戦国ちょっと悪い話19

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1人間七七四年
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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戦国ちょっといい話19
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このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
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逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
2人間七七四年:2010/04/08(木) 22:51:29 ID:fMjvqEuf
>>1
3人間七七四年:2010/04/09(金) 00:26:31 ID:NOTbQyqq
3ゲト

>>1
4人間七七四年:2010/04/09(金) 16:33:39 ID:Pb6Ln+K3
>>1
           旦 旦 旦 旦 旦
          旦 旦 旦 旦 旦
          旦 旦 旦 旦 旦
          旦 旦 旦 旦 旦
          旦 旦 旦 旦 旦
          旦 旦 旦 旦 旦
          旦 旦 旦 旦 旦
.   ∧__,,∧   旦 旦 旦 旦 旦
   ( ´・ω・ ).  旦 旦 旦 旦 旦
.   /ヽ○==○ 旦 旦 旦 旦 旦
  /  ||_ |_ 旦 旦 旦 旦 旦
  し' ̄(_))  ̄(_))  ̄(_))  ̄(_))
5人間七七四年:2010/04/09(金) 17:58:31 ID:Ni+6Nwjx
>>4
今まで全く気づかなかったけど

結構芸の細かい事してるんだなw
6人間七七四年:2010/04/09(金) 18:38:28 ID:rs11C9Mf
スレの最初なんで地元に伝わる地名関連の軽い話を一つ。

徳川家康が天下を取り江戸幕府を開いてから数年後のこと、
家康はある日、鷹狩をしたいと思い家臣を引き連れて東金へ行くことにした。
とはいっても当時としてはそれなりに長い道のりなので、途中のとある村で休もうと考え、
村内でも見晴らしがよく、休むのに絶好な子安神社という場所でのんびりしていた。
だが家康もただボーっとしているのもヒマなので、境内の高台から周囲を見降ろしてみると、
下では藤の花が咲き乱れ、まるで村全体に紫の幕がかかったようになっていた。
それに感動した家康は、子安神社の祭神が"富士"山の神である木花"咲"耶姫であることと
かけてその地を「藤咲村」と名付けたそうだ。

これだけだと普通に良い話なのだが、家康が死んで数年後のこと藤咲村では、
「藤”咲”村なんてサクヤビメ様と同じ字を使うのは畏れ多くないか?」
「将軍様がわざわざつけて下さったのはいいけど確かにちょっとなぁ」
「そういえば畑の実りが名前変わってからよくない気が…」
「藤の花も最近奇麗に咲かなくなってきたよね…まさか祟りじゃ!」
などという話をする者が現われ出し、サクヤビメの祟りという噂は村中に広まった。
村人の中では村名を改めようと、地元の旗本や幕府に直訴しようという者まで現われ出し、
この事態を重く見た旗本は、藤”咲”を藤”崎”に改めることで決着がつけることにし、
現在もその藤崎の名は町名として残っている。
天下を取った男の権威も人々の噂には勝てないという家康にとっては悪い話。
7人間七七四年:2010/04/09(金) 18:43:42 ID:Xq1U6Sjq
>>5
うわっ言われて気づいたなんぞこれw無言じゃなかったのかw
8人間七七四年:2010/04/09(金) 18:47:07 ID:Xq1U6Sjq
>>6
きれいで村の特徴も出て、ちょっとミーハーだけどきょうびの変な新町名に比べて
よっぽどいいじゃないかと思ったけど、
神様からとるなんて畏れ多いって考え方するんだな
時代性が出てて面白い
9人間七七四年:2010/04/09(金) 19:51:44 ID:lDYem9MN
>>4
うお、一見すると普通なのにすげえwwwどうなってんだよこれwww


>>6
東金って千葉の東金かい?

この話で思い出したんだが、以前、新聞に挟まれていた何かの広報誌に、
家康が鷹狩りの際に通ったという御成街道と、途中にある沼?かなんかでの話が載っていたことを思い出した
何だったけな…かなりあやふやだから↑(特に沼)は記憶違いかもしれんが、
家康関係だったのは確かだった気がするんだよなー
10人間七七四年:2010/04/09(金) 20:27:35 ID:atwj6awi
>>9
沼の話は知らんが、東金御殿といえばそこにあった家康手植えの杉の老大木が、
明治40年頃の高等女学校(現東金高校)の造営で切り倒されたのは
個人的にかなり悪い話。
11人間七七四年:2010/04/09(金) 22:42:54 ID:iRsujmCI
椿海じゃないか?
12人間七七四年:2010/04/09(金) 22:46:37 ID:atwj6awi
小少将の傾国


阿波守護細川家家臣、西条東城主、岡本清宗に一人の娘が生まれた。
この娘は輝くように美しく、成長するにつれ人々の評判となった。

天文(1532-55)のはじめの頃、岡本の主君、細川持隆の目にこの娘の姿が止まった。
持隆はたちまち心を奪われ、この娘を自分の側室とし、小少将(こしょうしょう)と呼ばせた。
この頃小少将、10代の前半だったといわれる。
彼女は持隆に深く愛され、天文7年(1538)には後に阿波最後の守護となる真之を産んだ。

が、その頃から、彼女の奔放な性格が頭をもたげ始めた。
小少将は細川持隆側室でありながら、その重臣であり、畿内を制する三好長慶の弟として実質的に阿波、及び
四国全体を支配している三好義賢(実休)と密通したのだ。義賢も小少将に夢中になった。

天文21年(1552)、義賢は細川持隆を謀殺する。政治上の対立もあったと言うが、義賢が先ずしたのは
小少将を自らの正妻としたことだった。小少将は正妻のことを指す大形殿と呼ばれ、長治と、後に讃岐十河氏を継いだ
存保の二子を産んだ。
時はまさに三好氏の絶頂期であった。義賢は小少将の美貌に骨抜きにされ、彼女は権勢を欲しいままにしたと言う。

だが、永禄5年(1562)、義賢は久米田合戦で戦死。
義賢の後は嫡男長治が継いだが、わずか9歳という若年のため、三好家重臣、篠原長房が後見した。

ところがこの頃、小少将は今度は、事もあろうか長房の一族(弟とも言われる)の篠原自遁と通じたのだ。
長房は自遁を強く諌めた。亡き主君の正妻と通じるとは何事か、長房自身の立場もなくなるではないか!
ところが自遁はこれを恨みに思い主君長治に讒言をし、元亀3年(1572)、これを信じた三好長治の軍勢に
攻められ、居城上桜城にて自刃して果てた。

この長房の死により、阿波の国人たちの心は三好家より離れていった。
さらに三好家の重臣の中で唯一松永久秀と対抗出来た篠原長房の死は、久秀の野心を解き放たせる結果ともなった。


やがて三好長治は同母兄の細川真之と対立し、天正5年(1577)、阿波荒田野で敗死。

これに勝った細川真之も天正10年(1582)10月、八幡原にて死亡。兄を殺された十河存保の攻撃によるものとも、
長曽我部元親による謀殺によるものとも言われる。

十河存保も天正14年(1586)秀吉の九州征伐に従軍し戸次川の戦いで戦士したこと、皆ご存知であろう。
小少将の子たちは争いあい、皆、悲劇のうちに死んだ。


さて、その小少将だが、彼女の居た勝瑞城は、天正10年(1582)、四国制覇を目指す長曽我部元親の攻撃によって
陥落する。この後の小少将の行方はわからなくなる。

が、しばらくすると彼女は、長曽我部家の記録に現れる。しかも元親の側室として。
この頃小少将、おそらく50前後であっただろう。その年齢であっても権力者を惹きつける美貌と魅力を、
小少将と言う女性は保っていたと言うことであろうか。

その後、小少将がどのような人生を送ったのかよく分からない。
彼女の美貌を愛した者たちの家、阿波守護細川家、三好家、篠原家、そして長曽我部家、
これらは皆滅びた。


戦国の阿波に現れた、傾国の美女に付いてのお話である。
13人間七七四年:2010/04/09(金) 22:51:29 ID:JJ/Xr+st
>>9
半角スペースが反映されないのを利用してるんじゃないの?>>4
14人間七七四年:2010/04/09(金) 22:54:02 ID:fojDxP/Y
>>12
ガイシュツ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2181.html

だからまとめブログに検索機能あるんだから登場人物名で検索するぐらいしなさいって
15人間七七四年:2010/04/09(金) 22:58:28 ID:atwj6awi
>>14
orz

い、一応リンク先より少し詳しく書いていると言うことでどうか一つ。
16人間七七四年:2010/04/09(金) 23:28:06 ID:G37MzSuK
ちょっと前に同じような文章みたけどそれより詳しく書いてあるね
とか言える心優しい人に俺はなりたい。
17人間七七四年:2010/04/09(金) 23:29:34 ID:22bcaQT9
>>15
裁判員は細川家と森家と島津家からお招きいたします。
詳しく書いているということで伊達家から呼ぶことは見送りました。

では判決をお待ちください
18人間七七四年:2010/04/09(金) 23:52:47 ID:3EO+KUTR
こういうのを認めると
他にも過去の記事の書き直しや書き足しをしたい人が出てきそうな気がする。
19人間七七四年:2010/04/10(土) 00:04:10 ID:WQQJ4V0i
今までだと結末や人物が違ったりより詳しければ重複は許されたけど今回はどうかねぇ
まぁまとめは管理人の裁量だからあまり口出しする事じゃないが
戦国板の住人としては何度も重複した話をここでされると個別スレが過疎っちゃうんじゃないかって懸念はあるからほどほどにな
20人間七七四年:2010/04/10(土) 00:31:51 ID:hPRvk/0D
細川家裁判員「歌仙に列することを認める」
森家裁判員「刺しとくか?」
島津家裁判員「待て、ちょっと親父秘蔵の刀で切れ味試させろ」
21人間七七四年:2010/04/10(土) 01:12:23 ID:70VELQHr
>>10
なんか腹立つ話だな。
植え替える位しろよ。
似たような話で、古墳があった場所に明治時代に石碑を
建立して、古墳を破壊した話を思い出した。
(確か民権運動がどうとかの、くだらない石碑)
22人間七七四年:2010/04/10(土) 01:15:56 ID:7jS+WrOB
>>21
石碑建てるだけマシじゃね?
と思ったら、全く関係ない石碑かよw
23人間七七四年:2010/04/10(土) 01:21:12 ID:nNLDsZr/
倒幕後の意識改革の名残じゃないの?
24人間七七四年:2010/04/10(土) 01:34:20 ID:YWleKn8/
飛加藤の幻術

常陸国秋津郡の生まれで有名な忍びの者「飛加藤」がある時、上杉謙信の
春日山城下に現れ、街中で様々な幻術を使い人々を驚かせた。

この日、飛加藤は大牛一頭を広場に引き出すと、大盛の見物人太刀の目の前で、
それを口に入れ、あっという間に飲み込んだ。

見物の者たち大いに驚き騒いだが、あまりに多くの見物人が取り巻いていたため、側の
高い松の木に登ってこれを見ていた男が叫んだ

「嘘じゃ!嘘じゃ!ここから見ると飛加藤は、ただ牛の背に乗っただけじゃ!」

幻術の正体を明かされた。これには飛加藤も腹を立て、足元の、双葉が出たばかりの草をとり
これを扇であおぐと、どうしたことかその草から蔓が伸び、見る見るうちに夕顔の花が咲き
実を結んだ。
そこで飛加藤は小刀を抜き、夕顔の実をヘタの部分から切り落とした。

と、なんということか、
飛加藤が夕顔を切った瞬間、松の木の上にいた男の首が胴から離れ、そのまま下に落ちた。

見物の人々は加藤の術の余りの恐ろしさに、皆その場から逃げ出したと言うことである。
25人間七七四年:2010/04/10(土) 01:34:22 ID:zX2MfX+V
>>21
松永弾正「古墳の上に石碑建立とか罰当たりにも程があるな」
26人間七七四年:2010/04/10(土) 01:34:33 ID:tJoKXuXO
このスレが好きで、まとめサイトもよく見るようになったんだが、wikiで
>真田信繁の方が実は長男で信之が実は次男なのだが、信繁の母の方が身分が低いので長男と次男を入れ換えられたという異説がある。

って記述あったんだが。
嘘だといってよ皆!
次男な信之殿とか絶対長生きできないだろJK
27人間七七四年:2010/04/10(土) 01:43:07 ID:VSBam5Gc
>>25
おいww
お前の場合石碑建てるどころか城建ててるし
しかも、普通の古墳じゃなくて天皇陵だしwww
28人間七七四年:2010/04/10(土) 01:47:00 ID:YWleKn8/
>>26
それは信之の「幼名」が源三郎で、信繁の「元服後の通称」が源次郎だと言うところからきた
ただの珍説。(信繁の「幼名」は弁丸)
この時代生まれた順番に太郎次郎と付ける習慣はない。
29人間七七四年:2010/04/10(土) 01:48:20 ID:n6Ut7ySS
>>1乙です!
ちょい乗り遅れた感が否めないが、祝規制解除!



さてさて、ここでちょっと芸術的な話。

浴衣や手ぬぐいに使われる染物に「細川染め」というものがある。

これは、細かい柄を一面に染めた上からさらにもう一度模様を載せて染める、
つまりは二度も染めるという、手の込んだ染物である。


この繊細な染物が何故「細川染め」と呼ばれているのか。

それは江戸時代、肥後熊本藩の大名細川氏が、 諸事に慎重であったから、とも、
何事も常に二度やらなくては気がすまず裃小紋なども全て二度染めさせたから、ともいわれている。

お家のための行動か、はたまたただの潔癖症か。
どちらにせよ神経質な性格が、染物へと姿をかえ、現代に伝わってしまった細川家のちょっと悪い話。



※弁解のために書いておきますが、細川染めは、
高校で美術を齧っただけの筆者が見てもわかるぐらい綺麗な染物です。
ググればすぐ出てくるけれど、深い色合いで引き込まれそうな美しさですよ。

30人間七七四年:2010/04/10(土) 02:16:06 ID:d700YGXC
細川家と芸術と言えばちょうど国立博物館でなんかやるらしいな
ttp://www.hosokawaten.com/index.html
31人間七七四年:2010/04/10(土) 02:37:57 ID:n6Ut7ySS
>>30 本能寺の変のときの光秀からの手紙とかもあるのね

とりあえずOPで幽斎と忠興がくっきり太字なのがなんともwww
32人間七七四年:2010/04/10(土) 07:45:42 ID:EMMKrI+G
>>30
これ行きたいんだよなー
ちょうどGWに重なるから行ってこようかな
33人間七七四年:2010/04/10(土) 09:13:51 ID:/rTqpnJC
>>26
つかこれ信雄と信孝エピソードのインスパイヤじゃね
>>28
昔別のスレでも書いたけど、
大友宗麟の通称が五郎で大友晴英の通称が八郎だからって
宗麟が五男、晴英が八男って昔の歴史本に書いてあったわw
当時の乳児死亡率を考慮したらあり得ない話でもないんだろうけど
34人間七七四年:2010/04/10(土) 10:26:34 ID:8mRrF14W
池田さんとこが実際に兄弟順番入れ替えやってるからな
35人間七七四年:2010/04/10(土) 10:48:06 ID:7TR6bXvu
>>28
まあ調べてみたら、親世代の兄弟の方も兄:昌幸(源五郎)、弟:信尹(源次郎)みたいだしねえ
36人間七七四年:2010/04/10(土) 11:58:03 ID:YWleKn8/
この話の大久保家だと、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3854.html
長男が新八郎忠俊、次男が甚四郎忠員、三男が弥三郎忠久。

だんだん数字が下がっているなw
37人間七七四年:2010/04/10(土) 12:51:44 ID:Z6IT8yrQ
多産の家計だから、お父さんも作った順序おぼえてなかったんじゃね?
38人間七七四年:2010/04/10(土) 12:53:06 ID:JYAvZfbo
つうか、一族で何々太郎次郎三郎を使い回して
空いたところに新しく生まれた子を入れるってのは無いこともない
39人間七七四年:2010/04/10(土) 16:07:08 ID:nI6RV+t9
時代はもっとさかのぼるけど、曾我兄弟も兄が十郎で、弟が五郎だな
徳川秀忠なんかも、幼名が長松から竹千代に変わったりしてるし、兄弟での使い回しとかもあるのかな
40人間七七四年:2010/04/10(土) 17:09:28 ID:X4aFlbmH
DQ眼竜も長男なのに藤次郎だっけ
子供がころころ死んでしまう時代だし、兄弟順カウントより
縁起担ぎの方が大事だったかもなあ
41人間七七四年:2010/04/10(土) 20:18:56 ID:4N+coktv
>>40
伊達は代々の惣領が「次郎」を名乗っているからその流れじゃないかな。
42人間七七四年:2010/04/10(土) 20:33:08 ID:EMMKrI+G
長女じゃないのに「初」とか結構いるよね
(女性の名付けは男性とは違うだろうが)
43人間七七四年:2010/04/10(土) 20:43:57 ID:y2BP60+2
>>6
津田沼駅の近くの地名である藤崎(習志野市)の由来の話か・・・。
Wikipedia(津田沼の項)にも記述されていたのは気がつかなかった。
44人間七七四年:2010/04/10(土) 21:56:43 ID:CNOVSvbV
二代将軍秀忠はひじょうに花を愛した。
大名諸侯はこのことを知っていて、領内特産の花木、あるいは特に改良した品種を競って秀忠に贈った。
それらの中で秀忠を虜にしたのが、花弁に斑の入った椿である「広島しぼり」である。

秀忠はこれを接ぎ木で献上されたが、さっそく本丸の御庭に植えた。
そして手入れの者に椿の育ち具合や花芽の様子、開花時期などを逐一尋ねる。
そのため、手入れの者も「広島しぼり」には特に気を使い、葉の一枚一枚まで念入りに手入れしていた。
しばらくの後、つぼみが開き始めたので秀忠に知らせたのだが、肝心の将軍は、
「花は見事か? ……斑の入り具合はどうだ」
と尋ねるばかりで庭に出てきて観賞しようとしないのだ。
日ごろ気にかけていたにも関わらず、せっかくの開花を見ることはなかった。

実は、その時秀忠は喪服中の身で、直射日光にあたってはならないという、宗教的な定めのために、
「広島しぼり」を観賞したい気持ちを懸命に抑え込んでいたのだ。
戒律を順守したためにせっかくの名花を見られない秀忠の気の毒な話。
45人間七七四年:2010/04/10(土) 21:57:47 ID:CNOVSvbV
もういっこ

サイトにある秀忠に仕えるには・いい話?
>若侍A「こないだ神様がいるっていう池で鰻を取ったんだ。みんな『タタリがある』って
     怖がるんで俺だけ食ったけど、タタリどころか下半身がモリモリっスよ!」
>若侍B「ハハッワロスw」
>ガラッ 
>「話は聞かせてもらった!」 翌日、若侍は磔にされた。

>秀忠「民の手本たる侍が神を恐れぬようでは、『神に懸けて』誓う意味が無くなるわ!」
をちょっと細かく



二代将軍秀忠が伊豆三島の本陣に宿泊したとき、
将軍を前にして、近習の侍たちのよもやま話が始まった。
近頃流行している着物から武芸の話へ移り、やがて先ほどのこととして、
一人の男が武勇譚を語り始めた。

その男は今日、三島明神を通った際、
「普段は神のウナギなどと恐れて、誰も捕まえないが、
今日は上様の御供で参ったのだから、食ったところで何のタタリもあるまい」
と、神池のウナギを捕まえてかば焼きにして食ってしまったという。
「近頃まれな豪胆な者よ」などと家臣らが褒めたたえるのを聞いた秀忠は、
くつろいだ姿勢から急に起き上がって、
「今の話をもう一度聞かせよ……!」
得意げになった男からもう一度話を聞くと、
「佐渡守を呼べ」
本多正信がすぐに伺候した。すると秀忠は男にもう一度話をさせ、そして、
「明日その者を三島で磔にかけ、理由もはっきり書き出しておけ」
と命じた。
将軍の権威をかりて神を軽んじるとは、とんでもない曲事として男を処刑したのだ。

「将軍は神よりえらい」と思って調子にのった男の悪い話。
46人間七七四年:2010/04/11(日) 00:46:28 ID:NwUBApA0
短パン
47人間七七四年:2010/04/11(日) 00:58:34 ID:yt4EaO04
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2316.htmlのエピソードの補足
この話にある様に島左近の娘婿、小野木公郷は関ヶ原の戦いで和歌の師匠・細川幽斎の田辺城を攻めた
為に息子の忠興の怒りを買っていた。しかし、そんな公郷を庇う者もいた。井伊直政である。
彼は家康に公郷の助命嘆願をしており、切腹を望む忠興にもなんとか助命できないかと説得した。
直政「忠興殿、公郷殿も立場上仕方なく幽斎殿を攻めたのです。本心ではなかった筈です。
   ですから、なんとか助命出来ないものか?」

忠興「仕方なくだと?ふざけんな!大体アイツは父上の弟子だった癖にその恩を忘れて城を攻めたんだぞ?
   そんな奴を生かしておくなど許せるものか!断固切腹!それ以外は絶対に認めないかんね!」

と忠興の強い反対に押し切られ結局公郷は切腹するのだが、面目を潰された直政も黙っていなかった。彼は
家康に「細川越中の如き酷い者を畿内に置くことは無用」と讒言する。これにより忠興は但馬一国加増が沙汰止みになってしまったという。
48人間七七四年:2010/04/11(日) 03:33:08 ID:y9y+x2GW
【政治】「民主党の政策は売国法案の羅列、許してはならない」-平沼新党「たちあがれ日本」旗揚げ会見★3
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1270918364/
49人間七七四年:2010/04/11(日) 03:36:03 ID:CZNwAo7c
直政に目をつけられるとは・・・。
50人間七七四年:2010/04/11(日) 07:54:35 ID:pgLiFjga
忠興vs直政とか恐すぎるんだが
51人間七七四年:2010/04/11(日) 09:43:11 ID:QPlFRq3e
>>47

小野木公郷と同じく細川幽斎の弟子である谷衛友は、公郷と一緒に田辺城を攻撃するも、空砲を
撃って不戦行為をしたいわゆる「 谷の空鉄砲 」のおかげで、所領安堵されているんだよな。

谷と忠興は、公郷と違ってhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-713.htmlのように、相当仲が良
かったのが幸いしたのかね。
52人間七七四年:2010/04/11(日) 10:22:03 ID:v29VMgyG
>>47
井伊直政って、
 忠節示したり戦いにおいては、猪まっしぐら!的熱血ぶり
 でも自分の大事なもの以外にはすっげー冷徹、つかアウトオブ眼中
 だから同僚や家臣に恐れられたり疎んじられてもヘのかっぱ
ってイメージだったので、こういう陰険(失礼)な復讐する話もあるとは意外だ

忠興の凄い剣幕に、こいつマジやべぇ…と尋常ならざるものを見て取って
こんな危険物畿内に置くなんてありえねーだろJK、と私心無く進言したとか…ないか
53人間七七四年:2010/04/11(日) 10:38:05 ID:a34d48cD
陰湿か?
忠興が納得してりゃ済んだ話だから仕方ないんじゃね

といっても関ヶ原の忠興は愛妻は死ぬわ嫁は死なないわ父親は美談っぽく開城してムカつくわ、
冷静な判断しろと言われても無理だけど
54人間七七四年:2010/04/11(日) 10:41:27 ID:dMOuiT8v
>>47
丹後は畿内じゃないけど
55人間七七四年:2010/04/11(日) 10:58:20 ID:ceLmj1Uf
>>53
まさに忠興にとっては踏んだり蹴ったりな関ヶ原
相当ムカついてただろうなw
56人間七七四年:2010/04/11(日) 11:07:25 ID:OzXAJHWY
直政「俺の封地佐和山でしょ?あんな京に近いとこにDQN四天王の一人とか無理。マジで」
57人間七七四年:2010/04/11(日) 11:08:03 ID:v29VMgyG
>>53
私心なく徳川のためを思って進言したならいんだけど、
自分が面目潰されたから讒言して仕返しした、てんならちょい猪っぽくないな、と
58人間七七四年:2010/04/11(日) 12:20:56 ID:+wbXrCpD
>>45
松永久秀「神とか仏とかは、大切にしなきゃ駄目じゃないか。もちろん将軍もね」
59人間七七四年:2010/04/11(日) 13:31:05 ID:7++qyd9W
>>55
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私も嫁に息子の一人でも死ねばいいのにと言われ
関ヶ原に腹黒な親父と弟に邪魔されて遅刻して
二代目に睨まれたりして踏んだり蹴ったりですが
そんな些細なことにムカついていられる忠興さんが
正直羨ましいです
60人間七七四年:2010/04/11(日) 13:37:49 ID:pgLiFjga
さすがに嫁が死んで些細なことはないだろうよ、兄ちゃん
61人間七七四年:2010/04/11(日) 14:00:25 ID:OzXAJHWY
荒木村重「まったくだ」
62人間七七四年:2010/04/11(日) 15:34:09 ID:KJbAKkU4
あの顛末は忠興が相当むごいから立腹するのもしょうがないよ
63人間七七四年:2010/04/11(日) 17:47:39 ID:Fyd2D6aC

武田信玄と嫡男義信の間で諍いが起こった時の事。

「長禅寺の春国、東光寺の藍田、恵林寺の快川の三名が春の初めから現在(六月末)
まで色々とりなしを行ってきたが、未だ結論は出ておらず、他国へ放逐となった家
臣の帰国も叶えられていない」(快川紹喜の書いた手紙)

この頃には既に義信と信玄の間は決裂しており、義信が幽閉されて既に一年以上経
っている。
永録八年正月に幽閉、十年十月に死去。この手紙は九年六月末に書かれたとされて
いるモノだ。

「信玄はまったく義信について理解しようとしない。ほとぼりが冷めた頃、来年か
再来年くらいにでも信玄に一言言うべきだろうか。でも、私の様な路傍の僧侶が口
を挟んでも禍にしかならないかも知れない……」(快川紹喜の書いた手紙)

上の手紙とは別人に宛てた手紙だが、ほぼ同時期に書かれた手紙である。

さて、突っ込みどころはどこだろう。
「ほとぼり冷ますの長っ!!」
「アンタ十分口挟んどるやん!!」

……いやいや、突っ込みはいいんだ。今回はそーゆー話じゃなくて。

信玄と義信の対立に至る原因は実はハッキリとは判っていない。
今川との同盟を巡る意見対立だとも言われるが、義信幽閉から約四年、死後一年あ
まりも駿河攻めを起こしておらず、納得出来ない部分が残る。
が、上の手紙を見る限り、快川は非があるのは信玄だ、と考えているらしい。

信玄は一体、義信の何を判ろうとしなかったのだろう。
ほとぼりを冷ますのが長すぎた為か、快川が物申す前に義信が死んでしまったのは
残念なコトである。


ちなみに義信の死んだ時、快川は美濃に里帰りをしており、甲斐を留守にしていた。
幽閉されて約三年、腹を切る様子もなく生きてきた義信が、擁護派の快川が留守中
に謎の死を遂げる……どうにも意味深なタイミングだと思ってしまうのは私だけだ
ろうか?

何だか良くわからないが、とにかく義信にムカついていた信玄、というお話。
64人間七七四年:2010/04/11(日) 19:45:23 ID:08MgZLVw
大和における豊臣秀長の施策
詳しくは知らなかったのでちょっと多聞院日記から超訳してみた

天正十三年 8月25日 多武峯談山神社に武具類の提出を命じたそうだ
         9月 5日 検地(指出)を命じられたので一日がかりで書き出す
         同 25日 一万石没収された
        10月15日 昨日から奈良の町での一切の売買を禁じられた。味噌も酒も野菜も薪も郡山まで買いに来いって言ってる
天正十四年 6月24日 また検地(指出)を命じられた。
         7月 3日 提出した検地が去年のと違うってめっちゃ怒られた
        10月 9日 これからは京升で計るから升を買い替えろって言ってきた
        11月18日 6月に出した検地の件で7500石没収された
天正十五年 1月16日 奈良でも郡山でも座を禁止したとか言ってるんだけどマジか
         4月 1日 鉄製品、魚、塩は座が復活したらしい
         8月21日 奈良で商売すんなってまた言ってきた
         9月11日 小作料を取るなって言ってきた
天正十六年       多武峯談山神社が郡山に移された
天正十七年 10月5日 奈良中から一万石を強制的に借り上げていった。代金は春になったら払うって言ってる


そりゃ死んだ時にいやみの一つも言いたくなるってもんだわ
とは言っても寄進や造営も結構やってるし、病に倒れてからは没収した寺社所領を返還してるんだけどね
65人間七七四年:2010/04/11(日) 20:53:00 ID:+/vaSJEt
>>64
なんか笑えるwww
ソースは忘れたけど和議のふりして土豪を集めて暗殺してたりするから
何気に戦国大名なんだよな>小一郎さん
66人間七七四年:2010/04/11(日) 21:46:09 ID:zWnrKGpf
>>64
既得権をフイにされた老人の愚痴ばっかだなー

大和だいなんごはアメとムチの使い分けを知っている印象
67人間七七四年:2010/04/11(日) 22:37:02 ID:Y5yeu/OW
そりゃ仕方ない。既得権というと悪いもののようにみえるが、
当事者からしたら先祖からの財産を一方的に奪われるのだから。
68人間七七四年:2010/04/11(日) 22:49:47 ID:OSiQpTBE
別に悪いことをして得た権利じゃないんだもんな。
「被害者」の視点からすれば、秀長は無理を言って正当な財産を奪う強欲な大名なのは確かなわけで。
69人間七七四年:2010/04/11(日) 22:55:38 ID:QPlFRq3e
大和国の検地は信長時代の天正8年に体験済みだが、そんときはこの世の終わりがきたとか、
検地奉行の滝川・明智は閻魔大王だとか日記で罵ってたなw
70人間七七四年:2010/04/11(日) 23:30:00 ID:pSFy7nyo
「先祖の財産」、「正当な財産」って本気で言ってるのか
自分の先祖がかつてやったことを、戦国大名に同じ事をやり返されただけじゃん
71人間七七四年:2010/04/11(日) 23:34:24 ID:OSiQpTBE
>>70
寺社の所領は基本的には朝廷、貴族、武家などからの寄進と金銭による購入だぞ。
それらを横領し軍事力の威圧で既成事実化した戦国大名とは全く違う。
72人間七七四年:2010/04/11(日) 23:34:37 ID:ALHL7XWt
>代金は春になったら払うって言ってる

これきちんと支払われたんだよな?w
73人間七七四年:2010/04/12(月) 02:10:50 ID:Rn6vimsQ
寺社もフツーに軍事力もってたから横領とはまた違う
というか寺社側もやってんだよね、その軍事力で土地に居座るってのを
僧侶本人が出張っている訳ではないが
74人間七七四年:2010/04/12(月) 03:28:54 ID:Lf1cztYd
>>73
大和なんかは主要なところが興福寺の領地みたいなもんだったらしいからね。

松永弾正さまがワルダクミできるのも三好が弱体化したのと同時に
織田が伸張してきて寺社の勢威が相対的に落ちてきたから、だったkも。
75人間七七四年:2010/04/12(月) 04:30:01 ID:Rn6vimsQ
つか大和や伊勢の辺りは微々たるモノとはいえモロに南朝圏内だから
ナアナアで騙し騙し統一した後に領土に関して諍いが起こるのはさもありなん
76人間七七四年:2010/04/12(月) 07:40:00 ID:mjxCm1tx
しょせん坊主も武士も同じ穴のムジナ、お互い非難されるいわれはない罠
77人間七七四年:2010/04/12(月) 08:10:38 ID:UjcOfKXL
短絡的だなぁ
78人間七七四年:2010/04/12(月) 08:18:47 ID:tGVbNeQU
まぁそうだな、坊主と武士のどちらが領主でも庶民が搾取されることには変わりないし
79人間七七四年:2010/04/12(月) 09:50:46 ID:TxWvu2t2
>>73
寺社も軍事力を持っていたが、だからって他人の領地を横領しまくって拡大したかどうかは別だ
80人間七七四年:2010/04/12(月) 10:38:46 ID:141DWTZy
豊臣さん関連はどんな行為でも最後の急速な没落でオチがつくからいいやん
81人間七七四年:2010/04/12(月) 11:04:50 ID:GrwTST0L
高虎「太閤殿下の補佐でお忙しい大納言様が少しくらい領内整備に豪腕を使ってもいいのではないかと思いました。」
82人間七七四年:2010/04/12(月) 18:27:31 ID:ees48gsC
三斎様、そのこだわり

ある時細川忠興が、刀の拵えに付いて語った。

「え?私の刀や脇差の拵え?ああ、全部本阿弥家さ。
本阿弥家に任せるとそれぞれの刀の身に応じて、金具も、柄も鞘もカスタムメイドしてくれるからね。
それも実にセンスがいい。
こういう事の大切さを知らない人間の刀の拵えは、借り物の着物を来てるみたいで
もう見ていられないよね。

小堀遠州殿や佐久間将監殿は私に頼んで、私を通して本阿弥家に拵えをしてもらってるよ。
天下の宗匠なんて呼ばれてる片桐石州殿だって、配下に天下一なんて言われている人間がいるのに、
それには頼まず

『武士の腰の物を訳も知らないものに任せるのは不物数寄なり!』

なんて言って、本阿弥家に過分の扶持をしている。

こんなふうに茶人として名のあるほどの、センスの有る侍はみんな、本阿弥家を選ぶのさ。」

まあ、本阿弥家を褒めているんですが、『その本阿弥家を選んでる俺のセンスの良さってどうよ!』
って妙に自慢気な忠興の声が聞こえてきそうなのでこっちにw
83人間七七四年:2010/04/12(月) 18:30:59 ID:fCB1S5Em
実際にセンスある人だしな、三歳さん。
才能だけなら、芸術だけで食えると思うよ。
性格がアレだから無理だろうけど。
84人間七七四年:2010/04/12(月) 19:10:41 ID:Rn6vimsQ
>>79
越前辺りに蔓延する有徳人を見てもそう思うのか?
85人間七七四年:2010/04/12(月) 19:27:46 ID:SArFgWF5
>>83
むしろ性格がアレだからこそ芸術家に向いてるんだろ。
到底サラリーマンにはなれないタイプ。
86人間七七四年:2010/04/12(月) 19:32:25 ID:uxIhpyG0
幽斎もそうだけど、領主として・武将としての
政務もおろそかにしなかったのはすごいよね>忠興
87人間七七四年:2010/04/12(月) 19:44:01 ID:141DWTZy
あんまりいい人だと戦国の世じゃ鬱やストレスで死ぬかもしれんし
性格がかなり悪いくらいでちょうどいいんじゃないか
88人間七七四年:2010/04/12(月) 19:51:32 ID:O8btrUk3
性格がいいだとか悪いだとかではなく
内に溜めこむ性格だと死ぬ
89人間七七四年:2010/04/12(月) 19:52:22 ID:Rn6vimsQ
秋田実季「性格が悪くていいことなんてないよね、実季ちゃん」
90人間七七四年:2010/04/12(月) 19:54:13 ID:uxIhpyG0
>>89
おいやめろ
91人間七七四年:2010/04/12(月) 19:54:48 ID:g/0kCa4t
息子宛の手紙で毒吐きまくってるしなw
>三斎さん
92人間七七四年:2010/04/12(月) 19:57:26 ID:Lf1cztYd
>>85
芸術家の類でなかったら、中小企業の発明家社長とかだよね。
とにかく国家・高級官僚や大企業の宮仕えに向いてない人w

ネクタイ締めるのはイヤで、スーツよりお金掛けたカジュアルで通しちゃうような…
 (戦国大名、武将なんて半分官僚だけどそこは大目に見て頂戴)
93人間七七四年:2010/04/12(月) 20:38:50 ID:Ry5fTg0q
忠興が現代人なら借金で身を持ち崩すって印象が強いんだが…
94人間七七四年:2010/04/12(月) 20:38:57 ID:9pG/xALH
地元の寺院紹介のページから引用
住職の了承で取材したというので本文そのまま
http://gyoda.co.jp/templefile.htm

常慶院が開基されたのは戦国時代初期。忍城主・成田顕泰の娘、都留姫による建立と伝えられている。

 成田記によれば、姫は心やさしく、近隣に響き渡るほど評判の美女だったという。
ある春の日、姫は侍女たちと共に城下に幕をめぐらし、歌詠み会を催していた。
そこへたまたま通りかかった家中の若侍、ついつい幕をめくって覗いてみると、
満開の桜の木の下で、短冊をもって詠みあげる、美しい姫の立ち姿。
ひとめで恋の虜になった若侍、くる日もくる日も姫を想い、何も手につかぬ有様に、その両親わけを尋ねて驚愕動転。
こともあろうに主君の姫君に、横恋恋するとは不忠不覚の枠、殿のお耳に届けば一家断絶の憂さ目にならんやと、
密かに殺害してしまうのです。

後日この事を知った姫は、まだ見たことも口もきいたことない人とはいえ、自分のために若い命を失ったことに不憫と悲しみ、
それからは持田の里に庵を作り、尼になって常慶院と号し、朝夕仏に祈る日々を過すのです。
そしてこの地に寺を建立することを遺言に、静かにこの世を去ったという。


 二百年前に造営された山門をくぐると、正面に本堂が見える。
十七世・永平宏道住職に案内してもらい堂内にあがると、高さ四十cm位の木像がすぐ目にはいった。
常慶院の御本尊、願王地蔵菩薩の座像だ。大正十三年佛師法眼の作といわれる、
ずんぐりとした肩幅の広くがっちりとした姿は時代的特徴をよく現し、市の文化財に指定されている。

この本堂に参詣し拝せれば、菩薩の中でも特に慈悲深いこのお地蔵様と、ひたすら御仏に仕えた都留姫の姿が重なって見えてくる。
「この寺へ詣でし人は常へに 慶びのみの身となりぬべし」常慶院御詠歌
95人間七七四年:2010/04/12(月) 21:07:37 ID:oZzC9bQc
>>85
魯山人って感じがする。
誰もが一目置く芸術家だが、
「彼を知るもの10人中9人は彼を嫌っていた」
と愛弟子にも言われそうな人。
96人間七七四年:2010/04/12(月) 21:45:25 ID:2XnQSuR2
>>85
サラリーマンには向いてるよ。
上司や同僚とうまくいってる。
世話焼きだし。

ただ家庭内が・・・
97人間七七四年:2010/04/12(月) 22:02:56 ID:LGISETSu
>>96
たいへんです、細川部長がまた懲罰人事を!
98人間七七四年:2010/04/12(月) 22:20:54 ID:2dZo3b8J
絶対同僚になりたくない。というか近づきたくないなw
99人間七七四年:2010/04/12(月) 22:37:12 ID:ueJ9SlU9
家に招かれて奥さんを見たら問題無用で殺されたでござる
100人間七七四年:2010/04/12(月) 22:54:05 ID:2dZo3b8J
さて、最近すっかりアッーのイメージが付いてしまった大内義隆の最期にまつわる伝説。

ご存じの通り、陶に反逆された揚句重臣一同に見捨てられ、北長門まで落ちのびてきた義隆一行。
海路石見か九州へ逃れようとしたが、海が荒れて進めない。
仕方が無いので陸路を15kmぐらい引き返し、三方が山、一方が川というちょっとした要塞みたいな太寧寺に籠ることにした。
色々あっていい加減疲れた義隆殿、水を所望して何気なく参道脇にある井戸を覗き込む。
するとその水面には、あるべきものが映っていなかった。

「……首がない」

これで駄目押しされた義隆殿、見事腹を斬ったそうな。

後の参道改修の折にこの井戸は潰されたが、今は境内の隅の方に、この時兜を掛けたという兜掛けの岩(ママ)と共に
姿見の池として再現されている。
もし行かれる機会があれば、湯治のついでにでも覗き込んでみては如何だろうか。
ある大名の最期にまつわる、縁起の悪い話。

ちなみにこの寺、元関東管領・上杉憲実の墓もある。誰得。
101人間七七四年:2010/04/12(月) 23:02:43 ID:ees48gsC
>>100
ああ、悲劇の忠臣上杉憲実。この人の生きざまは泣ける。
102人間七七四年:2010/04/12(月) 23:23:26 ID:2dZo3b8J
風呂に入っててふと不安になったのだが。
>>100の話は地元ではそれなりに有名な話なんだが、どこをググっても出てこない。
まぁだから書いたんだけど、まさかこの話をカキコしたら夜中に義隆公が尻を借りに来る呪いとかないよな。うん。……ないよな?

>>101
簡単に調べてみたが、悲劇の人だね。誰得なんて言ってすまんかった。
103人間七七四年:2010/04/12(月) 23:49:18 ID:c8Ob2R1R
>>100
なぜ憲実の墓が長門に?
旧臣の誰かが毛利に仕えたとかかな。
104人間七七四年:2010/04/13(火) 00:08:13 ID:sdcRd+tu
書いてみた

上杉憲実と言う人がいる。
鎌倉公方、足利持氏の下で、関東管領を勤めていた人だ。
憲実は非常に有能で、かつ人望も深く、当に関東の要というべき人物であった。

彼の主君持氏は京の将軍、義教と対立を深めたが、憲実は京と関東の融和を心がけ、
持氏が暴発しないように、身をもって防いでいた。
が、将軍の位を求めていた持氏には、彼の存在が目障りでしかなかった。

いたたまれなくなった憲実は関東管領を辞任したが、対立は解消されなかった。
そして持氏は嫡男、賢王丸の元服にあたり、それまでの、将軍の諱一字を受けるという
慣例を破り「義久」と名付けた。これは将軍家からの独立を宣言したに等しい。
憲実はこれを激しく諫め、両者の緊張はピークに達した。

永享十年(1438)八月、持氏は憲実討伐の兵を挙げた。永享の乱である。

憲実は主君に打たれることを恥じ自害しようとしたが、それに気づいた
近習達に止められ、鎌倉を離れ領国上野へと下った。

この挙兵に対して、かねてより持氏を警戒していた幕府の対応はすばやく、
九月初頭には駿河の今川などを中心とした討伐軍が関東に侵攻し、十月十九日、武蔵府中、
分倍河原において、持氏は完全に包囲された。
持氏の挙兵は、完敗に終わったのだ。

足利持氏は剃髪し、罪の許しを請うた。
この時憲実は、自分を殺そうとした持氏とその嫡子義久の助命を幕府に懸命に願い出た。
だがそれは許されず、持氏、義久、ともに自害。
憲実は補佐を果たせなかった責任を取り、出家、隠遁した。

だが、関東はその後も結城合戦が発生するなど、極度に不安定化していた。
乱のたびに憲実はやむを得ず出陣し、それらを平定した。
幕府が関東の安定のために、彼の能力と人望を必要としていたのだ。
何度となく関東管領への復帰を打診されたが、彼はその度に拒絶、さらにその子供達も
皆出家させ、幕府の誘いにのり、還俗して管領職に就くことなど決して許さぬ、そう言い渡した。
後、長男憲忠が還俗し関東管領につくと、最初の言葉通り憲実は、この憲忠を義絶する。

憲実が懸念したように、憲忠は新たな鎌倉公方、足利成氏と対立、
ついに成氏の命を受けた結城氏家臣多賀谷高経によって謀殺され、これにより
享徳の乱が勃発。関東での戦国時代が始まる

憲実は世をはかなみ、持氏親子らの慰霊のため諸国行脚の旅に出る。
その最後は文正元年(1466)、関東から遠く離れた、長門国大寧寺においてであった。

当時、当代一と言われた画僧、宗湛は、憲実の死ををこう評した。

「人皆その風を望み、敬せざる無し。忽ち逝去を聞き、感すべき、慕うべきなり」
105人間七七四年:2010/04/13(火) 00:12:48 ID:9WulXGQR
>>103
最後は諸国遍歴して、最後に大内氏を頼ったそう。
106人間七七四年:2010/04/13(火) 00:16:28 ID:pKwKyMxN
>>104
関東の大学こと、足利学校を造ったことは試験にも出たりするんだぜ
107人間七七四年:2010/04/13(火) 00:44:33 ID:sdcRd+tu
>>106
足利学校については諸説あるので書かなかったのだぜ。
108人間七七四年:2010/04/13(火) 02:40:39 ID:5OOJbuHl
スレ違いを承知であえて書いてみる
かいこさん何やってんのw
http://dearuka.web.fc2.com/41top.html
109人間七七四年:2010/04/13(火) 03:29:07 ID:4Z1zMjly
>>102
>>100の逸話は確か太閤立志伝でイベントになってた記憶があるな
110人間七七四年:2010/04/13(火) 05:20:11 ID:8HwYodC/
関東管領の主って将軍ではないのん?
111人間七七四年:2010/04/13(火) 07:01:35 ID:Z9bYVrxY
>>109
髪の乱れを気にして池の水面を覗きこんだら
姿が映っていなかったというやつか

いかにもありそうな話だと思ったのに元逸話はもっとグロかったんだなあ
112人間七七四年:2010/04/13(火) 07:40:17 ID:IJ/OC9Mt
>>110
形式上は

室町将軍→鎌倉公方(関東における将軍の代理人)→関東管領(鎌倉公方の補佐役)

って上下関係
しかし関東管領の任命権自体は将軍が握っていたという事なので、まさに板ばさみポジション
113人間七七四年:2010/04/13(火) 08:50:52 ID:EkZ9hXs9
鎌倉公方は古河と堀越に別れたんだっけ?
114人間七七四年:2010/04/13(火) 09:44:29 ID:0K0hm/D0
>>113
ついでに小弓
115人間七七四年:2010/04/13(火) 10:03:28 ID:0K0hm/D0
ごめん
小弓は古河からだ
116人間七七四年:2010/04/13(火) 10:31:38 ID:eGq4dtnt
どんなに有能でも持氏がああではうまく立ち回ることが不可能に近いポジションだなぁ。
忠義な人なら、ねw

陰謀が…で暗s…うっ…
117人間七七四年:2010/04/13(火) 10:58:17 ID:WQU+MyPO
こういう時は関東のスカッとする話を

永禄7年(1564)1月、うっかり小田原北条家と結んだ小田氏治に対し激怒した佐竹義昭は、上州で獲物を求めて
越年していた軍神を召喚した。
八千の兵を率いて常陸小田領内の山王堂に陣取り、佐竹・宇都宮・多賀谷ら馳せ参じた関東諸将を前に、
「この辺りに骨のある侍は、おるか!」と、いつも通りの関東管領・上杉輝虎。

「この先の海老ヶ島城に、平塚自省入道という小田配下の者がおります。三浦党の末裔を名乗るしぶとい武士、
夜討ちでもされたら危のうございます。ご用心下さい。」と忠告する諸将に対し、
「むしろ、こちらから朝駆けして首を取ってやるところよ。向こうから夜討ちをかけて来るなら、それこそ天の助け。
なで斬りにして、死人の山を築いてくれよう。」と答えてカラカラ笑う輝虎に、諸将は身の毛のよだつ思いがした。

しかし小田方からの夜討ちは無く、輝虎のもとに急報が入ったのは翌朝になってからだった。
「申し上げます!小田氏治みずから・・・」「みずから奇襲か、なかなかやるな!よし、わしの馬を引けい!」
「いえ、みずからやって来たのですが、わが軍の手前で留まり、川を背に陣を構えております。」

( ゚д゚) ?!

氏治「がはは、実は山王堂は以前に戦を経験しており、土地勘があるのだ!川を背にしても、手前は深い泥田。
上杉軍が足を取られたところを、つるべ撃ちにしてくれるわ!」
菅谷政貞「以前の戦・・・って、結城さんにボッコボコにされて土浦に逃げた戦ですよね?」

戦が始まると上杉軍は、『策など要らぬ』とばかりに、小田陣目がけて突っ込んで来た。
「よーし動くな、引きつけよ!泥田にはまり、止まったところで・・・」

止まらない。止まらない。ぜんぜん止まらない。
「え?なに?どういうことなの・・・」
「上杉軍のほうが先に陣取ってるんですよ?地形を調べて、通れる場所を探ってあるんです。」
「そんな・・・・・・す、菅えもーん!」
「仕方ないなぁ、うじ太くんは・・・ジャジャーン『決死の殿軍』!覚悟完了したウチの息子が、身代わりになって
死んでくれるよ!」「ちょ、おま」

こうして勢いの乗った上杉に海老ヶ島城・小田城を奪われるも、菅谷政貞の子・彦次郎政頼らの犠牲により、
氏治は逃げ延びることが出来た。(政頼は数年後の太田三楽との戦いで戦死した説もあり)

が、この後七、八回ぐらい似たようなことを繰り返す天庵様でした。
118人間七七四年:2010/04/13(火) 11:09:57 ID:ymKGJ89c
いつもながら弱えw
119人間七七四年:2010/04/13(火) 11:23:47 ID:4Z1zMjly
>>116
鎌倉公方足利氏満の「京に攻め上って義満倒しちゃる!」計画を諫死で断念させた上杉憲春の先例はあるけどなw

陰謀と言えば、憲実の永享のときの上野下向は、実は事前に幕府と示し合わせてのことだったらしく、
助命を懇願してるから殺すつもりはないんだろうが、どうも憲実は計画的に持氏を排除しようとしてたみたいね
120人間七七四年:2010/04/13(火) 11:24:59 ID:TYdAm1Jl
>>117
面白いがスカッとはしないよw
121人間七七四年:2010/04/13(火) 11:28:10 ID:f6P0DNlp
待て待て、ここは軍神様相手に正面から挑んだことを賞賛するべきだろ
122人間七七四年:2010/04/13(火) 11:35:40 ID:SwDhbpgm
精神年齢三歳様を、みんな宮仕えには向かないと評するが、
明智の一番の盟友とみなされていながら、
その娘を離縁することもなく秀吉の粛正をのりきり、
禁教令が出てもその妻を棄教させることも離縁させることもなくのりきり、
徳川政権への乗り換えものりきり、
九州で島津への抑えとして信頼された程の、
外様の中では最も信頼されている部類の藩であって。


ただご家庭がアレでアレでアレなだけであって……
123人間七七四年:2010/04/13(火) 11:42:30 ID:eS5kIiMc
家庭というより本人がかなりのアレだからだろう
124人間七七四年:2010/04/13(火) 11:49:18 ID:ymKGJ89c
主受けや遊泳は上手いとして部下として仕える時に誰がいいよって話じゃね?

・黒田の大殿
・小早川隆景
・細川三斎
・森忠政
・藤堂高虎
・黒田のb…もとい若殿

仕えたくない人物を二人選べ(配点:手討ち2回)
125人間七七四年:2010/04/13(火) 11:52:11 ID:SwDhbpgm
つーかウチの家系、
幽斉様経由で細川家に仕えたんだが、
一応家系図の中に「殿にお手討ちくらいますた」ってのはいなかったよ!
(当たり前です)
126人間七七四年:2010/04/13(火) 11:57:27 ID:TQXmP3U4
うむ
小気味良いほどの毎度の小田さんクオリティにスカっとした
127人間七七四年:2010/04/13(火) 12:02:25 ID:oPtAijVy
ここまで綺麗に負ける人も珍しいなw
128人間七七四年:2010/04/13(火) 12:26:16 ID:nyw00BbS

夢の対決 上杉謙信VS小田氏治w
129人間七七四年:2010/04/13(火) 12:46:56 ID:tYnfik30
こんな無茶苦茶な戦いの先鋒命じられたあげく息子を失った菅谷さんの忠義は一体どこから沸いて来るんだw
130人間七七四年:2010/04/13(火) 13:10:31 ID:64rFHQCY
むしろここまでくると逆に小田さんは何故劉邦に成れなかったのかが気になる。
131人間七七四年:2010/04/13(火) 13:18:14 ID:6UI2eb9R
忠勇の臣はいても三名臣いないもの。

一旦傘下に加わった陳平さん的な人は佐竹家に走って何度も小田城落としてくれるしw
132人間七七四年:2010/04/13(火) 13:20:04 ID:EkZ9hXs9
うG真「小田氏治ダメすぎw」
133人間七七四年:2010/04/13(火) 13:39:14 ID:4Dk6CmRN
>>124
代替わりして息子や孫にまで仕えることを考えると、藤堂家以外は遠慮したいな
134人間七七四年:2010/04/13(火) 15:29:14 ID:ElERyj7y
>>128

人の話を聞かずに戦を仕掛ける小田さん
VS
調子に乗ったり、テンパったりすると聞く耳を持たなくなる石田さん

島左近の策略にノって突っ込む小田さん。もちろん小田さんフルボッコ
助けて菅エモン、菅エモン万能道具・決死のしんがり
島さん、引き上げを具申、石田さん無視してノリノリで追撃命令
石田さん、深追いし過ぎて(ノ∀`) アチャー

の夢の痛み分けが見てみたかった
135人間七七四年:2010/04/13(火) 15:38:32 ID:tNzX85Ig
>>130
策を聞いてくれない劉邦じゃ張良が100人いても(ry
136人間七七四年:2010/04/13(火) 15:43:36 ID:pKwKyMxN
>>130
劉邦というより戦闘力のまったくない項羽だろ
137人間七七四年:2010/04/13(火) 15:46:11 ID:/6Uxtu+s
なんか良いとこあるのかその項羽
138人間七七四年:2010/04/13(火) 15:55:02 ID:f2pK4zwA
決断力に秀でておりますぞ!
先祖から脈々と受け継がれた決断の早さ、ご覧くだされ!

先祖:よーし爺ちゃん北畠親房迎えて勤皇に勤めちゃうぞー 北朝何ぼのもんじゃーい
部下:高師冬の大軍が攻め寄せました!
先祖:こ、降伏して北朝ノタメにハタラキマス…

先祖2:鎮圧に大功を立てたと自負しているがこの恩賞では不満じゃ…乱の首謀者匿ってくれるわ。
→公方様にあっさりばれて監禁されて所領一部召し上げ

先祖3:上杉禅秀が公方に対して立ったとな!よし禅秀に味方するぞ!
→禅秀敗北。所領一部召し上げ。その後>>104の時には勝ち組についた。
139人間七七四年:2010/04/13(火) 15:57:48 ID:SwDhbpgm
おくさんがびじん
140人間七七四年:2010/04/13(火) 16:52:32 ID:emwfrEzY
>>133
藤堂家に仕えると
何かミスするたびに刀で切りつけられますがw
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3311.html
141人間七七四年:2010/04/13(火) 17:41:30 ID:Nf1fvKKC
いかんいかん。
小田家の負け戦は悪い話なのに、なぜか良い話に聞こえてくる。
142人間七七四年:2010/04/13(火) 17:51:48 ID:yZpQ7zOY
>>140
いいんだよ、高虎は実際に斬殺しないから「ちょっと悪い話」レベルで収まってるし。
他の……あれ、外で物音が?
143人間七七四年:2010/04/13(火) 17:57:40 ID:ZAqbI6BG
>>142
小田天庵「やあ、僕と一緒に上杉輝虎を破ろうじゃないか!
       >>124の人たちから推挙を受けたんだ、君なら出来る、と」
144人間七七四年:2010/04/13(火) 18:01:03 ID:8HwYodC/
小田、ていうか一族の岡見氏には軍記物の栗林義長がおるよね
狐の子孫で京で軍略を学び地元に戻ってからは連戦連勝のさ
145人間七七四年:2010/04/13(火) 18:53:59 ID:CuIQlFyE
小田氏治は上杉をまったく恐れてないんだな、、、。
146人間七七四年:2010/04/13(火) 19:25:31 ID:XZL/F88a
誰とやっても結果は同じなんだから恐れる必要がない
147人間七七四年:2010/04/13(火) 19:28:13 ID:ykY0EuF5
テストで普通の出来の奴はここが出来なかった、あそこが出来なかったと思うんだよ。
全く出来てなかった奴は自分が駄目だった部分すら分からなくて自信満々だったりするんだよ。

氏治さんの実力では負けた時に何が悪かったのかも無論分からないし、相手の実力も読めない。
当然軍神様の軍事の実力なんか分からないのさw
148人間七七四年:2010/04/13(火) 20:29:18 ID:/ZkjBuCZ
>>94と同じところから本文そのまま
高太寺の風来和尚

應永3年(1396年)和庵清順という和尚がふらりと皿尾村(行田市皿尾)にやってきて阿弥陀堂に寓居していた。

当時、近隣を支配していた地頭・成田家時はこの和尚を招き、対談するうちに大いに心服。
和庵に請して應永18年、成田村(熊谷市上之)に龍淵寺を菩提寺として創建させる。

永享12年(1440)には成田顕泰によって伽藍が整われ栄えるが、
寛正5年(1464)和庵和尚はまたふらりと去って行き、その後は行方知らずとなる。

時が下って戦国時代、忍城主になっていた成田家17代・氏長は、阿弥陀堂があった皿尾村の地に和庵和尚を偲び、
元亀元年(1570)龍淵寺から九世海岸御龍和尚を開山に高太寺を創建する。


寺には室町時代の作と思われる、高24cmの寄木造りの釈迦如来座像がある。
漆箔、彫眼、中国風の画相の像は市指定文化財となっている。
149人間七七四年:2010/04/13(火) 20:32:55 ID:/ZkjBuCZ
おおおっと すいません、管理人さん
まとめサイト見ていませんでした。
>>94>>148は行田市の寺院にある逸話としお願いします。
一様、その転載先には
毛利水軍の大将の藤井太郎右衛門(?)の敗戦後
松永久秀の子孫のその後
家康や正木利英などの逸話があります
150人間七七四年:2010/04/13(火) 21:28:11 ID:ElERyj7y
>>146
モニターとキーボードがお茶びたしになったじゃないかww!
151人間七七四年:2010/04/13(火) 22:18:50 ID:nyw00BbS
冷静になって考えてみれば、その身を死地に置く背水の陣で敗北しておきながら
如何に殿軍の犠牲があったとはいえ、無事逃れられるって何気にすごいような……

誰とやっても結果は同じ=相手が軍神だろうが天庵公を殲滅できない

結論:この勝負引き分け!
152人間七七四年:2010/04/13(火) 22:59:01 ID:fDkHICXV
小田天庵=はぐれメタル
153人間七七四年:2010/04/13(火) 22:59:34 ID:Yzoi8Dd0
但し経験値は0
154人間七七四年:2010/04/14(水) 02:49:54 ID:nqPitrgM
岡豊前守家利と言えば、長船貞親亡き後浮田家の家政を取り仕切った重臣であったのだが、
文禄元年(1592)、朝鮮への出陣のさい釜山においてにわかに病を発した。
主君、宇喜多秀家はこの老臣の発病に大いに驚き、医師をして治療に当たらせたがその効なく、病状は重体となった。

秀家は涙を流して家利の枕元に寄り、声をかけた

「何か言い残しておくべきことはないか?思うところがあれば何でも良い、申し置くのだ。」

しかし家利

「わたくしには秀家様のために申し置きたいことがあります。しかし言ったとしても、とても用いては頂けないでしょう。」

「何を言うか!私がお前の遺言に背くなどと言うことが有るだろうか!?殊にお前が、私のためにと言っているのに!
神にかけてこれを誓おう!」

これを聞いて家利は大いに喜び、近習の者たちを下がらせた上で、言った

「これは秀家様、そし宇喜多の御家の長久を考えた上でのことです。
どうか、長船綱直を重く用いることをおやめ下さい!」

長船綱直は長船貞親の子で、この頃秀家にとって最大の寵臣であった。

「処分をしろと言うのではありません。彼の父長船貞親は、御家に大変に忠義をいたしました。その父の功があります。
ですから、長船綱直を外様並の者とし、御前に近づかぬようにしていただきたいのです!
どうかこの事を…」

これだけのことを伝えると、岡家利は死んだ。
秀家は大いに嘆き、その子蔵人を越前守に受領させ岡家を継がしめ家老職になした。

だが、

それでも秀家は家利の遺言を用いること無く、長船綱直を重用し続けた。
長船綱直は宇喜多家の中で専制と言っていいほどの権勢を誇り、これが後に、宇喜多家を事実上分裂させた
宇喜多騒動を起こす原因となる。

用いられなかった岡家利の遺言、のお話。
155人間七七四年:2010/04/14(水) 11:23:29 ID:XcHOX7LN
>>129 血が良いからじゃ?
156人間七七四年:2010/04/14(水) 21:43:32 ID:jZTmGP3L
天文の頃、遠州気賀に住み着いたある一団があった。
信州の小笠原、木曽の傘下であったのが武田信玄に圧迫されて、今川氏を頼って移った尾藤主膳、竹田高正、山村修理らの諸将である。
彼らはここに堀川城を築き、新天地で安息の時を得るかに見えた。

ところが永禄三年、桶狭間の合戦で今川義元が敗死すると、ここ遠州には徳川家康の手が伸びてくる。
そして永禄十二年、押し寄せる徳川軍を前に気賀の住人は老若男女城に立てこもって善戦するも、
家康の手によってついに陥落、住民3000人の内1700人が討たれるという壮絶な撫で斬りにあって滅亡した。

このとき、城将尾藤主膳、山村修理、斎藤為吉、竹田高正、同高直、同高道らも討死・自害して、
高正の4男乙若丸と、桶狭間の後に尾張で森可成に仕えていた主膳の弟源内が残された。
しかしこの源内も嫡男又八郎とともに宇佐山城の戦いで主君可成に殉じ、
次男・甚右衛門と三男・久右衛門が残される。後の豊臣家臣、尾藤知宣と宇多頼忠の兄弟である。

尾藤知宣は豊臣秀吉に早くから仕え、小牧の役、四国征伐に従軍して5万石を領し、黄母衣衆に名を連ねて羽柴四天王の一人とも称される。
遠州に残って武田氏に仕えていた頼忠も、兄を頼って秀吉に士官、秀長の家臣として1万3千石を領する重臣となる。
政権の腹心石田三成とも娘を嫁がせて結びつき、兄弟の行末は安泰かに見えた…

だが、さらにさらに悪い運命がこの一族を襲うのである。
まず兄・知宣は九州征伐で失態を演じて改易され、小田原攻めで秀吉の前に現われて許しを乞うも、
許されずに処刑されてしまう。
そして頼忠も所領を返上し、三成の元へ身を寄せたのだが、
後に起こる関ケ原の役で西軍は敗戦、彼も燃え落ちる佐和山城と運命を共にしたのであった…。

一方、堀川城の悲劇を免れた竹田乙若丸。
3歳で故地信州木曽に逃れた彼は、数年の雌伏を経て高治と称し、尾藤兄弟と同じく豊臣家に仕えた。
そして、大坂の陣では毛利勝永隊に属して戦っている。竹田永翁である。
しかし父兄の仇敵家康の率いる天下の軍勢の前に大坂も落城、
永翁も鴫野の戦いで戦死したとも、大坂城千畳敷で自害したとも言われている。


そんな、代々ついてない一族の話
157人間七七四年:2010/04/14(水) 21:49:54 ID:D2BGxzg4
>>156
家康が若い頃に皆殺しやってたなんて意外だ・・・
まあきれいごとで戦国大名が務まるはずもないが。
158人間七七四年:2010/04/14(水) 22:44:21 ID:nqPitrgM
>>157
堀川城は掛川城で和睦した帰りの家康に、領民主体で家康襲撃を計画して、
それを察知した家康が雑兵の姿になって難を避けたことがあった。

そのくらい堀川城は反家康的な空気が強かったのだろう。
それもあっての撫で斬りだと思われる。
159人間七七四年:2010/04/14(水) 23:10:28 ID:kLlbWRsQ
家康って、基本的には鷹揚だけど、反抗的な有象無象な人材には容赦ないって感じかしら?
本田正信とかくらいなら、許されるにしても
160人間七七四年:2010/04/14(水) 23:31:37 ID:+sTMxZ5e
家康熱狂

体に悪い話。徳川家康は生涯で四十数回に渡り戦場に臨んだという。
戦では切迫した事態になる事もある。
そんな時、彼のアドレナリン分泌は最高に達するのであろう。

 家康「ハイになってきたー!!」

家康は興奮を鎮める事ができず、鞍の前輪を思いっきり殴打するのだ。

 (゚Д゚;)「と、殿! 指の節から血が吹き出ておりますぞ!?」

興奮しすぎると血を流すほど殴りつけたという。
のちにこの癖は治したらしいが、繰り返すうちに指の節にはタコができてしまった。
老後の家康は、節がこわばるので、すぐに指がまっすぐにならなかったという。
161人間七七四年:2010/04/14(水) 23:51:29 ID:/Sfb2tlS
若い頃はそんなに激昂しやすかったのか
これを沈める為に三河武士の面々がめんどくさくなったのかもしれんなw
三方ヶ原で脱糞した挙句
ばあさんに追いかけられてこの癖が直ったんだろうな
162人間七七四年:2010/04/14(水) 23:58:00 ID:D2BGxzg4
ウンコ漏らすのは、入れ込みやすい性格ゆえだよね。
同じ性格の両面だ。
163人間七七四年:2010/04/15(木) 00:13:20 ID:lMY6nLDS
>>159
つーか堀川城の撫で斬りで、それに連携していた周辺の城は全て、家康に戦わずして
屈服したので、当時の家康としては必要なことだったんだろう。
164人間七七四年:2010/04/15(木) 00:38:01 ID:FzIA41Jx
>>163
家康が、堀川城を撫で斬りにすれば他は降参してくると予測したから、あえて撫で斬りしたってこと?
そんな神がかったシミュレーションって、実在の人間に可能なのかね?

報復のために撫で斬りにしたら、思いがけず周囲の城砦まで自落してくれたので儲けた、って話の方が可能性が高そうだ。
165人間七七四年:2010/04/15(木) 00:54:10 ID:gRl4P4Ja
>>164
むかーーしからある手段ではあるからね
チンギスハンも最も近くにある町は残虐非道を尽くし皆殺しにしてその噂が広まったところで
次の街からは降服勧告だけで落として行ったらしいし
166人間七七四年:2010/04/15(木) 00:56:00 ID:lMY6nLDS
>>164
戦国期の撫で斬りって言うのは、敵対する勢力に領民の安全保障をする能力が無いことを
知らしめるための戦術、と言うのが今の歴史学では定説だと思う。

この撫で斬りで家康は、反徳川の勢力には家康に対抗して住民の安全を保証する
能力が存在しない、と言うことを知らしめたわけで、遠江を侵略する立場であった
家康としては、その権威の確立のためにもどこかで見せしめが必要だったとは思う。

家康に限らず戦国大名には、強面の面を見せて住民を屈服させないといけない時期が
必ずあるものだよ。良い悪いとは別の意味でね。
167人間七七四年:2010/04/15(木) 01:15:20 ID:xOWUbr1l
まぁ単にあまりに刃向かうので切れただけかも知れないけどね
168人間七七四年:2010/04/15(木) 08:02:39 ID:h6GANVUF
後付けの理由ならいくらでも出てくるよね
無理に理由探ししなくてもいいんじゃね、人間にはそら凶暴な面もあるんだし

「あいつらムカつくから虐殺してみたら思いの外結果がうまくいったから評価されちゃった」
ぐらいでいいと思う
169人間七七四年:2010/04/15(木) 08:10:30 ID:kMxiuTol
最初に撫で切りは戦国時代ではよくあるものらしいね
秀吉も中国地方攻略でやってるし
170人間七七四年:2010/04/15(木) 13:45:08 ID:nxrAmw0I
(・д●) 呼んだ?
171人間七七四年:2010/04/15(木) 13:47:47 ID:RbQ/Lchj
>>168
いくら戦国時代だからってそんな、皆がみんな鬼武蔵な訳じゃないんだからさ…
172人間七七四年:2010/04/15(木) 13:55:18 ID:sh6KQArE
晴信「三千の首を晒したら城兵が戦意を喪失したよ」
173人間七七四年:2010/04/15(木) 14:02:42 ID:d6XyH1Nv
>>168
ハイになれば理由無く虐殺しても普通と言わんばかりの考え方に恐怖を覚えてしまった。
174人間七七四年:2010/04/15(木) 14:09:08 ID:y58q6yUb
>>172
降伏しても殺されると思われて
最後まで抵抗されてたような
175人間七七四年:2010/04/15(木) 14:17:53 ID:q/P/f/9f
捕虜にして、独りを残して両目を潰して、残った片目に先導させて、捕虜を解放したほうが
よっぽど戦意喪失するな。
176人間七七四年:2010/04/15(木) 14:38:03 ID:HGFNgipT
>>170
伊達さん、眼帯の左右間違ってますよ
177人間七七四年:2010/04/15(木) 15:13:41 ID:dHPjgVuH
信長「降伏すれば命は助けるって言うと大抵降伏してくるよ、出てきたところを皆殺しだけど」
178人間七七四年:2010/04/15(木) 15:32:36 ID:q7jbv+3G
直家「みんな野蛮すぎ。一人で十分だろ」
179人間七七四年:2010/04/15(木) 16:07:37 ID:H/+4zC9M
確かに
直家様はジェントルマンじゃな。
180人間七七四年:2010/04/15(木) 16:24:21 ID:poA0zxAn
>>177
忠長「お言葉ですが、降伏すれば命を助けるといっても降伏しなかったですよ…
   むしろ味方の被害が大きくなって殲滅作戦なんてするもんじゃないと思いました
   殺したくない人も殺しましたしあれはトラウマになりました…」
181人間七七四年:2010/04/15(木) 17:04:12 ID:tqUegU4w
>>177
仁科五郎「お前の手口は、岩村城の件で既に知ってるから」
182人間七七四年:2010/04/15(木) 20:42:30 ID:U5OSEXt1
将軍の食膳に異物が入っているようなことは滅多にあるものではないが、
四代将軍家綱が汁物を飲もうとしたとき、毛髪が入っていたことがある。
家綱はそれを平然と箸でつまんで取りだした。
しかし、これを見ていた小姓はあわてた。
「すぐに新しいものを持ってまいります」
と言って椀を取り上げようとした。対して家綱は、
「その汁は途中で捨て、椀を空にしてから持ってまいるのだぞ」
お代わりをしたことにせよと暗に催促した。さもないと誰かが責任をとって島流しにでもされてしまう。
これは家綱なりの心づかいであった。毒殺などの脅威よりも煩わしい処分や配下の身を案じるという、
なんとも、戦雲のおさまった天下太平の時代らしい話である。

時は遡り、三代将軍家光のころは、まだ戦国の遺風があちこちに残っていた。
食膳を預かる者にしてもまだまだ武骨であった。

家光は隅田川を渡って、向島に鷹狩りに来た。
その日はあいにく風が強くて獲物がなく、家光は不機嫌だった。
木母寺で食事をとることになり、膳が出た。家光が汁物をすすったところ、砂が入っていた。
「台所頭に腹を切らせよ」
家光は即刻、近侍の内田正信に命じた。
武将マニアの家光でもあり、このあたりの処断は戦国時代の気風濃厚である。
これを伝えられた台所頭の鈴木喜左衛門は、すぐにまかり出ると、
「御膳に砂が入っていたわけではございませぬ。
今日のような風の強い日に、上様が御口をすすがずに召されましたから、砂をかまれたのでしょう。
口をすすがれてのち砂をかまれましたのならば、首をはねられるなり、腹を切るなり仰せに従いまする」
喜左衛門の言うとおりであった。
家光は彼の申し開きを賞して二百石を加増している。

同じ将軍とはいえ時が変われば質も変わるというお話。
183人間七七四年:2010/04/15(木) 21:14:11 ID:poA0zxAn
>>182
戦国武将一同「戦陣で砂が入った程度で首を刎ねていたら人が足りぬわ」
184人間七七四年:2010/04/15(木) 21:22:37 ID:FzIA41Jx
本当に戦国時代には
汁に砂が入っていた程度のことで切腹させたりしたのだろうか?
185人間七七四年:2010/04/15(木) 21:28:13 ID:h6GANVUF
妻の姿を見ただけで庭師を斬り殺した武将もいるくらいだから不思議じゃないだろ
186人間七七四年:2010/04/15(木) 21:30:35 ID:sG8ajLeK
いても不思議はない気もするけど実例誰かいるか?
187人間七七四年:2010/04/15(木) 22:17:06 ID:x6sY4/re
石田三成の有名な逸話
関ヶ原の戦いの敗戦の後、捕らわれの身になった際
ノドが渇き水を所望した三成が、水が無いので変わりに出された干し柿を、
「柿は痰の毒だ」と拒否したというお話。

ここで一つ豆知識。
干し柿の主な効能として、肺を潤し咳を止める効果があり、
さらに干し柿のまわりの白い粉末には「化痰」=痰を溶かす効果があるそうです

……素直に食ったほうが良かったのかもしれないという話。
188人間七七四年:2010/04/15(木) 22:21:55 ID:DGnhtf+1
>>164
現在の凡人より古代・中世の天才の方が遥かに賢い
俺がその時代にタイムスリップしても何もできそうにないもん
189人間七七四年:2010/04/15(木) 22:31:23 ID:9QFlIhv8
>>186
信長が京都で「飯が不味い」といって料理人を処刑しようとしたことがある。
ワンモアチャンスで濃い口味付けの料理を作って回避したという。
190人間七七四年:2010/04/15(木) 22:33:08 ID:lMY6nLDS
>>187
三成のこの干し柿の話は色々なパターンが有って、
与えられたものもこの干し柿から普通の生の柿、生水など、
そしてそれが与えられた場所も刑場に向かう途中から捕縛されて輸送される段階まで、
江戸期の関ヶ原を記録した書籍が違うと内容も違う、って感じになってる。

これに限らず三成が捕縛されてから処刑されるまでの過程は、えらく情報が交錯していて、
実際にはどういうものだったのか、さっぱり解らなかったりする。
191人間七七四年:2010/04/15(木) 22:46:48 ID:FzIA41Jx
>>189
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1102.html
有名なこの話でしょ?
切腹させようとしたのはあくまで三好家の捕虜の身分だったからだよ。
捕虜を処刑するのはごく当たり前のことだ。
お抱えの料理人をそんな理由だけで腹切らせたりしません。

192人間七七四年:2010/04/15(木) 22:52:13 ID:lMY6nLDS
>>191
> 捕虜を処刑するのはごく当たり前のことだ。

無い無い。戦国期、捕虜は普通身代金と交換されるか、そういう親族のいない場合は奴婢として
売られるか家内奴隷とされる。

この逸話は実際にあったかどうかはともかく、京の人間による「信長はこんなに野蛮で
田舎者」との嘲笑を含んだ話なわけで、そんながんばって信長を弁護するような必要のある
話じゃない。
193人間七七四年:2010/04/15(木) 23:03:17 ID:FzIA41Jx
>>192
『普通』も何も、日本の中世史では量的な研究はほとんどされてないよ。
史料ないからね。
捕虜は、解放されるものもあれば、奴隷として売られるものもあり、首を刎ねられる者もあった。
どういう扱いを受ける割合が多かったのかなんて、誰も分からないし、
ましてや「普通身代金〜云々」なんて断言できる根拠は何もない。

当たり前のことを書いてるだけで、特に信長を弁護する気などないけどね。
194人間七七四年:2010/04/15(木) 23:09:15 ID:lMY6nLDS
>>193
ここで議論する気はないけど、自分で資料がないからよく解らないと言っているものに、
「処刑するのは当たり前」なんて結論づけてるのはいかがかとおもうよ?
195人間七七四年:2010/04/16(金) 00:31:48 ID:9R3dRsqQ
天正元年(1573)9月1日、近江、小谷城は陥落。浅井長政は自害。
その妻であり織田信長の妹であるお市は三人の娘と共に信長のもとに送られた事、
これは有名である。

だがこの時、長政の嫡男である万福丸は別に密かに逃がされ、敦賀の木村貞之介と言う者に
預けられた。

万福丸の行方がわからぬことに気づいた信長は焦り、お市がその行方を知っていると考えた。
そして信長はお市の元に行くと、こう、打ち明けた

「万福丸の行方をお前は知っているであろう。どうか、それを教えて欲しい。
お前は、行方を教えればわしが万福丸を殺すと思っているのであろうが、それは違う。

わしは長政のことを恨んではおらぬ。むしろ、わしとよくあそこまで戦ったと尊敬しておる。
そしてその子の万福丸は、我が甥でもあるではないか。

わしはこの甥を手元におき、長政に劣らぬ立派な武将として育てたいのだ。」

お市はこれを信じ、信長に居場所を教えた。


万福丸は捕縛され、信長はすぐさま処刑を命じた。当然ながら万福丸を許す気など、最初から
ないのだ。

10月17日、万福丸は関ヶ原で串刺しの刑に処される。享年、10歳。
信長、禍根を絶つため妹をも謀る。と言うお話。
196人間七七四年:2010/04/16(金) 00:44:28 ID:BUT1+ySW
当然では有るのだけど、悲しい逸話だな
197人間七七四年:2010/04/16(金) 00:58:42 ID:nNqx+Jml
義光「妹の子を殺すなんて最悪だ! 甥っ子って超かわいいし!」
198人間七七四年:2010/04/16(金) 01:05:20 ID:OH3u5Xeh
晴信「甥を殺すとは非道な行いだな」
199人間七七四年:2010/04/16(金) 01:14:59 ID:KOnLWUC3
>>195
禍根断つためなら、斬首でもよくないか。
なんでいちいち磔って刑罰にするんだろ。
200人間七七四年:2010/04/16(金) 01:20:29 ID:BUT1+ySW
>>199
宣伝効果狙ってじゃないか?
後に「実は生きていた」だのの信憑性を下げられるし、
裏切り者への処遇を見せ付ける事にもなる
201人間七七四年:2010/04/16(金) 01:39:08 ID:5Ddi7wCF
津田信澄は優遇

万福丸は磔

どうしてこうなった・・・
202人間七七四年:2010/04/16(金) 01:44:54 ID:ZsGkmZTD
この話、万福丸を処刑したのは秀吉だったという説もあった様な。だから秀吉が
どんなにお市にアプローチしても見向きもされなかったとか。
203人間七七四年:2010/04/16(金) 01:46:15 ID:5Ddi7wCF
あと関が原で磔にしたのは交通の要所で往来が多いからって説も
204人間七七四年:2010/04/16(金) 02:33:20 ID:MRMCS7kI
>>182
家光って反っ歯で笑ってるように見える顔の男を「何笑ってるんだゴルァ」って処刑しようと
した話もあったし、戦国の気風とか以前に人格に問題があったとしか思えん・・・・
205人間七七四年:2010/04/16(金) 03:12:24 ID:QJIaPkC3
>>202
勝手に上司の甥っ子殺せないよ。
206人間七七四年:2010/04/16(金) 03:47:52 ID:hm5YhNAp
>>205
命令はその上司である兄から出ているとは判っていても
実行犯であった場合は、はい、そうですか、命令なら仕方ありませんでしたね、
あなたも小さい子供をむごい目に合わせるのはつらいかったでしょう
と、物分り良く感情がおさまるもんでも無いだろう
207人間七七四年:2010/04/16(金) 06:17:31 ID:vyBDDKfY
>>197
鮭の場合は実際それで兵を引いてしまったからあまりネタにはならんな
真実かわいいのは甥ではなく妹にしろ結局有情な道選んでしまったわけで

甥のほうは全く気にせず最上領狙いまくりだが(笑)
208人間七七四年:2010/04/16(金) 06:32:53 ID:Ob6Z/FIg
狙うだけで盗らないのは彼なりの愛情表現なんだよ
「伯父さんもっと僕を見て!」って言う
209人間七七四年:2010/04/16(金) 09:46:03 ID:3Sc5Xv/v
見せしめとはいえ、磔ならまだしも、串刺しだからなあ。
当時よくある処刑法だったの?
210人間七七四年:2010/04/16(金) 10:05:05 ID:cFJWoyQy
>>209
当時「串刺し」と書かれてる処刑法は、実際は磔の場合も多いそうだよ
211人間七七四年:2010/04/16(金) 10:11:21 ID:zTrlbJMG
>>194
>193 はあなたの主張している「身代金云々が普通」という意見にたいして
「史料的な問題で」普通とする根拠がないと指摘しているのであって、
「処刑するのが当たり前」なんて一言もいっていない、むしろその間逆の
事をいっているようなのだが。

相手が言っていないことを言ったと思い込んでそれに反論する。
何かを主張するのも反論するのも、まず日本語をきちんと理解できるように
してからにしたほうがいい。
212人間七七四年:2010/04/16(金) 10:37:11 ID:9p28Y210
まだやるんかい
213人間七七四年:2010/04/16(金) 11:18:45 ID:euOgDb5d
>>211
191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/15(木) 22:46:48 ID:FzIA41Jx
>>189
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1102.html
有名なこの話でしょ?
切腹させようとしたのはあくまで三好家の捕虜の身分だったからだよ。
捕虜を処刑するのはごく当たり前のことだ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

言ってるがな
214人間七七四年:2010/04/16(金) 11:53:46 ID:bpk/dX0X
>>213
うざいから続きはよそでやれ


淀川の鯉


細川勝元は無類の鯉料理好きで、中でも淀川の鯉には目がなかった。
あるとき、勝元が大名に招かれて鯉料理をふるまわれた際に、客が「立派な料理だ。」としか誉めない
のを聞いて、勝元は怒ってこう言った。
「この鯉は淀川の鯉で、その証拠に酒にひたしても汁がにごらない。これこそ日本一と言われる
淀鯉だけのことはある。客として招かれたのなら、これぐらいの気の利いた褒め言葉を言え。」

またあるとき、勝元の料理人が鯉料理を膳にあげたが、勝元は一口食べたきりで箸を置き、苦い顔で
こう言った。
「これはよその鯉であろう。鯉は淀川産に限る。このことしかと心得よ。」
215人間七七四年:2010/04/16(金) 13:10:35 ID:EXaivfmT
この鯉を調理したのは誰だぁっ!(AA略
216人間七七四年:2010/04/16(金) 13:45:34 ID:D+BCfFF6
恋は淀川秋刀魚は目黒
217人間七七四年:2010/04/16(金) 14:40:04 ID:EXaivfmT
??「実の親と長男に「腹切ってシネ!」などと、本心から言うわけがないではありませんか。
    あれは周囲に「細川はウラギラナイヨ」というアピールであって、
    わた……忠興様は、ご家族に対する愛情厚いナイスガイなんですよ」
218人間七七四年:2010/04/16(金) 16:39:33 ID:aXZwwDWe
おい、あっちで細川殿の奥様が見れるらしいぞ!
219人間七七四年:2010/04/16(金) 16:48:14 ID:EXaivfmT
貴様らぁっ! そこへ直れ! ぶち●してくれるわぁぁっ!!
220人間七七四年:2010/04/16(金) 17:07:37 ID:6+DhYf+q
封建制の権力者が美食家だと
やたらと舌が肥えちゃうんだよね。
221人間七七四年:2010/04/16(金) 17:58:01 ID:PXwAh8/J
ちなみに万福丸って長政と市との間の子じゃないぞ。
222人間七七四年:2010/04/16(金) 18:48:28 ID:RjJLpFae
川の上流部で育った鯉のほうが臭みがなくておいしい、と聞いたことがある
223人間七七四年:2010/04/16(金) 19:07:09 ID:yH+13z/i
>>200
俺は貧乏舌でよかったよ。
何食っても基本的に美味しいと思える。
コシヒカリからよくわからん米に変えたとき家族は
大ブーイングだったが、俺だけ違いがわからなかった。

そんな俺が不味いと思うものは本当に不味いんだとおもう。
224人間七七四年:2010/04/16(金) 20:20:50 ID:kv1FCVVO
>>207
甥の方は、周囲が親戚だらけで手加減してくれるのを良いことに、暴れ回ってたような
佐竹でも似たような話があるような
225人間七七四年:2010/04/16(金) 22:11:04 ID:9R3dRsqQ
細川勝元といえば、文安三年(1446)五月、勝元17歳の時のある夜、
勝元が衆道の恋人の内藤四郎左衛門と、同じ蚊帳の中に入ってキャッキャウフフしていると、
同じく勝元の恋人の塩飽(しわく)某という少年が、嫉妬のあまりヤンデレ化して、密かに忍び込んで
勝元と同衾していた内藤を斬り殺し、さらに近くに侍っていた同朋衆の一人も殺して逃走、という
色んな意味で地獄絵図の事件に巻き込まれてるな。
226人間七七四年:2010/04/16(金) 23:27:25 ID:g6oFnpgg
ハイティーンのうちからそんなただれた生活送ってるから
息子が魔法使い目指すようなアレな人に…
227人間七七四年:2010/04/16(金) 23:56:56 ID:KwgRXSlN
管領細川家が代々アレすぎたんが戦国時代の遠因だからねえ…
おつむもシモも、切れてるというか何というか
228人間七七四年:2010/04/17(土) 00:31:00 ID:VhFwW+ah
痔かよ>シモも切れてる
229人間七七四年:2010/04/17(土) 00:40:03 ID:iZs4IDJk
政元が俺空も飛べるはずにならずちゃんと子作りして京兆家の後継が
盤石だったら時代の趨勢は確かに違っていたかも知れないが…
230人間七七四年:2010/04/17(土) 00:46:35 ID:eozggVIB
⊂⊃                      ⊂⊃
        ⊂ \        /⊃
          \\ /⌒ヽ//
   ⊂⊃  ((   \( ^ω^)    ))
            /| 政元 ヘ       空も飛べるはず
          //( ヽノ \\
        ⊂/   ノ>ノ    \⊃
             レレ   スイスーイ   ⊂⊃
           彡
\____________________/

                 (⌒)
                   ̄
                O
               。
          /⌒ヽ
   ⊂二二二( ^ω^)二⊃
        | 政元./       ブーン
         ( ヽノ
         ノ>ノ
     三  レレ

これそのものだからなぁ
231人間七七四年:2010/04/17(土) 02:23:14 ID:bI7kWT2P
俺も子供の頃は夢想したことあるけどな。
高校のときは遊体離脱して女の子の部屋を覗きに行こうと企んだ。
中学の頃は通販の「隣の部屋が見えるメガネ」購入しようとした。
小学生の時は小説「透明人間」で油を使って透明人間になれたって
一文を読んで、サラダ油を身体に塗って透明になって
好きな女の子の部屋を覗きに行こうと思ったり。

でも大人になって空飛ぼうとしちゃいかんわな。
232人間七七四年:2010/04/17(土) 08:32:40 ID:bDIp2bww
政元「俺、魔法使いになる!だから一生セックスしないよ!」
謙信「俺も政元公みたいな魔法使いになる!だから一生セックスしないよ!」
俺「俺も政元公や謙信公みたいな魔法使いになる!だから一生セックスしないよ!」
233人間七七四年:2010/04/17(土) 08:53:28 ID:WMUKfG0g
俺はまだ何の魔法も使えないぞ
迷信じゃないのか
234人間七七四年:2010/04/17(土) 09:36:25 ID:B49jXcJq
>>232
謙信と政元は、やろうと思えばいくらでもできる環境下で
あえてセクロスしないことを選んでいるんだけど、
あんたの場合は、ただできないだけじゃないかw
235人間七七四年:2010/04/17(土) 09:41:40 ID:HSfC399q
今の日本だってやろうと思えばいくらでもできるだろ
基盤ありとか全然珍しくない
236人間七七四年:2010/04/17(土) 14:08:20 ID:pzmAaJlW
まあ、飯綱法って女とセックルしないってのは、あくまで数ある戒律や修行のうちの一つだし
セックルをせずに真言唱えたり、若い男の子掘ったり、滝に打たれたり、酒死ぬほど飲んだり、
「将軍の元服?烏帽子親だから行け?えーやだー烏帽子かぶんないとじゃーん。
めーんーどーくーさーいー。大体あの将軍いまいち好みじゃないのよね。
そそらないわー。えー私待ってるのー?きもいー超きもいー」くらいしないと
魔法使えるようになんねーんじゃないかな?
237人間七七四年:2010/04/17(土) 14:30:02 ID:7ogvEy0q
武州国成田郷の成田氏中興の名君とされる成田顕泰。
彼は嫡男親泰に家督を譲った後、文明十五年七月に武蔵を後にして京都に向かった。

「ワシは乱世の習いとは言え今まで人を殺しすぎた。隠居したからには諸国の神社
仏閣を巡り、罪を償い、子孫繁栄を願うのみだ」

しかし京都は応仁の乱以降、政情不安定となっていた為、信州の善光寺を詣でた後、
奥羽に向かうコトにした。
日本海側を北上し、出羽、鳥海の山々を巡り、太平洋側を松島、鹿島と南下する顕
泰。
翌年文明十六年初頭には安房に到達していた。

しかしココで旅の疲れから病に倒れた顕泰。
話を聞きつけた安房の領主、里見義豊も名医を連れて見舞いに訪れてくれたのだが、
そのかいもなく、六十二歳で死去。
顕泰の旅に付き従っていた正木源五入道と田久兵部入道の二人が主君の遺骨を成田
に届けたと言う。


以上、成田顕泰の廻国譚。
この後、

「ウソくせぇ」
「文明十六年に六十二歳って何? 顕泰はまだ二十歳そこそこのハズ」
「そーゆーのは検証スレで(ry」

と続くワケだが、近年の研究によると『成田記』顕泰前後の記録はどーやら一世代
ずれているらしく、この記録は顕泰の父、資員の事らしいのだ。

この資員、元は山内上杉家に従っていたが、古河公方家に寝返り、岩槻城を築城。
この頃は岩槻氏を名乗っていた武将である。
長尾景春の乱の際、景春に応じて挙兵したものの敗北。惣社長尾氏から顕泰が養子
として岩槻家(成田家)を相続&山内上杉家に帰参するコトになった。

他家からの養子を受け入れ、隠居するハメになった資員。
領地を放逐されたか、自ら落ち延びたか、再起を図って安房里見氏を頼ったという
のはありそうな話だと思う。

そう考えてみれば意外に現実味のある「成田顕泰の廻国譚」改め「岩槻資員の廻国
譚」でした。
238人間七七四年:2010/04/17(土) 14:33:00 ID:OZln4Fzn
どうせなら飯綱法より真言立川流で魔法を使えるようになりたい
239人間七七四年:2010/04/17(土) 15:57:40 ID:+dLsvSDB
ゴダイゴ天皇「そこにーゆーけばー どーんなゆーめーもかなうというよー」
240人間七七四年:2010/04/17(土) 19:44:04 ID:DI5o/PX3
カタカナにするなw
241人間七七四年:2010/04/17(土) 19:57:36 ID:kUyQn0DP
おにゃの子が大好きな後醍醐天皇には魔法はムリだw
仙人になる方法も接して漏らさずだから似てるな。
242人間七七四年:2010/04/18(日) 06:39:08 ID:/fKRorin
>>231が何気なくすごいと思ったの俺だけか?その発想はなかった。
243人間七七四年:2010/04/18(日) 07:21:41 ID:u/Y3kamX
三斎さんから忠利くんにお手紙ついた

寛永8年5月
「島津にお暇が許されない事をお前も不思議がってたが、別に不思議でも何でもない。
最近色々ある(駿河大納言忠長の事?)のに、「薩州まで領国に返してはどうか」って幕閣が考えただけのことさ。
島津は他の事心配してるようだけどww」

同年6月
「無事、島津に帰国が許されたようで、なによりだ。別れの挨拶として能興行をやるそうだが、『景清』
(平家の武将、悪七兵衛景清の娘が「父は“源氏に憎まれ、九州に隠れている”」と語るところから始まる演目w)
をやるってのはどうなんだ・・・」

寛永9年4月
「(肥後加藤家の騒動について)島津が、お前に「使者を送りたい」って言って来たけど断った。
「せめて書状だけでも!」とか、しつこく食い下がるんで、オレの書状と一緒に送るわ。返事は“オレに”届けてくれ。」

同年6月
「(同じく加藤家について)島津の家老の伊勢貞昌を通して忠恒に伝えておきたいが、最近貞昌は危篤状態になって
名医が治療してようやく「死なないだろう」という程度になったとか。原因は、ストレスらしい。
(原文:気之つかれと見え候間)
オレから忠恒に「何もさせるな、何も聞かせるな、養生させろ。」って説教して、忠恒も「ごもっとも」とか答えたけど、
忠恒ってば相変わらずちょっとした事でも貞昌に相談してるらしいwww
そういう訳で、お前からも貞昌へ見舞いの書状を出すべきだが、直接貞昌宛じゃなく、忠恒宛に出しとけ。」


4/20より国立博物館で開催の細川展支援のつもりで、三歳様の手紙から特定人物についてピックアップ。
悪久さん(´・ω・`)
244人間七七四年:2010/04/18(日) 08:29:54 ID:+ckd7k7u
忠興ほんっとマメだなあwそして家久(悪)wwwwww
245人間七七四年:2010/04/18(日) 09:44:46 ID:0dssxJu1
伊勢さんがエラいことになってるだけに
素直に「ざまぁ」と言えないw
246人間七七四年:2010/04/18(日) 15:35:22 ID:g2Xo1JSG
三歳さんて嫁以外のことに関してなら、まともな人なのか。
悪久は嫁に関しても非道という噂だけど。
247人間七七四年:2010/04/18(日) 16:08:59 ID:7eM0wYzP
悪久さんって、琉球攻めの時には「降伏した相手を殺すな。無抵抗な農民に狼藉するな。人取り禁止」とか
「降伏したら、すぐに応じろ。籠城が長引くようなら撤退しろ。徴発する米は琉球の年貢より軽くしろ」とか
誰彼かまわず非道だったわけでもないようだし

もっとも、これは島津軍の規律が緩んで自壊することを恐れてで、琉球の人に対して慈悲をもっていたとかじゃ
ないようだけど
248人間七七四年:2010/04/18(日) 18:06:38 ID:EvMdvu/n
略奪しまくって進軍してきた仙石軍のお宝を奪う為に島津兵の指揮がむちゃくちゃあがったって言うし。
豊後でさんざん略奪大会やったら
薩摩兵たちは自分たちが持ち帰れる限界まで略奪したあとに、どんどん勝手に軍を離れて
略奪品をたくさん持って帰っちゃったから軍が自壊したくらいだからな。
豊後で人さらいもさんざんやって肥後に拉致連行していった数が膨大で、
島津の略奪と焼き討ちによって疲弊していた肥後は、食糧がまったくなく深刻な飢餓状態になったから、
慌てて島原方面にどんどん日本人奴隷を連行して西洋人にタダ同然の値段でいいから買ってくれって哀願したほどだからな。
ちなみに宣教師の記録には薩摩は食糧の自給自足ができない痩せた地なので、
海を渡り略奪する仕事に従事する者たちばかりで、
薩摩出身の敬虔なキリシタンも故郷に戻った途端に略奪船に参加して討ち死にしたって話が出てくる。
宣教師もそれを信じられないとため息まじりに記しているくらい不毛な地が薩摩。
249人間七七四年:2010/04/18(日) 18:40:34 ID:J/TjxTpO
槍逸話

『越前』という言葉には包茎という隠語がある。
福井県民がたまたま広辞苑などを暇つぶしに開くから知っているかも程度の隠語であるが、
これは江戸時代に生まれた言葉である。

理由は、越前藩の大名行列では大きな鞘に入った大きな槍が先頭を自慢げに歩いていたからだそうである。

御手杵の福井人にとって悪い話・・・。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/3438/ecchuu.html
250人間七七四年:2010/04/18(日) 19:48:17 ID:0dssxJu1
>>247
慶長の役の時も似たようなことやってたり、朝鮮から帰って恩賞のない者への加増を
嘆願してやったり、自分に逆らわない人間には割と優しいんだよね>悪久

逆に敵認定した相手はド汚ぇ手を使ってでも排除してるし、さらに進んで信頼した人間には
依存しちゃって伊勢貞昌あたりのストレスがマッハな訳ですがw
251人間七七四年:2010/04/18(日) 22:06:35 ID:JISZwdd8
武田信玄が未だ、幼名の勝千代と呼ばれていた頃のこと。

ある時武田信虎は、人々を伴って据物を行ったことがあった。据物とは死罪となった罪人の死体を使って
刀の試し斬りをすることである。

最初、信虎自身が斬り、次に次男の次郎(後の典厩信繁)に仰せ付けた。
次郎は畏まり、手際よく胴を切り落とした。

その次に信虎は、勝千代に据物をすることを命じた。
勝千代はそれをどうにかしてに断わろうとしていたが、父であり主君たる信虎の命であり、已むを得ず、
刀をとって死骸に立ち寄った。

この時勝千代の顔色は青く変わり、手も震えている様子で、案の定斬り損じてしまった。
これに信虎は大いに怒り、次郎の手を引いて奥に入っていってしまった。

ところが勝千代は、信虎がいなくなった頃には顔色も直り、打ち笑って愉快気な様子であった。
これを見た周りの普通の者達は、勝千代のことを嘲り笑ったが、荻原昌勝だけは

「この人は大丈夫の器であり、将来智勇の大将となられるだろう。」

と感じ、 その事を甘利虎泰、板垣信方にも語ったのだと言う。

裏読みすると勝千代はわざと怯えた風を見せ信虎を怒らせ、その場から去らせた。
荻原はそれを見てとった、と言うことだろうか。

幼き日の武田信玄、据物を斬り損なう、と言うお話。
252人間七七四年:2010/04/18(日) 22:12:06 ID:JISZwdd8
余談ですが山梨県立博物館で、シンボル展・『実在した山本菅助』というのが
開催されるようです。
http://www.museum.pref.yamanashi.jp/5th_tenjiannai_symbol_018.htm

東京国立博物館の細川家の至宝展もいいですが、お近くの方はこちらもどうぞー。
253人間七七四年:2010/04/18(日) 22:21:01 ID:wainY35B
やはり勘助は実在しなかったのですね…
254人間七七四年:2010/04/18(日) 23:20:34 ID:lODuBCLS
架空の人物の元となったであろう人物が存在したからって、架空の人物が存在した事にはならないからね。

人魚の元となったジュゴンが存在したからって、人魚が存在した事にはならない。
255人間七七四年:2010/04/18(日) 23:26:06 ID:JISZwdd8
この記事によると

幻の軍師は実在した…有形文化財の信玄書状に「山本管助」、浮かび上がる人物像とは
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100417/acd1004171201002-n1.htm

>  県教委によると「書状は川中島合戦の作戦を先陣に伝えるためで、
> 『詳しい作戦はこの書状を届けた山本管助に聞け』と記されている」と説明する。

とあるので、「山本菅助」が信玄の作戦参謀スタッフの一人であったことは間違いないと思われる。
256人間七七四年:2010/04/18(日) 23:38:53 ID:lODuBCLS
「山本勘助」の元となった「山本菅助」という人が存在したんですね。
257人間七七四年:2010/04/18(日) 23:43:06 ID:Qo5l2OYA
同じ読みの場合、違う漢字で記述されることは別にこの時代珍しくもないし、
勘助と菅助は同一人物と考えて何の問題もないと思うが。
むしろ区別する方が不自然。
258人間七七四年:2010/04/18(日) 23:47:25 ID:Pyadni4Z
幸村はいないけど信繁はいるよ、ってのとはまた違うか。
「山本勘助」という人物はいたけれどただの足軽大将だった、という説もあったな。

>>251
若き日の信玄に関しては暗君っぽい逸話もあるよね。
てかそんな幼いうちから父を騙すなんて末恐ろしい…そうでもなきゃ戦国大名にはなれんか。
259人間七七四年:2010/04/18(日) 23:53:32 ID:lODuBCLS
「山本勘助」というのは、武田の作戦のほとんどを立案した名軍師を指すんじゃないの?

「山本菅助」が信玄の作戦参謀スタッフの一人っていうのは、
それなりに優秀なやつを元に、架空のすごい人物を創造したって事じゃないかな。

武田の作戦のほとんどを立案した名軍師なんていないが、
「山本菅助」が実在するから「山本勘助」が実在したって言うことはないと思うけど。
260人間七七四年:2010/04/18(日) 23:54:23 ID:lODuBCLS
まぁ「名軍師山本勘助」はいないけど、「山本勘助」という人物は実在したっていうならそうかもしれないけど。
261人間七七四年:2010/04/19(月) 00:22:13 ID:Z5AkxhDT
>>255の記事じゃないけど
群馬県で見つかった文書から菅助は東信濃から上野方面で活躍したらしいというのがあった。
ということは「真田幸隆は山本勘助の仲介で武田に仕官した。」というのも根も葉もない話ではないのかな。
262人間七七四年:2010/04/19(月) 01:31:51 ID:/7nQGK1m
信幸・信繁の親父である昌幸は三男なのに「源五郎」だし、
叔父にあたる真田信尹も幼名は「源次郎」だし、

太郎次郎とちゃんとわかってるのは甲斐武田さんの所だけでしょ。
263人間七七四年:2010/04/19(月) 01:38:54 ID:ZISpVAPD

江戸の川柳

>>>249
『越中(褌)が
外れて隣の
国が出る』

これだけだとスレ違いなので、

大久保彦左かく語る
「本能寺の折り、大阪で小舟に隠れて追手を撒いた時、権現様の隣におった儂はその心情を計る為
股間を握った所、
ダランと垂れておった。だから儂はこの場からの生還を疑わんかったわ。」

『麸の如く
大久保握り
奉り』
264人間七七四年:2010/04/19(月) 02:21:18 ID:C71DvlCy
後に地元の男衆にのみ密かに伝えられた奇祭、「勃て祭」の由来がこれである
なお、不覚にも達してしまった者は「勃て祭早漏」と呼ばれたという

って民明書房の本に書いてあった
265人間七七四年:2010/04/19(月) 05:13:06 ID:vE0qctlm
(ふぅ…この度は彦左の勘違いで焼き味噌などと言い訳せずに済んだわ)
266人間七七四年:2010/04/19(月) 10:33:28 ID:Aqj/umdA
垂れていたのは「う●こ」だったのか!
267人間七七四年:2010/04/19(月) 15:07:08 ID:eUVSCfR3
三河武士にとって権現様の…は窮地に陥っても生還の印
彦左ははじめから勘違いなどしておらん!
268人間七七四年:2010/04/19(月) 17:24:20 ID:K7LDPTLF
>>225

武田信玄「わし、血を見る破目にならんでよかった・・・」
269人間七七四年:2010/04/19(月) 21:08:42 ID:u83Ql+88
某犬千代 「同朋衆に手をかけるとはけしからん」
270人間七七四年:2010/04/20(火) 01:32:19 ID:26dkPRRV
武田信虎には、かわいがっていた猿があった。
「白川」と名付け、常に膝下においていたという。

天文六年(1537)6月11日のこと。
この猿が御座の間から、脇差を抜いてそれを持ったまま、誰にも知られずこっそりと抜け出した。

その日、鷹の間の当直は今井貞邦であった。
彼が鷹の間において一人で、少しうつむいた形で座していると、猿がその後ろから近づき、脇差を振って
今井の肩先を斬りつけた!

その日は暑気甚だしく、今井は薄い帷子の単を着ていただけであったので、脇差の刃は肌まで届き
背中は朱色に染まった。

猿の白川は血がでたことに驚いて鳴き叫んだ。そして今井は

「畜生に傷をつけられるとは我慢ならぬ!」

と激怒し、刀を抜いてこの白川を一刀のもと討殺した。
この音に驚いて、同僚である鎌田、織部、小山田彦太郎、安田三右衛門尉と言った者たちが集まってくる。
貞邦は事の次第を語り

「それがしは数ならぬ者であると言えども、若年より数々の合戦において、一度も不覚の名を
取ったことはありませぬ。それが今、この白川と言う猿によって薄手を負ってしまったこと、
口惜しくてなりませぬ。
もし世の人から、今井貞邦は畜生に追われて後傷を受けたのだ、などと笑いの種にされ、
後ろ指を指されてはその無念さはどれほどでしょうか。」

そう、涙を流して怒った。


しかし、この報告を受けた信虎は

「猿は元より畜生である、分別を持っているわけがないではないか!
貞邦が手傷を負ったのは誰のせいでも無い、ただ単にあ奴が不運であった為である。
それを何か!?わしが秘蔵する白川であると知っていながらそれを斬り殺すとは、
これはこの信虎に向かって太刀を振ったのと同じである!」

そう怒り狂い今井貞邦を捕縛させ、切腹とさせたと言う。


武田家の重臣達に、信虎排除を考えさせるきっかけになったとも言われる、武田信虎の猿についての
逸話である。
271人間七七四年:2010/04/20(火) 01:54:30 ID:swsYZo6a
刀で切りつけるとか芸達者過ぎるだろ猿w
272人間七七四年:2010/04/20(火) 02:23:29 ID:QEhhR7ZX
>>270
信玄は猿好きで、自作の猿の絵を贈っているほどだ。
273人間七七四年:2010/04/20(火) 08:25:51 ID:cf78VYSg
実は猿を調教していたのは信玄だったりしてな
274人間七七四年:2010/04/20(火) 10:54:46 ID:lxK5WoZz
道灌「猿と聞いて飛んできますた」
正宗「猿と聞いて(ry」
景勝「猿(ry」
275人間七七四年:2010/04/20(火) 10:55:42 ID:TPuSS1r/
ラスボス「貴様ら…猿猿猿猿と…」
276人間七七四年:2010/04/20(火) 11:10:44 ID:jDJRJFCQ
勝家さんと成政さんがニヤニヤしながら……
277人間七七四年:2010/04/20(火) 12:16:25 ID:E6NohDyP
道雪「悪い猿は打ち据え、ついでに主君に説教だ!」
278人間七七四年:2010/04/20(火) 15:01:35 ID:EzQWDSQR
丹羽長重の家臣に、南部無右衛門と、永原松雲という男がいた。

無右衛門は武辺者として知られたが、傍若無人の振る舞いがひどく、妻帯せずに養子をもらい、招かれもせぬ宴席に
養子まで連れてやって来ては膳を平らげ、しまいには重臣が長重を招いた席にも現れ、勝手に飲み食いした。
たまりかねた重臣が主君に苦言したが、長重は、
「無右衛門の行状はあきれ果てたものだが、ヤツの武勇はそれあってのもので、今さら改めさせても、
角を矯めて牛を殺すようなものだ。捨て置け。」と言うので、みな無右衛門に白い目を向けながら黙っていた。

一方、松雲は軍学や有職故実、和歌等に通じ、「あれこそ器量人よ。」と家中から賞賛を浴びる身だった。
面白くない無右衛門が、毒を吐く。
「ふん、口先の軍学など実戦の役に立つまい。いざ戦になれば手に覚えた、わしの早業に比べるべくもないわ。」
これを聞いた松雲も、
「無右衛門の如き葉武者は、しょせん槍一本の働きのみ。味方を勝利に導くような大功は、有り得ぬ。」と、罵った。


慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの機運が高まると、丹羽家中には人質を出すよう触れが出された。
養子しか家族のいない無右衛門は、これを断ったが、
「こんなお触れは、あの松雲めが軍学者ヅラして、わしへのイヤガラセに入れ知恵したものだな!よし、殺す。」
逆恨みして松雲の屋敷に駆けつけると、松雲への面会を申し込んだ。

日ごろ仲の悪い無右衛門の来訪に、イヤな予感がした松雲は居留守を使ったが、無右衛門は下男の断りを無視して
屋内に入り、松雲を発見すると脇差を抜いて松雲を押し倒した。
下になりながらも松雲は柔術で無右衛門のヒジを押え、腕を絡み取ると、脇差を奪い取って部屋の隅へ放り捨てた。
しかし、腕を取られながらも暴れることをやめない無右衛門は、
「ガ―――――ッ!!」松雲の鼻っ柱に噛み付き、松雲の家の者五、六人が取りついて、やっと押さえこんだ。
とんでもない騒ぎを起こした無右衛門だが、『戦の前に人数は減らせない』として、不問に付された。


その後、浅井畷で丹羽と前田の間で戦が起こり、丹羽家家老・江口三郎右衛門が敵を深追いし過ぎ、苦境に陥った。
一隊を任されていた松雲は、「もはや手遅れであり、救援は無益だ。」として、これを傍観し、自分の隊を温存した。
ところがその時。無右衛門が前田軍の真っ只中を駆け抜け、見事に江口隊を救出し、形勢を逆転してのけた。

無右衛門は「長重様の言葉に違わぬ奴」と賞賛を受け、松雲は「アレは、あてにならん」と評判を落としたそうな。
279人間七七四年:2010/04/20(火) 18:25:27 ID:AVlkW93K
なんとも言えん読後感だ
280人間七七四年:2010/04/20(火) 19:24:48 ID:zbAYi7sb
よし、殺すw
ひでえな、この即断即決
281人間七七四年:2010/04/20(火) 19:32:59 ID:WptP0hA0
戦場以外では確かに用のない人だ
282人間七七四年:2010/04/20(火) 19:52:51 ID:QEhhR7ZX
結婚もせずに養子をもらったということは
アッー!な関係なんだろうな
283人間七七四年:2010/04/20(火) 20:00:56 ID:+zEQWnEj
オレ、いい話のほうだと勘違いしていて、最後に窮地を救って仲良くなるんだなって思ってたけど
オチまで読んでから悪い話のほうだと気がついた
284人間七七四年:2010/04/20(火) 22:37:08 ID:fvtitRE5
>>270

俗に猿真似などと言いまして
普段、家臣を手討ちにしていた様を猿が真似したのでは・・・
老境に至っても孫の勝頼の前でハッスルし過ぎたようですし
285人間七七四年:2010/04/21(水) 04:16:47 ID:HiGIbu2R
もっと時代が下れば兎も角、この頃は衆道相手を養子にするってのは無いんじゃないの
俺が無学なだけかもしれんけど
286人間七七四年:2010/04/21(水) 07:28:23 ID:I6WbWXO8
こいつを養子にすれば後継者問題は解決するわ家中が安定するわでいい事づくしだお!
でも昔衆道関係を持っていたから養子にできない…くやしい…
って事はないだろう多分
287人間七七四年:2010/04/21(水) 07:43:02 ID:MUagPOOE
どっちにしろ大概のしきたりとか無視しそうじゃね?
288人間七七四年:2010/04/21(水) 08:20:42 ID:ITnr01ii
>>278
曲渕さんみたいな人だな >>無右衛門
289人間七七四年:2010/04/21(水) 18:10:20 ID:zMRw/f9d
来週三島に出張になったんだけど、その辺りの
悪い話しってある?
290人間七七四年:2010/04/21(水) 21:00:51 ID:TgTjSPyD
丹那トンネルしか思い浮かばない
291人間七七四年:2010/04/21(水) 21:31:38 ID:1YyCd9U3
遠江の掛川領主で、徳川家康の異父弟である松平隠岐守定勝の嫡男に、松平定吉と言う人がいた。
幼い頃から武芸に励み、伯父である家康から「後々には関東の旗頭ともなるべし。」と
大変可愛がられていたと言う。

慶長8年(1603年)の事。家康上洛の行列が掛川までやって来た。
定勝はこの時19歳の定吉に、行列が遠江を抜けるまでのけ警護を命じた。
そして荒居の渡しに差し掛かり、ここより船を連ねての海路となる。

定吉も家康の船に同船したがこの時、空の彼方に一羽の鷺が飛んでいるのが見えた。
家康も共の者たちも何気なしにそれを眺めていたが、定吉は近くにあった弓を取ると
矢をつがえて遥かかなたの鷺を狙い、見事射抜いた!

これには船に乗った人々拍手喝采で彼を讃えた。
いい気分になった定吉がそのまま家康の御前に出る。
ところが家康、

「定吉、詰まらぬ殺生をするな。飛ぶ鳥も景色のうちではないか。
それに弓矢をとって、万一射損じたらどうするのか?そちは笑いものになるだけだ。
いくら腕に覚えがあると言っても、いたずらにそれを誇るものではないぞ。」

そう、叱った。

定吉は掛川城に戻ると、恥ずかしさのあまりその夜、切腹して果てた。
突然の出来事に城中は大騒ぎとなり、さらに定吉の後を追って、彼の家来
20数人も殉死した。

父の松平定勝は、定吉とその殉死者を、家康に内密で城外の下俣に葬った。
後、ここに五輪塔が建てられ、いつしか「遠江塚」と呼ばれるようになり、
定吉が武勇に優れた若武者だったことから、それにあやかり自分の子が強く育つようにと、
弓矢、刀、鎧を供えこの塚に願をかける人々が絶えなかった、とのことである。


若気のいたりと言うべきだろうか。「遠江塚」の故事である。
292人間七七四年:2010/04/21(水) 22:09:38 ID:n1ikz504
>>289
悪い話か微妙だが

天正18年(1590)3月28日、小田原北条氏を攻め潰すべく、豊臣秀吉の大軍が伊豆三島に到着した。
翌29日、秀吉は甥・秀次を大将として、中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊・一柳直末ら諸将に
近隣の要害・山中城への攻撃を命じた。
諸将が動き出したその時、山中城の東の山道を、二十名ほどの騎馬隊が駆けて行くのが見えた。

「あれを見よ、山中城からの逃亡兵と見える。城の士気は低いぞ、一気に攻め落とせ!!」

はしゃぐ関白秀吉の号令のもと、諸将は我先にと山城を駆け上ったが、実は騎馬隊は小田原からの偵察隊。
秀吉の着陣を確認した後、帰るところであり、山中城では覚悟を決めた城将・松田右衛門大夫康長(憲秀従弟)、
副将・間宮豊前守康俊らが、敵が来るのを今や遅しと待ち構えていた。

中村隊の渡辺勘兵衛こそ雄々しく一番乗りを果たしたが、これは勘兵衛だから出来た武功であり、
次に一氏の小姓・中村才次郎が、「かかる時には身軽が一番」と、具足もつけずに城壁の上にまたがったが、
城兵から長刀で横薙ぎにされ、上半身は城内に、下半身は堀底へと落ちていった。

城攻めは泥沼化していったが、秀吉の命がある以上、無理攻めしてでも短期決戦で落とさねばならない。
業を煮やした一柳直末は、みずから先頭に立って攻め、ついに城内に攻め入ったが、次の瞬間。
間宮康俊率いる鉄砲隊の掃射を受け、蜂の巣となって絶命した。

山中落城後、秀吉は「直末ほどの者を亡くし、関東を得る喜びも無くなった。」と嘆いたが、後の祭り。
直末の知人の丹後一如院住職は、その訃報を聞いて領主の細川幽斎に和歌を送った。

「 あはれなり ひとり柳の 目もはるか もえ出しにける 野辺の煙りは 」

幽斎も、これに返歌した。

「 糸もなき 具足をかけて 鉄砲の 玉にも消ぬる 一つ柳か 」
293人間七七四年:2010/04/21(水) 22:10:34 ID:n1ikz504
以下蛇足

山中城の副将・間宮豊前守康俊は、「上方勢来る」の報に、孫の彦次郎十五歳を呼び寄せた。

「彦次郎、これからお前は急ぎ家人を連れ小田原へ行き、氏直様たちの行く末を見届けよ。
運があったならば生き延びて、わが名跡を永く伝えよ。」
彦次郎は、納得しない。
「なにゆえ、その様な事を…遠くにあっても家族のもとに駆けつけるのが本当でありましょう。
父上やお爺様を見捨て、どうして『間宮』の名字を名乗れましょう!?」

「この不孝者め!弓矢を捨て坊主にでもなれ、というなら、わしの過ちであり、お前の恥辱であろうが、
城を枕に討ち死にする我らに代わり、ご主君の大事を見届け、忠義を果たせ、というのだ。
それでも分からぬなら、不忠であり、不孝である。勘当するゆえ、どこへなりと消え失せよ!!」
「…分かり、ました………」

うつむき、手をつき、涙を流して彦次郎が了承すると、康俊は笑って孫一行を送り出した。

山中城が落ちて康俊が討ち死にしても、小田原城が落ちて北条宗家が滅んでも
彦次郎一党は必死に生き延び、後の世に『間宮』の家名を残した。
その子孫の一人の名を、林蔵という。
294人間七七四年:2010/04/22(木) 01:18:46 ID:6h4oYVX7
山中城は無理に力攻めしたせいで攻め手にも多数の死傷者が出たらしいねえ
295人間七七四年:2010/04/22(木) 02:31:06 ID:JB74hGga
強引に攻めて速攻で落として皆殺し。播磨攻めの時と同様の見せしめだな。
296人間七七四年:2010/04/22(木) 12:32:51 ID:dJ6cmGhV
まぁ、力攻めはそういうモンだしな
297人間七七四年:2010/04/22(木) 14:31:48 ID:jbEZIzwI
>>293
これはむしろいい話w
298人間七七四年:2010/04/22(木) 18:32:37 ID:WaGIrNvH
>>292
ありがとう。
三島に着いた際は、強たちを偲びながらうな重を
掻っ込もうと思う。

現地で良い話し仕入れられるといいな。
299人間七七四年:2010/04/23(金) 08:06:48 ID:AwxoI8hA
>「あれを見よ、山中城からの逃亡兵と見える。城の士気は低いぞ、一気に攻め落とせ!!」
城攻め上手の秀吉にしちゃ迂闊な早合点だったな
圧倒的な戦力優位に立ってたせいでさすがに油断が生じてたのかね?
300人間七七四年:2010/04/23(金) 08:39:10 ID:FR5ED3Fj
味方の志気を高める為の方便じゃないかな
301人間七七四年:2010/04/23(金) 09:20:33 ID:q2Y3LaOy
雑兵ならともかく、騎乗身分がまとまって出ていったから油断と合間って早トチりしたのかもな
302人間七七四年:2010/04/23(金) 10:23:17 ID:QnZWhO2z
既出だったらスルーしてくれ
上杉謙信と不思議な弾丸

謙信が武州忍城攻めをしたときのこと。
篭城の構えを取る忍城を、謙信は自ら見て回った。

狭間口まで来たとき、やぐらの上から成田の兵たちが10人ばかり、
鉄砲で彼に銃弾を浴びせた。しかし、弾はあたらない。
謙信はこれをものともせずに忍城を見ている。
兵たちは自分達が相対している武者が敵の大将だとは知らなかったが、
ともかく再び銃撃した。しかし、やっぱりあたらない。

とある兵が
「ああいう勇猛な武将には弾丸は当たらないって聞く。
 城内に金で出来た弾丸があるから、それを使ってみよう」
と言い出して、3発も撃った。しかし、3発ともことごとく謙信から外れた。

兵たちはついに鉄砲を投げ出し、
「このような名将を我ら如き雑兵で殺してしまってはもったいない!
 どうぞお帰りあれ!」
これを聞いた謙信は、悠々と馬首をめぐらせて陣に戻った。
上杉の家臣も関東の諸将も、この不思議な光景を固唾を呑んで見守っていた。

その夜、家臣の宇佐美定満が謙信に意見した。
「かの源義経も、弓矢の的になった際に家臣に諌められております。
 今日の殿も同じ。敵の弾に当たって死ぬなど犬死にござる。
 以後、お気をつけられよ」

謙信は
「確かにお前の言うことはもっともだ。
 が、人間は死のうと思えは生き、生きようと思えば死ぬものだ。
 心を集中して動じていなければ、火に入っても焼けないし
 水に入ってもおぼれぬ、とある人に言われたのだよ」
そう言って笑った。
これには宇佐美も何も言えなかったという。

(家臣たちの心臓に)悪い話。
303人間七七四年:2010/04/23(金) 11:13:49 ID:Bfov9QvL
鉄砲の有効射程を把握してて、「あの距離じゃどうせ当たらないよ」って言ってたらいい話なのに。
304人間七七四年:2010/04/23(金) 11:20:28 ID:0vMlJy/D
謙信はどこまでガチなのかわからんから怖い
305人間七七四年:2010/04/23(金) 11:53:51 ID:+jjCQPe4
金じゃなくて銀の弾丸を使うべきだった。
306人間七七四年:2010/04/23(金) 12:27:36 ID:Ptsx0RCp
金の弾じゃ当たっても「ラッキー、もうけたw」と逆に喜ばれるんじゃね
307人間七七四年:2010/04/23(金) 13:56:28 ID:qqK9pBoy
氏治「ラッキーいいこと聞いた!俺もやってみようっと」
308人間七七四年:2010/04/23(金) 15:11:58 ID:Ax7uHI2W
謙信と鉄砲の逸話といえば小田原城を包囲したとき、篭城する城方を挑発する為に
兜をかぶらず敵前で弁当を食べた超有名な話があったな

北条方の鉄砲隊が銃撃して袖を撃ち抜いたが本人は悠々と食べ続けたという
309人間七七四年:2010/04/23(金) 15:27:46 ID:ZYQnTSmA
そういう挑発の話は割と聞くけど、そのまま撃ち殺されたって話はきいたことないな。
310人間七七四年:2010/04/23(金) 15:33:54 ID:Huy6ZenZ
19世紀初頭のマスケット銃の命中率が100ヤードで50%というから
工作精度も悪い戦国時代の火縄銃なら当たらない…と思う。
311人間七七四年:2010/04/23(金) 15:42:11 ID:g7GQHIIX
>>310
鬼武蔵「ケンカ売ってんのか?」
312人間七七四年:2010/04/23(金) 15:44:06 ID:Ax7uHI2W
天罰とかマジであると思うよ・・・
313人間七七四年:2010/04/23(金) 16:07:45 ID:dcWtVQG6
んじゃ軍神謙信公のちょっとかっこ悪い話をひとつ


今公明

1566年3月に上杉謙信は15000人の大軍を率いて、原胤貞以下2000の兵がいる下総臼井城を包囲し、
臼井城は上杉軍の猛攻の前に落城寸前となった。
と、たまたま城内に居合わせた男が「今孔明」と関東一円に聞こえた軍略家・白井胤治で、落城寸前の
城の指揮権を原から託された。

胤治は「上杉軍は大軍で味方は寡勢であるが、士気はお味方の方が勝っています。かならずや、謙信
めを蹴散らしてくれましょうぞ!」と士気を鼓舞した。
一方、「この程度の小城なぞ一気に攻め落としてしまえ!」と3月26日に謙信は総攻撃をかける。
対して、胤治はなんと城門を全開にして謙信の本陣目がけて突撃をかけ、不意をつかれた謙信軍は大
混乱に陥り一時撤退を余儀なくされた。

翌日、「勢いに乗る原はかならずや攻め込んでくるだろう。」と本陣で手ぐすね引いて待っていた謙信だが、
いっこうに敵はせめてこない。
ついにしびれをきらした謙信は、家来が「今日は悪日です。」と止めるのも聞かずに総攻撃をかけた。
それを待っていたかのように、胤治は臼井城の城壁を一気に倒し、轟音とともに取り付いた上杉兵数百を
崩れた城壁の下敷きにした。

「はわわ。」
謙信はあわてて全軍に撤退命令をだすも、城内から原の軍勢が一気に襲いかかり上杉軍は5000の死傷
者を出して命からがら逃げたという。

314人間七七四年:2010/04/23(金) 16:16:39 ID:S1Xnd0ZB
白井さんの良い話なんだけどその字がですね・・・
315人間七七四年:2010/04/23(金) 16:25:58 ID:0vMlJy/D
「はわわ」はやめなさい「はわわ」わw
316人間七七四年:2010/04/23(金) 17:23:18 ID:oKcdDW72
軍師交代をお知らせいたします
軍師白井胤治に変わりまして背番号1小田氏治、軍師小田氏治です。

それでは逆転を許した上杉軍9回裏の最後の攻撃です
317人間七七四年:2010/04/23(金) 17:33:32 ID:0vMlJy/D
マモノの出番と聞いて        炎上神のお告げときいて    劇場→忍城堤防決壊ときいて

     |\_/ ̄ ̄\_/|     |\_/ ̄ ̄\_/|     |\_/ ̄ ̄\_/|
     \_|  ▼ ▼|_/     \_|  ▼ ▼|_/     \_|  ▼ ▼|_/
        \  皿 /.          \ 皿 /          \  皿 /
   キコキコ □( ヽ┬U      キコキコ □( ヽ┬U       キコキコ □( ヽ┬U
   〜 〜. ◎−>┘◎       〜 ◎−>┘◎      〜〜 ◎−>┘◎
318人間七七四年:2010/04/23(金) 17:35:08 ID:+ih0uZ/g
はわわ ってw かわいい
319人間七七四年:2010/04/23(金) 18:11:08 ID:StKMGnG4
「ジャーン、ジャーン」もあればなおよかった
320人間七七四年:2010/04/23(金) 18:11:13 ID:i18WiL2U
謙信のキャラがまた変わる。w
321人間七七四年:2010/04/23(金) 18:17:22 ID:Bfov9QvL
そして謙信女性説ですね、わかります
322人間七七四年:2010/04/23(金) 18:27:49 ID:vRRJ9VJA
>>313
創価がらみの話かと思ったわ
323人間七七四年:2010/04/23(金) 18:40:51 ID:lXUcfwmf
>>303
「何を怯えている!
あんな遠くから撃っててあた(ドカーン」

合衆国の南北戦争時の南軍某将軍(名前忘れた)の最期の言葉ってネタもありまして。
324人間七七四年:2010/04/23(金) 19:18:03 ID:SsOIqj5d
天文15年(1546)、武田軍が関東管領上杉憲政の軍を粉砕した笛吹(碓氷)峠の戦い。
この合戦の後、武田晴信は上杉勢の押さえとして板垣信方を置いた。

さて信方はこの陣営において、先の合戦で高名した者にも働きの無かった者にも、皆に
饗応をする、と触れた。
しかしそれには区別があり、先ず饗応の会場を上中下の三つに分け、優れた高名を成したものには三の膳を、
中程の高名には二の膳、働きの無いものには本膳のみ、
さらに二の膳、三の膳には赤椀を用い、それに種々の魚鳥の料理が盛られていたが、
本膳だけの方は黒椀で、それに配膳されているのも精進料理であった。

しかし働きの無かった者とは言えこの差別は流石にいかがなものかと、信方の家臣たちも懸念し
これを密かに信方に告げた。
これを聞くと信方、意外な顔をして

「違う違う、お主達は勘違いをしている。
先の戦では慈悲深い連中が、後生大事だと言うことで敵の首をとらなかった。
こう言った者たちはきっと、平生より受戒を守って食事なども生臭をさけ、精進食を食っているに違いない。
その者たちに肉食をさせ、わざわざ破戒の業をさせるのはこの信方の本意ではない。
だからそのように分けたのだ。」

つまりまあ、皮肉である。
しかしそう言って板垣は、家臣たちの諌めを聞くこと無くそのままの形で饗応を開き、そのため
手柄の無かった者たちは大いに面目を失った、とのことである。

板垣饗応、黒赤を分かつ。と言うお話。
325人間七七四年:2010/04/23(金) 19:26:48 ID:emsEp18t
なんか凄みを感じるな板垣の爺はw
326人間七七四年:2010/04/23(金) 19:39:31 ID:dHNF9jI7
>>323
それは北軍のセジウィックじゃないかな
スレチですまん
327人間七七四年:2010/04/23(金) 20:00:43 ID:g7GQHIIX
>>324
八幡太郎の「豪の席、臆の席」を思わせる話だがより嫌味ったらしいなw
328人間七七四年:2010/04/23(金) 20:30:55 ID:3NXfiveo
>>310
義光「確かに鉄砲なんて当たらないってー」
329人間七七四年:2010/04/23(金) 20:35:47 ID:lXUcfwmf
>>324
「呉子」(ttp://www.h3.dion.ne.jp/~china/book17.html の第六篇)を元にした話しかと思ったらw

>>326
そっちだったかも。
うろ覚えですみません。
330人間七七四年:2010/04/23(金) 21:02:20 ID:2GCw3k75
>>309
那須与一は舞ってた奴を大人気なく射ち殺したけどね
331人間七七四年:2010/04/23(金) 22:03:49 ID:VWW2W3Gc
>>330
ああ、あの話のせいで那須与一大嫌いだw
332人間七七四年:2010/04/23(金) 22:28:27 ID:M/ml9/17
>>331
あれは伊勢三郎に「義経様の命令だ、殺れ」って言われたからやったんだよ
333人間七七四年:2010/04/23(金) 23:02:13 ID:Huy6ZenZ
与一は兄9人が平家方にいたから拒否権とかないだろうな…
334人間七七四年:2010/04/23(金) 23:13:13 ID:7g67R9n3
それで扇の的外してたら与一どうなってしまったん・・・
335人間七七四年:2010/04/23(金) 23:35:01 ID:R7sMssaE
弓切り折り自害して人に再び面を向かふべからず
336人間七七四年:2010/04/24(土) 00:02:18 ID:d1Uqn8+Z
与一が十一男の名前ってのにビックリだよ
むかしの人子だくさんってレベルじゃねえぞ
337人間七七四年:2010/04/24(土) 00:15:30 ID:Hju4IS86
>>336
一夫一婦じゃないんだろ。
それならいくらでも量産できる。
徳川将軍の誰かなんて、50人以上も子供こしらえて、
大名家に養子に押し込んだり嫁がせたりしていた。
338人間七七四年:2010/04/24(土) 00:17:06 ID:mRneTfIk
>>336
うちの祖父は一夫一婦で十人こさえたからそんくらい余裕だ。
339人間七七四年:2010/04/24(土) 00:22:52 ID:jzcwsyin
>>336
利家・まつ「「何か問題でも?」」
340人間七七四年:2010/04/24(土) 00:26:06 ID:kLiWc66I
一夫一妻での最高出産数は南米の夫婦の50人程だと聞いたことある
つーかこの板に出入りしてる女性は夫が側室囲っても怒らなそうだな
341人間七七四年:2010/04/24(土) 00:33:47 ID:gKJJVmyg
このご時世、側室囲うくらいの甲斐性があれば万々歳
342人間七七四年:2010/04/24(土) 00:41:27 ID:Zy0X3+gt
つーか大名の正妻ってめちゃめちゃ忙しかったらしい。
「奥」ってのは大名家の家政を取り仕切る一種の役所で、正妻はそこの長官だから、
各種予算の管理や人事などの業務で毎日てんてこ舞いだったらしい。

戦国期(江戸期でも)、正妻の方から夫に妾を勧める例がかなりあるが、
これは仕事が忙しくて旦那の夜の相手までしていられるか、という理由も
あったそうな。
343人間七七四年:2010/04/24(土) 00:42:55 ID:ZrUganbx
農村の余裕のあるいわゆる「豪農」な方ならそれくらい軽く行く。
逆に嫁が3年経っても子が生まれないなら即離婚、とかも。

結局「産めよ増やせよ」ではないが、働き手がそのまま生産力に反映されるから
+子供が多ければ、その分結婚先も考える→その相手が良縁なら結果的に家の力の増強につながる。
344人間七七四年:2010/04/24(土) 00:46:20 ID:xC0x86ag
>>342
その上で戦国期の女性は1人で5人や6人産んで、しかも40近い高齢出産の例もあったりするし、
タフやなあと思ったりもする
そういう人ほどかなり長生きしてたりするし
345人間七七四年:2010/04/24(土) 01:02:20 ID:asefKMO5
一人の女性が何人も子を産んでるって事はそれだけ夫婦が仲良かったって事だろうし、いい事じゃないの。
346人間七七四年:2010/04/24(土) 01:43:21 ID:zdldi+CD
子供産まれず、姑舅にあれこれ言われる嫁ってのは現代でもあるけど
何人も娶っておいて子供なしって男にとっては不名誉だったりしたんだろうか?
347人間七七四年:2010/04/24(土) 01:58:07 ID:ZFG7tOwp
不名誉どころか死活問題だろ
348人間七七四年:2010/04/24(土) 02:06:17 ID:NFIsZzQR
ある日本多正信が大久保忠隣に話しかけた。
「お主何か身に覚えはないか?」
忠隣がとくにないと答えると正信は「そうかならばよいのだ。」と言って行ってしまった。

またある日正信また同じ事を聞くので忠隣がなぜそのような事を聞くのかと尋ねると
「大御所様が貴殿のことを何かいっておったのでな。」
「どのような事を言っていたのですか?」
「いや何かいっていただけだ。」
「なればしばらく大御所様の御前を遠慮した方が良いでしょうか。
「そうだな。その方がよかろう。」

その後正信が家康の前に出たとき世間話のついでに
「相模(忠隣)はこのごろ、何となくご奉公に遠慮があるように見受けられますな。」と言った。
家康と忠隣の両方になんとなくわだかまりが生じた。

それからしばらくして今度は正信が将軍秀忠に謁したときのこと。
「近ごろ相模は御前に遠慮するような様子はございませんでしたか?」と秀忠に尋ねた。
秀忠が「とくにそんな様子はないがなぜそのような事を聞く」と言うと
正信は「人間というものはとかく奢りの心が出やすいもので、相模の様子を見ておりますと
 あたかも公方様同様の振る舞いが目に付き、大御所様の御前も昔のようではありません。」
と言ったので秀忠も忠隣を疑いの目で見るようになった。」」

『武功雑記』はこの話を「浸潤之誹」と呼び
正信はこのようにして家康父子と忠隣の間に水をさしていったとしている。
真偽はともかくとして正信の悪い話
349人間七七四年:2010/04/24(土) 02:07:32 ID:ynl2TCKQ
>>346
つ ラスボス
350人間七七四年:2010/04/24(土) 02:10:50 ID:cY5bfa5U
>>346
宗茂のことか
351人間七七四年:2010/04/24(土) 02:21:38 ID:T1S2DDNa
大久保家は小田原城の件でも秀吉から離間の計を受けてるよね
352人間七七四年:2010/04/24(土) 02:47:37 ID:kLiWc66I
>>348
参考にするわ
353人間七七四年:2010/04/24(土) 04:14:32 ID:sYCecvJI
毛利三兄弟♪
354人間七七四年:2010/04/24(土) 07:51:35 ID:Kk6rm0SD
親切な忠告と見せかけて、実はそれこそが罠だというんだから
ホント上手いわ正信
355人間七七四年:2010/04/24(土) 08:07:32 ID:L1vVkmjs
俺の想像しているとおりの陰険な正信で安心した
356人間七七四年:2010/04/24(土) 11:30:01 ID:3e/p3cUe
>>350
でも宗茂ってある意味幸運だよな
親父も養父も他家から入ってきた人間だから
自分が家を養子に継がせてもあんま文句言われなさそうで
357人間七七四年:2010/04/24(土) 14:33:17 ID:IWOAUQxh
>>355
大久保さんは最後を大名で追われたけど、本多さんは旗本だからね。
まさに因果応報だよ
358人間七七四年:2010/04/24(土) 14:42:32 ID:7AIok60B
息子が言いつけ通りにしてれば問題なかった気もするのだが

処世の達人の子はなんか処世うまくないんだよなぁ
359人間七七四年:2010/04/24(土) 14:47:38 ID:xC0x86ag
>>358
細川さんとこはずっとうまくね?
360人間七七四年:2010/04/24(土) 15:20:11 ID:X8U7Gnpm
爺様「仇敵の武田に仕えて頭角を現しました」
親父「三つの大勢力に挟まれた状況で家を守りきりました」
本人「将軍に睨まれつつ家を存続させました」
361人間七七四年:2010/04/24(土) 15:41:32 ID:ikWibnSf
>>340
姑息な隠し方されたら怒るかもしれませんけど、事前に相談ありなら
ちょっと考えますねw
正妻の座を降りろと言われたら最大限に苛烈な報復をさせて頂きますが
362人間七七四年:2010/04/24(土) 15:45:10 ID:PVHIj/HL
うわ鬼女きた
363人間七七四年:2010/04/24(土) 15:58:48 ID:IWOAUQxh
>>360
真田さん、乙

真田のおにいちゃんの嫁は>>361みたいな感じだったんだろうな。


364人間七七四年:2010/04/24(土) 16:00:54 ID:xC0x86ag
正室降りろとか言われちゃったのは、津軽さんとこの辰姫(三成娘)くらいじゃないの?
ふつうは離縁だよね
365人間七七四年:2010/04/24(土) 18:09:21 ID:a8x/Gvud
家康の養女で実の姪な満天姫が来ちゃったから正室にせざるを得ない
でも津軽家にとって三成は恩人だし、おねね様の養女でもある辰姫を離縁できなかったとか
大館で産んだ信義は信枚の要望で三代目藩主になったり愛してたと思うよ
まぁ信枚さんは家臣と小姓取り合って騒動起こしてるけどな…
366人間七七四年:2010/04/24(土) 18:09:25 ID:LDnkAgEo
悪久「え?」
367人間七七四年:2010/04/24(土) 18:57:53 ID:gKJJVmyg
>>361
宮迫がもしも話しで嫁に言われたとかいう「残り人生、笑えんようにしてやるわ」
てーのを思い出した
368人間七七四年:2010/04/24(土) 19:04:40 ID:UIlSTHqY
まあ童貞の俺には関係無いな
369人間七七四年:2010/04/24(土) 20:22:17 ID:8E7sbBvv
前田利家・利長親子、細川忠興、蒲生氏郷らが連れ立って大坂城へ重陽の節句の挨拶に出向いた。
四人は多くの供を率い城の前まで来たところで、門番に止められた。

「あー、困りますねー?ただでさえ今日は混んでるってのに、こんなに大勢で来られちゃ迷惑なんですよねー
…ぶべらっ!!」
「……………」
利家が物も言わずに振るった鉄拳を喰らい、門番は吹っ飛んだ。

「な、なにをなさる?!この事は関白様に・・・」 ガシッ
(゚Д゚≡゚Д゚)エッナニナニ?

「……………」起き上がろうとする門番の右腕を、利長が無言でつかみ取り、
「……………」同じく氏郷が門番の左腕をひねり上げ、
「……………」忠興が門番の背後に回り、かの有名な愛刀を、抜いた。

「…え、えーと………な、なんか勘違いしてました!できるだけ早くお通り下さーい!!」


その夜、この面子の若い者三人だけで飲み会を開いたが、
氏郷「いやー、親友の前田殿にまであんな真似するんなら俺、サr …関白見限っちゃおっかなー?」
利長・忠興「だよねーwww」

などとダベっていたそうな。

どっかの鬼が死んでも、戦国の世の門番はスリル満点!さあ、キミもLet's トライ!!
370人間七七四年:2010/04/24(土) 21:36:01 ID:7c9e4I9/
切り捨てられなかっただけ光栄に思わなきゃ
371人間七七四年:2010/04/24(土) 21:40:16 ID:hLpMYGka
オレこのスレ知ってから開通前の橋を通るたびに笑いが込み上げるようになったんだ
372人間七七四年:2010/04/24(土) 21:45:24 ID:jzcwsyin
>>369
つーか又左は息子の友達とツルんで何やってんだw
373人間七七四年:2010/04/24(土) 22:03:21 ID:KcWhU0qu
>>369
利家殴り飛ばし→利長・氏郷腕掴み→忠興が抜刀
全員前もって示し合わせてでもいたかのように
バッチリな役割分担で息ピッタリなところが何ともwww

しかし利家…年長者がなにやってんだw
374人間七七四年:2010/04/24(土) 22:57:23 ID:en0tKn6D
なんで誰も何も言ってないのにこんな連携とれるんだよw
絶対常習だろw
375人間七七四年:2010/04/24(土) 23:23:37 ID:d1Uqn8+Z
こういう打ち合わせなしの連係プレーって武士らしくて好きだな。
今昔物語の馬盗人の話とかさ
376人間七七四年:2010/04/24(土) 23:33:41 ID:rhUPUSD0
>>374
利家「戦国の世を生き抜いた男ならばアイコンタクト無しでの意思疎通など基本中の基本」
377人間七七四年:2010/04/24(土) 23:39:00 ID:7AIok60B
小田氏治「ワシ程の将ともなれば敵を見ただけで弱点が見える!軍師の助言はおろか斥侯の報告すら不要だ…」
378人間七七四年:2010/04/25(日) 03:26:54 ID:fbjRYzsV
年長者利家が真っ先にキレちゃったもんだから、若者三人が慌ててフォローした…

いや、普通に四人でキレただけだな、うん
379人間七七四年:2010/04/25(日) 03:43:40 ID:yhY4dG6F
秀吉の時代の大阪城殿中の有様は、後世語り草になるほどひどかったらしいからね。
まあ戦塵を浴びてきた荒くれ者ばかりなんだから、当然だとは思うが。
380人間七七四年:2010/04/25(日) 03:50:18 ID:Wng4dbMx
後醍醐天皇時代の宮廷みたいなもんか
381人間七七四年:2010/04/25(日) 05:16:38 ID:ULxnvZdO
そらラスボスも文治派重用するわな
382人間七七四年:2010/04/25(日) 06:06:48 ID:lMkSWrwp
スーパーサイヤ人化した薩摩隼人ですら足元に及ばなかったという噂の徳之島の逸話ってありませんか?
383人間七七四年:2010/04/25(日) 08:41:39 ID:Mu3Dz5ZV
琉球侵攻の際の話

1609年3月、島津勢は80隻3000人の軍勢で山川港を出発、奄美大島を征服し、喜界島から降伏の使者を受け入れた後
に徳之島を目指し、20日には東側の秋徳という港に上陸した。ここでは琉球王府の役人である佐武良兼(さぶろうがね)と
思呉良兼(うみじろうがね)の兄弟が兵を備えて待ち構えていた。農民たちも、木の棒や包丁をくくりつけた竹で武装したいた
という。佐武良兼は、身の丈七尺二寸(220cm)の大男で三尋(約3m)の棒を持っていたという。
彼らは上陸してきた島津勢に襲いかかり、北郷久武の配下の6、7人、船頭6人を討ち取った。篠川勘津という70歳の老人は、
島津兵3人を討ち取って戦死という奮戦ぶり。苦戦する島津勢だったが、渋谷丹後守が鉄砲で佐武良兼を討ち取ると形勢は
逆転する。弟の思呉良兼も戦死し、戦に参加した農民も皆殺しにされた。その数は数百人にのぼったとされる。
その後、徳之島は降伏し、沖永良部島も戦わずして降伏した。即座に降伏した沖永良部島の住民は樺山久高から「馬鹿ども」
と罵られたという。しかし、悪久さんから「降伏したり無抵抗な者を狼藉、殺害、人取りするな」と命ぜられていたため、命だけは
助かった。勇敢にも抵抗したために、かえって皆殺しにされた徳之島のちょっと悪い話
384人間七七四年:2010/04/25(日) 09:04:59 ID:uEDaUvXs
ちょっと・・・?
385人間七七四年:2010/04/25(日) 09:07:13 ID:k8F2i2Pl
>>383
この島は何故こうも突出してんだろうな
386人間七七四年:2010/04/25(日) 15:07:29 ID:E4kAPkQi
いつもの黒田長政、酒癖の悪い話

戦国最後の大戦ともいえる大坂の陣が終結した慶長20年のある日、
京都は東山にて、このたびの戦に一応は参戦した諸将が集まって宴会を開いていました。
大坂の陣打ち上げ会といったところでしょうか。
メンバーは以下の通り、
・黒田筑前守長政(47歳)−筑前福岡52万3千石
・藤堂和泉守高虎(59歳)−伊予今治20万石(今回の功績で32万石に加増)
・有馬玄番頭豊氏(46歳)−丹波福知山8万石(今回の功績で筑後久留米21万石)
・寺沢志摩守広高(52歳)−肥前唐津12万石
・加藤左馬助嘉明(52歳)−伊予松山20万石
・生駒讃岐守正俊(29歳)−讃岐高松18万石
・浅野紀伊守長晟(29歳)−紀伊和歌山37万6千石
下の二人以外はバリバリ戦国世代のいい年したオッサンどもです。

宴もたけなわ盛り上がってきたところで、藤堂高虎が言いました。
「今回の戦には、皆さんのような歴戦の勇が参加されましたが、大して手柄もなかったですね」
これをどう受け取ったのか、そのそばに寝ころんでいた黒田長政がむくりと置き上がって、
「コラ、テメェ藤堂! 聞き捨てならんな。
 ガキのころから今まで戦で後れを取ったことがないこの俺様が、
 今回の戦で活躍できんかったのは、上がおとなしくしとけ言うから控えとっただけや。
 そんな俺の前で軍功自慢とはいい度胸やないけ!」
と、高虎に突っかかりました。
長政がキレる理由がよくわかりませんが、同席した皆さんはさすが長政の扱いに慣れているのか、
「まーた始まったよ、筑前は……。酒の席で野暮なこと言うなよ。まあ、落ち着けって」
と言って、長政をなだめました。さすがに長政もそこは引いて、高虎も華麗にスルーしたので、
もとの他の宴会ムードに戻りましたとさ。
387人間七七四年:2010/04/25(日) 17:38:58 ID:XdPrgROk
永禄四年、信濃平定が一段落した武田信玄、いよいよ本腰を入れて上野攻略に取り
掛かろうとしていた。
まず碓氷峠を越え、八幡平と呼ばれる地に陣城を築き、松井田城と安中城の連絡を
分断する。

信玄の侵攻が始まった矢先に長野業正を病気で喪った西上野衆だが、それでも善戦
を続け、松井田、安中の両城が陥ちたのは永禄七年になってからだという。

時は流れて昭和六年。
八幡平の小学生が偶然、ある物を発見する。
それは大量のしゃれこうべ。

古代の古墳に穴を掘り、実に150人分もの頭蓋骨を埋めてあったのだ。
身体の骨は一つもなく、下顎の骨も発見されていない。槍傷のある骨も多く、身体
的特徴からも、中世日本人……戦国時代に戦で亡くなった人々の骨だと思われる。
発見された場所から見ても、信玄の上野侵攻により戦死した武田軍or上野軍、も
しくは双方の犠牲者の遺骨だろう。

だが、取った首級をまとめて埋めたというなら、何故下顎の骨がないのか。
明らかに骨になった後、頭蓋骨のみをまとめて埋めた痕跡である。
別の場所に埋葬された骨の内、頭蓋骨のみを掘り出して、ココに埋め直したのだろ
うか?
……何故? 謎だらけである。

一説には埋められた頭蓋骨はすべてが甲府の方を向いていたともいう。

しゃれこうべが甲府に向けていたのは信玄への恨みの眼差しなのか、望郷の念であ
ったのか……

現在、そこには首塚が建てられている。
写真を撮ると、高確率で「ナニか」が写ると言われている、近隣では有名な心霊ス
ポットであるという。
388人間七七四年:2010/04/25(日) 18:42:08 ID:GvIxSKFl
>>386
出たー
長政さんの頭の回転がよすぎて、どう考えても相手は言ってない悪口を聞きとってしまう能力
お疲れ飲みでも絶好調だー
389人間七七四年:2010/04/25(日) 19:00:56 ID:DrQFTrko
NGMSさんは内でガマンして外で自重しない変わった人だから困る
390人間七七四年:2010/04/25(日) 21:08:27 ID:tAijJfcX
>>386
大阪の陣で活躍(というか苦労というか)した藤堂がいうと微妙に嫌味だな
391人間七七四年:2010/04/25(日) 21:11:51 ID:J6hh1oiK
悪久さんみたいな苦労をしたならともかくねえ
392人間七七四年:2010/04/25(日) 21:21:07 ID:E4kAPkQi
本当に苦労したのは浅野さん
393人間七七四年:2010/04/25(日) 21:28:41 ID:Um0KgaUn
>>387
150ものドクロが400年にわたって甲州をじっと見つめてたことを想像すると、
なんともぞくぞくするな
394人間七七四年:2010/04/26(月) 01:01:18 ID:zoNi1YU1
>>383
70歳のじーさんが島津兵3人討ち取りって・・・
徳之島住人は今も昔も変わりないんだな・・・(((;゚Д゚))ガクガクブルブル


とあるついったで見かけた、戦闘民族「徳之島」武勇伝

・何年も大規模な反乱を起こし続ける→ビビった米軍が早々に日本に返還
・町長選挙→寝たきり老人のベッドを先頭に機動隊を突破(寝たきり老人も殺る気マンマン)
     →ハブ100匹ブチマケて突破
・参院選挙→小学生10人を先頭に機動隊突破(小学生も殺る気マンマン)
・島民相手の闘争→基本殴り合いで使っても武器は木刀程度(近所づきあいの兼ね合い)
 官憲相手の闘争→刃物以外なんでもあり、車で突っ込む程度に留める
・山に入る時は必ず鉈持参し二人連れ→一人がハブに噛まれたら毒が回る前にもう一人が相手の腕を落とすため


何をどーしたらこんな血の気の多い戦闘民族になるんですか orz



395人間七七四年:2010/04/26(月) 03:46:22 ID:dML2x86p
>>394
投票所襲撃で投票箱の奪い合いがあったとか選挙違反を双方の陣営に注意したら選挙管理事務所に火炎瓶投げこまれた
とかもあったなあ
396人間七七四年:2010/04/26(月) 04:10:55 ID:LxgBvBPa
>>394-395
現代に遺る、リアル戦国時代を体験できる島・徳之島

太秦映画村だとか伊勢戦国時代村だとか、そんなチャチなもんじゃあ 断じてねぇ
もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ(AA略
397人間七七四年:2010/04/26(月) 04:26:40 ID:DGHuhN22
>寝たきり老人のベッドを先頭に機動隊を突破(寝たきり老人も殺る気マンマン)

現代のベッキー様か・・・雷とか切ったことあるんかねぇ
398人間七七四年:2010/04/26(月) 06:22:03 ID:XstQNCi7
泉重千代さんとか本郷かまとさんとか
徳之島に生まれたら討ち死にでもしなければ
それくらい生きてても不思議じゃなくなる気がする
399人間七七四年:2010/04/26(月) 09:07:28 ID:DO8ZeuRN
寝たきり老人のベッドを先頭に機動隊を突破(寝たきり老人も殺る気マンマン)

ワロタw すげーな ぜひルーピーも殺っちゃってほしい
400人間七七四年:2010/04/26(月) 11:01:37 ID:FQL9z4z0
山田有栄は、島津忠恒の命により出水の地頭として赴任し、地元の郷士が歓迎の宴席を設けた。
喜んで宴に出席した有栄が膳に出された汁物のフタを取ると、じっくり煮込んだカエルが入っていた。

有栄が郷士たちを見わたすと、空々しく涼しい顔をして、膳に手をつけている。
(・・・こやつら・・・・・・)出水郷士たちの新任、しかもヨソ者の上司に対する、キツい「洗礼」である。
腹を決めた有栄は淡々とカエル汁を平らげ、そのあわてる姿を見たかった郷士たちは、目を丸くした。

数日後、有栄は郷士たちを集めて言った。
「先日は、なかなか他では食いがたきものを馳走になった。礼を言う。今度はわしが宴席を設け、
他では食いがたきものを食わせてやろう。ぜひ、ご来席あれ。」

恐る恐る郷士たちが宴席に顔を出すと、汁物が用意してある。フタを開けると、汁には縫い針が入っていた。
「うーむ・・・地頭どの、参り申した・・・・・・」
以後、出水の郷士たちは有栄の命に伏するようになったという。



「黄金の鞘」の山田さんでさえ、悪久の下じゃこんなにギスギスしてるんだから、名も無き薩摩隼人なんか
推して知るべきで、徳之島の人たちも、ことさら反抗せざるを得なかったんじゃ・・・
401人間七七四年:2010/04/26(月) 13:12:39 ID:lcMM84wq
カエルは鶏肉みたいで美味しいぞ
402人間七七四年:2010/04/26(月) 13:35:47 ID:nMJpYeMQ
実は常食とかご馳走だったりしたら返しが失礼極まりないな
403人間七七四年:2010/04/26(月) 13:57:37 ID:tB+1B656
フランスじゃあるまいしw
404人間七七四年:2010/04/26(月) 14:05:18 ID:o68/EvpO
沖縄では食べていたそうだから薩摩でもひょっとしたら…>カエル
というか日本書紀に「吉野ではカエルを食べる」という記述があるそうな。
405人間七七四年:2010/04/26(月) 14:37:06 ID:q00d3FbX
もしカエル汁が常食やご馳走だったら縫い針汁出された時に郷士が抗議するだろ
それをせずに詫びいれたと言うことはカエル汁は悪意があっての事
406人間七七四年:2010/04/26(月) 14:48:58 ID:nMJpYeMQ
ご馳走を悪意で返されてドン引きしたのかもよん
407人間七七四年:2010/04/26(月) 15:19:41 ID:PzjK0zVh
      _,,,,,,,,
     , - ' ゙    `` ‐ 、_,,,,,
   ,r'          /=ミ
  /           彡ll',''´
. /             彡lll
 !-- .、    ,、、、、,,,   彡lノ
 l,,,,,__ /   ___     'r''゙ヽ
. |`゙'' ./   `'゙'''"    .〉,l |
 |.   ,'           //     近代に先祖が4代も不明なら、信成よ、おまえはワシの末裔じゃないだろう
. ',. ,'           , r' 
.  ゙, ゙'ー ‐`      l  |
   ゙、''゙ ,,、二''‐    ノ  l、
''''''''7'ヽ  '''    /   /`〉`゙T''''''''''  
  l  ` 、,,,,、- ' "    / /.|  |   織田信成が織田信長の子孫って本当?【2代目】 
.  |  |  .l i       / ./ |  |    http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/skate/1271421161/
  |  |  | l      / ./ .|  |
. |  |   | l     / /  |  |
 |  |   | ',   / /  l  .l
408人間七七四年:2010/04/26(月) 15:41:23 ID:lcMM84wq
これが長野なら悪意なくイナゴやらザザムシやらを入れるんだろうな
409人間七七四年:2010/04/26(月) 15:52:38 ID:o68/EvpO
あれは佃煮にするものあって鍋にいれるものではない。>イナゴやら〜
410人間七七四年:2010/04/26(月) 16:40:12 ID:DhNOlIIC
いっぽう、DQN眼竜はネズミをいれた。 
・・・そして食べた。
411人間七七四年:2010/04/26(月) 19:35:47 ID:nEimXOou
>>394
書き忘れたけど、佐武良兼も持ってた棒で「島津の兵の1000や2000など、この棒でSATSUGAIしてくれるわ!」と
気勢を上げたとか記録にあるようで
412人間七七四年:2010/04/26(月) 19:57:14 ID:SIA4pE9O
虫は東北でも広く食うんだぜ
イナゴは田んぼにわらわら出るから、田舎じゃ採るの簡単なんだ
413人間七七四年:2010/04/26(月) 20:00:45 ID:zVts7mWH
秋田の農家生まれだけど虫だけは食わなかったな
俺のジジババもどんだけひもじくても虫食い経験なし
その代わり大戦中には犬食わされたみたいだけど
414人間七七四年:2010/04/26(月) 20:04:47 ID:GpPbRiTK
犬や人間の肝を食べていた薩摩でも蛙はゲテモノ扱いなのか。
415人間七七四年:2010/04/26(月) 21:21:05 ID:onYpJeUb
食習慣の問題だからね、何でもゲテモノに成り得るんじゃない
416人間七七四年:2010/04/26(月) 21:22:03 ID:5vvMRc7u
15年位前お袋の料理事典見てたら蛙肉が載っててびっくりしたことがある。
写真も白っぽくて鶏肉みたいだった。
捕まえやすい蛋白質だし日本でも食べるとこはあったんじゃないかな。
417人間七七四年:2010/04/26(月) 21:58:37 ID:XstQNCi7
大正時代に日本にもウシガエルが食用として持ち込まれたから
今のジジババ世代からは結構メジャー食材でしょ
うちの親父なんかは良くウシガエルを見つけると
畑仕事放り出して捕まえてた
418人間七七四年:2010/04/26(月) 22:14:28 ID:C2pWZIlu
いなごを食べれば害虫駆除も出来て一石二鳥
419人間七七四年:2010/04/26(月) 22:23:50 ID:SROxl4NE
山ん中で生まれたから、蛋白質とるために虫でも蛙でも何でも食ったなぁはっはっはって
ラオスのおっちゃんが言ってたなぁ。
まぁその話してたテーブルの上にも雨蛙みたいな奴の煮物が出てたんですけどね。
小骨多くて食い難かった。
420人間七七四年:2010/04/26(月) 23:23:05 ID:WCgI9t/d
マジレスするがアマガエルは有毒だ。
当時はもちろんウシガエルなんて日本にはいない。
421人間七七四年:2010/04/26(月) 23:43:03 ID:Ookh1UvF
そういえば今日買った戦国時代の小説で「オタマジャクシを食べた。水がないから味噌を絡めてそのまま」ってのがあったな。

422人間七七四年:2010/04/26(月) 23:48:49 ID:yYyyFram
古くから日本で食用にされてきたのはアカガエル
明治初期の『西洋料理指南』にもカレーに入れる具のひとつとして書かれている
423人間七七四年:2010/04/26(月) 23:49:27 ID:C2pWZIlu
トノサマガエルの方がおいしそうだ
424人間七七四年:2010/04/27(火) 00:44:46 ID:W6Qns9i9
伊達家の何代目の殿様か判然としないのだが、
河童捕まえたんで塩漬けにしたってさ。

・・・・・・食ったんだろうか?
425人間七七四年:2010/04/27(火) 00:53:29 ID:WVnrsaxW
>>424
伊達政宗「伊達家の主君ともあろうものが、軽々しくゲテモノなぞ喰うか!」
426人間七七四年:2010/04/27(火) 03:33:29 ID:l0wlUSol
吉川元春「ゲテモノ食いなんてする奴の気が知れんな」
427人間七七四年:2010/04/27(火) 04:01:23 ID:U8AZMQEG
>>426
くやしい、こんなので笑ってしまった…
428人間七七四年:2010/04/27(火) 04:19:14 ID:jEEQ3aEm
どう頑張っても食えない縫い針で返すのは、どうも風流じゃないな。

じゃあ何なら良いかというと難しいが。
ムカデ、ゴキブリ、ミミズ、ナメクジとかかな・・・
429人間七七四年:2010/04/27(火) 04:44:59 ID:EEKCZLGB
武田信玄が死去し、武田軍が甲斐に帰国した頃のことだそうだ。

甲州の侍に、塩崎千次郎と言う者があった。この塩崎は年来、洗岸という僧を尊敬し帰依していた。
この洗岸は元々山法師だったそうだが、数年前甲斐に来て草庵を結んでいた。
天台、真言の二教を学んだ、博識の沙門だったという。

さて、その洗岸がある時、塩崎の家に来て言った

「愚僧、諸縁がありまして、近々奥州に下ることになりました。
住所も定めの無いような拙僧のことです、奥州で朽ち果てると言うことも有るでしょう。
今生の別れになるかとも思い、こうして暇乞いに参りました。」

塩崎はそれを聞くと

「なんと、私は貴方に言い残していることが沢山あります。であれば今夜は我が家に
泊まっていき、語り明かしましょう。」

そうして終夜饗応し様々な物語をした。
この時塩崎、ふと

「私はこの武田家に仕えて数年になりますが、身命をとして戦忠をなしたおかげでしょう、
お屋形様である勝頼様にも覚えめでたく、昨日など、お小姓の跡部殿を通じて吉光の刀を
賜りました。誠に生前の面目、子孫までの名誉、何事がこれに勝りましょうか?」

そう言うと、その刀を取り出して洗岸に見せた。
洗岸、「それはそれは、あなたに取って実に素晴らしいことですな。」と、その刀を手にとり
鞘を外してじっと刀身を見た、そして

「…わたくしとあなたは、何事であっても隠さず言い合う仲です。であれば、今ここに気付いたことを
心中に隠すべきではないでしょう。どうか、疑わずに聞いて下さい。

惜しいかな、武田殿の御家、滅亡が近くにあります。
今の御屋形様、四郎勝頼殿のお命も、幾程も無いでしょう。

愚僧は若年の頃から、刀剣の相を見る修行をし、深くこれを修め、そこから色々なことを知ることが
出来るようになりました。

勘違いしてはいけません。勝頼殿の行いが無道だから武田家が滅びる、と言うことではないのです。
武田家が十九代を迎えて滅亡する、これは天道によって決められたことなのです。
神仏であってもこれを救うことはできません。
これは驚くようなことではなく、生あるものは滅し盛んなる者は衰える、満つるを欠くは天道の常なのです。」

そう言った洗岸は翌日、暇を乞い塩崎の家を出て行った。
かの剣は箱に入れていたのだが、それから30日ほどたった頃取り出してみると、不思議なことに
その中ほどから折れていた、とのことだ。

塩崎はこの事誰にも語らずにいたが、長篠で武田が大敗した後、真田昌幸に語ったのだと言う。
ある僧が剣を見て予言した武田家の滅亡、と言うお話。
430人間七七四年:2010/04/27(火) 10:18:11 ID:QvO3nFu1
真田昌幸「兄貴たちが死んだ後でそんな事言われても……」
431人間七七四年:2010/04/27(火) 10:42:29 ID:alq0vi8b
その兄貴が勇猛に戦ったおかげで真田の家を継げたわけで
432人間七七四年:2010/04/27(火) 12:30:09 ID:A5ZC9yY6
塩崎「あと、あなたのご長男の縁談ついてついでに聞いたみたら刀が砕けました」
433人間七七四年:2010/04/27(火) 12:31:56 ID:Wb6hizZP
占うなら筮竹とかもっと安いもんでやってくれw
434人間七七四年:2010/04/27(火) 13:58:20 ID:nsC6gCO3
江戸時代くらいまで剣相占いって結構あったのよ
435人間七七四年:2010/04/27(火) 15:07:36 ID:WHSJn8fq
規制解除(`・ω・´)
>>403
中国やシンガポールの屋台で普通に売られてたよ
炭化してて味はよくわかんなかったけど
436人間七七四年:2010/04/27(火) 15:12:26 ID:iTvve1Zt
遅レスだが島民は貧乏な中で精一杯もてなしたんだと思うよ・・・

http://www.asahi-net.or.jp/~AN4S-OKD/private/bun/man0091502.htm
437人間七七四年:2010/04/27(火) 15:12:31 ID:EQ9PplHh
その辺の佃煮屋に行けば普通に売ってる気がするがなあ>いなご
@東京
438人間七七四年:2010/04/27(火) 15:24:43 ID:Bv/wpZlB
>>436
その場の雰囲気もあるからな。
新参者イジメか、精一杯のもてなしか。

かえるの脚ならともかく、丸ごと汁に入っていたら悪戯だと思う。
439人間七七四年:2010/04/27(火) 16:51:09 ID:YUET2RVX
>>436
んなわけあるか。
440人間七七四年:2010/04/27(火) 19:18:14 ID:/YbUTpqk
>>428
 青竹とかはどうだ。「よく育ちたる蛙の返礼によく育ちたる筍を馳走いたす」とか
441人間七七四年:2010/04/27(火) 22:29:49 ID:E3GR9VB8
マグロの目多摩出しときゃウケたのにな。
ちゃんとした食べ物だが当時は等級が低い魚だし、何よりグロい。
442人間七七四年:2010/04/27(火) 22:37:53 ID:EEKCZLGB
>>400の話、まとめの方のコメントじゃ

カエルの汁物→「帰る、帰れ、の意味」
縫い針の汁物→「ここを縫いつくように離れないぞ」

って解釈してたが、その通りだと思う。ゲテモノ云々とは別の話だな。
443人間七七四年:2010/04/27(火) 23:38:51 ID:gpjJvC+2
>>442
なるほど。
機転の利く人が解釈してくれると助かるな。
そうじゃないといつまでも
「これはご馳走だ」「いやゲテモノの嫌がらせだ」
論争から出られなかったかと。
444人間七七四年:2010/04/28(水) 00:14:43 ID:kJFVnyHv
さくざがしかった

三河三奉行が制定されてしばらく後、本多作左衛門重次のもとに、農民たちから訴訟が持ち込まれた。
双方とも調停に応じなかったため、作左が審理し、判決に及んだ。

ところが、敗訴した側の農民が、この判決に納得せず、「作左め、依怙の沙汰をするわい。」と、
あちこちで言いふらしたり、作左を非難する落書を張り出したりした。
これを聞いた作左は再審を行い、以前と同様の判決を下すと、すぐさま敗訴した農民を手討ちにした。

「おい!誤審をごまかそうとして、始末したんじゃあるまいな?!」
さすがに仲間内の三河武士団からも、作左に対して批判の声が上がったが、
「上を軽んじ、理屈に合わぬことを言い立てた敗訴した農民が悪い」という家康や老臣たちの判断が下り、
かろうじて不問に付された。

しかし、庶民に芽生えた恐怖は根強く、相役の二人が
「仏の高力」、「どちへんなき(公平な)天野三郎兵衛」などと呼ばれるのに対し、作左は「鬼」と呼ばれ、
岡崎城下の女衆は、
「♪今に作左来る、早く煮よ♪と歌えば、煮豆なども恐ろしさで早く煮える。」とまで噂した。
445人間七七四年:2010/04/28(水) 02:33:22 ID:6dT7iqH4
>>444
作左はマジ歪みねぇな
446人間七七四年:2010/04/28(水) 07:38:17 ID:KzOcc5JJ
人斬り嗜好の代表者がまた一人増えたな
447人間七七四年:2010/04/28(水) 08:15:51 ID:Kqf1BXoi
まもらねば、さくざがしかる
なっとくせねば、さくざがきる
448人間七七四年:2010/04/28(水) 09:52:46 ID:qcr4i0X4
まあ裁きってのは「判決がこちらに有利じゃなかったから従わない」では成立しないからなあ
449人間七七四年:2010/04/28(水) 11:45:08 ID:YDvT1Ix1
愛の人も3回目だかでは切っちまうくらいだからなぁ〜
450人間七七四年:2010/04/28(水) 12:02:38 ID:KzOcc5JJ
仏の顔も三度まで、鬼の顔は一度だけ、か
451人間七七四年:2010/04/28(水) 12:57:00 ID:Uzbxs2B8
まてまて

1.調停に応じない
2.あちこちで言いふらす
3.落書を張りだし

作左の顔も三度目・・・
452人間七七四年:2010/04/28(水) 14:59:15 ID:TKTsC1t1
>>451
どっかの市長にそんなのいたな…
453人間七七四年:2010/04/28(水) 15:54:08 ID:rxJwBFD6
天正3年(1575)織田信長が長篠に出陣する前、武井夕庵、里村紹巴らと、祝言の連歌会を開いた。
この時の歌

『松高く 竹たぐひ無き五月かな』 信長

『白うは見えぬ 卯の花がさね』  夕庵

『入る月も 山縣薄く消え果てて』 紹巴

『をだは盛と見ゆるあきかぜ』   信長


上より、「松高く」は松平、つまり徳川家康のこと。「竹たぐひ無き」は「たけた くひ無き」
すなわち「今回の戦いで長篠は松平(徳川)の元に回復され、武田軍は首を落とされる」
の、意味をこめている

2番目は「白う=四郎」すなわち武田四郎勝頼のこと。「卯の花がさね」とは、4,5月によく用いられた
重ね着の色の組み合わせのこと。「勝頼は(討死するので)もう二度と卯の花がさねを見ることは
ないだろう」と言う意味

3番目は見た通り「勇猛で鳴る山県昌景とその部隊も全滅して消え果てるだろう。」

そして最後はこれらの歌をすべて受ける形で
「(今回の合戦が終わって)秋風のふく頃には、織田家は最盛期を迎えているだろう」
と、言っているのだ。

雅な連歌の中に織り込まれた、信長の決意表明。
しかし信長やその家臣の夕庵はともかく、里村紹巴の空気を呼んだ追従っぷり、流石ですw
454人間七七四年:2010/04/28(水) 16:23:32 ID:hJpbisfZ
接待連歌うぜーww
455人間七七四年:2010/04/28(水) 16:33:24 ID:pqI6ZYCB
ホントに必勝を期して準備万端で挑んだ戦だったんだな長篠は
456人間七七四年:2010/04/28(水) 16:58:45 ID:JhE1mHV1
結構良い話に思えるが
457人間七七四年:2010/04/28(水) 17:20:03 ID:NT6E9+f5
里村紹巴は本能寺の変を事前に知ってて光秀を諌めてたとか、支持してたこかいろんな説があるけど
真相は藪の中
458人間七七四年:2010/04/28(水) 17:23:30 ID:MUc+0Jx2
連歌で繋がりで、鮭様のバツの悪い話


最上義光にそれはそれは可愛い女の子が生まれた。
嬉しくてしょうがない鮭様、娘に領内で最も高い山の名前を取って駒と名付けるが、
それだけでは物足りなかったのか、お祝いに連歌の会を催そうと思いついた。
「町人でもいいから、その者が連歌師(れんがし)なら尋ねてみて!
和歌の道に身分の上下はないって言うからね!」
義光の命を受けた町奉行の後藤掃部は、さっそく町々の庄屋達に訊いて回ったのだが…

(庄屋共、会議中)
「れんがし?れんがしって何?」
「れん、がし…れん の かし…連の樫?」
「ってことは、槍や長刀の柄とかに使うものじゃね?」

(結論)
「赤樫や白樫はたくさんあるが、連樫は一本もありません」

報告を聞いた鮭様は怒り心頭。
「米沢はトップの政宗が数奇者だから、上手下手は別として
歌を詠まない者は一人もいないっていうのに!(#`皿´)」
当然連歌会は中止になった。

これで発奮したのかどうか知らないが、後年義光は地元に桃山文化を花開かせるのだが、
それはまた別の話。
459人間七七四年:2010/04/28(水) 17:25:53 ID:tDbTNw2V
駒姫の末路がまたなあ……
460人間七七四年:2010/04/28(水) 17:26:10 ID:YDvT1Ix1
ってか、まぁ、幇間のようなもんだからなぁ〜
461人間七七四年:2010/04/28(水) 18:24:31 ID:sV+BgJHf
幇間も何も、出陣祝いの席上に呼ばれてるんだから当たり前の対応だろw
「松平軍なんて案山子みたいなもんスよ^^
 織田なんて冬場の田圃みたいにみんな刈り取られちゃうんじゃないですか^^」とかありえんだろ
とか言ったらアカンがな
462人間七七四年:2010/04/28(水) 18:27:01 ID:sV+BgJHf
ラスト一行はスルーしてくらさい。
463人間七七四年:2010/04/28(水) 19:21:33 ID:KYECTO4o
>>458
>トップの政宗が数寄者だから
その理屈でいくと、この時点における鮭さまは数寄者ではないということになるが
別に普通程度の教養はあったよね?
それともここから発奮して源氏スキーにレベルアップしていくの?(´・ω・`)

しかし連歌会、(最低限のルールは教えて)いっそそのまま開催すればよかったのにw
連歌→樫で武具の材料?という発想は大事にしたいw
464人間七七四年:2010/04/28(水) 19:48:48 ID:n3jAgOVg
政宗の場合、数奇者に加えて傾者だからなあ
鮭様よりアクが強い分だけ、家中への伝染力も強かったのかも

あのまま開催していたらカオス連歌会として歴史に残ったと思うw
465人間七七四年:2010/04/28(水) 20:23:44 ID:hJpbisfZ
後の講談「荒連歌」の誕生である
466人間七七四年:2010/04/28(水) 21:30:33 ID:KYECTO4o
まじりっけ無し・地場産濃縮100%の連歌会って素敵だと思うの(*´∀`)
その発想はなかったわwのオンパレードになりそうで楽しそうだけどなぁ
信長ならすごい喜んでくれそうな気がする(自分が主催者になるのは全力で断るだろうがw)
467人間七七四年:2010/04/28(水) 21:35:30 ID:Extr3BMr
キモイテンション
468人間七七四年:2010/04/28(水) 21:35:30 ID:HmYpmlg7
>>451
真の仏は高力じゃなくて作左だったってか。
469人間七七四年:2010/04/28(水) 22:22:49 ID:Ga/LbetH
歌人が東下りするルートって、関東から多賀城へっていう奥州ルートなんだよな
実際、その点では出羽に劣等感が芽生えたかもしれない
470人間七七四年:2010/04/28(水) 22:25:54 ID:n3jAgOVg
物質・情報の伝播は日本海側のほうが有利で
文化の伝播は逆に太平洋側が有利だったのかな
471人間七七四年:2010/04/28(水) 22:56:02 ID:+kjcFCBO
>>458
駒姫誕生時は政宗は家督ついでないと思う
472人間七七四年:2010/04/28(水) 23:00:46 ID:4ebC+u2j
>>471
ソースが奥羽永慶軍記だからな。
473人間七七四年:2010/04/28(水) 23:03:46 ID:oYVpdepb
>>471
ここでネタの真偽を問うとは無粋なり。
「トップ」が引っ掛かるなら「ヘッド」にすれば良いかと。
474人間七七四年:2010/04/29(木) 00:02:35 ID:EgXTOZHe
伊達家は代々連歌好きだったと何処かで見たような
ずんだ市博物館の展示だったかな
475人間七七四年:2010/04/29(木) 00:13:22 ID:YbE3qP2i
伊達家はお正月七日に連歌の会催したりしてたから
一族みんなわりとそういうの好きだったじゃないかな
家臣も参加してたし
476人間七七四年:2010/04/29(木) 03:31:41 ID:P8me61t1
左後ろで所在無さ気に立っている赤備えの皆さんにも触れてあげてください、大統領
ttp://sankei.jp.msn.com/photos/entertainments/entertainers/100428/tnr1004280926002-p2.htm
477人間七七四年:2010/04/29(木) 06:29:28 ID:Ca95ngzk
>>464
>>466
連歌師から樫の木をかけてる時点で、歌詠みのは素質はあるわな>庄屋連中
478人間七七四年:2010/04/29(木) 09:53:03 ID:meOSTItW
鮭様と山形の愉快な庄屋達
479人間七七四年:2010/04/29(木) 14:35:12 ID:NHdKL/sT
>>195
満福丸って、市の子じゃなくて、長政の前妻の子でしょう。
身内に激甘な信長が成人していない血縁を殺すとかあり得ん。
480人間七七四年:2010/04/29(木) 14:50:51 ID:0eT+Lglf
皆が悩んでるー
鮭様が怒ってるー
るーるーる
481人間七七四年:2010/04/29(木) 15:24:29 ID:b4R9vRSD
あるとき豊臣秀長は法華寺に参拝に行った
そこで出合ったのが興俊尼である
余程好みだったのか、その場で城にお持ち帰りしてしまい、興俊尼が寺に帰ってきたのは翌日の事だった
破戒僧となってしまった興俊尼は姉を頼って寺を出、菊田某の家に身を寄せた
一年後、そこには玉のような赤子の姿が! そう、一夜の過ちが実を結んだのだ
これを知った秀長は子供を養育することにした
その娘こそ後の毛利秀元正室、きくである

意外に手の早かった秀長さんの話
482人間七七四年:2010/04/29(木) 15:25:33 ID:tV26k6sA
>>479
>身内に激甘な信長

つ「おつやの方」
483人間七七四年:2010/04/29(木) 16:03:47 ID:6evmsvw9
>>481
それは悪い話の部類かな?
秀長さんがもっと子供をつくっておけば、状況はまた変わっていたのかもしれない
484人間七七四年:2010/04/29(木) 16:35:20 ID:b4R9vRSD
まぁ、尼僧に戒律破らせた挙句子供の話聞くまでは放っておいた悪い話という事で

どうでもいいけど秀長の家族って資料が殆ど無いんだよな
秀保、(藤堂)高吉、智勝院(切らず粥http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-578.html
の3人は確実だけど、妻と実子については諸説入り混じっていてさっぱり解らない
特に女性関係は謎が多く、智雲院、興俊尼、多聞院日記の「濃州女中」、これら総て同一人物とする説、総て別人とする説などもう何がなんやら
更に大徳寺の秀長墓塔の隣にある五輪塔には養春院なる女性の名が刻まれている。どうみても縁者です。本当にry

上の話ではきくと大善院(毛利秀元正室)は同一人物になってるけど、これも別人説があったりするしなぁ
485人間七七四年:2010/04/29(木) 19:07:27 ID:I85FOrKb
>>483
どうだろ、殺生関白の例を考えるとその対象が広がっただけな気もする
486人間七七四年:2010/04/29(木) 23:58:11 ID:uxK0gK1t
>>479
岡崎三郎「どうも、長女の婿です」
487人間七七四年:2010/04/30(金) 00:00:19 ID:ihaTNIaX
>>469
伊達の米沢も出羽だけど?
488人間七七四年:2010/04/30(金) 00:18:57 ID:i1m9APz6
“真田”になれなかった男

下野国犬伏で石田三成の密書を受け取った真田昌幸と次男の信繁は、長男の信幸と三男の昌親に書置きを残し、
所領を目指して密かに去った。
書置きを見た信幸は驚いたが、すぐに書状を持って徳川家康のもとに駆け込み、父弟の離反を伝えた。
家康は信幸の手を取り、「親兄弟と別れ、わしに味方してくれた貴殿の忠義、忘れぬぞ!」と、大いに喜んだ。

「何ということだ…父上は乱心されたか?!」昌親も後から書置きを読み、あわてて信幸の陣屋に向かった。
「兄上はおられるか?一大事だ、お知らせしたい事がある!」
「信幸様なら、徳川内府の本陣に行っておられます。」
「よ、よし!ならばオレも、そちらに向かおう!」

昌親が家康のもとに行くと、家康は使い番の報告を聞いているところだった。
「あ、あのぅ内府殿、兄がこちらにお邪魔しておりませんでしょうか…?」
「信幸殿は、つい先ほど自陣に帰られたが、何の御用かな?」
「え?それは…その……」
「…ちょうど良い。お前の報告を今一度、聞かせてくれ。」
家康は、使い番に促した。
「はっ!信幸殿の仰せの通り、昌幸殿・信繁殿の陣は引き払われておりました。あと、昌親殿は自陣に姿が見えず、
残っていた者の誰も行方を知りませんでした。」

(し、しまった!家臣にも行き先を告げずに出てきた……!)
「信幸殿が語ってくれた父兄の大事を、昌親殿はワシに話せぬと見える。去就に迷っておいでのようだの?
それとも、お父上に合流される予定かな?」
「い、いえ!そんなことは!信幸兄に、同心いたしまする!!」「ふん、そうかい。」

家康に初めて謁見した時は、「働き次第では父兄らと別に所領を与えよう。」との話もあった昌親だが信用を無くし、
関ヶ原の戦後に何の沙汰もなかった。その後、松代藩から知行を与えられたが、子の代で断絶した。
489人間七七四年:2010/04/30(金) 00:21:42 ID:3z3nDCwl
>>487
もともとの本拠地の伊達・信夫は奥州だし
490人間七七四年:2010/04/30(金) 01:04:49 ID:VvO0WCm3
>>488
あちゃー、やっちまったなって感じだわ
真に気の毒なのはこの人なのでは…
491人間七七四年:2010/04/30(金) 01:12:30 ID:ntbCM3tw
この人がちょびっと判断誤ってるのも確かだが兄ちゃんも弟に使い飛ばすくらいしよーよとも思うな。
三男が兄飛び越えて家康のとこに直で駆け込むわけにゃいかんのだし

どっちもとっさの判断だからしょうがないといえばしょうがないんだけど…
492人間七七四年:2010/04/30(金) 06:38:20 ID:Kpc6O7eV
>>488
その経緯が本当だとすると、おじさんの真田信尹よりも働きが少なかったってことか
こちらは関ヶ原と大阪で加増されてるようだし
493人間七七四年:2010/04/30(金) 21:11:01 ID:mBqNsNSj
景勝、景虎の上杉上杉継承争い(御館の乱)において、武田勝頼が景勝側に買収されたことにより
天正五年(1577)に北条氏政の妹が勝頼に嫁いで以来の相甲同盟は決裂。
天正七年(1579)、北条氏政と武田勝頼は、駿河の黄瀬川で戦端を開く。

この時北条氏政は浜松の徳川家康に、武田勝頼を挟撃する事を提案。
家康もこれに応じ浜松より出陣する。が、武田勝頼はこの動きを察知、

「家康は未だ我らがこれを知ったことに気づいておるまい!今油断をしているところを突けば、
今度こそ家康を討ち取ることが出来る!」

勝頼は2千ほどの旗本だけを率い、家康の急襲に向かった!

さてその徳川軍。
阿部川を越えたあたりで日が暮れたが、そこで陣中に、上へ下への大騒動が起こった。

牧野康成が諸陣を馬で乗り周り「敵に未だ近づいてもいないのに立ち騒ぐのは
臆病にもほどが有るぞ!」と叫んで回ったが、騒ぎは未だ収まらない。
そこで大久保忠世が本陣に提灯を立て

「唯今にも敵がくれば、御一戦なさるるとの儀である!御本陣の方を見てみよ!」

と、ふれ回り、これによって騒動は静まった。
そして忠世が本陣に帰ってから家安に報告するには

「この度の騒動、ただ枳(カラタチ)の木のためだったようです。」

「カラタチ?」

「は。カラタチを『から立ち』、すなわち『ここから立ち帰る』、御帰国なされると聞き間違えた
ものが出て、そのため騒ぎになったのです。」

「そうか、なら軍勢を引き上げろ。」

「は?」

家康これを聞いて嫌な予感でもしたのか、即時に陣払いを決断し遠江に帰国した。
このため勝頼は家康の捕捉に失敗。勝頼は

「わしは攻めかかるべきでは無かった長篠では攻めかかり、攻めかけるべきであったここでは
大敵を逃してしまった!」

と、涙を流して悔しがったと言う。

勝頼の目論見を失敗させた(?)、カラタチのお話。
494人間七七四年:2010/05/01(土) 01:30:46 ID:ykLx6Ca3
1586年(天正14年8月)、この頃の九州は島津氏の快進撃により統一まで後一歩という所まで来ていた。
しかしそこに筑前岩屋城の高橋紹運が763名の兵と共に最後まで抵抗し、玉砕した。しかしその甲斐あって
本州から豊臣軍の援軍が到着した。それを受けて島津軍は撤退を開始した。しかしそれを黙って見ていられない者たちがいた。
打ち死にした高橋紹運の息子、立花宗茂である。島津撤退の情報を掴んだ宗茂は追撃に打って出た。あだ討ちに燃える兵の士気は高く、
筑後川の大木の渡しまで追撃し、島津軍に打撃を与える事に成功する。怒濤の進撃をみせる立花軍はさらに翌日、島津方の手に落ちていた高鳥居城まで攻め上がる。
耐えて耐えた立花軍の、まさに破竹の進撃である。                                                  
さて、前置きが長くなりましたが、ここからが本題。

立花家の家臣に小野理右衛門という者がいた。この男もこの攻城戦で城内に放火をしまくって大活躍をしたのだが、当然のように城兵に追われまくった挙げ句、
屋根の端まで追いつめられてしまう…
「もう逃げられんぞ!大人しく観念せい!」

しかしこの理右衛門は臆することなく手にしていた傘を広げると…

「はははは!私を捕らえる事は出来ん!さらばじゃ、とう!」

そのまま飛び降りた。幸いにも軽傷で済んだようで、高鳥居城も陥落した。

その後、岩屋城・宝満山城と島津軍に攻め取られた城を次々と奪還。
(やっぱり小野理右衛門はこの時も放火しまくったらしい)
この戦いを通じて立花宗茂はその驍勇を天下に知らしめたのである。宗茂からすれば言い話なんでしょうが、放火しまくった小野理右衛門からすれば悪い話。






495人間七七四年:2010/05/01(土) 01:44:04 ID:n+v65HPK
>>494
矢沢頼綱の話書いた人?
他スレからネタをパクるんなら引用元を明記して感謝ないしリスペクトを表すべきだと思うよ?

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/otaku/12973/1272211221/285-303
496人間七七四年:2010/05/01(土) 01:46:57 ID:3R/k0SpO
そんな外部サイトまでいちいち補完せにゃいかんのかね
497人間七七四年:2010/05/01(土) 02:27:41 ID:h6zNoXU2
>>494
この小野さんて、あのオノさんのご先祖?
498人間七七四年:2010/05/01(土) 07:22:13 ID:j2jbiHEh
>>497
オノヨーコの先祖の小野和泉の一族か郎党だったかな。
499人間七七四年:2010/05/01(土) 08:22:33 ID:AVs/rCtW
自分で文章考えるのならまだしも、ほぼ丸パクリってのはどうかと思うがね。
500人間七七四年:2010/05/01(土) 09:01:33 ID:A4AQZg+n
同じ逸話を語っても文章一つで別物になること考えると元ネタの文章練った人の労力を尊重したくはあるな

でもまあ、自分は元ネタ知ってる訳じゃないので
ここに輸入されるとそれはそれでありがたくもあったり
501人間七七四年:2010/05/01(土) 14:20:06 ID:lvqA5B1O
話をぶったぎっていきなりコレを蒸し返すが。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4069.html

「歌懸稲荷神社(うたかけいなりじんじゃ)」

 山形城主斯波兼頼が山形城の守り神として城内に建立したのが、その始め。
それより10代目最上義定が山形城の部内に社殿を建て、
12代目義光は、天童家との開戦に際して勝利を祈願した。
最上家代々の信仰が厚かったという。
城主や城下の人々が、短冊に歌を書いて神に奉納する風習があり、
歌を詠まないものは渡らせない橋も付近にあったところから、歌懸(うたかけ)の名が残ったという。


連歌会に失敗した義光がなんか強要プレイするようになった…?
502人間七七四年:2010/05/01(土) 16:21:05 ID:KWCCh+jV
むしろ領民にとっては「いきなり歌書け神社」だったんじゃないかw
503人間七七四年:2010/05/01(土) 17:11:19 ID:lC20mPYg
天正10年(1582)3月3日、織田、徳川による甲州攻めが進行しているさなか。
武田勝頼は一条右衛門太夫屋敷において、高遠城落城、仁科盛信、小山田昌成たちの討死の報を聞いた。
この時勝頼は土屋惣蔵、安倍加賀守に向かって

「返す返すも残念なことが有る。正月のはじめのことだ、信長の重臣である明智光秀が藤田伝五郎と言う者を
使いによこし、

『自分は信長を殺すつもりだ。その時は直ぐに準備を整え都に向かって軍勢を発してもらいたい。
もし徳川家康があなたの上洛を妨げる、もしくは我ら明智を討とうとするようなら、武田勢と明智勢で
前後より挟み撃ちにしてこれを滅ぼしましょう。柴田勝家や羽柴秀吉は織田家の勇将ですが、武田勝頼が
我らに味方するとあれば、その武威をおそれ簡単に攻めてくるとは思えません。
その上秀吉に関しては中国の毛利に押さえを頼み、勝家に関しては上杉景勝に押さえを任せます。
これ故孤立した家康は、我々の手で即時に滅ぼすことが出来ます。』

そう言ってきた。わしはこれを長坂や跡部に相談してみたが、彼らは、これは謀であると判断し
使者に取り合わないことに決めた。それでも藤田伝五郎は数日間この一条邸に逗留し、この事を
何度も言上しようとしたが、終にわしはこれを取り上げなかった。
もしあれを取り上げておけばどうなったか…

しかしこれも全て運の末というものだろう。今このようになってしまった事について、ここに至る過去のこと
千悔しても足らない。」

そう嘆いたという。

まあ事実かどうかはともかく、このような、光秀が武田勝頼と連携を取ろうとしたと言う話も伝わっていたらしい、と言うお話。
504人間七七四年:2010/05/01(土) 21:03:19 ID:fE6reytS
明智のみっちゃんはだから好きさ
信玄公のマブダチ快川紹喜の親戚だともいうしな
505人間七七四年:2010/05/02(日) 06:29:23 ID:w2rZi5XS
かごめかごめとの関連性を指摘されているとか>光秀
506人間七七四年:2010/05/02(日) 13:16:14 ID:CRgJAFZY
大田高増の罠


天正13年(1585年)12月、那須家重臣、千本資俊・資政親子は軍議を開くという事で同じく那須家重臣の大関高増に滝の太平寺へと招かれていた。
先に着いたのでしばらく待っていると大関もやや遅れて太平寺に現れた・・・軍勢を引き連れて。

大関高増「わが主、資晴様の命により千本資俊・資政両名を討ち果たす!者共、かかれい!」

申開きをする暇もなく千本親子はあっという間に討たれてしまったのである。30年以上に渡って那須家に仕え、度々佐竹を退けるなどした老臣の呆気ない最期であった。
しかしながらこの千本親子には謀反の兆候などの怪しげな動きは一切なかった。ではどうやって主命を取り付けた上で千本親子を謀殺したのか?

大関高増には千本親子を憎む理由があった。実は千本資政は大関高増の娘を娶っていたのだが姑との折り合いが悪く離縁させられていた。
後々、千本家に外祖父として影響力を及ぼせると踏んでいた高増にとってこれは全くもって面白くない事で、高増は策謀を巡らせて千本親子の排斥に乗り出したのである。
507人間七七四年:2010/05/02(日) 13:17:14 ID:CRgJAFZY
まず、高増の策に二人の弟(福原資孝、大田原綱清)が乗る。
次に、千本家に養子として入っていたが、嫡子の存在により冷や飯を食わされていた義政(実家は茂木家)を味方に引き込む。
更には計画の実行場所として定めた太平寺の住職を買収。
仕上げに高増は那須資晴へと千本親子の抹殺を進言する。もちろん、父の代からの譜代の功臣の排斥に資晴も難色を示したのだが
千本資俊の30年以上前の事柄まで持ち出し、言葉巧みに不信感を植え付けついには了解を取り付ける。
これで一切の障害を取り払った高増は無罪の千本親子を始末したのであった。

この事件後、手はず通りに千本家の領地の「一部」を義政が存続。そして千本家の領地から800石を切り取り太平寺の住職に与える(これが報酬である)。
最後に何故か大関高増、福原資孝、大田原綱清ら三兄弟が空いた領地を自分たちの裁量で三等分にし我が物にするのである。

こうして千本家も大関高増の息のかかった家となり更には自身の領地の拡大までしたのであった。
508人間七七四年:2010/05/02(日) 13:49:55 ID:/kkGCr6V
北条と里見・太田の連合軍が戦った、第二次国府台合戦。
連合軍は国府台城周辺の起伏に富んだ複雑な地形を利用して有利に戦を進めていた
が、「地黄八幡」北条綱成の奇襲をきっかけに総崩れとなり、多くの死者を出して
崩壊した。

その際討死した者の中には、里見一族の里見弘次の名前もあった。
弘次が討死したという報は、逃げ延びた里見軍の兵士によって安房に届けられる。
嘆き、悲しんだのは弘次の末の娘。十二、三歳となるこの娘は、異国の地で果て、
遺体も帰らないままの父を探して下総の地へと赴く。

が、そこに待っていたのは落城後の国府台城。
あちこちに遺体が転がるが、腐臭が漂い、もはや誰の遺体かも判別出来ない有様。
勿論、どれが父の遺体なのかも判るハズがない。

凄惨な光景を見たショックと悲しみとで、娘は近くの石に倒れかかり、そのまま息
を引き取ってしまった。

以来、娘の死んだ石からは夜毎すすり泣くような声が聞こえ、「夜泣き石」と呼ば
れるようになった。
徳川の世になり、国府台城が廃城になってもこの石は残り、現在城址に整備された
里見公園の片隅にひっそりと鎮座している。


……つっこみ所多いなぁ、この逸話。www
「里見弘次は戦死当時十五歳だったのでは?」
「北条に接収されたハズの国府台城本丸付近にどーやって忍び込んだんだアンタは」
「そこにまだ腐った死体が転がってたんかいっ」
etcetc……(^^;

まぁ逸話の真偽を問うのは野暮だから置いておくとして、国府台城からすぐ近くの
「じゅん菜池公園」付近の姫宮と呼ばれる祠にも、里見の姫たちがじゅん菜池に入
水自殺したのを祀ったモノだ、という言い伝えが残っているらしく、どうやら国府
台城は安房からの人気ツアースポット(女性専用)になっていたようだ。


更にはネットで調べていると、こんな話もあった。

昭和九年、台風で国府台城址の近くで数本の松が倒れ、道をふさいでしまった。
住民達は兵隊に頼み、それを撤去してもらった。
切ってもらった倒木は薪として近所の家で分けたのだが、倒木の株の内、大きな一
つだけがどうしても切るコトが出来ない。
近所の酒屋で「切れないのなら、あがりかまちの台に使おう」と言ってそのまま引
き取るコトになったのだが、それ以来、家族に病人が出たのを初めとして良くない
コトが次々と起こる。
まじないを良くする老婆に見てもらうと、貰ってきた松の株に古めかしい着物を着
た若い女性が縋っている。
「コレは国府台合戦で死んだ武将に縁のある姫君である」と言われた。
供養の為に社を建て、松の株をそこに祀ったのだという。


…………どーやら国府台付近では里見家縁の女性達がわんさか漂っているらしい、
というお話。(^^;
509人間七七四年:2010/05/02(日) 15:13:35 ID:cQTPpmhq
きたないな大関さすがきたない
510人間七七四年:2010/05/02(日) 15:14:55 ID:8+kw5bQr
全くあの親子はこれだから
511人間七七四年:2010/05/02(日) 18:51:33 ID:CRgJAFZY
大田原三兄弟は揃って外道だから困る。
512人間七七四年:2010/05/02(日) 20:00:24 ID:2gsSwPlG
「禍福はあざなえる縄のごとし」

大宮伊治は金に困っていた。
元々中級公家なのでそれほど裕福でも無い上に、ライバルの壬生家とのポスト争いに負けて官職を独占できなくなったのだ。
そんなところに一発逆転のとんでもない幸運が舞い込んだ。彼の娘が西国の王とも言える大内義隆の嫡男を産んだのである。
本来、義隆には万里小路家から迎えた正室があった。伊治の娘など、格が違いすぎるので広橋兼秀の養女として、兼秀の実娘のおまけとして嫁いだのである。
が、その娘が寵愛されて世継ぎの母となったのだ。つまり伊治は大内の外祖父となったのである。
この時代、公家が羽振りの良い武家を頼るのは珍しくも無い。まして伊治は別格のポジションだ。遠慮なく何度も山口に下向しては贅沢三昧を楽しんだ。
山口には他にも流れてきた公家がたくさんいたが、例え家格が上でも山口では伊治のご機嫌を損ねることは出来ない。
伊治、まさにこの世の春であった。

が、陶の謀反に巻き込まれ、あっさりと殺されてしまうのであった。
513人間七七四年:2010/05/02(日) 22:06:36 ID:vVsQUn5Y
慶長五年(1600)十月一日、石田三成、小西行長、安国寺恵瓊は六条河原において斬首。
その首は三条大橋にて晒された。

洛中の貴賎はこの三将の首を見て、

「この人々、太閤御在世の頃には権威甚だ盛んで、諸侯からも大いに尊敬を受け、我々のようなものが
顔を見るなど考えもできなかったのに、今はこのように梟首されて、間近に顔を見ても咎める人もなく、
警護する供人もいない。」そう言って世の転変の恐ろしさを語り合った。

さて、この見物の中の、60ばかりの男が言うには
「この三人のうち石田殿は、大織冠 (藤原釜足)の末裔だとは聞くが、卑賤より身を起こして大名となり、天下の奉行職まで
司った。しかしその栄華は一代も保つこと無く、このようなあさましい有様になってしまった。
これが『亢竜の悔』(栄達を極めた者は慎まないと失敗する恐れがある)という物なのだろう。」

すると、傍に居た者がこれを聞いて
「私が思うに、武士たらんとする者は石田殿こそ守護神と仰ぐべきである。
何故かと言えば、太閤薨去の後の天下は内府公のものであると、これは幼い童までそう考えていたほどである。
況や諸国の大名の内にも、あえてこれに背こうという人はいなかった。中に、この時わずかに佐和山城主に過ぎなかった
石田殿一人は諸侯を語らい合わせ、大乱を起こした。
しかし不運にして本懐を達すことが出来なかったのは、ただ天命であったのだろう。」
と言った。

これらを聞いていた50ばかりの僧は、
「お二人の評論、それぞれ尤もだと思います。しかしある人が私に語ったところによると、今度の関ヶ原の大乱は皆、
家康公の計略であったと言うのです。
『乱して治める』という古語があります。家康公は石田殿が諸侯と不和になり、乱を起こすよう誘導した。
これによりたちまち大乱起こり、今果たして、家康公に敵対する者たちは尽く滅び、太平の御代となって
庶民は安堵しています。しかし、果たしてこの乱がなければ、世の中は今のように治まったでしょうか?」


三将斬首の後の、三成に関する人々の評論である。
514人間七七四年:2010/05/02(日) 22:46:26 ID:KKnVhZ5w
>>512
大宮伊治じゃなくて小槻伊治かな
これに関連して

小槻伊治の娘・おさいの方

おさいの方は義隆の正室・貞子に仕えていたが
大層美しい娘であったためいつしか義隆に思われる身になったという
このスレでも既出の義隆の浮気メール誤爆(浮気相手に送る恋文が貞子に届いて修羅場に)
浮気相手はこのおさいの方だとも言われている
こうして義隆の側室となったおさいの方は義隆の寵愛を一身に受け嫡男・義尊を生んだ
一方、結婚して二十年近くなる貞子には義隆との子供がおらず、
元々夫婦仲も最悪だったため、とうとう離婚して実家のある京都へ帰ってしまった
正室・貞子のいなくなったおさいの方は自らが正室と言わんばかりに
貞子がかつて住んでいた御殿に移り住み、この世の春を楽しんだ

このような経緯があるせいか、家中のおさいの方の評判は最悪であった
義隆の功績をまとめた「義隆記」には、彼女の生んだ義尊を
「御曹司ハ実子ニテハヲハシマサヌト申セドモ証拠ハ更ニナカリケリ」と書き記している
陶隆房が義隆を隠居させて義尊を新しい当主として立てる、
という計画を曲げたのはこの風評があったからかもしれない

ちなみに彼女、父親とは違って陶の謀叛を乗り切る事が出来た
義隆がおさいの方のために避難場所の寺を手配し、そこへ逃げるように説得したからである
その後おさいの方はは墨で染めた衣と袈裟を纏い、
故人の供養のために毎日念仏を唱えながら暮らしたそうな
515人間七七四年:2010/05/02(日) 23:08:35 ID:H9IvAQg8
大内の逸話は悲惨な結末にしかならないから困る・・
516人間七七四年:2010/05/03(月) 02:49:29 ID:rarnEbra
関ヶ原本戦でバリバリやってる石田三成、小西行長はわかるが
なぜ本戦参加無の安国寺恵瓊が斬首されたのはよくわからん
宇喜多秀家は前田家の嘆願あって遠島どまりだし
同じ本戦参加無でも毛利家本体は減封だが輝元、秀元は咎めなしだよな
517人間七七四年:2010/05/03(月) 03:33:00 ID:04cNtPBU
安国寺恵瓊が死罪になったのは
西軍の参謀として毛利家を西軍に引き込むことに動いているのと

吉川広家と仲がワルかったのが原因だと思う

西軍諸将から、寄進(賄賂?)をかなり受け取っていたので言い逃れも出来なかったんだろうな
518人間七七四年:2010/05/03(月) 09:26:24 ID:RTCYK6Im
ぶっちゃけ、人望が無(ry
519人間七七四年:2010/05/03(月) 09:52:23 ID:bo6tl2hf
>>514
大内義隆は側室と母親の安全は確保したくせに
15歳の娘だけは一緒に連れまわして死なせたんだよな
娘も寺に入れてやればよかったのに

>>516
なんか前にもここで読んだような…
520人間七七四年:2010/05/03(月) 09:53:52 ID:bo6tl2hf
間違えた>>513
521人間七七四年:2010/05/03(月) 11:26:37 ID:fjrH7uWI
>516 >520
ことほど左様に、後世の人の噂なんていい加減なものなのですじゃ
522人間七七四年:2010/05/03(月) 12:26:59 ID:himJIg+h
>>519
ババァたちは寺に入れば安全でも娘は色々しのびなかったんじゃないの?
523人間七七四年:2010/05/03(月) 13:52:46 ID:fHtzmxej
復権する気あったから娘連れていったんじゃね?
尼子あたりと婚姻むすんで陶追い払うとか
側室と母親は後から呼び寄せればいいんだし
524人間七七四年:2010/05/03(月) 14:04:19 ID:5TUTxKJT
ラスボス関東仕置きの際の忍城攻防戦。

石田三成率いる大軍勢を敵に廻して、城主不在の中で見事守りきった成田勢。
小田原城が降伏したコトにより、関東で落ちていないのはこの忍城一つとなった。

成田家当主、氏長と共に小田原に篭城していた松岡豊前守が氏長の開城命令を伝え
に忍城にやってくると、漸くこの城も降伏、開城へと動き始める。

が、その最後のつめでまたもこの人がやってしまった。

三成「城を退散する際、持ち出して良いのは一騎につき一荷だけとする!」

騎馬武者一人が一つしか荷物を持ち出せない。
忍城に篭城していたのは勿論騎馬武者だけではない。徒歩の兵も大勢いたし、農民
町人女子供もそれぞれの財産を抱えて逃げ込んでいたのである。
彼等は何一つとして荷物を持ち出すコトは許されなかった。

開城交渉を務めていた松岡豊前にこの条件を聞かされた忍城代成田長親、激怒する。

長親「当主に従い、城を守り敵を防ぐのは家臣として当然の役目であり、忠義では
ないか! 忠節を貫いた士を憎み、罪人の様に扱うとは上方の将は何を考えている
のだ! 我々は手ブラで城を出て飢え死にするより、この城を枕に討死する方を選
ぶ!」

交渉を打ち切り、城門を閉ざし、改めて戦の準備を始めてしまう。
忍城の手強さを誰よりも知っている三成、慌ててラスボスへと使者を送ると、

ラスボス「そりゃ城兵の言ってる方が正しいよ。バカな条件をつけるのは止めて、
個人の財産は全て持ち出し自由にしてやんなさい」

とのお達し。
これにより、漸く忍城は開城。長かった関東仕置きも終わったのである。


でもこれ、条件撤回の為にわざわざラスボスの指示を仰いでいるトコを見ると、三
成の独断じゃないよねぇ。
ラスボスが「城から出てきた成田勢を撫で斬りにしろ」と指示したのを、三成が必
死で止めた。とか言う話も残っているらしいし、なんか三成の中間管理職的苦労が
垣間見える悪い話。
525人間七七四年:2010/05/03(月) 14:15:05 ID:D1CNF92r
氏長を信用し切れなかったラスボスが試しに揺さぶりかけてた気もするな
無茶な条件突きつけてもほいほい出てくるようなら氏長が両天秤かけて指示してたと断定して撫で斬り&氏長惨殺
蹴るようなら城に気骨のある連中がいたってだけだからお咎めなし、とかさ。
526人間七七四年:2010/05/03(月) 20:58:39 ID:jbOCcHkV
>>516-517
本戦の直後に捕まった連中と、
戦後処理の過程で捕まった連中(土佐の人とか、泳いでくる人)では、
裁く方のテンションも違うだろうから。
527人間七七四年:2010/05/03(月) 21:38:38 ID:wCPNMfvb
>持ち出して良いのは一騎につき一荷

これを言い出したのは長束正家という説もある
528人間七七四年:2010/05/03(月) 23:55:27 ID:5wNoMg3v
共犯者?

ある日、徳川秀忠のもとに諸将が集まり武辺話に興が湧いた際、ひときわ良く語る男に井伊掃部頭が質問した。

「森右近どのは先年上田で、真田と槍を合わせて逃げたというが、撤退戦でのご武功などあったのですか?」
「・・・・・・・・」
森右近大夫忠政は、黙して語らない。

「・・・・その辺どうだったんですかね、秀忠さま?」
「・・・・・・・・」
忠政について語られるどころか、秀忠もあらぬ方を見て黙り込んでしまった。





慶長8年(1603)、忠政は「自領の一揆を鎮定した」という謎の名目により、津山18万6千石に栄転した。
529人間七七四年:2010/05/04(火) 00:13:03 ID:YZCiAKdB
実は出撃すらしてねぇからなぁw
530人間七七四年:2010/05/04(火) 00:17:54 ID:PdfAARED
自領の一揆って右近検地の一揆ならマッチポンプじゃないかw
531人間七七四年:2010/05/04(火) 00:32:23 ID:MozPGqwX
実際に苦労してたのは井戸さんだしねぇ↓

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2530.html

あの秀忠にしてこの甘さ
秀忠と忠政の間に何があったというのか…
532人間七七四年:2010/05/04(火) 06:42:22 ID:KrnKwIFy
>>525
忍城そのものの処分は秀吉が命じてあるだろうけど、その過程は現場監督なんじゃないのかねえ
533人間七七四年:2010/05/04(火) 13:00:18 ID:JV+gRwTf
東京国立博物館でやってる「細川家の至宝」展に三斎様の歌仙兼定あったw
これで36人切ったかと思ったら寒気がしてきました。
534人間七七四年:2010/05/04(火) 14:25:45 ID:FMAuUb+V
>>531
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3852.html
この話からすると秀忠は突っ込むタイプのようだから
危ないところを助けられたとかかな?「天下人が後先考えずに突っ込むってどうよ。」で隠匿されたとか。
535人間七七四年:2010/05/04(火) 16:55:17 ID:hAysaIWw
同じく至宝展で歌仙兼定見たけど、
むしろこれでそんなに人斬ったのか?ってくらい現実感なかったけど。
日本の刀は綺麗だよな。
536人間七七四年:2010/05/04(火) 16:56:35 ID:kkMt6jDK
むしろそれは忠興さんの腕前がだな……
537人間七七四年:2010/05/04(火) 16:58:33 ID:9HViyu6T
きっと斬った後の手入れが良かったんですね
流石は三斎様w
538人間七七四年:2010/05/04(火) 18:34:04 ID:+pXQa6kz
影蝶透かしの鍔がお洒落
539人間七七四年:2010/05/04(火) 18:56:19 ID:XVn85Ygk
図録にもしっかりと例の逸話が載ってたw
540人間七七四年:2010/05/04(火) 19:11:18 ID:OEFanbV7
載せちゃうのかー
前の時は細川スレだかで
「家族思いで繊細な人柄って紹介されとった」「ギリギリ嘘はついてない気がする」
「貸し出してくれるのは子孫なんだから生涯お手討ち36人のヤンデレですとか書けんだろ」
なんて言われてたのに
541人間七七四年:2010/05/04(火) 19:19:05 ID:/nR3Wl8o
嫁に見とれた庭師を斬った話を知人に教えたら
自分の庭を任せているのに仕事の最中に仕事以外のことに脇目を振るような
庭師の職人としての不手際が気に入らなかったのでは?って言った
なるほど茶の湯仲間を呼んだりすることもあるだろうし
自分も褌やらいろいろ作る拘りの三歳だから仕事に対する目が厳しいんだ
そうとも受け取れるな〜と思ったけど
やっぱり嫁を見ただけで許せなかったんだとおもう
542人間七七四年:2010/05/04(火) 19:23:23 ID:XVn85Ygk
>>540
まて、ヤンデレとは書いてないw

「三斎が忠利に家督を譲り八代に隠居していたところ、
忠利の施政が捗らず、その側近を呼びよせ、この刀で成敗したところ
三十六人にも及んだところから三十六歌仙にかけて名付けられたという。」

あれ、生涯で36人じゃなくて一挙に36人斬りって話しになってるww
543人間七七四年:2010/05/04(火) 19:38:20 ID:Ptm6gZMx
足利義輝を超えた……か?
544人間七七四年:2010/05/04(火) 20:06:01 ID:+pXQa6kz
>>542
その時に成敗したのは6人で
それを六歌仙になぞらえて「歌仙兼定」だって説も
545人間七七四年:2010/05/04(火) 20:13:00 ID:YZCiAKdB
続・大関高増の罠


天正13年(1585年)の年末頃、那須家の重臣、伊王野資信は大関家の侵攻を受けていた。
侵攻の口実となったのは黒羽城(大関氏居城)に程近い伊王野領内に新たに築いた前田弾正館にあった。
大関安碩(高増)はこれを「伊王野家による大関家への侵攻の前触れ」として伊王野攻めを決意、侵攻を開始したのである。

伊王野家からしてみればこんな事(大関高増の罠 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4087.html)をする人間を信用する事も出来るハズも無いので
備えの意味も有ったのであろうが高増を目の前にしてこれはあまりに軽率な行動であった。
前田弾正館の建築を逆手にとって伊王野への侵攻のきっかけを掴んだのだから・・・

こうなれば老練な高増の独壇場である。那須七騎で那須家に継ぐ領地を動員を誇る伊王野家であったが大関家と婚姻を結んだ蘆野盛泰なども
出撃こそしないものの伊王野領近くをうろつくなど怪しげな動きを見せたために兵力分散を余儀なくされた状態で大関勢との戦となった。
こうして有利な状況を生み出した高増は大関清増(高増次男)を派遣。結果として伊王野家は戦に敗れた。


戦後、伊王野家は3000石余りを大関家に奪われ大関家の那須家中での権勢はますます高まったのである。
もはや好き放題であるが気づけば那須家中殆どの家に高増の息がかかっており、主君である那須資晴ですら大関を止める術を持たなかった。
546人間七七四年:2010/05/04(火) 21:06:58 ID:11tPz/0l
>>533
見てきた。
解説にちゃんと由来書いてて吹いたw
547人間七七四年:2010/05/04(火) 22:29:55 ID:d0ac5fRD
松永弾正も真っ青の大関クオリティ
548人間七七四年:2010/05/04(火) 23:02:15 ID:ebTInSN8
大関さんの所領は何処だったん?
549人間七七四年:2010/05/04(火) 23:13:18 ID:YZCiAKdB
>>548
昔の黒羽町の辺り
550人間七七四年:2010/05/04(火) 23:36:06 ID:bt1H8Ynh
大関はんぱねっす
551人間七七四年:2010/05/04(火) 23:46:36 ID:WZ6Skxku
ニュース見て思ったんだけど死期が近づいて北京詣でする金正日と、
死ぬ間際に家康詣でをした最上義光がなんかかぶって見えるなと。。。
552人間七七四年:2010/05/05(水) 00:47:56 ID:XANsgSOK
本当に三兄弟は腐れ外道どすなあ
553人間七七四年:2010/05/05(水) 11:08:51 ID:BSrIfwJF
大関高増の罠 最終章


天正16年(1588年)、大関安碩(高増)と長男晴増、大田原増清(三兄弟末弟、綱清の跡継ぎ)は豊臣秀吉と謁見すべく聚楽第を訪れていた。
機を見るに敏な大関一党は九州を平定するなど日の出の勢いの秀吉に取り入ることは間違いなく利になると判断したのである。
秀吉は一早く訪れた大関一党を歓迎し、特に大関家当主の晴増(高増は隠居)には「出雲守」を与え、羽織を与えられるなど見事に取り入ることに成功した。
ところでこの時の大関一党の名目は「那須家家臣」では無かった。それぞれ独立した地方領主であると自身の立場を説明したのである。

そして2年後の天正18年 (1590年)、ついに秀吉による北条征伐が開始される。
しかしながら那須家当主、那須資晴はここに至ってもまだ秀吉への謁見を渋っていた。那須家は北条家に対してそれなりの恩義を持っていたのである。
大関一党らが引っ張る親秀吉派には資晴以外の殆どが付いた。もはや北条家に勝ち目など無いことは明らかである。

同年4月27日、ついに福原資孝、伊王野資信、蘆野盛泰、千本義政、大関親子らが秀吉の元に参陣した。
だがここで大関親子以外の諸将は秀吉の怒りを買っている。あまりにも決意表明が遅すぎた。

福原資孝(兄者に増清め・・・抜け駆けしおったな。まさかもう秀吉に謁見を済ませていようとは・・・抜かったわ。)
554人間七七四年:2010/05/05(水) 11:11:10 ID:BSrIfwJF
福原資孝(兄者に増清め・・・抜け駆けしおったな。まさかもう秀吉に謁見を済ませていようとは・・・抜かったわ。)

大田原三兄弟の家の内、福原家だけが大名になれなかった理由はここににあった。
一応、所領は認められたものの福原家2600石、千本家2300石、蘆野家1100石、伊王野家に至っては735石にまで所領を削られてしまう。
一方で大関家は13000石、大田原家は7900石にまで加増されるなど優遇措置を受けている。

さて、那須資晴はというと家臣たちが勝手に謁見を済ませる中でまだ秀吉への参陣を迷っていた。
秀吉への参陣に訪れたのはなんと北条家が降伏した後で有った。これはあまりにも遅すぎて那須家は8万石の所領を没収されてしまうのである。
こうして大関家は小大名として独立を果たすのである。

後に哀れに思ったのか大田原晴清が秀吉に那須資景(資晴長男)を秀吉に謁見させ罪状を謝すると秀吉も5000石での那須家再興を許可した
555人間七七四年:2010/05/05(水) 11:13:05 ID:BSrIfwJF
ちょっと投稿ミスった。

まとめる時は修正しといて下さい、すいません。
556人間七七四年:2010/05/05(水) 12:06:54 ID:lT0bMlyM
以下蛇足

>>553-554の際、大関高増の外孫の倉ヶ崎城主・塩谷惟久も参陣せず、秀吉の怒りを買った。
これに対し惟久は、居城と妻を置いていずこかへ逃げ出し、残された妻・嶋子は秀吉のもとに差し出され・・・喰われた。
気丈にも嶋子は、秀吉の枕元で切々とお家再興を訴え続けた。



・・・実家の再興を。

実は嶋子は小弓公方・足利義明の孫であり、その弟は食うや食わずの生活を送っていたのだ。秀吉は嶋子の願いを容れ、
古河公方の血を引く足利氏姫を嶋子の弟・国朝と結婚させ、惟久が逃亡して空いたその旧領・喜連川郷を与えた。
こうして一ノ谷の戦い・屋島合戦にも名を連ねる名門・塩谷氏は滅び、鎌倉公方家が再興された。


『 日本一小さな大大名 』 喜連川藩が、これである。
557人間七七四年:2010/05/05(水) 12:14:23 ID:0Oun9P+g
>>556
実に心温まる話だなw
558人間七七四年:2010/05/05(水) 13:39:18 ID:l69SEt3P
>>556
股かn…あ、いや、胸が熱くなるな
559人間七七四年:2010/05/05(水) 15:04:12 ID:IHGN8mgp
今もって栃木県民にはアンチ徳川、秀吉好きの人が多いが
喜連川公方の再興もその理由のひとつとなっているようだ。
560人間七七四年:2010/05/05(水) 17:40:57 ID:BSrIfwJF
>>553
またまたミス発見

>特に大関家当主の晴増(高増は隠居)には「出雲守」を与え、

貰ったのは大田原増清だった。
561松代物語 1/2:2010/05/05(水) 19:15:22 ID:g2vkl9Xs
慶長5年(1600)、信州川中島は海津の土豪・春日一族の人々は、約20年ぶりの平穏を味わっていた。
天正10年(1582)はひどかった。“鬼”がやって来て荒し回り、一族の長である周防守昌元の子供を人質にして逃げ、
去り際に殺してしまった。昌元自身も後から来た上杉氏に謀反を疑われ、殺された。だが“鬼”も死んだこれからは…

(^^)「こんにちは、森です。」
「ぎゃーっ!鬼武蔵が化けて出たーっ!!」

「弟の忠政です。このたび徳川内府の命により、森家が川中島の領主として復帰しました、ヨロシク!
さて、みんなはオレらが海津に帰って来るの、待っててくれたよね?オレもみんなに兄貴が追い回された恨みを
返すのを、ずーっと待ち続けてたんだ。という訳で、今日から『海津』は『待城』に改名な!!」

こうして春日一族は忠政の復讐(?)を受けて全員磔刑にされ、武田四名臣、三弾正の嫡流は滅んだ。
森家の川中島統治は三年で終わったが、「右近検地」による年貢の増額、相次ぐ磔刑等、暴威を振るった。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2607.html

慶長8年、忠政は津山へ去り、後任の家康の六男・松平忠輝を百姓たちが出迎えた。
「よ、ようこそ『待城』へ…」「『待城』?海津ではないのか?」
百姓たちは、改名の由来を説明した。
「殺伐とした名じゃのぅ。今日よりここは、この松平忠輝の城。わしの名字にちなみ、『松城』と改めよ。」
「は、ハイッ!!」百姓たちは、鋭気あふれる若い新領主に期待した。
562松代物語 2/2:2010/05/05(水) 19:16:21 ID:g2vkl9Xs
慶長15年(1610)、家老の花井主水を連れて『松城』の街を視察していた忠輝は、子供たちが束ねた菖蒲で
打ち合っているのを見た。「主水よ、あれは何をしているのだ?」
「ああ、今日は端午の節句でしたな。あれは『菖蒲切』と言いまして、ああやって魔除けの草である菖蒲で打ち合い、
子供たちが厄払いや武芸上達を願うのです。」「……手ぬるい。」「は?」

忠輝は子供たちを町人方と山里方に分け、町人方には薪を持たせて自分が率い、山里方には石を持たせて
花井に率いさせ、合戦さながらに戦わせた。忠輝は一切加減を許さず、何人も死傷者が出た。
「こ、今度の殿さまも大概じゃのぅ…」
『松城』の人々は、5月5日が来ると親戚中が集まって、濁り酒を酌み交わして子供たちと別れを惜しむようになり、
子供の成長を祝う祭日は、子供の生還を祈る地獄の日へと変わった。


元和8年(1622)、忠輝が改易された後、短期間で領主が変わり続けた『松城』に、その日もまた新領主がやって来た。
「…ようこそ『松城』へ……」「『松城』?海津ではないのか?」
百姓たちは、改名の由来を説明した。
「そうか、そんな事が……」「もう慣れました。どうとでもして下さい。」
「そう言うな。さし当たって、もはやこの城は『松平』の城ではない。わが家とお前たちが後の世まで永く栄えるよう、
『松代』と改名する。」「………!!」

以後この領主、真田信之とその子孫が、幕末まで『松代』を治めることになる。


以上、松代の物語でした。長々と失礼。本日亡くなった松代の子供たちに、合掌。
563人間七七四年:2010/05/05(水) 19:33:04 ID:R04Qc1sd
>>561->>562
子供の日にそんな悲劇が…(−人−)合掌
松代の領民達受難すぎるだろ…海津からこんなに地名が変わっていたのも驚き
そして出てくると思ってた、信之兄ちゃんカッコいい!
564人間七七四年:2010/05/05(水) 20:22:44 ID:EvwUtsGo
ああ、松は長寿ってことで、『末代』とかけてあるんだな
にしても、忠輝は忠輝でたちが悪すぎるだろw
565人間七七四年:2010/05/05(水) 20:34:52 ID:BSrIfwJF
右近検地の一揆鎮圧による幕府の反応が「一揆鎮圧おめ!」だからやってられんわな
566人間七七四年:2010/05/05(水) 20:43:40 ID:0Oun9P+g
>>565
ただ保科正之も会津に入ったとき一揆を攻め滅ぼして幕府から賞賛されているので、
この時代、騒ぎが大きくならないうちに一揆を攻め滅ぼす、と言う事自体は
治世に関して良い判断だと考えられていたらしい、
最悪なのは佐々成政のように、ぐずぐずして一国蜂起みたいな状況になることなので。
567人間七七四年:2010/05/05(水) 21:55:04 ID:cHqPkFIK
なんで森弟は海津に戻れたんだろう。
どうせ領地くれるなら海津にしてくれって頼んだのか?
568人間七七四年:2010/05/05(水) 22:22:04 ID:UORab9wI
一回海津行かせてくれない?ぬっ殺したいやついるんだけど

おk

こんな流れ
569人間七七四年:2010/05/05(水) 22:37:08 ID:0Oun9P+g
>>567
戻れたのは間違いなく家康に接近したおかげだが、
あの辺は鬼武蔵が信長から与えられた領地なので、
忠政が家督を継ぐとき思いっきり切り取られた
森家の旧領復活、と言う面が大きいんじゃないかな?

まあ個人的な復讐心も有ったのかもしれんが。
570人間七七四年:2010/05/06(木) 00:21:37 ID:bfId/yiC
三成への屁理屈が最悪だったがぶっちゃけ心から来たがってはいなかったんじゃなかろうかw

美濃焼やら売りさばいて儲けれる豊かな河港を捨てたくなかったはず。
571人間七七四年:2010/05/06(木) 15:07:30 ID:1gA4CNG0
>>562
信之が善政を施いたかどうかは知らんけど、最後はホッとしたよ・・・・
572人間七七四年:2010/05/06(木) 15:36:12 ID:MCv4Yd31
文禄4年(1595)7月8日、関白豊臣秀次は、秀吉より高野山で蟄居することを命ぜられる。
これに聚楽第の秀次は重臣たちを集め、どう対処かを相談させた。

この時、三好家譜代の士で、秀次の乳父である白井範秀は言う

「秀次様にはいささかの誤りもありません。皆これ、石田などの讒言であり、
高野山に移られる必要などあるでしょうか?

どうか私、粟野、熊谷のうち一人を伏見にお遣わし下さい。太閤殿下の御不審の事、逐一申し開きいたしましょう。
その上で太閤殿下がお聞き入れ無く、押して討ち滅ぼそうと軍勢を派遣されるなら、この聚楽城を枕として
討死するつもりで戦いましょう。この聚楽城を持ってすれば何万騎が攻め寄せようと、恐れるほどのものですか。

聚楽を攻めあぐねる事態になれば必ず、太閤自らご出馬があり、自身で御謀反の仔細を聞こうとなさるでしょう。
その時こそ罪なき次第を一々に申し開きするのです。その言葉をお聞きなされば、太閤殿下の疑念も
解消されるでしょう。」

秀次はこれを聞いて
「汝の言葉、善いと思う。だが高野山に登れといわれているのに、聚楽に居ながらにして申開きをすると言うのは
これは不義であろう。
とにかくご命令通りに高野山に移り、高野山からお前たちを使わして申し開きをすべきだろう。
そのようにしよう。」

「それは甚だ悪いお考えです!こちらに誤りの無いことを一言も伝えることなく太閤殿下の命令に従うのは、
世の中の人々に”やはり関白はなにか間違いを犯したのだ”と推量されます!
どうかお考え直しを!」

しかし秀次はこれを聞かず、高野山に登った。すると直ぐに追っ手が来て、たちまち切腹となった。
この時にいたって秀次は、白井の言葉に従わなかったことを後悔したと言う。
白井範秀はこのことを予め覚悟していたので、諸人に構わず京に戻り、日頃より頼んでいた四条の聖雲院を訪れ
仔細を語ると、そこで殉死して果てた。
人々、彼の死を大いに惜しんだと言う。

秀次事件のさい、秀次のブレーンの一部に聚楽で籠城という計画があったのは確かなようだ。
かなり大規模で堅固な城郭だったと言う聚楽の防御録をバックに秀次が免罪闘争をした場合、はたして
どのような結果になったか、興味深い空想である。
573人間七七四年:2010/05/06(木) 16:05:39 ID:Lvb7fpjH
肝心のラスボスが、人の話聞けない状態だからなあ……。
574人間七七四年:2010/05/06(木) 17:05:40 ID:7PBftK/a
秀頼が生まれてる時点でもうどうにもならんだろ。
さっさと官位も所領も返上すべきだった。
575人間七七四年:2010/05/06(木) 18:57:05 ID:hwjxZO9v
秀次そのものが邪魔なんだから返上したところで殺されてたでしょ
576人間七七四年:2010/05/06(木) 19:11:08 ID:MRObdBmD
おそらくベストの選択はラスボスの首獲ってクーデター

これまた成功率が低いが
577人間七七四年:2010/05/06(木) 19:12:55 ID:RIGOwoCj
最初から見切って身を引いていれば十分可能性があったろうけど
ここに至ってはもうどうしようもないよねぇ
578人間七七四年:2010/05/06(木) 19:34:33 ID:7QaaZyb6
関白が日本の武家と政治を司るって新体制を創ったのは、他ならぬ秀吉だじぇ
後任もいない状態で秀次が世捨てしたら、政権崩壊の危機に陥る
579人間七七四年:2010/05/06(木) 20:08:39 ID:zpE5AI6k
聚楽って宮殿みたいなものだと勝手に思ってたが
要塞としても堅固な城だったのかな?
580人間七七四年:2010/05/06(木) 20:26:30 ID:Ay7qh+MI
>>579
すぐ壊されたけど、広大な城だったようだ。
581人間七七四年:2010/05/06(木) 21:34:29 ID:v4F59i9d
既に鶴松が生まれて死んだ例があるし、秀頼が生まれてすぐに何もかも譲るとはいかなかったろう。
何もかも秀吉の意のままに秀頼を立て余計なことはせずに大人しくしておけばよかったかというとなかなかそうとも思えないんだよなー。
秀次が何をどうすればよかったかって難しいよなー。
582人間七七四年:2010/05/06(木) 22:20:04 ID:AGU/ijoX
家督譲った後に実子が生まれちゃった例では義政と日野富子の子の義尚の前例があるな。
ありがちなお家騒動だよなあ。
応仁の乱のような事態に発展するのを食い止めたかったんだろうなあ。
583人間七七四年:2010/05/06(木) 22:23:50 ID:MCv4Yd31
>>582
応仁の乱はちょっと違うな。先に2派に別れた守護大名同士の抗争があった上で、
その抗争に将軍家の継承問題が巻き込まれた感じ。
584人間七七四年:2010/05/06(木) 23:23:44 ID:PRGRxx5p
>>571
善政なのかどうかまではねえ
税は高かったと言う話もあるが・・・なぜ高かったかと言えば軍備を常に戦時並にしていたせいだけど
幕末の時の動員力が他の大名に比べて格段に高かったらすぃ
585人間七七四年:2010/05/06(木) 23:52:25 ID:IOH0d+gb
北条の四公六民って戦国時代にしては超低税率だと思うけど実態はどうだったんだろうな
586人間七七四年:2010/05/07(金) 00:26:59 ID:yo0nGgyb
秀次って人間そのものが邪魔なんであって関白だとかそんな地位はどうでもいい状況
587人間七七四年:2010/05/07(金) 00:46:55 ID:qH0+upXt
>>584
それって、戦国時代の動員基準をそのまま幕末まで保存してたって事?
588人間七七四年:2010/05/07(金) 00:57:42 ID:wGctwaPD
秀次事件シリーズ

粟野秀用(ひでもち)という武将がいた。
彼はもともと伊達家の家臣であったがある時罪うぃ得、それにより処刑されると知り伊達家を出奔、
やがてまだ織田家の武将で、対毛利戦の最中であった羽柴秀吉に仕えた。
(一説に粟野は政宗の弟小次郎の傅役であり、政宗による小次郎手打ちの再出奔したともいわれるが、
それでは時代が合わない)

伊達家は粟野が羽柴家に仕えたことを知ると大いに怒り、わざわざ使者を使わして抗議した
『あなたの御家に粟野木工頭と言う者がいると思いますが、この粟野は伊達家譜代のものですが
法外のことがあり、勘当した上押籠ておいたのに、奥州を出奔して貴方に仕えました。
彼者は仔細があり、当国において訪ねたいことがありますので早々にお返し下さるよう。」

これに対して秀吉
『粟野のことですが、以前我が家に仕えることを望んだ時、何者であるかとその履歴を尋ねたところ、
あなた方伊達家が言ってきたようなことを、相違なく私に申しました。あなた達が勘当した者をこの秀吉が
扶持したことについては、多少の心苦しさを覚えますが、奥州よりはるばる私を頼み来て、その詳細を語り
嘆くゆえに、その心底不憫と思い召抱えますと、非常に忠功を現してくれています。

粟野は伊達家のご法度に背いたかもしれませんが、この秀吉に免じて御免あれ』

そう返答した。

このあと伊達家より何事か言って来るようなことはなく、粟野は秀吉の元で軍功を重ね、
四国征伐の後はなんと、伊予柾木城主、15万石の大名となった。
さらに秀吉の命により関白秀次の重心の一人ともなり、その威勢はかつての主家、伊達家をしのぐほどであったと言う。

が、文禄4年(1595)7月15日、豊臣秀次切腹。粟野秀用もその重臣として責任をとり、同日、京の東山において切腹した。
彼には子も一族も無く、その家も断絶となった。


粟野の死に対し京雀達はこのように批評した
「粟野はもともと卑しい身分のものであったが、にわかに15万石の大名となった。だが、それゆえに滅んだのだ。
痩せ子が多くの食事を取るのは、かえって毒となり身のためにならないと言う。
此の人も昔のように徒士の侍のままなら長命したであろうに、15万石が毒となって命を失ったのだ。

その上50余りの歳だったと言うのに、妻女は費えになるからと独り身を好んでいた。
彼の人生のどこに、楽しみが有ったのだろうか。」

こんなことを、様々に語ったのだと言う。

余談だが秀次事件の時伊達政宗が疑われたのは、この粟野秀用が元伊達家の家臣であったため、
何らかの繋がりを疑われたことも大きかったと言う。

奥州から現れ一瞬の栄華のあとたちまちに消えた、伊達家元家臣、粟野秀用についての話である。
589人間七七四年:2010/05/07(金) 01:00:18 ID:oPDS5DpD
>>587
かなりそれに近いレベルっぽい、江戸初期並みの動員率を幕末まで維持したんだとか。
他藩の石高あたりの動員力の3倍ぐらいを維持。
しかも、武装は普通に近代化をしているw
590人間七七四年:2010/05/07(金) 01:09:27 ID:qH0+upXt
>>589
良いこと聞いた。ありがとう。
いまいちハッキリしない戦国時代の動員力を調べるのに、
良い資料になりそうです。
591人間七七四年:2010/05/07(金) 01:12:35 ID:oPDS5DpD
参考になるかは微妙だが念のため。
幕末での動員は基本1万石で100〜150人
真田は10万石で3000強。基本松代に移ってからはこのラインをずっと維持していたらしい。
592人間七七四年:2010/05/07(金) 02:16:05 ID:4RBVT9f5
>>591
1万石で200超えると相当キビシイよね。
米以外に他藩から「外貨」を稼げる商品がねえと
593人間七七四年:2010/05/07(金) 08:02:20 ID:f5TKpgRw
ところで真田家の藩って幕末の戦争で活躍したの?
594人間七七四年:2010/05/07(金) 08:08:36 ID:JJ2QHBFp
>>585
土地の予定収穫高をどの程度に設定してるかで変わるから公民歩合だけでは何とも言えん。
取られる側からすれば緩め(少なめ)に見積もった六公四民より最大限の収量を前提にした四公六民の方が苛烈だし。
595人間七七四年:2010/05/07(金) 10:48:05 ID:qms77IeJ
>>593
佐久間象山ひとりを出しただけで十分という気はするが。
596人間七七四年:2010/05/07(金) 10:54:14 ID:KREvLrOe
>>593
活躍はしてる。
北陸路から長岡を攻略して、そのあと幕府軍が八王子から甲府に進軍しようとしたため一旦甲府に入った後、会津若松攻略に加わり主力となっている。
597人間七七四年:2010/05/07(金) 12:21:35 ID:UYRIY18L
スレチ承知で質問ですが、戦国末期から江戸初期だと数万単位で兵を動員してるのに
幕末だと数百とか数千の兵を動かすのが精一杯て感じなんですがそれは何故なんでしょう?
598人間七七四年:2010/05/07(金) 12:35:49 ID:wGctwaPD
>>597
武器。

第二次長州征伐で幕府は15万人を動員したが、旧式装備で中には戦国時代然とした
部隊すらあり、それらが機能しないこともあり幕府軍は
最新鋭装備で武装した長州軍4千に惨敗した。

これにより最新装備の無い兵は敵の的にされるだけの意味のない存在だと言うことがはっきりし、
兵数は新鋭武器の数に規定される、と言うような状況になった。
599人間七七四年:2010/05/07(金) 12:55:40 ID:UYRIY18L
>>598
成程そういう訳だったのですね。ありがとうございます。しかしながら、いかに装備に差が
あるにしても数の暴力で押し切ればどうにかなるというのは素人考えなんですかね。
600人間七七四年:2010/05/07(金) 13:04:30 ID:eEwXKzfz
射程距離が全然違うから初手で負け戦確定かな
接近戦ならいわゆる激戦に持ち込めるけど、戦場や状況が限定されてしまう
601人間七七四年:2010/05/07(金) 13:18:25 ID:kHJ+aZkI
まぁ、武器の優劣は中国史なんかでも、前漢中期の漢と匈奴の立場逆転の理由の一つとも言われてたりするしね。
洋の東西を問わない、陸戦における遊牧民の絶対的優越性を揺るがすんだから大したもんよ?
602人間七七四年:2010/05/07(金) 13:25:02 ID:tqnxXTdK
>>599
人の命を命と思わない体制なら可能でしょうね。
オスマントルコとかソ連とかみたいに
「後退したら殺す」
と恫喝して、嫌でも前に出ざるを得ないような体制。
603人間七七四年:2010/05/07(金) 15:56:35 ID:k0xK2bh1
竜造寺が近いな>前進あるのみ
604人間七七四年:2010/05/07(金) 16:03:25 ID:sn5+Jyzv
>>599
江戸時代までの日本の軍隊は、高度な組織化がされていないため
どうしても個々の武勇に軍隊全体の強さが大きく左右される。
太平に慣れた素人の寄せ集めでは、いくら数が多くても弱いってことだね。
605人間七七四年:2010/05/07(金) 17:21:20 ID:jQRIBO6z
経済の変化も考えるべきだろ。
江戸時代になると、大名が相対的に貧乏になったというのもある。
606人間七七四年:2010/05/08(土) 01:13:18 ID:OmHIRbdi
慶長5年(1600)7月25日、上杉征伐に出向した家康は上方での石田三成による反乱を聞き、
その日のlk小山会議によって西進を決断。結城秀康を大将とした押さえの軍勢を下野国に置き
自らは江戸へと戻った。

さて、これを聞いて俄然勢いづいたのが上杉家重臣、直江兼続である。
彼は景勝に進言する

「かねてよりの約束通り三成は軍を起こし、彼らはまもなく、あの遠征軍を滅ぼすため
東方へと進軍するでしょう。
であれば君もこの動きに乗って家康殿を追いかけ攻め上り、東進する上方勢と共に
挟み撃ちにすれば、これを討ち漏らす事、よもやございません!」

兼続には必勝の形がはっきりと見えていた、のであろう。が、景勝

「私が今回兵を上げたのは、世間には石田に一味したように見られるかもしれないが、
全て秀頼公への御奉公のためである。
自分が謀反人と呼ばれたのは、神指の新城の事と上洛しなかったこと、この二つが理由である。
これ故に徳川殿は軍勢を進めた。弓矢を取る身の習いであれば、当然これと一戦しなければならない。

が、徳川家が我らを構わないと言うのであれば、私は他の五大老、三中老、五奉行らと
故太閤に対し連判の宣紙を交わした身の上であり、少しの異心も持ってはいない。

であるにも関わらず、この景勝から押し出し攻め上がるようでは、太閤に差し上げた
宣紙を破ることになり、天下騒動の手出し者となってしまう!
それだけは、私は許可しない!

よいか!?会津の国境、白坂より外には上杉の旗一本たりとも出してはならぬ!」

そう、固く下知した。これには直江兼続も、ただただ呆れるのみで景勝を諌めることも出来なかった
と言う。

景勝、名分のため去る家康を追わず。と言うお話。

ただ、そんなこと言いながら国境を出て最上伊達と戦っていたり越後の一揆を扇動したりも
しているのでこっちにw
607人間七七四年:2010/05/08(土) 01:15:01 ID:9b9gjFYB
景勝「攻め上がってないもん、攻め下ってるもん」
608人間七七四年:2010/05/08(土) 01:56:01 ID:07E7vGP7
応仁の乱が10年くらい続いたから、越後、出羽を併合してそのあと決戦とか考えてたんだろうな
官兵衛と同じで。
それなのにたった半日で・・・
609人間七七四年:2010/05/08(土) 01:58:07 ID:I9QfEa2U
所詮b…もとい若殿だからな!
上杉殿や大殿のような鳳凰の志など測ることが出来るわけもないわ!
610人間七七四年:2010/05/08(土) 02:52:49 ID:uIMQc9Ye
有名な話だけど、まとめ見たらまだ乗ってなかったので……

室町時代、細川家には宗家たる京兆家以外にも数多くの連枝があり、
中でも阿波細川家は宗家の中央政界での軍事力を支える有力な家柄だった。
のちに京兆家にとって代わる三好家は、元はといえばこの阿波家の家臣に当たる。

その三好家の長慶の代、阿波守護家の当主は細川持隆である。
この持隆は長慶の父である元長への寵愛深く、元長が阿波勢の名代という形で京兆家の晴元に従い畿内に赴き、
やがて晴元に疎まれて自害に追い込まれる中でも常に元長を支持してくれた人物であった。
この持隆が元長亡き後に幼い彼の遺児たちを庇護してくれなければ、後の三好家隆盛はなかったかもしれない。

その持隆が、天文二十二年に阿波国見性寺にて殺害された。
下手人は他でもない、三好元長の次男であり持隆の近臣でもあった三好義賢だった。
当時、中央政界では三好長慶の圧迫により日に日に細川晴元の勢威が衰え、
山城や摂津からも駆逐されて六角義賢支援の下での近江坂本での亡命生活が常態化しているところである。
さすがの持隆といえど、その三好一族による細川宗家の零落は自ら招いた事として我慢ならなかったのだろう。

彼は義賢を除く家臣を集めて三好長慶討伐の密議を開いたともいい、
また単に平島公方足利義栄を新将軍として押し立てて上洛し、長慶を抑えようとしたともいう。

いずれにせよ、ことここにおいて細川持隆と三好義賢の利害は決定的に対立し、
義賢は命の恩人ですらある主君を殺害して兄を守る道を選んだのだった。
611人間七七四年:2010/05/08(土) 02:54:24 ID:uIMQc9Ye
この主君弑逆の罪は、義賢を生涯苛んだらしい。
彼が辞世の句としてあらかじめ残しておいたのは、

 草枯らす 霜また今日の日に消えて
   報いのほどは ついに逃れず

という、自分はきっと罪から逃れられないという強迫観念めいた内容のもの。
永禄五年、彼は味方に倍する畠山勢を迎撃した久米田の合戦の直前、持隆に死に誘われる夢を見たという。
そして実際に彼はこの合戦で討ち死にを遂げ、人々は彼が予感した通り報いが来たのだと噂した。
事実かどうかはわからない話だが、それだけ彼が罪の意識に囚われていたことが周囲に伝わっていたのだろう。

阿波細川家と三好家の怨念の連鎖はこれに終わらず、次世代にも連続する。
それは、持隆の妻で彼の亡き後に義賢に再嫁していた小少将から生まれた持隆の子真之と、
義賢の子長治・存保という異父兄弟の間で争われる骨肉の争いだった。

さらに義賢の主殺しをきっかけにそれまで細川三好体制の中で団結していた阿波国人衆に亀裂が生じ、
土佐の長宗我部家の跳梁を許す足場を自ら提供することともなり、
阿波三好家は滅亡への坂を一気に転がり落ちていくのだが、それはまた後の話である。

いろいろと後味の悪いお話。
612人間七七四年:2010/05/08(土) 07:29:12 ID:TqQ7fK0b
>>585
> 北条の四公六民って戦国時代にしては超低税率だと思うけど実態はどうだったんだろうな
>

所得の捕捉率がどんくらいだったのかがわからんとなんとも。
最近はあまり聞かないけどトーゴーサンピンとかクロヨンとかって
言葉があったよね?
昔も今も農業ってのは脱税がやりやすい。
江戸時代なんかでも農家の所得の捕捉率は50%程度だったって
話を読んだことがあるな。で、その50%から4割徴収する。
つまり総農業生産に対しての比率なら税率2割ってことになる。
で、日本の人口は農家8割その他2割。
ちょうど非農業人口の消費する食料に相当する分を徴収してた事
になる。
ソースは失念。申し訳ない。
613人間七七四年:2010/05/08(土) 07:33:49 ID:SAc77T0g
>>610-611
まさに後味悪いなぁ・・・まあいかにも戦国乱世って感じではあるけど
614人間七七四年:2010/05/08(土) 09:34:42 ID:l2heR1z0
江戸時代に関しては大石慎三郎氏が参考になる。

それによると、天領は公称四割のところが三割以下。
吉宗は五割に引き上げたというが、実質は頑張って三割五分。

このあたりは>612も触れてるけど、庶民の実際の収入の内訳は、
課税所得と非課税所得のぶんがあって、公称で言われる税率は
課税所得に対して。
615人間七七四年:2010/05/08(土) 10:11:47 ID:vd1PsHSM
現代社会の方が税金の負担は重いんだな、びっくり
616人間七七四年:2010/05/08(土) 10:28:36 ID:L385cJE4
ソースがヤンマガのセンゴクで申し訳ないが

農民「お代官さまがヒドイんです!解任して自治領にしてください!」
今川義元「いいよ。ただし年貢を倍にするけど良いの?」

農民了承する

とかあったようなんで>>561-562と合わせて考えるに当時の庶民にとっちゃ
生命だの治安だのを脅かされないほうが大事だったのかなーと…
617人間七七四年:2010/05/08(土) 10:42:29 ID:07E7vGP7
領主が弱いと他国から攻め込まれたときに略奪、田畑の踏み荒らし、家に放火とかやりたい放題されるからな
武田が小田原に遠征したときは府中、高井戸、世田谷、目黒、池上、丸子、稲毛、小机、藤沢、大磯、小田原
などの家、寺院が悉く略奪にあってる。
618人間七七四年:2010/05/08(土) 11:24:11 ID:OmHIRbdi
戦国期の「年貢」というのは、指出検地で出された生産量を基準に算出されるものなので
実際にはその年貢に数倍する加地子(余剰生産)があった。無論豊不作はあるので
一定しないが。

なので「年貢を倍」といっても、農民の全収入から考えると、それまでの2,3割の増税、
くらいで済んでいたはず。
619人間七七四年:2010/05/08(土) 11:39:53 ID:u1Y8kquk
>>617
北条無能杉だなw
620人間七七四年:2010/05/08(土) 11:51:34 ID:OmHIRbdi
>>619
北条の「城」と言うものはその外郭に大規模な住民避難上を設置している。
この武田の遠征の時も、武田軍の進入前から既に住民に対し、稲の刈り入れを早めて
家財や食料をまとめて城に避難するよう通達が出されており、既に避難の完了した地域での
武田軍の略奪は、その規模の割に獲物はごく少なかったと考えられる。

武田軍が鉢形城や滝川城、そして小田原城を囲みながらどれに1日から数日と言う
ごく短期間で撤収したのは、遠征軍の兵糧を現地調達出来なかったことが大きかったのだろう。
621人間七七四年:2010/05/08(土) 11:59:20 ID:u1Y8kquk
焼き討ちされといてそれはないだろw それと戦略上城を落とさなかっただけで
狙いは駿河だしな
622人間七七四年:2010/05/08(土) 12:02:21 ID:97bl5xSe
なんか変なのが沸いたねー
釣られたのは俺だけでいいから以下放置で
623人間七七四年:2010/05/08(土) 12:04:35 ID:u1Y8kquk
地上の楽園 北条鮮
624人間七七四年:2010/05/08(土) 12:17:08 ID:Xt2GMahb
小田さんとこの領民カワイソ(´・ω・`)
625人間七七四年:2010/05/08(土) 12:23:28 ID:Ha5kLll7
領民を守らないからペンペン草も生えないド田舎になったのか北条領は…
家康も大変だったろうな
626人間七七四年:2010/05/08(土) 12:47:35 ID:6W4H8GaH
今日はこの板のそのスレにnameあぼ〜んが来るかな
627人間七七四年:2010/05/08(土) 12:52:35 ID:OjeIhl6e
つうか、北条は攻められたら一端兵を引き各地の責任者の元へ集結して
それから反攻するってのが基本路線だから
大兵力で攻められると、どうしても領土は大きい範囲で荒らされる
628人間七七四年:2010/05/08(土) 13:46:14 ID:L385cJE4
ある旅行記より


慶長六年十月二十四日

「日も暮れるころ、近江堅田に着いた。宿を探す時間もないので、クソ狭くてボロい漁師の家に厄介になったが、
夜通し眠れなかった。家の主人が言うに、
「私はもう『じんきょ』(と聞こえた)の身でして、息子に家をくれてやっちまって、こんなボロ家に住んでるんでさぁ。」

…堅田あたりでは、ヤり過ぎると年取って腎虚になるから、『隠居』のことを『腎虚』と言うのだろう。
そーゆー事にしておこう。」


同三十日

「木曽は妻籠宿で休憩したが、「狐が化けてるんじゃねーか」と思うほど厚化粧した女がいた。
山里には珍しい生き物がいるモンだなぁ。んで、町外れに『紅坂』という山道があると聞いて一句。

けはひ(化粧)たる 妻戸の妻の 顔の上に 塗り重ねらし べに坂の山


さて、妻籠を出て二つ山を越えた野尻という所まで来たが…い、いかん!腹が!!

さむさには 下はら(下痢)おこす の尻かな 」


……とりあえずアナタといると退屈しなさそうですね、前田慶次さんw
629人間七七四年:2010/05/08(土) 14:22:34 ID:4xWrlgpJ
どこのふざけた奴かと思ったら慶次さんかよw
630人間七七四年:2010/05/08(土) 14:25:36 ID:aH+MF/Ne
下ネタばっかりじゃねーかw
631人間七七四年:2010/05/08(土) 15:11:18 ID:erLTI8If
前だけいじろうとします だっけ?
632人間七七四年:2010/05/08(土) 15:16:31 ID:QGo6TV9h
毒舌なんだか下品なんだか観察眼鋭いんだかわかんねぇw
633人間七七四年:2010/05/08(土) 15:35:35 ID:DhC6tBQA
慶次は人生楽しんでるなw
634人間七七四年:2010/05/08(土) 17:18:58 ID:jT1878+E
>>602
そこで督戦隊ですよ。
635人間七七四年:2010/05/08(土) 17:40:40 ID:4H1ul8fc
偽乳督戦体
636人間七七四年:2010/05/08(土) 21:08:26 ID:aH+MF/Ne
悪魔の囁き


永禄7年(1564年)下野国の小領主、塩谷義孝は居城の川崎城で就寝中に賊の襲撃を受けていた。

義孝「ば、バカな!守備の兵は・・・木村は何をしておる!?」
家臣「木村和泉どのの手引きにより敵が侵入しております!」
義孝「そんな・・・何故だ・・・」

これは義孝にとっては全く信じ難いことであった。
木村和泉は義孝が一番信頼を寄せていた家臣であり、川崎城の守備を任せていた自身の右腕とも言える存在だったのである。
まさかの裏切りに川崎城は為す術無く陥落し、義孝も討死した。

賊の正体は義孝の実の弟、塩谷孝信の刺客。
親宇都宮家の義孝に対して孝信は親那須家の姿勢であり、以前より両者の仲は悪化していた。
そして、孝信が那須家寄りの考えになったのは那須家重臣の娘を娶ったことにあった。

大関高増「 私 で す ^^ 」


兄弟の仲を分裂させ、木村和泉にあらぬ想いを抱かせた犯人が彼であるかまでは定かではない・・・
637人間七七四年:2010/05/08(土) 21:16:16 ID:6/5S/ciy
大関高増キター
俺は木沢とかこういう人物ばっかり好きだな
638人間七七四年:2010/05/08(土) 22:46:57 ID:OmHIRbdi
いい話スレで日蓮宗僧日親の話が出てたので、不受不施派から同じく聖人とされている
日奥の「大坂城対論」を

秀吉の方広寺大仏殿、千僧供養会の出仕を断り丹波小泉に蟄居していた日奥は、
慶長四年(1599)十一月、不受不施派の彼と対立する受不施派の上訴により、
徳川家康の命で大阪城へと呼び出された。

家康はこの日奥に言う

「大仏供養への出仕は、公儀の顔を立てるためのものであり、宗派の傷になると言うものではない。
諸寺、諸派の僧との同席が嫌なのなら、そなた達の仲間の人数だけで法事を勤めたら良い。
不受不施という原則から法事の際の飯の施しを受けるのが嫌なのなら、ただ膳に向かって
箸をとり、食う真似をしているだけで良い。
ただ一度で良いのだ。強情を貼らず、出仕をせよ。」

これを見ればわかるが、家康は日奥の顔を立てた、非常に穏便な条件を出し説得している。
家康に限ったことではないが、日本の支配層は伝統的に、その支配に従う限り
心のなかで何を信仰していようと、それは問題ではない、と言う態度であった。
家康も穏便な条件で、公儀に服従しているという姿勢さえ見せれば良いとし、
この問題の円満な解決を図ろうとしたのだ。

「大仏供養への出仕を断るのは、汝ひとりだけである。他の僧たちはみな、何の問題もないと
言っているのだ。
他の長老たちに比べ若輩の身でありながら、そのように僧侶たちの衆議に従わないのなら、
汝は自身が信仰する法華宗に害を及ぼす魔王、と言うべきではあるまいか?」

日奥これに
「仏法の正邪は人の多きにはよらず!ただ経文にかなっているかどうかだけである!」
と、一歩も譲らなかった。

この態度にはさすがの家康も怒り
「このように強情ばかり言うものは、いずれ天下に対しても良からぬ事件を起こすに違いない!
この者を流罪にすべし!」

「5年前寺を出て蟄居した時から、この生命は既に仏法に捧げております!
流罪にされようが死罪にされようが、今更驚くものではない!」

日奥はそう啖呵を切る。彼はたちまち召捕られ袈裟衣を剥がされ、対馬に流罪となった。
後、不受不施派はキリスト教と同じく、幕府によって「邪宗門」とされる。

信仰とは心の内面で信じればいいもので、世間のルールには従うべきだ、という家康と、
何者であっても信仰上の原理原則は曲げてまで従うことは出来ない、と言う日奥の、
決して交わらない意識の壁のお話。
639人間七七四年:2010/05/08(土) 22:49:12 ID:z1t3y4yq
>636
流石は大関さん。安心のクオリティ

そろそろちょっと良い悪いスレの四天王を決めておきたい気分
640人間七七四年:2010/05/08(土) 23:18:54 ID:ioM235Ut
>>638
そういえば、朱子学は宗教色がほとんど無い儒教の一派ですね。
そのお陰wで、日本人には儒教=宗教というイメージが無い。
儒教が宗教だという事を説明するのが大変だったりもします。
641人間七七四年:2010/05/08(土) 23:34:48 ID:k8og8OgH
>>606
昔から全く分からないのだが
上杉景勝って、何で秀頼に忠誠誓ってたんだろ?
そこまで豊臣家に義理があったとは到底思えないんだけどな。
642人間七七四年:2010/05/08(土) 23:45:08 ID:knYhe8f+
秀頼に忠誠を誓ったってより、
家康との間で売り売られした喧嘩を買ってしまった手前、
秀頼側に立っただけなんじゃね?
643人間七七四年:2010/05/09(日) 00:01:52 ID:D96zQ9+3
関ヶ原終わって
勝ち目が潰えたらあっさり降伏したしな
644人間七七四年:2010/05/09(日) 00:12:03 ID:nidw/DUZ
まあ「上杉謀反」って建前の討伐だから、景勝としては
「私は豊臣政権に謀反なんてしてません」=「秀頼公に忠義を尽くしています」って事かと。
645人間七七四年:2010/05/09(日) 00:20:50 ID:jSePlfrJ
あと本能寺の変から佐々討伐あたりまでの羽柴家との良好な関係もあるし
ケンカしかしたことない徳川家と手打ちするより、
それなりに付き合いのある豊臣家とにゃんにゃんする方が気が楽だろう
646人間七七四年:2010/05/09(日) 00:36:38 ID:zdgL4HBx
直前の前田家への恐喝を見ているだろうからね
前田家同様人質とかも出さなければならないだろうし、
部下は部下で間違いなく焚き付けるし、
まぁ受け入れ辛いだろうなぁ
647人間七七四年:2010/05/09(日) 02:19:49 ID:wt/HP+g6
つうか、約束は守るってのがいわゆる上杉の義
一応秀吉と約束してるんだから、専横始めた家康に簡単には従えないんだよ
その辺は上杉の看板でもあるんだから

別に無私無欲だとか清廉潔白だからとか豊臣家に対する忠とかじゃ無い訳
メンツの問題
648人間七七四年:2010/05/09(日) 02:50:02 ID:9b5gSyXa
義理の弟殺しといて義とか語っては駄目だろ
649人間七七四年:2010/05/09(日) 03:26:46 ID:wt/HP+g6
前にも書いた事あるが、義ってのは簡単に解りやすく説明するとルールって意味だからな
上杉家のルールに反してなきゃ義理の兄弟だろうが何だろうが勝つためなら殺すよ
650人間七七四年:2010/05/09(日) 03:57:13 ID:Zh9nM2vh
チャイニーズマフィアみたいだな
651人間七七四年:2010/05/09(日) 04:14:13 ID:wt/HP+g6
まぁ、上杉家が長尾時代から893指向なのは事実だなw
652人間七七四年:2010/05/09(日) 08:23:58 ID:L85IYmfd
>>648
義理の弟が先代から敵対してきた国の大軍を
国に引き入れるような奴じゃなきゃ殺されずに済んだかもね。
景勝は「謙信がした約束は俺が守る」っつって北条討伐宣言してたから。
653人間七七四年:2010/05/09(日) 08:34:58 ID:+U92Xeq+
弱肉強食の戦国時代で義理の弟を殺すなとかなに寝言言っちゃってんの
殺しておかなきゃ自分が殺されるってのに
現代人の価値観で戦国や義を語るなよ
654人間七七四年:2010/05/09(日) 08:47:37 ID:m5aMC2LX
戦国だろうと現代だろうと義の概念は一緒だろ
655人間七七四年:2010/05/09(日) 08:58:06 ID:E2+g+h1y
>戦国だろうと現代だろうと義の概念は一緒
言葉の意味や概念は一時代どころか半世紀すら待たず変化するぞ
656人間七七四年:2010/05/09(日) 09:16:58 ID:ev3BDaov
自分の信じる正義=義としておけばいいのに
あたかも絶対正義みたいにするから
ウソ臭い聖人君主になるんだよな
657人間七七四年:2010/05/09(日) 09:38:09 ID:DvagHDpr
あれはどっちかというと憲政やっちゃったことのほうがまずいんじゃないか。
658人間七七四年:2010/05/09(日) 10:17:30 ID:L85IYmfd
憲政はどっちが殺したのかも
そもそも殺したのかただの事故死かも
更に言えば御館の乱当時本当に生きていたのかすら不明、
景虎は景勝が殺してるのは間違いないけど
憲政の死に付いてはなんとも言えんだろ。

そもそも逸話スレで出された逸話と別の話の史実を検証して
義を語るのも変な話だけどな。
659人間七七四年:2010/05/09(日) 11:38:11 ID:j4yjVwJu
>>658
それが景勝の意向によるものなのか、景勝の家臣が誤って殺してしまったかの違いだけで
景勝側が殺したのは間違いないだろ

仮に景虎の仕業であれば景勝が利用しないわけがない
660人間七七四年:2010/05/09(日) 11:41:14 ID:zdgL4HBx
もうそろそろさすがに検証スレに行こうか
661人間七七四年:2010/05/09(日) 11:54:37 ID:OUN/9G5U
当時の史料で、謙信が『義』とか言った証拠は一切ありません。
矢田俊文「上杉謙信」は、16世紀の史料のみを使って謙信の人間像を解明しようとした著作ですが、
『義』の字は一言も出てきません。
662人間七七四年:2010/05/09(日) 16:51:30 ID:KsBT8uBT
房州里見家に、里見実堯という人物がいた。
第一次国府台合戦の後、当主であり、甥でもある里見義堯と不和になり、安房を出
奔、一族の由来の地である上野国に流れてきていた。

里見家が房州に逃れた際、上州に残った一族の許を尋ね、その食客として遇されて
いた実堯だったのだが、天正二年、身を寄せていた里見宗連が上杉謙信の攻撃を受
けて自害。上州里見家が断絶してしまう。

再び浪人となった実堯を庇護したのは桐生直綱。
直綱の許で実堯は頭角を現し、外様の家臣であるにも係わらず、小さな城を任され
るまでに出世した。

この頃の関東は北条家と上杉家の草刈場と化しており、桐生家内部でも親北条派、
親上杉派の対立が深刻になってきていた。
謙信の強さを目の当たりにしていた実堯は親上杉の急先鋒として家中に重きをなし
ていた。
しかし、桐生直綱が没し、養子である重綱が桐生家を継ぐと、事態は複雑になって
くる。

親北条派 vs 親上杉派
譜代家臣 vs 新参の実堯
桐生家家臣 vs 重綱の実家出身の家臣

複雑に絡み合った対立関係は、結局の所一番単純な形に落ち着くようだ。
すなわち

「アイツ気にいらねーから殺っちまおうぜ」

実堯は以前から、謙信とのパイプ役として二人の息子を越後に出仕させていた。
それが反実堯派の口実となってしまう。
「上杉家と結んで独立、桐生家に取って代わろうとしている」
というのだ。

居城を攻められた実堯、家臣が防戦する間に越後に向かって落ち延びる。
少なくとも本人はそのつもりだった。
しかし、城を離れ、供のモノも少なくなったその時。

「殿、ここで自害してくだされ」

近侍の者として非常の際にも係わらず、実堯の側を離れなかった石原石見守が敵と
通じていたのである。
もはやココまで、と観念した里見実堯は切腹して果てた。
石原石見守はその首を持って桐生の陣に帰って行ったと言う。
この後まもなく桐生家は没落し、由良国繁の庇護の下、細々と命脈を保つコトとな
るのは、この時の卑怯な振る舞いに対する報いだと噂された。
663人間七七四年:2010/05/09(日) 16:52:13 ID:KsBT8uBT

この顛末を聞いて怒ったのが越後にいた実勝、勝安の兄弟。
「父の仇を取らずには死ねない!」
越後からひそかに上野に帰ると、高津戸城にて旧桐生家で親上杉派、親実堯派とし
て知られた面々を糾合、反乱を起こす。
反乱から約半年後、用明城を攻略。
この城を守っていたのは、桐生家没落後、由良家の下に仕えていた石原石見守。
兄弟は石原の首を狙って奮闘するも取り逃がしてしまう。

この反乱は怒りに任せて、というモノではなく、かなり周到に準備されていたモノ
らしい。
天正四年冬の挙兵から、実に鎮圧まで二年近くを要している。

最終的には本気になった由良勢の前に父の仇を討てぬまま、弟の勝安が討死。
兄の実勝も城兵の助命を条件として切腹して果てた。
天正四年から六年と言えば謙信は北陸方面にかかりきり、遂には死去。という時期
である。
越後から期待していた援助も得られず、孤軍奮闘の末に志も果たせぬまま死した兄
弟。

現在、里見兄弟のモノとされる墓が群馬県みどり市に残っている。
その形式から鎌倉時代のモノと推定され、里見兄弟についての記録も江戸中期以降
のモノしか残っていない為、父の実堯はともかく、兄弟の反乱については疑問視さ
れているらしい。
が、仇討ちの物語を作るなら反乱が失敗で終わったり、石原を取り逃したりと色々
微妙なストーリーと言わざるを得ない。
脚色があったにせよ、基になる史実がそこにあったと信じたいような気がする。
664人間七七四年:2010/05/09(日) 21:29:12 ID:BE5mwTXT
この話は里見実尭じゃなくてその子の勝弘で、
路線対立も佐野家による桐生家乗っ取りの話が主軸になってるのが主流だよね

このバージョンは正直はじめて見たな、何に載ってるものだろう
665人間七七四年:2010/05/10(月) 01:24:02 ID:pBu6ITJK
木沢長政と言えば戦国初期を代表する梟雄である。

彼は畠山総州家(義就系)→細川高国→細川晴元と次々に仕える相手を変え、そのたびに自分の勢力を大きくしたこと、
これは有名であるが、この男の一筋縄で行かないことは、高国を打倒し京の支配を確立した細川晴元配下として
強い権勢を誇りながら、なおかつ畠山家被官と言う身分も捨てていなかった、と言うことである。

これは畠山家への愛着や忠義のため…、なんてものでは当然、無い。
全て自分のため、畠山家が守護として持つ河内や山城、大和などの権益を己で自由にするためなのだ。

ちなみに管領畠山家というのは、応仁の乱以来畠山義就系(総州家)と、畠山政長系(尾張家)に分裂していた。
もともと総州家家臣であった長政は、尾張家重臣、遊佐長教を仲間に引き入れ、二人で畠山家の利権を分け合った。

当初この二人は政長系の畠山稙長を立てていた。が、天文三年(1534)、稙長が本願寺に接近すると、これを危険と見て
あっさりと追放。稙長の弟、長経を擁立した。だがこれも傀儡として思うようにならなかったのか、わずか二年後の
天文五年(1536)、殺害。
そして木沢長政は義就系の畠山在氏を擁立、遊佐長教は政長系の畠山政国を擁立。これにより畠山権力は
事実上分割され、長政、長教二人のものとなった。

戦国期と言えども、ここまで露骨に主家を「モノ扱い」したのは、この木沢長政と遊佐長教くらいだったであろう。

戦国初期の機内における、木沢長政の露骨な主家権力の簒奪、のお話。
666662-663:2010/05/10(月) 14:05:42 ID:/PCApoSE
>>664 こめ 遅 ゴメ

前半の里見実堯の話は『関八州古戦録』が元ネタです。
で、後半の里見兄弟の仇討ちは逸話中にも登場する「里見兄弟の墓」という群馬県
みどり市内の史跡を紹介したHPを中心にあちこちのサイトから拾い食いを。(^^;

父も兄弟も紹介されているHP毎に名前が違うような状態でしたので、名前は全て
『関八州古戦録』のモノで統一していますが、『古戦録』には仇討ちの話は載って
いません。

元々GW中に桐生の方に旅行した際、「里見兄弟の墓」なる史跡があるのを知り、
そこから調べて行ったモノですから、里見勝弘というのも里見実堯の名前が別バー
ジョンで伝わっている、という程度の認識しかありませんでした。

親子なんスか。佐野家による桐生家乗っ取り、というコトは「桐生重綱の実家」と
いうのが佐野家のコトなんですかね?
『古戦録』にはその辺りのコトは載っていないんですが。
667人間七七四年:2010/05/10(月) 18:41:27 ID:qzyPrZ9y
インターバル

(´・ω・`)つ「衆道」

現在の研究では戦国期の衆道は左程珍しいものでは無かったとされている。
西の大内、東の芦名と衆道で家を滅ぼす者もあった。

また衆道といえば武勇で知られる上杉・武田・織田・松永も然り。
北条・今川家にもその手の小姓が確認されている。

更に江戸初期の伊達政宗の姉弟丼も皆が知る所である。

愛妻家で知られる鮭様もガチムチ好き(延沢・大井)で知られていたから

もしかしたら単なる美童好きの上を往く
今でいう「ガチムチフェチ」だったのかも知れない。

大井五郎(身長2m弱の大男)
http://image-search.yahoo.co.jp/detail?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E5%A4%A7%E4%BA%95%E4%BA%94%E9%83%8E&ib=13

延沢満延
怪力比類無しと言われた元天童八楯の武将

楯岡満茂
楯岡満茂展でその鎧が公開された巨漢の武将

(´・ω・`)「べ、別に家臣が好きだっただけで、ガチムチ好きだったわけぢゃないんだからね!」
668人間七七四年:2010/05/10(月) 20:31:06 ID:vnseka1I
犬千代「衆道?時代は算盤でしょwww」
669人間七七四年:2010/05/10(月) 20:38:46 ID:rB699vbU
つまり、犬千代さんは「そろばんも扱える算術OKな頭も切れるガチムチ」。
そりゃ、そんな稀有な人材を信長が放って置かないでしょう。
670人間七七四年:2010/05/10(月) 21:29:04 ID:CLkIK8Z7
家光と柳生友矩も有名だね
671人間七七四年:2010/05/10(月) 21:46:51 ID:muMvWpiF
>>666
あんがと
この関連の話でよく見かけるのはこんな感じかな

戦国時代、桐生家の版図を歴代最大に広げた助綱には子がなく、
ために同族(藤原姓足利氏。源氏じゃない)の佐野昌綱から親綱を養子に貰い受けた。
この親綱、入嗣の際に都布子、山越ら四人の佐野家譜代の家臣を後見人として連れ添い、
永禄十二年に助綱が病没すると桐生家家臣を排斥し、伝来の家風は無視し、
四家臣のみの意見を重用して佐野家の属領であるかのような統治を始めた。

このため佐野系と桐生系の家臣団の対立が急速に拡大、
旧来の桐生家を慕う民心は親綱から完全に離反して支配体制は麻の如く乱れ、
これを憂えた里見勝弘は旧臣代表として繰り返し諫言するが親綱は聞く耳持たず。

これに呆れた勝弘の子二人は出奔して越後に亡命、
勝弘を疎んじていた親綱はこの事を反逆の証としてついに勝弘に腹を切らせるに至る。

で、この状況を奇貨とした由良国繁は藤生紀伊守を大将として柄杓山城を攻撃。
桐生系家臣団の内応を得て瞬時にこれを陥落させて親綱を佐野に追い、
以後桐生領は由良氏の領知するところとなった、ってもの。

ちなみに親綱(重綱)には後日談があって、
天正六年に由良成繁の病没すろと、由良家の家中に混乱が発生すると期待して、
桐生に潜入して旧臣や領民を扇動してみたけど、『誰一人』応じるものがなく
むなしく佐野に戻ったそうな
672人間七七四年:2010/05/11(火) 00:02:43 ID:V7kVGgci
勘ぐると、由良国繁のかなりしたたかなお話だな
673人間七七四年:2010/05/11(火) 14:10:22 ID:DomiUi1b
鹿島治時には七人の子♪
二人は病死であと五人♪
み〜んな家督を狙ってる、さァこ・ろ・し・ま・しょ♪

鹿島氏バトルロワイヤルはじまるよー!
ソースはおおむね鹿島治乱記。

永禄九年〜十一年ごろ
鹿島治時死去。家督定まらず。

同十二年
治時次男氏幹(下総国分氏派)、三男義清(常陸江戸氏派)、家督をめぐって対立。
双方に外部の支援が介入し、内乱に突入。
同年、氏幹が家臣に暗殺されて家督は義清が奪取。

天正七年
鹿島氏家臣で津賀城城主津賀大吹介、江戸氏に亡命。
治時の五男清秀、六男貞信による反義清反江戸氏叛乱の謀議に巻き込まれたことが背景にあった。
同年、清秀・貞信は義清を殺害して家督を奪取するが、江戸氏の介入で国分氏の下に敗走する。
七男通晴が家督継承。

同十四年
国分氏に保護されていた清秀、貞信兄弟が利根川を渡って反攻を開始、
通晴を殺害して鹿島城を奪取。江戸氏の反撃を退けて清秀が家督継承する。

〜同十八年
なんかいつの間にか清秀死んでた。

同十八年
いつの間にか家督継いでた貞信、小田原征伐に参戦せず。
翌十九年、南方三十三館の一人として佐竹義宣に招かれ梅見の会に訪れたところ、
ほかの領主ともども皆殺しにされる。
鹿島城も落とされて一族滅亡、神職も国分氏出身の養子の家系に流れて完全に\(^o^)/オワタ

なんというか、家督の座りの悪いお話。
674人間七七四年:2010/05/11(火) 14:20:28 ID:V4f2Kqie
清秀さんひでえw
675人間七七四年:2010/05/11(火) 20:22:11 ID:hfiiiXLK
清秀さんの扱いが悪い話だな
676人間七七四年:2010/05/11(火) 23:04:26 ID:AeAneD6/
小領主の家は別にいいけど、鹿島神社の神職(宮司?)の血統が絶えたのはイタイよなあ
677人間七七四年:2010/05/12(水) 16:52:57 ID:5JoxPwQo
鹿島氏についてちょっと調べてたらとんでもないことに気付いた

ついさっきまで塚原卜伝と氏家卜伝、諱もなんとなく似てるし同じ人かと思ってた
俺だけじゃないよな?
678人間七七四年:2010/05/12(水) 16:55:45 ID:LYtHlz7/
氏家さんって卜全じゃないの
679人間七七四年:2010/05/12(水) 17:31:36 ID:V/FfBUGp
慶長五年(1600)、家康による会津征伐が迫る上杉家。
上杉景勝は会津防衛に関する指令を出した

「領内の各城に多くの兵をこもらせよ!特に敵の最初の目標である白河城には
大軍を籠らせ上方勢からの防衛に当たれ!
白河城に敵が襲来すればこの景勝自信が兵を率いて長沼方面に出陣する!
その時の人数は義父謙信の例に習い八千とする。それ以上は必要ないので
防衛に回せ!」

これを聞いて、直江兼続と足軽大将の水原親憲は揃って景勝を諌めた

「謙信公の頃はたしかにそのように決まっておりました。しかしあの時と今とでは
”時”と”人”が違っております。

先ず”時”とは、

あの当時我ら上杉家は織田、武田、北条などと度々合戦をし、また椎名、神保などとも
戦っていました。しかし至る所で戦が起こっていたため、敵も防衛のためその勢力を
各地に分散しており、我々との戦いに出す戦力も又、決して多くはありませんでした。
これによって謙信公は、八千で充分だとして、その兵を用いられていたのです。

しかし今度は、日本中の敵兵が押し寄せてくる戦であります。
味方は少なく、敵は大軍。これが”時”の相違です。

そして”人”とは、

今の上杉家には、謙信公当時の者に馴れた諸大将はその大半がすでに亡くなっています。
士卒も合戦に経験のあるものは多くが居なくなりました。
軍の中は戦の経験の無いものが、その殆どを占めているのです。
これが”人”の相違です

そのようであれば、僅かの数の味方が敵の大軍を見れば、必ず臆してしまうでしょう。」

この諫言により景勝本隊は、本陣の八千の他に、各地の守備兵を削り、後陣として3万を
備えさせたと言う。

関ヶ原当時既に、上杉家ですら合戦を経験した人材の不足が起こっていたらしい。と言うお話。
680人間七七四年:2010/05/12(水) 17:39:00 ID:dkksHF4c
のちの天地人である
681人間七七四年:2010/05/12(水) 20:43:20 ID:PhhsvrOT
にもかかわらず冬の陣で上杉兵を持ち上げる逸話があったような・・・
682人間七七四年:2010/05/12(水) 20:48:42 ID:LYtHlz7/
それってそこにいる水原さんじゃ……
683人間七七四年:2010/05/12(水) 23:01:06 ID:aoaGkKNY
持ち上げる逸話も何も、今福・鴫野の戦いは兼続本人が本国の留守居役に宛てて書いた
合戦経過の書状まで残ってるし、ホンモノの武功だからなあ。

下手したら米沢生まれの少年兵が混ざってそうな集団を、よくそこまで駆り立てたと思う。
そらー、御屋形様、敵より鉄砲玉より怖いくらいじゃねーとなりたたんわな。
というふうに解釈(?)して成立した逸話なんじゃね?
684人間七七四年:2010/05/12(水) 23:12:19 ID:9dEIOyaS
じゃあ、関ヶ原の合戦で実戦経験を積んだことで
上杉家は再び強さを取り戻したってことなのかな?
ところで上杉家が関ヶ原の前に参加した合戦はいつ、誰が相手だっけ?
何年あいだが空くと軍隊の戦闘能力がなくなってしまうのかな。
685人間七七四年:2010/05/12(水) 23:40:24 ID:zh3AtRut
御館の乱で家中が滅茶苦茶になったしね〜
朝鮮には確か渡ってないよね?
686人間七七四年:2010/05/12(水) 23:45:19 ID:Ex2cTvHE
朝鮮にも一応渡ってた記憶が…
九戸の鎮圧には行ってないと思うので、
まともなのは小田原が最後かな?
687人間七七四年:2010/05/12(水) 23:55:24 ID:s1E3Qb8z
それって朝鮮行ってない徳川家も一緒だよな?
まあ、あれか。
徳川の本体は関ヶ原では中山道で足止め食らったり、大坂では真田や勝永に蹴散らされたりで弱くなってたんだっけ。
688人間七七四年:2010/05/13(木) 00:08:26 ID:K8v6PEy0
新発田重家の乱とか長谷堂城の戦いのせいでで上杉=強兵のイメージは完全に消え去りました
689人間七七四年:2010/05/13(木) 00:10:34 ID:4nuxEPa9
>>686
GWにたまたま九戸城の近く通ったんで行ってみたら
思ったより規模がでかくてビックリしたわ
690人間七七四年:2010/05/13(木) 00:11:42 ID:1a/T+FGf
手伝いの小戦には絶対失敗していないものの、あそこの主従は「武の家上杉」っていう
ブランディングがすごい上手い気がしてきたw
まあ、家内に尚武の気風を持たせて、肝心なところではちゃんと功を挙げてるのはすごい。

天下を取ったがために、政治権力でいくらでも他家を潰せるようになった徳川と、
ぎりぎりまで軍事力と経済力が家を保つ鍵と思い定めてた上杉では、少し違ったのかもね。本気で越後に戻ろうとか考えてたんだろうか。
691人間七七四年:2010/05/13(木) 00:26:59 ID:UWlMUA86
だから戦えないとか言うレベルじゃなくて、合戦経験の無い将兵が多いんだから、
合戦のベテランの多かった時代と違って、それ相応の戦争の仕方をしないといけないよ、
って話だろ。
692人間七七四年:2010/05/13(木) 01:12:43 ID:4Tnvoe07
そういえば武田が織田、徳川、北条からフルボッコされてた時に上杉って何してたの?
すこしは援軍とか出した?
693人間七七四年:2010/05/13(木) 01:23:14 ID:MDT+wwJk
タイミングというか運というか

武田や上杉は織豊の主力より世代が古い分、世代交代も早くて武田→めつぼん
上杉も御館の乱や本能寺寸前の魚津城とかボロボロに追いまくられて滅亡寸前まで行ったけど…
関ヶ原(白河の陣)当時若僧だった武将が大坂の陣では丁度良い塩梅にベテラン化してた。てことかいのう

徳川は関ヶ原まで第一世代?のベテランが獅子奮迅の働きをしたかわり慶長期に神君以外軒並み逝っちゃって
大坂では突撃死する若いモンが大量発生してたなー
694人間七七四年:2010/05/13(木) 01:34:13 ID:UWlMUA86
>>693
幕府軍の若者に多く見える「戦場で死にたい!」って感情はすごいよね。
多分ここで死ななきゃ戦場で死ぬ機会はやってこない、って予測できたのが大きかったんだろうけど、
大坂の陣の逸話にはやたらと「出陣前から死ぬつもりで来た!」自慢の多いこと多いこと。

そういうのも含めて大阪の陣は、戦士としての武士の終息だったのかな、とも思う。
695人間七七四年:2010/05/13(木) 02:07:23 ID:GSAyPKgL
>>692
出したが当然間に合わず
696人間七七四年:2010/05/13(木) 10:00:36 ID:25VSY0sm
やっぱり家康が異常に長生きしたのは、
徳川幕府成立→支配体制固定化に、
ものすごい影響してるよね。
697人間七七四年:2010/05/13(木) 10:56:52 ID:FGrb7cB6
>>695
援軍出してないだろ
しかし何で勝頼は景勝なんかと同盟したんだろ
武田が延命するには景虎助けて甲相越の三国同盟以外無かったと思うんだが
6981/2:2010/05/13(木) 10:57:10 ID:FGOUqz9i
新婚の真田信繁は、舅になった大谷刑部少輔吉継と面会した。
「ムコ殿、お主の刀が思いのほか切れぬ事があったそうだが、本当だろうか?」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3776.html
「ええ、まぁ・・・」「そういう時もあるだろう。」
吉継は二尺四寸の来国俊を取り出すと、信繁に与えた。
「この刀は、短いが頑丈だ。ああ、試し斬りなど要らぬ。わしが使った際は、兜に斬りつけても水を打った様だった。」

信繁は感激して帰宅すると、「どうだ、舅どのより頂戴した名刀だ!」と、近臣に見せびらかした。
近臣たちは、名刀を興奮して眺めたが、樋口四角兵衛という者が「この刀を、拙者に下され。」と言い出した。
「な、なにを言う!このたわけが!!」
信繁はあわてて刀を隠したが、樋口はあきらめていなかった。

それからしばらく経った雨の日、信繁がボーッとしていると樋口が、「おヒマなら、双六でもやりませぬか?」と誘った。
「よし、やるか!」
「せっかくだから賭けますか。拙者が勝てば、例の名刀を下され。信繁様が勝てば、この首を差し上げよう。」
「いいのか?わしは強いぞ?」

「・・・・・・」「これで拙者の三連勝。では、例の刀をご用意下されよ。」樋口は、ほくそ笑んで去った。
納得行かない信繁が後でサイコロを調べると、重心がおかしい。
「・・・イカサマではないか!誰が名刀をくれてやるか!」
6992/2:2010/05/13(木) 11:01:46 ID:FGOUqz9i
再び樋口の顔を見れば罵ってやるつもりの信繁だったが、十日たっても樋口は出仕してこない。
「さては、日ごろの放言が祟って闇討ちでもされたか。死なれてみると、惜しいヤツよ。」
「あのぅ・・・」感傷に浸る信繁に、侍女が声をかけた。

「・・・なんだ?」
「十日ほど前、私が倉の整理をしていると樋口殿がやって来て、『刑部さまより拝領の刀をよこせ。』と言うので
信繁さまの御用かと思い、渡しました。そのぅ、つまり、恐らく樋口殿は刀を盗んで・・・出奔・・・・・・」
「あ、あの野郎ぉぉぉおおお!!!」

しかも樋口の行方を捜した所、隠れるどころか不敵にも親類縁者の家を渡り歩いているだけと判明した。
「おのれ、追い詰め成敗してくれる!」
「騒々しいの、何事じゃ?」「あっ、父上!実は樋口が・・・」

信繁の話を聞いた真田昌幸は、高らかに笑った。
「まったく仕方のない奴よのぅ!」「でしょう?よって樋口を引っ捕らえて・・・」
「たわけ。お前の事じゃ。
元々バクチとは、偽って人を出し抜くものよ。お前にも教えたハズだが、名刀に目がくらんだな?
早々に樋口を呼び返してやれ。ああ、刀も取り返すなよ?今のお前などが持つより、樋口が持っていたほうが
よほど用に立つわい。」

信繁は赤面して立ち去ると、樋口に帰参を許した。その後、樋口は大坂の陣まで信繁に仕えて義理を果たした後
信州に帰ったという、いかにも「真田家の侍」な話。
700人間七七四年:2010/05/13(木) 11:01:55 ID:DU2OdqkX
>>696
異常というほどでもないような。
健康で運動も欠かさなかったようだし。
秀吉と比べても年齢で10ちょっとしか変わらないし。
異常なのは真田のお兄ちゃんとか龍造寺のじいさんとかw
701人間七七四年:2010/05/13(木) 11:07:41 ID:tSZ9c/c7
>>700
幻庵「わしを呼んだかの?」
702人間七七四年:2010/05/13(木) 11:30:34 ID:KNduEBrv
「こたびの高名、いまにはじめぬ事なれども比類なき働きであった」
という家康の言葉に、有楽はかしこまって
「ありがたき上意にて候、老人に似合わざる任侠、さぞおかしく思召けんと存じ候へども、老後の思い出に少々敵中へ打ちまじり候」


そこへ同席の井伊直政と本多忠勝が皮肉な笑いをうかべて囁いた

「ときに有楽殿が子孫長孝殿、敵将戸田武蔵守が兜を左の方より右の方へ突き抜れたるに、その際少しも損せず、高名といい、槍を申せ、まことに比類なき事にて候」

これは当然家康の耳にも入り、ただちに件の槍が運ばれた。

有楽から御側衆にわたされ、家康の手に移った瞬間。

鞘を外して持ちそこね、指に血がほとばしった。



家康は一向にかまわず鑑賞をつづけ

「じつに見事なる道具なり、大業しけるも理りなり、千子村正か」

と、何事もなかったかのように問うた。

もちろん有楽は家康の傷に気づいていて
「いかにも村正にて候、今日只今よりこの槍は指せまじ」
と憚るも、家康は「少しも苦しゅうないぞ」とむしろ上機嫌で村正の名槍に目を凝らした。

続く
703人間七七四年:2010/05/13(木) 11:33:29 ID:tSZ9c/c7
幕末維新の志士はこぞって村正を佩刀したんだよね
704人間七七四年:2010/05/13(木) 11:35:55 ID:KNduEBrv
702のつづき

家康が退出したのち、直政と忠勝が座興に乗じてこんな話をしはじめた。

「徳川次郎三郎清康公、天文四年十二月織田信秀を討ち取らるべきとて守山へ出張るの折、
御家人安倍大蔵大輔が息子弥七郎なる者、卒怱の間違いにて清康公を討奉る、
御嫡子徳川次郎三郎広忠公、これも御譜代の御家人岩松八弥なる者、
酒狂にて広忠公を突奉りしか、突損じて御股を突て逃げ行く所を、植松新六郎追いかけて八弥を討留めたり、

右両人の刀も村正なり」

と。

「さればこの村正、御三代不吉の作刀なり、われらが所持仕るべき筈にあらず」
と言って、有楽は槍をへし折ったという。


有楽の複雑な心境が伺える話。
705人間七七四年:2010/05/13(木) 11:48:46 ID:KNduEBrv
>>702
>>704
の補足。

関ヶ原での話です、
規制が入って書いたり消したり書いたり消したりしてたら書き忘れてしまった…申し訳ないっ><

706人間七七四年:2010/05/13(木) 11:51:35 ID:25VSY0sm
有楽さんは色々周囲に気を遣う立場だからなあ……。
やっぱり織部と「この茶碗パネェ!」とかゲラゲラ笑ってる時が、
一番リラックスできたんじゃなかろうか。
707人間七七四年:2010/05/13(木) 11:57:13 ID:xRpKOCm9
>>698-699
池波さんの「真田太平記」の樋口角兵衛のモデルの人だね
っていうか、モデルがいるとは知らなかった、ありがとう
708人間七七四年:2010/05/13(木) 12:30:11 ID:vfrTr/NH
榎木氏が演じてた人物か。
何者かと思ってた。
709人間七七四年:2010/05/13(木) 14:13:45 ID:PRTXIQtg
>>698-699
おもしろいな
出典を自分でも読んでみたいんで
よかったら教えて下さらんか?
710人間七七四年:2010/05/13(木) 16:45:30 ID:It/j1a14

上州で下克上を成し遂げた金山城主、由良成繁。
この成繁の妻もまた、剛毅な女丈夫であったと伝えられる。

「夫の死後、二人の息子が北条に監禁される中、由良軍を率いて徹底抗戦」
「その奮戦の前に佐野宗綱討死」
「関東仕置きで二人の息子が北条に従うのを尻目に孫を連れて上方軍に従軍」
「その功で息子達も助命」

とまぁ、既に紹介されているエピソードなので駆け足で。


そしてもう一人妙印尼の孫に、関東仕置きの際に天下に名を残した人物がいる。
その人物とは……
「18歳の時、ラスボスの関東仕置きの際に初陣。」
「東北の地で反乱平定に功があり、以後は京都、大阪で生活する。」
「大阪の陣では秀頼の娘を連れて敵中突破。無事に城外へ逃がすコトに成功。」
「夏の陣が終わった後、出家して余生を過ごした。」

皆さん、コレで誰の名前を思い浮かべただろう。
実はコレ、女性である。
そう、武州忍城主、成田氏長の娘、甲斐姫のコトだ。

氏長の最初の妻であった甲斐姫の実母は由良成繁と妙印尼の娘。
甲斐姫の武勇は妙印尼譲りだったのである。


そして更に、この系譜にはもう一人の烈女がいる。

実はあまり知られていない話であるが秀頼の娘、天秀尼の母親は成田一門の娘であ
る。
甲斐姫が侍女として大阪に連れて行った娘が秀頼のお手つきになったらしい。
その為か、甲斐姫は大阪の陣の際、そしてその後も、天秀尼やその母と行動を共に
している。

あまりに有名な、会津藩主加藤明成を改易に追い込んだ東慶寺の堀騒動。
豊臣の血筋という負い目を持ちながら、大大名相手に一歩も退かぬ天秀尼の剛毅さ
もまた、甲斐姫の薫陶の賜物だろうか。


……まぁ、何だ。坂東の男は鉄棒を持たせたらモンスターと化す。坂東の女は城や
寺に篭らせたらモンスターと化す。特に由良、成田系の女はヤバい。そーゆーお話。

あ、そーいや甲斐姫、養母からは太田家の薫陶を受けてるのか。
太田家の薫陶を受けた妙印尼の孫娘……そりゃモンスターにもなるわな。
711人間七七四年:2010/05/13(木) 16:48:49 ID:UWlMUA86
>>710
すごいな。成田家の女は強いわー!
712人間七七四年:2010/05/13(木) 18:32:59 ID:4nuxEPa9
壬辰年、秀吉が朝鮮に攻め入ろうとしたときの事
秀吉が関門海峡を渡ろうとすると
船頭が

「逆風が来るから」

と言い船を出さなかった
これに秀吉が激怒、船頭を引っ張り出してなで斬りにした
やがて邪魔者はいなくなったと船を出そうとすると
なで斬りにした船頭の言葉通り狂ったような逆風が吹きだした
秀吉は後悔して海上に祠を作り碑を建てたという
713人間七七四年:2010/05/13(木) 19:09:43 ID:GSAyPKgL
>>697
出してる。書状がいくつも残っているので確実。
ただし家臣たちは反対してて北信濃に入ったところでグズグズしてる間に
武田は滅んじゃったし、どの道間に合わなかっただろけど
714人間七七四年:2010/05/13(木) 21:37:54 ID:Yyc42Rtr
千姫「このスレをごらんの皆様、講談で再婚相手の死後淫乱扱いされるのと、児童文学で父上から存在をなかったことにされるのとどちらがマシだと思います?」
715人間七七四年:2010/05/13(木) 21:51:57 ID:zfkHKB/R
>>714
徳川に歯向かった弟に手柄を全部持っていかれた挙句
三代祭りやレリーフでいなかった事にされる
より随分マシです
716人間七七四年:2010/05/13(木) 21:56:44 ID:lnMxX1zh
家督をついだあとに養父に実子が生まれてしまい、族滅された上にあることないこと噂流されて
殺生関白とかダジャレのネタにされた上に悲劇の貴公子といえばその実子が代名詞的存在とか、どう思います?
717人間七七四年:2010/05/13(木) 22:14:12 ID:mFI88CMJ
>>712
ああ、いつもの秀吉だ('A`)
718人間七七四年:2010/05/13(木) 22:19:52 ID:GzwFCveW
>>715
信之自重wwww
719人間七七四年:2010/05/13(木) 22:26:50 ID:lHwJGmxQ
>>713

一番狡からいやり方だよねw
援軍は出したんだけど間に合わなかったってのがまた
まあ武田に信濃追われた奴等が言うこと聞く訳ないからしょうがないけど
これが謙信と景勝の器の違いなんだよな
謙信だと自分一人でも行くって言いだして慌てた部下が雪崩式なイメージ
720人間七七四年:2010/05/13(木) 22:32:47 ID:FR9Imigv
穿った見方するねぇ
721698:2010/05/13(木) 22:41:02 ID:FGOUqz9i
>>709ごめん今帰宅

「真田家御事蹟稿」
真田家臣、河原綱徳(歯を折られた綱家さんの子孫)がまとめた真田家の史料集。

kwsk言うと、「信濃史料叢書」に収録されてて15〜18巻が真田四代(幸隆〜お兄ちゃんの息子二人)。
ただし、地元研究会が編纂した貴重な本なんで、たぶん真田関連の地域の図書館でしか見れない。

手っ取り早いのは、大きな図書館で相互貸出し(交流のある図書館同士での本の交換)の申込みをすること。
とりあえず、自分はそうした。
722698:2010/05/13(木) 22:43:43 ID:FGOUqz9i
ついでだから、自分の他のソースも晒す。連レスご無礼。

難易度:弱

「名将言行録」、「常山紀談」、「明良洪範」、「翁草」、「西藩野史」(島津さん家関連)、「日本歴史文庫」(見てのお楽しみ)

・・・国立国会図書館のデジタルアーカイブで、書名検索すれば閲覧可能。



難易度:中

ニュートンプレス「原本現代訳シリーズ」(「信長公記」、「三河物語」、「甲陽軍鑑」、「小田原北条記」、「葉隠」)
現代思想新社「備前老人物語・武功雑記」
桑田忠親著・講談社学術文庫「太閤の手紙」
吉本健二著・学研M文庫「戦国部将からの手紙」

・・・密林で購入可能。



難易度:強

「群書類従」(「蘆名家記」、「大友記」、「謙信軍記」、「兼山記」(鬼武蔵のヒャッハー)、「那須記」(大関さんのヒミツ)等)
ほか郷土史料

・・・県立・大都市の市立等、大きな図書館で閲覧可能。ただし、かなり高価なので貸出禁止の所もある!
723人間七七四年:2010/05/13(木) 22:43:46 ID:tSZ9c/c7
>>713
書状って誰宛ての書状なの?
武田が滅びれば次は自分の番って分かってただろうにグズグズしてる意味がわからん
本能寺の変のおかげで助かったのは本当に偶然
724人間七七四年:2010/05/13(木) 22:58:33 ID:UZdOXD1u
>>723
そもそも信長が(まぁ信長に限った事じゃないけど)、
援軍を出しそうな所を牽制しないはずが無いし、
援軍が出てきそうな時に軽々に軍を動かすはずが無い
上杉がまともに援軍を出せない状況だからこそ、
武田への総攻撃をやったのだから
特に成算も無い状態で、援軍が無ければ滅亡、
なんて状況に追い込まれた時点で既に絶望的
725人間七七四年:2010/05/13(木) 23:00:01 ID:j/ZRC8d6
>>721
おーありがとう
「信濃史料叢書」国会図書館にあったから今度読んでくるわ
726人間七七四年:2010/05/13(木) 23:30:45 ID:Nt21TBmO
援軍の話は他所でやろうぜ そのうち鬼武蔵が来るぞ・・・

ドンドン ん誰だこんな時間に・・・
727人間七七四年:2010/05/13(木) 23:41:08 ID:GSAyPKgL
>>723
派遣軍の指揮官の上条宛。

勝頼「きな臭くなってきたので2000ほど送ってくれまいか」

景勝「援軍要請きたし、武田が滅んだら次は上杉だから助けて来い」
上条「情報によると無理っぽい。まず北信濃固めます。」
景勝「せめて善光寺平まで行け!・・・あれ?返事が来ない」
上条「あー返事遅くなってすみません。で、武田滅んじゃいました。」
景勝「・・・・もし勝頼逃げてきたらこっちに送って。彼の身柄だけは俺が何とかするから・・・」

これが一連のやり取り。
728人間七七四年:2010/05/14(金) 00:37:43 ID:67zGd4YT
昌幸よりは信用できそうな気がする
729人間七七四年:2010/05/14(金) 00:58:18 ID:eD61cW+R
>>727
ぜんぜん関係ないけど上杉さんトコは「北条」さんの読みがキタジョーなのに
「上条」さんの読みはジョージョーだから困る
730人間七七四年:2010/05/14(金) 02:05:06 ID:XfQper+7
というか越中能登戦線が極端に悪化してて、越中で上杉に呼応した土肥政繁にも
援軍出せなかったような状況だしな天正十年三月のの上杉

ていうか、武田征伐開始時点で魚津城が第一次包囲されてたし、
次は我が身どころか武田も上杉も美味しく頂かれつつある真っ最中
むしろ何で自分とこじゃなくて他所様に援軍出す気になったんだw
731人間七七四年:2010/05/14(金) 02:06:25 ID:J0x9ov6A
>>729
かれこれ20年間カミジョーだと思ってた
732人間七七四年:2010/05/14(金) 02:20:21 ID:+R0pyqQ1
揚北衆の中条さんはやっぱりナカジョウ

しかし上条城って声に出してみるとワロス
733人間七七四年:2010/05/14(金) 02:26:57 ID:gYN7KWz9
>>697
>しかし何で勝頼は景勝なんかと同盟したんだろ
>武田が延命するには景虎助けて甲相越の三国同盟以外無かったと思うんだが

いろいろ理由はあるけど、
北条軍が坂戸城を占領してから与板城を狙えるのにそうした動きを見せず、
御舘の乱で武田軍だけが犠牲払うような状況になってた事への不審も大きい

ちなみになんでこの時北条軍がちっとも働かなかったかというと、
下総・常陸方面での佐竹多賀谷結城宇都宮連合の活動が活発化してて、
越後にちょっかい掛ける余裕がなかったことが大きい

でも忙しいのは駿河を徳川にガンガン攻められてる武田も同じだからね……
734人間七七四年:2010/05/14(金) 03:11:30 ID:yjeLuNFh
中条は中条きよしが居るからそれほど間違えないか
735人間七七四年:2010/05/14(金) 03:17:34 ID:CnGREiw0
>>729
奇妙な冒険しそうな名前ね
736人間七七四年:2010/05/14(金) 03:22:34 ID:yjeLuNFh
そういや越後の下条はゲジョウなんだよなw
737人間七七四年:2010/05/14(金) 03:25:59 ID:ezuTmMg6
先日、西名阪を北上して亀山SAで食事をしたのだけど、そこのメニューに
「味噌焼きうどん」なる亀山の新名物があったのだけれど、そのネーミングが
三方ヶ原の神君を思い出されて、ちょっと手が出せなかったぜ。
ちょうと神君伊賀超えのルートを走ってきたばかりだったしな。
738人間七七四年:2010/05/14(金) 09:03:58 ID:nJWYUugu
上条さんもなかなか喰えない人だからなぁwww
739人間七七四年:2010/05/14(金) 09:58:19 ID:OJ6lEK+d
龍田城(たつんだじょー)とか築城しちゃえばよかったのに。
740人間七七四年:2010/05/14(金) 10:50:12 ID:eD61cW+R
常陸笠間・宍戸城&信濃佐久・小田切城「サーセンwww」
741人間七七四年:2010/05/14(金) 11:16:14 ID:nJWYUugu
矢吹城があるとは思っていたが、明日城まであるとは・・・
まぁ、読みは違うしタイトルは平仮名だけどなwww
742人間七七四年:2010/05/14(金) 12:27:06 ID:5QsqMSV6
>>737
昼飯食べてる最中に読んじゃったじゃないか!
743人間七七四年:2010/05/14(金) 14:09:23 ID:Lf184Q1Z
>>742
週末は亀山SAで焼き味噌オフだなw
7441/2:2010/05/14(金) 18:01:13 ID:Vp4twDQ3
文禄元年、名護屋城にいた秀吉は実母の危篤の報を受ける
これに秀吉は急いで名護屋城を出航して大阪を目指した
船頭は明石与次兵衛という播磨の明石出身の男である

秀吉を載せた船が関門海峡に差し掛かった頃、突然突風が吹き出した
地元の人間が「戸ノ上下ろし」と呼ぶ突風であった
加えて関門の急流に流されて満潮で隠れていた篠瀬に座礁してしまった
地元の人間が「死ノ瀬」とも呼んでいた岩礁であり難所の一つだった

座礁した船から振り落とされ海に落ちる秀吉
しかし悪運が強いのか波が秀吉を篠瀬に押し上げ九死に一生を得た

その後はこの逸話の通り
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2043.html
秀吉は通りがかった毛利秀元に助けられた

船は柳ヶ浦で停泊、秀吉は風呂で体を温めた後

「さっきはマジヤバかった。ちょっと許せないわ」

と船頭の斬首を命じる
しかし命じられた毛利秀元は船頭の与次兵衛は
細川忠興の配下であるとして船頭の切腹を懇願
秀吉もこれを聞き入れたため与次兵衛は柳ヶ浦の浜で切腹して果てた
柳ヶ浦の里人は与次兵衛の不運を哀れみ浜に手厚く葬り松の木を植えたと言う
7452/2:2010/05/14(金) 18:02:25 ID:Vp4twDQ3
時代は変わって慶長五年、細川忠興が豊前に入る
その頃、秀吉の船が乗り上げた篠瀬は与次兵衛ヶ瀬と呼ばれるようになっていた
忠興はその与次兵衛ヶ瀬に石塔を建てた
明石与次兵衛の弔いと航路安全の示標を目的としてである
この石塔は嵐や大時化などで何度も喪失したもののその度に再建され
行き交う船に暗礁を知らせ安全を見守った

日東壮遊歌に記されている
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4131.html
の逸話で筆者の金仁謙が聞いた海上にある碑はおそらくこの石塔である

その他シーボルトのスケッチに石塔が記されていたりするものの
大正時代、日本海軍が船舶の航路安全のために関門海峡を整備
時の指導者をも危ぶませた与次兵衛ヶ瀬は爆破され役目を終えた石塔も海に沈められた

しかし戦後になって石塔は海底から引き上げられ
今は北九州市門司区にある和布利公園の一角に建って関門海峡を見守っている
746人間七七四年:2010/05/14(金) 20:52:23 ID:ap59ZMs3
>と船頭の斬首を命じる
>しかし命じられた毛利秀元は船頭の与次兵衛は
>細川忠興の配下であるとして船頭の切腹を懇願

読解能力低くて悪いが、ここの部分がよく分からない
船頭の斬首を命じた→船頭は忠興の配下だから切腹を懇願したという意味?
さすがに自分の配下じゃないから切腹を懇願したとかじゃないよね?
747人間七七四年:2010/05/14(金) 20:56:43 ID:Tx5+cRgW
武士だからせめて切腹にしてあげてってことかな
748人間七七四年:2010/05/14(金) 21:00:33 ID:Wgd1Z/Sv
>>746
斬首→ただの罪人
切腹→武士としての面目を保った責任をとっての自死
なので、忠興配下の武士、としてのメンツを保たせてやってくれ、と懇願したというところじゃないかな?
749人間七七四年:2010/05/14(金) 21:05:25 ID:ap59ZMs3
あ!成程そういうことか!
斬首と切腹の違いか、素で気付かなかったorz
変な邪推までしてしまったよ申し訳ない、秀元
750人間七七四年:2010/05/14(金) 21:14:50 ID:6QanVlYG
秀元に殴られてこい
751人間七七四年:2010/05/14(金) 21:26:33 ID:S3udoPWF
>>710

一時期甲斐姫&忍城攻めのネタが多くなったのは、
『のぼうの城』+戦国無双3に甲斐姫参戦があったからかな?

無双シリーズもギン千代や小松姫(稲姫)など
一応、男勝りの女性を参戦させてるみたいだし。
752人間七七四年:2010/05/14(金) 22:20:00 ID:VDP992qJ
>>733
でも北条と同盟するのが最善と思うんだがな。
領国も近いし、最悪北条領に脱出できるように
援兵を出してくれただろうし。
上杉じゃ遠すぎ。
753人間七七四年:2010/05/14(金) 22:39:20 ID:SwYyxpwR
現代人から見れば、過失で斬首は可哀相な気がするよな
754人間七七四年:2010/05/14(金) 22:39:52 ID:oxAAHIFb
>>752
それはどうだかな
血の繋がった弟のことでも長期間援兵出さない始末だったから
武田も「割に合わない」と見切ったわけで
あの時代の北条がそこまで「いい人」とはどうしても思えん
北条が越後まで掌握したらもはや同盟相手としても対等ではなくなるしな
越後を北条のものにしておいたら、武田は遅かれ早かれ北条に飲み込まれてたと思う
755人間七七四年:2010/05/14(金) 22:42:05 ID:ZTg4lvdY
>>752
そんな事より、手切れしたら北条夫人を実家に返してやれよと思う
756人間七七四年:2010/05/14(金) 22:55:22 ID:VDP992qJ
>>754
いや、必死こいて戦うわけじゃなくて脱出のための援兵。
武田家の当主を迎え入れれば、甲斐に介入する
大義が得られるし。
>>755
本人が着いてくことを望んだからな。
躑躅ヶ崎館の展示館で、勝頼の奥さんが秋山信友に当てた
手紙が展示されていた。
「あなたは武田を裏切らないで下さい」とかいう内容ので、
滅亡の数ヶ月前に出されたもの。
757人間七七四年:2010/05/14(金) 23:03:02 ID:eD61cW+R
逸話じゃなくて史実について語りたいなら武田でも上杉でも専用スレでどうぞ
758人間七七四年:2010/05/14(金) 23:12:56 ID:dzxDe4Z3
>>744
この時代の船頭の身分は武士だと考えられていたのかな?
言うまでも無く江戸時代に入ると船頭は町人身分になるから、切腹する風習はなくなるんだろうけど。
759人間七七四年:2010/05/14(金) 23:18:42 ID:+tT7R/R5
小山田さんがあんなとこで俺は殺るぜ俺は殺るぜしてたら結果は一緒の気もする
760人間七七四年:2010/05/14(金) 23:42:08 ID:EfaU01ef
我を張りまくって景勝を困らせて
息子宛に「ちょっとお父さんに君の方からも何とか言ってよ!」とか
書かれてた上条さんが上杉おん出て豊臣に行ったあと
対応した三成達をやっぱり困らせてた話があったはずなんだが
書状が見つからなくて書けない。
761人間七七四年:2010/05/14(金) 23:51:14 ID:oxAAHIFb
>>760
ちょそれすごい気になるなwww
上条さんパネェ
762人間七七四年:2010/05/15(土) 07:23:02 ID:hyK0ck9C
>我を張りまくって景勝を困らせて
息子宛に「ちょっとお父さんに君の方からも何とか言ってよ!」とか
書かれてた

JOJO「だが断る」
763人間七七四年:2010/05/15(土) 09:32:29 ID:zOzg8pGr
>>758
町人でも罪人として死ぬよりはいいんじゃね?
764人間七七四年:2010/05/15(土) 10:14:42 ID:XmfM8aJW
当時の町人は2本差しして半ば武士だから
農民も同様だけど半武士化したのは町人のうほうが早いらしい
765710:2010/05/15(土) 13:54:22 ID:kXZ2LD/A
>>751
世間一般での露出が増えたのは小説やゲームのせいだろうね。
このスレで成田関係の話が増えたのは私のせい。ww

今年に入ってからの成田関係の話、ほとんど私の投稿。
熊谷出身なもんで……

そんなどーでもいい話だけじゃナンなんでついでに小話を。


武州成田氏は忍城主として有名だが、元々は忍の近く、成田郷を領土と
する土豪であった。
しかし、現在の熊谷市に成田という地名はない。

成田氏がこの一帯を治めている時代、成田郷の住人は殿様の名を憚って、
また殿様の苗字の地である事への誇りも含めて、自分達の住む地を「上
様の土地」と呼んでいた。

成田氏が武州を追われた後も、その呼び名は忘れられる事はなく、やが
てその村は「成田村」ではなく「上之村」と呼ばれるようになったとい
う。

現在、埼玉県熊谷市大字上之と呼ばれる一帯が成田氏の本拠となってい
た場所である。
地名には残らなかったが、かろうじて地元の小学校に「成田小学校」と
して成田の名前は残っている。

成田氏への敬愛のあまり、成田の名前を消してしまった住人達の、心温
まる悪い話?
766人間七七四年:2010/05/15(土) 14:30:31 ID:aAAD35Nk
甲斐姫が2chで有名になったのは
一時期vipで流行ったやる夫シリーズの影響もある
あそこはここと違って過疎じゃないから

これ
http://vipvipblogblog.blog119.fc2.com/blog-entry-212.html
767人間七七四年:2010/05/15(土) 15:43:19 ID:aTnfAHxQ
どう考えてものぼうの城だろ…
768人間七七四年:2010/05/15(土) 16:48:04 ID:aAAD35Nk
のぼうは甲斐姫スルーなんよ
769人間七七四年:2010/05/15(土) 17:13:05 ID:1jN9+4dt
無双かもね
770人間七七四年:2010/05/15(土) 17:24:09 ID:OBArGn25
無双シリーズは下火もいいとこだ
771人間七七四年:2010/05/15(土) 19:33:43 ID:ZVUr0xR+
>>739-741
昔、上条城という名前に思わず吹いたことがあったよ
ある意味、日本一奇妙な発音の城じゃマイカ
772人間七七四年:2010/05/15(土) 20:51:23 ID:5qziDoic
信貴山城をバリバリの関東人のオレは、ノブキヤマ城と読んでたよ・・・orz
日本語ってか読みはちゃんと確認しないとダメだね〜
773人間七七四年:2010/05/15(土) 21:00:38 ID:zOzg8pGr
音読みしてりゃ大概間違いはない
…弘前城とか九戸城とかは別だ
774人間七七四年:2010/05/15(土) 21:07:51 ID:gA/EtzVY
>>773
地元が近いからその辺は平気で読めるわあ
地名はなんだかんだでそんなにひっかけがないから

やっぱり人名だよ
ひととおり勉強しても絶対読み違えている自信がある
775人間七七四年:2010/05/16(日) 00:30:46 ID:N+Nw4PSV
>>772
ドンマイ。
776人間七七四年:2010/05/16(日) 00:52:37 ID:M1YSuOsQ
織田信雄の家臣に、生駒万兵衛という人がいた。のちに信雄の娘を妻に迎えたとの説もある人物だが、
信雄に仕え始めたばかりのころ、ある日同僚の一人に質問された。

「おぬしの名前は、「まへえ」と読むのか、「まんべえ」と読むのか、それとも「まんひょうえ」と読むのか?」

良く言えば、わざとらしい疑問からコミュニケーションを取ろうとしていたのだろうし、
悪く言えば、早い話が新人をイジろうとしたのだろう。

これに対して、万兵衛はアッサリ答えた。

「もっともな疑問にござるが、どう呼ばれても拙者は苦しからず。貴殿が「腹」の力の入りようで決めて下され。
腹が減って力が入らねば、「ま↑へぇ↓」と呼び、飯を食い酒など飲んで気力充実すれば、
「ま↑ん↓ひょう→えぇ↑」とでも呼んで下されば良い。どう言おうと、わしは「生駒万兵衛」と申す者にござる。」

「味ある返答じゃ。」と周囲で聞いていた者たちは笑い、人を食った問いに人を食った答えをされた
質問した同僚は、スゴスゴと去って行った。
777人間七七四年:2010/05/16(日) 03:15:31 ID:ClFS727G
>>776
あれ?いい話じゃないか
人を食ったというか、むしろ爽やかな回答じゃん
778人間七七四年:2010/05/16(日) 03:19:56 ID:rE/yJkrf
質問した同僚には悪い話ってことじゃね
779人間七七四年:2010/05/16(日) 04:03:35 ID:ymtbBAbv
>>776
司馬遼太郎の小説で『官兵衛』は当時、『くゎんぴょうえのじょう』と呼んだと長々と説明があったのを思い出した。
当人からすれば、『かんべえ』でも何でも良かったのかもしれない。
780人間七七四年:2010/05/16(日) 06:22:34 ID:i8hox121
「首相なのに『ごんべえっ』て変なの」

「ならば『ごんのひょうえ』と呼べばいい」

781人間七七四年:2010/05/16(日) 06:24:52 ID:ckpnP01f
上条さんも中条さんも下条さんも北条さんも
上杉家の有力武将に名前が出てくるから困る。

ところで北条(きたじょう)さんは上杉領の中でも
北条(ほうじょう)領との最前線におり、
上杉家と北条(ほうじょう)家との折衝もしていた。
つまり、上杉・北条(ほうじょう)間の戦や外交に頻繁に北条(きたじょう)が出てくる。
音で読めば違う家を指してることは分かるが、書状だと見分けが付かない。
現代人もこのややこしさに困って北条(きたじょう)さんを
北条毛利と呼んでみたり北条(ほうじょう)を小田原北条と呼んでみたりしているが

当時の人たちもややこしく面倒くさかったようで
北条(きたじょう)さんたら北条(ほうじょう)家の方では勝手に「喜多条」と書かれていた。
それなりに縁起のいい字を書いている辺り、悪意はないことは分かる。
ややこしいわこのやろう!と思う気持ちも凄く分かる。
しかしまあ北条(きたじょう)さんも結構な名家ですし誇りもあったんでしょうか
上杉から北条(ほうじょう)に離反したときも「北条」の字は使い続けた模様。

勝手な話ということで。
782人間七七四年:2010/05/16(日) 07:48:18 ID:Ieq+Bp2t
>>780
本人が本名の「ごんべえ」って言われるのが嫌で「ごんのひょうえ」って名乗ってたよな
ほんと器がちっちゃいやつだよな
783人間七七四年:2010/05/16(日) 09:36:25 ID:k6608Zfy
諱のある時代に生まれた人で、自分で権兵衛を選択したのに恥ずかしがるとかいうことがあるの?
784人間七七四年:2010/05/16(日) 12:05:16 ID:v8Z4qB4u
妻になぎなたで追い回されたのは市松だけではない。

内藤忠興は、伏見城で鳥居元忠と一緒に討ち死にした内藤家長の子、内藤政長の長男であり、
大阪の陣で武功を上げる一方、磐城平藩の第2代藩主として、新田開発や検地などの農業政策、厳格な税徴収などを行ない、
平藩の石高を実質的に2万石も増加させた名君である。

彼は、酒井家次の娘(つまり徳川四天王、酒井忠次の孫)を正室に迎えたが、この正室がじつに気の強い女性であった。
あるとき忠興は、正室に内緒で家中でも特に美女といわれる女性を呼び寄せた。
すると正室は、これに怒って薙刀を振りかざして忠興を屋敷中追い回したという。
これにこりた忠興は、以後は女性関係を慎み、藩政に関しても常に正室の意見も聞いたといわれる。

ちなみにこの正室との間に男の子はできず、側室だった小山田信茂の娘の香具姫との間にできた内藤義概が後を継いだという。
785人間七七四年:2010/05/16(日) 12:07:42 ID:tZ64YAA8
>>783
兵衛というのは諱ではなくて官職じゃなかったっけ?
だから自分で勝手に付けられるものじゃなかったような…
(うろ覚えなのでいい加減なことを言ってるかもしれない)
786人間七七四年:2010/05/16(日) 12:27:47 ID:PFHZDly4
同じ忠興さんでも・・・
787人間七七四年:2010/05/16(日) 12:31:54 ID:KJ5GaSTs
あの忠興さんの嫁も相当気が強そうだけども
788人間七七四年:2010/05/16(日) 12:36:59 ID:PFHZDly4
たまちゃんは、気は強よそうだけど直情型ではなさそうね
気の強さに理性と教養が加わると芯が強いっていう便利な表現があるけど〜
789人間七七四年:2010/05/16(日) 13:03:07 ID:UXjgNqJB
そう云えば忠興さんは、佐々木小次郎殺しの嫌疑が浮かび上がってるよ。
790人間七七四年:2010/05/16(日) 13:35:59 ID:v8Z4qB4u
内藤さんもう一本

先ほど妻になぎなたで追い回された内藤忠興さんのお父さんのエピソード

内藤政長は幕府の重臣として、里見忠義や田中忠政、加藤忠弘の改易の後始末(城の受け取り、破却)に活躍した。

加藤忠広改易の際、加藤氏は大藩だけに家臣達の抵抗が危惧されたが、政長の尽力によって無事受け取りを終えた。
ところが、肥後に向かう途中、政長は船酔いによって、急遽小倉藩に立ち寄ったため、予定外の上使到着に小倉藩主細川忠利は大いに迷惑した。
江戸でこれを聞いた三歳様は、「左馬(政長)は豊臣秀吉の高麗陣に遇わないで良かった」と、皮肉をこめた書簡を忠利に送付したという。

よりにもよって手紙魔細川家に立ち寄ったために、立寄りがばれてしまった内藤さんの悪い話
791人間七七四年:2010/05/16(日) 20:48:55 ID:1pvhlZpf
>>785
元々はそうだったんだけど、このころにはもう形骸化というか一般化してた。
確か、「右兵衛とか左兵衛とかカッケー、俺も真似しよう」みたいな感じで一般化した。って何かの本で読んだ気がする。
他には「衛門」なんかもそう。

ただ「右」、「左」が前に、後ろに「尉」とか「佐」とかついてる時は官職名である事が多い。
792人間七七四年:2010/05/16(日) 20:50:24 ID:7yWTy1Kn
でも自称も多いんだべ
793人間七七四年:2010/05/16(日) 21:07:22 ID:o4BzFKiW
村から体格のいい連中が都の警備に徴兵されたとき、そこの部署が衛門府で、
そこが右兵衛、左兵衛に分かれてた
で、任期終わって故郷に帰るとエリート扱いされて、役職名で呼ばれるようになった。今で言う「部長さん」とか
そのうち、都に行ったエリート連中の呼び名にあやかって、郷里の人たちが子供の名前に取り入れた
794人間七七四年:2010/05/16(日) 21:12:28 ID:JuKKknTm
鬼の形相の奥さんから逃げて屋敷中転げまわってた主君に対して、
家臣達はどういう顔で謁見すればいいんだろうな…
795人間七七四年:2010/05/16(日) 21:26:48 ID:HebH+NWn
>>794
         ,、‐ ''"  ̄ ``'' ‐- 、
        /イハ/レ:::/V\∧ド\
       /::^'´:::::::::::市松::::::::::::::::::::::\
     ‐'7::::::::::::::::::::::::ハ:ハ::|ヽ:::;、::::::::::::丶
     /::::::::::::::/!i::/|/  ! ヾ リハ:|;!、:::::::l
    /´7::::::::::〃|!/_,,、   ''"゛_^`''`‐ly:::ト
      /|;ィ:::::N,、‐'゛_,,.\   ´''""'ヽ  !;K
        ! |ハト〈  ,r''"゛  ,       リイ)|
          `y't     ヽ'        //
         ! ぃ、     、;:==ヲ  〃   笑えばいいと思うよ。
         `'' へ、   ` ‐ '゜   .イ    
              `i;、     / l
                〉 ` ‐ ´   l`ヽ
            / !       レ' ヽ_
         _,、‐7   i|      i´   l `' ‐ 、_
     ,、-‐''"´  ノ,、-、 / 、,_ ,.、- {,ヘ  '、     `ヽ、
796人間七七四年:2010/05/16(日) 22:05:24 ID:C76RzFm6
徳川家康の甥、松平定綱は親藩の重鎮として、山城淀・美濃大垣・伊勢桑名など、重要な拠点に転封された。
要地を任されるにふさわしく、食事中等も家臣の報告を聞き、決裁を下す勤勉な男だったが、極めて短気な男でも
あり、報告中に気に入らない事があれば、身を揺らして怒りをあらわにするのが常だった。

さらに散髪中でもこの癖を止めず、月代を剃っていた家臣が誤って定綱の頭を傷つければ、たちどころに罰を与えた。
これに対して、器用で知られた武士が挑戦して、首尾よく、しかも素早く定綱の月代を剃り上げ、見ていた家臣たちは
皆その早業に感心した。「これは恩賞ものだろう!」

だが定綱は、
「主君の世話を手っ取り早く済ませるとは、わしを愚弄するか!」そう言って、かの器用な武士を手討ちにした。

もはや家中では、「定綱様の月代を剃るのは、剣の山に登るのと同義」とまで言われるようになってしまった。
「仕方がありません。妾が剃りましょう。」
名乗りを上げたのは、なんと定綱自身の奥方で、浅野長政の娘である智相院だった。

智相院は剃刀を取り、定綱の頭を静かに、少しずつ剃り上げたが、家臣の報告を聞いていた定綱は
案の定、激しく頭を揺らし始めた。
     _, ,_
   (;´Д`)   _, ,_
    ⊂彡☆ ) Д´)パ―――――ン!!!!!


あまりの事に驚いて定綱が振り返ると、そこには目を怒らせ、拳を固めた妻の姿が!
「大名とて、ワガママは許しませんよ!?」
さすがの定綱も気を呑まれて、おとなしく頭を剃らせ、以後温厚な人物になったそうな。


・・・オチ的にはいい話かも知れないけど、怖いカミさんつながりで、こちらに。
797人間七七四年:2010/05/16(日) 22:14:51 ID:HebH+NWn
伊達九曜紋強奪異聞

伊達政宗が程川忠興から九曜紋を強奪した話は
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-840.html
ここに出ているが、異聞としてこんな話が伝わっているそうだ

ある時殿中で伊達政宗が、裃姿の細川忠興を見て声をかけてきた

政宗「忠興殿!その肩衣(裃の上の方)カッコいいな!」
忠興「ん?ああ、ありがとう。」
政宗「ちょっと貸して!」
忠興「え?あ、ああ、かまわんが…?」

政宗大喜びで忠興の肩衣を借りうけ早速着てみた

政宗「おお、どうだ、似合っているだろ!」
忠興「あ、ああ。似合っている…かな?(俺のなんだが)」
政宗「しかしさすがは忠興殿いいデザインだ、特にこの九曜紋がバッチリ決まってる!」
忠興「お、おお!その辺の意匠に気を使って作ったからな!」
政宗「くれ」
忠興「えっ?」
政宗「くれ。この九曜紋。伊達家に。」
忠興「え…。ええーーーーーー!?」
政宗「だってこの紋俺に無茶苦茶似合っているじゃん!」
忠興「…」

という流れで忠興から九曜紋を譲り受けたのだとか。
ホントかどうかは分からないが、政宗ならさもありそうなお話。
798人間七七四年:2010/05/16(日) 22:33:59 ID:/Z/EBU26
家康の息子って
この前の忠輝といい秀康といいなんかDQN率多くないか?
子供多いからしょうがないけど
家康と違って家康の若い頃そのままで来ちゃった奴が・・・
799人間七七四年:2010/05/16(日) 22:42:16 ID:osa+XFQG
めんどくさい老臣をつけてもらった紀州・尾州は危うい気性見せつつもなんとかなってますぜ。
800人間七七四年:2010/05/16(日) 23:50:49 ID:KJ5GaSTs
いい話スレで加藤明成の話が(悪い話として)出てたので、新旧DQN夢の共演をひとつ

宿敵藤堂高虎の余計なおせっかいのおかげで年取ってから会津に加増転封された
地味な方の加藤さんこと加藤嘉明
父としても息子の器量には不安があったようで、自分の死後は領地を返上するように遺言を残したらしい
(これはよくある幕府へのアピールでしょうが)

そんなこともありつつ、二代藩主となった加藤明成はある日、江戸城で伊達政宗に出会います
齢60を過ぎた政宗は若造(と言っても40近い)明成に対して、
「加藤家は要するに俺の牽制役として会津に移されたんだよね。
 俺も年食ったとは言っても甘く見てもらっちゃ困るね」
などと言って、からかいました。すると、血気盛んな明成はこう返します。
「アンタが60万石の倍の120万石だったら、今すぐにでも斬りかかってますよ?」

こんな明成ですが大坂の陣ではそこそこ戦功をあげているようなので、
戦乱の時代に生まれてれば違った評価を得ていたかもしれません。
801人間七七四年:2010/05/17(月) 00:27:31 ID:TibQdhBv
天文十八年六月、摂津国。
江口城を攻囲する軍の本陣で、三好範長(長慶)は攻撃命令を出し渋っていた。
別に敗北を懸念していたわけではない。一度攻撃命令を発すれば、直ぐにも勝利を収めるものと確信している。
実際、江口城を囲むまでの一連の合戦で、近江六角氏からの援将新庄直忠(直頼の父)を討ち取るなど、
篭城軍の戦力には大きな損害を与えていた。

むしろ、情勢は城攻めを長引かせれば長引かせるほど、三好勢に不利である。
城方――細川晴元派は更なる増援を六角定頼に求め、これに応じて一万とも二万ともいう六角勢が、
定頼の嫡男義賢に率いられて観音寺を進発したともいう。
季節柄、淀川の増水に遮られてこの大軍も容易には到着することはないだろうが、何にしても時間は大敵なのだ。

(攻めれば勝てる。攻めねば負ける。それは間違いない……とはいえ、なぁ……)

それでも、範長は江口城を落とそうという気が起こらない。
否、攻めようという気すら起こらない。
なんとなれば、

(父の仇とはいえ宗三入道は近しい一族……命を奪うようなことは、道義にもとることではないのか)

――と、いうことなのである。

この前年、主君晴元に三好宗三入道政長の排除を求めて容れられず、
これを不満として阿波勢挙げての反乱に及び、こうして宗三入道を追い詰めてみたとは言うものの。
どうにも、いざとなると殺害という決断には躊躇が出てしまう範長なのだ。

「お兄ちゃんどいて、そいつ殺せない!」

などと三人の弟(除く記録のない冬長)らは叫ぶものの、身内を平気で殺すならそれこそ宗三入道と同じこと。
そんな短絡的な――だが実際的な決断が、正しいとはどうにも範長には思えなかったらしい。
だらだら長引かせていれば降服してくれないかな、とか、
いっそ六角軍が近くに来たら理由をつけて包囲を解けるかな、とか、雑念が沸いていたのかもしれない。

というか、とりあえず冬康に「鈴虫育てよーぜ兄者」とか言われる筋合いないと思うんだ、うん。
802人間七七四年:2010/05/17(月) 00:28:55 ID:TibQdhBv
……結局この「総大将の不決断」から生まれた膠着は、脳筋一存が痺れを切らせて手勢だけで突入する、
という異常事態をもって最終的に打破されることになる。
一存の正面攻撃に安宅隊が慌てて続き、さすがに弟たちを見捨てる選択肢はない範長が総攻撃を断じたのだ。
果たして江口城はたった一日の攻防戦で陥落し、宗三入道は討ち死にしたとも、敗走中に川で溺死したともいう。

この三好宗三入道の討ち死にが中央政界に及ぼした影響は極めて大きなもので、
有力かつ忠実な家臣を救援できず、みすみす失った細川晴元の政権は求心力を急速に失い、
近江での亡命が常態化してこの後ほどなく三好長慶の政権に取って代わられてしまうことになる。

しかし、この『一族殺し』は勝者である三好政権にも巨大な悪影響を与えたことは見逃せない。
概して三好長慶の兄弟たちは精神的にナイーブな人物が多く(除く脳味噌筋肉な一存さん。どうにも暗い話がない)、
この江口の戦いと天文二十二年の阿波国守護細川持隆(三好兄弟の恩人だった)殺害を経て、
三好兄弟の活動は極めて守勢に立つ類の元へと変質していくことになる。

事実、後年に三好三人衆や松永久秀近辺からは細川晴元や足利義輝殺害の案が度々出されながら、
長慶時代の三好宗家がそのプランに食指を動かすことは決してなかった。
長慶本人はたびたびこの二人の敵手から命を狙われながら、直接的な報復はなされることがなかったのだ。
その結果、三好政権は度々晴元、義輝に従う旧勢力の反攻を受け、基盤を固めきれずに終わることになる。

乱世の姦雄、と称される一人の踏ん切りの悪すぎるお話。
803人間七七四年:2010/05/17(月) 07:01:44 ID:jOWnqalp
長慶さんはホントに苦労人ですなぁ・・・
なんか(´・ω・)カワイソス
804人間七七四年:2010/05/17(月) 08:02:10 ID:zX75R5zG
野口冬長がカウントされなかったかわいそうな話ですね分かります
805人間七七四年:2010/05/17(月) 11:03:52 ID:azuleDp5
>>801-802
超絶歌人だったりするし、ほんま繊細なところがあったんだろうな。
地元じゃ兄弟してかなりのコトをしでかして中央へ出ていった(守護殺し)し
勢力の広げ方も一代の傑物、奸雄には違いないんだけど

もし長〜〜生きして織豊政権の下で隠居したら南部信直や秋田実季ちゃんとお友達になれたかもしれない
806人間七七四年:2010/05/17(月) 14:27:10 ID:DGdsolJy
長慶の性格から、悪い話とは少し違う意味合いだと思うけどなw
恩人の細川持隆も三好義賢を殺そうとして結果返り討ちだからなぁ
平和になって阿波の政治ほったらかしで京に上って
阿波は義賢に任せっきりだったとも言われてるし
仇打ちが目的なのに何故か下剋上の権化と呼ばれ悪人扱いされる三好一族だが
それを言うなら、奸雄と言うならKIZAWAさんは何だって言うんだよw
807人間七七四年:2010/05/17(月) 15:19:38 ID:gsvWZv3p
>>798
秀忠が陰険キャラにされたのは、「一人だけで来すぎた息子がいるはずがない」という偏見かも知れない、かも
808人間七七四年:2010/05/17(月) 16:23:49 ID:zvn8/UNW
大谷吉継の怨霊に取り憑かれた小早川秀秋の図
ttp://livedoor.r.blogimg.jp/hamusoku/imgs/9/e/9e7a6e24.jpg



幽霊&怨霊の浮世絵画像を貼ってみる
ttp://hamusoku.com/archives/3147899.html
809人間七七四年:2010/05/17(月) 16:35:31 ID:t/bGwGw5
>>808
小早川が裏切るに決まってるじゃんと思ってその対策をしったりして戦って
実際小早川相手には押してて他の隊が裏切ったから負けたのに
何故か秀秋を恨んだ事にされて怨霊の濡れ衣を着せられた大谷さん(´・ω・`)カワイソス
810人間七七四年:2010/05/17(月) 18:00:27 ID:iCeOftcj
脇坂安治「怨霊とか怖いわ……」
811人間七七四年:2010/05/17(月) 18:08:10 ID:MNzX+Pxz
吉良親実「同意するわ……」
812人間七七四年:2010/05/17(月) 18:31:28 ID:jdMQ8N1s
累世の名家って言いすぎでは。
813人間七七四年:2010/05/17(月) 21:10:54 ID:UnfonjWx
ラスボスってお化け追い散らしてたよな、姫路城だったか大坂城だったか。
日和見の金吾もラスボスの猶子なんだから、怨霊くらいわけないだろ
814人間七七四年:2010/05/17(月) 21:14:20 ID:audqh4y4
815人間七七四年:2010/05/17(月) 22:09:28 ID:X4GNmhvR
>>808
ゲーム板のB本スレに貼ったやつは何がしたかったのか
816人間七七四年:2010/05/18(火) 02:50:42 ID:bubPgy+h
「昔、まだ我らが浜松を居城としていた頃のことじゃ。
ある夜、家康公に、わしの他三人が召しだされたが、三人のうち一人が懐から書付を取り出し、家康公に差し上げた。

「その書付は何じゃ?。」
「以前より、私が考えていた事等を書き付けておいた文にございます。殿のご参考にもなるかと思い、持参しました。」
「それは感心。佐渡よ、その書付、ここで読んで聞かせよ。」

わしは御意に従い、読み上げた。それは、家康公への数ヶ条に渡る意見書だったが、家康公は、一ヶ条ごとに
「もっともな事である。」などと相づちを打ちつつ、最後までお聞きになられ、
「ようやった。これからも気づいた事があれば、遠慮なく申し出よ。」
そう言って別の用事を言い渡し、三人を下がらせた。

三人が退出した後、家康公がわしに「今の意見、どう思う?」と聞かれたので、わしは率直に
「一つとして、殿の役に立つ事はございませんな。」と申し上げた。

「いや、それでもあやつが考え抜いて書いてくれたものなので、そこまで言わずとも良い。わしも正直、『なるほど』と
思える意見は無かったが、考えた事を文にまとめ、折を見て主君に伝えようとするその志は尊いものだ。

普通、自分の過ちなど気づかぬものだ。だが、小身の者は同僚・上司や友人で互いに意見するので、改めることが
出来やすい。これは、小身の長所でもある。
だが、大身の者は気位高く、そうそう同僚とも打ち解けた話などしないし、家臣も意見を述べにくい。
よって、過ちを改めることが無い場合も多い。これは、大身の損でもある。およそ、上の者が下の者の意見を聞かずに
滅んだ国や家の多いことよ。」そう言って、家康公は話を結ばれた…」


大御所・家康の思い出を語った本多佐渡守正信は、昔時を振り返り落涙した。
聞いていた息子の上野介正純は、
「ほうほう!その書付は、どんな文言でしたかな?」「同席の三人とは、誰と誰ですかな?」と正信に尋ねた。
「……それをお前が知って、何になる?」正信は苦りきって、話を打ち切った。
817人間七七四年:2010/05/18(火) 02:58:15 ID:531HHbYI
佐渡「駄目だこいつ・・・話の要点を全く理解してねー・・・」
818人間七七四年:2010/05/18(火) 03:25:41 ID:WxD8E4h+
>>816
途中までは「そんな有名な話をいまさら」と思ったが。
最後で来たな。

本多息子は人間の底が浅いな。
819人間七七四年:2010/05/18(火) 04:31:00 ID:A8BcqSWE
>>816-817
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1222.html
→ http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1251.html の別バージョン、かな。


>818倅の上野殿は本佐(サドの守)より底が浅い、と後世の人に思われていた、ってことだわね。
頭の回転が速すぎて、却って周りに気の利かない人=石田治部みたいな だったんかなあという気はする
820人間七七四年:2010/05/18(火) 07:44:37 ID:tgKJqx2c
三成と正純は生きてりゃ親友同士になれただろうなぁw
821人間七七四年:2010/05/18(火) 08:12:19 ID:Gyf7WKsp
佐渡は三成馬鹿にしてそうだけどなあ。
どっちかというと上野と三成が理解し合えそう。
822人間七七四年:2010/05/18(火) 08:40:51 ID:pVlwDfZ7
> 上野と三成が理解し合えそう。

関ヶ原の後の逸話を見ると、正純の小物っぷりでそんなのなさそうだけどね。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3139.html
823人間七七四年:2010/05/18(火) 12:41:28 ID:0Ux1dBYG
立場が逆なら上野もそれくらいは言いそうだけど。
秀吉が生きてたころや、島津を置き捨てにしたりしてたころの三成はこんなこと言えなかったと思う。
824人間七七四年:2010/05/18(火) 12:49:31 ID:WbQbV1pM
>>820-822
同類かも知れないけど、三成と上野では、
上野が小物過ぎる。
825人間七七四年:2010/05/18(火) 13:45:09 ID:3jMqTa0s
治部は馬鹿真面目な能吏で
上野は一流半の謀臣ってイメージではあるけど。

直江山城はどっちとも仲良かったんだっけ?
やっぱり同類ではあるのかな。
826人間七七四年:2010/05/18(火) 14:12:42 ID:WbQbV1pM
人が一番嫌いなのは、自分に似ているけど、自分より劣る奴。
だから治部と上野は、時部が一方的に嫌いそうw

山城はまた少し違う怪物な気がする。
827人間七七四年:2010/05/18(火) 14:26:56 ID:KODLGMjO
同僚ならともかく部下としてなら自分の縮小再生版は好まれる傾向が
828人間七七四年:2010/05/18(火) 14:49:34 ID:K843V8uD
佐渡は直接治部少相手の謀略を練ってたから、よく理解してたろうけど、
結局戦場以外で佐渡の想定を上回る行動取ったとも思えないから…。

行政官僚として憎まれ役もこなした板倉勝重なんかは治部少と話があったかも。
まあ、譜代の武ばった連中のほうがむしろ治部少に一定の評価与えてそうだけど。
829人間七七四年:2010/05/18(火) 18:09:51 ID:5j5bImY6
慶長五年(1600)6月9日、徳川家康は上杉征伐のため大阪を出発、伏見に入ると本多正信、井伊直政、
本多忠勝、榊原正康らを呼び秘密会議を開いた。

家康は言う
「今度の景勝の謀反、あ奴一人で考えたものではあるまい。
四国、九州、そして上方筋の多くの大名が景勝の与党となっておる。そしてその首魁は、石田三成。

わしが関東に下れば、上方で必ず蜂起が起こるであろう。それ故にわしは、上方の様子を確認しながら、
会津へはゆっくりと進もうと考えておる。お前たちもそう心得ておけ。この事、ゆめゆめ外に漏らすことのないように。」

これを聞いて本多正信が発言をした
「そのように石田三成が謀反を起こすと予測されているのなら、景勝の討伐には毛利元就、宇喜多秀家、小早川秀秋、
その他島津、立花、鍋島らを遣わし、上様は大阪に留まってはどうでしょうか?」

誠にごもっともである。だが家康の考えは違った

「悪い!正信その考えは悪い悪い実に悪いぞ!あ奴らを遣わせば、かの地で景勝と一味し逆に江戸に攻めてくるわ!
その時になってわしが関東に向かおうとすれば、石田三成とその与党が蜂起しわしの動きを食い止めるだろう。
そうなったらわしも動くに動けず、江戸城も攻略されてしまう!

関東は今の我々にとって「根」に当たる。わしが関東に下れば、たとえ日本中が敵になろうと防ぎきる自信がある。
その上今回付き従う諸将のうち、年来わしに心を通じている者たちは全て、この上杉討伐に同道する。
もし大事が起こってもこの者達は皆味方になるであろう。
そう考えているからこそわしは、自ら討伐に向かうのだ。」

この家康の言葉に皆は、大いに伏したとの事である。

なんとなく家康と正信の見事な連携プレイの気もするが、それはきっと穿ち過ぎなのだ。
まあそんなわけで本多正信の受け答えが悪かったお話。

830人間七七四年:2010/05/18(火) 18:11:36 ID:iSqBzr4h
秀吉や三成が幽霊として化けて出た話しとかってないの?
831人間七七四年:2010/05/18(火) 18:16:48 ID:5j5bImY6
>>830
石田三成の呪い・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1231.html
832人間七七四年:2010/05/18(火) 21:37:00 ID:zHkjztJk
>>830
スレ違いになるけど、骨釣りの元ネタの張飛を思い出してしまったorz
833人間七七四年:2010/05/18(火) 22:20:01 ID:KMTxc3UY
『主君を変え続けた男』

稲葉典通は稲葉一鉄の息子である。織田信長に仕え、17歳の時には一城主となった
直後に信長は不幸にあったが、典通は秀吉に仕えて豊臣姓を賜った

「オレの将来は明るいな!はっはっは!」

と思われたのだが、典通は九州攻めで秀吉の怒りを買って逐電するはめになる・・・
やがて朝鮮出兵が始まると豊臣秀勝が典通を呼び出してくれた

「まあ長い人生こんなこともあるさ!これからは秀勝さまのもとでガンバロウ!」

ところが秀勝は済州島で死亡
途方に暮れる典通だったが、石田三成の推薦で豊臣秀次に仕えることに・・・

「ありがとう三成殿!オレは今度こそまっとうしてみせる!」

秀次切腹

「・・・オレって呪われてるのかな?」

またも主を失った典通であったが、なんとか秀吉に仕えることができた
その後の関ヶ原では西軍につくも、家康に降伏する
そんな波乱万丈な再就職人生を歩んだ典通が死んだのは徳川家光の代であった
834人間七七四年:2010/05/18(火) 22:42:18 ID:zY9BePBn
悪い話かな?実家が家老職家で話は良く聞いてたが
運がいい主君だと思ってたのだが・・・
835人間七七四年:2010/05/18(火) 22:44:20 ID:K4a19dTb
こういう不可抗力とはいえ主君を替えつづけた男って
当時の人間からはどう思われてたんだろうな
836人間七七四年:2010/05/18(火) 22:46:04 ID:zY9BePBn
連レスで悪いのだが孫じゃなかったっけ?
837人間七七四年:2010/05/18(火) 22:46:46 ID:zHkjztJk
つか、この人大坂の陣にも遅参してなかったっけ?
いや、まぁ、いい加減な記憶だからアレなんだけど・・・
838人間七七四年:2010/05/18(火) 22:46:47 ID:K4a19dTb
>>834
勤め先が次々潰れたら俺は泣くけどなぁw
まぁ社会も道徳も違う現代に簡単に当てはめられるような事じゃないけど
839人間七七四年:2010/05/18(火) 22:49:23 ID:KMTxc3UY
>>836
ごめん間違えた、孫だった・・・
840人間七七四年:2010/05/18(火) 22:55:09 ID:aEmzO3ct
日根野弘就「まだまだ精進が足りんのう」
841人間七七四年:2010/05/18(火) 23:32:24 ID:5j5bImY6
八重緑悲話

永録8年(1565)、美濃攻略を進める織田信長は中濃の鵜沼城、猿啄城を攻め落とし、岸信周の守る堂洞城攻略にかかった。

その前年、関城主長井隼人正道利を盟主として、堂洞城主の岸信周と加治田城主、佐藤忠能は反信長の盟約を結んでいた。
この時佐藤忠能は娘の八重緑を岸信周の養女とし、人質として差出さえしていた。

ところがこの時佐藤忠能は信長方に寝返り、信長とともに堂洞城を攻め懸けたのだ。
これに怒ったは岸信周は決戦の前日、加治田城から良く見える長尾丸山で、
人質の八重緑を哀れにも竹槍で刺殺した、と言う。

そして加治田方面からの攻撃を想定していなかった堂洞城はたちまち落城。佐藤忠能も自刃して果てた。


さて、現在堂洞城のあった岐阜県富加町にある町営住宅周辺には、謎の怪奇現象がよく起こるのだという。
地元の人はこれを、父に見捨てられ哀れにも死んだ八重緑の怨霊のためである、と言っているそうだ。

信長による美濃攻略の際の、やりきれなく悲しいエピソードの一つ、である。
842人間七七四年:2010/05/18(火) 23:40:07 ID:zY9BePBn
こういう人質の娘ってほぼ捨てられるの覚悟してるのかな
それとも「自分を見捨てる事は無い」って気持ちもあるのかな・・・
843人間七七四年:2010/05/19(水) 01:24:24 ID:Bv/NykdP
この時代の人質て何か殺される率やっぱ高いな。

ところで猿啄城てなんて読むんだろう?
844人間七七四年:2010/05/19(水) 01:40:13 ID:3mPlvQ20
>>843
さるばみじょう
845人間七七四年:2010/05/19(水) 02:22:41 ID:STc5QpPj
>>842
人質って制度が一定のルールのもとで機能してたんだから、信用性はそれなりにあったんだろう
だから人質本人も…と個人的には思ってる
846人間七七四年:2010/05/19(水) 02:32:18 ID:RsalYDAj
>>843
人質が殺されたるとニュースになって記録されるんだから
珍しかったんじゃないかなあ
こんなんもあるし
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2373.html
なしの皮だけじゃなくて、
「鬼ごっこの時はいつも長重公が鬼をやってくれた」>利常回顧談
847人間七七四年:2010/05/19(水) 10:26:19 ID:nFR4B+JK
信長公記だと、加持田の佐藤がまず信長に寝返り、それに対応した長井が
加持田への押さえとして堂洞に付城を築いて岸を城番においた、となっているが、
この逸話は順番が逆になってるんですね。
848人間七七四年:2010/05/19(水) 15:32:35 ID:5BjndYQT
>>842
「〇〇と考えていた」「〇〇と感じていた」っていう部分は、基本的に歴史には残らないです。
文書に残るのは、「××が△△した」ってことだけ。

そういう歴史学の限界を補完してくれるのが、ここの逸話だと思ってる。
かなり怪しいものもあるがw
849sage:2010/05/19(水) 18:27:22 ID:2/Qq4dl2
地元を紹介しているブログより引用
そこには元ソースは宮崎県史とあったが違うとがあったらすいません

ラスボス・秀吉の九州征伐が終り降伏した秋月氏も何とか大名として存続することができた。
種実の次男、高橋元種も縣5万石で存続を認められた
めでたしめでたし・・・にはならないトンデモ無いミスが起きたのだ
高橋元種の領地宛行状に高千穂が入っていなかったのだ
これに希望を持ったのが高千穂嫡流の三田井氏だ
島津に味方したために取り潰しになるはずが領地の高千穂はミスで統治者不在の空白地帯になってしまった
三田井は島津ですら存続できたのだ自分たちだって残っていいはずだと思ったが
いかんせん、それを訴えるための人脈が無い
そんな三田井に高橋元種が親切顔で接近した

元種「自分も三田井殿の存続は認められてしかるべきと存じます。よろしければ参勤の折に関白殿下に取成ししましょう」
三田井、不安に思いつつも他に当ても無い「よろしくお願いします」と頭を下げた

そして元種がラスボス秀吉と拝謁した時、三田井のことを訴えた
元種「三田井は殿下の仕置きを不服として叛意を抱いております!」
ラスボス「なにぃ!そんな奴は成敗せよ!」
ラスボスにとって土着の勢力なんて目障りでしかない。
元種の言い分だけを取り上げ滅ぼすことを命じた

天正19年(1591年)9月、大義名分を得た高橋元種は三田井氏を滅ぼした
三田井の筆頭家老、甲斐宗摂(宗運庶子)を篭絡し城内に手引きさせたのだ
ただ、一族全員が殺されたわけではなく三田井の遺児は元種に仕えたのだが
例の親戚の狂騒男のせいで改易になった後は行方不明になったそうです

秋月種実の息子だなぁ
と、思わせる高橋元種の三田井氏を滅亡させた手口でした
850sage:2010/05/19(水) 18:28:40 ID:2/Qq4dl2
>>849
書き漏らした
主君を裏切った甲斐宗摂は後日、元種によって粛清されたそうです
851人間七七四年:2010/05/19(水) 19:24:43 ID:TxJYTm83
そこが秋月親子の魅力
秀吉に田んぼで踊れ唄えって言われて恥をかいたのも
いまじゃよい思い出w
852sage:2010/05/19(水) 20:35:36 ID:2/Qq4dl2
>>851
レストンクス

でもって秋月関連で小ネタ

あちこち検索してたらサイトで見つけたのだが
隆元ニーチャンと秋月種実が義兄弟の契りを交わしてたって記述を見かけた
時期的には種実が父を殺されて元就の庇護を受けてた頃

大人同士の義兄弟(宗茂と秀包とか如水と広家)なら友情だ!うん!って思えるが
30代のニーチャンと食べ頃の少年なら、やっぱアレか?って思うんだが
サイトにはソースが書いてなかったんで信憑性は怪しいです

陰徳太平記かなぁ
大内と陶の逸話で自分の中で陰徳には、そういうイメージが付いてしまった
まとめに載せるか判断は管理人さんに任せます
853人間七七四年:2010/05/19(水) 20:46:08 ID:KLbYcPN/
日本語でおk
854人間七七四年:2010/05/19(水) 22:43:42 ID:O1Q/r297
九州や東国では、各地で豊臣の知行宛てがいをめぐる血みどろの惨劇が起こるんだよな
855人間七七四年:2010/05/19(水) 22:53:16 ID:s7kRpLkB
うむ。
856人間七七四年:2010/05/19(水) 23:01:31 ID:WAhQKC6t
>>854
秀吉にとって誰が正統な領主とか土地をめぐる経緯とか、
心底どうでもいいんだろうな。
自分に服するなら誰でもいいって感じ。

857人間七七四年:2010/05/19(水) 23:06:09 ID:NBTd3EST
生駒親正の胸糞悪い話

仙石秀久、戸次川で大失態!高野山に追放され→尾藤知宣が讃岐を任される

生駒氏は(足利義輝の生き残りの子を養育していたとされる)これが理由かは解らないが
生駒親正は十河存保の後継である十河千松丸を毒殺したと言われている

尾藤が釣野伏せを恐れる←生駒が恐れる尾藤にしつこく告げたとも言われる
尾藤、釣野伏せを恐れ大失態を起こして追放される

十河の嫡男(大坂の存英は違うらしい)が都合よく居なくなった讃岐の領土は生駒親正の領土に・・・

               生駒大勝利!!

の後、生駒親正と蜂須賀家政はHP0の三好(氏)に対する『三好狩り』を開始
祖谷渓に住む人々が古くから受け継いできた数々の名刀を奪い弾圧を行う(マジで名刀だらけだったと郷土史にはある)
その三好狩りは讃岐生駒氏の3代目、生駒正俊の代でやっと収束を見せる事になる

長宗我部は仙石の所為ばかりにしているが実はこいつも一枚も二枚も噛んでいた悪だと言う事に気が付いて欲しい
858人間七七四年:2010/05/19(水) 23:22:44 ID:oXwpQT3E
>>857
都合よく居なくなった十河存保の嫡男・千松丸の死因は毒殺であった。
言うまでもなく、その実行犯は生駒親正である。
859人間七七四年:2010/05/19(水) 23:23:32 ID:oXwpQT3E
ゴメン、よく読んでなかった
860人間七七四年:2010/05/19(水) 23:34:50 ID:NBTd3EST
もう一つ 一応は十河存保になるのかな、悲しい話

九州征伐の命を受けた四国勢は仙石・十河・長宗我部の軍勢で編成される事になる
そして三好氏の生き残りである(十河)三好存保(御存じ実休の次男)と十河存之(一存の次男で家老・存保より年上)は
破竹の勢いで九州統一を推し進める島津氏と戦う為に九州へ・・・
旅立つ前に存保は『まだ千松丸は豊臣秀吉に謁見してない。
自分が亡くなったら必ず秀吉に謁見させ、十河家を存続させるように」と家臣に伝えて旅立った

その後、12月12日の十河城
農民『おお、十河城に兵士が帰って行くだ、お殿様が帰って来たのか?』
十河の町で田んぼを耕していた人達は、300人ほどの兵士が旗を持ちお城に入っていくのを見た

農民『これはもうすぐしたら十河殿が帰って来るのだろう、早速城へ行くだ』
農民たちはお殿様が帰ってくる知らせかとお城に行くと

家臣『いえ?殿はまだお帰りにはなっておらぬ、それに兵達はまだ帰って居らぬぞ?』
農民『可笑しいのぅ・・・儂はちゃんとこの目で見た筈なんじゃが・・・』
城の中には誰もそんなことは知らず農民の言葉を不思議に思っていた
その数日後、十河存保達が全滅した十河城に伝えられ家臣は悲しみにくれる
存保氏が亡くなった日も、兵士達が現れた日も12月12日でした。

家臣『じゃが、まだ我々には千松丸様がおられる、秀吉殿に謁見を急ぐのじゃ』

千松丸は秀吉に謁見し、存保に劣らないと誉められて讃岐へと帰郷
だが十河氏は改易され生駒氏が治める事になるが
家臣『千松丸様が生きているだけで儂らは何ら不幸な事はない』
十河氏は生駒親正から『鼻紙代』と称し3000石を与えられ、千松丸は生駒親正が養育する事になる

「命すつるも子ゆえにすたれ けなげなれとよ 千松丸」
861人間七七四年:2010/05/20(木) 00:29:17 ID:pTXRH4il
「景観を損ねる京観」

甲斐の国に花鳥の里と呼ばれる所あり
文明18年(1486年)、聖護院道興准后はこの地に立ち寄った折に
花鳥風月の花鳥を冠するその景観を讃え次ぎのように一首詠んだ。
「色に染み 声に愛でつつ 安らいで 永き日暮らす 花鳥の里」
だがこれより後に、風雅な響きのこの里に風流な地名が生まれる
その名も「鼻取り山」
聖護院道興准后がこの地を訪れてより時は下って大永3年(1523年)の事。
国中の武田信虎と抗争を繰り広げている河内の国人、穴山信永は
花鳥の里の小山城に在って、虎視眈々と武田家の動向を伺っていた。
しかしその背後を武田家に従う河内の国人、南部宗秀が狙い
鳥坂峠を越えて襲い掛かかろうとしていた。
そうはさせじと小山城から討って出て
鳥坂峠の山で迎え撃つ穴山信永であったが散々に討ち負かされ
手勢は死屍累々を晒し居城とする小山城に逃げ帰った。
この時、南部宗秀は今が好機とばかりに追撃の意を決したが
討ち取った敵数の余りに多い事もあり、悉くを女首にし
それらを積み上げ京観として戦意を高め追撃また追撃
このため穴山信永は小山城も追い落とされ甲斐国二宮の美和神社近くにある
常楽寺(当時は)に逃れ、ついに自害しました。
人々は「一に花鳥、二に小山、三に辛いは常楽寺」と唄ってそのあり様を
後世に伝えるとともに穴山一党が屍晒したその山を花鳥の里の名に因み
花鳥(鼻取り)山と名付けたと言う。
この山に一本の大杉が聳える塚があり、そこを首塚と呼ぶが
今でも刀や鏃が出土すると言う
甲斐国志に
「里人ノ伝ニ彼戦ニ殺伐多ク耳鼻ヲ截リ
 京観ヲ築キシニ依リ鼻トリ山ト名ヅク」とあり。
今では春に桃の花が咲き乱れ桃源郷の呼び名も高いこの地に
割き乱れた鼻のちょっと(薄気味)悪い話
862人間七七四年:2010/05/20(木) 00:47:53 ID:ubiMqfPG
>>844
おーサンキュ
別にこの時代に限らないけど、読みずらい地名とか城とかてあるよね。
昼寝城とかみたいに、読みやすくて由来も分りやすいのって少ないなー
863人間七七四年:2010/05/20(木) 01:05:52 ID:qwgOWHBJ
>>860
なんか太平洋戦争であった不思議な話で出てきそうな話だな
昔からこんな話ってあったってことかな?
864人間七七四年:2010/05/20(木) 01:28:38 ID:Rq497GDQ
>>857お、故郷徳島にも関わる話がきているとは
便乗して、故郷の旧池田町(四国四県への道が交わっているため「四国のへそ」と称される)
の菩提寺の住職に聞いた話を

池田近辺では師走の初めの辰巳の日にご先祖様の正月を簡単に祝う風習がある
この仏正月、通称「辰巳」の習慣は同じ徳島でも池田以外ではほとんどみられないが、その由来
三好氏も落ち目になった、天正四年?師走
「四国のへそ、池田の白地城(当時大西氏所有)をおとせば四国平定が楽になる」
と長宗我部元親が池田に攻めてきた。
土佐の鬼にあわてた周辺の住人たち
「せめて先祖の正月だけでもいまのうちに・・・」
と辰巳の日に豆腐や餅を先祖に供えて、逃げたのが今にいたるまで伝統として残っているという
ただし徳島では「辰巳」だが、愛媛では「巳正月」と呼び、香川周辺では「巳午」と呼んでいるとか。
どうやら呼び方で長宗我部軍の侵攻具合がわかるらしい
他の三県から未だに怖がられている、長宗我部元親の悪い話?

ちなみに、池田町は現在三好市(三好氏の由来の地名が現在まで残っている)
に編入されています。
865人間七七四年:2010/05/20(木) 09:49:56 ID:76zvCAsb
>>850-852
秋月の旧領が苦労してるから勘弁してあげてw
江戸時代は高鍋藩(宮崎県高鍋町)
866人間七七四年:2010/05/20(木) 12:19:01 ID:X4dJ8idv
>悉くを女首にし

女首ってなんすか?
867人間七七四年:2010/05/20(木) 12:33:24 ID:vdE4bNC4
>>866
鼻を削ぐ事>女首

首が多すぎて持ち運びできないから鼻(実際には鼻から髭の確認できる唇まで)を
削いで手柄の証拠にする。

これにより首から髭の部分がえぐり取られる→髭が無いから男ではない→女首

となった。
868人間七七四年:2010/05/20(木) 17:10:25 ID:X4dJ8idv
>>867

ありがとうございます!
想像するだけで残酷極まりないですね
それとやっぱり髭がないのは女っぽいって事なんですね
869人間七七四年:2010/05/20(木) 18:22:35 ID:lmdUyHpe
イスラムの戦士の様だな。
870人間七七四年:2010/05/20(木) 18:51:23 ID:vdE4bNC4
>>868
なので敵の首まるまるひとつとっても、ヒゲの無い首は審査の対象になって、男の首だと証明するため
色々大変だったらしい。
871人間七七四年:2010/05/20(木) 18:56:36 ID:WFPUqbLG
ところが今や髭が不潔だから禁止だもんな
872人間七七四年:2010/05/20(木) 19:00:20 ID:xoAPbYau
土井さんが剃ったからこぞって追従したんでそ?
873人間七七四年:2010/05/20(木) 19:06:23 ID:uxqXSyzI
>>871
江戸時代も元禄以降はヒゲは無作法とされたよ
874人間七七四年:2010/05/20(木) 19:49:52 ID:ryYs/qG3
>>865
悪久の故郷もな(宮崎県えびの市)
875人間七七四年:2010/05/20(木) 20:07:42 ID:+8/We7Mt
髭を剃り落とすと、侍としての存在意義は終焉を迎える……

巨人の小笠原を見てると、何となくそんな思いが頭をよぎる
876人間七七四年:2010/05/20(木) 20:16:21 ID:95zZXee2
髭がない武将は馬鹿にされる
秀吉も薄いのを気にして付け髭

ただ声が甲高くて、髭が薄いってフロイスに言われた人もいる
877人間七七四年:2010/05/20(木) 20:17:56 ID:vdE4bNC4
>>875
つーか戦国期の侍に何でヒゲが必要だったかって言うと、兜がしっかりと固定出来るように、
って理由が大きいわけ。

なので、平和な時代になってヒゲが忌避されたのは、ヒゲがあると
「また鎧兜に身を包んで戦う気か?」
って目で見られたため、ですな。

あ、江戸期のヒゲの忌避って大名とか大旗本とかくらいまでで、
家臣クラスでは特に何も言われなかったみたい。
878人間七七四年:2010/05/20(木) 20:33:48 ID:Beqx3qfM
>>875
ラミレスも髭あった方がよかったのにな
879人間七七四年:2010/05/20(木) 20:52:10 ID:enlmCOZ/
髭と聞いて津軽為信がアップを始めました
880人間七七四年:2010/05/20(木) 20:58:26 ID:vdE4bNC4
ヒゲよりもこの蒲生氏郷肖像画の変な髪型について一言申し上げたい。
http://www.angle-web.net/tanbou/jinbutsu/gamou.jpg
881人間七七四年:2010/05/20(木) 21:01:24 ID:lB3X/Lps
>>880
ダンディ坂野に似てる
882人間七七四年:2010/05/20(木) 21:18:04 ID:eVam+ZG8
戦上手なダンディか
883人間七七四年:2010/05/20(木) 23:41:17 ID:AQagA9R2
賢者モード?

とある豪商の夫人が、先祖の命日に当たって供養をしてもらおうと、一休宗純の庵を訪ねた。
「これはこれは、良い功徳になるじゃろう。」
一休は酒肴を用意して夫人をもてなしたが、日も暮れる頃になると夫人の体に手を伸ばしてきた。

「フヒヒ・・ご新造、命取りとはアンタのことじゃ。いざ、拙僧と一夜の契りを交わそうぞ。」
「ちょ・・離して!」
「一回だけ!一回だけだから!」嫌がる夫人に、一休はなおも袖にすがって来る。
「いやっ・・・・!!」

やっと一休を振り払った夫人は、急いで夫のもとへ逃げ帰った。
「あなた!一休さんというお方は、生き仏のように言われておりますが、とんでもない方でしたよ!」
怒りの冷めやらぬ夫人は、一部始終を夫にブチまけた。
が、夫は動じない。
「なんだ、あれ程のお人に抱かれれば、かえってご利益のありそうなものを。もう一度行って、和尚をお慰めしなさい。
お前と和尚が寝たからと言って、私は誓って怒りも嫉妬もしないよ?」

それならば、と思い直した夫人は、白粉口紅を塗り直し、せいぜい着飾り再び一休の庵に向かった。
「もし・・和尚さま、また参りました・・良ければその・・・・コホン、お情けを・・・・・・」

「なんですかな。もはや拙僧の心に掛かっていたものは晴れております。良家のご夫人が、こんな時間に
出歩くものではありませんぞ。早くお帰りなさい。」そう言って一休は、布団をかぶって寝てしまった。


『行く水のごとく成る御心や、潔し々々兎角凡人にてなし』と「一休笑譚」は結んでいる・・・・
884人間七七四年:2010/05/20(木) 23:52:01 ID:95zZXee2
どうしようもない生臭坊主だけど世間の評価は名僧です
885人間七七四年:2010/05/20(木) 23:56:05 ID:uvy2C7ih
だれか大坂の陣の八尾の戦いでの、藤堂隊の大将の逸話で、明日死ぬつもりで実際死んだ話知っている人いない?ソースが見つからない……。
886人間七七四年:2010/05/21(金) 00:05:47 ID:4AvSrDqd
>>883
これが俗に言う賢者モードというやつか・・・
887人間七七四年:2010/05/21(金) 00:24:31 ID:dG7n2Diu
888人間七七四年:2010/05/21(金) 00:25:43 ID:XaYov6lZ
>>887
ありがとう!マジで探していた。
889人間七七四年:2010/05/21(金) 00:53:06 ID:vVJkesse
>>883
一休…
さては夫人が来るまでの時間を使って(ry
890人間七七四年:2010/05/21(金) 11:34:49 ID:iHoUGxWt
大崎義隆の「こんなハズじゃなかったのに」

天正小田原の役で伊達政宗からの牽制の為に参陣の適わなかった大崎家だが
その弁明が認められて旧領の三分の一程が認められる事となった。

大崎義隆(‘∀‘)「禄高は減ったけど、家名は守れたようだ・・・」
最上義光(´・ω・`)「義兄上、徳川殿にも手を尽くしましたが、お役に立てず申し訳ない・・・」
一栗放牛(`皿´)「この様な仕打ちは某、納得いきません!!」

奥州検地終了をもって大崎家復興となるハズであったが・・・
政宗扇動する一揆のせいで、大崎復興は水の泡、旧領は全て政宗の物に・・・

大崎義隆は捨扶持2000石で蒲生氏郷預かりの身となり
長子大崎義久は最上家客分1500石、
一栗高春は最上家家中相談役1000石、
大崎家中は完全に崩壊した。
891人間七七四年:2010/05/21(金) 12:19:57 ID:OxX4meCT
ありゃまあ…
大崎で一揆が起こったから、旧領復帰やっぱヤメ!になったのかな
892人間七七四年:2010/05/21(金) 13:19:39 ID:CIYnZ1j2
今週は四国の話が多いなwちょうど昼寝城の名前がでたしその話で
「残党さんの墓」

寒川氏は細川氏に仕え讃岐国寒川郡の郡司を務め、東讃岐に威勢を振るっていた。
戦国期にはいると父である元政の死後、家督を継いだ寒川元隣は代々の居城である昼寝城から虎丸城に移し、昼寝城には弟の光永を入れた。
昼寝城は矢筈山の中腹に聳えた昼寝山頂に営まれたもので平素には居住できないが、一たん籠もると難攻不落で知られ。
昼寝をしていても攻められないという要害であった。しかし天正三年九月(1575年)阿波国の海部友光に攻められ、
昼寝城はたった二日の戦闘で落城してしまった。
この敗け戦の際、ひとりの男が夜陰にまぎれて中津まで落ちのびていた。
男は逃げ続けるうちに夜もふけてしまい、どこかに休める場がないか探していた。その時に一軒の民家を見つけ戸を叩いた。
戸を叩く音に、この様な夜更けに誰かと思いつつも手燭をかかげて出てきた主は息を呑んだ、ふり乱した頭髪、矢傷、刀傷でボロボロな甲冑に血糊がこびりつき、 死の恐怖におびえた両眼は亡霊そのものであった。主はすぐに昼寝城の落武者であるとわかった。

男「すまぬが、暫くかくまってはもらえぬか…」
主「分り申した。さぁ、は早う中へ」
ともかく戸口では怪しまれると思い、主は男を中に入れ話を聞いた。
男「傷の手当てをしたいので、それまで家の倉にでもかくまってもらいたい」
主「どうぞどうぞ、ご自由におつかい下さい。」
男「それから済まぬが茶漬を一杯所望したい。 朝から何も食していないのだ」
主「ただいま家内に茶漬の用意をさせますので。しばしお待ちを」
男「身共は明日の夜にはこの家を出てゆく。済まぬがもし追手がきても他言はせぬように頼む」
主「…分り申した」
その様なやりとりをした後、侍は茶漬をかきこみ、倉に潜んだ。

主は男が倉に入ると、そっと家を脱け出して村長の家に走った。勿論この男について相談しにいったのだ。
村人「そんな落武者をかくまっていたことがわかれば、この村にどんな仕打ちがあるやも知れぬ。」「早う海部方に知らせた方がええぞ」
騒ぎを聞きつけた村人達の大半口々に男を引き渡すべきといい、主を含め村人達は男を海部方に引き渡す事で意見はまとまった。
事が決まるとすぐさま使いの者をだし、知らせを受けてかけつけた海部の軍に倉を囲まれ、男はもはやこれまでと応戦するも討ちとられてしまった。
男は死の間際に「おのれ、恩知らずの村人共め、この中津の村にはこれから先、倉は建てさせぬぞーー!!」
恨みの一言を吐いて息絶えた。それから、中津には倉の建つような富んだ家はなくなり。
土地の人は落武者の祟りと恐れ、侍の霊を祀って「残党さんの墓」を建てそうだ。

長文初めてだから誤字脱字あったらスンマソw
893人間七七四年:2010/05/21(金) 14:11:33 ID:YQfULctR
葛西晴信と宿遠の系譜

天正仕置きによって大崎家の他に和賀、稗貫といった陸奥の大名達が改易となっている。
大崎家と争い石巻・佐沼を領した葛西家もその一家である。

葛西晴信は一時期寺池30万石を領した大身で大崎家との合戦には
優位を誇っていたが奥州仕分けで改易され、その後は参加した
大崎・葛西一揆で佐沼城で討ち死にしたとも、
後年加賀の前田家で死去したとも言われるが、
葛西家の混乱はこれだけに留まらない。

葛西晴信からして兄との家系継承や一族内の紛争
また大崎家との抗争や伊達家との縁組など、
当時としてはやむをえないが主家・主流を残すといった手段には
あまり手を尽くせなかった様である。

大崎・葛西一揆後の葛西氏は、
庶子の多くが伊達氏、南部氏を中心に奥州の大名に臣従し現在に至る。

臣従した庶子の多くが、それぞれ独自の葛西氏系譜を作成するが、
これの多くが独自の口伝、相伝に拠って作成されており
今日の葛西氏研究を混乱させている一因である。

「寺池系葛西氏」と「石巻系葛西氏」がそれぞれ宗家を主張した事ため
伊達氏をはじめ、養子縁組等で葛西氏に介入した大名が、
介入の正当性を主張し、豊臣秀吉の奥州仕置き、葛西大崎一揆で葛西氏が所持していた史料が
散逸してしまったもあり、系図は現在判明している物だけでも二つの系統
(俗に言う、葛西氏A系統と葛西氏B系統)を中心に30以上存在し、
それぞれが歴代当主の名前、順番が初代と17代以外はバラバラであり裏付け史料が極端に少ない。

当時の陣立てを見るにも
葛西左京大夫晴信 、葛西式部少輔信政、葛西民部少輔信国
及川越後守、青梅尾張守、赤井播磨守、福地下総守、門田丹波守、
末永筑後守、千葉左馬助胤元、千葉十郎五郎胤永、及川紀伊守頼貞、
千葉修理亮胤則、岩淵遠江守経平、千葉新左衛門尉武虎、及川美濃次郎頼兼、
菅原左近将監重国 、米倉右近行友、峯岸数馬有盛、三条小太夫近春、
寺崎伊予守祐光、飯野但馬守正秋、嵯峨舘左近、水戸部九郎、
箕輪田弥惣右衛門、歌津右馬、亀卦川三郎左衛門、及川隠岐入道

最上家の改易にも引けを取らない1000石取り以上の家臣が綺羅星の様に
揃い、これが葛西復興を賭けての庶子の擁立と家名・御家存続の混乱に拍車を
掛けてしまったと思われる。
894人間七七四年:2010/05/21(金) 14:23:26 ID:YQfULctR
悪い話しながらも
これで今までまとめスレになかった【大崎家】と【葛西家】が分類されそうだ。
895人間七七四年:2010/05/21(金) 16:57:04 ID:eQwH8P5Z
>>892
ぞっとした
八つ墓村みたいな逸話だな
896893:2010/05/21(金) 17:00:55 ID:Gmz7NAcf
○死
×氏

またやってしまった・・・
897人間七七四年:2010/05/21(金) 17:49:50 ID:WaP6Y5Jr
>>893
系図30以上ってすさまじいな
なまじ旧家のぶん、みんな宗家になりたかったんだろうが

そして関係ないが、
> 奥州仕分けで
の妙な説得力に笑ってしまったw
898人間七七四年:2010/05/21(金) 18:58:06 ID:NbrDAgnQ
>>892
恩知らずが〜!
って言ってるくらいだから、善政してたのかな?
899人間七七四年:2010/05/21(金) 19:11:13 ID:9Xg7pG3z
落ち武者狩りはボーナスステージ
900751:2010/05/21(金) 19:28:14 ID:RSspMh2p
>>766
面白い話だな。
鶴姫あたりも、無双シリーズ参戦はあるかもとか思った。

というかそのスレを読むまで、忍城は忍(しのぶ・しのび)城だと思ってた。
忍(おし)城なんですねw

楽しませて貰ってる者としては、皆さんよく資料を集めて来るなと。
やっぱり、図書館とか旅行先とかでネタを仕入れてくるんですか?

俺の地元はあんまり有名な武将・大名は居ないしな・・・
と思ってたら、>>784の内藤さんが思いっきり地元の大名だw
901人間七七四年:2010/05/21(金) 19:56:19 ID:1hPZWbmZ
>>890
大崎親子は蒲生→上杉→最上→加藤嘉明 負け組に身を寄せ続けるんだよな。悲惨。
というかデス浪人とも言える。
902人間七七四年:2010/05/21(金) 20:04:50 ID:8hP+BTtr
>>901
見事に負のオーラに引き寄せられてるな。
まあ下り坂に入った家というのはそういうものかもしれないが…。
903人間七七四年:2010/05/21(金) 20:08:51 ID:JnSJYmQu
常眞殿の(´・ω・`)な話。
天正十八年某月某日の公家日記。
今日は火事があったよ!なんでも尾張内府殿のお家が全焼したらしいね。
なんでも主上の行幸を仰ぐために作った金の間も焼けちゃったんだってね。
翌日の多聞院日記
なんでも京で雷による火事があって内裏が焼けたんだとさ、くわばらくわばら
火事から三日後の多聞院日記
こないだの火事は御所じゃないらしいよ、ヨカッタよかった。

なお、この火事があったときには既に常眞殿は小田原で東海への国替えを拒否して改易された後だったりする、という常眞殿にとって踏んだり蹴ったりなお話。
(この火事で焼けた家を特定してるのはこの日記のみで他の日記には火事があった、としか無いので確実に常眞殿の家かどうかの裏付けは取れません)
904人間七七四年:2010/05/21(金) 20:47:17 ID:arYLshaa
>>900
いやいや、無名の武将のほうが却って掘り出し物の逸話を持っていたりする
見つけたらスレに投下してくれ
905人間七七四年:2010/05/21(金) 22:07:49 ID:8hP+BTtr
長崎県の本蓮寺がある場所はかつてキリシタンが所有しており、そこには
サン・ジョアン・バプチスタ教会とサン・ラザロ病院が建っていたという。

しかし天正15年(1587)の豊臣秀吉によるバテレン追放令が出されると
おそらく、地元の非キリスト教徒の恨みを買っていたのだろう、この教会は焼き討ちにあった。
教会内にいたキリスト教信者たちは火の手から逃げられず、ロザリオを手に次々とその敷地内の井戸に身を投げた。
建物は焼けたが、多くのキリシタンが身投げした井戸はそのまま残された。

それから33年後の元和6年(1620)、教会の跡地に本蓮寺が建てられた。

ところがこれが建立されてしばらくすると、不思議な噂が流れ始めた。
井戸の方から毎夜毎夜、不気味なうめき声やすすり泣きが聞こえてくる、と言うのだ。

ある時この噂聞いた日親と言う若い僧が、怪異の原因を突き止めようと、短刀を隠し持って
井戸の隣にある部屋に泊まった。
その部屋の入口の杉戸は、南蛮杉戸と呼ばれる南蛮様式のもので、そこにはキリシタンの老人が描かれていた。

さて、真夜中。日親がうとうとしていると、庭の井戸の底から大勢のうめき声や、泣きわめく声が聞こえてきた。
そして部屋の中を誰かが歩いている気配がする。慌てて眼を開けると、なんと杉戸の絵の老人が中から抜け出し、
眼を爛々と輝かせながら日親に向かって近づいてくるではないか

「おのれ化物!」

日親は恐怖に震えながらも、老人の不気味に輝く目に向かって短刀を突き立てた!
そこで、気を失なった。

翌朝、寺の僧達は日親が高熱を出して倒れているのを見つけた。
そして杉戸の老人の絵は何故か、片目がくり抜かれていた。

日親は何日も熱に苦しんだ末、死んでしまったと言う。

このようなことがあったため、本蓮寺の南蛮杉戸と井戸は有名になり、寺によって大切に保存されていたが、
昭和20年の原爆により、杉戸の方は焼けてしまった。
しかし井戸は残り、「南蛮井戸」と呼ばれ、今も本蓮寺にその姿をとどめている。

今も長崎に伝わる、『南蛮井戸』の物語である。
906人間七七四年:2010/05/21(金) 22:11:27 ID:AOfc2FA/
民俗系とかの板の方が広がるネタかな〜
つか、貞子も井戸だったね〜
907人間七七四年:2010/05/21(金) 22:21:04 ID:nAt4Po8u
オカ板みたいな逸話が二つもあるけど
まだ怖い話のシーズンには早いぞ
908人間七七四年:2010/05/21(金) 22:47:42 ID:1C5e2c60
大崎は大名として存続出来ていたら十万石くらいもらえた?
あと葛西はどうだったんだろ。
909人間七七四年:2010/05/21(金) 23:00:35 ID:4vYQ+MC4
>>893
まとめスレの東北カテゴリー「菅原左近」がこれで主家に入れそう
一種の御家再興か
910人間七七四年:2010/05/21(金) 23:01:42 ID:XaYov6lZ
>>885ですが、探していた逸話で悪い話作ってみました。初めての投稿なので指摘などありましたらお願いします。

藤堂良重の嫉妬と兜

大阪冬の陣(1615)の藤堂家の軍議でのことである。
「武士の本懐は一番槍なり!我とともに功をあげ討死せんとするものは誓紙を出せ!」
剛直無双で家中に名高い藤堂良重・良勝の両大将はざわめく諸将の中でこう宣言した。

これに反対したのは家中武勇一と賞されて、高虎からの覚えもめでたい渡辺勘兵衛である。
「あなたたちのような重臣が匹夫の勇に逸って犬死したら、味方の負けは疑いなし。馬鹿馬鹿しい。そのような愚かな誓紙は出せませぬ!」
これに良重は皮肉に笑って答える。
「我らのごときは討死してもどうということともない。何しろ家中で役に立つ者は勘兵衛ただ一人と評判ではないか」
良勝もまた言う。
「さあ、討死の契約だ。盃を受け取るがよい。それとも殿の大事な勘兵衛殿ともなると討死の覚悟が無いとおっしゃるのか?」
強烈な皮肉である。勘兵衛は鼻白み、盃を受け取ると飲み干した。

良重も良勝も藤堂高虎の一門衆で家中に並び無き重臣である。その二人がどうしてこんなことをしたかと言うと、渡辺勘兵衛への嫉妬である。
渡辺勘兵衛了は無双の兵法家の猛将だったが、性格が傲慢で同僚からの不興を買っていた。高虎は新参者の勘兵衛ばかりを非常に寵愛して、他の臣が功をあげても勘兵衛の功を優先するほど可愛がっていた。

これが譜代の家臣からしたら面白くない。
高虎も不満は感じていたようで、良重には戦前に秘蔵の兜を与えたりした。この兜はかつて豊臣秀吉が高虎に下賜した逸品である。現在でも上野城に伝わる、黒漆塗唐冠形兜がそれである。
しかし不満は収まらず、良勝などは加増を断わり高虎からの叱責を受けていた。
その結果、藤堂家譜代の代表格ともいうべき二人の重臣がこのような無茶を言ったのだった。
(続く)
911人間七七四年:2010/05/21(金) 23:04:01 ID:XaYov6lZ
(続き)
翌朝の戦いで、藤堂家は右翼大将が良重・良勝、左翼大将が渡辺勘兵衛の布陣で出陣した。
河内若江まで出たところで藤堂隊は敵と衝突する。左翼は因縁深い長宗我部隊と激突するも、陣中で勘兵衛は作戦に不満を漏らし動かず、部隊全体の統率を乱す。
右翼は豊臣方の大将、木村重成の部隊と衝突する。大将の良勝は先陣を切るも突撃して討死、一時高虎の本隊までもが危ない状態になる。
本陣に刻々と迫る木村隊を食い止めるべく、良重も馬首をかり突撃する。
しかし、その瞬間一閃の銃声が響く。藤堂良重討死。大きく黒い翼を左右に広げた特徴的な兜が地面に落ちる。
かつて秀吉が高虎の功をたたえて与え、高虎が良重に与えた兜首は、こうして皮肉にも大阪の豊臣方にとられたのだった。

この後、兵数で勝る高虎隊は持ち直し、木村隊にかろうじて勝利をおさめるが、良重・良勝を始めとした重臣六人は討死。渡辺勘兵衛は数日後の八尾の戦いでまたも命令無視を行いついに高虎から追放されてしまう。
多くの大将がこの戦いと八尾の戦いで討ち死にし、良重などは本陣を守ったことから、高虎から「名誉の討死」などと誉められたが、首のない討死の戦の功は認めない方針から褒美は無く、戦後藤堂家からは出奔者が相次いだという。

男の嫉妬から総崩れになった藤堂家の悪い話。
912人間七七四年:2010/05/21(金) 23:06:11 ID:XaYov6lZ
>>910-911
ちなみに物語中に出てきた兜はこんなんです。
http://burari2161.fc2web.com/PICT20421.jpg

端から端まで2mもあるそうで。こんなん着けて戦場で戦えるのかな?と思うとちと疑問です。
913人間七七四年:2010/05/21(金) 23:12:09 ID:dhvoWtv5
>>912
プロペラ・・・?
バニー・・・?
914人間七七四年:2010/05/21(金) 23:14:27 ID:XaYov6lZ
>>910、3行目
訂正:大阪冬の陣→大阪夏の陣
915人間七七四年:2010/05/21(金) 23:15:21 ID:uInroL42
>>912
これは撃つな、俺なら絶対狙い撃つ
でも倒す事より細いとこに中ててポッキリ行く事を優先してしまいそう
…まさかそれを狙った工夫か!?
916人間七七四年:2010/05/21(金) 23:19:37 ID:4vYQ+MC4
>>908
単純な石高だと
大崎家約24万石、葛西家約30万石

とするものと

「武家家伝」で「大崎・葛西両領で約30万石を木村親子に・・・」

と2節がある。

当時は太閤検地も奥羽は比較的ずさんで
最上領は「村山」「最上」が逆転してたり
伊達領も「地元代官の申請を留意」とあるから
かなりの誤差が考えられる。

北上川治水で旧「大崎・葛西」領が「伊達62万石(実高110万石)」
ならば面積だけなら関ヶ原以前の最上24万石とそれぞれ大差は無いはずなので

大崎も葛西も「公称」20万石前後が正しいかと思われる。

大崎は家名存続なら8〜10万石
葛西は残念ながら大崎ほど動けなかったのでそのまま改易

Wikiを見るとなお、大崎氏滅亡の因となった「大崎騒動」は、義隆の寵童(男色相手)の美少年どうしの対立をめぐる家臣団の分裂が大きな一因といわれている。
ーとあり、奥州仕置きに一番振り回されたのは伊達・大崎に囲まれた葛西家かも知れない。

誰か和賀・稗貫もサポートを頼む。
和賀は政宗繋がりで「良い」話も「悪い」話もあったはずだ。
917人間七七四年:2010/05/21(金) 23:25:10 ID:4vYQ+MC4
>>916
和賀は改易時の当主「忠親」の名前でお願いします。

>>912
大将は刀振れなそう。間違いなく自分で兜破壊するなw
918人間七七四年:2010/05/21(金) 23:28:49 ID:pyCHEwh5
>>912
なんといううさみみ仮面
919人間七七四年:2010/05/21(金) 23:37:40 ID:arYLshaa
>>912
のちのタケコプターである
920人間七七四年:2010/05/21(金) 23:37:58 ID:9Xg7pG3z
921人間七七四年:2010/05/21(金) 23:38:19 ID:8hP+BTtr
>>912
この手の変わり兜は実際に被ったのではなく、自分の陣営や屋敷にこれを飾り
主君から頂いたと言う名誉を表すものだったらしい。

ちなみにあの直江兼続の「愛」の兜も、景勝から下賜された、その手の飾り兜だったらしい。
922人間七七四年:2010/05/21(金) 23:41:27 ID:4vYQ+MC4
>>913
プロペラと聞いて木村昌福がうpを始めた模様です。
923人間七七四年:2010/05/21(金) 23:42:30 ID:/EwjjIdf
>>922
あのカイゼル髭で飛ぶ気かショーフク
924人間七七四年:2010/05/21(金) 23:43:46 ID:XaYov6lZ
>>921
それがこのマジンガーZを被ったという記録が(ry
925人間七七四年:2010/05/22(土) 00:02:19 ID:FVl1jJuO
>>920
どっちかというと鹿の耳なような。
926人間七七四年:2010/05/22(土) 00:15:45 ID:x9EAvsXC
ウサミミと言うか兎そのものというかw
http://www.chiba-muse.or.jp/SONAN/kikaku/yoroi/IMAGE/0000517_1.jpg
927人間七七四年:2010/05/22(土) 00:17:51 ID:y25Ygpcl
928人間七七四年:2010/05/22(土) 00:24:03 ID:0IIZv+vZ
929人間七七四年:2010/05/22(土) 00:27:28 ID:k5ZyIerF
ウサギはすばしっこいし、仏教説話や月との関連で宗教的な意味合いもあるし
伝統的な和柄にもよく登場するから昔はかなり身近なモチーフだったんだろう
930人間七七四年:2010/05/22(土) 00:27:47 ID:nw+Of1Zi
しかしホント色んな形のがあるよな
931人間七七四年:2010/05/22(土) 00:57:28 ID:yiqeGZyJ
>>916
両方とも5千くらいの動員か。
大崎が残っていたら今の県境もだいぶ変わっただろうな。
東北の首都の仙台もなかった。
932人間七七四年:2010/05/22(土) 01:16:21 ID:MAf2C9uS
>>931
慶長出羽合戦の最上の動員数5000をみるに
「大崎」「葛西」それぞれ20万石はいってそうだ。
933人間七七四年:2010/05/22(土) 02:09:27 ID:Yx05Cfds
>>929
変わった兜だと、こんなものも。これもウサギ?
http://museum.city.fukuoka.jp/image/clear.gif
934人間七七四年:2010/05/22(土) 02:43:22 ID:7bjIclZO
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4110.htmlにもあるように
天文二十二年、阿波守護細川持隆が三好義賢に殺されるという事件が発生した。
細川京兆家や足利将軍家への路線対立が原因で、
この弑逆に反発した義賢の舅、久米義広をはじめとする阿波国人の一部の決起を招く。
いわゆる鑓場の義戦である。

この事件は結果的にそれまでの阿波国人衆の団結を破壊し、
後の三好長治の暴政と相俟って阿波三好家衰退の遠因の大きな一つとなってしまうことになる。

……ところで、この時に三好義賢の行為に不快感を覚え、
公然とその支配に反旗を翻したのは久米の一味ばかりではなかった。

阿波平島に御所を置く平島公方、足利義維その人である。
彼はかねてより阿波細川家と三好家、そしてその主家たる細川晴元に推戴され、
かつては足利義晴を近江に逐って堺に公方府を開府した天下人であったのだが、
晴元の変心により堺公方府が打倒され、三好元長が殺害されると細川持隆に庇護される身となった。
つまり、彼にとっても細川持隆は晴元の裏切りからその身を守ってくれた恩人だったのである。


          ,;r'"´;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`ヽ、
         ,r'";;;;:::::;彡-=―-=:、;;;;;;ヽ、
        /;;ィ''"´  _,,,,....ニ、 ,.,_ `ヾ;;;;〉
         `i!:: ,rニ彡三=、' ゙''ニ≧=、!´  山口へ行こうぜ・・・・・・
        r'ニヽ,   ( ・ソ,; (、・')  i'
         ll' '゙ ,;:'''"´~~,f_,,j  ヾ~`''ヾ.  久しぶりに・・・・・・
        ヽ) , :    ''" `ー''^ヘ   i!
        ll`7´    _,r''二ニヽ.     l  キレちまったよ・・・・・・
        !:::     ^''"''ー-=゙ゝ    リ
        l;:::      ヾ゙゙`^''フ    /(というかむしろ俺が行く)
        人、      `゙’゙::.   イ
935人間七七四年:2010/05/22(土) 02:44:16 ID:7bjIclZO
恩人たる持隆はもはや亡く、阿波一国は裏切り者の義賢の支配する土地に成り果てた。
これに激怒した義維は、嫡子義栄や家臣を引きつれ周防の大内義長を頼って阿波を出た。
むろん、義賢は必死に止めたが、義維はその諫止を聞く事はなかった。
この頃には長慶率いる三好勢はすでに摂津の多くを支配下に収め、山城を窺う勢いである。
三好のご機嫌を伺っておけば、あわよくば義晴を打倒した後に将軍の座を狙えるかもしれない。
そんな可能性すら蹴って、彼は三好との絶縁を選んだのだ。
ただ、恩人である持隆に報いるというそれだけのために。




……とまあ格好よく出て行ったものの、結局二年も経たずに帰ってきたんですけどね。
どうも大内家というか陶晴賢一党としっくりこずに帰ってきたらしい。
そりゃ、下克上を良しとせずに国を出たのに、逃げた先も下克上で成立した政権ではねぇ。

その後の平島公方の末路はご存知の通り、第十四代将軍の誘惑には勝てなかったのだろう。
初志貫徹できない公方様の格好悪いお話。
936人間七七四年:2010/05/22(土) 09:29:38 ID:PiSiAZsC
>>934-935
義隆時代ならともかく、
晴賢が睨みを利かせる義長政権ではさぞ居づらかっただろうなw
下手すると殺されかねないし
937人間七七四年:2010/05/22(土) 10:47:58 ID:2O/OEtI1
>>921
最近あの愛の兜は実は兼続と年代が違うという説が出てきているらしいと小耳に挟んだ

噂を小耳に挟んだレベルなので詳細はノーコメント
938人間七七四年:2010/05/22(土) 14:04:53 ID:OJgWvEQR

堺の商人、日比屋了慶。彼はキリシタンとして洗礼を受け、ディオゴという洗礼名
を持っていた。
彼の子供達も皆、洗礼を受けていたのだが、ただ彼の妻一人が、実家の親族と共に
一向宗の信仰を護り、キリシタンにはならずに居た。

ディオゴの娘、モニカが二人目の子供を出産した時のコト。
産後の体調が思わしくなく、床に付いたままの状態が長く続いた。

ディオゴもその妻も大層心配し、特に妻(モニカにとっては母)は家が近いコトも
あって毎日のように娘の見舞いに行っていた。

母「病気の時だからこそ、ちゃんと食事は取らないとダメよ。そんなんじゃいつま
  で経っても良くならないわ」

食欲がない娘に、無理矢理にでも栄養を取らせようとする母。

娘「お母様、私はもういいの。死ぬのは覚悟しているわ……でも、たった一つ、お
  母様のコトだけが心配なの」
母「何を言ってるの!ちゃんと食べればちゃんと良くなります!それに、皆に心配
  をかけてるのはアナタじゃないの!」

気弱なコトを言うモニカ。そしてそれを叱りとばし、生まれたばかりの子供の為に
も元気になりなさい、と諭す母。

娘「だって、私がこのまま食事を取らずに死んだら、皆、何て言うかしら……」
母「……どういうコト?」
娘「きっと皆、お母様が私を殺したって言うわ」
母「な、なんてコトを言い出すのこの娘は!私がアナタを殺したりするハズないじ
  ゃないの!」
娘「私、お母様が改宗したら、嬉しくって嬉しくって、きっと元気が出ると思うわ。
  でも、お母様は何度言っても、改宗して下さらないのだもの」
母「そ、ソレとコレとは……」
娘「キリシタンは嘘をついちゃいけないの。だから堺中のキリシタンがこう言うわ。
  『日比屋の奥さんは娘を見殺しにした』『娘の命よりも悪魔の教えを取った』
  って」

母「……………………」

娘「あぁっ!お母様が改宗してくだされば、私も食欲が湧くに違いないのにっ!!」
母「わかった、わかりましたっ、改宗します!洗礼受けます!キリシタンになりま
  す!コレでいいのっ!?」
娘「まぁ!流石お母様!モニカ嬉しいっ!!」

と、まぁ病床での脅迫で母親を見事コロばせた日比屋モニカ。
母親はイネスという洗礼名を受けたが、それから間もなく、モニカは天に召された
そうである。

冗談抜きで死ぬか生きるかの瀬戸際で、自らを人質に取って母親を脅迫した娘さん。
しかも人質は結局助かりませんでした。というお話。


……こーゆー話を「いい話」として扱うんじゃないと何度言えば判るんだ、フロイ
ス!!
939人間七七四年:2010/05/22(土) 14:08:39 ID:n84DLREN
なんか創価の体験談に出てきそうな内容w
940人間七七四年:2010/05/22(土) 15:43:44 ID:1roHVILt
>>939
創価に限らず怪しい健康食品とかでありそうだしなw
941人間七七四年:2010/05/22(土) 16:25:59 ID:StPzPvFZ
>>937
ttp://livedoor.blogimg.jp/tctomita/imgs/1/9/19b79281.jpg
↑上左と右が謙信の飯綱権現兜甲冑、上中が景勝の大日輪兜甲冑。

愛の兜の前立て(愛の字と三日月型の台座の部分)は、神仏が雲に乗って表れるという、古来からのお約束を形にしたもので、
下の三日月型の部分は錆びて黒ずんでますが、実は銀の板で、白雲の上に金色に輝く神様(愛宕権現か愛染明王)がお出ましに
成ったという表現です。

謙信も形は違いますけれども、有名な飯綱権現の兜も、雲の上に飯綱権現が乗って表れる形です。愛の兜と違って、雲も神像と同じ
パーツになってますが。

雲と神像を別パーツで表す前立ては、実の所、上杉憲政の甲冑と同形式で、関東管領家の様式といえます。
景勝の甲冑は桐紋がついていますので、豊臣政権下で家格を誇るために、関東管領家の様式の前立てを作ったのでしょう。
愛の兜も、その時に、自分の代理としての信頼を示すために与えたのではないかと考えられています。

942人間七七四年:2010/05/22(土) 17:59:55 ID:2O/OEtI1
>>941
うんだから詳細はノーコメント
943人間七七四年:2010/05/22(土) 18:24:37 ID:0qt3sTFt
播州の侍、明石与四郎則実は小寺氏と同時期に羽柴秀吉の傘下に入り、秀吉の中国攻めに加わった。
ある戦で則実は、真っ先に味方を置いて逃げ出したことがあった。
配下の怠慢に厳しい秀吉の罰を則実は恐れたが、秀吉からの懲罰の使者は来ず、代わりに一通の書状が届いた。

尚以って退き口、主寄親より先へ罷り退き候事、悪しきと存ぜられ候はば、此の返歌つかまつらるべく候。
ただし、善き事と存ずれば、返歌つかまつるまじく候。
(主や寄親よりも早く逃げた先日の件、あなたが悪いと思っているなら、下記の狂歌に返歌をください。
ただし、自分のした事が良い事とでも思っているなら、返歌は要りません。)


臆病者 退き口いそぐ 雪の上 消えも果てなん 人のありさま
(雪の中だというのに急いで逃げたあの者は、雪が解けて消えるように人としての在り方も失ってしまったのだろう。)

つはものを 千代にふるまで 残しおき 後の実と 為すは此の御世
(神代にも聞いた事がないようなやり方で味方を残して逃げた者が、歴史に名を残すのが今のご時勢なんですね。)


此の歌の返歌、早々よみ候て相越さるべく候。主と成らず候はば、人をたのみ候ても、きっと申し越さるべく候。
油断においては、その曲あるまじく候なり。
(返歌は、大至急詠んでくださいね。自分で持って来る度胸がなければ、人に頼んででも送ってください。
油断なんかして返歌をくれないなら……そんな事、ありませんよね?)

十二月二十五日  明石与四郎殿  筑前守秀吉


「ひ…ひぃぃぃぃぃ〜〜〜〜〜〜〜〜!!」残念ながら、明石則実が返歌を詠んだかどうか定かではない。
その後、則実は馬車馬のように働き、但馬豊岡二万二千石を授かったが、秀次に連座して消された。
944人間七七四年:2010/05/22(土) 21:01:38 ID:7XmHVd8i
なんと、仙石秀久以前に似たようなことやった輩がいたのか。
でも仙石や子田、尾籐とくらべて随分恩情処置だな、クロカン辺りが執り成しでもしたのか?
945人間七七四年:2010/05/22(土) 21:25:50 ID:SlGj6jiM
>>944
中国攻めだしこのときはまだ第六天魔王リミッターがかかってたからラスボスもソコまではっちゃけてなかったんじゃね?
946人間七七四年:2010/05/22(土) 21:27:59 ID:O3tuK16F
明石与四郎則実にとっては味方を置いて逃げ出すほどの戦だったが
秀吉軍の損害は大した事なく
秀吉も激怒して殺そうとするとかじゃなく
狂歌でからかう程度の気持ちでいられたとかじゃね
947人間七七四年:2010/05/22(土) 21:39:50 ID:AGXr0Ndx
もしくは、ありゃ逃げ出してもしょうがない、という戦況だったのか
948人間七七四年:2010/05/22(土) 23:27:07 ID:dLYFoT9z
特に期待せずに送り出した、とか?
949人間七七四年:2010/05/22(土) 23:57:31 ID:k5ZyIerF
逃走距離も問題かも
950人間七七四年:2010/05/23(日) 00:03:02 ID:IJYa8fC7
自分の家臣か与力かの違いじゃないの。
951黒幕 1/2:2010/05/23(日) 00:32:49 ID:FsDjjFmB
「・・・・これは!!」
元亀元年(1570)、京において馬上の織田信長を見た若者は、その雄姿と覇気に驚愕した。
「わが兄も天下に望みを持つが、この男と正面から争っては我らも勝てるか危うい。何とかして始末せねばならん!」

天正3年(1575)春、再度上洛した若者は、浅井・朝倉・六角・斉藤等の旧臣を集め、信長を討つ計画を練った。
「間もなく信長は、甲斐武田家と戦う。長期戦が見込まれるゆえ、そのスキに背後から襲うのだ。」
しかし、勝負は長篠において短期間で決し、武田家は大敗。若者は歯ぎしりして、暗殺団を解散した。

「くそっ!外からではラチが開かん。内に潜り込み信長に近い者を、わが刃に仕立てるか。」
若者は日向浪人を名乗り、信長から惟任の姓を授かった明智日向守光秀に接近し、賓客の待遇を受けることが出来た。

そんな時、若者のもとに日向の名族・伊東氏が、本拠・佐土原を捨てて大友氏を頼ったとの報が入った。

「! 「惟任(これとう)」はイトウとも読める。つまりこれは信長の呪詛で、「惟任日向守」すなわち「日向守護のイトウ」が
別に存在するようになったから、伊東氏は衰退したんだよ!!」
「「な、なんだって―――!!」」 「信長め、恐ろしい奴・・一刻も早く消さなければ・・・・」

若者は光秀の信頼を得ると、信長への不満を吹き込んだ。
「飼い殺しされるより、いっそ信長を・・足利義昭公を大御所として、あなたが将軍に・・土岐源氏出身のあなたなら・・」
「・・・・よし、やるか!!」


天正10年(1582)6月2日、光秀謀反。織田信長、本能寺において死す。
952黒幕 2/2:2010/05/23(日) 00:33:51 ID:FsDjjFmB
「あ、あぁそうだ、近江に向かおう!安土に行って、信長の財貨を押さえねば・・・・」
他人にそそのかされて信長を討った光秀は、落ち着かない。

「何を言われる光秀どの!羽柴が報復に動いているとの噂もある。離れた所の財貨など、心配している場合では
ありませんぞ!羽柴に勝てば、あなたは天下人。財などいくらでも集まりましょう。」
「そ、そうだな・・・・」「ええ、そうです。」
(ダメだこやつ。主を討った動揺か、目前の天下に浮かれておるのか、使い物にならぬ。早く何とかせねば・・・・)

光秀の酔った如き状態は治らず、山崎で秀吉軍と対峙するも、若者の献策を無視して要衝・天王山を奪われた。
「・・終わったな。」「いかが致しましょう?」
あせる家臣を前に、若者は動じない。「なに、策はある。ついて参れ、秀吉方の陣へ急ぐぞ!」

秀吉方の陣にやって来た若者は、名乗りを上げた。
「武者修行中の西国武士にござる。主の仇を討たんとする義軍に助太刀いたす!!」

まんまと秀吉軍に紛れ込んだ若者一行は、山崎の戦いが終わった後、近畿を離れた。
「残念だが、これで秀吉めが台頭するだろう。我らも早々に薩摩へ帰り、九州統一を急がねばなるまい。
差し当たって、勢力を伸ばしておる龍造寺を叩く!」「「はっ、家久さま!!」」

世紀の陰謀の黒幕、『軍法戦術に妙を得た』男・島津家久は一切の痕跡を残さず、本国薩摩へ立ち去った。


>>907のおっしゃる事ももっともなので、戦国板らしい歴史ミステリー(?)を。
元ネタは、まとめにリンクのある「かいこ」様。そのさらに元々のソースは、「鹿児島外史」。
ttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766567/20
まあ、鹿児島外史は「真田信繁、後藤又兵衛、明石全登が千人ばかり連れて落ち延びて来た」
とか書いてあるような書物ですが(^ ^;)
953人間七七四年:2010/05/23(日) 00:36:18 ID:H1miPd7n
つっこんだら負け
954人間七七四年:2010/05/23(日) 01:51:26 ID:L4FoFb+r
ジンギスカンは義経の部下の弁慶だった!まで読んだ
955人間七七四年:2010/05/23(日) 02:22:37 ID:Pa09ypd9
那須与一は後のジェベだったまで読んだ
956人間七七四年:2010/05/23(日) 10:37:13 ID:P/oRICjb
>>916
今更だけど、地味加藤のジュニアが政宗に言った「石高が倍なら、すぐにも攻め込む」ってのは、本当に倍の石高だったのを
見抜けなかったという事になっちゃうのかな
957人間七七四年:2010/05/23(日) 11:51:37 ID:APj65Ie2
それは、城内で政宗さんにあって舐められた口を利かれたって話だよね?
戦争ってよりも刃傷に近い話だと思うんだが・・・

120万石の殿様ならいざ知らす、
60万石ちょいの殿様に切りつけて会津ぽしゃる位なら聞き流してやるよ!!!って話じゃないの?
958人間七七四年:2010/05/23(日) 19:21:38 ID:gJPj5ugN
上杉景勝が秀吉に臣従し、上洛した時の事だそうだ

秀吉は景勝に向かって言った

「景勝、嫁を持て!わしがその媒酌人になってやろう!」

普段物に動じることに少ない景勝も、これには驚いた

「お、お待ちください!?それがし先年、武田勝頼の妹を迎えて、我が妻としております。
もし妻を上方に置くべし、と言うことであるのなら、すぐに本国より呼び出しましょう。」

しかし秀吉、これに

「いやいやそうではない。おおよそ国を保ち天下を知る程の者は、妻は何人いても構わぬものじゃ!
そう固いことを言わずに、曲げてわしの言葉に従われよ!」

『この人にはついていけない…』
景勝、無論いつもの通りの無表情で、そのように思ったのだとか。
そして秀吉の提案に従うことは、決して無かった。

秀吉、景勝に現地妻を勧める、のお話。
959人間七七四年:2010/05/23(日) 20:17:39 ID:kY7AgelE
現地妻ならぬ現地美童という発想はなかったわけか…
960人間七七四年:2010/05/23(日) 20:23:02 ID:XnTO4q8I
>>959
ラスボスはアンチBLだからなぁ
961人間七七四年:2010/05/23(日) 21:09:59 ID:wy6PfJNn
>>849(まとめのhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4164.html)を読んで、
以前宮崎に行った際に読んだ逸話がこの関係の話だったと気がついた。

「槍飛」
高千穂を流れる五ヶ瀬川に、「槍飛」と呼ばれる幅2〜3mほどの場所がある。
天正十九年の三田井城落城の際、城を脱出した家臣たちがここまで逃げてきたが、
この場所には橋がない。
何人かは棒高跳びの要領で槍の柄を手前の岸について飛び渡ることができたが、
槍を向こう岸についてしまった者は川の中に転落したと伝えられている。
962sage:2010/05/23(日) 22:03:44 ID:oiv3Ue/c
>>961さん>>849を投稿した者です

その話は知らなかったので秋月好きの自分には凄い嬉しいです
ありがとうございました
963sage:2010/05/23(日) 22:36:49 ID:oiv3Ue/c
埋めに小ネタ「旧記雑録」より

http://iiwarui.blog90.fc2.com/?q=%C6%EE%C8%DA%B8%A4%A1%A1%BE%E5%B0%E6
このような経緯で南蛮犬を預かった上井だが
九州征伐が終った天正15年(1587)に豊後にいた羽柴秀長のもとに情報が届いた


秀長「島津家の上井が唐犬を秘蔵しているとな。献上させろ」
南蛮犬の話が広まるうちに唐犬になったのか、本当に飼っていたかは判らない
問題は、そう秀長の耳に入ってしまったことだ

6月15日に秀長から「速やかに献上すべし」と命令が下る
秀長が間もなく帰還するから島津豊久経由で間に合うように届けろと言われ
更に「しろき唐犬」と指定された
色が指定されたので無理だったのか献上できなかったので催促が来る

7月20日、催促は島津義弘の元へ来た
「上井が「白唐犬」・「白野牛」を所有しているが献上に対する返事が無い。」
「秀長が所望しているので義弘自身が郡山まで持参すると尚、御覚え宜しい」

??何故か白野牛まで秘蔵している話になっている?!
白と云う所を見ると秀長は瑞兆のパフォーマンスに使いたかったのだろう
その後、この件に関する記録が無いのを見ると、やはり献上は無理だったらしい
この頃の上井は日記を書いておらず心中は推測するより仕方無いが
上井の新たな領地が決まっていないという微妙な時で困ったのは確かだろう
結局、表舞台から去り隠棲する上井だが唐犬献上に関する気まずさも一因かな?と思ったのと
秀長さんも無茶な要求してたんだなぁってことで悪い方に投下

964人間七七四年:2010/05/23(日) 22:51:05 ID:gJPj5ugN
秀長ファンには怒られるかもしれないが、秀長はこういうの、自分の金儲けのためにやる
印象があるなー。それも巡って豊臣家のためになる、と言われると、そうだとも思うが。

秀長にはその手の一種の意地汚さを、なんか感じるんだよねー。能力云々とは別にね。
965人間七七四年:2010/05/23(日) 23:05:57 ID:rXv7UHwK
まぁ豊臣家のためにってのは間違いないけど他家から見ればまた違うってやつだろうな
966人間七七四年:2010/05/23(日) 23:23:31 ID:dk6gQHXD
秀長の犬好きっぷりになごんだw チワワみたいなのに見つめられたらどんな顔するのかねぇ
967人間七七四年:2010/05/23(日) 23:50:49 ID:06HhbAGS
しかし、不思議なことに秀長がそういう面で嫌われたって逸話は聞いたことない
以前上がってた、多聞院日記くらいかな?
968人間七七四年:2010/05/24(月) 00:02:59 ID:zTNRVziB
好きな色は白 あと野牛って 牛か?w
飼ってる牛でも野牛っていうのだろうか
969人間七七四年:2010/05/24(月) 00:37:08 ID:MnSkVuyk
天正十三(一五八五)年二月、草刈将監という男の屋敷に、
戸部三郎左衛門と田村助左衛門という男がやってきた。草苅将監は前年、最上義光によって出羽を追われた天童家臣である。

「どうも! こんちわっす。おれたち義光の奴に仕えていたけど、奴マジけちくさくてやってらんねっす。
草苅様が義光討伐計画中って聞いて、馳せ参じたんですわ」
「それはいい! じゃあ早速計画でもしましょう」
こうして将監は喜び、二人ともに夜通し語り明かした。
と、将監が寝入った夜半…二人はごそごそと起き出し、おもむろに将監の切り離してそのまま逐電してしまった。
山形で将監の首を受けとった義光はニヤリとつぶやく。
「計算通り」
実は義光、天童を滅ぼす際に天童頼澄は討たぬと、寝返った延沢満延に約定していた。
だが、重臣の草苅はカテゴリ違いとばかりに、逃亡した将監を油断させて謀殺したわけである。
最上義光は鮭だけではなく謀略も好んで喰っていたんですよという悪い話で。
970人間七七四年:2010/05/24(月) 01:46:20 ID:jmSNAti+
>>955
スレチだけど俺の勝手なイメージの残りの四狗四駿
ジェベ:那須与一
ジェルメ:佐藤忠信
スブタイ:佐藤忠信
クビライ:武蔵坊弁慶or和田義盛
ムカリ:畠山義忠
ボルチュ:安達盛長or三浦義澄
ボラクル:比企能員
チラウン:梶原景時

てか数え武将は無駄にかっこよく感じるw
六角の両藤、伊達三傑、毛利四人衆、北条五色備、奥近習六人衆、土佐の七雄、那須七騎、
関東八屋形、黒田八虎、尼子家九牛党、尼子十旗、西園寺十五将、甲賀五十三家とか
971人間七七四年:2010/05/24(月) 07:04:44 ID:lw3kq4ui
竜造寺四天(ry
972人間七七四年:2010/05/24(月) 10:08:12 ID:QjOpScSe
    {ヽ  /_}
    (ヾ、     _   / r')
 へ. \.     /ゝllフヽ    .へ /
  X \    |{⌒=⌒}    /  X
    \ \ <ゝ'´||`ソ>_/  /
 \  <: :\T/: :>   /
  \ \:_:}{:_/  /
   |ヽ   ||   ハ
{ヽ.    |  '  ||  / ハ.  _    /}
(ヽ、    , ⌒ヽ.  L_〉 /二}{_/ ハ / .、 ヽ   .へ.)
  へ \  (二二)   / } l二/_ l_| ハK::::::>!_/ /
( 、     , ‐‐、\ `‐ゝ___ノ__.  |_ノ'     ヽ  ハ |::|ノ / _    / }
 \>、   {:V::/l  ト、\|| Lr_ニ | /  V |/}ト、 // }| r v┐  X. /
  \ ̄ ヘ.V ィ‐ 、l \||  /  レ   /ヽ   Vヽ}\} /.|-:ゝ_ノ/ /
    ̄ ト、lレ|、 ヽ}_r¬ {  / ̄`y'  ヽ.   V ヽ ||  |厂 |レ /
.    / ト、|レィ /<二/.ニl. /  /    ヽ   V | / ‐ ∧..ト||/|ヽ
    V  {三/  /  /     ヽ  V ― '  .` ‐ 、!__|
  / , ―‐/ /l ̄ ̄\/  / / l_ |/ ̄\    \ヽ.
 へ /  へ./ | |    / ̄ 7\    へ./|  |   |‐| ̄ \ /\\
//  / /.  |__L   |  / \\ / /.  |  |   (_ノ    \ \\
973人間七七四年:2010/05/24(月) 11:56:45 ID:TVWdpvFX
>>941-942
昔の兜は手作りの貴重品だったから(兜首って言葉が大将首と同義語だったりするくらいで)、兜鉢(半球状の頭にかぶる部分ですね)は
昔のものを再利用することがよくありました。
特にしころ(首廻り)部分は、作り直すことが多かったようです。それに前立ては無くしやすいんですよな。
974人間七七四年:2010/05/24(月) 13:15:49 ID:XRKvWmjK
前立てはパフォーマンスの一種だから
実戦の際は邪魔なので外していたと聞いたことがある
ちなみに政宗のアレは木の板でできていたらしい
975人間七七四年:2010/05/24(月) 14:55:40 ID:b3DwpBP7
>>974
ずんだ市博物館に行った人が皮製だと説明されたと言ってた。
だが自分はやはり引っかかったら折れるように木製だったと聞いた。
何種類かあったんだろうか?もしかして着脱可能?w
976人間七七四年:2010/05/24(月) 16:08:36 ID:bbm/tSOW
これが行事参列用
これが行軍用
これが戦闘用

とずらずらと?
977人間七七四年:2010/05/24(月) 16:14:05 ID:aUsqF3c6
>>975
あの甲冑は似たようなのがいくつかあったはず
978人間七七四年:2010/05/24(月) 16:48:05 ID:MjhkgX05
引っかかったら折れるように木製というなら
壊れるの前提でいくつか予備はあっただろうな
979人間七七四年:2010/05/24(月) 18:12:24 ID:m9Zg4O8f
なんかあえて取れやすく造ってあるって話だったか>三日月の前立て
どっかでそんな話を見たと思ってググったら
五月人形の通販サイトで見たんだったw
980人間七七四年:2010/05/24(月) 18:32:32 ID:T+bm6eFO
そろそろ新スレたててみる
981人間七七四年:2010/05/24(月) 18:34:42 ID:T+bm6eFO
だめだったorz
どなたか頼みます

↓スレタイ
戦国ちょっと悪い話20

↓テンプレ
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話19
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1270721428/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話20
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1274087812/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
982人間七七四年:2010/05/24(月) 18:46:10 ID:rba03eI/
>>978
木製は根元の部分だけだよ
大半は和紙
983人間七七四年:2010/05/24(月) 19:19:34 ID:gjIBwdnR
>>981
立てよう
984人間七七四年:2010/05/24(月) 19:20:12 ID:gjIBwdnR
はい

戦国ちょっと悪い話20
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1274696398/
985人間七七四年:2010/05/24(月) 19:39:34 ID:T+bm6eFO
>>984
ありがとー。
埋め替わりに

関ヶ原軍記大成によると、これの成立の頃の中国には、豊臣秀吉についてこんな話があったそうだ。

これによると秀吉は元々、呉か越のあたりに居た書生であったと言う。中国人であったと言う。
しかし科挙に受かることが出来ず将来に絶望し、中国を捨てて日本に渡った。そして名を
日本名に変え言葉を学び、遂に日本人となってその天下を取ったのだと言う。
とすると大明討ち入りは自分を挫折させた祖国への復讐、と言う筋書きか?

ところがこれ、実は倭寇の頭領であった王直の履歴そのままなのである。
同じく日本から大陸を攻めた人物として、いつしかそれぞれの話が重なってしまったのだろうか?

秀吉の出生についての異説は日本にも様々にあるが、中国においても妙な説を立てられていた、
と言うお話。
986人間七七四年:2010/05/24(月) 19:53:52 ID:I5YKAk6n
どっちも海賊的にみなされてたのかねえ
民話なんかだと、こういう混交はよく起こるって言われるけど、同じ要領なのかな
987人間七七四年:2010/05/24(月) 19:58:45 ID:ja0v/lEl
>>985
では明時代の笑話集「笑府」のラスボス話を
朝鮮出兵の最中、ある村にうぬぼれ屋がいた。そいつに腹がたった村人が
村人「そういえば、とうとう関白が捕縛されたそうだよ」
うぬぼれ屋「へえ、そいつはよかった。どんなやつだったんだ?」
村人「それがさ、関白というのは、身のたけ数丈、腰の太さが百まわりも
あるという妖怪でね、その首を斬ったら、重さが数千斤からあり、粉々に
うち砕かないことには持ち挙げられなかったそうだよ」
うぬぼれ屋「ひえー・・・そ、そんなにおそろしいやつだったとは((((;゚Д゚))))」

↓この話が大陸でも広まっていたわけではないだろうが、すっかり妖怪扱いされていた
ラスボスであった
驚愕!大阪城の寝室で女中は見た!豊太閤衝撃の秘密!
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-957.html
988人間七七四年:2010/05/24(月) 20:05:50 ID:LsP68OmG
笑話集「笑府」と言えば、張飛の恩返しwww
989人間七七四年:2010/05/24(月) 20:11:24 ID:ja0v/lEl
>>988
落語の「野ざらし」の元ネタだよね
ある男が原っぱで髑髏を拾って供養した
その夜男の家の戸を優しく叩くものがいる
「誰だ?」「ヒです」
「ヒ?とは誰だ?」「楊貴妃です。野ざらしになっていたのを供養していただいて
ありがとうございました。お礼に一晩をともにしましょう」
これを聞いた隣の男も同じことをすると、ゴンゴン!と叩くものがいる
「だ・・・誰だ?」「ヒだ!」
「ヒ?とは誰のことで?」「張飛だ!供養してくれたお礼に一晩ケツを貸すぜ!」

しかし、笑府読んで一番衝撃だったのは、
「父親に嫁を寝取られた男の笑い話」が1章分あったことだ
・・・1ジャンルが出来るほどntr話が多かったのか
990人間七七四年:2010/05/24(月) 20:16:33 ID:o+2X2Upz
なんか最近そのネタよく見るな…こないだもいい話の方で見たが。
991人間七七四年:2010/05/24(月) 20:52:02 ID:o9v7YD7f
>>976
少なくとも博物館に飾ってあるやつと墓に一緒に入ってる奴
二つは確実にあったはず
墓に入ってた奴は三日月が一メートルぐらいあったとかなんとかで
これが皮製だったはず
こいつは発掘調査が終わった後一緒に墓に戻されたはず

はずはずばっかですまん
992人間七七四年:2010/05/24(月) 21:39:34 ID:Wyziqqlh
993人間七七四年:2010/05/24(月) 23:13:00 ID:jnyX7g3y
有名な話だと思うけどまとめには載ってなかったので、埋めついでに清正公さまの後味の悪い話を

晩年の清正公は酒量が頓に増え、その不養生さを憂う声が周囲から上がっていた
酔って家宝の槍をナニしたり泥酔して家臣の腹をアレしたりといった所業は無いものの、豊家を守護するべき大切な体
心配した友人の加藤嘉明が諌めるまでになった
後に、側近の者のみに清正公は本心を語ったと言う
「私が生きている間に豊家と家康公との戦が始まれば、勿論秀頼様に馳走するつもりだ
 しかし、秀頼様に勝ち目は無いだろう
 そのような日を見るのは忍びない
 だからその日が来る前に、私は死んでしまいたいのだ…」
先が見通せたが故の苦悩
清正公が亡くなったのは慶長十六年
大阪夏の陣に先立つこと、四年であった

出典:烈公閑話
994人間七七四年:2010/05/25(火) 00:05:22 ID:++llff63
実際、生き延びてた家宝をナニしちゃった人は悩んだり泣いたりしてるもんなあ…
995人間七七四年:2010/05/25(火) 00:11:14 ID:by8LawWD
こう言っちゃなんだが、大坂の陣まで清正が生きてても、絶対豊臣家には味方しなかったと思う。
そういう意味ではいい時期に死んだな。
996人間七七四年:2010/05/25(火) 00:19:40 ID:PAJKJv1B
江戸城監禁だから、したくても出来ないだろ
997人間七七四年:2010/05/25(火) 00:26:00 ID:T+vbG4/S
自業自得と言えば自業自得なんだがなぁ
998人間七七四年:2010/05/25(火) 00:31:27 ID:5zuQJnnq
なんだかなぁ・・・
999人間七七四年:2010/05/25(火) 01:21:03 ID:9zYen6A6
まあ関ヶ原で官僚派を一掃したら、
どうなるか予測できなかった、
黒田や藤堂や細川は、自分たちとは違う思惑で動いていた。
ということを見越せなかった段階で、清正と正則の負けだよな。
1000人間七七四年:2010/05/25(火) 01:25:41 ID:5ElYJtNk
そもそも関が原の戦いで天下の形勢が決まるとも考えていなかった
君側の奸の三成を排斥したら当然秀頼の天下になると思ってたみたいだし
10011001
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
.    | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
   /`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
  l  {  .、          /      
  ',  ` ''  '       rTヲ
   '、 `'ー‐''"    / lzュ、__
---‐ヽ  -'     /  〃ィ ヾ'‐,--        
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