として正当性なし。
論拠から主張まで1ステップ。改変・推測なし。
これだけの話だよ。

最もベースになる『そもそも』は西軍の正当性だよ。
これを固めなきゃ、どんな主張も無意味。
これに優先する『そもそも』なんて存在しないから。
741人間七七四年:2011/06/28(火) 01:55:08.29 ID:7Rw2ukbg
>>739
事ここに及んだらいい加減気付けよ、鈍い奴だな。
秀頼が、書状に自署出来ない事くらい誰でもわかる。
西軍政権が、豊臣家の御墨付のない、即ち正当性のない政権だという
含みを持たせてるに決まってるだろ?
742人間七七四年:2011/06/28(火) 03:08:19.49 ID:HhwRnb72
>>740>>741
「俺は〜と思う」妄想を書いても仕方がないよ。
早くソースによる傍証しろよ。
ぜんぜん質問に答えられず逃げてるだけじゃないか。
743740、741:2011/06/28(火) 07:35:27.82 ID:9xJVB512
そもそもの主題、『内府違いの条々による家康謀反人認定の可否』(>>134>>144
に対するこちらの主張。(>>627>>629>>640>>644>>664

・西軍政権は、三成挙兵を契機とした非合法なクーデーター政権。
・豊臣家の御墨付もなく正当性なし。
・家康はの大老としての立場は依然として継続し得る。
・『内府違いの条々』、及び『添状』により家康の正当性を否定(=謀反人)する事は不可能。

で。それに対するキミの最終回答は、>>742の逆質問でいいわけね。
了解した。
744人間七七四年:2011/06/28(火) 08:05:55.97 ID:BxiB8wLX
>>743
「こちらの主張」をいっぱい引いているけど全部同じことしか言ってないんじゃないかな。

白峰氏、本多氏の今年発行されたばかりの研究本でも家康が公儀の追討を受けたことを指摘
している。君が「内府ちがいの条々」で家康が謀反人にされたとしている研究者はいるのか
と尋ねたので回答すると、今度は「研究者の威を借る」などと言い放った。こんな態度では
議論にならないよ。

また、西軍が公儀を名乗り、東軍の中でもそれを受け止めているケース、西軍に消極的に参加
しながらも秀頼様のためと戦っているケースなどを史料を挙げて説明しているのに、それを一
切無視を通し、「西軍は非合法(たしかに挙兵時はそうだが)で家康の正当性を否定すること
はできない」を根拠なく主張し続けている。
745人間七七四年:2011/06/28(火) 08:20:23.29 ID:lIyoqt5z
そもそも豊臣政権は公儀=豊臣家であり、これは五奉行が「年寄」「おとな」と称していた事からも分かる。
それとは別に「豊臣家」なる物を挙げてる奴は一体誰を指してるわけ?
746人間七七四年:2011/06/28(火) 09:43:45.98 ID:LsrkUbBs
研究者が主張してるから正しい、ってのもおかしくね?
持論の参考か補強程度にすべきではないかと思うけどね。
本多氏や白峰氏は、不法な三成挙兵が、公儀の追討に転化する根拠をなんと述べてるの?
747人間七七四年:2011/06/28(火) 10:15:19.84 ID:cGFVMJ0c
>>743
ソースを一切出さずに妄想を根拠にして語ってるから傍証を出すように言われたら逆質問だからお前の負けとかアホ過ぎてワロタw
>>746
>>738を読めば間違いなく奉行側が正当で家康は逆臣と認識されてるだろ…
748人間七七四年:2011/06/28(火) 11:01:23.09 ID:2zHNFpI+
研究者がいるのか→誰がいる彼がいる→研究者の威を借るな。
→研究者が言えば正しい訳じゃない
そんな研究者見たことないといってたんだから、まずは出されたことを
受け止めるべき。根拠は何かというのは次の話
749人間七七四年:2011/06/28(火) 11:32:57.88 ID:LsrkUbBs
そうか、残念。純粋に興味を持っただけなんだ。自分で読んでみるよ。
白峰氏の最新刊に載ってるんだよね?

西軍不当説に賛同するわけじゃないけど、
贔屓抜きで公正に考えても、三成挙兵はやっぱり不法だよね。
これを公儀の追討に、どういう根拠で転化させたのか、興味あるね。
750人間七七四年:2011/06/28(火) 12:08:08.60 ID:cGFVMJ0c
輝元や秀家や奉行らのやったことは秀吉の遺令による衆議復活なので合法です。
むしろそれまで公然と違法していたのは衆議を無視して専横した家康であり
奉行潰しの七将クーデターを擁護して三成を追放した家康。
輝元や景勝が抵抗しなければ三成だけでなく他の奉行まで追放されていた。
さらに他の大老を罪に落として私的徒党への服属を要求。
だからそれらを列挙された家康は内府たがいの条にまったく反論できず
従って秀頼のためにと言う大義名分も掲げられずに
やむなく三成憎しの武断派との利害と一致をもって家康は彼らとも私的徒党を組んで力づくでちゃぶだいひっくり返した。
武断派は豊臣や大老潰しが目的じゃないので
伊勢侵攻した西軍主力を完全に無視して三成を追い大垣城へ北上。
そもそも家康はいちいち邪魔する毛利が気に喰わなかったが
武断派は毛利ら朝鮮出兵組なんてまったく興味なかった。
751人間七七四年:2011/06/28(火) 12:15:20.56 ID:KHPVVjK6
ものすごい基本的な確認になるけど、関ヶ原の結果は豊臣家が敗北したという扱いでいいの?
西軍が公儀であり家康を謀反人として追討したのである以上、これに失敗すれば公儀たる豊臣家の敗北と認識すべきだよね
家康はこの時点では豊臣家を滅亡させるには至らなかっただけで
謀反人として公儀から弾劾されながら勝利したのだから豊臣家に勝利したと考えていいのかな
豊臣恩顧が恩賞を貰ったとか牽制したとか後のことは除外して純粋に関ヶ原戦役だけでの評価は徳川勝利・豊臣敗北で確定なの?
752人間七七四年:2011/06/28(火) 17:20:53.52 ID:HhwRnb72
753人間七七四年:2011/06/28(火) 18:24:28.73 ID:HhwRnb72
慶長5年
西軍は8月3日秀頼の名で豊国神社に湯立釜が五つ奉納し
8月6日さらに湯立釜を三つ奉納
なお北政所の養女となった三成の娘の辰姫の存在など両者の関係は良好だった。

義演準后日記の慶長7年12月晦日
秀頼卿関白宣下之事、仰せ出さると云々、珍重々々、江戸大納言ハ将軍宣下云々
慶長7年には実際に秀頼の関白宣下の可能性があった。
754543:2011/06/28(火) 18:56:43.24 ID:gapWcINh
>>753
噂だよ、噂
755人間七七四年:2011/06/28(火) 19:48:39.42 ID:rbyJFuTA
もう名無しに戻れよ。鬱陶しいから
756743:2011/06/28(火) 21:40:57.27 ID:v77IB52T
>>744>>748
全部同じなのは仕方ない。それだけ話が逸れそうだったって事だ。

人のレスを改変するとは、相変わらず姑息で卑怯な奴だ。
>君が「内府ちがいの条々」で家康が謀反人にされたとしている研究者はいるのか
と尋ねたので回答すると(>>744

こちらが質問した正しい内容は、
>家康の正当性を完全否定し、謀反人扱いしてる研究者はいるのかい?(>>232
>家康を謀反人とした研究者の名前を教えて欲しい。(>>626
研究者本人の主張として、家康を謀反人としている人がいるのか聞いたわけだ。

上記のような悪意のある改竄は、これで2度目。Subと何ら変わりないクズだな。

>「研究者の威を借る」(>>744
を使った私のレスは>>604。更に>>603を見れば理解できるが、
キミが研究者を引用する時は、研究者の主張自体が持論の根拠になってるんだよ。
いみじくも、>>746の人が同じ事を言ってるが、>>744など正にそれ。
>白峰氏、本多氏の今年発行されたばかりの研究本でも家康が公儀の追討を受けたことを指摘している。

『研究者が主張しているから正しい、指摘しているから正しい。』
社会人の世界では、これを『子供の使い』と言うから、覚えとくといいよ。
757743:2011/06/28(火) 21:44:33.61 ID:v77IB52T
>>747
キミはもう、>>743を崩す事が出来ない事がわかったからいいや。
今後も、>>747みたいなレスを繰り返しているといい。

>>743が、一次史料を必要とする主張かどうかは、読み手に任せる。
758人間七七四年:2011/06/28(火) 22:03:58.29 ID:YkTCPZWv
そもそも利家死後最高権力者になる為に邪魔な勢力を排除していっている最中なのに
実質的な最高権力者だったなんてのが間違いだし、
大老・奉行等とは別に「豊臣家」なる物があるっていうのも間違い。
759人間七七四年:2011/06/28(火) 23:14:14.70 ID:HmjcfB9/
>>756>>757
なんら一次史料も根拠もない屁理屈だけの駄文を書いて
何の意味あるんだ?
質問にも一切回答せずに黙殺するし
どーでもいい内容のくせに結局同じことを執拗に書き込んでるだけだろうし
どうせ屁理屈たれてるだけで学べる内容は一切ないんだろうし
もうお前の文章読むのめんどくせーわ。
760人間七七四年:2011/06/28(火) 23:25:38.51 ID:v77IB52T
とか言いつつ、また悔しくなって別IDでレスするんだろ?w
761人間七七四年:2011/06/28(火) 23:29:24.04 ID:BxiB8wLX
豊臣公儀の討伐を受けたというのと、謀反人と言うのにどれほど意味に
違いがあるのか。結局は「謀反人」という言葉に過剰反応しているだけだろう。
762人間七七四年:2011/06/28(火) 23:33:15.82 ID:BxiB8wLX
>>757
根拠はいくらでも挙げているが、本を読めないのであればさらに挙げるよ。
というか、このスレでもいくらでも史料は出ている。
これに反論できないのにさらに出せとはおかしな話。
763人間七七四年:2011/06/28(火) 23:43:47.36 ID:v77IB52T
>>762
クズは議論以前の問題。(>>756
レスを改変使用されるのは勘弁して欲しいので、
こちらが退散するよ。

キミは別の本を読んだ方がいい。道徳とか。
764人間七七四年:2011/06/28(火) 23:44:17.83 ID:cGFVMJ0c
>>760
一つでも良いから読んでためになったりすることを書いてくれないか?
765人間七七四年:2011/06/28(火) 23:54:13.13 ID:KHPVVjK6
>>723
>十月十五日に秀頼と淀殿から饗応があり、和睦したとも。

この時点の淀は豊臣の主体者ではないし政治には関与しないはずなのに
子供の秀頼と側室の淀が家康と和睦を結ぶというのはおかしくないか?
十月十五日なんてとっくに西軍が解散して三成も処刑済なのに何をどう和睦したのかが分からん
766人間七七四年:2011/06/29(水) 00:04:49.07 ID:Ajsumpdp
秀頼がガキなんだから母が後見役として出てくるのは
別におかしくないし、10/15は関が原の論功行賞が始まった日だろ。
家康も秀頼様が幼児で当事者能力ないから淀と和して
その威光をもって論功行賞やらざるおえなかったんだろ。
家康から武断派へ直接の領地宛てがえでは私的な主従関係の成立を意味して
秀頼様のためにがんばってきた武断派が激怒するだけだろ。
三成打倒を掲げた武断派は家康の私の徒党に参加した意識はないのだから。
767人間七七四年:2011/06/29(水) 00:14:59.47 ID:pptktEE3
>>753
北政所の側近の吉継母の東殿局や孝蔵主は西軍のために動いていたしね。
甥の木下家も西軍として動いてるし。
東殿局は豊国社での秀家の戦勝祈願に派遣されてる。
さらに北政所と淀の仲も連携していて
孝蔵主と淀により初のいる大津城の開城交渉がなされたり。
768人間七七四年:2011/06/29(水) 01:02:30.21 ID:G6Dkfa8v
>>766
それだと淀が家康を饗応しなければ豊臣は領地を取られることはなかったし
武断派も淀の饗応がなければ家康から恩賞を提示されても受領を拒否していたことになる
関ヶ原の論功行賞を淀の威光でなしえたというのはいくらなんでも史料的根拠の欠ける無理のある主張だよ
家康から武断派へ直接の領地宛てがえでは私的な主従関係の成立を意味して武断派が激怒するというが
他の大老と奉行が壊滅した以上は領地は家康から直接宛てがえる以外はありえない
関ヶ原以前のような奉行の発給する知行書なんてないし勿論秀頼の署名で恩賞を記した書状など絶対に出ない
史実として家康が直接領地を宛がって武断派も受領しているのだから激怒するはずというのは武断派を綺麗な忠臣にしすぎでしょ
769人間七七四年:2011/06/29(水) 03:08:45.37 ID:pptktEE3
意味分からん屁理屈だな。
家康が謀反人の立場から大老の身分を回復するには
すべて三成が悪いだけと開き直る秀吉子飼いの譜代武断派の斡旋をうけて隠然たる影響力を持つ淀や北政所と和すしかないだろ。
それとも家康はさらに武断派とも一戦を始めて豊臣を滅ぼすつもりでもあったのか?
それが不可能だから淀と和したんだろ?
770人間七七四年:2011/06/29(水) 03:18:44.61 ID:rpV1tbKF
>>763
クズなどと呼んで反論しないのは、答えに窮した時のsubと一緒ではないかな。
冷静さを欠いているとしか思えない。
「公儀政権による家康追討」は「謀反人追討」と考えて別に支障ないと思うが。
君が反対していたのは「謀反人」という言葉以前に公儀としての追討じゃないのかな。
逆に「謀反人」と言う言葉さえ使わなければ、公儀に追討を受けたことは認めるのか。

>>768
家康の知行宛行状がないことも複数の史料で明らかになっており、笠谷氏らが指摘しているね。
771人間七七四年:2011/06/29(水) 07:34:31.93 ID:M8l1u8Pe
>>770
人のレスを自分の都合よく改竄する奴をクズと言っておかしいか?(>>756
しかも、この期に及んでも、それについて何も触れない卑怯さ加減。
そんなクズと議論する時間はない。
何と受け取ってもらっても結構。キミとは議論をしない。

subの自演認定の方がまだカワイゲがある。
772人間七七四年:2011/06/29(水) 08:10:34.55 ID:rpV1tbKF
>>771
君の
>家康の正当性を完全否定し、謀反人扱いしてる研究者はいるのかい?(>>232
>家康を謀反人とした研究者の名前を教えて欲しい。(>>626

>君が「内府ちがいの条々」で家康が謀反人にされたとしている研究者はいるのか
と尋ねたので回答すると(>>744
と解釈したのが悪意のある改竄なのかな。よく分からないが。さほど意味を変えて
いるとも思えない。上の2つをそのまま引用したとしても挙げる研究者は同じだし。
白峰氏の記述をさらに引用すると「何ら政治的正当性がないのは家康の方だった」。

研究者が言えば正しいとは思っていないが、こうした研究者が挙げた根拠はすでに
このスレにさまざま書いてあるんだよ。クズ呼ばわりして人格を攻撃しても、もう
議論しない宣言も構わないが、これまでに挙げた史料や根拠まで「クズ」の一言で
否定できるものではないからね。
773人間七七四年:2011/06/29(水) 09:02:30.51 ID:pptktEE3
>>771
毛利厨くん流石にもう見苦しいぞ。
お前はただの粘着荒らしにしか見えん。
774人間七七四年:2011/06/29(水) 11:47:48.80 ID:G6Dkfa8v
>>769
関ヶ原時点の淀に隠然たる影響力なんてないよ
大老の身分回復に淀や北政所との和睦が必要なんて家康を大老から罷免したり復職するのに秀頼の署名が必要とか言ってるのと同レベルの妄言
だいたい十月十五日にあった秀頼と淀殿の饗応を和睦とみなすかどうかの話をしているのに何で当時大坂城にいない北政所の名前が出てくる?
淀や北政所が心情的にどちらを応援してようが政治的には無関係であって和睦を結ぶとかそんな対象にはなりえない
武断派の斡旋で彼女達と和睦したというのは史料上の根拠があって主張しているの?
775人間七七四年:2011/06/29(水) 12:44:36.83 ID:kz7RZkaR
秀頼の署名が完全論破されたから今度は淀や北政所を持ち出すとは必死だなw
大老・奉行とは別に「豊臣家」なるものがあるとする考えが間違いだと何度いっても分からないのね
家康が大老であるかないかに秀頼も淀も北政所も関係ないことはこれまでの議論を見ればどんな馬鹿でも理解できると思うのだが
776人間七七四年:2011/06/29(水) 12:53:20.17 ID:pptktEE3
西の丸には北政所の住居もあるから政治的に無縁ではないよ。
そもそも内府たがい条でも北政所を追い出して住んだと家康は糾弾されてるわけで西の丸掌握にはクリアしないとならん問題。
豊臣譜代と淀は秀頼を推参する立場において利害一致してるから隠然たる力はあるだろ。
積極的ではなくあくまで隠然。
秀頼の命として淀が言った形式もまだ落ち着かない政治体制下での政治問題化は大坂城で掌握指導にむけて厄介事でしかない。
表向きは浅野、内むきは孝蔵主と言われていたくらい大坂城の中枢は分権されていたほど。
女だから軽視するのはアホな考え。
777人間七七四年:2011/06/29(水) 13:11:54.21 ID:FZwxf24j
つまり三成はアホなのか
778543:2011/06/29(水) 13:23:05.86 ID:mY8aSMlO
>>776
北政所は京都新城にいたけどね、関ヶ原本戦前後にその塀や櫓などを破壊する
なんとも興味深い行動をしている
779人間七七四年:2011/06/29(水) 14:35:42.98 ID:G6Dkfa8v
>>776
隠然も何も全部お前の妄想じゃないかw
家康が淀と北政所によって大老の身分を回復したというお前の妄想を補完してくれる史料があるのか?
西軍の弾劾状も東軍の仕置きも淀や北政所の認可など一切関係ないことはこのスレに挙げられた史料で証明されている
秀頼の署名が幼少という理由で潰されたから今度は大人の淀や北政所を利用しようという魂胆が短絡的なんだよ
780人間七七四年:2011/06/29(水) 15:40:00.72 ID:ZqNFj5Sj
アンチ秀吉のチョン公ガチ気持ち悪い。
495 :人間七七四年[sage]:2011/06/29(水) 11:29:01.64 ID:G6Dkfa8v
朝鮮出兵の時に感染した梅毒が本格的に発病したんだろ
秀吉に殺されたようなものだな
781人間七七四年:2011/06/29(水) 16:43:10.55 ID:320Mmy/1
>>779
淀か北政所の認可があれば西軍は官軍になれるから全く無関係とは思えないんだけど
東軍の仕置きも一切関係ないの?
確かに史実では朱印状も目録も発給されなかったみたいだけど
782人間七七四年:2011/06/29(水) 17:18:39.11 ID:ZqNFj5Sj
>>778
お前なんにも知らんならもう書くなよ。もともと戦禍が起きても御所内なら兵火が及ばないだろうってことで
秀頼のために秀吉が聚楽第に代わり造営したのが京都新城で、七将クーデターの時に大坂城を不法占拠した家康の圧力で
北政所が新城へ出た後に家康が北政所がいた場所に住んだ。北政所は自分がもっとも影響を及ぼせる京に移ったわけだ。
その後の慶長5年6/18には早くも北政所が豊国社に増田と玄以も社参してるのが反家康の端緒と言われてる。
西軍は義演准后日記などで秀頼様衆と書かれているので世間的にも公認されてる。
岐阜城が落ちて美濃まで武断派が占拠したのを知った北政所は8/29より
禁裏に戦禍が及ぶのを案じて城の兵備を破壊し始めてるだけ。
大津城攻めが開始されると義演准后日記に9/9秀頼様祈祷代として金二十両・銀三枚が来ると書かれており
西軍戦勝の祈祷に大坂城の金が使われてるのがたびたび見受けられる。
大津城を開城させるため京の北政所は孝蔵主、大坂の淀殿は饗庭局、高野山は木食上人を投入し一致協力し
和睦後は大坂への人質として京極忠高を受け取る。
西軍敗北と聞くと9/17北政所は裸足で御苑内の勧修寺晴子の屋敷に逃げる。
9/22に京都新城へ北政所は戻る。言経卿記・孝亮宿禰記などで9/26に家康が大坂城へ入り秀頼と和睦をなすとしている。
10/14北政所側近の孝蔵主が罪に問われないように祈祷していたが、この日ついに不問になり西洞院時慶ら公家衆も安堵する。
10/15大坂と江戸の問題が処理され淀の供応で家康と和解し論功交渉スタート
19日秀忠・忠吉が前田玄以とともに豊国社へ参拝。
家康も北政所や淀の罪が問えないどころか饗庭局も不問。
さらに難航していた孝蔵主の処分まで不問にしないと秀頼の名で論功行賞すら行えなかったのが現実。
783人間七七四年:2011/06/29(水) 17:29:00.86 ID:ZqNFj5Sj
>>779
意味わからん。
数年前までと違い今では淀も北政所も西軍よりなのは明らかなのに。
だから西軍を秀頼様のためと主張できるわけで
わざわざ北政所や淀が公認する必要なんて最初からないし
逆に家康には淀や北政所と和睦しなければ論功行賞する正当性など無い。
784543:2011/06/29(水) 18:53:19.29 ID:mY8aSMlO
>>782
岐阜城陥落が原因なら、もっと早く壊すでしょうな
785人間七七四年:2011/06/29(水) 20:00:39.26 ID:yk+nYHkh
>>783
> 数年前までと違い今では淀も北政所も西軍よりなのは明らかなのに。

お前はどこでそんな珍説を仕込んでくるんだよ。笑わせるなw
786人間七七四年:2011/06/29(水) 20:05:28.75 ID:G6Dkfa8v
>>781
淀や北政所の認可で西軍が官軍になれるとか五大老五奉行制を根本から否定することを書かれてもね
西軍が公儀になることと淀や北政所が西軍よりなことは関係ない
西軍の正当性は内府違いの状々と沿え状にある二大老と三奉行の連署であってそれに対する淀や北政所の賛否はどうでもいい
淀や北政所が淀や北政所が西軍よりだから秀頼様のためと主張できるということは
逆に言えば淀や北政所が東軍よりの態度を取ったら西軍は内府違いの状々も出せず家康をまったく非難できなくなることになる
787人間七七四年:2011/06/29(水) 21:07:51.49 ID:R0AkyniA
二大老三奉行の連署で正当化される理由がわからないんですが
家康だって大老ですよね
多数決って事はないと思うんですが
788人間七七四年:2011/06/29(水) 21:08:23.36 ID:R0AkyniA
二大老三奉行の連署で正当になる理由がわからないんですが
家康だって大老ですよね
多数決って事ではないですよね
789人間七七四年:2011/06/29(水) 21:30:32.74 ID:VI4N2fkg
まあ、最後通告ってより叩き台としては有りなんじゃないの。
他の諸侯のみなさんも大坂に集まって家康を討ちましょうって感じで。
790人間七七四年:2011/06/29(水) 21:47:10.64 ID:pptktEE3
>>786
そうは言ってないだろ。
内府たがい条にも北政所が住んでたのを追放して家康が住んだと糾弾されてるように
北政所への接し方や秀頼(及び母)を敬う態度についても糾弾されてるわけで
西軍には彼女らの存在により
より強い正当性が追加されてると言うことであって
遺令による衆議を否定してない。
いや基本的には彼女らより衆議の方が優先される。
なぜなら彼女らは大坂城における内むきを取り仕切るもう1つの権威たる存在であり
表向きの権力である衆議とはその性格を異にしてる。
家康が大坂城を掌握するには力だけでは無理で内むきの権威を懐柔しなくては謀反人解除が達成されないと言うこと。
そこに豊臣譜代たる秀吉や北政所の子飼い武断派の重要性が出てくるわけ。
791人間七七四年:2011/06/29(水) 22:42:23.70 ID:rpV1tbKF
>>787
三成も連署に加わるケースもあり、布谷陽子氏の指摘通り二大老・四奉行と呼んだ方がいい。
家康は豊臣家をないがしろにし、独断が過ぎたためにほかの大老・奉行衆に叩かれる隙を与えた。
792人間七七四年:2011/06/29(水) 23:04:38.02 ID:pptktEE3
>>791
しかもその連署には家康の専横による前田や上杉への態度まで糾弾されていて
彼ら2大老の謀反人解除と言ってもよい内容。
これが発せられるや会津征伐軍は解体され
堀や最上と共同で上杉を攻める予定だった前田家も家康の指示を待たずに帰国してしまったために
上杉の脅威の前に堀まで西軍に内通を開始。
母を江戸に人質に取られていた前田利長はやや家康寄りの態度を示すが
前田兄弟は東西分離策をもって秀頼親衛隊たる立場だった利政は西軍側で挙兵。
793人間七七四年:2011/06/29(水) 23:19:46.61 ID:rpV1tbKF
前田が東軍なのかというのも微妙だけどね。
奉行衆が言うように、母親が人質だから家康にも弓を引けないけど、
公儀にも疎意なく思っているというとこじゃないのかね。
大谷に不信感を持っていたとの指摘もあるが。
利政は桐野氏が指摘するように、東西に分かれるのではなく、妻が上方
にいるので不安で出陣できないというのが本当のところだと思う。利長
の書状などから見ても。
794人間七七四年:2011/06/30(木) 12:36:33.03 ID:K0Ydk0zL
ここまで来ると小早川が東軍に寝返ったことが本来なら有り得ない奇跡的な出来事に思えてくるな
吉川の内通も大きいけど別に豊臣恩顧ではないから理解できる
恩顧どころか養子しかも北政所の甥という条件で会津征伐に同行したせいでなし崩しに東軍に組み込まれたわけでもないのに
弾劾状と北政所の態度を見ながら東軍を選択したのだから
よほど三成のことが嫌いだったのか或いは豊臣公儀そのものに不満があったのか
795人間七七四年:2011/06/30(木) 13:14:32.05 ID:j++DnQyc
秀秋は実権を持っていなかったのではないか?
結局、重臣同士が二派に別れて争ってただけのようにしか見えない。
やや西軍派が優勢だったが、当日に毛利が動かないことに不信感を得て
徳川からの銃撃で東軍派がついに押し切ることに成功しただけ。
もし小早川から執政の山口宗永が独立大名に取り立てられてなければ重臣争いは起きなかっただろう。
加賀大聖寺城の山口も単に前田のドサクサ紛れの領地拡大の犠牲になっただけだし。
796人間七七四年:2011/06/30(木) 15:13:21.78 ID:o1FJTZCl
執政山口宗永が抜けたあとに先鋒を率いる松野主馬と平岡頼勝(正室が如水の姪)が対立してたんだろ。
797人間七七四年:2011/06/30(木) 16:46:18.77 ID:U0eI3qae
当日どころか事前に松尾山占拠した時点で西軍じゃないことは明白
798人間七七四年:2011/06/30(木) 16:49:42.91 ID:oqcyQAXJ
俗説絶対主義者のファビョりようが凄いな
799人間七七四年:2011/06/30(木) 16:55:03.33 ID:+/DpNo/s
前田利政がいつ西軍側で挙兵したって?
具体的な史料から教えてくれ

俺が知る限り、利政は病気を理由に出兵拒否してるはずだが
800人間七七四年:2011/06/30(木) 17:23:38.67 ID:U0eI3qae
しかもよく見たら徳川が松尾山に銃撃とか。勘弁してよ。
801人間七七四年:2011/06/30(木) 18:55:46.06 ID:o1FJTZCl
>>797
占拠?三成から増田への書状を読む限り大垣城の伊藤が頼りないから
人質取ると書いてるだけで松尾山に伊藤勢が布陣していたとするネタ自体が信憑性ゼロ。
西軍の伊藤を叩き出して松尾山に布陣って春日局のダンナの稲葉正成の武功を捏造するために書かれた後世編纂の三次史料のお話だよ?
大谷吉継が秀秋を2回にも渡って会談して暗殺しようとするんだよ? もう読んでて笑っちゃうよ。
>>800
幕府公式だし鉄炮頭の布施孫兵衛だか堀田勘左衛門だかが撃ったんだろ。
ズルズルと時間だけが経過する中で決断を促したきっかけとしてはありえる話で
別にあえて否定する理由もないと思うが。なんか否定できるソースでもあるの?噛み付く意味がわからん。
>>799
利家末期に利政は家康謀殺を策していたようで利家も黙認しており、たびたび利長が穏便に抑えたらしく
利長によって片山延高がのちに殺されたのは暗殺計画隠蔽のためと言う話があるな(和田文次郎「前田利家公」)
大坂の妻を心配したので動かなかったと言うのは加賀藩史料からの想像と象賢紀略からの話ではあるが
そもそも浅井畷の戦いの時には出兵してるわけで、次は出兵できない理由がわからんし何か変事があったことを窺わせる。
また利政は秀頼警護の旗本詰番衆を指揮する権利を有していて、その馬廻りの者たちが三成指揮下に従ったりしてる。
天寛日記などは利政が西軍に気脈を通じていたとしており、あからさまな家康への謀反行動とされてる。
だいたい西軍についた小松城の丹羽長重に利常を人質に出しているタイミングも怪しい(9月とされるが)
そもそも小松城を背後に進軍すること自体が不信だし大聖寺城攻めも
単なる領土拡大欲求からでは?しかも大谷の偽情報に踊らされて帰るとか現実的じゃないしありえないだろう。
またこの時に軍を率いている者で反家康だった太田長知がのちに暗殺されているなどいろいろと前田家の去就は改変されてる。
親徳川重臣の横山長知が持ってきた「利長生母芳春院を人質とすること」「家康に臣従するという誓詞を書くこと」
「徳川秀忠の次女と利長四弟利常の婚姻」に怒ってたようだが、
そもそも秀忠の次女と婚姻予定の利常を丹羽に人質として出す行動とか非常に疑問。
802人間七七四年:2011/06/30(木) 18:58:57.77 ID:4F7OT/lL
>>801
> にあえて否定する理由もないと思うが。なんか否定できるソースでもあるの?噛み付く意味がわからん。


591 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/01/07(金) 22:56:10 ID:tU3zFc55
再録

「五本関原日記曰諸方合戦最中ニ黒装束ノ武者御前ニ参リ筑前中納言ノ旗
色何レトモ知レ申サスト申シ上ル問鉄砲打セヨトノ御意ナリ仍テ鉄砲打カケ
候」

「井伊家慶長記曰福島井伊向云々合戦始時節如何直政答云筑前中納言内通之義有
彼躰見軍始可只今予軍士熊谷内匠三浦十左衛門両秀秋陣遣暫相待可ト
又藤堂佐渡高虎来テ正則如問前如答フ高虎テタテアリト云テ吾陣帰鉄砲之者二十人
計召具秀秋陣向放タシム但玉ヲ入不然雖秀秋陣少モ騒不一向敵陣ヲ見ヲロス外無他
高虎来云秀秋心底疑処無云々」

「聿修録曰諸部既接戦筑前候観望山下未公(高虎)大銃発之脅乃始兵発」

他、
「五本関原日記」とほぼ同じなのが「濃州関原合戦答書」「一本関原軍記」「慶長記畧捗」

「五本関原日記」に「井伊家慶長記」「聿修録」を組み合わせ、藤堂隊が家康の命による
問鉄砲を撃ったとしているのが「東西記」「別本慶長軍記」「本朝武林(稲葉)傅」

「黒田家譜」では福島の鉄砲隊二十人『のみ』を松尾山に撃たせよと使番に命じている
ほぼ同じ内容が「関原物語」「関原記考」

「落穂集」は使番として久保島孫兵衛、鉄砲隊は家康組下の布施孫兵衛とし
後は上記の内容をごった煮したもの

以上「朝野旧聞褒藁」より

以上より

小早川陣への銃撃は二度あったと推定される

一回目は藤堂高虎による牽制の為の銃撃

二回目は徳川家康の命によって福島正則から分派された
鉄砲隊(家康使番久保島が同行した可能性あり)による内応
催促の銃撃

家康本隊からの鉄砲隊分派は無かった可能性が高い
803人間七七四年:2011/06/30(木) 19:17:01.00 ID:5udi4boV
なんだ正則さんはここでも活躍してるのか
マジ猛将だな
804人間七七四年:2011/06/30(木) 19:35:17.80 ID:o1FJTZCl
>>802
秀秋陣に銃撃があったってことでいいんだよね。
別にムリヤリ東軍陣営を家康直属かそうとは言い切れないで分けるなんて斜め上な屁理屈を持ち出したわけじゃないんだろ?
普通そんなに意識的に分けて書いたりしてないし。
だから反論とは受け止めず、そのコピペは何度か見かけて知ってたが毎回スルーしてたわけだが。

それと家康暗殺を企んだとして浅野が能登へ蟄居を命じられてからは
浅野の代わりに奉行に参加したのが宮部継潤であり
たびたび署名してんだよね。その息子の宮部長房も西軍として伏見城攻めに参加してるんだよね。
805人間七七四年:2011/06/30(木) 19:42:34.70 ID:4F7OT/lL
>>804
銃撃の意味合い自体が違うのに無理やりお前の考えにはめ込もうとしているからおかしなことになってる。
と言うかお前のは全部、まず結論ありきで論を組み立ててるから最終的に破綻していることに気がつけ。
806人間七七四年:2011/06/30(木) 20:41:09.51 ID:j++DnQyc
そもそも家康もしくは井伊からの命を受けて藤堂が取次して家康の使い番と福島が銃撃して催促してるのに
家康本隊から鉄砲隊分派が無かった可能性に言及して何の意味があるんだか…
807799:2011/07/01(金) 04:34:42.76 ID:FjbmOKKw
>>801
いや、だからね
利政が西軍側として兵を起こしたやら、はっきりと西軍とした何か史料を示してくれと聞いてるんだよ
君が説明しているのは、前田家の周辺状況で、利政の行動を証差しているものが何一つないんだが
808人間七七四年:2011/07/01(金) 05:45:44.19 ID:ibco45j2
神君家康の率いる東軍の鉄砲隊は戦場の怒号も銃撃音もかき消して松尾山の小早川秀秋の耳にだけ恐怖を与えるまさに神の鉄砲。
火縄銃の最大射程距離?そんなの神君の神通力でいくらでも延びるよ。
809人間七七四年:2011/07/01(金) 06:47:09.13 ID:RneUqVDP
>>807
秀頼の馬廻りで利政指揮下の者たちが三成傘下に入っていたり
西軍に気脈を通じていたりしてたって記されてるのに何言ってんだ。
上記を覆せる論拠を出して否定しろよ。
過去に何度も指摘されてるが
おまえは毎回まったく根拠を出さずに相手にケチだけつけてるからバカにされてんだよ。
>>808
小早川だって戦況を調べるために神経すり潰してるだろうし
物見などを派遣してればすぐ変事として注進されてくる話だろう?
810人間七七四年:2011/07/01(金) 08:52:11.71 ID:FjbmOKKw
>>809
指揮下とは与力で利政の直下ではないし、気脈通じたなんて東西両軍の殆どがやっている
知らないなら東西両軍に気脈通じたのや、与力が反対陣営に参加した例出そうか?

というか、史料からと聞いてるのに、全く史料名出てこず、
挙げ句にお前は毎回と、誰と混同してるんだ?

否定も何もどの史料にも利政は東西両軍に軍事的関与を示すものがない
つまり動いていない

それを一次史料からの証差もなく西軍と断定して、根拠問われたら否定する根拠示せとはね

久しぶりに来て面白そうだから尋ねたが、ここは相変わらずだった
結論ありきだわ
811人間七七四年:2011/07/01(金) 09:47:22.90 ID:iMqDebdF
>>810
相変わらず根拠を一切出さずに無知を晒しながら
ケチをつける・粗探し・揚げ足取りに必死なだけの毛利厨くんw
>>与力が反対陣営に参加
出典の加能越古文叢を読んでから意見しようね。わざわざあんな中から探すのめんどくせぇから。
給料払ってくれるなら仕事として出張して現代語翻訳して調べてやるよ。
趣味でやるには労力が見合わない無理な要求すんなクズ。もう趣味から逸脱するわ金を入金しろや。
否定できる論拠や材料をちゃんと出して論述してくるならちゃんと調べてやるがな。
そもそも>>801で挙げられた書物のひとつでも読んだことがあって偉そうに意見してんのかお前?
812人間七七四年:2011/07/01(金) 10:23:55.33 ID:iMqDebdF
金沢市立玉川図書館の加越能文庫34,000点のうち
東京大学のマイクロフィルムは加越能文庫所蔵史料の中の
近世の武家官位及び書札礼に関する史料を中心に撮影しただけだって言うからな。
やはり金沢出張して加越能文庫目録を使ってある程度は端折れるだろうが
あたりのつけどころは加能越古文叢四十五あたりからまずひっぱり出すべきだろうからお前が調べてこいよ。
利政が西軍と気脈が通じてるってのは芳春院夫人小伝にも触れられている。
813人間七七四年:2011/07/01(金) 14:17:46.44 ID:FjbmOKKw
>>811-812
持論の証左も論拠提示もできずに、他者を否定罵倒すれば自身が正しいと思っているような人だとわかったのでもういいよ
よくわからんけど、毛利の話すらしていないのに毛利厨と言い出すしね

まぁ
>人質取ると書いてるだけで松尾山に伊藤勢が布陣していたとするネタ自体が信憑性ゼロ。
>西軍の伊藤を叩き出して松尾山に布陣って春日局のダンナの稲葉正成の武功を捏造するために書かれた後世編纂の三次史料のお話だよ?
と主張している張本人が和田文次郎「前田利家公」や「芳春院夫人小伝」持ち出してるので、
こりゃダメだと思ったしね
刊行された年調べてみるといいよ、明治以降だから


>加能越古文叢四十五あたりからまずひっぱり出すべきだろうから
これで、君自身が中身を確認して言っているのではないとも理解したからね
俺もそうだけど、普通は自身で調べたら絶対ないからね
自身で確認したのなら史料集である加能越古文叢45にある誰其の書状か伝記を確認しろと言うのが普通だしね

何がどう書いてあるのかを知らず、何かの本で書かれてるとあるのを鵜呑みにした受け売りとしか思えません

利政の動向は東西どちらかとはっきりとしたものは証左出来ていない
右往左往というより迷走していると言っていいほど
だからそれを明言するので論拠聞きたかったけど、受け売りだけで君自身による論証が、
なされた訳でもないと理解したのでもういいや

ありがとね
814人間七七四年:2011/07/01(金) 14:27:48.57 ID:VtuVkfLJ
乱世を生き抜いた戦国大名たちの天下分け目の合戦を、お前らニートがあーでもないこーでもないとか。。

恥ってもんを知らねーのか、お前らは。
815人間七七四年:2011/07/01(金) 15:07:43.90 ID:bwTQBLwu
関ヶ原後に負けた方は、ニートが続出したわけだが。
816人間七七四年:2011/07/01(金) 15:37:10.17 ID:RneUqVDP
>>813
西軍と気脈を通じてたとする天寛日記が明治時代に刊行したとかバカじゃないかおまえw
そもそもいま手元にないもんなんて詳しく書けないの当たり前だろw
ちゃんと調べる手段を親切に教えてくれる人がいたんだから
無理な要求してケチつけるくらいなら自分で調べればいいだろ。
そもそもおまえには何らかの根拠もないくせにケチだけつけて否定しまくってるだけであり
ソースもなく他人の意見を理不尽に貶したからって、おまえの意見が正しくなっていくわけじゃないからw
それと秀秋が伊藤を松尾山から叩きだしたり、
大谷が秀秋が裏切ると警戒して何度も会見を申し込みまくり暗殺を狙おうとするのは
稲葉家の捏造家譜が初出典のタネ本ネタだから信憑性なんてまったく期待できない。
817人間七七四年:2011/07/01(金) 15:43:21.61 ID:RneUqVDP
それとさ、>>807でネーム欄にわざわざ数字入れてるんだから他の誰でもなく
いつものおまえだろw
何が久しぶりにきただよ。毎日ケチをつけに粘着してきてるだろ。
しかも>>793の話から盗用して>>799でシッタカを開始しただけの話なくせに。
818人間七七四年:2011/07/01(金) 16:02:11.15 ID:RneUqVDP
こういうバカがいるから
ソースを出す人間が次々にいなくなってしまい
今みたいに貶すだけのやつしか戦国板にいなくなっちまった。
大河の風林火山とかやってる時は双方が出典明記したりとけっこう生産的な議論が多かったのにな。
ソースを出すために史料の山をひっくり返し数百ページをあたる労力を知らないバカが
論拠なしの思い付きで簡単な言いがかり数行ケチを繰り返すだけの幼稚な粘着荒らし行為を繰り返すから呆れていなくなるんだよな。
819人間七七四年:2011/07/01(金) 17:19:05.58 ID:KTLIcU+W
>>818
そこまで自信があるのなら、どこかの学会誌にでも投稿すれば良いんじゃない
ここはピンからキリまでを許容する2ちゃんねるだよ
820人間七七四年:2011/07/01(金) 17:21:08.23 ID:iMqDebdF
まぁ俺は否定するだけの根拠を提示するなら別に構わんよ。
それが常識的なエチケットでしょ。
821人間七七四年:2011/07/01(金) 17:23:25.94 ID:FjbmOKKw
ID替わってるからHNにレス番入れたら、よくわからん認定されるわ、
「前田利家公」や「芳春院夫人小伝」は明治以降の編纂刊行物だと言えば、
天寛日記にすり替えするわ、まともな会話出来ない

後、勘違いしているけど、調べる手段も何も、君は一度も論拠提示してないよ
ころころと資料名出しているだけ
どの史料に何と書いてあるのか示さないと提示した事にはならないよ
こんなの常識だと思ってたけど、君のように違う人いるみたいだしね


寛政重修緒家譜の稲葉家譜は勝手な思い込みで全否定、だけどそれより全然新しく、
似たように編纂された明治期の刊行物を根拠にするダブルスタンダード、
これじゃ全く会話にならないよ

寛政譜全否定なら関ヶ原前後の殆ど史料消し飛ぶね
寛政譜は各家にある文書などから編纂されてる(勿論改竄はある)のに、
信用出来ないで済ますなら元の史料も否定だしね

というか、君、引っぺがすと言ってるけど、史料のコピーやら持ってないでしょ?
書かれてる一文明記で済む話を、資料名だけだして相手罵倒だもん
822人間七七四年:2011/07/02(土) 02:14:03.88 ID:n/W6Z932
>>821
これは驚いた。反論するにまた何の根拠もないわけか。
文章を読むにケチをつけている点から利政が東軍に属していたと主張したいのか?
それとも両天秤にかけて去就に迷っていたと主張したいのか?
しかしその根拠も挙げているわけでもない。
言わば対案も論拠も示さず、完全に反対のための反対をしているだけで
なにを主張したいのかさっぱりかわからないので論法として崩壊している。
そもそも君は今までに一切、論拠もソースも出さずにきて
反論はすべて認識の違いを利用した屁理屈のみで
労力ひとつ費やさずに思いつきのケチをつけているのみ。

>>寛政重修緒家譜の稲葉家譜は勝手な思い込みで全否定
えっ?いつ全否定したって?まともな会話できないのお前じゃん。
そもそも自分に都合がよいように天寛日記の名を故意に抜かしたから
わざと皮肉を込めて書いたのも理解できない鈍感だったか。
しかも軍記紛いの家譜をお前は一次史料と捉えているようだが違うぞw
でさ、君の反論する態度からすると稲葉家譜は信憑性って言うことだろ。
大谷吉継が執拗に秀秋に会談を要求して暗殺を狙いまくるのを史実と主張するなど
君は正気の沙汰とも思えないな。そんな記述は他家の家譜や一次史料にも存在しない。
それでな、利政が指揮していた秀頼の馬廻りは毛利秀秋・杉原長房・宮部長房・山中幸俊
羽柴長吉・木村虎松・蜂屋勝千代・伊藤武蔵・加藤源吉などだな(加能越古文叢四十五)
823人間七七四年:2011/07/02(土) 02:17:51.22 ID:n/W6Z932
訂正
×君の反論する態度からすると稲葉家譜は信憑性って言うことだろ。
○君の反論する態度からすると稲葉家譜は信憑性があるって言うことだろ。
824人間七七四年:2011/07/02(土) 08:28:07.52 ID:sufEF7w6
あの当時、あそこにいて記録を残せそうなのは稲葉家くらいなもんだろう

ちなみの寛政諸家譜の西尾正義では彼と小西正重と共に小早川秀秋と
高宮で8月26日の数日後に接触していたとする
西尾はその後、小早川の使者と共に赤坂に戻ったが、小西はさらに大津城
まで出向いたとある
825人間七七四年:2011/07/02(土) 13:07:01.37 ID:Wx2sJ4+P
>>824
山岡ネタだな。山岡家の話を信じると日本全国の西軍や中立派の大半が
山岡の親類なども動員した大調略で家康に味方したことになるんだよな…。
それ菅気清兵衛なる小早川家臣が山岡家臣の西尾や小西に会ったネタだよね。
そもそも清兵衛の小早川内での立場がよくわからん。
やっぱり黒田長政の従姉妹(如水の姪)が正室の平岡頼勝が
東軍との内応を図って反対する小早川先陣の松野主馬と争っているうちに昼になったので
苛立って銃撃されたと考えるのが自然だと思うが。
そして秀秋も毛利がまったく動かない点に不信感が募っていたこともあって松野主馬の意見をついに却下。
春日局の父の稲葉正成に関しては平岡に乗っかっただけで何らかの功もないから家譜でハッタリ書いたんだと。
つまり吉川広家と真逆だったのが松野主馬。
最初は西軍として参加する予定だったから松野主馬が先鋒配置されていたんだろうし
9/10頃に南宮山に布陣した毛利軍でも12付けの書状を見ると輝元が関ヶ原前線の諸将に命じて現地の雑説の収集をしていたのがわかり
「そっちに別段なんかあるわけじゃないみたいだけど、かんか変化あればすぐこっちに通報せよ」とさらなる情報収集を命令してるだけで
だからと言って小早川を警戒したり排除する動きもその後も見せてない。
松尾山から伊藤を排除するような変事があれば輝元へ通報されるはずだ。
やはり家臣による東軍内通の原因としては小早川執政をして検地などを主導していた山口宗永が
加賀大聖寺城の大名に取り立てられ居なくなった空白が原因だろう。
826人間七七四年:2011/07/02(土) 14:29:56.91 ID:sufEF7w6
>>825
山岡氏に関しては一族が伏見にいたり大坂にいたり、親族を近衛信尹が匿っていたりと
どこの伝奇小説だと突っ込みたくなること夥しい
827人間七七四年:2011/07/02(土) 14:39:18.59 ID:sufEF7w6
>>825
後、小早川が松尾山に登ったのは14日だから書状を送る余裕は無かったのではないかと
828人間七七四年:2011/07/02(土) 15:13:35.81 ID:Wx2sJ4+P
>>827
三成が12日に松尾山に中国勢を入れる予定と書いていて
小早川が松尾山に布陣するには文書に沿えば10日頃にすでに到着していた毛利軍が松尾山に分派されているはずで
それを排除しなければ登れないわけで
そんな重要な松尾山に三成曰わく頼りないから人質取ったとする大垣城主伊藤の小勢が布陣していたとは考えられず
毛利軍のいる南宮山は大垣城に向き合う後詰め最前線なので派兵に難色を示したのなら
代わりに小早川勢が配置されるのは不自然じゃないわけで。
と言うのも毛利軍は大津城攻撃に分派して手持ちに余裕ないため、北政所や淀や高野山経由で開城交渉に成功すれば
毛利元康の大津城攻撃隊15000が松尾山布陣する予定だったのではないかと。
その代役として秀秋の松尾山布陣となったのではないかな。
士気が高い小早川秀包や立花宗茂らを要する元康隊が松尾山に布陣していた場合は西軍圧勝も有り得たのではないかと。
829人間七七四年:2011/07/02(土) 16:04:04.60 ID:sufEF7w6
>>828
その点については伊藤盛正は毛利勢がくるまでの繋ぎだったんじゃないかと、
伊藤程度の小勢なら、山下にいる大谷でも十分対処できるし
しかし、そこに小早川が来て、ついでに家康も赤坂に来て、何が何だか解らないうちに
占拠されたんじゃないかと

少なくとも、14日の西軍は凄まじいまでの混乱にあったのは間違いないかと
830人間七七四年:2011/07/02(土) 17:42:23.63 ID:pvXcJ59F
伊藤盛正が松尾山に布陣した一次史料がないのだから稲葉の作り話。
そもそも三成は「伊藤が若輩なので、その家中が敵の謀反の勧誘などに
才覚を発揮するかもしれないから人質取っただけではまだ心許さず
拙者がしっかり城にいる」と言っているので松尾山を一任することはありえない。
しかも松尾山についても「松尾の城のいずれの御番所にも中国兵を入れる
御分別が重要でありもっともだ」と書いており
松尾山の全域の諸所に陣が構えられていることを記述していて
伊藤の兵だけでそれら全てを宛てるのに無理があるし
御分別の結果、信用できない伊藤を入れたのでは辻褄が合わない。
831人間七七四年:2011/07/02(土) 20:14:41.52 ID:sufEF7w6
>>830
稲葉のつくり話は話がこじれそうなので置いとくとして

当時の関ヶ原は大垣や南宮山に比べれば第二線なので、
兵力に余裕のない西軍も伊藤を置くしか無かったんじゃないかと
それを問題視して12日の書状を出したと考えられるし
832人間七七四年:2011/07/02(土) 20:38:59.21 ID:Wx2sJ4+P
一次史料どころか他家史料にも証左や傍証も一切無いのに
稲葉家の子孫でもあるまいに
なんでそんなに伊藤が松尾山にいたと執拗に固執するのか理解し難い。
833人間七七四年:2011/07/02(土) 20:54:09.56 ID:Gg5KOUpH
>>830
前から思ってたけどじゃあ伊藤盛正は9月14日にどこにいたんだ?
何か伊藤が信用できないからどうとかいってるけど
もっと簡単に伊藤盛正の9月14日までの行動を提示すれば済む話じゃない
そもそも稲葉がそんな作り話をする必要があるの
稲葉の武功のためとか書いてるけど
稲葉が伊藤盛正を追い出して松尾山に布陣するように進言したと書いてあるの?
だいたい追い出したくらいの事が武功といえるのか
834人間七七四年:2011/07/02(土) 21:20:36.23 ID:teC6Zn2o
伊藤はいなかったと説きたいのであれば、稲葉の武功のための捏造という「可能性」だけでなく、
ではどうだったのかという対案がなければ・・・。
12日時点では松尾山にこれといったちゃんとした軍勢はおらず、14日には松尾山に入ったと
思われる小早川の動きが「むほん」とされた訳だから。
835人間七七四年:2011/07/02(土) 21:42:43.10 ID:Wx2sJ4+P
>>833
いやいや一次史料にないし他家史料による裏付けも取れない軍記紛いの家譜を信じるなんて無理。
稲葉が主張する大谷が秀秋を繰り返し暗殺しよう試みるのを阻止した話なんてとてもじゃないが信じがたい。
伊藤がいたと主張したければ一次史料を提示すべき。
>>834
そのむほんとしたのは誰?なんの史料によってるの?
836人間七七四年:2011/07/03(日) 01:54:59.24 ID:paGj8IWh
慶長記
備前中納言様らが大垣を出て関ヶ原に布陣しました。理由は筑前中納言殿むほんと風聞が
あったからです。仕置きをしようと出陣したのです。
837人間七七四年:2011/07/03(日) 05:06:37.57 ID:vnkbpk8B
>>835
だからさ稲葉はこれによって武功を得たと家譜に書かれていたのか
どうか聞いてるんですけど
書いてあるなら捏造を疑うのはいいけど書いてないなら捏造する必要なくね
あとこちらは伊藤が9月14日にどこにいたか聞いてるのであって
松尾山にいたと主張したいわけじゃない
そもそも伊藤が松尾山じゃない別の所にいた一次史料を出せばいいのに
それをしないという事は伊藤がどこにいたかわからなかった事でいいのか
838人間七七四年:2011/07/03(日) 05:45:42.15 ID:87jtxUDs
関ヶ原での家康の勝利で明確になったのは、
成功者になるには悪人でも卑劣漢でもOKだってこと。

いくら初詣で家内安全・商売繁盛を願っても、
大津波一発で家も財産も仕事も全てパー。

つまり神頼みなんて何の意味もないナンセンスの愚行。
それを知らずに神前で手前勝手な祈願をしている糞庶民の間抜けぶり。
だから俺は初詣になんて絶対行かないし、神頼みもしない。

今回の大震災で被災した連中の大半は、今年の正月初詣に行った連中。
こいつら、来年の正月も懲りもせず初詣に行くんだろうな。
馬鹿もここに極まれり。

839人間七七四年:2011/07/03(日) 08:36:04.78 ID:Sa5uPA3+
大震災をネタに使うなよ
840人間七七四年:2011/07/03(日) 09:59:57.75 ID:2MfhYmpO
家康の侍医の慶長年中板坂ト斎記も事実を改竄してて信憑性がないからね。
慶長元年5月に4歳の秀頼が上洛した際の記述が山科言科日記とまったく違うこと書いてるし。
秀頼上洛で伏見から家康も塗輿で付き従い上洛って言う事実を
京都の宿所から東福寺の門前まで家康と年家が仲良く大声で話ながら馬で迎えに出たと改竄してる。
他にも利家死去すぐの武断派7将の三成襲撃クーデターのメンバー2人の変更改竄して蜂須賀家と藤堂家に配慮してたり。
板坂卜斎のは日記じゃなくて 征夷大将軍徳川家のために後年に一気に書き上げた代物だよ。だから記述が徳川史観になってる。
前田研究の大家たる岩沢氏も常日頃から家康と昵懇な山科の家族が見誤るわけが無く
家康と利家が馬上で仲良く話ながら秀頼を迎えに出たとする卜斎の記事は虚構だろうと断言してる。
980 :人間七七四年:2011/06/24(金) 09:59:39.27 ID:qzBaKJ3y
>>979 違うよ、上巻から中巻までは日記に文章を追加する形式
もし後年書き上げたなら、こういう書き方ではなく、もっと整った形式になる
後、家康中心なのはそりゃ卜斎は家康の侍医なんだから、むしろ当然当たり前、信長公記も同じ
岩沢氏の指摘した部分は日記形式でない下巻の部分なので、確かに問題はあると思う
981 :人間七七四年:2011/06/24(金) 10:46:28.77 ID:kItyo8g5
>>980 上巻は書き置きからの写し書きだよ。
明らかに事実を書いたんじゃなくフィルターを通して書いてる。
信長公記もあれは安土城天主が完成した辺りになってからやっと年日付が正確になってくる代物で、
それ以前は参考程度にしか参照できない。
山科などの日記類は一次史料だが、上記は二次史料以下。
特に信長に関する良質な史料がほとんど無いから信長公記を流用せざる負えないだけで
信長公記を角川が出版するときに第一級史料と喧伝したから誤解されてるだけ。
そもそも信長公記は亜流などを含めると80種類以上あるんだから
どれを流用するかで内容も変わるし筆者の太田牛一は売文家で当時から有名だったから信憑性はさらに疑問なわけだが。
982 :人間七七四年:2011/06/24(金) 10:52:39.36 ID:kItyo8g5
だから同じ太田牛一の秀吉一代の記録や関ヶ原の記録などの複数の著書はすべて二次史料以下扱いで
まったく重要視されてない。秀吉も家康もロクに信長に言及したりしないわで
信長の資料が極端に無いから信長公記に需要があっただけの話。
995 :人間七七四年:2011/06/25(土) 14:50:21.79 ID:T7cyHbB5
そもそも秀秋が早逝し小早川が改易されたことで史料少ないし 関ヶ原までの秀秋の動きで確かな史料が存在しないし
戦後は徳川史観で権現様の神算鬼謀すげぇーとか
吉川岩国藩の香川景継が吉川家の意向を受けて関ヶ原軍記大成などいろいろ軍記に
吉川家の主張を盛り込む活動を隠密裏に行っていたと山本裕氏が指摘してるからねぇ。
999 :人間七七四年:2011/06/26(日) 14:54:10.54 ID:985muy5S
慶長記は家康が利家と仲良く会話しながら馬でやってきたとデタラメ吐いてる事実は変わらない それは加賀藩との関係に配慮してるから。
841人間七七四年:2011/07/03(日) 10:38:47.05 ID:paGj8IWh
>>840
980以外は全部subが書いたのじゃないか。

subはこうも書いている。
324 :人間七七四年:2011/06/12(日) 07:13:37.34 ID:ALhkhaTN
>>323
じゃあさ、なんでダラダラと何かを待っているような行軍してんの?
さっさと行軍して上杉を討てばいいじゃん。
家康は伏見城攻撃を予期して譜代4将を配置してるとしか思えないよね。
お前が認めたくないだけの話できっちり傍証あるじゃん。
大坂城なんて家康はたった500しか配置してないのに佐和山城に近い伏見城は1800も配置して義弘にも守備頼んでるわけだが。
大坂城を出て伏見城に入った家康は奥座敷で機嫌よく1人で笑っていたって記述を板坂卜斎が記しているように
家康は三成が自爆的挙兵をするとタカを括っていて天下を牛耳るのも近いと絶頂な気分でいたんだよ。

要は慶長記の記述だから信憑性がないという論は全く意味がなく、箇所ごとに評価しなくてはいけない。
ほかの史料との矛盾を指摘するのが本来の形だよ。
842人間七七四年:2011/07/03(日) 11:20:36.77 ID:PTAWpSrV
これは酷い
843人間七七四年:2011/07/03(日) 11:50:28.13 ID:2MfhYmpO
>>841
コピペを貼ったわけだが、その反論にsubなんて単語を出してきたってことは
一次史料も挙げずに執拗に粘着して食いついてきていたのは毛利厨か。
sufEF7w6はまともそうだから別人だろうからsufEF7w6の意見に乗っかってきたな。
前田利政の時と言い他人の意見に乗っかって粘着する愚か者。
自分では知識がないから他人の意見に乗っかって粘着することしかできんのな。
>>841のコピペ内容の記述だと板坂卜斎は誰に配慮して書いた内容だと君は主張したいのかい?
全てが間違いなんて主張してないし、寛政重修緒家譜同様に全否定はしてないが?
その場所はどこの誰かに配慮して書くほどの内容は含まれてないと思うけど。
それと慶長記は一次史料だと思ってるようだけど違うから。
後世の編纂物は春日局の父の稲葉家の捏造に沿って
秀秋が最初から東軍だったと書く徳川史観に引きずられているだけ。
実際は小早川家中は東西両陣営に分かれて関が原当日まで西軍側有利に進んでいた。
だから家康は奥平貞治まで派遣して必死な説得工作を続けていた。
昼になり銃撃もあり秀秋が決断するも奥平が率いた小早川軍は士気が低く
大谷隊に押されまくって奥平は致命傷を受け、まもなく死亡。
続く脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らの相次ぐ離反が無ければ大谷隊に敗退してた。
>>837
東軍側に付いた秀秋を殺すべく大谷の再三に暗殺狙いから秀秋を守ったのは武功じゃないのかね?
すると執拗に反論している君は上記の内容を事実だと主張してるってことだよね・・・
二次史料以下でしか証明できない以上は伊藤がどこにいたかわからないが正しい。
>>松尾山にいたと主張したいわけじゃない
じゃあいなかったで認めてんじゃねーか。相変わらず支離滅裂で崩壊してる論法ぶりだな。

二次史料以下だから信憑性はないが参考として、
大垣城が西軍の司令部になるので8月6日に伊藤は大垣城を出て今村城へ入る。
8月10日三成や小西や島津らが大垣城へやってきた。
8月23日岐阜城陥落。
9月10日頃より毛利隊が関が原へ集結を始める。
9月12日三成が松尾山のいずれの御番所にも中国勢をいれると書状を出す。
9月14日朝に秀秋が松尾山へ布陣?
(稲葉家譜が主張するには大谷が終日に渡り執拗に秀秋暗殺を狙う?)
9月14日夜に福原長堯らに大垣城守備を任せ西軍諸将が関が原へ進軍。
(伊藤もそれに続いたのか?今村城の守備を続けたのか不明)
伊藤軍が小早川隊の右前方あたりに布陣?
(だとすると伊藤が来る以前にすでに秀秋が松尾山にいることになる)
9月23日大垣城で熊谷直盛と垣見家純が殺されが福原長堯が降伏。
(伊藤が大垣城籠城組ではないようだ)
844sufEF7w6:2011/07/03(日) 12:31:24.09 ID:aZaxmy8p
>>843
いや、まともではなく
あなたが「稲葉家の捏造」を疑問の余地もなく「確信」しているので、
そういった「確信」している人と議論する気は無いだけです
845人間七七四年:2011/07/03(日) 12:37:55.81 ID:2MfhYmpO
またネーム欄をいれる奇特な方だったかw
まともじゃなくて同一人物かw
確信も何も間違いなく捏造だろ。
もし事実だと主張したいなら
大谷が秀秋を暗殺しようとしてた一次史料をもってこいよ。
846sufEF7w6:2011/07/03(日) 12:52:38.24 ID:aZaxmy8p
では、大谷が秀秋を暗殺するつもりはなかったという一次史料を提示してください
847人間七七四年:2011/07/03(日) 13:28:23.15 ID:paGj8IWh
>>843
毛利厨ではなく上杉厨だ。君は伊達厨と呼んでいるがね。
君がsubなのは明らかだが、subだからおかしいと言っているのではないよ。
848人間七七四年:2011/07/03(日) 13:32:12.01 ID:yaa7c8tU
実際は小早川家中は東西両陣営に分かれて関が原当日まで西軍側有利に進んでいた。
だから家康は奥平貞治まで派遣して必死な説得工作を続けていた。
昼になり銃撃もあり秀秋が決断するも奥平が率いた小早川軍は士気が低く
大谷隊に押されまくって奥平は致命傷を受け、まもなく死亡。
続く脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らの相次ぐ離反が無ければ大谷隊に敗退してた。




寛政譜や他の軍談や軍記を元にした関ヶ原大成にある内容を実際はと言うんだw
家譜は捏造だと言いつつ、大成を事実扱いとは恐れ入りましたw
849人間七七四年:2011/07/03(日) 13:37:56.06 ID:fRkFb9Gs
徳川福島が小早川に銃撃とか・・・

赤座、小川、朽木、脇坂の陣があるのにどうやって?
当時の鉄砲の射程距離考えたら藤古川渡って山登ってやっと届くんだけど。
脇坂の陣から撃ったって気付いてもらえる距離じゃないし。
850人間七七四年:2011/07/03(日) 14:48:32.71 ID:gflPJ8Ym
毛利ゴキブリまだ粘着してたのかw
ゴキブリは吉継が秀秋暗殺を狙ってた糞捏造を事実だと主張してて基地害過ぎててワロタw
しかも伊藤が松尾山にいなくても構わないとか言い出してて頭悪すぎワロタw
普段は一次史料出せ、一次史料出せと粘着してるくせに二次史料の慶長記を自信満々に出すとかクズ過ぎてワロタw
851人間七七四年:2011/07/03(日) 14:55:53.91 ID:gflPJ8Ym
>>849>>850
鉄砲で小早川陣を銃撃した話は二次史料以下とは言え
複数史料に同様なことが載っているんだから事実の可能性は非常に高いだろw
複数史料による裏取りができる話まで否定するとか基地害過ぎてワロタw
小早川陣から戦況を調べる物見が一切いなかったから
銃撃にまったく気付かなかったとでも言いたいのか毛利ゴキはw
852人間七七四年:2011/07/03(日) 15:16:51.11 ID:fRkFb9Gs
小早川に物見がいたとして、どっから撃たれたら自分達への銃撃だと認識できるわけ?
853人間七七四年:2011/07/03(日) 15:24:37.22 ID:yaa7c8tU
鉄砲話がある軍記の時系列調べてみましょう
複数あるから可能性高いというのが、どれほど馬鹿げているか理解出来ますw
854人間七七四年:2011/07/03(日) 15:25:50.74 ID:gflPJ8Ym
>>852
毛利ゴキよ。
複数の他家二次史料に書いてあり重複されており
複数照らし合わせが可能な事項を否定するに足る根拠を示してくれないか?
855人間七七四年:2011/07/03(日) 15:32:13.32 ID:fRkFb9Gs
いやだから松尾山麓に四将が陣取ってるのにどっから撃ったら小早川は自分への銃撃だと理解できるんだよ。
856人間七七四年:2011/07/03(日) 15:36:38.74 ID:fRkFb9Gs
ってか、配陣図から二次資料がナンセンスだと言ってるのに二次資料出せとかアホ過ぎる
857sufEF7w6:2011/07/03(日) 16:32:54.13 ID:aZaxmy8p
>>850
こう、自信満々に断言できるやつとは議論しても無駄
858人間七七四年:2011/07/03(日) 18:42:36.22 ID:2MfhYmpO
>>848>>853
いや俺は「〜という史料で〜と書いてあるから、その記述は間違い」と言うなら
ちゃんと話は聞くけど、どこの何が違うか史料提示しての反論じゃない君の文章はただの駄文じゃん。
あとさ、銃撃が無かったことを何一つ論証しようとしないで、
妄想脳内戦域シュミレーションで語るの止めてくれないかな?
君と違って俺その場で関が原戦を見学してないから。
>>849>>852>>855>>856
複数史料で銃撃を記しているわけだが。で、お前はどの史料から銃撃がなかったと論証すんの?
あぁじゃあ関が原の布陣図も完全否定するんだ?じゃあ君はもうここにいる必要もないね。
>>844>>846>>857
あぁ伊達厨だか毛利厨だか知らないですが、どうやら私怨で絡んできてるだけみたいですね。
完全に史料に根ざしているんじゃなくて
気にいらないからケチをつける目的でケチを作りだしてるだけですね。
所謂、文句のための文句に過ぎない。
だから伊藤を松尾山から除いたのを見た大谷吉継が
秀秋の裏切りを知り暗殺するために何度も会談を申し込むのを稲葉が阻止しまくり
東軍を勝利に導いた最大の功績をあげたわけですね。
さすが権現様の命の恩人稲葉正成様は関が原最大の功績をあげましたネw
その割に小早川改易後に牢人になっちまったりと
1604年に春日局が家光の乳母となり1607年に美濃に1万石の領地を得るまで不遇でしたねw
859人間七七四年:2011/07/03(日) 19:18:32.59 ID:2MfhYmpO
そもそもその銃撃に対する疑問って
2007年に840円の大衆本で日本作家クラブ会員
三池氏が松尾山には
いつだれが作ったものかわからないが
すごい備えがあったから
おそらく輝元と秀頼を置くつもりだったが
秀秋に取られてしまったとか
標高300メートルの高さじゃ銃撃聞こえないのでは?
銃撃するにも福島と大谷が激突してるので近づけないのでは?
などと可能性を指摘しただけの話で
それに対してのちに誰も追随してないネタでしょうに。
860人間七七四年:2011/07/03(日) 19:32:31.75 ID:yaikykB0
そういう論法なら
伊藤が松尾山にいなかったというのは素人妄想家sub氏が
2ちゃんねるで断言しているだけだな
861人間七七四年:2011/07/03(日) 19:56:06.07 ID:gflPJ8Ym
>>860
毛利ゴキ相変わらずバカだな。
稲葉家譜を史実だとする論文なんて読んだことねーよアホ
862人間七七四年:2011/07/03(日) 20:12:45.82 ID:gflPJ8Ym
稲葉には関ヶ原において
何も功が無いから
秀秋に蟄居喰らって
すぐ美濃に帰ったアホ
863人間七七四年:2011/07/03(日) 20:27:01.77 ID:yaa7c8tU
実際は小早川家中は東西両陣営に分かれて関が原家康から奥平貞治を派遣して必死な説得工作を続け、
昼になり銃撃もあり秀秋が決断するも奥平が率いた小早川軍は士気が低く
大谷隊に押されまくって奥平は致命傷を受け、まもなく死亡

この奥平家譜を史実としてる論文はまだですか?
864人間七七四年:2011/07/03(日) 20:31:56.61 ID:yaa7c8tU
ちなみに小早川が伊藤長門守を追い出したのを事実としてる論文は中井均氏が書いてたり
865人間七七四年:2011/07/03(日) 20:36:34.34 ID:fRkFb9Gs
やっぱどっから撃ったかも言えないんだな。
神君家康の銃弾は5kmぐらいは飛ぶんだろうな。
866上杉謙信:2011/07/03(日) 20:52:44.60 ID:Yx9EKuol
家康を神君と呼ぶのは気に食わん
867人間七七四年:2011/07/03(日) 21:24:00.17 ID:fRkFb9Gs
だって神じゃん。松尾山に登ることなく四将の陣も避けて小早川に銃撃を気づかせるんだぜ?
868人間七七四年:2011/07/03(日) 21:35:38.94 ID:gflPJ8Ym
>>863
奥平は実際に死んだんだから嘘なんて書く必要ねーだろ。
>>864
大谷が秀秋を暗殺しようとしたのを阻止しまくった稲葉を史実認定wとかバカなやついるんだな。
今度時間ある時に読んでみるからタイトル教えてくれ。
>>865>>867
銃撃を複数史料の付け合わせにより裏が取れているわけで
それを否定できるだけの史料が無いならレスしないでねw
どうやったかなどは現場で見たわけじゃないからわかるわけねーだろアホが。
しかし上の命令は絶対なんだから現場の知恵でどうにかできるだろ。
869人間七七四年:2011/07/03(日) 21:38:43.89 ID:fRkFb9Gs
現場の知恵すげーな。
当時の鉄砲の音も射程距離も現場の知恵で途中の陣も山をも超えるか。
いや、知恵すげー。
870人間七七四年:2011/07/03(日) 21:45:28.28 ID:PTAWpSrV
その付き合わせた複数史料って具体的には何なんだろ?
小早川への問鉄砲って、物理的な射程やら布陣やらを
考えるとどうしても講談的な印象を拭えないんだよなぁ
871人間七七四年:2011/07/03(日) 21:50:48.88 ID:fRkFb9Gs
>>870
まるで信長記と旧日本陸軍編纂の日本戦史を付き合わせた結果、桶狭間で奇襲があったって言ってるようなもんだよね。
872人間七七四年:2011/07/03(日) 21:52:49.39 ID:yaa7c8tU
家康から説得してこいと、敵陣を決死の覚悟で突っ走り、
秀秋本陣からマッハの速さで先陣の野主馬のをところへ

しかし戦場放棄しちゃう松野主馬、主馬から見込まれ兵預かって突撃しちゃい
名誉の戦死を遂げちゃう貞治…なんてトンデモ話満載の奥平家譜を
史実認定しちゃうバカなんているの?



あ、いたw
873人間七七四年:2011/07/04(月) 02:40:28.36 ID:ayLRNKD3
実証史学は気に食わん
874人間七七四年:2011/07/04(月) 02:43:31.87 ID:EztmGu9h
実証を考慮しないで史料と軍記を元にして作られたのが日本戦史
875人間七七四年:2011/07/04(月) 04:53:12.16 ID:TGnw4/Yr
>>868
小早川への銃撃など良質の資料には一切ないぞ
876人間七七四年:2011/07/04(月) 06:34:59.75 ID:3RYCOuMG
話変わって素朴な疑問なんだが、家康は上杉の前に毛利を潰そうとは思わなかったのかな?
大阪に近く代替わり後の前田、自領に近い上杉と言う順番は確かにわかるんだが、当主があれで有力家臣もあれだけ切り崩せるなら上杉より毛利を先に懐柔すれば楽だったかとも思える
徳川について大領を安堵しておくのが賢いとか元就の遺訓とか言い出しそうな連中は事欠かないし
877人間七七四年:2011/07/04(月) 09:04:54.48 ID:RXYiPzwT
>>875
「良質な資料」だけで語ったら、戦闘経緯なんて書き様がない
>>876
輝元が家康に父子の間、家康が輝元に兄弟の間といった誓紙を交換している
878人間七七四年:2011/07/04(月) 09:36:55.00 ID:HwhYwtHy
>>877
つまりお前は妄想、想像を信奉しているわけだな
879人間七七四年:2011/07/04(月) 09:54:41.09 ID:RXYiPzwT
>>878
あなたが「良質な資料」以外を「妄想、想像」と捉えているならね
そういう思考の持ち主とは幾ら会話しても無駄なので
880人間七七四年:2011/07/04(月) 12:10:31.57 ID:HwhYwtHy
>>879
良質な資料による精査がないモノはどこまで行っても妄想想像だぞ?
まあ君はそんな事も理解出来ない様だが。
881人間七七四年:2011/07/04(月) 12:38:36.28 ID:RXYiPzwT
>>880
その「精査」とやらが他人によるものならね
882人間七七四年:2011/07/04(月) 18:57:08.71 ID:jddVtIYZ
>>881
何言ってるのかさっぱりわからん。陰謀論か?w
883人間七七四年:2011/07/04(月) 19:44:01.76 ID:RXYiPzwT
>>882
あなたが自分に都合の良い「精査」を行っているねという話
884人間七七四年:2011/07/04(月) 22:08:00.31 ID:jdtsJfy+
>>846
タイトル名はまだなの?
>>872
稲葉家譜によると前日までに秀秋が東軍として動いてたとのことだが
すると奥平が当日に秀秋への説得に失敗して松田主馬によって奥平が立場を失ってる事情をわざわざ奥平家自らが捏造したとすると
その記述には奥平家にとって何の意義があったの?
なんで前日から東軍だった秀秋は
その日のうちに暗殺狙いまくってた大谷如きを討ち滅ぼして
佐和山への三成らの退路を遮断して大垣から関ヶ原に行くことが不可能になるようにしなかったの?
そうすれば家康が大垣を水攻めして簡単に勝利できたんじゃないの?
885人間七七四年:2011/07/04(月) 22:12:19.68 ID:jdtsJfy+
>>859
なんだよ作家が主張してただけか…
886人間七七四年:2011/07/04(月) 22:35:44.69 ID:jdtsJfy+
訂正
846じゃなくて>>864だったわ。
>>846
なかった証拠と言うが
あったとする傍証すら無いだろ。
当の狙われた小早川家にすらまったく無い。
887人間七七四年:2011/07/04(月) 23:18:59.82 ID:zV4B9vkn
>>885
三池氏ほどの論文を書く人間なんてなかなかいない。無知乙www
>>886
歴史論文の大先生の中井均氏が歴史群像という論文集のNo.105で
戦国の城:美濃松尾山城と言う論文を書いてるんだよバーカw

888人間七七四年:2011/07/05(火) 00:43:53.87 ID:+7zTjzDN
>>886
「なかった」証拠を出せ、ってのは君への皮肉しゃないのか?
889人間七七四年:2011/07/05(火) 00:44:08.71 ID:4f/0XKbH
中井均氏は織豊期城郭研究の第一人者だけど論文の大先生ではないけどな
歴史群像に論文なんて掲載されないけど、中井氏は松尾山城研究の縄張りや詳細の発表はしてるね
確か滋賀県の史学会の研究誌にあるはず

それと奥平家の意図がどーとかホザいてるけど、意図なんて様々あるし、どー捉えるかは勝手
それより稲葉家譜は反証もなく否定してるんのに、奥平家譜を史実認定した経緯の説明まだ?
勿論、一次史料や複数の史料で確認取れたんだろ?
大発見だなwww

ないなら、こいつはバカ決定w


あと
>当の狙われた小早川家にすらまったく無い。
これは何を指すのかkwsk
890人間七七四年:2011/07/05(火) 01:30:28.08 ID:rcWBMuMh
>>887
ちょっ歴史群像ってw
三池氏も中井氏も考古学の人間であり論文など書いてない。
また誰が作ったかわからない松尾山の遺構を見て
秀頼や輝元がそこに入る予定だったと書くなど妄想前提の話。
そもそも増田宛の三成書状でも輝元が
出陣しないのを尤もだと三成は12日に書いてる内容に反している。
>>889
>>884に書いている質問を無視して逆質問と言うのは答えられないからだよね。
稲葉と奥平の話は両立する内容ではないから・・・すると、君は稲葉家譜は事実。
奥平家譜はウソ。秀秋陣へ向けての狙撃もウソと言うことだね。
と言うことは朝に西軍伊藤を討って松尾山を占拠した小早川に対して
手勢の少ない大谷が終日に渡り何度となく東軍の秀秋に会談を申し込んで暗殺を企むが
稲葉が阻止し続けて関が原の勝利を呼びこんだということになるよね。
その割に戦後の稲葉が不遇すぎるのはおかしくないか?
それにさ、そもそも秀秋が前日から東軍であれば三成らの布陣が意味不明な自殺布陣だよね?
普通に考えて関が原前夜のうちに小早川を討ってるよね?
もちろん奥平家譜の否定であるなら当日の奥平や黒田長政の家臣大久保猪之助らの
秀秋への説得工作の否定&小早川への銃撃を否定してるのだから
正午になるまで逡巡していた秀秋の東軍への参加決断自体も否定しているわけだし。
その想定だと関が原当日になんで昼ごろまで小早川は西軍に攻め込まずに
グダグダやってたのか説明できない矛盾に満ちたストーリーだよね?
論理的に考えて奥平が書いてるのが事実で、稲葉の書いている話が正しいって結論になるんじゃないかね?
もちろん大谷が秀秋を暗殺しようとしてたと言う信じがたい荒唐無稽なネタが事実とする
一次史料か他家史料による傍証でもあれば別だが。そもそも稲葉と違って奥平にはウソを付く理由がない。
891人間七七四年:2011/07/05(火) 06:27:55.41 ID:4f/0XKbH
相変わらず捏造や嘘を塗り固めてるな〜w

准教授の中井氏が論文書いてない、しかも理由が考古学だからwww
「中井均」で検索かけてみろwいくらでも論文出てくるぞw


12日付増田宛三成書状も、輝元が謀反の噂があるから出馬しないのを尤もだとしているのであって、
松尾山には中国衆入れると書いてあり、この時点で該当するのは輝元の他にいない
輝元へは家康が来ていないから出馬しなくていいとあり、
松尾山城は家康が来た時の後詰の本陣予定だと遺構からも証明されてるし


>普通に考えて関が原前夜のうちに小早川を討ってるよね?
バカのゲーム脳と違い、普通に考えて夜間に城に立て篭もる8000の軍勢に襲い掛からないけどなw


>当日の奥平や黒田長政の家臣大久保猪之助らの
>秀秋への説得工作の否定&小早川への銃撃を否定
黒田家譜には奥平貞治の名前出てこないぞwww
秀秋本陣には大音六左衛門と大久保猪之助だけなんだけどw
さらっと嘘書くなよwどこに奥平貞治が説得工作したと書かれてるの?w


秀秋には黒田からの目付が派遣されて松尾山占拠、謀反理由に三成の大垣退去
秀秋が東軍足るに十分な理由だな


それで、一次史料や他家史料による傍証もない奥平家譜を真実とする理由は?w
お前が理由思い付かないからなんて、言い訳にも根拠にもならないよ〜w

散々家譜や軍記は二次史料以下だ、複数史料による何だと言ってたのに、
自分の都合悪いと事実とする論拠が「捏造する理由が思い付かないから(キリッ」
フイタわwww

892人間七七四年:2011/07/05(火) 11:20:24.51 ID:wXtr3EJc
>>891
中井は遺構研究者だろ嘘つくなw
しかも遺構から輝元や秀頼らの後詰め本陣と証明とか出典なしでデタラメ過ぎて笑えるw
遅くとも松尾山城は信長の時代には不破河内守が築城してる。
しかも輝元には大津攻略の元康の軍を派遣する時に
もうこれしか残ってないと書状に書いており手持ちの兵がまったく無いから輝元は大坂城から出陣してないだけの話。
淀や北政所の大津開城交渉が失敗したから
元康の軍が松尾山に入れなくなったから代わりに小早川を入れただけ。
三成が輝元が来ないのは尤もだと言ったのも赤坂の敵兵は急に戦闘すべき状況にはなく一方、我が軍の秀家や行長や義弘の士気が高いからだと言ってるわけだ。
事実、13日には義弘を慕って薩摩から70人がやってきて東軍と小競り合いやってる。
だいたい家康の西上の報くらい得た上での発言だろうし(家康はすでに10日に尾張熱田11日に尾張清洲にいて風邪をひいていて12日も動いてない)
家康自身も大垣水攻めを考えていて野戦に発展するとも考えられない。
家康は13日に丹羽と前田を和睦させる書状を出して、こちらに早く軍を率いてくるように動いてるし。
14日には三成や行長や吉継らが秀秋に関白を約した誓書を交わしていたとするわけで稲葉家譜と矛盾する。
893人間七七四年:2011/07/05(火) 12:26:50.32 ID:EjRazADc
>>892
西軍は家康が赤坂に旗を上げるまで気付かなかったのが定説だが
894人間七七四年:2011/07/05(火) 12:35:43.20 ID:4f/0XKbH
またまた嘘と根拠不明な話だらけw

>>892
>中井は遺構研究者
滋賀県立大学准教授の中井均氏は遺構研究もするけど何か?遺構研究すると論文書かないとでも?
何が嘘なのかな?また都合悪いのは答えず逃げるのかな?

>遅くとも松尾山城は信長の時代には不破河内守が築城してる
廃城になってたのを改築してたんですがw
中井氏が遺構調査しての結論

>しかも輝元には大津攻略の元康の軍を派遣する時に
>もうこれしか残ってないと書状に書いており手持ちの兵がまったく無いから輝元は大坂城から出陣してないだけの話。
おいおい、12日の三成書状を否定してどうすんの?w
三成は兵が全くない輝元に出陣要請してんの?三成はバカなの?www

>淀や北政所の大津開城交渉が失敗したから
>元康の軍が松尾山に入れなくなったから代わりに小早川を入れただけ。
また証明や根拠ない妄想ですかw

>三成が輝元が来ないのは尤もだと言ったのも赤坂の敵兵は急に戦闘すべき状況にはなく一方、我が軍の秀家や行長や義弘の士気が高いからだと言ってるわけだ。
三成書状には味方は疑心暗鬼は誰も信用出来ないとあるけど?www
これも根拠だせよw

>だいたい家康の西上の報くらい得た上での発言だろうし
12日の書状では、家康が来ていないのを前提としてる内容なんだけどw

>14日には三成や行長や吉継らが秀秋に関白を約した誓書を交わしていた
www
ちなみにこの上方二ヵ国と関白職を確約した誓紙の出典は?現物ないけどさw
895人間七七四年:2011/07/05(火) 12:50:01.40 ID:wXtr3EJc
>>893
そんなのまともに信じれる話じゃないだろ。
>>891
いやいや伊藤を討ち秀秋がはっきり敵だとしたら
秀秋が大谷らを討って佐和山への退路を断つはずだし
三成も秀秋のいる場所を戦場にするわけが無い。
あえて無謀にも関ヶ原を戦場にするなら、秀秋を関ヶ原当日まで放置することの方がおかしい。
つまり秀秋が伊藤は排除したと言うのは明らかな嘘。
三成が大垣から夜間に関ヶ原に移動した際に織田信高・伊藤盛正・岸田忠氏・秀頼配下の黄母衣衆・島・蒲生を率いて進軍していたわけだし。
それと平岡頼勝とは姻戚の縁で長政が人質交換を申し出た時に
頼勝は弟の資重と人質交換したのは吉田生季と大久保猪之助とされてるから
大音六左衛門も信憑性が疑問符だろう?
さらに長政と幼なじみで関ヶ原に領土を持つ竹中重門の配下が案内人で南畝源次と恵良盛重が派遣されただけ。
あと黒田家譜を持ち出して主張するなら
天元実記などと同様に家康の鉄砲隊と取次の藤堂を介して福島などが小早川陣に銃撃したのも事実だとお前は認めなくては矛盾することになるわけだが?
896人間七七四年:2011/07/05(火) 13:41:46.51 ID:Z6v99NdL
>>893
西軍が家康の西上をまったく知らないと言うことはない。
広家らに長政や如水らが盛んに家康の西上を報せて、はやく決断しないと
戦が始まり手遅れになると脅している。もっとも広家はシカトしてるが。
>>894
>>論文書かないとでも
いささか屁理屈を弄する癖があるね。
まぁいい。では>>864に書いてある該当論文の名を教えてくれ。
>>中井氏が遺構調査しての結論
だから該当論文お願いね。
>>三成は兵が全くない輝元に出陣要請してんの
むしろ大津攻めの毛利軍は兵が足らず13日書状において増田の手勢の高田小左衛門が
来援してきて大津城の外構えを破らんと言ってるわけだが。
別に三成がバカなわけではなく、毛利が戦下手で手間取ってるだけ。
そもそも大津が謀反する可能性は伏見城攻略時にも言われてて、
毛利軍が大津城に駐屯していたのに兵力不足で大津城の挙兵を封じられない失態を犯してる。
だから兵力の転用ができないので秀秋を入れたとするのは理にかなっている。
もっとも伊藤を秀秋が討って松尾山を占拠したとするなら、その理は崩れるが、
それなら三成は関が原前日の夜までにいろいろ手を打っているはずで、それをやらないのは自殺行為。
だいたい三成はいずれはこの城(大垣城)にも輝元の兵を入れるなど、
兵力に限りある毛利軍なのにどこでもかんでも毛利の兵を入れると言ってる。
それは三成の手勢が少ないからそう言ってるわけで、松尾山にしても毛利兵が足らないなら
現場でやりくりして秀秋を入れるのは不思議なことではない。
>>三成書状には味方は疑心暗鬼
君は読みが浅い。三成は人質を殺したりしないと自軍の味方もどうなるかわからない
だからそれを検討しろと言っているだけ。
12日書状において三成は秀家のこの戦の覚悟のほどを褒めたり
当表の儀は諸侍の心が揃わば敵陣など20日のうちに破れると言っており
島津もそれに同意していると書いており、人質をちゃんと殺すように改めろと言ってる。
>>家康が来ていないのを前提としてる内容なんだけど
家康が来た時に輝元を呼ぶ作戦が存在するなら、そもそも関が原で即日決戦しないだろ・・・

そもそも君がどの立場に立ってるのかも明確でない。
稲葉家譜を信じてるのか奥平家譜を信じてるのか
黒田家譜を信じてるのか、問鉄砲を信じてるのか
主張してることが無茶苦茶で論理が崩壊してる。
完全に私怨による、反対のための反対をしてるだけだから
ケチをつける内容が事実であろうが
間違ってあろうがどうでもよくて
とにかく何でも因縁つけて万年野党やってるだけで
立脚点が欠如しててバカ丸出し。
897人間七七四年:2011/07/05(火) 14:56:29.29 ID:EjRazADc
>>895
あなたの主観はそうなのでしょうね
>>896
吉川を西軍と評して良いものか
898人間七七四年:2011/07/05(火) 15:18:43.20 ID:4f/0XKbH
>>895-896
>つまり秀秋が伊藤は排除したと言うのは明らかな嘘
何がつまりなのかw「〜するはず」「訳がない」「おかしい」とか、お前の勝手な見解じゃねーかw
「〜という史料で〜と書いてあるから、その記述は間違い」と言うなら
ちゃんと話は聞くけど、どこの何が違うか史料提示しての反論じゃない文章はただの駄文

>大音六左衛門も信憑性が疑問符だろう?
黒田家譜持ち出したお前が疑問符つけるならいいんじゃね?w

>天元実記などと同様に家康の鉄砲隊と取次の藤堂を介して福島などが小早川陣に銃撃したのも事実だとお前は認めなくては矛盾することになるわけだが?
黒田家譜にどんなふうに書いてあるんですか?wwww
黒田家譜は福島勢が松尾山に向けて鉄砲を放ったとしか書かれてないけどw
是非「家康の鉄砲隊と取次の藤堂を介して福島などが小早川陣に銃撃」と証明できる一文書いてねw

>西軍が家康の西上をまったく知らないと言うことはない。
少なくとも三成は12日時点では知りませんでした
否定するなら反証どうぞ
「〜という史料で〜と書いてあるから、その記述は間違い」と言うなら
ちゃんと話は聞くけど、どこの何が違うか史料提示しての反論じゃない文章はただの駄文

ここきちんと読んでねw誰かのレスまんまだからwww

>いささか屁理屈を弄する癖があるね。 まぁいい。では>>864に書いてある該当論文の名を教えてくれ。
どこの何が屁理屈なんだよ?後、嘘って何が嘘なんだよ、はっきり書けよ 、お前よくても、俺納得しねぇぁw

>別に三成がバカなわけではなく、毛利が戦下手で手間取ってるだけ。
だから軍勢がいないとお前は言っている輝元にどうして三成は出陣要請してんの?
手間取ってるだけとか、今の話に関係ないんだが
>だから兵力の転用ができないので秀秋を入れたとするのは理にかなっている。
お前の狂ってる脳内シミュレーションで理に適うと言われてもw
趣味レーションじゃねーよ?w

「大津が謀反する可能性は伏見城攻略時にも言われ」「毛利軍が大津城に駐屯」これも根拠出してね〜w
お前は捏造・改竄・歪曲するからね〜w

>伊藤を秀秋が討って松尾山を占拠したとするなら
伊藤長門守を追い出したのは知ってるが、討ったって何?

>だいたい三成はいずれはこの城(大垣城)にも輝元の兵を入れるなど、
>兵力に限りある毛利軍なのにどこでもかんでも毛利の兵を入れると言ってる。
根拠出してね〜w

>三成は人質を殺したりしないと自軍の味方もどうなるかわからない だからそれを検討しろと言っているだけ。
検討しろとは?書状にはさっさと4〜5人殺せと書かれてるけどwこれも根拠出してね〜w

>当表の儀は諸侍の心が揃わば敵陣など20日のうちに破れると言っており
心が揃えばねwしかし現実は揃ってない、疑心暗鬼でどうなるかわからないと愚痴ってるんだよwww

>家康が来た時に輝元を呼ぶ作戦が存在するなら、そもそも関が原で即日決戦しないだろ・・・
関ヶ原即日決戦なんて想定外の結果だろ

>稲葉家譜を信じてるのか奥平家譜を信じてるのか 黒田家譜を信じてるのか、問鉄砲を信じてるのか
>主張してることが無茶苦茶で論理が崩壊してる。
当たり前だろ、一つの史料まんま鵜呑みなんてしないし、信頼性の低い資料でも全否定なんてしない
書かれてる事象一つ一つの真偽を確かめるのが史学の常道

それでお前は稲葉家譜は全否定、奥平家譜は全肯定なんだがw
ほんと、バカ丸出しだなw
899人間七七四年:2011/07/05(火) 15:28:15.77 ID:4f/0XKbH
>>897
7月の時点で毛利は徳川と交渉開始してる(黒田を介してね

黒田はもともと毛利の取次で吉川とも縁が深い
黒田が朝鮮征伐で失脚してからは三成が取次
この取次制度は関ヶ原に到るまでの対立構造がわかるから面白いね
900人間七七四年:2011/07/05(火) 15:28:22.32 ID:wXtr3EJc
>>897
いやいや普通に考えて敵の状況をまったく把握してないなんて有り得ない。
それに西軍が伏見城を攻略したのちの広家は完全に西軍側。
伏見城攻めに苦戦中の広家は長政や如水に自分から手紙を出してるが、
その後の如水や長政の東軍への勧誘の度重なる書状も無視していたので
伊勢安濃津城攻略している広家に長政が焦って返事来ないから8/25書状ではまた手紙を出したとまで言ってるがそれも無視。
長政に続き如水も9/3に広家に家康が西上と聞きますのであなたの判断が大事と言ってるがこれまた返事を出してない。
9/14に突然に長政らを経由し忠勝らに広家は起承文を出していて
返書に戦で抜きん出た軍功を挙げたら家康自筆の毛利領安堵書状出すとの返書が届いたので
広家が使者を出しさらに家康からの署名を欲したが長政らはもう出陣中だと追い立てた。
この広家の心理は家康への内通とされたが、
今では10/2広家宛長政書状・10/3広家宛長政書状・10/3正則長政宛広家が偽書状または後日作成とされ
広家が家康が勝つと思い毛利のために働き、広家への安堵を拒否して毛利本家のために弁明したのが嘘であるとしている。
そのために広家が内通を餌に関ヶ原に家康を誘い出した可能性もあるとされる。
結局、西軍が敗北したから広家は家康への内通を事実と為すべく輝元に嘘をつき続けていたとする。
その証拠に関ヶ原後に秀元は佐和山攻めなどに参加せず、
東軍から味方になれと命令されると「和睦の話など聞いてない」と言って大坂城に戻ってる。
901人間七七四年:2011/07/05(火) 15:43:54.70 ID:EjRazADc
>>900
吉川の立ち位置は置いといて、三成については書状から見える楽観主義から
最後まで家康の動向を把握していなかった可能性が高い
902人間七七四年:2011/07/05(火) 16:17:46.39 ID:wXtr3EJc
>>898
屁理屈だらけの駄文だらけで質問には一切答えないバカぶりだな。
つうか大津の話も知らんとかガチで関ヶ原を語る資格ないだろw
毛利軍が伏見攻略軍から分派され勢多譜請に行ったのは
7/22の輝元書状以降にたびたび出てくるし
細川家臣松井書状には
伏見いよいよ堅固に候〜大津宰相が内府様に御味方すると言うからこれを押さえ置く為に勢多をまかり通る旨
と毛利軍の動きが書かれてる。
この伏見城攻略苦戦の時期にしか広家は黒田に書状を出してない。
さらに瀬田譜請が完了後に伊勢へ派兵が始まり広家らは出撃するが、
8/8の輝元は先に兵を遣わしたから後は元康ばかりの儀に候。人数をそこ元に加えるのは無理と言っていて宗茂や秀包の到着を待っている。(立花隊到着は8月下旬)
8/3増田書状で大津城の加勢として毛利軍が三の丸にいるのがわかるし
大津城では則合合戦毎日これありとし
8/6には毛利の粟屋らが大津御番だと書いてあり、無人なので町に出た。元康が来るのを待つと言っている。
結局開城交渉が成立したようで輝元兵(元康)を遣わし城請け取るべき由とあるが
時間稼ぎだったようで元康が来ても開城されず戦闘はなおも継続されており元康隊(秀包や宗茂)や増田隊が到着してさらなる攻撃をしてるように
大津に関しては完全に毛利の失態。
8/6の開城約束後に元康らが大津に来援しうまく接収または攻略出来てれば
大津攻略軍がその後に松尾山に登る予定だったと考えても不思議じゃない。
903人間七七四年:2011/07/05(火) 16:47:25.05 ID:4f/0XKbH
屁理屈だらけの駄文だらけで質問には一切答えないバカぶりだなw
大津の話ぐらい、ある程度は知ってるわw


大津の話は必死で書いてるけど、その他は答えられないんでスルーですが、そーですかw
てか時系列ズレててワロタw


しょうがないよねw
御番所を大垣含む各城にしちゃうなど、色々と嘘や改竄や歪曲してるからねw
904人間七七四年:2011/07/05(火) 17:20:53.45 ID:Z6v99NdL
>>898>>903
黒田家譜を持ち出して主張するなら「天元実記などと同様に」
とその人は書いてあるように俺には見えるが?
なんで黒田家譜だけを指定して論点を誤魔化すんだw
小早川への銃撃を認めるのか、認めないのかと問われてるんだろう?
社会人でもダメ社員ってのは問われた事にちゃんと答えられないヤツに多い。
長政や如水→広家→輝元と家康の行動は報告されてると見るのが当たり前で
輝元から三成にも西上の話は当然伝わってるだろ。中仙道の秀忠の動きも真田経由で伝わってるだろうし。
毛利軍は伏見攻めの後に毛利勝信の豊前占拠や毛利元康の統括での四国への派兵、
豊後大友復興軍への支援や安濃津城への毛利軍の占拠などでもう底を尽いてた。
三成だって大坂にはすでに毛利軍がいないのは分かってるはず。
伊藤長門守を追い出したとすれば武力を背景にして力づくなんだから討ったってことだろうが。
それで伊藤が松尾山にいたとする論文はまだなの?
とにかくこの如く延々としていたら味方中も計り難くなってくるから御分別(人質殺せ)
と書いてあるように味方がすでに崩壊してるって意味じゃない。それに五三人は4〜5人って意味じゃねーんだけど。
この城にも輝元の人数を入れる御分別肝要。御分別をもって伊勢を始めとして太田・駒野と今度の城をなど
今度構えた城にも入れる。江州と濃州の境目の松尾城にも中国勢入れると書いてる。
また佐和山へも中国勢を入れるなど主要部分のほとんどに中国勢を入れると三成は言ってる。
>>一つの史料まんま鵜呑みなんてしないし、信頼性の低い資料でも全否定なんてしない
えっ?お前さ信憑性ゼロの「伊藤を討って松尾山を占拠した秀秋を見て
大谷が繰り返し暗殺にくるのを稲葉が排除した」話を鵜呑みにしておいて何言ってんの?
しかも奥平家譜と両立しない内容だと再三指摘してんだけど?そしたらお前は黒田家譜を持ち出すから
じゃあ小早川への銃撃は認めるのかと聞いているわけだが。
お前はいったい何が主張したいんだ?矛盾しまくってて破綻してんのお前の方だから。
そしたら立脚点を示さずに全否定、奥平家譜は全肯定とか誰もそんなことを主張してないのに
そうやって論点の誤魔化しを始めて逃げてるんだろうが。
そもそも大津攻防での毛利の動きも知らないでいい加減なレスを繰り返していたのが判明したな。
だからちょっと前の議論でもお前の認識不足すぎてまったく話が噛みあわなかったわけだ。
>>大津の話は必死で書いてるけど
無知を晒してて恥ずかしいよお前wwwお前まったく資料を提示せずに
ケチつけて屁理屈を書いてるだけじゃんwww
905人間七七四年:2011/07/05(火) 17:25:27.01 ID:wXtr3EJc
>>903
日付間違えただけだろ
もう揚げ足取りしかできないんだな…
つうかお前質問には一切解答しないんだな。
さんざん矛盾してる部分や
お前の想定だと〜になるんだが?って質問を完全黙殺とか。
そりゃあそうだよな。ケチつけてるだけで整合性を一切無視してんだから。
906人間七七四年:2011/07/05(火) 17:31:36.86 ID:Z6v99NdL
>>899
あぁ黒田と広家の書状の往来状況も知らずに
関が原へ至る状況をいい加減に書いてるな。
ほんとお前は認識が不足しすぎてる。
取次の話なんてわざわざ書かなくても先刻承知なんすけどwww
907人間七七四年:2011/07/05(火) 17:40:49.54 ID:wXtr3EJc
なんで稲葉家譜が主張するように東軍になった秀秋を大谷の暗殺から終日守りきって
翌日の権現様大勝利を演出した稲葉は関ヶ原後に冷遇され無職になっちゃうの?
ねぇ何で?おかしくない?
すると奥平や黒田が主張する関ヶ原当日の秀秋への説得は全て捏造ってことだよね?
なんで朝一番に秀秋は西軍を攻めてないの?
秀秋陣への銃撃が捏造なら黒田が嘘を書いてるの?
奥平が秀秋陣にいたのが捏造なら奥平は戦死してないってことなの?
ケチをつけてる内容を拾ってつなげると君の言ってることには終始まったく整合性ないんだけど?
全てに説明が要するんだけど?
908人間七七四年:2011/07/05(火) 17:43:26.20 ID:Z6v99NdL
小早川が伊藤長門守を追い出したのを事実としてる中井均氏の論文を出してくれればすぐ結論が出るんだから早く出せよ。
まさか歴史群像じゃないよな?
909人間七七四年:2011/07/05(火) 17:55:55.60 ID:Z6v99NdL
本性は伊達厨=そして上杉厨や上杉厨や最上厨を装う同一人物の私怨による粘着だって
判明したからついでに下記にも回答してくれよ。

小早川隆景 VS 直江兼続 1000レスまで毛利厨が泣きながら埋め逃げして次スレを立てないとかwww
結局、隆景の功績がまったく出せずに逃走だもんな。次スレ立てられないとか毛利厨って戦国板の中で最弱厨だな。
ウケたと言えばもう可哀想すぎて、あえて指摘しないであげたのが下記の自信満々のレス
>>785によると古代氏族系図集成によると松野家そのものは西美濃の出だし父松野平八からして秀吉配下で丹波三百石。
父死亡後に遺領を継承し羽柴秀俊の与力になり秀俊の小早川入りに従っていると
古代氏族系図集成は系譜史料の集大成のようなものでかなりの優れものな資料。
もちろんこの書に載っている系譜が完全に正しいというわけではないが江戸時代以前の系譜を確認するには
まずこの書を調べてみるのが早い。本だろうがwebだろうが、古代氏族系譜集成によれば○○家は・・・ 
という記述があればまずその系譜に間違いはないと考えるのが普通。それくらいの準一級資料。
こりゃあバカすぎだわ。そもそも古代氏族系図集成のどこに上記のレス内容が書かれているんだっていうwww
ではここに古代氏族系図集成の該当箇所を転記しておこう。 松野連 呉王夫差公子慶父忌後裔
牛慈→長堤(筑紫国夜須郡松峡野住)→大野→広石→津万呂(ここで松野連姓)→
(かなり長く面倒だから24代の名前は記入しない)→久親→種眞→(三代略)→主馬/仕小早川隆景※3
慶父忌以後、牛慈以前の系図は「百家系図稿」に卑弥呼や倭王を経る系図を参考史料に掲げている。
※3金吾中納言小早川秀秋の重臣に松野主馬首正重がおり、1万石を領していたが、関ヶ原役時に主人を諫めると言われる。
910人間七七四年:2011/07/05(火) 17:59:08.36 ID:Z6v99NdL
これしか書かれてないのに「松野家そのものは西美濃の出だし〜秀俊の小早川入りに従っている」
の文章の証明をしてることになってるんだから、もうチョンもビックリの捏造王ぶりだよw
しかもこの書は平安時代までをメインにしてるもんなのも知らないんだからw
>>系譜に間違いはないと考えるのが普通←もうね複数系図まで掲げてるのも知らずに何言ってんだかっていう。
いまだに論争あるし、関係各所の子孫達からクレームくるぞwアホ毛利厨のことは置いておいて、
ここで注目なのは主馬が隆景に仕えていたと記していること。主馬の親どころか三代不明なこと。
またその主馬と松野主馬首正重が同一人物だと認めてはいない。あくまで参考として言及してるに過ぎない。
まったく関係なし、嗣子断絶回避のため養子として入り継いだなどいろいろな考え方もある。
いきなり同一人物と考えるのはまったくおかしい。
まぁおれとしては、三原へ行く隆景と別れて秀秋についていった村上景親 清水景治 日野景幸らが
隆景から景の名までもらっているほど信任されているってことだよ。
古代氏族系図集成を見たこともないアホ毛利厨がシッタカ大ウソを恥ずかしくもなくやってました。
要約するとデタラメなWIKIの内容を丸パクりしてそのソースになぜか自信満々に古代氏族系図集成の名前を出し
見事にデタラメがバレると言う戦国板史上最大の低脳アホバカぶりです。
911人間七七四年:2011/07/05(火) 18:15:45.47 ID:Z6v99NdL
>>903
なんのこと言ってんのかわからんかったが、なんだよまた屁理屈か。

何れ之城之傅々にも輝元御人数入被置候御分別肝要に候

いずれこの城(大垣城)
いずれの城(すべての城)

くだらねーw大局に別段影響ないから、どちらの解釈でも別にいいわw
つうか後者の解釈ならよほどお前のケチつけてる点が不利になるだけなんだかw
912人間七七四年:2011/07/05(火) 18:18:02.61 ID:4f/0XKbH
いつものID使い訳されてもなw
電波発してないで要約してくれねーかね?w
内容なくて無駄に長くて困るんだけどw
913人間七七四年:2011/07/05(火) 18:19:01.06 ID:Z6v99NdL
>>912
hahahahawww
914人間七七四年:2011/07/05(火) 18:31:18.14 ID:4f/0XKbH
このスレ見れば一目瞭然だけどなw
915丁ο児 ◆Kd2TSsZIFU11 :2011/07/05(火) 21:07:26.38 ID:SWvi6ilI
毛利厨などと表現する時点で、毛利の偉大さに嫉妬しているとしかおもえない。
916人間七七四年:2011/07/05(火) 21:49:03.39 ID:Hkm8EOK8
本人は本気で自演がバレていないと思ってるので、
そっとしてあげてください。
917人間七七四年:2011/07/05(火) 22:41:37.31 ID:wXtr3EJc
可哀想に…自演と思い込まないと自我崩壊すんだろうな。
918人間七七四年:2011/07/05(火) 23:03:15.46 ID:lOf+Dqjy
中井均「古城をゆく松尾山城」(『本郷』88号、2010年発行)
919人間七七四年:2011/07/06(水) 00:54:36.96 ID:Pk4g7BU7
こんな過疎板でID真っ赤にして罵り合ってる時点でどっちもお里が知れるなw
もっと仲良くまったり語れんのか
920人間七七四年:2011/07/06(水) 11:29:19.87 ID:sy8RmdmD
本郷94
古城をゆく…
多くの歴史ファンを魅了してやまない「城」をテーマに、
現地に精通した 筆者が、皆様を日本各地に残る中世城郭の世界へといざないます。
本誌を片手に古城めぐりはいかがですか?
古城をゆく 置塩城 中井 均
その内容は歴史群像とほぼ同内容です。
921人間七七四年:2011/07/06(水) 11:55:54.57 ID:WhNDXXSb
あぁ一年購読6回配本1000円(消費税・送料含む)のやつね。
922人間七七四年:2011/07/06(水) 12:25:30.48 ID:2fPNG2Ks
10年以上も昔に発表された論説の表題覚えてないだろ
923人間七七四年:2011/07/07(木) 11:18:10.36 ID:iWoauWQY
>>921
いくら安くてもそれは読む価値があまりない。
高いが同社の日本歴史の方を買った方がいい。
924人間七七四年:2011/07/07(木) 13:13:08.23 ID:ILwCUxWn
本郷の該当記事は城のエッセイ集レベルのようだな。
書店に置いてあれば無料でもらえる出版社のPR誌って書いてある。

ttp://blogs.yahoo.co.jp/joukakukenkyuu/28838145.html
925人間七七四年:2011/07/09(土) 08:07:07.32 ID:p+WD1Ggk
このスレでは上杉を新豊臣公儀(三成派)とみなしているが、俺には疑問だ。
上杉は、家康に難癖つけられたと喚くが、越後での国人一揆の件や、上杉討伐軍が反転後
に開始した最上討伐の件を見ても明らかなように、豊臣公儀への反逆姿勢は明らかだ。
なにせ惣無事令を五大老ともあろうものが、平然と破っているのだからな。
三成が結成した新豊臣公儀が機能しだした時点で上杉は新豊臣公儀派だっての詭弁に過ぎない。
なぜなら、関東に侵攻して宇都宮以北を占拠するなり、佐竹と連合して徳川領を荒らしまわるなどの
新豊臣公儀派として、なすべき義務を果たしていない。
この点については、新豊臣公儀派の方はどう考えているのかな?
926人間七七四年:2011/07/09(土) 09:38:10.59 ID:mFyKJihn
三成による公儀自体も、惣無事令に違反して成立してるし、
違反者同士で別に問題ない。
927人間七七四年:2011/07/09(土) 10:16:26.80 ID:AecqXy6Z
最上侵攻は最上領占拠が目的ではなく、豊臣公儀の東国取締役として、
逆賊討伐に諸将を従えるためであり私戦ではない。最上が様子見をし
たので軍事力で屈服させる必要があった。
庄内と会津をつなぐためとか、庄内攻撃の報復といった説は米沢や福
島の研究者の間では下火になっている
928人間七七四年:2011/07/09(土) 11:13:03.14 ID:HSy5TWpg
秀吉の死で豊臣政権の統制力が劣化し世の中は戦モードになってるのに、
惣無事令も糞もないんだが
929人間七七四年:2011/07/09(土) 11:36:00.41 ID:/wW1oDve
>>927
お前は本当に息をするように嘘を吐くなw

どこの研究者だ?具体的に名前と論文を出せ
930人間七七四年:2011/07/09(土) 11:38:59.62 ID:oKH5W0QW
その論法だと、秀吉死後のあらゆる違法行為は問題なし、だね
931人間七七四年:2011/07/09(土) 11:43:15.79 ID:AecqXy6Z
>>929
まずは嘘だと確定した俺の発言をあげてくれ
932人間七七四年:2011/07/09(土) 11:48:03.39 ID:mFyKJihn
最上を逆賊とする根拠は?
933人間七七四年:2011/07/09(土) 12:02:52.43 ID:p+WD1Ggk
>>927

>最上侵攻は最上領占拠が目的ではなく、豊臣公儀の東国取締役として、
>逆賊討伐に諸将を従えるためであり私戦ではない。最上が様子見をし
>たので軍事力で屈服させる必要があった。

この論法でいけば白石城を落とした伊達こそ、反逆者だろう。
和睦の話が進んでいたからという説もあるが、明確に東国取次にして
五大老である上杉を攻撃した伊達を屠るのが筋ってもんだ。

934人間七七四年:2011/07/09(土) 12:30:43.99 ID:/wW1oDve
>>933
お前の勝手な論法で勝手に納得されても困るんだがw

どういう研究者がどういう論文でどのように主張しているのか言えっつってんだよ
935人間七七四年:2011/07/09(土) 13:06:46.85 ID:AecqXy6Z
>>934
結局subだと勘違いして嘘つき呼ばわりしただけかな。
936人間七七四年:2011/07/09(土) 13:38:16.15 ID:AecqXy6Z
>>932
最上は逆賊ではなく、家康を討つための関東出陣を最上が「慮外に様子見」
しているので軍を出すことになった。
937人間七七四年:2011/07/09(土) 16:35:13.29 ID:Excj03XF
はじめまして、おじゃまします。
「北政所・西軍派説(三成擁護説)」って、どの程度支持されているのでしょうか?
大河ドラマ板で、この説を2回見かけたので質問します。
戦国板的に、尾張ねね派vs近江淀派って古いのでしょうか?
その人いわく「既に通説化」しているそうで、論拠がうぃき(笑)なのがちょっと眉唾なんですが。
938人間七七四年:2011/07/09(土) 18:25:05.65 ID:/wW1oDve
>>937
> 「北政所・西軍派説(三成擁護説)」って、どの程度支持されているのでしょうか?
はっきりいって憶測でしか無い。
「こういう考えもできるかな、程度のものだと認識した方がいい

まあ支持も何も、関ケ原当時北政所はすでに、そういう影響力はほぼ失っていたと
考えたほうがいいと思う。

> 戦国板的に、尾張ねね派vs近江淀派って古いのでしょうか?
古いというか、ありえない。ほぼ否定された説だと考えていい。
ちなみに近江出身の武将が秀吉の側室のうち「旧主の血筋」として尊重していたのは
京極竜子の方。
939人間七七四年:2011/07/09(土) 21:15:08.82 ID:7H6KY534
>>938
ありがとうございました。
>京極竜子の方。
北政所の説明は簡単に納得できましたが
(孝蔵主・浅野・前田の動向)(東西謀略の草刈場になったんだろうなあ)
竜子さんは想定外で宿題にします。
940人間七七四年:2011/07/09(土) 21:26:40.46 ID:LWDgQ0cq
まあもともと京極の国だからねえ近江
941人間七七四年:2011/07/09(土) 21:30:43.69 ID:fL57FoY7
>>929
「政宗や奥羽諸将を関東出兵に動員しようとしたことから、家康との武力衝突に向けた
 兵力確保のために奥羽の領主を統率下に置くことを景勝は目指していたとみられます。
 最上出兵は、その中で態度が明確でない義光を服属させるためであったと考えます。
 この奥羽諸将の従属化は豊臣秀頼に対する忠誠に基づいて進められていることから、
 豊臣政権の全国支配の一環としての活動であったとみられます」
                   『直江兼続人と時代』(米沢上杉文化振興財団2010)
「上杉領の庄内と長井が最上領によって分断されているため、この解消を狙ったのだと
 する説がかなり有力視されてきました。しかし、同時代史料を検討するかぎり、領土
 拡張が目的だったのではなく、(関東出兵に従軍させるため)最上氏の威圧を意図し
 ていたことが明らかです」  『直江兼続と関ヶ原』(福島県文化振興事業団2011)
942人間七七四年:2011/07/09(土) 21:32:40.08 ID:7H6KY534
佐々木道誉の国だろ!(とボケてみる)
943人間七七四年:2011/07/09(土) 21:46:35.81 ID:c798V0Hi
>>941
豊臣公儀としての活動である事が立証出来ていない。
944人間七七四年:2011/07/09(土) 21:53:01.66 ID:fL57FoY7
>>943
「奥口和睦の儀は、両使が相談して成立しそうだ。何度も言っているように不満なところは
 あるだろうが、天下へ奉公と思い、(伊達に奪われた)白石などのことには構うことなく、
 公儀さえよければ和睦をまとめるのがいい」
945人間七七四年:2011/07/09(土) 21:59:20.29 ID:fL57FoY7
9月3日付本庄繁長宛て直江兼続覚
946人間七七四年:2011/07/09(土) 22:01:48.71 ID:c798V0Hi
>>944
その原文をもって、豊臣公儀の活動足り得るとは思えないのだが?
説明をお願いしたい。
947人間七七四年:2011/07/09(土) 22:14:52.78 ID:fL57FoY7
>>946
8月25日4奉行2大老宛て上杉景勝書状
「すぐに関東表に出兵すべきところですが、最上・伊達が見合わせており、思いがけない
 状況になっております。こちらの手当てが終われば関東へ攻撃を行います」
「南部、仙北、由利の諸将は、秀頼様に御奉公申し上げるとこちらへ使者を送ってきています」
最上を屈服させることは奉行大老に求められている関東出兵の前提条件。東北の諸将も、上杉が
東国のまとめだと認識している。本庄宛直江覚では天下への奉公と思って白石城を奪われたこと
は忘れて、公儀が許せば伊達との和睦を速やかにまとめるよう命じている。

君が最上攻めの目的をなんだと考えているのか分からないので何とも言えないが、反論する以上、
違う考えなのだろう。史料に基づいて説明してくれ。
948人間七七四年:2011/07/09(土) 22:26:49.94 ID:c798V0Hi
上杉目線で秀頼様云々言ってる事のみをもって、
豊臣公儀の活動と断じるのは、公正を欠くのでは?と思っただけ。
さんざん既出だが、西軍側が公儀として正統かどうかも甚だ疑問だしね。

別に議論がしたいわけじゃない。納得出来れば感謝の意とともに消えるよ。
949人間七七四年:2011/07/09(土) 22:44:54.18 ID:fL57FoY7
>>948
>>925の「越後での国人一揆の件や、上杉討伐軍が反転後に開始した最上討伐の件を見ても明らかなように、
豊臣公儀への反逆姿勢は明らかだ」という見解に対して、豊臣政権の東国仕置き役としての行動だと述べた
までで、西軍の正当性云々は論じていないよ。ちなみに越後一揆は家康反転後、越後の諸将が上杉に通じた
ことにより、沈静化している。

疑問に思うのは構わないが、正当性の話に戻るなら、いろいろ出された公儀政権に関する史料への反論が
一切なされていないからね。
950人間七七四年:2011/07/09(土) 22:53:29.58 ID:c798V0Hi
>>949
あくまで、>>925への反論に留まる話であり、
豊臣公儀の活動として事実か否か、には関知しないという事ね。

であれば、これ以上は無益なのでもう結構ですわ。

正統性の話に戻るなら、西軍成立過程の非合法性を覆せていないからね。
951人間七七四年:2011/07/09(土) 23:03:18.83 ID:fL57FoY7
歴史上の政治的正当性を語るのに、もとは武力蜂起だから認めないというのは
個人的趣味でしかないでしょう。秀頼が書状で非難しているとかなら別だけど、
史料で語らないのなら「自分はこう思う」の域は出ないからね。
952人間七七四年:2011/07/09(土) 23:14:30.24 ID:c798V0Hi
三成の挙兵が非合法なのは事実。
個人的趣味(?)は一切交えていない。
953人間七七四年:2011/07/09(土) 23:25:27.25 ID:GMnhsUpp
事実なんて言葉を歴史論争で出すなよ
途端にうさんくさくなるから
954人間七七四年:2011/07/10(日) 00:16:39.36 ID:WJ+7bbyZ
歴史上多くの覇者が武力で政権を勝ち取っているのに、それを否定したら・・・。
955人間七七四年:2011/07/10(日) 00:29:56.06 ID:OoOuSktl
それは否定しないよ。個人的趣味(?)の話であれば。

956人間七七四年:2011/07/10(日) 07:46:38.73 ID:39ceWpUT
>>937
北政所の一族の大半が西軍として動いてたよ。木下家なんてもろ西軍だし
957人間七七四年:2011/07/10(日) 14:53:52.16 ID:9Uno5LPh
北政所自体、家康に付いた連中より宇喜田とか西軍の連中と親しかったとも言うね
958人間七七四年:2011/07/10(日) 17:54:36.04 ID:NotbLPH6
北政所自体がどうしようとも武断派の連中なんて平気で自分達は北政所のために戦っているなんて書状を出してるからな
北政所はあくまで自分達に都合よく利用するための道具であって
彼女自身の行動や考えなんてどうでもいいものでしかない
959人間七七四年:2011/07/12(火) 08:57:30.16 ID:i/IYVuuN
三成決起により越後口や山形口など会津征伐軍が瓦解して以降
一次史料において家康は一度たりとも秀頼のためとか豊臣のためなどと主張したことは無い。
家康個人への忠誠を喜ぶ書状の往来しかない。

三成を除こうとする豊臣恩顧武将らと家康は利用し合う関係でしかない。
家康が豊臣家のためをスローガンに三成と戦ったと言う一次史料を出してもらいたい
960人間七七四年:2011/07/12(火) 12:32:03.46 ID:WOupheK/
家康が自分のために関ヶ原を戦ったのは当たり前の話じゃないの?
何を言いたいのか、全くわからん。
961人間七七四年:2011/07/12(火) 14:29:18.46 ID:Pzfe9+k2
専横した家康は徒党を組んで私兵軍団を形成し
他の大老を政権から排除しまくり
最後の仕上げとして豊臣政権を滅ぼすつもりで
上杉征伐へ向かった。
三成が豊臣のために蜂起するや
「どうせあいつに協力するやつなんていねーから佐和山城を出ても大津城で足止めされるだけだし、伏見城までたどり着くのも無理だろw」と思っていた。
しかし淀や奉行に騙された家康は伏見や大津の防衛指示を出さずに楽観ししていたら
その間に毛利や宇喜多や他の奉行らも味方について豊臣を守る戦いを開始。
そして大津も伏見を奪い取られ自体は急転直下で家康が江戸で引きこもり。
豊臣恩顧の武断派は三成を討ちに岐阜城まで落として
家康に「三成や秀家どもを大垣城に包囲した」の報を聞いて
あいつら俺を裏切りそうにないどころか
あいつらだけで三成討っちまって戦闘終結しちゃいそうじゃんと危機感。
「お前ら俺が行くまで戦いを止めて待っててくれ」と家康は慌てる。
関が原で秀忠が間に合わず、豊臣恩顧武断派が大活躍して戦いは終結。
豊臣恩顧武断派は三成を討ってスッキリした顔で
秀頼らに豊臣のために奸臣を除いたと開き直り
結局、家康は豊臣を滅ぼすことができず
武断派に大加増させて豊臣のためと称するしかなくなった。
962人間七七四年:2011/07/12(火) 14:40:57.51 ID:s5OmhJgm
要するに家康は秀頼のためとか豊臣のためなどと主張せず
三成を殺して恩賞ばら撒くから俺に忠誠を誓えと言って勝ったんだよ
家康が勝利するために豊臣への忠誠を口にする必要はないし
関ヶ原に豊臣家は直接的には関係ないことは明らかだということ
963人間七七四年:2011/07/12(火) 14:41:16.61 ID:VPOPRtpE
毎度の妄想ストーリーお疲れ様です
964人間七七四年:2011/07/12(火) 15:34:11.80 ID:Pzfe9+k2
いや豊臣家は西軍側だろ。
じゃなきゃ大津城開城交渉をして
大津に釘付けの攻城軍の手助けをするわけがない。
そもそも三成挙兵を家康へ通報した淀らは大坂城は家康支持とウソを書いてて
その情報から事態を過少評価し楽観視した家康は西軍が攻撃を開始した伏見城からの注進を聞いても
なんら無策なまま放置してしまい
家康支持だった大津城まで屈してしまい
伊勢や美濃への侵攻を招いてしまった。
965人間七七四年:2011/07/12(火) 17:27:15.61 ID:zwzPUPHr
>>964
家康が東北に出した手紙を根拠にしているのなら、あれはどうみても家康のごまかし
966人間七七四年:2011/07/12(火) 19:54:00.17 ID:7Fsu9cs6
>>964
おいおい、豊臣家は政権首長の家だぞ。
その旗幟を傍証で判定するとかナンセンス過ぎる。
967人間七七四年:2011/07/12(火) 20:44:23.77 ID:i/IYVuuN
>>965
ごまかしとするソースは?
>>966
どこがナンセンスなんだかわからんし
淀まで動いてるんだからハッキリしてる。
968人間七七四年:2011/07/12(火) 21:15:44.15 ID:1pGo3n9K
>>967
淀は義弟の高次を助けるのに協力したに過ぎないんじゃない
そもそも豊臣家が西軍側についたなら高次が東軍につくはずもないし
969人間七七四年:2011/07/12(火) 21:41:25.28 ID:7Fsu9cs6
>>967
豊臣家が何れかに与した場合、もう関ヶ原の主体になる話だよ?
落城寸前の大津城調停交渉など、豊臣家が西軍足り得る十分条件には程遠い。

豊臣家が明らかに西軍であり、且つ東軍を敵とする主体的な証跡を示さんと。
970人間七七四年:2011/07/12(火) 21:41:31.22 ID:zwzPUPHr
>>967
家康が東北の大名に出した手紙には敵は石田と大谷のみとしているが、
それ以前の宇都宮にいた細川忠興の手紙には輝元が西軍であるとする記述がある
当時、江戸にいた家康は宇都宮まで一里飛脚を置いており、この上方は家康発ということになる
つまり、少なくとも家康は石田と大谷のみが敵でないと認識していた事になる
971人間七七四年:2011/07/13(水) 08:27:57.97 ID:TsCf08Rs
吉川が毛利は関係ないなどと書状を送っていることもあり、毛利が三成に加担したか
どうか疑わしかったんだと思うが、ごまかしの書状だったとしても「毛利が西軍につ
いた」なんて言えなかったということは重大なことだよ。
何より奉行衆の離反も含めて大坂と伏見を失ったのだから、規模を甘く見ていたことに
変わりはないと思う。

>>969
大津城の交渉以外にもすでにこのスレで史料がたくさん出ている。
972人間七七四年:2011/07/13(水) 09:24:35.42 ID:+SVzcc75
>>971
吉川の書状はかなり後に出されている

そう、やばい情報だから誤魔化したと言える
書状に事実のみを書くのは馬鹿な奴だけ
本当に重要な情報は使者に口伝えするし

当初の規模を誤ったのは同感
973人間七七四年:2011/07/13(水) 12:56:50.06 ID:R33cHvjd
>>968>>969
>>753>>776>>782
淀の側近の秀頼の乳母だった大蔵卿の息子の大野治長は
家康暗殺事件の首謀者の一人で遠国下総流罪で家康監視下に置かれ大蔵卿は怒ってただろうし
そもそも北政所の側近の吉継の母東殿は秀家の戦勝祈願に出席してるし
その北政所の使者の孝蔵主と協力して開城交渉してるので
淀の個人的憐憫の情で義弟を助けようとするなんて成立しない。
むしろ初を利用して大津城を早期に開城しようとしただけ。
そもそも大坂方が三成に組みしてなければ
北政所側近の孝蔵主が罪に問われないように祈祷したりしないだろう?
ゴキブリ毛利君は相手の意見を貶すだけで
いまだに大坂方が家康方もしくは中立であるソースを出してこないわけだが?
そもそもどのスタンスなのかすら明確にしてない糞っぷり。
そりゃそうだ、ゴキは私怨で絡んでケチをつけてるだけのクズ粘着だからwww
>>970
はいはい無知乙。
7/12 この時点ですでに三奉行が輝元の大坂入りを願った書状を出している。
7/13・7/14の吉川や熊谷や宍戸の書状は吉川が言い訳するために関が原後に作った偽書状。
7/21細川忠興書状では「石田と輝元が申し談じて立つと追々言ってきた。かねて申してきた」
上記のように書いており、細川の話を家康がほとんど聞き流している事実がわかる。
そして楽観論に浸っている家康の判断を誤らせた原因が
7/27付の榊原→安東宛の書状に触れられて出ている
「石田・大谷が謀反したと淀と三奉行が言ってきている」の内容から。
この文章内容は7/23家康から最上に宛てた書状でも大坂仕置堅固だし三奉行の書状を添付するとして出てくる。
つまり家康は淀や三奉行に騙されてて大坂城・伏見城・大津城を三成に奪われて
佐和山城への連結完成まで、なんら有効な策を打たなかった。
さらに7/22秀忠→滝川でも、会津征伐のため父は昨日出陣、
私は19日出陣し古河まで来ました。雑沙汰があるようですが
大坂奉行達が仰せ談じたことは大したことでは無いようです。
と完全に過少評価し会津征伐を予定通りにやろうとしている。
三成や大谷の侵攻に対して反応するのは7/26に京極へ家康が出した
上洛するから堅固にするのが肝要との書状を遅ればせながら出すあたり。
しかしそれでも7/26家康→堀宛において
石田と大谷の逆心だと認識していて会津の仕置を固く申し付けたら上洛すると言っている。
そして家康は進軍を続けて7/28家康→葦名宛で小山に在陣していると伝えている。
7/29家康→黒田において、ついに大坂奉行衆別心の情報が来たと書い
同日に最上にも上方奉行衆の反逆を告げて会津征伐の中止を命令してる。
>>972
同感だと・・・?真逆の意見を吐いてたくせに
また他人の意見にタダ乗りして自分の意見のように言い出すんだゴキブリ毛利くんwww
しかもいつものように妄想を付け加えることも忘れないwww
「やばい情報だから誤魔化した」とかしっかりデタラメ付きでwww
974人間七七四年:2011/07/13(水) 13:01:51.43 ID:R33cHvjd
しかしゴキは京極や堀を東北の大名だと思ってる時点でアホ過ぎだな。
腹を抱えてワロタよwww
975人間七七四年:2011/07/13(水) 14:38:04.40 ID:s+aznKgg
前田利政が指揮してた秀頼奉公衆や
秀頼配下の黄衣衆が
伊藤や織田や岸田らと一緒に三成騎下で
大垣城から関ヶ原に夜間進軍してるんだから
豊臣が西軍なのは明白じゃないか。
976人間七七四年:2011/07/13(水) 14:56:38.25 ID:s+aznKgg
>>958
秀秋Wikiにもそれの原文が現存すると堂々と書いてあるんだが
その書状を見たこと無いから原文を教えてもらえると助かる。
977人間七七四年:2011/07/13(水) 15:11:21.15 ID:s+aznKgg
>>960
今までは家康は謀反人じゃ無いと主張してきたはずでは…いきなり他人の意見をパクって開き直り?
では、家康が自分のためだとあなたが認め始めたのなら
やっぱり家康が豊臣の敵だったってことを自分で認識してるんじゃねぇか…
あんたは論破されると他人の意見をパクって開き直るから
支離滅裂で何を主張したいのかさっぱり理解し難い発言が多すぎる。
978人間七七四年:2011/07/13(水) 15:18:55.12 ID:I6Bsg/Zl
何連投だ
979人間七七四年:2011/07/13(水) 15:32:26.03 ID:+SVzcc75
>>973
いつも長文かいて喚いても、誰も読んでくれないよ
980人間七七四年:2011/07/13(水) 16:44:50.74 ID:IF8uPCBN
>>973
3行で
981人間七七四年:2011/07/13(水) 18:40:35.76 ID:0w1kM8c8
↑次スレよろしく
982人間七七四年:2011/07/13(水) 19:09:48.79 ID:Z6VvRIqn
>>973
むにゃむにゃ長文で誤魔化してるだけ
中身は妄想ばかり
983人間七七四年:2011/07/13(水) 21:42:38.78 ID:TsCf08Rs
>>872
実際には出されなかったのではと指摘する見解もあるが、7月14日付の吉川書状などがある。

subは自演連投長文中傷ばかりで本当に困ったやつではあるが、ここで敵対する人たちはその内容自体には反論できていない。
984人間七七四年:2011/07/13(水) 22:02:20.80 ID:StnSxD1G
毛利は吉川さんも含めて、伊勢でそれなりにイケイケなんだけどね。
どっちかっていうと、毛利以外が動きが鈍いとか。
毛利が動きがおかしくなるのは、伊勢で家康の返答貰ってからというよりも、岐阜城落ちてからなので、
状況証拠的には(吉川も含めて)、西軍で関ヶ原寝返り組みに近いと思ふ。
985人間七七四年:2011/07/13(水) 22:05:30.84 ID:Z6VvRIqn
例えば>>973

>大蔵卿は怒ってただろうし

豊臣家が西軍である根拠にこんな事言われても困っちゃうよ。
986人間七七四年:2011/07/13(水) 22:17:02.61 ID:s+aznKgg
>>984
伊勢で黒田親子からそれぞれ貰った書状を吉川は完全に無視してるし
岐阜城が落ちても毛利の動きは全然おかしくなってないよ。
>>985
たったそこ1つだけ切り抜いても全体に対する反論にすらならないよ。
例えばも何もまったく反論不能なんでしょ?
987人間七七四年:2011/07/13(水) 22:23:01.13 ID:s+aznKgg
>>983
実際に広家本人が
これはあくまで書状案であり
実際には出してないと書いてるよ。
988人間七七四年:2011/07/13(水) 22:37:31.43 ID:TsCf08Rs
>>985
subの論は大げさだが、そんなどうでもいい部分を否定してもどうにもならんよ。

>>987
subも参考にしている光成氏も、益田らが通報に関わった可能性は指摘しているな。
いずれにしても家康は毛利らの加担に関するうわさは聞いていても、父兄の契りを交わしていたし、
淀や奉行衆の通報に毛利は入っていなかった、益田らの通報があった、などどこかに否定材料がある
ため確信が持てなかったと考えるべきだろう。
毛利は帰国していたわけだし。
989人間七七四年:2011/07/13(水) 22:46:46.80 ID:Z6VvRIqn
どうでもよくないっしょw

だって、豊臣家の西軍根拠として挙げてるんだよ?
話の根幹じゃん。全体どうこうって話じゃないってww
990人間七七四年:2011/07/13(水) 22:59:06.72 ID:s+aznKgg
>>989
他人の意見にケチを付けるバカっぷりを相変わらず晒してるだけのくだらんヤツだな。
反論するならお前の対論を根拠付きで明示しろと過去に何十回言われてるんだ?
お前は豊臣が中立だと言いたいのか?
その根拠は?
それとも豊臣は家康派だと言いたいのか?
その根拠は?
いまだにそれすら書かずに中傷してるだけなのがお前も致命的真性バカなところだ。
991人間七七四年:2011/07/13(水) 23:08:08.60 ID:Z6VvRIqn
ここは2ch。
おバカな主張を指摘したって構わんだろ?
指摘されるのが怖いなら、書き込まないこった。

何も言ってないのに、こちらの主張を作り上げる辺りも、
妄想力が豊かだねぇ。
992人間七七四年:2011/07/13(水) 23:14:09.39 ID:TsCf08Rs
>>989
大蔵卿が怒ったってのは豊臣家が西軍だというよりは、北政所が西軍よりだという
話をしたかったんじゃないのか。subは。
今まで出された根拠の中ではどうでもいい部分であることには変わりない。
993人間七七四年:2011/07/13(水) 23:23:54.03 ID:s+aznKgg
>>991
なんだ自分の意見がまったく無い
私怨でケチをつける事が目的化しただけのキチガイか。
994人間七七四年:2011/07/13(水) 23:54:44.76 ID:SqSu4AlT
独裁者豊臣秀吉と5大軍閥の連合政権に変質した豊臣公儀が、秀吉の死後分裂し、
最大軍閥の長、徳川家康と新興軍閥(福島、黒田、細川等)連合vs三大軍閥と豊臣公儀連合
という形でぶつかった結果が関ヶ原だな。
995人間七七四年:2011/07/14(木) 00:10:42.24 ID:9zcmEpyB
>>994
あんた頭は大丈夫か?
996人間七七四年:2011/07/14(木) 02:13:59.54 ID:M3fNvjp/
>>896
伊勢にいた西軍諸将が9/10頃に南宮山に着陣したが
9/12益田書状において「今朝内府御人数着くまで」と書かれており
伊勢から南宮山への着陣が家康西上に対応したものだと光成氏が指摘してる。
よって伊勢から関が原へ軍が転進した行動は家康西上を知っていた三成の指示。

>>973
吉川が伏見城攻撃で苦戦してる戦況下で保険に走った際の書状を読んだ
家康の8/8長政宛書状に至っても
輝元兄弟の如く申し合わせて候間 不審に存じ候ところ 御存知なき儀どもの由
などと言っているのが家康だからね。
これを受けて長政が吉川に出した書状は、
すでに8月1日伏見城を落城させて強気に転じた吉川に完全無視されることになる。
そういう意味では家康が大坂方の大蜂起を初期において過少評価し、
伏見城の近隣親徳川の大名へ書状で援軍要請を早期に命じていたら伏見城が落ちずに
毛利が家康との早期講和へ傾いていた可能性が高い。
関が原前日に突如今まで散々シカトしていた長政に対して広家は内通を申し出て
翌日の関が原の戦いを誘発させるのに成功。秀忠率いる徳川本隊が到着前に戦闘を開始させる。
このため広家の突如の内通の真意は謀略なのか内通なのかまったく不明。
997人間七七四年:2011/07/14(木) 08:48:01.17 ID:ABQ2gRRc
吉川の内通が関ヶ原の戦いを誘発させたとか、サブはちょいちょい
妄想を混ぜるから「?」となるんだよな。
ここで言ってることはだいたいは同感なんだが。
感情が高ぶるタイプだから筆が滑ってしまうんだろうな。
吉川はむしろ「三成が関ヶ原に布陣したため、東軍に味方ができない。
敵にはならないつもり」と伝えている。
998人間七七四年:2011/07/14(木) 10:02:40.69 ID:9zcmEpyB
>>997
実際に光成氏も吉川の内通の真意において同様の指摘をしてるぞ。
実際に広家は黒田の再三の書状を無視し続けてきたし
秀忠隊が来る前に戦う方が有利なのは間違いないからね。
戦況の様子見してたら昼になり秀秋が銃撃を受けて東軍化したのは広家にとって誤算だったと言え、
このために家康を関ヶ原に誘い込んだ偽りの内通文書を
事実とする必要性が出てきた。
そういう意味では負けた時の保険もちゃっかりかけてたと言える。
ただ井伊らが関ヶ原前日に出した毛利仮安堵状には
戦で抜きん出た忠武を示したら家康直筆の安堵状をやると言う条件が書いてあるから
実質的にはまったく安堵されてない。
東軍は関ヶ原勝利後とは言え
新たに無傷の毛利の大軍を敵に回して追撃する余力はもはやなく
秀元は東軍は佐和山城攻めしてるのに参加すること無く横目で見ながら八幡山へ移動したし
瀬田では黒田や福島から東軍に加われと言われたが
和睦の話は聞いてないと拒否し
毛利軍はまったく忠武を示してない。
そのために吉川は関ヶ原敗戦後に輝元に示した安堵の整合性に矛盾が生じたので
輝元を騙し続けたが、大坂城受け渡し寸前になっても家康直筆安堵状がまったく貰えないことに不安を抑えられなくなった輝元が
広家に直筆貰えないならせめて井伊と面談を斡旋してもらって言質を取るように頼むが面談を拒否られる。
結局、大坂城を譲渡したら家康に騙されたことを輝元は知るが
そもそも広家が輝元を騙していただけの話で
その追及をかわすために10/2長政起請文10/3長政書状10/3広家起請文を偽造して言い訳してるのが吉川。
999人間七七四年:2011/07/14(木) 12:08:51.63 ID:pJ77q0Va
>>988
>>益田らが通報に関わった可能性は指摘
13日付の益田・熊谷・宍戸書状のことだよね。
14日付の広家書状と同内容だからやっぱり送られてないと思うんだよね。
15日付の広家・益田・熊谷・宍戸も14日付同様に送られていないわけだし。
もし13日付が広家に先んじて送付されているとするなら
福原や堅田らのように毛利の政治に参画していない
国人出自の益田・熊谷・宍戸がすでに家康の調略で買収されていて
家康の意を受けた益田・熊谷・宍戸らの洗脳で広家が東軍化したと考えざるおえない。
上杉謀反の通報をした藤田信吉や
宇喜多騒動の宇喜多詮家や戸川達安や花房秀成のように
家康派を形成していたとするのはどうなのか。
>>998
輝元の領土拡大への貪欲さと好戦的な姿勢が特筆されているから
吉川もその意を受けて動いていた可能性は捨てきれない。
1000人間七七四年:2011/07/14(木) 12:18:11.08 ID:9zcmEpyB
小早川家内で
黒田如水の姪を娶っていた平岡頼勝を使って稲葉正成も家康派にしている家康なら
毛利家中に手を伸ばしている可能性は否定できないが
やはり広家同様に出してないように思う。
なぜならもし出してるなら同内容だし広家が出さなかった理由がわからない。

ガチガチの豊臣忠誠の小早川筆頭家老の山口宗永を大名に取り立てて加賀大聖寺城に置き小早川から切り離したのも家康の策謀なのかな?
先陣を任された西軍派の松野重元を関ヶ原当日昼まで除けなかったことから秀秋は西軍に近い考えがあったのだろう。
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