【信康・忠輝】歴代松平一族を語る【長親・清康】

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1人間七七四年
江戸幕府を開く徳川家康を排出した松平氏の歴代当主や一族である十八松平、
家康の子である信康、忠吉、信吉、忠輝らも語りましょう。

■wiki
松平氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%B0%8F
十八松平
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%85%AB%E6%9D%BE%E5%B9%B3

■関連スレ
【越前少将】結城秀康【制外の家】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1164378018/
【凡将か?】徳川秀忠を本音で語れ!【名将か?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1156998657/
徳川家のマイナー武将を語るスレ
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1262441540/

※家康公のスレは 【徳川家総合】 徳川家康 で検索して下さい。
2人間七七四年:2011/04/21(木) 18:39:10.63 ID:QBrVFbQA
血筋的な意味での松平本宗家って未だに残ってるんだよな
3人間七七四年:2011/04/21(木) 18:52:54.89 ID:5MwGz8mU
名君に挟まれる凡庸君主は忠がついてんな
信忠、広忠、秀忠・・・そう言えば長親の親父も親忠
忠の字は地雷なのか?忠輝は凡庸では無いけど違う意味で地雷だったしw
4人間七七四年:2011/04/21(木) 19:51:25.06 ID:QBrVFbQA
長親「俺、実は長忠って名乗ってたんだよね」
5人間七七四年:2011/04/21(木) 19:52:51.54 ID:QBrVFbQA
途中で書き込んじまった
要は単に松平家の通字が忠だったことによる偶然じゃね?
6人間七七四年:2011/04/21(木) 21:42:14.46 ID:3XXnNPQM
通字は「忠」や「親」、家康以降は「家」が追加された感じですかね?
7人間七七四年:2011/04/22(金) 08:28:13.65 ID:Zxuo+Wr5
>>3
秀忠が凡庸?

>>6
康は違うのかな?
8人間七七四年:2011/04/22(金) 08:43:16.13 ID:4J/b9NgQ
>>7
康は確か清康が初だし、家康も清康を尊敬して康を名前に入れたから通字じゃないと思う
他の松平一族(康忠とか)のは家康からの偏諱だろうし
9人間七七四年:2011/04/22(金) 12:21:22.07 ID:CeqQZC99
信康、秀康、忠康とか見てると康が通字の仲間入りしかけたように思う
10人間七七四年:2011/04/23(土) 02:19:03.13 ID:+zoYaKlX
>>6
家康が松平元信だったりしたこともあるし、
過去の当主にも散見されるから「信」の字も通字に含まれるかも?
11奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/04/23(土) 21:19:27.94 ID:qjONetde
通字といえるほど法則だってないような。
12人間七七四年:2011/04/23(土) 23:16:27.58 ID:wnClN1k/
清康以前は戦国時代じゃなくないか
13人間七七四年:2011/04/23(土) 23:58:20.78 ID:qwA/Ex/u
>>12
おまえはなにをいっているんだ
14奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/04/24(日) 00:06:57.01 ID:qjONetde
長親でも十分戦国の区分に入るわな。
15人間七七四年:2011/04/24(日) 01:44:24.19 ID:HbN/Apr/
忠輝や忠吉って、親じゃなくて兄から一文字もらってるのな。
16人間七七四年:2011/04/24(日) 09:54:12.20 ID:aOqzgYi1
え? 祖父からじゃないの?
17人間七七四年:2011/04/25(月) 22:26:54.85 ID:Q8ngwFML
一次史料に出てくるのは松平信光と松平益親
18奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/04/25(月) 22:42:23.02 ID:0MNi/T9X
大番コンビね。
19人間七七四年:2011/04/29(金) 10:51:32.14 ID:lTshcuEv
松平まんじゅうでお馴染みの松平親氏公
http://yamazato.aichi-kouryu.jp/2010/11/matsudaira-m/
20人間七七四年:2011/04/29(金) 11:17:37.50 ID:bnp4Nfsr
松平家の早婚さは異常。祖父と孫の年齢差が31歳しかないとか。
21人間七七四年:2011/05/07(土) 19:37:14.60 ID:16zGTjI3
>>15

忠輝は長澤松平家の政忠、康忠などの「忠」でしょう。忠輝の相続は慶長7年で既に秀忠が後継者とみなされていますから、秀忠の「忠」を貰っている可能性もありますが、まだ、後継者の段階ですので貰うのならば、家康自身からになるでしょう。

忠吉は東条松平家の家忠でしょう。天正9年東条松平家の家督を継ぐとともに忠康と名乗っています。この段階では秀忠はまだ徳川家の跡取りとは認められていないでしょう。
それよりも、「吉」のほうが信吉とともに秀吉の「吉」の可能性があるのではないかと・・・・。
22人間七七四年:2011/05/07(土) 21:11:02.79 ID:ea4s2K6f
「義」とか「頼」とかは、家康の源氏かぶれ
からきてるのか?
23奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/05/07(土) 22:53:55.56 ID:upgByAu+
「義」と「頼」を相続権のある分家の分家にだけ使うセンスがカギなんだろうな。
24人間七七四年:2011/05/14(土) 15:19:03.44 ID:Y3pZrTAf
>>14
早雲・氏親と戦ってるもんな
そういえば有名な500対10000で今川を食い止めたという逸話は何処まで本当なのかな
25人間七七四年:2011/05/16(月) 18:33:00.69 ID:BaODE3FS
松平清康って結局どの程度の人物だったんだ?あれは松平旧臣達の
死んだ子の歳の数を数える真理と家康の祖父という事で評価されたのか
実際生きてれば織田信秀今川義元を滅ぼせていた可能性もあるのか?
26人間七七四年:2011/05/16(月) 20:40:37.73 ID:f09mp8KG
若くして亡くなってしまった以上、わからないというしかないな
希望的観測を多分に交えて語る事も、逆に無理に貶める必要もないわけで
27人間七七四年:2011/05/16(月) 20:43:15.72 ID:cSA0K3u6
実際信秀との直接対決も無かったしな
まあ、死んだ原因が信秀の謀略だったら信秀>清康になるが
28人間七七四年:2011/05/16(月) 20:46:22.02 ID:cSA0K3u6
ところで誰か家康本スレ立ててくれないかな?
タイトルは「【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その十三」で、テンプレはこんな感じで

家康の天下取りは我々現代人に多くのことを教えてくれる。
幼少期の人質時代の屈辱。信長との同盟を守りきった律儀さ。
武田信玄との対戦。小牧・長久手での熟練した軍略。
豊臣政権下での着実な勢力伸張。そして文句なしの関が原での勝利。
天領400万石の圧倒的な徳川幕府。天下泰平250年。江戸は世界最大
の都市の一つとなった。

東京が首都となったのも、家康が始原。
死ぬまで階段をかけ上がった人生の達人。

前スレ
【徳川家総合】 徳川家康 公スレ その12
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1297989990/

関連スレ
□【信康・忠輝】歴代松平一族を語る【長親・清康】
  http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1303368850/
29人間七七四年:2011/05/16(月) 21:40:30.29 ID:BaODE3FS
ただ松平清康の場合もし長生きしていたて信秀を滅ぼしていたら
後の信長の出番はないわけでそういう意味で森山崩れってのは
大きな歴史の分岐点だったと言えるような気がするなあ。
実際清康は正直未知数な所もあるけど信秀は隣国三河と美濃の
混乱に乗じて一時的に飛躍はしたけど隣国が安定してからは
東は斎藤道三に負け、西に至っては義元に一方的に嬲られてた感じがするし
尾張内部でも信友如きに滅ぼしきれずに何度も足元すくわれそうになってたし
30人間七七四年:2011/05/16(月) 21:42:05.70 ID:BaODE3FS
経済力を背景にしてただけで戦はあんまり強く無い。悪く言えば信長の
下位互換、進化前って感じしない?
31人間七七四年:2011/05/16(月) 21:54:31.41 ID:CkMvs51R
13歳で家督を継いで、6年で三河統一している
まぁ只者ではないな
32人間七七四年:2011/05/16(月) 22:09:25.51 ID:cSA0K3u6
そういえば長親の影響力はどれくらいあったんだろうね?
33人間七七四年:2011/05/16(月) 22:12:00.33 ID:BaODE3FS
>>31 そこなんだよね。悩ましいのは。いくら昔の人間が今より早熟だった
と言ってもちょっと若過ぎるような気がするんだよ。まして清康の場合
親父も爺さんも普通に生きてたわけだしどこまで実権があったか微妙
なんだよな。親父は暗愚だったと言われてるけど爺さんの長親は普通に
有能の部類に入るだろうし実際家中のパワーバランスはどうなってたの?
34人間七七四年:2011/05/16(月) 22:15:24.54 ID:cSA0K3u6
守山に長親って従軍してたっけ?
してないなら1万余の軍勢を清康が一人で統率してたわけだから
それなりに有能だとは思うが
35人間七七四年:2011/05/16(月) 22:28:17.44 ID:BaODE3FS
>>34 いや有能は有能でしょう。無能だったら親父みたいになってるだろう
から。ただいくら何でも13歳で家督相続したら最初の数年間はまともに
実権があったとは思えん。まして上にも書いたけど直系の先祖が普通に
生きてるんだから。
36人間七七四年:2011/05/16(月) 22:34:16.91 ID:BaODE3FS
ただ守山崩れの後松平氏が内も外も相当ぐちゃぐちゃになったのは事実で
長親なり信忠なりがある程度力を持ってたならあそこまで混乱するのか?
という感じもするから正直色々な意味で清康って未知数だなあと思ったんだけど。
37奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/05/16(月) 23:03:34.52 ID:GKDj61z7
守山崩れは信定もいたからね。
将としては有能でも、家政を誤った人なんだろうよ。
38人間七七四年:2011/05/16(月) 23:10:06.52 ID:cSA0K3u6
まあ誤ったといえば誤っただけどやりたかったのは安城松平家の完全主君化だったんだろうね
それで一族厳しく取り締めたらあぼーんという
いや、守山崩れが信定の差し金かどうかわからないけど
39奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/05/16(月) 23:19:15.43 ID:GKDj61z7
完全主君化すなわち信忠本流路線で桜井に信定を入れて戦国大名化を図るという思惑から始まったとして
信忠不肖、清康頓死となれば、長親は広忠よりも信定に肩入れしたくなるだろうよ。
40人間七七四年:2011/05/16(月) 23:33:21.50 ID:cSA0K3u6
おー誰か家康本スレ立ててくれた。ありがとう
41人間七七四年:2011/05/16(月) 23:39:55.77 ID:BaODE3FS
>>39 いやーでも信定ってさバカだよね。長親が消極的に味方してくれてんのに
最後四方八方みんな敵になって自滅してる。根回しの能力とか全く無いような
42 忍法帖【Lv=14,xxxPT】 :2011/05/16(月) 23:42:33.98 ID:/IfQqAbm
>>40
これだね

【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その十三
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1305556222/
43奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/05/16(月) 23:51:17.05 ID:GKDj61z7
>>41
いや、それは彦左とか江戸の過剰な改竄もあると思うよ。
桜井は碧海郡だから周囲の状況をさっ引いてやらないと。
44人間七七四年:2011/05/17(火) 00:24:39.45 ID:whu8Hnj0
だからさあ上に書いてある通り全てが眉唾臭いんだよな。まず第一に
長親の隠居が早過る上その理由が不明。信忠にしろ大きな失点がないのに
隠居させられる。しかも後継者が13歳の子供。こんな例はそうないぞ。
普通はもうちょっと大きくなってからだと思う。そして最初の数年間誰が
実権握ってたのか不明。長親にしてはイマイチ説明つかず。
そして守山崩れ。普通下剋上って人生下り坂の時家臣に狙われると
思うんだが何故か勢力拡大中に暗殺される。これも真相不明。
さらに信定に至っては広忠は暗愚で且幼君な為本来最高権力者で
おかしく無い筈の長親が味方してるのに何故か四面楚歌状態になってる。
一体だれが反信定の司令塔になったんだ?
そして何故かその広忠も暗殺され、家康は三河に帰って来たそうそう大規模
一揆。どう考えても色々胡散臭い。江戸期になって誰が意図的に歴史を
書き変えたんではなかろうか?俺が思うのは長親末期辺りから松平本家を
隠れ蓑にした影の実力者当たりがいたような気がするんだよなあ。
畠山における遊佐みたいなのが。その人物が邪魔な松平家の人間を次々
暗殺したり失脚させたりしていったなら説明がつく。でないと色々不明な
点が多過ぎる。そして江戸期に入って意図的にその一族ないし人物の
存在を抹消したのでは?
45奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/05/17(火) 00:28:25.88 ID:Wns3QHJ1
清の一文字で解決させてみよう、という課題。
46人間七七四年:2011/05/17(火) 00:40:57.03 ID:whu8Hnj0
>>45 意味わからん
47人間七七四年:2011/05/17(火) 00:41:45.04 ID:w7mNFHkp
その人物が完全に抹消されてる時点でなあ
48人間七七四年:2011/05/17(火) 00:48:00.26 ID:7d8jyH4Z
>>44
 三河物語そのものが、陰の実力者一族の弁明の書と考えられなくもない。
 大久保一族の没落の凄まじさは、古参譜代の中でもあり得ないレベルだろう。
 長安みたいな怪しげな技術者を身内にしたり、一応太閤ご指名となっているが
徳川のサラリーキャップの上限を超える4万5千石に要衝の小田原拝領といい、
家康にとっての最高功労者、鳥井元忠の4万石を超える高待遇。
井伊、榊原、本多の三傑に次ぐ、功績を挙げてるとは思えないというか、真田に
敗北して、徳川の武名を鳥居元忠ともども下げてるのに、明らかに優遇されてる
のも怪しい。案外、大久保一族が黒幕じゃないのか?
49人間七七四年:2011/05/17(火) 00:55:50.29 ID:w7mNFHkp
しかしそんな大層な黒幕をなんで家忠が愚痴に書かなかったんだろうという

そういえば家忠もこのスレで語っていいのか……特にネタないけど
50奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/05/17(火) 00:56:51.32 ID:Wns3QHJ1
松平清康 石川清兼 水野清忠 榊原清長 酒井清秀

どうだろう。
51人間七七四年:2011/05/17(火) 01:07:06.02 ID:whu8Hnj0
>>49 そりゃ1555年生まれの家忠が元服するころには普通に
その人物は死んでたか力無かったんではなかろうか?
もしその時代になってもそんな人物がいたのなら信長公記だの
なんだのに記載されてるだろうから徳川だけの遺志では抹消できんだろう。
52人間七七四年:2011/05/17(火) 01:13:50.14 ID:w7mNFHkp
>>51
んー、そこまで権力握れるやつがいたら家忠の時代まで一族ぐらいは残ってるはずだし、
一族皆殺しとかになってたらそれこそ抹消できないレベルっていう
あと、大久保党じゃなかったら流石に彦左が書いてるはず
大久保党が黒幕だったら家忠が「大久保もすっかりしょぼくれたなー」とか書いてそうじゃない?
53人間七七四年:2011/05/17(火) 01:19:02.73 ID:whu8Hnj0
>>52 三河在住の譜代の人物ならそうだろうけど北条早雲とか
斎藤道三みたいな他国から流れついてきた人物が1代で権力を
握ったパターンならその人物亡き後一族が残って無くても
不思議じゃ無くね?
54奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/05/17(火) 01:24:03.69 ID:Wns3QHJ1
ああそういう方向なのか。
55人間七七四年:2011/05/17(火) 01:24:51.67 ID:w7mNFHkp
>>53
そんな人間がいたら確実に口伝として残ると思う
あと、そんなのがいたらここぞとばかりに彦左が
「我が大久保家はあのような者にいじめぬかれても変わらぬ忠節を御家に尽くし……」とか書くんじゃないかな
56人間七七四年:2011/05/17(火) 01:30:39.92 ID:whu8Hnj0
>>55 じゃあもし俺の説が正しいとするとやっぱり該当する人物は
大久保党の誰かだったのかな?それとも俺の妄想?でも長親から
広忠に渡って最後が不自然過ぎる上に、反信定の旗頭になれる人物が
存在しなくなるんだけどなあ。
57人間七七四年:2011/05/17(火) 01:48:48.95 ID:w7mNFHkp
>>56
残念だけど妄想だと思うな
そこまで出来る人物が何十年も後継ぎを作らずに死んで、しかもあらゆる記録に残ってないとなると奇跡のレベルだし
58人間七七四年:2011/05/17(火) 01:55:41.54 ID:whu8Hnj0
でも広忠の時代に長親に対抗できる人物が家中にいた事は事実だよね?
でなければ信定の簒奪計画があそこまで失敗する事は無い筈。
誰だったと思う?
59人間七七四年:2011/05/17(火) 02:01:17.80 ID:w7mNFHkp
それこそ家臣団じゃないかなあ
いくら長親が宗家長老といったって信忠飛び越えて孫の代。
三河物語とかの話に基づけば清康は家臣によく懐かれてたみたいだし、
すでに分家筋になった桜井ごときに従うくらいなら広忠様を盛りたててやるわ!みたいな感じだったんじゃない?
よくも悪くも三河武士は勝手だし
60人間七七四年:2011/05/17(火) 06:27:54.05 ID:tGyU2DBj
岩瀬松平氏じゃないの?
61人間七七四年:2011/05/17(火) 07:12:33.94 ID:Oqd/ttIp
大久保忠俊は忠世らと並ぶ才物
62 忍法帖【Lv=20,xxxPT】 :2011/05/17(火) 07:58:14.63 ID:cY2WIJa9
大久保一族スレも需要ありそうだね。
63人間七七四年:2011/05/17(火) 12:04:20.22 ID:dVLCK0bS
>>60
岩津な
確かに何故か消えた謎の惣領家は怪しいかもしれんなあ
岩津家については京に上って伊勢氏に直接仕えたという話も聞いたがどの史料に残ってんだろ
64奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/05/17(火) 21:58:55.92 ID:C5qYKqBf
松平太郎
65人間七七四年:2011/05/18(水) 01:37:21.03 ID:/S5I2GUC
しかし三河物語の清康が長生きしていればという意見だが例え守山崩れが
無くても尾張を領国化するか最低でも信秀を滅ぼしとかないと
史実の義元のポジションが清康になるだけな気がするなあ。一向一揆も
手つかずだし果たして尾張を領国化できる目はあったんか?
案外史実の家康と氏真のポジションが入れ替わって今川幕府なんて
もんが出来てたりして。
66人間七七四年:2011/05/18(水) 01:46:19.87 ID:cdiwu2QG
調べたら信秀との直接対決はないにしろ織田に対して無敗だな
1529年7月 品野郷・岩崎郷・小島城をそれぞれ制圧
1533年3月 広瀬城・寺部城の将が岩津城を攻めたのでこれを迎撃して打ち負かす
1534年6月 広瀬・寺部両城を制圧
67人間七七四年:2011/05/18(水) 02:03:00.56 ID:/S5I2GUC
花倉の乱が翌年起こってるから確実に東進するだろう。と言っても
西から松平が攻めてきた場合今川自体滅んでた可能性がある。
そうすると駿河は武田と北条が分割して遠江を掻っ攫ったとして
50万石ちょっとか。信秀がどこまで耐えられるかだな。
信秀も凡将ではないけど、良将止まりで名将とは言い難いから
清康の尾張支配部分が10万石くらいで耐えられるかだなあ。
それ以上だと流石の信長でも逆転不可能だろうし、あとが一揆次第か。
68人間七七四年:2011/05/18(水) 02:15:50.81 ID:cdiwu2QG
まあ、信秀もまだ全盛期じゃないだろうからな
32年が名古屋城乗っ取りだし
一揆もどのタイミングで起こるか、だからなあ

関係ないが信秀って三河守に任じられてたのか
家康があれほど家系偽造して任じられた官職をよくもまああっさり……
69人間七七四年:2011/05/18(水) 02:25:19.18 ID:/S5I2GUC
まあその辺朝廷の基準てようわからんような。
しかしそうすると松平家の人質に出される信長とか松平家臣団の信長とかいう
可能性もあったわけか。何だろう。松永久秀より家臣にしたくないなあ。
思いっきり死亡フラグな気がしてきた。
70人間七七四年:2011/05/18(水) 08:10:01.83 ID:KbxnuLLd
>>67
信秀の強みは、商業地からの収入だから、一概に石数では測れないが、まあ
どこまで耐えられるかだよなぁ。
71人間七七四年:2011/05/18(水) 08:47:12.87 ID:nGHWYeCt
>>68
松平でも多分、三河守はもらえたと思う
勅許による改姓が問題だったはず
72人間七七四年:2011/05/18(水) 10:38:54.54 ID:HIAPQyVj
>>71
ああ、そうなのか
対今川や十八松平用に改姓して、尚且つ三河守にならなきゃならなかったから苦労したわけね
……というか何故徳川だったんだろうな?
世良田なら先祖に三河守いるし、だから清康は世良田名乗ったらしいし
73人間七七四年:2011/05/18(水) 11:25:09.66 ID:nGHWYeCt
それなりに世良田は名が知られているからこそ、敬遠したとも言える
得川なら無名と評しても良いし
74人間七七四年:2011/05/18(水) 11:33:47.65 ID:69cZ8Ift
叙任の仲立ち(つーか斡旋かな)をした近衛らによるコーディネイトの
産物じゃないかな
75人間七七四年:2011/05/18(水) 16:35:00.26 ID:7P5bE/Ql
今谷の受け売りなんだけど、織田信秀は伊勢外宮仮殿に
7千貫寄進していて、それで三河守に任官されたらしい。
このころの朝廷は、金で官位を売って生活していたようだ。
76人間七七四年:2011/05/18(水) 19:30:54.31 ID:Oivum7uu
>>73-74
なるほど、そういや清康は世良田を名乗ったはいいが
吉良家に速攻で否定されたとか言うから無名の家の方がやっぱり良かったんだな

そういや清康は京まで行った話もあるのに任官はしてないんだな……
77人間七七四年:2011/05/18(水) 19:44:21.27 ID:nGHWYeCt
家康が勅許にこだわったのも、その点があるでしょうね
三河は足利氏の影響で源氏にはうるさい場所でしたし
78奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/05/18(水) 19:56:47.03 ID:YnLraJql
鼻紙系図。
79人間七七四年:2011/05/18(水) 20:50:37.18 ID:/S5I2GUC
一つ聞きたいんだけど清康の三河統一ってどの程度の統一?
信秀の尾張統一くらいの名義だけで国内に守護・守護代だの
色々残ってますよ的取り敢えず最大勢力です的統一なのか。
1569年の信長的な概ねまあ統一って感じなのか?
桶狭間後の対外勢力の介入も許さないほぼ統一状態なのか
信清滅亡後の誰も反抗する気さえ起きない完全統一なのか
どれ?
80奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/05/18(水) 21:04:09.52 ID:YnLraJql
西三河から日進市とか、ちょっと不思議な勢力圏の動きだとは思う。
81人間七七四年:2011/05/19(木) 08:11:45.30 ID:5Rn2bJny
清康自体がぱっと出て、ぱっと消えてしまったから、線引きは難しい気がする。
でも、松平一族は取りあえず押さえていたのではないかと思う。
松平党って、それこそ清康が出てくるまで、党としては絆が強いみただけど、主従
関係は結構曖昧じゃないか?
82人間七七四年:2011/05/19(木) 23:24:56.77 ID:NjM1gTPE
>>79
吉良家が家康時代まで生存しとる
一向一揆にも加担して打倒家康をしようとしてたしね
ただ、実力・勢い的に周囲が反乱できない所までは持ってったみたい
吉良家にも清康の妹が嫁いでるし
83人間七七四年:2011/05/20(金) 03:57:35.22 ID:DftIxwsK
……って吉良家は守護じゃないのか
そもそも三河は1511年以降守護・守護代は混乱により不在のようだ
84人間七七四年:2011/05/20(金) 07:07:38.62 ID:k6KG0GaZ
その混乱の一端が松平一門の蚕食
85人間七七四年:2011/05/21(土) 15:51:10.93 ID:jAzqXsga
松平忠吉は家康が西上するまでは、東海道の豊臣恩顧大名の城に配した
諸将の総大将という立場だった
86奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/05/22(日) 00:01:07.61 ID:g6cHXWGh
忠吉が長生きすれば御三家は違う形になっていただろうしなあ。
87人間七七四年:2011/05/23(月) 04:18:59.55 ID:3sw6aiy+
88奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/05/25(水) 00:29:31.01 ID:sxkZ/uMe
尾張・甲斐・越後の御三家。

全国にほとんど睨みが利かないが江戸への防波堤にはなる。
89人間七七四年:2011/05/27(金) 07:00:24.68 ID:BkaTjkZv
徳川連枝と久松系を除いたら、江戸時代をのりきった
大名松平家ってほとんどないんじゃないか
90人間七七四年:2011/05/27(金) 15:55:45.73 ID:MMY/8URf
意味不明基本松平家は徳川家の一門
譜代の松平氏はほとんどの大名家が改易されておらず江戸時代乗り切っている
越前松平家ですら改易何回もされてるけど将軍の兄の家ということで津山10万石で幕末まで乗り切っている
外様の大大名も江戸時代は松平氏だからたしか江戸時代の3割の大名は松平氏だから余裕で幕末まで続いている
91奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/05/27(金) 23:23:46.65 ID:u7tgtTag
徳川連枝ってのは家康の子孫てことじゃないのかね。

十八松平の血を保った大名家は少ないという意味なら納得できる。
92人間七七四年:2011/09/07(水) 20:53:55.78 ID:zIH8gJTH
守家って信光の長男なのに大して重要視されてないような
93人間七七四年:2011/09/08(木) 21:25:17.87 ID:llhpAya3
age
長親の長って岩津親長の偏諱なのかな?
94人間七七四年:2011/09/14(水) 14:35:23.23 ID:10LQAz2z
>>80
天白川沿いに進んできたのでは?
というか天白川下流域の水野氏に対する牽制のような気がする
95人間七七四年:2011/09/27(火) 01:14:10.30 ID:hPJVcLJw
水野氏は松平のライバルで現代も水野姓は愛知県で10番目に多い名前。
96人間七七四年:2011/09/28(水) 20:35:07.26 ID:98i8ad0d
俺が知ってる松平家の子孫を紹介しとくぜ。
http://www.suntory.co.jp/culture-sports/sungoliath/spirits/1007-199.html

自分で松平家だって言ってたし、ネットで記事も出てるからOKだろう。
優秀で馬力のある女子だよ。

―― 生まれはどこですか?

生まれは神戸です。

―― 親は?

両方日本人です。松平家でございます(笑)。
http://www.suntory.co.jp/culture-sports/sungoliath/spirits/1007-199.html

97人間七七四年:2011/09/28(水) 20:38:50.19 ID:98i8ad0d
徳川家に繋がりのある松平家ってことね。
98人間七七四年:2011/11/04(金) 01:56:38.11 ID:cAgcFap1
戦国板ってどれくらいで落ちるんだろうか
99人間七七四年:2011/11/07(月) 21:05:22.24 ID:Cn9eETrt
>>93
岩津親長は家康の大叔父になる人らしいけど、どんな人だったんだい?
100人間七七四年:2011/11/08(火) 00:14:29.23 ID:GEbDbn1s
藤井松平、松井松平、大給松平、久松松平、形原松平、奥平松平、大河内松平は幕政に参与した者も出た
101人間七七四年:2011/11/08(火) 16:47:01.03 ID:IpHyMxR6
>>99
親長は長親の兄、または親忠の兄とされる人だから家康の大伯父ではないんじゃないか

それはともかく親長はあまり記録に残ってない人物で、
上洛して伊勢氏の被官として活動したとか北条早雲と戦って討ち死にしたとか確証のない話しか知らないな
あと、岩津を居城としたことから宗家を継いだ人物とされることもしばしば
102人間七七四年:2011/11/20(日) 00:38:33.49 ID:KI8Cr9an
清康の死って不自然だよな。
斬った阿部弥七郎の父・定吉は処刑も切腹なされてないし。
103人間七七四年:2011/11/20(日) 02:37:44.83 ID:HM0XAixz
その血縁が阿部正次ってホント?
104人間七七四年:2011/11/20(日) 11:11:00.01 ID:rUxFcjV0
>>103
違うかと
105人間七七四年:2011/11/23(水) 11:19:49.98 ID:xH549lC5
不自然だと思い込みたい気持ちがあればどんな事象でも不自然に見えるものだ
106人間七七四年:2011/12/07(水) 22:40:46.65 ID:LNYyWMUI
>103
阿部正○系と、阿部大蔵系の血縁関係は不明。
清康殺害という事件が、有力譜代としては汚点すぎて記録に残せないのか、
分家した世代が古くて、親戚付き合いも無いほど疎遠なのか、全く解らない。

ただ意外な事に、大蔵系の子は譜代の井上姓で続いてる。
てっきり家系は絶えたと思ってたんだけどね。
107人間七七四年:2012/01/19(木) 01:02:29.72 ID:KxhJ04Q4
ageついでに、信康の「松平」表記ってどの史料が元なんでしょうか
108人間七七四年:2012/01/20(金) 09:29:52.26 ID:/RSoHYnZ
いい意味でも悪い意味でも水野の血はすごいな。
派手な松平清康や徳川家康の母は水野家出身で
地味な家康の親父である広忠の母は水野家じゃない
この差は凄いわ
109人間七七四年:2012/02/05(日) 00:10:40.09 ID:9pjTwLqw
清康の次男、源次郎信康は後継ぎ無しで死んだんだろうか
この人の一族が生きてたら徳川姓貰えてたかな?
110人間七七四年:2012/02/05(日) 01:09:55.54 ID:5D6iT2Ht
そいつは無理だと思いますよ。
徳川姓は、数ある松平諸家のうちの抜きん出た首席を意味する希少価値のある苗字。子にも名乗らせなかった。ましてや又従兄弟や大叔父では…

それは中臣傍流の鎌足が藤原氏を貰い、藤原四氏から抜き出した仲麻呂が恵美押勝を名乗った動機と同じだと解する
111人間七七四年:2012/02/05(日) 02:19:10.33 ID:9pjTwLqw
>>110
けど、松平を名乗った息子たちって忠吉にしろ忠輝にしろ大分前に別れた分家を継いだからだし、
信康は実際松平名乗ったかどうかわからないし……ああ、信吉がいたか

ついでに調べたら信忠以降に出来た分家は全滅してるんだな
112人間七七四年:2012/06/29(金) 12:35:50.57 ID:ei2oXJDp
定期あげ
113人間七七四年:2012/08/27(月) 23:43:47.60 ID:9woYCyIj
清康の弟達の系統は断絶、広忠の弟の源次郎信康は早死にで分家する余裕が無かった。
114人間七七四年:2012/08/28(火) 02:34:24.42 ID:DguDaCWo
源次郎信康の討ち死には家康にとってよかったのやら悪かったのやら
115人間七七四年:2012/08/28(火) 22:23:49.74 ID:ArA4i1zR
源次郎信康が長生きしてたら広忠が死んだ後、今川家にいる家康に代わって
松平家の実質的な当主ってことになるだろうし
家康が桶狭間後に戻ってきた時に桜井信定の二の舞になるだろうな。
116人間七七四年:2012/10/14(日) 13:59:33.70 ID:flscYc2F
清康は自分自身を「安城四代世良田次郎三郎清康」と名乗ってるから
この頃にはまだ「松平宗家」=「安城松平家」という認識はなかったのかな
117人間七七四年:2012/10/20(土) 00:34:21.24 ID:LRSrRB5t
そもそも●●党と名乗る勢力には、絶対的な上下関係がなくて
その時々に一番羽振りのいい人間が主導権をとる関係。
だから、宗家=指導者という認識も薄かっただろうし、
自分が宗家であると主張する必要も薄かったと思う。

とりあえず安城系が最有力と言う時点で、十分だったんじゃないの。
118人間七七四年:2013/04/26(金) 18:33:15.76 ID:BrxQFQy5
たまに信康を「岡崎信康」と表記するのを見かけるが、これって岡崎三郎信康を岡崎・三郎・信康と区切ると思った結果だろうか
119人間七七四年:2013/04/27(土) 09:52:41.08 ID:UjUwTEYi
>>118
単純に三郎を省略しただけだろ。
120人間七七四年:2013/04/27(土) 11:12:07.85 ID:8Gwxogi4
>>119
でも他の表記は「結城秀康」「徳川秀忠」「松平忠吉」・・・だぜ?
121人間七七四年:2013/04/29(月) 01:35:41.64 ID:0q8LlLTo
>>120
岡崎城の信康ってことだし
122人間七七四年:2013/04/29(月) 02:50:36.21 ID:KiigLTEB
>>121
スマンがそれがどういう理由になっているのかさっぱりわからん
123人間七七四年:2013/04/30(火) 19:21:53.17 ID:iRKchU/O
徳川はもちろん、松平さえも名乗れない信康カワイソス
124人間七七四年:2013/04/30(火) 20:40:18.59 ID:ZXBV3qES
そもそも「松平信康」とする根拠ってなんなんだろうね。実記あたりでそうなってるのだろうか
個人的には、名実ともに嫡男だった信康が徳川名乗れないってのもおかしな話がするんだけどなー
岡崎城と一緒に松平宗家の家督を家康の代わりに継いだとかなら説明はつくかもしれないけど
125人間七七四年:2013/04/30(火) 20:46:02.38 ID:ZXBV3qES
でもまあ徳川家が広忠以前の松平氏の祭祀をしてるから徳川宗家=松平宗家か。と連レス
126奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2013/04/30(火) 23:13:50.67 ID:d4/JDkVk
今川家や織田家の一門の「岡崎信康」なら、徳川一門の人物の苗字として通じなくもないよ。庶兄扱いで。
127人間七七四年:2013/05/02(木) 07:10:16.53 ID:OS7HLk9+
ぷらっとってまだ生きてるんだ、早く死ねよ
128人間七七四年:2013/05/08(水) 11:15:55.66 ID:SJGUZunM
>>124
>徳川名乗れないってのもおかしな話がするんだけどなー

将軍じゃなければ、徳川と名乗るのはNGなんだっけ?
御三家とか例外はあるけど。
129人間七七四年:2013/05/15(水) 12:12:09.10 ID:iLCELIEQ
>>128
少なくとも俺は、徳川家の継承権を持った家が徳川姓名乗れるってことだと解してる
秀康は結城、忠吉は東条、信吉は武田、忠輝は長沢を継いだから継承権喪失=松平姓じゃないかな
で、信康が松平って書かれるのは、たぶん廃嫡されたから後世に徳川姓を剥奪されたんじゃねーかなと勝手に思ってる
なにかしら信康の発給文書が残ってれば存命時の名字がわかったんだろうけどね
130人間七七四年:2013/06/06(木) 10:13:12.19 ID:S4KJwg61
>>118
え、違うの?
131人間七七四年:2013/06/06(木) 10:30:02.77 ID:WdA+lgSY
徳川という姓は勅許として与えられたという経緯gあるから、
ある程度の時間を経るか、家康が相当の官位を得るまでは、
自儘に与えることは出来なかったのかもしれない

もしかしたら、当初は一代限りという条件だったかもしれないし
132人間七七四年:2013/06/06(木) 10:57:46.72 ID:c1xQwUqI
>>130
松平次郎三郎元信を次郎元信とは略さんだろうって事だろ
岡崎(城)殿と呼ばれてたなら岡崎信康でもおかしくないけど
133人間七七四年:2013/06/06(木) 13:00:19.55 ID:80qwwAI2
wikipediaにある信康の息子の情報、何処が出典かと思ったら系図纂要だった
でもこれだと童表記なんだが……松平家長って何処からの情報なんだろう
母方の日向時昌にしてもググっても信康のページしか出ないし
134人間七七四年:2013/06/06(木) 13:19:16.52 ID:80qwwAI2
>>132
それはつまり小田原氏康とか小田原氏政も間違いじゃないということ?
135人間七七四年:2013/06/06(木) 15:06:57.03 ID:c1xQwUqI
ありだろうけどそう表記する必要が無いな
136人間七七四年:2013/06/06(木) 17:34:22.61 ID:MHK4+qJ0
>>131
そもそも信康の姓は確定してないから当時の徳川姓の扱いすらわからないという
……というか調べてる内に松平信康表記はもしかしたら明治以降なんじゃないかという疑念が出て来た
137人間七七四年:2013/06/06(木) 18:59:20.79 ID:S4KJwg61
>>132
岡崎殿と呼ばれていたと勝手に思ってたわ。サンクス。
138人間七七四年:2013/06/06(木) 19:12:46.17 ID:MHK4+qJ0
>>137
いや、藩翰譜なんかじゃ岡崎殿表記だったよ
ここで否定されてるのは信康が「岡崎」という名字ではなかったという話
139奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2013/06/06(木) 23:17:12.68 ID:FASxOd+5
慶長期に徳川どこまで特別扱いやったんよ。
140人間七七四年:2013/06/06(木) 23:59:29.22 ID:c1xQwUqI
ごもっとも
141人間七七四年:2013/06/08(土) 23:35:34.61 ID:9N3Pzd1s
>>132
数日考えてみたけどやっぱりおかしいんじゃないか?
信康を在城名から「岡崎殿」と表記するのはあくまで実名敬避俗によるものだろう
似たようなところでは秀忠が嫡男時代に「江戸中納言」と呼ばれていたが「江戸秀忠」じゃ江戸氏の一族みたいな表記になってしまう
信康に関しても通称+名前の「岡崎三郎信康」は正しくとも岡崎が名字化してしまう「岡崎信康」は誤りだと思うな

……まあ徳川実紀だと「岡崎次郎三郎信康」って表記が一部にあったりするが、これが名字扱いか通称の一部扱いかはわからん
142人間七七四年:2013/06/09(日) 01:14:24.42 ID:UQFhqy10
上条政繁は間違い。ちゃんと上杉政繁しろとかそんなノリ?
143人間七七四年:2013/06/09(日) 01:44:21.38 ID:b5T/nzEv
>>142
知らなかったからとりあえずウィキ読んでみたけど、上条家としてちゃんと成立してるなら上条政繁でもいいんでないの?
144人間七七四年:2013/06/09(日) 11:26:26.63 ID:UQFhqy10
上条上杉政繁は史料上で上条殿と呼ばれてたから
一般的に上条政繁と表記されるけどあくまでも名字は上杉
また古志上杉景信は史料上では越ノ十郎殿などと呼ばれてたけど
一般的な表記は古志景信でも越ノ景信でもなく上杉景信
この辺は慣例によるものだから岡崎信康と表記されても別に間違いじゃない
ただ信康は慣例として松平信康と表記するのが一般的なので
共通認識にない岡崎信康を説明もなく唐突に使うのは控えるべきと
言うならそれはそれでもっともな意見
145人間七七四年:2013/06/09(日) 11:49:19.26 ID:b5T/nzEv
>>144
やっぱり慣例で通常から外れた読み方される人っているんだな。「とよとみひでよし」なんかもそうだが。
とするとやっぱり岡崎信康も間違いと断定するのは早計なのかなー……
個人的には、分家されたわけでもないんだから岡崎姓で表記するのには抵抗を感じるんだけど
146人間七七四年:2013/07/04(木) NY:AN:NY.AN ID:UG8KjiCl
いつのまにかWikipediaで岩津松平に関する記事が充実してた
147人間七七四年:2013/11/10(日) 09:47:33.81 ID:Hz7MEJgy
松平信康ゆかりの二俣城の模型があった。
http://mirai660.net/castle/
148人間七七四年:2014/01/25(土) 11:01:31.49 ID:YEKWsYov
道閲→道忠→道甫→道幹→道和の道の家系
149人間七七四年:2014/02/26(水) 20:45:02.90 ID:nsJ+Xbd3
「岡崎信康」の
指摘はなかなか興味深い。

岡崎といえば
三河松平家歴代の中でも
英傑と称えられる
家康の祖父清康の本拠地。

家康自身は岡崎生まれながら
あまり愛着がなかった。
それがいつのまにか
信康が名実ともに支配者に。
150人間七七四年:2014/02/26(水) 21:02:06.62 ID:nsJ+Xbd3
>>44
なかなか鋭い指摘ですな。
だが、黒幕に特定の誰かがいたのではなく
司馬遼太郎氏が指摘
していたように
三河の後進性による寄合所帯的な
軍団の性格によるものだと
思われます。
151人間七七四年:2014/02/26(水) 21:04:37.07 ID:nsJ+Xbd3
>>63
残念ながら消えたのではなく
滅亡しました。
152人間七七四年:2014/04/20(日) 00:19:01.81 ID:ukCp86qr
>>149
新行紀一先生なんかは「信康は支配能力が欠けてたから切腹させられた」って言ってるけどな
153人間七七四年:2014/06/27(金) 19:22:29.76 ID:vCBhHj02
>>149
本能寺の変や守山崩れも判らない事だらけですが、
徳川家の松平信康の自害も結構判らない事だらけですね。

徳川家内部の浜松派と岡崎派の対立と言う事になっていますが、
武田家も武田義信自害してますから、似たような物なんでしょうか?

武田義信の自害は、対今川問題がこじれた結果なんでしょうけどね。

そうなるとやはり岡崎派と武田家の近い関係は、
全くのウソでもない可能性が出てくるのか、どうか?

松平信康の自害は、記録は少なく良く判りません。

以前は、信康の聡明さを懸念した信長の介入で自害させられたとの説が
主流でしたが、今では、信長はあんまり介入していないとの説になっています。

しかし信康側近は、徳川家から追放されたり、切腹させられたりしているみたいですけどね。

>>152
信康が無能と言う記録や証言は有りません。
家康自身も期待していた様子ですし、能力不足は無いでしょう。

それに能力不足なら、切腹までさせません。
出家させて、寺にでも放り込んでおけば良いと思います。
154人間七七四年:2014/06/27(金) 21:29:03.08 ID:jXRqMW6/
>>153
天正四年の岡崎家臣の大反乱を許してる時点で信康の統率力には疑問符がつくぞ?
しかも信康の傅役の一人すら反乱に加わるという始末

まあ信康を松平信康と呼ぶ時点で>>153の勉強不足が伝わってくるわけだが
155人間七七四年:2014/06/27(金) 22:20:39.68 ID:r2z6kDMV
>>154
そんな事を言ったら家康だって一向一揆とかで本多とかに
裏切られてますし、信長なんて、何回裏切られているか判らないでしょう。

松平信康が、生きていれば、秀吉の命令で日明戦争(朝鮮征伐)にも加わったでしょう。
ヌルハチ(ドルゴン)vs松平信康の戦いを見てみたかったです。
(家康は、関東の社会基盤整備や新田開発に追われているかも知れませんが)

それに信康なら、秀忠と異なり、関が原の戦いにも間に合ったでしょう。
小早川の裏切りとは関係なく、信康の活躍で、東軍が勝ったかも知れません。
156人間七七四年:2014/06/27(金) 22:54:36.01 ID:3XqRb7NQ
関ヶ原は誰がやっても間に合わない
157人間七七四年:2014/06/28(土) 05:16:32.38 ID:6ny2BNFe
>>155
家康や信長は裏切られても自分で収拾できているが、信康は出来ていない
それどころかその家臣の反乱の責任を取るために切腹させられたという説まであるくらいだ
そもそも信康有能論なんて後世の史書にしか出てこない。いいから新編岡崎市史一回読んでこい
158人間七七四年:2014/06/29(日) 02:21:39.67 ID:jDTxvFtT
>>157
>信長は裏切られても自分で収拾できているが

本能寺の変は、自分で収拾出来たんですかね?wwwwwwwwwwwwww
159人間七七四年:2014/07/01(火) 16:57:09.79 ID:hUaiXXbI
家康が天下を取ったおかげで清康も評価されてるけど
清康の実際の力量はどの程度のものだったんだろうね?
清康は13歳で家督相続してるから最初の数年は権限があったとは思えないし
何より祖父の長親が健在だった。
かといって凡庸な人物だとしたら守山崩れで松平家が急速に衰退したというのが不自然になる。
160人間七七四年:2014/07/01(火) 17:12:19.35 ID:7b0MkQ4k
有能な祖父が後見についてる父も死んだ訳じゃない清康君13歳はともかく
幼君が立てば一時的にも衰退するのは普通じゃねの
161人間七七四年:2014/07/01(火) 21:56:31.27 ID:HGhlYGEs
新編安城市史に「実際の戦の指揮は松平信定がやっていたのではないか」という説が載っていたな
162人間七七四年:2014/07/02(水) 19:43:52.17 ID:P72YaN+X
>>156
真田の上田城なんて放って置いて、
サッサと関が原に急行すれば良い。

本多正信もそう言っていたし。
163人間七七四年:2014/07/02(水) 20:19:41.75 ID:7IoHdCYQ
家康からの使者が遅れたからどうやっても間に合わないらしいよ
164人間七七四年:2014/07/02(水) 21:55:56.92 ID:Q+mMWshM
>>162
秀忠の元来の任務は「真田征伐」
これを関ヶ原急行に変更する使者が大雨で遅れたため、秀忠は遅参した
165人間七七四年:2014/07/04(金) 00:05:50.00 ID:JOTOZorJ
影武者家康説のメインって関ヶ原とか大坂の陣だと思うけど
それ以前バージョンあるじゃん、信憑性はともかく。

@守山崩れで死んだ清康が実は家康に当たる人物で、その後に影武者世良田次郎三郎
 を立てた。
 家康(清康)の子である信康が元服するまでの繋ぎだったが
 信康と岡崎派を世良田次郎三郎が制してそのまま政権を奪取した。

A守山崩れで死んだ清康の実子が実は信康で、元服するまでの繋ぎで影武者世良田次郎三郎が
  繋ぎ兼信康を守るための隠れ蓑として当主の座に就いたが信康と岡崎派を制してそのまま政権を奪取した。

どちらにしてもこの事実を隠すために色々隠蔽は行われただろうけど、
隠し切れなかった一部で年代やら発給文書に齟齬矛盾が生じたとしたら
清康後の空白期やら、謎の権力者の存在とか説明ついたりするよな。
とんでも理論だとは思うけど、面白い。
俺はIF楽しむぐらいだけど、史料漁る人たちからしたらこの説はどうなの?
話のタネにでもなればいいし、個人的に興味あるから聞きたいんだけど。  
166人間七七四年:2014/07/04(金) 11:22:41.27 ID:9HJ7rYZB
>>165
平野明夫によって全否定されとる
167人間七七四年:2014/07/04(金) 14:00:32.94 ID:9HJ7rYZB
「切腹の日本史」って本の信康の項がWikipediaを参考にしてるっぽくて草不可避だわ
168人間七七四年:2014/07/30(水) 02:40:51.47 ID:Oda6FVfj
もしかして広忠って肖像画ない?清康にはあるのに
169人間七七四年:2014/09/15(月) 18:56:06.76 ID:x0RYR8b2
松平信忠、松平信定、松平信孝って織田家の当主の諱と被る
170人間七七四年:2014/09/15(月) 20:07:29.24 ID:3leHigqn
松平信長「俺もいるぞ!」

武田、織田、松平と信の通字率が高いのは偶然なんだろうかね
171人間七七四年:2015/01/17(土) 23:22:15.06 ID:qVd3vADy
広忠が家臣に殺されたと思ってる人間の多いこと多いこと
172人間七七四年
そういえば話変わるけど、イスラム国で人質のとられた二人はどうなった?

そういえば昔、竹千代少年も織田方に人質にとられて、今川を恐れた親父に見捨てられた
んだよな?その時殺されなかった竹千代少年が、後に徳川による日本支配を完成させるん
だから、やっぱ歴史はドラマではあるな。