【晴信】武田信玄が信虎追放に失敗!【死亡】

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133人間七七四年:2010/12/31(金) 05:12:34 ID:glOhEnwm
一条信龍って一条兼定と同じ一条なの?
134人間七七四年:2010/12/31(金) 06:22:06 ID:nXLmgS7u
多分、違うでしょう。
135人間七七四年:2010/12/31(金) 11:06:40 ID:wll/eE3m
初めて甲斐の地に赴任した実質武田開祖の義清(〜1149)の息子信義が
はじめて武田姓を名乗ったんだけど、その嫡男の忠頼が甲府の「一条」に
住んでいて「一条忠頼」を名乗っていたんだよ。
だから一条は昔から武田の里にある名家の名で、武田の親族が継承してた。

忠頼は本来ならその後跡目を継いで「武田」になるはずだったんだけど、
源平合戦で大活躍して目立っちゃった武田家は頼朝に睨まれて、戦後処理の
あいだに長男の一条忠頼、次男の兼信(板垣姓)、三男の有義(逸見姓)まで
みんな難癖をつけられて誅殺されちゃった。四男の信光が承久の乱で功績を
あげて北条氏に気に入られて武田を継ぎ、いとこの長清が小笠原の宗家になる。

この武田信光(二代国守)の息子信長もはじめは「一条信長」だった。
代々親族に受け継がれてきた一条氏を信虎の息子の信龍が相続したということ。
136人間七七四年:2011/01/01(土) 03:02:29 ID:iSU7ziwW
もしもの話だけど、穴山梅雪が武田信繁を当主として認めないパターンあるかな?
137人間七七四年:2011/01/09(日) 00:47:44 ID:tlEYd7wW
晴信派が義信・信親担いで内ゲバが長めに続く、と予想
138人間七七四年:2011/01/13(木) 22:40:41 ID:HIvZE+m5
海野信親って目が見えないんじゃなかったっけか?
あとスレタイでは信玄が死んでるぜ。
139人間七七四年:2011/01/23(日) 17:55:56 ID:6rEHVwLR
甘利虎泰「このスレがあまり伸びておりませぬな」
140人間七七四年:2011/01/25(火) 21:15:22 ID:3kaKiEQW
一条神竜最強
141人間七七四年:2011/02/22(火) 17:56:05.22 ID:FS30Ic6U
さてそろそろ復興いたしますか

つまるところ武田家ではなく甲斐の大小領主たちが二派に分かれて利権を
争って、それぞれ晴信と信虎というビッグネームを担いで戦った争い。
元々地盤を持っている在地領主派と、信虎がうるさい領主たちを排除して
他国から雇い入れたり能力を買って抜擢した若手たちなんかが敵対した。

能力を買われた抜擢組(原虎胤など)はむろん信虎を支持し、自分たちの
既得権益を侵されそうな旧守派は晴信をみこしに担いで争って、より悪辣
だった領主たち(板垣ら)が謀略に勝った。

これがそっくり繰り返されたのが抜擢組が支持した信玄と旧守派領主が
かついだ義信の争いだったわけだけど、みこしにかつがれる危険を、
身をもって知っていた信玄が先手を打って嫡男を幽閉して謀略戦に勝ち、
そして自分の家の未来を閉ざしてしまったと。
甲斐はいつまでたってもこんな感じだったんだね。
142人間七七四年:2011/02/27(日) 12:43:35.39 ID:o9vVTKnt
戦国武将から学ぶリーダーシップ  部下を”愛した”武田信玄 
http://hato.2ch.net/test/read.cgi/news/1298773088/l50
143人間七七四年:2011/03/09(水) 10:07:06.77 ID:2omLzecx
そりゃまあ国人領主が主君のはずの領主に対して
「あいつ気にいらねーから追放しちまおうぜ」
とやるのを間近に見て育ったら、部下というか国人の扱いには慎重に
なるのも当然だろうなw
144人間七七四年:2011/03/15(火) 15:02:44.91 ID:m46CsOop
原発で関東もやばいと言われてモーローとしてしまう今日この頃だが…

信虎の時代は放射能こそなかったものの、疫病、地震、台風、洪水、飢饉が
毎年のように襲っていた時代なんだよなあ。

そんな時代に無茶なやり方ででも国内を統合して、物資や人的資源を国内の
エリアで活用しようと思うのはムリないと思ってしまう。
145人間七七四年:2011/03/16(水) 00:52:43.24 ID:6AzCSZtG
信玄(震源)が上洛を始めた
146人間七七四年:2011/03/16(水) 10:24:37.01 ID:Xu2ZxZpT
>>145
今の都は東京だからな
147人間七七四年:2011/07/24(日) 15:22:53.15 ID:k5ijyrBr
>>129
信玄の書状でどうでもいいなら
信長の書状なんてゴミ以下のものばっかりだろうなw
本当に反乱おきまくりのゴミ政治w
148人間七七四年:2011/07/24(日) 15:25:28.46 ID:k5ijyrBr
>>141
だから信虎は普通に嫌われまくり
妙法寺記では家臣粛清や家臣逃亡の記述がいくもある
しかも義信事件では大半の家臣が信玄を支持した
どう見ても家の未来を閉ざしたようには見えんし、
その理屈なら織田なんか始まった瞬間に未来が封鎖されとるわ
149人間七七四年:2011/07/24(日) 16:25:11.35 ID:ALbKRFoR
>>147
何ヶ月も前の書き込みに執着するなよバカ
無知は煽りしかできないんだから放っておけばいい
150人間七七四年:2011/07/24(日) 17:28:53.49 ID:k5ijyrBr
>>149
書いたのは>>129の馬鹿だろ?
知った事かよ
151人間七七四年:2011/07/25(月) 00:10:56.29 ID:ZmxuLsH4
どうしても構いたいなら他でやれ
だがとだがアンチ専用板でも作れ、戦国板でやるなバカ
152人間七七四年:2011/08/26(金) 14:04:15.30 ID:QDazOluS
保守
153人間七七四年:2011/09/23(金) 12:28:51.13 ID:Q/UdrcOB
信虎って実質凄い人だったの?
今川に預けられてたみたいだけど、何か武功でも上げれたの?
154人間七七四年:2011/09/23(金) 21:03:26.13 ID:ln4uRqly
武田信玄ヲタの為の
武田信玄総合スレ

http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1247975668/
155人間七七四年:2011/09/25(日) 09:57:06.84 ID:BNEV6o6m
>>148
信玄が自らを正当化するために書かせたとも考えられるだろ
156人間七七四年:2011/10/05(水) 15:27:46.25 ID:osKk5MrE
>>153
寿命に関しては完全に信玄を上回っているかと。
157人間七七四年:2011/10/05(水) 17:24:51.34 ID:F9x+eOsJ
>>153
庶流になりかけた武田家を本流に戻した人
劣勢を押し返したりしてるから結構どころかかなりすごい
158愛宕権現:2011/10/06(木) 13:33:29.53 ID:q2/d055d
いずれにしろ信虎の時代が続くと政治がヘッタ糞だから一向一揆が結成され
躑躅が先を襲撃、さらに家臣達の不満がたまり暗殺なんてことも…
159人間七七四年:2011/11/27(日) 16:28:30.13 ID:2mmii0nW
単に家臣の派閥争いに巻き込まれて負けただけだぞ
160人間七七四年:2012/03/20(火) 06:00:44.46 ID:pmg1UMMQ
なんかやたら長生きだよなあ…

息子ら差し置いてずっと一線にいられたらどうなったか
161人間七七四年:2012/03/21(水) 00:56:36.65 ID:k8m2M/Kv
長男でありながら疎まれた場合の理由はほとんどの場合、他の男の種じゃないかと疑ってるからなんだよね。
だから晴信は自分の子ではないと信虎が思ってた可能性が高い。
晴信の母親が初めて信虎に抱かれた時と晴信出生の間の期間が異様に短いとか。
それで確実に自分の種である信繁を後継にしようとしたとか。
162人間七七四年:2012/03/21(水) 01:06:58.61 ID:k8m2M/Kv
更に追加すると義信も晴信の子ではないと疑われてた可能性がある。
ここで最も強く義信の真の父親として推定されるのは信虎である。
甲斐に京都の名門公家から嫁いできた美しい晴信の嫁を見て一度くらいは手を出した可能性がある。
163人間七七四年:2012/04/28(土) 05:01:56.81 ID:XqhE+8Im
のぶやぼ厨涙目w
164人間七七四年:2012/07/08(日) 20:30:30.89 ID:3eRELcAE
信繁が家督を継いでいたら日本史は大きく変わっていたとおも
信長は早々に潰されていたであろう
165人間七七四年:2012/07/13(金) 06:14:10.55 ID:qdVCObrd
間接的に信玄が無能って言ってるぞ、それ
信玄が家督継げなかったら内戦が起こるから、甲斐源氏は上洛どころか、北条と今川からの侵略も警戒しなきゃならんし
166人間七七四年:2013/02/01(金) 17:06:08.41 ID:T5HiNL1q
信玄が無能なんじゃなくて信玄が不義理だって話だろな
もう半年も書き込み無いけど一応言ってみる
167人間七七四年:2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN ID:5gdMgw5j
荒戸城に匿ったらいい。
http://mirai660.net/castle/
168人間七七四年:2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN ID:lsP3cQhf
>>155
妙法寺記を書いてることを
どうやって信玄は知ったんだよw
超バカだなお前w
169人間七七四年:2013/08/18(日) NY:AN:NY.AN ID:axtuQzDw
>>161>>162
>>長男でありながら疎まれた場合の理由はほとんどの場合、他の男の種じゃないかと疑ってるからなんだよね。
はいはい腐れドラマ脳乙wそんなソースはねぇよwwww
>>166
不義理?じゃあそれを証明する一次史料はないのか?www
170人間七七四年:2013/08/20(火) NY:AN:NY.AN ID:CvqsDp8i
>>157
室町体制では直接室町将軍に仕えた若狭・安芸武田氏が嫡流扱いで
鎌倉公方に仕えた甲斐武田氏自体が庶流の扱いだったはず
171人間七七四年:2013/08/21(水) NY:AN:NY.AN ID:I8Z+ZDGh
こんなスレですら信玄憎しで、
一次史料の裏付け皆無の悪口中傷活動をする汚物織田厨。
汚物ゴキは消毒するべき。
突き抜けるカス織田厨。
172人間七七四年:2013/08/21(水) NY:AN:NY.AN ID:CMESRUXs
さすが在日織田w
行動原理が逆恨みによる「恨」文化に根ざした粘着ストーカーそのもの。
173人間七七四年:2013/08/27(火) NY:AN:NY.AN ID:MLOzhSQv
>>148

47 人間七七四年 2013/08/27(火) NY:AN:NY.AN ID:3mYqfNIT
悪逆大名たるもの、自分の最後が因果応報でなきゃ認められんな!

キリスト教における魔女退治の火あぶり刑で神の裁きの煉獄地獄行き信長
船頭にすら見捨てられ野垂れ死伊東義祐
悪行から家臣鍋島の島津への内通を呼び込みぶち殺され家を乗っ取られた龍造寺隆信
家臣も民も全てが甲斐追放を喜び、預かった今川からも迷惑料を請求され、30年以上経ってもう風化しただろと甲斐に戻ろうとしたら全力拒否された武田信虎
174人間七七四年:2013/09/05(木) 22:00:33.08 ID:o9Pkk1nV
>>170
庶流、嫡流の使い方が違う気がする。
家が大きかったら嫡流か?
175人間七七四年:2013/10/10(木) 11:26:02.03 ID:Z1Ug+wFm
晴信が武田家で傀儡として擁立されたころ
甲斐国は武田の支配した国中
小山田が支配した郡内
穴山の支配した河内
でほぼ三分されてる(少し国中が大きい程度)
この両者は独自に外交権を有して戦国領主として対等な立場にあったが、
天文末期に武田による介入が進み、介入からさらに国衆存続のための武田による保護へ変質した。
これは信玄による法整備と公正な裁判によるところが大きい。
たとえば郡内での領民の裁判などで、小山田一族の暴虐の裁きはまったく進まず
訴訟を信玄の元へ訴え、それを信玄が裁き、小山田の妨害を排したりと
介入し、さらに穴山などは信玄の発給文書様式と特徴を学ぶことで、
武田へ従属し領内権力基盤を安定させる方向性へ志向したのである。
つまり天文末期の晴信時代に武田氏はその内治裁判の先進的整備を通じて甲斐国での民意の支持を得て求心力を高め
国衆への介入と知識提供を通じて、甲斐国の統一権力への進化と臣従を進めていき、
その内治による国力伸張を背景に他の国衆を凌駕し、武田による安全保障体制を構築提供するに至った。

しかも国中には専横重臣ばかりで晴信政権はその家臣団によって擁立された。
これは斉藤道三や長尾為景などと同様に一国の主の資格なしとして否定された事例と同様である。

このような国家ビジョンを信玄は持っており、これを全国レベルで広めることこそが使命であったといえるだろう。
また信玄が作った分国法による法治国家構想は、源流を辿れば、戦国時代の秦国が韓非子の意見を容れて導入したものであり、
法治の最も重要なことは信賞必罰を君主がしっかり行使することであると述べており
信玄も出陣する際に、かならず多くの褒美用の準備を欠かさず用意していた。
秦国が全国統一できたのも法治に照らした信賞必罰であり、それに基づく富国政策である。
しかし秦帝国はすぐ滅んでしまった。中国史観ではその理由を人治ではなく、冷酷な法治のせいであるとした。
しかし、それが原因ではない。韓非子は始皇帝に皇帝であっても法に従わないとならないと強く説いたが受け入れられなかった。
そして二代皇帝は超法規的存在である皇帝であるがゆえに、法を守らず、皇帝の寵愛を受けた宦官もまた、皇帝の保護を受け
信賞必罰の原則も崩壊したからこそ秦帝国は滅亡したのである。
信玄は自分もまた法に従い、法によって罰せられる存在であることを明示したのである。
まさに立憲君主による法治国家を新国家構想に掲げたのである。
これは今川家の分国法にも見られない画期的先進性として高く評価されている。
まさに国家とは何かを知りつくしたのが信玄だろう。

>>平和な甲斐に生まれる
どこが平和だよw甲斐国は実質、武田、穴山。、小山田の三国の合同政権で
しかも武田の支配していた地域は専横家臣だらけ。
結局、その専横家臣団によって武田の集権化を進め統合しようとした信虎はくにを追放され
専横家臣団に都合が良い傀儡として信玄が擁立されただけ。
>>信玄に無条件で忠義を尽くしてくれる
そうではなく、専横家臣団の意向で信玄が当主に祭り上げられてたくらい武田当主なんて誰もやりたがらない傀儡守護職。
それは戦国時代に大半の守護が家臣による下克上で滅んでいることでもわかる。守護を延命させる方が難易度が高い。
>>信玄にやりたいように政治ができる
>>287のように信玄の国の整備と経営の努力によって指導力を発揮していったことを周りが認めていった結果だ。
国人たちによる合議政権だから信玄の意見だけで勝手なことができるわけねーだろ。
>>父親が、自分で身を引いて信玄に全権譲渡
そんなことどこにも書いてない。お前の妄想。
176人間七七四年:2013/11/09(土) 22:45:18.29 ID:sllwJW3k
徳川vs武田の戦い、二俣城があった。
http://mirai660.net/castle/
177人間七七四年:2014/01/22(水) 20:40:33.97 ID:VvbYEpdc
丸馬出の武田の城、諏訪原城の城ラマ。
http://mirai660.net/castle/suwaharajyoh_model.html
178人間七七四年:2014/01/23(木) 06:07:01.98 ID:sWIlPGn1
>>174
嫡流が安芸に乗り込んだんじゃなかったっけ?
(安芸ってか京だろうけど)
179人間七七四年:2014/03/22(土) 20:46:02.48 ID:0D5Wcx9N
【高根城(静岡県浜松市)】
http://mirai660.net/castle/takanejyoh_model.html
180人間七七四年:2014/04/26(土) 17:33:26.17 ID:YjOSTzuD
>>164
少なくとも武田が滅びることはなかっただろうな
181人間七七四年:2014/05/28(水) 00:00:46.01 ID:Z3ppUBgK
>>153
息子の信玄以上に先進的、かつ革新的。

一族、家臣、国人を躑躅ヶ崎館周辺への移住を強制し、
同時に直属の傭兵集団を抱え、大名権力の強化を推進した。
これが大きな反発を呼び、駿河に追放された。
だから、息子の信玄の時代には大名権力と言う点では、
やや後退している。
182人間七七四年
厳密に言うと在京守護である武田信虎とかは
家臣の掌握なんてまったくできてなかったからね。
しかも在京生活費を甲斐から搾取してるだけだから恨みすら買ってた。
同じ在京守護でも越後守護上杉房定などは在京を止めて越後へ帰国し
守護代長尾邦景・実景父子を攻め、邦景は自害させ守護権力を回復させ、
息子の上杉顕定を関東管領にし事実上の関東王状態になってるからね。
守護でも現地に滞在してるタイプはまだマシ。
ではなぜ、守護が在京を止めたのかと言うと、これは室町幕府が全国支配を放棄したから。
幕府は公田段銭賦課方式を止めて、一国ごとに百貫を賦課する一国百貫賦課方式へ変更。
これは百貫さえ幕府に納めれば、あとはいらないから好きにしろというもので、
守護による一国支配の可能性を開いたものだった。そこで守護は在京を止めて
権益確保のために任国へ下向する者が現れていった。
そして実質的な支配をして税をネコババしていた
守護代と国人の癒着の関係から現地対立が生まれていく。
上杉房定は速攻で守護代を排除して守護による支配を確立。

晴信が武田家で傀儡として擁立されたころ
甲斐国は武田の支配した国中
小山田が支配した郡内
穴山の支配した河内
でほぼ三分されてる(少し国中が大きい程度)
この両者は独自に外交権を有して戦国領主として対等な立場にあったが、
天文末期に武田による介入が進み、介入からさらに国衆存続のための武田による保護へ変質した。
これは信玄による法整備と公正な裁判によるところが大きい。
たとえば郡内での領民の裁判などで、小山田一族の暴虐の裁きはまったく進まず
訴訟を信玄の元へ訴え、それを信玄が裁き、小山田の妨害を排したりと
介入し、さらに穴山などは信玄の発給文書様式と特徴を学ぶことで、
武田へ従属し領内権力基盤を安定させる方向性へ志向したのである。
つまり天文末期の晴信時代に武田氏はその内治裁判の先進的整備を通じて甲斐国での民意の支持を得て求心力を高め
国衆への介入と知識提供を通じて、甲斐国の統一権力への進化と臣従を進めていき、
その内治による国力伸張を背景に他の国衆を凌駕し、武田による安全保障体制を構築提供するに至った。

しかも国中には専横重臣ばかりで晴信政権はその家臣団によって擁立された。
これは斉藤道三や長尾為景などと同様に一国の主の資格なしとして否定された事例と同様である。