【まじ】長可が長久手から生還してきたら【迷惑】

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1人間七七四年
みんな涙目W
2人間七七四年:2010/02/01(月) 13:21:39 ID:N5y1+lSC
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                                            糸冬
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                                        制作・著作 NHK
3人間七七四年:2010/02/01(月) 19:04:27 ID:U0XUmKBw
ゆとり
4人間七七四年:2010/02/02(火) 22:29:51 ID:Glq4G5gT
家康の屋敷に逃げ込んだ三成を問答無用で切り捨てる長可
関ヶ原の戦いは起きませんでした
5人間七七四年:2010/02/02(火) 22:58:25 ID:uOXdkGaI
その前に秀吉に臣従の挨拶に上洛した家康を問答無用にバッサリ
6人間七七四年:2010/02/02(火) 23:57:13 ID:evygZQqC
( ゚∀゚)<ホント美濃金山は地獄だぜ!フゥハハハー
7人間七七四年:2010/02/03(水) 15:37:06 ID:Rr9adQV0
足を引っ張った秀次をバッサリ
詰問に来た秀長をバッサリ
その勢いで秀吉をバッサリ
8人間七七四年:2010/02/03(水) 17:09:47 ID:2BqJC5lV
そして最期は自分もバッサリ
日本列島は大きな無人島になった
9人間七七四年:2010/02/04(木) 23:26:46 ID:lOOuDLnT
朝鮮半島もバッサリ 
これが原因で北朝鮮と韓国に分断されることになる
10人間七七四年:2010/02/05(金) 15:52:32 ID:DYnODQ0O
まず小平太と万千代に雪辱出来るかどうか
11人間七七四年:2010/02/05(金) 19:48:41 ID:1e7/antH
何年か前に万博いったんだけど長久手はとにかく長くて道に迷った
12人間七七四年:2010/02/05(金) 23:25:55 ID:nu3tEFiT
負ければ生きて帰らないと決めてたらしいので生還=羽柴軍圧勝
13人間七七四年:2010/02/10(水) 18:48:56 ID:qliYuZUh
小田原の陣に遅刻した政宗を問答無用でバッサリw
14人間七七四年:2010/02/10(水) 20:56:59 ID:hvfepaOq
蒲生氏郷をバッサリ→未亡人になった冬姫を秀吉がGET→謎の加増を受ける
15人間七七四年:2010/02/12(金) 17:57:44 ID:NOTbQyqq
そして、池田と組んで天下をバッサリ。
16人間七七四年:2010/02/12(金) 22:07:49 ID:iT8chz7z
日本中に禍々しい地名が増えるのは確実
17人間七七四年:2010/03/05(金) 21:39:29 ID:f2C+wa4z
森将軍誕生
18す@死:2010/03/05(金) 21:59:05 ID:PLctBMGY
小牧長久手で死ぬとはな
兵力9000VS9000の勝負に参戦する必要あったのかと
伊賀攻略の蒲生が生き残り前線投入された池田・森が討ち死に
小田原の役のような当たり前の勝ち戦には乗るべきでも
ほぼ互角の戦いに参戦する必要があったのかと
しかも相手は家康だぞ
池田・森は軽率だったな
19人間七七四年:2010/03/05(金) 22:06:27 ID:nSVe5md8
>相手は家康だぞ
当時そんな実力あることがわかってたらいいな
姉川やなんやでわかってたのかもしれんが
20人間七七四年:2010/03/05(金) 22:25:26 ID:vZUR1baG
甫庵太閤記の、小瀬甫庵による森長可の討死に関する馬鹿にしっぷりは必見。

「あいつが鬼なんて呼ばれたのはマジで強かった父親にそっくりだったせいだよ。
それ以外の理由なんて皆無!!
だいたい小牧長久手までまともに強い敵と戦ったことなんて無かったんだから。
で、強い敵とあたったらほら馬脚表わしただろ?ザマァプップギャーッ!!m9゚。(^Д^゚≡。゚^Д^)m9゚。プップギャ-ッ!!」

ホントにこんな感じ。長可になにか恨みでもあったんだろうかw
21奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/03/05(金) 23:02:55 ID:617hiDaB
一部の2ちゃんねらみたいな奴だな。
22人間七七四年:2010/03/05(金) 23:35:10 ID:Z2/QNi+H
>>20
太田牛一は信長公記でわざわざ「信州川中島表、森勝蔵働きの事」なんて項目作って活躍を書いてるのでそれをむしろバカにしたかったのかも


それか長可に甫庵が直接不快な思いをさせられたか。
23す@死:2010/03/06(土) 00:53:10 ID:tVld6AwS
>>19
小牧長久手当時にもう5カ国の太守だったんでしょ?
三河、遠州、駿河+信濃、甲斐の
やばい相手だってのは分かってたでしょう
兵力で圧倒するならまだしも
9000VS9000の勝負じゃなぁ
24人間七七四年:2010/03/06(土) 12:36:37 ID:/VaBdioT
政宗あたりなんか絶対殺られてそうだなw
25人間七七四年:2010/03/06(土) 12:52:38 ID:nstjb/aH
扇動した疑いのある政宗をバッサリ
ついでに氏郷までバッサリ
これが氏郷早死にの真相である
26人間七七四年:2010/03/07(日) 16:13:52 ID:OC1vMgDi
長可と仲が良かった武将っているの?
27人間七七四年:2010/03/07(日) 17:48:07 ID:aHxWa1vS
>>26
池田恒興。娘を嫁がせるほどに。
28人間七七四年:2010/03/09(火) 14:42:28 ID:bvH2HwkU
もし、この戦いに秀吉軍が勝っていたら、返ってやっかいなことになっただろうなあ。
その辺の家康は空気が読めるから、勝入、武蔵よりは組しやすい。
29人間七七四年:2010/04/08(木) 09:28:38 ID:bTkkpSOO
長久手合戦後、池田森連合と、羽柴、徳川の三つ巴の争いになりそうだ。
30人間七七四年:2010/04/08(木) 10:08:23 ID:Asxi/GsF
誰か>>11のボケに突っ込みいれてやってください
31人間七七四年:2010/04/09(金) 00:23:21 ID:NOTbQyqq
>>11
つまんね。
って言うか全然気にならなかった・・・
32人間七七四年:2010/04/23(金) 18:20:27 ID:YROamwrT
>>27

他にいるのか?
33人間七七四年:2010/04/23(金) 20:17:09 ID:Q7D3I8Rg
何だこのスレ
34人間七七四年:2010/04/28(水) 07:51:45 ID:Ty653CJr
池田森連合は尾張美濃を要求してたからな。池田は建前上は秀吉と同格だったし、
成功してたら奴らの力が多きくなり過ぎて、家康以上に面倒になってた可能性も高い。
家康は一旦懐柔して味方にすれば頼りになるけど、池田・森連合は味方でも油断できないからな。
別方面の伊勢戦線はそつなく制圧してただけに、ぶっちゃけ中入りなのにチンドン騒ぎ起こして家康に捕捉させたのって
秀吉の謀略だったのかと思うほど。
堀の兵力があれば優位に立てたはずなのにQ太郎は家康の先鋒をつぶした後、池田・森を見捨ててさっさと引き上げてるし。
35人間七七四年:2010/04/29(木) 03:48:14 ID:EU5iShNG
森は匹夫の勇の典型なんでむしろあの時点まで生きていたのが奇跡
36人間七七四年:2010/04/29(木) 04:25:46 ID:huWrzICV
むしろ先頭切って突撃するので有名な武将って何故かほとんど死んでないんでわ。
後藤又兵衛に、黒田勢の先駆けの50人位を鉄砲で打ち倒せばその中にいるはずだといわれた黒田長政とか、
うちの兵は先頭を駆ける鯰尾の兜の将を討ち取らせないために働くんだぞってリクルートした奴に語った蒲生氏郷とか。
37人間七七四年:2010/05/05(水) 03:05:58 ID:tjT4N59y
森長可は長久手戦時白い目立つ衣装を着て馬上にて
狙撃されたって言うのは本当ですか?
38人間七七四年:2010/11/05(金) 09:11:31 ID:k95o1/A/
武将が目立つ衣装を着てるのは当たり前だwww
39人間七七四年:2010/11/06(土) 12:13:13 ID:pufe19pQ
戦死しなかったら忠政と2人で豊臣政権の重鎮だっただろうなあ
生き残るための嗅覚は鋭そうなので関ヶ原ではあっさり家康について、お家安泰
そして桃を食って死ぬ
40人間七七四年:2010/11/10(水) 22:03:26 ID:R7fP9dTV
まぁ弟共々三成を激怒させるのは確か
41人間七七四年:2010/11/12(金) 22:00:18 ID:Idu2olxC
もし長可&池田が生きてたら三成程度が激怒してもどーってことないだろ
つーか豊臣政権内で権力分散されて豊臣の世がもっと続いたかもしれんし
42人間七七四年:2010/11/23(火) 12:33:19 ID:36pTtG8Y
森長可と水野勝成とではどっちが強いの?
43人間七七四年:2010/11/23(火) 13:14:32 ID:1C21UKU1
>>42
武将としての実績なら

森>>>水野

大名としての実績なら

水野>>>>>>>>>>森

個人の武勇ならおそらくは

水野>森
44人間七七四年:2010/11/23(火) 23:34:34 ID:4g4dhxrz
>>20
 可成パパは、イケメンで有名だったんでしょ?
 てことは、鬼武蔵もイケメン?
45人間七七四年:2010/11/23(火) 23:37:19 ID:1C21UKU1
>>44
イケメンかどうかは君の判断に任せる

森可成肖像
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e5/Mori_yoshinari.jpg/466px-Mori_yoshinari.jpg
46人間七七四年:2011/09/01(木) 01:17:24.00 ID:fDz0FXBW
3cmぐらいのおっさんに見える
47人間七七四年:2011/10/29(土) 01:04:20.00 ID:K33euxZ9
>>42-43
どっちも評価するに値しない凡将でFA
48人間七七四年:2011/10/30(日) 00:08:51.10 ID:A9h6mqmi
生きていたら美濃40万石くらいは貰ってたかな?
49人間七七四年:2011/10/30(日) 00:44:57.22 ID:0JdvfeNw
池田勝入、森武蔵の戦死により、羽柴の威光は地に落ちました
50人間七七四年:2011/10/30(日) 05:28:01.01 ID:HprkFjV7
森は天下取ってただろうね。
51人間七七四年:2011/10/30(日) 07:27:25.57 ID:xs9Mt3DT
関ヶ原では松尾山で戦いを観戦し、タイミングを見計らって西軍に攻撃
三成を打ち取る
そして戦後は豊臣への背信を理由に家康を切って棄てて天下を握るよ
52:2011/10/30(日) 08:33:55.35 ID:jwURf1/6
戦上手とは思えん、荒くれ者だったんだろうけど
挟み撃ちにされるとは間抜けな奴だ
53人間七七四年:2011/10/30(日) 09:02:26.84 ID:JRbKNXSe
生き残ってたら
暴れまわってたら功とされた時代の終焉を悟って、とっとと出家したんじゃね?
一端の士の家で生まれ育ってんだから、自分が受け入れられる時代じゃないくらい分かるだろうし

ひょっとして、死ぬ積もりだったから、家老格を全員置いていったとか?
54人間七七四年:2012/03/27(火) 05:21:57.43 ID:H8nOvPfq
年取ったら人間丸くなるタイプだと思う。
55人間七七四年:2013/03/30(土) 00:38:19.38 ID:j1v0vuMn
とんでもない武勇伝を残してただろうな
56人間七七四年:2013/03/30(土) 01:15:32.27 ID:1GlWCEH9
酔虎伝で1人帰れま10やったり……
57人間七七四年:2013/03/31(日) 15:55:59.91 ID:PgLlQYBN
皆して頭抱えて「うわぁあああああああああ」とか言ってそうだな・・・
58人間七七四年:2013/03/31(日) 16:24:58.40 ID:2DnA1XaP
鬼武蔵の容姿のわかる記述って残ってないの?
先のとーちゃんに似てるって事柄くらいなのか
59人間七七四年:2013/04/01(月) 01:20:05.56 ID:jVR6AuLX
>>58
史料はないなあ。あの伝森長可像くらいしか。
60人間七七四年:2013/04/02(火) 00:14:16.64 ID:9YlaqtE+
両軍から鉄砲の雨あられ。眉間撃ち抜かれて戦後

秀頼「父上、安心して御眠りあれ」歓喜号泣

家康「今度こそ死んだんだよな?」歓喜脱糞

三成「せめてもの喜び」歓喜斬首

金吾「うわあああ鬼武蔵が枕元に!」恐怖乱心で死去
61人間七七四年:2013/04/02(火) 17:22:42.31 ID:eBpTyapc
森家的には秀吉と戦う方向に行くんじゃないかねー
長可とかマジでやりそう
まず池田と仲悪くなって池田頃して吸収、第2形態になる
その後家康と組んで秀吉と戦うけどうやむやになって
北条殺したいということで小田原攻めには押しかける
62人間七七四年:2013/04/29(月) 10:38:28.30 ID:z/bqy2zw
50まで生きてたら戦国を代表する狂人としてメジャーな武将になってただろう
63人間七七四年:2013/04/29(月) 11:41:30.31 ID:GtZ1w7zh
前田利家だって若いころは長可みたいなキャラだったしむしろ名君になってたと思う
64人間七七四年:2013/04/29(月) 11:47:34.74 ID:ukYIsDT2
統治能力は割りとあったんじゃないか?
戦争中は狂うもんだよ
65人間七七四年:2013/04/29(月) 16:22:16.58 ID:PCTd38X5
20代だし逸話は若気の至りってことだろ
……無理あるか
66人間七七四年:2013/05/16(木) 19:40:09.92 ID:qC3CClkJ
秀吉にすれば森・池田が死んでくれて万々歳だったろうなあ。
清洲会議で政略の際に同格の織田家宿老まで引き上げちゃった上に摂津まで領するようになって
力与え過ぎた池田は使いにくくって仕方ないし、遠ざけるために美濃に領地くれてやったら稲葉一鉄と喧嘩始める始末。
そしてその池田に忠実な狂犬森長可。丹羽家みたいな後跡問題も無いから潰すに潰せない。
当面上の敵の信雄降伏させて作戦は成功してるし、池田・森は勝手に死ぬしで秀吉は笑い止まらなかったろ。
67人間七七四年:2013/05/16(木) 20:43:40.28 ID:B4ZcQETV
相かわらず馬鹿だな。池田より地位が上の丹羽ですら下記のように完全に秀吉に屈服状態だってのに
丹羽はさっさと秀吉に従属。長久手でも長重派遣&後から自身も尾張出兵

丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。

二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。

池田・森も秀吉が伊勢に侵攻するや否やさっさと秀吉に従属
追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている

さらに宇喜多も援軍を秀吉の要請に応えて尾張に派遣し上杉・木曽・河野・十河、
信包・神戸ら南伊勢諸将も従属。石川もこの頃から秀吉に離反しかけているのが徳川方史料でわかる

小牧長久手では尾張転進時の兵力10万に加え、伊勢方面軍2万4千に岐阜後詰6千で総勢13万もの圧倒的大軍を動因している
68人間七七四年:2013/05/16(木) 20:52:26.49 ID:GxDVR+ye
池田や森が秀吉方に付かなかったら秀吉は木曽川ライン超えることも叶わず一生伊勢筋の小城郭で苦戦して
信雄は秀吉方に史実以上の大打撃を与えていたのは間違いない
何せ史実では伊勢方面に大軍で出兵してきた秀吉に対応するため、家康・信雄とも総軍伊勢口に兵力集中させててら
味方につくと思ってた池田・森が秀吉方について居留守泥棒的に犬山・楽田方面への上陸成功(北尾張の佐久間正勝らは総じて
伊勢に出兵しており尾張は留守状態だった)この流れで伊勢方面の諸将に加えて信濃の木曽・尾張の石田毛利氏・毛利秀頼・松ノ木近辺の諸将と
秀吉方に寝返りがあいついで圧倒的勢いで信雄を圧倒すると思ったら小牧長久手で1万人戦死の大敗・その後も
松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ね、135000の規格外の大軍で
わずか16000〜7000の家康信雄領国をろくに切り取ることもできず、諦めて大阪に納馬しようと思ってたら本願寺顕如に必至に信雄への取り成し依頼してたのが
実って信雄がヘタレ和睦に応じただけだしな。そもそもこの和睦時点では信雄は人質なんて出してないし単に顕如使って必至に土下座してきた秀吉を
かわいそうに思って和議に応じてやっただけだし
69人間七七四年:2013/05/16(木) 20:57:12.94 ID:GxDVR+ye
清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。

二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。

あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。

正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。

秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因

当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、
ただ単純に手出し云々というより秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
70人間七七四年:2013/05/16(木) 20:58:23.01 ID:GxDVR+ye
追記するとして3/20秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない
71人間七七四年:2013/05/16(木) 21:03:51.43 ID:B4ZcQETV
天正12年秋の羽柴秀次折檻状で秀吉は散々「池田・森の二人が死んで不便だ。こんな失態繰り返すと親子の縁を切ってやる」とか自分の三河小幡方面への無謀な行軍計画失態を棚に上げて
うらみつらみ書き募ってるのに死んでよかったとか相当馬鹿だな
あの戦で大量の戦死者出して後、伊勢方面尾張方面美濃方面でも松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ねてる
(特に蟹江・前田・長久保・浜田あたりは秀吉方本陣とほど近くの距離なのにあっさり信雄に奪回されてる)
あんだけ規格外の兵力差がありながら膠着どころか劣勢に陥ってるのはそれだけあの敗戦のダメージが大きかった証拠。
信雄がもう少し気骨があり、顕如使った必至の取り成しを跳ね返してたら秀吉はどうしようもなかったろうな
72人間七七四年:2013/05/18(土) 00:41:15.03 ID:p0egBKWB
66さんの「笑いが止まらない」評価に同意。
67から71、同一人物の投稿に見えるが、内容が混乱、自己矛盾している。
一方で、秀吉が、池田、森を完全に支配下においたことを強調しながら、他方で、
池田、森が秀吉につかなければ、秀吉は大打撃を受けたといっている。
自分で、何を主張しているのか、わかっているのだろうか。
この部分だけを見ても、池田、森が、キャスティングボートを握っていたことが
分かる(別に、はじめからわかっていることだが)。
その池田、森の力を借りて勝利し、しかも、その戦過程で、池田、森が大手柄を
上げれば、どうなるのか。
より一層扱いにくい存在になることは間違いない。
陣営内の統制しきれない勢力は、ときに陣営外の敵以上に脅威であることは常識
だ。
秀吉は、賤ヶ岳合戦後、領地配分や安堵を実質行っていて、その限りでは陣営の
君主になっている。しかし、この時点では、まだ、力だけで、それを権威で包む
までには行っていない。そのため、力関係が変われば、陣営内での秀吉の位置も
急変する。
小牧の戦以降、全般的に、秀吉が、陣営内の力関係でも、権威獲得でも、どれだ
け優位になったのかを見れば、「笑いが止まらない」という評価は完全に同感で
きる。
なお、初期の長久手線が、小牧の陣の中心戦闘などという、その後の経過がなか
ったかのような小牧の闘い評価はそろそろ脱却すべきだ。
小牧の陣での一大中心局面は、尾張西部の加賀野井城と竹の鼻城落城にある。加
賀野井城では、伊勢北部の敗北で逃げてきた信雄方武将の多くが討ち取られた。
加賀野井城、竹の鼻城落城によって、西尾張を秀吉方が制し、美濃―西尾張―伊
勢のつながった陣営を秀吉方が確保した(当時も、この戦を中心とする一般の受
け止めがあった)。そして、戦機関全体を通じた伊勢戦線全体での秀吉方の支配
地拡大が、この戦の半分以上の重要な位置を占めている。
自分は秀吉を好きではないし(好き嫌いにそれほど比重を置いていないが)、ア
ンチ家康でもない。しかし、「神君」の勝利を中心に据えるあまりにグロテスク
な「小牧・長久手戦」史観のゆがんだ通説は何とかならないものかと思う。
73人間七七四年:2013/05/18(土) 12:09:19.61 ID:4oqxfhcz
>>67から71、同一人物の投稿に見えるが、内容が混乱、自己矛盾している一方で、秀吉が、池田、森を完全に支配下においたことを強調しながら他方で池田、森が秀吉につかなければ、秀吉は大打撃を受けたといっている。
どこが矛盾してるんだよボケ
>>自分で、何を主張しているのか、わかっているのだろうか。
お前の事だろうがアホ「
>>この部分だけを見ても、池田、森が、キャスティングボートを握っていたことが 分かる(別に、はじめからわかっていることだが)。
キャスティングボードってなんだよタコ
>>その池田、森の力を借りて勝利し、しかも、その戦過程で、池田、森が大手柄を 上げればより一層扱いにくい存在になることは間違いない。
なんでそうなるんだよボケ。池田森なんて完全に支配下だろ>>67>>70どこも扱いにくくなんてねーよハゲ
むしろ秀吉自身池田と森を戦死させてしまったことに深い罪悪心と後悔とをもってるのが大地様(池田の母)あて消息などでわかるし加賀野井城攻防は池田森の弔い合戦のつもりだとかいってるし
>>71のように秀次にも訓戒書でこんな事くりかえすなら親子の縁切るつもりだ。深く反省しろとか言ってるし相当痛い打撃だったというだけ
しかも規格外の兵力差がありながら池田森木下兄弟はじめ一万の大戦死者をもたらしたため
伊勢方面尾張方面美濃方面でも松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ねてる
(特に蟹江・前田・長久保・浜田あたりは秀吉方本陣とほど近くの距離なのにあっさり信雄に奪回されてる)
あんだけ規格外の兵力差がありながら膠着どころか劣勢に陥ってるのはそれだけあの敗戦のダメージが大きかった証拠。
信雄がもう少し気骨があり、顕如使った必至の取り成しを跳ね返してたら秀吉はどうしようもなかったろうな
>>陣営内の統制しきれない勢力は、ときに陣営外の敵以上に脅威であることは常識だ。
秀吉時代は統制しまくってるわけだが。今までの信長の与力制分国統治は秀吉の頃になると終りをつげ完全に軍閥化し直轄統治が始まってる
(小牧長久手の時とか完全に一人ひとりの武将に事細かに指示送ってるし陣立書という統制してない軍団では不可能な軍方式を採用している)
>>しかし、この時点では、まだ、力だけで、それを権威で包むまでには行っていない。そのため、力関係が変われば、陣営内での秀吉の位置も急変する。
とりあえずお前は馬鹿すぎるから>>67-71を読み直せ。清洲会議時点ですら池田より上の丹羽ですら秀吉とはっきり上下関係がみてとれるし池田森なんて秀吉にへつらいまくりなんだがw
>>小牧の戦以降、全般的に、秀吉が、陣営内の力関係でも、権威獲得でも、どれだけ優位になったのかを見れば
松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ね、135000の規格外の大軍で
わずか16000〜7000の家康信雄領国をろくに切り取ることもできず、諦めて大阪に納馬しようと思ってたら本願寺顕如に必至に信雄への取り成し依頼してたのが
実って信雄がヘタレ和睦に応じただけだしな。そもそもこの和睦時点では信雄は人質なんて出してないし単に顕如使って必至に土下座してきた秀吉を
かわいそうに思って和議に応じてやっただけだし
>>「笑いが止まらない」という評価は完全に同感できる。
妄想してんじゃねぇよボォケwwwww
>>なお、初期の長久手線が、小牧の陣の中心戦闘などという、その後の経過がなかったかのような小牧の闘い評価はそろそろ脱却すべきだ。
上記のように135000の秀吉に対し信雄家康16000〜7000でありながら格城郭で信雄家康に負けまくってる
>>小牧の陣での一大中心局面は、尾張西部の加賀野井城と竹の鼻城落城にある
加賀野井竹鼻なんて局地戦もいい所はねぇかw尾張の端っこの戦局には何も影響がない部分的な城を家康から見て川を渡った先にある家康からみて
後詰に飛び込むのが危険すぎる地域を規格外の兵力で攻めただけ。しかもその前には二重堀合戦で秀吉大敗してるし松ノ木・戸木・東駒野・河波と敗戦し、
長久保・前田・蟹江・浜田・神戸などは見事に奪回されてる
74人間七七四年:2013/05/18(土) 12:15:21.52 ID:4oqxfhcz
>>賀野井城では、伊勢北部の敗北で逃げてきた信雄方武将の多くが討ち取られた。
其れ秀吉方の佐竹宛書状とかのデタラメ誇大喧伝。秀吉が討ち取ったとされる大将格のうち三人を除いて生き残ってるし
その書状は佐竹宛にデタラメ戦果ばっか書いただけの糞軍記でしかない
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww
>>加賀野井城、竹の鼻城落城によって、西尾張を秀吉方が制し、美濃―西尾張―伊勢のつながった陣営を秀吉方が確保した(当時も、この戦を中心とする一般の受
加賀野井・竹鼻から南には信雄方拠点がまだたんまりあるんだが。松ノ木・浜田・蟹江・前田など。
>>け止めがあった)。そして、戦機関全体を通じた伊勢戦線全体での秀吉方の支配地拡大が、この戦の半分以上の重要な位置を占めている。
秀吉が優勢だったのは伊勢で神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めた三月の攻防だけだしな
不意打ち的に尾張上陸ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
>>「神君」の勝利を中心に据えるあまりにグロテスクな「小牧・長久手戦」史観のゆがんだ通説は何とかならないものかと思う。
お前はアンチ徳川のアホ堀の糞論文に洗脳されすぎだな。
基本的に朝廷は京を制圧している大名と積極的に関係を築こうとするからね
近世成立記の大規模戦争86ページ
信雄は、この時期にも天皇・公家衆と積極的な関係を構築していない
これは信雄自らが京都を制圧しておらず、安堵などを通じて公家衆に対する主従的な関係を構築していないからである
公家衆や門蹟衆としても京都の支配者は秀吉であり、公家社会の擁護者である秀吉との関係が重視された。
83ページ
公家社会の政治的構造は、基本的に京都を制圧する政権やその有力武将との良好な関係の構築を試みるが、対立する武家勢力にも様々な人脈に基づき
関係を構築しうる二重性を備えていた

京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれており
その他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦の痛手はひどかったんだろうね
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだからな
フロイスの日本史とかイエズス会年報とか秀吉のデタラメ誇大喧伝がそのまま事実かのように書いてる糞軍記でも秀吉方は1万人戦死したとしっかり書かれてるし
よほど痛い損害だったのだろうな
75人間七七四年:2013/05/18(土) 12:18:56.81 ID:4oqxfhcz
家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ
しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。
まあ毎度の事だけど
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ

○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太

また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
76人間七七四年:2013/05/18(土) 12:19:41.48 ID:4oqxfhcz
秀吉は元々あった対立関係利用して漁夫の利得ただけ。中身のないゴミ政権だからすぐにボロが露呈した。
信長に従い土下座外交してた氏政が秀吉に従わなかったのも秀吉の実力のなさを見抜いてたからだろうな
本能寺時点でも光秀が運良く信長を打ち逆賊の汚名被り毛利も運良く追撃せず
柴田戦でも運良く勝家が雪で動けないのを利用し勝家と勝豊の運よく不仲なのを利用し寝返らせ
運良く権力基盤が弱い信孝を攻め運良く稲葉を寝返らせてへタレ前田が運よく軍を引きやっと勝てただけ
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり
陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚。そういう優位な状況は秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。

長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、真田
石川の場合は秀吉の威信が強大になっていたのが大きく小笠原は石川が小笠原の人質もって逃げたから寝返った。
水野は元々外様だし石川と同じく秀吉の威信が高まりすぎたのが原因だろうな。
どれも秀吉が自力で作ったというより運よく強大な勢力を持てたのと元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ
よく秀吉は城攻めの達人とか人たらしの名人とか言われるがこれも間違い。どこの大名でも漁夫の利を狙うような芸当はやってるし
城攻めに関しても鮮やかと言われるのは対中国戦くらいだろう。しかも水攻めといい兵糧攻めといい時間や金ばかり無駄に浪費した下策でこんなもんは織田家が
経済的に圧倒的なものをもってるからなせる芸当。少数しか兵のいない忍城や竹ヶ鼻城、紀州の城を正攻法で瞬殺できないのは終わってる
77人間七七四年:2013/05/18(土) 12:19:57.41 ID:4oqxfhcz
正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から遅くとも敗戦翌々日の
11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる。織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場からある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しない
秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却。池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させて
いたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だとこれらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく
完全に秀吉の命通りという事だ。別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる。秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまった
のがすべての要因。兵力差6倍を生かし、小牧山周辺砦を陥落させるかあるいは龍泉寺方面の中入り部隊を増やし家康の動きにそなえる部隊を置きつつ家康方の後方拠点を
落とし、三河からの連絡を分断・孤立させる策にするかそれも無理ならそもそも尾張口を無理に突破する必要もなく、基盤の弱い伊勢でも支配の弱い信濃でもどこでもいい
結局11月になるまでだらだら戦い続いてるしな。木曽川筋のわずかな城を落としただけで南伊勢でも反撃くらい滝川が作ったチャンスも無駄にして権力基盤が弱い信雄領国
を荒らしまわってたら信雄がびびって降伏しただけだし
黒田官べえはきてる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。三月下旬に
黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。合戦時の陣立書にもはっきり名前がある。秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の
陣所に着陣してる(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)
松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる。伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、
日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。堀と長谷川は中入り組(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄、筒井滝川、多賀、池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、
堀尾、木村。この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」
と伝えているしその他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。丹羽長重も派遣されてる。信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。秀吉方は秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、
明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、
丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に
結集させてる。長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内。彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる
箕浦合戦なんて後世の捏造だしなあ。松下文書なんて元本も存在しない捏造文書だしはっきりいって中国戦線でも寡兵どころか織田の援軍&与力もらいまくってそれですら
三木で2年も費やしたんだから相当な弱さだろ。熊見川だってちゃんと史料にいっぱいあるし顕如の書状にも織田方3000人討ち死にと触れられてるのに
無視する秀吉厨はただのアホ
78人間七七四年:2013/05/18(土) 12:20:29.87 ID:4oqxfhcz
この戦いは3/13の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」3/22渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで
陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出て
くるだろうから一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」敗戦前日の4/8の丹羽宛書状に「家康さへ討果候
へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて
彼の国へ差遣候」とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での柏井、大草の根城に山内一豊、
生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦も
その一貫である旨を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』と
あるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)長岡越中宛5月11日書状 
小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山から
おびき出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)軍事行動を行う予定であった事が
書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の
中に乗り入れた所に後詰に来たら討ち果たしてやる6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも
援軍送りますと一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて
各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては
秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてたとえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける
計画を報じる8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け
過半ができた。二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰めと家康への討伐意思と行動が読み取れる
79人間七七四年:2013/05/18(土) 12:20:59.06 ID:4oqxfhcz
秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝

3月26日⇒佐竹  ○尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ。和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなくしかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ

4月8日秀吉⇒毛利輝元  ○伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
 
日付不明 秀吉⇒大御ちさま ○加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww

5月9日秀吉→毛利輝元 ○小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他) 周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって… 付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに
砦普請で囲ったっていってましたね
○加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
6月4日 秀吉→佐竹義重 伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww
9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明  信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいのか?????
で、11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた11/13 家康が懇望してきたので同意してやった

なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認??????   明らかにデタラメ
80人間七七四年:2013/05/18(土) 12:21:26.66 ID:4oqxfhcz
>>1万人戦死
むしろそのくらいじゃないと説明つかないわな。何せこの後は7倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候 羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる 秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど完全に持久戦の態勢に入っている4/12松井→紹安 一戦に池田親子・
森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候 4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候 4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人
が出た 4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた。播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた5/2信雄→不破広綱
今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが美濃
に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り
討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣した
ので近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる

上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
81人間七七四年:2013/05/18(土) 12:21:51.89 ID:4oqxfhcz
正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から遅くとも敗戦翌々日の11日には
秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる。織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは
考えず池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場からある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄と
いえる戦なんて存在しない。秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却。池田・森はずっと南に
移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だとこれらの行動を賞賛している。これ
は決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる。秀吉が
奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因。兵力差6倍を生かし、小牧山周辺砦を陥落させるかあるいは龍泉寺方面の
中入り部隊を増やし家康の動きにそなえる部隊を置きつつ家康方の後方拠点を落とし、三河からの連絡を分断・孤立させる策にするかそれも無理ならそもそも
尾張口を無理に突破する必要もなく、基盤の弱い伊勢でも支配の弱い信濃でもどこでもいい。
結局11月になるまでだらだら戦い続いてるしな。木曽川筋のわずかな城を落としただけで南伊勢でも反撃くらい滝川が作ったチャンスも無駄にして権力基盤が
弱い信雄領国を荒らしまわってたら信雄がびびって降伏しただけ。黒田官べえはきてる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨
を述べ、三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。合戦時の陣立書
にもはっきり名前がある。秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)

松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる

伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、
秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で「備前の衆(中国で領土の折衝に
当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているしその他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる。北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄もそれに合わせ多く兵残してる。
秀吉方は秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、
蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、
長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、
蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、

長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内
彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる
82人間七七四年:2013/05/18(土) 12:22:39.06 ID:4oqxfhcz
秀吉って鉄砲の名産地長浜を根拠とし、その後も富裕地を領国としてるから経済基盤でいえばかなりのものだし装備も当然充実させられるのに
こんなに雑魚なのは本人の指揮能力がクソレベルなんだろうな。秀吉が全軍で小牧山を攻めていたら織田信雄に大敗していたのは間違いない。
何せ信雄家臣の木造や吉村などにぼこぼこにやられた史実があるんだしな。しまいには小田原、韮山、山中、忍、松ノ木、太田など大敗や
大損害を重ね、天下失った凡将w 犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀
(最期の二つは小牧山城から真東)これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には芝のついた土手を
築いて柵を付けている。そこに秀吉方が陣取っていて龍泉寺にも根城をこしらえ、柏井、大草にも堅固に普請を申し付けられてる。家康から
見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。中入り作戦なんてしなくても北と東から力づくで押し込める。あと秀吉は
中入り軍を追撃していく軍の動きを把握していた事は明らかだがここですぐに軍を動かさずもたもたしてたから負けただけ。これは柏井にいる
一柳直末にあてた書状から明らか。単純に秀吉が雑魚すぎるだけだと思う。野戦するからにはある程度なんらかの傾斜物を超えなくてはならない
のは自明の論理で、あの場所は川とか沼地とか崖や山などに比べたら遥かに決戦しやすい上にその辺りが突破しずらいなら戦場の変更とか転進
とか兵力6倍以上ならいくらでもうつ手あるわけで。中入り勢増やすもよし、西方面迂回するもよし。砦を一つ一つ兵力に物言わせて攻め取るもよし
支配力の弱い信濃や信雄の本拠の伊勢を荒らすもよし。結局何一つ有効な手打てないままだらだら対陣するしかなかった秀吉は弱すぎる
あのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず
滝川が作った大チャンスも無駄にし夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てた
だけ。当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、ただ単純に手出し云々というより秀吉が弱すぎて攻められなか
っただけ。7倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築きさらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいてそれを秀吉のアホ作戦で台無し
にして奇襲を許した。白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったがこの時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを
小幡方面に向けて置いてればこんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々
とした行軍を無謀にもさせた。奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのにすぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させ
て間に合わずむざむざ家康を逃がした。正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから朝に動けば絶対間に合ったのにそれをさせないあたり
軍事的才能がなさすぎる。敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。織田家で最も無能な上に重臣の謀反&粛清等があり、権力基盤弱い織田信雄の領土相手に
この醜態ってw
83人間七七四年:2013/05/18(土) 14:14:23.80 ID:4oqxfhcz
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々
これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
>>いかに家康らが不利な状況だったかがわかる
>>必死な政略的宣伝工作かがわかる。
なら佐竹その他書状でデタラメハッタリ誇大喧伝まで書き入れまくってる秀吉はめちゃめちゃ不利な状況だったってことだな
顕如日記の数はただ秀吉が敗北をひたかくしにしたから
異常に少なく見積もられてるだけだろ
実際諸大名あてに大した事はないだのなんだのいいつくろってたしな
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした

つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから
家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと
顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
>>実際、一万討死なんて非現実的過ぎるアホな数字だよな。
>>いかに家康らが不利な状況だったかがわかる
>>必死な政略的宣伝工作かがわかる。
>>しかも不必要なまでにしつこく長期間にわたり吹聴して、
>>同盟諸将に繰り返し書き送って決起を呼びかけ、
>>秀吉の背後を襲うように言ってるからな。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
84人間七七四年:2013/05/18(土) 14:15:01.04 ID:4oqxfhcz
むしろ1万人くらい死んだとしないと説明つかないわな
何せこの後は7倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
    →伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
85人間七七四年:2013/05/18(土) 14:15:28.45 ID:4oqxfhcz
秀吉・織田徳川方史料で各城郭攻防が激しく行われているのがわかる
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じる
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12秀吉→八重羽・富田・津田 木造の城がいまだ落ちず小島と相談して砦を4つ設けるよう指示
田丸・榊原・小島に申し付けるよう指示したので相談するように指示
4/12秀吉→榊原・小島・田丸 木造の砦は2箇所は小島、一箇所は田丸、一回書は榊原が申し付けるよう指示
各自相談し城中の者を一人も逃さないよう普請を堅固に申し付ける事を指示
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが敵に数多手負い死人が出た
4/23信雄→吉村 今尾口へ秀吉方兵力が出撃してきた旨を了承 吉村へ必ず加勢を申し付ける旨を伝える
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
信雄→吉村 秀吉が其の表(松ノ木)出兵してきたため信雄より加勢を使わす事を約束。伊勢方面の事を申し付けるため
本日(5/3)信雄が小牧より長島へ帰った事を伝える
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/5 信雄→吉村 松ノ木の加勢と防衛について詳細に命じる
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
86人間七七四年:2013/05/18(土) 14:15:45.52 ID:4oqxfhcz
3/25 大久保→皆川 3/17に濃州口との境目である羽黒において池田・森の守る出構を撃破した事を報じる
4/20 秀吉→上部 秀吉が在陣する尾張方面では、普請など堅固に申し付けている旨を報ずる
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
6/2信雄→吉村 松ノ木への玉薬を送付
6/7秀吉→前田 尾張河波を敵城を全て攻略する意思である旨を報じる
6/12信雄→寺西・橋本・吉村 敵(秀吉方)が松ノ木近辺に陣取った旨を了承
6/13信雄→橋本・寺西・吉村 秀吉方を撃退した旨を了承 其の城について油断なく注意するよう指示
6/13家康→信雄 昨晩秀吉方が松ノ木へ攻撃してきたが撃退した旨の注進に対して賞する
6/16信雄→橋本寺西吉村 秀吉方の様子に関する報告について了承 松ノ木についていろいろな点で注意するよう指示
6/20信雄→吉村 今尾へ秀吉方兵力が少々出てきたため松ノ木への加勢を要請を承諾しやがて遣わす事を報じる
6/20家忠日記 秀吉方楽田に向かい放火する
6/28家忠日記 楽田へ小牧衆(小牧城に在陣している家康方兵力)が物見に出かけ秀吉方と交戦した
7/7秀吉→小野木・大塩・津田・富田 神戸城の守備について滝川益重を派遣する事を報ずる
7/7秀吉→一柳 蟹江落城により、蟹江に対する秀吉方拠点として神戸城に秀吉から軍勢を派遣することを報ずる
7/7蜂須賀→南条元続 秀吉方諸将は尾濃境目の城に在陣している。数日中に秀吉が伊勢へ出兵する旨を伝える
7/9秀吉→分部 神戸方面へ敵(信雄方兵力)が出兵してきた旨を了承
安濃津・上野城に敵が出兵してきたら秀吉が出兵して討ち果たす事を伝える
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
んで結局1年一杯使っても上記の城は攻略ならず。寝返りだらけでガタガタだった信雄領国を
8倍もの圧倒的大軍で攻め込んで結局尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
87人間七七四年:2013/05/18(土) 14:16:13.48 ID:4oqxfhcz
7/10信雄→吉村 浜田城築城を申し付ける。出来次第長島へ帰城する旨を伝える
7/10信雄→吉村 尾張から伊勢まで南下して放火した
7/12家康→木造 戸木城への兵糧搬入が困難である。戸木城を堅固に守るよう指示
7/14秀吉→津田 浜田之古城を信雄方が攻略した旨を了承。信雄方にとって菅生砦へのつなぎの城になるだろう
との考えを示す。明日美濃へ行くので神戸城で大方申し付けたならば、神戸城の一柳・小野木は美濃の秀吉陣所
へ来るよう指示
7/15家忠日記 秀吉方兵力が物見に出てきて家康方と交戦した
7/17伊勢から帰った家康が在陣する清洲へ出仕。軍勢半分を返す
7/18信雄→吉村 秀吉が曽根に到着し松ノ木の吉村に調略を仕掛けてきた知らせを聞いた
7/28秀吉→小島・蒲生 戸木城からの講和に関して指示する
8/12秀吉→長浜町人中 鍬などを取り寄せ犬山に届けるよう指示
8/14信雄→吉村 近いうちに秀吉が出陣してくるようなので諸事油断せず松ノ木の普請と昼夜の番等を堅固に申し付けるべき事を指示
8/18秀吉→上杉・須田 明日19日に秀吉が木曽川を超え小牧まで出兵し付け城を申しつけ家康が逃れられないようにする、三河へ出兵すると報じる
8/19信雄→高木 駒野城への加勢について空明と太田の両名に申し付けたのでよく相談して落ち度がないように
8/25秀吉→長浜町人鍛治中 鍬をつくり完成させ、普請に利用する
8/26加藤→長浜鍛治中 鍬について10駄分命じられたので朱印状を持参した旨を伝える
9/1家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/5家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/7家忠日記 秀吉との講和交渉決裂のため重吉へ惣人数を移す
9/9秀吉→あて先不明 尾張で秀吉方が放火し要害を数箇所申し付けた
9/16秀吉→前田 尾張国内で下奈良・宮後・河田へ砦3箇所堅固に申しつけ
過半が完成したので2.3日中に兵糧玉薬及び4千〜5千くらいの人数を入れる
9/19家康→滝川 戸木城が苦戦していると家康へ注進があり、いまだ本城を堅固に守備しているならば
家康が急ぎ出陣する予定なので戸木城の様子をよく聞き届け再度滝川雄利からたまわりたい旨を伝える
9/23信雄→保田 秀吉より講和に関して懇望があったが拒絶した旨を報じる
10/27秀吉→上部 虎落に用いる竹を調達する
11/10 信雄・家康→吉村 長久保攻略を賞する
88人間七七四年:2013/05/18(土) 14:16:54.75 ID:4oqxfhcz
>秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
小牧山周辺の砦には2万もの留守居兵が残されてる上に6月15日にはさらに楽田への加勢集として
1万1200が追加されてるから家康がただでさえ少ない兵力で秀吉の侵攻地域と関係ない東美濃に向かったら
そのまま美濃の後詰部隊と小牧山周辺の留守居兵に追撃されてアボーンまたは小牧山占領されて
一気に三河方面に侵攻されてアボーン
>長島城が危機的になり敗北確定になるまでなんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。
蟹江合戦で危機的状況に素早く対応している。また8倍ほどの圧倒的兵力差で均衡を保っている
>加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。
加賀の井に行くには敵城の
また5月5日秀長宛書状で伝えるように家康が後詰として働いてきてもその対応は十分できているため
家康からすれば死地にいくようなもの
>7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
お前戸木城の位置わかってる?伊勢でもかなり南方で敵地のど真ん中。海上ルート使わないといけないから
強風吹いたら無理にきまってるだろ
>5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。もう絵に描いた餅状態じゃん。
小牧山周辺には秀吉の留守居部隊2万が残されてるから当たり前
秀吉も6月4日佐竹義重宛に加賀井・奥両城は家康からみて「敵城中」に入っている(家康信雄からみて敵方である
秀吉方の城々に取り囲まれた位置にある)ので両城への後詰として家康が後詰した所を攻撃する計画だったといっている
家康からすれば木曽川諸城への後詰など自ら死地に赴くようなものだっただろう
>>蟹江合戦が滝川の単独行動
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
上記のように秀吉は蟹江合戦当初滝川が軍事行動起こした蟹江から近い大垣近辺にいたため秀吉の軍事行動と容易に想像がつく
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い
そもそも両者には会戦当初から秀吉に同行していた渡辺清忠や桂横重が小牧山に陣替したときの人数を10万といっており当代記、三河物語もこれと同じ数字
その他に伊勢方面を攻めている諸勢2万4000と美濃に残されている秀勝勢数千が存在するため総勢で13万を超えると思われる
また尊禄以来年代記では秀吉は3月に大阪をたった時125000、八月には16万で尾張へ出兵した
また長久手合戦参加者の家記や家譜、合戦記などでも同じ数字が用いられている
そして陣立書や書状から秀吉側は主要メンバーほとんど引きつれて短期決戦構想で合戦に及んでいる事がわかる
こんな圧倒的兵力差で負けまくって一年一杯使って信雄ごときの尾張半国すら自力では倒せなかったのが秀吉
89人間七七四年:2013/05/18(土) 14:17:14.48 ID:4oqxfhcz
●二重掘合戦 細川家記
3月27日秀吉一に25日、秀吉公犬山に入り、楽田・羽黒辺まて諸大将衆はかり召し連れられ、
仕寄の下知など仰せ付けられ先つ小牧山に対し向城を高く構え、堀を二重に深くほり、柵を堅く結び
井楼を上させられる、是を二重掘の要害といい、この外岩崎山・小松寺山・青塚内窪山等の付城勢を
分ヶ守らせらる…(省略)
秀吉公二重掘に附城三ヶ所仰せ付けられ、忠興君を初大将数多くして守らせられ、
小松山寺を本陣とし、用心厳しくして合戦を持て数日対陣有り、二重掘には細川与一朗・蒲生忠三朗
堀久太郎…(省略)
五月遡日、信雄小牧山より見て一あてせんと有しを、家康公御無用とおおせられ、ぜひにと有りて御立候間、
家康公御家人を召され、尾張勢定立らるへし、もり返す用心せよと仰せられ候、信雄の勢は木村・長谷川等の手に食い付き、
芝手の中まてかけこみ、両手の軍士散々に敗走いたし候、忠興君御手廻討に走出られ、芝手の上に御揚り御下知、…(略)
長久手にて3大将討ち死に、秀次利を失われ、二重掘にても既に味方追崩され、秀吉公御気色悪かりしに、忠興君御手にて敵を
追い返し、勢ひつくのみならず、…
徳川家の軍勢小牧山より打ち出て二重掘の前に一戦せんと備ふ、秀吉公下知には敵馬を入れ来らは成へき程折敷て防くこと、…
二重掘の神子田半左え門一戦にも及ばず敗走す、寄手是を追討…神子田、太閤の御勘気を蒙ると云々…
二重掘の軍勢周章して伍を乱す、信雄兵其の気に乗じて攻撃多く首級を得たり、
90人間七七四年:2013/05/18(土) 14:40:41.59 ID:4oqxfhcz
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが

この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります

7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
と書いていて秀吉の家康への敵意と討伐意思と行動がよみとれる
91人間七七四年:2013/05/18(土) 14:41:33.74 ID:4oqxfhcz
そもそもお前は一次資料を全く読んでいないのがミエミエ
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は
天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
92人間七七四年:2013/05/18(土) 18:53:58.39 ID:4oqxfhcz
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉

そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
93人間七七四年:2013/05/18(土) 18:54:53.88 ID:4oqxfhcz
史料総覧  毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
萩藩閥閲録
晋叟寺文書
毛利家日記
[参考]備前軍記
[参考]浦上宇喜多両家記
[参考]陰徳太平記
[参考]御答書
[参考]總見記
[参考]柏崎物語
【管理番号】020100216456
【編/冊/頁】10編911冊179頁
【綱文和暦】天正6年6月21日(15780060210) 3条
【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、

晋叟寺文書
天正6年8/21
今度播州上月之城従芸州被催候処、
自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、
成田五郎左衛門尉秀綱(花押)
晋叟寺 衣鉢閣下

荻藩閥閲禄巻91林平八
敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、
輝元 御判

巻115の2湯原文左衛門
桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候
天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 
輝元 御判
天正10年5/4小早川→冷民少
如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉
去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉
去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉
去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状
一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉
態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元
去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、
…中略  昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
94人間七七四年:2013/05/18(土) 18:55:22.79 ID:4oqxfhcz
信長の力を見抜き土下座外交を必死でした北条氏政が秀吉に従わなかったのは
秀吉の力のなさを見抜いてたからだろうな
運悪く周辺諸大名があっさり秀吉になびいてしまったが秀吉の天下がなあなあで形だけのものだった事は
秀吉が死んだだけで脆く崩れ去った事で裏打ちされてる
氏政は十分先見性のある武将だろう

秀吉の力を見誤ったんじゃなくて家康と伊達などの動向を見誤っただけ。

ぶっちゃけ秀吉の天下は圧倒的国力差と敵対勢力が別に抱えてた多くの敵を利用して
運だけで取ったようなもん。
実力でいえば相当無能な部類だと思う。関東でいえば小山、小田あたりにも負けそう

秀吉は元々あった対立関係利用して漁夫の利得ただけ。
中身のないゴミ政権だからすぐにボロが露呈した。
信長に従い土下座外交してた氏政が秀吉に従わなかったのも秀吉の実力のなさを見抜いてたからだろうな
本能寺時点でも光秀が運良く信長を打ち逆賊の汚名被り毛利も運良く追撃せず
柴田戦でも運良く勝家が雪で動けないのを利用し勝家と勝豊の運よく不仲なのを利用し寝返らせ
運良く権力基盤が弱い信孝を攻め運良く稲葉を寝返らせてへタレ前田が運よく軍を引きやっと勝てただけ
上方の圧倒的国力・先進的装備&135000もの圧倒的大軍の豊臣軍が

わずか22000程度で寝返り続出中で基盤ガタガタの信雄相手に大敗!!! 敗戦!!!!

ってまるで漫画だな。

アホすぎる

さすが戦国最強豊臣軍
95人間七七四年:2013/05/18(土) 18:55:41.43 ID:4oqxfhcz
正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。

秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
兵力差6倍を生かし、小牧山周辺砦を陥落させるかあるいは龍泉寺方面の中入り部隊を増やし
家康の動きにそなえる部隊を置きつつ家康方の後方拠点を落とし、三河からの連絡を分断・孤立させる策にするか
それも無理ならそもそも尾張口を無理に突破する必要もなく、基盤の弱い伊勢でも支配の弱い信濃でもどこでもいい

結局11月になるまでだらだら戦い続いてるしな
木曽川筋のわずかな城を落としただけで
南伊勢でも反撃くらい滝川が作ったチャンスも無駄にして
権力基盤が弱い信雄領国を荒らしまわってたら信雄がびびって降伏しただけだし

織田家中の実力でいえば
柴田・明智・滝川>佐々・佐久間(信盛)>佐久間盛政・蜂谷・森(父)・稲葉・宮部
池田・丹羽>川尻・前田・蒲生・森(子)>日根野・神戸・関>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉
秀吉は織田信雄より戦下手。
信雄家臣の木造親子や吉村氏吉に大敗。
二重堀合戦で信雄にも大敗し楽田から敗走した。
96人間七七四年:2013/05/18(土) 18:56:18.45 ID:4oqxfhcz
上方の圧倒的国力・先進的装備&135000もの圧倒的大軍の豊臣軍が

わずか22000程度で寝返り続出中で基盤ガタガタの信雄相手に大敗!!! 敗戦!!!!

ってまるで漫画だな。

アホすぎる

さすが戦国最強豊臣軍
>>170
天正11年の滝川征伐でもボロクズのようにやられてるよ
3/4柴田勝家→填島宛書状・滝川一益事書
大軍率いて滝川軍を攻め崩そうと出てきた秀吉は桑名攻防で一益の鉄砲隊と足軽隊を交差した奇襲戦術にあって大苦戦
結局柴田が倒れて単独で抗戦しきれなくなって降伏しただけだしそれまで兵糧攻めにしようとしても
抗戦が激しく手に負えない状態だった(桑田氏論文)

秀吉は宇喜多・南条・大友・尼子・河野などに蹴散らされまくった雑魚毛利にも大敗した雑魚

毛利が宇喜多や南条に足を取られた隙に居留守泥棒的に鳥取・三木を掠め取ったいいが
備前・美作方面に出兵すると大苦戦
元々中国東部は尼子残党山名荒木別所などのゴタゴタで調略が有効に効きやすい
絶好の相性の場所だからなんとかなっただけ

毛利輝元って大友や尼子残党や宇喜多や河野やらに苦しめられまくった戦国屈指の凡将なんだが
秀吉にだけは勝ててるんだよな。熊見川・祝山・備前児島をはじめ美作攻防。
宇喜多も不運だったわな。単体なら勝てる相手に秀吉が出てきたせいで足引っ張りまくって。
総大将は輝元だし両川は熊見川でも美作攻防でも目だってないどころか
吉川は南条に攻略失敗(毛利方史料では数多討ち取りなどとでっち上げているが撃退されてるのが実情)
小早川は20万石そこそこの宇喜多相手に備後だけではなく毛利領国の軍まとめて攻め込んだのに辛川合戦・加茂崩れで大敗するなど
ボロクズのように雑魚っぷりを披露していたからな
97人間七七四年:2013/05/18(土) 18:57:22.54 ID:4oqxfhcz
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)

7倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗だろ

わずか20町ほどの距離にある自軍の6分の一以下の家康軍に対してあの醜態晒して
責任を池田森らに押し付けるとか基地外だな
100パーセント秀吉の戦術的大敗だろうが
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな

秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
目付け役で堀・長谷川も加わってるしさすがに別働隊だから秀吉の責任じゃないとか全くそれは言い訳にならん
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな
98人間七七四年:2013/05/18(土) 18:57:40.62 ID:4oqxfhcz
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる

敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ

あんだけ兵力差ありながら晩秋まで一進一退続いてるからな
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
つうか尾張口突破がそんな困難なら権力基盤弱い伊勢攻めるか
間接的統治を行うだけで支配力が弱く、木曽が寝返り、翌年に真田、小笠原が寝返るなど
不安定な支配の信濃を上杉とともに攻めりゃいいだけだろ
だらだら尾張口や木曽川筋で対陣続けて晩秋になるまで突破口見出せん秀吉は馬鹿すぎる
中入り勢は突出などしとらん
秀吉の命令通り動いただけ
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな

秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
目付け役で堀・長谷川も加わってるし
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな

敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
99人間七七四年:2013/05/18(土) 18:58:23.83 ID:4oqxfhcz
御用史書に書いてある中入りが池田の提案なんて信じてるのか?
ナポレオンは常に本隊中央部への集中砲火という戦術を生涯取り続けた。
得意戦術とはそういうものだ。
秀吉が過去に総大将として野戦を指揮した戦術を見れば一目瞭然。
中国大返しから山崎の合戦しかり、対柴田戦しかり。
要は別働隊の活用と機動力を生かした奇襲戦術。
大兵力である本隊を主戦場から離れた場所に配置し、敵側の予想をはるかに超える
機動力で、「ないはず」の大兵力を主戦場に投入する詐術的戦法が秀吉の得意技。
つまり長久手も同断。別働隊は敵本隊を長久手方面に誘い出し主戦場をそこに設定することにより
本隊機動力を発揮させるだけの距離を稼ぐための囮。
だから中途半端な行軍ではなく、陽動が主目的の作戦主旨に沿った行軍だ。

これだけ類似性のある作戦が、負け戦の時だけ秀吉ではなく他の者の立案などと
信じるほうがどうかしてる。
ナポレオン戦術は指揮系統を混乱させ軍団自体を無力化させる、という無敵の
戦術だったが、指揮系統を班単位に権限委譲し、アメーバ型組織を作ったプロシアの
クリューパーシステムの前に力を失った。
増して機動力のみが頼みのしかも2度も披露した秀吉戦術では、歴戦の将、家康をたぶらかすのは
無理というものだ。完全に秀吉の戦術の敗北だ。

だから秀吉もこの戦術は2度と使っていない。九州征伐、小田原陣では信長方式の
戦術不用の物量作戦戦略に切り替えている。

あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。
仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が
頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も
京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた
5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、
これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、
ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。
天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。

二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、
光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。
100人間七七四年:2013/05/18(土) 21:59:57.50 ID:4oqxfhcz
正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。

秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
兵力差6倍を生かし、小牧山周辺砦を陥落させるかあるいは龍泉寺方面の中入り部隊を増やし
家康の動きにそなえる部隊を置きつつ家康方の後方拠点を落とし、三河からの連絡を分断・孤立させる策にするか
それも無理ならそもそも尾張口を無理に突破する必要もなく、基盤の弱い伊勢でも支配の弱い信濃でもどこでもいい

結局11月になるまでだらだら戦い続いてるしな
木曽川筋のわずかな城を落としただけで
南伊勢でも反撃くらい滝川が作ったチャンスも無駄にして
権力基盤が弱い信雄領国を荒らしまわってたら信雄がびびって降伏しただけだし


黒田官べえはきてる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、
三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。
合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)

松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して
攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる

伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。
堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)

3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。秀吉方は
秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、
蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、
長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、
蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、

長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内
彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる
101人間七七四年:2013/05/18(土) 22:00:23.59 ID:4oqxfhcz
※秀吉失態集※

・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%か50%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる
102人間七七四年:2013/05/18(土) 22:01:20.45 ID:4oqxfhcz
あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉
結局講和を持ち出したのも秀吉。
いつも嘘ばかりついて戦果を基地害のように誇張する
秀吉自身が不安定な緩衝地帯にいる寝返ったばかりの外様中の外様である木曽義昌宛て書状で負けを
述べ同じく外様である宇喜多家臣長船、富岡宛書状とあて先不明書状でも秀吉が自分で負けを認め
本多重次宛やその他家康書状には一万余り討ち取り池田親子や森、木下兄弟に加え堀や長谷川、三好秀次など
ことごとく討ち取り計10000程討ち取ったとある。ちなみに当代記や家忠日記では戦死者15000などと書かれてる
しかも1年かけて7倍もの圧倒的兵力差でろくな戦果あげられず、権力基盤の不安定な信雄の領国荒らすのが精一杯
夏の対陣や蟹江合戦でも敗退し尾張半国すら切り取れない無能ぶり
84年一杯を対信雄&家康に使って伊勢口や美濃の押さえ合わせて計135000ほどの圧倒的大軍引き連れて
砦間の戦闘や城の取り合いや信濃の木曽、上杉ら周辺大名への働きかけもガチガチにあったのに
滅ぼす気がないとか言われてもな
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
103人間七七四年:2013/05/18(土) 22:01:38.09 ID:4oqxfhcz
豊臣軍135000が、織田家で最も無能な信雄22000相手に敗走、大苦戦。
戦国最弱の豊臣軍。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに軍事的才能がなさすぎる
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗だろ
わずか20町ほどの距離にある自軍の6分の一以下の家康軍に対してあの醜態晒した
100パーセント秀吉の戦術的大敗だろうが
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな

秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。

>>788
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
104人間七七四年:2013/05/18(土) 22:02:11.65 ID:4oqxfhcz
秀吉って鉄砲の名産地長浜を根拠とし、その後も富裕地を領国としてるから
経済基盤でいえばかなりのものだし装備も当然充実させられるのに
こんなに雑魚なのは本人の指揮能力がクソレベルなんだろうな
秀吉が全軍で小牧山を攻めていたら織田信雄に大敗していたのは間違いない。
何せ信雄家臣の木造や吉村などにぼこぼこにやられた史実があるんだしな
しまいには小田原、韮山、山中、忍、松ノ木、太田など大敗や大損害を重ね、天下失った凡将w
犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には
芝のついた土手を築いて柵を付けている。そこに秀吉方が陣取っていて龍泉寺
にも根城をこしらえ、柏井、大草にも堅固に普請を申し付けられてる。
家康から見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。
中入り作戦なんてしなくても北と東から力づくで押し込める
あと秀吉は中入り軍を追撃していく軍の動きを把握していた事は明らかだが
ここですぐに軍を動かさずもたもたしてたから負けただけ。これは柏井にいる一柳直末にあてた書状から明らか。

皆もいってるけど単純に秀吉が雑魚すぎるだけだと思う
野戦するからにはある程度なんらかの傾斜物を超えなくてはならないのは自明の論理で、
あの場所は川とか沼地とか崖や山などに比べたら遥かに決戦しやすい上にその辺りが突破しずらいなら
戦場の変更とか転進とか兵力6倍以上ならいくらでもうつ手あるわけで。
中入り勢増やすもよし、西方面迂回するもよし。砦を一つ一つ兵力に物言わせて攻め取るもよし
支配力の弱い信濃や信雄の本拠の伊勢を荒らすもよし。結局何一つ有効な手打てないまま
だらだら対陣するしかなかった秀吉は弱すぎる

あのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、
南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると
夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、ただ単純に手出し云々というより
秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
それを秀吉のアホ作戦で台無しにして奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのにそれをさせないあたり軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
織田家で最も無能な上に重臣の謀反&粛清等があり、権力基盤弱い織田信雄の領土相手にこの醜態ってw
105人間七七四年:2013/05/18(土) 22:03:05.25 ID:4oqxfhcz
秀吉が献策によって軍を動かしたとするのは年次レベルでも誤りばかりで
世間からけちょんけちょんに批判されている哺庵の創作にしかなく、またこの捏造太閤記ですら
秀吉がしぶしぶ従ったとはかかれず、池田の意見を聞き、よく考え、尤もだと賛成している
また秀吉の敗戦前日書状から龍泉寺に根城を拵え柏井、大草、篠木に構えを堅固に申し付け、
三河に向けて手勢を発向し九鬼嘉隆も船手にて三河に差し向けるというように三河への大規模軍事計画を綴っていて
池田の献策的な事は一言も読み取れないばかりか、秀吉自身この作戦に向け、兵を集め、陸海から派遣するというように
積極的に動いている様子が見て取れる

追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない
106人間七七四年:2013/05/18(土) 23:10:34.18 ID:4oqxfhcz
あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。

二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。

あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。

正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。

秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因

当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、
ただ単純に手出し云々というより秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
107人間七七四年:2013/05/18(土) 23:11:09.45 ID:4oqxfhcz
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)
84年一杯を対信雄&家康に使って伊勢口や美濃の押さえ合わせて計135000ほどの圧倒的大軍引き連れて
砦間の戦闘や城の取り合いや信濃の木曽、上杉ら周辺大名への働きかけもガチガチにあったのに
滅ぼす気がないとか言われてもな この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
108人間七七四年:2013/05/18(土) 23:11:39.74 ID:4oqxfhcz
丹羽はさっさと秀吉に従属。長久手でも長重派遣&後から自身も尾張出兵

丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。

二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。

池田・森も秀吉が伊勢に侵攻するや否やさっさと秀吉に従属
追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている

さらに宇喜多も援軍を秀吉の要請に応えて尾張に派遣し上杉・木曽・河野・十河、
信包・神戸ら南伊勢諸将も従属。石川もこの頃から秀吉に離反しかけているのが徳川方史料でわかる

小牧長久手では尾張転進時の兵力10万に加え、伊勢方面軍2万4千に岐阜後詰6千で総勢13万もの圧倒的大軍を動因している
109人間七七四年:2013/05/19(日) 06:15:09.51 ID:USA3ABtv
ポイントを押さえられないため、ただダラダラと書き連ねる。
これで主張しているつもりだろうか。
笑うしかない。
110人間七七四年:2013/05/20(月) 10:37:43.87 ID:Mg0CMXgc
では鬼武蔵の悪行でも語るか

京での番所乗り打ち事件って、結局何年くらいの出来事なんだろ?
111人間七七四年:2013/05/20(月) 12:24:18.53 ID:1K0xwmwv
すべて講談にしかないデタラメ
112人間七七四年:2013/05/21(火) 06:24:00.14 ID:EsphktCK
講談じゃなくて家譜なんだが
113人間七七四年:2013/05/21(火) 06:43:17.26 ID:2qO4i/Sc
森の3月26日遺言状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
「森家の後継ぎは忠政が長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい」
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
俗にいわれてるようなDQNっぽさは全く読み取れない。
114人間七七四年:2013/05/21(火) 21:29:11.30 ID:EsphktCK
>>113
それ「俺が死んだら弟や家族は田舎に飛ばすのじゃなく政権中枢に置くように」って要求だと最近は解釈されてるぞ
115人間七七四年:2013/05/21(火) 22:20:43.82 ID:GWCWjrMX
>>114
具体的に誰の論文で遺言状のどの部分をどういう解釈をするとそうなるんだ?
116人間七七四年:2013/05/21(火) 22:26:13.53 ID:2qO4i/Sc
そんなデタラメ解釈誰もしてない
つうか森がDQNとかただの講談でしかない
117人間七七四年:2013/05/22(水) 06:19:24.87 ID:YXi0xOw8
>>115
>>116
京都に強いこだわりがあり、政権が置かれる京に一族を集合させたいという意図がある、とされている。
忠政も秀吉の近習として取り立てるように、との意図が強い。
表面的にだけ見ちゃいかんよ。
118人間七七四年:2013/05/22(水) 11:07:39.24 ID:8Qk75SkO
具体的に誰の論文で遺言状のどの部分をどういう解釈をするとそうなるんだ?
119人間七七四年:2013/05/22(水) 11:26:01.35 ID:UmxRUb/A
そんなデタラメ解釈誰もしてない
つうか書状に京に一族どうこうとか秀吉の近習としてとか全くかかれてないし
そんなトンデモ解釈頭イカレた輩じゃないと無理
そもそも森がDQNとかただの講談でしかない
120人間七七四年:2013/05/22(水) 21:56:22.17 ID:YXi0xOw8
>>118
>>119
「消された秀吉の真実―徳川史観を越えて」にそう言う説が紹介されてたぞ
121人間七七四年:2013/05/22(水) 23:06:26.39 ID:8Qk75SkO
>>120
デタラメ書くなアホ
その本の58-64で森の遺言書の解釈が書いてるがP63のまとめ部分で「森家が城主の家柄でなくなることを
長可が強く望んだわけですから、彼には上昇志向が全くなくむしろその反対であったことになります。これを事実として受け止めるしかないです
戦国武将の中にはこのような人物もいたということです。秀吉などは強烈な上昇志向の持っていたのでしょう。
しかし、上昇志向のない戦国武将もいたことを、本稿では確かめることができました」と書いてるわw
無理矢理遺言状に書いてない内容を捏造歪曲してんじゃねぇよクズw
122人間七七四年:2013/05/22(水) 23:20:30.15 ID:UmxRUb/A
一次資料見る限り秀吉は池田・森の両人の死をかなり悔やんで悲しんでいたのがわかる
おおち様(池田の母)あてで恒興の死を悼んで、恒興死後の池田家のことを重ね重ね手厚くする事を書いて
その後も何回も書状送ってるし
加賀野井城攻めを池田の弔い合戦としてやってるし秋の羽柴秀次折檻状でも「池田・森の両人が死んで大変不便だ。こんな事繰り返すと親子の縁切ると思え」
などと自分の糞作戦の失態棚に上げて秀次のせいにして責めてるし
まあ池田と森が味方についたおかげで伊勢方面に総軍で出かけてたため留守になった北尾張に居留守ドロ的に進出ができたし
この動きに家康が伊勢から尾張に転進したせいで伊勢方面が離反の連続で瓦解し神戸・鈴鹿以南の南伊勢を火事場ドロできたんだから当たり前だが。
尾張でも毛利秀頼・石田毛利氏・松ノ木近辺の諸将が寝返ってるし信濃木曽谷の木曽義昌が秀吉に寝返ったが
これも池田や森の動きに連動する所が大きいと思うし
123人間七七四年:2013/05/23(木) 00:10:19.19 ID:xVuzHRz7
池田や森が秀吉方に付かなかったら秀吉は木曽川ライン超えることも叶わず一生伊勢筋の小城郭で苦戦して
雑魚信雄は秀吉方に史実以上の大打撃を与えていたのは間違いない
何せ史実では伊勢方面に大軍で出兵してきた秀吉に対応するため、家康・信雄とも総軍伊勢口に兵力集中させててら
味方につくと思ってた池田・森が秀吉方について居留守泥棒的に犬山・楽田方面への上陸成功(北尾張の佐久間正勝らは総じて
伊勢に出兵しており尾張は留守状態だった)この流れで伊勢方面の諸将に加えて信濃の木曽・尾張の石田毛利氏・毛利秀頼・松ノ木近辺の諸将と
秀吉方に寝返りがあいついで圧倒的勢いで信雄を圧倒すると思ったら小牧長久手で1万人戦死の大敗・その後も
松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ね、135000の規格外の大軍で
わずか16000〜7000の家康信雄領国をろくに切り取ることもできず、諦めて大阪に納馬しようと思ってたら本願寺顕如に必至に信雄への取り成し依頼してたのが
実って信雄がヘタレ和睦に応じただけだしな。そもそもこの和睦時点では信雄は人質なんて出してないし単に顕如使って必至に土下座してきた秀吉を
かわいそうに思って和議に応じてやっただけだし
池田と森がもし味方じゃなかったら家康の尾張転進と、それにつぐ伊勢・尾張・信濃での離反連鎖は起こらず、
また美濃との国境を守る佐久間正勝の留守に乗じた北尾張の居留守ドロは到底できないので秀吉方は北尾張進出もかなわず
南伊勢の瓦解は全くおきずに当初から両者が予想してた通り(両者とも伊勢に兵力集中させてる)伊勢での攻防になり、一生この地方で足止めをくらい、
史実より遥かに秀吉に不利な会戦状況となるため史実より遥かに大きな損害を受けていたのは間違いない。それこそ秀吉は戦死していた可能性も高い
124人間七七四年:2013/08/29(木) 21:39:46.99 ID:yxRGzeVz
>>72
この長文コピペ野郎はIDを何度も変えて投稿してるのばれてるよw

ある日のいもの迷惑嵐連投↓
2:人間七七四年:2013/08/12(月) 16:41:29.77 ID:KyOJhc+a
3 :人間七七四年:2013/08/12(月) 16:43:58.10 ID:KyOJhc+a
4 :人間七七四年:2013/08/12(月) 16:46:08.15 ID:KyOJhc+a
5 :人間七七四年:2013/08/12(月) 16:46:59.00 ID:KyOJhc+a
6 :人間七七四年:2013/08/12(月) 16:49:31.24 ID:KyOJhc+a

8 :人間七七四年:2013/08/12(月) 17:23:45.99 ID:6Y3gquWC

9 :人間七七四年:2013/08/12(月) 17:28:23.69 ID:KZxL+G7i
10 :人間七七四年:2013/08/12(月) 17:29:40.31 ID:KZxL+G7i
11 :人間七七四年:2013/08/12(月) 17:30:24.72 ID:KZxL+G7i
12 :人間七七四年:2013/08/12(月) 17:31:19.66 ID:KZxL+G7i
13 :人間七七四年:2013/08/12(月) 17:32:10.49 ID:KZxL+G7i
14 :人間七七四年:2013/08/12(月) 17:32:59.18 ID:KZxL+G7i
15 :人間七七四年:2013/08/12(月) 17:33:41.16 ID:KyOJhc+a
16 :人間七七四年:2013/08/12(月) 17:35:21.75 ID:KyOJhc+a
17 :人間七七四年:2013/08/12(月) 17:36:48.29 ID:KyOJhc+a
18 :人間七七四年:2013/08/12(月) 17:38:15.64 ID:KyOJhc+a
19 :人間七七四年:2013/08/12(月) 17:41:33.63 ID:KyOJhc+a
21 :人間七七四年:2013/08/12(月) 22:03:09.71 ID:KyOJhc+a
22 :人間七七四年:2013/08/12(月) 22:04:07.61 ID:KyOJhc+a
23 :人間七七四年:2013/08/12(月) 22:07:06.48 ID:KyOJhc+a
24 :人間七七四年:2013/08/12(月) 22:09:01.44 ID:KyOJhc+a
125人間七七四年:2013/08/29(木) 21:42:16.50 ID:yxRGzeVz
>>72
これまた別スレでの、長文迷惑コピペ IDを変えても同じ文章の垂れ流し

305 :人間七七四年:2013/08/12(月) 11:45:36.29 ID:6Y3gquWC
306 :人間七七四年:2013/08/12(月) 12:54:47.58 ID:4AZutu8/
307 :人間七七四年:2013/08/12(月) 12:56:26.17 ID:4AZutu8/
308 :人間七七四年:2013/08/12(月) 12:57:37.06 ID:4AZutu8/
309 :人間七七四年:2013/08/12(月) 12:58:38.73 ID:4AZutu8/

310 :人間七七四年:2013/08/12(月) 12:59:28.48 ID:KZxL+G7i

311 :人間七七四年:2013/08/12(月) 13:07:00.93 ID:4AZutu8/
312 :人間七七四年:2013/08/12(月) 13:08:46.45 ID:4AZutu8/
313 :人間七七四年:2013/08/12(月) 13:11:59.08 ID:4AZutu8/
314 :人間七七四年:2013/08/12(月) 13:12:40.32 ID:4AZutu8/

315 :人間七七四年:2013/08/12(月) 13:14:12.84 ID:KZxL+G7i
316 :人間七七四年:2013/08/12(月) 13:14:56.33 ID:KZxL+G7i
317 :人間七七四年:2013/08/12(月) 13:15:34.42 ID:KZxL+G7i
318 :人間七七四年:2013/08/12(月) 13:16:30.51 ID:KZxL+G7i
319 :人間七七四年:2013/08/12(月) 13:17:37.06 ID:KZxL+G7i
320 :人間七七四年:2013/08/12(月) 13:23:47.75 ID:KZxL+G7i
321 :人間七七四年:2013/08/12(月) 13:25:15.29 ID:KZxL+G7i

これ以外にも複数人を装って自分の意にそぐわないコメントを、
集団で攻撃しているのも各地で確認できます。
在日左翼はゴミ
126人間七七四年:2013/08/29(木) 21:54:41.46 ID:wNHXePZY
お前が荒らしだろタコ
127人間七七四年:2013/08/29(木) 21:56:31.36 ID:l8O26Ahk
馬鹿秀吉厨の妄想垂れ流しのキモさは異常
128人間七七四年:2013/08/29(木) 21:56:57.72 ID:uNYQm/U8
歴史ゲーム板
毛利を語ろうスレ
秀吉擁護 ID:OLS/uK1H

アンチ秀吉(武田厨を装って陥れようとしてる織田厨) ID:7zgWFRNP
129人間七七四年:2013/08/29(木) 22:00:51.99 ID:PV6g5cLw
アンチ秀吉も糞も毎回毎回論破されまくったアホコピペを懲りずに貼るから
スレがあっという間に埋まってしまうわけで。
130人間七七四年:2013/08/29(木) 22:06:38.87 ID:YOVLEJh9
131人間七七四年:2013/08/29(木) 23:23:48.01 ID:yxRGzeVz
この>>126-128のように瞬間的に、コメントが続くのが、
長文野郎が張り付いてるスレの特徴なんだよなぁww
同日に違うIDが入り乱れてても、同じ長文コピペが
貼り続けられてるっていう。
132人間七七四年:2013/08/29(木) 23:26:15.96 ID:6gS9kkWg
馬鹿は罵倒されて当たり前。自分以外の人間を一人と信じ込む妄想からいい加減卒業するべき。
133人間七七四年:2013/08/29(木) 23:28:28.74 ID:ODIjv2N9
スレタイからして秀吉厨の馬鹿妄想で凝り固まってる糞スレだな
134人間七七四年:2013/08/29(木) 23:32:14.02 ID:yxRGzeVz
>>132(133)
まぁ、落ち着けよ、俺はIDを入り乱れてるのに、投稿内容がまったく
変わらないこの長文野郎の異常性を言ってるんだ。

要は邪魔なんだよ。
この長文コピペ野郎はIDを何度も変えて投稿してるのばれてるよw

ある日のいもの迷惑嵐連投↓
2:人間七七四年:2013/08/12(月) 16:41:29.77 ID:KyOJhc+a
3 :人間七七四年:2013/08/12(月) 16:43:58.10 ID:KyOJhc+a
4 :人間七七四年:2013/08/12(月) 16:46:08.15 ID:KyOJhc+a
5 :人間七七四年:2013/08/12(月) 16:46:59.00 ID:KyOJhc+a
6 :人間七七四年:2013/08/12(月) 16:49:31.24 ID:KyOJhc+a

8 :人間七七四年:2013/08/12(月) 17:23:45.99 ID:6Y3gquWC

9 :人間七七四年:2013/08/12(月) 17:28:23.69 ID:KZxL+G7i
10 :人間七七四年:2013/08/12(月) 17:29:40.31 ID:KZxL+G7i
11 :人間七七四年:2013/08/12(月) 17:30:24.72 ID:KZxL+G7i
12 :人間七七四年:2013/08/12(月) 17:31:19.66 ID:KZxL+G7i
13 :人間七七四年:2013/08/12(月) 17:32:10.49 ID:KZxL+G7i
14 :人間七七四年:2013/08/12(月) 17:32:59.18 ID:KZxL+G7i
15 :人間七七四年:2013/08/12(月) 17:33:41.16 ID:KyOJhc+a
16 :人間七七四年:2013/08/12(月) 17:35:21.75 ID:KyOJhc+a
17 :人間七七四年:2013/08/12(月) 17:36:48.29 ID:KyOJhc+a
18 :人間七七四年:2013/08/12(月) 17:38:15.64 ID:KyOJhc+a
19 :人間七七四年:2013/08/12(月) 17:41:33.63 ID:KyOJhc+a
21 :人間七七四年:2013/08/12(月) 22:03:09.71 ID:KyOJhc+a
22 :人間七七四年:2013/08/12(月) 22:04:07.61 ID:KyOJhc+a
23 :人間七七四年:2013/08/12(月) 22:07:06.48 ID:KyOJhc+a
24 :人間七七四年:2013/08/12(月) 22:09:01.44 ID:KyOJhc+a
135人間七七四年:2013/08/29(木) 23:34:04.38 ID:yxRGzeVz
>>132(133)
134のIDとしたのIDで検索して調べてくれ(本人だと思うけどね)
ID違ってるのに投稿内容と連投が繰り返されてるから。
この以上で気持ち悪い上に、本来のスレッドが機能してなくて
迷惑で仕方が無い。


305 :人間七七四年:2013/08/12(月) 11:45:36.29 ID:6Y3gquWC
306 :人間七七四年:2013/08/12(月) 12:54:47.58 ID:4AZutu8/
307 :人間七七四年:2013/08/12(月) 12:56:26.17 ID:4AZutu8/
308 :人間七七四年:2013/08/12(月) 12:57:37.06 ID:4AZutu8/
309 :人間七七四年:2013/08/12(月) 12:58:38.73 ID:4AZutu8/

310 :人間七七四年:2013/08/12(月) 12:59:28.48 ID:KZxL+G7i

311 :人間七七四年:2013/08/12(月) 13:07:00.93 ID:4AZutu8/
312 :人間七七四年:2013/08/12(月) 13:08:46.45 ID:4AZutu8/
313 :人間七七四年:2013/08/12(月) 13:11:59.08 ID:4AZutu8/
314 :人間七七四年:2013/08/12(月) 13:12:40.32 ID:4AZutu8/

315 :人間七七四年:2013/08/12(月) 13:14:12.84 ID:KZxL+G7i
316 :人間七七四年:2013/08/12(月) 13:14:56.33 ID:KZxL+G7i
317 :人間七七四年:2013/08/12(月) 13:15:34.42 ID:KZxL+G7i
318 :人間七七四年:2013/08/12(月) 13:16:30.51 ID:KZxL+G7i
319 :人間七七四年:2013/08/12(月) 13:17:37.06 ID:KZxL+G7i
320 :人間七七四年:2013/08/12(月) 13:23:47.75 ID:KZxL+G7i
321 :人間七七四年:2013/08/12(月) 13:25:15.29 ID:KZxL+G7i
136人間七七四年:2013/08/29(木) 23:34:17.05 ID:INwfdaZ0
そりゃ何回も秀吉厨が馬鹿妄想垂れ流すから同じ流れになるってわけで。
137人間七七四年:2013/08/29(木) 23:35:43.41 ID:I7Hs6xUF
本来のスレの機能が停止してるのは、他でもないこういう馬鹿なスレ作る輩が絶えないからってだけで。
138人間七七四年:2013/08/29(木) 23:36:38.63 ID:e5O9al+f
139人間七七四年:2013/08/29(木) 23:37:05.47 ID:yxRGzeVz
>>136
この長文妄想コピペは以上だな。
IDを頻繁に変えつつ同じ連投を繰り返してるのは、何を考えているのだろう。
140人間七七四年:2013/08/29(木) 23:39:27.08 ID:ZoVunfx7
>>139
はぁ?馬鹿じゃねぇの。
長文コピペの反論先のレスが妄想なんであって長文自体妄想なんか書いてねーよアホ
どこが妄想なんだよいってみろタコがw
141人間七七四年:2013/08/29(木) 23:40:44.74 ID:yxRGzeVz
さぁ、短期間にこんな死スレに群がってきました。
さすがIDを変える・複数所持しているだけあるな。

ID:wNHXePZY
ID:l8O26Ahk
ID:uNYQm/U8
ID:YOVLEJh9
ID:6gS9kkWg
ID:ODIjv2N9
ID:INwfdaZ0
ID:I7Hs6xUF
ID:e5O9al+f
ID:ZoVunfx7
142人間七七四年:2013/08/29(木) 23:40:53.85 ID:6gS9kkWg
こういう糞スレがあるから長文コピペが暴れるのも無理はない
143人間七七四年:2013/08/29(木) 23:42:48.15 ID:Qn5ErlIR
>>141
馬鹿妄想をお前が垂れ流すから複数の人から論破されたり罵倒される。ただそれだけ。
144人間七七四年:2013/08/29(木) 23:44:47.35 ID:614INCmG
こういう糞スレたてる秀吉厨の頭の悪さは異常
145人間七七四年:2013/08/29(木) 23:45:48.31 ID:yxRGzeVz
>>143
俺何も主張してないよww
ID変えまくりの長文コピペがうざいってだけでw

で沸いて出てくる新IDの奴らが、決まって【秀吉厨】だの
【長文も仕方ない】だのて、不自然すぎるんだよwww
146人間七七四年:2013/08/29(木) 23:47:08.58 ID:Qn5ErlIR
まぁ長文コピぺがうざいなら同じ妄想垂れ流す馬鹿が消えればいいだけだな
147人間七七四年:2013/08/29(木) 23:47:49.14 ID:Xek0ItdI
>>146
同意
148人間七七四年:2013/08/29(木) 23:49:52.74 ID:yxRGzeVz
ID:wNHXePZY
ID:l8O26Ahk
ID:uNYQm/U8
ID:YOVLEJh9
ID:6gS9kkWg
ID:ODIjv2N9
ID:INwfdaZ0
ID:I7Hs6xUF
ID:e5O9al+f
ID:ZoVunfx7
ID:614INCmG
ID:Xek0ItdI

すげぇっすw 全部、長文コピペの味方の新IDがワラワラと、
死スレに集まってきております。
149人間七七四年:2013/08/30(金) 00:04:00.83 ID:G0e5F3QG
朝鮮人の偏執狂粘着力は異常
150人間七七四年:2013/08/30(金) 00:06:10.30 ID:blGsVW/s
ウンコ秀吉厨の妄想力に比べればマシだよ。
151人間七七四年:2013/08/30(金) 00:08:44.46 ID:E6N/SGjz
>>148
いくらなんでも、戦国板で短時間にこんなに集まることねぇぞjk……

自演ってのはマジもんだな。
この状況証拠は永久保存版だな、保存しとこうつと。

つか運営にアク禁にでもしてもらったほうがいいんじゃ?
152148:2013/08/30(金) 00:11:25.74 ID:AKVTD4GS
>>149
>>151
これから、どれくらいの書込みがくるか楽しみです。

すでに1カウント
ID:blGsVW/s
153人間七七四年:2013/08/30(金) 00:13:17.19 ID:+qJHsevc
馬鹿妄想をお前が垂れ流すから複数の人から論破されたり罵倒される。ただそれだけ。
154人間七七四年:2013/08/30(金) 00:15:43.61 ID:AKVTD4GS
>>153
>>124と125のID違うやついるだろ?
であれはID違うのに、ここにいる長文を貼り付けてるわけ。

俺はそれをおかしいって書いてるだけで、妄想じゃないよ。
155人間七七四年:2013/08/30(金) 00:19:42.35 ID:JuvWs5dY
普通に誰かが引用してるだけだろ
156人間七七四年:2013/08/30(金) 00:21:38.35 ID:AKVTD4GS
>>155
124と125の時間を見ればわかるけど、
極めて短い時間に、いつもの貼り付けと同じパターン。
そうだとすると随分と手際のいいコンビネーションだねぇww
157人間七七四年:2013/08/30(金) 17:20:42.15 ID:e3T8oKti
いきなり長文連投とか誰も読まないのになw
ほんとアスペだわ
158人間七七四年:2013/08/30(金) 17:40:45.91 ID:JuvWs5dY
こういう糞スレ立てる馬鹿がいるから長文コピペが暴れるのも無理はない
159人間七七四年:2013/08/30(金) 17:41:47.20 ID:2H6qtoFc
馬鹿は罵倒されて当たり前。自分以外の人間を一人と信じ込む妄想からいい加減卒業するべき。
160人間七七四年:2013/08/30(金) 17:42:50.76 ID:SWYTtgd+
まぁ長文コピぺがうざいなら同じ妄想垂れ流す馬鹿が消えればいいだけだな
161人間七七四年:2013/08/30(金) 17:44:37.38 ID:QP688V5V
>>160
同意
162人間七七四年:2013/08/31(土) 20:20:59.66 ID:zC+hdGWe
こんなところにまで、
アンチ秀吉の池沼織田厨が荒らしてやがる…
歴史ゲーム板や大河板や日本史板や三戦板や歴史難民板もみんなこいつの長文爆撃コピペで荒廃しまくってるし最悪な朝鮮人だわ。
163人間七七四年:2013/08/31(土) 22:13:38.91 ID:tS6R0cTO
こういう糞スレ立てる馬鹿な輩がいるから荒れるのも無理はない
164人間七七四年:2013/09/01(日) 12:05:48.55 ID:BacaOFwX
名前も住所もバレたのに余裕だな
165人間七七四年:2013/11/18(月) 21:39:24.42 ID:BHF8Afro
>>1
ぶっちゃけ信濃から東濃に帰ってきたとき、
みんな凄い迷惑されてた
弟が信濃の旧領に帰った時も酷かった
166人間七七四年:2013/11/18(月) 22:26:22.87 ID:tj5DFdSi
森が帰ってきて迷惑したとか妄想乙だな
167人間七七四年:2013/11/18(月) 22:50:34.67 ID:BHF8Afro
>>166
肥田忠政(だまし討ちにより城強奪)
久々利頼興(だまし討ちにより死亡)
長谷川五郎右衛門(強襲され自害)
平井頼母(強襲され自害)
小池家継(強襲され追放)
妻木頼忠(強襲され城強奪)
168人間七七四年:2013/11/18(月) 23:53:17.98 ID:szBxHRGp
>>162
このIDを変えるキチガイは菅沼遼太君です。
信長の野望スレを4年間荒らしたキチガイが自ら本名を公開
http://www.logsoku.com/r/livejupiter/1380635645/

荒らしのために複数回線と契約してる菅沼遼太さん。
各地で荒らし行為を繰り返して、住民に多大な迷惑を掛けていたにも関わらず、
自分が被害にあうと逆切れ↓(24も25も、成り済まし大好きな遼太君ですw)
24 名前:うんこ[] 投稿日:2013/10/01(火) 20:53:49.39 HOST:ntaich067177.aich.nt.ngn.ppp.infoweb.ne.jp
>>23
却下
じゃねぇよボケ
ちゃんと仕事しろよクズ野郎

25 名前:21[] 投稿日:2013/10/01(火) 21:10:10.04 HOST:g71.124-45-254.ppp.wakwak.ne.jp
>>23
手前ら無能な運営の不手際で個人情報が漏れてクレカ変更までやって手間取らせておいて
個人情報晒しも却下とかどんだけ身勝手なんだよクズ
169人間七七四年:2013/11/19(火) 09:22:43.66 ID:LUMwVtck
お前の自演コテだろ
170人間七七四年:2013/11/19(火) 12:57:06.11 ID:lY00XGbV
森の3月26日遺言状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
「森家の後継ぎは忠政が長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい」
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
俗にいわれてるようなDQNっぽさは全く読み取れない。
171人間七七四年:2013/11/19(火) 16:44:58.19 ID:xyDUiw3P
>>169
いや、菅沼だよ 流れはこう↓

21 : 菅沼遼太[[email protected]] 投稿日:2013/10/01(火) 15:05:14.00 HOST:g229.115-65-140.ppp.wakwak.ne.jp<8080><3128><8000><1080>[115.65.140.229] [1/1回]
対象区分:[個人・三種]優先削除あり
削除対象アドレス: http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1380092620/92
削除理由・詳細・その他: 個人の取り扱い
三種
 上記2つに当てはまらない全ての人物
三種:
 誹謗中傷の個人特定が目的である・文意により攻撃目的である

誹謗中傷
三種:
 個人を完全に特定する情報を伴っている。

22 : 21[[email protected]] 投稿日:2013/10/01(火) 15:10:35.88 HOST:g229.115-65-140.ppp.wakwak.ne.jp [1/1回]
>>21も削除していただきたいです。

23 : 不動 ◆HpcRk2ELiM @削除明王 ★[] 投稿日:2013/10/01(火) 18:41:44.52 0
>>21-22
却下。名前だけなら削除対象ではなく、削除する理由なし。

#名前との組み合わせで削除対象になる記述がありません。
#予備知識のない第三者には個人を全然特定できない上に、
#誹謗中傷として扱う記述もありませんでした。
#なお、もし当スレの21を正式に削除依頼しても、削除する理由がないので却下あるのみです。

24 : うんこ[] 投稿日:2013/10/01(火) 20:53:49.39 HOST:ntaich067177.aich.nt.ngn.ppp.infoweb.ne.jp [1/1回]
>>23
却下
じゃねぇよボケ
ちゃんと仕事しろよクズ野郎

25 : 21[] 投稿日:2013/10/01(火) 21:10:10.04 HOST:g71.124-45-254.ppp.wakwak.ne.jp [1/1回]
>>23
手前ら無能な運営の不手際で個人情報が漏れてクレカ変更までやって手間取らせておいて
個人情報晒しも却下とかどんだけ身勝手なんだよクズ
172人間七七四年:2013/11/19(火) 16:49:24.10 ID:lY00XGbV
お前が菅沼という人物を叩くためにID変更&プロバイダ変更までやって、自演したでFA
173人間七七四年:2013/11/19(火) 16:50:59.21 ID:E5f+GEaC
そういや織田厨も愛知在住だったしな
wikiでのアカウントが安城だったし、歴史ゲーム板の削除依頼スレッドで愛知のGMOが
しつこく削除申請だしまくってたし
174人間七七四年:2013/11/19(火) 17:15:40.95 ID:xyDUiw3P
>>172
俺は菅沼遼太みたいなIDをコロコロ変えて、
多人数を装って人を叩くようなことはしないよ(^-^)
175人間七七四年:2013/11/19(火) 17:44:15.69 ID:IU7zCCvU
>>171
マルチコピペしまくって板を荒らすんじゃねーよ。
だいたいお前の自演だから自称菅沼なる被害者なんていねーし。
被害者がいるって言うなら証明してみろよw
住所も流失とか行ってたが、それが事実である証明からもお前は逃げただろうがw
176人間七七四年:2013/11/19(火) 21:22:32.71 ID:LoYuJIp0
菅沼遼太は織田厨が作り上げた実在しない存在だから
被害者は皆無。よってもっと拡散しまくればいいw
歴ゲー板で起こった珍事件は誰も困ることがないので
ガンガン拡散していこうw

菅沼遼太 だが アホ aich infoweb wakwak 武田信玄 アスペルガーだが
177人間七七四年:2013/11/19(火) 21:41:34.96 ID:mOzEka93
長可が長久手から生還してきたら
菅沼と菅沼叩きの連中以上に嫌がられただろうな

いい加減スレタイ読もうぜ
178人間七七四年:2013/11/19(火) 22:01:48.97 ID:LUMwVtck
相変わらず馬鹿だな。池田より地位が上の丹羽ですら下記のように完全に秀吉に屈服状態だってのに
丹羽はさっさと秀吉に従属。長久手でも長重派遣&後から自身も尾張出兵

丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。

二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。

池田・森も秀吉が伊勢に侵攻するや否やさっさと秀吉に従属
追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている

さらに宇喜多も援軍を秀吉の要請に応えて尾張に派遣し上杉・木曽・河野・十河、
信包・神戸ら南伊勢諸将も従属。石川もこの頃から秀吉に離反しかけているのが徳川方史料でわかる

小牧長久手では尾張転進時の兵力10万に加え、伊勢方面軍2万4千に岐阜後詰6千で総勢13万もの圧倒的大軍を動因している
179人間七七四年:2013/11/19(火) 22:02:32.03 ID:E5f+GEaC
池田や森が秀吉方に付かなかったら秀吉は木曽川ライン超えることも叶わず一生伊勢筋の小城郭で苦戦して
信雄は秀吉方に史実以上の大打撃を与えていたのは間違いない
何せ史実では伊勢方面に大軍で出兵してきた秀吉に対応するため、家康・信雄とも総軍伊勢口に兵力集中させててら
味方につくと思ってた池田・森が秀吉方について居留守泥棒的に犬山・楽田方面への上陸成功(北尾張の佐久間正勝らは総じて
伊勢に出兵しており尾張は留守状態だった)この流れで伊勢方面の諸将に加えて信濃の木曽・尾張の石田毛利氏・毛利秀頼・松ノ木近辺の諸将と
秀吉方に寝返りがあいついで圧倒的勢いで信雄を圧倒すると思ったら小牧長久手で1万人戦死の大敗・その後も
松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ね、135000の規格外の大軍で
わずか16000〜7000の家康信雄領国をろくに切り取ることもできず、諦めて大阪に納馬しようと思ってたら本願寺顕如に必至に信雄への取り成し依頼してたのが
実って信雄がヘタレ和睦に応じただけだしな。そもそもこの和睦時点では信雄は人質なんて出してないし単に顕如使って必至に土下座してきた秀吉を
かわいそうに思って和議に応じてやっただけだし
180人間七七四年:2013/11/19(火) 22:03:05.03 ID:Hy9kZXtY
清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。

二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。

あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。

正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。

秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因

当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、
ただ単純に手出し云々というより秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
181人間七七四年:2013/11/19(火) 22:04:30.94 ID:Hy9kZXtY
追記するとして3/20秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない
182人間七七四年:2013/11/19(火) 22:07:35.77 ID:crrPUo2t
天正12年秋の羽柴秀次折檻状で秀吉は散々「池田・森の二人が死んで不便だ。こんな失態繰り返すと親子の縁を切ってやる」とか自分の三河小幡方面への無謀な行軍計画失態を棚に上げて
うらみつらみ書き募ってるのに死んでよかったとか相当馬鹿だな
あの戦で大量の戦死者出して後、伊勢方面尾張方面美濃方面でも松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ねてる
(特に蟹江・前田・長久保・浜田あたりは秀吉方本陣とほど近くの距離なのにあっさり信雄に奪回されてる)
あんだけ規格外の兵力差がありながら膠着どころか劣勢に陥ってるのはそれだけあの敗戦のダメージが大きかった証拠。
信雄がもう少し気骨があり、顕如使った必至の取り成しを跳ね返してたら秀吉はどうしようもなかったろうな
183人間七七四年:2013/11/19(火) 22:15:33.99 ID:crrPUo2t
こういうアホスレ立てるのが馬鹿織田厨クオリティだよな
184人間七七四年:2013/11/19(火) 22:37:03.83 ID:22ddtrOw
>>183
え?もしかして
「森長可が居なくて不便だ」→「誰も迷惑だと思っていない」
っていう1に対する反論だったの?

全く無意味な>>178‐181は削除依頼だしていい?
185人間七七四年:2013/11/19(火) 22:38:02.75 ID:22ddtrOw
186人間七七四年:2013/11/19(火) 22:42:08.32 ID:LPxFEM1O
誰も迷惑がってなんかねーよ馬鹿
つか池田や森が秀吉方に付かなかったら秀吉は木曽川ライン超えることも叶わず一生伊勢筋の小城郭で苦戦して
信雄は秀吉方に史実以上の大打撃を与えていたのは間違いない
何せ史実では伊勢方面に大軍で出兵してきた秀吉に対応するため、家康・信雄とも総軍伊勢口に兵力集中させててら
味方につくと思ってた池田・森が秀吉方について居留守泥棒的に犬山・楽田方面への上陸成功(北尾張の佐久間正勝らは総じて
伊勢に出兵しており尾張は留守状態だった)この流れで伊勢方面の諸将に加えて信濃の木曽・尾張の石田毛利氏・毛利秀頼・松ノ木近辺の諸将と
秀吉方に寝返りがあいついで圧倒的勢いで信雄を圧倒すると思ったら小牧長久手で1万人戦死の大敗・その後も
松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ね、135000の規格外の大軍で
わずか16000〜7000の家康信雄領国をろくに切り取ることもできず、諦めて大阪に納馬しようと思ってたら本願寺顕如に必至に信雄への取り成し依頼してたのが
実って信雄がヘタレ和睦に応じただけだしな。そもそもこの和睦時点では信雄は人質なんて出してないし単に顕如使って必至に土下座してきた秀吉を
かわいそうに思って和議に応じてやっただけだし
187人間七七四年:2013/11/19(火) 22:45:49.81 ID:22kunXy1
池田や森らが当初の予想に反して秀吉に付いたため家康方が伊勢方面から尾張方面に転進して伊勢ががらあきになって秀吉方優勢になっただけ
家康方は3/7陣ぶれ3/8岡崎から矢作川3/13津島3/14伊勢の桑名と移動し信雄は桑名に出陣していた水野に3/13になると
その先の戦場として想定される伊勢神戸へ出陣要請している。之に加え、佐久間・中川ら重臣も桑名方面に出陣
特に中川は美濃尾張国境の犬山城主であり、この事は織田・徳川全軍が、桑名近辺に集結したことを意味する。
ところが3/13信雄方が味方と信じていた池田森に一日でがらあきになった犬山を攻略された事に対応して徳川は伊勢戦線から離脱し尾張へ向かう

同日伊勢安野津の織田信包も秀吉方になり、南伊勢は信雄から秀吉へ寝返った神戸・関・田丸ら国人連中らも含めて秀吉方の独壇場となる
あと秀吉が「信雄への寝返りを気にして三河方面への別働隊に組み込んだ」なんて妄想はしらん
秀次や長谷川・堀・木下兄弟など信頼に足るべき連中らとともにきわめて重要な敵地への行動させてる時点で秀吉が池田・森らを信じていないとする根拠なんぞない
特に秀次は秀吉の数少ない一門衆で後継者候補。木下兄弟も秀吉に非常に近く堀や長谷川も本能寺後一貫して行動をともにし、もはや譜代といっていい連中
大して信雄家臣の吉村高木毛利滝川雄利なんてなじみのないもいい所の外様家臣
吉村なんて信雄に付き従ったのがつい去年だしな
そんな信雄の領国状況無視して秀吉が味方の寝返り気にしてどうこうとか完全に妄言もいい所
信雄が家康の離反気にして小牧山から思うように行動できなかったとか
家康が石川の離反気にして思うように命令できなかったとかいってるのと同じ(石川はこの頃から秀吉に通じだしてると三河物語にあるし水野も翌年秀吉に寝返っている)
188人間七七四年:2013/11/19(火) 22:48:51.27 ID:E5f+GEaC
天正12年3/12秀吉→関一政で信雄方の林与五郎が亀山城へ攻撃してきたが防戦した事を了承
さらに3/13秀吉→丹羽で小島・関は味方になったと書いてる
3/15にも秀吉→関や3/17秀吉→田丸で峰城攻防での奮戦を賞賛されたり松ヶ島攻防での指示を事細かにしている
つうかそもそも信雄三重臣ですら秀吉に篭絡されてたしそいつらを信雄が粛清した事でボロボロ連鎖的に秀吉方に寝返りが続いてる
岡本良勝も秀吉方だし小島はその後秀吉から直接木造攻めの指示を事細かに出されている
尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており
現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
189人間七七四年:2013/11/19(火) 22:51:38.44 ID:22ddtrOw
じゃあ信雄にとって、森は迷惑だったってことじゃん。
よし、馬鹿はお前で決定?
190人間七七四年:2013/11/19(火) 22:52:58.67 ID:CCHIRgpN
軍記講談大好きな馬鹿織田厨向けの糞スレッド
191人間七七四年:2013/11/19(火) 22:54:42.34 ID:22ddtrOw
>>190
ネタスレをコピペで荒らして何がそんなに楽しいの?
192人間七七四年:2013/11/19(火) 22:59:42.61 ID:22ddtrOw
>>190
>実って信雄がヘタレ和睦に応じただけだしな。そもそもこの和睦時点では信雄は人質なんて出してないし単に顕如使って必至に土下座してきた秀吉を
>かわいそうに思って和議に応じてやっただけだし

186のこのあたりとか、「軍記講談」以外の何物でも無いと思うけど。
バグった日本語一生かけて直せば、立派な講談師になれると思うよ?
193人間七七四年:2013/11/19(火) 23:10:24.57 ID:22kunXy1
>>192
何いっとんのお前
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。

家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
194人間七七四年:2013/11/19(火) 23:12:15.28 ID:zTjdRbby
>>192
そんな軍記も講談もありません
195人間七七四年:2013/11/19(火) 23:15:08.45 ID:JdXn7HhK
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
196人間七七四年:2013/11/19(火) 23:24:35.49 ID:22ddtrOw
>>193
「土下座」、「小心者」、「関白の慈悲」、「やれやれと恭順」とか、

文献的な根拠あるの?
もろにに講談師の語り口じゃね???

100〜200年前に生まれてたら、立派な講談師だったろうし、
300〜400年前に生まれたら、あの小瀬甫庵と覇を競えたと思うよ

なんか本当に取り返しのつかない大失敗をしたよなー 慰める言葉が思い浮かばない
197人間七七四年:2013/11/20(水) 08:38:53.53 ID:dO9hTE0l
>>175
君の発言でまーた在日織田チョンが火病を発症してアンチ秀吉コピペ爆撃荒らしを開始しちゃったじゃないか。
織田チョンに不都合な事実をレスしたらこういう展開になるのは分かっていることだろ。
1000年恨む半島人はキチガイなんだから相手するなよ。荒れるだけで生産的なレスは不可能な相手なんだから。
198人間七七四年:2013/11/21(木) 00:02:59.03 ID:wMVa9smz
>>197
コピペが悪いことだとやっと認識できたんだな 成長したな! 偉いぞ!
199人間七七四年:2013/11/21(木) 00:08:22.61 ID:hMknC7WH
こういう糞スレッド立てるのもコピペ貼るのも似たようなもんだろ
200人間七七四年:2013/11/21(木) 00:21:38.57 ID:wMVa9smz
>>199
糞スレッド立てることも、悪いことだと認識できたんだな パパ感動したぞ!


自治スレの苦情より
530 :人間七七四年:2013/10/16(水) 00:23:22.60 ID:AzS8HOxyだが
(未申請)信長公記の捏造マンセーを一つずつ暴いていくスレ
(未申請)織田軍団ってイメージで凄いと思ってたけど…
(未申請)なぜ織田家はあっけなく滅びてしまったのか
(未申請)織田信長のクズエピソード教えてください
(未申請)豊臣秀吉のクズエピソード教えてください
(削除済)【雑魚】織田信長はなぜ過大評価されるのか【馬鹿】
(削除済)wikiを追い出された織田厨がyourpeで大暴れ!!!

アンチだが
(未申請)甲陽軍鑑の誇張捏造を一つずつ暴いていくスレ
(未申請)島津に比べたら、武田・上杉なんて雑魚だよな
(未申請)武田信玄は毛利元就に比べるとたいした事ない
(申請中)アスペルガーだがの大乱
(申請中)菅沼りょうた=だが
(申請中)【だが】歴史改変事件を考察するスレ3【三河菅沼】
(削除済)【だが】歴史改変事件を考察するスレ 2【Sub】
(削除済)【だが】歴史改変事件を考察するスレ【Sub】
(削除済)秀吉へのひどいアンチ爆撃レス報告スレ
(削除済)武田信玄が尾張にいても、今川に殺されて終了

クソスレばかり作って、もういい加減にしてほしい!
201人間七七四年:2013/11/21(木) 16:25:37.33 ID:s17UwsEC
アンチ秀吉の在日織田半島人きもい
202人間七七四年:2013/12/18(水) 22:44:58.54 ID:34PNteRW
相変わらずIDがコロコロと変わりますなぁ。

信長の野望スレを4年間荒らしたキチガイが自ら本名を公開
http://www.logsoku.com/r/livejupiter/1380635645/

荒らしのために複数回線と契約してる菅沼遼太さん。



菅沼遼太がやらかしたこと一覧↓

上洛スレ60事件
「アスペルガー」姓の下賜
だねえ事件
上洛スレ64事件
ウィキペ参照事件
美濃御料所崩れ
投票否定事件
だがアホ事件
教科書改変事件
創造・天道の屈辱
対立煽り失敗事件
したらば落ち
10.1事件
筆頭家老・佐久間信盛の変
菅沼遼太発禁事件
だが2世事件だが2世事件・後編
http://www26.atwiki.jp/dagamatome/pages/1.html

「織田厨のでっち上げ」「事実無根の偽名虚像」だとされた「菅沼遼太」という名前が
なぜかしたらば掲示板で嘆願され書き込み不能の事態になったのである。
これはどういうことだろうか・・・(棒)
http://www26.atwiki.jp/dagamatome/pages/58.html
203人間七七四年:2013/12/18(水) 23:46:12.49 ID:045BoKhF
死ぬべくして死んだんやろなあ
204人間七七四年:2013/12/19(木) 07:18:28.27 ID:z2YfSLWH
秀吉の立てた三河方面総攻撃作戦がウンコすぎたからね。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる

敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
205人間七七四年:2013/12/19(木) 07:19:35.95 ID:jIiL5+Rd
あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。
仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が
頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も
京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた
5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、
これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、
ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。
天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。

二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、
光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。
206人間七七四年:2013/12/19(木) 07:21:06.67 ID:19UeBvni
天正12年秋の羽柴秀次折檻状で秀吉は散々「池田・森の二人が死んで不便だ。こんな失態繰り返すと親子の縁を切ってやる」とか自分の三河小幡方面への無謀な行軍計画失態を棚に上げて
うらみつらみ書き募ってるのに死んでよかったとか相当馬鹿だな
あの戦で大量の戦死者出して後、伊勢方面尾張方面美濃方面でも松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ねてる
(特に蟹江・前田・長久保・浜田あたりは秀吉方本陣とほど近くの距離なのにあっさり信雄に奪回されてる)
あんだけ規格外の兵力差がありながら膠着どころか劣勢に陥ってるのはそれだけあの敗戦のダメージが大きかった証拠。
信雄がもう少し気骨があり、顕如使った必至の取り成しを跳ね返してたら秀吉はどうしようもなかったろうな
207人間七七四年:2013/12/19(木) 07:22:45.04 ID:z2YfSLWH
つか池田や森が秀吉方に付かなかったら秀吉は木曽川ライン超えることも叶わず一生伊勢筋の小城郭で苦戦して
信雄は秀吉方に史実以上の大打撃を与えていたのは間違いない
何せ史実では伊勢方面に大軍で出兵してきた秀吉に対応するため、家康・信雄とも総軍伊勢口に兵力集中させててら
味方につくと思ってた池田・森が秀吉方について居留守泥棒的に犬山・楽田方面への上陸成功(北尾張の佐久間正勝らは総じて
伊勢に出兵しており尾張は留守状態だった)この流れで伊勢方面の諸将に加えて信濃の木曽・尾張の石田毛利氏・毛利秀頼・松ノ木近辺の諸将と
秀吉方に寝返りがあいついで圧倒的勢いで信雄を圧倒すると思ったら小牧長久手で1万人戦死の大敗・その後も
松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ね、135000の規格外の大軍で
わずか16000〜7000の家康信雄領国をろくに切り取ることもできず、諦めて大阪に納馬しようと思ってたら本願寺顕如に必至に信雄への取り成し依頼してたのが
実って信雄がヘタレ和睦に応じただけだしな。そもそもこの和睦時点では信雄は人質なんて出してないし単に顕如使って必至に土下座してきた秀吉を
かわいそうに思って和議に応じてやっただけだし

池田や森らが当初の予想に反して秀吉に付いたため家康方が伊勢方面から尾張方面に転進して伊勢ががらあきになって秀吉方優勢になっただけ
家康方は3/7陣ぶれ3/8岡崎から矢作川3/13津島3/14伊勢の桑名と移動し信雄は桑名に出陣していた水野に3/13になると
その先の戦場として想定される伊勢神戸へ出陣要請している。之に加え、佐久間・中川ら重臣も桑名方面に出陣
特に中川は美濃尾張国境の犬山城主であり、この事は織田・徳川全軍が、桑名近辺に集結したことを意味する。
ところが3/13信雄方が味方と信じていた池田森に一日でがらあきになった犬山を攻略された事に対応して徳川は伊勢戦線から離脱し尾張へ向かう

同日伊勢安野津の織田信包も秀吉方になり、南伊勢は信雄から秀吉へ寝返った神戸・関・田丸ら国人連中らも含めて秀吉方の独壇場となる
あと秀吉が「信雄への寝返りを気にして三河方面への別働隊に組み込んだ」なんて妄想はしらん
秀次や長谷川・堀・木下兄弟など信頼に足るべき連中らとともにきわめて重要な敵地への行動させてる時点で秀吉が池田・森らを信じていないとする根拠なんぞない
特に秀次は秀吉の数少ない一門衆で後継者候補。木下兄弟も秀吉に非常に近く堀や長谷川も本能寺後一貫して行動をともにし、もはや譜代といっていい連中
大して信雄家臣の吉村高木毛利滝川雄利なんてなじみのないもいい所の外様家臣
吉村なんて信雄に付き従ったのがつい去年だしな
そんな信雄の領国状況無視して秀吉が味方の寝返り気にしてどうこうとか完全に妄言もいい所
信雄が家康の離反気にして小牧山から思うように行動できなかったとか
家康が石川の離反気にして思うように命令できなかったとかいってるのと同じ(石川はこの頃から秀吉に通じだしてると三河物語にあるし水野も翌年秀吉に寝返っている)
208人間七七四年:2013/12/19(木) 07:23:27.34 ID:vy7sksEj
森の3月26日遺言状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
「森家の後継ぎは忠政が長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい」
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
俗にいわれてるようなDQNっぽさは全く読み取れない。
209人間七七四年:2013/12/21(土) 21:02:40.45 ID:IeewGBka
>>208
>DQN
当たり前
面白半分にDQNって書いてるだけで、森長可って源氏だぞw
(ちなみに伊達と細川も源氏で島津は頼朝公の隠し子の子孫だっけ?)
今でいうDQNとは違って当たり前w
210人間七七四年:2013/12/21(土) 22:36:35.09 ID:icImDYjM
アホスレッド
211人間七七四年:2013/12/31(火) 15:46:22.06 ID:zEO9x4Yg
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww


ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww


ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww


ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww



ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
212人間七七四年:2013/12/31(火) 21:06:14.43 ID:qhhSFJRo
>>勝てない相手が死ぬまでは卑屈なまでに篤実な善人顔を装おって
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
213人間七七四年:2013/12/31(火) 21:08:13.29 ID:Sk4Ga4WM
>>家康は追い詰められてた

それは完全に秀吉の方だな
何せ長久手合戦後は7倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
    →伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
214人間七七四年:2013/12/31(火) 21:09:55.43 ID:Gv7qchwB
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる

上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず長久保戸木松ノ木東駒野河波二重彫り蟹江浜田など砦クラスの小城軍で負け続け
尾張半分すら切り取れなかったんだからこのままガチンコ戦闘継続してたら秀吉は戦死してたのは間違いない
215人間七七四年
相変わらずIDがコロコロ変わりますなぁ

「織田厨のでっち上げ」「事実無根の偽名虚像」だとされた「菅沼遼太」という名前が
なぜかしたらば掲示板で嘆願され書き込み不能の事態になったのである。
これはどういうことだろうか・・・(棒)
http://www26.atwiki.jp/dagamatome/pages/58.html

菅沼遼太がやらかした迷惑行為↓

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だが2世事件だが2世事件・後編
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