1 :
家臣団の話題も可です:
人の一生は
重荷を負いて遠き道を行くが如し 急ぐべからず
不自由を常と思えば不足なし
人はただ 身の程を知れ 草の葉の
露も重きは 落つるものかな
※下賎の者(百姓)は過疎時のみ構って当て馬にしましょう!
2 :
人間七七四年:2010/11/03(水) 23:54:01 ID:r0D0CjOG
3 :
仙台藩百姓:2010/11/04(木) 00:28:37 ID:qJFJqhmp
家康の天下取りは我々現代人に多くのことを教えてくれる。
幼少期の人質時代に厚遇された幸運。信長の同盟に守られきった軟弱さ。
武田信玄に完敗。小牧・長久手でのお粗末な戦略。
豊臣政権下での忠犬ぶり。そしてからくも勝利した関が原。
天領400万石の圧倒的な徳川幕府。貧困に喘いだ250年。江戸は家光以後、参勤交代で人口が増え世界最大の都市の一つとなった。
東京が首都となったのは、明治政府の政策。(※正確に言うと首都ではありません)
死ぬまで階段をかけ上がらざるを得なかった虚しい人生。
4 :
人間七七四年:2010/11/04(木) 10:28:25 ID:HOdByelC
>>3 正確に言うと首都ではない?どこが真の首都ですか?
5 :
仙台藩百姓:2010/11/04(木) 12:28:00 ID:qJFJqhmp
>>4 日本は首都の定義が曖昧から分からないお( ^ω^)
首都機能があるのは東京で天皇の御座所は京都であるお( ^ω^)
戦前までは京都が首都で戦後は東京と見るべきかもしれないお( ^ω^)
6 :
人間七七四年:2010/11/04(木) 12:48:14 ID:HOdByelC
一般的には明治に京都から東京へ遷都したことになっていますが?
7 :
人間七七四年:2010/11/04(木) 22:07:29 ID:+ihej+F7
国際的には東京で承認されてるんだから東京じゃん。屁理屈こねるな。
8 :
仙台藩百姓:2010/11/04(木) 23:30:43 ID:qJFJqhmp
遷都はしていないお( ^ω^)
そもそも法的に首都が指定されていないから何処と言う事もないのだけれど( ^ω^)
近代統一国家が出来て200年近く経つのだからいい加減はっきり決めれば良いのだお( ^ω^)
9 :
人間七七四年:2010/11/04(木) 23:31:54 ID:JaIlFIRq
首都は必ずしも必要ない
首都機能があればいいだけの話。
天皇どうたらの弊害ももともと徳川のせいだな滅ぼさなかった。
10 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 05:53:54 ID:wKqNFl3p
11 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 07:47:40 ID:dMeWBcRt
リニアが通ったら、東美濃に首都機能移転して、
日本の東西対立を緩和し、政経分離し、
日本国は、完成する??
12 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 10:22:30 ID:iZT24qAf
関ヶ原の戦いは、その後の大戦争の基本
http://s1.shard.jp/deer/0203/39/266.html 徳川家康は、関ヶ原の戦い以前にも八百長の戦いを重ねていたが、
本格的な八百長の戦いはこれが初めてだった。
目的は、
自分の天下取りが実際は、暗殺・裏切り・謀略・買収などの、
非戦闘によって行われるのだが、これでは、天下を取っても、
「名誉あるサムライ」の地位も評判も得られない。
それで、家康は、大々的な八百長の戦を演じて、欲しいものを、
完全に手に入れた。
それだけではない。
当時、両替商、商品取引などで、既に大規模なマーケットが形成されており、
戦況を裏切ることで、莫大な差益も手に入れた。ついでに、
どさくさにまぎれて邪魔者を消し去った。
13 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 13:24:13 ID:CCNB+Ukb
>>12 > 当時、両替商、商品取引などで、既に大規模なマーケットが形成されており、
> 戦況を裏切ることで、莫大な差益も手に入れた。
これはなんなんだろうか?
14 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 16:54:10 ID:plYf2RHY
15 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 17:18:17 ID:QSvelU0p
ガチの戦闘では家康は勝ったことがないからな。
16 :
仙台藩百姓:2010/11/05(金) 17:40:03 ID:C5tbJVVP
いや、悪いところの間違いでしょお(;^ω^)
個人としてならともかく政治の曖昧さ程害のあるものはないお┐ (´ω`) ┌
しかも日本の政治の曖昧さは大概政治家の逃げ口上の為に成立しているようなもので
極めて危ういものを孕んでいるお┐ (´ω`) ┌
日本がどんなに軍事力を持っても、どんなに経済力を持っても
常に軽侮され風下に立たされるのは政治の不明さにあるのだお( ^ω^)
17 :
人間七七四年:2010/11/05(金) 18:46:30 ID:plYf2RHY
>常に軽侮され風下に立たされる
具体的にどんなこと?
18 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 06:00:44 ID:kO8lWvd+
彼は尖閣・竹島・北方領土・朝鮮学校の無償化・米軍の思いやり予算の増額
などのことを言いいたいのではないか。でも日本の軍事力はたいしたことはない。
19 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 08:32:22 ID:DWkwQUs6
20 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 09:15:43 ID:J8sq/yhG
>>18 そういう部分は確かにあるけど百姓は日本の一面しか見ていないな。
21 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 09:51:35 ID:kLZZFUoz
私は芸術家なのだが、徳川幕府により日本の芸術面も立ち遅れたのは
否めない。残念な人が天下を獲ると後世の人もつらい。
22 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 11:06:37 ID:qiJz1kGN
浮世絵や歌舞伎も知らないんですね。
23 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 13:06:54 ID:J8sq/yhG
ゴッホにも影響を与えたのにな。
24 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 17:39:29 ID:UA6HemqF
まさにガラパゴス的進化を遂げたのである。
25 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 21:16:19 ID:jD+ReoJI
芸術家というだけじゃな
言いにくいだろうけど、何の芸術でどいうことをやってるを明かさなければ何の役にも立たない
26 :
人間七七四年:2010/11/06(土) 21:21:16 ID:J8sq/yhG
ガラパゴスって別に批判されるようなことでもないのにね。
27 :
仙台藩百姓:2010/11/07(日) 14:52:01 ID:KLJ1SaXb
ガラパゴス化でも他に勝るなら全く構わないけど、低い次元で特殊な進化をしても意味ないお( ^ω^)
>>21 確かに室町後期から桃山時代にかけて海外から様々な技法が入り日本の芸術界は飛躍し(江戸時代の芸術は殆どがこの流れを汲む)
幕末から明治にかけて再び欧州などから様々な技法が入り飛躍したおね
物事が成長するには刺激が必要だお( ^ω^)
>>22 別に幕府が鎖国したから浮世絵や歌舞伎が生まれたわけではあるまいお( ^ω^)
まして幕府は弾圧する事はあっても支援や奨励をする事はなかったし
徳川幕府は全く関係ないお( ^ω^)
28 :
人間七七四年:2010/11/07(日) 15:28:17 ID:wK2xInfX
29 :
人間七七四年:2010/11/07(日) 18:53:53 ID:Ki8BwTXS
ヨーロッパに精神的侵略をされるのを文化の発展っていうのか?
30 :
な:2010/11/07(日) 20:14:42 ID:W9OywMk0
芸術に上下は無い
31 :
人間七七四年:2010/11/10(水) 12:55:19 ID:Qq2IMC3l
おい、そこの下賎の者出てまいれ!
32 :
人間七七四年:2010/11/11(木) 17:29:22 ID:SfrKXaQM
目安箱に投書するぞお前!
33 :
人間七七四年:2010/11/11(木) 20:42:21 ID:3Bgui4wR
浮世の夢は暁の空
34 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 14:36:14 ID:46IhP63q
なんか司馬遼太郎の家康関連の本読んでて思ったのは、家康は天下統一とかを考えたことはなくて
ただ、自家の存続と、従属に甘んじても心の底では決して独立自尊を志向する気持ちを決して捨てない
この二つの目的をただ生涯守り続けた結果、それが天下統一という形になったって印象を持った。
明確に天下統一を目指した信長。秀吉は漠然と自分の未来の途方もない大きな幸福を予感しながら生きていた感じ
この二人と違って、家康は行動の原動力が、幸福を目指すような気持ちがなく、ただ受け入れられない不幸や屈辱を避けるのが原点みたいな印象。
35 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 21:10:46 ID:2MjMhZOv
司馬の見方が間違い。
36 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 21:22:14 ID:o8OpJteL
小説読んで思ったことはどこまでいっても小説の感想でしょ
37 :
人間七七四年:2010/11/14(日) 23:22:18 ID:5TJtgSX9
信長は現実には天下統一に一番遠いから常にそれを意識する必要があったということ
家康はその逆
38 :
人間七七四年:2010/11/15(月) 21:49:26 ID:cVZlpbWa
39 :
人間七七四年:2010/11/15(月) 22:12:33 ID:Q5W2IQ4S
40 :
人間七七四年:2010/11/16(火) 10:24:03 ID:Vuj0YM9q
>>34 小説じゃないものに触れたらまた印象が変わると思うよ
41 :
あ:2010/11/19(金) 05:17:03 ID:k6fJl2Yq
司馬と松本清張の対談が面白かったな
秀吉ひいきVS家康ひいきだったな
42 :
人間七七四年:2010/11/19(金) 14:11:20 ID:qkz4IGYJ
信長びいきが同席したら三つ巴になったのに
43 :
人間七七四年:2010/11/20(土) 02:46:36 ID:n4KXD2rt
秀吉と家康ひいきは信長ひいきに威張られるのがイヤだから三つ巴にはならんかな。
44 :
あ:2010/11/20(土) 08:42:27 ID:oC5yWlAb
信長びいきは津本や遠藤周作とかなのかな?
しかし熱い三つ巴対談があったら凄まじそうだ
もちろん酒飲みながらの対談で
45 :
人間七七四年:2010/11/20(土) 17:56:34 ID:dfhopVE5
津本陽は信長びいきだと思うな。
遠藤周作は母方の祖先が竹井将監で、
秀吉の中国攻めで、加藤清正に一騎討ちで討たれていたり、
遠藤周作自身がキリシタンだとの理由から、
信長の才智は評価するけど、絶対に上司にはしたくないと言ってる本を読んだことある。
46 :
人間七七四年:2010/11/20(土) 18:22:15 ID:SUQ+wyCU
小説の論評はよそでやってくれ
これは命令だ
47 :
人間七七四年:2010/11/20(土) 18:29:52 ID:dfhopVE5
地方の小大名スレならいざ知らず、徳川のスレで荒れてもないのに細かすぎるのも困り者だね。
若い子らは小説くらいからしか入るとこないのにな
48 :
人間七七四年:2010/11/20(土) 18:36:25 ID:9wswRwle
いや、
>>45ぐらいまで脱線したらそろそろスレチだろ
49 :
人間七七四年:2010/11/20(土) 18:48:50 ID:SUQ+wyCU
そうだ。さっさと話をもとに戻せ!この下郎が!
50 :
人間七七四年:2010/11/20(土) 18:53:52 ID:dfhopVE5
>>49 オマエ、ネットだからすむけど、
リアルでそれ言ってみろ
殴られて土下座するハメになるぞ(笑)
51 :
人間七七四年:2010/11/20(土) 18:58:55 ID:SUQ+wyCU
渡り中間の分際でほざくな!そうそうに下がらねば、旗本八万騎が黙ってはおらぬぞ!
52 :
人間七七四年:2010/11/20(土) 19:39:50 ID:OFtAUPND
旗本8万騎ってあまり活躍してないよな
53 :
人間七七四年:2010/11/20(土) 19:42:55 ID:Su8fwZWP
活躍せんでええように政治を行っていたら本当に役立たずになってしまったでござる
54 :
人間七七四年:2010/11/20(土) 20:27:27 ID:1FtMV9TP
旗本って町人に嫌われていたらしいね
55 :
人間七七四年:2010/11/20(土) 23:51:57 ID:96Xp5Z0E
ネット番長が居ると聞いて飛んで来ました。
56 :
人間七七四年:2010/11/20(土) 23:52:54 ID:Su8fwZWP
飛んだ割には遅いよね
57 :
人間七七四年:2010/11/20(土) 23:57:29 ID:6cUVjI6i
マジレス大会
58 :
人間七七四年:2010/11/22(月) 12:40:00 ID:WLe4zija
週末日光に行ってたんだけど、
何であの辺って宿泊費がべらぼうに高いんだろうな?
世界遺産だから殿様商売でもしてるのか?
59 :
人間七七四年:2010/11/22(月) 13:19:43 ID:GMKBpuw1
避暑・保養地の歴史からかと
60 :
あ:2010/11/22(月) 14:31:42 ID:PzT3ofrh
日光東照宮を実際に家康が見たら派手で怒ってるだろうな
61 :
人間七七四年:2010/11/22(月) 16:39:19 ID:GMKBpuw1
質素は既に伊勢神宮が極めてしまっているからね
それに対比させるという意味で東照宮は派手にしなければならなかった
62 :
人間七七四年:2010/11/22(月) 20:11:42 ID:rF/mmvTK
日光は久能山の劣化コピーだと思ってる(`・ω・´)
63 :
人間七七四年:2010/11/22(月) 21:12:18 ID:XfOEbemP
日光東照宮が派手なのは諸大名より豪華にしないと幕府の面目が立たないという切羽詰った事情があった
日暮しの門といわれたのは日光東照宮だけでなく、大名屋敷の門も結構派手だったらしい
64 :
人間七七四年:2010/11/22(月) 21:24:03 ID:f8bmrdBu
その割りに、墓所がショボ過ぎて
悲しくて傍らで泣いたぞ。
65 :
人間七七四年:2010/11/22(月) 21:31:29 ID:O3iZohma
そりゃ抜け殻が置いてあるだけの場所だからな
66 :
人間七七四年:2010/11/22(月) 22:12:01 ID:GMKBpuw1
祭祀と鎮座は異なる物
67 :
仙台藩百姓:2010/11/23(火) 07:20:36 ID:OhtI8o/E
頼朝や尊氏の廟所と比べると徳川はいかにも成り上がりの成金趣味だけど
やたら派手にゴテゴテ付けとけば喜ぶ庶民や外国人には持ってこいで
結果的にはよい観光地にはなったおね( ^ω^)
庶民的思考の徳川家ならではだお( ^ω^)
68 :
人間七七四年:2010/11/23(火) 10:43:36 ID:XYw0bALT
69 :
人間七七四年:2010/11/23(火) 12:09:01 ID:/Qn7piJt
頼朝や尊氏は庶民が旅行を楽しめる国を作れなかったからね
70 :
人間七七四年:2010/11/23(火) 18:24:31 ID:uMpUpDra
幕府の創始者はそんな暇ないだろ普通
71 :
仙台藩百姓:2010/11/25(木) 12:40:07 ID:rqg60Ddd
>>69 旅行を楽しめない国を作ったのは徳川だお( ^ω^)
徳川幕府は海外に対してだけでなく国内に対しても移動の自由を奪ったお( ^ω^)
まあ、結局は閉鎖的な社会に嫌気がさして御蔭参りなどという形で民衆の不満が爆発し
幕府も弾圧する力を失っていた事もあって黙殺するようになっていったけど( ^ω^)
72 :
人間七七四年:2010/11/25(木) 12:55:30 ID:DFhhTkTS
その割にはギリギリ100万の何ちゃって都市じゃないか。
仙台の仕事して初めて知ったwww
73 :
仙台藩百姓:2010/11/25(木) 15:08:14 ID:rqg60Ddd
突然何を言い出すのだお( ^ω^)?
話しの流れが全く掴めないお( ^ω^)…
74 :
人間七七四年:2010/11/25(木) 16:03:17 ID:2mzOMcAs
>>71 お伊勢参りは江戸時代の流行じゃなかったでしたっけ?
75 :
人間七七四年:2010/11/25(木) 22:50:17 ID:Z7LtvQ3N
>>74 そりゃ、ガス抜きの一つぐらいは作らないとね。
お伊勢参り一つとって、江戸時代は移動の自由があった、という気はあるまい。
76 :
人間七七四年:2010/11/26(金) 03:12:18 ID:u+U7CTJo
幕府が旅行を楽しめるようにしたというなら偽だろうけど
旅行を楽しめるような国を作ったというのは間違いじゃないってことだよな
77 :
仙台藩百姓:2010/11/26(金) 12:42:45 ID:igglbOUs
>>74 その伊勢参り(御蔭参り)こそが自由が無かった事の象徴なのだお( ^ω^)
遊びの旅行などは認められなかったから宗教行事に託けて旅行するしかなかったのだお( ^ω^)
しかもこれだけが一生唯一の楽しみだったという悲しさ┐ (´ω`) ┌
しかし幕府はそれすら禁止したけど結局無視されて続けられていただけだお( ^ω^)
>>76 徳川幕府は旅行すら楽しめない国を造ったのだお( ^ω^)
78 :
人間七七四年:2010/11/26(金) 18:21:29 ID:kPvIccu2
現代みたいに完全に移動フリーにすれば良かったのに
79 :
人間七七四年:2010/11/26(金) 18:59:06 ID:bLqKoJEk
旅行のガイドブックだってあったじゃん。旅行楽しめたよ。何考えてるの
80 :
人間七七四年:2010/11/26(金) 21:30:39 ID:kPvIccu2
家康が天下を取らなかったら、日本は太平洋戦争で勝てた!
81 :
人間七七四年:2010/11/26(金) 21:55:28 ID:KMD6KxAf
(`∨´){イイイイイィィィェェェェェッャァッス!!!!(あいさつ)
さて、今日は徳川家康受を布教するため俺オススメBASARA家康受ハイクオリティサイト集をプレゼントしちゃう!
つ俺サイトだぜ!
http://hp.xxxxxxx.jp/yamadate/ ところで私は私は家康たんが
幼年期と肌のいちばん熟れた日本一えらい女帝時代を過ごしたS県に住んでるんですが
しかし某独眼竜県ほどたくさんの腐女子が来ちゃくれません
もっと来いやあ! おれは家康受がマイナーなんて信じねぇぜ…! (●0^)
ああともだち欲しい!!!
家 康 受 ツ ア ー や り ま せ ん か ! ? (こいつ必死だな…ドキッ!)
家康受けの同士の皆さんと巡りたいです!!!
もちろんゆかりの地では腐った話を交えつつ、そして密室でたっぷり濃密に語り合いませんか(笑)
家康たん受けの皆さーーん!お待ちしてます…!!
ぜひ!!!!
これが家康たんも愛したwwwww/(●0^)\フッジッサーン!
82 :
人間七七四年:2010/11/26(金) 23:38:42 ID:Nmj9OiZN
とりあえずURLで透明あぼんした
83 :
人間七七四年:2010/11/27(土) 07:36:57 ID:IkOYPaGx
>>77 旅行を楽しんでいる人がいたのに楽しめない国を作ったというのは無理な話だよ
それまで旅行を楽しめるような国だったわけじゃないんだし
84 :
人間七七四年:2010/11/27(土) 09:37:25 ID:XIgrwfUq
アンチの脳内歪曲の典型だろ
当時の日本以上に庶民が安全で快適に旅行を楽しめる国があったら教えてほしいくらいだ
85 :
人間七七四年:2010/11/27(土) 16:32:19 ID:ihYuQLOl
宗教的な聖地への集団巡礼は世界中に太古から掃いて捨てるほどあるんじゃね
伊勢参りを行うような、ある程度の収入のある町人階級が
農業従事者が人口中絶対的多数を占めた近世封建社会で
「庶民」であるかどうかは微妙だし、
安全で快適だったかは比較資料が少なくて良く分からん
むしろ信者が江戸時代を美化しすぎてるだけだと個人的には思う
86 :
人間七七四年:2010/11/27(土) 19:47:32 ID:MIMzUIJb
江戸時代は暗黒期
87 :
人間七七四年:2010/11/27(土) 23:40:11 ID:IkOYPaGx
>>85 農民も伊勢参りしてたみたいだよ?
それと別に商業や軽工業やサービス業に従事しているような人たちが増えたのも
安定した国家運営が可能になったからじゃない?
88 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 14:12:23 ID:gYByXxss
>>87 国が平和になったからあちこち旅できるようになったわけで
江戸幕府=平和は間違いない
89 :
人間七七四年:2010/11/28(日) 23:37:16 ID:O7NwKhxL
y
90 :
仙台藩百姓:2010/11/29(月) 07:56:03 ID:J7NJ4Xtp
伊勢参りは元々デモみたいなものじゃんお( ^ω^)
幕府は弾圧する事はあっても楽しめるような法令を出した事などないお( ^ω^)
これは幕府の法令を破って民衆が実力で勝ち得た習慣であって
言うなれば民衆が作ったのだお( ^ω^)
それに江戸時代が特別治安良かったような事言う人いるけど
全時代を通しての犯罪率なんて分かっていないのに何を根拠にそんな事言っているのだお( ^ω^)
各地で頻繁に戦が行われていた戦国時代でさえ人々の往来が活発であった事を鑑みれば
いかにも胡散臭気な話しだと気付くはずだお( ^ω^)
91 :
人間七七四年:2010/11/29(月) 08:17:35 ID:fNG3pPOw
でも江戸時代の庶民は旅行を楽しんでいたんでしょ?
ならそういう国を作ったことは否定しようがない
どんなに理屈をこねても事実は覆せない
92 :
人間七七四年:2010/11/29(月) 08:19:55 ID:eaLnVBVl
さすがに戦国時代よりは治安は良かったんじゃないの?w
93 :
人間七七四年:2010/11/29(月) 08:57:31 ID:BhrhkM75
松尾芭蕉とかいたし、東海道中膝栗毛だってあった。旅行のガイドブックだってあった。
もし旅行ができないのだったら、民衆を惑わしたと言って発禁処分になってるだろ。
94 :
月孔雀:2010/11/29(月) 17:41:55 ID:LJVYodoJ
戦国時代は発展期であり、状況は約30〜40年前の高度成長と似ている。
高度成長期の日本は、世界一治安のいい国といわれた。
安定期に入った現在の日本は、江戸時代に入った日本と似ている。
経済成長しない状況では、治安が悪くなるのではないかと思う。
95 :
人間七七四年:2010/11/29(月) 19:08:40 ID:eaLnVBVl
>>90の言う通り全時代を通じての犯罪率とか分かってないんだから水掛け論
96 :
人間七七四年:2010/11/29(月) 20:32:32 ID:OZ3ZJalZ
97 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 00:45:36 ID:irlWUWux
これが足利王国の全貌だ
【岡崎市中心部地区】 ←現在の岡崎城周辺
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理、鎌倉末期は足利尊氏の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高一族(足利根本被官)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(統持寺)が屋敷跡に建てられる)
【岡崎市北部地区】←岡崎市中心部地区より北に5キロ
・足利宗家の屋敷(足利尊氏の墓あり)
・上杉一族(足利被官、下野守護他)の屋敷 ←足利宗家の屋敷より南に1キロ
・細川一族(管領家、阿波守護他)の屋敷及び3つの城 ←足利宗家の屋敷より北に3キロ
・仁木一族(幕府執事・伊賀守護他)の屋敷及び城(仁木城) ←足利宗家の屋敷より北に4キロ
【岡崎市南部地区】
・上地一族(細川氏分家)の屋敷 ←足利宗家の屋敷より南に10キロ
・上地一族(仁木氏分家)の屋敷 ←足利宗家の屋敷より南に10キロ
【豊田市中心部地区】
・中条一族(尾張守護)の屋敷と城(金谷城) ←源頼朝ゆかり高橋荘地頭、有力御家人 ←足利宗家屋敷より北に10キロ
【豊田市南部・安城市地区】
・上野一族(石見守護等)の屋敷と城(上野城) ←足利宗家の屋敷より西に3キロ
・斯波一族(管領家、奥州管領、北陸探題)の屋敷 ←足利宗家の屋敷より南西に4キロ
・石橋一族(将軍御一家、備前守護他)の屋敷 ←足利宗家の屋敷より南西に4キロ
【西尾市幡豆郡地区】
・西条吉良一族(将軍御一家)の屋敷と城(西尾城) ←足利宗家の屋敷より南に15キロ
・奥州吉良一族(奥州管領、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城) ←足利宗家の屋敷より南に15キロ
・一色一族(四職、九州探題、丹波守護他)の屋敷 ←足利宗家の屋敷より南に20キロ
・今川一族(将軍御一家、九州探題、駿河守護他)の屋敷 ←足利宗家の屋敷より南に15キロ
・荒川一族(戸賀崎氏分家)の屋敷 ←足利宗家の屋敷より南に15キロ
98 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 01:14:43 ID:c9d+33RT
>>96 庶民は一般的な民衆で、特殊な階級に偏っていないことでしょ
なんで定義をやり直す必要があるんだ?
99 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 01:24:45 ID:T/0KdxpB
「江戸の庶民」という言葉で想起される
貧乏長屋の住人たちだって江戸時代では超勝ち組
彼らは一生に一度伊勢参りに行けたかもしれないが、
大多数の農民にとっては伊勢参りなど夢の話だった
100 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 01:45:55 ID:irlWUWux
これが足利王国の全貌だ(訂正)
【岡崎市中心部地区】 ←現在の岡崎城周辺
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理、鎌倉末期は足利尊氏の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高一族(足利根本被官)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(統持寺)が屋敷跡に建てられる)
【岡崎市北部地区】←岡崎市中心部地区より北に5キロ
・足利宗家の屋敷(足利尊氏の墓あり)
・上杉一族(足利被官、下野守護他)の屋敷 ←足利宗家の屋敷より南に1キロ
・細川一族(管領家、阿波守護他)の屋敷及び3つの城 ←足利宗家の屋敷より北に3キロ
・仁木一族(幕府執事・伊賀守護他)の屋敷及び城(仁木城) ←足利宗家の屋敷より北に4キロ
【岡崎市南部地区】
・上地一族(細川氏分家)の屋敷 ←足利宗家の屋敷より南に10キロ
・上地一族(仁木氏分家)の屋敷 ←足利宗家の屋敷より南に10キロ
【豊田市中心部地区】
・中条一族(尾張守護)の屋敷と城(金谷城) ←源頼朝ゆかり高橋荘地頭、有力御家人 ←足利宗家屋敷より北に10キロ
【豊田市南部・安城市地区】
・上野一族(石見守護等)の屋敷 ←足利宗家の屋敷より西に3キロ
・斯波一族(管領家、奥州管領、北陸探題)の屋敷 ←足利宗家の屋敷より南西に4キロ
・石橋一族(将軍御一家、備前守護他)の屋敷 ←足利宗家の屋敷より南西に4キロ
【西尾市幡豆郡地区】
・西条吉良一族(将軍御一家)の屋敷と城(西尾城) ←足利宗家の屋敷より南に15キロ
・奥州吉良一族(奥州管領、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城) ←足利宗家の屋敷より南に15キロ
・一色一族(四職、九州探題、丹波守護他)の屋敷 ←足利宗家の屋敷より南に20キロ
・今川一族(将軍御一家、九州探題、駿河守護他)の屋敷 ←足利宗家の屋敷より南に15キロ
・荒川一族(戸賀崎氏分家)の屋敷 ←足利宗家の屋敷より南に15キロ
101 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 01:47:52 ID:a+FKvS2a
それは農業が近代化されるまでどの時代でも同じだわな
102 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 01:48:29 ID:irlWUWux
さて尾張国の長きに渡り支配者層であった斯波一族であるが
足利義満ゆかりの禅僧である、義堂周信の書いた「空華集」によると
「三河国碧海郡碧海荘は、管領家の斯波義将の墳墓の地である」と書いてある
墳墓の地とは、先祖の墓がある地、故郷とかの意味
要するに一般的に呼ばれる尾張足利氏とは、タダ尾張守に由来するだけで、尾張とは全く縁がなく
西三河人が西三河に住みながら、尾張守であったワケだな
初代斯波氏である斯波家氏は、父親から陸奥国紫波郡の地頭職を相伝する一方
祖父からは三河国碧海郡碧海荘の地頭職を相伝した
一族の本拠地は名前の由来である陸奥国紫波郡ではなく、西三河の三河国碧海郡碧海荘であった
103 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 01:50:57 ID:irlWUWux
足利尊氏の後醍醐天皇討伐に集結した三河武士軍団を紹介しよう
【足利一族】
仁木氏、上地氏(仁木氏流)、戸賀崎氏、荒川氏(戸賀崎氏流)、細川氏、上地氏(細川氏流)畠山氏、今川氏
斯波氏、一色氏、上野氏、石橋氏(斯波氏流)、石堂氏、関口氏(今川氏流)、入野氏(今川氏流)、木田氏(今川氏流)
東条吉良氏、西条吉良氏、渋川氏、桃井氏、岩松氏
【足利被官】
高氏、上杉氏、倉持氏、粟生氏、伊勢(藤原氏流)、板倉氏、大平氏(高階流)、大谷氏(坂上氏流)、小野田氏、和田氏
■仁木氏(三河国額田郡仁木)
・藤原李兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原李範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→その娘(初代足利氏の足利義康の室)→足利義清→足利義実→仁木実国(初代仁木氏)
仁木義勝、仁木頼章、仁木義長、仁木頼勝、仁木頼直、仁木義有、仁木義基
■一色氏(三河国幡豆郡一色)
・ 藤原李兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→その娘(初代足利氏の足利義康の室)→足利義兼→足利義氏→足利泰氏→一色公深(初代一色氏)
一色範氏、一色直氏、一色範光、一色頼行
■上野氏(三河国碧海郡上野)
・ 藤原李兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→その娘(初代足利氏の足利義康の室)→足利義兼→足利義氏→足利泰氏→上野義弁(初代上野氏)
上野頼遠、上野頼兼
■石堂氏(不明)
・ 藤原李兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→その娘(初代足利氏の足利義康の室)→足利義兼→足利義氏→足利泰氏→石堂頼茂(初代石堂氏)
石堂義房、石堂頼房
■細川氏(三河国額田郡細川)
・藤原李兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原李範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→その娘(初代足利氏の足利義康の室)→足利義清→足利義実→細川義李(初代細川氏)
細川和氏、細川頼春、細川師氏、細川頼貞、細川顕氏、細川貞俊、細川政氏
■斯波氏
・藤原李兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→その娘(初代足利氏の足利義康の室)→足利義兼→足利義氏→足利泰氏→斯波家氏(初代斯波氏)
斯波高経、斯波家兼
■今川氏(三河国幡豆郡今川)
・ 藤原李兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→その娘(初代足利氏の足利義康の室)→足利義兼→足利義氏→吉良長氏→今川国氏(初代今川氏)
今川範国、今川範氏、今川国満、今川頼基、今川頼貞、今川頼周
■吉良氏(三河国幡豆郡吉良)
・ 藤原李兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→その娘(初代足利氏の足利義康の室)→足利義兼→足利義氏→吉良長氏(初代吉良氏)
吉良貞家、吉良貞経、吉良氏家、吉良貞義、吉良満義、吉良満貞、吉良尊義
104 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 02:06:21 ID:irlWUWux
何故名古屋は田舎臭く、頭が悪いのか?これが結論
「歴史上一貫して支配者は西三河から来ている、尾張土着は田舎臭く馬鹿なのはあたりまえ」
■尾張の歴史■
◆平安時代〜鎌倉時代◆
・熱田大宮司職を藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)乗っ取られる
・以後荒廃していた熱田神宮は、藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)の血縁である源氏(鎌倉将軍家、足利将軍家)と結びつき発展する
*藤原李兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→由良御前→源頼朝
*藤原李兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→その娘(初代足利氏の足利義康の室)→足利義兼
◆鎌倉時代〜室町時代◆
・中条氏(本拠地は三河国高橋荘地頭職、尾張守護)
・斯波氏(本貫地:三河国碧海郡、尾張守)
*藤原李兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→その娘(初代足利氏の足利義康の室)→義兼→義氏→泰氏→斯波家氏(初代斯波氏)
同時期に三河国居た親族(足利一門)
・吉良長氏(父親の兄、幡豆郡吉良)
・吉良義継(父親の弟、幡豆郡吉良)
・吉良満氏(吉良長氏の長男、従兄弟、斯波家氏の姉もしくは妹が室、幡豆郡吉良)
・今川国氏(吉良長氏の次男、従兄弟、幡豆郡今川)
・吉良経氏(吉良義継の長男、従兄弟、幡豆郡吉良)
・一色公深(弟、幡豆郡一色)
・上野義弁(弟、加茂郡上野)
◆室町時代◆
・斯波氏(本貫地:三河国碧海郡、尾張守)、今川氏(本貫地:三河国碧海郡今川)、一色氏(本貫地:三河国幡豆郡一色)が支配する
◆江戸時代◆
・尾張の支配層は追放され、尾張徳川家が支配する
・附家老は成瀬家(三河国額田郡)、その他平岩家(三河国額田郡)、渡辺家(三河国額田郡)、中根家(三河国額田郡)、鈴木家(三河国加茂郡)
◆現代◆
トヨタのパシリとなる
105 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 13:13:05 ID:n+Hnq8Hg
大奥って無駄遣いの巣窟だよな。
106 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 13:49:58 ID:nhTalgUH
現代にも大奥を復活させたらイイのに。そうすれば世継ぎ問題なくなる。皇室典範の改定なんて必要なくなる。
107 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 15:38:26 ID:3GQjSsjM
宮家の復活の方が現実的
108 :
仙台藩百姓:2010/11/30(火) 17:25:33 ID:79Tgexef
大河ドラマ「江 〜姫たちの戦国〜」
天下分け目の戦いは、女たちの心の中にこそあった
いつ果てることもない戦乱に翻弄され、愛する人を次々と失い、明日への希望を抱くことも叶わない戦国の世──。
乱世の苦しみを誰よりも味わいながら、太陽のような温かい愛で天下太平を願い、たくましく生き抜いた女性たち。
彼女たちの、たくさんの涙が、たくさんの頬笑みが、たくさんの愛が、次なる平和と繁栄の時代への礎となっていく──。
【チーフ・プロデューサー 屋敷 陽太郎】
田渕久美子さんの骨太な物語展開と、魅力的な登場人物たちの奥行きある人間ドラマは、まさに"愛"にあふれています。
その愛を豊かに表現していただくために、お一人お一人に激しい情熱をもって番組への参加を呼びかけました。
スタッフ一同、出演者の皆さんの演技に負けないよう、創造性に富んだ収録現場作りを目指します。
ぜひ、田渕ワールドを楽しみながら、視聴者の皆さんに深く共感していただけるドラマを一緒に作っていきましょう!
「テレビは愛」で、あり続けるために。
109 :
人間七七四年:2010/11/30(火) 21:15:45 ID:T/0KdxpB
大奥ってやたらと乳幼児死亡率が高かったみたいだし、
ぶっちゃけ将軍の子供製造施設としても落第でしょ
莫大な国費を使ってろくに将軍の後嗣も作れず、
かと言って大奥の連中から何か後世に残るような
宮廷文化が生まれたかと言うとそうでもない
本当にメリットが思いつかない
110 :
人間七七四年:2010/12/01(水) 22:41:05 ID:qn40b67+
長文全部透明あぼんにした
ただの荒らしにしか見えんわ
111 :
人間七七四年:2010/12/02(木) 01:50:08 ID:chekMqqi
足利尊氏関連史跡一覧
高隆寺(岡崎市):七堂伽藍造営
滝山寺(岡崎市):足利氏菩提寺、寺領寄進
天恩寺(岡崎市):尊氏遺言の寺、3代将軍義満建立、4代将軍義持祈願所
真福寺(岡崎市):持地院建立
満性寺(岡崎市):太子信仰、尊氏弓矢の守護神、高氏一族の菩提寺
竜泉寺(岡崎市):日静(尊氏の母の弟)開基、元は上野氏(足利一族)の竜泉寺城
統持寺(岡崎市):高氏屋敷跡に高師泰(高師直の兄)の娘が建立、足利尊氏と足利義満の支援あり
長瀬八幡宮(岡崎市):社殿復興(火災による)、板倉氏(足利一族)を神主に、初代奥州吉良氏である吉良義継(法名:長瀬四郎)ゆかり
糟目犬頭神社(岡崎市):庇護(百貫文寄進)、北朝側の鈴木氏ゆかり、新田義貞の首塚あり
八剣神社(岡崎市):屋敷跡か?、足利尊氏の墓あり
金蓮寺(吉良町):真言宗光福寺の子院を現在の場所に移転、再興する
勝楽寺(吉良町):創建、お手植えの松あり
饗庭神社(吉良町):新田開発による一宮、二宮、三宮鎮守、その内の二宮、饗庭城跡、饗庭命鶴丸氏直(花一揆武士団大将)が関係
実相寺(西尾市):安国寺指定、尾張国の安国寺の代わりらしい、尾張国に安国寺があった資料なし
安国寺(幸田町):三河安国寺、全国66ヶ国2島の安国寺の一つ
冨賀寺(新城市):真応上人(尊氏の従兄弟)が住職、祈願寺として、田地180町を寄進し、本堂・中堂・護摩堂・阿弥陀堂ほか、大坊・中谷坊・杉本坊・法寂坊等の坊舎18坊を造営した
赤岩寺(豊橋市):阿弥陀如来坐像寄進
112 :
人間七七四年:2010/12/04(土) 10:46:10 ID:wr8Qoew7
百姓も書き込まなくなるほどの荒らしなのかよ
113 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 14:40:43 ID:LbQdBiTG
ふと思ったんだけど、武士としては
武田勝頼家からさっさと徳川家へ鞍替えした
時流の分かる殿様と
滅亡寸前?まで忠義を尽くしてから徳川家へ寝返った殿様では
どちらが幕府には評価されていたの?
現代武士としては後者とあって欲しいものだ(′・_・`)
114 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 15:19:47 ID:EuanWUDo
譜代は30万石まで?
外様はそれ以上でもOK。
っていうのは、江戸幕府としては、陪臣が力を持つのを嫌ったから?
ちょと話違ったかな。
115 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 17:39:12 ID:qj5cF744
>>114 一種の、権威と権力の分散、ってとこかな。
うまい作戦だとは思うけどね。
116 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 01:47:04 ID:P+GByiXF
おまえたちは徳川家直下の武将、他とは格が違う
だから徳川家の石高の一部もお前たちのものと考えればよい
という密約があった・・・なんていう話はないのか
117 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 02:06:34 ID:xeMwUdbr
そらガンガン潰される外様の大身よりも
その1/3でも古参のほうが安泰だよな。
118 :
仙石藩百姓:2010/12/06(月) 08:12:28 ID:2ipMJIvr
家光までに外様はあらかた潰したから家綱以降は親藩譜代の改易が多いお( ^ω^)
安泰なのは宗家と御三家ぐらいだお( ^ω^)
119 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 09:04:32 ID:bXB37uxC
御三家筆頭でありながら将軍を輩出できなかった尾張カワイソス
120 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 12:04:15 ID:rDtzGGS3
>>119 やらかしちゃったのがいるからねぇ。
あれ、名古屋では英雄視されてるんだが、普通の評価はどうなの?
121 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 17:33:06 ID:JrOPvN56
平安時代と江戸時代は、どっちが平和だったのだろう・・・
庶民は、どっちが暮らしやすかった?
平安時代の庶民の暮らしが想像できなくて・・・
スレ違いかな。
桓武天皇と徳川家康を比較しても意味ないかな?
122 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 18:01:35 ID:rDtzGGS3
>>121 評価の基準にもよるけど、長く平和が続いた、という意味では
どっちもいい勝負じゃないかな。
確かに平安は想像もつかないけど、江戸は思ったよりかはいい時代だったろう。
電気が通り車が普及するまでは山村部なんてついこないだまでは
江戸と同じようなもの。
わしのお爺ちゃんのおっかさんなんて老後まで魚を食べたことないなんて言ってたし。
でもそれなりに長生きして平和にやってたし、そういう世の礎を築いた家康は
たいしたもんだと思うよ。
123 :
人間七七四年:2010/12/06(月) 21:48:46 ID:N/PYZ7IG
昔から家康直近に仕えてた武将は
特別な位置にいなかったっけなあ・・・
だから石高では計れないものがあるっていう
なんかで読んだ希ガスるうううううううううううううう
小説とか漫画じゃないよ
124 :
人間七七四年:2010/12/07(火) 15:51:22 ID:t8Ol2tz5
125 :
人間七七四年:2010/12/07(火) 18:59:59 ID:8Ol/9RlP
>>121 平安時代は、全国的に土地の私有化(荘園支配の拡大)が進んだことによって
地方には中央政府の統治が行き届かなくなり、荘園領主はやりたい放題。
国の役人である国司だって数年で転勤するから、在任時は搾れるだけ搾り取る。
一方、庶民は重税を課せられたり跋扈する盗賊に脅かされたり飢饉や疫病に苦しめられたり、
まあ暗黒時代といっても過言ではない。
平安時代が平安だったのは、皇族と高級貴族と大寺院の坊主だけ。
126 :
人間七七四年:2010/12/08(水) 09:13:52 ID:0zU0Lcjy
>>125 まるで現在のようですな。
国家公務員が数年で転勤するのを聞くといつも平安時代思い出したりする。
127 :
人間七七四年:2010/12/08(水) 12:18:09 ID:5/XbvW2m
室町幕府樹立後(初期)の西三河人(西三河生まれ西三河育ち)の日本支配構造
【東海道】
・伊賀国守護:仁木義直、細川清氏、中条長秀、仁木義長
・伊勢国守護:仁木義長、石堂頼房、細川清氏、細川頼之
・志摩国守護:仁木義長、石堂頼房、細川清氏、細川頼之
・尾張国守護:中条秀長
・三河国守護:仁木義長、一色範光
・伊豆国守護:石堂義房
・遠江国守護:今川範国、仁木義長、今川範氏
・駿河国守護:石堂義房、今川範国、今川範氏
・相模国守護:中条秀長
・武蔵国守護:仁木頼章、仁木義長
・安房国守護:斯波家長
【畿内】:大和国は不設置
・摂津国守護:仁木頼有、細川繁氏
・和泉国守護:細川顕氏、細川業氏
・河内国守護:細川顕氏
【北陸道】
・若狭国守護:斯波(大崎)家兼、斯波高経、斯波氏頼、細川清氏、石橋和義
・越前国守護:斯波高経、細川頼春、斯波氏経
・能登国守護:吉見頼顕、吉見頼隆 ←(参考) 吉見氏は源三河守範頼を祖とする三河ゆかりの氏族
・越中国守護:吉見頼隆、細川頼和、斯波高経 ← (参考)吉見氏は源三河守範頼を祖とする三河ゆかりの氏族
128 :
人間七七四年:2010/12/08(水) 12:18:57 ID:5/XbvW2m
【東山道】
・奥州探題:斯波(大崎)家兼
・羽州探題:斯波(最上)兼頼
・信濃守護:吉良満貞
・下野国守護:仁木頼章
【山陰道】
・丹波国守護:仁木頼章、上野頼兼、仁木頼夏、仁木義尹
・丹後国守護:今川頼貞、荒川詮頼、上野頼兼、仁木頼章、仁木頼勝、仁木義尹
・但馬国守護:今川頼貞、吉良貞家、仁木頼勝
・伯耆国守護:石橋和義
・石見国守護:上野頼兼、荒川詮頼
・因幡国守護:吉良貞家、今川頼貞、吉良氏家
・伯耆国守護:石橋和義
【山陽道】
・備中国守護:細川頼之、石堂頼房
・備後国守護:仁木義長、石橋和義、細川頼春、細川頼有
・安芸国守護:細川頼之
・周防国守護:吉良氏家
【南海道】
・紀伊国守護:細川氏春、細川業秀
・淡路国守護:細川師氏、細川師春
・阿波国守護:細川和氏、細川頼春、細川頼之、細川頼有
・讃岐国守護:細川顕氏、細川繁氏、細川頼之
・伊予国守護:細川頼春、細川頼之
・土佐国守護:細川顕氏、細川繁氏、細川頼之
【西海道】
・九州探題:一色範氏、一色直氏、細川繁氏、斯波氏経
・筑前国守護:一色直氏
・肥前国守護:一色直氏、一色範光
・肥後国守護:一色直氏
・日向国守護:細川頼春、一色直氏、一色範親
129 :
仙台藩百姓:2010/12/10(金) 12:35:35 ID:jXq2vZ04
>>125 それは江戸時代も同じじゃんお( ^ω^)
むしろ徳川幕府の場合は初めから全国を統治していないし
基本的に民衆は藩ごとに統治されており年貢も好き勝手に取り放題だお( ^ω^)
幕府は諸藩に出費を強いたから当然その皺寄せは諸藩の領民に降り懸かり
武士も百姓も弱体化して災害の度に大きな被害を出したお( ^ω^)
一部の支配階級と商人だけが甘い汁を吸って
民衆は貧しい暮らしから小型化し危うく日本民族はピグミーになるところだったお( ^ω^)
130 :
人間七七四年:2010/12/10(金) 15:49:44 ID:p9BwWHR3
>129
百姓君はまだまだあまいなw
>幕府は諸藩に出費を強いたから
公共政策につながったから、その恩恵は商人と民衆にも及んでいるよ。
>基本的に民衆は藩ごとに統治されており年貢も好き勝手に取り放題だお
一揆が起きれば幕府につけ込まれるのよ。
減封やお家取り潰しの口実を与えちゃうから、藩は横暴な藩政はできなかった。
そのおかげで、幕末なんてほとんどの藩財政が危機的な状況になり,
それで商人が金を貸し藩内部に介入して商人が大きな力を持つことになって明治維新の原動力になるわけよ。
江戸幕府の最終的勝者は商人ということさ。
131 :
人間七七四年:2010/12/10(金) 17:54:40 ID:ad0Opp/L
武士と百姓さんが弱体、商人の勝ち、というところでは意見の同一ではあるな。
士農工商で、商人を低くした、というのはどこまでそういう「金じゃ金じゃ」というのを
わかってたんだろう。
藩にもよるけど、総じて財政破綻っぽいとこが多いのはやっぱり殿様商売で
理屈がわかってなかったのか、わかっててもプライドがあったからか。
悪代官さんたちは今の世でも通用する先見の明の持ち主とか。
132 :
人間七七四年:2010/12/10(金) 19:20:56 ID:p9BwWHR3
もともと藩の経済規模では厳しいじゃなかろうか。
戦争があれば特需や新たに土地が得られるんだろうけどね。
戦乱がない封建社会では
金になるのは資源と貿易と独占物(塩。砂糖など)ぐらいかな。
そういう意味で家康の鎖国政策も影響してるよね。
藩独自で貿易すればかなりの巨利がえられるんだけどね。
藩の貿易で財政が潤うだけでなく、海外の先進的武器も入手できるね。
そうなるとは藩は力をつけちゃうからね
だから鎖国政策は藩独自の貿易を阻止するのも一因だろうね
憶測だけど、堺の形態をみて家康は何かしら危機感をもったんじゃないかな?
幕府が始まって、長崎での幕府貿易独占で堺は凋落したからね。
133 :
人間七七四年:2010/12/10(金) 20:12:42 ID:lc42TX9x
鎖国やめて日本全体が豊かになったら良かったのに
134 :
人間七七四年:2010/12/10(金) 20:24:22 ID:NsaXZMBi
対岸の火事なら豊かになるけど当事者になっちゃうと豊かにはならないよ
135 :
人間七七四年:2010/12/10(金) 20:45:10 ID:ad0Opp/L
藩ごとの貿易禁止は大船製造禁止とかしてるから、鎖国はしててもたえず警戒は
してたんだろね。
ほんで人質を江戸にとってた事からも外様さんたちの反乱はイヤというほど警戒してた。
これは街道とか関所を見ても明らかだよね。
だもんで鎖国はやっぱりキリスト教の普及を警戒した、のが一番だろなぁ。
当然だけど。
家光がしっかりしてたから良かったのかな、3代目でダメになるというのはよくあるし
あそこらでバカ殿が出て家康の政策を変更してたら大変だったか。
ま、神君が偉大すぎてその政策を遵守するしかなかったんだろうけど、家康ってのは
たいしたもんだわなぁ。
136 :
人間七七四年:2010/12/10(金) 22:33:45 ID:pjo0mY4/
>>131 悪代官なんて実際にはそんなにいなかったのにな
137 :
人間七七四年:2010/12/10(金) 22:48:12 ID:ad0Opp/L
毎週一人ずつ退治していって何十年もかかってるからたくさんいたんじゃないか。
138 :
人間七七四年:2010/12/10(金) 23:04:44 ID:lc42TX9x
家康しぬ
139 :
人間七七四年:2010/12/11(土) 06:58:02 ID:6x0jf7xE
明治維新で天下を取ったのは薩長でなく三井、住友のような「商」なのかもなw
140 :
人間七七四年:2010/12/11(土) 21:56:32 ID:kc6z/QIC
金をとって民間でウハウハするか、権力握ってウハウハするか、どっちにしろ
徳川時代が終わって、庶民は豊かになったか、というのはよく考えないといかんわな。
141 :
人間七七四年:2010/12/12(日) 08:29:34 ID:AqYWpKUN
明らかに江戸時代よりマシだろw
142 :
人間七七四年:2010/12/13(月) 13:53:35 ID:qvJ/WrlY
文明的にはそうだけどね。
冷凍モノとかインスタントとかばっかり食べてる現在はそんなに「豊か」
とも思えないんだよな。
143 :
月孔雀:2010/12/13(月) 17:21:49 ID:0maK9ntO
時代劇が好きな日本人は、江戸時代が好きなのかな?
144 :
人間七七四年:2010/12/13(月) 17:24:05 ID:UCeuPJdg
貧しい貧しい江戸時代、飢饉とかあったりで雲泥の差だよ。
145 :
人間七七四年:2010/12/13(月) 20:45:28 ID:GY/Uq2qE
今はそのかわり交通事故とかあるし、トータルではどうだろうな。
146 :
人間七七四年:2010/12/13(月) 20:55:17 ID:HA+q8EwX
>>142 10年くらい前って「本当の豊かさ」がどうのこうの
宣ってる進歩的文化人沢山居たよね
最近はさっぱり見ないけど
懐かしくて笑ってしまったw
147 :
人間七七四年:2010/12/13(月) 21:46:58 ID:GY/Uq2qE
>>146 そんな難しい話じゃなく、昔は全部天然モノだったのが
今はそれが高級品だし、クジラも食べられなくなったし、チキンも
ブロイラーばっかし。うちはね。
だから、豊か、というのもいろいろあるなぁ、ということなんだ。
ちなみに最近は「ケ〜タイない生活ってどんなんだったんですか?」
ってまるで江戸の住人みたいに若いのに聞かれるぞ、爺たちは。
148 :
人間七七四年:2010/12/14(火) 02:22:55 ID:wQfpFmr/
それらって「豊かさ」とは関係ないようなw
149 :
人間七七四年:2010/12/14(火) 02:24:17 ID:3m8ymkJ3
>>146 政治や商売で「本当の豊かさw」を語る進歩的文化人と、
>>142さんを一緒にしちゃいけないよ
150 :
人間七七四年:2010/12/14(火) 09:57:44 ID:oqUb8Zjq
そだな、これだけ便利になると、豊か、という根本的な解釈が
違ってくるだろなあ。
ちなみにうちの実家はまだ井戸あるし、風呂はマキでたく。
江戸の生活のまんまだぞ。
151 :
仙台藩百姓:2010/12/14(火) 21:09:20 ID:qI4o4eeZ
現在、政治の腐敗や経済難が騒がれているわけだけど
それでも民衆が蜂起するなんてないじゃんお( ^ω^)
でも江戸時代は一揆が起こりまくりだったお( ^ω^)
つまり今の方がまだマシという事だお( ^ω^)
しかも今現在一揆起こして打ち壊しした所で殺人でもしない限り死刑になるような事はないけど
江戸時代の一揆指導者は死罪になる可能性が高かったのにそれでも多発したのだから
いかに当時の生活が酷かったのかよく分かるおね( ^ω^)
152 :
仙台藩百姓:2010/12/14(火) 21:21:28 ID:qI4o4eeZ
>>150 薪の風呂とは凄いお( ^ω^)
漏れのうちの離れの隠居も竃や囲炉裏、薪風呂なんかをそのまま保存してあるのだけど
たまに火を焚くと、昔の生活なんてした事ないのに凄く懐かしい雰囲気を感じるお( ^ω^)
やはりああ言う生活が日本人のあるべき姿なのだと思うお( ^ω^)
153 :
人間七七四年:2010/12/14(火) 21:35:17 ID:wQfpFmr/
>>151 現代人も少しは一揆的な行動した方がいいと思うけどなw
154 :
人間七七四年:2010/12/14(火) 22:09:31 ID:oqUb8Zjq
>>152 こういう昔の暮らし体験みたいなのをやってて、予約でいっぱいだそうな。
わしはガキンチョの頃、ほとんど江戸の暮らしだったもんな。
芋ととうもろこし、鮎とか山女、でも天然ものだし貧しいなんて思ったことなかった。
ちなみに、テレビがうつる、なんて村の大事件だったし。
江戸ってのは思ったより身近だし、わしは山だけど海のほうではほうで
毎日アワビ食べてたり、食べ物はいっぱいあったらしぃ。
だから飢饉、というのもよく考えてみる必要はあるんじゃないだろかね。
日本はとりあえず食べ物はある国なんだよね。
155 :
仙台藩百姓:2010/12/15(水) 07:47:43 ID:K50zDglt
>>153 まだまだ悪くなる余地があるという事だお( ^ω^)
日本民衆は政治に無関心でマゾ気質だからはっきりと目に見えて分かるほど高税かけないと騒ぎにはならんお
今も税金が分散しているから消費税が5%や10%上がったところでたいした騒ぎにはならないけど
全ての税金を給料から一括天引きしていたら大騒ぎになるはずだお( ^ω^)
>>154 でも2、3日なら楽しいだおうけど毎日となると大変でしょお( ^ω^)
水汲みや火焚きも思いの外重労働で、何より家事の拘束時間が極めて長いお
1年続けたら90%以上が逃げ出すと思うお( ^ω^)
156 :
人間七七四年:2010/12/15(水) 10:43:25 ID:agQAQrEt
>>155 そうそう、1日で満足昔の人は大変だったね、って帰るらしい。
1日でわかるんかよ、と言いたいが楽しいより大変がわかるだけましかな。
もっとも今の子供の感想1位が「コンビニがないのが不便でした」だから
わかったかどうかは疑問か。
自分は、今の税制とかでよく反乱?がおきないなとは思うし
その分散とか生かさず殺さずは徳川のじょうずなやり方の影響じゃないかと思ってる。
税金しぼっても〜族がバラマキとか公務員とかにうまく還元してそれで消費が回って、
飢え死にすることまではいってないからね。
これは参勤交代のバラマキに似てる様に思うんだ。
ちなみに、今の日本は食べ物を捨てている、すごい国だから革命的な大きな
動きはないだろうけど、細かい事件、なんてのはそろそろおき始めるのじゃ
ないかとは感じる。
学校崩壊みたいな内面的な崩壊もあるかもしれないしね。
157 :
人間七七四年:2010/12/15(水) 19:54:17 ID:1QjDsXzs
関ヶ原行こうと思うんだけど、何時間でざっくり回れる?
ほとんど歩かずに車で回れたりする?
158 :
人間七七四年:2010/12/15(水) 20:56:55 ID:agQAQrEt
159 :
人間七七四年:2010/12/16(木) 00:03:05 ID:nLfqjfgO
現代は一揆なんておきないよ。
選挙があるからね。
一揆のように団結精神があるならまだいいよ。
現代人は意見や意思がなかなかまとまらないからね。
江戸時代が素晴らしいのは封建社会で培った団結心なんだね。
集団主義とよばれる、この団結心こそが近代日本が成功した要因なんだよね。
160 :
人間七七四年:2010/12/16(木) 00:12:12 ID:4rExSGpb
現代日本で一揆が起きないのはマスゴミのせい
161 :
仙台藩百姓:2010/12/16(木) 12:31:04 ID:zpgAENfp
日本のマスコミってホント存在価値ないおね( ^ω^)
本来マスコミは反体制主義であるべきなのに日本のマスコミは体制に流されるだけなんだもの┐ (´ω`) ┌
>>159 素晴らしく良くないから反発し団結していったわけだけど( ^ω^)…
162 :
人間七七四年:2010/12/16(木) 12:54:54 ID:4rExSGpb
163 :
人間七七四年:2010/12/16(木) 22:48:24 ID:S6RvzUr3
よく250年後まで大規模な反乱起きなかったよな これは家康の功績というより秀忠や家光の功績じゃないか?
164 :
人間七七四年:2010/12/16(木) 22:54:09 ID:LkChncfc
一番最初の家康の郷村令とかがでっかいから、やっぱり家康が
道筋つけたのがでかいかも。
165 :
人間七七四年:2010/12/16(木) 23:54:54 ID:nLfqjfgO
>>163 大塩平八郎の乱は立派な反乱だよ。
首謀者が高官だったからインパクトがあるよ。
島原の乱だって、幕府の動員数からみれば大反乱だよ。
楠木正成のような少数の挙兵でも最終的に幕府崩壊の前例があるからね。
江戸時代でも朝廷次第で徳川幕府が崩壊危機は何度かあったよ。
だけど神君家康は朝廷をうまく抑え込んだよ。
生かさず殺さずってね。
PEW! PEW! ano dakeyama hitekimasita!
167 :
三河出身:2010/12/26(日) 21:50:24 ID:S/25k9Y3
いま帰省旅から帰ってきたんだけど
帰りに岡崎城寄ったら、たまたま生誕日祝いで太鼓ショー?
みたいなのやってたよ。 大したもんじゃ無かったけど、今度写真うpするよ。
不覚にも開始前アナウンスで、生誕日を思い出させられた。
一昨日まで覚えてたのに、、、何十年も忘れなかったのに、、、(ToT)
168 :
人間七七四年:2010/12/27(月) 10:14:09 ID:Pnxiy7/L
岡崎は天皇誕生日からクリスマス、神君と続くのですなぁ。
冬休みと重ならなかったら休日になってたか。
169 :
人間七七四年:2010/12/30(木) 13:45:00 ID:KranSw0S
浅井長政3女の初婚相手、尾張の佐治一成って
長久手の和睦後に船便宜計ったりくらいで
秀吉に因縁つけられてるのに
何で徳川家に寝返らなかったんだろう?
ってか失望した豊臣家臣団はなぜ寝返らなかったのか不思議だ。
徳川家なら悪いようにはしないのに、、、
170 :
人間七七四年:2010/12/30(木) 18:50:52 ID:R+n6AuPg
それをここで語られても・・・
171 :
人間七七四年:2011/01/03(月) 10:06:18 ID:7PBEeJDc
昨日信長・秀吉・家康に関する番組やってたろ?
「家康は実は信長・秀吉よりも短気」だって言ってたが
その具体的な理由を見過ごしてしまったんだよな
誰かそこみてなかったか?
172 :
人間七七四年:2011/01/03(月) 11:42:37 ID:ZjTcN5iG
見てないけど短気逸話は多いなうんこたれは
173 :
人間七七四年:2011/01/03(月) 11:46:59 ID:qDHZqOCM
短気だがそれを抑えることができるから出世できたんだろ?
開放してたら三河の鬼〜とか言われて小牧長久手時に滅ぼされてたな
174 :
人間七七四年:2011/01/03(月) 16:46:23 ID:I9rV+8/U
>>171 爪をよく噛んでたってことだった
爪を噛んででも自分を抑えたから天下取れたみたいなまとめだった
爪を噛んでる総大将嫌だとも言われてたが
175 :
人間七七四年:2011/01/06(木) 11:43:20 ID:9zlpeqXv
何で関ヶ原の時、諸将は東軍に付いたんだろうか?
大老奉行連中からの檄文着てたんだよね?
176 :
人間七七四年:2011/01/06(木) 11:58:59 ID:/GJZIhoj
他の大老・奉行連中より、筆頭大老家康一人の方に力があると判断したから
177 :
人間七七四年:2011/01/06(木) 16:26:38 ID:uN2q7zBP
東下したついでだろ。
西方に付きたいなぁと、ちょっと思ったけど
皆さんにいちいちごめんねと挨拶して回って、漸く上方に戻り
今度はよろしくねって、また皆さんに挨拶して回って
また陣触れってめんどくさいなぁって皆さんは思ったんじゃね。
178 :
人間七七四年:2011/01/06(木) 18:27:17 ID:rXKA4azB
流れとか空気とか勢いとか雰囲気とか
179 :
人間七七四年:2011/01/06(木) 18:40:18 ID:RZ5HcgOf
徳川氏の大軍を前に「徳川殿には協力しません!」と席を蹴って出て行ける訳無いと思うw
遠国大名の場合、追撃されたら生きて帰れないし
近国大名だと国に帰れたとしても真っ先に血祭りにあげられるのは目に見えている
でも上方の様子もよく分からないし判断をしかねる人が大半だったはず
そうなると結局みんな様子見という事になる
つまりは通説通りの展開
180 :
人間七七四年:2011/01/06(木) 19:03:05 ID:cauuiJBB
短気というより神経質なんじゃないかい
181 :
人間七七四年:2011/01/06(木) 19:15:10 ID:PVqd6ylg
でも実際に西軍に付いたのが1人くらい居なかったっけ?
追撃して無いよな?
182 :
人間七七四年:2011/01/06(木) 19:36:31 ID:uJsLnYFS
真田は帰っちゃったね
183 :
人間七七四年:2011/01/06(木) 20:05:35 ID:rXKA4azB
>>181 「帰りたかったら帰ってもおk」ってイッたんじゃなかったっけ?
184 :
人間七七四年:2011/01/06(木) 20:55:15 ID:In4D+MuB
旗印が「厭離穢土欣求浄土」なのに、なぜか江戸(えど)に行っちゃった家康公について。
>>175-183 全ては秀吉に父母を殺された茶々の復讐のシナリオであって、秀頼も実は秀吉の息子じゃないから。
そして、それに抗して秀吉が作った実際に天下統一体制を維持する能力があるのが秀吉のpolitical son(政治的息子)である家康一人だったから。
事実はどうあれ、みんながそう思っていたから、彼らが家康に着いたのはあたりまえ。
185 :
人間七七四年:2011/01/07(金) 11:19:59 ID:lvnMYonz
おまいら一族郎党の未来と命賭けてる戦を
雰囲気なんかでどっちに付くか決められるわけ無いだろwww
186 :
人間七七四年:2011/01/07(金) 21:59:04 ID:X+5N+5/g
>>183 そうやって余裕を見せて
自分は正しい
というのを周りに植えつけるための戦術
バタバタすると動揺するから
そして実は裏では本多とか黒田長政に工作させてた
さすが俺たちの家康(・∀・)
187 :
人間七七四年:2011/01/07(金) 22:47:58 ID:Q8XNQU2Z
どんなに技巧を弄したところで人望がなければ誰も付いてこない
基本は人望の差
>>176 武将に力があるということは付いて来る人が多いということ
188 :
人間七七四年:2011/01/09(日) 11:28:36 ID:S4wzbUh4
>>184 江戸を「えど」のままにしたのは、政治の場こそ最も穢れた場でなければならない、すなわち、戦によって他を穢すことはもう二度とあってはならないというという家康の自戒の現れに過ぎない。
岡崎じゃ常識。
189 :
167:2011/01/10(月) 11:56:07 ID:soEZb2n6
190 :
人間七七四年:2011/01/10(月) 12:41:55 ID:iPzwso/I
>>182 真田は小山会議が開かれる前に勝手に引き返した
191 :
人間七七四年:2011/01/10(月) 16:57:23 ID:kRoT1Zls
江戸はすでに家康が覇業を達成する聖地として予言されていたからな。
厭離穢土欣求浄土とな
穢土(江戸)は人たる秀忠に任せて、権現たる自分は、駿府という浄土
から全てを支配するとな。
192 :
人間七七四年:2011/01/13(木) 18:27:33 ID:80m8wifB
今年の大河、久々に激しく糞ドラマになりそうな悪寒
織田家中の、お市輿入れ発表で、何故か家康が列席
時期的に、家康は今川氏真攻めの真っ最中で現場を離れられない頃
しかも織田家臣の座に付けられてた
悪い意味で凄すぎる考証だ
193 :
人間七七四年:2011/01/13(木) 20:06:08 ID:OhWjdYFL
TVに史実を求めてはいけない。
大河が面白い事なんて滅多に無い。
暇潰しには充分だからまあ良しとしよう。
194 :
人間七七四年:2011/01/13(木) 22:22:44 ID:ZriZbWtw
脚本家が歴史を分かってないからしょうがない
実況で楽しむことに割り切らなければ
195 :
人間七七四年:2011/01/14(金) 04:44:09 ID:Y1JM06Wh
天地人の家康は本当に酷かったな
あんな大河の主役にされた直江も哀れだ
196 :
人間七七四年:2011/01/14(金) 13:46:02 ID:TV16QYsX
23才の家康があんなにフケてたというのは、史実の新解釈だな。
しかし、考証が小和田で今川には詳しいから、徳川列席をよく許したなとは思った。
197 :
人間七七四年:2011/01/14(金) 17:08:38 ID:JKKzQ4/a
年齢と見た目との関係は許してやれよ
これから何十年も先の場面で、
主人公の舅として出演すること前提の配役だろう
その時点で風格が無いと、もっと問題だ
198 :
人間七七四年:2011/01/14(金) 18:25:14 ID:pR+bU5Gn
ドラマなんだから、史実じゃないといって苦情をいうのもアレだもんな。
しかし、レキジョあたりがニワカで一番騒いでそうなのがおもろいな。
さて家康は何回ぐらいでてくるか。
199 :
人間七七四年:2011/01/14(金) 20:15:41 ID:Ks+ZgEca
問題なのは
テレビドラマを正しいと覚えてしまうのがけっこういるということ
200 :
人間七七四年:2011/01/14(金) 20:18:22 ID:9egdpjcB
べつにどうでもいいじゃんそんなこと
201 :
人間七七四年:2011/01/14(金) 23:02:41 ID:ToSQgbO3
家康が列席してたのは、舅役の北大路の顔見せのためだろ。
確かに史実じゃないけど、そこまで口とんがらせるほどのものでもないと思うが。
202 :
人間七七四年:2011/01/14(金) 23:14:05 ID:8yt79iBq
史実じゃない史実じゃないといって、俺は詳しいんだぜ的な優越感に浸るというドラマの見方もあるじゃないか
203 :
人間七七四年:2011/01/15(土) 00:54:21 ID:BqR10+U2
>べつにどうでもいいじゃんそんなこと
真田信繁とかが典型だよな。
あいつヤケになって突撃しただけだろ?
真田丸とかってそんなに手を焼いたの?
204 :
人間七七四年:2011/01/15(土) 09:16:53 ID:kK6hd5p0
>>203 真田は、松平忠直隊の混乱に乗じて、突破して家康本陣に突っ込みました。
しかし、本陣に突入した信繁が見たものは、倒れた旗印だけ!(史実です)
家康本陣を突き崩したのは、その前に突入した毛利勝永隊(史実です)
家康は、毛利隊の突入前に旗印だけ残して、後方へ退却
ちなみに司馬説では逃走2里(8km)、暗に錯乱状態で切腹と喚いて焼き味噌
したように描写してたはず(まあ小説だし)
で、後世、真田家の宣伝もあって、いつしか毛利勝永+真田信繁=真田幸村
という腐女子向けの超人イケメン最強義将が平成の世に誕生したわけだな。
江戸時代から昭和時代までは、単なる最強武将だったのに、気の毒なことだw
205 :
人間七七四年:2011/01/15(土) 10:03:48 ID:WMHwIpgK
>>204 それすらも怪しい気がする
何しろ徳川家の直轄軍である大番で戦死者が出たのは
秀忠麾下で前田と井伊の間にいた高木正次組だけだし
206 :
人間七七四年:2011/01/15(土) 11:48:37 ID:2lWwyQ9S
>>200 その誤情報でもってあちこちの書き込みを見て
それでプンプンしてるんじゃないのかね・・・
>>202 嫌○厨のようなキチガイではないからそういうレスはまだマシだけどね
実況ではうぜーけどwww
>>204 後方退却の理由ってなんだろう?
ガチのぶつかりではやばそうと感じたからなんだろうけど
そんなに戦力差が拮抗してたようにも見えないし
>>205 ぜひともなるべく正確な資料をもとに詳細に
さらっとぐぐるだけでは出てこなくて知りたかった事柄なんで
207 :
205:2011/01/15(土) 12:01:46 ID:WMHwIpgK
>>206 「大日本史料」の天王寺合戦の条で、大番士として討死の記録があるのは高木正次組だけだった。
208 :
人間七七四年:2011/01/15(土) 12:07:39 ID:kK6hd5p0
>>206 頑張り過ぎるとヤバいと感じ、偽装工作で旗印だけ残して、安全圏まで退避。
既に井伊の赤備えが救援に来るのはわかってたはずで、それまでの時間稼ぎかな?
真田や毛利が家康本陣に肉薄すればするほど、松平忠直部隊の大阪城突入が容易
になるし、秀頼の首さえとれば、大名共の担ぐ神輿がないわけで、我が身を囮にした?
いや、それはないか・・・・
209 :
仙台藩百姓:2011/01/15(土) 12:40:05 ID:d9xHypqP
大久保彦左衛門も徳川方の潰走ぶりを語っているおね( ^ω^)
毛利真田の攻撃で家康本陣は本当に四散してしまったようだお
家康は得意の光速トンズラで家臣に指示も出さずに消え
家臣達も勝手に逃げ散ったからみんな本隊を見失い戦場でさ迷っていたお
旗奉行は目立つ旗を倒して逃走し槍衆は逃げるのに槍が邪魔だからへし折り投げ捨てて逃走したお( ^ω^)
統率力の弱い大軍と統率力の強い寡兵が戦った場合の典型的な結末だお( ^ω^)
家康が特別戦下手というのもあるけど、それでも毛利真田の活躍は十分称賛に値するお( ^ω^)
210 :
205:2011/01/15(土) 13:42:13 ID:WMHwIpgK
>>209 ああ、あれね
「三河物語」には旗奉行についてあれこれ書いてあるけど、旗奉行庄田の進退を
褒めた家康の感状があったりするから、相当度の強い色眼鏡が必要かと
211 :
人間七七四年:2011/01/15(土) 13:44:04 ID:b+Rb+6Ht
ドラマの中で信長が家康を、自分の家臣と同列に扱ったのは、
信長を礼儀知らずの田舎大名に演出することが狙い
…家康の方がもっと田舎だけど
212 :
人間七七四年:2011/01/15(土) 14:45:18 ID:XKQIeCjC
>旗奉行庄田の進退を 褒めた家康の感状があったりするから
それは誤魔化しでは無いのか?
>ドラマの中で信長が家康を、自分の家臣と同列に扱ったのは、
実際には義兄弟だから、隣に座ってたよなあ?
213 :
205:2011/01/15(土) 15:22:37 ID:WMHwIpgK
>>212 「元和年録」に庄田は閉門とありますね、もう一人の旗奉行、保坂は改易とありますな
それに忠教も御叱とあるし
精精、後退中に見失った程度と思われる
天王寺・岡山合戦は混乱から始まり、混乱し続け、気が付いたら終わっていたという感じ臭いし
214 :
人間七七四年:2011/01/15(土) 19:58:31 ID:pxuSrmb8
そういえば毛利の活躍ってどの程度だったんだろうか
当時の書状だと後藤や真田は言及されてるが
毛利は居たのかも定かじゃないほどの無視っぷり、はてさて
215 :
人間七七四年:2011/01/15(土) 20:02:02 ID:KeM0spda
>>209 大久保ってキチガイ1歩手前の馬鹿だろw
216 :
人間七七四年:2011/01/15(土) 22:57:10 ID:Ov9Dj9HN
むしろ一次資料で活躍が怪しいのは真田じゃなくて毛利の方なんだよね
歴史をかじり始めた頃の人は勘違いしがちだけど
217 :
人間七七四年:2011/01/16(日) 00:07:10 ID:3FtxoAzA
218 :
人間七七四年:2011/01/16(日) 14:50:59 ID:QPS0waGU
ちとお邪魔。
本能寺スレでちょっと前から、信長が家康を暗殺しようとしてた、その前の富士遊覧は侵攻の
準備の下見である、なんて説があって、これは織田側の都合の話なんだが、
徳川に詳しい人たちからみて、織徳同盟、というのはあの時点でどんもんだったと
解釈されてるのでしょう。
例えば伊賀こえでその後畿内に向けて出陣するけどこれはどういう思惑だったのか。
信長ー光秀ー秀吉、というのは本来織田内部の内輪モメだから、出陣の意図に
同盟というのがどのように関係してたのか、とか。
もし、織田側に「家康危険人物」という認識があったなら、家康もまたなんらかの
「空気」ぐらいは読める人でしょう、安土ー堺あたりの「接待旅行」というのはどういう
風に考えてたのか。
「対等か主従か」みたいにはよく語られるけど、家康からは信長個人、織田家、そして同盟を
どのように考えていただろうか、ということなんですけどね。
生暖かくよろしく。
219 :
人間七七四年:2011/01/16(日) 15:01:32 ID:dLT4L8kU
一旦三河に帰りついて、その後の畿内への出陣準備
これは明智勢への対抗姿勢
信長の仇討ちと考えていたかどうかはともかく、
ドサクサ紛れに明智が勢力基盤を築くのを見過ごすつもりはなかった
まあ仮想敵があっけなく羽柴に滅ぼされたため、意気込みは空回りしたが
220 :
人間七七四年:2011/01/16(日) 16:24:08 ID:XWmVjUQ0
家康を殺したらそれと同時に徳川領がどうなるのか
がっかりして一応抵抗はするがじきに織田配下になるか
反旗を翻して抵抗勢力になるか
さすがに信長もこれは読めないしこんな無茶するより
家康を上手く丸め込んで味方のままにしたほうが得策じゃない
家康をやっちゃったらそれ以外の同盟国も警戒するし
頑強な対抗勢力を近くに作るのは浅井長政で懲りてる希ガスる
実際すでに本能寺の頃は徳川はほぼ家臣化してたみたいだしね
武田の駿河領は信長から“頂いた”という感じで
更に織田は北条とも結んじゃったから
家康にしてもあの段階では東の方も手詰まりで石高増加は無理
信長が死んだことで天下へのスイッチが入った家康なわけで
あのままだったらそのまま臣従してたと思う
もしかすると再度織田徳川直接婚姻関係にでもなったかもしれんし
そんな勢力をわざわざ敵化するほど信長はバカじゃないと
明智をあんだけ信用してしまっていたからには、
更に付き合いの深い家康にはもっと信頼を置いてたはずだよ
仮に家臣が家康についていろいろ言っても信長は聞かない人だろうし
境遊覧に関してはもう完全に御褒美って感じで
家康としたら気持ちはゆるゆるだったんじゃないかね
だって手勢がなんにも無いから
ほんとに身近な家臣数十人て話だと思ったよ
221 :
人間七七四年:2011/01/16(日) 16:37:06 ID:QPS0waGU
>>219 そだね。
隣の尾張国がどうなるかという損得関係がやっぱり中心だったとは思うのだよね。
清洲会議の前後で家康がどういう動きをしたか、何を考えてたか、がわかるような
書状みたいなのはあるのでしょうかね。
織田スレではこういうのがわからないから。
>>220 家康が強力なのは信長はよ〜くわかってたろうから、自分の死後の
織田家の安泰を図るためにその排除を図った、というのはそれなりに根拠には
なるかなって。
武田をやっつけた時点で、「ありがとうもういいよ」というかね。
家康も信長の性格はわかってたろうから、臣従、みたいなのをうまく受け入れて
うまくつきあってたとは思うのだよね。
織田史観で、「信長のカリスマ性であの家康すら臣下同然にした」みたいなのは
さすがに受け入れにくい。
堺遊覧はそんなに緩緩だったのかな。
強力な家臣連れて、かなり警戒していた、ようにも感じられる。
ま、当たり前ではあるが。
ただ、12年ぶりぐらいの上京だったかな、異例、とは思うのだけど、このあたり詳しい人
どうなんでしょ。
222 :
人間七七四年:2011/01/16(日) 17:00:05 ID:XWmVjUQ0
ネットでなく本で見たんで全然正確には記憶してないが
安土・堺への供回りはほんとに名前を全員列記できる数しかいなかったんじゃなかったかな
これではちょっとした地方の小大名にも全滅させられる程度のものだと思う
刀槍しかないだろうし、当然城も砦もない
守るにはあまりにも手勢いなさ過ぎ
警戒してたらなんだかんだ理由つけて精鋭500人ぐらいは武装させてつれていくんじゃない?
ましてやもしも信長に暗殺されるかも、なんて思ったら、まず行かないwww
伊賀ルートの慌てぶりは無警戒だったとしか思えないし
あの頃の大坂近辺て今で言うと日本から見ると
アメリカ・ニューヨークあたり?の安全認識だったはず
まあアメリカに関してはテロがあったが・・・あれだってありえない事件
223 :
人間七七四年:2011/01/16(日) 19:15:24 ID:lCvEazTQ
織田家さえ大丈夫だったら、
数十人で大丈夫って思ってたら
その織田家がどうにか成っちゃった感じw
大河かなりつまらんかった。
夜の安土で、江がサルをど突き倒して信長に会わせろって言って
その場に居合わせた家康公が「分かった!」って、、、
江が殺されると思った姉妹がそれを助けに行ってまた懐剣抜いたり、、、
無茶苦茶な物語だったw
224 :
人間七七四年:2011/01/16(日) 22:50:44 ID:yjFLI7IH
家康
早く本拠地に戻れよ・・・
225 :
人間七七四年:2011/01/16(日) 22:54:20 ID:pZA+ywrP
家康ってあの頃安土に行った記録ってあったっけ。
226 :
人間七七四年:2011/01/16(日) 23:48:45 ID:yjFLI7IH
1572年12月22日三方ヶ原の戦い
1573年9月26日 浅井氏滅亡
信玄が死んだ辺りだから暇とは言わんが多少は余裕はできたかもしれんが
でも普通大名本人はそんな気軽にあっちこっち行かないよなあ
信玄に荒らされた領国経営もあるわけだし
勝頼が引き続きしつこく攻めてきてるし
227 :
人間七七四年:2011/01/17(月) 09:28:51 ID:wWfpgSam
おそらく脚本家が、家康を信長の家臣だと勘違いしてるから、こんな具合
228 :
人間七七四年:2011/01/17(月) 13:34:08 ID:eBYXDIxQ
小和田が悪くないか、それ。
229 :
人間七七四年:2011/01/17(月) 14:16:51 ID:wWfpgSam
監修者だったら、訊かれた場合に教えるくらいなものだぞ
小和田は製作スタッフじゃないし
230 :
人間七七四年:2011/01/17(月) 14:58:07 ID:KOgybmbz
231 :
人間七七四年:2011/01/17(月) 18:46:18 ID:zh5hacK4
できる限りビッグネームな奴出したいじゃん
脚本家としては来週からでも豊臣の秀吉を出したくてウズウズしてんだよ
232 :
人間七七四年:2011/01/17(月) 19:55:04 ID:ZRGznjT+
なんだよその ずんの安 みたいな書き方
233 :
人間七七四年:2011/01/17(月) 19:57:54 ID:ZRGznjT+
まあ確かにいきなり家康が出てれば
さすがに有名だから戦国に疎くてもピコーンとくるだろうしね
234 :
人間七七四年:2011/01/18(火) 20:24:39 ID:wJls3n4g
家康と信康があんな仲良さげということは、3ヵ月後の切腹は「なくなく
信長の命で」という風にする伏線かな。
235 :
人間七七四年:2011/01/18(火) 21:12:26 ID:fJVIxmAC
そんなイベント江には関係ないから無いでしょう
236 :
人間七七四年:2011/01/18(火) 22:05:21 ID:snjy2+Hp
信康の嫁が姑と上手くいってないことを公衆(織田軍幹部衆)の面前で披露するという、
考証的に考えられない爆弾発言をさせたのが、信康切腹の伏線でしょ
で、江に関係あるかといえば、ある
後々、江の夫になる人物の兄が、夫婦仲および姑との仲が不和だったことが原因で切腹に至った事件は、
江の夫婦経営の心がけの反面教師になるわけでしょ
237 :
人間七七四年:2011/01/19(水) 16:44:53 ID:Q1i7QuSv
腹黒の家康が見れないかんじ。聖人君子の家康像でいくんかな、大河。
238 :
人間七七四年:2011/01/21(金) 09:43:02 ID:UMzFKEet
豊臣秀吉は、朝鮮征伐の後、関東仕置と同じ措置をとるつもりだった。
かの折、徳川家康に関東、織田信雄に東海地方への移封を命じたように、
遠方にして不毛の僻地、朝鮮半島への移封を命じるつもりだったのだ。
関東仕置の際、家康は移封に従ったが、信雄は逆らって改易されている。
家康が朝鮮転封の命に逆らえばその時点で改易または討伐の口実になる。
秀吉からすれば、自身の存命中に、禍根である徳川家を潰す好機である。
239 :
人間七七四年:2011/01/21(金) 11:07:44 ID:FH0GpxVA
明と戦いながら家康も相手にするのは大変じゃない?
240 :
人間七七四年:2011/01/21(金) 11:24:06 ID:298W/WmR
家康に命じて明を攻めさせろ。
241 :
人間七七四年:2011/01/21(金) 11:25:15 ID:0M2Z3qvD
大変なのは将兵と民衆だから問題ない
指導者は呆けてるから大変だと認識しやしない
242 :
人間七七四年:2011/01/21(金) 21:31:50 ID:j1mPx1aI
朝鮮攻めの時点で秀吉が配慮したか
家康との話し合いで
徳川は行かなくていいってことになったんじゃなかったか
もうその時点で秀吉は家康を信頼してたから
大事な国内を固めてほしいみたいな感じで
あと単純に当時の慣習で
敵国に近い側がまず出て行くということになってたから
関東の徳川は行く順番に無かったと
243 :
人間七七四年:2011/01/22(土) 12:36:55 ID:vjwU7xTR
秀吉と家康の関係は、信頼関係、なのかなぁ。
確かに記録的にはそうなんだけど、社交辞令、ってのが世の中には
あるからそのまま文字通り受け取るのはどうなんだろう。
別に現在の説や方法論にケチつけるわけじゃないけど。
238のように、あの時点では改易どころか討伐したくてウズウズしてたというのが
本当のとこじゃないかな。
244 :
人間七七四年:2011/01/22(土) 16:41:32 ID:DUvlUyZ4
家康は他の天下人に比べて、平凡なところが好きだな〜。
百姓がそれでケチつけてるけど、逆に平凡な奴でもすごいこと成し遂げることができる
と感心するけどな。
だから、多くの人に一番参考になる人のような気はする。
245 :
人間七七四年:2011/01/22(土) 17:41:10 ID:hkA1B+Bx
平凡???
246 :
人間七七四年:2011/01/22(土) 19:50:32 ID:87RdPJ73
247 :
人間七七四年:2011/01/23(日) 00:07:49 ID:J+ClxW8G
>>243 記録は表面的なものしかされないのは当然で
記録から外れる部分を考えるとなると結局想像でしかなくなるからねえ
248 :
人間七七四年:2011/01/23(日) 00:11:44 ID:J+ClxW8G
>>244 信長に匹敵する紆余曲折があるんだけど・・・
249 :
人間七七四年:2011/01/23(日) 10:08:02 ID:zsobWQzP
家康は戦国大名としての資質は信長に引けを取らないと思うよ。
平凡だったら、今川と共にとっくに落ちぶれてたはず。
250 :
人間七七四年:2011/01/23(日) 11:15:31 ID:9IQ3Pgqo
>>245,248
う〜ん、やっぱり平凡じゃないから天下獲れたのか、それとも、平凡だけども
偉大なことを成し遂げることができた人物なのか…どっちなんだろ?
まあ、どっちにしても家康はスゴイってことになるし、尊敬できるけどね。
あと、百姓はなんて言うかな?ww
彼が大したことないと言えば言うほど、どんな奴でもチャンスはあり、それを生かせた
平凡な家康はすごいと、評価は上がっていくけどなww
251 :
人間七七四年:2011/01/23(日) 11:50:41 ID:op4mvnvt
>>250 めんどくさい三河武士を唯一コントロールできる凡人だからな。
あんな連中を我慢して使い続けることは、信長にも無理。
ましてや普代殺しがデフォのラスボスでは不可能。
最高幹部の石川数正を引き抜いたのは良いが、使いこなせず飼い殺しだからな。
ま、、三河武士にとっては凡人家康最高だったわけだ。
252 :
人間七七四年:2011/01/23(日) 12:51:39 ID:KFN2xnM+
多才すぎるがために、かえって個性を掴み損ねて、
平凡とか言っちゃってるんじゃねーか?
253 :
仙台藩百姓:2011/01/23(日) 13:31:41 ID:3sa5dG9R
三河武士ほど使いやすい武士団はおるまいお( ^ω^)
明治にも三河者は人物が小さい小さい言われていたように
言われた事は真面目にやるけど、ただそれだけで己の才覚で大仕事出来るような人物はいなかったお( ^ω^)
だから三河者はあくまで「徳川家中」にいるから目立てるのであって
他家に仕えると途端に埋没して目立たなくなってしまうのだお( ^ω^)
秀吉も石川や青木を引き抜いてみたものの存外使い物にならなくて直ぐに興味を無くしてしまったお
でも秀吉は気前がいいから飼い殺しでも厚待遇だから本人達はよかったお( ^ω^)
あれが信長だったら即リストラだったお┐ (´ω`) ┌
家康も三河武士の主君だったから生き延びられたのであって
他家のように才覚と野心に溢れる家臣ばかりだったらあっという間に殺されてしまっていたお( ^ω^)
そういう点からすると徳川の主従は最良の関係であったと言えるお( ^ω^)
お互い他の土地じゃやっていけないから必死に団結してそれが徳川家の存続に繋がったのだお( ^ω^)
254 :
仙台藩百姓:2011/01/23(日) 13:40:42 ID:3sa5dG9R
>>244 別に平凡な事を非難しているわけではないお( ^ω^)
>>249のような誇大妄想を非難しているのだお( ^ω^)
255 :
人間七七四年:2011/01/23(日) 16:01:41 ID:9CNwdos+
>平凡じゃないから天下獲れたのか、それとも、平凡だけども
>偉大なことを成し遂げることができた人物なのか…どっちなんだろ?
業績はまさしく非凡、
性格的には平凡というより、信長・秀吉ほど奇異な印象を与えないだけ
256 :
人間七七四年:2011/01/23(日) 17:10:19 ID:SccMnZug
平凡というと吉川の諸葛孔明評を思い出す
257 :
仙台藩百姓:2011/01/23(日) 20:49:30 ID:3sa5dG9R
非凡な業績って一体何だお?( ^ω^)
まあ、確かに運は異常なほどつおいけど( ^ω^)
258 :
人間七七四年:2011/01/23(日) 20:53:53 ID:mFATNNUl
文教の伝播とか
259 :
人間七七四年:2011/01/23(日) 21:40:55 ID:lbzze6Xi
天下人として、元和偃武を実現したことだろ。
260 :
仙台藩百姓:2011/01/23(日) 22:58:45 ID:3sa5dG9R
天正十八年に天下平定は済んでいるじゃんお( ^ω^)
その後は徳川が起こさなくてもいい争いを起こしただけだお( ^ω^)
261 :
人間七七四年:2011/01/23(日) 23:03:12 ID:+Q2tD73D
人に難癖をつけてケンカにもっていく術は天下一品だと思うよ
嫌味じゃなくてマジで。
262 :
仙台藩百姓:2011/01/23(日) 23:28:19 ID:3sa5dG9R
でも関ヶ原は家康の意図したものか怪しいおね( ^ω^)
どちらかと言うと関ヶ原が起きてから天下への野心が生まれたといった方が自然だお( ^ω^)
大坂の陣は難癖以外の何物でもないけど( ^ω^)
263 :
人間七七四年:2011/01/23(日) 23:39:25 ID:Ku1CMXyD
>>261 でもその晩年部分は周辺のブレーンの入れ知恵がかなりあるはず
それを決断指示したのはもちろん家康だけど
秀吉と対決してた頃までは純粋に武将らしい武将だったし
秀吉の配下に入ってからは戦うよりは策をめぐらしたほうがいい時代環境になったってことで
264 :
人間七七四年:2011/01/23(日) 23:40:35 ID:Ku1CMXyD
>>249 凡庸だったら桶狭間のとき他と一緒に慌てて駿府に逃げ帰っちゃうよなあ
265 :
人間七七四年:2011/01/23(日) 23:42:50 ID:Tae9Xh4F
266 :
人間七七四年:2011/01/23(日) 23:44:42 ID:zsobWQzP
秀吉の死後は、秀頼を中心とした豊臣の天下なんて砂上の楼閣でしかなく、
普通にやれば家康の天下になるような状況だったからな。
確実に天下をものにするために手堅くいった結果
策を弄しているような印象になった。
267 :
人間七七四年:2011/01/23(日) 23:50:07 ID:+Q2tD73D
大坂の陣は別に起こす必要もなかったし、家康が天下を望む事も
家康の第一目標として天下泰平を望んでいたとしたとするなら、ありえない選択だった。
豊臣公儀で一応納まっているんだからな。
ただ単に自分が横暴にしたかったということなのだろう。
268 :
人間七七四年:2011/01/23(日) 23:55:25 ID:mFATNNUl
>>267 あれは豊臣家がKYだったとしか思えんのだが
269 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 00:03:44 ID:uRoSVfO/
>>268 仮に秀頼を討たなければいけなくても、秀勝の孫とか処刑を免れた秀次の子の子に
羽柴家を存続させる事は可能だったと思うけどな。
羽柴家の血は持っているし、形の上は秀頼の娘かおねの養子という事にして、後に
羽柴を名乗らせて九州の太閤直轄地だった所に小城と10万石でも与えて官位は従三位
程度にして。主家を滅ぼしたという汚名を少しはマシにできただろうに。
270 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 01:05:56 ID:XSYiBkA+
家康は秀吉ほど器用じゃないから、そんな七面倒くさいことやるより、
自分が汚名をかぶったほうがましだと思ったんだろ
271 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 01:09:09 ID:Qs7sQ7Bk
豊臣を打たなくならなければならなくなった段階で、反徳川の旗印になりやすくなる
だから滅ぼす
おとなしく普通の大名みたいにしてれば、関東公方のあの人たちみたいに扱いは良かったかもな
272 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 01:19:22 ID:uRoSVfO/
実際に徳川幕府が許した事は木下氏が豊臣を本姓として名乗る事を認めて公認
した事と、完子の娘と息子が子孫を持つことを許したことぐらいか。
完子はれっきとした秀吉の姉の子秀勝の娘で系譜上も秀吉の孫だし、殺されないま
でも一生独身でもおかしくなかったろ
273 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 06:15:34 ID:D8GAgLNG
そなんだよね。
大阪の陣は絶対に必要で、秀吉の男系の血統を絶やす必要があったから。
それと家康の天下人への意思だけど、吾妻鏡とか古典を集め始めた時期には
さかのぼれるでしょう。
普通に、本能寺の後、小牧長久手あたりで十分にあったとは思うけどな。
274 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 07:38:56 ID:C79yyCM4
まあそれは誰も正確なのがわからんよ
俺は秀次が切腹させられた後か秀吉が逝く前だと思ってるが
275 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 09:07:41 ID:37Kdlzi2
>>272 武家のノリだと家名存続したから、温情と言えなくもない
276 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 09:16:35 ID:uRoSVfO/
>>273 >秀吉の男系の血統を絶やす必要があったから。
これはあまり意味がない話なんだよね。
女系でなんとか家を存続させている武家ってごまんといるし、女系で
再興させた家もある
家を絶やすなら完全に女系も絶たないと復讐される可能性は残る。
277 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 09:18:08 ID:uRoSVfO/
>>275 そういう見方もできるね。
木下氏なら一応大名だし
278 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 09:21:50 ID:RaXhboOU
女系で復習を果たした家はあるのか?
279 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 10:59:36 ID:37Kdlzi2
>>278 随分遠まわしだが、畠山氏なんか
>>277 問題は秀吉が「家」という認識があったという点かな
280 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 11:36:32 ID:uRoSVfO/
秀吉の家ももおねの実家の杉原(のち木下氏)も元々は同じ浅井一族の分家で
あるらしいが、そういう経緯なのかおねは大坂の羽柴宗家滅亡後、幕府の許可を得て
養子を貰っているね。幕府も羽柴家の子孫として法事を行う事を許可しているようだし。
3000石の旗本としてこの家は残ったようだ。
281 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 11:53:09 ID:yUPF3Qiy
>>262 「大阪の陣は難癖以外の何物でもない」って具体的に何のこと?
282 :
仙台藩百姓:2011/01/24(月) 12:58:03 ID:90wAjD+n
>>276 女系で再興させた家って殆どないと思うけど( ^ω^)
江戸時代は基本的に女当主は認められなかったし( ^ω^)
>>272 何をおかしな事を言っているのだお( ^ω^)
完子は豊臣家が滅びるずっと前に嫁いでいるし子供もいたお
まして嫁ぎ先は九条家だし将軍と雖もおいそれとは下手な事出来ないお( ^ω^)
だいたい完子は御台所の実子でもあるのだお( ^ω^)
>>281 豊臣氏を討伐する大義名文が最後まで見つからなかったじゃんお( ^ω^)
だから鐘銘に言い掛かり付けるような下策に走るしかなかったのだお( ^ω^)
283 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 13:03:21 ID:Zo/jVLW8
284 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 13:27:04 ID:rByIbY3X
地道にコツコツ努力した徳川家を
一発屋連中が批判してるだけだろw
285 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 13:43:19 ID:uRoSVfO/
>>282 >女系で再興させた家って殆どないと思うけど( ^ω^)
あるだろ普通に。先代やそれ以前の当主の姉や妹が嫁ぎ先で生んだ男子を養子
に迎えるとか。
>まして嫁ぎ先は九条家だし将軍と雖もおいそれとは下手な事出来ないお( ^ω^)
関白や太閤ならいざしらず征夷大将軍程度では難しかったかもね。
九条家には完子が生んだ男子が数人いたから羽柴の血を引いているからな。
その子らは太閤秀吉のひ孫になるんだぜ。系図的には。
286 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 14:06:07 ID:ZSOq6iBd
女系、というか、秀吉の直系男子の血統、とはつまり「豊臣の姓」ってことなんですよ。
家康が恐れたのは天皇賜姓としての「豊臣」で、これは天皇家が存続する限り最大、最強の武器
になる。
だから、あの時点で「豊臣」を正式に名乗れる「血統」を抹殺する必要があった、というわけで。
完子さんには、「豊臣を賜った秀吉個人」の血統は入ってないでしょう。
豊臣宗家、というか。
だから、意味の無い、どころかものすごく重要な問題だと思うのだけどね。
もし、意味の無い、と言ってる専門家がいたら、木を見て森を見ず、というか
あまり日本史の氏姓制度とか血統の意味とか、そういうのを知らない人じゃないのかな。
タテワリ専門家さんが多いから、おかしな反論みたいなのはよく見かける。
幕府を開いて一族存続を最高の目標にする家康があの時点で、何を考え、何を
恐れたか。古典を集め勉強した、というのもよくそれを表してるとは思うのだけどね。
287 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 14:14:09 ID:ZSOq6iBd
ついでだけど、九条家の「羽柴」の血は特に脅威ではないし
イザという時は「公家諸法度」で規定下においてる。
「ヘタなこと」は出来ないけど、「豊臣姓復興」なんてのは九条家だって
徳川幕府の下ではそう簡単にできるものでない。
家康の最後の10年でやったことというのはものすごく合理的で
一族存続ためにあるとあらゆる完璧な作戦を完遂したとは思うのだよね。
各法度が260年も機能したというのもすごいことだと思うし。
と家康スレなので話を戻してみる。
288 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 14:39:32 ID:uRoSVfO/
>>286 ベストは当主の直接の子孫、ベターはの当主の兄弟の子孫。
それでもだめなら当主の血族の子孫
これが家を維持する資格があると考えられた人たちでしょう。
土佐藩の山内家も初代一豊には子供がいなかったので、弟の子忠義を
養子として迎えて家を継がせている。それでも一豊はれっきとした先祖で
あるし、代々その子孫と自覚してた。
秀勝は秀吉の姉の子であるので山内家の忠義に相当する。その秀勝の子
なら十分に秀吉の子孫といえる。
>完子さんには、「豊臣を賜った秀吉個人」の血統は入ってないでしょう。
>豊臣宗家、というか。
秀吉個人の血統は必ずしも必要ないんすよ
秀吉と秀勝は養子とはいえ親子関係なんだから大坂の羽柴本家の血筋と言えちゃうんだ。
秀次との関係でも、おいに関白を譲ったんではなくて、息子に譲ったという事なんだから。
養子とはそういうことなんですよ。
289 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 15:27:26 ID:yUPF3Qiy
290 :
仙台藩百姓:2011/01/24(月) 15:31:16 ID:90wAjD+n
>>285 それは再興ではなく単に養子を迎えた話しでしょお( ^ω^)
潰れた家に女子しかおらず、その女子が再び家を興すという話しだお( ^ω^)
>>289 言い掛かり以外の何だと言うのだお┐ (´ω`) ┌
まあ、あまりに目茶苦茶過ぎて言い掛かりにすらなっていない気もするけど( ^ω^)
291 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 15:41:10 ID:ZSOq6iBd
>>288 養子の話じゃないし、羽柴の血筋、はそうなんだけど、
あくまで究極の成り上がりをした秀吉個人の血統の価値、意味、の話ね。
「豊臣秀吉」という人物の、「豊臣の血統」を恐れたであろう、ということで。
「羽柴」の名の元に反乱起こしたって誰も相手にしないけど
「豊臣」というのはある意味、徳川よりも価値がある。
700年前の清和源氏の由来とは比較も出来ないピチピチの姓。
あくまで将軍、幕府というのは宣下されただけだから、「豊臣」というのは
武力とは別の「権威」という意味での脅威、というかね。
金で買った?とはいえ、武力と権威の融合する畏怖すべき血統に
なるわけでしょう。
万が一の万が一の将来的な禍根をとりのぞいておく、という家康らしい仕置き
だったとは思うよ、大阪の陣は。
292 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 15:44:29 ID:ZSOq6iBd
>>290 横から悪いが、鐘の文に文句つける前に豊臣方が徳川を挑発してた、というのが最近の
研究というか説みたいで、「徳川の一方的な言いがかりではなく、豊臣の挑発に乗った」
という意味合いで「言いがかりじゃない」という言い方をする人が多いんだ、ここ数年。
直接的にあの鐘の文の解釈は、言いがかり、そのものとは思うけどね。
293 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 15:53:15 ID:gAloRUPc
徳川は太閤の家臣だったんだから、それが主筋を滅ぼしたとなるとやっぱイメージが悪い。
征夷大将軍の地位を取ったのも豊臣公儀の大老の地位があってこそだし、家康は出奔し
ていたわけでもない。やっぱ謀反人だよなぁ
294 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 16:12:33 ID:37Kdlzi2
>>293 天下の家なんぞは奪われる方が悪い
それに筆頭大老の地位も家康の実力があってこそ、手に入れたものなのだが
295 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 16:21:28 ID:gAloRUPc
>>294 そんな理屈はない
それが当時でも当たり前のものであるなら
家臣が主筋を滅ぼす事の是非を問われる可
能性があると家康が怯える必要はなにもなかった。
家康の実力は秀吉の加増があってのもの。
296 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 16:31:26 ID:37Kdlzi2
>>295 そりゃ建前と本音の違い
家康の実力が秀吉の加増とは論外
297 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 16:57:30 ID:ZSOq6iBd
主筋を滅ぼすなんてのは、豊臣にとっては、自業自得、だもんなぁ。
他家ならいざ知らず、家康も豊臣に対してだけは、へっちゃら、だったと思うぞ。
298 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 17:09:08 ID:gAloRUPc
秀吉は主筋を死に追いやった事はあっても家そのものを滅ぼした事はない
299 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 17:22:06 ID:v+viciGa
信孝や信雄への秀吉の対応をみて空気読んだ織田と空気読めなかった豊臣を同じように語るのはどうかと思う
300 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 19:04:06 ID:ZSOq6iBd
家康は秀吉を、主、なんて思ったことはないだろうし、殺し合いまでしてる。
秀吉は織田家には恩はあるだろうし、さすがに秀吉の方がエグい。
よく、織田家を滅ぼさなかった、とか、官位まであげた、とか最後まで織田の忠臣だったように
言う人がいるけど、400年たってなお秀吉の情報操作にだまされてる気がする。
どっちが、という問題ではないけど、秀吉のほうがエグいぞ、あれは。
301 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 19:09:25 ID:25WRjZ2I
歴史認識もお粗末だが、その前に句読点の使い方を覚えような。
302 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 19:57:32 ID:gAloRUPc
大坂城で諸大名の面前で臣下の礼をとっておきながら主君ではないってどういう
理屈なんだ。
303 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 20:14:41 ID:37Kdlzi2
>>302 そりゃ江戸時代すべての大名は将軍の家臣という理屈と
同じ話だからでは
304 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 20:25:35 ID:25WRjZ2I
秀吉の使いとなり、秀吉を殿下と呼び、秀吉軍の先鋒を務め、
秀吉から領地を貰い、秀吉から羽柴氏を下賜され羽柴武蔵大納言を名乗ってるのに
これで家臣じゃないって言ったら何でもありだな。
305 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 20:26:02 ID:N6g9OfIY
B社がA社の傘下に入る契約を結んだということは、
B社の社長がA社の社員になったということと同一ではない
306 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 20:30:43 ID:ZSOq6iBd
なんでもいいが、タテマエとか事実とかちゃんとわかってるよね。
秀吉の方が人質出して無理やり臣下の礼を取ってもらった、とまでは言わないが
諸大名だってそのあたりのことはわかってる。
マジで、家康が心から秀吉を主と仰ぎ臣下として忠誠を誓った、みたいに
解釈してるのか?
江戸に行った後の秀吉の関東仕置きの各書状でもものすご〜く
気を使って、家康には一目置いてるのは普通でしょう。
死ぬときだって家康に、お願い、してるし。
まぁ最近はテレビやゲームレベルで語られてるからいいのだけど。
307 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 20:39:38 ID:25WRjZ2I
>>306 は?だから完全に家臣としての行動をしてるし、建前ってレベルじゃない事くらい理解しろよ。
完全に家臣として行動していても心の中じゃ思ってなかったなんてのは完全にお前の妄想。
308 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 20:40:48 ID:gAloRUPc
秀吉の性格が温厚だから家康は生きていられたんだろ。
小牧長久手の戦いから全面戦争になってれば滅ぼされるのは
間違いなく家康だぞ。あの時点での家康の軍勢は全戦力にほぼ等しいが、秀吉は
超余裕だったんだし。
309 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 20:41:23 ID:ZSOq6iBd
>>307 ではどうして、秀吉死後に秀頼をたてて豊臣の大老としての忠義をはたさなかったの?
形式やタテマエは秀吉の家臣というのは同意なんだけどね。
310 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 20:42:34 ID:ZSOq6iBd
>>308 同じように、ではどうして余裕があるなら実力で滅ぼさなかったの?
311 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 20:42:56 ID:gAloRUPc
312 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 20:45:17 ID:gAloRUPc
>>310 秀吉は力で無理矢理取り潰す事はほとんどしてないよ。
それが秀吉の甘さといえるかもしれないが。
まぁおれが秀吉なら難癖つけてむりやり取り潰すけどな。
313 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 20:45:55 ID:25WRjZ2I
>>309 はぁ?家臣が主君を裏切る事くらいあるに決まってんだろ。
家臣が絶対に主君を裏切らなかったら戦国時代なんてねーよw
きちんと家臣として行動してるのに形式だの建前だの頭おかしいのか?
314 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 20:48:29 ID:626pSW3m
織田への忠義を果たさなかった秀吉に
家康が忠義を果たす必要なんてないでしょ。
そもそも各大名の豊臣に対する忠誠なんてたかが知れてた。
だからこそあんな容易に徳川の天下になった。
315 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 20:51:08 ID:gAloRUPc
>>314 織田の時は天下がまだ統一されていなかったが
秀吉の時代には豊臣公儀で天下は統一されてただろ
戦争する必要はないのにわざわざ私利私欲で無用な戦争をおこしたのが家康
316 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 20:54:12 ID:37Kdlzi2
>>315 秀吉が死んだとたん、グダグダになりました>豊臣の天下
家康がいなければどの道、豊臣政権は崩壊していたし、
それはつまり家康の天下ということ
317 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 20:54:46 ID:gAloRUPc
318 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 20:55:02 ID:626pSW3m
>>315 いくら豊臣公儀と叫んだところで
大名たちは豊臣ではなく徳川を選んだ。
ただそれだけ。
319 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 20:55:22 ID:ZSOq6iBd
>>311 でしょう。
だから秀吉が生きてるうちは形式上家臣の立場をとってチャンスをまつ。
戦ったら負けたかもしれないし。
それで秀吉死後にすぐに刃を向けたわけでしょう。
家康は最初に大阪にこいといわれても行かなかった。これは家臣になんか
なりたくなかったからでしょう。それで秀吉があそこまで人質出して、家康もまいった・・
で臣下の形をとった。
こうしないと全面戦争になるかもしれないし。
このあたりは秀吉の勝ちで家康もちゃんと家臣としての立場を守る。
なんだけど、死後にすぐにああいう行動取ったということは、相当に周到に
作戦をねってたはず。
およそ忠臣のすることじゃない。家康の本心がどこにあったかは明白だと思うが。
ちなみに関が原のあとも本当に秀頼のためというのならあんなに領地減らしたりはしないし
自分もまた将軍就任時に秀頼を関白に推認したろう。
そういう噂が流れてたよね。
つまり世間一般では、忠臣な家康、と思われてたわけでこのあたりは家康の上手なところ。
秀吉もまた織田家に対して上手に対応して、一方的に恩知らず、みたいにはならないようにしてる。
で、どっちが、というと秀吉のほうが恩がある度では多いだろうから、エグい、と表現したわけだ。
妄想じゃなくて全部事実だと思うが。
320 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 20:56:49 ID:37Kdlzi2
>>317 家康が居なかったらグダグダどころが、一瞬で空中分解です>豊臣政権
321 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 20:59:19 ID:gAloRUPc
>>319 秀吉は主家を攻め滅ぼしたりしてないよ
家康は秀吉に領地を大幅加増されていて豊臣恩顧の典型に
なっているわけだが。並の戦国大名が領地を安堵されているのとは違う。
322 :
仙台藩百姓:2011/01/24(月) 21:00:19 ID:90wAjD+n
他人が犯罪やっているから自分もやっていいなんて理屈は通らないお( ^ω^)
秀吉がどうあろうと家康は豊臣家の臣下であり
秀頼に仕える事を約束していたのだからそれを破る事は裏切りであり主殺しの大罪だお( ^ω^)
勿論裏切るも罪を犯すのも本人の自由だけど、裏切り者の謗りは甘んじて受けるしかないお( ^ω^)
家康だって当然それは覚悟の上で自分の欲を通した訳だおうし( ^ω^)
323 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 21:01:38 ID:ZSOq6iBd
話が混線してるが、家康の本心の話だ。
あれはタテマエで本心は死後に起こしたようにずっとチャンスを待ってたろう。
それだけの話。
誰も形式上家臣ではない、とか言ってないぞ。
そちらの言うのもわかるが、その場その場でしか歴史をとらえてない。
そしてその場で、こうだっただけ、と言ってるのみ。
間違ってない、と、正しい、とは違うもの。
ということだ。
324 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 21:03:20 ID:25WRjZ2I
>>319 だからお前の言ってる事は全部結果論だっての。
家康が秀吉より長生きする保障は?利家より長生きする保障は?
秀吉死後は豊臣政権内での権力闘争であり、
その後にチャンスが巡ってきたから行動した事を
全て計算済みだっただとか、完全にお花畑だとしか思えない。
325 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 21:07:33 ID:ZSOq6iBd
>>322 それには同意だ。
家康の家臣というのはあくまで手続き上で、別に家康は秀吉に育てて
もらったわけではない。殺し合いまでしてるし。
だが、秀吉が信長に取り立ててもらった、というのは事実だろう。
なので、主人を殺すことはしてないが、その遺児や奥さんにしたことは相当に
エグい、ということで。
どっちがエグい、という話はなんか情けないが興味あるなも。
326 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 21:08:42 ID:gAloRUPc
>>325 大大名に取り立ててもらっているだろうが
327 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 21:11:12 ID:37Kdlzi2
328 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 21:14:56 ID:ZSOq6iBd
>>324 そうだよ、どっちが先に死ぬかなんてわからない。
で、別にお互い違うことを言ってるわけじゃないんだよね。
わしのが結果論ならそっちのは、人間の行動はその場での思いつき、になってしまう。
これも相反するものじゃない。
家康は信長を見てたから当然戦国勝ち抜き戦として自分もチャンスがあったら
とはずっと思ってたろう。
そういう風に思ってるだけだ。
ただ、秀吉死後に豊臣方で紛争が起きた、というのも家康がまったく無関係とは思えない。
これは違う話だが、家康が自分から秀吉との約束を破ったのは事実だろう。
こういうのも含めて、死んだらチャンスが巡ってきただけ、というよりはその前から
想定してただろう、というのはそんなに妄想か?
329 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 21:15:48 ID:gAloRUPc
>>327 150万石から100万石加増は恩顧以外の何物でもない
その100万石は家康が実力でとったわけではないんだよ。
330 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 21:17:31 ID:37Kdlzi2
>>329 その代わりに故地から移封させられましたが
331 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 21:19:25 ID:ZSOq6iBd
>>326 言ってることはわかるが、秀吉が信長家臣だった頃から
家康は信長とは対等の関係。
もちろん、主従同然だった、とは言われてるがそれはさておき名目上は
清洲同盟はあくまで同盟で主従ではない。
つまりその頃から家康は一本立ちしてるわけだ。
そういう意味で、育ててもらってない、と言ってるわけで
秀吉関白就任後のみの話をしてるわけじゃない。
このあたりは理解してもらえにゃぁかね。
332 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 21:21:19 ID:gAloRUPc
>>330 加増転封ならしょうがないでしょ。
逆らえば改易、御取りつぶしだろうし
333 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 21:21:50 ID:25WRjZ2I
>>325 敵対関係にあった後に家臣になった場合は全部形式上って事か?すげー理屈だなw
家臣になった後に頑張ったから領地貰えたんだろ。
神戸殺したのは北畠だし、そもそも織田家は信長と当主の信忠が
明智に殺された時点で崩壊してる。
主君殺してその子供を罪人として斬首してるのと同列に語るなよ。
334 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 21:23:13 ID:626pSW3m
>>329 その加増はほとんど意味が無い。
関東は四公六民で税率が極めて低いし
関東移封による家康の利益なんて無いに等しい。
335 :
仙台藩百姓:2011/01/24(月) 21:24:47 ID:90wAjD+n
どおでもいいけど清洲同盟は対等とは言い難いお( ^ω^)
清洲同盟という名前からして既に対等じゃないし( ^ω^)
336 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 21:26:22 ID:gAloRUPc
>>334 家康は自己の直轄領を100万石近くまで確保できたわけだが
あの加増がなければ150万石のまま
これでは天下を狙う事も微妙だったろうに。
150万石から250万石に領地を増やせた事を恩顧ではないとは
これまた珍妙な理屈だな。
337 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 21:33:47 ID:ZSOq6iBd
>>333 だからさ、全部、とか拡大解釈しないでくれるか。
あくまで家康の考えてたこと、という問題だ。
最初に臣下の礼をとることをずっと断ってて秀吉は人質まで出すことになった
このあたりはどう解釈する?
すでに家康が強大であり秀吉もそう認めていたってことじゃないのか?
家臣になって、という話に平行してなってるからさ。
それとエグい、というのは別に同列には語ってないぞ、
どっちがあれか、というのはまた別の話で、家康のやったことも大罪でひどいもんだ。
ただ秀吉スレでも似たようなこと言ってたが、織田家がいくら崩壊してても
孫をたてて織田家を再興することはできた。
実際にタテマエで、孫のため、とも言ってる。
この点は家康は秀頼をだいたりあやしたりはしてないが、たぶん、
秀吉は間近やタテマエに三法師を使ってる。
情けない話だが、やっぱり秀吉はエグいと思うぞ。
338 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 21:34:05 ID:37Kdlzi2
339 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 21:39:00 ID:ZSOq6iBd
>>335 それは面白い話なんだが、とりあえず意外と続いたきっちりとした同盟だったとは言えるでしょう。
実記あたりではケチョンケチョンだが。
ちなみに普段は織徳同盟と呼んでるが、清洲の方が変換しやすいもんでね。
それだけ。
余談だが長篠屏風の説明でこないだ「徳川・織田連合軍」になってて微妙だったな。
聞いたら徳川美術館の学芸員?みたいな人とかね。
こういうとこでも微妙な解釈は別れるから、じっくり話すと面白いんだが
おかしな煽りされると荒れるからイヤなんだよね。
340 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 21:40:46 ID:n8nUqTsa
家康の関東検地は尺の換算で太閤検地よりも重税になってるような
341 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 21:41:34 ID:gAloRUPc
>>338 家康の主人は秀吉だよね?臣下の礼をとったから。
しかも関白殿下の命令に逆らう事が何を意味するか
家康以外の諸大名もわかっているはず。
そういうのは脅しとはいわんだろ。
342 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 21:45:03 ID:37Kdlzi2
>>341 外様大名の主人は将軍ということですな。
343 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 21:46:12 ID:ZSOq6iBd
>>341 臣下の礼、にこだわってるけど、それを取ったいきさつについてはどう思うの?
母親まで人質に出した話。
秀吉だってそこはエクスキューズ入ってるんじゃないか。
他の普通の武力で家臣にしたのとは違うって。
その礼の前日に会ってる、というのは史実なんだたっけ。
344 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 21:51:39 ID:25WRjZ2I
>>337 この頃秀吉は西国の仕置が最優先課題で家康は北条と同盟を結んでる。
この時点では必ずしも秀吉への対応を鮮明にする必要は無い。
九州征伐を終えて完全に秀吉優勢となったから、
秀吉の家臣として一生懸命働いたって事だ。理解出来るか?
お前、家康が天下取るために秀頼をだしに使ってないとでも思ってるのか?
345 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 21:54:35 ID:gAloRUPc
>>343 当時の羽柴家の力なら家康を武力でむりやり取り潰す事は普通にできることだぜ。
でも、家康を臣従させたほうが簡単だからやったんでしょ。
というか秀吉はどの大名にも問答無用に武力を使ったりはしていない。
346 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 21:57:17 ID:T7srbmjG
この議論は善悪を明らかにしたいのか?
水戸学が足利尊氏を悪者にして、楠木正成を良い者にしたように。
善悪なんぞ、価値観と立場で大いに変わるんだから、
徳川派と豊臣派で善悪を議論すること自体がナンセンス
347 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 22:01:31 ID:626pSW3m
当時の秀吉に家康と真正面から戦って勝てる自信なんて無かったでしょ。
その後の秀吉の家康に対する態度を考えると
秀吉にとっては小牧長久手が相当トラウマになってると思う。
348 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 22:03:59 ID:Qs7sQ7Bk
上洛しなかったらまた軍起こすよ?って家康にラブコール送ってなかったか?
349 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 22:04:23 ID:ZSOq6iBd
>>344 そうだよ。
だから、一生懸命働いた、という背景にずっと家康は何を考えてたか、という
話だよ。
記録に残ってることから、人間が何を考えどう判断して行動したか、これは
結果からしかわからないこともあるからそうやって考えてるだけだ。
そういうことに興味が無いというか、「だけ」「記録はこう」とか受験勉強用の解答を
決めようとしてるわけじゃない。
それと、家康は秀頼をダシに使ったのは知ってるけどね。
どっちがエグいか、というとこれも興味ある問題だ、と言ってるわけだ。
350 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 22:07:35 ID:gAloRUPc
徳川家康は大坂城で秀吉に臣従を誓う
100万石加増で徳川家は豊臣恩顧の大名
徳川家康は豊臣公儀の大老であるが、豊臣公儀の権威を使って征夷大将軍の位を得る
秀吉死後も秀頼に臣従すると誓っていたが、寺の鐘の文句が気に入らぬと難癖をつけて
ケンカを売り、戦争して主家を滅ぼした逆賊
こういう結論なら何も言う事はないよ
351 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 22:10:54 ID:yUPF3Qiy
>>304 逆らったら潰されるから仕方なく家臣みたいに振る舞っていただけだろw
352 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 22:11:47 ID:2NM1isJj
卑怯だろうと何だろうと、豊臣より徳川の世の中になって良かったんじゃないかと思う。
豊臣で三成が幅をきかせるような世の中はお断りしたい。
徳川じゃなかったら、如水さんの天下でもオッケー。
353 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 22:12:34 ID:ZSOq6iBd
>>345 先に聞いて答えがきてないけど、小牧長久手だって、簡単ならどうして
武力で攻めなかったか、だよね。
関白後だって、家康が毛利とか西国とはさみうちにしたら秀吉だって
そう楽勝ではあるまい。
だから、そう簡単に秀吉はいつでも家康なんかツブせた、とは言えないだろうし
これを家臣の礼を取ったことの根拠とするのはどうかな、とも思うんだ。
もちろん、妄想はやめろ、と言われたらアレだが、小牧まで遡って秀吉が
圧勝で武力でずっと上位だった、とはそんなに簡単に言えるかどうか。
秀吉が方針変更したのも家康には武力よりも権威で対抗が明解、と判断したからだろうし。
354 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 22:15:18 ID:yUPF3Qiy
>>321 織田が空気を読んで秀吉に臣従したのが原因。豊臣も家康に臣従すれば良かった。
355 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 22:15:47 ID:25WRjZ2I
>>349 歴史的事実からの考察と妄想とは全く別の話。お前のは完全な妄想。
論理的に考えて「形式的に従ったふりをしていただけ」なんて事はあり得ない。
レスされても都合の悪い事は完全にスルーして自分の思ってる事だけ
何の根拠も無しに喚くだけなら日記帳にでも書いてろよ。
「わし」っていう言葉遣いや妄想全開の内容、出鱈目な日本語からして
いつもの馬鹿だろうから、言っても無駄だとは思うけど。
356 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 22:17:13 ID:T7srbmjG
豊臣氏の天下はあの状態で続くわけがない。
豊臣氏への義理のために、実力者が世に出られないほうが日本がおかしくなる
357 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 22:23:23 ID:ZSOq6iBd
>>350 そうだよ、そんなのは結論じゃなくてまず大前提というぐらいでしょう。
で、そういう背景に何があったか、というのを、妄想、といわれたから
根拠や実例を出してただけでしょう。
あれだけ、「頼む・・」と言われたのに裏切った家康もひどいが
家康はもうその時点で「知〜らね」と思ってたんじゃないか。
つまり「わかりもうした」と言ったのさえ本心じゃあるまい、というのはそんなに
妄想かな、という話。
対して秀吉も・・という話なんだが、家康ー秀吉の主君、と秀吉ー信長
の主君、とでは同列じゃ語れないし、秀吉の方がより大恩あるというように
思うわけだ。
家康の岡崎城は信長にもらった、わけではないだろうが秀吉の長浜とかは
自力で落としたにせよ、信長にもらった、一国一城の主にしてもらった、という意味合いが
強かろうと。
358 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 22:27:57 ID:lZ9Uh7Ur
>>355 歴史的事実を時系列で並べ考察すれば、
家康が豊臣家に信服したという結論には絶対ならんと思うがね。
359 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 22:30:30 ID:+bOY3KQo
そりゃ家康は秀吉が死んだとたんに専横始めてるからね
秀吉個人のことを畏れてはいても、
残された豊臣家に敬意など払ってなかったのは明白
けどそれって単に家康が恩知らずってだけのことじゃないの
360 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 22:32:40 ID:lZ9Uh7Ur
家康が恩を感じていなければ、恩知らずは成立しない。
361 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 22:34:12 ID:+bOY3KQo
君の勝手な定義なんて知らないよ
大辞泉より「恩知らず」の定義を参照
「恩を受けてもありがたいと思わず、それに報いる気のないこと。また、そういう人」
どう考えても家康のことですね
362 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 22:34:14 ID:gAloRUPc
>>360 犯罪者が犯罪を認識しなければ犯罪は成立しない、ってのと同じだぞそれ。
363 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 22:35:50 ID:ZSOq6iBd
>>355 わしも君だけかどうか知らないが、他の人にも読んでもらってちゃんと確認はしてるよ。
ちなみに、織豊だけじゃなくて古代史から各時代、それと少し異分野の得意な人も
いるからね。
名前は出せないが、去年テレビに出た人もいる。
日記帳に書くのもここに書くのもいいでしょう。
妄想書いてはいけない、ということもない。
そうやって、妄想は聞きたくない、とか言葉使いからいろいろ教えては
もらってる。
ちなみに、研究家は自由に話せないから「うらやましい」そうだ。
「そりゃ嫌われますよ」なんてね。
ただ、そちらのいう「論理的に考えて〜ありえない」はもう少し聞いてみたいけどな。
それを聞き出さなきゃいけないそうなんだが、いつも「バカには教えてもムダ」ってなっちゃうからね。
ついでに言うと少し話した秀吉の関東仕置きの論文はちゃんと読んでるよね。
これだけでもちゃんと通じると言うか、そのぐらいの感じでいつも話してるから
もう少し具体的というか、意見を聞きたいけどいつも「バカ」であしらわれちゃってるものね。
これでもちゃんと勉強してるつもりなんだけどね。では。
364 :
仙台藩百姓:2011/01/24(月) 22:35:53 ID:90wAjD+n
小牧長久手なんて局地的に徳川が多少優勢に立った事もあるだけで戦争自体は徳川の完敗じゃんお( ^ω^)
豊臣家にはダメージなんて皆無に等しいし
実際、小牧長久手の後に破竹の勢いで西国平定してしまって徳川などは手も足も出ない状況になってしまったお( ^ω^)
それに秀吉はあからさまに東国に興味がなかったお( ^ω^)
将軍ではなく関白になった時点で東国の政治的価値が極めて低くなったのも大きかっただおうけど
そもそも秀吉の目的は唐天竺を征服して三国統一する事にあったから
国内勢力を潰す事にさほど執着しなかったのだお( ^ω^)
それよりも早く国内を平定して外征したかったのだお( ^ω^)
家康などは小牧長久手の後、あからさまに戦意喪失していて攻勢に出る気配など全くなかったから
敢えて無理に攻め潰す必要などあるまいお( ^ω^)
だけど小心な家康は秀吉を怖れてなかなか臣従に踏み切らないから
秀吉も宥めすかして家康を誉めたり親類を送ったりして警戒を解く事に腐心したのだお( ^ω^)
365 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 22:36:30 ID:25WRjZ2I
>>358 対北条との交渉役となって以降、完全に秀吉の家臣として忠実に行動してるんだけど。
秀次事件が起きて政権中枢に置かれるようになり
直ぐに秀吉が死んでチャンスが転がり込んできたから欲が出てきただけ。
366 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 22:40:22 ID:lZ9Uh7Ur
>>361 そんな次元の低い話はやめとこうよ。意思解釈出来るでしょ?
例えば、仮に家康の望みが天下にあったとするなら、
それ以下の何を施されても恩には感じないだろ。
>>362 全然違うし。犯罪は法によって成立するものだから。
367 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 22:43:22 ID:ZSOq6iBd
>>358 そう思うのだけどねぇ。
人の生き様考え方とか考えれば普通はそうなんだろうけどねえ。
でもそうじゃなくて個別の事象で「これはこうなだけ」「あれはこうなだけ」となって
それをつなげて論理的には〜となるらしいんだよね。
よくいう「盲人象に触れる」の例と思うんだ。
個別の記録や事象をどれだけ正確に把握しても、全体はそれでわかるわけではないと言うか。
368 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 22:44:33 ID:gAloRUPc
>>366 ようはその本人がどう思うと他人からの評価なんだよ。
100万石加増されて、基礎体力つけてもらったのに恩を忘れて主家を滅ぼすなんて
逆賊以外の何物でもない罠。
369 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 22:45:58 ID:+bOY3KQo
>>366 申し訳ないが、次元が低いのは明らかに
言葉の使い方を間違ってる君の方だろう
恩というのは恩を施される当人がどうこう言うものじゃなく、
究極的には周りが判断するものなんだよ
「御恩と奉公」という一種の社会契約なんだからさ
家康個人が秀吉との関係をどう解釈してたかはともかく、
世間一般では彼の所業は恩知らずだとされる行い
370 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 22:47:38 ID:T7srbmjG
>>368 オマエの史観はわかった。
だが、それを他人に押し付けるのはやめてくれ。
だってオマエの意見さほど正しいとも思えないから。
でも、オマエのなかでは正しい。それでよくないか?
371 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 22:51:08 ID:ZSOq6iBd
>>365 あのさ、反論じゃなくて教えてほしいのだけどさ。
関ガ原で勝ってすぐに将軍になって、すぐに諸法度だして法令なんて何十もいっぱいだしてるでしょ。
家康。
しかもこれがものすごく完璧だし、ずっとずっと前から吾妻鏡とか古典を集めさせてた、よね。
こういうのは秀吉が死んでから、欲が出て天下人になるのに成功、そしてから思いついて
したのだろうか。
そういうにはあまりに事前準備というか、自分の天下人になった時の用意、にも感じられるけど
やっぱり妄想かな・・ごめん。
ただ、天下人への準備、というのはあったように思うけどな。
もちろん自分が先に死んだらいけないけど、一応年下だしそれなりにはね。
どんなもんでしょ。
372 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 22:51:16 ID:626pSW3m
家康は秀吉の恩顧なんか受けてないからな。
長年家臣を務めてきたわけでもないし。
光秀=恩知らずという
見方はあっても
家康=恩知らず
という見方はあまり一般的ではない。
373 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 22:52:50 ID:2NM1isJj
結局、黒田も藤堂も細川もその他大勢も豊臣を見捨てたんだから、他も同罪でしょ。
たまたまその中で、権現様が一番の実力者だった。
ここで徳川叩いてるようなのに限って、関ヶ原の頃に大名だったら、真っ先に徳川に付いたりするんだろうし。
374 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 22:54:27 ID:gAloRUPc
>>372 当の家康自身が主家を滅ぼす事の是非を識者に打診していたりする
一般的かどうかはともかく本人がそう言っているんだからw
100万石加増されてそれが恩じゃないならなんなんだ。
しかも未開発分含めたら徳川家の所領は跳ね上がるのに。
375 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 22:57:26 ID:ZSOq6iBd
>>370 うん、ありがとう。
もちろん押し付けてない。勉強不足だしいろいろ教えてほしいからきいてるわけ。
だから具体的に簡単にでいいから、ここが違う、と言ってくれれば後は自分で考えるようにする。
決して反論とかからんでるわけではない。
現時点でもいろいろ批判されて考えてることはあるし、丁度こういうとこで聞くにはいいから。
確認だけど、そちらが間違ってる、なんて言ってないからね。
自分とは違う思考法をする、という意味で尊重してる。
それだけ。
376 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 22:59:19 ID:T7srbmjG
彼は実社会でも忠義の士なのだろうか?
社会人か学生なのかは知らないが、
給料をくれる勤め先、バイト先には命懸けそうな勢いだし
377 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 23:00:31 ID:+bOY3KQo
>>374 家康が林羅山に湯武放伐の是非を尋ねた話だね
儒教でも凄く微妙な問題で、家康の内心の葛藤が伺える
イエスマンの羅山であってもGOサイン貰って
幾分か気が楽になったに違いない
378 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 23:01:50 ID:gAloRUPc
あとは関が原以後、家康は自分の所領を150万石加増している。
これは秀頼の名の下にやっている事でこれも恩以外の何物でもない。
でもその加増してくれた主人を無理矢理攻め滅ぼしたという現実w
379 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 23:02:14 ID:626pSW3m
一方の秀吉は織田を潰したり秀次を惨殺したりすることには
葛藤を覚えなかったんだろうな。
380 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 23:02:51 ID:25WRjZ2I
>>363 ちょっw「俺の知り合いには怖い人がいるんだぞ」って言ってる小学生と同じだなw
論文って何?誰の何時の論文?だから「馬鹿」って言われるだけなんだよ。
そもそもお前の言ってる内容は全部小説やTVなんかの「お話し」程度のものしかないだろ。
>>371 秀吉生前は秀吉の家臣として忠実に働いていた事くらいは知ってるよな?
秀頼が生まれ秀次事件が起き、大老・奉行制が敷かれ政権の中枢に置かれる。
秀吉が自分よりも早く死ぬ。利家が自分よりも早く死ぬ。
反対陣営との争いが早期に完全決着する。
全部見据えていたんなら神様だな。
381 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 23:04:47 ID:ZSOq6iBd
>>376 あれ、レス番間違えたか。ま、いいや。
なんか小牧で負けて?臣下になって、忠実に働いて百万石もらって恩感じて、死んだら裏切っただけ
というのが家康の人生ということか、なるほどな。
382 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 23:07:25 ID:+bOY3KQo
>>379 そりゃ信孝と敵対したときは「秀信様の御為」、
信雄を追放したときは「帝に信任された余に逆らうのは朝廷への反逆と同じ」
つう理屈があったからねえ
酷いことするときでも、誰か上の人の為だと思うと気が楽になるんだよ
アイヒマン実験ってやつね
家康も大坂の陣のとき朝廷から豊臣家討伐の勅旨貰おうと運動してるけど
親豊臣の帝からスルーされたりしてる
この時豊臣を逆賊扱いできてたら後世の評価も良かったかも知れないね
383 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 23:15:08 ID:T7srbmjG
織田信孝はまさに、太閤さまを逆賊扱いした辞世残しているな。
でも、逆賊なんてのは体制が移動するときに、
新勢力は必ず言われることでもある。
そこを後世から、個人的な好き嫌いや、歴史の一点だけに目をつけて、
善玉か悪玉かなんて決めつけるのは程度が低い
384 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 23:18:10 ID:QjB2A0Ek
>>380 秀吉生前において、最初から秀吉の家臣ではなかったのがポイント。
屈服させられた者を、心底忠実であると断言出来る方がおかしい。
385 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 23:18:59 ID:626pSW3m
大阪の陣の後世の評価で言えば、徳川方が一方的に悪者扱いされてる
感じではないけどな。むしろ淀殿(=悪女)が講和派を追放して暴走した揚句に自滅
という評価も根強いかも。
いずれにしろここで言われている家康=逆賊論は一般的な評価とは言い難い。
386 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 23:19:30 ID:ZSOq6iBd
>>380 いや、テレビ見ないし、小説はここ30年は読んでない。
だから、「お話」というのがよくわからない、ごめんな。
ほんで、歴史学研究、とは思ったんだがいきなりこういう名前出すとそれこそ
なんか言われそうだから出さなかっただけだよ。
全部見据えてた、というか想定してたんではないか、ということだよ。
秀吉の大言壮語とか女好きとか、晩年は少しおかしくはなってたでしょう。
だから秀次事件の時には、すでに「この政権は危ない」ぐらいの想定は出来たんじゃないかな。
他にも朝鮮出兵だってあの時点では「だいじょうぶか、この対外戦争」ぐらいのことは
普通に思ってたんじゃないか。
それと生前忠実に働いた、だけど、これも豊臣のためではあるが自分の得
にもなってないかな。損してまでするなら「忠義」だけど、決してそういうことはしてないような。
うまいこと言って朝鮮行かなかった、つまり自兵は大事だし。
ほんで、関が原だって絶対に勝てる、わけじゃないから神様のようなチャンスでもなかったでしょう。
負けててもおかしくはないぐらい。
だから、それなりに自分が年下だし、先に秀吉が死ぬ可能性もあるし、基盤は怪しい政権。
だもんで、ずっとその日に備えて準備をしてた、という感じでね。
家康がそのように想定してた、というのはどんなもんでしょ。
あまりイヂめないように教えてほしいな。
387 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 23:19:49 ID:gAloRUPc
明智光秀は所謂、謀反人
徳川家康は緩慢な謀反人
388 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 23:26:19 ID:T7srbmjG
織田が足利に謀反して、豊臣が織田に謀反する。
まさに下剋上ですな。
恩知らず結構。
むしろ男は恩知らずくらいでないとダメ
389 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 23:31:08 ID:QjB2A0Ek
家康を謀反人としてsageるのは無理な話。
390 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 23:31:27 ID:gAloRUPc
信長は足利家を滅ぼしたわけではないし、秀吉も織田家を滅ぼした事は無い
しかし、家康は主家を滅ぼした後、主人の墓も暴いた
391 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 23:34:54 ID:ZSOq6iBd
>>385 家康ー豊臣を主家、みたいには思わないから最後のあの誓紙破りも
特に強調しようとは思わないけど、あれを強調すると
主家裏切りー殺しの大逆臣、ということになってるのかな。
主家裏切りぐらいはよくある、という観点でも特にそこを強調するのは
どうかとも思うし。
だから家康ー逆賊ともあまり思わないけど、秀吉は「大恩ある」という
のがあるからねえ。
家康だって百万石もらったという大恩あるだろ、という話にもなってるけど
そういう損得の話じゃなくて、秀吉は貧乏な頃に「恩」があるもんなあ。
392 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 23:37:35 ID:gAloRUPc
>>391 関が原以後、秀頼の名の下に150万石加増しているから
合計250石もらっているわけで
393 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 23:39:30 ID:+bOY3KQo
>>390 結果論で言えば秀吉は信長に追放された足利の血脈を保って、
光秀に滅ぼされる寸前だった織田宗家をとりあえず大名として存続させてるかんね
更に結果論で言えば天下を奪われたはずの
秀信が関ヶ原で西軍に付いたことも秀吉の簒奪の悪印象を薄くしてる
もう一つ結果論を言えばその秀信を戦後高野山に追放して
信忠系の織田宗家を断絶させたのは家康に他ならない
ま、五十歩百歩であったとしても百歩は家康の方だろうね
394 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 23:40:39 ID:QjB2A0Ek
田舎で150万石もらって嬉しいか、って話だな。
給料何千万積まれても、地方の開業医になりたがらないのと同じだろ。
395 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 23:40:46 ID:ZSOq6iBd
>>390 あぁ、そちらはそういう事がいいたいわけね。
だもんで、主家とはどうだろう、という話になっていくわけか。
自分の妄想だと、主家、どころか「今は屈服してるが心から尊敬、忠義を誓ったわけではないぞ」
というのがずっとあったのではないか、というのだから、最初からあまり家康を逆賊とは
思わない部分も強い。
秀吉は信孝の母と子供も殺してるんだったっけ。実行は信雄だっけ。
どっちにしろこれはエグいとは思うんだ。と話が戻るな。
396 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 23:41:12 ID:T7srbmjG
言葉の上で主家だの忠義だのオマエは儒者かwと言いたくなる。
まぁ、オレも儒学思想は好きだけど。
しかし形式上の礼儀に固まりすぎると害も出る
397 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 23:44:50 ID:ZSOq6iBd
>>393 そのあたりは、信長が足利を存続させたように、とりあえず直接的脅威に
ならない限り余分な恨みはかわないというのが共通の意思だったのかな。
だから、後になっての五十歩百歩、はまた違う話かもね。
398 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 23:44:55 ID:+bOY3KQo
>>395 信孝殺しの実行犯が信雄であって、人質だった信孝の一族を殺害したのは秀吉
酷い所業だが、親と子供を人質に出しながら平気で謀反しちゃう、
外道さでは秀吉の遥か上を行く信孝が相手だったおかげで大分救われてるね
399 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 23:47:57 ID:25WRjZ2I
>>386 想定出来る事と出来ない事があるって事くらい理解しろよ、間抜け。
> だから秀次事件の時には、すでに「この政権は危ない」ぐらいの想定は出来たんじゃないかな。
こんな事誰が言った?秀頼が生まれて秀次事件が起きる事を想定してたのかって話だ。
> それと生前忠実に働いた、だけど、これも豊臣のためではあるが自分の得
誰の為だとかそういう話じゃねーの。理解しろよ馬鹿。
後の文は支離滅裂で年下だから長生きって事しか分からん。
お前とのやりとりは議論にも何もならねーんだよ。
400 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 23:48:52 ID:2NM1isJj
権現様は今川や武田にはずっと敬意はらって保護してたし、織田も大事に扱ってた。
それに三成の子供も助命を認めてる。
そんな中、唯一滅ぼされた豊臣はある程度自業自得な部分も大きいよ。
それに、戦いで負けたら男子は子供でも斬首されるのはあの時代は当たり前。
浅井を滅ぼした織田も同じことしてるし、その大将は秀吉だ。
かつては、源頼朝が義経の産まれてばかりの赤子が男だからと手をかけたこともあったよね。
401 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 23:52:54 ID:ZSOq6iBd
>>398 そのあたりも秀吉スレで話したことあるな。
信雄の背後に秀吉がいたのでは、と言ったら妄想とポコポコに
たたかれたけど、いなくても十分にエグいよね。
もちろん信孝切腹命令は信雄であるのは知ってるが、なんか
エグいと思うな、やはり。
信孝一族、というより信長の奥さんと孫、という言い方をすると
こないだまでへーへーしてたくせに、というのがエグさの元かな。
402 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 23:54:46 ID:ZSOq6iBd
>>399 384さんが2行でまとめてくれてるけど、これには?
403 :
人間七七四年:2011/01/24(月) 23:54:50 ID:+bOY3KQo
>>400 武田はともかく、一門扱いしてもらった今川を
義元が死んだとたん裏切って攻め滅ぼしたのは家康だし
秀信を処刑しようとしたら福島や池田ら豊臣恩顧の助命嘆願を受けて、
高野山追放と宗家断絶で「許した」
家康が織田を大事に扱ったなんてことはないと思うよ
404 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 00:08:10 ID:KHjsmbqn
>>399 悪いね。伝わらない?
秀頼が生まれた時点でお家騒動はある程度は想定できないか?
また出来なくても、秀次事件の時点でその後を、ということだよ。自分の一族と
比べて歴代の譜代でもないから、それなりに想定はできたのではないか、ということね。
つまり結果論でもなくて、ある程度ドロドロは家康も見てるから、チャンスはくる、と想定してたというのは
そんなに妄想ですかね、と聞いてる。
神の如くお見通し、とそちらが言うから、そうじゃなくて家康にとって不利なことも
当然あった、ということね、関が原では。
だから、384さんの言うように「心から臣従してないのでは」というのに対して
そちらは「妄想」、論理的に考えればそんなことはない、事実も臣下として行動してる
というわけでしょう。
だからその根本でこちらは細かい話をしてるわけで、やっぱり個別に考えずに
判断してもらえれば伝わるはずだけど。
忠実に働いた、というのも「理解しろよバカ」と言われてもこちらは理解してレス
してるつもりだけど。
「心から臣従してなくても臣下としての働きは出来る」というかね。
つまり、事象を表面で考えずに「人間としての判断」ということで。
そちらじゃないけど、なんでも「〜だけ」と言われると、同じようにこちらもそういう言い方になってしまって
話が深まらないでしょう。
「ずっと臣従してなかっただけ」なんてね。
405 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 00:08:39 ID:vCpEn2qu
>>402 「形式的に秀吉に従ってはいたけど、自らの天下を見据えて行動していた」
だなんて言うのはあまりに馬鹿馬鹿しい結果論だって言ってんだよ。
「秀吉の家臣として忠実に務めてきたが、チャンスが転がり込んできた」
って言ってる訳で、心の底でどう思っていたかだなんて馬鹿げた話はしてない。
まとめてるとか全く意味不明。
406 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 00:14:50 ID:KHjsmbqn
>>405 だから、元臣下でもなく屈服させられた相手、ということは認めるわけでしょう。
そういう時に「家臣として忠実に勤めて〜」ということは普通の人間の心中としては
どう思いますかね、と言う話をしてる。
「ばかげた」というがそういうのこそ歴史解釈として必要じゃないか、という話。
どうして「馬鹿げた話」と思うのか、良かったら教えてもらえないか。
こちらはそちらの3行目を否定していない、そこからさらに前後の事情で考察
してるのだけど。
407 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 00:21:56 ID:qpnUOu7F
>>290 >潰れた家に女子しかおらず、その女子が再び家を興すという話しだお
高台院は足守藩主の子を養子をとして大坂の羽柴宗家を再興していたはずだが。
秀吉と高台院はは元々が浅井一族に繋がる同族であり、全くの無縁の人間ではない。
高台院が亡くなった後は幕府への遠慮として羽柴を名乗るのはやめ、木下にしているが
本姓は豊臣として幕府にも公認され、羽柴家の法事を行う事も認められている。
408 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 00:22:40 ID:JYBqHlok
>>405 そうかねぇ?
秀吉政権内で最大実力者なわけでしょ。名実ともに。
次点の上杉・毛利と比較したって、倍以上の石高。
そんで、秀吉の後継体制は極めて脆弱。
この材料だけでも、考えないという方が無理ないか?
その辺の凡人でも考えそうなもんだが。
409 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 00:25:43 ID:KHjsmbqn
>>406 ついでだが、1行目も結論じゃなくて、途中で別個で出てきた話。
あくまでこちらの言いたいのはそちらの言う「心のそこでどう思ってたか」
ということ。
「形式的に従っていた」と「天下を見据えて行動していた」というのはイコールで結びつけると
「ばかばかしい結果論」になるかもしれないが、どちらも家康の心中としては
「あったのではないか」ということ。
後者に関しては「想定してたのでは」と柔らかい表現をしてたはずだがそちらが
「神の如く見据えていた」と強調してしまってるでしょう。
そちらがこちらを「馬鹿」というのもわかるんだが、拡大、強調、してしまうとそういう風になってしまう。
あまりそういう、「馬鹿」前提でこちらの論を決めないでもらえるとうれしいな。
で、「馬鹿げた話」と言われるのが正直不思議なんだ。
そちらは405の3行目の背景に「家康」というのは何を考えていたと思う?
母親人質まで出して屈服求めてきた相手に対して。
こういう質問を「ばかげてる」として答えてももらえないのかな。
少し残念だが、今までのいろいろなやりとりの結論っぽいから
せっかくだからね。
410 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 00:29:39 ID:ln8XdNeT
>秀吉政権内で最大実力者なわけでしょ。名実ともに。
>次点の上杉・毛利と比較したって、倍以上の石高。
>そんで、秀吉の後継体制は極めて脆弱。
横からで申し訳ないけど、
そういう状況になったのは、秀吉が秀次を粛清して、
更に秀吉自身が幼い秀頼を残して
家康より先に死ぬことがほぼ確実になった時点でのこと
要するに豊臣政権末期の話であって、
そういうのを「チャンスが転がり込んできた」と表現してるんじゃないの
君と彼とはそんなに事実認識で変わりはないと思うよ
411 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 00:31:48 ID:KHjsmbqn
>>408 ついでに便乗させてもらうと、家康は信長と共に行動してきたわけだし、秀吉の
統一の過程も全部見てるわけでしょう。
それだけでも、十分に[天下人」を意識するのは普通だし、ましてや秀次事件の後なんて
もう「チャンス到来」ぐらいに考えてもおかしくはないと思うのだよね。
言い過ぎかもしれないが、本能寺の後ぐらいからでも、信雄と組んだあたりでも、「天下」なんて
十分に想定できるぐらいじゃないかな、とも思う。
どうでしょ。
412 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 00:37:39 ID:JYBqHlok
>>410 ゴメン。ちと言葉足らずだった。
脆弱な後継体制というのは、後継者本人のみの話にとどまらず、
それを支える家臣団も含めて。まぁよく言われる事だけどね。
現代でも、組織論で本が一冊書けるくらいでしょ。
413 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 00:44:36 ID:KHjsmbqn
秀吉スレで、関が原の遠因は?というので秀次事件と朝鮮出兵とどっちが、
ってあったけど、こうしてみるとこんな大きなのが二つもあっては、というのが
よくわかるな。
414 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 00:46:15 ID:vCpEn2qu
>>408 俺が否定してるのは「最初からずっとそういうつもりで秀吉に従っていた」という事。
どの時点で家康が自らの天下を狙ったかについては言及してない。
家康は秀頼誕生及び秀次事件がきっかけで豊臣政権内での地位を確立するわけだけど、
この時点で意識した可能性は否定しない。
ただ、それ以前は政権内で大きな権力は与えられておらず、
決して天下を望めるような状態ではなかった。
415 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 01:04:43 ID:KHjsmbqn
>>414 横からでしつこくて悪いが、411で書いたように状況は事実上不可能でも
「天下人を意識してた」というのはそれなりにさかのぼれないだろうか。
例えば、小牧の時点ではもちろん勝つ気だったろうが、勝ったら天下を
狙ったんじゃないだろか。
なので、どの時点で意識したか、についてどうお考えか。
教えてほしい気がする。
自分はそのあたりまで遡れて、その後関白就任とかでそちらが言うように
「望める状況ではなくなった」、そしてずっと家臣として忠実に任務を果たすのだけど
その間も「想定はしていた」、そうしたら「チャンスがきた」という感じで。
これの補足として「母親人質に出されるまで臣下の礼はとらなかった、つまり屈服」
とか清洲同盟とかの話にずれてしまったのだけど。
「最初から〜」と言うと結果論と言われてしまったけど、小牧で勝ってればこれが
天下を目指す一番の近いとこ、で実際は秀吉にしてやられてはしまったんだが、
そのあたりまで「天下人への意識」は遡れないだろか。
もちろん「絶対あった」というのではなくて「意識として芽生えて、それがその後の想定に
結びつく」というぐらいの表現なんだが。
否定されるのはかまわないので、どうせなら教えてほしいな、と。
416 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 01:14:00 ID:LwfZR7VM
そんなことより、家康と直政の衆道関係が本当にあったのか誰か教えて、エロい人。
417 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 01:26:49 ID:KHjsmbqn
よし、自分でまとめよ。
414の1行目で否定された根拠をお聞きしたかったんだが、こちらは
「家康の心の底」の話をしてるわけで。
そしたら、それは「ばかげた話」と一蹴されてしまったわけだな。
なので「ばかげた話」という根拠と、「最初からずっとそういうつもり」というのも
心の底だけじゃなくて「実際に小牧で戦ってる」というのが少しは具体的な根拠にならないかな、
ということをぜひお聞きしたいわけだ。
もちろん、心の底、なんてのは誰にもわからないので「ばかげた話」かもしれないけど
それなら414の1行目も否定ではなく「不明」ぐらいじゃないかな、とね。
後は「元家臣でもないし屈服した相手」に対する[心の底」をもし良かったら
「ばかげた話」と思わないなら、どう思うか、というのを皆さん?にも聞いて見たいわけで。
相手してくれた人、ありがとう。
418 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 05:49:16 ID:ndK+NBPt
昨夜は両家の贔屓に立った側からあれこれ議論してたみたいだけど、
事実だけでまとめると、軍事政権を維持できなくなった豊臣に徳川が
取って代わったっていう、ただそれだけのこと。
秀次事件によって次世代の政権幹部を根こそぎ粛清したことと、
朝鮮出兵で大事な戦力を疲弊させてしまったこと。
軍事政権を維持するのは軍事力なのだから、豊臣政権が崩壊したのは
当然の帰結といえる。
武士の社会システムの象徴である「御恩と奉公」の御恩には、主による領土の
保護も含まれるわけで、軍事力が衰えて守ってくれるかどうかわからないような
主は見限られるのが武家社会の常だ。
このとき豊臣政権が味わったことを、260年後に徳川政権も味わうわけで。
419 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 09:52:59 ID:nPtjU+S9
>>378 関が原以後は家康が実質的な天下人だろw
420 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 11:16:59 ID:+3nNqy0O
口先の議論を好むのはオタクの短所なり
421 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 13:10:51 ID:osT5rHaV
正室に苦労した家康公は、
何で大奥を黙認したんだろう(′・_・`)?
422 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 14:26:54 ID:m8wRtzF3
家 康 は 裏 切 り 者 だ
今川氏真を間違いなく裏切った
423 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 15:14:35 ID:aRL0ecAl
裏切ったのではない、独立したのだ
424 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 16:32:08 ID:nPtjU+S9
裏切らなかったら滅びていた
425 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 17:01:10 ID:+3nNqy0O
秀吉には日本のトップとしての実力があった。
トップに相応の実力がないときにはどうすればいいか?
机上の空論で部分的な義に殉じるのか?
それとも日本全体を考えた義に殉じるのか?
426 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 18:22:49 ID:PWJt0Fje
日本語で
427 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 19:46:49 ID:ndK+NBPt
トップに実力がなくてもやっていけるような仕組みを家康と秀忠は作った。
秀吉も一度作りかけたけど、わが子かわいさでおじゃんにしてしまった。
428 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 20:11:31 ID:lIO/sZiz
>>423 ものは言い様だな
つか、現実に今川に牙を剥いて支配域を武力で奪い取ってんだけど
429 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 20:18:19 ID:aRL0ecAl
430 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 20:26:31 ID:Bze9Fnol
今川から織田に鞍替えしただけでしょ
431 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 20:33:25 ID:nPtjU+S9
>>428 あの時点で今川を裏切らなかったら馬鹿だろ
432 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 20:33:48 ID:a/+Z3aww
弱者は滅ぼすし滅ぼされるのが普通の世で〜を侵攻したから〜って話はどうかと思うの
433 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 21:03:46 ID:ln8XdNeT
敵対者への鞍替えってそれ即ち裏切りじゃないの?
大賀弥四郎も草葉の陰で泣いてるよ
434 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 21:15:36 ID:nPtjU+S9
>>433 敵対者への鞍替え=裏切りも成功すれば賞賛されるのが戦国時代だろ?
435 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 21:22:29 ID:ln8XdNeT
>敵対者への鞍替え=裏切りも成功すれば賞賛されるのが戦国時代だろ
何か戦国時代を道徳が全く存在しない異次元世界か何かだと思ってね?
時勢に迫られて裏切りをする人間が多く居た時代であっても、
裏切りそのものが積極的に称賛されたことなんてないよ
436 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 21:27:06 ID:+3nNqy0O
「ボクを裏切ったなこの野郎」
と弱い奴が言っても誰も同情しないのが戦国時代。
武士なのだから武力と策略で負けたならそれまでよ
437 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 21:42:08 ID:qpnUOu7F
関東100万石+関が原後150万石で計250万石加増されておきながら
豊臣恩顧ではないといい放つ理屈はすごい。
一般の大名が自己で得た領地を安堵したのとは違うんだぞ。
438 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 22:00:17 ID:ln8XdNeT
>「ボクを裏切ったなこの野郎」
>と弱い奴が言っても誰も同情しないのが戦国時代。
関ヶ原で小早川隊に攻められ死んだ大谷戸田平塚らが
戦後東軍諸将から盛んに賞賛された反面、
裏切った秀秋は「芝の上に跪き手を束ねし様は、いかにも笑止」
「(家康と彼の前に跪く秀秋を対比して)鷲と雉子ほども違はむか」
と福島黒田に散々嘲笑されてる(『天元實記』より)
家康みたいに開き直って悪逆の限りを尽くして
天下までとっちゃう人はそれはそれで見所があるが、
時勢に流されて裏切る人間なんて何時の時代も軽蔑されてたよ
439 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 22:04:47 ID:aRL0ecAl
主観の相違だね
440 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 22:09:51 ID:+3nNqy0O
>>438 小早川秀秋の裏切りには主体性がないから、
蔑まれた扱いされるのは道理だろう。
オレのレスとはさほど関係ないよ。
ただ小早川秀秋は幼少の逸話とかみると、
母親の愛情をあまり受けてなかったりして、
個人的にはあまり批判したくない武将
441 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 22:10:01 ID:qpnUOu7F
主君の墓暴きをやったのが一番最悪だろ
これが家康が徹底的に嫌悪感をもたれる原因の一つだと思う
442 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 22:13:44 ID:ln8XdNeT
落ち目の今川の代わりに織田に擦り寄った家康に主体性があるなら、
落ち目の豊臣の代わりに徳川に擦り寄った秀秋にも主体性はあるんじゃないカナ
443 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 22:17:17 ID:nPtjU+S9
>>437 関が原の後は事実上、家康が天下人だったんだから、自分で自分に所領やったようなモンだろ
形式的には豊臣が上にいたけど
444 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 22:21:50 ID:+3nNqy0O
一国の方針としての今川見切っての清洲同盟と、
当日まで迷い大谷隊に突っ込んだ小早川を並列にされても・・・
アナタは口先だけで論破(笑)したいだけじゃないか?
2ちゃんでの議論はダラダラ収拾つかなくなると、
最後は荒れるだけなんで、オレはこれで落ちるよ
445 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 22:22:58 ID:qpnUOu7F
>>443 秀頼や豊臣公儀の権威がなければ意味を成さないものだぞそれは。
446 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 22:27:35 ID:ln8XdNeT
>>444 別に論破(笑)して勝ち誇る気はないな
隙だらけの論理で面白いからついつい突っ込んでしまうだけで、
不快にさせたなら謝るよ
上から目線で申し訳ないが、
簡単に揚げ足取られるような書き込みは
2chでは避けたほうが良いと思う
447 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 22:32:43 ID:+3nNqy0O
>>446 揚げ足とるほうが悪くない?
オレは誠実に議論してたと思うが。
だってさ、清洲同盟と関ケ原の小早川を並列に語るの揚げ足とりだよな。
自分でわかってやってたんだ。
てか、文字だけの会話でそんなことやるのこそ、相手に不快感与えたいだけの中身のない議論じゃん。
なんか裏切り行為を批判する人なのに底意地汚いんだな。
これで本当に落ちる
448 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 22:41:30 ID:a/+Z3aww
裏切り批判して揚げ足とったけど「それがなにか?」って流れにワロタ
戦国時代って裏切ってもそれがお家の成功に繋がれば「それがなにか?」って時代だろ
主家を乗っ取ったり蔑ろにするのも同じだよ
今と違って裏切られたり乗っ取られたりして泣き言いっても誰も助けてくれないし、した側が勝者になったら滅ぼされてもしかたないだろうに
徳川と豊臣に限った話なわけでもないしな
449 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 22:41:39 ID:ln8XdNeT
>>447 じゃあ誠実に議論するけど、家康の今川からの離反と
清洲同盟は実際は若干のタイムラグがある
火事場泥棒的に旧領岡崎を回復した家康が、
退潮著しい今川とその同調者に攻撃を加えた結果
今川と完全に敵対、その一年後同じく
今川を敵とする織田と同盟したのが清洲同盟
「一国の方針」と自慢できるほど大仰なものでもないと思うよ
ま、流石に秀秋よりはマシだけど裏切り行為としては結局五十歩百歩
秀秋が百歩だろうけどね
450 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 22:43:37 ID:qpnUOu7F
家康も一歩間違えれば大恥をかく事にもなりかねなかったのは認める。
大坂の役で危うく討ち取られるところだったろ。
もし討死していたら稀代の大奸物と称されてもっと酷い言われようだったとは思う。
現在は逆賊程度ですんでるが。
451 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 22:48:55 ID:nPtjU+S9
秀吉より先に死ぬのが最も評判よかっただろうな
452 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 22:54:28 ID:ln8XdNeT
秀吉死後も秀頼を盛り立てるのが一番評判良かったんじゃないの
林羅山の『豊臣秀吉譜』では臨終の秀吉が家康に対し、
「秀頼に天下を治める器がなければ貴君が天下を治めよ」
なんて劉備と諸葛亮の逸話丸パクリの創作してるけど、
史実の諸葛亮と同様豊臣家に忠義を尽くしたら
狸親父ではなくて孔明並の聖人扱いされてたはず
453 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 23:00:41 ID:qpnUOu7F
律義者が豹変したわけだから狸親父とか逆賊のそしりは逃れられんよな
秀頼を討っても、代わりのものに羽柴家を継がせて高位の小大名にでも
しておけばまた違ったものを。
454 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 23:04:02 ID:nPtjU+S9
>>452 それで250年の平和を築いたら神様扱いだろうなw
455 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 23:04:10 ID:aRL0ecAl
後世の評価なんて糞食らえですね
死して聖人と崇められるより、生きて大奸物と言われる方が良い
所詮、鯨と英雄は死んでから役に立つ
456 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 23:06:15 ID:qpnUOu7F
たしか徳川光圀は徳川の人間でありながら主家を討った
家康を批判した事もあったな。
457 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 23:07:42 ID:RVI6B2Fi
>>437 恩が恩であるためには、当事者若しくは第三者に恩と認識されてないと成立しない
家康家臣は恩と思ってないって逸話あるし
さらに、当時関東入国をして家康カワイソスって世評があったそうな
加増という一面だけで恩というのは強引じゃないか?
それで恩顧?
近江五十万石と奥州百万石じゃ意味合いが違うように、長年経営した土地と戦後間もない治安の悪い土地
そりゃ恩と言い切るのは無理があるだろう
458 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 23:17:48 ID:ln8XdNeT
>家康家臣は恩と思ってないって逸話あるし
そりゃ先祖代々の土地から移住する羽目になった三河武士が
この仕置に反感を持つのは当然だが(大久保彦左衛門の『三河物語』参照)、
家康からしたら広大な関東平野に移って直轄領が増えたのは紛れもなく恩恵
現に家光は秀吉に対して「当家(徳川家)が興隆したのは秀吉のおかげである」と言ってる
つうか大名統制のために同じ石高で玉突き転封繰り返した
江戸幕府という例が後の時代にあるからね
それに比べたら石高ほぼ倍で加増転封とか感涙ものでしょ
459 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 23:21:26 ID:nPtjU+S9
>>458 江戸幕府よりマシなだけで感涙はしないだろw
460 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 23:21:35 ID:qpnUOu7F
>>457 関東は未開拓地が多く開墾次第で100万石以上の収入を得る事も可能
長期的にはな。未開拓地が多くても100万石の加増だぞ?
経済力ってのはそのまま大名の力を左右するのでな。これほどの加増なら
マイナス面なんて大したものじゃない。
それほどの恩を受けたって事だよ。
家康やその家臣が恩と思わないことはただ無教養なだけで、恩かどうかは
第三者が判断する。
461 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 23:24:17 ID:qpnUOu7F
家光は太閤に個人的に憧れていたなんて話があったっけな。
豊国社を復興しようと検討した事もあるらしいが。
462 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 23:51:20 ID:DMmSujgo
豊臣の没落はあまりにも「自業自得」な印象が拭えないからなあ。
結果的に主君を滅ぼした家康だが、そこまで低評価につながっていないのは
秀吉と違って腰を据えて長年の平和の礎を築くことが出来たからだろうな。
諸大名にしたって天下を治める力があるのは豊臣ではなく徳川だと
認めたからこそ、あれほどスムーズに家康の天下へと移行したんだろう。
463 :
人間七七四年:2011/01/25(火) 23:58:28 ID:nPtjU+S9
江戸時代が250年も続いたから「主家を滅ぼした恩知らず」より「江戸幕府の創始者」として有名
江戸幕府が短期間で潰れていたら、家康の評価もだいぶ変わっただろーな
464 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 00:11:38 ID:eYXtJrPc
>>463 江戸幕府は家康だけじゃないからね。
徳川家だけじゃなく家臣にも有名どころがごろごろいるから印象が薄れて
あまり叩かれもしない。
465 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 01:34:08 ID:eYXtJrPc
秀吉の廟所は徳川家の政権簒奪の後に破壊され、墓にされて江戸時代荒れ放題に
なっていた。それでも関係者が密かに神事や仏事を行っていたようだが。
江戸時代末期になって幕府の力がなくなってくると、日出藩・足守藩、立石、近江の各
大名・旗本である木下家により墓は保全されたが、それでも大っぴらに先祖の祭りを
公的に行う事はできなかった。
一方で家康は豪華な東照宮に祀られ、神とされた。
耳を疑う事だが、なんと東照宮ごときが伊勢神宮とは同格とされていた。
それだけ神格化してもらっていたということだ。
これが結果だろう。
466 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 02:48:35 ID:bNoaQqQa
>>460 この時代、例え加増でも地方転封はマイナス事象として認識されてるよ。
島津とか伊達みたいな、地生えの地方大名を除いてね。
あくまで佐和山に拘った三成とか、会津転封時の氏郷の逸話は有名でしょ。
まぁ、所詮逸話でしかないけど、当時世間ではそういう捉え方をしていたのはわかる。
家康が利益を感じていないなら『恩』は成立しない。
何で第三者が恩か否かを判断出来るのか全く意味不明。
火事場泥棒的とは言え、自分の才覚で切り取った領土をそっくり取り上げられても、
家康のとって利益かねぇ?ましてや故地を。ましてや田舎への転封を。
まぁ、そもそも永禄元亀を生き抜いた所謂戦国大名に『御恩と奉公』を当てはめる事自体
ナンセンスだと思うがね。
467 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 03:40:49 ID:Wgj3U5TN
そもそも失敗したら取上げるつもりの関東だろう?
佐々成正とか居たやんw
468 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 05:28:34 ID:saybioe8
家臣は主君に忠義を尽くさなければならない、なんていう江戸期に生み出された
概念で語ろうとするからおかしくなる。
そもそも戦国大名のほとんどは国人領主の連合体のリーダーにすぎず、リーダーの力が
弱まったりリーダーとして不適格だったりすればすぐに追い落とされるのが
戦国の世の常だよ。その例を挙げればきりがない。
そんな戦国大名たちのリーダーが秀吉で、彼が生きている間はその権力が
絶大だったからみんなひれ伏していただけのこと。この時点で秀吉がやるべきことは、
個人的カリスマだけで運営していた政権を、システムとして運営していく政権として
生まれ変わらせることだ。
でも、実際にやったのは朝鮮征伐という暴挙で家臣を疲弊させ、政権への怨嗟心を
産みつけたこと。わが子かわいさのあまりに起こした秀次粛清事件で、せっかく構築
しかけた政権運営システムを台無しにしてしまったこと。
結局のところ、豊臣政権というのは良くも悪くも秀吉個人の政権。
平清盛の死後に平家からの離脱が続出したように、システムとして
政権を構築できないと長続きはしないのよ。
469 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 07:06:00 ID:Ef9MHRcK
>>466 >例え加増でも地方転封はマイナス事象として認識されてるよ。
佐和山の三成や会津の氏郷の逸話を史実として考えるのはどうかと思うね
つうか氏郷の逸話って、元ネタである『常山紀談』ちゃんと読めばわかるけど、
秀吉から会津80万石への加増転封を命じられ涙を流す氏郷を見て、
山崎某が「辱(かたじけな)く思われん事尤もなり」と氏郷に声を掛けたとある
つまり天下がどうこう宣う氏郷が変だっただけで、
普通の人にとっては加増転封は喜ばしいことだと認識されてた、つうことがわかる
そもそもこの人の特別な事例だったから
逸話になってるわけで、これを以て世間一般の認識というのは誤りだね
君の説(?)が正しいなら関ヶ原で遠国に加増転封された
東軍諸将は家康相手にマジギレしてるはずだろう
>家康が利益を感じていないなら『恩』は成立しない。
>何で第三者が恩か否かを判断出来るのか全く意味不明。
家康の利益については既にこのスレでも説明されてる
関東250万石が後の天下取りに大きな影響を与えたことは常識と言って良い通説で、
そのことは家康の崇拝者である三代将軍家光自身が認めている
そもそも「恩」は本人がどう思おうが「恩」であることは変りない
>そもそも永禄元亀を生き抜いた所謂戦国大名に『御恩と奉公』を当てはめること
「御恩と奉公」は時代によって多少意味が変節するが、
鎌倉から江戸に掛けて武士の重要な価値判断基準であったのには間違いない
戦国時代の書状を見る機会があったら、
どれだけ「恩」という言葉が出てくるか注意して見るといいよ
470 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 07:27:50 ID:pgH5XaRW
>>469 >普通の人にとっては加増転封は喜ばしいことだと認識されてた
左遷でも、ご栄転おめでとうございます、と世間ではコメントします。
>関東250万石が後の天下取りに大きな影響を与えたことは常識と言って良い通説で、
>そのことは家康の崇拝者である三代将軍家光自身が認めている
そりゃ、徳川が天下取ったから言える結果論だろw
>そもそも「恩」は本人がどう思おうが「恩」であることは変りない
お前、アホだろ?
>鎌倉から江戸に掛けて武士の重要な価値判断基準であったのには間違いない
>戦国時代の書状を見る機会があったら、
もともと目下だった秀吉に対して、その図式が当てはまると思う?
471 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 07:40:01 ID:Ef9MHRcK
>>470 本社から遠くなっても支店長から支社長へ役職上がったなら普通に栄転だろう
元々本社に居たわけでなし
武士の「恩」については他人をアホ呼ばわりする前に自分でちゃんと勉強してきてね
目下だった秀吉云々が何?
関東移封の時点では位でも実力でも秀吉が格上だけど
472 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 12:02:45 ID:HeyybK0m
横から悪い。
関東移動命令を恩かどうかという話ならそりゃ思わないでしょ。
関東を開拓して大きな領土収入にしたのは家康個人の手柄で
命令の時点では関東なんてこの先どうなるかわからない。
関東移動を家康が利益や恩に思うというのはあくまで
結果論にしかすぎないんじゃないか。
支店長から支社長にあがったのだって役職も給料もあがっても
左遷は左遷だろう。ってか本人の判断による部分が大きいだろうし。
会社は建前で栄転と言うし給料はあげてやってるが
未開地にとばされたら普通は左遷という。
そこでがんばって大発展遂げたのは自分と家臣の努力だし
タテマエで「会社がチャンスをくれました」とかいうかもしれないが
そんなのは本心ではなかろう。
本心とか言うと荒れるからなんだが
家光の250万石に対する感謝は明らかに家康に対するもので
秀吉への恩と言うのは話がすりかわってる。
こないだからやけに関東にこだわってる話が続くが
ずっとその前秀吉が同盟相手の家臣だったという頃の話を省略して
いきなり関東を語るのも問題があるし
そこだけ語ってもやはり家康が関東くれてありがとうと恩を感じた
なんてのは結果論だろう。
関東250万石は家康と家臣の手柄、秀吉に関連させるなら
もっとずっと前から語るべきというのが結論。
473 :
仙台藩百姓:2011/01/26(水) 12:29:06 ID:oAdMwipP
支店長から支社長は栄転以外の何物でもないじゃんお( ^ω^)
本社から支社長なら左遷だけど( ^ω^)
関東移封は凄くメリットがあるの( ^ω^)
もし家康がこれを幸運と取らずに渋々移動したのならば相当に無能だお( ^ω^)
まあ、そう言った話しは何も知らない下っ端や後世の幕臣の意見で
家康自身は喜んで受け入れたのだと漏れは思っていたのだけど
何か家康の不満を示すものがあるのかお?( ^ω^)
474 :
470:2011/01/26(水) 13:22:56 ID:VkEolJUz
>>471 >本社から遠くなっても支店長から支社長へ役職上がったなら普通に栄転だろう
>元々本社に居たわけでなし
左遷の話は、氏郷の例えなんだけど。突然家康を当てはめられてもね。
もともと本社に居た云々とか前提が違う。もともと秀吉の会社にいなかったんだから。
もっと正しく例えるなら、自分が創業し社長を務めていた会社を敵対的買収で吸収され、
地方支社に転属させられたという所か。栄転云々以前の話だろ。
「恩」についてだけど。
家康でなくてもいい。極論だけど、仮に加増で蝦夷地に転封させられても、形式的には
「御恩」だな。だが、本人は「恩」と思うのか?心底有難いと思うか?って話だよ。
社会通念上の「恩」の話をしてんだよ。
>関東移封の時点では位でも実力でも秀吉が格上だけど
格の話なんざしてない。「もともと目下だった」と言ってる。正確に行こうよ。
言い古されている話だが、秀吉は同盟相手の家臣に過ぎず、
どこの馬の骨ともわからない。それ筑前は野人の子、だ。
この前提で、心服なんて普通するか?
そこに「御恩と奉公」の図式が成立するか?
って話ね。
475 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 15:33:13 ID:tiipuQZU
秀吉は母を人質に出すという奇策まで使って
家康をやっとこさ臣従させたからな。
当時の秀吉はまともに家康を臣従させるだけの力も自信も無かった。
通常の御恩と奉公の図式を家康―秀吉の関係に当てはめるのは
無理があるし、そんなことにこだわること自体
ナンセンスだと思うな。
476 :
仙台藩百姓:2011/01/26(水) 17:28:16 ID:oAdMwipP
そんな昔の事遡るなら江戸時代も大半の大名が徳川家と御恩と奉公の図式が成立しない事になるお( ^ω^)
家康の松平氏なんて室町中期頃にぱっと出たどこの馬の骨か分からない家だもの( ^ω^)
外様大名は元より譜代でも今川系や武田系の家臣の方が格上だお( ^ω^)
まあ、事後に遡って言い訳する程無意味なものはないお┐ (´ω`) ┌
遡っていくと結局は全て成立しなくなってしまうもの( ^ω^)
477 :
仙台藩百姓:2011/01/26(水) 17:34:06 ID:oAdMwipP
>>475 もろに歪められた徳川史観だお( ^ω^)
だったら徳川は何で臣従したのだお( ^ω^)
しなくていい相手にわざわざ頭を下げて臣下の礼を取るなんて馬鹿じゃないのかお( ^ω^)プ
478 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 18:12:01 ID:W/eY3OeA
>>477 そりゃ相手は関白だし武力で対抗したら朝敵逆賊とかにされるかもしれん。
可能かどうか理論で考えるんじゃなく秀吉ならやりかねないし
そのぐらいの権威はあった。
頭を下げたのをそのまま心服したと受け取る考え方に違和感がある。
こないだから続いてるのはそういう考え方の延長なのか。
関東移転を恩に感じてるとか家臣として忠実に勤めたとか。
例えだがつまらないものですがと出されたものをそのまま言葉通りには
受け取らないだろう。お世辞社交辞令なんでもいいが心底は違うだろう。
それを本人が言ったし記録にも残ってるだからつまらないものだ
と言ってるようなものじゃないか。
左遷か栄転かでもそうだ。
タテマエでは栄転だ昇進だと言ってもそのまま言葉通りに
受け取るのは問題がある。
ましてや歴史の解釈はその発言の背景の状況や過程から
判断しなくてどうするというのだろう。
家康が家臣として勤めた250万石の土地をもらった
こういう結果論とそのままの解釈で判断してしまっていいものか。
そういうように感じるが。
479 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 18:59:53 ID:q05uxLe0
>>476 別に昔に遡ってるわけじゃないだろ?
秀吉と家康の関係のみにおいて、遡ってるだけだ。
松平も確かに素性確かではないが、ここでの肝ではない。
ポイントは、徳川が秀吉をどう見ていたか、という事だ。
480 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 19:19:29 ID:rge8T+99
>>458 そりゃ結果論
>>460 親切の押し売りってことか?
北条という巨大な権力が長年支配してきた土地に、遠征の途中で武力背景に父祖の土地から移動を命令されるのが恩?
いわゆる御恩と奉公的な概念の恩ならまさしくそのとおりだが、文脈からして違うよな?
信雄も父祖の地からの移動(旧家康領だから加増よな)断って、配流されたっけ
一般に恩とされるなら、信雄も受けてたんじゃね
481 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 19:21:00 ID:eYXtJrPc
大名の力の根源を大幅アップしたものは
恩以外の何物でもない罠
482 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 19:28:35 ID:QTlJtUSL
483 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 19:33:44 ID:W/eY3OeA
>>476 小牧で殺しあったのをどう思う?
臣下の礼はそれから案外すぐだろう。
小牧も部分とはいえ戦闘では勝ってるしその後
秀吉が武力で対抗しなかったのはどう考える?
さらに母親まで人質に出した結果の臣従と言うのをどう思う?
どこかで小牧は秀吉の勝ちというのを見かけたが
あそこで家康はやっとこさ撃退しただけいつでも秀吉は家康なんか
つぶせたと考えるわけかな。
そして臣下の礼も秀吉におそれをなして心から心服したというように
考えるわけかな。
そして忠臣として仕えた、と。
こういう史観も理解はできるが納得は難しく違和感が残る。
これだと死後例えチャンスがきても豊臣に反逆したのをうまく
説明できないのではないか?
何より家康をそれこそ軽視というか馬鹿にしてないだろか。
徳川が秀吉をどう見てたか、これは家康こそ秀吉を軽視して
秀吉こそ家康に一目おき畏れていたそして遠くに移転
豊臣に反逆できないように仕置きしたと考えるほうがしっくりくる。
100万石もらったのをありがたく恩に思ったとか言う話は
結果論にしかすぎないだろうし。
上の方であった恩は第三者が決めるとか
恩はいかなる場合でも恩であるなんてのは
小牧で殺しあった事実をどう考えるのか。
そういう考え方自体にかなり疑問が残る。
484 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 19:38:51 ID:rge8T+99
>>458 逸話じゃなかった
南部宛の書状(差出人不明)で
進退は散々で関東に移された、メッチャ意外
ってある
485 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 19:40:29 ID:Ef9MHRcK
>>473 >家康自身は喜んで受け入れたのだと漏れは思っていたのだけど
>何か家康の不満を示すものがあるのかお?( ^ω^)
三河武士が不満を言ってたのは周知の事実だけど、
家康本人が不平を漏らした、つう話は少なくとも自分は知らないね
単純な歴史的事実として、北条討伐後の関東移封を命じられた家康は
「謹んでお受けいたしまする」と答えて直ぐに新領へ移ってるからね
(この時旧領に未練を残さず即座に引き払ったので秀吉たちが驚嘆している)
逆に関東移封の沙汰が下る前に「東北へ押し込められるのでは?」
と不安がる本多忠勝や井伊直政相手に
「もしわが旧領に百万石も増加せば奥州にてもよし
收納の善否にもよらず、人数あまためしかかへて三万を国に残し、
五万をひきひて上方へ切て上らんに」と答えてたという逸話が残ってるくらい
言い方は悪いけど、当時の社会通念を知らず、史料も読まないで
個人レベルの推測(家康の心底がどうとか検証不可能なもの)を述べてるだけでしょ
486 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 19:51:22 ID:Ef9MHRcK
>>474 別に氏郷でも家康でも良いから、
「この時代、例え加増でも地方転封はマイナス事象として認識されてる」つうのが
明らかに誤りだということは理解してもらえたかな?
加増でも地方転封がマイナスつう社会通念が当時にあったなら、
会津移封を命じられた氏郷が一人泣いてるのは悔し涙であることは自明なわけで、
そういう人相手に「有り難い沙汰だと感謝するのももっともです」なんて声掛けないでしょ
どんだけ空気読めてないのよ、この山崎さんは
>社会通念上の「恩」の話をしてんだよ
>そこに「御恩と奉公」の図式が成立するか?
この時代の社会通念上の「恩」ってより多くの領土を主君から安堵して貰うこと
ここで各人が勝手に推測してる家康の心境はぶっちゃけ全く関係ない
そういう武家社会における「恩」を心から「有難迷惑」だと思うなら、
信雄のように転封を拒否することもできた
家康の場合、聚楽第で秀吉に臣従の意を示し、
関東移封を受け入れた時点で「恩」は既に発生済み
「御恩と奉公」の図式が成立するか?と聞かれたら、
成立したからこそ豊臣政権が誕生したという事実を以て答えとしておきます
487 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 19:55:46 ID:saybioe8
双方ともまだやってんのか。
儒教的価値観が浸透する江戸時代以前に武士が主君に対して忠誠を誓うのは、
1)主君が自分の権利を保障してくれるに足る存在だから
2)個人的な信頼関係により結ばれているから
のどっちかだよ。武士が発生した平安時代だってそうだった。
御恩と奉公の御恩の概念には、1)の要素も含まれるわけ。
新恩給与して、ハイそれで終わりじゃないんだよ。
488 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 20:07:53 ID:q05uxLe0
>>486 その逸話の最終的な意図・結論は何?
逸話の前振りを捉えて何を言ってるんだか。
信雄のように拒否出来るわけないじゃん。
臣従しておいて拒否したら、どうなるのか子供でもわかる話。
489 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 20:12:13 ID:qH4TiSlU
信雄は拒否した結果、大半の所領を取り上げられたんだっけ?
490 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 20:20:13 ID:Ef9MHRcK
>>488 最終的な意図や結論?
実在人物の逸話に寓話のように分かりやすい教訓があるわけないでしょ
「普通は加増されて喜ぶところなのに、野心満々な氏郷は凄いね、変わってるね」
つうだけの話だけど
当時の一般的な加増転封の捉え方として氏郷の話が引かれたから、
逸話の前提となる条件をきちんと説明しただけ
現に信雄は嫌なものは嫌だと拒否してるね(アホだけど)
一度「有り難く頂戴しまする」と言って受け取ったものを
後になって実は要らなかった(本当は必要だったんだけどw)、
有難迷惑許すまじ、なんて理屈が通じないのは子供でも分かる話
>>489 領地召し上げて流罪謹慎、後に赦免されて小大名に復帰
491 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 20:20:33 ID:tiipuQZU
無理やり臣従させている状態と
「御恩と奉公」の関係は明らかに違うよな。
まあ家康に限らず本当に豊臣―諸大名間に「御恩と奉公」の観念があったのなら
秀吉の死後あっという間に徳川の天下になることは無かったろう。
492 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 20:25:00 ID:eYXtJrPc
>>491 まずは小牧長久手の時の家康と秀吉の力の差を認識してから出直して来い。
お前マジで秀吉が力攻めしても家康に勝てないとか思ってんの?
493 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 20:26:22 ID:TI9gyWTp
この議論はいったい何を議論してるのかわからなくなってきた
494 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 20:26:51 ID:25Yt/tUP
>>492 難しいんじゃない
秀吉も勝てると断言はできないでしょうね
495 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 20:31:54 ID:eYXtJrPc
>>494 家康+信雄でやっとこさ5万の兵が集まった程度だぞ
家康は年寄りに近い年齢にも招集かけて全兵力近くを集めた
が、秀吉には全然余力があった。
そこんとこ理解できてるか?
496 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 20:34:17 ID:Ef9MHRcK
『三河物語』によれば徹底抗戦を主張する家臣を尻目に、
家康自身は自分一人が上京して腹を切るしか無いと絶望してたらしい
大政所を人質に差し出したことが大層自慢らしいけど、
これだって既に臣従を決めていた家康よりは
三河武士を納得させるために送り込んだもの
板挟みになった家康を助けるために母親を差し出したのに、
後の時代になって勝利宣言されるとは秀吉も気の毒
497 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 20:38:33 ID:qH4TiSlU
>>495 すでに信雄は秀吉方だしな
再び激突したら100%家康は敗北してた
ただ秀吉方にも相当の被害は出たに違いないから、外交で解決する道を選んだ
498 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 20:52:36 ID:W/eY3OeA
>>492 横で悪いが、例え勝てても自軍に相当の被害が出て損と思ったか
勝てないと思ったかどちらかだろう。
ゲームじゃないから人数や物量で圧倒してても勝てるとは限らないでしょう。
だからこそ権威の方に方針変更したんじゃないか。
また圧倒的物量の差があったなら無理やり臣従させた
ということにもなる。
信雄のように断ることができたというのもおかしな言い方。
相手に謀反人の大義名分を与えるだけで事実上はできるわけがない。
移転で不安がる家臣への説明でもそうやってなだめないと今後未開拓地で
うまくやっていかないといけないから気をつかってなだめただけでしょう。
心から秀吉に心服したという証拠にはならない。
史料批判ではなくてそれを解釈する判断に問題があるんじゃないかということ。
検証不可能というのは科学における否定の言い方で
歴史解釈と言うのが人間の判断行動という人間学である以上
そこに踏み込んで解釈するのは当然。
検証不可能だから意味が無いというのは根本的なところでなにか
歴史解釈を勘違いしてないか。
それだとあくまで史料上このように判断できるというだけで
それ以上ではない。
ところで家康が移転のとき不満もらしたら方広寺の鐘の字句に
文句つけたように逆に秀吉にナンクセつけられたかもしれないな。
これは冗談だが家康はそうじゃないよう細心に移転を受けたと
いうのがありそうなところだろう。
499 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 20:53:45 ID:25Yt/tUP
>>495 その時は多くの戦力を北条に割いていました
500 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 21:05:28 ID:W/eY3OeA
>>496 横だが、それも結果論じゃないか。
母親が無事帰ってくるなんて保障はあったのか?
本当に殺されたらどうするんだ?
そんな危険を冒すということは秀吉側にも相応な事情があったとするのが
普通じゃないか。
三河武士を納得させるために送り込んだなんてのはやっぱり
移転の話と同じで結果論にしか思えないがどうか。
少しわかってきたが史料やその時代の社会通念を全部結果論で判断
してるだけでその時その時点でどうだったかとは全然違う判断をしてないか。
100%勝てるとかゲームの数値じゃないんだからなぜそんな
ことがいえるのか。
このあたりにも結果論的なかつ表象的な判断をしてるとしか
思えないところがある。
501 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 21:14:47 ID:saybioe8
双方とも馬鹿なの? 数日前から互いの主張を言うばかりで何も進展してないじゃん。
心から服従しようとしまいと、服従した限りは御恩と奉公の関係に縛られるんだよ。
しかし、「御恩」を施す(つまり家臣を保護する)能力を失った主君は見限られても
文句は言えないんだよ。それが武士の主従関係なの。
要は、家臣達を従える力があるかどうか。
権力を維持する能力を失った政権は、衰えるのが歴史の理なわけ。
べつに徳川びいきで言ってるんじゃなくて、歴史っていうのは
そういうもんだと言ってるだけだからな。徳川だって260年後に
権力を維持する能力を失って離反されまくるわけだから。
502 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 21:18:52 ID:IhdMaIe7
1度の戦勝をして武力討伐ができないだのあきらめただのいうのも結果論のような
503 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 21:29:07 ID:eYXtJrPc
報酬だけで言えば家康は豊臣恩顧の大名の筆頭
裏切るのは自由だけど、それを当然みたいにいうのはいかがなものか
当時でも裏切りは決してほめられたものじゃないよ
504 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 21:33:24 ID:W/eY3OeA
>>502 なので100%勝てるとか言うのならどうして勝たなかったかだ。
戦争なんてやってみないとわからないし最後の手段だろう。
秀吉家康双方がそうは思わなかったからお互い引くとこは引いて
おさめたわけだ。
つまり臣下の礼は取ったが四分六か七三ぐらいのもので100−0
ではないだろうということ。
ではそういう状態をどう表現するかでここで判断が違ってくるわけだ。
臣従したのだから臣従したおしまいなのか
その背後の関係にまで検討を加えるか。
つまり明解なことだけを問題にする科学の判断か
そこから先の検証不能な人間学の部分の判断をしてるか
これで意見が相違してる段階だろう。
これが同じならいいのだが違うからこそ双方の手法までが
問題にされてると思うがどんなもんか。
個人的には心底とか検証不能な問題をばかげたとか
意味がないと言うような感じでとらえる手法に驚いてる。
是非ではなく歴史学というのはそういうものではないと
考えるから。
否定ではなくて手法の違いということにね。
505 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 21:35:29 ID:tiipuQZU
信長は足利家を裏切った。
秀吉は織田家を裏切った。
家康は豊臣家を裏切った。
三英傑みんな裏切り者でした、でいいじゃない。
506 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 21:35:39 ID:rRa+9Kam
>>503 でも裏切って最終的に開府までいったから間違った選択じゃなかったよな
……って結論でも付ければいいのだろうか。このスレ的には
507 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 21:37:15 ID:9jRjm8VM
俺も横槍の二番槍をするが、臨終間際の秀吉の老耄ぶりは家臣を保護する能力を
失ったなんてもんじゃないだろう。
朝鮮戦役を続行するのか、撤退するのか決断をしなきゃいけないのに、この馬鹿は
秀頼をお頼みしますって哀願を繰り返すだけの無様を晒してんだぜ。
こんな野郎のガキなんぞに忠誠を誓えるわけないだろうが、そのうえ五大老、五奉行
っていう軍閥どもの寄り合い所帯で、まともな統治システムとも言えないもので天下
の経営ができるわけないだろう。
だいたい四大老どもは、前田も、毛利も宇喜多も上杉も政治を家康に丸投げして帰国。
こいつら無責任すぎるだろう。こんなんだから、秀頼成人まで政を任された家康中心に
政治が動くんだよ。
508 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 21:38:16 ID:rRa+9Kam
>>505 足利ってより守護代織田家と守護斯波家でいいんじゃないの信長は
509 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 21:40:46 ID:qH4TiSlU
>>503 裏切らずに死ぬまで豊臣家の忠臣として振る舞っていたら、日本はどうなったかな?
510 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 21:42:13 ID:W/eY3OeA
>>508 いや、兄弟親戚に手をかけた信長が・・
というのはどうだろう。
秀吉も家康もしてるがやっぱり背後を洗っていくと
信長が・・と丸くおさまらないか。
511 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 21:43:11 ID:Ef9MHRcK
>>500 上洛時の家康の安全を保障する担保という扱いで母親を人質に出したので、
自身が家康に危害を加えない限り大政所も安全だという計算があったのでしょう
大政所が殺された場合、家康はもし上洛時なら間違いなく殺されますし、
どちらにせよ殺害に関わった三河武士は撫で斬りになってたんじゃないでしょうか?
歴史学が人文学の一分野であり、究極的には歴史は人間によって作られるため
歴史考察に際し人間の心情が重要な要素となる、というご老人の指摘はもっともです
ただ、人間の心の動きはその性質上客観的に判断できる材料に乏しく、
どうしても史料や遺跡等の物的証拠に多くを頼らざるを得ないのが現状です
このスレで現在話題になっている秀吉に対する家康の心境についてですが、
残念ながら皆様の意見を見る限り、客観的証拠が無いことを良いことに
そうであって欲しい、というような希望的推察が多く見受けられるように思えます
歴史人物の心情を推測するにしてもそれはやはり史料や当時の社会情勢を鑑みて
判断すべきで、このような状態はあるべき姿の歴史考証であるとは言えません
加えて、私が特に主張したいのは当時の武家社会の通念において、
家康の関東移封は決して家康を困らせるための懲罰的措置だったかというと
そうではなく、むしろその逆だった、ということなのです
このような主張をしてる場合、家康の心情云々はやはり
(少なくとも私が参加している)議論の本題から外れるものだと意見せざるを得ません
結果論云々のご批判についても申し上げたいことがございます
家康が関東を足場に天下をとったのは単なる結果論、
家康は秀吉に対して感謝する必要はない、
と仰りますが、果たして本当にそうでしょうか
現に関東へ移封されたことによって三河武士を地縁から切り離し、
更に直轄領が大幅に増加したことによって
徳川家は一気に中央集権化を成し遂げています
これは家康の関東移封が特別だったわけではなく、
程度の差はあれ全ての鉢植え大名に共通して起こった事実です
大名鉢植え政策の事実上の創始者である秀吉や家康が
当時これらのメリットに気づかなかったとは考えづらく、
そういう点も考慮しての加増転封だったとするのが妥当でしょう
以上の事柄から後の家光は秀吉相手に感謝の意を示しているわけで、
このことを結果論だというのは言葉の遊びに過ぎないのではないかと思います
元より歴史学というものは、究極的には「後世から歴史を俯瞰する」ものに他なりません
当時の人が背負わざるを得なかった時代的制約等はもちろん考慮する必要がありますが、
歴史を学ぶ者が近視眼的発想に自らを縛り付けなくてはいけないというわけでは元よりございません
「家康が関東から天下をとったことと秀吉に関東に移されたことは全く別の話」
と言う人が居れば、それは歴史を流れで捉えることが出来ていないのではないかと思います
以上、駄文失礼
512 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 21:45:57 ID:Ef9MHRcK
>>507 >朝鮮戦役を続行するのか、撤退するのか決断をしなきゃいけないのに、この馬鹿は
>秀頼をお頼みしますって哀願を繰り返すだけの無様を晒してんだぜ
死ぬ前に朝鮮からの撤退を決めて、その指揮を家康に委ねてるが
お前はきちんと歴史を勉強しろ
513 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 21:49:41 ID:qH4TiSlU
>>503 裏切らなかったら徳川が滅ぼされていたかもしれないから、裏切るのは当然というか自然だろう
義元が死んで今川を裏切った時と同じ
違ったのは家康のポジション
家康は天下を取りたくて天下を取ったというより、自家を安泰にしたくて必死に動いているうちに、天下人になってしまった人のような気する
514 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 22:13:05 ID:zsRK+ORh
515 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 22:30:46 ID:eYXtJrPc
家康は大坂の役が終わる直前、秀頼を保護しにいったという説があるが
それがマジならまぁ見方はかわるけどな、若干は。
516 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 22:42:58 ID:qH4TiSlU
>>515 山岡荘八の小説にそういうシーンあったな
517 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 22:50:10 ID:W/eY3OeA
>>511 なるほどありがとう。
客観的証拠のないことをいいことに希望的推察〜というのは同意で
結論ありきの論をされる方も多いようですがそういうことのないように
史料を客観的に解釈判断していくのが真の考証であると言う点には神経を
使うべきでしょうね。
簡単に主張をまとめます。
秀吉が関東移転を持ち出したのは懲罰と言いますか
強敵家康を遠ざける目的が第一と考えます。
ただ東北や蝦夷を持ち出すとさすがに最悪の事態を迎えるかもしれません。
なので秀吉から見ると落としどころ関東なら大阪攻撃にも移動に半月はかかり
安全圏内とこういったのが最大の目的と判断します。
これは武家社会の通念の危険排除お家第一とも反しないと思いますが
如何でしょうね。
できましたらそちらのいう懲罰の逆というのを簡単にで結構ですので
教えていただけるとうれしいですね。
その後も重要ですね。
秀吉は家康の中央集権化を危惧したでしょうか。どちらかと言えば家臣との
間で内輪モメでも起きればいいとぐらいのことを考えたのではないでしょうか。
実際におきかけて家康がなだめたというのはここに起因します。
これは譜代を持たない秀吉ならではの発想で家康を軽んじていたというのも
あるかもしれませんがやはりうまく家臣の不満を抑えた家康の手腕であり
単に三河武士とかそういうことから語るべきものではないのではないでしょうか。
家光が感謝したのもこういった家康の手腕に対するものであり直接は崇拝した
家康にその根があるのではないでしょうか。
家康が秀吉に感謝していたとしたら言い過ぎかもしれませんが
あの愚かな猿の判断をうまく利用してやったわいといったもので
崇拝尊敬ではなくしめしめといった感があったようには思います。
このところも意見が違うようですので家康がどの時点でどのように
秀吉に感謝したかをもう少し教えて頂けるとうれしいですね。
自分はあくまでも移された時点では五分の落としどころ
両者腹に一物合った怪しい関係で小牧からの流れが強いとは思います。
その後の関東中央集権完成時にも家康は上記のようにしめしめと
いうぐらいで秀吉に感謝していたとは思えません。
もちろん強大なライバルとして畏怖はしていたでしょうが
決して心服というのはないように判断します。
結果論云々はそちらに対する反論揶揄ではなくあくまで
恩奉公という点に対する回答ですのでご了承を。
また近視眼的でなく家康を語るにはずっとずっと前からのいきさつも
含めて判断はしているつもりですので言葉遊びではなく
人間学という判断であることもよろしく。
518 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 23:02:02 ID:qH4TiSlU
えらい長文の応酬だな。読むの大変w
519 :
人間七七四年:2011/01/26(水) 23:51:48 ID:Ef9MHRcK
>>517 お返事ありがとうございます
ご指摘の通り家康の関東移封に
家康を上方から敬して遠ざける目的があった、
というのは多くの史家の意見が一致するところであり、
私もそれと見解を異にするものではございません
ただそれが最大の目的だったかというと私はそうは思いません
何故なら『関八州古戦録』のような俗書が出典ではございますが、
秀吉は後北条を討滅した後の広大な関東平野に、
堀秀政のような腹心を配置しようとしたとする逸話があるからです
ご存知のように秀政は信長存命時から秀吉と関わりが深く、
本能寺の変後は秀吉に従って歴戦しそのたびに功績を立て、
それに加えて人格爽やかで声望も高いという名将で、秀吉も深く重用しておりました
このような人物を封じることを計画していた関東という土地に家康を封じる際、
「移転の際に家臣との内輪もめが起こるのを期待する」
といった消極的でセコイ考えが秀吉にあったとは到底思えません
むしろ秀吉は国替えの際に大久保忠世に小田原城を守備させるように命じたり、
本多榊原井伊といった功臣連中に十万石ずつ
与えるように家康に助言し、家康もそれを受け入れています
外様大名の人事への過干渉というのは豊臣政権の顕著な特徴の一つですが、
上で挙げた事例のように、秀吉は家康に面倒を起こすのではなく、
家臣と協力して無難に関東を統治することを望んでいた状況証拠が多々あります
奥州仕置の後の唐入りのときは家康の渡海を免除していますし、
内政面では徳川の自主裁量による検地の許可など諸大名に比べて優遇措置をとっています
更に家康に東国の諸大名の取次をさせたりもしています
ご老人が仰るような、秀吉による関東移封を、
家康の失脚を狙った陰謀として位置づける史観は
徳川家の公式記録である『東照宮御実記』などに顕著ですが、
上記のような理由で研究者たち(古くは山路愛山『徳川家康』の頃から)
強く批判を受けているというのが現状です
繰り返しになりますが、家康の関東移封は単純に100万石の加増という、
武家の歴史において空前絶後の大加増です
多少都から遠ざかったと言っても、他のプラス要素を考慮した際
問題にならない程度のマイナスではないかと思います
そもそも家康が主君に背く気がなく、真面目に忠勤に励めば
京よりどれだけ遠くても関係ないわけです
天下人である秀吉に対し、天下を狙う潜在的反乱者(とご老人は主張なさってるようですが)
である家康の都合まで考えて領地を与えよ、なんてのはさすがに無茶な理屈だと思います
関東移封が家康にとって感謝に値しないことなら、
逆に何をすれば秀吉は家康に感謝されたのか是非ご教授お願い致します
家康が秀吉に対して「あの愚かな猿の判断をうまく利用してやったわい」とか
そういうことを考えてたのではないかと仰りますが、
自分にはそのような史料が存在しない以上判断がつかないとしか申し上げられません
家康は天下人となって誰に遠慮する必要がなくなっても、
信長や秀吉らについては公の場で論評を加えることが殆どありませんでした
例外は「信孝の命日と豊臣家が滅亡した日が同じなのは、秀吉が旧主である織田家をないがしろにしたせい」
と豊臣家滅亡後に近臣に語ったという逸話(『坂役叢話』)に見えるですが、
旧主秀頼を殺害した直後の談話としては失笑ものですし、
そもそも信孝と秀頼の命日は全く別の日なので信憑性は皆無です
もし宜しければご老人の心境推察の根拠となった史料、なければ根拠を教えていただけないでしょうか?
失礼ながら「猿と狸の化かし合い」という構図は歴史小説で非常に良くある設定であり、
巷間に溢れる何れかの創作物から影響を受けたのではないかと愚考します
最後になりますが、家光が感謝したのははっきりと秀吉に対してであり、
秀吉の嫌がらせ(?)を回避した家康の手腕に対して感謝したわけでも、
「うまく利用してやったわい」という秀吉を嘲笑するような皮肉な感想でもないとお伝えします
出典は室鳩巣の『駿台逸話』(資料名やや曖昧)です
520 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 00:22:36 ID:qR47Chwc
>>519 横でスマンね。史料論議がしたいみたいだけど、
『関八州古戦録』・・・軍記物語。つまり講談と同義。
『東照宮御実記』・・・1800年代に完成。つまり、一次史料ではない。
他は知らんけど、あなたの根拠も相当に疑問符だよ。
史料論議がしたいなら、一次史料でしないと。
論点が、『家康の関東移封について、秀吉の真意』であるならば、
そもそも、双方ともに史料で正解なんか出せるわけがない。
なぜなら、秀吉本人にしか正解はわからないから。
所詮、史料に記載されていたとしても、それが本人の真意であるかどうかは
証明出来ない。
であれば、歴史上の事実から分析・推定、議論していくのは間違いではない。
別に、希望的推察なんかではないでしょ。
521 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 00:26:41 ID:XGiSwLa5
>>520 『関八州古戦録』が留保付きの史料というのは既に述べてるし、
『東照宮御実記』は文章読めば分かるが逆にその記述を否定してる
横からレスしたいならちゃんと読め
522 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 00:49:29 ID:qR47Chwc
では、長々と書いた持論の根拠は何が出典なの?
523 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 00:53:38 ID:5Xu8wsiR
お主ら長文読んでるのかよw
524 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 01:21:58 ID:qR47Chwc
まぁあれだ。
自分が一次史料に基づけないのに、史料論議を吹っかけちゃダメだよ。
525 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 02:02:16 ID:Iz1qkDdB
家康って最初から豊臣家つぶすつもりで機会をうかがってたの?
526 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 02:06:55 ID:z4cdvzKs
NO
527 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 05:51:11 ID:YErJPXFt
>>519 ありがとう。
週末忙しいので要点だけ。
自分は小説はここ30年は読んでないから安心してください。
さらに逸話類も失笑もの希望的観測と判断できるぐらいの齢ではありますな。
心境推察という点を認めてもらえると語りやすくてうれしいのだけど
この両者はどういう育ちをして何を見て何を手にいれその時点で次に
何を欲していたか。
これにつきますね。
ご指摘の史料を解読する時も上記その他の根拠判断材料としてになります。
例えば一つだけ踏み込みますと「家康の都合まで考えて〜」というのは決して
無理な理屈ではないでしょう。
そのように判断なさること自体が不思議です。失礼。
まさに秀吉はそのことだけを考えて家康対策をしたのではないのでしょうか
母親を人質に送るリスクをとった如く。
このあたりを表象的と表現したわけです重ね重ね失礼。
さらにその後段「何をすれば感謝〜」というのも重要ですね。
これはおっしゃる通り秀吉が事実したことがそうだったのでしょう。
感謝というよりいかに自分の死後豊臣家に反抗させないか、ですかね。
恩とか奉公ではなく秀吉がまず優先させたのは
家康が自らの死後豊臣家自分の息子にいかに反抗させないかでしょう。
感謝とかそういう表象的ではなく天下人としての勤めということですね。
単に父親の欲目でもいいのですがそういった簡単なことだとは思います。
そちらの言われるような史料や根拠というより
普通に一般的にそして天下人として何を最優先させたかとした場合
明解に目的ははっきりしてると考えます。
秀吉も家康も臣下の礼の時点でのっぴきならない関係を作り出した。
これは大変な責任と命を負う問題です。
そしてまさに化かしあいと言うとなんですがそれがはじまったわけではないでしょうか。
天下人と潜在的天下人がいた場合どういったことになるか
それがまさにこの10年の関係だったとは思うのですよね。
家康が潜在的反乱者であるという前提がおかしいとおっしゃられるかもしれませんが
これは徳川改姓からして桶狭間からしてなにより信長の同盟者、秀吉との戦い
このあたりで自明ではないのでしょうかね。
逆にこのあたりに家康の根があることにどうして話題が向かないのか
不思議なぐらいです。
史料がないので判断がつかない、というそちらの立場とそこに根を求める
こちらとではなかなか話があわないでしょう。
でもぜひとも史料にこだわらず人間の行動判断と言う人間学の立場から
ぜひお考え頂きたいとは思います。
528 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 06:09:50 ID:YErJPXFt
せっかくのなのでもう少し。
史料がないので判断不能という考え方これはこの30年に強調されたのではないでしょうかね。
つまりマークシートの出現です。
昔は小論文というのがあって正か誤かではなく如何に判断するかに
重きがおかれました。
つまり実証的判断より人文的判断というのですかね。
もちろん根拠の無い妄想もありますがそういうのはすぐに判断がつくものです。
知識より知恵と申しますがそういう時代に歴史を覚えた身からしますと
史料がないから判断できないというのはまさに0点、失礼
なんのために歴史を学んでいるのかと叱られたものです。
過去の先人に習い未来のために活用する、学問とはすべてそうでしょうが
特に歴史はそうであると誇ったものです。
すいません説教みたいでお恥ずかしいですし関係ないですね。
ただ根本的な歴史解釈の手法とその背景に踏み込まないとどうも話が進まない
または誤解を生む気がして。
秀吉と家康の話、最後はどうして家康が秀吉直系の血を絶やしたか
豊臣姓を廃したかにまで続きます。
このあたりまで語らないと両者の関係は判断できないですかね。
もちろん結果論ではなく家康がかの10年の間に古典を集めさせたですとか
二条と近衛の関係ですとか源と藤原を使い分けたとかずっとずっと前から
複雑な話ではありますが。
長々と本当に失礼。間違いや疑問はどんどん指摘お願いします。
529 :
仙台藩百姓:2011/01/27(木) 07:38:54 ID:+oRs0AV3
秀頼の子供を捜し出して首刎ね飛ばしている事をみれば
家康が秀頼をどうしたかったなんて考えるまでも無いじゃんお( ^ω^)
530 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 07:42:46 ID:XGiSwLa5
>>522 具体的にどの記述に出典が必要なのか言ってみ?
一次資料大好きな君の嗜好に応えられるか知らないが、出来るだけ対応するから
つうか一次資料の少ない戦国時代研究で二次資料に頼らず歴史を語るなんて無理
「慶長年間の長曽我部検地」のような限定的なトピックならともかく、
「桶狭間の戦い」や「越相同盟」、「刀狩」みたいな比較的大きいトピックなら尚更ね
研究者が『太閤記』ですら注釈付きで使わなければならない世界なのに
「家康の関東移封を巡る背景」について信頼できる一次資料がどれくらいあるか、
是非教えていただきたいですね
531 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 09:24:12 ID:HPoGAkG+
>>529 大阪の陣の後で遺児を処刑しなかったらアホだろw
532 :
仙台藩百姓:2011/01/27(木) 12:20:28 ID:+oRs0AV3
>>531 当主である秀頼は尚更生かしておける訳ないおね( ^ω^)
533 :
あ:2011/01/27(木) 15:58:35 ID:bZkNbuIM
なんか凄い面白い。下手な対談より良いよ。
まあ話を見た限りだと家康は確かに天下を狙ってたし、秀吉もそれを理解してるから懐柔策を取った。
まあ天下人って確信犯でないとなれない。創業者ならば。
534 :
あ:2011/01/27(木) 16:20:52 ID:bZkNbuIM
つまり、関東移封は家康にとってはラッキーだったし力を与えた。秀吉は実利を与える事で家康から野心は無くなると踏んだ。だが、家康の野心は消えなかった。秀吉はやはり、小牧長久手で家康を潰すべきだった。
535 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 18:59:35 ID:Dp7H31gb
べきだったってなあ、
それは豊臣家だけにとっての得であっても、
日本にとっての損失だぞ
536 :
あ:2011/01/27(木) 20:46:40 ID:bZkNbuIM
>>535 そう思うよ。ただ秀吉が豊臣家安泰を切に望んでいたならば家康を潰さなければ無かったって話。
つまり、血と脂の政界で生きる政治家としては甘かった。
537 :
あ:2011/01/27(木) 20:53:33 ID:bZkNbuIM
しかし秀吉には家康を潰せない理由があった。主君の遺児殺しに更に主君の同盟者をヤれば家臣にも民衆にも野心はバレてしまうからだ。ただでさえ農民上がりの秀吉は家臣の離脱が怖い。同じ庶民出の小西や三成を重宝したのはこのためだ。
家康を生かす事で生粋の武家の家臣の尊敬を得るしかなかった。
538 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 20:54:21 ID:meF3Oq8X
>>532 なんで完子の子を残したのかは不思議だが
処刑する必要はないが、一生独身で居させれば完全に断絶できたのに
539 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 21:00:17 ID:Nj7w9sIQ
>>503 軍艦か何かに、主君が気に入らんなら暇をもらえよこのヘタレって記述があるって見た記憶がある
それすら言い出せないのは武士の名折れだ、見限るなら見限る、ついていくならついていくではっきりしろとかナントカ続いてたような
離反そのものは非難されてないぜって結論だったような
540 :
あ:2011/01/27(木) 21:05:52 ID:bZkNbuIM
要約すると、秀吉は家康を殺したくても殺せなかった。そしてそれを家康は理解していた。また家康を心服させる事が何よりも自分への尊敬を集めると秀吉は判断した。
秀吉は家康への諸将の尊敬を恐れた。家康が恐れたのは自分が太閤の懐柔策に揺れるハートであった。
家康も秀吉は殺せなかった。
541 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 21:24:20 ID:cbFPByQi
>>530 >>522です。
>>519におけるあなたの主張は、
『秀吉による家康関東転封の最大の目的は、家康の力をマイナスせしめる
ためではなく、利益を与えるためであった。』って事だよね。
なので、明示して欲しいものは、一つで良いよ。
これを明確に秀吉の意思として、キッチリと記載された一次史料を頼む。
これが明示されれば、この議論は一瞬で終わる。
つまりね。仮にあなたと議論している人達を家康派とする。
>>519を読む限り、あなたの主張はいくつかの史料(?)と歴史的事実で
導き出された推測であり、結局のところ家康派の主張と同じ手続きを踏んでいる。
希望的推察などと両断しているが、寧ろ『関八州古戦録』のような軍記物語を論拠にしている分、
あなたの方が始末が悪い。
家康派は、何も雲を掴むような話を論拠にしているわけではない。
時系列による歴史的事実や、当時の情勢等から推測を導き出している。
心の動き云々と言うのなら、
>>519で、あなたも同じような事を言ってるよ。
ちなみに私は、一次史料信奉者ではない。
重ねて言うが、人の思考を史料で証明する事は絶対出来ない。本人しかわからないからだ。
史料論議でケリをつけたいのなら、自らの主張そのものについて、ズバリの一次史料を明示するべき。
542 :
あ:2011/01/27(木) 21:50:44 ID:bZkNbuIM
もっと要約すると
秀吉は家康を好きだったが。家康はそれほど秀吉を好きじゃなかった
で良くない?
543 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 21:59:08 ID:TMr5aFMm
> これを明確に秀吉の意思として、キッチリと記載された一次史料を頼む。
> これが明示されれば、この議論は一瞬で終わる。
そうだね。その逆も然りだね。
544 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 22:13:58 ID:3YqDnquf
>>543 とりあえず、流れを理解してから書き込もうよ。
545 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 22:26:46 ID:WgQ1H4QJ
ダブスタだろうと突っ込みたい気持ちはわかる
546 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 22:31:03 ID:TMr5aFMm
つーか、主張している内容の根拠は何かって話で、
そのものズバリの史料があったら議論も糞も無いって事。
547 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 22:35:06 ID:Q59NYMuD
548 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 22:35:28 ID:3YqDnquf
だから、そんな事を言出したのはなぜか、レスを遡ればわかる。
549 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 23:10:55 ID:XGiSwLa5
>>541 >『秀吉による家康関東転封の最大の目的は、家康の力をマイナスせしめる
>ためではなく、利益を与えるためであった。』って事だよね。
>これを明確に秀吉の意思として、キッチリと記載された一次史料を頼む
質問の意図が正直良く解らないが、
秀吉が家康に関東移封を命じた史料の話なら、自分の知る限り現存してない
小田原征伐後の家康に恩賞として関東に封じる旨を記した印状、
例えば佐竹家の場合なら天正十八年八月朔日佐竹常陸助宛書状(『佐竹文書』収録)
に相当するようなものが家康にも与えられた筈だが、現代には伝わってない
秀吉が家康より上位だったことを明確に示すような文書は
都合悪いから、大方江戸時代に破棄されたんだろう
家康の関東移封が少なくとも建前上は褒美という形で与えられたという話なら、
同時代人によって記録(つまり君の大好きな一次資料)が沢山残されている
例えば『三河物語』の関東移封の記事とかね
これで質問の答えになってるかな?
つうか「一次史料信奉者ではない」と言いながら
「自らの主張そのものについて、ズバリの一次史料を明示するべき」
ってあくまで一次資料に拘るのは何故?
信頼できる一次資料が存在しない場合、
二次資料を比較検証して歴史を考証するしかない、
ってのは歴史学において常識以前のこと
550 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 23:19:52 ID:XGiSwLa5
>>527-528 >自分は小説はここ30年は読んでないから安心してください
そうとは露知らず失礼申し上げました
度重なる無礼、平にご容赦願います
551 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 23:25:37 ID:3YqDnquf
>>549 長々と御苦労だけど、誤魔化すのは卑怯だねw
こちらは、あなたの主張に係る一次史料を要求した。
あなたも、対応すると回答した(
>>530)。
答えは、出るか出ないかだけだ。それだけの話。
『こちらの要求する史料は出ない』という事で了解した。
552 :
人間七七四年:2011/01/27(木) 23:33:25 ID:XGiSwLa5
>>551 『こちらの要求する史料は出ない』つうならその通り
だって現存しないものは出せないし
「一次資料大好きな君の嗜好に応えられるか知らないが、出来るだけ対応する」
と約束したわけで、一次資料に限定された場合、
残念ながら君の希望に沿う史料は手札にない
代わりに二次資料や現代の研究者の論説なら沢山あるけど、それじゃ何故駄目なの?
それが理解出来ないんだけど
553 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 07:10:35 ID:SLYVbkhN
>>541>>551 「資料資料言ってるけど、お前の主張は一次資料で証明出来るのか?」
「出きませーん。」
「結局お前も推測じゃん。お前が言うな。」
って事?
554 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 08:04:59 ID:RYUUcZi3
妄想しかできない人が資料出して考証してる人に対して難癖付けてるだけ
>あなたの主張はいくつかの史料(?)と歴史的事実で
>導き出された推測であり、結局のところ家康派の主張と同じ手続きを踏んでいる
このスレの「家康派」が何時史料と歴史的事実で推測を導き出したか是非教えて欲しいね
555 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 12:38:41 ID:5CHxBjOG
井伊直政の元服が遅れた(実戦デビューよりもかなり後)のは、
何か理由があってのこと?
556 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 12:53:15 ID:0Yhh4zlZ
家康が傍に置きたがってなかなか手放したがらなかったとか
うっかり忘れていただけとか
井伊の実家のゴタゴタが片付かなかったとか
557 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 15:08:01 ID:RNyDKP+p
言いだしっぺの爺だす。
554さんが言われる推測と言うのは普通にみなさまが知ってる
事実関係だけで十分に解釈できるものなのでおおまかな
出来事しかあげてません。
ただそれで同じ解釈ならいいわけで違うから根拠をお聞き
することになるわけですね。
最初から秀吉ー家康は対等ではない
殺し合いもしているー部分的戦闘では家康が勝ちまたは有利。
秀吉作戦変更で秀吉が圧倒的権力を得るー家康臣従。
ここでですよね。
関白であり格も武力も圧倒的ならうやっつけてしまえばいい。
それが母親の命と言うリスクを犯したのは秀吉にも
それ相応の事情があった。
これを秀吉から見て家康を強力なライバルで危険視していたと
判断するわけです。
同じように家康もまたその時点でそれを理解
その後関東移転を受け入れる。
その背景には両者の微妙な力関係そして
それ以前からの複雑な関係があっただろう、と。
秀吉が100万石与えた細かな指導をしたとこのあたりは
秀吉絶頂期でそれなりに余裕があったでしょう。
家康もまた関東開拓で忙しく両者の思惑が一致。
ここで忠臣な家康という状況が出来上がります。
このあたりは史実通りで解釈も同じでしょう。
ただその過程を見た場合に秀吉は家康が遠くで
大人しくしてくれることを最大限に望みそのように対応。
家康もまたお家と一族が大事と双方の利害が一致したにすぎません。
このあたりを前に少し書いたら利害なんて関係ないよ
とか言われたのでこれも驚きですがもちろん両者は
利害損得を最大限に考えたのは当然で具体的にそれは
お家一族の安定なわけです。
ちなみに関東開拓中に重要なことは秀忠がまだ幼少で
家康も秀吉同様跡取りを作るのが最大の目的でもあるでしょう。
このあたりで戦っても両者跡取りがいない状態それこそ何のために
戦うかも不明なぐらい。
そういったのも関東移転受け入れ遠方で一族繁栄の足がかりを固める
という根になってたとは思うわけですね。
事実の確認で長くて恐縮だけど関東移転承諾ー忠臣としての行動
の背景には両者の利害損得の一致が中心であり
それを本心から両者は信頼しあってたのように判断するのは
また別の問題。
心境推測を妄想で意味のないこととする手法だとここで
おしまいなのですが人間学として考えた場合両者の思惑を
推測するのは十分に意味のあるものだと思います。
558 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 15:14:04 ID:es0r2X0m
>>555 一度はドロップアウトした清人だからこそおっさんの面白さを見落とさず拾い上げる事ができたし、それを伝える事もできた。
同じ伝えるプロでも、金持ちに生まれてリア充一直線を突っ走ってきたアナウンサーにこの面白さは伝えられないし、
受け手が勉強ばっかりやって来たオタクではやはり理解する事ができない。
必要なのは人生経験という共通の背景。
559 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 15:30:05 ID:bqdfv3HW
>>554 でもさ、オマエの軍記物語根拠はいくらなんでも酷過ぎるだろw
誰も突っ込まないのは、優しさだと思った方がいい
一次史料出せなくて、ルール改変しようとすんのも笑わせてもらいましたww
560 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 15:43:02 ID:oveVMlK3
でもちょっと前の長文レスした人はその軍記物レベルの史料根拠もあげてないような
そっちは突っ込まないの?
561 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 15:48:54 ID:RB72J7Fe
佐々が失敗してたり信雄が断ってたりしてたからそれなりに大変だったと思う
賞とはいえない
562 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 16:24:05 ID:RNyDKP+p
少し外出するけど家康派というのは便宜上はいいけど
誤解を与えるかな。
どうせなら推測派と言ってもらった方がいいぐらいかな。
そして秀吉が関東移転を持ち出したのもイヤガラセばかりとは思えない
という史料派?の方も結局は推測なんでしょうというところに話が進んでますよね。
つまり同じ土俵に立ってるわけでそれなら史料にこだわることもない
事実と確定史料から推測で歴史を判断するだけ。
そういうのを妄想と切り捨てるのは手法が違うと言うことで
これも罵詈雑言の感情論になってしまう。
人間学という手法自体が間違いというのならば
それはそれで意義のあることかもしれないから歴史解釈の
目的とかそういった面から反論してほしいですね。
もちろん史料にない妄想にはなんに意味もなくオカルドだろう
というのはわかりますがそういった論なのかどうかは
個別で判断が必要でしょうし事実からだけでも語れるところは語れる
でしょうしね。
つきつめた結果史料中心になり推測は一切妄想であるというような
極論になってしまってるところもあるから。
ところで関東移転の時に秀吉はざっと50過ぎてるし
家康は40すぎてる。どちらも若くはないし自らの栄華を楽しむよりも
次の段階を考えるつまりお家存続作戦と呼ぶべきものを意識してたろう
という推測はどうでしょうね。
両者そう明言した史料は出せないけど武家社会の通念とか
強大な権力と部下を守るべき立場としてはそういったものは
普通にあったとは思うのだけど。
こういう点からも秀吉は家康を警戒こそすれプラスになることを望んだ
というのは少し判断しにくいし家康もまた一族のために頭を下げると言う
臣従を選んだというようにも考えてるのだけど。
子のいない秀吉と家康を同義には判断できないし
秀吉は個人満足レベルの栄華を望んだのは事実だし
逆に家康がよりお家存続レベルで価値判断をする人物だったのは
とりあえずいいんじゃなかろうかな。
563 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 18:42:43 ID:RYUUcZi3
>>559 ルール改変?
「長々と書いた持論の根拠は何が出典なの?」という質問について、
「一次資料大好きな君の嗜好に応えられるか知らないが、出来るだけ対応する」と答えたのに対し、
後出しで一次資料縛り(ルール改変つうならこっちだわな)して意味不明な勝利宣言してるだけでしょ
「一次史料信奉者ではない」と言いながら相手には一次資料以外の提示を許さない(その根拠も不明)、
そして自分は一次二次問わず全くソースを提出しない振る舞いこそ笑われてしかるべきじゃないかな
564 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 18:49:58 ID:RYUUcZi3
ついでに『関八州古戦録』について補足しておく
同書は江戸時代初期の成立であり、合戦描写を中心に
物語的な粉飾が多い(特に上杉謙信関連の記述に顕著)とされているが、
系統的な資料の少ない戦国時代の関東研究において
他の資料との比較検証を行った上で引用されることが多い資料
『信長公記』や『三河物語』(の一部)のような一級資料とされる他の軍記とは差があるものの、
少なくとも「講談と同義」(講談といえば例えば『絵本太閤記』だろうか)
などと言われるようなレベルの書物じゃない
まあ大方『関八州古戦録』読んだことないんだろうけど、一応マジレスしておく
加えて同書から引いた堀秀政の関東移封の件だが、
織田家臣団の研究で有名な谷口克広氏の著書『信長の親衛隊』では、
堀秀政の関東移封説について以下のように述べている
少し長いが、誤解を招かないように丸々引用する
>最も秀吉に重用された堀秀政はどうなったか。将来を嘱望された彼だったが、
>小田原の陣中で発病、秀吉の天下統一を見ることなく死んでいくのである。まだ三十八歳の若さであった。
>一説によると秀吉は、堀を関東八ヶ国に封じる心積もりだったが、その死により、
>次善の策として家康を代わりに持ってきたのだという。
>その説については信じ難いが、生きていれば、信濃・甲斐あたりか北関東か、
>ともかく大大名堀秀政の実現はまちがいなかったであろう。
以上のように谷口氏も堀秀政が関東全域を与えられることについては否定的だが、
当時の豊臣政権において最高レベルの功臣だった秀政に対する恩賞として、
東国への加増転封(小田原征伐の時点で秀政は越前北庄18万石の大名)
が戦後あった可能性自体は殆ど確定事項として認識している
だからこそ「俗書ではあるが」『関八州古戦録』に記録されてる逸話を引いたわけ
ま、そもそも「俗書」と予防線張ってる時点でそんな鬼の首取ったような顔されても困るんだけどさ
レス中で自ら否定している『徳川実記』の記述について、
「1800年代に完成。つまり、一次史料ではない。」なんて賢しらに宣うのは更に笑止
反論があるなら「堀秀政の関東移封がありえない」という主張に沿う資料を出して是非論証して欲しい
こっちは一次でも二次でも構わないからね
565 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 19:57:35 ID:78MvL7zy
長い
三行で
566 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 20:34:55 ID:xg7jMqi0
私は一次資料を出せませんでした
結局私も推測でした
二次資料や軍記物語でいいじゃないか〜〜〜!!!
567 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 21:40:16 ID:f7UuDi/R
えええええええええええ
今週何があったんだこのレス数
ちょっと待てよ今から読んでくる・・・
568 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 21:57:28 ID:f7UuDi/R
長文が難しいし
なんか透明にレスしてるのがあって流れが分かりづらい・・・
途中からいつもの秀吉信者が入ってきていつもの意味不明な横槍入れてるし
秀吉までは主家を潰しても下克上であっても戦国でOKなのに
秀吉以降はなぜかそれをやると「謀反」だって・・・ほんと馬鹿だな秀吉信者
350まで読んだけどそこから後ろ読む気がしなくなった
飛ばし飛ばし見るとずっとやってるみたいだから('A`)
569 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 22:14:40 ID:BIvoJTLf
>>568 家康自身が主家を潰す事の是非を識者に問うくらいだから
完全OKとか言い難い風潮があるのは確実だろ。
逆賊よばわりはしょうがない。
570 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 22:52:24 ID:AxtAdLJL
そう。家康のやった事も他の戦国武将と同じ下克上なのに
なぜか家康の場合はやたらと正当化したがる輩がいる。
571 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 23:08:02 ID:f7UuDi/R
えっ?
572 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 23:13:10 ID:BIvoJTLf
結局秀吉は甘すぎたわけだ。
天下人としての秀吉なら徳川家を滅ぼすことも
できたろうに
573 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 23:15:16 ID:qFMzsMC5
>>570 秀吉ヲタ(荒らし)→秀吉様は下克上などやっておりません、あの方はそんな穢れたことはいたしません
家康ヲタ(スレ住人)→力が無ければ潰す、潰される方が悪いのは戦国の常
どうみても・・・
574 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 23:19:30 ID:BIvoJTLf
秀吉も信長も主家を滅ぼした事はない
しかし家康は秀勝の系統を残したとはいえ、羽柴宗家を攻め滅ぼした。
日本ではほとんど聞かない墓暴きもやった。
ここが決定的な違いよ。
575 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 23:22:00 ID:f7UuDi/R
てゆーか
それの何が悪いのか分からないんだけど・・・
根本的なところでそこが意味が分からない
それを「悪」に決めつけてるところがね
576 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 23:26:41 ID:rNDB9aJV
577 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 23:30:59 ID:BIvoJTLf
>>575 正しいなら家康が悩む事もないけどね
これからの日本の政権が家康の墓暴きをやっても
おまえは「何が悪いの?」っていうのか?
578 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 23:33:12 ID:32pGOkIj
579 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 23:34:46 ID:rNDB9aJV
580 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 23:37:14 ID:RYUUcZi3
>>565 言いたいことは
>>563で書いてある
三行よりは長いけど、たった六行なんだから頑張って読んで下さい
>>564でも色々書いたが、どうせまともな反論は来ないだろうから無視して良いです
581 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 23:37:48 ID:f7UuDi/R
>>577 今の日本
領土争いで殺し合いしてる?
全然違う社会の比較をしようとしてる
なんだこれ・・・
582 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 23:38:07 ID:qFMzsMC5
身近なところでは秀次一族を虐殺した秀吉がいい人なんて笑える
大きいところでは朝鮮出兵なんていまだに日韓の問題として残っちゃってる
あれやったの誰だよってこと
高潔な戦国武将なんてまあいないわな
なのに秀吉ヲタはどうして秀吉だけは潔い人だ、と妄想を抱いてんのか
583 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 23:42:37 ID:f7UuDi/R
秀吉信者ってのは秀吉のいいエピソードしか見てないというのはなんとなく分かる
例えば人たらしのほのぼのエピソードとかね
584 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 23:44:23 ID:jwebEGsd
>>580 まぁ要するに、負け犬君なんでしょ、君はw
遠吠えしてないで、黙って退場しとけや、カスがww
585 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 23:45:55 ID:BIvoJTLf
秀吉は鳥取城での兵糧攻めとかの例もあるし、並みの戦国大名程度には
ヒデェ事もやっとるよ。
だが、むやみに攻め滅ぼしたりはしなかった。その甘さが命取りになったけどね。
586 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 23:48:00 ID:RYUUcZi3
>>584 退場しちゃったのは相手の方なのに何で負け犬なの?
カスなのは人には史料求めながら自分では出せない人の方じゃね
587 :
人間七七四年:2011/01/28(金) 23:57:11 ID:qFMzsMC5
豊臣系としての一族が残ってるといっても直系じゃないから駄目!とかいいだすし
粗探しでしかないな
関係ないのにここに来ること自体が言いがかりだし
588 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 00:00:14 ID:u6x8PnLI
そもそも確定的な史料が無いから議論になってるのに
ある筈の無い史料の提示を求めたり、
明確に分かる一次史料が無いんだからその他の史料があっても無くても同じ
推論だと言ってみたり、言ってる事が滅茶苦茶だわな。
歴史考証もへったくれも無い。
589 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 00:03:57 ID:W+jPx5T2
>>587 秀勝の系統は立派に直系だとおれは思ってるよ。実際に養子だし。
日出、足守、立石、近江の木下も秀吉の数代前で血を分けている
から遠い親戚ではあるが、こちらよりもずっと近いしね。
秀勝の系統は広島の浅野家や現在の皇室にも血が入っているから
十分だと思う
590 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 00:11:11 ID:4ow/DGjC
>>576だけど信長って確か織田本家潰してるよな?
591 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 00:16:20 ID:Ni5M8eiF
本家筋である清須織田家を潰してる>信長
でその後清須織田家に代わって本家扱いだった
信長の嫡流を、家康が関ヶ原で断絶させてる
斯波家は守護の座を逐われたけど一応嫡流は続いてる
592 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 00:22:44 ID:Gto3n5LT
で、潰したら何が悪いのだろうかと
力が無いものは潰されることもある
それがごく普通だった弱肉強食の時代
そこにいたのがそれぞれの武将たち
やったこともその時代としては普通のこと
最後まで潰されなかった勝者が徳川家康
593 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 00:25:51 ID:4ow/DGjC
>>591 じゃあ結局信長も主家滅ぼしてるんじゃない?
594 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 00:37:50 ID:Ni5M8eiF
「主家」の定義と「滅ぼす」の定義次第だね
本家筋とか主筋みたいに、
互いの先祖同士が主従だったのは事実だが、
滅ぼし滅ぼされた世代に至っては最初から
上下の関係になったことがないとか多い
一般に「滅亡した」とされる大名でも
追放されるだけで当人の命助かってたりとか
嘗ての栄華は望むべくもないが細々と嫡流が続いてたりもする反面、
ガチで一族皆殺しみたいな例も稀にあるし
何処にラインを引くかによって違う
595 :
爺:2011/01/29(土) 02:34:23 ID:Ocx2Z3Xi
で悪いが、587は重要だよ。
粗探しどころか、直系の意味、を理解してほしい。
その後いろいろ語ってるけど本当に
血統の日本史における意味をわかっていってるのかな。
その時点その場において天下人におけるその正統性だよ。
マジレスもなんだがその意味性において理解した上での
論議だと思ってる。
596 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 02:51:31 ID:U4UEl1KG
今川家とかかw
597 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 02:55:52 ID:Gto3n5LT
根本的に理解してない
敵を潰すことが何が悪いのかと
それもこの現代ではなく殺し合いの戦国時代で
ほんっとに意味が分からん
天下を統一した人物が違っていたら
それこそ直系もくそもなく一族血族皆殺しにしていただろう
俺の知らない日本史の中にも、世界史の中にもあったかもしれん
しかしそれはその時代、その場所であれば責められることではないし
だからそもそもなんでこんな意味不明な件が話題になってるのかが理解できん
598 :
爺:2011/01/29(土) 03:05:20 ID:Ocx2Z3Xi
ふむふむ、なるほどね。
谷口せんせの論はよく引用されるのだけど要は
結論が推測になってて、その前段階で妙に分類的に
形式重視になってるから最新の判定を聞きたかったのだけど
564はわかりやすいなぁ。
ところで話戻してわるいが
関東移転の時点でどうだったか。
時系列でざっと確認したがやっぱり婚礼ー人質と相当に
緊張状態にあったのではないか。
殺しあった2〜3年後でこういった状態ということは
両者が「心服関係」というのはどうなんだろう。
この時点での関係を明記する史料はないというのが
確定なら全ては推測、普通の人間学というのでどうなんだろう。
少なくとも「不明」、でもそんなこと言ってたらおしまいでしょう。
結果論じゃなく、両者緊張状態にあった、ぐらいは
普通の解釈と思うのだけど。
毎日しつこくて悪いが種々カキコ頼むわ。
599 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 09:57:33 ID:mJJJCpUC
長文はどっちもスレから消えてほしい。うざいわ
600 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 11:38:42 ID:u6x8PnLI
>>598 家康上洛時は何時で、この時秀吉・家康はそれぞれどういう状況で
関東移封時は何時でこの時どういう状況にあったかって理解してるか?
601 :
あ:2011/01/29(土) 14:09:44 ID:8BOthMqh
当時の秀吉と家康って、今で言うと秀吉=菅、家康=小沢か?
602 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 14:20:10 ID:W+jPx5T2
>>597 >しかしそれはその時代、その場所であれば責められることではないし
責められる事だから逆賊だの謀反だの言葉がある。
603 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 14:25:58 ID:ZKehCYxe
それは違うでしょ。
逆賊とか謀反という言葉自体は、第三者視点によるものじゃない。
あくまで、背かれた側、裏切られた側からの視点。
そこに善悪は存在しない。
604 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 14:30:50 ID:W+jPx5T2
>>603 >逆賊とか謀反という言葉自体は、第三者視点によるものじゃない。
>あくまで、背かれた側、裏切られた側からの視点。
これは違うな
裏切る側も謀反、逆賊と認識してやっている事だから
それに家康の場合は主家を滅ぼすことの是非を識者に問うてもいる。
責められるべきじゃなければ、そもそもそんな事をする必要もない。
605 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 14:41:53 ID:u6x8PnLI
戦国時代をパラレルワールドか何かと勘違いしてるだろw
逆賊や謀反は当事者も用いるが当然第三者にも使われる。
善悪も当然存在するから攻める側にも大義名分が必要になるし、
寺社に対して自らの行いが正しいのかどうかを尋ねたりもしている。
ただ、権力構造の変革期にあってそんな悠長な事は言ってられなかったって話。
腹を空かして泥棒する人間に善悪の観念が無いかって言ったらそうじゃないって事。
606 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 14:54:55 ID:ZKehCYxe
>>604 ゴメン、そうじゃないんだ。
>>602の、
>責められる事だから逆賊だの謀反だの言葉がある。
言葉自体について言ってるんだよ。
謀反をする事、逆賊である事に善悪があるのは当然だよ。
607 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 15:09:14 ID:ZKehCYxe
補足
例えば、暴虐の限りを尽くす君主を倒した部下がいたとする。
この行為は、君主側から見れば謀反であり、部下は逆賊になる。
しかし第三者視点で、責められる行為かと言われれば、そんな事はない。
謀反・逆賊・裏切りという言葉は、される側の視点で生まれた言葉。
責められる行為だから、これらの言葉が存在するわけではない、という事。
608 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 15:43:51 ID:u6x8PnLI
謀反という言葉自体に元々善悪の意味があったかどうかくらい調べりゃすく分かるだろ。
「主君を討つという行為自体は重罪だが、それ以上の問題が主君側にあった場合は仕方が無い」
のであって、謀反を起こしても許される場合があるから謀反自体に善悪の要素は無いなんて滅茶苦茶。
609 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 16:03:09 ID:ZKehCYxe
謀反という言葉自体に、善悪の規定がされているの?
つまり、悪だと。
スマンが、規定されているものを見た事がないので、
どちらの辞書を調べれば載っているのでしょうか?
610 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 16:29:54 ID:u6x8PnLI
謀反は本来「国家転覆の為の謀り」であり、単純に個人間での裏切り行為に使われる言葉じゃない。
もちろん、こういった言葉が使われる状況で国家が悪であるという前提は存在しない。
最も罪が重い悪行である事が前提で作られた言葉。
611 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 16:34:59 ID:ZKehCYxe
あの、こちらの質問の答えになってないですよ。
謀反という言葉自体に、善悪の規定が為されているか否か、
為されているなら、それが記載されている辞書を教えて下さい。
YESかNO、YESなら辞書を答えてください。
それだけの話です。余計な話は不要です。
612 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 17:07:03 ID:u6x8PnLI
俺のレスのどこに謀反という言葉は辞書に善悪の規定がされているなんて書いてあるんだ?
元々謀反という言葉には悪行としての意味があったという事と悪だと規定されている
なんてのは全く意味が違ってくるんだけど。
勝手に他人のレスを自分の都合の良いように改変するなよ。
その自分が勝手に改変した内容を証明するためのレス以外受け付けないとか頭悪すぎるだろw
613 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 17:31:40 ID:ZKehCYxe
これだけ分かり易く回答方法を示しても、グダグダ言う見苦しさよ。
こちらの質問には答えられない(つまり実質逃亡)という事で了解しました。
>俺のレスのどこに謀反という言葉は辞書に善悪の規定がされているなんて書いてあるんだ?
こういう事は
>>610の段階で言わないと。
答えに窮してから、遡っても見苦しいだけ。
このレス応酬をどう見るかは、読み手に任せますよ。
君がここからキャンキャン吠えても、こちらは心地良いだけなので、念のため。
614 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 17:35:34 ID:u6x8PnLI
>>613 >>609の段階では謀反の意味が良く理解していないと判断して説明したわけだ。
それが
>>611の段階になって単純に他人のレスを改変して勝利宣言したかったただの馬鹿
だという事がわかって
>>612のレスに至ったわけだ。理解できるかね?
615 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 18:08:04 ID:KPJSousS
>>604 その認識は違うだろう
自分の上に立つものを廃して自分がトップになりたい
それは自身の単なる野望であり、謀反なんて考えは無い
>>603の通り周りがその行動をそう感じてるだけのこと
合わせて
>>605にもある大義名分として
一応消形式での「主家」を潰したらどうかというだけだろう
理由があれば良し、ということならなんら問題は無いと判断するし
戦国時代、上に立ちたいと思う感情は力のある男にしてみれば当然
それが出来たか出来なかったかの違いでもある
例えば伊達政宗だってチャンスがあったら「徳川なんて叩き潰す」ぐらい考えてただろうが
そのチャンスが無かったからできなかただけのこと
主家より上に行くことが出来た人間が「悪」というのは甚だしい勘違い
日本人には相変わらず判官贔屓が根強いから
潰されてしまった豊臣に同情的になって、本来の戦国の時代というのをすっかり忘れて
なぜか徳川を叩くのが正当のように思い違いをしている意見がまだ強いのは情けない
それも豊臣自体が織田を乗っ取ったというのを
歪曲して正当化しているのが苦笑いしか出来ない
616 :
あ:2011/01/29(土) 18:48:47 ID:8BOthMqh
本人が謀反と思わなくとも周りが謀反と捉えるのを恐れるから大義名分を欲しがるんじゃないのかな?まあ光秀なんて自己認識してたと思うけど。
617 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 20:30:59 ID:W+jPx5T2
>>615 >それは自身の単なる野望であり、謀反なんて考えは無い
本人が主人の前で臣下の礼をとっている事を忘れていない限り、考えがないなんて
ありえないだろうよ。それでも謀反をするってのはただ野望が勝っているだけってこと
そして第三者の目からも見ても、臣下の礼を取っている者が主人を武力で倒そうと
すればそれは「謀反」だ
618 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 22:07:28 ID:wTlaAuL1
619 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 22:37:56 ID:lDfBLKV3
620 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 22:40:33 ID:Ni5M8eiF
家康は大坂の陣の前、お抱え儒者の林羅山に湯武放伐論の是非を問うてるし、
朝廷から豊臣家討伐の綸旨を賜ろうとして拒否されてる
家康ほど古典教養の豊かな人間だったら、主君殺しに葛藤があって当然のことだね
事実『大坂御陣覚書』や『老人雑話』といった史料には、
夏の陣で豊臣家が滅びる直前に至ってなお、
千姫の助命嘆願容れて秀頼を救おうとしたという記述が見受けられる
ま、個人的に最後の秀頼助命はポーズ臭い部分もあると思うけど
621 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 22:44:51 ID:3V8yqTdc
>>613 横だが
>このレス応酬をどう見るかは、読み手に任せますよ。
うん、君が本気で意味不明な主張をしているように見えるよ。
申し訳ない。そういう上で、
>君がここからキャンキャン吠えても、こちらは心地良いだけなので、念のため。
・・・なんかおもいっきし勘違いしているみたいで痛いよ。
622 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 23:00:05 ID:Ni5M8eiF
そもそも言葉自体に「これは良いこと」「これは悪いこと」って
いちいち定義してる辞書って世の中に存在するの?
少なくとも自分の家にある辞書ではそういうのないな
「殺人」や「強姦」という明確な犯罪行為ですら素っ気ない定義
購入したいから是非書名を教えて欲しい
623 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 23:11:48 ID:buypCzck
>>620 そういうのを知る度に(日課念仏とかね)家康が哀れになるな。
心底、悪人になれなかった点が信長、秀吉の二大傑物に比べ家康が
飛車角、金銀桂馬香車落ちする理由なんだろうな。
ジェノサイダー信長 越前、長島の一向一揆、荒木村重の妻妾他を小屋に
ぎゅう詰めした上での人間オーブンなど大量殺戮に勤しむ英傑
サイコ秀吉、自分の過去を知る譜代は使い捨ての皆殺し、邪魔な甥とその妻
と子供たちはデリートして畜生塚へ廃棄処分、
この二人は英雄に必要とされる狂気を持っているが凡雄家康は何も持っていない
624 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 23:20:12 ID:u6x8PnLI
>>618 あれ?どうしても悔しくなってID変えて再登場かな。
「謀反」という言葉自体に善悪の意味が含まれていたかどうかを話してるのに
都合が悪くなったんで辞書で定義付けされてるかどうかの話に摩り替えようとしてるだけ。
結局、主張している「謀反」という言葉そのものには良いも悪いもだなんて主張は全く出来ていない。
少し前に一次史料提示しろとか言ってた馬鹿と一緒。
625 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 23:24:54 ID:Ni5M8eiF
>>623 秀吉はソースは知らんけど、晩年枕元に立つ
信長の霊に怯えてたそうだからまだまだ
越前一揆衆皆殺しの後、腹心の村井貞勝に向かって
「府中の町は死骸計にて都合二千余斬り候、見せたく候」
なんて手紙出しちゃうお茶目な信長公はさすがに格上だけどね
まあ信長秀吉のような英傑には及ばなくとも、
最終的には両人にも達成できなかった嫁殺し、息子殺し、主君殺しの
三冠を達成した家康は我々凡人の希望の星と言えるだろうね
ニーチェの言う「超人」の境地に最後一番近かったのは実は家康なんじゃないかな
626 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 23:27:11 ID:wTlaAuL1
>>622 そんなものあるわけない
言葉自体に善悪は定義されない
それに係る主体次第で、善悪はどちらにも転ぶ
議論の発端である
>>602は明らかに間違い
そもそもが見えなくなって不毛な議論となっていたようだが
627 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 23:37:35 ID:buypCzck
>>625 その3つとも、喜んでやってないのが家康の家康たるところかな。
信長みたいに、嫁と息子の髑髏盃を作って「後世への戒めとして元旦に
家臣一同とともに回し飲みさせろ」とか、秀吉の骸を墓から彫り出して
織田家簒奪の事実を列挙しつつ鉄鞭で死骸を叩きに叩いて肉塊にするとか
こう、なんというか「ある種の突き抜けた爽快な狂気」が家康にあれば、ここまで
貶められることもなかっただろう。
628 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 23:51:12 ID:Ni5M8eiF
「ある種の突き抜けた爽快な狂気」と言われれば残念ながら家康の分が悪いね
上で信長秀吉にも成せなかった事績として三つ挙げたが、
どれも事前事後において、若干弁解がましいところがなきにしもあらず
確かに家康の墓暴きは日本史において突出した事例ではあるが、
本場の伍子胥のような峻烈さに欠ける嫌いがある
家康好きだから信長秀吉に劣ると言われて精一杯反論したけど、
やっぱり家康は只の凡人だったのかもね
629 :
人間七七四年:2011/01/29(土) 23:54:38 ID:0ihkbHga
大久保長安の遺体を掘り返して磔にする程度じゃ、狂気とはいえないって?
630 :
人間七七四年:2011/01/30(日) 00:10:15 ID:RBBDkGaZ
あれは罪が大きすぎた
いや、実際に有罪だったどうかはともかく
631 :
人間七七四年:2011/01/30(日) 00:13:38 ID:GQcVOcDW
堀川城、大賀弥四郎
632 :
人間七七四年:2011/01/30(日) 00:54:44 ID:CUON7NYA
原主水の両手両足の指全部切断、なんてのもあったな。
どうも家康の狂気というのは、特定個人への執拗で猟奇的な刑罰、
という形で現れるようだ。
633 :
人間七七四年:2011/01/30(日) 17:52:29 ID:7VSh+OCb
最終的に残虐度の低い家康が天下を取り
子孫も繁栄した。
やっぱりいくら戦国時代とはいえ
残酷なことやってのし上がっても長続きしないんだね。
634 :
人間七七四年:2011/01/30(日) 18:44:12 ID:zUO47nOp
やってる事は同じ。家康の戦後処理が上手かったんだろ
635 :
人間七七四年:2011/01/30(日) 22:12:48 ID:lx1LZ/mG
結局秀吉と家康とどっちが残虐かとか悪かとか
そういう話になってるわけか。
そういう設問と言うか問題意識というかそれ自体が
不思議ではあるな。
636 :
人間七七四年:2011/01/30(日) 22:44:34 ID:oFBtWdke
でも徳川家はそれなりに勤めてたら
一切切捨てしてないんじゃないか?
裏切りはともかく。
信長はわざと酷い事やって試してた気がする。
637 :
人間七七四年:2011/01/30(日) 23:47:56 ID:oc5xWJEl
>>636 それは同意せざる得ないな。
織田家の切り捨て=領地召し上げ、追放がデフォ=林、佐久間、明智(領地召し上げ?)
豊臣家の切り捨て=死刑がデフォ=尾藤、前野、木村、神御田、利休
徳川家の切り捨て=遠隔地へ左遷か幽閉=桑名の本多、館林の榊原、大久保忠
やはり、家康は突き抜けた爽快さに欠けるな。
圧切り>山上宗二>越えられない壁>長安事件その他
ぬるすぎる凡雄だな。
638 :
人間七七四年:2011/01/31(月) 00:48:05 ID:vvnwH1IE
平八さんの桑名は江戸から遠いとはいえ交通の要地だし、子・孫と二代続けて嫁もあげてる わけだし、一般に言われてるほど冷遇はされてないと思う。
江戸から遠いってことなら、彦根のが遠いし。
まぁ、彦根城まで建ててもらって冷遇とは誰も言わないだろうけど。
館林だって、将軍になるまでの綱吉がもらってたくらいだし、結構重要な地ではないんかな?
639 :
人間七七四年:2011/01/31(月) 01:21:49 ID:iNHvZgeo
それぞれ要地だから配置したとは言われてるね
冷遇されてたといわれる秀康だって結局関が原のときは後方の一番要のところにおいてる
期待してなきゃあれはしないだろうし、その後栄転だっけ
640 :
人間七七四年:2011/01/31(月) 02:23:03 ID:c6YxY5xa
突き抜けた爽快さw
641 :
人間七七四年:2011/01/31(月) 09:29:21 ID:snBNatRv
政治と軍事の分離が始まっていたということ
天王寺・岡山の戦いでは本多、榊原、酒井が各隊の指揮官だし
642 :
人間七七四年:2011/01/31(月) 21:53:07 ID:Ybw6kBnU
>>639 秀康はたしか幕府が豊臣家を攻撃したら、自分は豊臣方として大坂城に入る
と公言してたよな?よくそんな人物を息子とはいえ要地にいれたものだ。
643 :
人間七七四年:2011/01/31(月) 22:02:06 ID:oPJY0jie
>>642 それを上回って信頼してるところを見せたんだろうな
そうでなければあれはできん
例えば1対1で懇々と説いたとかね
何かと秀吉が人たらしと言われるが
家康の人身掌握術もすごいものがあるよ
関が原の一連の武将の動向なんて
徳川方の豊臣恩顧の武将の丸め込み方を見れば分かる
それ以前にも結構奔放だったらしい三河武士をまとめてるわけだし
644 :
人間七七四年:2011/01/31(月) 22:08:16 ID:RRXiyQ8o
丸め込むも何も関ヶ原で徳川に付いた豊臣恩顧なんて、
秀吉死んだ直後から誰に言われるまでもなく
家康に尻尾振ってた連中ばっかじゃん
高虎とか正則とか秀吉生前から家康と仲良かったし
645 :
人間七七四年:2011/01/31(月) 22:15:00 ID:Ybw6kBnU
>>644 高虎は内股膏薬の典型。
正則は豊臣家大老としての家康と付き合っただけで
家康が主人と思っていたかは疑問が残るんだが。
646 :
人間七七四年:2011/01/31(月) 22:25:02 ID:oPJY0jie
細かいことは置いといて
いろんな大名にいろいろと陰で世話してたのが
豊臣政権にジャブみたいになって効いてたんだよ
647 :
人間七七四年:2011/01/31(月) 22:32:36 ID:tSauz29/
高虎は人間のクズ
648 :
人間七七四年:2011/01/31(月) 22:38:54 ID:Ybw6kBnU
>>647 いくらなんでも露骨杉なんだよな高虎は。
あのまま秀長がいきていて大和羽柴家が存続していたら、陪臣として5万石程度
食んで一生を終えたんだろうが
649 :
人間七七四年:2011/01/31(月) 23:05:57 ID:CUdjiqtH
高虎は秀長子飼いであって秀吉子飼いじゃないわな。
何が二股膏薬なのかね?
秀長、秀保が死んで大和大納言家が潰れた後、高野山で坊主に
なってたのを無理やり、現役復帰させたのが秀吉だぜ。
それも現役復帰したら、即朝鮮メンバー!
どう見ても秀吉に利用された訳ですよ。
これで豊臣(秀吉)恩顧とは笑わせるわ。
650 :
人間七七四年:2011/01/31(月) 23:27:29 ID:Ybw6kBnU
豊臣恩顧って言葉を出せば、家康そのものが100万石加増で豊臣恩顧の典型だし
651 :
人間七七四年:2011/01/31(月) 23:36:04 ID:RRXiyQ8o
>即朝鮮メンバー!
最終的に悲惨な負け戦だったから唐入りのイメージ悪いけど、
普通は戦争で先鋒命じられるのって武門の誉れなんだけどね
つうかお家断絶で止む無く出家したところを石高倍増で直臣に取り立て、
を「無理やり、現役復帰させた」って表現するセンスってどうよ
652 :
人間七七四年:2011/01/31(月) 23:55:57 ID:vvnwH1IE
高虎さんや黒田の若殿はどういう経緯で徳川に接近していったんだ?
直前まで朝鮮行ってたし、それまでに交流があったんだろうか。
黒田長政は井伊直政と誓紙まで交わしてるようだが。
653 :
人間七七四年:2011/02/01(火) 00:01:01 ID:vgSfQshO
秀吉死後の唐入りからの撤退は家康が指揮したわけで、
唐入りに参加した武将との間で交流があるのはある意味当然
家康も名護屋まで出張ってきてたし
654 :
人間七七四年:2011/02/01(火) 00:30:05 ID:JI4LIiyA
>>651 秀保死後、高虎は自分の養子、高吉と秀長娘とをを婚姻させて大納言家存続を
狙って策動している。もともと高吉は秀長の養子だったから無理筋って話でもない。
狙いは大和大納言家100万石を自分で差配すること。なにせ高吉は若年、後見人
には、養父だった高虎がなるのが自然だわな。
石高倍増で直臣といっても、所詮は外様扱い。先鋒と持ち上げられても実態は、
兵糧運びの水軍じゃ戦功も見込めないポジションじゃないか
655 :
人間七七四年:2011/02/01(火) 02:01:14 ID:hht2aR9Q
>>652 よくある三成憎しの点から対極にある家康に近付いたんじゃない
長政にしてみれば自分が大きくなれればべつに秀吉側でなくてもいいわけで
656 :
人間七七四年:2011/02/01(火) 07:48:20 ID:vgSfQshO
>もともと高吉は秀長の養子だったから無理筋って話でもない
そういう動機があるから秀保変死の裏に高虎が関わってるって説あるよね
そんな危険人物に畿内で100万石任せるとか無理
657 :
人間七七四年:2011/02/01(火) 09:47:40 ID:6j6svPYd
藤堂は家康が上洛した際に京における家康の邸宅を建設した頃からの付き合い
658 :
人間七七四年:2011/02/01(火) 21:58:03 ID:Vv8TrukS
夏の陣で家康が真田隊に討ち取られていたら、天下に大恥さらすところだったのかな
659 :
人間七七四年:2011/02/01(火) 22:17:22 ID:JI4LIiyA
>>656 秀保暗殺犯は高虎っていうのは秀吉側の情報操作だよ。
秀保17歳で秀長娘と結婚、後見人は、秀長の側近中の側近高虎は
大和大納言家100万石の実質的切り盛りをしている。
わざわざリスクを犯して秀保を殺す理由がない。
秀保が仮に暗殺されたとしたら、秀次抹殺のために邪魔になる存在と
見なした秀吉が命令した可能性がある。
まあ、こんな汚い仕事をやれるのは三成しかいないから、彼がやらされたんだろう。
660 :
人間七七四年:2011/02/01(火) 22:28:24 ID:fCnU8tox
661 :
人間七七四年:2011/02/01(火) 22:41:53 ID:Vv8TrukS
>>660 すぐは崩壊しないだろう。
でも威信は大きく低下して東西を羽柴と徳川で分け合うみたいな
構図になって、徐々に応仁の乱みたいになりそうだな。
662 :
人間七七四年:2011/02/01(火) 22:47:48 ID:hht2aR9Q
上の方になかったっけ
実際は家康の陣撤退は予測しての移動って
663 :
人間七七四年:2011/02/01(火) 22:50:13 ID:vgSfQshO
>>659 >秀長の側近中の側近高虎は
>大和大納言家100万石の実質的切り盛りをしている
『多聞院日記』の大納言秀長卿死去の記事読めばわかるけど、
秀保の後見人は高虎じゃなくて和歌山城代の桑山重晴です
「跡之儀与力大名小名知行以下、聊不可替、
侍従殿(秀保)守立テ、萬事各一晏法印
(桑山の法名)次第ニ可被相随トノ御義也」
こうなると全く話が違ってきますね
664 :
人間七七四年:2011/02/01(火) 23:09:23 ID:JI4LIiyA
>>662 あれを俺流に解釈すると下のようになる
1,確松平忠直軍による豊臣家殲滅作戦を容易にするため、家康の旗本を忠直軍救援の目的で派遣
2,それと同時に旗印や馬印を本陣に残して家康が本陣より撤退
3,作戦に基づき、忠直軍は真田幸村軍、毛利勝永軍の突破を許す。
4,突破された忠直軍は、即座に陣形を修復して、大阪城へ突撃を開始
5,支援の旗本部隊は、反転して真田、毛利軍へ背後から襲いかかる
6,空の本陣で、毛利が無双状態、真田は毛利が去った本陣に突入
7、本陣になだれ込む旗本軍が真田と交戦
8,傷だらけで死にかけの真田を忠直軍からこぼれ落ちた下級武士が討って真田エンド
665 :
人間七七四年:2011/02/01(火) 23:11:38 ID:JI4LIiyA
>>663 教えてくれてトンクス
多聞院日記か、そうなると確かに高虎が怪しく見えるね。
666 :
人間七七四年:2011/02/01(火) 23:13:50 ID:vgSfQshO
冬の陣で20万の大軍集めながら攻めきれず講和、
夏の陣で15万集めて大御所討ち死になんてことになったら
幕末の長州征討失敗以上の赤っ恥
後継ぎは政治的才能の片鱗を感じさせながらも
軍事的才能のなさは天下に隠れのない秀忠だし、
即座に潰れはしなくても長く持たなさそう>江戸幕府
ま、だから家康も無法を承知で豊臣を潰しておきたかったんだろうよ
667 :
人間七七四年:2011/02/01(火) 23:27:14 ID:Vv8TrukS
朝廷から大坂方討伐の大義名分を得られなかっただけでもはや私闘だし。
それだけでも印象悪い上に、腰兵糧三日分でいいと公言しながら家康が
討死したら恥辱以外の何者でもないわな。。
実際に旗奉行が処罰されているくらいなら秘密裏に隠しておけるレベルでは
なかったんだろう。
668 :
人間七七四年:2011/02/01(火) 23:30:21 ID:/rb2JhDJ
徳川に代わりそうな有力な大名家や個人がいたかどうかによるだろな。
すぐ後に家康が死んでるから幕府としての機能はそれなりに完備してたろうし。
逆に討ち死にを賛美に変えたりというのもあるだろうし
戦乱に疲れたという背景も考えるとなんとか持ったんじゃないかな。
やってる真田たちには気の毒だけど、そんなに天下分け目のという
意味合いもなかったようには感じるな。
あくまで豊臣殲滅作戦にすぎないというか。
669 :
人間七七四年:2011/02/02(水) 01:32:30 ID:l7wnnMT7
徳川にしてももしも長期戦になりそうだったら包囲だけしてれば自滅は時間の問題だから
豊臣の出方関係なくどっちでも良かったのが実際のところだろうね
ただ家康自身が自分が先が長くないのは分かってたような節があるから
珍しく焦り気味になってたのかも
670 :
人間七七四年:2011/02/02(水) 08:03:09 ID:ZVvoUxsG
そだよね。豊臣殲滅を果たして死ぬなんてさすが家康としか思えない。
あせると言うか自分の目で確認したかったというのはあるかもしれない。
671 :
人間七七四年:2011/02/02(水) 19:00:47 ID:l7wnnMT7
いつぞや秀頼と面会したとき
でかいし、見た目悪くないしで、思ってたのと違って駄目じゃなさそうなところを見て
それでかなり警戒し始めたっていう話もあったと思ったけど
あれって実話・逸話どっちなのかな
ただその「体格が立派」という点を取り上げて
秀吉の遺伝ではないという別の話にも繋がってるのが面白い
672 :
人間七七四年:2011/02/02(水) 20:03:18 ID:1LFJPOiu
出典は『武家碎玉話』という逸話集らしい>秀頼の偉容に家康が警戒
十中八九創作だと思う
673 :
人間七七四年:2011/02/02(水) 23:55:13 ID:l7wnnMT7
了解
早めに決着付けたかったのは
時間がたつとせっかく徳川についてる中にも
豊臣に同情心が出てきてしまう危惧を感じたからかな
いきなり寝返るとまではいかなくても
豊臣を存続させようという動きが出たら厄介だから
674 :
人間七七四年:2011/02/03(木) 00:01:38 ID:mvG3TB7D
なぁ家康のことが好きすぎるんだけど
この思いどこにぶつけたらいいの…
675 :
人間七七四年:2011/02/03(木) 00:18:30 ID:E/hj8/uV
静岡に引っ越すといいんじゃね
676 :
人間七七四年:2011/02/03(木) 08:57:33 ID:9O8DgZ8S
>>673 単純に年齢じゃねーの? 自分はいつ死んでもヘンじゃない歳なのに秀頼は若いから。後継者いまいち頼りにならないしw
677 :
人間七七四年:2011/02/03(木) 14:31:39 ID:Ml2Iv4+1
このスレ(に限ったことじゃないが)ってすげーな
豊臣恩顧の意味を知らずにデタラメほざいてる奴がいて
678 :
人間七七四年:2011/02/03(木) 20:59:33 ID:Oo8nbXWl
軍記物語が根拠のネタもあるからな
デタラメOKのスレなんだ、許してくれよ
679 :
人間七七四年:2011/02/03(木) 21:02:43 ID:9anNBlIp
負け犬乙
680 :
人間七七四年:2011/02/03(木) 21:43:52 ID:3LEQfAy8
たまによくわからない主張があるがそういうことだったのか。
覚えておこう。
681 :
人間七七四年:2011/02/03(木) 22:20:00 ID:cxeUxEex
>>676 もちろん寿命は前提だけど
そのまま長寿でいれたとしても
次から次へと収めたと思った問題がまた沸いて出てきたら厄介だから
それで早めの決着を望んだ部分はあると思う
せっかく手なずけた旧親豊臣の大名が揃って助命嘆願なんて出してこられたらと
682 :
人間七七四年:2011/02/03(木) 22:32:24 ID:YKzZ9ghx
683 :
人間七七四年:2011/02/04(金) 11:08:56 ID:sETiP0cj
粘着がいる事は理解した
随分前の事なのに、レス速すぎだろw
684 :
仙台藩百姓:2011/02/04(金) 12:29:44 ID:q7Cty7cx
秀吉が天下統一して統治を行ったのは僅か8年
しかも国を挙げての大遠征の傍らに行ったものなのに女、子供の守る城で家康が17年かけて切り崩してもまだあれだけ余力があったのだから
なんだかんだ言っても秀吉はたいしたものだおね( ^ω^)
685 :
人間七七四年:2011/02/04(金) 16:28:03 ID:q6qrcmUo
秀吉は只者じゃなかったさ
ぺーぺーの下っ端からのし上がっただけのことはある
その秀吉自身の急速な地位向上に伴って”チーム秀吉”の規模も拡大したわけだ
元々が武士としての伝統を持った家柄の出自ではなかったために、秀吉には譜代の家来に相当する部下がいなかった
チーム秀吉の最初期には信長の意向により浅野(秀吉正妻の身内)や蜂須賀(秀吉が好きで志願したのだろう)、
堀尾や山内(信長が潰した織田宗家の遺臣の縁者)といった即戦力が付けられた
あと実弟秀長も優秀な人材だった
チームが大きくなり、彼らが部隊長を指揮するような地位に就く頃には、
秀吉自身の意向で武将デビューさせた連中が続々と登場してくる
秀吉正妻の遠縁とも言われ、彼女に育てられた福島や加藤(だから忠孝は高台院に向く。淀に従う謂れが無い)、
秀吉自身が見出して取り立てた大谷や石田
彼らのように、秀吉の意向がなければ武将デビューすらなかったかもしれない連中を「豊臣恩顧の武将」と言い、
譜代家臣が存在しないチーム秀吉において、浅野ら古株寄子とともに重要な地位を占めた
「豊臣恩顧の武将」とは、秀吉の政権においてどの人物が秀吉とどう関係した出自を持つか、分類の上で使われた用語
用語として定義が成立しているのに、恣意的に拡大解釈して誰も彼も豊臣恩顧などと言い出すは頓珍漢のやることに過ぎない
686 :
人間七七四年:2011/02/04(金) 19:08:27 ID:ZiGn6VyB
だからその豊臣恩顧がなぜ家康に靡いていったのか、という話
687 :
人間七七四年:2011/02/04(金) 19:22:23 ID:cYQtAjWl
家康のスレだから間違っててもたいして気にならん
なんとなーく分かればいい程度
他で恥かくとしてもそれは自分だしね
688 :
人間七七四年:2011/02/04(金) 19:43:47 ID:q6qrcmUo
すまんな、家康が豊臣恩顧の武将だと言い張る勘違いクンに釘を刺すつもりだった
相手するのも馬鹿らしくなって放置した良識ある住人に宛てて書いたのではない
689 :
人間七七四年:2011/02/04(金) 20:06:10 ID:FIAgCNsJ
そういうことか。
家康が臣従した後の話でもなんか
100万石もらったのは立派な恩顧だろ
みたいなのが多くて不思議だったんだ。
690 :
人間七七四年:2011/02/04(金) 20:13:52 ID:St6PURIX
秀吉死んだ時点で名実ともに豊臣政権のトップである家康に諸将が靡くのは至極自然
むしろ三成のような人望のない才子に危ないところまで追い込まれ、
その後抜け殻のような豊臣家を始末するのに十余年掛かった方が不思議
691 :
人間七七四年:2011/02/04(金) 20:47:35 ID:mvXXy9MQ
秀吉子飼いの家臣と豊臣恩顧は別だぞw
692 :
人間七七四年:2011/02/04(金) 21:15:36 ID:MtsWweYo
臣従しただけの独立大名は恩顧とは言わないだろう?
693 :
人間七七四年:2011/02/04(金) 21:27:37 ID:vNuM5Lvy
潰されなかっただけでもありがたく思え>恩顧
694 :
人間七七四年:2011/02/04(金) 21:34:21 ID:FIAgCNsJ
恩には絶対的な定義があるとか相対的なものとか
そういう話から始まってとりあえず100万石もらったのは
恩以外のなにものでもなかろうし家康も家光もみな
秀吉に恩を感じ感謝し臣従してたってとこだったか。
根本的におかしな恩とか臣従とかの考え方だったもんな。
695 :
人間七七四年:2011/02/04(金) 21:38:58 ID:St6PURIX
>家康も家光もみな秀吉に恩を感じ感謝し臣従してたってとこだったか
?
誰もそんなことは言ってなかったと思うが大丈夫か?
家康が秀吉に「臣従してた」のは事実、ただ「恩を感じ感謝し」てたかどうかは不明
家光は秀吉に「臣従して」ないが、「恩を感じ感謝し」てたのは事実
それだけの話
696 :
人間七七四年:2011/02/04(金) 21:44:01 ID:St6PURIX
>>691 豊臣恩顧には前田利長や池田輝政、細川忠興みたいな
織田系列の二世武将も含まれるからねえ
違うって言えば違うけど、ぶっちゃけそこまで
厳密に使い分けてる人少ないと思うな
697 :
人間七七四年:2011/02/04(金) 22:42:48 ID:FIAgCNsJ
>>695 まあ面倒なので1行にまとめただけだ。
最初は家康が関東移転や100万石もらったのを恩と
思ってた、というところから始まってなかったっけ。
自分も不明の方なんだがな。
なんだけどみんなが?恩に感じてたその根拠として
家光の話とか複雑になってたような。
698 :
人間七七四年:2011/02/04(金) 22:48:06 ID:ZkbXQkXi
100万石もらったのはどう考えても仇ではないし、恩だろう。
領地安堵と領地加増では全然意味合いが違う。
699 :
人間七七四年:2011/02/04(金) 22:59:29 ID:FIAgCNsJ
手切れ金、迷惑料、慰謝料、口止め料
こういうのをもらうのは恩でもないだろなぁ。
700 :
人間七七四年:2011/02/04(金) 23:12:45 ID:clXUimHR
本拠の移動なしで加増なら間違いなく恩だろうな。
実際は、地縁のない田舎に飛ばされただけ。
なんでそれを省略するかな?
中央から遠ざけられるのは、地理的にはもちろん、
政治的、経済的にも野心を挫くに十分だろ。
恩よろしく、バーターで加増しただけの話。普通に考えろって。
701 :
人間七七四年:2011/02/04(金) 23:45:25 ID:8Br7g60Z
関東転封は家臣団再編の又とない好機でもあった
702 :
人間七七四年:2011/02/04(金) 23:46:19 ID:mvXXy9MQ
移封・転封を受け入れるという事は完全に家臣となる事を受け入れる証であり、
だからこそ信雄は拒否した訳だが、田舎に左遷させるような話じゃない。
旧北条領が何も無い田舎だなんてのは滅茶苦茶だしね。
秀吉の天下がほぼ確定した状態で静岡あたりにいたって何も得られる物は無いけど
関東に行けば地方のまとめ役としての地位を得られる可能性がある。
そもそも占領地域には占領した武将が入るっていうのは信長もしてたわけで、
北条攻めで最も活躍した家康が旧北条領に入るのは至極当然な話。
703 :
人間七七四年:2011/02/05(土) 00:21:24 ID:85mZaDm+
北条領で最も栄えてたのが小田原であった事を考えれば、
都市としての成熟度は、駿府の方が遥かに上。
実際、家康の関東入り後も、小田原は中心地にはならなかった。
江戸の繁栄は徳川によるものであり、その前段階の関東が田舎であった事は不動。
家康が目指していたものが何であったか、だろうね。
真実、秀吉の部下で収まる程度で満足ならば、関東移封は栄転かもね。
そうでない場合。変事の際に、次の一手が尾張・美濃である旧領と、
田舎関東とでは、その価値は比較にならない。
火事場泥棒で領地を拡大したいった家康ならばなおの事。
家康にとって、関東移封は有難い話となるだろうか?
家康は、そもそも何を目指してたんだろうね?
704 :
人間七七四年:2011/02/05(土) 00:30:43 ID:eF4WydTB
>実際、家康の関東入り後も、小田原は中心地にはならなかった。
通説では秀吉が関東入府にあたって江戸を首府に指定したんだけどね
周囲を山と海に囲まれた小田原は防衛にこそ適していたが、開発では限界がある
江戸前(東京湾)を抱え、肥沃な関東平野を有する江戸こそ
戦乱が終わった時代において経済・物流の中心に相応しいと家康を説得したわけだ
そして秀吉の見方が正しかったのは、現在の東京が証明してるよね?
705 :
人間七七四年:2011/02/05(土) 00:45:42 ID:85mZaDm+
>通説では秀吉が関東入府にあたって江戸を首府に指定したんだけどね
>周囲を山と海に囲まれた小田原は防衛にこそ適していたが、開発では限界がある
>江戸前(東京湾)を抱え、肥沃な関東平野を有する江戸こそ
>戦乱が終わった時代において経済・物流の中心に相応しいと家康を説得したわけだ
通説であって、史実ではないんでしょ?
706 :
人間七七四年:2011/02/05(土) 00:58:59 ID:eF4WydTB
>通説であって、史実ではないんでしょ?
さあ?
ソースは『天元實記』や『関八州古戦録』のような二次資料だから、
100%正しいかと言われたら知らないな
自分の知ってる限りは、こういうことがあったと紹介してる研究者は数多く居ても、
積極的に史実じゃないと主張してる人は居ないはず
ついでに
>家康にとって、関東移封は有難い話となるだろうか?
>家康は、そもそも何を目指してたんだろうね?
頼朝の範に倣って関東に武家政権の樹立を志向していた家康にとって、
関東移封は幸運だったと、京大名誉教授で近世史の研究者である
林屋辰三郎先生が書いてるね(『天下一統』)
まあ一研究者の意見だけど、参考になれば
707 :
人間七七四年:2011/02/05(土) 01:00:36 ID:5+FGBDyH
>>704 おいおい、何言ってんだ?
小田原も普通に関東平野で、良港を抱えてるぞ。
箱根のイメージで勘違いしてないか?
708 :
人間七七四年:2011/02/05(土) 01:11:41 ID:eF4WydTB
>>707 小田原は足柄平野だよ
足柄平野は関東平野とは同一視されないのが普通だと思うが
そして西に箱根山、北に丹沢山地を抱えて
開発に使える平野部分が限られてるのも事実
相模湾に面してるので通常の港としては十分だが、
内陸部分に大きく入り込んだ形の江戸前とは港湾の適正として比較にならない
つうか江戸と小田原比べてどっちが将来性有ったか、って話なんだけど
709 :
人間七七四年:2011/02/05(土) 01:36:21 ID:5+FGBDyH
まんまWikiだな。
恥ずかしい奴W
つか、地元に住んでて、足柄平野で区別する奴なんかいないし。
地元じゃなきゃ、尚更足柄平野なんか知らねーっての。
>つうか江戸と小田原比べてどっちが将来性あったか、って話なんだけど
小田原が選ばれなかった理由は、
>>704じゃ説明にならない、と言いたいわけよ。
当時の江戸だって、よっぽど条件が悪い。
710 :
人間七七四年:2011/02/05(土) 01:48:45 ID:eF4WydTB
711 :
人間七七四年:2011/02/05(土) 05:43:13 ID:59LXClX9
つまり町田・八王子のヤツが、
都民気取るようなもんか。
間違っては居ないが、無理があるよな。
>>698 がもし中国インドみたいな将来性もない海外へ
賃金同じ(相対的に倍化)で飛ばされたら
喜んで行くのだろうか?
敵地だから治安も悪くて、家族にも拒否られて離れ離れだがw
712 :
人間七七四年:2011/02/05(土) 05:46:37 ID:59LXClX9
関東〜中部〜畿内以外へ加増転俸された譜代・外様とかって
やっぱり内心複雑な心境だったんじゃないか?
713 :
人間七七四年:2011/02/05(土) 09:10:52 ID:85mZaDm+
>>706 「関八州古戦録」って軍記。二次史料ですらない。
714 :
人間七七四年:2011/02/05(土) 09:21:35 ID:5iPszsA/
軍記講談類は2次史料でなかったかな
715 :
人間七七四年:2011/02/05(土) 09:43:18 ID:85mZaDm+
後世、司馬作品を史料として扱えるのなら、そうかもしれない。
軍記は基本フィクション。
「関八州古戦録」が史実のみを編纂したものであれば、軍記物語
のジャンルに属する事はない。
716 :
人間七七四年:2011/02/05(土) 10:04:45 ID:fzUKRls3
>>712 それいったら関が原後の転封だって内心はどうだったか?だよ
717 :
人間七七四年:2011/02/05(土) 11:10:39 ID:cPsh1zkw
家康自身は積極思考で自分の統治能力を発揮する機会と喜んでたみたいだな
嫌がったのは地縁的結びつきを切り離されるマイナスを恐れた家臣のほう
718 :
人間七七四年:2011/02/05(土) 11:41:25 ID:85mZaDm+
秀吉の軍門に下った以上、専制者に対する中途半端な態度は一番危険。
愚直で阿呆になるのが間違いない処世術。
現代でも一緒でしょ。オーナー社長に逆らう奴の行く末は皆一緒。
嫌な事でも『ありがとうございます、大変嬉しいです』が基本。
719 :
人間七七四年:2011/02/05(土) 12:49:18 ID:Cde0S0yI
家康が何を目指してたか?
はいい質問だと思うけどやっぱり、御家存続、これしかないだろう。
徳川家が存続、しかも安定強力そういう状態であればいつかは
チャンスがくるかもしれない。
豊臣政権はあの時点でも磐石ではないし結果論ではなく
年下の家康自身にもチャンスはくるかもしれない。
そういう意味で関東開発に努力したのだろうし素直に
忠臣?を勤めていたのだろう。
秀吉の先見の明とかそういうのは結果論であり
現在にまで東京が繁栄してるのはやはり家康の努力に
よるものだろうし江戸に首都機能を持っていったのも家康。
それを、秀吉に与えられたものとか現在の繁栄から
判断するのはどうなんだろう。
別に家康オタクじゃないけどね。
720 :
人間七七四年:2011/02/05(土) 13:14:15 ID:cPsh1zkw
>>718 単に秀吉に調子を合わせるためだけでなく、
家康にとっても家臣団を再編する良い機会だったと思う
721 :
人間七七四年:2011/02/05(土) 13:32:13 ID:XQi7Ryz1
軍記物と軍記物語を同じだと思ってる馬鹿がいるのか。
関八州古戦録なんて関東の歴史研究では常連の史料を全否定とかスゲーなw
722 :
人間七七四年:2011/02/05(土) 16:06:12 ID:Cde0S0yI
関東の歴史研究とかなんか独自路線じゃない?
聞いただけだが戦国の開始時期でも関東は少し先に
もってくるとか、城郭の分野でも独特の解釈してるとか。
林矢せんせもだが、幸運だったとかいうのは結果論だろうし
そういう観点で秀吉や家康を語るのにはちと疑問があるな。
あくまであの時点ではというのを明確にしたほうがいいとは
思うのだけど。
723 :
人間七七四年:2011/02/05(土) 16:46:38 ID:XQi7Ryz1
お前は先ず日本語の理解力を身に付ける事から始めような。
724 :
人間七七四年:2011/02/05(土) 19:26:54 ID:CI/AAp2p
725 :
人間七七四年:2011/02/05(土) 19:35:29 ID:gNMCrLLl
726 :
人間七七四年:2011/02/05(土) 20:40:00 ID:ql7X7rxv
つか全否定されてるのは、関八州古戦録ではなく、
その軍記物語を根拠にした
>>704だろ。
自分でも通説って言ってるし。
本当に発言したかどうかも分からない事を、持論の土台にするのはどうかと思う。
727 :
人間七七四年:2011/02/05(土) 21:32:39 ID:Y33DfR+8
転封時の家臣団再編って、どういう事するの?
足軽や平民よりも上の、武士や商人は付いて来たんじゃ無いの?
728 :
人間七七四年:2011/02/05(土) 22:33:58 ID:eF4WydTB
>>715 『関八州古戦録』については上で詳しく書いたから参考にしてね
つうか軍記が基本フィクションとか本気で言ってるの?
一級資料であるとされる『信長公記』や『川角太閤記』だって軍記なんだよ
ちゃんと史料読んでればそんな勘違いはしないと思うんだけど
>>726 自分には感情的に全否定したがってる人が居る、つうだけに見えるね
つうか出典『関八州古戦録』だけじゃないし
729 :
人間七七四年:2011/02/05(土) 22:52:36 ID:eF4WydTB
>>727 簡単に言うと、その転封に付いてこなかったような半士半農の人たちを省いて、
家臣団を専業の武士で構成することによって大名との主従関係を明確にしたこと
で、付いてきた家臣たちに一から新しく領地を与えるんだけど、
この時地縁(先祖代々そこに住んでたから今もそこが領地)みたいなものを考慮せず
その家臣個人の能力や功績、主君との関係を重視して割り当てすることで、
家臣団をより大名の動かしやすい組織にすることができたわけ
もちろんかなりの荒療治だから、実行する大名にもそれ相応の手腕が必要だけどね
730 :
人間七七四年:2011/02/05(土) 23:35:39 ID:XQi7Ryz1
地縁と切り離す事によって、加地子等複雑な支配体系を見直し
大名権力の強化を図るって意味もあるな。
こういった動きは島津や毛利といった非転封組も石田等奉行の力を借りて
行ってるわけだが、転封組に比べると大変だったようだね。
731 :
人間七七四年:2011/02/06(日) 00:08:52 ID:HemyzUKj
再建会社を乗っ取った大株主が、
外部から役員派遣するようなもんか。
732 :
人間七七四年:2011/02/06(日) 00:17:03 ID:WO6CQZ+N
家康とか卑怯者
本能寺で信長が死んだ時も、旧武田領に獲得に意欲を出すとか
織田家忠義の臣、河尻秀隆が討たれのも家康の責任
このバァカが一揆を扇動したから
信長にたいしてはビクビクしてたくせにせこい
ましてや家康も織田家臣だろ
上杉や北条が甲斐に進行したのは納得できる
733 :
人間七七四年:2011/02/06(日) 01:13:26 ID:iFSZ0LpC
すまん
この流れって簡単にまとめるとどういう流れ?
734 :
人間七七四年:2011/02/06(日) 05:58:20 ID:woP55kGG
>>728 信長公記は二次史料だよ。
一級資料とか微妙に誤魔化すのはどうかと思うぞ。
大辞泉よい
ぐんき‐ものがたり【軍記物語】
中世文学で、戦争・合戦を主題として時代の展開を描いた叙事的物語。
735 :
人間七七四年:2011/02/06(日) 06:02:06 ID:7Zxb8nys
>>729 そういった再建の過程で地縁を考慮しないというのは
秀吉の検地、大名の意思によって移動増減が可能になったとか
そういったところとの関連はなにかある?
両者ほぼ同時期に似たような土地を根本に置く政策を実行していた
というのに後の家康政権安定への影響も感じられてちと
思うところがあって。
736 :
人間七七四年:2011/02/06(日) 10:56:00 ID:vP5Lo9UT
>>734 二次資料だけど信長の事績を研究するにあたって
不可欠な一次資料であることは事実だけど?>『信長公記』
何を誤魔化してるっつうの
大辞泉より
ぐん‐き【軍記】
1 戦争を題材として記述した書物。戦記。軍書。
2 「軍記物」「軍記物語」の略。
『信長公記』や『甲陽軍鑑』、そして『関八州古戦録』は1
『絵本太閤記』や『真田十勇士』なんかが2
2は史料的価値は存在しないが、1は一次資料との
比較検討を行った上でしばしば研究者にとって引用される
初学者にとっては微妙な違いだけど、覚えておいてね
737 :
人間七七四年:2011/02/06(日) 10:58:13 ID:vP5Lo9UT
>>736 訂正
不可欠な一次資料→不可欠な一級資料
『信長公記』の資料的価値については
藤本正行氏の『信長の戦争』の最初に詳しいから参照してね
738 :
人間七七四年:2011/02/06(日) 11:38:10 ID:LDECD0zu
家康が実質的に天下を取ったのって関が原からってことになっているが
秀頼が1613年にだした備中に関する知行宛行状が残っている。
他にも山城や近江に関しても同様の物が残っている。
今の通説では豊家は摂津・河内・和泉を領有する65万7000石の大名ってこと
になっているが、これは誤りじゃないのか。
739 :
人間七七四年:2011/02/06(日) 11:38:35 ID:vP5Lo9UT
>>735 関連性は大有りですね
何といっても中世の武士の経済基盤は土地に拠るところが多いかんね
「武士の地縁」と「検地」、そして「大名鉢植え政策」は相互に重要なキーワード
戦国大名がしばしば実施した検地によって、
大名は自分の支配地の定量的評価が可能になった
で織豊政権で一般的になり江戸時代でも
盛んに行われた大名鉢植え政策によって、家臣たちを
主君の意向に沿って配置することができたわけ
「大名権力が強くなる」→「その強化された大名権力を背景に家臣統制を図る」
→「更に大名権力が強化される」の繰り返しという感じ
で、大名権力が強力になればその分政権が安定するのも当然の理屈
江戸時代も後半、天宝十一年になって幕府は川越藩と庄内藩、長岡藩の
三方領知替えを行おうとして失敗してるけど、これなんか
家臣の転封も満足に出来ないくらい幕府の衰亡を象徴した出来事として有名
間違ったことは言ってないと思うけど、この辺りについて
詳しく書いた本は多いので、興味があるなら一度参照して欲しい
家康の場合、同じ関東の佐竹や里見のように
豊臣政権奉行(上記の例で言うなら石田や増田)が
担当することなく独自の裁量で
この検地を実行することができたわけで、
そういう点からも豊臣政権における「特別扱い」は読み取ることができます
740 :
人間七七四年:2011/02/06(日) 11:39:07 ID:VsjAJd6u
公記は本格的に調査してるんだっけか。
限りなく一次史料に近いという認識なんだがあってる?
これを二次とか軽んじられると織豊の専門家はなにも
できなくなりそだが。
741 :
人間七七四年:2011/02/06(日) 11:41:59 ID:8nqxUH1C
742 :
人間七七四年:2011/02/06(日) 11:46:00 ID:m6e2aTrm
743 :
人間七七四年:2011/02/06(日) 11:46:31 ID:dX/dUMDO
>>740 一次史料は書状や日記みたいにその当時リアルタイムで書かれた物。
後から書かれた物が二次史料というだけで、史料の信憑性とは関係無い。
信長公記は太田信定が当時のメモや聞いた事を元に後から書かれた物なので二次史料。
史料的価値の高い物は「一級史料」と呼ぶんであって、これには二次史料も含まれる。
744 :
人間七七四年:2011/02/06(日) 11:51:23 ID:LDECD0zu
>>741 >>742 無効なものなら今日まで保存しておく意味もないし、
通説なら幕府に疑われる元だから、幕府に提出するかするわな。
745 :
人間七七四年:2011/02/06(日) 11:52:20 ID:VsjAJd6u
>>739 ふむふむ。
中世どころか通史での判断の根本に生産手段ー土地所有を
持ってくるのが普通だと思うけど、タテ割り専門の今の状態では
あまりそういうのを見かけなくて自分で個別に考えてる。
例えば鎌倉の前までは農具は木だったろうけど鎌倉あたりから
鉄になって、これで関東の固い土壌なんかも開拓しやすくなったとか。
遡ると卑弥呼の時代の鉄の話まで行ってしまうのだが、1400年省略して
信長がどうして他人の領土まで手を出すようになったのか、とか
秀吉の政権?というのが政権と呼べるようなものだったか
とか考えた場合に、秀吉は過渡期だったんだが、家康からは
安定した政権の基盤に完全に「地縁」みたいな中世的なものより
「経済政策」とも呼べるべき近世の感覚を感じるから
このあたり秀吉ー家康の比較とかをいろんな視点から
聞いてみたくてね。
どっかで太閤検地や刀狩みたいなのを過大評価しないほうがいいと言われて
これもよく考えてみないといけないとも思ったりして。
まとめて書いたから細かい点は勘弁ね。
746 :
人間七七四年:2011/02/06(日) 11:55:11 ID:VsjAJd6u
>>743 ありがと。
一級史料と言うと山本思い出してなんか使いにくいな。
747 :
人間七七四年:2011/02/06(日) 11:58:16 ID:vP5Lo9UT
豊臣政権は日本全国(大部分が北九州を中心とした西日本だけど)に
飛び地のように直轄領、いわゆる蔵入地を持っていた
西軍武将の処分と東軍武将の加増転封で
それらが実質的に解体された関ヶ原の後も、
部分的に豊臣家のものとして残ってた、つうのは十分あり得る話
まあ何れにせよほんの微々たるものだとおもうけど
秀頼を「摂津・河内・和泉を領有する65万7000石の大名」と呼ぶのは
その領地の大部分が現在の大阪に集中していたからで、便宜的なものでしょ
豊臣政権の家康だって一般的には「関八州250万石を領有する大名」だけど、
実際は関東には佐竹のように徳川の指揮下にない大名も居たし、
その反面近江に2万石くらいを宛てがわれたりしてるわけで
748 :
人間七七四年:2011/02/06(日) 12:05:59 ID:vP5Lo9UT
>>745 太閤検地や刀狩の実情やその歴史的意義については
研究者によって様々だけど、まあ一般的には中学の教科書に載ってる通り、
中世封建制から近世封建制への転換点として評価されてます
脇田修先生なんかは秀吉の「経済政策」を高く評価し、
信長でも家康でもなく秀吉こそが近世封建制の完成者であると
認識してますね(『秀吉の経済感覚』より)
まあ研究者でも様々な意見はあるから、
比較検討してみると面白いかも知れませんね
749 :
人間七七四年:2011/02/06(日) 12:08:39 ID:hHLzms/+
>>736 >>704の史実性を問うてる以上、一級資料の話で誤魔化すな、という事だ。
一級資料は、史実性の軽重を意味する史料ではない。
軍記の意味を取り間違えてるとしか思えないんですけど。
>1 戦争を題材として記述した書物。戦記。軍書。
>2 「軍記物」「軍記物語」の略。
どう読んでも、1と2は並列じゃない。
1は広義の意味、2は狭義の意味を省略したもの、だ。
寧ろ細かく言えば、軍記物と軍記物語がイコールじゃない。
信長公記も甲陽軍艦も軍記物だ。
真田十勇士なんか、軍記じゃないだろ。立川の文庫本じゃないか。
いずれにせよ、
>>704の根拠は史実性の疑わしいものであり、
(自分でも通説と言ってる)それを正当化するのは無理。
これ以上関係ない話に振り回すのは勘弁して欲しい。
750 :
人間七七四年:2011/02/06(日) 12:19:45 ID:dX/dUMDO
>>749 > 一級資料は、史実性の軽重を意味する史料ではない。
おかしな日本語だけど、「一級史料」ってーのは史料としての信憑性を意味する物だよ。
確かに「真田十勇士」は軍記物語じゃないな。「絵本太閤記」も違う。
ただ「関八州古戦録」も軍記物語じゃないぞ。
751 :
人間七七四年:2011/02/06(日) 12:23:50 ID:vP5Lo9UT
>>749 秀吉が家康に
>>704に書かれてるように語った、
つうのは確実な一次資料に見られない事柄だが
(そもそも性質的に一次資料に残るようなものではない)、
最初から書いてるようにそこは自分の主張したいポイントじゃない
「江戸に首府を開くよう家康に命令したのは秀吉」であり
「
>>704で書いたように江戸が小田原と比べて地政学的に優位な点が多い」
つうのは紛れもない事実
「これ以上関係ない話に振り回すのは勘弁して欲しい」
なんてまるで自分の書き込みかと思ったよw
一次資料以外は話にならないとか軍記が完全なフィクションとか
どこで聞きかじったかしらん半可通に困惑してる、
つうのがこちらの正直な感想なんだけど
頼むからちょっとは勉強してから書き込みして欲しい
752 :
人間七七四年:2011/02/06(日) 12:42:58 ID:4BW7zbkW
そういう自分も軍記の定義で適当な事言ってる件
753 :
人間七七四年:2011/02/06(日) 12:50:48 ID:VsjAJd6u
>>748 脇田先生は学術的すぎるというか秀吉の場合は
経済感覚というか「お金の力はすごい&こわい」ってのを
よく知ってたという庶民の延長線上に感じたりもします。
人を動かすとかそういう組織の運営上というか。
経済政策というとなんというのだろうもっと社会の安定を
図るとか巨視的なものだろうけど、秀吉は近視眼ちゅうか
目先の欲望重視で考えてて、今で言うデフレ状態みたいな時には
どう対応したか興味あったりします。
家康は逆に欲望を先に出すと危険だ、みたいな秀吉を反面教師
にしたような組織を作ろうとしてたような。
これは江戸の治安の良さからも思うのですよね。
754 :
人間七七四年:2011/02/06(日) 12:53:53 ID:vP5Lo9UT
>>752 適当なこと言って突っ込まれてるのは
>>749の方
「軍記」の定義については
>>736で問題ない
「一級資料」という用語に違和感を覚えるなら「第一級の資料」とでも言い換えれば良い
「軍記」と「軍記物」、「軍記物語」の区分については
一般にしばしば混同され、研究者の間でも合戦を主題にした編纂資料を
その何れに該当させるか定見が見られないという点で、
文学評論の分野における「推理小説」と「ミステリー」の関係に近いと言える
ただそういうジャンル分け云々の前に、
『関八州古戦録』が第一級の資料ではないにせよ
フィクションとして切り捨てられる性質の資料ではないということは間違いない事実
この人はそこに反論できないから不毛なジャンル分けで絡んできてるのだと思う
755 :
人間七七四年:2011/02/06(日) 13:07:06 ID:4BW7zbkW
>>736の適当さ加減は、そんなレベルじゃないw
これ以上絡まれたくないので、サイナラ
756 :
人間七七四年:2011/02/06(日) 13:22:09 ID:vP5Lo9UT
>>753 そりゃ秀吉は比較的低い階層の出身ですから、
「お金の力はすごい&こわい」つう庶民感覚を
十二分に身につけていたというのは否定出来ないでしょうね
まあ単に普通の庶民感覚を持ち合わせていただけの人間が
「関所を廃止することで物流を活発にする」
「金山銀山を直轄領化し、貨幣の鋳造権(秀吉のときはまだ過渡期だったが)を握る」
「座を廃止もしくはその権益を制限することで経済の活性化を図る」
「配下の大名や御用商人に海外貿易の認可を与え、巨額の富を獲得する」
「東国の安い米を畿内に持ってきて高く売り捌き、そのために港湾を整備する」
「千利休や本阿弥光悦のような文化人とつるんで茶器や日本刀の価値を釣り上げる」
という風な巨視的な経済政策をとれたとは自分には思えません
これらの政策の数々はまんま家康にも踏襲されてます
家康が「逆に欲望を先に出すと危険だ」つうことを秀吉から反面教師的に学んだ、
ってのは確か堺屋太一氏も同様のことを仰ってましたね
けどそれって対外戦争を繰り返し勢力圏(「経済圏」と言い換えてもいい)を
膨張し続けるという戦国時代的価値観を否定しただけであって、
主要な経済統制では上でも述べましたけど家康のそれは秀吉のものとほぼ同じです
戦争が経済政策の表れの一つである以上、無視できない要素ではありますが
>>755 ( ^ω^)
757 :
人間七七四年:2011/02/06(日) 14:15:58 ID:VsjAJd6u
>>756 ぇ、堺屋そんなこと言ってたの?困ったな・・
脇田先生の本を読んだ時に思ったのが、決して揶揄するわけではないけど
秀吉って全部自分がいい思いするためにしたんじゃないかな、みたいに
思ったわけですよ。
学問的に解釈するとそうなるのかもしれないけど、脇田先生はかえって
下世話的な発想をされるような方じゃないでしょう。
少なくとも天下人秀吉の経済政策というよりは、「ウハウハだがや」じゃないかなってね。
つまりやってることは、にゃ古屋人のケチ感覚だでかんわ、とか。
秀吉ファン?の方には怒られそうだけどこれは、でらホメ言葉、ってことで
自分は秀吉を高く評価してる。
ただ、あんまり持ち上げられると少しこそばゆいというかね。
758 :
人間七七四年:2011/02/06(日) 18:29:21 ID:8Ve823Sf
言ってしまえば、一次資料特に日記なども間違いはいくらでもあるしね
一次資料だからって必ずしも信憑性が高いとも断言はできない
759 :
人間七七四年:2011/02/07(月) 00:18:15 ID:rFBirO4x
要はさ、
元々の話は『秀吉の、家康に対する恩が成立するか』という話だったわけで。
で、長々と続いてる話は『軍記物の信憑性』。まぁ、大きく変質してる。
何の事はない。
>>704で終わってるわな。
軍記物の信憑性をいかに説いたところで、
>>704の秀吉発言の証明には繋がらん。
本論である『秀吉の恩、先見性』の論拠にはなってないって事だよ。
760 :
人間七七四年:2011/02/07(月) 08:33:46 ID:jNJB8qpQ
大河ドラマ、神君伊賀越えに江が同行とか、いくらなんでもあり得ないんだが。
761 :
仙台藩百姓:2011/02/07(月) 08:55:05 ID:eNsqKkdk
まだやっているのかお┐ (´ω`) ┌
「恩は成立する」に決まっているじゃんお( ^ω^)
武家は「所領安堵」をして貰う事で主君に「奉公」するのだお( ^ω^)
朝廷が認める国に住む限り勝手に領有して良い土地など一寸たりとも有り得ないのだお
だから天皇に許可を貰う事になり、実際には天皇の代理人(時の権力者)によって決定されるお( ^ω^)
鎌倉時代以降武家の所領安堵は直接の主に委ねられていたお
つまり家康は秀吉の臣下となり所領を安堵してもらった事で「御恩」を受け「奉公」の義務が生じたのだお( ^ω^)
所領の加増だの金品の下賜などは「褒美」であって別の事だお
新恩ともいうように基本の御恩に重ねて与えられると言う事だお( ^ω^)
家康などは所領安堵の御恩に加えて所領の加増や官位の昇進など多重の御恩を受けていたお( ^ω^)
762 :
人間七七四年:2011/02/07(月) 11:39:09 ID:MkbolWU5
763 :
人間七七四年:2011/02/07(月) 13:36:56 ID:rFBirO4x
764 :
人間七七四年:2011/02/07(月) 17:58:00 ID:F+26zGcd
全くもって論理性のない話ですね
765 :
人間七七四年:2011/02/07(月) 19:13:47 ID:ml9xzlmn
なんで徳川家を豊臣恩顧の大名じゃないって否定したがるのかなぁ?
>>761のような御恩と奉公の基本原則はどの大名も同じだが、とりわけ徳川家は
豊臣公儀から100万石の加増を受けてんだぜ。
100万石といえばそれだけで大大名の所領だ。
徳川家が恩に感じるかどうかなんて関係ないよ。
客観的にそれが利になっているかどうかだ。害より利が大きければどう考えても
「恩」 だから徳川家は豊臣恩顧の大名。
766 :
人間七七四年:2011/02/07(月) 19:47:00 ID:zqhabvYg
豊臣の力で徳川を保護できなくなった時点で恩は切れたでいいんじゃないの
767 :
人間七七四年:2011/02/07(月) 19:49:09 ID:o198uMfm
>>765 そんなこといったら大名のほとんどが豊臣恩顧ですやん
768 :
人間七七四年:2011/02/07(月) 19:57:35 ID:ml9xzlmn
>>767 基本的に所領の加増を受けている者、滅亡寸前なのを豊家の力で
保護された大名(たとえば大友家とか)は豊臣恩顧でいいだろ。
769 :
人間七七四年:2011/02/07(月) 19:57:56 ID:yGIcGYVU
>>757 秀吉が豪放磊落なオッサンつうイメージは、
秀吉自身が聚楽第の金配りや北野大茶湯などの
大衆の度肝を抜くパフォーマンスでアピールしていたもの
ですから秀吉をウハウハおじさんと捉えるのは当たらずとも遠からずかもしれませんね
ただそういうパフォーマンスを実行するために
何処からともなく金を捻出してきたのが秀吉の才覚なわけで、
秀吉は紛れもなく当時としては突出した経済感覚の持ち主だったと思いますよ
自分的にはむしろ家康の方が気になりますね
黎明期の徳川幕府の経済政策は豊臣政権の模倣もしくは延長線上にあるもので、
家康個人の創意工夫みたいなものが見えないように思います
また、家康が大久保長安みたいな吏僚を軽蔑してたなんて逸話も伝わってます
儒教的観念に凝り固まった小瀬甫庵が『太閤記』で秀吉の金融政策を批判したように、
若年の頃から古典的教養を身につけてきた家康にとって、
金を転がすことで更に金を産む近代的な経済システムは
胡散臭いものに見えてたんじゃないですかね
>>759 >元々の話は『秀吉の、家康に対する恩が成立するか』という話だったわけで。
ま、ぶっちゃけその「本論」とやらももう終わってるんだけどね
後は感情的にならずにどれだけ客観的事実を見つめることが出来るか、ってだけの話
770 :
人間七七四年:2011/02/07(月) 20:11:38 ID:9M4CMt92
アマゾン支店長に栄転で給料倍になって、うまく行ったら全部あんたの儲けでいいよって
「あなたのためだから」って言われて、うれしいと思うか、だわな。
がんばって儲けたら、「社長のおかげだぞ、恩だろ」ってか。
771 :
人間七七四年:2011/02/07(月) 20:26:32 ID:9M4CMt92
>>769 秀吉の場合は儲けた金を独り占めせずにバラまく、これが人心把握にもなるでしょうし
高度成長にもつながる、部分的には素晴らしいことなんですよね。
ただあくまで秀吉個人の能力であって、その死後にシステムとして継続できるかは
また別問題。
家康の場合は、システムとして成立、させたわけで、秀吉のやり方を踏襲したとしても
やはり同列に論ずるのはちと抵抗がある。
もっとも、家康の経済システム、というのも不明確だし
経済面の評価判断と言うのは、歴史の方にできるものなのかどうか。
恩の話でもそうだけど、一般社会での苦労や経験のない学者の方に
理論で「あれは恩である」と言われても説得力に欠けるし
だからこそ、そういう理論や史料主義にこだわって
本心とか心中は、ばかげた話とか検証不能とかごまかしてるようにも感じる。
自分はどうでもいいのだけどね。
秀吉も家康も偉くて、庶民には理解できない、ってとこで。
772 :
人間七七四年:2011/02/07(月) 20:50:55 ID:/7pdmbOx
抽象的表現ばかりでわかりにくい。システムの成立というのはいったい?
773 :
人間七七四年:2011/02/07(月) 21:25:52 ID:TTesI7JD
武田家と小山田家の関係みたいなもんじゃないの?
力が強大だから臣従はするけどねー。みたいな。
当時の武将が旧領にこだわったりしたわけだから、父祖伝来の地を失ってるし
普通に加増転封だーわーいわーいって話でもなかっただろうし、
箱根以東に置かれて、東海道を直臣で固められた段階で、自分が警戒されてるのは
家康自身わかっただろうし。
警戒されてる以上、主従の信頼なんてものはできないから表面上の臣従だろうしねぇ。
774 :
人間七七四年:2011/02/07(月) 23:10:16 ID:ml9xzlmn
当時の豊家の力なら正直徳川家康なんぞ目じゃない状態だったのに
改易しなかったのはやっぱ秀吉のあまさなんだよなあ
775 :
人間七七四年:2011/02/07(月) 23:15:20 ID:zqhabvYg
秀吉には大領任せられる人材が居なかったからな
776 :
人間七七四年:2011/02/07(月) 23:52:26 ID:Oxy427j/
>>774 家康みたいな大大名の改易は難しいだろ。死に物狂いで抵抗されたらスゲー困る。
777 :
人間七七四年:2011/02/08(火) 00:07:46 ID:89GrgXMc
>>776 戦っても家康に勝ち目はない。
当時の徳川家と豊家にどれだけの力の差があると思ってるんだ?
家康が滅ぼされるだけ
778 :
人間七七四年:2011/02/08(火) 00:10:54 ID:V13AflPi
太閤様より家康様被仰付候者、氏直を打取べき間、貴殿先がけを被成候へ、左候ハゞ、関東八州可被遺との御諚ニ付、家康様御尤と御意被成候
779 :
人間七七四年:2011/02/08(火) 09:15:31 ID:X9e6iG0z
>>777 家康の関東における部下の配置をみると撃退できる気がするけどね
780 :
人間七七四年:2011/02/08(火) 09:42:06 ID:JpzAmOjC
>>777 100%勝てるけど秀吉側の被害も大きいだろ
781 :
人間七七四年:2011/02/08(火) 10:26:06 ID:FqKyhb4B
規模が大きいから勝てるとか100%とか
こないだからゲームの話になってないか。いいけど。
782 :
人間七七四年:2011/02/08(火) 10:53:36 ID:kOZSilbs
臣従してる徳川家を攻めたら
そこらじゅうで謀反起きるんじゃ無いか?
783 :
人間七七四年:2011/02/08(火) 11:11:00 ID:63rHacyl
土地給付の代わりに領土の保障行うのが関係の基礎なのに、それを自ら否定したら短命になる
784 :
人間七七四年:2011/02/08(火) 13:00:29 ID:JpzAmOjC
「次は自分が潰されるんじゃないか」と疑心暗鬼になりそうだな
785 :
人間七七四年:2011/02/08(火) 13:54:31 ID:Em0yHA2M
でもそれが無かったのが、江戸初期の改易乱発。
何でだろう(′・_・`)?
786 :
人間七七四年:2011/02/08(火) 13:56:30 ID:bil5tu6Y
改易しても問題ないとこ選んでやってる
787 :
人間七七四年:2011/02/08(火) 14:04:26 ID:63rHacyl
法律違反は処罰しないと秩序が維持できない
法律違反による改易転封でも説明会は開いて大藩には釈明?してる
本多正純も「やたらに処罰してると信用なくなって滅んじゃうぞ」と書状に書いてた
明確な基準による処罰なら受け入れられるさ
問題は「邪魔だから潰しちゃおう!」的な恣意的な運用
788 :
人間七七四年:2011/02/08(火) 14:52:22 ID:JpzAmOjC
789 :
人間七七四年:2011/02/08(火) 17:07:43 ID:X9e6iG0z
潰しても旗本として家名を存続させるとか
アフターケアを欠かさなかったから
790 :
人間七七四年:2011/02/08(火) 21:11:39 ID:89GrgXMc
>>779 当時の関白殿下に逆らうって事は即朝敵になるってことだからな。
家康配下がはたして家康に従うかどうかだな?
仮に従っても国力の差からいっていずれジリ貧になり滅亡。一族郎党皆殺しがオチだよ。
791 :
人間七七四年:2011/02/08(火) 21:26:46 ID:JpzAmOjC
792 :
人間七七四年:2011/02/08(火) 21:33:55 ID:IwIqV8L2
忠区債
793 :
人間七七四年:2011/02/08(火) 22:04:17 ID:89GrgXMc
>>791 主命に背いたとでもなんでも理由は作れるでしょう。
794 :
人間七七四年:2011/02/08(火) 22:29:32 ID:63rHacyl
>>793 それで秀吉子飼いはいいかもしれないが、それ以外はどうなるだろうな?
795 :
人間七七四年:2011/02/08(火) 22:33:27 ID:89GrgXMc
>>794 あ、いいのがあるぞ
大政所を焼き殺そうとした件もあったな。
796 :
人間七七四年:2011/02/08(火) 22:38:28 ID:YXEJu+Yb
臣従してから秀吉が死ぬまで、家康は
豊臣政権最大の功臣/無類の律義者/秀吉の妹婿/海道一の弓取り
だかんね
こんな人間を難癖付けて殺しちゃうよりも、
部下として仕事してもらうほうが何倍も賢い
ifを言うなら家康が秀吉より先に寿命で死ねば良かったんじゃね
797 :
人間七七四年:2011/02/08(火) 22:41:04 ID:ifOgRO4h
よく分かんないんだけど秀吉は家康を改易しちゃえば良かったのにというのなら
前田とか毛利とか上杉とかも改易しちゃえばよかったのにって話にはならんのかね?
うちらは後の歴史知ってるからそう言えるけど当時の状況で家康ってそんなに
怪しい行動でも取ってたの?内心はどうであれ律儀者で通ってた様な気が。
そんな人を理不尽な理由で改易しようとなんてしたら他の大名から総スカンじゃね?
自分の領地を保障してくれるからこそ従っているわけでそれがいつ身勝手な理由で
奪われるか分からんってなったら誰も従わなくなると思うぞ。豊臣政権って
大大名の寄り合いだからそっぽ向かれたらあっという間にお終いでしょ。
798 :
人間七七四年:2011/02/08(火) 22:44:25 ID:4GFhqC4T
大坂拠点の秀吉にとって先に解体したいのは毛利だろうしなぁ
799 :
人間七七四年:2011/02/08(火) 22:51:33 ID:08mecAxq
人質を交換してた、って知ってるよね。
800 :
人間七七四年:2011/02/08(火) 22:55:29 ID:JpzAmOjC
そんなに簡単に目障りなヤツ始末できれば苦労しなよな
801 :
人間七七四年:2011/02/09(水) 05:14:37 ID:iFlgKpA5
まあそれをやって死んだのが信長だけどなwww
802 :
人間七七四年:2011/02/09(水) 08:54:40 ID:zS56ph4I
秀次さえ殺さなきゃまだ希望はあったのにな
結局自分で首絞めたわけだ
近江八幡で名君って言われてる秀次だしそこそこ良かったろうに
803 :
人間七七四年:2011/02/09(水) 09:17:27 ID:Ef39/SL9
804 :
人間七七四年:2011/02/09(水) 09:27:21 ID:3MAo4LLt
家康は信長だけじゃなく、人のマイナス面を全て反面教師にしてる
大器晩成型の典型だろうな。
出世は一番遅いがなってしまえば一番慕われて
さらに一番出世するという。
ダメおやじもそうだったな・・
805 :
人間七七四年:2011/02/09(水) 19:27:23 ID:SWYX7WT6
若い時分から今川軍の重囲を突破したような武将が晩成?
806 :
人間七七四年:2011/02/09(水) 19:28:27 ID:PPxZACrR
>>795 あれは本多重次独断の脅しじゃね
逆にそこには井伊直政が厚遇したおかげで秀吉から感謝されたという話があるぐらい
なにか外に用事があっても重次じゃなくて直政を通したってぐらい気に入られてた
807 :
人間七七四年:2011/02/09(水) 19:35:03 ID:PPxZACrR
豊臣政権の「対抗勢力」と考えたら日本vs徳川じゃないんだよね
家康が命を賭けて秀吉と対決しようとしたら
心底臣従して無いであろう各地の武将に共闘を呼びかけるはず
まさに家康の徳川陣営vs“秀吉の”豊臣陣営という形で
関が原どころじゃない再度全国戦乱の世になったんではないかと
勝算が0ではない、うまくいったら今より領土を広げられると思えば
家康に共感する大名はいないとは思えない
でも秀吉もバカじゃない、せっかく苦労してまとめた日本なのに
なんでわざわざ徳川を煽って潰さなきゃならんのかと
>>797 律儀は置いといても
妹を嫁に出してるし、秀頼と千姫を婚約させちゃってるし
ある意味身内的な関係にしちゃってるから改易する理由を見つけるのは困難じゃないかね
それどころかそれをすることによって手元に徳川を引き寄せたと思ってる節が秀吉にあるしね
808 :
人間七七四年:2011/02/09(水) 20:00:14 ID:sc7Tj8Fs
北条攻めと同じになるのが関の山。
当時の関白殿下に逆らうってのは朝廷に弓引く逆賊って事だからな。
関白ってのは征夷大将軍と違って、自身が天皇の代理人だからそうなる。
家康に同調した時点で他領の領主から攻められるし、狂っている奴でも
なければ家康側に付くやつなどおらんだろ。
それどころか、家康配下の武将が離反する可能性は高いぞ。
809 :
人間七七四年:2011/02/09(水) 20:21:51 ID:1MEaAPgn
>>808 ほぉ
それだと秀頼が孤立したのはいったいどういうわけで?
またそれまでの関白の存在感のなさはいったいどういうこと?
810 :
人間七七四年:2011/02/09(水) 20:38:08 ID:Ef39/SL9
>>808 北条攻めは北条が服従しないどろこか、秀吉傘下の大名に手を出したのが発端だろ?
すでに臣従してる家康には当てはまらないと思う
811 :
人間七七四年:2011/02/09(水) 21:03:49 ID:D5KGtWh8
>家康が命を賭けて秀吉と対決しようとしたら
>心底臣従して無いであろう各地の武将に共闘を呼びかけるはず
>まさに家康の徳川陣営vs“秀吉の”豊臣陣営という形で
>関が原どころじゃない再度全国戦乱の世になったんではないかと
まさしく小田原征伐の後北条氏がそういうこと考えてたんじゃないかな
東北に惣無事令ガン無視の伊達政宗、
中部に秀吉に臣従して間もない後北条の縁戚徳川家康、
尾張伊勢に嘗ての部下である秀吉に屈服して心中穏やかならぬ織田信雄、
西国には毛利島津長曽我部といった戦国の群雄たち
そいつらが揃って秀吉の元に馳せ参じて戦国最後の稼ぎ場とばかりに
後北条をボコボコにしたのが現実なわけ
事実『改正三河後風土記』といった資料には小田原攻囲中の諸侯に
積極的に後北条が調略を仕掛けてたという記事が見える
ま、誰も相手にしなかったみたいだけど
812 :
人間七七四年:2011/02/09(水) 22:16:14 ID:PPxZACrR
んー北条と徳川では家格が違ってるということはないかね
「家の格」というより「家の実力」か
あの時代でもまだ関東は田舎扱いだったというし
それと北条はともに戦ってくれそうなほどの信頼関係は他にあったのかな
もちろんそれなりの力のある大名家と
ただ話はまたこの話に戻るが
秀吉は小牧・長久手の局地敗戦ででも家康の力をかなり認めたというのは事実
だからこそ露骨な懐柔に出たわけだし、
家康も力を示せたことを納得したから一応建前では臣下となったようだし
秀吉の政権の下では何があっても豊臣vs徳川は無かっただろうね
他家もこういうのは敏感に感じ取ったのは間違いなく
だからこそ親徳川派もでてきたということで
813 :
人間七七四年:2011/02/09(水) 22:29:44 ID:5eLUTgr0
てか安心しきってたから、朝鮮行ったのでは?
>なにか外に用事があっても重次じゃなくて直政を通したってぐらい気に入られてた
相手は殺されるかも知れない相手w
それくらい、気に入って無くてもする。
814 :
人間七七四年:2011/02/09(水) 22:56:23 ID:Ef39/SL9
どうしても家康を潰したいくらい警戒してたら、朝鮮なんか行かないよな
815 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 00:16:01 ID:OOJPbOQe
>>808 そもそも当時関白ってのは箔であって実際の権力なんかないよ。あるのならそもそも
戦国の世を秀吉より前の関白の人達が収めてたでしょ。軍事力を背景にした権力を
持っている人(秀吉)がそれに見合った立場に着いたってだけ。
本当に関白って役職が大事なら秀次処刑後に再度関白に戻ってたんじゃないのかな。
そんなんだからもしも他の大名からそっぽ向かれたら関白の命令だからって誰も従わないよ。
816 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 01:27:07 ID:AKVhbrPh
>>812 >それと北条はともに戦ってくれそうなほどの信頼関係は他にあったのかな
>もちろんそれなりの力のある大名家と
伊達政宗とは同盟関係、徳川家康とは督姫を通じて縁戚でしたよ
後北条も秀吉との戦の際には両雄の助力は当然期待してたでしょう
結果はご存知のとおりですが
というか、関東に移ったばかりの家康が天下人秀吉相手に
歯向った、もしくは難癖つけられて潰されそうになった場合に
不利を承知で家康を助けてくれそうな「親徳川派」が一人でも居るでしょうか?
残念ながら自分には一人も思いつきません
所謂豊臣恩顧と呼ばれる秀吉と近い関係の武将たちはもちろん秀吉に付くでしょうし、
上杉伊達蒲生佐竹前田毛利長曽我部大友島津といった有力外様大名も、
皆勝ち組に付いて戦後少しでも恩賞に与ろうとするんじゃないでしょうかね
小田原征伐や大坂の陣で彼らがそうしたようにね
家康が一代の英雄で徳川家臣団が傑物揃いでも、
転封されたばかりの土地で実力を発揮できるわけでもなし
条件は小田原征伐よりも悪いと思いますよ
817 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 01:35:54 ID:E92grzAF
秀吉には小牧・長久手後、北関東諸将からも北条に対する援軍要請があったが、
喫緊の課題は島津の侵攻に対する大友の援軍要請に応える事。
その為に急いで東からの脅威を取り除かなければならなかった訳で、
力を認めたとかそんな曖昧な話じゃない。
当の家康は上落後も北条に対して「今後どうするか熟慮して欲しい」と言うに留まり、
この段階ではまだ同盟を破棄していない。
ところが秀吉が九州を平定し本格的な北条との交渉に入ると一転して
「豊臣家に従えないのなら娘を返せ」と北条に対し強硬な姿勢に出る。
少なくとも家康本人は包囲網を敷けた小牧・長久手時なら兎も角、
西方を平定した秀吉にはもう北条と同盟を組んでもとても戦えないと判断した訳だ。
それが全国を平定した後に対抗するだなんて馬鹿馬鹿しいにも程がある。
家康がそんな馬鹿だったら、とても天下なんぞ取れなかっただろうな。
って書いたら随分
>>816と被っちゃってんね。失礼。
818 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 01:38:22 ID:AKVhbrPh
>>815 心底同意
いくら位ばかり高くても、実力の裏付けのない
お公家様の言う事を聞く武士なんて滅多に居ない
秀吉のように他を圧する軍事力と
関白太政大臣豊臣氏長者の金看板を持った
秀吉だから諸大名がどんな無茶な命令でも従ったということ
名実ともに日本最高の実力者であった秀吉だから、
秀次事件や千利休粛清、唐入りみたいな無茶も出来たわけで、
大義名分がなくても徳川討伐くらい必要だと思ったらやってしまう人
諸大名も顔色伺いながらおべっか使うのが精一杯じゃないかな
秀吉生前の諸大名が実際にそうだったからね
家康を筆頭にして
819 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 02:27:58 ID:C0akbsjW
>>816 徳川が自発的に豊臣に半期を翻したなら、おそらく
>>817と合わせてその言うとおりの流れになるとは思う
だけど、豊臣が積極的に徳川を滅ぼしにきた場合、どうかな?
決して厚遇とはいえない関東への移動に従ったのに、それで滅ぼされる
上にも書いたが、それじゃ家臣と君主の信頼関係なんか存在しない
そこに不安感を抱いた大名が親徳川ではなく、反豊臣として結束というのはあながち飛躍した話ではないと思うがどう?
つまり、はむかった場合には徳川が結束する望みは薄いが、豊臣が仕掛けた場合は結束する可能性もあるんじゃないのかと
820 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 02:49:25 ID:wMjFG/Js
>>814 むしろ後方の守りを家康に頼んでたんじゃなかったかな
821 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 02:59:50 ID:wMjFG/Js
ぶっちゃけ徳川・豊臣の終戦は
どっちもものすごい打算が働いて
豊臣は徳川を厚遇する、徳川も豊臣の傘下に入る
というのがお互いにとって最大の利益と双方結論付けたんだろう
あのまま続けて睨み合いだって可能性は無いことは無かったはずだから
家康にしても本人としてみれば秀吉より長生きするか、
何年長く生きるかなんて分からないわけだから
天下は考えつつも、家を存続させる手も考えたと
822 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 08:13:00 ID:E92grzAF
>>819 関東への移封に関しては散々語られてるが、あれだけ大幅な加増で厚遇じゃない筈が無い。
そもそも東照宮御実紀に家康が滅ぼした豊臣家に厚遇されただなんて書かれる筈も無い。
北条攻めで先鋒を務めれば関東を任せると言われ、家康がそれを是非やらせて欲しいと
言って実現したのが旧北条領への移封であったのは乙骨太郎左衛門覚書の通り。
仮に理不尽に取り潰されたにせよ、一体誰が味方するというのか?
家康に味方するという事は当然それなりの勝算が無ければいけない。
絶対に秀吉の耳に入らないように申し合わせ、全国の半数以上の大名が一斉に
蜂起するっていうなら話は別だが、そんな事は不可能だ。
ましてや取り潰しが決まってから根回しするだなんて尚更無理。
823 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 08:24:59 ID:TPZAY29e
結局秀吉亡き後、豊臣政権が自壊して行く中
それを何とかまとめることが出来るのが家康しかなかったんだよね。
824 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 08:35:19 ID:OOJPbOQe
>>818 いや、秀吉が日本最高の実力者であったのは間違いないが何の落ち度もなく領地没収
っていう命令を皆が従うかというと無理があるんじゃないのかな。
例えば何も落ち度のないあなたの持っている資産を政府が没収すると言い出した。
で、その政府に我々が協力するかってこと。自分も同じことされたら困るから
協力しないんじゃないのかな。
秀次や利休の件はぶっちゃけ身内事だよね。連座で迷惑被った人はいるけど。
唐入りに関してはなあ、結果から言うと無茶だったけど本人はやる気満々だった
みたいだしなあ。大名達も勝てなくて領地を貰えなかったから不満たらたらな
わけで勝って新たに領地貰ってたら文句でなかったと思うよ。
そもそもの秀吉の戦略として外様の大名を厚遇してその恩を持って従わせるってのが
あったんじゃないかな。それが大ヒットして天下を取ることになったわけで。
だから外様で一番成功した例である家康を理由もなく改易しちゃったら戦略破綻っしょ。
家康達が増徴してて見せしめで改易ってのなら分かるけど。
で、唐入りで失敗した上に秀吉が死んで新恩給与ができなくなった豊臣家だからこそ
あっという間に崩壊したんだと思う。従うメリットなくなっちゃったからね。
825 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 08:35:50 ID:+67DRez5
826 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 08:41:34 ID:OOJPbOQe
>>822 家康の改易までは確かに成功すると思うよ。でもその後まともに政権運営できるのか
ってなると疑問に思っちゃう。大名達協力的じゃなくなっちゃうでしょ。
それって本末転倒な感がある。危険分子が家康だけで後の人は絶対安心ってのなら
アリなんだけどねえ。
実際には家康は危険分子と思われてさえいなかったよーな気もするけど。
827 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 10:02:16 ID:t0vORjhP
まあ普通に考えてそれだよね。
828 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 10:20:19 ID:t0vORjhP
俗に言う、「短期的には勝てるけど
中長期では大敗だから仕掛けられない」ってのと同じだなw
829 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 10:32:45 ID:Kk1Zbowv
三方ヶ原の敗戦の経験がなければ、
小牧長久手の戦いで秀吉の計略にはまって大敗していたといわれている
830 :
仙台藩百姓:2011/02/10(木) 11:50:26 ID:N7oXkk43
後北条の外交力は絶無と言っていいお( ^ω^)
100年に亙る内訌でボロボロになった関東で小勢力をチマチマ虐めて大きくなっただけの家だから
高度な駆け引きをするような能力を持ち合わせていなかったお( ^ω^)
其の実、中央政権(織田羽柴)に最も軽侮されていた家であるお( ^ω^)
徳川の政治センスの無さも絶望的だお( ^ω^)
外交的盲者の後北条、粗忽者の信雄と組んで秀吉に喧嘩売るとは一体どういう事だお( ^ω^)
秀吉が織田家中を一通りまとめて一応形を整えた時期に
信望を得られず政治的敗者となった信雄の口車に乗せられて色気を出す芋臭さといったら( ^ω^)…
831 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 12:03:20 ID:C0akbsjW
>>822 関東移動については、当時の書状で御進退散々と評されてるから、厚遇ではない、むしろ冷遇といえる
ではそういう理不尽な取り扱い、圧倒的不利な状況下でこの処遇に処されるものに味方するものがいるのか
福島が武家諸法度に触れて改易にされた時がこのケースに似てる
細川忠利書状に次のようにある
福島を改易すれば、諸大名のうち十人ばかりが徒党し離反するという本多正純の注進があった
これにより、将軍はいったんは改易を思いとどまるも以下略
幕府法違反という公正な処罰でもこの有様
福島側に勝算なぞあるわけも無く、将軍の耳にも入り、十人程度の徒党離反で改易を見合わせたわけだ
結果的に言えば改易は実行され、徒党離反は無かったが、難癖でなくても、取り潰そうと思ったらこれらが予見されたわけだ
以上から徳川を改易しようと思うと、相当な波乱があると思う
大身であること、冷遇されていること、それらを甘んじて受け入れていること、かつて豊臣と対等にやりあったこと
心情的にも実力的にも問題ないことから、福島以上の造反があるんじゃね
832 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 13:42:46 ID:t0vORjhP
「三法師を操って牛耳るな!」(-_-メ)
とか言えなかったのだろうか?
833 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 14:54:17 ID:XpCp/mjZ
関白自体に権力あったみたいなのが最近多いがこれは明らかに
秀吉の例を過去に拡大解釈してるよね。
もちろんなってからは秀吉に逆らうのは朝敵みたいな意味合いもあるから
関白自体のパワーではあるんだろうけど
関白を統治職というのかな、将軍とかそういう管理統治手段の一つみたいに
考えてるようなのをよく見かけるからこのあたりは少し整理が必要だろな。
834 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 15:01:28 ID:XpCp/mjZ
秀吉がナンクセつけて徳川に手を出したら徳川だって命がけで反抗
するだろうしその場合、明日はわが身、と協力する関東四国九州勢はいるかもしれない。
そうはならないように秀吉は手を出さないし、逆に加増で恩を売って?うまく
他の大名までも押さえようとしてる。
徳川ですら反抗できない臣従したということはその他大名への圧力としては
最高のものだろうし。
秀吉の加増とか徳川への協力アドバイスは徳川自体へのものと
いうよりはやはり安定した統一状態、豊臣の権力維持、そういったものを
背景にしてなされたものだろうし、単に「恩が成立するか」というのはまた
表面的ー一面的な問題提起だなとは思ってた。
835 :
仙台藩百姓:2011/02/10(木) 15:30:15 ID:N7oXkk43
徳川の関東移封が冷遇なら
加藤、福島、黒田、蜂須賀、毛利、森、小早川、大谷、蒲生、木村、掘…その他大勢
も冷遇という事になるおね( ^ω^)
関ヶ原後の
福島、細川、結城、浅野、加藤嘉明、池田、山内、堀尾、井伊、田中、本多忠勝、松平忠吉、森、鳥居…その他大勢
も酷い冷遇されたおね┐ (´ω`) ┌
836 :
仙台藩百姓:2011/02/10(木) 15:43:30 ID:N7oXkk43
>>834 長宗我部、島津は秀吉に逆らった上に散々撃ち破られて本国にまで迫られたけど秀吉は潰さなかったし
伊達なども既に後北条は瀕死で残す大きな反抗勢力は伊達ぐらいのものであり
秀吉が潰そうと思えば潰せたのに大封を安堵したお( ^ω^)
毛利や上杉にしても十分脅威になる国力を有していたのに警戒どころか逆に優遇┐ (´ω`) ┌
秀吉は初めからそういう方針なのだお
徳川だけが特別扱いされた訳ではないお( ^ω^)
837 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 15:50:06 ID:+rnKOcM1
秀吉は大陸出兵に夢中になってたからね
家康は半島制圧後の明侵攻用の手駒でしかない。
838 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 15:52:33 ID:xGFIk/v5
秀吉は相手が嬉しくない優遇が得意だよね
839 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 16:14:49 ID:XpCp/mjZ
>>836 もちろんそうだよ。
最後までつぶすと、窮鼠猫をかむ、じゃないがウラミツラミを買うからね。
逆らったのに秀吉は最後は温情までかけてくれた、みたいに扱う
このあたりがさすがというか上手なところとは思ってる。
だもんで、「恩は恩」みたいな考え方は一面的でもっと踏み込むほうがいい
と思ってるだけでね。
ただ徳川だけはやっぱり特別扱いと言うかそういう一面はあるだろうし
各大名側がどう思ってかはまた別の話。
838の言い方が妙を得ているが秀吉死後にその支配システムが
どうなるかはこれも面白い問題で、全大名心から臣従してたら豊臣政権が
それなりに続いたろうがやっぱり「豊臣を守ろう」とするのは旧恩顧系の一部の
大名だけだった。
結果論なんだけどこのあたりはしっかり認識しておかないと「ふみこんだ場合」の
判断が表面的になるだろうな。
840 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 17:52:26 ID:f6qsK2wI
>逆らったのに秀吉は最後は温情までかけてくれた、みたいに扱う
大大名はいつでもそんなモンじゃん。
841 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 19:24:04 ID:wMjFG/Js
>>831 転封は明らかに冷遇、そのついでに遠ざけたわけだし
でも立場としては逆に近くに置いて他者より上にしたのは秀吉としての策だったんじゃないかね
一方家康もその遠ざけは承知してたけど、表向きの石高は増えたし、
現実に関東平野は使えると睨んでそれを実行したのもすごいと思う
なんかで読んだと思うが、飛び地ばっかりの豊臣領より
関東をまとめて抑えてる徳川領の方が実質上って話があったような?
>>838 なにそのブサイク巨乳がテレビに出たときみたいな('A`)
842 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 19:41:22 ID:XpCp/mjZ
こないだから100万石加増は大恩だし家康も感謝して忠臣を務めた
という両者友好論がいっぱいでてきてなんとなくアカデミックには
それが主流みたいなふいんきだったが
歴史学部とかにいるのはいない?
どうなの?
843 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 19:55:00 ID:cb+up/KT
秀吉は全国政権の主導権を買った
家康への支払い分は百万石だった
844 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 20:11:09 ID:kYnY8Qz6
>>835 いあ、それは違うでしょ。
甲信は別としても、駿遠三を取り上げるのと、
尾張出身者に遠隔地で加増するのは訳が違う。
徳川を厚遇冷遇って話は置いといて、本領を転封されるのと
次々得た領土が地方に行きながらも加増されるのは同列に語るべきじゃないでしょ。
845 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 20:22:19 ID:UtByCBdS
>>841 家康個人の領地は100万石程度だよ。秀吉は220万石
家臣を含んだ徳川家全体なら250万石程度だろうが、その理屈なら
豊家がどれぐらいの所領があるかぐらいわかるよね?
846 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 20:46:30 ID:C0akbsjW
>>835 皮肉のつもり?
移動&加増という側面しか見てない見解に思えるけど
847 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 20:46:53 ID:+rnKOcM1
強制転封に屈する家康と言うのを見せつけて秀吉の権勢を周囲に見せつけ
長期的には徳川家臣団から旧来の土地を切り離し官僚化を促し、家康の絶対君主権を成立させた。
これにより朝鮮出兵に動員かける体制を作らせていた。
848 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 20:48:37 ID:xGFIk/v5
へたこけば在地の人に反乱起こされる可能性もあったわけだから
849 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 21:07:39 ID:AKVhbrPh
>>819 >>824 「何の落ち度もなく領地没収」されたならそりゃ諸大名は困惑し、
「家臣と君主の信頼関係なんか存在しな」くなるだろうね
けど当時の秀吉はその気になればいくらでも
それらしい罪状をでっち上げることが出来る立場だったんだよ
現に関白左大臣豊臣氏長者で秀吉の養子、尾張伊勢100万石の太守である
秀次ですら真偽定かならぬ謀反や乱行の風説で一族誅殺の憂き目に遭ってる
最上や伊達、細川といった秀次と近しかった大名や菊亭晴季のような公家の大物も
巻き添えを食う一大政変だったが、それでも秀次を担ぎ上げて
秀吉と戦おうなんて人間は只の一人も現れなかった
家康なんて息子の秀忠相手に、
「太閤殿下が関白に討たれたら北政所を守って戦え」
なんて忠臣の鏡のような手紙を秀次事件の只中で出している
秀次事件は豊臣政権に深い亀裂を残したが、兎も角も秀吉が生きている間は
秀吉を畏れて逆らうことはなかった
そんな諸大名が家康処分で決起する可能性なんて極めて低いと言わざるを得ない
あと福島改易で諸大名が徒党を組んで騒ぎ立てた、
つうのはむしろ君の主張にとって不利な事例じゃないかな?
実際に改易が決まったとき何が起こったというと、
福島家臣が広島城明け渡しで若干粘ったくらいで、
殆ど問題なく改易に成功している
処分が決まる前に色々騒ぎ立てても、いざその時になれば中央には逆らえないもの
豊臣政権から幕末まで数知れない大名が処分を受けているが、
処分される当事者以外の第三者を巻き込んで戦闘が起きた事例なんて関ヶ原くらい、
それも豊臣政権への反乱じゃなくて政権内での権力闘争に過ぎない
何故家康だけが例外だと言えるのかが分からない
850 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 21:11:32 ID:AKVhbrPh
あと
>>822の
>関東移動については、当時の書状で御進退散々と評されてる
このソースについて詳しく教えてください
つうか徳川家臣の手紙でしょ?
それが何の根拠になるのか具体的に指摘お願い申し上げます
851 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 21:26:07 ID:wMjFG/Js
>>845 豊臣は400ぐらいとなんかで見たけど豊臣は興味ないんで正しくは・・・
852 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 21:29:52 ID:AKVhbrPh
400万石はおそらく安定期以降の江戸幕府の天領じゃないかな
太閤蔵入地220万石に秀長秀次の100万石×2
足したら確かにそのくらいではあるけど
秀秋や秀家のような一門足したらそれも超えちゃうし
853 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 21:55:26 ID:mEuCFAek
>>849 それらしい罪状をでっち上げて家康を潰したら、秀吉の死後は史実以上の大混乱になりそうw
また戦国時代になったかも
854 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 23:17:37 ID:+qQvyA6M
>>831 不勉強で申し訳ないが、その書状の内容を知らないので、
誰から誰へ宛てた書状であるのかを教えてもらえないかな?
855 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 23:29:52 ID:OOJPbOQe
>>849 >>826でも書いたけど家康の改易自体は可能だと思うよ。ただその理由がでっち上げじゃあ
他の大名が戦々恐々としちゃって政権に非協力的になっちゃうよってこと。
そもそも何で当時政権運営に参加していなかった家康を粛清しないといけないの?
家康が政権に入ってきたのって秀次事件の結果豊臣家の力だけじゃ豊臣政権を
維持できなくなったからだよね。事件前だったらそもそも石高は高いけどただの
田舎大名であって事件後だったら粛清しちゃったら政権自体ががたがたっしょ。
つーか豊臣政権が崩壊した原因って家康じゃなくて豊臣家の藩屏の薄さが原因なんじゃ?
家中で政権を運営できていない時点で家康がいなくたって他の大名に乗っ取られるだけでしょ。
856 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 23:47:24 ID:mEuCFAek
江戸幕府が福島を潰した時とは、政権の安定度がだいぶ違うんじゃない?
857 :
人間七七四年:2011/02/10(木) 23:58:49 ID:AKVhbrPh
>>855 本当にその通り
>>796でも書いたけど、当時の秀吉には
家康を恣意的に改易することで直接得られる利益は殆ど無い
秀吉存命中は表面上彼に仕え続けた諸侯も、
晩年の秀吉が強行した秀次事件や唐入りで政権への信頼を
失いつつあったというのは後世の史家が揃って指摘するところ
ただ「天下人秀吉に家康が改易できたかどうか」というだけの話ですから
「短期的に見た場合メリットよりもデメリットのほうが大きいが、その気になれば可能だった」
というのが自分の結論です
858 :
人間七七四年:2011/02/11(金) 01:03:41 ID:xA8SEhuD
てゆーかそもそも徳川家取り潰しっていう流れは
「もしも」ネタじゃないの?
結論としては「もしも」もありえない当時の状況だったということで
859 :
人間七七四年:2011/02/11(金) 01:16:31 ID:9UvfeKBP
朝鮮出兵の秀吉の目が向いてたから家康も島津も長宗我部も伊達も許した。
逆に混乱を起こして朝鮮出兵計画を狂わせるような肥後一揆を引き起こした佐々は秀吉の逆鱗に触れ自刃。
(もともと佐々には朝鮮出兵での活躍にかなり期待して肥後一国を与えていた)
家康は政宗ら東国大名は明侵攻用に温存してるうちに秀吉が死んだだけ。
860 :
人間七七四年:2011/02/11(金) 01:59:54 ID:DtPhz2Jk
>>857 まあ、可能性だけならなんとでも言えるわな。
その気になれば、石田や加藤に命じて聚楽第で手打ちにするも斬首するのも可能だからな。
>>859 秀吉が朝鮮出兵に安心して目を向けていられるのも、自分の妹婿にして強大な軍事力を保持して
東国諸侯に睨みを利かせる家康の存在があったればこそ。
家康を潰したら朝鮮出兵そのものが頓挫しかねない。
861 :
人間七七四年:2011/02/11(金) 02:26:50 ID:9UvfeKBP
もともと上杉を関東に置く話もあったようだから
家康を成敗した場合は代わりに上杉を関東に置けば良いだけ。
そもそも三成は家康の勢力縮小を秀吉に勧めてたと言われてるし。
862 :
人間七七四年:2011/02/11(金) 02:53:38 ID:5PeYjbPE
でその後巨大勢力になった上杉はどうするの?
863 :
人間七七四年:2011/02/11(金) 03:12:57 ID:CsQrvXgk
三成と景勝が対峙し伊達征伐の噂が流れ景勝が居ないときに三成挙兵
関ヶ原にて三成捕縛
景勝征夷大将軍に就任15年後イチャモンをつけ豊臣氏を滅ぼす
ここに上杉氏による全国統一がなされたのだった(笑)
864 :
人間七七四年:2011/02/11(金) 05:53:16 ID:9UvfeKBP
観音寺騒動で家臣団から領主権を制限された六角義治や
家臣団の合議制による運営を目指して斉藤義龍を担いでクーデター
武田信虎排除する為の傀儡として家臣団が擁立した晴信
葦名盛氏晩年から執権や葦名四天が力を持ち伊達派と佐竹派に分裂する家臣団
独裁権力を確立しても晩年や嫡男には家臣団によって当主権力は崩壊していく。
しかし秀吉は真逆で政権に取り込んだ家康ら有力家臣を配置することで百姓に至るまで全国支配を可能にした。
まあ室町幕府で言えば陸奥探題や関東管領や九州探題を配置したような感覚。
名を取った家康は有力大名を政権に取り込まないことで、
全国の実質的支配をせずに地方分権と言う守護ならぬ幕府不入の特権がある委任統治の藩体制を作っての間接統治型。
逆に実を取り全国から富を集中させ中央集権化を目指した秀吉は富国強兵型で外国軍との戦いを考慮したに過ぎない。
ある程度の版図と国力がある軍を主力として烏合の隊を統率させて明軍と戦わせるつもりだった。
865 :
人間七七四年:2011/02/11(金) 06:30:47 ID:4ywuncvu
まああれだ、庶民が良い家住む様なもので
初めは大丈夫だけど、月々の支払いが過酷で割に合わないから
諦めるような感じ。
これを実行したバカが破産して行くw
866 :
人間七七四年:2011/02/11(金) 07:09:34 ID:7zqsTfz2
ほう
867 :
人間七七四年:2011/02/11(金) 08:45:42 ID:CrIy7rwt
>>864 すまん、私の読解力がないせいなのかもしれないけど独裁政権を〜の部分って
もろ豊臣家も該当するよね?その後の文章も良く分かんないんだけど全国から
富を集中させ中央集権化を目指したってなんぞ?所謂五大老制度によって外様大名を
政権運営に参加させる時点で中央集権になってないと思う。富を集中させってのも
鉱山のことをいってるのなら徳川幕府も直轄地にしてるよ。
室町幕府で言えば奥州探題や〜も余計地方分権になってると思うんだけど。
探題を置いて地方のことはそこに任せてるんだから。それに江戸幕府の各藩に
幕府不入の特権なんて特になかったよ?何かあったら介入してくるわけだし。
領内における徴税権、司法権とかなら豊臣政権下でも持ってたわけで。
結局のところ豊臣政権は大大名が多い分徳川政権よりさらに間接統治型になってた
と思うよ。
ついでに
>>861だけどそれって上杉が徳川に取って代わっただけで何の解決にも
なってなくないかね。
868 :
人間七七四年:2011/02/11(金) 10:41:31 ID:L5tqj2/q
横だが「秀吉が家康を改易できたかどうか」と
「どうして秀吉は家康を改易しなかったか」は違う論点で
前者についてはある程度の結論が出て
後者に関して秀吉の政権論からの分析をしてるってとこでいいのかな。
秀吉政権ってのがいつからかによるけど
超短期でしかも次々に事件?が起きて決して安定してないとも思う。
なので「いつの時点」という視点も入れないと少し混乱するような気がする。
というわけで秀吉政権と便宜上呼んでるがそれはいつからか。
関白就任、無事令、北条制圧・・
そしてその最盛期というのはいつあたりか、これについて
教えてもらえないかね。
話がズレたら悪いが戦国の終わりに1590を挙げるのをよく聞くけど
そこがそんなに区分となるものなのか。
そもそも秀吉政権?というのはそんなに確固とした存在とみなしていいのか。
というのも関心があって、ここを軽くでいいから整理しておくと
家康の話もより明確になるようにも思ってね。
869 :
人間七七四年:2011/02/11(金) 10:58:18 ID:dJNHD3ZX
北条の滅亡が秀吉政権のスタートじゃないの?
それから1年くらいが最盛期?
870 :
人間七七四年:2011/02/11(金) 11:01:11 ID:L5tqj2/q
なるほどね、統一という観点だとそうなるのかな。
ほんで1年とはまた厳しいな。
次の方、どうぞ。
871 :
人間七七四年:2011/02/11(金) 11:21:51 ID:hwKnp6Q/
またお前か。
お前はもうちょっとまともな議論が出来るようになってから書き込めよ。
872 :
人間七七四年:2011/02/11(金) 11:40:18 ID:zNz6UsZs
>>868 山崎の戦いで明智光秀を討った直後(1582年)に秀吉は
織田政権では手付かずだった山城の検地を行ってます
これは後に日本全国で施行された太閤検地の嚆矢であるとされ、
この時点で既に秀吉が自身を中心とする統一政権樹立を志向していたが分かります
後の重要な年号としては、柴田勝家を滅ぼし信長の後継者としての地位を確立した1583年、
関白に就任し惣無事令を発布した1585年、聚楽第で諸大名に自身への忠誠を誓わせた1588年、
小田原征伐と奥州仕置で統一事業が完遂された1590年というものが挙げられます
豊臣政権のスタートを何処に置くかはお好みでどうぞ
普通は1590年、もしくは1585年というのが多いかな?
最盛期といえばやはり1590年前後じゃないでしょうか
自分はむしろ「統一政権としての」徳川幕府成立時期の方が興味ありますね
秀吉死後から家康の実力は諸侯の間で群を抜いており、
いみじくも多聞院英俊がその日記で「天下殿」と表現するほどでしたが、
反面関ヶ原の後も豊臣政権が家康の江戸幕府とは異なる独自の権力を保有し続けていたことは、
笠谷和比古氏が「二重公儀制」という言葉を用いて指摘しているとおり周知のものです
そう考えると家康が名実ともに統一日本の支配者だった時期って大坂夏の陣終結から
薨去までの一年足らず(それも将軍職を秀忠に譲って二元統治を敷きながら)だったわけですね
幸い秀忠と彼を補佐する幕閣が優秀でしたから江戸幕府は長期政権となりますが、
家康の頃のそれは秀吉時代の豊臣政権以上に危ういものだったんじゃないでしょうか
何せ日本の政治経済文化の中心地である畿内に、
朝廷を抱き込んだ主家の豊臣家がずっと居座ってたわけですから
873 :
人間七七四年:2011/02/11(金) 12:05:47 ID:L5tqj2/q
>>872 前半部分はどうも。
安土桃山と一般で言われるように秀吉政権を過渡期のように
扱うのも見かけるので普通はどうなんだろうって。
後半部分ですけど江戸幕府の長期政権の理由のひとつに
家康が将軍就任後に発令した諸法度や造り上げた組織ー職制
というのもあるとは思うのですがこれを修正ー安定ー存続させた
その後の幕閣が優秀なのは当然としてその基礎を作り上げた
家康にも重点を当てるというのはどうでしょう。
1603〜1615の安定度についてですがこれは言われるように
危ういとも言えるでしょうし最盛期の秀吉よりは危うくともそれなりに堅固であった
とも考えられます。
こういった意味でも秀吉の最盛期と秀吉権力の意味性を考えておくのも
興味あるところかと思いまして。
もちろん家康の話の前段階ということなんですけどね。
874 :
人間七七四年:2011/02/11(金) 12:24:29 ID:zNz6UsZs
武家諸法度や禁中並公家諸法度のような法令は兎も角として、
家康が「造り上げた組織−職制」というのはどうでしょうかね?
家康の頃の幕府というのは家康の側近である出頭人が
主君(つまり家康のことですが)と合議の上その意を汲んだ政務を行うという、
戦国時代のどこの大名家でも見られた性質のもので、
はっきり言って職制なんて大層なものではないです
江戸幕府の職制が整備させるのは三代将軍家光の頃で、
家康の頃の江戸幕府はこと官僚制度に関して言えば豊臣政権以下だと思いますよ
そもそも家康自身が実務を担当する吏僚に信頼を置いてませんでしたからね
875 :
人間七七四年:2011/02/11(金) 14:58:45 ID:XLucqqNg
そもそも何で家臣の秀吉が、光秀を討っただけなのに
いつの間にやら天下人になってんの?
弔い合戦終わったら、さっさと織田一門に従えよ(-_-メ)
876 :
人間七七四年:2011/02/11(金) 17:35:22 ID:5PeYjbPE
そのへんは前田のせい
877 :
人間七七四年:2011/02/11(金) 19:30:52 ID:dJNHD3ZX
信長の息子が馬鹿ばっかりだったから
878 :
人間七七四年:2011/02/11(金) 20:11:36 ID:kllhaIDW
>>875 織田家は天下統一してなかったから主家横領しても反逆には当たらないらしいよー
879 :
人間七七四年:2011/02/11(金) 20:41:58 ID:CrIy7rwt
鎌倉の執権北条氏を反逆と見るかどうかじゃないかなあその辺は。
秀吉は織田家の当主に三法師を置いてその補佐をするという形を取り、
それに従わない信孝、信雄を倒したって流れだしね。
その後関白の地位を手に入れることによって統治の大義名分をシフトしたって感じかな。
880 :
人間七七四年:2011/02/11(金) 22:25:05 ID:iwkPdEV9
関白殿下というように、殿下称号を得られる事は臣民にとっては
一番の栄誉ともいえるわけだな
881 :
人間七七四年:2011/02/11(金) 23:16:06 ID:iwkPdEV9
家康を成敗するって言っても別に攻め滅ぼす必要はないと思うよ。
対面の場で難癖をつけて秀吉自身が手討ちにするか、家臣に上意討ちさせるか
すればいい。
主のいない徳川家など簡単に潰せると思うが。
882 :
人間七七四年:2011/02/11(金) 23:30:32 ID:5PeYjbPE
むりむり
883 :
人間七七四年:2011/02/11(金) 23:45:34 ID:iwkPdEV9
>>882 関白殿下の御前で不埒な行いがあった為、殿下ご自身が内府を成敗なされた。
徳川家は城地没収で御取り潰しであるが、格別の情を以ち、堪忍料として1万石
近江にて与える。
こうなって主のいない徳川家が全滅の道を選ぶかね、普通。
884 :
人間七七四年:2011/02/12(土) 00:51:13 ID:FMYulBDh
不埒な行い程度のてわけわからん理由付けで成敗されるとなれば
大名連中に取っちゃ明日はわが身だよ
手柄立てて大身になればなるほど難癖危険度は増すわけだし
秀吉死んでくれねぇかなって思う奴が増えるだけ
885 :
人間七七四年:2011/02/12(土) 01:27:46 ID:XCPIbLlP
>>884 たとえば秀吉の目の前で猿の物まねをしたとか、秀吉の出自を馬鹿にした
とか色々理由はでっちあげられるだろ。
886 :
人間七七四年:2011/02/12(土) 02:24:30 ID:FMYulBDh
そんなんじゃ誰も信じんがな
887 :
人間七七四年:2011/02/12(土) 02:33:31 ID:XidiJo3G
死んでくれねぇかな、と思っても秀吉が生きてる間は
どうせ諸侯は黙って従うしかないんだから無問題
死んだ後のことは無茶苦茶だろうけど
家康の生死云々の前に、成人した跡取りが居ないと
安定した政権運営はいずれにせよ難しい
888 :
人間七七四年:2011/02/12(土) 02:51:47 ID:FMYulBDh
増えすぎて多数派になるとどうなるかわからんがな
889 :
人間七七四年:2011/02/12(土) 03:04:46 ID:XidiJo3G
実際に政権末期の失政続きで少なからぬ数の大名が
秀吉の死とその政権の終焉を望んでたと思うよ
秀吉を内心疎ましく感じるのと、連合して武力で秀吉を倒そうとするのとは全く話が別
何度も言うが、天下統一後の秀吉は家康だろうが誰であろうが
言いがかりを付けて処分することが可能だった
ただそうするメリットがないからしなかっただけ
890 :
人間七七四年:2011/02/12(土) 05:13:12 ID:aNGxcgTC
それをやらかしたのが、信長包囲網?
891 :
人間七七四年:2011/02/12(土) 05:15:09 ID:FMYulBDh
みっちゃんの本能寺れっつドンじゃねかに
892 :
人間七七四年:2011/02/12(土) 07:44:42 ID:QQlSmtTo
>>889 メリットなかったら可能でも実行しないわなキチガイじゃない限りw
893 :
人間七七四年:2011/02/12(土) 10:40:47 ID:hq1yHDME
その時点で徳川を潰しにかかる程のキチガイなら、
先に暗殺されてんじゃねーかな。
894 :
人間七七四年:2011/02/12(土) 10:46:49 ID:o2GpmI/Q
まあ当時は法治国家じゃないし最高権力者である秀吉が殺そうと思えば家康だって
殺せたとは思うよ。ただそれに皆が納得するかは別問題。言いがかりでそんなこと
してたら足利義教みたく暗殺されて終わりじゃね?殺されるくらいなら先に殺そう
って考える人絶対いるだろ。
つーか何で秀吉が家康を殺すみたいな話になってるん?
895 :
人間七七四年:2011/02/12(土) 11:52:09 ID:8ROF+4oN
家康が豊臣を滅ぼしたことが気に入らない人が、
それが起こらないためにはどうしたらよいか史実から逆算してるんだろ
896 :
人間七七四年:2011/02/12(土) 12:27:05 ID:HRjck20m
>>874 遅れた。
職制というと限定的だったけど家光の頃に完成した幕府システム
というのも個別でみていくとやはり家康にその原型があって
法度とかも個別で考えるべきじゃなくてトータルで考えた場合に
それなりに家康の作った原型幕府システムを評価したほうがいいのでは
というのを読んだことがあってそれはそれで納得できるものだったからね。
ほんで家康がそういうのをいつから発想していたか
というのは家康の政権簒奪構想がいつぐらいからあったか
というこないだからの話題にちと関係してないかとは思ってた。
秀次事件の後にはどんな凡人でも考えたろうというのが
主流の意見だったが、それだと秀吉の絶頂期というのはごく
短期ということになる。
その場合秀吉の権力システムというのはさてどのくらいの完成度
というか組織として優れていたかという話になっていって
こういうのはまとめて話したほうが面白いかなと。
897 :
人間七七四年:2011/02/12(土) 12:54:19 ID:o2GpmI/Q
>>895 あくまで豊臣家が滅びない様にしたいのなら家康排除とかじゃなくて秀次を
粛清しないできちんと後を継がせて秀頼は出家でもさせるべきだよねえ。
だって秀吉が死んだ後で豊臣政権において豊臣家の意思を代表する人が
いないという時点で豊臣家終わっちゃってるでしょ。既に豊臣家の政権じゃないもん。
そんな状態じゃ家康がいなくたって前田か毛利あたりが代わりに独裁するだけでしょ。
どっちにしろ豊臣家の出る幕はないよ。
898 :
人間七七四年:2011/02/12(土) 13:29:42 ID:o2GpmI/Q
>>896 横レスですけど秀吉の権力システムとしての完成度という話なら未熟だったとしか
言いようがないかと。これは別に秀吉を貶めているわけではなくあまりにも時間が
なかった為で。
そもそも官僚システムというのは長い年月を掛けて構築するものです。
徳川幕府も初期の頃はころころと職制が変わったりしてますしね。
例えるのならベンチャー企業の成長みたいなものかと。
初期の頃は個人の力量に大きく左右され担当も明確に決まってないことが多いです。
所謂五奉行もある程度個々で得意分野はありますけど仕事の内容は被ってることが
多いですよね。で、企業(政権)の規模がある程度固定され必要な仕事が決まってくるにつれ
担当箇所というのが明確になってくるかと。こうして仕事を細分化し特定の人を
それにあてるようになったのが官僚制じゃないかと。
そう考えた時秀吉の天下統一は1590年、しかし1592年には朝鮮出兵が始まってるんですよね。
準備も含めたら1591年早々からです。つまりまだまだ膨張する気満々なわけで
これじゃ職制も定まりようがないかと。
同様に織田政権も未熟だったと言われますよね。これも常に拡張を続けていたわけで
仕方がない事だったのかと。
そう考えると家康から年月が経ち家光の頃に整備されたってのは妥当な話なんじゃないかなあと。
899 :
人間七七四年:2011/02/12(土) 14:18:04 ID:HRjck20m
>>898 自分もそう考える方で秀吉権力とはいうけど
秀吉政権とよべるほどのものだったかって。
あくまで膨張時の過渡期の個人に由来するもので
徳川とかのものとは比較が違うのではないかとも感じる。
ただ874さんのような意見もあって
これは徳川初期の二重権力下での不安定さを思うと
秀吉に一本化されてたほうがより強力であったという意味で
確かに秀吉の方が堅固ともいえる。
ただこれは政権ではなく権力という観点の元に言えるものであって
だから少し比較が違うかなというわけで。
政権とか組織という観点だとやはり家康が最初から安定した
そういうのを目指してたとは思うしこれは素直に武将というよりは
政治家という意味でもやはり高評価すべきとは思うところ。
秀忠ー家光の現状に即した修正というのも素晴らしいのだが
完成した時期にスポットを当てるとどうも家康が過小評価気味になるのが
気になるところでね。
900 :
仙台藩百姓:2011/02/12(土) 17:58:10 ID:aTAMGC77
徳川幕府の骨格は豊臣政権の政策を踏襲したものじゃんお( ^ω^)
検地や度量衡の統一、刀狩りなど今までの支配者が猛反発を受けて幾度となく挫折したものを
全国的に公布して諸人に認識させた事は極めて大きな成果と言えるお( ^ω^)
徳川幕府の9割方は豊臣政権によって構築されたと言っていいお( ^ω^)
秀吉の政治能力の高さは家康など比較にならないお┐ (´ω`) ┌
家康は政治家ではなく官僚タイプだお( ^ω^)
901 :
人間七七四年:2011/02/12(土) 20:43:51 ID:hq1yHDME
豊臣短命政権は、秀吉の政治能力のなさが原因としか思えないんだが。
晩年の個別失政は省略。
902 :
人間七七四年:2011/02/12(土) 23:05:36 ID:XidiJo3G
>>896、899
先日から
「秀吉権力とはいうけど秀吉政権とよべるほどのものだったか」
という内容のレスをしきりに繰り返していらっしゃますが、
何を仰りたいのか具体的にご指摘お願いできますか?
>>898 一般に五奉行と呼称される豊臣政権の奉行衆が
担当分野や職制などが固まっていない柔軟な組織だったというのはその通り
目まぐるしく状況の変化する戦国時代だから、
ガチガチの職制を整備するよりは主君である秀吉の意に沿ってある程度臨機応変に
実務を処理できるトップダウン式の体制を整える方が遥かに合理的だったわけで、
これは織田政権でも初期江戸幕府でも変わらない
ただ秀吉麾下の奉行衆が信長や家康のそれと明確に異なっているのは
端的に言えばその与えられた権限の大きさなんだよね
豊臣政権の特色として日本中に蔵入地を分散させていたというのがあるが、
この蔵入地の統治を任せられていたのが奉行衆に他ならない
彼らはただ蔵入地の管理をするだけでなく、その近隣諸侯を監視し彼らの国政に積極的に介入、
その領国統治の閉鎖性を無くすことに絶大な威力を発揮した
彼ら優秀な豊臣政権の奉行衆のおかげで秀吉は一方では何度も大規模な兵役を起こしながら、
他方では太閤検地や刀狩といった近世封建制度を決定づける
革新的な政策を全国的に実施することが出来た
これは先行者である織田政権はもちろん、その後を継いだ
初期江戸幕府にも見られなかった、豊臣政権のみの特徴
だから後世の研究者によって「豊臣政権は非常に中央集権的」だったと評価されてるわけ
その同時代としてはあまりに先鋭的だった中央集権体制が有力諸侯の反感を買い、
結果的に政権そのものの寿命を短くしたのは皮肉であるとしか言いようがないけどね
笠谷氏なんか「中央集権化を図る奉行衆と、それを阻止する有力諸侯の対立」を
関ヶ原の大きな原因の一つとして述べているくらい(『関ヶ原合戦』より)
このような豊臣政権のシステムを「未熟」の一言で切り捨てるのはちょっと誤解があると思うな
むしろ日本統一戦争と外征の傍ら片手間で作り上げた政権であることを考慮すれば、
信じられないくらい先進的な政権だったと言えると思う
ま、逆に言えばこれだけの組織を作り上げたからこそ
僅か10年足らずで天下を統一することが出来たと言えるかもね
その政策の数々が如何に優れていたかは、百姓閣下の言う通り
後継者である家康がほぼそのまま政治システムを秀吉から導入していたことからも明らかだし
ついでに補足しておくと、上で述べたようにその治世の大部分において
豊臣政権の奉行衆はメンバーもまちまちで
厳密な仕事分けがされていないという流動的な組織だったけど、
秀吉最晩年にははっきりと「五奉行」(正確に言うとの定員制となり、
それぞれの担当分野もある程度定まっていたとされている
ここんとこも信長や家康とはちょっと違うところかな
903 :
仙台藩百姓:2011/02/12(土) 23:18:53 ID:aTAMGC77
豊臣政権が短命に終わった原因は
秀吉が極度に出自が悪く郎党は皆無で血族も極めて少ない事(しかも凡庸揃い)
それに伴い普通の大名が数代に亙って家を構築するところを
秀吉は士分となってから僅かな期間に家から天下まで構築しなければならなかった事
そして晩年まで世継ぎが生まれなかった事などが挙げられるお( ^ω^)
これらは当然ながら人知の及ばぬ不運によるものだお┐ (´ω`) ┌
そもそもが天下を取った事自体が神業と言っていいお( ^ω^)
実際、有史以来秀吉のような天下人は他にいないお( ^ω^)
家康などは比較対象にすらならないのは勿論の事
秀吉に政治能力がないのなら日本に政治能力がある人物は存在しないと言っていいお( ^ω^)
904 :
人間七七四年:2011/02/12(土) 23:59:50 ID:XidiJo3G
ま、出自はともかくとして血族が凡庸揃いというのは信長も家康も同じですかんね
秀吉は秀長という一流の武将が弟にいたというだけで恵まれてたかも知れない
家康なんて一門の数だけはやたら多くともちょっとアレな人ばかりだし、
そのことは直系の子孫つまり歴代将軍がかなりのアレばかりなことからも明らか
それでも秀吉に秀忠レベルの成人した息子が居れば全く話は違ってたと思いますけど
秀忠は親父や息子と比べて影が薄いのが気の毒
905 :
人間七七四年:2011/02/13(日) 00:24:17 ID:zC1FLBew
やだ……ここ家康スレのはずなのに秀吉中心に話がされてる
906 :
人間七七四年:2011/02/13(日) 01:43:34 ID:bmUenL+G
家康の名前に釣られてアンチがうようよと集まってくるからだろう
それに家康厨も積極的に褒めないで秀吉よりましだ、みたいな言い方する
907 :
人間七七四年:2011/02/13(日) 02:40:52 ID:bpq4xmvq
>>902 秀吉の話を続けて恐縮ですが。
豊臣政権のシステムが目まぐるしく状況の変化する戦国時代にあっていたというのは
同意です。優秀な人に大きな権限を与えて活躍してもらった方が効率が良いのは
現代でも一緒ですから。
ただ政権を維持するためのシステムとしては未熟だったという意味でして。
大きな権限を与えると当然発言権も大きくなり主家の力が弱まった時に止められなく
なってしまうんですよね。現に秀吉の死によって政権はまともに運営されなく
なってます。会社だって創始者が死んだらがたがたになる組織がシステムとして
優れているとは言えないと思うのですよ。その状況を善悪は抜きにして再度
纏め上げたのが家康という流れでしょう。勿論これは百姓さんの言うとおり
秀吉のせいではなく不運といって良いと思います。あえて失点を上げるとしたら
やはり秀次粛清によって自らの死後豊臣政権における豊臣家の権力者の不在という
状況を作ってしまったということでしょうか。
官僚システムというのは弊害も多いですが個人の
独裁、暴走を防ぐという意味では優秀だと思うのです。独裁するほどの権限を
持てないですからね。それに個々の職分も少ないので担当者の交代時の混乱も
少なくてすみます。
勿論全体として愚鈍になる、無駄が多くなるのはありますが。
時間を掛けてこれを構築できた徳川幕府だからこそ長期安定政権になったのかと。
幕末期には弊害がもろ出てきてますけどね。
908 :
人間七七四年:2011/02/13(日) 07:27:02 ID:GaP8IJF1
>ただ政権を維持するためのシステムとしては未熟だったという意味でして
>現に秀吉の死によって政権はまともに運営されなくなってます
豊臣政権は秀吉死後もちゃんと機能していますよ
秀吉は唐入りの最中に死亡したわけですが、
その後五大老と五奉行が協力して
朝鮮半島に残された日本軍全軍の撤退という非常に困難な仕事を達成してます
まともに運営されなくなったのは、秀吉に秀頼成人までの政権首班に任命された
家康が秀吉の遺訓を無視し他の大老や奉行衆を排除、
独裁体制を築こうと画策して内戦の結果彼らを排除することに成功したからです
豊臣家が政権を維持できなかったのは単に秀吉死後に
豊臣家を支える成人男性がおらず、
もちろん秀次を粛清したのはご指摘のとおり秀吉自身ですから
責任の一端は彼自身にありますが、それは秀吉の築き上げた政権が
未熟だったということにはなりません
そこのところをきちんとご理解お願い申し上げます
909 :
人間七七四年:2011/02/13(日) 09:02:39 ID:TZ0Dr8ju
>>903 挙げられた理由は個人属性の話であって、政治能力には関係ないでしょ。
それらを抱えて天下統一を果たした神業に比べれば、政権体制維持の
構築なんて易いものだと思うけど。
910 :
人間七七四年:2011/02/13(日) 10:19:12 ID:EYDKNLOI
>>902 もとは、戦国時代はいつ終わりか、という話から出てきたのだけど
秀吉の偉業に対する評価がどうもまちまち。
徳川史観の見直しという観点から秀吉の価値が相対的に上がる
のはわかるのだけどその秀吉の個別の施策というのも
過大評価しないほうがいいというのを最近よく見かける気がして。
だから丁度今だとバランスよく判断できるような気がして専門的に
学んでるような人たちはどのように考えられているのだろうと
思ったのですね。
会社の例えが出てたけど部署の統廃合とか新規出店とか
そういうのは途中入社でも外部監査でもできるけど
その元の会社を作ると言うのはこれは別の評価が必要かなと。
少し話がそれたら悪いけど組織ーシステムというのは一度構築すれば
なかなか崩壊しないというそれ自体のパワーというか魅力と言うか
いろんな要因がある。
908さんが言われるのはシステム運営というよりは
個別の案件の対応の話でこれはまた秀吉政権の成熟度とは
違う話にも思える。
話戻して秀吉政権を「未熟」として切り捨てるのはいけないだろうけど
「先進的」というのをどのように考えるか、とこういった風に言い換えられるかな。
あまりに改革的でその偉業がかえって受け入れられないというのは
皮肉だけどこれもよくありそうな話で。
911 :
人間七七四年:2011/02/13(日) 10:34:08 ID:EYDKNLOI
家康が秀吉のシステムを受け継いでさらに
修正ー適応した中央集権システムを作り上げたのは事実として
その根っこが秀吉にあるから秀吉が先でエライみたいなのも
少し不明なところで
検地とか刀狩とか個別の施策も決して秀吉の発見発明ではなく
各地方で封建的体制の下優秀な人たちがそれぞれ始めたもの
自然発生的な側面もあるだろうと。
とすると秀吉の施策を開始時点からも結果からも過大評価しないほうがいい
とするのも公平で冷静な意見にも思える。
戦国末期に個別で明確になってきた封建的な課題を
秀吉が圧倒的な権力で一気に中央集権化
これが先進的であるが故に逆に家康個人にその
弱点みたいな形をつかれてしまったわけだけど
その後の家康がまたうまいこと修正秀吉システムで
これが時代にマッチして長期政権の下になった。
まとめるとこんな感じなのかな。
どっちがすごいとかどうして秀吉権力が短期で終わってしまったか
はこのあたりを確認しておかないと先に進まないと思ってね。
912 :
人間七七四年:2011/02/13(日) 10:46:27 ID:MXBmhRyF
検地は加地子得分の撤廃による権力構造の一元化、
刀狩や身分法令も支配体系を一元化する物。
その辺を考慮せずに検地は他の大名もしてたとか無知にも程があるだろw
913 :
人間七七四年:2011/02/13(日) 11:01:49 ID:GaP8IJF1
>>910−911
申し訳ございませんが、何を仰りたいのか理解しかねます
「秀吉の政権が未熟であり、家康の政権がより成熟したものであった」
と主張なさりたいなら、是非両者の政策を「具体的に」比較検討した上でお願い致します
申し訳ございませんが、ご老人のレスを拝見する限り当時の状況や施策を無視して
「豊臣政権が短命に終わったのに対し結果的に徳川幕府は長く続いた、
これは後者のほうが優れていたからに違いない」
と思考停止をなさってるだけにしか見えません
研究者ベースで申し上げますと、豊臣政権は短命に終わったとはいえ、
近世封建制度の事実上の完成形だというのは
この時代を専門的に学んでいる人たちにとって定説以前の常識です
これを「未熟」というのは日本の封建制度の成り立ちを考える上での
一大パラダイムシフトですので、是非学会で発表なさることをおすすめします
914 :
人間七七四年:2011/02/13(日) 11:24:55 ID:EYDKNLOI
>>913 そんな主張をするつもりは毛頭もないですよ。
未熟、という言葉を使ったのも自分ではないですし。
ところで中世封建主義と近世〜とはやはり太閤検地あたりを
境に判断されるべきもので秀吉の時点で近世〜と
言ってしまうのは常識中の常識でいいのですかね。
いまだ解決をみない、みたいに書いてあって気になってたけど
よほど古いかアホな本だったかな。
少し利口になってうれしいです。
915 :
人間七七四年:2011/02/13(日) 11:34:15 ID:GaP8IJF1
>秀吉の時点で近世〜と言ってしまうのは常識中の常識でいいのですかね
脇田修先生や佐々木潤之介先生の実証的研究以来常識と言って良いと思います
つい最近書店で山川の日本史用語集を立ち読みしましたが、
そこでも同様の定義がなされていました
ご老人がどんな本を読んでるか存じ上げませんので、
その本が古いかアホかは残念ながら分かりかねます
916 :
人間七七四年:2011/02/13(日) 15:39:14 ID:bpq4xmvq
>>908 政権が未熟と言っているのではなく政権のシステムが未熟と言いたかったのですが。
・・・・・・そもそも未熟という言葉の響きが悪いのかな?なんだろ、定着してない?荒削り?
で、厳しいのかもしれませんけど後継者が幼少だと政権を維持できないシステムというのは
システムとして優れていたかというとどうでしょうか。
徳川政権にも幼少の頃に将軍になった人も数人います。家継に至っては5歳くらいでしたか。
でも政権は維持され続けているのですよね。
また家康による独裁を防げなかったというのもシステムとして見るとどうなのでしょうか。
豊臣政権は強大ではありますが個人の力量、もっと言うのなら秀吉という強大な
傑物によるところが大きい政権構造だと思うのですよ。
私的には個人の力量に大きく左右されるシステムが成熟しているとは思えないのです。
常に天才がいるわけではないですから。
ベンチャー企業が創業者の力によって業種の覇権を握ったが創業者の死によって崩壊した。
これって創業者がすごかったのであってシステムがすごいわけではないですよね?
特別優れた人が統治者じゃなくてもある程度安定した政権運営ができる、これが
優れたシステムなんじゃないでしょうか。
ですが秀吉には後継者を育てる時間すらなかった。故に死後政権が崩壊したことについて
秀吉を責めるのは酷だとは思っています。
あと私は豊臣政権と初期の徳川政権で徳川政権の方がシステムとして優れていたとは
思わなかったりします。違う点としては徳川家の方がより強大な力を持っていたことくらいでしょうか。
これはシステムの差ではないですよね。
家康の存命中に明確に置かれた職といえば京都所司代くらいですけどこれは信長の頃から
あるもので真新しい物ではないです。後のものはもっと時代が経ってからですから
家康の功績とするのは無理があります。
やはり家康の構想がすごかったというわけではなく、家康→秀忠→家光と
官僚システムが成熟するまで先代が後継者が一人立ちできるまで後見できたのが
大きかったのではないでしょうか。
917 :
人間七七四年:2011/02/13(日) 17:47:08 ID:EYDKNLOI
>>915 ふむ。
記憶なんだけど普通は近世という単語を使うのは徳川になってからで
秀吉の頃に近世という単語を使うと少し齟齬が生じて
封建制という概念においてのみでも
では封建制の成立はいつかというところに話が戻ってしまって
これで専門家の間でも意見が別れているという感じだったかな。
古代封建制とかいうと当時の自分の理解を超えているのでよく
わからないのだけどこれが時代が下って近代封建制の誕生が秀吉と
いうように研究家さんレベルでも常識となっているということで
近世という言葉を使いやすくなってお利口になれたような。
ところで916さんに便乗するようでなんだが
902で説明してもらった秀吉の豊臣政権のシステムを
いきなり中央集権的な完成形とするのには異論はないのだけど
そうではないような解釈もたまに見かけるような気がして。
具体的に述べないと話が進まなくていけないのだが
今度見かけたら書名とか著者名ぐらいは覚えておくので
また機会があったら教えてほしいとは思う。
封建制というよりは公武論とか王権論とかそういう文脈だったような
気がするから少し違う話がからんでるかもしれないけどね。
918 :
人間七七四年:2011/02/13(日) 18:49:35 ID://5cD7fR
大河で、織田信包の伊賀上野城に
何で賊が居るのか分からんかったけど
あんなんで殿様の一門ですら無い江を守って死ぬとか
やってられんよな (′・_・`)
919 :
人間七七四年:2011/02/13(日) 19:45:34 ID:zC1FLBew
お願いだからもう秀吉スレでやってくれ
920 :
人間七七四年:2011/02/13(日) 20:47:08 ID:GaP8IJF1
>>916 政権は未熟じゃないけど政権のシステムが未熟?
ごめん、意味が良く分からない
普通その両者はイコールだと思うんだけど
繰り返しになるが豊臣政権の主要な政策は
殆どそのまま次代の徳川幕府に継承されてる
豊臣家自体は秀吉死後早々に政権運営者としての地位を失うが、
これは貴方も認めるとおり後継者が幼少だったというのが第一の原因で、
そのことは政権システムとしての欠陥を示すものではない
貴方は豊臣政権を創業者の死で崩壊したベンチャー企業に喩えたが、
その例え話に便乗させてもらえばカリスマ社長の死後会社は傾いたが、
彼の確立したビジネスモデルが後発企業に
そのまま模倣されているという状態になるんじゃないかな
例えば自動車産業におけるフォードシステムのようにね
後半については組織論に対する考え方が自分と貴方とでは全く違う、としか言いようがない
組織としてどれだけ長い期間存続できたかどうかは
組織を評価するにあたって重要な項目だと思うが、
それだけが全てじゃないと自分は考える
例えば期間で言えば徳川幕府よりも天皇家やローマ教皇庁の方が
遥かに長く存続しているが、後者が前者よりも
システムとして成熟しているとは自分は思わない
中期以降の徳川幕府の安定度は世界史的に見ても稀なもので、
幼児や心身に異常を持った人間が将軍職を務めても存続するくらいだったが、
果たしてその徳川幕府が国内の諸問題に
その都度適切な対策を採って来たかというと極めて疑問
家康の子孫の権利を保護するための組織として見れば
非常に優秀なものだったことに疑いはないけどね
幕府財政を散々締め付けた大奥を幕末まで維持し続けたのなんて実に象徴的
921 :
人間七七四年:2011/02/13(日) 21:44:27 ID:bpq4xmvq
>>920 やっぱ言い方が不味いのですかね。政権の組織構造として未熟なのかと。
秀吉の行った政策は重要なのが多く当然徳川幕府にも継承されていますけど
それは政策であって政権組織とは別の話かと。
例を使わせて頂きますがフォードシステムのミソというのは特殊な技術を持つ者が
いなくてもラインを走らせることができるということですが豊臣政権に置いて
所謂五奉行の面子がいなかったとして同様の運用ができたのでしょうか。
組織論に関しては確かに考え方が違いそうですね。私の場合は大きな混乱(戦乱)を
巻き起こさないだけの安定を持たせられるかと重視しています。故に足利政権とかは
あまり評価していなかったりします。
国内の諸問題にその都度適切な対策を採ったかどうかに関してはそれを言ったら
世界中の如何なる政権も都度都度適切な対策を取れてきたわけじゃないのではという話になるかと。
豊臣政権だって長引く朝鮮出兵のせいで荒廃する農村に対して適切な対策を
取れていたわけではないですしね。
それに徳川幕府の諸問題に関して政権を揺るがすほどの大きな問題に発展したことは
幕末期までないのですから、ある程度適切な対策が取れていたと考えるべきなのではないでしょうか。
あと封建制の時代において跡継ぎを残すというのは最重要課題だと思いますよ。
ついでに天皇家やローマ教皇庁は早々に権威的存在になり統治政権としての力は
失っているのでちょっと違う話かと。
922 :
人間七七四年:2011/02/14(月) 08:12:11 ID:p9awkgl5
>>921 はいはい、豊臣政権が組織構造、機構面で未発達だったと言いたいのね
それならまだ理解できるよ
まあ結局は既に述べた通り組織論の好みの違いになるわけだけど
秀吉のトップダウン式の組織運営はあの時代において
もっとも効率の良いものだったのは間違いないし、
最晩年は自身の死後に備えて五大老五奉行の合議制にシフトしようとしている
信長家康のように譜代の家臣団を持たなかった点を考慮すれば、
秀吉は組織づくりにおいても天才的だったと思いますよ
五奉行の面子が存在しなくても、秀吉なら
他の人材を見つけてそれなりの政権運営をすることでしょう
というか、実際五奉行が存在しない徳川家が
立派に豊臣政権の政策を継承して日本を統治してるわけで
あと中期以降の徳川幕府については、将軍職自体半ば権威的存在でしょう
吉宗や家斉のような親政をした将軍も居ないでもないが、
はっきり言って子孫を残す以上の役割を持った将軍自体稀
こういう政権が好みであるなら、まあ自分とは違うとしか言いようがない
923 :
人間七七四年:2011/02/14(月) 10:27:52 ID:brzUhLJt
お主ら連休の暇潰しで、下郎の相手してたんじゃ無いのか?
924 :
人間七七四年:2011/02/14(月) 11:15:30 ID:aQNMjtFH
トップダウン式の組織を作り上げたのは素晴らしかった
トップとしての意思決定が素晴らしくなかっただけで
925 :
人間七七四年:2011/02/14(月) 13:04:52 ID:d6k0QEiQ
面白い。
秀吉の天才的な組織つくりの価値と
徳川幕府の長期存続を目的とした機構と実態は
別に相反するものではないし組織論の好みで
終わらせてしまうのは惜しい。
徳川スレだしこの後は組織の評価をするに当たって
長期存続の意味とか価値がどのぐらい重要かに
話がシフトするとさらに面白い。
好みでもあるだろうし研究家レベルというのも
どうなっているのだろう。
926 :
人間七七四年:2011/02/14(月) 15:33:58 ID:V9wa9aqS
簡単に言えば、競わせた徳川政権の勝ちって事では?
927 :
人間七七四年:2011/02/14(月) 15:53:24 ID:XeqjdoMR
928 :
人間七七四年:2011/02/14(月) 18:33:20 ID:he1c1jTj
秀吉もトップダウンシステム目指したわけじゃないだろし
家康存命中はトップダウンだったし
929 :
人間七七四年:2011/02/14(月) 18:42:07 ID:bC88tCNG
後継者の差じゃないの?
930 :
人間七七四年:2011/02/15(火) 18:16:30 ID:EwCREvB3
豊臣政権内の内輪揉めは致命的なまでに深刻な傷を負うに至ったが、
徳川政権内の内輪揉めは死亡フラグを回避できた
931 :
人間七七四年:2011/02/16(水) 20:31:43 ID:yVV870Wr
>>849 あんまり秀次事件は興味ないから詳しくないけど、秀次のそれは権力闘争だからでしょ
降って湧いた災難じゃなくて、秀次も権力獲得を目指して行動した結果、破れ、処分と
巻き添えはその仮定で発生した悲しい悲しい事態であって、徳川改易云々とは本質が異なる
家康が権力獲得に望んで太閤に対抗したという仮定なら、多分家康について歯向かう大名も少ないだろうね
福島の時は幕府法度違反だから、今仮定されている豊臣による難癖徳川つぶしとは少し違う
明確な法令違反でも、同時代人は反乱を予期したわけだよ
まして徳川を難癖で潰すとなれば、豊臣により困難な状況が予想されるわけで
いつ徳川潰しを結構するかにも影響受けるだろうけどね
>>850 差出人不明らしいよ浅野家旧記の天正十八年の南部殿宛
932 :
人間七七四年:2011/02/16(水) 21:07:42 ID:8wuvmish
駿府政権は元々、家康死後は解体する予定のブレーン体制
江戸政権が本命でこちらは既に後の幕府の基本形が出来ている
933 :
人間七七四年:2011/02/16(水) 22:08:25 ID:dQX1N76T
出頭人と側近による・・・、同じ?
934 :
人間七七四年:2011/02/16(水) 22:26:31 ID:8wuvmish
駿府政権の侍層は多くが途中で附家老となっている
後、徳川政権と豊臣政権の優越なら、大番と七手組の前者の先進性で
前者が進んでいるとおおもう
935 :
人間七七四年:2011/02/16(水) 23:24:40 ID:VYzPjIhV
>>930 佐渡守と治部少輔では格が、否老練さが違う。
結果はご覧の通りさね。
936 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 07:49:33 ID:Ivqfyzlt
>>931 小牧長久手の戦いですら羽柴家630万石で徳川家138〜150万石。
あのまま全面戦争やってたら、まちがいなく徳川家は滅びていた。
その実力の差は天下統一後、どれだけ広がっていると思っているのかね?
当時の豊家なら、徳川なんぞ正直目じゃないよ。
937 :
仙台藩百姓:2011/02/17(木) 08:45:23 ID:6/gK3iek
徳川も家康が直ぐに死んだから良いようなもので
天下平定してから10年も生きていたら早々に潰れていたか室町幕府の二の舞になっていたお( ^ω^)
いい年した後継者がいるのに死ぬまで権力にしがみつくなんて一番やってはいけない事だお( ^ω^)
引き際が分からない人間は三流であるお( ^ω^)
938 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 08:56:58 ID:zo2NCig2
>>936 そういう話じゃない、社員が何の落ち度もなく勝手に解雇されたら他の社員が
反発するだろって話。可能だけどデメリット多すぎなんだよ。
小牧長久手の戦いをそのまま続けて滅ぼすまで戦うってのならまだ話は分かるが
誰もそんな話はしてないからな。既に秀吉の傘下に入った後の話だ。
>>937 家康はちゃんと秀忠に政権移譲してるだろwつーか家康将軍在位2年くらいだぞ。
権力にしがみつくのなら辞めないだろ。
939 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 09:18:13 ID:fs3D2SOI
>>936 鳴海辺りの決戦で秀吉方が大敗する可能性もあり、
それは長久手の戦いから決して確率の低い話ではない
そういう懸念が秀吉の家康への遠慮につながった
940 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 09:32:31 ID:oOYoBtyu
>>936 滅ぼせるけど滅ぼした後が大変だろw
秀吉が永遠に生きられるってのなら話は別だけど
941 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 11:19:16 ID:nL/0nlN9
>>937 目玉も無いマザコンのくせにお家騒動まで起こして
しがみ付いたヤツには言われたくないな( ´,_ゝ`)
942 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 16:49:58 ID:PlQJWddJ
石数だけで強弱勝敗を判断するゲーム世代が入るとループするな。
にしても百姓さんの事実誤認はいただけないね。
二頭政治時代に家康がどのくらい最新の注意を払って
機構自体の禅譲をしたかはここに家康のすごさがあらわれてると言って
いいぐらいなんだが。
このあたりは特に論じるまでもない事実確認ですむことじゃないのかな。
943 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 17:29:31 ID:NAkSaha7
石高だけで勝敗が決まるなら、
西三河しか掌握してなかった段階で氏真に滅ぼされていたな
944 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 17:29:36 ID:RHa7IDIR
機構自体の禅譲とはいったい?具体的にたのむ。
945 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 17:32:33 ID:RHa7IDIR
にしてもいかにも釣りくさいレスにこれだけ。
まあ反論しやすいというのもあるかもしれんが
946 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 19:02:05 ID:GRHGShy9
秀吉と家康のライバル関係は小牧長久手の戦いで周知でしょ。
一度は覇権を競いあったほどの両雄並び立たずなライバル関係で
そんな家康を潰したところで、明日は我が身と秀吉に逆らう大名はいなかったと思うよ。
むしろ、家康を潰すことで突出した敵対勢力がなくなって
豊臣政権は延命したろうね。
947 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 19:16:00 ID:oOYoBtyu
ゆっくり衰退して再び乱世になったかもな
秀頼が素晴らしい名君になった可能性もあるけど
948 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 20:59:33 ID:fs3D2SOI
949 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 21:11:05 ID:6FGcqaaU
>>948 630万石+朝廷の権威と150万石が正面からぶつかって後者が勝つと考える
お前は相当変だぞ
950 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 21:16:29 ID:0He1poRJ
正面からぶつかるとは限らないし、
古今東西、もっと勢力差のある逆転劇はいくらでもある。
951 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 21:28:33 ID:fs3D2SOI
>>949 秀吉の家康に対する遠慮というか厚遇は、戦ったら負けるかもしれない
という恐れが最後まであったが故であろう
952 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 21:47:04 ID:6FGcqaaU
>>951 秀吉は大大名でも従えば潰さないから。
家康だけが特例じゃないよ、悪いけど。
それと秀吉もかなりの戦上手ですから。
信長が対毛利攻略に使うだけの事はあるでしょう。
953 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 21:47:51 ID:kwtnF2uE
秀吉が恐れたのは、家康よりも、未だ不安定な自分の権力基盤じゃないか?
何かキッカケがあれば、簡単に瓦解する可能性はあるだろ。
954 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 21:49:46 ID:PlQJWddJ
秀吉が山崎の戦いに勝ったあたりで「おれは将来関白になる」なんて言ってたら
400年後の2ちゃんでボコボコだったろう。
家康も秀吉が死んだあたりで「豊臣は630万石プラス朝廷の権威があっても
すぐに崩壊する」なんて言ったらやっぱりポコポコだったろう。
でも実現した。
ゲーム世代はともかく事実は小説よりなんとか。
955 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 21:51:08 ID:oOYoBtyu
潰せるけど潰した後が大変
956 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 21:54:24 ID:r4yPX2fx
>>931 「あんまり秀次事件は興味ないから詳しくないけど」
と自分で言ってる人に聞くのも酷なんだけどさ、
「秀次も権力獲得を目指して行動した結果」って具体的に何?
秀次事件で一族誅殺の原因となった秀次謀反の風説、
この根拠となった秀次の行動って
「秀次が公家の連中と親密に交際していた」とか
「一部の大名に金を貸したり、婚姻関係を結んでいた」とか
その程度のもので当時の秀次の地位と役割を考えれば通常の業務の範囲内、
何れも秀次の天下への野心を証明するものではない
まあ逆に言えばこれらの言動を以て権力伸長を狙っていたとするなら、
権大納言の官位を持つ公卿で東国大名の取次を担当していた
家康相手にも秀次同様(実際のところは不明としても)
謀反の疑いありという「大義名分」が使えるということになるんだけどね
冷静に考えれば無茶な話だが、実際にその無茶をやってしまったのが
史実の秀吉なわけで、家康相手にだって
その気になればこのくらいの大義名分など幾らでも用意できるということ
で、福島改易の流れについては既に説明したとおり、
中央政権の最終決定に対して諸大名が
如何に無力なのかを証明してるに過ぎない
同時代人の予想とかじゃなくて、きちんと事実関係を見て判断しようよ
957 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 21:54:59 ID:D3AytVWx
>>936 軍事的に豊臣と徳川を比べればその通りだし、実際簡単かどうかは置くにしても、徳川が滅んでるだろうね
でもそんなこと言ってるんじゃないってことは理解して欲しいな
基本的に国力のある方が勝つというのは妥当な考え方だとおもうぞ
装備とか士気とか国民性とか練度とかもろもろの諸要素もあるだろうが、一番理解しやすいし、影響も大きい
そのあたりはクラウゼヴィッツでもリデルハートでも読んだほうが判ると思う
国力が全てを決するとも言ってないが
せいぜい言えて”国力のある方が有利だろう”程度かな
958 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 21:58:13 ID:6FGcqaaU
>>957 どちらにせよ、豊家は秀次を粛清した事が愚かな行為だったな。
あれじゃ家康に付け入る隙を与えただけだった。
秀次が生きていていればたぶん家康は田舎大名で終わっていただろうし。
959 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 22:03:10 ID:r4yPX2fx
>>934 ぶっちゃけ大番も七手組も主君直属の常備軍兼身辺警護という
重要な役割を帯びてはいたものの、それぞれの政権内において
必ずしも主流ではないというかむしろ傍流にあった存在だからね
それぞれの比較は興味深いが、ぶっちゃけ政権そのものの
優劣を判定する基準にはならないでしょう
軍制全体で言うと豊臣政権は諸大名相手の
知行宛行状や軍役規定を見ればわかるけど、
信長や家康のそれよりもずっと細かく指示されていたわけで、
そういう意味では先進的だったのは間違いないですよ
960 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 22:16:13 ID:fs3D2SOI
>>952 気を使っているのは間違いないよ
例えば、夜話の際における食事の待遇は家康のみ、秀吉と同格
961 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 22:18:00 ID:fs3D2SOI
>>959 組頭に家臣を付属させる旧来の方式である七手組に比べ、
大番と言う組織に番頭と番士を配属させる大番の方が組織論的に
大きく優れている
962 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 22:19:27 ID:D3AytVWx
>>956 秀次に関しては何で読んだか忘れたなあ
暇があったら探しとくよ
それまでお待ち下せえ
ただひとつ疑問
そんなに簡単に立てられる大義名分、家康移動に際して作らなかったのはなぜ?
挙げてるように、世評は家康に同情的であることから、世間を納得させる理由・大義名分は無かったんだろう
無力なら幕府が改易説明会なんかしないさ
家光暗殺騒動の改易でもあったような記憶が頭の片隅にあるぞ
でだ、豊臣より磐石な秀忠幕府当時に、明確な法令違反でこんな予想されるんだぞ?
豊臣が徳川を理不尽な理由で改易をしようと思えば、福島以上の離反があると考えるのは妥当さ
それがあるからこそ秀吉は徳川を改易しなかったんだろうし
徳川だけじゃないぞ、その他大藩もしたがってれば安全保障したし、それこそが当時の主従関係の根幹
この根幹を揺るがしてなお豊臣政権に動揺なく徳川を一枚岩で滅ぼせるとか、希望的観測にすぎやしないかね
心理学でも人は不安をさらに増幅させるし意識するってね
結果論で全てを語るなら、秀吉に徳川を改易する気はなかったし、実際改易を実行しなかったから、改易したらというif自体がナンセンスさ
963 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 22:37:38 ID:6FGcqaaU
>>960 それが「人たらし」たる所以ですから。
むやみやたらに人を斬ることを好まなかったし、大名を潰す事も
しなかった秀吉の性格。
正直、家康の戦歴を分析すれば軍神とかそういったレベルの戦いは
していないので、家康が秀吉を恐れはしても逆はないと思う。
964 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 22:44:50 ID:fs3D2SOI
>>963 秀吉に取っては山崎以降、破竹の勝利を続けそれ以降も
勝ち続けた中で唯一の躓きというのはそれなりにトラウマでしょう
965 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 22:49:05 ID:6FGcqaaU
>>964 家康がうんこ漏らして大久保忠世に嘲笑された一件よりマシじゃなかろうか?
あの戦いで秀吉が大敗しても全然余裕の状態であった一方で、家康は
あれで全力の軍勢なんだからなぁ
966 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 22:49:05 ID:r4yPX2fx
>>961 それって将軍の直臣である諸大名がそれぞれの家臣団を別個に抱えるという
幕藩体制が組織論的に大きく劣ったものだと言ってるのと殆ど同義だよね?
信長も秀吉も家康も、というか武士と呼ばれる連中が構築した殆どの組織に当てはまる
そういう見方は少なくとも自分はしないな
>>962 世評が家康に同情的も何も、加増転封は武家社会では明確に恩賞ですから
差出人不明の手紙一通で「世間」を代弁するのはどうかな
『乙骨太郎左衛門覚書』や『続武家閑談』のように家康自身が
関東への移封を望んだとする資料も多いわけだけど
家康処分を断行した場合政権内に動揺があるのは当然
ただ、家康の改易くらいじゃ史実の秀次事件以上の動揺はないだろうね
天下人の養子で二元統治体制の片割れである現職関白が
良く解らない理由で一族皆殺し、関係の深かった公卿や有力大名も
連座して処罰を受けるという日本の歴史においても稀に見る一大政変だし
秀次事件でも京の庶民が来たるべき太閤と関白の全面戦争を恐れて、
京畿から逃亡したという記述が当時の書状等に見受けられる
ま、それでも秀次に付いて戦おうとする大名は現れなかったけど
「福島以上の離反があると考えるのは妥当さ」って
福島改易で誰が離反したのか具体的に名前挙げてみ?
つうか福島改易に限らず近世以降の封建社会に置いて
中央政権の処分に反対して、処分される対象以外の人間が
決起した例なんて存在するの?
ゼロに何倍掛けても所詮はゼロ
967 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 22:51:31 ID:WfWD4++p
おまえらそろそろ大河で俺の家康が目立ち始めるぞ
968 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 22:56:48 ID:bfjzJagz
戦神の秀吉に戦下手の家康が勝つのは無理
969 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 22:58:09 ID:fs3D2SOI
>>965 うん、だからそれ以降の家康はかなり慎重になっている
そしてそのトラウマは武田征伐で解消されたわけだ
で、一方の家康は生き続けているね
970 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 22:59:40 ID:fs3D2SOI
>>966 全然違う
寄騎同心制と大番制(大番が初出なのでこう呼称する)の優越の問題
971 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 23:01:55 ID:hdPVl6aw
秀次事件はあくまでも後継者問題が発端でしょ。
色々と理由付けはしたけどそれは全部建前で、この事件は秀頼を
後継者にするためのものだってみんなわかってたわけだ。
よくわからない理由は掲げてるけど、その裏に隠れた理由は明らかなわけで。
理由のある秀次事件と、理由なき家康の改易は、全く性質を異にするものだと思うが。
972 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 23:03:08 ID:bfjzJagz
結局家康は秀吉が死ぬまで何もできずにふるえてただけ
973 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 23:04:50 ID:fs3D2SOI
そこまで単純な話なら、秀吉は苦労はしない
974 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 23:08:08 ID:oOYoBtyu
>>966 秀吉が生きている間に離反する武将はいないだろうなー
秀吉死後が史実よりユカイな展開になりそうだけど
975 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 23:16:10 ID:r4yPX2fx
>>970 よく解らないな
大番制(と自分も呼ばせてもらう)みたいなシステムって
江戸時代においても例外的なものでしょ
で、その組織論的に優れた大番が戦時においてどれだけ活躍したというの?
少なくとも七手組はその終末においてそれなりの働きをしたわけだけど
>>971 「秀頼可愛さに秀次を排除する」というのが諸大名を納得させる「理由」になるなら
(まあ善悪はともかく「理由」であることに間違いはないが)、
「政権内で秀吉に次ぐ実力を誇る家康を排除する」というのも立派な「理由」では?
どっちもぶっちゃけ諸大名は納得できないだろうけど、
専制君主である秀吉に立ち向かえるほどの武力も勇気も連中にはない、つうかなかった
976 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 23:22:25 ID:fs3D2SOI
>>975 大番制は江戸時代になると書院番や小姓組など類似のものも増えている
後、大番の活躍については天王寺・岡山の戦いで大番一組と書院番二組が前田と井伊の
間で戦闘をしている
977 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 23:23:56 ID:RHa7IDIR
ミクロでマクロを語れるのかというのがよくわからない人っているよね
978 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 23:37:16 ID:zo2NCig2
>>975 理由とかどーでも良いし家康粛清も出来る出来ないで言ったら出来ると思うよ。
で、何のメリットがあるの?家康さえ潰しておけば豊臣家安泰なの?
979 :
人間七七四年:2011/02/17(木) 23:59:11 ID:r4yPX2fx
>>976 増えてるけど主流にはならなかったよね
天王寺・岡山の戦いって大番よりも
むしろ七手組の奮闘が目立った戦闘だと思うけど
まあ悪くはないけど、徳川家にとって大坂の陣に相当する
戊辰戦争で彼らがどんな活躍をしたのか聞きたかった
>>978 何度も繰り返してるが、可能だというだけで
家康粛清自体にデメリットを上回るメリットなんてないよ
そもそも秀次事件だって豊臣政権の
得になったか損になったかの二択で言えば明らかに後者
980 :
人間七七四年:2011/02/18(金) 00:05:00 ID:ILLTmn1u
>>979 番方の主力だが
戊辰?あそこまで行くと全く別の論理
981 :
人間七七四年:2011/02/18(金) 01:22:33 ID:KURTc/d/
大阪と戊辰を同列に語れとか頭おかしいだろ、結構マジに
982 :
人間七七四年:2011/02/18(金) 01:45:39 ID:JpSCQyYF
番方含めた組織の編成について語るなら分かるけど、大番制って何だよw
983 :
人間七七四年:2011/02/18(金) 05:46:16 ID:tK4r1vom
>>979 メリットよりもデメリットが明らかに上回るのは明らかに失策なわけだ。
失策を何度も繰り返せば、政権に対する信頼が失われる。
政権をひっくり返す可能性を持った大名を排除するのであれば、対象は徳川だけに
とどまらず、毛利、上杉と次々と排除していかなければならない。
(危険なNo.2がいなくなるまで排除を続けなければならないのだから)
そんなことを何度も繰り返せば、最後は恐怖政治に陥って政権への信頼が
完全に失われるのは想像に難くない。
984 :
人間七七四年:2011/02/18(金) 07:46:49 ID:xdmDdecv
明らかな失策やるのは物理的には可能だけど、現実的には不可能だよなー
985 :
人間七七四年:2011/02/18(金) 08:57:31 ID:ILLTmn1u
986 :
人間七七四年:2011/02/18(金) 09:56:47 ID:HlJow5mC
987 :
人間七七四年:2011/02/18(金) 13:29:10 ID:sw0fjxpd
>>969 解消されるとかそんな大人気ないこと思ってないだろ
そんなのは小物の信長くらい
988 :
人間七七四年:2011/02/18(金) 21:09:59 ID:xdmDdecv
989 :
人間七七四年: