戦国ちょっといい話18

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206人間七七四年
このスレのアイドルの一人である細川忠興が手紙魔で
息子の忠利とこまめに手紙のやり取りをしてたのは有名な話ですが、
転封時の年貢問題で揉めに揉めて犬猿の仲になったお隣の黒田長政の行動を
半ばストーカーのように監視しては(こき下ろしながら)報告し合っていたのもたぶんよく知れた話だと思います

さて、その黒田家、二代藩主の時代にお家騒動を起こしたどさくさの時に都合の悪い文書を処分してしまったのか、
長政時代までの資料にやや乏しいところがあるようです(遺言状も偽書疑惑があるくらい)
黒田如水・長政が筑前に加増転封されて間もなく築城にかかったのが別名舞鶴城こと福岡城です
この福岡城、その規模も石垣も相当立派な52万石にふさわしい名城だったようなのですが、天守がありません
1646年に作成された『福博惣絵図』に天守が描かれていなかったため、最初からなかったというのが通説でした
ところが近年になって、細川親子の往復書簡の中に「ふく岡の天主、又家迄もくづし申し候。」という一文が発見されます
福岡城には天守閣があったんだけど長政が幕府に気を遣ってぶち壊した説が浮上しました。
(ちなみにこの書状の前年に福島正則が城の改修問題を理由に改易されたことも無関係ではないかもしれません)
現在、福岡城の天守閣論争はいまだ決着がついていないようですが、
細川親子が黒田家について細かく情報交換をしていたおかげで、新たな可能性が示されたわけです
さらに、毛利輝元が1611〜1612年頃、密偵を使って九州の諸藩の城郭位置を調べさせた記録が発見され、
そこにも福岡城の天守が描かれているそうです

ちなみに福岡城は1601年に築城が開始され、1607年に完成しています
1604年に亡くなった黒田如水はその完成を目にすることはなく、
1602年に誕生した黒田忠之は城が完成してないので、実は筆頭家老であるあの栗山さんちで生を受けたとか

個人的には、父と同じく吝嗇家ではありながら見栄っ張りな性分に見え隠れする長政が
あれだけ立派な天守台を作っておきながら、天守閣を立てなかったとは思えないんですけどね