戦国ちょっと悪い話17

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1人間七七四年
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話16
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1260458448/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話17
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1263277160/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
2人間七七四年:2010/01/23(土) 21:06:55 ID:ndM7juZQ
>>1
乙であった
さあワシの杯を受けよ。

この正則の酒飲めぬとは申すまいな
3人間七七四年:2010/01/23(土) 21:44:01 ID:jjXRjZ9Q
>>1
乙である

>>2の杯は受けられなくとも
この直家の杯は受けていただけるでしょうな。
4人間七七四年:2010/01/23(土) 23:04:18 ID:TvoJXFvQ
某、八郎様の御流れを頂戴いたしとう存じまする。
5人間七七四年:2010/01/23(土) 23:41:43 ID:OpGjXNiM
水戸頼房2連発

その1 頼房が正室を持たなかった訳

頼房は、当時の成人大名には珍しく、生涯正室を持たなかった。
理由は定かではないが、「中村雑記」には次のような話が載せられている。

頼房が若いころ、兄の秀忠と会っていたときのこと。
秀忠が「お前を誰の婿にしてやろうか。」と言ったところ、ちょうど隣にいた兄嫁のお江与の方が、
「こんな悪戯者を誰が婿にしたがるものですか。」と余計な突っ込み。
どうもお江与の方は、息子の家光が頼房とつるんで城の外に出て悪さしているのを知って、
頼房に好意を持っていなかったらしい。
だが、この言葉に腹を立てた頼房、終に正室を持たなかったとのことである。

その2 頼房の教育方針(その2)

頼房は、光圀が幼いころ、夜に刑場に行き生首を持ってくるよう命じた話がまとめスレにあるが、
ほかにも次のような話がある。

あるとき、頼房は光圀に対し、
「もし、我らがともに戦場におり、わしが深手を負って倒れたらおまえはどうする。」と尋ねた。
光圀は、
「そのときは父上を乗り越え、敵と戦いましょう」と答え、父頼房はその言葉をたいそう喜んだという。

いい話かもしれないが、行き過ぎとも思え、時代遅れの感がしないでもないので、悪い話のほうに入れてみました。
6人間七七四年:2010/01/24(日) 11:02:02 ID:nGiY6AWz
俺が正室を持たない理由は
一人の女の幸せで世界中の女を泣かせたくないからなんだが
7人間七七四年:2010/01/24(日) 11:32:30 ID:/dR5Xwof
御三家のお三方は皆めんどくさく育ってるよな
8人間七七四年:2010/01/24(日) 13:00:11 ID:71Xd+VVY
三河武士の血が出たんじゃねぇの
9人間七七四年:2010/01/24(日) 13:10:38 ID:tWH6+iEO
めんどくさい御三家か

徳川義直はなかなか子供ができなかったのに側室を持とうとしなかった。
その理由が…

「側室など人倫の道に反する!(キリッ」

だった。儒教的には側室OKだったような気がするがとにかくそういうことらしい。
大御所秀忠・将軍家光が「尾張家断絶すんぞ!」と注意しても聞く耳を持たず、

土井利勝の説得でやっとこさ、おさいの方を側室にしたのでした。
まったく頑固な御人…かと思えば見初めた百姓の娘を側室にしてたり。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1499.html

そして義直の息子光友はそんな父を回想する。

「親父は変人だった…。俺がたまたま生まれたから御家は助かった。
もうこんなことがあってはならない。

だから俺は子作りに励む!(キリッ」

光友の側室は10人、子供は男女合わせて21人であった。お前も大概だよ。
10人間七七四年:2010/01/24(日) 18:48:28 ID:BVEOUiK6
隔世遺伝?
11人間七七四年:2010/01/24(日) 22:51:44 ID:4J7G4zWK
小田切所左衛門と言えば武田家などに仕え、小牧長久手の合戦において上半身裸で
槍合わせをしたことなど、当時有名な勇者であり、後には斉藤伊豆入道道仁などと名乗った。

さてこの小田切、大坂の役の頃は前田家に仕え、冬の陣では真田丸攻めに加わっていた。

ある時、真田丸より前田軍に向かって、一斉射撃が行われた。すると…

小田切「ん…?」
同僚「おや小田切殿、どうかいたしたか?」
小田切「さっきの射撃の弾が、頬に当たった」
同僚「!?」

小田切、表情も変えずに頬から銃弾をほじくり出した

「ほらこれだ、全く危ないところだった」

いやいやいや、危ないとかじゃなくて当たっているだろ!?
唖然とした同僚たちにその弾丸を見せていたとき…

ドドドドド

再び真田丸より射撃!その瞬間小田切の眉間から、血が流れた!
またも銃撃が当たったのだ!しかも眉間に!!

青ざめる同僚たち!…が、小田切はまたもや、何でも無いような顔をして手を頭にやると、
額から弾丸をほじくり出し

「あーあ、また当たっちゃったよ。こういう事があるから甲冑って大切なんだよね。
そうそう、俺が今つけてる鎧って武田信玄から頂いたものでさ…」

いやいやいやいやいや、甲冑関係ないところにあたっているだろ!
しかも何あさっての方向の自慢話をしているんだ!?
前田家の同僚たち、すっかり呆れ返っていたとか。

そんな小田切所左衛門さんからの教訓
「甲冑は大切」

裸で合戦に出たり頭で銃弾受け止めている人が言っているんだから間違いはないのだ。

多分。
12人間七七四年:2010/01/24(日) 23:23:29 ID:wDZvFPn3
>>11
三好実休「…」
13人間七七四年:2010/01/24(日) 23:32:55 ID:MctTnElf
>>11
斉藤道仁って上杉浪人軍団の斎道二?
ずいぶん道三リスペクトというか新加瀬大周みたいな名前だなと思ったw
14人間七七四年:2010/01/24(日) 23:43:50 ID:jVz6q19n
森さんやヒャッハーさんが彼レベルじゃなくてよかった。
15人間七七四年:2010/01/25(月) 00:09:31 ID:P561Nges
なんたる面の皮の厚さw
つか脳震盪ぐらい起こせ…脳筋じゃ無理かw
16人間七七四年:2010/01/25(月) 01:52:07 ID:rwcUUIsR
>>11 鬼武蔵がその頭蓋骨欲しがってたわ
17人間七七四年:2010/01/25(月) 13:03:24 ID:yhuCZF7G
人間は頭を撃たれたら即死だと思っていたけどそんな事はなかったぜ!
18人間七七四年:2010/01/25(月) 17:50:15 ID:ydFjaKBI
稲富祐直「甲冑は大事だよね〜」
19人間七七四年:2010/01/25(月) 18:36:18 ID:wXEiUUkK
長可「眉間撃たれたぐらいで人が死ぬわきゃないよな!ちゃんと鎧もつけてるしな!」
20人間七七四年:2010/01/26(火) 00:13:25 ID:y1i15NtW
関ヶ原、岐阜城攻めの時の事、

城方の者の中には相当の武功を誇る人間も多かったのだが、そう言った人々は尽く
自身の功を得るため城外に出て戦った。
そのため、城方が東軍への降伏を受諾し、城主織田信秀が下城する頃には、その傍に居たのは、
家老の木造長正一人であったと言う。
他の者たちは皆、残らず信秀より先に落去ったのだそうだ。

「忠義の道が衰えると、人は皆、自分の身を利するようになると言うが、まさにその通りである。」

人々、城より落ちゆく織田信秀の寂しい姿に、そのように語り合ったと言うことである。
21人間七七四年:2010/01/26(火) 00:29:52 ID:MYiQCBOj
信秀は信長の親父じゃなかったか?
22人間七七四年:2010/01/26(火) 00:30:59 ID:y1i15NtW
まるごと間違えてる…orz

「秀信」でございます
23人間七七四年:2010/01/26(火) 01:55:47 ID:OereBmwL
秀信さんは降伏の前に、
禄を失った部下達が再仕官の時に困らない様にって
手柄を立てた人達みんなに感状を与えてるんだよね・・・
24人間七七四年:2010/01/26(火) 07:12:33 ID:niv2CuhC
>>23
信長の嫡孫とか言われて担がれたけど、きっといろんな人に気を遣いながら育ったのかもな。
と、その感状の話を見るたびに思う・・・・
25人間七七四年:2010/01/26(火) 08:29:47 ID:yAdmIQAx
その話は良く聞くが、
家臣は再就職できたのかな?
26人間七七四年:2010/01/26(火) 11:08:16 ID:2uQ/vSNh
越前黄門や時代がズレるが駿河大納言に仕えてたりすると面白いな…
27人間七七四年:2010/01/26(火) 23:06:26 ID:Ei+E0/Ut
木造は福島家、百々綱家は山内家に仕えてるな
他にも福島や池田といったあたりに仕えたのが多い
28人間七七四年:2010/01/26(火) 23:10:32 ID:vTd+zk94
岐阜の秀信を攻めた家に仕えた人が多いのかな。
いい働き見せてスカウトされたとか?
29人間七七四年:2010/01/26(火) 23:27:47 ID:Db4ZY39Z
同情されたんじゃないのかね。
すぐ落城しちゃったし何もする時間なかたろうし
30人間七七四年:2010/01/26(火) 23:59:30 ID:OereBmwL
元の持ち主が目の色変えて攻めてくるなんてあんまりでござる
31人間七七四年:2010/01/27(水) 00:49:30 ID:3uD654QS
岐阜城は落城した回数が一番多い…らしい
32人間七七四年:2010/01/27(水) 01:05:44 ID:KewzhjOZ
小田城とかも多そうだなあ……w
33人間七七四年:2010/01/27(水) 02:32:15 ID:pJqhIs6z
高屋城も結構落ちてるよな
10回は経験してるはず
34人間七七四年:2010/01/27(水) 02:35:04 ID:J8gvgnQn
僕のハートはもっと沢山落城してます・・・
35人間七七四年:2010/01/27(水) 03:13:33 ID:rwVv5+dI
>>31
稲葉山城だったころも合わせてなのかね
3631:2010/01/27(水) 03:44:42 ID:3uD654QS
すまない
ちょっと調べてみたら「比較的有名な」城の中では一番多いらしい
ちなみに6回だそうだ
37人間七七四年:2010/01/27(水) 03:56:31 ID:JIoDFSoH
>>34
浮気性だなあ
そんなにたくさんの女性と付き合うなんて
38人間七七四年:2010/01/27(水) 04:20:25 ID:qAGFGYZQ
>>36
堅城で有名って割には多いよね。
物凄い弱点でもあるのかな?それとも戦国後期には防備が陳腐化していたとか?
39人間七七四年:2010/01/27(水) 08:17:27 ID:7bcm1xj/
>>38
なまじ要衝だから本気で攻め落とされる→要衝だから破却されずに再利用される
のコンボだったんじゃないか
40人間七七四年:2010/01/27(水) 09:34:31 ID:/kIXE3TS
>>38
久保田正志の『日本の軍事革命』によれば、戦国後期は火器の発達普及により、山城の防御力が落ちた(正確には、寄せ手側の攻撃力が上がった)。
その結果、新規築城は高低差で防御力を取る山城が激減し、代わって堀と塀で水平に距離を取る事で防御力を上げる平山城が増加したんだとか。
41人間七七四年:2010/01/27(水) 09:55:38 ID:EQninXdV
九州征伐でも小田原征伐でも兵力差があったとはいえ山城が一瞬で落ちてるしなぁ
42人間七七四年:2010/01/27(水) 10:56:36 ID:3gNU8Aao
紹運量産しないと厳しい
43人間七七四年:2010/01/27(水) 13:10:07 ID:iG0Uepe+
>>40
清が明を城攻めする時は、大砲で城壁に穴を開けるんだってね
44人間七七四年:2010/01/27(水) 13:46:29 ID:Dwm0wmny
>>43
大陸の城は城郭で街まで取り込んでるからねぇ
45人間七七四年:2010/01/27(水) 14:27:47 ID:IXa0lZM7
>>40
> 代わって堀と塀で水平に距離を取る事で防御力を上げる

「水平」ってのは語弊があるな。やはり敵を迎え撃つには縦深が重要なわけで。
平城も山城も、「高い場所にいる守備兵が低い場所にいる敵兵を討つ」という思想は
変わらない。

山城と平城の防衛思想の違いとして、多くの山城は敵の攻撃を尾根伝いのものに限定出来る、
点の防衛を指向しているのだが、各曲輪は基本独立して防衛し、連携が殆ど存在しないことと、
一旦一箇所でも曲輪を占拠させると、そこが逆に敵の射撃陣地となり、近隣の曲輪まで
沈黙させられると言う弱さがある。

これに対し平城は、曲輪を巧みに組み合わせ、敵の進入路は複数あるが、いずれにも複数の曲輪から
射撃を集中させられる場所(キルゾーン)が分厚く存在し、主郭が落とされるまで抵抗が可能な
「面での防衛」を指向している。

平城が増えたのは鉄砲が発展して、それを効果的に使用し、また「面の防衛」のできる
縄張りを、比較的自由に造形出来るため。山城はどうしても地形での制限が多い。

ただ山城が時代遅れになったのか、といえばそういうわけではなく、
面を意識した山城が、関ヶ原以後ですら作られたりしている。(黒田氏の筑前鷹取城など)

山城が滅んだのは防衛能力と言う以上に、国内での戦争がほぼ消滅し防衛拠点としての
存在意義を消失したことと、一国一城令により、城と言うものが、その存在を政庁としてのものに
転換したため、と考えた方が良いかと。
46人間七七四年:2010/01/27(水) 18:37:34 ID:sEcGNbTN
3行で
47人間七七四年:2010/01/27(水) 18:44:06 ID:h1DtZOXm
>>46
このスレ来ない方いいよ
3行しか読めないならこのスレの逸話の九割五分は理解できないだろう
48人間七七四年:2010/01/27(水) 18:46:05 ID:s1KASEOO
はいごめんなさいよ通らせてもらいますよごめんなさいよ
49人間七七四年:2010/01/27(水) 19:19:11 ID:OC09LJ01
某漫画にも取り上げられた逸話ですが…

現在の大阪府守口に、千利休と親しい侘茶人がおり、いつか茶席をと約束していた。
ある冬の日、大坂から京へ向かっていた利休は、彼の家へふらりと立ち寄った。
アポなし、しかも夜も更けている。
主人は来訪に驚いた態ながら、喜んで利休を迎え入れた。

邸内は手入れされ、心憎いまでに侘びをかもしている。
通された部屋で利休が風情を堪能していると、窓の方から物音がする。
見てみると、亭主が行灯を足元に置き、竿で柚子の実を取っているところだった。
(ああ、あれで今から料理を出してくれるのか)
とっさの客をもてなすのに、実に気のきいた趣向だ。
利休は心から喜んだ。

さて、案の定、柚子味噌が出され、酒一献を終えた。
その後。
「大坂より届いたものです」
亭主が出してきたのは、ふっくらとした蒲鉾だった。

「……」

利休はすべて察した。
当時、蒲鉾は高級品で、庶民が日常食べるものではない。日持ちもしない。
よそ向きの食べ物だった。
亭主は何食わぬ顔だが、利休が守口を通ることを、あらかじめ誰かから聞いていたのだろう。
柚子の件も、利休が喜ぶと分かっていて、わざと見せたのに違いない。

一気に醒めてしまった利休は、
「京に用事があるので」
と言って、亭主が引き止めるのも聞かず、席の途中で帰ってしまった。
50人間七七四年:2010/01/27(水) 19:43:25 ID:DBVmu0Ul
おお、これは「へうげもの」にもあったエピだな
51人間七七四年:2010/01/27(水) 19:47:52 ID:UtMbA8Ru
「常に事前に準備せよ。合戦の前に勝利を決めよ。矢を放つ槍を合わすは事後処理にすぎぬ。」
というセンゴクの武田信玄の言葉を守っただけです(´・ω・`)
52人間七七四年:2010/01/27(水) 20:19:13 ID:9Ebywxi8
>>50
エピがエビに見えて、海老料理なんか出てたか?って素で思っちまったよ
53人間七七四年:2010/01/27(水) 20:45:00 ID:IXa0lZM7
谷太郎左衛門と言えば度々に武功を成した勇者で、
老年になっても黒田長政が、牢人分として扶持を与えていた程の人なのだが、
この谷がある時語ったことに、

とある近江での城攻めの時のこと、谷は敵の鉄砲で肩を撃ちぬかれたが、
それでも鉄砲狭間の穴を手掛に、塀の上へと乗り上がった。
しかし城中には多くの人影が見えたため、攻め入ることを諦め引き返した。

ところが、である。後で捕虜になったものに聞けば、谷が入ろうとした場所に、その時兵は
いなかったと言うのだ。

「しかし多くの人影を見たぞ!一体どういう事だ!?」

「はい、あそこは守備兵を置かない代わりに、杭を打ってそれにむしろやこもなどを被せ、
人が立っているかのように見せていたのです。」

谷はこの事を話したあと

「もしあの時、人影が何かしっかりと観察していれば、私は大きな手柄を立てられただろう。
どんな物事もいいかげんにしてしまっては、このような失敗があるものだ。
いかなる状況でもしっかりと観察し考える事、これが大切である。」

そのように言ったそうである。
54人間七七四年:2010/01/27(水) 21:13:40 ID:Pu4Xn8LC
>>53
黒田家が近江で城攻めというのは
賤ヶ岳合戦の前哨戦かな?
55人間七七四年:2010/01/27(水) 21:32:05 ID:s1KASEOO
>>54
黒田家での事とは限らんと思う
56人間七七四年:2010/01/27(水) 22:07:59 ID:DYowdLhM
黒田家と賤ヶ岳といえば…黒田二十四騎には当然後藤又兵衛、母里太兵衛、栗山利安ら錚々たる面子が入っている。
だが二十五騎という説、そしてそれに基いた絵画も残されており、その場合長政が追加される。
その説では如水存命時は二十五騎で長政が家督を継いだので二十四騎になった、とされている。

まぁ二十四騎自体江戸時代に言われ始めたことなのだが…
江戸時代にも如水存命時の長政の立ち位置はそんなもんと思われてたんだろうな、と推測出来るお話。
57人間七七四年:2010/01/27(水) 23:05:45 ID:s1KASEOO
うっかり歴史に名を残すといつどこで何を言われるかわかったものでないのはご存じの通りで、
黒田二十四騎というのは、実は長政のひ孫の時代になってから作られたもので、実際には
文禄の役の侍大将を列挙しただけらしい。
武田二十四将ブームにあやかったらしいが、その内神格化されて神社に祀られてしまったん
だからすごい。
他にも、「長政が書き残したものが出てきた」と称して都合のいい偽文書を出した事がある
なんて噂も聞く。死後も大活躍とはさすが黒田長政だ。
しかし黒田二十四騎図といえば、常に二十四人の頂点には偉大な藩祖長政公が描かれて
いるというのに、人口に膾炙すると父親がトップになってしまうのは二代目の悲しさか…。
だがまあ、この子孫の所業、ケチケチエコスタイルに定評のある如水と長政なら
よくぞ便利に使ったと笑って許してくれそうな気もする。
58人間七七四年:2010/01/28(木) 00:05:51 ID:cA8YKFfD
黒田家は当の長政が父上マンセー発言しまくってるから、後世でそういう評価なんじゃないだろうか
しかし、父親が有名人なために、戦に負けて布団かぶって拗ねるだの、
謀殺した城井一族の怨霊に怯えただの、若い頃の恥ずかしい話が伝わってるのが何とも
59人間七七四年:2010/01/28(木) 10:52:28 ID:z+EyT/R0
>>49
おハイソな茶道の話だから様になるけど
これが夜更けに友人宅に上がりこんで「おーい酒飲もうぜ。つまみはありあわせでいいや」になると普通に失礼だな
60人間七七四年:2010/01/28(木) 14:00:35 ID:p0O9EyRo
関ヶ原の時のこと。

この時本多忠勝は、家康から拝領した、黒羽の頭巾と陣羽織という非常に珍しいものを
着用していたそうだ。
多分こんなの
http://shop.nhk-sc.or.jp/img/goods/L/V30600012.jpg

ところで今の世も社会人には、そう思ってもあえて口に出さない奥ゆかしさ、と言うものが必要なのだが、
これを見た福島正則は、相変わらず空気を読まずにストレートにこう言った

「ちょwww本多殿なんすかそれwwwwニワトリのコスプレ?wwwww」


言わぬが花の言葉もあるだろうに。しかし忠勝

「バーカ、俺はこれで鬨の声を作るんだよ!」

と、『(勝利の)鬨の声を作る』と、『時の声を告げる』をかけて、上手いこと言い返したのだそうだ。


まあ、いい話といえばいい話ですが、忠勝の方も自分の格好がニワトリみたいって言われて図星だと
考えたんだな、ってのと、正則はきっと、加藤嘉明の兜を見てもストレートに
「あ、イカだ。」とか言っちゃうんだろうな、とか想像してしまったのでこっちにw
61人間七七四年:2010/01/28(木) 14:12:34 ID:zLBy04ER
画像が予想外で笑ったw
62人間七七四年:2010/01/28(木) 14:15:23 ID:1CEY32Xy
家康からだから着たくないって言えなっかたのかもね
63人間七七四年:2010/01/28(木) 14:31:48 ID:cuOGseK5
秀吉から佐藤忠信の兜もらって「どうだ、嬉しかろう!」
って言われても
「いや、ピンと来ないッス」とか正直に答えたクセに…
64人間七七四年:2010/01/28(木) 17:43:09 ID:npSCJDC/
市松が逸話に登場すると安心するなw
65人間七七四年:2010/01/28(木) 17:45:49 ID:4gLCNs5D
うん、なんか清々しさを感じるよw
66人間七七四年:2010/01/28(木) 17:55:14 ID:A5EfLBCn
>>59
北条時頼のことか
67人間七七四年:2010/01/28(木) 19:49:29 ID:X39e+y0C
新納忠元には、可愛がっている愛妾がいた
この娘は和歌が上手で、忠元も彼女のそんなところを愛していた

ある日、忠元が娘の元を尋ねると、娘は一心に何かを書いていた
ははあ何か歌でも思いついたかと忠元は思い、
娘に見せてみろといったが、娘は頑としてそれを見せなかった
見せろ、嫌だの問答がしばらく続き、やがて娘はその紙を飲み込んでしまった

瞬間、忠元はキレた。
娘が歌を見せたがらないのは、おそらくはあれが浮気の歌だからだ
忠元はそう思い、太刀を取ると娘の首を刎ね
その喉の奥から歌の書き付けられた血まみれの紙を取り出した

紙には娘が忠元を想って書いた歌が書き込まれていた

新納忠元の後味の悪い話
68人間七七四年:2010/01/28(木) 19:53:47 ID:9weoB+cD
>>67
グロい
69人間七七四年:2010/01/28(木) 19:55:32 ID:+z2vJtXX
ひでえ話だwww
忠元も流石に応えたに違いない
70人間七七四年:2010/01/28(木) 19:57:05 ID:Wi/Q+8XA
>>67
おお…これはひどい…
71人間七七四年:2010/01/28(木) 20:00:45 ID:hLIjAgs7
これはいかんでしょ
72人間七七四年:2010/01/28(木) 20:01:45 ID:+z2vJtXX
最早自害モノだろ
可愛がってた娘を浮気と勘ぐって殺しちまったら自分を想ってくれた歌だったとか
俺なら間違いなく自決するか夢に娘が出てきて発狂死する
塚ちょっとどころじゃない ワーストクラス
73人間七七四年:2010/01/28(木) 20:03:05 ID:V1XRP1on
血の気の多い戦国武将に
下手に隠し事するとロクな目に遭わないのかw
74人間七七四年:2010/01/28(木) 20:14:35 ID:9nkBduQ2
グロ忠元だからしょうがない
75人間七七四年:2010/01/28(木) 20:19:40 ID:CuqIvSLb
森じゃない方の鬼武蔵はまとも
そんな風に考えていた時期が俺にもありました
76人間七七四年:2010/01/28(木) 20:29:01 ID:X39e+y0C
思い出せなかったから書かなかったが、飯食ってたら娘の歌思い出した

「人ならば浮名やたたん小夜ふけて 枕にかよふ軒の梅が香」

これ読んだ忠元は大泣きしたそうだが、なんともねえ
77人間七七四年:2010/01/28(木) 20:33:17 ID:vcC9SjcR
久しぶりに、ちょっとじゃないからスレ違いと、言いたくなった・・・
78人間七七四年:2010/01/28(木) 20:41:41 ID:5cwGUUlt
>>76
これどういう意味?
「他の人の所に通ってるって噂があるけど、立派な身分の男性ならしょうがないよね。
夜が更けてもあの人を待っている私の枕元に通ってくれるのは軒の梅の花の香りだけだなあ」
的な?
せっかく来てくれた相手に愚痴っぽい歌見せたくなかったんだろうか…。
79人間七七四年:2010/01/28(木) 20:45:16 ID:X39e+y0C
>>78
うん、そんな感じ
忠元は他にも本妻とか側室いたから
80人間七七四年:2010/01/28(木) 20:55:56 ID:tAqNdfAn
もし本当に浮気の歌だったら、相手を突き止めてぬっ殺しにでも行くつもりだったんだろうか。
なんにせよ娘がかわいそうだ…
81人間七七四年:2010/01/28(木) 21:27:57 ID:GNwi64FM
武蔵と付く奴にろくな奴はいねぇ
82人間七七四年:2010/01/28(木) 21:38:49 ID:5+p/r+qt
>>81
毛屋<どうせ俺なんか黒田二十四騎で一番低評価だよ。
83人間七七四年:2010/01/28(木) 21:42:09 ID:f/+jjOeG
忠元の好感度が一気に下がったw
84人間七七四年:2010/01/28(木) 21:42:52 ID:p0O9EyRo
「徳川秀忠です…」

「実はボクも、武蔵守に任官していました。」

「一時的に、『徳川武蔵』になってました。」

「秀忠でした…」
85人間七七四年:2010/01/28(木) 21:44:00 ID:32uDB/vj
池田光政が家臣たちと食事していると汁物に虫が入っている事に気づいた。
光政はそっと蓋をすると家臣たちに汁を飲むなと言った。

食事を終えた光政は係の役人を呼ぶと仔細を話して、以後気をつけろと注意した。
すると係は涙を流し始めたので理由を尋ねると家臣はこう言った。

「私にも同じような事がありました。その時、私はカッとなって鍋を投げつけたために
その者は全身火傷で死んでしまったのです。上様のありがたいお言葉を頂いて、
あの時は酷い事をしたと思うと涙が流れます…。」
86人間七七四年:2010/01/28(木) 21:57:17 ID:E0r5HWHh
>>85
その時気付けよ(´・ω・`)
87人間七七四年:2010/01/28(木) 22:01:23 ID:N7UQ7Zxr
三成「私なら虫ごと飲んでいた」
88人間七七四年:2010/01/28(木) 22:03:22 ID:9weoB+cD
>>85
海原雄山みたいな家臣w
89人間七七四年:2010/01/28(木) 22:05:41 ID:+z2vJtXX
鹿之助「我に七難八苦を与えたまえ・・・」
カサッ
鹿之助「ん?」
カサカサ
鹿之助「おお、まずはこの虫を食べよという天の苦行に違いない」
そして毛虫を食べて蕁麻疹を起こす鹿之助
90人間七七四年:2010/01/28(木) 22:12:24 ID:hLIjAgs7
杯に大蜘蛛が落ちたのを見た後にそれごと酒を飲み干した武将がおってな
91人間七七四年:2010/01/28(木) 22:20:07 ID:cIUCURo4
晴信「虫を食うとか勘弁してよ…全身紫色になっちゃうよ」
92人間七七四年:2010/01/28(木) 22:21:03 ID:1CEY32Xy
光秀「それは鮒寿司です」
93人間七七四年:2010/01/28(木) 22:25:32 ID:vcC9SjcR
鍋を投げつけ殺すってどんだけだよ
94人間七七四年:2010/01/28(木) 22:33:34 ID:4Ltqmrvp
料理も合戦なんだな
この時代は何やっても死ぬ危険性がある
95人間七七四年:2010/01/28(木) 22:38:46 ID:p0O9EyRo
坂崎直盛「料理人は大切にしないとだめだよねー。」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-317.html
96人間七七四年:2010/01/28(木) 23:16:29 ID:T1efx5ug
>>85
   、ミ川川川彡                 ,ィr彡'";;;;;;;;;;;;;;;
  ミ       彡              ,.ィi彡',.=从i、;;;;;;;;;;;;
 三  ギ  そ  三            ,ィ/イ,r'" .i!li,il i、ミ',:;;;;
 三.  ャ  れ  三    ,. -‐==- 、, /!li/'/   l'' l', ',ヾ,ヽ;
 三  グ  は  三  ,,__-=ニ三三ニヾヽl!/,_ ,_i 、,,.ィ'=-、_ヾヾ
 三  で       三,. ‐ニ三=,==‐ ''' `‐゛j,ェツ''''ー=5r‐ォ、, ヽ
 三.   言  ひ  三  .,,__/      . ,' ン′    ̄
 三   っ  ょ  三   /           i l,
 三.  て   っ  三  ノ ..::.:... ,_  i    !  `´'      J
 三   る  と  三  iェァメ`'7rェ、,ー'    i }エ=、
  三   の   し  三 ノ "'    ̄     ! '';;;;;;;
  三   か  て  三. iヽ,_ン     J   l
  三  !?    三  !し=、 ヽ         i         ,.
   彡      ミ   ! "'' `'′      ヽ、,,__,,..,_ィ,..r,',",
    彡川川川ミ.   l        _, ,   | ` ー、≡=,ン _,,,
              ヽ、 _,,,,,ィニ三"'"  ,,.'ヘ rー‐ ''''''"
                `, i'''ニ'" ,. -‐'"   `/
               ヽ !  i´       /
               ノレ'ー'!      / O
97人間七七四年:2010/01/28(木) 23:44:45 ID:GboJyzWo
天正10年(1582)4月、武田家を滅ぼした織田信長は、その帰り道で富士山を見物した。
麓のいわゆる人穴にも立ち寄った信長は、近習の森蘭丸、長谷川秀一、津田信澄、
そして細川忠興に洞窟の探索を命じた。

洞窟の奥深くは水滴がしきりに滴り落ち、松明の火が消えてしまった。暗闇の中をなおも
進んだが、やがて水の流れる音が響いてきた。どうやら、洞窟の中を川が流れているようだ。
試しに川へ小石を投げたが、流れる音が激しく水面に落ちる音も聞こえない。

「これはいかん。一旦戻って松明を再度灯し、濡れても良いよう袴を脱いで出直そう。」

人穴の入口に戻った一行は、経緯を信長に報告した。
「…今まで、お前らは恐れ知らずだな、と思ってたけど違ったか。やーい、ビビリめー。」

ブ チ ッ

「やぁぁぁってやるぜぇぇえ!!」
信長の嘲笑を聞いてキレた忠興は、何の装備も持たず洞窟の中へ駆け出した。

「ちょっ…待て、待ちなさい!忠興クン!?」
早くも遠ざかる忠興を、信長が必死の大声で止め、事なきを得たそうな。


…うーん、いい話に投下した方と並べると、信長のが幽斎さんより三歳のパパしてる気が…
98人間七七四年:2010/01/28(木) 23:47:41 ID:vcC9SjcR
瞬間湯沸し機の系譜ですね。分かりません。
99人間七七四年:2010/01/28(木) 23:49:08 ID:+z2vJtXX
俺忠興公を簡単に打ち取れると思えてきた
落とし穴掘ってやーいバーカと叫べば案外・・・
100人間七七四年:2010/01/29(金) 00:00:52 ID:yvS0uT3U
>>97
つか信長テラカワユスww
101人間七七四年:2010/01/29(金) 01:01:40 ID:4oEVuVCB
信長が案外いい奴かも
102人間七七四年:2010/01/29(金) 01:12:36 ID:18WfL/u0
>>99
まるで石器時代の勇者
103人間七七四年:2010/01/29(金) 01:12:52 ID:VMgArqfS
>>59
あれ?同じことを主君の家に上がり込んでやった家臣たちなら知ってるような
黒田長政のとこだが
104人間七七四年:2010/01/29(金) 01:31:31 ID:9WW3h9kb
相変わらず口の悪い信長公
105人間七七四年:2010/01/29(金) 01:49:20 ID:VMgArqfS
>>103のソースは名将言行録だった。
名将言行録はいったいこの話でなにを伝えたいの?他の部署への気遣いや連携の大切さ?

ある夜黒田家の吉田んちに菅と津田が来て飲んでいた。
そのうち誰からともなく「今から殿んち遊びに行こうぜ!」という話になった。
もう真夜中、雪まで降っていた。
「今から家来を起こして下駄の用意させるのも悪いよなあ…裸足でいいか」
行かない選択肢はないらしい。真夜中に主君を叩き起こすのはいいらしい。
急に行って酒の肴がないのもいやなので、一応自分たちでも用意することにした。
ザルに適当にその辺にあった豆腐を二丁入れる。
酒が入ってハイになっているのかそれともそんなの関係ないのか、裸足でかけてく
吉田長利、菅正利、津田貞俊…わりと要職にあったりする気がするメンツ。

こうして、酔っ払いが訪ねてきたという報告を受けた長政は寝床から起き出してくるはめに
なった。
ただし長政本人は一人寝が淋しかったらしく「いいとこにきた」と喜んでいたそうだ。
「酒は昨日ついたばっかりのが樽であるんだが、肴になりそうなものはあったかな…
まあいいや、台所探してみろ」
家探しの許可を受けて一同があちこちひっくり返すと、戸棚の中から骨付きの鯛が出てきた。
「いいねえいいねえ、焼いて食おうか」
ところが盛り上がる彼らに、長政が待ったをかけた。
「待てよ、明日は28日だな…これは多分明日使おうと思ってとってある分だと思うんだよ。
明日の朝、料理方の連中が魚が消えてるのに気づいたら困るんじゃないか」
「あーたぶんそうっすねー」
「じゃあ、豆腐持ってきたからこれでいいや」
こうして三人は自分たちで火を起こして酒を温めると、鶏が鳴く頃まで散々おしゃべりして
帰っていったとさ。
106人間七七四年:2010/01/29(金) 01:54:04 ID:dKuWsTX0
>>105
長政いい奴過ぎるww
107人間七七四年:2010/01/29(金) 01:54:22 ID:3pWKxtjR
>105
微笑ましく面白いな。

こういう場合は肴に漬物が出てくるもんだと思うんだが、
古漬けとかなかったのかな。
108人間七七四年:2010/01/29(金) 01:57:30 ID:ghxH13qC
黒田武士は相変わらずだな
109人間七七四年:2010/01/29(金) 02:17:38 ID:fkywzssI
>>97
某戦国MMOでは富士山地下洞穴は八雷神の一柱が巣食ってたの思い出したw

つか大名クラスしかもおさーんになっても肝試しってのはやるんだなぁw
110人間七七四年:2010/01/29(金) 02:26:42 ID:e2rGOCje
七月三〇日付け真田昌幸宛大谷吉継書状(『真田家文書』)
「内府去々年以来御仕置、太閤様御定相背かれ、秀頼様御成り立ち難くなる由候て、
年寄衆・輝・備前中納言殿・島津(義弘)、この外関西の諸侍一統を以て御仕置改め申し候事」

TERUwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
111人間七七四年:2010/01/29(金) 02:28:56 ID:zcX5bn9K
当時からTERU扱いされてたという貴重な書状が
112人間七七四年:2010/01/29(金) 02:47:34 ID:HDRP39yT
天正16年8月、北条氏政の弟・氏規は、兄と甥の代理として上洛、聚楽第で秀吉に謁見した
聚楽第は秀吉にとって天皇や公家と謁見する場所であり、本来衣冠・束帯をしつらえ参じなければならないが
いまだ秀吉に臣従していない北条家の人間である氏規は官位を持たず、よってそれらをしつらえることは適わなかった
結果彼は公家衆や毛利・橘川・島津・大友といった大名たちが束帯姿で居並ぶ場に
場違いにも肩衣・袴姿で参じざるを得ず、その姿は多くの人々から失笑を買った
特に毛利輝元は氏規をあからさまに田舎者と嘲笑し
「腹が痛いので失礼します」といって食事を共にすることさえ断った

この会合を終えた氏規は
「さてさて無念の至りなり、田舎武士の悲しさよ
 かくのごとし格式をしらずして上京し、面目なき体
 この様体では氏政上りたれども、何の益か有るべし」
と嘆いたという。
113人間七七四年:2010/01/29(金) 03:12:51 ID:mq1eVB48
それだけバカにされたらそりゃ小田原に篭って徹底抗戦するよね
114人間七七四年:2010/01/29(金) 03:33:14 ID:jDwNBila
>>105
一人暮らしの大学生みたいなノリだなw
115人間七七四年:2010/01/29(金) 03:39:49 ID:NddVhr7o
つか、そこは恥入らずに

「ケッ、だーれが首輪のごとき官位なんているかよ、バーカ、この猿の飼い犬め」
「せいぜいご立派な首輪ひけらかせてろ、おめでてぇな」

くらいの気概を見せてくれても
東国の荒侍なら
116人間七七四年:2010/01/29(金) 03:53:55 ID:Y2pdETUp
>>105
なにこの楽しそうなのw
117人間七七四年:2010/01/29(金) 04:04:47 ID:51F69kvX
>>110
ちょ、輝って大谷さんw
こういうのって安芸宰相とかって書くんじゃないのかw
118人間七七四年:2010/01/29(金) 04:09:31 ID:hr5A4EaD
家康ですら内府なのに
119人間七七四年:2010/01/29(金) 04:17:26 ID:eYcVvB6R
さすがに宇喜多は備前中納言殿なのな
大谷も誰かの書状で大刑とか略されてたことなかったっけ?
120人間七七四年:2010/01/29(金) 04:24:00 ID:kwvRco+K
大刑とかって名字+通称(官位)の略し方は普通だよ
自分でもそういう署名したりする
121人間七七四年:2010/01/29(金) 04:35:41 ID:g1knFV2g
三成の石治とかあるな。大谷の刑ってだけの署名も見た気がする。
しかし、安芸宰相でも毛利でもなく輝か…
122人間七七四年:2010/01/29(金) 04:47:30 ID:ghxH13qC
輝ってば、6つも年上なのに
123人間七七四年:2010/01/29(金) 06:44:03 ID:nbPA7lWo
>>110
ちょっと待て、
その書状の写真載ってる史料持ってるけど
ちゃんと「輝元」って書いてあるよ。
翻刻文もだし、他の史料でもそうだから
110がみたやつが脱字してるんじゃないか?
124人間七七四年:2010/01/29(金) 06:59:13 ID:BFhk5D30
ここでネタにするために
わざと抜いたんじゃないのか
125人間七七四年:2010/01/29(金) 07:09:07 ID:QEkacnvt
>>112
しかし北条は伊勢氏なんで毛利あたりが田舎モンとか礼儀知らずとか
馬鹿に出来る筋でもないと思うんだがなあ

伊勢氏だからこそ恥じたというのはあるかもしれんが
126人間七七四年:2010/01/29(金) 07:28:05 ID:wvJmMC2v
>>99
NGMS<呼んだ?

>>105
なんか、その後、押しかけて来られた上に親父と比較してダメ出しされてる長政の姿しか思い浮かばないんだが…。
127人間七七四年:2010/01/29(金) 07:33:38 ID:V9IbjP4R
>>112
これ毛利輝元上洛日記に書いてあったけど、
嘲笑する意思とかまったく書かれてなかったぞ
あるのは秀長に氏規との食事の場に誘われたけど腹痛だから断ったっていう事実だけ
この上洛日記を訳した人はまだ秀吉に従っていない北条に近づくのを
警戒したっていう考察をしていた

まあ秀長の誘いを断ったあと普通に隆景・広家と食事をしていた記録も残っているみたいだから
仮病だったのには間違いないが
128人間七七四年:2010/01/29(金) 09:34:10 ID:SRDOOgdi
ゴッドハンドが集うスレなんですね。ここは。
129人間七七四年:2010/01/29(金) 09:53:38 ID:A1X3eIKM
秀長の仲介で秀長も立ち会う場でならそんな警戒要らん気もするがなぁ。
その後個別に会いたいって言われたら仮病はありだけど
130人間七七四年:2010/01/29(金) 10:09:59 ID:0KB58BH9
位を見せ付けて従属させようとしたんだろうけど、それなら失敗だったなあ。

やるなら鞭だけじゃなく、ちゃんと飴も見せておかないと。
131人間七七四年:2010/01/29(金) 10:39:37 ID:YDaLejfH
逆に考えるんだ
氏規と会うのに緊張しておなかが痛くなったんだと
身内なら一瞬にご飯食べても緊張しないから安心だね!
132人間七七四年:2010/01/29(金) 10:58:26 ID:kmT6du/q
>>123
しかし正しく輝元と表記してあったにしても、
どのみち大谷はTERUに敬意を払っていない様な
133人間七七四年:2010/01/29(金) 11:41:37 ID:/VkQEDUL
>>131
秀長「TERU!敵だか味方だか微妙なやつの接待させられる俺を目の前にして人見知りしてんじゃねえ!」
134人間七七四年:2010/01/29(金) 12:19:24 ID:fIrKEFnt
さあみんなで考えよう


戦国を代表する勇者、本多平八郎忠勝の武器といえば、名槍、蜻蛉切が余りにも有名だが、
そんな彼も勿論武士として、大小を刺している。

その忠勝の太刀には一つの謎がある。彼の刀の鍔には、ぐるりと、とある言葉が
彫り込まれているのだが、それは


『すくんうきよやいまわ満まるこつかう』


…意味不明である。
この言葉、どれほど意味不明かといえば、古来から今にいたるまで、多くの人が解読を試みたが、
未だに定説が無いほどなのだ。

しかし忠勝に取っては、必ずなにか意味があったはずなのである。
もしかするとこの解読に成功すれば、本多忠勝と三河軍団が現代に復活するとか、そのくらいのことが
起こるかもしれないのだ!

そんな戦国の謎。
みんなも解読にチャレンジしてみないか!?
135人間七七四年:2010/01/29(金) 13:27:59 ID:DlJ1vXcs
TERUは安芸中納言かな?宇喜多には備前中納言って書いてるわけで……
136人間七七四年:2010/01/29(金) 13:34:22 ID:lwftX1a4
隆景:…(大和大納言の前で変な失言されたら困るな…)
広家:…(ええ、フォローが利きませぬ…)
隆景&広家:腹痛で伺えぬと回答いたせ
137人間七七四年:2010/01/29(金) 14:37:36 ID:nbPA7lWo
>>132
そういうわけでもないようだぞ。
他の長束らの書状でも、輝は「輝元」だし
他にも景勝なんかも同じく呼び捨て書きだ。
基準はわからないけど、敬意がないとかでは無くてそれで普通なんだと思われる。

面白いのが景勝からの書状だと、奉行衆は石治とか官位付き略称だが
同じ大老には輝元、秀家と呼び捨てだ。
138人間七七四年:2010/01/29(金) 14:43:47 ID:ap+MT/06
書状の送り主と宛先によって書かれる呼称は変わるよ
139人間七七四年:2010/01/29(金) 15:14:19 ID:/VkQEDUL
>>134
とりあえず
『柄薄くん 浮世や今は 満丸こ』

長年使っていた刀の柄が握りこんで薄くなってしまったように
自分も戦場を往来していたときのような切れるような荒々しさはなくなってしまったなあという意味の俳句



…三河軍団が復活した様子もないので違うらしい
140人間七七四年:2010/01/29(金) 16:10:32 ID:fIrKEFnt
>>139
すごいそれっぽくてビックリした。そして何故かその歌の中に徳川埋蔵金の秘密が
隠されてる匂いがする。誰か糸井重里呼んでこい。
141人間七七四年:2010/01/29(金) 16:26:14 ID:f4M77OSB
いとしさと 切なさと
142人間七七四年:2010/01/29(金) 17:17:33 ID:ULdX3poM
>>137
そうだったのか、dクス。諱で呼ぶのって失礼なんだと思ってたよ。
当時の呼び捨ての基準がほんとよく分からんけど、面白い話だ。
143人間七七四年:2010/01/29(金) 17:54:54 ID:B03sDK/7
三斎様も政宗呼び捨ての手紙いっぱい書いてるよね
大嫌いな黒田さんは黒筑って書いてるのに
むしろ仲がいい相手だから呼び捨てなんかな
144人間七七四年:2010/01/29(金) 18:43:13 ID:/wiG/mau
O谷「だって官名で呼ぶほどかたくるいしい間柄じゃないし通称で呼ぶほど古くからの関係でもないし」
145人間七七四年:2010/01/29(金) 19:04:45 ID:Txhst2KP
輝元は爺ちゃん亡くなって名実ともに当主になってからも
怖い叔父さんから愛の折檻、鉄拳制裁を受ける事がしばしばあったと言われてるし
なんかアレなキャラだな
146人間七七四年:2010/01/29(金) 19:08:19 ID:qdEirn4B
キャラ言うな
147人間七七四年:2010/01/29(金) 20:06:49 ID:mgHpKWg3
元均が李舜臣に代わって水軍の長になっていた時の話
彼は愛妾を運籌堂(参謀本部のようなもの、現制勝堂)に入れ
二重籬で隔て諸将と顔を合わせる事すら稀であった
また酒を飲み酔って怒っては刑罰を与えるのが常態化していた
これ対してに元均の部下達はこんな上司に命を懸けるのがアホらしくなったのか
( ´д)ヒソヒソ(´д`)ヒソヒソ(д` )「賊(日本軍)に遭ったらとにかく逃げようぜ」
と密かに申し合わせ命令を聞く気などさらさらなかった
このような状況の為、元均の指示はまったく実行されていなかったという
148人間七七四年:2010/01/29(金) 20:09:48 ID:JbdCxw+b
日本以外もここなのか
149人間七七四年:2010/01/29(金) 20:13:38 ID:f4M77OSB
一応日本の戦国時代にかかわる文脈であればここでよかったような。
前も明の倭寇対策の専門家な恐妻家が出てたし。
朝鮮出兵の件の向こうの事情なら関係あるかと。
150人間七七四年:2010/01/29(金) 22:42:38 ID:e8jUPcUv
それで戦闘時具体的にどうなったとか、もうちょっと日本絡められないか
151人間七七四年:2010/01/29(金) 22:59:31 ID:aMlTLbp/
その後元均は日本水軍に強襲され戦死するのだが、
兵士がこのような士気の元では当然だと言えるのかもしれない

ぐらい最後に書いておけばまぁ良かったんだろうけど、
でもこれ位このスレに居る人なら普通に知ってるだろうしねぇ
152人間七七四年:2010/01/30(土) 01:09:00 ID:6WiEzieP
そういやこないだ大谷スレでも話題になってたけど
大谷から政宗への手紙の宛名が「政宗」って呼び捨てになってるのもあるよな
政宗は呼び捨てされやすいのかwww
153人間七七四年:2010/01/30(土) 01:25:47 ID:BV9Xt3mt
梅津日記でも景勝と政宗は呼び捨て。
それが景勝から定勝に代が変わると
「少弼」と官位呼びになると研究書に書いてあった。
154人間七七四年:2010/01/30(土) 01:31:55 ID:F+GvNpsF
別に手紙の宛名が呼び捨てになってるって
単に敬意を払ってないのか仲が良かっただけなのか区別つかんからな
なんとも言えないだろ
155人間七七四年:2010/01/30(土) 01:36:57 ID:mpuewwn4
「為」と「岡」が息子の代には
「長尾」と「伊勢」になっちゃった哀しい話よりは(´・ω・`)
156人間七七四年:2010/01/30(土) 01:49:10 ID:8SDnKL/g
もしかして豊臣奉行衆>>ただの大名
だったのでは??
景勝の場合、テルと泳いでとはダチだぜ〜という意味を表してるのかもしれない。

157人間七七四年:2010/01/30(土) 01:55:33 ID:wQm6PWZG
まぁそういう可能性もあるね。違う可能性もあるけど
158人間七七四年:2010/01/30(土) 02:22:26 ID:VrqDuTct
そうじゃなくて
基本諸大名は領地の規模の大小関わらず基本同列なんだよ
大名同士は絶対的な上位者と下位者じゃないのよ
勿論、格なんかはあるからある程度敬うというか、礼儀があることもあるけど
で、景勝と輝元と秀家は同格なのよ、官位的に
位階が圧倒的に上の相手に出した書状で相手を呼び捨てとかはしないはず
あと、正式文書とかだとやっぱり官位つうかなっがながしい本姓とかで出すはず

で、時代が進んで江戸期になると、豊臣時代に格を表した位階がそのまま身分の差になるわけ
159人間七七四年:2010/01/30(土) 04:48:06 ID:xHCUPWqk
>>147
いい話スレの朝鮮話とセットで朝鮮王朝の論功行賞が節穴のダメぽな話、だなー…
160人間七七四年:2010/01/30(土) 04:51:55 ID:xHCUPWqk
>>158
それが江戸時代になると「大名も俺達も公方様の同じ家臣なんだから同格だぜヒャッハー!!」
といって暴れるツッパリハイスクール直参旗本の主張に受け継がれてしまった。
161人間七七四年:2010/01/30(土) 12:03:49 ID:wOpOVfnq
>>159
まぁ話はそう単純ではない
良い話スレの朝鮮話は宣祖実録が元ネタ
>>147は懲録が元ネタになってる
で、懲録は元均と仲が悪かった李舜臣を推していた人物によって書かれている
その上宣祖実録は公文書だが懲録は私文書
個人の思惑が強く反映されていると思われる

元均は懲録の他に宣祖”修正”実録(朝鮮ではクーデターが起こり
記録の編纂が行われ原本に比べ元均の評価は著しく低下している。
クーデターの中には李舜臣の親族がおり李舜臣を持ち上げ
元均を蔑む事で権威を得ようとしたとも言われる。)
でボロクソ書かれて現代でも評判は悪いが厳格な記録書である
宣祖実録の方が元均の実像に近いんじゃないかって話もある
実際の漆川梁海戦では主だった武官は元均と共にほぼ戦死してしまっているしな
162人間七七四年:2010/01/30(土) 13:17:24 ID:oSA61pg1
同じ大名同士なら「政宗」って呼び捨てすることはそこまで失礼でも
なかったってことなんだな。
現代なら、割とよく話す同僚ならタメ口、あまり話さない同僚なら敬語、
みたいな感じか?変な例えだけど。
163人間七七四年:2010/01/30(土) 13:26:09 ID:DseapK3F
>>161
単純では無いのだけれど単純にすると、当時の朝鮮内部の二大派閥で考えると、
北人派 光海君(北人派により擁立)
南人派 柳成龍(李舜臣の上司で、上によって失脚)

・・・と、まあそういうもんもあるんだろうなあと思ってくだされ。
164人間七七四年:2010/01/30(土) 13:56:25 ID:O+gcxJ1l
>>162
面と向かって政宗、とは呼ばなかったとは思うけど
秀吉時代なら、越前殿とかだったんじゃないかな

私信とかだと、政宗って表記だった事も有るんじゃないかな
さすがに本人宛に政宗とは書かんと思う
165人間七七四年:2010/01/30(土) 14:20:59 ID:mMxssEhG
>>161>>163
語り手によって毀誉褒貶激しいあたり三成を連想した
166人間七七四年:2010/01/30(土) 14:28:31 ID:IaTkOrJF
義光は政宗を書状の中で「まさ」と書いて舐め腐ってる
167人間七七四年:2010/01/30(土) 14:35:26 ID:hKk9CF0a
天文年間のことであろう。大隅の蒲生範清と敵対していた薩摩の島津貴久(島津四兄弟の父)は、
弟の尚久に、蒲生の支城、北村城を攻めさせた。
しかし北村城主、北村清康は巧みな作戦で反撃に成功、島津軍の大敗になった。

島津尚久は撤退の際多くの家臣を失いながら、岩戸川原から久末の岩上を通り、
高牧の井手山(いでんやま)の奥まで逃れた。
しかし蒲生勢の追撃は激しく、ついに尚久は自害を決意した。

ところでこの島津尚久は、かねてから謡曲が好きで良く学んでいた。
そのためこの時、この世の名残にと一曲唄い始めた。尚久の切々とした唄が、
井手山の谷に響く。

これを聞いた追っ手の蒲生勢も尚久の考えを悟り、彼が一曲唄い終わるまでと、
追撃の足を止めた。武士の情けであった。


…と、敵の追撃が止まったことに気がついたのが、唄っている島津尚久である。
彼は傍にいた部下に

尚久『この続き、お前が唄え!その間に俺は逃げるから!』
部下『ええ俺が!?声でバレますよ!』
尚久『そんなのわかりゃしねえよ!いいから早く!なるべく長めに唄えよ!』

そう、部下を身代わりにし、その隙に島津方の吉田城へと逃げ帰ったそうである。


鹿児島の蒲生に、今も伝わるお話である。
168人間七七四年:2010/01/30(土) 16:43:20 ID:wQm6PWZG
>>166
政宗が自分の事を「まさ」と書いた手紙ならあるけど
それは初耳。出典を教えてくれ
169人間七七四年:2010/01/30(土) 17:12:26 ID:Jt6CAZpo
尚久の部下が自ら言い出せばとってもいい話だったのに・・
170人間七七四年:2010/01/30(土) 17:28:31 ID:yhRvRRVd
>>168
そいつ小早川とか伊達スレで暴れてる基地外だよ
171人間七七四年:2010/01/30(土) 17:32:23 ID:hKk9CF0a
ID:IaTkOrJFは北条スレでも暴れているな。NGにしてたからすぐわかった。
172人間七七四年:2010/01/30(土) 17:53:53 ID:0NX3MFaE
上のあぼーんがソレか
ワードあぼーんじゃなくてIDあぼーんでしたか
173人間七七四年:2010/01/30(土) 20:19:00 ID:u1yI5pgV
徳川家康の家臣に本多百助というものがいた。
長篠の合戦後に長男が生まれたが、不幸にして兎唇であった。
本多百助が嘆いていることを聞いた家康は、百助を呼び出し、
「武田四天王の山県昌景も兎唇だったというではないか。お前の息子はあの名将山県の生まれ変わりじゃ。」
と言い、その子の名を、本多山県にするよう命じた。

家康の家臣を励ますいい話ともおもったが、名前に山県はないだろうとも思ったので、
家康のネーミングセンスが悪い話。

174人間七七四年:2010/01/30(土) 20:25:32 ID:O+gcxJ1l
兎唇は勇者の証って言われてたのは、この辺から来てるのかな
175人間七七四年:2010/01/30(土) 20:29:01 ID:crut5nLU
>>167
島津尚久って若くして病死してるけど記録見ると何だか豪放磊落っぽい性格してるよなぁ
長生きして九州統一戦に参加してたら面白かったんだがな

ところで部下のその後は?w
176人間七七四年:2010/01/30(土) 20:55:56 ID:fz98y8Zc
>>173
>名前に山県はないだろう
そこまで読んだ瞬間思ったよw
なんで三郎兵衛や昌景じゃないんだw
177人間七七四年:2010/01/30(土) 21:02:15 ID:LxE0OtuP
>>175
部下「昇天でござる(泣)」
178人間七七四年:2010/01/30(土) 21:42:44 ID:xHCUPWqk
>>165
忠武侯こと李舜臣は三成を通り越して安藤帯刀みたいな、めんどくさい人だったらしいけどなw

舜臣が朝廷に任官していたころ道で偶然いきあった旧友を無視して通り過ぎた
「あいつ(李舜臣)は栄達して俺に挨拶もしなくなった!」と友人が憤慨していると、
やがて倭乱の時かね“いつもの”派閥争いに巻き込まれ官職を辞した舜臣が田舎に帰ってきて友人に「やあ」と話しかけてくる
「お前は一体どうゆうつもりだ!」と怒って詰め寄る友人に舜臣曰く
「官職にあるとき人前で友情を露わにしたら、以後どんな人事も情実だと思われてしまうだろう?君が朝廷に出仕した時に要らぬ陰口を叩かれる。だからあの頃、私的な交友はしなかったのだ」とかいう……


中国や朝鮮王朝で忠臣・良吏とされる人物の列伝テンプレだけどねー
179人間七七四年:2010/01/31(日) 00:27:59 ID:yXb9OA9o
よそでやれ
180人間七七四年:2010/01/31(日) 01:32:26 ID:3FPukXsA
越前の豪族堀江氏と言えば、かつて守護斯波氏を推戴して勃興期の朝倉氏と戦った
同国きっての大豪族である。朝倉氏との戦いで本家は没落し、傍系が外様として
朝倉氏に従っていたが、家臣化してからも代々の当主が何かと微妙な動きをしており、
一乗谷からは疑惑の目で見られていた。

朝倉義景の代の堀江家当主は堀江景忠であったが、足利義昭が一乗谷に入ろうかと
いう頃、義景を見限ったのか、遂に謀反を企てる。が、いち早くその動きを察した
義景に兵を派遣され、自身の居館付近で膠着状態に陥る。

景忠曰く、
「謀反なんて嘘!こりゃ孫八郎(朝倉景鏡)の讒言に違いありましぇん!!」

確かに、景鏡の親父(朝倉景高)は兄である孝景(義景の親父)に謀反して国外追放
されているし、数年前には加賀出陣中に宗嫡の孫と大将争いして、負けた相手が陣中で
自害するなど、何かと曰く因縁のある景鏡であった。

が、実際は義景の兵が景忠を攻める直前に、加賀一向一揆の軍勢が堀江の動きに合わせて
越前に攻め込もうと動きを活発化している。

景忠、あんたやっぱり真っ黒だわ。

さて、義景母と景忠室が姉妹だったため滅ぼされることなく(甘いな・・・)、一族もろとも
国外追放になった景忠だが、無論、行く先は加賀方面。結局、義昭の命で朝倉と一向一揆が
和睦したため、ここでしばらく雌伏する。


やがて義景自害、富田ヒャッハーー長繁による旧朝倉家臣皆殺しが始まると、一揆軍の将として越前へ
侵攻、ヒャッハーが亡ぶと、軍事指揮官として要衝杉津砦を守ることになる。

が、守将となるかなり以前から織田方に寝返りの約束をしており、織田軍来襲の報を受けると、
すぐに味方の軍に襲いかかりあっさり壊滅させている。


裏切りに裏切りを重ねてきた景忠であるが、三度目はなかった。

恩賞が少ないと不満を漏らしていたら、信長さんの耳に届いて、打ち首に。


こいつといい、ヒャッハーといい、越前の奴って何か・・・
義景も苦労しただろうな
181人間七七四年:2010/01/31(日) 01:42:59 ID:Qso7ccRr
これだから福井の人は…
182人間七七四年:2010/01/31(日) 01:59:48 ID:AQ50vJO+
ヒャッハーがいなかったら旧朝倉臣ももっと生き残ってただろうになぁ
マトモにその後過ごせたのが山崎長徳くらいしか思いつかん
183人間七七四年:2010/01/31(日) 02:14:21 ID:FHbbaDrY
戦国時代で神奈川県って言ったら、小田原ばかりで他が地味な気がする。
というわけで戦国時代早々に滅んだ地元の三浦氏の話。

当時日の出の勢いであった北条早雲こと伊勢宗瑞と戦い続けていた、扇谷上杉傘下の三浦義同であったが
大局は覆し難く次々に城を落とされ、神奈川県の端っこ、三浦半島の新井城にまで追い詰められてしまう。

だがこの新井城、海に囲まれた天然の要害であり、水軍の支援もあって中々落ちない。
義同も中々の傑物であった上に、その息子義意は八十五人力の勇士と名高い大男の怪物
宗瑞もこの新井城を落とすのに難儀し三年の時が流れた。
しかしながら多勢に無勢、とうとう城内の糧食も尽き、ついに三浦氏は最後の時を訪れる。
三浦勢は城門を明け払い最後の戦いに打って出た。
ここで三浦義意が怪物っぷりを発揮するのだが、まとめにあったので省略
三浦勢は北条軍に多大な損害を与えるも、ことごとく討ち死してしまう。

三浦義同の辞世の句
討つ者も 討たるる者も かわらけよ くだけて後は もとの土くれ

城内に残った者達も次々に身を投げて
海は流れ出た血で変色し、油を流したようになってしまった。

以来この地は油壺と呼ばれるようになりましたとさ。

まぁ知ってる人も多そうだが、まとめになかったので書き込みます。
184人間七七四年:2010/01/31(日) 02:17:53 ID:AejWSxFR
>>168
義光→義姫の文中で俺見たことあるが。。
185人間七七四年:2010/01/31(日) 05:40:57 ID:g0wbIbGN
>>183油壺の所以ですな。

これの荒次郎義意ちゃんね。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1771.html
186人間七七四年:2010/01/31(日) 07:07:23 ID:MZj8fqgU
鬼武蔵もかなうまい
187人間七七四年:2010/01/31(日) 07:31:56 ID:uugA6Cll
銃弾顔面受けしたナントカさんの話といい、鬼武蔵案外小物じゃねという気が最近する。
188人間七七四年:2010/01/31(日) 08:05:22 ID:cnYlui2x
鬼武蔵の逸話が最近無いからだ!
189人間七七四年:2010/01/31(日) 10:33:31 ID:YAcYEysV
関ヶ原まで生きてほしかったな
190人間七七四年:2010/01/31(日) 10:51:17 ID:feYj+1tr
生きていれば40ちょいか……考えるとゾクゾクするなw

しかし、考えてみると市松と大して年齢変わんねえんだよなあ、鬼武蔵が1558年生で、市松が1561年生。
191人間七七四年:2010/01/31(日) 11:06:50 ID:m2/joRBf
>>184
そういや以前もサブがそんな事ってたなぁ
相変わらずソースは不明だけどw
192人間七七四年:2010/01/31(日) 12:00:54 ID:NkMJttWd
このスレでageてる奴は大体同一人物だって知っておこうぜ
193人間七七四年:2010/01/31(日) 12:03:46 ID:gWf5Zi3L
ageんな!sageろは過疎板のお約束
194人間七七四年:2010/01/31(日) 12:05:59 ID:feYj+1tr
プロ野球板やロボゲ板は過疎だったのか……
195人間七七四年:2010/01/31(日) 12:08:17 ID:gWf5Zi3L
過疎板は訂正するか
専門板
196人間七七四年:2010/01/31(日) 12:11:38 ID:EoE1XO14
鬼武蔵が生きていたら豊臣政権下で市松と仲が良くなりそうな気がする
三成襲撃にも加わってたかもしれない
197人間七七四年:2010/01/31(日) 12:15:12 ID:m2/joRBf
>>192
いちおうageとsageを使い分けてるつもりらしいよ?
同一IDなのに戦国版の違うスレだとageだったりsageだったりするし
198人間七七四年:2010/01/31(日) 12:17:08 ID:ryowtvQg
生き残ってたら蒲生の役割(東北大名の抑え)をやってたのかも…
冗談通じそうにない相手にまーくんが(ry
199人間七七四年:2010/01/31(日) 13:10:29 ID:EoE1XO14
すまんagesage議論の真っ只中でageちまったけどsage書くの忘れただけ
スクリプト切ってるからいちいち書かなきゃならないのでたまに忘れる
時が戦国ならこんな失敗も命とりかな
200人間七七四年:2010/01/31(日) 13:22:13 ID:RGRRBTgk
戦国板は普通に上げる人も多いし内容がまともなら気にならないけどな
201人間七七四年:2010/01/31(日) 13:28:03 ID:ZvPuUy1T
原典は不明だけど、豊臣秀吉がふられた話を。

会津を治めていた蒲生氏郷が亡くなったと聞き、秀吉は氏郷の妻・冬姫を慰めるべく使いを出した。

「冬姫殿には此度のご不幸、心よりお悔やみ申し上げます。
ご子息の秀行殿がしっかりと領国を治められるよう、出来る限り力をお貸しする所存でござります。
つきましては冬姫殿には今後身の回りのお世話をさせて頂きたいので、是非ともわが城においで頂きたく存じます」

冬姫「いやな予感・・・」

予感は的中した。冬姫が秀吉の所に着いたら、すぐさま側室として迎えようと言う魂胆だと分かるのに、時間はかからなかった。
ただでさえ冬姫は天下に名高い美貌の持ち主で、しかも織田信長の実の娘である。
織田氏と血縁関係となり、自らの権威を高めたい秀吉にとっては喉から手が出るほどほしい女性であろう。
しかし氏郷と冬姫は生前から仲の良い夫婦として有名であり、亡き夫に操立てする冬姫にはどうしても秀吉の条件は受け入れられない。
それに加えて、蒲生家家臣団はいくつもの派閥がいがみ合っており、今回のことがきっかけで大騒動になってしまった。

家臣A「けしからん!何ゆえ信長公のご息女であらせられる奥方を、あのサルごときが!」
家臣B「しかし淀の方様や三条の局さまの例とてござろう・・・」
家臣C「それにほら、宇喜多殿のお母上とて後家となられて以降太閤の元に身を寄せておいでじゃが、母子とも懐いておいでではないか」
家臣D「これ↓目当てじゃないの?」
  ∧ ∧   
 ( ´・ω・)                                     
 ( つ旦O
 と__)__)  旦    
家臣E「おお、やはり殿のご最期は・・・」
秀吉「おい!」Σ(゚д゚|||)

さりとて秀吉の好意を無理に断ればあらぬ疑いをかけられかねない。仕方なく冬姫は秀吉の下へと向かった。
秀吉「うふふ、茶々に三条殿に続き、もうすぐ冬姫殿も手に入る・・・♪」
やがて到着した蒲生家の駕籠から降り立ったのは・・・・

尼姿の冬姫であった。

秀吉「あんまりだぎゃーー!!そこまでこのサルめがお嫌いかや!?」煤iTДT;)
冬姫「いえ・・・ただ私のことはどうかそっとしておいて頂きとうござります・・・」
やはり亡き夫を忘れることは出来なかったようである。
それから間もなく蒲生家にお家騒動が起こったとき、氏郷の嫡子・秀行は会津92万石から宇都宮12万石へと領地を削られてしまった。
この大左遷には謎が多く、「ああ、太閤様は冬姫様のこと根に持ってんだな・・・」と噂をする者もいたようである。
202201:2010/01/31(日) 13:30:30 ID:ZvPuUy1T
おまけ

後年、この話を聞いて

[諦めたらそこで試合終了だよ♪>( ゚∀゚)

と徳川家光が言ったとか、言わなかったとか。
203人間七七四年:2010/01/31(日) 13:42:16 ID:EmWy2KU7
(●∀・)<諦めたらそこで終了だよ☆
204人間七七四年:2010/01/31(日) 15:02:18 ID:83DlF3yK
>>203
お前が言うなwwww
205人間七七四年:2010/01/31(日) 15:31:22 ID:R5+Tol06
武田信玄「為せば成る為せねば成らぬ成る業を成らぬと捨つる人の儚き
     太閤殿、尼削姿もまた良いではありませんか
     寺の病も気になりますまい」
206人間七七四年:2010/01/31(日) 16:31:10 ID:bMmQ8csg
秀吉サイドに春日局がいなくてよかったな
207人間七七四年:2010/01/31(日) 17:05:11 ID:64c4b6f3
実際には東北の要地(というか対伊達)である会津を若年、
しかも家中も纏められない秀行に任せるのは戦乱の種になるからだよね。
蒲生に替わり上杉が会津に入ってるし。
208人間七七四年:2010/01/31(日) 18:11:41 ID:VENDbR73
>>207
『実際には』理由は不明だよ。
秀吉が直々に「転封は〇〇のためである」と書き残したわけじゃないし。
207の言ってることも解釈のひとつにすぎない。

それに、伊達のことを秀吉がそれほど恐れていたとは到底考えられない。
より一般的には、家康対策のため、と言うんじゃない?
209人間七七四年:2010/01/31(日) 18:22:49 ID:AFfxrAZw
だよな、氏郷に会津の大封を与えたのは家康を牽制するためだし、
もし関東に乱があれば家康vs氏郷の構図を目論んでいたはず
210人間七七四年:2010/01/31(日) 18:25:57 ID:m2/joRBf
>>208-209
まぁそれも解釈のひとつにすぎない訳だけどね
211人間七七四年:2010/01/31(日) 18:38:46 ID:AFfxrAZw
うまいっ
212人間七七四年:2010/01/31(日) 19:39:02 ID:QAH3zpZI
徳川対策のわりには石高に差があるし
距離も微妙に離れてるから
やっぱ伊達への牽制とは思うけど

解釈のひとつになるんだよな
213人間七七四年:2010/01/31(日) 20:15:12 ID:Ax4cWXMB
鬼武蔵こと森長可は、長久手の戦いにおいて眉間に銃弾を受けて戦死しましたとさ。

めでたしめでたし。


…で終わる訳もなく、
長可の首を取り返すことに成功した森家の家臣たちは、首を葬るべく兼山へ向かった。
まだ徳川軍の徘徊する小牧山を脱出し、犬山を抜け、兼山まであと数里の土田まで逃げ延びた。

ところが、土田の土豪である生駒一族は、本能寺のドサクサに紛れて周辺を荒らしまくった長可を
良く思っておらず、土田城近くの刎橋(跳ね橋)で森家の家臣たちを待ち伏せした。

谷底深い可児川にかかる、綱一本巻き上げれば通れなくなる刎橋を押さえられては
悪名高き森家の強兵もどうすることも出来ず、泣く泣く近隣の真禅寺に向かい、その裏山で
長可の首を埋葬した。

その後、真禅寺近くには長可の菩提を弔うべく二十四人の元家臣が土着し、彼らは野良着に
経帷子を用いたので、この地は「帷子」と呼ばれるようになった。


橋守を首と胴にして推し通った男も、自分が首と胴になっては橋を渡れなかった、そんな話。
214人間七七四年:2010/01/31(日) 20:17:07 ID:7YTLdmj6
>>201
今度は出家か
懐中に短刀を忍ばせたり、甲冑の装備が必要だったりと太閤に呼ばれるのも大変だな
まあ、ァ千代は最悪、鉄扇を持った実父のスタンドを出現させれば問題ないけどね
215人間七七四年:2010/01/31(日) 20:27:59 ID:QAH3zpZI
>>213
えーこれは、悪い話…なのか?
いやいい話でも無いけど…
216人間七七四年:2010/01/31(日) 20:28:59 ID:cnYlui2x
>>213

なぜ生駒の領地を荒らすのかさっぱりわからんがまぁ森家だし・・・
217人間七七四年:2010/01/31(日) 21:03:10 ID:t2CEyajY
>>216
長可「そこに動くものが居るからだ。」
218人間七七四年:2010/01/31(日) 21:14:09 ID:QAH3zpZI
うん、考えた結果
なんとなく後味が悪い話って事で納得した
219人間七七四年:2010/01/31(日) 21:33:43 ID:ryowtvQg
鬼武蔵は闘牛かよ!
220人間七七四年:2010/01/31(日) 21:43:00 ID:85wdHz76
本能寺で信長信忠が死ぬと、何かから解き放たれたように
可児周辺の切り取りを始めるからなあ、長可。

本質的には織田の軍官僚より、戦国大名の方が性にあってたんだと思う。
221人間七七四年:2010/01/31(日) 22:38:59 ID:dYzhgo+R
>>217
ものすごい説得力ですね!
222人間七七四年:2010/01/31(日) 23:05:33 ID:VENDbR73
>>220
鬼武蔵に戦略や外交、利害の調停ができるとは(あるいは、性に合っているとは)思えないので
信長や秀吉の下で暴れるのが分相応だと思う。
223人間七七四年:2010/01/31(日) 23:10:52 ID:WnDNHETb
>>222
まあ誰かのもとで軍政というのが関の山なんだろうな。

どうも鬼武蔵は、エピソードの多くが誰ぞの寵を嵩に着て横暴に振る舞うか、
弱い者を痛めつけるというようなものばかりで、勇名のわりに小物感が拭えない。
そこそこ有能だったのは間違いなかろうが、長久手合戦なんて、まさに馬脚が出でしまったようにしか見えん。
224人間七七四年:2010/01/31(日) 23:16:15 ID:AQ50vJO+
>>223
なんか余所で全く同じ文面を見たんだが
225人間七七四年:2010/01/31(日) 23:23:59 ID:NkMJttWd
コピペか
文句すら自分の言葉で言えないとか可哀想
自分の不満ははっきり行動に示した鬼武蔵見習えばいいのに
226人間七七四年:2010/01/31(日) 23:31:57 ID:9Vp7RM9C
このスレでは結構知名度が上がったので説明は省いてもよさそうになった
常陸の戦国大名小田氏治には、後々名前が残っているだけでも二人の息子がいた
一人は色々氏治に似たところがあるのが怖い嫡子・小田守治
そしてもう一人が、今回話す人物、庶子・小田友治である
一応友治の方が年齢的には九歳上なのだが、側室の子であったのだ

他にもそういうことが多々あるが、嫡男より年上の庶子はぞんざいに扱われがちである
大体は出家するか、良くて養子、もしくは人質として他国に送られるのが戦国の習い
友治も父が華麗に上杉謙信を裏切り、北条と同盟を結んだ際、小田原に人質として送られた

でもまあ、彼はその方がある意味幸せだったのかもしれない
北条家では他国からやってくる人質の少年など珍しくはなかったし
その後父が再び謙信に降り北条を裏切っても、その代償に殺されるということも無かった
友治は北条家で教育を受け、北条家で元服し、そのまま北条家の家臣になった

そうして友治は一生を北条家家臣として過ごすことになるかと思われたが、
友治が42歳の時、北条家は豊臣家によって滅ぼされてしまった
で、この友治は教育が良かったせいなのか、氏治に似ず案外有能だったから
スライド式に北条家から豊臣家に再就職が叶い、秀次に仕えることが出来た

再就職先での彼の仕事は自分の血筋を生かしたものだった
関東仕置きの後、関東はほぼ佐竹と徳川のものとなったが
これらの土地の内情を「先祖の墓参り」と称して潜入し、調査する。はやい話がスパイである
友治は見事にこれをやりとげ、常陸の地理や寺社仏閣の縁起、佐竹の内情を秀次に報告した

彼はその仕事で認められて、秀吉から船奉行に任ぜられ伊勢などに八千石を下賜された
この頃、友治は小田の家祖の名である八田を名乗るようになる
没落し結城秀康の陪臣となって小禄を食んでいる弟よりも、こちらが嫡流だという意識が湧いたのだろうか
この後も友治は朝鮮に渡り武功をたてるなど、豊臣家臣としてなかなか頑張っていた
227人間七七四年:2010/01/31(日) 23:34:56 ID:9Vp7RM9C
ところが、秀次事件がおきる
秀次の死に際しては、出奔し行方をくらませたために幸い命は助かったが
苦心して築いてきた豊臣家でのキャリアは全てご破算となった
それでも小田の人間らしくハングリー精神にあふれる友治は今度は徳川家に就職した
そして、父や弟と同じ結城秀康に仕えることとなった
ここでも友治はなかなか有能だったため重用されて、
秀康に意見をのべたりすることもままあるほどになった
ところがさすが小田の人間というか、彼もこういうときにコケる

慶長五年八月、友治は主君秀康と共に対上杉の牽制として宇都宮にあったが
主君がこれに不満を抱いているのは明白だったから、友治は
「今は東西に敵があり、お家の存亡を決める時です
 君命といっても受け入れられない時というのが世の中にはあります
 戦いに臨んで勇気の無いものは孝子ではありません
 秀康公におかれましてはひそかにここを引き払い西上し
 見方の軍に合流して先駆けを願い出れば、
 家康公もきっと気持ちをわかってくださるはずです」
と主君に進言した。秀康はその進言を喜んで受けた。

で、わかってもらえなかったのである
家康はこの秀康の先駆けに激怒し、それを勧めた友治を憎んだ
友治は弟の守治の家臣となることを命じられたが、友治のプライドはそれを許せなかった
彼は結城家を退去した。

その後、ちょこちょこ出仕先を変えたりしていた友治だったが、
最終的には出家して、京都で死んだ
228人間七七四年:2010/01/31(日) 23:37:22 ID:9Vp7RM9C
ところが、小田の血筋の因果はまだ尽きないのだ

この友治の子、義治はこんな父の生き方を見て育ったためか
やっぱり自分が名門・小田の嫡流だという意識があった
で、彼は豊臣秀頼に仕え、大坂の陣に際しては小田家伝来の旧領
つまり小田城のあのあたりの回復を条件に、全国から小田の家臣を集めて戦った
これが数は定かではないが、結構集まったのである
ただしもう徳川の旗本になっていた菅谷さんは来なかったので
それが悪かったのか、大阪城は落ちた

で、さすがは小田の人間というか
重傷は負ったものの、義治は生き残るのである
そしてどういう縁かは知らないが、福島正則に誘われてその客分になり
布団の上で病死した

氏治さんも濃いが、その系譜も濃いよね
229人間七七四年:2010/01/31(日) 23:39:15 ID:85wdHz76
何と言うか…

小田家には「軽率」と「悪運」の血が色濃く流れすぎているなw
230人間七七四年:2010/01/31(日) 23:41:33 ID:NkMJttWd
なんか呪われてんじゃないかこれ…
例によって運命が悲惨であっても人望はあるけどw
231人間七七四年:2010/01/31(日) 23:43:46 ID:cnYlui2x
氏治さまの血は不滅だね
232人間七七四年:2010/01/31(日) 23:44:34 ID:7f0EonSN
語弊はあるだろうが、このスレのためにあるような家だな。
233人間七七四年:2010/02/01(月) 00:14:14 ID:2OnIhGO8
なんだろうな、小田の血筋はみんなこんなんなのかw
234201:2010/02/01(月) 00:52:49 ID:9wiRcNP4
冬姫が人気らしくてよかった。
それよりもオチの家光への突込みが少ないのが気になる。
235人間七七四年:2010/02/01(月) 00:56:03 ID:JK1Tixtx
一応死なないんだから運はいいんだよなw
236人間七七四年:2010/02/01(月) 01:45:07 ID:63M1N3EU
・小田政治
足利晴氏に味方→河越夜戦で大敗
・小田氏治
お察し下さい
・小田友治
秀次に仕官→秀次事件
秀康に仕官→若くして死亡
・小田義治
秀頼に仕官→滅亡
237人間七七四年:2010/02/01(月) 01:51:09 ID:upovvfv5
小田原の時に何をとち狂ったか小田城奪回の挙兵しないで
佐竹配下でもいいから小田原参陣してたら歴史が変わったかもな
238人間七七四年:2010/02/01(月) 01:56:09 ID:63M1N3EU
訂正
・小田政治
足利晴氏に味方→河越夜戦で大敗
・小田氏治
お察し下さい
・小田友治
北条に仕官→滅亡
秀次に仕官→秀次事件
秀康に仕官→秀康若くして死亡・忠直改易
・小田義治
秀頼に仕官→滅亡
市松に仕官→改易第一号

日根野さん程じゃないけどデス一族だな
239人間七七四年:2010/02/01(月) 03:51:01 ID:WbsQ8YFB
どうしてこういちいち時代の流れに逆らった選択をするんだw
240人間七七四年:2010/02/01(月) 06:41:06 ID:OTZL3AXO
逆神の先駆けだなw
241人間七七四年:2010/02/01(月) 08:26:12 ID:pH4rPIKV
味方にすると恐ろしいが敵にすれば頼もしい小田一族
242人間七七四年:2010/02/01(月) 08:36:16 ID:z/iNQtkQ
世代を越えて、何度でも小田家は打ち破られるw
243人間七七四年:2010/02/01(月) 09:08:13 ID:kkmX7WCi
そのくせ完全には潰されず何度でもしぶとく復活するあたり侮れない
244人間七七四年:2010/02/01(月) 09:38:43 ID:slKffcwS
まさに蛙の子は蛙だなw
245人間七七四年:2010/02/01(月) 10:36:49 ID:dATfTc77
大阪の陣でも呼びかけに応じて旧家臣が集まって来たくらいだ
何か殿様として萌え要素があったに違いない

……萌えとか言うな>俺
246人間七七四年:2010/02/01(月) 11:05:40 ID:63M1N3EU
佐竹に降っても忠義を貫いた菅谷の範政さんは大阪の陣前に没してるからなー
生きてたら駆け付けてそうで怖い
247人間七七四年:2010/02/01(月) 13:18:02 ID:Xin5itJ1
どういうわけか、本来なら正式に小田を継いだ嫡流は
小田原の役の後はおとなしく結城秀康に仕えた弟の守治なんだが
こうして小田らしく不屈の闘志を見せ付けるのは庶流の兄・友治の系列なんだな
友治には義治のほかにも息子がいるんだが、こちらも自分が小田の嫡流だと主張していたらしい
友治の系列には鬱屈した何かを感じるな
248人間七七四年:2010/02/01(月) 17:05:55 ID:qwxzfXF2
>>245
「この主君は俺(達)が盛り立ててやらねば……」
って思わせるモンを持ってたんだろうね。そうでもなければ、いくら昔からの殿さまとはいえ、こうも義理立てされんだろう。
249人間七七四年:2010/02/01(月) 17:11:49 ID:cPGd7ZNf
こういう殿様なら「のぼうの城」の著者が題材にすればいいのに
250人間七七四年:2010/02/01(月) 17:53:21 ID:rGR3DY10
ある酒の席での出来事。

(●Д゚)「じゃあ俺はこれで失礼!」
徳川頼宣「お疲れ様で〜す」
(♯●Д゚)(むっ!この野郎、座ったまま見送るとは、どういう了見だ)

イラッとした政宗は頼宣に文句を言ってやった。
(♯●Д゚)「おい!その態度はなんだ!」


               ミ  ∩
                  _\\   ミ
                 と__⌒ /⌒ヽ ア〜レ〜
        ミ            \ ;●Д゚)
         / ̄ ヽ         ヽヽ ヽヽ
        . /    , )         ヽ) (ノ
        | /ヽ ヽ‐
        // //   フン!
       U  .U

すると頼宣は政宗の足をとって、ぶん投げてしまったという。
251人間七七四年:2010/02/01(月) 17:56:40 ID:+1iTJIRa
お年寄りは大切に扱いましょう・・・・DQ眼竜が幾つの時の話だか知らんけどw
まあ政宗ならちょっとくらい乱暴に扱っても壊れなさそうだw
252人間七七四年:2010/02/01(月) 22:49:02 ID:/r78I6qj
2人の年齢差を考えると、政宗は50歳児以上にはなってたんじゃないかと思うが、
これは年上に対する礼がなってないからイラッときたということ?
頼宣の方が偉いと思うんで、座って送ってもいいんじゃないかと
感じてしまったんだが。

253人間七七四年:2010/02/01(月) 23:42:22 ID:rGR3DY10
>>252
よくわからない。酔っていたのかよほど態度が気に入らなかったのか・・・
とにかく文句をつけたら頼宣に投げ飛ばされたという話
254人間七七四年:2010/02/02(火) 00:15:44 ID:A0SB74EK
関東八屋形の一つ、那須家は応永年間に上那須家と下那須家に分裂して戦国期を迎えた。
上那須四代・資親は実子がなく、白河結城家から養子・資永を迎えたが、晩年になって
実子・資久が生まれ、家老の大田原資清に資久を当主にするよう遺言して世を去った。

資清は遺言を守って他の家老たちと協力し、永正13年(1516)、資永を福原城に追い詰めた。
ついに上那須の家臣団が福原城の本丸に討ち入った時、資永の家臣・田川時法が
「資永様は自害された!」と言って攻城兵に白衣の包みを渡し、城に火を付けて消えた。

包みの中には資永の首と、田中城にいるはずの、まだ六歳の資久の首が入っていた。
こうして、上那須家は唐突に断絶した。

「追い詰められた資永の命により、田川が田中城に忍び込んで、資久様を誘拐した。この上は
下那須の資房様に従い、指示を仰ぐべし。」という大田原資清の釈明に、誰もが疑問を持った。
資清が統一那須家の筆頭家老となるに及んで上那須党の不満は爆発し、大関宗増と福原資安が
主君・資房に讒言して、その傍観を勝ち取り、永正15年(1518)、両名は資清を攻めた。
資清は命と引き換えに実兄・麟道のいる長興寺において出家し、越前永平寺へと旅立った。

24年後の天文11年(1542)、突如那須郡に乱入した兵団を率いる将を見て、宗増と資安は驚いた。
「きっ、貴様、大田原資清!どうやってこれだけの兵を・・・?!」
「やぁご両所、お久しゅう。実は永平寺に参拝に来られた太守の朝倉孝景様と意気投合してのぅ。
身の上を話したところ、こうしてご助勢下さったわけよ。」

不意を突いて大関・福原に勝ち、那須家の家老に返り咲いた資清は、宗増の嫡子・増次を殺すと、
自分の長男・高増を大関家の養子にねじ込み、資安を高野山に追放して、次男の資孝を福原家の
養子に押し込んだ。
さらに、三男の綱清に自分の跡を継がせ、次女を那須資房の子・政資の側室に送り込んだ。

この資清の息子たち三人、いわゆる大田原三兄弟が、父に勝るとも劣らぬ悪謀を巡らせ、
那須の実権を握り、幕末まで続く家を輩出することになる。
255人間七七四年:2010/02/02(火) 00:28:10 ID:SHorI0pl
>>250
戦国を生き残った爺様たちに最近萌えてる俺としては
それを見て一首浮かんだ忠興
頼宣をなだめて見送る信之
政宗をなだめて起こす宗茂
政宗を見て誰にも気付かれないようにほくそえむ悪い家久
そんなことお構い無しに某かに絡んで頼まれていないのに武勇伝を語っている勝成
を思い浮かべてしまう
256人間七七四年:2010/02/02(火) 01:05:07 ID:S54LY28S
>>255
何という微笑ましい構図w
257人間七七四年:2010/02/02(火) 02:14:56 ID:nNo/xBWh
>>255
思わず口元が緩んでしまった
258人間七七四年:2010/02/02(火) 02:43:27 ID:vgPRIJb4
遠く越前は永平寺に隠遁したの大田原資清が22年後に突如舞い戻って来たでござる。
結構壮大な話だよな。

資清の他家乗っ取りのやり方ってちょっと面白い。長男高増を大関氏、次男資孝を
福原氏に入れて独立させ、大田原氏は三男綱清に継がせる大陸風の末子相続か。

でも3家のイニチアシブは長男大関高増が執っていたみたいだね。
259人間七七四年:2010/02/02(火) 06:19:41 ID:IT+qGobI
>>254
そもそもの資久暗殺も実は資清の差し金?
260人間七七四年:2010/02/02(火) 09:43:50 ID:L5TsXL+b
>>259
統一那須家の家老に収まって資房にも重用されてるのを見ると
そう思えてしまうよなw

資房自身は上那須家の相続争いに関しては資久を支持したみたいだけど、
両方共倒れ後にちゃっかり自分が統一那須家を支配してるし、
資清と資房がグルになってる気がしてならないw
261人間七七四年:2010/02/02(火) 10:12:42 ID:u0wx+rDb
とりあえず片目DQNは右側が見えないから右から殴れば勝てる。
262人間七七四年:2010/02/02(火) 10:32:02 ID:NsWLTKcT
なにそのDQNな発想
263人間七七四年:2010/02/02(火) 11:53:47 ID:Ij9s5Iz1
>>238
市松も

小田
志賀


可児
村上(来島)

など毎回多くの問題児家臣抱えて大変だな
264人間七七四年:2010/02/02(火) 12:24:26 ID:FsTUIlbV
>>252
一応突っ込んどいてやる

(♯●3゚)「50歳児とは誰のことだ〜」
265人間七七四年:2010/02/02(火) 16:47:17 ID:pxXKtC3d
>>261
平山五郎のように(彼は左目だが)、右からには滅法強いかもしれんぞ。

>>263
まさしく類は(ry
266人間七七四年:2010/02/02(火) 22:46:14 ID:RYlEg16J
>>263
地元の人なので村上さんの問題児っぷりをkwsk。
まとめにも載ってる頼宣に茶を出されたときにごねた話くらいしか思い浮かばないけど
それなら眞鍋くんも入れてあげようよ。

村上さん、長宗我部を除けば地味〜な四国勢では実は残ってる逸話が多い人では?と思うんだけど。
267人間七七四年:2010/02/03(水) 07:00:31 ID:9ShCeUp3
くん
268人間七七四年:2010/02/03(水) 09:55:10 ID:GvBjqybg
>>250
一度門の辺りまで出たのに、態々座敷に取り返してよりりんの手持って
「まぁまぁこちらへ見送りに出て来てくださいよ」とか引っ張って出ようとしたら
投げられた、という流れだったはず。
269人間七七四年:2010/02/03(水) 13:34:54 ID:pqpNPS6M
独眼竜vs南龍公は南の龍の優勢勝ちと言うことで。
270人間七七四年:2010/02/03(水) 13:48:15 ID:iiYcbcUN
絶対三斎様が息子に手紙書いてるオチだと思ったのに・・・
271人間七七四年:2010/02/03(水) 14:58:42 ID:u8vN6Iut
>>268
なんか意味不明なやり取りだな。
272人間七七四年:2010/02/03(水) 17:01:39 ID:Hi8FBmGD
>>270
そんな日常的な事手紙に書くわけ無いだろ
273人間七七四年:2010/02/03(水) 18:55:38 ID:xJql0QJ+
なんだよツッコミ待ちか?
274人間七七四年:2010/02/03(水) 23:42:23 ID:tG/30yYF
>>272は狐に憑かれているんだろう
275人間七七四年:2010/02/04(木) 19:38:26 ID:5gmyPA0H
関ヶ原の時のこと。

豊臣家の船手組である村上彦右衛門、菅野右衛門は、大阪から九月十二日の晩に桑名浦に乗り付け、
十三日の早朝、西軍の面々と対面し、大阪の様子などを報告した。
この時村上は安国寺恵瓊に対し

「ここに来るまでにお味方の面々の、陣所の様子を見てまいりましたが、どこを見ても、
どうにもやる気が感じられません。」

と語った。これに安国寺は

「私もそのように感じている。だが事ここにいたっては仕方がない。
我々の方が大軍であるのだから(家康が赤坂に旗印を立てるのは翌十四日)、東軍一人に付き我ら
十人で当たるという心づもりで居る。これで4,5日も持ちこたえれば必ず我々の勝利になる。」

村上、これを聞いてさらに
「しかし今の状態だとお味方はどこも、バラバラに山の上に陣を置き、しかも山高く上がっているため、
お味方全体としての陣形が非常にまばらで薄くなっているように見えます。
あれでは戦のしようがありません。

逆に東軍はたしかに我らより少数なのでしょうが、全体として固まっているためその勢も厚く見えます。
その上一両日中にも、こちらに対して戦いを仕掛けんとする様子です。
どうか、御油断なさらないよう。」

そう忠告すると、再び大阪への帰路に着いた。
果たして九月十五日、西軍は敗北した。
村上彦右衛門がこの報を聞いたのは、伊勢の津においてであったと言う。
276人間七七四年:2010/02/04(木) 22:42:10 ID:7Hy5MCz/
この話はちょっと後付けくさいよね・・・
277人間七七四年:2010/02/04(木) 23:11:19 ID:twXrNb0S
陣形だけ見れば西軍必勝といってもいい鶴翼の陣だからね
278人間七七四年:2010/02/04(木) 23:21:54 ID:dPuqbEHc
相手を少数って言うほど兵力の差って無いでしょう
陣取りとしても、常道としては高地に陣取る方が圧倒的有利なわけで
後付け臭いけど、まぁ、ココは信憑性を論ずる場でもないし
と、自分の事は棚に上げてみようかなw
279人間七七四年:2010/02/04(木) 23:33:53 ID:WrZB45Xg
>>278
水路を絶たれて負けたという例もあるからなんともいえんな
280人間七七四年:2010/02/05(金) 01:12:32 ID:nLjHgKW6
「徳川殿は良い人持ちよ 服部半蔵は鬼半蔵 渡辺半蔵は槍半蔵 渥美源吾は首切り源吾」


この様に歌にも歌われた勇者、鬼半蔵こと服部半蔵正成の嫡男は、服部正就と言った。

さて、慶長元年に正成が没すとその跡を継いだ正就は、同時に”半蔵”も襲名、父が率いた
伊賀組同心の指揮権も受け継いだ。

ところがこの正就、本来指揮権だけしかもっていないはずの支配下の伊賀同心を、
あたかも家来であるかのように扱った。
例えば自らの屋敷を建てるときなど、配下の同心たちに普請の割り当てを行い
これに従わない場合は給米を減らすなどした。完全な公私混同である。

当然伊賀組同心は正就に強く反発。慶長十年十二月、四谷長善寺に同心二〇〇名が
武装した上立てこもり、正就の解任と、自分たちの与力への昇格を要求した。
この事件により、正就は伊賀組支配を解任された。

が、痛い目にあっても分からない人と言うのはいるもので、正就はこれを理不尽だとし、
幕府に対し、立てこもりの首謀者10名の死罪を要求した。逆恨みもいいところである。
この伊賀同心の首謀者10名の内2人は、見の危険を感じて逃亡した。

正就は自身で江戸市中を徘徊し逃亡した者の探索を行い、ついにその一人を発見、
斬り捨てた!

…はずだった。

ところが斬捨られた男をよく調べると、逃亡したものとは別人であることがわかった。
それどころか彼はなんと、関東代官頭、伊奈忠次の従者であったのだ。
徳川幕府の文官トップの従者を、事も有ろうに人違いで斬ってしまったのである。

これでは流石に「鬼半蔵の息子だから仕方がない」とはならない。
正就は改易され、追放処分を受けた。
彼は後に、名誉回復のため大阪の陣に参戦するが、そこで戦死したのだと言う。


「ニンともカンとも」な、鬼半蔵の息子のお話。
281人間七七四年:2010/02/05(金) 02:07:34 ID:sGsMf90z
永禄四年七月、南近江の六角氏は畠山氏と連携して三次長慶を南北から攻撃した。
この時、浅井長政は手薄となった六角領へ侵攻、吉田安芸守兄弟の守る太尾城の
奪取を企てた。

赤尾清冬、磯野員昌ら浅井家中の主だった武将がこれに参加したが、なかなか城は
落ちない。攻め手はいろいろと策を練り始める。

今回の城攻めでは磯野隊に属していた今井定清は夜襲を計画、伊賀者を忍び込ませ
城中から火の手が上がるのを合図に本丸・二の丸同時攻撃を行う手筈を整えた。

そして当日の夜半・・・

【今井】「丹州(磯野員昌)ばかりにいい格好させれないからな。さて、合図はまだかなー?」

・・・・・

【今井】「おいおいどうしたんだよ、夜が明けちまうぞ、しくじったのか?」
【島秀安】(今井の配下)
「夜も明けちゃいますから、殿はもう帰られた方がよろしい。ここには自分が残りますから」
【今井】「う〜ん、まあ、失敗はつきものか・・・引き上げるわ、あとはよろしく」

今井が惜しく思いながら自陣に引き上げたところ、いきなり城に火の手が上がった!

【今井】「いかん!やはり戻るべきではなかった!丹州に手柄とられてなるものか!!!」

馬を戻して、先頭に立って供の者に叱咤する。

【今井】「急げ急げ急げ進め急げ急げ進め進め〜〜!!!!」

そして、磯野勢の中を走り抜けようとしたその時!

【今井】「げちょ!」

今井の背後から鑓が突き出され、まともに食らった今井定清は馬から転げ落ち絶命してしまった。

【島秀安】「ひゃあ、殿ぉ!」

今井の手勢は大混乱、城の火はすぐに消し止められ、何ら浅井勢は得るところなしに終わった。
今井の遺骸は館に戻され葬られた。今井定清の子はまだ幼少であったため、一族が相談して小谷城へ
犯人の詮議を訴えでた。

【今井親戚】
「こりゃ前代未聞の味方討ちじゃ!そういえば陣中から田那部式部丞の姿が見えなくなっておる!
 まさか、あやつが定清を手にかけたんじゃ・・・ウオーッ!殺す!!」
【長政の使者】
「ま、待て!お屋形様も『浅井の家は末代まで責任を逃れられぬ』と申されておる。田那部のことは
 不審に思って義兄である遠藤直経と連絡を取っておるところじゃ。落ち着かれよ!」

【田那部式部丞】
「すんません。何かみんなから疑われちゃったんで兄貴のところに匿ってもらってました。
 でも、自分無実なんで出頭いたしましたペコリ」

その後の調べで、結局、磯野員昌の兵士が今井定清をやっちゃったことが判明、磯野員昌は今井家中へ
誓詞・起請文を捧げ「合戦の最中であるため、とりあえず山中で謹慎」する羽目になった。

何だかねえ・・・('A`) ('A`) ('A`)
282人間七七四年:2010/02/05(金) 04:54:52 ID:bFFonHI9
>>281運悪く芯じゃったのがね……カワイソス(´・ω・`)

矢に刺されても槍で突かれても不思議の生を拾った人が居てこっちは勇者としての逸話になるけど..
283人間七七四年:2010/02/05(金) 04:57:49 ID:bFFonHI9
>>280
かなしいこと、鬼半蔵は、めんどくさい三河士道を倅に教え込めなかったんだろうか。

大久保長安を代表に「よく代官を殺す」家康も、
こんな人違いで関東代官頭の家人を斬ったらそら、怒りますわな。
284人間七七四年:2010/02/05(金) 09:46:16 ID:dBWByPOh
>>281
これ実は暗殺じゃないかとも言われてるよね
285人間七七四年:2010/02/05(金) 09:57:47 ID:f1VHLR/I
>>280
 ,.――――-、
 ヽ / ̄ ̄ ̄`ヽ、
  | |  (・)。(・)|  
  | |@_,.--、_,>  
  ヽヽ___ノ   改易されたでござる の巻
286人間七七四年:2010/02/05(金) 16:17:02 ID:hxvyrPvY
>>283
家康そんなに殺してたか?
287人間七七四年:2010/02/05(金) 17:20:08 ID:9dPQd8je
猫ネタって井伊の落雷話と義弘の朝鮮出兵話と鍋島の化け猫と相良当主を祟る血飲み怨霊猫くらいしかネタにないの?
288人間七七四年:2010/02/05(金) 17:26:52 ID:LUzqx/ec
太田道灌の猫の話もあるよ
289人間七七四年:2010/02/05(金) 17:57:10 ID:g8/z5CQB
>>286
茶阿局の話(横恋慕した代官が夫を殺すと、家康に訴えて代官は処罰。そのまま側室)とかあるし結構、殺している
290人間七七四年:2010/02/05(金) 18:01:46 ID:nLjHgKW6
>>289
家康「(処罰したら)いかんのか?」
291人間七七四年:2010/02/05(金) 18:11:10 ID:YgmdNZ8n
秀吉「そらいかんだろう」
292人間七七四年:2010/02/05(金) 18:27:05 ID:S9QfgJYz
天下人ってなんなんだ?
293人間七七四年:2010/02/05(金) 18:55:03 ID:f1VHLR/I
故・川合伸旺さんが演じていたような悪代官なら成敗しても株は上がるんだが
294人間七七四年:2010/02/05(金) 19:00:20 ID:I54DvYEf
そういうのも使いこなすのが名人の道
295人間七七四年:2010/02/05(金) 19:20:51 ID:1EBS3mya
>>293
川合さんは悪家老のイメージ。
麿AAで姿だけ有名になっちゃった菅さんは悪若殿のイメージ。
296人間七七四年:2010/02/05(金) 19:28:39 ID:+8o16L0H
菅さんはもはや麻呂のイメージが拭いがたいw
297人間七七四年:2010/02/05(金) 19:29:16 ID:FSoRnoa9
>>287
天下の名将
小田氏治さんもネコ好きだよ。
298人間七七四年:2010/02/05(金) 19:55:51 ID:f1VHLR/I
菅貫太郎さんは悪役かとおもったら実は悪いふりをしていた正義の人っていう
どんでん返しが極たまにあるからなあ
299人間七七四年:2010/02/05(金) 21:27:49 ID:nLjHgKW6
ネコの話題が出たので、犬の話題もやってみる。
忍者の秘伝書『四足の習』に見る、ワンちゃん攻略法!


Lesson・1「なつかせよう!」
忍び込む先にワンちゃんがいて、こっちを警戒しているぞ!
そんな時はこれ、餌付け!
キミの携帯している焼き飯をワンちゃんにあげてみよう。たちまち尻尾をふって
ご主人様扱いだ。この卑しいケダモノめ!


Lesson・2「「殺しちゃおう!」
あれあれ?焼き飯を上げても懐いてくれない?貢がせるだけ貢がせておいて!
質の悪い女かお前は!大ピンチ!

でも大丈夫。そんな時はコレ!馬銭(マチン)!
この植物から抽出した薬を焼き飯に混ぜて食べさせちゃえ!
たちまち酔っ払って死んじゃうんだ。ざあまあみろ!

え?かわいそう?だ・い・じょ・う・ぶ☆
水を飲ませたらまた生き返っちゃうんだ!仮死状態にさせるわけだね!
変に犬の死体を残して怪しまれたくないときにはコレ!


Lesson・3「必殺」
「そんな事言っても仮死じゃ不安だ。確実に殺したいときもある」
なーんて思っているあなた。そんな時にはコレ、鉄粉!
これを馬銭に混ぜて食べさせるんだ!すると即死。まさにイチコロ!
いざって時はコレだね!


忍者に取って犬は大敵!状況に応じてこれらを使い分けて、楽しい忍ライフを
過ごしてね!
300人間七七四年:2010/02/05(金) 21:45:39 ID:8wC+9nb9
そもそも大久保長安は病死
301人間七七四年:2010/02/06(土) 00:24:27 ID:NoMs5Lwj
ここで既出ではありますが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1100.html
対談の内容が出ていたり、兼続に対する感想がちょっと違ったりしているので投下してみる。



直江兼続はしばしば学者の藤原惺窩との対面を望んだが、惺窩はそれをまるで受け付けなかった。
業を煮やしたのか、兼続はついに京の惺窩の屋敷へと直接に訪ねてきた。
ところがその時はたまたま惺窩が外出しており、この時も兼続の望みはかなわなかった。

惺窩が帰ってきてその事を聞くと、
「私は何度望まれても彼に合おうとしなかった。そして今日は、彼が訪ねてきたのに会うことが無かった。
おそらくこれは、居留守を使ったと思われているだろう。
そう恨みに思われては、後で何をされるかわかったものではない。」

と、すぐに兼続の屋敷へと向かった。
ところがその日兼続は既に、帰国のため出立していた。惺窩はあわててその跡を追い、
大津でようやく追いついた。

ここで二人は初めて対談をする。まず兼続は言った

「久しく廃れた家を急に取り立てるべき時に、臣下としての心構えはどうあるべきだろうか?」

これに惺窩は、「事の急なるは却って破るるの基なり」という事を詳しく語ったと言う。

後で惺窩は

「兼続と言う人は主君に、家を滅ぼしかねないような事を起こさしめる人である。」

そう評したそうだ、
302人間七七四年:2010/02/06(土) 01:02:59 ID:UX16o80A
>久しく廃れた家を急に取り立てるべき時

この認識持ってる時点で既に家を滅ぼしかねないようなことしそうな人、だよな、実際
303人間七七四年:2010/02/06(土) 02:39:27 ID:6OaW8JSI
>>299
普通だw
自分も何かでちょっと見た覚えがあるけど、忍者の秘伝書的なものって
案外普通というか、合理的な事を書いてあるようなのが多かった気がする。
鉄粉てのは普通に「鉄の粉」かね?
馬銭と鉄が反応して即死系の毒物になるんだろうか。
304人間七七四年:2010/02/06(土) 10:12:37 ID:dPvcSpTD
東の小田氏も相当弱いが西の少弐氏もいい勝負だと思う。弱さが。
305人間七七四年:2010/02/06(土) 10:46:11 ID:+FX4dSAG
少弐も弱さとしぶとさは相当なものだが
小田氏と違って当主がしょっちゅう戦死するからなぁ
306人間七七四年:2010/02/06(土) 11:08:14 ID:Imz094Dq
少弐に仕えてた肥前小田って常陸小田の傍流なんだよね
307人間七七四年:2010/02/06(土) 11:23:14 ID:dPvcSpTD
初代  武藤資頼
二代  少弐資能 (戦死)
三代  少弐経資
四代  少弐盛経
五代  少弐貞経 (戦死)
六代  少弐頼尚 (菊池に敗北、勢力減衰)
七代  少弐直資 (戦死)
八代  少弐冬資 (今川貞世に消される)
九代  少弐頼澄 (敗戦→亡命→死亡)
十代  少弐貞頼 (英主。勢力復活)
十一代 少弐満貞 (戦死)
十二代 少弐資嗣 (戦死)
十三代 少弐嘉頼 (戦死)
十四代 少弐教頼 (戦死)
十五代 少弐政資 (敗戦→自害)
十六代 少弐高経 (政資から家督を継いだ3日後に戦死)
十七代 少弐資元 (自害)
十八代 少弐冬尚 (龍造寺一族抹殺で熊を目覚めさせる。最期は自害。)
308人間七七四年:2010/02/06(土) 11:25:26 ID:yPgz3mr9
>>307
すごい一族だな・・・
そんなに当主が戦死してるのに、よく滅びずに何百年も続いたね
309人間七七四年:2010/02/06(土) 12:35:41 ID:O8MFrwZa
当主の戦死は多いが精子も多かったという事か
310人間七七四年:2010/02/06(土) 13:07:40 ID:ABQ9+zGw
今川も結構、当主や跡取りが戦死や夭折と思っていたけどこれには勝てない。
311人間七七四年:2010/02/06(土) 13:11:22 ID:MSxPQd3w
菊池も悲惨
312人間七七四年:2010/02/06(土) 13:11:56 ID:ZW1WUNOW
>>307
補足すると、少弐景資も兄経資との家督争いに敗れて討たれてる
313sage:2010/02/06(土) 13:28:42 ID:QNXcl/8S
まとめサイトに成田長泰が城から締め出された話があったのでもう一つ。

ある時、上杉謙信に攻められた武蔵忍城。
何とか持ちこたえたモノの、城の目の前に皿尾城という付城を築かれてしまう。

皿尾城との間には川や沼があるとは言え、すぐ目の前に敵城があるのはやはり面白くない。
謙信が越後に引き上げると、すぐに皿尾城攻略を画策し始めた。

長泰「謙信さえ居なくなれば怖いものなんてないモンね!すぐに攻め落としちゃうよ!」

と、朝も早よから攻撃を始める。
しかし皿尾城主の木戸父子も粘る。中々城を落とせないまま、あっという間に時刻は夕方。
冷たくなってきた風に頭が冷えたのか長泰、謙信以外にももう一つ、「怖いもの」があった事を思い出した。

「太美が来たぞ〜〜〜っ!!」

敵味方に伝令の声が響き渡る。そう、戦が長引いてしまったせいで、長泰のもう一人の天敵、太田美濃守(後の三楽斎)が岩槻城から援軍を連れてやってきたのだ。

慌てて逃げ出す成田軍……だったのだが……

長泰「えっ?何?何で城門が閉まってんのっ!? 開けてよっ!!ねぇってば!あ〜け〜〜てぇ〜〜〜!!」

突然の天敵の襲来にパニくった城兵が、長泰の部隊が引き上げる前に忍城の城門を閉めてしまったのだ。
このままでは自分の城の門前で討ち死にしてしまう。慌てて忍城から逃げ出す長泰。
その晩は仕方なく荒川のほとりで野営をし、翌日、改めて軍勢を建て直し、忍城に入城を果たしたのである。

氏長「……ご無事で何よりです、父上(美濃守の役立たずめっ)」
長泰「そ、そんなにパパの事、キライ?」

家督相続がこじれる数年前の話。門を閉めたのは氏長の陰謀だったのでしょうか?
何はともあれ生涯で2度も居城から締め出されちゃった成田さんinのぼうの城 のお話。
(出典「成田記」「成田系図」)

ちなみにその後、皿尾城は無事、長泰によって落とされるのですが、まとめにあった家督相続がこじれた末に長泰が締め出されちゃった話、側室を住まわせていたのが「皿尾の館」となっていたから、落とした皿尾城を側室用の別荘としてリフォームして使ってたようです。
……アンタ、皿尾は鬼門だからもう近寄んな。
314人間七七四年:2010/02/06(土) 13:36:43 ID:QNXcl/8S
名前とメールの欄を間違えた……
お詫びがてらに成田さんもいっちょ!

氏長に家督を譲った後の長泰は出家して蘆伯斎を号し、以前と変わらず忍城に暮らしていた。
そろそろ年を感じてきた蘆伯斎だったが、その頃夜になると部屋の梁が揺れ、身体に重く圧し掛かるモノがある。
あまりの重さに息も絶え絶えになり、声も出ない。おかしな様子を感じた宿直の者が助けに入るまでそれは続き、やがて失神するかのように眠りにつく、そんな日々が続いた。

仲が悪いとは言え父の身に起きた怪異、城内での出来事でもある為、氏長や重臣らも頭を悩ませていたが、僧の祈祷も効き目がない。
僧がダメならと、家臣の弓の名人に怪異の退治を命じてみる。命じられた三沢七郎左衛門は「自分には荷が重いが父なら……」と老父を推挙。
この老父、御年85歳になる三沢浄斎、若い時は京都に上り弓術の奥義を授かった程の名人であったのだ。

その夜、蘆伯斎の寝室を警固する浄斎他数名。
しかし真夜中になり、警固の者たちが船を漕ぎ始める……と、共に部屋の明かりは消え、家鳴りが響き、
蘆伯斎のうめき声が聞こえ始める。

浄斎「さては現れたな物の怪!」

と弓を一鳴らし。途端に警固の者たちも蘆伯斎も眠気は覚め、意識を取り戻す。
そして警固の一人、矢沢玄蕃允は自分の足元を何かが擦り抜けようとしているのに気付いた。

矢沢「さてはこれが物の怪!」

真っ暗な中、矢沢と何かが取っ組み合いをする音だけが聞こえる。
やがて物音が止んだ頃、明かりをつけて見ると矢沢の身体中には獣の爪痕が何ヶ所もついており、血塗れの状態。

矢沢「組み伏せたと思った途端、雲のように消えてしまいました」

その晩は夜通し城内を捜索したのだが、何も見つからない。
「天狗の仕業か」と皆で話し合っていた所に、朝になってある廓の番兵が上役に申し出てきた。

番兵「今朝方、私の夢に犬ほどの大きさで全身真っ赤、両目は鏡のように光り、口から火炎を吐く狐が出てきました」

夢の中の狐が言うには、
「ワシは貴方の受け持つ廓に住む古狐が化けたモノじゃ。昔、若い頃の蘆伯斎めに妻子を殺されたのじゃが、
当時長泰と名乗っていた彼の威勢は強く、仕返しが出来なかった。今、老人となり衰えてきた故に妻子の仇を
取ろうと狙っていたのじゃ。後三日もあれば蘆伯斎の命を取れたのに、弓に撃たれ、大力の士に組み伏せられ、
通力を失ってしまった。ワシはこの城を去るが、貴方は長年、餌を恵んでくれた恩があるのでこの宝玉をあげ
よう」
男の枕元には確かに石で出来た桃くらいの大きさの玉があったのだと言う。

この話が氏長、蘆伯斎に伝わると、
蘆伯斎「確かに昔、あの廓で面白半分に狐に弓を射掛けた。母狐が子狐を腹の下に隠すので、まず母を殺した。そしたら子狐が這い出してきたのでそれも殺した。その時の父狐がワシに復讐に来たのか……」

その後、蘆伯斎は狐の親子をねんごろに弔い、廓に祠を建てて稲荷として祭ったという。(出典「成田記」)

お隣の館林は狐を助けて城を建ててもらたってのに、アンタと来たら……
つか蘆伯斎って……アシハクサイって……クレヨンしんちゃんじゃねぇんだからさ……
315人間七七四年:2010/02/06(土) 15:01:49 ID:v4cIsvHS
>>314のせいで「アシハクサイ」としか読めなくなった。
謝罪と賠償ry
316人間七七四年:2010/02/06(土) 15:11:17 ID:TwxDEkXa
      / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \
/⌒ヽ  / ''''''     ''''''   ヽ
|  /   | (●),   、(●)   |
| |   |    ,,ノ(、_, )ヽ、,,     |
| |   |    `-=ニ=- '      |
| |   !     `ニニ´      .!      天狗じゃ、天狗の仕業じゃ!
| /    \ _______ /
| |    ////W\ヽヽヽヽ\
| |   ////WWWヽヽヽヽヽヽヽ
| |  ////WWWWヽヽヽヽヽヽヽ
E⊂////WWWWWヽヽヽヽヽヽヽ
E////         ヽヽヽヽヽヽヽ
| |  //WWWWWWWヽヽヽヽヽヽヽ
317人間七七四年:2010/02/06(土) 16:25:02 ID:s0KGK69J
動物ネタ面白いね。
つか小田の猫ネタってなんだっけ?
318人間七七四年:2010/02/06(土) 17:23:00 ID:nNvA9jU2
忍の少し北の方に狸に助けられた城もあったよーなw
なんにせよ、無意味な殺生はいかんという事ですね。
319人間七七四年:2010/02/06(土) 20:38:30 ID:Xzx3LBeL
動物を助けたからといっていつもいいことがある訳じゃないと思うんだ。
ということで動物話をもう一つ。

何とも微妙な河野通直の動物話。
一杯いる通直さんのうち、以下の話と同じ頃、同じ通直さんの話のようです。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3317.html

通直さんの奥方がある日突然二人になってしまう。
見た目も振る舞いにも違いがなく、どちらが本物なのか全くわからない。
ところが食事を与えると、一方が怪しくガツガツ食うのを見てそちらを捕らえると狐が正体を現した。

怒り心頭の通直さん、さっそく火あぶりにしてしまおうとするのだけれど、そこに大勢の狐たちが現れる。
そやつらは口を揃えて
「貴狐明神の末稲荷の使者長狐という狐の王で、殺してしまうと災いが起こるので命だけは助けてほしい」
と通直さんに頼み込んだ。

それを聞いた通直さんは狐たちが四国からいなくなることを条件に狐の命を助けることに。
誓文を書いた狐たちは四国を立ち去ったとのこと。
めでたしめでたし。

……で、結局四国から狐がいなくなったそうなのですが、
そもそもそんな偉い狐が奥方に化けて何したかったの?、とか
恩を返す訳でもなく追放するだけで何かいいことあったの?、とか
いろいろツッコミどころもある訳です。
挙句に孫の方の通直さんは自分が四国を立ち去る事になって河野氏自体滅んでしまうんですけどね。

ということで、タダのいたずらにしても騙す方、騙される方のウィット成分も少ない、
地味な戦国四国の狐にまつわる悪い(?)話、でした。
320人間七七四年:2010/02/06(土) 21:06:03 ID:1aZx73Ey
>>319
四国といえば狸らしいから、その起源(ただし後付け?)話なのかな?
321人間七七四年:2010/02/06(土) 21:17:33 ID:PvfqiWZW
狐が四国から出て行くのは弘法大師の話
322人間七七四年:2010/02/06(土) 21:21:35 ID:sfU/cvhk
>>321
それもあるねー。「鉄の橋が架かるまで戻ってこられない」ってやつ。
実際橋効果は絶大なのか、今日もニュースで四国では十数年前から狐の目撃例が増えたと言ってた。
戦国時代にも狐追い出し逸話があったんだ。
やっぱり皆なんで四国には狐いないんだろうと思ってたんだな。
323人間七七四年:2010/02/06(土) 21:27:46 ID:ocWy0EI0
>>299>>303
馬銭と鉄で即死するってのは、忍たま乱太郎でも紹介されてたな
子供向けの漫画で書くことじゃねえw
324人間七七四年:2010/02/07(日) 06:44:00 ID:tbHDwvTA
ある時とある柳生新陰流の道場に男が入門した。
男には元々素質があったらしく、わずかな間に頭角を現しなかなかの評判となった。
男は次第に天狗になり、素行も悪くなっていく。
ある日普段稽古に参加しない高弟が男の稽古の相手をしようと言った。
自身の才を信じる男は当然受けて立ったのだが、結果は惨敗。
まったく打ち込めず一方的に負けてしまった。

鼻っ柱をへし折られたこの男、これを機に熱心に稽古に励むようになったかというとさにあらず
なんとそのまま道場を辞して剃髪し、雲水となって修行の旅に出てしまった。

諸国を放浪するうちに男は伊達氏の所領仙台へとたどり着いた。
その地で托鉢をしていると、ふと一軒の道場が目にとまった。
道場では多くの若者が師範とともに槍術に励んでおり
男はかつての自分を思い出してしばしその場に佇んだ。

が、そのうちふと妙なことを思いつく。槍の妙手が思い浮かんだのだ。
男は道場にあがり込むと、槍を手に取り師範に立ち合いを申し込んだ。
僧形の道場破りにあっけにとられながらも受けて立つ師範
そして勝負は…男の勝ち。

突如現れ師範を打ち破った男の噂は瞬く間に広まり、多くの腕自慢が男に挑んだ。
そして男はそのすべてを打ち破ったのだ。
もはや敵なしとなった男は仙台で道場を開き、自らの流派を立ち上げた。
無双の槍名人の道場は大いに流行り、仙台一の大道場となる。

しかしながらこの男、やはりどこか抜けた人物だったらしい。
かの「槍の妙手」を弟子に説明することがどうしてもできなかったのだ。
結局その技を受け継げた者は誰もおらず、男の死後道場は廃れ流派も消滅してしまった。
325人間七七四年:2010/02/07(日) 06:58:10 ID:JdT05n0F
師匠の技を盗むことができなかった弟子達の悪い話でもあり・・・
326人間七七四年:2010/02/07(日) 07:37:14 ID:FODpNDGv
一流のアスリートが一流の指導者とは限らない、そんな話だな。
327人間七七四年:2010/02/07(日) 07:53:21 ID:R2jxMWTi
名人はそれが当たり前の状態だから自分のやってる事にコツがいるとか思わないんだよね
何でこんな簡単な事がわかんないの?って感じ
むしろ苦労して失敗しながら身に着けた人の方が何処を改善すればいいか教えるのには向いてる
328人間七七四年:2010/02/07(日) 08:26:30 ID:lqFiJgDg
世界の盗塁王の福本豊は阪神のコーチになったとき
走塁指導で投手の背中見たらいけるかどうかわかるやろ?
という有様でだめだこりゃだったとか
やっぱ天才過ぎるのもだめなんだろね
329人間七七四年:2010/02/07(日) 09:24:29 ID:Q5Inedwe
天才系でも理詰めで思考できるタイプなら指導者になれるんだけど
感覚=思考のタイプは指導者にすると危険
わからないということがわからない
330人間七七四年:2010/02/07(日) 11:48:54 ID:R+1PHJsR
331人間七七四年:2010/02/07(日) 12:40:47 ID:MlRiEaBa
              ____
            /     \     
           /  _ノ   ヽ、\
         /   (○)  (O)  \     
         |       ||  \ ・・ / ..| 投手で甲子園優勝したのに
         \    ノi   | ◎ |  /  投手起用が下手だお
          /    し'       .ノ   
          |       ./ ./
332人間七七四年:2010/02/07(日) 13:07:09 ID:M7zRt50G
ここでガイシュツのこの話「與次郎稲荷・むかし話」と多分同じ話?とは思うんだが、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1609.html
細かい所が違う文章を読んだので投下。


「与次郎狐」

1600年ごろの話、佐竹義宣が水戸の領地を没収され、秋田に転封となった。
東北の地にありながらも前向きに再興を夢見、
久保田山に立派な城を築こうと日夜人を集めて一大工事を行っていた。
そんな義宣が、ある夜から毎晩同じ夢を見るようになった。
白狐が夢に現れて、切々とこう訴える。
「城の工事で、私たち狐が暮らすところがなくなってしまう。
少しだけでいいので、狐が暮らせる場所を残して欲しい。
願いを聞いてくれるなら、きっと私たち狐が貴方の城を守る」
毎晩同じ夢を見続けた義宣は不思議な因縁を感じ、
夢の中で狐に土地を残すことを約束し、
「狐の領地」なる手付かずの場所を久保田山の一角に設けた。

そんなある日のこと、与次郎と名乗る飛脚が義宣の前に現れた。
「私はとても早く走ることができます。貴方にお仕えしたいので、何なりとお申し付け下さい」
ちょうど江戸に送る頼りがあったので、義宣は試しに与次郎に託した。
すると、与次郎はなんと三日で江戸まで行き着き、返事まで預かって戻ってきたのである。
往復たったの六日。
義宣はこれに大喜びし、あらゆる手紙を与次郎に頼むようになり、
ついには大切な密書まで託すようになった。

昼間は走り続ける飛脚だが、夜は休まねば走れない。
与次郎はあちこちに常宿を持ったが、東根の六田村の勘右衛門の宿も常宿だった。
この宿に、花という美しい娘がおり、いつしか与次郎を恋い慕うようになった。
ある夜、再び泊まった与次郎を訪ねたお花は、思い切って恋心を打ち明けた。
これに驚いた与次郎だが、しかし与次郎には応えられない秘密があった。
「実は、私は人間ではありません。久保田山にすむ白狐です。
義宜様への恩返しのため、飛脚として仕えているのです」
これを聞いたお花も驚いたが、しかし心が変わることはない。
朝になり再び出て行く与次郎を見送りながら、切ない涙を流すのだった。

ちょうどその頃、江戸の徳川家で佐竹が不穏な動きをしているとの噂が流れた。
飛脚の与次郎という男が手となり足となって暗躍しているというのである。
実は、与次郎は飛脚の役目だけではなく、色々な人物に化けることで、
徳川家の様子を探り、義宜に密かに伝えていたのだった。
家康はついに隠密に、与次郎を討つ事を命じた。

六田村に常宿があるという情報をつかんだ隠密たちは、
宿の主人の勘右衛門に金を握らせ、手助けするよう依頼した。
間右衛門は金に目がくらみ、手助けすることに同意してしまったのだ。
そんなことはつゆ知らず、いつものようにやってきた与次郎は、
昼間走り続けた疲れから、ばったりと倒れるようにして、ぐっすりと眠っていた。
それを揺り起こした者がいる。お花である。
「隠密が忍んでいます、父が協力しているのです、このままでは討たれてしまう!」
お花は父と隠密の企みを盗み聞いていたのだ。
それを聞いた与次郎は急いで支度を整え、お花の手引きで裏口から逃げ出した。
「ありがとう、このお礼は、必ず」
足の速い与次郎の後姿はすぐに見えなくなってしまったが、
お花は愛する与次郎の無事をそっと祈った。
333人間七七四年:2010/02/07(日) 13:07:56 ID:M7zRt50G
さて、お花の咄嗟の判断で命を救われた与次郎だったが、
隠密が依頼していた者は間右衛門だけではなかった。
それは、以前から「あの飛脚は狐の化身ではないのか。いずれ討ち取ってやる」と
密かに企んでいた猟師の谷蔵である。
与次郎を討ち取ったら懸賞金を出すと、話が告げられていたのだ。

宿から逃げ出し、六田村を離れるために必死に走っていた与次郎だが、
なにやら良い匂いがして、つい足を止めてしまう。
なんと、好物の油揚げが置いてあったのだ。
その日与次郎は、疲れてバッタリと眠ってしまったために、一日何も食べていなかったのだ。
一瞬、つられて近づいた与次郎だが、お使いの途中だ!と思い直し、踝を返す。
その時だ。
谷蔵の放った矢が、与次郎の身体を貫いたのである。
苦しみながら息を引き取った与次郎は、元の真っ白な狐に戻っていた。
「やはり正体は狐だったか!今夜は狐汁だ。懸賞金ももらえるぞ!」
隠れていた谷蔵はそう、嬉しそうに雄叫びを上げた。

その後。あまりに与次郎が帰るのが遅い事を心配した義宣は、
家臣たちに与次郎の様子を探りに行かせた。
そして与次郎が六田の村で死んだことを知り、大いに嘆き悲しんだ。
そしてお花も、事件の翌日に与次郎の死を知り、悲嘆の涙にくれたあと、
どこへともなく旅に出てしまい、二度と六田には戻らなかった。

この事件の後、六田村には正体不明の病気や発狂、大火災など、相次ぐ異変が起き、
白狐の祟りではないかと恐れた村人と幕府が、与次郎の霊を鎮めるために
与次郎稲荷大明神をこの地に祀った。それ以降異変は起こらなくなったという。
秋田藩が参勤交代の際には、度々ここにも立ち寄って参拝したと伝わる。
ちなみに神社の前には、室町期に作られたという石の大鳥居が立っている。

与次郎稲荷は久保田城、現在の千秋公園にもある。
こちらは与次郎の死を悼んだ義宣が、庭に祀ったものだといわれている。
334人間七七四年:2010/02/07(日) 13:11:24 ID:M7zRt50G
ちょうど江戸に送る頼りが ×
ちょうど江戸に送る便りが 〇

見直したのに・・・・orz
335人間七七四年:2010/02/07(日) 13:58:29 ID:e4As9bOK
坂東は狐や天狗が忙しいな
336人間七七四年:2010/02/07(日) 14:37:47 ID:e4As9bOK
武田勝頼が家督を相続した頃の話である

甲斐の郡内地方に安左衛門という者がいた
この男は信玄の訃報を聞き大変不安に思って、跡目の勝頼の武運長久を祈るため
諏訪大社に詣でて籠り、六月から八月末まで丸々90日間祈りを捧げたのだが
その籠る間に見た夢に、諏訪の神が現れて歌を詠んだのである

諏訪明神 たゆる武田の子とうまれ
代をつきてこそ家をうしなへ

大変なものを見てしまったと慌てた安左衛門は急ぎ大祝の元へ訪れ語ったが
さすがに大祝も「神さんにしちゃ歌下手じゃね?」と、最初は相手にしなかった
ところが夢想状態の安左衛門が書いた歌の紙には、やけに立派な朱印が押されていたのである
これが勝頼が家督を継いだ始めの仕事として、諏訪神社をはじめ、
信濃・甲斐の国中の寺社仏閣に発給した続目の朱印と同じ印だったのだ

これは本当に諏訪の神が武田を滅ぼそうとしていらっしゃるのだ
かつて武田が諏訪を討ったことを神はお許しになっていないのだなあと
人々は恐ろしく語ったということだ
337人間七七四年:2010/02/07(日) 15:26:52 ID:P2vuJbUu
信長に勝頼を討たせたら、ついでに焼き討ちされたでござる、ですね。わからないです。
338人間七七四年:2010/02/07(日) 15:45:37 ID:sPoeRxYw
こじつけも良いところダよなぁw
嫡流では無いけど血統でも実質でも勝頼は諏訪の大将な訳だろ?
339人間七七四年:2010/02/07(日) 16:00:14 ID:B5aLhe2O
祭祀も継いでたし滅ぼしちゃったら元も子もないでよ
340人間七七四年:2010/02/07(日) 17:22:13 ID:tbHDwvTA
>>338
家督を継いでいるとはいえ実際はどうだったか…
この後の武田征伐時には諏訪一族は武田から離反している。

信玄は子女を信濃の名族に入れているけれど、どこまで従わせていたか。
仁科盛信が高遠城で籠った時も
付き従った者はほとんどが武田勢で仁科氏の朗党はほとんどいなかったというし。

というかこの大祝さんは諏訪頼忠の事じゃないかな。
341人間七七四年:2010/02/07(日) 19:11:37 ID:P2vuJbUu
甲州崩れの時は離反してないぜ。
頼忠の兄で実質諏訪棟梁の頼豊や弟の頼清を始め多くの一族が武田のために死んでるし
諏訪政庁の茶臼山城は武田滅亡後に開城だし

勝頼は生れも育ちも甲府だし、
成人してからは高遠城主で義信死後は後継者として甲府に戻るし
側近は甲衆、旗本は高遠衆で、諏訪衆が与力としてつくことは多少はあったが
諏訪郡代配下の諏訪氏とはほとんど接点が無い
342人間七七四年:2010/02/07(日) 21:40:51 ID:HsqaX5wZ
仁科信基(盛信の子)って関ヶ原の頃まで八王子にいたのか
もうちょっと早くに出てくれば大名になれたかもしれんのに…
343人間七七四年:2010/02/07(日) 23:00:53 ID:+RSGxV+g
>>332
「狐」は被差別部落の人間の隠喩だという説を
久保田城の案内をしてくれたボランティアのお爺さんに聞いたよ。
344人間七七四年:2010/02/07(日) 23:25:38 ID:tqNyZ91z
>>343
東北でか?
345人間七七四年:2010/02/07(日) 23:29:39 ID:+RSGxV+g
>>344
そりゃ秋田市だからね。
346人間七七四年:2010/02/07(日) 23:35:26 ID:tbHDwvTA
>>344
東北ではすくないけどないわけじゃないらしい。>被差別部落
3471/2:2010/02/07(日) 23:38:38 ID:d7x/amH0
「………」解せぬ。理解できぬ。悩んだ末、上杉景勝は沼田城主・矢沢頼綱に書状を出した。

=========================================
未だに上手く書き表せないが、書状を送る。
まず、貴殿が紛争地帯の沼田に在城するのは仕方ない事である。問題は貴殿の主君、真田昌幸だ。
彼奴は去年、上杉に臣従しておきながら、時を経ずして当方と疎遠になった。
何を考えているのか、疑わしい事この上ないと思ったほどだ。
(中略)
今後はこれまでの罪を赦し親密になるが、その関係に少しも支障があってはならない。
これらの趣旨を、そちらの家臣一同にも広く知らせるべきである。
詳しくは、使いの僧が申し上げる。 謹んで申す。

天正十三年 七月十三日 景勝
=========================================

景勝の疑念をもっともと思ったか、昌幸はすぐさま人質として次男・源次郎(信繁)を送って来た。
これに応じた景勝は、徳川軍と対峙した昌幸に援軍を派遣。横腹に上杉軍をにらんだ徳川軍は
八月二日の一度しか上田城を本格的に攻めることが出来ず、十一月に撤退した。

だが、昌幸はこの行動を「消極的に過ぎる」として不服を申し立て、上杉領に嫡男・信幸を送り、
放火するなど破壊活動を行なわせた。
「………!」さすがに怒った景勝は、天下人・秀吉に抗議した。翌年八月、秀吉から返事が来た。
3482/2:2010/02/07(日) 23:39:21 ID:d7x/amH0
=========================================
(真田は)オモテウラのある卑怯者なので、成敗する事が決まった。そのために多分、徳川軍が動く
事になるだろうが、貴殿から絶対に(真田へ)援助してはならない。
(原文:表裏比興者に候間、成敗を加えらるべき旨仰せ出され候間、定めて家康人数相働くべく候
の条、其の方より一切見続ぎ等これあるまじき由候。)
=========================================

「………♪」喜んだ景勝だったが、わずか1ヶ月後、秀吉からこんな書状が届いた。

=========================================
(前略)
さて、真田昌幸の事だが、先の書状で申し渡した通り、卑怯者なので成敗する旨決定していたが、
とりあえずこのたびは中止にしておく。次いで関東他諸国の面々について、臣従したらすぐ取り次ぎ
命を伝えてほしい。
=========================================

「………?」わけが分からない。
しかも、なぜかまた真田が臣従して来たと思ったら、景勝が上洛しているスキに「景勝の命」と称して
春日山城から人質の信繁を連れ去り、大坂城へ送ってしまった。
激怒した景勝が秀吉に抗議すると、これまたなぜか、昌幸が直接秀吉に臣従する仲介を取らされ、
信幸が家康のもとに出仕することになっていた。

「………?????」
上杉中納言景勝が、真田安房守昌幸を理解することは、ついに無かったのではなかろうか。
349人間七七四年:2010/02/07(日) 23:43:21 ID:+RSGxV+g
遊泳術がすご過ぎるw
昌幸は一体どんな手管を使ったのだろうw
350人間七七四年:2010/02/07(日) 23:53:15 ID:tbHDwvTA
ちなみに真田による上田城築城に際し、景勝は配下にある信濃の土豪島津氏へ協力を命ずる書状を出している。
上杉方の対徳川最前線の事故に、他の信濃の豪族たちへもおそらく同じような命が下ったと思われるが…
その結果がこれだよ!!

築城開始時期から勘案するに、徳川からも同じような助力を引き出していた可能性もあるとか。
351人間七七四年:2010/02/08(月) 01:14:40 ID:njejBhVm
これだから昌幸は…ww
俺が三成でも勝頼でも絶対に信用できないなあ
352人間七七四年:2010/02/08(月) 01:26:46 ID:Jv5ZJkpF
まあこういう煮ても焼いても食えない国人領主が、上手く状況にマッチすると
毛利元就みたいになれるんだけどね。


成功例は元就か宇喜多直家位だとも思うがw
353人間七七四年:2010/02/08(月) 01:31:42 ID:gLQmsSJ7
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 ̄ ̄ ̄(_,ノ  ̄ ̄ ̄ヽ、_ノ ̄
これが他人ならまだしも、身内にも同じ事をやるんだから・・・
そりゃストレスで嫡男も早逝するっての・・・
354人間七七四年:2010/02/08(月) 04:21:28 ID:aGxu+sDF
周りの親族がもっとおとなしかったらあと30年は長生き出来ただろうねぇ
355人間七七四年:2010/02/08(月) 08:09:18 ID:JU0Pimo5
こりゃ秀吉と昌幸はツーカーの仲だなw
秀吉もよくこんな表裏卑怯者をたらしこんだなぁ
356人間七七四年:2010/02/08(月) 08:46:27 ID:7ZT6Paj9
>>347
景勝殿は独り言でも声に出さないのですなあw
357人間七七四年:2010/02/08(月) 08:54:45 ID:8ml6w/f9
>>353
父と弟が迷惑かけなけりゃ明治ぐらいまで生きれたのに・・・
358人間七七四年:2010/02/08(月) 12:39:21 ID:c0uNAMJC
>>352
元就はこんな不誠実な人間ではない。
こういう生意気な人間が終わりを全うできるはずが無い。

大国の伊達家は、チンピラでも実力があるから生き残ったけどね。
359人間七七四年:2010/02/08(月) 13:36:19 ID:njejBhVm
昌幸って地味に運がないよね
それを性格の悪さと頭の良さでカバーできるのがすごいんだけど
360人間七七四年:2010/02/08(月) 14:09:42 ID:hW3r5BcT
信州のド田舎じゃなくて、近畿や中国あたりだともうちょっとでかい大名になれたかもね。
361人間七七四年:2010/02/08(月) 14:12:40 ID:c0uNAMJC
>>359
山内一豊みたいに、実力相応の態度を示せばいいのに

それを性格の悪さと頭の良さで自滅した。
362人間七七四年:2010/02/08(月) 14:13:38 ID:kdr4DzNV
景勝は真面目な奴だなあ。
363人間七七四年:2010/02/08(月) 14:13:50 ID:KPDICvhh
前田利家が筑前守だったころの話。

ある日利家の屋敷に何某という老人の来客があった。
ところがこの何某、利家の部屋に入る折に袴の裾を踏み、盛大にコケてしまったのである。
これを見た利家の近習はプークスクスと笑いまくった。
しかし利家はこれにブチ切れ。
「年とりゃ誰にでも起こりうることなのに笑うとは何事か。よっしゃ今笑った奴はクジ引け。当たりが出たらそいつは死刑」
と、いきなり死のクジ引きをおっぱじめるものだから、焦ったのは何某老人である。
自分が転んだくらいで人が死んではたまらんと、何とか利家をなだめすかし、近習たちは命拾いしたそうだ。
364人間七七四年:2010/02/08(月) 14:14:09 ID:c0uNAMJC
三国志の鍾会みたいなタイプ
365人間七七四年:2010/02/08(月) 15:30:46 ID:oSenG3rA
>>343
四国における、狸の怪異譚の多くも狸は遍路等の隠喩ではないかという説があるね。
犯罪等を犯して、地元から出奔して遍路してるという人間は今でも時折いる。
で、そういう中には特殊技術を持った人間なんかもいる。
四国の人間もその辺の事情を分かって技術開発なんかに利用した可能性がある。
名前を表に出せないそういうひとた人たちの活躍を「狸の仕業」と称した。
もちろん、逆もあって四国でもやっぱりかどわかしなんかの犯罪に手を染める奴もいて、それもやっぱり狸扱い。
366人間七七四年:2010/02/08(月) 17:18:13 ID:23/WWWt2
>>363
絶対に笑ってはいけない前田家
「○○、アウトー!」(人生の終わり的な意味で)
367人間七七四年:2010/02/08(月) 17:31:46 ID:JU0Pimo5
>>366
あの番組、そろそろネタ切れだから、
「絶対に笑ってはいけない○○家武士」やるかもよ
368人間七七四年:2010/02/08(月) 17:33:26 ID:Jv5ZJkpF
宴会の場で屁をこいた家臣を叱り飛ばしたら、逆恨みされて殺された千葉さんなんて人もw
369人間七七四年:2010/02/08(月) 19:18:41 ID:7ZT6Paj9
ヘイポー@千葉さん
浜田さん@屁こき侍
ですね
370人間七七四年:2010/02/08(月) 20:25:35 ID:RqgprEX3
>>355
秀吉の周りには似ても焼いても食えない腹黒いオッサンがわんさかいたからなあ
371人間七七四年:2010/02/09(火) 00:06:06 ID:/lotO6hc
現代の鳩山の周りにも大勢
372人間七七四年:2010/02/09(火) 00:07:15 ID:PXLsr4cE
>>371
あのオッサンの周りにいるのは煮て焼いて食おうというオッサンでしょう。
373人間七七四年:2010/02/09(火) 00:07:38 ID:xxbe61nC
そういうのはいいです
374人間七七四年:2010/02/09(火) 02:03:41 ID:JbK359LW
足利義輝、激怒する

永禄年間のこと、ある相論が政所沙汰によって処理され、政所の長官
伊勢貞孝がこれを裁定したことがあった。
敗訴した側が将軍足利義輝に泣きついたために、義輝は政所沙汰の
過程を調査しようとする動きを見せたが、それに対し松永久秀が噛み付いた。

久秀が言うには「義輝の行為は政所沙汰の裁決を改変しようとする意図のものであり、
そのようなことは伊勢貞孝の面目を失わせるものであるから、容認はできない」
ということだった。
(伊勢氏は三好長慶入京以来、三好氏と緊密な関係を築いており、貞孝は義輝の朽木敗走へ随行していない)
これに対して義輝は、沙汰の改変という意図はないと弁明したものの、やはり久秀の回答は同じだったため、
ついに義輝も激怒。

「少ひつ、よきやうにいたし候え(弾正、好きなようにするがいいわ!)」と「あらあらと」言うに至ってしまった(「蜷川家文書」774)。

さらに、上野信孝などといった義輝の近臣たちも久秀を批判しており、結局久秀は裁定の改変は拒否したものの、
判決に至るまでの経緯の調査については、譲歩を示すという形で決着を見たとのこと。
積極的に独自の活動を行おうとする義輝とそれを掣肘しようとする三好氏(松永久秀)の図だが、結局両者の関係は
将軍殺害という形にいきついたのだった、という話。
375人間七七四年:2010/02/09(火) 03:52:21 ID:VzTu9/4Q
>>374
伊勢貞孝はこの後三好、松永とも関係を悪化させて、失脚、最終的に
滅ぼされて、幕府政所の伊勢氏支配を終焉させることになるが…

幕府の京都行政の中心である政所が実質的に解体されたのは、
義輝に取ってよかったのかどうか、考えどころだなあ。


376人間七七四年:2010/02/09(火) 09:34:24 ID:CJ1k701r
>>376
実はこれが契機になって後北条が上方との繋がりを決定的に絶たれ
後年の滅亡の布石を作ったってトンデモ説見たなあ
面白いけど
377人間七七四年:2010/02/09(火) 11:25:57 ID:Ptk38Uii
しかし、善い悪い話スレで信之兄ちゃんの逸話がでると
   . . .... ..: : :: :: ::: :::::: :::::::::::: : :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
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 ̄ ̄ ̄(_,ノ  ̄ ̄ ̄ヽ、_ノ ̄
たいていこのAA出るよね。
ほかの苦労人の逸話では出ないのに、どうしてここまで信之にマッチするのだろうか。
378人間七七四年:2010/02/09(火) 11:49:42 ID:p+EP0O6d
379人間七七四年:2010/02/09(火) 11:56:23 ID:cRGS8JD2
某禿皇帝乞食様のスレで出るのと一緒ですy
380人間七七四年:2010/02/09(火) 11:56:31 ID:WXZRdnmw
先祖代々松代真田藩領の農家の生まれの者として悲しくなりますorz
381人間七七四年:2010/02/09(火) 13:25:32 ID:JSt2VNvd
>318の狸の話を仕入れてきました。
悪い話ではないのでいい話スレに投下しておきます。
382人間七七四年:2010/02/09(火) 16:49:08 ID:VzTu9/4Q
会津蘆名氏の最盛期を築いた、蘆名盛氏の時代

耶麻郡藍川の城主は、七ノ宮自然斎と言った。
この自然斎、盛氏に非常に重用されていたのだが、それにはこんな事があった。

その頃は朝夕と無く兵乱が起こり、地下にはその度に軍役がかかった上、
しばしば課役も無理強いされた。
しかしそのような庶民の苦しみを上に伝える者も無く、蘆名氏の居城、黒川城下には

『天寧寺 河原の石は大和殿 町の小役は或人が取る』

と言う落書が広まった。この大和殿と言うのは蘆名家家臣佐瀬大和守の事で、
彼は泉水の数寄で、天寧寺河原から怪石を探し出しては、大勢の人夫を雇って
自分の庭園に集めていた。
ちなみに彼の庭に集めた怪石は、江戸時代までその跡を見ることが出きたそうだ。

そして「或人」とは当然、蘆名盛氏その人の事である。

この落書の事も、盛氏の耳に入れる者はいなかったが、ただ自然斎一人が、
ありのままに盛氏に語ったのだそうだ。


またある時のこと、
盛氏が黒川城下に立った市に集まる商品を買取ったが、この時その価格を無理に下げさせ、
半額だけしか支払いをしなかった(こういう買い手による無理な買い叩きは、この時代
珍しくなかったそうだ)

これにもさっそく落書が出る

『市町に 半を買いぬるむりうじは 外の聞こえをあしなとど思ふ』

これも自然斎ただ一人だけが、ありのままに報告した。
このようであったので、盛氏は七ノ宮自然斎を非常に信用した、というのである。


まあいい話なんですが、英主と呼ばれたほどの盛氏ですら、地下からの批判を
きちんと報告するものが一人しかいないと言うのは、大名と言うのも大変な環境に居るんだな、
と思ったので、こっちに。
383人間七七四年:2010/02/09(火) 19:30:31 ID:qJH5RVNB
父親の盛舜の頃の方が治世は安定していたとかいう話も聞くね
384人間七七四年:2010/02/09(火) 22:20:50 ID:x6RxW8xi
>>383
盛氏の時、全盛期だけど、無理な戦を繰り返して疲弊していて、滅びる時はあっと言う間だったらしい
385人間七七四年:2010/02/09(火) 22:34:43 ID:7vAhELt+
武田家がもっとも拡大したのは武田勝頼の代
山口がもっとも繁栄したのは大内義隆の代

>>384
盛氏の積極策で溜った歪みがその死で一気に噴き出したような…
386人間七七四年:2010/02/09(火) 22:43:42 ID:ISphlmc7
蘆名は後継者が若死にしすぎだろう…
387人間七七四年:2010/02/09(火) 23:22:53 ID:9hnEjf4g
盛氏時代以降は正直外交策も失敗ばっかりだったからなぁ
その失敗が内部の分裂まで招くわけで

決定打は反上杉親北条路線で上杉のお家騒動に介入した辺りだろうな
これで伊達を継いで早々と新発田支援を取りやめた政宗とも仲が悪くなった
上杉なんて全く会津方面に目が向いてなかったんだから、ほっておけばいいのに
388人間七七四年:2010/02/09(火) 23:39:04 ID:VzTu9/4Q
>>387
上杉は佐竹を援助していたからね。
上杉が弱ればその分蘆名が敵対している佐竹も弱る。

上杉との敵対も北条への接近も、全部佐竹との対立から出たもの。
389人間七七四年:2010/02/10(水) 00:04:50 ID:cb2Ozr/4
>>387
伊達との仲が悪化したのは蘆名のどうこうよりも
ほとんど周り中全部を敵に回すような無茶な外交をやった政宗が原因じゃないか?
結果が佐竹及び南奥諸大名3万と伊達7千の人取橋
390人間七七四年:2010/02/10(水) 00:29:52 ID:vDpxKOYk
勿論それもそうなんだけどね
伊達と蘆名の仲が急速に悪くなったのは
新発田支援を政宗が取りやめたのが原因だよ
結果的に新発田は孤立して滅亡
伊達は信用できんと怨敵佐竹から養子を取るけど家中は分裂してしまう
391人間七七四年:2010/02/10(水) 00:33:57 ID:692UdMW9

紀州におかかえ力士の尾之助という大力の角力取りがおり、何やら不始末を起こした(詳細は不明)
その不始末は当然頼宣公の耳にも入り尾之助は処刑される事となった

頼宣「尾之助の奴は処刑じゃ!」
と息巻く頼宣公
しかし
家臣「頼宣様、それはちょっとヤバいですよ、だって尾之助の出身は…」
頼宣「…そう言えば尾之助ってどこの出身だったっけ?」
家臣「お忘れになったのですか?福山藩の鞆ですよ」
頼宣「福山藩!?しまった…そう言えば奴は義父の日向殿に友好の印として同じく角力好きのワシへ送って頂いたものだったんだ;どーしよ…;」


仲が良い水野勝成と嫁の関係もあり速攻で処刑は取り止めになり、その後の対応に困った紀州藩は尾之助を藩から追放する事で解決
丁寧に福山藩に送り返されたそうな

392人間七七四年:2010/02/10(水) 06:05:48 ID:1z+pZgEC
天正8年(1580)、北条氏政の軍と武田勝頼の軍が、伊豆の黄瀬川を挟んで
対峙した時のこと。
この時武田軍は、北条勢の繰り出すスッパ(忍者)部隊の攪乱戦術に
散々に悩まされた。

北条は200名のスッパを4手に分け、毎晩毎晩武田の陣に潜入し、
兵の拉致、馬の略奪、放火、さらに武田軍のふりをして陣中に潜り込み、
深夜に不意に鬨の声を上げ無差別に斬込をかけるなどした。
この折武田軍は多くの同士討ちがおこるなど、大変に混乱したという。

時に、そのスッパの襲撃の混乱で、同士討ちによって主人を討ってしまった一団があった。
その家来たち10名は元結を切ってざんばら髪にし、主人の死を悼んだが、
自分達もこのまま生き恥をさらすよりはと、切腹を申し合わせた。
しかし中のある者が進み出て

「このまま死んでは犬死である。スッパの頭目である風魔を見つけ出し奴と刺し違え、
亡君への手向けとしようぞ!」

これに他の者達も同意し、草むらに隠れて機を狙っていたところ、
ある早朝、風魔が手下を引き連れ、夜討から帰ってくるところを発見した。
10名は密かにその中に紛れ込んだ。

やがて夜討のスッパ達は続々と引き上げ、ある場所に200名が集合した。
と、思うと、彼らは突然松明をともし、一斉に合言葉を唱えた。

さて、10名は当然合言葉など知っていようも無い。

「おのれスッパの儀法をわきまえぬ胡散な奴!さては敵の密偵か!」

10名はたちまち捕えられ、皆殺しの憂き目にあったと言う。


忍者の具体的な戦術、風習などを記録した、なかなか珍しいお話。
393人間七七四年:2010/02/10(水) 06:34:13 ID:b/ozhLNY
東北戦国大名ってがんじがらめの姻戚でバランスとってたんだな…
つかみんな従兄弟あたりになってるし…
394人間七七四年:2010/02/10(水) 07:54:43 ID:vn1H//W8
政宗が新発田支援を止めたって言うソース教えて
395人間七七四年:2010/02/10(水) 08:19:05 ID:vDpxKOYk
ソースか、何だったかな
確か蘆名側から伊達側に新発田の支援をなんで止めた、さっさと再開しろ的な書状があったはず
まぁ、政宗に代が変わった時点で反蘆名は既定路線だったんだろうけどね
396人間七七四年:2010/02/10(水) 09:43:01 ID:VfeOq/qD
新発田(しばた)ってすげぇ名前だな
最初、新田開発とかそっち系の用語かと思ったし
「しばた」って普通「柴田」「芝田」だと思う
397人間七七四年:2010/02/10(水) 10:05:17 ID:WsWPdIIl
宇喜多が元は浮田みたいなもんじゃね?
398人間七七四年:2010/02/10(水) 10:07:08 ID:Y5YWJjzE
>>393
その辺は概ね政宗のひいじいさんとじいさんのせいといえなくもない
あの辺が息子娘をばらまきまくったんで、
他の家も対抗せざるを得なくなった部分もあって
養子だの婚姻だのしっちゃかめっちゃかになった

ただそのせいである意味なぁなぁの、勝っても姻戚ゆえ潰しきれないという悪循環で
統一が大幅に遅れたという面もあるらしい
399人間七七四年:2010/02/10(水) 10:36:16 ID:7LAGs3Zi
葦名義広もなんで新発田支援をやったのやら。
盛隆死亡ついでに支援止めておけば景勝を怒らせることも無かっただろうに。
新発田後援を進めた信長も死んで秀吉は景勝と接近してるのに、
新発田支援を進めて景勝激怒させて義重の援軍を乞うとか
父ちゃんも「なにしとんじゃ」と思っただろう。
義広じゃなくて家臣団が馬鹿だったのかもしれんが。
400人間七七四年:2010/02/10(水) 10:41:29 ID:VfeOq/qD
>>397
「新発田(しばた)」とか「宇喜多(うきた)」とか見ると
暴走族の「夜露死苦(よろしく)」を思い出すな

しかし、新発田支援って字を見ると
やっぱり新田開発への援助みたいに思えるなw
401人間七七四年:2010/02/10(水) 11:41:40 ID:FO8TMoHC
いわゆる変体仮名なんじゃないの?
402人間七七四年:2010/02/10(水) 14:17:49 ID:Gxh7x2wD
>>359
実家の家督を継げたのは、昌幸にしてみれば想定外の出来事だったろうけどね。


 運がいいとか悪いとか 人は時々、口にするけど
  そういうことって確かにあると あなたを見てて そう思う     真田源三郎よむ(違
403人間七七四年:2010/02/10(水) 15:06:39 ID:b/ozhLNY
由来にさかのぼると新発田は「し・ばた」で柴田は「しば・た」って説がある
404人間七七四年:2010/02/10(水) 15:20:19 ID:kqp1htHE
ほう、興味深いな
つうか多分由来は柴田みたいに斯波の田じゃなくて、新しく発した田なんだと思う
405人間七七四年:2010/02/10(水) 15:24:21 ID:b/ozhLNY
州の端(すばたが訛った)説もある
406人間七七四年:2010/02/10(水) 15:25:17 ID:kqp1htHE
んん、面白い
地名人名の成り立ちってなんか面白いよな
407仙台藩百姓:2010/02/10(水) 15:56:19 ID:F0XVb1Zp
発田(ハツタ・ハッタ)という地名があるから新しい発田で
新発田(シンハツタ)から転じてシバタになったのだと思うお( ^ω^)
408人間七七四年:2010/02/10(水) 16:14:17 ID:OpWwx50q
ハツタとみると「初田」の意味に見えてくるな。
409人間七七四年:2010/02/10(水) 16:17:22 ID:eESOZEpJ
ニューギニア的な感じか?
410人間七七四年:2010/02/10(水) 17:23:12 ID:PUIMc0pD
松平忠吉が若くして没した時のこと。

数名の殉死者が出たが、忠吉の遺骸を増上寺に納める際、付家老の小笠原吉次は
葬儀係の者にこのように命令した。

「殉死者の棺を四つ用意致せ」

葬儀係の者は、一旦は拝命したものの、気になって人数を再確認した。

殉死者は三名。

「あの、殉死者の人数を再度調べましたが、三名でございます。
棺の方もそれに合わせましょう。
こういう物を余計に用意するのも如何かと考えまする」

と申し出たが、吉次は

「余計なお世話じゃ」

と全く相手にしない。

さすがにむっとした係の者は、吉次に対してこう問い質した。

「はて、いま一つの棺はどなたがお入り用なのでございましょうや」

これに対して吉次、

「入る者がいなければ、このわしが追腹斬って棺を塞ぐわい!」
       _, ._
係の者「 ( ゚ Д゚)・・・・・・」


結局、棺は四つ用意された。空いた一つは増上寺の本坊の廊下の片隅に置かれた。

この時、吉次の息子である小笠原監物が奥州からやってきた。監物は亡き忠吉から
勘気を蒙り奥州松島で蟄居中だったのを早飛脚の知らせにより飛んできたのである。


「御供参りまする!!」


こうして空いた棺は塞がった。
吉次が「どうだ数が合ったろう?(AA略)」と言ったかどうかは定かではない。
411人間七七四年:2010/02/10(水) 17:33:03 ID:6CMB4jL7
>>392
北条のすっぱってのが他から恐れられてたのが分かるな
しかし、リアルゲリラ戦術だな。すばらしい
412人間七七四年:2010/02/10(水) 18:01:46 ID:C4fwat8/
おねーちゃんたちに酒を飲ませていたら
お会計がものすごいことになりますた

                 市松
413人間七七四年:2010/02/10(水) 18:43:50 ID:c8uiq6Cn
>>411
すっぱって
てところを新発田の新たな読みの解釈かと
勘違いしてしまった。
414人間七七四年:2010/02/10(水) 19:42:53 ID:pNKv/K9o
>>410
これは吉次が息子の心情や行動を察しつつ見送った
いい話ではないのかい?
415人間七七四年:2010/02/10(水) 20:19:30 ID:zxRfY7qk
1589年、北条氏邦が上洛した時の事

氏邦「うわっ、なんだあれは!?おいキミ、あれはいったいなんだ!」
*「えっ?なにがですか??」
氏邦「だからアレだよアレ!」
*「え?あー、板ぶき屋根の事ですか?小田原にはないのですか?」

そう小田原は草ぶき藁ぶき萱ぶきだったのです。

氏直「なに!板ぶきとな!?」

カルチャーショックを受けた北条氏直は話を聞くやいなや、人通りの多い
表通りの草ぶき屋根を板ぶきに変えるようにキツく命じたとの事です。
416人間七七四年:2010/02/10(水) 20:35:19 ID:6CMB4jL7
板葺きって、木材を薄く平らに、しかも大量に加工する技術が必要だから、案外に難しかったんだよ
って聞いた
417人間七七四年:2010/02/10(水) 22:29:39 ID:/uAm7dR/
>>415
氏邦が肛門と喋ってるのかと思ったw

土の城の模型作ってるんだが、この時代の建築物はいまいちよくわからん
イラストの想像図を見たら大抵板葺きなんだが、実際は茅葺きの方が多かったのか?
418人間七七四年:2010/02/10(水) 22:35:30 ID:zp01VXV8
小田原の町はよく燃えたんだろうな〜
419人間七七四年:2010/02/10(水) 22:40:57 ID:1z+pZgEC
いや、燃えやすいと言う意味では板葺きの方が燃えやすい。
板葺きの利点は茅葺きや瓦葺きに比べて軽いので、細い柱でも大丈夫、
というのがあるらしい。
420人間七七四年:2010/02/10(水) 23:00:36 ID:LQCrDXJY
>>415
氏邦じゃなくて氏規な。
421人間七七四年:2010/02/10(水) 23:20:32 ID:zxRfY7qk
>>420
ごめんなさい・・・なんで氏邦にしちゃったんだろorz
422人間七七四年:2010/02/10(水) 23:23:09 ID:pfCbXhQ1
みなさんは2月10日のNHK歴史ヒストリアを見ましたか?
古田織部でしたね。
それにしても、

まさか義弟の所でも、花入れを「お救い」もうしていたとは、
しかも、「足が悪くなったから息子に返させるから。」
と言う言い訳まで・・・・

やっぱりなぁ、と思ったかたは多かったんではないでしょうか?
423人間七七四年:2010/02/11(木) 00:56:17 ID:iOcB4HSc
慶長出羽合戦の報告を受けた伊達政宗

「最上衆弱く候て大利を得ざる由に候。昨朝様々にして敵退散の由に候。
最上衆弱く候て皆々討ち果たさず無念千万に存じ候」(『伊達治家記録』)
424人間七七四年:2010/02/11(木) 01:04:47 ID:CueyNjUv
>>423
ひでぇwww
425人間七七四年:2010/02/11(木) 02:05:49 ID:C1eGNjUF
>>422
コレクターやマニアって人種がどんなやつらかは想像つくだろ?
426人間七七四年:2010/02/11(木) 02:21:28 ID:IUkKBXWR
>>423
そもそもおまえがどこかで一揆をあおって、最上の援軍がいなくなったのが悪いんじゃねーかw
427人間七七四年:2010/02/11(木) 02:27:00 ID:C1eGNjUF
>>426
わかった上で言うのが伊達クオリティ
428人間七七四年:2010/02/11(木) 02:35:04 ID:913HtK5s
>>423
こういうセリフはまず、自ら出陣して言うべきだろ・・・
429人間七七四年:2010/02/11(木) 04:13:39 ID:1BXU+GXF
北条家の人間の名前の間違いやすさは異常
430人間七七四年:2010/02/11(木) 05:08:10 ID:tcUXceK1
まぁ、正直撤退戦始まってから名代に参戦させた人間の言う事じゃねーよなw
にらみ合いの後の撤退と違って、近接した戦闘後の撤退側は大体大崩れ起こして壊滅するもんだし

でも、直江側は本領から遠く離れて遠征してきて、最上領深くから撤退してるのに壊滅すらさせられない有様だし
うっわ最上弱ぇええ、と言いたくなる気持ちもわからんでも無いw
431人間七七四年:2010/02/11(木) 09:09:29 ID:7NEoB3dP
いや、山形に居る母の安全が無事に確保されたとわかったので政宗は安心して
ちょっとツンデレな発言しちゃっただけなんだよ。
432人間七七四年:2010/02/11(木) 09:40:07 ID:Il6QoA/f
>>423
400年前も、大事なことは二度言う風習があったんだな
433人間七七四年:2010/02/11(木) 10:18:30 ID:IUkKBXWR
>>430
まあでも撤退といっても、それでも直江側が圧倒的に多いわな。
直江本体は無事米沢までもどったが、置き去り部隊が降伏したり、
直江さんだって一瞬切腹しかけたりしたから、弱いってほどでもないと思うが。
434人間七七四年:2010/02/11(木) 11:01:22 ID:TosGem5P
>>432
というか、まーくん自体にそういう癖があった節がある
気にかかることや重要な(だと思った)ことはたいてい2〜3回繰り返して書いてる
435人間七七四年:2010/02/11(木) 12:35:06 ID:S1/Egg+S
確か上杉軍は長谷堂城の最上軍の10倍くらいだったんだよな。
これじゃ追撃しても包囲殲滅されるだけじゃね?
436人間七七四年:2010/02/11(木) 12:47:27 ID:wL2hsAls
>>432
その発想はなかったw
437人間七七四年:2010/02/11(木) 12:49:30 ID:04IhrUCd
撤退戦で包囲殲滅なんか出来るわけねーじゃん。
438人間七七四年:2010/02/11(木) 12:56:51 ID:yQgyqlyH
実際に最上が弱いとか強いとか思ったわけじゃなく、
どっちが勝っても負けても結果オーライ!とwktkしながら
高見の見物気分でいたのに、結局どっちつかずな大してウマ味のない
結果になっちゃったんで「ちっあのオッサン使えねーな」っていう
八つ当たり気味のボヤキだよな単にw
いつもながら自分に正直というか。
439人間七七四年:2010/02/11(木) 13:03:15 ID:osxAhTmE
政宗には福島表の事を棚に上げて何を寝言こいてるんだ?と言いたい。
440人間七七四年:2010/02/11(木) 13:08:46 ID:B2FeOEBS
「伊達政宗はしょーもない人で、『さあ呑め、もっと呑め』と酒を強要されて大変迷惑した。
つぶれた眼は飛び出し、額は下へ垂れていて、非常にnotイケメンなオヤジだった(原文「甚ダ見苦敷親父」)」
と、二代目久保田藩主・佐竹義隆はぼやいたそうだ。

上の話が書かれている秋田昔物語を読むと、関ヶ原以前も以後も政宗が一方的に
佐竹に絡んでいたような印象を受ける。(秋田側の資料なので当然か)

しかし伊達騒動が起き、とばっちりを嫌った他の旗本たちが
伊達と付き合いを絶っていた時に
佐竹の殿様は敢えて使者を送っている。

「亀千代君(のちの伊達綱村)はまだ幼いのに大変だね。
うちとそっちは古くからの親戚なんだから、相談に乗るからね」

四面楚歌、下手すると御家取り潰しのピンチにあって
佐竹の親切がよほど嬉しかったのか、借りは作りたくなかったのか分からないが、
久保田の四代目・佐竹義格が将軍綱吉に会うため登城した際に
伊達綱村は用事が済んだ後もわざわざ居残って義格の御目見が終わるのを待ち
「あの時はありがとう」と礼を述べたという。
441人間七七四年:2010/02/11(木) 13:09:40 ID:TqmChYVa
442人間七七四年:2010/02/11(木) 14:26:15 ID:3xESbImM
>>439
そんなこといちいち気にしてたらまーくんじゃねえw
つか戦国大名ってそんなやつじゃないとやってられんだろ。
443人間七七四年:2010/02/11(木) 14:37:14 ID:uLWJhwMp

毎度成田関係ばかりで申し訳ない。

関東仕置きから早数年、蒲生再生工場を経て烏山城二万石の大名に復帰した成田氏長。京都に行った時の出来事。

(・∀・)「おっ、あっちから来るのは石田殿だぜっ!」
(・_・)「一緒に居るのは浅野殿じゃねぇか」

ご存知、石田三成&浅野長政。この両将は去る忍城攻略の際、天下に失態を晒している。
辺りを行きかうギャラリー、興味津々でこの遭遇を見つめていた。

(´Д`)「まぁでも、三人とも良い大人だし、無難に『良い家臣をお持ちで〜』とか『見事な采配でござった〜』とか、そんなトコなんじゃねぇの?」


三成「ちょぉぉっと待ちなさいっ! 一回勝ったくらいでいい気になってんじゃないわよっ! アタシが本気出してたら、忍城なんてアッと言う間に落ちてたんだからねっ!!」

(;゚Д゚)「!?」

……三成ちゃんてばいきなりキレた。

長政「そ、そうよっ! アンタの一族の……えぇと何て言ったかしら?……とにかく、アンタの重臣だって、アタシ達の方が良いって内応を約束してたんだからっ!」

(´Д`)「…………」

………長政ちゃんまでノッちゃった。

三成「あらあら、寝返りの約束なんて、良い家臣をお持ちデスコトっ! まぁでも、小田原を裏切って勝手に和睦した成田さんちのコなんだもの、家臣もそーゆー躾を受けてるんじゃないの?」
長政「まったく、アタシ達の家中じゃ考えられないわよねぇ! 後十日もあれば、ナ・デ・ギ・リ、してあげられたのに〜」

氏長クンに何を言わせる暇も与えず、言いたい事だけ言ってヲホホホホッとワザとらしい高笑いで立ち去る三成ちゃんと長政ちゃん。

(゚Д゚)「……なにあれ?」
(゚Д゚)「……ま、まぁ、ある意味分かりやすい負け惜しみでいいんじゃね? 成田殿もあんな遠吠えチックな捨て台詞、相手にするホド馬鹿じゃぁ…………」

氏長「……内応、だと……? 一族の人間が……!?」

(;゚Д゚)(;゚Д゚) 「「バカだったぁーーーーーっ??」」

氏長「おのれ長親っ! さては裏切ったのはあ奴かっ!」

(;゚Д゚)(;゚Д゚)「「しかもそれ一番の功労者ーーーっ! つかその人が裏切ってたらその瞬間城落ちてるーーーーっ!!」」


その後、烏山に帰った氏長クン、速攻で従兄弟の長親クンを家から叩き出したとか。

(´・ω・`)「……オレ……頑張ったよね? ……酷くね?」

長親クン、トボトボと下野を去り、故郷の忍で徳川さんちの忠吉ぼっちゃんにお仕えしましたとさ。


氏長「……え? 裏切ったのって泰徳叔父貴? 長親ぢゃないの? マヂで……?」

いや、気付くの遅すぎないか、氏長クン?
大人気ない三人のせいで、忍城を守り抜いた名将が気の毒なコトになっちゃった、関東仕置きの後日譚。
444人間七七四年:2010/02/11(木) 15:34:16 ID:ueBpwNW8
こりゃひでぇや
445人間七七四年:2010/02/11(木) 15:38:20 ID:qELLon4a
これは悪い。もはや笑う事でなにかの供養になるまいかと思ってしまうほど悪い。
446人間七七四年:2010/02/11(木) 15:43:37 ID:913HtK5s
ちょっとどころじゃない悪い話、いただきました
447人間七七四年:2010/02/11(木) 15:47:15 ID:CDmsDzj1
過ちに気付いた氏長は長親に詫び状を書いて
戻って来てくれるよう頼むんだけど
断られるんだよな
448人間七七四年:2010/02/11(木) 15:57:10 ID:9y+7iYEH
そりゃあ頑張ったのに相手の負け惜しみに端を発する一方的な勘違いで追い出されたらなあ。
449人間七七四年:2010/02/11(木) 16:21:34 ID:C1eGNjUF
元から含むとこがあったとしか思えん
450人間七七四年:2010/02/11(木) 16:28:08 ID:3FQ/zO0a
頭の悪い話
451人間七七四年:2010/02/11(木) 16:55:40 ID:QjClByCb
よほどの人徳者でも断るレベルw
452いつもの風景:2010/02/11(木) 18:02:48 ID:wLR5o1MU
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-667.htmlで馬串山米田城を森長可に奪われた肥田玄蕃は
加治田城主・斎藤利堯を頼った。これを受けた利堯は近隣の城主を集め、打倒鬼武蔵の策を練った。

「森武蔵は近年鬼神の如く恐れられ、傍若無人の性根で我らのような小領主は人とも思っておらぬ。
肥田どのが災難、他人事ではない。ここは我ら一同、力を合わせて武蔵守を討ち取るべし。」
「うむ、同意だが如何する?」
「わしが馬串山と飛騨川を挟んだ向かい、牛ヶ鼻に出城を築く。森家の者が寄せて来るであろうが、
矢戦を仕掛け、時を稼ぐ。その間に皆の衆は空いた兼山を襲ってくれ。鬼武蔵の敗北、疑いないわ。」
「日本一の良い策だ。よし、早々に掛かるべし!!」

加治田勢の牛ヶ鼻築城の一報を受けた長可は、嘲笑った。
「フン、木曽義昌みてぇにオレに逆らうヤツは、全部踏み潰してやんよ。(木曽ニ一味シ我ニ敵為ス輩、残ラズ踏潰スベシ)
ハッ、乳離れもできねーチビ犬どもが、虎をレ○プしようってかァ?出陣だ!(乳犬ノ、虎ヲ犯ス如キ者共哉。)

その日のうちに軍を率い、兼山から馬串山に急行した長可は、奇妙な行動を取った。
「ちょっと小山観音に参拝して来るわ。」「ちょ、殿ぉぉぉー?!」
小山観音は飛騨川のほとり、牛ヶ鼻の目と鼻の先にある。当然、加治田勢に見つかった。
「あっ、あれは鬼武蔵!」「撃て!撃てーい!!」
敵の大将の出現に、加治田勢は段取りも忘れて川向こうへ矢弾を撃ちまくった。しかし、長可は
全くこれを無視して岩陰に馬をつなぎ、兜を脱いで川で手など洗った後、のんびりと参拝を終えた。
「人間じゃねえ……」恐れおののいた加治田勢は、攻撃を控えてしまった。

そのスキを突いて同日夜、兼山勢は渡辺越中を先鋒に加治田勢へ夜襲をかけ、一気に突き崩し牛ヶ鼻を落とした。
他の城主が兼山を襲ったり救援に駆けつける間もなく、加治田勢は散り散りになって逃げ延び、加治田へ通じる道は
戦が終わっても死に切れない武者が苦しみ這いずり回り、その地は「這坂」と呼ばれるようになったという。

勢いに乗った長可は、この後一年足らずで十を数える城を手に入れることになる。
453人間七七四年:2010/02/11(木) 18:06:49 ID:ueBpwNW8
小山観音=子授け観音

気にしてたのな、一応。でもそんな時に行くなw
454人間七七四年:2010/02/11(木) 18:11:38 ID:RtTV3MQU
>>452
> 馬串山米田城を森長可に奪われた肥田玄蕃

この馬串山を鬼武蔵が奪った理由が、「景色がいいから」なんだよなあw
(「貴公領内の馬串山、至極景山ゆえ この方欲しく候。」)

しかも肥田さんも斉藤さんも、元々織田家の同僚…
455人間七七四年:2010/02/11(木) 18:18:44 ID:JA7RdmEG
鬼武蔵の脳内をみてみたい
456人間七七四年:2010/02/11(木) 18:22:37 ID:c5uU5w/8
武蔵のセリフが悪役の咆哮にしか聞こえないのですが・・
457人間七七四年:2010/02/11(木) 18:28:42 ID:ymHAR4rW
鬼武蔵だから仕方ない
458人間七七四年:2010/02/11(木) 18:32:31 ID:jaBD1Go0
原文からしてこーなのか・・・
459人間七七四年:2010/02/11(木) 18:37:54 ID:6ZDCeCT9
手クセが、意地が、口が悪いと三拍子揃ってるとは
460人間七七四年:2010/02/11(木) 18:56:46 ID:913HtK5s
まさに、鬼

賭けてもいい、ホモサピエンスじゃねぇ・・・
461人間七七四年:2010/02/11(木) 19:22:42 ID:D5PIMpZo
KGT乙!勇者に鉄砲玉など当たらないというのに!
462人間七七四年:2010/02/11(木) 19:33:16 ID:ulqq9MPM
>>454
織田家で、本能寺の変直後に、同僚を攻めて領土を不当に増やしているのは、鬼武蔵だけじゃないの?

秀吉みたいに、主の敵討ちでも何でもない。
463人間七七四年:2010/02/11(木) 20:00:11 ID:RDyJhi4d
稲葉一鉄もさんざん暴れてたよ
斉藤家時代からの同僚であった安藤守就を一族もろとも滅ぼしてるし
自分の娘婿だった堀池氏も攻めたて領地を併呑
464人間七七四年:2010/02/11(木) 20:04:03 ID:JazbHdOF
こんな奴らがいたから織田はあっという間に滅びたんだな
465織田信孝:2010/02/11(木) 20:24:14 ID:JNnDPOtP
東で鬼武蔵、西で一鉄とか俺にどうしろっていうんだ!
466人間七七四年:2010/02/11(木) 20:38:20 ID:ulqq9MPM
>>463
安藤守就は、信長に追放されてて、これはチャンスとばかりに攻め込んできてるよ
467人間七七四年:2010/02/11(木) 20:40:50 ID:sZ6edHur
安藤は安藤で既に失脚しててドサクサ紛れに失地回復しようとしてたから
それで一鉄を責めるのは酷だと思うが

って美濃の武将にろくな奴いないな
468人間七七四年:2010/02/11(木) 21:05:48 ID:8AuGAfx/
美濃って本当ろくな奴がいないよ
俺も含めて
469人間七七四年:2010/02/11(木) 21:43:54 ID:T3kAlWio
長可兄さんの爽快なハナシが読めてうれしいです。
これでまた明日から頑張れる。
470人間七七四年:2010/02/11(木) 22:35:01 ID:WnT3StGA
戦国のシャツのすそ出し

ttp://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/6f/ba/ar234bjp/folder/460702/img_460702_1833967_0?1259563314
徳川家康が着用したという南蛮胴、肩の部分の前掛けのようなパーツは「満智羅(まんちら)」と言います。
兜や胴と同じく、元々のプレートアーマーに付属する輸入品です。
見ての通り、肩の部分を守るには合理的なので、国産の甲冑でも同じようなパーツが作られるようになりました。

ですが、実は西洋では、このパーツは鎧の下につけるものです。
まあ、実用にはなったんですから、問題ないとは思いますが。

一番問題なのは マンチラ でぐぐると18禁なページばかりw
471人間七七四年:2010/02/11(木) 22:51:27 ID:Exjf8cKS
>>470
上満智羅はマンテラ、プレートアーマーでいうゴルゲットのことだね
下満智羅は鎖帷子に相当じゃないか?
下満智羅は実際は鎖帷子じゃなく金属を縫いつけてたらしいが
472人間七七四年:2010/02/11(木) 22:58:50 ID:D5PIMpZo
やだ・・・このひと連呼してる・・・////
473畠山義続:2010/02/11(木) 23:08:01 ID:6ZDCeCT9
「下のマンチラじゃと?!」
474人間七七四年:2010/02/11(木) 23:09:59 ID:ueBpwNW8
ロリコン帰れw
475人間七七四年:2010/02/12(金) 00:12:35 ID:AEiE7uER
てゆか織田家ぼちぼちやってりゃいいやみたいなの(現状維持思考のひと)追放されてるような・・・
476人間七七四年:2010/02/12(金) 00:34:43 ID:pgbHgvRD
>>473
ロリにはしるのは天下取ってからじゃないと身を滅ぼしますよ
477人間七七四年:2010/02/12(金) 00:39:38 ID:Dl0O231t
>>452
鬼武蔵にまつわる不吉な地名は本当尽きないなw一体あといくつあるんだろうか
セリフもいちいち魔王じみてるし何から何まで恐ろしい
478人間七七四年:2010/02/12(金) 01:03:19 ID:xK26ezAt
>>475
一応現状維持派のトップである勝家がああなりましたから…
やれるならやっとけ的な機会主義が戦国の基本的な思考の一つなんだろうか。
信長も信忠もって時点で皆見限ってたのかもしれん。
479人間七七四年:2010/02/12(金) 02:59:57 ID:0ny4HH88
織田四天王
柴田勝家
丹羽長秀
滝川一益
明智光秀

織田五大将
柴田勝家
丹羽長秀
滝川一益
明智光秀
羽柴秀吉
480人間七七四年:2010/02/12(金) 10:53:38 ID:h/r2A6Z9
「前田慶次VS呪術師」

慶長6年11月7日
京から米沢を目指す前田慶次は、萌黄色の息を吐く女に出会った翌日、
関東の新田に入った。

8日はは宿の主人が祈祷をする日で、「能化めいた人」がやってきた。
能化は札を家族に渡し、「この札があれば病気をしない。特に流行り病を
受け付けない」と説明した。さらに目をつぶり、男の子の額に「犬」、女
の子に「猫」という字を書き、主人にも「大般若」、女房には「波羅密多」
と書いた。ちなみに、子供に「犬」や「大」「小」と書く風習は今も残る。

慶次がその効力を尋ねると、「男の子には夜道でキツネやタヌキに出会わぬ
よう犬と書いた。女の子は犬までは必要ないので猫と書いた。主人のものは
大=男、般=日記に判をすえる、若は最近流行のネズミよけだ。女房のはご
存知の通り子孫繁栄(孕みた)である」
何とも怪しい説明だが、慶次は口をはさむことをやめた。
ある苦い記憶が蘇ったからだ。
481人間七七四年:2010/02/12(金) 10:56:03 ID:h/r2A6Z9
慶次がかつて熊野に滞在した際、よく効くという巫女に出会った。

「どのような祈祷をするのか」と尋ねると、「王の袖は二尺五寸」と
一心不乱に唱えるのだと言う。慶次は少し思案した後、「それは間違いだ。
『應無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)が本当だ』」と
正しい祈祷の文言を教えた。『金剛般若波羅密教』の一節である。一切の
ものに執着せず、心を運用すべきとの考えだ。

それから数年後、再び熊野に足を運ぶと例の巫女はいなくなっていた。土地の
人間に聞くと、祈祷が効かなくなって他国へ去ったという。
慶次は「予が本当の呪文を教えたせいであろう」と後悔するのだった。
それゆえ、能化の言葉にもいちいちうなずいて納得したように見せていたのだ。
                          『前田慶次道中日記』より
482人間七七四年:2010/02/12(金) 11:26:27 ID:ahqzR10A
>>452
しかもオチに不吉地名シリーズ・・・


 「なんどめだおにむさし」 

斎藤利堯:違う、もっと憤った感じで!

 「な ん ど め だ お に む さ し !!!」 

斎藤利堯: グゥーッド、グゥーッドですよ〜皆さぁーん
483人間七七四年:2010/02/12(金) 12:29:15 ID:C2wU6b4I
>>443
「のぼうの城」の余韻が台無しになる逸話だなw
あの小説は爽やかな風が吹きすぎててウンザリしたもんだが、この逸話はリアルだねぇ
484人間七七四年:2010/02/12(金) 12:32:06 ID:RhOYPXqm
>>479
佐久間信盛は、1570年代まで、本願寺担当者で7カ国の太守なんだよね。
この頃まで、筆頭家老だったのに、追放されてなかったら、後世織田五大将の中に入っていた。
485人間七七四年:2010/02/12(金) 13:07:38 ID:jJHC1Xub
>>480-481
まじないの類って、いわゆるプラシーボ効果なわけでしょ?
その根本を破壊しちゃったら効かなくなるよね
486人間七七四年:2010/02/12(金) 13:34:51 ID:i14Y5s+A
>>480-481
前田慶次ってカブキ者で豪傑なイメージあるけど
ちゃんと反省してるあたり、根は空気読めるいい人っぽいよね
487人間七七四年:2010/02/12(金) 13:38:11 ID:jR+8LHZ3
道中日記面白いよなぁ
石田三成の怨霊がわけのわからない祟りをやってるのとか
当時の人たちの考え方とか、それを見つめる慶次のcooooolさとかが面白い
488人間七七四年:2010/02/12(金) 14:57:22 ID:M8EpOiMw
489人間七七四年:2010/02/12(金) 15:16:35 ID:vT6cicuu
>>480-481
うはっ、慶次って理屈っぽいやつだなぁw
あの時代の人間としては、浮いてたんだろうなw
490人間七七四年:2010/02/12(金) 15:47:24 ID:W6CnDY6X
王の袖は二尺五寸の話は『多聞院日記』にもあるから、慶次は道中
日記を文学として作品化する時に後半を加えたという説もあるな。
491人間七七四年:2010/02/12(金) 17:24:42 ID:EpeetbWn
文明五年のこと。
大和の菩提山寺において、衆僧が集まって一同で起請文をしたためた。
仰々しく約束されたその内容とは…

「寺中において、にんにく、ネギ、魚肉などを受用してはならない」

魚や肉は言うまでもなく、にんにくなどの香りの強い植物も、精進潔斎のために禁じられている。
そんな自明のことを、改めて起請しあわなければならなかったらしい。
「寺中において」とわざわざ断りを入れているのも気になるが…

ちなみに、仏僧大嫌いのフロイスは次のように述べている。
「坊主らは、表では肉も魚も食べないと公言している。
 しかし、ほとんどの者は陰で食っているのだ。」
492人間七七四年:2010/02/12(金) 17:52:08 ID:FvpvGh8q
何故ネギとにんにくは駄目なのか?
493人間七七四年:2010/02/12(金) 17:54:11 ID:AsOTiWRs
美味しんぼで精進料理でニンニクがダメな理由を昔やってたな
忘れちゃったけど
494人間七七四年:2010/02/12(金) 18:17:09 ID:Ni+6Nwjx
美味しんぼだと確か性欲が強くなっちゃうからとかいう理由だな
それだけじゃなくて、くさいからとか色々な理由があるらしいんだけど、美味しんぼではそこだけクローズアップしてた
495人間七七四年:2010/02/12(金) 18:28:16 ID:bZJTKkVW
一方、親鸞は妻を娶った
496人間七七四年:2010/02/12(金) 18:33:16 ID:gYqLdIX+
調べたら発祥のインドじゃあんまり根菜類食わないみたいだね(ローカーストの食べるもの扱い)
497人間七七四年:2010/02/12(金) 19:24:10 ID:Zycqz7UQ
>>496
カレーの発祥地なのにターメリック食わないのか知らんかった
498人間七七四年:2010/02/12(金) 19:29:02 ID:Qc6ykN7p
酒を般若湯と言い換える人間臭さは嫌いじゃないぜ。
499人間七七四年:2010/02/12(金) 19:38:16 ID:pT4GAksd
>>497
具として入れるのとスパイスとは別物なんでしょ
500人間七七四年:2010/02/12(金) 19:43:27 ID:Ni+6Nwjx
つうか今のインドは仏教ちゃいますやん
501人間七七四年:2010/02/12(金) 19:51:32 ID:i3mK5BMu
入社するときに「飲酒運転はしません」とか誓約書書かされたなあ。
そんな当たり前のことわざわざ誓わせるなんてやっぱブラック企業なのか(´・ω・`)
502人間七七四年:2010/02/12(金) 19:53:41 ID:Ni+6Nwjx
なんだよ急にw
503人間七七四年:2010/02/12(金) 19:54:31 ID:CszPAZyE
>>501
業務で車を使うなら書かされてもおかしくないと思うが、どこの誤爆?
504人間七七四年:2010/02/12(金) 19:54:31 ID:Ynv/rumZ
>>484
対本願寺の為につけられた寄騎衆が七カ国に分布(国衆全部が寄騎だったのは和泉くらいだったはず)していただけで七カ国の太守だったわけではないよ。
で、たしか尾張の一部と近江の一部が信盛自身の領土。
505人間七七四年:2010/02/12(金) 19:57:48 ID:BQ6aJ1E4
>>501
むしろ役所がうるさいよ
公共工事のたびに安全衛生誓約書提出を義務付けられるし
施工計画書には
あいさつはしっかりしましょう、タバコのすいがらは一つにまとめて持ち帰りましょう
工事に入る前日は飲酒を控えましょうなんて
項目をわざわざ入れさせられるんだぜ
506人間七七四年:2010/02/12(金) 19:59:23 ID:BQ6aJ1E4
ニュー速かと思った
雑談ごめん
507人間七七四年:2010/02/12(金) 20:55:01 ID:RhOYPXqm
>>504
それは分かっている。
でも、その当時最大の軍団長だった。
508人間七七四年:2010/02/12(金) 23:14:01 ID:QkFk4p7s
>>503
起請文→誓約書の流れでしょ
509人間七七四年:2010/02/12(金) 23:53:37 ID:66VFgFDm
上杉謙信「国清君、徳川の榊原康政さんに書状を渡してくれないかな」
山浦国清「わかりました。行きますから坂城(村上氏旧領)を安堵してください」

謙信「いやいや勝頼の領地を安堵っておかしいでしょ?」
国清「そこをなんとか!!」
謙信「弱ったなあ…」

あくまで想像だがこんなやりとりがあったのかもしれない。
謙信は康政宛ての書状と一緒に国清に判物を与えた。

『村上源五殿へ。現在敵地にあるのに判物を与えるなんて世間から
笑われるかもしれないけれども、あなたには熱意があるのであえて与える。
もし信州が「私の支配下に属した場合」坂城周辺を安堵する』

そんなに悪くもないけど、謙信が困った話ということで…
510人間七七四年:2010/02/12(金) 23:56:10 ID:G+dyJ0+m
裁判の勝訴って書いたアレを広げる原告の方みたいな行動をとる山浦さんを想像した。

まあ、先祖からの旧領だから格別の思いってのがあるだろうしねえ。
511人間七七四年:2010/02/13(土) 00:35:27 ID:3uGCFnz5
>>509
景勝が北信濃を手に入れたとき国清を元の領地に入れてるよね。
ただ、そしたら国清が自分ちに帰ってきたことにハッスルしちゃったのか
景勝の許可無しに税だか領地だったかの命令出しちゃったとか
国清の家臣が北条に寝返ろうとしたとか色んな理由で
怒られて上条さんに変えられちゃった。
512人間七七四年:2010/02/13(土) 00:53:45 ID:c8tULCuF
>>492
ここまで挙げられた理由の他にも、五行説が関係してるとかいう話もある。
五葷(ネギ・にんにく・にら・らっきょう・あさつき等香りや刺激が強い野菜)
を好むのは五戒で言うところの妄、殺、淫、盗、酒を好むものだからダメだとか。

あと陰陽五行説では
にんにく→心臓(火)
ニラ→肝臓(木)
ラッキョウ→脾臓(土)
ねぎ→腎臓(水)
あさつき→肺臓(金)
を害するとかいうのが理由もあるみたい
513人間七七四年:2010/02/13(土) 01:07:18 ID:mev3ABsq
>>511
武田に追われた信濃の豪族たちって
景勝の代で帰還できた者も結局会津転封について行くんだよね。
臣下だから当然だけど寂しい話だ。
514人間七七四年:2010/02/13(土) 02:27:07 ID:SvGOGhEv
芋川親正「故郷が・・・故郷がトラウマ化してるので・・・」
515人間七七四年:2010/02/13(土) 06:19:09 ID:j8HQLA4L
ここでうんこの話だよ。うんこうんこー!

当時の民間療法には現代では想像も付かないものが多いが、その一つに重傷を負った者に馬糞を食わせるというのがある。
ほんとに…当時の人間は馬糞を食っていたのだろうか…?

武田信玄の家臣に甘利昌忠という人物がいた。甘利虎泰の息子である。
武蔵松山城攻めの際、その家臣の米倉彦次郎という者が腹を鉄砲で撃ち抜かれてしまった。
そこで昌忠、鉄砲傷に効くという芦毛の馬の糞を溶かした汁を作り、「薬が出来たぞ、飲め!」と勧めた。
しかし彦次郎、「嫌です!そんなもの飲むくらいなら死んだ方がましです!」と拒絶した。
これに対し昌忠、「何を申すか!何としても生き延びて信玄公に尽くすことこそ真の武士ではないか!」と叱った。
しかしそれでも彦次郎は嫌がった。そこで昌忠の取った行動とは…?


飲んだ。馬糞汁を。


二口ばかり飲んで一言、「馬糞汁は美味いのう!」

こう言われては仕方ないので彦次郎も我慢して馬糞汁を飲んだ。そしたらみるみる痛みが和らいで命を取り留めたという。
やっぱり当時の人間も馬糞食うのは抵抗があったんだね〜。げろげろ〜ん。
516人間七七四年:2010/02/13(土) 06:29:30 ID:K+FBGHFS
その話好きな話だ 部下想いのいい話だと思う
517人間七七四年:2010/02/13(土) 06:30:48 ID:fHdBPUSt
嘔吐させて、喉に詰まった血を吐き出せる効果を狙ったらしい
518人間七七四年:2010/02/13(土) 09:11:40 ID:1tUIwv8t
100年くらいドンパチやってたんだから、もうちょっと医術が発達しても良さそうなものだけどね
傷口にウンコとか駄目なことくらい分かるだろうに

そういえば、田畑を荒らされた農民がせめてもの復讐として
井戸にウンコ投入して、その水を飲んだ武士が病気になるって話を聞くけど
そういう知識があるなら、傷にウンコ塗りこまないだろうし
どっちが本当なんだろうね なんか矛盾してるんだが

戦争が終わったらその井戸を使うのは、その農民たちなのに、大切な井戸に糞尿入れる方が
フィクションなのかな ウンコ入れたはいいけど、結局戦はしなかったとかだとテンション下がるだろうな…

出したてのションベンは無菌だから、ちんこからダイレクトシャワーなら山上道及さんみたいに
傷口洗ったりしても余裕だろうけどさ 

傷口にウンコって雑兵物語だっけ?本格的な医学書にはないんだろう…よね?
519人間七七四年:2010/02/13(土) 09:20:11 ID:yIpRxOn4
つか医学が進歩したのってここ百年くらいじゃね?
520人間七七四年:2010/02/13(土) 09:22:47 ID:Zl4dtsdh
江戸時代の医学書とか見ても半分ぐらいは迷信と思われるようなものばかりだよな
521人間七七四年:2010/02/13(土) 09:49:07 ID:dzZRrjo7
異人が日本にどしどし入ってくる時期になってから病気が増えて医学の進歩が急務になったと
522人間七七四年:2010/02/13(土) 10:00:48 ID:8lPVbOKb
>>503
 ここで取り上げられた方々の家臣の多くは

「ブラック大名家に仕えているんだが、俺はもう限界かも知れない」

と思っていそうだけどw
523人間七七四年:2010/02/13(土) 10:06:59 ID:yIpRxOn4
島津と織田が双璧だな
524人間七七四年:2010/02/13(土) 10:13:29 ID:t7VwrSps
俺は仕えるなら北条家がいいな。
なんか優良企業的なイメージが有る。
525人間七七四年:2010/02/13(土) 10:16:13 ID:0i2P7Xa9
コッホが細菌を見つけてから、飛躍的に進化したんじゃないかな。
それまでは煮沸消毒すらやってたかどうか怪しい。経験則でたどりついた可能性はあるけど。
526人間七七四年:2010/02/13(土) 10:19:56 ID:8VPftFQ7
仕えるなら黒鬼さんのところがいいなぁ
体育会系集団だから楽しそう
527人間七七四年:2010/02/13(土) 10:22:04 ID:1tUIwv8t
焼酎ブーは経験上知ってたのかな
トゲが刺さったとき、ほじくる針を火であぶって滅菌はどうだったのかな
528人間七七四年:2010/02/13(土) 11:53:55 ID:3GEYLVhe
>514
ああ、おにむさしだから仕方ない
529人間七七四年:2010/02/13(土) 12:14:25 ID:58hRbcWL
立花家で苦難を乗り越えたいかな…って俺のご先祖様がやってたことそのものだな
530人間七七四年:2010/02/13(土) 12:14:28 ID:cjPGoJPu
>>523
火縄銃ロシアンルーレットで死ぬ覚悟がありますアk
531人間七七四年:2010/02/13(土) 12:23:05 ID:lSJrCrCI
士官するなら黒田家だな
ただし三代目は勘弁な
あと、何だかんだで福島家も悪くない
殿と酒は飲みたくないが
532人間七七四年:2010/02/13(土) 12:31:45 ID:Z3CGmhCo
>>531
福島は、何か過失があれば処刑する。
島津義弘が、いつか福島家は滅びると予言した。
533人間七七四年:2010/02/13(土) 13:18:41 ID:XsUxwdQZ
>>532
けっこう見るねそんな話
かなりの潔癖症だったくさい
だが上から潰されるまで家臣はよく仕えてるという謎よ
534人間七七四年:2010/02/13(土) 13:35:15 ID:Z5LIWvLn
ある時、黒田如水が、賤ヶ岳七本槍の一人、糟屋武則を呼び出した。

如水「そこもとは武勇に隠れなし、近頃は老成もされてきておる。是非ともせがれの槍の師になってはくれまいか。」

そこで武則は「賤ヶ岳のことは天下に知れ渡っております。今更、謙遜するまでもありません。あの時の槍をご子息に
差し上げましょう。」と快く返答した。(槍を与える→弟子にする、ということですね。)
というわけで、早速屋敷から槍を取り寄せたのだった。

さて、二人の前に来た長政は、常々、「自分ならば賤ヶ岳くらいの功名はいつでもあげてみせるぜ!」、と思っていたので、
父の命令だからと頭は下げたが、槍を手に取らずにこう言った。
「古来より槍で功名をあげた人々が、師匠についたとは聞いたことがありません!」

武則は、「こいつは槍働きというものが何なのか理解してやがる。大手柄を立てる大物になるにちがいない。」と思ったそうな。
535人間七七四年:2010/02/13(土) 13:39:46 ID:D/fXkwQJ
これだから猪武者は困る
自分が大将だということも理解出来んとは器だな、やれやれ

と誰かが
536人間七七四年:2010/02/13(土) 13:46:37 ID:SzYZWZ7q
戦国時代の人は、戦い方を誰かに学ぶことってしなかったのかね。
いきなりOJTで学んだの?
それも厳しすぎる話だと思うが・・・
537人間七七四年:2010/02/13(土) 13:51:37 ID:6egDgL1z
>>536
姫若子は直前に聞いてたぐらいだからなあ……。
538人間七七四年:2010/02/13(土) 14:10:47 ID:pe7gsIp7
そんな後世の創作逸話にしても、そんなこと有り得んから逸話になったわけで

教練はあっても一師匠について、とかいう悠長なことやってなかった、ってことでしょ
539人間七七四年:2010/02/13(土) 14:13:37 ID:QYQi76kv
>>532
「何か過失があれば処刑」と「福島家お取り潰し」に明確な因果関係がなければ義弘のは戯言に過ぎない。
540人間七七四年:2010/02/13(土) 14:16:21 ID:ufZqOohh
>>525
江戸時代には焼酎を吹き付けて消毒する習慣があったので、その前の時代にも何かあったのではないか?
541人間七七四年:2010/02/13(土) 14:31:48 ID:jbgU/BOE
>>540
確か1556?1565?どっちかは忘れたけどその頃にはあったようだよ
542人間七七四年:2010/02/13(土) 14:53:00 ID:FXM09BN8
馬糞を飲んだり、生卵を傷薬に塗りたくったりした(※破傷風の危険性大なので決して真似をしないように)のもその位の時代だな。
543人間七七四年:2010/02/13(土) 15:04:29 ID:8moeIqWG
まぁ、インチキ金創医のインチキ治療が余りにもインチキだからインチキ臭せぇってんで、かえって書き残されちゃったんじゃねーかな
544人間七七四年:2010/02/13(土) 15:35:56 ID:Tr/7EMQW
>>539
清正さんちは所謂「三振制」だったと聞いたことがあるけど・・・。
545人間七七四年:2010/02/13(土) 17:00:48 ID:vtkzn8sg
黒田如水
「私は将棋が好きなので関白秀次公の相手をさせられるんだ。実力は秀次公の
方が少し上なんだけど、秀次公は私が本気で勝負して秀次公に負けるとお前
わざと負けたろう、もう一勝負しろとおっしゃるんだよな。

で秀吉公も将棋をやるんだよ。どうもあの人は駒の動かしかたくらいしか
わからないみたいだね。ある時、将棋名人が秀吉公と勝負した事があったんだが、
相手は遠慮してわざと負けるわけだ。秀吉公はもちろんそんな事お見通し
なんだが、勝った勝ったと喜ぶのよね。

そんなんだから私は思うんだ。器の小っさい秀次公には秀吉公の後継ぎ
なんて到底無理だってさ」
546人間七七四年:2010/02/13(土) 17:26:15 ID:FXM09BN8
人たらしの面目躍如だな。
猿に取ってはいい話だ。
547人間七七四年:2010/02/13(土) 17:35:39 ID:Tr/7EMQW
人たらしは「接待のされ方も上手」って事なんですかね?w
548人間七七四年:2010/02/13(土) 17:38:49 ID:KBX0SbeT
そりゃあねえ……
549人間七七四年:2010/02/13(土) 17:53:33 ID:SzYZWZ7q
>>545
この逸話、秀次を単独で見れば何も悪いところはないんだけど、
秀吉みたいな異能人と比べられちゃうとなぁ・・・

秀次って、やることなす事すべて秀吉と比較されて見られたんだろうなぁ。
考えてみれば気の毒な話だよ。
550人間七七四年:2010/02/13(土) 18:21:08 ID:fU083yp7
>>542
ビタミンには血液凝固作用もある。
そして馬糞は未消化のビタミンの宝庫。

コアラもユーカリの毒に対する耐性の無い我が子に自分の糞を与えるし、
犬もまた栄養が残ってる糞を食べようと本能的に反応してしまう。

本当は血を飲むんだけど馬殺す訳にもいかないので〜などと言って馬糞飲ませてたらしいが、
当時としては一定の効果があったんだと思うよ。
551人間七七四年:2010/02/13(土) 18:22:44 ID:FXM09BN8
>>550
マジか。
すげー勉強になった、サンクス。
552人間七七四年:2010/02/13(土) 18:46:21 ID:8moeIqWG
正直、ビタミン云々より糞便に含まれる雑菌等による感染症とかのほうが怖いと思うw
553人間七七四年:2010/02/13(土) 18:56:09 ID:1tUIwv8t
>>550
コアラってそんなことしてんのか
なんてこった…
554人間七七四年:2010/02/13(土) 18:58:00 ID:rU6lRI3D
天然痘とか当たり前にあった時代ですからな
感染症くらい耐えられないと鉄砲の弾を額で受け止めることは・・・
おや?ヒャッハーとか騒がしいな、うちの近所に暴走族か?
555人間七七四年:2010/02/13(土) 19:00:15 ID:dkixiz9Y
糞便尿だって空気中に触れなきゃ“あまり”雑菌はいないのよ
空気中に5秒間あるだけで大増殖ぶちかますけどw
556人間七七四年:2010/02/13(土) 19:05:47 ID:1tUIwv8t
ウンコは空気に触れた瞬間から臭くなるってやつですかね?
でも、傷口に塗りこむのはやっぱり怖いかな
557人間七七四年:2010/02/13(土) 19:17:37 ID:u+S6ewN/
>>545-549
市松ならわざと負けただろう!と斬ってくれる
558人間七七四年:2010/02/13(土) 19:58:16 ID:8moeIqWG
糞便喰うのは、まだ消化酵素とかの働きで多少は何とかなりそうだけど
傷口塞ぐのは怖すぎるよな
いや、弱った体で喰ったら危ないとは思うけどw

助かる傷でも敗血症とかで死んじゃうケース絶対有ると思う
559人間七七四年:2010/02/13(土) 20:15:47 ID:VnWXm6zE
>>545
将棋は強くても相手の力量を見抜けない秀次と
将棋は弱くても相手の心中を見抜いてそれに乗ってあげる秀吉じゃ
人間の器が違いすぎるわなあ・・・
560人間七七四年:2010/02/13(土) 21:08:38 ID:pDM4lkDS
食後すぐに覗いてちょっと後悔・・・
561人間七七四年:2010/02/13(土) 22:15:53 ID:MVay3BOq
まあ秀吉は度量云々以前に、接待将棋を指すのが好きだったっぽい。
有名な太閤将棋というものもあるし。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%96%A4%E5%B0%86%E6%A3%8B


一方秀次は趣味人だったのでついつい身を入れてしまうんだろう。
たぶん秀次は自分が負けたのを理由に相手を恨んだりしないだろうし。
562人間七七四年:2010/02/14(日) 01:45:24 ID:Bus5TMmX
腹切る前に将棋の盤面残しとけ、って言った位だから
そこにこだわるのは許してやりたい。
563人間七七四年:2010/02/14(日) 12:12:20 ID:t7lsp5tB
黒田如水も浅野長政との碁に熱中しすぎて身を滅ぼしかけたなんて逸話もあるしねえ
黒田長政が息子に書状で盤上の遊戯禁止令出しててワロス
戦国時代のテレビゲームかw
564人間七七四年:2010/02/14(日) 12:15:41 ID:PaEep/ho
如水は元親とやってる逸話もあったよね
囲碁だったけ?
565人間七七四年:2010/02/14(日) 22:32:10 ID:DYPPJzsP
見をば只野に捨てられて


会津は仙道に只野と言う国人が有り、蘆名に対して反抗の姿勢を見せたため
蘆名盛隆が自ら出馬して成敗せんとする。
これに只野はすぐに詫び言をし、妻を人質に出して降伏した。

ところがこの後に只野は再び蘆名に対して反抗、
哀れ、只野の妻は見せしめのため、串刺しとされた。

この妻は、最後に歌を残した。

『浅ましや 見をばたヽのに捨てられて 寝乱れ髪かくしのつらさよ』

これを聞く人皆、その哀れに涙を禁じ得なかったとのことである。
566人間七七四年:2010/02/14(日) 23:22:56 ID:NPqwzrkm
こういう屑に社会的制裁はなかったんだろうか?
567人間七七四年:2010/02/14(日) 23:25:23 ID:DYPPJzsP
>>565
ああ、見→身
もうしわけないorz
568人間七七四年:2010/02/15(月) 00:24:42 ID:5Z0e8rxk
それでも仙道なら…
569仙台藩百姓:2010/02/15(月) 11:58:44 ID:GRlJ844G
>>565
既出のような気がするけど凄く似た話しがあるから挙げておくお( ^ω^)


南陸奥は仙道に片平助右衛門という葦名家旗下の国人がいた
伊達家の攻勢が日増しに強くなる中で助右衛門は伊達家に内通し葦名家に叛旗を翻した
助右衛門の所領は葦名家の最前線である高玉城・阿子島城と会津の中間に位置していたため
孤立した高玉城・阿子島城は瞬く間に攻め潰されてしまった
しかし何を思ったのか助右衛門は再び葦名家に帰参を申し出て生母を人質に二心無き事を誓った
が、その舌も渇かぬ内に生母の事など考えず再度伊達家に内通し叛旗を翻しす
これに怒った葦名義広はみせしめに助右衛門の母を磔にかけて殺害した
人々は
「片平の薄き情や替るらん一重につらき夏衣かな」
と詠んで助右衛門の薄情さを歎き
生母の哀れさに皆涙を流して助右衛門は人非人なりと憎む声が巷に満ちたという。
570人間七七四年:2010/02/15(月) 13:37:11 ID:qUAf5gXk

ある時、上杉謙信の許に早馬が届いた。

「ウチの兄貴が武田信玄に寝返って謀反を企んでます!」

密告の主は上州高崎城主、和田兵衛大夫の弟、喜兵衛であった。

「私が手引きしますから、早速討伐の兵を出してください」

喜兵衛は以前、謙信の近習として使えていたので、謙信もその言葉を信用した。
すぐに少数ながら屈強の兵士を用意し、その時滞在していた上州厩橋城を出立する。

……しかし、高崎への道半ば、という所で一人の男が一行の前に転がり出てきた。
和田喜兵衛である。

「え、えぇっと……さっきの早馬……あれ、ボクの勘違いでして……しかも勘違いで早馬を出したコト、兄貴にバレちゃったもんだから、城に居づらくなっちゃって……どうしましょう……?」

「知るかっ!!」

謙信、怒り狂って太刀を一閃! 喜兵衛の首を刎ねてしまう。
が、ココで終わらないのが上杉謙信。

「一度出陣したからには後には引けぬ!高崎城を落とすぞっ!」
「えぇぇぇぇぇっ!!」
「喜兵衛が勘違いしたからには、そーゆー気配があったに違いない! うん、そーだ、きっとそーなんだっ! 大体今から帰っても、謀反を疑ったとなれば兵衛大夫はどう思う! 気まずいじゃないか! 今日の所はとりあえず攻めよう! んでその後のコトはそれから考えよう!」

謙信は槍を持って真っ先に高崎城に殴り込み、付いてきた兵もそれに続けと雪崩込む。
たまらないのは和田兵衛大夫とその家臣だ。
誤解を解いて来い、と弟を城から叩き出した時点で、全ては終わったと思っていたのに、いきなり謙信自らの奇襲である。
一つ、二つと廓が落ち、残るは本丸のみ、となった頃……

「今日はこれくらいにしといたるわっ!!」

上杉謙信、城下町に火を放ってとっとと引き上げてしまったのだ。

「な、なんだったの……?」(゚Д゚)…ポカーン

辛うじて生き延びた和田兵衛大夫はその後、ホントに武田信玄の許に走ったのでした。

火のない所に無理矢理放火して、しかも中途半端に放置しちゃった謙信さんの悪い話。
……この人、こーゆー話読んでると鬼武蔵と大差ねぇよな。キッチリ息の根止めない分、鬼武蔵よりタチ悪ぃ様な気もするww
571人間七七四年:2010/02/15(月) 13:49:24 ID:rdE9Teqe
俺が和田でも武田の下に走るわw
572人間七七四年:2010/02/15(月) 13:55:12 ID:Dpzyk3lj
疑わしきは罰せよ
573人間七七四年:2010/02/15(月) 14:04:54 ID:T/7F6UII
湯田宗右衛門は徳川義直に仕える前は、宇喜多家に仕えており、さらに浪人として大坂城に
入城した際には毛利勝永の組下にあった。
ある日、同輩たちにせがまれ大阪城での思い出を語った。
「毛利豊前(豊前守・勝永)は旧臣・浪人に区別なく、組下の者にやさしい方であった」
「豊前守は人柄温厚であり、とかく揉めがちな大坂城にあって、譜代の者ら(大野治長等)と
浪人衆(真田、後藤等)との間を取り持ち、いつもニコニコして怒らず、一度約束したことは
必ず守る人で、みんなから信頼されていた」
「豊前守が、ある日こうぼやいたことがあった。『家康公が離間の策を用いるなら、たやすく
この大坂城を滅ぼせるだろう。譜代衆はその立場を誇り、虚勢を張って我々の言うことに
耳を貸そうとせぬ。隠岐守(後藤又兵衛)はただ功名を挙げんと急ぐばかり。左衛門佐(真田
幸村)は狷介で身内(真田旧臣)とばかり親しみ腹を割って話そうとせず、長宗我部もまた
土佐衆とのみ話す。これではこの城も長くはあるまい』」
人々は宗右衛門の話を聞いて、大坂城がああもはやく落ちたことに納得したとのことである。

574人間七七四年:2010/02/15(月) 14:30:55 ID:qJcNwdj7
和田さんのこの逸話、これで3バリエーション目だっけ?
575人間七七四年:2010/02/15(月) 14:38:22 ID:dl6nFF40
576人間七七四年:2010/02/15(月) 15:32:48 ID:brTx/wPJ
>>573
内心胃が痛かっただろうなぁw
どの時代も中間管理職的な役回りは辛いwwww
577人間七七四年:2010/02/15(月) 16:59:21 ID:U/1y4hZN
>>573
徳川義直はよくこんな経歴の人物を雇う気になったな
578人間七七四年:2010/02/15(月) 17:08:14 ID:Ngzr8Mc+
御三家初代当主は皆めんどくさいもの
579人間七七四年:2010/02/15(月) 17:30:24 ID:RYeu3p6R
>>577
毛利勝永の下で大坂で戦ったってのはポイント高かったんだろうね。
580人間七七四年:2010/02/15(月) 21:42:25 ID:7bypPPno
嘘か真かよくわからないが・・・

尾張統一半ばの織田信長は、名目上の主君として斯波義銀を立てていた。

今川義元の勢力浸透を食い止めるためか、謀略を廻らし、三河の豪族である
吉良義昭と斯波義銀の同盟締結を図ろうとした。ともに足利一族中、一、二を
争う家格の名族である。

やがて、双方の話がまとまり上野原(現在の愛知県豊田市・安城市あたり)で
両者対面の儀を執り行うこととなった。

その当日、斯波・吉良双方の軍勢が上野原に到着、一町ほど隔てて向かい合った。
義昭・義銀ともに床几に腰を据えて、さあ御対面!


義昭「・・・・・・」

義銀「・・・・・・」


両者とも己の家格が相手より上と考えていたため、席次を巡って対立があった。
双方とも頑固に譲らなかったため、一応、対面の約束地まで来たものの、どちらも
動くに動けなかったのである。


結局、互いに十歩ほど前に出たものの、その後は睨み合ったまま動かず、挨拶も
引き出物の交換も何もなく散会となりました。

('A`) ('A`) ('A`)
581人間七七四年:2010/02/15(月) 22:23:27 ID:89UHm1jo
割と話としてはありそうかなと思うけど、
席次を気にしなくていいよう円座にするとか
何か折衷案はなかったのかなあと・・
582人間七七四年:2010/02/15(月) 22:28:55 ID:SngP0Gjc
信長の立場無いな
583人間七七四年:2010/02/15(月) 23:31:44 ID:lwr6Hqa0
結局同盟は…
当然破棄か
なんだかなぁ
584人間七七四年:2010/02/16(火) 01:18:00 ID:Rc4C/LDU
ある北国の武士の回想

「天正十四年十月の田村清顕どのの死後、三春は未亡人と一門四人の合議制になった。
だが、その頃ウチの殿は奥方(愛姫)と仲が悪かったので、母の田村夫人は恨みに思って相馬と結び、
田村家は伊達派と相馬派に割れた。」

「天正十七年正月末日、殿が落馬して足の骨を折った。幸い、治療が成功して骨はうまくくっついたが、
あんまり痛がって出兵なんて出来そうもなく、片平助右衛門の寝返りが延期になった。」
(伊達成実著・『伊達日記』より)


流石イトコ殿は容赦がなかった
585人間七七四年:2010/02/16(火) 04:05:56 ID:Y+94BjQI
故郷に帰れない


『信濃守護職』小笠原長時。

彼は天文17年(1548)の、塩尻峠の戦いで武田信玄に大敗し、天文20年(1550)には村上義清の元に
逃げ込み、旧領回復運動を繰り広げつつ、その後越後、さらには同族である京の三好長慶の元にまで
亡命し、老年には会津、蘆名盛氏の元に寄寓していた。

さて、そんな長時の三男、貞慶はなかなかの武将であり、織田信長に仕え活躍。
天正10年(1582)3月に武田が滅びると、信州に領地をあてがわれた。
一部とはいえ小笠原氏が、ついに信濃に戻ってきたのだ。
が、武田滅亡の3ヶ月後、本能寺の変が起こるのである。信濃も、大きな混乱に陥った。

小笠原貞慶はこれをチャンスと見た。徳川家康の後援の元、今は木曾義昌が領する、
かつての信州小笠原家の所領、松本の奪還を狙ったのだ。

彼は家来の溝口美作一人だけを召し連れ、密かに塩尻に潜入。地元の人々を煽動すると、
高井手、熊野井、青柳、瀬黒と言った村々が一斉に蜂起。木曾義昌はこれにはたまらず、
ついに貞慶に松本を明け渡すことを約束した。

この時小笠原貞慶は、木曾義昌が無事に落ちることを保証するため、百束掃部と言う者を
人質として付けたのだが、その人質すら瀬黒の正徳寺の住職に率いられた一揆勢に奪い返されるなど、
もう散々であった。

鬼武蔵の件といい、本能寺の後の木曾義昌は踏んだり蹴ったりである。


さてさて、会津の小笠原長時である。

彼は息子の貞慶より、旧領の復帰の報告と、早く長時を迎えたいとの連絡を受けた。
ついに信州小笠原家が復興したのだ。
長時は大喜びで帰国の準備をしていた。

ところがその最中、長時の従者の一人が彼に遺恨を持ち、にわかに斬りかかった。
長時はこれにより、あれほど焦がれた故郷の地を踏むこと無く、会津にてその生涯を閉じた。

最後の最後で運の無かった、そんな男のお話。
586人間七七四年:2010/02/16(火) 07:58:45 ID:BTWHDLU+
運だけの問題じゃないのでは……。

どういう恨みをかってたのかは知らないが、従者に殺されるって相当じゃないの?
「故郷の地は踏まさん! この腐れ外道が。冥途に行けや!」
ってことでしょう。
運というより信望のない話な気がする。
587人間七七四年:2010/02/16(火) 08:36:21 ID:JupJtSMK
>>585
小笠原貞慶は石川数正と一緒に秀吉に寝返ったり
息子・小笠原秀政&孫・忠脩は無断参戦した大坂で寡兵相手に親子仲良く討ち死にしたり
裏目に出る大失態を何度も演じているのに徳川家康の恩顧でことごとく助けられて
潰れるどころか領土を増やしている点が小田家と違う点だな。

それなのに
子孫・小笠原長行は老中として討伐に赴いた長州征伐で致命的ミスを連発して江戸幕府をつぶしてしまった

徳川家康が特別に譜代として引き立てて九州の監視役として期待していた小笠原氏と奥平氏が揃って
幕末に全く役に立たなかったのが誤算だったね。
588人間七七四年:2010/02/16(火) 09:44:07 ID:CSJiis/F
それを言い出したら井伊とか藤堂とか(ry
589人間七七四年:2010/02/16(火) 10:58:10 ID:SirUNl+d
いや、小笠原家の末裔としては至極順当な戦果じゃないかw
590人間七七四年:2010/02/16(火) 11:03:08 ID:4sU1Rnd1
勘違いされる事が多いけど、小笠原長時ってのは、もの凄い勇者だったらしいよ
個人的武勇はそれはそれは凄まじいものがあったとか
反面、もの凄い高慢で人使いが荒く、下のものには非常につらく当たったらしい
591人間七七四年:2010/02/16(火) 11:06:18 ID:tuDSZwuM
>>590
部下に殺される武将のテンプレみたいだな
592人間七七四年:2010/02/16(火) 12:24:30 ID:U03LWDjc
大坂の陣の古田織部

大坂の陣の最中、古田織部は佐竹義宣の陣所を訪れた。
そして2人は防弾用の竹束の陰に隠れながらお茶した。
その時古田織部はその防弾用竹束の中に茶杓用の良い竹があり、
引き抜こうとした。
そしてその時、見事に大坂方の弾丸が古田織部の頭をかすめる事となった。
593人間七七四年:2010/02/16(火) 12:34:20 ID:Rh0/BOI4
最後までしっかり書いてくれ
594人間七七四年:2010/02/16(火) 13:05:57 ID:9Bj/S1Yv
全くの余談だが、>>410の小笠原吉次は小笠原長時の長男である小笠原長隆の
長男だから本来は小笠原家の家督を継ぐはずだった人なんだよな。

まあ再興を成し遂げた貞慶が宗家になるのが自然と言えば自然。
595人間七七四年:2010/02/16(火) 13:25:35 ID:1r6n8bR3
>>584
さすが従弟殿そこに痺れる憧れるゥ
成実の著書は全体的に軽妙で読み物としても面白いよね
596人間七七四年:2010/02/16(火) 14:34:31 ID:Owi7sF1D

武田信玄が今川氏との同盟を反故にして駿河に攻め込んだ時の事。
北条氏康は三国同盟を破った信玄に怒り、今川救援の兵を駿河に派遣した。

武州忍城主、成田氏長の配下である飯塚要人という若者が伊勢忠貞の陣の前を通りかかった。
……と、伊勢の兵達がこちらを見てクスクスと笑っている。
あからさまに侮蔑の表情で笑っている彼等に不快感は感じたモノの、今は主君のお使い途中だ。グッと堪えてその場を立ち去った。

そして無事、主命を果たし終えると、友人の長島大次郎にこの顛末を話し、
「やっぱヤツらの態度は我慢出来ねぇ! ちょっと今から行って来る」
と伊勢の陣に向かってしまった。
長島は慌てて成田氏の重臣、田山豊後にこの事を報告し、友人が心配だからと後を追って伊勢の陣に向かった。

一方伊勢の陣の前では、
「オイ、お前らさっきオレを見て笑ってたろ」
「あぁん? なんだお前、戻ってきたの?」
「やっぱ近くで見てもピッカピカの鎧じゃ〜ん?」
飯塚要人が伊勢の兵数人と押し問答をしている。

「武田との戦いでみんな泥まみれの鎧を着てるってのに、お前の鎧は下ろしたてみたいにキレーじゃねぇか」
「そーそー、だからこないだの戦いでも、汚れる前に真っ先に逃げ出したんじゃねぇのって言ってたの! おわかり? ピカピカちゃ〜ん?」
「んだとぉ、テメェら!」
激昂した飯塚は、遅れて駆けつけた長島と共に刀を抜いて味方の筈の伊勢軍に切り込んで行った。
勿論、多勢に無勢。二人はあっという間に討ち取られてしまったが、田山豊後を筆頭に成田軍が兵を率いて二人の救出に駆けつけて来た為、北条軍の陣では大騒動となった。
ある者は伊勢に、ある者は成田に味方し、北条軍同士の戦争が始まろうかと言う寸前であった。

報告を聞いた北条家の重臣、板部岡江雪斎は慌てた。
「こ、こんな面倒な時に、なおさらややこしくなる様な騒動、起こさないで!」
自ら両軍の間に割って入り、全面衝突となるのを未然に防いだ。
この後、成田氏長は臍を曲げたのか、それとも遺恨を残したまま伊勢と同陣させられないから上州方面を警戒してね、
という上層部の判断なのか、駿河から撤退し、領地の忍城に帰還してしまった。

江雪斎が頭を抱えた「こんな面倒な時」……そう、武田と手切れになった為、上杉謙信と同盟を組もうという、「越相同盟」の交渉が難航中だったのだ。
そして問題の一つが氏長の忍城の帰属。

案の定、帰国した氏長から書状が届いた。
氏康「……あの、謙信さん? 成田がね、『忍が上杉領になったらオレは殺される』って騒いでるんですよ?」
謙信「え? 何で? 怨まれてる自覚、アイツにあったの?」
氏康「いや、謙信さんとの過去の経緯もそうなんですケド、こないだウチの方でも一悶着ありまして……」
謙信「この際、武田に寝返っちゃおうって?」
氏康「えぇ、そーゆー事です。んで、成田だけじゃなくて松山城の上田とか、周辺の連中まで一緒に騒ぎ始めちゃって……」
謙信「……」
氏康「『今度は武田に寝返っちゃおっかな〜』なんて事をワザとコチラの耳に入るように言って来るもんですからね、その……申し訳ないんですが、『殺さないよ』『追い出さないよ』って、神様に誓ってあげてくれません?」
謙信「ヤダ、メンドクサイ!」
氏康「えぇ〜っ!? でも、太田三楽斎も、佐竹も、里見も武田に付いちゃったんですよ? 西上野だけじゃなくて北武蔵まで武田領になっちゃうんですよっ?」
謙信「うん、だから、忍も松山もいらない。ヤツラ、オレがヤダって駄々こねてるんでしょ? じゃ、そっちで面倒見りゃいいじゃん」
氏康「こっちだってメンドクサイんですケドねぇ……」


領地割譲を値切った北条と見れば良いのか、悩みの種を押し付けられた北条、と見れば良いのか……
くすぶる遺恨を楯に寝返りをチラつかせながら、無茶な要求をゴリ押しした成田さんの一人勝ちな越相同盟のお話でした。

氏長「若いモンの首二つで領地と命が安堵されるんだから、安いモンだよなっ!」
597人間七七四年:2010/02/16(火) 18:54:12 ID:3FkuhlaT
成田氏長って花の慶次のエピソードが強烈に印象に残ってるわw

長い滞陣でダレ気味のラスボス
なんかおしゃれなソファーに妙なポーズで鎮座

部下「成田氏長から内応の書状が届いています」
秀吉「あ〜ん?それを小田原城に届けよ」
部下「そ、それでは成田が氏政に殺されます」

秀吉「 か ま わ ん 」


まあ、これは漫画だけどさw
598人間七七四年:2010/02/16(火) 18:56:04 ID:a2w14OwC
娘を側室にしたくせに〜
599人間七七四年:2010/02/16(火) 22:33:33 ID:MSyfOywk
ちょっと曖昧な記憶だけど明治になって農民が苗字決める時に住職に相談したら伊達と徳川はやめとけと言われたとかってホントなのかね?
600人間七七四年:2010/02/16(火) 22:36:45 ID:PFiSZRDK
まず戦国の話じゃないけど、賊軍連中の名前はオススメしないだろうなjk
601人間七七四年:2010/02/16(火) 22:57:08 ID:8Ba8vpBe
武田晴信(信玄)の脅威が信濃を覆いつつあった天文十七年の七月初め、
小笠原長時に仕える若侍たちがに城へ出仕する道中のこと。

夏の太陽が照りつける中、一同が坂道まで来ると突然、神田将監という者が走り出し、
一気に坂を登り切った。
「どうした将監、こんな天気の日に走って暑くはないのか?」
同僚たちが聞くと、将監は答えた。
「暑くない。秋の露で濡れているので、露を払うため走ったまでよ。」

同僚たちは笑った。
「気でも違ったか将監?それは秋の露どころか、お前の汗ではないか!」
将監は少しも動じず返した。
「貴殿らは唐の国が呉越の"臥薪嘗胆''という故事をご存じか?」
「?」
「長時様のご器量頼りなく、臣下に不足多し。しばらく後には、この地は武田晴信のものと
なるであろう。故郷を追われる我ら小笠原の臣は、野山に獣を狩って肝を嘗め、薪に臥し、
秋の露に濡れて夜を過ごさねばなるまい。
よって、今から露に濡れることを思って動いてみたまでの事よ。アハハハ・・・」
「・・・・・・」

将監の風刺(?)が長時に伝わったか、定かではない。
神田将監は塩尻峠の戦いの後、武田軍の夜襲を防いで戦死し臥薪嘗胆する事はなかった。
602人間七七四年:2010/02/16(火) 23:22:35 ID:AWnqNNth
今しぶとい戦国武将伝って本読んでてさっき貞慶の件を読んできたぞw
タイムリーワロタ
603人間七七四年:2010/02/16(火) 23:32:41 ID:3FkuhlaT
>>601
そんな急に走り出したら、その坂の向こうに伏兵が潜んでるのかと思っちゃったよ
短気な森家ならその背中を一斉に弓矢で射られてハリネズミ状態にされても文句言えないレベル

各務「どうした将監、いきなり走り出して」
大塚「どうした、ってもう死んでるやんけ」
井戸「がはは」
長可「がはは」
各務「がはは」
一同「がはは」
604人間七七四年:2010/02/16(火) 23:45:51 ID:mqRY2J2E
なんという脳筋ファミリーw
605人間七七四年:2010/02/16(火) 23:54:43 ID:fpe0m0H3
「あれはしずヶ岳の戦いの時だ。俺は馬に乗り急いで敵に向かっていた。
その時、何処からか『未熟者だから急ぐのだ。敵の前で馬を急がせるなど
みっともないぞ。もう少し速度を落とせい!』と聞こえてきおった。
誰かと思えば声の主は谷兵太夫であった。

なんだこの野郎と俺は思ったが、谷はベテランだから、味方が寡兵で攻撃に
失敗し追撃されたところを横から突くつもりであんな道の脇の小高い場所に
いるのだろうと思いついた。俺はじゃあいいやと思って言い返すのを止めて
そのまま向かっていった。

そして俺は一番槍を果たして首をあげたわけよ。実検の後、俺は谷に首を投げて
言ってやった。『どうだ。あんたは未熟者だから急いでみっともないとか
言ってたが、手柄を立てるっつうのはこういう事よ。よっく子孫に教えて
やんな』ってな。そうしたらあいつ顔を真っ赤にして恥じてやがったわ」

と加藤清正は機嫌がいい時によく語ったそうな。
606人間七七四年:2010/02/17(水) 17:17:48 ID:S4oBtxmj
天正年間山陰某所

伝令「吉川経家殿、森下中村両名自刃」
元春「何だよまた切腹かよ。最近流行らしいが大体な、切腹する奴って何なの?
    許してもらえると思ってんの?敵だからあんまり言いたくないが山名中務みたく降伏するもんでしょ普通」

元春は後に切腹→開城というパターンが主流になることをこのときまだ知らなかった
607人間七七四年:2010/02/17(水) 18:45:35 ID:Vipd4Fwu
>>606
色々とおかしい
元春は吉川経家の忠義心に感服して感状だって送ってるのに
そんなセリフをどこの軍記物語で言ったの?
608人間七七四年:2010/02/17(水) 19:06:41 ID:sRKF/BSp
これは吉川経家が派遣された守将なのに腹切った事へ対する無念さをあらわしていると思うが
特にそもそも元の城主であった山名豊国が逃げてるし、山名の重臣二人が腹切ってるのに、お前が腹切る必要なんて無いじゃないか、という
609人間七七四年:2010/02/17(水) 19:28:48 ID:Vipd4Fwu
>>608
なるほど…
しかし意訳しだいでただの無神経な奴にもなるのなあ
610人間七七四年:2010/02/17(水) 21:02:12 ID:Tw+h6/yr
ふと森長可をググってみたらdqnの優先順位が上がってやがるorz

松浦静山の甲子夜話に人間無骨についてこんな一文がある
(前略)(中略)倉が焼けたと聞いて、槍はどうなったのかと森右兵衛佐に尋ねたら、
「焼ける前にレプリカを作ってそれを持ってきた。本物は赤穂城にあるので大丈夫」とのこと

思うに、この槍には“長可の霊が宿っている”のだ
            ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

!? ちょ待て、確か人間無骨って現存してたよな・・・っとありゃ?
>一時は靖国神社や国立博物館にも展示されていたらしいが、その後、御物にでもなったのか、所在がわからない。
>また、東京のとある資産家の元に渡ったが、震災の際に避難して来た人々の暖をとるために火にくべられたともいう。
                                                          ~~~~~~~~~~~~~~

鬼武蔵の魂が燃えた!?
611人間七七四年:2010/02/17(水) 21:13:33 ID:kkckIuv9
槍とか薙刀は刀身部分が重要なんで
柄とかはけっこう換えられてたんじゃないかね?
燃やして暖を取るってことは柄を燃やしたんじゃないのかね

刃物はいいよね 金属だからよく残ってる
鎧兜も大事にされてよく残ってる
弓とか正直ほとんど残ってないし
暖を取られちゃったら、全部燃やされちゃう…
612人間七七四年:2010/02/17(水) 21:25:35 ID:PqxYYo7y
刃燃えないしなw
613人間七七四年:2010/02/17(水) 21:42:49 ID:yg5G+u+3
弓は劣化するから、大事に長期保存ってのは無いんじゃないかな
614人間七七四年:2010/02/17(水) 21:58:12 ID:kkckIuv9
>>613
上野の国立博物館で学芸員の人に質問したんだけど
やっぱり弓はほとんど残ってないんだってよ

明治神宮に弓道の中央道場ってのがあって
そこに謂れは忘れちゃったけど古い弓あったよ
あと伊勢神宮にも太い弓があったけど
基本的に残ってないらしいね

1000年近く前の刀が残ってる方がすごいんだけど
615人間七七四年:2010/02/18(木) 01:02:53 ID:uCXG1wWy
大三島にはいくつか古い弓あったよ
為朝奉納のやつとか
616人間七七四年:2010/02/18(木) 01:44:29 ID:8U36bfGj
>>610 
人間無骨でクグれば分かるけど、一本は森家先祖を祀る赤穂の大石神社
もう一本は個人蔵になってるよ
残っててよかったよ
617月孔雀:2010/02/18(木) 01:54:58 ID:FS6rgjQd
あまり、上杉謙信の悪口言うと、天罰が落ちるよ・・・
618人間七七四年:2010/02/18(木) 03:06:29 ID:9rlSMAMo
毘沙門天と言えば唐の李靖をモデルにされた封神演義の托塔李天王李靖はギャップがすごいよな
息子と喧嘩して半殺しにされる役回り・・・・ひでえ
619人間七七四年:2010/02/18(木) 05:37:17 ID:Ka+X03R4
>>618
それは西遊記の龍の扱いと同じで
一般的に強いとされるキャラを雑魚扱いして
倒した奴が超無敵キャラと表現するため
620人間七七四年:2010/02/18(木) 10:33:19 ID:CO1Kh7gR
>>619
儒教と仏教と道教の微妙な力加減、日本人にはわかりにくいねアレ
621人間七七四年:2010/02/18(木) 10:52:16 ID:ELgXN0io
太上老君はガチとだけ覚えた
622人間七七四年:2010/02/18(木) 11:27:29 ID:CDNdh4LW
森長可の「人間無骨」、細川忠興の「歌仙兼定」の作者ということで
我々を震撼させている二代目和泉守兼定はその実用主義的な作の
ため幕末に脚光を浴びることになるんだよな。
623人間七七四年:2010/02/18(木) 11:30:59 ID:VTzAUr8f
天正十二年の事。
この年の2月上旬には尾張の織田信雄の元に、徳川家康より酒井与四郎重忠が密かに派遣されるなど、
小牧長久手に向けての動きが活発化していた。

その頃信雄と秀吉は、近江の三井寺において会合を行った。
秀吉は信雄に向かい血相を変えて

「先年、あなたと信孝殿のご兄弟が不和になられましたが、私があなたにお味方仕り、
信孝、勝家を滅ぼし、あなたの憤りを散じたまいました。
これを見ても、あなたを尾張の太守とならしめたのは一重に、私の御奉公の賜物です。
去年あなたが受けた忠節は、尽く私一人の働きにあるのですから、あなたは私に対して
少しのご疎遠も有るべきでは無い。なのに此頃承るに、あなたは私を滅ぼそうとしているとのこと。
近頃このような情けない無体のことはありません!」

そう言い放った。信雄、大いに驚き
「其方は心配しているようなことは全く無い!」
と、即座に否定した。しかし秀吉

「それはご挨拶ですなあ。証拠が有るのですよ。」

「証拠!?」

「昔から私の身の上になにか災難がある時は、必ず夢の中で枕元に神が立ち、それを告げるのですが、
この度も長張装束を着た者が枕元に立ち、この事を告げたのです。
これには相違ござらん!!」

これに信雄は殊の外不快になり、会合の席を立って鐵鎚と言う良馬に乗り、伊勢の長島に
駆け帰った、とのことである。この時あまりに急いだためか、鐵鎚は元より老馬ではあったのだが、
城に到着するやいなや死んでしまった。

時に、信雄の家中には秀吉への内通者が多く有り、この事も信長時代から織田家に仕える
同朋衆の一人が密告したことを、夢の内容として語ったのだそうだ。

秀吉の腹芸とそれに手玉に取られる信雄、という構図がよく分かる話である。
624人間七七四年:2010/02/18(木) 12:49:46 ID:08J2PReu
>>623
秀吉は神仏なんて全く信じてなかっただろうから
神のご加護とか持ち出したら、そりゃわざとらしいと言うしかないね。
625人間七七四年:2010/02/18(木) 13:04:54 ID:HO5IvSqs
その程度の挑発であっさりのるのがさすが三介殿としかいいようがないな
626人間七七四年:2010/02/18(木) 13:23:38 ID:4rBblq9m
信雄「私は誰の挑戦でもうける!」
義冬「…………」
627人間七七四年:2010/02/18(木) 15:05:23 ID:XBwCMel2
槍の話その一

天下三名槍の現在

蜻蛉切

TVゲーム・アニメのおかげで歴史好き以外にも名が広まった、本多忠勝愛用の名槍。
本多家に長く伝わったが、戦後の混乱期、どうしても家宝の一つを手放さざるを得ない状況が
起こり、初代忠勝の鹿角の甲冑か、蜻蛉切のどちらかを選ばねばならなかった。
こういう次第で、蜻蛉切は某氏の所蔵となり秘蔵され、鹿角の甲冑は本多家の所蔵として、
岡崎市博物館に寄託されている。

日本号

黒田節であまりに有名なあの槍。
母里太兵衛が福島正則から譲り受け、一時は後藤又兵衛のもとにあったというが、以後は
母里家に長く伝わった。ところが大正時代、事情により手放すこととなった。
そこで乗り出したのが、炭鉱王・安川敬一郎と玄洋社総帥・頭山満だった。
旧福岡藩士出身の二人は、日本号は福岡の地を離れるべきではない、と大金で購入して、
旧藩主黒田家に贈与した。おかげで、現在も福岡市博物館に所蔵されている。
なお、黒田節=槍 が全国認識になったのは、戦後のことである。

御手杵

駿河の刀鍛冶、嶋田義助が鍛えた逸品。穂先の長さが138センチという常識はずれの大身槍。
結城晴朝から結城秀康に伝えられ、その大きさ派手さから秀康のお気に入りだった。
秀康五男の子孫で、結城家の名跡を継いだ松平大和守家に長く伝えられた。
しかし、東京空襲で蔵が焼夷弾の直撃を受け、焼失した。

最近になって、島田市の有志と研究者が復元し、結城市に寄贈された。
レプリカではあるが、巨大さがわかる。
ttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b8/Otegine_replica.jpg

なお、中国のサイトで御手杵と称する画像が出回っているが、あれは嶋田義助の別の槍の
画像である。
(中韓サイトは無法地帯なだけに著作権無視で思わぬデータが転がっていることがあるが、
彼らには検証能力が無いので注意するに越したことは無い)
628人間七七四年:2010/02/18(木) 15:36:47 ID:y9GUQ3JU
御手杵かっけえやべえ
これでも槍というんだな、実際に戦場で使えたんだろうか
629人間七七四年:2010/02/18(木) 15:47:49 ID:L2ETlmwM
某所で拾った信長の野望の三才様
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org665135.jpg

狂気がにじみ出てて秀逸な出来
630人間七七四年:2010/02/18(木) 16:02:07 ID:XBwCMel2
>>628
敵兵3人の首を一気に貫いて、串団子のように運んだという話があるが、それはあくまでも伝説伝承の類w
穂先の断面は三角形なので、突くことは出来ても切ることはできません。
631人間七七四年:2010/02/18(木) 16:15:33 ID:26Gac7g2
>>628
御手杵YABEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEE
槍ってレベルじゃねぇw
632人間七七四年:2010/02/18(木) 16:23:20 ID:CO1Kh7gR
>>622
幕末の人斬りどもが高く評価するという・・・

 まあ当時の鑑定家も幕末・維新回天の偉人がぽrぽろいるんだよねえ勝海舟の親父とか
633人間七七四年:2010/02/18(木) 16:24:01 ID:qcpSeZhb
>>630
それなんて団子三兄弟?
634人間七七四年:2010/02/18(木) 18:07:57 ID:08J2PReu
>>627
鑓って書いたほうが・・・

って禁句?
635人間七七四年:2010/02/18(木) 18:14:19 ID:nfOgAp/b
御手杵、槍つーか騎士のランスっぽいな
636人間七七四年:2010/02/18(木) 18:17:09 ID:hdnOhw81
>>629
山菜さんの時代にこういう着物を着てたのかね?
なんだろ、これ?なんかイメージ違うな
ヒゲ生えてないし、月代剃ってないし、着物は妙だし
髷もへんだし、剃り込み入ってるし…

コーエーは武将グラを下請けの中韓に出してるって本当だったのか…
顔は伊藤英明みたいで馬鹿っぽいし…
637人間七七四年:2010/02/18(木) 18:22:00 ID:4rBblq9m
そんなモブキャラに力を入れても…
638人間七七四年:2010/02/18(木) 18:23:37 ID:CpOkuDZI
つうか、KOEIの固有顔グラの多くは昔から元ネタつうか、俳優とかの有名人がモデルばっかりですよ
639人間七七四年:2010/02/18(木) 18:27:41 ID:amvzxD6P
そうです
太閤立志伝5の利休がナイナイ岡村、土屋昌恒がくりぃむしちゅー有田
前田玄以が本業がクワガタ養殖の人なのは割と有名
640人間七七四年:2010/02/18(木) 18:40:48 ID:CpOkuDZI
有名な二階堂盛義も例のアレも藤井隆のホットホットだろうしなw
641人間七七四年:2010/02/18(木) 18:41:49 ID:CpOkuDZI
"二階堂盛義も"ってなんだw
"二階堂盛義の"のミスタイプな
642人間七七四年:2010/02/18(木) 20:42:08 ID:C/ODCWlh
>>639
前田玄以の人の本業はラジコンレーサー、クワガタ養殖は副業
案外歴史も好きらしく遠征先で城巡りもしたりするらしい
643人間七七四年:2010/02/18(木) 21:10:02 ID:steMS4zs
>>628
西洋にもawl pike(錐槍)という似たような槍があるね。
全長3mの内、錐状の穂先は1mになる。
御手杵も見た目に反して実戦向けな槍だったんじゃないかな。
644人間七七四年:2010/02/18(木) 21:41:09 ID:XCY9teLF
西洋のパイクは石突を地面に固定して踏ん張る使い方だしねえ。
ちょっと違うような。
645人間七七四年:2010/02/18(木) 21:49:52 ID:CpOkuDZI
パイクは槍衾と馬防柵合わせた様なモンだからね

御手杵って正直ランスの様に使われた形跡もないし、どう考えてもクッソ重いだろうから飾りの部類だとおもうなぁ

漫画の話出して悪いが、ベルセルクの竜殺しみたいなモンだと思う
646人間七七四年:2010/02/18(木) 22:04:39 ID:CDNdh4LW
違和感を感じる人は三間槍のように柄が長く刀身は短めのものをイメージしている
からでは無いかな?

御手杵はいわゆる大身槍と呼ばれるもので、両刃の剣に長い柄を付けるような感じの
モノだね。馬上での振り回し易さとか、槍を持った時の重心とか使い手の好みが反映
されているのだろう。武器に枠に嵌める必要もあるまい。
福岡市博物館に展示してある日本号、岡崎城にレプリカが展示してある蜻蛉切も
大身槍だね。蜻蛉切なんて槍なのに斬れ味が後世に伝わっている。
647人間七七四年:2010/02/18(木) 22:10:04 ID:CpOkuDZI
いや御手杵はどう考えても片手で振り回す様に扱えないから、馬上用じゃないと思う
もし馬上で使うとしたら、ランスの様に固定してチャージか、脇で固定して馬の全身力で薙ぐって感じじゃないかなぁ
ちょっと実戦では使いづらい気がするなぁ
648人間七七四年:2010/02/18(木) 22:12:35 ID:XCY9teLF
>ベルセルクの竜殺しみたいなモンだと思う

これが一番しっくりくる表現だと思うw
やっぱ実用性からいえば飾りだよね。秀康は使いこなす気満々だったろうと思うけど。
649人間七七四年:2010/02/18(木) 22:18:37 ID:WoJnpFep
秀康って甲冑もすごいボリュームの代物だよな
坂東武者みたいなモンスタータイプの人だったんだろか
650人間七七四年:2010/02/18(木) 22:25:37 ID:KDn3upnJ
鑓というより長巻のたぐいじゃないのかな

ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B7%BB
651人間七七四年:2010/02/18(木) 22:37:02 ID:CpOkuDZI
説明によると突き刺し用らしいから、カテゴリとしては長巻では無いらしいよ
652人間七七四年:2010/02/18(木) 22:52:43 ID:KDn3upnJ
>>651ああ、同じwikiにあったね、失敬w
御手杵で検索したら、江戸時代の逸話が紹介されているブログがひっかかったよ。
孫引きだが

『随想 さびの話』(山本洋一 理工出版社)より

松平直富という元伯爵家に、先祖伝来の御手杵(きね)の槍(やり)という名の付けられた有名な槍がある。
この槍は西に黒田家の日本号あり、東に松平家の御手杵有りいわれ、本朝名槍の両横綱である。

松平家では代々、この槍を自慢の家宝として参勤交代には供先に立てて道中したと言う。
それで、松平家では、この槍の手入れに心を込め、少しでもさびがつけばすぐ研いで手入れをした。
この槍の手入れをする御抱研師(おかかえとぎし)は、さびを見つけて手入れをするたびにごとに
10人扶持の御加増を賜ったので、今月さびて、また来月にもさびれば、20人扶持となるのであって、
心をかけてさびを見つければ、研師の扶持(給料)がよくなるわけであった。

けれども昔の人は、さびがついたと時には自分の不注意のためであるとおもい、
扶持を増すことをかえって自らの恥として、少しぐらいのさびであると「イヤ、これはさびでござらぬ」と言いつつ、
10人扶持を断りながら手入れをしたということだ。
この話は刀剣の鑑定で有名な本阿弥光遜氏が『人の噂』という雑誌に載せられた随筆で読んだことである。
653人間七七四年:2010/02/18(木) 23:54:31 ID:Qypr7jco
御手杵でググったら顔芸が出てきたwww
654人間七七四年:2010/02/18(木) 23:58:38 ID:4rBblq9m
刀の手入れとか打粉でやるのはわかってるけど鑓の手入れってどうやるんだろ?
655人間七七四年:2010/02/19(金) 00:26:18 ID:E6acnt9W
1、先っぽだけ研いで、わざと軒下に放置
2、今か今かとそわそわする
3、その時がきたら、とっておきの屁理屈を披露する
4、数百年後に悪い話スレで晒される
656人間七七四年:2010/02/19(金) 00:41:28 ID:GsgznWCS
先っぽだけ、これだけで悪い話ですw
657人間七七四年:2010/02/19(金) 00:51:01 ID:4vxBnjAU
槍の管理といえば、こんな話があったな

結城秀康の槍・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-542.html
658人間七七四年:2010/02/19(金) 00:51:50 ID:5X7wQXVB
>>655
才蔵だっけそれw
659人間七七四年:2010/02/19(金) 01:10:23 ID:+y/r9QWz
一方道三は錆びないように竹の節をくりぬいたものに槍を納めて軒下に置いた
660人間七七四年:2010/02/19(金) 07:31:45 ID:qdJAdXZt
一方そのころ市松は「こんなに手入れの悪い槍は誰の槍だ!」と、自分の槍を指差して怒鳴るという平常運転を。
661人間七七四年:2010/02/19(金) 08:37:01 ID:8VLP9vTR
才蔵の屁理屈、相手が市松で良かったな。
もしも相手が黒田長政とかだったり島津家久だったら、凄惨な格闘になっただろう。
662人間七七四年:2010/02/19(金) 09:15:48 ID:GYP0/3hE
坂東武者「太い棒使えば問題ない」
663人間七七四年:2010/02/19(金) 13:42:44 ID:803DPTih
>>661
長政なら、栗山さんが出てきて場を丸く収めますよ
664人間七七四年:2010/02/19(金) 14:12:47 ID:oT54Big0
>>627補足

御手杵が長巻や太刀と混同されやすいのは、全長7尺、という情報が出回ってるからだと
思いますが、これは穂先と茎をあわせた槍身だけのこと。柄の長さは2.4メートル。
というわけで、3.8メートルが実際の全長ですね。

これが簡単に振り回せるのか、については、蜻蛉切が槍身だけの重さで約500グラムです。
6メートルの柄をつけても、6-7キロくらいなんじゃないかと。

蜻蛉切は笹穂という形で、実際に笹かまぼこみたいに平べったい二等辺三角形ですから、
刃の部分はそれなりに切っ先鋭いわけですが、御手杵はほぼ正三角形の断面です。

鉄の質量は1立方センチ7.9グラムですから、高さ138センチ底辺5センチくらいの三角錐で
質量計算してみてくださいよ。

正確なところはわからなくとも、本多忠勝でさえ晩年には柄を短くしたんですから、常人が
扱えるレベルの重さではないですね。。
665人間七七四年:2010/02/19(金) 14:21:15 ID:oT54Big0
666人間七七四年:2010/02/19(金) 15:40:30 ID:9QF9A2Co
>>665
綺麗
667人間七七四年:2010/02/19(金) 15:44:46 ID:tD0jIfCr
綺麗→切れ味いいんだろうな…→使ってみたい→強奪→警備員バッサリ→おお、血の赤がなんと映えるのだ!→現代の鬼武蔵爆誕
668人間七七四年:2010/02/19(金) 15:51:58 ID:jZNr7FpX
鬼武蔵を爆誕させるには、どんな事をしても不問にしてくれる絶対たる独裁者の上司が必要だw
669人間七七四年:2010/02/19(金) 15:54:16 ID:whjCKYZ6
>>668
つまり、ヒトラーとルーデルですね、

「ヒャッハー!ソ連のアカ共だぁ!」

……キャラちげえw
670人間七七四年:2010/02/19(金) 16:57:52 ID:/grYSxQx
日本号は読み方は「ひのもとごう」なの?
671人間七七四年:2010/02/19(金) 16:58:30 ID:f9lZkPOU
ルーデル「どいてガーデルマン!ソ連殺せない!」
672人間七七四年:2010/02/19(金) 17:02:02 ID:5SL4PluB
首に小銃弾食らっても動いた舩坂軍曹を忘れるな。
673人間七七四年:2010/02/19(金) 18:03:12 ID:kIR0597b
>>672
船坂弘は人間に似た別の何かじゃないかと思うんだ
674人間七七四年:2010/02/19(金) 18:26:00 ID:jz/WPyTP
本多正信の弟、本多正重は武勇をもって活躍したが、直言の士であり、
徳川家康に疎まれて一時出奔したと伝わる。

さて、正重が帰参し、家康が大御所として政治をとっていた頃。
冬のとある夜、正重は家康のもとに参勤した。
すでに兄・正信もいて、食事時だったために皆に御膳が出された。
しかし、ちょうど家臣が用件を持ってきたため、家康はそれに直に指図をした。
正信らは主君に遠慮し、御膳はそのままになっていた。

仕事を終え、家康はさっそく鶴のあつもの汁をすすった。
「普通のあつものなら、もう冷め切ってるはずだよな。
 こんなに寒いのに、これは温かくてうまい。
 大鳥は老人に益あり、というけど、食べるとほんと実感するな」
家康、上機嫌である。
正信も穏やかにこれに応じようと、箸を置いた。
が、いきなり正重がキレた。
「おお、そうでしょうなあ!
 この正重なんぞが食らう小鳥のあつものでは、今頃凍りついてるでしょう!」
どうやら待遇面の不平があり、家康の発言にカチンときたらしい。
言うだけ言うと、正重はさっさと退出してしまった。

唖然と見送った家康、多分気まずそうにしていただろう正信に話しかけた。
「お前の弟は変わらんなあ。反骨心が強いというかなんというか…
 なんとか大名にしてやりたいものだが」
675人間七七四年:2010/02/19(金) 20:37:59 ID:O0YQ1NCi
江戸時代の大名は、最低一人は立派な先祖がいるものだが、この男の場合は並ではなかった。
その男の名は池田綱政、岡山藩2代藩主である。

彼の父、池田光政は、自身が江戸初期の3名君の一人であったが、父方の祖父はイチモツさまこと西国宰相池田輝政であり、母方の祖父は徳川四天王が一人、榊原康政であった。
一方、母、勝子は本多忠刻と千姫の子である。千姫は江戸幕府2代将軍秀忠とお江の間の娘であり、お江を通じて、北近江の戦国大名浅井長政やお市の方とも血がつながっている。
また、本多忠刻の父方の祖父は、言わずと知れた戦国最強の男、57戦無傷の徳川四天王、本多忠勝であり、母方の祖父は悲劇の長男、松平信康、曽祖父は戦国の3傑の2人、織田信長と徳川家康である。
さらに、松平信康の母、築山殿を通じて、戦国時代の代表的な分国法『今川仮名目録』を定めた駿河・遠江の戦国大名、今川氏親や南北朝時代の名将、今川了俊の血もひいている。

このようなそうそうたる先祖のDNAを受け継いだ池田綱政は、岡山藩の財政を再建したり、日本3大庭園のひとつ、後楽園を造るなど後世の評判はよいが、
当時の記録である土芥寇讎記(各大名家の内情を記した古文書)によると、「生まれつき馬鹿」「愚か者で分別がない」などとけちょんけちょんであり、
「特に色を好むことには限度はなく、手当たり次第に女に手を出した結果、70人以上の子供を作った」が、「寛政重修諸家譜」には14人となっており、幕府には少なめに届けたようである。

676人間七七四年:2010/02/19(金) 20:53:25 ID:w/JbKJmP
御手杵 大分のほうに杵築っていうのがあったなあとおもい
なんとなく「おてつき」って読んでしまった
677人間七七四年:2010/02/19(金) 21:06:42 ID:/3x0gji0
>>674
鶴の汁物って当時の最高級料理だっけ?
天下取っても麦飯と漬物しか食べてないようなイメージだったけど
家康も結構栄養あるもの食べてたんだね。
678人間七七四年:2010/02/19(金) 21:15:06 ID:5X7wQXVB
そして激怒する肝付氏
679人間七七四年:2010/02/19(金) 21:52:35 ID:8VLP9vTR
首団子をムシャムシャ食べる鬼武蔵を想像してしまった
680人間七七四年:2010/02/19(金) 22:00:09 ID:GE6niW8+
鬼武蔵「あーぶくたったー煮えたったー煮えたかどうだか食べてみよ」

ホラーにしかならん
681人間七七四年:2010/02/19(金) 22:03:56 ID:4vxBnjAU
小牧長久手が始まった頃のこと

信雄方の犬山城主、中川定成は伊勢における羽柴秀長、蒲生氏郷などとの戦いで討死。
犬山には少数の守備兵だけが残っていた。

これを池田恒興は大垣で聞いた。彼は信雄から寝返り秀吉方についたばかりであった。

「我々は秀吉に従うことにしたが、未だ旗幟をはっきりと見せていない。
早く尾張に攻め入り秀吉に味方した証拠を見せねばならないが、犬山の城主が討たれ、
残兵も少数だと言う。これは尾張に攻め入り、犬山を攻め取る手柄を立てるチャンスである!
幸いにもわしは元亀の頃犬山を領していた…。そうだ!日置才蔵を呼べ!」

日置才蔵は恒興の犬山時代、犬山城下の奉行を務めていた。
彼は恒興の元から、かつて懇意にしていた犬山の町人のもとに密かに派遣され、
町人たちが連歌の会を催す会合に顔を出した。

「私がここに来たのは別儀ではない。この度信雄様と秀吉様が一戦に及ぶことになった。
秀吉様はその軍勢30万で大阪を発し、美濃に侵攻し犬山に討ち出る。
この犬山は尽く放火され人々は撫斬り(皆殺し)となり、全ての者が家を失い身を滅ぼすであろう。

恒興様はその事を知り、縁の深い犬山がその様な目に合うのは気の毒だと考え、
私をしてそれを知らせるため派遣されたのだ。」

町人たちは大いに驚き
「それはなんと迷惑なことでしょう!どうかその様にならないように、恒興様に申し上げては
頂けないでしょうか!?」

「なるほど。さほどに是非是非と言うのならば手は無いわけではない…。恒興様に従うことを誓うのだ。
誓った者には褒美としてこれを与えよう。」
と、懐中より金子を出した。町人たちは大喜びでこの金子を受取る。
才蔵、してやったりの気持を抑え

「が、証拠が無くては恒興様にこの事を申し上げるわけにはいかない。従う気持を形で表すため、
お前たち全員、人質を出すのだ。」

既に金子を受け取ってしまった以上、これを断ることは出来ない。
町人たちは致し方なく人質を出し、才蔵はこれを大垣に連れ帰った。
これが3月12日のことであったと言う。
翌13日に家康が清須に到着、27日には攻略された犬山城に秀吉が入り、合戦はいよいよ本格化する。

小牧長久手の頃の、犬山における裏工作のお話
682人間七七四年:2010/02/19(金) 22:08:29 ID:P3GrxVyc
槍の話その二

あの人の槍の現在

加藤清正の片鎌槍

加藤家は改易されてしまったのであまり遺品が残ってませんが、紀州徳川家に輿入れした娘(瑤林院)が
輿入れで父から与えられたのが、あの片鎌槍。紀州家に長く伝わりましたが、明治になって帝室博物館に
他の槍二つとともに献上されました。そういうわけで東京国立博物館の所蔵になっています。
なお、東博での登録名称は十文字槍なんで注意。トラに噛み折られたというのはあくまでも伝説。
片側が極端に短いだけですが、ちょっとでも出ていると、分類上は十文字になってしまうw
ttp://image.tnm.jp/film/1024/C0050169.jpg


服部半蔵の槍

服部家は(ry、菩提寺の四谷西念寺に半蔵の槍が残されており、新宿区の登録有形文化財になっています。
穂先は江戸時代に先が折れて無くなってしまい、更に戦災で焼けてしまっていますが、それでも穂先だけで
99センチあります。寺伝では失われたのは1尺ほどと言われているようですが・・・
江戸時代の記録では、鞘の長さが159センチとあります(同じ記録では穂先、柄の長さは現在と同じです)。
さて、実際は?w
ttp://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/f5/de/myriver1020/folder/1570626/img_1570626_37087222_1?1192720578
ttp://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/f5/de/myriver1020/folder/1570626/img_1570626_37087222_2?1192720578
ttp://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/f5/de/myriver1020/folder/1570626/img_1570626_37087222_3?1192720578
683人間七七四年:2010/02/19(金) 22:11:53 ID:sEXRBEoz
八十姫が輿入れした時には清正死んでるし
684人間七七四年:2010/02/19(金) 22:15:14 ID:P3GrxVyc
ま、生前からの約束ってことでw
この片鎌槍は無銘ですが、紀州家から献上された他の二つは、祐定と兼重です。
685人間七七四年:2010/02/19(金) 22:29:11 ID:oPdFXPa+
>>677
(●Д゚)<じゃあ俺がとっておきの鶴の羹を御馳走してやるよ。
686人間七七四年:2010/02/19(金) 22:36:53 ID:sEXRBEoz
そもそも、槍の話はあんまり悪い話じゃない気がするがw、
武具繋がりで悪い話をひとつ

細川忠興が自分の愛刀に「歌仙兼定」なんて名づけたろくでもない話
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-508.html
(こちらでは生涯手打ち36人説ですが、息子の家臣を一気に6人斬ったから説もあるそうです)
は有名ですが、黒田長政の愛刀もなかなかろくでもない代物

その名も「城井兼光」
この板の人間ならご存じのことと思います
そうあの城井です
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-167.html
この時、城井鎮房を手打ちにした刀を長政はいたく気に入って、
現在は福岡市博物館に所蔵されているそうです
687人間七七四年:2010/02/19(金) 23:03:58 ID:8ElBEXnS
>>677
鳥居元忠戦死の報を聞いた時も、江戸で鶴鍋を食べていた
688人間七七四年:2010/02/19(金) 23:30:36 ID:aeeWdBVs
>>674
正重が蒲生家を退転した理由に
「氏郷が鶴狩りを禁止したのに腹を立て、城の堀で鶴狩りを敢行したから」というのがあったとか…

>>686
細川忠興の刀繋がりで


その日忠興は京の大徳寺を訪れていた。
知っての通り大徳寺と忠興の繋がりは深く
忠興によって開基された塔頭高桐院は、後に細川家の菩提寺になっている。

それまでも幾度となく大徳寺を訪れていた忠興
そんな忠興を数人の僧達が出迎えた、その時である。
突如忠興が抜刀し僧の一人希首座を切り捨てたのだ。
突然の凶行に騒然となる周囲をよそに、忠興はそのまま屋敷へ帰って行った。

寺内で人を斬る、それも辻斬り同然の業とあってこの一件は大きな問題となった。
が、事件を調べるうちに思わぬ事実が判明する。殺された希首座は丹後一色氏の出だったのだ。
丹後一色氏と言えば言わずと知れた四職家の一つ、そして細川藤孝・忠興によって滅ぼされた家である。
一色氏滅亡時幼児であった希首座は幼さを理由に見逃され、落ち延びた。
その後大徳寺で僧となり、修行僧の長である首座にまでなったのだ。

忠興は希首座のことを全く知らず、一色氏に生き残りがいることすら知らなかった。
希首座も忠興に対して不審な対応を取ったわけでもなく、ただ出迎えただけである。
しかし忠興は希首座に何かを感じ取り、斬ったのだ。

忠興はこの時の刀を「希首座」と名付け、愛刀の一つとした。
689人間七七四年:2010/02/19(金) 23:31:24 ID:E6acnt9W
家康「鶴のお吸い物美味しいよね」
彦左衛門「俺の椀に鶴入ってねーし」

家康「鶴のお吸い物美味しいよね、ね?」
お梶「やはり、塩が一番美味しいのではないでしょうか」
家康「塩が美味いとかマジ笑えるwww」
お梶「じゃあ、アンタ次から塩抜きで」

そして、今宵…

家康「鶴のお吸い物美味しいよね、ね?そうだよね?」
正重「カチーンときたこの感じ、とりあえず帰るわ!プンプン」


一体、どうしろと…
690人間七七四年:2010/02/19(金) 23:40:00 ID:E6acnt9W
あ、鶴は家光さんだった(汗)
691人間七七四年:2010/02/19(金) 23:41:49 ID:gG5JdssS
>>689
天ぷらでもいかがどす?
692人間七七四年:2010/02/19(金) 23:42:41 ID:sB7DL2FO
そういえば三介殿の末裔、今日は災難だったなー。

【コミカルな演技、靴ひも切れて暗転=織田「真っ白という感じ」〔五輪・フィギュア〕】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100219-00000156-jij-spo
693人間七七四年:2010/02/20(土) 00:01:52 ID:/3x0gji0
>>692
茶筅でしょ?
694人間七七四年:2010/02/20(土) 00:17:14 ID:96pK6vIJ
>>688
何もしてないのに斬り殺すとかwww
キチガイってレベルじゃねーぞ!
695人間七七四年:2010/02/20(土) 00:20:17 ID:gY728ZWO
>>694
戦国時代には何もしてないのに戦争しかける人いたよね。
鬼武蔵とか、鬼武蔵とか。
696人間七七四年:2010/02/20(土) 00:25:10 ID:JQgzEsJ5
信長さんも、一色さんが生きてる時には美濃に手出しが出来なかった
その一色さんの親戚を斬り殺す三才△
697人間七七四年:2010/02/20(土) 00:48:29 ID:JQgzEsJ5
忠興「京のお山は?」
希首座「???赤一色???」
忠興「ほう、よう知っておるな」
希首座「これはこれは…しかし、今は新緑の季節、赤くはありませぬな」
忠興「(ブチッ)これから赤くなるのよ…お主の血でな!」

ブシュッ

忠興「へっ、汚ねぇ紅葉だぜ」
698人間七七四年:2010/02/20(土) 06:37:40 ID:YvZk2ILL
青って言ったら首絞められるな
699人間七七四年:2010/02/20(土) 07:17:20 ID:yz8zfiOs
二タァと笑うのかね〜
700人間七七四年:2010/02/20(土) 08:15:51 ID:8ZsovsaP
忠興に茶の湯は何の役にも立たなかったようだな・・・
701人間七七四年:2010/02/20(土) 09:35:24 ID:X2MDxCTM
接待の役とかに立ってるじゃん
702人間七七四年:2010/02/20(土) 10:52:29 ID:bz2PBiWl
織部たちみても特に精神面でプラスがないことは確定的に明らか
703人間七七四年:2010/02/20(土) 13:17:20 ID:BlONvkHt
現代茶道(精神修養)≠戦国の茶の湯(芸術?)だしね


細川忠興が千利休に、朝の茶会に招かれた。当日は冷え込んだが、利休は客を外に待たせたまま、
しばらく出迎えに来なかった。
さすがにキレた忠興が茶会が終わった後、出迎えの件について利休をなじった。
「すいません、手水鉢の前の捨石を置くのに悩んでいるうちに、遅くなってしまいまして…」

忠興は納得できない。
「宗匠ともあろう人が、前日に直しておけば良いものを、客を待たせて直すとか、茶の湯の道に
外れてるんじゃないスか!?」
「いや、昨日直した時は良いと思ったんですけどねぇ…今朝、見たら納得行かなくて。
いろいろいじってたら、どんどん時間が…」
「そんなの、人が待ってんだから適当に切り上げて、客を呼び入れてからにしましょうよ。」

しかし、利休は言う。
「いいえ、茶の湯とはそういうものではありません。自分が納得できてから客を呼ぶのが、侘び茶の
本来の姿です。その為には、客の機嫌を損ねてでも、自身の気持をスッキリ納めるのが大切です。」
(松風雑話より)


しかし、『茶話指月集』によると利休は

「手水鉢の前の捨石は、使用人の目を閉じさせ、ゴロタ石を何かの入れ物からブチ撒け、
外に転び出た石を杖等で少し直す程度で良い。意識して置くのは良くない。」
と、言ってたりする。
704人間七七四年:2010/02/20(土) 13:34:59 ID:JQgzEsJ5
>>703
宇宙船はまだ完成してない、スピーカーの位置が決まらんのじゃ

そんなのはどうでもいい いますぐ飛ぶぞ

そんなこと言っても…スピーカーの位置は大事じゃぞ 
どうせならいい音で聞きたいじゃろ?

いい、いい、さっさと飛ぶぞ

705人間七七四年:2010/02/20(土) 13:54:22 ID:wcLotnTS
>>550みたいなのがいる限り
インチキ健康食品とかダイエットがなくならない理由が分かる・・・
706人間七七四年:2010/02/20(土) 14:26:35 ID:ddF40nj7
インチキじゃないはずの医学会や現場だって
説がコロコロ変わっているしな
707人間七七四年:2010/02/20(土) 14:32:33 ID:Oz/fKba6
学問として発達してないんだから経験則になるのはしょうがないさ。

先に突撃した奴が眉間撃たれても死ななかったらしいぞ
鉄砲なんてたいしたことないな、ちょっと突っ込んでくる。
708人間七七四年:2010/02/20(土) 14:40:12 ID:3omoF6lM
>686
そうか、黒田の若殿は城井ハンターだったのか。
709人間七七四年:2010/02/20(土) 14:50:59 ID:h7VPoc2X
ぼくわ若者だからそういうねたは解りません
710人間七七四年:2010/02/20(土) 15:50:08 ID:7XlP9Og1
黒田吉兵衛のフィールドノートより
711人間七七四年:2010/02/20(土) 17:36:14 ID:Oq83/RBt
経験則重視になると「熊にあったら死んだフリしたら助かる」が正しいってことになるんだよな

死んだふりして食われたひとの意見聞けない的な意味で・・・
712人間七七四年:2010/02/20(土) 18:19:28 ID:XSuzAU9q
>>703
プラスに理解しようぜ!
忠興という眼を持つ客だったからこそ、利休も神経質になったのだと・・
713人間七七四年:2010/02/20(土) 19:25:54 ID:X2MDxCTM
>>686
黒田長政の城井鎮房の殺し方についてはお話として脚色されたものも含め諸説あるんだが、
一番笑ったのが、釣り天井で殺されたよ説
どうも城井→宇都宮城井家→宇都宮釣り天井事件という連想で混ざってしまったらしいが
この話が収集された時には「その場に居合わせた家臣の子孫」という人まで実在したらしいから
伝説っつーのはすごいもんだ
714人間七七四年:2010/02/20(土) 19:36:49 ID:X2MDxCTM
>>713
あれ書き間違い、城井宇都宮家(城井氏は宇都宮氏の分流)
715お粗末:2010/02/20(土) 19:45:54 ID:3omoF6lM
>709
丹波イキがるかキイハンター      回文
716人間七七四年:2010/02/20(土) 19:54:00 ID:vS0herEV
>>713
それは酷いw
717人間七七四年:2010/02/20(土) 19:58:22 ID:5aslT1YL
>>713
釣り天井事件もいろいろめちゃくちゃ(秀忠時代なのに家光が将軍になってたり)なのになあ
しかし長政の愛刀として残ってるんだから、長政自ら斬り殺したのは間違いないのかな?

ちなみに城井兼光は長政最愛の三男長興→嫡孫光之と渡ったらしい
ttp://museum.city.fukuoka.jp/je/html/161-170/165/je165_01.html
718人間七七四年:2010/02/20(土) 23:09:05 ID:O8OYzXDM
忠興と城井の名前がでたところで


関ヶ原の戦いの後、細川忠興は家老の有吉四郎右衛門立行を呼び出した。

「大友義統から豊後杵築城を、よく守り抜いてくれた。礼を言う。褒美として、三千石を加増し、
オレ製作の具足をやろう。」
「ははーっ!ありがたき幸せ!」
「それと、ウチの次席家老のおまえがいつまでもただの"四郎右衛門"じゃヨソへの聞こえも悪い。
これを機会に、官名を名乗るがいい。」
「はあ。」
「そうだな・・・黒田のトコの後藤又兵衛でさえ、城井谷の戦いじゃ目立つ猩々緋の陣羽織を
脱ぎ捨てて逃げたそうだが、おまえは一度も戦場で逃げたことがない。立派なものだ。
よって、" 武蔵守 "を名乗ることを許す!!」
「いやです。」



とは主君に言えず、以後細川家・有吉家の記録は「有吉武蔵」「武蔵守殿」と記す。
しかし、松井佐渡守康之の子は「長岡佐渡」を名乗るが、有吉家の子孫は「四郎右衛門」を通字と
しているので・・・お察し下さい。

三歳様は、あのひとをリスペクトしてたんだろか。お舅さんをリスペクトしてた(謀反自体はともかく)
らしいのはガラシャ死後に息子へ出した手紙の中で「日向守"殿"」って書いてるからわかるんだが。
719人間七七四年:2010/02/20(土) 23:13:24 ID:Xrd9B4M8
>>718
どの「武蔵守」が浮かんだんだろうか……w
いや、言わなくてもアレか?
戸田勝成とかも武蔵守だけどさw
720人間七七四年:2010/02/20(土) 23:14:47 ID:5aslT1YL
細川で武蔵守と言ったら、勝元様じゃないの?
721人間七七四年:2010/02/20(土) 23:17:28 ID:Xrd9B4M8
いや、まあこのスレ的に言えば長可さんだから、つい……
722人間七七四年:2010/02/21(日) 00:58:58 ID:XjQzbgg3
まぁ、解ってはいるだろうけど、江戸期の百官名で武蔵守名乗らないのは江戸城があるから遠慮してだからね
723人間七七四年:2010/02/21(日) 14:07:14 ID:E6M1W57A
天文19年(1550)7月、小笠原長時は三村氏の裏切りにより武田晴信(信玄)に深志を奪われ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2314.html)、
重臣・二木氏の居城、中塔城に逃れた。

たちまち城は武田軍に包囲され、城方の二木善右衛門が討って出たが、その乗馬を見て、
飯富虎昌の配下が声をかけた。
「やあ、見事な馬だな。相応の金を出そう、その馬、売らぬか?」

信濃の山城に棲む猿に名馬は必要なかろう、という挑発である。これに善右衛門は、
「売らぬでもないが、金など要らぬ。物々交換と行こうか。」
と答えた。
「そうか、何と交換する?刀か、具足か、それとも篭城ゆえ兵糧か?何でも良いぞ。」
応じた飯富配下の言葉に、善右衛門は続けた。
「ならば、武田晴信と裏切り者の三村の首をもらおうか!この二つと交換ならば、名馬と言えども
安いものよ!」
「何という悪しき言い草じゃ!」と怒る飯富配下に善右衛門、
「いいや、少しも悪口ではないぞ?三村の首あらば我らの遺恨は晴れるし、晴信の首あらば
貴様らは逃げ去り、馬無きとて深志まで悠々と帰れよう。道理を申したまでじゃ!」

これに腹を立てた武田軍から矢を射かけ、篭城戦が始まったが、この後も逆上して心理戦で
敗れた武田軍は、援軍もない小城の攻略に半年(一説に三年)を費やすことになる。


相手が小笠原流家元の家臣とはいえ、古臭い前哨戦(?)で勝てなかった武田さん家の話。
武田だって名門なんだから、こういう軍記物っぽい口の回る話って残ってないですかねー?
内藤修理さんのナゾナゾ話は内輪のヒマ潰しだしなぁ。
724人間七七四年:2010/02/21(日) 14:10:39 ID:1NBNh4yQ
自分から挑発しかけてんのに上手く返されて逆ギレって恥ずかしいよね。
725人間七七四年:2010/02/21(日) 14:31:43 ID:aFnw/4Ot
口合戦に応ずるなって指示出す大名が…
726人間七七四年:2010/02/21(日) 14:56:29 ID:Hxk2nMBa
>>723
日本の伝統、言葉戦いはおもしろいなぁ。
727人間七七四年:2010/02/21(日) 16:12:54 ID:ckUbeTrf
信長「殺して奪い取ればよかったものを」
728人間七七四年:2010/02/21(日) 19:14:13 ID:QW+xIW9h
伊賀に、相当に名を知られた忍びの者があった。
ある時彼の息子が、「忍の技を自分に教えて欲しい」と頼み込んできた。

忍びの者は「よし、教えてやろう」と、夜、息子を連れて、ある大きな屋敷に忍び込んだ。
その屋敷のある土蔵に侵入すると、そこにあった長持を開けて息子に、「この中に入れ」と言う。
なにやら解らぬも、言われたとおりに長持の中に入ると、忍びの者はその蓋を閉め更に錠をかけて

「泥棒!泥棒だー!!」

と叫んで逃げ帰った。

長持の中の息子、驚いたの驚かないの。自分は逃げようにも、長持には錠がかかっているのである。
そのうちに声に驚いた屋敷の家人たちが土蔵に集まってきた。絶体絶命もいいいところだ。

が、家人たちは土蔵になにも怪しい様子が無いので引き上げようとした。
助かった?いや待て、このままではそれも困るのだ。あんな薄情な父親は、自分を助けにはこないだろう。
放っておかれてはいずれ長持の中で飢えて死ぬ。虫干しとかで久しぶりに長持を開けたらそこから
自分のミイラがでてくるのだ。それは勘弁。
息子、ここで賭けに出た

『ガリガリッ ガリガリッ』

長持の底板を爪で掻いた。引き上げかけていた家人たちはこの突然の物音に驚き、長持の中から聞こえることを
確かめると、中を確認するため錠前をこじ開け蓋を開けた

「今だ!」

息子は長持から脱兎の如く飛び出し逃げた!「おのれ曲者!」家人たちは総出で彼を追いかける。
そのうちについに、井戸端に追い詰められた。

息子ここで思いつく、「そうだ!」彼は近くにあった一抱えほどの石を、井戸の中に投げ込んだ。

その水音に家人たちは、曲者が井戸に飛び込んだものと思い、井戸を囲んで「縄だ!」「梯子だ!」と
井戸の中を探そうと騒いだ。
この隙に息子は屋敷を逃げ出した。

帰ってきた息子は父親に激しく食ってかかった。「父上!なんと酷い事を!」
しかし父は冷静に、「お前、どのようにして逃げてきた?」息子は仕方なくこれこれと答えると

「うむ、でかした。それこそ忍びの術の基本である。よく覚えておくように。」

と、何事も無く言ったそうだ。

忍者の修行は大変でござるよニンニン。と言うお話。
729人間七七四年:2010/02/21(日) 20:23:06 ID:Xa52Qd5Q
>>728
なんというOJTw
730人間七七四年:2010/02/21(日) 20:29:08 ID:x0RbrEGt
>>729
まぁでも、その状況下で対応できるような技術は既に叩き込んであったということだよね。
奥義というのは技術そのものではなく、技術を臨機応変に使いこなす応用力ということを示す実戦トレーニングだな。
しかし、逃げ切れずに捕まったらどうするつもりだったんだろうか。
その程度の能力しかない使えない奴だから仕方ないということだろうか。
731人間七七四年:2010/02/21(日) 20:30:10 ID:LxYqNDyk
ニキータ思い出したぜ
732人間七七四年:2010/02/21(日) 21:30:27 ID:yyyEjSkL
阿波蜂須賀家で江崎隼人という士を召し抱えることになり、重臣の益田因幡守が江崎を
主君・蜂須賀至鎮に取り次いだ。

しばらくして後、江崎が激怒して出て来たので、驚いた益田は理由を尋ねた。
「ど、どうされた?なにか不満でも・・・」
「至鎮公は良将と聞き及んでおりましたが、とんだ礼儀不案内の大将ですな!?
早々に立ち退くべしと思いましたが、一度召し出されながらさっさと退去するのもナンですので
貴殿には言っておきましょう。
そもそも、多少は名の知られた拙者をご覧になるのに、袴も着けずに着流し一枚で、側近と

    〃〃∩  _, ,_
     ⊂⌒( `Д´) 
       `ヽ_つ ⊂ノ
              ジタバタ

こんな感じで碁を打っておられ(原文:碁盤ニあぎとを持せられ、腹這ニ成り御脚を延され、
畳をばた々々と御脚ニて御拍子を取遊ばし・・・)、拙者を見ても『江崎隼人か。』と言ったきり、
なんの御意もござらなんだ。も、もう・・・無礼を通り越して法外ですぞぉー!?」
「お・・・お怒りごもっとも。さりながら、一ヶ月!一ヶ月だけ待って、また登城して下され!」

益田の説得によってようやく事なきを得て、江崎は蜂須賀家に仕える事になったそうな。
733人間七七四年:2010/02/21(日) 23:14:26 ID:OGdtEzVv
浪人のあふれた時代で、もうネームバリューによる推薦とかに飽々してたのかな
734人間七七四年:2010/02/21(日) 23:17:46 ID:3gIeeR+a
おにゃのこがうつ伏せになってジタバタしながらワガママ言えば萌えるけど
いい年こいた阿波狸のセガレじゃなあ…w
735人間七七四年:2010/02/21(日) 23:31:19 ID:3sMz+hRb
でも、至鎮くん15歳で藩主になってるから、まだ若い頃かもよ?
736人間七七四年:2010/02/21(日) 23:52:13 ID:65bSVyA+
私が親でも叱るレベルの姿勢の大大名…現代人でもアゴ乗せはねーわアゴ乗せは
737人間七七四年:2010/02/22(月) 05:05:31 ID:dWBE/XKT
古田織部の罠

古田織部といえば利休死後、天下の茶の湯を風靡した茶人であるが、
その好みは一種異様で、茶器の歪みやひび割れなどに美を見出す、、ある種の異端的なものでもあった。
織部好みは世間に強烈なインパクトを与え、長く一般の人々の茶の湯のイメージを形成したが、
それが、ちょっとした騒動を起こした。

徳川家光の時代である。
ある時家光が、堀田正盛の屋敷に御成をした。茶室へと渡ると、そこに巌子陵の壺と言う素晴らしい茶壺が
飾られているではないか。
聞けば最近輸入されたものを購入したのだと言う。

千利休の頃より、茶壷といえば茶人第一の道具であった。そのため輸入された茶壷は、陸揚げされる長崎で
先ず吟味され、上等の品は将軍家が先買いし、あのと残りが大名や商人の手に渡るのである。
なのに、将軍家に納められた茶壷より遥かに見事なものが堀田家にある。これはどういうことか?
みるみる機嫌を悪くした家光に、側近たちはすぐさま長崎へと調べを出した。

調査の結果、原因は極めてバカバカしいものであった。
その頃の長崎奉行は、茶の湯のことなどまるで知らぬ武骨者であり、耳学問で、茶器の名品と言うものは
とにかく歪んだり曲がったりした異様なものだと思い込んでおり、素直な美しい茶器を選ばず、形のおかしな
物ばかりを将軍家に送っていた、というのである。
そう、この奉行の茶器の名品のイメージとは、世間に流布した織部好みのものであったのだ。
今で言えばピカソの絵を見て、芸術絵画とはヘンテコな絵のことだと理解してしまうようなものであろう。

側近たちはこれに、家光の機嫌をさらに悪くするのではと恐れたが、とにかくありのままに報告した。
するとあにはからんや、家光は大爆笑し

「まことに茶の湯を知らぬ者ならありそうなこと、よいではないか。」

と、誰の罪も問うことは無かったと言うことである。


古田織部といえば大坂の陣の時、豊臣方との内通を疑われ切腹した。
しかし彼の強烈な美的感覚がめぐりめぐって、その切腹を命じた将軍家に茶器の美品を収蔵させることを
妨げたと考えると、これは古田織部の残した罠であり、復讐ではないだろうか?
そんな事を空想してしまうお話である。
738人間七七四年:2010/02/22(月) 07:19:06 ID:Boz1Q4mH
織部は幕府に消された
だが織部の生んだモードは消されなかったといういい話でないかい?
739人間七七四年:2010/02/22(月) 08:29:34 ID:dQSgsanV
関ヶ原の戦い後
捕えられた石田三成が大津に居た。
その前を通った福島正則は石田三成を身の程知らずとなじり、黒田長政は三成に羽織をかけた。
その場を下がったのち黒田長政は他の将たちに、
「石田三成は生き恥を晒してみっともない。大将なら潔く自害すべきだった」と話した。
それを聞いた福島正則は
「それは違う。三成は立派な大将である。おそらく俺もでそうしただろう。
大将なら最後の最後まで諦めず、生き続けて機会を狙うべきだ」
と諭した。
740人間七七四年:2010/02/22(月) 08:41:44 ID:mZ6V+GXL
心底はどうあれ、石田の顔を見ると言わでもなことが口をついちゃうんだろうな。
さすが市松。
741人間七七四年:2010/02/22(月) 10:58:34 ID:S/YQC9Km
もろに叩き上げ初代と二代目の違いだな。
742人間七七四年:2010/02/22(月) 11:05:02 ID:5cnainMX
軽々しく語っちゃうから若殿は駄目なんだよ、福島殿に諭されるとかプゲラ
743人間七七四年:2010/02/22(月) 11:55:25 ID:/NgbsO+5
「牛裂の石」
上杉勢は石動山に一宿して、その夜未明頃からひた押しに一挙に七尾城を攻め入るような勢いであった

畠山勢は夢にもそのようには考えていなかった。
この時、石動山の幼児の中に梅丸というものがおった。
七尾塗師町神明屋の次男で当年12歳になっていた。

梅丸は上杉方の計略を聞いて何とかしてこれを味方に知らせようとして夜中を冒し多根の城山に急いで報告した。
しかし、明けがた山伝いに石動山へ帰る途中
運悪く上杉方に見つかり
梅丸は多根の城山と石動山の間の山中で
牛裂きの刑(二頭の牛に片足ずつ縄で結び、二頭とも反対方向に走らせ受刑者の体を裂くという残虐刑)
に処せられたと言う。

多根街道には「牛裂の石」と伝わる石があり今も梅丸の哀れを物語っている。
出展「石川縣鹿島郡誌」
744人間七七四年:2010/02/22(月) 12:49:11 ID:CTm9JJ3l
謙信容赦ねえな。
『雪の峠』を思い出すわ。
745人間七七四年:2010/02/22(月) 12:59:05 ID:Svd3AnNp
746人間七七四年:2010/02/22(月) 13:30:56 ID:pG3jOafQ
>>739
市松さん……ツンデレっ子なのね(´・ω・`)
747人間七七四年:2010/02/22(月) 13:49:04 ID:vJcs9amF
>>741
叩き上げ→生きて再起
二代目→家名を傷つけるくらいなら切腹
なら、典型的な三代目ってどういう傾向何だろう
748人間七七四年:2010/02/22(月) 13:56:59 ID:JTX7YGrn
三代目「なぎ払えっ!」
細川頼之・松平信綱「ま゛っ」
749人間七七四年:2010/02/22(月) 14:37:04 ID:FimWnzEu
てゆか如水さん三代目じゃね?
750人間七七四年:2010/02/22(月) 14:58:25 ID:vJcs9amF
大名としては官兵衛さんからでしょ
長政は小寺の家老職は継いでないし
751人間七七四年:2010/02/22(月) 15:33:48 ID:OgW2uUeG
奇襲前に山中で牛裂きってずいぶんと余裕があるなw
752人間七七四年:2010/02/22(月) 19:20:04 ID:t89uE0b4
>>737
ひび割れを金で補修してそれを愛でるなんて異様な感覚だよな・・
753人間七七四年:2010/02/22(月) 19:46:05 ID:vT9ECwqU
>>737
それがし同様阿呆よナヒヒヒヒッ(^益^)
754人間七七四年:2010/02/22(月) 20:08:02 ID:+yrLwIIF
槍の話その三

あの人の槍の現在

一国長吉

みんな大好き、黒田長政。
長政愛用の槍で有名なのが一国長吉。穂先の長さは43センチ、最大幅2.2センチ、槍身の重さは416グラム。
この槍の「一国」は、一国に値する価値がある、ということではなく、この槍とともに戦功をたてて筑前
一国を手に入れた、という感慨を込めたものだと言われています。いい話ですね。
でも、家臣の槍が超有名すぎて影が薄いのは悲しいところです。
この槍も、日本号と同じく福岡市博物館に所蔵されています。
ttp://museum.city.fukuoka.jp/jg/html/52/52_03.htm

人間無骨

みんな大好き、森長可。
愛用の人間無骨は最終的に、赤穂藩森家に伝わったわけですが、スレでも既出の通り、レプリカの話が出てましたね。
この槍には正副の二つがあり、江戸時代も、国表と江戸とにわけておいてありました。
写真はありませんが、江戸時代に写した絵図面(写した絵と槍から直に拓本の2種)が残っています。
ttp://www.geocities.jp/ukikimaru/ran/rekishi/ningenmukotu2.jpg
ttp://www.geocities.jp/ukikimaru/ran/rekishi/ningenmukotu3.jpg
さて、現在は、赤穂の大石神社に一つ、戦後森家を離れたものがもう一つと言われていますが・・・・
皇室に献上されたなんて話もあるし、最近ある人が手に入れたって写真もあるし・・・さて?w

えーと、誤解を恐れず書きますが、甲冑刀剣業界は、だまされるやつが悪いという世界です。例に挙げればこの三者。
・騙すやつ
・騙されるやつ
・騙されたと気付いたけど、他人には本物だと吹聴するやつ
森家関連品の話には、出版物の写真で有名になったもの含めて、気をつけるようにしましょう。
755人間七七四年:2010/02/22(月) 20:10:51 ID:SXypMjG4
>>739-741
まあ清正共々、小姓から槍働きの叩き上げで、
同じ時代に切磋琢磨してきた連中なんだから、
心中の思うところというのは、複雑なものなんだろうね。
756人間七七四年:2010/02/22(月) 20:11:37 ID:OgW2uUeG
森家の偽モンといえば
蘭丸の甲冑だなw
757人間七七四年:2010/02/22(月) 20:19:10 ID:+yrLwIIF
槍の話 その四

人間無骨の正副の件。実は蜻蛉切にも正副があったと伝わっています。
これも江戸時代の記録ですが、刀工は同じでも形が違います。こちらの副蜻蛉切は行方不明。残念です。

で、この正副ですが、どうやら、俺が○○と名付けた槍が○○だ!という、実戦で使うことを前提にしていたようです。
もちろん名のある刀工の作ではありますが、戦場で使いつぶす覚悟も込めてたんでしょうね。

ここらへんは憶測も含めてますから、深い突っ込みは勘弁しといてください。
758人間七七四年:2010/02/22(月) 21:15:22 ID:/6qc9PaU
>>751
落城して逃げる途中なのに、城主夫妻が松を植えたとか、
地域に残る昔話って結構そんな感じだぞw
759人間七七四年:2010/02/22(月) 21:26:05 ID:TO267KqH
>>758
うん、まぁ一種の皮肉だから気にしないでw
760人間七七四年:2010/02/22(月) 22:21:30 ID:oPKCYjpK
大内義興が将軍から「義興」の名前を授与された時のこと、
足利義尚の側近の有力者である鹿苑院(金閣寺)主の亀泉集証が山口に赴いてきた。
彼は大内氏館の庭に見たことのない木を目にすると物欲しげになんども眺めていた。
あまりに気にしている様子なので「朝鮮から取り寄せたソテツというものです。上様が欲しいのなら献上しましょう」
と気を使うと、院主は「御所にもソテツくらいある、あまりに立派なので見入っていた」と意地になって固辞した。
しかしこの後、院主の残した蔭涼軒日録に何度もソテツのことが記されており
相当後々まで引きずっていたことがうかがえる。

実はソテツは宮崎や鹿児島にはいっぱい自生して珍しいものでもなく
朝鮮から取り寄せずとも硫黄取引のあった島津氏から容易に調達できる。
しかし、京都人には珍しいものであることを見越したうえで献上品として箔をつけるために
義興は朝鮮から取り寄せたという話をしたのだ。

ソテツといえば堺の妙国寺のソテツを織田信長が安土に移すと泣くので切りつけたら
血が吹き出たという逸話などが有名ですが、豊臣秀吉も徳川家康もソテツに興味を持ち
わざわざ遠方から取り寄せています。
なぜか権力者達が気に入って遠方に移されたソテツは現在国の天然記念物に指定されています。
761人間七七四年:2010/02/22(月) 22:23:42 ID:oPKCYjpK
ちなみに遠征中の加藤清正が秀吉の為に朝鮮からソテツを送っているので
朝鮮にもソテツはあります。
762人間七七四年:2010/02/22(月) 23:18:21 ID:MLgnVnGb
>>754
例の東京の個人の蔵にあるという、人間無骨の写真みたけど、
 『人間』とも『無骨』とも掘ってなくない?
763人間七七四年:2010/02/22(月) 23:29:10 ID:4G7/vQBK
>>737
静嘉堂で織部作の花入見てきた

茶杓でなく花入とて、良い物でござったよ、ゲヒヒヒヒ
764人間七七四年:2010/02/23(火) 07:08:44 ID:b2QDX3Xy
>>760
ぐぐってみたらなにやら南国の匂いがする植物だった
765人間七七四年:2010/02/23(火) 11:41:41 ID:hxUa/PwS
日本庭園の石と松と苔の中にポツ〜ンとソテツがあるところを
想像するとシュールだよな。
766人間七七四年:2010/02/23(火) 11:46:09 ID:SWtCtub7
でもソテツって大きなまつぼっくりみたいな形だしなあ
松との相性はいいかもしれん
767人間七七四年:2010/02/23(火) 12:57:38 ID:2MTwyopv
最近ではけっこうポピュラーな植物な気がする>ソテツ
庭というほどでもない一戸建てのちょっとしたスペースによく植えられている。
768人間七七四年:2010/02/23(火) 13:29:45 ID:8ubqZHpA
ミニ庭(せいぜい4畳半程度)とソテツの相性の良さはガチ
769人間七七四年:2010/02/23(火) 14:03:24 ID:vwCA8HK1
ソテツと聞くとソテツ地獄という言葉を思い出すな。
なんでも有毒なので食用にするには入念に毒抜きする必要があるそうなんだが、
飢饉が悪化してソテツを食べざるを得なかったりした時に毒抜きが十分じゃない
ソテツを食べて苦しむ人が沢山出たとか。
770人間七七四年:2010/02/23(火) 17:57:49 ID:bGDZhHAX
関ヶ原の戦いが終わり、徳川家康によって領国が再編されていた時のこと。

加藤嘉明は東軍の一員として武功を挙げ、50万石の知行が与えられると噂されていた。
嘉明自身も、それくらいの働きはしたという自負があった。
しかし、今か今かと沙汰を待つ嘉明のもとに、知らせが届く。
本多正信が50万石の件に反対し、半分以下に抑えてしまったというのだ。
沈勇の嘉明もこれには激怒し、殺る気満々で正信に会談を申し入れた。

正信はすんなりと応じた。
席上、嘉明はどういう意趣があるのかと激しく詰め寄った。
臆せず、正信はこう答えた。
「貴殿は武勇も智謀も類まれな人物でありますが、豊家の恩を深く受けています。
 人は、貴殿にある種の疑念を抱いておりましょう。
 功をなし身を退く、という故事もあることです。
 今、領国が少なくとも、気にせぬという態度を見せておけば、子々孫々まで重んじられるでしょう。
 もし大国を領されれば、貴殿は人の後ろにつく人物ではない、と世間は恐れます。
 さりとて、それでも貴殿が恨めしいと思うなら、致し方ないことです」

嘉明は己の立場に思い至り、返す言葉もなかったという。
771人間七七四年:2010/02/23(火) 18:18:57 ID:+8seuHdF
要するに理屈で丸め込まれちゃったんだな(´・ω・`)
772人間七七四年:2010/02/23(火) 18:27:01 ID:93Qidq2j
加藤の名を惜しんだ家康さんが本多に言い含めておいたんだな
いい話じゃないか
773人間七七四年:2010/02/23(火) 18:35:03 ID:ynvPmYZx
>>769
彼岸花みたいなエピソードですね。
あれも根だかにでんぷんが含まれてて、食べれるんですが有毒なんで流水で長時間晒すなど
毒抜きをしないと大変な事になるとか。
これを食べた後は飢え死ぬか人肉しかない。
故にこの世とあの世の狭間を指す、「彼岸」花と言われるとかいう説はありますね。
774人間七七四年:2010/02/23(火) 18:39:23 ID:IleXZneW
>>770
後で加藤家が改易されてなかったらいい話なのにね。
775人間七七四年:2010/02/23(火) 18:46:44 ID:lmiEYOG9
>>773
ヒガンバナ科の植物は根に毒性があるのが多いから注意が必要。
水仙も毒性が強くて、野蒜と間違えて食べて食中毒起こす事件がたまに起こる。

あと、その手の間違って食べて中毒起こす植物だと夾竹桃。
野外調理の際に、枝を削って箸にして食中毒。
776人間七七四年:2010/02/23(火) 19:57:22 ID:Kez4iEgy
千宗旦と言えば千利休の孫であり、祖父の侘び茶をさらに突き詰めた清貧な茶風で
「乞食宗旦」とまで呼ばれた人であった。

さてそんな宗旦を、幕府重臣、永井尚政が茶に招いたことがあった。
初入の後、懐石となる。

永井尚政と言えば当時淀城十万石を領する譜代の大大名であり、そのような大名の行う大名茶での
懐石といえば通常、豪華な膳が並べられるものなのだ。


出て来たのは一汁二菜の、いくら粗飯といってもほどがある、というほどの粗飯であった。
まさに侘び。大侘びである。尚政は乞食宗旦とまで呼ばれるその侘び茶に敬意を表し、
このような膳を出したのだ。これに宗旦…


激怒した


「私のような一回の侘び茶人が粗飯を出すならいざ知らず、十万石の大名が一汁二菜の懐石とは、
懐石の意味を取り違えているのではないか!?分に応ずることが茶にとって大切な事なのだ!」

高名な侘び茶人にあわせて気を使ったことが、かえって相手の心に「かないたがる」という、余計な
心の働きになってしまった、と言うわけなのである。

まあ単純に、豪華な懐石を期待してきたのに粗食を出されて頭に来ただけかも知れないがw
侘び茶も色々難しいのだ、と言うお話。
777人間七七四年:2010/02/23(火) 20:04:30 ID:3daMQjnz
宗易が切腹になってから財産没収とかされたんかな
天下の茶頭だったし名うての商人だったし相当財産あった筈だよな

そんな奴が後者の理由で激怒するだろうか
778人間七七四年:2010/02/23(火) 20:19:11 ID:5oDsR1mX
形見分けしているから、財産没収は無かっただろう。
古田織部は族滅されたから、全て没収された。
779人間七七四年:2010/02/23(火) 20:21:29 ID:evp9fJ0B
宗旦って松永久秀の孫って説もあるんだっけ?
780人間七七四年:2010/02/23(火) 20:28:30 ID:Kez4iEgy
>>777
宗旦は結果的に現在の茶道の主流である三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)の祖となったが、
千家の中では傍流で士官もしていなかったため、流石に乞食と呼ばれるほどには
困窮していないにせよ、裕福だったと言うわけでもない。
781人間七七四年:2010/02/24(水) 00:34:25 ID:BQ0BXqFI
>770おpもいっきし他事だが

あの真面目カトーさんが倅の教育に失敗したワケが知りたいと思ってしまった
本多作左やあんど帯刀みたいな家臣、いなかったんだろうか...
782人間七七四年:2010/02/24(水) 00:47:06 ID:h6Ys9ffF
>>778
織部から取り上げた利休の茶杓「泪」は、現在徳川美術館に・・・


>>779
千少庵が宮王三郎じゃなくて松永久秀の子供って説があるからね
しかし、松永さんはいろいろとやってて楽しい人生だなw
783人間七七四年:2010/02/24(水) 00:58:33 ID:Ht7w7fGz
>>781
倅の教育だったら、黒田の若殿も派手な方の加藤さんも失敗してるじゃん

そう言えば、嘉明のとーちゃんは元々三河譜代で一向一揆の件で放り出されたらしいけど、
そこらへんで本多正信とかなんかあったりしたのかもね
784人間七七四年:2010/02/24(水) 03:15:09 ID:Sw78poVG
朝倉景高は、越前の戦国大名朝倉氏の一族で悪名高き朝倉景鏡の父親である。


朝倉家の慣習にしたがい、若い頃から惣領である兄孝景の代理として出陣、主に美濃方面を担当して戦功があった。
越前と美濃の国境である大野郡を支配する大野郡司にも就任し、越前国bQの地位(ライバルは宗滴爺)となり、
かなりの財産家であったらしい。また、公家の娘を妾にするなど、中央とのパイプもしっかりつないでいた。


やがて、兄孝景と不和になり、越前を出奔する。
兄弟間で父の遺領をめぐる争いがあったらしいが詳しくはわからない。


中央とのパイプがあった景高は、京都に潜み何やら不穏な動きをし始める。
はるか一乗谷から弟の様子を探っていた孝景であったが、やがて幕府要人と連絡をとって将軍の命令により、京から
景高を追放することに成功する(その後、皇室と幕府に対して多大なる御礼が朝倉家よりなされた)。


京にいられなくなった景高は、朝倉と対立する若狭武田家に身を寄せて、実家を倒すための謀略を練り始める。
武田家はもちろん、宿敵である尾張の斯波氏、加賀一向一揆といった各方面に使いを出して越前侵攻を画策する。
一向一揆の総元締めである本願寺証如に手紙を出してこんなことを申し出ている。


「我が子孫は末代まで本願寺の門徒になりまーす。

 越前のうち、三郡まで本願寺にあげちゃいまーす。

 以上、誓紙を提出してこれを守りまーす。

(取り次ぎの下間さんにも毎年三万疋あげますから!だから早く兄貴を討つ手伝いして下さいよ)。」


証如:「・・・こいつ、本気でこんなこと言ってるのか???」


あまり無謀な計画のため、本願寺も武田も相手にしなかった。
(斯波氏だけは「チャンス!」とはしゃいでいたようだが・・・('A`) )


結局、その後2年間ずるずると若狭に居続けた景高であったが、朝倉氏とこれ以上関係を悪化させたくない武田に
とって実に迷惑な存在となっていた。我慢の限界に達した武田家は、本願寺と謀って、景高を和泉堺湊から西国へ
追放、もとい、退出させることにした。本願寺の兵に囲まれながら、泣く泣く西へと旅立ちました(まさか西方浄土
へ旅立たせたの比喩じゃないよね??)

朝倉宗滴曰く
「米銭黄金などの財宝を蔵に積ませて満足していても、一度不慮の凶事が起こると、財宝はすべて失い、家もろ共に
滅亡してしまう。(中略)当国においては、右衛門大夫(景高)が最も近い例である(ざまあ見さらせ)」


何故か処罰されることなく越前bQの座についた景鏡君は、宗滴爺のお言葉をどのように聞いていたのでしょうか?
785人間七七四年:2010/02/24(水) 12:30:58 ID:mtavsAi/
結局どこ行っちゃんたんだ…?
次男(三男?)は駿河まで行って徳川に仕えたんだな
786人間七七四年:2010/02/24(水) 14:11:10 ID:HnOagBQB
>>702
何でも鑑定団のお宝鑑定士みたいに生々しいしな。
787人間七七四年:2010/02/24(水) 16:07:53 ID:drpOKt5v
16歳の謀反

会津蘆名家家臣、松本太郎行輔は天正12年(1584)、主君蘆名盛隆の留守中,若干16歳で謀反を企てた。
それにはこんな経緯があったと言う。

太郎11歳の時のことである。
太郎の父松本図書助氏輔は天正7年(1574)に討死した。ちなみに松本図書助と言えば、信長の野望、武将風雲録で
その能力値のあまりの低さにネタキャラとされた人である。

寡婦となった母はしかし、その容貌美しいこと有名で、家中の平田氏が彼女を妻に請い、主君盛隆もそれを許可。
彼女は平田氏と再婚する運びとなった。
太郎はまだ幼少であったため、このような話の進んでいることは知らされず、彼は母の婚姻が決まってから、
初めてそのことを知った。

太郎は驚き怒った。
「私は、例へお屋形様の御意に背くことになろうとも、この事を畏まり候と言うことは出来ない!
私がいかに若年だと言っても、父の遺産を相続した身である。そうである以上、どうして母を他所に
嫁がせるようなことができようか!」

この怒りは家中に伝わったが
「なにぶん太郎はまだ子供である。上意であると強く言えば、すぐに心変わりするだろう。」
と、軽く考え、周りの大人達は彼を脅かすことにした

「これはお屋形様の御意も既に定まられたことである!なのにお前が今になってとやかく申すので
ご心象を甚だ悪くされ、切腹せよと検使をおつかいなされたぞ!」

そう言うと一人の侍を呼び入れた。ここまでされれば太郎も命押しさに震え上がり、前言を撤回すると
思ったのだ。が

「この様にお屋形様の意に背いたことを言っていた以上、基より覚悟の上でござる!」

と、いささかの怯えた様子も無く身を清め装束を整え、今まさに切腹をしようとした。

大人たち、「この子はどのように脅したところで心変わりするようなことはない」と恐れ、その後は
とにかく色々と騙しすかして、母を平田氏のもとに嫁がせた。


しかしその後も、太郎は継父との交流を拒絶し、盛隆の措置を恨んだ。
この恨みが後の謀反につながったのだと言う。

子供であれ、武家の当主には意地も誇りもあるのだ。そんな事を考えさせるお話である。
788人間七七四年:2010/02/24(水) 16:14:34 ID:TJ0Ysub6
九州の秋月と高橋は、激しく戦ったけど、家系は同族なんだよね。養子で入れ替わったけど。
789人間七七四年:2010/02/24(水) 18:05:41 ID:RuxDV+sY
>>787
その盛隆も同年十月には大庭に叛かれて死んでるし、美貌のわりには人望のない殿様だったんだなぁ
790人間七七四年:2010/02/24(水) 18:42:03 ID:PbH2onQI
家系なんてただの飾りです
791人間七七四年:2010/02/24(水) 20:27:54 ID:sQzKy9U9
蘆名氏にとって重臣の謀反は季節性インフルエンザみたいなものです
792人間七七四年:2010/02/24(水) 20:29:08 ID:MP2j3ELH
>>627

日本号の槍は、正親町天皇から正三位の位を賜ったという伝承があるから、従三位中納言より偉いんだよなw

        ,l、::::::::::::::::::::::::::::::::::|:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:l
        ,ハ::`丶、:::::::::::::::::::::::|:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;_,, -‐:〈
        {;;;;ヽ、:::::`丶、:::::::::::::l:;:;:;:;:;:; ィ";:;:;:;:;:;:;:}
        ,l;;;;;;;;;シ丶、:::::::`:`:ー'‐::'':"::::::::_, ィ"´;;l
       fうl;;;ミミ、  ``丶 、::::::::,: - ''"´  リ;;;;;;f-、
       { l l;;;;;ッ=`   (三> `^´ (三シ  ム;;;;;;ソl}
       t !;;;リ    _,,...,,_     _,,..,,_    l;;;//
        ゙l ヾ;l  :'ィテヘ9ンミ   ,: ',シヒ9ン、  l;//
        `ーll!   `''==ヲ'  l:.:^''==彡'" ,!リノ
            ll   ` '' "   l:.:.:` '' "  ,i;;l´
          li,     ,r .: :.ヽ、    ,:,り
           t、   / ゙ー、 ,r '゙ヽ  /,K′
           ゝ、 ,:'   :~:    } // /ヽ、
           /{lヽ ,ィ==ニニ==,ノ,ノ7 /:.:.:.:ヾニヽ
         , ィ/:.:い ヽ `` ー一 ''"/,/,/:.:.:.:.:.:.:.:ソ }- 、、
        / /:.:.:.:ヽヽ `' ー‐ -- '"//:.:.:.:.:.:.:/ /   ` 丶、
     ,, - {  ヾ:.:.:.:.ヽ丶     //:.:.:.:.:, -'" ,/       ` 丶 、
  ,, - ''"   丶、 `` ーゝ、ヽ.,_,,ィ"ェくユ- ''" , ィ"

793人間七七四年:2010/02/24(水) 21:09:38 ID:hKrnJobi
麻呂ぉぉぉぉーーーーーーーーーー・・・・・
794人間七七四年:2010/02/24(水) 21:13:28 ID:LT3HsSCZ
というか日本号の位が高すぎるw
795人間七七四年:2010/02/24(水) 21:25:16 ID:pvqW0enW
何故国宝じゃないのか不思議だ
796人間七七四年:2010/02/24(水) 23:07:21 ID:+JZcySXs
>>785
あれ本当に越前の朝倉なのかねえ?
797人間七七四年:2010/02/25(木) 00:40:35 ID:Q9fNAjel
>>787
待ってました松本図書助
798人間七七四年:2010/02/25(木) 00:47:46 ID:SLv4aaG9
と、図書助だと・・・
799人間七七四年:2010/02/25(木) 01:16:03 ID:Q9fNAjel
あの本を殿に届けてくれよ! あれは、いいものだぁ!!
って言いながら死んだらしいな
800人間七七四年:2010/02/25(木) 02:33:54 ID:i4MzDWyv
>>797-799

では図書助さんの話を

松本図書助氏輔が討死したのは、その父右京のためだと言う。

ある年、那須が白河を攻めたとき、白河方への加勢として会津より、佐瀬氏とこの松本右京が派遣された。
ところが、佐瀬氏の勢の働きは諸事キビキビとしていたものの、松本右京の勢は働き甚だ鈍く、人々はこれを
大いに嘲笑した。
敵である那須方からは

『佐瀬殿は聞及しよりも無慈悲な人だ。しかし松本殿の御慈悲によって、我ら那須勢は多くが無事国に帰ることが出来た。
松本殿のご芳志には、かたじけなく存じております。』

と言う、嫌味たっぷりの落書を出される始末であった。

さて、時過ぎて松本図書、ある時鷹狩に出かけたおり、地下の女童たちが磨臼を引きながら歌を唄っているのを聞いた。
その歌は

『松本殿はするす米、敵だに見れば引け引けと〜』

こんな内容だった。
するすとは米のモミを取り除くこと。モミを取るため米を引くのとかけているわけだ。

図書は、父の汚名が今だ消えていないことを知り、これを深く恥じた。
そして討死をして家の汚名を注ごうと心に決め、程なく討死をしたとのことである。
801人間七七四年:2010/02/25(木) 02:52:22 ID:1EbwdmTz
>>787
宿老の家でありながらも餓鬼ではしようがないってんで三の丸にあった屋敷も取り上げられたんだよね
802人間七七四年:2010/02/25(木) 08:05:19 ID:SoGrxyoW
>>785
西方過ぎて、豊前や筑前まで行っちゃったみたいよ。その人。
803人間七七四年:2010/02/25(木) 12:00:25 ID:dlQ6QRrk
>>800
己の身より名を惜しむいい話だな

こんな逸話があるのに信長の野望での扱いが・・・(´・ω・`)
804人間七七四年:2010/02/25(木) 12:20:31 ID:Q9fNAjel
>>800
全米が泣いた
805人間七七四年:2010/02/25(木) 12:26:15 ID:pge/KgLK
>>803
ちょっと悪い話
806人間七七四年:2010/02/25(木) 12:46:26 ID:NiGm7daS
三方ヶ原の戦い

家康 「ワシの見苦しい姿をありのままに書け」

絵師 「ははっー」

家康 「その腰元に付いてる茶色い物体は何だ」

絵師 「はっ、こっこれは、多分腰に付けている兵糧の味噌が漏れたのでしょうか・・・」

家康 「しまった・・・」
807人間七七四年:2010/02/25(木) 13:02:42 ID:jTGTU1Cq
>>803
ほぼまるっきりの犬死にだから悪い話だと思う
808人間七七四年:2010/02/25(木) 13:52:55 ID:KeDSFW0l
播磨屋さんのサイトで会津松本氏の経歴見てきたんだけどさ。
行輔くん、母のこと以外も恨みに思わないはずが無い酷い仕打ちを盛隆から
受けているじゃないか。
粛清のためにわざと冷遇したのかもしれないけど、結果的に蘆名の柱を1本
折って滅亡への歩みを早めているよね。
809人間七七四年:2010/02/25(木) 18:15:01 ID:Erwxtxr1
>>776
遅レスだし悪い話かは微妙だが、逆に宗タソが怒られる話。

ある日、千宗旦は禅の師・清巌宗渭を茶席に招いたが、清巌は所要が出来てしまった。
遅れて千家にやって来た清巌を出迎えたのは、
「あいにく、主人は出かけました。明日、またお越し下さいとの事です。」という宗旦の使用人のみだった。

「明日って…それでも茶の湯の宗匠かい。」
大徳寺170世住持という禅宗の頂点に立ち、茶の湯を細川三斎に学んだ清巌に、そんな言い訳は
通用しない。清巌は紙と筆を所望すると、宗旦あてに書置きを置いて去った。

懈怠比丘不期明日
(懈怠の比丘、明日を期せず=わし、遅刻するようなナマケ坊主じゃけぇ、明日の約束なんて知らんわ。
『今日』約束したら、『今日』茶席を開くために全力尽くすのが、茶の湯の心と違うんかい?)


これを見た宗旦、感じるところがあり、一句詠んで大徳寺に駆けつけ、清巌に不心得を詫びた。

今日今日と 言ひてその日を 暮らしぬる 明日の命は 兎にも角にも


現在、裏千家最高の格式を誇る茶室、『今日庵』の名は、この話に由来するという。
810人間七七四年:2010/02/25(木) 21:00:51 ID:GRSHGU9Z
遅刻されたほうにこんな事書かれたら溜まらんな
811人間七七四年:2010/02/25(木) 21:18:48 ID:RQqhpF1v
ちょうど姉妹スレのほうも坊さんの話が来てたな
坊主めんどくせぇw
812人間七七四年:2010/02/25(木) 22:31:03 ID:D1De4RBe
坊主と三河武士の共通点はそこか!

それで一向一揆があんなに・・・
813人間七七四年:2010/02/25(木) 23:57:01 ID:eS/IGTIg
先日、東北旅行に行って仙台へ立ち寄った時の事。

仙台城見聞館という施設で、職員のおっちゃんが伊達政宗についての説明を観光客相手にしていた。
なんでも、いつぞやかの発掘調査で政宗の遺骨が完全な状態で出てきたので、それを基に復顔に成功したのだと言う。
残っている政宗の肖像画は徳川御用達の絵師が描いていたため、どうしても家康に似てしまい、それまで本当の顔は分からなかったのだとか。

おっちゃんは復顔写真を手に、面長の今で言うイケメン顔だったと説明してくれた。
で、おっちゃん曰く初めて見た時から誰かに似ていると思っていたらしい。

ある時おっちゃんは気付いた。
中井貴一にそっくりだ――と。

それを聞いて以来、今までの政宗絡みのエピソードが全てMr.ミキプルーンで脳内再生されるようになってしまった…。
そういう意味で悪い話。
814人間七七四年:2010/02/26(金) 00:03:14 ID:9SM8QK2T
>>813
いや、これはちょっとこのスレの主旨に反しているような…
815人間七七四年:2010/02/26(金) 00:13:00 ID:6YDDlcV7
紀州和歌山の元寺町には、かつて土手が築かれ、その上に生垣が植えられていた。
しかし、和歌山の町の発展に伴い、不便であるとして町人から訴えがあり、あるいは堤を崩し、
あるいは生垣を取り払って道を作った。

ところが、それを見て嘆息して嘆く老人がいたので理由を聞くと、老人は涙ながらに答えた。

「この土手は、浅野候がおられた頃は、松の並木しかなかった。それを藩祖・頼宣さまが
『要害として心許なし』と考え、みずから縄張りして堤を築くことにしたのじゃ。
しかし、なお不安に思った頼宣さまは、立花左近将監、真田伊豆守、両大将のもとに
当時の和歌山の絵図面を持参し、縄張りの教えを乞うた。

然るに、お二人から『元寺に土塁を築けば、言うこと無し』とのお答えを頂いた頼宣さまは、
『わが工夫、当たっておったか!』と喜び、いや高く堤を為し、竹垣を植えて犬猫もめったに
土手へ上がらぬよう築かれたのだ。

藩祖が縄張りし、名将二人が太鼓判を押した堤が消え行くこと、時の移ろいに涙せずには
おれぬわい・・・」
816人間七七四年:2010/02/26(金) 00:13:40 ID:47OcUZ6C
今に生まれていれば昭和のイケメンで通ったであろうし、隻眼にもならなかったであろうから、コンプレックスで両目ある肖像画とか欠かせなくて済んだんじゃないか、そういう意味では戦国ちょっと(生まれる時代が)悪かった話


・・・・・頑張って好意的な解釈。
こういう時の諺ってなんだったっけか。
817人間七七四年:2010/02/26(金) 00:19:18 ID:LKrQN8up
だが隻眼コンプレックス、逆に言うと片眼のカリスマがなければ
あそこまでいろんな意味で活躍できたかどうか
人間万事塞翁が馬
818人間七七四年:2010/02/26(金) 00:20:31 ID:76RikIN+
>>815
なぜか
子供の頃は仰ぐようにでかく見えたデパートが、
スス汚れたシャッター下ろして空き店舗になってたことを思い出した
819人間七七四年:2010/02/26(金) 01:17:03 ID:HDJ29+YD
復顔に携わった人の話では
本当に幼少期に眼球をえぐりぬいたなら生じているはずの
眼窩部の変形などが一切なかったので
実は隻眼なんかじゃなかったか
少なくとも小十郎のあのエピソードについては嘘なんじゃないかっつー話

そもそも復顔された顔もちゃんと両目がつくられている
820人間七七四年:2010/02/26(金) 01:24:45 ID:QOFTAQVb
>>440
これから受ける印象では、眼球が変形してたっって感じだな
821人間七七四年:2010/02/26(金) 01:24:56 ID:zT88YaWY
>>813の話、徳川御用達の絵師がハンコ絵ぎみってのが
強いて言えば一番悪い部分だと思う。
822人間七七四年:2010/02/26(金) 01:29:20 ID:jE7q+oCy
政宗は天然痘の跡で顔はあばただらけでボコボコ、
って状態だったらしいからいくら骨格がイケメンでも
イケメンに見られないのはしょうがない。
美形には肌の状態の良さも必須だし。
823人間七七四年:2010/02/26(金) 01:55:06 ID:SFrep5Bf
>>819
自分が小さいころ読んだ子供向け本では肥大化して飛び出してた部分を切り取ったという話だったので
長年そうだと思い込んでいた、一応この説なら眼球は残ってることにはなるな。
実際天然痘で失明した場合目玉が変形することはありえるんだろうか?
あんまりひどくなるほどだったらそもそも死んでるだろうしなあ。
824人間七七四年:2010/02/26(金) 01:58:51 ID:pDRjB66S
義眼を入れてたんじゃないか?戦国時代に義眼を入れる風習があったかは知らんけど。
825人間七七四年:2010/02/26(金) 01:59:25 ID:HDJ29+YD
とっくの昔に義眼じゃよ
826人間七七四年:2010/02/26(金) 06:23:09 ID:dBsM19xX
目玉に貯まった膿を抜いて戻したと聞いた覚えがある
ソースは2ちゃん
827人間七七四年:2010/02/26(金) 09:43:33 ID:MeyQhdvk
>>822
オレの脳内で政宗がブラマヨの吉田で再現されたw
828人間七七四年:2010/02/26(金) 10:04:21 ID:MVMp+P7H
十数年記憶の片隅にあった話を投下してみる。
話の出所や詳細はほとんど分からないんで、
聞いたことがあったり似たような話をご存知なら補足していただけると幸いです。


明智光秀が織田信長の家臣になった頃、
光秀の奥さんは美人だと織田家中で噂になっていた。

これを耳にした信長は、
一目見てみようと廊下の角で光秀夫人が通るのを待っていた。

やがて彼女がやってくると、
角からいきなり姿を現した信長は、彼女の顔をまじまじと見つめだした。

「ほう、噂どおりなかなかの器量良しよ。」

始めは我慢していたものの、
あまりにもジロジロ見るのでついにキレた光秀夫人。

「無礼者!!」

一喝と共に平手打ちを食らわせ、
唖然とする信長を尻目にその場からさっさと立ち去っていった。

呆然と立ち尽くす信長は、ポツリとつぶやいた。

「なるほど、光秀はいい奥さんをもっておるわ。」
829人間七七四年:2010/02/26(金) 10:27:44 ID:dhmpEFdP
セクハラ親父信長
830人間七七四年:2010/02/26(金) 10:44:28 ID:Jlp9Vh6I
>>828
信ちんってデバガメだったんですね_
------------
さて、ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1266400609/206 がらみで思い出した悪い話

長崎県の平戸にある平戸城と言えばあの松浦家の居城であることは有名だが
この城は安土桃山時代に松浦鎮信(法印)が心血を注いで建設した物の
完成直前になって突然その隆信自身が火を付けて全焼させてしまった。

この理由については松浦家にも良い史料が無く真相は不明
関ヶ原の合戦後、嫡子・久信を徳川家康がなかなか帰国させてくれないので
疑われていると思った鎮信が嫌疑を晴らすために城を焼いたとも言われている
(が、久信は京で急死している 家康の疑いが晴れずに自殺させられたとも)

その後城の再建が許されたのは約100年後の元禄時代になってから。
831人間七七四年:2010/02/26(金) 10:45:37 ID:Jlp9Vh6I
>突然その隆信自身
正しくは「突然その鎮信自身」でした・・・
スマソ
832人間七七四年:2010/02/26(金) 16:29:03 ID:KS4CzbBl
会津、喜多方の示現寺といえば、天授元年(1375)に、殺生石退治でも有名な源翁心昭和尚によって開山された、
東北の名刹である。
ところがこの寺で殺生石の謡を歌えば、必ず怪異のことが起こるのだと言う。

加藤明成の頃のこと。

江守金太夫と言う謡を良くするものが、喜多方に湯治に赴き、その折、この示現寺に遊んだ。
この時寺の住持に源翁行状記を読み聞かせてもらい、これに、

「その本には、垂示(禅宗の師家が大衆に教えを説くこと)の充実が熱心に説かれています。
それに対して殺生石の謡は、垂示が大きく衰えた時の話です。
ならば、この謡は源翁和尚の意に沿うものではないのでしょう。それ故に和尚の神霊がこれを受け入れず、
怪異のことが起こるのではないでしょうか?」

と、自分の解釈を語った。
住持やこれを聞いた人々、「なるほど、怪異が起こるには必ず理由と言うものがあるのだなあ」と、
大いに納得したそうである。

で、理由が解っても特に怪異の解決はしなかったようである。
833人間七七四年:2010/02/26(金) 17:54:50 ID:64svUUIN
>>815
これって豪華だよな
いずれも篭城で名を馳せた実父、軍神ともいえる養父に勇猛な弟と鬼の如くの嫁を持つ
戦場で不覚無しの名将二人のお墨付きだから老人が嘆息するのもよくわかる
834人間七七四年:2010/02/26(金) 17:56:07 ID:mI8no7Zx
>>832
不覚にもオチに笑ったw
835人間七七四年:2010/02/26(金) 20:46:18 ID:lBZNSwhI
>>833
嫁に思わず二度見してしまったw
836人間七七四年:2010/02/27(土) 03:10:02 ID:748wWMX7
>>828
江戸期に作られた無数の俗説のひとつ。
吉川人物叢書の光秀のやつに収録されてるけど
愚にもつかない戯言と一刀両断されてる

もうちょっとましな俗説では、
光秀の奥さんはあばた面ってことになってんだがな
837人間七七四年:2010/02/27(土) 04:11:53 ID:wHinKBLb
伊南の河原田盛次と言えば、摺上原の戦いのあと会津盆地を制圧し、さらに勢力を拡大させる伊達政宗に対し、
会津蘆名氏の家中において一人頑強に抵抗を続けた、硬骨の勇者であった。

天正十八年(1590)、伊達政宗は小田原の豊臣秀吉の元に参陣、事実上の降伏をした。ここ東北の戦闘は停止され
盛次は危機を脱した。
秀吉が小田原から東北へと動座すると言う事を聞いた盛次は、早速お目見えすべく宇都宮へと罷り越した。
すると石田三成より、「本日中にお目見えをいたしますので、風呂に入ってくるように。」と指図を受けた。

ところでそのころ豊臣軍は戦時体制を解いておらず、誰もが半袴などの軽装でいたが、盛次は
故実を大切にしたため、脇差に長袴と言う姿でお目見えに望もうとしていた。
その姿は酷く場違いで、手ぬるいように見られた。

そして石田三成も、河原田盛次が天下の奉行である自分と同じ治部少輔を考えも無く名乗っていることが
奇怪だと思った。

そのような事のせいか、その日は色々と手違いも有りお目見えすることはならず、その後は
お目見えについて何の知らせも無かった。そのうちに三成より
「今は色々と忙しいので、取り合えす会津に帰った方がよろしかろう。その後こちらから良いように計らいましょう。」
と言われ、仕方なく会津に帰り、しかし程なく死んでしまった。

ところで、盛次には亀丸と言う一子があった。河原田家の郎党達は、会津に新たな領主として蒲生氏郷が
入ってくることを聞くと

「この上はせめて亀丸君を氏郷様に仕えていただき、所領を安堵してもらおう。」

と言う事になり、氏郷の家来の侍を頼んだ。
ところがこの亀丸は美少年であり、この氏郷の家来は亀丸にすっかり心を奪われ、離れがたさに
仕官の話を何かと引き伸ばしにした。これには亀丸も腹をたて、越後へと出奔したが、そのまま漂泊の身となり
死んでしまったそうである。

蘆名などとともに「会津四家」と呼ばれ、長く会津の地で栄えた河原田家の、その不運な最後である。
838人間七七四年:2010/02/27(土) 04:21:45 ID:1YWh0T7N
この時代男で美貌だとロクな事ないな・・
839人間七七四年:2010/02/27(土) 04:31:17 ID:+epjpdsS
この後河原田家の中には佐竹さんとこに流れた人もいたみたいね
840人間七七四年:2010/02/27(土) 10:09:07 ID:kE1yd8hB
>>838
美形だととりあえず出仕は保障されるよ
そのあとの仕事内容がアレなだけで・・・

美形だと噂される鬼武蔵は信長の(グシャッ
841人間七七四年:2010/02/27(土) 11:05:32 ID:1YWh0T7N
>>840
君主のお気に入りの肉尻便器でも屈強な家臣に横恋慕されて
襲われたりするんだぜ?

どんだけ危険なんだよ・・アメリカの刑務所よりケツが寒いぜ
842人間七七四年:2010/02/27(土) 11:35:08 ID:FPyrd2c2
俺は現代に生まれて良かったんだなあ
843人間七七四年:2010/02/27(土) 12:04:24 ID:HrP5YEkJ
すると>>842は沖田総司バリのぽっちゃり系(笑い)なんですねわかります
844人間七七四年:2010/02/27(土) 12:09:39 ID:Azu0pyoL
しがない橋守として生きるでござる
845人間七七四年:2010/02/27(土) 12:19:37 ID:BKC2AnPu

小牧・長久手の戦があった時の事。
小牧山に陣を引いた家康との睨み合いに業を煮やした秀吉、家康に決戦を呼びかけると言い出した。

秀吉「我が陣の後ろに柵を作り、一歩も退かぬ決意にて戦いをいたしたい。と家康に呼びかけよ」

まぁ、真正面から戦えば兵力が違う。明らかに秀吉の勝ちである。
秀吉自身、本気で決戦を呼びかけているのではなく、「悔しかったらかかって来いや」という挑発のつもりなのだろう。
この時代、こう言った「口合戦」と言われる挑発合戦は盛んに行われており、武田信玄や北条氏康、上杉謙信と言った超一流所もこれを禁じるホド、兵士の士気に洒落にならない影響を与えるモノであった。

こう言った事情を良く知る秀吉陣営の高山右近、細川忠興らは皆必死に止めるのだが、言い出したら後に退かない秀吉、忠興に命じて挑発の手紙を徳川の陣の目の前に置いてこさせた。

暫くして徳川から返事が届いた。
その返事は家康からではなく、渡辺守綱、水野正重の連署となっていたのだが、

「勝手にすれば? っつーか後ろに柵を作るって何? そんなコトしなくちゃ皆逃げちゃうの? その発想スゲーわ、三河者は誰一人、一歩も退かないからそーゆー発想が出てこねぇwww」

激怒する秀吉と、だから言わんこっちゃない、とため息を突く右近&忠興。

しかし次の瞬間、激怒した秀吉は数名の小姓のみを引き連れて本陣を飛び出した。
あっけに取られる周囲の者を尻目に、家康の本陣目の前に進み出ると……

おしーりペンペン!

三河兵「あ、あれは秀吉! 撃て、撃て〜っ!」

弓矢鉄砲の飛び交う中、秀吉は悠々と戻ってきて

秀吉「天下の大将軍に弓矢など当たるモノではないわ」

と高笑いしたという。


めんどくさい人達との挑発合戦に一勝一敗の秀吉さん。でもめんどくさい人達は挑発のつもりはなく、素で言ってそう。w
いい話なのか悪い話なのか……とりあえず右近や忠興は胃が痛くなってそうだから悪い話に置いておこう。

846人間七七四年:2010/02/27(土) 12:46:13 ID:qqUJtOeW
清十郎、名古屋山三郎、亀丸と蒲生氏郷は美少年に縁があるんだなあ
847人間七七四年:2010/02/27(土) 14:01:05 ID:HrP5YEkJ
>>845

やられてもただでは転ばないどころか倍返しな秀吉のいい話ではあるw
これが晩年耄碌してくると落首書いただけで倍返しどころじゃ・・・
848人間七七四年:2010/02/27(土) 14:19:00 ID:7fEXyOrX
>>840
ご主人様のお手つきを心待ちしていたところ
とうとう暗がりに連れ込まれてドキドキワクワクしていたら

「ぬし、姉か妹はおらぬか?」
とのご下問を受けたでござるの巻
849人間七七四年:2010/02/27(土) 16:01:24 ID:7fEXyOrX
ちなみに秀吉の逸話な
850人間七七四年:2010/02/27(土) 18:19:48 ID:m0zawFBG
お手付き心待ちどころか、そっちに目覚めさせる任務のはずが姉妹聞かれてズコーって話だろ
851人間七七四年:2010/02/27(土) 19:26:27 ID:1YWh0T7N
>>848
このスレ見てる奴でこの手の超有名すぎる逸話を知らない奴なんて数少ないからいちいち注釈はいいっつの

>>846
美少年好きなところまで信長そっくりだよな
852人間七七四年:2010/02/27(土) 19:39:13 ID:inAtCu7F
武田家の旧家臣で後に家康に仕えた丹沢正忠は鷹狩りのエキスパートで、家康が鷹狩りに行くときはいつもお供をした。

ある日のこと、
丹沢正忠「この道の先は行き止まりです。」
家康「わしは幼いときから駿河に住んでおり、道もお前よりよく知っておる。この道が正しい。いいからついて来い。」
しばらく行くと・・・・・・・・・・やっぱり行き止まり。
家康「何で行き止まりといわんのか。」
丹沢正忠(さっき言ったよ!)

また、しばらくして、獲物の偵察に出た丹沢が戻り、
丹沢正忠「この先に獲物はいません。」
家康「まあ、帰り道だし、このまま行くか。」
しばらく行くと・・・・・・・・・・鳥がいっぱい。
家康「いるじゃないか。なぜいないといったんだ!」
丹沢正忠「さっき見に行った時はいなかったんです。後から来たんでしょう。」
家康「そんなことは、とっくにわかっとる。」
丹沢正忠(じゃあ、言うなよ!)

この後、城に帰った家康は、「今日は、丹沢と口げんかをして、楽しかった。」と語っている。
丹沢にしてみればたまらないだろうが、家康も、口げんかと表現するあたり、自分が逆切れしていたことはわかっていたようである。
853人間七七四年:2010/02/27(土) 19:42:37 ID:Azu0pyoL
主君が口喧嘩しかけてくるとかたまんねーw
854人間七七四年:2010/02/27(土) 19:45:43 ID:1H/hPpKI
軽くいじめても逆恨みされない人材と思われてたんでしょうかな
855人間七七四年:2010/02/27(土) 20:19:19 ID:L6UTzMu8
三河の連中とじゃこういうやり取りにはならんだろうからな。
856人間七七四年:2010/02/27(土) 20:22:13 ID:EYbPHkzE
丹沢正忠は現在の福生市に知行を与えられた旗本田沢氏(改姓した)の祖か。
何石取りかわからんけど面倒臭い三河武士たちに言いたい放題言われるのが
日常の家康には重宝されたんじゃないだろうかw
857人間七七四年:2010/02/27(土) 21:06:27 ID:kTOQN0z9
ツンデレ家康
858人間七七四年:2010/02/27(土) 21:20:13 ID:iHvQlNpH
1.その場で出奔
2.恥辱だ!腹を切る!!と騒ぐ
3.やってられん!隠居だ、隠居!!と騒ぐ
4.目クラな主君などに仕えておれるか!と面罵

三河武士に同じことをした場合の予想される結果
859人間七七四年:2010/02/27(土) 22:02:00 ID:AT7HJW4N
>>852
前の職場で俺、丹沢さんみたいな扱いだったからちょっと同情する。
やるほうは「こいつにはこれくらい大丈夫だろ」と思ってんだろうな。
860人間七七四年:2010/02/27(土) 22:05:09 ID:wHinKBLb
「伊達政宗が大嫌い!が〜も〜う氏郷です!」

で有名な蒲生氏郷。そんな氏郷の政宗嫌いは、家臣たちにも影響を与えずにいられなかった。
特にこの人に

「伊達政宗が大嫌い!が〜も〜う郷成です!」

蒲生家重臣、蒲生源左衛門郷成である。
もちろん氏郷の親族でも何でもない。良くいる量産型蒲生の一人である。

元は坂源次郎と名乗り、柴田勝家に仕えていたが、勝家の敗亡後氏郷に仕えそこで改造手術をうけ、
見事量産型蒲生の一人にクラスチェンジしたのだ。

さてそんな郷成は主人のアンチ政宗気質を色濃く移植され、氏郷の死後も政宗への嫌がらせに命を賭ける
厄介なキャラクターになってしまった。

ある時政宗が江戸に上がる途中、郷成の所領須賀川を通過することになった。
成郷の眼が光る。嫌がらせのチャンスである。
彼は自分の忍びの者を、密かに政宗の宿舎に忍ばせた。

翌朝…、伊達家の面々は仰天した。なんと政宗乗料の馬達の尾が、尽く刈り取られていたのだ!
これは困った。伊達家のきらびやかな行列は街道の人々の注目の的である。そこで政宗の馬に
尾が無ければ、目立つはカッコワルイは恥ずかしいは、伊達家の評判は散々な事になるではないか。
政宗は悩んだ。考えた。
「…そうだ!」


江戸に向かう街道では、人々が伊達家の行列を見て仰天していた。
主君政宗以下、行列すべての馬の尾が刈られているのだ。

政宗「ふふふ、木を隠すには森へ、とはこの事よ。」
片倉小十郎「流石は殿でござる。」


この異様なNo尻尾行列に、『伊達の殿様は流石かぶいておられる!』と人びと感心した。か、どうかは定かではない。
861人間七七四年:2010/02/27(土) 22:07:18 ID:VdMqrCM4
しょうもねぇw
862人間七七四年:2010/02/27(土) 22:09:42 ID:Y/BCeDtZ
ホントしょうもねえ嫌がらせだw
須賀川って言ったら二階堂さんの所領だった所だっけ?
863人間七七四年:2010/02/27(土) 23:33:26 ID:SMgcy3ko
氏郷が手を焼いた政宗に嫌がらせなど相手が悪いw

須賀川辺りは二階堂氏ですな
864人間七七四年:2010/02/28(日) 00:02:03 ID:cZnzX8lV
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  ', i、-----.、       `''"i`'''l
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   ヽ ヽ〈    i|          Vi゙、
    ゙, ,ヽ===-'゙ ,'     ,   // ヽ
.    ',.' ,  ̄ , '    ノ  /./    ヽ,
.     ヽ.  ̄´   / ,、 ' /     / \
     ノ:lゝt-,-‐''" / ,.ィ゙     /
,、 - '''´  |  ヽヽ /,、ィ     /
865人間七七四年:2010/02/28(日) 00:15:25 ID:sRQmJ4NX
    ま 左  /   ,、r'";;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`';,、    ,r';;r"           _ノ
  小 か 様  L_ /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;\ ,';;/             )   申 何
  学 .り な  //;;/´         `' 、;;;;;;;;,,l;;'            /ヽ  す  と
  生 と. こ  /.,';/              ヽ;;;;,l;L_      .,,、,--ュ、 ';;;;;;;;;i か 童
  ま お と l |;|┌--‐フ  ┌----、、   |;ヾr''‐ヽ,  ,、ィ'r-‐''''''‐ヽ ';;;;;;く !!  貞
  で る が i  |l ~~__´ 、   ``'__''''┘  |;;;;;l rO:、;  ´ ィ○ヽ    'i;;;;;厶,  と
  じ の   l _|. <,,O,> 〉   <,,O,,>    |;;;;;| `'''"/   `'''''"´     !;;;;;;;;ヽ
  ゃ は   ._ゝ'|.    /   、       |; ,'  /   、        |;;;;;;;;;;;;;レ、⌒Y⌒ヽ
  ぞ    「 | |    (    )       .ソ l  ,:'   _ ヽ       .|;;;;;;;//-'ノ
        ヽヽ |    _,ニ ニ,,,,,_        ', ゞ,' '"'` '"       i;;;;;i, `' /
⌒レ'⌒ヽ厂 ̄  `| ,、ィ-‐''__'''‐-`,、     '' .', i、-----.、       `''"i`'''l
人_,、ノL_,iノ!  . ',   :i゙''''''''''`l'  ` _人__人ノ_ヽ ヾ゙゙゙゙ニニ'\       ,'  ト、,
      /     ヽ   L__」   「 止 笑 Lヽ ヽ〈    i|         Vi゙、
ハ ワ  {.      ヽ.  -、、、、 '  ノ  ま い 了. ゙, ,ヽ===-'゙ ,'     ,   // ヽ
ハ ハ   ヽ.    ハ        )  ら が  |  ',.' ,  ̄ , '    ノ  //    ヽ,
ハ ハ    >  /|ヽヽ、___,,,,、 'く  ん    > ヽ.  ̄´   / ,、 ' /     / \
ハ ハ   /  ノ. | ヽ       フ      /  ノ:lゝt-,-‐''" / ,.ィ゙     /
866人間七七四年:2010/02/28(日) 00:27:22 ID:VFNqEQ3P
お前らは帰れw
867人間七七四年:2010/02/28(日) 00:30:38 ID:fYbKN7F1
隈部さんも菊池滅亡後の国人領主の中ではトップクラスの勢力を誇っていたのに……
868人間七七四年:2010/02/28(日) 00:40:32 ID:mWzRB0lL
どれくらい凄いんだそれ
「志摩で最強の豪族」程度か
869人間七七四年:2010/02/28(日) 02:25:29 ID:gDfuj8qk
下手したら某歴史ゲームに大名として出てたかもしれないレベル?
870人間七七四年:2010/02/28(日) 02:31:23 ID:07wq2FV+
隈部は九戸と違ってパッとしないよな
871人間七七四年:2010/02/28(日) 03:52:52 ID:gDfuj8qk
九戸は戦上手って話も伝わってるし
872人間七七四年:2010/02/28(日) 07:58:41 ID:pd/OA5MP
>>868
石高だと3万石から6万石っていうからそれなりだろうね。
873人間七七四年:2010/02/28(日) 08:22:28 ID:ehg3MMwM
>>860
             -‐  ̄ ̄`ヽ、
             /.:::;,<ヽ、:::::ヽ:::::::.\
         / .::::/\\ヽ、:、:::...、:::.ヽ
           ! .::::{ノ  \ヽ_、::ヽ:::::::::i|  しっぽを切るなんて
         !:::::l●   !l:.:.!、:::::::l:::i|   とんでもない!
           ヽ::l⊃ 、_,、_, ̄⊂⊃::./
        /⌒ヽ〈.::〉   ゝ._) /`j、::/⌒i
      \ /::〈.::〉>,、 __, <,ィァ,〈゙ヽ./
.        /:::::<;;l   ヾ:::|三/::{ヤ ヾ/;>
       `ヽ<     ヾ∨:::/ヾ:::彡'
874人間七七四年:2010/02/28(日) 10:06:00 ID:DRtWnIfU
怪異シリーズ

武田信玄の家臣、柴太兵衛がある日、家人に命じて天竜川の河原で愛馬を洗わせていると
突然、馬の尾に怪物が取り付き、川に引きこもうとした。

驚いた馬は太兵衛の家人を蹴倒し、一目散に自分のねぐらである太兵衛の家の厩へ逃げ込んだが、
怪物も厩までついて来てしまっており、騒ぎを聞きつけた太兵衛が駆けつけたところ、人間で言えば
十四、五の背格好の何かが飛び出した。
門へ逃げようとした怪物を太兵衛みずから捕らえると、姿は猿の様で頭頂がへこみ、骨太の体躯で
胴に赤毛を生やし、黒毛の生えた手足に長いカギ爪を持っていた。いわゆる河童である。

太兵衛は、河童を牢につなごうとしたが、河童自身が
「竜宮から『名馬を引いて来い』と言われたので、仕方なくやったんです。許してください!」
と、詫びるので条件付きで許すことにした。
「よーし。わが一統には、もう仇を為さぬな?」「はい!」
「あと、オレの用事に合わせて魚を持って来い。」「え?それは」「あァ?」「…は…ハイ……」

以後、太兵衛の用に応じて河原に魚が出し置かれるようになり、太兵衛の家の者はこれを
「魚年貢」と呼んだそうな。
875人間七七四年:2010/02/28(日) 11:00:25 ID:EWnGS4bv
ひでぇw
876人間七七四年:2010/02/28(日) 11:12:59 ID:VFNqEQ3P
河童を恫喝するとは
877人間七七四年:2010/02/28(日) 11:53:40 ID:5vtcsRmV
ケツを出せでなくてよかったなw
878人間七七四年:2010/02/28(日) 17:20:23 ID:JKIAlNcY
なんたら退治、みたいのより、こういう話のほうが味があっていいねw
879人間七七四年:2010/02/28(日) 17:26:32 ID:cjkn1Xj9
人間が一番たちが悪いって働いてた頃の冨樫が言ってた
880人間七七四年:2010/02/28(日) 18:34:05 ID:6udVfRG5
人間が一番たちが悪いって生きてた頃の富田長繁さんが言ってた
881人間七七四年:2010/02/28(日) 19:49:20 ID:Hq4X3wZJ
だから殺さなきゃならないって鬼武蔵がいってた
882人間七七四年:2010/02/28(日) 20:18:12 ID:PKi4YTnt
大友宗麟といえば戦国期の代表的なキリシタン大名であり、その信仰により他の宗教を弾圧したことも
また有名である。
重臣、戸次道雪はこれを憂い、宗麟を諌める書状を送った

『今の豊後の有様は、殿が無道のみをなされた結果、天罰をうけ近年では戦に勝利出来ず、
評判は地に落ち窮地に陥っております。
殿のなさりようは他国からも批判を受け、犬を打って遊んでいるような童までこれを嘲っているとのこと。

筑前の秋月氏の領内では大友の「無道」を十ヶ条に書き上げ、領内のみならず隣国にまで触れ回っているそうです。
それを殿はご覧になったでしょうか?
そこには、大友領内の老若男女がキリシタンとなって寺社を破壊し、仏神を川に流し、また薪にし、
寺社の所領を没収して他の人間へ給与しているなどと書かれていると承っております。

口幅ったいようですが、日本の武士は源平以来、仏神の加護を祈って正義に基づき戦ってきたとされていますし、
神社仏寺を尊ぶことを専らにせよとも教えられてきました。

日本は一般に神国といいます。ご存知でしょうがこの「神国」とは、すべての神仏を尊重する国、ということです。
どうか、善悪についても、君臣の関係においても、そしてご信心においても、排他的な考えを持って
道理と天道に背かれるようなことをなさらないように。それこそが大切な事のです。』

道雪の思いがにじみ出た、諫言状である。
883人間七七四年:2010/02/28(日) 20:36:12 ID:0T5uYgAL
>ご存知でしょうがこの「神国」とは、すべての神仏を尊重する国、ということです。

今も昔もこんな感じだよな。
日本が無宗教とか言ってる奴はこの辺分かってないんだよな。
日本は宗教ごっちゃにっつーか色んな神様がいておk、という国なだけ。

まぁあえていうなら土着神、精霊信仰(八百万神)が深く根付いてるけど。
884人間七七四年:2010/02/28(日) 20:51:03 ID:BiBxUKcq


何が上杉の義だよ
ダーティすぎる



http://blog.livedoor.jp/golden__cadillac__/archives/899991.html
堀秀治は旧領であった北ノ庄(福井市)で当年の年貢の下半期分を次の領主へ引き渡してきました。
 こういう引継ぎが当時の通例とされていました。そこで堀秀治は同じように下半期分を上杉景勝に要求しました。ところが上杉家ではそれを拒みました。
 その理由は、前任者である蒲生氏が会津の年貢を下半期の分まで持ち去ってしまったのだから、われわれも越後の分を持ち去るのが当然だ、それをしなかったのは堀秀治の失敗だろう、というのです。
 そのために堀秀治は大きな減収となり、その埋め合わせと事後の対策に苦慮しなければなりませんでした。
 こうなれば、当然農民に対する政策も厳しくなります。これは新しい領主である堀秀治の責任だ、という不満が高まります。それが昂じて各地で百姓一揆が起こります。
 堀秀治にすれば、この責任は上杉景勝にあるはずです。しかも堀秀治が命じて領内の検地を進めたところ、上杉の違法な処置が次々に明らかになってきました。
 豊臣秀吉の転封命令によって、新任地へ移る大名は、武士は1人残らず引き連れていき、農民はすべて旧領へ残しておかなければならないことになっていたのに、上杉はそれらに違反しています。
 大勢の農民が否応なしに会津へ連れ去られて、耕作にことを欠く村落もあります。
 また、上杉領であったときには認められていた多くの社寺地が、堀領になってからは没収されたり縮小されたりしました。
 以前は租税についての優遇措置が与えられていたのに、これが剥奪されたところもあります。
 違法に残留した旧上杉の侍たちは地元を扇動して混乱を煽っています。
 これらの問題に苦しむ堀秀治は「このような混乱は、上杉が以前のつながりを利用して再びこの越後を奪い取ろうとしているのであろう」という疑惑と不信を募らせていきました。

885人間七七四年:2010/02/28(日) 21:10:36 ID:0T5uYgAL
まぁ愛の人はほら・・

よっぽど上杉旧領を手放すのが苦痛だったんだろうな。
反乱できないからってその怒りをぶつけられた堀さんはたまったもんじゃないだろう。
886人間七七四年:2010/02/28(日) 21:20:05 ID:07wq2FV+
義はクリーンダーティーとは違うというのがまだ理解出来ないかw

つうか、豊臣時代の転封の時に旧領地から年貢等を持ち出しても罰せられたって話は聞いた事無いんだよね
正直置いていくとかいうルールは後付けじゃないかと思うんだが
887人間七七四年:2010/02/28(日) 21:35:25 ID:cJoolm37
明確な決まりとかなかったから
多分〜だろう、で行われてたんじゃね
888人間七七四年:2010/02/28(日) 21:43:31 ID:YrRd+CxW
ルールっていうか、「年貢は老いていくだろう、JK」みたいな感じじゃね?
まあ、転封時期によるんだろうけど
889人間七七四年:2010/02/28(日) 21:45:07 ID:iyENjrlt
まぁ、確かに礼や信に悖る話であって義とは別概念の話ではある。
890人間七七四年:2010/02/28(日) 21:58:35 ID:07wq2FV+
つかそもそも蒲生が会津から持って行っちゃったから上杉も旧領から持って行ったんじゃないの?
まぁ、上杉側は良い機会と思ったんだろうけどw
891人間七七四年:2010/02/28(日) 22:07:18 ID:UX/6ZTV5
>>890
それ、よく反論としてあるけど蒲生が持って入ったっていう話、
上杉側が主張している以外で傍証とかあるのか? 
あったら蒲生も非難されていそうなもんだし、越後で一揆が起こったように
会津でもガタガタしたりありそうだが。
892人間七七四年:2010/02/28(日) 22:07:23 ID:By8XYQ0Y
蒲生はなんで責められないの
893人間七七四年:2010/02/28(日) 22:17:32 ID:pd/OA5MP
>また、上杉領であったときには認められていた多くの社寺地が、堀領になってからは没収されたり縮小されたりしました。
>以前は租税についての優遇措置が与えられていたのに、これが剥奪されたところもあります。

これは上杉ではなく堀の問題な気がする。
上杉が何かやったから堀がこういうことをする羽目になったのか?
894人間七七四年:2010/02/28(日) 22:31:23 ID:B+7HRsPH
堀に内政手腕がなくて、その責任を上杉に転嫁している可能性もあるね
領地替えは本当に難しいものだ・・・
895人間七七四年:2010/02/28(日) 22:40:36 ID:TIIsEKkM
つーかこの時代に「農民は土地に残り武士は根刮ぎ連れて行く」
というのをさせたら、ごっそり農民が付いていっちゃうのは当然じゃね?
また帰農しますと言った多数の武士が残っちゃうのも当たり前じゃね?
秀吉台頭以前から勢力を持ってた家はどこもそうなるんじゃ。
武士と農民を完全に分けろとか言われても無理だろ。
896人間七七四年:2010/02/28(日) 22:45:42 ID:PKi4YTnt
堀家だって今までも転封の経験はあるわけだし、豊臣政権になって転封、改易は
これまで何度も行われていたんだから、当然明文化されたものでなくても
「転封の仁義」と言うべき暗黙のルールが成立していたことは、ごく常識的にに想像できる。
むしろ「ルールが無かった」って事の方が信じがたい。

この件に関しては、上杉にそういうルール違反があったと考えていいと思うぞ。
897人間七七四年:2010/02/28(日) 22:50:35 ID:kZUiiRtS
この手の話って上記のと黒田細川の奴以外にも伝わってるのあるの?
898人間七七四年:2010/02/28(日) 23:00:13 ID:UX/6ZTV5
>>894
内政手腕がないからと領地没収されるケース(本庄繁長の庄内)もあるんだから、
ンなことしたら逆に危ないのは堀家じゃないか。
堀側が「上杉が悪い」と主張できるにたる材料なしに、短絡的に上杉叩きするとも思えんが。
899人間七七四年:2010/02/28(日) 23:25:53 ID:HDiqAYXW
堀家も結局家中グダグダで取りつぶされるからねえ。
その頃からすでに、慣習法調べたり、行き違いが起こらないよう対外折衝をしたりできる
能力がなかったのかね。

あと「全部置いておくべきなのに半分持って行った、返せ」なのか
「半分置いていくべきなのに全部持って行った、返せ」なのか、どっちなんだっけ。
ずっと前者かと思ってたら、そのブログは後者だな。(根拠はあやしい大河便乗本だが)

後者が黒田細川ケースだっけ?
900人間七七四年:2010/03/01(月) 00:01:02 ID:WpKPa4gV
>>899
確か関ヶ原のあとあっちこっちで元領地への借米返済に追われてた気がするから
>>899の二択だと、たぶん半分持って行くのが普通なんだと思う
901人間七七四年:2010/03/01(月) 00:09:05 ID:hQJrqUJW
識豊系大名で何度も転封の経験がある堀家と、元独立大名家でこれが初めての転封という上杉家。
その辺の意識の違いとかもあったんじゃないかねえ?
少なくとも、上杉家には転封に対する作法だの定式だのを熟知していた可能性は低い。
江戸時代のように、手順が公式に定められていたってわけでもなさそうなのは間違いない。
というか、この時期の試行錯誤が、後に幕府によってルール化されるんだろうが。
902人間七七四年:2010/03/01(月) 00:09:24 ID:WpKPa4gV
あ、ごめん、書き込んでから気づいたけど>>900はおかしい。>>899への答えにならない。
>>900からわかるのは「持って行った米はいずれ返すものだ」ってことだけだわ。
でも多分、半分は置いていってもらわないと困るんじゃないか。
石高が小さい人がすごい加増されたとして、今までの蓄えで大領切り盛りするのは無理なんじゃ。
903人間七七四年:2010/03/01(月) 00:12:34 ID:01vl6QPS
>>901
そう考えると黒田が故意犯で三斎様がブチ切れるのも当然だわな
904人間七七四年:2010/03/01(月) 00:15:09 ID:TDlTgSGP
「やあ又会ったな!伊達政宗が大嫌い!が〜も〜う郷成です!」

慶長10年(1605)、徳川秀忠の上洛の時のことだと思われる。
侍従した伊達政宗は、京において本阿弥光悦の邸宅を尋ねた。

これを聞きつけた蒲生郷成の眼が光る。当然のことながら嫌がらせのチャンスである。
彼は駆けた、本阿弥光悦の邸宅に!

さて本阿弥光悦と語らい、上機嫌でそこを退去しようとした政宗は、外に出ようとして驚いた。
戸の口に寝ているのだ。誰かが。しかも高いびきをかいて。

寝ているのは七尺(約2.12メートル)程の大男。三尺あまりの大脇差を差しながら、
戸の口いっぱいに大の字に手足を広げて寝ている。
間違いない、蒲生郷成である。
下手にこいつをまたいで外に出ようとすれば、たちまち起き上がって無礼だの何だのと言って
因縁をつけてくるのが見え見えである。見え見え過ぎて呆れるほどである。
流石の政宗も呆れ顔だ

「あいつはいい歳をして、何をやっているのか。」

郷成、生年不詳だが勝家に仕えていた頃20代だとしても、すでに50代前後である。
ちなみに政宗は38歳。

しかし政宗もどうにも仕方なく、天下の大諸侯でありながら、こそこそと路地を通って外に出るより他
無かったとのこと。

郷成の嫌がらせ、大成功。
905人間七七四年:2010/03/01(月) 00:16:40 ID:QQXGqFnx
セコイ、セコすぎるww
906人間七七四年:2010/03/01(月) 00:19:04 ID:CH2ZbeVq
郷成も懲りないなwwwww
907人間七七四年:2010/03/01(月) 00:19:56 ID:HVx6WKG8
>>860>>904
バカをバカにしようとして自分がバカになるとかバカじゃないの!?
908人間七七四年:2010/03/01(月) 00:20:14 ID:qRicQwPl
郷成しつこすぎるw
909人間七七四年:2010/03/01(月) 00:22:30 ID:01vl6QPS
郷成でかすぎるんだが、マジなの?
910人間七七四年:2010/03/01(月) 00:22:41 ID:SIySmtNS
>熟知していた可能性は低い。
>江戸時代のように、手順が公式に定められていたってわけでもなさそうなのは間違いない

どこの世界でも、作法知りませんでしたでは済まされないことだろう。
普通の世間知があれば、転封を命じられた直後に、石田三成あたりをつかまえて、

「今度転封することになったのですが、それに伴なう手続きを教えてください」

とか聞いて、その通りにするのが当たり前。
子供でも分かることを、なぜ上杉は無視したのか?
上杉はあえて年貢を全て持っていて、追及されると逆ギレした可能性が高いと思われ。
911人間七七四年:2010/03/01(月) 00:31:58 ID:2vT323rw
>>901
上杉家は本人達も越後に根付いて勢力広げた大名だし、
家臣達も上杉内部で領地替えされたことすらない奴多数だからな。
織豊系大名内での転封とは全く勝手が違っただろう。
>>910
上杉の領地代えには三成と直江が担当官として一緒に作業している。
そして上杉は一切問題視されてない。
つまり実際にあったことであれば三成も上杉のやったこと、
上杉の言い分を問題なしと認めている。
912人間七七四年:2010/03/01(月) 00:33:24 ID:QgmybhDc
>あいつはいい歳をして、何をやっているのか。

まーくんに言われるとかよっぽどだわw
913人間七七四年:2010/03/01(月) 00:37:59 ID:hQJrqUJW
>>911
それは三成が認めたってだけで、上杉の行為が必ずしも正しかった証明にはならないような。
914人間七七四年:2010/03/01(月) 00:50:00 ID:VUyIGhnX
三成なら、
「慣習法?明文化されてないなら従う必要なんて無い(キリッ
とか素で言っちゃいそうw
915人間七七四年:2010/03/01(月) 00:59:50 ID:SIySmtNS
直江が三成に多額の付け届けを贈って認めさせたんだろ。
916人間七七四年:2010/03/01(月) 01:01:15 ID:TDlTgSGP
>>904
ああっ、ちょっと書きおとしが
下から三行目

×こそこそと路地を通って
○こそこそと裏口から路地を通って

すいませんー。
917人間七七四年:2010/03/01(月) 01:10:50 ID:oe7RgZK7
本阿弥さんいい迷惑w
まあ嫌がらせをスルーした大人なまーくんの話でもあるな。
918人間七七四年:2010/03/01(月) 03:11:11 ID:LVnCiNqC
>>911
どうもこの話(堀と上杉の兵糧トラブル)っていろいろな本で取り上げられている話
なんだけど、それをめぐっての中央の裁定、堀秀治側の対応などわからん点が多いんだよね。
ただ、上杉が去った後、本来は百姓は転封に同行しちゃいけないことになっていたのに、
魚沼郡では全住民が移動した村があるなど、実に越後の人口の二割が会津移封に従い、
中越の三割の農地が荒地になってしまったとのことなので(今福匡『直江兼続』)、そういった事情も
背景にあるんじゃないか?

と、いうわけで上杉家が去った後の越後のちょっと悪い話

越後を去った上杉家が関ヶ原合戦時に越後の遺臣たちに一揆を起こさせたことは
よく知られているけれど、その後のこと。
なんとか越後一揆を鎮圧した堀秀治だったものの、戦後の堀家は決して安定していた
わけではなかった。
まず、秀治の弟の堀親良が主家を離れると、続いて柴田佐渡守が改易処分となった。これは
堀直政との対立によるものというが、柴田は上杉家の佐渡代官河村彦左衛門とも親交があった
人物で、通謀が疑われたためという説もあるそうな。
ちなみに、溝口秀勝のエピソード(ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-558.html)も関ヶ原後の
ゴタゴタのなかでの、上杉遺臣一揆をめぐって起きた出来事。

そして堀家は関ヶ原での論功行賞による加増もなく、しかも越後は上杉家の転封やその後の一揆に
よって荒廃した状況・・・。さらに駄目を押すがごとく、堀秀治は31歳の若さで病死し、その後を若年の
堀忠俊が相続。
こうなるともうどうしようもなく、結局堀家は国内に数々の問題を抱え、ついには堀直政の遺児・直清、直寄
兄弟の争いが勃発、改易されてしまうのでした。
919人間七七四年:2010/03/01(月) 08:10:00 ID:hMUUtWjE
そして「難治」とみられた越後は細かくバラバラにされ、多くの中小大名が誕生し、
越後中が徳川系大名の寄り合い所帯になるのであった
920人間七七四年:2010/03/01(月) 10:07:50 ID:tN9/PYx0
>>882
日本戦国版「出師の表」か…これ見て泣かざるは男子にあらず。
921人間七七四年:2010/03/03(水) 19:09:13 ID:gcU1exN2
>>919
そんな難しい地域の人について
武田信玄が愛読し、しばしばこれをネタに人と話をしたと言われる
室町時代成立の県民性ガイドブック「人国記」では
越後人はこんな感じに書かれている

越後の国の風俗、千人が九百人は、人に負くる事を嫌ひて、勝つ事を好み、
(越後の国の風俗では、千人のうち九百人は人に負けることが嫌いで勝つことを好み)

仮初にも勇を嗜み、痛きといふことは痒きと云ふ。
(なんだろうが勇ましい態度であることを旨として、痛いことは痒いと言う)

途中にて蹴躓きて倒れ痛むといへども、痛きといふことを云はずして、心得たり
(道を歩いていて転んで、本当は痛くても、痛いとは言わないということを皆心がけている)

信玄「あるあるあるあるww越後のやつってこうだよなwwww」
と笑っていたのかもしれない
922人間七七四年:2010/03/03(水) 19:21:33 ID:M+N4N4Y6
>>921
「人国記」って隣国で県民性調査(信濃で越後人どうよ?とか)したら
著者がへこむくらい悪口ばっかだったっていうあの「人国記」?
923人間七七四年:2010/03/03(水) 19:28:48 ID:gcU1exN2
>>922
うん、あの人国記
駿河人と相模人と常陸人は絶対読まないことを勧める
かなりムッとくるよ
924人間七七四年:2010/03/03(水) 19:51:13 ID:tQ79DWDb
鯖復活記念

佐瀬源兵衛と言えば蘆名家で並ぶものの無い勇者として有名であった。
彼が若い頃、武者修行と称し関八州を廻ったことがあった。
まず初めに小田原の北条氏のもとに行ったが、この北条氏は常に大軍を擁し、小敵を相手にする戦ばかりを
していた。これに源兵衛

「つまらぬ」

と小田原を辞し、下野の壬生綱房の元へと行った。その理由を尋ねられると

「壬生氏は小身でありながら、宇都宮、佐竹、那須とまで敵対している。ここなら面白いことがあるだろう。」

佐瀬源兵衛とはそんな男だった。

さて、この頃壬生氏は、大田原氏の嫡男を人質に取っていたのだが、ある時この子が病を患った。
その症状重く、大田原氏の方から「せめて生きている間に母親にも対面させたいのです。どうか暫くの間だけでも
わが方へお返し頂け無いでしょうか?」と言ってきたためこれも仕方がないと人質を返した。

ところがである、その子はその後病から回復したものの、壬生に返そうとしなかった。
壬生綱房は激怒し、どうすべきか家臣たちと相談をした。
源兵衛これを聞いて

「どうするかと言われても、大田原殿を討つかその子を取り返すか、そのどちらかしか無いでしょう?」

「そんな事はわかっている!」
壬生家の面々、新参者の出すぎた口に苛立ちながら

「しかしそのようなことそう簡単に出来るものではない!だからこうやって相談をしているのが解らぬか!?」

「そんな事なら…」
源兵衛、何でも無いと言う顔で
「それがしに思案が有ります。おまかせ頂けますかな?」
925人間七七四年:2010/03/03(水) 19:52:13 ID:tQ79DWDb
その頃大田原の宿では、ひと月に6回市が開いた。
市の立つ初日には必ず風呂が炊かれ、その一番風呂には領主である大田原氏が入るのが習わしであった。
そんな市の立つ日、その日は風雨がある、酷く寒い日であった。

市の中にある風呂屋の前で、みすぼらしい身なりの男が倒れ、叫んだ

「私は今日の市に出る商人でありますが、風雨と寒さに当てられ、腹痛をおこしました。
ほんの少しでいいのでこちらの風呂の竈の火に、当たらせて頂けないでしょうか?」

風呂屋から亭主も出てきてこれを哀れに思い、「そんなものは容易いことです」と、温かい竈の前に
その商人を寝かせた。

『もう殆ど成功したようなものだ』

商人、見られないよう不敵に笑う。この男、もちろん源兵衛の化けたものである。
彼が腹痛を起こした商人のふりをしていると、やがて大田原が一番風呂に入りに来た。

今だ

源兵衛、やおら起き上がり猛然と走り寄ると脇差を引き抜き大田原の体にピタリと当てた。

「これは!?一体どういうことか!?」

何が起こったのか解らず驚く大田原に、源兵衛、刃を当てたまま

「近頃、壬生に対しての人質を返還なさらなかったこと、これは人でなしの所業であります。よって、このような事を
致しました。
さて、壬生に人質をお返しになるかどうか、応か否かでお答えください。否とおっしゃるならば仕方がない、
一刀参らすだけのことでござるが…」

「まてまて!そ、そなたの申すとおりだ。すぐにわが子を人質に出そうぞ!」

そこで源兵衛、嫡子をその場で受け取ると、抱えて壬生えと帰っていった、とのことである。
926人間七七四年:2010/03/03(水) 20:29:53 ID:93hqBn72
>>884
というか、この頃家康が後見であった蒲生もそうだし、2対1だし、逆に半年分年貢もってくのがフォーマルじゃね?
927人間七七四年:2010/03/03(水) 20:31:41 ID:xIaQU2H/
>>923
小田さんに読ませてあげたい
928人間七七四年:2010/03/03(水) 20:48:09 ID:QCTj+52r
2ちゃん落ちてる間にここのまとめサイト発見して暫く見入ってた
特に鬼武蔵関連が面白いw
俺の読んだ本だと森長可は平和を愛する心優しい男みたいなことが書いてあったからより驚愕だぜ
929人間七七四年:2010/03/03(水) 20:52:53 ID:ggXKgei5
>森長可は平和を愛する心優しい男

ははは、ご冗談をw
930人間七七四年:2010/03/03(水) 21:00:57 ID:QCTj+52r
>>929
もう今となっては俺も何の冗談だよと思ってるわw
931人間七七四年:2010/03/03(水) 21:04:30 ID:0aPwZwf6
いや、本能寺の後だって美濃に平和をもたらすべく積極的に(ry
932人間七七四年:2010/03/03(水) 21:16:12 ID:Mt/UtDpo
小牧長久手前の遺言書?だけ見れば誤解するよなやっぱ
933人間七七四年:2010/03/03(水) 21:18:11 ID:x9+l9stO
森家の森家による森家のための美濃
934人間七七四年:2010/03/03(水) 21:23:40 ID:tIDEOSYb
>>932
家族思いで、勇ましくも気は優しい人だったのであろうと勝手に思ってました
935人間七七四年:2010/03/03(水) 22:38:42 ID:Q1LHqlzR
娘を医者に嫁がせたい気持ちは鬼武蔵と同じ







結婚が先だけど
936人間七七四年:2010/03/03(水) 22:40:15 ID:dqKz2O7e
>>934
実際そうだったんだろう
勇ましすぎただけで
937人間七七四年:2010/03/03(水) 22:42:38 ID:tQ79DWDb
>>932
その小牧長久手でも、神蛇の踊り食いはともかく、蒲生氏郷に喧嘩ふっかけて
細川忠興を震え上がらせる、という微笑ましいエピソードを残してますなw

そういえば忠興だけは他のDQN四天王全部と面識があるのか。
938人間七七四年:2010/03/03(水) 23:29:16 ID:dmkMwYdi
久松家の憂うつ

徳川家康の生母於大の方は、松平広忠との離別後、兄水野信元の意向にしたがい知多郡阿久比城主
久松俊勝と再婚した。俊勝もまた再婚であり、前妻との間に信俊(あるいは定員)という子供がいた。

於大の方は、俊勝との間に康元、康俊、定勝の三人を生んでいる。桶狭間の戦いで今川義元が討死、
混乱の中、家康が今川氏から独立を果たすと久松俊勝は家康の家臣となり三河統一戦でめざましい
働きをする。特に鵜殿氏の籠もる上ノ郷城(蒲郡市)攻めでの働きが際立っていたため、家康は
落城後、この城を俊勝に与えている。俊勝は本領である阿久比を前妻の子である信俊に渡すと、次男
康元に上ノ郷城を守らせ、自分は岡崎に詰めるようになった。家康と異父弟という関係の次男に新貫
を、家康と血のつながりが無い長男に久松家嫡流として本貫を渡すという考えであったようだ。
なお、久松家を継いだ信俊は織田氏にしたがった。


ここまではよかった。


天正三年、俊勝の義兄水野信元に武田通謀の嫌疑がかかった。家康の同盟者である織田信長は信元の
排除を決め、家康に信元を殺すよう求めてきた。家康は織田との同盟を重視しこれに従うことにした。
そして、信元を自分の領地である岡崎に呼び出して殺害しようとした。

誰を迎えにやるか?

信元義弟である俊勝に白羽の矢が立った。ただし、俊勝には信元殺害の計画を一切知らせていない。


何も知らされぬまま俊勝は信元を迎えにいき、岡崎大樹寺で信元が殺害されたことを聞き驚愕した。
そして怒った。

「かかる事とも知らずして、信元迎え来て打たせたりし事の無慙さよ。世の人のかえり聞かん事も
恥ずかしとて、徳川殿を深く怨み、仲違いこそしたりけれ」(藩翰譜)

家康の冷酷な仕打ちに激怒した俊勝はそのまま上ノ郷城に籠もったまま鬱々と過ごし天正十五年に
没した。


これだけではすまない。


俊勝の長男信俊は佐久間信盛の指揮下、石山本願寺と戦っていたが、天正五年、かつて久松家が
一向宗を保護していたことを理由に信盛の讒言をうけ、信長から謀反の嫌疑をかけられ憤慨して
陣中で自害してしまう。そればかりか、その直後、阿久比に佐久間勢が攻め込み、信俊の子供二人
も殺害されてしまう。

結局、その時まだ胎児であった子供がその母とともに助かり、子孫は後に伊予松山藩に仕えたという。

家康の異父弟たちもそれぞれ苦労したようだけど、更に過酷な運命にあった本家久松さんのお話し。

939人間七七四年:2010/03/04(木) 00:56:44 ID:spqkNLyh
戦場で死を恐れず敵に突っ込むのは臆病者の仕業ってえらいひとが言ってた(死ぬ気にならないと戦えないって意味で
940人間七七四年:2010/03/04(木) 02:36:38 ID:DrOY+KWx
>>937
これで勝ってたらまた印象も違うんだろうけどな・・・
だから甫庵にみそっかすに言われてしまうw
941人間七七四年:2010/03/04(木) 04:47:57 ID:oh2GGky3
>>938
水野潰しのとばっちり受けたんだな 可哀想に
942戦国のライアーゲーム 1/2:2010/03/04(木) 07:29:22 ID:lqbrK2+A
天文の終わり頃、越後路で道を聞いて回る山伏に、老婆が声をかけた。
「昨日、お前様のように春日山への道を問うた人がおったが、この先でお侍に斬られてしもうた。
悪い事は言わん、戻ったほうがええ。」
「わしは、春日山の毘沙門天へ参詣せんと、願を立てて来たんだがのぅ…」

そこへ眼光鋭い騎馬の侍がやって来て、山伏に問い質した。
「御坊は武田の間者であろう?本当に参拝客ならば、毘沙門天への供物など持参しておろうが。
ここへ出してみよ!」
山伏は、懐から小粒金の入った袋を取り出して見せた。
「…なるほど、どうやら言っておる事は真実らしい。お詫びに、拙者が春日山まで案内しよう。」
山中の毘沙門堂に案内された山伏が、金を奉納すると侍は、
「遠方からの参詣ご苦労ゆえ、この城でも見物して帰りなされ。なに、わしについて来れば問題ない。」
と言って、城中くまなく山伏を案内した。

「いや、念願叶って満足にござる。あとは柿崎・鉢崎を回り、羽黒山に参詣せんと考えております。
引き続き、案内して下さらぬか?」と頼む山伏に侍は、
「越後は目の見えぬ者ばかりではござらぬぞ?化けるのも大概にされよ。」
と言い放って、山城に駆け戻った。

驚いた山伏が逃げ去ると案の定、数人の兵士が追いかけて来た。とっさに山伏は付近の畑に隠れ、
立っていた案山子から野良着と蓑笠を剥ぎ取って着替えると、山伏の装束は池に投げ捨て、小唄など
歌って平然と歩き出した。
兵士たちは山伏(?)の思惑通り、池の装束を見て山伏が逃げ損なって入水したと考えて去った。
943戦国のライアーゲーム 2/2:2010/03/04(木) 07:30:05 ID:lqbrK2+A
「…という訳で、危ないところだったわい。」
居城に帰り着いた山伏こと戸石城主・真田幸隆は、側近にグチをこぼした。
「間諜のお勤め、大変にございましたな。ところで、殿あてに越後より書状と包みが届いておりますが…」
「越後より?どれどれ、誰からの書状じゃ……?」

“山伏の姿に似せてわが国への潜入、ご苦労にござった。こちらも、そちらに合わせて春日山に
似た山城をご案内させていただいた。毘沙門堂もニセモノなので、奉納された金はお返しいたす。

真田弾正忠幸隆どのへ  上杉弾正少弼輝虎より ”

「…!!おのれ…このままでは終わらんぞ……」

数日後、野尻の近くで幸隆あての輝虎の書状と、もう一通書状を持った斬殺死体が見つかった。
二通の書状は春日山に届けられ、輝虎は書状を読んだ。

“このような書状が届きましたが、幸隆は未だ戸石に戻りません。手筈通り、柿崎・与板などを探った後、
そちらで休息するものと思われますので、幸隆が参りましたら、この書状を渡して下さい。

宇佐美駿河守どのへ  真田家中より ”

「報告いたします!一週間経ちましたが、真田が宇佐美殿のもとへ来る様子はございません。」
「…そうか、ならば監視を解いて良いぞ。」
文箱から密書(?)を取り出した輝虎は、怒りに任せて偽手紙を引きちぎると、息も荒く吐き出した。
「この輝虎が、騙されて手足たる老臣を疑うとは…!
わしは弓矢を取っては真田ごときに劣りはせぬだろうが、智謀においては、かの者大いに恐るべし。
どんな手を使ってでも、彼奴は殺さねばならん!」
944人間七七四年:2010/03/04(木) 08:12:32 ID:HncsLqlO
>>942-943
行動派の輝虎 vs 頭脳派の幸隆 って感じやね。
945人間七七四年:2010/03/04(木) 09:09:34 ID:KqyCOCGT
謙信って怒らせやすいなw
怒りの矛先が謙信の家臣じゃなく自分に向いてくると、とんでもなくヤバい事になるけどね
幸隆が狡猾なのはそこだな
946人間七七四年:2010/03/04(木) 09:18:54 ID:FvVmLSyM
山伏が持っていったのはおそらく甲州碁石金
真田はさりげなくスパイだとばれるようにして、謀略をしかけた。
947人間七七四年:2010/03/04(木) 13:46:09 ID:QE3s5wfI

武州忍城主、成田長泰。彼の次男が成田泰親(名前には異説有り)なのだが、元々彼は他家に養子に入り、小田泰親を名乗っていた。
やがて小田領が成田家に吸収合併されると、本家成田氏に復帰した泰親なのだが、実は兄、氏長には男の子がなく、氏長&泰親の末弟が養子となっていた。その弟が夭折してしまったのだ。
泰親の成田家復帰は、亡き弟に代わって氏長の養子になる為だったとも言われている。
氏長の家督相続後は、氏長が嫡子時代に名乗っていた「左馬助」を名乗っている(ちなみに「下総守」の名乗りを許されるまでは成田家当主が「左馬助」を名乗っていた)事もあり、成田家中では泰親の家督相続は規定路線だったのだろう。
そしてその規定路線通り、氏長の死後、泰親は成田家当主として烏山城を継いだのだ。

……が、しかし。
「成田系図」という家系図がある。代々の当主の名前に並んで、その事跡を細かく記したモノだ。
それによると
「成田家に跡継ぎが居なかったところ、氏長の娘、甲斐姫が秀吉公の妾になっていたから、甲斐姫が頼み込んで特別に泰親が継がせてもらった」
とある。

他にも、
「氏長は父長泰に弓を引き、不孝甚だしい」
「長泰は妾に夢中で、いい歳になった氏長に家督を譲らず、慈しみの心がない」
「氏長は小田原陣の際、とっとと北条を見捨て秀吉に寝返った」
「長泰の荒淫、氏長の不孝不信が子孫を断絶させてしまったのである」
とにかく長泰&氏長親子の事はボロクソであり、「成田家は氏長の代で滅んだ!」という態度で一貫している。
上記の様に北条家臣だった頃から泰親の家督相続は規定路線だったと思われる。
だが、「成田系図」の著作者に取っては「氏長が滅ぼした家を、甲斐姫の尽力で何とか継がせてもらった」という事になるらしい。

この、「成田系図」の著作者とは……尾張成田家の人。
そう、関東仕置き後、氏長にあらぬ疑いをかけられて烏山を追い出された、成田長親の孫だったのです。(>>443参照)
……なんつーか、よっぽど嫌いだったんだね。そんなに許せなかった? 一応相手は非を認めて謝ってんのにさぁ。w
948人間七七四年:2010/03/04(木) 14:23:52 ID:rm/i/xGF
あのあたりで小田というともしやあの血統ではと思ってしまうな
949人間七七四年:2010/03/04(木) 14:26:02 ID:VHphUKIX
苦労に苦労を重ねて城を守り抜いたと思ったら冤罪で追放されたでござる、で
謝られたからって許せる大度量の持ち主はそうはおらんだろ
950人間七七四年:2010/03/04(木) 16:11:52 ID:6OzF+KGd
忍城での不手際で三成には戦下手の評判が付いて回る様になる訳だけど、浅野さんには
そういう話は聞かないよね。三成が嫌われ者だったからなのか?
951人間七七四年:2010/03/04(木) 16:29:34 ID:yj8uKQcE
浅野さんは親子でその後下総をなで斬りしましたので。
既出の悲しい仕打ち受けてるけどさw

軍功上げまくりな息子さんもおるしねぇ。
952人間七七四年:2010/03/04(木) 16:34:30 ID:4iHkyNok
あいつは軍功もねー親だからすぐ褒められていーよなー!
俺なんかよー

とどこかの若殿がクダ巻いてましたよ?
953人間七七四年:2010/03/04(木) 17:29:43 ID:PDiWa44U
>>950
浅野は援軍だからじゃないか?
三成みたく最初から苦戦してた訳じゃないので
954人間七七四年:2010/03/04(木) 18:12:33 ID:WXkFt7+O
浅野は息子の方は武人だけど親父はね…つう言い方はされてたとか聞くね
955人間七七四年:2010/03/04(木) 21:01:31 ID:byStucs1
元から評価されてなかったからかな>浅野父
三成はなんだかんだで軍功あったわけだし
956人間七七四年:2010/03/04(木) 22:45:25 ID:oMVy3I49
えっ
957人間七七四年:2010/03/04(木) 22:47:23 ID:oMVy3I49
誤爆しました↑
958人間七七四年:2010/03/04(木) 22:49:27 ID:CMofNxEJ
>>947
のぼうさんの孫かw
959人間七七四年:2010/03/04(木) 22:49:36 ID:Aat3+ox2
誤爆か…石田三成と浅野幸長の仲を取り持つ役を命ずる

嫌なら幸長の代りに細川忠興にするものとする。
960人間七七四年:2010/03/04(木) 23:37:08 ID:FYN7EeOB
羽尾氏という豪族が上州吾妻郡にいた。

本姓は滋野、家紋は六文銭であの真田氏とは同族であり
四阿山を挟んでほぼ隣同士という間柄であった。
天文10年(1541年)の海野平合戦に海野氏が敗れ、その下にいた真田幸隆が上州に脱出した際
当時の当主羽尾幸全はその手助けをしたという。

この二人が再び相まみえたのは永禄6年(1563年)9月、敵味方に分かれてだった。
当時真田幸隆は信濃先方衆として武田家に仕え
同じく武田に仕える鎌原氏を支援するために吾妻郡にやってきた。
羽尾幸全は上杉に臣従しており、同じく上杉に臣従した岩櫃城の斉藤憲広の援軍として
岩櫃城に立て篭もる。

幸隆は3000の兵を持って攻め立てたが、天険を利用した山城である岩櫃城はなかなか落ちない。
力攻めは不利と悟った幸隆は和睦を結んんで一時兵を引くと同時に調略を開始
城主の甥弥三郎、羽尾幸全の弟である幸光・輝幸を寝返らせ城を落した。
幸世はこの時討ち死にしたとも越後に逃れたともいわれるが、消息は不明である。
形はどうあれ幸隆は恩人を攻め滅ぼしたのだ。

この時裏切った幸光・輝幸であるが、その後は真田氏の有力家臣として活躍し
幸隆の子昌幸の代には岩櫃城、沼田城の城代になっている。
が、天正9年(1581年)謀反の疑いをかけられ粛清された。
961人間七七四年:2010/03/05(金) 00:08:18 ID:F9oONOKe
斉藤と組んで幸隆の弟(常田隆家)を殺した人間が今さら恩人もクソもねーだろ

幸光・輝幸兄弟の粛清だって同輩の藤田信吉を追い出したり独断で由良氏と戦ったり
不穏な動きがあったからだしな
962人間七七四年:2010/03/05(金) 00:23:53 ID:iEPzBvdn
河童の起源説話の中でもっとも人口に膾炙しているのは、
河童は妖怪化した水の神であるとする柳田國男らの説である。
ついで有名なのは水辺で死んだ子供の霊であるという説で、これも由来はかなり古い。
愉快な説としては、禁教令のために住処を失い河原で暮らしていた
南蛮渡来の宣教師たちこそが河童の祖だなどとする学者もあり、だから河童は赤毛なのだという。

だが今から紹介するのは、これらよりさらにマイナーな説だ。
熊本の古民話から採取された奇譚で、曰く、
「河童とは、人間に捨てられた人形である」。


それは、名工左甚五郎が平清盛の依頼を受け、宮島の厳島神社を造営していたときのこと。
……一行目にして既に猛烈に突っ込みたい気持ちは分かる、でも元々こういう筋書きの話なんだ。
まあアレだ、どこぞの琵琶法師みたいに、多分平家の亡霊に命じられて死者の宮殿を建てていたんだよきっと。

ともかく、人手不足で(そりゃ誰も手伝わないよな、正気の人間は)工期が遅れそうだったので、
甚五郎は、人形を作った。意思と知性を持つオートマタを作り上げ、彼女らに工事を任せたのである。
ドールたちの活躍により、工事はつつがなく完了した。

さて、することがなくなったので、ドールたちは甚五郎に尋ねた。
「お父様、私たちこれからどうすればいいですぅ?」
甚五郎は答えた。
「お前たちゃ人間のジゴどん取って食え」(原文ママ。なぜか熊本弁)
ジゴどんとは、人間の、 はらわた  のことである。

この悪魔のような人形師は、わざわざ自らの手でものを考えものを食う人形を作り上げておきながら、
用済みになった途端に一切合財の責任を放棄し、「これからは勝手に人間を捕食して生きよ」と命じたのである。

「お、お父様ったら何を言い出すのかしら!?」
「にゅー、苺大福のほうが好きなのー」
ドールたちは当然のことであるが抗議の声をあげた。

甚五郎はこれに対し、自分が作り出したすべてのドールを

頭が陥没するほどぶん殴り、(だから河童の頭は凹んでいるのである)
海の中へ蹴落とした。

「お父様……どうして……どうして……!私はお父様を……こんなにも愛しているのに…………!!」

哀れ壊され捨てられ狂ってしまった人形たちは、人を水に引きずり込んで殺し、
屍肉を食らうバケモノとなって、今も海中を、河の底を彷徨い続けているのである。
いつの日か地上に戻り、己の造物主と再び会いまみえる日を夢見ながら。

「私は……私は、壊れてなんかいない……ジャンクなんかじゃ……ジャンクなんかじゃない……
 アリスになってお父様に抱きしめてもらうの……私を見つめてもらうの……」
963人間七七四年:2010/03/05(金) 00:31:32 ID:iEPzBvdn
まあどこから突っ込んでいいのか分からないくらい荒唐無稽を極めてる話だけど、
いちおう河童が人形であるとする根拠はほかにも何点かあって、
各地の民話の中で、河童の手や腕はなぜか引っ張ると抜けるようにできているのだという。
この民話とは無関係な、例の天竜川で柴太兵衛につかまった河童も、
「右腕を引っ張ったらやたら延びると思ったら、左腕が胴体を突き抜けてこっちに出ていた」
なんて書いてある。また、河童の腕はとれてもすぐ戻る。球体関節がそんなに珍しいかしら。

左甚五郎はともかく、古来の雛流しのような、
人形を身代わりにする神事の流れを汲む説話なのではないかという解釈もないではない。
964人間七七四年:2010/03/05(金) 00:32:40 ID:rLRg9Cd3
これ元々は左甚五郎じゃなく陰陽師とかじゃないかな。
なんか陰陽師が使役した鬼っぽいもののなれの果てとかいう民話よくある気がする。
でもより無機質な人形の方がロマンチックホラーな感じで良いかもね。
アリス云々はよく分からんかったが。
965人間七七四年:2010/03/05(金) 00:49:13 ID:z3T7+cz5
ローゼンメイデン混ぜるなwwww
966人間七七四年:2010/03/05(金) 00:56:35 ID:vtMSTIoI
ああ、確かに陰陽師ならすんなりいきそう
というかこれ、まんまゴーレムだな。野生化した
967人間七七四年:2010/03/05(金) 01:07:21 ID:J3qYYGbI
水死した死体だから簡単に腕が取れるとか
そういうネタではないのか。
968人間七七四年:2010/03/05(金) 01:10:53 ID:iEPzBvdn
腕がとれる理由はわからないけど、水死に関連するのは尻子玉伝承で、
水死体は括約筋が弛緩して肛門がすかすかになってるんで、
素人目にはまるで何か丸いものを取り出したかのように見える。
それで河童が尻から玉を抜いて殺すという迷信が生じたという。
これは民俗学者じゃなく、死体を専門とする法医学者の推論。
969人間七七四年:2010/03/05(金) 02:27:29 ID:o8j04KP+
旧仙台藩・亘理のあたりに伝わってる河童の話

河童が住んでる沼があった。
ある日、じいさんがそこに釣りに行って、
昼寝してたら河童がじいさんのチンコいじってた。
じいさんが咄嗟に刃物で河童の腕を切ると、河童は逃げた。
夜になって件の河童が、「右腕がないと何も出来ないので返してくれ」と泣き付いてきた。
お礼に薬をくれるというので、返してやったら薬でぴったりくっついた。
河童曰く。
「お礼にこの何でも治る薬を差し上げます。ついでに私の体もどうぞ」
で、じいさんの布団に入ってきたので、うっかりねんごろになったじいさん。
河童との間に息子を作って後を継がせたそーな。

これはどのあたりに分類すればいいですかw
970人間七七四年:2010/03/05(金) 02:31:01 ID:HqqmF3AM
ジジイフェチのカッパと、衰えぬジーサンか……どっちなんだろうな……
971人間七七四年:2010/03/05(金) 02:31:32 ID:CWhfVqwZ
雌だった訳か!
972人間七七四年:2010/03/05(金) 02:34:36 ID:Ocai9k/Y
河童って卵生だと思ってた
973人間七七四年:2010/03/05(金) 02:38:48 ID:iEPzBvdn
河童と人間が通じる話はけっこうあるのだけど、
雌河童と人間男のパターン、および、子孫が無事に系図を残す話は割と珍しい。

子孫が残る話のパターンとしては、
「河童との間に三人の子を為した女は、神通力を得る」というものがある。
その地域には河童と所帯を持つ女が統計取れるほどいたらしい。
974人間七七四年:2010/03/05(金) 02:45:51 ID:iEPzBvdn
>>972
実は哺乳類系の姿の河童は珍しくない。
サルに似たものとカワウソに似たものが多い。
稀ではあるが人間とあまり変わらないものもいる。



あと、馬を孕ませる河童の話もけっこうあったりする。
このへんはどうも、龍神伝説の流れを汲む、
典型的な「落ちた水神」の伝承らしい
975人間七七四年:2010/03/05(金) 02:48:20 ID:6zU1TLJ9
民俗スレになっているw
976人間七七四年:2010/03/05(金) 02:52:26 ID:P9TYWxKH
左甚五郎の仮想戦記とか人外セックスとか
正直、俺たちのご先祖も大概だなw
977人間七七四年:2010/03/05(金) 08:59:34 ID:L8sfyDri
ぶっちゃけ河童って河原者のことじゃないのかと思わなくもない
978人間七七四年:2010/03/05(金) 09:10:26 ID:3taT0bTW
安倍晴明の母親の狐は実は穢多非人だったらしい。
吉備津彦の退治した鬼は百済人だったらしい。
怪物や妖怪、獣の怪異譚とされている話には結構そういう朝鮮系、部落民系の
話が含まれているのではないだろうか?
979人間七七四年:2010/03/05(金) 10:11:42 ID:GNvJAqnF
>>969
頭の中で、ヒゲとボインの人が描くカッパで再生されたw

かっぱの湯(※温泉施設)のある県北とかじゃなく亘理の話か。
案外宮城はカッパが多いな。
980人間七七四年:2010/03/05(金) 10:22:05 ID:a92k+VSx
というか、現在の「河童」って全国各地の「水辺に棲む人型の異類」の総称にされちゃってるから、
別の起源由来を持つものがいっしょくたにされているんだよね。

世界中にある長虫・蜥蜴型のモンスターが全部「竜・ドラゴン」でまとめられているようなもんだ。
981人間七七四年:2010/03/05(金) 10:46:28 ID:lwCaM1Qj
みなの衆
そろそろこんなものが必要な季節ではござらんかな?

http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1267753271/

ここが埋まったらお使いください
982人間七七四年:2010/03/05(金) 13:00:21 ID:+JTXwoUD
>>981
乙である さあ>>1000までに小田城を取り戻すのじゃ
983人間七七四年:2010/03/05(金) 13:34:14 ID:IkqjmKWH
>>981
乙であった、さあ三十七番目の歌仙となることを許す、近う寄れ
984人間七七四年:2010/03/05(金) 14:18:18 ID:U8grQRW8
竜には負けるが……
「ムカデ姫」

蒲生氏郷の叔父、小倉行隆に武姫という娘がいた。彼女は氏郷の養妹となっていたのだが、南部利直のもとに嫁ぐことになる。
この婚姻は蒲生家としてもかなり重要視されてたようで、武姫は蒲生家の家宝を持参していた。
蒲生氏郷は伝説の英雄田原藤太(藤原秀郷)の後裔ということになっていた。田原藤太と言えば平将門を討ち取ったとされる男だが、何よりも「大ムカデ退治」で有名だ。
その大ムカデを討ち取った時の矢の根(鏃)を南部家に持参したのである。
武姫は以後「お武の方」と呼ばれ、無事に嫡男(南部家3代藩主重直)を産み、90歳余りで天寿をまっとうした。
問題はその死後。遺体に異様な形の変色が見られ、しかもそれはムカデに似ていた。
「矢の根に残っていた大ムカデの呪いじゃね?」
南部家の人は気味悪がって、彼女のの墓の周囲には堀がめぐらされた。(ムカデは水を嫌うから)
ところが墓に架けた橋はムカデによって壊されるので、何度も架け替えられたという言い伝えも残っている。
武姫はいつしか、ムカデ姫と呼ばれるようになった。
現在、問題の矢の根は京都の妙心寺にあるという。

ちなみに武姫はキリシタンだったので、それが忌まれたのが真相だとする説もある。
985人間七七四年:2010/03/05(金) 16:11:38 ID:vZUR1baG
埋め代わりに

寛永14年(1637)、島原の乱の勃発した頃のことである。
既に警戒態勢にあった天草の栖本村に、上津浦より一人の見慣れぬ男が
「この村を通して欲しい」と言ってきた。彼はここを通って牟田村へと行くのだと言う。

立ちあった栖本村の庄屋が、「何のために牟田村に行くのか?」と尋ねると、
男は答えた

「牟田村でキリスト教の布教を行うのだ。」

栖本の者たち、たちまち立ち騒ぐ。当然だ。キリスト教はただでさえ禁止されている上に
今は反乱まで起こし、さらに領主に反抗するのみならず、仏教徒の村には改宗を強制し
それを拒否する者たちへの虐殺すら行っているのだ。その布教を行うなど、聞けることではない。
庄屋は男に向かって鉄砲を構えた

「御禁制のキリスト教を広めるとはとんでもない事である!そのようなつもりであれば
ここでお前を撃ち殺すぞ!」

ところがキリシタンの男、微塵も怯える風も無く村を打ち通ろうとする

「撃ち殺したければやってみるがいい!私の体は神の加護により、鉄砲も矢も当たらないのだ!」


庄屋の放った銃弾は、誤たずこのキリシタンの男の体を貫き、男は即死した。
彼には、神の加護は無かった。

島原の乱の中の、一コマである。
986人間七七四年:2010/03/05(金) 16:32:33 ID:qdEdx3N7
コメントに困る逸話だね
987人間七七四年:2010/03/05(金) 16:49:26 ID:GNvJAqnF
覚悟の自殺の一種じゃないかな。
キリシタンは自分で自分に手を下せないから。
布教途中の落命なら殉教と言えるし。
988人間七七四年:2010/03/05(金) 17:05:48 ID:vZUR1baG
>>987
いやそれが、島原の乱の参加者には、キリスト教の力で自分達は不死身になったと
本気で信じていた者も多かったらしい。
989人間七七四年:2010/03/05(金) 17:08:06 ID:Dyq62CRC
よし、不死身になったのでとりあえず邪教の勇者Muneshige Tachibanaを討ち取ってくるノシ
990人間七七四年:2010/03/05(金) 17:32:33 ID:+ZzmQlYh
神を試すなかれ
991人間七七四年:2010/03/05(金) 17:33:39 ID:VXrJ6cQH
弾が当たるって事は、信心が足らんかったんとちがいます?
992人間七七四年:2010/03/05(金) 18:31:55 ID:qJgS83xZ
人間無骨、出番です!
993人間七七四年:2010/03/05(金) 20:47:17 ID:00S66Icq
中国の義和団でも、神の祈りで鉄砲なんか止められる! と思った奴らがいてだな…
994人間七七四年:2010/03/05(金) 20:48:46 ID:8icBZk53
フランス革命期の農民反乱で「アンタ、一週間経ったよ。」と夫の死体を揺り動かす妻が…
995人間七七四年:2010/03/05(金) 20:52:47 ID:NJwzNmGt
今のローマ法王だと止めそうな気がする
996人間七七四年:2010/03/05(金) 21:09:01 ID:1zvbYChQ
昔の人はキリストも仏教の一部と思ってたんだろうな
霧素戸菩薩とか麻利亜天とか阿吽免と念仏を唱えたり
997人間七七四年:2010/03/05(金) 21:32:38 ID:47cdyZj0
>>996
神を大日如来と同一視して信仰するのが問題になったはず。
禁教以降だけど、マリア菩薩像とかもあるから、かなり混ざった教義理解にはなってるんじゃないかな。
998人間七七四年:2010/03/05(金) 21:59:51 ID:Lv/t7z1l
つか本来キリスト教には死後の世界って概念はないとか
999人間七七四年:2010/03/05(金) 22:16:07 ID:NtYhqg2A
キリスト教も各地の土着信仰を取り込んで拡大してきてるからそう珍しくもない
大地母神信仰→聖母マリアとか冬至のお祭り→クリスマスとか
十字架すら本来イエスのシンボルじゃないからな、あれ
1000人間七七四年:2010/03/05(金) 22:29:02 ID:uAKTBEI8
信長「ほほ〜、耶蘇を信仰すれば不死となるのか
   では、貴様らを釜茹でにして全員生き残ったのなら
   皆で改宗して耶蘇を信仰しようではないか」
10011001
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
.    | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
   /`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
  l  {  .、          /      
  ',  ` ''  '       rTヲ
   '、 `'ー‐''"    / lzュ、__
---‐ヽ  -'     /  〃ィ ヾ'‐,--        
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