>>547 清原枝賢が改元について、三好方へ「返書」を遣わすなど、永禄改元に
ついては三好氏が関与していた可能性が指摘されてるんだよね。
ほかにも長慶は朝廷内部の相論を裁許したり、義輝に従う幕臣・公家の所領を没収すると
宣言したり(結果途中で義輝から離れて都へ戻る公卿や幕臣が出ている)、公家の
家督問題に介入しようとした可能性があるなど、公家社会への影響力を増している。
ちなみに、義輝が天文22年の帰京した際には「朽木へ見舞いに来なかった公卿は
見参を許さん」と通達しており、公家社会への統制力を保っていたんだけど、この弘治〜永禄初期は
朝廷との関係だけでみても、将軍の権威はかなり失墜しているんだよね。
近衛晴嗣が将軍からの偏諱を捨てて「前嗣」と名乗っているのもこの時期のようだし