【歴史の】徳川家康VS前田利家【IF】

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422人間七七四年
家康の勧めで帰国したと記述してるのは
三壺聞書(三壺記)という
加賀藩の足軽山田四郎右衛門が書いた
前田家擁護の書にしか出てこないデタラメだから。
明らかに利長が勝手に帰っただけ。
黒田文書に書かれているのは大名達が次々と帰国したとは書いてるが
大老が勝手に帰ってOK!なんて書いてないし
だからこそ景勝が「太閤様から帰国の許可を頂いていた」と反論していたわけだ。
しかし前田家が帰ってよいなどと許可は出していない。
だいたい利家は柴田を見捨てただけでなく
親しかった秀次をまったく弁護せず死刑を放置
(その時期の利家は京にいて、家康は江戸にいた)
利長は姉妹の豪のダンナである秀家を見捨てるなど
有軍を裏切って肥え太る術だけで加賀百万石を築いた天下一の泥棒大名。
423人間七七四年:2011/05/25(水) 16:54:11.87 ID:WkOrys1b
ちなみに利家夫妻はお拾いと秀次娘の婚姻仲人に決められていたし
秀次が死んだ後、利家は秀次と親しかったこともあり
秀次の伏見の邸宅を貰い、秀次の家臣の一部も併合してる。

しかも
秀次が死んだ後に宇喜多と前田は常時在京してお拾いに奉公し
自分勝手に領国へ帰国しない。
徳川と毛利の2家はいずれかが必ず在京する。
この約定が決められており利長の帰国は謀反以外のなにものでもない。