戦国ちょっといい話19

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1人間七七四年
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
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逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
2人間七七四年:2010/03/24(水) 10:53:41 ID:Iakia8Yt
こっちが本家でよろしいですかな?
3人間七七四年:2010/03/24(水) 11:39:33 ID:rSTJ7UhL
>>1乙
秀吉公に本スレのお墨付きを貰うために急行するのじゃ
雨だの嵐だの川の増水だの気にしていてはいかん!
4人間七七四年:2010/03/24(水) 12:24:56 ID:TBNcvJtz
>>3なら三斎様、>>1-1000まで全員御手討ち
5人間七七四年:2010/03/24(水) 13:54:20 ID:zooLblaE
>>4
ワンナウトー。
6人間七七四年:2010/03/24(水) 15:04:23 ID:rJu8Eq8V
スリーアウトで首がチェンジか
7人間七七四年:2010/03/24(水) 15:37:14 ID:YU9+S+sR
場合によってはトリプルプレーもあります
8人間七七四年:2010/03/24(水) 17:25:32 ID:yVAAnqnm
将軍秀忠が在京していた頃、江戸で辻斬りが頻発し、民は難儀していた。
そこで秀忠は酒井忠勝の提案に従い、板倉重昌を江戸に向かわせた。
江戸に到着した重昌は老中および旗本たちを集め、秀忠の上意を伝えた。

「おのおの方が残っておられるのは留守中の用心のためである。
ゆえにおのおの方が何故腰抜けになっているのか調査せよと私は命じられたのだ」

何を言っているのか皆目分からない、と老中たちが思っていると、
大久保彦左衛門が前に進み出てきた。
「将軍は何をお聞きになったのか。
なぜそのようなことを仰せになるのか、拙者にはさっぱり分からん」

「用心のために武勇ある方々を残したのに、辻斬りが出て民は迷惑している。
しかも、辻斬りを捕らえたとか討ったという知らせもない。
これはおのおの方が辻斬りを恐れて引き篭もっておるからではないかな?

上様は辻斬りごときにこの体たらくでは、万が一にも城を狙う者が現れたら
どうするつもりか、と御心痛であられた…」

重昌の言葉を聞いた彦左衛門は
「なんと!そのようなことにも気づかなかったとは恐れ入りまする。
早速、今夜から若い連中に狼藉者を討ち取るよう徹底させましょうぞ。
今日までの不覚悟については、なにとぞ上様におとりなし下され。
みなの衆も覚悟はよろしいな!」と珍しくかしこまった。

その場にいた者はみな彦左の言う通りだと言って帰っていった。
それからはみなが夜回りを始めたので辻斬りもぱったりと絶え、民は安心して
外出できるようになったという。
9人間七七四年:2010/03/24(水) 19:17:40 ID:UALP1HkY
>>8
いい話ってのはわかるんだけど、素直な三河者って気味が悪いなw
10人間七七四年:2010/03/24(水) 19:30:36 ID:rUKZoSGo
逆に考えるんだ
辻斬りが出てるので見回りしろと命じても三河者が素直に従うわけないから
あえてこう言ったんだと…
11人間七七四年:2010/03/24(水) 19:53:08 ID:Iakia8Yt
命令自体がひねってあるパターンもあるのか
12人間七七四年:2010/03/24(水) 21:14:50 ID:WTBHJbxq
実は腕試しのために彦左衛門が辻斬りしていた
13人間七七四年:2010/03/24(水) 21:30:38 ID:uUUxK7/A
彦左と重昌が一芝居打ったとしか思えん
14人間七七四年:2010/03/24(水) 21:38:00 ID:29KskcLX
一芝居をあの彦左が……!?
15人間七七四年:2010/03/25(木) 10:07:38 ID:wypxF/7k
見廻りすることになった若い衆が実は辻斬りだったってオチ?
16人間七七四年:2010/03/25(木) 10:55:23 ID:/aTMx6xw
>>15
そんなオチはいらんw
17人間七七四年:2010/03/25(木) 11:32:59 ID:I2qHe1hd
三河武士的には辻斬りを捕まえられなかったから切腹するとか言い出しそうな気が
18人間七七四年:2010/03/25(木) 11:45:27 ID:sN0HMPqi
秀忠さんがさっさと辻斬り捕まえろ的な直接的な上意なら切腹した者もでたかもね〜
198:2010/03/25(木) 12:04:34 ID:pKK7oMps
>>8
ちょっと補足するけど臆病者調査とか上様御心痛は重昌のでまかせ
彦左さんはまんまと乗せられちゃったようです
20人間七七四年:2010/03/25(木) 16:45:53 ID:sSOJq7mP
>>15
おれもそう思ったw
実は違ったとか意外すぎる。
21人間七七四年:2010/03/25(木) 18:12:24 ID:797P9Qax
家光も若い頃は辻斬りのために深夜に徘徊してたんだっけ?
22人間七七四年:2010/03/25(木) 18:16:17 ID:GUUyZXEy
辻斬りといえばいえば秀吉の時代大阪で辻斬事件が頻発したとき、「犯人は大谷吉継だ!」って
噂が実際に流れたらしいな。
23人間七七四年:2010/03/25(木) 18:50:59 ID:JAdl3r8U
>>21
柳生十兵衛が家光を諌める為に、女装して通行人に成りすまし、
切りかかってきた家光を無刀取りした上に、堀に叩き込んだとか。

まぁ創作だな
24人間七七四年:2010/03/25(木) 19:30:15 ID:9/WLFs8d
>>22
百人だか千人だかを斬ればハンセン病が治るってやつか。

時代は違うが黄門様も若い頃に辻斬りやってたらしいなw
25人間七七四年:2010/03/25(木) 19:49:01 ID:pK9JVQGX
某大河ドラマじゃ、水戸黄門のパパが家光と一緒に辻切りやったり、女湯のぞいたりしてたな
26人間七七四年:2010/03/25(木) 19:50:55 ID:797P9Qax
>>23
それは創作くさいが、側近の日記か何かに「上様がお忍びで夜間外出」とかあったような・・・
まぁ記憶は定かでないが・・・
27人間七七四年:2010/03/25(木) 19:53:05 ID:jNJ8r0Bz
大谷吉継さえそういう陰口叩かれるくらいだから、やっぱ偏見は強かったんだな
28人間七七四年:2010/03/25(木) 20:00:28 ID:JAdl3r8U
>>26
目黒のさんまのモデルとも言われるし、ふらふら少人数で外出はしてたらしいから
まぁ完全に無いとは言い切れないわな
29人間七七四年:2010/03/25(木) 21:12:46 ID:hhX1+ATP
小姓つれて遠乗りとかしてたらしいな
30人間七七四年:2010/03/25(木) 23:42:56 ID:S0Pka7tr
小姓に乗っていたのか
31人間七七四年:2010/03/25(木) 23:59:04 ID:GUUyZXEy
家光は江戸の庶民にすごく人気があったらしい。はじめての江戸っ子将軍でもあったわけだしね。
32人間七七四年:2010/03/26(金) 00:05:23 ID:SuK3zr9o
>>30
ボケるのはいいが、家光は乗られる方だろ
33人間七七四年:2010/03/26(金) 10:40:04 ID:+jHuDg+b
柳生さんちの次男には乗っていたという噂
34人間七七四年:2010/03/26(金) 13:14:47 ID:WG15xbrU
そんな治安が悪かった整備中の江戸城下でのお話

ある虚無僧が市中で托鉢をしているとチンピラ3人ほどにからまれた。
虚無僧は相手は刀を持っているし、第一に騒ぎを起こしてはまずいと考え身を翻しその場から逃げるがいつの世も下層のDQNの習性は変わらないらしく
チンピラたちは面白がって虚無僧を追いかけはじめた。
逃げる虚無僧追うチンピラ
しつこく追ってくるので虚無僧はなおも逃げる
チンピラどもは虚無僧はなおも逃げるのでさらに追う
逃げ……るのも馬鹿らしくなったのでその虚無僧はチンピラどもに向かっていくと刀を奪い、あっという間にそのチンピラどもを斬り伏せてしまった。

そこで騒ぎを聞きつけた捕吏が駆けつけ、その虚無僧を召し捕らえた。
虚無僧は大人しく縄につき取調べをうける事になるのがだが捕吏は名前を聞いて驚いた。
虚無僧「立花宗茂が臣、十時連貞と申す。それがしは騒ぎを起こしてはまずいと一度は逃げ穏便に済まそうと思ったのだが
     いかんせん相手が分を弁えず追ってきてその身を守るため致し方なく応戦した次第である。」
と名乗り、騒ぎの顛末を臆することなく説明した。

そう、この虚無僧は托鉢をして浪人中の主君・立花宗茂の生活費の足しにと家臣の十時連貞が変装していたのである。
相手は浪人中とはいえ以前は10万石越えを大名の家老格。捕吏は対応に困り上役に相談。
その上役も上に話をもっていきとうとう幕臣土井利勝の耳に入るまでになってしまった。
その結果、土井利勝の裁量で十時は無罪放免。立花宗茂は土井利勝の知己を得て御書院番頭として徳川家に仕えることになるのである。

後に旧領にまで返り咲く立花宗茂。そんな宗茂が徳川家に仕えるきっかけになった忠臣のお話でした。
35人間七七四年:2010/03/26(金) 13:16:37 ID:m2vNqE+P
人を外見で判断するのはよくないね……
36人間七七四年:2010/03/26(金) 13:26:28 ID:HbdxmTAb
相手を見る目もってたら下層DQNになってないって
37人間七七四年:2010/03/26(金) 13:32:27 ID:FO7gOmA3
虚無僧かと思ったら実はその正体は…
ってけっこう昔からある流れなんだな
38人間七七四年:2010/03/26(金) 13:41:21 ID:3pn5zINd
上泉信綱「ところで私は通りすがりのか弱い僧ですがこのおにぎりを食べませんか?」
39人間七七四年:2010/03/26(金) 13:52:07 ID:TEOUVpLd
さらっと流されてるけど素手から難なく三人切り捨てるってやべぇな
40人間七七四年:2010/03/26(金) 14:01:56 ID:WOTKBrOF
>>39
最初は尺八で応戦してたみたいよ

どっちにしてもやべぇな
41人間七七四年:2010/03/26(金) 14:20:14 ID:NO1CEvmp
立花家の勇者たちに掛かれば尺八すら死を呼ぶ武器に!
42人間七七四年:2010/03/26(金) 14:23:06 ID:6AW5Hw9P
後の音波兵器で・・・あれ?
43人間七七四年:2010/03/26(金) 15:01:14 ID:HOXmK8qc
尺八で応戦か…
ジャガージュン市が応戦してるのが猛烈に思い浮かんだ
44人間七七四年:2010/03/26(金) 15:28:07 ID:AcNm0Gp9
>>39
宗茂の家老ならそれぐらい軽いだろうと思わせてしまうあたりが正に信頼の立花ブランド。
45人間七七四年:2010/03/26(金) 15:44:44 ID:3pn5zINd
応仁の乱の前だが、坂本の馬借一揆が起こったとき、京の警備をしていた山名時煕(宗全の父親)
の兵十数人が馬借の一団300人ほどと遭遇し戦闘になったが、山名の兵はこれをたちまち
追い払ったそうな。

専門の武士とそれ以外とは、戦闘力がこのくらい違ったらしい。
46人間七七四年:2010/03/26(金) 16:30:11 ID:WG15xbrU
小早川「立花家の戦闘力は他家の三倍です」
47人間七七四年:2010/03/26(金) 16:51:59 ID:H+6kWPsT
明智光秀が自分の部下、それも雑兵まで、怪我などをしたときに手紙を書いていた。
48人間七七四年:2010/03/26(金) 20:03:54 ID:l58LZqSr
盛親さんは、どうして返り咲けなかったんでしょう・・・
49人間七七四年:2010/03/26(金) 20:28:40 ID:sRc8Lis8
>>34
家老身分だった人が托鉢までしてくれるって宗茂ってよっぽど好かれる人だったんかね〜


最近切支丹ネタが多かったので便乗して小ネタを一つ
昔読んだ本に載っていたものでうろ覚えだけど割と好きな話なので失礼しますよ。

宣教師が歩いていると、道にある小さな仏像に手を合わせ、熱心に祈っている男がいた。
宣教師は早速この男を教え諭してやらねばと思い「そこに神はいない」と教えてやった。
すると男はびっくりした顔で「勿論いない」と言った。
その答えに宣教師は驚いて「では何故祈るのか?」と聞くと、
男はしばらく考えた後「仏もまた塵」と呟き、そのまま立ち去ってしまった。

宣教師がその答えに対してどう思ったのかは謎。
50人間七七四年:2010/03/26(金) 21:12:59 ID:ygUQtYjy
>>34
十時さんはいい人だよねぇ
宗茂よりも長生きするし、島原の乱でも一緒に出陣してくれたし
51人間七七四年:2010/03/26(金) 21:26:17 ID:q561o+EU
>>40
尺八で刀を受けたとかなんとか。
どんだけ固い尺八だよwとか思ったけど、
チンピラの刀がナマクラだったと考えるほうが自然か。
52人間七七四年:2010/03/26(金) 21:42:05 ID:5xKnendy
>>48
田舎者だから、政治、外交、情報に疎い
53人間七七四年:2010/03/26(金) 22:08:04 ID:pyjzUikH
大久保彦左衛門の第一次上田合戦

ある時とうとう真田と徳川が手切れとなり第一次上田合戦が始まった。
コレにはまだ若かりし頃の徳川二十八将の一人、大久保彦左衛門(当時は大久保平助)も、
元気に参加していた。
ちなみにこの合戦、真田家には昌幸と信幸が大将として参加していたが、
徳川家も負けてはいない。鳥居元忠、平岩親吉、諏訪頼忠、保科親子(正直と正光)そして、
「金の揚羽蝶」大久保忠世と「銀の揚羽蝶」彦左衛門の面倒くさいブラザーズなど
そうそうたるお歴々といいうより、天下に名を知られていた人たちである。
とはいえ、結果はご存知の通り徳川の負け。上田城の二の丸まで攻めたものの砥石城からの逆襲
で側面をつかれて敗走したらしい。我らが信幸兄ちゃんは砥石城にいたそうなので、要は
信幸兄さんにこてんぱんにやられたと言うことです。かっこいいですね。
さて、ここで彦左衛門さんは敗走する徳川軍の中で精一杯戦っていたところ真田の家来で
日置五右衛門尉という武者が、なんと、真田軍と思いこんで入ってきたのを彦左衛門が発見した。
彦左衛門「標識がない。敵だ!突き落とせ!」
日置「ちょ!まて!よく見ろ八幡だ!俺!オレ!オレだよ!日置五右衛門だよ!敵じゃねえ!」
日置さん・・・・ここ徳川軍です。

つづく
54人間七七四年:2010/03/26(金) 22:08:55 ID:pyjzUikH
>>53
大久保彦左衛門は槍で突こうとしたものの、日置の従者に邪魔されてつけなかったので
近くにいた兄貴の家来の気多(ケタ)甚六郎に突かせたがコレも腰あたりに命中し失敗。
日置の首を取れなかったのだが・・・

日置「河中嶋衆之早く助けたりと思ひ、味方と心得て敵之中を通りける処に、大久保七郎右衛門尉弟の平助に突かれたる」
(意訳:味方助けに来たら敵じゃねえか!大久保忠世の弟の彦左衛門に槍で突かれちまった!)
彦左衛門「いやいや、我も突いてあれ共、我が突く鑓は捲けられて、五右衛門尉にあたらず。気多甚六郎とて
    七郎右衛門尉者が鑓があたるなり、我にはあらず。」
(意訳:俺も突いたが失敗して兄貴の家来の気多のが当たったんじゃ!俺じゃねぇ!)
というわけで、この勝負、

大久保彦左衛門「刺突失敗」(引き分け)日置五右衛門尉「負け逃げ」

と締まらないことになっていたところ、これまた敵と知らずにやってきた真田兵と
同僚の天野小八郎が戦っていたのを見てみたら、相手は何と17か18才くらいだった。

彦左衛門「倅にて有ぞ。むごきに、赦せ。」
(意訳:まだガキじゃねえか。勘弁してやれよ。)

この勝負

天野小八郎(大久保彦左衛門預かり)真田の少年兵

である。助けてしまったんですなって、よくこんな余裕有ったな彦左衛門!
というわけで、大混戦の中で敵兵の命を助けた彦左衛門であった。
後に彼はこれを回想して三河物語に書く。
この少年兵を討たなかったのは、

『若気の至り』

であったと。

それにしても、ボロ負けした中でもちゃっかり自分の戦いは三河物語で自慢する彦左衛門さんであったが、
この時、神ならぬ彦左衛門のみならず参加した徳川兵全員だけではなく
勝利をかみしめた真田家全部ばかりか真田昌幸も、いや、真田信幸に至っては自分に降りかかることで
あるにもかかわらず気付かなかったことがある。

徳川四天王の本多忠勝が娘の小松の嫁入り先に頭を抱えていたという事実を!

そしてコレがずーーーーと後に信幸にとって・・・・・・・・・・・

この話の原典は
日本思想体系第26巻「三河物語 葉隠」(岩波書店)の三河物語(大久保彦左衛門著)で
お送りさせて頂きました。

業務連絡
ここで出てきた「日置五右衛門尉」って、どなたなんでしょうか?
三河物語にも「真田家内」となっているので真田家の武将というのはわかるけど。
まさか、歴史に残る著作に自分の間抜けぶりがのせられるとは・・・・
55人間七七四年:2010/03/26(金) 22:51:26 ID:TEOUVpLd
>>49
祈ってる男の答えが良く判らないなぁ
仏典にこういう説話があったりするのか?
56人間七七四年:2010/03/26(金) 22:58:32 ID:m2hqz2yi
武田信玄「尺八の使い手かいると聞いて飛んできました
     それがしの槍を受け止めてみよ」(道雪さんに会いたいなぁ

>>55

華厳経ですなググッテみるヨロシ
57人間七七四年:2010/03/26(金) 23:11:19 ID:f/G7pzD0
>>54
真田側の記録だと日置五右衛門は三河出身の旧武田家臣
「依田助十郎」とともに大久保忠世の首を狙って潜入したが、彦左衛門にバレて
五右衛門は逃亡、助十郎は討たれたことになっている

真田が身内をかばってるのか、彦左衛門の記憶違い(?)かは不明

日置五右衛門の子孫は沼田藩で大小姓組頭百五十石取り
同心十五人持ちの御先手鉄砲組頭衆と同格なので、なかなかの家格
58人間七七四年:2010/03/26(金) 23:17:42 ID:TQXd8Uql
>>57
もしそれが事実なら、彦左衛門の性格からして嬉々として触れ回るんじゃないか?
59人間七七四年:2010/03/26(金) 23:19:06 ID:TEOUVpLd
>>56
世の中の全ては塵一つでさえ奈良の大仏さんの一部なんだから
俺の拝んでる仏像だって仏の一部
全ては仏の一部なんだから拝む対象が何とか仏がどこにいるかとかこまけぇ事はいいんだよ
ってことかな?
60人間七七四年:2010/03/27(土) 00:16:15 ID:Wf9R/XXk
>>57
おぉ!ご指摘サンクスコにござる!
日置さん討っておけば出世出来たのにね。
「依田助十郎」の記述は三河物語にはないので
別方向か突入時に彦左衛門の見えないところで
戦死かもしれませんな。

>>58
どうもこの時は、退却戦による大混戦で
首までは取れる状況ではなかったそうです。
三河物語にも『頸をば取らずして』踏ん張った
事が記載されています。
61人間七七四年:2010/03/27(土) 14:02:30 ID:faFhPXNC
実はフロイス、異教徒は大っキライだったケド、意外にも日本建築や仏教美術に関し
ては素直に褒めている。

「欧州の建築物の方があらゆる面で数倍も優れている」
「こんな僻地で、他の国も知らず、戦争ばっかりしてる連中だからこの程度で満足し
てるのも仕方ないんだけどねwww」
などといつもの罵詈雑言を振りまきながらも、
「清潔さと整然とした様は素晴らしい」
「寺院だけでなく、住居や貴族の邸宅や庭園までもがそう(清潔で整然としている)
なのだ」
と、フロイス補正をかけて読んでみれば、手放しの絶賛と言っても良い評価だ。

仏像に関しても
「(三十三間堂に収められている仏像の中で)一番巧妙で、奇抜で、素晴らしい像は
乞食の像(婆藪仙人像)である。この像は男の貧苦を真に迫って表現しており、本当
に一見の価値がある」
「これらの像はどれも極上等の金箔が厚く施されていて、その顔は美しく、均整が取
れている。この驚異に眼を見張らせる素晴らしい像が多数並んでいる様を見渡すと、
全く荘厳な印象を受ける」

……おいおい、どうした、何か悪いモノでも喰ったか?
それとも霜台さんちに行った時、うっかり茶でもご馳走になってしまったのか?
そう聞いてみたくなるほどの褒めっぷりだ。

仏像=燃やすモノ、という視点以外からでも見ることが出来たんだねぇ、フロイス。
まぁ、カトリックは偶像崇拝してるし、将来は京都か奈良の仏師にマリア像を彫らそ
う、なんてコトを考えていたんだろうか。
何はともあれフロイスの口から

「素晴らしい出来の仏像」
「仏像を見てると荘厳な印象を受ける」

などという言葉が聴ける日が来るとは思わなんだ。
かなり意外なフロイスの一面が見れた良い話(?)
62人間七七四年:2010/03/27(土) 14:08:41 ID:tJYTm6p2
>>61
昼間っから酒でも飲んでたとしか思えないw
63人間七七四年:2010/03/27(土) 14:52:37 ID:TR/bCxmh
この清潔や整理への美意識の高さや美術を神に向けられれば新たなるステージへ!と思ってたのは間違いないなw

いかにフロイスとはいえ清潔なほうが居心地いいのまでは信仰で弁護できるレベルじゃないんだなw
64人間七七四年:2010/03/27(土) 15:11:34 ID:EbQGJfNZ
フロイスが生まれたのは初期ルネッサンスだから芸術はまだ未熟な時期だ
こういうあり方も有りではないか?と問いかけられた時期に日本に来た訳だから本国とは全く別の芸術性に魅入られても不思議ではないな
65人間七七四年:2010/03/27(土) 15:12:17 ID:0NF33NPo
これがある朝鮮通信使とかになると
こんな土地を倭奴が治めてるのはもったいない
ウリの王様の徳でこいつら畜生どもを導いてやりたいものだ
とか考えるんだよな〜
66人間七七四年:2010/03/27(土) 15:56:55 ID:I1zqxNju
朝鮮出征あったし、まあそういう感想になるのも仕方がないかな。
国は近ければ近いほど仲が悪いもんだ。
67人間七七四年:2010/03/27(土) 15:58:18 ID:U/MISp0j
大名同士も隣国だと犬猿の仲になるからね
D家とその周辺とか、K家とH家とか、T家とK家とか
68人間七七四年:2010/03/27(土) 15:59:41 ID:e84Iw2op
宣教師って朝鮮半島やら中国でも布教したりしてたのかな?
69人間七七四年:2010/03/27(土) 16:23:12 ID:E7k25Rqj
中国には普通に布教しにいってるよ
ザビエルだって日本の後中国へ行っただろ
それなりに成功したけど最終的に撤退してる
70人間七七四年:2010/03/27(土) 16:30:54 ID:JNpqLnNb
中国では布教がずっと禁止されていて、どうにか布教が始まったのは日本よりも後で、
マテオ・リッチが1582年に中国に入ってから。
ちなみに日本はザビエルが1549年から。

朝鮮の場合は完全に禁止されてた。なので朝鮮役の時キリシタン大名の軍に
宣教師がくっついて行って布教してた。
71人間七七四年:2010/03/27(土) 16:47:22 ID:tJYTm6p2
半島に本腰入れ出したのは1800年代半ばだったかな
たしかフランス人宣教師が潜入バレて殺されてたはず

1800年代末くらいからアメリカ人牧師の家系が4世代くらい
腰据えて布教してたんだったか
ちなみに自称従軍慰安婦の根拠になってるレポート出したのが3代目
72人間七七四年:2010/03/27(土) 21:38:56 ID:U/MISp0j
後藤や母里どころか菅や益田まであるのに、筆頭家老の項目がないので、
栗山利安の話を二つほど出してみる

15の時に黒田官兵衛孝高に仕官して以来、生涯挙げた首級は57にものぼり(これは母里太兵衛に次ぐ)、
有岡城に囚われた主君を救いだしたり(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2994.html)、
母里らと共に主君の奥方を護衛したり(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3851.html)、
家中で一番我の強い母里太兵衛に兄貴と慕われ(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2.html)、
長政と母里の大人げない喧嘩を仲裁するのはいつも彼の役目で
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-725.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1508.html)、
とても機転の効く人だったので(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2602.html)、
長男の大吉(大膳)誕生の折には長政がわざわざ祝儀に栗山家に出向くほど彼を重用し、
如水公からはあの合士兜を形見に与えられるような(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3388.html)、
とてもあの栗山大膳の父親で済ませられない、黒田家存続に一役も二役もかっているスーパーご家老です

そんな栗山備後利安も76の時息子に家督を譲って卜庵と称します
そして、長政死後の8年のちに亡くなるのですが、
その臨終の時の話、意識不明だった利安が突然声を上げます

馬よ!鉄砲よ!彼方に敵が出た。味方の人数を揃えてあの山に鉄砲を放て!

栗山利安は戦国を生き抜いた一人の武将として81年の生涯を閉じました
73人間七七四年:2010/03/27(土) 21:43:33 ID:9acQ2KNU
こういう死に方はかっこいいね。
長政より長生きしてたのは知らなかったから驚いたけど
74人間七七四年:2010/03/27(土) 22:00:16 ID:+jFMHrBb
>>64
フロイスが生まれたのはルネサンス後期だよ
ダヴィンチやラファエロなどルネサンス盛期の芸術家はもう死んでて
美術史でいうとマニエリスムに入ったあたりだから
聖職者であるフロイスは彫刻や建築などは完成されたものを間近に見てるはず
75人間七七四年:2010/03/27(土) 22:16:23 ID:U/MISp0j
息子と若き藩主の不和という心残りを残しつつ、81年の生涯をまっとうした栗山利安

息子の大膳が父の遺産整理をしてみると、なんと銀百貫目もの未返済の貸金があったと言います
栗山利安という人はつつましやかで忠義心が厚く、家中の者には身分の上下を問わず慇懃でありました
華美贅沢を好まず、倹約かなところはさすがあの黒田親子の重臣というところであり、
家中の者が普段派手な服を着ているのを見かけると呼びつけて、
「衣服には礼服と、普段着と、晴れ着があって、普段から豪奢な服を着るもんじゃない」と叱りつけ、
高い馬を買ったものがいると聞きつけるとそのものを呼びつけて、
「どんないい馬でも二頭分の働きをするわけじゃない」と苦言を呈したと言います
と、一見とても吝嗇な御仁に思えますが、大事な時には惜しげもなく金銀を遣ったそうです
そして、とても面倒見のいい彼は
「なに? 殿の江戸出府にお共する支度をしようにも金がない? よし、貸してやろう」
「仰せつかった普請をしようにも金が足りないそうだな。俺が貸してやろう」
と、部下たちに気前良くお金を貸していたそうです
しかも、後で返済に来た分は受け取るが、返済しないからと言って取り立てることもなかったようで、
そうやって積もり積もった貸金が、筑前入府から利安死後の30年間で積もり積もって百貫目だったそうな

ちなみに一貫目=1000匁で、慶長14年で1両=銀50匁だから、2000両?
1両が現代でいくらになるかは5〜20万と諸説あるそうですが、
とりあえず寛永期なら下女の年間の給料が0.5両だそうです
76人間七七四年:2010/03/27(土) 22:22:51 ID:U/MISp0j
>>73
というか、黒田家は三代藩主(長政の孫)が80まで生きたのを除けばだいたい50代で亡くなってる
大坂の陣で討ち死にした又兵衛と京都で病死した長政の享年が1歳しか違わんし
77人間七七四年:2010/03/27(土) 22:27:11 ID:JNpqLnNb
>>75
この時期は1両の価値が最も高かった頃だと思うから、20万円とすると
4億円ですか。おそろしい。
78人間七七四年:2010/03/27(土) 22:29:07 ID:9acQ2KNU
>>76
そうなんか。いや、自分の浅学が恥ずかしい…
長政とかすっげー長生きなイメージがあったんだよな
79人間七七四年:2010/03/27(土) 22:38:09 ID:U/MISp0j
>>78
長政はデビュー(?)が早いからね
関ヶ原の時まだ33歳だからね
ttp://homepage1.nifty.com/SEISYO/seki-to.htm
80人間七七四年:2010/03/27(土) 23:59:49 ID:uCPa+oT/
長政が亡くなったのって、忠興や宗茂より早かったよな?
何故この2人なのかに意味はないが
81人間七七四年:2010/03/28(日) 00:03:40 ID:CuotIvt1
>>80
まぁ二代目つながりってことで
82人間七七四年:2010/03/28(日) 00:09:38 ID:aHvwDqWg
>>74
間近に見てるはずってフロイスが生まれたのはポルトガルな上に10代のうちにインド行ってるだろ
あちらの芸術に触れてたとしてもほんのわずかだと思うが
83人間七七四年:2010/03/28(日) 00:15:18 ID:Jg0QSE/g
元亀元年(1570)四月、遠江を襲った武田信玄の軍は、進路を変え三河へと侵攻した。目標とされたのは
菅沼定盈の守る、野田城。
信玄は田峯城主、菅沼定忠らを案内とし、山県昌景、相木市兵衛の部隊を派遣した。
武田軍の襲来を知った野田城では緊急に軍議が開かれ、浜松の家康の元に撤退することとなった。
が、その場に城主、菅沼定盈がいない。城主がいなければ正式の命令は下せないのだ。

「殿は、殿は何処!?」

重臣たちが近習に聞けば、「トイレに入ってます」という。

「トイレ!?」

しかし何時まで待ってもこないので、業をにやした足軽大将、山口五良作はトイレまで自ら出向いた。
するとそこでは

バンバンババンバン
「ふっふ〜んふふっふ〜ん ふははは〜ん♪」

菅沼定盈はトイレの中で呑気に謡曲を歌っていた、しかも前板を叩いて拍子をとりながら。
武田の大軍が目前に迫っているというのに、どう言う神経だろうか。
あまりの事に山口は怒鳴った

「殿!敵は早くも近くまで寄せ来ています、このままでは御討死にすること疑いありません!
大将たる者は命を全うして御運を開く、これが良将のとるべき道であります。
どうか早々に撤退命令をだし退去して下さい!それがしがその後ろを防ぎます!!」

「ふふふふ〜ん♪ ん?…そうか」

定盈はようやくトイレから出てきた。そこに近習が手水を持ってきた。ところがそれに手を入れて

「なんだこれは?水ではないか。いつも手水には湯を使っているのに、敵が近づいたからと言って
水を使うということがあるものか。」

そう言っていつものように湯を持ってこさせ、それからようやく甲冑を付けると、南の曲輪より
悠然と城を出た、と云う。


緊急事態でも肝の座った、菅沼定盈さんのお話。
84人間七七四年:2010/03/28(日) 00:17:02 ID:aHvwDqWg
有事に悠長にしてんなw
85人間七七四年:2010/03/28(日) 00:22:40 ID:x4dGMo4i
まあ緊張してたら小便もでないしな まずはリラックスしないと
86人間七七四年:2010/03/28(日) 01:43:22 ID:TUfR9lv4
逃げてる最中にウンコもらすなんて人生最大の恥だからね
87人間七七四年:2010/03/28(日) 02:20:29 ID:rwSDdJeL
普段からこのノリなのか、実はテンパっててこの意味不明なハイテンションなのか、
判断が難しいところだ

しかし、唄なんぞ歌いながらトイレってかえって落ち着かんと思うんだが
小ならいざ知らず大なら一意専心・精神集中が必要だろ絶対
88人間七七四年:2010/03/28(日) 02:30:47 ID:XFJJ1Lmc
まあ城主が取り乱してたら下にまで伝播するしねえ。
89人間七七四年:2010/03/28(日) 02:32:51 ID:ccwYL6Im
しっことうんこじゃ出す時に使う脳神経が微妙に違うような希ガス
力みまくると屁がでるように 急に座ったり立ったりすると尿漏れするように?
うんこするときはおしっこが先にでるように おしっこ我慢してるとうんこしたくなるように

うーん 謎だ
90人間七七四年:2010/03/28(日) 03:36:44 ID:PCZf7FMs
配下を落ち着かせようと演技してみたけど、
あまりにやばい状況でテンパってたからズレた感じになっちゃった、
に一票
91人間七七四年:2010/03/28(日) 03:43:17 ID:ccwYL6Im
たしかにしっこにはリラックスが必要だけど 
うんこには気合が必要だ うんこしてて脳溢血でぶっ倒れたりするじゃん
うんこは出したとき達成感があるがしっこは寝ててもおねしょするし
92人間七七四年:2010/03/28(日) 04:11:15 ID:4YX5mg6t
気合入れなくても快便な人はいるんだぜ
あと寝てるときに(以下略)な世界もあるんだぜ

貴方の知らない世界。
93人間七七四年:2010/03/28(日) 07:52:39 ID:PC767Gw5
>>91
謙信のことか。
94人間七七四年:2010/03/28(日) 08:58:47 ID:jwAipzf0
話がずれてきてるぞw

>>85
だから味噌だと言って(ry
95人間七七四年:2010/03/28(日) 09:11:41 ID:XPPRMRB6
>>93
やっぱり一般的には、謙信が便所で用を足している時に倒れたと思われてんのかなあ
上杉好きとしては微妙な感じだ
96人間七七四年:2010/03/28(日) 09:36:27 ID:JyvT6qu3
日本の支配者層のトイレも中国みたいにナニできることを想定した造りになってるんかな?
97人間七七四年:2010/03/28(日) 10:17:11 ID:VUSRfUUu
masamuneのトイレは6畳間と聞いておじゃる
98人間七七四年:2010/03/28(日) 10:18:14 ID:g1cY4v1Z
トイレと言えば信玄
よくテレビでもやってるな
99人間七七四年:2010/03/28(日) 10:21:03 ID:hyeEo6cO
日本初の人工水洗トイレを使ったのが信玄なんだっけ?
100人間七七四年:2010/03/28(日) 12:09:59 ID:hyeEo6cO
そう言えば、昔読んだなぞなぞの本で、
伊達政宗のうんこは硬いか、やわらかいかというのがあったな
101人間七七四年:2010/03/28(日) 12:57:15 ID:LAsO0/Hi
よく知られている話だが、関ヶ原合戦時に本多忠勝は僅か400人程の部隊しかいなかった

これは本来の軍監である井伊直政が出陣前に病に倒れて、その代理となったためであるが
(直政は少し後に復帰している)、常識ではこの程度の少数では大して役には立たないと思う
だろう

ところがギッチョン、関ヶ原合戦において忠勝は正に関ヶ原をところ狭しと駆け回っている
開戦前には直政と松平忠吉と共に中央にいたが、その後に家康の命令で烏頭坂で南宮山の
毛利勢が迂回してこないか監視をしている

来ないと判断した午の刻後の行動はもはや神出鬼没
先ず、宇喜多の部隊を横撃してこれを崩すと、次に島津へ攻撃をする
この時に馬を撃たれるも直ぐに他者馬を借りると、今度は石田の最後の反撃を、周りの部隊を
率いて撃退している

この結果として400人の本多隊が得た首級はなんと90余り、これに対して5100人とされる細川隊は
136というのだから、彼が後の作品でMS化するのもむしろ当然というべきなのかもしれない
102人間七七四年:2010/03/28(日) 13:03:30 ID:hea7/9h4
>>83
相当の剛の者でも戦場では逸物が縮こまり尿意もなくなるというのに、なんと隆々たる・・・
103人間七七四年:2010/03/28(日) 13:07:21 ID:hea7/9h4
>101
小中規模の部隊を疾風迅雷、手足のように操るコトに特化した侍大将だったのかもしれんね
一言坂然り、小牧辺りの暴れぶりをみても。

「百万の兵を預けて采配を任せてみたい」より「300でも500でも、選りすぐりの精鋭を率いてフリーハンドで」戦わせたいタイプ
104人間七七四年:2010/03/28(日) 13:25:16 ID:btI8xG5y
北方あたりに書かせると騎馬隊率いて無双するところを生き生きと書いてくれる気もするなw
105人間七七四年:2010/03/28(日) 13:45:32 ID:LAsO0/Hi
小田原の戦いでも明らかなように数千単位でも問題なく統率はできる
でもやはり本分は「戦術級の数で戦略級の効果」を発揮する所なんだろうな
106人間七七四年:2010/03/28(日) 14:17:29 ID:p5J4WyaE
そりゃいくら何でも過大評価
107人間七七四年:2010/03/28(日) 14:23:43 ID:hyeEo6cO
本多忠勝は、敵中突破を図ろうとした島津を南へ押し出そうとしてるね
そのまま直進して家康本陣に突っ込んでいったら、大変なことになっていた
108人間七七四年:2010/03/28(日) 16:12:22 ID:rwSDdJeL
>>100
なぞなぞってことは、なんか謂れがあるんじゃなく単なる頓知ネタなんだろうが
そんな泣けてくるようなネタ話作られるとは有名になりすぎるのも困りもんだな…
109人間七七四年:2010/03/28(日) 16:27:14 ID:hyeEo6cO
>>108
いわれも何もないよ
伊達政宗は片目だからうんこも硬めだってオチ
こんなん子供の本に載せるなよって言いたい

ちなみに次のページは丹下左膳のうんこは〜だった気がする
110人間七七四年:2010/03/28(日) 16:29:27 ID:Yke/BZxC
さらに次のページは「さくざのうんこは〜」と続きます
111人間七七四年:2010/03/28(日) 16:35:22 ID:8ZPcvakz
小学○年生とかで定番のなぞなぞを戦国風にすると…

伊達政宗が雪隠で何者かに襲われた!
その手に握られた便所紙には筆で「ツマル」の文字が
犯人は誰だ?
112人間七七四年:2010/03/28(日) 18:14:42 ID:YAu3uToL
>>101
関ヶ原の戦ぶりを褒められた時の忠勝の答えが「敵が弱すぎた」だものね。
天下分け目と呼ばれる大戦で、そんなコメントできるだけで只者じゃないw
113人間七七四年:2010/03/28(日) 18:57:18 ID:oVOies6i
「ああ、そこに居るお主!そう、お主だ、お主!まぁ、こっちに来なされ。」
「?」「何と良い面構えじゃ・・・ピンと来たぞ!」

徳川家康への初出仕を終えた真田信幸は、大久保彦左衛門忠教に呼び止められた。

「間違いない、お主だ!あの神川合戦の折、わしが殿軍となって退却したが、その際にわずかな手勢で
我らを追撃する武者がおった。
そやつは片手で大長刀を振り回し、風切る音が我らまで届き、身の縮む思いがしたわ。わしの愛馬は
日頃自慢の速足なのだが、そいつさえもわしと一緒に躍り上がるように浮き足立って逃げたモンだ。
流石は真田の嫡男よな!」

信幸は彦左衛門の言葉に苦笑した。
「それは、私の親戚の矢沢但馬守頼康(妖怪ジジイの子)でしょう。私は小勢で追撃戦仕掛けるとか、
そーゆーアレな真似は苦手でして。」
ア、ソウナノ?(´・∀・`)


リアル無双の人の謙虚なムコ殿の話。さて、真相や如何に?
114人間七七四年:2010/03/28(日) 19:13:40 ID:swiBOTzE
>>112
小田原の役でも東海道方面の戦の大部分に顔出してんな
忠勝何人おるん?とか考えちまった。
115人間七七四年:2010/03/28(日) 21:39:14 ID:hOxsLVuk
龍造寺家の臣、土橋栄益は目障りな隆信を追放するべく他の城主達と
つるんで隆信を包囲した。城には鍋島ら家臣もいたが状況は絶望的であった。

  「もはやこれまで…潔く腹を切ろう…」

隆信を始め全員が覚悟した時、敵側の将小田政光の家臣、深町埋忠が城までやって来た。

  「今日は敵でも明日は味方となるのが武士の習いにござる。
  こたびの事を痛ましく思い、主君や諸将とも協議いたしました。
  隆信公の安全は保障いたしますゆえ、今宵のうちに城をお開きください。」

しかし隆信は埋忠の申し出を信じようとしない。

  「馬鹿な、信じられぬ。騙し討ちされるくらいならここで腹を切る。」

すると再び埋忠がやって来た。

  「神に誓って嘘ではござらぬ。かくなるうえは某が人質になりもうす。」

埋忠は丸腰で城に入って行った。ここに至ってようやく信用した隆信はその夜、
2百人ほどで城を出て、敵の大軍の中を女子供にいたるまで柄を切った槍を構えて
駆け抜けていった。

それから8年後、埋忠は隆信の急襲により討死した。
埋忠の死を知った隆信はその死を惜しんだという。
116人間七七四年:2010/03/28(日) 22:10:36 ID:hOxsLVuk
>>115
ゴメン、深町埋忠にしてるけど理忠のほうが正しいっぽい
117人間七七四年:2010/03/28(日) 22:41:44 ID:UlDLro1i
なんかよくわからんけど長宗我部と竜造寺ってかもし出す雰囲気が俺の中でかぶる
118人間七七四年:2010/03/29(月) 00:06:19 ID:pYMKijw0
国人クラスから急速に膨張してまた急速にしぼんだとこかな

士風だと長宗我部と島津がかぶる気がする
119人間七七四年:2010/03/29(月) 00:37:07 ID:IZqB6dxJ
>>113
ティンとくんなw 彦左社長

    芸能プロ大久保党は、めんどくさい三河の殿様を天下人にプロデュースします♪
120人間七七四年:2010/03/29(月) 00:42:54 ID:TtwVoY1h
>>101
実際は、井伊配下とされている関一政が配下に付いたらしいけどな。
121人間七七四年:2010/03/29(月) 02:02:32 ID:BZqoCYo2
>>115
ふかまちただただ?まさただ?
122人間七七四年:2010/03/29(月) 02:03:50 ID:9hlaTYTO
う○この話で思い出したけど

上杉家の扇動で越後で一揆が起こり溝口宣勝は兵を出し、世間太兵衛という将が先陣を務めた。

彼は三条の城に向かう途中の小川であるものを見つけた。


それは、出来立てほやほやの う○こ だった。


これを見て彼は、


「ここらへんに一揆勢の伏兵がいるかもしれない」


と思い付近を探索したら予想が見事に的中する。

伏兵達は攻撃を受けて退却するも、彼らに散々に打ち負かされたという。

う○こ1つで敵の伏兵を撃退した彼のいい?話である。
123人間七七四年:2010/03/29(月) 09:09:57 ID:NPB8d1CG
ウンのいい話・・・じゃ失礼かw
124人間七七四年:2010/03/29(月) 09:37:23 ID:J8UVVYEn
一揆勢にとっては運の尽きだったな
125人間七七四年:2010/03/29(月) 09:46:37 ID:xEBAMTq5
>>111
だれだ?トイレの花子さんの仕業か!
126人間七七四年:2010/03/29(月) 10:07:57 ID:MgBQ21mC
>>124
ウンを出したばかりにな
127人間七七四年:2010/03/29(月) 13:14:34 ID:l9ru62jZ
昨日から(品の)悪い話スレになっとるw
128人間七七四年:2010/03/29(月) 13:24:00 ID:eaVqPCgE
公園にトイレがあるような時代じゃないんだからしかたあんめえ。
129人間七七四年:2010/03/29(月) 13:26:49 ID:eXiePoaF
「そんな事出来るわけがなかろう」

永正二年 (1505)、設楽郡を支配する富永氏の家宰、今泉四郎兵衛は苛立っていた。富永家の家督、の事である。
かつて設楽全体を治めていた富永氏の領地は、新興の奥平氏、菅沼氏に侵食され、
この頃には館周辺の野田郷四ヶ村だけとなっていた。
その上当主の富永千若丸は家の将来に絶望したのか、嗣子も無いまま乱心し自害してしまった。
これにて富永家は断絶した。この時、富永家の家来たちもその多くが四散したという。

「京の公家の若君に下向して頂き、お家を継いでいただくわけには行かないものか」

富永家は家格だけは高かった。そのため、残った家中の者たちはその家格をどうにか保ちたかった。

「こんな没落したも同然の家に、わざわざ京から継ぎに来る物好きなどいるものか!もっと現実を考えろ。
この上は…」

今泉四郎兵衛は決断した。例え養子を迎えても、このままでは奥平、菅沼に滅ぼされてしまうだけだ。
ならば一方の敵である菅沼から養子を迎え、その勢力下に生き残りを計るべきだ。
四郎兵衛は菅沼氏の本拠地、田峯に出向き、今は菅沼氏に仕える富永の旧家臣。城所道寿信景や城所助之丞直政
を通して交渉、田峯菅沼家当主菅沼定忠の三男竹千代、この時14歳を迎えることで合意した。

田峯の菅沼としてみれば、菅沼の跡継ぎには長男定広が確固として決まっており、本来なら厄介者ですらある
三男竹千代に自らの懐を痛める事なく領地を与えられるのは、渡りに舟であっただろう。
定忠は竹千代に菅沼権之丞、城所助之丞、塩瀬甚兵衛を付け、早速富永館へと出発させた。

ところが事はそう簡単に進まない。
永正二年十一月、野田郷に向かった竹千代一行は、菅沼領との境界で足止めを食らった。
富永の家中が竹千代を向かい入れることに猛反発している、と言うのだ。

「我々は菅沼家に領地を侵食されたため衰退したのだ!そこから養子を迎え入れるなどあってなるものか!」

今泉四郎兵衛が必死に説得している間、竹千代一行は境界の村で様子をみることになった。
説得工作は長引き、竹千代たちはその村で展望も見えぬまま、越年するにまで至る。
しかし、それでも諦めて田峯に帰ることも無く、滞在する邸宅の中に井戸まで掘って説得の成功を待った。
若き竹千代も、もはや実家に帰ることは出来ないと覚悟を決めていたのだろう。

この姿勢が幸いしたのか、足止めから丁度四ヶ月後の永正三年 (1506)二月十一日、ついに竹千代は
富永館に入城を果たした。
この時富永館は、「野田城」と名を改めた。

竹千代は後、菅沼定則と名乗る。そう、二代後に菅沼定盈を輩出し、徳川家譜代大名として菅沼氏族の中で
最も栄えることとなる野田菅沼氏が、ここに始まったのだ。
130人間七七四年:2010/03/29(月) 16:29:10 ID:5vcOYG0Z
素朴な疑問だけど、菅沼定則に改名しても富永家の家格は引き継げるものなの?
131人間七七四年:2010/03/29(月) 16:56:21 ID:eXiePoaF
>>130
正確に言うと富永の名跡は引き継がずに、その領地と家中をまるごと引き継いだ。
社員と機構をまるごと引き継いだ上で社名と社長だけ変わった感じ。
132人間七七四年:2010/03/29(月) 20:26:11 ID:7mriKN6E
風は山河よりでも読んだんか?
133人間七七四年:2010/03/29(月) 22:09:30 ID:NPB8d1CG
あの作者は、欠点がないような感じで主人公を描くからなぁ・・・
134人間七七四年:2010/03/29(月) 22:30:40 ID:dJ7UY9n8
あの作家の作品は、一癖二癖のある主人公を見たことがないな
135人間七七四年:2010/03/29(月) 23:11:26 ID:M1O52gTe
あの作者と出版社は三河者がなんたるかを見たことがないからなぁ。
136人間七七四年:2010/03/30(火) 00:05:16 ID:qFv1ikQo
まったくだ
このスレ読んで勉強しろよ
137人間七七四年:2010/03/30(火) 00:31:58 ID:5Uyv65Ik
昔読んだルーツを探るみたいな本に松平氏の故郷、奥三河の人間は今でも純朴で素直と書いてあったが・・・
138人間七七四年:2010/03/30(火) 00:32:10 ID:O27qgtf/
>>136
でもあの作家さんは三河者なんだぜ?
139人間七七四年:2010/03/30(火) 02:01:08 ID:ZNDTD2wI
三河侍ではないんだろ・・・
140人間七七四年:2010/03/30(火) 02:28:41 ID:TGkX6xZC
はいはい、三河武士三河武士

関ヶ原の戦いの後、徳川家康は大久保治右衛門忠佐の功に対し、沼津二万石を与えた。
これについて渡辺半蔵守綱は、
「治右衛門は武功により二万石というが、オレに会ってはクソ垂れて逃げたものよ!」と罵った。

守綱の放言を聞きつけた家康は、忠佐を呼んで言った。

「あやつが言っておるのは、三河一向一揆の時、あやつが兄弟等七人で待ち伏せしたのを、
お前が背を向けた事だろう。
しかし、お前は多勢を率いており、半蔵に対して『お主のような者の相手をして、犬死にはせぬ』
と言って退いたという事を、わしは存じておるぞ。
お前のような大志ある者が、あのような無茶を言う者に構わずとも良い。」


…また例の単語が出てきて申し訳ないが、槍半蔵が権現様のNGワードに触れたから忠佐の肩をもった
ワケではないと思う。
141人間七七四年:2010/03/30(火) 07:43:52 ID:9R7LaNYO
辺鄙な地方の人間なんて今や頑固で性格悪い人ばかりのイメージがあるな
若者がどんどん都会へ出て行って過疎化するから、残された老人達が特権階級化して排他的な性格になる
142人間七七四年:2010/03/30(火) 09:51:42 ID:p6qxYGeR
三河者といっても、菅沼とか奥平とかは家康と愉快な三河武士たちからすれば外様じゃないか。
143人間七七四年:2010/03/30(火) 11:49:40 ID:GmcvU3hI
>>137
それで思い出したがオレの知り合いの彼女が奥三河の松平郷の人で
その知り合いの完全に縁の切れた昔の彼女の写真(高校の集合写真)を見て
なぜか知り合いの家の押入れに入って泣いていたそうだ

純朴っていえば純朴だがなんともめんどくさい号泣ポイントだと思う
144人間七七四年:2010/03/30(火) 12:08:21 ID:ShbrUAoA
>>101
なんか本多氏の一族は猛将かつ知将が多いな
戦国の世を生き残り、現代まで血が続いてる理由がわかるわ
145人間七七四年:2010/03/30(火) 13:04:37 ID:W5shuhRW
>>143
なんというか…世が世でその彼女が男なら、立派に三河武士はれてたと思わせる行動だな…
146人間七七四年:2010/03/30(火) 13:34:56 ID:FgcI8CcO
三河節…
147人間七七四年:2010/03/30(火) 13:43:40 ID:tcujx1+H
それでも一般人の見解は

三河武士=犬のように忠実
148人間七七四年:2010/03/30(火) 13:48:44 ID:FJTmIQa9
ラスボス秀吉の関東仕置きの際。
圧倒的な兵力で武州忍城を囲んだ石田三成。
しかし、大勢で同時に攻撃出来ぬよう考え抜かれた忍城の縄張りに、大軍の利を活かせず、逆に夜襲で損
害を受けたり、三成自身が槍で追い掛け回されたりと、水攻めを始める前だというのに早くもフルボッコ
風味。

何とか挽回を狙う三成は大筒を牽かせ、城内に向けて撃たせた。
弾は木立に着弾、火の手があがる。
「よっしゃOK! 皆の者、城に火の手が上がったぞ! 今が好機だ攻め寄せろ!」

一方城内。
「ありゃ、下忍の薬師堂の方角か?」
「はっ。薬師堂から金剛院に延焼との事です」
成田配下の老将、本庄越前守(越後の人とは別人)ニヤリと笑う。
「大規模な攻撃があるぞ。伏兵でも備えておくか」
何故、寺が燃えたら攻撃があるのか。仏の守りが薄くなるから?
「阿呆。ワシらは火の手の方角だけでどこが燃えたか判る。だが上方軍がどうやってそれを判ろうという
のだ。今頃敵陣では、城に火の手が上がったから攻め時だ、などと言っているに違いない」

さすが爺さん。バッチリの読みです。
が、この事実に上方軍でも気付いた者がいた。
「……殿? 燃えてるのって、びっみょ〜に城の方角とずれてません?」
三成の部下、川瀬左衛門であった。
実は上方軍、忍城の前には岩槻城や館林城を落としており、その降兵も参加していた。忍城の情報は持っ
ていたのである。
「ん? まぁ、そりゃ本丸にドンピシャってワケにゃ行かんだろ。でも櫓の一つでも落ちてりゃ、それなり
に慌ててるって。チャンスチャンス!」
聞く耳を持たない三成、全軍に攻撃命令を下した。
全軍の采配を振るう三成に代わって攻撃部隊を率いる川瀬、ワザとゆっくり進み、城内の様子を探ってい
た。

上方軍でこの攻撃命令に慌てた人物がもう一人いた。
長束正家である。
長束隊の陣取った場所からは、ハッキリと見えたのだ。大筒の着弾点が。
燃えてるのは城じゃない。城外の寺だ。
大急ぎで三成の許へと伝令を走らせる。

しかしこの伝令、一歩遅かった。
本庄越前指揮する迎撃部隊によって上方軍は大損害を出して後退するハメになる。
無事だったのは長束隊を初めとする着弾点をハッキリ見ることの出来た部隊と、川瀬の機転で攻撃を控え
ていた石田隊のみであった。

主君の失敗をフォローして手勢には損害無しとした川瀬左衛門のいい話? いや、他の部隊には多大な被
害が出てるって話だしなぁ。(^^;
老巧の本庄越前の機を見るに敏ないい話でもあるし、こちらに投下しとくか。
149人間七七四年:2010/03/30(火) 19:16:52 ID:QjogELsM
成田さんと罵り合うのがお似合いな軽率さ
150人間七七四年:2010/03/31(水) 00:18:38 ID:Fb3NexVR
吉良義安の禍福


足利将軍家に連なる名門、三河、西条吉良家に、吉良義安と言う少年がいた。
彼は次男であったため、未だ十歳にも満たないうちに、子の無かった東上吉良家、吉良義持の養子となった。
ところが実家の西条吉良家当主で兄の義郷が急死し、義安は西条吉良家に戻りその家督を継ぐことになった。
更に間もなく、義父である東条の吉持も死去したため、義安は西条家を弟の義昭にまかせ、自らは東条家を相続、
三河吉良氏は幼い義安の元、争いも無く実質的に統一された。ここまでは幸運、である。

が、運命というものは突然に変転する

天文18年(1549)、駿河の今川義元は太原雪斎に命じて、織田信長の庶兄である織田信広が守備する
安祥城を攻撃。雪斎はたちまちこれを陥落させ、さらに城主織田信広を生け捕りにすると言う大戦果を得た。

この時義安は織田に味方していたため、今川軍に捕縛された。
しかも西条の弟義昭は今川に通じており、彼は今川の後ろ盾で東条も併合。三河吉良氏の家督は義昭に奪われる。

この時義安はわずかに一三歳。当然政治の実権などあったはずも無く、家臣団の方針に疑うことすら無く
従っただけであっただろう。
わけの分からぬうちにすべてを失った義安は、人質として駿府に送られることとなった。

さて、義安が駿府に送られるとき、同じく人質として駿府に護送される一人の少年と同道した。
聞けばこの少年、それまで織田家に捕われていたが、雪斎が生け捕った織田信広と交換されたのだという。
義安はこの七歳年下の少年とたちまち友達になった。同じような身の上で、共感するものがあったのだろうか。
この少年の名は松平竹千代。後の徳川家康である。

義安は竹千代と共に人質生活を過ごし、弘治元年(1555)の竹千代元服の際には、その理髪役も務めた。
そして、人質生活が始まって十年ほどの時が経つ。
永禄3年(1560)6月、桶狭間である。

今川義元の死により、松平元康(家康)は三河に帰還する。吉良義安はその元康に従っていた。
七最年長の義安が進んで従うほどの器量を、人質の十年の間に元康は身につけていたのだろう。

三河統一に走り出した元康は、永禄4年(1561)には西条城をたちまち攻略、さらに吉良義昭の籠る
東条城に酒井正親、本多広孝らの軍勢を派遣すると、義昭はたまらず降伏。
しかし翌永禄5年(1562)、三河一向一揆に乗じて再び敵対するもこれに敗れ、ついに三河から追放、
元康は東条西条の吉良氏を再び、吉良義安の元に統一することを許した。

これ以後、三河吉良氏は家康の元に戦国を生き抜き、関ヶ原合戦の後、吉良三千石を安堵されて高家に列せられる。
のちにこの家から赤穂浪士事件で有名な吉良義央が出るが、それはまた別の話であろう。


全てを失った吉良義安が、その全てを取り戻すに至る、幼い日の偶然の出会いについてのお話である。
151人間七七四年:2010/03/31(水) 05:31:27 ID:dUW5hsRM
いい話だけどそこまで古株で三千石とはしょっぺえな
152人間七七四年:2010/03/31(水) 08:48:58 ID:iJcozww4
調べてみたら
吉良義安って家康の義理の叔父か大叔父にあたるんだね。
153人間七七四年:2010/03/31(水) 09:00:18 ID:HOjplZhp
清康の娘が義康の妻だね
お隣どうしだし何かと縁があるんだね
154人間七七四年:2010/03/31(水) 09:01:04 ID:aP+MA/iT
養父(持広)が義理の大叔父で義安は義理の叔父ってことになってるらしい

つか1569年に死んだから当時の徳川家としては3000石でも多いほうじゃね?
155人間七七四年:2010/03/31(水) 09:06:38 ID:HOjplZhp
義安だったね
ごめん
156人間七七四年:2010/03/31(水) 09:53:13 ID:l7pNwbgN
徳川家って司馬が言うほど名家を優遇したりせず、あくまで御義理程度
親族も同様なので、むしろ当然というべきかもしれない

余談だけど江戸幕府で閨閥が幅を利かせなかったのは興味深い
157人間七七四年:2010/03/31(水) 12:02:10 ID:aP+MA/iT
家康→生母水野家(広忠と離婚)
秀忠→生母西郷家(影響力皆無)
家光→生母浅井家(滅亡)
家綱→生母青木家(下級武士)
綱吉→生母本庄家(公式には関白の家司)
家宣→生母田中家(北条家臣)
家継→生母勝田家(元加賀藩士で住職)
吉宗→生母巨勢家(召使)
家重→生母大久保家(紀州藩出身の旗本)
家治→生母梅渓家(貴族?羽林家)
家斉→生母岩本家(幕臣)
家慶→生母押田家(小姓)
家定→生母跡部家(幕臣)
家茂→生母松平家(紀州藩高家)
慶喜→生母皇室(有栖川宮織仁親王娘)

母親の実家に実権ないのが将軍についてる件
158人間七七四年:2010/03/31(水) 12:34:03 ID:9VxrcqlV
流れ上こっちに書くけど、家康の(意地が)悪い話

北条氏を滅ぼして関東の大大名となった徳川家康は、桐生にいた北条旧臣のある男を呼び出した。
その男は新田氏嫡流の岩松守純で、新田氏といえば偶然にも(!)家康の同じ血流である。

岩松家は家臣の由良氏に家を横領されすっかり落魄していたが、名家の子孫を優遇する家康
に仕官することで御家再興ができるとwktkしていた。しかも、守純は家康と同じ新田氏であり、
家康にとってこれ以上の血統はあるまい。

しかし、仕官の見返りに家康は新田氏の系図を要求し、守純は頑なにそれを拒否した。
家康は守純を旗本としては家格の高い交代寄合に取り立ててやったが、石高はなんと20石。
さらに、岩松家が新田の名字を名乗ることを禁止した。
要するに、「新田系図を譲渡しなかったこと」に対する家康の仕返しであった。

岩松家が新田氏に復し、華族に列するのは明治4年のことになる。


159人間七七四年:2010/03/31(水) 12:40:23 ID:VIlbkKe1
流れとか関係なしに、悪い話は悪い話スレでいいじゃない。
160人間七七四年:2010/03/31(水) 12:42:40 ID:9VxrcqlV
>>159
スマン。あっちに書いといたから、>>158はスルーで。
161人間七七四年:2010/03/31(水) 13:04:12 ID:VIlbkKe1
>>160
いや別に謝らなくてもいいけど、「今度からそうしようね?」ってことで。
162人間七七四年:2010/03/31(水) 16:59:09 ID:aLVKdN5k
>157 の
> 押田家(小姓)
を見て、家斉とうとう小姓を孕ませたか・・・と一瞬戦慄を
163人間七七四年:2010/03/31(水) 19:30:52 ID:hZTG4qEi
愛知県岡崎市の国道1号線・暮戸交差点の地下道で見かけた昔話。


桶狭間で義元討ち死にの知らせを受けた家康たちは、夜陰に乗じて地元岡崎へ帰ることに。

なんとか矢作川の西岸にある長瀬八幡宮の辺りまでたどり着いたものの、昨夜からの雨で川が増水し、とてもじゃないが渡れそうにない。

背後からは織田軍がひたひたとせまる絶体絶命のピンチの中、家康は近くにあった大きな松の木の根元で一心に祈り始めた。

しばらくすると、八幡宮の森の奥から3頭の白鹿がやってきて、家康たちのそばへ・・・

家康「 (´・ω・`) ? 」

白鹿「 ( ̄ー ̄) ・・・乗れよ。」

そう、この白鹿は家康たちを向こう岸へ渡すために現れたのだ。

背中に家康をのせた白鹿は、濁流をものともせずスイスイと川を泳ぎ切った。

こうして無事に川を渡った家康たちは、近くの大樹寺へ逃げ込み、無事命拾いをしたのであった。めでたしめでたし。


長年暮らした岡崎を離れる記念に、初めて書き込みしてみました。スレ汚し失礼m(_ _)m
164人間七七四年:2010/03/31(水) 19:51:26 ID:qBcgXu5C
そんな話あの地下道に書いてあったけ?
矢作の由来になったヤマトタケルの話なら見たことあるんだがなー
明日にでも見に行ってみるわ
と同じ地元民が言ってみるテスト
165人間七七四年:2010/03/31(水) 19:56:28 ID:LRaXaHPd
そんな奇跡的な助かり方をしたのに、何故か大樹寺で切腹しようとした家康公・・・
166人間七七四年:2010/03/31(水) 20:03:49 ID:FJJt5dVf
白鹿に酔ったんだよ、きっと
167人間七七四年:2010/03/31(水) 20:07:40 ID:hZTG4qEi
>>164
あー、たぶんその反対側の地下道。側壁に地味な白い看板が掲げられてた。
168人間七七四年:2010/03/31(水) 20:09:37 ID:qBcgXu5C
おk
眼鏡屋があるほうね
169人間七七四年:2010/03/31(水) 20:16:29 ID:PxLWALmH
>>154
三千石をもらったのって、孫が関ヶ原後にみたいだけど
170人間七七四年:2010/03/31(水) 21:12:28 ID:FJJt5dVf
>>158のような話を元にした小説が昔サライに連載されてたような・・・
詳細が思い出せんがwwww
171人間七七四年:2010/03/31(水) 22:32:47 ID:Fb3NexVR
>>169
それは三河吉良氏は家康の関東移封の時一緒についていって、関ヶ原の後再び
東条西条の領有を認められた、ってこと。
172人間七七四年:2010/04/01(木) 01:03:53 ID:8iNV9UUB
一般論では戦場に鹿が現れるのは不吉だって言うけど、三河は逆なのかしらね
本多鍋ちゃんも鹿に助けられてるし
173人間七七四年:2010/04/01(木) 07:35:37 ID:0gwEpzcR
ヒャッハー!新年度だアッー!寝坊する子はいねがぁぁぁ!!

阿波藩主、蜂須賀至鎮は三十台半ばの若さで世を去り、子の忠英は祖父の蓬庵(家政)が
後見することになった。早くに父を亡くした忠英は甘やかされて育ち素行が悪く、家臣の手を焼かせ
たびたび蓬庵からたしなめられた。( http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1938.html

その日も忠英は寝坊した。
「若様、若様、もう朝ですよ?起きて下さい。」「うーん、もう少しだけ…」
「何を仰せになりますか。早朝からお出かけだった蓬庵様など、とっくに戻られて、もう朝餉を
召し上がっておいでですよ?」「なに、お爺様が!」

さすがにマズイと気づいた忠英、あわてて飛び起き、蓬庵のいる徳島城西の丸へ駆けつけたが、
すでに朝餉に箸をつけた蓬庵の忠英を見る目は、冷たい。
「……………(怒)」
「え、えーとお爺様、こ、これは……」
「…今朝、竜王山の麓にな、こんな紙切れが落ちておった。書いてあることを読んでみよ。」

『 ものの名も 処によりて 変りけり そちの朝飯 こちの夕飯 』

「誰が詠んだ狂歌か知らんが、言い得て妙じゃの。いったい、何のことを言っとるのかのぉ?!」
「……………」
その後、蓬庵は忠英と歌について二言三言交わし、忠英の食べ終わるのを待たず退出した。

それからというもの、忠英は寝坊しないようになり、徐々に行状も改まったという。
174人間七七四年:2010/04/01(木) 23:03:22 ID:l23SNEkL
織田勢力圏において美濃苗木城は常に対武田の最前線であり、遠山友勝以来、信長の命によりこの城を任されてきた
苗木遠山氏にとって気の休まる時はなかった。

特に武田の武将、秋山信友が、美濃遠山氏の宗家にあたる岩村遠山氏の居城岩村城に攻め寄せ、信長の派遣した
織田信広、河尻秀隆が率いる援軍も撃退、天正元年(1573)、ついにこれを降伏させると、苗木城は武田の圧力を
正面から受けることとなった。

このような中、苗木城主の遠山友忠、友政親子は信長の信任に答え必死に耐えぬいた。
天正二年の武田勝頼による東美濃侵攻に対しては、友忠の次男で阿寺城を守る遠山友重が討死するなど
多大な犠牲を払いながらも、この撃退に成功した。
天正三年、長篠の戦い、そして同年の岩村城の奪還で武田の圧力は大きく減退する。
そして天正十年、武田家滅亡。苗木城にはようやくの平穏が訪れたかに見えた。だが

同年、本能寺の変

翌天正十一年(1584)五月、苗木城は再び敵の軍勢を迎えた。当然ながら今度の敵は、武田ではない


(^^)「こんにちは。鬼武蔵です。」


織田家の同僚、森長可の軍勢であった。
羽柴秀吉の黙認をとりつけた長可は、東美濃の織田家の同僚たちに襲いかかり、その牙は苗木城にも
向けられたのだ。
武田の攻撃を耐えぬいた苗木城であったが、秀吉の後援を受けた長可に対し、援軍の目処も無く
とても防衛出来るものではない。

城を枕に討死か、一旦落ち延びて再起を図るか、遠山友忠、友政親子は悩んだ末、後者を選択した。
苗木城を落ちた遠山親子と家臣たちは、美濃の山々を越え遠江の浜松城へと向かい、徳川家康を頼った。
家康は彼らを受け入れた。
この亡命と言うべき生活の中、遠山友忠は浜松で客死する。苗木に帰れなかった父の無念、息子友政は帰還の意を
更に強くした。が、その手立てもつかめぬまま時は過ぎる。遠山友政は家康に従い関東に移り、美濃どころか
榊原康政配下として遠く離れた上州の館林にその身を置いていた。が、

慶長五年(1600)、関ヶ原

時や至り!遠山友政は出陣に先立ち、徳川家康に美濃路、木曽路の地理を詳細に報告、さらに西軍に参加している
川尻直次が城主となっていた苗木城の奪還を申し出た。家康はこれを高く評価し、黄金と鉄砲30挺、弾薬2万発を
友政に与え、中山道を通る徳川秀忠隊の先鋒を命じた。

途中上田城で足止めを強いられた秀忠隊であったが、家康からの連絡により関ヶ原に急ぐ。
苗木以来の家臣団を率いた遠山友政の部隊はその先駆けとしてついに、父祖の地、苗木城に迫った!ところが、

城の東から攻め寄せる遠山軍に対し、苗木城主、川尻直次の城代関治兵衛は戦わずして降伏した。

「関ヶ原での決戦の結果西軍は壊滅し、わが主君川尻直次は討死したとの連絡がありました。
この城はお引渡しいたす。」

呆気ないと言えばそれまでである。が、この城を落ちて16年、ついに苗木城を取り戻したのだ。
遠山友政、そして遠山家中の者たちの感激は、いかばかりであっただろうか。
友政はさらに岩村城も攻略し東美濃の平定に大いに活躍。家康はこの功に対し、苗木城を含む
恵那、加茂両郡、一万五百二十一石を与えた。
苗木は再び、苗木遠山家のものとなった。

この後苗木遠山家は美濃苗木藩として、国替えも改易も受けることなく、明治まで続く。
今、苗木城の本丸跡に置かれた石碑には、このような一文が刻まれている。

『戈(ほこ)に枕し膽(きも)を嘗め 百敗屈せず 時や至り よく舊(旧)物を復す』

父祖が血潮で守りぬいた地を取り戻した、苗木遠山家のお話である。
175人間七七四年:2010/04/01(木) 23:16:25 ID:+V3o7bnd
>鉄砲30挺、弾薬2万発

家康もケチだよな
弾だけあっても機関銃じゃないんだから
176人間七七四年:2010/04/01(木) 23:23:59 ID:m2G82q2l
ちょうど悪い話スレで小笠原さんの話を読んでいたので、
途中読んでてはらはらした……。

良かったね遠山さん。
177人間七七四年:2010/04/01(木) 23:25:01 ID:l23SNEkL
>>175
このころの遠山友政って榊原康政の組下だからせいぜい千〜数百石クラスなんで、
軍役で言えば率いるのは多くて20人から、無理して30人くらい。それに鉄砲30挺はむしろ多すぎだぞ。
178人間七七四年:2010/04/01(木) 23:46:25 ID:oEE6UxDR
>>174
遠山さん家は撤退あたりの混乱に乗じて鬼武蔵殺そうとした主犯だから報復は避けられんかっただろうw
179人間七七四年:2010/04/02(金) 00:08:18 ID:we2iwgU3
>>178
鬼武蔵謀殺計画って、東美濃のほぼ全ての国人が参加してたらしいねw
長可はご近所から、もうこれ以上無いくらい嫌われていたらしい。
180人間七七四年:2010/04/02(金) 00:09:55 ID:qUyDSIGc
>>179
鬼武蔵の行動は一応自衛行為なんだよねw
周り全部敵なんだから。
181人間七七四年:2010/04/02(金) 00:11:09 ID:jdghEh/4
鬼武蔵は好きとか嫌いとかそういう次元じゃない
退治すべき妖怪とか鬼とかそういうレベルの話だったんだろう
182人間七七四年:2010/04/02(金) 00:15:21 ID:we2iwgU3
>>180
まあ「敵」の方も、自分達こそ自衛だと疑いも無く信じていただろうけどねw
183人間七七四年:2010/04/02(金) 02:18:53 ID:jgJS0SFy
>>177
その場合、鉄砲30丁ってのは鉄砲足軽30人ってことじゃないのかな。
火力に欠ける小規模部隊に軍役とほぼ同数の鉄砲隊をつける事例は他でもあるし。
184人間七七四年:2010/04/02(金) 09:18:07 ID:Y/jHQw1O
>>182
「あれ」は人の形をした災害ですから……ヒューマノイド・タイフーンってゆう
185人間七七四年:2010/04/02(金) 09:30:15 ID:MmGwBl9/
鬼武蔵が出たってだけで、どうなることかとハラハラしたw

でも明治までしっかり残ったってのはすごいことだな。
石碑の一文はちょっと感動した。
186人間七七四年:2010/04/02(金) 12:29:30 ID:rzqNrPue
>>184
地震、雷、鬼武蔵
187人間七七四年:2010/04/02(金) 14:45:24 ID:y2Ev1eax
森長可の死亡は
鉄砲隊の狙撃で眉間を撃ち抜かれ死亡
安藤直次に討ち取られ死亡
どっちなの
188人間七七四年:2010/04/02(金) 14:49:49 ID:3F2IKj0/
安藤直次に討たれたのは池田恒興
189人間七七四年:2010/04/02(金) 14:51:02 ID:ipGHtxWr
眉間を打ち抜かれた後も猛威を振るっていた鬼武蔵を安藤が討ち取ったでいいじゃないw
190人間七七四年:2010/04/02(金) 14:52:58 ID:3F2IKj0/
じゃなかった、元助
191人間七七四年:2010/04/02(金) 15:02:26 ID:y2Ev1eax
>>188
ありがとうございます
192人間七七四年:2010/04/03(土) 01:13:51 ID:ZHg8ltVv
永井直勝 「池田勝入を討ち取りしは安藤直次殿にござる」
193人間七七四年:2010/04/03(土) 16:02:57 ID:JbqY1XkF
>>192
「なんのなんの、若侍があっぱれな働きでございましたぞ」
194人間七七四年:2010/04/04(日) 12:25:44 ID:tvgRt9rv
武田の武将、秋山信友によって攻略され滅びた、美濃遠山氏宗家岩村遠山氏、
武田の攻撃を耐え切ったものの、本能寺後森長可に攻められ落去、関ヶ原で古地を取り戻した苗木遠山氏
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3948.html
それらと共に「三遠山」と称された、美濃明智城、明智遠山家についてのことである。

元亀3年(1572)12月、東美濃に攻め寄せてきた武田の武将秋山信友との戦い「上山合戦」は、織田方の大敗北となった。
明智城主遠山景行はこの敗北により自刃、さらに長子、景玄も討死し、明智遠山家に残されたのは、
未だ幼い遠山一行のみとなった。

叔父の遠山利景はこの一行を補佐しどうにか家を運営するが、一族の中には美濃を捨て地方に移住するものがでるなど
家勢の衰退は隠せず、天正2年(1574)の武田勝頼による侵攻で、ついに明知城は落城してしまった。

が、翌3年の長篠の戦いで状況は一変。明智城も取り戻された。そして天正十年。武田滅亡、本能寺の変、
そして


(^^)「こんにちは。鬼武蔵です。」


森長可の軍勢に、一行と利景は城を捨てて逃げた。利景の妻の実家、三河足助城の鈴木氏の元に身を寄せ
徳川家康の保護を求めた。家康は彼らを受け入れ、天正12年(1584)の小牧長久手の戦いでは井伊直政の後援の下
なんと森家の手から明智城を取り戻してしまった。更に調子に乗って岩村城も攻めたのだが、


(^^)「いらっしゃいませ。鬼兵庫です。」


ここでは城代の鬼兵庫ことかがみんこと、各務元正に一族の遠山半左衛門を討ち取られるなどフルボッコに
返り討ちにされたのはご愛嬌。
そして明智城を取り戻したのもつかの間、秀吉と織田信雄の間に和議が整うと、再び森家に返還されることになってしまった。

その後遠山一行、利景は家康に従い、家康配下の信州の大名、依田康国の下に付き信州の経営に参加していた。
が、

天正16年(1586)冬、遠山一行、凍死。

凍死である。なんと信州から駿府へ向かう途中に、甲駿国境の平沢峠で寒波に合い
凍え死んでしまったのだ。この時代の武将としても、かなり珍しい死に様である。

「なんということか」

遠山利景は途方に暮れたが、一行に子はなく、明智遠山家の家督は利景が継いだ。

そして関ヶ原が起こると苗木遠山家の遠山友政らとともに秀忠隊につき、西軍の田丸直昌の軍勢が守る
明智城を見事に攻略。戦後、この功により明智の地は利景に与えられた。

この後明智遠山家は明智を領する大旗本として江戸期を過ごし、やがて「遠山の金さん」として有名な、
江戸町奉行、遠山景元を輩出する。

「三遠山」の一つ、明智遠山家のお話。
195人間七七四年:2010/04/04(日) 16:28:02 ID:Y58c3c9I
浅井朝倉の大軍すら退けるかがみん防衛中の城に調子に乗って攻め懸けるとか。

主なくしたときこそ真骨頂だろw
196人間七七四年:2010/04/04(日) 19:22:42 ID:3ETL6KiH
秋山晴近に大敗北したのは上村合戦じゃないっすか。
197人間七七四年:2010/04/04(日) 20:17:57 ID:3ETL6KiH
田丸具安っちゃあ、阿木の爺さんらが作った歴史教室の資料より。
--------
慶長五年秋九月、関ヶ原で石田方が敗北した後もなお岩村城を明け渡さなかった田丸直昌。
家康は苗木城遠山久兵衛友政に明智遠山民部、小里彦五郎を付け岩村城攻めを命じた。
十月九日、友政は五百の兵を率いて阿木と飯羽間の境の根に陣を敷いた。明智、小里も
それぞれ三百の兵を率いて岩村城の南に陣を構えた。

田丸は三百の手勢で籠城していたが、敵が攻め寄せたと聞いて櫓に上がり城の南北を
見渡してみると大勢の敵兵が旗をたなびかせているのが見えた。急ぎ櫓から降りた
田丸は一族と兵士等に向かい「とても防ぎきれる戦いではない。城を無事に明け渡し
私は髪を切って出家する。」と言い放つと城中の者は静まりかえってしまった。

こうした時に友政の使者の陶山次郎兵衛がやって来た。田丸は「明け渡しは承知した。
大儀ではあるが大手の城戸までお越し頂きたい」と言い渡した。

使者が帰った後、田丸は頭髪を全て切って投げ捨て、織物の袴に一尺八寸の太刀を差し、
家臣の石部外記を連れて大手門に向かった。迎える友政も褐布織物の袴に太刀を差し
家臣の纐纈藤兵衛を連れて出向いた。「これから私は出家しようと思います。何卒
私ともども城内の者らの助命を御願いしたい。また白昼に城から出て行くのは城主として
面目のないこと。暗くなってからの降城をお許し願いたい。」と。友政は快く了承した。

日が落ち、数十日の籠城から解放され我先にと東へ西へ逃げる一族兵士等。これを見た
田丸は大手門の扉に一句貼り城を出た。

  岩村にたまる物とてゆきばかり 消えもやせんと思う我が身も

友政の使いで藤左衛門が出迎え、軽少ではありますが路銀にと田丸に金五十両を渡した。
田丸は涙を流し、薙刀を取り出して「これは田丸家代々の家宝です。友政公にお渡し
ください。」と言った。田丸は友政の付けた足軽二人の共で西美濃まで逃れた。

田丸の降城で乱世から解放された岩村城。友政、明智、小里の三将が城内に入って
みると、大広間にはそれは見事な武具や珍しい器、馬具などが山のように詰んで
あったという事である。
198人間七七四年:2010/04/05(月) 20:00:03 ID:Odk9P7+b
宗茂の遺風

寛永十九年(1642)十一月二十五日、立花宗茂はその波乱の生涯を閉じた。
そして5年後の正保四年(1647)の事、肥前長崎沖に、三隻のポルトガル船が姿をあらわすという事件があった。
これに幕府は御奉書をもって四国、西国の諸侯に沿岸の防衛体制を取ることを命令。
西日本諸侯は海域の警備を強化した。

その中でも、立花忠茂の軍勢は特に目立っていた。
彼は急な命令にも関わらず、すぐに3870余人の軍勢を出し、そのうち800人は水主であった。
船は33隻、そのうち戦闘船である関船は9隻。
立花勢はその人数が1万にも2万にも見えるほどの圧巻であったと言う。

これを見た人々

「流石立花家は違う。日頃より武備を嗜んだ宗茂公の遺された家風がよく残っている。」

と、甚だ感心したそうだ。
これにより諸侯の中で立花忠茂の評判は、一際勝ったそうである。

緊急事態に現れた、立花宗茂の遺風、のお話。
199人間七七四年:2010/04/05(月) 20:32:55 ID:Sdi+Jtd/
さすが立花家の格は違った
200人間七七四年:2010/04/05(月) 20:43:41 ID:3T9vmo/4
さすがだな宗茂さんは・・・
家臣たちの心をがっしりとつかんでいた
201人間七七四年:2010/04/05(月) 22:11:51 ID:5bLbDdct
死後まで完璧とか…
ってか素直に忠茂の手柄にしてやれよw
202人間七七四年:2010/04/05(月) 22:24:32 ID:3T9vmo/4
そうだね
養父の教えをよく守ったよ
目の上のたんこぶがなくなると羽のばす奴が多いからね
203人間七七四年:2010/04/05(月) 22:53:39 ID:Rm6Vot71
家久(悪)「まったくだ」
204人間七七四年:2010/04/05(月) 23:26:11 ID:5BWbgXzl
政宗「そういう奴ってほんとうに駄目だよな」
205人間七七四年:2010/04/05(月) 23:28:49 ID:whmhYZ3f
ギン千代「ほんとほんと」
206人間七七四年:2010/04/05(月) 23:44:27 ID:ENyqNX9f
義理の祖父・道雪(苦労人)
実の祖父・紹運(苦労人)
義理の父・宗茂(苦労人)
実の父・直次(苦労人)
本人・忠茂(当然の如く苦労人)
207人間七七四年:2010/04/06(火) 00:06:49 ID:ODBBzkZd
>>206
なんという濃密さw
208人間七七四年:2010/04/06(火) 00:16:59 ID:mbphGfIq
道雪紹運宗茂くらいしか知らないが、
こいつら苦労してるんだろうがそれを苦労と思ってなさそう。
209人間七七四年:2010/04/06(火) 00:41:57 ID:mZnGdP4T
>>208
苦労するのを覚悟してその道を選んでるんだろ

義理の祖父・道雪 苦労を覚悟にバカ殿に諫言
実の祖父・紹運 死を覚悟に岩屋城篭城
義理の父・宗茂 鬼嫁を覚悟に婿入り
実の父・直次 鬼女を兄に押し付ける変わりに家督相続
本人・忠茂  DQNの血筋としっての嫁取り

210人間七七四年:2010/04/06(火) 01:00:36 ID:wu5Q4Air
>>209
宗茂、覚悟も何も親父が行けといわれればいくしかなかったんだぜ?
211人間七七四年:2010/04/06(火) 01:14:27 ID:9EShjBdR
宗茂さんは決死の覚悟で城を守るより、浪人生活の方が苦労を感じてそうだ
212人間七七四年:2010/04/06(火) 01:27:09 ID:wu5Q4Air
最初は何とかなるだろうと思ってたけど
段々弱気になっていってしまいには諦めがはいってたりしたようだけど
なんとか踏みとどまって弓術の免許皆伝になったり蹴鞠の免許とったりと
今で言う自分磨きに精を出していたようだ >宗茂
213人間七七四年:2010/04/06(火) 01:37:56 ID:OuBL7Qiy
忠茂実父の高橋直次は

嫁の父親が北九州で蠢動しまくる築紫広門
岩屋城の闘いで島津に約束を反故にされ幽閉される
自分が幽閉されてようと宗茂兄さんは徹底抗戦

と充分難儀な人生送ってるっての
214人間七七四年:2010/04/06(火) 09:43:20 ID:aKP7ILVb
生き方難儀じゃなきゃあの血筋じゃないだろ
215人間七七四年:2010/04/06(火) 10:38:05 ID:mZnGdP4T
難儀な生き方していても宗茂にあわせて徳川に仕えて後に三池藩になってるし
なによりも兄貴の変わりにたくさん子供を作って三池藩のみならず柳川藩の存続に力を貸してる
まあ、キッチリ紹運の血筋を残してやるべき仕事はちゃんとこなしているあたり、さすが吉弘の血筋

ただ、まとめサイトのカテゴリにまだ単独で名前がないのが不憫…
216人間七七四年:2010/04/06(火) 13:28:19 ID:oyn41orI
快川紹喜と言えば甲斐国塩山の恵林寺の住職として名高い戦国時代の名僧であるが、実は出身は美濃国であると言われている(尾張との説もあり)

美濃崇福寺の住職を務めていた紹喜だが、この崇福寺の住職は代々「護阜」との肩書きを名乗っていた。
「仏法にて岐阜を護る!」との公言が許されるホドの名門寺院であったという証であり、信長支配前から岐阜という地名が使われていたコトを示す名乗りでもあった。

美濃国主斉藤義龍は元々日蓮宗に帰依していたのだが、やがて一色氏として源氏を名乗るようになると、他の多くの源氏大名と同じ禅宗に鞍替えをした。
が、そのやり方がまずかった。
膝元の快川らを無視し、京都から別伝宗亀という禅僧を招いて伝灯寺を建立、自らの菩提寺としたのである。

その上で「伝灯寺を美濃の禅宗の本山とし、各寺院や僧の管理は伝灯寺に一任する。また、京都の総本山へ行く際の手続き等も伝灯寺が行う」とした。

義龍は別伝にねだり、僧としての修行などしていないのに、高位の僧しか身に付けるコトの出来ない僧衣を貰ったりと、やりたい放題であった。

激怒した快川ら美濃の禅僧は、一寺に集まり相談。
皆揃って尾張犬山の瑞泉寺に退去するという過激な行動に出る。

慌てたのは義龍を初めとする美濃の国人衆。
僧がいなけりゃ法事が出来ない。葬式すら出来ない。この時代、な〜んも出来ないのである。

先に出した触れを
「いや、アレね、部下が作った案なんだよ。一つの案に過ぎないの。それにオレが許可出す前に発表しちゃったモンだからさ。オレが眼を通してたら、そんなん許可するワケないじゃん!」
と、義龍が撤回するコトで何とか帰国させるコトに成功する。

が、泥沼はココから。
「別伝とそれに従った僧を京都の総本山に訴えるのは待ってくれ」
と言う武家側。
「訴えるって人聞きの悪い。オレ達は事件を報告しただけだよ。別伝の処分は京都で決めるさ」
と耳を貸さない僧侶側。

終いには義龍、
「別伝が破門されたって、足利将軍に頼んで取り消してもらうかんな!」
と恫喝。再び犬山に出奔する快川ら禅僧一同。
しかもその際には
「美濃国主ったって、一国の主に過ぎないじゃねぇか。オレ達僧侶は三界の師として修行を積んでるんだ! お前とオレと、どっちが偉いと思ってんだ!」
という捨て台詞さえ残している。

天皇家、足利将軍家双方が義龍に味方し、伝灯寺保護の方針を打ち出す。
しかし崇福寺も総本山妙心寺も真っ向からこれに反発。別伝一味を破門と決定した。

天皇&将軍まで巻き込んで、武家VS禅僧という全面対立にまで発展してしまった騒動。
しかし、決着がつくのは呆気なかった。

一色(斉藤)義龍、急死。
そのどさくさにまぎれて織田軍が濃尾国境を荒らし始めた為、美濃中の武家がそれ所ではなくなってしまったのだ。
後ろ盾をなくした別伝、伝灯寺に放火を試みるも失敗。姿をくらました。
別伝に加担した禅僧の一人も出奔。後に京都の妙心寺に放火をしようとして門前にて人々に殴り殺されたという。

天皇&将軍&国主。全てを敵に廻しても俗界の介入を阻止した快川の良い話……なのかなぁ?
快川の言動もどんだけ傲岸不遜なんだよ、と思わんでもないし。
217人間七七四年:2010/04/06(火) 13:37:58 ID:aKP7ILVb
別伝も加担者もなんで放火するw
218人間七七四年:2010/04/06(火) 18:48:10 ID:WYgum1Dj
在地に根づいた宗教勢力は最強だぜえ
219人間七七四年:2010/04/06(火) 20:15:16 ID:+pcusfxy
河村秀定の大海老退治

斯波詮真の家臣に河村秀定という人がいた。

あるとき彼が主君の鷹狩に同行しある村に立ち寄った。
その村の沼には化け物が住んでおり、これがたびたび村人達に害をなしていたため、詮真は秀定にこれを退治するよう命じた。
秀定は沼に入り、身を枯れ木に見せかけていた大海老を退治した。
詮真は秀定の武勇を称え「この海老を食べよ。」と命じた。
主君の命とあれば食べないわけにもいかず、秀定は恐る恐る大海老を口にした。
すると非常に美味しかったので秀定は飽きることなく夢中になってその身を貪った。
それを見ていた詮真は「まるで鷲のようである。」と呟いた。
その後彼は「鷲内」の家号と知行を賜ったという。
220人間七七四年:2010/04/06(火) 22:00:40 ID:WYgum1Dj
沼に大海老・・
いや、ヌマエビっているけど、ちょっと変わってるな
221人間七七四年:2010/04/06(火) 22:27:21 ID:rSJcCWHR
まんが日本昔ばなしで大蟹を退治する話はいくつか見たが海老退治は初めて聞いたw
222人間七七四年:2010/04/06(火) 22:32:52 ID:4Za6E4vr
あとでスタッフでおいしくいただいてそうだ>エビ
223人間七七四年:2010/04/06(火) 23:22:36 ID:KZXHHT2O
>>201
ってか宗茂って秀吉に領地貰って以降の大名だけど
すぐに小田原、朝鮮と戦続きで自分の領地にいることの方が少なかったよな?
関ヶ原で領地喪失、大名に復帰してからも転々としてた上に
柳河に帰った後はほとんど江戸住まいだっただろ?
領地経営にどの程度関わってたのかな?
生活力の無さを考えると…
224人間七七四年:2010/04/07(水) 00:32:35 ID:tjrFaSEU
>>223
そのわりには手助けするから柳川から出て行かないでって領民から泣きつかれたって話があるんだよな
どういう人心掌握術もってんだろう

宗茂はそこら辺は無自覚だっただろうけど
225人間七七四年:2010/04/07(水) 00:54:40 ID:zEiSc4ri
>>223
よく考えりゃギン千代と子作りなんて物理的に不可能だな
種無しってわけじゃ無かったのかもしれん

>>224
他所から大名が来たらどうなるか分からんって恐怖もあったんじゃね?
佐々がなぁ
226人間七七四年:2010/04/07(水) 06:46:52 ID:opZPA0aA
>>222
ジャンボエビフライ食いたくなった。
227人間七七四年:2010/04/07(水) 09:37:27 ID:+YaKFDhO
>>215
ぜひわが国に来て欲しい すぐに来て欲しい 早く!早く!
228人間七七四年:2010/04/07(水) 12:43:18 ID:+O6JP4VX
>>223
立花ギン千代という有能なかつ忠実な留守居役のおかげじゃね?
229人間七七四年:2010/04/07(水) 18:35:59 ID:ngzajHIh
いい話かどうか微妙だが

ある日、福島正則のもとに中村一氏の子・一忠から、使者がやって来た。
「神部甚右衛門と申します。さて、早速ですが用件は・・・」
「まーまー、ンな事ァあとでも良いから、まず一杯やってけや。」

正則手づから大盃を与えられると、甚右衛門はグイッと一息に呑み干した。
「おおぅ・・・いい呑みっぷりだのぅ!せっかくだから、もう一杯どうだ?」
「いえ、どうせなら拙者からも福島様に、ご返杯差し上げます。二杯目は、それから頂戴しましょう。」
「いいねぇ、話せるねぇ!これが黒田のトコの野郎だと・・・」
(それはアンタも悪いんじゃ・・・?)

すっかり甚右衛門が気に入った正則は、一忠への返書でわざわざ、
『今後、当家への使者は必ず神部甚右衛門にしてほしい』とまで申し送った。

数年後、一忠が若死にして中村家が無嗣断絶との報が正則の耳にも入った。
「中村家は改易になったか・・・ならば神部甚右衛門は・・・なに、浪人中?よし、ウチで雇え!!」
こうして甚右衛門は三百石で正則に仕えることになった。
福島家中では、「ありゃ“昔のよしみ”ならぬ“酒のよしみ”だよなーw 」と苦笑したそうな。


でも呑み友って貴重だよね( ̄ー ̄)/[□ カンパーイ
230人間七七四年:2010/04/07(水) 20:23:59 ID:3W2LA3C6
とある戦場の超初陣

13歳になる少年が槍を抱えて戦場となるであろう柵の先を眺めていた。
この少年はこの戦が初陣である。今回の任は上司の護衛(戦眺め)である。

この少年、近所の叔父さんから槍術を習っており腕に自信があった。
そしてこの少年の部下(幼馴染)も腕に自信がった。

少年「こんな所にいては一度も刃を交えることなく戦は終わるやもしれぬ。
   雑兵の格好をして前線に出てみないか?(゚Д゚)」
幼馴「べ・・・別にあんたの勝手にすればいいんだからねっ!ξ〃Д〃)ξ」


少年「殿!もっと近くで戦場を見たいのですが移動しても良いですか?」
上司「良いけど柵の向こうには絶対いくなよ!いいか!絶対いくなよ!?(;^ω^)」


そしてこの二人が雑兵に紛れ込んだ中、戦闘の火蓋が切って落とされた。
鉄砲の轟音が鳴り響く中敵が迫ってきた。少年等は攻めかかる敵部隊に突入した。

さてこの二人組みだが日頃の修行の成果もあってか雑兵をばっさばっさと薙ぎ払った。
少年は馬から指揮者を蹴り落とし、はぐれた雑兵をまとめて馬上より雑兵小隊の指揮までとりはじめた。
当然その少年に敵が群がってきた。馬上で指揮をとっていた少年、さすがにこれには苦戦した。

そこへ幼馴染が助けにきて敵を一蹴!

幼馴「勘違いしないでよねっ!あんたとの約束を果たしただけなんだからっ!ξ〃Д〃)ξ」
少年「すまねぇ・・・(゚Д゚)」

っとこの少年二人組、13歳ながら最前線で敵勢力と互角以上に渡りあっていた。
距離を置いて戦場を眺める大将の目にもとまった。

上司「あの小童凄いね!!どこの小童か調べてまいれ!」
部下「あー・・・殿、あれは今日殿のお連れした小童でございましょう。
   戦が始まってから姿が全く見えませぬ。」

上司「なっ!なんだってー!?虎め!ここまでの器量持ちであったかっ!!」


っとここまでは良いが戦場から帰還後、上司にこっぴどく叱られましたとさ。

加藤清正の初陣風景である。

清正は賤ヶ岳が初陣じゃないよーってお話です。

叔父さん=前田利家
幼馴染=福島m・・・じゃなくて飯田覚兵衛
上司=秀吉
戦場=長篠

以上、戦前戦後の清正本(熊本の図書館にあった本)の中からの抜粋。
231人間七七四年:2010/04/07(水) 22:25:00 ID:fic8jgna
ボーイズラブ展開かと思ったのに
232人間七七四年:2010/04/07(水) 22:26:39 ID:Cw+v9GTE
>>229
酒関連の市松は輝いてるなw
233人間七七四年:2010/04/07(水) 22:41:40 ID:U6AMfh74
>>230
清正は13歳の頃から異様に背が高くて目立ったんだろうな
234人間七七四年:2010/04/07(水) 22:50:56 ID:ThbgsrWo
>>233
そのころからこぶしを口に入れられたんだろうか?
235人間七七四年:2010/04/07(水) 23:18:40 ID:AYQmmAEa
飯田覚兵衛は確かにツンデレ幼馴染キャラだわな。
「本当は武士なんてすぐやめたいけど、あいつにだまされてしょうがないからやってあげてるだけ」
236人間七七四年:2010/04/07(水) 23:20:00 ID:tjrFaSEU
>>235
そのエピソード好きだな
やめようと思ったのにそのたびに褒めるもんだから立場もあがってやめるにやめられなかったとか
237人間七七四年:2010/04/08(木) 00:29:47 ID:HCFOdgaQ
>>230
正則「僕達ずっと友達だよね?」
238人間七七四年:2010/04/08(木) 02:57:59 ID:vV7MKPoP
鳩山由紀夫が貧乏なら孤独なはず
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/alone/1269564456/

ワロタwww
239人間七七四年:2010/04/08(木) 03:48:37 ID:MRPfpf91
>>230
前田利家は加藤清正の叔父だったの?
240人間七七四年:2010/04/08(木) 05:12:10 ID:Wq7/rn8y
小父さんの間違いだろうな
241人間七七四年:2010/04/08(木) 18:33:21 ID:tLytfPMW
天正十三年(1585)、秀吉による四国征伐の結果、蜂須賀家政は阿波十七万五千石の太守となった。
そこで家政は先ず、要害堅固で知られた山城、一宮城(徳島市一宮町)に入ったのだが、ここを居城とせず
新たに平野部の吉野川河口に新城を造ることとした。
これを聞いた蜂須賀家重臣、武市信昆は諫言をする

「平地の城では一旦事が起こった場合、甚だ不利となってしまいます!」

蜂須賀家の防衛を考えた場合、当然の懸念であろう。
が、家政は笑って武市を諭した

「秀吉公の武威により、今から百年後までも世の中は泰平となり、武備の要という物も必要が無くなるだろう。
であれば地の利を頼むより、むしろ人の和を頼むべきではなかろうか?」

だからこそ平地に新たな城を造るのだ。
武市もこれに納得し、新城、徳島城の建設は始められた。その縄張りには築城家として有名な林道感と、
当の武市信昆が当たったと言う。


いち早く新たな時代の城を考えた、蜂須賀家政のお話。
242人間七七四年:2010/04/08(木) 21:39:18 ID:hFOEBrz4
>>241
その城の落成記念で踊りだしたのが、阿波踊りの起源ってことになってる。
243人間七七四年:2010/04/09(金) 00:47:10 ID:1DJJepGv
へええ、阿波踊りの起源なのかー
244人間七七四年:2010/04/09(金) 00:47:48 ID:XF2aXFKG
朝鮮起源でなくてよかったよ
245人間七七四年:2010/04/09(金) 01:00:12 ID:9N0nCcsm
>>243
あくまでも地元の伝承レベルの話だけどね。
246人間七七四年:2010/04/09(金) 21:20:46 ID:LqX89tP0
敵も認めた漢の褒美


前田利常の家臣平野弥次右衛門の従者に五右衛門という人物がいた。

大坂の陣の際、真田丸を攻めていた五右衛門は、主人である弥次右衛門の
楯になり、十八発もの銃弾を全身に浴びてしまう。だが五右衛門は

「なんのこれしき、かすり傷でござるわ!」と笑い捨てた。

五右衛門の剛気を称賛した真田丸の兵達は、
「名を聞かせ給え」と五右衛門に声をかけた。

「う……」だが五右衛門は困惑した。なぜならば、まだ名乗る姓を
許されていなかったからだ。これを見た主人の平野弥次右衛門はすかさず
「我が姓をつかわす!」と叫んだ。

これに五右衛門は胸を張り、大声で真田丸に答えた。

「われは平野弥次右衛門が下人、五右衛門である!
これまで御供したる褒美として、たった今、姓を賜って
平野五右衛門となり申した!」

すると真田丸から、平野五右衛門を称える祝福の拍手が
湧き上がったのであった。


殺伐とした戦場の中の、ちょっと良い話である。
247246:2010/04/09(金) 21:23:35 ID:LqX89tP0
前田利常、平野弥次右衛門、平野五右衛門でまとめwikiを検索
しましたが該当が無かったので。
もし既出ならスルーでお願いします。
248人間七七四年:2010/04/09(金) 21:37:09 ID:sEkh2D7v
>>246

( ;∀;) イイハナシダナー
仕える主は違っても主人に尽し、それを認められて名を上げた五右衛門に
豊臣方の牢人たちも思うところがあったんだな
249人間七七四年:2010/04/09(金) 21:52:59 ID:k+x927XU
>>246
良い話だなぁ…殺し合ってる敵が「すげえよ、アイツ!」って褒めるってな。
やっぱり平野五右衛門は、その後死んだのか?生きてて欲しい人物だ…
250人間七七四年:2010/04/09(金) 21:55:47 ID:UqIGOPxt
18発も撃たれて元気に返事する人間がいたらもう拍手するしかないだろ…
251人間七七四年:2010/04/09(金) 22:08:13 ID:rs11C9Mf
平家物語とかでも那須与一が扇に矢を当てた時に平家側から歓声が飛び交ったって話あるけど
戦国の世でもまだそういう戦いの中の矜持みたいなのは残ってたんだな
252人間七七四年:2010/04/09(金) 22:35:50 ID:snK3vSao
上はともかく、下の雑兵や奉公人達は、憎しみで敵味方になってるわけじゃないものな
253人間七七四年:2010/04/09(金) 22:55:29 ID:QIQ51sBJ
>>246
こういう話大好きw
254人間七七四年:2010/04/09(金) 22:56:52 ID:kbZT2Tcv
aa
255人間七七四年:2010/04/10(土) 01:32:09 ID:b/zDPPS7
こういう、お互いの武者働きを称え合うのが戦国の醍醐味・・・
だと個人的には思ってる
その後、特に名を残さなかったとしても、生きてて欲しいなぁ
256人間七七四年:2010/04/10(土) 03:27:42 ID:4N+coktv
ここにあるように松永と三好三人衆の間にクリスマス停戦が成った時のこと
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-812.html

この時停船中に宴を催した一団があった。
両軍のキリシタン武士たちである。
寄り集まった彼らは敵も味方もなく笑いあい、酒を酌み交わした。
そして夜もすがら遊び、翌日にはまた敵も味方に分かれて戦ったという。

この様子をルイス・フロイスはこう記している。
「両軍に属する武士約七十名は、忠誠、愛情、平和、一致の美徳を示して
 敵味方一堂の家臣のごとき友愛と礼儀を持って語り合った。」

かつては同じ三好家中で同宗門となれば付き合いもあったのでしょうが
たとえ敵も味方となってもそれを忘れないいい話?
257人間七七四年:2010/04/10(土) 07:06:08 ID:YwqSSYxW
>>256
まあ、同じ宗派同士の連帯感…みたいな物かな?
昔の人はやっぱり祭日ってのを、大切にしてたんだろうし。

まあ正月にそれをやって(対陣中とは言え)地元に帰った奴等を皆殺しにした武将もいるけど。
258人間七七四年:2010/04/10(土) 09:58:54 ID:d8esvDzc
阿波踊りの話が出たので、戦国時代起源(?)の踊りで二話

享禄3年(1530)、大内義隆は九州の名族・少弐氏の息の根を止めるべく、筑前守護代の杉興運を討伐を命じた。
幕府から太宰大弐の官位を買い、侵攻の大義名分を得た大内氏に対し、既に本国・筑前を奪われた少弐氏は
悲壮な覚悟で戦いに臨んだが、たちまち劣勢に立たされた。

少弐氏配下の龍造寺家兼も、大内軍の朝日頼貫を討ち取ったものの多勢に無勢、ついに敵に取り囲まれ、
さすがの家兼も覚悟を決めたその時、

ヽ( ・(ェ)・ )ノ  クマー
「!?」
ヽ( ・(ェ)・ )ノヽ( ・(ェ)・ )ノヽ( ・(ェ)・ )ノヽ( ・(ェ)・ )ノ  クママママー

「な・・・なんじゃ、あの赤熊(シャグマ)どもは!?」
突如現れた赤熊(ヤクの毛を染めた兜・母衣飾り)に漆黒の鬼面をつけた謎の部隊が、大内軍に襲いかかった。
勝ち戦に気の緩んだ大内軍は、異様な軍団に横合いを突かれ、見る見るうちに陣を崩される。
「な・・・なんだかよく分からんが、我らも続けーっ!!」
このスキに体勢を立て直した家兼が反撃に転じ、形勢は逆転。大将の杉興運は、本国に逃げ帰った。

「助かった・・・それにしても、彼らはいったい・・・?」
疑問の解けぬ家兼の前に、赤熊軍団の将らしき者がやって来て、鬼面を外して一礼した。
「佐賀郡鍋島の郷士、平右衛門清久と申します。良将に仕えたいと考えておりましたが、龍造寺殿こそと思い
機会を伺っていた所、今日の苦境を拝見し、助太刀に参りました。どうか、家臣の端にお加え下さい。」

喜んだ家兼は、清久の次男・清房に孫娘を嫁がせ、鍋島家を重臣として遇した。鍋島の者は戦勝祝いに
赤熊の装束で練り歩き、それが元となって佐賀の無形文化財「面浮立」が生まれたという。
259人間七七四年:2010/04/10(土) 10:03:28 ID:d8esvDzc
伯耆羽衣石城主・南条元続は父の代に尼子氏に居城を奪われたが、吉川元春の後援により奪還に成功した。
ところが、天正7年(1579)、羽柴秀吉の中国攻めが始まると元続は毛利を離反し、織田家の配下となった。
元春はこれを憎み南条氏を攻めたが、堅城・羽衣石は容易に落ちず、やむを得ずいったん兵を退いた。

「見よ、『毛利に両川あり』と言われる、あの吉川が退くぞ!勝ち戦じゃ、それ祝え!!」
元続は戦勝の祝宴を催し、城下の民も浮かれ踊り明かしたが、その中にひときわ目を引く一団がいた。

 ♪  ∩∧__,∧∧__,∧∧__,∧               
    ヽ( ^ω^ )7ω^ )7ω^ )7 ♪ 此方のお庭を借り申そう ♪ 
  /`ヽJ    ,‐┘  ,‐┘  ,‐┘ 
    ´`ヽ、_  ノ 、_  ノ 、_  ノ
      `) )  `) )  `) )

     ♪    ∧__∧.∩__∧.∩__∧.∩ 
         r( ^ω^ )ノω^ )ノω^ )ノ    ♪ 明年参ろう また参ろう ♪
        └‐、   レ´`ヽ レ´`ヽ.  レ´`ヽ. 
           ヽ  ___ノ´`´_ノ´`´_._ノ´`´
           ( .(´  ( .(´  ( .(´.
           .`ー   `ー   `ー 

揃いの傾いた装束で拍子と鉦に合わせて踊り狂う一団に、元来踊り好きの元続も目を引かれ、城内に招いた。

その瞬間、
「かかったな、アホが!!」「き、貴様、吉川元春!おのれ、謀られたか!」
元春の合図で、踊り手に扮していた選りすぐりの吉川兵たちが、城内で暴れ始めた。
思わぬ奇襲を受けた元続は、たまらず城を捨てて逃走。元春はこの奇策による勝利を吉例として、
「南条踊り」と名付け、世に残した。現在では広島と、吉川氏が藩主だった岩国等に伝わる。

それにしても熊谷氏の戦力が欲しくてブサ嫁もらったり、秀吉を嫌うあまり隠居したりと
実用一点張りで融通のきかない元春が、この策のためにダンスレッスンとかやったりしたんだろうか。
260人間七七四年:2010/04/10(土) 10:17:27 ID:YwqSSYxW
>>258>>259
やはり戦勝祝いとか、祭りとかになると、気が弛みがちになるわな…
ベッキーが怒るのも無理ないか。
261人間七七四年:2010/04/10(土) 10:30:58 ID:jdKvYTxg
262人間七七四年:2010/04/10(土) 10:46:57 ID:wLXN8v7o
最近、
吉川元春→秀吉大嫌いな猛将
小早川隆景→知将
というイメージから

吉川元春→秀吉大嫌いな知将
小早川隆景→ヒャッハー!最前線だー!
というイメージになった。
263人間七七四年:2010/04/10(土) 10:49:59 ID:AqSByoYJ
隆景のイメージは俺の中でもずいぶん変わったよw
知将→ちょっと我侭な感じ
264人間七七四年:2010/04/10(土) 12:22:03 ID:UXiLdQGO
ドコの家も
お兄ちゃん→お兄ちゃん
265人間七七四年:2010/04/10(土) 12:50:16 ID:Z6IT8yrQ
>>262
隆景の知将ってのは戦場でのものだから、
(ヒャッハー!はともかく)「最前線だー!」ってのは大体合ってると思う。
266人間七七四年:2010/04/10(土) 13:03:29 ID:JYAvZfbo
隆景は戦場に出る前に色々考えて準備して臨み
戦場で接敵すると何も考えずに突進する感じ
267人間七七四年:2010/04/10(土) 13:20:52 ID:7FoVZEct
>>264
どこの家も若貴兄弟みたいな気がする
いろんな意味で弟が特に
268人間七七四年:2010/04/10(土) 13:37:11 ID:WMDbevfH
隆元「・・・・・」
269人間七七四年:2010/04/10(土) 13:59:51 ID:8mRrF14W
池田家は長男がヒャッハーで次男以下が腹黒い

>>267
花田さんちは兄貴も別方向にDQNだからなあ
270人間七七四年:2010/04/10(土) 14:30:46 ID:md2ggl2E
流れに乗って小早川隆景の大胆エピソード

弘治元年(1555年)、陶晴賢は大軍を率いて毛利方の宮尾城を攻め落とそうとしてしていた。
この城は元就が晴賢をおびき出そうと厳島に建てた囮の城であり、彼の考えた策には絶対に必要な城であった。
「必ず勝機はあるからなんとか三日持ちこたえてほしい」
と城を守る兵に伝えたい元就だったが、連絡手段がない。
そこに隆景が進み出て「小舟が一艘、陶方の船にまぎれて往来しております。おそらく鳩ヶ浦に暮らす漁夫でしょう。
この漁夫を利用すれば城方と連絡がとれるかもしれません」
と言ったので元就は隆景に連絡を任せることにした。

隆景は漁夫の舟が陸に着くのを待ち、「何のために往来しているのか」と聞いた。
漁夫は「戦があろうとなかろうと我らは漁をして魚を売らなければ生きていけません」と答えた。
これを聞いた隆景は漁夫の魚を全て買い取り、そのほかに金を渡して宮尾城に運んでほしいと頼み込んだ。
漁夫が承知したので隆景は家臣二人を連れて魚を入れる船底に潜り込み、
息を殺して海を渡り無事に宮尾城にたどり着く事が出来た。
隆景の到着に宮尾城を守る兵士は大いに喜び、
「必ず援軍はあるから三日持ちこたえよ」という元就の言伝にたちまち士気が上がった。
この様子を満足げに見た隆景はまた船底に戻って帰った。

おわり
271人間七七四年:2010/04/10(土) 14:45:41 ID:TrhEww27

    魚は毛利家がおいしくいただきました
272人間七七四年:2010/04/10(土) 14:57:25 ID:tTHBE+c5
     「てっぽう」は陶軍に差し入れいたしました
273人間七七四年:2010/04/10(土) 15:10:01 ID:YJy7G/8P
もし船底にいるのが見つかって陶に殺されたら、戦国格好悪い死に方トップ3に入れるな
まあそんな死に方しないから名将なんだろうけど
274人間七七四年:2010/04/10(土) 18:13:45 ID:TppF+NRV
順序

九戸の乱の時、徳川家康は岩槻城までやって来た。
その時、家康は井伊直政を呼んで
「直政は急いで準備して、準備が終わり次第出陣してね。
すでに味方が出陣してるから、彼らと協力して頑張って」と命じた。

すると本多正信が
「待った!直政は重臣ですから、最初に行く事もないでしょう。
まずは直政の格下に指揮官を任せるべきです。
そいつがダメだったら直政を出陣させましょうぞ」と言った。

家康はこの進言に
「お前浅はかだね〜。例えば、格下が失敗して次に格上が出るとするよ?
そうなったら面目を失った格下は討死するしかなくなるじゃろう?
そんな事で大事な家臣を殺しちゃダメよ」と言って反対したという。
275人間七七四年:2010/04/10(土) 18:33:08 ID:csMiMBqd
島原の板倉さんがモロにそれだったね
276人間七七四年:2010/04/10(土) 18:36:23 ID:7ytWGcpL
正信は政治謀略はすごくても軍事は苦手だよな。
277人間七七四年:2010/04/10(土) 18:48:44 ID:nI6RV+t9
>>275
板倉さんは、最初っから知恵伊豆が来るまでのリリーフが任務だったという話もあるけど、どうなんだろう

12月10日に総攻撃失敗して、その報告が江戸に着いて、信綱を増援に送ると決定して、その報が島原に着いて、面目を失った重昌が
1月1日に突撃して戦死して、直後に信綱到着ってのも、恐ろしいくらいスピーディな展開に思えるし
今川義元の戦死みたいに後付けで、愚かな死に様をさらした愚将という評価の理由づけにされたのだと、悪い話なのかしらねえ?
278人間七七四年:2010/04/10(土) 19:21:20 ID:PbBdslFh
>>276
ケしたいヤツがおったのやもしれん
279人間七七四年:2010/04/10(土) 20:12:16 ID:qDoJeGdX
>>260
尼子経久「正月も狙い目ですよ」
280人間七七四年:2010/04/10(土) 20:14:21 ID:YBCYJXhr
でも家康と正信だと、事前に示し合わせていたのかも、とは考えてしまうね。

「先陣は直政でいいんじゃね?」
「文句言うかも? 俺はそんな格下じゃないとか。生意気だし」
「じゃあ、カクカクシカジカで納得させよう」

とか
281人間七七四年:2010/04/10(土) 23:26:19 ID:d700YGXC
あの二人はいかにもそういう腹芸しそうだよなw

めんどくさい連中操縦法として
282人間七七四年:2010/04/10(土) 23:39:08 ID:FPIFzPjL
直政なら、家康が一言「先陣は任せたぞ」と言えば
たとえ火の中水の中でも突撃して行きそうなイメージだけど。
283人間七七四年:2010/04/10(土) 23:56:07 ID:l0EQq4xh
>>258
あの山向こうに鬼どもがー、いるとは一度も知らなんだ〜、っと小学校の頃踊ったなあ
なんか鬼の面つけて敵を追い払ったのが面浮立になった、見たいな歌で知ってたけども戦国時代っていうのは当時知らんかったなあ
今思うともったいねえー

まぁうちの地域は浮立はあったけど面浮立はなかったから、面浮立はパチモンみたいなよくわからんこと思ってたのよな
284人間七七四年:2010/04/11(日) 15:17:37 ID:kl8Ohg+z
示現流開祖東郷重位の逸話

東郷重位が道場にある飯茶碗を畳に伏せ置いて、
「えいっ」
と声を発すると茶碗が真っ二つに割れたという。
給仕していた女がいうには、別段大きな声でも荒々しい声でもないらしい。
明治二十年の天覧試合で兜斬りを成功させた最後の剣客こと榊原鍵吉にもこれが出来たらしい。

気合いに自信のある方は試してみてはいががでしょうか?
私はやってみたけど割れませんでした…(当たり前か)
285人間七七四年:2010/04/11(日) 15:52:51 ID:GHk4PWF6
薩摩んごっチェストとかキェーィでごわはんか?
286人間七七四年:2010/04/11(日) 15:54:09 ID:08MgZLVw
それ多分目にも止まらぬ速さで抜き打ちしてるだけだよ
287人間七七四年:2010/04/11(日) 15:59:42 ID:bwKMpvld
>>284
まあ剣豪ならよくあることだな。
草深甚四郎みたいに、タライに水張って剣を振り下ろすだけで十里先の人間を切り捨てられる奴もいるんだしw
288人間七七四年:2010/04/11(日) 16:01:21 ID:gKLkMNa/
江戸時代の芸で似たようなのがあるけどトリックは
最初から割れてるのを糊でくっつけたのに細い糸をつけといて
気合いで割る振りをする役の人が叫んで注意を引いてる間に
仲間が縁の下とか壁の後ろから糸を引っ張ってまた割るらしい
289人間七七四年:2010/04/11(日) 17:40:52 ID:Fyd2D6aC

元亀元年六月、近江での織田と朝倉の戦いとあるから姉川の合戦の時の事か。
援軍として三河からやってきた徳川家康を交えて軍議を行っていた際、会議が一段
落したところで信長が口を開いた。

「いやぁ、それにしても三河殿、このたびは遥々近江までご足労いただいて真にか
たじけない。お礼の印として、この『槍』をお譲りしよう」

信長が従者に持ってこさせた『槍』を家康に手渡す。

「これは源家由来の品だから、三河殿に使っていただいた方が良いだろう。何を隠
そうこの槍、鎮西八郎為朝が使ったと言われる矢なのだ!」
「ほぉ、それはそれはかたじけない……………『矢』?」
「うん、『矢』」

キョトンとする家康。それを面白そうに見ている信長。

「『槍』のように見えますが……」
「鎮西八郎の矢はデカすぎる故、誰も使えぬ。それで試しに鏃を外して槍に仕立て
てみたら丁度良い大きさだったので槍とした、と当家に伝わっておる逸品。何なら
矢に設え直させるが?」
「い、いや……こりゃ矢としては使えませぬなぁ」
「ほぉ、海道一の弓取りでもムリであるか!」

”現在虎革で作った投鞘に収められている槍がそれである”とエピソードは締めら
れているので、逸話の信憑性はともかくこの槍、江戸中期には実在したようである。

それにしても信長、家康をからかって遊んでいるようにしか見えません。
戦の直前なんだけどなぁ……(^^;

290人間七七四年:2010/04/11(日) 18:36:06 ID:+Z0AwO8B
家康も気が利かないな

かたじけのうござりまする
しかし、これは普通の弓では射ることはできませぬ
セットの弓も頂戴いたしたく存じまする

くらい言ってほしかった
信長も喜んで無理やり作ってくれそうな気がする
291人間七七四年:2010/04/11(日) 18:54:24 ID:c8uWhOEo
めんたい県
有田焼県
ちゃんぽん県
しいたけヨーグルト県
スイカ県
マンゴー県
火山灰県
ちんすこう県
292人間七七四年:2010/04/11(日) 18:55:16 ID:c8uWhOEo
>>291
すまん誤爆した
293人間七七四年:2010/04/11(日) 19:08:25 ID:HfAOthEn
>>290
気が利くぐらいならわざわざ三河には生まれてこないw
294人間七七四年:2010/04/11(日) 19:19:26 ID:AERvGRu2
295人間七七四年:2010/04/11(日) 19:59:01 ID:p242ebVb
>>284
ディスカバの怪しい伝説でやってたけど
特定の周波数の声を出せれば割れるらしいぜ
296人間七七四年:2010/04/11(日) 20:51:36 ID:hP7TnsVU
ギャオスの超音波メス的な
297人間七七四年:2010/04/11(日) 22:34:55 ID:OSiQpTBE
>>282
井伊直政で戦塵と言うと、小田原役の時の
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-590.html

この話を思い出したw この話だと先陣ばかりやりたがっていたと書かれているけど。
298人間七七四年:2010/04/11(日) 22:40:57 ID:+/vaSJEt
流れをぶった切り長文を投下

紹運の華麗なる鎮圧

高橋紹運の家臣に北原鎮久なる人物がいた。
この人物、高橋家に古くから仕え高橋鑑種の頃からの筆頭家老として高橋家に重きを成していた。
ただ、高橋紹運の重臣といえば忠勇義烈のイメージを抱くがこの北原鎮久は「勇あって智なし、ただ貪欲無道のもの」とのこと
まあ、言うなら性格の悪い脳筋といったところだろうか。
紹運が高橋家に入る前の当主高橋鑑種と不和になり家臣一同と放逐を画策。
大友宗麟に嘆願し、鑑種の高橋家の家督を剥奪させて、吉弘鎮種(後の紹運)に高橋家の名跡を継ぐことに功の有った人物である。

高橋家の中心として順風満帆だった北原鎮久だが、彼の運命が暗転するのは大友と島津の大戦、耳川の戦いである。
大友が大敗し、大友家の勢威が一気に衰えるが高橋紹運は揺るがない。戸次道雪に従い、大友家の勢力維持に奔走。
しかし、以前主君を放逐したことのある鎮久は未来の潰えた大友家のために懸命なこの紹運の行動を批判的であった。

これに目をつけたのは秋月種実。大友に常に抵抗していた種実は家臣の内田善兵衛に北原鎮久を篭絡する事を命じた。
あっさり高橋紹運を裏切る事を決めた北原鎮久は岩屋城の機密を秋月種実に漏洩をし始める

が、この北原鎮久、なぜかこの時点で紹運に大友を見限るように説得を試みるのである。
北原の説得に応じるくらいなら島津も苦労はしない。
紹運は即断で断わり、北原は懇意にしていた住職に「こんな機変のわからない主なんざ追い出して他の話のわかるやつを迎えてやンゼ!」
と紹運の放逐を画策し始めるのである。

謀略に時をかけるのは失敗のフラグ。

そのフラグの通りあっさり紹運に露見。北原鎮久が城に登城したところを紹運の懐刀、高橋家の死刑執行人こと萩尾大学により成敗!
これでめでたし高橋家は奸臣の排除に成功として話は終わるのだが・・・
299人間七七四年:2010/04/11(日) 22:42:52 ID:+/vaSJEt
これでは北原鎮久のありきたりな謀反失敗のちょっと悪い話。
ここから話の中心として主人公を掻っ攫うのが男前な紹運。

当然、当主の誅殺の大事件は北原家に伝わり、鎮久の謀略を全く知らない息子種興は激怒。弔い合戦の準備を始める。当然である。
そこで種興に一通の書状が届く。差出人は高橋紹運。
その書状には今回の鎮久誅殺の仔細が書いてあり、事情の知らない息子種興には一切、罪は問わず北原鎮久の遺領をそのまま継ぐことを認めるという内容だった。
これに種興は、自分の父の非を認め、それを恥じ、その汚名を雪ぐために紹運に一計を提案する。

一方、秋月種実は北原鎮久の内応確約の書状を受け取り、内田彦五郎に命じ300名ほどで岩屋城を奪うべく進発させた。
もちろん北原種興の策略である。
そして、内田は待ち受けていた紹運率いる軍勢に散々に討ち破られ、もちろん内田彦五郎は戦死、
率いていた300名のうち生きて帰ったものは30余名ほどという全滅に近い敗戦を喫するのである。

秋月の軍勢をおびき寄せ汚名を雪いだ北原種興はその後、高橋家の重臣として重く用いられるのである。

下克上の戦国の世。謀反の疑いがあるだけでも一族総誅殺が常識のなか、相手を許すだけでなく書状一枚でその信用を勝ち取るのもすごい。
乱世に咲いた鮮やかな華には立派な根が生えている。
そんな事をイメージさせる高橋紹運の男前な謀反の鎮圧方法のお話でした。
300人間七七四年:2010/04/11(日) 23:04:50 ID:pzwLQmiy
高橋紹運公は誠の武士ですね!!
301人間七七四年:2010/04/12(月) 00:15:09 ID:UbVIhXU/
福岡県の教育委員会は高橋紹運公、立花宗茂公を学校で語り継ぐべき
302人間七七四年:2010/04/12(月) 00:56:41 ID:sICI0P9l
乱世に咲いた鮮やかな華には「立派な根が生えている。」
そんな事をイメージさせる高橋紹運の|男|前な謀反の鎮圧方法のお話でした。

スマン、変なところに目が釘付けになってしまった
303人間七七四年:2010/04/12(月) 02:07:21 ID:vQcWbw6L
福岡県なの?
土地勘のないオレには高橋さんちって福岡県ってイメージないんだが・・・
大友さんちは大分って感じしてるし、どうなんですの?
304人間七七四年:2010/04/12(月) 02:42:41 ID:oB0UpGAI
岩屋城なんて福岡も福岡で現太宰府市にあるんだぜ。

それに比べて戦国期の熊本はねえ……南部は相良氏がいたけど北部は菊池氏が滅びて以降、国人達が乱立してたからなあ。
ただ、それだからこそ加藤清正を神格視したんだろうけどね。
とまあ本来他所から入ってきた加藤氏や細川氏の逸話がほぼ占める熊本県民としては羨ましい事です。
305人間七七四年:2010/04/12(月) 03:35:34 ID:Lf1cztYd
福岡県は筑前・筑後・豊前(小倉とか門司とかのね)が合体

大分はほぼ豊後
306人間七七四年:2010/04/12(月) 10:33:35 ID:nhjwhC3O
>>305
今は山国川が県境になっているけど、昔はあそこはとくに境界でもなかった。
だから、門司から宇佐あたりまでずっと豊前国なんだよな。
307人間七七四年:2010/04/12(月) 10:48:56 ID:GrwTST0L
>>302
間違ってない間違ってないと思うよ
あいつの根はスゲー筈だよww
308人間七七四年:2010/04/12(月) 12:28:54 ID:IygLhv81
>>303
大分県西部には高橋紹運ゆかりの神社仏閣が、非常にマイナーな感じで点在している。
地元の歴史家とかもスルー気味だけどね。福岡県にあれば、もっと注目されたかもね…
309人間七七四年:2010/04/12(月) 14:02:25 ID:+DFSwLNX
やっぱり「福岡」と言えば、黒田家だろう
310人間七七四年:2010/04/12(月) 16:48:52 ID:gD1Gt5i/
そうだね。
駅の名をわざわざ「博多」にするくらい黒田家。
311人間七七四年:2010/04/12(月) 18:42:49 ID:GjrCDrzG
豊前つながりでちょっと書いたんで貼ってみる。黒田は主人公じゃないけど。
312:2010/04/12(月) 18:43:48 ID:GjrCDrzG
秀吉  おまえにくれてやった豊前の国に、城井なんちゃらって地侍がいるだろ
官兵衛 はい
秀吉  あいつ、転封命令に従わないでゴチャゴチャ言ってるから、殺しといて
官兵衛 はっ
313:2010/04/12(月) 18:44:31 ID:GjrCDrzG
鎮房  あの猿は、父祖伝来の土地を朱印状ひとつで取り上げるつもりか
朝房  どこで聞きつけたのか、当家の家宝も召し出せと言って来ております
鎮房  今度ばかりは覚悟を決めた。鎌倉の世よりこの地に住んで四百余年、民百姓と共に耕した城井谷の山河が我らの枕ぞ
朝房  とーちゃんかっこいい!
314:2010/04/12(月) 18:45:47 ID:GjrCDrzG
長政  鉄砲もろくに扱えぬ田舎侍どもめ。コテンパンに叩きのめしてやる
又兵衛 親父殿にも相談せずにおまえが総大将なんて、大丈夫かよ
長政  うるさい。農民が教えてくれたこの山道から攻め込まれるとは鎮房も予期してないはずッ
旗本A 若様!前方の岩陰より猛烈な矢の雨!待ち伏せされていたようです
又兵衛 おいおい・・・
長政  相手はせいぜい千五百、こちらは毛利の援軍含めて二万。負けるはずがない!突撃!!
旗本B さらに左右より兵!狭い山道にて我が軍は身動き取れず、隊伍が分断されております!
長政  なんの、相手は寡兵!押しつぶせ!まだ俺のターンだ!
旗本C 背後に軍勢!旗印は左三ツ巴!城井勢です!
長政  なんの、相手は(ry
旗本C もはや下知も届きません!ここは早くお逃れくだされ!
又兵衛 あ〜あやっぱりな・・・
315:2010/04/12(月) 18:46:48 ID:GjrCDrzG
官兵衛 (城井に呼応して近隣各地で地侍が蜂起か。面倒なことになったな・・・)
恵瓊  拙僧にお任せを。城井の鶴姫と長政殿の婚姻を条件に和睦を纏めてみせますぞ
長政  え?ぼくにお嫁さん!?
官兵衛 かたじけない。ではその間に他の乱を平定するとしよう
長政  美人系?それとも可愛い系?
又兵衛 おまえもう氏んで良いよ
316:2010/04/12(月) 18:47:59 ID:GjrCDrzG
鎮房  中津城にて鶴姫の婚儀だと
家老  典礼にかこつけた黒田の謀でしょうか
鎮房  まあよい、これも時代じゃ。ご先祖の高恩には先の戦で報いた。父上、よろしいですな
長房  頭領の貴様が好きにせい
鎮房  谷も色づき、もう収穫期じゃ。領主の座を守るために田畑を荒らすは本意ではない
家老  殿!
鎮房  儂は武士として死にに参る。朝房の身重の嫁御を実家に逃す手筈だけは整えておけ
家老  はっ・・・
317:2010/04/12(月) 18:49:33 ID:GjrCDrzG
長政  父上、いよいよ鎮房を騙し討ちですな!
又兵衛 静かにしろ馬鹿
長政  馬鹿とはなんだ馬鹿
官兵衛 いいから黙れ馬鹿。おまえの嫁に聞かれたらどうする
長政  (´・ ω・`)
官兵衛 (緒戦でこっぴどく負け、娘を人質に誘き出して騙し討ちか・・・残したくない歴史だな)

鎮房  やあやあ、婚儀と聞いて参りましたが、随分簡素な席ですな
長政  武家の不調法、お許し下され。時にお供衆はどちらに?
鎮房  ご城下の合元寺に置いて参った。ほんの四十名ほどなので安心めされよ
長政  寡兵にござるな。安心いたした
又兵衛 (この馬鹿が・・・)
鎮房  名高き後藤殿がお相手とは、この鎮房一生の誉にござる
又兵衛 ・・・
318:2010/04/12(月) 18:51:40 ID:GjrCDrzG
鎮房は小姓と二人で数十名を道連れにし、最後は又兵衛の槍にかかった。
城井谷の館は急襲を受け、老父長房ほか一族が誅せられた。
同じ頃、事前に肥後一揆鎮圧の与力として参陣させられていた朝房も、逗留先で夜討ちに遭って果てている。
合元寺では血で血を洗う激闘が繰り広げられ、寺の土壁は赤く染まった。
その後、洗っても洗っても血の色が滲み出てくることから、同寺は赤壁寺とも呼ばれるようになった。
中津城下では城井の怨霊伝説が囁かれ、官兵衛は城井神社を祀って慰霊に努めた。

豊前宇都宮氏は城井谷の地で代を重ねて城井氏となり、領民に愛され、一族郎党は結束して戦国の世を勇戦した。
武門の名を惜しみ潔く散った鎮房が見事なら、かの地から一族を引き離すが肝要と見た秀吉の慧眼もまた見事と言える。
こうして、城井家は歴史の表舞台から去った。

朝房の妻・竜子は進壱岐守らに護られて英彦山に逃れ、忘れ形見の男児を産んだ。子は朝末と名付けられた。
江戸初期、朝末を城井谷の領主として迎えるべく遺臣たちが諸方に働きかけた記録が残るが、ついに願いは叶わなかった。
朝末は福井松平家の旗本として一生を終えたという。
319人間七七四年:2010/04/12(月) 19:00:04 ID:GjrCDrzG
以上、前に見聞きした話をベースに書いた。多少端折ってるけど一応史実のはず。
320人間七七四年:2010/04/12(月) 19:19:41 ID:ees48gsC
まあ既出ではあるが謀殺の内容と後日談は初出ですな
しかし福井の松平さんも秀康以来多種多様な人材を召抱えているなw

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-167.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-893.html
321人間七七四年:2010/04/12(月) 19:56:46 ID:eDNoMnDm
悪意のある書き方だなあ。せめて悪い話に書くべき。
322人間七七四年:2010/04/12(月) 20:06:58 ID:+DFSwLNX
戦国期はこういう謀殺を汚点とは考えないよね
長政はこの時城井さんを殺った刀をずっと持ち歩いてたし
323人間七七四年:2010/04/12(月) 20:08:55 ID:NGAJTAnG
>>319
中津周辺の出身?
別に逸話スレだから史実じゃないけどいいですよ
324人間七七四年:2010/04/12(月) 20:09:39 ID:141DWTZy
本当に汚点みたいな暗殺は歴史の表舞台には出てこないだろうしね
325人間七七四年:2010/04/12(月) 20:10:15 ID:/c2nrwOw
宇都宮一族のなかでも一番悲惨な結末に思えるけど、
鎮房の華麗な散り際は、感銘を受けるいい話なんじゃないだろうか?
326人間七七四年:2010/04/12(月) 20:17:40 ID:+DFSwLNX
そういや、フロイスは殺したい相手を饗宴に招いて油断させたところを騙し討ちにするのがこの国の慣習、とか書いてたな
327人間七七四年:2010/04/12(月) 20:21:40 ID:vkhWPP4N
中央の政局に関わってないローカルな話だから有名じゃないけど
城井谷関連の怨念の史実浸食ぶりはやばいからなあ…
黒田節とかマジで歌うのタブーらしいよ

酒は飲め飲め飲むならば
日の本一のこの槍を
飲みとるほどに飲むならば

「宇都宮鎮房に酒を飲ませて騙し討ちした歌」だから

前にどっかのスレで黒田関連の話題になった時、自称地元の人がとんでも説を書き込んで
フルボッコされてたけど、実は本人は地元に伝わる伝説に懐疑的な人だったらしく
「まだ現実味のある話を選んだのにこれもデタラメですか…」と落ち込んでいたのが印象的だった
328人間七七四年:2010/04/12(月) 20:39:12 ID:zspGITFZ
こういう暗殺話や直家さんの暗殺劇に慣れ親しむと
今の実生活でも暗殺くらいいんじゃないかと思ってしまうから困る。
329人間七七四年:2010/04/12(月) 20:49:51 ID:GjrCDrzG
祖先が城井の殿様に仕えてた(自称)から、バイアスが掛かってるのは間違いない。
でも別に謀殺酷いウキョー!!ってつもりも無い。個人的には苦労人の孝高さんも好きだし。

流れを読み誤って滅びた一地方領主にも、ちゃんと通すべき筋目があったって話を
書きたかった。荒らしてしまったならスマン

>>327
子供の頃聞いた昔話の「いい殿様」はたいてい「うつのみやのお殿様」だし、
地元の人に愛されてたのはきっと事実なんじゃないかと。
あと、黒田節が歌われてるのは確かに聴いたことがなかった。なるほどタブーなんだw

史実が浸食される課程としては、文中に挙げた猟官運動の経緯が入るだろうね。
徳川さんに「こんなに正当な領主なんですよ!」って主張するために、偽書屋で
書物を偽造するのが当たり前だったらしいし。
そのための資金集めをするのが遺臣の仕事だったってことも宇都宮本に書いてた。
330人間七七四年:2010/04/12(月) 21:14:45 ID:zspGITFZ
今でも敬愛されるのはいいことだよな
このスレにはこういう純粋な愛も必要だよ
331人間七七四年:2010/04/12(月) 22:07:46 ID:gD1Gt5i/
いい話と悪い話は、基本的に物事の裏と表ですからね。
両側から見てどっちかに偏る話は少いと思います。
332人間七七四年:2010/04/12(月) 23:19:53 ID:Rqw3eHGQ
>>310
完全に亀だが
福岡って名前自体、黒田家ゆかりの備前福岡からとった名前だしな
333人間七七四年:2010/04/13(火) 00:06:41 ID:rGfvhL+/
逸話や伝説を語るスレで「その書き方は悪意を感じるor肩入れし過ぎ」
みたいな無粋なことは言うなよ
334人間七七四年:2010/04/13(火) 00:44:46 ID:EkZ9hXs9
>>331
時々フォローのしようがない話もあるけどね
335人間七七四年:2010/04/13(火) 00:50:28 ID:fDkHICXV
森ブラザーズ「呼んだ?」
336人間七七四年:2010/04/13(火) 00:57:52 ID:ElERyj7y
小林吉隆「>>334が呼んだ人はそれがしがこれないように致しました」
337人間七七四年:2010/04/13(火) 08:55:45 ID:tYnfik30
>>334
池田ブラザーズ「んー?何のことかな?」
338人間七七四年:2010/04/13(火) 11:08:40 ID:5KQok+Mg
TMネットワークの宇都宮隆は育ちは東京だが生まれが備前の辺りじゃなかったかな?
うつのみやのとのさまと血縁があるのかしら
339人間七七四年:2010/04/13(火) 11:58:07 ID:SsHI6puR
>>338
熊本県生まれの東京立川育ちじゃなかったかな…?
340人間七七四年:2010/04/13(火) 12:00:19 ID:SwDhbpgm
TMネットワークが、
「タイムマシンネットワークとか言ってるけど、多摩ネットワークだよね実態わ」
と言われたときのショックは忘れられない。
341人間七七四年:2010/04/13(火) 12:02:57 ID:5KQok+Mg
>>339
ググったらその通りだった…スマヌ
342人間七七四年:2010/04/13(火) 13:15:14 ID:C+GGuXyG
>>340
それを聞いた多摩出身の俺は狂喜した
343人間七七四年:2010/04/13(火) 13:15:30 ID:EkZ9hXs9
>>340
シカゴなんとかと同じノリでつけたんだよな
344人間七七四年:2010/04/13(火) 13:59:09 ID:1f/WzoKh
>>336
???「おいおい。越前の国主様に向かってなめた口きくなよ」
345人間七七四年:2010/04/13(火) 16:23:32 ID:0K0hm/D0
>>342
最初は多摩ネットワークでいこうとしてたんだよ
シカゴと比べるとださいってことで却下されたんだったかな
346人間七七四年:2010/04/13(火) 19:53:04 ID:YtEWSdFL
TMちょっと悪い話。
347人間七七四年:2010/04/14(水) 01:36:20 ID:MhoMlLIa
TM話終わった?投下するよ

原尻宮内の一言

天正13年、筑後国猫尾城攻めの最中、高良山の陣中にて立花道雪が病死した。
その際、道雪は遺言として、
遺骸に甲冑を着せ、柳川の方に向けてこの地に埋めよと指示していた。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3445.htmlの話を参考に

結局宗茂の決断で遺体を持ち帰ることになったのだが、道雪への尊敬の念が強すぎた重臣たち。
由布雪下や小野和泉といった面々が、
「若殿の言うことはもっともだ。だが大殿のご意思にもとるゆえ腹を切ってお詫びしよう」
筆頭家老が殉死を口にしたためその場は何やら妙な方向に…
そんな空気の中一人の男がこう言った。

「お前らが死んだら若殿一人になっちまうけどどうすんの?」

立花家中でちょっと変わり者として知られていた原尻宮内である。
この一言に頭のさめた皆は殉死を思いとどまり道雪の遺体を丁重に立花へと持ち帰ったのだった。
ここで宮内が止めなかったら立花家のその後は大きく変わったかも知れない。
空気に流されずに物を言える人って重要だね。

あ、この人http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2770.htmlの逸話で
討ち手に選ばれたりしてるんで結構な武勇もあったり、
立花家が改易された後もしっかりと宗茂の世話をしてたりして80歳ぐらいまで長生きしたらしいです。
348人間七七四年:2010/04/14(水) 07:03:14 ID:dbeJ3kEZ
皆長生きだよなぁ
349人間七七四年:2010/04/14(水) 07:44:22 ID:k8BPphDn
一当斎「いいなぁ…」
350人間七七四年:2010/04/14(水) 08:39:30 ID:u9ILyO7k
立花家だとどう読んでもいい話にしかならないけど、これが徳川家だったら・・・
空気に流されずに物を言える人ってのは、空気を読めず物を言う人って場合もあるからな〜
351人間七七四年:2010/04/14(水) 10:14:44 ID:nkyYP5zC
めんどくさい三河武士たちが皆立花家並に長命だったら…

助けて!めんどくさい人たちがいつまでも口挟んできて幕政が回らないの!
352人間七七四年:2010/04/14(水) 12:17:54 ID:QrdyWENN
しかし!助けを求めた先にも三河武士しかいなかった!

しかしまわりこまれてしまった!並の絶望感がw
353人間七七四年:2010/04/14(水) 13:14:18 ID:VM+QyHve
利えもんなら!
土井さん家の利えもんならなんとかしてくれる!
354人間七七四年:2010/04/14(水) 13:41:09 ID:X/VIOrm9
三河武士はなかまをよんだ! 

大岡伝右衛門があらわれた!
「ここをとおりたくば、私の首をもってゆけ!」
355人間七七四年:2010/04/14(水) 13:51:33 ID:Mzgrhqwh
通りすがりの鬼武蔵「え?いいの?」
356人間七七四年:2010/04/14(水) 14:39:18 ID:X/VIOrm9
大岡「ただしそのいきさつ
   大御所様に一切合切、サシで説明することを、
   武士の面目にかけて誓って頂きたい!」
357人間七七四年:2010/04/14(水) 14:51:14 ID:HjXgXn5R
殺していいと君がいったから…今日は無骨記念日
358人間七七四年:2010/04/14(水) 16:03:21 ID:u9ILyO7k
鬼武蔵さんなら、大岡さんが最後まで見栄を切る前に首が・・・
359人間七七四年:2010/04/14(水) 19:58:47 ID:dqe2raTE
豊臣秀吉が家臣らと歴史談議で盛り上がったときのこと

家臣たち一同は口をそろえて源義経の一ノ谷、矢島での武勇を、
さすがは名将だと、口々に称えていたところ、秀吉が口を開く。

「うん、義経は少し勇気があるけど、威儀はないよね。
それだから将としての器量ではない。
なんでか?って、義経が梶原景時と喧嘩した逆櫓の論をみればわかるよ。
義経は源頼朝公の血縁で、軍の総大将なわけだ。
そんな総大将の身にあるものを梶原は猿武者と言ったわけだが、
これは義経に総大将としての威儀がないからなんだよ。
だから称えるだけのことはないと思うぞ。
いいか!ここからが重要だからよく聞けよ
昔より功が優れているのは、この秀吉と頼朝公だけだ。
しかし頼朝公は源家の嫡流だから、どちらかと言えば功はなりやすいよね。
わしは匹夫から身を興して、応仁以降の乱れた天下をことごとく平らげて、いまの天下をとった。
と、すればさ、わしの功は頼朝公に百倍する!!!」

と言ったとさ。
ビッグマウスも秀吉くらいになると嫌味がないw
360人間七七四年:2010/04/14(水) 20:39:46 ID:vgd+mIp1
>>359
さすが太閤殿下
361人間七七四年:2010/04/14(水) 21:13:46 ID:UOQXzDWw
今の時代でもワンマン社長なら似たようなこと言いそうだな。
362人間七七四年:2010/04/14(水) 21:17:47 ID:omDsRf9p
実際日本ほど身分にうるさい国の歴史上で匹夫から天下人になったのは秀吉だけだしね・・
363人間七七四年:2010/04/14(水) 21:51:52 ID:D2BGxzg4
秀吉って内心自分は信長より優れていると思ってたのかな・・・
364人間七七四年:2010/04/14(水) 21:58:12 ID:9W/RftU5
ほら、こう成功しちゃうと調子のって色々フカしちゃう事ってあるじゃないですか……
365人間七七四年:2010/04/14(水) 22:08:02 ID:nqPitrgM
元和5年(1619 )、備後福山十万石の大名となった水野勝成は、上水道の整備、城下町の建設、
産業育成と、福山の発展のため八面六臂の活躍をし、流浪の暴れ者であった若い頃の面影は
どこへやら、名君として領民から深く慕われた。

ある人が勝成に、「勝成様の施策は、大名でありながら下々の者のことをよく考えた上で
なされているように見えます。どうしてそのように下々の者達のことを理解しておられるのでしょうか?」

と、尋ねた。これに勝成

「俺は豊臣家を追い出されて西国を放浪していたとき、虚無僧をやって食いつないでいたのさ。
下々の連中のことがわかるのは、そのおかげだな。」

まあその流浪の最中も野武士の頭領をぶった切ったりいろいろやっているのだがw
ともかく流浪の苦労を身にして名君となった、水野勝成の良い話。
366人間七七四年:2010/04/14(水) 22:14:41 ID:dbeJ3kEZ
チンピラが相手は虚無僧だと思って襲い掛かったら実は立花家の名臣で叩きのめされた。
野盗が相手は虚無僧だと思って襲い掛かったら実は水野勝成で逆にぶった切られた。

戦国の虚無僧こえーw
367人間七七四年:2010/04/14(水) 22:15:17 ID:/Sfb2tlS
さすが太閤殿下!俺たちにできない事を平ぜ(ry
おまけに猿に猿武者と言われる義経w
368人間七七四年:2010/04/14(水) 22:16:44 ID:MhoMlLIa
>>365
自分で食いつないでいたのか大したもんだ
部下が虚無僧やって食わせてもらって内心はどうあれのんびりしてた人がいたってのに
369人間七七四年:2010/04/14(水) 22:21:01 ID:BFFmCjB4
>>359
有名な天下友達の逸話と微妙に違うけどw
370人間七七四年:2010/04/14(水) 22:26:15 ID:nqPitrgM
そう!虚無僧といえば!

江戸で虚無僧をやって立花宗茂を助けた立花家家臣十時連貞だが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1018.html

天正15年(1578)の肥後国人一揆の時、立花宗茂の名を轟かせた兵糧入れで
十時連貞は実際に搬入部隊を指揮し活躍したのだが、この時連貞と協力し
互いに声をかけあいながら兵糧入れを成功させたのが、虚無僧をやって流浪した挙句
佐々成政に拾われた水野勝成だったそうな。

新旧恐怖の虚無僧にこんなつながりがあったという、
虚無僧豆知識。
371人間七七四年:2010/04/14(水) 22:45:41 ID:/Sfb2tlS
>>368

まったく道雪先生の家臣教育ってどれだけ凄いんだろ
372人間七七四年:2010/04/14(水) 22:48:33 ID:dtkVvh3O
>>371
その替わりに娘への教育がなってなかった!
373人間七七四年:2010/04/14(水) 23:12:23 ID:kLlbWRsQ
>>367
義経が政治的に無能なDQNってのは、割とよく言われるのに、判官贔屓補正も強いわなあ
374人間七七四年:2010/04/14(水) 23:17:13 ID:B2K0i5sg
まあ秀吉も晩年の方はなかったことにしてくれる作家さんも多いんだからお互い様だ
375人間七七四年:2010/04/14(水) 23:28:17 ID:MhoMlLIa
火の鳥 乱世編の義経
戦はめちゃめちゃ強いけど傲慢で傍若無人
ああいうキャラ付けの義経は珍しかったんで印象に残ってる
376人間七七四年:2010/04/15(木) 07:57:46 ID:h6GANVUF
>>375
あれは名作だね、子どもの頃読んだけど、
大人になって源平戦争の知識が増えた今、読み直すとなお面白い
377人間七七四年:2010/04/15(木) 08:04:43 ID:kMxiuTol
「とりあえず放火」という当時では斬新な戦術を編みだした天才だからな
その戦術思想は戦国時代まで受け継がれる事になるヒャッハー
378人間七七四年:2010/04/15(木) 08:11:13 ID:7FTsEcJY
>>372
なってないと言うか、ギン之助は男の娘として育てられたから仕方ないw
379人間七七四年:2010/04/15(木) 08:30:50 ID:zbvd+O1T
>>378
ソレを言うなら女の漢
380人間七七四年:2010/04/15(木) 09:29:05 ID:ZNUIu19A
武勲をあげるチャンスを均等にするって当時の戦の常識無視したんだから
中間管理職の梶原にとっちゃ騒動のもとになりかねんとんでもない総大将だよねえ
つきあげそうとう食らってそうだし・・・

つか戦国期でも明らかに勝ち目薄いほうへ味方するのって「こっちが武勲あげられそう」って判断もあったんだろうねえ
381人間七七四年:2010/04/15(木) 11:09:01 ID:q/P/f/9f
大河ドラマの「草燃える」での義経は結構DQN
それ以上に頼朝がDQN
382人間七七四年:2010/04/15(木) 12:18:34 ID:h6GANVUF
源氏の男はみんな切ない死に方をしてるし、
帳尻合わせでいえば義経も頼朝の人生もさほど大差ないように見える
383人間七七四年:2010/04/15(木) 12:49:05 ID:poA0zxAn
>>365
まさか勝成公も音撃戦士とはおもわなんだ
384人間七七四年:2010/04/15(木) 12:53:27 ID:+siRcM2b
7 名前:名無しさん@十周年[] 投稿日:2010/04/14(水) 09:10:37 ID:15oGaGg9O [1/3]
着氷には失敗したが着床には成功したのか

62 名前:名無しさん@十周年[sage] 投稿日:2010/04/14(水) 09:28:58 ID:ZGUsn85B0 [1/3]
敵は本能にあり
----
[557] テープ(関西)[] 2010/04/14(水) 17:28:00.69 ID:XosK1Dqo
妊娠4ヶ月とかでスケートしても大丈夫なの?

[571] れんげ(福島県)[] 2010/04/14(水) 18:37:11.62 ID:wjI/5Vpc
信成の彼女って足軽らしいよ
385人間七七四年:2010/04/15(木) 13:40:47 ID:U7zhaozY
勝成:鍛えてますから!
386人間七七四年:2010/04/15(木) 14:11:13 ID:q/P/f/9f
>>382
為義以降はまさに血塗られた歴史だな。
八幡太郎以降というところに遡っても、結構血まみれだけど。
387人間七七四年:2010/04/15(木) 20:43:26 ID:U5OSEXt1
サイトにある徳川家光、鷹狩りに出かけて・悪い話と似てるが


三代将軍家光が浅草への行楽の折、休息のために小寺に立ち寄り、茶を所望した。
部屋で待つ間、ふと見ると隣室と隔てる戸に桟が打ってあることに気づいた。
家光はこれを怪しんで、近侍の者に無理やり開けさせた。
すると中には十七、八の女が座っていて、ゆったりと煙草をふかしている。
「どうしたか」
と尋ねても、女はうなずいただけで何も答えない。
妻帯の許されない住職が内密に女性を囲っていたのである。
家光の一行は茶を飲むと早々に退散した。

その後、大分月日がたって浅草へ出かけたとき、家光は先だっての小寺を思い出して、
再び立ち寄ってみた。
すると、以前の住職がいない。
どうしたのかと尋ねると、前の住職は女を隠していたことを将軍に知られたので、
あの後すぐにどこかへ逃げてしまったという。
「馬鹿な者よ。このような小寺のことまで仕置きしていて、天下の政治ができるものか」
家光は苦笑したという。

裏を返せば、徳川幕府の威光は小寺の生臭坊主にまで届き、将軍は公正明大な政治を行うと
民に知られ、かつそれが信じられていたということである。
388人間七七四年:2010/04/15(木) 21:16:13 ID:F7wR2pfJ
住職が女を囲ってると厳密に言えば、それは罪になったの?
389人間七七四年:2010/04/15(木) 21:43:24 ID:FzIA41Jx
明治維新の太政官令で僧侶の妻帯・肉食が許可されたが、それまでは犯罪だった。
しかし、別に見つかったら死刑になったというわけではなく、
「大っぴらにやるんじゃないよ」という江戸時代的なゆる〜い法だったみたいだね。
390人間七七四年:2010/04/15(木) 21:44:33 ID:iuCLBtMm
>>378
ギンチヨは男の娘じゃないだろ性別的に
ベル薔薇ではあるが
391人間七七四年:2010/04/15(木) 21:45:49 ID:iuCLBtMm
>>389
宗派によって違わね?
392人間七七四年:2010/04/15(木) 22:25:55 ID:XNiVnAPh
                     l   /  .r―――┐l
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.   ';i l :::i;;,, ::' "......::'''ン  .., .:::'''"゙, ./      ィ   ,l  .!
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    l;;;;`‐;;;;;ヽ   . './'ー'''ー‐' ',  l;;;,,,ヽ  ,イ;;f'゙---ヾゝ;/‐t、
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              人            /l
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  `` ‐-----‐ '"         `` ‐-----‐ '"
393人間七七四年:2010/04/15(木) 22:28:54 ID:l+XTqagh
俗法では罰しないって話では?

例えば現代日本でイスラムが豚肉くっていいですよなんて法律が作られたとしても、
それで豚肉食べるイスラムがいるかどうか?
394人間七七四年:2010/04/15(木) 23:24:04 ID:GsrICfC9
佐賀鳥栖は玉林寺の住職、金峯和尚は鍋島直茂の厚い帰依を受けていた。

その金峯が一線を退き、隠居すると聞いた直茂は、
「長年の厚き恩義、感謝のしようもござらん。せめて隠居料として知行百石、進呈しよう。」
と申し出たが金峯は、
「テメェの武功は、ワシが数珠の房を揉み切るほどに祈祷してやったからじゃろが。その恩も忘れて、
たった百石で恩人を突き放そうっちゅうんかい。恩を返す気なら、せいぜいワシに付き合えや。」
と怒り、知行を断った。

直茂はこれに応え、たびたび自邸に金峯を招き、夫人の彦鶴(陽泰院)と二人で金峯の話を聞いた。
時に話は深夜に及び、そのまま三人一緒に一つの部屋で寝ることすらあった。


ある朝、金峯が目を覚まして寝返りを打つと、そこには寝乱れた人妻の姿が!!


「ウワァァァアアアアアアアアアア!!!!!」
仰天して隣室に駆け込むと、「やあ、和尚おはよう。」そこには澄ました顔の、直茂の姿が。

実は、朝起きたらすぐに身支度を整えるのが日課の直茂、早起きしたその日は、すっかり金峯を
信頼して、金峯の横で眠る妻をそのままに起き出していたのだ。

『金峯立腹にて「以ての外」と、ねだり申され候由。』と、「葉隠」は結んでいる。
395人間七七四年:2010/04/15(木) 23:58:03 ID:q7jbv+3G
その妻は
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-520.html 

の話で有名な戦国時代では珍しい恋愛結婚で結ばれた妻だというのに
一つの部屋で寝るとか並大抵の信頼じゃねーぞw
396人間七七四年:2010/04/16(金) 00:47:12 ID:GH3q/BfQ
妻もそれだけ信頼してたってことだね
397人間七七四年:2010/04/16(金) 00:50:17 ID:GH3q/BfQ
あ、直茂が妻を信用してたって意味で
398人間七七四年:2010/04/16(金) 02:55:21 ID:AVggSamv
葉隠れがあるおかげか、直茂はいいイメージが多かったりするのは卑怯だ><
399人間七七四年:2010/04/16(金) 06:33:53 ID:vyBDDKfY
葉隠自体は「佐賀の議論倒れ」とか皮肉られる一因になっちゃったけどなw
鍋島はなんとなく優秀な文科系な印象がある

同じラブラブ夫婦でも維新斉のほうは体育会系の国だな
400人間七七四年:2010/04/16(金) 09:06:01 ID:+ZOIibkV
三歳「何故ラブラブ夫婦の話で俺の名を挙げないのだ」
401人間七七四年:2010/04/16(金) 09:39:36 ID:bpk/dX0X
フロイス「ドンナ・ガラシャは日本人の中で最も凶暴なある大名に嫁してました」
402人間七七四年:2010/04/16(金) 09:47:10 ID:b9kzsCIl
>>394
時期からして、彦鶴もいい加減な歳だろうにw
そして、なんか寝起きドッキリしかけて隣の部屋の襖から寝室をニマニマ覗いてる直茂公を想像してしまった。
403人間七七四年:2010/04/16(金) 10:00:23 ID:AVggSamv
>>399
そう考えると隆信の「分別も久しくすればねまる」に反してておもしろいなw
まぁ、それだから幕末に技術力持ったりしてたのかしらね
404人間七七四年:2010/04/16(金) 10:40:56 ID:ATD8EL9x
>>400
三歳児の愛情表現じゃ・・・
405人間七七四年:2010/04/16(金) 12:26:39 ID:RN9fvzFj
島津忠恒「ラブラブな夫婦の話ならば、私も混ぜて下され!」
406人間七七四年:2010/04/16(金) 13:40:18 ID:I9IySP2w
家康を悩ました睡眠妨害・その1
遠州は榛原、現在の牧之原市に能満寺という古い寺がある
この寺の庭にある名物の大蘇鉄
これはかつて、大井川の上流から流れてきた一匹の大蛇の死骸を葬った墓から生えてきた、という伝説やら
安倍晴明が竜の魂を封じ込めたものが蘇鉄になった、という伝説やら
言いたい放題に、やたら壮大な謂われがあるのだが
まあそれだけあって大変立派な蘇鉄なのである
これが徳川家康の目に止まり、駿府の家康の屋敷の庭に移植されたことがあったという
それがどうして今も能満寺にあるのかというと
駿府にやってきたその晩から、蘇鉄が「能満寺に帰りたい、帰りたいよう」
と、か細い声でシクシク泣いたのだ
それがあんまりうるさ……可哀想な声なので哀れに思った家康は蘇鉄を能満寺に戻してやったという
もしも伝説通り大蛇や竜の化身だとすれば、ちょっと情けないお話
祟るくらいしなさいよ

家康を悩ました睡眠妨害・その2
家康と言えばその妻、築山殿とのあまり芳しくない夫婦仲とその末の悲劇はあまりにも有名であるが
流石に一度は夫婦の契りを交わした相手を無残に殺してしまったことに、家康も内心負い目があったのか
居城、浜松城で眠っていると、しばしば悪夢にうなされるようになった
その悪夢というのは、先年死んだはずの築山殿が、眠る家康の枕元にたち、髪を振り乱した鬼のような形相で
「なんの罪により妾を殺させたか元康!ああ恨めしい!」
と詰問するというものだった

ただでさえ武田との戦いやら家中のもめ事やらで疲れているのに
夜は夜で築山殿に責められて眠ることができない家康はすっかり参ってしまった
そこで、旧知の仲である可睡斎の等膳和尚にお願いし、
ゴーストバスター、もとい築山殿の供養をお願いしたのだった
これは見事に成功し、家康はスヤスヤと安眠できるようになった
だから長生きしたのかもしれない

ちなみに余談だが、和尚の住まいである可睡斎という名前の由来は、
家康が和尚に面会した際、和尚がこっくりこっくり居眠りをしてしまったのだが
それを見た家康が
「和尚我を見ること愛児の如し。故に安心して眠る。我その親密の情を喜ぶ、和尚 、睡る可し」
と言ってそれを許したことに由来するそうな
家康と和尚の寝つきのいい話
407人間七七四年:2010/04/16(金) 14:12:19 ID:o9um1oDu
>>406
「しめしめこの蘇鉄の種があれば生涯現役じゃw」なんて家康の思念を
蘇鉄ちゃんが受信したんじゃないのかw?
408人間七七四年:2010/04/16(金) 14:13:48 ID:ATD8EL9x
家康さんは、生粋のMだと思ってたのに・・・

というか、家康さんはすぐ説教じみた話しをするイメージがあって、この手の逸話は新鮮な感じがする〜
409人間七七四年:2010/04/16(金) 14:15:17 ID:9R3dRsqQ
> 家康さんはすぐ説教じみた話しをするイメージ

だって若い頃から、作左さん当たりから説教されまくって育ったんですもの。
410人間七七四年:2010/04/16(金) 14:45:44 ID:GIS5c8aG
人質時代は今川義元、太原雪斎に説教され、
戦場では武田信玄に戦を通して説教され、
家内では三河武士団に説教される

生まれつき忍耐の性格ではなくて、
忍耐の人生を送るしかなかったんだろう
権現様の凄いところは心が折れないところだな
411人間七七四年:2010/04/16(金) 15:14:46 ID:WVpKaaRm
てか最近逸話書く奴、せめて出典何処だか書けよ
自分流に見やすい様にアレンジするのは構わんが
412人間七七四年:2010/04/16(金) 15:24:48 ID:I9IySP2w
出典つか出所
地元(静岡西部)の寺の坊さんの話
なんか字で書かれたものがあるかはすまんが知らん
413人間七七四年:2010/04/16(金) 15:33:40 ID:vyBDDKfY
>>403
熊に分別が無いから足して二で割るとちょうどよかったんじゃね?
2人いた時の龍造寺はバランス取れてたわけだな

>>405
まーくんとか市松とか鮭様とか宇喜多とか爆弾正だと素直に笑えるのに
悪久ネタだと全く笑えないのは何故だろう…特に夫婦ネタ
414人間七七四年:2010/04/16(金) 16:35:57 ID:tzYnQ79X
>夜は夜で築山殿に責められて眠ることができない家康はすっかり参ってしまった

ここが妙に気になってしまった
415人間七七四年:2010/04/16(金) 17:51:33 ID:b9kzsCIl
>>414
>>408を踏まえてそこを抜き出して書かれると違う意味にしか思えんw
416人間七七四年:2010/04/16(金) 17:54:13 ID:9R3dRsqQ
信玄女地獄ならぬ神君女地獄かw
417人間七七四年:2010/04/16(金) 19:30:54 ID:4T08i10a
なぜだろう…?
オレも昔から築山殿はSだと思っていた
418人間七七四年:2010/04/16(金) 19:46:42 ID:g6oFnpgg
性活の不一致か
なるほど
419人間七七四年:2010/04/16(金) 20:02:06 ID:PXwAh8/J
実は家康公は瀬名との高貴プレイとかSMプレイとか放置プレイとかを割と楽しんでいたけど
現世でもう味わえなくなって夜な夜な禁断症状まで出始めたので、聖帝十字陵宜しく封印して
壮年の間は後家倒しに専念していたんだよ!
420人間七七四年:2010/04/16(金) 22:57:31 ID:S7AQIslq
晩年はロ(ry
421人間七七四年:2010/04/17(土) 00:19:15 ID:nGKFoC9o
築山殿って中国人の医師とのエロ密通疑惑かけられたり
なんかエロ女っぽいイメージあるよな
422人間七七四年:2010/04/17(土) 02:09:51 ID:X3Gq0lHR
えっちぃ流れをぶった斬って投下

『酒井忠世と料理番の羽織』

老中の酒井忠世は徳川創業功臣の一人である。
ある日、忠世が下城しようとした時のこと。
普通下城する時、御台所口の前を通るのだが、そこで料理番の下役たちにバッタリ出会ってしまった。下役たちは、相手が老中という事もあり慌てて平伏したのだが、その時に袖口から魚の切り身が廊下に落ちてしまった。
下役は顔を真っ赤にしてそれを後ろに引っ込めたが、忠世は素知らぬ顔をして通り過ぎた。
それを見ていた供の者が「あいつら、後で取り調べて処分すべきです!」
それに忠世は「いや待て、料理番たちが悪い訳では無い。あれは私の責任だ。」
供の者「?」
忠世「料理番たちの安い給料ではああするよりなかったのであろう。」
供の者「しかし、魚の切り身とはいえ公の物でございます。それを役得のように持ち出すのはどうかと・・・」
忠世「役得か。役得が無ければ食っていけない状態を、私は問題にしているのだ。それはわれわれ政治を預かる者の責任だ。今後、彼らに羽織を支給してやれ。」
供の者「羽織ですって!?なぜです?」
忠世「羽織があれば、役得の魚の切り身も上手く隠し持てるだろう。そうすれば、今日のような恥をかくこともあるまい。」
忠世「そのうち政治が改まれば、彼らも羽織を必要としなくなるだろう。どのようにするかは私の課題だ。」

こののち、政治は徐々に改まり、魚の切り身を持ち出す料理番は居なくなったとか。
423人間七七四年:2010/04/17(土) 03:23:54 ID:P5LYnUdW
同じ三河でも大久保系はやや理知的だね
これが本多系だとどうなるんだろうか
424人間七七四年:2010/04/17(土) 10:25:16 ID:u86i7tt7
羽織の代金はタダよ。
425人間七七四年:2010/04/17(土) 10:27:54 ID:OZzpZXN+
>>423
彦爺:うんうん
426人間七七四年:2010/04/17(土) 11:18:19 ID:B49jXcJq
魚って当時はすごい贅沢品だったんだよね。
元々誰が食べるものだったんだろう?
家康じゃなさそうだから秀忠?
427人間七七四年:2010/04/17(土) 12:46:27 ID:+VXdQ+rs
>>423
デカイ羽織りを着て大量に魚をテイクアウト、そして屋外クッキング開始
そして神君に出す予定の魚も食い尽くす
神君登場、事のいきさつをめんどくさい家臣が説明
遠回しに殿の仕置きがいたらないからこのようなことになるのですとw
428人間七七四年:2010/04/17(土) 12:49:30 ID:+FX2d3mQ
さすがにそこまで大っぴらにやっちゃうと、
首切らなきゃ不味くないかw
429人間七七四年:2010/04/17(土) 13:05:43 ID:lqN2Iydn
>>423
本多でも正純なら給料を上げそうだな…
430人間七七四年:2010/04/17(土) 13:08:51 ID:kUyQn0DP
劉邦なら人気取りをしてる危険人物認定
431人間七七四年:2010/04/17(土) 13:10:43 ID:eozggVIB
>>423
本多の彼なら心にもないものすごい剣幕を装って首を切れと家康に提言、
提言中に家康への風刺誹謗を入れまくって家康がなだめ役に、ってとこだろ
432人間七七四年:2010/04/17(土) 13:18:02 ID:E/oXJF85
すぐさまきやつの腹を割き魚を奪い返して殿の御膳に拵えましょう。
433人間七七四年:2010/04/17(土) 13:31:45 ID:PemSIJyM
いずれにしてもめんどくせえw
434人間七七四年:2010/04/17(土) 13:50:50 ID:xkndUhYx
仏高力 鬼作左 どちへんなしの三郎兵衛
めどくせぇ
435人間七七四年:2010/04/17(土) 14:34:52 ID:1zL4tZdj
酒井雅楽頭は性格も穏やかで、見た目にも人のよさそうなおっちゃんだったみたいだね
それでも、改易した大名の数は数知れず
その辺は土井のとっつぁんがうまいことやってくれてたのかな
436人間七七四年:2010/04/17(土) 17:02:15 ID:VNAMtLYC
正信なら、
いやこれはめでたいことで、岡崎に居た頃は泥棒したくても盗むゆとりもなかった。云々
と、家康に一々下っ端のことまであれこれ口出すなと諭してたな。
司馬の小説だが、創作なのか何か下敷きにしていたのか。
437人間七七四年:2010/04/18(日) 07:20:59 ID:u/Y3kamX
三斎さんから忠利くんへ お手紙ついた

寛永7年8月
「伊達政宗な、金守形右衛門(小姓)とも話したけど、よく言う“バチが当たった”ってヤツだよなw
(原文:とかく物之罰かと申事ニ候)この間の勧進能での事(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3209.html
とか、上様に聞いたら「前からああいう御仁だって分かってるから、どうもしない」とさ。
だけど世間じゃ『勧進能の場であんな騒ぎを起こして、どんな沙汰が下るか。大胆な人だ。」とか言う奴もいるしw
まぁそういう人も、オレが
「昔の蒲生さんとの騒動とか、朝鮮での命令違反とかに比べれば、なんて事ないよ」って教えてやれば
「なるほど、あの人がどういう人か、今回で大体わかりました!」とか笑ってるけど。
「アイツが良くガマンしたよねー。」なんて丸くなったのを褒める(?)人もいるけどなww 」

寛永8年5月
「政宗のヤツ、毎日朝から晩まで酒飲んだり踊ったりして過ごしてるって。前の書状にも書いたけど、
じきに死ぬんじゃねwww」

同7月
「伊達家の家老たちは政宗の深酒を心配して、隠居させたいようだが、本人が納得しないらしい。
このタイミングで隠居して、『去年の(兼松との)騒動の責任取った』とか噂されるのがイヤなんだろう……」

寛永9年8月
「…忠宗くんが忠告しても酒やめないんだって…下屋敷に篭って、江戸城に登る以外は人にも会わないとか…
ウチに来た手紙も、文体は前と同じだけど筆跡が荒れてスゴい事になってるし……」


4/20より国立博物館で開催の細川展支援のつもりで、三歳様の手紙から特定人物についてピックアップ。
YOU、もう見舞いに行っちゃいなYO。
438人間七七四年:2010/04/18(日) 08:17:29 ID:C63tWIaP
そんなに気になるのは・・・w
439人間七七四年:2010/04/18(日) 08:50:57 ID:dMVC0OqY
悪い話とのマルチかと思った
440人間七七四年:2010/04/18(日) 09:49:51 ID:DSKSnw8q
>>437
なんだかんだ言ってるけどいい友達だったんだな…
441人間七七四年:2010/04/18(日) 11:36:06 ID:sttj2WQo
どう見ても政宗さん心のビョーキだろ…
442人間七七四年:2010/04/18(日) 13:52:47 ID:tbv+tIrc
アル中か政宗…にしても忠興の心配が伝わる
443人間七七四年:2010/04/18(日) 14:06:12 ID:DoihlAdW
ナイスフォーク
444人間七七四年:2010/04/18(日) 14:07:24 ID:DoihlAdW
すみません誤爆しました
445人間七七四年:2010/04/18(日) 14:44:55 ID:isaQ+8mQ
フォークの逸話だな。まかせろ


落曇

千利休作の茶杓(お茶を入れる匙)に落曇というものがあった。
ところが太閤秀吉はこの茶杓のフォルムが気に入らず、自分好みの形にしようと力まかせに
ねじまげようとしてそれもできないと見るや、落曇を投げ捨てようとした。

そこに居合わせた秀吉の侍医施薬院徳雲軒があわてて秀吉を諫め、諫言を聞き入れた秀吉は
この茶杓を徳雲軒に下賜したという。

茶杓・落曇は現在畠山記念館に所蔵されている。
446人間七七四年:2010/04/18(日) 15:04:01 ID:CMqeLDJn
細川家展も始まるけど、家康展も三井記念美術館で開催中でござるよ
へうげ好きは初花肩衝が拝める25日までに行くべし
447人間七七四年:2010/04/18(日) 15:25:17 ID:wainY35B
すり替えて、ゲヒヒ、それがしの作った土器もいいものでござるよとやれとな
448人間七七四年:2010/04/18(日) 18:49:19 ID:sttj2WQo
>>445
やはり天下人は違いますなあ
どこぞのやんちゃ坊主ならへし折ってるところだ
449人間七七四年:2010/04/18(日) 19:02:57 ID:LL0AEiCL
利休やら織部やらが作ったというところに価値があるわけで
文化的価値はあっても美術的価値はほとんどないのが茶杓


泪は入れ物の筒がなかなか良かったが
450人間七七四年:2010/04/18(日) 21:42:09 ID:px+C+tWG
本願寺展に行ってきた
日本の歴史展は生まれて初めてだったからいい経験だった
当時の絵巻に描かれていた牛がホルスタインみたいな黒と明るい色の斑模様だったのがびっくりした
451人間七七四年:2010/04/18(日) 22:08:28 ID:9vylQ8ZH
>>450
本願寺って、でかい本山の割には芸術方面が他の本山寺院に比べると貧弱な印象だな。
国宝も障壁画とかより書状とかが主だし。
やっぱり、感覚的経験よりも理屈を重んじるからかねえ。
「木像よりも絵像、絵像より名号」という言葉があって、彫刻や絵画よりも「南無阿弥陀仏」の六文字が本尊として優れてる。
とか、浪曲のルーツともいわれてる節談説教という文化を生み出しながら、自ら異端として弾圧したりしてる。
452人間七七四年:2010/04/18(日) 22:15:38 ID:isaQ+8mQ
>>449
ゲヒ殿があの筒を黒く塗ったのは、利休の位牌になぞらえたんだよな。
この前に徳川美術館で限定公開していたが、事前にこのスレで「淀の渡し」の逸話
を読んでたから実物見て鳥肌立ったわ。
453人間七七四年:2010/04/18(日) 22:54:20 ID:M0v6xFiI
>>451
本願寺にとっては、阿弥陀如来像もただの商売道具という扱いだからね
454人間七七四年:2010/04/18(日) 22:55:44 ID:JRx/u2c2
『黒田長政、寺沢広高の息子にダメ出し』

あるとき、寺沢広高の使者が長政を訪ねて来た。

「ときに、広高殿のご子息は何か好んでおられるのか」
「は、乗馬と鷹狩を好まれています。ときどき刀や脇差の目利きもなさいます」
「ほう、目利きか。刀は武士にとって重要なものだ。刀はその利と鈍を選んで、
よく切れるものを使うとよい。作りの善し悪しだけでは決まらないものだ。

・・・しかし、大将ならば人の目利きの方が重要だ。
大将が人を知らないと才人を退け、悪人を用いて国を滅ぼすことにもなる。
見る目もないのに人を用いれば必ず失敗するものだ。

本人には刀の目利きなどは専門家に任せて、人を見る目を養うよう伝えたまえ」
455人間七七四年:2010/04/18(日) 22:57:39 ID:sPYn+p+t
>>454
長政に言われたくないだろうな・・・
456人間七七四年:2010/04/18(日) 23:07:42 ID:LL0AEiCL
>>452
そんな師弟の絆を証明する茶杓なのに、大阪の陣のあとゲヒ殿が切腹で財産ボッシュート
徳川さんの物に・・・
457人間七七四年:2010/04/18(日) 23:09:11 ID:JISZwdd8
> 本人には刀の目利きなどは専門家に任せて、人を見る目を養うよう伝えたまえ

忠興と仲が悪くなるわけだ、と思わなくも無いなw
458人間七七四年:2010/04/18(日) 23:34:51 ID:aTsD0nfc
寺沢広高の息子ってどんな人って思ってぐぐったら、自殺してんのね。
大名家業もストレスたまりそうだな。
459人間七七四年:2010/04/19(月) 00:01:25 ID:Z5AkxhDT
所領没収だからな…>広高の息子


ある時徳川家康が本多正信に尋ねた。
「天下分け目の戦が起きるとしたらどのあたりか?」と尋ねると
正信は「ちゃんと合点しております。」と答えた。
またある時同じ質問を本多忠勝に尋ねると、「関ヶ原かと存じまする。」と答えた。
次に家康が井伊直政に同じことを尋ねると、直政も「関ヶ原かと存じまする」と答えた。
そしてそれからしばらく後に家康が正信に「先日の戦場はどこが良いのか?」と尋ねた。
正信は「関ヶ原かと存じまする。」と答えた。

家康は三人が三人同じ答えなのに感心していたが後にその通りになった。
460人間七七四年:2010/04/19(月) 00:12:25 ID:BNeJa/7t
>>459
そういえば本多忠勝には上杉征伐で関東に下る時すでに、関ヶ原の当たりで
「もし留守中反乱が起こって決戦があるとすればこのあたりだから、よく地理を調べておくように」
なんて言ったっていう話まで残ってるな。
461人間七七四年:2010/04/19(月) 00:27:07 ID:XeKuWaCn
天草の戦いで富岡城を守って討死したのは明智秀満の息子なんだな
こんなとこまで流れてきてたとは
462人間七七四年:2010/04/19(月) 00:52:35 ID:/IG1017x
三宅重利のことか。
寺沢家は明智嫁の妻木家と縁戚関係にあるからね。
463人間七七四年:2010/04/19(月) 01:02:55 ID:pLGWgnKK
姫路宰相或いは西国将軍などと言われた池田輝政は剛毅、剛勇の士であり家康の娘婿でもあった。
そんな輝政のもとには全国から武功の士が集まってきており輝政はそれを選抜、臣下に組み入れていった。
ある日、そうして家臣になった土肥周防と言う武功の士が馬上で闇討ちにあう事件が発生する。
土肥は左ももを斬られた。
「無礼者!」そう叫んで土肥は刀を抜こうとしたが、その拍子に馬が驚いて跳ね、土肥は落馬してしまった。
従者が土肥に走り寄ったときには、刺客は闇夜に消えていた。
こののち良からぬ噂が立ち始めた。
曰く"土肥ともあろう者が刺客に何も出来なかった"
曰く"無様に落馬し立ち上がれなかった"
そんな噂は土肥の耳にも入った。言われてみればその通りで、土肥は深く恥じ入り、将来に絶望した。
そんな様子を知った輝政は、近臣を呼んでさりげなく言った。
「周防は、闇討ちにあってさすが武勇の周防らしいところを見せてくれたな」
近臣はいぶかしげに輝政を見た。
(武勇の周防?腰抜け周防ではないか)
相づちも打てぬ近臣たちには構わず、輝政は言った。
「周防を襲った者はまともには周防に勝てぬと思って闇討ちしたのであろう」
「しかし、一撃したものの、周防の武威に恐れ二撃はできずに闇夜に姿をくらました」
「白昼ならいざ知らず、闇夜に消えた刺客をどうやって討つのだ?」
「土肥周防でなければ、刺客に膾のように斬られていたかもしれんな。さすがは武勇の周防だ」
この言葉があって以来、土肥周防を謗る者は居なくなったそうな。
464人間七七四年:2010/04/19(月) 03:07:43 ID:lRkvdXe0
世間のかっこいいイメージの政宗様はどうも好きになれないが
このスレに出て来る政宗は知れば知るほど好きになる

近くにはいてほしくないが
465人間七七四年:2010/04/19(月) 03:54:40 ID:UUPZDSBw
まーくんって、あんなパワフルな性格してるのに、
関ヶ原でまだ30代半ばで、人生やっと半分だったんだよね。
派手好きで趣味人で、ものすごくフリーダムに見えて、
後半生江戸幕府の権威と格式が固まっていく世の中で、実はけっこう鬱屈してたんじゃ。
「あれするな」「これするな」「目立つな」「間違うな」ってさ。

自分とこに作った馬場の周りに植えた木で文句言われるこんな世の中じゃ(ry
466人間七七四年:2010/04/19(月) 06:41:08 ID:zE6IK7Br
刺客といえば森長可に差し向けられた刺客が逆にびびったという
話は聞くけど詳細は知らない。
教えて、エロい人!
467人間七七四年:2010/04/19(月) 13:58:50 ID:ZTGOt1eT
関ヶ原参戦した大名って結構若いんだよね。
政宗にかぎらず、皆割りとよくやってると思う。
468人間七七四年:2010/04/19(月) 14:12:27 ID:92+mE7s9
まとめに有ったような気がする
469人間七七四年:2010/04/19(月) 15:24:43 ID:JUxChE8j
>>465
好き勝手できぬ憂さ晴らしに趣味に走ったんだな
470人間七七四年:2010/04/19(月) 15:26:34 ID:BDfaP+JC
ラスボスの子飼い以外は、関ヶ原前に代替わりしてるところが殆どじゃないかな〜
現役バリバリは、一豊さんとか家康さん位?
471人間七七四年:2010/04/19(月) 15:32:05 ID:XP51VQ2j
匿名希望ご隠居さん:長引く間に九州を切り取ってくれようぞ

匿名希望久さん:伯父と親父がいつまでもうっせぇ・・・・
472人間七七四年:2010/04/19(月) 15:41:48 ID:201urnyv
匿名希望妻ラブさん:島津があんまりウザいので、見張り役として九州に飛ばされました……
473人間七七四年:2010/04/19(月) 15:42:40 ID:da/SagXz
兄ちゃんの親父(と弟)「徳川の主力部隊を信州で足止めしてくれるわ」
474人間七七四年:2010/04/19(月) 17:05:17 ID:MOSXBbj7
>>437
政宗は多分このくらいの時期の忠宗宛ての手紙に「宗泰(四男)にこの手紙を見せて
酒を飲みすぎるなと俺が言ってると伝えとけ」と書いてるんだが、自分がこの有様か……。
いや自分がこの有様だからこそかね。
元々主君と呼べる人はおらず自分が天下取る気満々だった事を思うと、>>465が言ってるように
権威と格式の下に押し込められたような大名生活は飲んでなきゃやってられなかったのかもしれんな。
大阪の陣の後は家康も死んで天下もどうでも良くなって自由気ままに好き勝手やって幸せに
死んでった人だと単純に思ってたが…
475人間七七四年:2010/04/19(月) 17:23:53 ID:eUVSCfR3
匿名希望西の鬼嫁「あんたどこ行くの?」

匿名希望西の完璧超人「太閤様への恩返しに家康の首刎ねに行く」
476人間七七四年:2010/04/19(月) 18:35:58 ID:ZTGOt1eT
家康が死んでからが本当の地獄だし・・・。
改易続々。
477人間七七四年:2010/04/19(月) 20:03:35 ID:vuH9HXau
>>475
家康だけかい?
478人間七七四年:2010/04/19(月) 21:56:28 ID:XeKuWaCn
関ヶ原に参戦した生年のはっきりした武将って76歳の法印素玄さんかな
479人間七七四年:2010/04/19(月) 22:35:14 ID:qT+tDL5/
本当の地獄は家光さん
480人間七七四年:2010/04/19(月) 22:55:18 ID:zgs6GHdC
家康はなんというか、ずっとめんどくさい三河武士たちに突き上げられてたせいなのか
結構鷹揚というか甘いというか、意外にお目こぼしがあるんだよな
ただ、それを秀忠に同じようにやっちゃうと・・・
秀忠はああ見えて厳しいからなぁ
481人間七七四年:2010/04/19(月) 23:10:37 ID:hjgH0rNe
基本マジレスの人だからさっくり死罪申し付けるもんな
482人間七七四年:2010/04/19(月) 23:47:00 ID:ErXKwXbf
「不楽是如何」2通り目の解釈か。
徳川実記だかでこの詩をほめてたけど、同時代の人はどう読んだんだろうね。
483人間七七四年:2010/04/19(月) 23:48:30 ID:u83Ql+88
つまり家康の命に対して、
三河武士  「従えません。腹を切ります」
家康 「なら好きにせい」
三河武士 「この恩義は忘れません、どんな仰せにも従います」

秀忠の場合
三河武士  「従えません。腹を切ります」
秀忠 「なら腹を切れ」
三河武士 ブスリ「ぐはぁ」

てな感じかなあ
484人間七七四年:2010/04/20(火) 00:08:44 ID:h9JdXWfP
>>464
長可「距離を置いてみるとそれなりに楽しい奴なんですが」
政宗「こうも近くにいるとそのワガママさ図々しさにウンザリです」
忠興「あれれそれってもしかして」
忠恒「そう私めなんです」
485人間七七四年:2010/04/20(火) 09:28:14 ID:DhMj41fe
>>484
これを次世代dqnで歌わせてやってくれ。
地味加藤さんの2代目しか思いつかん。長可さんの弟も該当かな
486人間七七四年:2010/04/20(火) 18:24:00 ID:OytXQmiA
松倉さんの息子とか
487人間七七四年:2010/04/20(火) 20:01:10 ID:bcLmpK76
黒田忠之とか?
488人間七七四年:2010/04/20(火) 20:26:44 ID:+X4WN86f
松平忠直とか、忠長とかは
4891/2:2010/04/21(水) 18:42:19 ID:1YyCd9U3
天文12年(1543)、武田晴信は八千騎の軍勢を率い信州へと出陣した。

10月17日、大門峠に陣を敷くと、ここに七日間滞在し、25日には海尻城に入る、と決定した。
すると晴信は18日、兵たちのこのように宣言した

「この度の戦には新兵が多い。彼らを勇躍せしめるため、この地において乱取り小屋落とし等を許可する。
心のままに成すが良い。」

掠奪の許可である。

これに足軽、中間の者たちは大いに喜び、翌19日より周辺の在所に駆け散って、民家を見れば襲撃し
雑具、金銀、衣服などをはぎ取り、又は田の稲を刈り取り、多くの財貨を手に入れた。

さて、二日間にわたって武田軍による大規模な掠奪が行われ、掠奪の許可された期間も、移動日を覗いて
残り3日となった21日早朝、未だ夜も開けぬ時刻のこと、板垣信方の陣所に、甘利虎泰がにわかに訪ねてきた。
板垣、何事かと急いで甘利を招き入れると、甘利は神妙な顔で

「今夜、実に不思議な霊夢を見たのだ。そこでこの夢について先ずお主に相談しようと、夜の明けるのを待ちかねて
ここに参ったのだよ。」

これに板垣驚いて
「なんとお主もか!?私も不思議な霊夢に目が覚め、お主のところに使者を出すか自身で出向くかと
迷っていたところであった。ともかく、お主の見た夢の内容を話してくれ。

「うむ…。この度殿の許可によって、我が軍の者共皆掠奪をしている。ところが今夜、夢とも現とも思えぬ中に
我が枕元に一人の山伏が現れた。その形凄まじく、眼は縦に切れ、赤髭は帯の当たりまでも伸びており、
五尺(約1.5メートル)あまりの太刀を十文字に帯びていた。この山伏が言う。

『我は当国諏訪法性上下大明神の神使である。この度下郎の者共に乱暴狼藉を許したこと、大いに非義である!
固く停止仕るべし!』

そう、怒りを告げた所で目がさめたのだ。」

これを聞いて板垣、手を扣いて

「それは!それがしの見た夢と全く同じでござる!何と不思議のことか。」

二人が霊夢に感じ入っているところに、今度は飯富虎昌がやって来た
「聞いてくだされ!夜中他陣を訪ねること軍令に違うことは存じておるが、あまりに不思議の夢を見たので…」

「お主もか!!」

飯富の見た夢も、板垣、甘利の見たものと寸分違わぬものであった。
三人は大いに感銘を受け、身を清め諏訪大明神の方角に拝礼すると、速やかに自分の陣の者に対し
掠奪の禁止を命じた。これを聞いた他の陣営の者達も、このような奇瑞があったのに、これを聞き捨てにして
掠奪を行えば必ず神罰が当たるだろうと言って、この日より一人残らず、尽く掠奪をやめたという。


諏訪大明神の霊夢、掠奪をやめさせる、と言うお話。
…が、この話には、実は裏があった。
4902/2:2010/04/21(水) 18:43:36 ID:1YyCd9U3

時は若干さかのぼり、20日の夜のこと。武田晴信は板垣信方を呼んで言った。

「わしはこの度、新たに取り立てた者たちを勇ましめんとするために掠奪の許可をした。
が、少しこの薬が効きすぎた。掠奪は元よりは下々の者たちが好むものであるため、本来なら軍令により
守備を命じられている者たちまで、未明に陣を出て行き黄昏時にようやく戻ってくる始末だ。
今は我が軍の中で、相応の獲物を奪わなかったものはおらぬであろう。

今信州勢が打ってでてくるとは思えない。が、もしそのような事態になった場合、諸卒が
掠奪のために走り散っていては、一体どうやってこれを防ぐというのか。

命令に違反し夜にまぎれて掠奪に赴くものは誅伐するより他はない。
しかし陣中において味方を誅するのは、良将のすべき事ではない。
どうにかして諸卒が自ら掠奪をやめるように出来無いものか、その工夫を考えていたのだが、
今思いついた。これを板垣、お主と甘利、飯富の三名で実行せよ。
我が軍の中心はお主達三名の部隊である。これが掠奪をやめれば、他も自然とそれに従うであろう。」

と、諏訪大明神の霊夢、と言う策を授けたのだと言う。


武田晴信、言わずして掠奪を止めるの計、と言うお話。
491人間七七四年:2010/04/21(水) 19:47:57 ID:HqbADhI8
いい話なのかこれ・・・
492人間七七四年:2010/04/22(木) 01:06:36 ID:QOUIJRqP
諏訪の神さんを奉じる諏訪氏ぶっ潰しちゃったもんだから怒りまくった諏訪の神さん、
半分は諏訪氏の血引いてる勝頼だろうと一切容赦せず、武田あぼんしてもた
なんて話もあるから、>>490の神さまの夢みたってのも実際にあったことだったりしてw

ちなみに
死後自分が諏訪の神さんに成り代わるために、と信玄は諏訪湖に自分を沈めるよう遺言したけど
結局その言い付けは守られなかったために武田は滅びた、なんて話もある
493人間七七四年:2010/04/22(木) 02:06:41 ID:5tZJy1fh
>>491
やっちまった事を悔い改めるために一芝居打った、と見ればいい話じゃないか
掠奪も止められるしな
494人間七七四年:2010/04/22(木) 05:47:19 ID:9KbGhM2O
>>493
単なるマッチポンプ、という解釈も同時に出来てしまうけどねー
495人間七七四年:2010/04/22(木) 13:28:13 ID:tcJ6PIlZ
武州成田氏の菩提寺、龍渕寺。
これを建立したのは成田家時であった。

家時はある夜、館から彷徨い出て、阿弥陀堂に辿り着く夢を見た。
不思議に思った家時、家臣に夢の地を訪れさせると、まさしく夢の通りの場所に阿
弥陀堂があり、そこで一人の僧侶が修行をしていた。
この僧侶を和庵和尚と言い、不思議な縁であるとして、成田家に招いた。

成田家では丁度新しく寺を建て、菩提寺としようとしていたので、この和庵和尚に
その住職となるコトを依頼した。
すると和庵は
「この地に寺を建てていただきたい」
と言う。その指定するところは古くから龍神が住むとされた龍ヶ渕と言う沼であっ
た。

沼にどうやって寺を建てるのか。成田家中では頭を悩ませ、和庵和尚による遠回し
な拒絶なのではないか、とも囁かれた。
すると和尚、龍ヶ渕の湖畔に一人座禅を始める。
座禅を始めてから七日目。和尚の夢の中に白髪の老人が現れ、
「私に菩薩戒を授けてくださるなら、この土地をお譲りしよう」
と言う。

翌朝、和尚が引き続き座禅をしていると、突如猛烈な突風が吹き荒れる。
和尚は慌てて叫んだ。
「オイオイ、お前がそのまま来たら皆が驚くじゃないか。里の皆を驚かせないよう
に、もう少し小さな姿で出てきておくれ!」
すると風と波はたちどころに収まり、水中からは小さな蛇が一匹、ニョロリと姿を
覗かせた。

眼を合わせたまま動かない蛇を見て、和尚が頭を撫で、我が弟子として戒を授けて
やると、蛇は再び大人しく水中に帰って行った。
その日から武蔵北部は突然の大雨に見舞われ、あちこちで洪水が起こったのだが、
何故か龍ヶ渕の水は雨の量に従って徐々に干上がっていくように見えた。
やがて完全に陸地になった龍ヶ渕に建てられた成田氏の菩提寺を龍淵寺と名付けた
という。

龍淵寺建立から程なく、下忍の三千坊沼という沼で、夜毎鯨が鳴く様な声がすると
いう噂が立った。
里人が和庵和尚に相談すると、和尚は沼を訪れ、鯨声のする辺りでお経を上げ始め
る。
すると、和尚の目の前に大きな鐘が浮かび上がって来た。

この鐘、龍の化身であるとされ、和尚によって仏弟子となった龍ヶ渕の龍が、和尚
の徳を慕って寺を護る為に鐘と変じて現れたのだと噂された。
その鐘は龍淵寺に運ばれ、寺宝として大切にされていたという。
ここまで室町初期頃のお話。

やがて時代は下り戦国時代。
繰り返し行われた上杉謙信の忍城攻撃。
何度目かの忍城攻撃の際、謙信率いる上州兵によって龍淵寺も略奪を受けてしまう。
「龍の化身」として名高かった寺宝の鐘もこの時に略奪され、上州に持ち去られて
しまった……かと思われた。
が、利根川を渡河中、突如として鐘を積んだ船が転覆。兵も積荷も諸共に川底に沈
んでしまった。
龍は末法の世を嘆きながら、利根川を下り、龍宮に帰って行ったと言う。

龍神の加護を失った成田家は、次代の氏長の時に武蔵を追われるコトとなった。
負けても負けても滅びないと思ったら、龍神の加護があったんだね、という成田さ
んのお話。
496人間七七四年:2010/04/22(木) 15:28:47 ID:mNzuIOPW
負けても滅びなかったのは竜神のおかげというより、甲斐姫のおかげという現実・・・
497死出の約束:2010/04/22(木) 20:00:36 ID:fIqUgitW
松代城二の丸の庭に築山があったという。
真田信之の家臣・鈴木忠重は、主君の手を引いてその築山に登った事がある。

「若い頃ならこの築山を飛び超えられた。なあ、忠重。死出の山はこれくらいの高さかな?」
「死出の山がいかほどの高さであろうと、私があなたのお手をお引き致します。」

信之が死ぬと忠重も後を追った。忠重の墓は今でも主君の墓に寄り添っている。
498人間七七四年:2010/04/22(木) 20:27:40 ID:phcz9+DU
>>497
やべぇ、泣きそうになった
499人間七七四年:2010/04/22(木) 21:10:30 ID:YuoLhhZB
やる夫真田のラストシーン、この逸話でいいかも。
500人間七七四年:2010/04/23(金) 00:31:08 ID:dmRl91ny
>>497
主君の隣に墓を建てるって立花道雪と薦野増時もだな。
501人間七七四年:2010/04/23(金) 00:39:29 ID:4RX+an5R
>497
池波正太郎の短編でもあったな、その場面
502人間七七四年:2010/04/23(金) 02:11:13 ID:QnZWhO2z
>>497
夜中に泣いちまったじゃないか…
503人間七七四年:2010/04/23(金) 09:04:14 ID:9FU01I5V
「手を引くって言ってたのに俺の方が先に死んじゃったじゃないかw」
「いやあお恥ずかしい」
なんてやってたりしてね。
504人間七七四年:2010/04/23(金) 09:24:22 ID:q2Y3LaOy
こういう美しい殉死があったから一時期殉死が流行ったんだろうな
505人間七七四年:2010/04/23(金) 11:14:28 ID:GGJehT+y
お兄ちゃんて親しい人を送りつづけててさぞ寂しかったんだろうなと思うんだよな
本人の責任もあるがw
自分を見送ってくれる忠臣がいてくれてよかったなぁ…
506人間七七四年:2010/04/23(金) 15:36:46 ID:tSugUeFV
それで寿命が縮んだのか・・
507人間七七四年:2010/04/23(金) 18:43:24 ID:Huy6ZenZ
徳川家康が武田勝頼と対峙して遠州大井川下伊呂に滞陣していた時のこと。

2,3日雨が降り続いたために大井川が増水し、夜になって川岸が崩れ始めた。
俗に「蛇崩れ」と呼ばれる現象であるが、闇夜で根耳にこれを聞いた徳川勢は大騒ぎになった。
武田軍の夜襲と勘違いした先手が騒ぎ始め、やがて士卒や旗本にまで伝わっていく。
旗本たちは武田の夜襲で先手が崩れたものと考え
それを受けた家康も牧野半右衛門を伝令とし「全軍一騎掛けで浜松に撤退せよ」と下知した。
これにより徳川勢はますます混乱に陥り、まったく収拾がつかなくなった。・

この時大久保忠世はまず旗本に大提燈を掲げさせると
信頼のできる部下を付き添わせて「わしが戻るまでけっして離れるな」と言い含めた。
次に先手に馳せ付けると
「すでに旗本を持って敵の第二陣を討とうと既に備えを立ち固めたぞ。
 あの大提燈が動かぬのを見よ。あれがなによりの証拠じゃ。
 うっかり卑怯未練な真似をして旗本に笑われぬようにせよ。あとで面目が立たんぞ。」
と大音声に触れまわったので、全軍が次第に備えを立て直し、やがて騒ぎも収まった。

<是忠世が早速の奇策。智ありて且つ勇ある者にあらずこれを為ること能ず。>
『武将感状気記』「大久保忠世士卒の躁乱を鎮むるのこと」
508人間七七四年:2010/04/23(金) 22:59:15 ID:g7GQHIIX
兄は騒ぎを静め弟は騒ぎを起こす、と
509人間七七四年:2010/04/23(金) 23:16:00 ID:Mxi7W6BY
一騎がけで撤退って、
とにかくめいめい勝手に逃げろってことだべ?
伊呂(現在島田市色尾)から浜松までは直線距離で50kmあるぞw
ひでー命令だw

何だか三河武士って攻撃すると強いが、守勢に回ると脆い気がする。
510人間七七四年:2010/04/23(金) 23:19:13 ID:txQ1yqKD
忠世、忠佐の兄弟は優秀だな
長篠の戦でも一番槍だし、一向一揆のときもこの2人が仲介役を引き受けなかったら
家康も家臣の大半を失ってたかも知れない

上田合戦がなかったらもっと評価上がってたかも
511人間七七四年:2010/04/24(土) 00:30:09 ID:NFIsZzQR
病が重くなり死期を悟った大久保忠世は
かつて一向一揆の際に徳川家康から賜った感状を取り出し
「これは後世に伝わるべきものにあらず。我これを持って黄泉への手形としよう。」といって
すべて破り裂き、家臣に命じて柩に入れさせた。

かつて一向一揆に参加し忠世の執り成しで復帰した者たちへの思いやりであった。
512人間七七四年:2010/04/24(土) 00:39:54 ID:PF+Q56fy
三河一向一揆では一族あげて家康に味方、
本多正信や渡辺半蔵の帰参を助け、
三方原の敗戦時には犀ヶ崖の夜襲で武田軍を撃退し、
長篠では兄弟揃って信長に激賞され、
甲信平定では方面軍指令的な立場にあって、
関東移封後は最重要の関門小田原を任された彼が、
なぜ徳川四天王にも入らず平助がぼやく扱いになったのか?





それは三方原の時の焼き味噌発言が尾を引いてると思うんだよなあ…
513人間七七四年:2010/04/24(土) 00:52:18 ID:NFIsZzQR
ある日大久保忠世の屋敷に徳川家康が馬で乗り付けた。
すると忠世の妻が馬前に湯漬けを捧げたので家康は喜んでこれを食べ
「うむ、焼き味噌の風味が利いていてとてもうまいぞ
 七郎右衛門の妻は所帯持ちがよさそうだの。」と大きく笑った。

『大久保家留書』
514人間七七四年:2010/04/24(土) 01:05:27 ID:asefKMO5
>>512
大久保長安や忠隣の失脚のせいとか?
515人間七七四年:2010/04/24(土) 01:12:00 ID:R5zef0vk
スカトロの話はちょっと・・・
516人間七七四年:2010/04/24(土) 01:13:25 ID:Zg6SN95C
>>512
大久保一族は家康・正信の嫌いな日蓮宗信者だからね
本阿弥光悦らといっしょに排除されたのかも

その日蓮宗の忠世が、一向一揆では一向宗徒の帰参の手助けをしてる
これって結構すごいことだと思う

それにしても、正信も忠世に恩を受けているはずなのに、
息子に対して仇で返すなよなあ…
517人間七七四年:2010/04/24(土) 01:43:36 ID:ZFG7tOwp
忠世が徳川の世を見ず死んだのと、長安事件だろうな。
518人間七七四年:2010/04/24(土) 07:05:52 ID:MLw8Vm6y
忠輝かあ…
519人間七七四年:2010/04/24(土) 07:51:40 ID:OvRz8JGG
>>516

家康「本人と親の功は分けて見るのが徳川家クオリティーじゃ」
520人間七七四年:2010/04/24(土) 08:57:27 ID:f2WT7lnd
忠佐が死んだ時に、彦左衛門がその遺領を継ぐのを拒否したのもまずかったんじゃ?
それがなきゃ、箱根の峠の東西は大久保一族が押さえることになってたろうし
521人間七七四年:2010/04/24(土) 09:07:54 ID:vXXYACI0
>>519
夏目吉次「(((( ;゚Δ゚))))」
522人間七七四年:2010/04/24(土) 10:00:17 ID:MGkRx5cQ
天正18年(1590)3月、秀吉の関東出兵に伴い、上方諸将は織田信雄を総大将として、伊豆韮山城を攻めた。

城主・北条美濃守氏規はみずから射芸を好み、家臣に弓鉄砲の上手も多く、容易に上方勢を寄せ付けない。
福島正則の重臣、尾関石見は先頭に立って果敢に攻め込んだが、左目に銃弾を受けた。
しかし尾関は血のあふれる目に指を突っ込み鉛玉を抜き出すと、なおも戦い続けた。
(関八州古戦録では蒲生郷可の話としているが、他に郷可が隻眼という記述はなく、尾関と混同したと思われる)

他家の劣勢を見た正則は、挽回せんと鐘太鼓を打ち鳴らし、家臣に突撃を命じた。これに応じて
福島丹波、長尾隼人、大崎玄蕃、可児才蔵ら百人が抜け出て、突出してきた城方を横合いから叩いた。
しかし、しばらくこれを傍観していた大将・信雄が、事態に気づいて総攻撃のホラ貝を吹かせた時には既に遅く、
体勢を立て直した氏規は、ホラ貝の音を聞くが早いか、城への撤収を始めた。

城方の撤収が完了し閉じられようとする城門に可児才蔵が一人飛び出し、獲った首二つを振り捨て、自分の槍を
門扉にネジ込み、隙間を作った。
この機を逃さず才蔵は扉を押し、福島丹波らもそれに続いたが、城方の反撃により二十人ばかりが討ち取られた。
負けじと大崎玄蕃らが、さらに扉に取り付き押し返したが、城方も必死に扉の隙間から槍や長刀を突き出し、
丹波の郎党二人が命を落とし、才蔵と玄蕃も負傷した。

そうこうしているうちに隙間を作っていた才蔵の槍が折れ、城門は完全に閉じてしまった。この間に長尾隼人は
城門の横から塀を乗り越えようとしたが、二度城方から突き落とされ、三度目には槍を口に突っ込まれた。

城門が閉じるのを見た正則は、ついに攻略をあきらめ、退却のホラ貝を鳴らし、なおも城門で粘る四人を退かせた。
この時、才蔵は折れた槍に先ほど捨てた首を拾ってくくりつけ、落ち着き払って退いた。城方もこの態度に感心し、
「敵ながら、あっぱれ。名を名乗って戻られよ。」と声をかけるのに四人は応じ、堂々と
「我ら、福島左衛門大夫家中の…」と名乗って陣へ帰った。城中から、これを狙い撃たんとする者もいたが、
城主の氏規が、「あのような勇者を卑怯なやり方で討てば、かえって軍神の怒りに触れよう。おとなしく去らせよ。」
と言うので、静かに彼らを見送った。

その夜、正則は四人を呼び出し、「今日の働き、全軍を驚かせるものだったぞ!今後とも、当家に一騎当千の
武者として働いてくれ。特に才蔵の皆に先立っての働きは見事だったが、味方が続かぬのに無理をしてはいかん。
以後、慎め。」と、褒め称え、かつ命を粗末にせぬよう言い渡した。


参考までにhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-239.html
この時は軽傷で済んだ福島丹波も、関ヶ原の戦いで宇喜多隊に足を斬られ、跛足になったもよう。
523人間七七四年:2010/04/24(土) 12:33:35 ID:wvpO7azK
市松も人を使う能力は一流だね
524人間七七四年:2010/04/24(土) 12:38:21 ID:xC0x86ag
市松さんは酒さえ飲まなければできる子
っていうか、基本的に人望あるんだよな
525人間七七四年:2010/04/24(土) 12:43:26 ID:jzcwsyin
小田原攻めと関ヶ原、福島家の重臣たちが傷ついた戦場に権現様もいた
もちろん傷ついた理由も知ってるワケで

小姓に激怒したのも当然だなあ
526人間七七四年:2010/04/24(土) 12:55:36 ID:Zg6SN95C
北条氏規って、子孫が…ゴニョゴニョの人だっけ?
527人間七七四年:2010/04/24(土) 13:20:36 ID:7AIok60B
市松の活躍に隠れてるが

>しかし、しばらくこれを傍観していた大将・信雄が、事態に気づいて総攻撃のホラ貝を吹かせた時には既に遅く、

こっちもクオリティ安定してるよなw
528人間七七四年:2010/04/24(土) 16:38:39 ID:IWOAUQxh
>>527
才蔵は小牧長久手といい、今回といいあれな総大将に縁があるなあ
529人間七七四年:2010/04/24(土) 18:21:52 ID:vKfESL1j
小関正勝は眼窩に鉄砲玉喰らってよく無事だったな
530人間七七四年:2010/04/24(土) 21:33:07 ID:ztEaRfue
>>526
途中で直系絶えて伊達から養子貰ったりしたからな……

この話北条側からのがまとめにあったよね
531人間七七四年:2010/04/24(土) 22:01:01 ID:hthaUVMS
\  \\       ____         // / /
<           _-=≡:: ;;   ヾ\            >
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<        | \/ヽ/\_/  /  |           >
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     ___
   / ―\ ナンミョウホウレンゲッキョウナンミョウホウレンゲッキョウナンミョウホウレンゲッキョウ
 /ノ  (@)\ ナンミョウホウレンゲッキョウナンミョウホウレンゲッキョウナンミョウホウレンゲッキ
.| (@)   ⌒)\ ナンミョウホウレンゲッキョウナンミョウホウレンゲッキョウナンミョウホウレンゲッ
.|   (__ノ ̄|  |   ///;ト,  ナンミョウホウレンゲッキョウナンミョウホウレンゲッキョウナンミョ
 \   |_/  / ////゙l゙l;  ナンミョウホウレンゲッキョウナンミョウホウレンゲッキョウナンミョ
   \     _ノ   l   .i .! |  ナンミョウホウレンゲッキョウナンミョウホウレンゲッキョウナンミョ
   /´     `\ │   | .|  ナンミョウホウレンゲッキョウナンミョウホウレンゲッキョウナンミョ
    |       | {   .ノ.ノ  ナンミョウホウレンゲッキョウナンミョウホウレンゲッキョウナンミョ
    |       |../   / . ナンミョウホウレンゲッキョウ
532人間七七四年:2010/04/24(土) 22:24:14 ID:d1Uqn8+Z
>>529
当時は手作りの黒色火薬を手作業で鉄砲に詰めて撃ってるわけだから
結構威力にもバラつきがあったんじゃないかな。
533人間七七四年:2010/04/25(日) 01:25:56 ID:rtJtjzQH
天文20年
鳥居忠吉は13歳になる息子鶴之助(鳥居元忠)を連れて駿府に赴き
息子を10歳の竹千代(徳川家康)に近侍させた。

そんなある日忠吉と元忠が共に家康の前にでた。
家康は百舌を鷹のように腕に据えて遊んでおり、元忠を見ると「その方もやってみよ。」と百舌の据え方を教えた。
が、慣れない元忠がなかなかうまく据えることができないでいた為
家康は「その据えようが悪い」と言って元忠を縁側から突き落とした。

それを見た近習たちが「そのような手荒なまねはなりませぬ」と諌めると、忠吉はこれを抑え
「それがし年頃竹千代君を養育したてまつり、朝夕、忠吉々々とお慕いいただいておりますが
 その忠吉の子を、世の常の人ならば少しは遠慮ということもあるべきところを
 思うがままにお叱りになるのは、これこそ天然自然に身に備わった大将のご器量というもの。
 将来は大功たてられる御身なれば、何事も気宇壮大にならせられるよう補佐し奉る事が肝要でござる。
 こんな小事をとやかくお諌め申し上げるには及び申さぬ。
 末頼もしき御生まれ立ちなれば、どなた様にも忠勤を励み、ご幼少なりとも仮初めにも卒爾な事があってはなりませぬ。」
と近習達を諌めたので、人々は皆これに感じ入った。

『寛政重修諸家譜』
534人間七七四年:2010/04/25(日) 01:33:03 ID:yhY4dG6F
>>533
このへんの忠吉だけじゃなく、三河本国の松平家臣団も
「竹千代君が家臣を手荒に扱った」と言うのを聞いて、
「幼いのに何と猛々しい!将来立派な御大将になられるであろう!」って、
涙を流して喜んだらしいね。

三河者と言うのは、よく解らんw
535人間七七四年:2010/04/25(日) 05:15:13 ID:YiHNJAbk
骨の髄まで面倒臭えw
536人間七七四年:2010/04/25(日) 05:35:28 ID:Wng4dbMx
考えるな、感じろ
537人間七七四年:2010/04/25(日) 07:58:11 ID:hSAk1r/o
元々は悪い話だったのを、徳川の世になってから
無理やり捻じ曲げて美談に仕立て上げただけに見えるが。
538人間七七四年:2010/04/25(日) 08:53:02 ID:VH7wViYe
親父の広忠がヘタレだったからじゃないの。
539人間七七四年:2010/04/25(日) 09:10:09 ID:LNl6RJoI
信長が同じことしたら「あのうつけにはついて行けん。」ってなるな。
540人間七七四年:2010/04/25(日) 09:17:37 ID:mv2qqeYf
黒田長政がやったら父とは似ても似つかぬ不肖の(ry
北条家の誰かがやったら親父に折檻される
細川忠興だったらやっぱ基地外か…と皆溜息
541人間七七四年:2010/04/25(日) 09:50:38 ID:bG/NKNXu
「その据えようが悪い」と笑ったら必ず刃傷沙汰になり、
突き落としたらほめられる。

戦国時代人の思考パターンというのは、どうも現代人からは分かりづらい・・・
542人間七七四年:2010/04/25(日) 09:58:19 ID:h6cOHhNF
広忠の家っていうの?松平本家?
そこがあまり強く無くて一本化できなく、そこから没落してったからってのが前提としてあるんじゃないかな
家臣や一門衆なんかにもビシッ!と言えるってのが期待されていたとか
543人間七七四年:2010/04/25(日) 10:33:03 ID:GvIxSKFl
>>533
これはわかるなー
貧乏時代の立花宗茂が干し飯に頓着しなかったのを家臣が喜んだように
竹千代が卑屈に育ってないのがうれしかったんだろ
小さい子でもこういう時、どんな反応するかって、その子の性格によってぱっきり分かれるから
544人間七七四年:2010/04/25(日) 10:42:14 ID:SWa8da0B
>>541
小田氏治がやれば「さすが菅えもん!ほんとなんでついていくんだろうwww」
真田家の誰かがやれば「またお兄ちゃんの寿命が…」
鬼武蔵がやれば「血が流れない…だと!??」と驚嘆

現代人からすればここのスレの住人の思考パターンも十分かわりづらいと思われる
545人間七七四年:2010/04/25(日) 10:51:00 ID:jw1Ad2ju
攻撃?いいえ物見です

ラスボスの朝鮮征伐の頃
ある日、藤堂高虎は夜陰に乗じて敵に近づき数隻の敵船を奪って帰ってきた。その翌日も同じ手口で敵船を奪ってきた。
秀吉の命もなく行なったこの行動は、軍令違反だった。しかし敵船を奪ってきたことから手柄とされた。
これに、高虎をライバル視する地味な方の加藤こと加藤嘉明が悔しがった。
(高虎を上回る功を挙げたい、しかし高虎のせいで締め付け厳しく抜け駆けは難しい・・・)
悩んだ嘉明だったが、何かを思いついたのか部下の塙団右衛門に物見の船を出させた。
普通、物見は戦闘は行なわない、ある程度の距離から敵を偵察するだけである。これなら軍令違反にはならない。
だが団右衛門はドンドン敵に近づいて行く。これに嘉明は慌てた。
「イカン!近づき過ぎだ!団右衛門、船を戻せ!」
しかし聞こえないのか団右衛門は船をなおも進めた。
ついに嘉明は「ちょ、待てよ!待てって軍令違反になるってば!」と言いつつ自分も船を進めはじめた。
嘉明の部下たちもすわ殿の一大事とばかりに一斉に船を進めた。

何の事はない。嘉明の軍は、「戻れ、戻れ」と言いながら敵に一斉に遅いかかったのである。
この不意打ちに敵は大混乱。団右衛門を先鋒とした嘉明軍は大活躍し、戦いらしい戦いもないまま敵船数十隻を奪い意気揚々と帰還した。
抜け駆けした事にかわりなく軍令違反となるのだが、もし秀吉がせのことを質せば、嘉明はこう答える気であった。
「攻撃したわけではありません。物見に出した部下がドンドン敵に近づいてっちゃうもんでそれを止めようとしたら敵船が目の前にあっただけっす」
「ええ。抜け駆けする気なんてこれっぽっちもありませんでしたよ(棒)」
546人間七七四年:2010/04/25(日) 11:15:44 ID:jw1Ad2ju
×遅い→襲い
×せのこと→そのこと

誤字が酷いちょっとガラシャにチョッかいかけてくる
547人間七七四年:2010/04/25(日) 12:10:24 ID:GQq7cyG7
>>533
これが、数十年後の大事の伏線になっていたのか…
あの伏見城の一件に比べたら、確かに小事中の小事だな
548人間七七四年:2010/04/25(日) 12:27:16 ID:nCO0cpQx
新聞に挟まっていた地域誌に、家康が鷹狩りの際に利用していた御成街道の記事があった
こういうのって載せちゃっていいのかな
いいのなら要約して投稿してみようかと思うんだが…やっぱりマズいかな?
549人間七七四年:2010/04/25(日) 12:36:49 ID:Pn+Zz4+j
祖父も父も家臣に殺されてるのに岡崎留守番家老の息子に暴力を振るとか、
そりゃいい度胸してると褒められるわな。
550人間七七四年:2010/04/25(日) 13:01:39 ID:MrUairx3
>>545
塙団右衛門にぴったりの役だな。w
551人間七七四年:2010/04/25(日) 14:07:03 ID:SWa8da0B
>>548
いいんじゃね?
よくわからんけど教えて欲しいとは思う
552人間七七四年:2010/04/25(日) 14:08:58 ID:t96VY1Ok
天庵主従のちょっといい話。

我らの小田”フェニックス”氏治は意外と風雅人で、
たとえばこんな歌を詠んでいる。

「うき事はよのならはしとつゝみても袖にもりくる我涙かな」
「身を捨てゝおのが心にかくれなん心の奥とてうきはいとはじ」


そんな彼に野長瀬入道鈍斎という家臣がいた。
あるとき鈍斎は主の甲冑を身につけて戦うことになった。
その際に氏治と交わした歌が残っている。

鈍斎「君がため今ぬきかへる衣手を後の世までのかたみとぞ見る」
氏治「わがために替る衣は薄くとも契りて朽ちし後の世までも」

やがて鈍斎は氏治の身代わりとなって土浦で討死した。
553人間七七四年:2010/04/25(日) 14:21:52 ID:Zbsz1Epr
家康の身代わりで討たれる→名誉の戦死

氏治の身代わりで討たれる→完全に犬死・・・
554人間七七四年:2010/04/25(日) 14:26:04 ID:t96VY1Ok
>>553
つか、最初から身代わりで死ぬつもりで
氏治の甲冑着たらしいです。
言葉足らずですまん。
555人間七七四年:2010/04/25(日) 14:32:01 ID:huEyn0UU
野長瀬鈍斎って源平合戦で源氏なのに平家につき、南北朝でひたすら南朝につくした
近露の野長瀬氏と関係あるんだろうか?

この報われなさは通じるものがあると思うんだ
556人間七七四年:2010/04/25(日) 14:32:04 ID:2h+iFDNG
最初から負け戦前提なのかよwww
557人間七七四年:2010/04/25(日) 15:26:16 ID:E4kAPkQi
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1270721428/386 の続き

大坂の陣打ち上げ会で黒田長政が宴会ムードをぶち壊した直後のこと、
寺沢広高が用を足しに行こうとして縁側の障子を開くと、1人の若侍が臨戦態勢で控えておりました。
広高は名を問うと、若侍は言いました。
「黒田筑前守が家臣、栗山大膳と申す者でござる」
広高は、なるほどこの若者があの栗山備後の跡継ぎかと感心し、席に戻ってから長政に言いました。
「さすが黒田殿は頼もしい家臣を抱えておりますな。もし、うちに譲ってくれるなら高待遇で迎えたいところです」
家臣が褒められたことに長政は顔を綻ばせながら、
「かの者は我が家の譜代の臣でこちらからクビにすることはまずないですが、
 もし、好条件で引き抜きの話があったとしても、黒田家を離れることなど絶対にないでしょう」
と言って断りました。

ここで終わるといい話のような気がしましたが、その後の顛末を考えると悪い話だったかも……
558人間七七四年:2010/04/25(日) 15:39:05 ID:ekl2stEj
>>551ありがとう、上手く要約出来てないが投稿してみる


東金御成表道


徳川家康が鷹狩りをするために築かせた東金御殿の庭池として整備された、千葉県東金市の八鶴湖。
その東金御殿があった場所は御殿山と呼ばれ、湖畔にある県立東金高校横に入口があり一般公開されている。

船橋から東金に至る「御成街道(約34km)」の終着点が東金御殿と言われているが、正確には国道409号線(東金道)までで、
当時の人々はそこから先、どの道を通って御殿まで辿り着いたのか定かではない。

東金市油井の旧蚕糸センター付近には道祖神があり、市教育委員会が作成した看板には、
「日吉台方面へ行く道と、大豆谷(まめざく)方面へ行く道との二手に分かれる地図」が描いてある。
道祖神には「是より下ハ東金道」と刻まれており、その方向の細い道を通って行く道が「表道」、
日吉台方面に向かう車道の方が「裏道」だったということが分かる。
この「御成表道」入口は「おあし坂」と呼ばれたそうで、坂道が急なために歩幅を大きくとって行き来した、
「大足(おおあし)坂」に由来するそうだ。
かつて東金から江戸や佐倉方面へ上る幹線道路として最も人の往来があった道だとされるが、
現在地図に載っていないだけでなく、十数年前の倒木により篠竹が生い茂って通行不可になっていた。

しかし昨年12月、東金商工会議所の建設業部会が会議所50周年事業として復元作業に取り組み、
かつて家康・秀忠・家光が通った「おあし坂」が復元された。

その後、建設業部会のメンバーを中心にNPOが設立、
「おあし坂」が将来寸断されてしまうことのないように維持・保全活動を続けていくことに。
また「おあし坂」だけでなく、八鶴湖・御殿山に至る東金御成表道を地域の文化遺産として広く周知して行こうという
呼びかけが広がり、家康鷹狩400周年を間近に控えたご当地のつながりを強めている。


あんま家康関係なかった、問題があればまとめには載せない方向で…
559人間七七四年:2010/04/25(日) 21:27:06 ID:CG4LZjqw
いい話だ

国松は乳母の再嫁先である若狭の砥石屋弥左衛門の養子となった。
これは秀頼の正室である千姫をはばかったものと見られている。

大坂冬の陣が起こると、秀頼の隠し子との詮議を受けぬよう、
常高院と共に大坂城に入城。
その後、和議が整ったのでそのまま滞在した。
翌年の大坂夏の陣のおり、国松は父の秀頼と5月8日に盃を交わし、
乳母某と田中六郎左衛門(京極家侍、傅役か)と共に城を落ちる。

しかし、徳川方の捜索により国松は京都所司代板倉勝重のもとに連行され、
5月23日、市中車引き回しの後、六条河原で乳母某と田中六郎左衛門と供に斬首。享年8。
田中六郎左衛門は京極家の者として死罪を免れ得たものの、自ら志願して同時に処刑されたという。
560人間七七四年:2010/04/25(日) 21:45:36 ID:jBu0Nxhl
>>558
引用は認められているから情報元、この場合地域紙の名称と年月日を書いておけは問題にならないんじゃね?
まぁ多分大丈夫だけど
文化財の保護って大切だよな
561人間七七四年:2010/04/25(日) 22:49:44 ID:iFtdcAv/
>>559
これも殉死だねえ
最後まで「私がお供してますから何も怖いことありませんよ!」って
力づけてたんだろうな・・・
562日本のうた三代(一):2010/04/25(日) 23:26:58 ID:k5rcCOPo
永禄11年(1568)12月、愚谷軒日新斎こと島津忠良没す。享年77。
島津宗家を巡る内紛を鎮め、「いろは歌」等による教育を推し進め、優秀な孫や家臣団を育て、
「島津家中興の祖」と言われる男の逝去。
ある者は哭涙し、またある者はその死を悼む歌を詠んだが、島津貴久の詠んだ歌は、少し違った。


つくづくと 思ふに少し 慰むは 乱れぬ人の をはりなりけり


皆が「偉大な日新公」の死を惜しむ中、実子の貴久だけは「人間・島津忠良」の、
畳の上での穏やかな死に安堵していたのだろうか。
563日本のうた三代(二):2010/04/25(日) 23:28:01 ID:k5rcCOPo
天正15年(1582)、島津義久は豊臣秀吉に降伏し、人質として娘・亀寿を差し出した。
翌年、義久は上洛して秀吉に謁見し、薩摩に帰らんとする際、取次役の細川幽斎に手紙を託した。
「これを、娘に渡してくだされ・・・」手紙には、義久の詠んだ歌が書かれていた。


二た世とは 契らぬものを 親と子の 別れむ袖の あはれをも知れ


幽斎は、この歌を秀吉にも見せた。
子を想う親の歌は独裁者の心をも動かし、亀寿は解放されたという。
564日本のうた三代(三):2010/04/25(日) 23:29:55 ID:k5rcCOPo
加治木黒川岬は古くから名勝として知られ、島津義弘に仕えた僧・鳳山明釣が、晩年この地に
「鳳山軒」という庵を結んだ。義弘の子・島津忠恒も、この名勝を愛して、鳳山軒をたびたび訪れた。

ある時、忠恒は黒川山に咲いた花々が、鏡のごとく輝く波間に映り込んだ絶景を、錦に例えて歌に詠んだ。


浪のおり かくる錦は 磯山の 梢にさらす 花の色かな


鹿児島湾の別称「錦江湾」の名は、この忠恒の歌より起こったと言われる。
565人間七七四年:2010/04/25(日) 23:33:03 ID:jBu0Nxhl
薩摩のイメージとは裏腹に意外に文化人なんだよね
566人間七七四年:2010/04/25(日) 23:37:36 ID:6SGBSgU4
>>563
後年、義久は幽斎から古今伝授受けているね。
567人間七七四年:2010/04/25(日) 23:44:39 ID:1Q0VTd6f
>>563
>天正15年(1582)

1587年ではないかと。
568人間七七四年:2010/04/25(日) 23:51:00 ID:jBu0Nxhl
実際オタだったり童貞だったりニートだったり引きこもりだったりなんてのは2chでも極一部だろ
1000万も利用者いるんだから
569人間七七四年:2010/04/25(日) 23:51:50 ID:jBu0Nxhl
誤爆スマン
570558:2010/04/26(月) 00:08:15 ID:TxL+O1Qb
>>560
引用元を記載するか迷って結局載せなかったんだけど、やっぱり必要だよねorz
引用元は街波通信(vol.61)です

>>563
子を思う親の気持ちはいつでも一緒なんだな
義久って亀寿を結構可愛がっていたんだっけか




571人間七七四年:2010/04/26(月) 09:33:41 ID:hC827Vq+
それがあんな目に合わされたと思うとやるせないな・・・・・・・
572人間七七四年:2010/04/26(月) 12:08:03 ID:c3DPkbUh
>>565
ぶっちゃけ義久はかなりの和歌を残してるから、百人一首ならぬ一人百首できちゃうよ!
千首はあるんじゃね?ってくらい多いんだよな
573人間七七四年:2010/04/26(月) 13:17:28 ID:snjsCdE3
鬼武蔵が一人百首というと別の意味になるな。
574人間七七四年:2010/04/26(月) 13:20:27 ID:TdvYlv5L
ほそ
なんでもない
575人間七七四年:2010/04/26(月) 13:40:32 ID:hC827Vq+
>>574
お主は37じゃ
576人間七七四年:2010/04/26(月) 14:19:21 ID:o68/EvpO
>>565
「鎌倉からの旧家」と考えればあまり意外でもない気が。

日新斎のそういった趣味に
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1459.htmlの
「眉剃り+眉書き+おはぐろ」というファッションも含めると九州の今川義元かな…と思えてくるw
577人間七七四年:2010/04/26(月) 15:41:52 ID:Ookh1UvF
「最先端=将軍のいる京都文化」という括りならそうなる。

商業的には九州のほうが圧倒的に実入りがいいはずなのだが。
578人間七七四年:2010/04/26(月) 16:13:16 ID:Cn+MyUs3
近衛信尹が薩摩に流されてきた時も義久から厚遇されて
歌やら書やらの教室作ってたとかいう話もあるよな
579人間七七四年:2010/04/26(月) 17:15:11 ID:rfll8d8g
数日磨かないだけで歯がまっ黄色になるのを見るにつけ、
お歯黒つけっぱなしって結構合理的なんじゃないかという気がw

眉剃り+眉書きについては、現代人もあと一世代で
平安時代人的な麿顔のことを悪く言えなくなると思うw
580人間七七四年:2010/04/26(月) 17:50:20 ID:P1g0sYrd
後は、ぽっちゃり=美形のイメージを刷り込む
581人間七七四年:2010/04/26(月) 18:15:07 ID:LWj6fjLc
今川義元は歌は苦手で、あくまで付き合いの為にやってたんじゃないかって話があったな
息子がそっちに精出してるの見て、そんなものなんの役にも立たんとか言ってるし
なんかイメージ台無しだ
582人間七七四年:2010/04/26(月) 18:23:28 ID:VDtS0cwY
義元の麻呂っぽい馬鹿殿イメージってどっから来たんだろうな。
583人間七七四年:2010/04/26(月) 19:39:24 ID:zVts7mWH
義元の他に周防のお屋形様や越前のお殿様等、
京文化に深い理解を示した有名どころの大名がどれもあまりいい死に方をしなかったので
京文化(に傾倒)=麻呂=馬鹿殿になってしまった
特に信長・秀吉・家康に関わっており、一番知名度のある義元が麻呂の代表に
584人間七七四年:2010/04/26(月) 19:53:49 ID:avnozgPk
しかも今川家は足利庶流の中でも吉良家に次ぐ上位の家格だし、大内氏も平安後期には名前が登場するくらい古い家柄。
そういう名門が没落していく状況だから、余計に「馬鹿殿」っぽいイメージを付与されてるんじゃね。
585人間七七四年:2010/04/26(月) 20:11:01 ID:7KfSxoWL
どうも今川義元の麿イメージは、やはり江戸歌舞伎の桶狭間物から来ているみたいね。
586人間七七四年:2010/04/26(月) 21:44:53 ID:FQL9z4z0
>>437で心配されてばっかなのも何なので逆に心配してる手紙を、
まとめ管理人氏もオススメの「伊達政宗の手紙」より


ご病気は、その後どうですか?心配してます。腫れ物が出来たとの事で、お気の毒に…
喜庵に言って作らせた薬を、同封しておきます。
あと、嬉しくもないだろうけど、君の事を狂歌に詠んでみました。あ、怒らないでねw
(原文:うれしくもおぼしめさず候や、一首まいらせ候。御はらだち候まじく候、々。)

そらはれて のどかにみゆる 世の中に そのみのかさは 何のようぞや
(天下は晴れ渡る空のように太平なのに何で君は、みのかさ(蓑笠・身の瘡)が要るんだい?)

我ながらヒデェ歌だけど、これもひとえにキミの事を心配しての事ですので…

長兵衛殿(桑山元晴)へ  政宗より


病床の友人に、せめて一笑を届けんとする政宗のいい話…なのだが、「喜庵」って
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-580.htmlの
高屋喜庵さんだよね?実在の人物だったのかw
587人間七七四年:2010/04/26(月) 21:50:45 ID:BwWbNMz2
>>585
最近はそういった麿イメージを払拭するタイプの描写が増えてるというのは義元のいい話かもな
588人間七七四年:2010/04/27(火) 04:34:24 ID:wOoiajHM
大道寺の旗指物

関東管領上杉憲政の家臣に本間近江守という者がいた。彼は長野業政の命をうけ、
スパイとして北条家に仕えた。
数年後、首尾よく北条家の軍事、行政の内部情報を入手すると、無事帰還した。
そして主君上杉憲政に北条の内情を報告し、攻め込むよう再三献策するが、さすがは戦国を代表する暗君
だけあってか、かえって五月蝿く思われ遠ざけられる結果となる。

天文15年、上杉、北条の明暗を分ける河越の夜戦が勃発
北条の夜襲により、上杉方の将兵が大混乱に陥り、逃げ惑い、あるいは討ち取られたりする中
本間近江守はここを死に場所と思い一歩も引かず、奮戦。北条家に潜入した際に友人となった
大道寺駿河守直宗と槍を交えた。槍では勝負がつかず組み打ちとなるが、とうとう近江守は力尽き
首を取られそうになる。その間際
「友人であるおまえに討ちとられるのは何かの縁であろう、死んでも悔いはない。ただ我が家の旗指物は
先祖より伝わる大事なものなので、これからも伝えて欲しい」
と言い残し首を斬らせた。

これ以後、大道寺家では本間近江守の旗指物を使うようになったという。
有名な大道寺家「九つ提灯」の旗指物の由来である
589人間七七四年:2010/04/27(火) 10:45:23 ID:uBL/fxAh
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1160.html
の別パターンか

死に場所を得て歴史に名を刻んだのは本間さんにとって幸せだったのか不幸だったのか…
590人間七七四年:2010/04/27(火) 11:52:52 ID:/gpPlFB7
信玄のかませ犬の息子

1537年武田信玄が初陣で平賀成頼(源心)を討ち取ったことは知られていますが、
その嫡子平賀清恒は家を再興することができず姉の嫁ぎ先の冷泉隆豊を頼り周防に落ち延び
大内氏に仕えたといわれます。
その後、大寧寺の変で主君が死ぬと長門の厚狭に落ち延び帰農しました。
3年もの熟考した末に鉱山にわらじを運び、鉱夫のわらじと交換することで
わらじから砂金を集め莫大な資金を手にしたとされます。
彼はこの資金を開拓に用いました。
厚狭川を堰き止め、千町ヶ原に水路をひき灌漑をおこなうことで貧しい一帯を美田へと変えました。
村人は彼を讃え祠を建てて寝太郎権現と呼んだと言われます。

あの有名な三年寝太郎のモデルです。
記録が残っておらず三年間寝て過ごしたり、当時発見されていない佐渡金山で稼いだなど
尾ヒレがついており信ぴょう性は薄いおとぎ話ですが、寝太郎堰は実在します。

その後は弟の白石国長とともに伊達氏に仕官したとも言われています。
591人間七七四年:2010/04/27(火) 12:38:34 ID:JbOTn5M2
寝太郎にモデルがいたなんて厚狭在住のオレも知らなかったよ。
山梨あたりから落ち延びて来たなんて、相当な苦労があったんだろうなぁ。
592人間七七四年:2010/04/27(火) 12:50:28 ID:EEKCZLGB
逆に山本菅助は、元々大内被官で山口から甲斐に行ったと言う話がある
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2527.html

山県昌景も安芸から親戚の飯富虎昌を頼って甲斐に行ったという話がある。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2523.html
593人間七七四年:2010/04/27(火) 15:05:19 ID:iTvve1Zt
>>588
柳生宗矩と坂崎直盛の逸話みたいなものか。
あっちは家紋を自主的に引き継いでたがいい話ではないな‥
594人間七七四年:2010/04/27(火) 17:18:53 ID:f0iwQvBu
>>592
戦国時代ってローカルで固まってたイメージが強いけど
意外と東西交流は盛んだったのかな
595人間七七四年:2010/04/27(火) 17:52:59 ID:g6xtPGBm
>>588
でも大河ドラマの風林火山では北条の2重スパイとして河越城に矢文を送って外部と連絡させたりしたのに
夜襲のとき味方であるはずの清水吉政に普通に斬り殺される意味不明の人でしたw

どう勘違いすればあんな脚本を書けるんだろうか?www


596人間七七四年:2010/04/27(火) 18:54:05 ID:SuQi77fi
>>594
まあ、武将と言っても浪人してたら往来は自由だったんじゃない?
立花宗茂なんて敗戦後に江戸に定住したくらいだし。
597人間七七四年:2010/04/27(火) 19:05:03 ID:aHO8ALPh
平賀玄信が滅亡後、一族は奥州の白石に移り伊達氏に仕え、白石姓に改めた。明治維新後は、平賀家に復姓。

平賀玄信は架空説がでているけど
いちおう平賀一族は実在するようだな。
598人間七七四年:2010/04/27(火) 19:25:36 ID:rgZoDHcf
>>590
いいね、こういう話
599人間七七四年:2010/04/27(火) 20:56:06 ID:G2ARq0Kd
>>594
明智光秀が大友の城の縄張りしてたってのもあったよな
600人間七七四年:2010/04/27(火) 22:00:49 ID:89+0Pbdk
>>590
寝太郎の起源譚ってあるのかあ
おもしろいな
601人間七七四年:2010/04/27(火) 22:10:05 ID:r8avHdVu
三河一向一揆の瓦解の後本多正信は京に逃れ、松永久秀を頼った。

久秀が正信に会ったあと傍らの者を顧みていうには
「徳川家から逃れてくる侍をたくさん見ているが、その多くは武勇のやからである。
 ところがこの正信だけは強からず、柔らかならず、卑しくもない。
 必ずや尋常の者ではあるまい。」と感心したという。

『藩翰譜』
602人間七七四年:2010/04/27(火) 22:23:24 ID:MFF7Oht3
>>592
相木市兵衛が山中鹿之助の縁者ってのもあるしな
603人間七七四年:2010/04/27(火) 22:31:34 ID:EEKCZLGB
戦国期の大名の交流といえばこれすごいびっくりした

朝倉氏遺跡でガラス玉、工房出土 日本海交易に一石
http://www.fukuishimbun.co.jp/modules/news0/index.php?page=article&storyid=21099&storytopic=1

>  同理事によると、当時北海道のアイヌ民族はガラス製品や刀装具を好み集めていたという。
> 北海道では室町時代の越前焼が見つかっており「越前焼などとともに『交易品』として送っていた
> 可能性がある。その代わりに毛皮や金、昆布などを得ていたのではないか」と話す。
>
>  一方で、川越主任調査員は「義景にごく近い上級武士が、ガラス玉を琉球との交易品に
> しようとしたことも考えられる」との見方を示す。
> 朝倉氏は琉球との交易を図ろうと、島津家に仲介を求める書状を送っていたことがあるためだ。


北海道から沖縄まで見据えた交易戦略、朝倉すげえ。
604人間七七四年:2010/04/27(火) 23:11:46 ID:rsAh2NS8
>>603
古代から朝鮮半島と交易してるような所だからそれほど驚く事じゃないと思うが
NHK教育の受け売りだけど
605人間七七四年:2010/04/27(火) 23:15:59 ID:Nh8clTiz
日本海交易なんてもう鎌倉時代ぐらいからそんぐらいの距離移動してんだろ
606人間七七四年:2010/04/27(火) 23:20:53 ID:W1WCKDIO
十勝とか神津島の黒曜石が日本各地から出土してるんだから縄文時代からそのくらい常識だろ
607人間七七四年:2010/04/27(火) 23:55:00 ID:5DzPBNlb
>>595
ドラマだと本心では憲政より氏康がいいと寝返ってたけど、
二重スパイしてたのがばれたら生き延びても恥だから
北条に殺されることで討ち死にとして
家の名誉を守ろうとした
清水もその気持ちを汲んで斬り殺したって筋だったけど。
608人間七七四年:2010/04/28(水) 00:34:08 ID:hjHXUO1L
>>607
>清水もその気持ちを汲んで斬り殺したって筋だったけど。

DVD見たが乱戦中清水にいきなり斬りかかって返り討ちにあっただけだぞw
まあ、斬ったあとによくやったみたいな言葉はかけてたけど
609人間七七四年:2010/04/28(水) 00:48:56 ID:0tgPjgEh
鬼武蔵「いきなり斬りかかることに何か問題でも?」
610人間七七四年:2010/04/28(水) 00:57:33 ID:8fQJ7SoK
さすがにこれは読解力なさ過ぎ
611人間七七四年:2010/04/28(水) 02:01:50 ID:Q3kVXbvQ
1553年甲府において浄土宗と日蓮宗の間で宗論が行われた。
その際、武田晴信は日蓮宗徒の原美濃守虎胤を呼び
「日蓮宗では念仏を唱えると無限地獄におちるというが、今後は浄土宗を信仰し南無阿弥陀を
唱えろ」と改宗を迫った。

しかし虎胤は
「念仏を唱えれば地獄に落ちるなどということは信じていませんが、開祖の教えに背くことは
主命に背くことと同じなのです。ですから命を失っても念仏を唱えることは出来ません」
と断り退席した。

晴信はたいそう怒り改易としたので、虎胤はしかたなく甲斐を去りつてを頼って小田原へ向かった。
小田原の北条氏康は名将と名高い原美濃守が城下にいると聞くとすぐさま召し抱え厚遇した。


翌年、甲相駿三国同盟がなると晴信は氏康に対し
「今貴殿に仕えている原美濃守は父信虎の代より二代にわたり武田に仕えた忠臣です。
主命に背いたので懲らしめましたが、今では非常に残念な事と思っております。
同盟がなったあかつきに、是非ともお返ししていただくようお願いします」
と原の返還を願った。

氏康は承諾し原虎胤は武田家に再び仕える事になったという。


武田晴信の(調子の)いい話。

612人間七七四年:2010/04/28(水) 07:39:38 ID:Qn3R4d6U
氏康いいひとだー

まあ、本人が武田に帰りたいなら、返した方がよかったのかもしれないが。
613人間七七四年:2010/04/28(水) 07:48:15 ID:AFxO8mtZ
佐渡「主君と信仰なら普通信仰を選ぶよね」

右近「当然」
614人間七七四年:2010/04/28(水) 08:30:38 ID:clqeCX9g
三好某「部下と信仰なら普通信仰を選ぶよね」

大友某「当然」
615人間七七四年:2010/04/28(水) 08:41:08 ID:lSFRu++m
>>612
最悪のタイミングで寝返られるかもしれないし、素直に返した方がいいよな
616人間七七四年:2010/04/28(水) 08:56:52 ID:gxptF6Ur
無くなってみると惜しくなるものってあるよね、別れた元カノとか・・・
617人間七七四年:2010/04/28(水) 09:38:00 ID:saXm2ypu
某某某「元カレとか…」
618人間七七四年:2010/04/28(水) 10:12:51 ID:0FNwBuG+
取られた槍じゃ!
619人間七七四年:2010/04/28(水) 10:35:23 ID:hJpbisfZ
宗教を上手く扱う事に定評のある信玄にしては珍しいミス
こういうことから学習していったのかな
620人間七七四年:2010/04/28(水) 10:50:02 ID:JSNxsQu8
甲斐は日蓮宗の総本山身延山久遠寺もあるし、初代鬼美濃以外にも信者は
いそうだが他は大丈夫だったのかな

戦国時代の宗教勢力というと本願寺が思い浮かぶが、教義の排他性とか考えると
危険度は日蓮宗の方がかなり高めだよね。

山科本願寺を焼き討ちして京都から本願寺勢力を駆逐したのも町衆の日蓮信者だし。
621人間七七四年:2010/04/28(水) 10:59:27 ID:tDbTNw2V
悪い話スレ常連の忠興公は、
家臣にけっこうキリシタンが残っていたそうで、
徳川の目が厳しくなるたびに、
「お前ら目立つんじゃないぞー。目立つんじゃないぞー」
とかやってたらしい。
お玉ちゃんの件とかで、「忠興の知らないうちに家臣にもお玉経由で広まり」とか、
(特に女性作家から)ぼんくらあつかいされることも多いが、
実際にはそれなりに寛容さを持っていたことと思われる。

というかお玉ちゃん関連でアレなのは認めるが、
女性作家陣の書く、ひきたて役のような忠興も、「ちょっとソレどうなのよ」という感じはする。
性格的にはキチガイでも、能力的にボンクラなヤツが、
織田→豊臣→徳川と生き残って、あそこまで高禄をはむわけもなかろうに。
622人間七七四年:2010/04/28(水) 11:09:27 ID:pWZ4PIB1
>>621
人間間の交流や堀り下げや描写するときに
性格アレじゃ庇いようもないってことじゃ?
特に夫婦間や恋愛関係を描くときには

それこそお玉ちゃんを
「男は稼いでこそナンボ。
しっかり稼いできさえすれば猿でも構わない」ってタイプとして描くなら別だけど
623人間七七四年:2010/04/28(水) 11:13:33 ID:NT6E9+f5
>>620
法華宗の危険性は信長も感じていて、安土宗論ではわざと浄土宗側を勝たせて二度と他の宗派に
いちゃもんつけないように起請文書かせてる。
624人間七七四年:2010/04/28(水) 14:25:49 ID:Hy+Yaeaf
「忠興の知らないうちに家臣にもお玉経由で広まり」ってのは意外だわ
完全に監禁されてるようなイメージあるんだよねお玉は
625人間七七四年:2010/04/28(水) 14:46:48 ID:srBzfHkr
>>624
それだと興秋は産まれてこないよね?
626人間七七四年:2010/04/28(水) 15:26:16 ID:MzHpp9Ux
>>623
信長自身は法華宗徒だけど政治的な問題になれば別なんだろうね。

法華宗といえば三河一向一揆のときに家康についた大久保一族はガチガチの法華宗で
「妙法蓮華経」の旗を押し立てて戦ったとか。

>>624
座敷牢にいれられているわけでもないから
侍女やら茶坊主やらを通じて広まるんじゃないかな。
627人間七七四年:2010/04/28(水) 17:39:41 ID:Hy+Yaeaf
庭師でさえ、お玉を見ただけでぶった切られるような家中で
奥方が信仰してるらしいぜ!俺も俺も!ってな感じで広まるのを
忠興的に許せるのかな?って思っただけなんだけどね。
まあ逸話に毒されすぎってのもあるけど。
628人間七七四年:2010/04/28(水) 17:52:26 ID:yMaGi2ZF
>>623
安土宗論が八百長だってのは、日蓮宗側の史料にしか証拠のこってないけどね。
信長公記の安土宗論に関する記録には、正々堂々と議論して、日蓮宗が敗れた顛末が書いてある。
負けた日蓮宗が腹いせに記録を捏造した可能性が高い。
629人間七七四年:2010/04/28(水) 18:12:27 ID:S+WRvLRT
お玉が信仰しているとなぜ知ったのだ、さてはお玉に会ったのだな?

Yes→「痴れ者め、食らえ!」Dead end
No→「主に嘘をつくか、この慮外者が!」Dead end
630人間七七四年:2010/04/28(水) 18:25:58 ID:SKJR5Tmv
奥方様も洗礼受けるほど、細川家内にキリシタンがいたという方が現実的に思える
631人間七七四年:2010/04/28(水) 18:51:40 ID:YDvT1Ix1
たまちゃんにキリスト教を教えたんだかは、忠興本人だっけ?

オヤジさんの事やらなんやらでふさぎ込んでるたまちゃんに、
少しでもの慰めになればと色々な話を仕入れては語ってたけど、いまいち反応がよくない。
しかしキリスト教の話には結構興味を示したので、黒田のオヤジさんやらに話を聞いてどんどん教えてたとか・・・
でも、屋敷を抜け出して洗礼さるとまでは思ってなかったらしいwww
632人間七七四年:2010/04/28(水) 18:53:30 ID:YDvT1Ix1
出典やら聞かれても覚えてないし、そもそも記憶もいい加減だから、与太話程度に流してね・・・
633人間七七四年:2010/04/28(水) 20:01:55 ID:IIg7l/a5
忠興がキリスト教話を仕入てた相手って官兵衛だったの?と聞いてみる
634人間七七四年:2010/04/28(水) 20:30:53 ID:Ma8DqRmI
ゲヒ経由で高山右近あたりは?
635人間七七四年:2010/04/28(水) 21:22:28 ID:lSFRu++m
切支丹の侍女が神父の代理として洗礼与えたんじゃなかったっけ
636人間七七四年:2010/04/28(水) 22:23:32 ID:RdlRXw4l
神父?
男だね?
男なんだね?

斬る!
637人間七七四年:2010/04/28(水) 22:58:09 ID:KwKVFK4V
>>621
>女性作家陣の書く、ひきたて役のような忠興
忠興関連のフィクション読んだことないけど、そんな扱いなのは意外だ。

いい悪い話スレの逸話読んだ程度だけど、そこから浮かび上がるのは、
「有能で血筋もいい・聡明でプライドも高い」っていう似たもの同士の人物像。
二人とも、一家一国を率いる者としての度量(寛容さも含む)に気構え、覚悟と誇りを同じように持っている。
多分、忠興が感受性の強い繊細な芸術家タイプじゃなければ、
あるいはガラシャがもうちょっとだけ母性が強いタイプの女だったら、
国を経営する上でも夫婦としてもお互いにとって最高のパートナーになれたと思う。

ただ、忠興にとってガラシャがいい女過ぎるため、ピーキーな側面が強く出て愛情が執着になり、
精神的にも物理的にもガラシャを束縛する傾向が。
一方ガラシャは、忠興が執着するほど気高いからこそ束縛を愛情だと喜べるはずもない。
また(愛情ゆえとはいえ)我儘で理不尽な独占欲を許し受け入れるほど母性が強い訳でもない。
ガラシャも忠興の事好きだったと思うんだよな。だからこそ忠興の理不尽を許す訳にはいかない。

ほんの少しのすれ違いからお互いがお互いを追い詰めていく、負のスパイラルにはまった悲劇の夫婦って気がする。
638人間七七四年:2010/04/28(水) 23:10:39 ID:4ebC+u2j
神父「善良ナルガラシャ様ハ日本デモ有数ノ暴君ノ妻デシタ…」
マリーアントワネット「まあ、なんとひどい夫もいたものでしょう!」

海を越えてもこうだからなあw
639人間七七四年:2010/04/29(木) 01:02:19 ID:YbE3qP2i
逆に

「パンがなければお菓子を食べろなんていう王妃がいたってよ」
「エエー、なんて酷い王妃なんだろう!」

てなことになってるのでおあいこ。と言うか何と言うか。
640人間七七四年:2010/04/29(木) 04:08:58 ID:FAZ1PU0n
>>637
司馬遼太郎の短編の描写はそんな感じだった。
最初からこの二人が合うはずがなかっただか、この二人に幸福な結末はありえなかっただかみたいな書き出しになってた。
641人間七七四年:2010/04/29(木) 09:11:42 ID:rfRrl9Gq
ガラシャさんは幸村さんと同じ匂いがする。
中の人とは違う人物像が作り上げられた感が否めない
642人間七七四年:2010/04/29(木) 09:44:12 ID:mVOp0oye
講談からのイメージですからねえ

○○家家録みたいなのも大概はアレですけど
643人間七七四年:2010/04/29(木) 09:44:39 ID:55P0JN3H
>>630
島津は光久の祖母がキリシタンで種子島に流されたとか
644人間七七四年:2010/04/29(木) 10:29:29 ID:9CX23hr5
>>637
>「有能で血筋もいい・聡明でプライドも高い」っていう似たもの同士の人物像。
>二人とも、一家一国を率いる者としての度量(寛容さも含む)に気構え、覚悟と誇りを同じように持っている。

宗茂とギン千代たんもそうだな

>多分、忠興が感受性の強い繊細な芸術家タイプじゃなければ、

宗茂は感受性は強いかもしれないけど、繊細さは感じられないな

>あるいはガラシャがもうちょっとだけ母性が強いタイプの女だったら

ギン千代はなんだかんだ母性は強いほうだと思う

>国を経営する上でも夫婦としてもお互いにとって最高のパートナーになれたと思う。

残念ながら三斎の友人夫婦が君の考えを粉々に砕いてしまったよ…
645人間七七四年:2010/04/29(木) 11:02:16 ID:IEzq2Hcm
>>557
遅レスだがそこは直接的に拒絶するんじゃなく、もう少しエレガント(?)に断りたいものだ


江戸城の天下普請の際、視察に訪れた寺沢広高は、相役の福島家中に機敏に働く若者の姿を目に止め、
同じく視察に来ていた福島正則に声をかけた。
「あの若侍、出来るな!どうだ、当家に譲っては下さらぬか?」
正則は、笑って答えた。
「おお、それしき易きことよ。ただ、あの者は当家で長らく使っている者の息子で、ゆくゆくは父親の跡目をも
取らせようと思っておったところだ。よって、あれの親の分限ほどは、知行を与えてやってほしい。」
「ほう?して、あの者の父親とは?」
「尾関石見にござるよ。」
「え・・・」

[ 福島正則家老、尾関石見守正勝=郎党分含めて二万一千石・手取りだけでも一万二千石 ]
[ 肥前唐津領主、寺沢志摩守広高=十二万石 ]

「こ、この話なかった事に・・・ナハハハ・・・」
「おや、そうか?それは残念!ガハハハ!」
「「 ハハハハハハハハハハ!! 」」


市松だって、たまには誰かをやりこめたい。
にしても寺沢さん、そんなに節操なくスカウトしなくちゃならんほど人材が不足してたんだろうか?
後の顛末を思うと(´・ω・`)
646人間七七四年:2010/04/29(木) 11:04:24 ID:0m6Wm38f
これは珍しい市松
647人間七七四年:2010/04/29(木) 11:09:05 ID:QzdzjB9J
>>644
宗茂とギン千代の場合は
家中における立花系・高橋系の家臣たちの存在もあるんじゃないかな。
648人間七七四年:2010/04/29(木) 12:04:23 ID:nVaFuUxl
酔ってない時は出来る子の市松
649人間七七四年:2010/04/29(木) 12:23:57 ID:qPeJ7mmA
でも、素面の時が凄く少ないんですよね・・・
650人間七七四年:2010/04/29(木) 15:07:37 ID:NHdKL/sT
>>639
あれって、当時のフランスの法律で、パンが高騰したら、
一部のお菓子を値下げしないといけないと決まっていて
マリーの真意は「お菓子の値下げに踏み切るように」ということらしいけど
政治家は上手く言葉尻を捕らえるなーというか
根本的には民想いだけど浪費を止められないマリーが悪いというか
651人間七七四年:2010/04/29(木) 15:21:04 ID:b4R9vRSD
あれは捏造というのが最近の定説
ルソーの『告白』に"家臣からの「農民にはパンがありません」との発言に対して「それならブリオッシュを食べればよい」とさる大公婦人が答えた”ことを思い出した、とある
カーの本でも元ネタはトスカーナ大公国の公爵夫人と書かれてるし
あの辺は貴族の妬みと革命政府のバッシングが混じって良く解らなくなってるな
652人間七七四年:2010/04/29(木) 15:21:24 ID:+2GpVlu0
>>650
そもそもその話は、マリー・アントワネットがフランスへ来る前、すでに刊行されていたルソーの著作に記載されていた事だし
653人間七七四年:2010/04/29(木) 16:28:46 ID:93CiqF2l
米粥がなければ肉粥を食べればいいじゃない。
654人間七七四年:2010/04/29(木) 16:30:08 ID:EMOe7kk/
糒だろjk
655人間七七四年:2010/04/29(木) 16:56:10 ID:QeJQ5ZHu
西晋の恵帝「米がないなら、肉を食べらればいいのに。」
656人間七七四年:2010/04/29(木) 19:24:59 ID:PPrsina6
>>651
絶対王政期の一般的(模範的?)王侯女性の姿をデフォルメした上で王妃に当てはめたんだと思う。

日本でも>>533>>543みたいに「庶民目線とは違う」事が大物の証だったように
贅沢と飽食は君主の神性維持のために積極的にすべき事と教育されてきたわけだし
657人間七七四年:2010/04/29(木) 19:44:27 ID:fiAtt5pS
初代の家康からしてケチの日本代表みたいな状態だったのに、
徳川政権で贅沢が奨励されるなんてほとんど聞いたことないぞ。

ことあるごとに倹約令出して権力者自ら質素倹約を率先してたからこそ、
長く政権を維持できたんだろうし。
658人間七七四年:2010/04/29(木) 19:50:31 ID:1Y38hpwh
そもそも経済的に困窮していたために倹約令が出たのであり
贅沢をしようにもできなかったのでは?
659人間七七四年:2010/04/29(木) 19:51:19 ID:91cWTfWM
まぁなんだ、「戦国の逸話」について話さないんなら歴板にスレ立てるなり検証スレ行って議論してくれると助かる
660人間七七四年:2010/04/29(木) 22:19:15 ID:QzdzjB9J
大久保忠隣の子忠常は家康の孫娘を娶り、将軍秀忠の覚えもめでたいとあって
「御無双之出頭人」と称された。
その人気も絶大だったらしく、慶長十六年に彼が病死した際には
無断で小田原へ弔問へ出かけるものが数百人にのぼり、そのかどで閉門を命じられた者もいたという。
661人間七七四年:2010/04/29(木) 22:39:00 ID:cSuoxXh7
こういう人に限って短命なんだよなぁ……
662人間七七四年:2010/04/29(木) 22:48:02 ID:V/J9fPHx
大久保忠隣って関ヶ原の後だが、自分の江戸の屋敷に来る人間には、誰にでも
食事をご馳走してたんだってね。
伊達政宗が「そんなのいくらなんでも嘘だろう」と思って、試しに自分の家臣を身分を隠して
忠隣の屋敷に行かせたら、しっかりご馳走になって帰ってきて

「おいおいマジかよ」

って絶句した、と言う話があったな。
こう言ったよく言えば困窮した御家人を救う慈善事業、悪く言えば露骨な人気取りの資金は
大久保長安から出ていたらしい。
663660:2010/04/29(木) 22:49:57 ID:QzdzjB9J
ちょっと修正
×「御無双之出頭人」
○「御当代無双之出頭人」
664人間七七四年:2010/04/29(木) 22:52:24 ID:5ojNfDp6
>>662
それじゃあ謀反のためと誤解されるのもやむなしかな
665人間七七四年:2010/04/29(木) 23:04:40 ID:dnGX6Ve1
臣下が人気取りと取られるようなこと大々的にやっちゃあかんわな。

本多の彼の人に目つけられずともいずれなんかあったろうよ
666人間七七四年:2010/04/29(木) 23:13:07 ID:ytFPmulZ
みんなから嫌われると謀反を企んでると讒言される


みんなに好かれようと人気取りしたら謀反を企んでると噂される


どうしろと?
667人間七七四年:2010/04/29(木) 23:18:04 ID:tLOJWyQG
権力の座に近いほど終わりを全うしにくいのは当然でしょ。
そういうケースの男の嫉妬は怖いよ。

正信みたいに完全に割り切って嫌われる道を選ぶことが可能で、
陥れられるのを防ぐためにはどうしたらいいかまで考えれるような異才ばっかじゃないし。
668人間七七四年:2010/04/29(木) 23:26:09 ID:/j94ZUXs
彦左衛門さんもみんなの人気取りやってたけど、
謀反を疑われたことなんてなかったよ
669人間七七四年:2010/04/29(木) 23:56:13 ID:uxK0gK1t
彦左はえらい人相手の人気取りじゃないやん?
670人間七七四年:2010/04/30(金) 00:16:33 ID:ntbCM3tw
そもそも彦左にそんな欲があるなら兄の後継ぐの固辞しねーからねw

分限ろくにないし彦左謀反!とか言った奴の方がお前頭大丈夫か?って言われかねん
671人間七七四年:2010/04/30(金) 00:54:35 ID:lKlwJxXu
>>667
嫌われても断絶がないようにするという戦略だったんだろう。
史記の張良を参考にしたんだろうな。しかし子が言いつけにそむくことまでは
計算出来なかったようだ。
672人間七七四年:2010/04/30(金) 01:00:39 ID:ntbCM3tw
同僚からの猜疑
主からの猜疑

いつの世も宮仕えは…か。
板違いだが李靖なんかはすげーわ。
673人間七七四年:2010/04/30(金) 01:15:07 ID:PCz/S6Bz
同僚から嫌われても主君に好かれていれば問題ないよ







代替わりさえしなければw
674人間七七四年:2010/04/30(金) 01:15:57 ID:kqSWxJtt
陳平や李勣を市松や虎之助の江戸期の挿話に喩えるのは過剰な評価か。
我が身を屈してお家を全うしたというと家康が筆頭になるし。
675人間七七四年:2010/04/30(金) 01:18:40 ID:ihaTNIaX
>>672
李靖の場合は年齢の関係で猜疑から免れたのが大きい
676人間七七四年:2010/04/30(金) 18:54:51 ID:r5uwp2Ay
>>673
呉起さんのことか。
日本なら田沼意次というところかな
677人間七七四年:2010/04/30(金) 19:52:35 ID:NecJ7J0f
浅井長政の関ヶ原合戦

ある時、浅井長政は五百の精兵を選り抜き、関ヶ原は野上の宿へ討ち入って火をかけた。
報告を受けた斎藤龍興は一万の兵をこぞり、踏み潰さんと打って出る。
長政は圧倒的な劣勢である。
垂井の手前に流れる小川を堀とし、柵を築いて持久の構えをとった。
が、これは見せかけで、長政は菩提の間道に小勢を走らせ、斎藤勢の背後へと走らせていた。
そしてある夜、長政自ら陣頭に立って夜襲をかけ、頃を見て別働隊を思い切り騒がせた。
「さては寝返りが出たか!」
斎藤勢は混乱し、龍興は岐阜まで撤退せざるを得なくなった。

さて、勝ちに乗る長政は大垣までも焼討する。
捨て置けない斎藤勢は態勢を立て直し、再度出撃。
浅井勢は槍を合わせず、あっさりと退いた。
龍興は垂井まで進み、そこで疲労した軍勢に一息入れさせようとした。
が、斎藤勢が休息を取り始めると、家々から轟々と火が吹き始めた。
実は長政、垂井を引き払う際、数十の足軽を伏せさせていた。彼らが手当たり次第に放火しだしたのである。
斎藤勢は右往左往、そこへ長政が斬り込み、またも龍興は逃げるはめになった。

「おのれ!小勢にいいようにされてなるか!」
龍興は怒り心頭。
浅井勢が立て篭もった南宮山へ向かい、包囲を固める。
大軍でもって攻め上ったが、敵からは矢の一筋も飛んでこない。
「はは、戦意を失ったか」
意気上がる斎藤勢が敵陣に足を踏み入れた瞬間。
一丸となった浅井全軍、真一文字に突撃してきた。
斎藤兵は山を転げ落とされ、完全に壊乱して逃げ惑う。
長政らはその隙に包囲を抜け出し、戦場を離脱していった。

これ以後、龍興は長政を甚だ恐れ、再び出陣することはなかったという。
678人間七七四年:2010/04/30(金) 21:01:10 ID:trW42hTO
>>677
それだけだと、ちょっと戦がうまい話だからなぁ〜
長政パパが僻んだり龍興さんが馬を背負って逃げたりとかなかったのかね〜!

つか、山科けいすけの浅井長政が戦バカの恐妻家だっけ?
もう忘れたな・・・
679人間七七四年:2010/05/01(土) 02:16:34 ID:vKvrlSPw
>>657
> ことあるごとに倹約令出して権力者自ら質素倹約を率先してたからこそ、

お陰で不景気がますます悪化したって説もある。
680人間七七四年:2010/05/01(土) 02:23:33 ID:Hd/m7PoB
>>679
尾張徳川家の人は吉宗の倹約令に反発してお金使いまくってたな
繁栄はしたけど結局赤字に陥ったとか
681人間七七四年:2010/05/01(土) 08:33:33 ID:t0vXp0Eu
意外な男の意外な甲斐性

このスレの住人ならよくご存知の通り、織田信長は最初から尾張一国を支配してた訳では無い。
守護職だった斯波家はまあいいとしても、守護代織田家が、それも二つあった。
その内の織田伊勢守家の当主信安は、信長の弟と組んだり斉藤と組んだりして対抗していたが、
ついには自分の息子に追放されてしまった。
しかしこの息子も信長に敗れ去り、信安には帰るべき家も無くなってしまった。
やがて時は流れ、信安は無害無力であるが故に信長に許された。
が、逆に言えば戦国の表舞台からも置き去りにされ、細々と暮らすだけであった。
やがて信長も本能寺で亡くなり、秀吉も死に、家康が関ヶ原で勝った後、いよいよ窮迫した信安はある男を頼った。
山内一豊。かっての彼の家臣の息子であり、旧臣の中では最大の出世頭であった。

信安「というわけで面倒見てね」
一豊「……(わざわざ掛川から土佐まで来やがるとは……)」

信安は一豊に養われ、土佐でその生涯を終えたという。
682人間七七四年:2010/05/01(土) 08:54:17 ID:ck3Aj6K3
>>679
交通が飛躍的に発達してなきゃ、流通よりも地元の食い物の確保の方が大事だしね
群雄割拠の戦国時代に突入したのも、寒冷化による食糧難で広範囲の支配が困難になったからという見方もできるだろうし
683人間七七四年:2010/05/01(土) 09:48:57 ID:RpdKWkwH
>>677
義龍でないとてんで駄目か
684人間七七四年:2010/05/01(土) 10:20:15 ID:2vKFhKNV
印象では義龍死亡→ほど無く滅亡だけど、実際は結構保ってるよね龍興
685人間七七四年:2010/05/01(土) 14:42:59 ID:+w0MYoW4
保ってるとはいえどんどん調略で切り崩されてたから・・・。
686人間七七四年:2010/05/01(土) 14:54:50 ID:+4ltOrut
Wiki見たら13で家督相続して19で稲葉山城を失ってたんだね、龍興さん
暗君のイメージあったんだけど、こんな若かったんだ・・・
687人間七七四年:2010/05/01(土) 15:12:06 ID:xoxyMMuc
>>686
その後越前朝倉家と運命を共にするまで反信長が活動を延々続けた勇将だったりもする
688人間七七四年:2010/05/01(土) 16:14:48 ID:XGK5aQWL
総大将、総責任者としての才能は無くても、一部隊の隊長としての才能はあったてことかな。
痛い目にあって成長しただけかもしれないが。
689人間七七四年:2010/05/01(土) 16:32:16 ID:J0SCmgzC
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-219.html

今までの龍興の逸話見ても少なくとも暗君じゃあないな、
苦労した事で人間性が磨かれたのかなって感じは確かにする
↑の九右ェ門伝説が本当だったなら良いんだがなぁ、一寸報われて欲しいわ
690人間七七四年:2010/05/01(土) 16:42:37 ID:wNft5O00
信長も何度も痛い目にあって成長してるし、失敗が人を強くするんだな
ただ、失敗しすぎて国まで失うともう挽回できないけど
691人間七七四年:2010/05/01(土) 18:00:50 ID:9MD+ndr6
>>690
ゴンベ「いや、やり方によるよ?」
692人間七七四年:2010/05/01(土) 18:19:59 ID:wwEfqlKK
>691
 ち ね ば い い の に 
693人間七七四年:2010/05/01(土) 19:09:57 ID:JJt5EVHp
小田さんは・・・
694人間七七四年:2010/05/01(土) 22:29:03 ID:zwov4o+D
小田さんは再起動するたびにメモリの内容が消えますから
695人間七七四年:2010/05/01(土) 22:43:36 ID:dmKDIR/2
小田さんは生きているだけで勝ち組
696人間七七四年:2010/05/01(土) 22:47:54 ID:3R/k0SpO
氏治「佐竹ではなくて今度は水谷や多賀谷を攻めよう!」


結果は聞くな
697人間七七四年:2010/05/02(日) 00:14:18 ID:lEWK71az
あんなに連戦連敗なのに、何故か負け組な気がしない小田さん
698人間七七四年:2010/05/02(日) 00:31:04 ID:NxHSUFbG
>>692
長宗我部さんの叫び
699人間七七四年:2010/05/02(日) 06:03:22 ID:lBycEbR8
小田さんは葉っぱ一枚あればいい
700人間七七四年:2010/05/02(日) 12:38:26 ID:womw4dSr
オレの中で失敗を失敗と思ってなさそうな戦国武将といえば
なぜか小田さんと宗茂さんが思う浮かぶんだが
701人間七七四年:2010/05/02(日) 12:41:26 ID:twST+N9y
小田さんの粘り強さは異常
702人間七七四年:2010/05/02(日) 12:53:31 ID:QlCeBuBg
>>700
戦績は対極だけどね
703人間七七四年:2010/05/02(日) 13:56:43 ID:77POgycU
宗茂「粘り強く戦えば活路が開ける」
氏治「粘り強く戦えば活路が開ける」

同じことを言っててもぜんぜん意味が(ry
704人間七七四年:2010/05/02(日) 14:52:20 ID:58h+lb8Y
>>703
意味というか、信頼度というかだなw
前者は頼もしい発言だが、後者はもうだめだって気分になるw
705人間七七四年:2010/05/02(日) 17:18:35 ID:ixboUWIw
おまいらホント小田さん好きだな


天正元年(1573)、小田城最後の落城。以後、小田氏はその名を冠する城に帰ることなく終わる。

いや、それどころか闘争心冷めやらぬ梶原政景は同年、乗っ取った小田城を拠点に、菅谷氏の篭る土浦城と、
小田氏治の逃げ込んだ藤沢城を攻める気配すら見せていた。
これに対抗すべく小田方は、ショックの抜けない氏治を置いて、嫡男・守治を総大将に、梶原方を鳥出台で迎え撃った。

(つくば市小田から、土浦市藤沢に攻めてくる軍を、なんで取手で迎撃するんだ?とか聞いてはいけない。
「小田軍記」にそう書いてあるんだから。)

「小田方に迎撃の用意あり」の報を聞いても、政景は狂歌を詠む余裕すら見せた。

「 敵の首 取りでの台と 聞くからに 今日のいくさに 我は梶原(勝ち原) 」


http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3069.htmlと言ったgdgdを見せつつも
後が無い小田勢は、大将の守治以下必死に戦い、ついに藤沢・土浦両城を守り抜き、政景は兵を退いた。
引き退く梶原方に、小田配下の小幡道三の家臣が、罵声と政景の狂歌への返歌を送った。

「 敵の首 取りでの台と 聞きけるが 「ひけを取りて」と なりにけるかな 」

さすがの政景も何も答えることが出来ず、頭を掻いて先の狂歌を後悔したという。





翌月、本気になった鬼義重みずから攻めて来て、藤沢・土浦ほか諸城をぶっこ抜かれたのはナイショだ。
706人間七七四年:2010/05/02(日) 17:57:46 ID:zxl8CeIO
女子高生に「か〜わい〜い!v」と撫でくり回される三頭身の小田さん
707人間七七四年:2010/05/03(月) 17:46:20 ID:N0oH0tjb
撫で斬りされるって読み間違えちゃったぜ・・・
708人間七七四年:2010/05/03(月) 18:33:19 ID:pG+T4xTK
「これでも負け続ける戦いは得意でね」
「だからこそ小田家は小田家でいられるんです」
709人間七七四年:2010/05/03(月) 18:40:01 ID:9eYxSdmT
W厨自重w
710人間七七四年:2010/05/03(月) 20:02:24 ID:KXhGR+Y9
このスレ見てると
ゲームで小田さん捕らえても、つい放流したくなるな
711人間七七四年:2010/05/03(月) 20:06:58 ID:9idPBZyG
太閤立志伝なら、そんな小田さんを支える素敵な仕事ができます!
712人間七七四年:2010/05/03(月) 20:23:32 ID:D1CNF92r
>>710
放流して再度敵として来てもぶっちゃけ敵じゃないしw
菅谷さんさえ抑えちゃえばおk
713人間七七四年:2010/05/03(月) 20:49:19 ID:j3ey1ljL
>>708
戦国時代に強者などいない。大名全てが弱者なんだ……か
714人間七七四年:2010/05/03(月) 21:01:27 ID:Xg4/ej6C
太閤立志伝で小田さんを家臣にすることが何度かあったが、
正直ほとんど役にたた…いやなんでもない
715人間七七四年:2010/05/03(月) 21:39:54 ID:wCPNMfvb
>>714
戦国のマスコットにそれ以上の役目を求めてはいけない
716人間七七四年:2010/05/03(月) 22:01:59 ID:Iqhoa4bQ
野望で小田さんが家臣になったと思ったらすぐに出奔したことある(佐竹プレイ中)
717人間七七四年:2010/05/03(月) 22:56:27 ID:rhove58Y
小田さんに有能な家臣を紹介します
つ外道三兄弟
718人間七七四年:2010/05/03(月) 23:14:54 ID:HJu0whed
外道三兄弟は仲間の中で有能なのも殺す諸刃の剣

要するに菅谷さんが危ない
719人間七七四年:2010/05/03(月) 23:37:33 ID:AuHhj9c7
元亀年間。
摂津では荒木村重が台頭し、和田惟政らと対立するようになっていた。
そしてついに、両者は決着をつけるべく軍を発する。
村重は士気を鼓舞するため、一つの板を陣頭に掲げた。
惟政を初めとする敵将の名を書き連ね、その首には報奨いくらと明示したものだ。

明日はいよいよ合戦、となった日。
掲示を見上げる男がいた。村重の与力、中川瀬兵衛清秀である。
清秀は筆を取り出すと、惟政の名の上に点を書き入れ、立ち去った。

その深夜、清秀は村重を訪ねた。
「おやおや、瀬兵衛殿。かような刻限にいかがした」
「…どうぞ」
清秀が携えてきたのは、紛れもない敵将・惟政の首であった。
「な、なんと!?」
村重は仰天し、いかにして惟政を討ち取ったのかを聞いた。

「はあ。
明日は決戦にて、敵はきっとこれに万全の用意をするだろうと思いました。
となれば、あらかじめ今宵のうちに、淀川の深さを測っておくでしょう。
惟政は優れた大将ですから、もっとも大事な物見を他人任せにはせぬはず。
必ずや、淀川べりに現れるだろうと踏んだのです。
そこで、敵が見えぬうちに川を渡り、木陰に伏し隠れておりました。
案の定、惟政が現れたので、兵に紛れて潜り込み、隙を見て首を取りました。
あとは水中に飛び込み、味方の陣まで参ったというわけです」

清秀はそう語り、人々に感嘆されたということである。
720人間七七四年:2010/05/03(月) 23:41:44 ID:RTCYK6Im
やっぱり自分が有能でなんでも自分でやる人よりは、自分は普通でも有能な部下をうまく使える人の方が有利か。
721人間七七四年:2010/05/03(月) 23:43:03 ID:Iq7fwSXz
え、何、これ1人でやっちゃったの…?
722人間七七四年:2010/05/03(月) 23:45:37 ID:HJu0whed
どんなアサシンだよ
723人間七七四年:2010/05/04(火) 00:04:25 ID:Eg/83VFm
中川清秀のイメージが変わったw
724人間七七四年:2010/05/04(火) 00:14:25 ID:iKM1myOL
秀吉から信長は自分が保護してるから早く来いって騙されたり
賤ヶ岳の合戦の時に見捨てられたりと都合よく使われてたけど
嫌われてたんだろうか・・・
725人間七七四年:2010/05/04(火) 07:40:10 ID:nf124hj6
忍者的な働きができたのか、スゲーな
726三介殿名臣伝 1/2:2010/05/04(火) 09:34:23 ID:/Lo3VfqZ
天正12年(1584)3月、織田信雄の家老・岡田重孝は主君に呼ばれ謁見の間に向かったが、そこに信雄の姿は無く
近習の土方彦三郎の姿があるのみ。用心して広間の柱に身を寄せ、重孝は彦三郎に声をかけた。

「何やら殿が、わしを成敗されるという噂が流れておる。もし本当なら、討っ手はお主だろうと思っておったわ。」
「そんな事がある訳はござらん。もし本当だとしても、拙者ごとき若輩者には荷が重い役目。
しかし、仰せ付かったとすれば、若輩と言えども仕損じませぬ。…殿は奥の間です。さあ、こちらへ……」

重孝が奥の間に行くと、いきなり信雄から鉄砲を渡された。「新式の鉄砲じゃ。まず家老のお前に見せてやろう。」
「なるほど、これは珍しき道具。彦三郎、お主もこっちへ来て拝見せよ。」

呼ばれた彦三郎は、重孝に近づくと背後から脇差で、突き刺した。「ぐわっ!…き、貴様やはり!」
重孝も脇差で応戦しようとしたが、彦三郎に固く背中から抱きとめられ、うまく斬りつけることが出来ない。
彦三郎も、重孝を抱え込むのが精一杯で、それ以上は攻撃を加えられない。

見かねた信雄が太刀を抜き、「彦三郎、放せ!」と呼びかけたが彦三郎は、
「構いませぬ、拙者ごと斬られよ!!」覚悟を決めた信雄は、重孝に突きかかった。
「お、おのれ!!」重孝が信雄に備えようと構えた次の瞬間、彦三郎は重孝を放して身を翻し、斬り捨てた。

彦三郎の振る舞いは「上意討ち前後の働き、言葉遣い等いかにも行き届いている。」と評判を呼んだ。
その後、土方雄久と名乗った彦三郎は、小田原の役後に信雄が改易された際、独立して大名となり、
秀吉の死後、政争に巻き込まれて一時期流罪になる等、苦労しつつも家を残し、慶長13年(1608)、世を去った。

その死について「当代記」は、「日来(日頃、毎日)たはこを用いける故、喉破相果」と書いている。
恐らく記録に残る、日本初の煙害による死者である。
727三介殿名臣伝 2/2:2010/05/04(火) 09:35:11 ID:/Lo3VfqZ
織田信雄に仕える若侍、二宮千太郎が褌一丁で主君の前にやって来た。当然、信雄は彼を叱った。
「明日にも戦になろうという時に、お前は何をフザけておるんじゃ!!」

「ううっ…仲間内のバクチで、身ぐるみ剥がされてしまいました…明日に備え、せめて馬・具足は返してくれと
さんざん詫びても許してもらえず、刺し違えて死のうと思いましたが、殿の御役に立つ者を戦の前に殺しては
不忠になります。かくなる上は、この恥さらしに切腹をお許し下されっ…!!」

「…言い訳に一分の理がないわけでもないか。」
そう考えた信雄は、千太郎に馬・具足と金二枚を与え、下がらせた。千太郎もこれに応え、翌日の戦では
組打ちまでして兜首を取り、信雄も彼を賞したという。


慶長5年9月15日正午過ぎ、関ヶ原。松尾山に陣取った小早川秀秋は、不審な鉄砲の音を聞き、使い番を呼んだ。
「今の鉄砲、当方に向けてのものとみた。何処が、何用あっての射撃か、急ぎ確かめて参れ!!」
「承って候。」
さっそく使い番が麓に向かうと、麓からも騎馬武者が登って来て、使い番に話しかけた。

「貴殿は、今の鉄砲についてのお使いであろう。わしは、その事についてお教えするために来た。
あれは朝からの霧で火薬が湿ったため、我らが空砲を撃ったのじゃ。安心されよと、殿に伝えてくれ。」
「いや、拙者は「麓を見て来い」と殿に言われた。伝えたければ、他の者に言ってくれ。
頂上まで行くのが面倒なら、すぐ上にご家老の平岡様(頼勝・東軍派)がおられる。ご家老に申せば良かろう。」

そっけなく騎馬武者と別れた使い番が麓で様子を見聞きすると、騎馬武者の伝言と全く違った事実が浮かび、
急いで戻った使い番は、見聞きした内容を秀秋に伝えた。

秀秋はただちに動き、関ヶ原の戦況は一変した。

大役を果たした使い番の名は、二宮与三右衛門。信雄改易後、小早川家に仕えた千太郎の、成長した姿だった。
バクチにうつつを抜かしていた若者は、信雄によって運命を変えられ、断固たる意思によって歴史を変えた。
728人間七七四年:2010/05/04(火) 10:49:17 ID:u/qHcrh6
 九戸政實(政実)といえば、南部本家との争いに豊臣本軍を呼び込まれ、開城して和睦の筈が一族、従兵皆殺しにされたと伝えられる。
しかし、4月30日の青森県の地元新聞「東奥日報」夕刊で、県観光連盟専務理事の九戸さんが書いていたコラムによると・・・

 津軽為信は九戸とは親戚筋で気脈を通じており、心ならずも開門に手を貸して寝覚めが悪かった。そこで3歳の(九戸家の)子供を家
来の懐に隠して秋田県境を落ち延びさせ、匿った。過去帳を3代は女名前にして世をはばかり、弘前藩3代の津軽信義公の代に九戸吉左衛
門政知を召し抱えて再興した。
 この経緯は、九戸さんの母が祖母から聞いてノートに書き留め、また津軽家11代順承(ゆきつぐ)公に時計師として仕えた九戸籐吉が明
治5年に表している。

 為信は、津軽統一戦争の過程では随分汚い手も使い、時々の天下人には上手く立ち回っているが、必要がない非道はしていない感じだし、
関ヶ原後にはかなりのリスクをとって、世話になった石田三成の子女を津軽に置いている。

 そういう性格と対南部宗家での付き合いも考えると、あってもおかしくはないかなと。

 秀吉存命中に南部家にバレて密告されたらやばかったことは確かで、義理堅かった為信、血筋を残せた九戸家両方にいい話。
729人間七七四年:2010/05/04(火) 11:21:35 ID:hAG9N5s0
>>727
麓から上がってきた騎馬武者は東軍なんだろうか西軍なんだろうか
東軍だとすると事実を隠蔽しようとした理由がよくわからん
730人間七七四年:2010/05/04(火) 13:35:33 ID:YUNq3Im1
>>728
高橋克彦の「天を衝く」を、もう一度読みたくなった。
731人間七七四年:2010/05/04(火) 14:18:19 ID:AjBXtG6R
>>719
これ自分で何でもやる人を自分で何でもやる人が襲ったんだよなw

思考回路似てるから読みやすかったのか
732人間七七四年:2010/05/04(火) 19:25:59 ID:tji1ikTc
>>729
山麓に展開していた小早川の兵
733人間七七四年:2010/05/04(火) 20:36:40 ID:AjBXtG6R
家中でも西軍にそのままつかせたい連中と東軍に、と思ってる連中といるだろしな
734人間七七四年:2010/05/04(火) 21:19:09 ID:KuNaqZ16
戦場でのことだし、単なる流言や思い込みで言ったのかもしれない
735人間七七四年:2010/05/05(水) 01:22:25 ID:lvr9yxT4
>>724
重要拠点任されたりしてるんだからそれなりに信用はされてたんじゃないかなぁ
ただ自負が強すぎて持て余し気味だったかも
立ち位置的によく似てる堀久太郎は長生きしたら大大名になるか政権中枢を担った可能性もあるけど
清秀は長生きしたら難癖つけられてアッサリ所領取り上げられそうな気がするね
736人間七七四年:2010/05/05(水) 12:45:19 ID:bKJYMW+k
>>730
(`・ω・´)人(`・ω・´)
好き嫌いの分かれる御仁だが、色んな意味で
非凡ではあったんだろうと思う
737人間七七四年:2010/05/05(水) 13:53:34 ID:d2x84LDb
中川は荒木を謀反に追い込むのに関わってたし、
高山右近ともども功名に逸って無茶をする印象。
738人間七七四年:2010/05/05(水) 14:45:37 ID:i1+MaTFO
瀬兵衛、骨折り。のエピソードからも媚びない、融通が利かない、簡単に腰を折らない頑固者、というイメージがある。
の割に部下が本願寺に兵糧横流ししたとか、配下の統制もいまいちな感じで、
なんか大将というよりは一個の武辺で
せいぜい万石程度が適当なちょうど仙石権兵衛みたいな印象。
権兵衛は媚びるのうまかったが。
739人間七七四年:2010/05/05(水) 15:36:04 ID:0Oun9P+g
ホトトギスは鳴いた


寛永十三年(1636)4月、先代の伊達政宗には江戸への参勤が迫っていた。
この年70の政宗は体調が優れなかったが彼は毎年の楽しみであるホトトギスの初音を聞くため、
18日、母の菩提寺を参拝した帰り、ホトトギスの初音を聞くため北山、経ヶ峰、茂ヶ峯などを巡った。
経ヶ峰に自分の墓所を定めたのはこの時だったと言う。
しかし、ホトトギスの初音は聞けなかった。

翌19日、参勤前の恒例となっていた茂庭綱元邸への訪問を行う。
若林の屋敷に戻ってくると、「青山の方でホトトギスを見た」との情報が入った。
政宗は老躯を押して駆けつけたが、ここでもホトトギスの音を聞くことは出来なかった。


4月20日早朝、政宗は江戸へと出発する。

「今年は仙台にいる間に、ホトトギスの初音を聞く事叶わなかったか…。」

毎年の慣習が果たせなかったゆえか、心持ち気の沈んでいる政宗に、付き従う行列の面々も重い雰囲気であった。
その行列が仙台の南、増田(現宮城県名取市)と言う場所を過ぎた時、

一羽のホトトギスが、行列の前方に有った路地の柳に止まり、高らかに鳴き声を響かせた。

「ホトトギスが!大殿様、ホトトギスの初音でございます!」

「ああ…」

そのホトトギスは行列が一町(約110メートル)ほど移動する間ずっと鳴き続け、やがて東の方に飛び去った。

行列の人々
「今まで大変お待ちになっていたホトトギスの初音が、ここで聞くことが出来るとは!何とめでたい御門出だろう。」
そう言って喜び合ったと言う。


この年、政宗は江戸で死ぬ。彼が自領で初音を聞くことにこだわったのは、埋葬の地を定めたことも含め、
何か悟るものがあったからであろうか。


一代の風雲児、伊達政宗の死出の旅の門出に響く、時鳥の初音であった。
740人間七七四年:2010/05/05(水) 15:37:06 ID:0Oun9P+g
ああ、1行目、先代→仙台です。申し訳ないw;
741人間七七四年:2010/05/05(水) 19:35:14 ID:R04Qc1sd
初音を聞けてよかったなあ、政宗…
742人間七七四年:2010/05/05(水) 23:05:42 ID:o6M7hCe6
ミクミクにされたんだなぁ、政宗…
743人間七七四年:2010/05/05(水) 23:28:45 ID:EvwUtsGo
初音キク(CV.伊達政宗)

しかし、この時期の戦国生き残りは故郷で死ねないのが宿命だなあ
744人間七七四年:2010/05/07(金) 01:56:03 ID:4RBVT9f5
禰宜いり。
745人間七七四年:2010/05/07(金) 11:16:37 ID:63aJ3RWh
ホトトギスってあんまりいい鳴き声じゃなかったと思うが、そんなに楽しみだったんだろうか?
746人間七七四年:2010/05/07(金) 11:36:57 ID:eEwXKzfz
あー
ホトトギスの初音を聞くってのは縁起モンというか、季節のイベントみたいなモンなんだわ
747人間七七四年:2010/05/07(金) 12:34:36 ID:EzY7chTI
梅 ほととぎす 初鰹

春の定例行事かね
748人間七七四年:2010/05/07(金) 12:46:48 ID:hrlCn6SB
>>745
ちょうどうちの庭で鳴いてるけど良い声だぜ
ただ生まれたばかりのホトトギスだと聞いて分かるくらい鳴くのが下手w

初めの伸ばす所で息継ぎ?しちゃうのが可愛いっちゃ可愛いけど
749人間七七四年:2010/05/07(金) 22:23:04 ID:CeqRlLb9
ホトトギスは初音の下手さからこなれてくのにつきあってるのがいいんだよなw
750人間七七四年:2010/05/07(金) 22:33:05 ID:w9CJUEBm
うちの田舎ではホトトギスの鳴き声は縁起が悪いといわれている
啼くと死人が出るとか
751人間七七四年:2010/05/07(金) 23:38:35 ID:gEfAntk6
中国の故事とかでは
国に帰れなくなった男が彷徨う内にホトトギスに変じ、
そのうち国が滅びたのを聞いて嘆き悲しんで血を吐いて死んだ、的な逸話があって、
また鋭い鳴き声をあげるのと口の中が赤いので血を吐いた連想をするとか、
トイレの中で鳴き声を聞くと死ぬとか、ホトトギスの逸話や伝説は不吉なものばっかりです。
冥界を行き来すると言われ魂迎え鳥の異名を持つ、ってのは
前にここでも紹介されてましたね。

しかし日本では古来から鳴き声を珍重されてきました。
数々の和歌や文学にも登場しますし、あまり嫌われていた印象はないですね。
個人的な印象として、不吉な逸話は中国発祥のものが多いんじゃないかという気がします。
752人間七七四年:2010/05/07(金) 23:52:54 ID:wvu1VWtG
夜のホトトギスが縁起悪いと言われてる
昼はそうでもない
753人間七七四年:2010/05/08(土) 00:31:40 ID:9t+Hxlhp
そういえば、うつけバーのNOBUママは自分のホトトギスを…いや、なんでもない
754人間七七四年:2010/05/08(土) 00:32:26 ID:/dZK7o9L
鯖移転完了かな
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3740.htmlの派生話ぽいですが


大坂の陣が終わった後、所司代・板倉勝重のもとに訴人が現れた。
「伊勢大神宮の御師どもが関東調伏の祈祷をしていた!」というのだ。
彼によれば、大野修理から多額の謝礼とともに依頼があり、有縁の禰宜達が大勢示し合わせた上、
人形を造って将軍家父子を呪詛したのだという。
勝重は事実を確認すると、家康に厳罰を求めた。

だが、報告を受け取った家康は次のように答えたという。
「禰宜山伏の類が、金銭をとって祈祷をするのは当然のことだ。珍しいことじゃあるまい。
こちらがもっと銭を払っておれば、逆に秀頼を呪っておっただろ。
だいたい、やつら程度の手で転がるような運気で、天下がとれたらたまらんわ。
命はとらず、伊勢から追い払うにとどめろ」
こうして、神官達は所払いとなり、命は助かったという。  (老談一言記)

家康の苦笑が見えるようなお話。
755人間七七四年:2010/05/08(土) 01:09:38 ID:8QavOBgw
固い言葉を使うと
人を呪っても刑事罰の対象とはならないという判例を示したわけで
世界的に見ても先進的だったんではないでしょうか。
756人間七七四年:2010/05/08(土) 01:38:47 ID:MpZ9KUx9
方向寺の梵鐘に因縁つけた人とはとても思えませんなぁ〜
757人間七七四年:2010/05/08(土) 01:46:34 ID:OmHIRbdi
>>756
あれは呪いじゃなくて「諱の無断使用」っていう、「非礼問題」だもの。
つまり家康の面子を潰した事件。だから家康も後の幕府も「証拠」をちゃんと残した。
758人間七七四年:2010/05/08(土) 01:56:08 ID:DhC6tBQA
>>751
国によって不吉だったり幸運を呼ぶといわれてる黒猫みたいだな
759人間七七四年:2010/05/08(土) 08:37:38 ID:WSenWaKF
>>757
家康「何か問題になってるようだけど、実際の所はどうなんだ?」
羅山「右僕射源朝臣家康は、家康を射るという意味です!呪詛です!」

家康「(呪詛なんか効果あるか、というか右僕射って右大臣の意味だろ・・・)何か問題は?」
五山の僧「呪詛なんかじゃありません。ただ、諱を避けなかったのは問題あるかと思います。無礼になるので、普通はやりませんし」
清韓(銘文作った人)「かくし題として、家康の名を使わせてもらいました。目的は国家長久です」

あらかじめ下調整して、幕府からOKもらわなかったのが悪いって説ね。銘文作った人も「偶然の一致です」と言い張れば
言い逃れはできたかもしれないとか
760人間七七四年:2010/05/08(土) 08:52:39 ID:vd1PsHSM
諱って中国ではともかく、日本じゃ問題にされないでしょ?
名前は全てオープンなんだし
761人間七七四年:2010/05/08(土) 09:17:17 ID:ZzDsg+Jv
>>760
尾張中村の農民の息子なら問題にならないだろうよ
 
超インテリ階級の貴族だったら…
762人間七七四年:2010/05/08(土) 09:26:52 ID:vd1PsHSM
超インテリ階級の貴族って誰のこと?

要は、家康も分かってない・気にしていないような事を、豊臣家潰しにうまく利用したって事でしょ
「諱」なんて概念は中国かぶれしか問題にしないよ
763人間七七四年:2010/05/08(土) 09:38:43 ID:l2heR1z0
確かに面と向かって口に出すのは非礼だけど、書状など字として使う分には特に問題はされていなかったな>諱
現代に残された書状を見れば判るけど、家康とか信長とか平然と記されている。
764人間七七四年:2010/05/08(土) 09:41:27 ID:WSenWaKF
言っとくけど、五山の僧侶の返事は「武家ではどうかは知らないけど、禅宗の世界では常識」という答え
幕府のブレーンには禅僧が少なからず居たり、武家とのつながりも大きいわけだし・・・逆説的には「中国かぶれ」は多かったことに
765人間七七四年:2010/05/08(土) 09:42:51 ID:ndRIiMyT
>>762
あの時代って尾張中村の農民の孫と超インテリの貴族が同じ人物を指す特殊な世界があったよね。
766人間七七四年:2010/05/08(土) 11:16:25 ID:OmHIRbdi
>>760
> 諱って中国ではともかく、日本じゃ問題にされないでしょ?

とんでもない。むちゃくちゃ気を使っていた。
公の場で、特に下の者が上位者の諱を言うのは公然とした侮辱行為であり、
合戦などで敵対する相手するような行為だった。

例えば、秀吉の弟の羽柴秀長の場合、信長の生前は信、長の諱にある
「長」の文字を下に持ってくるのは恐れ多いと羽柴「長秀」と名乗っていた。
これほど諱と言うのは扱いに細心さが求められた。

日本人が諱を気にしなくなったのは幕末くらいから。その辺の感覚の違いをきちんと頭に
入れておかないと歴史は理解出来ないぞ?
767人間七七四年:2010/05/08(土) 11:21:52 ID:ZzDsg+Jv
豊臣は当時日本のインテリ層だった貴族のトップ
方広寺は東大寺レベルの規模
その銘文を起草した人は漢文の造詣が深い
当時豊臣と徳川は微妙な関係
 
意図せずにやったとしたら相当なマヌケだろ
768人間七七四年:2010/05/08(土) 11:22:09 ID:k8og8OgH
>>766の言ってることが正しいな。
時代劇や歴史小説では、お互いをイミナで呼び合ってるけど現実にはありえない話。
イミナ問題についてはこれが分かりやすくて面白いよ。

やる夫で学ぶ「実名敬避俗」
http://version45.blog85.fc2.com/blog-entry-702.html
769人間七七四年:2010/05/08(土) 11:24:35 ID:L385cJE4
私は貝になりたい

ある日、戸次(立花)道雪が家臣たちを呼び寄せた。
「おーい、お前たちも来て見ろ、珍しいものが届いたぞ!」
臼杵の浜から、海産物が大量に届いたのだ。鎧ヶ嶽の山城で暮らす戸次家の人々は、海の幸の到来を喜んだ。

道雪はさまざまな海産物のうち、ハマグリが盛られた台に目を止めた。
「おお、『耳白』があるな。」「?『みみしろ』、でございますか?」問いかける家臣に、道雪は答えた。

「そうだ。ハマグリの中でも形が整い、真珠のように白いものを『耳白』と言う。同じハマグリでもな、この『耳白』は
女子の遊びの貝合わせに用いるので、殻まで売り物になり、容れ物の桶でさえ結構な値がするものよ。
『耳白』でなくては役に立たず、他の殻はゴミとして捨てられ割られ、土に帰るのみ。

人も同じで、『耳白』を探すように見ていれば、才覚の一端が伺える者が必ずいるし、そうして取り上げられた者は
『耳白』が高値で扱われるごとく、良き働きをするものだ。

ただし、人は貝にあらず。『耳白』のように殻、すなわち上辺を磨くのではなく、心を磨くことが肝要だ。
一度武に志した者は、常に「こうであろう」と心を配り磨いてこそ、メシの種となるものよ。
今まで手柄の機会に恵まれずとも、事に慣れた者の武辺話など良く聞き、実践すれば、「利口者」と呼ばれても
非難されることはあるまい。それもまた、正当な立身の道である。」
770人間七七四年:2010/05/08(土) 11:28:07 ID:Sp2NLOgJ
>>769
>女子の遊びの貝合わせ
実際は神経衰弱的な遊びだということを理解していても
反応してしまう
771人間七七四年:2010/05/08(土) 11:33:12 ID:OmHIRbdi
ID:ZzDsg+Jvは申し訳ないが、思い込み以外のソースを出して欲しい。

実際には諱に関しては非常に気を使っていたことはそれこそ奈良平安の昔から確認されているし、
江戸期だともっと資料が豊富で、将軍や将軍世子、藩主や藩主世子が代わるたびに、
それらの諱に抵触する諱の旗本や藩士が、諱変更をした記録がいくらでも残っている。

日本人は、それも君の言う中国かぶれのインテリではなくても、一般に諱に非常に気を使っていた。
中国とは別の形でね。これは間違いない。
772人間七七四年:2010/05/08(土) 12:32:39 ID:2j08FwaJ
その話、終わったよ!(・∀・)
773人間七七四年:2010/05/08(土) 12:37:24 ID:oFR1Ig8q
>>769
嫁入り道具だと漆や金箔でゴテゴテに塗りたくられた上に
絵を描かれたようだし、白くなくとも形が良ければおkだったかもw

嫁といえばプロポーズが「名前を教えろ」だったんだよな大昔は
名前つか真名?
774人間七七四年:2010/05/08(土) 13:25:35 ID:HWAbs+JD
女には名前は一つしかないんじゃね?
名を名乗る事=支配下に入る事なんだろうね
775人間七七四年:2010/05/08(土) 13:56:43 ID:O07T2+xb
この前の合コンで、誰も名前を教えてくれなかったのはそのせいか
776人間七七四年:2010/05/08(土) 15:17:46 ID:QGo6TV9h
>>775
それはお前が…いやなんでもない
777人間七七四年:2010/05/08(土) 16:29:25 ID:l2heR1z0
諱については日本ではまったく気にしなかったわけではないが、中国と比べればたしかに軽かった。

あちらでは皇帝の諱を避けるために他人の名前は変える地名は変える。
他所の国の学校名に皇帝の諱が使われていたらその書状は受け取れない。
778人間七七四年:2010/05/08(土) 17:18:09 ID:aoz7PQJP
立花宗茂はなんであんなに変えたんだろうってぐらい変えてるな
本当に気を使うものなの?って思ったりしたよ >諱
779人間七七四年:2010/05/08(土) 17:38:17 ID:ioM235Ut
>>777
同じ意味の漢字が(発音違いで)ふたつ以上あるのもそのせいだとか。
780人間七七四年:2010/05/08(土) 17:40:45 ID:GkX4OATc
産女(うぶめ)という妖怪をご存知だろうか?
出産の際に死んだ妊婦の霊が妖怪と化したモノだといい、母ではなく赤子の霊をそ
う呼ぶコトもあり、ある時は鳥の姿で描かれるコトもある。
共通するのは「出産に纏わる亡霊」という一点のみで、姿も性質も様々。名前もそ
の時々で色んな漢字が当てられている。

室町から戦国に時代が移ろうか、という頃。
鎌倉の街中にこの産女が現れた。
血で染まった腰巻をまとい、赤子を抱いて川端にたたずむ。典型的な産女のパター
ンの一つである。

夜な夜な現れる亡霊の話を聞き、大巧寺の住職、日棟上人は産女の現れる川まで、
わざわざ会いに行く。

「今、鎌倉中があなたに怯え、不安に思っている。我が子を産み落とせなかった無
念は察するにあまりあるが、何故そのように化けて出てくるのだ」

上人の言葉に、産女は泣きながら答える。

「私は大倉の住人、秋山勘解由の妻です。出産に際して不運にも死んでしまいまし
たが、子供を思うとこの世に未練が残り、我が家へ帰ろうとこの川を渡ろうとして
いる所なのです。しかし、私が川に入ろうとすると水が汚い血と化し、渡る事が出
来ません」

上人が、共に亡くなった子供の為にも成仏すべきであるコトを説き、大巧寺で末永
く供養をしてあげるコトを約束すると、産女は納得したのか姿を消した。

数日後、約束通り産女の供養をしていた日棟上人の前に一人の女が現れ、
「先日のお礼としてお納めください」
と、包みに入った金を渡して立ち去った。

月明かりの下で見た血塗れの恐ろしげな姿からは想像も出来なかったが、まだ若く
美しい容姿のその女は、紛れもなくあの産女であり、秋山勘解由の死んだ妻であっ
た。

大巧寺では産女から寄進された金で仏塔を建て、お産の苦しみから女性を護る「産
女霊神」として彼女を祀ったという。
現在も鎌倉大巧寺は安産祈願の「おんめさま」として多くの参拝客が訪れている。

781人間七七四年:2010/05/08(土) 17:43:36 ID:GkX4OATc

室町か戦国か、微妙な時代の話をも一つ。
室町六代将軍、義教の頃、有名な僧侶として法華宗の日親が居た。

この日親、僧としての実績は申し分ないのだが、ゴリゴリの法華宗強硬派であり、
他宗派とは付き合わない、施しも受けない、馴れ合わない。他宗派の人間は全て悪
人、と言わんばかりの……日本版フロイスとでも言うべき人間であった。

ある時、将軍義教に直接面会出来る機会を得た。義教は足利氏一門の長であるから、
当然禅宗(臨済宗)の門徒である。
その義教に対して日親、

「土一揆やら後南朝の反乱やらと天下が治まらず、関東の情勢も不穏な様子が続い
ているのは、全て天下人である貴方に問題がある。具体的に言うと貴方は法華宗に
帰依していない!今すぐ我が宗派に改宗し、法華経の徳に縋って仁政を行うべきな
のです!」

ま、怒るよね、フツー。www
当然義教への面会禁止となり、布教活動も禁止させられる。

が、日親にしてみれば自ら信じる正論を述べ、天下泰平の為に唯一の道を示したの
である。だから彼は諦めなかった。
「立正治国論」を著し、禅宗や天台宗に基づいた政治を批判。あくまでも将軍が法
華宗に改宗するコトが天下の政道であるとした。

ま、怒るわな、jk。www
今度は面会禁止では済まなかった。逮捕され、持論の撤回を迫られた。

が、日親にしてみれば(以下略)

終いには拷問として真っ赤に焼けた鉄鍋を頭に被せられたが、それでも日親は屈す
るコトなく法華経を説き続けた。
幕府はこれ以上日親に口を開かせないよう、舌先を切り取った上で開放した。

この拷問の後、日親は四十年以上を生き、八十歳を超える長寿を記録している。
言葉を失ってからも日親は精力的に布教を続け、権力者に逆らい、他宗派に喧嘩を
売っていた。
その態度から他宗派のみならず、法華宗内にも敵は多かったようだが、何度投獄さ
れてもまた復帰し、僧としての名声を失わなかったコトを見ると、この「ゴリ押し」
も「毅然とした態度」として一定以上の支持は受けていたらしい。

ちなみに拷問の際に被せられた鉄鍋は頭の皮膚に張り付いてはがれず、生涯鍋を被
ったままだったと伝説には伝わる。
日親の名前は「なべかむり日親」「鍋被り上人」として信仰の対象にすらなってい
る。

明らかに悪い話だと思うんだが、日親の逸話は暴君の拷問に屈せず信仰と信念を貫
き通した名僧、というニュアンスで紹介されてるモノが殆ど。
後世で信仰の対象にもなっているそうなので、とりあえずコチラに投下しておこう
かな。
782人間七七四年:2010/05/08(土) 17:58:05 ID:OmHIRbdi
この人安土桃山に生きてたら、間違いなく不受不施派になってただろうなw

しかしどの宗教にも狂信者と言うのはいるものだけど、この手の
一種の社会運動家的な狂信性というのは、日本の仏教では日蓮宗以外には余り見られないな。
783人間七七四年:2010/05/08(土) 18:06:03 ID:6W4H8GaH
というより狂信者の受け皿が日蓮宗だったのでは?
他の宗派から始めてもそういう気質の者は弾かれそうだし
784人間七七四年:2010/05/08(土) 18:09:40 ID:dzNaUZ+4
>>778
本音はどうかは知らないが、みんなのアイドルな兄ちゃんも信幸→信之に変えてるね
通説的には、父親と同じ名前を捨てて、縁を切ったという意思表示ととられてるようだが
785人間七七四年:2010/05/08(土) 18:35:59 ID:M1chJv08
混交をよしとする日本の宗教にあって、日蓮宗は原理主義的傾向だったんだろね
どの世界にも原理主義組織は現れて、歴史上存在感を示す時期があるし
786人間七七四年:2010/05/08(土) 19:33:01 ID:DZkk3aOu
>>766
新田次郎の「武田勝頼」で、軍議中に徳川信康が酒井忠次のことを「忠次!」と呼び捨てにしていて、信康でも不謹慎(せめて雅楽頭と呼ぶべきであった)とコメントしている。

ということだから、やはり直接名前で呼ぶことは気を使うことだったかもしれない。
他のセリフでは結構名前で呼んでいるけど、これは小説の便宜上の問題なのかな。
787人間七七四年:2010/05/08(土) 19:42:05 ID:DZkk3aOu
>>786
追加だけど、忠次は左衛門尉で雅楽頭じゃないかもしれないが、小説のままカキコしました。
788人間七七四年:2010/05/08(土) 19:43:13 ID:DZkk3aOu
>>786
追加だけど、忠次は左衛門尉で雅楽頭じゃないかもしれないが、小説のままカキコしました。
789人間七七四年:2010/05/08(土) 19:51:06 ID:ztEV7xdm
大事な事なので二回言いました
790人間七七四年:2010/05/08(土) 20:37:49 ID:DNuLQUBW
>>777
そもそも諱の字を与えたり貰ったりする時点で中国の感覚ではないからな>日本
791人間七七四年:2010/05/08(土) 20:44:13 ID:DZkk3aOu
>>789
重複スマソ
792人間七七四年:2010/05/08(土) 21:49:44 ID:M3oVVTfC
>>777
当方愛媛県の出身だがたしか崇徳だか後鳥羽だかの諱と同じになるってんで地名を変えたところがあったはず。
共通点のある天皇だが、無論流刑になる前のことで祟るかどうかは関係ない。
戦国時代とは違うが諱を憚って変名するとか地名を変えるとかは日本にもあった。
ただ武家が天下を取ると偏諱を受けるとか授けるとかが当たり前の習俗になってそのあたりの意識は変わったんだろう。
しかし価値があるからこそ与えたり受け継いだりしたのであって、軽がろしいものなら偏諱も忌諱も成り立たないだろうし、通称や官名も同じことだろう。
793人間七七四年:2010/05/08(土) 22:01:45 ID:DNuLQUBW
諱と言えば、いい話か悪い話かで
大谷のよっちゃんに「輝」と略されてたTERU
794人間七七四年:2010/05/08(土) 22:11:55 ID:35DHlGhe
>>792
愛媛だと憚って「徳川」という地名を改めた話の方がよかったかもね。
そこにあるお宮はずっと徳川神社のままらしいですが。
795人間七七四年:2010/05/08(土) 22:13:10 ID:S4RSl/9L
崇徳天皇と同じ忌み名なんてそりゃあれ何か後ろに気配嗚呼嗚呼ああああs4d5tf6ygふいjこpl@;:「
796人間七七四年:2010/05/08(土) 22:32:29 ID:9b9gjFYB
>>793
大谷吉継も変えてるよな。三好義継に通じるから縁起悪い、だっけか。
797人間七七四年:2010/05/08(土) 22:43:43 ID:eSNlqpST
>>790
諱で有名ば逸話と言えば後醍醐天皇が尊治という諱の尊の字を足利高氏に与えた為に天下を奪われたと
いう話があるな。
さらに時代を遡ると淳和天皇の諱が大伴なので古代からの有力氏族である大伴氏が伴に改姓してる。

ただ武家は一字拝領とか通字があるし、中国の諱を避けるって概念は全くないよな
798人間七七四年:2010/05/08(土) 22:51:28 ID:OmHIRbdi
>>797
江戸期の藩だと、君主の世子が元服して諱が決められると、その諱の文字が
自分の諱にある家臣は、諱の変更をすると言うのが普通だったみたい。

一字拝領と言うのはあくまで特権で、そういう特別な許可がないものはやはり
諱の文字は避けなければならなかったようだ。
799人間七七四年:2010/05/08(土) 22:54:07 ID:DNuLQUBW
江戸時代は朱子学全盛期だからな
800人間七七四年:2010/05/09(日) 00:46:36 ID:W9MgulCy
>>798
確か黒田家の菅さんが、秀忠だかその偏諱を受けた長政の息子の忠之だかを憚って
忠利から正利に改名してたはず
江戸時代っていってもかなり初期も初期の話だわな
801人間七七四年:2010/05/09(日) 00:49:54 ID:nidw/DUZ
江戸時代どころか戦国時代に、秀吉の弟の羽柴秀長が
信長の「長」を後ろに置くのは恐れ多いとして「長秀」に改名してる。
802人間七七四年:2010/05/09(日) 00:59:00 ID:zdgL4HBx
>>801
秀長から長秀じゃなくて、長秀から秀長だった記憶が…
いや、どっちがどっちだったか覚えてないから、
なんとも言えないけど
803人間七七四年:2010/05/09(日) 00:59:55 ID:AiSQrS5W
その忠之も将軍家を憚ってだったと思うが改名してるしね。2回も。
804人間七七四年:2010/05/09(日) 01:26:06 ID:O2wFELSV
将軍の忌み名を拝借した例といれば義輝や義晴に対して多くの人物が挙げられるな
将軍家の力がどんどん衰えていたこの時代
地方の大名は大義名分を得るために
将軍家は援助してもらうために
お互いの利害が一致していたからこその現象なのかな
805人間七七四年:2010/05/09(日) 01:36:55 ID:9hJpnEBZ
戦国期の書状でも諱をそのまま書くのは普通じゃないからな
敵対してたり仲が悪かったりする相手ならある話だが
普通は通称か官名を使っている
友好関係があるなら諱を記すのは自署くらいだ
806人間七七四年:2010/05/09(日) 02:19:52 ID:/5kkr/4x
>>793
あれは略されてないよ
書き込んだやつのネタか勘違い
その後のレスでつっこまれていた
807人間七七四年:2010/05/09(日) 02:38:38 ID:V5+WCNJL
皇帝と同じ漢字は恐れ多いから抜いた李勣みたいなの考えれば
上はマズイので下にしておこうで済む日本は適度に軽いというかなんというか
808人間七七四年:2010/05/09(日) 03:19:32 ID:wt/HP+g6
上下逆だろw
809人間七七四年:2010/05/09(日) 07:33:07 ID:m9Fwx1FZ
>>797
源義経は追討令を出された時に、鎌倉側から勝手に「義行(よしゆき)」に改名させられてるね
理由は九条兼実の息子、良経と同じ読みなので
その後いつまで経っても捕まらないから、「上手く隠れるという意味の能行と同じ読みになるのがまずいんじゃない?」と今度は
「義顕(よしあき)」に改名させられたというオマケまである
810人間七七四年:2010/05/09(日) 08:31:39 ID:+U92Xeq+
現代社会じゃ諱って概念はほぼ無くなったね
今や、偉い人の名前にあやかって同名の名前を付けたりするし、名を避けるよりも同じにして敬愛の念を示すように
811人間七七四年:2010/05/09(日) 08:40:39 ID:l4PTHzkp
>>809
俺はむしろ近江のゲリラ屋、山本“義経”さんがどう思っていたかが気になる。
この人も改名したのかな? それとも「我こそ本家義経」と言い張ったのか?
812人間七七四年:2010/05/09(日) 09:53:25 ID:nw9n6rPP
「………」毛利輝元の前で、吉川広家は苦り切っていた。

「見てみて広家、この茶碗!良いものが焼けたでしょ?そうだ、これを“萩焼”と命名しよう!」
「輝元様…所領も大幅に減り、萩で新たに築城中の今、そういう道楽ごとはお慎み下され。
だいたい、あなた昔っから無駄遣いのことで…」
「な、なんだよ?!」
「ご母堂の尾崎局さまから、こんな手紙↓受け取ってるじゃないですか。」

『あき人きたり候や。たれか見候てとり候や。やくにもたたぬ物とりおき候ては、造作に候…』
(商人が来たそうだけど、誰か付き添って買い物を見てくれたの?役に立たない物を買うと、後で面倒ですよ?)

「親から叱られてることなんだから、自重して下さいよ。」
「ふ、ふーんだ!そういう広家だって…」
「?」
「ついこないだ(慶長十一年)、新庄局からこんな手紙↓もらったんですけどー。」

『ひろいへは、その身ひゃうしや(病者)ゆへ、よろづとどきまいらせ候はぬ御事のみにて候ま々、
(中略)いよ々々かたじけなくぞんじ候べく候…』
(ウチの広家ちゃん最近病気がちだから、いろいろ行き届かないことばかりでしょうけど、
(重用してもらって)ますますありがたく思っておりますのよ。)

「は、母上…」
「四十過ぎて、カーチャンから上司に口添えしてもらう男ってどうよ?」
「何ですと!」「なんだよ!」
「……………」「……………」
「…仕事、しよっか………」「はい………」



お か あ さ ん 、 あ り が と う 。
813人間七七四年:2010/05/09(日) 10:14:20 ID:ev3BDaov
・萩焼の奨励
・輝元が幼少の頃に母からもらって手紙
・関ヶ原後、広家を心配する母の手紙

それぞれ時系列の違う逸話を「母の日」に合わせて創作するとこういう話ができるんだ
814人間七七四年:2010/05/09(日) 10:48:48 ID:0G8r6kep
うん?創作なのか?
でも和んだー、母は大事にせねばアカンね
815人間七七四年:2010/05/09(日) 14:08:01 ID:SQ/k1mxn
>>810
どっちも(悪く言えば)おべっか的な意味では本質は変わってない気が
名前が同じなのを憚るのは謙虚のおべっかで
名前を同じにするのは追従のおべっかだろ
呪われるとか縁起が悪いとか、そういう言霊的な忌む意味での諱って
それこそ鎌倉時代以前まで遡らないと無いと思うぞ
足利尊氏なんて北朝作った後も後醍醐帝の「尊」の字を使ってるんだから
本人の気分次第が実際だろ
816人間七七四年:2010/05/09(日) 14:11:15 ID:m9Fwx1FZ
>>815
それ以前の高氏の名も、北条高時から由来するものだし、いまさら戻せないだろうからね
817人間七七四年:2010/05/09(日) 14:17:22 ID:SQ/k1mxn
そもそも「高」氏のまま北条滅ぼしたんだけどね
偽帝の拝領が縁起が悪いって本当に一般常識で思われているなら
別の「たか」の字を持ってくればよかったんだし
これが中国だと「朱全忠って俺が皇帝なのに忠尽くすのはおかしいだろ?」で変えるし
818人間七七四年:2010/05/09(日) 14:24:43 ID:baGTeZyl
お後はこちらで、

諱を語る
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1174058450/
819人間七七四年:2010/05/09(日) 18:21:45 ID:P3FVMx9c
天正19年(1591)、前田利家は突然、豊臣秀吉に聚楽第へ呼び出された。「やぁ又左、大儀。」
「して、殿下。本日お呼びの御用向きとは?」
「うん、蒲生と伊達の騒動なんだけどさー。法的決着は着いたんだけど、和解交渉が難航しちゃって。
今、別室で二人がキレる一歩手前になってんのよ。ちょっと行って仲裁してくんね?」

工エエェェ(´д`)ェェエエ工

利家が交渉中の座敷に入ると、当事者二人と浅野長政、前田玄以、細川忠興、佐竹義宣、金森、有馬等
そうそうたる大少名がにらみ合っていた。(ホントに一触即発だコレ―――!?)

(あああああ、利家殿!良いところに来てくださった!)(ちょっと玄以ちゃん、これどういうことなの?)
(いや、蒲生殿押し気味で話が進んでるのですが、取り巻きが納得せず…

・佐竹義宣………伊達派の中心。血縁・地縁からか、政宗寄りの発言を連発。
・細川忠興………蒲生派の中心。立場・趣味など氏郷に近い親友、言わずもがな。
・浅野長政………中立派の中心。伊達家の申次で、蒲生とも親しい仲裁すべき人物だが、沈黙。

こんな感じで他の大名たちもモメてモメて。私ではもう変に口を挟めず、もう利家殿だけが頼りなんです!)
(気の滅入る情報、アリガト…)

利家が当事者二人を見ると、政宗は服こそ礼法にかなった肩衣だが、朱鞘に一尺八、九寸の大脇差を差し、
氏郷は雨鞘(雨天等用に滑りにくい仕立てにした、実戦向きの鞘)の脇差。どう見ても殺る気である。

「伊達殿、その脇差…」「いや、拙者は遠国の田舎者ゆえ、かかる不調法なものを…されど
「いや、さすが『伊達』な仕立ての物を持っておられるのぅ!!」(原文:政宗ハだて成仕立とご挨拶…)
「………」「………」
「い、いやぁホラ………『だて』だけに?」
「……………」「……………」

( ● ,_ゝ゚) ゚,_ゝ゚)プッ

その後、座敷に酒肴が運び込まれ、無事に利家の功(?)により難事の手打ちは済んだ。
820人間七七四年:2010/05/09(日) 18:33:16 ID:e8QWyFSE
取り成したのに笑われる利家カワイソスww
821人間七七四年:2010/05/09(日) 18:38:46 ID:OUN/9G5U
>>819
蒲生さんはともかく、何で政宗の方がキレてるのか分からんwww
しかし、佐竹義宣が伊達側に立ってるのは意外だなぁ。
政宗は嫌いだけど、弟の領土である会津を奪った形になった蒲生さんの方がさらに気に食わなかったのかもしれん。
822人間七七四年:2010/05/09(日) 18:57:12 ID:m9Fwx1FZ
義宣さんは、おかんが伊達家の出身で政宗びいきだったらしいし。なんだかんだ言っても、従兄弟だったから
823人間七七四年:2010/05/09(日) 19:00:50 ID:t3wxqJ7z
あとまぁ、隣と仲悪くて隣の隣とは仲良くするって割とよくある
824人間七七四年:2010/05/09(日) 20:13:11 ID:CxngBlhq
>>823
遠交近攻か、遠交近攻なんだな!?
825人間七七四年:2010/05/09(日) 20:30:07 ID:ptVAjRyB
>>812
 所領が減ったならなおさら焼き物その他の産業が盛んになるように動かないといかんような気がするが……
826人間七七四年:2010/05/09(日) 22:13:28 ID:Li3UqYul
実際に殺しあったらレオンが勝つんだろーか
827人間七七四年:2010/05/09(日) 23:00:32 ID:c7t7BlAR
>>819
> 佐竹義宣………伊達派の中心。血縁・地縁からか、政宗寄りの発言を連発。


佐竹と伊達は激しくたたかっているのにね・・・
828人間七七四年:2010/05/09(日) 23:01:19 ID:HBED5gkt
>>826
どういう形にしろ、大戦争になるのは間違いないと思う。
829人間七七四年:2010/05/09(日) 23:04:08 ID:nidw/DUZ
>>826
蒲生軍の最初に突撃してきた部隊を全滅させれば伊達の勝ち。
830人間七七四年:2010/05/09(日) 23:29:59 ID:zdgL4HBx
>>829
むしろ戦場で友軍となって、
隣の突撃する蒲生軍に向かって誤射すれば伊達の勝ち
831人間七七四年:2010/05/10(月) 00:40:26 ID:ex58SQ9v
「レオンは最前線にいるのか?」
「ちょっと違うな、レオンのいるところが最前線なんだ」
832人間七七四年:2010/05/10(月) 00:46:22 ID:seh8Hd+V
むしろレオンとngmsの戦いを見てみたい
833:2010/05/10(月) 00:46:44 ID:TD8G5OMp
楯岡満茂と出世魚

天童氏攻めには事前の延沢満延の抱きこみもあり、
天童八楯からは多くの離反者が続出し最上側の勝利に終わった。
尚、この戦いから最上支族の楯岡氏、満茂が最上家武将として名を加える事となった。

氏家守棟「はて、どちら様でしたか・・・?」
(´▽`)「元は八楯でございましたが、主が死にました為代表となりました楯岡満茂と申します。」

中略

有野峠の戦い後
鮭延越前「此度は楯岡殿も凄い活躍でしたな」
(´▽`)「おかげさまで。仙北を新領として認められましたがゆえ、湯沢を名乗りたいと思います。」

慶長出羽合戦後
志村光安「湯沢殿、我らも加増じゃの」
(´▽`)「これを機に新領の赤尾津を名乗ります。」

庄内検地
志村光安「これは赤尾津殿、貴殿も見回りか?」
(´▽`)「城を変えましたがゆえ、今は本庄満茂でございます」

下の名前を変える事は良く聞いても、これだけ短期間に名字を変えるのは珍しい部類か

(´・ω・`)「・・・(いずれ最上満茂を名乗る日がくる・・・?)」

最上家中最大の4万5000石を領した
偉くなる毎に名字を変える楯岡満茂にとって「縁起のいい(?)」話。

ちなみに先日山形であった「楯岡満茂展」には延沢光昌級の40kg近くの鎧が展示なされていたそうな。
834人間七七四年:2010/05/10(月) 01:13:33 ID:fQVfssw+
うーむ、どうしても松波庄五郎さんの事が思い浮かんでしまうw
835人間七七四年:2010/05/10(月) 02:56:45 ID:TD8G5OMp
>>834油売りさんか

鮭様絡みでもう一個

脳筋綱引き

鮭様には当時描かれた肖像画は伝わっていない。長谷堂屏風も肖像画として捉えるには心細い。
広く流布している烏帽子姿の肖像画は、近世以降描かれたものと言われている。
伝えられるところによれば、鮭様は色が白く冷静そうな目をしており、
尋常でない雰囲気をたたえてた巨躯だったという。

以前書いた延沢光昌の鎧の件で、仮に父と息子が似たような体型・体格ならば
180cmを超える最上義光に対し、延沢満延も170から180cmは超える
平均身長が155cmくらいと言われる当時としてはガチムキの巨漢の部類に入る。

仮に鮭様より身長が低かったにしても
桜の木ごと引っこ抜く様は一例にしてみれば

桜に抱きつく熊を木ごと引き抜く愚地独歩先生という事か

奥さん、嫁、妹、娘、小動物どころかガチムキにも弱かった(?)鮭様を思いながら寝ることにする。
836人間七七四年:2010/05/10(月) 03:02:21 ID:TD8G5OMp
直江兼続が「長身美男」と書かれてるのは「常山紀談」が元ネタでわかるんですが、
伊達政宗が「面暗くして何を考えてるか分からない」と鮭様と比較されてる様な書き方がされていた書物があったかと思うのですが
有志の方、教えていただけると助かります。
837人間七七四年:2010/05/10(月) 20:57:27 ID:Fg5Lf5gH
鮭ネタはいらない
本当にいらない
838人間七七四年:2010/05/10(月) 21:19:40 ID:hbFTmNop
>>833
ちょw名字変えすぎwww

>>835
鮭様身長高いな
鮭様には、殺すはずだった人を大食いだからって気に入ってた逸話あったね
豪快な人が大好きだったのかも?脳筋だったみたいだし
839人間七七四年:2010/05/10(月) 21:25:10 ID:GeuAQG3J
鮭さまネタと言うか顔文字はやめて欲しい
これは政宗もそうなんだが。。。
840人間七七四年:2010/05/10(月) 21:26:02 ID:CLkIK8Z7
>>836
前に「見苦敷親父にて…」と評されていたが、あれは鮭様関連ネタではなかったな

ただ、伊達政宗の容貌の話になると冷静になれない人が出てきて
外見をとやかくいう奴の気が知れないだの
政宗を貶めているだのと感情論に走ってスレが荒れるので
あまり話題に出さないほうがいいかもしれない。
841人間七七四年:2010/05/10(月) 21:33:21 ID:IBjl1wF9
鮭いらない鮭うるせーなとか言う奴がなんで湧いてんだ最上ネタなんてどこにあるんだよ
って思ってたら専ブラのNGwordに引っかかってただけだった

顔文字使って会話文にするのは普通に逸話書くよりも
書く方にとっても読む方にとっても敷居が低くなるからだと思われる
最上も伊達もそんなに興味ないから顔文字使おうがどうでもいいけど
842人間七七四年:2010/05/10(月) 21:38:21 ID:S0nHe/cR
顔文字ウザイと思う人の気持ちもわかる。
>>819の政宗みたく1つならともかく、>>833の最上のとこみたく複数の顔文字を多用してあると見ずらいしイラッとする。
843人間七七四年:2010/05/10(月) 21:39:25 ID:vSaI9+t+
顔文字駄目ってどんなジジイだよw
スレがスレだけにしょうがないかw
844人間七七四年:2010/05/10(月) 21:41:41 ID:4x95VNdK
絵文字デコメが全盛なのにいまどき顔文字って(ry
845人間七七四年:2010/05/10(月) 21:45:40 ID:8XTJugOY
なら>>844は絵文字で書き込みしてろ
846人間七七四年:2010/05/10(月) 21:47:11 ID:pBu6ITJK
顔文字論議は他所でやって
847人間七七四年:2010/05/10(月) 22:01:39 ID:myiDM0jy
伊達と最上って実際も信者も仲悪いのな。
うちの近所のお寺さんには政宗孫の墓と義光弟の墓が仲良く並んであるのに・・・
ちなみに近所のお寺さんってのは九州小倉の安国寺ね。

とここまで書いて1つ思い出した。
同じく小倉に安全寺と言うお寺さんがある。
この安全寺、精神年齢三歳さまが小倉の城下町を整備したときに一度破却している。
しかしその後、三歳さまの夢枕に一人の武者が現れてこう言った。
「私は昔の小倉城主高橋鑑種だ。私の寺を崩すとは無礼ではないか」
三歳さまが安全寺を調べてみると鑑種の位牌が見つかりました。
これが夢枕の原因か・・・と言うわけで安全寺を移転再建し鑑種の供養をしたのでした。
どちらかと言うと悪い話かもしれないな。うん。
848人間七七四年:2010/05/10(月) 22:44:34 ID:8XTJugOY
お礼に拙者の尻を用立てて…と続くのかと思った。よかった。
849人間七七四年:2010/05/10(月) 23:06:44 ID:iEndYSlq
張飛ネタは板違いw
850人間七七四年:2010/05/10(月) 23:14:57 ID:ec5ZhwMl
>>841
少なくとも書く方は大変だろ>顔文字
その台詞にあった顔文字を選んで考えて配置するって場合なら
普通に逸話書くより労力使っていることになる
そうやって敷居を低くすることは良いことだよね。逸話スレなんだから、敷居が低い方が色々な人に読んで貰える
851人間七七四年:2010/05/10(月) 23:20:17 ID:g+vodR4a
>>850
また話蒸し返すの?実際、見ずらい人がいるから文句が出てるのに。。。
852人間七七四年:2010/05/10(月) 23:24:20 ID:5G2sIXIm
顔文字見づらいとかいうやつは単なるクレーマー
背景がドギツイ色のサイトで目がちかちかするとかならまだわかるが・・
853人間七七四年:2010/05/10(月) 23:28:39 ID:g+vodR4a
>顔文字見づらいとかいうやつは単なるクレーマー
なんと言うジャイアニズムwww
854人間七七四年:2010/05/10(月) 23:32:23 ID:5G2sIXIm
>>839みたいな奴が一人二人書いたくらいでいきなり顔文字止めろとか強制する奴の方がよっぽど
ジャイアニズムだろ

お前何様なんだよアホか?

ここはお前の自由帳じゃねーんだよ
855人間七七四年:2010/05/10(月) 23:32:59 ID:pBu6ITJK
顔文字より君たちの方がよほどこのスレの迷惑ですよ。
856人間七七四年:2010/05/10(月) 23:42:40 ID:ec5ZhwMl
一行を長くしすぎない、区切りの良いところで段落を開ける
年号を西暦に直す、年代の推移を○年ではなく、■年後の○年と書く
とか、そういう書き手がする読みやすさの工夫の一つでしょ?

別にこういった努力をしなくて
そのまま長文の現代語訳を投下してもなんの悪いこともないけど
顔文字云々じゃなくて、そうやって投下してくれている人の努力を
敷居が低いって済ませるのがちょっとなと思っただけだよ
857人間七七四年:2010/05/10(月) 23:44:32 ID:NiP+MA82
>>856
そんなことはお前がやればいい
強制する必要は無い
858人間七七四年:2010/05/10(月) 23:58:44 ID:bP2CCbsx
>>847
安全第一、なんてな
859人間七七四年:2010/05/11(火) 00:28:33 ID:xc+MUzDj
>>856
和暦で書いてもらった方がいい。
戦国時代の年号なんて数個しかないんだから覚えましょう。
860人間七七四年:2010/05/11(火) 00:34:02 ID:UI2oeCtV
>>859
併記が良心的
861人間七七四年:2010/05/11(火) 00:38:06 ID:Wh8s81Es
投稿者は、読みやすいかな?とか色々考えた末、文章を投下してるはず
少なくとも自分はそう
顔文字も、より逸話に親しみを持ってもらいたいっていう投稿者の工夫の1つだと思うけど
それを頭ごなしに否定しちゃうのもちょっと悲しくない?

あ、西暦と和暦は併記が分かりやすいと思う
862人間七七四年:2010/05/11(火) 00:48:37 ID:hfiiiXLK
>>859
学問ならともかく趣味の領域だからなあ
863人間七七四年:2010/05/11(火) 01:09:59 ID:PoFNcCZz
>>861
その気遣いのせいで読みづらくなったら投稿する人も悲しいだろうし、顔文字ははじめから使わない方がいいね
864人間七七四年:2010/05/11(火) 01:18:10 ID:zvZRbmQm
先祖とか土地、故事絡みになると戦国時代から逸れるから
西暦の方が空いてる時間がわかりやすくていいだろうな

個人としては顔文字は別に読みづらくないし、楽しく読んでるよ
ここは2ちゃんなんだからネット文化はらしいじゃない
865人間七七四年:2010/05/11(火) 01:19:27 ID:tvOE9VMs
普段は顔文字も全然気にしないけど、極まれに読み易さより
顔文字を使うことを優先している投稿がある。それでちょっと
イラっとしてしまう。
866人間七七四年:2010/05/11(火) 01:38:09 ID:zvZRbmQm
>>859
このスレだとだいた応仁の乱〜天草の乱までカバーしているから

応仁、文明、長享、延徳、明応、文亀、永正、大永、享禄、
天文、弘治、永禄、元亀、天正、文禄、慶長、元和、寛永


で19は覚えないとな
867人間七七四年:2010/05/11(火) 02:07:08 ID:LVelvhGg
読みやすくするために使われているならばともかく読みにくくしているのは駄目かもな

この話ここまで
868人間七七四年:2010/05/11(火) 05:13:46 ID:oyPkmcKT
今更2ちゃんでゴチャゴチャ規制増やしても寂れるだけだろ。
三戦板の愚を何度も繰り返すのは、無知か馬鹿。
869人間七七四年:2010/05/11(火) 10:00:46 ID:K1GFiU1c
顔文字の多用は確かにウザいけど、専ブラでNGにぶち込むだけで済むんだし、
投稿者にケチつけるのはどうかと思う。
870人間七七四年:2010/05/11(火) 10:03:08 ID:eaUHAbCD
使う人、使わない人で書き手の個性も見えるのがいい。
自分の好きなように揃えろ、とかあり得ない。
いやなら読み飛ばせばいいだけ。
871人間七七四年:2010/05/11(火) 11:11:03 ID:k7XhKBbO
文句付ける人は戦国時代のちょっといい話が好きな人じゃなくて、
文句をつけることが好きな人なんだから、つけさせとけばいいじゃない。
872人間七七四年:2010/05/11(火) 11:16:55 ID:IBn6XDCY
いい加減しつこい
873人間七七四年:2010/05/11(火) 11:18:07 ID:An4BLt4P
今までだって顔文字さんざん使われてきてたのに何をいまさら言ってるんだw
874人間七七四年:2010/05/11(火) 11:51:34 ID:6NzOJFuR
俺としてはAAも上手く使って
2chのノリで書いてくれた方が面白いんだがな。
875人間七七四年:2010/05/11(火) 12:38:40 ID:08V4aeAt
許容範囲も人それぞれだし押し付けずにやってきゃいいだけなんじゃないのか?
こりゃウザいと思ったらスルーとかさ。

ドウモー!とかの古いコピペみたいなのはさすがに勘弁して欲しいが
876人間七七四年:2010/05/11(火) 13:09:28 ID:tmSyyLdq
鮭ネタも顔文字も楽しんでるけど最上義光に(´・ω・`)の顔文字当てて余計な一言いわせてるのはなぜか毎回イラッとくる
877人間七七四年:2010/05/11(火) 13:13:05 ID:R5WMu1sD
で?っていう
878人間七七四年:2010/05/11(火) 15:21:55 ID:5Eh+yZX1
書き込む前に読んでね
http://info.2ch.net/before.html
まもらねばさくざかむさしがくる
879人間七七四年:2010/05/11(火) 15:39:40 ID:gwVWbM7s
兼定抱えた細川殿かもしれん
880人間七七四年:2010/05/11(火) 16:26:24 ID:F7tXFUPX
顔文字もスルーできないのかよ?チョソ?
881人間七七四年:2010/05/11(火) 17:27:08 ID:yQCOyHrj
すぐ日本人を同胞認定したがるチョンが来たか
882人間七七四年:2010/05/11(火) 18:08:31 ID:y6Xh3eHR
「朝倉宗滴話記」より、宗滴先生のありがたいお言葉。家来との関係編

「主人には家来の罰が当たり、家来には主人の罰が当たるものだ。だから君臣の間には
油断があってはいけないんだよ。」

「家来から怖れられるようじゃいけないよ。涙を流されるくらい慕われるのが本当だ、って
昔から言うでしょ?そうじゃないと大事の時に、家臣は命をかけて働いてくれないしね。」

「主人であるのに、家来に侮られていると思い込んでいる人は、既に
ノイローゼに掛かっていると考えた方がいいよ?
何故かって言うと、人に主人と言われるほどの身の上なら、敵であってすら、その人を
侮りはしないものだ。いわんや家来が侮るようなことなんてあるだろうか?
そのようなあさましい心持は、家の乱の元にもなるんだよ。」

「人を使うときに二人候補があった場合、昔から仕えている方を選ぶべきだね。
なんでかって言うと、家来を使うと何か必ず不届きをするものだろ?で、主人であるあなたは
それをぐっと我慢する。でも家来の方も主人に対して申開きしたいことがあるのに、
それを我慢している。そんなふうにお互い我慢しあっているうちに、昔から使っている人間は
いろいろ経験を積んで大事のことも出来るようになってるものなんだ。
だから少々不出来でも、人はどんどん使うべきなんだ。」


君臣を「上使と部下」とすれば今でも通用しそうな、宗滴先生の人を使う際の心得。
883人間七七四年:2010/05/11(火) 19:01:35 ID:bEYyf8WT
譜代を重用するそんな朝倉家に嫌気がさした光秀さんは・・・
884人間七七四年:2010/05/11(火) 20:50:13 ID:K1GFiU1c
織田家で謀反を起こしてましたとさ
885人間七七四年:2010/05/11(火) 20:50:53 ID:zYKR+qCR
道雪さんも含めておじいちゃんの言うことはためになるな〜〜
886人間七七四年:2010/05/11(火) 21:01:30 ID:V4f2Kqie
まあ爺ちゃんになるまで生きてこられた訳だしな。
887人間七七四年:2010/05/11(火) 21:06:37 ID:S7z6DFOa
一栗さんの若いころの話は無いのだろうか
888人間七七四年:2010/05/11(火) 21:38:23 ID:fJ9GtLeZ
>>885
老境の正宗や老境の慶次がためになることを言うだろうか
889人間七七四年:2010/05/11(火) 21:41:48 ID:hfiiiXLK
>>888
まぁ、反面教師という言葉もあってだな
890人間七七四年:2010/05/12(水) 01:03:11 ID:bKKiHb5X
朧月の、静かな夜だった。

投網漁を楽しんでいた石井八郎左衛門は、散歩中らしき侍に声をかけられた。
「どうだい、獲れるかね?」
「ああ!今夜は大漁だ。」そう答え、魚籠を水面から引き上げて侍に見せてやった。

「おお、ずいぶんでかいフナがおるな!」
「この大きさのヤツが、あと二匹はおるぞ?」
「明日はご馳走だな、うらやましい!…どうだね、できれば一つ……」
侍が魚籠に手を伸ばすと、

「! さわんじゃねぇぇえ!このクソヤロー!!
いいか、こっちはこう見えても主君持ちだ!こういう時はな、殿様にいいヤツを差し上げて、
自分は小さい魚でガマンするのが忠義ってモンだ!テメエも侍なら覚えとけ!!」

「そ、それは殊勝なお心がけ。大変失礼したっ!」侍は、あわてて宵闇の中に逃げ去った。



朝、目覚めた鍋島勝茂は、料理番に今日の献立の希望を問われたが、
「まあ、少し待ってろ。今にいいものが来るから…」
「?」
そこへ石井八郎左衛門が、台所にタライを持ってやって来たとの知らせが入った。
「昨夜、獲れたばかりのフナにござる。殿に召し上がっていただきたく、お持ち致しました。」
タライには見事な大きさのフナが数匹、泳いでいた。

「ほら、な?」短く言って、勝茂は満面に笑みを浮かべた。
891人間七七四年:2010/05/12(水) 01:59:09 ID:qXAeoxV5
これはいい話だ
892人間七七四年:2010/05/12(水) 02:01:53 ID:LCP1AssU
石井さんカッコいい!そして侍は勝茂さんだったかw
893人間七七四年:2010/05/12(水) 04:06:54 ID:gR27E9kH
>>882
上の者は下の者を信じてやれ、仕事を委任する度量を持て、てことだよな
道雪も部下を大切にしたエピソードがあるし、彼らが理想の上司像にされてたのかなあ
894:2010/05/12(水) 05:32:15 ID:qxep4UWJ
>>882
宗滴って自分自身が刀や矢で敵将を討ち取ってもとどめを部下にやらせて部下の手柄にしたり、
漂着した朝鮮か明の外国人達を外人部隊で編成してたり、なんか部下思いの武将だよな。
宗滴没後にすぐ外人部隊が失踪したりって話も宗滴の人徳で外人部隊を繋ぎ止めてたのかも。
895人間七七四年:2010/05/12(水) 10:06:47 ID:VVdUv8Je
>>890
普通に良いオチだった。
いい話スレだから当然だが、何か物足りなさを感じるオレはヒネクレてるんだろうか・・・・
896人間七七四年:2010/05/12(水) 10:15:44 ID:Cxq9MP22
>>890
ムチャクチャおいしかったろうな。
897人間七七四年:2010/05/12(水) 10:18:54 ID:nTf/JTlL
>>895
この状況だと酔った市松でもない限り三斎でも武蔵でも似たような話になるんじゃないかなぁ
898人間七七四年:2010/05/12(水) 10:37:09 ID:5mrwvBjq
幽斉様なら一句残して、後で「あああれは幽斉であった」と石井さんが気づく。
三歳様なら、「気に入った、この越中ふんどしを(ry
はともかく、
きっとフナにあう付け合わせとか料理して「まだかまだか」とイライラしたりするんじゃなかろうか。
899人間七七四年:2010/05/12(水) 10:39:05 ID:mnGETRy6
鬼武蔵「今日はご馳走だな。」ズバッ!
900人間七七四年:2010/05/12(水) 10:43:31 ID:nTf/JTlL
幽斎さんだと自分で捌いて石井八郎左衛門と一緒に食おうと厨房で待ってるかもしれんなw
901人間七七四年:2010/05/12(水) 12:28:46 ID:qXAeoxV5
出てきたフナがおっきい方じゃなくて小さい方だったけどお殿様は知らないフリしました

とは成らないのは流石の鍋島さんの人徳である
902人間七七四年:2010/05/12(水) 13:29:17 ID:Pu+1dGa+
本多(重)さんだとまためんどくさい展開になりそうだよな
903人間七七四年:2010/05/12(水) 13:32:01 ID:9dEIOyaS
いい話なのかな・・・
おべっか使いの話としか見えない俺は心が歪んでいるのか・・・
904人間七七四年:2010/05/12(水) 13:46:57 ID:Pu+1dGa+
本人目の前にしてならともかく、全く解らない状況で言ってるんだからおべっかとは全く違うだろ
905人間七七四年:2010/05/12(水) 13:47:39 ID:PhhsvrOT
本人目の前にしてるだろ
906人間七七四年:2010/05/12(水) 14:03:59 ID:Pu+1dGa+
この時代の夜は本当に真っ暗で何も見えないぞ
声だけで判断したってことか?
907人間七七四年:2010/05/12(水) 14:36:05 ID:BfZ3GtaT
なるほどな。
声で殿様とわかって一芝居打った可能性もあるのか。
だが実際は殿様が一人で深夜徘徊はしないだろうから
部下の誰かが朝になって殿様に報告したってのが本当のところだろうな。
908人間七七四年:2010/05/12(水) 14:56:27 ID:G1jRDrQN
>>906
街灯もろくすっぽ無い山中住まいだけど
そらもう月によるとしかいいようが無い。
越してきて月明かりって明るいもんなんだなぁと思ったくらいに
出てる出てないじゃ見え方がまるで違う。
909人間七七四年:2010/05/12(水) 15:44:53 ID:5mrwvBjq
問題なのは「この大きさはあと2匹はおる」なのだから、
小さいヤツを身元不明の散歩侍にあげるかどうかと、
大きいヤツを殿様に献上するかどうかは、
別に関係ないってことだな。
献上するからあげられないって数じゃないよね。
910人間七七四年:2010/05/12(水) 17:39:25 ID:7QAy0Z8c
「主君持ちだ」って言い張ったのは「金積まれたってアンタには売れねえよ」って意味に受け取ったが。
911人間七七四年:2010/05/12(水) 18:22:37 ID:dV2t8HJS
>>909
なんでだよ、数匹献上したってんだから二尾では済んでないだろ。
自分の家の分含めると、声かけられた時点ではくれてやる余裕はないだろ。
912人間七七四年:2010/05/12(水) 19:13:03 ID:7rhPxxe9
寛永の頃、長崎の唐人町屋に「いつくゆん」という者がいた。
彼は広壮な屋敷を構え、そこを唐人商人の宿として提供し、利益を得ていた。
小間使いとして日本人を雇っていたが、中に15歳ほどの少年がいた。
宿泊した唐人の中に人相に詳しい者がいて、少年を見るなり、
「この者は天下に待望を抱くだろう。しかし、それは遂げられずに終えるはずだ」
と予言をした。

数年後、少年は戦国に終止符を打つとされる大反乱の指導者となる。
名を四郎といった。

四郎と幼い頃から親しくしていた学友は、
「彼は海で泳ぐのが好きで、魚を手掴みして捕ることができた。
その他は、別に変わったところもない少年でしたよ」
と語ったという。
深見新右衛門殿の物語りである。

(老談一言記)
913人間七七四年:2010/05/12(水) 19:43:33 ID:lrbhzRbM
>>912
ジェロニモさん魚のつかみ取りが上手かったのか
914人間七七四年:2010/05/13(木) 00:38:42 ID:NJAj1h4B
このころはまだ超人じゃなかったんだよね
915人間七七四年:2010/05/13(木) 01:25:58 ID:MDT+wwJk
>>914
だってオラは人間だから……
916人間七七四年:2010/05/13(木) 13:10:52 ID:7er2cGPB
何処の出典かも明確にしない
どこの逸話なのか検証する奴も居らず
だのに話に出てくる人物の会話が異様に濃い

武将を面白おかしく書くただのオナニースレと成り果てたか
917人間七七四年:2010/05/13(木) 13:12:46 ID:0SOO/QPa
上げて言う馬鹿よりはマシ
918人間七七四年:2010/05/13(木) 13:29:19 ID:7er2cGPB
>>917はいはいw上げて悪かったね
お?w俺何か間違った事言ってるっけ?w
最近の投稿見て思うのは
こっちに投稿する前に『逸話検証スレ』に見て貰った方がいいんじゃないのって思う?
朝倉宗滴記話とか後世の創作物の中でもゴミ屑以下の資料価値しかないしな

読みやすい様に顔文字や現代語風を少しだけ使うのは別に構わない…が

せめて何処出典か出せ
話が昔の資料じゃなくて郷土史家の本でも構わん、出せば
それがルールだ
919人間七七四年:2010/05/13(木) 13:38:50 ID:h8gWbfUQ
自治厨乙
920人間七七四年:2010/05/13(木) 14:08:38 ID:7CbMqaxS
ん?
検証スレで実話認定されないとダメで
出典書くのが当たり前だけど、朝倉宗滴記話は書いててもダメなのか?
なになに?
どうすればいいのか全然見えない。
要するに君の気にいらない書き込みはしてはいけないってこと?
それがルールなの?
921人間七七四年:2010/05/13(木) 14:28:36 ID:4cCTgIiT
>>918
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
922人間七七四年:2010/05/13(木) 15:09:23 ID:UWlMUA86
まあこの手のケチを付けたいだけの馬鹿に触らない方がいいよ。馬鹿がうつる。
923人間七七四年:2010/05/13(木) 16:09:18 ID:j3QJ/FfD
ぉぃ、釣られすぎだぞw
924人間七七四年:2010/05/13(木) 16:32:45 ID:UWlMUA86
良い話か悪い話か迷ったがこっちに。


慶長五年(1600〉6月6日、徳川家康は上杉景勝に謀反の企てありとし、大阪城西の丸に諸将を招集し
この討伐を宣言。発向を16日として参加する将の署名を求めた。
そして署名した者を再び西の丸に集め、『6月21日出陣』と発表をした。

さて、この命令を皆が承り退出するとき、山内一豊が藤堂高虎に囁きかけた

「今度の上杉征伐だが、奉行達が連署で、少なくとも年があけるまで引き伸ばすべきだと諌めたのに
徳川殿はそれをお聞きになられなかった。どうして奉行達を無視したのだろう?」

高虎これに答える
「徳川殿が奉行の提言を無視したのは、ご深慮があるため、だと思う。」

「ご深慮?」

「先ず第一に、国に叛臣がある時は素早く兵を出して、敵の準備が未だ整わないうちにこれを討つものだと、
これは昔から言われていることだ。

第二に、反乱者の退治が遅くなれば、相手に城の備えを堅固にし兵を多く集め、兵糧を備蓄する
余裕を与えてしまう。そうなってしまえばこれを攻めても非常に時間がかかることになる。まして年明けまで
待つなどということをしたら相手に万全の備えをさせてしまうだろう。

第三に、連署を出した奉行連中の中に、景勝と親しい者が多い。このため徳川殿は、さてはわざと
上杉討伐を引き延させて景勝に籠城の準備をする余裕を与えようとしているのだ、と察したのかもしれないな。

第四に、景勝が謀反を起こしたのには、彼に同調する勢力があるためだと考えるべきだろう。
これは時間が立てば立つほど多くなるに違いない。しかしその勢力が未だ少ないうちに討伐すれば、
同類の輩は動きを自重し大人しくするだろう、と考えられたか。

そして今回、再び諸将を集めて軍議を行われたのは、その中に景勝への同調者がいれば、そいつはきっと
軍の出動の遅延を申し立てるであろうし、そうでなくても顔色や雰囲気からそれが見えてくるものだ。
このようにして徳川殿敵味方をざっと判断して、その上での計策があるためであると、拙者は考える。」

「なるほど…。所で前の軍議の時堀監物が『会津の背灸と言う場所は大変な難所なので充分に気をつけなければならない』
と言ったのを、徳川殿は気に入られない様子であった。あれはどういう事であろうか?」

「ははは、説明するほどの事でもないさ。背灸と言えば奥州第一の険阻であり、一人動けなくなるとそれに続く万人が
進めなくなる、なんて事は、みんな知っている話だ。だから、みんなそれを見ないうちから心を重くしているのに、
実際に現地を案内する堀兄弟が『切所です!難所です!大変なんです!』なんて言ったせいで、
あの時の座の面々の顔を覚えているか?みんな青くなってた。徳川殿はそれを悟って、勇を励ますために
堀を叱り飛ばしたのさ。良将の知恵という奴だな。

かつて故太閤が徳川殿のことを『あいつは軍慮の知識だ』なんておっしゃっていたが、あれはこの事なのだな、と思ったよ。」

「ふむ。そう言う事か。
…ところで佐渡守(高虎)、徳川殿は、天下を取るか?」

高虎たちまち笑い出し
「おいおい、壁に耳ありというではないか。そんなことを話していたと聞かれたら、どう噂されるかわかったものではないぞ?
だがな」

高虎、一豊の傍で小さく囁いた
「みんなそう思っているだろ?(誰も斯くこそ存ずる)」


会津征伐出陣前の、藤堂高虎と山内一豊の会話である。
925人間七七四年:2010/05/13(木) 16:42:10 ID:It/j1a14

永禄三年の桶狭間の合戦の際。
圧倒的な戦力を持ちながら総大将今川義元の戦死という形で敗北した駿遠三三国の
軍勢。

大高城で義元の死を聞いた松平元康も岡崎城への撤退を始める。
すなおに東海道を東へ帰ればいいモノを、何故か母、伝通院を頼って知多半島を南
下。そこから海を渡って岡崎へと逃れたという。

が、如何に縁者とは言え、水野家や久松家の立場もある。
落ち延びていく軍勢に救いの手を差し伸べるワケにもいかない。
元康一行は現在の半田市の辺りで空腹のあまり立ち往生してしまう。

そんな時、ある農家の軒先に吊るされた「あるモノ」を元康が見つける。

「あれは何だ?」
「あれは煎餅でございます。ああやって干したモノを焼いて、煎餅として食してい
るのです」

家臣が答える間もジッと煎餅から目を離さない元康に、農家の娘はビクビクとしな
がら声をかける。

「……まだ乾ききっておりませんが、今、焼きましょうか?」

「いや、よい」

うんうん、そこまで飢えてなかったか。痩せ我慢が出来るならまだダイジョーブ。
と、家臣達が思った次の瞬間。

「焼くヒマも惜しい。アレをそのまま貰えぬだろうか?」
「はぁっ!?」
「……と、殿!?」

慌てた家臣が止める間もなく、元康は生のままの煎餅を、美味そうに頬張ってしま
った。
それどころか、その味が気に入ってしまったのか、自分が半田に来た際には生のま
まの煎餅を献上してはくれぬだろうか、とまで百姓達におねだりする有様。

「生せんべい」は現在でも半田市の名物として販売されている。


出典?生せんべいを販売している店のサイト。www
検証スレに出しても絶対史実とは認定してもらえないし、そもそも僕自身が史実と
は思ってないが、こんな話は投稿しちゃいけないんでしょうかぁ?
926人間七七四年:2010/05/13(木) 17:32:46 ID:b2phG6Jb
生せんべいがうまいのかまずいのか
そちらの方が気になる
927人間七七四年:2010/05/13(木) 17:58:36 ID:96I+LN2k
>>924
一豊は本当にこんなすっとぼけた人だったのか、それともそういうキャラで探りを入れてたのか・・
後者なら食えない人だなあ
928人間七七四年:2010/05/13(木) 17:59:14 ID:j3QJ/FfD
一豊さん半端ねぇwww
高虎さんも一豊さんだからこそ最後の台詞になるんだろうなw
929人間七七四年:2010/05/13(木) 18:21:59 ID:j/ZRC8d6
>>924
その話、一豊の最後のセリフが無い以外は
まるまる同じ内容で、会話の相手が高虎でなく
大谷吉継のバージョンのもあるな(名将言行録)
どっちが先に出来たんだろ
930929:2010/05/13(木) 18:25:38 ID:j/ZRC8d6
間違った、

×一豊の最後のセリフ
○高虎の最後のセリフ
931人間七七四年:2010/05/13(木) 18:35:13 ID:UWlMUA86
>>929
924は「古今武家盛衰記」に載っていたもので、古今武家盛衰記は寛文(1661〜1672)の頃の
成立だそうなので、こっちのバージョンの方がほうが先でしょうね。
932人間七七四年:2010/05/13(木) 18:36:09 ID:lsD1229N
濡れせんべいってのもあるから、意外に食べれるものかもしれない。
でも、味気なかっただろうな。
933人間七七四年:2010/05/13(木) 18:42:01 ID:PEqFGfUj
一豊は堀尾さんの城献上案を横取りするほど腹黒いからな。
934人間七七四年:2010/05/13(木) 20:08:52 ID:ufwJm/+3
「この母にして……」

このスレでも何かと話題の初代紀州藩主頼宣さんの少年時代の話。
昼になってもまだ朝顔が咲いているのを見つけ、母・お万の方に手紙と一緒に贈った。

頼宣「朝顔が昼になってもまだこんなに元気に咲いてますよ。どうぞ御覧になって下さい」

これに対するお万の返事は……

お万「朝顔の贈りもの、ありがとうね。人間もこの花のようなもの。的確な養生をすれば短い生命も長くなるというものです。
   これを忘れないように。家や国というものも、この心で見れば長久を保つことが出来るのですよ」

朝顔一つでも家や国家についての説教に変えてしまう。これが賢母というものであろうか。
こんな母からどうしてあんなにヤンチャな子が……と思ったら、彼女自身がとんでもないことをやっていた。
小田原の陣。上総勝浦城主正木左近大夫頼忠の娘であった彼女は、落城の際に海に面した50m近い断崖絶壁に布を垂らして、
それを伝って海上脱出に成功したのだという。しかも弟や母を背負って……当時14歳。(10歳説もある)
単純に15階位のマンションから布を伝って脱出するようなものだ。
史実としては辻褄が合わない点も色々あるが、現在でもそこは観光名所であり、この伝説が掲示されている。
色んな意味で、戦国の女はやっぱりすごい。
935人間七七四年:2010/05/13(木) 21:11:35 ID:tSZ9c/c7
>>924
背あぶり山には秀吉が奥州仕置きの際通ったと言われる関白平という場所があってなかなか見晴らしがいいです
936人間七七四年:2010/05/13(木) 23:36:12 ID:B1gok89Y
>>926
ういろうっぽい味だったよ
937人間七七四年:2010/05/14(金) 18:40:09 ID:j+CHyr3B
うん、半田の生せんべいは甘ったるい。
938sage:2010/05/14(金) 20:49:28 ID:X4nhv7+C
戦国の女は凄いの流れに乗って 久々に投下

「身代わりの侍女」

1600年(慶長5年)7月 石田三成挙兵に 派手な方の加藤家・黒田家などが 無事脱出したのは このスレ住人なら周知の事実
だが逃げ遅れた家の中に島津家も いた
8月に本国にいる義久が西上し 亀寿と人質の務めを交代しようと云う話があったが
8月は 関が原前哨戦がドンパチやってて とても義久が行ける状況じゃない
妙案が浮かばないまま 関が原本戦当日となり西軍が敗れる

敵中突破な無茶をやらかしたので 大坂の島津屋敷には義弘戦死の誤報が届いた
これを利用しない方はない
義弘の葬儀のためと 豊臣家に帰国を願い出る
豊臣家は もちろん承知。だが許可したのは義弘夫人だけで亀寿には帰国の許可が出ない
そこで義久系家臣の重鎮であり家老の平田は 時代劇定番の侍女を身代わりにするというベタな案を思いつく

「私が御上様の身代わりになります」
と名乗り出たのが 大田於松だ
大田家の息女で 慶長年間より侍女となった この時22歳

9月19日 義弘夫人と侍女の扮した亀寿と どういう経緯が書かれていないが秋月種長夫人が同行し
「義弘の葬儀のため」に大坂を出て 薩摩へと帰国の途に着く

9月22日に西宮で ボロボロになった義弘・島津勢と義弘夫人・亀寿・秋月夫人が合流する

一方、侍女の於松は 身代わりの大役を果たした後に 大坂城下の混乱を利用し自力で脱出し
この西宮で 一行に追いつき合流している

彼女が どのように機転を利かせたかは 元ソースには記載されていないが
於松は 身代わりの功績で後日 300石の知行を拝領している

彼女は生涯独身だったらしく300石は 於松の死後、弟が相続したそうだ

その後 島津一行は 完璧武将 立花宗茂と偶然出会うが
宗茂が島津義弘を助けたのは 義弘一行に夫人たちが いたからかもです

ソース 国分衆・町田氏正統家譜より


939sage:2010/05/14(金) 21:08:08 ID:X4nhv7+C
>>938

間違った「町田氏正統系譜」です
さくざさんに叱られて来ます。。。
940人間七七四年:2010/05/14(金) 21:19:11 ID:SWbhYFLV
干して軽く炙って食えば美味そうじゃね? > 半田の生せんべい
941人間七七四年:2010/05/15(土) 02:10:34 ID:2PQE5YSW
鮭様と夜泣き力士

秀次事件で処刑された愛娘の為に義光は天童の名刹専称寺を
駒姫の為に勧進した。

移築には多くの人足が集められ、本堂伽藍には名匠左甚五郎によって
梁を支えるまわしまで締めた「力士像」も作られた。

落成が終わり義光が山形城に戻り仮眠をとっていると
夢の中に今詣でてきた専称寺が出てきた。

でも、なにかおかしい・・・

境内で力士達が相撲をとっているではないか!?

義光「・・・ここ、駒姫の菩提を弔う菩提寺だよね?なんで相撲をとってるの?」

力士達「いやぁ、屋根を支えるのって意外とヒマで大変なんですよ〜」

義光「!?!?」

何度か同じ夢を見るにあたり義光が専称寺に足を運んだところ、
成程、確かに伽藍の四方で夢に見た力士像達が屋根を支えていた。

次の夢に力士達が出るに当たり義光は静かに切り出した・・・

義光「お前たちは駒姫を魔から守る為に作られたんだよ?
その役目も果たせないなら・・・釘で足を固定して持ち場を守ってもらうか・・・
真面目に働くならそんな事はしないけど、
もし役目を果たさず相撲をとってるところを見たら次は種子島で撃つよ・・・」

以降専称寺からは夜な夜な力士像達の屋根の重荷に耐える「アッー!」と啼く声が聞こえたという。

*「出羽に伝わる昔話」より(「夜泣き力士」にはいくつか違う種類の昔話が伝わっております)
942人間七七四年:2010/05/15(土) 02:17:48 ID:5PYrpSlw
奥州仕置にて、大谷吉継・木村重茲が出羽仙北の検地を行った際に、
大谷配下の代官が農民を斬り捨てたことなどに反発して大規模な一揆が勃発した。
このとき上杉勢も奥州仕置に駆り出されており、吉継の要請を受けた景勝は
鮮やかな速攻で瞬く間に一揆を鎮圧し、吉継も大いに感嘆したという。(大谷吉継此軍謀ヲ感シケル)

そして後日、上杉勢の在陣する大森城へ吉継を招くと、景勝曰く
「こないだの一揆起きた件、あれな、思うにやり方が手ぬるいせいじゃないの?
 このままにしとくとまた絶対似たようなこと起きるよ。
 というわけで、武士だけといわず商人から百姓まで、分け隔て無く人質を取るのがいいと思うんだけどどう?」
(頃日川津良 山田 益田等一揆ノ蜂起 想フニ号令ノ軽キ故ナルヘシ
 後日ニ至テモ如何有ヘシ 然ラハ諸士 商客 百姓等マテ差出タル者トモヨリ証人ヲ出サスヘシ)

これには吉継も同意し、4歳から65歳までの老若男女、実に20人を超える人質を得、
大森の周辺に番人を置いて見張らせた。
以降、さしたる騒動もなく出羽仙北の仕置は滞りなく完了したという。
(出典:景勝公御年譜)

二代目さんはさすが伊達に領内で何年も苦労してないなと思わせる話。
この辺の記述は一揆やら検地やらでてんてこ舞いのはずなのに、妙にほのぼのしてて和むw
943人間七七四年:2010/05/15(土) 02:32:38 ID:EUKW/W+r
武士商人百姓老若男女あわせて20人って
少ないな…と感じるのは感覚が麻痺してるんだろうか。
944人間七七四年:2010/05/15(土) 02:44:12 ID:2PQE5YSW
鮭様と下美作(しも みまさか)

慶長出羽合戦後、志村光安の計らいによって上杉旧臣・酒田大川の下吉忠が
最上幕下に加わった。
吉忠の従兄弟の下美作もその一人。
ただ、美作は内心志駄義秀と量り、越後・米沢へ帰りたかった様である。

中野陣屋で義光は下吉忠と面会したが、その席には美作も同席した。

義光「今回は最上家入りを了していただいて感謝しております。
酒田に関しては今は貴方の方がお詳しいでしょうから
まずは兵2000と兵糧、それに楯岡と志村もお使いください。
まずは家禄で5000石、いずれは1万石で大川城代の職を見ては頂けないでしょうか?」

内心義光を「謀将、敵将」としてしか見ていなかった下一族はこの義光の一言に涙を落として
感動したという。

下一族は庄内の上杉旧臣を交渉、戦闘によって平定し、
下吉忠は大川城持ち、下美作も数千石を領し最上家の為に尽くしたという。

「余目余記」最上傘下の下美作の項には「下美作被贈鮭」(下美作鮭を贈られる?)の文がある事より
最上色にどっぷり?漬かったことが受け止められる。
945人間七七四年:2010/05/15(土) 03:17:57 ID:5qziDoic
吉継くんでもヘマするんだ〜 ってのが一番の感想なんだがw
946人間七七四年:2010/05/15(土) 03:47:43 ID:KSiGjJLq
>>944
こいつも鮭か!!鮭ネタにホント事欠かないね最上は
947人間七七四年:2010/05/15(土) 04:56:38 ID:HSGfVX0n
突撃!最上の朝御飯!!

慶長出羽合戦、直江軍と対峙していた時の鮭様のご飯の内訳

・白米
・豆
・香枝
・胡桃
・松
・栗
・柿

白米は消化が良いから
他は豆(マメ=元気)に香枝(かえって)胡桃(来る身)松(待つ)
勝ち栗
勝ち=柿を掛けたらしい。

鮭?
今回はちょっと見つからなかったorz
948:2010/05/15(土) 05:56:56 ID:HSGfVX0n
歴史の寄り道

最上軍の戦力は?

慶長出羽合戦で現在考証されている兵力は
直江軍18000〜25000
最上軍7000(内2000は小野寺勢と対抗)
伊達軍3000
くらいではないかと言われている。

ただし最上軍5000の内
畑谷城350
長谷堂1000と推定されているため
最上義光直参は約3500余

伊達の援軍は終始小白川(現在の山形大学〜山形南高付近)で
眺望していた為に実際の
上杉と最上の兵力差は少なく見積もっても約4対1

最上家には火縄銃2000があり、その大半を長谷堂に運び込み、
最上流(日置流へぎりゅう?)鉄砲術(一人が打ち、
後方何人かが撃った人間に弾込めの終わった銃を渡していくという
変則的三段撃ちの様な形態)を採っていたといわれる。

関ヶ原の敗戦で撤退する直江軍を最上軍は殲滅出来なかったと
言われるが、1人で4人を相手取る様な戦いに殲滅戦を行えるはずもなく、
半日で十数回、数Kmの範囲に渡る大激戦が繰り広げられた。

政宗に「最上の兵が弱すぎて」と手紙にも残される戦いだが
最上側では「味方の戦死者623人敵の戦死者1580人」
上杉側は「敵の戦死者2100余り」とするこの戦いの元の兵力さも考えてほしい。
949人間七七四年:2010/05/15(土) 07:03:09 ID:rctcm5mW
寄り道っていうかスレチだわな
950人間七七四年:2010/05/15(土) 09:05:24 ID:oNCzHPjV
>>941
これって、力士の像を脅迫した悪い話の気が…
951土井利勝:2010/05/15(土) 12:48:51 ID:WvQmC/3f
「人物はよほど親しくならないと分かるものではない。
玄関で見た来客をたいしたことはないと思っても、書院でじっくり話すと見直すことがある。
その時に見直さなかったとしても、居間で話をしてハッとさせられることだってある。
つまり、人間は少しの印象だけで判断できるものではない。

……とはいえ、やはり玄関先の印象を良くすることが一番大事なことだ。
玄関先から書院に通して話す人など十人中、四人か三人、居間ともなれば一人いるかどうか。
見直されるような人物でも玄関で終わっては意味がなかろう?特に若者は心に留めるがよい。」
952人間七七四年:2010/05/15(土) 13:15:03 ID:/n6j8nFy
至言だ
953人間七七四年:2010/05/15(土) 15:38:09 ID:Z4aPjvNI
>>950
娘を思う良い話とも
954人間七七四年:2010/05/15(土) 15:55:07 ID:Z4aPjvNI
>>951
鮭延秀綱「若者でないのですが、預かり身のワタクシは?」
955人間七七四年:2010/05/15(土) 19:08:40 ID:Jz9RsHjR
>>951
お〜、オレもこう思ってるんだよ。
よくさ、人は見かけだけで判断するもんじゃないっていうけど
見かけでもよく見られたほうがいいわけじゃん

オレはいつもそれをうまく説明できなかったんだけど
土井さんのこの言葉なら誰でも分かるな
さすがに歴史に名を残す人は違う
956人間七七四年:2010/05/15(土) 19:59:59 ID:WQrrrjwg
長谷堂城を攻めていた直江兼続の軍が、関ヶ原での西軍の敗北を聞き撤退を開始。その時のことである。

上杉景勝家臣の小田部大学という者が直江兼続に向かい
「直江殿、私は伊達政宗の家臣、石川弥兵衛に言いたいことがあるので、少々陣を離れても宜しいでしょうか?」

これに兼続
「なんだか良く解らんが、何か考えがあるのだろう。まあ、良いだろう。」と許可した。
小田部は大いに喜び、門田と言う所までただ一騎駆け帰り、伊達軍の旗の見えるところまで来ると馬を止め、
大声で呼びかけた

「私は上杉景勝の郎党、小田部大学というものである!伊達殿のご家中である石川弥兵衛殿に対面したい事があって
ここに罷り来た!」

これを聞いて石川弥兵衛、これも一騎伊達軍の中から出てきた
「石川弥兵衛である!何事か!?」

「おお、石川殿か!私は今度の合戦での、お主の武勇の程に大いに感じ入った!
お互い知っての通り我らは撤退するが、次の合戦の時には是非相見えんと思い、ここに暇乞いに来た!」

石川、これを聞いて吹き出した
「あっはっはっは、上杉殿のご家中に武勇の士は多いと言っても、小田部殿の働きは特に目を驚かせていたので、
機会があればぜひ対面したと考えていたのだが、いやはや、はるばるここ迄、ただ一騎敵の中を帰ってくるとは、
まさしく日本無双の剛士である!」

「では、又会おう!」
「また、戦場で。」

そうして小田部は再び、上杉勢の元に戻って行ったと言う。

厳しい戦場における、勇者同士のエール交換であった。
957人間七七四年:2010/05/15(土) 21:08:40 ID:JVnlT+ew
一瞬、アッー展開かと思ったが、純粋にいい話だね
958人間七七四年:2010/05/15(土) 21:56:57 ID:J3S04hwy
互いにいつか手合わせする日を思い描いて(股間の)槍を扱くのであった
で、どうだ?>>957
959人間七七四年:2010/05/15(土) 22:38:32 ID:JVnlT+ew
無理やりしなくていいw
960人間七七四年:2010/05/15(土) 22:58:09 ID:+kJ9pxKT
地元民だが、「門田」の現在地名は「門伝」だと思う。
直江が登ったものの霧で山形城が見えなくて「こりゃ霞城だろ」って文句言った富神山の麓らへん。
上杉の陣がある菅沢山から直線で1.5kmくらいだが、当時の悪路ならもっとあるはず。
そこを単機駈けって小田部半端ないわ。
961人間七七四年:2010/05/15(土) 23:01:16 ID:WwPs8c76
>>956
「山形県史」「山形市史」「仙台市史」に慶長出羽合戦で
伊達勢が関ヶ原敗戦が分かるまで戦った表記は一つもなく
「静観」「傍観」していたまたは「笹谷から撤退する準備」や「折あらば上杉勢より先に山形城に侵入しようとしていた」といったものしか見受けられないんだが。
962人間七七四年:2010/05/15(土) 23:21:12 ID:WwPs8c76
>>956
『武辺咄聞書』第106話〜第110話
109酒井讃岐守忠勝家来杉原彦左衛門物語に、

政宗は前方に仙台を出、国見峠を越し、信夫郡瀬の上の川を渡り、小山に陣城を構へ被居候に付、四月廿六日の曙に二万計にて小山打立。但柴田小平治・中目大学・石川弥兵衛等五千を分け、簗川の城を押へ、政宗は一万五千にて松川へ取掛る。

山形じゃないんじゃないか?
963人間七七四年:2010/05/15(土) 23:37:45 ID:9kreQnm0
>折あらば上杉勢より先に山形城に侵入しようとしていた

信長の野望で援軍頼まれた時は、常にこれ狙ってやってたw
964962:2010/05/15(土) 23:44:48 ID:WwPs8c76
すまん、中身見てなかった
962は奥州仕置きだ。

でも柏倉門伝から留守軍居留地(小白川)まで山形城の二の丸南側突っ切るし、
軍の配置的にも距離的にも無理な気がする。
965人間七七四年:2010/05/16(日) 00:04:14 ID:HebH+NWn
ID:WwPs8c76

【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
966人間七七四年:2010/05/16(日) 14:05:58 ID:EUKL1v67
「…オレはありがたい事に、名君・義久公の実弟として生まれ、ガキの頃に自分から進んで戦場に身を置いた。
(予、辱(かたじけな)くも義久公之舎弟と為り、少之時自ずから身を弓箭之事に委ねる。)

わが島津家が、始めは周囲の国を懐柔してきたが、後に関係が危うくなり、他家と対峙せざるを得なかったからだ。
主命を奉じてからは、幾度も危険な山野を駆け抜け、数十年の間、まともな屋根のある家で休む事は少なかった。

おかげで東に戦い、西を討ち、日本国中を甲冑を着て巡り、ついには数年間、朝鮮にまで足を運んだ。
しかし、そうしてオレが敵を斬り、功を立てた事により、今の世に及び天下泰平、国家安寧の時を迎えたのは、
オレにとって実に生前の本懐、死後の名誉ではある。」



島津惟新入道義弘、「鬼石曼子」と呼ばれた猛将晩年の、自信に満ちた独白である。
967人間七七四年:2010/05/16(日) 14:34:41 ID:Whm/VX48
辞世の句はなんか寂しいのになぁ
968人間七七四年:2010/05/16(日) 21:03:20 ID:hUh25fK5
中村一氏は秀吉の最も古くからの家臣の一人であり、様々な戦いに参加し、武功を挙げてきた。
小牧長久手の戦いの際に雑賀・根来衆の一揆から岸和田城を守り抜いた功により、翌年には近江水口城主となり、従五位下式部少輔に叙任される。

一氏は秀吉の家臣団の中でも、とくに武勇に優れた人としてその名を知られていた。
賤ヶ岳七本槍の一人・加藤嘉明などは、一氏の武勇にあやかりたいと思って、息子の明成を式部少輔にしたほどであった。


しかし、式部少輔を受け継いだ加藤明成という人物は、どうにも評判が良くない人物であった。
家臣団と対立し、度重なる城郭改築からくる財政難のために圧制を敷き、民から金を巻き上げていった。

それもただ金銀を集めるのではなく、彼が集めたのは一分金ばかりであった。
人々は官名の式部少輔に引っ掛けて、加藤一分殿と揶揄したという。



式部少輔にまつわる、中村一氏のいい話と加藤明成の悪い話。
969人間七七四年:2010/05/16(日) 22:34:10 ID:InM/dQp8
『旧悪』

年末・・・

「秀忠さま、年末ですし○○に一時米でも賜れてはいかがでしょう」
○○とは徳川秀忠の近臣で、罪あって禁固処分を受け、許された者だった。

「何を言うか。一時米なんて言わずに旧禄の通りにせよ。処分が済んだ以上、奴の罪は消えている」
秀忠の一言で○○は没収された本領を返された。
970人間七七四年:2010/05/17(月) 11:55:58 ID:psMffXJB
秀忠信賞必罰徹底してんなー。
罰を受けたらそれでもう終わり!とまではなかなか言えん。

汚点でどうのとかそういう考え方ないのはすばらしい
971人間七七四年:2010/05/17(月) 16:12:56 ID:Wd8fOo9W
売りサイン出たなう。1.2312S
972人間七七四年:2010/05/17(月) 16:14:14 ID:Wd8fOo9W
すまん誤爆・・
973人間七七四年:2010/05/17(月) 16:16:57 ID:oERtTxGs
秀忠は乱世なら凡庸な君主で終わっただろうけど
凡人では到底及ぶことのできない何かを持っている。
家康の後いきなり家光だったら徳川家やばかったんじゃないか?
974人間七七四年:2010/05/17(月) 17:41:07 ID:gsvWZv3p
土井や智恵伊豆などがいてもダメか?
975人間七七四年:2010/05/17(月) 18:03:56 ID:audqh4y4
そろそろ次スレ立ててみる
976人間七七四年:2010/05/17(月) 18:06:47 ID:audqh4y4
ダメだった。誰か頼みます

↓スレタイ

戦国ちょっといい話20

↓テンプレ

戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話19
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1269393777/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話19
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1270721428/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
977人間七七四年:2010/05/17(月) 18:09:56 ID:HohRl8kQ
じゃあ、立ててみるよ
978人間七七四年:2010/05/17(月) 18:11:54 ID:HohRl8kQ
うわ、俺もダメだった。誰か頼んだー
979人間七七四年:2010/05/17(月) 18:15:18 ID:MNzX+Pxz
では某が
980人間七七四年:2010/05/17(月) 18:18:03 ID:MNzX+Pxz
立ち申した

http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1274087812/

当スレを消費後にお使いくだされ
981人間七七四年:2010/05/17(月) 18:36:09 ID:QiygHxhx
>>980
忠孝、大儀である
982人間七七四年:2010/05/17(月) 18:41:26 ID:psMffXJB
>>980
天晴れなスレ立てである。
卒のない仕事振り大いに感じ入った

ささ備前より取り寄せた茶を一服…
983人間七七四年:2010/05/17(月) 18:52:24 ID:KHzDgzAH
いや、>>980殿
何とも見事なスレ立てで
まこと感服つかまつりました
備前殿の茶もよろしいが

こちらに東国より取り寄せた鮭もございますぞ
984人間七七四年:2010/05/17(月) 19:11:44 ID:audqh4y4
>>980
乙です。埋め替わりに

永禄11年(1568)、毛利元就に通じた立花城主、立花鑑載による大友宗麟への二度目の反乱は
戸次道雪らの活躍により鎮圧。降伏した立花鑑載は処刑された。

さて、その首を宗麟が実検したときのこと、鑑載の首は宗麟の前に出されるととたんに目を見開き、
宗麟を睨みつけたのだ。
しかしこの時宗麟は慌てず、こんな歌を詠んだ

『立花は 昔をとこになりにけり うひかふり(初冠)する心地こそすれ』

意味は「立花鑑載よ、こうして対面して私は、昔お前が元服して、初めて冠を被った時を思い出す。
その時の気持ちがよみがえるようだ。」と言うことであろうか。

これを詠むと、とたんに鑑載の首は動き出し、再び目を閉じた、との事である。
985人間七七四年:2010/05/17(月) 19:15:55 ID:UGL5nTc7
>>984
宗麟は和歌の腕は一級品だよな
キチガイだけど
986人間七七四年:2010/05/17(月) 20:26:45 ID:xdSlzRtG
久々に鮭ネタが出ていたので、埋め替わりの動画紹介
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10610664

この動画、このスレ覗いてるやつが作っただろ
987人間七七四年:2010/05/17(月) 20:44:55 ID:jOWnqalp
>>986
こwれwはwww
988人間七七四年:2010/05/17(月) 22:19:44 ID:8yHZonb5
いい話だ

織田信孝は1582年に四国征伐の総司令官に任ぜられ、織田氏の宿老・丹羽長秀や従兄弟の津田信澄らを付される。
堺にて渡海の準備の最中に本能寺の変が勃発。
しかも逃亡兵が相次いだため、積極的な行動はできず、
従兄弟の津田信澄を殺害した程度である。
その後摂津国富田で「中国大返し」後の羽柴秀吉軍に合流、名目上は総大将として山崎の戦いに参戦し、仇である明智光秀を撃破した。

清洲会議では信長の弔い合戦の総大将であったにも関わらず、その存在は羽柴秀吉によって無視され、
織田氏の後継者は信孝の甥の三法師に決定し、信孝は三法師の後見役として兄・信忠の領地であった美濃国を与えられる。
その後、織田氏宿老格の柴田勝家・滝川一益らと結び、
同年12月、三法師を擁して秀吉に対して挙兵する。
しかしこの挙兵は秀吉の迅速な行動によって降伏せざるを得なくなり、降伏して人質を出し、三法師を秀吉に引き渡した。

翌、1583年、賤ヶ岳の戦いが起きると、信孝は再度挙兵する。
しかし同年4月に居城の岐阜城を包囲され、頼みの柴田勝家も北ノ庄城で自害すると開城して降伏した。
信孝は尾張国知多郡野間(愛知県美浜町)の大御堂寺(野間大坊、平安時代末に源義朝が暗殺された場所)
に送られ、迫られて自害した。享年26。命日は4月29日(西暦6月19日)と5月2日(6月21日)の二説がある。

辞世の句は「昔より 主を内海の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」(「内海」を「討つ身」とかけている。
信孝の秀吉への激しい怒りが感じられる句となっている)。
この辞世が現実のものとなるのは、それから32年後のことであった。
989人間七七四年:2010/05/17(月) 22:42:11 ID:T4zJhiYo
>>986
おまけが難易度高すぎるだろ・・・w
990人間七七四年:2010/05/18(火) 00:05:19 ID:n9GgBHUx
>>984
伊勢物語にひっかけてあるんだね
「昔をとこ」は伊勢物語の常套句だし、「初冠」は最初の章の話題だし
立花、お前も最初はあんないい男だったじゃん、てことなのか
991人間七七四年:2010/05/18(火) 00:08:22 ID:bo2SKpDY
>>973
なんとなくだけど、家康の後、すぐ家光だったら、
家光の代は大丈夫でもその次がヤバくなりそうな気がする。
992人間七七四年:2010/05/18(火) 00:17:58 ID:BXJX2/Bd
家光はいかにも戦争を知らないナチュラルボーン将軍だから、二代目はあり得ないんじゃないかなあ
993人間七七四年:2010/05/18(火) 00:20:11 ID:Gyf7WKsp
家康のあと、信康や秀康でもなんか秀忠のようにうまくいったとは思えない。
994人間七七四年:2010/05/18(火) 00:23:21 ID:8S03LsYD
大坂の陣まではその分家康が苦労することになったけどねw
995人間七七四年:2010/05/18(火) 08:13:48 ID:iwHeB8Gr
現代の企業訓における初代が創業、二代が守成云々は徳川幕府を意識してるんだし
逸話的にはともかくトータルでは評価されてる人物だと思う>秀忠
996人間七七四年:2010/05/18(火) 09:32:40 ID:7ka7HR3N
>>988
ごめん。
どの辺が「いい話」で、どの辺が「逸話」なんだ?
ただ織田信孝の概略を書いているだけじゃねーか。
997人間七七四年:2010/05/18(火) 10:32:17 ID:H6s7wqlo
疑心暗鬼に陥って娘婿という理由だけで、有能な信澄を殺してしまった上に
知性の欠片も感じられない辞世の句を残したことにされた悪い話ですね分かります
998人間七七四年:2010/05/18(火) 10:50:05 ID:5j5bImY6
>>995
徳川幕府は日本の組織史上でも最高の成功例だからね。

>>996
その人いつもそんなのばっかり投稿してる人。スルーした方がいいよ。
999人間七七四年:2010/05/18(火) 15:33:42 ID:zBtyv3Ar
辞世の句関連で秀吉への復讐が果たせたよ!という文をわざわざ探してきたのに、ふざけたこと書かれてむかついた
1000人間七七四年:2010/05/18(火) 15:35:18 ID:zBtyv3Ar
久々に真剣に腹が立ったので、サイトから無断転載しまくって逸話を全部なくしてスレ終了させる
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